【全文】「礼拝はみ言葉が中心」ルカによる福音書4章16節~26節

みなさん、おはようございます。今日はようやく集うことができること、この礼拝が実現したこと、心から嬉しく思います。心から主に感謝します。どのように過ごされてきたでしょうか。このコロナの出来事、影響を受けない人は一人もいませんでした。その間の生活や仕事に、ひとりひとりのドラマがあったはずです。つらかったこと、悲しかったこと、見つけた喜び、大切な気づき、生活の変化があったでしょう。ゆっくりと皆さんから聞きたいです。これから少しずつ皆さんと分ちあってゆけたらと思います。礼拝終了後、庭にお茶の準備をします。短い時間ですが、ぜひ交わりを持ちましょう。

私たちはこどもたちを大切にする教会です。今日も子ども達が集まってくれました親子室が狭い、密だということも懸念事項です。子ども達が安全に、三密を避けられるように、一緒に礼拝しお互いの命、存在を感じながら、礼拝できるようにということも検討をしています。一緒にこの礼拝の時を守って行きましょう。

またインターネットでも引き続き配信をしています。この機会、様々な事情で集えない方々の気持ちが本当にわかるようになった私たちです。集えなくても私たちは仲間です。それぞれの場所で礼拝をされている方も、一つの体として共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中心はみ言葉、聖書朗読だということ。そして宣教はその御言葉の実現を見てゆくことなのだということを共に考えたいと思います。

私は外出自粛の中、子どもと絵を描いて遊んだことがありました。自分の行きたい温泉旅館の絵や、妻が昼寝をしている様子を描いたりしていました。私は今はそうでもないのですがが、もともと絵を書くのは大の苦手でした。美的センスが乏しいのです。中学校の美術の成績で10段階で2、5段階なら1をとったことがある。それだけ大の苦手でした。そんな私ですが、絵についてもっとも印象に残る出会いは、ピカソです。

ピカソの絵を最初はまったく理解できませんでした。彼の絵は遠近法が無視され、抽象的になっているのが特徴だそうです。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。こういう絵です(絵を見せる)。

この絵を見て、私は直感的に衝撃を感じたのではありません。見ても価値は全く分かりませんでした。しかし、この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知ったのです。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃、いわば市民に向けた爆撃を、市民虐殺をモチーフにした絵です。この絵ゲルニカには、無差別爆撃のイメージが描かれているのです。

その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませます。そのような視点でこの絵を見ていると、折れた剣、バラバラになった体、叫ぶ動物たちを見つけることができます。すべての生き物たちの戦争への怒り、悲しみ、恐怖、平和への願いがこの絵から伝わってきます。

この絵から何を受け取るかは人それぞれ違うでしょう。それぞれにイメージが与えられるはずです。そしてイメージすればするほど、この絵に引き込まれていくのです。この絵から何をイメージするかは自由です。この絵をどのように解釈するかも自由です。何がそこに見えるかはそれぞれが感じることです。そこに正解はありません。

しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに自分なりに感じる、自分なりに理解をするという事を体験しました。短く小さな解説から絵のイメージが膨み、感動を受けたのです。貴重な解説でした。

もちろん、ここで大事なのはその絵の解説ではなく、絵そのものです。そして絵はこのことを感じてくださいとは書いてありません。その絵は私たちに想像力を求めます。絵があなたはどう受け止めるか、何を感じるかを問いかけてくるのです。

私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、み言葉です。礼拝の中心は紛れもなく、み言葉なのです。聖書のみ言葉が中心なのです。私は宣教の時間でその御言葉の解説のようなことをしています。

私は宣教の中で比較的「ここはこういう意味だ、こうしよう」という結論のようなことをはっきりと言う方でしょう。しかしそれはあくまで助けです。理解の助け、想像力の助け、皆さんがどう思うのかという問いかけです。

礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。宣教をきっかけに皆さんの中に、それぞれのみ言葉のイメージが残ることを願っています。

そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます。

聖書はかつて一人が一冊ずつ持つというものではありませんでした。手書きで書き写され、会堂で大切に保管された巻物の形が多かったのです。ですから聖書の言葉は、聖書朗読を「聞く」ことによってしか受ける事が出来ませんでした。読むという機会はほとんどありません。会衆にとって聖書朗読を聞くことはとても貴重な機会で、重要なものでした。それはまさしく礼拝の中心、それは礼拝の中でもっとも重要なプログラムでした。

 

ですから当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉、聖書の言葉です。聖書朗読です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムなのです。

礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですし、聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。そんな時私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしやはり礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。

宣教とは「み言葉の僕」です。私はそのように理解して宣教します。宣教とは聖書のみ言葉を分かち合うものでなければなりません。その中心が話す自分や誰か人間や、誰かの体験であってはなりません。宣教はみ言葉を中心としてされるのです。

礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わからなくても、寝てても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉がある限り、それは礼拝なのです。宣教する私自身も、このみ言葉との出会いを大事にしたいと思っています。

もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。意味が分からない呪文を聞くのではありません。そして宣教は美術の解説と同じではありません。そこに神様の力が働き、神様の力によって、それが生き生き語られる業なのです。

