礼拝メッセージ2017年度

2017年

12月

03日

「新しい契約」 エレミヤ書36章1-10節

 ここで記されている一連の出来事の核心は、預言者エレミヤを通して主なる神が長年にわたって語られてきたことを「巻物に書き記し」て、それが「読み上げ」られ、一度ならず繰り返し神の言葉を無視してきた人々に、さらに「繰り返し語りかけ」、なんとかして、それこそ最後の期待をかけて、彼らが「悪の道から立ち帰る」ことを願ってなされている、神の側からの悲しいまでにひたむきな働きかけである。

 神は、なんと忍耐強く、憐れみ深い方だろう。とうの昔に「もう我慢ならない。堪忍袋の緒が切れた」と言って、怒りと憤りを爆発させても全くおかしくないのに、「あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」(2節)、「この巻物から主の言葉を読み、……人々に聞かせなさい」(6節)と言って、裁きと滅ぼしを思いとどまる一方、なお、期待を持って働きかけておられる。このことはユダヤ民族のことだと言って聞き流すことはできない。新約聖書では有名な放蕩息子の話があるが、子に対する親の思いがそれに近いと思う。もう見放してしまいなさい、と周りから言われても、「私の子どもだから、私はこの子の親だから」という思いでかばう親心。「なんでそこまでするの」と問われても理由なんてない。「私はあの子の親だから」。

 そうまでして「私は彼らの罪と咎を赦す」(36:3)と言い続け、そのことが起こることを望み続けて下さる神。激しく叱責し、厳しい裁きを語る神は実は「赦す」ことを望んでやまない神であり、そのために考えられないほどの犠牲を自ら払う覚悟のある神なのだ。

 さらにエレミヤは預言者として、我々が真に待望しなければならないものを指し示している。託され、人の口を通して語られ、さらには巻物に書き記され、読み上げられる神の言葉ではなお足りずに、「肉となって、私たちの間に宿られた」言葉、その中に「恵みと真理とに満ちてい」る神の言葉(ヨハネ1:14)こそをこの世は救われるために必要としているということをエレミヤは指し示す。

 それは、「エレミヤ書で最も重要な章句の一つ」であり「旧約の預言書の中で最も深い洞察の一つ」といわれるエレミヤ書31章31-34節。それをエレミヤは主からの託宣として告げている。そこで言われている「新しい契約」、これはかつての出エジプトの途上シナイ山で結ばれ、結果的には神の民によって破られたあの契約とは違い、「彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」のである。人間の背反によって石の板のように壊され、無効にされることはない。「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」と無条件に言われている新しい契約である。神の側からの一方的な宣言である。

 「そのとき」何が起こるのか。「人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない」。なぜなら「彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである」(31:34)。「知る」ということは、「自発的に神を愛し、神に服従するようになる」ことだ。その上でこう宣言されている。「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」(31:34)。

 ここに神と人間の新しい関係ができることをエレミヤが全身全霊をもって告げている。その預言が実現したことの出来事がイエス・キリストの誕生の出来事である、と言われている。エレミヤは、人間的に言えば、神の苦難の僕、あるいはメシアのような生涯を送ったといえるかもしれない。しかし、彼自身は断固として言うだろう。真の祭司、仲介者、自ら神の言葉であるお方の到来によってのみ、神の救いはもたらされるのだと言うことを。真の祭司、仲介者、自ら神の言葉であるお方、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを神の計り知れない愛の恵みとして覚えつつ、感謝して待ち望みましょう。

2017年

11月

26日

「いのちを生きる」 創世記2章7節

 座間事件をはじめ、最近、自ら命を絶つ人々が多いというニュースに心が痛む。ある神学者が、「自殺を試みようとしている人に、あなたは生きなければならないと言っても意味はない。もし自殺を思い止まらせようとするなら、あなたは生きることが許されていると言うべきである」と書いている。生きることが許されていることを知るのは、「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)との言葉を自分のこととして聞く時である。

 もう10年ぐらい前のことだが、ある厚生労働大臣が「女性は子どもを産む機械だ」と発言をし、マスコミをはじめ各方面から批判を受けた。この大臣は「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」という発言を繰り返した。

