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「生活困窮の神」マタイ25章31節~46節

私たちの教会には生活困窮者のためのシェルターを持っています(場所は非公開)。今日出会った人をシェルターに泊めるのは、正直言って心配です。しかしそうしなければ、その方は野宿という危険な夜を過ごすことになります。本当は事情をよく聞いてからお泊めしたいのですが、疲れ果てている人に、一から事情を教えて欲しいというのは酷です。利用される方の多くは、安心するのか部屋に入ってすぐに眠ります。翌朝、着る物や食べる物を必要に応じて渡しています。

私たちがこの支援をするのは、困っている人を助けるためです。なぜ人を助けるのか、そこに目的は必要ありません。神様が造った命を守ること、助けることが目的だからです。私たちは礼拝参加などを条件にしていません。私たちは何かと引き換えに支援するではありません。

私がこの支援をするときに大事にしているのは、必ずこの方に神様の力が働いて、道が開けてゆくはずと信じて支援をするということです。多くの人は諦めや疲れを覚えてこの教会を訪ねます。でもその方の中に必ず神様の力が、必ず働くと信頼し、この支援を続けています。

きっと神様を知る方法は、聖書を読むことだけではないでしょう。そのような人との出会い、関係を通じても、神様はご自分の力を私たちにお示しになるのです。私たちはそのような人との出会いを大切にしましょう。

今日の個所にも生活困窮者が登場します。35節、ある人はこの人にできる限りの世話をしました。自らの危険を冒して助けたのです。おそらく支援を受けた人は、心身ともに休息の時間を得て、そこを旅立ちました。そして住居を提供した人は、何の見返りも求めませんでした。

私はこの物語から2つのことが大事だと思います。一つは住居を貸した側はあらゆる見返りを求めていなかったということです。もしかして助けたら、信者になってくれるかもしれないと思って助けたのではないということです。目的は助けることそのものだったのです。それは愛とも言い換えることができるでしょう。目的は愛そのものでした。愛を使って何かをしようとするのではなく、愛そのものが目的でした。

もう一つこの物語で大事なことは、私たちはどのように神様に出会うのかという問題です。私たちは聖書のみ言葉によってのみ神様と出会うわけではなく、困っている人との出会いの中で、神様に出会うのです。

この二つ、見返りを求めない事、神と出会う事は私たちのすべての活動に言えることでしょう。こひつじ食堂、こひつじひろば、サロン虹、炊き出しやバザー。教会にメリットがあるからやるわけではありません。今日の聖書の中の、助けた彼と同じです。ただ神の命のために私たちは働きます

そして私たちは教会の中でこそ愛し合いましょう。痛み悲しみを共に祈りあいましょう。そこで神様との出会いが起こされるでしょう。そして必ず神様がすべての人に力を与えてくださるはずです。

 

「敵を愛しなさい」マタイ5章38節~48節

いま日本では少年法の厳罰化が議論されています。未成年の犯罪にも大人と同じ罰を与えようという議論です。少年犯罪が増加・凶悪化しているわけありません。むしろ減少し続け戦後最低を更新しています。罪を犯した未成年はまだ発達段階にある人間です。成長の途中に犯した罪には罰を与えるだけではなく、様々な教育や支援が求められているはずです。人との温かい関わり、私たちの言葉で言い換えるなら「罰」よりも「愛」が必要とされます。

罪を犯す少年に、罰を強化するのではなく、もう一度命の大切さを知り、共に生きることを選びたいと思うのです。だって人は生まれ変われるではないですか。罰せられるのではなく愛されることを知ることがどれほど大きな力になるのか、私たちは知っているではありませんか。

神様は敵と思えるような人さえも愛しなさいといいます。そして誰よりも神様ご自身がそのようなお方です。神様は条件を付けずに人を愛するお方です。そのことをもう一度、今日の聖書個所からいただきます。

そもそも、殴られない様にするには、相手の言うことに従えばよいのです。無言で従えば殴られることはありません。しかし間違っていると思う相手に反対を表明する時、殴られるのです。この個所は、善と悪をしっかりと見極め、殴られるとしても、悪に毅然とした態度をとるように求めているのです。

私たちは殴られ続けても、悪をうやむやにするのではありません。社会から悪をなくすために、毅然と立ちたいのです。イエス様はあらゆる暴力と罪に毅然と立ち続けることを私たちに教えているのです。

しかし聖書の要求はさらに私たちに厳しく迫ってきます。続く44節には「敵を愛しなさい」とあります。私たちは自分や誰かを殴る人を大切にすることができるでしょうか。家族とでさえ、教会の仲間とでさえ、傷つけ合ってしまうことのある私たちです。私たちの隣人だけでも愛するのが大変なのに、どうして敵を愛することなどできるでしょうか。

でも一つだけ確かなことがあります。それは、神様は隣人も敵もどちらも愛するお方だということです。神様が愛する範囲は、もはや隣人であることを超えてしまっているのです。神様は敵か味方か関係なしに、すべての人を愛し、大切にされるお方です。私たちに敵を愛せという以前に、そもそも神様が敵を愛しているお方なのです。神様の愛は一切の条件が無いのです。それが無条件の愛です。45節、太陽が人々を等しく照らすように。

私たち人間はいつも条件付きの愛の中にいます。しかしそれでも私たちは無条件の愛にむけて歩みを始めたいのです。今日神様の愛を頂いて、今週もすべての人を愛する、大切にするその歩みを始めたいのです。特に敵、苦手と思う人をもう一度愛する、大切にするチャレンジを今週したいのです。

イエス様はまさに地上でその歩みをされたお方でした。十字架の上でも、人々を愛し続け、暴力に十字架で向きあわれたお方だったのです。

 

「バプテスマって何?」マタイ3章7節~12節

今日は子ども祝福式を持ちます。大切にする子どもたちの成長は私たちにとってとてもうれしいことです。子どもたちと共に礼拝をしましょう。また今日からマタイ福音書をスタートします。この福音書の特徴は当時のユダヤ人向けに書かれたこと、「インマヌエル(神われわれとともに)」という言葉などが挙げられます。他にも平和と和解、山上の説教で愛が語られています。

今日のキーワードはバプテスマです。バプテスマは天国への切符ではありません。その後罪を犯さなくなるわけではありません。バプテスマを受けても相変わらず罪は犯し続けます。バプテスマを受けても、受けなくても全員が罪人です。しかし、同じ罪人でも違いがあると思います。バプテスマを受けた罪人はその罪を神様の前で素直に認め、悔い改める者となるのです。神様に向き合い、神様の前に自分の小ささを繰り返し知る、それがバプテスマを受けた者の生き方と言えるでしょう。私たちはまだバプテスマを受けていない人にこのバプテスマを受けてほしいと願っています。神様はすべての人をその生き方に招いておられます。

さて今日の個所をお読みしましょう。バプテスマスという習慣はユダヤ教に古くからあり、それは外国人がユダヤ教に入信・改宗する時に行われるものでした。ところがバプテスマのヨハネは、外国人だけではなく、ユダヤ人もみんなバプテスマを受けなさいと言ったのです。

当時ユダヤの人々はアブラハムの血統である自分たちにだけ、神様の助けがあると考え、自負を持っていました。そんな人々に、ヨハネは9節「神はアブラハムなんぞ石ころからでもつくのだ」と言います。自分だけを神様が助けてくれる、そのように、おごりたかぶるのをやめなさいと語ったのです。

すべての人が神様に創造され、すべての人に同じように神様の恵みがあります。神の前に平等で、神様の愛は全員に等しく注ぐのです。しかし、当時のユダヤの人々はこのことを忘れてしまっていました。ヨハネが厳しく非難していることは自分だけが救われると考えることでした。そこに罪があるということです。だからこそ全員がバプテスマを受けるべきだというのです。バプテスマを受けて、その罪を差別を悔い改めて、再スタートしなさいと語っています。それが8節、実を結びなさいということです。

人間は弱い者、もみ殻です。神様はすべての人に生き方を変えるように求めています。悔い改め、具体的に実のある生き方となるように求められています。もみ殻だけど、実を結ぶ生き方を願い、今週を歩みましょう。

この後イエス様もヨハネの洗礼を受けます。自分を誇るのではなく、悔い改め、神に向けて再スタートする、そのバプテスマをイエス様も受け、地上の活動をスタートしたのです。イエス様はバプテスマを受けた者の歩みに加わって下さいます。神は私たちと共にいて下さるのです。今日もこの主の礼拝から1週間をスタートしましょう。

 

「病と死でも続く、神の愛」ヨハネ11章1節~16節

今日は召天者記念礼拝です。私は以前、小さな病院でアルバイトをしていました。そこで感じたのは病院は患者さんが死を迎えた後、できることがほとんどない、無力だということです。病院では死をもってその人との関係が終わるのです。あるときクリスチャンの方が入院されました。病室にはいつも讃美歌が流れ、私も時にはベッドの横で祈ったりしました。その後亡くなりましたが、不思議とその死への無力感が和らいだように感じました。祈りは、死への無力感に対し不思議な力を与えてくれるようです。

この地上の命は死んだら終わりかもしれません。でも私たちの神様の下にある命という関係は、死んでしまったら終わりというものではありません。私たちは生きていても、そしてたとえ死んでしまっても、祈りの関係の中にいます。そして誰よりも神様が私たちの地上の命を愛し、祈って下さっています。たとえ死に、地上の命を終えたとしても、神様の愛は変わりません。永遠に続くのです。今日はそのことを聖書から分かち合いたいと思います。

今日の個所、イエス様の友人が病の中にあります。しかしなんと2日間も訪問を延期したのです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と。

これは関係は死で終わりではないということを示します。死で終わらずに、その先に神様との関係が続いているということを示しています。死によっても神様との関係は終わらず、神様に愛され続けるのです。

イエス様は死で関係を終わらせず、関係を持とうとするお方です。だからイエス様はラザロが死んだ後に尋ねたのです。イエス様は死を眠りと表現します。死をすべての終わりではなく、眠っている間のように、関係は続くのだと言うます。イエス様はすでに死んだ者にこそ関わる姿によって、死後も神様との関係が続くということを伝えました。

死者に関わり続けるのが神様です。生きている時と変わらぬ愛で、亡くなった方たちを包んでいる、それが神様です。そして今日、私たちもこの同じ愛の内に全員がいます。生きる私たちもその一人です。生前の姿や生死さえ問わず、神様は愛し、会いに来られるお方です。これが無条件の愛です。

聖書を読み進めてゆくと、この後イエス様ご自身が死ぬことになります。でも私たちはイエス様が死んで終わりではなかったということを知っています。イエス様がご自身の十字架をもって、死がすべての終わりではない、神様の愛はずっと続くのだと示したのです。

今日私たちは召天者記念礼拝に集ったのは、この死を忘れないでいるためです。神様の愛は、病の中でも、たとえ死んでしまっても変わらずに続きます。だからこそ私たちも神様に変わらず祈りを続けてゆきたいのです。十字架の死が終わりではなく始まりであったように、私たちも共主イエスの十字架から日々を出発したいのです。

 

「低みに立つ宗教」ヨハネ13章1節~20節

私たちは今月「世界」というテーマで聖書読んでいます。世界を見渡す時、宗教が原因のとなる紛争があります。そして一神教は排他的な宗教だと言われることがあります。実際に私たちには他の宗教を劣った宗教として見下す態度があったかもしれません。

私たちはその態度を変えたいと思います。私たちは自分の神をしっかりと紹介し、そして相手から紹介される神のことをよく聞きたいと思います。そして自分が正しいという前提を一度置いて、他者と対話したいのです。

私たちの神様はこの図のように、低きにいる神です。私たちの神は弱さの中にいる神です。階段を下っていくと会える神です。高みに行こうとすれば、私たちの神とは離れてゆきます。その底辺に十字架があります。

他の宗教の人々と対話する時、大事にしたいことは、階段を下りて対話することです。低みから話し、聞いてゆくことです。見下して聞かないこと、見下して語らない事。低みから証しすること。そこから私たちの対話は始まります。それは私たちがイエス・キリストを模範とするからです。

今日の場面で主人であるイエス様は弟子の中で、自分を最も低い立場に置かれました。イエス様は特別な力をもって人々の上に君臨するのではなく、人々より低い場所に、底辺に立つのが私たちの神様でした。

イエス様が足を洗った弟子の中には様々な人がいました。裏切らない人、信頼できる人の足だけを洗ったのではありません。全員に低くひざまずき、足を洗ったのです。イエス様はそのように全員に、低く立たれたお方です。

低みに立つ神と人という関係以外に、神と人との関係は何もありません。神は低みおられるからこそ、神なのです。神様はどんなときも、私たちより低い場所におられ、私たちの足を洗い、私たちを愛し、愛し抜く、最後の時まで大切にしてくださるお方です。

14~15節では私たちも互いに足を洗いあいなさいとあり、この姿が私たちの模範だと言います。私たちは宗教や立場を超えてどのような人にも向き合い、仕えてゆくことができるのかが問われているのではないでしょうか。低みに立って、どんな人でも愛し、愛し抜く、最後まで大切にし続けることが求められています。そしてその時、私たちは互いの弱さに触れあい、共に神を、十字架のイエス・キリストを見つける仲間となるのでしょう。

私たちには様々な対話があります。異なる宗教との対話が世界で、日常で起こされています。私たちはそれを低みから続けたいのです。今まで昇ってきた階段を下りて、低みにいる十字架のイエスの下で出会いたいのです。

 

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「70年間のつながり」ヨハネ15章1節~17節

今日は創立記念礼拝です。私はこの教会の10年間を「バプテストらしさ」と表現したいと思います。一番大きな出来事は信仰告白を作ったことです。バプテスト教会は各個教会がそれぞれ信仰告白を持ちます。自分たちは何を信じているのか、それを言葉にすることができたのは、教会の信仰にとって大きな礎です。さらにもう10年前、2000年からの10年は「地域とともに生きる教会」という目標が総会資料には書かれています。

この20年間共通すると思うのは、3つのつながりを大事にしたことです。ひとつ目は信仰告白など神様とのつながり、そして2つ目は祈りや信徒会、修繕など教会の中のつながり、そして3つ目はこども支援やホームレス支援など地域とのつながりです。この3つのつながりを大事にし続けたことがこの20年間だったのではないでしょうか。

私たちは様々なつながりをもつようになりました。そしてその中でも一番強いつながりは神様とのつながりです。それは私たちが一生懸命につながる以上に、神様が私たちにつながってくださいました。それが最も大きな力でした。私たちはこのつながりなしに、どのようなつながりも持てませんでした。今日はこの3つのつながりについて、聖書から聞いてゆきます。

今日の聖書個所、4節が目を止めたい個所です。神様は2つのことを言ってます。一つは私につながっていなさい。もう一つは、私はつながっているということです。神様は私たちに「つながっていなさい」と強く命令をしています。そのとおり私たちは神様になんとかつながりつづけようと歩み続けました。精一杯をささげた70年でした。一方で4節では「つながっていなさい」の後に「つながっている」と続きます。神様は私たちに、神様の側からもつながっているよと言うのです。その力はきっと、私たちからつながろうとする力よりも何倍も強いものでしょう。私たちがどんななに神様から離れようとしても、神様は強く結びついてくださるお方です。

12節を見ましょう。今度は神様と私の関係から、私たちの同士の関係へと話が変わります。愛し合いなさいと命令されるのです。私たちは神様と結びついていればそれで良いというわけではありません。神様に結びついているの者は互いに愛し合うように促されます。神様とのつながりは、他者へのつながりと広がってゆきます。教会員同士、そして地域との結びつきへと促されます。出かけて行って実を結ぶように促されるのです。

私たちの70年がまさにそうでした。神様に結ばれた70年、互いに結びついた70年、出かけて行った70年だったのではないでしょうか。

これからの教会の10年について考えます。私たちはどう神様につながりましょうか、どう神様は私たちにつながってくださるのでしょうか。私たちはどう愛し合うでしょうか。私たちはどこに出かけて行って実を結ぶのでしょうか。ともに考えたいのです。

 

「食糧問題とキリスト教」ヨハネ6章1節~15節

今月は世界をテーマに宣教をしています。そして今日は収穫感謝の礼拝の時を持ちます。今年度はこの収穫感謝の時を、10月16日の「世界食糧デー」に合わせて、10月第2週としました。特にこのことを覚えて礼拝しましょう。今年はアフリカでバッタが大量発生し、農作物に大きな被害を出し、1日で数万人の食料が消えたそうです。通常でも多くの人が飢え、栄養不足でいるなか、さらに2500万人が飢えに苦しんでいます。

アフリカではもともと20%の人々が栄養不足だと言われていますが、このままでは2030年には今より3割も多くの人が飢えると予測されています。飢餓は特に最も体力のない、子どもに様々な影響を与えます。成長期に必要な栄養が不足することは、一生の体格や健康、教育の機会などに影響します。

教会は毎年バザーの収益の一部を日本飢餓対策機構に寄付をしています。私たちの子ども食堂も身近な食料問題への関わりです。小さくても、私たちができることからをしたいと願っています。聖書には多くの飢餓が描かれていますが。今日はイエス様がどのように食糧問題に向き合うのかを見ます。

今日の聖書の個所、5000人の共食と呼ばれる個所です。イエス様に従う人々は、自分で食べるものを準備できない貧しい人々でした。そんな中子どもが食べ物をささげます。一番食べ物を必要とし、一番弱いはずの子どもがささげるのです。私はこのパンを受け取れることはできません。

しかしイエス様はこのパンを受け取り、感謝し、祈りました。それをみんなと分け始めたのです。5つのパンを5000人で分けることはできません。しかし不思議にも、それは全員の必要を満たすほどに増えたというのです。イエス様は不思議な力の持ち主です。小さな者の、小さな捧げものを受け、それを何倍にも、1000倍にしてくださるお方です。

私たちはあまりに多くの人々の飢えに直面した時、無力で自分一人が何かをしても、ほとんど世界は変わらないと感じてしまいます。でもそうではないと、イエス様はおっしゃっています。小さな私の、小さな捧げものが、イエス様によって、大きなものへと変えられてゆくのです。小さい者の、小さな捧げものが、世界を変えるのです。だから、どんなに私が小さくてもできることから、それに向き合いたいのです。

私たちには今、様々なグローバルな課題を抱えています。そのどれもが私たちにできることはあまりにも小さいのです。でもイエス様はそのスケールに対してあまりにも小さい行動をしっかりと受け止めて下さるお方です。そしてそれを大きくし、解決へと導いてくださるお方なのです。

