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「歴史に働く神」ルカ21:4~9

戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。ルカ21章9節

 

今月は神学ということをテーマに宣教をしています。今回は歴史神学の視点で聖書を読みます。歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史と影響しあっているのかを考える分野です。西暦67年に起きたユダヤ戦争は、キリスト教の歴史上のターニングポイントのひとつです。エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊され、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。

神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教の信仰の中心が神殿での献げ物や、神殿の祭司でなくなりました。キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。キリスト教も世界へと散り、特に世界各地で出会った人に、イエス・キリストが伝えられ、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。今日は歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら、戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。

イエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。人々は絶望をしたはずです。終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。キリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は、それぞれの場所で、イエス様のことを伝えたのです。イエス様のことを福音書として書き記したのです。このように神様は歴史に働くお方です。

神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。そしてこの歴史は私たちにつながっています。

神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。それがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。

神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りします。

 

「聖書を朗読する神」ルカ4章16~21節

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。           ルカ4章16節

 

今月は「神学」というテーマで宣教をしています。今日は聖書を「実践神学」という分野の視点で見たいと思います。神学には4つの分野があります。聖書学・組織神学・歴史神学・実践神学です。中でも実践神学は私たちにもっとも身近な視点でしょう。キリスト教の信仰をどのように実践してゆくかを考える分野です。特に礼拝をどのように持つかは実践神学の大事なテーマです。今日の聖書個所によればイエス様は礼拝に参加し、聖書の朗読をしています。この個所から私たちの礼拝に大切なものは聖書だということ、当たり前ですがもう一度確認をしたいと思います。

私たちの教会では聖書朗読を司会者だけではなく、一部分を順番で担ってもらうことにしました。聖書朗読が順番となっているのはとてもよい雰囲気だと感じています。聖書を朗読する人は、それぞれのテンポやそれぞれの想像力で、聖書を朗読してくださいます。それは私の感覚とは違っていて、聖書を新鮮にいただくことができます。時々、なぜか聞いているだけで心が打たれるような気もします。聖書をかみしめながら礼拝できている気持ちがしています。このような聖書朗読の持ち回りが続いてゆくとうれしいと思っています。

聖書にはイエス様が礼拝に出席し、聖書の朗読をしたとあります。当時、聖書の巻物は大変高価なもので人々が自由に触れ、自由に読めるものではありませんでした。礼拝は聖書のみ言葉が聞ける貴重な機会だったのです。聖書の朗読は礼拝でしか聞けない話であり、読み返すことができず、聞き逃すことができなかったのです。だからこそ聖書の朗読が礼拝の中心だったのです。当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕はとても大切なものとされました。

礼拝で一番長く時間を取るのはこの宣教の時間です。しかし礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わかっても、わからなくても、寝ていても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉が中心にある限り、それが礼拝なのです。もし礼拝から聖書の言葉を無くしてしまうとどうでしょうか。どんなに歌って、どんなにいい話がされても、それは礼拝ではありません。

今日はイエス様が聖書を朗読した場面を読んでいただきました。巻物を渡されたイエス様はどのように聖書の朗読をされたのでしょうか。どんな意味だったのか、何を言おうとしたのかわからなくてもいいのです。でもそれをしっかりと受け止めて、聖書の言葉を大事にしてゆきたいのです。

今日は実践神学の視点で聖書を見ました。これからも私たちは聖書のことばを礼拝の中心にしましょう。聖書の言葉を私たちの生活の中心にしましょう。礼拝でのみ言葉から力をいただき、そのみ言葉を生活で実践してゆく者となりましょう。お祈りいたします。

 

「神はどんな方か」ルカ5章1節~11節

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」ルカ5章5節

 

1月は「神学」というテーマで宣教をします。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。神学は他の学問と同じように分野が分かれます。主には聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学の4つです。聖書学とは文字通り聖書の分析をする学問です。組織神学とは神、聖霊、人間とは何だろうとテーマごとに分けて研究する学問です。歴史神学はキリスト教が歴史にどのように影響を与え、影響を受けてきたのかを知る学問です。そして実践神学は今の私たちがどのようにキリスト者の生活を実践するか、そしてどのように礼拝・礼典をするのかを考える学問です。

今日は組織神学の視点で考えたいと思います。私たちの信仰告白がよい例です。聖書や歴史といった軸から少し離れ、神、聖霊、イエス、人間、救いについて考えます。そしてそこから、神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったお方だということ。すべての人間を愛に招いていることを見てゆきたいと思います。

神様とは、人間にイエス・キリストを派遣したお方です。神様はもともと旧約聖書の時代に様々な方法で、自分の思いを人間に伝えていました。しかしある時、神様はイエス・キリストを通じて、人間に自分のことを教えようと決断しました。今日のシモン・ペテロにとっては、ゲネサレトの湖畔でこの出来事が起きました。

イエス・キリストとは、神様からこの地上に、人間のもとに派遣されてきたお方です。神様の愛を指し示す存在として、人間に与えられました。イエス・キリストは人間の日常生活の中に現れるお方です。成果の出ない、無関心な人間に声をかけます。イエス・キリストの招きはこのように起こります。ふさわしい人間を招くのではなく、すべての人を招くのです。特に、落ち込んでいる人を選び招くのです。

人間とは、罪深い存在です。神は人を愛し、いたわり、助けることを求めています。罪とはその反対に、人を無視し、冷たく接し、困っているのに見ないふりをして助けないことです。人間は「人を愛せ」と教えたイエス・キリストに従うことによって、変えられてゆきます。「み言葉ならば」と再び行動する者へと変えられるのです。

救いとは、人間が人間を愛せるようになるということです。もう誰も愛せないと失望していた人間が、もう一度人間を愛そうと思えること、それが救いです。人を捕る漁師になるとは、人間を愛す者になるということです。それが私たちの救いです。

教会とは、このように救いに招かれた者の集まりです。教会はそのように人間を愛するために集められた群れです。私たちは愛し合い、大切にしあう様に招かれた群れなのです。そして教会は礼拝します。ペテロがイエス・キリストに出会い、イエスに膝まづいたように、教会も毎週、礼拝をするのです。

私たちは今日の個所から神様、イエス・キリスト、人間、救い、教会、礼拝について考えました。これからもこの主イエス・キリストから、主にある希望をいただいてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「ひと皮むく神」ルカ3章15~18節

今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行います。神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。私たちにはそれぞれの世代に良さと不足があります。そんな私たちは、お互いの命を祈り合いたいと思います。

麦を食べるには、麦の実の周りについているもみ殻を取る必要があります。穂は打穀された後、箕(み)というカゴに移され、空に舞い上げられました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。

もみ殻とは何を指しているのでしょうか。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。ヨハネもそのような厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。でもヨハネは同時「私より優れた方がやって来る」と言っています。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。

私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点、罪、悪い部分とも言えるでしょうか。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分は永遠の炎で焼き尽くされます。神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。

16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。しかしイエス様は弟子の履物の紐をほどき、足を洗ったお方でした。もみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。

私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。

 

「高齢者を大切にする教会」ルカ2章21~40節

 

これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。

ルカ2章31~32節

 

あけましておめでとうございます。私たちはこどもを大切にする教会です。もちろん私たちは高齢者を大切にする教会です。どんな命も大切にする象徴として、平塚教会はこどもを大切にする教会ですと語っています。

神様を信じることは素晴らしいことです。でも信仰を長く持ち続けることは難しい事です。そんな時私たちを励ましてくれるのは、信仰を持ち続けた先輩の存在です。私たちは高齢者の話を良く聞き、元気をもらいたいのです。そしていつか私もあの人のようになりたいと若者があこがれる高齢者がたくさんいる教会になってゆきたいと思いますし、すでにたくさんいると思います。今日は新年最初の礼拝です。この1年の始まりを「高齢者を大切にする教会」という話から始めます。

イエス様は神殿の境内でシメオンという人と出会います。おそらくシメオンは高齢者です。衰えた老人かもしれません。でも31節からは、シメオンのあふれる豊かな感情が伝わってきます。イエス様に出会って、これはすべての人の救いだ、光だ、誉れだと興奮して喜んでいます。彼の顔がまぶしく輝いているのを想像できます。シメオンは長く信仰を貫いてきた人です。今日こそは救い主に会えるだろうかと毎日神殿に行き、息の長い信仰を持ち、礼拝を続けた人です

アンナも84歳の高齢者だったとあります。彼女も腰が曲がっていたでしょうか。でも彼女もきっと輝きと、感謝にあふれていた晴れやかな顔をしていたに違いありません。彼女の人生には困難なことがあったと記されています。でも彼女はそれでも信仰を捨てなかった人です。いえむしろ、人生に悲しみがあったからこそ、その悲しみを深く知り、祈り続けた人でした。「大丈夫、神様がいるから」と神様の慰めを語り続けた人でした。祭司は何も気づかず、この二人の高齢者がこの人こそ救い主だと見極めました。本当に救い主を見抜くことができたのは、信仰と人生の経験を深めた、年を重ねた信仰者だったのです。

私たちの教会にもシメオンとアンナがたくさんいます。こどもを抱いて、喜んで、大事にする、高齢者がたくさんいます。こどもと出会って目を輝かせている方がたくさんいます。そしてその方たちは信仰を守り続けた方です。人生の様々な苦労がありながらも、信仰を持ち続けた人、礼拝に通い続けた方々です。

私たちはこの教会のおじいちゃんとおばあちゃん、シメオンとアンナのような、長い信仰をいただきたいと思います。人生には様々なことがあります。それでも信仰を守り続け、礼拝をし続ける者に、私もなりたいと願います。

私たちはこどもを大切にする教会です。わたしたちは高齢者を大切にする教会です。私たちには今日、新しい1年が与えられました。今年も1年、健康に気を付けて、礼拝をし続けましょう。自分の命が続く限り礼拝し、主を待ち望む、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「こどもの声が希望のしるし」ルカ2章8~20節

 

そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

ルカ2章16節

 

私たちはこどもを大切にする教会です。教会はこの礼拝と、この後のパーティーに、たくさんの人に加わって欲しいと思っています!今年は特にウクライナの戦争に心を痛めました。すべての戦争が間違えです。日本も軍事費(防衛費)を倍増させる議論が続いています。私たちに武器は必要ありません。武器を捨てて鋤を持てです。私たちがしたいのは壊すことではなく、育むことです。

暗い時代だと思います。お互いの軍事力に恐れを持ち、より強い軍事力が必要だと思い込んでいる世界です。こんな暗い時代、息苦しい時代に希望はどこにあるでしょうか。希望一つはこの後のパーティーが楽しいこと、そしてイエス様が私たちの心に光として来てくださることではないでしょうか。聖書を読みましょう。

イエス様の誕生は皇帝からの勅令、総督など誕生物語は世界情勢の中にあります。皇帝アウグストゥスとは世界最強の軍隊で、支配しました。だれも逆らえない、恐ろしい力、つまり軍事的抑止力によって「平和」を実現しました。その軍事費は人々からの税金です。人口調査をし、税金を集めました。戦争のための税金が集められる、行く先が見えない時代です。しかし、聖書からはそういった暗さは感じられません。何か希望を感じさせる物語になっています。

羊飼いに現れた天使は10節「恐れるな」と言います。最も恐ろしい事、それは暴力が支配する戦争です。天使はそれを恐れるなと言います。力ではなく愛が世界を支配する時が訪れるという告知です。相手の軍事力に恐ろしさを感じた人間は、より強い軍事力を持とうとします。でもそれに恐れる必要はないのです。地には平和が来ます。その光が私たちに与えられています。恐ろしい、恐ろしい、武器が必要だと言っていないで、平和を探しなさいと言っているのです。

羊飼いは恐れではなく、平和を探すために旅立ちました。天使はすぐに答えを教えず自分たちで協力をして探すように言います。羊飼いたちはどのように赤ちゃんを探したのでしょうか?私の想像ですが、羊飼いはきっとこどもの声を頼りに探したのではないでしょうか。こどもの声がする場所が、泣き声と足音のする場所が、赤ちゃんのいる場所でした。泣き声をたどってイエス様に出会ったのです。

私たちは今日クリスマスを迎えています。暗い時代でも、私たちは楽しみ、希望を持つことができます。きっと私たちがそうできるのは、イエス様の希望があるからでしょう。そして恐ろしい戦争が起こる時代にあって、私たちも「恐れるな」と告げられています。イエス様の誕生・平和という希望があると告げられているのです。その目印はこどもです。こどもたちの声のするところに希望と平和があります。私たちの礼拝もこどもの声がしるしです。私たちもこどもの声を目印に、恐れず、希望と平和を探し続けましょう。お祈りいたします。

 

「必要とされる喜び」ルカ2章1~7節

みなさん、こんばんは。今日はようこそおいで下さいました。平塚バプテスト教会の牧師の平野と申します。私たちの教会は「こどもを大切にする教会です」です。この教会では礼拝中、こどもたちに静かにおとなしく座っているようには求めていません。こどもたちの声や足音もこの礼拝の一部として、命の音としてそれを聞きながら礼拝をしています。一緒にその声、その音を聞きながら礼拝しましょう。

私たちはこどもを大切にするということの具体的実践として「こひつじ食堂」というこども食堂を実施しています。1食200円で地域の方と、楽しく会話し、食事ができるということで、毎回たくさんの方にご利用をいただき、長い行列ができています。

実は当初この食堂にこのような反響があると思ってもいませんでした。この活動が地域から必要とされるのだろうかと不安に思ってスタートしたのです。あるいは本当はこの教会自体が地域から必要とされているのかも少し不安でした。この教会がなくなったらどれくらいの人が寂しいと思ってくれるだろうかと不安に思っていました。しかし今地域に踏み出し、教会がこんなにも地域から愛され、必要とされていることをうれしく思っています。

最近は自分達だけでは手が回らず、手伝ってくださるボランティアさんが必要になってきました。たくさんの方々が活き活きとボランティアに参加してくださっています。みなさんがそこまで熱心に参加してくださる原動力はきっと、私たちの教会と同じだと思います。自分が必要とされるのか不安だったのに、今誰かに自分が必要とされている、そのことがうれしいのです。そのように活き活きしているボランティアさんの姿から力をもらい、私たちの教会ももっと地域の人々の必要に応えてゆきたいと励まされています。

自分が誰かに必要とされるということは、私たちが生きてゆく上でとても大切なことです。もちろん誰にも必要とされなくても、すべての命は大切な命です。でももし命があるとしたら、多くの人は誰かの役に立ちたい、どこか自分を必要としている場所に身を置きたいと思うものです。

誰かに必要とされることは、うれしいことです。誰かのために何か良い事をするのは気持ちいいものです。しかし反対に、誰にも必要とされないことは、とても不安で、とても深い悲しみです。誰かに必要とされることは、私たちが生きる意味に直結する問題です。誰にも必要とされていないと感じる時、人は生きる活力を大きく失います。

人も教会も同じです。誰かの役に立たなくても命はそれだけで尊いものです。でももし他者の必要に応えることができたら、自分を必要だと言ってくれる人に出会うことができたら、教会も人も活き活きと輝くはずです。

今日は聖書の箇所から必要とされないときの悲しみ、そして必要とされることの喜びを見てゆきたいと思います。そして他者のために生きる喜びを見てゆきたいと思います。

* * *

クリスマスの絵本と聖書を読んでいただきました。イエス様は誕生においてどれほど人々から必要とされたでしょうか。実は、まったくと言っていいほど必要とされていません。イエス・キリストは誰からも必要とされない時代に生まれたのです。

その誕生はある日突然、天使によって予告されました。その妊娠はあまり良いタイミングではありませんでした。王様が人口を調べろと命令したのは税金をしっかりと取るためです。人を必要としたのではなく、動物と同じように、数を数えただけです。妊娠中のマリアと夫ヨセフは泊まる場所がありませんでした。家畜小屋に泊まることなり、そこで出産をします。その誕生は周囲からの励ましと支えがあったとは思えません。誰からも必要とされず、社会の隅に追いやられた誕生です。イエス様はこのように誕生において、多くの人にとって必要とされない命だったのです。

イエス様の誕生はまず羊飼いに知らされました。羊飼いは社会では疎まれる存在でした。嫌われ、避けられる存在でした。社会から必要ないと言われる存在でした。天使の知らせは、そのような必要がないと言われ続けた人に告げられたのです。しかし神の物語はそこが始まりです。誰からも必要とされないということから神の物語は始まります。

聖書にはこの後、イエス様が大人になってから様々な活動を始めたことが記されています。病人や、差別されている人、困っている人のもとを訪ねました。社会から必要ないと言われ悲しんでいた人々と手を取り合って活動をしました。様々な人と食事をしました。必要ないと言われた人々と食事をして歩いたのです。

イエス様の教えは隣人のために働くようにという教えでした。自分の必要のためだけではなく、他者の必要ために体を動かしなさいと教えたのです。隣人愛です。自分を愛し、自分の必要を満たすだけではなく、他者を愛し、他者の必要を満たしなさいと教えたのです。しかしイエス様は最後まで必要とされない人でした。この後、厄介者として十字架刑で殺されてしまうのです。

イエス様とはこのように必要ないと言われ続けた存在でした。それでも、いえそれだからこそ他者の愛し、他者の必要のために生きるようにと教えたお方でした。イエス様は誰からも必要とされず、愛されないことの不安と悲しみをよく知る人でした。そして他者を愛し、必要に応えるように教えた人でした。

私たちはこのような方を神の子だ、神と等しい存在だ、私を救ってくれる存在だと信じています。だから私たちは自分の存在がどんなに否定されても、自分のためだけではなく、他者のために生きたいと願っています。きっとその生き方が私もあなたも幸せにする、お互いの救いとなるのです。

私たちは今、手に小さなろうそくを持っています。たくさんあるので一つくらい無くても気づかないかもしれません。大きな光があれば、小さな光は必要ないかもしれません。でもいま皆さんがご覧のように、小さな光の集まりはとても美しいのです。小さな光が集まって、お互いを照らし合うと、とても美しいのです。私たちも小さくとも、互いを愛し合いましょう。きっともっと美しい世界に変わってゆくはずです。

みなさんの次の1年がこの光のように、小さくとも他者のために生きることができるように祈ります。あなたを必要とする人、あなたを必要とする場所にめぐり会い、活き活きと生きることができように祈ります。そして自分だけではなく、他者を愛し、隣人愛のうちに歩んでゆくことができるように、祈っています。お祈りします。

