メッセージ概要(動画はこちら・全文はこちら

「立ち止まって聞く神」マルコ10章46節~52節

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 マルコ10章49節

 

平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。今日聖書はそれと反対のことかもしれません。私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。

バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができない、社会からはじき出された人でした。彼はイエス様に一番初めにして欲しい行動を叫びました。それは驚くことに「憐れんでください」ということでした。「憐れむ」という言葉には同情する、慈しむという意味があります。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉にするなら「自分の気持ちを分かってもらう」ということです。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください」そんな叫び声だったのです。しかしなんと周囲の人々は黙らせようとしたとあります。周囲の人々とは社会と言い換えることができます。彼は、社会から無視され、黙らされたのです。でも彼はもっと大きな声で叫びます。

イエス様は誰も足を止めなかった場所で足を止めるお方です。そして道端、社会の隅から彼を神の前に呼び出すのです。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。

この物語からイエス様の生き方を学びます。そして私たちが今日の個所から知る希望は、神様は苦しみに足を止めて、聞き、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。

私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?それは多くの仲間が持つ、社会の中にある叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくではないでしょうか?私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。

沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声、小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。

今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。

 

「平和をあきらめさせない神」マルコ9章14節~29節

1ヶ月間、平和をテーマとして宣教をしています。私たちの教会は平和をあきらめずに祈り続けてきた教会です。私たちが祈る間にも、たくさんの戦争が起きました。それでもあきらめず平和を祈っていくことは教会の大切な役割です。憎しみや衝突に対して暴力ではなく、愛と和解、感謝すること伝えてゆくことが教会の役割だからです。私たちは争いが続くこの時代にあって、あきらめずに平和を祈ってゆきましょう。平和をあきらめさせようとする力こそ悪霊の力です。

教会にはたくさんのあきらめない祈りがあります。周囲は共に祈ることが大切です。今日の聖書から平和への祈り、他者への祈りをあきらめずに続けるイエスの姿を見てゆきたいと思います。

今日の個所の少し前、イエス様は山の上で光り輝く姿となってから、下り、人々が議論し、争う場所にやってきました。それは私たちが争いあう現実の世界にイエス様が来て下さるということを示しています。

そしてイエス様は病気のこどもの父親があきらめかけていることを感じました。悪霊とはあきらめさせる力です。もうダメだ、そうあきらめさせるのが悪霊の力なのです。父親は悪霊に負けそうになっていました。あきらめかけていたのです。イエス様は23節「信じる者は、なんでもできる」と言います。神様への信頼があれば、私たちはすべてが可能となるときまで、あきらめずに祈ることができるのです。

「信じます!」という父親の言葉は24節「叫び」でした。私たちもそのように祈っていいのです。祈りは叫びです。美しい言葉にならなくてよいのです。そしてこれは息子自身の祈りではなく、周囲の人々、周囲の大人の祈りです。周囲の大人のあきらめない叫びが、神様に届いたのです。そして25節、イエス様は悪霊をしかりつけて追い出します。イエス様はこの物語から希望を教えてくれています。私たちがあきらめそうになる時、そのことをもう一度祈れ、あきらめるな、祈りよってこそ、このあきらめは追い出すことができるという希望です。

私たちは何かをあきらめそうになっているでしょうか。私たちはあきらめずに祈り続けたいのです。特に平和について祈り続けましょう。悪霊の力はいつも、私たちをあきらめようとさせます。私たちはその悪霊を追い出すように祈りたいのです。父親の祈りが叫びだったように、私たちも祈り叫びましょう。声をあげましょう。平和が欲しいと神様に叫びましょう。そして実はイエス様も叫んだお方です。イエス様こそ暴力のただなかで平和を求めて叫び、神に祈ったのです。私たちも暴力が満ち溢れる世界の中で、あきらめずに平和を主に叫び願ってゆきましょう。

この後、主の晩餐を持ちます。この杯は十字架の主が流した血を象徴します。イエス様こそ暴力のただなかで叫び、血を流し、平和を祈られた方であったことを覚えてこの杯をいただきましょう。そして私たちも叫び、平和を祈りましょう。

 

「イエス様は本当に優しい王様」ヨハネによる福音書 18章37節、19章19節~22節及び、マタイによる福音書26章74節~75節

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。   ヨハネによる福音書 19章19節

 

有名なユヴァノ・ノア・ハラリはユダヤ人の歴史学者であり、哲学者です。ハラリは人類の歴史を動かしてきたものは3つあるといっています。『帝国主義』、『貨幣』、『宗教』です。イエス様の時代も、イスラエルはローマ帝国という帝国に支配・占領されていました。当時のユダヤ人は、この帝国主義から解放してくださる真の救世主を待望していました。この救世主は、ダビデ王やソロモン王のように強いリーダーシップで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかし、目の前に現れた救世主のイエス様はそのような力強さを持った方ではありませんでした。

ユダヤ人は自分たちの待ち望む救世主のイメージからかけ離れていることを理由に、イエス様を十字架につけてしまったのではないでしょうか。総督ピラトはイエス様の本質を見抜いていました。つまりピラトはイエス様を本気でユダヤ人の王と考えていたのです。そのことは、300年後に証明されます。ローマ帝国はキリスト教を受け入れ、キリスト教国になるのです。歴史学者のハラリも「不思議なこと」という言葉を使って、このことを表現しています。この説明は「本気でイエス様に聞き従った人々」と「神の計画」によってなったとしか言いようがないのです。一つの宗教が覇権帝国主義を凌駕したのです。彼こそ真の王ではないでしょうか。彼は武力という方法ではありませんでした。彼の武器は、愛と恵みでした。私は、キリスト教や教会が衰退する原因は、ずばり「人がイエス様に聞き従わない。」からだと思います。

私も4年前に、仕事を早期退職して、東京バプテスト神学校へ入学し、実家で両親の在宅介護を始めました。最初は信仰に燃え、仕えるものとして、イエス様に聞き従って、「私はできる。」と自信満々でした。しかし、両親の衰えが進むと、介護が大変になり、身体が悲鳴を上げ、自分を優先するようになりました。とどのつまりが、両親の介護度も上がり、自分では面倒を見切れない状態になってしまい、施設に預ける決断をしました。私は、あのペテロのように激しく泣きました。「私はあなた様の靴の紐を説く値打ちもないものです。」、と。しかしイエス様は、そんなダメ人間が大好きです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」彼は本当に優しい方です。

私たちは、イエス様に近づこうとしても、なかなか近づけないダメ人間です。また、世の中でもたくさん失敗や挫折を味わいます。でも、イエス様はそんな私たちに再び声をかけてくださり。私を愛しているか?と優しく聞いてくださり、私の羊を飼いなさいと言ってくださるのです。真の王であるイエス様が、今日も私たちを優しく取り扱ってくださるのです。帝国主義を凌駕するイエス様の方法は、この愛と恵みです。私たちも、この愛と恵みという方法で、再びイエス様の羊を探し出そうではありませんか。

 

「命をいつくしむ神」マルコ9章33~37節

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

マルコ9章35節

 

今月は平和について考えています。先日私はどんぐりの種から芽が出た苗をいただきました。苗を見ていて、その方の命に対する姿勢、慈しみ、あたたかいまなざしを感じました。どんぐりが本当はこんな素敵な命なのだということを教わりました。

どんぐりの背比べということわざがあります。どれも代わり映えのしない者同士が競い合っている様子をあらわすことわざです。ひどいことわざではないでしょうか。本当はひとつひとつ違う命です。このことわざは自分はどんぐりとは違う場所に居て、上に立ち、二人を比較し、評価するという視点を持っています。2つの命の小さな違いが大事なのではないでしょうか。どんぐりは、小さくて踏みつけられそうな命です。私はそんな捨てられてしまうどんぐりに命を見出し、温かいまなざしを注ぎたいと思います。命をはぐくんでゆくことが平和の始まりだからです。

今日は聖書で競い合う弟子を見ます。どんぐりの背比べです。イエス様はどちらが偉いかを競い合う弟子に、この命を大切にする様を見せました。今日私たちはイエス様の命への慈しみを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

イエス様は35節で「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言います。イエス様は競い合うこと自体は否定しません。私たちには切磋琢磨し、励まし合い、高め合うことができるのです。

イエス様は「すべての人の後となるように」と言っておられます。後になるとは先を競うのではなく、後を競うということでしょう。後ろの人とは、集団についてこれずに遅れてしまう人、いつも後回しにされてしまう人の事でしょうか。他にどんな人が後になっているでしょうか?

イエス様は私たちに、後回しになってしまう人たちに目を向ける人が偉いと言います。そして36節は私には、この中で誰が一番偉いかという競争に、イエス様も参加したように見えます。どんな人が偉いかを具体的に示そうとしたのです。イエス様はこどもと手をつなぎました。さらにイエス様はこどもを人々の真ん中に立たせます。いつも隅に追いやられている者を、真ん中に呼んだのです。さらにイエス様はこどもを抱きしめます。愛をもってその命を自分の腕の中に迎えたのです。それがイエス様の命へのまなざし、もっとも偉いお方の姿です。

そしてイエス様は最後に「この命を大切にすることが、神様を受け入れる事だ。」「この命を受け入れる者は、神様に受け入れられる」そう語ります。後回しにされてしまう命、見過ごされてしまう命、遅れて取り残されてしまいそうな命、イエス様はこのような命こそ、受け入れるお方です。命への慈しみを持つお方なのです。

私たちもそれぞれの命に目を向けましょう。命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。イエス様はその命を大切にはぐくむお方です。イエス様はその命と手をつないで、真ん中に招き、抱きしめ、愛して下さるお方です。お祈りします。

 

「パン種に気をつけなさい」マルコ8:14~21

そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。マルコ8章15節

 

この1ヶ月は平和をテーマに宣教をしています。戦争は、小さなことがきっかけで起こります。小さなことに対しての気持ちが、どんどんエスカレートし戦争が始まってゆきます。戦争は一人一人の小さな思いから始まってゆくのです。小さなことが大きくなってゆくのは、平和も同じです。平和はみんなの小さな気持ちから広がってゆきます。私たちは小さな平和を持ち寄って、大きな平和を実現させてゆきましょう。一人一人の生活の中で、お互いの中で、平和を造り出してゆきましょう。自分ができる平和に思いを巡らせて、祈ってゆきましょう。

今日は聖書から、イエス様は罪を小さくしてくださるお方だということ、そしてイエス様は「平和は大切」そう思う小さな気持ちを大きくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。

今日の聖書ではパンを忘れたという小さな出来事が、弟子たちの間で大きなイライラに発展しています。イエス様は15節で「パン種によく気をつけなさい」と言います。聖書においてパン種は善いたとえにも、悪いたとえにも使われます。どちらも小さくても人間全体に影響するという意味です。今日の個所は悪いイメージの方で使われています。おそらくイエス様は小さな出来事が、誰が食べるのか、誰の責任か、そのような大きな思いへと広がっていくことを見抜いたのです。今、自分の中にある悪い思い、パン種、罪に気をつけなさいと言ったのです。困った時にふと思う悪い思い、一人一人の中にあるパン種、罪に気を付けなさいと言っているのです。

イエス様が目を向けさせようとしているのは19節「あの時パンが増えたではないか」ということです。5000人のパンの奇跡は圧倒的に足りなかったものが、不思議と増えて、満たされて、余るほどになったという奇跡でした。イエス様は今度は、善いものが増えるイメージを語っています。ここでは神様は小さくても良いものを大きく広がるようにしてくださると伝えているのです。

平和への思いも同じです。それぞれが持っている平和への思いは小さく、できることは目の前の人との平和だけかもしれません。でもイエス様はその小さな平和を大きくしてくださるお方です。イエス様は「あまったパンはカゴいくつだったか」そう呼びかけます。私たちの小さな思いを大きくしてくださること、小さな平和への思いを大きくしてくださる約束をお持出させてくださっているのです。そして私たちは小さくても悪・罪に注意をしたいのです。イエス様は今日私たちに「パン種に気を付けなさい」と呼びかけているからです。

イエス様は私たちに「悟りなさい」と呼びかけています。小さくても悪いものが大きくならないように、そして小さくても良いもが大きくなるように、イエス様が導いてくださいます。私たちはその希望を持って、歩みましょう。イエス様の声を聞きましょう。共に平和を祈って、イエス様に従って歩みましょう。お祈りします。

 

「権力を監視する教会」 マルコ6:14~29

ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。マルコ6章16節

 

今日から8月の平和祈念礼拝まで「平和」をテーマに聖書を見ます。ウクライナ侵攻について、特に私が心を痛めているのは、キリスト教のロシア正教会の最高指導者がこの侵攻を支持し、宗教的お墨付きを与えていることです。ロシア正教の司祭は兵士や戦車、ミサイルに聖水をふりかけ、祝福の祈りをし、軍隊を鼓舞しています。私たちもキリスト者としてこの戦争に対し無関係ではありません。宗教が戦争・平和にどのように関わるべきかをこの戦争からも痛感しています。

宗教は腐敗した権力と結びつくことによって腐敗し、平和を妥協するようになります。宗教の役割は戦争の芽に誰よりも早く気づき、平和を訴えることです。そのためには宗教が国家・行政の監視することが大事です。だからこそ、私たちはこの礼拝の中で平和について考えます。宗教が戦争に反対することは、戦争を防ぐための非常に効果的な方法なのです。私たちは平和に関わる責任と、平和への影響力があります。今日は地上の権力に目を注ぐ、平和を求めることを、聖書から聞きます。

ある日、ヘロデはお友達を読んで、誕生日パーティーをしていました。これはユダヤ版の「桜を見る会」です。権力の腐敗の象徴です。腐敗した権力者はパーティーでも、失言をします。そして自分の発言が間違っているとわかっていても、権力が弱まることを恐れ、決定を覆すことができません。ヘロデはパーティーを盛り上げるため、自分の失言・失敗を隠すため、自分の権力を守るためにヨハネを殺しました。

一方のヨハネは権力者にも間違いをはっきりと指摘できる、宗教者のモデルです。彼は権力者の間違えを告発し、民衆にそれを訴えていたのです。だからヨハネは権力者たちにとって都合が悪く、殺されたのです。このように権力者はお友達を優遇します。権力者は間違えを認めません。権力者は都合の悪い者を殺すのです。

ヘロデにとってイエス様の奇跡とは、自分の権力を危険にさらすことでした。その奇跡は権力への抵抗を含み、人々に勇気を与え、人々を目覚めさせ、権力に変革を起こすものだったのです。

私たちは今日の個所で、権力は必ず腐敗すること、権力は必ず人の命を踏みつけにしてゆくこと、そしてそれに反対をするのは、宗教の大切な役割だということを学びます。権力者がもっとも嫌がるのは、声を上げる宗教者なのです。権力者はヨハネもイエス様も殺すほど、口出しされるのが嫌なのです。だからこそ私たちの教会は平和への監視を続け、声をあげてゆきたいのです。それはもっとも権力者が恐れ、平和に向けて効果のあることなのです。

神様はヨハネ、イエス様、そして私たちを、平和のために、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように派遣しています。私たちは平和を大切にしましょう。この礼拝で平和を考え、訴えてゆきましょう。常に権力が平和の実現に向かっているかどうか目を注ぎ続けてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「地域の必要に応える教会」マルコ6章30節~44節

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。マルコ6章41節

 

こひつじ食堂を通じて、この教会は私たちのためだけではなく、地域の人のためにあると知りました。教会が地域の困りごとに一緒に向き合う時、人々は励まされ、生きる力を受け取ってゆくのです。

人々の必要に応えない教会は、やがて役割を終えてゆくでしょう。なぜなら地域から必要とされない教会だからです。地域から必要とされる教会はきっと残ります。神様がまだ使命を下さっている教会は必ず残ります。私たちの教会には希望も不安もあります。その時私たちは、地域の必要に耳を傾け、応え続けてゆきましょう。誰も礼拝につながらなくても、それが私たちの生き方だからです。今日、神様は他者の必要に応えるように、私たちを導いているということを見ます。神様は私たちに「他者のために生きよ」と語っていることを見たいと思います。

今日は5000人の食事の場面です。マルコ福音書はイエス様が「深く憐れんだ」という事を強調しています。イエス様は人々が孤独で、お腹が空いていることを知ったのです。それはつまり、人々が今、何を必要としているのかを知り、自分の事の様に深く共感したということです。一方、弟子たちも人々の必要は知っていました。しかしこの人々の必要を満たすのは私たちの役割ではないと考えたのです。

イエス様は弟子たちに向けて「あなた方の手で人々の必要を満たせ」と言います。しかし弟子たちはやはり、自分の必要にしか目がいきません。弟子たちを攻めるのもかわいそうかもしれません。みんな自分のことで精一杯だからです。だって私たちには5つのパンと、2匹の魚しかないのですから。

でもイエス様の奇跡はそこに起きるのです。自分の必要にしか目がいかない弟子に、他者の必要には応えられないと思う弟子に、奇跡が起こるのです。41節で弟子たちはパンを配る係をします。つまりそれは他者の必要に応える者に変えられたということです。イエス様は弟子たちを、必要に応える者に変えたのです。他者の必要の応える働きこそ、神様の働きなのです。それができることが奇跡なのです。

私たちもこの弟子になりたいのです。他者の必要から目をそらすのではなく、必要に応える者となりたいのです。自分の分さえ足りないけれど、でも他者の必要に応えてゆきたいのです。私たちには奇跡が起きて、必ずそれができるはずです。

これから私たちは主の晩餐を持ちます。弟子がパンを配る奉仕に目を向けます。配餐の奉仕はただ配る係ではなく、他者の必要に応えるように変えられた弟子たちの象徴です。この主の晩餐は他者の必要を満たすことの大切さを覚えるために持つものです。神様はきっと他者の必要を満たすということを私たちの教会の使命、一人一人の使命としてくださるはずです。私たちは地域の必要に耳を澄まし、必要に応える教会でありたいと願います。それがこひつじ食堂ですでに始まっていることではないでしょうか?お祈りします。

 

「再発見、近所の教会」マルコ6章1節~6節

 

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた

マルコによる福音書6章4節

 

5月・6月と聖書のたくさんの個所が「こひつじ食堂」と重なることを見てきました。教会は「こひつじ食堂」を始めて多くの人に身近に感じてもらえるようになりました。入りづらい教会でも、一度、内側に入り、互いに交流し、楽しいことがあれば、ぐっと身近になります。教会は地域の人にもっと身近に感じてもらうということが必要だったと気づきます。教会を身近に感じるということは、キリスト教を身近に感じてもらうこと、神様のことを身近に感じるということにつながるはずです。私たちの食堂では「布教活動」は一切しませんが、神様は身近にいる「インマヌエル(神は我々と共にいる)」ということを伝えることに、すでに一部で成功しているのではないでしょうか。神様を身近に感じることの大事さ、そのことは今日の個所にも書いてあると思います。

イエス様は故郷である小さな村ナザレに帰っていました。しかし誰もそんな場所からキリストが生まれるとは思いませんでした。人々は、キリストはもっと特別な人だと想像していました。そしてもし、キリストがいたとしても、自分なんかは決して近づくことができない、雲の上におられるはずだという思いました。ナザレの人々には神は身近なものではない、そんな思い込みがあったのです。地域の人はイエス様がキリストではない理由、出生、家系、職業を挙げ始めます。「お前は俺たちと変わらない、平凡な人間じゃないか」そう言ったです。ナザレの人々は、高き場所にいる神、手の届かない場所にいる神、人間とは姿かたちが全く違う神を想像していました。その神概念が信仰に入るのを妨げたのです。

