礼拝メッセージ2018年度

2018年

9月

02日

「イエスは今も呼びかけておられる」 マルコによる福音書1章14ー20節

シモンとアンデレは漁師だった。ガリラヤ湖で魚をとって生計を立てていた。これを比喩として読むならば、ユダヤの民にとって、山は神の住む世界である。例えば、シナイ山でモーセは十戒を受け、タボル山でイエスは変容された。またイエスは山の上で教えを述べられた(山上の説教)。それに対して、海は世俗悪の世界を象徴している。例えば、レビヤタンという怪獣は海に住んでいる。それは基本的に、ユダヤ人が陸の民で、海の民ではなかったからだと言われている。この二人が漁師だったということは、世俗の世界に関わっていた人間のあり方を象徴している。つまり、私たちが毎日の生活で、お金儲けに忙しく働いたり、何かと心を煩わせている生活そのものを意味している。イエスが湖のほとりを歩いておられるとは、神自らが私たちの人間の世界に関わってくださることを意味している。だからこそ、神の国が私たちに近づいているのである。

 注意すべきは、人間が神の国の方に行くのではない。逆である。主イエスが人間の方に来てくださるのである。神の国の方が勝手に私たちの方に「近づいて」くるのである。極端に言えば、探し求める必要は何もない。ただ向こうから来ているものに気づくだけでよい。日本人の宗教観と大きく食い違う点がここかもしれない。日本人の宗教心の原点は求道心である。道を求める者がそれを見つけていくことを指す。発心して仏門に入るというのが普通である。座禅でもお稽古ごとでも、まず道を求めるものが門をたたいて、師匠に入門が許される。聖書の世界は逆である。まず、神が人間を求めている。神の国が向こうから近づいてくる。主イエスが私たちの方に歩いてくるのだ、生活のただ中に、そして突然に。ということは私たちの中に何の準備も用意もなく、ということだ。それは無条件で、神さまの方から来てくださることを意味する。

 主イエスは彼らに声をかけられる。主イエスがかけた言葉は「わたしについて来なさい」である。私も確かに同様の呼び声を聞いた。いつ、どこで、どのような状況の中で主の呼びかけを聞いたか、気づいたかは、人それぞれ違うだろう。多くの方からそのような体験の証しを聞くことがある。それはすべてユニークな体験である。祈りの最中、賛美しているとき、喜びの体験の中で、悲しくつらい最中に。実に様々な違う状況でその声を聞くのである。主イエスは今も呼びかけておられる。

 主イエスについていくとは、どういうことだろうか。人間をとる漁師になることだと主イエスは言われる。今までは魚という世俗のできことに関わる生活だった。そこから人間相手の仕事へ。愛に方向付けられた生き方へ。神の国の広がりを手伝う仕事へと向かっていくのだ。ただ世俗的な繁栄を求める生き方から、神の国の繁栄を求める生き方へ。方向転換。それには主イエスが人間に近づかれたように、私たちも人間に向かっていく生き方へとシフトしていくように呼ばれている。

 また彼らは、「網を捨てた」とある。網とは、それによって今まで生きてきた手段であり、方法。それなくしては生きることができなかったものである。時として、価値観であったり、考え方であったりするかもしれない。主に従うときには、もはや不要となるものである。これからは主御自身が彼らの「網」となってくださる。だから人間をとる漁師となるのである。それは主御自身の働きである。私たちはその主の働きに信頼して、従っていくだけである。

2018年

8月

26日

「愛することは降りてゆく行為」 マルコによる福音書1章1ー13節


 マルコは1章2節からいきなりイエスの公生涯を書き始めている。他の福音書にある誕生物語はない。2節から13節はイエスは救い主(キリスト)ということを確証する三つの出来事を記している。

