なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 ガラテヤ2章12節
今日はガラテヤ書から当時の食事の問題について考えます。当時キリストを信じる人は大きく「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」がいました。アンティオキア教会では「ユダヤ人キリスト者」も「異邦人キリスト者」も、みんなで一緒に礼拝し食事をしました。このことは当時大変珍しいことでした。ユダヤ人はユダヤ人以外とは絶対に食事をしないという人がいたからです。
食事の規定の中には、豚肉を食べないなどの規定もありました。どうやって一緒に食事をしたのでしょうか。ユダヤ人キリスト者が食事規定のすべてを捨てて、異邦人キリスト者と一緒に食事をしたわけではなかったはずです。また逆に、異邦人キリスト者が、ユダヤ人のように豚肉を食べるのをやめたというのも考えづらいです。おそらくお皿や食べ物が分かれていました。一緒には食べるけど、食事はそれぞれの考えに合わせて作られたのでしょう。このように一堂に会する食事はアンティオケ教会ではとても大事にされました。それはこの教会の特徴であり、この教会の宣教でした。神様はこのようにして、ゆるやかな一致を起こされました。
当初はペテロも一緒に食事をしていました。しかしエルサレムから厳格派が来て注意されると、ペテロは徐々に態度を変え異邦人キリスト者との食事を避けるようになりました。これにはアンティオケ教会一同、大変がっかりしたに違いありません。異邦人キリスト者は、自分たちを受け入れないのだとがっかりしたでしょう。これがアンティオケアの事件でした。
どちらが良い悪いではなく、2000年前から、誰と一緒に食事をするのかということ多様な考え方がありました。ユダヤ人社会の中でどうやってキリストを信じるかということと、様々な宗教が混在するアンティオキアでキリストを信じる事とは大きな違いがありました。置かれた場所によって理解が違ったのです。
さて、この個所からどのような生き方を考えるでしょうか。まず私たちはアンティオキア教会と同様に昼食会やこども食堂にもっといろいろな人が来て、一緒に食事がしたいと思っています。それが私たちの教会の特徴であり、宣教だからです。主の晩餐はどうでしょうか。それは一緒に考えたいと思っています。神様は私たちをそのようにゆやかに一致させる方なのではないでしょうか。
私たちのそれぞれの生き方はどうでしょうか。私たちは誰かに無理に同一、同質、“同化”を押し付けなくてよいでしょう。誰かに私たちが無理に一致する必要もないでしょう。私たちの社会でも違いをもったまま、ゆるやかに一致することができないでしょうか。同じテーブルだけどメニューは違う、でも大切にしているものは同じ。社会も教会もそんなゆるやかな一致ができないでしょうか。神様は私たちをそのように一致させてくださる方なのではないでしょうか。お祈りします。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 ガラテヤ2章16節
今月から2か月間、パウロ書簡から宣教をします。世界中のキリスト教の中でNPP“New Perspective on Paul”パウロを新しい視点でとらえようという試みが盛んです。これまでパウロは書簡全体で律法批判と信仰義認論を語っていると考えられてきました。しかし、近年の研究でそのとらえ方は大きく変わってきています。NPPではパウロが批判しているのは律法ではなく差別であるということ、信仰と行い両方が大事だととらえています。この潮流は世界的なうねりになっています。
今日の聖書個所の執筆当時、まだキリスト教とユダヤ教ははっきりと分かれていませんでした。そこではイエス・キリストを信じる人は、まずユダヤ教に入ることが必要なのかという問題がありました。男性がユダヤ教に入信するには割礼(男性の性器の皮を切り取る儀式)が必要です。キリストは信じるが、本当にユダヤ教の習慣に従うべきか迷っている人が多くいました。キリストを信じている人の中には2つの立場がありました。割礼を受けるべきだと考えたのが厳格派、割礼はいらないと考えたのが穏健派です。後にキリスト教は穏健派が中心になってゆきます。
パウロの論争の中心はキリストの信仰をすでに持っている人を、共同体がどのように受け止めていくかということです。割礼は信じている印ではなく、ユダヤの民族の印でした。割礼の有無は人々の隔ての壁になっていたのです。パウロはどのような民族であっても、キリストを信じる信仰があれば、無理に割礼をしなくてもよいと考えました。パウロが本当に批判したのは割礼そのものではなく、割礼の有無による差別でした。パウロは、あなたはあなたのままで、キリスト者としてこの仲間に加わることができると訴えたのです。
16節には「信仰によって義とされる」とあります。人は割礼を基準として義とされるのではないという意味です。元々この共同体は割礼の有無ではなく、神様を信じているという信仰の有無が一番に大事にされる集まりであったはずです。
19節には「私は神に対して生きる」とあります。それはどう生きるかという私たちの行為に対する問いです。大切なのは信仰か行為かどちらかではありません。大切なのは信仰を持ってどう生きるかということです。私が十字架にかかるとは差別と隔てを持った私が、キリストと共に十字架につけられて殺されるということです。
20節には「キリストが私のうちに生きておられる」とあります。私の隔ての壁は十字架に架けられて死にます。その後の私の中にはキリストが生きるのです。
21節それが、神の恵みを無駄にしない生き方なのです。
私たちの社会を考えます。私たちはその壁をどうやって低くし、無くすことができるでしょうか。その人のそのままを受け止めてゆくことができるでしょうか?私たちの教会はどうでしょうか。私たちは共同体としてどのようにして、どこまで、ありのままを受け入れることができるでしょうか。お祈りします。
すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
使徒言行録17章25節
今日は礼拝の説教について考えます。礼拝の中で一番大事なのは「聖書朗読」です。説教のない礼拝はありますが、聖書を読まない礼拝はありません。礼拝は第一に聖書・み言葉を中心とした集まりです。しかし聖書は一人で読んでいてもわからないものです。教会では毎週、誰かの聖書の受け止め方を聞きます。誰かの話を聞くと、わからなかった個所に、何か生きるヒントがあるような気がしてくるのです。
説教とはおそらく、そのように聖書の言葉を私たちの現実の中でどう聞くのかを考える取り組みです。私たちは今日このような礼拝と説教の時に呼び集められています。神様が教会に行き、仲間と会い、聖書を分かち合う様に促しています。神様が教会でどう生きるか考えてくるようにと促しているのです。今日この説教の時間、聖書からどう生きるか一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。
今日の聖書箇所は使徒言行録17章22節~34節です。パウロのこの説教は4つの事を語っています。1つ目は25節、神様はすべての命を作った方であり、その命は尊ばれるものであるということです。語っているのは刑事裁判の会場です。パウロは命を傷つけあう現実が明らかにされる、そのただなかで、命は大切にしなければならないということを語っています。その生き方を聴衆に問いかけています。2つ目に語っていることは27節、神様は私たちのすぐそばにいるということです。神様なんて存在しないと感じる現実があります。でもそんな時にこそ一人一人の近くにいるのです。だから希望を失う必要がないという宣言です。希望を持つ生き方をしようということです。3つ目は30節、悔い改めについてです。悔い改めとは生き方の方向転換をすることです。私たちの生き方を変えるようにと語っています。4つ目は31節です。パウロは、イエス様が確証を与えてくれると言っています。命の大切さ、希望を持つことの大切さ、生き方の方向転換、それはイエス様が教えています。イエス様がいるから神様の創った命の大切さ、希望も持って生きる事の大切さに確信を持ち、方向転換することができるのです。
32節、聞いた人々は一人一人感想が違いました。みな自分で考えたのです。その中から少数ですが従って生きる人が起こされました。これがパウロの説教です。私たちの礼拝でもこのような時が持たれています。アレオパゴスの現実のように、私たちには置かれた現実があります。その中で聖書の言葉が響き、説教が語られます。互いの理解を聞いて、私はどう生きるのかを考えます。私たちはその生き方の確証、確信を得るために今日集まっています。神様に集められています。
礼拝の中心に聖書があります。そして礼拝の中に説教があります。今週も聖書の言葉を聞き、互いの言葉を聞きました。そしてイエス様からの確証をいただきます。さて私たちは今週をどのように生きてゆけば良いでしょうか?それぞれの1週間が豊かな愛にあふれた1週間であるように願います。お祈りします。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章13節
今月の宣教は礼拝と礼典について考えています。8月から礼拝の「祝祷」が試験的に「派遣の祈り」になっています。礼拝は招きで始まり、派遣で終わる構造です。これは私たち礼拝者の1週間をよく表しています。私たちの1週間は日曜日、神様に招かれてこの礼拝に集うことから始めます。私たちは礼拝から生きる力をもらい、聖書とお互いから励ましをもらい、また派遣されてゆくのです。
派遣の祈りは平塚教会では次のように祈られています。「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」
クリスチャンは神様から1週間、職場や家庭や地域に派遣されていくと考えます。派遣された先では難しい人間関係や難しい問題に対処することになります。でも週の始めに神様が力を下さいます。だから私たちは1週間なんとか生き抜くことができ、なんとか愛をもって1週間を過ごすことができます。よい共同体を作る、そのために働くことができます。礼拝で一人一人が力と言葉をいただき、それぞれの場所に派遣されます。私たちはそこで愛し、仕える、1週間を過ごしてゆきましょう。
今日の聖書箇所を見ましょう。「聖霊の交わり」という言葉があります。教会では私たち同士の交流や祈り合い、励まし合い、食事を「交わり」と呼びます。教会は交流や信頼関係のある共同体づくりを大切にしてきました。聖霊の交わりとは、聖霊によって生まれる交わりのことです。神様が私たちに力と言葉を与え、私たち人間の間によい交流が、よい信頼関係が、よい共同体があることが聖霊の交わりです。
コリント教会は様々な課題があり、分裂しそうな教会でした。ぎくしゃくする共同体に、神様の力と言葉によって、よい信頼関係が起るようにと祈っています。そしてこの言葉は私たちに向けた言葉でもあります。派遣された場所で聖霊の交わりがある、よい信頼関係がある、そのような共同体を作ることが勧められています。
私たちの1週間が始まりました。私たちは今日またこの礼拝から派遣されます。私たちは聖霊から力をいただき、よい交わりを、より人間関係を創ることができるはずです。私たちはそのような聖霊の交わりを作る1週間を歩んでゆきましょう。
今日、敬老祝福祈祷の時を持ちます。高齢の方々の1週間が守られるようにお祈りします。高齢者の方がこの共同体のよい交わり、聖霊の交わりを守り続けて下さったことに感謝します。
私たちは1週間、こどもも大人も高齢者もそれぞれの場所でできる愛、仕えること、聖霊の交わりをつくること、その祈りを大事にしてゆきましょう。そのために今日もこの礼拝からまた派遣されてゆきます。お祈りをいたします。
宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
ルカによる福音書14章13節
聖書教育の発行回数の変更をきっかけに、教会員以外の方にも週報棚ができました。教会にとって大きな変化です。社会でも所属意識が変化しています。教会の境界線はどこにあるのかを疑問に思っています。ある数学のモデルが参考になるかもしれません。右に2つの図があります。左側のこれまでの教会はAさん・Dさんと、Bさん・Cさんは、はっきりとした境界線で区切られていました。誰がメンバーで、誰がそうでないかはっきりとしていたのです。しかし右側のモデルは違います。この共同体の境界線はアメーバのように変化します。いままで外側の人であったCさんはメンバーの中におり、Cさんを受け止める柔軟さがあります。Bさんは引き続き違う人です。Dさんは今まで同じと思っていましたが、実は境界線上にいる人です。大事なのは真ん中の点です。そして大事なのはその点に近いか遠いかではなく、その点を目指しているかどうかです。この共同体は、中心の点から多少距離が離れていても、その人を取り込むように組織の形を変えることができます。この図は教会の新しい境界線に示唆を与えてくれます。
今日はルカによる福音書14章7節~14節です。この個所は私たちに変化を求めている箇所です。柔軟に境界線を変えようという話です。特に後半を見たいと思います。私たちは誰を招くかが問われています。聖書によればこの人たちがまっさきにパーティーに招きたいと思ったのは気心の知れた仲間と、価値観が一緒の仲間です。そこにお金持ちや有力な人が入ると組織に箔がつきます。
しかしイエス様は言います。もしパーティーを催すときには、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を招くようにと。私たちが招く人を変えるようにという教えです。このパーティーは教会と言い換える変えることができるでしょう。イエス様は誰をこの共同体に招くのかという境界線を見直すように言っています。そこには私たちが今まで思ってきた招きと違う招きがあるはずです。
私たちは価値観も違う、血縁もない、たいして金持ちでもない集まりです。でも私たちは今日神様に集められています。お互いに人生に困り、疲れ、悩み、不自由を感じています。その私たちを神様が今日集めて下さったのです。私たちは今までの境界線を変えることができます。イエス様はそのように私たちに伝えているのではないでしょうか。お祈りします。
今日から1ヶ月は礼典をテーマとして宣教をします。今日は主の晩餐について考えます。主の晩餐とはイエス様のことを思い出すために行われる、小さな食パンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会ではこれに参加できるのはクリスチャンのみとしています。ただしバプテスト連盟の調査によれば諸教会の主の晩餐の持ち方は多様で、以下の通りです(数字は教会数と構成比)。教会ごとに祈った選びに正解も不正解もないと思います。大事なのは、私たちの教会はなぜそのような選びをするのかを考え、知り、紹介できるようにしておく事です。
今日はルカによる福音書14章15節~24節です。一緒に食事をしていた人が言いました「この食事でこんなに幸せなのだから、神様に愛されている、大切にされているのを感じながら食事したら、どれだけ幸せなのだろう」。イエス様はそんな時、食事会のたとえ話を始めます。たとえ話で主人は次々に友人から宴会の出席を断られます。主人はとても傷ついたはずです。落ち込んだ主人は、自分と同じように悲しい思いをしている人に食べてもらおうと考えます。宴会はそのような人が呼び集められました。そしてまだ席が空いていました。主人は誰でもいいと言いました。
このたとえ話でイエス様はこれが神の国だと伝えました。神の愛はだれにでも無条件、無償で分かち合われるのです。神様の愛、招きとは、席はすでにそこにあり、誰でもいいからこの席・この愛に加わって欲しいという招き、それが神様の愛です。
主人は当初、限られたメンバーで食事をしようとしたとあります。私はそれは、それでよい部分があったのではないかと思います。きっと主人は自分の喜びと気持ちを深く理解して、一緒に喜んでくれる仲間が欲しかったはずです。せっかくのごちそうだから、私の喜びをよく理解している人と食べたい、祝ってもらいたいと思ったのが主人の最初の気持ちでした。それも良くわかります。でもこのような結果になりました。主人は次の食事会をどのように持ったでしょうか?