 この発言を聞いた時、二つのことを批判的に受け取った。一つは、女性を機械だと考えるような、女性の人格を無視した発言だ。機械なら、生まれる子どもは製品かと言いたくなる。二つ目は、少子化の問題を女性だけに押し付けるという認識不足からでた発言だということ。いうまでもなく少子化の問題は、経済的な問題や家庭環境の変化、子育て支援の問題、それに働き方の問題など、様々なことが複雑に絡み合っていて、女性だけの問題ではなく、社会全体で考えていかなくてはならないことである。

 当然、この厚生労働大臣の発言をめぐって多くの反論、批判がなされた。そして、その多くが女性が結婚する、しないも、子どもを産む、産まないのもそれは本人の自由だということだった。確かにその自由は保障されなければならない。しかし、どうもそれだけでは腑に落ちないものがある。確かに「子どもを産む、産まないは本人の自由」だが、そんなふうに考えるだけでよいのだろうかとも思う。それは言い換えると、産む側の視点だけで「いのち」の問題を考えていいのかということである。それは人間の傲慢ではないか。産む側の自由があるなら、産まれる側も自由があっていいはず。生まれた側から言うと、本人の自由は無い。では、「いのち」そのものを持っている本人自身にその自由が無いという、この産む、生まれるという神秘的といってもいいほどの出来事をどう考えていったらよいのだろうか。

 子どもを産むということは、一つの「いのち」を産み出すことである。この「いのち」とは何だということをもう一度考えてみる必要がある。違う視点から見ることができないか。昔から、生まれた子どもを「子宝」という言い方をする。また、「子どもは天からの授かりもの」とも言う。親のものであって、親のものではない。自分のものであって、自分のだけのものではない。そこに人間を超えたものによる、人間が手出しできない、してはいけない領域での事柄と考える見方がある。また、宝と表現するほどに大事に考えたことが伺える。よもや機械から生まれた製品などという発想などどこにもない。

 はじめに紹介した、創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるが、人間が神にかたどって造られた存在であるとは、いろいろな意味に解釈されてきた。人は内に神の痕跡を残す存在である。神の愛に責任をもって応答できる存在である、など。しかし、この言葉を一般化して理解するのではなく、自分のこととして聞く時には、また新たな思いを持つのである。私の存在は尊いのであり、私は他に比べるものが無いのであり、私は私に責任を持つ存在であることをひしひしと感じるのである。
 
 私たちは生きている、と同時に生かされているのである。このことは先ほども言った自分の命は自分のものであって、自分のものではない、ということと同じである。だから、このいのちを大切に精一杯生きること、また同時に他の人のいのちをも尊重し大切にすること。そのような生き方を神は喜ばれる。

2017年

11月

19日

私に従って来なさい」 マルコによる福音書1章14-20節

今朝の聖書の箇所に先立つ部分で主イエスは誘惑に会われた。だから、主イエスは、人間が誘惑に会うときの心が分かるし、私たちが誘惑に会うこと自体を悪いことだとか裁いたり、悲しんだりすることはない。確かに誘惑は身近にあり、誘惑に会うことは一度ならず何度もある。それは物欲やお金、地位や名誉、支配欲であったりする。その中で、私たちがサタン(誘惑者、中傷する者)の偽りの言葉に身を委ねてしまうことを心から悲しまれる。そこで、私たちがサタンの支配下におかれてしまうのではなく、そこから解き放たれる道を示してくださった。それが、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」である。この愛の呼びかけを聞くことこそが、サタンの誘惑から解き放たれる道である。

 主イエスが来られたことによって、決定的な救いの「時」が訪れた。「神の国」とは、神の愛の支配するところ。神の支配が及ばないようなところはない。「悔い改める」とは、方向転換をして、神の呼びかけに耳を傾けること、「改心」。そして、「福音を信じる」とは、神の無条件の赦しの愛を信じ受け入れ、その愛の支配の中で生きるということ。その声を聞き、心を神に向けるときに、サタンの支配は崩れ始めるのである。