 

「ママ友の祈り」ルカ1章39~56節

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

ルカによる福音書1章39節

 

私たちはこどもを大切にする教会です。今年も教会にはたくさんのこどもたちとママたちが訪ねてくれました。教会での様子を見ていると、ママ友の絆は強いものだと感じます。ママ友には子育てという共通のミッションがあり、共通の悩みがあります。こどもの成長の事や食事のこと、夫のグチを言い合っています。未来のことも話題になります。ママ友に限らず大人は、こどもが身近にいることで、未来や社会がより身近になります。こどもたちが私たちに、未来や社会について考えさせてくれるのです。こどもたちが身近にいると、未来への祈りが湧いてくるのです。

今日のマリアの祈りも、こどもが最も身近にいる人の祈りです。今日はこどもを通じて、私たちに与えられる祈りを聖書から見てゆきたいと思います。そしてこどもの命を喜び、未来を語ることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

マリアはなぜエリサベトを訪問したのでしょうか。妊婦が旅先に3か月も滞在した動機を想像します。きっとマリアはママ友を訪ねるために、遠くの親族を訪ねたのです。マリアはそれほどまでにこの妊娠について、そしてこれから先のことを分かち合う仲間に会いたかったのです。マリアはママ友と話したかったのです。

二人のママ友はいろいろなことを話したでしょう。現代のママ友と同じように社会のことも話題になったはずです。将来この社会はどうなるのか。今どんな問題点があるのかを話し合ったはずです。マリアの祈り、それはママ友と過ごす時間の中で与えられた祈り「ママ友の祈り」だったのではないでしょうか。

おそらくマリアたちにとって、こどもが身近になったからこそ、社会の権力構造や格差に目が行くようになったのでしょう。こどもたちにはもっと平和で、平等な社会に育って欲しい。これはそのようなこどもたちの未来を考えた祈りです。

ある注解書を読んでいると「年若い未婚女性が社会革命を祈ったとは考えづらく、きわめて不自然である」と書いてありました。この学者は、少し想像力が足りないかもしれません。こどもが身近にいるから、未来について考えるのです。こどもが身近になると、未来への祈りが湧いてきます。神様はこのようにして、こどもを通じて、私たちに新しい祈りを与えられます。

こどもたちのための祈り、そしてこどもたちの未来への祈り、それを私たちも大切にしたいのです。そして私たちもマリアとエリサベトのように、こどもの命、こどもの声を喜びあいたいのです。マリアとエリサベトのようにこどもの命を温かく迎えたいのです。未来を共に語りあいたいのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを大切にすると、未来を考えるようになります。来週はクリスマスです。街や教会でこどもたちの笑顔をたくさん見ることができるでしょう。その命を互いに喜びあいましょう。そして未来について祈ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

「すべての命がふさわしい」 ルカ1章26~38節

天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

ルカによる福音書1章30~31節

 

私たちの教会ではシェルターを運営しています。先日は女性が妊娠している夫婦が利用しました。私は聖書の物語を思い出します。マリアも妊娠中に今日寝る場所を夫ヨセフと探していたのです。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの命のために、シェルター利用を受け付けました。大人たちには自分の人生に責任があります。しかしこどもに一切の非はありません。こどもが両親の事情によって、健康に生まれてくることができなかったりしてはいけません。

生まれてくるのにふさわしくない命はありません。すべての命が神様にとってふさわしいのです。そしてむしろ、私たちがふさわしくないと思うような場所に、人に神様が来て下さるのです。今日は聖書から命について考えたいと思います。

聖書によれば、イエス様が生まれたのは男女の性交によるものではなく、奇跡による受胎だったとあります。現代において、初めてこの話を聞いた人のなかでどれほどの人がこの話を「そのまま」信じることができるでしょうか。神の子なのだから、普通の人と違った妊娠方法であるということは当然でしょうか。

キリストにふさわしい妊娠や育ちとはなんでしょうか。どのような生まれ方がキリストにふさわしかったのでしょうか。もしかするともっと選ばれた親や選ばれた環境、選ばれたタイミングがあったはずです。例えば神の子は大祭司のこどもとして生まれることもできたはずです。人類の救い主なら、貧しい家のこどもよりも、王様のこどもの方がふさわしいのではないでしょうか。しかしイエス様の出生の不思議は、ふさわしくないと思える場所に起こります。その妊娠は、結婚前の律法違反の妊娠で、貧しい親の妊娠で、出産場所に困る妊娠でした。

マリアも「なぜ私に?」と思ったはずです。私よりもっとふさわしい人がいっぱいいるはずなのに、なぜ私が。今よりもっとふさわしいタイミングがあるはずなのに、なぜ今、神の子を妊娠するのかと思ったはずです。

しかし、マリアに神の子は宿りました。もっとふさわしい人がいる、わたしなどふさわしくない、そんな思いを持つマリアに、神の子の命は宿ったのです。わたしなどふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。

神様はこのようなお方です。神の子はふさわしくない私たちの間に生まれてくるお方なのです。神の子は私たちのどんな不足や不信仰も超えてやって来るお方です。私なんかふさわしくないと思う、そこに神様の出来事が起こるのです。それがクリスマスです。私たちは私たちの思うふさわしさを超えてゆきましょう。神様はすべての命をふさわしい命として下さっています。ひとりひとりの命が神にふさわしい命として大切にされる教会になりましょう。お祈りをいたします。

 

「神を待ち望む」ルカによる福音書1章5~25節

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。

ルカ福音書1章13節

 

アドベント、クリスマスの到来を待ち望む期間をいただいています。Aさんは障がいを持っています。彼は会堂に来るとすぐに、誰かを捕まえてお祈りをします。彼のもっとも強い願いは就職です。しかし彼は行く先々で、あなたに仕事は無理だ、誰もあなたを雇わないと言われているそうです。でも彼は信じています。どんなに周りに無理、相当難しいと言われても、自分が就職できる日を、その日が必ず来る、すぐに来ると信じています。私たちは彼から、待つこと、辛抱強く祈り続けることを学べるのではないでしょうか。今日は聖書から希望を持って待つということ、祈り続けるということを見ます。聖書をお読みしましょう。

ザカリヤはくじ引きで、名誉ある奉仕に当たります。当時の祭司は1万8000人、人生に1回当たるかどうかというくじです。新人が当たることもあったでしょう。でもザカリヤはこどもをあきらめる年齢まで、何十年もハズレを引き続けてきました。それでも待って、ようやく当たりが出たのです。天使はそこでザカリヤにこどもが生まれると予告しました。ザカリヤは今さらこどもが生まれると言われても、信じることも、これ以上待つことはできなかったのです。彼は信じませんでした。

10節大勢の民衆は外で待っていました。24節彼女は妊娠の事実を誰にもいわず、家で待ちました。今日の物語は待つことがテーマになっているように思えます。ザカリヤも大勢の民衆もエリザベトもみんな待っていたのです。この物語はすべての人が待ち、希望へとつながってゆく物語です。

私たちは祈っても、待っても願いが叶わないという時があります。私たちの教会のおいても、私たちの人生においてもそうです。どれだけ待っても、いまだ叶わない願いがあります。しかし、今日の聖書箇所によれば、もしかするとある時、その願いが叶う時が来るかもしれません。まさか私たちに、待ち続けたけれど、もうあきらめたことが、起こるのでしょうか?きっと誰にもそれを無理と言うことはできないでしょう。私たちにはきっと叶わないとあきらめてしまうもの、無理と思えるものがたくさんあります。でも私たちは無理と決めつけるのではなく、共に祈り、待ちたいのです。そしてもしそれが示されるとき、大胆にその恵みを選び取りたいのです。私はAさんの祈りを思い出します。

私たちは今日、クリスマスの到来を待つ時をいただいています。私たちがあきらめている希望はあるでしょうか。願い続けることに疲れてしまっているでしょうか。でも私たちは、希望を待ち続けたいと願います。細くても息の長い希望を持って歩みたいと思うのです。神様がきっと私たちに希望を与えてくださいます。そのことを信じ、待ち続けましょう。きっといつか神様は、希望へとつながる道を私たちに示してくれるはずです。アドベントはそれを信じる時です。

 

「顔を上げさせる神」ルカ21章25~33節

このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。

ルカ21章28節

 

今日からアドベントというクリスマスの到来を待ち望む期間に入ります。クリスマスは毎年確実にやって来るものです。一方、人生はいつも不確実です。人生には春夏秋冬が順番に訪れるわけではありません。喜びのさなかに突然の悲しみがあります。人間はすぐに気が変わります。人生は不確実さにあふれています。

アドベントとは「到来」という意味の言葉です。時の流れは正確です。待っていても、待っていなくて、それは確実にやって来ます。私たちはクリスマスをどう待つのかが大事です。今日は聖書から、クリスマスが確実に来るように、私たちにもきっと神様が来て下さるということを見ます。そして私たちはそれを待つ間、顔を上げて、うつむいた顔を上げて、それを待とうということを見てゆきたいと思います。

25節の「太陽と月と星」とは世界の確実さ、信頼できるものの象徴です。しかし確実と思えるものにも変化が起こります。人々はその時、不安になります。気候変動、ゲリラ豪雨、季節はずれの台風、コロナなど不確実なことが増えてきています。人間はならなおさら不確実でしょう。仲間、家族、友人、教会員など、どの関係も簡単に変わってしまうものです。人間はいつもその変化に悩みます。

確実なものはこの世界にどんどん少なくなっています。その中で変わらないものは何でしょうか。私たちの世界には想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害がおこるかもしれません。しかし私たちにはただ変わらないものがあります。それが26節にあるように、神様が来るという約束です。どんなに人間が変わろうとも、どんな天変地異が起きようとも、変わらないもの、それが人の子、イエス・キリストがやって来るという約束、それを私たちが見るという約束です。その確実な約束を私たちは変化の多い生活の中で待っています。

イエス様は私たちがその約束をどのように待つべきかを教えています。28節には「身を起こして頭を上げなさい」とあります。聖書は私たちに不確実で不条理な時代の中にあっても、顔を上げて歩こうと言っているのです。

そして33節には聖書の言葉は天地が滅んでも、滅びないとあります。私たちには人間がどんなに変わっても、変わらない確実さが与えられているのです。人生や世界には、予想もしないような変化が起きます。でも私たちに変わらないものがあります。それは神様が私たちのもとに来るという約束と、神様の言葉です。神様の約束と神様の言葉は変わらない確実なものです。

私たちの人生には不確実と困難さあります。しかし私たちは顔を上げて歩みたいのです。イエス様が必ず私の心に来て下さるという確かな希望を持って、顔を上げて歩みたいのです。どんなに世界が変わっても、神様のことばは決して滅びないことに希望をもって、顔を上げて歩みたいのです。お祈りします。

 

「シャロームの教え」ルカ3章1~14節

今日はこども祝福祈祷の時を持ちます。こどもたちの立身出世ではなく、平和を実現する者に育って欲しいと願って祈ります。平和は何より大切なことです。そして聖書の平和は戦争をしないという狭い意味ではありません。聖書の平和はヘブライ語で「シャローム」といいます。それはちょうどでこぼこな丸が、きれいな丸の状態になってゆく動作に似ています。みんなが等しく満たされている状態です。

図にも示しましたが、現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとしている場所、低く押し込められている場所があります。そしてイエス様の十字架は低み、一番深い谷、悲しみの底にあります。シャロームとは歪んだ丸がもとの丸に戻るダイナミックな動きです。子どもたちにはぜひそのシャロームのために働く人になって欲しいと願います。

今日の聖書箇所でルカだけが強調しているのが5~6節です。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされるというのは、まさしくこの丸になる、シャロームに近づく動きを示しています。バプテスマのヨハネはシャロームの教えを広めていたとも言えるでしょう。この呼びかけには多くの人が賛同しました。そして人々はそれぞれ聞きました。「私たちはどうすればよいでしょうか?」ヨハネはそれぞれの場所で公正な、誠実な仕事をする様に教えました。神様にも隣人にも、誠実に生きるということが、ヨハネの「どう生きてゆけばよいか」への答えだったのです。

ヨハネは群衆に、下着を2枚持っていたら、持っていない人に1枚手渡すようにと言います。これは貧しい人も、より貧しい人の助けになるようにという教えです。私も貧しいし、私も必要、でもその中から分かち合うということです。バプテスマのヨハネは貧しい者も互いに分かち合い、支え合って生きるようにと言いました。この丸の様にシャロームを目指す、小さくても丸になってゆくことを目指す、そのような働きが、悔い改めた者には起こされるはずだと語ったのです。

そしてイエス様もこの群衆の一人だったかもしれません。イエス様は高い者を低くし、傷ついている人を訪ねました。そしてご自身から十字架へと向かわれたのです。シャロームの実現のために、この地上に来られ、十字架にかかられたのです。

私たちはどう生きればよいでしょうか。聖書にはその答えが書いてあるのではないでしょうか。今私たちの生活は本当に苦しいです。まるで下着が2枚のような生活です。そのような中で私たちはどう生きるべきでしょうか。それぞれが主に尋ねて歩んでゆきましょう。そしてこどもたちが高みに行くのではなく、シャロームの実現のために働く人となるように祈りましょう。お祈りします。

 

「すべての人を生かす神」ルカ20章27~40節

この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。ルカ福音書20章36節

 

今日は召天者記念礼拝です。天に召された方々は神様のもとで苦しみや不安、心配事の無い毎日、平安な時を過ごしているでしょう。

久しぶりに集われたご家族もいると思います。教会は少しずつ、男女に分けて物事を考えることから解放されています。聖書には当時の時代背景から来る、女性蔑視の表現が多くあります。しかし同時に、当時常識だった男女差別を超える表現として、見直されている箇所もたくさんあります。今日の個所でもイエス様は男女、あらゆる性別が対等に生きることを、死というテーマから教えています。

サドカイ派はたとえ話をします。当時、女性の人生最大の役割は健康な男子の跡取りを産むことでした。しかしこの女性は男子を産むことがないまま、夫に先立たれてしまいました。夫の弟と結婚しますが、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。このような結婚が7回続きました。サドカイ派は質問をします。みんな復活した時、この女性の夫は誰でしょうか?

復活を信じるかどうかは個人の自由ですが、このたとえ話が架空の話だったとしても、あまりにひどい話です。女性に負わされた、男子を産む、跡取りを産むという役割と負担、そして夫を亡くした悲しみ、それが7回繰り返される悲しみは、この話では想像すらされません。サドカイ派は最後まで徹底して、男性中心主義で語り抜きます。いくら2000年前だったとしても、ひどいたとえ話です。

このたとえ話にイエス様はどのように答えるでしょうか。イエス様は次の世では女性が男性に振り回されて生きる必要はないと言っています。女性も天使に等しい一人の大切な存在として、神の子として生きるのだということです。神様が約束している次の世、それは女性が男性に振り回されない世です。すべての性が不安や心配や痛みから解放されるということです。それが召天者の方々に起きていることです。この方々はすべての不安から解放されて神の子とされているのです。

そしてもう一つ大切なことがあります。私たちは生きている者も、召天した者も、男も女もすべての性も、神様から同じ命が与えられています。しかし今の社会ではどうでしょうか。さまざまな差別や不安が多くあります。神様は生きている者の神様です。この地上でも、神様から与えられたすべての命が、天使や神の子の命として大切に扱われるように祈ります。

今日私たちは天に召された方たちはきっと不安もなく、苦しみもなく、心配事もありません。誰かに物のように扱われることなく、天使の様に、神の子の様にすごしているでしょう。だからこそ私たちは安心してこの皆さんを天へと送りだしています。そして私はこの地上もそのような場所になることを願っています。神様は御心が天になるがごとく、地にもなりますようにと祈っておられます。召天者に与えられた平安が、地上の私たちにも与えられるように祈りましょう。

 

「神の光が私の中で輝く」ルカ11章33~44節

だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。ルカ11章35節

 

今日、ひとつの命が神様に従うという決心に導かれ、バプテスマを受けました。神様はつらい時も離れていなかったという信仰告白もいただきました。まいても芽が出ないと感じていても、長い時間を経て芽が出るのです。私たちはそこに大きな励ましをもらいました。これからもたくさんの種をまいてゆきましょう。

私たちが大切にしたいことは、あれは清い、これは汚れていると別ける事ではなく、愛を持って行動することです。清さや汚れを超えて、他者に愛を示してゆくことを大切にしたいのです。人が神の愛に触れる時、絶望は希望や感謝に代わってゆきます。イエス様もそのように人と関わられたお方だったのではないでしょうか。今日は聖書からそのことを見てゆきたいと思います。

イエス様は清い、汚れているという分け隔ての無いお方です。祭司とも罪人とも食事をします。しかし汚れを取り払う習慣は拒否します。なぜなら一般庶民が祭司から、できないこと、わからないこと、細かなことで、汚れていると言われていたからです。イエス様はあえて、清いと自負する人々の食事会で清めを拒んだのです。

イエス様はこの祭司たちを、知らない間に踏んづけた墓みたいな人ですねと譬えています。本人が気づかない、あるいはどうすることもできないことで、人を汚れていると言って、ひどいですねと言ったのです。イエス様は何が清いとか、何が汚れている、そのようなことを問題にしないお方です。むしろその中に向かってゆき、汚れてなどいない、あなたは清い、そう宣言される方でした。そしてご自分の力を分かち合ったお方でした。

33節にはイエス様はともし火をみんなから見えるように置きなさいと言っています。これはあなたの内側にもっている光を大切にするようにということです。あなたの中にはすでに光があるのです。それは神様が命を創造した時にすべての人に与えて下さった光です。今はただ少し隠れているだけです。あなたは汚れてなんかいません。すべての人がすでに清い、美しい光を持っているのです。そしてその光を他者が見えるように、輝かせなさいと言います。私たちは器の中身、私たちの中にある光、私たちが自分という器の中に持っている光を分かち合うことが大事です。

汚れている、ダメな人間だ、そう周りから、そう言われることがあるかもしれません。でもそんなことありません。あなたの中には光があります。あなたの光を他者を照らすために使ってください。明るい暗い、清い汚れているといった差別を生み出すための光ではありません。清さと汚れを超えて、私たちには光があります。そのように共に輝く。それが今日私たちに与えられたメッセージではないでしょうか。