私たちはこの食事のたとえから何を考えるでしょうか?私たちの主の晩餐の意味をどのように考えるでしょうか。イエス様を思い起こす主の晩餐に、正解か不正解かはありません。私たちはどうして今の在り方なのか、これからどう進んでゆけば良いのか、来週も共に考えてゆきましょう。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。 マタイ6章13節
主の祈りを宣教のテーマとしています。今日が最後です。主の祈りの中にある豊かなイメージをもう一度確認してきました。
キリスト教の「救われる」とはどんな意味でしょうか。ご存じのとおり、キリスト教を信じれば悪いことが起きないわけではありません。この祈りを祈っている人は皆、まだ救われていない人、いま試練と誘惑と悪の真っただ中にいる人です。だからこそ私たちはすべての人が一緒に祈ります。
聖書のもともとの言葉で「救う」とは、戦場から脱出する時に使う言葉です。敵に囲まれた戦場から引っ張り出されることが「救われる」ことです。
キリスト教を信じていても試練や誘惑が起きます。ではキリスト教を信じるメリットは何でしょうか。キリスト教のメリットを挙げるなら、祈ることができるということでしょう。どんな人も同じ試練に遭遇します。しかしその時、キリスト教には「救ってくれ」と祈る先があります。それは事態を変えない、ただの気休めのように感じるかもしれませんが、そうではありません。誰かに祈ることができること、それは私たちを変えます。私たちは孤立無援ではないのです。神様が共にいます。神様の存在が私たちを絶望させず、私たちに力を与えるのです。
クリスチャンはいつも神様に弱々しく「救ってください」と祈っています。自分の弱さを良く知っているから祈るのです。このように自分の弱さを知って、祈るのがクリスチャンといえるでしょう。私たちは弱さと欠けを持った等身大の私として神に祈るのです。
私たちが救われたいのは何からでしょうか?今抱えているひどい人間関係の中から、ひどい病気の中から・・・私たちは救いを求めています。そしてもうひとつ大事なことがあります。これは私の救いではなく、私たちの救いを求める祈りだということです。個人的な祈りではなく世界の救いを求める祈りでもあるということです。私たちの世界には大きな試練、悪と不正がたくさんあります。この祈りはそのような世界からの救いを求める祈りでもあります。
「救い出したまえ」それは試練にあう私たち、すべての人の祈りです。そこからの脱出を求める祈りです。この祈りは、神は私たちと共にいると感じさせ、力を与える祈りです。そしてこれは世界の救いを求める祈りです。
6回にわたって主の祈りを見てきました。私たちのいつものお決まりの祈りは、私たちの知らないところで豊かな意味を持っていることを知りました。信仰を持つ、キリスト教を信じるとはいったいどんなことでしょうか。それはきっと何かの教理を信じること、洗礼を受けることだけを指すのではありません。大事なのはこの主の祈りを一緒に祈っているかどうかではないでしょうか。私はこの祈りを祈る者、この祈りを生きる者になりたいと思います。最後に一緒にこの主の祈りを祈りましょう。
我らが罪をゆるすがごとく、我らの罪をもゆるしたまえ マタイ6章12節
主の祈りについて考えています。今日見てゆきたいのは「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」についてです。この祈りには「私はあの人のことを赦します」という宣言が含まれています。だからこの個所は主の祈りの中で一番自信を持って祈ることができない箇所です。「我らが罪を○%×$☆♭#▲!※、我らの罪を赦したまえ」とごまかしたい祈りです。なかなか宣教もしづらい箇所です。
この祈りをもっと知るために、罪とは何か、赦すとは何かという2つの側面から考えたいと思います。罪とは大きくは命を傷つけることです。法律で禁止されているかどうかに関わらず、人の命を傷つけたり、見下したり、物のように扱う事が罪です。一番大きな罪、わかりやすい罪は戦争です。私たちは直接的かどうかに関わらず、いつも誰かの命を傷つけてしまう存在です。私たちは罪人です。私は罪人ではないという人は、自分の罪に気づいていない罪人でしょう。
では赦しとはどんなことでしょうか?赦すとはもうこれ以上その問題について相手を責めないことです。以前の関係に戻ることです。関係の回復が赦しです。一番わかりやすい赦しは借金・負債の免除です。ただここで注意が必要なのは「赦す」とはきれいに水に流し、忘れてしまうことではないということです。赦しとは、忘れはしないけど、でも関係を回復するということが赦しです。
キリスト教では「赦しなさい」と教え、赦しを強制してきた部分があります。しかしその教えは、多くの二次被害を生んできました。赦すか赦さないかは本人の自由です。赦しには時間がかかるものです。簡単に赦す必要はありません。加害者の誠実な謝罪や償いは赦しへの一歩となるときがあります。でも本人が赦せないと思うなら、赦さなくていいのです。人が人を赦すことは難しく時間がかかります。
では神様はどうでしょうか?神様は罪を犯した横から自動的に、機械的に赦してゆく方なのでしょうか。違います。神様はきっと私たちが自分の罪を罪と認め、もうしないと固く思うことを期待しています。そしてもう二度としないと誓う時に、初めて神様は私たちの罪を赦してくださるのです。それが神様の赦しです。神様は私たちが罪を罪と認め、もうしないと誓う時、赦し、関係を回復してくださいます。
今日の祈り「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」は赦しますと思っていない人、赦さない人はこの祈りは祈れません。おそらく誰も祈れないはずです。しかし「私は赦す」と祈ります。そこには私たちの矛盾と破れがあります。祈れない祈りです。でも私たちはその矛盾に希望を置くのかもしれません。赦せないのに赦しますと祈る、赦されないことが赦される、その矛盾と破れの中に私たちの希望があるのではないでしょうか。赦せないのに、赦しますと祈る、そのはざまに神様はいて下さるのではないでしょうか。
これは本当に祈れない祈りです。今日は主の祈りは祈らずにおきましょうか。でもやはり祈りましょう。赦せなくてもいいから、赦すと一緒に祈りましょう。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ マタイ6章11節
今月と来月は主の祈りをテーマとして宣教をしています。この祈りには食べ物を求める祈りと、心が満たされることを求める祈りの2つの側面があります。今日はそれぞれの側面を見てゆきたいと思っています。
イエス様の時代、飢饉と貧困と格差は大きな社会問題でした。食べ物が無い飢餓の様子は地獄の様でした。飢饉の恐ろしさ、残酷さは一度体験したら一生忘れることが出来なかったでしょう。パンが無いことは心にも体にも深刻なダメージを残しました。飢饉に対して人々は差し迫った恐怖感をいつも持っていました。飢餓は天候不良だけが原因ではありません。飢饉が起るとお金持ちはありったけの食料を買い上げ、大儲けしました。不平等な制度も飢饉の原因です。イエス様の祈りはこのように元来、食べ物のための必死の祈りです。生存を求める祈りです。社会の不平等が終わる公正さを求める祈り、飢餓撲滅、貧困撲滅の祈りでした。
もう一つの側面をみましょう。余裕があり飢饉とはほとんど無縁の生活をしている人たち(私たち)はこの祈りを、日々私を支える聖書の言葉、霊的な支えが与えられるための祈りと解釈しました。私たちはこの2つの側面を知り、この2つを両方とも大事にしながら祈りたいと思います。そして特に私たちが特に忘れてしまっている貧困撲滅の祈りの側面を見直すきっかけは「我らの」という言葉だと思います。
「我らの」とは「私の」ではなく「私たちの」という意味です。この祈りはみんなの食べ物が与えられる様にという共同体の祈りです。それは私が(私だけが)食べればよいという祈りではありません。私の周りでどんな人が食べられないかを考えさせられます。私の身の周りには最近食事があまり食べられなくなってきているという高齢者がいます。私だけではなくておじいいちゃん、おばあちゃんがしっかりご飯を食べることができますように、この祈りはそのような祈りです。夏休み期間中に体重が減ってしまうこどもがいます。こどもたちが夏休み、しっかり栄養とバランスの良い食事を食べることができるように祈りたいと思います。もっと世界に目を向け「我ら」を私たちの世界とまで広げることができます。戦争は世界の飢餓の原因のひとつです。みんなに食べ物がゆきわたりますようにというのは、戦争が終わりますように、平和がありますようにという祈りとつながっています。
今日は主の祈り「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」を見て来ました。私たちはこの祈りをどのように新しく祈ることができるでしょうか。これは我らの、みんなの祈りです。食べ物の祈りです。貧困撲滅の祈り、飢餓撲滅の祈り、平和の祈りです。みんなが満たされるように祈る祈りです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」は食べ物と平和が世界にゆきわたりますようにという祈りです。この祈りがもっと世界に広がるように祈ります。私たち一人一人の中にもこの祈りが広がってゆくことを祈ります。私たちはこの祈りで結び付けられ、それぞれの場所で具体的に働けるように力が与えられるはずです。主の祈りをもう一度一緒に祈りましょう。
御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ
マタイによる福音書6章10節
主の祈りをテーマに宣教しています。今日は沖縄訪問の話を聞き、絵本を読みます。今日は平塚大空襲があった日です。平和についてこの祈りから考えましょう。
「御国が来ますように」。御国は「おくに」ではなく「みくに」と読みます。神様の支配が世界の隅々までありますようにという祈りです。神様の愛と平和が世界のすみずみまで支配するようにという祈りです。
78年前の戦争は御国(みくに)のためではなく、御国(おくに)のためでした。その中心は天皇でした。御国(おくに)のため、天皇の支配のために多くの人が殺されました。結果は証しと絵本のとおりです。沖縄では残酷な地上戦が行われました。人々は這いずり回って逃げました。命が宝だ「ぬちどぅたから」と言い合い逃げました。天皇の支配する国、力と暴力の支配の恐ろしさがわかります。それはまるで神様の支配する天とは正反対の地獄です。
もし私たちがあのガマ・洞窟で主の祈りを祈ったらと想像します。主の祈りをガマで祈ったとしたらきっと一番力を込めるのは「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」です。神様に求める御国(みくに)とは天皇の支配する御国(おくに)ではありません。天皇の支配ではなく、アメリカの支配でもなく、力と暴力の支配ではなく、神様の愛と平和を求める祈りです。平和な世界が来ますように。愛にあふれる世界が来ますようにという祈りです。
祈りは「御心が天になるごとく地にもなりますように」と続きます。御心とは神様の意思、神様の願いのことです。七夕の短冊には自分の願い事を書きます。しかしキリスト教の祈りは神様の願いが叶いますようにと祈るです。
「天になるごとくに地にもなさせたまえ」の「天」とは神様の愛と平和の支配が行き渡っている場所です。死後の世界ではなく、私たちが今生きている地上が、力と暴力が支配するこの地上が、天のように、愛と平和で満たされるようにという祈りです。この地上が天国のようになって欲しいという祈りです。様々な力と様々な暴力がこの地上を支配しています。そんな世界だからこそ私たちは祈りましょう。この地上があの天のように、神の愛と平和で満たされてることを祈りましょう。今私たちが生きる、この場所が天、神の愛と平和で満たされた場所となるように祈りましょう。今この祈りが本当に必要とされています。
「なさせたまえ」は神様が実現してくださいという意味です。しかし私たちは神様にお任せして、何もせず待つだけではありません。「なさせたまえ」にはそのために私たちを使ってくださいという意味も含みます。待つだけではなく、私たちを御心を地上で実現させる者と「なさせたまえ」という願いを含んでいます。
私たちはこの祈りをどのように祈るでしょうか。それぞれの場所で御国と御心を祈り、そのために働きましょう。一緒に主の祈りを祈りましょう。
御名が崇められますように。 マタイによる福音書6章9節
主の祈りについて宣教をしています。今日は主の祈りの「願わくは御名を崇めさせたえ」について意味を考えましょう。大事なのは「御名を崇めさせたまえ」です。
御名(みな)とはキリスト教用語です。キリスト教では神様のことについて頭に「御(み)」をつけます。人びとは神様の名前をみだりに唱えないために、神様のことを「御名」と言い換えました。
「崇めさせたまえ」とは「聖なるものとなりますように」という意味です。神様を聖なるものとするとはどんなことでしょうか。反対に神様を汚すこと、神様の顔に泥を塗るなら、私たちは簡単に想像ができるかもしれません。
たとえば日本の教会では戦時中、戦闘機購入のための献金が熱心に募られました。当時のバプテスト教会も熱心に協力をしました。戦闘機には「日本基督教団号」と書かれ、戦争へと旅立っていったそうです。教会は戦争に熱心に協力をしました。これは神様の顔に泥を塗ることです。広島に原爆を落とした飛行機エノラゲイは出発前、牧師が作戦成功の祈りをささげたそうです。これも神様を汚すことです。ナチスドイツの兵士のヘルメットにも「神は我々と共にいる」と記されていたそうです。
このようなことが神の名を汚すことといえるでしょう。戦争のために神が利用されました。みだりに神の名が唱えられ、汚されました。神を聖なるものとせず、あがめず、自分たちを正当化するために利用したのです。「崇めさせたまえ」「聖なるものとされますように」というこの祈りは、神を汚すことが起りませんように、私たちが神様を聖なる存在にし続けることができるようにという祈りです。
レビ記19章2節(191ページ)では神様が私たちにこう呼びかけています。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。」そしてその後に、聖なる生き方とはどのような生き方なのかが書いてあります。貧しい人や外国人と食べ物を分かち合え。盗むな。嘘をつくな。奪い取るな。雇人は賃金をちゃんと払え・・・。神様はそれが聖なる生き方であり、神様を聖とする生き方だと教えています。そしてレビ記19章18節には「隣人を自分のように愛しなさい」とあります。これはイエス様がもっとも大事なことだと言った箇所です。これが聖なる生き方です。隣人を愛して生きる事、それが“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”なのです。神様を聖とすること、それはなにより私たちが互いに愛し合って生きるということです。神を聖とすることとは、私たちがお互いを大切にしあうことです。御名を崇めるとは私たちが愛し合う事なのです。
私たちは「御名を崇めさせたまえ」をどう祈ったらよいでしょうか。聖書によれば私たちが愛し合うことが、神様を聖なるものとすることです。私たちは神様の名が聖なるものとして、崇められるように祈ります。そしてこの祈りに促されて、お互いを大事にしあうという“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”を始めたいと思います。最後に一緒に主の祈りを祈りましょう。
天にまします我らの父よ(マタイによる福音書6章9節)
7月と8月は主の祈りをテーマに宣教します。主の祈りはイエス様が私たちに直接教えて下さった祈りとして、教会の中で特に大切に祈られています。この祈りは、ただ覚えればよい、唱えればよいのではありません。呪文としないで「主の祈り」を「私の祈り」とすることができているでしょうか。
今日は主の祈りの「天にまします我らの父よ」について考えます。まず「まします」は「ある」や「居る」の尊敬語です。ですからこれは「天にいらっしゃるわたしたちの父よ」という意味です。父はイエス様の話したアラム語では「アッバ」という言葉です。アッバはこどもが父親のことを『おとうちゃん』と呼ぶ表現だと紹介されます。しかし後の調査で「アッバ」はそのような使われ方をしないことが判明しました。紹介した学者も今は発言を撤回しています。しかし一度浸透した情報・信仰の訂正・更新は難しいものです。
わかっていることは、当時、神様に向けて「父よ」という呼びかけをしたこと自体は特殊なことであったということです。先日こどもに「パパ、神様って男なの?」と聞かれました。多くの人はいつのまにか、神は男性であるというイメージもっているでしょう。神様は男性でも女性でもありません。主の祈りは「我らの母よ」「我らの親よ」「我らの神よ」でもいいはずです。また神様が男であると強調することは、支配者は男であるべきという発想につながる課題があります。神様は男でも女でもありません。神様は神様です。私たちは私たちの持っている、男女二分法に注意しながら「父よ」と祈る必要があります。
なぜイエス様は「父よ」と祈ったのでしょうか。そのように祈った理由のひとつに、ローマ皇帝に対する抵抗が含まれていたという説があります。ローマ皇帝は自分のことを「神の子」「地上の国民の『父』」「救世主」と言いました。そして自分を神と等しいものとして拝むように、人々に強制をしました。イエス様はそのような中で神様に向けて「父よ」と祈るように教えました。
神様にむけて「父よ」と呼びかけることは、私たち一人一人は皇帝の奴隷ではないこと、一人一人に人権があり、自由があり、尊ばれるべき命があることを意味しています。「我らの父よ」と呼びかけるのは、私の命は誰にも侵害されない命だ、私たち一人一人の命が大事にされるべき存在だということを表明する祈りなのです。私たちはお互いが、そしてすべての命が神の子であり、尊い存在であるというイメージを持って、「天にまします我らの父よ」を祈りましょう。
私たち人間は全員が神の子です。だからもう誰にも性別や年齢や職業やルーツによって抑えつけられる必要はありません。そのことを祈りましょう。そして私たちは地上の支配者にも注意を向けます。私たちを本当に導くのは平和の神です。戦争へと導くリーダーは「我らの父」「我らの神」ではありません。私たちは私たちの神に向けて祈りましょう。最後に主の祈りをともに祈りましょう。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 詩編23編1~3節
今月は地域協働をテーマに宣教しています。こひつじ食堂にまつるエピソードをいつくか紹介します。いつもお弁当を買うおばあちゃんがいます。先日、町であって挨拶すると、お疲れの様子でした。おばあちゃんは「本当は私も食堂のお手伝いしたいのだけど、95歳で要介護3の親が同居していて介護が大変なのよ」と言っていました。「また気分転換に食堂に来てくださいね」と言いました。
きれいなマンションに住んでいる人がお弁当の列に並んでいました。その方は一人暮らしですが、夕食分と明日のお昼の分2個のお弁当を買いました。すると後から生活保護を受けているおじちゃんが、並びました。そして行列に並んでいる最中に疲れて座り込んでしまいました。もうすぐお弁当は売り切れです。見かねた女性は「自分の分を一つあげてもいい」「お金はいらないから、あのおじちゃんにあげて」と言いました。私はそのお弁当を受け取って、おじちゃんに手渡しました。
いつも営業終了間際に来るおじさんがいます。お代わりしたいとか、あっちの席で食べたいとか、いろいろわがままを言うおじさんです。彼は帰りがけに「また来ます、俺は奥さんにも、家族にも逃げられちゃって寂しいからさ」と言い残して帰っていきました。「また来てね」と言いました。
教会が地域の方とこのように関わることが出来ていることがうれしいです。しかもその関係が伝える、教わるといった堅苦しいものではなく、どこかほのぼのとするような、ほっとするような関係であることがうれしいです。このような地域との関わりが、教会からもっと広がってゆけばよいと思っています。
私は今日の聖書の個所にも、食堂のほのぼのとした風景と同じ印象を持っています。ほのぼのとした教会と地域の関わりをイメージしながら、この個所を読みたいと思いました。私は食堂を利用している方たちに、教会がこんな印象を与えられたらいいなと思いました。
1節、教会は、自分に足りない物が何かをとやかく言われる場所ではありません。いわゆる説教される場所ではありません。教会に来たら、ああ私にはたくさんの恵みがあって、たくさんの仲間がいて、自分に欠けているものなんて、ちっともない。教会はそのように思えるような場所になりたいです。
5節、苦しい時こそ、教会は食卓を整えて迎えましょう。私たちは杯があふれるほど、蓋が閉まらないほどのお弁当を作って、皆さんを迎えましょう。教会はそのような場所になりたいです。神様がそのように杯をあふれさせるお方だからです。
6節、命ある限り、慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。ずっと来たい、自分の家のようだ、ずっと元気でいよう、教会がそんな活力につながるのならうれしいです。そして食堂の雰囲気を通じて、生きる力をくれる神様の事も伝わったらうれしいです。お祈りします。
イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
ルカによる福音書4章1~4節
今日は創立記念礼拝です。今月は教会の歴史の転換点となっている「地域協働」をテーマに宣教をしています。私たちの教会では毎月第3・第4金曜日に「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。1食200円でだれでも利用できる食堂です。「こひつじ食堂」はお弁当の販売ではなく、会食が中心です。利用者にとってもスタッフにとってもお弁当が楽で、会食は面倒ですが、会食を大事にしています。
それはこひつじ食堂が単に食事を提供することだけが目的ではないからです。食事だけではなく、他者との関わり、友ができる場所を提供したいのです。人間は食べるだけではありません。人間には友、仲間が必要だからです。
「人はパンのみで生きるのではない」本当にイエス様のおっしゃる通りです。「こひつじ食堂は弁当のみで開催するのではない」です。人はパン以外のもの、人との関わり、友が必要です。友との会食が必要です。今日の聖書箇所を読みましょう。
悪魔はイエス様に「石をパンに変えてみよ」と言いますが、それに対してイエス様が答えた言葉は「人はパンのみで生きるのではない」という言葉でした。特にルカ福音書では明らかにはされていませんが、パン以外にも何か必要なものがあると言っています。パン以外に必要なものがあるとしたら一体それは何でしょうか。
私たちには衣食住に加え医職友が必要です。特に私たちには友が必要です。人生には誰か一緒にいてくれる人が必要なのです。一緒に落ち込み、一緒に喜んでくれる人が必要なのです。しかし今、友を得るということはとても難しいことです。友を得る必要はわかっていても、なかなかそれを得ることができないのです。私たちの教会はそのような友に出会うの場所になりたいと願っています。この食堂で友達同士になる人ができたらいいと願い、そしてすでに多くの人が友達になっています。
このようにして誰かと一緒に食事していると、きっと感じるはずです。「私は食べ物だけで生きるのではない」と。このような友との温かい関わり、食事があるからこそ、自分は生きることができると感じるはずです。それは聖書が教えていることです。この教会で食事をすることによって「食べるだけではなくて、友が私には必要だ」それを知ってくれたら、気づいてくらたらうれしいと思います。教会をそのように地域の中で友を作る場所にしてゆきたいです。そしていつの間にか聖書の言葉を体験している場所にしてゆきたいと思うのです。
