礼拝メッセージ2018年度

2018年

11月

04日

「主にある平安」  ヨハネの黙示録21章1-4節

 日本は高齢社会となり、最近テレビや新聞などで高齢社会に関するものを多く目にするようになった。先日もNHKの「クローズアップ現代」で遺品整理の話題を取り上げていた。お金を払って遺品整理業者に任せて片が付くようなことでもなさそうだ。形見分けだの、もったいないから売ろうとか、親しい人に使ってもらえたらとか、何かと大変そうだ。

 一方、当事者の高齢者の側からは、今、終活ということが話題になっている。どのように死を迎えるか。俳優の樹木希林さんが9月に亡くなられたが、彼女が2年前に広告で「終活宣言」をして「死ぬ時ぐらいは好きにさせてよ」というフレーズで話題になった。実際の彼女の終活は自分で事前に用意周到に準備して置いたそうだ。もちろん家族にも伝えて同意を得ていた。そうして、最後の最後まで、立派に仕事をやり通したのだった。見事、というほかない。

 先々週の新聞では「最期は好きにさせてよ」という特集が載っていた。三人の識者の意見が載っていた。「おひとりさま」で有名な社会学者の上野千鶴子さんは「おうちで死ねる社会に」と言い、介護者メンタルケア協会代表の橋中今日子さんは「自宅が幸せ」幻想では、と言うし、在宅医療に取り組む医師,遠矢純一郎さんは、死に場所、家族で話そう、と言っていて、「最期は好きにさせてよ」と言ってもそれぞれに言い分があり、なかなか難しい問題だと思った次第。

 その家族に同意を得る、または話し合っておくのに、カードで楽しくゲームをしながらやるというのがある。「もしバナゲーム」というカードだ。新聞で紹介されていて、すぐカードを購入した。最近、全国の介護施設などで広がっているカードゲームだそうだ。「余命半年」と宣告されたら何を優先して生きるか。トランプのような36枚のカードでゲームをしながら考えるのだ。自分らしい最期を迎えるため、早いうちから終末期について家族らと話し合っておくことは大切。でも、なんとなく「縁起でもない」という理由で避ける傾向がある。このカードゲームのいいところは、ゲーム感覚でそんな難しい話題を家族や友人と考えたり話し合うことができることである。

 このゲームは、カードに「誰かの役に立つ」「痛みがない」「家族と一緒に過ごす」などと書かれているので、自分にとって大事なこと、希望するカードを選ぶ。そしてなぜそれを選んだか理由を考え、家族や友人に説明し、話し合う。自分と他人との死生観や価値観の違いが分かり、大変面白いゲームだ。私たち夫婦もやってみた。まず私が自分にとってとても重要、ある程度重要、重要でないと36枚のカードを分ける。同時に連れ合いは「私がどう思っているか」を想像して、同様にカードを分ける。そして、互いの選んだ「とても重要」を比べる。私たちの場合、とても重要の10枚のうち5枚が一致した。多いと思うか少ないと思うか微妙なところ。一致したカードは、確かに日ごろ私が連れ合いに言っていたことだった。その後、なぜそれを選んだの?そんなことはあまり重要ではないよ、などと話が弾んだ。確かに楽しい。今度は子どもたちと親子の関係でやってみたい。 

 その36枚のカードの中には「祈る」「宗教家やチャプレンと会って話せる」「神が共にいて平安である」といったカードも入っている。私はもちろん3枚とも重要なことだと選んだ。その中でも特に望むのは「神が共にいて平安である」というカード。しかし、人生は自分が考えているようにはなかなかうまくいかない。クリスチャンだって同様。クリスチャンになっても、私たちの中で最高の信仰生活をしていると思っている人は一人もいないと思う。むしろこれではだめだと自分にむち打つような思いを皆持っていると思う。

 今日の聖書箇所、ヨハネの黙示録21章4節には、時の流れの終わりを「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」という言葉で締めくくられている。私たちの人生には、最後に死が待ち受けている。しかも死は、これでよしとする答えをもたらしてくれない。物事の推移に伴うあいまいさと不確実さ、そして未解決の問題は、人生につきものだ。それらをよしとする答えを持ち得ないまま終わりの幕を閉じる。それをどのように取り繕っても、肉の存在としての私たちの現実から取り去ったり、解決することはできない。だから、死を迎えるとき自分の努力で平安を得るなどということは大変難しいと言わざるを得ない。