私たちの礼拝はこのように神のみ言葉が中心です。再び集まることが出来た今日、そのことを皆さんと分ちあっておきたいのです。私たちの中心は神様、私たちの礼拝の中心は神様のみ言葉なのです。

今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。イザヤ書です。イエス様も聖書を朗読されたのです。み言葉を中心とされたお方です。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。そしてイエス様はこのみ言葉について、宣教ともいえる言葉を残します。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉です。

み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。そのヒントがここにあります。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。礼拝はみ言葉が中心です。、そしてそのみ言葉が、いま私たちの間でどのように実現をしているのか確認すること、やがて訪れると確信を起こすこと、それが宣教なのです。

今日私たちはまずこのみ言葉をしっかりと聞きましょう。そして私たちにもこのみ言葉がすでに実現したことを、この宣教によって感じてゆきましょう。私たちに実現したこととは何でしょうか。

そうです私たちは2カ月会うことができなかったが、今日私たち一緒に礼拝する、そのことが今日実現したのです。それはまさしく今日の聖書のみ言葉にある通りの出来事でしょう。それは捕らわれていた人が解放されたような出来事です。自宅にいなければならない、自宅に捕らわれていた私たちが解放された出来事。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。

今まで会うことができなかった、YOUTUBEでも見ることができなかった、見えなかった、お互い、あの仲間が今日は目の前にいます。今日私たちには見る事が出来なかったことが見える、そのことが実現したのです。

周囲からはもっとも不要不急と思われるのが礼拝です。しかし私たちは不要不急と言われるその抑圧から解放されて、今日集うことが実現したのです。イエス様は今日すでに実現したとおっしゃいます。それは今日私たちにも同じ様に実現したのです。今日私たちに神の業が、実現しました。神様の言葉が実現をしたのです。この礼拝に集えたこと、それが神様の業です。その御言葉の実現なのです。

今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を思いめぐらせましょう。礼拝はみ言葉が中心です。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂きましょう。

 

お祈りいたします。

 

【全文】「礼拝は平和の集い」ヨハネ20章19節~29節

みなさんおはようございます。今日もそれぞれの場所、インターネットで集うことができること、神様に感謝します。それぞれ離れた場所ですけれども一緒に礼拝をしましょう。そして子どもたちもみてくれているでしょうか。私たちは子どもを大切にする教会です。みんなも一緒に礼拝をしましょう。

今日はペンテコステを迎えています。ペンテコステは教会の誕生日とよく言われます。私たちの教会も来週で70年を迎えます。この70年間の守りに感謝です。もうすこし落ち着いたら、記念誌も発行したいと思います。その際はみなさんどうぞご協力ください。

ペンテコステ、それは50日目を意味することばです。イエス様は復活の後、弟子たちに現われ、40日間を共に過ごしました。そして天にのぼった後、さらに10日後、50日目に弟子たちに聖霊が注がれ、教会の働きが始まったという出来事がありました。それからこのペンテコステを教会の誕生日として祝うようになっています。そしてその後に、私たちの平塚バプテスト教会ができたわけです。平塚バプテスト教会には70年の歴史があり、その中で様々な出来事がありましたが、礼拝の歴史ということも大切な視点です。教会は礼拝共同体、礼拝仲間の集まりだからです。

礼拝の変化が教会の変化とも言えるでしょう。たとえば4月からこどもメッセージが始まっています。これがちゃんと継続できれば、70年の中で大きな変化でしょう。そしてそれぞれの自宅、インターネット配信という礼拝の在り方も、礼拝の歴史上、とても重要です。先日、これまでの礼拝の変遷をたどりました。資料の問題で十分に遡ることはできませんが。、70年間、礼拝の式順を大きくは変わっていない様です。しかしその中でもいくつかの変更がなされています。資料を見る限り、平塚教会の礼拝の歴史の中で、これまでの一番大きな変化、それは「平和の挨拶」が礼拝に取り入れられたことです。

「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。当時の総会資料で梶井先生が短く説明されていました。礼拝の前半で交わりを持つというのが目的だと書いてあります。それ以外が大きく変わらない、守られてきた中で「平和の挨拶」という変化が私たちのなかにありました。今日はこの私たちの教会の歴史上大きな変化だった、平和の挨拶について考えたいのです。

「平和の挨拶」それは、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいる事をお互いに確認しあうためにあるのだという事を見てゆきたいと思います。

平和の挨拶について考える時、疑問が二つあります。ひとつはなぜ礼拝の中で挨拶をするのかということです。私たちは礼拝の前に必ず会堂に入ってくれば挨拶をします。なぜ、もう一度改まって礼拝の中で挨拶をする必要があるのでしょうか。実際平和の挨拶は無い教会が多いのです。そしてもう一つの疑問はその挨拶になぜ「平和」という言葉がつく、「平和の挨拶」なのかといことです。ただの挨拶ではいけないのかという事です。

ひとつ目の疑問、なぜ挨拶するのかということですが、これは比較的すぐに答えがでるかもしれません。礼拝の中で挨拶することは、交わりを持つことの大切さを表現しているからです。それはみなさんもすぐに感じることだと思います。

礼拝の中で挨拶の時間を持つとき、私たちは礼拝は一人で受けているものではない、交わりの中で礼拝をしているのだと感じることができます。そしてそれは今日自分は誰と礼拝に参加しているかを具体的にする時となります。