 一つ目は2節から8節。「先駆者としてのバプテスマのヨハネの出現、登場」である。当時の人々は救い主が現れるときには、その備えをするためにかつての預言者エリアが再び現れると考えていた。そこで、そのエリアがあのバプテスマのヨハネだというわけである。ヨハネの服装は旧約聖書に出てくる(列王紀下1:8「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」)エリアの姿を当時のユダヤ人たちに思い起こさせるだろう。そして、その後すぐにイエスが登場する。だから、このイエスこそ「あの救い主」だということになる。

 二つ目は9節から11節。「バプテスマの時の神の声」。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とある。「天」とは神の住まわれる所、その天から父なる神がご自分と地上のイエスが一つであることを示されたわけである。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉は、イエスが誰であるか、どんな方であるかをよく表している。同時に、父なる神ご自身がイエスのバプテスマを喜んでおられる。さらに、そのことが神のご意志であることを宣言なさっておられるのである。天が開かれること、神の声、聖霊の降ることはイエスが終末の時の救いをもたらす者であることを示している。特に天からの声は「神の子」としてのイエスの身分を宣言する。イエスは終末の時の救いをもたらすキリスト(救い主)、神の子にほかならないと宣言している。

 三つ目は12~13節。「荒野でのサタンに対する勝利」。13節に「サタンから誘惑を受けられた」とある。そして、すぐその後に「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とある。この御言葉はサタンに勝利したことを示している。獣たちとの平和的な同居は、来るべき終末の時には野獣は人間に害を加えず、従うであろうということを意味する。さらに、当時のユダヤの人々は「荒野」は終末の救いが現れる場所とも考えていたので、今や、イエスの到来とともに、この終末の救いの時に対する待望が荒野において実現すると言いたいわけである。このようにここでもイエスが救い主として到来し、サタンに勝利する者として描かれている。

 以上三つの出来事をみてきたが、マルコはこの三つの出来事だけを書いて、イエスが神の子、キリスト(救い主)であるということをイエスの全生涯のプロローグとして、この箇所を書いたわけである。

 私たちは今朝、このプロローグを通して、私たち人間が天に昇るのではなくて、神の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということ。さらに、神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられた、そのイエスが神の子・キリストであるというマルコの信仰告白が私たちに何を一番物語っているかを聞きたいと思う。それは、神がまず私たち罪ある人間を受け入れ、愛して下さっているということ。そして、そのことをご自身の愛するひとり子、イエスを私たちにこの歴史のただ中においてお遣わしになったということ、神の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということである。このメッセージこそ、福音、よい知らせなのではないだろうか。「愛することは、降りてゆく行為」であることがわかる。
   
 この「愛するとは、降りていく行為である」という言葉は、20世紀の神学者、思想家のP・ティリッヒが著した『ソーシャルワークの哲学』という書物に書かれている。この言葉に学生時代に触発された人がいた。北海道医療大学教授の向(むかい)谷(や)地(ち)生(いく)良(よし)さん。彼はソーシャルワーカーでもある。彼はもちろんクリスチャンだが、この向(むかい)谷(や)地(ち)生(いく)良(よし)さんがリーダーとなって立て上げた精神障がいを持つ人々が共同生活する「べてるの家」という施設が北海道浦河にある。この「べてるの家」の理念の一つが「降りてゆく生き方」である。この理念のもと向谷地さんは今日までソーシャルワーカーとして、「降りてゆく実践」をされている。
 
 「あなたは私の愛する子」。このメッセージに込められている私たちに対する神の愛に応えて、「愛することは降りてゆく行為」「降りてゆく生き方」に励みたいと思う。あなたにとって「降りていく行為」「降りてゆく生き方」とは何だろうか。思いをめぐらしてほしい。祈りつつ考えてみてほしい。きっと神さまから、具体的にこうすることだよ、とそれぞれにふさわしい「降りていく行為」「降りてゆく生き方」が示されるだろう。

2018年

8月

19日

「一人でイエスの前へ」 マルコによる福音書7章31-37節

 人々は、耳の聞こえない人に「手を置いてくださるように」(32節)と主イエスにお願いしたのに、主イエスは男の耳に指を差し入れ、そのあと指に唾をつけて相手の舌に触れられた。この行為は、古代における一般的な治癒行為で、魔術的なものではなく、相手の苦しみに対する共感と癒しの意図を伝えるためであった。

