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「もう十字架を背負わせるな」マルコ8章27~38節

 

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

マルコ8:34

 

ウクライナの戦争について、私はイエスの非暴力の観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持しません。こうなる前に互いの脅威となる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったと思います。しかし世界は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し合い、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。

私がまずウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事を祈ります。銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲とされた人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。そして世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことを祈ります。私たちは受難節、イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。

31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。ここには人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのとはありません。権力者から排斥されて、殺される出来事なのだとあります。34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。イエス様ご自身に十字架を背負わせたのは権力者たちです。それは戦争と同じです。自分の都合の悪い者は殺すという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。

私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。戦争とは誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。

イエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。

イエス様はこのような暴力の時代に私の平和のことばを恥じるなと言います。今も同じ時代です。イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。

 

「神と野獣」マルコ1章12~15節

 

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコ1章13節

 

受難節の40日間、転入会やバプテスマの準備を始める方を特に歓迎する期間としたちと思います。私たちにとって仲間ができることは心強いものです。私たちの交わりは相手を変えることが目的ではありません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。

私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはなく、マルコにだけに記載があることがあります。それは40日間「野獣と共にいた」ということです。マルコによれば、イエス様はサタンと野獣をやっつけたのではありません。40日間「野獣と一緒におられた」のです。ここから示されていることはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。

イエス様は15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りに支配できる、それが私の国です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。イエス様が言う「神の国」とは異なる者が一緒にいることなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。

教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会い自体が大事です。教会は相手を変え、打ち倒すのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。

世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。

最後に、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができず、傷つけあっている者、私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。

今週も私たちはそれぞれの場所へと派遣をされ、それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごします。そのようにして、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。

 

「さよなら原発」マルコ10章42~45節

しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、

皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

マルコ10章43~44節

 

今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝とします。今日は特に原発の問題を覚えます。福島第一原発の処理水は、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。福島の漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。廃炉も進みません。核のゴミ、デブリを誰かが引き取らなくてはならないのです。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。

原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にならないことを求めてこの礼拝を持ちたいと思います。

「イエス様が私の罪の身代わりとして十字架にかかり、それにより私の罪は赦され、神の愛を知った」という理解を贖罪論といいます。贖罪論は古くから信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人は苦手で、贖いをうまく説明をすることができません。むしろ贖罪論には注意が必要です。強調しすぎると、犠牲を容認することにつながります。イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたがないないと考えることにつながります。

私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。贖いよりも、十字架の上で苦しんだことに目を向けたいのです。十字架の犠牲の痛みを、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。

今日の個所の42節には「支配者」あります。ローマ皇帝は世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にしていました。そんな世界の中でイエス様は43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」といいます。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの快適さを追いかけてはいけないということです。本当に偉い者とは43節「仕える者」です。「仕える」とは食事を運ぶことに由来します。食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくことが「仕える」です。仕えさせるとは無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」、共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいと言われているのです。

イエス様は「自分は」命を献げると言いました。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。

私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。受難節、私は罪が贖われたかどうかより、十字架の苦しさを覚えます。その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。

今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「信教の自由の荒波」マルコ4章35~41節

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節

 

今月は信教の自由というテーマで宣教をしています。戦時中の大半の教会はおそらく「天皇もキリストも両方信じる」立場でした。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、天皇制と折り合いをつけて教会が生き残ることを選びました。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。皇居に一礼してから礼拝を始めました。

しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。逮捕された牧師の中には長尾三二という人がいました。彼は戦後、この教会の初代牧師となりました。私たちはその歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。

私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。今日の個所から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。

今日の個所は旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります。ヨナ書で人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も人間の分断を呼び起こします。弟子たちは人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。舟の後ろにいた、イエス様をようやく振り返り、呼びかけたのです。私はこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、まなざしを感じるのです。イエス様は弟子が自分に声をかける時を待っていたのではないでしょうか。

大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということです。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくことです。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたのです。私たちも荒波にもまれる時、舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと、この物語は語っています。

戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯でした。仲間を見捨てながら、なんとか生き残ろうとしました。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。私たちは危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。振り返りたいのです。

ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こします。平塚教会もその一つであり、その嵐を乗り越えた証しなのではないでしょうか。

私たちは、大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、信仰を守ってゆきたいのです。お祈りします。

 

「信教の自由の礼拝」マルコ2章1節~12節

「信教の自由の礼拝」

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

マルコ福音書2章4節 

 

今月の宣教のテーマは「信教の自由」です。今日は天皇制について考えます。キリスト教が天皇制に反対するのは政教分離以外に人権の問題があります。皇室には基本的人権がありません。選挙権、職業、表現、言論、結婚、そして信教の自由がありません。人権の観点からもキリスト教は天皇制の廃止を主張しています。

自由と、平等を大切にするのが私たち、バプテストです。とても自由な雰囲気の中で礼拝をしています。この自由な姿を大切にしましょう。自由が守られ、この礼拝から自由が広がってゆくように願って、この自由な礼拝を献げましょう。今日は不自由な人と自由な人が登場する物語です。それを見てゆきたいと思います。

今日登場する4人は常識破りで自由な人です。彼らは自分たちが思い立った時に出発しました。それは自由な一歩、自覚的な信仰の一歩でした。彼らはイエス様の語るみ言葉が何か起こすと期待し、出発しました。彼らの自由さは続きます。屋根に穴をあけ、仲間を吊り下げました。なんと縛られない発想、自由な人なのでしょうか。礼拝中はおしゃべり禁止、そういう堅苦しさを全く持たない4人です。

彼らはかなり自由な人ですが、痛みを持ち、立ち上がれない仲間を神様がきっと自由にしてくれるという信頼を持っていました。4人はそのような自由でがむしゃらな神様への信頼を持っていました。そしてイエス様はこの5人のことを神様への確かな信頼を持っている人だと見たのです。そこに奇跡が起こりました。私も神様にそんなまっすぐな信頼を向けてゆきたいです。彼らは聖書の言葉を聞けば自分たちに何か起こると信じ、神様に信頼し、自由に駆け出し、自由に礼拝をしたのです。

そしてこれこそ信教の自由です。自由に信じ、駆け出し、自由に礼拝する。このようにすべての人に信教の自由があればよいと願います。そしてこの5人の自由さを見ると、本当に天皇制の息苦しさに胸が詰まります。

また私が不自由を感じる時、床に横たわり吊り下げられる人に目が行きます。私も同じです。自分ひとりだけでは礼拝できないのです。誰かに誘われ、導かれ、誰かが待っているからそこに集い、神様の言葉を聞くことができるのです。しかしその弱さの中に、不自由さの中に、神様の力は働くのです。

神様の言葉のあるところには何かが起こります。私たちにも今日、何かが起こるでしょう。なかなか体の動かない私たちに、立ちなさい、行きなさい、自由になりなさいと励ましの言葉がかけられるでしょう。み言葉というのはそのようにして、人にはできない出来事を起こすのです。自由さを起こすのです。

私たちは礼拝できる自由があります。そしてこの礼拝は自由を分かち合う礼拝です。私たちを自由にする礼拝です。この礼拝から、礼拝する自由、信教の自由が日本と世界に、天皇制の廃止へと広がっていくことを願います。お祈りします。

 

「信教の自由と死」マルコ4章1節~9節

 

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、

あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 

マルコによる福音書4章8節

 

今月は宣教のテーマを信教の自由としています。葬儀とは人生最後の信教の自由ともいえるでしょう。キリスト教の葬儀では「喪主」という言葉を使わず、親族代表と呼びます。なぜなら葬儀の「主」は神様であり、親族や亡くなった故人でないからです。死を悲しむと同時に、人生に感謝し、神様に礼拝を献げることが目的です。故人の生前の偉業を評価することはしません。

信教の自由と死ということを考えるなら、靖国神社の問題を避けることはできません。靖国神社は「国のために命を落とした人を祀る神社」です。誰かを「国のために死んだ」と一方的に評価し、国の英雄としています。そうして戦争で死んだことを美化し、戦争の犠牲者を美化する装置として働いています

キリスト教はこのような死の扱い方に反対します。犠牲や失敗を美化してはいけないのです。私たちの人生には成功と失敗があるように、人間にも成功と失敗があります。そのような人生の中で私たちは、恵みに感謝すること、失敗を美化せずに向き合い生きること、それが神様の下で、精一杯生きるということでしょう。

今日の聖書箇所を見ましょう。あの人は良い種、あの人は悪い種という読み方は気分が悪いです。13節以降は後の教会の人々が加えた説明ではないかと言われます。今日は、もう少し希望のある読み方をしましょう。

種をまくことは希望です。一方、種の中でも意図せずこぼれてしまう種があります。それは希望の出来事の中でも、うまく実を結ばない出来事があるということです。数えきれないほど、人生の出来事はたくさんあります。でもすべてがうまくいくとは限らないのです。災難、病気、事故、感染症に振り回されることがある、それが私たちの人生です。豊かに実る時もあれば、実らないこともあるのです。その中で私たちは精一杯生きるのです。たとえすべてが実るわけではなくとも、今日の様に種をまき続けるのが私たちの人生なのです。

危険なのは失敗が無かったことにされることです。他の人が好き勝手に人生を評価することや、失敗が美化されることは危険です。それはイエス・キリストの死への理解もつながってくるでしょう。キリストの死は美化されてはいけません。それは本当に苦しい死だったはずです。私たちはそれを忘れたりしません。そしてそれを美化したり、見習うべき犠牲としないのです。十字架を、犠牲を、もう二度と起きてはいけないこととして覚え、理解したいのです。そのようにして、死を美化すること、失敗をなかったこととすることに反対をしたいのです。

聖書は私たちが生きる時、成功も失敗もあると告げています。大切なのは、私たちが失敗を失敗として心にとめてゆくこと。そして恵みを恵みとして心にとめることです。神様はそのことを「聞きなさい」と言っているのではないでしょうか。

 

「信教の自由の種」マルコ4章31~32節

それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。

マルコによる福音書4章31~32節

 

2月は信教の自由を宣教のテーマとします。17世紀のアメリカには、信教の自由がありませんでした。選挙権は教会籍のある人に限定されました。通う教会は政府が指定し、それ以外の教会に出席すると処罰されました。政府が公認した牧師のみが説教し、資格のない人が説教をした場合、死刑にされることもありました 。

そんな時代に自由と自覚的な信仰を守ろうとするバプテストというグループがいました。彼らは本人の自覚のない洗礼をせず、無資格の牧師を自分たちで選び礼拝するという危険なグループでした。そして信じる宗教によって行政が迫害や処罰をすることに反対したのです。これがアメリカの信教の自由の始まりとなりました。

やがてアメリカの憲法第一条には「この国では国教を定めてはならない」「自由な宗教活動を禁止する法律を制定してはならない」と記されました。私たちバプテストには信教の自由を見守り続けてゆく責任があるのです。

今日の箇所、イエス様は神の国について種まきとからし種のたとえ話で教えています。神の国とはキリスト教が国教になること、全員が洗礼を受けることではありません。では神の国とはどんなところでしょうか。農民にとって種まきとはたくさんの収穫を願いながら、希望を持って行うことでした。やがてそれは29節「収穫の時を迎える」のです。神の国とは花や作物の種を植えて、収穫をすることに似ています。希望の種、期待の種があり、豊かな恵みがある場所、それが神の国なのです。小さくても希望があるところ、種をまくことができる希望、それが神の国です。

そしてからし種は小さな種ですが、大きく豊かに茂ります。神の国とは小さな希望が大きく広げられるところだということです。私は信教の自由を訴えた少数派、バプテストをこのからし種に重ね合わせます。ごく少数の訴えた信教の自由がやがて一つの国の基礎となったことに重なります。私たちバプテストはからし種だったのです。そして神様はからし種のように信教の自由を広げて下さるお方なのです。

またからし種は生命力が強く、一度生えると除去するのが難しい、危険な草という特徴もあります。神の国、その種とは小さく、踏みつけられてもまた生えてくる、どんな困難な時も無くならない希望が神の国の種なのです。

神の国とは小さくても無くならない希望のある場所です。神の国はからし種のようなものです。そしてバプテストもからし種のような存在でした。そしてバプテストの訴えた信教の自由も神の国の種だったのです。私たちもこの種をいただいてゆきましょう。そして私たち自身も種になってゆきましょう。

私たちは小さくてもこの信教の自由を大切に守ってゆきたいのです。そして私たちの希望はなくならないのです。雑草のように、抜いても抜いても生えてくる草のように、私たちは希望をあきらめないでいたいのです。お祈りします。

 

「折れた心を献げる礼拝」詩編51篇12~19節

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。詩編51篇19節

 

先輩の牧師が「教会がうまくいっていると感じる時こそ、注意が必要だよ」と教えてくれました。教会で何かがうまくいっていると思う時、痛みや、傷ついている人のことを忘れないように注意をしなさいという意味に受け取っています。うまくいっていると感じる時こそ、私たちは互いに祈りあいたいのです。今、私たちの教会にはきっと、今までずっとあった欠けと共に、新しい欠けと、新しいほころびが生まれているはずです。そこに目を注いでゆきたいのです。

今日も様々な人が教会に集っています。しんどいと思う方、今あなたはきっと深い祈りが与えられる時です。一緒に祈りましょう。そしてまあまあうまくいっていると思う方、今あなたはきっと注意が必要な時です。きっともっと深い祈りが必要な時です。一緒に祈りましょう。今日は聖書から、うまくいっている時こそ祈るということを見ます。そして神様は私たちの中にある欠けやほころびを、神様の前に献げ、礼拝をしなさいといっていることを見てゆきたいと思います。

詩編51篇はダビデが歌った歌として伝えられます。ダビデはイスラエルの歴史上で最も大きな成功を収めた王です。しかし彼の心には緩みがありました。うまくいっていると感じた時こそ、自分と他者に注意が必要だったのに、彼はそれをすることができず、卑劣な罪を犯しました。51篇前半でこれまでの事を後悔しています。

そして今日の12節以降に続きます。12節でダビデは新しく確かな霊・心が授けられることを祈っています。彼は今までの心や自信が回復することを求めたのではありません。彼が求めているのは新しく、確かで、清い心です。それを創造してくださいと神様に祈っています。天地創造において神様が混沌の中から光を創造するように、私の中にあなたが清い心を創造してくださいと願いました。私たちもそう祈りたいのです。私が創り出すのではなく、神様だけが創造できる、その清い心、新しい霊、新しい心を受け取りたいと祈るのです。

19節には「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」とあります。神様が求めるものは「打ち砕かれた霊」です。神様は礼拝に、折れて、粉々になり、引き裂かれた心を持って来るようにと招いています。そしてそこに新しい心を創造してくださるのです。ダビデの本当の祈りと献げ物は、打ち砕かれた霊だったのです。

うまくいく時も、そうでない時も打ち砕かれた霊は自分や他者の中にあるものです。それを一緒にこの礼拝で献げましょう。そして新しく確かな霊・心が授けられるように祈ってゆきましょう。私たちは毎週、互いの中にある痛みや欠けを持ち寄って、折れた心、引き裂かれた自分を献げてゆきましょう。神様はそこにこそ新しい心、新しい霊、新しい道を創造してくださるお方です。お祈りをいたします。

 

「むずかしくない福音」 申命記30章11節~14節

 

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30章14節

 

他の教派の教会から礼拝に来られる方がいます。私はその方から私たちの教会の特徴を教えてもらうのが楽しみです。多くの方が三つを挙げられます。ひとつ目はこどもの声。二つ目は社会的な活動や発言。三つ目は教会学校です。

バプテスト教会は「正しい教理」というものを固定していません。ですから教会学校は聖書を教える場所ではなく、学びあう集まりになります。みんなが発言し、考え、教わりあうという集まりなのです。私たちには当たり前ですが、驚くほど自由に聖書を語り合う教会なのです。もちろん注意点もあります。自由は自分勝手な考えも生みます。だからこそ一人一人が聖書にしっかりと向き合わなければいけません。

今日の箇所から、私たちは聖書のみ言葉をそれぞれの口から語り合ってゆくこと。社会の中で、福音を実践してゆくことを考えたいと思います。

12節~13節には聖書のみ言葉は私たちの生活とかけ離れたものではないということが書かれています。私たちは福音を遠くに探し求めるのではありません。今生きる、私たちの生活の中に希望を求めています。私たちは福音を、今生きる社会・生活の中、その関わりの中で探しています。社会の事、生活の事、抜きには福音はわからないのです。そのようにして福音は近く、身近にあるものです。14節「み言葉はあなたのごく近くに」とある通りです。

14節の続きにはみ言葉は「あなたの口と心にある」とあります。そうです、福音はあなたの口にあるものです。福音は牧師の口だけにあるものではありません。あなたの口にもあるのです。だとするならば聞くだけではなく、一人一人の口から語られるみ言葉が大事です。教会学校はまさにそのような場所でしょう。一人一人がみ言葉を語ります。それから感じたことを語り合います。それはとても大事なことです。み言葉は遠くにあるのではなく、一人一人の口と心にあるものだからです。もちろんそこにも注意も必要です。私たちの口からはつい、いろいろな言葉ができてしまいます。私たちは聖書を繰り返し読み、心に刻むことも大切でしょう。

14節の最後には「行うことができる」とあります。あなたは福音の実践がすぐできるようになるのです。福音の実践とは互いの口からでる言葉をよく聞き、その心を良く知ることがスタートです。私たちが互いに聞き合い、語り合う時、み言葉はむずかしいものではなくなります。私たちが「行うことができる」ものになるのです。

今日の箇所は「むずかしくない福音」です。神様は福音は身近にある、お互いの口と心にあるものだよと言います。必ずあなたにもできることだよと語ります。私たちは、社会と生活の中で福音を聞くこと、互いに聖書を語りあうこと、福音を実践してゆくことを大切にしてゆきましょう。私たちにも必ずできるはずです。お祈りいたします。

 

「できない人を選ぶ神」エレミヤ書1章4~10節

 

わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。/わたしは若者にすぎませんから。」            エレミヤ書1章6節

 

今日この後は臨時総会が持たれますが、もしみなさんが執事に選ばれたらどうするでしょうか?「どうしよう、なんと言って断ろうか」と考えるでしょうか。できない理由というのは無限にあるものです。私たちの選挙は、不十分な制度の中で、不十分な私たちが、不十分な者を選ぶ選挙です。仕組みにも個人にも不十分ばかりです。

私たちはどのように投票をしたら良いでしょうか。私にはできないから、あの人にお任せしようと投票することは、もうできないでしょう。きっとあの人もできないのです。あの人だって事情があってできないのです。

私は誰かを選ぶけれども、私も精一杯を献げるという思いを持って投票をすることが必要でしょう。私たちは「私もできる限りの精一杯を担う」そのような思いで投票をしたいのです。共に精一杯を献げるという気持ちを持って投票をしましょう。

そして今日の聖書から一緒に、神様の選びを見てゆきましょう。私たちがお互いから不十分な者を選ぶように、神様も不十分な者を選ぶお方なのです。

今日の箇所では神様はエレミヤをイスラエルの預言者として選んでいます。エレミヤはその選びを断っています。自分は未熟で、その働きには不十分だというのです。このように、神様はできる人ではなく、できない人を選んだのです。一見、不適切、不十分と思われる人を、ご自分の働きのために選んだのです。