実はこの平和の挨拶が無い教会では、前に座っている人は、後ろに誰が座っているか礼拝の最中まったく分かりません。今私は誰と一緒に礼拝をしているのかが、わからないのです。

これではなかなか私たち、礼拝共同体にはなることができません。私たちが誰と一緒に礼拝をしているのかを知る、今日どんな人が一緒に集まっているか、その多様性を知るということが平和の挨拶の大事な役割です。

そしてもう一つ大事だと思うのは、平和の挨拶の時、今日誰が来ていないのかにも気づくということです。毎週挨拶をするといつの間にか、今日は誰々さんが来ていないと気づくようになるのです。

今日誰と一緒にいて、誰がここにいないのか、その確認をお互いにしあう事、いったい私は誰と礼拝をしているのかを確認する機会、それが挨拶の時間なのです。礼拝の中で挨拶をする大切さはそこにあります。

しかしこの挨拶、賛否両論があるのも確かです。苦手な人が必ずいるのです。私も初めて礼拝に参加した日のことを覚えています。たくさんの知らない人に囲まれて、次々に握手を求められました。相当戸惑いました。最初はこの時間がとても苦手で、トイレに逃げたり、人のあまりいないところに隠れたりしたこともありました。苦手な方への配慮も具体的に必要だと思います。この共同体がどんな集団なのかまだ分からない人に、握手を突然求めるのは配慮しましょう。今でいうならば感染の不安がある中で、手を握り合うのは、お互いがお互いの事を知るという以上に、お互いを不安にさせることかもしれません。人と時にあわせて考えてゆく必要があるでしょう。でも確認したいのは、挨拶が大事だということです。それも礼拝の中ですることが大事だと言うことです。私たちお互いがひとつの体、礼拝共同体になるために必要な時だと思います。

二つ目の疑問はなぜそれが「平和の」挨拶なのかということです。それはただの挨拶ではなく、「平和の挨拶」なのです。平和の挨拶、それは私たちの関係が平和のうちにあるということを確認するための挨拶なのです。私たちの間には実に様々な人間関係があるわけです。とても平和とはいえない関係もあるわけです。不安な関係もあるわけです。でも、礼拝の中でお互いがお互いの平和を確認しあっていく、信頼を確認しあってゆく、それが平和の挨拶なのです。何かの連絡ごとをしてしまうことがあるのですが、極力やめましょう。互いの平和を確認する時にしましょう。

私たちにとっての平和とは何でしょうか。それは神様が共にいると知ることです。それが平和です。私たちが平和の挨拶をするとき、互いの平和と共に、神様が共にいる平和を私たちは確かめ合うのです。私たちが礼拝の中で「平和の」挨拶をするのは神様の存在を確かめ合うという意味もあります。

私たちは平和の挨拶を選び取りました。それは互いの存在を知り、互いに神様が共にいることを確認しあう時です。私たちは様々な状況や関係にあっても、お互いの平和、主が共にいる平和を確認する、そのような挨拶を交わしてゆく共同体です。そのために平和の挨拶があるのです。

さて、イエス様もこの平和の挨拶をなさったお方です。今日の個所もそのような場面です。今日の個所を見てゆきましょう。弟子たちは、イエス様が十字架にかけられてしまった後、家に閉じこもっていました。彼らは次は自分がイエス様のように殺されてしまうのではと恐れて隠れていたのです。そして彼らにはもう一つ、外には出たくない理由がありました。それは彼らがイエス様を裏切ったという事でした。彼らはイエス様がとらえられた時、一目散に逃げだし、裏切り、見棄てたのです。きっと彼らが閉じこもっていたのはこの事の方が大きかったではないでしょうか。裏切ってしまった自分への自己嫌悪、罪悪感が彼らを家に閉じこもらせたのです。

彼らは家に隠れていました。その理由は逃げるという事よりも、自分の世界に閉じこもったという出来事です。彼らは集団で、みんなと一緒にいましたが、誰も彼らは言葉も交わさなかったでしょう、自分の心に鍵をかけて閉ざし、集まっていてもバラバラの、人々でした。彼らは十字架のあと、集まっていても、自分の心を閉ざす、孤独で不安な共同体だったのです。そのような中に、その孤独と不安のまん中にイエス様が表れます。そしてイエス様は平和の挨拶をするのです。「あなた方に平和があるように」と言います。イエス様がここで再会をしたのは自分を裏切った弟子たちです。しかしその再会の第一声は、裏切られたことへの恨みではありませんでした。なんで裏切ったのかと理由を問い詰めはしませんでした。まずそこでイエス様は「あなた方に平和があるように」と、平和が告げられたのです。

「あなた方に平和があるように」。ここでおそらくイエス様はヘブライ語で「シャローム」と言っていたはずです。ユダヤの人々はいまでもそうですが、シャロームと挨拶をします。ですから日本語では「こんにちは」とも訳せる言葉です。

しかし、聖書はこの個所をこんにちはと訳しません。シャロームとは、こんにちはという意味と同時に、平和という意味を持つ言葉です。この挨拶は、こんにちは以上にもっと特別な意味がある挨拶だから「あなた方に平和があるように」と訳されているのです。