私たちの世界には差別と暴力があります。自分はダメな人間だと思っている人がいます。私たちがいただいている神様の光でそれを照らしてゆきましょう。私たちの内側にある光を、共に輝かせてゆきましょう。お祈りします。

 

「苦しみを引き受ける神」ルカ23章35~43節

 

イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。                       ルカ23章43節

 

アフリカ・ルワンダでは1995年に集団虐殺があり、多くの人が殺されました。私たち日本バプテスト連盟では佐々木和之さんを派遣し、人々の和解を支援しています。ある時に佐々木さんが行った平和を教えるためのワークショップをご紹介します。このワークショップでは参加者は家族を失った悲しみや傷に向き合い、それらを小さな紙に書きだしてゆきます。そしてその紙を釘で十字架に打ち付け、祈りと賛美の後、焼いて、灰としてゆきます。このようにして、悲しみや憎しみを主にゆだね、他者を赦し、自分自身を赦し、平和へと導かれてゆきます。このような赦しは私たちにも共通する点があるのではないでしょうか。私たちにも赦しが与えるためには、その思いを正直に、十字架へと差し出してゆくことが必要なのではないでしょうか。今日の聖書からもそれを見たいと思います。

イエス様と共に十字架に架けられた二人は、一人は悔い改める罪人、もう一人は最期までイエス様を侮辱した罪人です。後者は最期の最期まで信仰を持たなかった愚かな人間と評価されてきたでしょうか。私はルワンダでの佐々木さんのワークショップの話を聞くと、この罪人が痛み、苦しみを十字架のイエス様に正直にぶつけた人として見えてきます。十字架に架けられた彼は自分の痛み、魂の傷をイエス様に向けて、隠すことなく正直に言葉にしました。自分の思いのたけを叫んだのです。彼はそうすることによって、持っていく場所のない思いを神様にぶつけ、赦しへと導かれていったはずです。

イエス様は43節「今日、あなたは私と共に楽園にいる」と言います。この個所は実は、誰に向けて答えたのか、相手は明確に書かれてありません。聖書はイエス様を罵り、自分の苦しみを正直にぶつけたあの罪人が「あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた可能性にも開かれています。イエス様は、十字架に苦しみをぶつける言葉も、信仰の告白として受け取ってくださったのではないでしょうか。

イエス様はこのように、私たちの偽りのない苦しみや憎しみの言葉をすべて引き受けて下さるお方です。イエス様は苦しみを十字架にぶつけた者に、楽園、神様の愛の下にあることを約束して下さったのです。

イエス様は楽園にいるは「今日」だとおっしゃいます。いつかではありません。今日です。あなたが苦しみを十字架に吐き出す今日、あなたは楽園にいる、あなたはイエス様の愛の下にいるということです。私たちは今日、十字架に苦しみ、悲しみ、憎しみ、すべての思いを言葉にしてぶつけてゆきたいのです。私たちには苦しみをよく知り、引き受け、愛の下にいる約束をしてくださる十字架のイエス様がいます。私たちも今日、その神の愛の下で、楽園にいる約束がされています。私たちも今日、その思いを正直に十字架へと向けてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

「収穫感謝礼拝」ルカ12章13~21節

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。 ルカ12章15節

 

今日は収穫感謝礼拝です。1621年イギリスのピューリタン(清教徒)が、メイフラワー号に乗ってアメリカに渡りました。彼らは新天地での厳しい冬を、先住民からの援助と、教えてもらった知恵で生き抜きました。そして翌年の秋、その収穫を神様に感謝しつつ、先住民と一緒に喜び、分かち合ったことが収穫感謝の起源です。

しかしその後、入植者たちはより広い土地を必要とします。彼らは先住民の土地を奪い、殺し、奴隷としました。私たちは400年前のクリスチャンが、助けてくれた先住民から土地を奪い、命を奪った歴史も忘れないでいたいのです。

私たちはすべての恵みは神様から来たと感謝します。そしてそれを分かち合います。そしてどんなことがあっても命は人間が好き勝手にしてはいけません。神様に感謝すること、互いの命を感謝し大切にすること、分かち合うこと、それを収穫感謝礼拝の時に覚えたいのです。今日の聖書の個所もそのことを言っていると思います。

今日の聖書の箇所でイエス様は、もともと金持ちだった人の畑が、さらに豊作だったというたとえ話をしています。ひとくちに豊作といっても、いろいろな人が協力して、初めて豊作となります。サプライチェーンです。しかしこの金持ちは協力者のことを一切考えていません。17節からは『私の』作物、『私の』蔵、『私の』穀物、『私の』財産、『私の』魂とあります。自分、自分、自分の発想です。この金持ちは豊作の恵みをすべての『私の』ものだとして独占しました。

そこでイエス様は、今日あなたは死ぬ、そうしたらそれは誰のものになるのかと問います。イエス様は、それは元々誰のものだったのかと問うているのです。イエス様は一緒に手伝ってくれた人、支えてくれた人、励ましてくれた人に感謝してる?分かち合ってる?あなたの蔵にしまったもの、本当はそれ、みんなのものなんじゃないの?あなたが死んだらどうなるの?きっとみんなそれを分け合うんじゃない?そう問いかけています。自分のために富を積んでもしょうがないよ。神様の前に一緒に豊かになろうと言っています。それが21節、神様の前に豊かということ、それが収穫に感謝するということだよと言っているのです。

22節以降は思い悩むなと続きます。この個所も自分の事ばかりに思い悩んでいないか?自分、自分、自分になっていないかが問われているのです。神への感謝、仲間への感謝があるかどうかが問われているのです。

今日は収穫感謝礼拝です。私たちはこの手にあるものが、すべて神様からいただいた恵みであることに感謝しましょう。そしてこの手にあるものは多くの人の支えによってあることに感謝しましょう。だからこそ、それを神様に献げ、仲間と世界とそれを分かち合ってゆきましょう。神様の前で世界が共に豊かになってゆきましょう。それが神様に収穫を感謝するということではないでしょうか。それが収穫感謝礼拝ではないでしょうか。お祈りいたします。

 

「世界の先にいる神」マルコ14章27~31節

しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。

マルコ14章28節

 

今月は世界・環境ということテーマに聖書を読んでいます。今の世界に目を向けると相変わらず戦争を繰り返しています。核兵器の恐ろしさを知っている世界・人類は広島・長崎に続き三度目の過ちを繰り返そうとしています。戦争をすること、それこそがまさしく「私はイエスなど知らない」と言い表すことだと思います。広島・長崎のきのこ雲の写真を見て、ロシアとウクライナが戦っているのを見て「私はイエスなど知らない」と言っているのが聞こえます。

これから先、世界はどうなってゆくのでしょうか。先の見通せない世界になってきています。世界はこれからさらに「私はイエスなど知らない」そんな世界になってゆくのでしょうか。私たちはこの世界で一体何に、どこに希望を持てばよいのでしょうか。こんな世界で希望をいただくためにこそ、今日も聖書を読みましょう。

29節と31節でペテロは、私は大丈夫、私は他とは違います、私はちゃんとした信仰を持っていますと言います。このような信仰は一番危険な信仰です。結局ペテロは危機が訪れた時、三度「イエスなど知らない」と言います。人間の決心は、このように弱く、もろいものです。イエス様は人間の弱さをよくご存じです。こんな私たちには、こんな私たちの世界には、どこに希望があるでしょうか。

イエス様が私たちに下さる希望は28節「私は復活した後、あなたがたより先に先にガリラヤへ行く」という言葉です。イエス様は人間には失敗と絶望が必ず起こるけれども、その後に必ず立ち上がり、再会をできると約束をしておられます。つらい事がある、不本意なことがある、でもそこで失望することはない、その先に私は待っているとおっしゃっているのです。それが私たちの希望です。

イエス様の「ガリラヤに先に行っている」それは、あなたが私を裏切り、すべてに失望した先にもなお、あなたと共にいるという意味です。神は私たちと共にいる神であり、神は私たちの先にいる神なのです。

いま私たちの世界は戦争が起り、暗い世界です。失敗と絶望が続く世界です。神を裏切り、「イエスなど知らない」と繰り返し表している世界です。でも聖書は言います。これで終わりではない。私たちの行く先には必ず希望がある、復活のイエス様がこの先におられるのです。この世界の先に、神様は待っておられるのです。

世界の中にいる、私たち一人一人の一週間についても、同じことが言えるでしょうか。私たちの1週間も失敗し、「イエスなど知らない」と言ってしまう一週間でしょう。病や痛み、苦難がある1週間でしょう。できればそれは避けたいものです。でもたとえそれができなかった時も、神様はその先に待っておられます。今日私たちも、その約束をいただいています。

今日までマルコ福音書を1年間読んできました。この先にも物語は続きます。これからも先を歩まれるイエス様に向かって、共に歩みましょう。お祈りいたします。

 

「世界と共に食べる」マルコ14章10~26節

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」

マルコ14章22節

 

今月の宣教のテーマは世界・環境としました。世界に向けて開放された、聖書の読み方をしたいと思っています。今日10月の第1日曜日は「世界聖餐日」と呼ばれる日です。教派や教会を超えて、世界で同時に主の晩餐を行い、イエス様を中心とする仲間であると証する日です。世界に目を向けるとロシアとウクライナの問題、途上国の物価上昇など様々な問題が起きています。私たちはこの世界を見つめながら礼拝し、連帯性、同時性を意識して主の晩餐をもちましょう。

12節には主の晩餐は神様に招かれ、不思議と準備されているもだと書いてあります。イエス様が目印とした人は性別役割分担を超えて働く、水がめを運ぶ男でした。神様が準備される場所には、必ずこのような人が起こされます。

今日見たいのは、この主の晩餐は「ふさわしい者」だけが集い、食事をしたのではないということです。この食事にはこの後イエス様を裏切るユダも招かれたのです。

イエス様は18節で弟子たちの裏切りを予告します。弟子たちは19節「まさか、私のことでは」と思ったのです。弟子と言っても、それほどの信仰しか持たない者の集まりでした。そしてメンバーの中には本当に間違ったことをする人がいました。

イエス様はなぜ、このような食事会を持ったのでしょうか。それは仲間たちがどんなにバラバラになってもイエス様を中心とする仲間であることを忘れないためでした。間違いを犯す人、そういう危険のある人も含めて、共にイエス様を中心とする仲間だと確認するためです。それは私たちの主の晩餐も、同じです。私たちの間に違いがっても、中心にイエス様がいることを忘れないために行われます。

私たちは今日、特に世界の仲間たちと一緒に主の晩餐を持ちます。同じキリスト教の中でも、それはキリストの教えと違う、間違っていると思える仲間が世界にいます。しかし今日の個所によればイエス様は、バラバラの私たちを、バラバラになる私たちを同じ食事に招くお方です。この主の晩餐を、イエス様を中心として生きる世界の仲間が、正しく導かれるように祈りつつ、持ちたいたいのです。そしてもうこれ以上、誰にもイエス様を裏切って欲しくないのです。そしてきっと私こそイエス様を裏切ってしまうユダです。しかし、それでも神様はこの食事に招いておられます。なんという恵みでしょうか。それが神様の愛です。私は招かれたからこそ、愛されるからこそ、イエス様を裏切りたくないと思うのです。

私たちはその愛を忘れてしまわないように、この主の晩餐を繰り返しましょう。そしてもし裏切ってしまっても、また主の元に集いましょう。食事へと招いてくださるのが神様の愛です。この後、世界と共に、主の晩餐を持ちます。神様は私たちに平和への一致を求めておられます。平和への一致への道は必ず用意されています。世界の平和と一致がこの主の晩餐から始まるように願います。お祈りします。

 

 

「彼女を記念する礼拝」マルコ14章3~9節

はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。

マルコ14章9節

 

ある時、女性がイエス様に対して、頭から油を注ぎました。頭に油を注ぐことは聖書の中で特別な意味を持ちます。サムエルがサウルにしたように、この人は王様だと宣言する象徴行為です。今回は油を注ぐ役割を女性が担いました。最初期のキリスト教では女性が中心的な指導者として活躍をしたのです。一方、女性の小さな献げ物を「無駄だ」と非難した男たちは、その後まっさきに逃げだしました。

しかしこの女性指導者は、時代と共に地位が下がります。ヨハネ福音書では頭ではなく足になり、ルカ福音書では罪深い女として登場し、娼婦とまで解釈されてゆきます。今日はこの女性を罪深い女として読むのではなく、素晴らしい信仰を持った女性指導者の話として読みたいのです。イエス様は頭に油を注ぐという女性の信仰の告白を「無駄だ」「その力を他に使え」と言わないお方です。受けてとめて下さるお方です。私たちの精一杯の信仰告白は誰にも批判される必要はありません。

油を塗るとは死者の葬りをするという意味もありました。この弟子の女性はイエス様がこのまま活動を続けたらきっと殺されてしまうと思ったのでしょう。イエス様の十字架の死の危険に、誰よりも早く気づいたのが、この女性だったのです。

大変高価な香油が、大量に使われたことも問題です。彼女の献げ物は、無謀で、ぜいたくで、過剰です。この女性はバランスを欠いているように思えます。しかし彼女は自らの収支計算、計画、欲しい物を超えて、イエス様に信頼し、献げました。それは打算のない、時にかなった献げ物でした。イエス様は8節「この人はできるかぎりのことをした」それでよいと言ってくださっています。

私たちに求められているのは、他の人の信仰の表現を批判することではありません。他の人の信仰の表現を、小さいと笑ったり、多すぎると批判したりすることでもありません。私たちがただ求められていることは9節「記念として語り伝える」ということです。記念として語り伝える場所、それはまずこの礼拝です。今日私たちはこの女性を記念する礼拝をしたいのです。

この女性を記念する礼拝とはどんな礼拝でしょうか。それは「この人が王だ」「この人が私の人生を導く」と告白をする礼拝です。イエス様を救い主と告白する礼拝を献げてゆきましょう。大切な時間を使って、毎週繰り返し礼拝することは、無駄だと思われるでしょうか。礼拝することは、まるで高い油を無駄遣いしているように見えるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいのです。そして油を注ぐ、それは十字架に向かう葬りの準備でもあったということを見ました。私たちはイエス様の十字架への歩みと復活を覚えて礼拝を続けてゆきましょう。

私たちは礼拝について考えてきました。この女性が記念されるような、思い出されるような礼拝をしましょう。イエス様を救い主と告白する礼拝、自らの予定を超える礼拝、十字架と復活を覚える礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「ハチドリのひとしずく」マルコ12章38~44節

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

マルコ12章43節

 

南アメリカ・アンデス地方に「ハチドリのひとしずく」という話があります。1羽のハチドリが、山火事の中で森に残り、くちばしで水を一滴ずつ運び、火事を消そうとしました。他の動物たちは「そんなことして何になるんだ」と笑いました。しかしハチドリは「私は、私にできることをしているだけ」と答えたと言います。私たちの日常と世界には、大きな課題に対して、私の働きは小さすぎてほとんど無意味と思える時があります。でも、あきらめない一滴が大事なのです。

イエス様もあきらめないで、小さなことを大切にする生き方を勧めた方だと思います。イエス様は事柄の大小ではなく、あなたにできることをすることが大事、あきらめず、小さい事を大きな愛で進めてゆこうと私たちに呼びかけています。聖書からイエス様のそんな姿を見てゆきましょう。

聖書には律法学者がやもめを食い物にしたとあります。これは人の人生の混乱や不安に紛れて、財産を奪おうとした宗教詐欺です。霊感商法と同じです。イエス様は律法学者のような“偉い人”ではなく、社会で見過ごされる人に目を向けました。

今日の物語の主人公は偉大な者ではなく、見過ごされている人です。やもめの信仰を見てゆきましょう。エルサレム神殿の賽銭箱は誰がどれくらい献金したのかわかってしまいました。お金持ちはジャラジャラジャラと献金します。まわりは「おぉ」となり、拍手が沸いたでしょう。しかしやもめの献金はチャリン。誰かが小銭を落としたかのような音です。周りで見ていた人は、そんなことして何になるのかと笑ったでしょうか。しかし聖書によればこのやもめはレプトン銅貨を2枚献げたとあります。もう一度チャリンと小さな音がします。

イエス様はそのレプトン銅貨2枚を素晴らしいとおっしゃるお方です。あなたの、小さくても、自分ができる精一杯をしようという信仰が素晴らしいというのです。「はっきり言っておく」とは「アーメン」という言葉です。イエス様は女性が献げる信仰を見て「アーメン」「確かにそれは真理だ」とおしゃったのです。

私たちは今月礼拝というテーマで宣教をしています。私たちもこのやもめのように礼拝を献げましょう。周囲からは、礼拝は何の役に立つのかわからないかもしれません。でも、私たちはできる限りの礼拝を続けましょう。私たちは笑われても、自分ができる礼拝をする、そんな生き方をしてゆきましょう。そして派遣された場所で、小さいけれど大きな愛で、私や、教会にできることをしてゆきましょう。

今日は高齢者祝福祈祷の時を持ちます。聖書によれば、大きなことができなくてもいいのです。それぞれができる礼拝を、できることを、一滴ずつしてゆきましょう。きっと神様は、そのような私たちを見て、誰よもよりもたくさん入れた「アーメン」と言ってくれるはずです。お祈りします。

 

「礼拝の縦糸と横糸」 マルコ12章28~34節

イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」マルコ12章29~30節

 

中島みゆきの「糸」という曲には「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」とあります。今月私たちの礼拝では「礼拝」をテーマにしていますが、礼拝にも縦糸と横糸があると思います。礼拝において縦の糸とは、神様と私がつながる糸です。そして礼拝において横の糸とは、私と仲間とがつながる糸です。礼拝はこの縦糸と横糸が織られ、紡がれるのです。

礼拝のプログラムを見るとそれを直接感じることができるでしょう。縦糸と横糸が織り重なるようにすすみ、布のようになっています。その礼拝は誰かを暖めうるかもしれません。傷をかばうかもしれないのです。

礼拝は縦糸と横糸とどちらも大事です。礼拝は神様と自分の関係を考える時、そして同時に仲間と自分の関係を考える時です。どちらかだけではなく、両方が大事です。今日は礼拝とは神様と自分の関係を考えることはもちろんとして、礼拝は人と人との関係を考える場所でもあるということを見てゆきたいと思います。今日の聖書を読みましょう。