世界にパンが行き渡ること、私たちが少しでも世界と分かち合うこと、必ず世界は一致できることを覚えて、私たちは歩んでゆきましょう。小さい者の小さな行動を、必ずイエス様は大きなものとして下さいます。私たちは収穫感謝の時、その恵みに感謝し、歩みだしましょう。

 

「イエス様の行動から信じる」ヨハネ10章31節~42節

本日はコロナの防止の観点から、パンと杯はありませんが、み言葉のみで主の晩餐を行います。主の晩餐はイエス様と一緒にした食事と、一緒に行動した日々を記念するため、思い出し、忘れないようにするために持たれます。本当はパンと杯があった方が良いのですが、今できる形で最大限の方法でイエス様を思い出すという方法をとります。そして主の晩餐は受けて終わりとすることができない礼典です。それを受けると、それを受けてどう生きるか、この1週間をどう生きるかが問われます。

今月、私たちは世界をテーマに聖書を見てゆきます。今日はキリスト教の多くの教会で教派を超えて「世界聖餐日」がもたれます。世界中のキリスト者が主の晩餐によって一致を確認し、互いの信仰を認め合う日です。

このコロナ禍の中で、世界の一致、連帯、愛の行動がより強く求められています。しかしコロナはワクチンナショナリズムの問題を突き付けています。いま世界はワクチンの争奪戦と開発競争のなかにあります。世界のワクチンの三分の二は欧米や先進国だけに使われると言われています。ワクチンについて世界はどう一致と連帯のある行動をとれるでしょうか。今、世界が愛の行動をとることを願います。コロナの時、主の晩餐をするとき、イエス様の愛の行動を思い出します。そして世界が自国優先、自分優先ではなく、一致と連帯、愛の行動をすることを願い、主の晩餐をいただきたいのです。

今日の個所をお読みしましょう。今日もイエス様は非暴力で向き合います。イエス様は38節、私を信じなくても、私の業・行いを見て信じなさいと言います。業とは奇跡だけを指す言葉ではありません。業とはイエス様の人生全体、行動全体、生きざまそのものを指します。

イエス様は行動、生き様、それは今日の個所では暴力に対して非暴力・み言葉で立ちむかうという生き様です。その私の生き様、姿、後ろ姿を見て、信じなさいというのです。ほかにも石に打たれて殺されそうになった女性に対し、イエス様の行動は、弱い立場の側に立つという生き方でした。サマリアの女性、生まれつき目の見えない人、5000人の共食はどれも神様の愛をそのまま生きる、生きざま、愛の行動でした。

私たちはイエス様の生き様、愛の行動を見て信じるようになります。もし、神様のことを信じることができないと思うのなら、ぜひイエス様の生きざま、愛の行動を見てください。そうすればきっと神様のことをわかる、そう今日の個所は語っています。私たちはイエス様の行動を見て、信じます。そしてその愛の行動を思い出すために、この主の晩餐を持ちます。この主の晩餐によって、イエス様の愛の行動を繰り返し思い出すのです。そして私たちも愛の行動へと押し出されるのです。

今日は世界で共に主の晩餐が行われます。私たちもそれにあずかり、愛に生きるものとして歩みましょう。お祈りいたします。

 

「神様の一体感」ヨハネ10章1節~16節

教会と地域の結びつきは様々な形で持たれています。こひつじひろば、バザーやコンサート、クリスマス、ホームレス支援。子ども食堂も早く始めたいと思っています。私たちは地域との一体感のある教会ではないでしょうか。たくさんの方が教会を楽しみにしたり、頼ったりして下さっています。

私たちの一番大事にしているのは礼拝です。しかし地域との結びつきは会員獲得ための手段ではありません。礼拝は私たちの出発点といえるでしょう。神様が私たちと一緒に歩んでくださり、共にいて下さることを確認する礼拝が私たちの出発点です。神様が共にいる、強く私たちと結びついてくださる、一体となってくださる。だからこそ私たちも、誰かとつながろうとすします。神様と私たちの一体感、それが私たちと地域との一体感の出発点です。私たちは礼拝なしに、神様とのつながりを知ることはできません。神様とのつながりを知らずに、私たちは誰かと強くつながることはできません。

今日の礼拝で、神様との一体感を感じて、またそれぞれに派遣をされてゆきましょう。今日の個所、利害関係、利用価値でしか相手を見ることができない人たちにもイエス様はあきらめずに語り続けておられます。25節どんなに響かないと思われる人にも、何度でも語り続ける姿がそこにあります。関わりをやめない、真の関係を作ろうとするイエス様の姿です。

30節「私と父は一つだ」それは不思議な言葉です。神様とイエス様、その二つは、とても不思議な結びつきでつながって、ひとつなのです。そして、イエス様は神様とだけではなく、私たちとも強く結びついてくださるお方です。神様とイエス様が固く結ばれているように、私たちもイエス様と固く結ばれているのです。イエス様を信じる、イエス様の羊となるということは、イエス様とその関係に入ることです。イエス様が絶対に離れないと言ってくださる、その関係の中に私も入るということが信じるということです。信じるとは信頼する、イエス様との関係に信頼するということです。

神様とイエス様は固い関係で結ばれ、ひとつの関係です。そうであるのと同じように、私たちとイエス様も固い関係で結ばれた、ひとつの関係です。そして私たちはイエス様が私たちと強い関係の中にいて下さるからこそ、地域と、社会と、他者と強い関係を作ることができるのです。それが神様にある一体感です。その一体感を多く人とともに感じたいのです。

礼拝は、神様が共にいて下さる、その一体感、神様の側から私たちに強く結びついてくださる一体感、そのことを礼拝でも表したいと思います。そして私たちの一体感を大事にしましょう。

こどもたちとの一体感を礼拝で大事にしたいのです。神様が私たちと強く結びついてくださるように、私たちも子どもたち、教会の仲間たち、地域の人たちと結びついてゆきたいのです。そして子供たち自身にも、神様からの強い結びつき、一体感を感じてほしいのです。

 

「私たちは羊、イエス様は羊飼い」ヨハネ10章1節~16節

今月は子どもというテーマで聖書に聞いています。ヨハネ福音書にはたとえ話は多くありません。ですからの今日のたとえを味わって読みましょう。

羊飼いの仕事とは何でしょうか。それはまず羊を群れにすることです。羊は弱い動物です。だから羊飼いは羊を群れにさせます。そして羊飼いは群れに餌となる草を食べさせ、獣から羊の群れを守ります。また夜には獣に襲われないように安全な囲いの中に入れます。門では、羊の群れ一匹一匹がケガをしていないか点検します。羊飼いはそうやって群れの一匹一匹を丁寧に見るのです。羊飼いの仕事は集める、導く、守る、食べさせる、けがをしていないか点検することです。

今日のたとえでイエス様は11節でご自分を「私は良い羊飼いだ」といいます。イエス様は羊飼いのように、私たちを集め、守り、食べさせ、けがをしていないか点検します。

この人についていけば、この人に導かれれば、安全だと信頼をするから、多くの羊が従います。もし私の足が遅くても、この羊飼いなら、私を置いていくことがない。その信頼ゆえに、羊は羊飼いの声を聞き分けます。この群れは、ただの群れではなく、羊飼いを信頼する群れです。羊同士も羊飼いに信頼する仲間です。羊と羊飼いとの特別な信頼関係、そして羊同士の信頼関係がこの群れにはあります。

このたとえでイエス様は、私たちのことを羊の群れだと言っています。羊の群れとは教会のことです。私たちはイエス様のもとで、み言葉を聞く群れです。私たちは何が神様のみ言葉かよく聞き分ける群れです。そしてそれぞれがイエス様を信頼する時、私たちの間にも特別な信頼関係が生まれます。それが教会の交わりです。

今日のたとえには羊の門という言葉も出てきます。この信頼できる安心の中に入ることができるのが門です。この門は、信頼と安心にいたる門です。

しかし、良い羊飼いの門だけではなく、偽物の羊飼いもいます。その群れでは、羊は困難な状況になるとすぐに切り捨てられ、置き去りにされてしまいます。厳しい自助を求められます。この群れに安心はありません。

偽りの指導者に導かれる世界は弱肉共食の世界です。弱者、こども、高齢者は切り捨てられ、見放される世界です。だれも他者を助けようとしない世界です。その人たちは声をかければ必ず聞いてくれるでしょう。

さて、こどもというテーマでもみましょう。子羊は群れの中でもっとも大切にされる存在です。ぜひ私たちも名前を呼びあい、傷ついていないか点検しあう羊でいましょう。この場所を子どもたちに信頼と安心を感じてもらえる場所にしたいです。教会の子どもたちだけではなく、多くの子どもたちの名前を覚え、安心してもらいたいのです。きっと子供たちは聞き分けて、信頼してくれるはずです。

「愛に生きる自由」ヨハネ8章31節~47節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができて感謝です。子どもたちも集ってくれています。平塚教会はこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聴きながら、共に礼拝をしてゆきましょう。特に今月は子どもをテーマとしながら宣教をしてゆきたいと思います。

今日の宣教題は「愛に生きる自由」という宣教題ですが、皆さんにとって「自由」とはどんなことでしょうか。たとえば食べ放題、好きなものを好きなだけ食べる自由です。回転寿司もそうでしょうか。家族で行っても、好きなネタを好きなだけ食べることができます。以前オーダーメイドのスーツを作ったことがあります。いろいろなオプションが選択できました。選べるのはスーツの生地や色、シルエットだけではありません。ボタンの色や形、ポケットの傾き方、裏地の色、すべて自分の自由に作ることができます。私たちの生活はなんでも自分で選び、決めることができるように思います。ドラッグストアのシャンプーは種類が多すぎて選ぶことができません。

しかしそれが本当の自由かというと、自由はそんなに安っぽいことではないはずです。本当の自由とは何か、自分は自由であるかを考える時、私たちの内面を見る時、自分はそれほど自由ではないと感じるのです。

私たちには本当はこう生きたい、こんな人間になりたいと思っているのに、なかなかそうなることができない、不自由さがあります。本当はあんなことすべきではなったとわかっているのに、そうしてしまった。本当はもっとこんな言い方をすればよかったのに、あの時すぐに謝っておけばよかったのに、そんなつもりはなかったのに。私たちは自分がすべきと思うことができない不自由な存在です。したいことができない不自由さを生きている存在です。誰も傷つけたくないのに傷つけてしまう、不自由さの中に生きている存在です。シャンプーが選べるのは表面的な自由です。でも人間はその本質で、誰もが不自由さの中に生きています。

クリスチャンはさらに不自由に見えるでしょうか。多くの人から見て、毎週日曜日に教会に来るということは、大きな不自由に見えるでしょう。日曜日に誘われるゴルフ、BBQ、同窓会、家族サービス、休日出勤。みんな「できません」と断って教会に行きます。周りの人は「ああ、キリスト教は、なんて不自由な宗教なんだろう」と見えるでしょう。教会に来る、礼拝に続けて出席するとは不自由の極みではないでしょうか。でも私たちはこの不自由を選び続けています。今日も選びました。

教会に毎週集うこと、それは表面的には不自由に見えます。でも本当の自由が教会にはあるのではないでしょうか。教会は自分がどう生きたいか、どう生きたくないのかを考える場所です。そして神様と仲間から、それを生きる力を頂くことができるのが教会・礼拝です。一番私たちがしたいこと、それは愛に生きるということです。その一番したいことと正面から向き合っている教会・礼拝、それは私たちにとって一番したいことに取り組んでいる自由な時ではないでしょうか。

目先の自由ではなく、本当に私たちがどう愛に生きるかを考える、本当の自由さを求める、本当の自由さがあるのが教会・礼拝ではないでしょうか。キリスト者は不自由に見えますが、本当は最も自由です。しかも教会では、神様の前では何だって祈っていいのです。どれだけ実現不可能と思えることだとしても神様に祈っていいのです。どんなに自分が不足と欠けのある人間であっても、人を愛することができるように、愛に生きるようになりたいと祈ってよいのです。

教会に集うこと、一番したい愛に生きるということの為に集うことの方が、シャンプーを選ぶよりも何倍もしたいこと、何倍も自由な時ではないでしょうか。本当に私たちがしたいことを目指す場所、純粋にそれを目指すことができる場所、自由な場所、それが教会・礼拝ではないでしょうか。だからこそ教会はなるべく自由な場所でありたいと思います。ああこうしなさい、こうすべきだというよりも私たちは愛に生きるために「どうなりたいか?」とか「どうありたいか?」を大事にしたいのです。それを聖書から聞いてゆきたいのです。

私たちは今日も、神様の言葉の中に、とどまるために集まりました。この礼拝に集いました。私たちは「愛」を選びたくても、なかなか選ぶことができないものです。でも今日、私たちが一番欲しい、愛に生きるということができる力、それをこの礼拝で受け取りたい、そう思うのです。それが私たちの一番したいことだからです。

 

 

今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所では自分たちは自由だという人々が登場します。イエス様はそんな彼らに、本当の自由とは何かを問いかけます。ここではユダヤの人々と出てきますが、律法でがんじがらめの自己中心的な人というような差別的な読み方はしたくありません。

 

よく読むと、31節「自分を信じたユダヤ人」とあります。この話はイエス様を信じますと言った人、少なくとも一度は信じた人に向けて語っています。つまり信じているのだけれども、何が自由かということが、再びわからなくなってしまっている人に語り掛けているのです。これは私たちのことも含むでしょう。一度はイエス様を信じても、本当の自由が何だったのか、わからなくなってしまう者、私たちです。

ユダヤの人々は自分が自由だと思っていました。奴隷ではないのだから、自分の生き方は自分で決めることができるのだから、自分たちはアブラハムの子孫、解放の歴史を持つ民族なのだと思っていました。

だから自分たちは自由だと感じてきたのです。たしかに彼らは困難の中でも自分たちの自由を守り続けてきました。しかしそれでもイエス様は、あなたたちは不自由だと言います。ユダヤの人々はあなたがたは不自由だと言われて怒りました。そしてもうそれ以上イエス様の言葉を受け入れようとしませんでした。37節むしろ殺そうとするようになったのです。

人々は、自分たちの自由を否定するイエス様を侮辱します。41節「私たちは姦淫の子ではない」とはイエス様の母親のマリアは結婚前に妊娠していたのだという、イエス様の出自を馬鹿にしている発言です。彼らの不自由さというのは、まさしくその言葉に表れています。

一度は信じたはず、神様の恵みを教えてもらったはず、でも目の前の相手を大切にできないのです。愛の関わりを持つことができないのです。そうすべきとわかっていても、出自への差別の言葉がでてきてしまうのです。なんと不自由な姿でしょうか。愛しあいたいと思っていても、口からはののしりの言葉が出てきてしまうのです。思うようにいかない、人間の不自由さを表しています。

そんな人々に44節でイエス様は言います。人は「初めから人殺し」だと、厳しく人の不自由さを指摘しています。旧約聖書のカインとアベルのことを指しているのでしょう。兄弟として力を合わせて歩むはずが、弟を殺してしまったアベル。

人は神の愛、恵みを知りながら、人と人とは共に生きる存在だと知りながら、不自由にもそれができず、殺しあう存在です。したくもない人殺しをしてしまった不自由。殺してはいけないとわかっていても殺してしまった不自由。ともに生きたいと思っていたのに、傷つけてしまった不自由。人間は愛の実践をできない不自由な存在、真理に立っていないのです。

 

私たちは本当にしたいことをできる、自由を求めます。私たちのしたいこと、すべきことができる自由さを手に入れたいのです。私たちはすべての人を愛することができる自由が、欲しいのです。殺しあうのではなく、愛し合うことをしたいのです。そのためにはイエス様が必要だと挙げていることが今日の最後の個所、47節に示されています。「神に属する者は神の言葉を聞く」という箇所です。

「神に属する者は神の言葉を聞く」というのは、言い換えるならば、神様に属する自由を得るためには、神の言葉を聞くことが大事だということです。表面的な自由ではなく、神に属する自由を得るためには、神様の言葉が必要です。聖書に聞いてゆくことが必要ということです。

私たち人間は自分の力では本当の自由を得ることはできません。自分の力だけではもっともしたい、愛に生きるということができないのです。自分の力だけでは不自由さのなかにとどまらざるを得ません。私たちは自分の、人間の不自由さにまず気づく必要があるでしょう。神のもとにいなければ、神に属さなければ、どれだけ日常を自由に過ごしても、愛に生きることはできない不自由なものであり続けるのです。

私たちは神なしには、他者を傷つけるということから逃れられない、不自由な存在です。私たちは本当の自由を求めます。誰も傷つけず、傷つけられず、共に生きる道、それが一番歩みたい道です。それは神様の導きの中にあります。それを生きる自由さを神様からいただいてゆきたいのです。

こどもというテーマを頂いています。その視点からも考えましょう。どうしても私たちは子どもに、あなたも教会に来なさいと言ってしまうものです。そして教会に来てからは静かにしなさいと言ってしまうのです。

本当は神様からいただく、自由を感じてほしいのに、そう言ってしまうのです。もしかして新しく来た方も不自由を感じているかもしれません。でも私たちは伝えていきたいのは、忘れないでおきたいのは、ここがまず本当の自由を求める場所なんだということです。愛に生きる、その一番したいけど、一番難しいことを、ここでしているのだということです。

それはもちろん、なんでもかんでも自分の思い通りにできるという、安っぽい自由ではありません。愛に生きること、あなたを大切にしたい、誰もあなたを傷つけない、その実現を求める場所です。そのことを忘れないようにしたいのです。

私たちは神様の前に、本当の自由を求めましょう。そして大人も子どもも共に礼拝をしてゆきましょう。お祈りします。

 

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「神はすべての人の光」ヨハネ12章20節~31節

8月は共に平和を覚えてみ言葉を聞いてきました。9月は「こども」をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。私は夏休みを頂き、裾野のキャンプ場に行ってきました。キャンプにはいろいろな道具が必要ですが、中でも照明器具、明かりが大事です。キャンプに行くと普段は気づかないこと、私たちの生活が、あふれる光に囲まれているということに気づかされます。星の明かりもそうです。不便な場所、人里離れた場所でこそ、星の明かりは、美しく見えるものです。テント中では、不便さも贅沢に感じます。暗さの中ではかえって光を敏感に感じるようになるものです。私たちは普段、たくさんの明かりに囲まれています。しかしいつもと違う環境になったとき、はじめて光の中にいたことに気づくのです。このことは私たちがいつも神様の恵みに囲まれているということと似ているのではないでしょうか。

