礼拝メッセージ2019年度

2020年

3月

29日

「不安に振り回されないキリスト」ヨハネ18章1節~14節

私たちはコロナウイルスの影響で1か月前より礼拝と祈祷会以外を中止し、そして今週はついにそれぞれの場所で礼拝を守ることとしました。会堂に集わないということは私たちに様々な影響を与えています。失ったものが多いと感じます。しかし、礼拝と祈祷会以外を辞めるという決断の時、礼拝と祈祷会は絶対にやめないという思いを込めていました。私自身、早く交わりを持ちたいと思いはあります。しかしまず今日は、礼拝が出来るという恵みに目を向けたいのです。不安な時だからこそ、できないこと、足りないものではなく、神様からの恵みを数えるということを大事にしたいのです。

今日皆さんと分ちあいたいのは、この不安の時代、もう一度礼拝の恵みを、イエス様の恵みを、いま私たちが失っているものではなく、私たちが受けている恵みに感謝し礼拝をしようといことです。私たちは無いものではなく、あるものに目を向けます。ないものではなく、「ある」「私はある」というお方に、神様に目を向けたいのです。だから今日も共にみ言葉を頂きましょう。

今日の物語の中でもっとも不安なのはペテロです。彼は自分の信頼してきたイエス様が犯罪者として逮捕される、そのような不安からめちゃくちゃに剣を振り回します。不安で神を忘れる姿です。私たち人間は不安の時、誰でもいいから不安をぶつけたくなります。剣を振り回して、相手を傷つけることで、誰かにぶつけることで、不安から逃れようとします。そしてカヤファも不安に襲われました。彼は一人のために全体が迷惑をこうむるなら、その一人は死ぬのもやむを得ないと考えました。一人が死ねば済む問題、犠牲になってもらうという考え方です。これが人間が不安に直面した時の考えです。不安から逃れるため、すぐ暴力や犠牲を選んでしまうのが人間です。

しかしイエス様はそのような人間の罪のために、十字架にかかられます。私たちは不安の時、どのようにその不安に向かい合うべきでしょうか。暴力でも犠牲でもない向き合い方を私たちは探し求めます。その時、イエス様がどんなに不安でも、苦難を受けると分かっていても、神様に視線を合わせ続けたお方だという事を知るのです。

イエス様は苦難と苦しみの中で、神の働きを、神の恵みを、神の導きを求めたお方です。そこから逃れる、相手を打ち破るのではなく、その中に神様の導きを見つけようとしたお方です。どんな時も神を忘れません。その姿をイエス様の十字架の中に見つけます。イエス様は十字架で「成し遂げられた(ヨハネ19章30節)」と息を引き取られたのです。十字架の上の、最後の一息まで、イエス様は神の働きを見続けたのです。私たちも苦難の時、神を見る者、礼拝を続ける者でありたいのです。

私たちは今日、また1週間それぞれの場所へと出てゆきます。不安と共に出発をするのは、私たちもイエス様も同じです。でも私たちは不安ではなく神を見つめ、委ね、歩んでゆきましょう。

 

2020年

3月

22日

「マスクより愛が足りない」ヨハネによる福音書12章20~36節

 マスクは足りているでしょうか?私たちはウイルス感染拡大の不安の中に生きています。不安な時、私たちは本能的に自分の身は自分で守ろうとしますが、その思いはバランスを崩してしまいやすいものです。足りないマスク、自分の分だけを確保しようという思いが、パニックを起こします。

 あるいはこの時、人々の不安な気持ちをお金に変えようとする人がいます。マスクが高額で転売されました。今すべきことはお金儲けではなく、分かち合う事です。命や安全を踏み台にして金儲けをするのではなく、分かち合うことが大切です。私はこの転売を「罪」と呼びたいのです。

 この罪は人間誰しもの中にあります。すべての人が罪人です。状況がもっと悪くなれば、私も人を押しのけてでも自分の分を確保しようとするかもしれません。転売したかもしれません。私たちにはそのような性質があります。それが罪です。人を押しのけて自分だけが生きようとするのが罪です。私たち人間はそれがやめられない罪人です。今本当に足りないのは、マスクではなく、分かち合う心です。マスクより愛が足りないのです。マスクより互いの命への配慮が足りないのです。このような時、聖書は他者を犠牲にして、自分自身を愛することをやめるように語っています。

 今日の個所、イエス様は自分の命の危険を感じ、震えながら、十字架に向かわれます。しかしイエス様は恐怖の中でも自分だけ助かろうとはなさらないお方です。イエス様は逃げる事ができました。しかしイエス様は自分の命が守られるということよりも、他者の命を守るという行動をとるのです。

 その姿は自分の命に固執しなかった姿といえるでしょう。自分を守ることはもちろん大事だけれども、イエス様は他者のために生き、そして死ぬことを選んだお方なのです。26節、イエス様は自分の命を憎めと言います。誰しもが、自分の命がかわいいものです。しかし自分だけを愛し、人を蹴落として生きる命は必ず終わる命です。一方、一生懸命に「共に」生きようとすること、分かち合おうとすることは、新しい輝きを持つ生き方です。それは生死を超えた輝きがあります。