当時の律法学者たちの信仰の中心は、神殿で犠牲を献げることでした。イエス様はその律法学者に一番重要なのは何かと聞かれて、神を愛することだと答えています。全身全霊、全人格、心と生活の端から端まで神様を大切にすることが大事なのです。神様を第一に大切にするとは、もちろん礼拝をすることとも言えるでしょう。それぞれの精一杯で礼拝しましょう。

31節にはイエス様は第二にと答えます。イエス様は選べないほど両方とも大事だからこそ、二つ答えます。イエス様が神様を愛するのと同じくらい大事だと教えたのは、隣人を愛するということです。イエス様は隣人を全身全霊、全人格、生活の隅々まで、大切にしなさいと教えています。すべての人、すべての命が私たちの隣人と言えるでしょう。私たちは神様からすべての隣人、すべての命を大切にしてゆくことが求められています。私たちは神様を愛し、大切にしましょう。そして私たちは他者を愛し、大切にしましょう。

イエス様はこのあと十字架に架けられます。十字架は私たちに、神を愛すること、そして隣人を愛することを強烈に指し示しているものです。私たちは礼拝でこの十字架を見て、どんな時も神を愛し、隣人を愛した主イエスを思い出せるのです。

私たちは今日の礼拝から1週間を始めました。神様を愛し、隣人を愛しましょう。神様を全身全霊で大切にする1週間、他者の命を全身全霊で大切にする1週間をこの礼拝から始めてゆきましょう。お祈りします。

 

「大胆に話せるように、祈ってください」 エフェソ6章19~20節

本日はお休みをいただき、宣教の奉仕を担っていただきます。このような休暇をいただけることを感謝します。

神学校では宣教1回の準備には20時間かかると教わりました。宣教の準備では聖書のみ言葉を読み、黙想し、先人たちの解釈を調べ、辞書を引き、会衆を想像し、言葉を紡いでゆきます。最近私は15時間程度で準備ができるようになったでしょうか。それでもまだ20時間かかる週もあります。このような綱渡りを毎週繰り返し、穴をあけること無く、講壇に立つことができていることに驚いています。

神学校では宣教の後は必ず落ち込むものだとも教わります。限られた時間で準備しなければなりませんし、人間が語ることには必ず欠けと不足があるからです。終わった後は達成感よりも後悔が押し寄せるのが普通です。むしろ過度な達成感はみ言葉の前の謙虚さという点で危険とも言えるでしょう。振り返れば必ず反省点があるのです。このような役割を続けてゆくには祈りと支えと励まし、そして「休暇」が必要です。いつも必要な祈りと支えと励ましといただき、休暇をいただけたことに改めて感謝します。

宣教の働きについてよく「大胆に語ることができるように」と祈ってくださいます。宣教者は祈りによって支えられなければ、この働きを続けてゆくことができません。祈りが必要です。語るにあたって、大胆ならよいわけではありません。力強ければよいわけではありません。宣教には大胆さと同時に繊細さ・適切さが必要です。しかし大胆さの中に繊細さ・適切さを含む宣教を語るのはとても難しいことです。それは鎖に縛られながら、早く走ろうとするようなものです。

今日のみ言葉はまるで宣教者に向けられた祈りのようです。今日立たされた福音の使者、宣教者のために祈りましょう。限られた時間と、言葉、さまざまな鎖の中で語っています。語ったあと後悔することもあるでしょう。そのような宣教者が大胆かつ繊細に語ることができるように励まし、心から祈りましょう。

そしてこの個所は宣教者から会衆への祈りのリクエストでもあるでしょう。宣教者は孤独で、一人で悩みます。だからこそ宣教は会衆からの祈りと支えと励ましによって語ることができるようになるのです。私も今日宣教者のために祈っています。

そして私からもリクエストします。どうぞ今日の宣教者のために祈ってください。毎週の牧師の宣教のために祈ってください。大胆で繊細で適切な宣教のために祈ってください。良い礼拝となるように祈っています。    (牧師 平野健治)

 

「礼拝に招かれたこどもたち」 マルコ10章13~16節

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

マルコ10章14節

 

今日から1ヶ月間「礼拝」をテーマとして宣教をします。こどもと一緒に礼拝をすることについて、どのようにお感じでしょうか?こどもの声で集中できなかったという人、元気な声が聞こえてうれしいという人がいるでしょう。こどもたちとどのように礼拝を共にするかは教会の難しいテーマです。でも教会ににぎやかなこどもがいることは贅沢な悩みかしれません。

それぞれの教会がこどもを大切にしようとしています。正解はひとつではありません。こどもといっしょに礼拝できる喜びと、礼拝に集中できることはどちらも大切です。願うのは、大人によってこどもが排除されず、受け入れられることです。私たちなりにどのように、今のこどもを受け止めて、共に礼拝するか、いつも考え続けてゆきたいのです。聖書からこのことを読みましょう。

13節は人々と書いてあるだけで、誰のことなのかはっきりしません。誰が、なぜ叱られたのかは私たちの想像力にゆだねられています。こどもが怒られている姿はすぐに想像がつきます。礼拝者としてふさわしくない態度だと怒られたのでしょうか。怒る気持ちも怒られる気持ちも、どちらもわかるような気がします。ちゃんと集中できない私です。礼拝者としてもとても不十分な私です。おそらく私もこの場所にいたなら、イエス様に近づいて怒られた一人だったでしょう。

この話の前の金持ちの男の話と共通するテーマがあります。それは人の目にはふさわしくないと思えるような人が神の国に入るということです。イエス様は不十分と思える人こそ神の国に入る、礼拝に招かれていると言うのです。

この招きは私たちの礼拝にもつながっています。ここは礼拝するには不十分な者が集められている場所です。こどもこそ招かれています。すべての人が招かれていると言えるでしょう。私は自分をこのこどもに重ねます。私にはいろいろな不十分や力不足があります。でも神様はそのような私を招いてくださいます。きっとみなさんもこのこどもの一人でしょう。それぞれには不十分や力不足があるでしょう。でもそんなあなたを、イエス様は神の国に招き、礼拝に招き、手を置いて祈ってくださるのです。もちろん教会に集うこどもたちも、同じです。

今日集った私たちは、大人もこどもも皆、この物語にでてくるこどもです。イエス様はこのように、こどもを、私たちを、招き、抱き上げて、喜んでくださるお方です。私たちは神様に招かれた者として、礼拝を共にしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。私たちは不十分なお互いを大切にする教会です。どのようにすれば、よりよく共に礼拝できるかを考え続けてゆきましょう。そしてイエス様が集まった人を喜び祈ったように、私たちも集えたことを喜び互いに祈りましょう。お祈りいたします。

 

「立ち止まって聞く神」マルコ10章46節~52節

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 マルコ10章49節

 

平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。今日聖書はそれと反対のことかもしれません。私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。

バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができない、社会からはじき出された人でした。彼はイエス様に一番初めにして欲しい行動を叫びました。それは驚くことに「憐れんでください」ということでした。「憐れむ」という言葉には同情する、慈しむという意味があります。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉にするなら「自分の気持ちを分かってもらう」ということです。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください」そんな叫び声だったのです。しかしなんと周囲の人々は黙らせようとしたとあります。周囲の人々とは社会と言い換えることができます。彼は、社会から無視され、黙らされたのです。でも彼はもっと大きな声で叫びます。

イエス様は誰も足を止めなかった場所で足を止めるお方です。そして道端、社会の隅から彼を神の前に呼び出すのです。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。

この物語からイエス様の生き方を学びます。そして私たちが今日の個所から知る希望は、神様は苦しみに足を止めて、聞き、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。

私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?それは多くの仲間が持つ、社会の中にある叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくではないでしょうか?私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。

沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声、小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。

今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。

 

「平和をあきらめさせない神」マルコ9章14節~29節

1ヶ月間、平和をテーマとして宣教をしています。私たちの教会は平和をあきらめずに祈り続けてきた教会です。私たちが祈る間にも、たくさんの戦争が起きました。それでもあきらめず平和を祈っていくことは教会の大切な役割です。憎しみや衝突に対して暴力ではなく、愛と和解、感謝すること伝えてゆくことが教会の役割だからです。私たちは争いが続くこの時代にあって、あきらめずに平和を祈ってゆきましょう。平和をあきらめさせようとする力こそ悪霊の力です。

教会にはたくさんのあきらめない祈りがあります。周囲は共に祈ることが大切です。今日の聖書から平和への祈り、他者への祈りをあきらめずに続けるイエスの姿を見てゆきたいと思います。

今日の個所の少し前、イエス様は山の上で光り輝く姿となってから、下り、人々が議論し、争う場所にやってきました。それは私たちが争いあう現実の世界にイエス様が来て下さるということを示しています。

そしてイエス様は病気のこどもの父親があきらめかけていることを感じました。悪霊とはあきらめさせる力です。もうダメだ、そうあきらめさせるのが悪霊の力なのです。父親は悪霊に負けそうになっていました。あきらめかけていたのです。イエス様は23節「信じる者は、なんでもできる」と言います。神様への信頼があれば、私たちはすべてが可能となるときまで、あきらめずに祈ることができるのです。

「信じます!」という父親の言葉は24節「叫び」でした。私たちもそのように祈っていいのです。祈りは叫びです。美しい言葉にならなくてよいのです。そしてこれは息子自身の祈りではなく、周囲の人々、周囲の大人の祈りです。周囲の大人のあきらめない叫びが、神様に届いたのです。そして25節、イエス様は悪霊をしかりつけて追い出します。イエス様はこの物語から希望を教えてくれています。私たちがあきらめそうになる時、そのことをもう一度祈れ、あきらめるな、祈りよってこそ、このあきらめは追い出すことができるという希望です。

私たちは何かをあきらめそうになっているでしょうか。私たちはあきらめずに祈り続けたいのです。特に平和について祈り続けましょう。悪霊の力はいつも、私たちをあきらめようとさせます。私たちはその悪霊を追い出すように祈りたいのです。父親の祈りが叫びだったように、私たちも祈り叫びましょう。声をあげましょう。平和が欲しいと神様に叫びましょう。そして実はイエス様も叫んだお方です。イエス様こそ暴力のただなかで平和を求めて叫び、神に祈ったのです。私たちも暴力が満ち溢れる世界の中で、あきらめずに平和を主に叫び願ってゆきましょう。

この後、主の晩餐を持ちます。この杯は十字架の主が流した血を象徴します。イエス様こそ暴力のただなかで叫び、血を流し、平和を祈られた方であったことを覚えてこの杯をいただきましょう。そして私たちも叫び、平和を祈りましょう。

 

「イエス様は本当に優しい王様」ヨハネによる福音書 18章37節、19章19節~22節及び、マタイによる福音書26章74節~75節

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。   ヨハネによる福音書 19章19節

 

有名なユヴァノ・ノア・ハラリはユダヤ人の歴史学者であり、哲学者です。ハラリは人類の歴史を動かしてきたものは3つあるといっています。『帝国主義』、『貨幣』、『宗教』です。イエス様の時代も、イスラエルはローマ帝国という帝国に支配・占領されていました。当時のユダヤ人は、この帝国主義から解放してくださる真の救世主を待望していました。この救世主は、ダビデ王やソロモン王のように強いリーダーシップで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかし、目の前に現れた救世主のイエス様はそのような力強さを持った方ではありませんでした。

ユダヤ人は自分たちの待ち望む救世主のイメージからかけ離れていることを理由に、イエス様を十字架につけてしまったのではないでしょうか。総督ピラトはイエス様の本質を見抜いていました。つまりピラトはイエス様を本気でユダヤ人の王と考えていたのです。そのことは、300年後に証明されます。ローマ帝国はキリスト教を受け入れ、キリスト教国になるのです。歴史学者のハラリも「不思議なこと」という言葉を使って、このことを表現しています。この説明は「本気でイエス様に聞き従った人々」と「神の計画」によってなったとしか言いようがないのです。一つの宗教が覇権帝国主義を凌駕したのです。彼こそ真の王ではないでしょうか。彼は武力という方法ではありませんでした。彼の武器は、愛と恵みでした。私は、キリスト教や教会が衰退する原因は、ずばり「人がイエス様に聞き従わない。」からだと思います。

私も4年前に、仕事を早期退職して、東京バプテスト神学校へ入学し、実家で両親の在宅介護を始めました。最初は信仰に燃え、仕えるものとして、イエス様に聞き従って、「私はできる。」と自信満々でした。しかし、両親の衰えが進むと、介護が大変になり、身体が悲鳴を上げ、自分を優先するようになりました。とどのつまりが、両親の介護度も上がり、自分では面倒を見切れない状態になってしまい、施設に預ける決断をしました。私は、あのペテロのように激しく泣きました。「私はあなた様の靴の紐を説く値打ちもないものです。」、と。しかしイエス様は、そんなダメ人間が大好きです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」彼は本当に優しい方です。

私たちは、イエス様に近づこうとしても、なかなか近づけないダメ人間です。また、世の中でもたくさん失敗や挫折を味わいます。でも、イエス様はそんな私たちに再び声をかけてくださり。私を愛しているか?と優しく聞いてくださり、私の羊を飼いなさいと言ってくださるのです。真の王であるイエス様が、今日も私たちを優しく取り扱ってくださるのです。帝国主義を凌駕するイエス様の方法は、この愛と恵みです。私たちも、この愛と恵みという方法で、再びイエス様の羊を探し出そうではありませんか。

 

「命をいつくしむ神」マルコ9章33~37節

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

マルコ9章35節

 

今月は平和について考えています。先日私はどんぐりの種から芽が出た苗をいただきました。苗を見ていて、その方の命に対する姿勢、慈しみ、あたたかいまなざしを感じました。どんぐりが本当はこんな素敵な命なのだということを教わりました。

どんぐりの背比べということわざがあります。どれも代わり映えのしない者同士が競い合っている様子をあらわすことわざです。ひどいことわざではないでしょうか。本当はひとつひとつ違う命です。このことわざは自分はどんぐりとは違う場所に居て、上に立ち、二人を比較し、評価するという視点を持っています。2つの命の小さな違いが大事なのではないでしょうか。どんぐりは、小さくて踏みつけられそうな命です。私はそんな捨てられてしまうどんぐりに命を見出し、温かいまなざしを注ぎたいと思います。命をはぐくんでゆくことが平和の始まりだからです。

今日は聖書で競い合う弟子を見ます。どんぐりの背比べです。イエス様はどちらが偉いかを競い合う弟子に、この命を大切にする様を見せました。今日私たちはイエス様の命への慈しみを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

イエス様は35節で「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言います。イエス様は競い合うこと自体は否定しません。私たちには切磋琢磨し、励まし合い、高め合うことができるのです。

イエス様は「すべての人の後となるように」と言っておられます。後になるとは先を競うのではなく、後を競うということでしょう。後ろの人とは、集団についてこれずに遅れてしまう人、いつも後回しにされてしまう人の事でしょうか。他にどんな人が後になっているでしょうか?

イエス様は私たちに、後回しになってしまう人たちに目を向ける人が偉いと言います。そして36節は私には、この中で誰が一番偉いかという競争に、イエス様も参加したように見えます。どんな人が偉いかを具体的に示そうとしたのです。イエス様はこどもと手をつなぎました。さらにイエス様はこどもを人々の真ん中に立たせます。いつも隅に追いやられている者を、真ん中に呼んだのです。さらにイエス様はこどもを抱きしめます。愛をもってその命を自分の腕の中に迎えたのです。それがイエス様の命へのまなざし、もっとも偉いお方の姿です。

そしてイエス様は最後に「この命を大切にすることが、神様を受け入れる事だ。」「この命を受け入れる者は、神様に受け入れられる」そう語ります。後回しにされてしまう命、見過ごされてしまう命、遅れて取り残されてしまいそうな命、イエス様はこのような命こそ、受け入れるお方です。命への慈しみを持つお方なのです。

私たちもそれぞれの命に目を向けましょう。命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。イエス様はその命を大切にはぐくむお方です。イエス様はその命と手をつないで、真ん中に招き、抱きしめ、愛して下さるお方です。お祈りします。

 

「パン種に気をつけなさい」マルコ8:14~21

そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。マルコ8章15節

 

この1ヶ月は平和をテーマに宣教をしています。戦争は、小さなことがきっかけで起こります。小さなことに対しての気持ちが、どんどんエスカレートし戦争が始まってゆきます。戦争は一人一人の小さな思いから始まってゆくのです。小さなことが大きくなってゆくのは、平和も同じです。平和はみんなの小さな気持ちから広がってゆきます。私たちは小さな平和を持ち寄って、大きな平和を実現させてゆきましょう。一人一人の生活の中で、お互いの中で、平和を造り出してゆきましょう。自分ができる平和に思いを巡らせて、祈ってゆきましょう。

今日は聖書から、イエス様は罪を小さくしてくださるお方だということ、そしてイエス様は「平和は大切」そう思う小さな気持ちを大きくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。

今日の聖書ではパンを忘れたという小さな出来事が、弟子たちの間で大きなイライラに発展しています。イエス様は15節で「パン種によく気をつけなさい」と言います。聖書においてパン種は善いたとえにも、悪いたとえにも使われます。どちらも小さくても人間全体に影響するという意味です。今日の個所は悪いイメージの方で使われています。おそらくイエス様は小さな出来事が、誰が食べるのか、誰の責任か、そのような大きな思いへと広がっていくことを見抜いたのです。今、自分の中にある悪い思い、パン種、罪に気をつけなさいと言ったのです。困った時にふと思う悪い思い、一人一人の中にあるパン種、罪に気を付けなさいと言っているのです。

イエス様が目を向けさせようとしているのは19節「あの時パンが増えたではないか」ということです。5000人のパンの奇跡は圧倒的に足りなかったものが、不思議と増えて、満たされて、余るほどになったという奇跡でした。イエス様は今度は、善いものが増えるイメージを語っています。ここでは神様は小さくても良いものを大きく広がるようにしてくださると伝えているのです。

平和への思いも同じです。それぞれが持っている平和への思いは小さく、できることは目の前の人との平和だけかもしれません。でもイエス様はその小さな平和を大きくしてくださるお方です。イエス様は「あまったパンはカゴいくつだったか」そう呼びかけます。私たちの小さな思いを大きくしてくださること、小さな平和への思いを大きくしてくださる約束をお持出させてくださっているのです。そして私たちは小さくても悪・罪に注意をしたいのです。イエス様は今日私たちに「パン種に気を付けなさい」と呼びかけているからです。

