礼拝メッセージ2018年度

2019年

3月

17日

「キリストにおいて一つとなろう」 マタイによる福音書16章13ー20節

私たち人間はいろいろな問題に悩まされる。悩みの中で疑問や迷いを抱き、問いを持つ。しかし今朝、聖書を読むと、人間は問うだけではなく、問いかけられてもいるという。神が私たちに問われる。主イエスを通して神が私たちに問うている。そしてこの神の問いかけに答えることが、人間のいろいろな悩みや問題の答えになるのだ。神のその問いかけとは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」という問い。主イエスはそう問いかけた。ここに実は人間にとっての「最大の問いかけ」があると言ってよいと思う。聖書はその問いかけのために書かれているといってよいだろう。

 人生には確かにいろいろな問題がある。例えばトラブルがあり、悩ませられることが様々起こる。そして私たちは自分を見失い、進むべき方向を失い、他者ともうまくやっていけなくなる。しかしその時にも、この最大の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いかけを聞き、この問いかけに答えながら生きるとき、人間は真実に生きることが出来る。

 主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いに弟子のシモンは答えた。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、ペテロだと叫んで、「その上に私の教会を建てる」と言われた。今朝、皆さんは教会の礼拝に集まって来られた。それは、実は「岩の上」に来たのである。教会はその岩の上に立っている。それはまたどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生を真実に生きることの出来る「岩」である。その岩とは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という、主イエスに対する信仰告白である。これが教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのである。

 では、一体、教会とはどんな群れだろうか。それは、どんな時にも、この主の問いかけとシモン・ペテロの答えが生きて、力を発揮しているところである。この問いを「最大の問い」とせず、またあの答えを失ったとき、つまり世の中にはもっと深刻な問いがあると考えたり、もっと別の答えがあると思ったとき、教会はその命を失い、力を失う。逆に、これこそ「最大の問い」とし、それに対する真実な答えをする時、教会はどんな時にも力を発揮する。

 主イエスは言われた、「私の教会を建てる」。教会(エクレシア)という言葉は、呼び集められた者の集会、あるいは群れ、という意味。主イエスは弟子たちをご自分の周りに呼び集められた。十二弟子を選んだということは、神の民であるイスラエル十二部族を象徴して、選んだのである。神の民が新しく建てられ、集められるために主イエスは来られ、十字架にかけられた。

 新しく神の民が集められるにはどうしたらよいだろうか。何によって民は集められ、一つにされるのだろうか。私たちは罪によって自分自身失われた人間。また、罪によって他者を失う人間である。自己中心のあまり、愛することができない人間である。それにもかかわらず、教会は新しい神の民としてどのように建てられるのだろうか。呼び集められた人間の群れ、教会も愛に失敗するのではないだろうか。その教会が罪と死に打ち勝つところと、どうして言えるのだろうか。天の国に通ずるとどうして言えるのだろうか。それは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」、この主への信仰告白によって可能にされる外はないのである。

 「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする時、私たちはそのメシアの民とされる。「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする中で、私たちは罪を赦され、愛の破れを癒される。死から生き返らされる。そうお答えする中で、私たちは真のクリスチャンにされていく。キリストに結ばれ、死と罪から解放され、天の国へと通じる存在にされている。私たちも答えようではないか。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」と、そう答えることが可能である。天の父がそれを可能にしてくださる(17節)。神は私たちがそう答えることを喜んでくださる。

 平塚教会も今までもそうであったように、これからも「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と、大胆に信仰告白していく群れとして、祈りをあわせ、キリストにあって一つになって歩みを進めていこう。

