礼拝メッセージ2018年度

2018年

5月

13日

「祈りはすでに聞かれている」 マタイによる福音書6章5-14節

 人生、自分の願い通りに事が運べば、どんなにか気を楽にしていることができるだろう。けれども現実は意のままに生きることを許してはくれない。そんなことは言われなくてもわかっていると言われるだろうが、大事なのは、そのことから目をそらさないということ。目をそらさずにいると、信仰的転換を体験することができる。では、信仰的転換とはどういうことか。

 私たち信仰者はことあるごとに神に祈るが、別にクリスチャンでなくても人間は誰でも祈ることはする。そして思う。果たして祈りは聞かれるのか。それが私たち人間の思い、考えのありようでないだろうか。それがいけないというのではない。それは私たち人間のもっている自己中心の当然の思いである。でも、先ほども言ったように、現実は意のままに、願いのままにならない。では祈りは無駄か。そうとも言い切れない。そんな揺れ動く思いの中で過ごしているのが私たちの現実ではないだろうか。その現実にも目をそらさないことだ。

 そんな私たちに聖書は次のようなメッセージを告げる。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタイ6:8-9)。これは主イエスが弟子たちに祈りを教える場面で、次に主の祈りが続いている。祈りはすでに聞かれているという意味がここにはある。もしそうであるなら、もはや祈る必要はないではないかと訝しむことがあるかもしれない。しかし、主イエスは聞かれているからこそ祈るのだと言われているのである。

 キリスト者詩人の八木重吉の詩集『貧しき信徒』の中に、主の祈りについて歌ったところがある。「祈りの種は天にまかれ、/さかさまに生えて、地に至りてしげり、/しげり、しげりて、よき実を結び/また種となりて天にかえりゆくなり」。 神は必要なものをすでにご存じであって、祈るときは、すでに祈った結果を手にしているという意味がここには歌われている。

 信仰は祈り。そして祈り続けるということが目をそらさずにいることでもあるが、そのような祈りの信仰は、「私」の生き方を最も良い方向へと転換させる。しかし私たちは注意しておかねばならない。それは信仰を持てば万事OKというような単純な楽観主義ではない。日々の生活の営みの中で、願い事を心にもって祈ることもあるだろう。しかし、願い通りにならず、意に反した結果が待ち受けていることも一度や二度ではない。しかし意に反したことであっても、信仰を通してよく見るなら、結果は、最も良い実が「私」のために結ばれていることに気付くだろう。これが信仰的転換である。

 信仰的転換を実生活の中に経験しようとするなら、わが身に起こったことが意に反する出来事であればあるほど、そこから目をそらさないこと。意に反することは地上の生活では付きもの。しかし、19世紀のドイツの神学者、牧師のブルームハルト曰く「地上のことから目をそらすな、神は地上の神である」という言葉を思い出す。神は地上で働くお方であることを信じるなら、地上で私の意志に反したことが起こっていたとしても、神の意志に反したことは起こっていないのである。

 祈りが聞かれるとは、願い通りに祈りが聞かれることとは違う。真剣に祈っても願った通りにならないこともあるだろう。結果が意図しないことであったり、場合によっては願いと全く逆のことであったかもしれない。けれども最も必要なものをご存知であると信じて祈った結果がそこにある。結果はどうであれ、私にとって最も必要なものが与えられる、それこそ信仰による祈りである。目をそらさずというのは、神から目をそらさずということでもある。そうすることによって神の意志というか思いに気づかされ、知らされて、感謝と希望に生きるものとされていくのである。祈り続けよう。神から目をそらさずに。

2018年

5月

06日

「神の愛の奥深さ」 コリントの信徒への手紙一4章3-5節

常に私たちが恐れているのは他人の目であり裁きである。人はどう思うだろうか。人はどう言うだろうか。批判されはしないだろうか。結局、人間がいつも頭を悩ませているのはそのことである。人の一生は人からの裁き、評価との闘いだといってもいいほどである。気を使って、闘って、疲れ果ててしまうのである。 

 使徒パウロはきっぱりとこう言う。自分は人から裁かれようと、人間の法廷に立たされようと何ら気にしない、と。人に何と言われようと、自分には自信がある、というのではない。パウロは言う。自分で自分を裁くこともしない、と。何もやましいことはないけれども、それで自分が正しいわけではない、と。いわゆる、自分を客観的に相対的に見ているのである。自分を絶対化しない。すべてを超越しておられる絶対者なる神の存在を信じる信仰がそのような自己を相対的に見ることを可能にさせるのである。そうすると、だいぶ肩の荷がおり、力が抜けてきて、楽になるだろう。