しかし神様はそうではありませんでした。神様は平凡さ、普通、日常の中にいたのです。「祈ってごらんよわかるから」にあるように。「小川のほとりでも、ひとごみの中でも、広い世界のどこにいても、本当の神様は、今も生きておられる」とあるとおりです。神様は本当に近くに、身近におられるお方です。身近なところに神様の存在を発見してゆくことが大事なのです。地域の人々に伝えたいことは、あなたの身近に教会があるように、あなたの身近に神様がいるということです。

この教会の内側にいる私たちにも目を向けましょう。私たちこそ神様が身近な者です。しかし今日の個所によれば、身近な者こそ、神様を理解できなかったとあります。私たちも神様を信じられない者としてこの物語を聞きたいのです。そして神様は私たちと共にいるということを私たちも、もう一度発見したいのです。

私たちは地域の人にもっと神様、教会を身近に感じて欲しいと願って「こひつじ食堂」をしています。そして神様を身近に感じることは、私たちにとってこそ大事なことです。私たちこそ神様の身近さをもう一度見つめてゆきましょう。神様は私たちと共におられるお方です。お祈りします。

 

「命どぅ宝 ー基地はいらないー」マルコ5章1節~20節

イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。

マルコによる福音書5章8節

 

6月23日「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」、沖縄・辺野古基地の事を考えます。戦争ではなく命を選ぶ、それが「命どぅ宝」の意味です。私はこの地上から基地が無くなることを願っています。普天間で基地を一個なくすと、辺野古に一個作らなければいのでしょうか?それならずっと基地はなくならないのです。今世界全体が軍事力の神話、狂気に取り憑かれています。「命どぅ宝」という言葉はそれを私たちに問いかけているのではないでしょうか。今日は聖書から平和について聞いてゆきたいと思います。戦争はいらない、基地はいらない。そのことを聖書から見てゆきたいと思います。

イスラエルは当時、ローマ帝国が支配していました。ローマ兵はたびたび、地域の住民、特に女性たちを傷つけました。ユダヤ人たちはいつも、ローマの占領軍にこの国から出て行って欲しいと思っていたのです。それは沖縄と同じです。激しい戦争があり、軍の基地が作られました。沖縄では米軍の起こす事件が絶えません。

2節の「汚れた霊」とはローマ帝国のことです。軍事力によって世界を支配することを、汚れた霊と呼んでいます。なぜそのような読み方ができるのか説明します。レギオンとは6000人の部隊を表す言葉です。ゲラサの近くに駐留していた「レギオン」は、ローマの10個目の軍隊、第十レギオンでした。第十レギオンのロゴマークは豚と船でした。つまりこの「レギオン」とは、ゲラサの近くに駐留していたローマ第十師団を指すのです。暗示されているのは、豚と船がロゴマークのローマ第十レギオンが、海に沈むように、去っていく、そのことを願うという意味です。そして軍事力こそ人を狂気にさせる力、「汚れた霊」だと譬えたのです。

イエス様に目を向けます。汚れた霊はイエス様に7節「かまわないでくれ」と言います。関心を持たないで欲しいということです。沖縄のレギオン・沖縄の軍隊からも同じ声が聞こえてきます。無関心の間に大きな基地を作るのです。イエス様はレギオンに対してはっきり言います「汚れた霊、この人から出て行け」。ここに基地はいらないとはっきりと言ったのです。

2000年後の人間も全く変わっていません。相変わらず人間は軍事力という汚れた霊に取りつかれています。基地、軍事力はこれからますます必要だという考えは、汚れた霊です。イエス様はその汚れた霊を追い出すお方です。この物語は軍事力による支配からの解放、軍事力神話からの解放の話なのです。この物語は、私たちは平和に生きよう、そのようなイエス様の導きが描かれた物語なのです。

私たちにはイエス様がいます。イエス様は軍事力と暴力と基地を、必ず無くしてくださいます。そのような世界が必ず来るのです。そのことに信頼してゆきたいのです。私たちもイエス様と一緒に汚れた霊に向けて「出て行け」と声を上げたいのです。沖縄と世界からすべての基地が無くなること、平和を祈ってゆきましょう。

 

「真ん中に招く神」マルコ3章1節~6節

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

マルコによる福音書3章3節

 

今日は創立記念礼拝です。72周年の時「こひつじ食堂」からの福音を聞いています。私たちはこの教会の中心である礼拝堂で、食堂をしています。こどもを隅に追いやらず、中心にしてゆく教会、そのことがよく表されている風景です。ママやパパにとってはこどもから少し目を離すことができる、安息の時です。一人で来た人も、いつの間にか誰かと相席になって、話が弾んでいます。創立記念礼拝の時、教会の真ん中に何があるかを考えます。「こひつじ食堂」から見る時、教会の中心にはこどもや、子育てが大変な人がいます。一人で食事をする人がいます。教会はそんな人を教会の中心に招きます。今日は聖書からイエス様が社会で隅に追いやられてしまう人を中心に招いたことを見たいと思います。

今日の個所で会堂の人々は悪意を持っていました。イエス様が安息日という戒律と、癒しのどちらを取るのか、手の不自由な人を使って、見てやろうとしていたのです。悲しいことに、人々は手の不自由な人への同情は一切ありません。人々の心は、そのような冷たい心、かたくなな心、硬い心でした。

しかしそこにイエス様が現れます。そしてイエス様は3節で言います「真ん中に立ちなさい!」。イエス様はその人を立ち上がらせ、堂々と真ん中に立つように招くのです。この招きはどれほど、うれしかったでしょうか。それはまず彼の魂の傷を癒したはずです。傷つけられた尊厳、人格を回復する呼びかけでした。その言葉をかけられた時、彼には安息が訪れたのです。

4節は「魂を守る日か殺す日か」という二者択一です。何もしないという選択肢はありません。何もしないことは魂を殺すのと同じです。しかし4節の後半、それでも人々は黙っていました。5節でイエス様は悲しんだとあります。そのかたくなさに激しく怒り、悲しんだのです。そしてその時、奇跡が起きました。イエス様が「手を伸ばしなさい」と言うと、手から不自由さが無くなったのです。

今日、私たちの教会は何を、誰を中心にするかが問われています。私たちは社会の隅に追いやられてしまいそうな人を大切にしてゆきましょう。特に私たちは今、こどもに強い関心を持っています。こどもたち、そしてその周りにいる人、さみしいと感じている人を教会の中心に招いてゆきましょう。

神様は私たちに奇跡をお越してくださるお方です。私たちのかたくなな心に「伸ばしなさい」と呼びかけて下さいます。聖書の言葉によって、私のかたくなな心がほどかれて、柔らかくなるように、呼びかけて下さるのです。

神様は、弱き私たちを、中心へと招いてくださるお方です。隅に追いやられ、寂しい思いをしている人を中心に招いてくださるお方です。そして私たちのかたくなな心をまっすぐに伸ばしてくだるお方です。私たちはこれからも主イエスを教会の中心として、たくさんの方々を中心に招いてゆきましょう。お祈りします。

 

「心も体も満たす神」マルコ3章20~30節

 

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

マルコによる福音書3章20節

 

「こひつじ食堂」から福音を考えています。地域の方との食事は本当に楽しいです。誰でもお腹一杯になると、自然と笑顔になります。一方、誰でもお腹がすくとイライラします。非行少年に関わるおばあちゃんは「お腹がいっぱいになれば悪いことはしない」と、アフガニスタンの中村哲さんは「飢えている者に必要なのは弾丸ではない。温かい食べ物と、温かい慰めだ」と言います。空腹は家庭でも、教会でも、社会でも、世界でも衝突と紛争の原因となります。だからこそ私たちが一緒にお腹一杯になる「こひつじ食堂」は家庭、地域、社会の愛と平和の始まりなのです。今日は聖書から、お腹一杯になることの大事さをみます。そして今日は教会の暦ではペンテコステです。聖霊、特に赦しというテーマも見ます。聖書を読みましょう。

神様はどんな失敗も赦して下さるお方です。もちろん神様の赦しとは、神様が罪を無かったことにすることではありません。神様の赦しとは、何回罪を犯しても、新しく生きるようにさせてくれるということです。もうするな。そして方向転換して、生きよと神様が呼びかける、それが神様の赦しです。しかしこの赦しには、一つだけ条件があります。神様の前で自分が悪かった、そう認めることです。自分に罪はないと思っている人は永遠に赦されません。

またここでは、人間同士の赦しは語られていません。私が相手を赦すかどうかは私が決める問題です。赦したいと思えた時に赦せばよいのです。気が向かなければ、一生赦さなくてもよいのです。ただ神様は赦すということだけが真実です。

それにしてもイエス様は、忙しくて食事ができずお腹が空いていてイライラしています。普段イエス様はいろいろな人と食事をしました。そしてその食事の中で一人一人が神様との関係に、自分の罪に気づいたのです。今日の場面を見て、私は一緒にお腹一杯になることの大事さを思います。その時、新しい関係が生まれるのです。今日残念なのは、共なる食事がないまま、争いが続くことです。

今日私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。パンは小さくて決してお腹一杯にはなりませんが、記念として、象徴としてこのパンを食べます。このパンを食べて、イエス様が人々と一緒に食事をした様子を思い出します。そこには平和と愛があふれたでしょう。そして、一緒に食べると自分の罪に気づいたでしょう。神様に赦されていることにも気づくでしょう。相手を赦す気持ちに少し近づくかもしれません。

私たちはこの主の晩餐によって、共に満たされることを確認します。この主の晩餐から、愛と平和が生まれてきます。まるで食堂で笑顔があふれるように、私たちはこの主の晩餐をいただきましょう。神様は私たちを赦してくださるお方です。お腹を満たし、神様との関係の中に生きましょう。神様は私たちのお腹も心も満たしてくださるお方です。お祈りします。

 

「誰でも歓迎する食堂」マルコ7章24節~30節

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 マルコ7章27節

 

今月来月と「こひつじ食堂」から福音を考えています。多くのこども食堂は、子どもの貧困問題に関心を持って始まりました。しかし実際は誰でも利用できる食堂です。私たちも様々な人に利用してもらうため「こひつじ食堂」と名付けました。

そしてこの食堂では、宗教の布教活動を一切していません。この食堂の目的は隣人に仕えることで、自己拡大ではないからです。だからこそ誰でも来て下さいと言えます。所得や年齢、宗教や民族も関係ありません。誰でも来ていい食堂です。でも私はこの食堂は神様の愛をとてもよく表し、証ししていると思います。私たちの食堂はすべての人が招かれています。おなかも心もいっぱいになれる場所です。違いがあっても一緒にいれる場所です。食堂は地域への私たちの証しです。今日の物語は、神様は社会とこどもたちに強い関心を持っておられること、そして神様の愛はすべての人に注がれることを示しています。一緒に読みましょう。

ティルス地方は異邦人の町です。異邦人である母は娘の病の癒しをイエス様に願いました。しかしイエス様は「まず、こどもが優先だ。犬は後だ」と応えます。犬とは異邦人のことです。なんと民族主義的で、冷たい返答でしょうか!

しかしティルスは穀物をガリラヤで安く買いたたいて、海外に売り飛ばし、豊かになった町です。イエス様が27節で「子供」と言っているのはガリラヤのような貧しくされた地域のことです。まず貧しくされている国への助けが必要だということを言っています。これはイエス様が貧しい人と共にいたという聖書の全体の姿とも重なります。イエス様はこのように、社会に強い関心を持ったお方でした

対する28節の「しかし、食卓の下の小犬も」という母の発言は、貧しい国が優先され、そのあまりものを豊かな国が受け取るということです。イエス様が求めている、社会の在り方に呼応する発言でした。そして母の発言はさらに、大切なことを示しています。神様の恵みはすべての人に開かれているはずだと言っているのです。

この物語は何を示しているでしょうか。イエス様が社会とこどもへの強い関心を持っていたという事を示しています。そしてこの物語は、すべての人に神様の愛と恵みがおよぶことを示しています。イエス様と女性の対話から、社会への関心と、神様のすべての人への愛が示されているのです。この母がこの後どのように生きたのかを想像します。母はきっと子ども食堂をはじめたのではないでしょうか。

私たち自身にもイエス様との出会いによって変化が起こるでしょう。イエス様に出会って私たちは証しをしたいと思うように変えられます。私たちはこの食堂で、地域に神様の愛を証しをしています。この食堂は神様の愛を豊かに表現した食堂です。この集まりにもっとたくさんの人、様々な人が集うことができるように、祈り、礼拝し、働いてゆきましょう。お祈りします。

 

「食堂でつながる教会」 マルコによる福音書3章31~35節

周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節

 

こひつじ食堂と福音について考えています。先日読んだある記事に、独身のおじいちゃんがこども食堂でたくさんの人と食べることが、楽しい、最高だと感じていると書いてありました。やはり一人で食べるのは寂しいのです。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが対象ではありません。どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたいと思っています。

しかし振り返ると、ずっと昔から礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。教会は70年間、毎週礼拝を繰り返してきました。私たちは寂しいと思っている人を教会に誘ってきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は誰かの居場所になるのが得意なのです。礼拝の輪が広がってきたように、今食堂の輪が広がってきています。食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。今日は食堂や礼拝は、神様のもとで集い、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

イエス様の活動は家族に、まったく理解されませんでした。家族と理解し合えないことに、イエス様も寂しさを感じたはずです。従った人々の干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族のような、不思議な集まりとなりました。

34節はイエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。周りに座っている人々を見回すと、教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。

このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。高齢の方々にも、若者にもぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。

私はこの食堂のような、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。

 

「断食か、食堂か」マルコ福音書2章23節~28節

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。     マルコによる福音書2章27~28節

 

こひつじ食堂から福音を聞いています。4月15日(金)「受難日」「聖金曜日」多くの教会で受難日祈祷会を持ちました。その聖なる日に私たちは食堂をOPENしました。いつも祈祷会が行われている部屋で料理が作られ、いつも礼拝している会堂には近所の人が集まり、お弁当が販売され、おまけとしてコーヒーが配られました。聖なる日に、聖なる場所で、なんということでしょうか!

私たちの選びは、誰かのために何かを「する」ことの大事さを示しているのではないでしょうか。聖なる時間は大事です。祈ることは大事です。でも私たちは礼拝するだけではなく、人々のためにできることをしてゆきたいのです。この体を、この会堂を、他者のために使いたいのです。それが私たちが聖金曜日に食堂をする意味です。

私たちはいっぱい祈り、いっぱい礼拝します。そして地域のために、隣人のためにいっぱい働くのです。今日は、神様は私たちに、祈り、明日からまた善き行動を起こすように促していることを見てゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。 

イエス様は律法違反を指摘する人たちにダビデの話を始めます。祭司は供えてあったパンを分かち合いました。そのパンは本来、祭司しか食べることが許されていない、聖なるパンでした。しかし祭司はダビデとそれを分かち合ったのです。それは良いことをするのは物や、日時や場所を選ばないということです。必要としている人と分かち合う事、それをしてはいけないもの、日、時、場所はないということです。どんな時でも、どんな場所でも、慈しみの分かち合いは許されるのです。

この個所でイエス様は、何々をしないという事だけでなく、何をするかに注目をさせます。してはいけないことだけではなく、すべきことに目を向けさせます。

私たちは1週間の始まりの日曜日を、祈り、礼拝することから始めます。そして私たちはそこで終わらず、この1週間善き事をしたいのです。27節に「安息日は人のためにある」とあります。安息日は人のために善き事を始めるためのスタートです。人のために何か行動を起こす、そのスタートです。私たちはこの安息日をスタートに1週間、何か善き事をしたいのです。すべきことをしたいのです。

私たちは、祈りつつ、そして善き事を行うことが求められているのではないでしょうか。だから受難日に祈りつつ、働くのです。27節の「安息日は人のためにある」とは、安息日が私の魂ためにあるということ、そして安息日が他者のためにあるということです。そしてその安息日は主イエスのものなのです。

聖なる会堂、聖なる体は、他者のために使われる時、本当に聖なるものとなるのです。私たちはこの安息日から1週間をスタートします。神様から力をもらい、他者のために、善き事のために働く1週間を始めます。私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へと派遣されましょう。そしてこの会堂でまた分かち合ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

「調理で元気にする神」マルコ1章29節~32節

 

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした

マルコによる福音書1章31節

 

こひつじ食堂から見えてきた福音を分かち合っています。こひつじ食堂にはたくさんのボランティアの方々が集まり動機は様々です。みなさん、とても活き活きと、笑顔で手伝ってくださっています。ある方は障がいをお持ちで、なかなか就職をする自信が出ないそうです。でもその日の体調が良い時だけなら、自分にもできると思って、ボランティアを始めたいと訪ねてこられました。

誰かのために働くこと、それ自身がその人の活力になることを知りました。教会は何かを提供するのではなく、教会と言う場所が、やりがいと、力を発揮できる場所となっていることをうれしく見ています。これはきっと神様の働きでしょう。神様は調理するということを通じて、みんなを元気にして下さっているのです。

今日は聖書から、立ち上がった女性がすぐに、他者のために働く姿を見ます。私はこの姿がボランティアの方々に重なります。イエス様はそのように人々に活力を与えてくださるお方なのです。今日はそのことを見てゆきましょう。

今日の聖書箇所で、女性は熱にうなされています。イエス様はそのような場所に、イエス様の方から来て下さるお方です。私たちの人生にも高熱を出し、立ち上がれない、しんどい時期があるものです。その時、イエス様は私たちを訪ねてくださるお方です。そして私たちがもう一度立ち上がることができるようにして下さるのです。

立ち上げられた女性は31節すぐに「もてなした」とあります。こひつじ食堂を通じて、私は誰かに料理を作り、手渡すことの喜び、あふれてくる活力を知っています。きっと彼女は活き活きと料理をしたのではないでしょうか。

イエス様は病や弱さを持っていた人を、起き上がらせました。そして、また元気にさせ、活力を与え、みんなのために仕える人としました。それがイエス様が起こした奇跡です。熱はしんどかったけど、熱を出す前よりももっとみんなとの関係、イエス様のとの関係は深くなりました。イエス様はそんな奇跡をここで起こしたのです。

イエス様は私だって誰かのために、何かしたい。体と時間の許す限り、誰かのために生きたい、そんな女性の願いをかなえ、立ち上がらせ、働く者とするお方です。私はこひつじ食堂を見ていると、この聖書の個所をそのように感じます。

神様は苦しいとき、私たちを訪ねて下さるお方です。私たちもそのように、苦しむ人がいる時、共に歩み、神に祈りましょう。神様は私たちをもう一度活躍できる、誰かのために働けるようにしてくださるお方です。誰かのために祈れる者としてくださるお方です。誰かのために生きる者としてくださるお方です。私たちに生きる活力をお与えくださるお方です。そして神様はもう一度、私たちを強く結びつけてくださるお方です。私たち、この神様を信じましょう。共に従ってゆきましょう。力をいただき、誰かのために働き、祈ってゆきましょう。お祈りします。

 

「5000人食堂」ルカ9章12節~17節

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。ルカ9章16~17節

 

今年度の主題聖句をルカ9章16~17節としました。市内には他にもこども食堂があり、私たちの「こひつじ食堂」もその方たちに教わりながら始めました。しかし私たちにはきっと別のルーツがあります。イエス様がいろいろな人といろいろな場所で食事をしたことが「こひつじ食堂」のルーツです。

私は最近、聖書を読んでいると読む個所、読む個所にこひつじ食堂のことが書いてあるような気がしています。今日から2か月「こひつじ食堂」をテーマにして、聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

