【全文】「最後じゃない晩餐」ルカによる福音書24章28節~36節

 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。             ルカによる福音書24章30~31節

 

みなさん、おはようございます。今日も離れた場所からですが、共に礼拝をいたしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。礼拝にすべての人が集えること、こどもたちの声が戻ってくることを願いながら、今日もそれぞれの場所から一緒に礼拝をしましょう。

私たちは9月、主の晩餐式をテーマとして、一緒に考えています。1回目は主の晩餐とは十字架にかかられたイエス様を覚えて、その体と血を忘れないためにするのだということを考えました。そしてそれは本当にふさわしくない弟子が受けたものだったということも見ました。前回は主の晩餐とは自己吟味を超えて、今日誰がいないか、私たちは誰かを置き去りにしていなかを吟味するものだということを考えました。今日は3回目です。

今日の聖書箇所はイエス様が復活の後に現れ、共に食事をした場面です。イエス様と弟子たちがした食事は、最後の晩餐だけではないということを見たいと思います。聖書はイエス様が本当にいろいろな場面で食事をされたと伝えています。復活後でも人々と食事をしているのです。

マタイやマルコには復活の後に食事をしたことは書かれないのですが、ルカとヨハネはその食事を記録しています。イエス様が復活した後の記事は多くないのですが、その中で食事を共にしたことが記されているのは、やはりイエス様が一緒に食事をすることを大事にしたからでしょう。今日はその復活後の主の晩餐を見てゆきましょう。

ところで最後の晩餐という言葉があります。私は今回また気づいてしまったのです。前回私は主の晩餐を昼にやっているのに「晩餐」と呼んでいるということに気づいてしまったのですが、今回は最後のという言葉に引っ掛かりました。

あの最後の晩餐は、今日の箇所によれば実は最後ではないのです。そもそも聖書には最後の晩餐という言葉はありません。私たちが過越の食事の場面を「最後の晩餐」と呼んでいるだけです。イエス様は1回もこれが最後だなんて言っていないのです。それはあくまで十字架の前の最後という意味で、私たちが呼んでいるだけです。

今日の場面のように、復活後も主の晩餐は繰り返し続くのです。最後の晩餐は最後ではなかった。それは復活後も続き、そして今なお私たちに繰り返されています。最後の晩餐が最後ではなかったという光景が今日の聖書には書かれています。その箇所を一緒に読んでゆきましょう。

 

 

今日の場面はエマオの途上という物語の後半部分です。二人はエマオからイエス様に会いに出かけてゆきました。ちなみにこの二人の性別や年齢はわかりません。私がなぜか成人男性二人を想像してしまうのは、思い込みです。男女だったかもしれません。夫婦だったかもしれません。親子だったかもしれません。

この二人は結局イエス様に会うことはできなかったのでしょう。代わりに二人が聞いたのは不思議な話でした。イエスが十字架で殺され、その死体が墓から無くなった、どうも生き返ったらしいという話です。二人は会うことのできなかった失意のうちに、そして不思議な出来事への疑問と混乱のうちに家へと向かっていました。

そしてそこには、一人寄り添って歩く人が与えられました。その人は二人に忍耐強く寄り添い、聖書の話をしました。そして二人は旅の途中、宿をとることになった時、そこに一緒に泊まるように願いました。二人は共に旅をするこの人が誰かを知らないまま、無理に引き留め、一緒に泊まらせます。そしてそこで、この人との食事が始まったというのが今日の場面です。

30節には「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。これはイエス様の過越の食事、いわゆる最後の晩餐の際とまったく同じ言い回しです。この言い回しはイエス様の食事に繰り返し出てきます。この言い回しが出てきたら、これは主の晩餐だったと想像したいのです。

明らかにこの食事では主の晩餐が行われました。ここでの主の晩餐にはどんな特徴や意味があるでしょうか。一つは誰だか知らない人との食事が、急に主の晩餐になったということです。ここにいたのは準備も知識も資格もない二人です。イエス様に「ああ、物わかりが悪く、心の鈍い」と言われた二人がこのパンを受け取っています。

何も知らない二人にそれが与えられたということです。信じている者が食べたのではありませんでした。信じて食べたのではありません。食べたら、その後目が開けたのです。二人は食べることで初めて目の前にいる人、今まで自分に寄り添ってくれた人、十字架によって死んだ人、復活された方がわかったのです。いままで自分と一緒にいてくれた、誰だかわからない人、それが主イエスだったとこのパンを食べて初めて知ったのです。

この聖書の箇所によれば、信仰が先にあってその確認のためにパンを食べたのではありませんでした。まずパンが先にあって、それを食べて、そこに確信が生まれたのです。洗礼が先か、晩餐が先かという問題がありますが、この場合では晩餐が先でした。晩餐によって、主イエスの存在に気づかされた。これがこの個所の大きな特徴です。

しかし今日ここで見たいことは、洗礼が先か、晩餐が先かというではありません。このように、聖書の中の主の晩餐は多様だと言うことです。最後の晩餐や、コリントの人々の晩餐を見てきましたが、それだけが主の晩餐の根拠ではないということです。

この「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き」の言い回しは次に見る5000人の給食でも現れる言い回しです。イエス様は本当にいろいろな人と、いろいろな場所で食事をする人でした。いろいろな場面で、いろいろな人々と持たれた食事、いろいろな主の晩餐の形があったということです。

最後の晩餐と言われる主の晩餐がありました。でもそれは1回きりで、最後だったのではありません。今日のように復活後も主は主の晩餐を繰り返しています。

様々な主の晩餐が伝えられていますが、それぞれ強調点が違うということが言えるのでしょう。最後の晩餐では、十字架に引き裂かれる体、流される血が強調されるものでした。コリントの人々は共同体ということを強調するものでした。

今日の主の晩餐の場面では何が強調されているでしょうか。復活の後だったということが大きな特徴です。その強調点は「イエス様は死んでもなお、私たちと共にいる」ということではないでしょうか。

イエス様は十字架にかけられ、その後、復活をされました。そのイエス様は気づかれないほどにそっと寄り添い、聖書を解き明かして下さるお方でした。そこで示されるのは、主イエスは私たちの気づかない場所で、私たちと共におられるということです。

今日の物語がまさにそうです。イエス様は失望や疑問を持つ者に、イエス様の側から歩み近づいてきてくださいます。私たちの言葉を聞いてくれます。イエス様は失望と混乱の道の途上でも、私たちと共にいてくれるお方なのです。

その道の中で、イエス様は聖書全体を解き明かしてくださいます。そして心を燃やしてくださいます。私たちと共にいて下さいます。

このことを二人は主の晩餐によってはじめて実感することができました。それを受けると、見えなかった主イエスが見えるようになったのです。気づかなかった主イエスの存在に気付くことができたのです。

この食事、主の晩餐を見て、私たちは次の主の晩餐をどのように受けるでしょうか。イエス様の食事が繰り返し行われ、様々な意味がこめられました。だからこそ主の晩餐の在り方も多様になってゆきました。教派、教会、個人によって様々な理解が生まれてきました。

私たち次の主の晩餐をどのように受けるでしょうか。今日は特にこのこと覚えよう、例えば十字架を覚えようという主の晩餐でもよいと思いますし、私たちの教会は主の晩餐のこの部分、共同体ということを大事にしようということもよいと思います。

イエス様はいろいろなメッセージを主の晩餐に込めています。私たちそれを豊かに受け取ってゆきたいのです。様々な意味があった、そのことを思い出して、次のパンと杯をいただきたいと思っています。

最後にこの二人の物語の続きを見てゆきましょう。32節、二人は一緒にいたのがイエス様だったと気づいたとき、すぐに道を引き返してエルサレムの仲間にそれを伝えに行きました。そうすると11人の弟子たちも復活があったと言っているのです。二人は自分たちが見たことを分かち合いました。互いに出会ったイエス様を証しあったのです。イエス様の主の晩餐とは、このようにして人を結び付けてゆくものです。失意や疑問を持った人々を結び付けるのが主の晩餐です。

その分かち合いをしている時、36節こういうことを話していると、再びイエス様が真ん中に現れたとあります。イエス様は集められた人々の真ん中に、現れて下さるのです。そして実はイエス様はまたそこでも何かを食べます。みんなの前で魚を食べてみせるのです。

私たちは毎月主の晩餐を持っています。そこでイエス様の十字架を覚えます。でも主の晩餐の意味はそれだけではないでしょう。イエス様が復活してもなお、私たちと伴い、私たちに教え、目を開かせ、信仰へと導いてくれる、そのことも主の晩餐で覚えましょう。そして神様はそこから信仰の仲間を与えてくれるのです。このこと主の晩餐から始まるのです。

私たちはこの主の晩餐を大事に守ってゆきましょう。私たちは主の晩餐で主イエスの十字架を覚えます。私たちの共同体を吟味します。そして主イエスが復活し私たちと共にいるこのことを覚え、主の晩餐をいただきましょう。お祈りします。

 

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【全文】『誰がいないか吟味する晩餐』Ⅰコリント11章17節~34節

 

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節

 

みなさん、おはようございます。今日も共にそれぞれの場所から礼拝できること、感謝です。共に礼拝しましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。それぞれの場所で多くの方は、こどもの声が聞こえない場所で礼拝をされているでしょう。つくづくそれぞれの場所での礼拝、オンライン礼拝は誰がいるのか、また誰がいないのかがわからない礼拝です。早く集い、互いを感じながら集えることを願っています。

私たちは今、礼典「主の晩餐」をテーマとして宣教を続けています。今日は2回目です。前回私たちは、十字架を、イエス様を忘れてしまう、ふさわしくない者だけれども、この主の晩餐を受けて十字架を覚えて歩んでゆこうということをみてきました。

今日は早く集いたいということも願いつつ、最初の主の晩餐がどのような集いだったのか、聖書から見てゆきたいと思います。イエス様が教えた主の晩餐に、人々がどのように集い、持っていたのかを見ながら、今の私たちの主の晩餐について考えたいと思います。

ところで私たちは主の「晩餐」と呼びますが、日曜日のお昼にやるのに「晩餐(夜の食事)」と呼ぶのは面白いと思います。私たちが昼に行うこれを晩餐と呼ぶのは、イエス様との食事は夕食が多かったからです。特に前回見た最後の晩餐がそうでした。その他の食事も多くが夕食だったと思います。私たちは昼間に「晩餐」をしますが、そう呼ぶのは、イエス様との食事の名残です。

さて今日の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰです。コリントの人々も毎週日曜日の夕方に家に集まって食事会をしていました。家で集会をしていたのです。キリスト教はまず貧しい人々に伝わってゆきました。貧しい人々がそれぞれ少しずつ食べ物を持ち寄って、家で夕食会をしていたのです。当初は豪華な食事会ではなかったでしょう。

その夕食会は、イエス様がいろいろな人と分け隔てなく食事をしたことが再現されていました。民族や身分や性を問わない、ギリシャ人もユダヤ人もない、部外者ものけ者もいない、初めての人もそうでない人も、誰でも加わることができる、垣根のない、にぎやかな食事が家でもたれました。そしてその中で、主イエスを覚えて私たちの主の晩餐のように、パンを裂いたり、祈ったり、証しをしたり、賛美をしたりしたのです。

このような集い、貧しい人たちの多くは遅くまで働いてから参加しました。夜遅く少しずつ食べ物を持ち寄って集まったのです。そのような食事の輪はどんどん広がってゆきました。一緒にご飯を食べて、証しを聞いて、一緒に祈るという運動がキリスト教をどんどん広めてゆきました。コリント教会もそのようにして広がっていったのです。

しかしキリスト教が広まってゆくと、最初は貧しい人が多かったのですが、徐々に経済的に豊かな人も加わるようになってゆきました。富裕層お金持ちたちはそんなに夜遅くまで働きません。仕事を早く終わらせて、早く集まって、先に食事会を始めてしまうようになったのです。

コリントの教会ではお金持ちの人々が他の人を待たずに、先に食事を始めてしまうようになりました。そうすると遅れてきた人、つまり貧しい人たちは余り物を食べるしかありませんでした。そのような集まりをどう感じるでしょうか。気分はよくありません。22節きっと貧しい人々にとってそれは自分への見くびりであり、侮辱であり、恥をかかせることでした。そしてこのような行為は、分け隔てのない神の教会全体を侮辱する行為でもありました。このようにして、垣根のない食事会はうまくいかなくなってきたのです。

パウロはそのような食事の様子を聞いて、コリントの人々に手紙を書いています。17節にある、その集まりはむしろ悪い結果を招くものだとあるのは、このような食事のことです。そこでは本来、イエス様がいろいろな人と食事をしたこと、愛とお互いへの配慮が確認される食事の場所だったはずです。しかしそこでは自分だけが食べる、先に食べる、金持ちが先に食べる食事会でした。そのような食事はむしろ、互いの間に愛がないことを確認する食事、侮辱と差別に満ちた食事になってしまったのです。仲間割れ、分裂を起こす食事会になってしまったのです。

21節にも似た注意があります。各自が勝手に、我先にと食べました。誰がまだ来ていないのか、そろっているかどうかは確認されませんでした。互いへの配慮や愛を確認するための食事会は、遅れてくる人、貧しい人を無視する、かえって仲間割れの原因を作ることになってしまったのです。

29節も愛のない食事会への指摘です。無関心や自分勝手、差別は食事に現れていました。そのような差別が人を殺すのです。後から来る人、貧しい人、弱い者や病人を無視する共同体や社会が人を殺すとパウロは言っているのです。

パウロはこれ見て、20節それでは一緒に集まっても、もうこれは主の晩餐にはならないと言います。パウロはコリントに人に、2つの命令をしている。ひとつは28節「よく確かめなさい」という言葉です。日本語ではそうなっていませんが、もともとの言葉ではここは命令形です。もう一つは33節の命令です「互いに待ち合せなさい」です。

この個所でパウロが言おうとしていることは、主の晩餐において、みんながちゃんとそろっているかどうか、よく確かめて、互いに待って、食べなさいということです。誰かいない人がいないか、誰かの分が足りなくないか、誰かを忘れていないか、それをよく確かめて食べなさいということです。

自分の事ばかり考えて、自分だけが食べればいい、そんな集まりになっていないか、それを確かめなさい、吟味しなさいということです。28節の確かめなさいは、コリント教会の集まり、共同体に向けて言ったことです。集まり自体が、差別や他人への配慮がない集まりになっていないか、よく周りを見て確かめて食べなさいということです。

確かめるこれは、吟味するとも訳される言葉です。この個所から、よく自分自身を吟味してから食べなさいと言われます。自己吟味です。自分自身が洗礼を受けたかどうかを吟味する、自分が神様を信じているかどうか吟味する、罪を犯していないか吟味する、パウロはそういう意味でここを言っているのではありません。自己吟味をするようにいっているのではありません。

ここで吟味されるのは、私自身の資格や適性ではなく、共同体です。この集まりが誰かを置いていったり、差別したりしていないか、そのことを吟味しなさいとのパウロは言っているのです。そして共同体を吟味するとは、相互監視のようなことではありません。あの人は食べていいのかと他者の資格を吟味することでもありません。私たちは食べる時、この集いが何かを忘れていないか、誰かを忘れていないかを吟味するのです。

パウロは34節で、これができない食事会はもうやめてしまってはどうかと提案をしています。そんなかえって仲間割れになるような食事会だったら、やめてしまいなさいと言っています。それぞれ家で、金持ちは大きな家に住んだでしょう、いい家があるんだったら、その自分の家で食事をしてから集まりなさいと言っているのです。共なる食事でも、神様はそんな食事、喜ばないというのです。

この後も、この垣根のない食事がなんとか続いてほしかったと思うのですが、残念ながらパウロのいうとおりになりました。この後、食事と主の晩餐というのは別々に行われるようになりました。それぞれの家で食事をし、教会に集まり、主の晩餐だけを教会でするようになりました。それが今の私たちの教会で行う主の晩餐につながっています。

一方、食事会は様々に形を変えて残りました。歴史の中で愛餐会として様々に持たれて続きました。私たちは年に数回クリスマスやイースターに持ち寄りの食事会を行っていました。早く再開できたらうれしいです。どちらかというと、あの愛餐会や私たちのやっているこひつじ食堂や炊き出しの方が、主の晩餐の原型に近いでしょう。

さて、このように主の晩餐について考えてきました。今日は私たちが主の晩餐の時に確かめることは何かということについて考えてきました。それは自己吟味だけではありません。食べるとき、よく確かめなさいといわれていることがあります。それは私たちの共同体が誰かを置き去りにしていないかということです。共同体を吟味するということです。そして共同体吟味とは、あの人に食べる資格があるかどうかを見張ることではありません。この共同体が誰かを置き去りにしたり、差別したり、無視したりしていなかを点検しながら食べなさいということです。

今日誰がいないのか、主の晩餐にあずかっていないのかをよく確かめなさいということです。この教会を吟味して食べるということす。そしてその時どう感じるでしょうか。よし教会は大丈夫、100点だと確認できるでしょうか。もしそれができたらうれしいです。しかしどうでしょうか、私たちの中には、誰かを置き去りにしてしまっているということがあるでしょう。

教会に集えない方々もそうです、このオンラインの礼拝もそうです。インターネットがつながっていない人もいます。そのような破れがあることを、共同体吟味は教えてくれるでしょう。つながれない人がいる、集えない人がいる、食べることのできない人がいる、そのことをよく吟味して、食べたいのです。一緒にまた集い、食べれることを願って、主の晩餐をしたいのです。

誰を置き去りにしてしまっているか吟味し、全員が主の恵みの礼拝にあずかることを願いながら、この主の晩餐を共にいただきたいそう思うのです。

私たちの主の晩餐、そこに加わっていない人を覚えて持ちましょう。その人々との一致を願って、そのことを覚えて次の主の晩餐をいただきましょう。お祈りいたします。

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【全文】『ふさわしくない人の晩餐』マタイによる福音書26章17節~30節

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である」

                     マタイによる福音書26章26節

 

 

 みなさん、おはようございます。一日一日の礼拝に集うことができること、感謝です。今日も共に礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。

8月は礼拝というテーマで3回の宣教をしました。9月からは礼典「主の晩餐」を5回、10月の第一週まで、テーマとして宣教をしてゆきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

この1か月で、私たちの主の晩餐式の意味を、様々な角度から考えてゆきたいと思っています。今日、この後も私たちは主の晩餐式を持つわけですが、なぜこれを毎月繰り返しているのでしょうか?そう聞かれたら、みなさんは何と答えるでしょうか?何のためにしているのでしょうか?答えは一つではありません。1か月一緒に考えてゆきたいと思います。

初めての方のために、主の晩餐とはこのぶどうジュースとパンを食べる儀式です。まずは皆さんも知っているように、この儀式には魔法のような力があるわけではありません。食べたら急に何かできるようになったり、聖なる人間になったり、罪が消えて無くなったりするものでもありません。

私たちはイエス様を「思い出す」ために主の晩餐式をしています。主の晩餐式とはイエス様を思い出し、新たに生きる者とされる。そのための礼典です。

では「イエス様を思い出す」とは、いったいイエス様の何を思い出すのでしょうか?イエス様の歩みは誕生、十字架、復活、様々な歩みがありますが、その中でもイエス様はいろいろな食事をされたお方です。それはイエス様の宣教にとってとても大事なことでした。罪人と食事をしました、5000人の群衆との奇跡的な食事をしました、復活後も食事をしました。そして今日の箇所、最後の晩餐も大切な食事の場面です。

いろいろな食事がありますが、なかでも今日は特に、この最後の晩餐から主の晩餐を思い出し、考えてゆきたいと思います。

私たちの主の晩餐には様々な意味が込められているわけですが、最も有名なのは、今日の箇所、最後の晩餐に起因するものです。私たちはこのイエス様との最後の晩餐を記念して、この出来事を忘れないようにするために、主の晩餐式をしています。イエス様との最後の晩餐を忘れないこと、イエス様の十字架を忘れないために、私たちはこれを毎月繰り返しているのです。

今日の箇所、17節、イエス様は過越の食事を弟子たちとしていたとあります。過越の食事とは、旧約聖書・出エジプト記にさかのぼります。神様から導かれ、奴隷から解放される時、人々が急いでエジプトを脱出する時、イーストを入れてパンを膨らませている時間はありませんでした。急いで出発した時に、作ったのが種無しパンでしたクラッカーのようなものです。

神様がそのようにイスラエルの人々を救い出してくれた、そのことを忘れないために、毎年種無しのパンを食べる、それが除酵祭に行われる、過越の食事でした。今日の箇所はその過越の食事をイエス様と弟子が食べている場面です。

ちょうど今私たちも、種無しパンで主の晩餐をしています。発酵していないパンです。主の晩餐を種無しのカリカリパンでやるか、ふわふわのパンでやるかは教派や教会によって違います。どちらにするかは主の晩餐式で最後の晩餐をどれくらい重視するかによって選ばれます。

最後の晩餐で特にイエス様が言っているのは「これは私の体である」という言葉です。この言葉は主の晩餐でももっとも象徴的な言葉として使われています。このパンはイエス様の体なのです。それは食べると魔法の力が与えられるパンではありません。イエス様はそれをわざわざ裂いて、これは私の体と言っています。そうです。この体、このパンとは十字架で傷ついたイエス様の体を象徴するものです。引き裂かれた体を象徴します。

杯も同じです。「これは私の血である」と言います。これも十字架を象徴します。イエス様はこの後、十字架で血を流されます。この杯は十字架の上で流れる、イエス様の血を象徴するものなのです。

このように私たちの主の晩餐は、イエス様の十字架の体と血を象徴するものです。そしてイエス様ご自身が、最後の食事の時、十字架を目前にした時、パンを自分の体、杯を自分の血として弟子たちに教えられ、弟子たちに分け、共に食べるようにと言ったのです。それが最後の晩餐という出来事でした。

そして弟子たちはその後、その食事の真似事をするようになりました。ちょうどこどもたちのおままごとのように。イエス様の十字架を忘れないために、イエス様の約束を忘れないために、この食事会を繰り返すようになったのです。それが私たちの主の晩餐につながってゆきます。

私たちも同じです。大真面目に私たちは、小さなパンと杯で主の晩餐式を行います。そしてそれをイエス様の体、血としていただき、十字架を思い出すのです。その十字架とは神の子である方が、体を裂かれ、血を流す、神の子が痛みの中におられたという出来事です。そこでは魔法のように苦痛が消えることはありませんでした。神の子イエスは痛みながら、地上の生涯を終えてゆきました。

私たちにとって、この十字架の神こそ大きな希望です。十字架によって、神は苦しみのただなかにおられ、共に苦しみ、共に血を流してくださるお方だと示されているから希望なのです。

十字架によってそれが私たちによく示されました。十字架のイエスの体と血によって、神が私たちと共にいるということが具体的に示されたのです。これが神の愛です。私たちの主の晩餐はその神の愛、十字架の体と血を、食べるという儀式なのです。今日これを覚えましょう。

誰がこのパンを食べるのにふさわしいかということも大切な問いです。この最後の晩餐によるならば、このパンと杯を受け取ったのは、弟子たちです。そこにいる人が、誰でも食べたわけではありませんでした。イエス様に従った12人だけがパンと杯を受け取りました。この主の晩餐は誰でも食べてよいものではない、クリスチャンのみが受けるものだという理解はここからきています。

たしかにこの最後の晩餐は内輪の食事でした。他の5000人の食事のように、誰でもかれでも招かれているのではありません。弟子限定の食事です。弟子とイエス様との特別な関係の確認がこの食事で行われたのです。イエス様を知らないまま、食べると言うことは、最後の晩餐の趣旨には合わないのかもしれません。弟子に限定するというのはイエス様と弟子の関係を確認するためという理由でしょう。

もちろんあまり厳密に考えすぎると問題もあります。十二弟子は男だけだったということにもなりますし、この弟子たちはバプテスマを受けていません。

イエス様を知らないで食べるのではなく、その方の歩みと十字架を知って、それを食べて欲しい、それがこの教会の願いでしょう。ですからバプテスマを受けた方に限定にするのでしょう。知らないまま食べないで欲しいという願いです。十字架を知り、信じてから食べてほしいというのが教会の願いです。

20節から25節を見ると、クリスチャンが特別な人だからこれを食べることができるというのは誤解だとわかります。イエス様は弟子に裏切り者がでるということを伝えています。イエス様の十字架の愛が確認されるだけではなく、弟子たちは裏切る、失敗をするというということが語られています。

特別に選ばれた弟子が受けたのではありません。この後裏切るユダさえもこのマタイの最後の晩餐には参加しています。そしてこの後逃げた弟子、三度イエスなど知らないと言った弟子すらもこの最後の晩餐にはいます。

弟子は特別だからこの晩餐にあずかったのではありませんでした。ここではイエス様の愛が示されると同時に、弟子の弱さも示されています。従うつもりでいても、忘れてしまう弱さが示されています。

イエス様の最後の晩餐、それは弟子の弱さのためでもありました。主の晩餐を弟子に限定する意味はここにあるでしょう。弟子が特別なのではなく、弟子こそ弱い者だから、弟子に限定してそのパンと杯を与えたのです。

そして弟子はこの後すぐ忘れてしまいます。裏切ってしまいます。知っているのに、知らないと言ってしまうのです。弟子は弱い弟子です。特別などではなく、あまりにもふさわしくない弟子がこの食事にあずかったのです。

私たちは毎月の晩餐をバプテスマを受けた弟子たちのみで執り行います。限定する意味がそこにはあるのでしょう。それはバプテスマを受けた弟子が特別だからではありません。弟子はパンと杯を、あまりにふさわしくない弟子としていただきます。忘れたくないと思いながらも、次に忘れてしまうのは自分かもしれない、忘れてしまう者としてこの主の晩餐をいただきます。ふさわしくない者としてこの主の晩餐をいただくのです。

私たちは本当にふさわしくない者です。でもふさわしくない者だからこそ、この食事にあずかりましょう。毎月の主の晩餐の式文では「ふさわしくないままで食べることのないように、自分をよく確かめて」と読みます。ふさわしい方のみ食べて下さい、そのように言われて、誰が食べることができるでしょうか。食べることのできる人は今日ここに一人もいないでしょう。

今日の主の晩餐は言葉のみです。どなたも限定されずにこの式に参加します。私たち全員が、ふさわしくない者としていただきましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに食べましょう。それを思い出し、忘れないようにあずかりましょう。

そして今日共に礼拝にし、まだバプテスマを受けておられない方。ぜひバプテスマを受けこの群れに加わってください。このふさわしくない者、すぐに忘れてしまうけれども、何とかイエス様を忘れないように、小さなパンと杯をいただく、み言葉をいただく、この群れにどうぞバプテスマを受けて加わってください。イエス様はきっとそのように招いておられます。賛美の後、言葉による主の晩餐を持ちます。

 

【全文】「私たちを派遣する神」マタイによる福音書10章16節~25節

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。マタイ10章16節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。先週はお休みをいただきました。信徒の方に宣教のご奉仕をお願いいたしました。生まれて初めての宣教の奉仕だったそうです。どのようにみなさんに響いたでしょうか。

宣教はどのような内容が語られたのかといこうことと同時に、どのようにそれが受け止められたのかが重要です。皆さん自身はどう聞いたでしょうか。

今日の聖書の箇所の19節~20節には語るべきことは、神様が示してくださるとあります。宣教あるいは証しもそうですが、祈りながら、神様の示しを聞きながら、語ることが大事です。まずよく聞くこと、そこから語ることが大事です。

この聖書箇所をもとに、宣教の準備はいらない、講壇に立って示されたことを語ればよいと解釈する人もいます。私自身は聖書にこう書いてあったとしても、誠実な準備と、祈りの中で、神様の声を聞くことが大事だと思います。時間をかけて宣教の言葉を紡ぎ、煩って、煩って証しと宣教の言葉となってゆきます。よく聞き、よく語ってくださったことに感謝します。そして何より、神様の言葉に感謝します。ありがとうございました。

