礼拝メッセージ2019年度

2019年

7月

14日

「空襲とキリスト教」エレミヤ書33章6節―18節

1945年7月16日の夜、平塚市は大空襲に見舞われました。死者343人。焼夷弾42万本。住民一人当たり8発の焼夷弾が投下されました。まさに雨のように爆弾が降った夜でした。攻撃の目標は軍需工場だったと言われていました。しかし目標中心点は平塚市紅谷町の街角広場周辺でした。あの空襲は一般市民にむけて行われたのです。爆弾は市民に落とされたのです。
平塚の市民の多くは間接的に戦争に協力していました。戦争に協力したから、空爆されてもしょうがないのでしょうか?そんなことありません。ここに暮らしていたのは戦争に無理やり協力させられた市民です。子ども達が遠い場所から連れてこられ、工場で働かされました。そのような一般市民を対象にした爆撃、それは絶対に起きてはいけない、倫理上、許されない事です。
実は倫理上許されないこの無差別爆撃を日本はアメリカより先に、中国に向けて繰り返し行っていました。中国の奥地、重慶まで繰り返し空爆を行い、日本は市民虐殺を繰り返したのです。平塚が空襲を受け、多くの人が亡くなった、傷ついたことを覚える時、私たち日本もまた、空襲によって多くの人の命を奪った、傷つけたということを覚えるのです。空爆はキリスト教の教えに反します。罪です。神様の創造に反する行為です。
では、どんな戦争ならしても良いでしょうか?私たちはこんな戦争はダメ、こんな戦争なら仕方ない、してもよい、そういう考えを捨てなくてはいけません。その根っこから、戦争に反対をしてゆく必要があります。軍人同士ならいいと始めた戦争でも、必ず市民虐殺が起こるからです。こちらに正義があるなら戦争していいという事も違います。それは世界中のテロリストがしていることです。自分で自分を正義と決めてテロを起こしています。
私は根っこから戦争に反対をしてゆく必要を感じます。それはあらゆる軍備・武器・基地・暴力に反対をすることです。すべての暴力とその準備がこの地上から取り去られていかなければシャロームは訪れないのです。
本日の聖書個所、廃墟でエレミヤは平和の約束を聞きました。「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。」と神様は私たちに約束をしてくださいました。まことの平和を約束して下さったのです。シャローム、それは羊飼いのイメージです。一匹の子羊が大切にされる、弱い者が大切にされる社会です。そしてもう一つは生け贄を献げるイメージ、それは私たちの礼拝です。平和の神を礼拝する、平和を求めて礼拝するイメージ、それがシャロームです。
私たちの地上に、神の平和がおとずれる時。それは社会の中で小さい者が守られる時、教会が平和を求めて礼拝を献げる時です。すべての軍隊、武器、抑圧が亡くなるように、教会は祈ってゆきましょう。具体的に働いていきましょう。私たちの街、平塚の町から、この礼拝からそれが拡がって行く、その約束に信頼し、礼拝を捧げましょう。

