礼拝メッセージ2019年度

2019年

9月

15日

「名誉よりも謙遜」ルカによる福音書14章7節ー14節

今日のイエス様のお話は「たとえ話」です。礼儀作法の話ではありません。このたとえ話は招待した人が神、招待された客が私たちです。神様が私たちを招いてくださいました。神様に招かれた人々はこれから楽しい時がはじまります。しかし、神様に招かれた人々が始めたのは、どちらが神様の前に正しいか、どちらが信仰深いか、そうお互いを評価しあうということでした。
そこに招待した主人である神様が現れます。自分が正しいと思う者、自分が信仰深いと思う者を末席に行かせ、自分は神様の前に、過ちの多い者、信仰の薄い者であるという者に「さあ、もっと近くに来なさい」と神様は言います。11節、神様の前で「高ぶる者は低くされる、へりくだる者は高くされる。」のです。神様は自分の欠けや、弱さを認める者に「もっと近くに来なさい」とおっしゃるお方です。
そしてこの話、23節から二つ目のたとえ話が続きます。イエス様はこのたとえ話で見返りを目当てにしないで愛しなさいと教えます。
見返りを求めない、それは難しいことです。こんなに愛しているのに、愛されないということです。こんなに優しくしているのに、優しくされないということです。こんなに我慢しているのに、ちっとも我慢してくれない。こんなに一生懸命なのに、ありがとうの一言もないということです。
お互いに励まし合い、愛し合い、ありがとうと言い合う関係を大事にしましょう。そしてもし誰かからの優しさ、愛に気づいたら精一杯感謝と愛を伝えたいと思うのです。神様からの愛に気づいたら、隣人からの愛とやさしさに気づいたら、精一杯感謝を伝えましょう。
しかし神様はお返しがあっても、無くてもすべての人に恵みをあたえてくださるお方です。神様は見返りを求めずに、私たちを愛して下さっています。それが神様の愛、無償の愛です。だから私たちも見返りを求めずに、愛し合って生きなさいというのが、この教えです。私にもそういう愛が欲しいです。無私の愛。愛が帰ってこなくてもそれでも愛す神様の愛が欲しいです。
後ほど敬老祝福祈祷をします。今日までのお返しできない大きな恵み、祝福に感謝して、感謝の祈りをささげます。そしてこれからもその恵みと祝福があるように祈ります。そして神様は、13節、体が不自由になっても、私たちが歩けなくなっても、目が見えなくなっても、私たちを招き続けて下さいます。神様がこの礼拝に招き続けて下さるのです。
礼拝は神様の恵みの大きさを知り、感謝をするときです。私ではなく、神様に栄光がある。その謙虚さを証しし続ける時です。続けられる限り、礼拝に集いましょう。それが私たちにできる神様への本当に小さな、お返しです。一緒に神様の前で自分の小ささを知り、へりくだり、謙虚になって、神様に感謝する、その礼拝の時をこれからもいただきましょう。そして集まった人々の愛と優しさを知り、互いに愛し合い感謝し合ってゆきましょう。

2019年

9月

08日

「自分の事として聞く」ルカによる福音書14章1節―6節

多くの親はどんなに他の子どもがかわいくても、自分の子どもは特別にかわいいという気持ちをもちます。「やっぱりうちの子が一番大切」と思うのです。もちろん、それは他の子どもがどうでもいいということでは、ありません。私自身、子どもが生まれて敏感になったこともあります。それは他の子どもが事件や事故に巻き込まれるニュースをつらくて見ていられなくなってしまいました。もしこれが自分の子どもが巻き込まれたらと思うと、つらくて最後までニュースを見ることができません。
もしある出来事が、自分の子どもに起きた事だったらどうするか?あるは自分の家族のこと、自分のことだったらどうするか?それはイエス様が私たちに投げかけた問いです。イエス様は5節でこのように言います「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」
イエス様が言うのは、自分の子どもの事として考えてごらん、自分の家族のこととして考えてごらん、自分のこととして考えてごらん、イエス様はそう言うのです。あの人の事を自分の事のように感じてごらん。それが今日私たちに教えようとしていることです。
しかしこの食事にいた人たちは、6節「これに対して答えることができなかった」とあります。「助けます」という答え以外は無いはずです。なぜそれが答えられないのでしょうか。もしかして、彼らは癒すということ、自分の事として考えたことがなかったのではないでしょうか?自分とは関係ない遠くで起きている事として、他人に起きた事とみていたのかもしれません。
この食事にいた人たちは実は律法解釈の議論はするけれども、目の前にいる病を患っている人には、まるで他人です。障がいについて治すか、治さないかの議論ばかりで、それに関わろうとしません。自分の事として考えないのです。口ばかりの議論で、他人事で、行動は伴いません。そして当事者の前では無言です。イエス様はその彼らに自分のこととして考えてごらんと言います。自分の事として向き合ってごらんと言っています。
きっとイエス様は自分の事としてとらえる、そのことを「愛」といったのではないでしょうか。私たちの社会もそうありたいのです。私たちの教会もそうありたいのです。事柄を他者のこととしてではなく、自分事として考える、そんな共同体でありたいのです。相手が、どんな状況か、どんな気持ちか、想像する、家族のような思いを持って、愛を持って考え合ってゆくそんな群れでありたいのです。
もちろんみ言葉も同じです。今日このみ言葉は、教会の中の誰かについて語られている事ではなく、あなた自身、自分自身に語られていると受け取る、そんな共同体でありたいのです。み言葉の前にあの人はどう立つかではなく、私がどう立つかを考えてみ言葉を聞きたいのです。