 けれども聖書は、死が終わりを告げる時、向こう側からやっておいでになるキリストを指し示す(2~4節)。向こうからやってこられるのだ。そして、このキリストは死が残した問いのすべてを引き受けてくださるというのである。だから、そのお方にゆだねることを知る者、信頼する者は死が残す問いがあったとしても恐れない。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界をキリストに見るからである。だから平安なのだ。平安が与えられるのである。そのような平安が得られる信仰をしっかり持ち続けたいと願っている。すべてを主にゆだね、従っていく人生を全うしたいと願っている。主にゆだねよう。そして残りの人生、精一杯生きていこう。

2018年

10月

28日

「主はすぐ近くにおられる」フィリピの信徒への手紙4章2-9節、詩編46編

ここでパウロは、「主において常に喜びなさい」(4節)と言っている。常に喜びなさいといってもそんなことできるだろうか。難しい。ただし、ここでパウロは「主において」と前提した言い方をしている。さらに6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と勧めている。しかし、私たちの日常は、教会、仕事、健康、家族、お金、人間関係と実にさまざまな事柄に思い悩む日々である。「どんなことでも」と言われると、一層難しさが増す。

 思い煩っているとき、私たちはどういう状態にあるだろうか。思い煩っているとき、私たちは問題を自分の中に抱え込んでいる。自分の中に抱え込んで、誰にも打ち明けることができない場合が多い。思い煩っているとき、私たちは多くの場合、孤独である。親しい人にも打ち明けられない。辛い状態なのに、神にも打ち明けない。しかし、聖書は「思い煩いをやめなさい」という御言葉の後に、「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と言っている。思い煩っているときの私たちは、思い悩んでいるそのことを感謝を込めて祈れないでいるからだ。問題を自分ひとりに抱え込んでいるということは、感謝をもって祈り、そして神に願い、打ち明けることをしていない。つまり、まるで神などいないように振舞っているわけである。これが思い煩いの正体である。自分にとって神がいなくなっている。自分が自分の主になっている。自分の未来も自分でどうにかしなければならないと思っている。本人は大変苦しい状態なのだが、結局それは神を否定して、まるで自分が神の役を演じているかのよう。神を神としていない。

 そういう思い煩いをやめなさいと聖書は言う。「常に喜びなさい」とも言われている。出来るだろうか。「常に」とあるのは、嬉しいときだけではなく、嬉しくない時にも「喜びなさい」ということだ。「常に」とか「どんなことでも」というのは、問題はその人の気分の問題ではないし、いいことがあった時のことではない。その人の性格や気質によることでもない。だから「常に、喜びなさい」と言い、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と言うのである。その理由として語られているのは、「主はすぐ近くにおられます」という事実である。主イエス・キリストの近き存在に理由を持っているのである。そのことは「主において常に喜びなさい」という「主において」という言葉と響きあう。さらに、7節の「あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリストイエスによって守るでしょう」という言葉とも響きあう。

 このように繰り返し「主において」とか「キリスト・イエスによって」と言われている。キリストが共におられるのだから、常に喜びなさい、思い煩うのをやめなさいと言われるのである。私たちはもう既にイエス・キリストの贖いの力、執り成しの力、そして裁き、赦す力、主イエス・キリストの恵みの力の中に生かされているのだ。キリストの力の圏内に生かされている。神の愛の支配に入れられている。そこから、あなたは愛されている、というメッセージがでてくる。だから、「常に喜びなさい」であり、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」という勧めがなされているのである。「主はすぐ近くにおられます」、だから「何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。

 ルターが愛唱した詩編46篇に「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」(2節)とある。口語訳では「神はわれらの避けどころまた力である。悩める時のいと近き助けである」と訳されている。神は「いと近き助け」なのだ。だから恐れるな。私たちの避けどころであり、私たちの砦となって下さり、苦難の時、必ず近くにいて助けてくださる神なんだ、とこの詩人は告白している。だから、そのあとの11節で「静まって、私こそ神であることを知れ」と言っている。そのような神であることを知れ。言い換えるならば、そのような神を信頼しろ、ゆだねよ、私たちの思い煩いをすべて神にゆだねて、平安を得よ、喜びを得よ。そして感謝して励めよと私たちに勧めているのである。

