礼拝メッセージ2019年度

2020年

1月

19日

「なんとなく従う」ヨハネによる福音書1章35節-51節

バプテストは民主主義「みんなで決める」を大切にする教会です。大事なことは、総会で決めます。今日の総会では執事を選ぶ選挙を行います。私たちは「“すべて”をみんなで決める」ことはできません。だから執事に多くの判断を委ねます。執事はそれだけ重い責任を担います。バプテスト教会の中で決定的に大事な役割です。大切な働きを祈りながら投票しましょう。
しかし執事の皆さんにも自分の家族、仕事、休みを大事にしてほしいと思っています。投票した皆は、何かを犠牲にしてほしいと思っていません。選ばれたあなたにできることを、出来る範囲でやって欲しい、そのことに信頼して投票をしています。あんまりプレッシャーを感じずにいきましょう。気負いせず、楽しみながらやってみませんか?
さて今日の聖書個所を見てみましょう。今日の聖書の召命物語、他の3つの福音書では、ドラマチックな献身が描かれています。イエス様の呼び掛けにペテロが網を捨てるそんな献身の姿が描かれています。しかし今日のヨハネ福音書はそういうドラマチックな献身は書かれていないのです。
アンデレがまず聞いたのは「今日どこに泊まっているのですか?」です。イエス様へのただの興味です。ナタナエルも最初から疑っています。すぐに信じて従う素直さはありません。彼が信じたのはイエス様が自分のことを「見たことある」と言ったからです。それがなんとなく嬉しくて従ったのです。この弟子たちの従う動機の頼りなさを見て下さい。立派な理由はまるでありません。彼らに覚悟とか知識は一切ありません。ただ興味があったので、ついて行ってみました様な感じです。
私たちも何で教会に来たの?と聞きます。なんとなく入ってみた、それでいいのではないでしょうか。ぶらっと来た、でもそこから始まるのです。とにかく来て見て、やってみて、イエス様と一緒に歩んでみる、イエス様について行ってみる、そういう始め方でいいのではないでしょうか。
イエス様も39節「来なさい、そうすればわかる」と言います。細かい動機を尋ねたり、こんな恵みがあるとか説明をしようとしません。見ればわかる、聞けばわかる、やればわかると言うのです。「くれば分かる」と言われても私たち困ってしまいますが。でもそういうことだそうです。
執事になる、それは一大決心です。だけれども「とにかくやってみましょう」「来なさい、そうすればわかる」それが神様の招きではないでしょうか。
そして今日、いろいろな方が礼拝に来られています。どうぞ構えずに、これからも教会に来てください。一緒にイエス様のこと考えてみませんか。なんか面白そうだからイエス様について行ってみませんか?わからなくてもいいのです。「行けば、わかる」そうです。
神様は「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいます。私もなんとなくついて行ってみようかなと思っています。

2020年

1月

12日

「神は小羊になる」ヨハネによる福音書1章29節-34節

2020年

1月

05日

「神は人になる」ヨハネによる福音書1章14節-18節

先日ある方が祈祷会で「80歳の苦労は80歳にならないと分からない」とおっしゃっていました。きっとそうなのでしょう。その立場になってみないとわからない事がたくさんあると感じます。でもときどき自分と似た体験をしている方がいます。その時私たちは、同じ立場の友がいることをとても心強く思うものです。特に教会ではそういう出会いがよく起こります。そして私たちが、何より感じておきたいのが、神様もそのようなお方だという事です。神様は私たちと同じ立場にいてくださる方だということです。
イエス様はこの地上に、人として生きられました。実際に人間になられたのです。今日はそのことを聖書から聞いていきたいと思います。
当時あるグループの考え方に霊肉二元論というものがありました。これは霊と肉体は別々のものであり、霊は聖いもの、肉体は汚れたものと考える思想でした。そしてキリストが不完全な肉体を持つはずがないと考えたのです。そしてキリストの十字架と生涯も、幻の姿だったと考えました。
しかし、この考えは衰退し、イエス様は人間であり、神であられるお方だと考えられるようになりました。人間か、神かどちらかではなく、どちらでもあるお方だったのです。50%が人間、50%は神だったわけでありません。100%人間です。そして100%神であられた。それがイエス様だったのです。
その立場になってみないと分からないことは多くあるものです。しかし驚くことに、神様は人間になられたのです。この地上に私たちと共に生きるという事を通じて、私たちを理解し、伴ってくださろうとする、それが神様です。神様は「地上は汚れた物、私は聖なる者」そのように自分とこの世を分け隔てなさらない、分離しない、お方なのです。
私達は聖なるもの、汚れたもの、世界を二つに分けてしまうことがあります。でも神様ご自身は分け隔てをしないお方です。聖い場所を求めるだけではなく、今ここに神がいます。神は聖い場所にいるのではなく、いまここに神がいるのです。そのような神をいただく、私達です。
このことは私たちに、相手と自分を二分するのではなく、もう少し互いに立場から考えることも教えてくれるかもしません。神が私たちの立場になって下さるお方だからです。同じ苦しみを持つ人と分かち合うという事を教えてくれるでしょう。神様がそうして下さる方だからです。
私達は今日、主の晩餐を持ちます。私たちはこの主の晩餐を、確かに神がこの地上に生き、色々な人と、分け隔てなく共に食事をした。そのことを記念して行います。そして、イエス様はおっしゃいました。「このように行いなさい、これは私の体である、取って食べなさい」と。今日、私たちは再びこの地上に、私たちの中に、このパン、イエス様をいただきましょう。そしてイエス様が私たちのところに、確かに来て下さった、そのことを私達がもう一度確認しましょう。

