【全文】「礼拝はこども歓迎」ルカ9章48節

みなさん、改めておはようございます。今日も共に礼拝をすることができ、感謝です。またこどもたちもテレビやスマホの前に集ってくれているでしょうか。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。ぜひ一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会ではこどもプロジェクトというものを進めています。数年前から様々な取り組みをしていますが、まずは教会の敷地にあたらしい「こひつじ館」を建てました。そこで共同保育をしています。今はコロナの影響で開いてはいませんが、先日前を通った方が、また早く集まりたいと話をしてくださいました。地域の子どもとお母さんの憩いの場となっています。

また教会では「こども食堂」のオープンも準備しています。本来でしたら来月からということを予定していましたが、これもコロナが収まったら始めてゆきたいと思っています。

私たちはこのように子どもを大切にする教会を目指しています。そしてもちろん礼拝の中でもこどもを大切にします。子どもがのびのびと、ありのままでいられる教会を目指しています。いい子になったら教会においで、静かにできる子は教会においでではなく、まずおいで。声が響くかもしれないけれど、それを楽しむくらいの余裕で大人は礼拝します。そうやって子どもたちを歓迎しています。同じ場所で一緒に礼拝することを大切にしています。

今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。私たちはこどもを大切にするという思いで、この言葉を年間主題聖句とし、週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会でも声を合わせて読んでいます。今日はこの一節に心を向け、礼拝は子どもを歓迎するということ、また弱さの中で礼拝を持とうということを見てゆきたいと思います。

 

さて私たちは日々、いろいろなことを祈るわけですが、多くの場合祈りは「神様」や「天におられる神様」という、神様への呼びかけから始まります。それは祈りが神様に向けられているものだから当然です。そして私たちの祈りは多くの場合、「イエス様の御名によって祈ります」とか「イエス様の御名を通じてお祈りします」という言葉で終わります。神様への呼び掛けで始まり、最後は「イエス様の御名によって祈ります」という言葉で終わるのです。今日の個所にも「わたしの名のために」とありますが、この言葉は私たちの祈りの最後と同じ意味の言葉です。

「イエス・キリストの御名によって」とは、イエス様を通してという事です。私たちの祈りは、神様に直接に呼び掛ける祈りです。そして同時にそれは神様によってこの地上に与えられたイエス様を通じても神様に呼び掛ける祈りなのです。神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えるのです。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈るのです。神様に祈り、イエス様を通じて祈る、それが私たちの祈りです。だから最後に「イエス・キリストの御名によって」と加えて祈るのです。

神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れる、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にしたいと受け入れる事が神様を受け入れてゆくことです。信仰を持つということです。イエス様、神様が派遣されたイエス様の歩み方を自分も生きるという事が信じるという事です。

しかし今日の個所、イエス様はこのように言います「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」そういうのです。神様から派遣されたイエス様、イエス様を受け入れる事は神様を受け入れることになるのです。そしてイエス様は子どもを受け入れる事は私を受け入れることになるというのです。いわば連鎖関係にあります。

神様=イエス様、イエス様=こどもと書かれているのです。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。神様を迎え入れるとは、イエス様を迎え入れること。イエス様を迎え入れるとは子ども達を迎え入れる事だと言うのです。つまり今日の個所、神様を迎え入れるとは子どもを迎え入れることなのだと言っているのです。

 

イエス様はどうして、子どもを受け入れる者は、私を受け入れる者だというのでしょうか。子どもがかわいくて、無邪気で、満面の笑顔だからでしょうか?もちろん子どもたちはかわいいのですが、かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。子ども好きならばそれでいいのです。すぐに受け入れられるでしょう。

しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。子ども達を受け止めるというとき、私たちは子ども達の可愛さだけでなく弱さをも受け入れなければならないのです。

子どもを受け入れるという時、私たちには我慢と忍耐が必要かもしれません。キンキン響く声、よく分からない行動、座っていられずソワソワするのが子どもです。楽しいことだけではありません。そして子供を受け入れるという時、子ども達を危険から守り、教えることも受け入れなければならないことです。

今の時代はありのまま、その子らしさということが大事にされますが、イエス様の時代、子ども達は権利などありません。子どもは親の財産、所有物でした。そして小さいうちに多くの子どもが死んでしまいました。そのような弱くて、小さい存在、その命を大切に思う、イエス様はそのように生きたお方です。イエス様はものとして、財産として扱うのではなく、弱くて、保護と忍耐が必要な子どもたちとして、大切な命として受け入れていったのです。

私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのが、今日の聖書の個所です。弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たち、それは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエスを様を、神様を迎え入れることになるのです。

弱くされ、小さく、自分を言葉で十分に伝える事ができない人々と関わり、その人たちを大切にする事がイエス様を受け入れることになるというのです。そして私たちは受け入れるだけではありません。それを受け入れてもらう側でもあります。無力さ、弱さとは全ての人の中にあるものだからです。私もそうです。自分や他者の弱さ、無力を受け止めてゆくということがキリストの生き方なのです。お互いの弱さを認め合い、それを受け入れ合う事、その生き方を選ぶことがキリストを受け入れる事だということです。

そして注意をしたいのはここで私たちは子どもになりなさいと言われているのではないという事です。私たちはすぐに子どもの様になってしまう存在です。待っていられなかったり、集中できなかったり、周りが見えなくなってしまう存在です。私たちはこどものような弱さを持っています。でも私たちは子どもになるのではありません。様々な欠けがある、弱さがある私たち、それを受け入れ合いながら、生きていく。子どもの弱さを当然のこととして受け入れるように、お互いの弱さを受け入れていく。そのような生き方がキリストを受け入れる生き方です。