 共に生きようとする時にこそ、神様はその命を、永遠の命、永遠に輝く命であるとしてくださいます。実にそれは、失うことによって多くを得るという生き方です。「自分だけ」から「共に」という生き方の逆転ともいえる事が、今日の十字架の歩みが示していることです。イエス様はこの苦難の時、私たちに3回も繰り返し、仕えなさいと言います。すべての人が、互いに仕え、協力し合うこと、それこそが全員が生きる道なのです。

 私たちは今、病と不安からの解放を願います。そして罪からの解放、自己中心の悪循環からの解放を願います。イエス様はその罪のために死んだのです。今、自分に固執して、自分を守るか。それとも助け合うかが問われています。私たちは助け合うことによって、永遠の命をいただく者となるのです。

 

2020年

3月

15日

「女性に従うキリスト」ヨハネ福音書12章1節~8節

 4月から週報に記載されている「兄」「姉」の表記をなくすことになりました。この表記を変更するのは一つにはジェンダー(役割としての性)の視点、もう一つはセクシャリティー(性自認)の視点によるものです。

 ジェンダーの偏見とは性別によって役割分担を強いることです。女は家庭・男は仕事という区分けをなくしていくこと、それがジェンダーフリーです。日本は特に女性が政治やリーダーから排除される傾向にあります。一方セクシャリティーとは自らの性の在り方を自分で決める事です。恋愛対象を異性に限定しない事や服装などの選択について自分で決める自由があります。その人たち選んだ生き方を受け止めてゆくということが、セクシャリティーの視点です。どちらも多様性を認めてゆくことにつながります。この2つの視点から週報の「兄」「姉」表記の変更を行います。

 教会は男女差別しません。役割を性別によって決めません。多様な性の在り方を認めます。しかしそのように本当に言い切れるでしょうか。私たちが本当に男女差別から解放される時、それは聖書の読み方が変えられる時ではないかと思います。

 今日の個所を見てゆきましょう。今日の個所にはマルタとマリアという女性が登場します。マルタは兄弟ラザロの死の悲しみとつらさの只中にあってもイエス様に助けを求めた、信仰の深い人です。マルタはイエス様への信仰をはっきり告白する人です。これは他の福音書ではペテロが担っている役割です。マルタはイエスを告白する信仰のリーダーだったのです。そして同時に人々に仕える人でした。証しし、食事の奉仕にも立ったのです。

 もう一人の女性マリアも見てみましょう。誰かに油を注ぐとは、その人を王に任命するという意味を持ちます。注いだのはこの女性、ベタニヤのマリアです。ふつうは頭から油を注ぎますが、ここではなぜか頭にではなく、足に注ぎ、さらに足の油を自分の髪で拭ったとあります。すこし不思議な方法ですが、それは確かに油を注ぐというキリストの任命方式です。

 そして驚くべきことにこの後、洗足の出来事が起きます。今さっき、女性、ベタニヤのマリアに油を注がれ、足を洗われたイエス様が、今度は自分が弟子の足を洗い出したのです。まるでそれはベタニヤのマリアを真似するかのような行動です。きっとイエス様は真似をしたのです。イエス様は女性に従ってこの奉仕を行うのです。

 今、大事にしたいことがあります。それはどのように私たちがイエス様に従って行くのかということです。どのように人々に仕える人になるのかということです。男女差別、男女の差、男女の表記を乗り越えて私たちは考えたいのです。イエス様に従いたいのです。性別を超えて人々に仕える生き方を選びたいのです。一緒に家族として、互いに仕える者として、イエス様を追いかけてゆきましょう。

 

2020年

3月

08日

「さよなら原発」ヨハネ福音書9章13~41節 

 日本バプテスト連盟では繰り返し、原発に反対する声明を出しています。原発の課題というのはいくつかに分かれます。例えば核兵器への転用、労働者被爆、コスト、廃棄物の処理方法などです。キリスト教が反対する一番の理由は原発が極端に危険な発電方法だということです。ひとたび事故が起きると、どのような事になるか皆さんもよくご存知でしょう。

 キリスト教は原発が起こす「犠牲を伴う社会構造」に反対をしています。原発は都市部で使う電力のリスクを地方に押し付ける構造です。福島や新潟で大変な危険を冒して作られた電力は、この東京や神奈川で消費されるのです。キリスト教はこのような犠牲に基づいた豊かさに反対をします。

 それは必ず他の犠牲を正当化する社会を産むからです。広く犠牲を求める社会になるからです。私たちの犠牲はイエス・キリストの十字架で十分です。もうこれ以上の犠牲は必要ありません。私たちはこれまで原発の前に、“見えない者”でした。その犠牲を知りながら、向き合ってこなかった者です。