2019年

3月

10日

「神による神への犠牲」 ヘブライ人への手紙9章11ー15節

 今日一般には、「犠牲(いけにえ)」という言葉はあまり使われてないのではないだろうか。死語になっている。「犠牲」という言葉が使われるとしても、例えば酔っ払い運転の「犠牲」と言うように、その人自身の責任でないのに禍を受ける場合で、避けることができれば避けたかったというような、否定的な意味合いで用いられる。「犠牲」に積極的な意味があるとは理解されていない。だから、「犠牲」という言葉は、現在では宗教的な次元でも、神との関係において理解されていないし、それが持っている積極的な意味も理解されていないと思う。しかし人間の生き方には、「犠牲」なしには成り立たないところがある。家庭生活でも職場でも、福祉や医療や教育の現場でも、権利の主張だけでは成立しない部分がある。「犠牲」という言葉を死語の中から救い出し、積極的な意味合いで理解する必要があるように思う。

 特にイエス・キリストの十字架の理解には、この「犠牲」という言葉は不可欠である。イエスの十字架の死をどう理解し受け止めるべきだろうか。聖書によるといくつかの意味、いくつかの受け取り方がある。今朝はその中から、主の十字架は、私たちの罪のための贖いの「供え物」「祭壇に供えられた犠牲(いけにえ)」だということについて、わずかなりとも理解して、受難節の信仰生活の糧を与えられたいと思う。

 「犠牲」としての十字架は、「キリストの血」を強調している。「血」は「いのち」の象徴。そしてそれは、「大祭司キリスト」(11、25節)という興味深いキリスト理解と結び付いている。「大祭司」は、神と人間の間の仲保者、取り次ぐ者として働く。さらにその「犠牲」は、「ただ一度」(12、26、28節)のこととも言われている。だから、イエス・キリストの十字架が「犠牲(いけにえ)」だということは、主イエスご自身が「大祭司」(仲保者)として、「ご自身の血」(いのち)を「祭壇」に注ぎ、ささげられたということである。それはもはや二度と繰り返すことが出来ない。それはもはや繰り返す必要のない仕方で、ただ一度にして「永遠の贖い」(12節)を成し遂げられるのである。

 「犠牲」は祭壇において、神にささげられる。それは「神との和解」のため。真実の「生きた礼拝」が出来るようになるため。そのためには「罪が取り去られ」なければならない。「罪」は人間を神から引き裂く。この「罪」が「取り去られる」必要がある。そのための「犠牲」である。現代人に「犠牲」という言葉があまりぴんとこないのは、この「罪によって神から引き離される」ということの深刻さがぴんとこないということだろう。人間の本当の問題は、神問題なのである。神から引き離されていることなのである。しかしそれがなかなかぴんとこない。「神なしで生きられる」「信仰なんてなくても幸せ」。しかし、ぴんとこようとこなかろうと、神から離れていることこそが、人間と社会の根本問題なのである。こうも言えるだろうか。ぴんとこようとこなかろうと「神があなたを愛しておられる」ということは真実なのだということ。そのことに気づかないだけなのだということ。

 さらに、14節に「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神にささげられたキリストの血」とある。キリストの「犠牲」は「永遠の霊」の働きだというのである。ということは、それは神ご自身の御業ということである。「大祭司キリスト」が神に「ご自身の血」をささげる。そのことは「永遠の霊」によったのだ。主イエスの十字架は「神による神の十字架」なのだ。「神による神への犠牲」である。キリストの「犠牲」は「罪を取り去る」ため。というのは22節「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」からである。しかし、それは神による神への犠牲だった。そこに「ひとたびにしてまったき犠牲」と言われる理由がある。「永遠の贖い」と言われる理由もある。神によるのでなければ、罪の赦しはあり得なかった。私たち自身が罪の者だからである。しかし、「一度にしてまったき犠牲」がある。だからこそ、今日も私たちはそのキリストの犠牲のゆえに罪を取り去られ、礼拝の恵みにあずかることが出来るのである。私たちのどの礼拝も、どの説教も、どのバプテスマも、どの主の晩餐も、どの祈りも、この主の「ひとたびにしてまったき犠牲」によらなければ成り立たない。