そして私たちが最後に受け入れるべきものも考えましょう。それはイエス・キリストです。実はイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。イエス・キリスト、その方は強く勇ましく死んでいったのではありません。十字架で無惨に、叫び死んでいったお方です。どうして私がこんな死をと思うような、そんな弱くて惨めな死に方をし、それを受け止めたお方です。その弱いお方が、弱さを受け入れたお方が、子どものような弱さを受け入れなさいと言います。弱い私を受け入れる者こそ、神を受け入れることになるのだとおっしゃっています。

さて、私たちは礼拝ということを今、考えています。礼拝という面から見てもこれは同じです。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。

弱い十字架のキリストの姿。そして1週間の失敗と不足の中で生きた弱い自分の姿、弱い子どもたちの姿、それをまるごと受けとめてゆくことが、私たちの礼拝となってゆくのです。

礼拝にでると、元気になるとは本当はそういうことが起きているのです。1週間に1度礼拝に来て、やせ我慢したり、自分の自慢をして元気になるのでありません。礼拝の中で弱い自分、弱いイエス・キリスト、弱いこどもに向かい合い、強くなっていくのです。弱さを受け入れて強くなるのです。

今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。

自分や他者の無力さを受け入れる事、そして十字架を受け入れる、それがイエス様の歩んだ道です。それを教えてくれるのが子どもたち、傷ついた者、弱い者、弱い私たちなのです。だからこそ礼拝は子どもを歓迎します。礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「礼拝は歌う」出エジプト15章20節~21節

 

みなさんおはようございます。今日もこうしてそれぞれの場所で、そしてインターネットで礼拝をできること、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもたちも一緒に礼拝をしましょう。私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」ということを考えたいと思います。

教会にはたくさんの芸術があります。たとえば音楽、生け花、書道、絵画、礼拝堂のデザインも芸術です。たくさんの芸術にあふれています。私たちは今インターネットの礼拝をしていますが、そこで補えないものがいくつかあると思います。交わりや献げ物が出来ないということもありますが、こういった礼拝の中の芸術にふれることが出来ないことも、それぞれの礼拝、インターネット礼拝の寂しさの一つかもしれません。

いまそれぞれの場所で礼拝することで、教会には芸術が溢れていたということに気づかされています。いままで、私たちはその芸術に囲まれた中で礼拝をしていた、み言葉を聞いていたということ、それぞれの自宅で礼拝する時に気付くのです。そして同時に、あの芸術たちは教会にとってどんな意味があったのか、そのひとつずつがどのような意味や効果があったのか、考えなおす時を頂いています。

たとえば礼拝に一切の芸術がなかったとしたらどうでしょうか。もちろんそれでも礼拝は礼拝であり続けます。礼拝は芸術が無くなったとしても成立をするのです。しかし私たちはこれらの芸術を、礼拝の中に選び取っています。音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつといえると思います。私たちは教会に来る時、聖書と賛美歌集をもって教会に来るのです。そして礼拝が始まる前に讃美歌の練習をします。教会には聖歌隊があり、オルガンがあり、教会のオリジナルの賛美歌もあります。そして礼拝の中で賛美歌を歌います。よく教会音楽と言いますが、それは礼拝のための音楽、礼拝音楽とも言えるでしょう。今日はこの教会がもっとも大切にしている芸術、礼拝音楽について考えたいのです。

私たちはなぜ礼拝で歌を歌うのでしょうか。礼拝で歌うことは当然のことではありません。例えばマルティン・ルターで有名な宗教改革の時、これは礼拝改革でもあったわけですが、礼拝の音楽についても様々な意見が出ました。

実は当初のバプテストは、礼拝で賛美を歌うかどうか熱心な議論がありました。どうして賛美歌がいらないと考えたのか、いくつか理由が挙げられています。バプテストが反対したのは、自由に関わる問題だったからです。一人ひとりの信仰を大切にするのがバプテストです。他の人が決めた歌詞と旋律を全員が一斉に歌うことは、歌の作者や選曲をした人からの信仰の押し付けだ、個人の信仰の自由を侵すと考えたのです。個や自由を大切にするバプテストらしい主張だと思います。

他にも歌は人を熱狂的にさせ自己満足に陥らせ、かえって神を見失うからだ言った人もいます。歌は自己満足やストレス発散になるのだけれども、それが目的になってしまって、かえって神様を見失うことになるのではないか、そう批判して歌わない選択をした人々も多くいたです。歌は危険だと指摘します。

実は歌を歌うことは危険です。歌っているうちに、いつのまにか賛美歌の対象が神様であることを忘れてしまうことが起こるからです。神様を見失って歌うようになってしまうことがあります。時には間違った目的のために賛美が利用されるときがあるのです。

例えば、マルティン・ルターは宗教改革者の中でもっとも音楽を愛した人です。彼の造った「神はわがやぐら」という曲があります。新生讃美歌538番の有名な曲です。聞いてみましょう(再生)。大変よい賛美歌ですが、この曲は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの思想、ユダヤ人虐殺を後押しするものとして利用された曲です。ドイツだけではありません。日本でも戦時中「戦時讃美歌」というのもが作られ、礼拝の中で戦争に賛成する歌がしきりに歌われました。賛美歌が間違った目的のためた例です。私たちも、なぜ歌うのか、何を歌うのかをしっかりと考えて歌わなければ、歴史の過ちを繰り返すでしょう。

