礼拝メッセージ2019年度

2019年

11月

17日

特別伝道礼拝野中宏樹牧師「生きるとはがばいよか」マタイによる福音書20章1節-16節

私の母は、私がお腹の中にいるときに教会で洗礼を受けました。ですから、私は小さい頃から教会に通い、聖書の言葉に親しんできました。旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻からなっている分厚い聖書という書物は、日本では弥生時代の頃、2000年も前に書かれたものです。それ故大変難解であるという感想をお持ちの方も少なくないと思います。けれども、聖書に書かれてあることは大変シンプルだと私は思います。聖書は最初から最後まで一貫して「神は愛である」という事を私たちに伝えようとしています。けれども「愛」という言葉がおそらく日本人には難解なのだと思います。最初に日本にキリスト教が伝えられた頃、宣教師たちは神さまからの無償の愛を表すギリシャ語の「アガペー」という言葉を「御大切に」と訳したそうです。その通り、聖書の神さまは、作られた全ての命、もちろん私たち一人一人をも掛け値なしに「御大切に」して下さる方です。
私たちはそれぞれに、自分にしか生きる事の出来ない自分の物語を生きています。けれども時に、自分の人生の物語を全く評価出来ずに「駄目な人生だ」と考える事があるのではないでしょうか。そしていつの間にか、他者の評価ばかりを気にして、人と比べて自分を見失ってしまうこともあります。あるいは他者を見て「あいつは駄目なやつだ」と見下げたりもします。もしも一度きりの人生がそのようなものであるのならば、何と辛く、厳しく、悲しく、そして寂しいものでしょうか。けれども人生はそのようなものではありません。聖書の神さまは、十字架の主イエスさまの物語を通じて、徹底して「私はあなたをとても大切に思っている、あなたは私の宝物だ」と言い抜いて下さる方です。この人生の原点を共に確認しませんか?きっと「生きるとはがばいよか!」という思いの中で他者と共に人生を歩みはじめる事となるでしょう。それこそが聖書の神さまの思いだと私は確信しています。

 

 

 

2019年

11月

10日

「こどもを大切にする教会」ヨハネによる福音書6章9節-15節

グレタ・トゥーンベリさんは16歳の少女です。彼女は地球温暖化のリスクを訴え、世界で有名になりました。世界は温暖化への対策を十分に取ることが出来ません。彼女は気候変動に無関心、無力な大人たちにむけて、より強い対策を取るように訴えています。「あなたたちが語り合うのは、お金や、途絶えることのない経済成長のおとぎ話だけ。よくも、そんなことができますね」「なお私たちを裏切る選択をするのであれば、言わせてください。私たちは決してあなたたちを許しません」。大人は何をしているのか、なぜ行動しないのか。そうグレタさんは怒りを込めて問いかけています。彼女は私たちに「あなたは変われますか?」「あなたは子供たちに未来を残せますか?」と問いかけます。世界は、大人は、私達は、変わることができるのでしょうか。
聖書の個所に目を向けましょう。今日の個所にも問題を解決できない、無力でだらしない大人が登場します。1万人が空腹でした。しかし大人は議論ばかり、無理な理由を述べるばかりで、分かち合いの行動を起こしません。そこに一人の子どもが登場します。そのこどもは持っていた自分のお弁当をイエス様に差し出しました。それは怒りの行動だったかもしれません。いつまで議論をしているんだ、大人は自分できることをしろ。そんな彼の怒りが込められたパンです。もちろんこの行動は無力です。しかしイエス様は、それを見逃しません。そのパンを取って、感謝して祈りを唱えたというのです。
一人の子供の行動とイエス様の祈りが1万人を変えました。大人たちを変えたのです。私はこの個所を大人が隠し持っていた分を、分かち合う行動が起きたと理解します。大人たちがこどもが捧げる姿を見て、それを神様に感謝して祈るイエス様の姿を見て、分かち合いを始めたのです。
今の私たちはここから何を学ぶでしょうか。一つには小さくても行動を起こすことです。私がちょっと行動したくらいでは世界は変わりません。私たちがこどもの居場所の建物を建てたくらいでは平塚は変わりません。けれども、今日の聖書の個所によるならば、小さな行動を起こしていくことが大事です。そしてその小さなことを感謝して、神様に祈ることが大切です。私たちは出来る事、祈る事から、子どものために始めましょう。そしてもう一つ、この個所から学ぶこと。それは子ども達の行動を尊重することです。子ども達のアイデアと行動を真剣に聞く事です。そしてそれに感謝と、祈りをささげることです。聖書によれば子どもの行動が世界を変えるのです。
今日私たちがいただくパンは子どもが捧げたあのパンように、小さなパンです。小さいけれど、感謝して、祈って食べましょう。私たちも小さくても何かを始めましょう。そしてこのパンは永遠の命を得させるパンです。神の永遠の中に生きる、そのことを覚えるためのパンです。祈って食べ、神様の永遠の命をいただきましょう。今日はこの後主の晩餐式とこども祝福祈祷の時を持ちます。