今日の聖書箇所を読みます。今日はイエス様がパンを増やしたという「奇跡」よりも、一緒に食べるということを通じて、人々の心、体、関係など様々なニーズが満たされていったということに目を向けます。

人々は食べ物の分かち合いによって、5000人のにぎやかな食事によって、おなか一杯、楽しく食事をしました。そしてもう一度、生き生きと歩んだでしょう。励まされて、自分の元いた場所に心の余裕を持って戻ったでしょう。ストレスが解消されたでしょう。病気がすこし良くなったという人もいたかもしれません。

13節には「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とあります。この食事の主催者はイエス様です。イエス様がこの食事をするようにと弟子に命じました。すべての始まりはイエス様の言葉です。この言葉は2000年前の言葉です。でもこれは私たちへの言葉でもあるでしょう。この言葉がこひつじ食堂のルーツです。

14節には「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」とあります。バラバラだった5000人はイエス様の指示によって50人ごとのグループにされます。50人になって、交わりを持ち互いにおなかが空いているのを表情から知ったでしょう。そうしていると奇跡とも言える分かち合いが起きたのです 。

16節は主の晩餐の際によく使う表現です。イエス様は5000人の食事を主の晩餐として持ちました。この5000人の食事が主の晩餐だとするなら、私はすべてがつながります。5000人の食事と、こひつじ食堂と、主の晩餐がすべてひと続きです。実は私たちがしているこひつじ食堂は、5000人の食事であり、主の晩餐なのです。私たちの食堂は、主の晩餐がルーツだともいえるのです。

今日私たちもこのあと主の晩餐式をもちます。これを食べる・飲むことによって、バラバラの私たちは、顔の見える、分かち合いの関係の中に入ります。イエス様のもとで分かち合う5000人・50人になります。共に食べることによって、こひつじ食堂のように、励まされ、またそれぞれの場所で力強く歩むようになるのです。

私は17節「すべての人が」とあるように、いつか食堂にも主の晩餐にもすべての人に加わって欲しいと願います。賛美の後、ともに主の晩餐をいただきましょう。

 

「はじめての教会」マルコ1章16節~20節

 

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

マルコによる福音書1章17節

 

先週はマルコの最終章が1章につながっているということを見ました。ですから今日は1章、ガリラヤのイエス様と弟子の最初の出会いを見てゆきたいと思います。

教会には絶えず初めて礼拝に来たという方がいます。わたしたちは初めて来た人も大切にする教会です。準備は必要ありません。緊張せず、手ぶら、普段着で結構です。見知らぬ場所、見知らぬ人に会うのはとても緊張して、勇気がいるものです。来るのに勇気がでないという方がYouTubeで、見ているでしょうか。その方たちに伝えたいのは、あなたはここに来てOKということです。すべての人がこの礼拝にふさわしい人です。失敗はありません。とにかくこの時間を一緒に過ごしてくれればOKです。ぜひ一緒に礼拝しましょう。教会はそのような方たちを温かいまなざしでお迎えします。私たちはまず自分から自己紹介をさせていただきます。

とにかく私たちは聖書の事もお互いの事も、わからないながらも、この場所にいよう、人生を一緒に歩もうとする集まりです。今日は聖書から、イエス様のことを全部わかるわけではないけど、私たちは神様に招かれているということ、そしてイエス様と一緒に歩むということを聞きたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

今日はマルコ福音書1章16節~20節です。今週も肝心なことが書いていないと思います。それは弟子たちが従うまでの葛藤です。経緯が記されないと、印象に残るのは、やはり直前の「私についてきなさい」という言葉です。

「ついてきなさい」という言葉は「一緒に歩もう」という意味のある言葉です。つまり「ついてきなさい」とは「一緒に歩もう」という意味です。まずイエス様は、イエス様の方から会いに来てくださるお方です。何の準備もないもない、知識もない者に声をかけるのです。神様は最初は誰にとっても、名前も知らない人です。見知らぬ人です。でもその方に「一緒に歩もう」と誘われ、一緒にいるようになるのです。

そしてイエス様が現れる場所も見ておきたいと思います。イエス様はなんと仕事中に突然現れるのです。神様は日常生活の中に現れると言えるでしょう。

そしてもうひとつ見ておきたいのは、神様は特別な人に現れるのではないということです。知恵と理解力とパワーのある人に現れたのではありません。ごく一般人に、私に現れるのです。初めての人にも現れるのです。それが神様の選びです。神様の温かいまなざしは毎日を生きる私たち、全員に注がれているのです。

今日、私たちはそのイエス様に「一緒に歩もう」と呼びかけられています。イエスさまと一緒に歩みましょう。この仲間と共に歩んでゆきましょう。

神様は私たちの日常に、先に、すでにおられるお方です。先週見た「先にガリラヤへ行かれた」とはそのような意味です。私たちの主は、私たちの日常に先に行っておられます。今週もそれぞれの場所で、共に主イエスと出会ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

「終わりじゃない、終わり」マルコ福音書16章1節~8節

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』マルコによる福音書16章7節

 

転入会を歓迎します。誰かの死は人を大きく変えると感じます。死は人の気力を長く奪います。しかし同時に死は人を動かします。2つの意味で死はスタートです。ひとつは天に召された人にとって、神様のもとでの歩みを始めるスタートです。そしてもうひとつは、地上に残された者たちにとって新しいスタートになります。終わりと思う場所は、終わりではなく、スタートにつながっているのです。

今日の聖書個所も特に「これは終わりじゃない、スタートなのだ」そのように言える個所です。今日見たいことは、復活の主は、終わることなく、私たちに繰り返し、出会ってくださるということです。共に聖書を読みましょう。

9節以降の〔カッコ〕は当初は聖書に書かれていなかった文章で、後の時代の人が後から付け加えた文書だということを示しています。マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたのです。その後の復活のありさまについて記していないということです。これはとても唐突な終わり方に感じます。後の時代の人の中に、こんな終わり方ではよくないと思って、話を付け加えた人がいたのです。

まるで終わり方の中途半端なドラマを見ているようです。しかし8節で終わることはまさしく、マルコ福音書の著者の狙っていることです。あえて8節で終わらせイエス様が「ガリラヤに先にいっている」という印象を残して終わっているのです。

テレビドラマだとしたら視聴者は不思議に思ってもう一度見返すでしょう。それがドラマ制作者の狙いです。ドラマの制作側からのメッセージは、このドラマの意味を分かるには、もう一度第1話から見てくださいというものです。

つまり「ガリラヤに行かれた」という終わり方は、これまでこの福音書に書かれてきた、ガリラヤのイエス様とはどんな人だったのかをもう一度見るように、そう促しているのです。イエス様が地上でどのように生きたか、1章からもう一度見よと指し示しています。再びイエス様の地上の歩みを読む時に、十字架のイエス様がガリラヤでどのように歩んだかを知る時、イエス様の姿が、私たちの心の中にもう一度、生き生きと浮かびます。共にいると感じることができるのです。もう一度イエス様と出会うことができるのです。私たちは今日、そのことを「イエス様は復活した」と呼ぶことはできないでしょうか?

私たちは今日からまた繰り返し、聖書を読み返してゆきたいのです。イエス様の復活を聖書の中に見つけてゆきたいのです。もう一度読み直す時、あなた自身が主イエスの復活に出会うだろうと指し示めされています。「復活の主はガリラヤに先におられる」とはそのような意味ではないでしょうか。今日の個所に復活のありさまは書かれていませんでしたが神様はこのようにして、私たちを復活の主と出会わせて下さいます。終わりとスタートを結び付けてくださるのです。今日、共にその主の復活、スタートを喜びましょう。お祈りいたします。

 

「十字架に向かう神」マルコ14章32~42節

イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14章33~34節

 

ウクライナで戦争が続いています。自分の死を目の前にして、眠ることができない人がいるでしょうか。私は人間がこのような戦争をすることを恐ろしいと思います。そしてもっとも恐ろしいのは、戦争の中でも神様が沈黙しておられることです。

一方、今日の個所から思い出すことは、私たちの神様は苦しみのただなかにおられる神様なのだということです。私たちの神様は、苦しみもだえ、祈る神様なのです。そのことを今日、覚えたいのです。そして神様がいる場所に、私たちも目を向けたいのです。今日の聖書箇所を一緒にお読みしましょう。

今日の個所で、イエス様は33節ひどく恐れてもだえ始め、34節「死ぬばかりに悲しい」と語っています。イエス様は弟子たちが眠る前から、すでに苦しみ、悲しみを持っていました。やはり、自分が死ぬということが悲しかったのでしょうか。

しかしイエス様の苦しみは、ただ自らの死の恐怖や、孤独だけではないと思います。これから起こる死は、神に最も愛された人の死であり、神の子の死です。人間は神をも残酷な十字架につけることができるのです。イエス様は人間の身勝手さ、残酷さに恐怖を感じているのではないでしょうか。

そして、もう一つイエス様が恐ろしいと感じたことがあったと思うのです。それはこの状況になっても、神様が沈黙を続けているということです。今日の個所には神様の発言はなく、ひたすら沈黙を続けています。イエス様がもっとも恐ろしかったのは、神様がずっと沈黙をしていることだったのではないでしょうか。

そのとき神様どこにいたというのでしょうか。私たちは知っています。神様は十字架の上にいたということを知っています。神様はもだえ苦しみ、死んでゆくものとして、十字架の真ん中におられたのです。私たちの神様は苦難の時、恐怖の時、痛むとき、声はしなくても、共にいるのです。その苦しみの真ん中に共にいるのが神様なのです。十字架はそれを表しています。

今、神様はどこよりも、ウクライナの人々と共におられるでしょう。攻撃された病院のがれきの下におられるでしょう。戦争に恐怖を感じ、傷ついたこどもたちと共におられるでしょう。未来を見渡せなくなって悲しむ人々と共に神様はおられるでしょう。戦争の中で神様はどこにいるのかと叫ぶ時、その真ん中におられるでしょう。神様はそのように苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、あるいは共に死んでゆくお方です。声は聞こえなくもと、神様はそこに確かにおられます。そして神様はもだえ苦しみ、死んでゆく命を、蘇られせるお方なのです。

42節でイエス様は「立て、さあ行こう」と言います。イエス様の目的地は十字架です。十字架に行こうとは共に苦しみの道を歩もうということ、そして苦しみを感じている人に目を向け祈ろうということでしょう。イエス様は立って、十字架に行こうと促しています。私たちはその主イエスに従い、目を覚まし祈り続けましょう。

 

「神は計画を変える」マルコ9章2~10節

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。マルコ9章2~3節

 

今日から新年度に変わります。新しい計画を進めてゆく時には必ず紆余曲折があるものです。元の計画は必ず変更になります。最後に完成した姿を見ると、最初の計画とは似ても似つかない、違うものになっていたということはよくあることです。

計画は直線的であっても、実施は柔軟な曲線のようなものです。私たちが祈るのは、計画が私たちの考えた通り、まっすぐ直線的に実現されることではありません。この計画に神様の力が働いて、変えられて、私の計画が曲げられて、神様の計画が実現されてゆくことを祈りたいと思っています。

今日は、私たちの人生には神様がいつも共におられること、そして神様は私たちの計画を変えながら、導いてゆくことを見てゆきます。

今日の個所は「キリストの変容」と言われる箇所です。受難節にこの個所を読むとイエス様の人生は紆余曲折の連続だったことを知ります。その紆余曲折を図にすると次のとおりです。この紆余曲折はすべて神様によって起こされた事です。2節にも正確に翻訳すると「変えられた」という神的受動態が使われています。そして変えられたイエス様は、山頂にそのままずっと留まったのではありません。山を下り十字架へと向かってゆきます。そしてその後には復活があります。再び神の栄光を受けるときが来るのです。このようにイエス様の人生は紆余曲折します。神はそのように人の計画を変えて導かれるお方です。

今日、このような人生と計画が紆余曲折する中で覚えておきたいことは、私たちの人生の紆余曲折の中にもイエス様がいつも共にいるということです。

イエス様は一人で山に登ったのではありません。2節、イエス様が弟子が引っ張ってくださったのです。神様が栄光の場所へと共に連れて行ってくださるのです。神様はそのようにして、人間にできないこと、計画にないことを見せて下さるのです。

9節には「一同が」山を下りるとあります。イエス様は共に、山から下りてきてくださるお方です。それはイエス様がベツレヘムの家畜小屋に生まれてきてくださったことと似ているでしょう。人間の住むこの世界に、イエス様は私たちと共にいてくださる、下ってきてくださるのです。

このようにして神様は私たちと共にいて下さるお方です。人生の紆余曲折の中で共にいて下さるお方です。そして神様は、私たちの思う計画を変えるお方です。神様ご自身の計画を実現されるお方です。私たちの人生は、私たちの教会の計画は一直線に実現するのではないでしょう。神様が計画を変えるでしょう。

そのことを覚えてそれぞれの1年を歩みだしましょう。お祈りいたします。

 

「もう十字架を背負わせるな」マルコ8章27~38節

 

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

マルコ8:34

 

ウクライナの戦争について、私はイエスの非暴力の観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持しません。こうなる前に互いの脅威となる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったと思います。しかし世界は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し合い、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。

私がまずウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事を祈ります。銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲とされた人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。そして世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことを祈ります。私たちは受難節、イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。

31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。ここには人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのとはありません。権力者から排斥されて、殺される出来事なのだとあります。34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。イエス様ご自身に十字架を背負わせたのは権力者たちです。それは戦争と同じです。自分の都合の悪い者は殺すという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。

私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。戦争とは誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。

イエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。

イエス様はこのような暴力の時代に私の平和のことばを恥じるなと言います。今も同じ時代です。イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。

 

「神と野獣」マルコ1章12~15節

 

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコ1章13節

 

受難節の40日間、転入会やバプテスマの準備を始める方を特に歓迎する期間としたちと思います。私たちにとって仲間ができることは心強いものです。私たちの交わりは相手を変えることが目的ではありません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。

私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはなく、マルコにだけに記載があることがあります。それは40日間「野獣と共にいた」ということです。マルコによれば、イエス様はサタンと野獣をやっつけたのではありません。40日間「野獣と一緒におられた」のです。ここから示されていることはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。

イエス様は15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りに支配できる、それが私の国です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。イエス様が言う「神の国」とは異なる者が一緒にいることなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。

教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会い自体が大事です。教会は相手を変え、打ち倒すのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。

世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。

最後に、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができず、傷つけあっている者、私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。

今週も私たちはそれぞれの場所へと派遣をされ、それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごします。そのようにして、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。

 

「さよなら原発」マルコ10章42~45節

しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、

皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

マルコ10章43~44節

 

今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝とします。今日は特に原発の問題を覚えます。福島第一原発の処理水は、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。福島の漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。廃炉も進みません。核のゴミ、デブリを誰かが引き取らなくてはならないのです。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。

原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にならないことを求めてこの礼拝を持ちたいと思います。

「イエス様が私の罪の身代わりとして十字架にかかり、それにより私の罪は赦され、神の愛を知った」という理解を贖罪論といいます。贖罪論は古くから信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人は苦手で、贖いをうまく説明をすることができません。むしろ贖罪論には注意が必要です。強調しすぎると、犠牲を容認することにつながります。イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたがないないと考えることにつながります。

私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。贖いよりも、十字架の上で苦しんだことに目を向けたいのです。十字架の犠牲の痛みを、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。

今日の個所の42節には「支配者」あります。ローマ皇帝は世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にしていました。そんな世界の中でイエス様は43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」といいます。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの快適さを追いかけてはいけないということです。本当に偉い者とは43節「仕える者」です。「仕える」とは食事を運ぶことに由来します。食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくことが「仕える」です。仕えさせるとは無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」、共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいと言われているのです。

イエス様は「自分は」命を献げると言いました。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。

私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。受難節、私は罪が贖われたかどうかより、十字架の苦しさを覚えます。その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。

今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「信教の自由の荒波」マルコ4章35~41節

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節

 

今月は信教の自由というテーマで宣教をしています。戦時中の大半の教会はおそらく「天皇もキリストも両方信じる」立場でした。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、天皇制と折り合いをつけて教会が生き残ることを選びました。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。皇居に一礼してから礼拝を始めました。

しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。逮捕された牧師の中には長尾三二という人がいました。彼は戦後、この教会の初代牧師となりました。私たちはその歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。

私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。今日の個所から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。

今日の個所は旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります。ヨナ書で人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も人間の分断を呼び起こします。弟子たちは人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。舟の後ろにいた、イエス様をようやく振り返り、呼びかけたのです。私はこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、まなざしを感じるのです。イエス様は弟子が自分に声をかける時を待っていたのではないでしょうか。

大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということです。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくことです。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたのです。私たちも荒波にもまれる時、舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと、この物語は語っています。

戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯でした。仲間を見捨てながら、なんとか生き残ろうとしました。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。私たちは危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。振り返りたいのです。

ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こします。平塚教会もその一つであり、その嵐を乗り越えた証しなのではないでしょうか。

私たちは、大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、信仰を守ってゆきたいのです。お祈りします。

 

「信教の自由の礼拝」マルコ2章1節~12節

「信教の自由の礼拝」

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

マルコ福音書2章4節 

 

今月の宣教のテーマは「信教の自由」です。今日は天皇制について考えます。キリスト教が天皇制に反対するのは政教分離以外に人権の問題があります。皇室には基本的人権がありません。選挙権、職業、表現、言論、結婚、そして信教の自由がありません。人権の観点からもキリスト教は天皇制の廃止を主張しています。

自由と、平等を大切にするのが私たち、バプテストです。とても自由な雰囲気の中で礼拝をしています。この自由な姿を大切にしましょう。自由が守られ、この礼拝から自由が広がってゆくように願って、この自由な礼拝を献げましょう。今日は不自由な人と自由な人が登場する物語です。それを見てゆきたいと思います。

今日登場する4人は常識破りで自由な人です。彼らは自分たちが思い立った時に出発しました。それは自由な一歩、自覚的な信仰の一歩でした。彼らはイエス様の語るみ言葉が何か起こすと期待し、出発しました。彼らの自由さは続きます。屋根に穴をあけ、仲間を吊り下げました。なんと縛られない発想、自由な人なのでしょうか。礼拝中はおしゃべり禁止、そういう堅苦しさを全く持たない4人です。

彼らはかなり自由な人ですが、痛みを持ち、立ち上がれない仲間を神様がきっと自由にしてくれるという信頼を持っていました。4人はそのような自由でがむしゃらな神様への信頼を持っていました。そしてイエス様はこの5人のことを神様への確かな信頼を持っている人だと見たのです。そこに奇跡が起こりました。私も神様にそんなまっすぐな信頼を向けてゆきたいです。彼らは聖書の言葉を聞けば自分たちに何か起こると信じ、神様に信頼し、自由に駆け出し、自由に礼拝をしたのです。

そしてこれこそ信教の自由です。自由に信じ、駆け出し、自由に礼拝する。このようにすべての人に信教の自由があればよいと願います。そしてこの5人の自由さを見ると、本当に天皇制の息苦しさに胸が詰まります。

また私が不自由を感じる時、床に横たわり吊り下げられる人に目が行きます。私も同じです。自分ひとりだけでは礼拝できないのです。誰かに誘われ、導かれ、誰かが待っているからそこに集い、神様の言葉を聞くことができるのです。しかしその弱さの中に、不自由さの中に、神様の力は働くのです。