今日の聖書個所を読みましょう。実はテントと光が重要なカギです。今日の個所は仮庵祭の最終日の出来事です。出エジプトの際に人々が仮小屋、テントで過ごしたという出来事を忘れないためのお祭りでした。この祭りでは、人々は自分の畑に仮小屋を作り、過ごしたといわれます。キャンプです。

そしてその祭りは、光の祭りでもありました。自分たちを導いてくれたのは、雲の柱、火の柱でした。その火の柱が再現されたのです。エルサレムの神殿の一番高い場所に炎がともされたのです。つまり仮庵祭とは神様の光が苦境にあった自分たちを導いたということを思い出す祭りです。仮小屋で、テントで不便な生活をする中で、光に気づいたことを記念する祭りでした。

聖書にはたびたび光という言葉が使われます。どの箇所でも大切なのは、光は神様から出ているものだということです。私たちが、自分自身で輝く、自家発電しているのではありません。私たちは神様から光を頂いて、光を放つのです。そしてそれに照らされて私たちも光となるのです。この光は普段は気づかないものでしょう。しかし、今いる場所が暗くなれば、暗い場所に行けば気づくものです。不自由さや病や苦しみの中でこそ気づくものです。

そして神様はただの光ではありません。イエス様は世の光です。世の光、それは世のための光、世界全体のための光といえるでしょう。神様は従った人にだけ光をあげる、キリスト教はそんなケチな宗教ではありません。イエス様は世の光です。世界全体をすでに照らしている光なのです。

子供というテーマでも考えます。光の子と闇の子がいるのではありません。すべての子供、すべての人間と被造物が光の子です。大事なのは、その光に照らされていると子供が自分で気づくことです。教会はそれを助ける場所です。私たちが子供を大事にする時に、自分に神様の光が当たっている子供に伝わっていくのではないでしょうか。誰かに大事されたとき、お互いに大事にしあうとき、お互いが光に照らされていることに気づくのではないでしょうか。

 

「非暴力抵抗の神」ヨハネ8章3節~11節

こんな問いを受けたら皆さんはどうするでしょうか。たとえばある男があなたの家族を、殺そうとしているとします。あるいは殺されてしまいました。あなたはどうするでしょうか。私も罪人だからあなたを赦しますと言えるでしょうか。それともその男を殺すでしょうか。それとも自分がされたのと同じ様に、復讐としてこの男の家族を殺しに行くでしょうか。

この問いには色々な答えがあると思うのですが、家族を殺されたら、相手の家族を全員殺すという選択をする人はまずいないと思います。その選択をすると、今度は相手の家族がまたあなたを殺しに来るからです。この選択はもっとも不毛で、負のサイクルに陥る選択です。

しかし、それと同じ事が世界で起こっています。戦争です。例えばアフガニスタンの紛争はそのようにしてはじまりました。この戦争は、自分の家族を殺された人が、相手の家族を殺すという構造です。自分の家を壊された人が、相手の家族の家を近所まるごと爆破するという構造です。私たちは暴力ではない力で、平和を実現させたいのです。たとえ暴力を受けたとしても、暴力で返すのではなく、違う方法で平和を実現させたいのです。

今日の聖書個所、イエス様がいるのは、抵抗するすべをなにも持たない女性が、いままさに殺されるようとしている・・・先ほど皆さんに問いかけた質問と同じ場面です。暴力による死を目前としたイエス様はどのような行動をとったでしょうか。イエス様は石を取って投げ返し女性を守ろうとしませんでした。また法律だからしかたがないと、粛々と法が執行されるのを見ていたのでもありません。イエス様は暴力を否定します。たとえ法律にそうあったとしても、誰かの命を守るためでも、暴力を用いることを否定します。

イエス様の行動は非暴力による抵抗です。人々の敵意・憎しみを捨て去らせるという行動をとったのです。石を持って投げようとしていた人々はイエス様の問いかけによって、人はまた必ず立ち返って歩むことができること、そして私たちと共に生きていくことが出来ことに気づいたのです。

イエス様は暴力によってではなく、そして罪をうやむやにすることでもなく、これに立ち向かわれました。イエス様が大事にしたのは、非暴力の力です。非暴力こそ人を変え、動かすことを示したのです。

私たちも世界を、そして日常をそのような視点で見たいのです。世界には暴力によって状況を変えようとすることがたくさん起きています。でもそれに新しい暴力で立ち向かう時、必ず負の連鎖が生まれ、多くの人が死にます。私たちの日常でもそうです。DV、パワハラ、セクハラ、忖度、様々な暴力があります。これに非暴力で抵抗したいのです。

暴力に直面したとき、私たちはどのようにすべきでしょうか。やむを得ず暴力しかないと考えるのは間違えです。必ず非暴力による抵抗が出来るはずです。イエス様と共に非暴力の中で何ができるか共に考えてゆきましょう。

 

 

「力を誇示しない平和の神」ヨハネ7章1節~17節

 75年前、広島と長崎に核爆弾が投下されました。この核爆弾が戦争終結を早め、多くの人を救ったと考える人がいます。本土決戦になったらより多くの犠牲が生まれたはずであり、原爆がそれを止めたというのです。昭和天皇も原爆は「広島の人には気の毒だが、やむを得なかった」と言っています。

 私は原爆投下は必要なかったと理解しています。原爆の目的は戦争を早く終わらせるためではなく、核兵器の威力を世界中に見せつける事で、戦後の国際覇権をアメリカのものとすることでした。もちろん日本はただの被害者ではありません。日本もアジアを徹底的に侮辱しました。それも必要のなかったことです。ただ力を誇示し、支配することが目的でした。

 戦争とは、互いが互いの力を見せつけ合う事です。なるべく自分を強く見せるために人を殺す、それが戦争です。日本は戦後この強さを誇示した歴史を反省し憲法を制定しました。そしてその憲法の精神は、私はイエス・キリストの願う平和と重なる部分が多いと思います。

 今日の聖書個所を見てゆきましょう。兄弟たちは、みんなの前で圧倒的な力を見せつけたら服従するようになるとイエス様を誘います。それは神様への信仰からの発言ではありません。彼らが頼みにしていたのは神様ではなく、力・パワーです。イエスはそれをきっぱりと断ります。イエス様は、自分の力を見せつけるという事に全く関心がありません。

 イエス様が人々にはっきりと見せたものとは、十字架の苦しみの姿です。ここに私たちはなぜイエス様を信じるのかということが隠されています。私たちがイエス様を、神様を信じるのは、どんな奇跡でも起こせるからではありません。私たちが信じるのは、イエス様が苦しい十字架の中に、神様の力が働くと信じたからです。私たちもそれを信じるのです。イエス様はどんなに圧倒的な力に打ち負かされようとも、必ずそこに神様の平和の力が働くと信じたお方です。十字架を通して、私たちもそれを信じるのです。

 「祭りには行かない」イエス様は一度はそう言ったはずなのに、やはり神殿に向かいました。その場所は分断と抑圧のある場所です。自分が信じていることを恐ろしくて言えない場所です。イエス様は自分の力を見せつけるためにはどこにも行きません。しかし、抑圧の現場には現れるお方です。イエス様が現われたのは、抑圧の真ん中でした。

 イエス様は私たちを具体的な行動へと招いておられます。力を見せつけることによって、軍事力によって世界を動かそうとすることに反対をします。

 私たちはイエス・キリストの十字架によって力に対抗したいのです。弱さの中に働く神の力によって、それにむかってゆきたいのです。それが平和を作りだすのではないでしょうか。平和は力を誇示する場所には生まれません。平和は十字架から生まれるのです。共にイエス様からその力をいただいてゆきましょう。

 

「神はウブムエして下さる」ヨハネ6章41節~59節

私たちは8月「平和」をテーマに礼拝をしています。今日は東アフリカにあるルワンダ共和国で和解の働きをされている佐々木和之さんの報告「ウブムエ」を元に、聖書から平和を聞いてゆきたいと思います。

1994年ルワンダでは80万人が殺される大虐殺事件がありました。分断と差別は一般市民が殺し合うという虐殺事件を生みました。虐殺が収束した後、ルワンダの社会や地域が元の状態に戻ることは容易ではありません。今もルワンダでは両者がどのように共に生きるかを模索しています。そしてその中で和解と平和のために働いているのが、佐々木和之さんです。

会報「ウブムエ」で報告されているのはウムチョ・ニャンザという虐殺事件の生存被害者である女性たちと加害者を夫に持つ女性たちが共に働く女性協働グループです。コロナ禍の中でも被害者と加害者家族のメンバーは分断を超えて、お金を分かち合い「一緒に働いてきて良かった」と感じたとあります。佐々木さんはこのことを次の様に考察しています。「やがてコロナ禍を生き延びた時に、その方々との関係がより強く愛に満ちたものになっていることを心から願います。」

このことはコロナだけではなく、虐殺の被害者と加害者の関係も含めた言葉でしょう。私たちも困難の後に、関係がより強く愛に満ちたものになってゆくことを求めたいのです。そしてこの会報のタイトル「ウブムエ」はルワンダ語で「一致」「調和」「和」を表す言葉です。私たちにも様々な分断があります。私たちはその隔てを超えて、一致「ウブムエ」をしたいのです。

今日の聖書の個所を見ましょう。今日の個所44節、神様と一致し、ウブムエする事、それは神様が起こすことです。神様が私たちを招き、一致・ウブムエして下さるのです。48節、私たちは主の晩餐を毎月していました。あれを食べると不死身の体になるわけではありません。

56節、これを食べるとイエス様の中にいる、イエス様が中にいる、そんな一致、そう「ウブムエ」を体験します。それを食べると57節、すぐに分断してしまう人間が神様の内に生きるようになり、神様との一致を体験するのです。そしてそれは他者との一致へ広がります。

あのパンを食べるという事、それはイエス様との一致、ウブムエの体験です。その一致を通じて、私たちには互いに一致をしてゆく者とされるのです。分断を超えて、平和を生きる者とされるのです。

イエス様のパンは命のパン、平和のパン、一致のパンです。イエス様は私たちと一致をしてくださる、ウブムエして下さるお方です。だから私たちもお互いに一致ができるはずです。どんなに違い、憎しみ困難、過去があっても、それにまさる希望、一致「ウブムエ」を神様が必ず用意して下さっているのです。イエス様は私たちの壁と分断を壊し、一つにしてくださる。「ウブムエ」させて下さるのです。

 

「平和の食べ物」 ヨハネ6章22節~27節

 聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争だけではなく、構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。

 そのような世界でシャロームとは、図のように、高い場所と低い場所が均等になり、きれいな丸になってゆくことです。押し込められ、低くされている場所には十字架があります。イエス様の力は、低くされたその一番下から元に戻そうと働きです。その動き・運動がシャロームです。小さくされた人に神様の力が働くことによって、すべての人々が等しく豊かに生きる事、それが聖書の平和・シャロームです。

 日本は80年前、世界のシャローム・平和を大きく壊しました。日本は自分たちの繁栄だけを求めて、アジアに進出・侵略し、大きな憎しみと侮辱と絶望をもたらしました。しかし世界は、日本はまた自国優先主義へと向かおうとしています。

 今日の聖書個所を読みましょう。人間のパンへの願い、食べ物への願いはバランスを崩しやすいものです。人々の中には「あの人はパンをくれる」と欲望のまなざしを向ける人がいたのです。自分だけの繁栄や自分だけの欲望を満たすことは平和、シャロームを生み出すことではありません。そのように舟を出す姿は、日本がアジアに侵略戦争として舟を出すのと同じ発想です。誰かを犠牲にして、押し込めてそれを得ようとするとき、自分だけ繁栄をしようとするとき、それは絶対に平和を生みません。そのように食べ物を求める時、繁栄を求める時、そこに起こるのは戦争と貧困と格差と差別です。

 私は平和を求めつつ、パンを求めてゆきたいと願うのです。それこそがパンではなくイエス・キリストを探すということではないでしょうか。イエス様は命と食べ物を自分のものにするだけではなく、天からのものとして分かち合いなさいと教えてくれるのです。私たちが求めるもの、それはそのように恵みと感謝を呼び起こす食べ物です。平和の食べ物です。

 自分の食べ物を追いかけるのではなく、イエス・キリストの姿を、生き方を追いかけなさい、それが永遠の命に至る道であり、それが平和を作り出すのだというのです。私たちそれぞれ、イエス様から今日、永遠に朽ちないパンを私たちの心にいただきましょう。私たちは世界の平和・シャロームを願ってイエス様のパンを食べましょう。そして永遠の命を頂きましょう。

 

「70年間の目的地」ヨハネ6章16節~21節

1990年頃バプテスト連盟全体では500の教会と5万人の信者が目標とされました。教会を作る方法としては「母教会主義」が取られました。平塚教会も90年代この流れの中で1993年6月小田原伝道所を開設します。

限られた資料ですが、そこには開設当初の戸惑いや心配の声が記録として多く残されています。しかし、その中でも平塚教会は伝道所開設へと踏み出しました。しかし小田原伝道所は他の教会組織をした伝道所と違い、自立した組織には至りません。そんな中、牧師が退任することとなります。

2011年には小田原伝道所から平塚教会・バプテスト連盟との関係を解消したいと申し出があり、それは伝道所の意思として尊重されました。

どのような理由で距離感が生まれて来たのかは分かりませんが、両方の教会に課題や痛み、葛藤があったのでしょう。平塚バプテスト教会としては伝道所を成長させ、地域に定着させてゆく目標は達成できませんでした。

しかし私たちの目的、思いが何だったのでしょうか。私たちが小田原伝道所を出した目的、それはその途中で人々と出会う事、そしてイエス様と出会うことではなかったのでしょうか。そして今の私たちの教会も同じく、人数が、数がということ以上に、平塚の地域の人々に、そしてイエス様にどうやって出会うことができたのか、それが問われているのではないでしょうか。

今日の聖書個所を読みましょう。いつからか人々はこの聖書個所の舟とは教会の事だと理解するようになりました。教会は小さな群れとして暗闇に漕ぎ出すのです。しかし湖は荒れ始めます。漕ぎ出した舟はまるで私たち平塚教会の様であり、小田原伝道所のようでしょうか。

そこに不思議にも、イエス様が湖の上を歩いて現われます。でも、もう一つ不思議な事が起こっていることを見逃さないでください。それは21節「舟は目指す目的地についた」ということです。イエス様を受け入れようとしたら、いつの間にか目的地だったのです。

もしかすると、イエス様に出会う時、不思議と私たちもそんな経験をするのかもしれません。イエス様と出会った時、そこが私たちの目的の地だったということです。

この物語で指し示されているのは、「私だ」という言葉です。そうイエス様との出会いを見よということです。私たちの歴史の中にどのようにイエス様との出会いがあったのかを見よとイエス様は言うのです。

私たちの目指す場所、それは目標の達成ではありません。その途中にイエス様との出会うということが目的地なのです。大切なのはその旅の途中で「私だ」というイエス様と出会うことです。出会った場所、そこが本当の目的地になるのです。私たちにはこれからもチャレンジがあります。きっとイエス様との出会いが隠されているはずです。大事にしたいのはイエス様との出会いです。それが私たちの本当の目的地だからです。

 

「70年間の無力の強さ」ヨハネ5章19節~36節

70年の歴史の中で幼稚園の閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の記録によりますと、1978年12月に初代牧師・長尾三二先生が天に召された後、附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の方針を引き継ぐのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園教諭全員の退職につながります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が教会を去ることになってしまいました。何とか幼稚園は続きましたが、結局幼稚園は8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。

このような状況でも教会が続いたのは、そこに不思議な力が働いたからでしょう。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や奉仕者の頑張りがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断により、この教会は続きました。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様がこの教会を建て続けると決めたのです。

教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」が刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことが刻まれています。栄光だけではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注いだのです。

今日の聖書個所を見ましょう。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。19節後半です。「自分からは何事もできない」と。自分は無力だというのです。

21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。24節、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。25節、無力さの中に神の声が響き渡る時、今がその時です。私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。

教会の歴史には無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力の証しです。

平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私はこの教会をもっと力強い教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。そしてそこに神様の力を求めてゆきましょう。そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。

 

「70年間の勇気」ヨハネ16章25節~33節

 

 今日より私たちの教会が70年を迎えたという事について、3回に分けて考えてゆきたいと思います。

70周年の節目に教会の資料整理をしています。古い執事会の記録や証し集などに目を通すと70年間で何回もこの教会にはピンチがあったという事を知りました。それと同時に教会がこれまでの70年間、変わらずに語られている事を考えました。その一つは平和という事が言えると思います。

教会は70年間、平和を語り続けました。どの牧師たちも平和を語りました。礼拝で平和を宣べ伝える、それは牧師個人の願いを超えるものです。神様が私たちに平和のためのみ言葉を与え続けて下さったのです。70年間神様は、平和を実現するために、私たちを勇気づけて下さったのです。

しかし一方、私たち人間の決意、平和への決意とは弱いものです。75年前の空襲の夜、どれほど強く平和を願った夜だったでしょうか。しかし今平和の誓いも危機にあります。また教会の内側も70年間平和だったとは言い難いものでした。分裂や閉鎖の危機さえもありました。

このような中で、私たちが平和を求め続けてゆくには、何よりも、神様から励ましが必要です。私たちは神様が70年間、平和を私たちに語り続け、その実現のために勇気と励ましをくださったから、これを続ける事ができたのです。平和は必ず実現します。それが神様の約束だからです。

今日の個所はイエス様の長い話、それも平和のためだったあります。そしてイエス様はもうそれを言葉やたとえによって伝えるのを終えると言います。はっきりと知らせるとは、十字架によって知らせるという事です。

弟子たちは30節「今、分かった」「私は信じます」と言います。しかし、この後の弟子たちはイエス様を見捨てて、散り散りに逃げて行きました。平和をすぐに諦めてしまいました。私たちには決心より神様の力が必要です。

私たちには、私たちの決意に先立つ恵みと導き、神様からの励ましと勇気が必要です。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちにその力を、平和を実現するための力をお与えになるお方です。

十字架とは神様と等しいイエス様が、もっとも平和から遠くされた出来事です。私たちはもう二度と誰も十字架にかけてはいけない、誰も剣を持たない、誰も見棄てない、困難から逃げない、その力を私たちはいただくのです。その十字架から私たちは力をいただき、平和を願い求め続ける者となるのです。決意に先立つ恵み、勇気、励ましを頂くのです。