8月は礼拝というテーマで宣教を続けています。合計3回の最後の1回です。これまで、礼拝は変わり続けること、礼拝はすべての人が招きを受けていることを見てきました。今日は最後ですが、礼拝は派遣されることだということを聞きたいと思います。神様は礼拝から私たちを派遣されるお方です。私たちは神様から礼拝に招かれる、そして礼拝からまたそれぞれへの場所へと派遣されます。私たちはこの招きと派遣の循環の中で生きているのです。

それは礼拝の中でもよく表されています。礼拝の最後の方には祝祷があります。これは私が神に成り代わって皆さんに特殊な能力を与える儀式ではありません。祝祷は祝福と派遣の祈りです。神様が1週間、私たちと共にいていくださるという喜びの宣言と、神様が私たちをそれぞれの場所に派遣されることの宣言です。私たちの礼拝は毎回、この祝祷で終わります。この祝祷によって、私たちは神様によって礼拝からそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。

神様はそれぞれの場所で、神様を愛し、隣人を愛し、神様に仕え隣人に仕えるように私たちを派遣されます。神様はこのように招き、派遣されるお方です。

この1週間はどんな1週間になるでしょうか。小学校は明日から始まります。一番こどもたちにとってはしんどい1週間かもしれません。夏休みが終わる、新しい学期が始まる1週間です。緊張や大変なことがたくさんあるでしょう。でも大丈夫です。神様はみんなにいってらっしゃいと言っています。そして一緒にいるよと言っています。でももししんどかったら教会に逃げてきてもいいです。

大人にとってもこの1週間はどんな1週間でしょうか。大人だってうれしい事ばかりの1週間ではないでしょう。しなければならないことがたくさんあるでしょう。なんだか忙しい1週間でしょう。うれしいこともきっとたくさんあるけれど、いろいろなストレスを感じることもある1週間でしょう。

私たちの決心や忍耐は弱いものです。でも神様が背中を押して行ってらっしゃいと言ってくれるから、私たちは1歩目を歩み出すことができます。神様から派遣される、神様から力をいただき歩む、その1週間を始めましょう。そしてまた来週の日曜日の礼拝に集いましょう。

今日は弟子たちが派遣される話を福音書から聞きます。この個所から1週間の希望をいただきましょう。弟子たちもまた、決して楽しいだけではない時を過ごすことが予告されています。弟子たちもしんどい1週間になりそうです。喜びと栄光が待っているだけではなさそうです。でも神様は、弱い弟子たちを派遣します。その物語を聞いてゆきましょう。

 

 

今日の場面、イエス様が12人の弟子たちを派遣するという場面です。しかし、派遣される先はかなりしんどい状況です。17節、とらえられて、裁判所に連れてゆかれます。不当な裁判を受けるということです。そして会堂で鞭を打たれます。18節、総督や王の前に引き出されるとあります。22節、あなた方はすべての人に憎まれるとあります。

こんな場所には絶対派遣されたくありません。弟子たちは考えるだけで悲しい、苦しい現実に派遣されるのです。21節そこにはきょうだいが殺し合うような現実があります。親子が殺し合う現実の中に弟子は派遣されるのです。

こんな場所には絶対派遣されたくありません。弟子たちにとって、行けばどうなにかなる、楽しもう、きっと大丈夫という状況ではありません。どれだけ楽しもうとしても、やはり苦しい現実が待っているのです。

イエス様は厳しい現実を前にする時、どのように生きてゆけばよいかを教えて下さるお方です。イエス様は弟子に、そのような苦しみにあったときどう対処すべきかを今日教えています。

まずそれは18節「彼らや異邦人に証しをする」ということです。12人の弟子たちは派遣された場所で、証しをするように勧められています。証しをするということは喜びの中だけではなく、苦しみや悲しみ、痛みの中で、神様を周囲へと表してゆくことです。喜びや苦しみがあるさ中にあって、弟子たち自身の態度と言葉で神様の愛を表現すること、それが証しをするということです。

証しをするとは、弟子たちが困難に出会う時どんな態度をとるかということです。弟子たちは困難にある時、相手を傷つけて、誰かを犠牲にしてそれを解決するのではありません。苦しいときこそ、傷付けあうのではなく、愛し合うということを選びます。それが愛の神を証しするということです。

19節、その時12人の弟子がどんな態度で、どんな言葉を語るべきかは聖書が教えてくれるとあります。どのような態度をとるべきか、それは神様が教えてくださることです。弟子たちに必要なこと、それはよく聞くことです。そして最後まであきらめないことです。愛し続けることです。弟子は聞き、耐え、愛するのです。

もちろん、弟子たちはもうこれ以上無理と思うこともあるでしょう。しかし神様はあなたがたはそこに派遣されたのだから、絶対に持ち場を離れるなとは言わないお方です。23節を見るとイエス様は「他の町へ逃げなさい」と言っています。そうです。最後まで愛し続けることが、どうしてもうまくいかない時があります。その時の神様の命令は「逃げなさい」です。他の町に逃げるのです。逃げることも大事です。学校や職場、家庭、絶対そこから逃げちゃいけない場所なんてありません。生きるために逃げることも、時には大事です。

弟子たちはだめなら次の町へ逃げるように言われます。そしてそこもまただめなら、また次の町へと逃げるように言われます。逃げて逃げて逃げるのです。そして逃げる場所がなくなることはありません。イスラエルの町に逃げ場所が無くなる前に、イエス様が来てくださるのです。

その苦難には必ず終わりがあるということも示されているでしょう。いつまでも苦しみが続くのではないのです。イエス様が来られ、それが終わる時が必ず来るのです。

ここまででイエス様が12人の弟子に言われていることは、苦難の中にあっても愛し続けなさいということです。そして時には逃げることもあるということです。

そして24節、弟子たちの目指すのは、師に勝ることではないともあります。師とはイエス様のことです。弟子たちの目指すのはイエス様を超えることではありません。

25節、弟子は「ようになれば十分」なのです。イエス様のようになることはハードルが高いことのように聞こえます。でもそれは弟子はイエス様になれと言っているのとは大きな違いがあります。弟子は師になる必要はありません。弟子は弟子のままでいいのです。弟子は弟子として、イエス様の「ように」なれば十分なのです。それはいわばイエス様を真似するということです。できるだけイエス様に近づいてゆくことです。精一杯の愛を示すことです。弟子はそれで十分なのです。

このようにイエス様によって弟子たちは派遣されます。苦しみの中に派遣されます。そこで証しをするように、愛し仕えるように派遣されます。どうしてもだめなら逃げてもいいと派遣されます。そしてできるだけイエス様の真似をして生きてごらんそうやって、12人の弟子たちは派遣されていったのです。

ここに出てくる12人の弟子、私たち一人一人もこのようにイエス様から派遣される者です。私たちはこの礼拝から派遣されます。しんどい1週間かもしれないけれど、その時こそあなたの態度が問われるよ、その時こそ証しする時だよ、愛し、仕える時だよ。イエス様はそう声をかけてから私たちを今日、派遣されます。

そしてもし私たちが超えられない壁に出会う時、乗り越えられない時、その時は逃げなさい、何度でも逃げなさいとイエス様は私たちを派遣されます。その苦しみは必ず終わる、神様が私たちに必ず来る、そう語って派遣します。イエス様のように、イエス様の真似をして、できるだけイエス様に近づけて1週間やってごらん。それであなたの1週間は十分だよ、そう今日の箇所は語っています。

私たちの1週間はこのようにはじまります。今日この礼拝から派遣され1週間が始まります。皆さんは神様からそれぞれの場所に派遣されてゆきます。それぞれが派遣された場所で神に仕え、隣人に仕えましょう。神様を愛し、隣人を愛しましょう。そしてダメな時は逃げましょう。できる限りイエス様を真似して、生きてみましょう。

私たちは今日もそのような1週間に派遣されます。そしてまた来週集い、神様から力をいただきましょう。礼拝はすべての人を招かれています。そして礼拝から派遣されます。神様のみ言葉を胸に、今週も歩みましょう。お祈りをいたします。

 

 

 

【全文】「シャロームは丸」マタイによる福音書5章1節~11節

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

マタイによる福音書5章6節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。今日はこの礼拝を平和祈念礼拝として持っています。平和を覚えて共に礼拝をしてゆきましょう。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもと一緒に平和に思いをめぐらせる、子どもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。

 

今日は8月15日終戦記念日でもあります。私たちの祈る平和とは何でしょうか。私たちはどんな平和を祈るのでしょうか。日本語で平和と言えば、一番は戦争が無い事を指すでしょう。日本語で平和といえば、戦争がない状態を指す言葉です。

 

そしてだからこそ日本において平和という言葉は「安全保障」という言葉と混同されています。自分たちが戦争に巻き込まれないことを平和というのです。その意味において、日本は平和と言えるでしょう。直接戦争をしていませんし、侵略もされていません。巻き込まれていません。日本は平和です。

 

一方、聖書の「平和」にはもっと広い意味があります。聖書の「平和」はヘブライ語でシャロームという言葉です。ヘブライ語の平和・シャロームにはいろいろな意味があって、単に戦争がない状態を指すだけではありません。もちろんシャロームには戦争がない平和という意味もありますが、この言葉はもっとダイナミックな動き、動作を現す言葉です。波が立たない、何も起きない、なぎの状態を言うのではなく、激しい動きを示す言葉です。

 

さらにこの言葉には平等という意味があります。格差や社会の不公平、不当な差別が正しくされ、平等になるという意味です。いままでの上下がひっくり返るような激しい平等・公平への動きがシャロームです。シャロームとは何もない、穏やかな様子ではなく、動作、動き、プロセス、逆転現象、ダイナミズムです。それがシャロームです。

 

聖書の平和・シャロームとは例えるなら丸です。週報にも図を載せています。でもこの丸は歪んでいます。飛び出している個所と、押し込められている個所があります。シャロームとは、このゆがみがなくなり、完全な丸になる動作のことです。完全な丸になろうとするその矢印の力がシャロームです。きれいな丸になっていくプロセスがシャロームです。ちょうど風船から手を離すと丸くなる様子に似ています。

 

全員が満たされること、抑えつけられる人がいないこと、人権が侵害される人がいないこと、それが回復されてゆくことも含めて、平和なのです。それがシャローム、聖書の平和です。人を見下す人が同じ目線に、低い目線に立たされていくこと、それがシャローム、聖書の平和です。格差や差別や、偏見や暴力、抑圧に抵抗すること、丸になってゆくこと、それが聖書の平和、シャロームなのです。

 

日本は平和かもしれません。でも、聖書に立って日本や世界が平和か、シャロームかを見るならば、全くそうではないでしょう。戦争はしていないけれども、日本の社会を見れば、シャロームではありません。

 

格差、偏見、暴力、ハラスメント、無責任があふれています。私たちは真の平和、シャロームを求めます。戦争しないだけではありません。それ以上に公正で平等な社会、あらゆる暴力の無い社会を求めていく、いつもその動きがある、それがシャロームなのです。

 

そして、その時に大切にしたいことがあります。私たちがこの丸のゆがみを見る時、どこからゆがみを見るかということです。この丸には十字架があります。イエス様の十字架、それは最も低い場所に起きた出来事です。暴力と偏見に満ちた、もっとも低い場所で起きた出来事、それがイエス・キリストの十字架でした。

 

この丸の最もへこんだ部分にあったのが、十字架なのです。私たちはこの丸をどこから見るか、中立的にみるのではありません。私たちは十字架のある場所から見るのです。弱くされ、小さくされている人々のいる場所から見るのです。十字架がある、そこから私たちはこの世界が丸いかどうかを見てゆきたいのです。

 

イエス様はこのシャロームを繰り返し語ったお方です。今日の箇所からイエス様の語る平和、シャロームを見てゆきましょう。 

今日の場面はイエス様の山上の垂訓と呼ばれる何度も読んできたお決まりの箇所かもしれません。しかし、平和・シャロームの中でこの話を聞いてゆきましょう。

 

当時、山上の垂訓を直接聞いていた人、イエス様に従っていた人々は、貧しい人々だったと言われます。極貧の人だったと言われます。もともとみんな激しい税金の中で暮らしていました。自分の土地がある人は、そこから離れることはしません。イエス様に従った人とは、自分の土地がない人、あるいは土地をもっていたが借金の代わりに奪われてしまった人、財産を失った人、そのような人が多くイエス様に従っていました。

 

イエス様に従うということは、住み慣れた地域を離れるということも含みます。それを選択した人の中には、病気などからおこる差別に悩んでいた人もいたでしょう。差別に苦しみ、場所を変え、イエス様に従った人々がいました。

 

この1節にある「群衆」とはそのような人々です。イエス様の魅力に感動して従った人だけではありません。搾取され、傷つき、失意の中にいた人々がたくさんいました。社会の中の最下層、底辺、いわば谷の底の部分にいた人々が従っていたのです。

 

3節からのイエス様の視点は、その丸の底からの視点です。十字架の視点です。山の上から語っていますが、その視点は谷の底にあります。イエス様はこの谷は起こされ、山は平坦にされる、きれいな丸になる、そのように平和が起こるとここで語っています。

 

3節には心の貧しい人は幸いだとあります。心が貧しいとは、心が狭いとはすこし違うと思います。心の貧しい人とは今まさに、へこまされている心のことです。貧しさや困難で、心が疲れ切った人です。イエス様はその疲れた人々に、幸いだと語り掛けています。

 

イエス様が幸いだと言っているのは、その谷は必ず満たされ、回復するからです。そこにこそ神様の力が働くから、シャロームの力が働くから、幸いだと言うのです。天の国とは、今へこんでいる、へこまされている、困難がある、あなたたちのものになるのだと言うのです。

 

イエス様は疲れた心は必ず、シャロームになると、そう希望を語っています。4節も同様です。悲しむ者は必ず慰められるとあります。回復され、丸になるというイメージです。悲しみは必ず、神様によって、励ましと回復をいただく、シャロームになるということです。

 

5節にある「柔和」とは難しい言葉ですが、謙遜と同じ意味です。つまり上から目線にならないで、自分を低い場所に置き、相手の話をよく聞くことを意味します。上から物を言うのではなく、下から聞く人、それが柔和な人です。イエス様は谷の底の声をよく聞くお方でした。神様は、そのような柔和・謙遜な人に祝福を与えるお方です。

 

6節には「義に飢え渇く者」とあります。それは不公平、不平等、差別にあえぐ人たちのことです。正義が欲しい、平等と公平が欲しいと、水を求める人のように、願う人です。イエス様はそのような人に言います。必ずあなたにシャロームが起こる、その渇きは満たされる、丸くなると言うのです。7節、そのシャロームの実現のために、憐み深さを出す人々も、神様は幸いだと宣言をしています。

 

9節には平和という言葉そのものがあります。シャロームを実現する者こそが、神の子なのです。10節、義のために迫害されている人とあります。それはシャロームのために働くけれど、なかなかうまくゆかないという人です。でもその人にも必ず幸いが訪れるというのです。そこに神様の力が与えられ、丸にもどす力が与えられるのです。

 

シャロームは戦争がなくなるということだけではありません。社会の中の様々なでっこみ引っ込みに、公平、平等が実現する、それがシャロームです。そしてイエス様はそれが必ず起こると約束をしています。そしてそのための力を私たちに与え、そのために働く者を神の子と呼ぶのです。

 

大事なことは、イエス様の視点が丸の底からみていることです。貧しい人、悲しむ人、義に飢え渇く人。谷の底にいる人たちの視点で見ていることです。そして必ずそれが回復すると約束をされています。平等になっていく、満たされてゆく、その力が人に与えられてゆくということを約束している、それがイエス様の言葉です。私たちはシャロームを約束されているものです。そしてシャロームのために力をいただいている者です。

 

そして私はイエス様こそシャロームであるお方だったといえると思います。まさにイエス様の歩みが十字架と復活がシャロームという動的な、ダイナミックな動きの中にある出来事だったと言えるでしょう。イエス様は神の身分でありながら、地上に生まれ、もっとも低い場所、十字架に行かれました。そして復活をされたお方です。

 

このイエス様はへこんだ場所に、へこんだ時にそこにおられるお方です。そしてそれを押し戻し、どのような悲しみも、不平等もすべて丸くする、その力を私たちに与えて下さるお方です。イエス様はシャロームであるお方なのです。

 

私たちは、イエス様からシャロームの希望をいただきましょう。戦争しないだけではない、私たちの社会の中で苦しむ人が回復されていく希望です。そのための力です。私の苦しみの底に、共におられ、回復の力を与えて下さるという希望です。その力、シャロームを神様は約束をしてくださっています。

 

私たちは神様からシャロームのための力をいただきましょう。そしてそのために繰り返し、イエス様の十字架と復活に目を向けたいのです。シャロームの物語を聞いてゆきたいのです。そのシャロームである方を覚えましょう、そしてそのシャロームを今日も祈り、礼拝をしましょう。その約束を喜ぶ礼拝を今日も持ちましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「みんな礼拝しようよ」イザヤ書25章6節~10節

 

万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒          イザヤ書25章6節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。おとなもこどもも神様から等しくこの礼拝に招かれています。こどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしてゆきましょう。

先週から礼拝というテーマで宣教を続けています。先週は礼拝と世界は分かちがたくつながっているのだということ、礼拝から世界が変わる、世界から礼拝が変わるそのようなことがおきることを学びました。

礼拝についてはコロナの中で様々なことを、それぞれが感じでしょう。私にとって一番つらかったのは、礼拝について会堂に集まって持つのかどうかの判断をしなければいけなかったことです。それがつらかったです。

この会堂に集まるかどうかを決断するということには、大きな葛藤がありました。決断を迫られたとき、これは人間が決めることなのだろうか、誰か人間が「会堂に集まりません」なんて言えるのだろうか、人間にそんな権利があるのだろうか、そんな葛藤がありました。祈ったり、聖書を開いてみたりしてもなかなか答えは出ません。むしろ神様は人を集めるお方だという箇所がたくさん目に留まるばかりでした。

でもコロナを通じてより明確になったことは、礼拝に集まるか、集まらないかを決めるのは人間だということです。礼拝に集まります、集まりません、オンラインです、どのような方法で礼拝をするのか決断をするのは、私たち人間が葛藤しながら、決めることなのです。

会堂に集うかどうかということ、それは私たち一人一人が決めることなのです。今日礼拝に出席するかどうかはそれぞれ皆さんが決めたことです。一人一人の判断です。どうぞそれぞれの事情、体調、判断によって、礼拝に集うかどうか決めてください(と言うと冷たく聞こえるでしょうか)。

一方で、気づかされるのは、礼拝とは私たち人間が勝手にしているのではないということです。そこには先立って働く、神様の働きがあります。その働きとは神様が人々を礼拝に「招く」という働きです。礼拝するかどうかを決めるのは自分です。でも私たちは何よりまず先に神様から招かれています。すべての人が神様から礼拝へと招かれているのです。

この招きはコロナ禍の中、自宅やオンラインで礼拝した時は感じづらかったことかもしれません。教会に集うことができない時、集わないことを自分たちで決断したとき、神様から礼拝に「招かれている」ということはとても感じづらかったことでしょう。今日オンラインで、自宅で礼拝している人もそうかもしれません。

でもあの時も、今も、みなさんは神様から礼拝するようにと招かれています。礼拝堂で一緒に礼拝できなくとも、時としてそれぞれの自宅で、病床で礼拝するようにと神様が招いておられるのです。私たちは今日どこで招かれているかを祈りながら、葛藤しながらどこで礼拝をするかを決断するのです。もしかするとその場所は時々によって変わるかもしれません。

でもどこで礼拝をしていても変わらないものがあります。それはどんな人も、どんな状況でも、神様はすべての人を礼拝に招いているということです。たとえ神様の事を知らなくてもそうです。神様はその方を礼拝へと招いています。神様の招きは信者かどうかも関係ありません。どこにいても関係ありません。神様はその方を礼拝へと招いています。

私たちが礼拝している事、それは神様の招きへの応答と言えるでしょう。神様の招きへ応答して、今日私たちは礼拝をしているのです。

そして集うことができたとき、本当に豊かに神様の招きを感じることができます。教会に来ればみんなが招かれていること、みんなが一生懸命それに応答して集っている姿を肌身で感じることができます。いろいろな年齢、性の人が招かれて、応答しているということを感じることができます。慌てて会堂に来る人を見て、神様の招きと、精一杯の応答を感じることができます。

コロナではっきりしたこと、それは礼拝するかどうか、どこでどのように礼拝するかということは人間が決めるだということです。しかし、そこには必ず先立つ神様の「招き」があるということです。神様は礼拝するように、すべての人を招いています。そしてその招きは教会に来ることで一番感じることができるということです。オンラインの方にも等しく神様の招きがあります。なかなか神様の招きを感じることができない方もおられるかもしれませんが、私たちは等しく神様に招かれている者です。

実はこれはコロナではっきりしただけのことで、新しいことではありません。実際、以前からからある礼拝のプログラムを見ると、礼拝は招詩、招きのことばから始まっています。それは礼拝が神の招きから始まる、招きに応答して私たちが礼拝を捧げるという意味がここには込められているからです。今日すべての人が招かれています。そしてそれぞれの場所から、応答として礼拝が献げられます。一緒にこの招きに感謝して礼拝しましょう。神様は礼拝に招いておられます。「みんな礼拝しようよ」と招いておられます

今日の箇所をお読みしましょう。神様は礼拝へと招くお方です。その招き何度も聖書に繰り返し出てきますが、聖書の中での神様の招きは、よく食事会の招きに例えられています。

今日の箇所はイザヤ書ですが。これも神様が私たちを礼拝へと招いておられる、そう読むことができる箇所です。6節には山とあります。山は礼拝する場所をさすことが多い言葉です。モーセも、イエス様も山で祈り礼拝をしました。主はこの山で祝宴を開くとは、神様が礼拝に人々を招くということを示します。

この食事会の誘い、招きを受けて参加するかどうか決めるのはあなた自身です。自分で決めてください。でも神様は私たちを食事会へと招いています。招かれたものは、それに応答し、山で行われる食事会へ参加します。つまり礼拝するのです。

そして神様が招く礼拝とはまるでごちそうの並ぶ楽しい食事会のようだというのです。6節、受け取ると力が湧いてくる食べ物が用意されているのです。礼拝し、み言葉をいただくことこそが、私たちの生きる力の源となります。生きる糧となるのです。

次に目に留まるのは「すべて」という言葉が繰り返されていることです。すべての民、すべての国、すべての顔がとあります。神様の招きはすべてに対してなのです。神様の招きには国籍も、人種も、信仰も関係ありません。すべての人、すべての命が招かれています。教会を嫌いな人、絶対教会には行かないという家族も全員、神様から招かれているのです。

すべての人とは、つまりすべての人です。一人も欠けない、全員を現しています。知らない、行きたくない、私なんか礼拝ふさわしくないと思える人、そのような人にも、すべての人に招きがあるということです。その招きは一人も見捨てたりしない招きです。命を選ばない招きです。すべての人が招かれる食事会のような招きです。そのような招かれた食事会に参加することが、礼拝するということです。その招きに応えて、応答するのが礼拝なのです。

そして8節、神様はその山の宴会で涙をぬぐってくれるお方です。その招きの中には様々な人が応答します。泣いてもいいのです。元気になったら、気分が落ち着いたら礼拝するというのではなくていいのです。泣いたまま、涙を流した姿のままで招かれています。そのまま礼拝すればよいのです。それが神様の招きです。神様は礼拝ですべての人の涙をぬぐってくださるお方です。神様はその礼拝で最後の一人の涙が乾くまで、ひとりひとりの顔の涙をぬぐわれるお方です。

そして恥という言葉もあります。それは失敗や失望のことでしょう。消したい過去のことでしょう。神様はその礼拝で涙も失敗も失望もすべてをぬぐってくださるお方です。私たちはそれだからこそ、礼拝から新しい1週間のスタートをきることができるのです。

9節にはこうあります「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。」

これは信仰の告白です。人々は礼拝に招かれて、祝宴にあずかって、涙をぬぐわれる、その時、信仰の告白をします。この方こそ神様だと告白をするようになるのです。私たちはこの方こそ神様だと信じてから教会に来るようになるのではありません。神様に招かれ、礼拝し、涙をぬぐわれて、初めて神様を神様だとわかるのです。信仰と招きは、招きが先にあるものです。私たちは神様の招きを受けて、礼拝し、信仰を持つようになります。

9節の最後には「その救いを祝って喜び躍ろう」とあります。その礼拝には喜びがあふれるのでしょう。体が動き出すように、喜びがあふれるのでしょう。

10節、神様の手はその山にとどまるとあります。神様は必ずそれぞれの礼拝の場所に、私たちの礼拝する場所に共にいて、とどまってくださるお方です。

このように神様は、すべての人を招き、涙ぬぐい、喜びを与えて下さるお方です。私たちが招かれているのは、このような礼拝です。

今日ここに集っている方は、この招きをよく実感できるでしょう。みなさんもこの平塚バプテスト教会の礼拝という山に招かれ、そしてご自身で決断し登ってこられたお方です。そこでみ言葉をいただき、涙をぬぐわれ、喜び歌います。前後左右には同じように招かれた仲間を感じることができます。礼拝とはそのような招きです。

集うことができない方も、同じようにそれぞれの場所での礼拝に招かれています。集えずとも一緒にその招きを感じ、礼拝をしましょう。

礼拝は神様の招きです。神様は「みんな礼拝しようよ」そのように、みんなを招いておられるお方です。その招きに応えて一緒にみんなで礼拝をしてゆきましょう。お祈りをします。

 

【全文】「変わり続ける礼拝」イザヤ1章11節~20節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に、お互いを感じながら礼拝をささげましょう。

だいたいひと月ごとにテーマを決めて宣教を続けています。テーマはおおむね教会の内側と外側の事が交互なるようになっています。5月は地域活動、6月は教会、7月は平和、8月は礼拝といった順番です。このような宣教のテーマの持ち方をどのように感じているでしょうか。

テーマがあった方がわかりやすい、深く考えることができる。忘れずに覚えることができる。あるいは聖書が恣意的に解釈されていないか、聖書よりテーマが重要視されていいないかそんな感想もあるかもしれません。そこは問い続けながら聖書を読んでゆきましょう。今日から3回、礼拝ということをテーマに宣教をしたいと思います。

どのように礼拝をするかということについて、平塚教会は常に変化し続けています。最近ですとこどもプロジェクトが始まり、こどもメッセージが始まりました。こどもが増えて成長してゆくのに合わせて、こどもスペースを広げました。このように教会の礼拝は変わり続けてきました。でもこれで完成というわけではありません。

もっと子供を大切にするにはどうすればよいでしょうか。いろいろな方法があると思います。バプテストの相模中央教会では礼拝の最後にこども達が前に出てきて、牧師が手を置くという礼拝がされています。それもこどもを大切にするという礼拝だと思います。私たちの教会はこれからもこどもの成長や人数によって、礼拝を変え続けてゆくでしょう。

礼拝はコロナ・ウイルスによっても変化してきました。残念ですが平和のあいさつの中の握手を中止しています。全体の時間を短くしたり、オンラインでも参加できるようにしたり、主の晩餐が言葉だけやカップになったりと変化をしてきました。高齢の先輩方はこの教会の礼拝がこれまでどのように変わってきたか、また変わらずに来たかをよくご存じではないでしょうか。

私たちが礼拝で何を大事にするかは、その時の信仰によって変わるでしょう。何を神様に表したいかが変わってくるのでしょう。そして社会の状況によっても礼拝は変わるのでしょう。礼拝はこれまでも様々に変化をし続け、これからも変わり続けてゆくでしょう。私たちの信仰理解と、社会の状況は変わり続けます。だからこの礼拝も変わり続けてゆくのです。