私たちはなぜ歌うのでしょうか。今このコロナの影響で共に歌うことができない私たちです。でも感染の拡大が終息すれば、私たちはまた必ず歌を歌うでしょう。私たちは自由や、自己満足や、神を見失うという危険を冒してでも歌うことを選ぶでしょう。

でももう一度、歌うということを選ぶ前に、確認しておきたいのです。それは音楽や歌は自己表現や自己満足、ストレス発散、あるいは自己陶酔が目的ではないということです。

私たちはなぜ礼拝で歌うのでしょうか。礼拝の中で歌うのは、神の素晴らしさを表すためです。その手段が音楽です。神様の素晴らしさを表現するために歌があるのです。音楽は礼拝の助け、手段です。教会の様々な芸術が礼拝の助けとなると言えるでしょう。花や書道や絵や会堂、踊り、楽器。礼拝では様々な芸術によって、神様の素晴らしさを現わすことができるのです。

しかし私は「歌う」ということにまさる、神様の素晴らしさを表す方法、芸術はないと思います。礼拝の中で歌う理由はいくつかあります。

礼拝の中で歌う理由の一つは、歌うことが私たちの共同体を現わすからです。皆さんは歌は何に合わせて歌っているでしょうか。私は奏楽に声を合わせているつもりです。しかし奏楽者は何に合わせているでしょうか。機械のように楽譜どおりにひくだけではありません。それが歌いづらいことを今私たちは実感しています。奏楽者は会衆の声に合わせています。私たちはお互いに合わせています。そうやってお互いに合わせることでひとつの美しいメロディーになるのです。歌を歌うと、一つの共同体になることができるのです。

そしてもちろんその歌は神様の素晴らしさを現わしている歌です。私たちはお互いを意識しながら、神様を素晴らしいと歌っているのです。私たちは神を讃えるために、神様の素晴らしさを表すために、互いの声を聞き、声を合わせ、奏楽に合わせ、神に歌うのです。それが歌う目的です。歌を選ぶ理由です。お互いの、左右の矢印と、下から上への矢印が同時に表現することができるのが賛美歌です。様々な危険に注意しながら、私たちは礼拝で神様の素晴らしさを歌うのです。また集った時、礼拝で一緒に歌いましょう。

様々な芸術があります。その中で教会は特に歌を大切にします。それは皆が互いの命を感じ、神の民がそろって神様の素晴らしさ表すことができるからです。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。聖書にはたくさんの芸術、特に音楽があり、いろいろな楽器が登場します。今日の芸術はダンスと楽器と歌です。マリアムは踊って神様の素晴らしさを表現し、楽器を使って神様の素晴らしさを表現したのです。小太鼓とありますが、これはタンバリンだったと言われています。(タンバリンを見せて)これです。今日私は踊りませんが、今日の個所によれば、楽器をならして、踊ること、その芸術によって神様の素晴らしさを表現したのです。神様を賛美したのです。

そしてミリアムたちは歌ったともあります。ミリアムはみんなに合わせて歌いました。そしてみんなはミリアムに合わせて歌いました。神の民のすべての人々が声を合わせて、体を動かして、神様の素晴らしさを現わしたのです。そこには危険もあったでしょう。踊ることで自分が気持ち良くなったり、ストレス発散になったりして、かえって神様を忘れることになる危険もありました。

でも彼女たちはその踊り、歌をしっかりと神様に向けて歌いました。その芸術はしっかりと神様に向けられました。それは神様の素晴らしさを表し、私たちの共同体を表現していたのです。

歌の内容にも目を向けましょう。歌った内容は出エジプトの出来事でした。神の力によって海を渡ることができた出来事です。自分たちの道が守られて開かれた出来事です。彼女たちは神様がなさった奇跡をそのまま歌にしました。そう、神様への歌は私がどうやって歩むかという決心も大事ですが、ここで歌われているのはそのような私たちの決心ではありません。

ここでは神様の働き、そのものを歌われているのです。神のなさったこと、神の業そのものがここで歌われているのです。これが賛美歌です。神様に歌によって表す第一のもの、それは私たちの決心ではありません。それは神様の素晴らしさです。まず神様の素晴らしさを表わす、それが私たちの賛美なのです。様々な歌、特に新生賛美歌は応答や伝道に関する曲が多いですが、まずその曲も神さまの素晴らしさを表すところからきているのだという事を覚えていたのです。

そしてこのミリアムの歌を見ましょう。この歌は感謝の歌でもあります。苦しい時に、守りを願って歌ったのではなく、かつて守られたことを振り返り、感謝して歌ったのです。私たちの今と、重なります。私たちは今集まって共に歌うことが出来ません。苦しい時にいます。でもいつか必ずまた賛美を歌うことができるようになります。その時、神様に精一杯の感謝の歌を捧げましょう。苦しい時に神様へ祈るだけではなく、乗り越える事が出来た後、今日のミリアムように再び集うことが出来た時に、神様への感謝をまた歌で表したいのです。

 

私たちは一緒に新しい歌を歌いましょう。新しい歌それは、新曲という意味ではありません。それは私たちが歌う、ストレス発散の歌ではなく、それとはまったく違う新しい歌です。新しい気持ち、新しい感謝をもって歌を歌いましょう。その歌は互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら歌いましょう。そして、なにより神様にむけて、賛美をしましょう。

 

お祈りします。

 