平塚バプテスト教会も何度も打ちのめされそうになりながらも、神様によって建てられ続けてきました。そして平和を語り続けてきました。それができたのは、ひとりひとりのがんばりに先立つ、十字架のイエス様がいたからです。これからも神様は共にいて下さいます。私たちは平和を求め続け、み言葉に聞き続けましょう。神様からの勇気を求め続けましょう。

 

「礼拝は一緒の食事」Ⅰコリント11章17節~22節

今日で12回シリーズの「礼拝は〇〇」というテーマの宣教は最終回です。

私たちの教会では、コロナの期間、主の晩餐を一時中断していました。今日は実に5か月ぶりとなります。私たちは70年間で初めて中断をしました。喪失感はどれほどあったでしょうか。実は私はあまり感じないのです。私は、いえもしかしたら教会も、主の晩餐を不要不急としてきたかもしれません。

初代教会では主の晩餐は、今でいうところの愛餐会・食事会でした。最初はとにかく全員でとる賑やかな食事だったのです。聖書にはイエス様がいろいろな人と食事をした場面が出てきます。関わらない方がいいと言われる罪人や外国人と食事をします。垣根を超えて、分け隔てのない食事すること、それがイエス様の運動でした。そのことを初代教会は忘れずに、みんなで食事をしていました。聖書には様々なイエス様の食事を描いています。主の晩餐は大きく分けて4つの食事のモチーフがあります。罪人との食事、最後の晩餐、復活後の食事、奇跡の食事です。

今日の聖書の個所を見ましょう。当時コリント教会でも主の晩餐、食事が行われていました。しかしそこでは一緒の食事ではなく、金持ちが先に食事をしました。貧しい信徒は金持ちの食べ散らかした、そのあまりものを食べていたのです。パウロがわざわざ手紙で怒っているのはそんな主の晩餐の在り方です。分かち合わずに、先に食べる人たちに、家で食べろと言うのです。

少し先の28節にある「誰でも自分を良く確かめなさい」とはこのことです。確かめるのは、自分だけ良ければいいや、食べてない人がいるかどうかなんて関係ない、えい自分が全部食べちゃえ。そういうことが無いかをよく確かめながら、主の晩餐をしなさいと言うのです。

ですから主の晩餐は自己吟味をして食べるという意味だけにはとどまりまりません。いわば共同体吟味です。私たちがその食事を分かち合う群れになっているか、共同体を点検する、吟味する、そのことがこの食事では求められているのです。互いに仲間割れが起きていないか、配慮しあう、祈りあうことができる共同体か、そのことが吟味される食事なのです。

私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で70年間続けてきました。礼拝の中でイエス様とのさまざまな食事を思い出し続けていました。今日もイエス様とのあの食事、それぞれに思いだしながら食べましょう。そしてこれはみんなで一緒にする食事です。私たちの仲間のことも、世界のことも思い出しながら食べましょう。それは礼拝の中で欠かせないものであるはずです。

さて、私たちは礼拝について、3か月ほど共に考え続けてきました。

礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集い、礼拝はみ言葉が中心、礼拝は献身、礼拝は派遣、礼拝は続く、そして礼拝は一緒の食事です。

学ぶだけで終わりではなく、日々の新しい礼拝を吟味してゆきましょう。

 

「礼拝は続く」ヨハネ17章15節~23節

今日は礼拝から派遣された後も礼拝はそれぞれの生活の中で続いていくのだという事を考えたいと思います。

私たちの派遣される世は厳しい現実の中にあります。私たちはシャロームとは遠い、破れと歪みに満ちた世界に派遣されます。今、最も大きなゆがみとして世界に突きつけられているのは、人種差別でしょう。特にアメリカでは黒人への差別の問題が根深く残っています。5月25日にジョージ・フロイドさんが、警察官に取り押さえられ窒息死した、それをとらえた映像は目に焼き付いています。

『クラスメイトは外国人「課題篇」』という本があります。この本の中の第5章「外国人のこどもの貧困」の舞台は平塚市の子ども食堂です。外国人の親を持つ子供たちの困窮と、それに対する偏見・差別が描かれています。「外国人だから仕方がない」と片付けてしまう、差別と偏見が描かれています。

このような現実世界の中で、イエス様の弟子であり続け、それに立ち向かってゆくためには、ありあまるほどの力が必要でしょう。使いきれない程の恵みが無ければ、弟子として立ち向かうことはできないでしょう。だからこそ今日の礼拝、今日の教会でその恵みをはっきりと受け取って派遣されたいのです。祝福の宣言を受けてこの世へと派遣されてゆきたいのです。私たちは6日間、教会から、礼拝の中から、派遣され続ける者です。そのようにして礼拝は私たちの生活の中で続いていくのです。

今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様が願っておられること、それは私たちが世から隔絶されることでありません。イエス様が願うのは、汚れたこの世界からの隔絶ではなく、この世界のただなかに生きることです。

イエス様は私たちの役割を祈っています。21節、すべての人をひとつにするという役割です。私たちが派遣されるそれぞれの場所には必ず分断があります。差別や偏見や衝突があります。その分断に和解をもたらし、平和をもたらし、一つにするようにと、私たちは派遣されるというのです。それが私たちの役割、使命です。平和を作るのが使命です。

私たちは派遣されます。祈られて、使命を持たされて、分断へと派遣されます。イエス様の願いは、私たちの派遣された先ある、すべての分断が和解し一つになる事です。すべてが完全に一つになる事です。分断のない連帯をする、差別の無い、助け合う社会・関係になっていくことがイエス様の願いです。そして遣わされた私たちが他者を愛することによって、神様がイエス様を愛したこと、神様が分け隔てなく人々を愛することが伝わるのです。

礼拝は祝祷と派遣で終わります。礼拝とこの世の二つがあるのではありません。世にあって、礼拝を続けている、それが私たちなのです。私たちの1週間、神様を礼拝しながら歩みましょう。奉献の後、祝祷・派遣の時を持ちます。

 

「礼拝は派遣」マタイ28章16節~20節

私たちは礼拝をテーマに宣教をしています。今日は祝祷について考えたいと思います。私たちの教会では次の様に祝祷がされています。

 

「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また小さくされた者と共に、全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」

 

この祝祷、いったい何がされているのでしょうか。祝祷の中でされていることは大きく分けて二つです。ひとつは祝福の宣言、もうひとつは派遣です。この祝祷は第一に神様の祝福を宣言するものです。宣言とは神様の愛が私たちに一方的に注がれる。すでに、そしてこれからも注がれるという宣言です。

さらに祝祷の一番大きな意味は派遣です。礼拝は招きで始まり、派遣で終わるのです。礼拝は招きと派遣の繰り返しです。私たちの礼拝と生活は決して切り離されたものではなく、その往復によって信仰に生きるのです。

さて今日の個所を読みましょう。イエス様は集まるように指示されていました。それは神様の招きです。そして人々はひれ伏しました。「ひれ伏した」は礼拝をするという意味です。イエス様に招かれて礼拝をしていたのです。もちろんその集まりは、熱心に信じる者の集まりであると同時に、信じ切ることが出来ない、疑いや不安を持った人々集まりでした。私たちと同じです。招かれ礼拝する、信仰と疑いをあわせ持つ私たちです。

イエス様が大事になさったのは、弟子になるということです。私たちが求められているのは、どこに派遣されてもイエス様の弟子であり続けることです。私たちが他の誰の弟子にもならないことです。

弟子として歩むとはどんなことでしょうか。私たちは祝祷で「私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう」と言っています。これが弟子として歩むことではないでしょうか。弟子になるとは神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕える事です。

私たちの礼拝はその終わりに、祝祷をします。それは神様の恵みの宣言です。そしてこの地上へもう一度派遣されることを示すのです。派遣した先で、弟子として生きよ。そのように私たちは、神様から送り出されているのです。そして私たちは1週間を弟子として生きるのです。

そして聖書によれば、イエス様は派遣されると同時に、いつでもわたしたちと共にいて下さるお方でもあります。イエス様は私たちを派遣されると同時に、一緒に私たちと歩んでくださるお方、インマヌエルのお方なのです。

神様は招き、派遣し、共にいて下さるお方です。その恵みを頂きましょう。

 

「礼拝は献身」申命記14章22節~29節

私たちは礼拝で「献金」をしますが、礼拝のプログラムには「奉献」と表記されています。奉献と献金を比較すると、一番大きな違いは「金」という言葉が入るか入らないかです。献金の方が事柄をよく言い表しており、何がされるのかも明確です。でもそう表記しなかった70年間、きっと何か意味があったのではないでしょうか。おそらくこの言葉を使うのは、私たちの奉献の時、献げているものは、お金だけではないからです。私たちはお金ではなく、何事かを献げているわけです。では一体何を献げているのでしょうか。それは私たちの命、私たちの人生を献げている言えると思います。

私たちは、命は神様のものと考えます。命は自分のもの、人間のものではないと考えます。だから、いらない命は無いのです。人間がどんなにこんな命は無意味だと思っても、神様はすべての命が大切だとおっしゃるお方です。お金も同じ様に考えることができるでしょう。そのお金はたしかに自分のものです。しかしそれも、私たちは神様からいただいたものと考えます。

だから私たちは命もお金も自分のためだけに使うことをしません。神様のためにまずそれを使おうと考えるのです。そして神様からの命と恵みに感謝し、自分のためだけに使うことを諦め、お互いのために使うのです。奉献とは命と恵みに感謝し、お返しすること、分かち合うことなのです。

今日の個所によれば、献げ物は主をおそれる事を学ぶためにあるのだとあります。そしてそれをレビ人、寄留者、孤児、寡婦のために使う様にとあります。献げ物をする目的・動機、それは神様が怖い、恐ろしいからではありません。畏れとは、神様の偉大さを知る事、つまり神様がすべての命を作られたと知ることです。

私たちは神様が命を作られことを学ぶために、献げ物をするのです。そして献げられたものをどのように使ってゆくかも示されています。人々は神様に献げたものを、献げただけではなく、一緒にみんなでそれを分かち合って食べました。献げ物とは神様の元にある分かち合いだったのです。

聖書には特に寄留者、孤児、寡婦と分かち合うの様にとあります。これは現代の貧困にも重なります。献げものは自分たちの信仰を守る事だけではなく、生活に困窮している人々にも具体的に使うものであるということです。

私たちも教会の予算の中からは震災支援募金、社会福祉献金を支出します。自分達の信仰のためだけではなく、生活に困る人と具体的に分かち合っていく、そのことも神様が私たちに示していることです。

献金に痛みが伴います、それは献身の痛みです。そして一番自分を献げられたのはイエス・キリストです。自分の人生を献げ、神に仕えたのがイエス様です。私たちが献金をして痛いと思う時、それはイエス様の十字架の痛みと同じものかもしれません。それは自分だけのためだけに生きるではなく、他者と神様を選び取っていく痛みだからです。

 

「礼拝はみ言葉が中心」ルカ福音書4章16節~26節

ピカソの絵を始めてみた時、まったく理解できませんでした。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知りました。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃をモチーフにした絵だというのです。

その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませると、戦争の恐怖や悲しみ、怒りを感じとります。この絵をどのように解釈するかも自由です。そこに正解はありません。しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに想像力をもって見るようになりました。それでもここで大事なのは絵の解説ではなく、絵そのものです。

私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます

当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。

礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですから、礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかし宣教とは「み言葉の僕」です。礼拝は聖書勉強会ではありません。もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。

今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。

み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。

私たちもそのような宣教の時を持ちましょう。今日私たちには、一緒に礼拝することが実現したのです。捕らわれていた人が解放されたように、自宅に捕らわれていた私たちは解放されたのです。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。

今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を中心としましょう。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂いてゆきましょう。

 

「礼拝は平和の集い」ヨハネ20章19節~29節

「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。今日は「平和の挨拶」は、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいて下さることを互いに確認するためにあるのだということを見てゆきたいと思います。

礼拝の中で挨拶するのは、交わりを持つことの大切さを表現しています。この挨拶が無い教会では、今自分が誰と一緒に礼拝をしているのかが、わからないのです。これではなかなか礼拝共同体にはなることができません。私たちが誰と一緒に礼拝をしているのかを知る、そして誰が今日いないのかを知るということが平和の挨拶の大事な役割です。礼拝の中で挨拶をする大切さはそこにあります。

そしてこの挨拶が苦手な人も必ずいます。苦手な方への配慮も具体的に必要です。コロナウイルスの事も踏まえ、人と時にあわせて考えてゆく必要があるでしょう。

この挨拶はなぜ「平和の」挨拶なのでしょうか。それは私たちお互いの関係が平和のうちにあるということを確認するための挨拶だからです。そして私たちにとっての平和、それは神様が共にいるということです。平和の挨拶とは、私たちの互いの平和の関係の確認、そして神様が共にいるという平和の確認をお互いにしあう事なのです。

今日の聖書を見てゆきましょう。イエス様もこの平和の挨拶をなさったお方です。弟子たちはイエス様がとらえられた時、一目散に逃げだし、裏切り、見棄てました。そして裏切ってしまった自分への自己嫌悪、罪悪感は彼らを家に閉じこもらせたのです。弟子たちは自分の心に鍵をかけて閉ざし、集まっていても心はバラバラでした。そのような孤独と不安のまん中にイエス様が現われます。そしてイエス様は「あなた方に平和があるように」と平和の挨拶をするのです。ここでイエス様はヘブライ語で「シャローム」と言っていたはずです。

シャロームの平和、それは神様がともにいて、安心している状態です。そして私だけの安心ではなくて、ともにいる人々すべてに安心がある状態、それがシャロームです。つまりみんなが神様と共にいる平和とも言えるでしょう。それがイエス様の再会の第一声だったのです。

それは自分を裏切った相手に対しての恨みではなく、和解と平和の挨拶でした。そして神様が共にいる、それを実感させる挨拶だったのです。

私たちも礼拝の中で平和の挨拶を交わします。平和の挨拶は閉じこもっていないで、自分の心のカギを開けて、どうぞ親しみを込めて挨拶をしてください。お互いが平和を感じる事ができる挨拶を探してゆきましょう。そして再会できる時を待ち望んでいます。その時また、互いに信頼と、神様が共にいることを確認し合う平和の挨拶を交わしましょう。

 

「礼拝はこども歓迎」ルカ9章48節

 私たちは子どもを大切にする教会を目指しています。そして子どもと一緒に礼拝することを大切にしています。今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。子どもを大切にすることを表す聖句です。

神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えて下さいました。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈ります。神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れ、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にする事が神様を受け入れるということです。

 しかし今日の個所、イエス様は「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」と言います。神様=イエス様、イエス様=こどもという事です。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。

 かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのです。

 弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たちは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエス様を、神様を迎え入れることになるのです。そしてイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。

私たちは今、礼拝ということを考えています。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。

 今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。

礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。

 

「礼拝は歌う」出エジプト15章20節~21節

私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」です。教会にはたくさんの芸術があります。この芸術たちは教会にとってそれぞれ意味があります。中でも音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつです。

私たちはなぜ礼拝で歌を歌うのでしょうか。当初のバプテストは、礼拝で賛美を歌うかどうか熱心に議論しました。そこで指摘されるとおり、歌は危険です。歌っているうちに、いつのまにか賛美歌の対象が神様であることを忘れてしまうことが起こるからです。時には間違った目的に利用されます。

それでも私たちが礼拝の中で歌う理由の一つは、歌うことが私たちの共同体をよく現わすからです。私たちは声をお互いに合わせています。そうやってお互いに合わせることでひとつの美しいメロディーになるのです。歌を歌うことは、一つの共同体になることを示すのです。

そしてもちろんその歌は神様の素晴らしさを現わしている歌です。私たちはお互いを意識しながら、神様を素晴らしいと歌っているのです。私たちは神を讃えるために、互いの声を聞き、声を合わせ、奏楽に合わせ、神に歌うのです。それが歌う目的です。お互いの、左右の矢印と、下から上への矢印を同時に表現することができるのが賛美歌なのです。

今日の聖書の個所を見ましょう。聖書にはたくさんの芸術、特に音楽があり、いろいろな楽器が登場します。マリアムは踊りと楽器と歌で神様の素晴らしさを表現したのです。ミリアムはみんなに合わせて歌いました。そしてみんなはミリアムに合わせて歌いました。神の民のすべての人々が声を合わせて、体を動かして、神様の素晴らしさを現わしたのです。彼女たちはその踊り、叩き、歌をしっかりと神様に向けて歌いました。それは神様の素晴らしさを表し、私たちの共同体を表現していたのです。

そしてここで歌われているのは私たちの決心ではありません。神の業そのものがここで歌われているのです。決心よりもまず神様の素晴らしさを表わす、それが私たちの賛美なのです。

私たちは今集まって共に歌うことが出来ません。苦しい時にいます。でもいつか必ずまた賛美を歌うことができるようになります。その時、神様に精一杯の感謝の歌を捧げましょう。苦しい時に神様へ祈るだけではなく、乗り越える事が出来た後、、神様への感謝をまた歌で表したいのです。

私たちは一緒に新しい歌を歌いましょう。新しい歌それは、新曲という意味ではありません。それは私たちが歌う、ストレス発散の歌ではなく、それとはまったく違う新しい歌です。新しい気持ち、新しい感謝をもって歌を歌いましょう。その歌は互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら歌いましょう。そして、なにより神様にむけて、賛美をしましょう。

 

「礼拝は共同体作り」使徒15章3節~21節

 私たちは今、「礼拝とは何か」というテーマを考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマです。礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められ、そこで私たちは一つの教会になります。私たちは礼拝共同体です。私たちを一番結び付けているのは礼拝なのです。

 今日は礼拝の中の「報告」について考えます。報告は礼拝の一部です。忘れがちですが、礼拝プログラムの中に組み込まれている礼拝の一部です。

 報告は礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で置くべきでしょうか。どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているからです。

多くの場合、神様は教会の仲間や友人を通じて、私たちに変化を起こそうとなさいます。だから私たちはそれぞれがみ言葉を聞いていればいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。このような共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。

 今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所は報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。報告によって教会は大きな喜びに満たされます。自分たちの民族以外にも福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。

 しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。

 ある人はユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになると考え、イエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだと主張します。またある人は神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだと主張します。