そしてエレミヤはその後、神に守られ何不自由なく暮らしたのではありません。人一倍苦労の多い道を歩みました。彼は聖書の中で繰り返し、つらくて涙を流すので涙の預言者と呼ばれます。8節「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」は、万事うまくいくという意味ではありません。つらくて涙を流す時も、そのような時こそ神が共にいるという意味です。

私も様々な働きを通される時があります。しぶしぶ受けた働きで苦労するときがあります。そんな時、このエレミヤの姿に励まされます。それはたとえどんなに神様の導きを感じたことだとしても、その働きがうまくいくわけではないということを教えてくれるからです。あのエレミヤでさえうまくいかなかったのです。私にもきっとうまくゆかないのです。あのエレミヤでさえ泣きながら働いたのです。やりたくない、できないと何度も不満を言いながら、働いたのです。しぶしぶ受けても、できなくても当然です。うまくいかなくても当然です。泣いてもいいのです。不満を言いながらでもいいのです。そのただなかにこそ神様は共にいてくれるのです。

私たちは自分の精一杯を献げたいのです。私たちの先にはきっと喜びと、そして涙があるでしょう。それを共に受けてゆきましょう。私たちは一緒に喜び、一緒に涙する仲間となってゆきましょう。わたしは必ずあなたたちと共にいるという神の下で、共に精一杯をささげてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「教会には夢がある」出エジプト記14章15~22節

 

イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。                    出エジプト記14章22節

 

こひつじ食堂が教会に様々な変化と必要を起こしています。教会は礼拝する場所という枠組みに留まりません。教会の変化を見ていると、キング牧師が「私には夢がある」と言ったように「教会には夢がある」と感じます。いつの日か地域の様々な人が集い、こども同士が仲良く食事をして、お年寄りがそれを見て笑うという夢です。これをもっと広げてゆきたいのです。一方、そのために必要な設備は変わってきています。さらに以前から修繕すべきところも多く残っています。

「私たちには夢がある」と感じていても会堂建築のことが後ろから迫って来るようにも感じています。ただわかっているのは、私たちは待っていてはいけないということです。何かを選択し、歩みださなければいけないということです。

今日の箇所を読みましょう。旧約の時代イスラエルの人々はエジプトで奴隷として、厳しい毎日を送っていました。人々はそのエジプトから逃れて、神様の約束の土地へと出発したのです。でも希望への道は困難な道でした。イスラエルの民は二つの困難にまさに板挟みになっています。そしてそこに、神様からの風が吹きました。神様によって新しい道が開かれたのです。その道は閉ざされるかもしれない恐ろしい道だったでしょう。でも彼らは勇気と信仰をもってその道を歩みだしたのです。

私たち一人一人にもこのような出来事は起るでしょう。私たちも2つの問題で板挟みとなる時があります。しかし今日の聖書箇所によれば、そのとき神様は新しい道を開いてくださるお方です。教会も歩み出す一人一人と同じです。建物はどうなるかまだ道がはっきりあるとは言えません。私たちは海と軍との間にいる民と言えるでしょう。そんな私たちに神様は必ず道を造ってくださいます。そしてもし私たちがその道を見つけたならば、待っていてはいけないのです。勇気と信仰をもって、一歩を踏み出さなくてはいけないのです。

渡った後の人々の姿にも目を向けましょう。残念ながらモーセ自身は約束の地に入ることはかなわず、こどもたちが見たのです。出エジプトは自分たちのためではなく、子どもたちのための出エジプトだったのです。私たちはこどもを大切にする教会です。大切にするこどもたちが乳と蜜が流れる場所を見るために、私たちは出エジプトするのです。今出発すれば、こどもたちがそれを見れるかもしれない。私たちにはそのような希望もあるのです。

そして今日は成人祝福祈祷の時も持ちます。新しい希望へと出発する時です。その先には困難があるでしょう。板挟みになることがあるでしょう。でも必ず神様は新しい道を下さるはずです。勇気と信仰を持ってその道を歩みましょう。私たちも若い人、こどもたちが希望をもって歩むことができるように、一歩を踏みだしたいと願っています。お祈りします。

 

「ジェラる神」ゼカリア書8章1節~8節

 

万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。

ゼカリア8章2節

 

若者ことばで、嫉妬する、ジェラシーを感じるということを、ジェラると言うそうです。ジェラシーというは、かわいげのある感情でしょう。好きな相手がいるからこそ抱く感情だからです。やきもちを焼かれる側はどうでしょうか。扱いづらくも、ちょっと照れくさく、嬉しいものでもあります。もし嫉妬されてしまった時は、自分の気持ちがしっかりその相手に向いていると伝えることが大事です。ジェラシーは自分の優先順位が低くされていると感じた時に起こる感情だからです。今日お話しするのは、神様は激しくジェラるお方だということです。

2節には「激しい熱情」とあります。熱情とは嫉妬すること、ジェラシーを感じること、ジェラることです。しかしよく考えると、このジェラシーは私たちに神様のことをよく理解させてくださるかもしれません。神様は激しい嫉妬、激しいジェラシーの感情をもっているお方です。

神様が嫉妬するのは、他の神や物・人を見ている人に向けてです。私が一番ではないとダメと嫉妬をしているのです。神様は私たちに、神様を大切にしていること、神様への愛をしっかりと示してほしい、一番だと示して欲しいと願っているのです。それが神様の激しい熱情です。私たちはその激しい熱情を怖いと思うのではなく、なんだか照れくさいけれど嬉しい、そう感じてみてはどうでしょうか。神様は私たちを愛していて、もっと私だけを見て欲しいと、激しくジェラっているのです。

私たちはすぐに優先順位を変えてしまいがちです。お金、将来、人間関係、介護、病気、たくさんの心配があり、私たちの生活はそれが中心になってしまうことがあります。それに神様はジェラっています。

3節には「私がエルサレムの真ん中に住まう」とあります。エルサレムとは私たちのことです。神様は私たちに心のすみっこではなく、真ん中に神様を迎えるようにと言っているのです4節からは「エルサレムの広場」という言葉があります。教会に子供たちの笑い声が広がる様子と重なります。。神様は嫉妬から、争いと戦いを起こすお方ではありません。平和を実現しようとされる方なのです。

さて、新年を迎えています。神様は私を中心とせよ、そう激しい熱情を持って繰り返し語っています。それができない私たちにジェラっています。私たちの1年はきっとまた神様の言葉が繰り返し注がれる1年となるでしょう。そして私たちはそのような神様を中心とする、一番にする、そんな1年にしてゆきたいと願います。

この私たちを激しい熱情で愛してくださる神様を、そしてこどもと高齢者が笑い合う平和を実現させてくださる神様を今年もまた中心にしてゆきましょう。そんな教会にしてゆきましょう。私たち一人一人の心の中心に神様を迎える、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「来年こそ、別の道」マタイ2章1節~12節

 

「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。            マタイによる福音書2章12節

 

もうすぐ新年ですが、キリスト教はおみくじのような、占いを信じません。占いで人生を決めるのではなく、聖書の物語から神様の招きを探し、歩もうとします。どうすればいいかわからないことも多いです。占いのようにきっぱり答えを聞かせてくれた方が楽でしょう。しかし私たちは聖書に聞き、葛藤しながら歩むのです。

まずは1年間神様に招かれて、繰り返し礼拝し、派遣されたことに感謝です。そして来年こそ、礼拝をしましょう!来年こそは、今年とは違う心で、また新たにされて、礼拝を献げましょう。今日は、神様は今いる道とは別の道に招いてくださるお方だということ。来年も私たちは神様に招かれて礼拝をする、別の道を歩む、きっとそれが私たちに起こるということ、そのことを一緒に聖書から読んでゆきましょう。

今日の聖書箇所には「占星術の学者」とあります。イスラエルから見れば異教の占い師はペテン師、魔術師同然の存在でした。ですから今日はあえて「占い師ども」と呼びましょう。しかし神様の招きというは不思議なものです。マタイによれば最初にキリストの誕生を知ったのはこの占い師どもでした。私たちが神様からもっとも遠いと思っている人に、神様の選びと導きがあるということが示されています。

占い師どもは9節にあるように、先立つ星によって、先立つ神様によって招かれています。そして10節その招きに喜びあふれたのです。11節星の下に幼子イエスを見つけるとひれ伏して拝んだとあります。ここで言う「ひれ伏した」とはつまり礼拝をしたということです。彼らは星に導かれ、主イエスを礼拝したのです。

占い師どもの宝にどんな意味があったかは重要な点ではありません。とにかく占い師が主イエスに出会うと、彼らは礼拝をしたのです。これは神様の豊かな選びと招き、人々の礼拝と応答が描かれている物語なのです。

このあと占い師どもは12節、「別の道」を帰ったとあります。それは直接的にはヘロデ王に寄らない道を示します。しかしそれだけではなく、彼らの人生に起こった新しい道、それが「別の道」です。主の道を歩み始めたと言うことです。

この物語は私たちが礼拝に集うということと似ています。神様に招かれて礼拝に集い、喜んで礼拝し、そこで献げ物をするということ、そしてまたそれぞれのもといた場所に派遣されるということ、この毎週の私たちのサイクルと似ています。そして派遣される時、私たちは別の道、人間の道ではなく、主の道を歩む、そのようにして派遣されるのです。別の道に派遣されるのです。

私はこの占い師どもに自分を重ねます。私たちにまた新しい1年、1週間が始まろうとしています。私たちにも占い師どものように、神様はきっとまた別の道、主の道を準備してくださっているでしょう。私たちは共にまたその道を歩みましょう。人の道ではない、別の道、主の道を共に歩みましょう。お祈りいたします。

 

「神はひとりにしない」ルカ1章39節~56節

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

ルカによる福音書1章39節

 

今日はこの後、昼食会と小さな祝会を楽しみにしています。11月のバザーでは「OHANA」という団体が手芸品を販売しました。この団体は、平塚市内でDVや性暴力による被害を受けた女性を支援している団体です。先日、代表の方から「妊娠SOSかながわ」という予期しない妊娠について、電話相談ができる行政窓口を教えてもらいました。誰にも相談できない時、このような窓口があることは大切なことだと思います。ただ受付時間等に課題があるようです。話を聞くと言うことついて私たち一人一人が、それぞれの置かれた場所で、できることがあるのではないかと考えさせられました。しんどい思いをしている人に声をかけ、話をじっと聞く、仲間になることなら私にもできるのではないかと思いました。

クリスマスこそ、神様は一人にしておかないお方です。神様は私たちに共に戸惑い、喜びを分かち合うことのできる仲間を与えて下さるお方です。そして神様ご自身が共にいて下さるお方です。今日このことを聖書から読んでゆきたいのです。

聖書によればマリアも予期しない妊娠をしていました。混乱し戸惑ったのです。相談した人は離れて住む「親類」のエリザベトでした。その相談相手は行政が用意したのではなく、神様が似た境遇の相談相手として準備してくださっていたのです。

妊娠中の彼女は大急ぎで、山里に向かいました。SOSを出したのです。不安な気持ちを聞いてほしい、そう急いでエリザベトに会いに行ったのでしょう。一方のエリザベトも戸惑っていました。そんな同じ境遇の二人が出会うことになりました。マリアは今まで戸惑っていたことを、大声で喜んでくれる仲間を見つけました。エリザベトにとってもマリアは大きな励ましとなったでしょう。二人は分かち合い、励まし合うことができたのです。この仲間は確かに神様が与えて下さった仲間です。

神様はこのように私たちを一人にしないお方です。神様は戸惑う私たちを出会わせ、互いに励まし合い、分かち合うことのできる、喜び合える仲間を用意してくださるお方なのです。私たちには「あなたは神様に祝福されているよ」「なんと幸いだろうね」と言い合える仲間が与えられるのです。

私たちは今日、このようにクリスマス礼拝を迎えています。イエス様の誕生を祝う時をいただいています。神様は助け手、相談相手、同じ境遇の人と出会わせてくださるお方です。そしてそれはこの教会の交わりや、私たちのそれぞれの場所でも起こるはずです。戸惑いの中でも「祝福」と「幸い」を見つけ、共に喜び合うことができる仲間が与えられるはずです。

神様は決して私たちを一人にしないお方です。どんな時も、共に戸惑い、共に喜びを分かち合う仲間を与えて下さるお方です。そして何より神様が共にいてくれるお方です。今日その喜びを共に分かち合いましょう。

 

「低きに生まれる神」マルコによる福音書1章1~13節

神の子イエス・キリストの福音の初め。マルコによる福音書1章1節

 

「総合公園の柵、小さい子は見えない。上から見せろと言われる。確かにしゃがんでみると全然見えない。見えないという声、立ったままでは分からない。」入院中のKさんが書いた詩です。同じものでも他の人には見え方がまったく違うものです。見えないという人の声を聞き、しゃがんで見るのは大事なことです。

福音書も4つそれぞれ視点が違います。マルコ福音書にはベツレヘムも、博士も、羊飼いも、系図も出てこないのです。イエス様誕生の経緯にあまり興味がなかったとも言えるでしょう。それぞれの視点で記載が異なることは、豊かな事です。

そして私はどの福音書にも一貫している共通点があると思います。それは救い主イエス・キリストが弱い、小さい、中心から外れた場所に生まれたということです。人々の期待する場所とは違う場所に、生まれたということです。マルコはそれを、イエス様が「ガリラヤのナザレから来た」という言葉で表しています。

洗礼者ヨハネはバプテスマを受けて、救い主を待つようにと促しています。そのバプテスマは悔い改めのバプテスマと呼ばれています。よくキリスト教では「悔い改める」と言いますが、悪いことを反省し、もう二度としませんと考えるのが、悔い改めではありません。悔い改めとは見る視点を変えることです。しゃがんで見ることです。自分と異なる視点に立つことが悔い改めなのです

イエス様も悔い改めのバプテスマの列に加わったとあります。イエス様も視点を変えようとしたのです。私たちと同じ目線、低い目線になろうとされたのです。イエス様は雲の上から人間を見て、教えたのではありませんでした。水の流れる、もっとも低い場所に、自分の居場所を、自分の視点を変えたのです。そしてイエス様がバプテスマを受けると、10節天が裂けて「愛する子、心にかなう者」と聞こえたとあります。高い場所から、低い場所に身を移した者、視点を移した者こそ「神の愛する子、心にかなう者」なのです。イエス様はまさに、そのようなお方です。

1節を見ましょう。そこには「福音の初め」とあります。マルコの言う、福音のはじまりとはこのことでした。イエス様が無名小さな村から来た事、悔い改めに向けた、つまり視線を低くするバプテスマを受けたこと、私たちと共にその列に一緒に並んでくださったこと、それがイエス様の福音、私たちの「福音の初め」なのです。

神様は、私たちの思う身分の高い、近寄ることのできない場所に生まれるのではありませんでした。私たちと共に、地上に生まれ、バプテスマを受け、試練のあったお方でした。それは高い場所にではなく、低い場所に生まれた神と言えるでしょう。

来週はクリスマス礼拝を迎えます。私たちも悔い改めましょう。物事をしゃがんで見てみましょう。そのようにして、低きに生まれる神、主イエス・キリストが来るのを共に待ちましょう。お祈りします。

 

「差別を超える神」マルコによる福音書7章1~13節

 

こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。

また、これと同じようなことをたくさん行っている。マルコ7章13節

 

私たちはバプテストというグループの教会です。全身で水に浸かる(全浸礼)という洗礼の形式に強いこだわりを持っています。しかしどの宗教を信仰し、確信があったとしても、自分の信じる宗教的行為の有無によって、人を清いとか、汚れていると言うのは大きな間違いです。実は宗教はその熱心さゆえに、そのような差別を起こしやすく、キリスト教こそ多くの差別を生み出してきました。

聖書によれば、神様はみんなの命を尊いものとして創られたはずです。だからすべての命は等しく、尊いのです。宗教や、出身、国籍、肌の色、性、障がいに関わらず、すべて神様が造った命です。だから私たちは命に優劣をつけない、差別しないのです。今日はこの個所から、神様は差別をしないお方であること。命に優劣をつけないお方であることを見てゆきたいと思います。

ユダヤ教の人々は宗教的な理由で手をよく洗います。汚れに触れたかもしれないので、身の清めが必要なのです。これ自体を形式主義だと批判するつもりはありません。私たちのバプテスマもかなり不思議な習慣ですから、互いに尊重したいと思います。しかし私たちが注意したいのは背景にある差別の問題です。

このような手を洗うという「言い伝え」はイスラエル中心地エルサレムのエリート学者が編み出した規定です。そしてエリート学者は1節にあるとおり、各地を巡回し「指導」してまわったのです。これをしないと汚れた者だと指導したのです。

この宗教的熱心は差別に近いものです。汚れをはらうということが、神様に向き合う自らの姿勢という意味を超えて、他者を「汚れた者」とする差別へと発展するのです。このような差別はキリスト教の歴史の中ではユダヤ人虐殺に発展しました。

イエス様は今日の箇所で、どちらが優秀か、どちらが清いかという視点を変えるように促し、差別に反対したお方でした。汚れや差別ではなく、10節父や母、他者への慈しみに目を向けるようにと語っているのです。

私が今日箇所から思い起こしたクリスマスは、イエス様の誕生は聖なる場所で起きたことではないということです。イエス様が生まれたのは聖なる場所ではなく、汚れていると言われる場所、人間が住む場所ではない家畜小屋、差別のただなかだったのです。そしてイエス様はいつも汚れていると差別された人の真ん中におられました。イエス様の最後は十字架刑というもっとも汚れた死に方だったのです。それは私たちのクリスマスのイメージとは逆かもしれません。

でも神は人々から避けられ、劣っていると言われ、触りたくないと差別されるそこに生まれたのです。それがクリスマスの出来事です。本当にイエス様がおられるのは、きっとみなから汚れていると差別される、そこではないでしょうか。そして私の中の差別をする気持ち、そこに神様は来られるのではないでしょうか。このように神様は差別の中に生まれ、差別を超えてゆくお方です。お祈りします。

 

「クリスマスと終末の希望」マルコによる福音書13章24~37節

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。マルコによる福音書13章33節

 

今日からアドベントです。私たちのクリスマスは毎年規則正しく12月25日に来ます。しかしイエス様の誕生以前は、いつ起こるかわからず、何百年も待ち、ある日突然、それは起きたのです。これは私たちのクリスマスとは大きく違います。

私たちにとってのクリスマスは、「やがて」必ず来るものです。そして私たちにとっては2000年前に「すでに」来たものです。私たちはこの二つ「すでに」と「やがて」を祝っています。イエス様は「すでに」私たちと共にいる、そしてまた「やがて」私たちに生まれて下さる、それが私たちのクリスマスです。

そして終末も同じように、「すでに」あるものであり「やがて」来るものです。私たちはクリスマスを待ち望むことを始めました。それと同じように私たちは終末も待ち望みます。今日はそのことを覚えてゆきたいと思います。

終末思想とは、イエス様が再び地上に現れる時に、世界が終わりを迎えるという考えです。中世では終末の時、クリスチャンは天国へ、ノンクリスチャンは地獄へ振り分けられ、地獄に落ちると永遠に罰を受け続けると考えられました。しかし私たちは信仰告白11にあるように終末を恐怖の瞬間ではなく、希望の時と考えます。