 今日の聖書個所、いろいろな登場人物が出てきます。宗教指導者は終始、自分が正しいと思っています。自分は見えている、見通すことができていると思っています。しかしどうでしょうか、彼らには目を癒したという真実に、向き合う力はありませんでした。次に登場するのは、目の癒された人の家族です。この両親もまた事実に目を向けない人です。一見、中立的態度にも見えますが、無関係、無関心、無知を装います。見ていない、見えない、知らない、私は関係ないと言う態度です。人間はこのような態度を取るのです。

 目を癒された人はどうでしょうか。彼も始めは同じです。25節のように、無関心な態度を取ります。しかし、次第に彼は気づくのです。そしてはっきりとイエス・キリストを証しするようになります。 33節 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです!それは「いい加減に、見るべきものをちゃんと見ろ」というメッセージです。

 この目を癒された人の姿を見て考えさせられます。私たちは何を見ているのか。何を見通すことができているのか、そして想定外として、何を見通すことができないのでしょうか。私は人間の限界に目を向けたいと思います。そしてその中で、犠牲になっている人を見ないようにしていないか、私たちがそれに無関心でいないかを考えたいのです。誰かが誰かの犠牲になっていないか、そのような構造に目を向けたいのです。東日本大震災から9年が経とうとしています。様々に示された犠牲を直視したいと思っています。

 私たちは見たくない現実に、真実に、犠牲に目を向ける物でありたいと思うのです。そして同時に、私たちは神の希望に目が開いた者でいたいと願います。私たちはその御言葉によって目が開かれ、犠牲を止め、希望をいただく者です。私たちは、希望を与えて下さるのは神であることを知っています。それをもう一度受け止め、証しする者となりたいと思うのです。

 

2020年

3月

01日

「ウイルスより差別が怖い」ヨハネによる福音書9章1節~12節

 新型コロナウイルスへの対策について教会でも様々な検討を行いました。基本的に3月中は礼拝と祈祷会以外はすべて中止とすることにしました。苦渋の決断で、この判断がよかったのかどうか、まだわかりませんが、必ずまた再開するという気持ちで一時中断します。

 教会から世界に目を向ける時、今私が心配をしているのは、コロナウイルスの感染と共に、世界中で差別的な言動が起こっているという事です。ある箱根のお店では「コロナウイルスをばらまく中国人は入店を禁止する」と貼り紙が出されました。私たちの身近で、すでに差別が始まっています。

 ウイルスが心配であるという気持ちは誰にもあります。しかし、ウイルスよりも危険なのは、その心配というエネルギーが差別のエネルギーに変わる事です。心配という気持ちは、すぐに差別に変わりやすいこと、予防と差別と境目があいまいになる事も知っておきたいのです。もし私が感染者だとしたらという想像力を働かせましょう。そしてたとえそうでも私たちの関係は何も変わらないということを確認しましょう。同じように神様に愛されている仲間であることに変わりはない、そのことを今日の礼拝で確認しあいましょう。すべての命が神様から等しく愛されている、私たちもすべての命を大切にする。必ず大切にされる。いまこの時、改めてそれを覚えましょう。

 私たち教会の役割は今この時、心配な気持ちを差別のエネルギーに変えない事です。そしてそのエネルギーを祈りと一致のエネルギーに変えてゆくことです。差別をなくしてゆくことにエネルギーを向けたいのです。本当に怖いのはウイルスより差別です。差別はウイルスより早く、そして深く、世界に広がります。そのことに注意を向けていましょう。

 今日の聖書個所、ある場所に生まれつき目の見えない人がいました。彼は地面にしゃがみ込み、物乞いをして生活をしていました。彼を追い詰めたのは目が見えない事よりも、社会からの差別だったはずです。多くの人々は彼を無視し、施しをする人も彼の姿を見て「どんな罪が原因なのだろうか」「どんな悪いことをした罰なのだろうか」と考えながら施しをしたのでした。人びとの中に「私も同じ不自由をもって生まれたかもしれない」という想像力はありませんでした。

 しかしイエス様の態度は違いました。他の人のように差別をしなかったのです。イエス様は彼を一人の人格として、向き合い、声をかけ、触れあい、差別の言葉を否定し、癒し、そしてもう一度社会の中に戻したのです。それこそがイエス様の働きです。実に、差別とは罪です。命に優劣をつける罪です。しかしそれは、主イエス・キリストの十字架によって、もう必要のないこととされたのです。イエス・キリストの十字架によって、私たちはもう誰も差別しない、誰にも差別されないで生きるようになるのです。不安な日々かもしれませんが、今こそ祈りと一致を大切にしましょう。

 

