礼拝メッセージ2018年度

2018年

7月

01日

「愛には恐れがない」 ヨハネの手紙一4章7-21節


 ギリシア語には「愛」を表わす言葉が四つある。主に男女の愛を表わす「エロース」。友情、友愛を示す「フィリオ」。親が子を愛する愛「ストルケー」。そして神の愛「アガペー」。十字架によって示された神の愛を表わすのに、「エロース」も「ストルケー」も「フィリオ」も適当ではなかった。なぜなら、これらの愛はどれも自分にとっての価値あるものに対する愛だったからだ。しかし、神が人を愛するというのは、相手の価値を問わない愛なのだ。この価値なき者への愛という、新しい意味を「アガペー」という言葉で表した。

 「アガペー」に示された神の愛は、対象によって起される愛ではない。「エロース」の愛などは、愛する対象の美しさや魅力といった相手の価値によって引き起こされる愛である。しかし、神の愛は対象によって引き起こされる愛ではない。「神は愛なり」(4:8,16)といわれる神からあふれ出る愛なのだ。

 ヨハネは神の愛が私たちの愛に先立っていることを示している。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、…」(4:10)とある。私たちの常識は、信仰とは私たちが神を愛することから始まると考えがちだが、聖書は、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まるとするのである。しかも私たちが愛されたとは、私たちの罪を贖ういけにえとして御子が遣わされたことだとヨハネの手紙は言う。神の愛の後ろには、私たちの罪のために死んでくださるお方がおいでになるということは、決して尋常なことではない。ここで言われる罪(ハマルティア、的外れ)とは、神への背信を意味する。にもかかわらず、不信仰なる者のために御子であるお方のいのちが捧げられたということは本当に尋常なことではないことが分かる。それが神の私たちへの愛の形である。私たちはこれをお願いして、そうしてくださいと言ったわけではない。それどころか、そんなことが私たちのためになされたということすら知らない。それが私たちへの神の愛し方であると言われているのである。これが聖書の常識で、この常識をわがものとすること、我がこととして受け入れ、信じることが信仰である。

 さらに、この神の愛は「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(4:18)と書いてある。愛とは、徹底して相手の存在を肯定すること。神が私たちを愛してくださったとは、まさしくそのことを意味する。存在を肯定するとは、ある事をすればよしとされ、違うことをすればだめだとされるのと違う。愛は相手の価値を問わない。どのような在り方があろうと、そこに「いる」ことがよしとされる、それが存在を肯定されることである。神の愛とは、そういう愛である。99匹の羊を野に残して、一匹を探す羊飼いの姿にこの愛を見るだろう(ルカ15章)。
 
 どこまで行っても「いる」ことが愛されている、これが神から愛されていることだと信じる信仰はどのようなあり方をしていようと、安心感を持つ。たとえ心配で眠れない夜を過ごすようなことがあっても、「いる」ことが肯定されていれば、心配をしなくなるというより、心配をする自分を受け入れることができるだろう。さらに言えば、そのような事態になれば、心配をしないならば事は解決をしないのだから、むしろ心配をするのが当然であるという心境に至ることができる。その心配する私という存在をそのまま丸ごと愛してくださるお方がおられる。何と心強いことだろう、なんという慰めだろう。それこそ、「完全な愛は恐れを締め出す」と言えるだろう。

2018年

6月

17日

「あなたがたは神の神殿」 コリントの信徒への手紙一3章10-17節

 パウロは教会のことを様々な言葉で表現している。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」(10節)と言い、自分を建築家、教会を建物にたとえている。そして、この建物で要となるのはイエス・キリストという土台であると。

 しかし、次に問題となるのは、この土台の上にどのような素材を用いて家を建てるかだ。例として、金、銀、宝石、木、草、わらの六つがあげられているが、それぞれの家が試され、真価を問われる日が来る。それは「かの日」(13節)、つまり、キリストの再臨される日で、その日に各々の建築家の仕事ぶりが火によって試されるのだ、という。

 パウロはその話を何のためにしているのか。教会の働きの中身が問題だ、ということだろう。「あなたがたは……知らないのですか」(16節)とパウロは問うている。そして「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」(16節)と教え、教会は神の霊の住みたもう神殿、聖なるものである(17節)ということ、これこそ決定的に重要なことだ、と言うのである。