 また、「天を仰いで」は祈りを指し、そして、このように祈ったのも、この男にこれから行おうとしていることが、天の力によるものであることを示すためでもあった。「深く息をつき」とは、「うめく」とも訳せる。「うめく」と聞くと、ローマ8章23節を思い出す。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。 相手の心に共感し、その苦しみを共にする憐れみの心を読み取ることが出来る。主イエスの病人に対する深い同情が示されている。

 「エッファタ」は、当時、主イエスたちが日常的に話されていた言葉であるアラム語。福音書はギリシャ語で書かれているが、この場面ではあえて主イエスの生の声を再現している。主イエスの力強い言葉の響きをとどめたかったのだろう。

 そして、最後の37節は、救い主到来の時の光景を描いているイザヤ書35章5節を引用している。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」。マルコは、今こそ救いの時が始まったのだと訴えている。マルコ1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」のみ言葉がここでも響いてくる。

 主イエスが救い主であるのは、奇跡を行うからではない。奇跡は一つの「しるし」にすぎない。主イエスが救い主であるのは、十字架の死によって、私たちの罪をにない、それによって、私たちが赦されたということによるのだ。だから、主イエスは自分が「奇跡的な癒しをする人」、単なる「超能力者」として知れ渡ること、そしてその力を用いて政治的解放者、指導者になって欲しいという人々の期待を拒否なさったのだ(36節)。

 私たちは、このお方に何を求めてもよいのだが、その全てが与えられるわけではない。主イエスが最終的に与えようとしておられるものの妨げになるのであれば、主イエスは私たちの求めには応じようとはなさらない。しかし、どんな人でも決して拒まれることのない求め、主イエスが最終的に私たちに与えようとしておられるものは、主イエスと共に生きる新しい命である。

 この男が与えられたのも新しい命。今までは、自分の世界に閉じ込められていた。しかし、主イエスに呼ばれて出て行き、主イエスに信頼して自分の身を任せた時に、思いもかけない新しい生き方が彼を待っていた。一歩、前へ出て、主イエスに信頼して生き始めることが、古い自分に死ぬこと。その時、自分が神から心をかけられており、自分の存在を神が喜んでおられることを知らされ、新しい命に生き始めるのである。

 主イエスと共に生きる新しい命をいただくためのヒントが33節の「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」という言葉に示されている。主イエスは、全く個別に関わりをもたれる。一人ひとりを大切にし、その人の痛みに心から共感される。主イエスは、結果的には多くの人を癒されたけれど、あくまでも、その時その時一人ひとりに心を用い、必要な助けを与えられたのだ。決して癒しを見世物にはなさらなかった。これは、立場を逆にしてみれば、私たちはみな、一人ひとり主イエスの前に立つことを求められているということだ。自分が呼ばれていることを知って、従って行くという生き方が求められている。そこでこそ主イエスと出会い、主イエスとの深い交わりに、すなわち救いに入れられるということが起こるのである。

 信仰の友に支えられながらも、ひとり主イエスの前に出るということが大切である。その時、主イエスが耳に指を入れ、舌に触れてくださり、私たちが「はっきり」(35節)と主を讃美して生きることを可能にしてくださるのである。

2018年

8月

12日

「将来から現在を見る」 ローマの信徒への手紙8章18-25節

 今日の聖書個所は、「将来の栄光」、すなわち神の約束によって将来、被造物には救いがもたらされる、ということが示されている。ここでのパウロの視点は、現在と将来について考えた時に、救いの完成、被造物が救われる、贖われる将来を確信し、その将来から、現在を逆に見ている。

 普通我々は、現在から過去や将来を見る。しかし、パウロは、現在を将来の視点から見ている。こういうまなざしの転換、ものの見方の転換がここでは非常に生き生きと述べられている。被造物は今ここでうめき、産みの苦しみを味わっている。しかし、被造物だけでなく、「霊」の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいるのである。将来から見て、希望によって救われる、と語っている。それは見えないが、ここに信仰がある。