イエス様が来るという出来事の1回目はクリスマスであり、それは希望でした。そして2回目が終末の時です。そして2回目も希望の時となるはずです。

終末の時とはこの不完全な世界が、ゆがんだ世界が完全なものへと完成する時です。私たちはそこに、希望を持つのです。どんなにこの世界が不完全で、どんなに私の人生に苦痛があっても、いつか必ず終わりが来る、いつか必ず完成する時が来る、希望の時が来るのです。それが私たちの終末の希望です。

その日付を知りたいと願うでしょう。しかし日付は知らない方がよいのかもしれません。息の長い、日付の無い希望こそが私たちを励ますのです。今ではないけど「やがて」この世界が完成する、希望の時が来る、それが私たちの終末の希望です。

どこか終末を待つということは、クリスマスを待つことに似ているでしょう。32節から門番のたとえがあります。神様から責任と役割を託された僕は、そこで互いに平和に、愛し合う役割を与えられて誠実に、あきらめず、いつまでも待つようにと言われたのです。目を覚まし、しっかりとこの世界を見るのです。

そして終末とクリスマスは「すでに」来ているという点でも共通します。2000年前イエス様が来られたときから終末は始まっているのです。「すでに」クリスマスが始まっているように、終末も「すでに」始まりつつあるのです。イエス様が私たちと共におられるということにおいてです。

私たちには苦しい人生の中でも必ず「やがて」来る希望があります。そして今「すでに」ある希望がきっとあるでしょう。「すでに」来ている希望に感謝をしましょう。そして「やがて」来るその希望を共に待ちましょう。

 

「福音のためのバザー」マルコ10章18節~31節

「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  マルコ福音書10章34~35節

 

キリスト教は全財産を寄付することを求めません。ご自分の財産はご自分のために使ってください。しかし、その財産があなただけの力によって築いたものかも考えて下さい。きっとそれは誰かに支えられ、受け取ることができたものでしょう。だとしたら、それを自分のためだけではなく、誰かのために献げ、返したいと思うものではないでしょうか。それは最近話題になる、所得の再分配とも通じると思います。

今日はこのあとバザーの準備をします。地域から集まった、もともと私たちのものではなかった物がそこで売られます。もともと私たちのものではなかったので、この収益も私たちのものとはせず、世界や地域のために寄付されます。「返す」といった方が近いでしょうか。これは再分配の交わりです。教会は福音のためにバザーを行います。売り、分かち合い、従うという福音のために、このバザーをしています。今日はそのことを聖書から聞いてゆきましょう。

金持ちの男がいました。当時は身分や格差が固定されていた時代です。金持ちであり続けたのは大きな土地を持ち、そこで農民を不当に安く働かせ、大きな利益を得たからでしょう。その財産は本当は、貧しく暮らしている人に返さなければいけないものでした。1日の命を守るのがやっとという貧しい人々の中で、金持ちが求めたのは17節「永遠の命」でした。イエス様はその金持ちに命令します。21節「従う前にまず、すべての財産を売り払い、貧しい人々に与えるように 」と。イエス様は金持ちに、貧しい人々から巻き上げた財産を返すように命令をしました。再分配するようにと命令をしたのです。しかしこの金持ちにはそれができませんでした。自分が持っている財産は自分の物だと考え、再分配を拒否したのです。

この話は富を独占する者の話です。聖書は、自らの財産は自らの力によってのみで作られ、自分のためだけに使うものだという考えを批判しているのでしょう。その財産は本当は分かち合い、返さなくてはいけないものだと語っているのです。

そしてイエス様はそれをできない人間の弱さ、罪もよくご存じです。25節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とは財産を自分のものだとしか考えられず、分かち合えない難しさを表しています。イエス様は財産を手放すことの難しさ、分かち合うことの難しさ、富を独占する人の罪、搾取を生む世界の罪を鋭く語っておられます。いかにそれが人間にとって難しい問題であるかを示しているのでしょう。

必要としている人と分かち合う、返す、それは難しいことです。27節「人間にできることではない」のでしょう。しかし同時に27節「神にはできる。神はなんでもできる」お方です。その福音を聞いた私たちは、きっと何かを分かち合うことができるはずです。イエス様の命令は、21節に3つあります。売り払いなさい、与えなさい、従いなさいです。私たちはともに売り、与え、イエス様に従ってゆきましょう。

 

「こどもを大切にする教会」マルコ10章13節~16節

 

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10章14~15節

 

私たちはこどもを大切にする教会です。しかし教会にとってメリットが多いから、こどもを大切にするのではありません。こどもを大切にするとは、一人前ではない、半人前の人、誰かの世話が必要な人を大切にするということです。人の役に立つことができない存在を、誰かに頼らないと生きてゆけない人を、教会は大切にするということです。それがこどもを大切にする教会です。

教会は誰かの助けが必要な人を大切にします。教会は生活に困っている人、障がいをもっている人、誰かに頼りたい人、一人では生きていけない人を大切にします。私たち一人一人は誰かに頼り、甘え、助けを必要とする、こどものような一人です。私たちは全員こどもです。助けを必要とし、それを受け入れる存在です。

今日の箇所は、私たちにこどもの様に、神の国を受けとめるようにと語っています。自分が誰かの助けを必要な者である、神なしでは立つことができない、そのような者に神の国が来ると語っています。今日の箇所を読みましょう。

聖書の時代、こどもは厳しい環境で生きなければなりませんでした。親や周りの大人はそのようなこどもたちに、イエス様に少しでも触れてほしい、そう願って、連れて来てたのでしょう。大人たちの温かいまなざしが伝わってきます。しかし13節の後半を見ると、弟子たちは怒っています。弟子たちの態度はま大人の気持ちを踏みにじるものでした。そしてこども自身も拒絶され、傷ついたでしょう。弟子たちはなぜ怒ったのでしょうか。自分がそばにいるイエス様は簡単に近づけない人なのだ、特別な人しか近寄れないのだと言っているように私には聞こえます。そしてそんな場面にイエス様が登場します。彼らを受け止め、抱きしめてくださるのです。

今日の箇所によれば、こどものようではなくては、神の国には入ることができません。神の国は何かができる人、他の人より優秀で、生産性が高い人、特別な人が入るのではないのです。こどものように、誰かを頼り、弱く、社会で小さくされた人こそが、神の国に入る、聖書はそう語っているのです。イエス様は頑張った順に救われていくという、私たちの常識を全く逆転させて語っています。私たちも何もできない、一人では生きていけない、こどものように生きるようにと勧められています。

こどもが親や大人に頼るように、私たちも神様や他者に頼って生きるのです。そのような歩みの上に、神の国が訪れるのです。私たちは神様に頼り、仲間に頼ります。それは私たちが、一人で生きなくていいということを示すでしょう。

私たちはこどもを大切にする教会です。誰かに頼る人を大切にする教会です。私たちは誰かに頼るこどものような人が集まる教会です。でもそこに神の国が始まるのです。私たちは神と互いを、なくてはならない存在として大切にする教会です。

 

「みんな神のもとで生きている」マタイによる福音書4章1節~11節

 

 

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。                  マルコ12章27節

 

今日は召天者記念礼拝です。キリスト教では死後に故人と再会できると信じています。しかしある人は死後の再会が怖いと言います。自分が今まで傷つけた人々と会わないといけないからです。もし私たちの地上の関係がそのまま、死後の再会で続くなら、私たちは死んでもなお人間関係に悩むことになるでしょう。私たちは地上の関係ではなく、新しい関係で出会いなおすことができると信じています。

キリスト教には復活という信仰があり、クリスチャンはこの復活を信じています。そして聖書はさらに不思議です。この復活がすでに起きていると書かれる箇所があるのです。私たちがすでに死んでしまっていると思っている人が、すでに復活し、生きていると語る箇所があります。それは神のもとで再び生きているということです。そうだとするならば、亡くなった方たちも、復活し、神のもとで生きていることになるのです。私たちは「みんな生きている」と言えるでしょう。それはキリスト教の死生観のひとつです。

今日の箇所をみてゆきましょう。サドカイ派は現世主義を行く人たちで、復活を信じません。もしあるなら混乱すると考えたのです。イエス様はそれに対し、復活は地上の関係の再開ではない、神に仕える天使のように新しい関係になるとはっきりと言っています。そしてイエス様は旧約聖書のある箇所を示します。

イエス様は27節「神は死んだ者の神ではない」と言います。イエス様がここで言おうとしていることはなんとすでに死んでしまったはずのアブラハムも、イサクも、ヤコブも「生きている」というのです。死んでしまったと思う人も、すでに復活し、神様のもとで生きているということ、天使のようになっているというのです。

イエス様の言っていることはこうです。「アブラハムは地上での命を終え、死んでしまったが、すでに復活し、神様のもとに生きている。このように神様は死んだ者の神ではない。生きている者の神だ。あなたたちは思い違いをしている」。

命は死んでしまってもこのように続くのです。復活し、神様のもとで「生きる」ようになるのです。神様の愛は、生きている私たちにだけ、注がれるのではありません。神様は死んでしまった人たちも復活させ、生かし、愛を注いでくださるお方なのです。神様は死んだ者の神様ではありません。神様は生きる者の神様です。死んでしまった人に、神様のもとで再び命を与えるお方です。このようにして神様は地上の生涯を終えても、私たちの神となり共にいてくれるお方です。

私たちの希望とは何でしょうか。それは生きている間、神様が私たちの神様であり続け、共にいて下さる事です。そして私の大切な人が、そして私自身が、死んでもなお、神様が復活により命を与え、生かし、神様であり続け、共にいて下さることです。このように神様は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。

 

「神は谷中にあり」 マタイによる福音書4章1~11節

イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』            マタイによる福音書4章4節

 

今月は公害問題と教会について考えています。私は教会が公害問題に関わるのは、教会の基本的な働きのひとつだと思います。足尾銅山は明治時代、富国強兵のためには絶対に必要な鉱山でした。しかしそこからの汚染物質によって、農作物が育たなくなり、農民は激しい困窮に見舞われます。政府は有害物質を貯める広大な池を作りました。それが現在の渡良瀬遊水地です。もちろん沈められてしまう谷中村の人々は反対をしました。自分たちが受け継ぎ、耕し、暮らした土地だったからです。

田中正造は反対運動で逮捕された時、獄中で聖書に出会います。出所した後、遊水地となることが決まった谷中村で暮らすことにします。田中は反対を続ける村人の姿に心を打たれました。そして田中はこの村人たちの声をもっと聴いてゆこうと感じます。この出会いが田中正造の転換点でした。

彼は谷中村の人の話を聞き、弱者を通じて、強者が悔い改めるべきだと考えます。弱者こそが社会を悔い改めさせ、弱者こそ、社会を欲望から解放させると考えたのです。田中は谷中村の人々を見て「神は谷中にあり」と言ったそうです。この田中の生き方は、苦しむ人と共に生き、そこから聖書を読んでゆく生き方です。

今日の箇所を読みましょう。断食を終えたイエス様に悪魔は繰り返し誘惑をします。悪魔の誘惑として挙げられているものは所有欲、支配欲と言い換えることができるでしょう。悪魔とは私たちの心の中にあり、それが社会の中で塊になるのです。悪魔の誘惑に対して、イエス様は「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と応えています。この時もっともパンを求めていたのは、断食を終え、空腹を覚えたイエス様だったはずです。しかしイエス様はそれを受け取りませんでした。「それと同じくらい大切なことがある」と言ったのです。

実は今日の個所、特に4節は田中正造の遺品であった手記に繰り返し書いてあったみ言葉です。この個所を谷中村の人々をカギに読みたいのです。谷中村の人々は、どんなに貧しくされ、奪われ、抑えつけられ、金を積まれ、誘惑されても譲れない、訴え続けたことがありました。谷中村の人々は、パンをもらうこと、補償を求めていたのではありません。この足尾銅山の公害問題の解決を訴えたのです。

谷中村の人々にとっては、人はパンのみで生きるのではありませんでした。谷中村の人々が突き付けているのは、日本はこのまま強さ、豊かさのために人々が犠牲となってゆく、奪われてゆく社会でよいのかという問いです。人はパンのみで生きるのではない。被害者は補償金をもらえばよいのではない。人間には尊厳のある生き方をする、正義が貫かれることが必要なのです。

私たちも声を聞きたいと願います。公害や社会の犠牲にされてしまっている人の声を聞きたいのです。神様は必ずそこにいるからです。私たちは神様をそこで見つけるはずです。その苦しみの声を聞いてゆくことは教会の大切な働きです。

 

「私たちのバプテスマ」ローマ6章1~11節

 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 ローマ信徒への手紙6章4節

 

今日はバプテスマ式を行います。バプテスマの意味をすべて理解して受ける人はいないでしょう。皆よくわからないまま受けるのです。そして何十年信仰を重ねてもその意味を、すべてわかるということもないでしょう。私たち一人一人が、人生の中でそれはどんな意味があったのかを問いかけ続けることになります。わからないにも関わらず信仰を告白することができるのは、聖霊の導きです。

バプテスマは人間を完全な者にする、人間を完成させるものではありません。バプテスマを受けてもなお私たち人間は未完成です。私がバプテスマを受ける時、これで自分も少しはましな人間になるかと思いました。しかし水から上がっても、すぐに罪を犯しました。水に入る以前と同じように、人を傷つけ、イエス様に従うことができず、悩み、苦しみました。

しかしそれでもなお、バプテスマは確かに人生の新しいスタート、命の新しいスタートです。3節を見ましょう。私たちはイエス様に結ばれるためにバプテスマを受けたとあります。私たちのバプテスマはイエス様と結ばれるための出来事です。5節にあるようにキリストと一体になることです。つまりあなたはもう一人ではないということです。イエス様と共に生きる者となったのです。バプテスマを受けるとは、今日から私もそして私がイエス様の歩みを共に歩むという表明です。11節に、あなたはイエスに結ばれて、神に対して、神に向けて生きるようになるとあるのはそのようなことです。

よくバプテスマをお葬式と誕生日と結婚式がひとつになったものとたとえることがあります。以前の人生が死に、新しく生まれ、キリストに結び付けられるということを今日の箇所が語っているでしょう。

このバプテスマは、受ける人個人とイエス様の関係、一対一の結びつきの出来事であると同時に、私たち全員とイエス様の出来事でもあります。今日のこのバプテスマは私たちの教会の出来事です。私たちに共に従う仲間、共に生きる仲間が与えられたという大切な私たちの出来事、私たちのバプテスマなのです。

私たちにもバプテスマを受けたあの日から様々なことがそれぞれにあったでしょう。私たちもあの日からスタートを切ったのです。今日新しい命が、主イエスと共に歩む決心をし、バプテスマを受け、キリストと結び付けられます。イエス様とバプテスマを受ける命の2つの命が結び付けられる時です。そして私たちの命、今日加わる命もイエス様に結びけられ、互いに結び付けられるのです。その時を今日喜びましょう。そして私たちに、私たちの中に、新しい決心が起こることを祈りましょう。

 

「公害問題と教会」マタイによる福音書18章10~14節

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。マタイ18:10

 

公害問題と教会にどのような関係があるでしょうか?私は公害問題に関わることは教会の基本的な働きだと感じています。水俣病は1950年代から熊本県水俣市を中心に起きた公害問題です。工場排水に有機水銀が含まれ、それは魚、猫、人間の脳神経を壊し様々な症状を引き起こしました。そして水俣には激しい分断と差別が起きます。水俣の多くの人々が差別に苦しみ、声を上げることができませんでした。

原因企業であるチッソ株式会社は当時、日本を代表する化学メーカー、エリート企業でした。チッソは自分たちが原因と知りながらそれを隠蔽し、損失を最小限にしようとしました。被害を訴える声は大企業にかき消されてしまったのです。

教会とこの水俣病にどんな関係があるでしょうか?公害問題は犠牲がでても、安く便利なものを手に入れたいという人々の欲望が集まって生まれます。公害が差別をうむのではなく、もともと命の差別、軽視があるところに、公害が生まれるのです。誰かが犠牲になってよいという発想自体が公害を生むのです。

聖書どうでしょうか。聖書は1つの命が大事だ、小さな命が大事だと語っています。それが今日の99匹と1匹の羊の話です。羊飼いはたとえ1匹でもひたすら探します。羊飼いにとって1匹は100分の1ではありません。1匹のために時間と労力を使い、危険を冒して探しだすのです。

羊飼いは探しに出てゆくと、羊がいないかよく目を凝らします。声をかけ、耳を立てて声を聞こうとします。1匹だからと言って、見下されたりしない、軽んじられないのです。これは10節にあるとおり「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という話です。軽んじるとは見下すという意味です。1匹の命を、99匹の命より下だと見下さないようにと語っています。

私たちはこの1匹の羊ですが、もう一つこの話が指し示すことがあるでしょう。それは私たちも羊飼いのようになるように促されているということです。私たちも1匹の命を探し、声を聞き、見つける者になるのだということです。

水俣の人々の命は、公害が始まる前から見下されていました。人々は声をあげることができませんでした。声を上げても無視され続けました。それはまるで探されなかった羊のようです。見つけられない、声をだせない、声を聞かれない羊のようでした。それは99匹のために、犠牲になろうとしている1匹のようです。

私は今日の物語から、そのような1人を探し出しなさいと聞こえます。私たち自身が苦しむ1匹を探し、目を止め、声を聞き、共に安心して暮らす場所を見つけるようにと促されているのです。

私たちは探されるだけではなく、探したいのです。忘れられてしまうような一人の命を見つけ、見つめ、声を聞きたいのです。その命を守り、小さな声に耳を傾けてゆきたいのです。その1匹を探し、声を聞くこと、それは本当に教会の大切な使命ではなでしょうか。

 

「罪人が招かれた晩餐」マルコによる福音書2章13節~17節

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

マルコによる福音書1章17節

 

今日まで5回、主の晩餐をテーマとして宣教をしてきました。今日箇所、徴税人は関所で通行税を取り王様に納める、中間搾取の仕事でした。このような職業はユダヤの人々から大変憎まれ、軽蔑をうける存在でした。

15節には徴税人と並んで「罪人」という言葉も出てきます。徴税人と罪人は同じ扱いです。罪人とは犯罪を犯した人というだけでなく、もっと広い意味がありました。たとえば羊飼いや外国人も罪人でした。律法に従いたくても従えない人がたくさん含まれていました。

当時の社会では、「罪人」との関わり、特に共に食事することは厳しく禁じられました。16節の「どうして一緒に食事をするのか」という問いはそこから生まれています。しかしイエス様は徴税人や罪人と平気で食事をしています。しかもイエス様の方からレビに「私に従いなさい」と声をかけています。これがイエス様の態度です。イエス様の側から罪人と呼ばれる人をご自分の下へと招くのです

かわいそうだから、例外として罪人も仲間に入れてあげたのではありません。イエス様はまず徴税人に言葉をかけ、招き、食卓を共にしたのです。その食事には罪人が招かれました。他の人は絶対に一緒に食事をしない人が、イエス様により一方的に招かれたのです。

私は食事の場面も想像します。徴税人や罪人は招待客としてイエス様に招かれました。隅に追いやられるのではなく、真ん中に座るように勧められ、もてなされました。イエス様の招き、イエス様との食事とはそのような逆転の食事です。

17節にはイエス様の来た目的が書かれています。それは「罪人を招くため」です。マルコによればイエス様は「罪人を悔い改めさせるため」に来たのではありません。ただ「罪人を招く」ために来たのです。イエス様は罪人といわれる人を招き、正しいといわれる人々を招かなかったのです。