イエス様は私たちに「悟りなさい」と呼びかけています。小さくても悪いものが大きくならないように、そして小さくても良いもが大きくなるように、イエス様が導いてくださいます。私たちはその希望を持って、歩みましょう。イエス様の声を聞きましょう。共に平和を祈って、イエス様に従って歩みましょう。お祈りします。

 

「権力を監視する教会」 マルコ6:14~29

ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。マルコ6章16節

 

今日から8月の平和祈念礼拝まで「平和」をテーマに聖書を見ます。ウクライナ侵攻について、特に私が心を痛めているのは、キリスト教のロシア正教会の最高指導者がこの侵攻を支持し、宗教的お墨付きを与えていることです。ロシア正教の司祭は兵士や戦車、ミサイルに聖水をふりかけ、祝福の祈りをし、軍隊を鼓舞しています。私たちもキリスト者としてこの戦争に対し無関係ではありません。宗教が戦争・平和にどのように関わるべきかをこの戦争からも痛感しています。

宗教は腐敗した権力と結びつくことによって腐敗し、平和を妥協するようになります。宗教の役割は戦争の芽に誰よりも早く気づき、平和を訴えることです。そのためには宗教が国家・行政の監視することが大事です。だからこそ、私たちはこの礼拝の中で平和について考えます。宗教が戦争に反対することは、戦争を防ぐための非常に効果的な方法なのです。私たちは平和に関わる責任と、平和への影響力があります。今日は地上の権力に目を注ぐ、平和を求めることを、聖書から聞きます。

ある日、ヘロデはお友達を読んで、誕生日パーティーをしていました。これはユダヤ版の「桜を見る会」です。権力の腐敗の象徴です。腐敗した権力者はパーティーでも、失言をします。そして自分の発言が間違っているとわかっていても、権力が弱まることを恐れ、決定を覆すことができません。ヘロデはパーティーを盛り上げるため、自分の失言・失敗を隠すため、自分の権力を守るためにヨハネを殺しました。

一方のヨハネは権力者にも間違いをはっきりと指摘できる、宗教者のモデルです。彼は権力者の間違えを告発し、民衆にそれを訴えていたのです。だからヨハネは権力者たちにとって都合が悪く、殺されたのです。このように権力者はお友達を優遇します。権力者は間違えを認めません。権力者は都合の悪い者を殺すのです。

ヘロデにとってイエス様の奇跡とは、自分の権力を危険にさらすことでした。その奇跡は権力への抵抗を含み、人々に勇気を与え、人々を目覚めさせ、権力に変革を起こすものだったのです。

私たちは今日の個所で、権力は必ず腐敗すること、権力は必ず人の命を踏みつけにしてゆくこと、そしてそれに反対をするのは、宗教の大切な役割だということを学びます。権力者がもっとも嫌がるのは、声を上げる宗教者なのです。権力者はヨハネもイエス様も殺すほど、口出しされるのが嫌なのです。だからこそ私たちの教会は平和への監視を続け、声をあげてゆきたいのです。それはもっとも権力者が恐れ、平和に向けて効果のあることなのです。

神様はヨハネ、イエス様、そして私たちを、平和のために、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように派遣しています。私たちは平和を大切にしましょう。この礼拝で平和を考え、訴えてゆきましょう。常に権力が平和の実現に向かっているかどうか目を注ぎ続けてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「地域の必要に応える教会」マルコ6章30節~44節

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。マルコ6章41節

 

こひつじ食堂を通じて、この教会は私たちのためだけではなく、地域の人のためにあると知りました。教会が地域の困りごとに一緒に向き合う時、人々は励まされ、生きる力を受け取ってゆくのです。

人々の必要に応えない教会は、やがて役割を終えてゆくでしょう。なぜなら地域から必要とされない教会だからです。地域から必要とされる教会はきっと残ります。神様がまだ使命を下さっている教会は必ず残ります。私たちの教会には希望も不安もあります。その時私たちは、地域の必要に耳を傾け、応え続けてゆきましょう。誰も礼拝につながらなくても、それが私たちの生き方だからです。今日、神様は他者の必要に応えるように、私たちを導いているということを見ます。神様は私たちに「他者のために生きよ」と語っていることを見たいと思います。

今日は5000人の食事の場面です。マルコ福音書はイエス様が「深く憐れんだ」という事を強調しています。イエス様は人々が孤独で、お腹が空いていることを知ったのです。それはつまり、人々が今、何を必要としているのかを知り、自分の事の様に深く共感したということです。一方、弟子たちも人々の必要は知っていました。しかしこの人々の必要を満たすのは私たちの役割ではないと考えたのです。

イエス様は弟子たちに向けて「あなた方の手で人々の必要を満たせ」と言います。しかし弟子たちはやはり、自分の必要にしか目がいきません。弟子たちを攻めるのもかわいそうかもしれません。みんな自分のことで精一杯だからです。だって私たちには5つのパンと、2匹の魚しかないのですから。

でもイエス様の奇跡はそこに起きるのです。自分の必要にしか目がいかない弟子に、他者の必要には応えられないと思う弟子に、奇跡が起こるのです。41節で弟子たちはパンを配る係をします。つまりそれは他者の必要に応える者に変えられたということです。イエス様は弟子たちを、必要に応える者に変えたのです。他者の必要の応える働きこそ、神様の働きなのです。それができることが奇跡なのです。

私たちもこの弟子になりたいのです。他者の必要から目をそらすのではなく、必要に応える者となりたいのです。自分の分さえ足りないけれど、でも他者の必要に応えてゆきたいのです。私たちには奇跡が起きて、必ずそれができるはずです。

これから私たちは主の晩餐を持ちます。弟子がパンを配る奉仕に目を向けます。配餐の奉仕はただ配る係ではなく、他者の必要に応えるように変えられた弟子たちの象徴です。この主の晩餐は他者の必要を満たすことの大切さを覚えるために持つものです。神様はきっと他者の必要を満たすということを私たちの教会の使命、一人一人の使命としてくださるはずです。私たちは地域の必要に耳を澄まし、必要に応える教会でありたいと願います。それがこひつじ食堂ですでに始まっていることではないでしょうか?お祈りします。

 

「再発見、近所の教会」マルコ6章1節~6節

 

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた

マルコによる福音書6章4節

 

5月・6月と聖書のたくさんの個所が「こひつじ食堂」と重なることを見てきました。教会は「こひつじ食堂」を始めて多くの人に身近に感じてもらえるようになりました。入りづらい教会でも、一度、内側に入り、互いに交流し、楽しいことがあれば、ぐっと身近になります。教会は地域の人にもっと身近に感じてもらうということが必要だったと気づきます。教会を身近に感じるということは、キリスト教を身近に感じてもらうこと、神様のことを身近に感じるということにつながるはずです。私たちの食堂では「布教活動」は一切しませんが、神様は身近にいる「インマヌエル(神は我々と共にいる)」ということを伝えることに、すでに一部で成功しているのではないでしょうか。神様を身近に感じることの大事さ、そのことは今日の個所にも書いてあると思います。

イエス様は故郷である小さな村ナザレに帰っていました。しかし誰もそんな場所からキリストが生まれるとは思いませんでした。人々は、キリストはもっと特別な人だと想像していました。そしてもし、キリストがいたとしても、自分なんかは決して近づくことができない、雲の上におられるはずだという思いました。ナザレの人々には神は身近なものではない、そんな思い込みがあったのです。地域の人はイエス様がキリストではない理由、出生、家系、職業を挙げ始めます。「お前は俺たちと変わらない、平凡な人間じゃないか」そう言ったです。ナザレの人々は、高き場所にいる神、手の届かない場所にいる神、人間とは姿かたちが全く違う神を想像していました。その神概念が信仰に入るのを妨げたのです。

しかし神様はそうではありませんでした。神様は平凡さ、普通、日常の中にいたのです。「祈ってごらんよわかるから」にあるように。「小川のほとりでも、ひとごみの中でも、広い世界のどこにいても、本当の神様は、今も生きておられる」とあるとおりです。神様は本当に近くに、身近におられるお方です。身近なところに神様の存在を発見してゆくことが大事なのです。地域の人々に伝えたいことは、あなたの身近に教会があるように、あなたの身近に神様がいるということです。

この教会の内側にいる私たちにも目を向けましょう。私たちこそ神様が身近な者です。しかし今日の個所によれば、身近な者こそ、神様を理解できなかったとあります。私たちも神様を信じられない者としてこの物語を聞きたいのです。そして神様は私たちと共にいるということを私たちも、もう一度発見したいのです。

私たちは地域の人にもっと神様、教会を身近に感じて欲しいと願って「こひつじ食堂」をしています。そして神様を身近に感じることは、私たちにとってこそ大事なことです。私たちこそ神様の身近さをもう一度見つめてゆきましょう。神様は私たちと共におられるお方です。お祈りします。

 

「命どぅ宝 ー基地はいらないー」マルコ5章1節~20節

イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。

マルコによる福音書5章8節

 

6月23日「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」、沖縄・辺野古基地の事を考えます。戦争ではなく命を選ぶ、それが「命どぅ宝」の意味です。私はこの地上から基地が無くなることを願っています。普天間で基地を一個なくすと、辺野古に一個作らなければいのでしょうか?それならずっと基地はなくならないのです。今世界全体が軍事力の神話、狂気に取り憑かれています。「命どぅ宝」という言葉はそれを私たちに問いかけているのではないでしょうか。今日は聖書から平和について聞いてゆきたいと思います。戦争はいらない、基地はいらない。そのことを聖書から見てゆきたいと思います。

イスラエルは当時、ローマ帝国が支配していました。ローマ兵はたびたび、地域の住民、特に女性たちを傷つけました。ユダヤ人たちはいつも、ローマの占領軍にこの国から出て行って欲しいと思っていたのです。それは沖縄と同じです。激しい戦争があり、軍の基地が作られました。沖縄では米軍の起こす事件が絶えません。

2節の「汚れた霊」とはローマ帝国のことです。軍事力によって世界を支配することを、汚れた霊と呼んでいます。なぜそのような読み方ができるのか説明します。レギオンとは6000人の部隊を表す言葉です。ゲラサの近くに駐留していた「レギオン」は、ローマの10個目の軍隊、第十レギオンでした。第十レギオンのロゴマークは豚と船でした。つまりこの「レギオン」とは、ゲラサの近くに駐留していたローマ第十師団を指すのです。暗示されているのは、豚と船がロゴマークのローマ第十レギオンが、海に沈むように、去っていく、そのことを願うという意味です。そして軍事力こそ人を狂気にさせる力、「汚れた霊」だと譬えたのです。

イエス様に目を向けます。汚れた霊はイエス様に7節「かまわないでくれ」と言います。関心を持たないで欲しいということです。沖縄のレギオン・沖縄の軍隊からも同じ声が聞こえてきます。無関心の間に大きな基地を作るのです。イエス様はレギオンに対してはっきり言います「汚れた霊、この人から出て行け」。ここに基地はいらないとはっきりと言ったのです。

2000年後の人間も全く変わっていません。相変わらず人間は軍事力という汚れた霊に取りつかれています。基地、軍事力はこれからますます必要だという考えは、汚れた霊です。イエス様はその汚れた霊を追い出すお方です。この物語は軍事力による支配からの解放、軍事力神話からの解放の話なのです。この物語は、私たちは平和に生きよう、そのようなイエス様の導きが描かれた物語なのです。

私たちにはイエス様がいます。イエス様は軍事力と暴力と基地を、必ず無くしてくださいます。そのような世界が必ず来るのです。そのことに信頼してゆきたいのです。私たちもイエス様と一緒に汚れた霊に向けて「出て行け」と声を上げたいのです。沖縄と世界からすべての基地が無くなること、平和を祈ってゆきましょう。

 

「真ん中に招く神」マルコ3章1節~6節

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

マルコによる福音書3章3節

 

今日は創立記念礼拝です。72周年の時「こひつじ食堂」からの福音を聞いています。私たちはこの教会の中心である礼拝堂で、食堂をしています。こどもを隅に追いやらず、中心にしてゆく教会、そのことがよく表されている風景です。ママやパパにとってはこどもから少し目を離すことができる、安息の時です。一人で来た人も、いつの間にか誰かと相席になって、話が弾んでいます。創立記念礼拝の時、教会の真ん中に何があるかを考えます。「こひつじ食堂」から見る時、教会の中心にはこどもや、子育てが大変な人がいます。一人で食事をする人がいます。教会はそんな人を教会の中心に招きます。今日は聖書からイエス様が社会で隅に追いやられてしまう人を中心に招いたことを見たいと思います。

今日の個所で会堂の人々は悪意を持っていました。イエス様が安息日という戒律と、癒しのどちらを取るのか、手の不自由な人を使って、見てやろうとしていたのです。悲しいことに、人々は手の不自由な人への同情は一切ありません。人々の心は、そのような冷たい心、かたくなな心、硬い心でした。

しかしそこにイエス様が現れます。そしてイエス様は3節で言います「真ん中に立ちなさい!」。イエス様はその人を立ち上がらせ、堂々と真ん中に立つように招くのです。この招きはどれほど、うれしかったでしょうか。それはまず彼の魂の傷を癒したはずです。傷つけられた尊厳、人格を回復する呼びかけでした。その言葉をかけられた時、彼には安息が訪れたのです。

4節は「魂を守る日か殺す日か」という二者択一です。何もしないという選択肢はありません。何もしないことは魂を殺すのと同じです。しかし4節の後半、それでも人々は黙っていました。5節でイエス様は悲しんだとあります。そのかたくなさに激しく怒り、悲しんだのです。そしてその時、奇跡が起きました。イエス様が「手を伸ばしなさい」と言うと、手から不自由さが無くなったのです。

今日、私たちの教会は何を、誰を中心にするかが問われています。私たちは社会の隅に追いやられてしまいそうな人を大切にしてゆきましょう。特に私たちは今、こどもに強い関心を持っています。こどもたち、そしてその周りにいる人、さみしいと感じている人を教会の中心に招いてゆきましょう。

神様は私たちに奇跡をお越してくださるお方です。私たちのかたくなな心に「伸ばしなさい」と呼びかけて下さいます。聖書の言葉によって、私のかたくなな心がほどかれて、柔らかくなるように、呼びかけて下さるのです。

神様は、弱き私たちを、中心へと招いてくださるお方です。隅に追いやられ、寂しい思いをしている人を中心に招いてくださるお方です。そして私たちのかたくなな心をまっすぐに伸ばしてくだるお方です。私たちはこれからも主イエスを教会の中心として、たくさんの方々を中心に招いてゆきましょう。お祈りします。

 

「心も体も満たす神」マルコ3章20~30節

 

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

マルコによる福音書3章20節

 

「こひつじ食堂」から福音を考えています。地域の方との食事は本当に楽しいです。誰でもお腹一杯になると、自然と笑顔になります。一方、誰でもお腹がすくとイライラします。非行少年に関わるおばあちゃんは「お腹がいっぱいになれば悪いことはしない」と、アフガニスタンの中村哲さんは「飢えている者に必要なのは弾丸ではない。温かい食べ物と、温かい慰めだ」と言います。空腹は家庭でも、教会でも、社会でも、世界でも衝突と紛争の原因となります。だからこそ私たちが一緒にお腹一杯になる「こひつじ食堂」は家庭、地域、社会の愛と平和の始まりなのです。今日は聖書から、お腹一杯になることの大事さをみます。そして今日は教会の暦ではペンテコステです。聖霊、特に赦しというテーマも見ます。聖書を読みましょう。

神様はどんな失敗も赦して下さるお方です。もちろん神様の赦しとは、神様が罪を無かったことにすることではありません。神様の赦しとは、何回罪を犯しても、新しく生きるようにさせてくれるということです。もうするな。そして方向転換して、生きよと神様が呼びかける、それが神様の赦しです。しかしこの赦しには、一つだけ条件があります。神様の前で自分が悪かった、そう認めることです。自分に罪はないと思っている人は永遠に赦されません。

またここでは、人間同士の赦しは語られていません。私が相手を赦すかどうかは私が決める問題です。赦したいと思えた時に赦せばよいのです。気が向かなければ、一生赦さなくてもよいのです。ただ神様は赦すということだけが真実です。

それにしてもイエス様は、忙しくて食事ができずお腹が空いていてイライラしています。普段イエス様はいろいろな人と食事をしました。そしてその食事の中で一人一人が神様との関係に、自分の罪に気づいたのです。今日の場面を見て、私は一緒にお腹一杯になることの大事さを思います。その時、新しい関係が生まれるのです。今日残念なのは、共なる食事がないまま、争いが続くことです。

今日私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。パンは小さくて決してお腹一杯にはなりませんが、記念として、象徴としてこのパンを食べます。このパンを食べて、イエス様が人々と一緒に食事をした様子を思い出します。そこには平和と愛があふれたでしょう。そして、一緒に食べると自分の罪に気づいたでしょう。神様に赦されていることにも気づくでしょう。相手を赦す気持ちに少し近づくかもしれません。

私たちはこの主の晩餐によって、共に満たされることを確認します。この主の晩餐から、愛と平和が生まれてきます。まるで食堂で笑顔があふれるように、私たちはこの主の晩餐をいただきましょう。神様は私たちを赦してくださるお方です。お腹を満たし、神様との関係の中に生きましょう。神様は私たちのお腹も心も満たしてくださるお方です。お祈りします。

 

「誰でも歓迎する食堂」マルコ7章24節~30節

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 マルコ7章27節

 

今月来月と「こひつじ食堂」から福音を考えています。多くのこども食堂は、子どもの貧困問題に関心を持って始まりました。しかし実際は誰でも利用できる食堂です。私たちも様々な人に利用してもらうため「こひつじ食堂」と名付けました。

そしてこの食堂では、宗教の布教活動を一切していません。この食堂の目的は隣人に仕えることで、自己拡大ではないからです。だからこそ誰でも来て下さいと言えます。所得や年齢、宗教や民族も関係ありません。誰でも来ていい食堂です。でも私はこの食堂は神様の愛をとてもよく表し、証ししていると思います。私たちの食堂はすべての人が招かれています。おなかも心もいっぱいになれる場所です。違いがあっても一緒にいれる場所です。食堂は地域への私たちの証しです。今日の物語は、神様は社会とこどもたちに強い関心を持っておられること、そして神様の愛はすべての人に注がれることを示しています。一緒に読みましょう。

ティルス地方は異邦人の町です。異邦人である母は娘の病の癒しをイエス様に願いました。しかしイエス様は「まず、こどもが優先だ。犬は後だ」と応えます。犬とは異邦人のことです。なんと民族主義的で、冷たい返答でしょうか!