 このように信仰は、現在から将来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということだ。現在から暗中模索して将来を問い尋ねるのではなくて、将来から現在を見る。これは因果応報論の反対である。因果応報の考えというものは、「人の善悪の行いに応じて、その報いが、必ずあるということ」。「過去にこういうことがあったから、自分はこうなった」「こういうことをしたら、きっと将来こうなってしまう」と、どうしても人間は因果応報論に落ち入りやすい。あるいは、自分はこんなに良いことをしたから、将来きっと報われるだろうと日常的に考える。クリスチャンにもそれはあると思う。こういうキリスト教の修行をして、いい仕事をしたから、神様はきっといいものを下さるだろう。これも因果応報論の一つである。

 しかし、私たちの信仰は、現在から未来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということ。実は、キリスト教の強さは、このような価値観の転換、ものの見方の転換にある。いつの日か、キリスト教徒は、再臨したキリストの審判によって救われるという確信を持っていて、救われるという将来の現実から、現在を見ることによって、試練や苦難に、積極的な意味を見出すことができるからである。

 請求書の祈りから、領収書の祈りへという話がある。何のことかと言うと、かつてアサヒビールの会長さんだった樋口廣太郎さんが、ある本の中で書いていた話である。樋口さんはクリスチャンだが、神に祈る時に、「~してください」「~をください」というお願いの祈りを一度もしたことがないそうだ。聖書には、祈りは、祈った時に神によって必ずかなうと書かれている(ヨハネ一3章22節、5章14節参照)。樋口さんはその神の約束を確信し、ただ感謝の祈りをしたそうだ。いわゆる「請求書」の祈りではなく、「領収書」の祈りである。「お願い」の祈りではなく「感謝」の祈りである。

 樋口さんがアサヒビールに来た時、市場でのシェアは一ケタで、会社は潰れる寸前だった。そこで、取引銀行から再建のために送られてきたのが樋口さんだったのである。その時、彼がどう祈ったか。「神さま、どうか私をライオンにしてください。なぜなら、キリンを食い殺したいからです」とは祈らなかった。彼は次のように祈ったそうだ。「神さま、シェアが一番になりました。これで従業員もその家族も喜び、またそれを飲んでくれる人も喜んでくれます。ありがとうございました」と「領収書」の祈りをし続けたという。私なら「シェアを一番にしてください」と祈るところだが。

 なかなかできることではないが、信仰の根幹にかかわる真実を表わしている。領収書の祈りは、主イエスもされている。死んだラザロをよみがえらせた時の祈りである。主イエスは墓の前に立ち、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」(ヨハネ福音書11章41節)。願い事が本当にかなう前に感謝している。

私たちの信仰生活は感謝する祈りが大切である。すでに恵みをいただいているのだから(恵みの先行)、まず感謝しよう。そうした祈りを重ねていくと、きっと違った景色が見えてくるはず。不安や悩みの中にあって喜びと希望がわいてくる。神の約束、神の希望に生きる者となろう。

2018年

8月

05日

「シャローム」 マタイによる福音書5章1-12節

 平和とは、単に戦争がないという状態を指すのではない。平和とは、社会的にも、人間精神においても、満たされた安らかな状態が維持されることを意味する。しかし、現実的に考えた場合、このような平和を人間の力によって実現することは大変難しい。なぜなら、聖書が繰り返し述べているように、人間が原罪を負っているからだ。罪から悪が生まれる。その悪には、人間の精神を錯乱させること、社会に騒擾をもたらすこと、戦争を行うことなどが含まれている。とにかく、この世界の平和は人間が引き起こす悪事で簡単に壊されてしまうのである。それだからこそ、聖書が私たちに伝える福音は、平和を実現するために、神のひとり子で、罪を持たないイエス・キリストが十字架の上で死ぬ必要があった。そして、このイエスの犠牲としての死があったおかげで、人間は平和を享受できるようになった、ということである。