 箴言に「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」(21:2)という一節がある。これは信仰による認識がどういうものであるかを語っている。人間の目には自分の行動は正しく見えるのである。冷静に、十分に考えてみて、自分の間違えていることがよく分かった、ということにはならない。考えれば考えるほど、言い訳が出てくる。弁解が出てくる。自分を正当化することになる。自分可愛さ、自己保身、これは私たち人間の本性で、言うならばどうにもならないところで、聖書的に言うならばそれが罪。
   
 だからパウロは、自ら省みてやましいことがないとしても、それで義とされているわけではないという。4節で「わたしを裁くのは主なのです」と言う。自分を裁くのは人ではない、自分でもない、主イエスだという。主に裁かれる、主に裁いていただく、それが信仰の確信であり、拠り所である。そこから導かれるのが、だから主に委ねるという信仰。

 しかし、思いがけないことがこれに続いている。「その時、おのおのは神からおほめにあずかります」(5節)。その時、おのおのは神から厳しい裁きを受けるだろう、というのであればよくわかる。けれども、そうではなくて、「おほめにあずかる」というのである。一方、人間は人の罪悪を見出した時、まるでその人間の正体をつかんだかのように思う。醜い部分を見つけたとき、その人間の本質を知ったかのように興奮する。

 聖書のメッセージは、次のように言う。主が人間の隠された闇の秘密を知るということは、そういうことではない。人間の醜さ、罪悪のその奥に隠されている良いものを主は見られる。人間の汚濁のその向こうにあるわずかな良い志を見落とされはしない。そこのところで評価してくださる、というのである。

 むろん、神が私たちを総体として見れば、とても正しいとは言えないだろう。捨てられるべき罪人にすぎない。しかし、主イエスはそのような人間を贖ってくださったのだ。自ら苦難の道をその人間のために歩んでくださったのだ。人間から見ると理解しがたいものがあるだろう。主イエスは私たちの中の否定されるべきものをもはやご覧にならない。汚れた雑巾のように、私たちの中の、わずかの良い志を見ていてくださる。汚れた手の中の小さな業を、主は決して見失われない。これが神の私たちに対する意思、愛である。ある意味で神の愛は一方的で、無条件の愛と言えるだろう。神の愛のなんと奥深いことだろうか。

 そのようなことを思わされるとき、果たすべき課題の大きさと、なしうる業の小ささを思わないではいられない。けれども、私たちはこのことを知っている。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」(一コリント15:58)。

2018年

4月

29日

「信仰は苦難を生きる道」 コリントの信徒への手紙二1章3-7節

 3節に「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」とある。新約聖書においては神は「父」と呼ばれている。父という言葉には厳しさが当然あるが、同時にある親近さをも連想させる呼び方である。主イエスも「アッパ、父よ」と親しみを込めて呼んでおられる。救い主イエスを送ってくださった、その神は私たちを守る方であり、私たちを父親のように包む、そういう神だ。ここにはそのような神と私たちとの関係が記されている。

 「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」と書かれている。神が厳しく裁く神として私たちに関わることは否定できない。しかし根本は、「慈愛に満ちた父」であり、「慰めを豊かに」与えてくださる神である。それが私たちと神との根本的な関りである。神は時に怒り、あるいは罪を裁く、あるいは罪を問う、そういう方でもあるが、それは父の慈愛の中でなされることなのである。ひるがえって人間社会には愛のない者が相手を叱り飛ばすことがある。あるいは、裁いて突き放すということもあるだろう。しかし、愛する者は悲しみながら叱る、あるいは泣きながら打つのである。父なる神が打ち、あるいは裁くということは、そういうことを意味している。つまり、裁く方に痛みがあるのである。打つ方に悲しみがあるのである。そういう痛みや悲しみに打たれることによって、人間は変えられるのだと思う。

 さらに4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と書かれている。あらゆる苦難に際して慰めてくださると言われている。信仰の苦難、神を信じて生きる時に苦難がある。この世の現実の中にも苦難がある。信仰を持ったならば、楽な問題のない人生が始まるということではない。信仰は楽になる道ではない。試練や苦難が取り除かれて、バラ色の道を歩いて行ける、そのような道ではない。苦難や試練はある。苦難や試練はあるけれども、そこで受け取るものがある。主イエスも言われている。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)。

 「あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので」と書かれている。信仰の苦難は、逃げることも避けることもできる。しかし、もし私たちが苦難をいつも避けていたならば、信仰のことはわからない。信仰の喜び、恵み、感謝が分からない。苦難の中に踏みとどまる時に、そこで神の慰めをいただく。苦難の中で慰めを受け取る。それが信仰者の力となるのである。信仰者は苦難の中に踏みとどまり、神の慰めを受け取ることで、そこで生かされ、そこで育てられていくのである。