この食事は私たちの主の晩餐とどのような関係にあるでしょうか。イエス様は正しい者ではなく、罪人こそ食事に招いたお方です。今日の箇所に照らすならば、非常に残念ですが、自分を正しいと思う人は晩餐に招かれていません。そして他者を罪人と指さしイエス様から遠ざけようとする人も非常に残念ですが、食事に招かれていません。

そしてクリスチャンが「正しい人」だから食べてよいということではないでしょう。むしろ今日の箇所によれば、クリスチャンこそ自分が罪人だとよく知っているからこそ招かれていると言えるのではないでしょうか。クリスチャンこそ、あまりにその招きを受けるのにふさわしくない者として招かれているのではないでしょうか。今日この豊かな食事をともにいただきましょう。

 

「群衆との奇跡の晩餐」マタイによる福音書24章29節~39節

群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

マタイによる福音書15章32節

 

9月は「主の晩餐」をテーマにしています。今回が4回目です。14章の食事と今日の15章の食事の違いは29節~31節の、この奇跡の食事がどんな人と持たれたのかということの強調点にあります。そこには様々な障がいをもった人々がいたことが細かく記録されています。足、目、体、口、その他、いろいろな不自由や病を持った人がここにいたのです。当時はよく(今もそうですが)病気と罪が結び付けられました。この人々の中には、おそらく病や不自由を持つことで、それだけではなく社会の中からのけ者にされた人もいたでしょう。立場が弱く、小さくされた人々こそ、この4000人の中にはたくさんいたのです。

そしてそこに癒し奇跡が起きたのです。癒しの奇跡とはどのような出来事でしょうか。私にはわかりません。本当に手足が自由に動くようになったということだったかもしれませんし、それとは違うことだったかもしれません。でもそこでは少なくともイエス・キリストによって差別のない言葉がかけられたはずです。そして人々はその言葉から生きる力をいただいたのです。差別に悩まされていた人々が、新しい希望を持つことができるようになったのです。

今日の食事はそのような障がいを持った人々、のけ者にされた人々がたくさんイエス様の下に集められ、そして癒されたという場面設定の後に始まります。イエス様は障がいをもった人々と一緒に食事をしたのです。

イエス様は彼らを見て32節「かわいそうだ」と言っています。元の言葉は「スプラグニゾマイ」という、内臓に由来する言葉です。相手の体の苦しみが、自分の体の苦しみに感じるということが、スプラグニゾマイです。イエス様は人々の痛みや空腹を自分の痛みや体のことのように感じたのです。そして足りないはずのパンで満腹するという奇跡が起きたのです。

36節の言い回しが出てきたら主の晩餐を連想してください。「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちにわたした」がまた今週も登場しました。ここでも主の晩餐が行われたのです。この病を癒された人々との奇跡の食事は主の晩餐だったのです。ここでの主の晩餐は、痛みを持った人々と共感しながらの食事だったということです。その痛みへの共感の食事こそ主の晩餐だったのです。

私たちはこの主の晩餐にあずかることによって、イエス様に癒され、満たされ、イエス様のように生き、行動するようになるのです。それが主の晩餐の意味です。私たちの主の晩餐には、込められた意味がたくさんあります。十字架の体と血、共同体を吟味すること、復活を覚えること、そして今日のイエス様の奇跡と癒し、共感ということが含まれています。

来週いよいよ私たちは主の晩餐をいただきます。いままでと違った思いで、その主の晩餐をいただきたいのです。

 

「最後じゃない晩餐」ルカによる福音書24章28節~36節

 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。             ルカによる福音書24章30~31節

 

主の晩餐式について一緒に考えています。1回目は主の晩餐とは十字架を覚えて持つと言うこと、前回は主の晩餐は誰かを置き去りにしていなかを吟味するものだということを見ました。今日は3回目です。最後の晩餐という言葉がありますが、今日の箇所によれば実はあれは最後ではありません。復活後も主の晩餐は繰り返し続くのです。今日はその、エマオの途上という物語の後半部分です。

二人は失意のうちに、そして不思議な出来事への疑問のうちに家へと向かっていました。そこには、一人寄り添って歩く人が与えられました。そしてこの人との食事が始まったというのが今日の場面です。30節には「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。これはイエス様の過越の食事、いわゆる最後の晩餐の際とまったく同じ言い回しです。明らかにこの食事では主の晩餐が行われました。ここでの主の晩餐にはどんな特徴や意味があるでしょうか。主の晩餐は様々な場面で行われますが強調点がそれぞれ違うのです。

今日の主の晩餐の場面では「イエス様は死んでもなお、私たちと共にいる」ということが強調されています。イエス様は十字架にかかられ、その後、復活をされました。そのイエス様は気づかれないほどにそっと寄り添い、聖書を解き明かして下さるお方でした。それに気づくのが主の晩餐の時なのです。そこで示されるのは、主イエスが私たちの気づかない場所で、私たちと共におられ、私たちは主の晩餐でそれに気づくということです。今日の物語がまさにそうです。このことを二人は主の晩餐によってはじめて実感することができました。

イエス様はいろいろなメッセージを主の晩餐に込めています。私たちそれを豊かに受け取ってゆきたいのです。私たちは毎月主の晩餐を持っています。そこでイエス様の十字架を覚えます。でも主の晩餐の意味はそれだけではないでしょう。イエス様が復活してもなお、私たちと伴い、私たちに教え、目を開かせ、信仰へと導いてくれる、そのことも主の晩餐で覚えましょう。

そして神様はそこから信仰の仲間を与えてくれるのです。互いに出会ったイエス様を証しあう仲間です。イエス様の主の晩餐とは失意や疑問を持った人々を結び付けるのです。そしてその分かち合いをしている時、36節「こういうことを話していると、再びイエス様が真ん中に現れた」とあります。イエス様は集められた人々の真ん中に、現れて下さるのです。

私たちはこの主の晩餐を大事に守ってゆきましょう。私たちは主の晩餐で主イエスの十字架を覚えます。私たちの共同体を吟味します。そして主イエスが復活し私たちと共にいるこのことを覚え、次の主の晩餐をいただきましょう。

 

『誰がいないか吟味する晩餐』Ⅰコリント11章17節~34節

 

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節

 

「主の晩餐」をテーマとして宣教しています。コリントの人々は毎週日曜日の夕方に、少しずつ食べ物を持ち寄って、家で夕食会をしていました。それは誰でも加わることができる、垣根のない、にぎやかな食事会でした。イエス様の民族や身分や性を問わない食事が再現されていたのです。そしてその中で、主イエスを覚えて私たちの主の晩餐のように、パンを裂いたり、祈ったり、証しをしたり、賛美をしたりしたのです。この運動がキリスト教を広めてゆきました。

しかしキリスト教が広まってゆくと、お金持ちたちは先に食事会を始めてしまうようになりました。後から参加する貧しい人たちは余り物を食べるしかありませんでした。それは貧しい人への侮辱であり、差別でした。このように垣根のない食事会はうまくいかなくなってきたのです。

パウロはそのような食事の様子を聞いて、コリントの人々に手紙を書いています。本来、イエス様がいろいろな人と食事をしたこと、愛とお互いへの配慮が確認される食事の場所だったはずが、互いの間に愛がないことを確認する食事、侮辱と差別に満ちた食事になってしまったのです。仲間割れ、分裂を起こす食事会になってしまったのです。パウロは20節それでは一緒に集まっても、もうこれは主の晩餐にはならないと言います。主の晩餐において、みんながちゃんとそろっているかどうか、よく確かめて、互いに待って、食べなさいということです。誰かいない人がいないか、誰かの分が足りなくないか、誰かを忘れていないか、それをよく確かめて食べなさいということです。自分の事ばかり考えて、自分だけが食べればいい、そんな集まりになっていないか、それを確かめなさい、吟味しなさいということです。28節の確かめなさいは、コリント教会の集まり、共同体に向けて言ったことです。

ここで吟味されるのは、私自身の資格や適性ではなく、共同体です。この集まりが誰かを置いていったり、差別したりしていないか、そのことを主の晩餐で吟味しなさいとのパウロは言っているのです。

この後、残念ながら食事と主の晩餐というのは別々に行われるようになりました。それぞれの家で食事をし、教会に集まり、主の晩餐だけを教会でするようになりました。それが今の私たちの教会で行う主の晩餐につながっています。

私たちが主の晩餐の時に確かめることは何でしょうか。それは自己吟味だけではありません。共同体が誰かを置き去りにしていないかということです。共同体を吟味するということです。私たちの中には、誰かを置き去りにしてしまっているということがあるでしょう。つながれない人がいる、集えない人がいる、食べることのできない人がいる、そのことをよく吟味して、食べたいのです。一緒にまた集い、一緒に食べれることを願って、主の晩餐をしたいのです。

 

『ふさわしくない人の晩餐』マタイによる福音書26章17節~30節

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である」

                     マタイによる福音書26章26節

 

 9月から「主の晩餐」をテーマとして宣教します。私たちはイエス様を「思い出す」ために主の晩餐式をしています。ではイエス様の何を思い出すのでしょうか?

最後の晩餐で特にイエス様は「これは私の体である」と言います。これは主の晩餐でも象徴的な言葉です。このパンはイエス様の体なのです。イエス様はそれをわざわざ裂いて、これは私の体と言っています。この体、このパンとは十字架で傷ついたイエス様の体を象徴するものです。引き裂かれた体を象徴します。杯も同じです。「これは私の血である」と言います。イエス様はこの後、十字架で血を流されます。この杯は十字架の上で流れる、イエス様の血を象徴するものなのです。

このように私たちの主の晩餐は、イエス様の十字架の体と血を象徴するものです。イエス様ご自身が、最後の食事、十字架を目前にした時、パンを自分の体、杯を自分の血として弟子たちに教えられ、共に食べるようにと言いました。それが最後の晩餐という出来事でした。それが私たちの主の晩餐につながってゆきます。

このパンと杯をイエス様の体、血としていただき、十字架を思い出すのです。その十字架とは神の子である方が、体を裂かれ、血を流す、神の子が痛みの中におられたという出来事です。この十字架の神こそ大きな希望です。十字架によって、神は苦しみのただなかにおられ、共に苦しみ、共に血を流してくださるお方だと示されているから希望なのです。私たちの主の晩餐はその神の愛、十字架の体と血を、食べるという儀式なのです。今日これを覚えましょう。

誰がこのパンを食べるのにふさわしいかということも大切な問いです。クリスチャンが特別な人だからこれを食べることができるというのは誤解です。この後裏切るユダさえもこのマタイの最後の晩餐には参加しています。ここでは弟子の弱さも示されています。従うつもりでいても、忘れてしまう弱さが示されています。イエス様の最後の晩餐、それは弟子の弱さのためでもありました。

あまりにもふさわしくない弟子がこの食事にあずかったのです。私たちは本当にふさわしくない者です。でもふさわしくない者だからこそ、この食事にあずかりましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに食べましょう。それを思い出し、忘れないように食べましょう。

今日の主の晩餐は言葉のみです。どなたも限定されずにこの式に参加します。私たち全員がふさわしくない者としていただきましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに主の晩餐にあずかりましょう。

 

 

「私たちを派遣する神」マタイによる福音書10章16節~25節

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。マタイ10章16節

 

礼拝というテーマで宣教をしています。神様は礼拝から私たちを派遣されるお方です。私たちは礼拝の招きと派遣の循環の中で生きています。神様は今日、それぞれの場所で、神様を愛し、隣人を愛するように私たちを派遣されます。

この1週間はどんな1週間になるでしょうか。こどもたちにとっては新しい学期が始まる緊張の1週間です。神様はみんなにいってらっしゃいと言っています。そして一緒にいるよと言っています。だからきっと大丈夫です。でももししんどかったら教会に逃げてきてもいいです。大人にとってもうれしい事ばかりの1週間ではないでしょう。しなければならないことがたくさんあるでしょう。でも私たちは神様が背中を押して行ってらっしゃいと言ってくれるから、神様から派遣されているから歩むことができます。そしてまた来週の日曜日の礼拝に集いましょう。

今日の箇所、イエス様は12人の弟子たちを派遣します。しかし、派遣される先はかなりしんどい状況です。こんな場所には絶対派遣されたくありません。しかしイエス様は厳しい現実をどのように生きてゆけばよいかを教えて下さるお方です。イエス様は派遣された場所で、証しをするように勧めます。証をするということは喜びの中だけではなく、苦しみや悲しみ、痛みの中で、神様を周囲へと表してゆくことです。態度と言葉で神様の愛を表現することです。苦しいときこそ、傷付けあうのではなく、愛し合うということを選びます。それが愛の神を証しするということです。

もちろん、弟子たちは無理と思うこともあるでしょう。神様は絶対に持ち場を離れるなとは言いません。だめなら次の町へ逃げるように言われます。逃げて逃げて逃げて、逃げ場所が無くなる前に、イエス様は来てくださいます。そして弟子たちの目指すのはイエス様を超えることではありません。「ようになれば十分」なのです。弟子は弟子のままでいいのです。弟子は弟子として、イエス様を真似する、できるだけイエス様に近づいてゆくのです。

このようにイエス様によって弟子たちは派遣されます。苦しみの中に派遣されます。そこで証しをするように、愛し仕えるように派遣されます。どうしてもだめなら逃げてもいいと派遣されます。そしてできるだけイエス様の真似をして生きてごらんそうやって、12人の弟子たちは派遣されていったのです。

私たちの1週間もこのようにはじまり、派遣されます。今日この礼拝から派遣され1週間が始まります。皆さんは神様からそれぞれの場所に派遣されてゆきます。それぞれが派遣された場所で苦しくとも、神に仕え、隣人に仕えましょう。神様を愛し、隣人を愛しましょう。そしてダメな時は逃げましょう。できる限りイエス様を真似して、生きてみましょう。私たちは今日もそのような1週間に派遣されます。そしてまた来週集い、神様から力をいただきましょう。礼拝はすべての人を招かれています。そして礼拝から派遣されます。神様のみ言葉を胸に、今週も歩みましょう。

 

「シャロームは丸」マタイによる福音書5章1節~11節

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

マタイによる福音書5章6節

 

聖書の平和「シャローム」とは戦争がない状態を指すだけではありません。何も起きない状態ではなく、平等に向けての激しい動きのある状態を示します。格差や不公平、差別が正され、平等にへの動きが活発にある状態です。

シャロームとは例えるなら丸です。でもこの丸は歪んでいます。抑え込まれている分、飛び出ている分があります。シャロームは全員が満たされ、抑えつけられる人いないこと、それが回復されてゆくことです。そして人を見下す人は、低い目線に立たされていくこと、それがシャロームです。日本は平和かもしれません。でも聖書に立ってシャロームかを見るならば、格差、偏見、暴力、ハラスメント、無責任があふれています。

大切にしたいことは、私たちがこの丸のゆがみを見る時、最も低い場所に起きた出来事、十字架のある場所から見るということです。弱くされ、小さくされている人々のいる場所から世界を見るのです。イエス様はこのシャロームを繰り返し語ったお方です。今日の箇所からイエス様の語るシャロームを見てゆきましょう。

1節にある「群衆」とは貧しい人々、差別に苦しんだ人々、いわば谷の底にいた人々だったと言われます。3節からのイエス様の視点は、底からの視点です。心の貧しい人は幸いだとあります。心が貧しいとは、今まさにへこまされている心のことです。貧しさや困難で、心が疲れ切った人のことです。イエス様はその疲れた人々に、幸いだと語り掛けています。その谷は必ず満たされ、回復するからです。そこにこそ神様の力が働くから、シャロームの力が働くから、幸いだと言うのです。

6節には「義に飢え渇く者」とあります。それは不公平、不平等、差別にあえぐ人たちのことです。正義が欲しい、平等と公平が欲しいと、水を求める人のように、願う人です。イエス様はそのような人に、必ずあなたにシャロームが起こる、その渇きは満たされる、丸くなると言うのです。

私たちはシャロームを約束され、そのために力をいただいている者です。私たちは、イエス様からシャロームの希望をいただきましょう。戦争しないだけではない、私たちの社会の中で苦しむ人が回復されていく希望、そのための力です。私の苦しみの底に共におられ、回復の力を与えて下さるという希望です。その力、シャロームを神様は約束をしてくださっています。

私たちは神様からシャロームのための力をいただきましょう。そしてそのために繰り返し、イエス様の十字架と復活に目を向けたいのです。シャロームの物語を聞いてゆきたいのです。シャロームである方を覚えましょう、そしてそのシャロームを今日も祈り、礼拝をしましょう。お祈りします。

 

「みんな礼拝しようよ」イザヤ書25章6節~10節

 

万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒          イザヤ書25章6節

 

先週から礼拝というテーマで宣教を続けています。コロナの中、この会堂に集まって礼拝するかどうかを決断することに対して「人間が決めることなのだろうか?人間にそんな権利があるのだろうか?」という葛藤がありました。しかしコロナを通じてより明確になったことは、礼拝に集まるか、集まらないかは人間、私たち一人一人が決めることなのだということです。

礼拝は私たち人間が勝手にしているのではありません。そこには先立って神様の「招き」があるのです。礼拝するかどうかを決めるのは自分ですが、でも私たちは何よりまず先に神様から招かれています。すべての人が神様から礼拝へと招かれています。私たちが礼拝している事、それは神様の「招き」への「応答」と言えるでしょう。礼拝堂で一緒に礼拝できなくとも、どこで礼拝をしていても招きは同じです。神様はすべての人を礼拝に招いています。そして集うことができたとき、豊かに神様の招きと応答を感じることができます。慌てて会堂に来る人を見て、神様の招きと、精一杯の応答を感じるのです。

今日の箇所をお読みしましょう。神様は礼拝へと招くお方です。聖書の中で神様の招きは、よく食事会の招きに例えられます。6節の山は礼拝する場所をさすことが多い言葉です。主はこの山で祝宴を開くとは、神様が礼拝に人々を招くということを示します。そこでは受け取ると力が湧いてくる食べ物が用意されているのです。礼拝し、み言葉が、私たちの生きる力の源となります。生きる糧となるのです。

すべてという言葉が繰り返されています。神様の招きはすべてに対してなのです。

国籍も、人種も、信仰も関係ありません。すべての人とは、すべての人です。神様はその礼拝で涙も失敗も失望もぬぐってくださるお方です。私たちは涙を流した姿のままで招かれているのだから、そのまま礼拝すればよいのです。神様が涙と失望をぬぐってくださるからこそ、礼拝から新しい1週間のスタートをきることができるのです。神様の手はその山にとどまるとあります。神様は必ずそれぞれの礼拝の場所に、私たちの礼拝する場所に共にいて、とどまってくださるお方です。

今日ここに集っている方は、この招きをよく実感できるでしょう。みなさんもこの平塚バプテスト教会の礼拝という山に招かれ、そしてご自身で決断し登ってこられたお方です。そこでみ言葉をいただき、涙をぬぐわれ、喜び歌います。前後左右には同じように招かれた仲間を感じることができます。礼拝とはそのような招きです。集うことができない方も、同じようにそれぞれの場所での礼拝に招かれています。集えずとも一緒にその招きを感じ、礼拝をしましょう。

礼拝は神様の招きです。神様は「みんな礼拝しようよ」そのように、みんなを招いておられるお方です。その招きに応えて一緒にみんなで礼拝をしてゆきましょう。

 

「変わり続ける礼拝」イザヤ1章11節~20節

 

 

お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。

イザヤ書1章15節~16節

 

