礼拝メッセージ2019年度

2019年

5月

19日

「癒しと自由の神」ルカによる福音書8章26節ー39節

今日の聖書の個所では、悪霊に取りつかれていたという人が登場します。おそらく当時の人々は、心の病と悪霊とを分けませんでした。彼はおそらく心の病を持っていました。彼は鎖と足枷で拘束されました。彼は心の病気を抱えながらも、身体の自由が奪われるという二重の苦痛を受けなければなりませんでした。彼は監視もされました。誰かが助けてくれる、話を聞いてくれるという信頼。監視されるとはその信頼を奪ったのです。彼は人間らしく生きる条件、信頼・自由・希望・家族・名誉、すべてを奪われていたのです。
当時、ゲラサ地方はローマ帝国が支配していました。その支配とは、圧倒的な軍事力による支配でした。そのひとつの部隊、6000人の部隊の単位がレギオンと呼ばれていました。つまりローマの戦争と支配、軍事力の象徴が「レギオン(軍団)」だったのです。彼に取りついた悪霊は、自分の名前を戦争と支配と軍事力の象徴である「レギオン」と名のります。彼の心の病、それは「戦争」と「支配」と「暴力」に由来するものであったのでしょう。社会が戦争と支配と暴力にあふれ、彼の心は病んでいったのです。
ですから悪霊とは乗り移って病気を起こさせる者というだけではありません。戦争と支配と暴力の社会、抑圧の社会の中で生きなければならなかったこと、その圧迫こそが悪霊であったのです。それは社会全員がその圧迫を受けて、彼と同じ病気になる可能性があったということを示します。
イエス様はどのように、彼に関わったのでしょうか。人々は彼との接触を拒みました。かまわない、無視する、縛り付けるという態度でした。しかしイエス様はその彼と関わろうとするのです。舟にのって、み言葉を届けるために、嵐を超えてやってくるのです。そして逃げずに、名前を聞きます。孤独で取り残された彼との関係を作ります。そして、今何に苦しんでいるのか、何におびえ、何に支配されているのかを聞くのです。
イエス様は悪霊、支配しているものを追い出すお方です。癒して下さお方です。あなたを支配している力、あなたの本来の力を奪うものを追い出すのです。あなたを癒し、解放させ、自由にさせるのです。人々は縛り付け、足枷をはめます、しかしイエス様は解き放ち、自由になさるのです。
イエス様は今日、私たちにも、み言葉を届けてくださいます。解放の言葉を届けてくださいます。私たちも癒され、自由にされるのでしょうか。教会はあなたを癒し、自由にする力を神様から与えられています。みなさんは必ず神様に癒されます。イエス様があなたに出会い、そしてあなたは本来の姿に変えられてゆくのです。そして教会は人生の重荷を担っている方から逃げません。むしろその方に会いに行くのです。嵐のような日々の中でも、出会いに向かうのです。そして教会は誰も縛り付けません、誰にも足枷をはめません。教会はそれを取り払い、イエス様に出会って癒しと自由と解放をいただくのです。希望をいただくのです。教会はレギオンに負けないのです。

2019年

5月

12日

「みんなちがって みんなでひとつ」ルカによる福音書8章1節―3節

教会は同じ人が集まるのではなく、違う人があつまる場所です。同じになるのではなく、一色になるのではなく、一人ひとり、色とりどり、カラフルな集まりです。それが教会です。でもバラバラではない、カラフルな点が「ひとつ」の絵となるように、同じ神様を私たちは「ひとつ」になって礼拝をささげる、それが私たちの集いです。他の人と同じになる必要はありません。隣に座っている人と違っていいのです。違うのはお互い様なのです。あなたらしさを捨てる必要はないのです。押し付けられなくて良いのです、そして誰かに押し付けないで下さい。私たちは一人ひとり違うのです。
では私たちは何が同じなのでしょうか?それは今日ここにいるということです。それは、神様が集めて下さったということです。私たちお互いが、神様に呼び集められてここに集ったということです。神様がこの教会に違う一人ひとりを呼び集められたのです。だからこそ、あなたは違っていいし、あなたの隣の人も違っていいのです。神様は私と違う人を教会に集め、出会わせ、ひとつの共同体にしてくださるのです。
今日の聖書の三人の女性も大きな違いを持っています。一人目は七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアです。かつて彼女は人々から避けられる存在でした。癒されて共同体に入っても、かつて自分を気味悪がった人々がいたでしょう。でも彼女は一緒に従っていたのです。周囲も彼女の負っている過去を知っていました。でも彼女を受け入れていました。
二人目はヘロデの家令クザの妻ヨハナです。彼女は夫の上司のヘロデが快く思っていない人物、危険人物イエスに従った女性です。おそらく高い地位の夫からは猛反対されたでしょう。しかし反対を押し切って従います。
そして三人目は全く謎な女性です。名前しかわかりません。
この三人には、全く人生に共通点が無いように思います。一方は貧しくて病気で、人々から避けられ、癒しを体験しイエス様に従っている女性。もう一方はお金持ちで、おそらく何不自由のない生活を送っていたセレブ、でも家族に反対されても従っている女性です。そしてもう一人は謎の女性です。
出会うはずのない三人。出会ったとしても意見が一致するはずのない三人。経験、生い立ち、立場、考え方、表現方法も違ったでしょう。しかし、それでも聖書には三人の名前が並んで出てきます。神様はこれだけ違う三人を呼び集め、ひとつの共同体にしたのです。
イエス様は神の国を宣べ伝えたとあります。神の国、それはイエス様に従う共同体の中で、少しずつ実現されてゆきました。その共同体は違いを認め合って、もっと自分が自分らしくあれる共同体でした。神様は教会にいろいろな人をあつめます。それは違った人の集まりです。でもイエス様を囲む共同体はそんな違いを超えて「みんなでひとつ」であったのです。私たちもみんなでひとつ、その共同体になりたいのです。