2020年

2月

23日

「毎週宣教題に悩んでいます」

本日は冬季休暇をいただいています。宣教は安西徹さんに担っていただき、この紙面を借りて、いつも悩んでいることをお分かちします。
宣教題についていつも悩んでいます。宣教題は入り口の看板に1週間掲示されます。八間通りを通る多くの学生や散歩中の方、仕事に向かう方の目に触れています。宣教題は不特定多数の方が見る物なので、一般の人にもなるべくわかりやすい言葉にしたいと思っています。例えば「信仰義認」や「悔い改め」「アガペー」といった言葉は通行人の方からは意味が分からないと思いますので、宣教題にするのを避けています。そしてできれば、その一言の宣教題が、うつむいて教会の前を通る人の励ましになることも願って名前を付けています。
先週は「神か、神以外か」という宣教題を付けました。芸能人のローランドさんが「俺か、俺以外か」という言葉で話題になっていることから、興味を引くだろうと思ってこの宣教題にしました。宣教題が道行く人の注意を引くようにということだけであれば、あまり悩むことではないかもしれません。とにかく面白ければよいのです。しかし必要な言葉は面白いだけの言葉ではありません。ある時の「駆け寄って下さる神」という宣教題は、その一言で通行人の方に励ましになるようにと願って付けました。正面玄関の前にはポストを設置して、週報を持ってゆけるようにしています。毎週、何枚週報が無くなったかを楽しみに数えています。
そして何よりも実際に宣教を聞く、礼拝に出席する人にとってこそ、この宣教題は大切です。宣教題は今日の宣教を一言で言い表すとどのような言葉になるかを考えて決めます。宣教の内容すべてを理解し、覚えておくことはできません。全体を理解する導きとなるという意味で宣教題は重要です。その宣教題の一言が、宣教全体をイメージさせるものでありたいと思っています。その御言葉とイメージの積み重ねが私たちを建てあげてゆくのです。
「神様は家族になってくださる」「なんとなく従う」という宣教題をつけた週がありました。宣教題が全体を言い表している事は聞き手にとっても助けになることだと思います。さらにこの宣教題はホームページにも掲載され、全世界に発信されます。誤解の無い宣教題にしなければいけません。
このように考えると、私たちの宣教は言葉と切り離すことが出来ないということに気づきます。私たちの言葉には限界がありますが、宣教とはどのような言葉が神様のことを一番表現できるのかを探す作業だと思うのです。そしてその言葉は、教会を超えて地域や世界に向けて発信される言葉です。
私たちは言葉で礼拝し、言葉で神を現わそうとし、言葉が心の中に残ります。礼拝では互いに言葉を交わします。私たちは今日の礼拝を、言葉を大切にし、心に受ける礼拝としてゆきましょう。今日の礼拝と行き交う言葉のためにお祈りをしています。

2020年

2月

16日

「神か、神以外か」出エジプト記20章1節-7節

「建国記念の日」2月11日は、もともと紀元節と呼ばれた日です。紀元節は富国強兵を推し進めた明治時代から祝われ、日本書紀の神武天皇が即位したという伝説に基づいています。神道では天皇は神ですから、私にとってこの休日は天皇を祝えと言われているように感じます。神道の神・天皇を祝うかどうかは、個人の信仰によって決められるべきです。しかし今日本では、全員が祝う様に、祝日と定められています。ですから教会は2.11を「建国記念の日」とは呼びません。「信教の自由を守る日」と呼び、様々な集会を持ち、信教の自由の大切さ覚える日にしています。
今日の個所でも信教の自由が語られていると私は読みます。私たちは神様と私の一対一の関係の中で、何を、誰を神とするのかが問われます。そしてその中で私は富国強兵の神ではなく、イエス・キリストによって示された神様の事を見つけるのです。今日はそのことを共に見てゆきたいのです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とは、キリスト教は一神教なので自分達以外の神は全部間違っている、関係してはいけないという意味ではありません。聖書はそのような排他的、独善的な信仰ではありません。ここでの対話「あなた(人間)には私(神)を」はそれぞれ単数形です。神様は人間に一対一の個人的な関係の中で語り掛けています。しかも語り掛けられているのは出エジプトによって、主に救われた者です。主に自由にされた人に向けて、他の神ではなく、主に従う様に促されているのです。様々な神の中で、あなたはここまで導いてきた私以外の神に、従うはずはないと語り掛けられているのです。
そしてもうひとつ、私たちの従う神様の特徴を押さえておきたいのです。日本の中にいる多くの神々は「豊かさ」をもたらす神様です。しかしイエス様は「貧しい者は幸いだ」と言います。それは、キリスト教が豊かさばかりを追い求める信仰とは違うということを示しています。明治時代の日本のように相手を負かして、豊かになるという宗教ではないのです。私たちは弱く、貧しい者として、この導いてくれる神様しか頼る場所がいない者として弱さ持って生きてゆく事が促されています。教会より豊かさを感じる場所はたくさんあります。でも私たちは豊かさを求めず、そこに行かないのです。
私たちは豊かさを神としない道を歩みます。この貧しい者と共にいる神以外を拝まないのです。私たちは誇るのは豊かさではなく貧しさです。私たちの神はまずしき者と共にいる神です。私たちの神は痛みと苦しみを負った、十字架のイエス・キリストです。私たちはこの方以外を神としません。他の人々がどんなに豊かさと強さを追い求めたとしても、私たちはそれを神としません。祝わないのです。今週も私たちは一週間を生きていきます。豊かさと強さが欲しくなる一週間です。しかし、神様は貧しさと弱さの中に、おられます。その中に神を見つけて歩む一週間としてゆきましょう。