【全文】「礼拝は共同体作り」使徒15章3節~21節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。またこどもたちもテレビやパソコンの前にいるでしょうか。平塚教会はこどもを大切にする教会をめざしています。ぜひいっしょに礼拝をしましょう。

私たちは今、「礼拝は○○」というテーマで12回の宣教の最中です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマで見てゆきたいと思います。

礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められる、そこで私たちは一つのチーム、一つの教会になります。私たちの教会は礼拝共同体です。私たちにはいろいろな仲間がいます、学生時代の仲間、飲み仲間、ゴルフ仲間、職場の仲間がいます。では私たちは何の仲間でしょうか?それは礼拝仲間と言えると思います。私たちは礼拝をする共同体です。私たちを一番結び付けているもの、それは礼拝なのです。神様から招かれて礼拝をする、礼拝仲間なのです。

私たちは集えない今、もう一度礼拝について考える時を頂いています。先週から礼拝のプログラムひとつずつを考えています。最初に招詞について考えました。礼拝は私たちの頑張りではなく神様の招きによって始まるのだ、だからこそ最初に招詞が読まれるのだとということを見てきました。今日は礼拝の中の「報告」について、見てゆきたいのです。「報告」は私たちの礼拝プログラムの一番最後に置かれています。礼拝の一部であることを忘れられがちですが、しっかりと礼拝プログラムの中に組み込まれている、礼拝の一部なのです。

私自身も礼拝について学び直していますが、改めて礼拝の中の「報告」について調べてみました。調べていると報告を礼拝に入れるべきなのかどうか、わからなくなってきました。礼拝学事典という本には「報告」という項目すらありません。多くの教会で報告も礼拝の一部であるはずなのに、事典に項目すらないのはというのは残念です。さらにバプテストの礼拝学の本を見るとこんなことが書いてありました「報告は礼拝ではない」「週報に載っていることは繰り返して報告する必要はない」とありました。さらに「報告によって教会が建てられることはないし、未信者を救いに導くことはない、報告を聞いて心臓がどきどきすることも無い」と書いてありました。私たちの持つ礼拝の報告の時間が真っ向から批判のようで、思わず私は笑ってしまいました。

私たちは「報告」を礼拝の中で持ち、しかも週報の報告欄を丁寧に読み上げているのです。やはり報告は礼拝終了の後にすべきであり、礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で続けるべきでしょうか。「報告」が礼拝の中にある意味とは一体何でしょうか?

どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。いずれ皆さんとも話し、分ちあう時がくればいいなと思います。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。礼拝の中に報告があることに、大切な意味があると思います。報告は平塚バプテスト教会の礼拝には、なくてはならいないことだと私は思います。

週報に書いてある「報告」とはただの連絡事項ではありません。私たちの信仰の共同体に関わる重大な事柄、そして具体的な事柄が書いてあります。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているのです。もちろん礼拝の中心は聖書のみ言葉です。しかしこの報告も礼拝では大切な要素だと思います。

私たちは神様によって変えられる者です。神様が私を変えて下さるように願います。神様のみ言葉によって変えられる者です。しかし多くの場合、神様は教会の仲間や、私たちの友人を通じて私たちに変化を起こそうとなさいます。私たちは他者を通じて神様に変えられるのです。

誰かと話することで、お互いを知ることで、神様の事を知るようになります。信仰とは神様と私の一対一の事柄です。誰の指図も受けない、神様を信じるかどうかはあなた個人の問題です。しかし同時に、私たちは他者との関わりによって、神様に導かれていく者でもあります。だから今インターネットで礼拝をする寂しさがあるのだと思います。同じ様に礼拝を聞いていても、他者との関わりがないと、十分な礼拝体験をすることができないのです。

私たちは一人ひとりがみ言葉を聞いていれば、それでいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。礼拝とは一人の出来事ではなく、共同体の出来事、共同体を作っていく出来事なのです。

私が礼拝の中で報告が大事だと思うのは、このことからです。共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。今日の週報の報告にもたくさん共同体の出来事が書かれています。私たちがどのように礼拝をするのか、何を祈るのか、どのように情報を共有するのか、どのように献金を捧げるのか、それらが分かちあわれています。これは私たちが礼拝の共同体であるために必要な情報です。さらにこの時間、新来者の紹介もします。私たちは不特定多数の人が集まって礼拝するのではありません。新しく来た方がいれば、私たちの礼拝仲間に誰が加わっていたいのかが、分かち合われるのです。礼拝共同体としての具体的な分かち合いのです。

 

人は独りでは生きていけない。これは信仰も同じです。一人では信仰は続きません。神様と1対1で向き合いながらも、みんなで互いを知り合い、励まし合いながら神様に向き合う必要があるのです。教会はそのような礼拝・報告によって共同体になっていくのです。教会がひとつの共同体となってゆくために、互いをよく知るために報告は必要なのです。報告、それは礼拝の中で持たれるのがふさわしい。もっと大事にされるべきものだと思います。

だからもし次の予定があって、急いでいても、報告が終わる最後まで帰らないで欲しいのです。そして、何か小さくても皆さんからの報告があれば、ぜひ前に出て、報告してみて欲しいと思います。そして週報を見ると、他の教会の報告もされています。教会同士も励まし合い、知り合う、そのことでそれぞれの信仰を深めてゆくことが出来るのです。

 

今日の聖書個所見てゆきましょう。今日の個所は、報告の大切さが示されています。報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。今日の個所ではパウロが教会に報告をしています。2節です。報告の内容は、今までユダヤ教の神様を信じる人がイエス・キリストを信じていたのですが、それだけではなくユダヤ教の神様を知らない人、外国人も、イエス・キリストを信じるようになったという報告でした。そのような人々がたくさん出て来たという報告でした。