礼拝は神様が主催者です。礼拝は神様が起こされるものです。しかし同時に、どのように礼拝をしてゆくかは私たち人間が、信仰によって決めることです。それを真剣に考えて決めなくてはいけません。

一番怖いのは「これでよい」と決めつけてしまうことです。ずっとこれでやって来たのだから、昔からこうだから、このままでよい、変えてはいけないということが、一番怖いことです。神様に献げる礼拝は常に、これでよいのだろうかと問い続ける姿勢が大切です。これでよいと決めつけず、真剣に考え続けてゆくのが私たちの信仰です。

これでよいと決めつけてしまった瞬間から、礼拝の主催者が人間になってしまいます。形だけが残り、形骸化が進みます。中身が失われ、変化する社会と乖離してゆきます。

みんなでどうやったらもっと神様を礼拝できるか、今の私たちが大切にしているものを表すことができるのか、今の世界の中でどのように礼拝をするのかを考えたいのです。どのように変わってゆくべきかを考えたいのです。

そしてこの礼拝を私たちが生きる残りの6日間としっかりと結び付いているものにしたいのです。「神がすべての人を愛している、さあ残りの6日間、私も人を愛そう」そう思える礼拝にしてゆきたいのです。

どのように礼拝するのかということ、しばらく一緒に考えてゆきましょう。

 

 

今日の聖書の箇所を読みましょう。預言者イザヤの厳しい言葉が並んでいます。信仰者にとってはあまり聞いていて気持ちのよいもの、元気がでる箇所ではありません。

当時の人々もきっと一生懸命に礼拝し、献げ物をしていたのだと思います。特に神殿の献げ物は何よりも重要とされていました。人々は一生懸命に持っているものを献げ、その献げ物は神殿に山のようになりました。そして人々は12節にあるとおり、新月祭、安息日、祝祭を大切に守ってきました。神様の出来事を覚えてそれを祝っていたのです。

しかし今日の箇所、神様はその一生懸命な献げ物を喜んでいないようです。神様はそれを見て途方に暮れていました。11節には「もうそれに飽きた」「喜ばない」、13節には「もう耐えられない」、14節には「憎んでいる」「重荷だ」「疲れ果てている」、15節には「目を覆いたい」「もう決して聞かない」とあります。

人間が一生懸命に献げて、礼拝しているのに、神様はそんな風に感じて、受け取っていると聞くとショックですし、残念に思います。私たちのこの教会の礼拝を、神様どう感じているのか心配になります。

15節にはその手が血だらけだとありますが、どういうことでしょうか。手が血だらけであること、それは誰かを傷つけているという証拠です。手が血だらけとは、一生懸命礼拝し、一生懸命献げ物をしているが、残りの6日間は誰かを傷つけて、手が血にまみれになっているということです。

神様は礼拝も献げ物も大事だけど、まずその誰かを傷つけるのをやめなさい、傷ついている人をしっかりと見なさいということです。貧しい人から絞りとるのをやめさせ、こどもの権利をまもり、やもめの訴えを聞く、そのことをしっかりとしなさいと語っています。

つまり神様が問いかけているのは、礼拝や献げ物には一生懸命だけど、残りの6日間で目の前の困っている人、小さくされている人をまったく忘れていないか?そう問いかけているのです。神様は世界の事柄を無視して礼拝していませんか?社会に、世界に目を向けて礼拝していますか?あなた個人の礼拝になっていませんか?と問いかけているのです。

神様はイスラエルの人々に、このままこの世界の問題を見逃し続けて礼拝するなら、必ず平和は崩れると語っています。神様に感謝して献げるのに、世界に目をむけない、日々の生活が変わらないということ、神様はそれに戸惑っているのです。

一方、神様は礼拝なんかしなくていい、献げ物なんてしなくていい、幸せならそれでいいと言っているのではありません。神様は礼拝しなさい、ただし社会、世界で起きている問題を無視して行われる礼拝はもう飽きたと言っているのです。現実を忘れた礼拝、現実を忘れるための礼拝はもういらないのです。日々の生活を忘れた礼拝はもういらないというのです。

ここでは二つの方向が示されているでしょう。ひとつは本当に礼拝しているのだったら、それぞれの生き方、生活が変わるはずだという方向です。礼拝から力をいただいて、私たちの世界や、生活の中で助けと励ましを必要としている人と関わってゆくようになるということです。その原因にしっかりと向き合ってゆくこと、礼拝からその力をいただいて、それぞれの生活の中で具体的に愛を示すように求められています。礼拝から生活が変わるという方向です。

 

私たちの教会にたとえるなら、礼拝でこどもを大切にすることから、私たちの日々の生活の中でもこどもを大切にするという姿勢が生まれてくるということです。礼拝でこどもを大切にしている人々の生活で、こどもを大切にしないことは起こらないはずです。

礼拝は必ず生き方を変えます。生き方を変えずに礼拝を続けることはできません。生き方を変えずに礼拝をすることは、血だらけで礼拝することです。

そしてもうひとつの方向もあるでしょう。それは生き方が変わる時、礼拝が変わるはずだという方向です。生き方の変化を願う時、礼拝に変化が起こるのではないでしょうか。生き方の変化が、礼拝の変化を起こすのではないでしょうか。

たとえば平塚教会では現代のこどもがおかれた難しさを知る時に、この礼拝でこそ、こどもを大切にしようと礼拝が変わるのではないでしょうか。たとえばコロナに向き合うとき、礼拝を変えなくてはなりませんでした。私たちは礼拝はこれでいい、ということはいつまでも起こらないのです。

このように礼拝から世界が変わり、世界から礼拝が変わるのです。生き方の変化が礼拝を変え、礼拝の変化が生き方を変えるのです。私たちの生きる場所、生活の場所が変化するように、教会の礼拝も変化してゆく、礼拝の献げ方も変わってくるのです。そして礼拝から私たちの生活・世界が変わるのです。

私たちにはこのような礼拝が必要です。私たちにとってそれぞれの場所で愛をもって歩むために礼拝が必要です。そしてただ礼拝を繰り返すだけではありません。生き方が変わるように、礼拝の形も変わり続けるのです。世界が変わるだけではなく、私たちも変わるのです。

私たちは1週間が始まりました。どんな1週間をおくるでしょうか。この今持っている礼拝と同じように、神様に祈り、聞いてゆくこと、こどもを大事にしてゆくこと、そのような1週間を歩んでゆきましょう。

そしてまた来週集う時、それぞれに起きた出来事を持ち寄って集いましょう。苦しみや願い、聞いたことを持ち寄って礼拝してゆきましょう。そしてどうやって礼拝をすべきかをともに考えてゆきましょう。

このあと私たちは主の晩餐を持ちます。もちろんこれも今の形が完成形ではありません。問い続けるべきことがあるでしょう。なぜするのか、何のためにするのか、誰とするのか、問い続ける中で、今日もこれにあずかってゆきましょう。お祈りをします。

 

 

【全文】「平和を祈ろう」マタイによる福音書8章5節~13節

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

マタイによる福音書8章10節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちを感じ、声を聞きながら、平和を覚えるという大事さもあるでしょう。一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは6月中旬から平和をテーマに5回の礼拝を持ちました。沖縄、戦争責任、空襲、ミャンマー、それぞれと平和について考えてきました。聖書が暴力ではなく、非暴力、愛の力によって平和を実現するように指し示しているということを見てきました。

戦争反対、暴力反対と唱えていれば平和になるかというと、そんな簡単なことではないとも感じました。戦争の誘惑、暴力の誘惑は私たちのすぐ近くに、私たち一人一人の中にすでにあって、いつでも誰でもその誘惑に落ちいってしまうのです。私たちはいつも自分たちに、自分たちの世界に注意を向けなくてはいけません。いつも平和かどうかに目を向けてゆかなければなりません。そうしない時、すぐに戦争を初めてしまうのが私たち人間なのです。

命を守る、平和ということについて、私たちに何ができるでしょうか。デモに参加しよう、寄付をしよう、署名活動をしよう、いろいろなことができるかもしれませんが、祈ることもとても大事なことではないでしょうか。私たちは自分自身、人間の力だけでは暴力の誘惑を乗り越えることができません。私たちには決定的に外側からの力が必要です。私たちが心の方向を変えて、暴力を止め、平和へと向かってゆくには神様の力が必要なのです。私たちにとって平和を与えて下さるのは神様です。平和を神様に祈ってゆくことは、平和を実現するために何よりも大切なことです。一緒に祈ってゆきましょう。

平和は誰でも願うことです。でも私たちには、平和を実現なさろうとする神様が共におられます。とても心強い神様がおられます。私たちがどんなに平和を忘れても、どんなに平和をあきらめても、神様は忘れない、あきらめないお方です。私たちには、平和の神様がいます。一人一人が精一杯、世界の平和を神様に祈り続けてゆきましょう。

そして祈りといってもいろいろな形があるでしょう。手を組んで目を閉じて祈ることだけが祈るというはないでしょう。歩きながら、電車に乗りながら、平和を祈ることができます。オリンピックを見ながら平和を祈ることができます。

いつも熱心に祈るという以外にも祈る方法はあるでしょう。毎日少しずつ祈る、ピンチの時に集中して深く祈る。そんな風にいろいろな場所やあり方で、平和への祈りを続けてゆきたいのです。暴力の誘惑は常に人間を襲います。だからこそ平和は特に祈り続ける、ずっと祈り続ける、祈り続ける期間の長さが大事だと思います。祈り続けることは教会が得意なことです。平和を忘れずに祈り続けてゆきましょう。

そして私たちは、自分の周りの平和ばかりに目を向けがちです。でも平和の祈りを、私たちの周りだけではなく、世界に広げてゆきたいのです。沖縄の事、世界のこと、歴史の事を、自分のこととして祈ってゆけるかが私たちに問われているのではないでしょうか。

今日も聖書を読みますが、熱心に平和を祈る姿、その姿を見て、この平和というテーマの宣教を終えようと思います。私たちは世界の平和を祈りましょう。それを自分のことのように、熱心に主に祈りたいと思うのです。

私たちはその戦争を直接止めることはできなくても、祈ることで、平和の力がそこに与えられてくるはずです。それを信じて祈りたいのです。今日の聖書にはそのように、他者を愛し、そのために熱心に祈る一人の男が登場する箇所です。この百人隊長の祈り、平和の祈りを一緒に見てゆきましょう。

 

今日の箇所を読みましょう。平和というテーマでどうやってこの個所を読むことができるでしょうか。この個所のどこかに平和の関係があるか、そんなことを考えながら聖書を読みます。

6節には僕が「中風」という病気だったとあります。これは麻痺を伴う病気のことです。さらに「ひどく苦しむ」と書いてあります。これは強烈な苦痛を表す言葉です。例えば出産の痛みを表す時にも使われる言葉です。おそらく僕は立ち上がれないほどの痛みに襲われました。ある人はくも膜下出血の症状に似ていると言います。くも膜下出血はバットで殴られたような痛みだと言います。

似た記事はルカ福音書とヨハネ福音書にあります。「中風でひどく苦しむ」ことは変わりませんが、ヨハネ福音書ではこの人を、百人隊長の「息子」とも表現をします。息子であればこの話の関係性は分かりやすいように思います。激しく痛む子どもを目の前にして、親は子どもが助かるためならどんなことでもするでしょう。どんな宗教にでも救いを求めるはずです。必死に嘆願した百人隊長の気持ちが想像できます。

一方、ルカ福音書では苦しむのは「部下」だったと書かれています。百人を従えていた隊長がそのうちのたった一人の部下のためにこんなにまでしてくれる、上司と部下を超えた関係、絆を感じます。

マタイ福音書では読んだ通り「僕」とあります。息子でもなく、部下でもなく、奴隷でもない「僕」です。そしてこの言葉は少年を表すことばでもあります。百人隊長とどういう関係、距離感なのかわかりません。家族の一員だったのか、召使いという位置づけなのか、どれほど近い関係なのか、遠い関係なのかは言葉からでは良くわかりません。

しかし、百人隊長の態度から関係性がわかります。おそらくこの僕は百人隊長にとってかけがえのない、大切な存在だったのです。きっと直接血のつながった家族、血族ではないけれど、雇われて仕えている関係かもしれないけれど、でもこの主人にとっては我が子のように大切な存在だったのです。それがこの二人の関係です。

私は今日の箇所の中で、この苦しむ僕と百人隊長との関係に目がゆきます。この僕のひどい苦しみの前に、百人隊長の助かってほしいという強い願いや、祈り、焦り、混乱が伝わってきます。

百人隊長にとってこの僕はどれほど大切な存在だったのでしょうか。それは恥も外聞も捨てて、公衆の面前で、新しい宗教者イエスにその救いを5節「懇願する」ほど大切だと思える存在だったのです。ここにある懇願するという言葉は「祈る」という意味のある言葉です。

百人隊長は彼の命のためならどこへでも、何度でも行くつもりだったはずです。そしてイエス様に出会い、祈ったのです。しかもイエス様には1節や10節にありますが、従って来た大勢の群衆がいました。

想像してみてください、大勢の群衆、貧しい群衆が見ている前で、社会的地位のある人がイエス様に懇願するのです。イエス様に祈るのです。多くの人の前で自分の僕の癒しを祈ったのです。そしてさらに群衆が見ている前で、必死に自分はイエス様を家に呼ぶ資格はないかもしれないけど、それでも助けてほしいと祈ったのです。イエス様なら一言で十分なはず、きっと直してくれるはずと信じ、懇願した、祈ったのです。涙ながらに祈ったのです。

よく見ると百人隊長の8節9節の言葉は懇願というよりも、まるで祈りのようです。私にはこれが祈りに聞こえます。「主よ」という神様への呼びかけ、自らの罪の告白、癒しの願い、なんでもするという思いが祈られています。百人隊長はイエス様の前、群衆の前で、恥じらいもせず、僕のために熱心に祈ったのです。

イエス様は10節、それに感心したとあります。何にそんなに感心したのでしょうか。百人隊長の神様への信頼に感心したと読まれることが多い箇所です。たしかに危機の中で百人隊長に与えられた信仰の深さに驚いたでしょう。

しかし私は、イエス様が感心したことが他にもあったはずだと思います。それは彼の祈りです。百人隊長はこの僕の命のために、イエス様にどうか助けてほしい、平安を与えてほしいと必死に祈ったのです。

イエス様はこの「祈り」に感心したはずです。それほどまでに「僕」のために祈ることができるのかと感心したのです。イエス様はたったの一人の「僕」のためにここまで熱心に祈る隊長の祈りに驚いたのです。

そこにある姿は僕の痛みを自分の痛みのように感じ、助けてほしい、平安を与えてほしいと熱心に祈る姿でした。地位ある人の恥も外聞も捨てた、プライドを捨てた祈りだったのです。イエス様はこの百人隊長の祈りに共感をしたのではないでしょうか。イエス様は、家族でもない他者の痛みに共感し、熱心に救いを求め祈ること、そして救いを探し回っていること、そのことに感心したのです。

私はこの物語の中に平和を感じます。百人隊長は平和を祈ったのです、イエス様に熱心に平和を祈り求めたのです。家族のためではなく、一人の僕のために。本来は通りすぎてしまう、忘れてしまうような命、あきらめてしまうような命、そんな身分の僕のために、百人隊長は走り、祈ったのです。

私もこの百人隊長のような祈りをしたいと思わされます。百人隊長は、自分だけ、自分の家族だけの平和を祈ったのではありませんでした。もっと外側にいる「僕」のために熱心祈りました。私も自分や家族、親戚だけではなく、もっと広い世界のために、祈ってゆきたい、この個所を読んでそう思うのです。イエス様が感心したのは、他者の命への熱心な祈り、平和の祈りだったのです。

私は世界にある命、苦しむ命、暴力と抑圧の中にある命のために、親身に祈りたいと、この百人隊長の個所から思います。百人隊長が何かできることはないか、走り回って、そしてイエス様に祈ったように。私たちにできる平和の祈りをささげたいのです。

神様に平和を祈る時、きっと神様はそこに目をとめてくださるはずです。戦争は遠い国で起こっているかもしれません。しかしそこで起こる苦しみを、自分の苦しみ、家族の苦しみのように、祈りたいのです。もしそのように熱心に祈ることができるならそれは素晴らしい事なのではないでしょうか。

神様が平和のために、命のためにそんなに祈っているかと驚くほどの祈り、そんな平和の祈りをささげてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「平和を造る者になりなさい」マタイによる福音書5章9節

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

マタイによる福音書5章9節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして集うことができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、全員で一緒に礼拝をしてゆきましょう。私たちは6月・7月と平和をテーマに聖書を読んでいます。特に今日は平塚大空襲を覚えたいと思います。

1945年7月16日深夜、当時最新の爆撃機B29 が133機、平塚を爆撃しました。これによって多くの人が命を落としました。76年前の7月ですが、私たちのいる場所がまさに戦場だったということ忘れないでいたいと思います。

B29は現在のまちかど広場を中心に、まずその外側を大きく円を描いて爆撃しました。そのあと円の中に集中的に爆撃をしたそうです。市民は炎に囲まれ逃げ出すことのできないまま爆撃を受けることになりました。それは無差別虐殺でした。今の総合公園、横浜タイヤのあたりが海軍の工場で、軍需工場が狙われのだと言います。しかしこの空爆は工場を狙ったのではありません。一般市民を狙って爆撃が行われました。その被害をみるとわかります。住宅は57%が被害を受けた一方、工場の被害は25%でした。住宅地にこそ被害が多かった、市民が狙われた、市民が空爆の対象とされたのです。当時の平塚市の人口5万人程度に対して40万発以上の爆弾が投下されました。

その様子の証言集が博物館で販売されています。掲示スペースにも置いてありますのでご覧ください。その証言によれば、爆撃された平塚は生き地獄だったと証言されています。爆撃は現在の教会の敷地の手前まででした。市中心部にあったほとんどの病院は焼けてしまい、残ったのはこの教会の向かい側にあった済生会病院で、そこには入りきれないほど多くのけが人が運ばれたそうです。もちろん十分な処置は行われなかったでしょう。たくさんのこどもが死んだという証言もされていました。

戦争は国と国の戦い、軍人と軍人の戦いと思われています。しかし実際の戦争はそうではないことをよく表していると感じました。戦争は多くの一般人を巻き込み、市民を対象としながら行われます。空爆は、対象が軍事施設だという建前で始まります。しかし必ず一般市民が対象になります。空爆の中身は結局、市民虐殺です。このような空爆は世界中でいまも行われています。シリア、ミャンマー、パレスチナで繰り返されています。そのどれを見ても建前は軍事施設を狙ったということですが、結局標的は一般市民、弱い立場の人たちです。

戦争が終わった後はどうなるのでしょうか。命は一度奪われたら取り戻すことができません。多くの人は体の一部を失ったり、心が傷ついたまま、生きなければならないのです。早く戦争を終わらせるため、早く平和を実現するために、やむをえず空襲があったのでしょうか。ある証言はもう一か月早く戦争をやめていたら悲惨な空襲はなかったはずだと証言しています。そうです。あと一か月降伏が早ければ広島も、長崎も、平塚も原爆・空襲を受けることはありませんでした。だから原爆と空襲によってやっと平和が実現したのでしょうか。

しかし日本は戦争をやめることができませんでした。終戦が遅れたのは国体、天皇を守るためと言われます。天皇を神とするこの国には必ず神風が吹く、神が戦争に負けるわけがないと信じ、この戦争を続けたのでした。

戦争をもっと早く終わらせる方法、それは空襲や原爆以外の方法はなかったのでしょうか。やはり原爆・空爆によって戦争が終わり、平和が訪れたのでしょうか。その平和とはどんな平和でしょうか。空爆によって実現した平和とは本当の平和なのでしょうか。殺され、傷つき、平和が実現したのでしょうか。私は空爆では平和は実現できないと思います。平和を実現するための空爆はいらないと思います。

戦争を終わらせること、平和を実現すること。それは本当に難しいことです。しかし私たち一人一人が平和を大切にし、訴えてゆくことが私たちの世界の平和につながると思います。私たちの目の前で起きた出来事を忘れずに、空襲・戦争・軍事力・暴力によっては決して平和は実現しないのだということを、一人一人が考えてゆくことそれが大切だと思います。

聖書は「平和を実現する者は幸いだ」と言っています。この平和とは何か、実現するとはどんなことかを考えてゆきたいと思います。

 

 

 今日の聖書を読みましょう。今日の箇所は山上の説教と呼ばれる箇所です。ルカによる福音書にも似た箇所がありますが、今日の箇所「平和を実現する人は幸いである」はルカ福音書からは抜けています。

この個所はマタイの福音書のグループが考えたことをイエス様の言葉として聖書に加えたのではないかと考えられています。そのような個所は聖書にいくつもあります。

イエス様の十字架の後、ユダヤとローマの間には激しい戦争が起きました。ユダヤも徹底抗戦をしました。しかしマタイによる福音書を書いたグループは戦うことを選びませんでした。逃げだしたのです。その後ローマ軍によってユダヤの神殿は徹底的に破壊され、市民は虐殺されました。マタイによる福音書を書いた人々は、その戦争から逃げてきた難民のグループだったのではないかと言われています。

マタイたちは戦火をくぐり抜け、ユダヤから逃げだした人々です。空爆から逃げ惑う市民を想像させます。マタイたちは平和を求めて逃げまどったのです。そして彼らは戦うことを選ばない人たちでした。非暴力、非武装を貫いて逃げる人々でした。ですからマタイ福音書にはほかの福音書よりも特別、平和や和解が語られています。

平和とは彼らの何よりも大切にした願いでした。そして彼らは暴力や戦争ではなく、非暴力を貫くことが、神様から祝福をいただくのだと考えました。殺し合わない選択を神は祝福するのだと考えました。そのように神様・平和を理解したのです。そしてそれをイエス様の言葉として、聖書に記載したのです。そのような非暴力と平和の願いが込められた言葉です。

ここに「平和を造り出す者」とありますが、実は当時、ローマ皇帝が「平和を造り出す者」と呼ばれていました。ローマの軍事力によって世界に平和がもたらされているという意味です。ローマ皇帝は軍事力によってすでに「平和を造り出すもの」だったのです。

「神の子」も同じです。当時ローマ皇帝が「神の子」と呼ばれていました。神とはどんな神かというと、戦争の神です。敵を踏みつけにしてくれる神です。神の子とはその戦争の神様の子、つまりローマ皇帝という意味でした。

ですから今日の箇所は明らかにローマ皇帝を意識して、言葉を選び、書かれています。そしてここには皮肉が込められています。地上ではローマ皇帝が、戦争の神の子、軍事力で平和を造り出すものと言われている。

しかし私たちは皇帝のように軍事力・暴力によって「平和を実現するもの」にはならないという皮肉です。平和はローマ皇帝、軍事力、支配によって実現するものではないということを宣言しているのです。ローマの軍事力による平和は本当の平和ではないと言っているのです。彼らは自らの戦争体験をもとに証言をしているのです。

ではマタイはどのような意味で「平和を造る者」と言ったのでしょうか。マタイたちは、皇帝ではなく、私たち一人一人が平和を実現する者となるのだと考えました。戦争を経験した、小さな難民集団が、私たちが「平和を造る」と考えたのです。それは軍事力ではなく、一人一人が隣人を愛することで平和を造るのだと考えたのです。

戦火をくぐり逃げ、生き延びた難民が、平和は非暴力によって実現するのだと証言しています。平和は非暴力の行動をとる者たち、私たち一人一人から生み出されていくのだと証言をしているのです。

そして神の子、それは戦争の神の子という意味ではありません。神の子とは、私たちの信仰する聖書の神、平和の神の、その子という意味です。平和を造り出す者、非暴力を選ぶ者こそが「平和の神の子ども」なのだ、そう証言をしたのです。

ここには戦わない平和、誰かに与えられるのではなく一人一人が実現させ造り出してゆく、平和が語られています。神は平和を願っていること、そしてその平和の担い手は皇帝ではなく、支配者ではなく、私たちなのだ、私たちこそ平和のために用いられる「神の子」なのだと語っています。

私にはこの言葉が戦争を体験したマタイたちの平和宣言に聞こえます。神は戦争ではなく平和を願われているのだ。そして平和は軍事力や支配からではなく、私たち一人一人から生まれてくるのだ。一人一人の非暴力運動、戦争への反対によって生まれてくるものだと証言をしている、そのように聞こえます。

戦争を目のあたりにした人々の平和への願い、証言、それが今日の箇所です。この証言はきっと平塚大空襲の証言と重なるでしょう。平和のために空爆があったのではないのです。空爆・軍事力では平和は造れないのです。暴力によっては神の子となることはできないのです。平和を実現するのは、平和の神の子、私たち一人一人の平和への願い、祈りなのです。聖書はこのように私たちを平和へと導いているのです。

平和への願い、非暴力の願いはきっと神様が祝福してくださるでしょう。そのことを神様は「幸いだ」としてくださるでしょう。

平和の神様は、平和を祈る人々には必ず平和を与えるお方です。平和の神は、それを祈る者を自分の子、神の子とするお方です。神様は平和のために祈り、造り出すものに、幸いだと宣言なさるお方です。

私たちはそのみ言葉を聞きましょう。聖書から平和を実現してゆく力をいただいてゆきましょう。一人一人が平和を求めましょう。一人一人が祈り、働きいてゆきましょう。お祈りいたします。

 

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【全文 】「平和の門をたたきなさい」マタイによる福音書7章6節~15節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。      マタイ7章7節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして集うことができること感謝です。共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。子供たちの声が響く礼拝はなんと平和でしょうか。今日もこどもたちとも一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは平和というテーマで宣教をしています。平和というと8月のテーマという印象があるでしょうか。私たちの教会でも8月15日の前後は平和記念礼拝を持っています。8月は平和を考える大切な時期です。しかし6月7月に平和を考えることもとても意味のあることでしょう。8月には注目されない、沖縄のことや私たちの加害責任に目を向けることができるからです。私たちは原爆を落とされた被害者としてだけではなく、戦争の加害者としての歴史を忘れてはいけません。

そして戦争が起こる、起こりそうな時に宗教がどのような姿勢をとるかは大きな影響力のあることだということも忘れてはいけないことです。その戦争を宗教が支持する時、その戦争は宗教的お墨付きを与えられ、正当化され、聖戦となります。その戦争を宗教が反対をし続ければ、その戦争は内外から大きな批判を受けるようになります。宗教が戦争に対してどのような姿勢をとるかは、戦争の開始・継続に大きな影響力を持つのです。

では第二次世界大戦中はどうだったでしょうか。キリスト教は反対することができませんでした。いえ賛成に回り、積極的にこの戦争に協力をしました。ここには負の歴史があります。あまり聞いていて心地の良いものではありませんが、でも向き合う必要のあることです。一緒に考えたいのです。

実は戦時中、日本の多くのキリスト教会は戦争を支持していました。反対できなかった、全体に流されてしまったのではありません。戦争をはっきりと支持していました。たとえば大東亜共栄圏という東アジアを植民にする構想がありました。この侵略はアジアの人々を深く傷つけました。しかしこの時、キリスト教は反対するどころか、東アジアの植民地化を「東アジアに神の国を出現させる働き」だと語りました。宗教的お墨付きを与え正当化していたのです。

日本のキリスト者たちは東アジアの人々の信仰も奪いました。朝鮮の人々に、朝鮮各地に作られた神社に参拝するように強制したのです。朝鮮の牧師たちは当然、それは偶像崇拝だと猛反対をしました。しかし政府は反対する朝鮮の200の教会を閉鎖し、2000人を逮捕し、獄中で命を落とした牧師もいました。このような中で日本のキリスト教は戦争の支持を続けました。

