礼拝メッセージ2018年度

2019年

1月

13日

「無条件の赦し」マタイによる福音書6章12節

 朝、目覚めて憂鬱になることがある。職場や家族、学校、友人などの人間関係による嫌な思いや心の痛み、悲しみ、悔しさによって暗く、憂鬱な気分になってしまうことはよくある。「赦すことのできない」苦々しい感情を引きずったまま、一日を始めないといけないことが私たちには時としてある。誰かのことを赦すことのできない人間関係は、私たちの生活を非常に窮屈な苦しいものとしていく。

 幼いころから親に傷つけられて、親のことをずっと赦せない人がいる。その赦せない思いが、やがて自分が親になったときに、自分の親にされたと同じように、自分の子どもにしてしまうということも起こり得る。赦すことのできない思いは、赦せない罪の連鎖を生み出す。

 しかし、今日の主の祈りの言葉は語る。「私たちも私たちに罪を犯してきた人を赦しますから、私たちの罪をお赦しください」。これはどういう意味だろうか?何かの取引のように見えるが、そうではない。私たちが、主の祈りに従って、私たちに罪を犯した誰かのことを赦そうとした時、そう簡単に赦せない自分に必ず出会う。そして赦せない自分の弱さにぶつかって、赦せない自分の罪に出会うのである。だから、まず何より、自分の罪の赦しを神さまに求める以外に、解決の道がないことを知らされるのである。

 主の祈りを教えてくださった主イエスは、私たちが赦せない人間関係に苦しみ、赦せない自分の罪に苦しみ続けることがないように、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください」と祈られ、私たちの罪を赦してくださったのである。だから、私たちは、まず「赦せない」自分の罪を正直に認めたいと思う。そして赦せない自分を、神の前に差し出していく。このことから、この主の祈りは始まっていくのである。

 よく言われることだが、「本当に赦されたという経験がないと、赦すことはできないものだ」ということ。それと同じことは、「本当に愛された経験がない人は愛することができない、また愛することがどういうことかわからない」ということである。人間は自分が経験したこと、いわゆる身に着けたこと、学習したことしかできないということでもある。

 赦すということはなかなかできないことであり、限界がある。私たちは「もういいよ、赦したよ」と言いながら、本当のところは、その人を赦していないことがある。そして、そのことを誰よりも知っている。私たちが誰かを赦そうとしたとき、赦せない自分に出会う。その時、真の赦しは、神の赦し以外にないことを知るのである。十字架の赦しを受け取らない限り、この赦しの中に生きない限り、私たちは本当の意味で赦しを知ることができない。人を赦すことができずにもがき続けている私たちの限界の前に、神からの本当の赦しをもって、あなたを赦そうとする神の愛が、私たちの目の前に差し出されているのである。

 主イエスの赦しは、十字架の上でなされた。主イエスは自分を殺そうとする者たちを前にして、祈られた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。この赦しを前にしたときに、今までの自分の赦しがどれほど小さく、本当の赦しにはほど遠いかを知る。そして、いまだに赦せない自分自身の罪深さをも知らされることになる。

 この無条件の赦しが、私たちのために先立って祈られている。自分で自分をどうすることもできない私たちのために、今も祈られている主イエスの祈り。この主イエスの祈りを聞きながら、私たちは赦された安心、平安の中を過ごすことができるのである。

 さらに、ここで祈られているのは「彼ら」と複数形。主イエスを十字架につけるような「彼ら」という、私たちの赦せない人間関係のために祈ってくださっている。この祈りがあるからこそ、私たちは祈ることができるのである。「私たちは赦します」「私たちを赦してください」と。主イエスの無条件の赦しの中に生きることが許されていることを覚え、感謝してこれからも歩んでいこう。

2019年

1月

06日

「宣教という愚かな手段」コリントの信徒への手紙一1章18-25節

十字架の言葉の愚かさ、それは下降するということである。神が下降するということは人間には不可解な、理解できないことである。神が罪人の下にまで下降するのであるから。
 
 福音書の中に、100匹の羊の中の失われた1匹を捜し求める羊飼いの話がある。いなくなった羊を捜すために、羊飼いは羊が迷って行った同じ道を辿らなくてはならない。道なき道であり、雑草やいばらの生い茂っている道である。迷った羊が傷ついたように、捜し求める羊飼いも傷つく。この場面を描いた有名な聖画がある。足を滑らせて谷を滑り落ち、灌木に引っかかっている羊。羊飼いは谷に身を傾けてその羊に手を伸ばしている。自ら危険に身をさらして危険に瀕している羊を見出すのである。傷ついた十字架の主イエスを暗示している場面である。キリストの十字架の右と左に処刑されようとしている強盗。彼らは罪の当然の報いを受けている人間。それ以外の結末はあり得ない人間。その人間の場所に、キリストは降りられるのである。