しかしティルスは穀物をガリラヤで安く買いたたいて、海外に売り飛ばし、豊かになった町です。イエス様が27節で「子供」と言っているのはガリラヤのような貧しくされた地域のことです。まず貧しくされている国への助けが必要だということを言っています。これはイエス様が貧しい人と共にいたという聖書の全体の姿とも重なります。イエス様はこのように、社会に強い関心を持ったお方でした

対する28節の「しかし、食卓の下の小犬も」という母の発言は、貧しい国が優先され、そのあまりものを豊かな国が受け取るということです。イエス様が求めている、社会の在り方に呼応する発言でした。そして母の発言はさらに、大切なことを示しています。神様の恵みはすべての人に開かれているはずだと言っているのです。

この物語は何を示しているでしょうか。イエス様が社会とこどもへの強い関心を持っていたという事を示しています。そしてこの物語は、すべての人に神様の愛と恵みがおよぶことを示しています。イエス様と女性の対話から、社会への関心と、神様のすべての人への愛が示されているのです。この母がこの後どのように生きたのかを想像します。母はきっと子ども食堂をはじめたのではないでしょうか。

私たち自身にもイエス様との出会いによって変化が起こるでしょう。イエス様に出会って私たちは証しをしたいと思うように変えられます。私たちはこの食堂で、地域に神様の愛を証しをしています。この食堂は神様の愛を豊かに表現した食堂です。この集まりにもっとたくさんの人、様々な人が集うことができるように、祈り、礼拝し、働いてゆきましょう。お祈りします。

 

「食堂でつながる教会」 マルコによる福音書3章31~35節

周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節

 

こひつじ食堂と福音について考えています。先日読んだある記事に、独身のおじいちゃんがこども食堂でたくさんの人と食べることが、楽しい、最高だと感じていると書いてありました。やはり一人で食べるのは寂しいのです。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが対象ではありません。どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたいと思っています。

しかし振り返ると、ずっと昔から礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。教会は70年間、毎週礼拝を繰り返してきました。私たちは寂しいと思っている人を教会に誘ってきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は誰かの居場所になるのが得意なのです。礼拝の輪が広がってきたように、今食堂の輪が広がってきています。食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。今日は食堂や礼拝は、神様のもとで集い、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

イエス様の活動は家族に、まったく理解されませんでした。家族と理解し合えないことに、イエス様も寂しさを感じたはずです。従った人々の干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族のような、不思議な集まりとなりました。

34節はイエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。周りに座っている人々を見回すと、教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。

このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。高齢の方々にも、若者にもぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。

私はこの食堂のような、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。

 

「断食か、食堂か」マルコ福音書2章23節~28節

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。     マルコによる福音書2章27~28節

 

こひつじ食堂から福音を聞いています。4月15日(金)「受難日」「聖金曜日」多くの教会で受難日祈祷会を持ちました。その聖なる日に私たちは食堂をOPENしました。いつも祈祷会が行われている部屋で料理が作られ、いつも礼拝している会堂には近所の人が集まり、お弁当が販売され、おまけとしてコーヒーが配られました。聖なる日に、聖なる場所で、なんということでしょうか!

私たちの選びは、誰かのために何かを「する」ことの大事さを示しているのではないでしょうか。聖なる時間は大事です。祈ることは大事です。でも私たちは礼拝するだけではなく、人々のためにできることをしてゆきたいのです。この体を、この会堂を、他者のために使いたいのです。それが私たちが聖金曜日に食堂をする意味です。

私たちはいっぱい祈り、いっぱい礼拝します。そして地域のために、隣人のためにいっぱい働くのです。今日は、神様は私たちに、祈り、明日からまた善き行動を起こすように促していることを見てゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。 

イエス様は律法違反を指摘する人たちにダビデの話を始めます。祭司は供えてあったパンを分かち合いました。そのパンは本来、祭司しか食べることが許されていない、聖なるパンでした。しかし祭司はダビデとそれを分かち合ったのです。それは良いことをするのは物や、日時や場所を選ばないということです。必要としている人と分かち合う事、それをしてはいけないもの、日、時、場所はないということです。どんな時でも、どんな場所でも、慈しみの分かち合いは許されるのです。

この個所でイエス様は、何々をしないという事だけでなく、何をするかに注目をさせます。してはいけないことだけではなく、すべきことに目を向けさせます。

私たちは1週間の始まりの日曜日を、祈り、礼拝することから始めます。そして私たちはそこで終わらず、この1週間善き事をしたいのです。27節に「安息日は人のためにある」とあります。安息日は人のために善き事を始めるためのスタートです。人のために何か行動を起こす、そのスタートです。私たちはこの安息日をスタートに1週間、何か善き事をしたいのです。すべきことをしたいのです。

私たちは、祈りつつ、そして善き事を行うことが求められているのではないでしょうか。だから受難日に祈りつつ、働くのです。27節の「安息日は人のためにある」とは、安息日が私の魂ためにあるということ、そして安息日が他者のためにあるということです。そしてその安息日は主イエスのものなのです。

聖なる会堂、聖なる体は、他者のために使われる時、本当に聖なるものとなるのです。私たちはこの安息日から1週間をスタートします。神様から力をもらい、他者のために、善き事のために働く1週間を始めます。私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へと派遣されましょう。そしてこの会堂でまた分かち合ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

「調理で元気にする神」マルコ1章29節~32節

 

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした

マルコによる福音書1章31節

 

こひつじ食堂から見えてきた福音を分かち合っています。こひつじ食堂にはたくさんのボランティアの方々が集まり動機は様々です。みなさん、とても活き活きと、笑顔で手伝ってくださっています。ある方は障がいをお持ちで、なかなか就職をする自信が出ないそうです。でもその日の体調が良い時だけなら、自分にもできると思って、ボランティアを始めたいと訪ねてこられました。

誰かのために働くこと、それ自身がその人の活力になることを知りました。教会は何かを提供するのではなく、教会と言う場所が、やりがいと、力を発揮できる場所となっていることをうれしく見ています。これはきっと神様の働きでしょう。神様は調理するということを通じて、みんなを元気にして下さっているのです。

今日は聖書から、立ち上がった女性がすぐに、他者のために働く姿を見ます。私はこの姿がボランティアの方々に重なります。イエス様はそのように人々に活力を与えてくださるお方なのです。今日はそのことを見てゆきましょう。

今日の聖書箇所で、女性は熱にうなされています。イエス様はそのような場所に、イエス様の方から来て下さるお方です。私たちの人生にも高熱を出し、立ち上がれない、しんどい時期があるものです。その時、イエス様は私たちを訪ねてくださるお方です。そして私たちがもう一度立ち上がることができるようにして下さるのです。

立ち上げられた女性は31節すぐに「もてなした」とあります。こひつじ食堂を通じて、私は誰かに料理を作り、手渡すことの喜び、あふれてくる活力を知っています。きっと彼女は活き活きと料理をしたのではないでしょうか。

イエス様は病や弱さを持っていた人を、起き上がらせました。そして、また元気にさせ、活力を与え、みんなのために仕える人としました。それがイエス様が起こした奇跡です。熱はしんどかったけど、熱を出す前よりももっとみんなとの関係、イエス様のとの関係は深くなりました。イエス様はそんな奇跡をここで起こしたのです。

イエス様は私だって誰かのために、何かしたい。体と時間の許す限り、誰かのために生きたい、そんな女性の願いをかなえ、立ち上がらせ、働く者とするお方です。私はこひつじ食堂を見ていると、この聖書の個所をそのように感じます。

神様は苦しいとき、私たちを訪ねて下さるお方です。私たちもそのように、苦しむ人がいる時、共に歩み、神に祈りましょう。神様は私たちをもう一度活躍できる、誰かのために働けるようにしてくださるお方です。誰かのために祈れる者としてくださるお方です。誰かのために生きる者としてくださるお方です。私たちに生きる活力をお与えくださるお方です。そして神様はもう一度、私たちを強く結びつけてくださるお方です。私たち、この神様を信じましょう。共に従ってゆきましょう。力をいただき、誰かのために働き、祈ってゆきましょう。お祈りします。

 

「5000人食堂」ルカ9章12節~17節

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。ルカ9章16~17節

 

今年度の主題聖句をルカ9章16~17節としました。市内には他にもこども食堂があり、私たちの「こひつじ食堂」もその方たちに教わりながら始めました。しかし私たちにはきっと別のルーツがあります。イエス様がいろいろな人といろいろな場所で食事をしたことが「こひつじ食堂」のルーツです。

私は最近、聖書を読んでいると読む個所、読む個所にこひつじ食堂のことが書いてあるような気がしています。今日から2か月「こひつじ食堂」をテーマにして、聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

今日の聖書箇所を読みます。今日はイエス様がパンを増やしたという「奇跡」よりも、一緒に食べるということを通じて、人々の心、体、関係など様々なニーズが満たされていったということに目を向けます。

人々は食べ物の分かち合いによって、5000人のにぎやかな食事によって、おなか一杯、楽しく食事をしました。そしてもう一度、生き生きと歩んだでしょう。励まされて、自分の元いた場所に心の余裕を持って戻ったでしょう。ストレスが解消されたでしょう。病気がすこし良くなったという人もいたかもしれません。

13節には「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とあります。この食事の主催者はイエス様です。イエス様がこの食事をするようにと弟子に命じました。すべての始まりはイエス様の言葉です。この言葉は2000年前の言葉です。でもこれは私たちへの言葉でもあるでしょう。この言葉がこひつじ食堂のルーツです。

14節には「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」とあります。バラバラだった5000人はイエス様の指示によって50人ごとのグループにされます。50人になって、交わりを持ち互いにおなかが空いているのを表情から知ったでしょう。そうしていると奇跡とも言える分かち合いが起きたのです 。

16節は主の晩餐の際によく使う表現です。イエス様は5000人の食事を主の晩餐として持ちました。この5000人の食事が主の晩餐だとするなら、私はすべてがつながります。5000人の食事と、こひつじ食堂と、主の晩餐がすべてひと続きです。実は私たちがしているこひつじ食堂は、5000人の食事であり、主の晩餐なのです。私たちの食堂は、主の晩餐がルーツだともいえるのです。

今日私たちもこのあと主の晩餐式をもちます。これを食べる・飲むことによって、バラバラの私たちは、顔の見える、分かち合いの関係の中に入ります。イエス様のもとで分かち合う5000人・50人になります。共に食べることによって、こひつじ食堂のように、励まされ、またそれぞれの場所で力強く歩むようになるのです。

私は17節「すべての人が」とあるように、いつか食堂にも主の晩餐にもすべての人に加わって欲しいと願います。賛美の後、ともに主の晩餐をいただきましょう。

 

「はじめての教会」マルコ1章16節~20節

 

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

マルコによる福音書1章17節

 

先週はマルコの最終章が1章につながっているということを見ました。ですから今日は1章、ガリラヤのイエス様と弟子の最初の出会いを見てゆきたいと思います。

教会には絶えず初めて礼拝に来たという方がいます。わたしたちは初めて来た人も大切にする教会です。準備は必要ありません。緊張せず、手ぶら、普段着で結構です。見知らぬ場所、見知らぬ人に会うのはとても緊張して、勇気がいるものです。来るのに勇気がでないという方がYouTubeで、見ているでしょうか。その方たちに伝えたいのは、あなたはここに来てOKということです。すべての人がこの礼拝にふさわしい人です。失敗はありません。とにかくこの時間を一緒に過ごしてくれればOKです。ぜひ一緒に礼拝しましょう。教会はそのような方たちを温かいまなざしでお迎えします。私たちはまず自分から自己紹介をさせていただきます。

とにかく私たちは聖書の事もお互いの事も、わからないながらも、この場所にいよう、人生を一緒に歩もうとする集まりです。今日は聖書から、イエス様のことを全部わかるわけではないけど、私たちは神様に招かれているということ、そしてイエス様と一緒に歩むということを聞きたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

今日はマルコ福音書1章16節~20節です。今週も肝心なことが書いていないと思います。それは弟子たちが従うまでの葛藤です。経緯が記されないと、印象に残るのは、やはり直前の「私についてきなさい」という言葉です。

「ついてきなさい」という言葉は「一緒に歩もう」という意味のある言葉です。つまり「ついてきなさい」とは「一緒に歩もう」という意味です。まずイエス様は、イエス様の方から会いに来てくださるお方です。何の準備もないもない、知識もない者に声をかけるのです。神様は最初は誰にとっても、名前も知らない人です。見知らぬ人です。でもその方に「一緒に歩もう」と誘われ、一緒にいるようになるのです。

そしてイエス様が現れる場所も見ておきたいと思います。イエス様はなんと仕事中に突然現れるのです。神様は日常生活の中に現れると言えるでしょう。

そしてもうひとつ見ておきたいのは、神様は特別な人に現れるのではないということです。知恵と理解力とパワーのある人に現れたのではありません。ごく一般人に、私に現れるのです。初めての人にも現れるのです。それが神様の選びです。神様の温かいまなざしは毎日を生きる私たち、全員に注がれているのです。

今日、私たちはそのイエス様に「一緒に歩もう」と呼びかけられています。イエスさまと一緒に歩みましょう。この仲間と共に歩んでゆきましょう。

神様は私たちの日常に、先に、すでにおられるお方です。先週見た「先にガリラヤへ行かれた」とはそのような意味です。私たちの主は、私たちの日常に先に行っておられます。今週もそれぞれの場所で、共に主イエスと出会ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

「終わりじゃない、終わり」マルコ福音書16章1節~8節

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』マルコによる福音書16章7節

 

転入会を歓迎します。誰かの死は人を大きく変えると感じます。死は人の気力を長く奪います。しかし同時に死は人を動かします。2つの意味で死はスタートです。ひとつは天に召された人にとって、神様のもとでの歩みを始めるスタートです。そしてもうひとつは、地上に残された者たちにとって新しいスタートになります。終わりと思う場所は、終わりではなく、スタートにつながっているのです。

今日の聖書個所も特に「これは終わりじゃない、スタートなのだ」そのように言える個所です。今日見たいことは、復活の主は、終わることなく、私たちに繰り返し、出会ってくださるということです。共に聖書を読みましょう。

9節以降の〔カッコ〕は当初は聖書に書かれていなかった文章で、後の時代の人が後から付け加えた文書だということを示しています。マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたのです。その後の復活のありさまについて記していないということです。これはとても唐突な終わり方に感じます。後の時代の人の中に、こんな終わり方ではよくないと思って、話を付け加えた人がいたのです。

まるで終わり方の中途半端なドラマを見ているようです。しかし8節で終わることはまさしく、マルコ福音書の著者の狙っていることです。あえて8節で終わらせイエス様が「ガリラヤに先にいっている」という印象を残して終わっているのです。

テレビドラマだとしたら視聴者は不思議に思ってもう一度見返すでしょう。それがドラマ制作者の狙いです。ドラマの制作側からのメッセージは、このドラマの意味を分かるには、もう一度第1話から見てくださいというものです。

つまり「ガリラヤに行かれた」という終わり方は、これまでこの福音書に書かれてきた、ガリラヤのイエス様とはどんな人だったのかをもう一度見るように、そう促しているのです。イエス様が地上でどのように生きたか、1章からもう一度見よと指し示しています。再びイエス様の地上の歩みを読む時に、十字架のイエス様がガリラヤでどのように歩んだかを知る時、イエス様の姿が、私たちの心の中にもう一度、生き生きと浮かびます。共にいると感じることができるのです。もう一度イエス様と出会うことができるのです。私たちは今日、そのことを「イエス様は復活した」と呼ぶことはできないでしょうか?