 私たちは苦難の中で、そこに踏みとどまって、神の慰めを受け取るから、ほかの人の苦難に際して慰めを与えることができる、というのである。苦難を前向きに生きている人が苦難の中にいる他の人を慰めることができる。苦難の中で鍛錬されて、強くなって、タフになってほかの人を励ます力が与えられるのではない。苦難の中で、弱いから、行き詰るから、そこで慰めを神から受け取って立っている人が、ほかの人を慰めることができるのである。

 苦難というのは、しばしば私たちの持てる力や実力を圧倒する形で迫ってくる。もうギブアップするしかない、もうおしまいだ。そういう事態は誰の人生にも必ずある。つまり自分を手放すしかない事態である。しかしその時にも、人間に残されている可能性がある。それは、「わたしは既に世に勝っている」と言われる主イエス、死者を生き返らせてくださる神に祈るということ。神はその死から、生きづまったところから命を見出される方、生きる力を与えてくださる方。

 私たちの信仰の道、神を信ずる道は、この死に体から繰り返し生かされる、思いがけない形で道が開かれる、そういう形で生きていく道なのである。そしてその道が、永遠の命につながるのである。私たちが自分の持っている、個人的な力や実力で開いていく道なのではない。そんなのは行き詰ってしまう。ギブアップするしかないような状況から、繰り返し新しい命への道を開いていただきながら生きていく道、それが信仰の道。信仰というのは、苦難のない道ではない。苦難を生きる道なのである。私たちがたとえギブアップしても、必ず神は私たちのために、前方に道を開いてくださるお方。私たちは、その道を歩いていく。それが信仰によって生きるということ。

2018年

4月

22日

「だれのせいでこうなったのか」 ヨハネによる福音書9章1-12節

 生まれつき目の見えない人が、人通りのある所に座っていた。そこで弟子たちはイエスに質問した。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちはおそらく、この生まれつき目の不自由な人を見た時に、反射的にイエスにこの質問をしたのだと思う。というのは、こういう場面に出くわすと、だれでもが考えることだからである。いったいどうして、誰のせいでこんなことになったのか。本人が悪いのか、両親の罪か、あるいは先祖の誰かが悪かったのか。

 イエスはこの弟子たちの質問にこう答える。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。本人の罪か、両親の罪か、だれが悪いのか、そんなことは関係ないと、イエスは言われたのである。誰のせいでもない。そんなことはいくら考えても答えはない、とでも解釈できる。因果応報の考えを真っ向から否定する。イエスはここでハッキリ言われる。「神の業がこの人に現れるためである」。神を知らない時に、人はみな問う。どうしてこうなったのか。誰のせいでこうなったのか。しかし、神を信じた時に見方は変わるのである。目の前にあるこの現実は結論ではない。結果としてこうなったというのでもない。ここから神が御業を行ってくださるのだ。この厳しい現実こそ、神の御業が現れる始まりなんだ、とイエスは言われるのである。

 この出来事の最初、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」(1節)と書いてある。イエスが来たということ、そして生まれつき目の見えない人に目を留められたということ、ここに聖書のメッセージがある。救い主がこの世界に来られたということ、そして救い主が人間の現実に目を留められたということ、それが大切なメッセージである。人間の苦しんでいる、悲しんでいる現実に目を留められた。もし神の子である救い主が、目を留められたのであるならば、どんな現実にも希望がある。

 さらに、4節にこう書いてある。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことができない夜が来る」。日のあるうち、つまり光のある間、植物も動物も光の照っている中で生きる。光の中で癒される。光の中で成長し、そして実を実らせる。私たちはその昼の中にいる。救い主イエス・キリストのおられる昼の中に私たちがいる、ということなのである。私たちはこの命の光を浴びている存在。神の愛の中にいる存在。神に愛され、支えられ、導かれて生きているのだ。だから、私たちは問わない。なぜこうなったのかなんて問わない。だれのせいで、だれの責任かなどとは問わない。そんなことを問うても何にもならない。そう問うことで先が見えなくなってしまう。しかし、もうそんなふうに問わなくてもいいのである。そういう時が今来ているんだ、ということを聖書は私たちに告げているのである。

 救い主が御業を行ってくださるのである。イエス・キリストが来てくださって、ただそこにおられるというのではない。来てくださったということは、御業を行ってくださっているという意味なのである。だから私たちのこの現実は、結果ではない。救い主の業の始まる場所なのである。神のみ手が働いている現実なのである。だから私たちは待つ。待ち望む。私たちは将来を待ち望む。ここから神がどういう現実を生み出してくださるのかを私たちは待ち望む。この現実を突き抜けて、主の御業の行方を私たちは待ち望む。ここに主にある希望がある。

 そして、この創造の業に、私たちも参与させていただくのである。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」のである。ものをつくり出す業に、人を癒す業に、人を生かす働きに、私たちも用いていただくのである。この命がそのために用いられる。「神の業がこの人に現れるためである」ということはそういうことでもあるのではないか。こんな私でも神の創造の働きに参与するように召されている。そのことの中に人間の命の喜びがある。生きる喜びがある。生かされている、生かされて生きている。この命を用いて主の業に励みたい。