人はパンのみで生きるのではありません。私たちには神様の言葉と仲間が必要です。私たちはどちらも大事にしてゆきましょう。また今日から私たちの1週間がはじまります。私たちは1週間どんな生き方をしましょうか。私たちは一緒に食べる事、誰かの友達になることを大事にしましょう。人はパンのみで生きるのではありません。神様がよくご存じです。神様はきっと私たちに友を得ることができるように、私たちを導いてくださるはずです。お祈りします。
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章23節
今月は地域協働というテーマで宣教をしています。「こひつじ食堂」を始めてから地域の方たちとの交流が増えました。教会を訪ねる人は「昔からここに教会があるのは知っていたけど、入るのは初めて」と言います。教会は多くの人にとって、何をしているかわからない、敷居が高い、入りづらい場所でした。しかし教会の敷居は下がり、身近な存在になっています。それはお互いにとってかなり大きな一歩だと思います。私たちはこの人たちを勧誘するわけではありません。ミッションスクールのように、その人の人生の体験のひとつになりたいと思っています。今日は聖書から教会の敷居の高さを下げてゆくことを見てゆきたいと思います。
パウロというイエス様の弟子がコリントという地域にある教会に手紙を書きました。そこでは宗教的な熱心さにおいて違いがありました。例えば何世代も続く熱心な家系で、お腹の中にいる時から教会に来ていたという人がいました。一方で親は全く違う宗教で、最近コリント教会にき始めたという人もいました。新しい人から見るとその輪の中に入るのは大変です。そこに敷居の高さを感じたはずです。
パウロはそのような教会に対して「律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました」と言います。律法を持たない人とはいわば初心者です。初心者に対しては初心者のようになったということです。
手紙を書いたパウロ自身は超上級者です。しかしパウロは私のような超上級者を目指しなさいとは言いません。「私はすべての人に対してすべての人になった」と言っています。これはつまり私は上級者かもしれないが、最近来始めた人も、初めての人も、まだ迷っている人もいる、私はそういう人になると言っているのです。
私はこの個所「教会は敷居を下げなさい」と聞こえます。みんながいきなり上級者なわけではないのだから、初めてくる人や、迷っている人がわたしも大丈夫だと思えるように、敷居を下げなさいと言っている様に聞こえます。
もし初めて礼拝に参加する人と一緒に礼拝するなら、初めての人のようになることが大事なのでしょう。こどもがいたらこどものように、子連れの親子がいれば子連れの親子のように、高齢者がいれば高齢者のようになることが大事なのでしょう。それが、今日の個所にある「すべての人がすべてになる」ということでしょう。
私たちの教会はまだ中に入ったことのない人を、どんどん招き、迎えましょう。そしてこの新しい生き方をする仲間を得てゆきましょう。そのために入りやすい教会、敷居の低い教会になりましょう。私たち一人一人、すべての人がすべての人になってゆきましょう。そんな敷居の低い共同体になってゆきましょう。
そして私たちのそれぞれの1週間の集まりも同じです。私たちは様々な集まりですべての人になる、そのことを心がけましょう。私たちはそれを、共に福音にあずかるため、キリストにある新しい生き方を共に歩むためにしましょう。お祈りします。
すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 ルカ9章16節
今日からは1ヶ月間「地域協働」ということをテーマに宣教します。「こひつじ食堂」は毎月第3・第4金曜日にだれでも1食200円で利用できる地域食堂です。他の教会の食堂との一番の違いは、スタッフの半分が地域の方たちだという点です。
当初はボランティアの募集をするか迷いましたが、何も心配する必要はありませんでした。考えていることや動機は違っても、同じことのために一緒に働く、それができれば十分です。地域の方は教会をよく協会と字を間違えます。「私たちの教会は協力の“協”ではなく、教えるの“教”です」と訂正するたび、今の平塚教会は本当は、協力の協の協会の方がふさわしいのではないかと感じます。なぜなら平塚教会は地域の人と力を合わせて、誰かのため、地域のために、神様のために働く場所だからです。協会の協の字は十字架に力が3つ集まっています。平塚教会はまさしく十字架の下で力を合わせる場所です。私は今、教える教会よりも、協力する協会の方が私たち平塚バプテスト教会にはふさわしい様に感じています。今日は聖書から協力する集まり、きょうかい(協会・教会)について考えたいと思います。
13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」は私たち平塚教会に語りかけられた“大食堂命令”です。今日は特に5000人の食事の中で、どれだけの協力があったのかを考えてみたいと思います。私たちの食堂から考えるとおそらく1000人の協力が必要だったはずです。当時のパンは一人3つで満腹になると言われていました。15000個のパンを配らなければいけません。
私ならこう言います。「1000人の協力が必要です。半分の500人はそれぞれ30個のパンをもって、ひとり3個ずつ、10人に配ってください。別の500人もそれぞれ10人に魚を配ってください。運び終わったらスタッフの方1000人もどうぞ一緒に食べてください。今、イエス様が歌って、祈って、裂いて、増やしていますから。おかわりは何回でも自由です。食べ終わって、余ったものは集めてこの籠にいれてください。最後の片付けもご協力をお願いします。」
今なら私たちはそこに1000人スタッフが力を合わせて食事を運んだことを想像できます。そして配った人がイエス様の弟子だったかどうかはあまり関係ないのではないでしょうか。そのような垣根のない協力が起きたのが5000人の食事だったのではないでしょうか。
私たちはもっとみんなと力を合わせる場所になることはできないでしょうか。この食事の様に、イエス様の奇跡の周りで一緒に働く1000人になることが出来ないでしょうか?私たちの教会の事、そして私たちの生活のこともそうです。私たちは垣根を超えて、いろいろな人と協力することがもっとできるのではないでしょうか。それぞれに考えてみたいのです。このあと主の晩餐を行います。この5000人の食事を思い出してパンと杯をいただきましょう。お祈りします。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
使徒言行録2章4節
信仰入門というテーマで宣教しています。湘南の海ではウィンドサーフィンをしている人をよく見かけます。風の力だけで沖まで行くことができます。昔は風の力で世界を巡りました。風は面白い存在です。風を目で見ることはできませんが、風に動かされているものを見て、風が吹いていると分かります。風は自由自在に吹き巡ります。夜風にあたると気分が落ち着きます。風は口では説明することがでず、体験でしか伝えられないことです。このような言葉を体験的言語と言います。
聖霊はおそらくキリスト教用語で最も難しい言葉だと思います。今日は風をヒントに聖書の聖霊をご紹介します。聖霊という言葉には息や風と言う意味もあります。風は人をどこかに運び、人の気分を変え、人に刺激を与える存在です。それは聖霊も同じです。聖霊を体験するとは、私たちが神様から来た風に吹かれることです。船が帆に風を受け、世界中どこまでも行くのと同じ様に、私たちが聖霊を受けるとは私たちは大きく進むことができます。
今日の聖書箇所では聖霊に満たされた人々に不思議な力が与えられます。いろいろな言語が人々の間を飛び交いました。そして外国から来た人々が驚きました。初めて自分の言葉で神様のことを聞くことになったからです。これは実は画期的な事件です。当時、聖霊はユダヤ人だけにしか、与えられないと信じられていました。しかしこの事件がきっかけに神様の風は、聖霊は、すべての人に与えられる、すべての人に吹くとはっきりしたのです。
この風・聖霊は今日もすべての人に吹き、すべての人に注がれています。神様の風は、聖霊は皆さんにもすでに吹いていて、すでに注がれているのです。あなたが信じようが、信じまいが、すべての人がこの風・聖霊をすでに受けているのです。
この風は私たちに思いがけない方向を指し示し、方向転換を求めるときがあります。風が私たちの想いを超えて吹くこともあります。私たちには苦しい時もありますが、神様はそのような時、私たちに憩いの風を送ってくださいます。
風まかせという言葉があります。無計画でなりゆきまかせを表す言葉です。でもクリスチャンはある意味で、風まかせの生き方をする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊をしっかり感じて、風をしっかりととらえて、どちらに進むべきか考える人のことです。クリスチャンは神様の風がどこから来ているのか、神様の風は自分をどこに向かわせようとしているのかを五感で感じとろうとする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊に逆らわずに生きようとする人です。
私たちはこのような風を感じる生き方を生きたいのです。この風はすべての人にすでに与えられているものです。私たちは新しい生き方を探します。聖霊から力を受けて進みます。みなさんはすでにその風に吹かれています。その風を感じて、神様から押し出されて1週間を過ごしましょう。お祈りします。
神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。 ルカによる福音書13章20~21節
4月・5月は信仰入門をテーマに宣教をしています。今日はからし種のたとえと、パン作りのたとえの話をします。これは神の国を説明するためのたとえです。神の国とは死んだ後に行く天国とは違います。神の国とは、神様が求める、理想の世界のことです。神様の願っていることが、隅々に渡って実現してゆくのが神の国です。今日はその神の国がどのように実現されてゆくのかを考えます。
からし種とはマスタードの粒です。からし種は他の植物よりも小さな種であるにも関わらず嫌われ者です。なぜなら繁殖力が高く、一粒地面に落ちると、ものすごいスピードで広がってゆくからです。イエス様は神の国を、嫌われている植物が、大きくなる様子に似ていると言います。神の国はやっかい者として、異物として始まるのです。でもそれが広がりみんなの憩いの場所となるのです。
続くのはパン作りの話です。この話は聖書には珍しく女性が主人公のたとえ話です。3サトンの粉からパンを作るとありますが、これは約100人分のパンです。34kgの粉を混ぜるのは相当な重労働です。おそらく貧しい女性か、奴隷や下働きの女性だったでしょう。神の国の実現の担い手となる女奴隷の話です。
パン種とは要は腐りかけのパンです。当時は残って腐りかけたパンを粉に混ぜてパンを発酵させたのです。これのおかげでふわふわのパンになります。聖書におけるパン種は不浄、悪、腐敗の象徴としてよく登場します。イエス様の教えた神の国とは不浄を象徴するパン種が大量の粉の中に混ぜられていくイメージです。パン種もからし種も、距離を取りたい対象です。しかし神の国では違います、神の国ではそれらは混ぜ合わされるのです。
私たちは、神の国とは汚れがなく、不純物が徹底的に取り除かれた先にあるのだと想像します。でもイエス様の神の国、神様が喜ぶ世界とは人やものが混ざり、やがて憩いの世界となるのです。
からし種とパン種を聖書の教えと置き換えてみましょう。もしかすると聖書の教えは自分とは相いれない価値観かもしれません。しかしそれから全体が変化し、神様の理想へと近づいてゆくのです。からし種とパン種をそれぞれの出会いと置き換えてみましょう。人生には自分と全然違う人との出会いがあります。私たちはそれにイライラしながら生きています。でも神様はきっと混ぜ合わせてくださるお方です。私とあの人をパン種と粉のように、どちらがパン種でどちらが粉だかはわかりませんが、神様はこの二つを混ぜ合わせ、パンとするお方です。神様は私を、私と違う人や違う教えと出会わせ、そしてまぜこぜにします。そこが神の国なのです。
私たちの次の1週間、どのように自分と違う人と共に、聖書の教えと共に、生きてゆくことができるでしょうか。それぞれの場所で神の国が実現するように願います。お祈りします。
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
ルカによる福音書15章4節
信仰入門というテーマで宣教をしています。今日は100匹の羊と羊飼いの話をします。国連では「持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)」を掲げています。それは「誰も置き去りにしない社会」を作る目標です。大きな開発をよりも、小さくても持続可能な開発をたくさんすることが目標です。そのように世界は「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。
「誰も置き去りにしない社会」と聞いて、置き去りにされた1匹の羊をめぐる物語を思い出します。聖書は2000年前からSDGs、誰も置き去りにされない社会を訴えていました。しかし、そのような社会はこれまで実現できずにいました。今日は聖書から誰も置き去りにしない社会と、生き方を見てゆきたいと思います。
ある時、羊飼いと100匹の羊がいました。しかし羊飼いは羊を1匹見失ってしまいました。これでは羊飼い失格です。しかし羊飼いは間違えを犯してもやはり100匹の羊飼いです。羊飼いは99匹の羊を野原に置き去りにして1匹を探しにいきます。それは非合理的ですが、羊飼いは1匹を探しに出かけます。羊飼いは1匹でも、置き去りにしないのです。羊飼いは羊を見つけ出し、再び仲間に加えます。
この物語から私たちの社会、私たちの生き方について考えます。私たちの社会は1匹を置き去りにしてしまう社会です。多数を優先し、少数者・マイノリティーを置き去りにしてしまう社会です。私たちはこの物語を通じて神様から、誰かが置き去りにされていないか注意を促されています。
この羊飼いと私たちを重ねます。私たちはいつも1匹を見失ってしまう存在です。でも羊飼いの仕事は1匹も置き去りにしないことです。99匹を説得することです。私たちも一人も取り残さない社会を目指してゆきましょう。
私たち自身を99匹の羊と重ねる読み方も大事です。私たちはいつも自分を多数派、自分が普通、自分が優先されて当然と思ってしまう存在です。そうではなく私たちは1匹のために多少の危険や遅れを引き受けてゆきましょう。
私たちは誰一人置き去りにしない社会、世界、家族、教会を願い求めてゆきましょう。羊飼いのように1匹を見失わないようにしましょう。もし見失ってしまってもその1匹を一生懸命に探す者でいましょう。そして99匹のように、1匹のために足を止め、待ち、共に100匹となってゆきましょう。私たちがいる、それぞれの場所で、そのような人がいないか、私たちはよく見つめて1週間の生活をしましょう。それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。お祈りします。
イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。
ルカによる福音書22章19節
信仰入門というテーマで宣教をしています。今日は、キリスト教の「主の晩餐」という儀式をご紹介します。この儀式は礼拝の中で、小さく切り分けられたパンを食べて、小さいグラスに入ったぶどうジュースを飲むという不思議な儀式です。私たちの教会では毎月第一日曜日に行っています。食べているのは普通に市販されている食パンとブドウジュースです。また教会ごとに少しずつ作法が違います。このパンを食べると聖なる者になるのではありません。これは聖書の話を思い出すためにあります。教会風に言うと、イエス様を「記念」するためです。
皆さんにも記念日があると思います。記念日は、その日の出来事を思い出し、これまでの人生に感謝する日です。今日の儀式も「記念」として行われます。目的はイエス様との食事、イエス様との時間を思い出すことです。そしてそこから今までの人生を振り返り、感謝することです。
なぜ食べる事と飲むことによって記念することになったのか、それはイエス様が聖書の中で何度も食事をしたからです。聖書には様々な食事があり、それらを思い出すために主の晩餐という儀式があります。今日は様々な食事の中でも「最後の晩餐」と呼ばれる箇所をご紹介します。
イエス様の一緒に食事をする活動、そして互いを愛し合うという教えは多くの人に広がりました。しかしそれを気に入らない勢力もいました。そしてイエス様は十字架に架けられ殺されてしまいます。その時、弟子たちは逃げ出しました。
イエス様も自分の危険に気づいていました。だから弟子たちと最後の食事をすることにしました。最後の晩餐です。この食事には反省や悔い改め、自分の悪いところを点検する目的はありませんでした。イエス様はこの後、君たちは私を裏切ってしまう、私の教えを忘れてしまう。だけど、私と一緒に食べたこと、一緒に過ごしたこと、教えられた愛を忘れないようにしなさい。パンとワインの儀式を繰り返して、私と一緒にいたことを記念し、思い出しなさいと言ったのです。
この後、私たちは主の晩餐を行います。このパンとブドウジュースはイエス様の愛の教え、生き方、十字架を象徴するものです。私たちはそれを思い出すために、記念するために、この儀式を持ちます。そして私たちは神の国を願ってこの儀式をします。神の国、神様が求める愛と平和にあふれる世界が来ること、その時をイエス様とまた一緒に祝うことが出来るような時が来ることを願って、私たちはこの儀式を行います。私たちはパンを食べブドウジュースを飲むことによって、イエス様の生き方を思い出し、その生き方を自分の生き方とします。神の国を求めてこの主の晩餐を繰り返します。賛美の後、主の晩餐を行いましょう。お祈りします。
彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。ルカ15章20節
信仰入門というテーマで宣教しています。今日は放蕩(ほうとう)息子(むすこ)という超有名なお話をご紹介します。ここから神様の無条件の愛と、他者との関係について考えます。
ある日、弟は父から相続した土地を売って村を出ます。彼は家族や村人とのすべての関係を絶ち切って遠い国へ行きました。そこで彼は自分ためだけにお金を使いました。しかし飢饉が起きた時、彼にはお金も、助けてくれる関係もありませんでした。彼は「雇い人」として家族と村に帰ろうとします。
父は弟を大歓迎して迎えてくれました。父は伝統的には神様に重ねられます。ここでは神様が人間をどのように迎え、絶たれた関係を回復してゆくかが表されています。神様は正しい人にだけ走り寄るのではありません。神様はただ神様の方から、私たちを見つけ、走り寄り、抱きしめて下さいます。それが神様の無条件の愛です。その愛に励まされて、力をもらって、私たちは人生をやり直すことが出来るのです。父は宴会を設け、村の人々にも弟をもう一度受け入れてもらえるように、取り計らいます。これによって弟は元の関係を回復し、共同体に戻ることができます。
しかし兄は弟の帰りを喜びませんでした。兄は宴会の横で大喧嘩し、宴会を台無しにします。もう一度その関係は壊されます。関係を断ち切ろうとするのは弟も兄も同じです。でも父は何とか兄弟たちと村人をつなぎ合わせようとしています。
私たちは父である、神様のような、寛大で、無条件の愛を持って生きたいと願います。私たちの人生には関係が切れてしまうことがあります。でも関係をどのように回復し、持ち続けるかを模索しながら、生きてゆきたいと思います。そこに父である神様からの助けと導きがあり、関係が回復できるように祈ります。私たちも父のように関係の回復をあきらめない生き方をしてゆきたいと願います。この物語の結末は描かれていませんが、関係は回復できたのでしょうか?
もう一つ、この物語を家族全体の物語として解釈します。この物語は家族崩壊の物語です。この家族はずっと以前からその関係に問題がありました。家族との関係にどのように向き合うかというのもここから示されているテーマです。
この物語から私たちは何を学ぶでしょうか。父である神様から離れるとは、自分だけよければよいという生き方をすることです。それは必ず行き詰ります。神様はそのような生き方をする私たちを見つけ出し、走り寄り、抱きしめ、再び仲間との愛と助け合いの関係の中に戻してくださいます。神様は私たちの関係を回復してくださるお方です。私たちも父のように、他者との関係を大切にしましょう。
私たちは、不完全な関係や不完全な家族の中でどのように生きたら良いのでしょうか。私たちは今ある関係を大切にし、よりよい関係になりましょう。その力を神様からいただきましょう。神様が私たちを向き合わせる、つなぎ合わせる、よりよい関係を創り出す力を与えて下さるはずです。お祈りします。
イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」ルカ10章37節
信仰入門というテーマで宣教しています。今日はよきサマリヤ人のたとえからお話をします。この話は本来、宗教指導者とイエス様との会話です。教会に長く集う人も最近の人も、今日の個所を一緒に読んでゆきましょう。
ある人が、エルサレムで礼拝をした後、治安が悪くて有名な道を通って帰りました。彼はそこで追いはぎにあい、意識不明の重体となります。そこに宗教指導者である祭司が通ります。祭司は彼を無視することにしました。まるで倒れている彼をまたぐかのように、無視して通り過ぎたのです。おそらく祭司がけが人を無視して家に帰ることを正当化できる理由は何一つありません。次に通ったレビ人も同じです。
次に通ったのはサマリヤ人でした。サマリヤ人とはユダヤ人、特に祭司やレビ人から激しく差別されていた人たちです。このサマリヤ人がケガ人を助けます。33節でケガをしている人を見て憐れに思ったとあります。イエス様がよくこの感情を持ちました。それは強い共感を表す言葉です。普段から差別されていたから、その痛みに共感できたとも言えるでしょうか。そして彼はおそらくある程度の経済力のある人です。彼は強盗から最も狙われやすい状況でした。しかし彼は危険を冒します。
イエス様はこのたとえ話をした後、誰が彼の隣人となったかと聞きました。もちろんケガ人に具体的な助けをした人が、隣人となったのです。困っている人を助けることが、愛することだとイエス様は語ったのです。
そしてイエス様は37節「行って、あなたも同じ様に行いなさい」と言います。困っている人を見過ごさず、助ける人となりなさい、それが愛ですと言ったのです。聖書は私たちに他者を愛し、助ける生き方を示しています。学ぶだけ、聞くだけで終わってはいけません。私たちはサマリヤ人と同じ様に愛の業をおこなってゆきましょう。困っている人を見過ごさずに、関わる人になりましょう。
そしてこの話は差別の問題にも特別に触れています。私たちの社会の中にはまだ根強い差別があります。それがいかに不必要であるかも示しています。私たちはきっと通りすぎてしまっている者です。私たちには愛すべき人がいるはずです。そして私たちはきっと誰かに助けられている者です。私たちはきっと私たちが差別している人々から助けられているはずです。
聖書を学んだ私たちは誰かに、はらわたから共感し、愛の行動することができるでしょうか。差別や自己保身を捨てて、他者に関わることができるでしょうか。聖書を聞き、学ぶだけではなく、愛の行いをすることができるでしょうか。それが私たちがイエス様から頂いた問いかけでしょう。私たちは誰を愛するのでしょうか?