2018年

10月

21日

「不信仰も主のもの」 ルカによる福音書22章54-62節

 ペテロは漁師だった。聖書に描かれている彼をみると、何か特に優れたものを持っていたとは思えない。むしろ、弱さが目につく人物だ。しかし、そのペテロをイエスは愛され、初代教会の基礎を築く一人にされた。そもそも軟弱なシモンにイエスがペテロ、つまり、「岩」という名前をつけられたことから考えると、私たちもまた、イエスが用いられる時、ふさわしい者に変えられることを暗示する。

 ペテロは、イエスに22章33節で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言う。しかし、イエスからは、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」と離反の予告を受ける。そして、この場面で見事にイエスを裏切ってしまう。ペテロはここでも人間の弱さを代表している。それでも、イエスの身を案じ、大祭司の家まで行ったのは、他の弟子の真似の出来ない勇気ある行動だった。一緒に死んでもいいという思いは、あながち嘘ではなかったのだろう。しかし、大祭司の庭で焚き火に照らし出されたペテロの顔をじっと見つめていた女中が「この人も一緒にいました」と言ったとき、とっさに身の危険を感じた彼は、「私はあの人を知らない」と答えてしまった。

 おそらく、私たちも、こうした場面に遭遇したら、このペテロのようになることだろう。そうだと答えれば、その場で捕まえられるのは目に見えているからだ。誰がペテロを責められるだろうか。私たちも同じ弱さを持っていることを思い知らされる。そして、さらにペテロは二人の者から、イエスの仲間であることを指摘される。ペテロは、いずれの場合も知らないとしらを切る。しかし、3度目の時、「あなたの言うことがわからない」という言葉も言い終わらないうちに鶏が鳴いたのである。

 他の福音書にもこの場面は描かれているが、「主は振り向いてペテロを見つめられた」と書かれているのはこのルカ福音書だけである。ルカはこの言葉にどんなメッセージを込めたのだろうか。ペテロは、イエスに誓ったその誓いを守ることができなかった。イエスを裏切ったのだ。ペテロは、鶏が鳴いたときに始めて我に返った。そして、イエスの振り向いた眼差しを見たのだ。彼は、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことを悟った。己のことしか考えられなかった弱い自分に対して深く絶望してしまったことだろう。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出す。そして外に出て、激しく泣いたのだ。

 しかしながら、ルカ福音書では、こうしたペテロの裏切りに対して、とても優しいイエスの姿を表している。ペテロがいつでも帰ってこられるようにしてあげている。それはペテロの離反を予告した22章32節で「わたしはあなたのために、信仰が無くならないよう祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という御言葉である。すでにイエスはペテロの裏切りを予見され、その事態に至ったときに彼がいつでもイエスのところへ立ち戻れるようにしてあげていたのだった。そういった意味では、イエスが見つめられたときの眼差しには、彼を責める思いなど微塵もなく、ペテロの弱さに対する憐れみだけがあふれていたのである。イエスはペテロの弱さを見つめられたのだった。ペテロの弱さをもまなざしの中に入れておいでになっていたのだ。そこには信仰が無くならないように祈っている主がおられる。

 パウロはコリントの信徒への手紙二の12章9節で「すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っている。さらに続けて、10節で「私は弱いときにこそ強いからです」とまで言っている。これは私たちの弱さを主は十分に分かっておいでであり、その私たちの弱さを主ご自身が自ら引き受けて下さっておいでになるという信仰に立っているからこそ、言える言葉だと思う。私たちの弱さを主ご自身が自ら引き受けてくださったというのはもちろん十字架を指し示す。パウロの信仰とは十字架の信仰。

 私たちも、何とかして一人を導きたい、この教会を主にふさわしく建てたいとの願いに心は燃える。とはいえ、肉は弱く、欠けだらけで、疲れが残る。また私たちの生活の中でのつまづきや後悔、苦難や悲しみ、孤独感、あせりなど、様々な思いに押しつぶされそうになる。弱さを見せつけられ、落ち込んでしまうときがある。しかし、主はそのことをよくご存知であることを、「主は振り向いてペテロを見つめられた」という、主イエスの眼差しに見る。あたかも不信仰ではないかと思う部分も主のものとされている、そしてその部分をも含めて、私たちのため十字架の死を遂げてくださったのだ。それをこの主イエスの眼差しに見るのである。