2019年

11月

03日

「永遠を共に生きる」ヨハネによる福音書3章16節

教会は時代によって、様々に変化をしてゆくものです。変化にとまどうこともあるかもしれませんが、変わらないものもたくさんあります。それは神様を礼拝することです。そして天に召された方を覚え続けるということも、教会が2000年間ずっと大切にしてきたことです。教会はどんなに社会が変わろうとも、神様を礼拝すること、召天者を覚える事において変わりません。
神様は召天された方々に、どのように関わって下さるのでしょうか。そして私たちと召天された方々はどのような関係にあるのでしょうか。本日の聖書個所には神様と天に召された方たちの関係、そしてもちろん神様と私達との関係が書かれています。このみ言葉に聞いてゆきたいのです。
3章16節によれば、神様はこの世を愛して下さるお方です。世とはこの地上、世界、全人類、全生命の事です。世界はめまぐるしく変わります。皆さんも変わります。しかし相変わらず人は不完全で、欠点の多い者で、失敗をします。それは召天された方も、私達も同じでした。神様が大切にして下さるように、お互いを、自分自身を大切にすることが出来ない時がありました。
にもかかわらず、神様は私たちを愛して下さいます。神様はたとえ人間がどんなに不完全でも愛して下さるお方です。それが世を愛する神様です。だからこそ、私たちの生き方が変わります。愛せない他者を愛そう、愛せない自分を愛そうという生き方に変わるのです。それが変えられるということです。そして神様は天に召された後も永遠に愛し続けて下さるお方です。
3章16節によれば、神様は独り子イエス・キリストを与えて下さるお方です。その方は全人類に与えられています。地上に生きているかどうかも超え、神様は天に召された方々のためにも、イエス様をお与えになりました。天に召された方たちと私たちは、共に神様からイエス様をいただく仲間です。
神様は、この私たちをなぜ愛し、大切にされるのでしょうか。それは永遠の命を得させるためとあります。永遠とは変わらずに貫かれてきた神様の愛のことです。「永遠の命」とは変わらない神様の愛の中にある命です。時代は変わる、世界は変わる、お互いは変わる、教会も変わる。でも変わらないものがある。神様がずっと変わらずに大切にしてきたものがある。変わらないものの中に生きる事、神様の中に生きること、それが永遠の命です。すでに召天された方々も同じです。変わらない神様の愛の中に生きているのです。神様の永遠の中で生きるのです。
すでに召天された方と私たちは、共に神様の永遠の中に生きる者です。私たちは地上の生命の有無にかかわらず、神の永遠の愛の中を共に生きるのです。私たちは共に神の愛に、共に神の永遠の中に生きる者なのです。
今日、召天された方を覚えます。そして、自分に残された時を覚えます。地上の生に関わらず、私たちは神の愛を永遠を共に生きる者です。永遠を共に生きたいと願う者なのです。