 私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。

 いずれにしても今日見たいのは、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。そして報告によってこの共同体は境界線をなくしてゆくことを選んだのです。

 報告によって、礼拝共同体の在り方は大きく問われました。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを問われ選ぶのです。

 

「礼拝は招き」ヨハネ21章1節~14節

今、私たちは「礼拝とは何か」をそれぞれの自宅で考えさせられています。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素と順序、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣を見ました。今日からは私たちの礼拝のプログラムのひとつずつを考えてゆきます。その一回目は「招詞」です。

集えなくなって気づくのは、「私が頑張って礼拝に行くということよりも、神様が礼拝に招いてくださっていた」ということです。招きは、たとえ礼拝に参加できなくても変わらないものです。私たちにどのような事情や病があっても、たとえ自分が誰かわからなくなっても、たとえどんなに短い生涯だとしても、私たちは等しく神様の招きを受けている者です。

礼拝とはそのように一方的な神様の招きです。神様がおいでと私たちに語り掛けておられることが、礼拝で大事なことです。神様の愛と招きはすべての人に等しく注がれているのです。礼拝はただ神の招きによって持たれるものです。私たちは礼拝を始める時、まずその招きを聞くということから始めます。だから礼拝の一番最初には招詞、招きの言葉があります。今日の聖書も、大切な事は神様の招きであるということが語られています。

ペテロは一晩中あらゆる方法を試しても一匹の魚も捕れません。彼の働きは実を結ばなかったのです。自分達の力で取り組んだこの漁、自分達の力で取り組んだ働きはうまくいかなかったのです。人間の決心による集まり中では、誰も彼がイエス・キリストだとわからないのです。

しかしだからこそ、そこでイエス・キリストの招きが起こります。その招きは舟の右側に網を投げて見なさいという招きです。人間の決断ではなく、イエス・キリストの命令です。人間のあらゆる努力にまさる、神様の招きと恵みがあるのです。それが私たちの礼拝です。

網の中の153匹、それは神様が、すべての人々を招いていることを示しています。全世界のあらゆる命が、神様の招きを受けているという事です。弟子たちがイエス様に気づいたのは、その目で見た時ではありません。魚がたくさん取れた時、全世界のあらゆる命が神様に招かれているという事を知った時「主だ」と分かったのです。礼拝も同じです。あらゆる人間が神様から招かれているということを知る時、私たちは神様を知る者となるのです。

弟子たちがこの方がイエス様だと知ったのは、神様による招きの豊かさを知った時、そしてイエス様と食事をとった時です。本当にこれは私たちの礼拝そのものです。私たちも神さまを知るのは、あらゆる人が招かれた礼拝にあずかること、そしてイエス様との食事・主の晩餐によってです。

私たちの努力をすべて超えた、神様の招き、そしてイエスの食卓において、私たちはイエス様の復活を知る者となるのです。私たちの礼拝もそのように持ちましょう。私たちの礼拝を招詞・招きのことばから始めましょう。

 

「礼拝は順序が大事」ヨハネ21章15節~25節

 今日は「礼拝とは○○」シリーズの2回目です。前回は「礼拝は一番大事」というテーマでした。それが大事なのは礼拝が神様の招きだからです。私たちはこの招きである礼拝を私の、教会の一番にしてゆきたいのです。

 今日は礼拝の順序について共に考えます。礼拝では同じことをしても、順序の違いで意味は大きく変わります。私たちの礼拝は大きく分けて5つに分けられます。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣の5つです。まず礼拝は、招詞から始まり、前半に挨拶や交読文など、お互いを感じるプログラムがあります。そして次にみ言葉、聖書朗読と宣教があります。そして感謝としての献金、祝祷による派遣が行われます。矢印を付けると分かりやすいです。招きは神様から人間へ上から下の矢印です。交わりは左右の矢印、み言葉は上から下、感謝は下から上、派遣は上から下です。礼拝はこのように、上下左右の運動が交互に折り重なりながら進みます。私たちはこのようにして「神様との対話」として礼拝の順序を持っています。

 今日の聖書個所を見てゆきましょう。この個所のイエス様とペテロの対話が、実は私たちの礼拝とまったく同じ順序であることに気づきます。

 イエス様はまず「私を愛しているか?」と問います。この問いは同時に招きです。ペテロはイエス様に問いかけられ、対話と告白に招かれています。神様の招き、それが私たちの礼拝の始まりなのです。

 次に交わりです。羊飼いの仕事とはばらばらだった羊同士を結び付け、一つの群れを作ることです。私たちは交わりによって人との結びつきを作るように、示されるのです。だから私たちは礼拝で挨拶を交わすのです。

 3つ目はみ言葉です。み言葉とは傷つき、失敗し、逃げ出す私たちに向けられた、希望の言葉です。礼拝はこのみ言葉が中心です。そしてみ言葉によって、もう一度神と人を愛し、信頼し、歩む力を頂くのです。礼拝のみ言葉にはそのような力があるのです。これが礼拝の中心です。

 4つ目は感謝です。ペテロは感謝の応答をしています。イエス様に導かれ、み言葉に励まされた者は、イエス様に委ね、感謝する者になってゆくのです。

 5つ目は派遣です。私たちの人生は思う様に行きません。神様との出会いである礼拝の後に、私たちはそのような世に派遣されます。でもその中でイエス様は「私に従いなさい」というのです。これが派遣です。

 70年間私たちが大事に守ってきた順序があります。それにもう一度意味をしっかりと見い出したいのです。もっと新鮮に、日々新しく、この礼拝を頂きたいのです。そして、もっとこうしたら神様との対話になるのではないか、そのような部分が私たちの礼拝にはまだまだ残されているでしょう。私たちは礼拝の中にある招き、交わり、み言葉、感謝、派遣、その意味をもう一度取り戻したいのです。いまそれぞれの場所からする礼拝、毎週の礼拝を、大切にしてゆきしましょう。

 

「礼拝は一番大事」ローマ12章1節

 今日から「礼拝は○○」という12回シリーズで、4月と6月7月は礼拝を考える「礼拝再考」の時をいただこうと思います。教会が一番大事にしていることは礼拝です。礼拝をやめてしまった教会というのは存在しません。なぜなら礼拝をやめたとき、教会は教会でなくなってしまうからです。

 教会がいろいろなことにチャレンジする時、礼拝以外の事柄に一番の力を注ぎ始めてしまうことに注意をします。たとえば子供を大切にしようと言っている教会。子どもを歓迎すると言っても、子供が礼拝にとても参加しづらいという教会がたくさんあります。「子供とどう礼拝するか」まずそれを第一の事柄として悩みたい、そう思うのです。それが教会が礼拝を中心にする、一人ひとりが礼拝を一番大切にするという事ではないでしょうか。その礼拝とは何か、今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 神様の礼拝に招かれるのは、神の憐れみによってです。人間の憐れみや権威によって、礼拝に招かれるのではありません。教会の牧師の人柄や、教会の人間関係によって礼拝に招かれているのではありません。

礼拝に集うということ、それは私たち人間の応答といえるでしょう。神の招きに私がたまたま応えることができた、それが礼拝に集うということです。神様が招いているからこそ、教会は礼拝がなによりも大事なのです。そして今、私たちは神様の招きがそれぞれの場所にある、そう信じ、今、それぞれの場所で礼拝を捧げているのです。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる 生ける、いけにえとして献げなさい」。ここには自分の体とあります。私たちの「体」とは、この地上に生き、汗をかいて働き、病気になり、不安になります。体を捧げなさいという時、それは不完全なままで献げる、礼拝をするということでしょう。だから聖書は、「聖なる体に“なって”献げなさい」とは言いません。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」

 ここでパウロは「生けるいけにえ」と言います。この「生けるいけにえ」は生き生きとしたまま捧げられるということです。私たちの生きている人生、生きたまま捧げる、生きる喜びをささげようということです。ありのままで、傷ついたままで礼拝においで。それで神様は喜んでくださるよ。そして、私たち人生を神様に献げようという意味です。

 「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝です」そう、これこそ私たちのなすべき礼拝です。礼拝とは神様からの招きです。そして私たちは今の体のままで、生きて、喜びの応答する、それが礼拝です。

 私たちはこの礼拝を中心にしましょう。そのままの姿で、その体で招かれ、そのままで聖とされるこの礼拝を一番大切にしましょう。礼拝は一番大事なのです。これからしばらく礼拝について共に考え、また改めてこの礼拝を大切にするときいただいてゆきましょう。

 

「こんな時、希望の神」ヨハネ20章1節~18節

 イースターおめでとうございます。今日もそれぞれの家から、それぞれの場所から共に礼拝をしましょう。今、自宅にいるということが大切です。とても寂しく、難しく、もどかしいことですが。しかし「自宅にいるという愛」「外出自粛の愛」を私たちは示してゆきたいと思うのです。病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、「愛」を貫いてゆきたいのです。

 苦しみの中でも神様に、なんとか希望に目を向けてゆきましょう。一日中テレビでは不安と死者の数が語られます。でも私たちはせめてこの礼拝の1時間だけは希望を持ちたいのです。神様は希望を与えて下さるお方です。今、不安と死から振り返って、希望に目を向けてゆきたいのです。今日の聖書の個所を一緒に読みましょう。

 マリアが墓に向かった動機、それはイエス様の遺体に会うことでした。遺体に触れてイエス様の死を確認するために向かったのです。しかし遺体は無くなっていました。それは彼女の深い悲しみです。しかし同時に私はマリアがイエス様の死ばかりに目を奪われている姿も見つけます。イエスの遺体への執着さえ見る事ができます。イエス様が現れ「なぜ泣いているのか」聞いても、マリアはやはり遺体にこだわっています。彼女は死ばかりを探します。

 死を受け入れる事は必要なことです。しかし、そればかりを見ていてはいけません。私たちには希望があるはずです。その希望に目を向けて歩みだしたいのです。そんな時、イエス様が現れ名前を呼んでくださいます。イエス様はその死と絶望の全く正反対から、語り掛けて下さるお方です。それは命と希望と喜びの方角です。私たちが見る、死と絶望とはまたく違う場所からイエス様は私たちに語り掛けておられるのです。マリアはそれに振り向きました。これまで探していた、確かめようとしていた死と絶望。そのことから向きを変え、方向転換をしたのです。今まで探していた方向から、まったく見ていなかった希望に心の向きが変わったのです。

 今日、マリアの物語を追ってきました。マリアとはいまの私たちです。私たちはマリアと同じです。今、さまざま落胆と悲しみの中にあります。死があります。それは嫌でも目に飛び込み、向い合せられ、死と、不安が渦巻いています。しかし、私たちが探しているのは死と絶望ではありません。たとえ今はその中にあったとしても、必ず悲しみでは終わらないのです。

 イエス様からの希望、死から復活するほどの希望が私たちにはあります。いま私たちは悲しみと落胆に目を注ぎ探すのではなく、振り返って、そう振り返って、希望を探したいのです。イエス様は今、私たちの名前を後ろから呼びかけ、方向転換させ、招いてくださるお方です。そしてこの死は悲しみでは終わらない事を語り掛けておられるお方です。その先に必ず希望が続いていると語り掛けておられます。私たちもその希望を見てゆきたい。私たちもそれを告げ知らせる、証しする者となるそのように招かれているのです。

 

「礼拝やってます」ヨハネ18章28節~38節

 教会は4月中はそれぞれの自宅で礼拝を献げることとしました。週報と宣教原稿を郵送し、インターネットでも配信をします。互いの顔を見ることができませんが、今日も共に神様の恵みを頂きましょう。ある方は「こんな時期だし、礼拝に行くのは止めた方がいい」と言われました。私たちは葛藤しています。こんな時期、きっぱりと諦めればいいのに集うかどうかについて葛藤するのです。

 ところで私たちはなぜ今まで礼拝に集っていたのでしょうか。それはまず神様が私たちを呼び集め、呼んでくださっているからです。でもこのことは周囲にどう説明したらよいでしょうか。「神様が呼んでいるから、私は礼拝に行きます」答えたら、どんな顔をされるでしょうか。でも私たちにはそれ以上の説明のしようがありません。「なぜ礼拝に参加するのか?」「それは神の招きだから」という家族との会話はかみ合いません。しかし私たちは、かみ合わないけれども、神の招きを証しすることしかできないのです。もちろん教会に向かう時だけでなく、教会の中でもそうです。かみ合わない会話があります。でも神様を証しし続ける、私たちはそのように他者と向き合ってゆくのです。それは今日の聖書の個所からも学ぶことです。

 イエス様とピラトの会話ははまったくかみ合っていません。イエス様はピラトが聞きたい有罪か無罪かについて話そうとしません。イエス様はひたすら神の国について答えるのです。イエス様とピラトの会話がすれ違う原因は、イエス様が「世に属さない」からです。世に属さないとは、イエス様の教えと存在はこの世を起源にもつものではないとうことです。まったく違う二人。交わらない二人。でもそこには対話と証しが生まれます。全くすれ違うけれども、たしかにそこには対話と証しがあるのです。まったく関係のないはずのものが、イエスの十字架という出来事によって、対話と証しを始めます。それは「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(ヨハネ1章5節)」とある通りです。

 真理とは隠れていないものという意味です。表面を飾り付けたり、うそをついたりしないことです。ごまかさないで、うやむやにしないで言葉を発することです。イエス様は神様のことをごまかさないために、それを証しするために生まれ、この地上に来られた、そして十字架にかかられたお方です。

私たちは神様の導きによって、礼拝に招かれています。私たちはそれを隠さずに、うやむやにせずに、証しし続けたいのです。そこでは必ず話がすれ違うはずです。かみ合うはずがないのです。しかし、それでも証しするために来られたイエス、そのイエスに従い、証しし続けてゆきたいのです。

 今、私たちは、それぞれの場所で礼拝することを招かれています。そしてそれぞれの場所で証しし続けることを招かれています。今日それぞれの場所で「礼拝やってます」そう証ししてゆきましょう。 

 

「不安に振り回されないキリスト」ヨハネ18章1節~14節

私たちはコロナウイルスの影響で1か月前より礼拝と祈祷会以外を中止し、そして今週はついにそれぞれの場所で礼拝を守ることとしました。会堂に集わないということは私たちに様々な影響を与えています。失ったものが多いと感じます。しかし、礼拝と祈祷会以外を辞めるという決断の時、礼拝と祈祷会は絶対にやめないという思いを込めていました。私自身、早く交わりを持ちたいと思いはあります。しかしまず今日は、礼拝が出来るという恵みに目を向けたいのです。不安な時だからこそ、できないこと、足りないものではなく、神様からの恵みを数えるということを大事にしたいのです。

今日皆さんと分ちあいたいのは、この不安の時代、もう一度礼拝の恵みを、イエス様の恵みを、いま私たちが失っているものではなく、私たちが受けている恵みに感謝し礼拝をしようといことです。私たちは無いものではなく、あるものに目を向けます。ないものではなく、「ある」「私はある」というお方に、神様に目を向けたいのです。だから今日も共にみ言葉を頂きましょう。

今日の物語の中でもっとも不安なのはペテロです。彼は自分の信頼してきたイエス様が犯罪者として逮捕される、そのような不安からめちゃくちゃに剣を振り回します。不安で神を忘れる姿です。私たち人間は不安の時、誰でもいいから不安をぶつけたくなります。剣を振り回して、相手を傷つけることで、誰かにぶつけることで、不安から逃れようとします。そしてカヤファも不安に襲われました。彼は一人のために全体が迷惑をこうむるなら、その一人は死ぬのもやむを得ないと考えました。一人が死ねば済む問題、犠牲になってもらうという考え方です。これが人間が不安に直面した時の考えです。不安から逃れるため、すぐ暴力や犠牲を選んでしまうのが人間です。

しかしイエス様はそのような人間の罪のために、十字架にかかられます。私たちは不安の時、どのようにその不安に向かい合うべきでしょうか。暴力でも犠牲でもない向き合い方を私たちは探し求めます。その時、イエス様がどんなに不安でも、苦難を受けると分かっていても、神様に視線を合わせ続けたお方だという事を知るのです。

イエス様は苦難と苦しみの中で、神の働きを、神の恵みを、神の導きを求めたお方です。そこから逃れる、相手を打ち破るのではなく、その中に神様の導きを見つけようとしたお方です。どんな時も神を忘れません。その姿をイエス様の十字架の中に見つけます。イエス様は十字架で「成し遂げられた(ヨハネ19章30節)」と息を引き取られたのです。十字架の上の、最後の一息まで、イエス様は神の働きを見続けたのです。私たちも苦難の時、神を見る者、礼拝を続ける者でありたいのです。

私たちは今日、また1週間それぞれの場所へと出てゆきます。不安と共に出発をするのは、私たちもイエス様も同じです。でも私たちは不安ではなく神を見つめ、委ね、歩んでゆきましょう。

 

「マスクより愛が足りない」ヨハネによる福音書12章20~36節

 マスクは足りているでしょうか?私たちはウイルス感染拡大の不安の中に生きています。不安な時、私たちは本能的に自分の身は自分で守ろうとしますが、その思いはバランスを崩してしまいやすいものです。足りないマスク、自分の分だけを確保しようという思いが、パニックを起こします。

 あるいはこの時、人々の不安な気持ちをお金に変えようとする人がいます。マスクが高額で転売されました。今すべきことはお金儲けではなく、分かち合う事です。命や安全を踏み台にして金儲けをするのではなく、分かち合うことが大切です。私はこの転売を「罪」と呼びたいのです。

 この罪は人間誰しもの中にあります。すべての人が罪人です。状況がもっと悪くなれば、私も人を押しのけてでも自分の分を確保しようとするかもしれません。転売したかもしれません。私たちにはそのような性質があります。それが罪です。人を押しのけて自分だけが生きようとするのが罪です。私たち人間はそれがやめられない罪人です。今本当に足りないのは、マスクではなく、分かち合う心です。マスクより愛が足りないのです。マスクより互いの命への配慮が足りないのです。このような時、聖書は他者を犠牲にして、自分自身を愛することをやめるように語っています。

 今日の個所、イエス様は自分の命の危険を感じ、震えながら、十字架に向かわれます。しかしイエス様は恐怖の中でも自分だけ助かろうとはなさらないお方です。イエス様は逃げる事ができました。しかしイエス様は自分の命が守られるということよりも、他者の命を守るという行動をとるのです。