 ここでパウロは「あなた方」と複数形で言っている。教会はギリシア語で「エクレシア」という。「神から召し集められた者」という意味を持つ。イエス・キリストによって召し集められた人々の集まりをいう。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません、あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と、パウロが書いている。また、主イエスは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われている。それが教会。

 私たちの教会は、交わりの中に祈りがあり、神の霊が住んでいてくださり、聖なるもの、神のものとされているだろうか。教会はこの聖霊によって生かされている。先週の説教で話したが、教会の土台としてのキリストと、教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに、教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくということ。同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちは教えられた。その私たちの祈りの交わりの中に聖霊が働き、私たち一人ひとりが生き生きとされていくのではないだろうか。そのような一人ひとりが輝いて生きる群れとしての教会を建て上げていきたいものだ。

2018年

6月

10日

「キリストによる和解」 エフェソの信徒への手紙2章11-22節

ここでパウロはエフェソの人々に向かって、かつてキリストを知らなかった時、神の民に属さず、歴史の支配者である神の約束とも関係なく、この世での希望を持たず、神の慰めや平安、約束、希望などと遠く離れて生きていた「異邦人」であったと言う。ここでいう「異邦人」とは、ユダヤ人以外の人を指し、「割礼のない者」「律法を持たない者」とも呼ばれ、ユダヤ人からは救いとは無縁な者とみなされていた。

ここには、ユダヤ人から見た差別と偏見、その裏返しの彼らの選民意識と特権意識が背景にある。彼らユダヤ人は神から選ばれた民、神の救いを約束された民であるという意識だ。それが彼らに自分たち以外の民族を異邦人とみなして、差別、偏見を生み出していった。それは、民族間だけでなく、ユダヤ人同士の中にも「隔ての壁」をいくつも作っていくことになった。それは、神殿の作りからも見て取れる。その壁を打ち破ったのがイエス・キリストであった。どのようにしてか。それは「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(13節)である。「血によって」、「肉において」(14節)、「十字架」(16節)の出来事によってである。
 
そのように神から遠かった異邦人(私たち)が、今や、キリストの十字架の出来事によって、神に近い者、神を知り、神と共にある者、キリストによって生きる者、希望を持って生きる者とされたと、言うのである。この十字架の出来事、救いの恵みは、今はすべての人々に開かれている。すべての人々を主は今招かれているということである。

 そのことを以下、具体的にパウロは述べていく。「実に、キリストは私たちの平和であります」(14節)という意味が、「二つのものを一つにし」「隔ての壁を取り壊し」「律法を廃棄した」という三つの文章で示されていく。

「一つ」とは一致とも訳されるが、それは画一化ではなく、むしろ和解の意味である。「二つのもの」とはここではユダヤ人と異邦人との二つのグループをさしている。「二つのものを一つにし」、そこに主イエスの言葉が響く。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)という主の言葉である。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのだということである。

 次に「隔ての壁」とは、ここでは異邦人をユダヤ人から隔離し、差別していたエルサレムの神殿の壁のことである。当然その壁は双方の敵意の象徴であった。この他にも女性をさえぎり閉め出す壁、祭司以外の人を入れない壁などがあった。このように人々を「規則と戒律ずくめ」(15節)にして、がんじがらめにして、差別を助長し、救いを独占し自己絶対化するような律法を、キリストはご自身の生き方を通して廃棄された。

さらに、パウロは、この人々の和解と平和と一致について、キリストによって新たに造られた教会を通して具体的に語っていく。キリストによって新たに造られた教会。そこにおける人々の和解と平和と一致という交わりが、国籍、家族、建物という三つのたとえで語られている。しかしそれらの言葉はまったく新しい意味で用いられている。家族や国籍という言葉は偏狭な民族主義や血縁的なものにつながりやすいものだが、そのような「血」を乗り越える意味もこめられて、13節でキリストの血が強調され、その血によって新たに造られる共同体としての家族や国籍という言葉が使われている。「神の家族」という言葉は、主イエスの言われた言葉を思い出させる。「神の御心を行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのです」(マルコ3:35)。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのである。