まだあります。日本の教会では戦時中、献金が募られました。この献金は戦闘機を購入するための献金でした。全国の教会から多くの献金が集まり4機の戦闘機が購入され、戦地に投入されました。その戦闘機には「日本基督教団号」と書かれていました。このように戦時中、日本のほとんどのキリスト教会が戦争に協力し、その戦争を「聖戦」と呼び支持をしていました。

もちろん私たちの教会は戦後にできた教会ですが、これと無関係ではありません。当時の日本基督教団というグループにはバプテストも入っていたのです。あのときバプテスト教会は戦争を支持したのです。

全員が支持したわけではありません。私たちの教会の初代の牧師、長尾三二先生は戦争に反対し、逮捕された144名の牧師の一人です。「天皇は神にあらず」と語り、投獄されました。戦争反対を訴えた貴重な牧師です。私たちの教会はこのような系譜の中にあります。

私たちはもう二度と戦争に協力しません。戦争を見過ごしません。そして戦争が起これば、また明確に反対する使命があるのです。

キリスト教はあの時、戦争に協力し、それを勧めさえしてしまいました。聖書を戦争の道具としました。今私たちは、平和を訴えます。でもまず私たちは自分たちの過ちを真摯に反省する、そのことから始めなければいけません。その過去を知らなければ、未来の平和を訴えてゆくことはできないのです。

まず私たちが戦争にどのようにかかわったのかを知り、平和にどのように関わってゆくかを考えたいのです。平和を訴えるだけではなく、自らの過ちに目を向け、そこから平和を訴えてゆきたいのです。そのことが一番私たちに平和の大切さと、難しさを教えてくれるのではないでしょうか。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所は、相手の目のおがくずを取らせてほしいという者の目に、実は丸太が刺さっているという話です。イエス様のユーモアが含まれています。「あの人は自分のことを棚に上げてよく言うよね」「あの人の目には丸太が刺さっているよね」そう読まれることを聖書は望んでいないでしょう。聖書はこれを読む人自身の、まさに私の目に、丸太が刺さっているのだということを伝えようとしています。

誰に丸太が刺さっているかではなく、まず私自身に丸太が刺さっていることを知ることが大事です。そして、それを取った者だけが、相手の目のおがくずをとることができるのです。

目に丸太の刺さった人とはキリスト教のことともいえるでしょう。キリスト教はまず自分たちの目にどれだけ大きな丸太が刺さっているかを知り、それを取らなければ、他者の目のおがくずを取ることができません。

平和という文脈で読みましょう。つまりそれは私たちがどのように戦争に協力してきたか、それをまず知らなければ、その丸太を取らなければ、平和を訴えてゆくことができないということです。私たちがあの時、誰を踏みにじったのかを知らなければ、これからの世界の平和を語ってゆくことができないということです。私たちの戦争責任、私たちがアジア、沖縄をどれだけ踏みにじってきたかを知らないと、私たちは平和を造り出すことができない、語ることができないということです。

私たちは過去を変えることができません。過去をなかったことにもできません。丸太を刺さっていないことにはできません。私たちはすべての過去を引き受けて、向き合わなければいけません。そうしなければ、平和を造り出すことができないだけではなく、また同じ失敗をしてしまうでしょう。

過去に目を閉ざすものに、未来を語る資格はありません。それこそが自分の丸太に気づかない者に、おがくずは取れないということです。自分の過去に向き合わない者は、未来を語ることができないということです。自分の目に丸太が刺さっているという事実に気づくことは、つらくて、苦しい、考えたくないことです。でも丸太が刺さったままではいけない。それに向き合わなければいけないのです。

7節を見ましょう。私たちは何を神様に求めるのでしょうか。私たちは自らの繁栄を求めて東アジアに進出しました。戦時中のキリスト者たちは、神様に東アジアを自分のものとすることを求めたでしょうか。求めれば領土が与えられる、そう祈ったでしょうか。大東亜共栄圏を求めたでしょうか。

 

しかし、神様が与えたいものは何だったのでしょうか。戦争をしたがる子供に、戦争を与える親がいるでしょうか。友達のものを欲しがる子に、友達から奪って子に与える親がいるでしょうか。

親は盗もうとしている子供に、盗ませません。親は子の平和を願います。11節、神様は良いものを与えるとあります。神様は戦争や身勝手な願いをかなえるお方ではありません。植民地を与えるのではありません。神様は私たちに真によいもの「平和」を与えて下さるお方です。私たちはこのテキストを植民地支配ではなく、平和の文脈で読みたいのです。

平和の文脈で読む時、7節以降はこうです。平和を求めなさい。そうすれば平和は与えられます。平和を探しなさい、そうすれば平和が見つかります。平和の門をたたきなさい、そうすれば開かれます。誰でも平和を求める者は受け、探すものは見つけ、平和の門をたたく者には平和は開かれるのです。

誰が平和を欲しがるこどもに戦争を与えるでしょうか。平和を求めるのに、戦争を与えるでしょうか。私たちは戦争を起こしてしまう罪あるものですが、神は私たちに平和を与えるお方です。天の父は平和を求める者に、きっと平和をくださるに違いありません。

私たちは平和の門をたたきましょう。狭い門、平和の門から入りましょう。戦争への門は広く、その道は広々としています。戦争の道を行く人が多いでしょう。一方、平和に通じる門は狭く、か細く、頼りなく、人もまばらです。でも私たちは平和を求めるのです。か弱く見える平和の道、平和の門を私たちは選ぶのです。

このように神様は私たちに戦争や、植民地や、暴力を与えるお方ではありません。神様は私たちに平和を与えるお方です。私たちはその平和を、その神様を求めたいのです。そうすれば、私たちに平和は必ず与えられます。今日私たちは自分の目、それぞれの目にある丸太に目を向けます。そしてそれに向き合い、それを取り除きたいと思います。自分たちの過去に向き合いたいのです。そして過去に向き合う者にこそ未来が待っているのです。私たちは平和を主に求めます。それがどんなに少数派であっても、それを求め続けます。神様は必ず平和をお与えになるお方です。私たちはそれを求めたいのです。

このあと主の晩餐を持ちます。これはパンとブドウジュースをいただく、共に食卓を囲むことを表す儀式です。共に食卓を囲むのもまた平和の象徴と言えるでしょう。イエス様は多くの人と食事し、宴会をしました。罪人との食事、敵対する者との食事、自分と違う者との食事、垣根を超えた食事をしました。それはそれぞれが自分の目の丸太に気づく食事でした。そしてそれは平和を生み出す食事となったのです。この後、私たちもこの食事を記念して主の晩餐にあずかりましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「抑止力か、愛か」マタイによる福音書6章24節

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。             マタイによる福音書6章24節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしましょう。そして私たちはこの教会のこどもだけを大切にするのではありません。この地域のこどもを大切にします。そしてさらにこどもの今だけを大切にするのでもありません。こどもたちの未来も大切にしたいのです。こどもたちに平和な世界を渡してゆくことも、私たちが大切にすることのひとつです。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしてゆきましょう。

先週から平和について考える礼拝を持っています。先週は命は宝、命どぅ宝(ぬちどぅたから)という沖縄の言葉、そして沖縄の歴史の中から、命は神様が造った宝だから殺さない、戦争をしないのだということ。そしてこの礼拝から平和を造る者と変えられてゆきたいということを考えました。今日ももう少し沖縄のことから福音を考えたいと思います。今日は沖縄の今から考えたいと思います。

「沖縄に基地は必要だ」という声は根強くあります。「沖縄には申し訳ないが、やはり抑止力として沖縄に基地が必要だ」と言われます。その時はよく沖縄を中心にした地図を見せて「沖縄からなら、アジアのどこでもすぐに駆け付けられる場所にある、沖縄ならすぐに相手を攻撃できる場所にある」と示され、だから抑止力として沖縄に基地が必要なのだと言われます。

「抑止力」とは相手より強い軍事力を持つことで、相手に攻撃をさせないこと、その力です。強い大きな基地が沖縄にあることで、相手が日本を攻撃してくることがなく、日本全体が平和になるということです。沖縄に基地があるから、近隣諸国は反撃を恐れて好き勝手にすることができず、おとなしくしているのだという考えです。

しかし、私たちキリスト者が目指す世界はこのような世界でしょうか。目指す平和はこのような平和でしょうか。私たちが目指すのは強い軍事力で牽制しあう、抑止力に頼った平和でしょうか。そもそもその「抑止力」には、本当に効果があるのでしょうか。

私たちの周りにも抑止力はあります。犯罪を犯した人は罰を受けます、罰を受けたくないから犯罪をしないというのも抑止力です。でもそれで犯罪がなくなるわけではありません。自分も死んでいい、死刑になってもいいと思って犯罪をする人には、抑止力は一切効果がありません。もちろん、戦争や犯罪を思いとどまらせる一定の効果はあるでしょう。でも私たちはそれを使うかどうか問われています。私たちの人間関係にも抑止力は働いています。

あの人には文句の一言も言いたいけれど、そんなことしたらその何倍も嫌味を言われるのでやめておこう。だからなにも言わない。それも抑止力です。そこでは表立って争いは起きません。でもそれは平和でしょうか。それは平和ではなく、ただ相手を押さえつけているだけです。抑止力で生まれるのは平和ではありません。ただ力で押させつけているだけです。

さらに抑止力は相手より強いということを常に維持しなければならない問題もあります。新しい兵器、基地を作り続けなければ力関係を保つことができないのが抑止力です。世界は本当にこのような仕組みを続けるでしょうか。そしてキリスト教はこの世界の仕組みをこれからも支持するのでしょうか。日本はこれからも沖縄の基地を抑止力として使い続けるのでしょうか。

平和は抑止力によっては生まれません。軍事力によって平和は作ることはできません。平和なように見えて、それは必ずひずみを起こし、次の戦争を起こします。私たちは軍事力によって平和を造り出すことができないのです。

もちろん基地が無くなりさえすれば平和になるかといえば違うでしょう。もっと平和を造っていく働きが大事です。例えば文化的な交流によって、例えば格差をなくすことによって、歴史をよく学ぶことによってです。私たちは一生懸命抑止力を強くすることに力を使うのではなく、そのような平和を造り出すことに力を使いたいと思うのです。

このように軍事力で平和を造ることはできません。私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできないのです。それは今日の聖書箇所にあるように、神と富と両方に仕えることができないのと同じです。私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできません。私たちはどちらによって命を守るのか、ひとつを選ばなくてはならないのです。今日の聖書箇所を読んでゆきましょう。 

 

 

今日の聖書箇所をもう一度読みましょう「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とあります。

イエス様は二人の主人に仕えることはできないと言っています。神か富かどちらかを選ばないといけないと言っています。クリスチャンは全財産を捨てなさいという意味ではないでしょう。これは私たちの命や関係について語っている言葉です。

このことはまず私たちのお互いの関係において当てはめることができることです。私たちの関係は、特に教会での関係は富や力によって決まるのではありません。お金持ちの人、肩書がある人が偉いわけではありません。教会の中ではあの人はお金持ちであることとか、肩書があることとかはどっちでもいいことです。教会はそれを軽んじます。

それより私たちが大切にする、親しむのは、私たちの関係は神様を中心にした関係だということです。力や富の有無ではなく、神様との親しみの中にある関係を大切にします。だからこそ教会の中では上下がなく、肩の力の抜けた、互いに優しさのある言葉を交わします。私たちはそのように神様の中で関係を造ろうとしています。それが教会の良さではないでしょうか。教会って場所は平和だなって思うのではないでしょうか。

この教会の中で起きていることは私たちの世界でも本当に起きてほしいことです。特に私たち、平和の礼拝を持つとき、私たちの命が何によって守られているのかを、この個所から考えます。

私たちの住む世界は、お金と力がものをいう世界です。お金や力があればたいていの問題は解決することができる世界です。お金があれば武器を揃えることができます、医療も受けることができます。生活が楽になります。健康で長生きができます。だいたいの問題はお金で解決できるのでしょう。

だからこそ私たちの世界は富・お金によって自分を守ることができると錯覚するのでしょう。富が私たちの命を守ると錯覚するのでしょう。軍事力はこの富とよく似ています。それが人よりたくさんあれば自分を守ることができると錯覚するのです。軍事力が他より大きければ自分たちの命は守られると思ってしまうのです。

しかし富・お金・軍事力をいくら自分のもとに集めても、本当の平和は生まれません。相手との関係を造ること、互いの命を守ることはできません。富や力に支えられた平和は、平和に見えても、平和ではないからです。

私たちは富や力が平和を生み出すとは考えません。むしろそれは次の戦争を起こします。私たちは何によって平和を造るのでしょうか。私たちは平和は神の力によって造られると信じます。この教会の中で起きているように、世界も神の愛によって平和が造られると信じます。神の愛こそ平和の源であり、私たちの命を守ると信じます。

私たちははっきり選ばなければいけません。その間はありません。いつでも相手を攻撃できる体制を整えてから握手をするのでは、平和でも愛でもありません。富と力で相手より優位に立とうとすること、相手を押さえつけることは愛でも平和ではありません。抑止力に頼りながら、他者を愛することはできないのです。私たちは抑止力か愛かどちらかを選ばなければいけません。「愛を憎んで抑止力を愛するか、愛に親しんで抑止力を軽んじるか」どちらかなのです。

「抑止力か、愛か」私たちはどちらかを選ぶでしょうか?極端に思える選択が、私たちに迫られているのではないでしょうか。

神様は私たちに富や力による平和ではなく、神の愛による平和を造り出すことを求めておられます。私たちは抑止力、基地を持ったままでは、隣国を愛することができないのです。基地を持ったままでは愛し合うことができないのです。

私たちの教会ではすでに、富と力を軽んじ、愛を選んでします。その選択を世界でもしてゆきたいのです。私たちが互いに愛し合う群れを作るように、互いに愛し合う世界を造ってゆきたいのです。そのためにもう基地をやめたいのです。沖縄に基地が必要ないのです。厚木にも横須賀にも、日本にも、世界にも基地はいらないのです。

私たちは2回にわたって沖縄の歴史と今から平和を考えました。東京・関東からではなく、日本の小さな島、沖縄から日本、そしてキリストを見ると様々なことに気づかされるということがわかります。

私たちは力の強い者、富のある者に親しみ、声を聞くのではありません。基地の存在に苦しむ場所、世界で日本で小さくされている人の声を聞いてゆくことに親しみたいのです。その人々が抑えつけられている力を知り、そこから解放されることを祈り、連帯してゆきたいのです。基地と抑止力ではなく、愛を選びたいのです。お祈りします。

 

【全文】「命どぅ宝」マタイによる福音書5章21節~26節

その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。           マタイによる福音書5章22節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、うれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。一緒に声を聞きながら礼拝をできることを喜びます。集った全員で礼拝をしてゆきましょう。

5月のペンテコステから1か月「教会」というテーマで宣教をしてきました。今日から7月まで「平和」というテーマで宣教を続けてゆきたいと思います。またこの月ごとのテーマの計画は総会資料にも掲載されいていますので、ぜひそちらもご確認ください。

今月は平和をテーマに宣教をしてゆきますが、特に6月に平和を考えるのは沖縄の事について考える時を持ちたいからです。6月23日は「沖縄慰霊の日」です。沖縄の地上戦で20万人以上が犠牲となった、そのことを祈る日です。

バプテスト連盟、特に女性連合がこの沖縄の歴史、そして今に続く基地問題に向き合い続けています。この6月23日を「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」として覚え続けています。「命どぅ宝」とは琉球の時代から沖縄に伝わる「命こそ宝だ」という意味の言葉です。

沖縄の地上戦では、多くの住民がガマと呼ばれる洞窟に隠れました。しかし多くのガマでは集団自決(集団自死の強制)が起こりました。それは日本軍が米兵に見つかったら捕虜にならず、自決するようにと教育をしてきたからでした。

しかしその中でも多くの人が生き延びたガマ・洞窟がありました。シムクガマというガマです。ここは1000人以上の人が隠れていた大きなガマでした。リーダーはハワイからの帰国者で、英語も話すことができた人物だったと聞きます。もちろん普段はこのことで非国民と呼ばれたでしょう。

シムクガマに隠れていた人々もやはり米兵に見つかってしまいました。米兵は「殺さないから出てこい」と言います。人々はどうするのか話しました。捕虜になることに反対する人々は集団自決を主張しました。しかしこのガマのリーダーは「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」「命こそ宝だ」と人々を説得し、生きる道を選びました。それによって多くの人が助かったのです。

あの時、何を宝とするかが人々の生死を分けました。国家・国体・天皇を宝とするか、一人一人の命を宝とするかの選択が、生死を分けました。命こそ宝です。「命どぅ宝」です。今の私たちには当たり前の選択でしょうか。命は何よりも大事です。

でも戦争が起きたらどうでしょうか。戦争は命よりも国家を優先します。国家のために死ぬように言われるのが戦争です。国のために命を懸けるのが軍隊です。戦争が起こると若者が、国のために死ぬことは素晴らしいと言って送りだされます。

私たちは戦争に反対します。命は神様からいただいた宝だからです。だから神様からいただいた命を奪いあう戦争に反対をします。そして私たちは戦争をしないだけではありません。戦争の準備や訓練にも反対をします。問題の解決を戦争や軍事力・抑止力によってしないからです。

この姿勢はバプテスト連盟と女性連合の基地問題への基本的な姿勢にもなっています。戦争はいらないから、軍隊がいらないのです。軍隊がいらないのなら、基地もいらないのです。普天間をどこに移転するかではなく、そもそも戦争・軍隊・基地がいらないというのが私たちの基本的姿勢です。私たちは人を殺しません。殺す準備も、殺す練習もしません。

もちろんすぐに基地が無くならないのもわかっています。しかしそうであってもこれ以上沖縄に負担をかけたくないのです。日本のどこか、あるいはまずアメリカに帰ってもらえないかと考えます。

もちろん戦争がなくなる、基地がなくなるだけでは、世界の問題は解決しないでしょう。戦争や軍事力に頼らない関係を造る努力が必要になるでしょう。

例えば、お互いの文化を理解することによって平和と和解を造ることが可能です。シムクガマのリーダーがハワイにいたことがあり米兵が日本の宣伝するような鬼畜ではないことを知っていました。そのような互いの理解を深めることよって、平和を作ることができるでしょう。命を宝とすることができるでしょう。

平和は宗教が大きな役割を果たす必要がある事柄です。どんなに社会が戦争に流れても、宗教こそ最後まで命を優先し、平和を訴えてゆくことができるからです。私たちは常に平和、命は神様からの宝、「命どぅ宝」と訴えてゆく必要があります。そして逆に宗教が戦争を支持したとき、暴力が神の名のもとに正当化される危険があります。

私たちは世界のあらゆる戦争を支持しません。軍隊・基地を支持しません。平和を語り続けたいのです。

私たちがそう考えるのは、イエス様が平和を繰り返し訴えたお方だからです。イエス様は暴力ではない方法で、平和を造り出すことを訴えたお方です。今日の聖書の箇所でもそうです。イエス様の語られた平和を共に見てゆきましょう。

 

 

今日の聖書箇所を見ましょう。21節には殺してはならないとあります。旧約聖書の十戒からの引用です。十戒にはどんな条件だったら人を殺してよいのかということは書いてありません。条件を付けず「殺してはならない」と書いてあります。

聖書はどんなに害悪を及ぼし、人を殺し、無意味、無価値に思える命も「殺してはならない」と言っています。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは命は神様が造られたものだからです。神様が造られ「よい」と言われたものだから、命は神様が作った宝だから、それを壊してはいけないのです。人を殺してはいけないです。「命どぅ宝」なのです。

しかしイエス様が今日伝えようとしていることは、人を殺さなければよいということではありません。イエス様はもっと積極的に平和を造りだそうとするお方です。

22節には腹を立てる者は裁き、神の裁きを受けるとあります。しかし私たちに怒るなというのは無理な話です。そして怒りは大切な感情でもあるでしょう。時に泣くことが大事であるのと同じように、怒ることも大事なことです。怒らないことなど無理です。

しかし怒りが引き起こすことは理解しておく必要があるでしょう。怒りは私たちをいつもと違う異常な行動に駆り立てます。普段は決してしない行動を、怒りは引き起こします。それが直接の殺人や、暴力、暴言につながる感情であることを注意をしたいのです。イエス様の十字架も祭司や民衆の怒りが原動力でした。

怒りのエネルギーをどのように、平和を造る力に変えてゆくことができるかが大事なことでしょう。暴力で返すのではなく、どうやったら平和の力に変換してゆくことができるかをイエス様は語ろうとしています。

23節の登場人物は、平和を造り出す必要に気づいた人の話です。彼は神様への捧げものをしようとした時、自分と神様の関係を考えました。しかし、そのとき自分と神様とだけではなく、自分と隣人の関係を思い出したのです。神に愛されている私は、隣人を愛しているかと思い出したのです。そして、彼は捧げものをいったんそこに置いて、平和を造り出すために出て行きました。

彼は暴力ではなく、対話によって平和作り出そうとしました。神様に感謝したとき、そのことに、平和を造ろうと気づかされたのです。彼は殺さないだけではなく、平和を造ることを選んだのです。

私たちにも「和解しなければいけない人がいるので、また後改めて教会に来ます」。それができるなら、どんなにうれしいことしょうか。しかしそれは簡単なことではありません。相変わらず、平和を造れずに、礼拝を続ける私たちです。でもいま私たちは、今主の愛をいただいています。この礼拝が平和を造る者と変えられてゆきたいのです。

殺さないだけじゃない、主の愛を受けて平和を造り出すものとして、また私たちは派遣されてゆきたいのです。

25節を見ましょう。おそらくこれは、裁判所に訴訟の相手と連れだって行くという場面です。もし私たちが加害者であるならば、相手に対し早く謝罪と償いが必要な場面です。この二人が私と沖縄だったらどうでしょうか。私が沖縄に負担を押し付ける加害者であるとき、歴史と基地の事柄を誠実に謝罪と償いをしたいのです。1クァドランス、最後の1円まで、私たちはそこから決して逃げることはできません。

二人のうち、私たちが被害者のこともあるでしょうか。訴訟に行くまでの間、その時私たちは、暴力を使う必要はありません。私たちの行く先には、必ず裁判官である神様がいます。神様はその罪を決して、あいまいにしないお方です。加害者の謝罪と償いが終わるまで、主は決してその人を牢から出すことはありません。

私たちはこのように、暴力ではなく、平和を造りたいのです。対話と和解をいただきたいのです。その力を聖書から、神様からいただいているのです。

神様が作った命は宝です。命は宝、命どぅ宝です。私たちは誰も殺しません。そして殺さないだけではなく、平和を作り出すために歩みます。どんな怒りも暴力に変えません。その怒りを、平和を作り出すことへ向けてゆきます。対話と和解を求めます。神様は必ず最後まで私たちに、平和を造り出す力をこの礼拝から与えて下さるお方です。お祈りいたします。

 

 

 

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【全文】「地の塩、世の光、立派な行い」マタイによる福音書5章13節~16節

あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。マタイ5章16節

 

みなさんおはようございます。今日は71回目の創立記念日を迎えています。この教会は1950年からこの地で少しずつ変化をしながら礼拝を続けてきました。今日この日を迎えられること、先輩方がこの教会を大切に守って下ったこと、そして何より神様がこの教会を守り導いてくださったこと感謝します。

私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声が聞こえる礼拝をしています。このこどもたちとも、礼拝を一緒に持ちたいと願っています。一緒に礼拝してゆきましょう。

今日の聖書箇所は地の塩、世の光という言葉で皆さんに親しまれてきた箇所です。教会やクリスチャンのあり方を表す言葉として親しまれてきました。

教会は71年間「地の塩」だったと言えるでしょう。教会は他の様々な集まりとは違う集まりです。その特徴は神様を中心とした集いということです。それは様々な集いに似ているようで全く違うものです。

愛とか、平和とか、いたわりとか、世界ではもう使い古され、忘れられてしまったようなことを大切にし続けています。教会は社会の不公平や、正義、命に関わりつづけています。そのように神様を中心にし続けています。

それは塩のような存在と言えるでしょう。社会と同じようになるのではなく、社会の基準とは距離をとってきました。そしてそれを言葉にし続けてきたのです。クリスチャン一人一人も塩です。世界とはすこし異なる生き方をする人です。

塩気を失うとは、教会が神様を中心しないということです。神様を中心にしなくなったら、塩が塩で亡くなるように、教会は教会ではなくなってしまいます。教会がその存在の意味を持ち続けてきたのは、神様を中心にし続けてきたからです。私たちが神様を中心にしないとき、あるいは別の何かを中心しようとするとき私たちは塩でなくなってしまいます。

そして教会は71年間、世の光でもありました。暗い社会の中で教会はいつも希望を示し続けてきました。この教会の十字架は通りの向こうからも見えます。存在感のある教会です。

世の光とは、世の中、世界に対して隠されないで、輝くことです。この光はクリスチャンのためだけ、ここに集まった人のためだけの光ではありません。「世の」光です。教会は世界の光です。教会は戸を閉ざし、隠れるのではありません。扉を開けて、疲れた人、社会で希望を持てなくなった人を招き入れ、励ましてきました。閉ざされた仲間のためではなく「世のための」光、教会なのです。

そしてクリスチャン一人一人もそうです。私たち一人ひとりは毎週それぞれの場所から集まり、それぞれの場所にまた派遣されています。光の子として世に、派遣され続けています。それぞれの場所で、光として周囲に希望を与える存在として派遣されてゆきます。教会はこのように71年間、地の塩、世の光でした。

そしてもう一歩踏み込んで考えてゆきたいのです。私たちは教会とは地の塩、世の光だと思っています。しかし、周囲からはどのようにみられているのでしょうか。教会の存在そのものが異質だし、目立ってはいます。

しかしその内側についてはほとんど知られていないと言えるでしょう。自分たちが自分たちを地の塩、世の光だと思うように、周囲から教会は世に光と思われているのでしょうか。もしかすると、私たちが世の光であると思うほど、地域の方々は意識していないかもしれません、教会が世の光だとは感じていないかもしれません。

私たちのことを地の塩、世の光と感じるのは、地域との交流があってこそのことでしょう。地域と様々な交流と通じて、この教会ことを「塩」と感じたり、「光」と感じたりするのでしょう。

例えばサロン虹という活動があります。高齢者の方々が集まって聖書の話を聞いて、おしゃべりをしています。他とは違う神様を中心としながら、ここで安心したり、満たされたりするときにこそ、ここを地の塩、世の光と感じてもらえるのだと思います。もし地域との関わりがなかったら、どんなに私たちが自分たちを地の塩、世の光と思っていても、誰からも地の塩、世の光とは思われないでしょう。

この教会は素晴らしいところだと思います。そして、ただ自分たちの教会の存在をほめたたえるのではなく、しっかりと71年の振り返りもしたいのです。私たちには塩のように独自性のある集まりです。私たちは光のように閉ざされないオープンな集まりです。そしてもう一つ上げるなら、私たちは地域との交流によって活動によって、地の塩、世の光となることができるのです。

今日の聖書箇所、私は3つのことを言っていると感じます。地の塩、世の光この2つに加えて、立派な行いということ。この3つが大事だと聖書は語っています。地の塩であり続けること、世の光であり続けること、そして行い・活動をもってそれを世の、世界の、地域のものとしてゆくこと、それが大事なのではないでしょうか。地の塩、世の光、立派な行いの3つを今日は聖書から聞いてゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。イエス様の時代、イスラエルの荒野にクムランという場所がありました。その荒野で信仰生活を守る人々がいました。ここは死海の近くです。死海とは塩分濃度が高くてなんでも浮いてしまう湖です。彼らはまさしく塩の湖の近くに、地の塩として暮らしていました。