2020年

2月

09日

「キリスト教のご利益」出エジプト記17章1節-7節

よく「教会に行くとどんなご利益があるんですか」と聞かれます。「あまりない」とか「キリスト教はご利益宗教ではございません」と答えると「じゃあなんで毎週行くのですか?」と不思議がられます。
神様を熱心に信じていても失敗や事故や災害に遭うものです。私たちは、教会に行かない人と同じ様に苦労しています。むしろ毎週教会に行くという分、余計に苦労して生きているともいえるかもしれません。
キリスト教のご利益は無いのでしょうか?私たちはそれにこう答えてはどうでしょうか。「人生いろいろな苦労がある。でも苦労があってもいつも神様が励ましてくれること、それがキリスト教のご利益です。そして神様は励まし合う仲間を下さいます。それもご利益です」今日の聖書の個所も神様の励まし、仲間たちの励ましの物語です。
彼らには災難が起こります。水が足りないのです。そして同じくらい深刻な問題は、仲間割れが起きているという事です。水不足を乗り切るには、全員が一致団結して水を探さなくてはなりません。しかし今、この人々には水を探すために何よりも大切な信頼関係がありません。
神様はモーセに水の探し方、命のつなげ方を教えました。それは励ましでした。もう一度長老たち協力して探してごらんとモーセを励ましたのです。自分を殺そうと言っている人ともう一回協力するように励ますのです。
イスラエルの人々は水を見て気づいたことがありました。それは自分たちの“間”に神様がいたということです。彼らは今までもめていました、そのもめている、その“間”にも、神様が一緒にいたということです。
そして「間」という言葉(ヘブライ語でケレブ)には、もうひとつ意味があります。それは内臓・はらわたという意味です。心の中心、感情の奥深い場所も指します。民は気づいたのです。私たちの“間”にいるということ、そして、私たちの“内側”心の一番奥深くに、神様がいたということに気づいたのです。
この物語は仲間割れの人々、その間に神様がいて下さったという物語です。私たちもときに仲間割れを起こします。家族、グループ、あるいは教会で起こります。ありとあらゆる仲間割れがあります。私たちはこの物語から、仲間割れの間におられ、励ます神様の姿を見つけます。もう一度関係の中に押し出して下さる神の姿を見つけるのです。
そして私たちは一人ひとりが心の奥に、神様からの励ましいただく者です。その励ましを受けて互いに手を取り合いましょう。それが私たちのご利益です。互いに励まし合いましょう。「私たちの間に神様がいる」のです。手がつなげない時もあるかもしれない。でも神様がその間にいる、真ん中にいる、そのことを覚えて1週間を歩みましょう。

2020年

2月

02日

「神の平等さを求めて」出エジプト記16章4節-5節、17節-31節

今日から3回、出エジプト記から神様の姿を見てゆきたいと思います。
ある経済格差に関する報告書によると、去年の時点で10億ドル以上の資産を持つ富裕層、約2100人の資産の合計は、世界の総人口のおよそ6割に当たる46億人の資産の合計を上回っているということです。驚くべき格差です。私たちの世界はこのような激しい格差の中にあります。格差は私たちの身近にも起きています。この豊原町には戸建て住宅が多く、食べ物に事欠く人などいないかのように見えます。しかし、この地域にも生活に困窮している人は多くいます。こども食堂のニーズがきっとあると思います。この地域に結びついてゆくためにも、私たちにできることがあります。神様のみ言葉に押し出されて、その働きをしてゆきたいと思うのです。
今日登場するのは「マナ」という食べ物です。イスラエルの民は奴隷だったエジプトからたくさんの家畜や食料を持って脱出しました。しかしその食料もやがて底をついてしまいます。そこで神様は人々に、食べ物を天から降り注ぐという奇跡を起こされました。蜜の入ったウエハースのような食べ物が空から降り注ぎました。そのマナとは、すべての人に平等で、誰も多くなく、だれも少なくない平等な食べ物でした。
しかし人間の愚かさが現れます。自分だけこのマナをたくさん集めようとする人がいました。今日の分を独占し、自分だけ食べようと考えたのです。止まらない人間の欲望。貧富の差はこのようにして生まれてゆきます。自由を得たはず共同体は平等と公平と格差の問題に苦しんだのです。
しかし神様はそのような欲望には答えられなかったお方です。神様は人々に同じものを同じ様に与えるお方でした。たとえ多く集めたように見えても、それは腐って、臭いを放って価値の無いものになりました。みなを欺いて不正に集めようとしても、独占しようとしても、それは集まられなかったのです。それが神様が私たちに与えられたマナ、平等の食べ物でした。
私たちの世界は平等とは言いがたい世界です。しかし今日の個所によるならば、神様は、きっと私たちに平等を起こして下さいます。多く集めたものはやがて腐るときがきます。多く集めようとした者が何も得るものが無いという時が、必ず起こります。マナが降る時が必ず起こるのです。
私たちは神さまのみ言葉に動かされ、平等を求め、分かち合いを始めます。私たちにできる分かち合いを始めたとき、共に食べることを始めたとき、平等さを感じる時、それがマナの奇跡ではないでしょうか。
私たちは今日、主の晩餐を持ちます。イエス様はヨハネ6:33「私は天から降って来たパンである」と言います。私たちには今日、イエス様というマナが与えられます。それはみ言葉であり、食べ物であり、平等さです。そのマナは私たちの世界の中に平等と公平、平和を起こす力です。私たちは分かち合い、共に同じ分を食べます。そして、世界の事を祈りながら食べるのです。