 このことは私たちの信仰生活に決定的である。私たちの人生はどこまでいっても主の十字架によるほかない。「主の十字架によって御国に入るまで」、日々主の十字架によるのである。御国に入っても、その根底には主の十字架がある。主の犠牲によって真の礼拝があるのだから。この後、賛美する新生讃美歌543番の4節では「世にある中も、世を去るときも、知らぬ陰府にも、審きの日にも、千歳の岩よ、わが身を囲め」と賛美している。「千歳の岩」は1節にある「裂かれし脇の、血しおと水に、罪も汚れも、洗い清めよ」とあるように、主の十字架である。その「犠牲」である。その主の十字架の犠牲は、世にあるうちだけのものではない。世を去るときも、主の犠牲に囲まれている。知らぬ陰府にも、審きの日にもである。私たちは知っている、キリストの犠牲とその愛を。いや、知らされている、気づかされたのである。キリストの血による犠牲によって罪赦された者とされたことを。だから、そのことを覚え、感謝し、献身の思いを持ってこの受難節を過ごしていきたいと思う。

2019年

3月

03日

「今も共に歩まれるイエス」 コリントの信徒への手紙二2章5-11節

ここでパウロは「悲しむ」という言葉を使っているが、何か教会の中で不祥事があったようだ。詳しいことはここではわからない。それはパウロ自身にとっても大きな悲しみであり、同時に、それは教会のすべての人々を悲しませたのだ。パウロはここで、不祥事を起こしたその人に対する自分の思いを述べているのだが、それを「悲しみ」という言葉で表現している。そして、その悲しみの感情をあなたがたも持ってほしいというのだ。ひどいことをしてくれた、おかげで自分たちは恥をかいた、そういう怒りや憎しみではなく、あるいは、もうあきれ果てて突き放してしまう、という思いでもない。「悲しみ」である。

 人は、自分のしたことに関して、怒りや憎しみを人々から受けて、そこで反省をして自分の非を認める、ということはあまりない。自分自身の非というものはわかっている。わかっているけれども、素直に認められない。非はわかっていても反発をしてしまう。自分だけではないではないか、というふうに思う。ほかの人間もそういうことがあるのではないか、というふうに考える。しかし、自分のしたことに対して悲しまれるとき、人は苦しくなる。あるいは、そうやって自分のしたことに対して他の人が悲しんでいるということを知ったときに、自分の非、つまり間違いを思い知らされる、認めさせられるという経験をする。

 ルカによる福音書に、イエス・キリストが捕らえられて裁判を受け、死刑の判決を受ける場面がある。その時、弟子のペテロはその裁判を遠くから見守りながら、大勢の人々の中に混ざっていたのだが、あなたはあの人の弟子ではないか、あの人と一緒にいたのではないのかと言われて、彼は「知らない」と三度否認したと書かれている。その時のことがこう書かれている。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。これは裏切ったペテロを見た悲しみのイエス・キリストのまなざしである。そのまなざしの中で、ペテロ自身は自分のやったことを本当に心底知らされたのである。自分のしたことに対して周りの者が悲しむ、あるいは肉親が悲しむというのは、だれにでも何かの経験があると思うのだが、悲しまれて初めて自分の罪悪を知り、あるいは自分のやったことに対する自分自身の痛みを経験するのである。それが「悲しむ」ということである。その悲しみによって、人は自分の罪悪を認めさせられる。

 パウロはここでこう言っている。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」(6-7節)。る。「多数の者から受けたあの罰」というのは何なのかは、書いてないのでわからないが、おそらくいろんな人から何らかのことを言われたのだろう。あるいは注意をされたり、叱責をされたのだろう。しかし、それで十分だとパウロは言う。それ以上追い詰めてはいけないと言う。そうでなくて、「赦して、力づけるべき」だと言うのである。そして「愛するようにしてください」(8節)とも書かれている。赦すということは、痛みを自分も負うということを意味している。自分が痛むことも苦しむこともなく人を赦すなんてことは普通はできない。赦すということは、自分も痛い思いをし、苦しい思いをすることである。特に、自分に関わる出来事、自分が赦さなくてはならないときには、何らかの傷を自分も受ける。