クムランの人々は洞窟にこもって生活をしました。社会と分離し、まったく違う価値基準で、自らに厳しい生活をしていました。そのようにして自分たちの独自性を守ろうとしたのです。彼らは他の集まりとはまったく違う、まさしく塩の近くに住む、地の塩の人々だったのです。

そしてクムランの人々は、自分たちを光の子と呼びました。そして一般社会の人々を闇の子と呼びました。しかし、彼らは本当に光だったのでしょうか。もし彼らが光だったとしても、おそらく洞窟で暮らした人々の光は人々には届かなかったでしょう。彼らは確かに地の塩でしたが、世の光ではありませんでした。

イエス様はおそらくこのクムランの人々の生活が「塩」であることは認めたのでしょう。社会での独自性を評価しつつ彼らを「地の塩」だと考えました。しかしもう一方で、クムランの洞窟に住む彼らは世の光ではないと批判しました。

15節にある、灯火を桝の下に光を置くとはそのようなことです。たとえ光であったとしても、それに覆いをかけて、箱をかぶせて、隠していては、光の意味はありません。山の上の町ではなく洞窟の中にあるのでは、光は光ではありません。

イエス様はクムランの人々のように社会から独自性を持った地の塩のようになりなさいということと同時に、隠れず世に出てゆき「世の光」となりなさいと語ったのです。

よく聖書からは、「地の塩、世の光」とセットで引用されます。しかし私はここで伝えられていることは3つあると思います。それは地の塩、世の光、そして「立派な行い」ということです。聖書はこの3つ「地の塩、世の光、立派な行い」を大切にするように言っているのではないでしょうか。

私たちは地の塩であるだけではなく、世の光です。世の光として私たちは世と関わることが求められています。そしてそこでは、16節「立派な行い」をするように勧められているのです。

立派な行いとは、善い行いとも言えるでしょう。地域、世界の中に必要とされることを行うことです。教会や私たちが困っている人、寂しさを感じているに寄り添い、共に歩むことが立派な行いです。病気や寂しさから元気をなくしている人と共に過ごし、共に歩むことそれが立派な行いです。他にも様々な立派な行いがあるでしょう。

今日の箇所からすれば、教会はそれを教会の中だけではなく、外に向かって、世に向かって行ってゆくことが促されています。他とは違う神様の希望を言い表し、希望のための行い・活動をしてゆきなさいというのが、イエス様の促しです。私たちは自分たちを塩、光と呼ぶだけではなく、それを具体的に現す者として歩むように促されています。

聖書は私たちに「地の塩になりなさい」「世の光となりなさい」「立派な行いをしなさい」と語っているのではないでしょうか。

私たちは塩であるだけではなく、世の光になりたいのです。そしてそれを行い、具体的な活動で表す集まりになりたいのです。教会は確かに他とは違う集まりです。教会は希望の集まりです。そして教会は立派な行いの集まりなのです。

私たちが立派な行いをするからこそ、世の塩であり、世の光となるのです。人々の幸いのために語り、行動を起こしてゆくのが、教会なのではないでしょうか。そしてそれはこの教会が大事にしてきた地域活動という行いで、表されているのではないでしょうか。

ひとりひとりの生活も振り返りましょう。それぞれが地の塩となりましょう。世の光となりましょう。立派な行いを大事にしましょう。それぞれが社会に流されず、社会から隠れず、具体的に働いてゆきたいのです。

創立71周年を祝います。私たちは塩として歩みましょう。多くの人と違う基準、神の言葉を中心とする集いであり続けましょう。そして閉じこもるのではなく、世へと出て行く「世の光」となりましょう。そして神様に従う人が多く起こされるように、私たちは働いてゆきましょう。教会は、私たち一人一人は「地の塩」「世の光」を目指し、「立派な行い」をしてゆきましょう。それが神様が私たちに示していることではないでしょうか。お祈りします。

 

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【全文】「バプテストのヨハネ」 マタイによる福音書3章1節~12節

エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

マタイによる福音書3章5~6節

 

みなさん、おはようございます。先週はお休みをいただきまして、ありがとうございました。コロナで延期になっていた冬休みをようやくいただくことができました。感謝です。こどもたちも集まってくれました。私たちはこどもたちを大切にする教会です。声を聞きながら、今日も一緒に集えることを喜びながら礼拝しましょう。

来週はこの教会の71回目の創立記念日でもあります。今回と次回、引き続き「教会」というテーマで宣教をしてゆきたいと思っています。改めてですけれども、私たちはキリスト教の教会です。その中でもバプテスト主義を大切にする教会です。

バプテストとは、バプテスマという全身を水に沈める洗礼の方法をとることから、バプテストと呼ばれます。入信の儀式において、後ろに大きな浴槽に水をためて、その中に全身を沈めるのがバプテスマです。その日からクリスチャンとしての信仰生活がスタートします。他の教派では滴礼という水を少し頭に垂らす方法が一般的ですが私たちはわざわざ全身でそれを受けます。

バプテストがこの洗礼の方法にこだわったのは、当時は幼児洗礼といって、生まれてすぐに自動的に滴礼による洗礼を受けさせられたという背景があったからです。バプテストを始めた人々は、バプテスマは生まれてすぐ、無自覚に与えられるものではなく、本人の意思に基づいて行われるべきものだと考えました。信じた者、信仰を告白したものだけがバプテスマを受けるのだと考えました。信仰をもっと自覚的にとらえようとした人々がよりよい洗礼の方式を考え、この方式をとりました。

このようにバプテストは個人の自覚的な信仰を大切にするグループです。ですからバプテスマを受けるみんなの前で信仰の告白を聞きます。それをみんなで確認しあうのです。誰かにこれこれを信じなさいといわれるのではなく、自分の言葉で信仰を表現します。ですから、それぞれ何を信じるかは自由なのがバプテストです。

そして教会のことも、誰かが決めるのではありません。自分たちで自覚的に決める。教会全員が話し合って決めることを大切にします。

このようにバプテスト教会の特徴は洗礼の形式にとどまらず、その中身、自由と平等、民主主義を大事にするということが特徴です。私はよくキング牧師を引き合いに出して説明をします。彼もバプテストです。アメリカの公民権運動を主導しました。彼は黒人差別に反対し、特に選挙権を得るために平和的なデモ行進でそれを訴えました。教会が自由と平等と民主主義を社会に訴えたバプテストらしい活動だったと思います。

私たちはキリスト教のバプテスト教会です。この教会は自由と平等と民主主義を大切にする教会です。教会員全員、あるいは今日初めてきた人もみんな平等に尊重される教会です。教会の中に上下ありません。自分たちの教会の事は本部が決めるのではなく、自分たちで決めます。教会の全員が一人一票を持ち、民主主義的に運営されています。

このことは実は当たり前のようで当たり前ではありません。これは他の教派から見ると、やや異端です。例えば他の教派は自分たちの牧師を自分たちが決めるわけではありません。上の人が決めます。牧師は信徒名簿に載らないと聞きます。牧師は牧師で信徒ではないからです。私たちの教会は様々な面で、平等、自由、民主主義を大切にしています。

さて、今日の聖書箇所は、バプテスマのヨハネと呼ばれる箇所です。バプテストの事と、バプテスマのヨハネとどんな関係があるのかと疑問に思うかもしれません。確かに歴史的にバプテストは17世紀にイギリスで発祥し、アメリカを経由して日本に伝わってきました。直接にバプテスマのヨハネとバプテストがつながっているわけではありません。

しかし、私はバプテスマのヨハネとバプテストにはたくさんの共通点があると思います。まず洗礼方式が今の私たちと似た形式です。このバプテスマのヨハネの洗礼も私たちのルーツとも言ってよいと思います。そして私たちが大事にしている平等ということも、彼は大切にしているのではないかと私は思います。バプテスマと平等を大事にしているという意味で、彼もバプテストだったのではないかと私は思います。今日はヨハネが大事にしたバプテスマと平等さということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。今日はバプテスマのヨハネをバプテストのヨハネと呼びます。実はヨハネ以前からバプテスマは行われていました。しかしそれは、沐浴に近いようなものでした。何回でも受けてよいもので、自分で水に潜るものというものでした。

この沐浴のようなバプテスマをするのは例えば、ユダヤ人が律法に違反し穢れてしまった時です。穢れを取り払うために自分で水に潜りました。そしてまた穢れたときは繰り返し水に沈んだのです。あるいは穢れているとされた外国人は、ユダヤ教に入信するときにこれを行いました。

しかしこのヨハネのバプテスマは、これまでとは全く違う特徴を持ったバプテスマでした。まず彼の洗礼は自分で自分にするものではありませんでした。誰かにしてもらう必要があったのです。

ですからバプテスマのヨハネは初めて洗礼を他人に対して行った人になります。初めてのバプテストといえます。そしてこのバプテスマは1回限りのものでした。何度でもできるのではなく、この1回を人生の転換点とするように迫るものでした。

そしてその人生を転換するという内容は、穢れを払うということだけではなく6節にあるように罪の告白を伴うものでした。言い換えるならば信仰の告白が伴ったと言えるでしょう。ただ穢れを取る儀式ではなく、罪を自覚し、告白し、決定的な1度きりの再スタートを切るということを意味したのです。その点で言えば、私たちのバプテスマとの共通点は多くあります。

このバプテストのヨハネのバプテスマ。ここには平等というテーマが含まれていると思います。なぜならそれは、穢れた者や外国人だけが受けるのではなく、全員が受けるべきものとされたからです。祭司もラビもファリサイ派も律法学者も全員がそれを受けるべきだとバプテストのヨハネは主張したのです。だからこそその列には7節ファリサイ派やサドカイ派、特にサドカイ派はエルサレムの都会のエリート祭司です。エリートから一般庶民まで、いろいろな人々が等しく、バプテスマを受けるようにと迫られ、ヨルダン川に来ていたのです。

そしてバプテストのヨハネは特に宗教的なエリートに向けて、厳しく語っています。自分たちを誇らないようにと厳しく伝えています。ヨハネは彼らにこう言います。お前たちは何か特別な存在なのではなく、神様の前では、全員同じ石ころ、同じように実を結ばない木だというのです。

バプテストのヨハネはこのように、エリート祭司も律法学者も躊躇なく、みんな平等に批判しました。結局彼は王様も躊躇なく批判したので、殺されてしまいました。彼が7節以降で主張しているのは、神の前に全員が等しく罪人であるということです。神様の前に罪人であるということにおいて、平等だと主張しています。自分だけが特別、誰かが特別という考えは間違っている、全員が神様の前に平等に罪人であると主張します。

そしてだからこそ全員が、その罪の告白と信仰の告白、そしてバプテスマが必要だというのです。これを見ると、バプテストのヨハネも現代のバプテストと同じく、平等を訴える者だったと思います。

彼はみんな同じ罪人だといいます。そう、私たちは平等です。神様の前に平等です。神様の前に等しく大切な命であり、そして等しく罪を犯す者です。完全に神に従うことができる者はいません。多かれ少なかれ神に従うことができない者なのです。その意味で神様の下に私たちは平等です。バプテストのヨハネはその私たちの平等さを訴えたのではないでしょうか。全員平等に罪人、だから全員神様に立ち返れ、このバプテスマを受けて決定的な再スタートしないさいと主張したのがバプテストのヨハネだったのではないでしょうか。

バプテストのヨハネについてみてきました。このバプテスマは自覚して受けるものでした。自ら罪人であると信仰を告白してから受けるものでした。罪と信仰の告白なしでは受けることはできないものでした。それはすべての人に求められました。すべての人が神の前に罪人であること、平等であるからこそ、全員に求められたのです。

私たち現代のバプテストもそのように考えます。私たちは誰かに勝手にバプテスマを受けさせられるのではありません。自分で自分にするのでもありません。自身の信仰に基づいてバプテスマを受けます。そこには罪の告白、信仰の告白が伴います。そしてすべての人が罪人で、神様の前に平等であるからこそ、全員がそれを受けるように促されます。そこから決定的な生き方の転換が始まるのです。

すでにバプテスマを受けた方々はその意味をすべて理解してバプテスマを受けたのではないでしょう。意味をよく理解せずに受けたのでしょう。私もそうです。すべてを理解してから受けるのでは、いつまでたってもそれは受けることができません。

でもそれを受けた人はすでに新しい生き方をスタートしている方です。生き方の転換がすでにそこからはじまっています。もう一度それぞれに自分の信仰を確認しましょう。平等ということ、命の等しさということ、もう一度覚えて、今週1週間を歩みましょう。

これからバプテスマを受けたいと思っている方もいるでしょうか。ぜひ私にお知らせください。新しい生き方のスタートを一緒に切りたいと願っています。すべてを理解する必要はありません。ふさわしくなったらバプテスマを受けるのでもありません。今のあなたからスタートしてほしいのです。このあと私たちは主の晩餐を持ちます。みなさんもこの祝福にあずかることに招かれています。お祈りをします。

 

【全文】「希望を持ち続ける教会」マタイによる福音書12章14節~21節

彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。

マタイによる福音書12章20~21節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に集って礼拝ができること感謝です。こどもたちも集まってくれています。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝を持ちましょう。今日はバプテストリーにお湯をためてみました。給湯器が壊れているので、電気湯沸かし器を使っています。無事にお湯がたまるようです。

バプテスマとは神様を信じるという信仰を告白した後、この中に全身を沈める儀式です。教会は私たちの信仰に加わってくださる人が起こされることをいつも祈っています。どうぞ中をご覧になってください。

今日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは「50日目」を意味するギリシャ語です。使徒言行録2章によれば、イエス様の復活の50日目に弟子たちに聖霊が下り、それぞれの言葉で信仰を語りだした、信仰の告白が起こったということが記録されています。それが教会のスタートでした。聖霊が弟子たちに下ったとき、信仰の告白が始まった時、ペンテコステから教会が始まったのです。

聖霊が下り、告白が始まり、教会が始まったのですが、この聖霊とは一体何でしょうか。聖霊とは妖精ではありません。小さな羽の生えた小人とは違います。聖霊とは目に見えないけれども、たしかに神様が働いている、その力です。人を動かす力。信仰を告白させる力です。

私たちはよく「信仰を決心する」と言いますが、厳密にいえば信仰は自分で持つと決めるものではありません。人間の力だけではそれは起こらないのです。信仰は見えない聖霊の働きかけによってこそ起こります。そして見えない聖霊の力によってこそ、私は信じていると告白することができます。聖霊とはそのように働きます。人を動かし、信仰を告白させるのが聖霊です。この聖霊の力を受けて、教会は始まりました。そして今も聖霊の力を受けて教会は立っています。

今日このペンテコステ礼拝からの1か月「教会」ということをテーマに宣教をしてゆければと思っています。また一緒に考えてゆきましょう。今日は聖霊によって力づけられている教会についてみてゆきましょう。

教会のことについて最近感じていることがあります。それはこのコロナの状況にもかかわらず、なぜだか教会の中で「感謝です」という言葉が以前にもましてよく聞くようになったということです。社会の状況を見れば、ちっとも感謝できるような状況にない中で、それでもなぜか教会の中では「感謝です」という言葉が交わされています。教会では自然な会話ですが、脇からそのような会話を見ていると、本当に不思議な集いに思います。

礼拝が再開して交し合う挨拶も「集まれたことに感謝」という会話でした。みんなそれぞれに、あんなに大変で、寂しいかったのに「感謝です」と言葉を交わしています。それを聞いてとても心が安らぎます。皆さんから、これによってたくさん学んだ、知らされた、そしてまた「感謝だね」と言葉が行き交っています。何もそこまで前向きにとらえず、しっかり悲しんだ方がいいように思うときもあります。でも、それほどまでに私たちにとって「感謝だね」という言葉は何気ない挨拶です。

教会はなぜこんなにも、感謝できるのでしょうか。きっとそれは私たちがどんな時でも神様から希望をいただくことができると信じているからです。「しんどいね」と話が始まっても、いつのまにか「感謝だね」と話が終わってゆきます。それはきっと、神様の希望は無くならない、そう信じている信仰があるからでしょう。それは例えばご葬儀でも同じです。どんなに悲しい死の別れがあっても、神様の希望は無くならないと信じる、感謝できる、それが私たちの葬儀です。

ピンチがチャンスになるという話ではありません。ピンチが感謝になるのです。そのようにして、神様にあって希望を持ち続けることができる、それが教会なのでしょう。

その信仰は私が信じると決めたから、決心したから信仰を持っている、信仰が続いているのではありません。いろいろ考えてそう決めたから信仰が続いているのではありません。神様が与えてくださったからこそ、その信仰が起こっています。それを起こす力が聖霊です。聖霊が働いて、私たちはなぜだかピンチで感謝ができるのです。聖霊が私たちに、教会に働くからこそ、私たちはどんなときでも希望を持ち続けることができます。希望はどんな時も絶対になくならないと信じることができるのです。

今日の箇所、イエス様は希望を失っている人々と共にいます。そして自分も命を狙われます。でもそこでもイエス様からの希望は続いていくのだと語られています。私たちはどんなに苦しくとも、神様によって、希望を持ち続けることができるということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所の18節を読むと、イエス様がバプテスマを受けた物語を思い出します。バプテスマを受けた時、聖霊が現れて「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」といった場面(マタイ3章17節)です。

イエス様は聖霊の力を受けて活動を始められました。そして聖霊の働きは地上での活動の間もずっと続きました。イエス様も聖霊の力を受けたお方です。そしてイエス様の働きとは弱さを持つ者に寄り添い、福音を告げてゆくということでした。弱っている人々、苦しんでいる人々に希望を与えてゆくということ、なによりもそれがイエス様の働きだったのです。

20節を見るとここには「葦」という言葉あります。葦は細長くすぐに折れてしまう植物です。弱さや、不安定さの象徴です。ここにはさらに傷ついた葦とありますから、今にも折れてしまいそうな状況を示しています。そんな状況を守ってくださるのがイエス様だということです。そして葦にはもうひとつ意味があります。裁判で葦の棒を折るというジェスチャーは被告を死刑とすることを意味するジェスチャーだったそうです。ここにある「彼は葦を折らない」という意味は、弱いものを殺さないという意味です。イエス様は傷ついた葦のように、弱くされている人を守り、殺さないお方だということが示されています。

20節には「くすぶる灯心」という言葉も出てきます。くすぶる灯心とは、ランプの紐が焦げて短くなってしまった様子です。あるいはランプの油が切れかかっている状態です。いつ消えるともわからない弱々しい光です。

ここにある「消す」という言葉はふっと消すというよりも、押し消す、押しつぶすイメージのある言葉です。消えそうなランプを押しつぶす、つまりそれは、力を失っている人、今にも光が消えてしまいそうな人、その小さな希望を絶つ、踏みつぶすことを意味します。最後の小さな希望、最後の力を踏みつぶすこと、それがくすぶる灯心を消すということです。

それをしないイエス様は小さな灯を消さないお方です。イエス様は最後の最後の、燃えかすのような小さな光でも守り、それを消さないお方です。最後の最後まで希望を守り続けてくださるお方です。

イエス様は葦を折らない方、灯火を消さないお方です。傷ついた弱き者、私たちの、消えそうな小さな明かり、希望を守ってくださるお方です。私たちはそれを自分の力ではなく、聖霊の力によって信じます。

私たちは、消えそうに小さな希望でも、それはなくならないと信じます。教会のあの「感謝です」という言葉、それはこの希望に基づいているのではないでしょうか。私たちの希望はどんな時も決して無くならなりません。だから、私たちはどんなときでも感謝ができるのではないでしょうか。必ず守られると、信じることができるから、こんなピンチの時でも教会には感謝の言葉があふれているのではないでしょうか。

21節には「異邦人は彼の名に望みをかける」とあります。ふさわしくないとされた人が、イエス様に望みを置くようになるのです。本当は希望なんか持てない状況にいる、その私たちが、イエス様に望みを置くようになるのです。ピンチを感謝するようになるのです。

私たちはこのようにして、聖霊が働いて、その希望を信じることができます。教会は聖霊が働いてその希望を信じ続ける、持ち続けることができます。私たちはこの不思議な希望の集まりに一人でも多くの方に加わってほしいと願っています。一緒にどんな時も神様の希望に感謝する集いに加わってほしいと祈っています。

すでにその聖霊は一人一人に働き、信仰を言葉にすること、信仰の告白へと導いています。与えられている希望とそれへの感謝を表明するようにと、すべての人を導いています。

今日は特別な聖霊について考える特別な礼拝ですから、ぜひ新しく来られている方にもお伝えします。私たちはこの不思議な希望に、イエス様に望みを置く教会に、一人でも多くの仲間に加わってほしいと願っています。あなたにも聖霊が働き「私はこの希望を信じている」と告白し、バプテスマを受けてほしいと願っています。そしてもしそのお気持ちがある方は、私や信仰の仲間にお示しください。もっとそれがはっきりと与えられるように、一緒に祈ってゆきましょう。

でももちろん今の気持ちも大切にされてください。聖霊が人々に下る前は、イエス様はまだ言いふらさないようにと言いました。自分の中に大切にしておきなさいと言います。そのことも大事なことです。聖霊があなたに注がれるとき、その希望を公にするときが来ます。その時、信仰の告白がきっと起きるでしょう。一緒にその時を待ちましょう。

そして特にすでに信じて信仰を告白しているという方にもお伝えます。信じますという告白は一度きりのものではありません。もう一度信じますという告白が、繰り返し起こされるはずです。イエス様に希望を置くという告白、スタートがもう一度今日、みなさんに起こるはずです。一緒に聖霊を受けて、その歩みを進めましょう。お祈りします。

 

【全文】「地域に仕える教会」マタイによる福音書19章1節~12節

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

マタイによる福音書23章11節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。こどもたちも集ってくれています。声を聴きながら共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちはイースターの後から「地域と福音」というテーマでみ言葉を聞いてきました。今日がこの「地域と福音」というテーマの最終回です。シェルターを通じて、神様は家になってくださるお方だということ。パトロールを通じて神様は訪ねてくださるお方だということ。炊き出しを通じて神様は私たちを食事に招いているということ。そしてこひつじ食堂を通じて、相互関係の中に教会があることと、教会が具体的な必要に応えることを読んできました。どのようにお感じになったでしょうか? 

振り返ると、教会の平日の様子ばかりを話したような気がします。もしかして毎週日曜日に長く通ってきた教会員の方々にとって疎外感を感じるテーマだったかもしれません。でも、この教会が一番大切にしているのは紛れもなく礼拝です。ここからすべての活動をスタートしています。私たちは一緒にスタートしています。私たちは礼拝共同体です。

そして同時に今回は、私たちの教会は礼拝だけをしている場所ではないということもよく知ることができました。教会には平日もたくさんの人が出入りしていることを知りました。今日はこひつじひろばについて、少し全体をまとめながら考えたいと思います。

教会は毎週木曜日10:30~12:00、教会の裏側にある「こひつじ館」を「こひつじひろば」として開放しています。誰でも使える無料の子育てスペースです。近所の保護者とこどもたちがぞろぞろと集っています。おもちゃや滑り台があって、こどもたちが自由に遊んでいますし、ここでお母さん同士が友達になっています。帰りにデニーズに行ったり、お互いの家で遊んだりと、お友達作りの場となっています。

この「こひつじひろば」の特徴はプログラムがまったくない「自由遊び」という点です。他にも似た場所がありますが、そこでは絵本を読んだり、保育士さんが来て相談に乗ったりするケースも多いようです。でも、ここにはプログラムはありません。のんびり子育てや世間話をするのが「こひつじひろば」の特徴です。そしてもう一つの特徴は公共施設以外で行われているのは、市内でこの平塚バプテスト教会だけということです。

このことはとりわけコロナ禍の中で、地域に必要とされることになりました。公共施設はのきなみ使用ができなくなる中で「こひつじひろば」は庭を使ったり、会堂のこどもスペースを使ったりして続けることができました。「ここしかやってない」という声も聴きました。多くの人がこどもを遊ばせる場所として、ここを必要として集いました。

こひつじひろばの活動や、特徴、あるいはその他の地域活動は、私たちが地域とどう関わろうとしているのか、どのように隣人になろうとしているのかをよく表していると思います。私たちは地域の必要に応えているということです。そしてそこでは何かを教えるのではなく、保護者の感じた子育ての喜びや楽しさ、そして苦労話を聞くばかりです。でも私はその教会の関わり方が良いと思っています。

教会は地域との関係を上下関係でとらえず、教える側、提供する側、救う側になるのではなく、対等な相互関係としてとらえて活動をしているとうことです。私たちの地域活動は、必要に応えてゆくこと、人々の声を聞いてゆくことを、大切にしているといえるでしょう。

今日の聖書箇所を読みますが、私はこの個所から教会と地域の関係、そして私たちの在り方について教えられるような気がします。教会は地域に、教える側、提供する側ばかりになるのではなく、地域の必要に応えてゆく場所、仕えていく場所になってゆこうということを見てゆきたいと思います。神様が教会は地域に必要に応え、仕えなさい。そして具体的に働きないと私たちに語り掛けていることを聞いてゆきたいと思います。

 

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所でイエス様は宗教指導者に対して、人々との関わり方を批判しています。伝統的なユダヤの人々は今も、祈るときに聖句の入った小箱を頭につける習慣が今でもあります。しかし宗教指導者の中にはこの箱を大きくしたり、服の裾を長くしたりする人がいました。これは宗教指導者と一般民衆を一目で見分けることができる、差がはっきりするということにつながりました。

イエス様が批判しているのは、宗教指導者が、私は一般民衆とは違うのだとアピールすることです。着る者や身に着けるもの人々と変えるということには、上下の意識があったでしょう。見た目の違いは、私は上、あなたは下であるという、宗教指導者と民衆の上下をはっきりさせるものとなりました。宗教指導者と民衆が対等ではなくなってしまっている、イエス様はその関係を批判したのです。

これは誰への批判でしょうか。愚かで律法主義に凝り固まったユダヤ人への批判という理解を超えてゆきましょう。私たちは地域と福音というテーマの中でこの福音を聞いています。その時、私は私たちのキリスト教の教会をこの宗教指導者たちに重ねます。ユダヤ教への批判ではなく、キリスト教の教会への批判としてこの個所をとらえたいのです。教会は地域と上下関係にあるのではない、対等で相互的な関係にあると、私はここから聞きます。教会は人々の上に立とうとするなと聞きます。

私たちもこのこと、十分に気を付けなければいけません。教会はどこか上から目線になってしまうことがあります。私が真理を知っていて、あなたは真理を知らない。教会は光、この世は闇。教会はそのような上下関係で他者との関係をとらえてしまうことがあります。この批判をキリスト教、私たちの教会の批判として受け取りたいのです。教会と人々が対等で相互的な関係であることをイエス様は語ったのだと私は思います。

そしてイエス様は続けてもう一つ批判をしています。宗教指導者は教えていることは正しいが、指を一本も動かさないという批判です。よくキリスト教は信仰義認ですと言われることがあるでしょうか。神様は何か良いことをしたかどうかというよりも、心・信仰があるかどうかを大事にしていますよと教会は語ってきました。

もちろんそれは大事なことです。イエス様も教えは守りなさいと言っています。しかし聖書は「行為よりも信仰が大事」とばかり語っているわけではありません。特にマタイ福音書では行為・実行を大事にするという箇所が多くみられます。教えや心の持ち方だけではなく、行動に移すことが重要だと語る場面が多いのです。今日の箇所もその一つです。教える、学ぶだけで実行しない者になってはいけないということです。

イエス様はここで私たちの教会の姿について、二つの批判をしています。上下関係になるなということ、そして実行しない者になるなということです。

イエス様は「上下関係になるな」「行動しない者になるな」という2つの禁止の命令と共に、こうなりなさいという命令も合わせて語ります。11節で「仕える者になりなさい」と言っています。これは地域活動のテーマとなる言葉でしょう。聖書の言葉(ギリシャ語)では仕えることを「ディアコニア」と言います。この「ディアコニア」は地域と教会の関係を考えるときによく出てくる言葉です。仕える(ディアコニア)はもともと食事を運ぶという意味です。お盆を持って食べ物を運ぶイメージです。それは多くの場合、奴隷、身分の低い者が担う仕事でした。