2019年

9月

01日

「子供のように待つ」ルカによる福音書12章35節-48節

聖書は私たちに、神様を「帯を締めて待つ」「ランプを付けて待つ」「目を覚まして待つ」、このように待つようにと教えています。もちろんこれはたとえです。私たちの待つ姿勢について語っています。慌ただしい現実の私たちに、神が現れると期待する、それを待つ姿勢を教えているのです。
神様を待ち望むこと、それは子どもが母親を待つ、留守番をするときの様子に似ているのではないかと思います。子どもは留守番の最中、時計を何度も確認するように親の帰りをずっと待ちます。そして帰ってくると玄関に向かって走って迎えに行くのです。
大人になると気づくのですが、子どもが留守番をした時に一番うれしいこと、それは子どもが言いつけを全部守ることではありません。それよりももっと嬉しいことは、親である自分のことを待っていてくれた、駆け寄って来てくれたということではないでしょうか。「お帰り、すごく待っていたよ」ということが、親にとって一番うれしい事、神様にとって一番うれしい事です。
私たちが神様を待つ時に大切なこと、それは帯を締める事やランプをともすことではありません。神様を待つとは、何か物事の準備をすることだけではありません。神様がもっとも喜ばれるのは、待つ心です。神様を早く自分のもとに迎えたいという、待ち望む心がもっとも喜ばれるのです。
私たちの教会として、待ち望むとはどんなことでしょうか。教会という共同体が神様を待ち望む、心に迎えることを待ち望むということはどんなことでしょうか。教会にはいろいろなプログラムや奉仕があり、その準備を大切にします。奉仕が「帯」を締めるように、しっかりと準備されている事は大事なことです。でも物事の準備よりももっと大切なことがあるのです。それは神様を待つ、心に招く姿勢だと思うのです。私たちは準備や奉仕、結果やプロセスも大事にしますが、神様を心に迎える時を待つ、何よりもそのことを大切にしたいのです。
聖書は待つ姿勢において、悪い例も挙げています。それは主人の帰りが遅い、つまり神はもういないと思って、人を殴って、自分だけが食べる姿です。神がいない世界は、愛のない世界です。そこには、お互いを認め合うということはありません。奪い合い、傷つけ合いながら、互いを否定し合って、自分だけが生き残る世界です。それが聖書に挙げられる最も悲しい世界です。
しかし私たちは違います。私たちはこの後、主の晩餐をもちます。私たちはパンを皆で分かちあう、共に食べる礼典を行います。私たちは共に同じ主を待ち望む者として、このパンと杯をいただきます。私たちはお互いを否定し合うのではなく、一致して、愛し合い、このパンを食べるのです。私たちは互いに愛し合いながら、主を待ち、この主の晩餐を持ちます。
私たちが完全に一つにされる時、キリストの約束の時を、親を待つ子どものように、待ち望みたいのです。

2019年

8月

25日

「お祈りしています」

日付 聖書個所 宣教題
4月7日 ルカ22:14-30 今日から始まる
4月14日 ルカ22:39-53 私たちのリーダーはイエス
4月21日 ルカ24:1-12 思い出してごらん
4月28日 ルカ24:13-35 旅は道連れ
5月5日 ルカ24:36-43 きのう何食べた?
5月12日 ルカ8:1-3 みんなちがって みんなでひとつ
5月19日 ルカ8:26-39 癒しと自由の神
5月26日 ルカ7:1-10 神の言葉は必ず実現する
6月2日 使徒1:1-11 教会は一緒に祈る
6月9日 使徒2:1-11 教会は対話する
6月16日 使徒2:14-36 教会は挑戦する
6月23日 使徒2:37-47 教会はパンを裂く
6月30日 使徒4:5-20 教会は権力に抵抗する
7月7日 イザヤ60:14-22 シャロームは丸
7月14日 エレミヤ33:6-18 空襲とキリスト教
7月21日 イザヤ32:15-20 正義はまっすぐ
7月28日 出エジプト22:20-26 外国人がシャロームに
8月4日 ローマ12:9-21 私たちの勝利
8月11日 コロサイ3:11-15 愛の絆による平和
8月18日 エフェソ2:14-16 和解の希望