 十字架の言葉の愚かさ、それは降りていく愚かさである。自ら、あえて選んで降りていく愚かさである。それは人の知恵では理解できない。しかも、神がそういう道を選ばれるということを人は納得できない。なぜなら、人の知恵は必ず上に向かうものだからである。人の賢さは高みに向かうことしか知らないからである。高みに向かい、人を見下ろせる地点に立つことしか求めないからである。その意味で、十字架の言葉はまことに愚かである。

 しかし、「わたしたち救われる者には神の力です」と言われている。私たちはあの放蕩息子のように罪によって深く転落した。神はその私たちを追い求められる。ただ追い求めるのではない。聖なる神が罪の汚辱のただ中に身を投じられるのである。そのために神の全能の力は振り絞られなければならなかった。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。ここには振り切る神、振り捨てる神が示されている。独り子を振り捨てるために神の力は振るわれた。罪人を何としてでもご自身の下に引き寄せるために、御子を振り捨てるのである。十字架によって救われる私たちにとって、それは神の力そのものである。神の激しい力、罪人を追い求めるために振るわれる力である。この神の渾身のメッセージを伝えるために、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言うのである。十字架の言葉も愚かだが、それを伝えるためにも愚かな手段を選ばれた。世に救いをもたらす業をご自身の圧倒的な威力で進めようとはされなかった。人間を用いて進めようとされる。

 五千人の給食の話が福音書にある。夕暮れ時、大勢の飢え渇く群衆が追ってきたとき、弟子たちはうろたえた。群衆の激しい飢え渇きを受け止めきれないと思ったのである。群衆を解散させてくださいと主イエスに求めた。しかし、主は言われた。「あなたがたの手で食べ物をやりなさい」。弟子たちが持てる物は「五つのパンと二匹の魚」。

 主イエスはその弟子たちの持てる物を用いて、ご自身の御業を進めることを望まれた。救い主は、この弱い、限界のある、肉の罪ある人間を用いて、神の国の業を進めることを望まれた。それは、弱い、もろい、限界のある罪の人間に近づくイエス・キリストの謙遜の方法である。弱い者に弱い者を通して語りかけるのである。罪赦された人間が罪人の隣に身を置いて語りかける、それが神が選ばれた宣教の仕方である。「宣教という愚かな手段」である。「あなたがたの手で食物をやりなさい」。あなたがたにその実力があるからという意味ではない。あなたがたを私が用いるから、という意味である。あなたがたを用いて、私が神の国の働きを進めるという意味である。神の国の働きは他の仕方では行われない。この働きは神とともにあってなされる。この働きは神の御計画であり、主が進められる。今年も神とともに、主を信頼して宣教の働きに励もう。

2019年

1月

01日

元旦礼拝  「新しい歌を主に向かって歌え」詩篇98編1-9節

人間の時(ギリシア語でクロノス)は2種類あるという。一つは直線的な時。過去、現在、未来という流れの中の時間。もう一つは循環する時。朝、昼、夜と巡り、また新しい朝が来る。今日はそういった意味で巡る暦の上で新しい年の始まり。新しい時を迎えたとき、今年こそはと心に思い定めるよい機会である。

 しかし、私たちはもう一つの時を生きている。それは神の時(ギリシア語でカイロス)。神の時とは、永遠、決定的なかけがえにないその時、という概念を含んでいる。聖書でいう「永遠の命」、あるいはキリストが十字架にかけられた時は決定的なその時である。一回だけのその時。その両方とも神の時、神の御計画の中にある時。時間、歴史をも支配しておられる神の時。私たちもその神の時に生かされている。

 今日の説教題の「新しい歌を主に向かって歌え」という「新しい」は神の時による新しい時の新しい歌のことである。聖書によれば、キリスト者はキリストによって新しく造り変えられた者である。パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第二コリント5:17)と書いている。人間の文化は成長や進歩向上を遂げつつ新しさを形成するが、信仰の新しさは神の恵みによる新しさである。恵みによる新しさは、予想することもなく、計画によってでもなく、瞬時に与えられたというべき変革である。神の介入による新しい時。

 キリスト者はこの神の恵みによる変革によって、わが身をすっかり新しくされていることを驚きと感謝のうちに受け取るのである。この詩篇の作者は、「今」というこの時に神の恵みによって変革した自分自身を発見して、「新しい歌を主に向かって歌え」と言っている。