ですから仕えなさいとは、こうです。教会が地域から尊敬される教えを語るだけではなく、一緒になって働きなさいということです。もちろん語っていくことも大事だと言っています。しかしそれと同時に、必要なものを必要な人に一緒に届けてゆくこと、みんなで必要なものを運ぶことをイエス様は「仕えなさい」という言葉で求めておられます。

それはこの禁止の命令に沿って考えるなら、ただ提供する、上から下に提供されるのではないはずです。むしろそれが逆転されるような、教会が下とも思えるような、対等な関係で必要に応えてゆくこと、それが仕えるということです。

イエス様は教会は地域に教える場所、指導する場所である以上に、人々に仕えることを大事にしなさいと教えられています。一目置かれることよりも、これまでの上下の逆転するような、上下のなくなっていくような、そんな教会になりなさいというのが「仕えなさい」という意味でしょう。教会と地域が対等になる、地域に連帯する教会になってゆきなさいとここで語られているでしょう。

そして必要に応えることも大事なことです。教えるだけ、社会を批判するだけ、救いを語るだけではいけないとイエス様は語ります。対等な関係で具体的な必要に応えてゆくこと、私たちの活動によってそれを表してゆくことを勧めています。そのことがイエス様の「仕えなさい」という言葉の意味でしょう。

私たちは対等な関係でありましょう。教会の中のわたしたち同士が対等な関係でありましょう。そして、私たちはこの信仰と共に、具体的な活動も大事にしてゆきましょう。私たちは福音のみ言葉を土台として、これらの活動を行います。「仕えなさい」という言葉が土台に活動をしてゆきましょう。

地域と福音というテーマで聖書を読んできました。私たちは人々の声を聴き、一緒によい世界を実現してゆくことを願います。そのようにして地域の人々と一緒に歩むのです。そのようにして私たちは「隣人」となってゆくことができるのです。地域のために祈り、対等な関係として地域と出会う、地域の必要に応えてゆく。仕えてゆく、そこから必ず福音が聞こえてくるはずです。地域に仕えましょう、そして互いに仕えましょう。地域のために祈りましょう。そして互いのために祈りましょう。お祈りします。

 

【全文】「食べ物を祈る神」マタイによる福音書6章9節~13節

 

御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。マタイによる福音書6章10~11節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、うれしく思います。こどもたちもともに集ってくれました。こどもたちとともに礼拝をしてゆきましょう。

地域と福音というテーマでみ言葉を聞いています。前回はこひつじ食堂(大人もこどもも歓迎の地域食堂)から聞こえた福音、相互の助け合いということについてみ言葉に聞いてゆきました。今日も引き続きこひつじ食堂から聞こえてきたことを考えてゆきたいと思います。

私たちの教会では「こどもプロジェクト」として、地域の子供たちに向けて関わろうとしています。近年こどもたちの貧困が深刻になっているとよく聞きます。私の子どもも4月から小学校に入学しました。平塚市では子供が入学すると「就学援助費」のお知らせというのが同封されます。

入学の費用について経済的な支援が必要な場合、市がその費用を援助してくれるという仕組みです。例えばランドセルの購入代金などの援助があります。入学の際にその制度が案内されます。これが「就学援助費」です。この利用について統計があるのですが、こどもの貧困を図る指標として、よく使われています。この統計によれば私が小学生だった当時の就学援助費の利用率は6%程度でした。しかし現在の利用率は15%近くになっています。30年ほど前より、こどもを小学校に通わせることが経済的に苦しくなってきている人が2倍以上になっているということです。

私がこどもだった頃より、確実にこどもたちは貧しくなっているということです。貧しくさせられています。私の親が子育てしていた時代より、いまの子育ての方がずっと環境は厳しいのです。生活を守っていくうえで何ができるでしょうか。家賃や光熱費は下げることができません。携帯電話も絶対必要です。どんなに貧しくても服装、身なりだけはしっかりしようと考えるでしょう。削減するのは何でしょうか。一番は食費です。生活費をねん出してゆくためにできるのは、食費を切り詰めるくらいしかありません。外見から見て何も変わらなくても、食事の量や内容を落とさざるを得ないこどもが増えているのです。もっと言うと日々の食事に精一杯で、お菓子なんて買う余裕はありません。

先日の食堂ではオープン前に20人以上が列を作ってお弁当とお菓子をもって帰りました。みなさんニコニコしながらお弁当を持って帰り、何かに困っているようには全く見えない、幸せそうな方ばかりでした。でも中には、本当に食事を必要としている人がいるのかもしれません、きっといたでしょう。

教会はこひつじ食堂を通じて、この問題に少しですが関わっています。食費を削る窮屈な思いをしている方々に、月に1食ですが、ちょっと安くて、手作りで、心があったまる、そんな食事をお渡しています。それだけではみんなの状況をほとんど変えることはできませんけれども、でも少しでも支援につながるなら、教会として大切なことができたのではないでしょうか。私たちのこの働き、続けていけるように祈ってゆきましょう。

教会が関わるのは、何も心の内面の問題、霊の問題、魂の問題だけではありません。おなかがすいているという問題に関わることも大事なことです。教会は人の内面だけではなく、小さくとも必要を満たすという活動も大事なことです。

特にこの働きのためにボランティアも募集していますが、どうぞまず祈ってください。みんながちゃんと食事できるように、教会がそのために働きを続けることができるように、どうぞ祈ってください。祈ってゆきましょう。そこからが私たちのスタートです。

今日の聖書を箇所は、主の祈りと呼ばれる箇所です。この中にはなんと、食べることへの願いが含まれています。それは今の私たちにとって、大切なことでしょう。神様は食べることができるようにと祈っておられるのです。

 

 

今日の聖書箇所を一緒に見てゆきましょう。弟子たちはイエス様に、私たちはどう祈ったらよいのかを聞きました。後にこの祈りは「主の祈り」として、私たちキリスト教の教会でもっとも大切な祈りとして祈られるようになりました。私がまず目をとめるのは、11節「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りです。主の祈りとしては「我らに日用の糧を今日も与えたまえ」と暗唱しています。

ここにある糧という言葉は、パンを表す言葉です。パンが日本語では糧と訳されています。必要な、一日分の食べ物の「パン」を祈っているのです。経済的に裕福な時代や地域では、この糧の願いというのは精神的・内面的な糧と受け取られてきました。1日の精神的な支えやあるいは1日の心の支えとなるみ言葉が与えられるようにと受け取られてきました。もちろんそれも必要でしょう。あるいは裕福な時代と場所で糧とはただの食事ではなく、おいしい食事、グルメ志向と混同されてきたでしょうか。

しかし、本当に食事に事欠く時代や地域では、この祈りの受け止め方は大きく違います。内面的な、精神的な支えを祈るだけではなく、まず本当に口に入れる食べ物を願う祈りとして祈られています。今日の食事ができるようにという祈りです。そしてもちろんイエス様に従う人々の多くはそのように今日の食事ができるかどうかわからない、貧しくされている人々でした。イエス様もこの祈りをおそらく、まず必要な食べ物をしっかりと食べるということに向けられた祈りだったでしょう。

イエス様が祈ったのは、今日の食べ物をくださいという祈りです。食事をしっかりと食べることができますように、食費を削らなくてもいいように、そのほかの必要を満たしてくださいというのが、この祈りだったでしょう。

この祈り、私は今のこひつじ食堂への祈りと重なります。私たちのこひつじ食堂はこの祈りの中にあるといえるでしょう。しっかりと食べることができますようにという祈りが、この活動につながっています。心の支え、魂の支えも大事です。教会はずっとその支えになってきました。でもいまこの時代、食べ物を分かち合っていくことも、教会の大事な働き、大事な祈りです。食べ物への祈りを大切にしてゆきましょう。

そしてイエス様の教えたこの祈りは「私」の食べ物、「私」の生活の守りを願う祈りではないということも大事なことです。それは「私」ではなく「私たちに」という複数形で祈るようにと教えられています。だから私だけ食べれればいいのではないのです。この祈りは、みんなの食事がありますように、みんなに食事が行き渡りますようにという祈りなのです。

私だけ食べて、ほかの人が、ほかの子供が食べていないなら、この祈りを祈っている意味はどこにあるのでしょうか。全員が食費を削らずに、十分に食べることのできる社会を目指す。そういう人のために祈る。そして少しだけど、できることをする。それがこの祈りを通じてイエス様が示されていることではないでしょうか?

次に10節も見てゆきましょう。イエス様は「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とも祈るようにと教えています。

御心とは神様の考えること、神様の実現しようとしていることという意味です。この御心は天、天の国、神様のもとではすでに実現をしています。神様の元ではすべての人に不足がありません。「天におけるように、地の上にも」とは、そのように天、天の国、神様のもとで起きていることを、天だけではなく、この地上でも起こしてくださいという祈りです。神様のもとで全員が満たされるのが天の国、神様の元だとするなら、それを地上でも起こしてくださいとここで祈っているのです。

いつか必ず全員が満たされるときが来ます。でも私たちはただそれを待つだけではありません。それがこの地上で起こるように祈ります。いま私たちの生きているこの現実が変わることを祈り、願うのです。これは地上では、いろいろ不足があるけれど、天の国に行ったら何不自由ないよねという話ではありません。いまのこの地上の現実が、天の国のように、変わってゆきますようにという願いです。イエス様はそのように祈りなさいと私たちに教えてくださいました。

具体的にこの地で御心が、起こることを願う祈りです。食事が分かち合われ、不足のない生活をすることが今この現実に起きることを願う祈りです。私はこひつじ食堂がこの祈りに支えられ、その器として用いられてゆくと思います。

私たちこひつじ食堂のために祈ってゆきましょう。たくさんの方々の必要な糧となっているこの食堂を祈りましょう。すべての人に糧を、今この場所が、全員の必要が満たされる場所になるように祈りましょう。イエス様がその祈りを私たちに教えてくださいました。そして祈りに支えられて、平塚バプテスト教会は小さな働きだけれども、歩みだしました。

神様は私たちにどう祈ったらよいのかを教えてくださるお方です。そしてその中にははっきりと食べ物について祈るようにと教えられています。みんなが食べれるように祈ろうと教えられています。神様の御心が地上で実現するようにと祈ろうと教えられています。私は今この主の祈りがこひつじ食堂への祈りと重っています。この祈りを大切にしてゆきましょう。お祈りします。今日はもう一度、こひつじ食堂の祈りに、この主の祈りを重ねて祈りましょう。

 

 

「主の祈り」

天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

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【全文】「食堂の教会」マタイによる福音書14章13節~21節

イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」       マタイによる福音書14章16節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうしてともに集うことができることに感謝です。こどもたちも集まってくれています。一緒に感謝しながら礼拝をいただきましょう。さて「地域と福音」というテーマで宣教を続けています。先月はホームレス支援の中から福音を聞きました。神様は神様の方から訪ねてくださること、神様は私たちの家になってくださること、神様は食事に招いてくださるということを見てきました。今月はもう3回にわたって私たちが今一番頑張っている「こどもプロジェクト」から聞こえた福音を聞いてゆこうと思います。

私たちは、昨年の10月から毎月第四金曜日「こひつじ食堂」を始めました。こひつじ食堂は大人でもこどもでも誰でも利用できる地域食堂です。地域の方々の助けになろうとこの食堂をはじめました。困窮や孤立の解消に向けて教会が何かできるか、特にこどもに何ができるか、その人たちを助けよう、支えようと食堂を始めたのです。

助けるために始めた、教会のこひつじ食堂ですが、この食堂を始めてみて、いかにこの活動が地域の人々に支えられているかを実感しています。地域の支援がなくてはこの食堂はとてもじゃないけれど継続できません。今まで関わりのなかった人々が、教会を支援してくれています。相模原で野菜を作っている方、平塚商工会議所、市議会議員、高齢者の包括支援センター、フードバンク、社会福祉協議会、他のこども食堂、市のボランティアセンター、企業、もちろん教会関係からの支援もあります。

私もいろいろな人との接点が増えました「スペース・会堂はあるんですが、人も物も足りないので助けてほしい」と言いながら地域を回っています。そして徐々に食材やボランティアや寄付が集まっています。最初は足りないかもしれないと思っていたものが、不思議に集められてゆきます。余るほど集まるときもあります。

今日は、教会がにぎわってうれしいとか、教会が成長しているという報告ではありません。私は教会の在り方を考えさせられています。教会は食堂を生活に困窮している人を助けようと始めました。助ける側になろうと思ってスタートしました。でも始めてみて知ったのは、私たちこそ実は助けられる側なのだということです。この活動は地域の助けなしには継続できません。平塚市の人々が助けてくれなければ、私たちのこの活動は続けることができません。

私はこの活動にこれからの教会の在り方を見る気がします。これからの教会は一方的に伝える、提供する、教えるということではなくなってゆくでしょう。きっとこれからの教会は、地域との相互性を持った姿となってゆくでしょう。助ける側と助けられる側、教える側と教えられる側、救う側と救われる側に分かれるのではなく、相互関係が大切にされてゆくでしょう。

教会は助けられながら助ける、聞きながら話す、教えながら教わる。そのような相互性を大事にする姿になってゆくでしょう。教会と地域が、助け合ってゆく形に、教会の在り方は変わってゆくでしょう。

そしてきっとそれはもっと大きなうねりとなるでしょう。教会と教会、私とあなたも同じです。教える、教わる。助ける、助けられるという関係から、相互に教え教わる、相互に助け助けられる。そのような関係にもっと変わってゆくでしょう。助けあいの関係に変わり、今まであった見えない境界線がますますなくなってゆくでしょう。見えない上下もなくなってゆくでしょう。

今日も聖書箇所を見ますが、私はこの聖書の箇所、どこか境界線を前提にして読んでいたような気がします。パンを与える側と与えられる側に分けて読んでいたような気がします。しかし今私たちの食堂がこれだけの助けを受けているのを見るとき、この5000人の食事の豊かさ、境界線の無さを改めて感じます。この食事はもっと相互性のある食事、助け合いの食事だったのではないかと想像するのです。今日この個所から、神様は相互の助け合いを起こすお方だということを見てゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を読みましょう。男だけで5000人、女性と子供を入れれば数万人となったでしょうか。とにかくたくさん人がいたということです。

たくさんの人がイエス様に従っていました。そして弟子たちは夕食の時間になってこの群衆を解散させようとしました。もう食事の時間だし、食事はそれぞれ自分で用意してもらいましょうと考えたのです。その気持ちもよくわかります。

ここで自分たちが食事を提供する必要、ニーズがあるのかどうかということを考えたのでしょう。弟子たちは「解散してそれぞれで買って、それぞれで食べましょう」と考えたのです。

しかしイエス様は言います16節「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」イエス様はここで、みんなで食事をすることにこだわります。それにはいろいろな問題が伴います。まず心配されるのは、食材不足です。自分たちがこの人数に食事を提供するには、食材が圧倒的に足りませんでした。だから、やはり解散し、それぞれ自分で買って、ばらばらに食べようと考えたのです。

しかしイエス様はほんの少しの食事を手に取って、天を仰いで賛美の祈りを唱えました。すると不思議にパンと魚は全員にゆきわたり、余るほどになりました。この食材はどこから来たのでしょうか、本当に奇跡的に増えたのか、あるいはどこかから支援が集まったのでしょうか、わかりません。でもとにかく、全員にゆきわたり、余るほどになったのです。

私は今までこの数万人の食事、パンが増えてゆく奇跡的な雰囲気の中での、静かな、厳かな食事を想像していました。しかしコロナ禍の中で一緒に食べることを控えている今、一緒に食事する楽しさを思い出しながら、この物語を読みます。そしてこひつじ食堂に様々な人がにぎやかに集まる食事に、この場面を重ねます。

確かにこの食事は、聖書の時代に多くいた、貧しく、疲れ果てた人々が大でした。でもだからといって静かな雰囲気を想像する必要はないのではないでしょうか。黙食のような、しゃべらない食事を想像する必要はないでしょう。

とてもにぎやかな食事だったと想像することもできると思います。むしろ数万人で食べるのです。今は絶対にしてはいけない、相当にぎやかな食事をしちゃったのではないでしょうか。20節にはこの食事で「すべての人が満腹した」とあります。私は読んでいたら、この言葉の後にニコニコマークの絵文字が見えるような気がします。とにかくみんながニコニコしながら、楽しくて笑いながら、おなかいっぱいになったという話です。食堂と同じです。

食事の風景、教会のにぎやかな食事会や天城山荘の食事会を想像しました。食事をしていると自然に会話が生まれます。準備からここに箸が足りません、お茶が足りません。食べ始めれば、これとってください。あれとってください。あっちではこんにちは、始めましてと自然とにぎやかな食事になります。ましてや数万人、これだけの人数がいたら、相当がやがや、にぎやかな食事になったのではないかと思います。

これじゃ足りないという人と、こんなに食べれないという人が分け合いながら食べたでしょう。パンばかり余るグループと、魚ばかり余るグループが、パンと魚を交換して食べたでしょう。こっちは何が足りない、余っているところありませんか。そんな賑わいの中での食事だったのではないでしょうか。

ここにはそのパンと魚は弟子が「与えた」と書いてあります。伝統的にはこの弟子は選ばれた奉仕者と理解されてきたでしょうか。でもこれだけの人数の食事を12人で配るのは無理です。規模から考えると、弟子が配る、それ以外の人が食べるという一方的な関係ではなかったはずです。もっと相互的な食事だったとしか想像できません。食べ物がいったりきたり、人がいったり来たり、あーじゃないこーじゃないと言いながら、誰が弟子で誰が群衆か、そんな区別なく、大騒ぎしながら食べたのでしょう。そしてよくわからないけれど、最後は全員が満腹して、ニコニコしたのです。

最後21節には人数の報告がされますが、数え方は「食べた人」とある。食べ終わったら、弟子は何人、群衆は何人という分け隔てはなくなったのです。みんなで準備し、みんなで分け合った。そして最後にそこにいたのは全員「食べた人」という一つのグループだったのです。

もちろん女性と子供が排除されたカウント方法は受け入れられません。当時の男性優先の中の言葉です。しかし、それも聖書は超えていけると思います。女が準備するとか、お台所するとかではなく、この時、性や年齢に関わらず全員がそれを担ったはずです。

この食事は足りないはず、別々に分かれて取るはずの食事でした。しかしイエス様の一声で不思議に始まった食事でした。そしてそこでは、にぎやかで、いろいろな人と、分かち合って食べる食事会が始まりました。そこには豊かな相互性があったはずです。助ける側、助けられる側の境界線はもうそこにはありませんでした。私たちもそんな食堂になりたいと思うのです。

私たちは今、この教会と地域が同じ5000人になることができるだろうかということが問われているのではないでしょうか。私たちの教会と地域が、相互に助け合う関係性になってゆくことができるかが問われているのではないでしょうか。教会が、人々を救う、助けるという一方的な立場からではなく、助けを受けながら活動してゆくということができるかどうかということが問われていると感じます。

もちろん私たちには心配なことは山ほどある。足りないものも山ほどあります。でもそのなかでも、主イエスに信頼し、助けられながら、歩んでいけるかどうかということが問われているのではないでしょうか。

このあと主の晩餐を持ちます。私たちの教会ではクリスチャンがいただくものとして執り行います。でも私たちは信じてこの食事にみなさんも加わってほしいと願っています。この聖書の物語の中に一緒に生きてほしいと願っています。信仰への歩みを起こしてほしいと願っています。お祈りいたしましょう。

 

【全文】「食事に招いてくださる神」マタイによる福音書9章9節~13節

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 マタイによる福音書9章10節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、心から感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもも一緒に、すべての人が共に礼拝をしています。声が聞こえることもありますが、それも礼拝の一部として、ともに礼拝をしてゆきましょう。

私たちは今月「地域と福音」というテーマで地域活動の中から聞こえてきた福音を考えています。特にこの3回はホームレス支援から聞こえてきた福音を見てきました。ホームレスのパトロールから、神様は訪ねてくださるお方だということ。シェルターから神様は家になってくださるお方だということ。そして今日は炊き出しから、神様は食事に招いてくださるお方だということを見てゆきたいと思います。

私たちの教会の庭で、毎月第二金曜日に市民団体と協力して「炊き出し」を行っています。現在はコロナで会食ができないこともあって、食料配布という形ですが、普段は庭であつあつの豚汁とおにぎりをみんなで一緒に食べています。

参加は誰でもOKです。ホームレスの方だけではなく、普通の家に住んでいる方も集まっています。参加者は食料を求めてやってくるという面ももちろんありますが、どちらかと言うと、誰かとの交流を求めてやってくる方が多いように感じます。誰かと話したい、寂しい、そんな思いでこの教会を訪ねてくるのです。月に一度ですが、仲間たちと声をかけ合って、それぞれの近況・健康・生存を確認しあう場所になっています。

食事は準備するボランティアと参加者が一緒に、同じテーブルで食べます。これは他の多くの炊き出しと違って珍しいことかもしれません。食べ始めれば誰が渡す側で、誰がもらう側かの区別はなくなります。みんなが一緒に食事をするスタイルです。

一緒に食事をすることはとても大切な時間です。こちらが訪ねるパトロールではゆっくりは話できないのですが、食事の準備ができるのを待つ、一緒に食べる、片付けるといった時間を共有することで、自然にお互いの事を語り合うようになります。

パトロールではほとんど会話をしてくれない方でも、一緒にテーブルの準備をし、一緒に膝を合わせて食事をしていると、いつの間にか打ち解け合うことができます。ボランティアと参加者の垣根が取り払われる、ボーダーレスな時間です。ワイワイと楽しく食事をしながら、お互いの今までの経験や自慢話、家族の事、健康の事さまざまなことを話し合っています。

忘れられないのは、ある夏の暑い日の炊き出しのことです。暑い中、汗びっしょりになりながら、福島県出身のSさんと同じテーブルでアツアツの豚汁を食べました。ワイワイと食事をしているうちにお互いに自分の出身地の話になりました。

Sさんの実家は震災で津波に流されてしまったそうです。自分の家族も津波で亡くされたのだという話を教えてくれました。Sさんと一緒に大粒の汗を流しながら熱い豚汁を食べていたのですが、その目には涙が浮かんでいるように見えました。汗だか涙だかわからなくなりながら、とにかく一緒に食事をし、お互いのことを話しながら食べたのです。食事を通じてできた交流の深さ、大事さを教わったような気がします。

参加者の方はよく、教会の事を心配してくださいます。食べ終わった後、植木の手入れをしてくれたり、自転車を修理して下さったりします。このように食事をすることがきっかけになって、様々な相互関係、信頼関係が生まれています。

そういった信頼関係は、私たちだけではなく参加者の方たちにとってもかけがえのないものかもしれません。社会から白い目で見られることも少なくないでしょう。自分の名前を呼ばれることも少ないでしょう。その方たちもこの場所では同じ命、同じ人間として対等で、尊重しあい、信頼しあえるのです。私はこの炊き出しの場所がそれぞれの命の大切さを知る場所になっていると感じます。

今日も聖書を見ますけれども、イエス様との食事もそのような、偏見や垣根のない食事会でした。この食事会は招かれた人が同じ命、同じ人間として、対応に尊重しあえる食事会でした。イエス様はそのような集いへと、すべての人を招いてくださるお方です。神様は私たち全員が同じ命、対等な人間なのだということを教えてくださるお方です。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。イエス様が人々と一緒に食事をしたと記されています。この食事会の場所はどこだったのでしょうか。マルコを読むと、それは徴税人の家だったと書いてあります。ルカもおそらくそう考えているでしょう。イエス様が招かれて食事をしています。

しかし今日のマタイ福音書を見ると、実は食事会の場所は明確に示されていません。あいまいなのです。10節には「その家」とありますが、いったい誰の「その家」なのかは書いてありません。むしろ9節の「従いなさい」という文脈からすると、イエス様の家だったという読み方も十分にできます。この場面はイエス様が人々を自分の家に招いたと想像できる箇所です。イエス様はご自分の家の食事会に人々を招いたのです。イエス様が自宅に招いたのは罪人と呼ばれた人でした。この罪人とは誰のことでしょうか。どんな人でしょうか。何かの犯罪を犯した人、人を傷つけた人、もちろんそれも罪人です。しかし聖書の時代の罪人とは、もっと広い意味を持っていました。

これは差別を含む言葉でした。たとえば羊飼いは罪人でした。移動しながらの生活は律法を守ることができなかったからです。他にも異邦人・外国人もみんな罪人でした。このように職業、住所、出身、宗教、国籍などによっても罪人とされたのです。この罪人という言葉には、多くの差別が含まれています。宗教的や社会的に見て「ふさわしくない人」と判断された人はみな、罪人と呼ばれたのです。

よく罪とは「的外れ」を意味するといいますが、罪人もそうです。「的を外れた人」という意味です。この丸の中にいない人、ふさわしいと思われる、丸の中にいない人を罪人と呼んだのです。

当時の社会では、特に食事の場面で厳しく「ふさわしくないとされた人」「罪人」との関わりが禁じられていました。食事会に誘われると、行く前に必ず、誰が参加者かを聞き、その中に罪人がいないかを確認するという習慣があったそうです。そして罪人、ふさわしくないと思われる人がいた場合、一緒に食事すると自分も穢れてしまうという理由で、その食事会をきっぱり断ったそうです。

そのような背景の中で読むとき、イエス様が罪人と呼ばれる人、差別された人を、自分の家に招き、一緒に食事会までしたというのは大変な驚きだったということがわかります。当時の常識から考えれば、ヤバイ食事会です。あんな人とは関わってはいけない、まして食事など絶対に一緒に食べてはいけないといわれる人が、差別された人が、たくさんイエス様の家に招かれたのです。

でもその食事会、きっと本当に楽しかったのではないかと思います。ふだんなかなか食事会に誘ってもらえない人が招かれた食事会です。それは社会からのけ者にされ、希望を持てずにいた人たちが招かれた食事会でした。メニューは何だったのでしょうか?(ユダヤの人々は豚肉を食べないので、豚汁は出なかったはずです)。それは本当に垣根のない食事会でした。

いまの私たちなら一緒に食事ができないという寂しさをよく知っています。一緒に食事をしてはいけないと言われる気持ちがよくわかります。食事ができないと交わりが十分にできないものです。早く一緒に食事したいねという言葉もよく聞きます。でもここで罪人と呼ばれている人は何十年もずっとそれを感じていた人です。ずっとみんなと食事をすることが許されなかった人です。

しかし彼らは今日、食事に招かれました。何十年も寂しさ、苦しみを感じ、お前とは食事をしないと言われ続けてきた、その人が招かれた喜びはどれほどのものだったでしょうか。人生の記憶に残る食事会になったでしょう。

そして、招いたイエス様のことをどう感じたでしょうか。この人はどんな人も、どんな命も対等に扱う人だ。私のことを招いて、そのまま受け止める人だ。そう感じたのではないでしょうか。

まさにイエス様とはそのようなお方です。イエス様はどのような人でも、分け隔てなく神様のもとに招くお方です。私なんか、ふさわしくないと思うでしょうか。今日の箇所によれば、その人こそ招くお方です。

ふさわしくなくても招いてくださる神様なのではありません。ふさわしくない者こそ招いているのがこの食事会です。神様はこのように人を招くお方です。食事に招くお方です。私たちはふさわしい者でしょうか。ふさわしくない者でしょうか。私は自分こそ神に呼ばれてふさわしい者だとは思いません。私はふさわしくない者です。しかし神様は、ふさわしくない私を、神様のもとに招いてくださるお方です。