その報告によって教会は大きな喜びに満たされたとあります。思いもよらない事です。自分たちの民族以外にもこのように福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。

ある人は考えました。ユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになるのだ。だからイエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだというのです。形ばかりに凝り固まった律法主義、そんな単純な話ではありません。多くの人が律法の実践は神様の恵みへの応答なんだと考えたのです。だから一生懸命、律法を実践してゆこう。一緒に律法を実践してく共同体になろう。そう考えたのです。

またある人は考えました。神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだ。それなのにどうして、ユダヤ教の方法や伝統を新しくイエス・キリストを信じるようになったものに、押し付けるのか。ユダヤ人と同じように律法を忠実に実践しなければいけないわけではない。それぞれに応答の仕方があるそう考えたのです。

この二つ、どちらの考えも大事だと思います。私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。

今日皆さんと見たいのは、どちらの考えが正しい、間違っているという問題ではなく、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。

パウロの報告の影響を見てゆきましょう。聖書によれば、この共同体は今までと同じ方法ではなく、境界線をなくしてゆくという方法を選びました。報告によって、活発に意見が交換されました。わたしたちは、自分たちがどう応答するかによって救われるかが決まるのではなく、ただ主イエスの恵みによって救われるのだと、共同体が気づいたのです。だから神に立ち帰る人に今までの律法すべてを実践するように求めないという結論になったのです。もちろんいくつかの条件は付きました。

報告によって、共同体の在り方が大きく問われました。報告によって自分たちが信じている事、大切にしていることが見えるようになったのです。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを考えるのです。そこから具体的な信仰の歩みが始まるのです。

私たちの教会でもこの報告を大切にしたいと思います。そしてもっと活き活きとした報告、みなさんに問いを投げかけるような報告、互いの事を知ることが出来るような報告、そのような報告に変えてゆきたいと私も思いました。そしてもっと教会の一方的な報告ではなく、みなさんからの報告もたくさんあっていいのではと思います。

そのことによって、私たちは、共同体への問いを感じながら歩んでゆくことができるのではないでしょうか。そして報告をしながらもうワンステップ、キリストを礼拝する共同体に近づいてゆくことが出来るのではないでしょうか?

礼拝は共同体を作ります。報告によって私たちは新しい共同体とされてゆくのです。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りなのです。

 

お祈りいたします。

【全文】「礼拝は招き」ヨハネ21章1節~14節

みなさん、おはようございます。今日もこうして礼拝を共にできる恵みを感謝します。私たちの教会はもうしばらくの間、5月いっぱい礼拝は集わない形式をとることとしました。もちろん早く集まりたい思いです。また言葉を交わしたいのです。しかし、今それぞれの場所から礼拝に招かれている、そう信じ、それぞれの場所から精一杯の礼拝を献げてゆきましょう。また今日予定されていた主の晩餐は出来ませんが、パンとぶどう酒のカードをお送りしてみました。それぞれにイエス様との食卓を覚えてゆきましょう。

今、私たちはそれぞれに、礼拝ということ考えさせられています。宣教も「礼拝は○○」というテーマで続けています。今日は3回目です。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素を見ました。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣ということです。今日からは具体的に私たちが礼拝のプログラムの中でしている、ひとつずつを、考えていきたいと思います。その一回目は「招詞」についてです。礼拝のプログラムを見るとまず最初は前奏、そして招詞と続きます。礼拝を何から始めるのかは、とても重要です。私たちの礼拝は前奏からはじまります。前奏もただのBGMではありません。人々が心を静めるためです。なぜ心を静めるのか、それは神様の招きを聞くためです。招詞、招きの言葉に心を向けるため、神様が今日この私たちを招いてくださっているという言葉を聞くために前奏があります。前奏はそのことを示しているのです。音楽という事については、また改めてまとめて、話をすることとして、今日はこの招きについて考えたいと思います。

招きという事を考える時、今私たちが集わないという形で礼拝をしているということと無関係には考えられません。いま集まれなくなって、気づかされるのは、ウイルスの蔓延以前にも、年齢を重ね、教会の礼拝に来ることができなくなっていた方が大勢いたということです。自分の足ではいけない、誰かの助けを借りないといけない、体調の都合で毎週は行くことができないという方が、以前から大勢いらっしゃいます。いままで毎週礼拝に集っている者には、なかなかその気持ちをわかることができなかったかもしれません。

でも今ならその気持ちが良くわかります。行きたいと願ってもそれが出来ないもどかしさを、今、全員がわかります。神様との出会い、人との出会いを体験する会堂での礼拝に集えない事は「魂の痛み」を感じる事だと知るのです。礼拝に集うことが出来るようになったら、また一生懸命礼拝に集おう、そう強く思っています。そして、それは大切な神様への応答だと思います。神様への精一杯の応答として、もしまた集まれる時が来たら、また毎週欠かさず礼拝に集いたいと思うのです。でも、きっと集う礼拝を再開したとしても、また様々な事情で集うことができない方がいるということ、そのことも忘れたくないのです。今、私たちが痛感している、集うことができない苦しみ、この魂の痛みを忘れないでいたいのです。集えない今、そして再び集えた時、普段集えない方々のために、ますます祈ってゆきたいのです。集えなくなって、教会に行くことができなくなって、それぞれの場所で礼拝の事を考えます。そして今気づくのは、「礼拝で大事なことは、私が頑張って礼拝に行くということよりも、神様が招いてくださっているという事、その事が大事だ」ということです。その招きは、たとえ礼拝に参加できなかったとしても変わらないものです。