 人生に荒野がなくなるわけではない。サタンの誘惑にさらされることがなくなるわけではない。しかし、荒野にも神の愛の支配は届いている。そのことを知って、神に信頼して生きるとき、荒野もまた神の国になる。

 17節で主イエスはシモンとアンデレに「私に従って来なさい(口語訳)」と呼びかけられた。この招きに対して、弟子たちは「すぐに網を捨てて従った」とある。しかし、イエスに従うということは、いつでも何もかも捨てて従うということなのだろうか。そうではない。仏教では出家という言葉がある。家を捨て、仕事を捨て、この世を捨てて、仏教の教えにひたすら従う。世捨て人とも言う。でも世を捨ててしまったら、どうして教えをこの世に伝えることができるだろうか。むしろ、この世と関係を持ちながら、ともに生きながらこそ、伝道できるわけで、そうあるべきではないだろうか。主イエスも町や村々を歩き回りながら、教え、宣べ伝え、癒されたと聖書にある。だから、29~31節からは、シモンが、家族との交わりを一切断ち切ったわけではないことが分かる。では、網を捨てて従ったとは、本質的には何を意味するのだろうか。それは主イエスの教えを第一として生きるということである。それまでの彼らにとっては、網が第一だった。網はまさに彼らの人生を支えるものだった。生活の糧、生活そのもの。だからこそ、同時に網は彼らを縛るものでもあった。

 主イエスの教えを第一にするということは、束縛を受けるような気がするが、主イエスのみに縛られて、他のものに縛られなくなることを意味する。別の言い方をすると、第一のものを第一にするとき、かえって本当の自由が与えられるのである。主イエスの教えとは何か。それは神を愛し、隣人を愛しなさい。その教えに生きる人生である。その教えを第一としながら、自らの生活、人生を歩むことである。そして次に、家族や仕事やお金のことなどとどのようにして関わっていくかということが来るわけである。その関りは、第一のものを第一とする中から、おのずと示されてくる。

 また、網を捨てるということは、いつも主イエスと共にいることを意味する。むしろ主イエスと共にいるということが何よりもすばらしいことだから、網を捨てられるのだということができるだろう。主イエスと共に生きる時、平安が与えられ、慰め、励まし、生きる力、知恵、希望が与えられるのである。ぜひ、主イエスと共に歩む恵みを受け取っていただきたいと願う。

2017年

11月

12日

「心に響く鈴の音」 使徒言行録16章6~10節

星野富広さんの花の詩画集「鈴の鳴る道」の中に次のような文章がある。
 「車椅子に乗るようになってから12年が過ぎた。その間、道のでこぼこが良いと思ったことは一度もない。ほんとうは曲がりくねった草の生えた土の道が好きなのだけれど、脳味噌までひっくり返るような振動には、お手上げである。 (中略) ところが、この間から、そういった道のでこぼこを通る時に、ひとつの楽しみが出てきた。ある人から小さな鈴をもらい、私はそれを車椅子にぶら下げた。手を振って音を出すことができないから、せめて、いつも見える所にぶらさげて、銀色の美しい鈴が揺れるのを、見ているだけでも良いと思ったからである。

 道路を、走っていたら、例のごとく小さなでこぼこがあり、私は電動車椅子のレバーを慎重に動かしながら、そこを、通り抜けようとした。その時、車椅子につけた鈴が「チリン」と鳴ったのである。心に染み入るような澄んだ音色だった。「いい音だなぁ」。私はもう一度その音が聞きたくて、引き返して、でこぼこの上に乗ってみた。「チリーン」「チリーン」。小さい音だったけれど、本当に良い音だった。その日から道のでこぼこを通るのが楽しみとなったのである。

 長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて、通ってきた。そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。しかし小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持ちを、とてもなごやかにしてくれるようになったのである。鈴の音を聞きながら、私は思った。“人も皆、この鈴のようなものを、心の中に、授かっているのではないだろうか” その鈴は整えられた平らな道を歩いていたのでは、鳴ることがなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。