 またよく体にたとえられる教会は、ここでは建物、聖なる神殿、神の住まいにたとえられている。当時の建築方法では、隅に「かしら石」を置き、次に礎石、その上に段々に石を組み合わせて積み重ねていき、最後に、最上部に建築完成の決め手とも言うべき「要石」をはめ込んだ。「かなめ石」(20節)とは、最も基礎になる「隅のかしら石」(口語訳)と最後の「要石」(新共同訳)の二説があるが、そのどちらでも、また両方とも指すと考えても意味深いものがある。つまり、教会の基礎としてのキリストと、教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに、教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくというのである。この「成長し」という概念は教会が常に途上にあることを示していて、同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちに教えている。

 私たちは神との和解を受け、キリストによって一つとされた神の家族。そのことはすべての人々に開かれており、隔てはない。神の家族の教会に、すべての人々を主イエスは招かれている。この神の家族である教会につながり、「実に、キリストは私たちの平和である」といわれるキリストにつながって歩みたいと願うものである。

2018年

6月

03日

「疑いは信仰のはじめ」 ヨハネによる福音書20章19-29節

「疑いは信仰のはじめ」 ヨハネによる福音書20章19-29節

 トマスの言動が具体的に記されているのはヨハネによる福音書だが、最もよく知られているのは、イエスの復活をめぐる物語のところだ。トマスは弟子たちの「私たちは主を見た」(25節)という復活の報告だけでは納得せず、実際に手と脇腹に触れてみないと信じないと、懐疑的な態度を示したという話だ。この物語で、ちょっと不思議なのは、12弟子であるにも関わらず、主が、復活の日の夕刻、弟子たちに姿を現されたときにトマスがそこにいなかったということだ。
 
 不在の理由は書かれていないので、あくまで推測だが、もしかしたら、ある聖書学者たちの言うように、トマスはイエスの死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく、「傷心のあまり会うに忍びたかった」のかもしれない。もしそうだとすれば、彼の不在は心の優しさの表れといってもよいだろう。悲惨な現実に触れて泣き崩れ、立ち上がれないような人は弱い人だと思われがちだが、そうではなく、むしろ心の優しい人ではないだろうか。言い換えれば、トマスは愛の深い人だったということ。愛の深い人は悲しみも人一倍深く感じるからだ。

 では、そのトマスがイエスの復活の知らせを聞いたとき、なぜ「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」(25節)と言ったのだろうか。ここで人はトマスに「懐疑論者」というレッテルを貼る。しかし疑うという行為は反対から見れば信じたいということではないか。信じられる証拠が欲しいということは、何としても信じたいというあらわれではないか。はなから信じる気持ちのない人は疑うこともない。だから、疑うというのは逆説的ではあるが信仰のもう一つの側面でもあるといえる。対象との関係が深いと言ってもよく、これは人間関係でも同じ。好きな人ができたなら、その人の名前は、住所は、どんな性格か、自分のことをどう思っているだろうか、友だちになれるだろうかと心配と疑いが出てくる。愛や信頼が形成されていく過程では疑いや不安、問いの波も同時に生じるものなのだ。

 全人医療を提唱した医師ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑から免れることを求めるものではなく、いろいろのためらいや錯誤、数々の失敗や間違った出発によって手探りで進むものである」(「強い人と弱い人」)と言っているが、懐疑をこのように理解することは求道や信仰に対する健全な態度である。
 
 さて、今まではトマスに照準を合わせて、この復活の物語を見てきたが、今度は主イエスに照準を合わせて見てみよう。主は私たちに何のメッセージを語っているだろうか。先ほども見てきたが、弟子トマスは、他の弟子たちから、主の復活についての証言を聞いた時、そのお方の手の釘跡、脇腹の槍傷を見て触らなければ、信じないと言い張った。トマスは、よく知っているイエス、そのお方に間違いないかどうかを確認したかったのだ。その思いに応えて、主イエスはどうされただろうか。「お前はなんと疑い深いのだ。滅んでしまえ」などとは言われない。むしろ、主イエスはトマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」と言われ、トマスに手と脇腹をお見せになり、触ることすらも許されたのだ。なぜだろうか。それは、主ご自身の方からなんとしても「手と脇腹の傷跡は、あなたの罪の赦しのためのものなのだ」ということをトマスに知らせようとされたからではないか。主イエス自ら、惜しみなくすべてを相手にさらけ出し、お与えになっておられる。だから、トマスは思わず「私の主、私の神よ」と告白をせざるを得なかった。その後で、主はトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。
 