神様の言葉のあるところには何かが起こります。私たちにも今日、何かが起こるでしょう。なかなか体の動かない私たちに、立ちなさい、行きなさい、自由になりなさいと励ましの言葉がかけられるでしょう。み言葉というのはそのようにして、人にはできない出来事を起こすのです。自由さを起こすのです。

私たちは礼拝できる自由があります。そしてこの礼拝は自由を分かち合う礼拝です。私たちを自由にする礼拝です。この礼拝から、礼拝する自由、信教の自由が日本と世界に、天皇制の廃止へと広がっていくことを願います。お祈りします。

 

「信教の自由と死」マルコ4章1節~9節

 

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、

あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 

マルコによる福音書4章8節

 

今月は宣教のテーマを信教の自由としています。葬儀とは人生最後の信教の自由ともいえるでしょう。キリスト教の葬儀では「喪主」という言葉を使わず、親族代表と呼びます。なぜなら葬儀の「主」は神様であり、親族や亡くなった故人でないからです。死を悲しむと同時に、人生に感謝し、神様に礼拝を献げることが目的です。故人の生前の偉業を評価することはしません。

信教の自由と死ということを考えるなら、靖国神社の問題を避けることはできません。靖国神社は「国のために命を落とした人を祀る神社」です。誰かを「国のために死んだ」と一方的に評価し、国の英雄としています。そうして戦争で死んだことを美化し、戦争の犠牲者を美化する装置として働いています

キリスト教はこのような死の扱い方に反対します。犠牲や失敗を美化してはいけないのです。私たちの人生には成功と失敗があるように、人間にも成功と失敗があります。そのような人生の中で私たちは、恵みに感謝すること、失敗を美化せずに向き合い生きること、それが神様の下で、精一杯生きるということでしょう。

今日の聖書箇所を見ましょう。あの人は良い種、あの人は悪い種という読み方は気分が悪いです。13節以降は後の教会の人々が加えた説明ではないかと言われます。今日は、もう少し希望のある読み方をしましょう。

種をまくことは希望です。一方、種の中でも意図せずこぼれてしまう種があります。それは希望の出来事の中でも、うまく実を結ばない出来事があるということです。数えきれないほど、人生の出来事はたくさんあります。でもすべてがうまくいくとは限らないのです。災難、病気、事故、感染症に振り回されることがある、それが私たちの人生です。豊かに実る時もあれば、実らないこともあるのです。その中で私たちは精一杯生きるのです。たとえすべてが実るわけではなくとも、今日の様に種をまき続けるのが私たちの人生なのです。

危険なのは失敗が無かったことにされることです。他の人が好き勝手に人生を評価することや、失敗が美化されることは危険です。それはイエス・キリストの死への理解もつながってくるでしょう。キリストの死は美化されてはいけません。それは本当に苦しい死だったはずです。私たちはそれを忘れたりしません。そしてそれを美化したり、見習うべき犠牲としないのです。十字架を、犠牲を、もう二度と起きてはいけないこととして覚え、理解したいのです。そのようにして、死を美化すること、失敗をなかったこととすることに反対をしたいのです。

聖書は私たちが生きる時、成功も失敗もあると告げています。大切なのは、私たちが失敗を失敗として心にとめてゆくこと。そして恵みを恵みとして心にとめることです。神様はそのことを「聞きなさい」と言っているのではないでしょうか。

 

「信教の自由の種」マルコ4章31~32節

それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。

マルコによる福音書4章31~32節

 

2月は信教の自由を宣教のテーマとします。17世紀のアメリカには、信教の自由がありませんでした。選挙権は教会籍のある人に限定されました。通う教会は政府が指定し、それ以外の教会に出席すると処罰されました。政府が公認した牧師のみが説教し、資格のない人が説教をした場合、死刑にされることもありました 。

そんな時代に自由と自覚的な信仰を守ろうとするバプテストというグループがいました。彼らは本人の自覚のない洗礼をせず、無資格の牧師を自分たちで選び礼拝するという危険なグループでした。そして信じる宗教によって行政が迫害や処罰をすることに反対したのです。これがアメリカの信教の自由の始まりとなりました。

やがてアメリカの憲法第一条には「この国では国教を定めてはならない」「自由な宗教活動を禁止する法律を制定してはならない」と記されました。私たちバプテストには信教の自由を見守り続けてゆく責任があるのです。

今日の箇所、イエス様は神の国について種まきとからし種のたとえ話で教えています。神の国とはキリスト教が国教になること、全員が洗礼を受けることではありません。では神の国とはどんなところでしょうか。農民にとって種まきとはたくさんの収穫を願いながら、希望を持って行うことでした。やがてそれは29節「収穫の時を迎える」のです。神の国とは花や作物の種を植えて、収穫をすることに似ています。希望の種、期待の種があり、豊かな恵みがある場所、それが神の国なのです。小さくても希望があるところ、種をまくことができる希望、それが神の国です。

そしてからし種は小さな種ですが、大きく豊かに茂ります。神の国とは小さな希望が大きく広げられるところだということです。私は信教の自由を訴えた少数派、バプテストをこのからし種に重ね合わせます。ごく少数の訴えた信教の自由がやがて一つの国の基礎となったことに重なります。私たちバプテストはからし種だったのです。そして神様はからし種のように信教の自由を広げて下さるお方なのです。

またからし種は生命力が強く、一度生えると除去するのが難しい、危険な草という特徴もあります。神の国、その種とは小さく、踏みつけられてもまた生えてくる、どんな困難な時も無くならない希望が神の国の種なのです。

神の国とは小さくても無くならない希望のある場所です。神の国はからし種のようなものです。そしてバプテストもからし種のような存在でした。そしてバプテストの訴えた信教の自由も神の国の種だったのです。私たちもこの種をいただいてゆきましょう。そして私たち自身も種になってゆきましょう。

私たちは小さくてもこの信教の自由を大切に守ってゆきたいのです。そして私たちの希望はなくならないのです。雑草のように、抜いても抜いても生えてくる草のように、私たちは希望をあきらめないでいたいのです。お祈りします。

 

「折れた心を献げる礼拝」詩編51篇12~19節

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。詩編51篇19節

 

先輩の牧師が「教会がうまくいっていると感じる時こそ、注意が必要だよ」と教えてくれました。教会で何かがうまくいっていると思う時、痛みや、傷ついている人のことを忘れないように注意をしなさいという意味に受け取っています。うまくいっていると感じる時こそ、私たちは互いに祈りあいたいのです。今、私たちの教会にはきっと、今までずっとあった欠けと共に、新しい欠けと、新しいほころびが生まれているはずです。そこに目を注いでゆきたいのです。

今日も様々な人が教会に集っています。しんどいと思う方、今あなたはきっと深い祈りが与えられる時です。一緒に祈りましょう。そしてまあまあうまくいっていると思う方、今あなたはきっと注意が必要な時です。きっともっと深い祈りが必要な時です。一緒に祈りましょう。今日は聖書から、うまくいっている時こそ祈るということを見ます。そして神様は私たちの中にある欠けやほころびを、神様の前に献げ、礼拝をしなさいといっていることを見てゆきたいと思います。

詩編51篇はダビデが歌った歌として伝えられます。ダビデはイスラエルの歴史上で最も大きな成功を収めた王です。しかし彼の心には緩みがありました。うまくいっていると感じた時こそ、自分と他者に注意が必要だったのに、彼はそれをすることができず、卑劣な罪を犯しました。51篇前半でこれまでの事を後悔しています。

そして今日の12節以降に続きます。12節でダビデは新しく確かな霊・心が授けられることを祈っています。彼は今までの心や自信が回復することを求めたのではありません。彼が求めているのは新しく、確かで、清い心です。それを創造してくださいと神様に祈っています。天地創造において神様が混沌の中から光を創造するように、私の中にあなたが清い心を創造してくださいと願いました。私たちもそう祈りたいのです。私が創り出すのではなく、神様だけが創造できる、その清い心、新しい霊、新しい心を受け取りたいと祈るのです。

19節には「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」とあります。神様が求めるものは「打ち砕かれた霊」です。神様は礼拝に、折れて、粉々になり、引き裂かれた心を持って来るようにと招いています。そしてそこに新しい心を創造してくださるのです。ダビデの本当の祈りと献げ物は、打ち砕かれた霊だったのです。

うまくいく時も、そうでない時も打ち砕かれた霊は自分や他者の中にあるものです。それを一緒にこの礼拝で献げましょう。そして新しく確かな霊・心が授けられるように祈ってゆきましょう。私たちは毎週、互いの中にある痛みや欠けを持ち寄って、折れた心、引き裂かれた自分を献げてゆきましょう。神様はそこにこそ新しい心、新しい霊、新しい道を創造してくださるお方です。お祈りをいたします。

 

「むずかしくない福音」 申命記30章11節~14節

 

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30章14節

 

他の教派の教会から礼拝に来られる方がいます。私はその方から私たちの教会の特徴を教えてもらうのが楽しみです。多くの方が三つを挙げられます。ひとつ目はこどもの声。二つ目は社会的な活動や発言。三つ目は教会学校です。

バプテスト教会は「正しい教理」というものを固定していません。ですから教会学校は聖書を教える場所ではなく、学びあう集まりになります。みんなが発言し、考え、教わりあうという集まりなのです。私たちには当たり前ですが、驚くほど自由に聖書を語り合う教会なのです。もちろん注意点もあります。自由は自分勝手な考えも生みます。だからこそ一人一人が聖書にしっかりと向き合わなければいけません。

今日の箇所から、私たちは聖書のみ言葉をそれぞれの口から語り合ってゆくこと。社会の中で、福音を実践してゆくことを考えたいと思います。

12節~13節には聖書のみ言葉は私たちの生活とかけ離れたものではないということが書かれています。私たちは福音を遠くに探し求めるのではありません。今生きる、私たちの生活の中に希望を求めています。私たちは福音を、今生きる社会・生活の中、その関わりの中で探しています。社会の事、生活の事、抜きには福音はわからないのです。そのようにして福音は近く、身近にあるものです。14節「み言葉はあなたのごく近くに」とある通りです。

14節の続きにはみ言葉は「あなたの口と心にある」とあります。そうです、福音はあなたの口にあるものです。福音は牧師の口だけにあるものではありません。あなたの口にもあるのです。だとするならば聞くだけではなく、一人一人の口から語られるみ言葉が大事です。教会学校はまさにそのような場所でしょう。一人一人がみ言葉を語ります。それから感じたことを語り合います。それはとても大事なことです。み言葉は遠くにあるのではなく、一人一人の口と心にあるものだからです。もちろんそこにも注意も必要です。私たちの口からはつい、いろいろな言葉ができてしまいます。私たちは聖書を繰り返し読み、心に刻むことも大切でしょう。

14節の最後には「行うことができる」とあります。あなたは福音の実践がすぐできるようになるのです。福音の実践とは互いの口からでる言葉をよく聞き、その心を良く知ることがスタートです。私たちが互いに聞き合い、語り合う時、み言葉はむずかしいものではなくなります。私たちが「行うことができる」ものになるのです。

今日の箇所は「むずかしくない福音」です。神様は福音は身近にある、お互いの口と心にあるものだよと言います。必ずあなたにもできることだよと語ります。私たちは、社会と生活の中で福音を聞くこと、互いに聖書を語りあうこと、福音を実践してゆくことを大切にしてゆきましょう。私たちにも必ずできるはずです。お祈りいたします。

 

「できない人を選ぶ神」エレミヤ書1章4~10節

 

わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。/わたしは若者にすぎませんから。」            エレミヤ書1章6節

 

今日この後は臨時総会が持たれますが、もしみなさんが執事に選ばれたらどうするでしょうか?「どうしよう、なんと言って断ろうか」と考えるでしょうか。できない理由というのは無限にあるものです。私たちの選挙は、不十分な制度の中で、不十分な私たちが、不十分な者を選ぶ選挙です。仕組みにも個人にも不十分ばかりです。

私たちはどのように投票をしたら良いでしょうか。私にはできないから、あの人にお任せしようと投票することは、もうできないでしょう。きっとあの人もできないのです。あの人だって事情があってできないのです。

私は誰かを選ぶけれども、私も精一杯を献げるという思いを持って投票をすることが必要でしょう。私たちは「私もできる限りの精一杯を担う」そのような思いで投票をしたいのです。共に精一杯を献げるという気持ちを持って投票をしましょう。

そして今日の聖書から一緒に、神様の選びを見てゆきましょう。私たちがお互いから不十分な者を選ぶように、神様も不十分な者を選ぶお方なのです。

今日の箇所では神様はエレミヤをイスラエルの預言者として選んでいます。エレミヤはその選びを断っています。自分は未熟で、その働きには不十分だというのです。このように、神様はできる人ではなく、できない人を選んだのです。一見、不適切、不十分と思われる人を、ご自分の働きのために選んだのです。

そしてエレミヤはその後、神に守られ何不自由なく暮らしたのではありません。人一倍苦労の多い道を歩みました。彼は聖書の中で繰り返し、つらくて涙を流すので涙の預言者と呼ばれます。8節「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」は、万事うまくいくという意味ではありません。つらくて涙を流す時も、そのような時こそ神が共にいるという意味です。

私も様々な働きを通される時があります。しぶしぶ受けた働きで苦労するときがあります。そんな時、このエレミヤの姿に励まされます。それはたとえどんなに神様の導きを感じたことだとしても、その働きがうまくいくわけではないということを教えてくれるからです。あのエレミヤでさえうまくいかなかったのです。私にもきっとうまくゆかないのです。あのエレミヤでさえ泣きながら働いたのです。やりたくない、できないと何度も不満を言いながら、働いたのです。しぶしぶ受けても、できなくても当然です。うまくいかなくても当然です。泣いてもいいのです。不満を言いながらでもいいのです。そのただなかにこそ神様は共にいてくれるのです。

私たちは自分の精一杯を献げたいのです。私たちの先にはきっと喜びと、そして涙があるでしょう。それを共に受けてゆきましょう。私たちは一緒に喜び、一緒に涙する仲間となってゆきましょう。わたしは必ずあなたたちと共にいるという神の下で、共に精一杯をささげてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「教会には夢がある」出エジプト記14章15~22節

 

イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。                    出エジプト記14章22節

 

こひつじ食堂が教会に様々な変化と必要を起こしています。教会は礼拝する場所という枠組みに留まりません。教会の変化を見ていると、キング牧師が「私には夢がある」と言ったように「教会には夢がある」と感じます。いつの日か地域の様々な人が集い、こども同士が仲良く食事をして、お年寄りがそれを見て笑うという夢です。これをもっと広げてゆきたいのです。一方、そのために必要な設備は変わってきています。さらに以前から修繕すべきところも多く残っています。

「私たちには夢がある」と感じていても会堂建築のことが後ろから迫って来るようにも感じています。ただわかっているのは、私たちは待っていてはいけないということです。何かを選択し、歩みださなければいけないということです。

今日の箇所を読みましょう。旧約の時代イスラエルの人々はエジプトで奴隷として、厳しい毎日を送っていました。人々はそのエジプトから逃れて、神様の約束の土地へと出発したのです。でも希望への道は困難な道でした。イスラエルの民は二つの困難にまさに板挟みになっています。そしてそこに、神様からの風が吹きました。神様によって新しい道が開かれたのです。その道は閉ざされるかもしれない恐ろしい道だったでしょう。でも彼らは勇気と信仰をもってその道を歩みだしたのです。

私たち一人一人にもこのような出来事は起るでしょう。私たちも2つの問題で板挟みとなる時があります。しかし今日の聖書箇所によれば、そのとき神様は新しい道を開いてくださるお方です。教会も歩み出す一人一人と同じです。建物はどうなるかまだ道がはっきりあるとは言えません。私たちは海と軍との間にいる民と言えるでしょう。そんな私たちに神様は必ず道を造ってくださいます。そしてもし私たちがその道を見つけたならば、待っていてはいけないのです。勇気と信仰をもって、一歩を踏み出さなくてはいけないのです。

渡った後の人々の姿にも目を向けましょう。残念ながらモーセ自身は約束の地に入ることはかなわず、こどもたちが見たのです。出エジプトは自分たちのためではなく、子どもたちのための出エジプトだったのです。私たちはこどもを大切にする教会です。大切にするこどもたちが乳と蜜が流れる場所を見るために、私たちは出エジプトするのです。今出発すれば、こどもたちがそれを見れるかもしれない。私たちにはそのような希望もあるのです。

そして今日は成人祝福祈祷の時も持ちます。新しい希望へと出発する時です。その先には困難があるでしょう。板挟みになることがあるでしょう。でも必ず神様は新しい道を下さるはずです。勇気と信仰を持ってその道を歩みましょう。私たちも若い人、こどもたちが希望をもって歩むことができるように、一歩を踏みだしたいと願っています。お祈りします。

 

「ジェラる神」ゼカリア書8章1節~8節

 

万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。

ゼカリア8章2節

 

若者ことばで、嫉妬する、ジェラシーを感じるということを、ジェラると言うそうです。ジェラシーというは、かわいげのある感情でしょう。好きな相手がいるからこそ抱く感情だからです。やきもちを焼かれる側はどうでしょうか。扱いづらくも、ちょっと照れくさく、嬉しいものでもあります。もし嫉妬されてしまった時は、自分の気持ちがしっかりその相手に向いていると伝えることが大事です。ジェラシーは自分の優先順位が低くされていると感じた時に起こる感情だからです。今日お話しするのは、神様は激しくジェラるお方だということです。

2節には「激しい熱情」とあります。熱情とは嫉妬すること、ジェラシーを感じること、ジェラることです。しかしよく考えると、このジェラシーは私たちに神様のことをよく理解させてくださるかもしれません。神様は激しい嫉妬、激しいジェラシーの感情をもっているお方です。

神様が嫉妬するのは、他の神や物・人を見ている人に向けてです。私が一番ではないとダメと嫉妬をしているのです。神様は私たちに、神様を大切にしていること、神様への愛をしっかりと示してほしい、一番だと示して欲しいと願っているのです。それが神様の激しい熱情です。私たちはその激しい熱情を怖いと思うのではなく、なんだか照れくさいけれど嬉しい、そう感じてみてはどうでしょうか。神様は私たちを愛していて、もっと私だけを見て欲しいと、激しくジェラっているのです。

私たちはすぐに優先順位を変えてしまいがちです。お金、将来、人間関係、介護、病気、たくさんの心配があり、私たちの生活はそれが中心になってしまうことがあります。それに神様はジェラっています。

3節には「私がエルサレムの真ん中に住まう」とあります。エルサレムとは私たちのことです。神様は私たちに心のすみっこではなく、真ん中に神様を迎えるようにと言っているのです4節からは「エルサレムの広場」という言葉があります。教会に子供たちの笑い声が広がる様子と重なります。。神様は嫉妬から、争いと戦いを起こすお方ではありません。平和を実現しようとされる方なのです。

さて、新年を迎えています。神様は私を中心とせよ、そう激しい熱情を持って繰り返し語っています。それができない私たちにジェラっています。私たちの1年はきっとまた神様の言葉が繰り返し注がれる1年となるでしょう。そして私たちはそのような神様を中心とする、一番にする、そんな1年にしてゆきたいと願います。

この私たちを激しい熱情で愛してくださる神様を、そしてこどもと高齢者が笑い合う平和を実現させてくださる神様を今年もまた中心にしてゆきましょう。そんな教会にしてゆきましょう。私たち一人一人の心の中心に神様を迎える、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「来年こそ、別の道」マタイ2章1節~12節

 

「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。            マタイによる福音書2章12節

 