信仰とは生き方です。この細く、険しい道が人生でしょう。私たちの人生には災難、裏切り、無関心、差別、出会いがあります。私たちはその道をどのように歩むのでしょうか。礼拝を終えた後の道をどのように生きるのでしょうか。具体的な愛を持ってその道を歩みたいと思います。お祈りします。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。 ルカ6章21節
今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。今日の個所は、イエス様の説教として有名な個所で「幸いである」という響きが親しまれている箇所です。イエス様は2000年前、現在のパレスチナで活動をしていました。たくさんの人が従いました。その人々の多くは極めて貧しい人々だったと言われています。イエス様に従ったのは貧乏で、お腹が空いていて、泣いていて、元居た場所から追い出されてきた人の集まりだったのです。
しかし今日読んだ箇所では驚くべきことがあります。それはイエス様が、どう見ても幸せには見えない人々に向けて「あなた方は幸いである」と断言をしているという事です。イエス様は「幸いだ」「大丈夫だ」という希望を断定的に、一方的に宣言しています。それはイエス様が彼らに約束をしているとも言えるでしょう。涙は笑顔に変わる、追い出されて嫌われていた人は受け入れられ愛される、そう約束をしているのです。これは今悲しくても笑える日が来るという極めて単純な希望です。明るい未来がある、大丈夫だということです。単純で、幼稚とも思える希望が聖書には書かれています。
ここには、神様から幸いについて理由の説明が一切ありません。この宣言には一切の根拠と説明がないのです。なぜ大丈夫なのか、なぜ幸せなのかまったく根拠や理由が示されないまま、ただ神様があなた方は大丈夫だ、あなた方は幸いであると一方的に宣言しているのです。神様はこの様にまったく根拠のない幸いを宣言します。神様は一切の根拠なく、一切の変化や努力も求めず、ただ私たちの幸いを約束しています。でも神様を信頼する時、私たちにとってそれは大きな希望、大きな安心へと変わってゆきます。私たちの希望は極めて単純です。
私たちの生き方について考えます。人生にはなんともならないことが多いものです。誰かに簡単に「大丈夫だ」なんて言われたくないことばかりです。誰かの苦労に簡単に「大丈夫だ」と言ってあげることができないことばかりです。でも神様は違います。神様はとても単純です。神様は「大丈夫」「幸いである」「なんとかなる」と言っているのです。私たちはそんな単純な希望を信じています。私たちの中に何か根拠があるわけではありません。でも神様が大丈夫、幸いであると言うならば、そうなるのかもしれないと思って歩んでいるのです。だから神様を信じる人にとって、神様を信頼する人にとって、この言葉は大きな希望の言葉なのです。
このように神様を信じると、根拠のない希望が与えられます。神様を根拠とした希望が与えられます。神様から一方的にいただく希望が私たちに迫って来るのです。みなさんにもその希望を受け取って欲しいと願っています。「幸いだ」と宣言してくださる神様を信頼し、共に歩んでゆきましょう。お祈りします。
使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。ルカ24章11節
イースターおめでとうございます。今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。教会は信じている人の集まりというよりも、信じたいと願い、探している人が集まる場所です。疑問や問いを持つ集まりです。でも長く教会に通っていると疑問だったことを忘れてしまいます。そこに新しい方が来て、わかりませんと質問をしてくださるのはとても貴重です。他の人が疑問を思い出すことができます。
今日は特にイースターという日です。キリスト教の信仰の中心には、十字架で死んだイエスが復活したという復活信仰があります。しかしクリスチャンでも、復活の出来事を猛烈に信じている人ばかりではありません。復活とは何でしょうか。
復活とは心肺蘇生を指すことではないでしょう。イエスは間違えなく、徹底的に十字架で死にました。そこから何かが起きたのです。肉体は死んでも魂がみんなの心の中に残ることが復活だと考えるのはどうでしょうか。それならば、信じるというハードルは低いです。でもイエスはこの後「私には肉も骨もある」と言っています。復活を心の中の問題にしてはいけません。心理学から考えると復活は幻視体験です。行き過ぎた復活の理解かもしれませんが、ヒントもあります。単に心の中の問題ではなく、弟子たちは実体験としてはっきりと見たのです。これは聖書の記述と多くの共通点があります。
私個人はまだ結論がでないままです。でも少なくとも復活は、十字架の死で終わらない希望があったことを指し示していると思います。死で終わらない希望、絶望の先にある希望を指し示していると理解しています。そのように問い続けるのが信仰です。今日の聖書箇所からそのことを見ましょう。
今日はルカ24章1~12節をお読みしました。徹底的に死んだはずのイエスの遺体がなくなってしまいました。女性たちは何が起ったのかまったく理解できず、困惑し、悩んでいます。もし女性たちが復活を信じていたのなら、すぐに復活したのだと確信したはずでしょう。しかしそうはなりませんでした。男性たちもまた復活を信じませんでした。たわごとだ、愚かな話、馬鹿な話だと思ったのです。復活なんてあるわけなかろうと言ったのです。復活がキリスト教の信仰の中心です。しかし、復活なんてあるのだろうかと思ったのです。
私はこの気持ち大事にしたい、大事にしてほしいと思います。おそらく信仰は信じるか、信じないかはあなた次第というような、二択ではありません。信じたいけど信じられない、そのはざまに信仰があるのです。
クリスチャンになるとは、信じたいという願いを持つことと言えるでしょう。私たちは信じて集まっていると同時に、信じられないけど信じてみたい、私たちはそのような集まりです。今日の聖書によれば、信じられないことから始まる変化がきっとあるのです。これから共に探し続けてゆきましょう。お祈りします。
議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 ルカ福音書23章35節
信仰入門というテーマで2か月間、宣教をします。キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれますが、愛とは何でしょうか。日本語で「愛」は「恋愛」を指す、ドキドキする気持ちを表す言葉です。しかし聖書の愛とは、もともとアガペーという言葉です。アガペーは恋愛とは違い「大切にする」という意味です。相手を大切に思うことが愛する、アガペーすることなのです。ですから好きになれないところがあってよいのです。嫌いでもお互いを大切にするのがアガペーです。イエスは人々にお互いを大切にするように教えました。そしてその考えに深く共感する人がたくさんいました。
しかしイエスは十字架刑で殺されてしまうことになります。十字架刑とは何週間も苦しみながら死んでゆく極めて残酷な死刑の方法です。なぜこの残酷な処刑装置が、キリスト教のシンボルなのでしょうか。それは十字架に到るまで、他者を愛し、大切にしたというイエスの姿を忘れないためです。そのことは私たちの聖典である、聖書に書いてあります。
今日の場面はイエスが十字架に架けられている場面です。イエスは十字架上で、様々な人から侮辱をされています。35節では政治家である議員から、36節では兵士から、39節では、同時に十字架刑になっている犯罪者からです。3人は口をそろえて言います。「自分を救え」。イエスを殺そうとした人とは、自分のためだけに生きてきた人でした。彼らにはその生き方がまったくわからなかったのです。なぜ自分のためではないのか?自分にメリットがないのになぜそのような生き方をするのかと疑問に思ったのです。だから彼らは「自分を救ってみろ」と言うのです。
しかし、登場人物の中にはごく少数、イエスの十字架の痛みを知り、共感する人がいました。同じく十字架に架けられている二人の中の一人です。彼は最期が迫ってくる時、自分ではなく、他者の痛みに共感し、他者を大切に思いました。
この十字架の出来事の上に、イエスの生き方が凝縮されています。まず自分のために頑張れ、まず自分、自分を優先させろ、そのような時代と声の中で生きた人がイエスでした。自分が大事、その思いに飲み込まれた人々が、イエスを十字架に架けたのです。しかし、イエスは最後までアガペーを貫いたお方です。私たちは苦難の時もアガペー、愛をもって生きることを忘れないために十字架をシンボルにしています。
私たちがこの宗教を信じているのは自分が天国・楽園に行くために信じているのではありません。どこまでも愛・アガペー・他者のために生きるために信じているのです。私たちもこのような愛を実践したいと願って信じているのです。
そして私たちはこの生き方に一人でも多くの人に加わって欲しいと思っています。その生き方は、毎週の礼拝の中で、その愛・アガペーを確かめ、それぞれの場所愛・アガペーを実践するという生き方です。そのような仲間が一人でも増えて欲しいと願っています。お祈りします。
モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。
出エジプト記34章29節
私たちは今月、旧約聖書を読んでいます。モーセは神様からの言葉を聞くために、シナイ山に登るように言われます。28節でモーセは山の上で四十日四十夜、主と共に留まりました。長い期間、山の上で、神と二人きりで、共にいたのです。
人間は夫婦や、家族、友人、ペットと長く一緒に時間を過ごしていると、言葉やしぐさ、考え方や物の見方、習慣、顔や表情まで似てくるものです。そのように人間は長く時間を共にすると、似てきてしまう者なのでしょう。モーセは長期間、神様と二人きりで共にいました。それだけ神様と一緒にいれば、神様に似てくるでしょうか。山から降りてきたモーセを見た人々は彼の顔が光り輝いていたので驚きました。モーセは神様との濃密な時間を過ごし、神様と少し似た顔つきになって帰ってきたのです。神様と一緒に居続けるということが、人の表情を変えてゆくのです。
私は、そのようなことが毎週の教会で起っていると感じます。私はたくさんの光り輝く顔を知っています。それがモーセと、毎週のこの教会で起きていることです。
29節によればモーセ自身は光っていることに気づいていませんでした。私たちも同じように、教会では一人一人が自分では気づかない光を放っています。しかしモーセは自分の顔に覆いをかけ、顔を隠すようになりました。本当の自分を隠し、仮面をかぶらなければいけなかったということかもしれません。34節、モーセの顔の覆いは神様の前では外されたとあります。神様の前では本当の自分が出せたのです。誰も、本当の自分の姿に覆いをかぶせる必要はありません。その光り輝く顔を出してよかったのです。私たちはその顔の輝きに、覆いをする必要はありません。教会で見せる表情や態度のまま、毎日を生きてゆけば良いのです。
私たちは神様の言葉をずっと聞いていると、神様とずっと一緒にいると、神様に似てきます。神様と長く一緒にいればいるほど、その顔は輝いてくるのです。だから私たちは神様との時間を大切にしましょう。そして豊かな表情に、恵みをいただいたその顔に、覆いはいらないのです。恵まれたその顔で毎日を送りましょう。
福音書にはイエス様も同じように、山の上で顔が輝く出来事がありました。イエス様も神様からいっぱいの光を受けて顔を輝かせていました。そして大勢の人々が待っている山の下へと下ってゆきました。山の下で多くの人に出会い、人々を励まして生きてゆかれました。礼拝の場所から、神様との出会いから、神様の言葉、光をいただき人々と出会いに行ったのです。その歩みは十字架まで続きます。私たちもそのように歩みましょう。
この礼拝で神様の言葉、光をいただきましょう。神様とずっと共にいて神様に似る者となってゆきましょう。そしてそれぞれの場所で輝いてゆきましょう。心に覆いをせずに、輝いたままの姿で、1週間を過ごしてゆきましょう。お祈りします。
彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い
愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。
イザヤ63章9節
今は教会の暦ではレント・受難節です。イエス様の十字架を考える期間です。新約聖書のイエス様は人々に愛し合い、分かち合って生きるようにと教えました。しかしその教えは受け入れられず十字架刑という大変な苦痛を伴う刑で殺されました。神様と等しい存在であるイエス・キリストが十字架に架けられて死んでしまったということをどのように考えればよいでしょうか。神様は他者のために生きようという素晴らしい教えを広げようとしていた人が、十字架に架けられて、もがいている時、どこで、何をしていたのでしょうか。それを考えるのがレントです。
このことは私たちにもつながる問題です。私たちが他者のために生きようとするときも必ず苦痛が伴います。その時、神様はどこにいるのでしょうか。今日は旧約聖書・イザヤ書から、私たちが苦難の時、神様がどこいるのかを考えたいと思います。
神様は私たちをこどもとしてくださるお方です。当時の宗教の多くは戦争に勝った王様が、神様のこどもと考えられていました。王様以外の人間は神の子ではなく、ただの人間・生き物でした。しかしイスラエルの神は戦争に負けた弱い国の民衆一人一人に、私のこどもと呼びかけたのです。神様は戦争に勝った王と共にいるのではなく、すべての人、特に苦しんでいる人に私のこどもと呼びかけるのです。神様はどんなに苦しく、負け続けても、共にいるお方なのです。
9節には神様はその苦しみを自分のものとするとあります。神様はあなたの苦しみを見て、自分まで苦しいと思うお方です。何事にも動じない神様ではありません。11節以降には「神はどこにいるのか」という私たちと同じ問いと答えがあります。神様は共にいるのです。苦難の時も、主が共に苦しみ、主が新しい場所へと導いてくださるのです。神様は私たちに希望があると言っています。私たちが困難な時も、神様は必ず安心して暮らすことが出来る場所へと導いてくださるのです。
私たちはそのことを今日、旧約聖書・イザヤ書から知り、そしてもっとはっきりと、イエス・キリストの歩みから知ることができます。イエス・キリストは神と等しいお方でしたが、人間として地上に来られ、私たちと共にいる者として歩まれました。そして十字架で「神はどこにいるのか」と叫びました。それほどまでに人間の苦難を知ったお方でした。神様はどこにいたのでしょうか。神様は叫びをあげたそこにいました。そして神様は復活によって苦難と死で終わらない希望を示しました。
レント・受難節はただ痛くてかわいそうと考える時ではありません。それは神様が私たちの苦難の時、共に苦しんでいることを感じる時です。私たちには苦しくとも、神様が共にいるのです。苦しい時も神様が新しい道を備えて下さるのです。神様は死さえも超えて、新しい希望を示してくださるお方なのです。今日、十字架を覚え、そして苦難のただなかにあっても共にいる神様を覚えましょう。お祈りします。
人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。 エゼキエル3章17節
今月は「旧約聖書」というテーマで宣教をします。今日は東日本大震災祈念礼拝です。私は「さよなら原発ひらつか」という市民活動に参加をしています。原発は犠牲のシステムの上に成り立った発電方法です。原発のある町はひとたび事故が起きれば命も、家族も、ふるさともすべて奪われる危険を都会のために引き受けています。「核のゴミ問題」も深刻です。行き場所のないゴミが増え続けています。この問題は「トイレのないマンション」と言われます。私たちの教会も昨年トイレが壊れましたが、あれが日本の原子力政策です。トイレのないまま、再稼働、運転期間延長をしようとしています。まったく先のことを見ていない政策でです。
私はこの問題、一人一人の命を大切にする教会だからこそ、できることがあると思います。そして教会は今だけではなく、永遠を見渡してきました。今のこの問題を、電気の問題ではなく、命のこととして考えこの先々のことを見渡すことができるのが教会です。教会の視点でこの問題を見て、社会に訴えてゆく必要性が大いにあります。今日は教会の社会的な使命について聖書から考えたいと思います。
エゼキエルは神様から預かった言葉を取り次ぐ「預言者」です。未来を言い当てる「予言者」ではありません。神様は17節で、この預言者の役割は見張り役なのだと言っています。見張り役とは高い塔から遠くを見渡し、外から敵が来ないかを見張る役割です。彼らは地平線の先にある小さな変化に目を向けます。危険を知ったら、すぐにラッパを鳴らし住民に伝えます。それによって住民は危険に準備することができます。もし見張りがいなかったら準備の時間はありません。もし見張りが自分のことだけしか考えない人間で、敵を見つけても自分だけ逃げたとしたら、それはとても無責任です。彼は自分だけのためではなく、町のすべての人のためにいるのです。人々に危険を警告するのが、見張り役の責任・使命です。神様は預言者エゼキエルをこの見張り役に任命をしました。その働きはとても社会的な役割です。
預言者がしっかりと見張り役の使命を果たすとき、誰も命を落とすことがなく、すべての人の命が守られます。神様は悪人が滅ぶことを望んでいるのではありません。再び神のもとに戻ることを望んでいます。だからこそ神様はそれに気づくように、私たちに語り掛けています。
神様はこのような預言者の役割を教会へ、一人一人へと託しています。教会の役割は内側だけではなく、世界と時代の一番遠くを見渡すことです。今ではなく、永遠に目を向け、次の世代に目を向けるのが役割です。教会ははるか先、命について、こどもたちについて考えるのが使命です。教会と一人一人は社会の中で先を見つめ、命を守る見張り役の使命をいただいています。私たちはそれぞれの場所で、共に預言者として働いてゆきましょう。お祈りします。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 ルカ9章16節
今月は地域協働というテーマで宣教をしています。私たちの教会では「こひつじ食堂」を開催しています。こひつじ食堂で提供したメニューは地域の人々の記憶に焼き付いています。食事の楽しさや思い出は教会のクリスマス愛餐会も同じでしょう。私が一番好きだったのはボリビア料理のピケマッチョです。食べることは思い出作りです。一緒に食べたことは記憶に残るのです。
私が食堂で一番おいしかったのはブリのから揚げです。獲れたてのブリをたくさんもらって、から揚げにしたのが、忘れられない味、大事な思い出です。先日はパンをもらいました。とうとう私たちは地域の方から魚をもらい、パンをもらうようになりました。そのようにして提供した食事は5000食を超えています。
今日私はこの個所を改めて地域協働の視点で読んで感動しました。私たちの教会とのたくさんの共通点を見つけました。私たちの教会は魚とパンが集まり、5000人が食事をする教会です。私たちはいまその体験の中にいるのです。今日はそのような地域協働の視点で聖書を読みたいと思います。
イエス様は弟子たちに13節「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言います。私には、あなた方が食堂をしなさいと聞こえます。イエス様は一緒に食べるために働くように私たちを促しています。弟子たちはきっと、私たちと同じように戸惑ったでしょう。さらにパンも魚もありませんでした。しかしどこからか魚もパンも集まって来たのです。そして足りないと思っていたものは余るほどだったのです。
余っていることはどんな意味を持つでしょうか。最初は絶対に無理と思っていたのが、終わってみたら、もうちょっとできたねと思えたということです。これも私たちは同じ経験があります。いつも終わった後、また次も頑張ろうねと思えるのです。
5000人の食事は人々の記憶にしっかりと残りました。忘れられない食事としてみんなの記憶にしっかり残り、語り伝えられ、聖書にも記録されました。この食事は主の晩餐につながってゆきます。イエス様との食事を忘れられない食事として、イエス様を想起するために、食事を伴う儀式である主の晩餐が持たれたのです。
私たちの食堂もこのような機会になっているでしょう。ここで食事をしたことは地域の人の記憶にしっかりと残っているでしょう。いつ思い出してくれるでしょうか。ブリを見た時、パンを見た時かもしれません。その時、教会の十字架を思い出す人がいるかもしれません。そのように食事の思い出と共に、私たちの教会があります。食事の思い出と共にイエス様がいるのです。これも私たちと同じです。イエス様との食事を思い出すのが主の晩餐です。私たちはパンを食べて思い出すのです。
私たちはこのように、地域と関わり、地域との共食を大切にしてゆきましょう。地域の人々と一緒に5000人になってゆきましょう。お祈りします。
種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ルカ8章5節
今日は宗教2世について考えます。バプテストは本人の自覚的な信仰を重視するグループです。宗教2世はいない「はず」です。キリスト教の宗教2世も声を上げています。「日曜日に部活に参加できないのがすごく嫌だった。欠席の理由も言えなかった」「結婚したら離婚してはならないと言われた」「恋愛や結婚は信者以外には許されていなかった」など。特に根の深い問題は、聖書の教えに従わないと幸せになれない、礼拝に出席しないと救われないといった類の言葉です。恐怖の教えは相手の心を強く縛りつけ、人を自由にするはずの宗教が人の自由を奪うのです。失敗はあなたの不信仰が原因だと教え、信じればうまくゆくと心が支配されてゆくのです。