 トマスは主イエスを見る前に、弟子たちの復活の証言を聞くことで主を知る機会があったことを知らねばならないのだ。私たちもまた、「信仰は聞くことによる」(ローマ10:17)というパウロの言葉を思い出す必要があるだろう。同時に聞くことで信仰を得た人は、主から幸いな人であると言われていることを知らねばならない。「見ないのに信じる人は、幸いである」。

2018年

5月

27日

「神は私たちの避けどころ」 詩編46篇1-12節

詩編46篇に繰り返し告白されるのは「万軍の主は私たちと共にいます」(8,12節)という信仰告白である。「万軍の」というのは、「力に満ちた」という意味。「力みなぎる主が私たちと共にいます」ということ。このことが私たちの人生と世界の混乱や危険の中で、あるいは動乱の予感や不安の中で、私たちの避けどころとなり、私たちの砦となっていると告白しているのである。「万軍の主が私たちと共にいます」。だから、「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」(2節)のであり、これを信じて、「私たちは決して恐れない」(3節)と詩人は歌うのである。
 
 私たちの人生にも、いろいろな危険や混乱がある。現在だけでなく、将来の不安もある。個人の生活だけではなく、超高齢社会となり少子化の進む日本はこれからどうなるのだろうとか、あるいは中東をはじめあちこちの紛争はどうなるのだろうか、地球温暖化は、資源の枯渇は…、不安や心配はきりがない。しかしこの詩人はこう歌う。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、あるいはすべての民が騒ぎ、国々が揺らぐとも、「苦難の時、必ずそこにいて助けて下さる」(2節)、それゆえ「私たちは決して恐れない」(3節)。そのように心に信じ、周囲に告白している。危険を見くびっているのではない。神が「私たちの避けどころ」であり、「万軍の主は私たちと共にいます」から、「決して恐れない」ということができるのであり、それは生きる力、勇気、希望、平安が与えられるからこそであり、だから今度は自分の人生や社会の様々な混乱、不安、問題に立ち向かうことができるのである。

 重大なのは「神が共にいます」という「現実」がどこにあるかではないか。そしてその現実の中にどう生きるかだろう。どうしたら「神が共に、万軍の主が私たちと共にいます」という現実が分かり、「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」と分かるのか。神がその中にいます「場所」があるという。「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」(6節)と詩人は告白している。普遍的で超越的な神、天地の創造者である神が、「ある場所にいる」というのは不思議なことかもしれない。この世の中には神をとどめておけるような場所はどこにもないはず。しかし超越的で自由な神が、身を低くして「その中にいまして」くださるのである。そして「万軍の主は私たちと共にいます」「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」という現実を与えてくださるのである。一方的な憐みによってご自分を低くし、私たちに顔を向け、私たちと共にいてくださるのである。

 どこで?「いと高き神のいます聖所に」「神の都に」とあるように、「神の」とあるから、神が支配される場所で、その意味で神の国の栄光にあずかっているところとして、それを教会の中に、礼拝の中にと受け取ることはできないだろうか。教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭であるといわれる。その教会では、み言葉が語られ、祈りがささげられ、主が賛美され、感謝と献身の思いがささげられる。さらにキリストの体に共に与る聖礼典が行われる。それは神が共にいて下さり、神の愛の配慮と導きがあってのことである。万軍の主であるイエス・キリストによって実現しているのことである。イエス・キリストがおられ、その言葉、その働き、その十字架、そしてその復活の体に与るところ、それが教会、それが礼拝。その教会につながるとき、それはイエス・キリストにつながるときであるが、「神は私たちの避けどころ、苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」と告白することができる。主イエスにつながるとき、「私たちは決して恐れない」と言うことができる。それは主ご自身が万軍の主であり、主ご自身が戦って下さるからである。主ご自身がすべてを引き受けて下さるからである。その主にすべてをゆだねるのである。

 「力を捨てよ、知れ、私は神」とも書かれている。「力を捨てよ」とは「手出しを止めよ」と訳してもいい。主にゆだねよ、主に任せよということになるだろう。肩の荷を下ろそう。肩の力を

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