2019年

7月

07日

「シャロームとは丸」イザヤ書60章14節―20節

2019年

6月

30日

「教会は権力に抵抗する」使徒言行録4章5節―20節

世界報道自由度ランキング、日本は67位、先進7か国の中で最低です。日本は「国民が正確な情報を知らされていない国」です。原因は安倍政権の報道に対する姿勢、閉鎖的な記者クラブ制度、政府に批判的な報道に対する人々の嫌がらせなどだそうです(https://rsf.org/en 国境なき記者団より)。
私たちも実感がある事ではないでしょうか。森友問題を追及していたジャーナリストは会社を解雇されました。菅官房長官は特定の新聞記者の質問に答えないという姿勢を取っています。さらに今国会は異常事態です。国の予算を議論する予算委員会は与党の審議拒否によって4か月も開かれていません。野党からの追求がテレビ中継されると政権の支持率が下がるからと言われています。皆さんは今、報道の自由が守られていない国に住んでいます。いつの時代も権力は情報をコントロールしようとするのです。
そして私たちは教会の中の権力にも注意します。牧師に黙って従うのではなく、しっかりと自分の考えを表明します。バプテスト教会が民主的であることは、教会の内側にある権力にも抵抗してきたということです。私たちは教会の中でも誰かや、何かの権力や権威で物事が動いてないか、注意をします。私たちは「協働」を大切にするということを選び続けています。就任式でもそれを大切にします。
隅の親石。それは家を建てる時、一番最初に置く石の事です。それは土台になります。その石を置くということは、建物の場所と方角、広さ、役割を決める意味を持ちます。つまりこの石がすべての基準となるのです。
私たちは人がいらないという石を拾い上げ、隅の親石とします。人々から捨てられ、追いやられ、十字架にかけられ殺され、それは語るなと言われた、あのイエス・キリストを隅の親石としているのです。これが私たちの基準です。イエス・キリストが私たちの一丁目一番地、出発点であり、基準であり、土台であり、方向を指し示すものなのです。
地上とイエスの基準は違います。捨てられた基準です。だからこそイエス・キリストの基準で語られる言葉は、地上の権威に抵抗する言葉となります。だからこそ他にも社会の中で捨てられた者、追いやられた者、語るなと言われた者がいれば、その声を聞き、共に歩むのです。教会が聖霊を受けた時、地上の権威への抵抗と捨てられた者と共に歩むことが始まるのです。
私たちは社会の権力に目を向け、イエス・キリストの基準で語ります。それは抵抗の言葉です。そして私たち自身もいつもその基準を確認したいのです。私たち自身の教会の中に、地上の権威が、キリスト以外の基準で動く何かが無いか確認をしたいのです。教会は権力に抵抗します。社会の中にある権力に、そして自分たちの中にある権力に抵抗をするのです。

2019年

6月

23日

「教会はパンを裂く」使徒言行録2章37節ー47節

先日、家族の誕生日パーティーでホールケーキ🎂を買って食べました。ケーキを切り分けるのはいつも私が担当しています。なかなか上手に切れないものです。きれいに分けられなかったケーキを見て、大きいケーキを買ってくるよりも、一つずつに分かれているケーキ、いろいろな味のものを買ってきて、みんなが自分の好きなケーキを食べる方が、いいのではないかと考えました。でもやはりパーティーでは、あの丸い、ホールケーキが買いたくなります。やっぱり大きいケーキをみんなで取り分けるというのが、お祝いにふさわしく、楽しいと感じるのです。
パーティーでホールケーキを食べる意味は、二つあると思います。ひとつはお祝いにするという意味です。バラバラではお祝いになりません。そしてもうひとつの意味は“ホール(すべて)”ケーキを“全員(すべて)”で切り分けて食べること、そこでパーティーの参加者に一体感が生まれるという意味です。そこには主役との関係と、参加者との関係が二つの意味があります。
聖書でパンを裂くと言う場合、それはまず「主の晩餐」を意味します。しかしそれは私たちの小さなパンと小さな杯ではありません。最初期の教会の「主の晩餐」とは食事そのものでした。つまりお腹いっぱいになる、食事をしたのです。今でいうなら、愛餐会、持ち寄りパーティーです。
私たちの主の晩餐にはイエス様との食事を思い出すという意味があります。その食事の中心におられる主役はイエス様です。私たちはイエス様が私たちに教えて下さった事を思い出しながら、それを食べます。イエス様と自分のつながり、縦の関係を思い起こすのです。
そして「主の晩餐」は隣人と共にあることを思い出すという意味も持ちます。イエス様との食事はいつも隣人との関係を考えさせるものであったからです。だから主の晩餐の度、隣人とのつながり、一体感を感じたのです。それは横の関係とも言えます。イエス様との縦の関係と、隣人との横の関係の両方を感じるのが主の晩餐なのです。
最初期の教会がそれを繰りかえしていると、さらに新しい分かち合いが始まりました。今度は食事だけではなく、様々な「もの」の分かち合いが始まったというのです。“すべて(ホール)”のものの分かち合いが始まったのです。さらにそれは周囲の人をも巻き込み始めました。その集まりを見た人たちが、一人、また一人とその輪の中に加わったのです。彼らのパン裂き、分かち合いの輪はどんどん広がっていきました。それは世界に、イエス様の愛と分かち合いを広げいったのです。
私たちも毎月第一主日にパンを裂きます。その意味は最初期の教会と変わりません。縦の関係と横の関係を感じながらいただくのです。そしてその分かち合いは必ず、それ以外の分かち合いも生みます。そしてそれは教会から世界に広がってゆくのです。だから教会はパンを裂き続けるのです