 そして、最も真の平和は、イエスが再臨し、最後の審判を行った後に実現する、と聖書は記す。このような終末論的平和観がキリスト教の基本である。だから、私たちは、終末、来るべき将来の希望、平和から、現在の希望、平和を考えることになる。具体的にいうならば、今日、私たちに与えられた聖書のみ言葉をどのように受け取っていくかということになるだろう。

 イエスの話されたたとえに「よきサマリア人のたとえ」がある(ルカ福音書10章)。この「よきサマリア人のたとえ」のテーマは「隣人となる」ということである。このたとえから、私たちの問われているのは「私たちの隣人性」である。多くの争い、戦争は隣人性の欠如からきているといってもいい。

 戦争への道は憎しみと恐怖心をかき立て、隣人性を奪い取っていく。安倍政権は、隣国北朝鮮が核兵器開発やミサイルを発射したりしていることをもって、必要以上に北朝鮮を仮想敵国とみなし、国民に恐怖と憎悪を掻き立てることに躍起である。これでは、拉致問題や国交回復は残念ながら進展するはずもない。アメリカのトランプ大統領もそれ以上に北朝鮮に対して挑発的に敵対心を露骨にぶつけていた。ところが、歴史的な米朝首脳会談が行われた。この首脳会談によって、確かに今までのところ、世界が注目し期待したような北朝鮮の核兵器廃絶は進んではいない。いないが、少なくとも仲良くしようと握手したのだ。だから、以前のような両国指導者による敵対心むき出しの応酬はなくなった。高官レベルの交渉、対話が進められている。そうなると互いの忍耐と努力、妥協が必要だが、この道こそが「隣人となる」努力であり、聖書の教える平和への道ではないだろうか。

 ヘブライ語でシャローム」という言葉がある。旧約聖書の時代、今から何千年も前から、この言葉はイスラエルの人々の挨拶の言葉として使われてきた。今も使われている。「シャローム」、それは「平和」という意味。イスラエルの国では長い間、戦争に巻き込まれたり、争いを繰り返したりしてきた。たくさんの人々が殺されたり、傷ついたりして、大きな悲しみを何度も経験した。大切な家を焼かれたり、大事に育てていた牛や羊なども奪われたりした。人々は「こんにちは」「さようなら」の代わりに「シャローム」と挨拶し合った。「平和がきますように」と心からの願いを込めて挨拶をした。
長い間、平和を待ち続けていた人々は、次第に「神さまは私たちに必ず強く正しい王様を与えて下さるはずだ。そしてその王様が平和な国を作ってくれるのだ」と思うようになった。そこに現れたのが主イエスだった。

 主イエスは、神の教えをやさしく正しく人々に伝えた。病人や苦しんでいる人々に手を差し伸べた。主イエスはいつも困っている人々と神のことを一番大切に考えた。決していばることはない。主イエスは「平和を作りだす人々はさいわいである」と人々に教えられた。ところが、人々はその平和とは、敵の軍隊に勝って、手に入れるものと思っていた。今日に至るまで人々はずっと「平和のために」と言いながら戦争をしてきた。しかしそれでは、何千年たっても本物の平和を手に入れることができない。
 
 主イエスは、平和を作りだすのに強い軍隊も武器も必要ないと言っておられる。必要なのは、まず私たちの心を神さまに向けることだ、と言われている。すると必ず心が平和で穏やかな気持ちになる。キチンと神さまのほうを向いていれば、他人をむやみにねたんだり、いばったり、欲ばったりする気持ちにはならない。そんな気持ちの人々の集まった世界には戦いは起こらない。

 心が神のほうを向いていれば本当のシャロームがやって来るということを、今も主イエスは私たちに根気強く語り続けておられる。
「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」。

 私たちはしっかりと神に向き合って、世界の平和のために祈り、隣人と向き合い平和を作り出していこう。

平塚バプテスト教会