ヘブライ語のシャロームそれが現わしているのは、部屋に隠れいてれば自分の安全が保たれる、ここなら平和ということではありません。シャロームの平和、それは神様がともにいて、安心している状態です。そして私だけの安心ではなくて、ともにいる人々すべてに安心がある状態、それがシャロームです。つまり神様と共にいる平和とも言えるでしょう。それがイエス様の再会の第一声だったのです。イエス様の挨拶それは、平和の挨拶でした。自分を裏切った相手に対しての恨みではなく、和解の挨拶でした。そして神様が共にいる、それを実感させる挨拶だったのです。

私たちも礼拝の中で平和の挨拶を交わします。平和の挨拶は閉じこもっていないで、自分の心のカギを開けてどうぞ親しみを込めて挨拶をしてください。様々な人間関係があると思います。でもだからこそ互いの信頼と平和を確認し合いましょう。そして挨拶が苦手な方もいるでしょう。みんなで配慮をしましょう。その方が平和と感じることが出来るような挨拶をしてゆきましょう。そしていま私たち握手することが不安という思いもあります。お互いが平和を感じる事ができる挨拶を探してゆきましょう。

イエス様は私たちの真ん中に、私が不安と思うことの真ん中に表れて下さいます。そして「シャローム」「あなた方に平和があるように」そう挨拶をしてくださいます。神様が共にいる、その安心と平和があなたにあるようにと、挨拶をして下さいます。私たちも互いに平和の挨拶を交わし合いましょう。

そして再会できる時を待ち望んでいます。その時また、互いに信頼と、神様が共にいることを確認し合う平和の挨拶を交わしましょう。

 

お祈りをします。

 

【全文】「礼拝はこども歓迎」ルカ9章48節

みなさん、改めておはようございます。今日も共に礼拝をすることができ、感謝です。またこどもたちもテレビやスマホの前に集ってくれているでしょうか。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。ぜひ一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会ではこどもプロジェクトというものを進めています。数年前から様々な取り組みをしていますが、まずは教会の敷地にあたらしい「こひつじ館」を建てました。そこで共同保育をしています。今はコロナの影響で開いてはいませんが、先日前を通った方が、また早く集まりたいと話をしてくださいました。地域の子どもとお母さんの憩いの場となっています。

また教会では「こども食堂」のオープンも準備しています。本来でしたら来月からということを予定していましたが、これもコロナが収まったら始めてゆきたいと思っています。

私たちはこのように子どもを大切にする教会を目指しています。そしてもちろん礼拝の中でもこどもを大切にします。子どもがのびのびと、ありのままでいられる教会を目指しています。いい子になったら教会においで、静かにできる子は教会においでではなく、まずおいで。声が響くかもしれないけれど、それを楽しむくらいの余裕で大人は礼拝します。そうやって子どもたちを歓迎しています。同じ場所で一緒に礼拝することを大切にしています。

今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。私たちはこどもを大切にするという思いで、この言葉を年間主題聖句とし、週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会でも声を合わせて読んでいます。今日はこの一節に心を向け、礼拝は子どもを歓迎するということ、また弱さの中で礼拝を持とうということを見てゆきたいと思います。

 

さて私たちは日々、いろいろなことを祈るわけですが、多くの場合祈りは「神様」や「天におられる神様」という、神様への呼びかけから始まります。それは祈りが神様に向けられているものだから当然です。そして私たちの祈りは多くの場合、「イエス様の御名によって祈ります」とか「イエス様の御名を通じてお祈りします」という言葉で終わります。神様への呼び掛けで始まり、最後は「イエス様の御名によって祈ります」という言葉で終わるのです。今日の個所にも「わたしの名のために」とありますが、この言葉は私たちの祈りの最後と同じ意味の言葉です。

「イエス・キリストの御名によって」とは、イエス様を通してという事です。私たちの祈りは、神様に直接に呼び掛ける祈りです。そして同時にそれは神様によってこの地上に与えられたイエス様を通じても神様に呼び掛ける祈りなのです。神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えるのです。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈るのです。神様に祈り、イエス様を通じて祈る、それが私たちの祈りです。だから最後に「イエス・キリストの御名によって」と加えて祈るのです。

神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れる、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にしたいと受け入れる事が神様を受け入れてゆくことです。信仰を持つということです。イエス様、神様が派遣されたイエス様の歩み方を自分も生きるという事が信じるという事です。

しかし今日の個所、イエス様はこのように言います「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」そういうのです。神様から派遣されたイエス様、イエス様を受け入れる事は神様を受け入れることになるのです。そしてイエス様は子どもを受け入れる事は私を受け入れることになるというのです。いわば連鎖関係にあります。

神様=イエス様、イエス様=こどもと書かれているのです。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。神様を迎え入れるとは、イエス様を迎え入れること。イエス様を迎え入れるとは子ども達を迎え入れる事だと言うのです。つまり今日の個所、神様を迎え入れるとは子どもを迎え入れることなのだと言っているのです。

 

イエス様はどうして、子どもを受け入れる者は、私を受け入れる者だというのでしょうか。子どもがかわいくて、無邪気で、満面の笑顔だからでしょうか?もちろん子どもたちはかわいいのですが、かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。子ども好きならばそれでいいのです。すぐに受け入れられるでしょう。

しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。子ども達を受け止めるというとき、私たちは子ども達の可愛さだけでなく弱さをも受け入れなければならないのです。

子どもを受け入れるという時、私たちには我慢と忍耐が必要かもしれません。キンキン響く声、よく分からない行動、座っていられずソワソワするのが子どもです。楽しいことだけではありません。そして子供を受け入れるという時、子ども達を危険から守り、教えることも受け入れなければならないことです。

今の時代はありのまま、その子らしさということが大事にされますが、イエス様の時代、子ども達は権利などありません。子どもは親の財産、所有物でした。そして小さいうちに多くの子どもが死んでしまいました。そのような弱くて、小さい存在、その命を大切に思う、イエス様はそのように生きたお方です。イエス様はものとして、財産として扱うのではなく、弱くて、保護と忍耐が必要な子どもたちとして、大切な命として受け入れていったのです。

私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのが、今日の聖書の個所です。弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たち、それは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエスを様を、神様を迎え入れることになるのです。

弱くされ、小さく、自分を言葉で十分に伝える事ができない人々と関わり、その人たちを大切にする事がイエス様を受け入れることになるというのです。そして私たちは受け入れるだけではありません。それを受け入れてもらう側でもあります。無力さ、弱さとは全ての人の中にあるものだからです。私もそうです。自分や他者の弱さ、無力を受け止めてゆくということがキリストの生き方なのです。お互いの弱さを認め合い、それを受け入れ合う事、その生き方を選ぶことがキリストを受け入れる事だということです。

そして注意をしたいのはここで私たちは子どもになりなさいと言われているのではないという事です。私たちはすぐに子どもの様になってしまう存在です。待っていられなかったり、集中できなかったり、周りが見えなくなってしまう存在です。私たちはこどものような弱さを持っています。でも私たちは子どもになるのではありません。様々な欠けがある、弱さがある私たち、それを受け入れ合いながら、生きていく。子どもの弱さを当然のこととして受け入れるように、お互いの弱さを受け入れていく。そのような生き方がキリストを受け入れる生き方です。

そして私たちが最後に受け入れるべきものも考えましょう。それはイエス・キリストです。実はイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。イエス・キリスト、その方は強く勇ましく死んでいったのではありません。十字架で無惨に、叫び死んでいったお方です。どうして私がこんな死をと思うような、そんな弱くて惨めな死に方をし、それを受け止めたお方です。その弱いお方が、弱さを受け入れたお方が、子どものような弱さを受け入れなさいと言います。弱い私を受け入れる者こそ、神を受け入れることになるのだとおっしゃっています。

さて、私たちは礼拝ということを今、考えています。礼拝という面から見てもこれは同じです。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。

弱い十字架のキリストの姿。そして1週間の失敗と不足の中で生きた弱い自分の姿、弱い子どもたちの姿、それをまるごと受けとめてゆくことが、私たちの礼拝となってゆくのです。

礼拝にでると、元気になるとは本当はそういうことが起きているのです。1週間に1度礼拝に来て、やせ我慢したり、自分の自慢をして元気になるのでありません。礼拝の中で弱い自分、弱いイエス・キリスト、弱いこどもに向かい合い、強くなっていくのです。弱さを受け入れて強くなるのです。

今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。

自分や他者の無力さを受け入れる事、そして十字架を受け入れる、それがイエス様の歩んだ道です。それを教えてくれるのが子どもたち、傷ついた者、弱い者、弱い私たちなのです。だからこそ礼拝は子どもを歓迎します。礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「礼拝は歌う」出エジプト15章20節~21節

 

みなさんおはようございます。今日もこうしてそれぞれの場所で、そしてインターネットで礼拝をできること、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもたちも一緒に礼拝をしましょう。私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」ということを考えたいと思います。

教会にはたくさんの芸術があります。たとえば音楽、生け花、書道、絵画、礼拝堂のデザインも芸術です。たくさんの芸術にあふれています。私たちは今インターネットの礼拝をしていますが、そこで補えないものがいくつかあると思います。交わりや献げ物が出来ないということもありますが、こういった礼拝の中の芸術にふれることが出来ないことも、それぞれの礼拝、インターネット礼拝の寂しさの一つかもしれません。

いまそれぞれの場所で礼拝することで、教会には芸術が溢れていたということに気づかされています。いままで、私たちはその芸術に囲まれた中で礼拝をしていた、み言葉を聞いていたということ、それぞれの自宅で礼拝する時に気付くのです。そして同時に、あの芸術たちは教会にとってどんな意味があったのか、そのひとつずつがどのような意味や効果があったのか、考えなおす時を頂いています。

たとえば礼拝に一切の芸術がなかったとしたらどうでしょうか。もちろんそれでも礼拝は礼拝であり続けます。礼拝は芸術が無くなったとしても成立をするのです。しかし私たちはこれらの芸術を、礼拝の中に選び取っています。音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつといえると思います。私たちは教会に来る時、聖書と賛美歌集をもって教会に来るのです。そして礼拝が始まる前に讃美歌の練習をします。教会には聖歌隊があり、オルガンがあり、教会のオリジナルの賛美歌もあります。そして礼拝の中で賛美歌を歌います。よく教会音楽と言いますが、それは礼拝のための音楽、礼拝音楽とも言えるでしょう。今日はこの教会がもっとも大切にしている芸術、礼拝音楽について考えたいのです。