2019年

6月

16日

「教会は挑戦する」使徒言行録2章14節―24節

この教会は69年前、神奈川県で最初のバプテスト教会として誕生しました。当時、誰もこの地域でバプテストという言葉を聞いたことが無かったはずです。平塚教会の宣教も始めはペテロの宣教のように「酔っ払い」と評価されたでしょうか。しかし平塚に確かに新しい生き方を伝えたのです。それは本当に大きな挑戦でした。そして次はアメリカの南部バプテストの力も借りて、この礼拝堂を建てます。そして幼稚園を始めました。大野伝道所を作りました。牧師館を建てました。小田原伝道所を作りました。もちろんそれらの挑戦は役割を終えたものも多くありますが、69年間さまざまなことに挑戦を続け、その役割を全うさせてきました。そして最近ではこひつじ館を建てるという挑戦をしました。これも大きな挑戦です。そして新卒の牧師を迎える挑戦をしました。この教会は本当に69年間、慌ただしく、多すぎるほどの、たくさんの挑戦をしてきました。
どんな信徒の方たちがこの挑戦してきたのでしょうか。なんでもできる優秀な人材が集まっていたかというと、そうとは限らないでしょう。今教会に集う私たちと同じような人が、その挑戦をしていたと思うのです。
そして教会には変わらないものもあります。大切に変えないで来たものがあるのです。一番大切なのはイエス・キリスト。この方を中心とする礼拝を守り続けるということを一番大切にしてきました。
今日の個所はペテロの説教が記されています。ペテロは自分が三度否定していたものを、ある日突然、彼こそ神の子だった、彼こそ正しかった、彼こそキリストであったと、みんなの前で語り出すのです。彼にとってそれはどれほど大きな挑戦だったでしょうか。
ペテロは教会が始まるとどうなるか語ります。「若い者は幻を見る」つまり若い人が理想を描くようになるということです。お年寄りも「夢を見」ます。全員が夢と理想と未来を語りだすのです。それが教会なのです。教会は若者とお年寄りが一緒に祈り、一緒に夢や理想や希望を語り合う場所なのです。
その夢と幻を語らせるのは聖霊です。教会は聖霊の力によって夢と理想、希望を語ります。語られた夢や理想は、その次に必ず挑戦を産みます。語られた夢や理想の実現に向けて、必ず行動、挑戦が起こるのです。教会はいつも聖霊の力によって、夢や理想を語ってきました。そして語られた言葉を実現するために、いつも教会は挑戦をしてきたのです。
私たちいつも挑戦をしてきました。69年目からの歩みもそうするでしょう。そしていつもその背後にあったのは、語らせる聖霊の力です。そして私たちは変わることのないイエス・キリストの福音を宣べ伝えてきました。これからもそれを続けます。私たちは今、夢と希望をもって、新しい挑戦の中を歩んでいます。そして、これからも変わらずに福音を宣べ伝えてゆきます。聖霊の力が一人ひとりに働いて、それが起こされるのです。

平塚バプテスト教会

平塚バプテスト教会

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6月30日(日)平塚バプテスト教会牧師就任式が行われました