私はそのような考えは福音ではなくもはや「呪い」だと思います。私たちは信仰を持つこととは縛られることではなく、希望につながることなのだと伝えたいのです。そのことを今日の聖書の個所から見てゆきましょう。
善い心には豊かな実りがある。神様は、立派な人には良いものを与え、悪い人には悪い物を与えるお方なのでしょうか。それならば他の宗教の神様とあまり変わらないような気がします。実は9節以降は、後の時代の人間が加えた可能性が指摘されています。4~8節まででイエス様が伝えようとしたことを想像します。
この話の主人公は「種まきをする人」です。農夫は豊かに実ることを願って種まきをしました。収穫の喜びが来ることを神様に祈りながら、信頼して種をまいたのです。しかし一生懸命な働きにも、時には失敗があります。完璧でなくていいのです。そしてどんなに頑張っても不作の時があります。それが種まきです。
私はイエス様が、すべての事がうまくいくわけではないけれども、でも実りが必ずあることを期待し、希望を持って、祈り、働きを続けよう、そう語っていると感じます。何をするにしても、それが良い結果になるかどうかわからない。でも大丈夫。神様を信頼して、実りを期待し、祈り、取り組もう、一生懸命やってみよう。安心して種をまこう。神様は一生懸命に種をまく人を、一生懸命生きている人を見捨てないはず。イエス様はそのように伝えているのではないでしょうか。
私たちの宗教、イエス様の教えは誰か否定し、縛り、自己肯定感を下げるものでもないはずです。イエス様は私たちに、恵みに期待し、祈り、日々を一生懸命生きるように教えたのです。失敗の中でもあなたが活き活きとすることができるように、あきらめずに生きるようにと教えたのです。
福音は誰かを縛るため、誰かを反省させるために、誰かを縛り付けるためにあるのではありません。福音とはあきらめそうになっていたことを、神様に信頼して、やってみようと思わせるものです。福音とは、もうだめだ、何をやっても変わらないという思いから、やってみようと思わせるものです。福音とはそのように人々を解放し、自由にするのです。その福音を伝えてゆきましょう。お祈りをいたします。
しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。ルカ5章19節
今日の宣教のテーマは「地域協働」です。今年のクリスマス行事にはたくさんの人が来ました。こひつじ広場に遊びに来ていたこどもが、初めての方、教会員の家族、YouTubeでの参加など。きっと平塚教会は以前より入りやすい教会になっています。
私たちは今までもずっと、地域の人たちを歓迎してきました。しかし、今まではなかなか伝わりませんでした。でも私たちがもう一歩、地域に踏み出した時、いろいろな方が訪ねてくださるように変化が起きてきています。もっと入りやすい教会、もっと地域と協力する教会になりたいです。ずっと建っていたいです。そのために修繕と土地の売却の事も進めてゆきたいと思います。今日の聖書に登場する教会も私たちと同様に、屋根に穴が開いています。そしてその穴から新しい仲間が加わってゆく物語です。一緒に聖書を読みましょう。
今日私の目に留まったのは、19節「群衆に阻まれて」礼拝堂に入ることができなかったという箇所です。群衆に阻む気持ちはなくても、後から来た人にとっては阻まれたように感じました。なんか入りづらい雰囲気だったのです。しかし彼らはこの集会に大変興味がありました。入り口ではない場所に、穴をあけて、新来者は入って来たのです。屋根には大きな穴が空きました。もう誰も入ってこないという、内側の人々の思い込みを超えて、屋根から新しい仲間が入って来たのです。それは天に穴が空いて新しい風が吹いたという出来事でした。その穴は教会に今までにない在り方、今までにない関わり方をもたらす風穴です。新しい風が礼拝堂に吹いたのです。そしてイエス様はそれを素晴らしい信仰だ「罪は赦された」と言っています。
もしかしたら私たちの地域活動は、この屋根に開いた穴なのではないかと感じます。私たちにとっての「入り口」ではない場所から仲間が与えられる、その穴です。私たちの思いを超えて、屋根から入って来る仲間がいます。屋根から入って来る仲間も大歓迎です。礼拝につながる、教会につながるのはどんな入り口でもいいのです。この礼拝を、この会堂での体験を共にすることが大事なのです。この穴はきっと神様が開けて下さった穴です。神様は私たちの地域活動によって、教会に穴をあけ、新しい仲間を与えて下さいます。私たちはこの穴をもっと広げてゆきましょう。
神様は私たちの教会に風穴を開けて下さるお方です。その風穴からいろいろな人が入って来ます。神様はどんなつながり方も歓迎するお方です。私たちはこの群衆のように優しいまなざしで受け止めてゆきましょう。一緒に礼拝をしてゆきましょう。地域との活動を続けてゆきましょう。そして、もっと入りやすい教会、入るきっかけがたくさんある教会になってゆきましょう。神様がそのように私たちの教会の屋根にも風穴を開けてくださることを願います。神様が私たち一人一人の心にも思いもよらない穴をあけ、そこから新しい風を吹き込んでくださることを願います。私たちはその風に吹かれながら、礼拝しましょう。お祈りします。
戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。ルカ21章9節
今月は神学ということをテーマに宣教をしています。今回は歴史神学の視点で聖書を読みます。歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史と影響しあっているのかを考える分野です。西暦67年に起きたユダヤ戦争は、キリスト教の歴史上のターニングポイントのひとつです。エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊され、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。
神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教の信仰の中心が神殿での献げ物や、神殿の祭司でなくなりました。キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。キリスト教も世界へと散り、特に世界各地で出会った人に、イエス・キリストが伝えられ、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。今日は歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら、戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。
イエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。人々は絶望をしたはずです。終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。キリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は、それぞれの場所で、イエス様のことを伝えたのです。イエス様のことを福音書として書き記したのです。このように神様は歴史に働くお方です。
神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。そしてこの歴史は私たちにつながっています。
神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。それがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。
神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りします。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 ルカ4章16節
今月は「神学」というテーマで宣教をしています。今日は聖書を「実践神学」という分野の視点で見たいと思います。神学には4つの分野があります。聖書学・組織神学・歴史神学・実践神学です。中でも実践神学は私たちにもっとも身近な視点でしょう。キリスト教の信仰をどのように実践してゆくかを考える分野です。特に礼拝をどのように持つかは実践神学の大事なテーマです。今日の聖書個所によればイエス様は礼拝に参加し、聖書の朗読をしています。この個所から私たちの礼拝に大切なものは聖書だということ、当たり前ですがもう一度確認をしたいと思います。
私たちの教会では聖書朗読を司会者だけではなく、一部分を順番で担ってもらうことにしました。聖書朗読が順番となっているのはとてもよい雰囲気だと感じています。聖書を朗読する人は、それぞれのテンポやそれぞれの想像力で、聖書を朗読してくださいます。それは私の感覚とは違っていて、聖書を新鮮にいただくことができます。時々、なぜか聞いているだけで心が打たれるような気もします。聖書をかみしめながら礼拝できている気持ちがしています。このような聖書朗読の持ち回りが続いてゆくとうれしいと思っています。
聖書にはイエス様が礼拝に出席し、聖書の朗読をしたとあります。当時、聖書の巻物は大変高価なもので人々が自由に触れ、自由に読めるものではありませんでした。礼拝は聖書のみ言葉が聞ける貴重な機会だったのです。聖書の朗読は礼拝でしか聞けない話であり、読み返すことができず、聞き逃すことができなかったのです。だからこそ聖書の朗読が礼拝の中心だったのです。当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕はとても大切なものとされました。
礼拝で一番長く時間を取るのはこの宣教の時間です。しかし礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わかっても、わからなくても、寝ていても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉が中心にある限り、それが礼拝なのです。もし礼拝から聖書の言葉を無くしてしまうとどうでしょうか。どんなに歌って、どんなにいい話がされても、それは礼拝ではありません。
今日はイエス様が聖書を朗読した場面を読んでいただきました。巻物を渡されたイエス様はどのように聖書の朗読をされたのでしょうか。どんな意味だったのか、何を言おうとしたのかわからなくてもいいのです。でもそれをしっかりと受け止めて、聖書の言葉を大事にしてゆきたいのです。
今日は実践神学の視点で聖書を見ました。これからも私たちは聖書のことばを礼拝の中心にしましょう。聖書の言葉を私たちの生活の中心にしましょう。礼拝でのみ言葉から力をいただき、そのみ言葉を生活で実践してゆく者となりましょう。お祈りいたします。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」ルカ5章5節
1月は「神学」というテーマで宣教をします。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。神学は他の学問と同じように分野が分かれます。主には聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学の4つです。聖書学とは文字通り聖書の分析をする学問です。組織神学とは神、聖霊、人間とは何だろうとテーマごとに分けて研究する学問です。歴史神学はキリスト教が歴史にどのように影響を与え、影響を受けてきたのかを知る学問です。そして実践神学は今の私たちがどのようにキリスト者の生活を実践するか、そしてどのように礼拝・礼典をするのかを考える学問です。
今日は組織神学の視点で考えたいと思います。私たちの信仰告白がよい例です。聖書や歴史といった軸から少し離れ、神、聖霊、イエス、人間、救いについて考えます。そしてそこから、神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったお方だということ。すべての人間を愛に招いていることを見てゆきたいと思います。
神様とは、人間にイエス・キリストを派遣したお方です。神様はもともと旧約聖書の時代に様々な方法で、自分の思いを人間に伝えていました。しかしある時、神様はイエス・キリストを通じて、人間に自分のことを教えようと決断しました。今日のシモン・ペテロにとっては、ゲネサレトの湖畔でこの出来事が起きました。
イエス・キリストとは、神様からこの地上に、人間のもとに派遣されてきたお方です。神様の愛を指し示す存在として、人間に与えられました。イエス・キリストは人間の日常生活の中に現れるお方です。成果の出ない、無関心な人間に声をかけます。イエス・キリストの招きはこのように起こります。ふさわしい人間を招くのではなく、すべての人を招くのです。特に、落ち込んでいる人を選び招くのです。
人間とは、罪深い存在です。神は人を愛し、いたわり、助けることを求めています。罪とはその反対に、人を無視し、冷たく接し、困っているのに見ないふりをして助けないことです。人間は「人を愛せ」と教えたイエス・キリストに従うことによって、変えられてゆきます。「み言葉ならば」と再び行動する者へと変えられるのです。
救いとは、人間が人間を愛せるようになるということです。もう誰も愛せないと失望していた人間が、もう一度人間を愛そうと思えること、それが救いです。人を捕る漁師になるとは、人間を愛す者になるということです。それが私たちの救いです。
教会とは、このように救いに招かれた者の集まりです。教会はそのように人間を愛するために集められた群れです。私たちは愛し合い、大切にしあう様に招かれた群れなのです。そして教会は礼拝します。ペテロがイエス・キリストに出会い、イエスに膝まづいたように、教会も毎週、礼拝をするのです。
私たちは今日の個所から神様、イエス・キリスト、人間、救い、教会、礼拝について考えました。これからもこの主イエス・キリストから、主にある希望をいただいてゆきましょう。お祈りいたします。
今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行います。神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。私たちにはそれぞれの世代に良さと不足があります。そんな私たちは、お互いの命を祈り合いたいと思います。
麦を食べるには、麦の実の周りについているもみ殻を取る必要があります。穂は打穀された後、箕(み)というカゴに移され、空に舞い上げられました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。
もみ殻とは何を指しているのでしょうか。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。ヨハネもそのような厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。でもヨハネは同時「私より優れた方がやって来る」と言っています。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。
私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点、罪、悪い部分とも言えるでしょうか。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分は永遠の炎で焼き尽くされます。神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。
16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。しかしイエス様は弟子の履物の紐をほどき、足を洗ったお方でした。もみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。
私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。
これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。
ルカ2章31~32節
あけましておめでとうございます。私たちはこどもを大切にする教会です。もちろん私たちは高齢者を大切にする教会です。どんな命も大切にする象徴として、平塚教会はこどもを大切にする教会ですと語っています。
神様を信じることは素晴らしいことです。でも信仰を長く持ち続けることは難しい事です。そんな時私たちを励ましてくれるのは、信仰を持ち続けた先輩の存在です。私たちは高齢者の話を良く聞き、元気をもらいたいのです。そしていつか私もあの人のようになりたいと若者があこがれる高齢者がたくさんいる教会になってゆきたいと思いますし、すでにたくさんいると思います。今日は新年最初の礼拝です。この1年の始まりを「高齢者を大切にする教会」という話から始めます。
イエス様は神殿の境内でシメオンという人と出会います。おそらくシメオンは高齢者です。衰えた老人かもしれません。でも31節からは、シメオンのあふれる豊かな感情が伝わってきます。イエス様に出会って、これはすべての人の救いだ、光だ、誉れだと興奮して喜んでいます。彼の顔がまぶしく輝いているのを想像できます。シメオンは長く信仰を貫いてきた人です。今日こそは救い主に会えるだろうかと毎日神殿に行き、息の長い信仰を持ち、礼拝を続けた人です
アンナも84歳の高齢者だったとあります。彼女も腰が曲がっていたでしょうか。でも彼女もきっと輝きと、感謝にあふれていた晴れやかな顔をしていたに違いありません。彼女の人生には困難なことがあったと記されています。でも彼女はそれでも信仰を捨てなかった人です。いえむしろ、人生に悲しみがあったからこそ、その悲しみを深く知り、祈り続けた人でした。「大丈夫、神様がいるから」と神様の慰めを語り続けた人でした。祭司は何も気づかず、この二人の高齢者がこの人こそ救い主だと見極めました。本当に救い主を見抜くことができたのは、信仰と人生の経験を深めた、年を重ねた信仰者だったのです。
私たちの教会にもシメオンとアンナがたくさんいます。こどもを抱いて、喜んで、大事にする、高齢者がたくさんいます。こどもと出会って目を輝かせている方がたくさんいます。そしてその方たちは信仰を守り続けた方です。人生の様々な苦労がありながらも、信仰を持ち続けた人、礼拝に通い続けた方々です。
私たちはこの教会のおじいちゃんとおばあちゃん、シメオンとアンナのような、長い信仰をいただきたいと思います。人生には様々なことがあります。それでも信仰を守り続け、礼拝をし続ける者に、私もなりたいと願います。
私たちはこどもを大切にする教会です。わたしたちは高齢者を大切にする教会です。私たちには今日、新しい1年が与えられました。今年も1年、健康に気を付けて、礼拝をし続けましょう。自分の命が続く限り礼拝し、主を待ち望む、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
ルカ2章16節
私たちはこどもを大切にする教会です。教会はこの礼拝と、この後のパーティーに、たくさんの人に加わって欲しいと思っています!今年は特にウクライナの戦争に心を痛めました。すべての戦争が間違えです。日本も軍事費(防衛費)を倍増させる議論が続いています。私たちに武器は必要ありません。武器を捨てて鋤を持てです。私たちがしたいのは壊すことではなく、育むことです。
暗い時代だと思います。お互いの軍事力に恐れを持ち、より強い軍事力が必要だと思い込んでいる世界です。こんな暗い時代、息苦しい時代に希望はどこにあるでしょうか。希望一つはこの後のパーティーが楽しいこと、そしてイエス様が私たちの心に光として来てくださることではないでしょうか。聖書を読みましょう。
イエス様の誕生は皇帝からの勅令、総督など誕生物語は世界情勢の中にあります。皇帝アウグストゥスとは世界最強の軍隊で、支配しました。だれも逆らえない、恐ろしい力、つまり軍事的抑止力によって「平和」を実現しました。その軍事費は人々からの税金です。人口調査をし、税金を集めました。戦争のための税金が集められる、行く先が見えない時代です。しかし、聖書からはそういった暗さは感じられません。何か希望を感じさせる物語になっています。
羊飼いに現れた天使は10節「恐れるな」と言います。最も恐ろしい事、それは暴力が支配する戦争です。天使はそれを恐れるなと言います。力ではなく愛が世界を支配する時が訪れるという告知です。相手の軍事力に恐ろしさを感じた人間は、より強い軍事力を持とうとします。でもそれに恐れる必要はないのです。地には平和が来ます。その光が私たちに与えられています。恐ろしい、恐ろしい、武器が必要だと言っていないで、平和を探しなさいと言っているのです。
羊飼いは恐れではなく、平和を探すために旅立ちました。天使はすぐに答えを教えず自分たちで協力をして探すように言います。羊飼いたちはどのように赤ちゃんを探したのでしょうか?私の想像ですが、羊飼いはきっとこどもの声を頼りに探したのではないでしょうか。こどもの声がする場所が、泣き声と足音のする場所が、赤ちゃんのいる場所でした。泣き声をたどってイエス様に出会ったのです。
私たちは今日クリスマスを迎えています。暗い時代でも、私たちは楽しみ、希望を持つことができます。きっと私たちがそうできるのは、イエス様の希望があるからでしょう。そして恐ろしい戦争が起こる時代にあって、私たちも「恐れるな」と告げられています。イエス様の誕生・平和という希望があると告げられているのです。その目印はこどもです。こどもたちの声のするところに希望と平和があります。私たちの礼拝もこどもの声がしるしです。私たちもこどもの声を目印に、恐れず、希望と平和を探し続けましょう。お祈りいたします。