私たちはなぜ礼拝で歌を歌うのでしょうか。礼拝で歌うことは当然のことではありません。例えばマルティン・ルターで有名な宗教改革の時、これは礼拝改革でもあったわけですが、礼拝の音楽についても様々な意見が出ました。

実は当初のバプテストは、礼拝で賛美を歌うかどうか熱心な議論がありました。どうして賛美歌がいらないと考えたのか、いくつか理由が挙げられています。バプテストが反対したのは、自由に関わる問題だったからです。一人ひとりの信仰を大切にするのがバプテストです。他の人が決めた歌詞と旋律を全員が一斉に歌うことは、歌の作者や選曲をした人からの信仰の押し付けだ、個人の信仰の自由を侵すと考えたのです。個や自由を大切にするバプテストらしい主張だと思います。

他にも歌は人を熱狂的にさせ自己満足に陥らせ、かえって神を見失うからだ言った人もいます。歌は自己満足やストレス発散になるのだけれども、それが目的になってしまって、かえって神様を見失うことになるのではないか、そう批判して歌わない選択をした人々も多くいたです。歌は危険だと指摘します。

実は歌を歌うことは危険です。歌っているうちに、いつのまにか賛美歌の対象が神様であることを忘れてしまうことが起こるからです。神様を見失って歌うようになってしまうことがあります。時には間違った目的のために賛美が利用されるときがあるのです。

例えば、マルティン・ルターは宗教改革者の中でもっとも音楽を愛した人です。彼の造った「神はわがやぐら」という曲があります。新生讃美歌538番の有名な曲です。聞いてみましょう(再生)。大変よい賛美歌ですが、この曲は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの思想、ユダヤ人虐殺を後押しするものとして利用された曲です。ドイツだけではありません。日本でも戦時中「戦時讃美歌」というのもが作られ、礼拝の中で戦争に賛成する歌がしきりに歌われました。賛美歌が間違った目的のためた例です。私たちも、なぜ歌うのか、何を歌うのかをしっかりと考えて歌わなければ、歴史の過ちを繰り返すでしょう。

私たちはなぜ歌うのでしょうか。今このコロナの影響で共に歌うことができない私たちです。でも感染の拡大が終息すれば、私たちはまた必ず歌を歌うでしょう。私たちは自由や、自己満足や、神を見失うという危険を冒してでも歌うことを選ぶでしょう。

でももう一度、歌うということを選ぶ前に、確認しておきたいのです。それは音楽や歌は自己表現や自己満足、ストレス発散、あるいは自己陶酔が目的ではないということです。

私たちはなぜ礼拝で歌うのでしょうか。礼拝の中で歌うのは、神の素晴らしさを表すためです。その手段が音楽です。神様の素晴らしさを表現するために歌があるのです。音楽は礼拝の助け、手段です。教会の様々な芸術が礼拝の助けとなると言えるでしょう。花や書道や絵や会堂、踊り、楽器。礼拝では様々な芸術によって、神様の素晴らしさを現わすことができるのです。

しかし私は「歌う」ということにまさる、神様の素晴らしさを表す方法、芸術はないと思います。礼拝の中で歌う理由はいくつかあります。

礼拝の中で歌う理由の一つは、歌うことが私たちの共同体を現わすからです。皆さんは歌は何に合わせて歌っているでしょうか。私は奏楽に声を合わせているつもりです。しかし奏楽者は何に合わせているでしょうか。機械のように楽譜どおりにひくだけではありません。それが歌いづらいことを今私たちは実感しています。奏楽者は会衆の声に合わせています。私たちはお互いに合わせています。そうやってお互いに合わせることでひとつの美しいメロディーになるのです。歌を歌うと、一つの共同体になることができるのです。

そしてもちろんその歌は神様の素晴らしさを現わしている歌です。私たちはお互いを意識しながら、神様を素晴らしいと歌っているのです。私たちは神を讃えるために、神様の素晴らしさを表すために、互いの声を聞き、声を合わせ、奏楽に合わせ、神に歌うのです。それが歌う目的です。歌を選ぶ理由です。お互いの、左右の矢印と、下から上への矢印が同時に表現することができるのが賛美歌です。様々な危険に注意しながら、私たちは礼拝で神様の素晴らしさを歌うのです。また集った時、礼拝で一緒に歌いましょう。

様々な芸術があります。その中で教会は特に歌を大切にします。それは皆が互いの命を感じ、神の民がそろって神様の素晴らしさ表すことができるからです。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。聖書にはたくさんの芸術、特に音楽があり、いろいろな楽器が登場します。今日の芸術はダンスと楽器と歌です。マリアムは踊って神様の素晴らしさを表現し、楽器を使って神様の素晴らしさを表現したのです。小太鼓とありますが、これはタンバリンだったと言われています。(タンバリンを見せて)これです。今日私は踊りませんが、今日の個所によれば、楽器をならして、踊ること、その芸術によって神様の素晴らしさを表現したのです。神様を賛美したのです。