そして招かれた場所は、大きな喜びが待っている場所です。仲間が待っている場所です。神様は素晴らしいと、招かれたことを一緒に喜ぶ集まりです。私は私たちの教会もそのような教会でありたいと思います。ふさわしい者の集まりではなく、ふさわしくない者が招かれたことを喜び合う場所、そんな教会でありたいと思うのです。それがイエス様の家、教会だと思うのです。

13節には『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とあります。神様は宗教儀式を繰り返すことを望んでおられるのではありません。憐みを求めておられます。憐みとは「かわいそうだ」と思うことではありません。相手の気持ちをわかる、相手の気持ちに触れるということです。

毎月第二金曜日に炊き出しが行われています。イエス様が招いたように教会が、誰とも分け隔てせず一緒に食事をする、そのような場所を目指しています。そして日曜日の礼拝もそのような場所にしてゆきたいと願います。ふさわしくない者同士が招かれたことを喜び合う、愛し合う場所としてゆきたいと願います。私はこの福音を炊き出しから聞きました。お祈りいたします。

 

 

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【全文】「家になってくださる神」ヨハネ14章1節~4節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもと共にこの礼拝をお献げしましょう。私たちはペンテコステまで「地域と福音」ということをテーマにみ言葉を聞いています。特に今月はこの教会がホームレスの方々から気づかされた福音について見てゆきたいと思います。先週は訪ねて下さる神、神様は私たちを訪ねて下さるお方ということをパトロール、また私たち同士が声を掛け合うことから考えました。今日はシェルターの働きから福音を考えてゆきたいと思います。

私たちの教会は住む場所を失った人たちのために、シェルターを運営しています。場所は安全のため非公表です。このシェルターは年に数回ですが利用されています。

今日は利用されたある方のお話をしたいと思います。1年ほど前です、40代の男性が教会を訪ねてこられました。住む場所と所持金を失い、3日間野宿をしている方でした。インターネットでこの教会のことを知り、相談をしたいと、この教会を訪ねてきました。

彼はこれまでの人生から話を聞かせてくれました。一生懸命仕事をしてきた人でした。たくさんの資格を持っていました。彼はずっと寮付きの工場で仕事をしていました。一旦そこでの仕事、契約期間が終わると、彼はいつも次の寮付きの職場を捜していました。そのように働き続け、いろいろな場所に住み、働くのは、充実していたそうです。しかし、今回はなかなか次の仕事を見つけることができませんでした。彼はその期間ネットカフェを転々としていました。そして、とうとう所持金が無くなってしまい、2月の寒い日、初めての野宿を経験しました。とても寒く一睡もできなかったそうです。役所に支援を求めたこともありましたが、窓口で冷たい対応を受け、支援は受けられませんでした。

行き詰まった彼は、自分は社会から必要とされていないと感じたと言います。死にたいと思う様になりました。そして生まれ育った町にあった、海を思い出したそうです。死ぬ前にもう一度、海を見ようと平塚に来たのです。でも彼は死にきれず、教会に助けを求めました。

教会に来た彼は今の苦しみを堰を切ったように私に話をしてくれました。彼は誰かと会話すること自体が久しぶりだったそうです。そしてこんな風に誰かに身の上を話して「助けて欲しい」と言うのも、もちろん初めてでした。

「相談する人がいなくて気が滅入っています」「今ならホームレスが怠けているわけではないことがわかります」そんな思いと身の上を2時間ほど話し続けた後、彼は「今日一日泊めて欲しい」と言いました。もう一日も野宿をするのは嫌だ。今まで誰にも迷惑をかけずに、一人でできるところまでやって来たつもりです。でももう無理です。最後の望みを持って教会に来たんです。自分には誰かの助けが必要なのです。だから今日一泊、泊めて下さい」最後は泣きながら訴えました。

私は彼の宿泊を引き受けることにしました。そして翌朝、一緒に市役所に行き、改めて事情を説明し、自立のための施設に住むことになりました。彼と話していて様々なことを感じました。一番強く感じたのは単純な事です。私たちには家が必要なのだということです。そしてもう一つは、私たちは自分を助けてくれる人、精神的な支えになってくれる人が必要なのだということです。

人は誰も家無しに、そして支え無しに生きることはできません。家の無い人に、助けの無い人に、私たちが出来ることをしてゆくことが、一緒に生きる、共に命を生きるという事につながるのだと思いました。そして、それは彼が私に教えてくれたことだと思います。

教会がこのシェルターの働きを、神様の働きとして担っていくことはとても大切なことだと思います。一泊ですが教会は彼の「家」になれた事、彼が前を向いて、生きようと、神様の働きを少しだけ手伝うことが出来たことをうれしく思います。そしてこのコロナの中で生活に行き詰る人、家を失う人も増えています。家の無い人、助け手の必要な人を覚えたいと思います。

私たちは誰でも具体的に住む家と、心の支えを必要としています。それは何かに困っているかどうかは関係なく、すべての人がそれを必要としています。私は、すべての人にそれが与えられるように、神様に祈り、神様の働きとして、それに関わってゆきたいと思っています。

今日聖書から、神様は家になって下さるお方だということを読んでゆきたいと思います。神様は私たちに家、住む場所、留まる場所を与えて下さるお方です。そして神様は私たちの心の居場所、拠り所となってくださる、その事を見てゆきたいと思います。

今日の個所を改めてみてゆきましょう。2節にはこうあります「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」この言葉に目が留まります。聖書によれば、神様のところには、私たちが住む家がたくさんあるそうです。そしてもし足りなければ神様はまた作ってくださるそうです。

そしてさらに3節にはこうあります。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。神様は迎えるための家を作った後、家の無い人を迎えに行って下さるお方です。そしてその家に招き入れてくださるのです。それが神様の働きです。なんと、準備して待っているだけではなく、ここがあなたの家だよと招き、迎えに行って下さるお方だというのです。

私は神様のこの姿に、とても勇気をもらいます。これこそ私たちが実現しようと目指す、すべての人に家があるという世界です。

今この時代こそ、本当に聖書に書いてある通りの出来事が起きて欲しいと願います。今この社会を、神様の示す姿に変えてゆきたいと思います。すべての人に家を、住宅をと、いま切に願います。

住居の無い人のために家があること、もし足りなければ作ること、困っている人を迎えに行って、どうぞここで過ごして下さいと言える世界、本当にそのような世界になって欲しいと願います。

そして教会がそれを少しでも実現できたらと思います。教会は住む場所を失った人を、また住む場所を得るまで、本当に短い期間ですがシェルターをご用意します。大変なことはたくさんありますが、これを神様の働きとして続けてゆきたいと思っています。

神様は私たちに家を用意して下さるお方です。教会はシェルターの働きを小さくとも続けたいと思います。教会はみんなの「家」になりたいのです。教会は泊まる場所の無いときの家になってゆきたいのです。神様が家に迎えて下さるその働きが、私たちの教会のしているシェルターの働きではないでしょうか。

してもちろんこの個所は住む住宅のことだけを言っているのではないという事も見ましょう。神様が私たちに心の家を与えてくださる、心の家になってくださるということもここで示されています。

私たちに必要なのは住宅だけではありません。相談できる人、安心できる場所、心を休めることが出来る場所、心の家となる場所が必要です。

今日ここにいる方の多くの人は住む場所があるでしょう。神様は住む場所を下さると言われてもピンとこないかもしれません。でもたとえ家があったとしても、安心して過ごすことができる場所が無い人は多くいます。私たちがStayHomeしていても、安心できないのと同じです。住宅があれば良いわけではありません。

私たちには住宅と共に、心・魂が安心して過ごせる場所が必要です。私たちには住宅があっても、心の家が必要です。私たちの人生には様々な出来事が起こります。私たちはその時どこかで、人生の寒さをしのぎ、人生の雨風をしのがなければなりません。人生の休息の場所が必要です。私たちは住宅が無ければ、生きていけないように、そのような心の家となる場所、心・魂が安心して過ごせる場所が必要です。それが無ければ、生きてゆく事ができません。

神様はその家、心の家にもなって下さるお方です。神の家にいるから、私たちは人生の苦しさを乗り越える事がきるのでしょう。実に神様は家の無い人に家・住宅を準備してくださるお方です。そして神様は私たちの家、私たちの心の家・魂の家となって下さるお方でもあります。私たちが、生きていくためには必ず家・住宅が必要なように、私たちが生きていくために必ず神様、心の家が必要なのです。神様はその両方を準備してくださるお方です。

1節には「神を信じなさい、イエスを信じなさい」とあります。神様が、住む場所を必ず与えてくださる、そう信じましょう。神様は必ずこの地上で住む場所を与えてくださるのです。そしてもうひとつ、神様は私たちの心の家・魂の家になって下さるお方です。そこで私たちは心を休めます。神様が家となられ、心配しないでいいよ、大丈夫だよ、すこしここで休みなさい。そう私たちを守って下さるのです。そのことを信じましょう。

4節には私たちはすでにイエス様の道を知っているとあります。そうです私たちはこのような神様の姿、イエス様の姿を今日すでに知っています。神様は私たちの家になって下さると知っているのです。

教会は家の無い人のために、シェルターを開いてゆきましょう。短い時間ですが、ここで休息をしてもらいましょう。そして私たちも、神様の家に留まりましょう。そこで安心して過ごし、休憩し、歩みましょう。お祈りいたします。

 

 

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【全文】「訪ねてくださる神」マタイ8章14節~17節

イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。             マタイ8章14節

 

今週から地域と福音というテーマ、特にホームレス支援、こども支援について聖書に聞いてゆきます。私たちが地域と関わるのは教会員獲得のためではありません。聖書にイエス様が多くの困っている人を訪ねたと記されているから、私たちも地域に関わるのです。そこに神様との出会いがあるのです。

私は市内のホームレスを巡回する、平塚パトロールという活動をしています。Mさんは平塚駅前のバス停のベンチで4年間寝起きしているホームレスの方でした。1年ほど毎月パトロールで訪ね続けましたが、小さな一言から生活保護を申請することになりました。Mさんが路上に出てしまう前後に必要だった事、それは短くとも訪ね、共に悲しみ、慰めることだったと思います。パトロールとは短い訪問ですが、そこから開ける未来があったのです。

きっとそれは私たちの生活の中でも同じことだと思います。私たちの生活にも孤独があります。その時、短い一声が一歩前に歩むきっかけになることがあります。一言声をかける、それなら私たちにもできる事でしょうか。

イエス様は人間の弱さ、人間の無力さをよくご存じです。そしてその人々を訪ね、関わり、励ましてくださるお方です。今日私はイエス様が人々を訪ねた姿を聖書から見てゆきたいのです。

今日の聖書個所によれば、14節、イエス様はイエス様の側から訪ねてくださるお方です。私たちが病の時、苦しいとき、イエス様に会いに行く、すがるのではありません。それは神様の一方的な愛、無条件の愛と言えるでしょう。そしてこの訪問で私は病が癒される以前に、癒されていたものがあったのではないかと想像します。きっと彼女が感じていた不安や孤独は、イエス様が訪問した時、病より先に癒されていたのではないでしょうか。そして彼女はもう一度、立ち上がることができました。他者のため、イエス様のために、働こうと立ち上がったのです。

私たちにはイエス様のように病を癒す奇跡の力はありません。でも似たこと、イエス様の真似事ならば私たちにもできるのではないでしょうか。さみしいと感じる人、不安に思っている人に声をかけ、触れあう、関わりあう。そんな小さなことからその人が元気づけられ、一歩を歩みだすこと、それは私たちにもできることではないでしょうか。私たちもそのイエス様の働きをしたいのです。

神様はこのように、私たちを訪ねてくださるお方です。私たちを一方的に愛し、訪ねてくださるお方です。私たちを励まし、立ち上がらせてくださるお方です。神様は訪ねてくださるお方です。私たちも訪ねること、声をかけてゆくことをしてゆきましょう。

 

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【全文】「この先に待っている神」マタイ28章1節~10節

みなさん、おはようございます。またイースターおめでとうございます。たくさんの方と共に、この礼拝に集い、礼拝できること本当にうれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちはしばらく、マタイ福音書からみ言葉を聞いていますが、この福音書は「インマヌエル」「神は私たちとともにいる」ということを大切にしている福音書です。はじまりの1章と、最後の28章に同じ「神は私たちと共にいる」という言葉が出てきて、「神が共にいる」という言葉で福音書が囲い込まれています。

マタイ福音書は、神様は私たちと共にいる、そう語っています。しかしもちろん聖書はそれ以外にも神様の様々な姿を語っています。神様はいつも私たちと共にいる、でもそれだけではない神様の姿が豊かに書かれています。

例えば、神様は私たちの先にいる、先で待っているとも書かれています。私はこの神様の姿が好きです。苦しいとき、悲しいときに一緒にいてくださる神様という姿も好きですが、神様は私たちがこれから向かう場所に、先におられ、待っているという姿も好きです。

特に今、神様のこの姿を大切にしたいと思います。コロナ禍の中で、一体どこに神様がいるかわからなくなってしまう時です。神様が一緒にいるという実感が特に持てないコロナ禍の中にいます。新しい年度が始まりますが、この先が見通せない時にいます。教会もすべての行事が思うようにできるかどうかわかりませんし、それよりも学校や人生のイベントが予定通りできるのかどうか、この先全く分からなくなってしまっています。

でも神様は今ここに、私たちと共におられる方です。そして、神様は私たちが向かうその先で待っておられるお方です。先が見通せない中で、何が起こるか不安の中で、神様は先に待っておられます。先に待っている神様の姿、それは今の私たちにとって何より大きな希望ではないでしょうか。先行きの見えない私たちの行く先に、必ず主は待ってくださっているのです。

今日は神様はいつも私たちと共におられるということと同時に、神様は私たちが向かう場所に先に行って待っておられる方だということを見てゆきたいと思います。そして待っておられるからこそ、私たちは不安で、迷い悩みながらもその先に向かうことができるのだということ、安心して歩んで良いのだということ、礼拝しながら歩もうということを聖書に聞いてゆきたいと思います。今日の聖書の個所を一緒に読んでゆきましょう。 

 

今日の場面は、十字架の後の場面です。男性の弟子たちはイエス様の十字架が恐ろしくなり逃げだしました。そして十字架の姿に絶望し、家にこもり、人と会うのをやめてしまったのです。

しかし最後まで従い続けた女性たちは、外へと向かいます。墓に行き、死んだイエス様の体を確認しようとしました。そしてその墓で天使の声を聞いたのです。5節~7節の言葉です。

6節で天使は「見なさい」といいます。しかし厳密に言うと、彼女たちが実際に「見た」のかどうかは書かれていません。天使に見よといわれ、女性たちがイエス様が置いてあった場所にいなくなっているのを「見た」とは書いていないのです。

ここでこの女性たちはこの目で見たから信じたのではなく、み言葉がそのように語っているのを「聞いた」から信じたと言えるでしょう。それは私たちも同じです。私たちは空の墓を見たわけではありませんが、この信仰をいただいています。信仰を持つとはそのようなことなのでしょう。見たかどうか、体験したかどうかではないのです。そのみ言葉を「聞いて」信じるかどうかなのです。ですからどうやって遺体がなくなったのか、どうやって体が復活するのかということはここでは全く問題になっていません。

天使たちの言葉に戻ります。天使は「イエス様はここにはいない。ガリラヤに先にいる」と言います。彼女たちは8節、仲間に伝えるように告げられ、恐れと喜び半々のまま、急いで走りだしました。イエス様はこのように、行く先で待っておられる方なのだと天使が告げています。

しかし、イエス様はなぜガリラヤにいるのでしょうか。なぜエルサレムではなく、わざわざガリラヤに行くのでしょうか。エルサレムとガリラヤの距離は100㎞以上あったといわれます。

ガリラヤとは弟子たちの生まれた自宅がある場所でした。弟子たちの日常生活がそこにありました。今はエルサレムにいますが、自分の職業、住所、親族が暮らす街、それがガリラヤでした。

そして弟子たちにとってガリラヤとは、イエス様と一緒に過ごした場所でもありました。様々な奇跡や、教えを聞き、共に日常を過ごした場所だったのです。

イエス様にとってもガリラヤはそのような日常の生活を送った場所でした。そこでは直接民衆の生活に関わりながら、触れながら、み言葉を語ることができた場所でした。

イエス様はとどまる場所に、そのような日常の場所を選ぶお方なのです。イエス様は自分のそして、弟子たちの日常に、先に、戻ってゆかれるお方です。イスラエルの中心都市、神殿のあるエルサレムではなく、日常を過ごした場所に、イエス様は先に、戻られるのです。

天使たちは、それを追うように促します。女性たちに、他の仲間や弟子たちと一緒にイエス様を追いかけるようにと、派遣するのです。これが先に待っている神です。

女性たちは弟子たちにこのことを告げるため急ぎます。すると途中でガリラヤで待っているはずのイエス様に出会ったのです。ここでは「いつも共にいる神」と、「先に待っている神」が交互に現れます。

彼女らはイエス様と出会ったその場所で拝みました。イエス様に出会い、礼拝をしたということです。彼女たちは礼拝をはさみながら、他の弟子たちに、人々にイエス様を伝えようとしたのです。

エス様はこの途中で、恐れるな、行け、告げろ、待っているといわれました。その不安な道で、恐れないこと、しっかりと前に進むこと、神様の言葉を皆に告げることを勧めています。そしてその先に待っているというのです。神様はここにいます。神様はその途中にいます。神様は行く先で待っています。

イエス様はこのように彼女たちに姿を現し、礼拝を起こし、人々を励まし、送り出すお方なのです。

今日はイースターです。私たちも死んだはずのイエス様がもう一度私たちに現れることを祝うその礼拝の時をもっています。私たちもこの物語の中にいる共同体です。私たちもこの女性、弟子たちの一人一人です。私たちもここまでの受難節で十字架を覚え、そして今日礼拝しています。私たちの戻るガリラヤとはどこでしょうか。それはきっと私たちの日常でしょう。

それぞれの日常に先に、派遣された先にイエス様がおられます。神様がそこで待っておられます。私たちが礼拝から戻る先、家庭に、職場に、あの場所に、イエス様が今日も先に待っていてくださっているのです。そしてもちろん今日、今神様はここにも共におられます。

私たちも今日、それぞれのガリラヤに戻ります。恐れと喜びを抱えながらでしょう。あの日常があります。でも神様は弱気になりながら進んでいく道のりを共におられ、励ましてくださるお方です。私たちは神様の足にしがみつくように礼拝をしながら、歩んでゆきましょう。すぐにはたどり着けないかもしれませんが、礼拝しながらそこに向かってゆきましょう。そしてそれぞれの向かう先で必ず神様が待っていてくださいます。

神様は私たちが毎日を過ごす、あの場所に、今日も先におられるお方です。私たちより前に、先に、早く、それぞれの場所におられるお方です。そしてその途中にもおられ、礼拝に招いてくださるお方です。

私たちは神様が待っていると知るとき、先が見通せなくとも安心してそこに向かうことができるでしょう。悩み悲しみながら向かうのでもよいのです。その途中にも神様は必ず現れ、私たちを励まし、礼拝をさせてくださるでしょう。そして私たちの向かう先に必ず神様はおられます。

私はこの神様の姿も好きです。いつも共にいるとはよく聞く姿です。でも私たちの行く先にもすでに待っているという姿にも、私は希望を見ます。私たちは戸惑いながら生きるけれども、ときどき神様はここにいないと思うようなことに出会うけれども、でも行く先に必ず神様は待っている。もうすでに待っている。その希望をもって歩みたいと思います。神様は共にいるという喜びと同時に、神様は私たちの向かう先にすでにおられるという喜びをも知りましょう。

そして、これから私たちは主の晩餐をもちます。イエス様は十字架にかかる前に、悲しみがこれからあるがイエス様と共にいたことを覚えているようにと言われ、パンと杯を分けられました。

私たちは今日悲しみ、苦しみの中にも神様が共におられることを覚えて、このパンと杯を食べたいと思います。

そして他の福音書によれば、復活後にイエス様と食事をしたことが記録されています。その食事のことも覚えたいと思います。イエス様は復活された後にも、弟子たちと食事を共にしました。そのパンと杯を今日いただくのです。主イエスがいつも共にいてくださる、主イエスが私たちの向かう場所に先に待っていてくださる、そしてそこでまた共に食事をしてくださる、そのことを覚えながら、この杯とパンをいただきましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「『なぜ』と共にいる神」マタイ27章45節~47節

イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マタイ27章46節

 

みなさん、おはようございます。今日は12月最後の礼拝から、3カ月ぶりに皆さんと集うことができました。本当にうれしく思います。様々な顔を見る事ができ、本当にうれしいです。お互いを感じながら礼拝をすること、一緒に集まって礼拝できることはなんと素晴らしい事でしょうか。「わたしたちがここにいるは、すばらしい」と今日は大声で言いたいと思っています。一緒に喜びましょう。

私たちはこどもをたいせつにする教会です。こども達の声を聞きながら礼拝するのも久しぶりです。子ども達の声をまた聞きながら礼拝をしましょう。こどもの声を聴いて、今この礼拝はひとりではないと感ながら礼拝をしましょう。

久しぶりに集えたことは本当にうれしいことです。会えない期間、寂しいことはたくさんありました。それぞれによくみなさん頑張っておられたと思います。

苦しい時期でしたが、その中にも、前向きにとらえることのできたこともあるでしょうか。このときだからこそ、感じることが出来た事、考えることができたことがあるのではないでしょうか。一緒に礼拝することの恵みと大切さを知りました。集うかけがえの無さを知りました。家族の大切さを知りました。オンラインでの可能性を知りました。

コロナの出来事はただの絶望ではないし、もちろん希望でもありません。私たちは明るさと暗さ、その間で、何をこの期間から受け取ったら良いのか、まだ神様への問いが続いてゆきます。

この後どのように社会は変わり、教会は変わるのでしょうか、あるいは変わらないのでしょうか。私たちの信仰はどのように変わってゆくのか様々な問いが生まれています。

コロナの時期とはこのように、ずっと神様に問い続けている時期でもあるでしょう。神様、どうやってこの状況を生きてゆけばよいでしょうか。なぜこんなことが起こってつらい目にあうのですか。私はどこに向かってゆけば良いのでしょうか。それを神様に問い続ける時期となっているのではないでしょうか。そしてその中に、神様との出会いが隠されているという時期ではないでしょうか。

その中の問いを大切にしたいのです。過ぎ去ったこととするのではなく、この期間に問われたこと、「なぜ」と思ったことを大切にしてゆきたいのです。ただ以前のように戻る、戻れたという希望ではなく、問われた「なぜ」ということを大切にしたいのです。

私たちは集えた喜びをもっと分かち合いたいと思う一方で、今日集ったのが受難週ということも覚えておきたいことです。イエス様の十字架を特に覚える1週間を持ちます。4月2日(金)10 時30分から受難日祈祷会を持ちます。そちらもどうぞ参加されてください。

集った今日は、十字架について考えたいと思います。せっかく集えたので、本当はもっと明るい話をしたいのですが、来週のイースターを前に十字架にしっかりと目を向けてゆきましょう。

今日は集えた喜びを味わうと同時に、イエス・キリストの十字架を覚えましょう。いま私たちは苦難の中に、希望がある。希望の中に苦難がある。そのような時です。喜びの日に十字架を覚えましょう。十字架の下で、この集えた喜びを覚えてゆきましょう。

私たちはコロナの中苦難と希望の間にいます。そしてその間で様々な問い「なぜ」が起こっています。そしてその問いの中に神様との出会いが隠れています。同じ様に、十字架も絶望と希望の間の問いの中にあります。その問いの中に神様の出会いが描かれています。

今日は、その苦難の中、絶望と希望の間にあった「なぜ」という問いに、神様との出会いが隠されていた。それが今日示されている十字架という出来事だったのではないかということを見てゆきたいと思います。今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 

今日の聖書個所は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉が出てきます。この言葉をどう受け取るかは難しい問題です。イエス様が受けた最後の誘惑だった。いや神様への堅い信頼だった。両方のとらえ方があります。十字架の下でこの言葉を聞いた人々も困惑をしたでしょう。十字架の下で聴いた人々にとっては、47節にもあるとおり、イエス様が預言者エリヤを呼んでいると思ったとあります。

この十字架上での「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」をどのようにとらえ、受け取って行くかは、キリスト教にとってとても難しい問題です。

この十字架の叫びには大きく分けると3つのとらえ方、解釈があります。ひとつは絶望と受け取る解釈、もうひとつは希望と受け取る解釈、そして3つ目はその間と受け取る解釈です。

まず叫びを絶望と取る解釈を見てゆきたいと思います。この言葉どおり、イエス様は神様に「見捨てられた」という絶望を味わっています。希望が無いと感じています。神様は私たちと同じ苦痛を味わうお方なのです。この十字架にイエス様が人間として地上に生まれてきた姿が現されています。苦難の時に人間が絶望してしまうこと、それを神様は身をもってよくご存じです。人が絶望を感じるのは、たとえば自分や、身近な人の死です。戦争や災害や病気、コロナ。その中で死を迎えるとき、美しい死ばかりではありません。絶望しながら、苦痛の中で死を迎えてゆくということは確かにあります。

神様を信じられなくなるような出来事、死は確かにあります。その無惨な死を味わったのがイエス様だったのです。ある人は「神は俺を見捨てやがった。そう言って叫び、無残に死んだ」と解釈をします。この解釈、とらえ方は暗い解釈ですけれども、それほど私たちの死の苦しみを知って下さっているイエス様、神様の姿ととらえることもできます。

2つ目の解釈はこの叫びは希望だという、まったく正反対の解釈です。特に日本では遠藤周作の「イエスの生涯」という小説によって広がっています。その解釈によれば、このイエス様の最期の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22篇の冒頭の個所であり、22篇全体を読むと苦難から希望へと変わっていく詩になっている。だからイエス様は十字架でこの詩の冒頭部分を述べる事で22編全体が表している「絶望の中でも神様を堅く信頼し続ける」ということを言い表そうとしたという解釈です。イエス様はやっぱり苦難の中でも揺るがずに、神様を堅く信頼し続けたのだという解釈です。

広く浸透している解釈なのですが、古代も今も「詩編の冒頭の言葉を言えば全体を示す」という習慣は見当たりません。どうもこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が22編全体を表現したとは言えそうにありません。この叫びは十字架上での信頼と希望の言葉だったというのは、美しい解釈、理想的な解釈なのですが、可能性は低いと思います。

3つ目の解釈はその間ともいえる解釈です。この解釈が広がりつつあり、私もそのような叫びだったのではないかと思っています。全くの絶望、全くの希望どちらでもない、中間、第三の道となる解釈です。この解釈では叫びの中の「レマ」という言葉に注目をします。「レマ」それは「なぜ」という意味の言葉です。特に目的や理由を尋ねる時に使われる言葉です。

新たに広がりつつあるのはイエス様の叫びは絶望と希望の中間にある「なぜ」を問い続けた叫びだったという受け止め方です。イエス様の最期の叫びは、「なぜ」という神様への懸命な問いだったのです。

神様を信頼していたのに「なぜ」このような苦痛があるのか、神様を信頼して来たのに「なぜ」このような死を迎えるのかと疑問をぶつけながら死んでいったのがイエス様の死だったのです。「なぜ」「なぜ」「なぜ」と神様にその苦難の理由と目的を問いながら、死んでいったのがイエス様の死です。

この受け止め方では、イエス様は確かに苦難の、絶望の中にいます。しかしその一方でイエス様は神様に呼び掛け続け、理由を尋ね続け、神様との関係を諦めてはいません。最後の最後まで神様に呼びかけ、絶望しきらずに「わが神」「なぜ」と呼びかけ続けているのです。