今日から3回「礼拝」をテーマに宣教をします。平塚教会の礼拝は変化し続けています。最近ではこどもメッセージ、こどもスペースが変化しました。またコロナ・ウイルスによっても変化しました。それでもこれで完成というわけではありません。私たちが礼拝で何を大事にするかは、その時の信仰と社会の状況によって変わります。礼拝はこれまでも、これからも変わり続けます。

礼拝は神様が主催者です。しかし同時に、どのように礼拝をしてゆくかは人間が、信仰によって決めることです。それを真剣に考えてなくてはいけません。一番怖いのは「これでよい」と決めつけてしまうことです。そしてこの礼拝を私たちが生きる、残りの6日間としっかりと結び付いているものにしたいのです。

今日の聖書を読みましょう。当時の人々もきっと一生懸命に礼拝し、献げ物をしてたでしょう。しかし神様は喜んでいないようです。この教会の礼拝も、神様どう感じているのか心配になります。15節にはその手が血だらけだとあります。一生懸命礼拝しているが、残りの6日間は誰かを傷つけて、手が血にまみれになっているということです。神様は礼拝も献げ物も大事だけど傷ついている人をしっかりと見なさいと言っています。礼拝には一生懸命だけど、残りの6日間で困っている人、小さくされている人を忘れていないか?社会に、世界に目を向けているか?あなた個人の礼拝になっていませんか?と神様は問いかけているのです。神様は礼拝なんかしなくていいと言っているのではありません。社会、世界で起きている問題を無視して行われる礼拝はもう飽きたと言っているのです。

ここでは二つの方向が示されているでしょう。ひとつは礼拝は必ず生き方を変えるということです。生き方を変えずに礼拝をすることは、血だらけで礼拝することです。もう一つの方向は生き方が変わる時、礼拝が変わるはずだという方向です。生き方の変化を願う時、礼拝に変化が起こるのです。

礼拝から世界が変わり、世界から礼拝が変わるのです。生き方の変化が礼拝を変え、礼拝の変化が生き方を変えるのです。私たちの生きる場所、生活の場所が変化するように、教会の礼拝も変化してゆく、礼拝の献げ方も変わってくるのです。そして礼拝から私たちの生活・世界が変わるのです。

この今持っている礼拝と同じように、神様に祈り、聞いてゆくこと、こどもを大事にしてゆくこと、そのような1週間を歩んでゆきましょう。そしてまた集いどのような礼拝がよいかを考えましょう。このあと私たちは主の晩餐を持ちます。もちろんこれも今の形が完成形ではありません。問い続けるべきことがあるでしょう。問い続ける中で、今日もこれにあずかってゆきましょう。お祈りをします。

 

「平和を祈ろう」マタイによる福音書8章5節~13節

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

マタイによる福音書8章10節

 

6月から7月沖縄、戦争責任、空襲、ミャンマーと平和について聖書から考えてきました。平和ということについて、私たちにできることは多くありますが、祈ることもとても大事なことです。私たちは平和を実現するためには決定的に外側、神様からの力が必要です。暴力の誘惑は常に人間を襲います。だからこそ平和を祈り続ける、ずっと祈り続けることが大事です。共に祈り続けてゆきましょう。

そして私たちは、自分の周りの平和ばかりに目を向けがちです。平和の祈りを世界に広げてゆきたいのです。今日読むのは、熱心な祈りの姿です。平和というテーマの宣教の最後ですが、平和を祈ることについて考え、終えようと思います。

今日の箇所。似た記事はルカとヨハネにもあります。ヨハネでは苦しんでいるのは、百人隊長の「息子」だとあります。激しく痛む子どもを目の前にして、親は子どもが助かるためならどんなことでもするでしょう。どんな宗教にでも救いを求めるはずです。必死に嘆願した百人隊長の気持ちが想像できます。一方マタイでは「僕」とあります。百人隊長とどういう関係なのかわかりません。しかし、百人隊長の態度から関係性がわかります。この「僕」は百人隊長にとってかけがえのない、大切な存在だったのです。恥も外聞も捨てて、公衆の面前で、新しい宗教者イエスにその救いを5節「懇願する」ほど大切だと思える存在だったのです。そしてここにある懇願するという言葉は「祈る」という意味のある言葉です。

よく見ると百人隊長の8節9節の言葉は懇願というよりも祈りです。百人隊長はイエス様に出会い、祈ったのです。大勢の群衆が見ている前で、社会的地位のある人がイエス様に祈るのです。イエス様は10節、それに感心したとあります。イエス様はたったの一人の「僕」のためにここまで熱心に祈る隊長の祈りに驚いたのです。

イエス様は百人隊長が僕の痛みを自分の痛みのように感じ、助けてほしい、平安を与えてほしいと熱心に祈る姿に共感をしたのではないでしょうか。家族でもない他者の痛みに共感し、熱心に救いを求め祈ること、そして救いを探し回っていること、そのことに感心したのです。百人隊長は平和を祈ったのです。忘れられてしまう命、あきらめてしまうような命、そんな身分の僕の平和のために祈ったのです。

私もこの百人隊長のような祈りたいと思わされます。私も自分や家族、親戚だけではなく、もっと広い世界のために、祈ってゆきたいのです。私は世界にある命、苦しむ命、暴力と抑圧の中にある命のために、親身に祈りたいのです。神様に平和を祈る時、きっと神様はそこに目をとめてくださるはずです。私たちも神様が平和のために、命のためにそんなに祈っているかと驚くほどの祈り、そんな平和の祈りをささげてゆきましょう。お祈りします。

 

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「神の不服従運動」マタイによる福音書7章15節~23節

 

すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 マタイ15章17節

 

平和というテーマで聖書を読んでいます。ミャンマーでは2月にクーデターが起こり、軍事政権に逆戻りしてしまいました。ミャンマーは独立する際、軍の影響力が強く、そのため長く軍事政権が続きました。軍によって成立した国は結局、軍によって支配されました。そして軍は独立以来、ずっと少数民族を弾圧しました。

先日のミャンマーを覚える祈り会では「軍の国民に対する暴力はデモ以前からずっと行われてきた。軍の抑圧の対象が、少数民族から、民主化を求める人々に変わっただけなのだ」と分かち合われました。軍による独立と支配、それは平和のように見えたかもしれません。でも軍の暴力は独立後からずっと続いていたのです。

しかし、このような状況の中でもミャンマーには希望の光があります。それはミャンマーの人々が平和をあきらめていないということです。人々は暴力ではなく、CDM(Civil Disobedience Movement)市民的不服従運動という運動で新しい国を作ろうとしています。軍の支配に対して服従しないということをデモや職場のボイコット、鍋をたたく、指を三本立てるということによって表明しています。

デモ参加者の多くは仏教を信仰している人々ですが、私はキリストの平和と多くの共通点を感じています。イエス様も暴力によって問題を解決しようとしなったお方だったからです。ミャンマーはイエス様と同じ非暴力で抵抗しています。だからこそミャンマーの平和のために活動する人々を祈りたいと思っています。

今日の聖書箇所を読みましょう。偽預言者はその共同体全体を間違った方向に導きす。支配し、偽りの平和を語ります。私たちはそれを実によって見極めることができます。実とは命と尊厳です。命と尊厳が守られているか、はぐくまれているかによって、偽物を見極めることができます。よい木は人を生かすのです。軍は悪い木です。悪い実をつけています。

そしてイエス様は神の子羊と呼ばれた、平和の象徴であるお方でした。イエス様は軍隊を率いず、愛による、非暴力運動に人々を従えた人でした。私たちもこの羊に連なりたいのです。そしてイエス様こそ不法を働く者といって、十字架にかけられ、殺されたお方です。私たちは主イエスからいただく命の尊厳に立つとき、国の決定に逆らい、不法を働く者と呼ばれることがあります。しかしそこで私たちは本当の不法な者が誰であるのかを見極めたいのです。私たちの教会も偽預言者に騙されてないようしましょう。命と尊厳が守られているかどうかによって判断してゆきましょう。神様は本当の不法を犯すものに離れされと語ります。

平和は軍事力ではなく非暴力の運動によって実現されるはずです。神様にある、本当の不法への不服従運動によって実現されるはずです。それはよい実、命と尊厳によって見極めることができるはずです。教会、ミャンマー、世界で、非暴力による平和、不法への不服従、軍事力への不服従が起きるように共に祈りましょう。

 

【全文】「神の不服従運動」マタイによる福音書7章15節~23節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も子供たちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。この後の水遊び会も楽しみにしています。

私たちは今、平和というテーマで聖書を読んでいます。ここまで沖縄の戦争のこと、基地の事、キリスト教の戦争責任のこと、前回は平塚大空襲のことを聖書から聞いてきました。どのようにお感じでしょうか。いずれにしても「神様は暴力・軍事力によらずに平和を実現しなさい。平和を神様からいただきなさい。」そう語っていると感じています。今日も神様からの平和をいただいてゆきましょう。

今世界を見渡して、一番平和について考えたいのはミャンマーの問題についてです。ミャンマーは近年民主化を進めていましたが、2月に軍によるクーデターが起きました。それ以来、民主化を求める人々への弾圧が続いています。軍事政権はデモ隊へ発砲し、逮捕し、拷問をしています。デモの参加者、数百人が亡くなったと言われています。

ミャンマーは第二次世界大戦後にイギリスの植民地から独立をした国です。独立には軍の影響力が大きかったといいます。中でも軍のリーダーだったアウンサンスー・チー氏の父親は英雄とされました。そしてそれ以降、長く軍による支配、軍事政権が続いたのです。軍によってイギリスからの独立にはうまくいったのかもしれませんが、軍によって成立した国は結局、軍によって支配されました。まだ平和は訪れていません。

ミャンマーでは特に少数民族の人々が軍の弾圧に苦しめられてきました。軍は独立以来、ずっと少数民族を力で弾圧してきたのです。ロヒンギャ問題が有名ですが、それ以外の少数民族もずっと弾圧を受けていました。

例えば弾圧されていたカチン族という人々は、私たちと同じバプテストの仲間です。日本でも教会に集い、礼拝を持っています。バプテストとして様々な交流を持っていた関係で、毎週金曜日オンラインで、平和のための祈り会が持たれています。私も先日参加をしました。

祈り会では「軍の国民に対する暴力はこのデモ以前からずっと行われてきた。軍は少数民族をずっと抑圧し続けてきた。だから国民に暴力をふるうことにもう慣れてしまっている。軍の抑圧の対象が、少数民族から、民主化を求める人々に変わっただけなのだ」そのようなことが分かち合われました。

軍による独立、それは一度は、平和のように見えたかもしれません。でもそれは本当の平和ではありませんでした。暴力はずっと続いていたのです。力で勝ち取ったものは、力で維持しようとされます。ミャンマーでは何度も民主化運動が起きていますが、その運動の度に軍によって力で抑え込まれています。少数民族はずっと力で押させつけられていました。

しかし、このような状況の中でもミャンマーには希望の光があります。それはミャンマーの人々が平和をあきらめていないということです。そして、非暴力運動によって、民主政権を造ろうとしているこということです。暴力ではなく、力ではなく、CDM(Civil Disobedience Movement)市民的不服従運動、非暴力による不服従という運動で新しい国を作ろうとしていることです。

人々は軍の支配に対して服従しないということを例えばデモ行進をすることによって、例えば職場をボイコットすることによって、例えば毎晩夜8時に鍋をたたくという活動によって、例えば指を三本立てるということによって表明しています。それがCDM市民的不服従運動と呼ばれます。

この活動、デモ参加者の多くは仏教を信仰している人々ですが、私はキリストの平和と多くの共通点を感じています。イエス様はどんなに危機的な状況においても、十字架においても、決して暴力によって問題を解決しようとしなったお方だったからです。イエス様は非暴力による平和を求め続けたお方だったのです。そして、それこそが私たちの幸いにつながることをよくご存じでした。十字架によって示されたこと、それはどんな暴力も神の愛を揺るがすことはないということだったのです。CDM市民的不服従運動に重なります。

始めは軍の力によって独立したミャンマーです。しかし、結局今、軍は人々を苦しめています。ミャンマーの人々は今度こそ、平和的な運動によって国を造ろうとしています。私はそれを応援したいと思います。軍に対して、より大きな力ではなく、平和的な活動によって、軍と軍事力への不服従によって、国を造ろうとすることを応援したい。それはイエス様と同じ非暴力運動だったのです。だからミャンマーの平和のために活動する人々を祈りたいと思っています。

今日の聖書箇所を読みましょう。15節には「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」とあります。

聖書の書かれた当時、イエス様とは異なる教えを広める人々がいました。その人々をさして偽預言者と言っています。そして偽預言者はその共同体全体を間違った方向に導こうとしました。偽預言者は人々の心を神に向けさせようとしませんでした。人々の心を、自分に向けようとしたのです。そして神の共同体を自分の物にしようと、支配しよう、貪ろうとしたのです。そして偽預言者は偽りの平和を語りました。そこには平和がないのに、平和、平和と語ったのです。

17節~20節には、私たちはその実によって見極めることができるとあります。その実とは何でしょうか。私はその実とは、命ともいえると思います。命が守られ、命がはぐくまれているかどうかによって、偽物を見極めることができるのです。

あるいはその実とは人間の尊厳とも言えるでしょう。人間の命、尊厳、権利が守られているかどうかによって、偽物かどうかを見極めることができるのです。人気があるとか、共同体が成長するか、勢力が拡大しているかなどではありません。小さくても、弱くても、命が、尊厳が守られていることが大事です。よい木、よい共同体は人を生かすのです。

一方、軍は悪い木です。命を壊し、殺しています。人々の尊厳を奪っています。軍から良いものは出てきていません。「悪い木はよい実を結ぶことがない」とは、まさしく軍事力について言っています。軍事力によっては、よい実、命が守られる平和は生まれないのです。力によってでは、平和は生まれないのです。悪い木からは悪い実が生まれ、よい木かからはよい実がうまれます。軍事力から平和は生まれません。平和から軍事力は生まれません。

私たちは人々の命が守られているかどうかによって、人の権利と尊厳において、よい実かどうかを見極めることができるのです。

軍の姿ははじめは良いものに見えたかもしれません。独立した時、軍の将軍を英雄としてかもしれません。平和の象徴である羊のように見えたかもしれません。しかしそれは後々、本当は狼だったということがわかります。狼は命を奪う者の象徴です

人の権利と尊厳という視点からミャンマーの軍事政権を見る時、それはずっと悪い木だったのではないでしょうか。軍は人の命、少数民族の命を奪い続け、尊厳を奪い続けてきた。悪い木だったのではないでしょうか。私たちはそれを見極めたいのです。そして平和的な運動によって、命を守りながら、新しい国へ、命を守る国へと変わっていってほしいと願います。

イエス・キリストを覚えます。イエス様は神の子羊と言われたお方です。イエス様は羊と呼ばれたお方でした。平和の象徴であるお方でした。イエス様は私たちのリーダーですが、軍隊を率いなかったリーダーでした。イエス様は軍事革命、クーデターのためにエルサレムに来たお方ではありません。イエス様は愛によって世界を変えようとエルサレムに来たお方でした。平和的な運動によって人々を従えた人でした。私たちもこの羊につらなりたいと思います。偽預言者に、羊の皮をかぶった狼に従うのではなく、羊に従う者、神に従う者、平和に連なる者でありたいと思うのです。

そしてミャンマーの人々もいまそれを必死に行っているのでしょう。彼らも市民的不服従運動によって非暴力平和運動によって歩んでいます。私はその実現も祈っています。

23節には「不法を働くものども、私から離れされ」とあります。実はイエス様こそ不法を働く者といって、十字架にかけられ、殺されたお方です。私たちは主イエスからいただく命の尊厳に立つとき、時に国の決定に逆らう者、反対する者、不法を働く者と呼ばれることがあります。なによりイエス様がそうだったのです。そしてデモ参加者の多くも不法な者といわれて逮捕されています。

しかしそこで私たちは本当の不法な者が誰であるのかを見極めたいのです。何かに反対をする時、不法と呼ばれることがあるかもしれません、最初は向こうの方が正しいように見えるものもあるでしょう。でも本当の不法は何かを見極めたいのです。神はそれを見極め、本当の不法を犯すものに離れされと語ります。

私たちの教会にも当てはめます。私たちの教会は偽預言者に騙されてないように気を付けましょう。それを命と尊厳が守られているかどうかによって判断してゆきましょう。牧師が間違えるときがあるでしょう。教会が間違える時があるでしょう。世界が間違える時があるでしょう。羊の皮をかぶった狼に気を付けたいのです。よい実、命からそれを見極めてゆきたいのです。

私たちは世界の平和を覚えます。平和が訪れるように祈りましょう。それは軍事力ではなく非暴力の運動によって実現されるはずです。神様にある、本当の不法への不服従運動によって実現されるはずです。それは神様からいただいたよい実、命と命の尊厳によって見極めることができるはずです。

教会で、そしてミャンマーで、世界で、非暴力による平和、不法への不服従、軍事力への不服従が起きるように共に祈りましょう。お祈りをします。

 

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「平和を造る者になりなさい」マタイによる福音書5章9節~28節

 

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

マタイによる福音書5章9節

 

平和をテーマに聖書を読んでいます。1945年7月16日深夜、平塚大空襲が始まりました。76年前の7月、私たちのいる場所は戦場でした。この空爆は工場を狙ったのではなく、一般市民が狙われました。その証言によれば、その時の平塚は生き地獄だったと証言されています。

戦争は国と国、軍人と軍人の戦いではありません。空爆は必ず一般市民が対象になります。空爆の中身は結局、市民虐殺です。このような空爆はいまもシリア、ミャンマー、パレスチナで繰り返されています。またある証言は一か月早く戦争をやめていたら空襲はなかったはずだと証言しています。しかし日本は天皇を神とする国には必ず神風が吹くと信じ、この戦争を続けたのでした。

私は空爆では平和は実現できないと思います。戦争を終わらせること、平和を実現すること。それは本当に難しいことです。しかし私は、一人一人が平和を大切にし、訴えてゆくことが世界の平和につながると思います。聖書は「平和を実現する者は幸いだ」と言っています。この平和を実現するとはどんなことでしょうか。

今日の聖書を読みましょう。イエス様の十字架の後、ユダヤとローマの間には激しい戦争が起きました。マタイによる福音書を書いた人々は、その戦争から逃げてきた難民でした。彼らは戦うことを選ばない、非暴力、非武装を貫く人々でした。

「平和を造り出す者」とありますが、実は当時、ローマ皇帝が「平和を造り出す者」と呼ばれていました。ローマの軍事力によって世界に平和がもたらされているという意味です。「神の子」も同じです。当時ローマ皇帝が「神の子」と呼ばれていました。神とは戦争の神です。

ですから今日の箇所は明らかにローマ皇帝を意識して、言葉を選び、書かれています。地上ではローマ皇帝が、戦争の神の子、軍事力で平和を造り出すものと言われている。しかし私たちは皇帝のように軍事力・暴力によって「平和を実現するもの」にはならないと語られているのです。

マタイたちは、皇帝ではなく、私たち一人一人が平和を実現する者となるのだと考えました。軍事力ではなく、一人一人が隣人を愛することで平和を造るのだと考えたのです。神は平和を願っていること、そしてその平和の担い手は皇帝ではなく、支配者ではなく、私たちなのだ、私たちこそ平和のために用いられる「神の子」なのだと語っているのです。