もうすぐ新年ですが、キリスト教はおみくじのような、占いを信じません。占いで人生を決めるのではなく、聖書の物語から神様の招きを探し、歩もうとします。どうすればいいかわからないことも多いです。占いのようにきっぱり答えを聞かせてくれた方が楽でしょう。しかし私たちは聖書に聞き、葛藤しながら歩むのです。

まずは1年間神様に招かれて、繰り返し礼拝し、派遣されたことに感謝です。そして来年こそ、礼拝をしましょう!来年こそは、今年とは違う心で、また新たにされて、礼拝を献げましょう。今日は、神様は今いる道とは別の道に招いてくださるお方だということ。来年も私たちは神様に招かれて礼拝をする、別の道を歩む、きっとそれが私たちに起こるということ、そのことを一緒に聖書から読んでゆきましょう。

今日の聖書箇所には「占星術の学者」とあります。イスラエルから見れば異教の占い師はペテン師、魔術師同然の存在でした。ですから今日はあえて「占い師ども」と呼びましょう。しかし神様の招きというは不思議なものです。マタイによれば最初にキリストの誕生を知ったのはこの占い師どもでした。私たちが神様からもっとも遠いと思っている人に、神様の選びと導きがあるということが示されています。

占い師どもは9節にあるように、先立つ星によって、先立つ神様によって招かれています。そして10節その招きに喜びあふれたのです。11節星の下に幼子イエスを見つけるとひれ伏して拝んだとあります。ここで言う「ひれ伏した」とはつまり礼拝をしたということです。彼らは星に導かれ、主イエスを礼拝したのです。

占い師どもの宝にどんな意味があったかは重要な点ではありません。とにかく占い師が主イエスに出会うと、彼らは礼拝をしたのです。これは神様の豊かな選びと招き、人々の礼拝と応答が描かれている物語なのです。

このあと占い師どもは12節、「別の道」を帰ったとあります。それは直接的にはヘロデ王に寄らない道を示します。しかしそれだけではなく、彼らの人生に起こった新しい道、それが「別の道」です。主の道を歩み始めたと言うことです。

この物語は私たちが礼拝に集うということと似ています。神様に招かれて礼拝に集い、喜んで礼拝し、そこで献げ物をするということ、そしてまたそれぞれのもといた場所に派遣されるということ、この毎週の私たちのサイクルと似ています。そして派遣される時、私たちは別の道、人間の道ではなく、主の道を歩む、そのようにして派遣されるのです。別の道に派遣されるのです。

私はこの占い師どもに自分を重ねます。私たちにまた新しい1年、1週間が始まろうとしています。私たちにも占い師どものように、神様はきっとまた別の道、主の道を準備してくださっているでしょう。私たちは共にまたその道を歩みましょう。人の道ではない、別の道、主の道を共に歩みましょう。お祈りいたします。

 

「神はひとりにしない」ルカ1章39節~56節

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

ルカによる福音書1章39節

 

今日はこの後、昼食会と小さな祝会を楽しみにしています。11月のバザーでは「OHANA」という団体が手芸品を販売しました。この団体は、平塚市内でDVや性暴力による被害を受けた女性を支援している団体です。先日、代表の方から「妊娠SOSかながわ」という予期しない妊娠について、電話相談ができる行政窓口を教えてもらいました。誰にも相談できない時、このような窓口があることは大切なことだと思います。ただ受付時間等に課題があるようです。話を聞くと言うことついて私たち一人一人が、それぞれの置かれた場所で、できることがあるのではないかと考えさせられました。しんどい思いをしている人に声をかけ、話をじっと聞く、仲間になることなら私にもできるのではないかと思いました。

クリスマスこそ、神様は一人にしておかないお方です。神様は私たちに共に戸惑い、喜びを分かち合うことのできる仲間を与えて下さるお方です。そして神様ご自身が共にいて下さるお方です。今日このことを聖書から読んでゆきたいのです。

聖書によればマリアも予期しない妊娠をしていました。混乱し戸惑ったのです。相談した人は離れて住む「親類」のエリザベトでした。その相談相手は行政が用意したのではなく、神様が似た境遇の相談相手として準備してくださっていたのです。

妊娠中の彼女は大急ぎで、山里に向かいました。SOSを出したのです。不安な気持ちを聞いてほしい、そう急いでエリザベトに会いに行ったのでしょう。一方のエリザベトも戸惑っていました。そんな同じ境遇の二人が出会うことになりました。マリアは今まで戸惑っていたことを、大声で喜んでくれる仲間を見つけました。エリザベトにとってもマリアは大きな励ましとなったでしょう。二人は分かち合い、励まし合うことができたのです。この仲間は確かに神様が与えて下さった仲間です。

神様はこのように私たちを一人にしないお方です。神様は戸惑う私たちを出会わせ、互いに励まし合い、分かち合うことのできる、喜び合える仲間を用意してくださるお方なのです。私たちには「あなたは神様に祝福されているよ」「なんと幸いだろうね」と言い合える仲間が与えられるのです。

私たちは今日、このようにクリスマス礼拝を迎えています。イエス様の誕生を祝う時をいただいています。神様は助け手、相談相手、同じ境遇の人と出会わせてくださるお方です。そしてそれはこの教会の交わりや、私たちのそれぞれの場所でも起こるはずです。戸惑いの中でも「祝福」と「幸い」を見つけ、共に喜び合うことができる仲間が与えられるはずです。

神様は決して私たちを一人にしないお方です。どんな時も、共に戸惑い、共に喜びを分かち合う仲間を与えて下さるお方です。そして何より神様が共にいてくれるお方です。今日その喜びを共に分かち合いましょう。

 

「低きに生まれる神」マルコによる福音書1章1~13節

神の子イエス・キリストの福音の初め。マルコによる福音書1章1節

 

「総合公園の柵、小さい子は見えない。上から見せろと言われる。確かにしゃがんでみると全然見えない。見えないという声、立ったままでは分からない。」入院中のKさんが書いた詩です。同じものでも他の人には見え方がまったく違うものです。見えないという人の声を聞き、しゃがんで見るのは大事なことです。

福音書も4つそれぞれ視点が違います。マルコ福音書にはベツレヘムも、博士も、羊飼いも、系図も出てこないのです。イエス様誕生の経緯にあまり興味がなかったとも言えるでしょう。それぞれの視点で記載が異なることは、豊かな事です。

そして私はどの福音書にも一貫している共通点があると思います。それは救い主イエス・キリストが弱い、小さい、中心から外れた場所に生まれたということです。人々の期待する場所とは違う場所に、生まれたということです。マルコはそれを、イエス様が「ガリラヤのナザレから来た」という言葉で表しています。

洗礼者ヨハネはバプテスマを受けて、救い主を待つようにと促しています。そのバプテスマは悔い改めのバプテスマと呼ばれています。よくキリスト教では「悔い改める」と言いますが、悪いことを反省し、もう二度としませんと考えるのが、悔い改めではありません。悔い改めとは見る視点を変えることです。しゃがんで見ることです。自分と異なる視点に立つことが悔い改めなのです

イエス様も悔い改めのバプテスマの列に加わったとあります。イエス様も視点を変えようとしたのです。私たちと同じ目線、低い目線になろうとされたのです。イエス様は雲の上から人間を見て、教えたのではありませんでした。水の流れる、もっとも低い場所に、自分の居場所を、自分の視点を変えたのです。そしてイエス様がバプテスマを受けると、10節天が裂けて「愛する子、心にかなう者」と聞こえたとあります。高い場所から、低い場所に身を移した者、視点を移した者こそ「神の愛する子、心にかなう者」なのです。イエス様はまさに、そのようなお方です。

1節を見ましょう。そこには「福音の初め」とあります。マルコの言う、福音のはじまりとはこのことでした。イエス様が無名小さな村から来た事、悔い改めに向けた、つまり視線を低くするバプテスマを受けたこと、私たちと共にその列に一緒に並んでくださったこと、それがイエス様の福音、私たちの「福音の初め」なのです。

神様は、私たちの思う身分の高い、近寄ることのできない場所に生まれるのではありませんでした。私たちと共に、地上に生まれ、バプテスマを受け、試練のあったお方でした。それは高い場所にではなく、低い場所に生まれた神と言えるでしょう。

来週はクリスマス礼拝を迎えます。私たちも悔い改めましょう。物事をしゃがんで見てみましょう。そのようにして、低きに生まれる神、主イエス・キリストが来るのを共に待ちましょう。お祈りします。

 

「差別を超える神」マルコによる福音書7章1~13節

 

こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。

また、これと同じようなことをたくさん行っている。マルコ7章13節

 

私たちはバプテストというグループの教会です。全身で水に浸かる(全浸礼)という洗礼の形式に強いこだわりを持っています。しかしどの宗教を信仰し、確信があったとしても、自分の信じる宗教的行為の有無によって、人を清いとか、汚れていると言うのは大きな間違いです。実は宗教はその熱心さゆえに、そのような差別を起こしやすく、キリスト教こそ多くの差別を生み出してきました。

聖書によれば、神様はみんなの命を尊いものとして創られたはずです。だからすべての命は等しく、尊いのです。宗教や、出身、国籍、肌の色、性、障がいに関わらず、すべて神様が造った命です。だから私たちは命に優劣をつけない、差別しないのです。今日はこの個所から、神様は差別をしないお方であること。命に優劣をつけないお方であることを見てゆきたいと思います。

ユダヤ教の人々は宗教的な理由で手をよく洗います。汚れに触れたかもしれないので、身の清めが必要なのです。これ自体を形式主義だと批判するつもりはありません。私たちのバプテスマもかなり不思議な習慣ですから、互いに尊重したいと思います。しかし私たちが注意したいのは背景にある差別の問題です。

このような手を洗うという「言い伝え」はイスラエル中心地エルサレムのエリート学者が編み出した規定です。そしてエリート学者は1節にあるとおり、各地を巡回し「指導」してまわったのです。これをしないと汚れた者だと指導したのです。

この宗教的熱心は差別に近いものです。汚れをはらうということが、神様に向き合う自らの姿勢という意味を超えて、他者を「汚れた者」とする差別へと発展するのです。このような差別はキリスト教の歴史の中ではユダヤ人虐殺に発展しました。

イエス様は今日の箇所で、どちらが優秀か、どちらが清いかという視点を変えるように促し、差別に反対したお方でした。汚れや差別ではなく、10節父や母、他者への慈しみに目を向けるようにと語っているのです。

私が今日箇所から思い起こしたクリスマスは、イエス様の誕生は聖なる場所で起きたことではないということです。イエス様が生まれたのは聖なる場所ではなく、汚れていると言われる場所、人間が住む場所ではない家畜小屋、差別のただなかだったのです。そしてイエス様はいつも汚れていると差別された人の真ん中におられました。イエス様の最後は十字架刑というもっとも汚れた死に方だったのです。それは私たちのクリスマスのイメージとは逆かもしれません。

でも神は人々から避けられ、劣っていると言われ、触りたくないと差別されるそこに生まれたのです。それがクリスマスの出来事です。本当にイエス様がおられるのは、きっとみなから汚れていると差別される、そこではないでしょうか。そして私の中の差別をする気持ち、そこに神様は来られるのではないでしょうか。このように神様は差別の中に生まれ、差別を超えてゆくお方です。お祈りします。

 

「クリスマスと終末の希望」マルコによる福音書13章24~37節

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。マルコによる福音書13章33節

 

今日からアドベントです。私たちのクリスマスは毎年規則正しく12月25日に来ます。しかしイエス様の誕生以前は、いつ起こるかわからず、何百年も待ち、ある日突然、それは起きたのです。これは私たちのクリスマスとは大きく違います。

私たちにとってのクリスマスは、「やがて」必ず来るものです。そして私たちにとっては2000年前に「すでに」来たものです。私たちはこの二つ「すでに」と「やがて」を祝っています。イエス様は「すでに」私たちと共にいる、そしてまた「やがて」私たちに生まれて下さる、それが私たちのクリスマスです。

そして終末も同じように、「すでに」あるものであり「やがて」来るものです。私たちはクリスマスを待ち望むことを始めました。それと同じように私たちは終末も待ち望みます。今日はそのことを覚えてゆきたいと思います。

終末思想とは、イエス様が再び地上に現れる時に、世界が終わりを迎えるという考えです。中世では終末の時、クリスチャンは天国へ、ノンクリスチャンは地獄へ振り分けられ、地獄に落ちると永遠に罰を受け続けると考えられました。しかし私たちは信仰告白11にあるように終末を恐怖の瞬間ではなく、希望の時と考えます。

イエス様が来るという出来事の1回目はクリスマスであり、それは希望でした。そして2回目が終末の時です。そして2回目も希望の時となるはずです。

終末の時とはこの不完全な世界が、ゆがんだ世界が完全なものへと完成する時です。私たちはそこに、希望を持つのです。どんなにこの世界が不完全で、どんなに私の人生に苦痛があっても、いつか必ず終わりが来る、いつか必ず完成する時が来る、希望の時が来るのです。それが私たちの終末の希望です。

その日付を知りたいと願うでしょう。しかし日付は知らない方がよいのかもしれません。息の長い、日付の無い希望こそが私たちを励ますのです。今ではないけど「やがて」この世界が完成する、希望の時が来る、それが私たちの終末の希望です。

どこか終末を待つということは、クリスマスを待つことに似ているでしょう。32節から門番のたとえがあります。神様から責任と役割を託された僕は、そこで互いに平和に、愛し合う役割を与えられて誠実に、あきらめず、いつまでも待つようにと言われたのです。目を覚まし、しっかりとこの世界を見るのです。

そして終末とクリスマスは「すでに」来ているという点でも共通します。2000年前イエス様が来られたときから終末は始まっているのです。「すでに」クリスマスが始まっているように、終末も「すでに」始まりつつあるのです。イエス様が私たちと共におられるということにおいてです。

私たちには苦しい人生の中でも必ず「やがて」来る希望があります。そして今「すでに」ある希望がきっとあるでしょう。「すでに」来ている希望に感謝をしましょう。そして「やがて」来るその希望を共に待ちましょう。

 

「福音のためのバザー」マルコ10章18節~31節

「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  マルコ福音書10章34~35節

 

キリスト教は全財産を寄付することを求めません。ご自分の財産はご自分のために使ってください。しかし、その財産があなただけの力によって築いたものかも考えて下さい。きっとそれは誰かに支えられ、受け取ることができたものでしょう。だとしたら、それを自分のためだけではなく、誰かのために献げ、返したいと思うものではないでしょうか。それは最近話題になる、所得の再分配とも通じると思います。

今日はこのあとバザーの準備をします。地域から集まった、もともと私たちのものではなかった物がそこで売られます。もともと私たちのものではなかったので、この収益も私たちのものとはせず、世界や地域のために寄付されます。「返す」といった方が近いでしょうか。これは再分配の交わりです。教会は福音のためにバザーを行います。売り、分かち合い、従うという福音のために、このバザーをしています。今日はそのことを聖書から聞いてゆきましょう。

金持ちの男がいました。当時は身分や格差が固定されていた時代です。金持ちであり続けたのは大きな土地を持ち、そこで農民を不当に安く働かせ、大きな利益を得たからでしょう。その財産は本当は、貧しく暮らしている人に返さなければいけないものでした。1日の命を守るのがやっとという貧しい人々の中で、金持ちが求めたのは17節「永遠の命」でした。イエス様はその金持ちに命令します。21節「従う前にまず、すべての財産を売り払い、貧しい人々に与えるように 」と。イエス様は金持ちに、貧しい人々から巻き上げた財産を返すように命令をしました。再分配するようにと命令をしたのです。しかしこの金持ちにはそれができませんでした。自分が持っている財産は自分の物だと考え、再分配を拒否したのです。

この話は富を独占する者の話です。聖書は、自らの財産は自らの力によってのみで作られ、自分のためだけに使うものだという考えを批判しているのでしょう。その財産は本当は分かち合い、返さなくてはいけないものだと語っているのです。

そしてイエス様はそれをできない人間の弱さ、罪もよくご存じです。25節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とは財産を自分のものだとしか考えられず、分かち合えない難しさを表しています。イエス様は財産を手放すことの難しさ、分かち合うことの難しさ、富を独占する人の罪、搾取を生む世界の罪を鋭く語っておられます。いかにそれが人間にとって難しい問題であるかを示しているのでしょう。

必要としている人と分かち合う、返す、それは難しいことです。27節「人間にできることではない」のでしょう。しかし同時に27節「神にはできる。神はなんでもできる」お方です。その福音を聞いた私たちは、きっと何かを分かち合うことができるはずです。イエス様の命令は、21節に3つあります。売り払いなさい、与えなさい、従いなさいです。私たちはともに売り、与え、イエス様に従ってゆきましょう。

 

「こどもを大切にする教会」マルコ10章13節~16節

 

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10章14~15節

 

私たちはこどもを大切にする教会です。しかし教会にとってメリットが多いから、こどもを大切にするのではありません。こどもを大切にするとは、一人前ではない、半人前の人、誰かの世話が必要な人を大切にするということです。人の役に立つことができない存在を、誰かに頼らないと生きてゆけない人を、教会は大切にするということです。それがこどもを大切にする教会です。

教会は誰かの助けが必要な人を大切にします。教会は生活に困っている人、障がいをもっている人、誰かに頼りたい人、一人では生きていけない人を大切にします。私たち一人一人は誰かに頼り、甘え、助けを必要とする、こどものような一人です。私たちは全員こどもです。助けを必要とし、それを受け入れる存在です。

今日の箇所は、私たちにこどもの様に、神の国を受けとめるようにと語っています。自分が誰かの助けを必要な者である、神なしでは立つことができない、そのような者に神の国が来ると語っています。今日の箇所を読みましょう。

聖書の時代、こどもは厳しい環境で生きなければなりませんでした。親や周りの大人はそのようなこどもたちに、イエス様に少しでも触れてほしい、そう願って、連れて来てたのでしょう。大人たちの温かいまなざしが伝わってきます。しかし13節の後半を見ると、弟子たちは怒っています。弟子たちの態度はま大人の気持ちを踏みにじるものでした。そしてこども自身も拒絶され、傷ついたでしょう。弟子たちはなぜ怒ったのでしょうか。自分がそばにいるイエス様は簡単に近づけない人なのだ、特別な人しか近寄れないのだと言っているように私には聞こえます。そしてそんな場面にイエス様が登場します。彼らを受け止め、抱きしめてくださるのです。

今日の箇所によれば、こどものようではなくては、神の国には入ることができません。神の国は何かができる人、他の人より優秀で、生産性が高い人、特別な人が入るのではないのです。こどものように、誰かを頼り、弱く、社会で小さくされた人こそが、神の国に入る、聖書はそう語っているのです。イエス様は頑張った順に救われていくという、私たちの常識を全く逆転させて語っています。私たちも何もできない、一人では生きていけない、こどものように生きるようにと勧められています。

こどもが親や大人に頼るように、私たちも神様や他者に頼って生きるのです。そのような歩みの上に、神の国が訪れるのです。私たちは神様に頼り、仲間に頼ります。それは私たちが、一人で生きなくていいということを示すでしょう。

私たちはこどもを大切にする教会です。誰かに頼る人を大切にする教会です。私たちは誰かに頼るこどものような人が集まる教会です。でもそこに神の国が始まるのです。私たちは神と互いを、なくてはならない存在として大切にする教会です。

 

「みんな神のもとで生きている」マタイによる福音書4章1節~11節

 

 

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。                  マルコ12章27節

 