みなさん、こんばんは。今日はようこそおいで下さいました。平塚バプテスト教会の牧師の平野と申します。私たちの教会は「こどもを大切にする教会です」です。この教会では礼拝中、こどもたちに静かにおとなしく座っているようには求めていません。こどもたちの声や足音もこの礼拝の一部として、命の音としてそれを聞きながら礼拝をしています。一緒にその声、その音を聞きながら礼拝しましょう。
私たちはこどもを大切にするということの具体的実践として「こひつじ食堂」というこども食堂を実施しています。1食200円で地域の方と、楽しく会話し、食事ができるということで、毎回たくさんの方にご利用をいただき、長い行列ができています。
実は当初この食堂にこのような反響があると思ってもいませんでした。この活動が地域から必要とされるのだろうかと不安に思ってスタートしたのです。あるいは本当はこの教会自体が地域から必要とされているのかも少し不安でした。この教会がなくなったらどれくらいの人が寂しいと思ってくれるだろうかと不安に思っていました。しかし今地域に踏み出し、教会がこんなにも地域から愛され、必要とされていることをうれしく思っています。
最近は自分達だけでは手が回らず、手伝ってくださるボランティアさんが必要になってきました。たくさんの方々が活き活きとボランティアに参加してくださっています。みなさんがそこまで熱心に参加してくださる原動力はきっと、私たちの教会と同じだと思います。自分が必要とされるのか不安だったのに、今誰かに自分が必要とされている、そのことがうれしいのです。そのように活き活きしているボランティアさんの姿から力をもらい、私たちの教会ももっと地域の人々の必要に応えてゆきたいと励まされています。
自分が誰かに必要とされるということは、私たちが生きてゆく上でとても大切なことです。もちろん誰にも必要とされなくても、すべての命は大切な命です。でももし命があるとしたら、多くの人は誰かの役に立ちたい、どこか自分を必要としている場所に身を置きたいと思うものです。
誰かに必要とされることは、うれしいことです。誰かのために何か良い事をするのは気持ちいいものです。しかし反対に、誰にも必要とされないことは、とても不安で、とても深い悲しみです。誰かに必要とされることは、私たちが生きる意味に直結する問題です。誰にも必要とされていないと感じる時、人は生きる活力を大きく失います。
人も教会も同じです。誰かの役に立たなくても命はそれだけで尊いものです。でももし他者の必要に応えることができたら、自分を必要だと言ってくれる人に出会うことができたら、教会も人も活き活きと輝くはずです。
今日は聖書の箇所から必要とされないときの悲しみ、そして必要とされることの喜びを見てゆきたいと思います。そして他者のために生きる喜びを見てゆきたいと思います。
* * *
クリスマスの絵本と聖書を読んでいただきました。イエス様は誕生においてどれほど人々から必要とされたでしょうか。実は、まったくと言っていいほど必要とされていません。イエス・キリストは誰からも必要とされない時代に生まれたのです。
その誕生はある日突然、天使によって予告されました。その妊娠はあまり良いタイミングではありませんでした。王様が人口を調べろと命令したのは税金をしっかりと取るためです。人を必要としたのではなく、動物と同じように、数を数えただけです。妊娠中のマリアと夫ヨセフは泊まる場所がありませんでした。家畜小屋に泊まることなり、そこで出産をします。その誕生は周囲からの励ましと支えがあったとは思えません。誰からも必要とされず、社会の隅に追いやられた誕生です。イエス様はこのように誕生において、多くの人にとって必要とされない命だったのです。
イエス様の誕生はまず羊飼いに知らされました。羊飼いは社会では疎まれる存在でした。嫌われ、避けられる存在でした。社会から必要ないと言われる存在でした。天使の知らせは、そのような必要がないと言われ続けた人に告げられたのです。しかし神の物語はそこが始まりです。誰からも必要とされないということから神の物語は始まります。
聖書にはこの後、イエス様が大人になってから様々な活動を始めたことが記されています。病人や、差別されている人、困っている人のもとを訪ねました。社会から必要ないと言われ悲しんでいた人々と手を取り合って活動をしました。様々な人と食事をしました。必要ないと言われた人々と食事をして歩いたのです。
イエス様の教えは隣人のために働くようにという教えでした。自分の必要のためだけではなく、他者の必要ために体を動かしなさいと教えたのです。隣人愛です。自分を愛し、自分の必要を満たすだけではなく、他者を愛し、他者の必要を満たしなさいと教えたのです。しかしイエス様は最後まで必要とされない人でした。この後、厄介者として十字架刑で殺されてしまうのです。
イエス様とはこのように必要ないと言われ続けた存在でした。それでも、いえそれだからこそ他者の愛し、他者の必要のために生きるようにと教えたお方でした。イエス様は誰からも必要とされず、愛されないことの不安と悲しみをよく知る人でした。そして他者を愛し、必要に応えるように教えた人でした。
私たちはこのような方を神の子だ、神と等しい存在だ、私を救ってくれる存在だと信じています。だから私たちは自分の存在がどんなに否定されても、自分のためだけではなく、他者のために生きたいと願っています。きっとその生き方が私もあなたも幸せにする、お互いの救いとなるのです。
私たちは今、手に小さなろうそくを持っています。たくさんあるので一つくらい無くても気づかないかもしれません。大きな光があれば、小さな光は必要ないかもしれません。でもいま皆さんがご覧のように、小さな光の集まりはとても美しいのです。小さな光が集まって、お互いを照らし合うと、とても美しいのです。私たちも小さくとも、互いを愛し合いましょう。きっともっと美しい世界に変わってゆくはずです。
みなさんの次の1年がこの光のように、小さくとも他者のために生きることができるように祈ります。あなたを必要とする人、あなたを必要とする場所にめぐり会い、活き活きと生きることができように祈ります。そして自分だけではなく、他者を愛し、隣人愛のうちに歩んでゆくことができるように、祈っています。お祈りします。
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
ルカによる福音書1章39節
私たちはこどもを大切にする教会です。今年も教会にはたくさんのこどもたちとママたちが訪ねてくれました。教会での様子を見ていると、ママ友の絆は強いものだと感じます。ママ友には子育てという共通のミッションがあり、共通の悩みがあります。こどもの成長の事や食事のこと、夫のグチを言い合っています。未来のことも話題になります。ママ友に限らず大人は、こどもが身近にいることで、未来や社会がより身近になります。こどもたちが私たちに、未来や社会について考えさせてくれるのです。こどもたちが身近にいると、未来への祈りが湧いてくるのです。
今日のマリアの祈りも、こどもが最も身近にいる人の祈りです。今日はこどもを通じて、私たちに与えられる祈りを聖書から見てゆきたいと思います。そしてこどもの命を喜び、未来を語ることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。
マリアはなぜエリサベトを訪問したのでしょうか。妊婦が旅先に3か月も滞在した動機を想像します。きっとマリアはママ友を訪ねるために、遠くの親族を訪ねたのです。マリアはそれほどまでにこの妊娠について、そしてこれから先のことを分かち合う仲間に会いたかったのです。マリアはママ友と話したかったのです。
二人のママ友はいろいろなことを話したでしょう。現代のママ友と同じように社会のことも話題になったはずです。将来この社会はどうなるのか。今どんな問題点があるのかを話し合ったはずです。マリアの祈り、それはママ友と過ごす時間の中で与えられた祈り「ママ友の祈り」だったのではないでしょうか。
おそらくマリアたちにとって、こどもが身近になったからこそ、社会の権力構造や格差に目が行くようになったのでしょう。こどもたちにはもっと平和で、平等な社会に育って欲しい。これはそのようなこどもたちの未来を考えた祈りです。
ある注解書を読んでいると「年若い未婚女性が社会革命を祈ったとは考えづらく、きわめて不自然である」と書いてありました。この学者は、少し想像力が足りないかもしれません。こどもが身近にいるから、未来について考えるのです。こどもが身近になると、未来への祈りが湧いてきます。神様はこのようにして、こどもを通じて、私たちに新しい祈りを与えられます。
こどもたちのための祈り、そしてこどもたちの未来への祈り、それを私たちも大切にしたいのです。そして私たちもマリアとエリサベトのように、こどもの命、こどもの声を喜びあいたいのです。マリアとエリサベトのようにこどもの命を温かく迎えたいのです。未来を共に語りあいたいのです。
私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを大切にすると、未来を考えるようになります。来週はクリスマスです。街や教会でこどもたちの笑顔をたくさん見ることができるでしょう。その命を互いに喜びあいましょう。そして未来について祈ってゆきましょう。お祈りいたします。
天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
ルカによる福音書1章30~31節
私たちの教会ではシェルターを運営しています。先日は女性が妊娠している夫婦が利用しました。私は聖書の物語を思い出します。マリアも妊娠中に今日寝る場所を夫ヨセフと探していたのです。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの命のために、シェルター利用を受け付けました。大人たちには自分の人生に責任があります。しかしこどもに一切の非はありません。こどもが両親の事情によって、健康に生まれてくることができなかったりしてはいけません。
生まれてくるのにふさわしくない命はありません。すべての命が神様にとってふさわしいのです。そしてむしろ、私たちがふさわしくないと思うような場所に、人に神様が来て下さるのです。今日は聖書から命について考えたいと思います。
聖書によれば、イエス様が生まれたのは男女の性交によるものではなく、奇跡による受胎だったとあります。現代において、初めてこの話を聞いた人のなかでどれほどの人がこの話を「そのまま」信じることができるでしょうか。神の子なのだから、普通の人と違った妊娠方法であるということは当然でしょうか。
キリストにふさわしい妊娠や育ちとはなんでしょうか。どのような生まれ方がキリストにふさわしかったのでしょうか。もしかするともっと選ばれた親や選ばれた環境、選ばれたタイミングがあったはずです。例えば神の子は大祭司のこどもとして生まれることもできたはずです。人類の救い主なら、貧しい家のこどもよりも、王様のこどもの方がふさわしいのではないでしょうか。しかしイエス様の出生の不思議は、ふさわしくないと思える場所に起こります。その妊娠は、結婚前の律法違反の妊娠で、貧しい親の妊娠で、出産場所に困る妊娠でした。
マリアも「なぜ私に?」と思ったはずです。私よりもっとふさわしい人がいっぱいいるはずなのに、なぜ私が。今よりもっとふさわしいタイミングがあるはずなのに、なぜ今、神の子を妊娠するのかと思ったはずです。
しかし、マリアに神の子は宿りました。もっとふさわしい人がいる、わたしなどふさわしくない、そんな思いを持つマリアに、神の子の命は宿ったのです。わたしなどふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。
神様はこのようなお方です。神の子はふさわしくない私たちの間に生まれてくるお方なのです。神の子は私たちのどんな不足や不信仰も超えてやって来るお方です。私なんかふさわしくないと思う、そこに神様の出来事が起こるのです。それがクリスマスです。私たちは私たちの思うふさわしさを超えてゆきましょう。神様はすべての命をふさわしい命として下さっています。ひとりひとりの命が神にふさわしい命として大切にされる教会になりましょう。お祈りをいたします。
天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
ルカ福音書1章13節
アドベント、クリスマスの到来を待ち望む期間をいただいています。Aさんは障がいを持っています。彼は会堂に来るとすぐに、誰かを捕まえてお祈りをします。彼のもっとも強い願いは就職です。しかし彼は行く先々で、あなたに仕事は無理だ、誰もあなたを雇わないと言われているそうです。でも彼は信じています。どんなに周りに無理、相当難しいと言われても、自分が就職できる日を、その日が必ず来る、すぐに来ると信じています。私たちは彼から、待つこと、辛抱強く祈り続けることを学べるのではないでしょうか。今日は聖書から希望を持って待つということ、祈り続けるということを見ます。聖書をお読みしましょう。
ザカリヤはくじ引きで、名誉ある奉仕に当たります。当時の祭司は1万8000人、人生に1回当たるかどうかというくじです。新人が当たることもあったでしょう。でもザカリヤはこどもをあきらめる年齢まで、何十年もハズレを引き続けてきました。それでも待って、ようやく当たりが出たのです。天使はそこでザカリヤにこどもが生まれると予告しました。ザカリヤは今さらこどもが生まれると言われても、信じることも、これ以上待つことはできなかったのです。彼は信じませんでした。
10節大勢の民衆は外で待っていました。24節彼女は妊娠の事実を誰にもいわず、家で待ちました。今日の物語は待つことがテーマになっているように思えます。ザカリヤも大勢の民衆もエリザベトもみんな待っていたのです。この物語はすべての人が待ち、希望へとつながってゆく物語です。
私たちは祈っても、待っても願いが叶わないという時があります。私たちの教会のおいても、私たちの人生においてもそうです。どれだけ待っても、いまだ叶わない願いがあります。しかし、今日の聖書箇所によれば、もしかするとある時、その願いが叶う時が来るかもしれません。まさか私たちに、待ち続けたけれど、もうあきらめたことが、起こるのでしょうか?きっと誰にもそれを無理と言うことはできないでしょう。私たちにはきっと叶わないとあきらめてしまうもの、無理と思えるものがたくさんあります。でも私たちは無理と決めつけるのではなく、共に祈り、待ちたいのです。そしてもしそれが示されるとき、大胆にその恵みを選び取りたいのです。私はAさんの祈りを思い出します。
私たちは今日、クリスマスの到来を待つ時をいただいています。私たちがあきらめている希望はあるでしょうか。願い続けることに疲れてしまっているでしょうか。でも私たちは、希望を待ち続けたいと願います。細くても息の長い希望を持って歩みたいと思うのです。神様がきっと私たちに希望を与えてくださいます。そのことを信じ、待ち続けましょう。きっといつか神様は、希望へとつながる道を私たちに示してくれるはずです。アドベントはそれを信じる時です。
このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
ルカ21章28節
今日からアドベントというクリスマスの到来を待ち望む期間に入ります。クリスマスは毎年確実にやって来るものです。一方、人生はいつも不確実です。人生には春夏秋冬が順番に訪れるわけではありません。喜びのさなかに突然の悲しみがあります。人間はすぐに気が変わります。人生は不確実さにあふれています。
アドベントとは「到来」という意味の言葉です。時の流れは正確です。待っていても、待っていなくて、それは確実にやって来ます。私たちはクリスマスをどう待つのかが大事です。今日は聖書から、クリスマスが確実に来るように、私たちにもきっと神様が来て下さるということを見ます。そして私たちはそれを待つ間、顔を上げて、うつむいた顔を上げて、それを待とうということを見てゆきたいと思います。
25節の「太陽と月と星」とは世界の確実さ、信頼できるものの象徴です。しかし確実と思えるものにも変化が起こります。人々はその時、不安になります。気候変動、ゲリラ豪雨、季節はずれの台風、コロナなど不確実なことが増えてきています。人間はならなおさら不確実でしょう。仲間、家族、友人、教会員など、どの関係も簡単に変わってしまうものです。人間はいつもその変化に悩みます。
確実なものはこの世界にどんどん少なくなっています。その中で変わらないものは何でしょうか。私たちの世界には想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害がおこるかもしれません。しかし私たちにはただ変わらないものがあります。それが26節にあるように、神様が来るという約束です。どんなに人間が変わろうとも、どんな天変地異が起きようとも、変わらないもの、それが人の子、イエス・キリストがやって来るという約束、それを私たちが見るという約束です。その確実な約束を私たちは変化の多い生活の中で待っています。
イエス様は私たちがその約束をどのように待つべきかを教えています。28節には「身を起こして頭を上げなさい」とあります。聖書は私たちに不確実で不条理な時代の中にあっても、顔を上げて歩こうと言っているのです。
そして33節には聖書の言葉は天地が滅んでも、滅びないとあります。私たちには人間がどんなに変わっても、変わらない確実さが与えられているのです。人生や世界には、予想もしないような変化が起きます。でも私たちに変わらないものがあります。それは神様が私たちのもとに来るという約束と、神様の言葉です。神様の約束と神様の言葉は変わらない確実なものです。
私たちの人生には不確実と困難さあります。しかし私たちは顔を上げて歩みたいのです。イエス様が必ず私の心に来て下さるという確かな希望を持って、顔を上げて歩みたいのです。どんなに世界が変わっても、神様のことばは決して滅びないことに希望をもって、顔を上げて歩みたいのです。お祈りします。
今日はこども祝福祈祷の時を持ちます。こどもたちの立身出世ではなく、平和を実現する者に育って欲しいと願って祈ります。平和は何より大切なことです。そして聖書の平和は戦争をしないという狭い意味ではありません。聖書の平和はヘブライ語で「シャローム」といいます。それはちょうどでこぼこな丸が、きれいな丸の状態になってゆく動作に似ています。みんなが等しく満たされている状態です。
図にも示しましたが、現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとしている場所、低く押し込められている場所があります。そしてイエス様の十字架は低み、一番深い谷、悲しみの底にあります。シャロームとは歪んだ丸がもとの丸に戻るダイナミックな動きです。子どもたちにはぜひそのシャロームのために働く人になって欲しいと願います。
今日の聖書箇所でルカだけが強調しているのが5~6節です。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされるというのは、まさしくこの丸になる、シャロームに近づく動きを示しています。バプテスマのヨハネはシャロームの教えを広めていたとも言えるでしょう。この呼びかけには多くの人が賛同しました。そして人々はそれぞれ聞きました。「私たちはどうすればよいでしょうか?」ヨハネはそれぞれの場所で公正な、誠実な仕事をする様に教えました。神様にも隣人にも、誠実に生きるということが、ヨハネの「どう生きてゆけばよいか」への答えだったのです。
ヨハネは群衆に、下着を2枚持っていたら、持っていない人に1枚手渡すようにと言います。これは貧しい人も、より貧しい人の助けになるようにという教えです。私も貧しいし、私も必要、でもその中から分かち合うということです。バプテスマのヨハネは貧しい者も互いに分かち合い、支え合って生きるようにと言いました。この丸の様にシャロームを目指す、小さくても丸になってゆくことを目指す、そのような働きが、悔い改めた者には起こされるはずだと語ったのです。
そしてイエス様もこの群衆の一人だったかもしれません。イエス様は高い者を低くし、傷ついている人を訪ねました。そしてご自身から十字架へと向かわれたのです。シャロームの実現のために、この地上に来られ、十字架にかかられたのです。
私たちはどう生きればよいでしょうか。聖書にはその答えが書いてあるのではないでしょうか。今私たちの生活は本当に苦しいです。まるで下着が2枚のような生活です。そのような中で私たちはどう生きるべきでしょうか。それぞれが主に尋ねて歩んでゆきましょう。そしてこどもたちが高みに行くのではなく、シャロームの実現のために働く人となるように祈りましょう。お祈りします。
この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。ルカ福音書20章36節
今日は召天者記念礼拝です。天に召された方々は神様のもとで苦しみや不安、心配事の無い毎日、平安な時を過ごしているでしょう。
久しぶりに集われたご家族もいると思います。教会は少しずつ、男女に分けて物事を考えることから解放されています。聖書には当時の時代背景から来る、女性蔑視の表現が多くあります。しかし同時に、当時常識だった男女差別を超える表現として、見直されている箇所もたくさんあります。今日の個所でもイエス様は男女、あらゆる性別が対等に生きることを、死というテーマから教えています。
サドカイ派はたとえ話をします。当時、女性の人生最大の役割は健康な男子の跡取りを産むことでした。しかしこの女性は男子を産むことがないまま、夫に先立たれてしまいました。夫の弟と結婚しますが、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。このような結婚が7回続きました。サドカイ派は質問をします。みんな復活した時、この女性の夫は誰でしょうか?