2019年

5月

05日

「きのう何食べた?」ルカによる福音書24章36節ー43節

復活したイエス様が「魚をひと切れ食べた」ことはそんなに重要なことでしょうか? 2000年も語り伝える必要があることだったのでしょうか。
今日の個所で聖書は復活とはどのような事であるかを伝えようとしています。復活とは亡霊ではありません。イエス様は死んだまま私たちに語りかけているではありません。私たちは亡くなった先祖からの声を聞いたと思うことがあります。でもそれは復活とは違います。魚を食べる実体として、私たちの只中に存在をするのがイエス様の復活です。
そしてイエス様の復活は霊魂不滅ということとも違います。死んでしまった大切な人たちは、私たちの心の中で思い出として今でもずっと生きています。私たちは時々それを思い出して、本当に生きているように感じ、心が温かくなります。でもイエス様の復活はそれとは違います。イエス様の復活はもっと現実的です。心の内側の問題ではなく、私たちの目の前に現れ、魚を食べるという復活なのです。復活とはイエス様の心臓がもう一度動き出し、呼吸が始まる、蘇生とも違います。それは明らかでしょう。復活は十字架が無かったことになったのではありません。またまったく別の存在として、この地上に現われたのでもありません。イエス様は「まさしく私だ」とおっしゃいます。イエス様の復活は私たちが普段想像するような死者との関係ではないあり方で、私たちのもとに復活し、現れて下さるのです。それは間違いなく、復活したイエス様なのです。
どうやって弟子たちは復活を知ることができたのでしょうか。それはイエス様が魚をひと切れ食べる姿を見ることによってでした。弟子たちはこの地上でイエス様と何度も食事をしました。五千人の給食や、罪びととの大宴会、そこで魚を食べる姿を見ていました。その記憶を、イエス様が魚を食べている姿を見て思い出したのです。今までと違う、でも確かに同じイエス様がいる。一緒に食べてイエス様は復活されたのだということに気付くのです。
弟子たちにとってイエス様との食事は愛の記憶でした。私たちは今日、月に一度の主の晩餐を持ちます。これから「ひときれのパン」をいただきます。イエス様の復活を希望だと信じ、復活をイエス様の愛だと受け入れた方、つまりクリスチャンとなられた方は、ともにこの主の晩餐のパンを食べ、杯をいただきましょう。イエス様の愛を思い起こしながら、このパンと杯をいただきましょう。
そして食べたことを忘れないようにしましょう。何を食べたか、誰と食べたか、どんな味がしたか、よく覚えていましょう。イエス様の愛を忘れないようにしましょう、イエス様がどんな人だったのか、よく覚えていましょう。
そしてまだその意味がよくわからないという方、どうぞ顔をあげて、食べる姿をよく見ていてください。そして私たちが食べる姿を通じて、イエス様が愛の食事をなさった姿を知って下さい。主があなたを招いておられます。