招かれているということ、それは神様を知っているかどうかさえ問いません。もし神様を知らなくても、神様の招きは変わらず、豊かに、その方に、私たちに注がれています。それはすべての人に注がれています。あらゆる世界のすべての人々が、すべての命が、神様から礼拝への招きを受けているのです。繰り返します。私たちの事情はまったく関係ありません。私たちがどのような事情があっても、どのような体調になっても、どのような病になっても、たとえ自分が誰かわからなくなっても、たとえどんなに短い生涯だとしても、私たちは等しく神さまの招きを受けている者です。礼拝とはそのように一方的な神様の招きです。神様がおいでと私たちに語り掛けておられることが、礼拝で大事なことです。神様の愛と招きはすべての人に等しく注がれているのです。

招詞に目を向けましょう。礼拝は第一に、神様の招きです。だからこそ、礼拝の一番初めに、招きの言葉は読まれます。それは礼拝が神様の招きによって始まるということを、とてもよく表しています。今日も一生懸命集った、さあ始めようということではありません。礼拝は私たちの実行力、自発性によって持たれるのではありません。

礼拝はただ神の招きによって持たれるものです。だから私たちは礼拝を始める時、まずその招きを聞くということから始めるのです。心を静めて招きの言葉を聞くことから始めるのです。だから礼拝の一番最初には招詞、招きの言葉があります。礼拝の中でとても大事なことです。礼拝の第一声、それは神の招きの言葉なのです。礼拝で「招詞はなくてもいいか」にはならない。礼拝の招きはとても大事なことなのです。

さて今日の聖書に目を向けてゆきましょう。今日の聖書も、大切な事は神様の招きであるということが語られています。ペテロは漁に出たとあります。漁とは何を示すでしょうか。ルカによる福音書の並行個所5:10によれば、イエス様はペテロに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。漁を、福音を広げる事に例えられたのです。しかし今日のこの福音宣教の漁、まったくうまくいかないのです。一晩中あらゆる方法を試しても、この福音宣教の業は実を結ばなかったのです。

礼拝は神の招きであり、自分達の実行力で執り行うのではないのと同じように、自分達の力で取り組んだこの漁、自分達の力で取り組んだ福音宣教はうまくいかなかったのです。一晩中人間が網を投げ、招いても、何も反応が無かった。誰も礼拝には集わなかったのです。

さらに、そこにイエス・キリストが現れるのです。しかし、不思議なのですが、誰もこのイエス様に気づかないのです。いっしょに過ごして、あれほど印象的な人の事をわからないのです。人間の集まり中では、誰もこの人がイエス・キリストだということがわからないということです。人間の主導する集まりの中では、どんなにイエス・キリストが具体的に現されても、人々は神の存在に気付くことがないのです。神様と出会うには、人間が主催する集まりではなく、神が集める集まり、神の招きである礼拝ではなければいけないのです。

だからこそ、そこで、イエス・キリストの招きが起こります。その招きは舟の右側に網を投げて見なさいという招きです。人間の決断ではなく、イエス・キリストの命令です。人間の力ではなく、神の招きによって始まります。この漁は礼拝と同じです。そして網には持ち上げきれない魚がかかります。その神の招き、礼拝にはもはや人間が支える事ができない程、多くの豊かな実るのです。人間のあらゆる努力にまさる、神様の招きと恵みがあるのです。それが私たちの礼拝です。神様の招きによる、神様が主導する礼拝。神様からいただく、恵み大きい礼拝なのです。

網の中には153匹の魚がいたとあります。当時の地中海この地方の海には153種類の魚がいた言われていました。つまりどういうことか、それはすべての種類の魚がその網の中にいたということです。それは神様が、すべての人々を招いていることが示されています。全世界のあらゆる命が、神様の招きを受けているという事です。弟子たちがイエス様に気づいたのは、実はその目で見た時ではなかったのです。見ただけではわからなかった。見てもわからなかったのです。弟子たちは魚がたくさん取れた時、そう全世界のあらゆる命が神様に招かれているという事を知った時、「ああこれこそ神の業、この方はイエスだ」と分かったのです。礼拝でも同じです。あらゆる人間が神様から招かれているということを知る時、私たちは神様を知る者となるのです。

そしてイエス様はその後、食卓に招いたとあります。これも主の晩餐です。イエス様はきっとパンを分け、弟子たちと食べたでしょう。弟子たちがこの方がイエス様だと知ったのは、神様による招きの豊かさを知った時、そしてイエス様と食事をとった時です。

本当にこれは私たちの礼拝そのものです。私たちも神さまを知るのは、あらゆる人の招きが起こされている礼拝にあずかること、そしてイエス様との食事・主の晩餐によってです。それによって礼拝そしてその中にある主の晩餐によって、私たちはイエス様を復活のイエスを知る者となるのです。今日は本来でしたら主の晩餐を行う予定でしたが、このことを大切に覚えておきましょう。

私たちの礼拝は招きから始める。網を降ろしてみよという招きから始まる。そしてすべての人が、すべての被造物が礼拝に招かれています。神様の招きそれが私たちの礼拝です。

私たちの努力をすべて超えた、神様の招き、そしてイエスの食卓において、私たちはイエス様の復活を知る者となるのです。私たちの礼拝もそのように持ちましょう。私たちの礼拝を招詞・招きのことばから始めましょう。この礼拝が神様の招きによって起こされ、すべての人、すべての被造物に開かれていることを覚えよう。それこそが私たちのなすべき礼拝です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は神の招きです。