2020年

1月

01日

元旦礼拝「神は家族になって下さる」イザヤ書43章1節-7節

あけましておめでとうございます。お正月は東西南北へ散っていた家族が集まる時を持たれる方も多いでしょう。家族の温かさ、気兼ねなさを思い出したり、自分の家に帰る居心地の良さを感じているでしょうか。また親族とのちょっとした緊張があるのもお正月の独特な雰囲気かもしれません。
私達は、今日もこの礼拝で「主の祈り」を祈りました。この中にも家族の関係が登場します。私たちは神様を「父」と呼びます。私たちは神様の家族なのです。父という言葉はもともとアッバという言葉でした。アッバは、父という言葉を、より親しみを込めた「お父ちゃん」という意味の呼びかけです。私たちと神様は「お父ちゃん」と呼びかける親しい家族の関係なのです。
今日の個所も、旧約聖書イザヤ書ですが「神様は私たちの家族になって下さる」という事を伝えています。そして神様は東西南北から、子どもである私たちを集めて下さるお方です。そして神様が私たちを礼拝する者にしてくださるという事を伝えています。ご一緒に聖書に目を移しましょう。
「贖い(ガーアール)」という言葉があります。ガーアールという言葉は、例えばルツ記で使われています。去年、教会学校で一緒にお読みしました。ルツ記にはナオミの親戚ボアズはナオミとルツを守るために、親族の役割としてルツと結婚したという物語が残っています。ボアズは寡婦を守るために彼女の家族になるのです。この結婚のことをゴーエールと言います。このゴーエールは「ガーアール(贖い)」が元の言葉です。それは他の人の代わりに、その人の家族となり、助けるということが基本的な意味です。神様は私たちを贖ってくださいます。家族を愛し、助けるように、特別に大切にしてくださるのです。神様は特別な親しみを持って、私たちを守って下さるお方です。その愛は私達一人ひとりに注がれているのです。
神様は様々な困難から私たちを守って下さいます。行き詰まりを感じたとき、モーセが海が開けて対岸に渡ったように、私達が行き詰った時にも必ず希望があります。ダニエルが火の中に入れられても守られたように、どんなに苛酷な状況に置かれても、主の守りがある、神様が一緒におられるのです。
神様はいつも私達と共におられる方です。そして神様は東西南北から子供たち、私達を集められます。地の果てからでも、この礼拝に招くのです。これは中東のイスラエル共和国に集結・・・という話ではありません。それは私たちが今集っているこの礼拝です。この礼拝がイスラエルなのです。
今日、元旦、私たちはまた東西南北、色々な場所から集まり、礼拝を共にしています。素晴らしいことです。今年一年も家族のように時間を共にしましょう。そして神様が私達を礼拝に呼び集めて下さいます。礼拝で共に神様が呼び集め、私たちの家族となって下さり、特別に愛を注いでくださっていることを喜びましょう。その招きから始まる一年を喜びましょう。その恵みに応答し、礼拝を献げる1年をとしてゆきましょう。

2019年

12月

24日

イブ・キャンドル礼拝「飼い葉桶のイエス様」

ルカによる福音書2章6節~7節
「ところが彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

イエス・キリストの母マリアは旅先で出産しなければなりませんでした。どれほど不安だったでしょう。さらに彼らには泊まる宿屋すらありません。
もし、そのような妊婦が私の宿泊するホテルを訪ねているのを知ったら、私は大急ぎでその人に部屋を譲るでしょう。しかし、この時それは起きませんでした。ホテルの先客たちはそれを知らずにいたか、あるいはそれを知っても見なかったふりをしました。
イエス・キリストは人々の保護と愛情を一身に受けて生まれたとは言い難い環境に囲まれていました。彼らは仕方なく、家畜小屋で出産をすることとしました。出産に必要なものはほとんどありません。彼は「飼い葉桶」、つまり動物の餌を入れておく箱、エサ入れの中に寝かされたのです。それは動物の唾液とニオイで臭く、ひどく不衛生なものでした。そこにしか彼に居場所はなかったのです。赤ん坊がおよそ人間らしい扱いをされない場面、それが私たちが祝うクリスマスです。
この苛酷な出産の何が、孤独な出産の何が一体、喜びなのでしょうか。私たちの喜びは大いに逆説的な喜びです。素直には喜べない、この痛みと孤独、その中に私たちは希望を見つけるのです。
それはイエス・キリストは、私たちが一番状態がいい時に、私たちに訪れるのではないということを示しています。順調、健康、裕福、仲間に支えられている、イエス・キリストの誕生は全くそれとは逆の場面に起きた出来事でした。逆境、痛み、貧困、孤独のさなか、そのような中に、イエス・キリストが生まれたてきたのです。
イエス・キリストが私たちの中に生まれて来た、その喜びをここに見出します。神様と等しい方が、このような逆境と、痛みと貧困と孤独の中に生まれて来たということが喜びです。そうです、神様は私たちの遠くに、天高くいて、私たちを見下ろし、善い行いをした者にはよい出来事を、悪い行いをした人には悪い出来事を起こす、そのような方ではありません。
あなたの苦しみを知り、あなたの現実に目を向け、あなたの現実といつも共にいて下さるのがイエス・キリストなのです。皆さんにも今日、その喜びが与えられています。あなたの地上の厳しい現実の只中に、痛みの中におられるのがイエス・キリストです。あなたのその中に、神様と等しい方が生まれ、一緒に歩んでくださる、それがクリスマスの喜びです。
一緒にそのクリスマスを喜びましょう。メリークリスマス。

平塚バプテスト教会

平塚バプテスト教会

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