2019年

4月

28日

「旅は道連れ」ルカによる福音書24章13節ー35節

大型連休はどのようにお過ごしでしょうか。今日登場する二人はエマオからエルサレムへ、過越しの祭りに参加するために旅に出ていました。私達の人生はこのエマオの道とどこか似ています。その道をウキウキしながら歩むときもあれば、暗い顔でその道を歩くこともあります。人生には予想しない悲しみが起こることがあります。それは大事な方との別れだったり、自分の失敗だったり、突然見つかった自分や家族の病、降りかかってきたトラブルかもしれません。それはまるで日没に向けて歩む、暗闇に向けて歩むような気持ちにさせます。答えのない疑問や課題が私たちに降りかかってきます。どうして私にこんなことが、どうして喜びの時にこんなことが、なぜあの子に、なぜあんなすばらしい人にこんな不幸が起こるのだろうか?いくら議論しても答えのない疑問がこみあげてきます。「神様なんているのか」と問いたくなることが起こるのです。私も不安になる時があります。
しかし聖書は明確に「イエス様は一緒におられる」と語っています。今日の個所では「一緒に」という言葉が3回出てきます。そしてイエス様の方から近づいて来て、「一緒に」歩き始められたとあります。イエス様の方から、私たちが戸惑っている中に、私たちが気づかないうちに、「一緒に」おられるというのです。私たちは一緒にいてもそれに気づかない時があります。でもイエス様は気づかない私たちと同じ「旅人」として、同じ道を歩んでおられる、道連れになって下さっているのです。
そして私たちに教えてくれるのです。十字架の意味を教えたように、苦しみや悲しみの意味を、聖書を使って解き明かしてくれるのです。イエス様の復活は十字架を帳消しにしたのではありません。「十字架で死んでしまったけど生き返った」のではありません。イエス様は復活することによって十字架の意味を教えてくれるのです。神様の栄光は、このような苦難によって明らかにされるということを教えてくださっているのです。
私たちの悲しみもそうでしょう。祈ったら悲しみの原因が奇跡のようになかったことになる、そのようなことはあまりありません。祈ったら一瞬で解決したり、病気が治るということはほとんどないのです。でもその意味を私たちが問い、聖書から知るようになるということが起こります。旅していた二人と同じように、今は分からないでしょう。でも主は、必ず目を開き、その意味を見つける時が来ると約束をしてくださっています。だから希望をもって、イエス様にもう一度、心に火をつけてもらおう、そのように思うのです。今日の個所によれば、それが起こるのは、信仰についての議論によってだけではありません。イエス様を体験することによって起きるのです。私たちのこの礼拝がまさに体験です。この体験を大切にしましょう。集って確かめ合いましょう。そこにもイエス様は一緒におられ、私たちの目を開いて下さるのです。

2019年

4月

21日

イースーター礼拝「思い出してごらん」ルカによる福音書24章1節ー12節

神様は「思い出させてくれる」。それが、今日この物語から私たちに示されていることです。あなたにはイエス様の言葉を思い出すという約束があります。神様は一番悲しいその真っただ中で、私たちに「思い出してごらん」と語りかけらお方です。そしてイエス様は死で終わる方ではないのだと思い出させてくださいます。私たちの悲しみはそこで終わりではないのだということを思い出せてくださいます。必ずそれは希望に変えられてゆくのだ。今泣いている者は幸いだ、あなたは笑う様になるという約束を下さっているんです。私たちも今日、その約束を思い出すのです。

そして、私たちが毎週「日曜日の朝」に集まるその理由も、この約束にあるのだと思うのです。神様が私たちに思い出させてくださいます。でももっと神様の事を覚えていたい、一人ではなくてみんなとイエス様の言葉を思い出したい、そんな思いを持って、毎週この礼拝にあつまるのです。日曜日の朝に集まるのです。そしてみんなでイエス様の言葉を分かち合うんです。一人ひとりが神様からいただいた言葉を分かち合うのです。そうするともっと豊かに、神様が私たちにその約束を「思い出させてくれる」のです。

人生がうまくいっている人も、そうじゃない人も、笑っている人も、泣いている人も、みんなでイエス様の言葉をいただきましょう。そこで、神様が希望の約束を思い出せてくれるのです。そしてお互いに思い出せてもらったことを確認しあいましょう。そうするともっとイエス様が何と私たちに言っていたのかを思い出すのです。

毎月の主の晩餐もそうでしょう。それを繰り返すことによって神様が私たちに、イエス様と過ごしたあの時を思い出させてくれるんです、追体験させてくれるんです。だから私たちはここに集うのです。それが私たちの礼拝です。一緒に毎週、思い出しましょう、礼拝しましょう。

そしてまだ私はまだクリスチャンではありませんという方、信じることができませんという方、久しぶりに集った方、クリスチャンだけどちょっと信仰に自信ありませんという方(わたしもこれです)。ちょっと信じられないわ、そう思う皆さんにも安心して教会に来て欲しいです。今日は聖書に信じない人がたくさん出てきました。見た、信じた、みんな信じた、そんな単純な話ではないのです。信仰を持つとはそんな簡単ではありません。びっくりした、茫然とした、恐ろしくなった、だいたいみんなそんな反応なのです。この教会も同じです。ここで安心して疑ってください。安心して忘れて下さい。教会は信じている人だけ、覚えている人だけが集う場所ではありません。疑う人、信じきることができない人こそ集う場所です。忘れてしまう人が集う場所です。そして一緒にイエス様のみ言葉をいただきましょう。そしてまた一緒に思い出すようにしませんか。毎週一緒に思い出す、礼拝をしませんか。そんな生き方を一緒にしてみませんか?