キリスト者にはたくさんの祈りや労苦がある。そして、この祈りや労苦が、応えていただけていないような気がするのである。ほんの少しは応えていただいたかもしれないが、あんなに祈ったのに、あんなに苦労したのに、その結果をまだ見せていただいていないのではないかと思うのである。しかし、すべての労苦は受け止められているのだ。すべての祈りは聞いていただいているのだ。目には見えないが、復活のキリストがいつも共におられるのだから、無駄な働き、無駄になった祈りはないのである。すべては収穫につながっている。やがてキリストのおられる岸辺で、そのすべてを引き上げる時がやってくる。この「時」というのは、「神の時」(ギリシア語でカイロス。私たちの時はクロノス)で、それは永遠で、決定的な時を指す。私たち人間にはわからない。
11節にこう書いてある。「シモン・ペテロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」。自分たちの労苦がどれほど報われているか、それを見せていただく時が来る。自分たちの祈りがどれほど聞かれていたかを見せていただく時があるのだ。その時に私たちは、あの働きの一つひとつに意味があった、あの祈りの一つひとつが受け止められていたんだということを、あのキリストがおられる岸辺で見せていただく。その日があるから、その日に向けて、わたしたちは今を生きているのだ。私たちの労苦や祈りというものは、どこかに、空中に消えていくようなものではなくて、復活のキリストがそれをすべて受け止めてくださっているのである。そしてその収穫は、必ずイエス・キリストが私たちに見せてくださる時がある。私たちはその時に、自分が祈ったこと、自分が苦労したことへの収穫を見るのだ。それが神の約束である。
7節にこう書いてある。「イエスの愛しておられたあの弟子がペテロに『主だ』と言った。シモン・ペテロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。なぜ飛び込んだのだろうか。キリストの前で逃げも隠れもできない、弁解も言い訳もできない、裸同然の自分がそこに照らし出された、ということだ。私たち人間同士の場合、いくらでも弁解できる。「泥棒も三分の理」という。お互い生身の人間、脛に傷を持った人間。不完全で弱さも隠し持っている。しかし、キリストの前では、弁解はできない。この私のために十字架に死んでくださった救い主、この罪人に命を与えるためによみがえってくださったキリスト。この方の前に出たら恥ずかしいことがいっぱいある。申し訳ないことがいっぱいある。合わせる顔がない自分が見える。
だからペテロは裸同然の自分を恥じて、上着を着て、湖に飛び込んだ。そういうペテロを、キリストは岸辺で待っておられた。そういうペテロを、キリストはご自身の御業のために用いてくださるのである。考えてみれば、わたしたちも裸同然である。ほかの人にはどんな言い訳ができたとしても、私のために生き、苦しみ、死によみがえってくださった、この救い主キリストの前に立ったら、私たちには何の言い訳もできない。恥多き自分が見える。しかし、その私たちをキリストは御用のために用いてくださるのである。だから、この罪人である私たちの労苦が無駄になることはない。私たちの祈りが無駄になることはない。必ず主はそれに伴って、働いて収穫につなげていてくださる。主がいつも共にいてくださり、主が働いてくださっているからである。
コリントの信徒への手紙一の15章58節に、「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです」とある。主に結ばれているならば、自分たちの労苦は無駄にはならない。私たちは復活の主に結ばれているのである。私たちはあの復活の朝の世界に生かされているのだ。無駄な労苦はない。無駄な祈りはない。この人生のすべてが、必ず収穫につながる。そういう朝に、私たちは今生かされている。そういう約束に満ちた命を、私たちはみんな、今ここで生きて、いや生かされているのだ。主に感謝して、主の御用のために励もう。