2020年

1月

26日

「神様もパーティーを楽しむ」ヨハネによる福音書2章1節-11節

出前のお寿司屋さんで働いていた当時、一番つらい事は、そのお寿司を届けられなくなってしまう事でした。様々な事情から届けるのが数時間遅れることがありました。当然、届けた先でお客さんから怒られ、怒鳴られます。家の奥からはお腹の空いた子どもの泣き声が聞こえ、機嫌悪そうに言い争う家族の声が聞こえます。たかが寿司です。でもそれが無いとどれだけ場がしらけるか、どれだけ人を怒らせるかを私は痛いほど知っています。
一方、お客さんの家では犯人捜しが始まっています。そして、だいたい注文をしたお父さんが犯人扱いされているものです。「お父さんがちゃんと頼まなかった」と家族に怒られ、白い目で見られます。今日は贅沢にお寿司だぞと、大風呂敷を広げて、自慢していたお父さんの面目は丸つぶれです。
食事が足りない、飲み物が足りないって案外、大ごとです。特にそれが大事な日であればあるほど、その食事は失敗の許されない食事になります。
今日の聖書個所、他人ごとではありません。イエス様は食事や飲み物が足りない現場にいて、宴会が続くようにして下さるお方です。楽し時を過ごそうよ、そう言って、守って下さるお方です。神様が一緒にいるのは悲しい時だけではありません。喜びの時も神様はともにいて下さいます。そして、それが続くように取り計らってくださるのです。
今日の物語でイエス様は「今あるものに感謝して、満足しましょう」とは言いませんでした。だれも飲みきれない程の量のワインを奇跡によって出しました。それはこの喜びの宴会を続けようというメッセージです。
聖書にはたくさん、悲しみと苦しみに伴ってくださる神様が描かれています。人生の暗闇の中で輝くイエス様の姿が描かれています。でも、神の姿はそれだけではありません。神様は人間の喜びや祝や楽しみがある時も、共にいて下さることがここで示されています。イエス様はこの楽しい時が、人生の喜びの時が終わらないように、続くように、私たちにはからってくださるお方なのです。みんなの笑顔を願われるのが神様の姿です。
宴会に参加している人はこの奇跡には気づきません。気づかず歌って楽しんでいました。私たちもそうかもしれません。楽しみの時、喜びの時、神様の守りを忘れてしまう存在です。この喜びがどこから来たのか、知らない者なのです。でも私たちの喜び、平安には、イエス様が背後におられるのです。
弟子たちはなぜ信じたのでしょうか?それはイエス様が、私たちの喜びを共にしてくださるお方、その喜びが続くように願っているお方だということを知ったから、彼らは信じる者となったのです。私たちもそうなりたいのです。喜びの背後に神様の姿を見つけたいのです。
今の私たち、大きな苦しみの中にある方がおられます。神様はそのような方と共におられます。そして、喜びの中にある方もおられます。そのような方とも神さは一緒にいて下さいます。