今日は召天者記念礼拝です。キリスト教では死後に故人と再会できると信じています。しかしある人は死後の再会が怖いと言います。自分が今まで傷つけた人々と会わないといけないからです。もし私たちの地上の関係がそのまま、死後の再会で続くなら、私たちは死んでもなお人間関係に悩むことになるでしょう。私たちは地上の関係ではなく、新しい関係で出会いなおすことができると信じています。

キリスト教には復活という信仰があり、クリスチャンはこの復活を信じています。そして聖書はさらに不思議です。この復活がすでに起きていると書かれる箇所があるのです。私たちがすでに死んでしまっていると思っている人が、すでに復活し、生きていると語る箇所があります。それは神のもとで再び生きているということです。そうだとするならば、亡くなった方たちも、復活し、神のもとで生きていることになるのです。私たちは「みんな生きている」と言えるでしょう。それはキリスト教の死生観のひとつです。

今日の箇所をみてゆきましょう。サドカイ派は現世主義を行く人たちで、復活を信じません。もしあるなら混乱すると考えたのです。イエス様はそれに対し、復活は地上の関係の再開ではない、神に仕える天使のように新しい関係になるとはっきりと言っています。そしてイエス様は旧約聖書のある箇所を示します。

イエス様は27節「神は死んだ者の神ではない」と言います。イエス様がここで言おうとしていることはなんとすでに死んでしまったはずのアブラハムも、イサクも、ヤコブも「生きている」というのです。死んでしまったと思う人も、すでに復活し、神様のもとで生きているということ、天使のようになっているというのです。

イエス様の言っていることはこうです。「アブラハムは地上での命を終え、死んでしまったが、すでに復活し、神様のもとに生きている。このように神様は死んだ者の神ではない。生きている者の神だ。あなたたちは思い違いをしている」。

命は死んでしまってもこのように続くのです。復活し、神様のもとで「生きる」ようになるのです。神様の愛は、生きている私たちにだけ、注がれるのではありません。神様は死んでしまった人たちも復活させ、生かし、愛を注いでくださるお方なのです。神様は死んだ者の神様ではありません。神様は生きる者の神様です。死んでしまった人に、神様のもとで再び命を与えるお方です。このようにして神様は地上の生涯を終えても、私たちの神となり共にいてくれるお方です。

私たちの希望とは何でしょうか。それは生きている間、神様が私たちの神様であり続け、共にいて下さる事です。そして私の大切な人が、そして私自身が、死んでもなお、神様が復活により命を与え、生かし、神様であり続け、共にいて下さることです。このように神様は「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。

 

「神は谷中にあり」 マタイによる福音書4章1~11節

イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』            マタイによる福音書4章4節

 

今月は公害問題と教会について考えています。私は教会が公害問題に関わるのは、教会の基本的な働きのひとつだと思います。足尾銅山は明治時代、富国強兵のためには絶対に必要な鉱山でした。しかしそこからの汚染物質によって、農作物が育たなくなり、農民は激しい困窮に見舞われます。政府は有害物質を貯める広大な池を作りました。それが現在の渡良瀬遊水地です。もちろん沈められてしまう谷中村の人々は反対をしました。自分たちが受け継ぎ、耕し、暮らした土地だったからです。

田中正造は反対運動で逮捕された時、獄中で聖書に出会います。出所した後、遊水地となることが決まった谷中村で暮らすことにします。田中は反対を続ける村人の姿に心を打たれました。そして田中はこの村人たちの声をもっと聴いてゆこうと感じます。この出会いが田中正造の転換点でした。

彼は谷中村の人の話を聞き、弱者を通じて、強者が悔い改めるべきだと考えます。弱者こそが社会を悔い改めさせ、弱者こそ、社会を欲望から解放させると考えたのです。田中は谷中村の人々を見て「神は谷中にあり」と言ったそうです。この田中の生き方は、苦しむ人と共に生き、そこから聖書を読んでゆく生き方です。

今日の箇所を読みましょう。断食を終えたイエス様に悪魔は繰り返し誘惑をします。悪魔の誘惑として挙げられているものは所有欲、支配欲と言い換えることができるでしょう。悪魔とは私たちの心の中にあり、それが社会の中で塊になるのです。悪魔の誘惑に対して、イエス様は「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と応えています。この時もっともパンを求めていたのは、断食を終え、空腹を覚えたイエス様だったはずです。しかしイエス様はそれを受け取りませんでした。「それと同じくらい大切なことがある」と言ったのです。

実は今日の個所、特に4節は田中正造の遺品であった手記に繰り返し書いてあったみ言葉です。この個所を谷中村の人々をカギに読みたいのです。谷中村の人々は、どんなに貧しくされ、奪われ、抑えつけられ、金を積まれ、誘惑されても譲れない、訴え続けたことがありました。谷中村の人々は、パンをもらうこと、補償を求めていたのではありません。この足尾銅山の公害問題の解決を訴えたのです。

谷中村の人々にとっては、人はパンのみで生きるのではありませんでした。谷中村の人々が突き付けているのは、日本はこのまま強さ、豊かさのために人々が犠牲となってゆく、奪われてゆく社会でよいのかという問いです。人はパンのみで生きるのではない。被害者は補償金をもらえばよいのではない。人間には尊厳のある生き方をする、正義が貫かれることが必要なのです。

私たちも声を聞きたいと願います。公害や社会の犠牲にされてしまっている人の声を聞きたいのです。神様は必ずそこにいるからです。私たちは神様をそこで見つけるはずです。その苦しみの声を聞いてゆくことは教会の大切な働きです。

 

「私たちのバプテスマ」ローマ6章1~11節

 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 ローマ信徒への手紙6章4節

 

今日はバプテスマ式を行います。バプテスマの意味をすべて理解して受ける人はいないでしょう。皆よくわからないまま受けるのです。そして何十年信仰を重ねてもその意味を、すべてわかるということもないでしょう。私たち一人一人が、人生の中でそれはどんな意味があったのかを問いかけ続けることになります。わからないにも関わらず信仰を告白することができるのは、聖霊の導きです。

バプテスマは人間を完全な者にする、人間を完成させるものではありません。バプテスマを受けてもなお私たち人間は未完成です。私がバプテスマを受ける時、これで自分も少しはましな人間になるかと思いました。しかし水から上がっても、すぐに罪を犯しました。水に入る以前と同じように、人を傷つけ、イエス様に従うことができず、悩み、苦しみました。

しかしそれでもなお、バプテスマは確かに人生の新しいスタート、命の新しいスタートです。3節を見ましょう。私たちはイエス様に結ばれるためにバプテスマを受けたとあります。私たちのバプテスマはイエス様と結ばれるための出来事です。5節にあるようにキリストと一体になることです。つまりあなたはもう一人ではないということです。イエス様と共に生きる者となったのです。バプテスマを受けるとは、今日から私もそして私がイエス様の歩みを共に歩むという表明です。11節に、あなたはイエスに結ばれて、神に対して、神に向けて生きるようになるとあるのはそのようなことです。

よくバプテスマをお葬式と誕生日と結婚式がひとつになったものとたとえることがあります。以前の人生が死に、新しく生まれ、キリストに結び付けられるということを今日の箇所が語っているでしょう。

このバプテスマは、受ける人個人とイエス様の関係、一対一の結びつきの出来事であると同時に、私たち全員とイエス様の出来事でもあります。今日のこのバプテスマは私たちの教会の出来事です。私たちに共に従う仲間、共に生きる仲間が与えられたという大切な私たちの出来事、私たちのバプテスマなのです。

私たちにもバプテスマを受けたあの日から様々なことがそれぞれにあったでしょう。私たちもあの日からスタートを切ったのです。今日新しい命が、主イエスと共に歩む決心をし、バプテスマを受け、キリストと結び付けられます。イエス様とバプテスマを受ける命の2つの命が結び付けられる時です。そして私たちの命、今日加わる命もイエス様に結びけられ、互いに結び付けられるのです。その時を今日喜びましょう。そして私たちに、私たちの中に、新しい決心が起こることを祈りましょう。

 

「公害問題と教会」マタイによる福音書18章10~14節

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。マタイ18:10

 

公害問題と教会にどのような関係があるでしょうか?私は公害問題に関わることは教会の基本的な働きだと感じています。水俣病は1950年代から熊本県水俣市を中心に起きた公害問題です。工場排水に有機水銀が含まれ、それは魚、猫、人間の脳神経を壊し様々な症状を引き起こしました。そして水俣には激しい分断と差別が起きます。水俣の多くの人々が差別に苦しみ、声を上げることができませんでした。

原因企業であるチッソ株式会社は当時、日本を代表する化学メーカー、エリート企業でした。チッソは自分たちが原因と知りながらそれを隠蔽し、損失を最小限にしようとしました。被害を訴える声は大企業にかき消されてしまったのです。

教会とこの水俣病にどんな関係があるでしょうか?公害問題は犠牲がでても、安く便利なものを手に入れたいという人々の欲望が集まって生まれます。公害が差別をうむのではなく、もともと命の差別、軽視があるところに、公害が生まれるのです。誰かが犠牲になってよいという発想自体が公害を生むのです。

聖書どうでしょうか。聖書は1つの命が大事だ、小さな命が大事だと語っています。それが今日の99匹と1匹の羊の話です。羊飼いはたとえ1匹でもひたすら探します。羊飼いにとって1匹は100分の1ではありません。1匹のために時間と労力を使い、危険を冒して探しだすのです。

羊飼いは探しに出てゆくと、羊がいないかよく目を凝らします。声をかけ、耳を立てて声を聞こうとします。1匹だからと言って、見下されたりしない、軽んじられないのです。これは10節にあるとおり「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という話です。軽んじるとは見下すという意味です。1匹の命を、99匹の命より下だと見下さないようにと語っています。

私たちはこの1匹の羊ですが、もう一つこの話が指し示すことがあるでしょう。それは私たちも羊飼いのようになるように促されているということです。私たちも1匹の命を探し、声を聞き、見つける者になるのだということです。

水俣の人々の命は、公害が始まる前から見下されていました。人々は声をあげることができませんでした。声を上げても無視され続けました。それはまるで探されなかった羊のようです。見つけられない、声をだせない、声を聞かれない羊のようでした。それは99匹のために、犠牲になろうとしている1匹のようです。

私は今日の物語から、そのような1人を探し出しなさいと聞こえます。私たち自身が苦しむ1匹を探し、目を止め、声を聞き、共に安心して暮らす場所を見つけるようにと促されているのです。

私たちは探されるだけではなく、探したいのです。忘れられてしまうような一人の命を見つけ、見つめ、声を聞きたいのです。その命を守り、小さな声に耳を傾けてゆきたいのです。その1匹を探し、声を聞くこと、それは本当に教会の大切な使命ではなでしょうか。

 

「罪人が招かれた晩餐」マルコによる福音書2章13節~17節

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

マルコによる福音書1章17節

 

今日まで5回、主の晩餐をテーマとして宣教をしてきました。今日箇所、徴税人は関所で通行税を取り王様に納める、中間搾取の仕事でした。このような職業はユダヤの人々から大変憎まれ、軽蔑をうける存在でした。

15節には徴税人と並んで「罪人」という言葉も出てきます。徴税人と罪人は同じ扱いです。罪人とは犯罪を犯した人というだけでなく、もっと広い意味がありました。たとえば羊飼いや外国人も罪人でした。律法に従いたくても従えない人がたくさん含まれていました。

当時の社会では、「罪人」との関わり、特に共に食事することは厳しく禁じられました。16節の「どうして一緒に食事をするのか」という問いはそこから生まれています。しかしイエス様は徴税人や罪人と平気で食事をしています。しかもイエス様の方からレビに「私に従いなさい」と声をかけています。これがイエス様の態度です。イエス様の側から罪人と呼ばれる人をご自分の下へと招くのです

かわいそうだから、例外として罪人も仲間に入れてあげたのではありません。イエス様はまず徴税人に言葉をかけ、招き、食卓を共にしたのです。その食事には罪人が招かれました。他の人は絶対に一緒に食事をしない人が、イエス様により一方的に招かれたのです。

私は食事の場面も想像します。徴税人や罪人は招待客としてイエス様に招かれました。隅に追いやられるのではなく、真ん中に座るように勧められ、もてなされました。イエス様の招き、イエス様との食事とはそのような逆転の食事です。

17節にはイエス様の来た目的が書かれています。それは「罪人を招くため」です。マルコによればイエス様は「罪人を悔い改めさせるため」に来たのではありません。ただ「罪人を招く」ために来たのです。イエス様は罪人といわれる人を招き、正しいといわれる人々を招かなかったのです。

この食事は私たちの主の晩餐とどのような関係にあるでしょうか。イエス様は正しい者ではなく、罪人こそ食事に招いたお方です。今日の箇所に照らすならば、非常に残念ですが、自分を正しいと思う人は晩餐に招かれていません。そして他者を罪人と指さしイエス様から遠ざけようとする人も非常に残念ですが、食事に招かれていません。

そしてクリスチャンが「正しい人」だから食べてよいということではないでしょう。むしろ今日の箇所によれば、クリスチャンこそ自分が罪人だとよく知っているからこそ招かれていると言えるのではないでしょうか。クリスチャンこそ、あまりにその招きを受けるのにふさわしくない者として招かれているのではないでしょうか。今日この豊かな食事をともにいただきましょう。

 

「群衆との奇跡の晩餐」マタイによる福音書24章29節~39節

群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

マタイによる福音書15章32節

 

9月は「主の晩餐」をテーマにしています。今回が4回目です。14章の食事と今日の15章の食事の違いは29節~31節の、この奇跡の食事がどんな人と持たれたのかということの強調点にあります。そこには様々な障がいをもった人々がいたことが細かく記録されています。足、目、体、口、その他、いろいろな不自由や病を持った人がここにいたのです。当時はよく(今もそうですが)病気と罪が結び付けられました。この人々の中には、おそらく病や不自由を持つことで、それだけではなく社会の中からのけ者にされた人もいたでしょう。立場が弱く、小さくされた人々こそ、この4000人の中にはたくさんいたのです。

そしてそこに癒し奇跡が起きたのです。癒しの奇跡とはどのような出来事でしょうか。私にはわかりません。本当に手足が自由に動くようになったということだったかもしれませんし、それとは違うことだったかもしれません。でもそこでは少なくともイエス・キリストによって差別のない言葉がかけられたはずです。そして人々はその言葉から生きる力をいただいたのです。差別に悩まされていた人々が、新しい希望を持つことができるようになったのです。

今日の食事はそのような障がいを持った人々、のけ者にされた人々がたくさんイエス様の下に集められ、そして癒されたという場面設定の後に始まります。イエス様は障がいをもった人々と一緒に食事をしたのです。

イエス様は彼らを見て32節「かわいそうだ」と言っています。元の言葉は「スプラグニゾマイ」という、内臓に由来する言葉です。相手の体の苦しみが、自分の体の苦しみに感じるということが、スプラグニゾマイです。イエス様は人々の痛みや空腹を自分の痛みや体のことのように感じたのです。そして足りないはずのパンで満腹するという奇跡が起きたのです。

36節の言い回しが出てきたら主の晩餐を連想してください。「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちにわたした」がまた今週も登場しました。ここでも主の晩餐が行われたのです。この病を癒された人々との奇跡の食事は主の晩餐だったのです。ここでの主の晩餐は、痛みを持った人々と共感しながらの食事だったということです。その痛みへの共感の食事こそ主の晩餐だったのです。

私たちはこの主の晩餐にあずかることによって、イエス様に癒され、満たされ、イエス様のように生き、行動するようになるのです。それが主の晩餐の意味です。私たちの主の晩餐には、込められた意味がたくさんあります。十字架の体と血、共同体を吟味すること、復活を覚えること、そして今日のイエス様の奇跡と癒し、共感ということが含まれています。

来週いよいよ私たちは主の晩餐をいただきます。いままでと違った思いで、その主の晩餐をいただきたいのです。

 

「最後じゃない晩餐」ルカによる福音書24章28節~36節

 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。             ルカによる福音書24章30~31節

 

主の晩餐式について一緒に考えています。1回目は主の晩餐とは十字架を覚えて持つと言うこと、前回は主の晩餐は誰かを置き去りにしていなかを吟味するものだということを見ました。今日は3回目です。最後の晩餐という言葉がありますが、今日の箇所によれば実はあれは最後ではありません。復活後も主の晩餐は繰り返し続くのです。今日はその、エマオの途上という物語の後半部分です。

二人は失意のうちに、そして不思議な出来事への疑問のうちに家へと向かっていました。そこには、一人寄り添って歩く人が与えられました。そしてこの人との食事が始まったというのが今日の場面です。30節には「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。これはイエス様の過越の食事、いわゆる最後の晩餐の際とまったく同じ言い回しです。明らかにこの食事では主の晩餐が行われました。ここでの主の晩餐にはどんな特徴や意味があるでしょうか。主の晩餐は様々な場面で行われますが強調点がそれぞれ違うのです。

今日の主の晩餐の場面では「イエス様は死んでもなお、私たちと共にいる」ということが強調されています。イエス様は十字架にかかられ、その後、復活をされました。そのイエス様は気づかれないほどにそっと寄り添い、聖書を解き明かして下さるお方でした。それに気づくのが主の晩餐の時なのです。そこで示されるのは、主イエスが私たちの気づかない場所で、私たちと共におられ、私たちは主の晩餐でそれに気づくということです。今日の物語がまさにそうです。このことを二人は主の晩餐によってはじめて実感することができました。

イエス様はいろいろなメッセージを主の晩餐に込めています。私たちそれを豊かに受け取ってゆきたいのです。私たちは毎月主の晩餐を持っています。そこでイエス様の十字架を覚えます。でも主の晩餐の意味はそれだけではないでしょう。イエス様が復活してもなお、私たちと伴い、私たちに教え、目を開かせ、信仰へと導いてくれる、そのことも主の晩餐で覚えましょう。

そして神様はそこから信仰の仲間を与えてくれるのです。互いに出会ったイエス様を証しあう仲間です。イエス様の主の晩餐とは失意や疑問を持った人々を結び付けるのです。そしてその分かち合いをしている時、36節「こういうことを話していると、再びイエス様が真ん中に現れた」とあります。イエス様は集められた人々の真ん中に、現れて下さるのです。

私たちはこの主の晩餐を大事に守ってゆきましょう。私たちは主の晩餐で主イエスの十字架を覚えます。私たちの共同体を吟味します。そして主イエスが復活し私たちと共にいるこのことを覚え、次の主の晩餐をいただきましょう。

 

『誰がいないか吟味する晩餐』Ⅰコリント11章17節~34節

 

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節

 

「主の晩餐」をテーマとして宣教しています。コリントの人々は毎週日曜日の夕方に、少しずつ食べ物を持ち寄って、家で夕食会をしていました。それは誰でも加わることができる、垣根のない、にぎやかな食事会でした。イエス様の民族や身分や性を問わない食事が再現されていたのです。そしてその中で、主イエスを覚えて私たちの主の晩餐のように、パンを裂いたり、祈ったり、証しをしたり、賛美をしたりしたのです。この運動がキリスト教を広めてゆきました。

しかしキリスト教が広まってゆくと、お金持ちたちは先に食事会を始めてしまうようになりました。後から参加する貧しい人たちは余り物を食べるしかありませんでした。それは貧しい人への侮辱であり、差別でした。このように垣根のない食事会はうまくいかなくなってきたのです。

パウロはそのような食事の様子を聞いて、コリントの人々に手紙を書いています。本来、イエス様がいろいろな人と食事をしたこと、愛とお互いへの配慮が確認される食事の場所だったはずが、互いの間に愛がないことを確認する食事、侮辱と差別に満ちた食事になってしまったのです。仲間割れ、分裂を起こす食事会になってしまったのです。パウロは20節それでは一緒に集まっても、もうこれは主の晩餐にはならないと言います。主の晩餐において、みんながちゃんとそろっているかどうか、よく確かめて、互いに待って、食べなさいということです。誰かいない人がいないか、誰かの分が足りなくないか、誰かを忘れていないか、それをよく確かめて食べなさいということです。自分の事ばかり考えて、自分だけが食べればいい、そんな集まりになっていないか、それを確かめなさい、吟味しなさいということです。28節の確かめなさいは、コリント教会の集まり、共同体に向けて言ったことです。

ここで吟味されるのは、私自身の資格や適性ではなく、共同体です。この集まりが誰かを置いていったり、差別したりしていないか、そのことを主の晩餐で吟味しなさいとのパウロは言っているのです。

この後、残念ながら食事と主の晩餐というのは別々に行われるようになりました。それぞれの家で食事をし、教会に集まり、主の晩餐だけを教会でするようになりました。それが今の私たちの教会で行う主の晩餐につながっています。

私たちが主の晩餐の時に確かめることは何でしょうか。それは自己吟味だけではありません。共同体が誰かを置き去りにしていないかということです。共同体を吟味するということです。私たちの中には、誰かを置き去りにしてしまっているということがあるでしょう。つながれない人がいる、集えない人がいる、食べることのできない人がいる、そのことをよく吟味して、食べたいのです。一緒にまた集い、一緒に食べれることを願って、主の晩餐をしたいのです。

 

『ふさわしくない人の晩餐』マタイによる福音書26章17節~30節

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である」

                     マタイによる福音書26章26節

 

 9月から「主の晩餐」をテーマとして宣教します。私たちはイエス様を「思い出す」ために主の晩餐式をしています。ではイエス様の何を思い出すのでしょうか?