 その姿は自分の命に固執しなかった姿といえるでしょう。自分を守ることはもちろん大事だけれども、イエス様は他者のために生き、そして死ぬことを選んだお方なのです。26節、イエス様は自分の命を憎めと言います。誰しもが、自分の命がかわいいものです。しかし自分だけを愛し、人を蹴落として生きる命は必ず終わる命です。一方、一生懸命に「共に」生きようとすること、分かち合おうとすることは、新しい輝きを持つ生き方です。それは生死を超えた輝きがあります。

 共に生きようとする時にこそ、神様はその命を、永遠の命、永遠に輝く命であるとしてくださいます。実にそれは、失うことによって多くを得るという生き方です。「自分だけ」から「共に」という生き方の逆転ともいえる事が、今日の十字架の歩みが示していることです。イエス様はこの苦難の時、私たちに3回も繰り返し、仕えなさいと言います。すべての人が、互いに仕え、協力し合うこと、それこそが全員が生きる道なのです。

 私たちは今、病と不安からの解放を願います。そして罪からの解放、自己中心の悪循環からの解放を願います。イエス様はその罪のために死んだのです。今、自分に固執して、自分を守るか。それとも助け合うかが問われています。私たちは助け合うことによって、永遠の命をいただく者となるのです。

 

「女性に従うキリスト」ヨハネ福音書12章1節~8節

 4月から週報に記載されている「兄」「姉」の表記をなくすことになりました。この表記を変更するのは一つにはジェンダー(役割としての性)の視点、もう一つはセクシャリティー(性自認)の視点によるものです。

 ジェンダーの偏見とは性別によって役割分担を強いることです。女は家庭・男は仕事という区分けをなくしていくこと、それがジェンダーフリーです。日本は特に女性が政治やリーダーから排除される傾向にあります。一方セクシャリティーとは自らの性の在り方を自分で決める事です。恋愛対象を異性に限定しない事や服装などの選択について自分で決める自由があります。その人たち選んだ生き方を受け止めてゆくということが、セクシャリティーの視点です。どちらも多様性を認めてゆくことにつながります。この2つの視点から週報の「兄」「姉」表記の変更を行います。

 教会は男女差別しません。役割を性別によって決めません。多様な性の在り方を認めます。しかしそのように本当に言い切れるでしょうか。私たちが本当に男女差別から解放される時、それは聖書の読み方が変えられる時ではないかと思います。

 今日の個所を見てゆきましょう。今日の個所にはマルタとマリアという女性が登場します。マルタは兄弟ラザロの死の悲しみとつらさの只中にあってもイエス様に助けを求めた、信仰の深い人です。マルタはイエス様への信仰をはっきり告白する人です。これは他の福音書ではペテロが担っている役割です。マルタはイエスを告白する信仰のリーダーだったのです。そして同時に人々に仕える人でした。証しし、食事の奉仕にも立ったのです。

 もう一人の女性マリアも見てみましょう。誰かに油を注ぐとは、その人を王に任命するという意味を持ちます。注いだのはこの女性、ベタニヤのマリアです。ふつうは頭から油を注ぎますが、ここではなぜか頭にではなく、足に注ぎ、さらに足の油を自分の髪で拭ったとあります。すこし不思議な方法ですが、それは確かに油を注ぐというキリストの任命方式です。

 そして驚くべきことにこの後、洗足の出来事が起きます。今さっき、女性、ベタニヤのマリアに油を注がれ、足を洗われたイエス様が、今度は自分が弟子の足を洗い出したのです。まるでそれはベタニヤのマリアを真似するかのような行動です。きっとイエス様は真似をしたのです。イエス様は女性に従ってこの奉仕を行うのです。

 今、大事にしたいことがあります。それはどのように私たちがイエス様に従って行くのかということです。どのように人々に仕える人になるのかということです。男女差別、男女の差、男女の表記を乗り越えて私たちは考えたいのです。イエス様に従いたいのです。性別を超えて人々に仕える生き方を選びたいのです。一緒に家族として、互いに仕える者として、イエス様を追いかけてゆきましょう。

 

「さよなら原発」ヨハネ福音書9章13~41節 

 日本バプテスト連盟では繰り返し、原発に反対する声明を出しています。原発の課題というのはいくつかに分かれます。例えば核兵器への転用、労働者被爆、コスト、廃棄物の処理方法などです。キリスト教が反対する一番の理由は原発が極端に危険な発電方法だということです。ひとたび事故が起きると、どのような事になるか皆さんもよくご存知でしょう。

 キリスト教は原発が起こす「犠牲を伴う社会構造」に反対をしています。原発は都市部で使う電力のリスクを地方に押し付ける構造です。福島や新潟で大変な危険を冒して作られた電力は、この東京や神奈川で消費されるのです。キリスト教はこのような犠牲に基づいた豊かさに反対をします。

 それは必ず他の犠牲を正当化する社会を産むからです。広く犠牲を求める社会になるからです。私たちの犠牲はイエス・キリストの十字架で十分です。もうこれ以上の犠牲は必要ありません。私たちはこれまで原発の前に、“見えない者”でした。その犠牲を知りながら、向き合ってこなかった者です。

 今日の聖書個所、いろいろな登場人物が出てきます。宗教指導者は終始、自分が正しいと思っています。自分は見えている、見通すことができていると思っています。しかしどうでしょうか、彼らには目を癒したという真実に、向き合う力はありませんでした。次に登場するのは、目の癒された人の家族です。この両親もまた事実に目を向けない人です。一見、中立的態度にも見えますが、無関係、無関心、無知を装います。見ていない、見えない、知らない、私は関係ないと言う態度です。人間はこのような態度を取るのです。

 目を癒された人はどうでしょうか。彼も始めは同じです。25節のように、無関心な態度を取ります。しかし、次第に彼は気づくのです。そしてはっきりとイエス・キリストを証しするようになります。 33節 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです!それは「いい加減に、見るべきものをちゃんと見ろ」というメッセージです。

 この目を癒された人の姿を見て考えさせられます。私たちは何を見ているのか。何を見通すことができているのか、そして想定外として、何を見通すことができないのでしょうか。私は人間の限界に目を向けたいと思います。そしてその中で、犠牲になっている人を見ないようにしていないか、私たちがそれに無関心でいないかを考えたいのです。誰かが誰かの犠牲になっていないか、そのような構造に目を向けたいのです。東日本大震災から9年が経とうとしています。様々に示された犠牲を直視したいと思っています。

 私たちは見たくない現実に、真実に、犠牲に目を向ける物でありたいと思うのです。そして同時に、私たちは神の希望に目が開いた者でいたいと願います。私たちはその御言葉によって目が開かれ、犠牲を止め、希望をいただく者です。私たちは、希望を与えて下さるのは神であることを知っています。それをもう一度受け止め、証しする者となりたいと思うのです。

 

「ウイルスより差別が怖い」ヨハネによる福音書9章1節~12節

 新型コロナウイルスへの対策について教会でも様々な検討を行いました。基本的に3月中は礼拝と祈祷会以外はすべて中止とすることにしました。苦渋の決断で、この判断がよかったのかどうか、まだわかりませんが、必ずまた再開するという気持ちで一時中断します。

 教会から世界に目を向ける時、今私が心配をしているのは、コロナウイルスの感染と共に、世界中で差別的な言動が起こっているという事です。ある箱根のお店では「コロナウイルスをばらまく中国人は入店を禁止する」と貼り紙が出されました。私たちの身近で、すでに差別が始まっています。

 ウイルスが心配であるという気持ちは誰にもあります。しかし、ウイルスよりも危険なのは、その心配というエネルギーが差別のエネルギーに変わる事です。心配という気持ちは、すぐに差別に変わりやすいこと、予防と差別と境目があいまいになる事も知っておきたいのです。もし私が感染者だとしたらという想像力を働かせましょう。そしてたとえそうでも私たちの関係は何も変わらないということを確認しましょう。同じように神様に愛されている仲間であることに変わりはない、そのことを今日の礼拝で確認しあいましょう。すべての命が神様から等しく愛されている、私たちもすべての命を大切にする。必ず大切にされる。いまこの時、改めてそれを覚えましょう。

 私たち教会の役割は今この時、心配な気持ちを差別のエネルギーに変えない事です。そしてそのエネルギーを祈りと一致のエネルギーに変えてゆくことです。差別をなくしてゆくことにエネルギーを向けたいのです。本当に怖いのはウイルスより差別です。差別はウイルスより早く、そして深く、世界に広がります。そのことに注意を向けていましょう。

 今日の聖書個所、ある場所に生まれつき目の見えない人がいました。彼は地面にしゃがみ込み、物乞いをして生活をしていました。彼を追い詰めたのは目が見えない事よりも、社会からの差別だったはずです。多くの人々は彼を無視し、施しをする人も彼の姿を見て「どんな罪が原因なのだろうか」「どんな悪いことをした罰なのだろうか」と考えながら施しをしたのでした。人びとの中に「私も同じ不自由をもって生まれたかもしれない」という想像力はありませんでした。

 しかしイエス様の態度は違いました。他の人のように差別をしなかったのです。イエス様は彼を一人の人格として、向き合い、声をかけ、触れあい、差別の言葉を否定し、癒し、そしてもう一度社会の中に戻したのです。それこそがイエス様の働きです。実に、差別とは罪です。命に優劣をつける罪です。しかしそれは、主イエス・キリストの十字架によって、もう必要のないこととされたのです。イエス・キリストの十字架によって、私たちはもう誰も差別しない、誰にも差別されないで生きるようになるのです。不安な日々かもしれませんが、今こそ祈りと一致を大切にしましょう。

 

「毎週宣教題に悩んでいます」

本日は冬季休暇をいただいています。宣教は安西徹さんに担っていただき、この紙面を借りて、いつも悩んでいることをお分かちします。
宣教題についていつも悩んでいます。宣教題は入り口の看板に1週間掲示されます。八間通りを通る多くの学生や散歩中の方、仕事に向かう方の目に触れています。宣教題は不特定多数の方が見る物なので、一般の人にもなるべくわかりやすい言葉にしたいと思っています。例えば「信仰義認」や「悔い改め」「アガペー」といった言葉は通行人の方からは意味が分からないと思いますので、宣教題にするのを避けています。そしてできれば、その一言の宣教題が、うつむいて教会の前を通る人の励ましになることも願って名前を付けています。
先週は「神か、神以外か」という宣教題を付けました。芸能人のローランドさんが「俺か、俺以外か」という言葉で話題になっていることから、興味を引くだろうと思ってこの宣教題にしました。宣教題が道行く人の注意を引くようにということだけであれば、あまり悩むことではないかもしれません。とにかく面白ければよいのです。しかし必要な言葉は面白いだけの言葉ではありません。ある時の「駆け寄って下さる神」という宣教題は、その一言で通行人の方に励ましになるようにと願って付けました。正面玄関の前にはポストを設置して、週報を持ってゆけるようにしています。毎週、何枚週報が無くなったかを楽しみに数えています。
そして何よりも実際に宣教を聞く、礼拝に出席する人にとってこそ、この宣教題は大切です。宣教題は今日の宣教を一言で言い表すとどのような言葉になるかを考えて決めます。宣教の内容すべてを理解し、覚えておくことはできません。全体を理解する導きとなるという意味で宣教題は重要です。その宣教題の一言が、宣教全体をイメージさせるものでありたいと思っています。その御言葉とイメージの積み重ねが私たちを建てあげてゆくのです。
「神様は家族になってくださる」「なんとなく従う」という宣教題をつけた週がありました。宣教題が全体を言い表している事は聞き手にとっても助けになることだと思います。さらにこの宣教題はホームページにも掲載され、全世界に発信されます。誤解の無い宣教題にしなければいけません。
このように考えると、私たちの宣教は言葉と切り離すことが出来ないということに気づきます。私たちの言葉には限界がありますが、宣教とはどのような言葉が神様のことを一番表現できるのかを探す作業だと思うのです。そしてその言葉は、教会を超えて地域や世界に向けて発信される言葉です。
私たちは言葉で礼拝し、言葉で神を現わそうとし、言葉が心の中に残ります。礼拝では互いに言葉を交わします。私たちは今日の礼拝を、言葉を大切にし、心に受ける礼拝としてゆきましょう。今日の礼拝と行き交う言葉のためにお祈りをしています。

「神か、神以外か」出エジプト記20章1節-7節

「建国記念の日」2月11日は、もともと紀元節と呼ばれた日です。紀元節は富国強兵を推し進めた明治時代から祝われ、日本書紀の神武天皇が即位したという伝説に基づいています。神道では天皇は神ですから、私にとってこの休日は天皇を祝えと言われているように感じます。神道の神・天皇を祝うかどうかは、個人の信仰によって決められるべきです。しかし今日本では、全員が祝う様に、祝日と定められています。ですから教会は2.11を「建国記念の日」とは呼びません。「信教の自由を守る日」と呼び、様々な集会を持ち、信教の自由の大切さ覚える日にしています。
今日の個所でも信教の自由が語られていると私は読みます。私たちは神様と私の一対一の関係の中で、何を、誰を神とするのかが問われます。そしてその中で私は富国強兵の神ではなく、イエス・キリストによって示された神様の事を見つけるのです。今日はそのことを共に見てゆきたいのです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とは、キリスト教は一神教なので自分達以外の神は全部間違っている、関係してはいけないという意味ではありません。聖書はそのような排他的、独善的な信仰ではありません。ここでの対話「あなた(人間)には私(神)を」はそれぞれ単数形です。神様は人間に一対一の個人的な関係の中で語り掛けています。しかも語り掛けられているのは出エジプトによって、主に救われた者です。主に自由にされた人に向けて、他の神ではなく、主に従う様に促されているのです。様々な神の中で、あなたはここまで導いてきた私以外の神に、従うはずはないと語り掛けられているのです。
そしてもうひとつ、私たちの従う神様の特徴を押さえておきたいのです。日本の中にいる多くの神々は「豊かさ」をもたらす神様です。しかしイエス様は「貧しい者は幸いだ」と言います。それは、キリスト教が豊かさばかりを追い求める信仰とは違うということを示しています。明治時代の日本のように相手を負かして、豊かになるという宗教ではないのです。私たちは弱く、貧しい者として、この導いてくれる神様しか頼る場所がいない者として弱さ持って生きてゆく事が促されています。教会より豊かさを感じる場所はたくさんあります。でも私たちは豊かさを求めず、そこに行かないのです。
私たちは豊かさを神としない道を歩みます。この貧しい者と共にいる神以外を拝まないのです。私たちは誇るのは豊かさではなく貧しさです。私たちの神はまずしき者と共にいる神です。私たちの神は痛みと苦しみを負った、十字架のイエス・キリストです。私たちはこの方以外を神としません。他の人々がどんなに豊かさと強さを追い求めたとしても、私たちはそれを神としません。祝わないのです。今週も私たちは一週間を生きていきます。豊かさと強さが欲しくなる一週間です。しかし、神様は貧しさと弱さの中に、おられます。その中に神を見つけて歩む一週間としてゆきましょう。

「キリスト教のご利益」出エジプト記17章1節-7節

よく「教会に行くとどんなご利益があるんですか」と聞かれます。「あまりない」とか「キリスト教はご利益宗教ではございません」と答えると「じゃあなんで毎週行くのですか?」と不思議がられます。
神様を熱心に信じていても失敗や事故や災害に遭うものです。私たちは、教会に行かない人と同じ様に苦労しています。むしろ毎週教会に行くという分、余計に苦労して生きているともいえるかもしれません。
キリスト教のご利益は無いのでしょうか?私たちはそれにこう答えてはどうでしょうか。「人生いろいろな苦労がある。でも苦労があってもいつも神様が励ましてくれること、それがキリスト教のご利益です。そして神様は励まし合う仲間を下さいます。それもご利益です」今日の聖書の個所も神様の励まし、仲間たちの励ましの物語です。
彼らには災難が起こります。水が足りないのです。そして同じくらい深刻な問題は、仲間割れが起きているという事です。水不足を乗り切るには、全員が一致団結して水を探さなくてはなりません。しかし今、この人々には水を探すために何よりも大切な信頼関係がありません。
神様はモーセに水の探し方、命のつなげ方を教えました。それは励ましでした。もう一度長老たち協力して探してごらんとモーセを励ましたのです。自分を殺そうと言っている人ともう一回協力するように励ますのです。
イスラエルの人々は水を見て気づいたことがありました。それは自分たちの“間”に神様がいたということです。彼らは今までもめていました、そのもめている、その“間”にも、神様が一緒にいたということです。
そして「間」という言葉(ヘブライ語でケレブ)には、もうひとつ意味があります。それは内臓・はらわたという意味です。心の中心、感情の奥深い場所も指します。民は気づいたのです。私たちの“間”にいるということ、そして、私たちの“内側”心の一番奥深くに、神様がいたということに気づいたのです。
この物語は仲間割れの人々、その間に神様がいて下さったという物語です。私たちもときに仲間割れを起こします。家族、グループ、あるいは教会で起こります。ありとあらゆる仲間割れがあります。私たちはこの物語から、仲間割れの間におられ、励ます神様の姿を見つけます。もう一度関係の中に押し出して下さる神の姿を見つけるのです。
そして私たちは一人ひとりが心の奥に、神様からの励ましいただく者です。その励ましを受けて互いに手を取り合いましょう。それが私たちのご利益です。互いに励まし合いましょう。「私たちの間に神様がいる」のです。手がつなげない時もあるかもしれない。でも神様がその間にいる、真ん中にいる、そのことを覚えて1週間を歩みましょう。