私たちは今日からまた繰り返し、聖書を読み返してゆきたいのです。イエス様の復活を聖書の中に見つけてゆきたいのです。もう一度読み直す時、あなた自身が主イエスの復活に出会うだろうと指し示めされています。「復活の主はガリラヤに先におられる」とはそのような意味ではないでしょうか。今日の個所に復活のありさまは書かれていませんでしたが神様はこのようにして、私たちを復活の主と出会わせて下さいます。終わりとスタートを結び付けてくださるのです。今日、共にその主の復活、スタートを喜びましょう。お祈りいたします。

 

「十字架に向かう神」マルコ14章32~42節

イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14章33~34節

 

ウクライナで戦争が続いています。自分の死を目の前にして、眠ることができない人がいるでしょうか。私は人間がこのような戦争をすることを恐ろしいと思います。そしてもっとも恐ろしいのは、戦争の中でも神様が沈黙しておられることです。

一方、今日の個所から思い出すことは、私たちの神様は苦しみのただなかにおられる神様なのだということです。私たちの神様は、苦しみもだえ、祈る神様なのです。そのことを今日、覚えたいのです。そして神様がいる場所に、私たちも目を向けたいのです。今日の聖書箇所を一緒にお読みしましょう。

今日の個所で、イエス様は33節ひどく恐れてもだえ始め、34節「死ぬばかりに悲しい」と語っています。イエス様は弟子たちが眠る前から、すでに苦しみ、悲しみを持っていました。やはり、自分が死ぬということが悲しかったのでしょうか。

しかしイエス様の苦しみは、ただ自らの死の恐怖や、孤独だけではないと思います。これから起こる死は、神に最も愛された人の死であり、神の子の死です。人間は神をも残酷な十字架につけることができるのです。イエス様は人間の身勝手さ、残酷さに恐怖を感じているのではないでしょうか。

そして、もう一つイエス様が恐ろしいと感じたことがあったと思うのです。それはこの状況になっても、神様が沈黙を続けているということです。今日の個所には神様の発言はなく、ひたすら沈黙を続けています。イエス様がもっとも恐ろしかったのは、神様がずっと沈黙をしていることだったのではないでしょうか。

そのとき神様どこにいたというのでしょうか。私たちは知っています。神様は十字架の上にいたということを知っています。神様はもだえ苦しみ、死んでゆくものとして、十字架の真ん中におられたのです。私たちの神様は苦難の時、恐怖の時、痛むとき、声はしなくても、共にいるのです。その苦しみの真ん中に共にいるのが神様なのです。十字架はそれを表しています。

今、神様はどこよりも、ウクライナの人々と共におられるでしょう。攻撃された病院のがれきの下におられるでしょう。戦争に恐怖を感じ、傷ついたこどもたちと共におられるでしょう。未来を見渡せなくなって悲しむ人々と共に神様はおられるでしょう。戦争の中で神様はどこにいるのかと叫ぶ時、その真ん中におられるでしょう。神様はそのように苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、あるいは共に死んでゆくお方です。声は聞こえなくもと、神様はそこに確かにおられます。そして神様はもだえ苦しみ、死んでゆく命を、蘇られせるお方なのです。

42節でイエス様は「立て、さあ行こう」と言います。イエス様の目的地は十字架です。十字架に行こうとは共に苦しみの道を歩もうということ、そして苦しみを感じている人に目を向け祈ろうということでしょう。イエス様は立って、十字架に行こうと促しています。私たちはその主イエスに従い、目を覚まし祈り続けましょう。

 

「神は計画を変える」マルコ9章2~10節

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。マルコ9章2~3節

 

今日から新年度に変わります。新しい計画を進めてゆく時には必ず紆余曲折があるものです。元の計画は必ず変更になります。最後に完成した姿を見ると、最初の計画とは似ても似つかない、違うものになっていたということはよくあることです。

計画は直線的であっても、実施は柔軟な曲線のようなものです。私たちが祈るのは、計画が私たちの考えた通り、まっすぐ直線的に実現されることではありません。この計画に神様の力が働いて、変えられて、私の計画が曲げられて、神様の計画が実現されてゆくことを祈りたいと思っています。

今日は、私たちの人生には神様がいつも共におられること、そして神様は私たちの計画を変えながら、導いてゆくことを見てゆきます。

今日の個所は「キリストの変容」と言われる箇所です。受難節にこの個所を読むとイエス様の人生は紆余曲折の連続だったことを知ります。その紆余曲折を図にすると次のとおりです。この紆余曲折はすべて神様によって起こされた事です。2節にも正確に翻訳すると「変えられた」という神的受動態が使われています。そして変えられたイエス様は、山頂にそのままずっと留まったのではありません。山を下り十字架へと向かってゆきます。そしてその後には復活があります。再び神の栄光を受けるときが来るのです。このようにイエス様の人生は紆余曲折します。神はそのように人の計画を変えて導かれるお方です。

今日、このような人生と計画が紆余曲折する中で覚えておきたいことは、私たちの人生の紆余曲折の中にもイエス様がいつも共にいるということです。

イエス様は一人で山に登ったのではありません。2節、イエス様が弟子が引っ張ってくださったのです。神様が栄光の場所へと共に連れて行ってくださるのです。神様はそのようにして、人間にできないこと、計画にないことを見せて下さるのです。

9節には「一同が」山を下りるとあります。イエス様は共に、山から下りてきてくださるお方です。それはイエス様がベツレヘムの家畜小屋に生まれてきてくださったことと似ているでしょう。人間の住むこの世界に、イエス様は私たちと共にいてくださる、下ってきてくださるのです。

このようにして神様は私たちと共にいて下さるお方です。人生の紆余曲折の中で共にいて下さるお方です。そして神様は、私たちの思う計画を変えるお方です。神様ご自身の計画を実現されるお方です。私たちの人生は、私たちの教会の計画は一直線に実現するのではないでしょう。神様が計画を変えるでしょう。

そのことを覚えてそれぞれの1年を歩みだしましょう。お祈りいたします。

 

「もう十字架を背負わせるな」マルコ8章27~38節

 

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

マルコ8:34

 

ウクライナの戦争について、私はイエスの非暴力の観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持しません。こうなる前に互いの脅威となる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったと思います。しかし世界は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し合い、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。

私がまずウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事を祈ります。銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲とされた人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。そして世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことを祈ります。私たちは受難節、イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。

31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。ここには人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのとはありません。権力者から排斥されて、殺される出来事なのだとあります。34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。イエス様ご自身に十字架を背負わせたのは権力者たちです。それは戦争と同じです。自分の都合の悪い者は殺すという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。

私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。戦争とは誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。

イエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。

イエス様はこのような暴力の時代に私の平和のことばを恥じるなと言います。今も同じ時代です。イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。

 

「神と野獣」マルコ1章12~15節

 

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコ1章13節

 

受難節の40日間、転入会やバプテスマの準備を始める方を特に歓迎する期間としたちと思います。私たちにとって仲間ができることは心強いものです。私たちの交わりは相手を変えることが目的ではありません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。

私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはなく、マルコにだけに記載があることがあります。それは40日間「野獣と共にいた」ということです。マルコによれば、イエス様はサタンと野獣をやっつけたのではありません。40日間「野獣と一緒におられた」のです。ここから示されていることはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。

イエス様は15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りに支配できる、それが私の国です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。イエス様が言う「神の国」とは異なる者が一緒にいることなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。

教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会い自体が大事です。教会は相手を変え、打ち倒すのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。

世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。

最後に、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができず、傷つけあっている者、私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。

今週も私たちはそれぞれの場所へと派遣をされ、それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごします。そのようにして、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。

 

「さよなら原発」マルコ10章42~45節

しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、

皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

マルコ10章43~44節

 

今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝とします。今日は特に原発の問題を覚えます。福島第一原発の処理水は、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。福島の漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。廃炉も進みません。核のゴミ、デブリを誰かが引き取らなくてはならないのです。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。

原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にならないことを求めてこの礼拝を持ちたいと思います。

「イエス様が私の罪の身代わりとして十字架にかかり、それにより私の罪は赦され、神の愛を知った」という理解を贖罪論といいます。贖罪論は古くから信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人は苦手で、贖いをうまく説明をすることができません。むしろ贖罪論には注意が必要です。強調しすぎると、犠牲を容認することにつながります。イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたがないないと考えることにつながります。

私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。贖いよりも、十字架の上で苦しんだことに目を向けたいのです。十字架の犠牲の痛みを、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。

今日の個所の42節には「支配者」あります。ローマ皇帝は世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にしていました。そんな世界の中でイエス様は43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」といいます。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの快適さを追いかけてはいけないということです。本当に偉い者とは43節「仕える者」です。「仕える」とは食事を運ぶことに由来します。食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくことが「仕える」です。仕えさせるとは無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」、共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいと言われているのです。

イエス様は「自分は」命を献げると言いました。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。

私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。受難節、私は罪が贖われたかどうかより、十字架の苦しさを覚えます。その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。

今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「信教の自由の荒波」マルコ4章35~41節

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節

 

今月は信教の自由というテーマで宣教をしています。戦時中の大半の教会はおそらく「天皇もキリストも両方信じる」立場でした。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、天皇制と折り合いをつけて教会が生き残ることを選びました。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。皇居に一礼してから礼拝を始めました。

しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。逮捕された牧師の中には長尾三二という人がいました。彼は戦後、この教会の初代牧師となりました。私たちはその歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。

私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。今日の個所から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。

今日の個所は旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります。ヨナ書で人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も人間の分断を呼び起こします。弟子たちは人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。舟の後ろにいた、イエス様をようやく振り返り、呼びかけたのです。私はこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、まなざしを感じるのです。イエス様は弟子が自分に声をかける時を待っていたのではないでしょうか。

大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということです。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくことです。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたのです。私たちも荒波にもまれる時、舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと、この物語は語っています。

戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯でした。仲間を見捨てながら、なんとか生き残ろうとしました。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。私たちは危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。振り返りたいのです。

ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こします。平塚教会もその一つであり、その嵐を乗り越えた証しなのではないでしょうか。

私たちは、大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、信仰を守ってゆきたいのです。お祈りします。

 

「信教の自由の礼拝」マルコ2章1節~12節

「信教の自由の礼拝」

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

マルコ福音書2章4節 

 

今月の宣教のテーマは「信教の自由」です。今日は天皇制について考えます。キリスト教が天皇制に反対するのは政教分離以外に人権の問題があります。皇室には基本的人権がありません。選挙権、職業、表現、言論、結婚、そして信教の自由がありません。人権の観点からもキリスト教は天皇制の廃止を主張しています。

自由と、平等を大切にするのが私たち、バプテストです。とても自由な雰囲気の中で礼拝をしています。この自由な姿を大切にしましょう。自由が守られ、この礼拝から自由が広がってゆくように願って、この自由な礼拝を献げましょう。今日は不自由な人と自由な人が登場する物語です。それを見てゆきたいと思います。

今日登場する4人は常識破りで自由な人です。彼らは自分たちが思い立った時に出発しました。それは自由な一歩、自覚的な信仰の一歩でした。彼らはイエス様の語るみ言葉が何か起こすと期待し、出発しました。彼らの自由さは続きます。屋根に穴をあけ、仲間を吊り下げました。なんと縛られない発想、自由な人なのでしょうか。礼拝中はおしゃべり禁止、そういう堅苦しさを全く持たない4人です。

彼らはかなり自由な人ですが、痛みを持ち、立ち上がれない仲間を神様がきっと自由にしてくれるという信頼を持っていました。4人はそのような自由でがむしゃらな神様への信頼を持っていました。そしてイエス様はこの5人のことを神様への確かな信頼を持っている人だと見たのです。そこに奇跡が起こりました。私も神様にそんなまっすぐな信頼を向けてゆきたいです。彼らは聖書の言葉を聞けば自分たちに何か起こると信じ、神様に信頼し、自由に駆け出し、自由に礼拝をしたのです。

そしてこれこそ信教の自由です。自由に信じ、駆け出し、自由に礼拝する。このようにすべての人に信教の自由があればよいと願います。そしてこの5人の自由さを見ると、本当に天皇制の息苦しさに胸が詰まります。

また私が不自由を感じる時、床に横たわり吊り下げられる人に目が行きます。私も同じです。自分ひとりだけでは礼拝できないのです。誰かに誘われ、導かれ、誰かが待っているからそこに集い、神様の言葉を聞くことができるのです。しかしその弱さの中に、不自由さの中に、神様の力は働くのです。

神様の言葉のあるところには何かが起こります。私たちにも今日、何かが起こるでしょう。なかなか体の動かない私たちに、立ちなさい、行きなさい、自由になりなさいと励ましの言葉がかけられるでしょう。み言葉というのはそのようにして、人にはできない出来事を起こすのです。自由さを起こすのです。

私たちは礼拝できる自由があります。そしてこの礼拝は自由を分かち合う礼拝です。私たちを自由にする礼拝です。この礼拝から、礼拝する自由、信教の自由が日本と世界に、天皇制の廃止へと広がっていくことを願います。お祈りします。

 

「信教の自由と死」マルコ4章1節~9節

 

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、

あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 

マルコによる福音書4章8節

 

今月は宣教のテーマを信教の自由としています。葬儀とは人生最後の信教の自由ともいえるでしょう。キリスト教の葬儀では「喪主」という言葉を使わず、親族代表と呼びます。なぜなら葬儀の「主」は神様であり、親族や亡くなった故人でないからです。死を悲しむと同時に、人生に感謝し、神様に礼拝を献げることが目的です。故人の生前の偉業を評価することはしません。

信教の自由と死ということを考えるなら、靖国神社の問題を避けることはできません。靖国神社は「国のために命を落とした人を祀る神社」です。誰かを「国のために死んだ」と一方的に評価し、国の英雄としています。そうして戦争で死んだことを美化し、戦争の犠牲者を美化する装置として働いています

キリスト教はこのような死の扱い方に反対します。犠牲や失敗を美化してはいけないのです。私たちの人生には成功と失敗があるように、人間にも成功と失敗があります。そのような人生の中で私たちは、恵みに感謝すること、失敗を美化せずに向き合い生きること、それが神様の下で、精一杯生きるということでしょう。

今日の聖書箇所を見ましょう。あの人は良い種、あの人は悪い種という読み方は気分が悪いです。13節以降は後の教会の人々が加えた説明ではないかと言われます。今日は、もう少し希望のある読み方をしましょう。

種をまくことは希望です。一方、種の中でも意図せずこぼれてしまう種があります。それは希望の出来事の中でも、うまく実を結ばない出来事があるということです。数えきれないほど、人生の出来事はたくさんあります。でもすべてがうまくいくとは限らないのです。災難、病気、事故、感染症に振り回されることがある、それが私たちの人生です。豊かに実る時もあれば、実らないこともあるのです。その中で私たちは精一杯生きるのです。たとえすべてが実るわけではなくとも、今日の様に種をまき続けるのが私たちの人生なのです。

危険なのは失敗が無かったことにされることです。他の人が好き勝手に人生を評価することや、失敗が美化されることは危険です。それはイエス・キリストの死への理解もつながってくるでしょう。キリストの死は美化されてはいけません。それは本当に苦しい死だったはずです。私たちはそれを忘れたりしません。そしてそれを美化したり、見習うべき犠牲としないのです。十字架を、犠牲を、もう二度と起きてはいけないこととして覚え、理解したいのです。そのようにして、死を美化すること、失敗をなかったこととすることに反対をしたいのです。

聖書は私たちが生きる時、成功も失敗もあると告げています。大切なのは、私たちが失敗を失敗として心にとめてゆくこと。そして恵みを恵みとして心にとめることです。神様はそのことを「聞きなさい」と言っているのではないでしょうか。

 

「信教の自由の種」マルコ4章31~32節

それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。

マルコによる福音書4章31~32節

 

2月は信教の自由を宣教のテーマとします。17世紀のアメリカには、信教の自由がありませんでした。選挙権は教会籍のある人に限定されました。通う教会は政府が指定し、それ以外の教会に出席すると処罰されました。政府が公認した牧師のみが説教し、資格のない人が説教をした場合、死刑にされることもありました 。

そんな時代に自由と自覚的な信仰を守ろうとするバプテストというグループがいました。彼らは本人の自覚のない洗礼をせず、無資格の牧師を自分たちで選び礼拝するという危険なグループでした。そして信じる宗教によって行政が迫害や処罰をすることに反対したのです。これがアメリカの信教の自由の始まりとなりました。

やがてアメリカの憲法第一条には「この国では国教を定めてはならない」「自由な宗教活動を禁止する法律を制定してはならない」と記されました。私たちバプテストには信教の自由を見守り続けてゆく責任があるのです。

今日の箇所、イエス様は神の国について種まきとからし種のたとえ話で教えています。神の国とはキリスト教が国教になること、全員が洗礼を受けることではありません。では神の国とはどんなところでしょうか。農民にとって種まきとはたくさんの収穫を願いながら、希望を持って行うことでした。やがてそれは29節「収穫の時を迎える」のです。神の国とは花や作物の種を植えて、収穫をすることに似ています。希望の種、期待の種があり、豊かな恵みがある場所、それが神の国なのです。小さくても希望があるところ、種をまくことができる希望、それが神の国です。

そしてからし種は小さな種ですが、大きく豊かに茂ります。神の国とは小さな希望が大きく広げられるところだということです。私は信教の自由を訴えた少数派、バプテストをこのからし種に重ね合わせます。ごく少数の訴えた信教の自由がやがて一つの国の基礎となったことに重なります。私たちバプテストはからし種だったのです。そして神様はからし種のように信教の自由を広げて下さるお方なのです。

またからし種は生命力が強く、一度生えると除去するのが難しい、危険な草という特徴もあります。神の国、その種とは小さく、踏みつけられてもまた生えてくる、どんな困難な時も無くならない希望が神の国の種なのです。

神の国とは小さくても無くならない希望のある場所です。神の国はからし種のようなものです。そしてバプテストもからし種のような存在でした。そしてバプテストの訴えた信教の自由も神の国の種だったのです。私たちもこの種をいただいてゆきましょう。そして私たち自身も種になってゆきましょう。

私たちは小さくてもこの信教の自由を大切に守ってゆきたいのです。そして私たちの希望はなくならないのです。雑草のように、抜いても抜いても生えてくる草のように、私たちは希望をあきらめないでいたいのです。お祈りします。

 

「折れた心を献げる礼拝」詩編51篇12~19節

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。詩編51篇19節

 

先輩の牧師が「教会がうまくいっていると感じる時こそ、注意が必要だよ」と教えてくれました。教会で何かがうまくいっていると思う時、痛みや、傷ついている人のことを忘れないように注意をしなさいという意味に受け取っています。うまくいっていると感じる時こそ、私たちは互いに祈りあいたいのです。今、私たちの教会にはきっと、今までずっとあった欠けと共に、新しい欠けと、新しいほころびが生まれているはずです。そこに目を注いでゆきたいのです。

今日も様々な人が教会に集っています。しんどいと思う方、今あなたはきっと深い祈りが与えられる時です。一緒に祈りましょう。そしてまあまあうまくいっていると思う方、今あなたはきっと注意が必要な時です。きっともっと深い祈りが必要な時です。一緒に祈りましょう。今日は聖書から、うまくいっている時こそ祈るということを見ます。そして神様は私たちの中にある欠けやほころびを、神様の前に献げ、礼拝をしなさいといっていることを見てゆきたいと思います。

詩編51篇はダビデが歌った歌として伝えられます。ダビデはイスラエルの歴史上で最も大きな成功を収めた王です。しかし彼の心には緩みがありました。うまくいっていると感じた時こそ、自分と他者に注意が必要だったのに、彼はそれをすることができず、卑劣な罪を犯しました。51篇前半でこれまでの事を後悔しています。

そして今日の12節以降に続きます。12節でダビデは新しく確かな霊・心が授けられることを祈っています。彼は今までの心や自信が回復することを求めたのではありません。彼が求めているのは新しく、確かで、清い心です。それを創造してくださいと神様に祈っています。天地創造において神様が混沌の中から光を創造するように、私の中にあなたが清い心を創造してくださいと願いました。私たちもそう祈りたいのです。私が創り出すのではなく、神様だけが創造できる、その清い心、新しい霊、新しい心を受け取りたいと祈るのです。

19節には「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」とあります。神様が求めるものは「打ち砕かれた霊」です。神様は礼拝に、折れて、粉々になり、引き裂かれた心を持って来るようにと招いています。そしてそこに新しい心を創造してくださるのです。ダビデの本当の祈りと献げ物は、打ち砕かれた霊だったのです。