 ルカ福音書1章のマリヤの賛歌と、この詩篇とが共通しているところから、これは旧約のマリヤの賛歌と呼ばれている。「主は驚くべき御業を成し遂げられた」とあるのは、イスラエルの人々のバビロン捕囚生活からの解放のことである。それは政治的にはペルシャのキュロス王の台頭によってもたらされたものであったが、イスラエルの人々は歴史を支配しておられる神の業と見たのである。遠い異国バビロンでの捕囚生活は、彼らにとって非常な苦しみであったが、それにも増して彼らを苦しめたのは、ひたすら寄り頼んできた神への信頼のゆらぎであった。本当に神は私たちのことを覚えていられるのだろうか、本当に神はあるのだろうか、本当に神は契約(約束)されたのだろうか、そういう思いが次々と起こってきて彼らを悩ました。それだけに神は覚えていてくださった、3節にあるように「慈しみとまことを御心に留められた」という喜びは限りなく大きかったに違いない。そこから、この「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた」という喜びにあふれた賛歌が生まれてきたのである。

 マリヤの賛歌で、マリヤがあのように高らかに神をほめたたえたのはなぜか。それはこの卑しい女をさえも心にかけてくださったということを知ったからであり、その神の愛に気づいたとき、彼女はもう自分の全存在をかけて神をほめたたえずにはおれなかったのだ。この、そうせずにはおられない福音信仰が、恩寵宗教いわゆるキリスト教の根幹なのである。

 神の救いのみ業は神の勝利(口語訳)である。全地が歌うべき、すべての人に関わる勝利である。礼拝は、どんなに小さいものであっても、この勝利(神の救いのみ業)を歌い、いつも新しい歌によって作られていくのである。神の救いのみ業は日々なされているのである。神の時から考えれば、私たちは日々新しくされて、生かされているのである。神の恵みは日々私たちに与えられているのである。だから、日々新しい歌をもって神をほめたたえよう。この新しい一年も一日一日、「驚くべき御業」「くすしきみわざ」を覚え、感謝を持って歩んでいこう。

2018年

12月

30日

歳晩礼拝  「無駄な祈り、労苦はない」 ヨハネによる福音書21章1-14節

 キリスト者にはたくさんの祈りや労苦がある。そして、この祈りや労苦が、応えていただけていないような気がするのである。ほんの少しは応えていただいたかもしれないが、あんなに祈ったのに、あんなに苦労したのに、その結果をまだ見せていただいていないのではないかと思うのである。しかし、すべての労苦は受け止められているのだ。すべての祈りは聞いていただいているのだ。目には見えないが、復活のキリストがいつも共におられるのだから、無駄な働き、無駄になった祈りはないのである。すべては収穫につながっている。やがてキリストのおられる岸辺で、そのすべてを引き上げる時がやってくる。この「時」というのは、「神の時」(ギリシア語でカイロス。私たちの時はクロノス)で、それは永遠で、決定的な時を指す。私たち人間にはわからない。

 11節にこう書いてある。「シモン・ペテロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」。自分たちの労苦がどれほど報われているか、それを見せていただく時が来る。自分たちの祈りがどれほど聞かれていたかを見せていただく時があるのだ。その時に私たちは、あの働きの一つひとつに意味があった、あの祈りの一つひとつが受け止められていたんだということを、あのキリストがおられる岸辺で見せていただく。その日があるから、その日に向けて、わたしたちは今を生きているのだ。私たちの労苦や祈りというものは、どこかに、空中に消えていくようなものではなくて、復活のキリストがそれをすべて受け止めてくださっているのである。そしてその収穫は、必ずイエス・キリストが私たちに見せてくださる時がある。私たちはその時に、自分が祈ったこと、自分が苦労したことへの収穫を見るのだ。それが神の約束である。

 7節にこう書いてある。「イエスの愛しておられたあの弟子がペテロに『主だ』と言った。シモン・ペテロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。なぜ飛び込んだのだろうか。キリストの前で逃げも隠れもできない、弁解も言い訳もできない、裸同然の自分がそこに照らし出された、ということだ。私たち人間同士の場合、いくらでも弁解できる。「泥棒も三分の理」という。お互い生身の人間、脛に傷を持った人間。不完全で弱さも隠し持っている。しかし、キリストの前では、弁解はできない。この私のために十字架に死んでくださった救い主、この罪人に命を与えるためによみがえってくださったキリスト。この方の前に出たら恥ずかしいことがいっぱいある。申し訳ないことがいっぱいある。合わせる顔がない自分が見える。