「神の平等さを求めて」出エジプト記16章4節-5節、17節-31節

今日から3回、出エジプト記から神様の姿を見てゆきたいと思います。
ある経済格差に関する報告書によると、去年の時点で10億ドル以上の資産を持つ富裕層、約2100人の資産の合計は、世界の総人口のおよそ6割に当たる46億人の資産の合計を上回っているということです。驚くべき格差です。私たちの世界はこのような激しい格差の中にあります。格差は私たちの身近にも起きています。この豊原町には戸建て住宅が多く、食べ物に事欠く人などいないかのように見えます。しかし、この地域にも生活に困窮している人は多くいます。こども食堂のニーズがきっとあると思います。この地域に結びついてゆくためにも、私たちにできることがあります。神様のみ言葉に押し出されて、その働きをしてゆきたいと思うのです。
今日登場するのは「マナ」という食べ物です。イスラエルの民は奴隷だったエジプトからたくさんの家畜や食料を持って脱出しました。しかしその食料もやがて底をついてしまいます。そこで神様は人々に、食べ物を天から降り注ぐという奇跡を起こされました。蜜の入ったウエハースのような食べ物が空から降り注ぎました。そのマナとは、すべての人に平等で、誰も多くなく、だれも少なくない平等な食べ物でした。
しかし人間の愚かさが現れます。自分だけこのマナをたくさん集めようとする人がいました。今日の分を独占し、自分だけ食べようと考えたのです。止まらない人間の欲望。貧富の差はこのようにして生まれてゆきます。自由を得たはず共同体は平等と公平と格差の問題に苦しんだのです。
しかし神様はそのような欲望には答えられなかったお方です。神様は人々に同じものを同じ様に与えるお方でした。たとえ多く集めたように見えても、それは腐って、臭いを放って価値の無いものになりました。みなを欺いて不正に集めようとしても、独占しようとしても、それは集まられなかったのです。それが神様が私たちに与えられたマナ、平等の食べ物でした。
私たちの世界は平等とは言いがたい世界です。しかし今日の個所によるならば、神様は、きっと私たちに平等を起こして下さいます。多く集めたものはやがて腐るときがきます。多く集めようとした者が何も得るものが無いという時が、必ず起こります。マナが降る時が必ず起こるのです。
私たちは神さまのみ言葉に動かされ、平等を求め、分かち合いを始めます。私たちにできる分かち合いを始めたとき、共に食べることを始めたとき、平等さを感じる時、それがマナの奇跡ではないでしょうか。
私たちは今日、主の晩餐を持ちます。イエス様はヨハネ6:33「私は天から降って来たパンである」と言います。私たちには今日、イエス様というマナが与えられます。それはみ言葉であり、食べ物であり、平等さです。そのマナは私たちの世界の中に平等と公平、平和を起こす力です。私たちは分かち合い、共に同じ分を食べます。そして、世界の事を祈りながら食べるのです。

「神様もパーティーを楽しむ」ヨハネによる福音書2章1節-11節

出前のお寿司屋さんで働いていた当時、一番つらい事は、そのお寿司を届けられなくなってしまう事でした。様々な事情から届けるのが数時間遅れることがありました。当然、届けた先でお客さんから怒られ、怒鳴られます。家の奥からはお腹の空いた子どもの泣き声が聞こえ、機嫌悪そうに言い争う家族の声が聞こえます。たかが寿司です。でもそれが無いとどれだけ場がしらけるか、どれだけ人を怒らせるかを私は痛いほど知っています。
一方、お客さんの家では犯人捜しが始まっています。そして、だいたい注文をしたお父さんが犯人扱いされているものです。「お父さんがちゃんと頼まなかった」と家族に怒られ、白い目で見られます。今日は贅沢にお寿司だぞと、大風呂敷を広げて、自慢していたお父さんの面目は丸つぶれです。
食事が足りない、飲み物が足りないって案外、大ごとです。特にそれが大事な日であればあるほど、その食事は失敗の許されない食事になります。
今日の聖書個所、他人ごとではありません。イエス様は食事や飲み物が足りない現場にいて、宴会が続くようにして下さるお方です。楽し時を過ごそうよ、そう言って、守って下さるお方です。神様が一緒にいるのは悲しい時だけではありません。喜びの時も神様はともにいて下さいます。そして、それが続くように取り計らってくださるのです。
今日の物語でイエス様は「今あるものに感謝して、満足しましょう」とは言いませんでした。だれも飲みきれない程の量のワインを奇跡によって出しました。それはこの喜びの宴会を続けようというメッセージです。
聖書にはたくさん、悲しみと苦しみに伴ってくださる神様が描かれています。人生の暗闇の中で輝くイエス様の姿が描かれています。でも、神の姿はそれだけではありません。神様は人間の喜びや祝や楽しみがある時も、共にいて下さることがここで示されています。イエス様はこの楽しい時が、人生の喜びの時が終わらないように、続くように、私たちにはからってくださるお方なのです。みんなの笑顔を願われるのが神様の姿です。
宴会に参加している人はこの奇跡には気づきません。気づかず歌って楽しんでいました。私たちもそうかもしれません。楽しみの時、喜びの時、神様の守りを忘れてしまう存在です。この喜びがどこから来たのか、知らない者なのです。でも私たちの喜び、平安には、イエス様が背後におられるのです。
弟子たちはなぜ信じたのでしょうか?それはイエス様が、私たちの喜びを共にしてくださるお方、その喜びが続くように願っているお方だということを知ったから、彼らは信じる者となったのです。私たちもそうなりたいのです。喜びの背後に神様の姿を見つけたいのです。
今の私たち、大きな苦しみの中にある方がおられます。神様はそのような方と共におられます。そして、喜びの中にある方もおられます。そのような方とも神さは一緒にいて下さいます。

「なんとなく従う」ヨハネによる福音書1章35節-51節

バプテストは民主主義「みんなで決める」を大切にする教会です。大事なことは、総会で決めます。今日の総会では執事を選ぶ選挙を行います。私たちは「“すべて”をみんなで決める」ことはできません。だから執事に多くの判断を委ねます。執事はそれだけ重い責任を担います。バプテスト教会の中で決定的に大事な役割です。大切な働きを祈りながら投票しましょう。
しかし執事の皆さんにも自分の家族、仕事、休みを大事にしてほしいと思っています。投票した皆は、何かを犠牲にしてほしいと思っていません。選ばれたあなたにできることを、出来る範囲でやって欲しい、そのことに信頼して投票をしています。あんまりプレッシャーを感じずにいきましょう。気負いせず、楽しみながらやってみませんか?
さて今日の聖書個所を見てみましょう。今日の聖書の召命物語、他の3つの福音書では、ドラマチックな献身が描かれています。イエス様の呼び掛けにペテロが網を捨てるそんな献身の姿が描かれています。しかし今日のヨハネ福音書はそういうドラマチックな献身は書かれていないのです。
アンデレがまず聞いたのは「今日どこに泊まっているのですか?」です。イエス様へのただの興味です。ナタナエルも最初から疑っています。すぐに信じて従う素直さはありません。彼が信じたのはイエス様が自分のことを「見たことある」と言ったからです。それがなんとなく嬉しくて従ったのです。この弟子たちの従う動機の頼りなさを見て下さい。立派な理由はまるでありません。彼らに覚悟とか知識は一切ありません。ただ興味があったので、ついて行ってみました様な感じです。
私たちも何で教会に来たの?と聞きます。なんとなく入ってみた、それでいいのではないでしょうか。ぶらっと来た、でもそこから始まるのです。とにかく来て見て、やってみて、イエス様と一緒に歩んでみる、イエス様について行ってみる、そういう始め方でいいのではないでしょうか。
イエス様も39節「来なさい、そうすればわかる」と言います。細かい動機を尋ねたり、こんな恵みがあるとか説明をしようとしません。見ればわかる、聞けばわかる、やればわかると言うのです。「くれば分かる」と言われても私たち困ってしまいますが。でもそういうことだそうです。
執事になる、それは一大決心です。だけれども「とにかくやってみましょう」「来なさい、そうすればわかる」それが神様の招きではないでしょうか。
そして今日、いろいろな方が礼拝に来られています。どうぞ構えずに、これからも教会に来てください。一緒にイエス様のこと考えてみませんか。なんか面白そうだからイエス様について行ってみませんか?わからなくてもいいのです。「行けば、わかる」そうです。
神様は「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいます。私もなんとなくついて行ってみようかなと思っています。

「神は小羊になる」ヨハネによる福音書1章29節-34節

「神は人になる」ヨハネによる福音書1章14節-18節

先日ある方が祈祷会で「80歳の苦労は80歳にならないと分からない」とおっしゃっていました。きっとそうなのでしょう。その立場になってみないとわからない事がたくさんあると感じます。でもときどき自分と似た体験をしている方がいます。その時私たちは、同じ立場の友がいることをとても心強く思うものです。特に教会ではそういう出会いがよく起こります。そして私たちが、何より感じておきたいのが、神様もそのようなお方だという事です。神様は私たちと同じ立場にいてくださる方だということです。
イエス様はこの地上に、人として生きられました。実際に人間になられたのです。今日はそのことを聖書から聞いていきたいと思います。
当時あるグループの考え方に霊肉二元論というものがありました。これは霊と肉体は別々のものであり、霊は聖いもの、肉体は汚れたものと考える思想でした。そしてキリストが不完全な肉体を持つはずがないと考えたのです。そしてキリストの十字架と生涯も、幻の姿だったと考えました。
しかし、この考えは衰退し、イエス様は人間であり、神であられるお方だと考えられるようになりました。人間か、神かどちらかではなく、どちらでもあるお方だったのです。50%が人間、50%は神だったわけでありません。100%人間です。そして100%神であられた。それがイエス様だったのです。
その立場になってみないと分からないことは多くあるものです。しかし驚くことに、神様は人間になられたのです。この地上に私たちと共に生きるという事を通じて、私たちを理解し、伴ってくださろうとする、それが神様です。神様は「地上は汚れた物、私は聖なる者」そのように自分とこの世を分け隔てなさらない、分離しない、お方なのです。
私達は聖なるもの、汚れたもの、世界を二つに分けてしまうことがあります。でも神様ご自身は分け隔てをしないお方です。聖い場所を求めるだけではなく、今ここに神がいます。神は聖い場所にいるのではなく、いまここに神がいるのです。そのような神をいただく、私達です。
このことは私たちに、相手と自分を二分するのではなく、もう少し互いに立場から考えることも教えてくれるかもしません。神が私たちの立場になって下さるお方だからです。同じ苦しみを持つ人と分かち合うという事を教えてくれるでしょう。神様がそうして下さる方だからです。
私達は今日、主の晩餐を持ちます。私たちはこの主の晩餐を、確かに神がこの地上に生き、色々な人と、分け隔てなく共に食事をした。そのことを記念して行います。そして、イエス様はおっしゃいました。「このように行いなさい、これは私の体である、取って食べなさい」と。今日、私たちは再びこの地上に、私たちの中に、このパン、イエス様をいただきましょう。そしてイエス様が私たちのところに、確かに来て下さった、そのことを私達がもう一度確認しましょう。

元旦礼拝「神は家族になって下さる」イザヤ書43章1節-7節

あけましておめでとうございます。お正月は東西南北へ散っていた家族が集まる時を持たれる方も多いでしょう。家族の温かさ、気兼ねなさを思い出したり、自分の家に帰る居心地の良さを感じているでしょうか。また親族とのちょっとした緊張があるのもお正月の独特な雰囲気かもしれません。
私達は、今日もこの礼拝で「主の祈り」を祈りました。この中にも家族の関係が登場します。私たちは神様を「父」と呼びます。私たちは神様の家族なのです。父という言葉はもともとアッバという言葉でした。アッバは、父という言葉を、より親しみを込めた「お父ちゃん」という意味の呼びかけです。私たちと神様は「お父ちゃん」と呼びかける親しい家族の関係なのです。
今日の個所も、旧約聖書イザヤ書ですが「神様は私たちの家族になって下さる」という事を伝えています。そして神様は東西南北から、子どもである私たちを集めて下さるお方です。そして神様が私たちを礼拝する者にしてくださるという事を伝えています。ご一緒に聖書に目を移しましょう。
「贖い(ガーアール)」という言葉があります。ガーアールという言葉は、例えばルツ記で使われています。去年、教会学校で一緒にお読みしました。ルツ記にはナオミの親戚ボアズはナオミとルツを守るために、親族の役割としてルツと結婚したという物語が残っています。ボアズは寡婦を守るために彼女の家族になるのです。この結婚のことをゴーエールと言います。このゴーエールは「ガーアール(贖い)」が元の言葉です。それは他の人の代わりに、その人の家族となり、助けるということが基本的な意味です。神様は私たちを贖ってくださいます。家族を愛し、助けるように、特別に大切にしてくださるのです。神様は特別な親しみを持って、私たちを守って下さるお方です。その愛は私達一人ひとりに注がれているのです。
神様は様々な困難から私たちを守って下さいます。行き詰まりを感じたとき、モーセが海が開けて対岸に渡ったように、私達が行き詰った時にも必ず希望があります。ダニエルが火の中に入れられても守られたように、どんなに苛酷な状況に置かれても、主の守りがある、神様が一緒におられるのです。
神様はいつも私達と共におられる方です。そして神様は東西南北から子供たち、私達を集められます。地の果てからでも、この礼拝に招くのです。これは中東のイスラエル共和国に集結・・・という話ではありません。それは私たちが今集っているこの礼拝です。この礼拝がイスラエルなのです。
今日、元旦、私たちはまた東西南北、色々な場所から集まり、礼拝を共にしています。素晴らしいことです。今年一年も家族のように時間を共にしましょう。そして神様が私達を礼拝に呼び集めて下さいます。礼拝で共に神様が呼び集め、私たちの家族となって下さり、特別に愛を注いでくださっていることを喜びましょう。その招きから始まる一年を喜びましょう。その恵みに応答し、礼拝を献げる1年をとしてゆきましょう。

イブ・キャンドル礼拝「飼い葉桶のイエス様」

ルカによる福音書2章6節~7節
「ところが彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

イエス・キリストの母マリアは旅先で出産しなければなりませんでした。どれほど不安だったでしょう。さらに彼らには泊まる宿屋すらありません。
もし、そのような妊婦が私の宿泊するホテルを訪ねているのを知ったら、私は大急ぎでその人に部屋を譲るでしょう。しかし、この時それは起きませんでした。ホテルの先客たちはそれを知らずにいたか、あるいはそれを知っても見なかったふりをしました。
イエス・キリストは人々の保護と愛情を一身に受けて生まれたとは言い難い環境に囲まれていました。彼らは仕方なく、家畜小屋で出産をすることとしました。出産に必要なものはほとんどありません。彼は「飼い葉桶」、つまり動物の餌を入れておく箱、エサ入れの中に寝かされたのです。それは動物の唾液とニオイで臭く、ひどく不衛生なものでした。そこにしか彼に居場所はなかったのです。赤ん坊がおよそ人間らしい扱いをされない場面、それが私たちが祝うクリスマスです。
この苛酷な出産の何が、孤独な出産の何が一体、喜びなのでしょうか。私たちの喜びは大いに逆説的な喜びです。素直には喜べない、この痛みと孤独、その中に私たちは希望を見つけるのです。
それはイエス・キリストは、私たちが一番状態がいい時に、私たちに訪れるのではないということを示しています。順調、健康、裕福、仲間に支えられている、イエス・キリストの誕生は全くそれとは逆の場面に起きた出来事でした。逆境、痛み、貧困、孤独のさなか、そのような中に、イエス・キリストが生まれたてきたのです。
イエス・キリストが私たちの中に生まれて来た、その喜びをここに見出します。神様と等しい方が、このような逆境と、痛みと貧困と孤独の中に生まれて来たということが喜びです。そうです、神様は私たちの遠くに、天高くいて、私たちを見下ろし、善い行いをした者にはよい出来事を、悪い行いをした人には悪い出来事を起こす、そのような方ではありません。
あなたの苦しみを知り、あなたの現実に目を向け、あなたの現実といつも共にいて下さるのがイエス・キリストなのです。皆さんにも今日、その喜びが与えられています。あなたの地上の厳しい現実の只中に、痛みの中におられるのがイエス・キリストです。あなたのその中に、神様と等しい方が生まれ、一緒に歩んでくださる、それがクリスマスの喜びです。
一緒にそのクリスマスを喜びましょう。メリークリスマス。

クリスマス礼拝「まず神の言葉からはじめる」ヨハネによる福音書1章1節-14節

言葉を交わす、それはもっとも人間らしい事柄です。言葉は人を励ます力を持っています。励ましの言葉を聞くだけで、何かを始める意欲が湧いてくるものです。そして同時に、言葉は人を傷つけもします。言葉を発した人の意図とは関係なく、相手を深く傷つけるのです。言葉によって人は何かが手につかなくなったり、辞めてしまったりするのです。私たちの人生は良くも悪くも言葉に、振り回されます。人と人とが生きる時、必ず言葉を交わします。そして必ず傷が生まれるのです。私たちが誰かと生きようとする時、その人としっかりと向かい合おうとする時にこそ、言葉の行き違い、気持ちの行き違いは起きます。
でも、そんな中で神様に目を向けたいのです。私たちの難しい現実はあるかもしれないけれども、人と人との様々な言葉があるのだけれども、まず神様の言葉を聞いていこうと思います。人間のお互いの言葉だけではなく、まず神様の言葉を聞いていこう、そう思うのです。神様の言葉をいただくことによって、私は再び人と向き合う力をいただくからです。
今日の聖書個所、「初めに言があった」とあります。ヨハネはこのみ言葉から、福音書を始めます。一番最初に何があったかを、それを最初に語っています。「初めをもって始める」のです。
まず私たちは、神様の言葉が何よりも先にあったという事を知りたいのです。私達は人間の言葉によって混乱し、振り回されるものです。傷つき、傷つけるものです。しかし、世界には神様の言葉がまず最初にありました。人間同士の混乱より、ずっと前からある光、それが神様の言葉です。だから、私たちは人の言葉ではなく、まず神の言葉に目を向けたいのです。神の言葉の中にこそ私たちの命はあります。そしてその光は、神の下で輝いているだけではなく、9節「世のすべてを照らす光」なのです。
神様の言葉は一人の人間によって、世界に伝えらえることとなりました。その方がイエス・キリストです。イエス様はそのような人間の言葉の、人間の混乱の、人間の暗闇の只中にお生まれになったお方でした。それは14節にあるとおりです。クリスマスとはまさに「言葉は肉となって私たちの間に宿られた」という出来事です。神様は私たちと共にいて下さるお方です。神様は私たちの混乱した現実の中に、疲れ果てた中に、現れて下さるのです。私達にはどのように人の言葉を受け止め、言葉を発したらよいか迷う時があります。そんな時、私たちは始まり、神の言葉を思い出したいのです。
そして、神の言葉がどのように私たちと一緒にいてくださるのかも思いだしましょう。神様の言葉は私たちといつも一緒にいてくださいます。言葉であるイエス様は私たちの間に宿って下さるお方なのです。神様は人間の言葉の中、人間の生活の中、人間の暗闇の中におられます。神様が言葉であるイエス様を私たちに送って下さったからです。