2020年

1月

19日

「なんとなく従う」ヨハネによる福音書1章35節-51節

バプテストは民主主義「みんなで決める」を大切にする教会です。大事なことは、総会で決めます。今日の総会では執事を選ぶ選挙を行います。私たちは「“すべて”をみんなで決める」ことはできません。だから執事に多くの判断を委ねます。執事はそれだけ重い責任を担います。バプテスト教会の中で決定的に大事な役割です。大切な働きを祈りながら投票しましょう。
しかし執事の皆さんにも自分の家族、仕事、休みを大事にしてほしいと思っています。投票した皆は、何かを犠牲にしてほしいと思っていません。選ばれたあなたにできることを、出来る範囲でやって欲しい、そのことに信頼して投票をしています。あんまりプレッシャーを感じずにいきましょう。気負いせず、楽しみながらやってみませんか?
さて今日の聖書個所を見てみましょう。今日の聖書の召命物語、他の3つの福音書では、ドラマチックな献身が描かれています。イエス様の呼び掛けにペテロが網を捨てるそんな献身の姿が描かれています。しかし今日のヨハネ福音書はそういうドラマチックな献身は書かれていないのです。
アンデレがまず聞いたのは「今日どこに泊まっているのですか?」です。イエス様へのただの興味です。ナタナエルも最初から疑っています。すぐに信じて従う素直さはありません。彼が信じたのはイエス様が自分のことを「見たことある」と言ったからです。それがなんとなく嬉しくて従ったのです。この弟子たちの従う動機の頼りなさを見て下さい。立派な理由はまるでありません。彼らに覚悟とか知識は一切ありません。ただ興味があったので、ついて行ってみました様な感じです。
私たちも何で教会に来たの?と聞きます。なんとなく入ってみた、それでいいのではないでしょうか。ぶらっと来た、でもそこから始まるのです。とにかく来て見て、やってみて、イエス様と一緒に歩んでみる、イエス様について行ってみる、そういう始め方でいいのではないでしょうか。
イエス様も39節「来なさい、そうすればわかる」と言います。細かい動機を尋ねたり、こんな恵みがあるとか説明をしようとしません。見ればわかる、聞けばわかる、やればわかると言うのです。「くれば分かる」と言われても私たち困ってしまいますが。でもそういうことだそうです。
執事になる、それは一大決心です。だけれども「とにかくやってみましょう」「来なさい、そうすればわかる」それが神様の招きではないでしょうか。
そして今日、いろいろな方が礼拝に来られています。どうぞ構えずに、これからも教会に来てください。一緒にイエス様のこと考えてみませんか。なんか面白そうだからイエス様について行ってみませんか?わからなくてもいいのです。「行けば、わかる」そうです。
神様は「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいます。私もなんとなくついて行ってみようかなと思っています。

2020年

1月

12日

「神は小羊になる」ヨハネによる福音書1章29節-34節

2020年

1月

05日

「神は人になる」ヨハネによる福音書1章14節-18節

先日ある方が祈祷会で「80歳の苦労は80歳にならないと分からない」とおっしゃっていました。きっとそうなのでしょう。その立場になってみないとわからない事がたくさんあると感じます。でもときどき自分と似た体験をしている方がいます。その時私たちは、同じ立場の友がいることをとても心強く思うものです。特に教会ではそういう出会いがよく起こります。そして私たちが、何より感じておきたいのが、神様もそのようなお方だという事です。神様は私たちと同じ立場にいてくださる方だということです。
イエス様はこの地上に、人として生きられました。実際に人間になられたのです。今日はそのことを聖書から聞いていきたいと思います。
当時あるグループの考え方に霊肉二元論というものがありました。これは霊と肉体は別々のものであり、霊は聖いもの、肉体は汚れたものと考える思想でした。そしてキリストが不完全な肉体を持つはずがないと考えたのです。そしてキリストの十字架と生涯も、幻の姿だったと考えました。
しかし、この考えは衰退し、イエス様は人間であり、神であられるお方だと考えられるようになりました。人間か、神かどちらかではなく、どちらでもあるお方だったのです。50%が人間、50%は神だったわけでありません。100%人間です。そして100%神であられた。それがイエス様だったのです。
その立場になってみないと分からないことは多くあるものです。しかし驚くことに、神様は人間になられたのです。この地上に私たちと共に生きるという事を通じて、私たちを理解し、伴ってくださろうとする、それが神様です。神様は「地上は汚れた物、私は聖なる者」そのように自分とこの世を分け隔てなさらない、分離しない、お方なのです。
私達は聖なるもの、汚れたもの、世界を二つに分けてしまうことがあります。でも神様ご自身は分け隔てをしないお方です。聖い場所を求めるだけではなく、今ここに神がいます。神は聖い場所にいるのではなく、いまここに神がいるのです。そのような神をいただく、私達です。
このことは私たちに、相手と自分を二分するのではなく、もう少し互いに立場から考えることも教えてくれるかもしません。神が私たちの立場になって下さるお方だからです。同じ苦しみを持つ人と分かち合うという事を教えてくれるでしょう。神様がそうして下さる方だからです。
私達は今日、主の晩餐を持ちます。私たちはこの主の晩餐を、確かに神がこの地上に生き、色々な人と、分け隔てなく共に食事をした。そのことを記念して行います。そして、イエス様はおっしゃいました。「このように行いなさい、これは私の体である、取って食べなさい」と。今日、私たちは再びこの地上に、私たちの中に、このパン、イエス様をいただきましょう。そしてイエス様が私たちのところに、確かに来て下さった、そのことを私達がもう一度確認しましょう。