 美しく鳴らし続ける人もいるだろうし、閉ざした心の奥に押さえ込んでしまっている人もいるだろう。私の心の中にも、小さな鈴があると思う。その鈴が、澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う」。    
 以上です。人生において、避けられないでこぼこ道、同じ歩くなら、きれいな鈴の音を聞きながら、楽しい豊かな気持ちで歩みたい、そういった星野さんの思いがつづられている。私たちはどうだろうか。やはり、最初の星野さんと同じように、でこぼこ道、曲がりくねった道、障害物のある厄介な道は避けたいと思うだろう。しかし、星野さんは、でこぼこ道でこそ、きれいな鈴の音があるという。それは心の中にあるという。

 また、俳人の種田山頭火の句に次のような句がある。「まっすぐな道でさみしい」。含蓄のある一句だ。私たちは、曲がりくねっている道より、まっすぐな道を選ぶ。曲がっているとすぐ伸ばしたくなる。トンネルを掘る。曲がりくねった人生の歩みより、効率のいい無駄のない人生の歩みをどこか望んでいる。それを山頭火は「まっすぐな道はさみしい」と言うのである。人生に無駄、遊びといって否定的に言われるが、人生に無駄とか遊びは必要で、人生を豊かにする。

 さて、ここでパウロは、しばしば聖霊に禁止され、行く手をさえぎられている。パウロはここで北に、西にさまよい歩いている。そこではまるで計画もなく、あてもなく歩いているかに見える。しかし、彼はただ足の赴くままに、のんきに旅を続けているのではない。彼は妨げられているのだ。それは神の「否!」にほかならない。しばしばさまようことさえ神の御手の中にあることを、私たちは忘れてはいけない。神が扉を開かないところでは、いかなる人間の熱心も、いかなる賢い知恵も、力も役に立たない。箴言の21:30-31に「主に向かっては、知恵も悟りも、計りごとも何の役にも立たない。戦いの日のために馬を備える、しかし、勝利は主による」とある。

 パウロは、途上で何度も問うたことだろう、「主よ、一体いつこのまわり道が、一つの道になるのですか。いつこのあてどのない漂白の旅が、ひとつの確かな方向に変えられるのですか」と。けれども、このよく語るパウロは、聞くことを忘れなかった。その聞くことからのみ、真の服従が出てきて、ついに人は慰めに満ちた確信に到達するからである。詩編の119:45に「私は、あなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」とある。

 この夜、パウロは幻を見た。マケドニア人の叫び「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。それに応えて、パウロたちはマケドニア州に行く。「来て、私たちを助けてください」との声を聞いた時、彼らは悟った。「神が私たちをお招きになったのだ」と。「来て私たちを助けてください」との声を聞き、それに従う時のみ、私たちは「神が私たちをお招きになったのだ」という、もう一つの声を聞くことが出来るのである。私たちが妨げられ、邪魔され、行く手をふさがれた時であっても、御霊の助けに素直に従うなら、この声を聞くのである。星野さんが言う「鈴の音」を聴くのである。でこぼこ道の時こそ、鈴の音を聞くのである。困難な時、試練の時、苦しい時にこそ神の声を聞くのである。だから私たちはそのような時にあっても、落ち着いて、勇気をもって、いや、神のご計画に期待する喜びをもって立ち向かうことができるのである。人間の計画が崩れる時、神の計画がなるのである。箴言19:21に「人には多くの計画がある、しかし神の御旨のみ、よく立つ」とある。

2017年

11月

05日

「信仰・希望・愛」 マルコによる福音書 13章3~13節

今朝の新聞に、お墓の悩みごとが取り上げられていた。遡っていけば次は葬式のこと、どこで最期を迎えるか、延命治療のこと、介護、遺産・遺品のこと、まあ次から次と悩みは尽きない。しかし、それは死から今の自分の生活を見直す絶好の機会。いかに生きるべきか、と。
  