私にはこの言葉が戦争を体験したマタイたちの平和宣言に聞こえます。空爆・軍事力では平和は造れないのです。聖書はこのように私たちを平和へと導いているのです。聖書をから平和を実現してゆく力をいただいてゆきましょう。一人一人が平和を求めましょう。一人一人が祈り、働きいてゆきましょう。

 

「平和の門をたたきなさい」マタイによる福音書7章6節~15節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。      マタイ7章7節

 

私たちは平和というテーマで宣教をしています。戦争に対し宗教がどのような態度をとるかは大きな影響力があります。宗教が戦争を支持する時、その戦争は宗教的お墨付きを与えられ、正当化され、聖戦となります。第二次世界大戦中、キリスト教は戦争に対し賛成し、積極的にこの戦争に協力をしました。

たとえば大東亜共栄圏という植民地支配はアジアの人々を深く傷つけました。しかしこの時、キリスト教は東アジアの植民地化を「東アジアに神の国を出現させる働き」だと語りました。さらに日本の教会では戦時中、献金が募られました。全国の教会から多くの献金が集まり、戦闘機には「日本基督教団号」と書かれていました。

今私たちは、平和を訴えます。でもまず私たちは自分たちの過ちを真摯に反省することから始めます。その過去を知らなければ、未来の平和を訴えてゆくことはできないのです。平和を訴えるだけではなく、自らの過ちに目を向け、そこから平和を訴えてゆきたいのです。そのことが一番私たちに平和の大切さと、難しさを教えてくれるのではないでしょうか。

今日の聖書箇所を読みましょう。聖書はこれを読む人自身の目に、丸太が刺さっているのだということを伝えようとしています。目に丸太の刺さった人とはキリスト教のことともいえるでしょう。つまりそれは私たちがどのように戦争に協力してきたか、それをまず知らなければ、その丸太を取らなければ、平和を訴えてゆくことができないということです。

私たちは過去を変えることができません。過去をなかったことにもできません。私たちはすべての過去を引き受けて、向き合わなければいけません。過去に目を閉ざすものに、未来を語る資格はありません。それこそが自分の丸太に気づかない者に、おがくずは取れないということです。

平和の文脈で読む時、7節以降はこうです。平和を求めなさい。そうすれば平和は与えられます。平和を探しなさい、そうすれば平和が見つかります。平和の門をたたきなさい、そうすれば開かれます。誰でも平和を求める者は受け、探すものは見つけ、平和の門をたたく者には平和は開かれるのです。誰が平和を欲しがるこどもに戦争を与えるでしょうか。平和を求めるのに、戦争を与えるでしょうか。私たちは戦争を起こしてしまう罪あるものですが、神は私たちに平和を与えるお方です。天の父は平和を求める者に、きっと平和をくださるに違いありません。私たちは平和の門をたたきましょう。

このあと私たちは主の晩餐を持ちます。イエス様との食事、それはそれぞれが自分の目の丸太に気づく食事でした。そしてそれは平和を生み出す食事となったのです。この後、私たちもこの食事を記念して主の晩餐にあずかりましょう。

 

「抑止力か、愛か」マタイによる福音書6章24節

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。             マタイによる福音書6章24節

 

平和について考える礼拝を持っています。「沖縄には申し訳ないが、やはり抑止力として沖縄に基地が必要だ」という声が根強くあります。強い大きな基地が沖縄にあることで、相手が日本を攻撃してくることがなく、日本全体が平和になるのだそうです。しかし私たちが目指す平和はこのような平和でしょうか。私たちが目指すのは強い軍事力で牽制しあう、抑止力に頼った平和でしょうか。それは平和なように見えて、必ずひずみを起こし、次の戦争を起こします。

もちろん基地が無くなりさえすれば平和になるかといえば違うでしょう。もっと平和を造っていく働きが大事です。でも私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできません。それは今日の聖書箇所にあるように、神と富と両方に仕えることができないのと同じです。私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできません。私たちはどちらによって命を守るのか、ひとつを選ばなくてはならないのです。

今日の聖書を読みましょう。これは私たちの命や関係について語っている言葉です。教会での関係は富や力によって決まるのではありません。教会の中ではあの人はお金持ちであることとか、肩書があることとかはどっちでもいいことです。教会はそれを軽んじます。それより私たちが大切にする親しむのは、私たちの関係は神様を中心にした関係だということです。だからこそ教会の中では互いに優しさのある言葉を交わします。この教会の中で起きていることは私たちの世界でも本当に起きてほしいことです。

私たちの住む世界は、お金と力がものをいう世界です。だいたいの問題はお金で解決できるのでしょう。だからこそ私たちの世界は富・お金によって自分を守ることができると錯覚するのでしょう。軍事力はこの富とよく似ています。それが人よりたくさんあれば自分を守ることができると錯覚するのです。しかし富・お金・軍事力をいくら自分のもとに集めても、本当の平和は生まれません。

私たちは富や力が平和を生み出すとは考えません。この教会の中で起きているように、世界も神の愛によって平和が造られると信じます。神の愛こそ平和の源であり、私たちの命を守ると信じます。「愛を憎んで抑止力を愛するか、愛に親しんで抑止力を軽んじるか」どちらかなのです。

沖縄から日本、そしてキリストを見ると様々なことに気づかされます。私たちは富のある者に親しみ、声を聞くのではなく、基地の存在に苦しむ場所、世界で日本で小さくされている人の声を聞いてゆくことに親しみたいのです。その人々が抑えつけられている力を知り、そこから解放されることを祈り、連帯してゆきたいのです。基地と抑止力ではなく、愛を選びたいのです。

 

「命どぅ宝」マタイによる福音書5章21節~26節

その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。           マタイによる福音書5章22節

 

今日から7月まで「平和」というテーマで宣教をします。バプテスト連盟、特に女性連合は沖縄の歴史、そして今に続く基地問題に向き合い続け6月23日を「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」として覚え続けています。「命どぅ宝」とは琉球の時代から沖縄に伝わる「命こそ宝だ」という意味の言葉です。

沖縄の地上戦では、多くの住民がガマと呼ばれる洞窟に隠れました。しかし多くのガマで集団自決が起こりました。生き延びたシムクガマの人々はリーダーが「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」「命こそ宝」だと人々を説得し、生きる道を選びました。あの時、国家・天皇を宝とするか、一人一人の命を宝とするかの選択が、生死を分けました。命こそ宝です。「命どぅ宝」です。命よりも国家を優先する戦争に反対します。そして戦争しないだけではなくその準備や訓練、軍隊も基地もいらないのです。

私たちがそう考えるのは、イエス様が平和を訴えたお方だからです。イエス様は暴力ではない方法で、平和を造り出すことを訴えたお方です。イエス様の語られた平和を共に見てゆきましょう。

21節には殺してはならないとあります。そこに条件はありません。命は神様が造られ「よい」と言われたものだからです。命は神様が作った宝「命どぅ宝」なのです。そしてイエス様は殺さないことだけではなく、もっと積極的に平和を造りだそうとするお方です。22節には腹を立てるとあります。怒りのエネルギーをどのように、平和を造る力に変えてゆくことができるかが大事なことです。23節の登場人物は、平和を造り出す必要に気づいた人の話です。彼は神様への捧げものをしようとした時、自分と神様の関係を考え、そして自分と隣人の関係を思い出したのです。神に愛されている私は、隣人を愛しているかと思い出したのです。そして、彼は捧げものをいったんそこに置いて、平和を造り出すために出て行きました。彼は暴力ではなく、対話によって平和作り出そうとしました。神様に感謝したとき、平和を造ろうと気づかされたのです。彼は殺さないだけではなく、平和を造ることを選んだのです。

25節は裁判所に訴訟の相手と連れだって行くという場面です。もし私たちが加害者であるならば、相手に対し早く謝罪と償いが必要な場面です。私たちはそこから決して逃げることはできません。私たちが被害者のこともあるでしょうか。それでも私たちは、暴力を使う必要はありません。私たちの行く先には、必ず裁判官である神様がいます。神様はその罪を決して、あいまいにしないお方です。

私たちはこのように、暴力ではなく、平和を造りたいのです。対話と和解をいただきたいのです。その力を聖書から、神様からいただいているのです。神様が作った命は宝です。命は宝、命どぅ宝です。私たちは誰も殺しません。そして殺さないだけではなく、平和を作り出すために歩みます。どんな怒りも暴力に変えません。その怒りを、平和を作り出すことへ向けてゆくのです。

 

「地の塩、世の光、立派な行い」マタイによる福音書5章13節~16節

あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。マタイ5章16節

 

今日は71回目の創立記念日です。「地の塩、世の光」というみ言葉は皆さんに親しまれてきました。教会やクリスチャンのあり方を表す言葉です。

教会は71年間「地の塩」でした。社会の基準とは距離をとってきました。そして教会は71年間「世の光」でした。暗い社会の中で教会はいつも希望を示し続けてきました。世の光とは、教会に集まった人のためだけの光ではありません。「世の」光です。閉ざられた仲間のためではなく「世のための」光、教会なのです。

しかし自分たちが自分たちを地の塩、世の光だと思うように、周囲から教会は世に光と思われているのでしょうか。地域の人々が私たちのことを地の塩、世の光と感じるのは、地域との交流があってこそのことでしょう。私たちは地域との交流によって人々の地の塩、世の光となることができるのです。今日の聖書箇所、私は3つのこと地の塩、世の光、立派な行いを今日は聖書から聞いてゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を見ましょう。イエス様の時代、イスラエルの荒野クムランという場所で生活するグループがいました。死海の近くです。クムランの人々は洞窟にこもり、社会と分離し、まったく違う価値基準で、自らに厳しい生活をしていました。まさしく塩の近くに住む、地の塩の人々だったのです。クムランの人々は、自分たちを光の子と呼びました。そして一般社会の人々を闇の子と呼びました。しかし、彼らは本当に光だったのでしょうか。おそらく洞窟で暮らした人々の光は、人々には届かなかったでしょう。彼らは地の塩でしたが、世の光ではありませんでした。

イエス様はクムランの人々のように社会から独自性を持った地の塩のようになりなさいということと同時に、隠れず世に出てゆき、世の光となりなさいと語りました。私はここで伝えられていることは3つあると思います。それは「地の塩」「世の光」そして「立派な行い」ということです。

立派な行いとは地域、世界の中に必要とされることを行うことです。教会や私たちが困っている人、寂しさを感じているに寄り添い、共に歩むことが立派な行いです。病気や寂しさから元気をなくしている人と共に過ごし、共に歩むことそれが立派な行いです。他にも様々な立派な行いがあるでしょう。私たちは自分たちを塩、光と呼ぶだけではなく、それを具体的に現す者として歩むように促されています。

私たちが立派な行いをするからこそ、世の塩であり、世の光となるのです。そのように人々の幸いのために行動を起こしてゆくのが、教会なのではないでしょうか。そしてそれは地域活動という行いで、表されているのではないでしょうか。

創立71周年を祝います。私たちは塩として歩みましょう。そして閉じこもるのではなく、世へと出て行く光となりましょう。「立派な行い」をしてゆきましょう。それが神様が私たちに示していることではないでしょうか。

 

「バプテストのヨハネ」 マタイによる福音書3章1節~12節

エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

マタイによる福音書3章5~6節

 

「教会」というテーマで宣教をしています。私たちはキリスト教のバプテスト主義の教会です。バプテスト教会は自由と平等と民主主義を大切にする教会です。教会員全員、あるいは今日初めてきた人もみんな平等に尊重される教会です。教会の中に上下ありません。自分たちの教会の事は本部が決めるのではなく、自分たちで決めます。教会の全員が一人一票を持ち、民主主義的に運営されています。私たちの教会は様々な面で、平等、自由、民主主義を大切にしています。

歴史的にバプテストは17世紀にイギリスで発祥し、アメリカを経由して日本に伝わってきました。直接にバプテスマのヨハネとバプテストがつながっているわけではありません。しかし、私はバプテスマのヨハネとバプテストにはたくさんの共通点があると思います。彼もバプテストだったのではないかと私は思います。今日はヨハネが大事にしたバプテスマと平等さということを見てゆきたいと思います。

今日の箇所を読みましょう。今日はバプテスマのヨハネをバプテストのヨハネと呼びます。ヨハネ以前からバプテスマは行われており、それは穢れを取り払うために何回でも受けてよく、自分で水に潜るものというものでした。しかしこのヨハネのバプテスマは、1回限りで、罪の告白を伴う、これまでとは全く違う特徴を持ったバプテスマでした。私たちのバプテスマとの共通点が多くあります。

このバプテストのヨハネのバプテスマ。ここには平等というテーマが含まれていると思います。なぜならそれは、穢れた者だけが受けるのではなく、全員が受けるべきものとされたからです。特に宗教的なエリートに向けて、厳しく語っています。自分たちを誇らないようにと厳しく伝えています。

バプテストのヨハネは神の前に全員が等しく罪人であるということにおいて、平等だと主張しています。だからこそ全員が、その罪の告白と信仰の告白、そしてバプテスマが必要だというのです。バプテストのヨハネも現代のバプテストと同じく、神の前における平等を訴える者でした。全員平等に罪人であり、全員が決定的な再スタートをせよと主張したのがバプテストのヨハネだったのではないでしょうか。

すでにバプテスマを受けた方々はすでに新しい生き方をスタートしている方です。生き方の転換がすでにそこからはじまっています。もう一度それぞれに自分の信仰を確認しましょう。これからバプテスマを受けたいと思っている方、この教会に加わりたいと思っている方がいるでしょうか。一緒に新しい生き方のスタートを切りたいと願っています。ふさわしくなったらバプテスマを受けるのでもありません。今のあなたからスタートしてほしいのです。

 

 

「希望を持ち続ける教会」マタイによる福音書12章14節~21節

彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。

マタイによる福音書12章20~21節

 

今日はペンテコステ礼拝です。1か月間「教会」ということをテーマに宣教をしてゆきます。ペンテコステに聖霊が下り、告白が始まり、教会が始まりました。この聖霊とは一体何でしょうか?聖霊とは目に見えないけれども、たしかに神様が働いている、その力です。人を動かす力。信仰を告白させる力です。今日は聖霊によって力づけられている教会についてみてゆきます。

以前にも増して最近、教会の中で「感謝です」という言葉をよく聞くようになりました。社会の状況を見れば、ちっとも感謝できるような状況にない中で、それでもなぜか教会の中では「感謝です」という言葉が交わされています。教会はなぜこんなにも、感謝できるのでしょうか。きっとそれは私たちがどんな時でも神様から希望をいただくことができると信じているからです。その信仰は私が信じると決めたからあるのではありません。聖霊が働いて、信仰を持ち続けることができます。そしてそれによって私たちはなぜだかピンチで感謝ができるのです。信仰によって、私たちはどんなときでも希望を持ち続けることができるのです。

今日の聖書箇所を読みましょう。イエス様は聖霊の力を受けて活動を始められました。その働きは弱さを持つ者に寄り添い、福音を告げ、弱っている人々、苦しんでいる人々に希望を与えてゆくということでした。

20節の「葦」とは弱さや、不安定さの象徴です。イエス様は傷ついた葦のように、弱くされている人を守り、殺さないお方です。「くすぶる灯心」という言葉も出てきます。それはいつ消えるともわからない弱々しい光です。イエス様はその小さな灯を消さないお方です。イエス様は傷ついた弱き者、私たちの、消えそうな小さな明かり、希望を守ってくださるお方なのです。

私たちはそれを自分の力ではなく、聖霊の力によって信じます。私たちはどんなときも必ず守られると信じます。だからこそこんなピンチの時でも教会には感謝の言葉があふれているのです。21節には「異邦人は彼の名に望みをかける」とあります。本当は希望なんか持てない状況にいるその私たちが、イエス様に望みを置くようになるのです。

私たちはこの不思議な希望の集まりに一人でも多くの方に加わってほしいと願っています。特に新しく来られている方にもお伝えします。あなたにも聖霊が働き「私はこの希望を信じている」と告白し、バプテスマを受けてほしいと願っています。そしてもしそのお気持ちがある方は、私や信仰の仲間にお示しください。もっとそれがはっきりと与えられるように、一緒に祈ってゆきましょう。すでに信じて信仰を告白しているという方にもお伝えます。告白は一度きりのものではありません。繰り返し起こされるはずです。イエス様に希望を置くという告白がもう一度今日、みなさんにも起こるはずです。それを祈ってゆきましょう。

 

「地域に仕える教会」マタイによる福音書19章1節~12節

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

マタイによる福音書23章11節

 

私たちは「地域と福音」というテーマでみ言葉を聞いてきました。教会は毎週木曜日10:30~12:00、教会の「こひつじ館」を「こひつじひろば」として開放しています。誰でも集える無料の子育てスペースです。特にコロナ禍の中では地域に必要とされるものになりました。公共施設の多くが使用できなくなる中で、教会の庭や会堂のこどもスペースの開放に、多くの人がここを必要として集いました。

こひつじひろばの活動や特徴は、私たちが地域とどう関わろうとしているのか、どのように隣人になろうとしているのかをよく表しています。私たちは地域の必要に応えているということです。そして話を聞くことが中心だということです。教会は地域との関係を上下関係でとらえず、教える側、提供する側、救う側になるのではなく、対等な相互関係としてとらえて活動をしています。私たちの地域活動は、必要に応えてゆくこと、人々の声を聞いてゆくことを、大切にしているといえるでしょう。今日の聖書箇所を読みますが、私はこの個所から神様が教会は地域に必要に応え、仕えなさい、具体的に働きないと語り掛けていると聞いてゆきたいと思います。

今日の箇所、宗教指導者の中には身に着けるものの形を大きくする者がいました。それは宗教指導者と民衆の上下をはっきりさせるものとなりました。宗教指導者と民衆が対等ではなくなってしまっている、イエス様はその関係を批判したのです。これは誰への批判でしょうか。私は私たちのキリスト教の教会をこの宗教指導者たちに重ねます。教会は地域と上下関係にあるのではない、対等で相互的な関係にあると、私はここから聞きます。教会は上から目線になってしまうことがあります。教会と人々が対等で相互的な関係であることをイエス様は語ったのだと思います。

そしてイエス様は続けてもう一つ批判をしています。宗教指導者は教えていることは正しいが、自分は何もしないという批判です。聖書は「行為よりも信仰が大事」とばかり語っているわけではありません。行動に移すことが重要だと語る場面も多いのです。イエス様はここで私たちの教会の姿について、二つの批判をしています。上下関係になるなということ、そして実行しない者になるなということです。

イエス様は禁止の命令と共に、11節で「仕える者になりなさい」と命令します。聖書の言葉(ギリシャ語)では仕えることを「ディアコニア」と言います。仕える(ディアコニア)はもともと食事を運ぶという意味です。ですから仕えなさいとは教会が地域から尊敬される教えを語るだけではなく、一緒になって働くことです。

地域と福音というテーマで聖書を読んできました。私たちは人々の声を聴き、一緒によい世界を実現してゆくことを願い、働きます。そのようにして地域の人々の「隣人」となってゆくことができるのです。

地域と対等な関係で、必要に応えてゆく。仕えてゆく。そこから必ず福音が聞こえてくるはずです。地域に仕えましょう、互いに仕えましょう。お祈りします。

 

「食べ物を祈る神」マタイによる福音書6章9節~13節

 

御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。マタイによる福音書6章10~11節

 