今日は夏期休暇をいただきます。他の教会の礼拝に出席をしますが、平塚教会の礼拝・宣教を覚えてお祈りをしています。休みの期間、今までの20回の宣教を振り返っています。聖書個所・宣教題は以上の通りです。皆さんの中に印象に残っているものがあるでしょうか?
牧師は毎週の宣教の働きを、教会から委託されています。今日はお休みをいただきその委託を解かれていますが、特に今日の宣教のために祈っています。そして宣教のために祈るということについても改めて考えています。
宣教は個人の働きではなく教会の働きです。私たちはそれを誰かに「任せきり」にしません。そして宣教者もそれを個人のものとしません。教会は「委託」しつつ、宣教の働きのために「祈る」ことを大切にします。宣教者も共同体の一人として「共に」み言葉に「聞く」ことを大切にします。今日も平塚教会の宣教が「祈り」の中に持たれますように。宣教者を含めた全員でみ言葉を「聞く」礼拝が持てますように、お祈りしています。(平野健治)

2019年

8月

18日

「和解の希望」エフェソの信徒への手紙2章14節ー16節

東アフリカのルワンダに生きる二人の女性は「大虐殺の被害者」と「加害者の妻」という関係でした。しかし教会で行われた和解のプログラムでの出会いをきっかけに、和解が始まります。その女性達は、被害者が夫を殺されたことの悲しみを分かち合いました。そしてその後、被害者の女性が加害者である夫が刑務所に入っていることの寂しさ悲しみを分かち合いました。女性達は、立場は違っても同じように生活が困窮し、悲しみの中にありました。
和解のプログラムの中で徐々に二人の間には共感が生まれてきました。最初は目も合わせない人々が、教会での出会い、十字架の前での出会いによって、お互いがお互いの痛み、傷を見ました。そしてお互いの人間性に気づき始めたのです。本当に少しづつゆっくりと和解が始まりました。
佐々木和之さんを支援する会の会報「ウブムエ(日本語で一致という意味)」によれば、先日ある被害者の女性が、加害者の妻である女性達と、仲間になった、その連帯の印として、一緒に加害者のいる刑務所を訪問するということが行われたそうです。それは被害者の方から加害者に会いに行くという出来事でした。被害者にとって大きな心理的な壁、障壁でした。しかしその刑務所の壁を越えていくことで被害者の女性は、連帯と友情と和解を示したのです。彼女たちはまた一歩和解へ、シャロームへと近づいています。彼女たちは別の刑務所の訪問も計画しています。25年前殺す者、殺される者、敵同士であった人々が、今は友となり、共に支え合って生きているのはまさに奇跡としかいいようがありません。
聖書によればみ言葉は二人を一つにするとあります。イエス・キリストは、双方を、被害者と加害者の双方をご自分において、ひとつにするお方です。分断を壊し、憎しみの壁を壊し、一つにするのです。そして新しい人に、新しい関係にもう一度作り直すのです。このようにして、私たちはイエス・キリストによって平和を、和解を実現するのです。敵同士であった彼女たちは、今お互いが今日の食事をとることが出来ているか、お金は足りているか、互いを気遣い合い、心配し合い、分かち合う関係になっています。
私たち一人ひとりにも和解が難しいと思う相手はいるでしょうか。うまくやっていくのが難しいと思う人がいるでしょうか。そんな時私達はもう一度、十字架の前に進みたいのです。それは、イエス・キリストの痛みを知る、相手の痛みを知るために進むのです。そこで憎しみの相手の人間性に気付くのです。十字架の前で必ず、お互いの痛みと人間性に気づかされるはずです。十字架の前ならば、その人と必ずひとつになることができるのです。
十字架による和解、それは壁を乗り越えて、痛みを十字架の前に持ち寄ることから始まります。互いの痛みを知ることで、相手の人間性に気付き、憎しみを持っていた人が互いにひとつになってゆく、それが神の和解です。
14節をもう一度読みましょう「実にキリストは私たちの平和であります」

平塚バプテスト教会

平塚バプテスト教会

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6月30日(日)平塚バプテスト教会牧師就任式が行われました