復活を信じるかどうかは個人の自由ですが、このたとえ話が架空の話だったとしても、あまりにひどい話です。女性に負わされた、男子を産む、跡取りを産むという役割と負担、そして夫を亡くした悲しみ、それが7回繰り返される悲しみは、この話では想像すらされません。サドカイ派は最後まで徹底して、男性中心主義で語り抜きます。いくら2000年前だったとしても、ひどいたとえ話です。
このたとえ話にイエス様はどのように答えるでしょうか。イエス様は次の世では女性が男性に振り回されて生きる必要はないと言っています。女性も天使に等しい一人の大切な存在として、神の子として生きるのだということです。神様が約束している次の世、それは女性が男性に振り回されない世です。すべての性が不安や心配や痛みから解放されるということです。それが召天者の方々に起きていることです。この方々はすべての不安から解放されて神の子とされているのです。
そしてもう一つ大切なことがあります。私たちは生きている者も、召天した者も、男も女もすべての性も、神様から同じ命が与えられています。しかし今の社会ではどうでしょうか。さまざまな差別や不安が多くあります。神様は生きている者の神様です。この地上でも、神様から与えられたすべての命が、天使や神の子の命として大切に扱われるように祈ります。
今日私たちは天に召された方たちはきっと不安もなく、苦しみもなく、心配事もありません。誰かに物のように扱われることなく、天使の様に、神の子の様にすごしているでしょう。だからこそ私たちは安心してこの皆さんを天へと送りだしています。そして私はこの地上もそのような場所になることを願っています。神様は御心が天になるがごとく、地にもなりますようにと祈っておられます。召天者に与えられた平安が、地上の私たちにも与えられるように祈りましょう。
だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。ルカ11章35節
今日、ひとつの命が神様に従うという決心に導かれ、バプテスマを受けました。神様はつらい時も離れていなかったという信仰告白もいただきました。まいても芽が出ないと感じていても、長い時間を経て芽が出るのです。私たちはそこに大きな励ましをもらいました。これからもたくさんの種をまいてゆきましょう。
私たちが大切にしたいことは、あれは清い、これは汚れていると別ける事ではなく、愛を持って行動することです。清さや汚れを超えて、他者に愛を示してゆくことを大切にしたいのです。人が神の愛に触れる時、絶望は希望や感謝に代わってゆきます。イエス様もそのように人と関わられたお方だったのではないでしょうか。今日は聖書からそのことを見てゆきたいと思います。
イエス様は清い、汚れているという分け隔ての無いお方です。祭司とも罪人とも食事をします。しかし汚れを取り払う習慣は拒否します。なぜなら一般庶民が祭司から、できないこと、わからないこと、細かなことで、汚れていると言われていたからです。イエス様はあえて、清いと自負する人々の食事会で清めを拒んだのです。
イエス様はこの祭司たちを、知らない間に踏んづけた墓みたいな人ですねと譬えています。本人が気づかない、あるいはどうすることもできないことで、人を汚れていると言って、ひどいですねと言ったのです。イエス様は何が清いとか、何が汚れている、そのようなことを問題にしないお方です。むしろその中に向かってゆき、汚れてなどいない、あなたは清い、そう宣言される方でした。そしてご自分の力を分かち合ったお方でした。
33節にはイエス様はともし火をみんなから見えるように置きなさいと言っています。これはあなたの内側にもっている光を大切にするようにということです。あなたの中にはすでに光があるのです。それは神様が命を創造した時にすべての人に与えて下さった光です。今はただ少し隠れているだけです。あなたは汚れてなんかいません。すべての人がすでに清い、美しい光を持っているのです。そしてその光を他者が見えるように、輝かせなさいと言います。私たちは器の中身、私たちの中にある光、私たちが自分という器の中に持っている光を分かち合うことが大事です。
汚れている、ダメな人間だ、そう周りから、そう言われることがあるかもしれません。でもそんなことありません。あなたの中には光があります。あなたの光を他者を照らすために使ってください。明るい暗い、清い汚れているといった差別を生み出すための光ではありません。清さと汚れを超えて、私たちには光があります。そのように共に輝く。それが今日私たちに与えられたメッセージではないでしょうか。
私たちの世界には差別と暴力があります。自分はダメな人間だと思っている人がいます。私たちがいただいている神様の光でそれを照らしてゆきましょう。私たちの内側にある光を、共に輝かせてゆきましょう。お祈りします。
イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 ルカ23章43節
アフリカ・ルワンダでは1995年に集団虐殺があり、多くの人が殺されました。私たち日本バプテスト連盟では佐々木和之さんを派遣し、人々の和解を支援しています。ある時に佐々木さんが行った平和を教えるためのワークショップをご紹介します。このワークショップでは参加者は家族を失った悲しみや傷に向き合い、それらを小さな紙に書きだしてゆきます。そしてその紙を釘で十字架に打ち付け、祈りと賛美の後、焼いて、灰としてゆきます。このようにして、悲しみや憎しみを主にゆだね、他者を赦し、自分自身を赦し、平和へと導かれてゆきます。このような赦しは私たちにも共通する点があるのではないでしょうか。私たちにも赦しが与えるためには、その思いを正直に、十字架へと差し出してゆくことが必要なのではないでしょうか。今日の聖書からもそれを見たいと思います。
イエス様と共に十字架に架けられた二人は、一人は悔い改める罪人、もう一人は最期までイエス様を侮辱した罪人です。後者は最期の最期まで信仰を持たなかった愚かな人間と評価されてきたでしょうか。私はルワンダでの佐々木さんのワークショップの話を聞くと、この罪人が痛み、苦しみを十字架のイエス様に正直にぶつけた人として見えてきます。十字架に架けられた彼は自分の痛み、魂の傷をイエス様に向けて、隠すことなく正直に言葉にしました。自分の思いのたけを叫んだのです。彼はそうすることによって、持っていく場所のない思いを神様にぶつけ、赦しへと導かれていったはずです。
イエス様は43節「今日、あなたは私と共に楽園にいる」と言います。この個所は実は、誰に向けて答えたのか、相手は明確に書かれてありません。聖書はイエス様を罵り、自分の苦しみを正直にぶつけたあの罪人が「あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた可能性にも開かれています。イエス様は、十字架に苦しみをぶつける言葉も、信仰の告白として受け取ってくださったのではないでしょうか。
イエス様はこのように、私たちの偽りのない苦しみや憎しみの言葉をすべて引き受けて下さるお方です。イエス様は苦しみを十字架にぶつけた者に、楽園、神様の愛の下にあることを約束して下さったのです。
イエス様は楽園にいるは「今日」だとおっしゃいます。いつかではありません。今日です。あなたが苦しみを十字架に吐き出す今日、あなたは楽園にいる、あなたはイエス様の愛の下にいるということです。私たちは今日、十字架に苦しみ、悲しみ、憎しみ、すべての思いを言葉にしてぶつけてゆきたいのです。私たちには苦しみをよく知り、引き受け、愛の下にいる約束をしてくださる十字架のイエス様がいます。私たちも今日、その神の愛の下で、楽園にいる約束がされています。私たちも今日、その思いを正直に十字架へと向けてゆきましょう。お祈りをいたします。
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。 ルカ12章15節
今日は収穫感謝礼拝です。1621年イギリスのピューリタン(清教徒)が、メイフラワー号に乗ってアメリカに渡りました。彼らは新天地での厳しい冬を、先住民からの援助と、教えてもらった知恵で生き抜きました。そして翌年の秋、その収穫を神様に感謝しつつ、先住民と一緒に喜び、分かち合ったことが収穫感謝の起源です。
しかしその後、入植者たちはより広い土地を必要とします。彼らは先住民の土地を奪い、殺し、奴隷としました。私たちは400年前のクリスチャンが、助けてくれた先住民から土地を奪い、命を奪った歴史も忘れないでいたいのです。
私たちはすべての恵みは神様から来たと感謝します。そしてそれを分かち合います。そしてどんなことがあっても命は人間が好き勝手にしてはいけません。神様に感謝すること、互いの命を感謝し大切にすること、分かち合うこと、それを収穫感謝礼拝の時に覚えたいのです。今日の聖書の個所もそのことを言っていると思います。
今日の聖書の箇所でイエス様は、もともと金持ちだった人の畑が、さらに豊作だったというたとえ話をしています。ひとくちに豊作といっても、いろいろな人が協力して、初めて豊作となります。サプライチェーンです。しかしこの金持ちは協力者のことを一切考えていません。17節からは『私の』作物、『私の』蔵、『私の』穀物、『私の』財産、『私の』魂とあります。自分、自分、自分の発想です。この金持ちは豊作の恵みをすべての『私の』ものだとして独占しました。
そこでイエス様は、今日あなたは死ぬ、そうしたらそれは誰のものになるのかと問います。イエス様は、それは元々誰のものだったのかと問うているのです。イエス様は一緒に手伝ってくれた人、支えてくれた人、励ましてくれた人に感謝してる?分かち合ってる?あなたの蔵にしまったもの、本当はそれ、みんなのものなんじゃないの?あなたが死んだらどうなるの?きっとみんなそれを分け合うんじゃない?そう問いかけています。自分のために富を積んでもしょうがないよ。神様の前に一緒に豊かになろうと言っています。それが21節、神様の前に豊かということ、それが収穫に感謝するということだよと言っているのです。
22節以降は思い悩むなと続きます。この個所も自分の事ばかりに思い悩んでいないか?自分、自分、自分になっていないかが問われているのです。神への感謝、仲間への感謝があるかどうかが問われているのです。
今日は収穫感謝礼拝です。私たちはこの手にあるものが、すべて神様からいただいた恵みであることに感謝しましょう。そしてこの手にあるものは多くの人の支えによってあることに感謝しましょう。だからこそ、それを神様に献げ、仲間と世界とそれを分かち合ってゆきましょう。神様の前で世界が共に豊かになってゆきましょう。それが神様に収穫を感謝するということではないでしょうか。それが収穫感謝礼拝ではないでしょうか。お祈りいたします。
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。
マルコ14章28節
今月は世界・環境ということテーマに聖書を読んでいます。今の世界に目を向けると相変わらず戦争を繰り返しています。核兵器の恐ろしさを知っている世界・人類は広島・長崎に続き三度目の過ちを繰り返そうとしています。戦争をすること、それこそがまさしく「私はイエスなど知らない」と言い表すことだと思います。広島・長崎のきのこ雲の写真を見て、ロシアとウクライナが戦っているのを見て「私はイエスなど知らない」と言っているのが聞こえます。
これから先、世界はどうなってゆくのでしょうか。先の見通せない世界になってきています。世界はこれからさらに「私はイエスなど知らない」そんな世界になってゆくのでしょうか。私たちはこの世界で一体何に、どこに希望を持てばよいのでしょうか。こんな世界で希望をいただくためにこそ、今日も聖書を読みましょう。
29節と31節でペテロは、私は大丈夫、私は他とは違います、私はちゃんとした信仰を持っていますと言います。このような信仰は一番危険な信仰です。結局ペテロは危機が訪れた時、三度「イエスなど知らない」と言います。人間の決心は、このように弱く、もろいものです。イエス様は人間の弱さをよくご存じです。こんな私たちには、こんな私たちの世界には、どこに希望があるでしょうか。
イエス様が私たちに下さる希望は28節「私は復活した後、あなたがたより先に先にガリラヤへ行く」という言葉です。イエス様は人間には失敗と絶望が必ず起こるけれども、その後に必ず立ち上がり、再会をできると約束をしておられます。つらい事がある、不本意なことがある、でもそこで失望することはない、その先に私は待っているとおっしゃっているのです。それが私たちの希望です。
イエス様の「ガリラヤに先に行っている」それは、あなたが私を裏切り、すべてに失望した先にもなお、あなたと共にいるという意味です。神は私たちと共にいる神であり、神は私たちの先にいる神なのです。
いま私たちの世界は戦争が起り、暗い世界です。失敗と絶望が続く世界です。神を裏切り、「イエスなど知らない」と繰り返し表している世界です。でも聖書は言います。これで終わりではない。私たちの行く先には必ず希望がある、復活のイエス様がこの先におられるのです。この世界の先に、神様は待っておられるのです。
世界の中にいる、私たち一人一人の一週間についても、同じことが言えるでしょうか。私たちの1週間も失敗し、「イエスなど知らない」と言ってしまう一週間でしょう。病や痛み、苦難がある1週間でしょう。できればそれは避けたいものです。でもたとえそれができなかった時も、神様はその先に待っておられます。今日私たちも、その約束をいただいています。
今日までマルコ福音書を1年間読んできました。この先にも物語は続きます。これからも先を歩まれるイエス様に向かって、共に歩みましょう。お祈りいたします。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
マルコ14章22節
今月の宣教のテーマは世界・環境としました。世界に向けて開放された、聖書の読み方をしたいと思っています。今日10月の第1日曜日は「世界聖餐日」と呼ばれる日です。教派や教会を超えて、世界で同時に主の晩餐を行い、イエス様を中心とする仲間であると証する日です。世界に目を向けるとロシアとウクライナの問題、途上国の物価上昇など様々な問題が起きています。私たちはこの世界を見つめながら礼拝し、連帯性、同時性を意識して主の晩餐をもちましょう。
12節には主の晩餐は神様に招かれ、不思議と準備されているもだと書いてあります。イエス様が目印とした人は性別役割分担を超えて働く、水がめを運ぶ男でした。神様が準備される場所には、必ずこのような人が起こされます。
今日見たいのは、この主の晩餐は「ふさわしい者」だけが集い、食事をしたのではないということです。この食事にはこの後イエス様を裏切るユダも招かれたのです。
イエス様は18節で弟子たちの裏切りを予告します。弟子たちは19節「まさか、私のことでは」と思ったのです。弟子と言っても、それほどの信仰しか持たない者の集まりでした。そしてメンバーの中には本当に間違ったことをする人がいました。
イエス様はなぜ、このような食事会を持ったのでしょうか。それは仲間たちがどんなにバラバラになってもイエス様を中心とする仲間であることを忘れないためでした。間違いを犯す人、そういう危険のある人も含めて、共にイエス様を中心とする仲間だと確認するためです。それは私たちの主の晩餐も、同じです。私たちの間に違いがっても、中心にイエス様がいることを忘れないために行われます。
私たちは今日、特に世界の仲間たちと一緒に主の晩餐を持ちます。同じキリスト教の中でも、それはキリストの教えと違う、間違っていると思える仲間が世界にいます。しかし今日の個所によればイエス様は、バラバラの私たちを、バラバラになる私たちを同じ食事に招くお方です。この主の晩餐を、イエス様を中心として生きる世界の仲間が、正しく導かれるように祈りつつ、持ちたいたいのです。そしてもうこれ以上、誰にもイエス様を裏切って欲しくないのです。そしてきっと私こそイエス様を裏切ってしまうユダです。しかし、それでも神様はこの食事に招いておられます。なんという恵みでしょうか。それが神様の愛です。私は招かれたからこそ、愛されるからこそ、イエス様を裏切りたくないと思うのです。
私たちはその愛を忘れてしまわないように、この主の晩餐を繰り返しましょう。そしてもし裏切ってしまっても、また主の元に集いましょう。食事へと招いてくださるのが神様の愛です。この後、世界と共に、主の晩餐を持ちます。神様は私たちに平和への一致を求めておられます。平和への一致への道は必ず用意されています。世界の平和と一致がこの主の晩餐から始まるように願います。お祈りします。
はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。
マルコ14章9節
ある時、女性がイエス様に対して、頭から油を注ぎました。頭に油を注ぐことは聖書の中で特別な意味を持ちます。サムエルがサウルにしたように、この人は王様だと宣言する象徴行為です。今回は油を注ぐ役割を女性が担いました。最初期のキリスト教では女性が中心的な指導者として活躍をしたのです。一方、女性の小さな献げ物を「無駄だ」と非難した男たちは、その後まっさきに逃げだしました。
しかしこの女性指導者は、時代と共に地位が下がります。ヨハネ福音書では頭ではなく足になり、ルカ福音書では罪深い女として登場し、娼婦とまで解釈されてゆきます。今日はこの女性を罪深い女として読むのではなく、素晴らしい信仰を持った女性指導者の話として読みたいのです。イエス様は頭に油を注ぐという女性の信仰の告白を「無駄だ」「その力を他に使え」と言わないお方です。受けてとめて下さるお方です。私たちの精一杯の信仰告白は誰にも批判される必要はありません。
油を塗るとは死者の葬りをするという意味もありました。この弟子の女性はイエス様がこのまま活動を続けたらきっと殺されてしまうと思ったのでしょう。イエス様の十字架の死の危険に、誰よりも早く気づいたのが、この女性だったのです。
大変高価な香油が、大量に使われたことも問題です。彼女の献げ物は、無謀で、ぜいたくで、過剰です。この女性はバランスを欠いているように思えます。しかし彼女は自らの収支計算、計画、欲しい物を超えて、イエス様に信頼し、献げました。それは打算のない、時にかなった献げ物でした。イエス様は8節「この人はできるかぎりのことをした」それでよいと言ってくださっています。
私たちに求められているのは、他の人の信仰の表現を批判することではありません。他の人の信仰の表現を、小さいと笑ったり、多すぎると批判したりすることでもありません。私たちがただ求められていることは9節「記念として語り伝える」ということです。記念として語り伝える場所、それはまずこの礼拝です。今日私たちはこの女性を記念する礼拝をしたいのです。
この女性を記念する礼拝とはどんな礼拝でしょうか。それは「この人が王だ」「この人が私の人生を導く」と告白をする礼拝です。イエス様を救い主と告白する礼拝を献げてゆきましょう。大切な時間を使って、毎週繰り返し礼拝することは、無駄だと思われるでしょうか。礼拝することは、まるで高い油を無駄遣いしているように見えるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいのです。そして油を注ぐ、それは十字架に向かう葬りの準備でもあったということを見ました。私たちはイエス様の十字架への歩みと復活を覚えて礼拝を続けてゆきましょう。
私たちは礼拝について考えてきました。この女性が記念されるような、思い出されるような礼拝をしましょう。イエス様を救い主と告白する礼拝、自らの予定を超える礼拝、十字架と復活を覚える礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
マルコ12章43節
南アメリカ・アンデス地方に「ハチドリのひとしずく」という話があります。1羽のハチドリが、山火事の中で森に残り、くちばしで水を一滴ずつ運び、火事を消そうとしました。他の動物たちは「そんなことして何になるんだ」と笑いました。しかしハチドリは「私は、私にできることをしているだけ」と答えたと言います。私たちの日常と世界には、大きな課題に対して、私の働きは小さすぎてほとんど無意味と思える時があります。でも、あきらめない一滴が大事なのです。
イエス様もあきらめないで、小さなことを大切にする生き方を勧めた方だと思います。イエス様は事柄の大小ではなく、あなたにできることをすることが大事、あきらめず、小さい事を大きな愛で進めてゆこうと私たちに呼びかけています。聖書からイエス様のそんな姿を見てゆきましょう。
聖書には律法学者がやもめを食い物にしたとあります。これは人の人生の混乱や不安に紛れて、財産を奪おうとした宗教詐欺です。霊感商法と同じです。イエス様は律法学者のような“偉い人”ではなく、社会で見過ごされる人に目を向けました。