 無償で赦すということはない。人々からの責めをそのそばに立って一緒に受ける。赦すということは多分そういうことだろうと思う。そして「力づける」というのは、ただ「がんばれ、しっかりやれ」と言っているのではない。痛みを共有している、一緒に苦しんでいる、その罪のために、そのやったことのために、一緒に苦しんでいる者として力づけるのである。

 なぜパウロがこういうことを言っているのかというと、これはイエス・キリストの私たちに対する関わり方であるからである。イエス・キリストは私たちの罪をご自分の痛みとして身に負い、そうして一緒に悩む方として私たちを励ましてくださる、あるいは力づけてくださる方である。向こう側から、離れたところから、「がんばれ」と言っているのではない。あるいは、上の方から「しっかりしろ」と声をかけているのでもない。私たちの悩みのただ中で、一緒に罪を担いながら、共にいて、そして励ましてくださるのである。これが、イエス・キリストが私たちの救い主であるということの意味なのである。かつて私たちを救ってくださったという、そんなことではない。今も私たちの救い主でいてくださる、私たちの罪を担っていてくださる、今も一緒にこの道を歩いてくださる。そういう中での励ましをいただきながら、私たちは生きているのだ。ただただ主の恵みと感謝である。

2019年

2月

24日

「聞くことから確信へ」 使徒言行録16章6-10節

俳人の種田山頭火の句に次のような句がある。「まっすぐな道でさみしい」。含蓄のある一句だ。私たちは曲がりくねっている道より、まっすぐな道を選ぶ。曲がっているとすぐまっすぐにしたくなりトンネルを掘ったりする。曲がりくねった人生の歩みより、効率のいい無駄のない人生の歩みをどこか望んでいる。それを山頭火は「まっすぐな道はさみしい」と言うのだ。人生、山あり谷あり。一寸先は闇。何か危機的状況や想定外なことが起こった時、私たちはどのように受け止めて生きていけばいいのだろうか。

 ここでパウロは、しばしば聖霊に禁止され、行く手をさえぎられている。パウロはただここで北に西にさまよい歩いているように見えるが、ただ足の赴くままに、のんきに旅を続けているのではない。彼は妨げられているのである。それは神の「否!」にほかならない。しばしばさまようことさえ神の御手の中にあることを私たちは忘れてはいけない。何か思うようにいかないときは、神が「否」と言われているのではないかと思う気持ちの余裕を持ちたいもの。神が扉を開かないところでは、いかなる人間の熱心も、いかなる賢い知恵も、力も役に立たない。箴言の21:30-31に「主に向かっては、知恵も悟りも、計りごとも何の役にも立たない。戦いの日のために馬を備える、しかし、勝利は主による」とある。閉じ込められるのも福音の内、妨げられることさえも聖霊の御業。神はしばしば不確かの闇の中にその聖霊の使者を立たせることがある。それは福音宣教の働きが、人間の手の業ではなく、恵みの御業であることが明らかになるためにほかない。

 パウロは、途上で何度も問うたことだろう。「主よ、一体いつこのまわり道が、一つの道になるのですか。いつこのあてどのない漂白の旅が、ひとつの確かな方向に変えられるのですか」と。けれども、このよく語るパウロは、聞くことを忘れない。その聞くことからのみ、真の服従が出てきて、ついに人は慰めに満ちた確信に到達する。詩編の119:45に「私は、あなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」とある。

 この夜、パウロは幻を見た。夜それは、しばしば人が道を失い、あるいは多くの人々が歓楽に耽り、またある者は不安におののく時である。時代の夜、不安の夜、人々はなんとそれにおののくことだろうか。しかし、人間の計画が崩れる時、神の計画がなるのである。箴言19:21に「人には多くの計画がある、しかし神の御旨のみ、よく立つ」とある。パウロが幻のうちに見た、マケドニア人の叫び「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。それに応えて、パウロたちはマケドニア州に行く。それは新しい戦いの始まる時であった。福音が初めてアジアからヨーロッパに渡る時、歴史的な時であった。「来て、私たちを助けてください」との声を聞いた時、彼らは悟った。「神が私たちをお招きになったのだ」と。「来て私たちを助けてください」との声を聞き、それに従う時のみ、私たちは「神が私たちをお招きになったのだ」という、もう一つの声を聞くことが出来るのである。私たちが妨げられ、邪魔され、行く手をふさがれた時であっても、聖霊の助けに素直に従うなら