2018年

10月

07日

「キリストの心を心とせよ」 フィリピの信徒への手紙2章1-11節

マルコ福音書1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は、主イエスが、ガリラヤで伝道を始められた時の最初の言葉だ。ここに福音を正しく理解するための大事な鍵が示されている。すでに神の救いと解放のみ業はあなたの手の届くところで始まっているよ。だからあなたも「福音を信じなさい」という促しである。しかし、それが出来るためには一つだけ条件があるという。福音が信じられるようになり、その結果、生活を改めることに本気で取り組めるようになるための条件である。確かに、福音が確信をもって信じられない限り、生活も改まるものではない。その条件とは「悔い改め」、ギリシア語で「メタノイア」。

 メタは「越える」とか「移す」を意味する前置詞。ノイア(原形ヌース)はものごとを考えるときの「筋道」、判断するときの「視点、立場」のこと。だから、「悔い改めなさい」とは、あなたが考えたり判断するときの視点、立場を移しなさい、ということである。では、どこへ視点、視座を移すのか。主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)。わたしたちの「道」であるキリストが自ら置かれた視点まで低くするのである。

 今日の聖書箇所5節は文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳されている。そのキリストは続く6節で「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とある。キリストに倣って、視点を社会で最も弱い立場に置かれている人々のところへ移すのである。詩編にもこうある。「主は御座を高く置き/ なお、低く下って天と地を御覧になる」(詩編113編5-6節)。

 視点を低く据えることによって初めて、神がお選びになった人々、社会の底辺に追いやられた人々の中で、主ご自身が苦しまれ、救いと解放のために働いておられることが見えてくる。すなわち、福音が信じられるようになる。

 これは、福音宣教の四要素といわれる、相手を理解し、受け入れ、苦しみを分かち合い、協力していくことの第一のもの、「相手を理解する」に通ずる姿勢。相手を理解するとは、相手よりも下に立つこと(アンダー・スタンディング)だからである。言い換えれば、苦しんでいる人、さげすまれている人と共にあろうとするとき、「教えてあげる」ではなく、「教えていただく」という姿勢、「支援する」ではなく、「支援させていただく」姿勢こそ相手を理解する条件であり、福音が信じられるようになるための条件、メタノイアであるといえる。

 だから私たちは、社会の中の最も弱い立場に置かれている人々の中で、人々と共に働いておられる主ご自身から、救いと解放の業への協力の仕方を教えてもらうところから始めなければならない。南アフリカのドミニコ会神父アルベルト・ノーランの言葉。<私たちは貧しい人々から学ぶ必要に直面しているのです。彼らには特別な洞察力があり、私たちにない知恵があります。私たちにそれがないのは、はっきり言って、貧しくもなく、抑圧されるとは一体どういうことかを経験したこともないからです。><神学的な言い方をすれば、世界を変えるために神が選ばれた道具は、あなたや私のような者ではなく、貧しく、抑圧されている人々であるということに、私たちは気付かなければなりません。>

 世界中のすべての人、すべての被造物に救いと解放がもたらされるために、最も弱い立場に置かれている人々に学び、連帯し、協力することこそ、私たちキリストを信じる者のとるべき姿勢ではないだろうか。そのために、私たちに最も必要なことは「キリストの心を心とする」こと。社会の中に、苦しみと死から復活の解放へと過ぎ越しておられる主キリストを観想する目である。それは福音に根差した信仰と祈る心から生まれてくるものである。

2018年

9月

30日

「痛みの共感から始まる」 マタイによる福音書9章35~10章7節


 救いの業の完成者であるイエス・キリストは、人々の苦しみと痛みへの共感から、本格的な宣教活動に入られた。主イエスは貧しく、疲れ果てた群衆といつも共におられた。ファリサイ派の人々や律法学者たち、正業について規則正しい生活を送る敬虔なユダヤ人たちからは軽蔑と怒りと非難の視線を受け続けていた。しかし、疲れ果てた群衆と共にいることによって、彼らがいかに「弱り果て、打ちひしがれているか」(9:36)をご自分の目と肌で感じ取り、胃が痛くなるほどの共感を覚えられた。「深く憐れまれた」(9:36)と訳されているが、岩波訳では「はらわたがちぎれる想いに駆られた」と訳されている。「断腸の想い」である。そこで主イエスは12人の弟子を選び、ご自分の協力者として彼らを派遣する。やむにやまれぬ内からの突き上げとして宣教活動を開始されるのである。主イエスは、苦しむ民と共におられ、その痛みをご自分のものとされることを身をもって私たちに示されている。