最後の晩餐で特にイエス様は「これは私の体である」と言います。これは主の晩餐でも象徴的な言葉です。このパンはイエス様の体なのです。イエス様はそれをわざわざ裂いて、これは私の体と言っています。この体、このパンとは十字架で傷ついたイエス様の体を象徴するものです。引き裂かれた体を象徴します。杯も同じです。「これは私の血である」と言います。イエス様はこの後、十字架で血を流されます。この杯は十字架の上で流れる、イエス様の血を象徴するものなのです。

このように私たちの主の晩餐は、イエス様の十字架の体と血を象徴するものです。イエス様ご自身が、最後の食事、十字架を目前にした時、パンを自分の体、杯を自分の血として弟子たちに教えられ、共に食べるようにと言いました。それが最後の晩餐という出来事でした。それが私たちの主の晩餐につながってゆきます。

このパンと杯をイエス様の体、血としていただき、十字架を思い出すのです。その十字架とは神の子である方が、体を裂かれ、血を流す、神の子が痛みの中におられたという出来事です。この十字架の神こそ大きな希望です。十字架によって、神は苦しみのただなかにおられ、共に苦しみ、共に血を流してくださるお方だと示されているから希望なのです。私たちの主の晩餐はその神の愛、十字架の体と血を、食べるという儀式なのです。今日これを覚えましょう。

誰がこのパンを食べるのにふさわしいかということも大切な問いです。クリスチャンが特別な人だからこれを食べることができるというのは誤解です。この後裏切るユダさえもこのマタイの最後の晩餐には参加しています。ここでは弟子の弱さも示されています。従うつもりでいても、忘れてしまう弱さが示されています。イエス様の最後の晩餐、それは弟子の弱さのためでもありました。

あまりにもふさわしくない弟子がこの食事にあずかったのです。私たちは本当にふさわしくない者です。でもふさわしくない者だからこそ、この食事にあずかりましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに食べましょう。それを思い出し、忘れないように食べましょう。

今日の主の晩餐は言葉のみです。どなたも限定されずにこの式に参加します。私たち全員がふさわしくない者としていただきましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに主の晩餐にあずかりましょう。

 

 

「私たちを派遣する神」マタイによる福音書10章16節~25節

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。マタイ10章16節

 

礼拝というテーマで宣教をしています。神様は礼拝から私たちを派遣されるお方です。私たちは礼拝の招きと派遣の循環の中で生きています。神様は今日、それぞれの場所で、神様を愛し、隣人を愛するように私たちを派遣されます。

この1週間はどんな1週間になるでしょうか。こどもたちにとっては新しい学期が始まる緊張の1週間です。神様はみんなにいってらっしゃいと言っています。そして一緒にいるよと言っています。だからきっと大丈夫です。でももししんどかったら教会に逃げてきてもいいです。大人にとってもうれしい事ばかりの1週間ではないでしょう。しなければならないことがたくさんあるでしょう。でも私たちは神様が背中を押して行ってらっしゃいと言ってくれるから、神様から派遣されているから歩むことができます。そしてまた来週の日曜日の礼拝に集いましょう。

今日の箇所、イエス様は12人の弟子たちを派遣します。しかし、派遣される先はかなりしんどい状況です。こんな場所には絶対派遣されたくありません。しかしイエス様は厳しい現実をどのように生きてゆけばよいかを教えて下さるお方です。イエス様は派遣された場所で、証しをするように勧めます。証をするということは喜びの中だけではなく、苦しみや悲しみ、痛みの中で、神様を周囲へと表してゆくことです。態度と言葉で神様の愛を表現することです。苦しいときこそ、傷付けあうのではなく、愛し合うということを選びます。それが愛の神を証しするということです。

もちろん、弟子たちは無理と思うこともあるでしょう。神様は絶対に持ち場を離れるなとは言いません。だめなら次の町へ逃げるように言われます。逃げて逃げて逃げて、逃げ場所が無くなる前に、イエス様は来てくださいます。そして弟子たちの目指すのはイエス様を超えることではありません。「ようになれば十分」なのです。弟子は弟子のままでいいのです。弟子は弟子として、イエス様を真似する、できるだけイエス様に近づいてゆくのです。

このようにイエス様によって弟子たちは派遣されます。苦しみの中に派遣されます。そこで証しをするように、愛し仕えるように派遣されます。どうしてもだめなら逃げてもいいと派遣されます。そしてできるだけイエス様の真似をして生きてごらんそうやって、12人の弟子たちは派遣されていったのです。

私たちの1週間もこのようにはじまり、派遣されます。今日この礼拝から派遣され1週間が始まります。皆さんは神様からそれぞれの場所に派遣されてゆきます。それぞれが派遣された場所で苦しくとも、神に仕え、隣人に仕えましょう。神様を愛し、隣人を愛しましょう。そしてダメな時は逃げましょう。できる限りイエス様を真似して、生きてみましょう。私たちは今日もそのような1週間に派遣されます。そしてまた来週集い、神様から力をいただきましょう。礼拝はすべての人を招かれています。そして礼拝から派遣されます。神様のみ言葉を胸に、今週も歩みましょう。

 

「シャロームは丸」マタイによる福音書5章1節~11節

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

マタイによる福音書5章6節

 

聖書の平和「シャローム」とは戦争がない状態を指すだけではありません。何も起きない状態ではなく、平等に向けての激しい動きのある状態を示します。格差や不公平、差別が正され、平等にへの動きが活発にある状態です。

シャロームとは例えるなら丸です。でもこの丸は歪んでいます。抑え込まれている分、飛び出ている分があります。シャロームは全員が満たされ、抑えつけられる人いないこと、それが回復されてゆくことです。そして人を見下す人は、低い目線に立たされていくこと、それがシャロームです。日本は平和かもしれません。でも聖書に立ってシャロームかを見るならば、格差、偏見、暴力、ハラスメント、無責任があふれています。

大切にしたいことは、私たちがこの丸のゆがみを見る時、最も低い場所に起きた出来事、十字架のある場所から見るということです。弱くされ、小さくされている人々のいる場所から世界を見るのです。イエス様はこのシャロームを繰り返し語ったお方です。今日の箇所からイエス様の語るシャロームを見てゆきましょう。

1節にある「群衆」とは貧しい人々、差別に苦しんだ人々、いわば谷の底にいた人々だったと言われます。3節からのイエス様の視点は、底からの視点です。心の貧しい人は幸いだとあります。心が貧しいとは、今まさにへこまされている心のことです。貧しさや困難で、心が疲れ切った人のことです。イエス様はその疲れた人々に、幸いだと語り掛けています。その谷は必ず満たされ、回復するからです。そこにこそ神様の力が働くから、シャロームの力が働くから、幸いだと言うのです。

6節には「義に飢え渇く者」とあります。それは不公平、不平等、差別にあえぐ人たちのことです。正義が欲しい、平等と公平が欲しいと、水を求める人のように、願う人です。イエス様はそのような人に、必ずあなたにシャロームが起こる、その渇きは満たされる、丸くなると言うのです。

私たちはシャロームを約束され、そのために力をいただいている者です。私たちは、イエス様からシャロームの希望をいただきましょう。戦争しないだけではない、私たちの社会の中で苦しむ人が回復されていく希望、そのための力です。私の苦しみの底に共におられ、回復の力を与えて下さるという希望です。その力、シャロームを神様は約束をしてくださっています。

私たちは神様からシャロームのための力をいただきましょう。そしてそのために繰り返し、イエス様の十字架と復活に目を向けたいのです。シャロームの物語を聞いてゆきたいのです。シャロームである方を覚えましょう、そしてそのシャロームを今日も祈り、礼拝をしましょう。お祈りします。

 

「みんな礼拝しようよ」イザヤ書25章6節~10節

 

万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒          イザヤ書25章6節

 

先週から礼拝というテーマで宣教を続けています。コロナの中、この会堂に集まって礼拝するかどうかを決断することに対して「人間が決めることなのだろうか?人間にそんな権利があるのだろうか?」という葛藤がありました。しかしコロナを通じてより明確になったことは、礼拝に集まるか、集まらないかは人間、私たち一人一人が決めることなのだということです。

礼拝は私たち人間が勝手にしているのではありません。そこには先立って神様の「招き」があるのです。礼拝するかどうかを決めるのは自分ですが、でも私たちは何よりまず先に神様から招かれています。すべての人が神様から礼拝へと招かれています。私たちが礼拝している事、それは神様の「招き」への「応答」と言えるでしょう。礼拝堂で一緒に礼拝できなくとも、どこで礼拝をしていても招きは同じです。神様はすべての人を礼拝に招いています。そして集うことができたとき、豊かに神様の招きと応答を感じることができます。慌てて会堂に来る人を見て、神様の招きと、精一杯の応答を感じるのです。

今日の箇所をお読みしましょう。神様は礼拝へと招くお方です。聖書の中で神様の招きは、よく食事会の招きに例えられます。6節の山は礼拝する場所をさすことが多い言葉です。主はこの山で祝宴を開くとは、神様が礼拝に人々を招くということを示します。そこでは受け取ると力が湧いてくる食べ物が用意されているのです。礼拝し、み言葉が、私たちの生きる力の源となります。生きる糧となるのです。

すべてという言葉が繰り返されています。神様の招きはすべてに対してなのです。

国籍も、人種も、信仰も関係ありません。すべての人とは、すべての人です。神様はその礼拝で涙も失敗も失望もぬぐってくださるお方です。私たちは涙を流した姿のままで招かれているのだから、そのまま礼拝すればよいのです。神様が涙と失望をぬぐってくださるからこそ、礼拝から新しい1週間のスタートをきることができるのです。神様の手はその山にとどまるとあります。神様は必ずそれぞれの礼拝の場所に、私たちの礼拝する場所に共にいて、とどまってくださるお方です。

今日ここに集っている方は、この招きをよく実感できるでしょう。みなさんもこの平塚バプテスト教会の礼拝という山に招かれ、そしてご自身で決断し登ってこられたお方です。そこでみ言葉をいただき、涙をぬぐわれ、喜び歌います。前後左右には同じように招かれた仲間を感じることができます。礼拝とはそのような招きです。集うことができない方も、同じようにそれぞれの場所での礼拝に招かれています。集えずとも一緒にその招きを感じ、礼拝をしましょう。

礼拝は神様の招きです。神様は「みんな礼拝しようよ」そのように、みんなを招いておられるお方です。その招きに応えて一緒にみんなで礼拝をしてゆきましょう。

 

「変わり続ける礼拝」イザヤ1章11節~20節

 

 

お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。

イザヤ書1章15節~16節

 

今日から3回「礼拝」をテーマに宣教をします。平塚教会の礼拝は変化し続けています。最近ではこどもメッセージ、こどもスペースが変化しました。またコロナ・ウイルスによっても変化しました。それでもこれで完成というわけではありません。私たちが礼拝で何を大事にするかは、その時の信仰と社会の状況によって変わります。礼拝はこれまでも、これからも変わり続けます。

礼拝は神様が主催者です。しかし同時に、どのように礼拝をしてゆくかは人間が、信仰によって決めることです。それを真剣に考えてなくてはいけません。一番怖いのは「これでよい」と決めつけてしまうことです。そしてこの礼拝を私たちが生きる、残りの6日間としっかりと結び付いているものにしたいのです。

今日の聖書を読みましょう。当時の人々もきっと一生懸命に礼拝し、献げ物をしてたでしょう。しかし神様は喜んでいないようです。この教会の礼拝も、神様どう感じているのか心配になります。15節にはその手が血だらけだとあります。一生懸命礼拝しているが、残りの6日間は誰かを傷つけて、手が血にまみれになっているということです。神様は礼拝も献げ物も大事だけど傷ついている人をしっかりと見なさいと言っています。礼拝には一生懸命だけど、残りの6日間で困っている人、小さくされている人を忘れていないか?社会に、世界に目を向けているか?あなた個人の礼拝になっていませんか?と神様は問いかけているのです。神様は礼拝なんかしなくていいと言っているのではありません。社会、世界で起きている問題を無視して行われる礼拝はもう飽きたと言っているのです。

ここでは二つの方向が示されているでしょう。ひとつは礼拝は必ず生き方を変えるということです。生き方を変えずに礼拝をすることは、血だらけで礼拝することです。もう一つの方向は生き方が変わる時、礼拝が変わるはずだという方向です。生き方の変化を願う時、礼拝に変化が起こるのです。

礼拝から世界が変わり、世界から礼拝が変わるのです。生き方の変化が礼拝を変え、礼拝の変化が生き方を変えるのです。私たちの生きる場所、生活の場所が変化するように、教会の礼拝も変化してゆく、礼拝の献げ方も変わってくるのです。そして礼拝から私たちの生活・世界が変わるのです。

この今持っている礼拝と同じように、神様に祈り、聞いてゆくこと、こどもを大事にしてゆくこと、そのような1週間を歩んでゆきましょう。そしてまた集いどのような礼拝がよいかを考えましょう。このあと私たちは主の晩餐を持ちます。もちろんこれも今の形が完成形ではありません。問い続けるべきことがあるでしょう。問い続ける中で、今日もこれにあずかってゆきましょう。お祈りをします。

 

「平和を祈ろう」マタイによる福音書8章5節~13節

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

マタイによる福音書8章10節

 

6月から7月沖縄、戦争責任、空襲、ミャンマーと平和について聖書から考えてきました。平和ということについて、私たちにできることは多くありますが、祈ることもとても大事なことです。私たちは平和を実現するためには決定的に外側、神様からの力が必要です。暴力の誘惑は常に人間を襲います。だからこそ平和を祈り続ける、ずっと祈り続けることが大事です。共に祈り続けてゆきましょう。

そして私たちは、自分の周りの平和ばかりに目を向けがちです。平和の祈りを世界に広げてゆきたいのです。今日読むのは、熱心な祈りの姿です。平和というテーマの宣教の最後ですが、平和を祈ることについて考え、終えようと思います。

今日の箇所。似た記事はルカとヨハネにもあります。ヨハネでは苦しんでいるのは、百人隊長の「息子」だとあります。激しく痛む子どもを目の前にして、親は子どもが助かるためならどんなことでもするでしょう。どんな宗教にでも救いを求めるはずです。必死に嘆願した百人隊長の気持ちが想像できます。一方マタイでは「僕」とあります。百人隊長とどういう関係なのかわかりません。しかし、百人隊長の態度から関係性がわかります。この「僕」は百人隊長にとってかけがえのない、大切な存在だったのです。恥も外聞も捨てて、公衆の面前で、新しい宗教者イエスにその救いを5節「懇願する」ほど大切だと思える存在だったのです。そしてここにある懇願するという言葉は「祈る」という意味のある言葉です。

よく見ると百人隊長の8節9節の言葉は懇願というよりも祈りです。百人隊長はイエス様に出会い、祈ったのです。大勢の群衆が見ている前で、社会的地位のある人がイエス様に祈るのです。イエス様は10節、それに感心したとあります。イエス様はたったの一人の「僕」のためにここまで熱心に祈る隊長の祈りに驚いたのです。

イエス様は百人隊長が僕の痛みを自分の痛みのように感じ、助けてほしい、平安を与えてほしいと熱心に祈る姿に共感をしたのではないでしょうか。家族でもない他者の痛みに共感し、熱心に救いを求め祈ること、そして救いを探し回っていること、そのことに感心したのです。百人隊長は平和を祈ったのです。忘れられてしまう命、あきらめてしまうような命、そんな身分の僕の平和のために祈ったのです。

私もこの百人隊長のような祈りたいと思わされます。私も自分や家族、親戚だけではなく、もっと広い世界のために、祈ってゆきたいのです。私は世界にある命、苦しむ命、暴力と抑圧の中にある命のために、親身に祈りたいのです。神様に平和を祈る時、きっと神様はそこに目をとめてくださるはずです。私たちも神様が平和のために、命のためにそんなに祈っているかと驚くほどの祈り、そんな平和の祈りをささげてゆきましょう。お祈りします。

 

0 コメント

「神の不服従運動」マタイによる福音書7章15節~23節

 

すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 マタイ15章17節

 

平和というテーマで聖書を読んでいます。ミャンマーでは2月にクーデターが起こり、軍事政権に逆戻りしてしまいました。ミャンマーは独立する際、軍の影響力が強く、そのため長く軍事政権が続きました。軍によって成立した国は結局、軍によって支配されました。そして軍は独立以来、ずっと少数民族を弾圧しました。

先日のミャンマーを覚える祈り会では「軍の国民に対する暴力はデモ以前からずっと行われてきた。軍の抑圧の対象が、少数民族から、民主化を求める人々に変わっただけなのだ」と分かち合われました。軍による独立と支配、それは平和のように見えたかもしれません。でも軍の暴力は独立後からずっと続いていたのです。

しかし、このような状況の中でもミャンマーには希望の光があります。それはミャンマーの人々が平和をあきらめていないということです。人々は暴力ではなく、CDM(Civil Disobedience Movement)市民的不服従運動という運動で新しい国を作ろうとしています。軍の支配に対して服従しないということをデモや職場のボイコット、鍋をたたく、指を三本立てるということによって表明しています。

デモ参加者の多くは仏教を信仰している人々ですが、私はキリストの平和と多くの共通点を感じています。イエス様も暴力によって問題を解決しようとしなったお方だったからです。ミャンマーはイエス様と同じ非暴力で抵抗しています。だからこそミャンマーの平和のために活動する人々を祈りたいと思っています。

今日の聖書箇所を読みましょう。偽預言者はその共同体全体を間違った方向に導きす。支配し、偽りの平和を語ります。私たちはそれを実によって見極めることができます。実とは命と尊厳です。命と尊厳が守られているか、はぐくまれているかによって、偽物を見極めることができます。よい木は人を生かすのです。軍は悪い木です。悪い実をつけています。