そしてミリアムたちは歌ったともあります。ミリアムはみんなに合わせて歌いました。そしてみんなはミリアムに合わせて歌いました。神の民のすべての人々が声を合わせて、体を動かして、神様の素晴らしさを現わしたのです。そこには危険もあったでしょう。踊ることで自分が気持ち良くなったり、ストレス発散になったりして、かえって神様を忘れることになる危険もありました。

でも彼女たちはその踊り、歌をしっかりと神様に向けて歌いました。その芸術はしっかりと神様に向けられました。それは神様の素晴らしさを表し、私たちの共同体を表現していたのです。

歌の内容にも目を向けましょう。歌った内容は出エジプトの出来事でした。神の力によって海を渡ることができた出来事です。自分たちの道が守られて開かれた出来事です。彼女たちは神様がなさった奇跡をそのまま歌にしました。そう、神様への歌は私がどうやって歩むかという決心も大事ですが、ここで歌われているのはそのような私たちの決心ではありません。

ここでは神様の働き、そのものを歌われているのです。神のなさったこと、神の業そのものがここで歌われているのです。これが賛美歌です。神様に歌によって表す第一のもの、それは私たちの決心ではありません。それは神様の素晴らしさです。まず神様の素晴らしさを表わす、それが私たちの賛美なのです。様々な歌、特に新生賛美歌は応答や伝道に関する曲が多いですが、まずその曲も神さまの素晴らしさを表すところからきているのだという事を覚えていたのです。

そしてこのミリアムの歌を見ましょう。この歌は感謝の歌でもあります。苦しい時に、守りを願って歌ったのではなく、かつて守られたことを振り返り、感謝して歌ったのです。私たちの今と、重なります。私たちは今集まって共に歌うことが出来ません。苦しい時にいます。でもいつか必ずまた賛美を歌うことができるようになります。その時、神様に精一杯の感謝の歌を捧げましょう。苦しい時に神様へ祈るだけではなく、乗り越える事が出来た後、今日のミリアムように再び集うことが出来た時に、神様への感謝をまた歌で表したいのです。

 

私たちは一緒に新しい歌を歌いましょう。新しい歌それは、新曲という意味ではありません。それは私たちが歌う、ストレス発散の歌ではなく、それとはまったく違う新しい歌です。新しい気持ち、新しい感謝をもって歌を歌いましょう。その歌は互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら歌いましょう。そして、なにより神様にむけて、賛美をしましょう。

 

お祈りします。

 

【全文】「礼拝は共同体作り」使徒15章3節~21節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。またこどもたちもテレビやパソコンの前にいるでしょうか。平塚教会はこどもを大切にする教会をめざしています。ぜひいっしょに礼拝をしましょう。

私たちは今、「礼拝は○○」というテーマで12回の宣教の最中です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマで見てゆきたいと思います。

礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められる、そこで私たちは一つのチーム、一つの教会になります。私たちの教会は礼拝共同体です。私たちにはいろいろな仲間がいます、学生時代の仲間、飲み仲間、ゴルフ仲間、職場の仲間がいます。では私たちは何の仲間でしょうか?それは礼拝仲間と言えると思います。私たちは礼拝をする共同体です。私たちを一番結び付けているもの、それは礼拝なのです。神様から招かれて礼拝をする、礼拝仲間なのです。

私たちは集えない今、もう一度礼拝について考える時を頂いています。先週から礼拝のプログラムひとつずつを考えています。最初に招詞について考えました。礼拝は私たちの頑張りではなく神様の招きによって始まるのだ、だからこそ最初に招詞が読まれるのだとということを見てきました。今日は礼拝の中の「報告」について、見てゆきたいのです。「報告」は私たちの礼拝プログラムの一番最後に置かれています。礼拝の一部であることを忘れられがちですが、しっかりと礼拝プログラムの中に組み込まれている、礼拝の一部なのです。

私自身も礼拝について学び直していますが、改めて礼拝の中の「報告」について調べてみました。調べていると報告を礼拝に入れるべきなのかどうか、わからなくなってきました。礼拝学事典という本には「報告」という項目すらありません。多くの教会で報告も礼拝の一部であるはずなのに、事典に項目すらないのはというのは残念です。さらにバプテストの礼拝学の本を見るとこんなことが書いてありました「報告は礼拝ではない」「週報に載っていることは繰り返して報告する必要はない」とありました。さらに「報告によって教会が建てられることはないし、未信者を救いに導くことはない、報告を聞いて心臓がどきどきすることも無い」と書いてありました。私たちの持つ礼拝の報告の時間が真っ向から批判のようで、思わず私は笑ってしまいました。

私たちは「報告」を礼拝の中で持ち、しかも週報の報告欄を丁寧に読み上げているのです。やはり報告は礼拝終了の後にすべきであり、礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で続けるべきでしょうか。「報告」が礼拝の中にある意味とは一体何でしょうか?

どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。いずれ皆さんとも話し、分ちあう時がくればいいなと思います。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。礼拝の中に報告があることに、大切な意味があると思います。報告は平塚バプテスト教会の礼拝には、なくてはならいないことだと私は思います。

週報に書いてある「報告」とはただの連絡事項ではありません。私たちの信仰の共同体に関わる重大な事柄、そして具体的な事柄が書いてあります。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているのです。もちろん礼拝の中心は聖書のみ言葉です。しかしこの報告も礼拝では大切な要素だと思います。

私たちは神様によって変えられる者です。神様が私を変えて下さるように願います。神様のみ言葉によって変えられる者です。しかし多くの場合、神様は教会の仲間や、私たちの友人を通じて私たちに変化を起こそうとなさいます。私たちは他者を通じて神様に変えられるのです。

誰かと話することで、お互いを知ることで、神様の事を知るようになります。信仰とは神様と私の一対一の事柄です。誰の指図も受けない、神様を信じるかどうかはあなた個人の問題です。しかし同時に、私たちは他者との関わりによって、神様に導かれていく者でもあります。だから今インターネットで礼拝をする寂しさがあるのだと思います。同じ様に礼拝を聞いていても、他者との関わりがないと、十分な礼拝体験をすることができないのです。

私たちは一人ひとりがみ言葉を聞いていれば、それでいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。礼拝とは一人の出来事ではなく、共同体の出来事、共同体を作っていく出来事なのです。

私が礼拝の中で報告が大事だと思うのは、このことからです。共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。今日の週報の報告にもたくさん共同体の出来事が書かれています。私たちがどのように礼拝をするのか、何を祈るのか、どのように情報を共有するのか、どのように献金を捧げるのか、それらが分かちあわれています。これは私たちが礼拝の共同体であるために必要な情報です。さらにこの時間、新来者の紹介もします。私たちは不特定多数の人が集まって礼拝するのではありません。新しく来た方がいれば、私たちの礼拝仲間に誰が加わっていたいのかが、分かち合われるのです。礼拝共同体としての具体的な分かち合いのです。

 

人は独りでは生きていけない。これは信仰も同じです。一人では信仰は続きません。神様と1対1で向き合いながらも、みんなで互いを知り合い、励まし合いながら神様に向き合う必要があるのです。教会はそのような礼拝・報告によって共同体になっていくのです。教会がひとつの共同体となってゆくために、互いをよく知るために報告は必要なのです。報告、それは礼拝の中で持たれるのがふさわしい。もっと大事にされるべきものだと思います。

だからもし次の予定があって、急いでいても、報告が終わる最後まで帰らないで欲しいのです。そして、何か小さくても皆さんからの報告があれば、ぜひ前に出て、報告してみて欲しいと思います。そして週報を見ると、他の教会の報告もされています。教会同士も励まし合い、知り合う、そのことでそれぞれの信仰を深めてゆくことが出来るのです。

 

今日の聖書個所見てゆきましょう。今日の個所は、報告の大切さが示されています。報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。今日の個所ではパウロが教会に報告をしています。2節です。報告の内容は、今までユダヤ教の神様を信じる人がイエス・キリストを信じていたのですが、それだけではなくユダヤ教の神様を知らない人、外国人も、イエス・キリストを信じるようになったという報告でした。そのような人々がたくさん出て来たという報告でした。

その報告によって教会は大きな喜びに満たされたとあります。思いもよらない事です。自分たちの民族以外にもこのように福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。

ある人は考えました。ユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになるのだ。だからイエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだというのです。形ばかりに凝り固まった律法主義、そんな単純な話ではありません。多くの人が律法の実践は神様の恵みへの応答なんだと考えたのです。だから一生懸命、律法を実践してゆこう。一緒に律法を実践してく共同体になろう。そう考えたのです。

またある人は考えました。神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだ。それなのにどうして、ユダヤ教の方法や伝統を新しくイエス・キリストを信じるようになったものに、押し付けるのか。ユダヤ人と同じように律法を忠実に実践しなければいけないわけではない。それぞれに応答の仕方があるそう考えたのです。

この二つ、どちらの考えも大事だと思います。私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。

今日皆さんと見たいのは、どちらの考えが正しい、間違っているという問題ではなく、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。

パウロの報告の影響を見てゆきましょう。聖書によれば、この共同体は今までと同じ方法ではなく、境界線をなくしてゆくという方法を選びました。報告によって、活発に意見が交換されました。わたしたちは、自分たちがどう応答するかによって救われるかが決まるのではなく、ただ主イエスの恵みによって救われるのだと、共同体が気づいたのです。だから神に立ち帰る人に今までの律法すべてを実践するように求めないという結論になったのです。もちろんいくつかの条件は付きました。

報告によって、共同体の在り方が大きく問われました。報告によって自分たちが信じている事、大切にしていることが見えるようになったのです。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを考えるのです。そこから具体的な信仰の歩みが始まるのです。

私たちの教会でもこの報告を大切にしたいと思います。そしてもっと活き活きとした報告、みなさんに問いを投げかけるような報告、互いの事を知ることが出来るような報告、そのような報告に変えてゆきたいと私も思いました。そしてもっと教会の一方的な報告ではなく、みなさんからの報告もたくさんあっていいのではと思います。

そのことによって、私たちは、共同体への問いを感じながら歩んでゆくことができるのではないでしょうか。そして報告をしながらもうワンステップ、キリストを礼拝する共同体に近づいてゆくことが出来るのではないでしょうか?

礼拝は共同体を作ります。報告によって私たちは新しい共同体とされてゆくのです。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りなのです。

 

お祈りいたします。