お祈りします。

 

【全文】「礼拝は順序が大事」ヨハネ21章15節~25節

 

みなさん、おはようございます。今日も一緒に礼拝をできることを感謝いたします。私たちはこどもを大切にする教会です。今は集うことはできませんが、こどもたちと一緒にそれぞれの場所で礼拝できることを願っています。

私たちの教会は今年、70周年を迎えます。これを機に12回シリーズで「礼拝とは○○」というテーマを宣教の中で考えてゆこうと計画をしていました。その後、集まることができない礼拝となり、ますます「礼拝とは何か」そして「集まるとは何か」を考えさせられています。

今日はこのシリーズの2回目です。前回は教会は「礼拝は一番大事」という宣教をしました。それが大事なのは礼拝が神様の招きだからです。教会は礼拝を止めたら教会ではなくなってしまうんだとお話しました。私たちはこの招きである礼拝を教会の一番にしてゆこう、礼拝に集中しよう、そんなことを考えました。

そして礼拝は聖なる者たちだけの集まりではない、ということもみ言葉からいただきました。礼拝は傷つき、罪深い「体」の集まりです。でも、それでいいのです。元気になったら礼拝するのではありません、元気がないまま礼拝においで、そう招かれているのです。今、ありのまま、そのままを献げ、礼拝をしてゆこう。今ならおなおさらです。今いる場所から礼拝しよう、そんなみ言葉を頂きました。

今日は礼拝の順序ということについて共に考えたいと思います。私たちが礼拝を持つとき、中身が大事で細かな順番にこだわる必要はないと考える方もいらっしゃるかもしれません。もちろんそのような事もあると思います。しかし、礼拝について真剣に検討することは、教会が一番大事にする姿勢、向き合う姿勢です。レビ記にはそのような真剣な礼拝の形式が検討されています。もちろん形式より中身が大事なのですが、中身があればどんな形式でも構わないということではありません。中身を問う時必ず、どのような形式・どのような順番で行うかが問題になるのです。

私たちの間にいつの間にか、定着している礼拝のスタイルがあります。今私たちに必要なのは、この一つ一つの意味を確認しながら礼拝してゆくことです。忘れ去られた意味をもう一度取り戻すことが必要です。何のために音楽があり、何のために挨拶し、何のために宣教があるのか、そしてそれがどのような順番であるのかを考えるのが大事です。

様々な礼拝の順序があります。例えばある教会では献金が礼拝の前半にあります。献金は多くの教会では宣教が終わった後に行われます。順番が変わることにどんな意味があるでしょうか?私はこれは献金がただ宣教、説教に応答して献げられるだけのものではないという事をよく示している順序だと思います。献金とは今日はいい説教だったからたくさん献金するということではありません。もちろん、み言葉に燃やされて精一杯を献げるということもありますが、まず先に献げていくという順序。それも大事な事を示しているのではないかと思います。

またある教会では報告を前半にする教会があります。これも最後にする教会が多いのですが、この報告がおまけではないという事をよく示しています。今の教会の事、私たちの事を報告しよく理解してから、礼拝の中心に向かっていく順序と言えると思います。

 

このように、同じことをしていても、順序の違い一つで物事の意味は大きく変わって来ます。どういう順番になるのかはとても大事なことです。礼拝がどうしてこのような順序で行われているのかについて考えたいのです。

そして私たちの礼拝は大きく分けて5つに分けられます。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣の5つです。まず礼拝は、招詞、招きの言葉から始まり、前半に挨拶や交読文など、お互いの存在を感じるプログラムがあります。そしてその次にはみ言葉のプログラム、聖書朗読と宣教があります。そして応答としての献金、そして祝祷による派遣が行われます。

このような5つの大きな順番の中で、私たちの礼拝は持たれています。そのような構造になっています。矢印を付けると分かりやすいでしょう。招きは神様から人間へ上から下の矢印です。交わりは左右の矢印、み言葉は上から下、感謝は下から上、派遣は上から下です。

礼拝はこのように、上下左右の運動が交互に折り重なりながら進みます。横糸と、縦糸が折り重なりながら一つの形、ひとつの礼拝になっているのです。いわばそれは上下左右の、縦横の対話と言えるでしょう。礼拝とは神様と、そして隣人との対話です。それが示されている順序、それはとても大事なのことです。

ご存知の通り、対話には順序が大事です。「こんにちは」「こんにちは」「いい天気ですね」「気持ちいですね」そういう順序が大事です。ですから私たちはこのようにして対話として礼拝の順序を考えるのです。そして神様との対話、私たちの対話を考える時、必然と礼拝がどのような順番かを真剣に検討する事になるのです。

礼拝の中で順序、これはとても大事なことです。礼拝が対話であることが理解しながら参加してみてください。そうすると礼拝がより豊かな神様との対話、として献げることができます。交わりを持つことができます。その上下左右の運動がこの礼拝の中に生き生きと浮かび上がってくるはずです。だからこそ順番が大事なのです。礼拝の中にある対話が大事なのです。

 

さて今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様が復活され、ペテロと愛する弟子の前に登場した場面です。イエス様が三度ペテロに「愛しているか」と聞いたという場面です。