 私たちにとっても苦しむ人々の痛みの共感こそ、福音宣教の力である。痛みの共感があったとき初めて、仕事だからとか、決まりだからとか、あるいはタテマエとしてではなく、本気で主のみ業に協力したいという思いに駆られるものである。それは神と主イエス・キリストが抱いておられる痛みの共感に参与することなのである。その意味で、痛みの共感は恵みでもある。この恵みは、苦しみと痛みのさなかにある人々と立場を共にすることなしには、決して与えられることはないだろう。

 ある本の中で、次のようなことが紹介されていた。ある宣教師の奥様がご主人を突然の交通事故で亡くすということが起こった。残念ながら、一番慰めにならなかったのが教会のクリスチャンの言葉だったと書かれている。それは、「ご主人の出来事は、すべて神様の御手の中にあるのだから悲しまないで」とか、「あなたのご主人がこういうかたちになったのは、あなたのお子さんが主に立ち返るためだった」というもので、この方をとても傷つけたそうだ。

 では、この宣教師夫人に対して一番の励ましになったのは誰だったか。残念ながら、教会のクリスチャンでなくて、近所の八百屋のおじさんだった。ある日、袋いっぱいの野菜や果物を持ってきて、目に涙をいっぱいためながら、「こんなことが起こったら、奥さんもおちおち外出する気になんかなれないでしょう。たいしたことはできないけれど、家にあるもの持ってきたからこれでも食べなよ」と言って帰っていった。

 また、次のような話も書いてあった。長い間、結婚生活で苦しんでおられた方が、その悩みをカウンセラーに打ち明けたそうだ。ところが、そのカウンセラーは、「ご主人様にも、いろいろな言い分があるのでは……」と逆に諭すように話してしまった。その方は、カウンセラーに「出て行ってください!」と叫んで、ひとりで部屋に閉じこもってしまわれた。ずいぶん後で彼女は、「『辛かったですね』のひとことだけで、私は良かったの」と言われたそうである。
 
 私はこれらの話を読んで、本当に共感する、その状態を受け入れて共にある、共にいることの大切さ、素晴らしさを覚えると共に難しさも教えられた。確かにそれは難しい面もあるが、しかし、まるっきりできないことでもなさそうだ。大それたことを考えなくても、私たちの周りには、実に多くの悲しみの中にある人々、苦しみの中にある人々、癒されず慰めを求めている人々、さびしい思いをしている人々が大勢おられる。共にいる、共に歩むことなら出来そうである。いや、すでに行っている。礼拝は共に神の前で賛美し、祈り、み言葉をいただく。祈祷会は共に祈る。教会学校は共に学び分かち合う。「みんなのカフェ」は共にお茶やコーヒーを飲む。「サロン虹」は高齢者の方々と共に食事をしおしゃべりする。「手芸の会」は共に手を動かし、口も動かす。子育てサロン「こひつじひろば」は共に子どもをも見守る。どれも共にいる、共に歩む。それは平塚パトロールの野宿者の見回り、炊き出しの食事、シェルターの働き、様々な生活弱者、生活困窮者の相談や支援活動もその延長線上にあり、本質的には同じ共にいる、共に歩む働きだと考えている。

 今日話したことが全てではない。いろいろな段階に応じた適切な支援、援助があると思う。しかし、やはり最初は共にいる、そして共感していく。そのためにはそこへ降っていく、共に悲しみ、共に涙を流し、ともに祈り、そしてそこで何をなすべきかを知らされていく。その知らされたことをできるところから始めていけばいいのではないだろうか。痛みの共感から始まる。そのためにも共にいる、共に歩む働きは教会にとって大事にしたいことではないだろうか。

平塚バプテスト教会

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