 さて、マルコ13章は小黙示録といわれ、主イエスが終末について語られたことが記されている。私たちにとって信じがたいことと言うか、分からないことがいろいろあるが、その一つは終末信仰ではないだろうか。この世の終わる時があり、そして私たちは神の前に立たねばならないと聖書は宣言している。しかし、それは証明できたり、予想できないものである。そこで私たちは、聖書にそのようなことが書いてあるとか、そういう思想があるとかいうぐらいで軽く扱ってしまいがちである。

 しかし、キリスト信仰の目標は、終末の時キリストの義の冠を受けることにある。具体的に言うと天国に行くときまでしっかり信仰を持って生き抜いていくということだ。信仰の目標が不明瞭になると、この世の道徳、常識とか、現実の動向に左右され、ある時はヒステリックな悲観主義になったり、無責任な楽観主義におちいりやすくなる。そのいずれも、私たちが終末に向かっていることを忘れることからくるのではないか。

 そのことは、個人の人生において考えてみると、私たちは確実に死に向かって生きているということを忘れているということだ。時に死を見つめて生きてゆくことが大切。それは、生きることの意味を考えさせてくれるからである。死を考えることは、私たちの日常を再構築することへと向かうのではないだろうか。

 アメリカのクリスチャンが作ったプログラムだが、それを関西学院大学の藤井美和教授が活用し、講義で学生に対して行っているプログラムを紹介しよう。

 それは、まず、紙を12枚配って、目に見える大切なもの3つ、次に目に見えない大切なもの3つ、さらに大切な活動、仕事など3つ、そして大切な人3人、とそれぞれ4つの分野について3つずつ書いてもらう。今時の学生だと、目に見える大切なものでは、だいたいみんなケータイとかスマホと書くそうだ。

 さて、その上で、自分が末期ガンで死ぬまでの架空の日記を教授が朗読していく。まず、末期ガンだと分かった時に、12枚から3枚を選んで破る。捨てる覚悟をするわけだ。次に手術が終わった時に3枚捨てる。季節が変わって3枚、そしていよいよ死に直面した時に2枚捨てる。そしていよいよ息を引き取るという時に、残った一枚を握りしめた後、深呼吸をして、それを破ってもらう。これをやると、圧倒的に最後に残るのは「母」だという。「父」は割と早い時に破られるそうだ。下手するとケータイよりも先だったりする。学生の話ですが。

 このプログラムは、一人の健康な学生が突然ガンに冒され亡くなっていく過程を日記を辿る形で疑似体験する。それぞれの学生は、日一日と死に近づく自らの姿を思い浮かべながら、予め紙に書いた大切なものを一枚一枚破り手放していく。学生は死に向かい合う悩みや苦しみを感じ取り、自分にとって大切なものとは何かを突き詰める。それは心の宝を見つめ、生き方を問い直すことでもある。

 さて、マルコに戻るが、4節で弟子たちは、終末がいつ来るのか質問した。主イエスはそれに対して、「気をつけなさい」(5節)、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)、「だから、あなたがたは気をつけていなさい」(23節)、「気をつけて、目を覚ましていなさい」(33節)というように、繰り返し「気をつけて」と言われている。私たちはこの世の現実に惑わされて、神ご自身の支配、生ける神から目を離してしまうことがあるが、そうならないように神を見つめていくことが大切だと言っているのである。終末がいつ来るかということよりも、私たちを造り、愛して下さる神を、どんな時にも見上げながら、その上で、今の自分の生き方をしっかり見つめながら歩んでいくことが大切なのだということである。

 私たちはイエス・キリストの十字架のメッセージにのみ耳を傾け、他のことに気を奪われないようになって初めて、この厳しい現実を生きていくことができるのである。困難や苦しみに出会う時、それは確かに苦しいが、そんな時にも、神が私を愛しておられるという聖書のメッセージを聞き続ける時、何にも惑わされることなく歩み抜けることができる。だから私の人生がどんな人生であっても、神から愛されていることを信じるとき、私たちは希望を持って生きていくことができるのである。皆さんにぜひそのような信仰と希望と愛を神からいただいて、喜びの生活へと歩んでいただきたいと願うものである。

平塚バプテスト教会

正しい人ほど苦しい
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命は時間の中にある 
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