2019年

10月

27日

「苦難の中の光」ヨハネによる福音書1章1節-14節

今中国では急速にキリスト教が広がっています。彼らは抑圧される生活の中で、自らを解放してくれる物語を求めています。しかし中国政府はキリスト教の教会を「公認」と「非公認」に分け弾圧しています。公認されるためには礼拝堂での国旗掲揚・国歌斉唱・監視カメラ設置、十字架塔の撤去などが必要です。多くの十字架塔に火が放たれています。激しい迫害の中で、中国のクリスチャンは光を求めています。いえ、光を求めると言うより、すでに照らされていると言うべきでしょうか。彼らは暗闇と思える中においてこそ、自分達はすでに光に照らされているのだという事を知っています。
私たちが闇と思う時、私たちが闇のような運命にあると思う時、それでも必ず光が私たちを照らしています。私たちが闇だと思っていても、光であるイエス様が私たちの間に必ずいてくださるのです。
今日の個所もそのことが示されています。ヨハネ福音書が書かれた当時もキリスト教は激しい迫害を受けていた、まさに闇の時代でした。創世記1章によれば天地創造の前も、世界は闇に覆われていました。その中で神様は一つずつ言葉を発し、創造してゆきます。神様の言った言葉はどれも、必ず実現をしました。聖書は神様の言葉と出来事を分けていません。聖書は繰り返し「神は言った、そうなった」と伝えます。
ヨハネ福音書もこのことを言っています。始めに言葉があったのです。そしてその言葉は神様と共にあったのです。そこに区別はなく、神ご自身と同じものだったです。そして、10節以降には、言葉はイエス・キリストでもあったともあります。イエス・キリストは神の言葉だったのです。ヨハネはこれを三段論法で説明しています。神=言葉、言葉=イエス・キリスト、だから神様=イエス・キリストですと言っています。
この1章はもう一つ大切なことを言っています。それは創造の時にすでに言葉が存在していたということです。つまり、イエス・キリストが創造の時にすでに存在していたということです。創造のはじめからイエス様が共にいて下さったということです。私たちの生まれる前から、世界ができる以前から、イエス様は共にい続けて下さったということです。
14節、言葉は肉となって私たちの間に宿るとあります。「宿る」とは、「住む」ということです。イエス様は星のような、遠くの光ではありません。人間の世界に、私達の間にすでに宿っている、すぐ近くに一緒にいてくださるお方なのです。すでに神様から、その光は私たちに差し込んでいるのです。
闇と思える時も、私達には必ず、光があります。希望があります。私達が闇のような運命にあると思う時も、必ず光があり、希望があります。私たちが闇だと思っていても必ず、イエスは私たちの間に宿り、住み、とどまって下さいます。いつからか、それはずっと前からです。私たちはその希望に照らされて歩み、礼拝をしたいのです。

2019年

10月

20日

「私たちの神は誰か」ルカによる福音書19章11節ー27節

10月22日「即位の礼」が行われます。さらに11月には大嘗祭が行われます。大嘗祭は元々、天皇が神になる祭儀でした。天皇を神と思うことは自由です。キリスト教が警戒をするのは、国家が天皇を神と信じなければならないと押し付けることです。元号法、日の丸・君が代、建国記念日、天皇を中心とする国家神道の国民への押し付けはもうすでに始まっています。
教会はこのことに敏感です。なぜなら教会は天皇制で大きな失敗をしたからです。戦時中、教会学校では「天皇こそ、神様の賜物」と教えました。礼拝で君が代を歌いました。教会はあの失敗を本当に悔いています。自分たちの信仰を隠して、妥協をしました。キリスト教は過去の過ちに立って「天皇は私たちの神ではない」ということをはっきり言わなければいけません。
初代牧師長尾三二先生は戦争に反対をした、珍しい牧師です。戦時中「天皇は神にあらず」と言って逮捕されました。私たちも今、この社会の中で「天皇は私たちの神にあらず」「押し付けないでほしい」そう叫びたいのです。
今日のたとえ話、新しい王とは主イエス・キリストの事です。そして1ムナを預けられたのが私たちです。そして14節でも「私たちの神は誰か」が問題とされています。私たちの神は主イエス・キリスト、愛の神、愛の行動に促す神です。だから私たちはこの話を愛の視点で読みたいのです。繁栄の視点で読むと、再び教会は失敗をするでしょう。
10人が1ムナずつ預かりました。主人は「商売しろ」と命令をしました。十倍になった僕がいますが、彼は相当なリスクのある投資をしたはずです。元金をすべて失うかもしれない、ばくちのような投資をして破産覚悟で「商売しろ」という主人の命令を実践しました。一方で、1ムナを布にくるんで土に隠した僕がいました。減ることを恐れ、土に隠しました。
1ムナとはそれぞれに委ねられた、神様の愛です。神様はそれを「使って増やせ」と言います。模範となるのは、十倍にした僕です。リスクがあっても愛の行動をするということです。愛したのに愛されなかったら、私たちは深く傷つきます。でも恐れずに、愛の行動をとるのです。愛されないかもしれない、傷つくかもしれない、でも愛すのです。一方、土に隠した僕とは、傷つくのが怖くて、愛の行動ができない人でした。まるで自分は愛も持っていないように振る舞いました。自分が傷つかない方法を選んだのです。
私たち一人ひとりが、神様から1ムナの愛をいただいています。それを使い、増やす、愛の行動を起こしたいのです。私たちのいただいている神の愛を、神を恐れず、隠さずに、土に埋めず愛の行動をとりたいのです。
今、私たちは誰が、私たちの神なのかが問われています。私たちは愛と私たちの神を隠しません。天皇は神にあらず。私たちの神は愛の神イエス・キリストです。私たちはその愛を持ったままにしない、傷つくのをおそれず愛の行動をする、そして隠さないで語りたいのです。

平塚バプテスト教会

平塚バプテスト教会

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6月30日(日)平塚バプテスト教会牧師就任式が行われました