2020年

1月

01日

元旦礼拝「神は家族になって下さる」イザヤ書43章1節-7節

あけましておめでとうございます。お正月は東西南北へ散っていた家族が集まる時を持たれる方も多いでしょう。家族の温かさ、気兼ねなさを思い出したり、自分の家に帰る居心地の良さを感じているでしょうか。また親族とのちょっとした緊張があるのもお正月の独特な雰囲気かもしれません。
私達は、今日もこの礼拝で「主の祈り」を祈りました。この中にも家族の関係が登場します。私たちは神様を「父」と呼びます。私たちは神様の家族なのです。父という言葉はもともとアッバという言葉でした。アッバは、父という言葉を、より親しみを込めた「お父ちゃん」という意味の呼びかけです。私たちと神様は「お父ちゃん」と呼びかける親しい家族の関係なのです。
今日の個所も、旧約聖書イザヤ書ですが「神様は私たちの家族になって下さる」という事を伝えています。そして神様は東西南北から、子どもである私たちを集めて下さるお方です。そして神様が私たちを礼拝する者にしてくださるという事を伝えています。ご一緒に聖書に目を移しましょう。
「贖い(ガーアール)」という言葉があります。ガーアールという言葉は、例えばルツ記で使われています。去年、教会学校で一緒にお読みしました。ルツ記にはナオミの親戚ボアズはナオミとルツを守るために、親族の役割としてルツと結婚したという物語が残っています。ボアズは寡婦を守るために彼女の家族になるのです。この結婚のことをゴーエールと言います。このゴーエールは「ガーアール(贖い)」が元の言葉です。それは他の人の代わりに、その人の家族となり、助けるということが基本的な意味です。神様は私たちを贖ってくださいます。家族を愛し、助けるように、特別に大切にしてくださるのです。神様は特別な親しみを持って、私たちを守って下さるお方です。その愛は私達一人ひとりに注がれているのです。
神様は様々な困難から私たちを守って下さいます。行き詰まりを感じたとき、モーセが海が開けて対岸に渡ったように、私達が行き詰った時にも必ず希望があります。ダニエルが火の中に入れられても守られたように、どんなに苛酷な状況に置かれても、主の守りがある、神様が一緒におられるのです。
神様はいつも私達と共におられる方です。そして神様は東西南北から子供たち、私達を集められます。地の果てからでも、この礼拝に招くのです。これは中東のイスラエル共和国に集結・・・という話ではありません。それは私たちが今集っているこの礼拝です。この礼拝がイスラエルなのです。
今日、元旦、私たちはまた東西南北、色々な場所から集まり、礼拝を共にしています。素晴らしいことです。今年一年も家族のように時間を共にしましょう。そして神様が私達を礼拝に呼び集めて下さいます。礼拝で共に神様が呼び集め、私たちの家族となって下さり、特別に愛を注いでくださっていることを喜びましょう。その招きから始まる一年を喜びましょう。その恵みに応答し、礼拝を献げる1年をとしてゆきましょう。

2019年

12月

24日

イブ・キャンドル礼拝「飼い葉桶のイエス様」

ルカによる福音書2章6節~7節
「ところが彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

イエス・キリストの母マリアは旅先で出産しなければなりませんでした。どれほど不安だったでしょう。さらに彼らには泊まる宿屋すらありません。
もし、そのような妊婦が私の宿泊するホテルを訪ねているのを知ったら、私は大急ぎでその人に部屋を譲るでしょう。しかし、この時それは起きませんでした。ホテルの先客たちはそれを知らずにいたか、あるいはそれを知っても見なかったふりをしました。
イエス・キリストは人々の保護と愛情を一身に受けて生まれたとは言い難い環境に囲まれていました。彼らは仕方なく、家畜小屋で出産をすることとしました。出産に必要なものはほとんどありません。彼は「飼い葉桶」、つまり動物の餌を入れておく箱、エサ入れの中に寝かされたのです。それは動物の唾液とニオイで臭く、ひどく不衛生なものでした。そこにしか彼に居場所はなかったのです。赤ん坊がおよそ人間らしい扱いをされない場面、それが私たちが祝うクリスマスです。
この苛酷な出産の何が、孤独な出産の何が一体、喜びなのでしょうか。私たちの喜びは大いに逆説的な喜びです。素直には喜べない、この痛みと孤独、その中に私たちは希望を見つけるのです。
それはイエス・キリストは、私たちが一番状態がいい時に、私たちに訪れるのではないということを示しています。順調、健康、裕福、仲間に支えられている、イエス・キリストの誕生は全くそれとは逆の場面に起きた出来事でした。逆境、痛み、貧困、孤独のさなか、そのような中に、イエス・キリストが生まれたてきたのです。
イエス・キリストが私たちの中に生まれて来た、その喜びをここに見出します。神様と等しい方が、このような逆境と、痛みと貧困と孤独の中に生まれて来たということが喜びです。そうです、神様は私たちの遠くに、天高くいて、私たちを見下ろし、善い行いをした者にはよい出来事を、悪い行いをした人には悪い出来事を起こす、そのような方ではありません。
あなたの苦しみを知り、あなたの現実に目を向け、あなたの現実といつも共にいて下さるのがイエス・キリストなのです。皆さんにも今日、その喜びが与えられています。あなたの地上の厳しい現実の只中に、痛みの中におられるのがイエス・キリストです。あなたのその中に、神様と等しい方が生まれ、一緒に歩んでくださる、それがクリスマスの喜びです。
一緒にそのクリスマスを喜びましょう。メリークリスマス。

平塚バプテスト教会

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11月22日(金)平塚教会にて結婚式が執り行われました

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