地域と福音というテーマでみ言葉を聞いています。近年こどもたちの貧困が深刻になっています。たとえばランドセルなどの入学費用について経済的な支援が必要な場合「就学援助費」をもらうことができますが、この制度を利用する人は30年前に比べ2倍以上になっています。それほど生活は苦しくなっているのです。生活してゆくには、食費を切り詰めるくらいしかありません。

先日の「こひつじ食堂」にはオープン前に20人以上が列を作りました。みなさんニコニコしながらお弁当を持って帰りましたが、でも中には本当に食事を必要としている人がいたでしょう。教会は「こひつじ食堂」を通じて、この問題に関わっています。食費を削る窮屈な思いをしている方々に、月に1食ですが、食事をお渡しています。教会が関わるのは、心の内面の問題、魂の問題だけではありません。おなかがすいているという問題に関わることも大事なことです。教会がそのために働きを続けることができるように祈ってください。祈りが私たちのスタートです。

今日の聖書箇所を見ましょう。11節の「糧」は経済的に裕福な時代や地域では、精神的・内面的に、心の支えやみ言葉として受け取られてきました。しかし食事に事欠く時代や地域では、この祈りの受け止め方は大きく違います。本当に口に入れる食べ物を願う祈りとして祈られています。そしてもちろんイエス様に従う人々の多くは貧しくされている人々でした。イエス様もこの祈りをおそらく、まず必要な食べ物をしっかりと食べるということに向けて祈ったでしょう。

イエス様が祈ったのは、今日の食べ物をくださいという祈りです。食費を削らなくてもいいように祈りました。この祈り、私は今のこひつじ食堂への祈りと重なります。しっかりと食べることができますようにという祈りが、この活動につながっています。心の支えも大事です。教会はずっとその支えになってきました。でも今、食べ物を分かち合っていくことも、教会の大事な働き、大事な祈りです。

そしてイエス様の教えたこの祈りは「私」ではなく「私たちに」という複数形で祈れています。みんなに食事が行き渡りますようにという祈りなのです。

私たち「こひつじ食堂」のために祈ってゆきましょう。すべての人に糧を、今この場所が、全員の必要が満たされる場所になるように祈りましょう。神様は私たちにどう祈ったらよいのかを教えてくださるお方です。そしてその中にははっきりと食べ物について祈るようにと教えられています。みんなが食べれるように祈ろうと教えられています。こひつじ食堂の祈りに、この主の祈りを重ねて祈りましょう。

 

「食堂の教会」マタイによる福音書14章13節~21節

イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」       マタイによる福音書14章16節

 

 「地域と福音」というテーマで宣教を続けています。今月は3回にわたって私たちの「こどもプロジェクト」から聞こえた福音を聞いてゆこうと思います。私たちは毎月第四金曜日「こひつじ食堂」を始めました。こひつじ食堂は大人でもこどもでも誰でも利用できる地域食堂です。

この食堂を始めてみて、この活動が地域の人々に支えられていることを実感しています。教会は食堂を助ける側になろうと思ってスタートしました。でも始めてみて知ったのは、私たちこそ助けられる側だということです。この活動は地域の助けなしには継続できません。

私はここにこれからの教会の在り方を見ます。これからの教会は一方的に伝える、提供する、教えるということではなくなってゆくでしょう。きっとこれからの教会は、もっと地域との相互性、相互関係を大切してゆくでしょう。

今日の聖書箇所、私たちの食堂がこれだけの助けを受けているのを見るとき、この5000人の食事の豊かさ、境界線の無さを読み取ります。この食事はもっと相互性のある食事、助け合いの食事だったのではないかと想像するのです。今日この個所から、神様は相互の助け合いを起こすお方だということを見てゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を読みましょう。弟子たちは「解散してそれぞれで買って、それぞれで食べよう」と考えました。しかしイエス様はここで、みんなで食事をすることにこだわります。こひつじ食堂に様々な人がにぎやかに集まる食事に、この場面を重ねます。20節には「すべての人が満腹した」とあります。ニコニコしながら、楽しくて笑いながら、おなかいっぱいになったのです。食堂と同じです。

ここにはそのパンと魚は弟子が「与えた」と書いてあります。でもこれだけの人数の食事を12人で配るのは無理です。もっと相互的な食事だったとしか想像できません。そこにいたのは全員「食べた人」という一つのグループだったのです。

この食事は足りないはず、別々に分かれて取るはずの食事でした。しかしイエス様の一声で始まった食事でした。そこには豊かな相互性があり、助ける側、助けられる側の境界線はそこにはありません。私たちもそんな食堂になりたいと思うのです。

私たちは今、この教会と地域が同じ5000人になることができるだろうかということが問われているのではないでしょうか。私たちの教会と地域が、相互に助け合う関係性になってゆくことができるかが問われているのではないでしょうか。

このあと主の晩餐を持ちます。私たちの教会ではクリスチャンが受けるものとして執り行います。でも私たちは信じてこの食事に加わってほしいと願っています。

 

「食事に招いてくださる神」マタイによる福音書9章9節~13節

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 マタイによる福音書9章10節

 

私たちは「地域と福音」というテーマで地域活動から福音を聞いています。教会の庭では毎月第二金曜日「炊き出し」を行っています。あつあつの豚汁とおにぎりをボランティアと参加者が一緒に、同じテーブルで食べます。食事の時間を共有することで、自然にお互いの事を語り合うようになります。一緒の食事を通じて、この場所で同じ命、同じ人間として対等で、尊重しあい、信頼しあえる関係が作られます。

今日のマタイ福音書を見ると、食事会の場所が示されておらず、イエス様が人々を自分の家に招いたと想像できます。イエス様はご自分の家の食事会に人々を招いたのです。自宅に招いたのは罪人と呼ばれた人でした。この罪人という言葉には、多くの差別が含まれています。宗教的や社会的に見て「ふさわしくない人」と判断された人はみな、罪人と呼ばれたのです。そして当時の社会では、特に食事の関わりに対して厳しく「ふさわしくないとされた人」がいれば食事会の参加をきっぱりと断りました。

そのような背景の中で読むとき、イエス様が罪人と呼ばれる人、差別された人を、自分の家に招き、一緒に食事会までしたというのは大変な驚きだったということがわかります。ヤバイ食事会です。でもその食事会、きっと本当に楽しかったのではないかと思います。ふだんなかなか食事会に誘ってもらえない人が招かれた食事会です。それは社会からのけ者にされ、希望を持てずにいた人たちが招かれた食事会でした。

招かれた人々はイエス様のことをどんな命も対等に扱う人だ。私のことを招いて、そのまま受け止める人だと感じたのではないでしょうか。まさにイエス様とはそのようなお方です。ふさわしくなくても招いてくださる神様ではありません。ふさわしくない者こそ招いているのがこの食事会です。招かれた場所は、大きな喜びが待っている場所です。仲間が待っている場所です。

私たちの教会もこうありたいのです。ふさわしい者の集まりではなく、ふさわしくない者が招かれたことを喜び合う場所、私たちはそんな教会でありたいと思うのです。それがイエス様の家、教会だと思うのです。

毎月第二金曜日に炊き出しが行われています。イエス様が招いたように、誰とも分け隔てせず一緒に食事をする場所となることを目指しています。そして日曜日の礼拝もそのような場所になることを願っています。

 

「家になってくださる神」ヨハネ14章1節~4節

わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。ヨハネ14章2節

 

今月私たちは「地域と福音」ということをテーマにみ言葉を聞いています。私たちの教会は住む場所を失った人たちのために、シェルターを運営しています。先日利用された方は住む場所と所持金を失い、3日間野宿をしている方でした。彼と話していて一番強く感じたのは、私たちには家が必要だということです。そしてもう一つは、私たちは自分を助けてくれる人、精神的な支えになってくれる人が必要だということです。教会がシェルターの働きを、神様の働きとして担っていくことはとても大切なことだと思います。

今日は聖書から、神様は家になって下さるお方だということを読んでゆきたいと思います。神様は私たちに家、住む場所、留まる場所を与えて下さるお方です。そして神様は私たちの心の居場所、拠り所となってくださる、その事を見てゆきたいと思います。今日の個所を改めてみてゆきましょう。

聖書によれば、神様のところには、私たちが住む家がたくさんあるそうです。そしてもし足りなければ神様はまた作ってくださるそうです。そしてさらに3節、神様は迎えるための家を作った後、家の無い人を迎えに行って下さるお方です。そしてその家に招き入れてくださるのです。

それが神様の働きです。なんと、準備して待っているだけではなく、ここがあなたの家だよと招き、迎えに行って下さるお方だというのです。今この時代こそ、本当に聖書に書いてある通りの出来事が起きて欲しいと願います。そして教会がそれを少しでも実現できたらと思います。

そしてもちろんこの個所は住む住宅のことだけを言っているのではありません。神様が私たちに心の家を与えてくださる、心の家になってくださるということもここで示されています。私たちには住宅と共に、心・魂が安心して過ごせる場所が必要です。私たちの人生には様々な出来事が起こります。私たちはその時どこかで、人生の寒さ、雨風をしのがなければなりません。私たちは住宅が無ければ、生きていけないように、心の家となる場所、心・魂が安心して過ごせる場所が必要です。

神様はその家、心の家にもなって下さるお方です。神の家にいるから、私たちは人生の苦しさを乗り越える事がきるのでしょう。実に神様は家の無い人に家・住宅を準備してくださるお方です。そして神様は私たちの家、私たちの心の家・魂の家となって下さるお方でもあります。

教会は神様の働きとして、家の無い人のために、シェルターを開いてゆきましょう。そして私たちも、神様の家に留まりましょう。そこで安心して過ごし、休憩し、歩みましょう。お祈りいたします。

 

「訪ねてくださる神」マタイ8章14節~17節

イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。             マタイ8章14節

 

今週から地域と福音というテーマ、特にホームレス支援、こども支援について聖書に聞いてゆきます。私たちが地域と関わるのは教会員獲得のためではありません。聖書にイエス様が多くの困っている人を訪ねたと記されているから、私たちも地域に関わるのです。そこに神様との出会いがあるのです。

私は市内のホームレスを巡回する、平塚パトロールという活動をしています。Mさんは平塚駅前のバス停のベンチで4年間寝起きしているホームレスの方でした。1年ほど毎月パトロールで訪ね続けましたが、小さな一言から生活保護を申請することになりました。Mさんが路上に出てしまう前後に必要だった事、それは短くとも訪ね、共に悲しみ、慰めることだったと思います。パトロールとは短い訪問ですが、そこから開ける未来があったのです。

きっとそれは私たちの生活の中でも同じことだと思います。私たちの生活にも孤独があります。その時、短い一声が一歩前に歩むきっかけになることがあります。一言声をかける、それなら私たちにもできる事でしょうか。

イエス様は人間の弱さ、人間の無力さをよくご存じです。そしてその人々を訪ね、関わり、励ましてくださるお方です。今日私はイエス様が人々を訪ねた姿を聖書から見てゆきたいのです。

今日の聖書個所によれば、14節、イエス様はイエス様の側から訪ねてくださるお方です。私たちが病の時、苦しいとき、イエス様に会いに行く、すがるのではありません。それは神様の一方的な愛、無条件の愛と言えるでしょう。そしてこの訪問で私は病が癒される以前に、癒されていたものがあったのではないかと想像します。きっと彼女が感じていた不安や孤独は、イエス様が訪問した時、病より先に癒されていたのではないでしょうか。そして彼女はもう一度、立ち上がることができました。他者のため、イエス様のために、働こうと立ち上がったのです。

私たちにはイエス様のように病を癒す奇跡の力はありません。でも似たこと、イエス様の真似事ならば私たちにもできるのではないでしょうか。さみしいと感じる人、不安に思っている人に声をかけ、触れあう、関わりあう。そんな小さなことからその人が元気づけられ、一歩を歩みだすこと、それは私たちにもできることではないでしょうか。私たちもそのイエス様の働きをしたいのです。

神様はこのように、私たちを訪ねてくださるお方です。私たちを一方的に愛し、訪ねてくださるお方です。私たちを励まし、立ち上がらせてくださるお方です。神様は訪ねてくださるお方です。私たちも訪ねること、声をかけてゆくことをしてゆきましょう。

 

「この先に待っている神」マタイ28章1節~10節

 

恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」   マタイ28章10節

 

マタイ福音書は神は私たちと共にいるという以外にも、様々な神様の姿を語っています。例えば、神様は先で待っているという姿です。コロナで先が見通せない時にいます。でも神様は今ここに、そして私たちが向かう先に待っているお方なのです。今日の聖書の個所を一緒に読んでゆきましょう。

墓に向かった女性たちは「イエス様はここにはいない。ガリラヤに先にいる」という天使の声を聞きました。しかし、イエス様はなぜガリラヤにいるのでしょうか。なぜエルサレムではなく、わざわざガリラヤに行くのでしょうか。ガリラヤとは弟子たちの生まれた自宅がある場所でした。弟子たちの日常生活がそこにありました。自分の職業、住所、親族が暮らす街、それがガリラヤでした。またイエス様と一緒に過ごし、様々な奇跡や、教えを聞き、共に日常を過ごした場所だったのです。

イエス様はとどまる場所に、このような日常の場所を選ぶお方です。天使たちは女性たちに、他の仲間や弟子たちと一緒にイエス様を追いかけるようにと、派遣するのです。これが先に待っている神です。

そして女性たちは急ぐ途中でガリラヤで待っているはずのイエス様に出会います。ここではいつも共にいる神と、先に待っている神が交互に現れます。彼女らはイエス様と出会ったその場所で拝みました。彼女たちは礼拝をはさみながら人々にイエス様を伝えようとしたのです。イエス様は恐れるな、行け、告げろ、待っているといわれました。

このように神様はここにいます。神様はその途中にいます。神様は行く先で待っています。このようにイエス様は彼女たちに姿を現し、礼拝を起こし、人々を励まし、送り出すお方なのです。

私たちもこの物語の中にいる共同体です。私たちの戻るガリラヤとはどこでしょうか。それはきっと私たちの日常でしょう。それぞれの日常に先に、派遣された先にイエス様がおられます。神様がそこで待っておられます。私たちは神様が待っていると知るとき、先が見通せなくとも安心してそこに向かうことができるでしょう。私たちは神様の足にしがみつくように礼拝をしながら、歩んでゆきましょう。

今日私たちは主の晩餐をもちます。他の福音書によれば、復活後にイエス様と食事をしたことが記録されています。そのパンと杯を今日いただくのです。主イエスが私たちの向かう場所に待っていてくださる、そしてそこでまた共に食事をしてくださる、そのことを覚えながら、この杯とパンをいただきましょう。

 

「『なぜ』と共にいる神」マタイ27章45節~47節

イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マタイ27章46節

 

私たちはコロナの出来事から何を受け取ったら良いのか、神様へ問います。コロナの時期とは、ずっと神様に問い続けている時期でもあるでしょう。そしてその中に、神様との出会いが隠されている時期ではないでしょうか。問われた「なぜ」ということを大切にしたいのです。今日は聖書から、十字架の絶望と希望の間にあった「なぜ」という問いに、神様との出会いが隠されていたのではないかということを見てゆきたいと思います。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」この十字架の叫びには大きく分けると3つのとらえ方があります。ひとつは絶望と受け取る解釈、もうひとつは希望と受け取る解釈、そして3つ目はその間と受け取る解釈です。

まず叫びを絶望と取るでは、イエス様は確かに神様に「見捨てられた」という絶望を味わっています。神様は私たちと同じ無残な死の苦痛を味わうお方なのです。死は美しい死ばかりではありません。それほどに神様は私たちの死の苦しみを知って下さっていると受け取ることができます。

2つ目の解釈はこの叫びは希望だという、正反対の解釈です。特に遠藤周作の「イエスの生涯」によって広がっています。この叫びは苦難から希望へと変わっていく詩編22篇の冒頭の個所であり、苦難の中でも、神様を堅く信頼し続けた姿ととらえます。しかし詩編の冒頭の言葉を言えば全体を示すという習慣はありません。美しい解釈ですが、可能性は低いと思います

3つ目の解釈はその間ともいえる解釈です。この解釈では叫びの中の「なぜ」という言葉に注目します。イエス様の最期の叫びは、「なぜ」という神様への懸命な問いだったのです。そしてイエス様は疑問をぶつけながらも、神様に呼び掛け続け、神様との関係を諦めてはいません。苦難の中でイエス様は懸命に「なぜ」と神様に向けて問い続けたのです。そしてその叫びの先にこそ神様がおられたのではないでしょうか。誰よりもその叫びをしっかりと聞き取っていたのが神様だったのではないでしょうか。イエス様が「なぜ」と叫ぶ、そのただなかに神様と出会いがあったのではないでしょうか。

私たちも苦難の中で神様に呼びかけ、「なぜ」を問い続けます。その問いの先に、その中に神様がきっとおられるのだと思います。その問いと共に、問いの中にきっと神様がおられます。これからも私たちには様々な問いは続くでしょう。でも必ずそこに、神様との出会いがあるはずです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、“なぜ”私を見捨てるのですか」今週、その問いの中で、神様とまた出会ってゆきましょう

 

「低みに立つ十字架」マタイ20章20節~28節

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」    マタイ20章26~27節

 

聖書には「仕える」という言葉が出てきます。「仕える」とはどんなことでしょうか。イエス様は仕えられるのではなく、仕える者になるために来たと言います。それは高くあげられるためのではなく、低みに立つために来たのだと言うことがきるでしょう。

その低みの一番下のあるのが十字架です。人々に仕える、最も低い場所に立つという出来事が、十字架という出来事だったのです。私は今日の個所から、救い主イエス様がどこに立とうとするのかを見てゆきたいと思います。

今日の物語でまず登場するのは、ゼベダイの息子たちの母です。彼女は謙虚な様子に見えます。20節、まずひれ伏して登場します。そして自分の子どもを要職につけて欲しいと願います。それを聞いて弟子たちは怒ります。自分も欲しい権力が奪われそうになったからです。

この弟子たちに対してイエス様は自分は王にならないということ、そして自分は仕える者になる、もっとも低い場所に身を置くということを語ります。イエス様は王になることを選ばず、無残に十字架にかかるということを選びました。十字架を選んだということは、自分の身を最も低い場所に置くという選びでした。

そしてイエス様は弟子たちに言います。26~27節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」高い地位を得たいなら、表面的にでもまずは謙虚な、低姿勢を装いなさいということではありません。

仕えるということの中心は十字架にかかるということです。地上で最も低い場所、十字架にいたのがイエス様です。この後のより大きな栄光を受けるため、偉大になるため、高い地位になるために十字架にかかったのではありません。ただ低みに立つことを選んだのが、十字架だったのです。

そして自分の子を大いなる者にして欲しいと願った、ゼベダイの母は十字架を目撃したました。イエスが偉大になるのではなく、小さく低く死んでいった姿を見たのです。その十字架を目撃した彼女は、人々を従えるのではなく、人々に仕えてゆく人になったのではないかと思います。私たちも今、受難節をいただいています。私たちもゼベダイの母のように十字架を目撃したいのです。

受難節、イエス様の低さを知ります。イエス様が仕える者となったこと知ります。イエス様が他者に仕える方だと知ります。私たちもそのような歩みを始めましょう。来週から集うことができることに感謝します。教会の中でも、そしてそれぞれの場所でも、私たちは互いに仕えあいましょう。

 

「私たちが集まるのは、すばらしい」マタイ17章1節~13節

 