今日の物語の主人公は偉大な者ではなく、見過ごされている人です。やもめの信仰を見てゆきましょう。エルサレム神殿の賽銭箱は誰がどれくらい献金したのかわかってしまいました。お金持ちはジャラジャラジャラと献金します。まわりは「おぉ」となり、拍手が沸いたでしょう。しかしやもめの献金はチャリン。誰かが小銭を落としたかのような音です。周りで見ていた人は、そんなことして何になるのかと笑ったでしょうか。しかし聖書によればこのやもめはレプトン銅貨を2枚献げたとあります。もう一度チャリンと小さな音がします。
イエス様はそのレプトン銅貨2枚を素晴らしいとおっしゃるお方です。あなたの、小さくても、自分ができる精一杯をしようという信仰が素晴らしいというのです。「はっきり言っておく」とは「アーメン」という言葉です。イエス様は女性が献げる信仰を見て「アーメン」「確かにそれは真理だ」とおしゃったのです。
私たちは今月礼拝というテーマで宣教をしています。私たちもこのやもめのように礼拝を献げましょう。周囲からは、礼拝は何の役に立つのかわからないかもしれません。でも、私たちはできる限りの礼拝を続けましょう。私たちは笑われても、自分ができる礼拝をする、そんな生き方をしてゆきましょう。そして派遣された場所で、小さいけれど大きな愛で、私や、教会にできることをしてゆきましょう。
今日は高齢者祝福祈祷の時を持ちます。聖書によれば、大きなことができなくてもいいのです。それぞれができる礼拝を、できることを、一滴ずつしてゆきましょう。きっと神様は、そのような私たちを見て、誰よもよりもたくさん入れた「アーメン」と言ってくれるはずです。お祈りします。
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」マルコ12章29~30節
中島みゆきの「糸」という曲には「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」とあります。今月私たちの礼拝では「礼拝」をテーマにしていますが、礼拝にも縦糸と横糸があると思います。礼拝において縦の糸とは、神様と私がつながる糸です。そして礼拝において横の糸とは、私と仲間とがつながる糸です。礼拝はこの縦糸と横糸が織られ、紡がれるのです。
礼拝のプログラムを見るとそれを直接感じることができるでしょう。縦糸と横糸が織り重なるようにすすみ、布のようになっています。その礼拝は誰かを暖めうるかもしれません。傷をかばうかもしれないのです。
礼拝は縦糸と横糸とどちらも大事です。礼拝は神様と自分の関係を考える時、そして同時に仲間と自分の関係を考える時です。どちらかだけではなく、両方が大事です。今日は礼拝とは神様と自分の関係を考えることはもちろんとして、礼拝は人と人との関係を考える場所でもあるということを見てゆきたいと思います。今日の聖書を読みましょう。
当時の律法学者たちの信仰の中心は、神殿で犠牲を献げることでした。イエス様はその律法学者に一番重要なのは何かと聞かれて、神を愛することだと答えています。全身全霊、全人格、心と生活の端から端まで神様を大切にすることが大事なのです。神様を第一に大切にするとは、もちろん礼拝をすることとも言えるでしょう。それぞれの精一杯で礼拝しましょう。
31節にはイエス様は第二にと答えます。イエス様は選べないほど両方とも大事だからこそ、二つ答えます。イエス様が神様を愛するのと同じくらい大事だと教えたのは、隣人を愛するということです。イエス様は隣人を全身全霊、全人格、生活の隅々まで、大切にしなさいと教えています。すべての人、すべての命が私たちの隣人と言えるでしょう。私たちは神様からすべての隣人、すべての命を大切にしてゆくことが求められています。私たちは神様を愛し、大切にしましょう。そして私たちは他者を愛し、大切にしましょう。
イエス様はこのあと十字架に架けられます。十字架は私たちに、神を愛すること、そして隣人を愛することを強烈に指し示しているものです。私たちは礼拝でこの十字架を見て、どんな時も神を愛し、隣人を愛した主イエスを思い出せるのです。
私たちは今日の礼拝から1週間を始めました。神様を愛し、隣人を愛しましょう。神様を全身全霊で大切にする1週間、他者の命を全身全霊で大切にする1週間をこの礼拝から始めてゆきましょう。お祈りします。
本日はお休みをいただき、宣教の奉仕を担っていただきます。このような休暇をいただけることを感謝します。
神学校では宣教1回の準備には20時間かかると教わりました。宣教の準備では聖書のみ言葉を読み、黙想し、先人たちの解釈を調べ、辞書を引き、会衆を想像し、言葉を紡いでゆきます。最近私は15時間程度で準備ができるようになったでしょうか。それでもまだ20時間かかる週もあります。このような綱渡りを毎週繰り返し、穴をあけること無く、講壇に立つことができていることに驚いています。
神学校では宣教の後は必ず落ち込むものだとも教わります。限られた時間で準備しなければなりませんし、人間が語ることには必ず欠けと不足があるからです。終わった後は達成感よりも後悔が押し寄せるのが普通です。むしろ過度な達成感はみ言葉の前の謙虚さという点で危険とも言えるでしょう。振り返れば必ず反省点があるのです。このような役割を続けてゆくには祈りと支えと励まし、そして「休暇」が必要です。いつも必要な祈りと支えと励ましといただき、休暇をいただけたことに改めて感謝します。
宣教の働きについてよく「大胆に語ることができるように」と祈ってくださいます。宣教者は祈りによって支えられなければ、この働きを続けてゆくことができません。祈りが必要です。語るにあたって、大胆ならよいわけではありません。力強ければよいわけではありません。宣教には大胆さと同時に繊細さ・適切さが必要です。しかし大胆さの中に繊細さ・適切さを含む宣教を語るのはとても難しいことです。それは鎖に縛られながら、早く走ろうとするようなものです。
今日のみ言葉はまるで宣教者に向けられた祈りのようです。今日立たされた福音の使者、宣教者のために祈りましょう。限られた時間と、言葉、さまざまな鎖の中で語っています。語ったあと後悔することもあるでしょう。そのような宣教者が大胆かつ繊細に語ることができるように励まし、心から祈りましょう。
そしてこの個所は宣教者から会衆への祈りのリクエストでもあるでしょう。宣教者は孤独で、一人で悩みます。だからこそ宣教は会衆からの祈りと支えと励ましによって語ることができるようになるのです。私も今日宣教者のために祈っています。
そして私からもリクエストします。どうぞ今日の宣教者のために祈ってください。毎週の牧師の宣教のために祈ってください。大胆で繊細で適切な宣教のために祈ってください。良い礼拝となるように祈っています。 (牧師 平野健治)
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
マルコ10章14節
今日から1ヶ月間「礼拝」をテーマとして宣教をします。こどもと一緒に礼拝をすることについて、どのようにお感じでしょうか?こどもの声で集中できなかったという人、元気な声が聞こえてうれしいという人がいるでしょう。こどもたちとどのように礼拝を共にするかは教会の難しいテーマです。でも教会ににぎやかなこどもがいることは贅沢な悩みかしれません。
それぞれの教会がこどもを大切にしようとしています。正解はひとつではありません。こどもといっしょに礼拝できる喜びと、礼拝に集中できることはどちらも大切です。願うのは、大人によってこどもが排除されず、受け入れられることです。私たちなりにどのように、今のこどもを受け止めて、共に礼拝するか、いつも考え続けてゆきたいのです。聖書からこのことを読みましょう。
13節は人々と書いてあるだけで、誰のことなのかはっきりしません。誰が、なぜ叱られたのかは私たちの想像力にゆだねられています。こどもが怒られている姿はすぐに想像がつきます。礼拝者としてふさわしくない態度だと怒られたのでしょうか。怒る気持ちも怒られる気持ちも、どちらもわかるような気がします。ちゃんと集中できない私です。礼拝者としてもとても不十分な私です。おそらく私もこの場所にいたなら、イエス様に近づいて怒られた一人だったでしょう。
この話の前の金持ちの男の話と共通するテーマがあります。それは人の目にはふさわしくないと思えるような人が神の国に入るということです。イエス様は不十分と思える人こそ神の国に入る、礼拝に招かれていると言うのです。
この招きは私たちの礼拝にもつながっています。ここは礼拝するには不十分な者が集められている場所です。こどもこそ招かれています。すべての人が招かれていると言えるでしょう。私は自分をこのこどもに重ねます。私にはいろいろな不十分や力不足があります。でも神様はそのような私を招いてくださいます。きっとみなさんもこのこどもの一人でしょう。それぞれには不十分や力不足があるでしょう。でもそんなあなたを、イエス様は神の国に招き、礼拝に招き、手を置いて祈ってくださるのです。もちろん教会に集うこどもたちも、同じです。
今日集った私たちは、大人もこどもも皆、この物語にでてくるこどもです。イエス様はこのように、こどもを、私たちを、招き、抱き上げて、喜んでくださるお方です。私たちは神様に招かれた者として、礼拝を共にしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。私たちは不十分なお互いを大切にする教会です。どのようにすれば、よりよく共に礼拝できるかを考え続けてゆきましょう。そしてイエス様が集まった人を喜び祈ったように、私たちも集えたことを喜び互いに祈りましょう。お祈りいたします。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 マルコ10章49節
平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。今日聖書はそれと反対のことかもしれません。私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。
バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができない、社会からはじき出された人でした。彼はイエス様に一番初めにして欲しい行動を叫びました。それは驚くことに「憐れんでください」ということでした。「憐れむ」という言葉には同情する、慈しむという意味があります。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉にするなら「自分の気持ちを分かってもらう」ということです。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください」そんな叫び声だったのです。しかしなんと周囲の人々は黙らせようとしたとあります。周囲の人々とは社会と言い換えることができます。彼は、社会から無視され、黙らされたのです。でも彼はもっと大きな声で叫びます。
イエス様は誰も足を止めなかった場所で足を止めるお方です。そして道端、社会の隅から彼を神の前に呼び出すのです。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。
この物語からイエス様の生き方を学びます。そして私たちが今日の個所から知る希望は、神様は苦しみに足を止めて、聞き、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。
私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?それは多くの仲間が持つ、社会の中にある叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくではないでしょうか?私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。
沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声、小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。
今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。
今月はパウロ書簡ガラテヤ書を読んでいます。今日は当時の食事の問題について考えたいと思います。もともとキリスト教はユダヤ教の中から生まれました。キリスト教は、ユダヤ人でキリストを信じるようになった人「ユダヤ人キリスト者」から始まりました。しかし世界に広がってゆくにつれて、ユダヤ教以外の他の宗教を信じていたがキリストを信じるようになった「異邦人キリスト者」が増えてゆきました。イエス・キリストを信じる集まりは大きく分けて二つ、「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」でした。そして別々に礼拝するのではなく、両方が共に集まる教会が増えてゆきました。
アンティオケ教会もその一つです。しかし今日のガラテヤの信徒への手紙では、その教会でのある食事を巡る事件が紹介されています。アンティオキア教会ではイエス様を信じる人は「ユダヤ人キリスト者」でも「異邦人キリスト者」でも、みんなで一緒に食事をしました。ケファと書いてあるのはペテロの事です。ペテロもパウロもユダヤ人キリスト者ですが、アンティオキア教会では異邦人キリスト者とも仲良く食事をしました。
このことは当時大変珍しいことでした。もともとユダヤ人には食事の規定、食べ物の規定が細かくありました。旧約聖書を厳格に解釈する人は、ユダヤ人はユダヤ人以外とは絶対に食事をしない、会話もしないという人がいました。誰とどのように食事をすべきなのかという厳格な習慣がありました。しかしアンティオキアではその規定を超えて、みんなで一緒に食事をしていました。一堂に会して食事をすること、これは大変珍しいことでした。
一方、食事の規定の中には、食べ物に関しての規定も多くありました。豚肉は食べない、牛肉は良く焼いたり、湯通ししたりして血を抜いてから食べるという規定などです。ユダヤ人キリスト者はその食事の習慣も全部やめて、みんなで食事をしたのでしょうか?
しかしアンティオキアのユダヤ人キリスト者が、突然食べる物も変えたというのは、考えづらいでしょう。今まで食べなかったものも突然食べ出したわけではなかったはずです。自分たちが何千年も大事に守ってきた食事規定のすべてを捨てて、異邦人キリスト者と一緒に食事をしたわけではなかったはずです。ユダヤ人キリスト者が自分たちの習慣を簡単に捨てたとは思えません。また逆に、異邦人キリスト者が、ユダヤ人のように豚肉を食べるのをやめたというのも考えづらいです。二つのグループがどちらかに一致した、どちらかが我慢してあわせた、どちらか一方に“同化”したとは考えられません。どんな食事だったのでしょうか。
おそらく一緒に食事をしていたとは、お皿や食べ物が分かれていたのではないかと言われます。つまり一緒に食べるのだけれども2種類の食事があったということです。テーブルのこちら側は食物規定のあるユダヤ人向けのお食事、そしてテーブルの向こう側は食物規定の無いユダヤ教ではない人の食事と2種類の食事が出たと考えられます。そのように工夫をすることで、みんなで一緒に食事ができたのでしょう。今の日本のアレルギー対応の食事を想像します。この食事はアレルギーのある人も一緒に食べるけど少しメニューが違うという食事の様です。また、大人と子どもが一緒にカレーを食べる時、甘口のお鍋と辛口のお鍋に分けて作るような食事です。おそらく一緒には食べるけど、食事はそれぞれの考えに合わせて作られたでしょう。いきなりすべての食べ物を、すべての人と食べる食事にはならなかったはずです。でもそのように知恵のある工夫して一緒に食べました。おそらく一堂に会する食事はアンティオケ教会ではとても大事にされたでしょう。その教会の特徴であり、その教会の宣教でした。神様はこのように、ゆるやかな一致をアンティオキアに起こされました。
その中でも、後に主の晩餐に発展してゆく、パンとぶどう酒は特殊でした。それはみんなで一つのパンから、一つのグラスから取り分けて食べられました。いろいろな考えに応じてメニューがある中で、パンとぶどう酒は全員で分かち合われました。食事の参加者はそこに特別な一致を感じたでしょう。
パウロはアンティオケでみんなと一緒にこのような食事をし、また様々な国を巡ってみんなと一緒に食事をしました。そしてエルサレムから来たケファ(ペテロ)もアンティオキアに来てこの食事に加わっていたのです。これはかなり珍しい食事でした。ですからユダヤ人キリスト者の中からは反発がありました。特にユダヤ人キリスト者の中心だったエルサレムの人々は反対をします。12節にあるヤコブからの者とはエルサレムから来た、ユダヤ人以外とは食事をしてはいけないと厳格に考える人のことです。
ペテロ(ケファ)ももともとエルサレムから来た人ですが、アンティオキア教会に賛同して、仲良く一緒に食事をしていました。しかしエルサレムからの厳格派が来てペテロに注意をしました。するとペテロは徐々に態度を変えてしまったのです。やっぱり食事をしないと言い出したのです。おそらくペテロは徐々に異邦人キリスト者を避けるようになりました。最初は食事の場所には行くが一緒には食べないことからはじまり、やがてその食事の場所にもいかないようになりました。
これにはアンティオケ教会一同、大変がっかりしたに違いありません。なぜ一緒に食事するのをやめるのか。これまで一緒に仲良く食事をしてきたのに、エルサレムの人が止めた方がいいと言ったとたん、私たちと食事するのを止めるなんてひどいと思ったでしょう。私たちはみんなで一緒に食べることを特別に大事にしてきたし、それは私たちの宣教だったのではないかと言ったでしょう。異邦人キリスト者はやはり私たちは受け入れられないのだ、私たちの宣教は受け入れられないのだとがっかりしたでしょう。これがアンティオケアの事件でした。
人びとの失望させたのはキリストを信じているだけでは受け入れらなかったということでしょう。信じているだけではダメで、自分は自分のママではダメで、自分のこれまでの文化や習慣を全部変えてユダヤ人にならないと受け入れらないと感じたのです。それはきっと自分を否定されたように感じたはずです。パウロも怒っています。ガラテヤの人にその事を鼻息荒く報告しています。思い出すだけでイライラするという感情が文面から伝わります。パウロはそのときペテロに捨て台詞を言ってやったと書いてあります。14節「これまでさんざん一緒に食事をしてきたのに、やっぱりみんなと一緒に食事をするのをやめると言うの?」
ただし注意しておきたいのは、2000年前の当初から、誰と一緒に食事をするのかということは大問題で、多様なあり方があったということです。教会の置かれた状況の違いで意見が違ったのです。
エルサレムの人たちの心が狭いという話ではありません。エルサレムはユダヤ人の町であり、その中ユダヤ人社会の中でどうやってキリストを信じるかということが大事な事でした。一方、様々な宗教が混在するアンティオキアでキリストを信じる事とは大きな違いがありました。置かれた場所によって食事の理解、主の晩餐の理解が違ったということです。そのようなことがアンティオキアで起きていたのです。
さて、どのような生き方をこの個所から考えるでしょうか。一番は私たちの教会の事、教会の食事のこと、主の晩餐のことを想像します。まず私たちはアンティオキア教会と同様に昼食会やこども食堂にもっといろいろな人が来て、一緒に食事がしたいと思っています。それが私たちの教会の特徴であり、宣教です。主の晩餐はどうでしょうか。それは一緒に考えたいと思っています。どのような方法であれ、排除されている、私はあなたを輪に入れないというメッセージが伝わらないようにしたいと思います。食卓は同じだったけれどもメニューが違ったユダヤ人のような知恵もあるかもしれません。そしてこれまで教会が大切にしてきたものを捨てる必要はないと思います。
神様の働きを考えます。神様は私たちをこのようにゆやかに一致させる方なのではないでしょうか。神様は私たちを全く同じ、全く同質に、同化させ、一致させる方ではありません。それぞれの違いがあっても、ゆるやかな一致をさせてくださるお方なのではないかと思います。私たちはどのようにゆるやかに一致することができるでしょうか。
私たちのそれぞれの生き方はどうでしょうか。私たちはどのように他者と仲間となってゆくのでしょうか。また、価値観や性格の違う人とどうやって、折り合いをつけ生きてゆくでしょうか。もしかすると一緒に食事をすることは大事なことかもしれません。
私たちは誰かに無理に同一、同質、同化を押し付けなくていいのではないでしょうか。日本には「郷に入っては郷に従え」という諺があります。そして嫌なら出て行けばよいとも言われます。でもそれでは共に生きることにならないのではないでしょうか。無理に一致をさせることも、誰かに私たちが無理に一致する必要もないのではないでしょうか。私たちの社会でも違いをもったまま、ゆるやかに一致することができないでしょうか。同じテーブルだけどメニューは違う、でも大切にしているものは同じ。社会も教会もそんなゆるやかな一致ができないでしょうか。
神様は私たちをそのように一致させてくださる方なのではないでしょうか。お祈りします。