うまくいく時も、そうでない時も打ち砕かれた霊は自分や他者の中にあるものです。それを一緒にこの礼拝で献げましょう。そして新しく確かな霊・心が授けられるように祈ってゆきましょう。私たちは毎週、互いの中にある痛みや欠けを持ち寄って、折れた心、引き裂かれた自分を献げてゆきましょう。神様はそこにこそ新しい心、新しい霊、新しい道を創造してくださるお方です。お祈りをいたします。

 

「むずかしくない福音」 申命記30章11節~14節

 

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30章14節

 

他の教派の教会から礼拝に来られる方がいます。私はその方から私たちの教会の特徴を教えてもらうのが楽しみです。多くの方が三つを挙げられます。ひとつ目はこどもの声。二つ目は社会的な活動や発言。三つ目は教会学校です。

バプテスト教会は「正しい教理」というものを固定していません。ですから教会学校は聖書を教える場所ではなく、学びあう集まりになります。みんなが発言し、考え、教わりあうという集まりなのです。私たちには当たり前ですが、驚くほど自由に聖書を語り合う教会なのです。もちろん注意点もあります。自由は自分勝手な考えも生みます。だからこそ一人一人が聖書にしっかりと向き合わなければいけません。

今日の箇所から、私たちは聖書のみ言葉をそれぞれの口から語り合ってゆくこと。社会の中で、福音を実践してゆくことを考えたいと思います。

12節~13節には聖書のみ言葉は私たちの生活とかけ離れたものではないということが書かれています。私たちは福音を遠くに探し求めるのではありません。今生きる、私たちの生活の中に希望を求めています。私たちは福音を、今生きる社会・生活の中、その関わりの中で探しています。社会の事、生活の事、抜きには福音はわからないのです。そのようにして福音は近く、身近にあるものです。14節「み言葉はあなたのごく近くに」とある通りです。

14節の続きにはみ言葉は「あなたの口と心にある」とあります。そうです、福音はあなたの口にあるものです。福音は牧師の口だけにあるものではありません。あなたの口にもあるのです。だとするならば聞くだけではなく、一人一人の口から語られるみ言葉が大事です。教会学校はまさにそのような場所でしょう。一人一人がみ言葉を語ります。それから感じたことを語り合います。それはとても大事なことです。み言葉は遠くにあるのではなく、一人一人の口と心にあるものだからです。もちろんそこにも注意も必要です。私たちの口からはつい、いろいろな言葉ができてしまいます。私たちは聖書を繰り返し読み、心に刻むことも大切でしょう。

14節の最後には「行うことができる」とあります。あなたは福音の実践がすぐできるようになるのです。福音の実践とは互いの口からでる言葉をよく聞き、その心を良く知ることがスタートです。私たちが互いに聞き合い、語り合う時、み言葉はむずかしいものではなくなります。私たちが「行うことができる」ものになるのです。

今日の箇所は「むずかしくない福音」です。神様は福音は身近にある、お互いの口と心にあるものだよと言います。必ずあなたにもできることだよと語ります。私たちは、社会と生活の中で福音を聞くこと、互いに聖書を語りあうこと、福音を実践してゆくことを大切にしてゆきましょう。私たちにも必ずできるはずです。お祈りいたします。

 

「できない人を選ぶ神」エレミヤ書1章4~10節

 

わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。/わたしは若者にすぎませんから。」            エレミヤ書1章6節

 

今日この後は臨時総会が持たれますが、もしみなさんが執事に選ばれたらどうするでしょうか?「どうしよう、なんと言って断ろうか」と考えるでしょうか。できない理由というのは無限にあるものです。私たちの選挙は、不十分な制度の中で、不十分な私たちが、不十分な者を選ぶ選挙です。仕組みにも個人にも不十分ばかりです。

私たちはどのように投票をしたら良いでしょうか。私にはできないから、あの人にお任せしようと投票することは、もうできないでしょう。きっとあの人もできないのです。あの人だって事情があってできないのです。

私は誰かを選ぶけれども、私も精一杯を献げるという思いを持って投票をすることが必要でしょう。私たちは「私もできる限りの精一杯を担う」そのような思いで投票をしたいのです。共に精一杯を献げるという気持ちを持って投票をしましょう。

そして今日の聖書から一緒に、神様の選びを見てゆきましょう。私たちがお互いから不十分な者を選ぶように、神様も不十分な者を選ぶお方なのです。

今日の箇所では神様はエレミヤをイスラエルの預言者として選んでいます。エレミヤはその選びを断っています。自分は未熟で、その働きには不十分だというのです。このように、神様はできる人ではなく、できない人を選んだのです。一見、不適切、不十分と思われる人を、ご自分の働きのために選んだのです。

そしてエレミヤはその後、神に守られ何不自由なく暮らしたのではありません。人一倍苦労の多い道を歩みました。彼は聖書の中で繰り返し、つらくて涙を流すので涙の預言者と呼ばれます。8節「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」は、万事うまくいくという意味ではありません。つらくて涙を流す時も、そのような時こそ神が共にいるという意味です。

私も様々な働きを通される時があります。しぶしぶ受けた働きで苦労するときがあります。そんな時、このエレミヤの姿に励まされます。それはたとえどんなに神様の導きを感じたことだとしても、その働きがうまくいくわけではないということを教えてくれるからです。あのエレミヤでさえうまくいかなかったのです。私にもきっとうまくゆかないのです。あのエレミヤでさえ泣きながら働いたのです。やりたくない、できないと何度も不満を言いながら、働いたのです。しぶしぶ受けても、できなくても当然です。うまくいかなくても当然です。泣いてもいいのです。不満を言いながらでもいいのです。そのただなかにこそ神様は共にいてくれるのです。

私たちは自分の精一杯を献げたいのです。私たちの先にはきっと喜びと、そして涙があるでしょう。それを共に受けてゆきましょう。私たちは一緒に喜び、一緒に涙する仲間となってゆきましょう。わたしは必ずあなたたちと共にいるという神の下で、共に精一杯をささげてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「教会には夢がある」出エジプト記14章15~22節

 

イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。                    出エジプト記14章22節

 

こひつじ食堂が教会に様々な変化と必要を起こしています。教会は礼拝する場所という枠組みに留まりません。教会の変化を見ていると、キング牧師が「私には夢がある」と言ったように「教会には夢がある」と感じます。いつの日か地域の様々な人が集い、こども同士が仲良く食事をして、お年寄りがそれを見て笑うという夢です。これをもっと広げてゆきたいのです。一方、そのために必要な設備は変わってきています。さらに以前から修繕すべきところも多く残っています。

「私たちには夢がある」と感じていても会堂建築のことが後ろから迫って来るようにも感じています。ただわかっているのは、私たちは待っていてはいけないということです。何かを選択し、歩みださなければいけないということです。

今日の箇所を読みましょう。旧約の時代イスラエルの人々はエジプトで奴隷として、厳しい毎日を送っていました。人々はそのエジプトから逃れて、神様の約束の土地へと出発したのです。でも希望への道は困難な道でした。イスラエルの民は二つの困難にまさに板挟みになっています。そしてそこに、神様からの風が吹きました。神様によって新しい道が開かれたのです。その道は閉ざされるかもしれない恐ろしい道だったでしょう。でも彼らは勇気と信仰をもってその道を歩みだしたのです。

私たち一人一人にもこのような出来事は起るでしょう。私たちも2つの問題で板挟みとなる時があります。しかし今日の聖書箇所によれば、そのとき神様は新しい道を開いてくださるお方です。教会も歩み出す一人一人と同じです。建物はどうなるかまだ道がはっきりあるとは言えません。私たちは海と軍との間にいる民と言えるでしょう。そんな私たちに神様は必ず道を造ってくださいます。そしてもし私たちがその道を見つけたならば、待っていてはいけないのです。勇気と信仰をもって、一歩を踏み出さなくてはいけないのです。

渡った後の人々の姿にも目を向けましょう。残念ながらモーセ自身は約束の地に入ることはかなわず、こどもたちが見たのです。出エジプトは自分たちのためではなく、子どもたちのための出エジプトだったのです。私たちはこどもを大切にする教会です。大切にするこどもたちが乳と蜜が流れる場所を見るために、私たちは出エジプトするのです。今出発すれば、こどもたちがそれを見れるかもしれない。私たちにはそのような希望もあるのです。

そして今日は成人祝福祈祷の時も持ちます。新しい希望へと出発する時です。その先には困難があるでしょう。板挟みになることがあるでしょう。でも必ず神様は新しい道を下さるはずです。勇気と信仰を持ってその道を歩みましょう。私たちも若い人、こどもたちが希望をもって歩むことができるように、一歩を踏みだしたいと願っています。お祈りします。

 

「ジェラる神」ゼカリア書8章1節~8節

 

万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。

ゼカリア8章2節

 

若者ことばで、嫉妬する、ジェラシーを感じるということを、ジェラると言うそうです。ジェラシーというは、かわいげのある感情でしょう。好きな相手がいるからこそ抱く感情だからです。やきもちを焼かれる側はどうでしょうか。扱いづらくも、ちょっと照れくさく、嬉しいものでもあります。もし嫉妬されてしまった時は、自分の気持ちがしっかりその相手に向いていると伝えることが大事です。ジェラシーは自分の優先順位が低くされていると感じた時に起こる感情だからです。今日お話しするのは、神様は激しくジェラるお方だということです。

2節には「激しい熱情」とあります。熱情とは嫉妬すること、ジェラシーを感じること、ジェラることです。しかしよく考えると、このジェラシーは私たちに神様のことをよく理解させてくださるかもしれません。神様は激しい嫉妬、激しいジェラシーの感情をもっているお方です。

神様が嫉妬するのは、他の神や物・人を見ている人に向けてです。私が一番ではないとダメと嫉妬をしているのです。神様は私たちに、神様を大切にしていること、神様への愛をしっかりと示してほしい、一番だと示して欲しいと願っているのです。それが神様の激しい熱情です。私たちはその激しい熱情を怖いと思うのではなく、なんだか照れくさいけれど嬉しい、そう感じてみてはどうでしょうか。神様は私たちを愛していて、もっと私だけを見て欲しいと、激しくジェラっているのです。

私たちはすぐに優先順位を変えてしまいがちです。お金、将来、人間関係、介護、病気、たくさんの心配があり、私たちの生活はそれが中心になってしまうことがあります。それに神様はジェラっています。

3節には「私がエルサレムの真ん中に住まう」とあります。エルサレムとは私たちのことです。神様は私たちに心のすみっこではなく、真ん中に神様を迎えるようにと言っているのです4節からは「エルサレムの広場」という言葉があります。教会に子供たちの笑い声が広がる様子と重なります。。神様は嫉妬から、争いと戦いを起こすお方ではありません。平和を実現しようとされる方なのです。

さて、新年を迎えています。神様は私を中心とせよ、そう激しい熱情を持って繰り返し語っています。それができない私たちにジェラっています。私たちの1年はきっとまた神様の言葉が繰り返し注がれる1年となるでしょう。そして私たちはそのような神様を中心とする、一番にする、そんな1年にしてゆきたいと願います。

この私たちを激しい熱情で愛してくださる神様を、そしてこどもと高齢者が笑い合う平和を実現させてくださる神様を今年もまた中心にしてゆきましょう。そんな教会にしてゆきましょう。私たち一人一人の心の中心に神様を迎える、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「歴史に働く神」ルカ21:4~9

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音と共に礼拝をしましょう。今月は神学ということをテーマに宣教をしています。神学とはキリスト教の信仰を理解する方法のひとつです。例えば大学に神学部があり、キリスト教の信仰を研究しています。神学には4つの分野があると紹介をしています。聖書学、組織神学、実践神学、歴史神学の4つです。私の専門は聖書学で多くの場合、聖書学の視点で宣教をしています。しかし聖書の読み方、信仰には様々な視点があります。今回は歴史神学の視点で聖書を読み、信仰について考えたいと思います。

歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史に影響を与えてきたのか、あるいは影響を受けてきたのかということを考える分野です。キリスト教の歴史を考える分野です。歴史から学ぶことはとても大切な事です。歴史を学ぶことは、同じ過ちを繰り返さないために必要です。先人たちの知恵ある選び取りを、私たちもしてゆくために必要です。

キリスト教の歴史の中でターニングポイントになったことはいくつかあります。そのひとつにユダヤ戦争があります。ユダヤ戦争は西暦67年に起きた戦争です。イエス様の十字架は西暦30数年頃に起きたと言われていますから、さらにその30年以上後にあった戦争です。西暦67年、ローマの総督が、エルサレム神殿から宝物を略奪する事件が起きました。このことがきっかけで、エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊されました。エルサレム神殿にも火がつけられ、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。現在もエルサレムには嘆きの壁という場所があります。この壁はこの時の戦争で崩壊した神殿の西側の壁だと言われています。神殿が壊されたことを、ユダヤの人々が嘆く壁です。

神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教にとって、エルサレム神殿は信仰の中心でした。人々にとっては神殿で献げ物をすることが、信仰の大事な要素でした。その神殿に祭司がおり、神殿で犠牲の献げ物がされていました。しかしユダヤ戦争によって神殿も、そこにいた祭司もいなくなってしまったのです。神様の大切な献げ物をすることが出来なくなってしまったのです。この神殿崩壊の出来事はユダヤ教の信仰に大きな影響を与えました。この時から、信仰の中心は神殿での献げ物や、神殿の祭司ではなくなりました。信仰の中心はそれぞれの町のシナゴーグ(教会)になり、町の宗教者であったファリサイ派が中心となってゆきました。そしてユダヤ戦争から逃がれて、世界中に逃げて行った人もいました。それはユダヤ人が世界に広がってゆくことにつながりました。ユダヤ教が大転換する時だったのです。

キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。それまでキリスト教はまだユダヤ教の中の1グループでした。ユダヤ教ナザレ派と呼ばれたのです。ユダヤの人々と共に神殿に通っていたのです。しかしキリスト教も神殿の崩壊で独自の信仰を歩みだすことになります。イエスをキリストと信じるグループもエルサレム神殿中心ではなく、世界へと散ってゆくことになりました。そしてキリスト教は特に、異邦人、現地で知り合った人々に、イエス・キリストを伝え、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。外部の人と出会い、食事や割礼などの律法の理解も変えてゆきながら、キリスト教が成立してゆくことになります。そしてキリスト教では平和の問題も大切なテーマとなりました。戦争の混乱を通じて形成されたグループは、何より平和を願うグループへと発展してゆきました。それが約2000年後、私たちの教会へとつながっています。

ルカ福音書はこのユダヤ戦争の後に書かれたと考えられています。つまり西暦30年頃にイエス様の生きている時代があり、その後西暦67年にユダヤ戦争・神殿崩壊があり、その後さらに西暦90年ころに、ルカ福音書は書かれたと言われます。イエス様はこの後ユダヤ戦争が起こる、神殿が崩壊するということを知りませんでした。歴史的な順序としてはイエス様の言葉があり→神殿崩壊があり→ルカ福音書が書かれたのです。ルカはエルサレム神殿が徹底的に破壊されたことを知ったうえで、この福音書を書いています。おそらくルカは本当に崩壊した神殿をイメージしながら、今日のこの個所を書いています。

今日はユダヤ戦争という歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら聖書を読みたいと思います。そして戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。聖書を読んでゆきましょう。

 

 

 

イエス様たちはエルサレムにいました。5節にはある人がエルサレム神殿の美しい石、輝かしい装飾をほめたとあります。しかしイエス様は6節で見とれている神殿が崩れ落ちるだろうと言います。歴史的に本当にそれは起こったことです。この後神殿は、ユダヤ戦争によって、徹底的に破壊されました。しかし人々はそのようなことが起るなど信じることができませんでした。誰しも何百年も変わらずに続いてきたものは、これからも続くと思うでしょう。自分たちの信仰の中心であった神殿はいつまでも続くと思っていたでしょう。神殿が美しい姿のままでいることを願ったでしょう。だからこそ7節にあるように、いつそんなことが起きるのか、どのように起こるのかを聞いたのです。もしそれが起きるならどのような徴、前兆があるかを聞いたのです。

8節でイエス様はその前兆として偽物がたくさん来ると言いました。「私がみんなを救う」という偽物のキリストが来ると言うのです。それは偽物の希望と言えるでしょう。偽物の希望を語る人が大勢起こると注意をしたのです。偽物は「時は近づいた」と言います。彼らは世界の終わりが近いと不安をあおります。偽物は人々の心を、希望ではなく不安で満たそうとします。すぐに行動を起こさなければ自分も世界も終わってしまうと訴え、扇動するのです。偽物は人々を不安にさせ、偽りの希望を持たせ、人々を扇動します。イエス様はそのような偽物に「ついて行ってはならない」と注意をしています。そしてイエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は残念ながら起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。

この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。神殿が崩壊をします。その時人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。おそらく人々は絶望をしたはずです。俺たちは終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。実際のキリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は絶望して終わったわけではありませんでした。それぞれの場所で、もう一度イエス様のことを伝えようとしたのです。イエス様のことを書き記そうとしたのです。それがルカ福音書やマタイ福音書になりました。平和・シャロームを求めて宣教がされ、福音書が書かれたのです。そのように神様は私たちの歴史に働かれました。そのようにして聖書、キリスト教は成立をしたのです。

このように神様は歴史に働くお方です。神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。戦争を使って私たちを動かすお方でもありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。戦う者ではなく、戦争から逃げる者と共におられたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。たとえ神殿がなくなったとしても、神様は歴史の中で働き続けるお方です。歴史神学の視点でこの個所を読むとそのような希望をいただくことが出来るでしょう。

そしてこの歴史は私たちにつながっています。神様はこのように歴史に働き、私たちへと信仰をつないでくださいました。そして神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。私たちにある私たち自身の神殿が崩壊してしまうような出来事があるものです。大切にしているものが壊れてしまうことがあるものです。それは残念ですがきっと起こるものです。

でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。大切なものが壊れてしまう時がいつか来る。でもそれがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。絶望の時に、終わりではないと呼びかけた、それが神の歴史、神が働きかけた歴史だったのです。私たちには希望があるのです。偽物の希望に惑わされてはいけないのです。

今日は歴史神学の視点で聖書を読みました。神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りいたします。