「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

マタイ17章4節

 

一人登山のメリットは自分のペースで歩けることです。一人なら行きたい時に行け、好きなときに立ち止まり、中止できます。反対に一人登山は危険という注意もありました。ケガや遭難は特に危険です。また経験の豊富な人と一緒に登山した方が、上達が早いともありました。私はこれがYouTubeでの礼拝に重なる気がしました。自分の体調を心配せず、少し休んだり、一時停止することもできます。他の教会の礼拝を見ることも可能です。一方YouTube礼拝では私が参加していなくても、誰もそのことはわかりません。経験のある人と一緒の方がよいということは信仰でもまったく同じです。

私たちは神様がまた教会に私たちを集めて下さる日を待ちましょう。神様は必ずまた私たちを招いてくださいます。

今日の聖書をお読みしましょう。イエス様はよく一人登山をしました。それは静かに自分のペースで祈ることができる大切な時でした。今日はみんなで登ります。しかしその山の山頂へはイエス様が連れていってくださるのです。礼拝も同じです。今日それぞれの場所の礼拝も、集うことができる日の礼拝も、そこへはイエス様が連れて来てくれくださるのです。

山頂でペテロは「主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」と言います。まったくそうです!私がではなく「私たちが」とあります。集まって主を共に礼拝することがどれほど素晴らしい事か、今の私たちは本当によくわかります。私たちももし集えたらなんと素晴らしいことでしょう。

ペテロは仮小屋を建てようとしました。しかしその幕屋は必要ありません。神様は一部の人しか行けない場所に留まるのではありません。私たちに触れて、高いところから地上に一緒に降りてきてくださるお方です。

イエス様は私たちと共にその山を下りて下さるお方です。そしてイエス様は山を降りながら復活と十字架について弟子たちに語りかけています。山を下ったのは、私たちと共にいるのだという事と同時に、栄光から十字架への下り坂を意味しています。山頂の栄光は十字架へと変わってゆくのです。

神は人を礼拝に招き、人として共に地上に下り、苦しみ小さくされた人に向けて歩むお方だということがこの物語の中には詰められています。私たちは今日もそれぞれの場所から礼拝をしています。早く集えることを願っています。共にイエス様から礼拝へと招かれ、共に山頂に連れてこられ、共にみ言葉を聞き、「私たちがここにいるのは、すばらしいことです」そう共に言える日を祈りましょう。

 

「他者の十字架を背負う」マタイ16章21節~26節

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 マタイによる福音書16章24節

 

今日私たちは10年前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を覚えて礼拝を持ちます。被災地では今も失われ続けているものがあります。震災からの復興は、ただ津波に強くなる、住宅ができる、人が戻ることだけでは解決になりません。そして原発の問題はほとんど進展がありません。自分の痛みは忘れないように、まだその痛みが続いている人を忘れないでいたいのです。私たちにできる祈りをささげてゆきたいのです。

3月の宣教のテーマは受難としています。今日は、自分の十字架を背負うとは他者の痛みを覚え続け、痛みに連帯をすることだということを考えます。聖書に聞いてゆきましょう。

十字架を背負うとは、一般的には「長く我慢すること」を意味しますが、私たちはそのような意味には使いません。自分の十字架を背負うとは、イエス様が感じた、あの十字架の痛みを私も体験するということです。ではイエス様の十字架の痛みとはどんな痛みでしょうか。

貧しい人、差別を受けている人、汚れていると言われてた人、ゆがんだ構造に搾り取られていく人、イエス様はその人々の為に歩んできました。あるいは干ばつなどの自然災害で生活基盤を失った人たちも含まれていたでしょう。そして苦しむ人々が力をつけてゆく姿は、権力者たちには危険に思えました。だからこそイエス様を十字架に架けると決めたのでした。

イエス様が背負った十字架、それは共に苦痛を味わい、その理不尽に反対するという意味を持ちました。自分の十字架を背負うとは他者の痛みに連帯し、それを取り除こうとしてゆくことと言えるでしょう。

イエス様の苦難の予告を聞いたペテロは「あなただけは生き残ってほしい」と願いました。しかし自分だけが救われる道を選ぶとするならば、そこで人間性が失われます。全世界を手に入れても、もし人間性が失われたら、他者の痛みを見て見ぬふりをするなら、何の得になるのでしょうか。どんなものよりも、その人間性が大事だとイエス様は言っているのです。自分だけが生き残る道、それこそが十字架を背負わない生き方です。

私たちは東日本大震災から10年を迎えます。私たちは自分の十字架を背負って生きることができているでしょうか。他者の十字架を背負うことができているでしょうか。自分の十字架、それは被災地の痛みと伴い、生活の再建を具体的に祈り、働いてゆくことです。私たちが同じ人間として共に痛み、苦しみ、働いてゆくことが、十字架を背負うことです。これからも私たちは被災地のために祈り、働きましょう。私たちの十字架を背負いましょう

 

「キリスト教とLGBTQIA」サムエル記上18章1~4節、19章1~2節

 

「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」サムエル記上18章1節

 

LGBTQIAを「罪」「罪深い欲望」「人間の堕落」であるとする教会が多くあります。LGBTQIAを歓迎する教会といっても、実は「罪人」として迎え、異性に興味を持つ様に「悔い改める」ことを祈り教会も多くあり注意が必要です。ありのままで積極的に受け止める教会は多くありません。では私たちの教会はどうでしょうか。私たちの教会、信仰においてLGBTQIAは「罪」でしょうか。私個人はまったくこのことを罪だとは思いません。私は神様がLGBTQIAの人々をそのまま愛し、生きよと言っていると信じます。

そもそも罪とは何でしょうか。様々に表現できますがひとつに、罪とは「対等な関係でないこと」と言えると思います。相手に上下関係を押し付けること、自由を奪うこと、偏見と差別をもって命に優劣をつけようとするのが罪といえるでしょう。それぞれの性と命を、自分の命・性と同じように大切な命・性として尊重できないことが罪でしょう。

今日はダビデとヨナタンの物語を読みます。私たちはこれまでこの話を「男の友情」と受け取ってきたかもしれません。しかしもう一度この物語をLGBTQIAの視点で読み直してみたいのです。この物語から同性同士の深い愛情、対等で信頼し合う深い愛情を読み取ってゆきたいのです。

ヨナタンという男性は深い愛情を同性であるダビデに感じました。この二人は本来、戦争で手柄を挙げた羊飼いと、王子という圧倒的な上下関係の中にありました。しかし深い愛情を持ったヨナタンはダビデとの関係をまったく対等に持とうとします。相手に尊敬と敬意を持ち、一人の人間として向き合ったのです。聖書はこの二人がとても親密な関係であったことを描いているとともに、対等な関係であったということも丁寧に描いています。

この二人の男性は深い愛情をもって接していました。同性愛とも十分に解釈できると思います。そしてそれは罪として扱われていません。美しい同性の愛情として聖書には記録されています。

このように、多様な性・愛の在り方が聖書にも記録されています。それは決して罪ではなく、相互の対等な関係として、美しいものとして描かれています。私はこの個所から多様な愛、性の在り方に心がひらかれてゆきます。深い愛情は異性の間だけではなく、同性の間にも同じ様にあるのです。

私たちはすべての命・性と対等に向き合いたいのです。すべての性が平等に生きることができる社会と教会を目指したいのです。私たちの間にある性差別、性的少数者への差別が無くなるように共に祈り、共に礼拝してゆきたい、共に働いてゆきたいと思います。

 

「わたしたちも礼拝に集いたい」マルコ3章20節~35節

ふじみキリスト教会でLGBTの学びを行ったきっかけは、教会に来た「キリストの風」集会からのアンケートだった。私はこの学習会の担当を依頼され二つ返事でOKした。引き受けたのはLGBTの友人たちの苦悩を知りながら、何もしてこなかったことへのおわびの気持ちから。LGBTをからかうような青年時代、あるとき「自分はレズビアンなんです」という告白を聞いてはじめて、身近に感じ、真面目なことだと知った。それからLGBTのクリスチャンたちと出会い、礼拝参加自体が決して簡単なことではない事を知った。しかし、知っていながら私は教会で何もしてこなかった。「キリストの風」集会からのアンケートから「私たちも礼拝に参加したい」「信仰の交わりに加わりたい」という切実な願いを感じる。それは同時に「あなたの教会の信仰の交わりに私たちは加われますか」という問いかけ。私自身、そして教会自身が問われている。イエスだったらどうされるか。

28節は人間に対する神の無条件の赦しが語られている。神への冒瀆さえも赦されると。そして29節が続く。「聖霊を冒瀆する」とはこういうこと。聖霊とは神が私たちに働いている働き。それを冒瀆するとは、いま神が働いていることを否定すること。つまり神の赦しや祝福を否定すること。神はどんな人に対しても働いている。神の赦し、祝福は全ての人に与えられている。そのことを否定してはいけない、と。イエスの周りには弟子、そして群衆、当時「罪人」と言われた人々がいる。家族が呼び戻しに来たときの「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」は家族に向かっての言葉ではなくイエスを囲む人々への言葉。当時「罪人」と呼ばれた人々に対してイエスは「あなたがたは神の御心を行う人だ」と語る。つまりイエスは彼らのことを「罪人」とは考えていない。神が働いている人々。神のゆるしの中にいる人々。だからこそ、この人たちに神が働いていることを否定しては絶対にだめだ、という。

イエスの家族が気にしたのは噂話、つまり世間体。律法学者が気にしたのは誰が正しい人で誰が罪人かということ、イエスが気にしたのはこの目の前の人々、群衆。当時の「罪人」は個人的な過ちを犯した人々というよりも職業や身分に近い。徴税人、血を扱う食肉や皮なめしを生業にしている人々、病い、障害を持った人々。それは自分ではかえられないもの、現代のLGBTもそう。私たちが神の前に集えるのはただ、神によってゆるされているから。私たちは何か条件を満たしているから神にゆるされるわけではない。イエス・キリストが「いいよ」「私のもとに来なさい」と言ってくれるから。ただそれだけ。私たちはそんな神のゆるし、なんの条件もない無条件のゆるし、神の愛への感謝から始めるしかない。そしてそこから始めればよい。

 

「神の性平等宣言」ガラテヤの信徒への手紙3章26節~28節

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。             ガラテヤ3章28節

 

今月私たちは男女平等と、性的少数者について聖書に聞いています。社会、教会、家庭で女性が役割を押し付けられたり、奪われることに反対をします。

私たちは特に女性牧師について考える必要があります。米国南部バプテストの2000年に出した信仰告白では「牧師の職は聖書によって資格づけられた通り、男性のみに限定されている。」(Ⅰペテロ5:1~4)とあります。つまり女性は牧師になれないのです。対して日本のバプテストは性に関わらず牧師となることができると考えます。そしてガラテヤ書3章28節に立ち、性差別に反対を表明しています。私たちは聖書があらゆる性の人々が神様の前、社会の中において平等に生き、働くことを宣言していることを見ます。

パウロが手紙を送ったこのガラテヤの教会でも分断と差別が起ころうとしていました。二つに分断した人々へパウロは言いました26節「あなた方は皆、神の子だ」と。全員に対して「全員、神様の子どもです」と呼びかけたのです。しかしガラテヤの教会には自国民の身分の高い男性が、より神様に近いと考えていた人々がいたのでしょうか。外国人の身分の低い女性が神様から一番遠いと考えたのでしょうか。

聖書はどの民族か、どのような身分か、性別がどうかは神の前で一切関係ないと教えています。パウロはゆがめられた関係性に反対をしています。その差別は必要ない、必ず終わると宣言しているのです。

そしてその時にパウロが繰り返し強調しているのは、それがキリスト・イエスによって起こるのだということです。私たちのゆがんだ関係はキリストによって、本来の姿へと回復されてゆくのだと言っているのです。私たちの中には今なお性による差別が多くありますが、その差別は私たちが神様から力をいただいてこそ、乗り越えてゆけるということです。

私たちは神様の前に平等です。教会の中で平等です。そしてそれは教会の中にとどまりません。その平等は社会や家庭の中に広がってゆくのです。そして28節には私たちは一つだということが強調されています。神様の下に、それはもともと一つのものだったということです。私たちは差別を超えて、必ずひとつに戻ることができるということです。

聖書はキリストにある平等が宣言されています。私たちの社会や教会にはまだまだ見えない差別、性差別、格差が存在します。しかし私たちのその差別のただ中に、神の平等宣言が響きわたっています。神様は性の平等を宣言しておられます。ゆがんだ関係が、神様の平等に戻されてゆくように祈り、働いてゆきましょう。

 

 

【全文】「食堂でつながる教会」 マルコによる福音書3章31~35節

周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もいっしょにこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

私たちは今月と来月、こひつじ食堂と福音について考えています。こひつじ食堂は毎月第三と第四金曜日にこの会堂で開催している、だれでも来てよい食堂です。1人200円でおなか一杯の食事ができます。いろいろな人と食事をするのは、本当に楽しいことです。まだ来たことのない方はぜひ食べに来て下さい。お弁当も販売をしています。また今日の礼拝後の信徒会ではこの活動についても皆さんと相談をさせていただきます。

全国でこども食堂の活動は広がっています。先日あるインターネットの記事に目が留まりました。記事のタイトルは『独身の86歳男性は「死ぬまでひとり飯」なのか…SNS以上、しがらみ未満でつながれる「こども食堂」の魅力 』 というものです。

記事よれば、あるこども食堂では86歳おじいちゃんが1人で食堂を利用しているそうです。このように私たちの食堂も含め、ほとんどのこども食堂はどんな年齢の人も歓迎しています。この男性はお連れ合いに先立たれて一人暮らしです。自分で料理もするし、一人でしっかりと生活をされています。にもかかわらず、地域のこども食堂に顔を出しています。

おじいちゃんはこども食堂でたくさんの方の顔を見ながら食べることを、言葉ではいえなくらい楽しい、最高だと語ります。やはり、一人で食べるのと、誰かと一緒に食べるというのは、ぜんぜん違うのです。記事にはさらにこう続きます。高齢化とともに交友関係は減るということ、コロナ禍でさらに交友は狭まっていること、コロナの影響で多くの地域交流が停滞していること、そこにこども食堂のニーズがあると書かれていました。さらに高齢の方々の子どもたちも「親が地元で、話をする人はいるのか」を心配している。それは政府の現金給付でどうにかできるものない。高齢の方々にも、自分には関係ない場所だと思わずに、ぜひ近所の「こども食堂」=「地域食堂」のドアを叩いてみてほしい。そのように記事には書いてありました。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが、貧しい人だけが対象ではありません。どんな人も、どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたい、そう思っています。

しかし振り返ると教会はずっと昔から「一人ではない」と思える場所だったのではないでしょうか。礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。2000年間、あるいは私たちの教会の70年間、毎週礼拝し、一人ではないと確認をしてきました。神様が共にいる、仲間が共にいる、それを毎週礼拝で確認してきたのです。互いの声を聞き、一緒に賛美をしてきたのです。

私たちは寂しいと思っている人や、人生に困っている人に出会ったとき、一緒に教会に行きませんかと誘ってきました。もちろん困っていない人も、どなたでもどうぞと教会にお誘いしてきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は食堂にしろ、礼拝にしろ、その他のことにしろ、誰かの居場所になるのが得意です。

教会はいつもあなたと一緒にいたいと伝え続けてきました。困っていても、困っていなくても、一緒にいようと誘って来ました。そのようにして少しずつ礼拝の輪が広がってきました。そしてそれと同じように、今食堂の輪が広がってきています。

食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは教会で起きていることです。神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。その延長線上に食堂があります。私はそのように感じています。

今日は私たちは、こひつじ食堂や礼拝で起きていることを聖書から見てゆきたいと思います。食堂や礼拝は、神様のもとで集い、仲間になってゆくこと、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

今日の聖書個所を見ましょう。まず目に留まるのはイエス様と家族の関係の難しさです。少し前の21節には身内の人々がイエス様のもとに来て「あの男は気が変になっている」と言って、取り押さえようとしたとあります。イエス様の活動は血縁関係のある家族に、まったく理解されなかったのです。イエス様の行動は家族にとっては迷惑で、気持ちの悪いことだったのです。家族だから理解し合える、信仰を分かち合えるというわけではなかったのです。

家族に理解されないということが、私たちにもあるでしょうか。自分の行動や信仰が家族に理解されないということが、あるものです。あるいは逆に、私たち自身が家族の行動や信仰を、理解できないと思うことも、あるものです。信仰を家族と分かち合うこと、家族と理解しあうことはとても難しいことです。家族と理解し合えないのは寂しいものです。イエス様も寂しさを感じたはずです。33節に「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とあります。私はそこにイエス様の寂しさを感じます。

そして従った人々の多くも家族のいない人、家族と離れている人だったと言われています。従った人の多くは干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族とばらばらになってしまった人々だったと言われます。家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。自分はこの後どうなるのだろうと不安に思っていた人々がイエス様に従ったのです。家族がいないことの寂しさは、家族と分かり合えない寂しさよりも、もっと大きいものでしょう。喧嘩する相手も、わがままを言う相手もいないことは寂しい事です。

この物語の登場人物は家族と分かり合えない寂しさを持つイエス様と、家族とばらばらになってしまって寂しさを持つ民衆です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族とも思えるような、不思議な集まりになっていったのです。

この集まりは、いろいろな家族関係を持った人、家族を持たない人が、寂しいと感じた人が、親戚の集まりの様に集い、祈りあう集まりでした。自分は一人ではない、共に生きていると実感できる集まりでした。そのような集いがイエス様を中心に生まれたのです。本当の家族と同じくらい大切な仲間ができたのです。

34節でイエス様は『周りに座っている人々を見回して言われた「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」』と言います。イエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。この集まりは私たちの教会と似た集まりです。私たち一人一人もいろいろな家族関係をもっていますが、毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。

イエス様の様に、周りに座っている人々を見回して思うのです。教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会は2000年前からずっとこのような集まりを続けてきました。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。

このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。この礼拝の雰囲気が、食堂の雰囲気につながっているでしょう。ここに来ればたとえ家族と離れていても、家族がいなくても、寂しく思っていても、誰かとつながれるような気がするのです。一人ではないと感じることができるのです。それが教会の食堂の特徴です。

教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。そこで共に食事をすることは、誰かとつながるには最高の場所といえるでしょう。礼拝も食堂も、誰かとつながっていたいと思う人に最高の場所です。

友達や家族と疎遠になりがちな高齢の方々に最高の場所です。ぜひこの輪に入って欲しいのです。若者はSNS、インターネット、YouTubeでつながっています。でもそれ以上のつながりを持ちたい若者に、最高の場所です。ぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。一緒に礼拝をしたい、一緒に食事をしたいのです。

34節には「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とあります。神の御心を行う、それは今私たちの教会にとってはこひつじ食堂を続けてゆくというでしょう。教会はこひつじ食堂を通じて、地域とつながりを持ってきています。誰かと一緒にいるということを、これからも続けてゆきましょう。きっとそれが御心です。あなたは一人ではないということを私たちは伝えてゆきましょう。礼拝と食堂の御心を続けてゆきましょう。

私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。御心を行う人が神様とつながっている人です。誰かとつながろうとするとき、神様とつながっているとも言えるでしょう。

私はこの食堂のような、たくさんの人が集まり、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。いろいろな人が来て、一人ではないと思える礼拝がしたいと思っています。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。