2019年

2月

17日

「神はすべてのものを良しとされた」  マルコによる福音書10章13-16節

キリスト教は「愛の宗教」であるとよく言われる。では、キリスト教のいうところの「愛」とは何だろうか。それは「神の愛」のことだが、それはどんな愛なのだろうか?まず、「神の愛」とは、愛の対象はすべての人であること。そして無条件で一方的で、無限、永遠にあるものである。それは神の本質そのもの。神とはそういうお方であるということである。「神は愛なり」である。神イコール愛。愛イコール神。そのことを聖書は最初から宣言して、私たちに示している。創世記の最初の天地創造のところに、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とある。「良しとされた」。この言葉は繰り返し語られ、31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と続く。神はすべてのものを良しとされた。これが究極の愛です。愛の表現である。

 卑近な例でお話ししよう。赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すりながらあやして言う。「おお、よし、よし」。優しい、なんと愛情のこもった、いい言葉だろうか。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思う。この「よし、よし」の「よし」はもちろん「良い」という意味の「よし」だから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、この時、赤ちゃんは「良い存在」として全肯定されているのである。先ほどの天地創造の時、神が宣言された「よし」と同じである。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」とか「眠い」とか、理由があって泣いているのだから、ちっとも「良く」ないのだけれど、母親はにっこり笑って言う。「おお、よしよし。すぐに良くなる、すべて良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ、今良くしてあげるからね。何も心配しなくてもいいのよ。おお、よし、よし。おまえは良い子だ。良い子だね」。

 私たち大人はそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きているけれど、誰もが赤ちゃんの時にそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して今日まで生きてこられたのではなかったか。生きる力を与えられてきたのではないか。「おお、よし、よし」はその人の最も深いところで、いつまでも響き続けているのだ。

 今日の聖書箇所もそうである。弟子たちは幼子の存在を否定的に見ている。だから、叱ったのだ。「女子供の来るところではない」。しかし、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができると言われ、子どもを抱き上げ、祝福される。このように私たちは神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして生かされているのである。

 その意味では、生まれて最初の「よし、よし」は、生きる上での原点ともいえるのではないか。何しろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖である。それまでの母体内での天国から突然放り出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げる。いわゆる「産声」である。この世で最初の悲鳴である。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っているではないか。そして母親はわが子を抱き上げて、微笑んで語りかける。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉、「おお、よし、よし」。

 わが子が泣いているのに、なぜ母親は微笑んでいるのだろうか。親は知っているからだ。今泣いていても、すぐ泣き止むことを。今つらくともすぐに幸せが訪れることを。今は知らなくとも、やがてこの子が生きる喜びを知り、生まれてきてよかったと思える日が来ることを。親は泣き叫ぶ子にそう言いたいのだ。

 「おお、よし、よし。大丈夫、心配ない。恐れずに生きていきなさい。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で愛する人を抱きしめなさい。これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれども生きることは本当に素晴らしい。大丈夫、心配ない。おまえを愛しているよ、おお、よし、よし」。

 存在の孤独に、生きていることの孤独に胸を締め付けられるような夜は、生みの親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみよう。きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「おお、よし、よし」が聞こえてくるだろう。そして、その言葉の背後に、すべてのものに微笑んで呼びかける、宇宙最初の神の「よし、よし」も聞こえてくるだろう。そして、主イエスが「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」その祝福を私たちにも今日、同じように招いて祝福してくださる主イエスの声が聞こえてくるだろう。そこに私たちは生きる力を感じ、喜びがわいてくるのである。それが神の愛のすごいところ、すばらしいところ。

平塚バプテスト教会

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