 だからペテロは裸同然の自分を恥じて、上着を着て、湖に飛び込んだ。そういうペテロを、キリストは岸辺で待っておられた。そういうペテロを、キリストはご自身の御業のために用いてくださるのである。考えてみれば、わたしたちも裸同然である。ほかの人にはどんな言い訳ができたとしても、私のために生き、苦しみ、死によみがえってくださった、この救い主キリストの前に立ったら、私たちには何の言い訳もできない。恥多き自分が見える。しかし、その私たちをキリストは御用のために用いてくださるのである。だから、この罪人である私たちの労苦が無駄になることはない。私たちの祈りが無駄になることはない。必ず主はそれに伴って、働いて収穫につなげていてくださる。主がいつも共にいてくださり、主が働いてくださっているからである。

 コリントの信徒への手紙一の15章58節に、「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです」とある。主に結ばれているならば、自分たちの労苦は無駄にはならない。私たちは復活の主に結ばれているのである。私たちはあの復活の朝の世界に生かされているのだ。無駄な労苦はない。無駄な祈りはない。この人生のすべてが、必ず収穫につながる。そういう朝に、私たちは今生かされている。そういう約束に満ちた命を、私たちはみんな、今ここで生きて、いや生かされているのだ。主に感謝して、主の御用のために励もう。

2018年

12月

23日

「恐れからの解放」 ルカによる福音書1章39-56節

受胎告知を受けたマリアは妊娠初期と思われる体の危険をかえりみず、大急ぎで山里のエリサベトのもとへ行く(39節)。マリアをそのような行動に駆り立てたものは何か。一つは愛。マリアは落ち着いていない。急いでいる。36節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と知らされる。マリアは放っておけなかった。長い間「不妊の女」とさげすまれてきたエリサベトにお祝いの言葉を伝えたかった。愛は落ち着くことをゆるさない。
 
 もう一つの理由は不安。私たちは不安の中に落ち着いてじっとしていられない。38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったが、そこに不安な気持ちがあっただろうと思う。喜びがなかったとは言えないが、マリアの口から讃美の言葉が出てくるのは46節からである。マリアのエリサベトに対する挨拶には、自分の不安を正直に打ち明ける言葉が含まれていたと思う。その不安に対してエリサベトの語ったことは、マリアが体験するのは主の祝福の出来事なのだということ。不安でなかなか一歩を踏み出せない時に、一つの言葉にポンと肩を押されて、前に出られることがある。マリアの口から讃美の言葉があふれ出てくる。

 讃美は主の恵みへの応答であり、祈りであり、信仰告白である。マリアの讃美で主の恵みである「偉大なこと」(49節)は複数形になっている。私たちは主の恵みをいくつ知っているだろうか。恵みはすぐに恵みとわからず、マリアのように戸惑い、不安になるものかもしれない。しかし、主の恵みと分かったなら、心からの讃美をしたいものだ。主の恵みは、すでに起こったものもあり、これから起こるものもある。私たちはこれからの事についても確信して、讃美をもって応答できるのである。

 「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:47-48)。「目を留め」、文語訳では「そのはしための卑しきをも顧みたまえばなり」である。神がこちらを向き、目を留めてくださるなどとは思ってもみなかったのに、こちらへ振り返ってくださった。思いがけない喜びがある。しかも、この後マリアが歌う歌は、堂々たるものである。ルターは、「身分の低い」という言葉を「無きにひとしい」とさえ訳している。顧みに値するものは何もなかったのである。そのような者が神のまなざしの中に立ったとき、揺るぐことなく、畏れることなく、讃美に生きたのである。

 マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも」と言います。そのマリアに神は「目を留めてくださった」のだった。さりげない告白のようであるが、ここには思いがけない恵みを発見した者の正直な告白がある。恵みは数えるものだといわれるが、過去を振り返ってみなければ分からない。私たちには、恵みを受ける資格も条件もあらかじめ持ち合わせていない。私たちの人生に神が働いてくださった事実があるのみである。私に働いてくださった神は、私が理解や納得するように働いてくださるとは限らない。よくよく人生を振り返ってみると、その歩みのところどころ、方々に思いを越えた神の働きを見るのである。それこそ恵みの事実がそこにあるとしか言えない。マリアは、わが身に起こった神の働きの事実をそのまま、人々に伝えたのだった。彼女がいかに神を信じたかではなく、起こった事実を語っているのである。それこそ生の信仰告白ということができるだろう。

 クリスマスは、神の愛の出来事を共に感謝し、喜び、讃美すること。この一年の間、わが身に起こった数々の神の愛の出来事、恵みを数えつつ、感謝と喜びと讃美を持ってクリスマスを迎えよう。

平塚バプテスト教会

平塚バプテスト教会

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