私は礼拝の順序の事を考えながら、この個所を読んでいて気付くのです。このイエス様とペテロの対話、実は私たちの礼拝と、まったく同じ順序ではないかということです。

先ほど私たちの礼拝は大きく5つに分かれると言いました。招き、交わり、み言葉、応答、派遣です。この要素がこの対話には含まれています。そしてこの対話の順序と礼拝の順序が全く同じ順序なのです。私たちの礼拝と同じように、イエス様とペテロが対話をしている、私はそのように感じるのです。それを見てゆきましょう。

今日の個所での招きとは、イエス様はご自分からシモン・ペテロに声を掛けたということですそれは問いでした。「私を愛しているか?」しかしこの問いは同時に招きでもあります。イエス様はペテロに問いかけることで招いてします。「私を愛しているか?」ペテロが「愛しています」と応答することを、招いておられます。そしてこの招きによって、ペテロは信仰の告白、愛の告白へと導かれています。ペテロはイエス様に問いかけられ、対話と告白に招かれています。神様の招き、それが私たちの礼拝の始まりなのだと、この場所からも思うのです。

次は交わりという事が示されます。イエス様は「私の小羊、羊を飼い、世話をしなさい」と言うのです。あなたが私を愛ししているならそれでよし、ということではありません。愛していますと答えるペテロに、羊飼いになって羊の世話をしなさいと言います。羊飼いの仕事とはばらばらだった羊同士を結び付け、一つの群れ、ワンチームを作ることが仕事です。私たちは交わりによって人との結びつきを作るように、示されるのです。交わりを持ちなさい、一緒に礼拝をしなさい、それがこの呼び掛けです。だからこそ私たちは礼拝で挨拶し、交わりを持つのです。

3つめの要素はみ言葉です。それはもちろんイエス様のみ言葉です。イエス様は3回ペテロに私を愛しているかと問いかけます。3回尋ねられて、ペテロは悲しくなったとあります。3回、そう、自分がイエス様を否定した回数が3回です。あの3回を思い出し、自分の弱さ、卑怯さ、罪深さを思い出し、ペテロは胸が痛かったのです。

イエス様は3回否定したペテロに3回、み言葉を投げかけます。それによってペテロは3回愛ししていると告白することが出来ました。み言葉とはそのような力を持ちます。み言葉とは傷つき、失敗し、弱くて、逃げ出す私たちに向けられた言葉です。そして私たちにもう一度生き直すチャンスと、希望を与える言葉、それがみ言葉です。礼拝はこのみ言葉が中心です。その御言葉によって、私たちは自らの歩みに、失敗や不足、罪を思い出し、悲しくなります。しかしみ言葉によって、もう一度イエスを愛し、信頼し、歩みだそうとする力を頂くのです。信仰を回復させてゆく力、それがみ言葉です。礼拝のみ言葉にはそのような力があるのです。これが礼拝の中心です。

4つ目を見てゆきましょう。次にペテロは感謝の応答をしています。ペテロの告白が続きます。「主よ、あなたはすべてご存知です」という応答は私がどのような思いでいるか、あなたがすべてご存知ですという意味です。言葉にできない気持ちも、あなたが知っていてくださる。心の痛み、体の痛み、不安、すべてのことの本当の気持ちをあなたがご存知ですという告白です。それは委ねる言葉ともいえるでしょうか。イエス様に導かれ、み言葉に励まされた者は、イエス様に委ね、感謝する者になってゆくのです。委ねてゆくこと、それが感謝の応答なのです。

5つ目、最後はイエス様は私たちを派遣されるお方ということです。イエス様の言葉は、礼拝から派遣される私たちの歩みを示しています。私たちは、行きたい場所ではない場所に、連れて行かれるのです。派遣された後、私たちの人生は思うようにはゆかないものです。死がもっともそうです。どのように死ぬのかはほとんど選ぶことが出来ないように、私たちの人生はほとんど思う様に行きません。神様との出会い、神様との対話である礼拝の後に、私たちはそのような世に、現実に派遣されてゆくのです。しかし、イエス様は言います。「私に従いなさい」。すべてことが自由になるわけではないけれど、でもその中で「私に従いなさい」というのです。これが派遣です。礼拝でも最後に祝祷。派遣の祈りをしています。

5つを見てきました。これが私たちの礼拝の姿です。今日の個所と同じです。礼拝は招き、交わり、み言葉、感謝、派遣その順序で行われます。この順序はとても大事です。今日の個所を見てわかる通り、神様との対話とは上下、そして左右の運動です。ですからこのように、礼拝も上下左右の運動なのです。この流れの中に私たちの礼拝はあるのです。

もう一度私たちの礼拝の順序の意味をとらえ直したいのです。70年間私たちが大事に守って来た順序があります。それにもう一度意味をしっかりと見つけ出したいのです。「いつもの順序」「もともとこうだ」ではなく、もっと新鮮に、日々新しく、この礼拝を頂きたいのです。そして、もしかしてもっとこうしたら神様との対話になるのではないか、より上下左右の運動がもっと躍動的になってゆくのではないか、そのような部分が私たちの礼拝にはまだまだ残されているでしょう。

そのことを真剣に問う、それは教会にとって大事な役割ではないでしょうか。

礼拝を一番大事にしてゆきましょう。そしてこの順番の意味、その中にある、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣、その意味をもう一度取り戻しましょう。いまそれぞれの場所からする礼拝、毎週の礼拝を、大切にしましょう。より神様と出会い、自分を献げることのできる礼拝を目指してゆきましょう。そして私たちはこれからも毎週一緒に、神様に出会う時、礼拝を献げてゆきましょう。

 

お祈りいたします。