そしてイエス様は神の子羊と呼ばれた、平和の象徴であるお方でした。イエス様は軍隊を率いず、愛による、非暴力運動に人々を従えた人でした。私たちもこの羊に連なりたいのです。そしてイエス様こそ不法を働く者といって、十字架にかけられ、殺されたお方です。私たちは主イエスからいただく命の尊厳に立つとき、国の決定に逆らい、不法を働く者と呼ばれることがあります。しかしそこで私たちは本当の不法な者が誰であるのかを見極めたいのです。私たちの教会も偽預言者に騙されてないようしましょう。命と尊厳が守られているかどうかによって判断してゆきましょう。神様は本当の不法を犯すものに離れされと語ります。

平和は軍事力ではなく非暴力の運動によって実現されるはずです。神様にある、本当の不法への不服従運動によって実現されるはずです。それはよい実、命と尊厳によって見極めることができるはずです。教会、ミャンマー、世界で、非暴力による平和、不法への不服従、軍事力への不服従が起きるように共に祈りましょう。

 

【全文】「神の不服従運動」マタイによる福音書7章15節~23節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も子供たちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。この後の水遊び会も楽しみにしています。

私たちは今、平和というテーマで聖書を読んでいます。ここまで沖縄の戦争のこと、基地の事、キリスト教の戦争責任のこと、前回は平塚大空襲のことを聖書から聞いてきました。どのようにお感じでしょうか。いずれにしても「神様は暴力・軍事力によらずに平和を実現しなさい。平和を神様からいただきなさい。」そう語っていると感じています。今日も神様からの平和をいただいてゆきましょう。

今世界を見渡して、一番平和について考えたいのはミャンマーの問題についてです。ミャンマーは近年民主化を進めていましたが、2月に軍によるクーデターが起きました。それ以来、民主化を求める人々への弾圧が続いています。軍事政権はデモ隊へ発砲し、逮捕し、拷問をしています。デモの参加者、数百人が亡くなったと言われています。

ミャンマーは第二次世界大戦後にイギリスの植民地から独立をした国です。独立には軍の影響力が大きかったといいます。中でも軍のリーダーだったアウンサンスー・チー氏の父親は英雄とされました。そしてそれ以降、長く軍による支配、軍事政権が続いたのです。軍によってイギリスからの独立にはうまくいったのかもしれませんが、軍によって成立した国は結局、軍によって支配されました。まだ平和は訪れていません。

ミャンマーでは特に少数民族の人々が軍の弾圧に苦しめられてきました。軍は独立以来、ずっと少数民族を力で弾圧してきたのです。ロヒンギャ問題が有名ですが、それ以外の少数民族もずっと弾圧を受けていました。

例えば弾圧されていたカチン族という人々は、私たちと同じバプテストの仲間です。日本でも教会に集い、礼拝を持っています。バプテストとして様々な交流を持っていた関係で、毎週金曜日オンラインで、平和のための祈り会が持たれています。私も先日参加をしました。

祈り会では「軍の国民に対する暴力はこのデモ以前からずっと行われてきた。軍は少数民族をずっと抑圧し続けてきた。だから国民に暴力をふるうことにもう慣れてしまっている。軍の抑圧の対象が、少数民族から、民主化を求める人々に変わっただけなのだ」そのようなことが分かち合われました。

軍による独立、それは一度は、平和のように見えたかもしれません。でもそれは本当の平和ではありませんでした。暴力はずっと続いていたのです。力で勝ち取ったものは、力で維持しようとされます。ミャンマーでは何度も民主化運動が起きていますが、その運動の度に軍によって力で抑え込まれています。少数民族はずっと力で押させつけられていました。

しかし、このような状況の中でもミャンマーには希望の光があります。それはミャンマーの人々が平和をあきらめていないということです。そして、非暴力運動によって、民主政権を造ろうとしているこということです。暴力ではなく、力ではなく、CDM(Civil Disobedience Movement)市民的不服従運動、非暴力による不服従という運動で新しい国を作ろうとしていることです。

人々は軍の支配に対して服従しないということを例えばデモ行進をすることによって、例えば職場をボイコットすることによって、例えば毎晩夜8時に鍋をたたくという活動によって、例えば指を三本立てるということによって表明しています。それがCDM市民的不服従運動と呼ばれます。

この活動、デモ参加者の多くは仏教を信仰している人々ですが、私はキリストの平和と多くの共通点を感じています。イエス様はどんなに危機的な状況においても、十字架においても、決して暴力によって問題を解決しようとしなったお方だったからです。イエス様は非暴力による平和を求め続けたお方だったのです。そして、それこそが私たちの幸いにつながることをよくご存じでした。十字架によって示されたこと、それはどんな暴力も神の愛を揺るがすことはないということだったのです。CDM市民的不服従運動に重なります。

始めは軍の力によって独立したミャンマーです。しかし、結局今、軍は人々を苦しめています。ミャンマーの人々は今度こそ、平和的な運動によって国を造ろうとしています。私はそれを応援したいと思います。軍に対して、より大きな力ではなく、平和的な活動によって、軍と軍事力への不服従によって、国を造ろうとすることを応援したい。それはイエス様と同じ非暴力運動だったのです。だからミャンマーの平和のために活動する人々を祈りたいと思っています。

今日の聖書箇所を読みましょう。15節には「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」とあります。

聖書の書かれた当時、イエス様とは異なる教えを広める人々がいました。その人々をさして偽預言者と言っています。そして偽預言者はその共同体全体を間違った方向に導こうとしました。偽預言者は人々の心を神に向けさせようとしませんでした。人々の心を、自分に向けようとしたのです。そして神の共同体を自分の物にしようと、支配しよう、貪ろうとしたのです。そして偽預言者は偽りの平和を語りました。そこには平和がないのに、平和、平和と語ったのです。

17節~20節には、私たちはその実によって見極めることができるとあります。その実とは何でしょうか。私はその実とは、命ともいえると思います。命が守られ、命がはぐくまれているかどうかによって、偽物を見極めることができるのです。

あるいはその実とは人間の尊厳とも言えるでしょう。人間の命、尊厳、権利が守られているかどうかによって、偽物かどうかを見極めることができるのです。人気があるとか、共同体が成長するか、勢力が拡大しているかなどではありません。小さくても、弱くても、命が、尊厳が守られていることが大事です。よい木、よい共同体は人を生かすのです。

一方、軍は悪い木です。命を壊し、殺しています。人々の尊厳を奪っています。軍から良いものは出てきていません。「悪い木はよい実を結ぶことがない」とは、まさしく軍事力について言っています。軍事力によっては、よい実、命が守られる平和は生まれないのです。力によってでは、平和は生まれないのです。悪い木からは悪い実が生まれ、よい木かからはよい実がうまれます。軍事力から平和は生まれません。平和から軍事力は生まれません。

私たちは人々の命が守られているかどうかによって、人の権利と尊厳において、よい実かどうかを見極めることができるのです。

軍の姿ははじめは良いものに見えたかもしれません。独立した時、軍の将軍を英雄としてかもしれません。平和の象徴である羊のように見えたかもしれません。しかしそれは後々、本当は狼だったということがわかります。狼は命を奪う者の象徴です

人の権利と尊厳という視点からミャンマーの軍事政権を見る時、それはずっと悪い木だったのではないでしょうか。軍は人の命、少数民族の命を奪い続け、尊厳を奪い続けてきた。悪い木だったのではないでしょうか。私たちはそれを見極めたいのです。そして平和的な運動によって、命を守りながら、新しい国へ、命を守る国へと変わっていってほしいと願います。

イエス・キリストを覚えます。イエス様は神の子羊と言われたお方です。イエス様は羊と呼ばれたお方でした。平和の象徴であるお方でした。イエス様は私たちのリーダーですが、軍隊を率いなかったリーダーでした。イエス様は軍事革命、クーデターのためにエルサレムに来たお方ではありません。イエス様は愛によって世界を変えようとエルサレムに来たお方でした。平和的な運動によって人々を従えた人でした。私たちもこの羊につらなりたいと思います。偽預言者に、羊の皮をかぶった狼に従うのではなく、羊に従う者、神に従う者、平和に連なる者でありたいと思うのです。

そしてミャンマーの人々もいまそれを必死に行っているのでしょう。彼らも市民的不服従運動によって非暴力平和運動によって歩んでいます。私はその実現も祈っています。

23節には「不法を働くものども、私から離れされ」とあります。実はイエス様こそ不法を働く者といって、十字架にかけられ、殺されたお方です。私たちは主イエスからいただく命の尊厳に立つとき、時に国の決定に逆らう者、反対する者、不法を働く者と呼ばれることがあります。なによりイエス様がそうだったのです。そしてデモ参加者の多くも不法な者といわれて逮捕されています。

しかしそこで私たちは本当の不法な者が誰であるのかを見極めたいのです。何かに反対をする時、不法と呼ばれることがあるかもしれません、最初は向こうの方が正しいように見えるものもあるでしょう。でも本当の不法は何かを見極めたいのです。神はそれを見極め、本当の不法を犯すものに離れされと語ります。

私たちの教会にも当てはめます。私たちの教会は偽預言者に騙されてないように気を付けましょう。それを命と尊厳が守られているかどうかによって判断してゆきましょう。牧師が間違えるときがあるでしょう。教会が間違える時があるでしょう。世界が間違える時があるでしょう。羊の皮をかぶった狼に気を付けたいのです。よい実、命からそれを見極めてゆきたいのです。

私たちは世界の平和を覚えます。平和が訪れるように祈りましょう。それは軍事力ではなく非暴力の運動によって実現されるはずです。神様にある、本当の不法への不服従運動によって実現されるはずです。それは神様からいただいたよい実、命と命の尊厳によって見極めることができるはずです。

教会で、そしてミャンマーで、世界で、非暴力による平和、不法への不服従、軍事力への不服従が起きるように共に祈りましょう。お祈りをします。

 

0 コメント

「平和を造る者になりなさい」マタイによる福音書5章9節~28節

 

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

マタイによる福音書5章9節

 

平和をテーマに聖書を読んでいます。1945年7月16日深夜、平塚大空襲が始まりました。76年前の7月、私たちのいる場所は戦場でした。この空爆は工場を狙ったのではなく、一般市民が狙われました。その証言によれば、その時の平塚は生き地獄だったと証言されています。

戦争は国と国、軍人と軍人の戦いではありません。空爆は必ず一般市民が対象になります。空爆の中身は結局、市民虐殺です。このような空爆はいまもシリア、ミャンマー、パレスチナで繰り返されています。またある証言は一か月早く戦争をやめていたら空襲はなかったはずだと証言しています。しかし日本は天皇を神とする国には必ず神風が吹くと信じ、この戦争を続けたのでした。

私は空爆では平和は実現できないと思います。戦争を終わらせること、平和を実現すること。それは本当に難しいことです。しかし私は、一人一人が平和を大切にし、訴えてゆくことが世界の平和につながると思います。聖書は「平和を実現する者は幸いだ」と言っています。この平和を実現するとはどんなことでしょうか。

今日の聖書を読みましょう。イエス様の十字架の後、ユダヤとローマの間には激しい戦争が起きました。マタイによる福音書を書いた人々は、その戦争から逃げてきた難民でした。彼らは戦うことを選ばない、非暴力、非武装を貫く人々でした。

「平和を造り出す者」とありますが、実は当時、ローマ皇帝が「平和を造り出す者」と呼ばれていました。ローマの軍事力によって世界に平和がもたらされているという意味です。「神の子」も同じです。当時ローマ皇帝が「神の子」と呼ばれていました。神とは戦争の神です。

ですから今日の箇所は明らかにローマ皇帝を意識して、言葉を選び、書かれています。地上ではローマ皇帝が、戦争の神の子、軍事力で平和を造り出すものと言われている。しかし私たちは皇帝のように軍事力・暴力によって「平和を実現するもの」にはならないと語られているのです。

マタイたちは、皇帝ではなく、私たち一人一人が平和を実現する者となるのだと考えました。軍事力ではなく、一人一人が隣人を愛することで平和を造るのだと考えたのです。神は平和を願っていること、そしてその平和の担い手は皇帝ではなく、支配者ではなく、私たちなのだ、私たちこそ平和のために用いられる「神の子」なのだと語っているのです。

私にはこの言葉が戦争を体験したマタイたちの平和宣言に聞こえます。空爆・軍事力では平和は造れないのです。聖書はこのように私たちを平和へと導いているのです。聖書をから平和を実現してゆく力をいただいてゆきましょう。一人一人が平和を求めましょう。一人一人が祈り、働きいてゆきましょう。

 

【全文】「立ち止まって聞く神」マルコ10章46節~52節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に集えたこと、またYouTubeでも共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝しましょう。

また、コロナでなかなかできなかった「証し」を聞くことができ、本当に感謝です。互いの声に足を止め、聞いてゆくことは、大切なことです。私たちは互いの言葉を聞くことによって互いを知るだけではなく、お互いの言葉を通じても神様に出会うことができるからです。特に沖縄からの声は私たちの耳にはあまり届いていないでしょう。私たちは沖縄からの声を聞き逃しているでしょう。私たちが今日、仲間の言葉と沖縄からの声に耳を傾け、立ち止まって考えることができたことに感謝します。

今日は平和祈念礼拝です。これまで平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。息子の病からの癒しを願う父親のように、「救ってください」と叫ぶように、平和を叫び求めてゆきたいと聖書を読みました。今日聖書から見ることは、それとは反対のことかもしれません。平和とは、小さな声に耳を傾けてゆくことなのだということを見ます。平和とは声にならない叫びを聞いてゆくことです。平和を願っていても、言葉を取り上げられている人がいます。平和を願っていても声を出せないでいる人がいます。平和を願っていても声を出しづらい人がいます。周りの大きな声に遮られている人がいます。

私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。そして新しい道を示して下さるイエス様をみてゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。

今日はマルコ10章46節~52節の物語を読みました。バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。当時は(今も)障がいを持っていると激しい差別を受けました。そして必要な福祉は提供されず、経済的にも困窮をしていたのです。バルティマイもそうでした。46節彼は道端に座って物乞いをしなければ生きてゆけなかったのです。彼の居場所はどこにもありませんでした。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができなかったのです。道端へと追いやられていたのです。社会からはじき出されていました。彼がすぐに必要としていたのは何より、今日寝る場所、今日の食べる物だったでしょう。そのために物乞いをせざるを得ませんでした。

バルティマイはイエス様がこの道を通る聞きました。そしてある言葉を叫んだのです。イエス様に一番初めにしてほしい、具体的な行動として求めたことを叫びました。しかし彼の叫びは「施しをください」や「治してください」という叫びではありませんでした。彼は「わたしを憐れんでください」という叫びだったのです。これは驚くべきことではないでしょうか?彼はイエス様に呼びかける時、何よりもまず「憐れんでください」と叫んだのです。

憐れむというのは難しい言葉ですが、聖書の元の言葉では「憐れむ」という意味以外にも、同情する、慈しむという意味があります。それは具体的に「私に同情し、憐れみ、慈しんでくれ」という叫びです。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉に置き換えるとするなら「自分の気持ちを分かってもらう」それが憐れんでもらうという意味でしょう。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください。どうか私が、今までどんな気持ちで生きて来たのか、聞いてください、分かってください」そんな叫び声だったのではないでしょうか。誰もが彼を無視し、通りすぎ、彼が声を上げてもかき消されてしまったのです。彼はそのすべての気持ちを「憐れんでください」という言葉に込めて叫んだのです。

聖書にはその時、周囲がどのように反応したかも残しています。48節「多くの人が叱りつけて黙らせようとした」とあります。なんと群衆は黙らせようとしたのです。障がいをもった人、弱さを持った人、道端に追いやられている人が救いを求めて叫んでいる状況です。それを叱りつけ、黙らせようとする、冷徹な反応です。

「気持ちを分かってほしい」と言う叫びは群衆には、全く聞こえていませんでした。群衆は聞こうとしていませんでした。周囲の人々、それは社会と言い換えてもいいかもしれません。この目の見えない人は、社会から無視され、社会の隅に追いやられていたのです。そして彼は社会に必死に声を上げました。しかし社会はそれを聞こうといませんでした。それどころか社会から黙れと恫喝さえされたのです。この場面はそのような冷たい社会が描かれています。小さな声を聞かない社会が描かれています。そのたびに彼は「だれも聞いてくれない」「だれも分かってくれない」と孤立感を味わったでしょう。でもだからこそ彼はもっと大きな声で叫びます。「今度こそ、今度こそ、きっと分かってくれる人が来る」「私の前を通る」そう期待して彼は叫んだのです。

そして多くの人が通りすぎる場所でイエス様は立ち止りました。49節「イエスは立ち止まって」とあります。イエス様はそこに足を止めたのです。誰も足を止めなかった場所でイエス様は足を止めるお方です。そしてイエス様が黙らせたのは、バルティマイではなく、その叫びを遮ろうとする群衆でした。そして道端から、社会の隅から、彼を自分の前に連れてこさせました。神の前に呼び出すのです。そしてイエス様は51節「何をしてほしいか」と尋ねます。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。

彼はようやく本当の願いを口にすることができました。本当はずっと願っていたことがあったのです。彼は51節「目が見えるようになりたいのです」と言いました。重い一言です。「目がみえるようになりたい」それは今までの彼の人生の苦労が凝縮された言葉です。障がいをもち、困窮し、無視され、黙らされていた、彼は本当の願いをようやく言葉にすることができました。それこそがもうすでにイエス様が起こした奇跡と言えるでしょう。聖書によれば、52節彼はすぐに見えるようになり、イエス様に従ったとあります。

この物語をどのよう理解しましょうか。私はただの奇跡物語としてだけではなく、イエス様の生き方をここから学びます。私たちは誰かに「わかってほしい」そう思うことがあるものです。本当は今こんな気持ちでいる。こんな出来事があった。誰かにそれを「わかってほしい」という叫びは私たち一人一人の中にもあるのではないでしょうか。

そして本当は私たちの周りにも「わかって欲しい」と叫んでいる人がいるのではないでしょうか?彼らはきっと私たちに、何かをすることよりも、まず先に「憐れんで欲しい」「わかって欲しい」そう思っているのではないでしょうか?

私たちは、それを今日の個所のような無視をする群衆となっていないでしょうか?どなって声をかき消す群衆の一人となってはいないでしょうか。私はもう一度苦しみの声を聞こう、そのために立ち止まりたいと願います。かき消されてゆくその声に耳を傾け、足を止めて、共感し、突き動かされて、行動する。イエス様のようなそんな人間になりたいと思うのです。

私たちにとって今日の個所から知る希望とは何でしょうか?それは、私たちの神様は苦しみに足を止めて、共感し、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。私たちには人生の中で傷つき、誰にも理解されないことがあります。でも私たちは神様に「憐れんでくれ」「わかってください」と祈ることができるのです。それが今日の個所の希望、福音ではないでしょうか。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?イエス様のように生きるとはどんなことでしょうか。それは多くの仲間が持つ、社会の中にある「憐れんでください」「わかってほしい」という叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくことではないでしょうか?

個人個人の願いがあるでしょう。それに足を止め、互いの言葉を聞いてゆきましょう。そして平和を求める声があるでしょう。平和を求める声は小さくさせられています。どこの国が危ない、どこの国が攻めてくるという大きな声に、日本人は平和ボケしているという大きな声があります。しかし私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声に耳を傾けたいのです。小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。

 

0 コメント