2018年

4月

15日

「良い知らせの手紙」 マルコによる福音書 1章1-15節

マルコ福音書1章1節~15節は、マルコ福音書全体の序文にあたる。ここには「福音」という言葉が繰り返し出てくる。「福音」という言葉はもう十分に日本語として通用するようになった。辞書を引くと最初に、心配事や悩みを解決するような、うれしい知らせ、とある。二番目には、キリスト教で、キリストによって、救いようもない深い罪を持つ人間が救われるのだ、という知らせ、とある。簡潔によく書かれている。

 1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、15節には「福音を信じなさい」と繰り返し書かれている。福音書は、まさにその「福音」を伝えようとしている。福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だということができる。

 「福音」という言葉にはさまれた2節~13節には何が書かれているのか。2節には、旧約聖書の預言イザヤ書に証しされている者として、洗礼者ヨハネが登場する。ヨハネは4節にあるように、人々に、主の道を備えるようにと悔い改めのバプテスマを宣べ伝える。7~8節を見ると、ヨハネは救い主ではなく、自分よりも優れた方を指し示す者として登場している。

 9節から主語がヨハネから主イエスに代わる。バプテスマを受けられたイエスに向かって天からの声が与えられる。「あなたはわたしの愛する子」。荒れ野で叫ぶヨハネの声と、天からの神の声という二つの証言によって、イエスの1節に書いてある「神の子」であることが確かめられる。

 荒れ野の試みを経て、ヨハネの時の終わりと共に、イエスの時が始まる(14節)。そのイエスの時の始まりは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というもの。こうして、この段落全体が、主イエス・キリストによる福音の始まりを告げている。

 さて、さきほど福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だということができる、と言った。福音書にはひとつには、イエスが話した言葉が書かれている。イエス語録という。二つ目は、ただ単にイエスが語った言葉ということにとどまらず、イエスという人物、行いと言葉のすべて、いうならばイエス自身のすべて、生きざますべてが書かれている。

 例えば、ある人があなたに「私はあなたが大好きです」と言ったとする。まず第一にその言葉はあなたにとっての福音、うれしいだろう。良い知らせであるに違いない。でも、それ以上にそのように語りかけてくれるその人の存在こそがあなたにとって福音、良い知らせではないだろうか。嫌いな人から、同じ「私はあなたが大好きです」と言われても、うれしくはない。それは福音、良い知らせにはならない。怒られるのも同じ。信頼している人から「何やってんだ」と言われても腹は立たない。むしろ、「ほんとだ、私、何やってんだろう」と反省し、気を取り直してしっかりやろうと思うだろう。しかし、信頼できない人から言われると、「あんたには言われたくない」でおしまい。信頼というのは本当に大切だし、信頼をつくり出すには言葉だけではなく、その人の生きざまそのものが大きくかかわってくることが分かる。そういう観点から、この福音書を読んでみてほしい。イエスの言葉となされたこと、イエスの生涯、生きざまを。イエスとはどういう人であったか、人となりをしっかりと読み取ってほしい。そしてその主イエスと出会っていただきたい。

 イエスと出会うとどうなるか。それまでの自分が打ち壊されて、やって来た新しいものにとらえられてしまう。方向転換が起こる。それが改心、悔い改め。主イエスの第一声に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあるが、そこには、イエスの言葉とイエス自身の存在がある。そのイエスという人物がどういうものであるかをこの福音書の冒頭1節に「神の子イエス・キリストの……」と告白されている。「神の子」で、「人の子」イエス、そして「キリスト(救い主)」とあるから、救い主であるといっているわけである。マルコはそのことをこの福音書全体で書き記そうとしたのだ。

 福音書を読むということは、そのイエス・キリストに出会うことである。福音書を通してイエス・キリストの言葉に出会うこと。福音書を通してイエス・キリストという人物と出会うこと。読んでいくとあなたにとってどうしても引っかかる言葉がある。その言葉を発するイエスという人物が気にかかる、不思議に思える。簡単に理解できないかもしれない。グサッと来ることもあるだろう。いろいろな反応があると思う。そのようにイエス・キリストという存在は私たちを巻き込んでいく。神の国、それは神の支配のことだが、「時は満ち、神の国は近づいた」とあるように、イエス・キリストの到来と共に始まった神の国は、近づきつつあるもの、私たちに迫ってくるのである。私たちを巻き込んでいくのである。その迫りの中で、必ず決断が起こされる。その決断が悔い改めへと導いてくれる。方向転換へと導いてくれるのである。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。私たちに求められているのは、そのキリスト信じることだけである。そこからすべてが始まる。

平塚バプテスト教会

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