「あなた方の中に神がいる」ヨハネによる福音書1章19節-28節

クリスマスに向けた礼拝では教会のみんなの一体感を感じます。みんながろうそくの火一点に目を留めるからです。とても小さなあかりですが、全員がこの光を見つめます。そこで気づくのは、私たちがこの小さい光を囲む一つの集まりだということです。私たちは光を中心にする仲間です。
もちろんその光とはイエス・キリストを指します。私たちはイエス・キリストを中心にする集まりです。私たちの礼拝は、特にこのアドベントの期間、光を囲む礼拝です。光であるイエス様の誕生を待ち望みつつ、それを中心にして礼拝をするのです。光であり、中心におられるキリストを覚えてアドベントを過ごしたいのです。
今日の聖書個所はすべての福音書に記載がありますが、ヨハネ福音書の特徴・表現があります。それは「エルサレムのユダヤ人たち」という存在です。ヨハネ福音書はユダヤ人からの迫害の中で書かれた福音書です。この福音書の時代、身近にうまくいっていない関係にある人がいます。その相手が登場しながら福音が語られるのです。
ヨハネは「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる」と言います。敵対者に向けてイエス様を迫害する人に向けて、救い主であるイエス様は、あなた達の中にいる、この真ん中にいるというのです。あなた方とは、迫害をする、敵対関係にあって、身元の確認にきている、乱暴な言葉遣いの人々です。その人々に向かって、あなた方の真ん中に救い主イエス・キリストはいるというのです。
イエス様はどこにおられる方なのでしょうか。それはここを読むならば、それは、私たちが嫌だなと思う相手、その真ん中です。自分に敵意をもって、乱暴に接し、自分を困らせたり、イライラさせたりする相手、そのまん中にイエス様がいるという事です。洗礼者ヨハネはそう証ししています。つまりそれは敵と思える人の中にこそ神がいるということです。
そして、あなた方の知らない方がおられるとあります。その人たちも自身の中心にイエス様がいることに気付いていないかもしれません。たとえそうだとしても、確かにその中にイエス様はおられるのです。だからこそ私たちは難しい相手でも、共に生きようとする者にされるのです。
イエス様は、私たち一人ひとりとうまくいかない、敵対する、迫害する、あの人たちの中にいます。その真ん中にイエス様がおられるのです。そしてイエス様はこのろうそくの光のように、私たちの真ん中にもおられる方です。礼拝の真ん中にはイエス様がおられます。それぞれの教会の奉仕の真ん中もイエス様です。私達の中心も、すべての人の中心にイエス様がおられます。そのことを忘れないでいたい。そのことを知るものでいたいのです。あの人の真ん中に、私の真ん中に、教会の真ん中にイエス様がおられるのです。このクリスマス、そのことを知る時としたいのです。

「神が宣教する」ヨハネによる福音書5章36節-47節

先週の礼拝の前、Aさんが「ろうそくが一本しかついていない」と言ってくれました。大事なことです!私たちはアドベントの期間、毎週一本ずつ火をともします。そうするのはイエス様の誕生を少しずつ待ち望むからです。
クリスマスは一年で一番イエス様が注目を集める日でしょう。私もなんとかイエス様を伝えたいと一生懸命です。しかし聖書によれば、信じるという不思議な出来事は聖霊によって起こります。私たちは自分の力、人間の力で信じるのではなく、聖霊によって押し出されて、信じる者になるのです。
もちろん私達自身が、誰かにイエス様を救い主であると伝えることはとても大切なことです。ぜひクリスマス、お友達を誘ってきてほしいと思います。しかし伝える時に大切なのは説き伏せない事、押し付けない事です。
信仰を持つとは不思議です。私たちが上手に説明をすれば、誰かが信仰持つというわけではありません。神様の真理は、人間の手によって広がるわけではないのです。何よりも大切にしたいのは神様が伝えて下さるということです。誰よりもまず、神様が伝道する、神様が宣教するということです。
だからこそ私たちの伝道の働きは、先頭を行く神様に仕える働きです。そして同時に隣人に仕える働きです。隣人の価値観を変える、相手を変える運動ではなく、隣人に仕える運動、相手と出会いお互いに変えられていく運動です。宣教・伝道の中心は自分や人間ではなく神様だからです。
今日の個所も人はどのように信じる者になるのかという事がテーマです。このユダヤの人々には、これまでにいろいろな人が、何回もイエスは救い主だと説明・説得をしてきたはずです。一生懸命伝えてきたはずです。でも彼らはどんなに人間から説明をされても、信じることはありませんでした。
イエス様はそんな時「私が行っている業そのものが、父がわたしをおつかわしになったことを証ししている」と言います。なぜ私が救い主であるのか、それは人間が説明できるものではない、業によって証明されるのだということです。その業とはどんな業でしょうか。ここには「成し遂げられるように、お与えになった業と」あります。「成し遂げられた」それはヨハネ福音書でイエス様が十字架の上で最後に発した言葉です。なし遂げられるだろう業、それはイエス様の生き様、死に様です。それを直接、見なさいということです。
アドベントを向かえています。私たちはキリストを待ち望むものです。私達から行って、捕らえるのではありません。私たちは一生懸命福音を伝える者です。でもその時大切にしたいのは、一緒に待ち望むことです。一緒に変わっていくことです。私たちはみんな、神様を待つ者とされています。神様がイエス様によって、人を信じる者に変えてくださいます。神様の言(ことば)であるイエス様によって、変えて下さるのです。神様はその生きざまによって、死にざまによって、救い主の姿を示してくれます。私たちは一緒に待ちましょう。そして一緒に変えられてゆきましょう。

「会いに行ける神様」ヨハネによる福音書7章25節-31節

今日からアドベントです。今、私たちが読んでいるヨハネ福音書にはいわゆるクリスマス物語がありません。博士も羊飼いも登場しません。もちろん当時の人々は、救い主、メシアが地上に現われるのを待ち望んでいました。その期待の大きさからでしょうか、メシアは奇跡を伴って、華やかに登場する、劇的に目の前に現れると考えられていました。輝いて天から来る、そんなイメージを持っていたのでしょうか。
でもイエス様はそのようにして人々の前に現われたのではありませんでした。それは、他の福音書でも同じです。その誕生は確かに様々な奇跡に囲まれていましたが、イエス様の登場はとても穏やかに描かれています。生まれたのは家畜小屋です。ふつうの人間の子、田舎者の大工の子として生まれてきたのです。それは日常の中に現われた救い主だったと言えるでしょう。
日常の中に現われるのが救い主の姿だ、聖書はそう語っています。聖書によれば、そのような救い主の姿を信じる人が大勢いました。そんな救い主の在り方に共感し、従おうとする人が確かにいたのです。
私達もイエス様のイメージがあるでしょうか。栄光、奇跡、勝利。もちろん神様はそれらすべてお持ちの方です。しかし、もう一つの姿もあります。今日の個所を読むならば、イエス様は私たちの日常に現れる方なのです。それは高い講壇の上に現われるのではありません。きっとイエス様は普段着で現れます。私たちと同じ目線で現れます。私たちのよくとおる道に現われます。会いに行ける距離、すごく近くにあらわれてくださるのです。
私達の礼拝は、いままでのイメージとは違う、騒がしい礼拝です。でも私はそんな騒がしさの中、日常の中にいるイエス様に出会いたいのです。私たちの日常にいる救い主イエス・キリストに出会いたいのです。ここでは神を見つけられないと考えた時、人はそこを立ち去ります。でももう少しとどまって、一緒にこの騒がしさの中で救い主を探したいのです。
アドベントが始まります。主イエスの誕生を待ち望む時をいただいています。神様をもっと近くに感じたい、そう願う時です。神様を待ち望むとき。その姿は栄光に満ちた、権威ある姿とは限りません。十字架にかけられた救い主は私たちの日常に来て下さるお方です。私たちの今に、ここに、現われてくださるお方です。どこかに探しにいくのではなく、今この場所で出会いたい、出会えるはずだと思うのです。だから一緒に全員で、一人も欠けることなく、礼拝をしたいのです。
これから主の晩餐をもちます。主の晩餐は一番身近に救い主を感じることができる礼典です。食べるという日常と同じ体験を通じて、神様を感じます。一緒にこのパンと杯をいただき、神様を近くに感じましょう。そして、これは独りで食べる、一人で飲むものではありません。みんなで一緒に体験をするものです。神様の近さ、みんなで体験をしてゆきましょう。

「政教分離の問いかけ」ヨハネによる福音書18章33節-40節

11月14日、日本では大嘗祭が行われました。今私たちは、天皇制、特に政教分離について考えたいのです。私達の教会の信仰告白には「信仰による良心の自由、および政教分離の原則は、何ものによっても犯されない。教会は、地上の権威、権力に対して常に目を注ぎ、このために祈り、神のみ旨に反しない限り、これに従う。」とあります。教会は政教分離を守る、それが守られているか行政監視をすると告白されています。大嘗祭とは極めて神道的儀式です。しかしその宗教行事が27億円の税金によって行われました。これは政教分離の原則に反します。政教分離がないと、国の政策のために、宗教が利用されるようになります。それを絶対に許してはいけません。
聖書には直接、政教分離の原則が述べられているわけではありません。しかし、政治と宗教が混同している時代にどのように、信仰を守るのかということはテーマとして書かれていると、私は読みます。
政治家ピラトは統治のために、たびたび宗教に介入し、利用しました。政治と宗教は混同されていた時代です。一方で、大祭司も自分たちの宗教を守るために政治を利用しました。彼らは自分たちの勢力を脅かすものを殺そうと考えました。宗教と政治は混同され、利害関係で結びついています。政治家ピラトは自らの政治的な力を、宗教のために行使し、イエスに死刑を宣告したのです。ピラトの判断は自分の立場を守るためです。彼は法律に従って裁くべきであったのに、それを歪めました。宗教も同じです。自分たちに都合の悪い人間を殺すため、政治を利用したのです。政教分離が守られず、政教が混同し、互いの利益のために、一人の男が十字架にかかりました。政教が混同する、それはお互いを利用し合う関係になるということです。
政治は宗教を利用しない、宗教は政治を利用しない、そのことが私たちにとって、とても重要なことであるということが、ここで示されています。
ではその時、イエス様はどこにいたのでしょうか。イエス様がいた場所は隔離されていたのではありません。大祭司たちから見れば、汚れた場所にいました。イエス様は宗教と政治の衝突し、混同し、互いに利用し合い、かつ無責任な態度、その真ん中にいたのです。混同の真ん中におられたのです。
混同の真ん中におられるイエス様に向き合うと、「真理とは何か」という問いが生まれます。真理とは何か。私たちもイエス様の前でそのような問いを持つ者です。真理とは何でしょうか。真理とは、神様のみ言葉です。真理とは神様の出来事です。真理とは、イエス様からやって来るものです。真理とは聞くものです。真理とは、私たちの中に探しても見つかりません。それは神様から出て来るものです。そして私たちはそれを受け取るだけなのです。真理とはイエス・キリストです。真理とは私たちの希望です。
だから私達は真理において、その希望において妥協しません。私たちはその希望を、真理を、他の何かと、誰かと混同しないのです

特別伝道礼拝野中宏樹牧師「生きるとはがばいよか」マタイによる福音書20章1節-16節

私の母は、私がお腹の中にいるときに教会で洗礼を受けました。ですから、私は小さい頃から教会に通い、聖書の言葉に親しんできました。旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻からなっている分厚い聖書という書物は、日本では弥生時代の頃、2000年も前に書かれたものです。それ故大変難解であるという感想をお持ちの方も少なくないと思います。けれども、聖書に書かれてあることは大変シンプルだと私は思います。聖書は最初から最後まで一貫して「神は愛である」という事を私たちに伝えようとしています。けれども「愛」という言葉がおそらく日本人には難解なのだと思います。最初に日本にキリスト教が伝えられた頃、宣教師たちは神さまからの無償の愛を表すギリシャ語の「アガペー」という言葉を「御大切に」と訳したそうです。その通り、聖書の神さまは、作られた全ての命、もちろん私たち一人一人をも掛け値なしに「御大切に」して下さる方です。
私たちはそれぞれに、自分にしか生きる事の出来ない自分の物語を生きています。けれども時に、自分の人生の物語を全く評価出来ずに「駄目な人生だ」と考える事があるのではないでしょうか。そしていつの間にか、他者の評価ばかりを気にして、人と比べて自分を見失ってしまうこともあります。あるいは他者を見て「あいつは駄目なやつだ」と見下げたりもします。もしも一度きりの人生がそのようなものであるのならば、何と辛く、厳しく、悲しく、そして寂しいものでしょうか。けれども人生はそのようなものではありません。聖書の神さまは、十字架の主イエスさまの物語を通じて、徹底して「私はあなたをとても大切に思っている、あなたは私の宝物だ」と言い抜いて下さる方です。この人生の原点を共に確認しませんか?きっと「生きるとはがばいよか!」という思いの中で他者と共に人生を歩みはじめる事となるでしょう。それこそが聖書の神さまの思いだと私は確信しています。

 

 

 

「こどもを大切にする教会」ヨハネによる福音書6章9節-15節

グレタ・トゥーンベリさんは16歳の少女です。彼女は地球温暖化のリスクを訴え、世界で有名になりました。世界は温暖化への対策を十分に取ることが出来ません。彼女は気候変動に無関心、無力な大人たちにむけて、より強い対策を取るように訴えています。「あなたたちが語り合うのは、お金や、途絶えることのない経済成長のおとぎ話だけ。よくも、そんなことができますね」「なお私たちを裏切る選択をするのであれば、言わせてください。私たちは決してあなたたちを許しません」。大人は何をしているのか、なぜ行動しないのか。そうグレタさんは怒りを込めて問いかけています。彼女は私たちに「あなたは変われますか?」「あなたは子供たちに未来を残せますか?」と問いかけます。世界は、大人は、私達は、変わることができるのでしょうか。
聖書の個所に目を向けましょう。今日の個所にも問題を解決できない、無力でだらしない大人が登場します。1万人が空腹でした。しかし大人は議論ばかり、無理な理由を述べるばかりで、分かち合いの行動を起こしません。そこに一人の子どもが登場します。そのこどもは持っていた自分のお弁当をイエス様に差し出しました。それは怒りの行動だったかもしれません。いつまで議論をしているんだ、大人は自分できることをしろ。そんな彼の怒りが込められたパンです。もちろんこの行動は無力です。しかしイエス様は、それを見逃しません。そのパンを取って、感謝して祈りを唱えたというのです。
一人の子供の行動とイエス様の祈りが1万人を変えました。大人たちを変えたのです。私はこの個所を大人が隠し持っていた分を、分かち合う行動が起きたと理解します。大人たちがこどもが捧げる姿を見て、それを神様に感謝して祈るイエス様の姿を見て、分かち合いを始めたのです。
今の私たちはここから何を学ぶでしょうか。一つには小さくても行動を起こすことです。私がちょっと行動したくらいでは世界は変わりません。私たちがこどもの居場所の建物を建てたくらいでは平塚は変わりません。けれども、今日の聖書の個所によるならば、小さな行動を起こしていくことが大事です。そしてその小さなことを感謝して、神様に祈ることが大切です。私たちは出来る事、祈る事から、子どものために始めましょう。そしてもう一つ、この個所から学ぶこと。それは子ども達の行動を尊重することです。子ども達のアイデアと行動を真剣に聞く事です。そしてそれに感謝と、祈りをささげることです。聖書によれば子どもの行動が世界を変えるのです。
今日私たちがいただくパンは子どもが捧げたあのパンように、小さなパンです。小さいけれど、感謝して、祈って食べましょう。私たちも小さくても何かを始めましょう。そしてこのパンは永遠の命を得させるパンです。神の永遠の中に生きる、そのことを覚えるためのパンです。祈って食べ、神様の永遠の命をいただきましょう。今日はこの後主の晩餐式とこども祝福祈祷の時を持ちます。

「永遠を共に生きる」ヨハネによる福音書3章16節

教会は時代によって、様々に変化をしてゆくものです。変化にとまどうこともあるかもしれませんが、変わらないものもたくさんあります。それは神様を礼拝することです。そして天に召された方を覚え続けるということも、教会が2000年間ずっと大切にしてきたことです。教会はどんなに社会が変わろうとも、神様を礼拝すること、召天者を覚える事において変わりません。
神様は召天された方々に、どのように関わって下さるのでしょうか。そして私たちと召天された方々はどのような関係にあるのでしょうか。本日の聖書個所には神様と天に召された方たちの関係、そしてもちろん神様と私達との関係が書かれています。このみ言葉に聞いてゆきたいのです。
3章16節によれば、神様はこの世を愛して下さるお方です。世とはこの地上、世界、全人類、全生命の事です。世界はめまぐるしく変わります。皆さんも変わります。しかし相変わらず人は不完全で、欠点の多い者で、失敗をします。それは召天された方も、私達も同じでした。神様が大切にして下さるように、お互いを、自分自身を大切にすることが出来ない時がありました。
にもかかわらず、神様は私たちを愛して下さいます。神様はたとえ人間がどんなに不完全でも愛して下さるお方です。それが世を愛する神様です。だからこそ、私たちの生き方が変わります。愛せない他者を愛そう、愛せない自分を愛そうという生き方に変わるのです。それが変えられるということです。そして神様は天に召された後も永遠に愛し続けて下さるお方です。
3章16節によれば、神様は独り子イエス・キリストを与えて下さるお方です。その方は全人類に与えられています。地上に生きているかどうかも超え、神様は天に召された方々のためにも、イエス様をお与えになりました。天に召された方たちと私たちは、共に神様からイエス様をいただく仲間です。
神様は、この私たちをなぜ愛し、大切にされるのでしょうか。それは永遠の命を得させるためとあります。永遠とは変わらずに貫かれてきた神様の愛のことです。「永遠の命」とは変わらない神様の愛の中にある命です。時代は変わる、世界は変わる、お互いは変わる、教会も変わる。でも変わらないものがある。神様がずっと変わらずに大切にしてきたものがある。変わらないものの中に生きる事、神様の中に生きること、それが永遠の命です。すでに召天された方々も同じです。変わらない神様の愛の中に生きているのです。神様の永遠の中で生きるのです。
すでに召天された方と私たちは、共に神様の永遠の中に生きる者です。私たちは地上の生命の有無にかかわらず、神の永遠の愛の中を共に生きるのです。私たちは共に神の愛に、共に神の永遠の中に生きる者なのです。
今日、召天された方を覚えます。そして、自分に残された時を覚えます。地上の生に関わらず、私たちは神の愛を永遠を共に生きる者です。永遠を共に生きたいと願う者なのです。