私もイエス・キリストの十字架はそのような出来事だったのではないかと思います。まったく絶望しきっていたわけではないでしょう。またこのような苦痛の中でも神を信頼し続けるといった、単純な事柄ではなかったと思います。

苦難の中でイエス様は懸命に「なぜ」と神様に向けて問い続けたのです。そしてその叫びの先にこそ神様がおられたのではないでしょうか。誰よりもその叫びをしっかりと聞き取っていたのが神様だったのではないでしょうか。イエス様が「なぜ」と叫ぶ、そのただなかに神様と出会いがあったのではないでしょうか。

私たちは今日集うことができ、希望の中にいます。でもやはりまだコロナの収束しない絶望の中にいます。その間にいます。それは十字架の上と同じ状況でしょう。神様への信頼を持ちつつも、なぜと問う私たちです。

苦難の中で神様に呼びかけ、「なぜ」を問い続ける私たちです。イエス様にも私たちにもその答えは簡単に与えられません。でも今日の十字架のイエス様の姿から、その問いの先に、その中に神様がきっとおられるのだと思います。そのような「なぜ」という叫びの中で、私たちも神様に出会うことになるのだと思います。

いま私たちは絶望と希望、暗さと明るさ、悲しみと喜び、それらの間に置かれています。しばらくはそれが続くでしょう。私たちはそこで神様に「なぜ」と問いかけを続けます。何に向かってゆけばよいのか、何のためにこの苦難があるのかを問います。その問いと共に、問いの中にきっと神様がおられます。これからも私たちには様々な問いは続くでしょう。でも必ずそこに、神様との出会いがあるはずです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、“なぜ”私を見捨てるのですか」今週、その問いの中で、神様とまた出会ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「低みに立つ十字架」マタイ20章20節~28節

みなさん、おはようございます。今日も離れた場所からですが、共に礼拝をしましょう。来週から集って礼拝をする予定です。共に礼拝できることを楽しみにしつつ、また今日も一緒に礼拝をしましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしましょう。

私は公正・平等な選挙改革にとりくむプロジェクト(通称:とりプロ)という市民団体に加わっています。様々な選挙制度の問題点について法律の改革、特に公職選挙法の改革を訴える市民団体です。

選挙の時、候補者は「清き1票を」と大声で訴え、一生懸命、握手し、頭を下げます。「私は国民のために頑張ります」「国民の声を政治に反映させます」とアピールします。でも当選後どうでしょうか。国民のために働いているのかどうか。どうやらすべての政治家が国民の為に働いているというわけではなさそうです。

選挙期間中の姿に騙されてしまったかもしれません。謙虚に、あんなに深々と頭を下げて、一人一人の目を見て握手したあの人が、議員になるとまるで別人のようです。国民の質問に答えなかったり、官僚に責任を押し付けたりします。そこには言葉だけの、うわべだけの謙虚さが当たり前のように存在します。当選して議員になるまでは、選挙の期間だけは謙虚で低姿勢でいる。当選したら態度が変わるような、偽りの謙虚さは本当に必要ないと思います。

聖書にもよく「仕える」という言葉が出てきます。「仕える」とはどんなことでしょうか。イエス様は仕えられるのではなく、仕える者になるために来たと言います。それは高くあげられるためのではなく、低みに立つために来たのだと言うことがきるでしょう。ちやほやされるために来たのではなく、苦しみや悲しみを持った人の元に来たということです。

その低みの一番下のあるのが十字架です。人々に仕える、最も低い場所に立つという出来事が、十字架という出来事だったのです。私は今日の個所から、救い主イエス様がどこに立とうとするのかを見てゆきたいと思います。そして低みに身を置き、生きたお方だということを見つけたいのです。そして私たちもこの話から、人に低く、他者に仕えて生きようと促されていることを受け取ってゆきたいと思います。今日の聖書の個所をお読みしましょう。

 

今日の聖書個所、当時イスラエルを政治的に支配していたのはローマ帝国です。ローマ皇帝は人々の頂点に立っていました。世界の人々の上に君臨していたのです。そのピラミッド構造の下にいた人々、底辺にいた人々は経済的に搾り取られていく対象でした。そして支配する側、される側に大きく分断し、差別が広がる社会でした。人々はその社会の変化を求めていたでしょう。だからこそ新しい王を求めました。イエス様に新しい王様になってほしいという期待があったのです。

今日の物語でまず登場するのは、ゼベダイの息子たちの母です。彼女はイエス様が王になった時、自分のこどもを左と右、いわば要職として地位を与えて欲しいと願いました。彼女をどう感じるでしょうか。権力を欲しているのでしょうか。自分の子がかわいいあまり人を押しのけようとしているのでしょうか。あるいは権力の欲しい息子たちに利用されているのかもしれません。

彼女は謙虚な様子に見えます。20節、まずひれ伏して登場します。自分からぶしつけに願いを言うことはありません。イエス様に21節「何が望みか」と聞かれるまで深々と頭を下げ続けるのです。そして母はあなたが王になった時、自分の子どもを要職につけて欲しいと願います。

他の弟子たちはこれを聞いて怒ったとあります。やはりみんな地位と権力が欲しかったのでしょう。もしイエス様が王になったら、自分たちは支配する側として、地位と利権を持つことができると考えたのです。それを奪われそうになって十人は怒っているのです。

この弟子たちに対してイエス様は、自分は王にならないということ、そして自分は仕える者になる、もっと低い場所に身を置くということを語っています。イエス様は王になることを選びません。それは地上の権力において、自分が支配される側から、支配する側になろう、下剋上を考えたのではないということです。

イエス様は王になって支配するのではなく、無残に十字架にかかるということを選びました。十字架を選んだということは、自分の身を最も低い場所に置くという選びでした。イエス様は自らの地位や権力には一切興味を示さず、徹底的に虐げられる民衆の側に立とうとしました。人々を支配し、十字架に架ける側ではなく、十字架に架けられる側にいることを選んだのです。

イエス様は弟子たちに22節「杯を飲むことができるか」と聞きます。杯を飲むとは十字架に架けられてゆく、苦難を受けてゆくという意味です。王になり権力を握るのではなく、苦難の道を歩むことができるかと弟子たちに聞いています。

弟子たちは簡潔に「できます」と応えています。でも私たちは十字架の物語を知っています。この後、12人の弟子たちはすべてイエス様が十字架にかかろうとする時に、逃げ出してしまいました。杯を飲むことのできた者は一人もいなかったのです。

そして25節以降で改めてこう言います。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と。これはおそらくローマの支配について、地上の支配者たちについて言っているでしょう。彼らは自分の利益のために好き勝手に権力を使っています。

そしてイエス様は弟子たちに言います。26~27節「あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

高い地位を得たいなら、表面的にでもまずは謙虚な、低姿勢を装いなさいということではありません。それでは現代の政治家と同じでしょう。後から上になりたいから今、下に身を置いておくということではありません。ここで譲った方が、後々大きいものが待っている。だから今は譲っておきなさいという計算をしているのではありません。イエス様はただ、仕えられるためではなく仕えるために来たのだとはっきり言います。

イエス様は後にも先にも地上で偉くなるため、高い地位を得るためにきたのではないということです。むしろ逆です。小さくなり、低くなるために来た。地上に来られたのです。仕えさせるためではなく、仕えるために来た、それがイエス様です。

これを低みに立つと言うことができるでしょう。そしてその中心が十字架にかかるということです。地上で最も低い場所、十字架にいたのがイエス様です。この後のより大きな栄光を受けるため、偉大になるため、高い地位になるために十字架にかかったのではありません。ただ低みに立つことを、そこに居続けることを選んだのが、十字架なのです。復活して栄光を受けるために、十字架があったのではありません。ただ低みを選び、そこの神がおられることを示すためにイエスは来られたのです。

今日もうひとつ注目しておきたいのは、ゼベダイの息子たちの母についてです。彼女は息子の地位と権力を求めた人として理解されるかもしれませんが、実はもう一度登場する場面があります。

それはイエス様の十字架の場面です。ゼベダイの母は最期の十字架を目撃したと記録される3人の女性の一人でした。彼女が大いなる者になってほしいと願った自分の子どもは、そこにはいません。十字架を前に逃げてしまったのです。栄光とは程遠い神の姿を見ようとはしませんでした。結局母だけがイエス様に従い続け、十字架を見たのです。

ゼベダイの子らの母は、自分の子を大いなる者にして欲しいと願ったあの人は、いま地上で、最も残酷な刑を受けて、低く小さく死のうとしている、十字架を目撃したのです。その生き様、死にざまを直接見たのです。イエスが偉大になるのではなく、小さく低く死んでいった姿を見たのです。

どうでしょうか。私はきっと彼女はこの後熱心にイエス様に仕える者となっただろうと想像します。自分の地位ではなく、低みに、苦しみに身を置くことを選んだのではないでしょうか。十字架を目撃した者として彼女は、人々を従えるのではなく、人々に仕えてゆく人になったのではないかと思うのです。

私たちも今、受難節をいただいています。私たちもゼベダイの母のように十字架を目撃したいのです。始めは地位や偉大さを求めていたかもしれません。大きさと成長を求めていたかもしれません。でもイエス様がどんなお方か、何を目指したお方か、それを十字架によって知ったのがゼベダイの子らの母です。

彼女は私たちと同じと言えるでしょう。聖書を通じて十字架を目撃している私たちも、イエス様が低く、小さい場所に身を置いたということを知りたいのです。受難節、イエス様の低さを知ります。イエス様が仕える者となったこと知ります。イエス様が他者に仕える方だと知ります。私たちもそのような歩みを始めましょう。

来週から集うことができることに感謝します。教会の中でも、そしてそれぞれの場所でも、私たちは互いにに仕えあいましょう。それはうわべだけの謙遜や、仲良しごっこではありません。神を愛し、隣人を愛する。神に仕え、隣人に仕える。私たちはそのような共同体をまた来週から作ってゆきましょう。

 

そしてもちろん、今皆さんがいる、私たちが生きるそれぞれの場所でも同じです。それぞれの場所からも神を愛し、隣人を愛する。神に仕え、隣人に仕える。私たちが派遣された場所でまた、1週間をそのように歩みましょう。次週に皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。次に皆さんに仕えて、お会いできるのを楽しみにしています。お祈りいたします。

 

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【全文】「私たちが集まるのは、すばらしい」マタイ17章1節~13節

 みなさん、おはようございます。今日は本来ですと久しぶりに、会堂で集まっての礼拝の予定でした。しかし週報でもお伝えした通り、緊急事態宣言の延長に伴い、それぞれの場所での礼拝をもうしばらく続けることになりました。とても残念ですが、いい加減振り回されるのに疲れてきましたが、それぞれの場所から精一杯の礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。きっと子どもたちも大きくなっています。

この期間、それぞれどのように過ごしておられるでしょうか。なんでもなるべく自宅で、少人数で、小さな声でと言われ、息苦しく過ごしています。何とか適応しつつ、楽しもうとしてきた私たちです。一人で何かをすることが増えたでしょうか。

最近は一人登山というのも増えているそうです。あるサイトを見ていたところ「一人登山のメリット」が書かれていました。こんなメリットがあるそうです。まず一人なら自分のペースで歩ける、話しながらの登山は楽しくても実は疲れる、一人なら好きなときに立ち止まれる、一人なら行きたい山だけに行きたいときに行ける、一人ならすぐに中止できる。そんなメリットが書いてありました。

記事を読んでいて、私はこのYouTubeでの礼拝に重なるような気がしました。YouTubeの礼拝は確かに自分のペースで礼拝できました。なにより自分の体調を心配せずに礼拝できます。体調がすぐれない時は少し休んでから見ることもできます。会堂に集まるのは楽しいですが、人と会話することは実は疲れるということも確かにあります。一人なら、トイレに行くとき、一時停止もできるかもしれません。あるいは他の教会の礼拝をすぐに見に行くことも可能です。話を聞いていて難しそうならすぐ停止するということもできるかもしれません。

そしてサイトにはもう一つの記事があり、「山を一人で昇るのは危険」という注意もありました。例えば一人登山はすべて自分の判断で行わなわなければならないので注意が必要とありました。もちろん二人以上いれば判断が正しいわけではありませんが。一人だと思わぬ判断ミスをする危険もあります。一番怖いのはけがや遭難です。けがをしてしまったら、とても心細さを感じるでしょう。誰が見知らぬ人に助けを求めなくてはならないかもしれません。また道を間違え、遭難してしまえば、行方不明になっても誰も気づかず助けてくれないかもしれません。

また、一人登山は上達するのに限界があるともありました。経験の豊富な人と一緒に教わりながら登山した方が、たしかに上達が早いでしょう。

一人登山は危険という記事を読んでいて、私はこれもYouTube礼拝と重なるような気がしました。一人だと、後でいつでも見れるから、後にしようという判断も働くでしょうか。先にあれこれ用事を済まそうとしてしまいます。いつでもできるということは、今しなければいけないという判断を狂わすことになるでしょう。

行方不明も大きな問題です。YouTubeの礼拝では私が参加していなくても、誰もそのことはわかりません。いつも集まれば「今日あの人いなかったね」「久しぶりにあの人に会えたね」という会話が自然に起こります。でもYouTube礼拝はそれをすることができません。

そして経験のある人と一緒の方がよいということは信仰でもまったく同じです。登山の心地よさ、注意は先輩方が一番詳しいのです。経験のある人と一緒に礼拝すると安心感があります。その背中を見ながら礼拝することは、とても私たちを励ますのです。高齢の教会員の方々は私たちの心の支えです。

もちろん今は、集うことができない時です。私たちはそれぞれの場所から礼拝をします。これには良い点も多くあります。でもできれば私はやはり皆さんと一緒に、集まって礼拝をしたいのです。礼拝は信仰は自分だけでは不安です。一人では行方不明になってしまいます。一人ではなく経験のある人と一緒に礼拝したいのです。

今日、特に私たちは集まることができず残念です。早く共に礼拝をできる日が来ることを祈ります。共に集って礼拝できる恵み、今日の個所から聞いてゆきましょう。そしてまた集えるように祈りましょう。

神様がまた教会に私たちを集めて下さる日を待ちましょう。礼拝は神様の招きです。神様はこの礼拝に、共に集う礼拝に必ずまた私たちを招いてくださいます。礼拝で私たちは共に神様のみ言葉を聞きます。そこからそれぞれの場所に派遣されてゆきます。そして、神様は派遣されたそれぞれの場所にも共にいて下さるお方です。今日もそのことを、聖書から頂いてゆきましょう。

今日の聖書個所を読みましょう。今日の話はイエス様と弟子とが一緒に山に登るという話です。マタイによる福音書で山はとても重要な要素です。マタイ福音書は重要な事を語る時、繰り返しそれが山の上だったと記録しています。特に山上の説教が有名でしょう。そしてイエス様はよく山に一人で登り、祈りました。一人登山です。イエス様にとって一人登山は大切な時でした。静かに自分のペースで祈ることができる大切な時でした。

しかし今日は一人登山ではありません。高い山に登ることに、弟子たちを招くイエス様の姿があります。みんなで一生懸命、力を合わせて山を登るのかと思うと、そうではありません。1節には「イエスはペテロ、それにヤコブとその兄弟を連れて」とあります。イエス様が連れてとあります。その山の山頂には、私たちが自分の力で登るのではありません。そこへはイエス様が連れていってくださるのです。イエス様が山頂へと招き導いてくださるのです。

礼拝も同じです。私たちは自分で礼拝をしている、また集えるようになったら教会へ行く、そう思うかもしれません。でもそうではありません。今日それぞれの場所の礼拝も、集うことができる日の礼拝も、そこへはイエス様が連れて来てくれくださるのです。

そして弟子たちは山頂でイエス様の本当の姿を初めて知ることになります。今まで一緒にいたイエス様が光り輝く姿を見るのです。

ペテロはその時言うのです「主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」。まったくそうです!今日こそ私たちがこの言葉に目を止める日があるでしょうか。イエス様によって、いっしょに礼拝に連れてこられ、その光を受けた弟子たちが発した言葉です。私がではなく「私たちが」とあります。「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」主を集まって共に礼拝することがどれほど、素晴らしい事か、私たちは今日本当に知るのです。

ここに集えたことはなんとすばらしいことか。ペテロは言いました。私たちも、もし集えたらなんと素晴らしいことでしょう。

ペテロは仮小屋(幕屋・テント)を建てようとしました。それは神様にずっとそこにいてもらうための仮小屋でした。ずっとここにいて下さい、ずっとここに住んでくださいとペテロたちは願いました。しかしその幕屋は必要ありませんでした。神様はそこに留まる方ではないからです。神様は一部の人しか行けない場所で、光り輝くのではありません。私たちに触れて、高いところから地上に一緒に降りてきてくださるお方です。

そしてイエス様は何よりも私たちと共にその山を降りて下さるお方です。この物語は下山が大事です。イエス様は山を降りながら復活と十字架について弟子たちに語りかけています。受難節、」特に十字架と復活について、この山から降りながら話をされたということを覚えたいと思います。

山を降ったのは、イエス様は高い場所にずっとおられるお方ではない、私たちと共にいるのだという事を示しています。そして同時に、山を降るとは栄光から十字架への下り坂を意味しています。今日の山頂の栄光は苦しみの十字架へと変わってゆくのです。

イエス様は山頂から十字架に向かうことによって、栄光の姿だけではなく、苦しみ痛みを伴う場所に現れるのだということが示されています。イエス様は山を降りながらそのことを弟子に伝えています。

そして実際に山を降るとそうです。次の場面では、傷つき痛みを負った人々にまた出会いに出かけています。イエス様はこのように、共にいて下さるお方です。私たちを一緒に山頂へと、礼拝へと連れて行ってくださるお方です。しかし、そこに留まらないお方です。私たちと共に山を降り、地上を歩んでくださるお方です。病を負った人に向けて山を降りるお方です。十字架へと降りてゆかれるお方です。

神は人を礼拝に招き、人として地上に降り、苦しみ小さくされた人に向けて歩むお方だということがこの物語の中には詰められています。

私たちは今日もそれぞれの場所から礼拝をしています。早く集えることを願っています。共にイエス様から礼拝へと招かれ、共に山頂に連れてこられ、共にみ言葉を聞き、「私たち一緒にここにいるのは、すばらしいことです」!そう言える日を待ち望んでいます。

私たちは、共にイエス様に礼拝に招かれ、共に山を登ります。その山頂で礼拝し、私たちは主の言葉と出会いました。しかし私たちも神も、そこに留まりません。またそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。

今日イエス様に招かれ、集える日を待ち望みましょう。「私たちが一緒にここにいるのは、すばらしいことです。」そう、主に礼拝をささげることができる日を祈りましょう。そしてイエス様は今週も私たちと共に歩んでくださいます。十字架という痛みの中におられる姿を示してくださいます。また礼拝に集えることを祈ります。今週もまた1週間の歩みをイエス様と共に歩みましょう。

 

 

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【全文】「他者の十字架を背負う」マタイ16章21節~26節

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もそれぞれの場所からですが共に礼拝をしましょう。今日私たちは10年前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を覚えて礼拝を持ちます。どうぞ心を合わせてこの時を持ちましょう。

10年前のあの日、皆さんはどこで何をしていたでしょうか。それぞれが、はっきりと思い出すことができるのではないでしょうか。私もはっきりと思い出します。電話が通じなかった事、大渋滞が起きた事、歩いて帰ったこと、津波をテレビで見た衝撃、原発が爆発する様子をはっきりと思い出すことができます。自分が体験したこと、自分が被災者になったことはきっと一生忘れないでしょう。自分が体験した痛みは、忘れずに、長く心に残るものです。

一方、私たちは他者の痛みはすぐに忘れてしまう者たちでしょう。被災地の今を知らない私たちです。福島の復旧工事は97%が終了したとのこと。福島の復旧工事は終わりつつあります。宮城県では去年の12月最後に残っていた仮設住宅が取り壊されました。少し生活は落ち着いてきたのでしょうか。岩手県では最後まで残っていた陸前高田市のかさ上げ工事が終わりつつあります。土地がかさ上げされ、街は津波に強くなりました。

しかし当然、失われ続けているものがあります。かさ上げされた土地になかなか住民は戻らないようです。例えば気仙沼市は防潮堤や、盛り土をして、津波対策などはできたものの、病院など医療機関が少なく、人口は震災前から45%になっています。土地の整備に時間がかかり、故郷を離れざるを得ない、別の場所で生活再建を始めざるをえない人々も多くいます。津波対策をすれば復興が終わるというわけではないということを知ります。

一方、住民が増えている場所もあるそうです。宮城県新地町の人口は震災前より24%増加したそうです。震災後に仙台市のベッドタウンとして開発され人気があるそうです。しかしここでは昔から住んでいた人と、移住者に溝があると聞きます。昔からの住民は多くのイベントを開催し交流しようしていますが、新しい住民は無理やりコミュニティーに取り込まれたくないと感じることがあるそうです。

震災からの復興は、ただ津波に強くなる、住宅ができる、人が戻る、集まるということだけでは解決にならないのだと知らされます。地域のコミュニティー、私たちは交わりと言いますが、それが失われた痛みは現在も続いています。それをもう一度新しい形で作り直してゆくことはまだまだ始まったばかりです。十年ちょっとでは解決できない問題はまだ多くあるのです。

そして原発の問題はほとんど進展がありません。それどころか2月13日にあった地震で福島第一原発の原子炉の亀裂部分が広がり、水位が30㎝も低下しています。原発についてはまた来週、お話をしようと思います。いずれにしても、被災地は見た目には、表面的には復興を遂げているように見えるでしょうし、実際にそうでしょう。しかし、見えない部分では多くの苦しみが続き、危険が伴い、生活の再建はまだまだこれからも続くという状況なのでしょう。

私たちは、今日もこの被災地を覚えて祈り、主に礼拝をささげる日曜日を持ちます。まだ痛みが続いていることを覚え続けてゆきたい、忘れないでいたいのです。自分の痛みは忘れないように、まだその痛みが続いている人を忘れないでいたいのです。そしてそのままにしないでいたい。私たちにできる祈りをささげてゆきたいのです。震災の痛みはまだ続いていることを覚え続けてゆきたいのです。

3月のテーマは受難としています。今日は、自分の十字架を背負うということについて考えてゆきたいと思います。自分の十字架を背負うとは、個人的な痛みや失敗を負い続けるということではなく、他者の痛みを知りつつ、他者の痛みを覚え続け、それに連帯をすることが、自分の十字架を背負うことなのだということを覚えてゆきたいと思います。今日も聖書に聞いてゆきたいのです。

 

 

今日の個所には24節「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。十字架を背負うとは、一般的には「長く我慢すること」を意味します。辞書には「耐えがたい苦難、重い負担、消えることのない罪などをいつまでも身に持ち続けること。使用例『裏切り者としての十字架を背負う』」とありました。

しかし私たちは「十字架を背負う」という言葉をそのような、我慢する、耐え忍ぶといった意味には使いません。それは痛い場所を我慢するとか、人を裏切ってしまったような失敗に負い目を感じ続けるということではありません。

自分の十字架を背負うとは、私たちにとってどんな意味を持つでしょうか。それは自分が痛むというよりも、イエス様の十字架の痛みを知るという体験でしょう。自分の十字架を背負うとは、イエス様が感じた、あの十字架の痛みを私も体験するということです。

ではイエス様の十字架の痛みとはどんな痛みでしょうか。無実の中で鞭うたれ、重い木を持たされる痛みです。しかし十字架の痛みとはその肉体的な痛みを意味するわけではありません。イエス様の受けた痛み、十字架、それは当時の宗教・政治の指導者たち、それに扇動された人々によって起こされたものです。

貧しい人、差別を受けている人、汚れていると言われてた人、ゆがんだ構造に搾り取られていく人、イエス様はその人々の為に歩んできました。あるいは干ばつなどの自然災害で生活基盤を失った人たちも含まれていたでしょう。その人々ためにイエス様歩まれました。

イエス様の十字架の痛みとは、それは小さくされた者のための痛みでした。他者のための痛みでした。貧しい人々のための痛みでした。イエス様は苦しむ人々をめぐり、働き、福音を伝えました。そして苦しむ人々が力をつけてゆく姿は、権力者たちには危険に思えました。現状の安定を揺るがす、危険なことに見えたのでした。だからこそイエス様を十字架に架けると決めたのでした。

イエス様が背負った十字架、それは共に苦痛を味わい、その理不尽に反対するという意味を持ちました。そのためにイエス様は十字架の痛みを背負ったのです。人々の苦しみが続くことに反対し、十字架を背負ったのです。それは他者のために背負った十字架でした。貧しく、小さくされた者たちのために背負った十字架だったのです。

イエス様の十字架を知るということ、それは他者の痛みを知ることと言えるでしょう。自分の十字架を背負うとは他者の痛みに連帯し、それを取り除こうとしてゆくことと言えるでしょう。

イエス様の十字架は、苦しみを共感し、それに反対をしたという出来事でした。そして、私たちが担う十字架もそれと同じ十字架です。苦しみに共感し、それに反対をする。それが私たちが十字架を背負うということです。

痛みに共感し、それを取り除こうとする、それが十字架です。イエス様の十字架と私たちの十字架はそのようにして結びついています。

自分の痛みを我慢するだけでは、自分の十字架を背負うことにはなりません。互いの痛みを知り続けなければ、自分の十字架を背負うことにならないのです。互いの痛みを知り、共感し、それに反対をしてゆかなければ自分の十字架を背負うということにはならないのです。

他者の痛みを共に感じてゆくこと、共にその苦しみに向かってゆくこと、それが自分の十字架を背負うということです。この苦痛がきっと希望に変わる、いっしょに変えてゆこうと信じ、共に働き、歩み続けることが自分の十字架を背負うことなのです。聖書には自分の十字架を背負うとありますが、他者の痛みを知り、共に働くことが自分の十字架を背負うということなのです。

 イエス様の苦難の予告を聞いたペテロは22節「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言います。「あなただけは生き残ってほしい」と願ったのです。しかし、イエス様は自分だけが生き残れば良いという声をサタンの声と言います。自分だけが生き残る道を選択しなかったのがイエス様です。自分だけが幸せになる道ではなく、人々の痛みを感じ、受け取ってゆくことを選んだのがイエス様です。

26節には「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」とあります。自分の命を失うとあります。自分の命を失う、それは人間性を失うということでしょう。自分だけが救われる道を選ぶとするならば、そこで人間性が失われます。全世界の豊かさ、便利さを手に入れても、もしあなたの人間性が失われたら、他者の痛みを見て見ぬふりをするなら、何の得になるのでしょうか。どんなもの、豊かさよりも、あなたの人間性、共感し、共に苦しみ、共に働くその人間性がなによりも大事だとイエス様は言っているのです。

自分だけが生き残る道、それこそが十字架を背負わない生き方、人間性を失う生き方と言えるでしょう。痛みを感じる人、貧しい人を見て見ぬふりをして、あれは終わった、あとは自分がいけないのだと正当化することが十字架を背負わない生き方でしょう。

私たちは東日本大震災から10年を迎えます。私たちは自分の十字架を背負って生きることができているでしょうか。他者の十字架を背負うことができているでしょうか。自分の十字架、それは被災地の痛みと伴い、生活の再建を具体的に祈り、働いてゆくことです。私たちが同じ人間として共に痛み、苦しみ、働いてゆくことが、十字架を背負うことです。それは全世界を手に入れることよりも大事なことです。それが自分の十字架を背負うことです。これからも私たちは被災地のために祈り、働きましょう。私たちの十字架を背負いましょう。お祈りをいたします。

 

 

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【全文】「キリスト教とLGBTQIA」サムエル記上18章1~4節、19章1~2節

 

「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」サムエル記上18章1節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。それぞれの場所からですが、共に礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと次に会う時、一回り大きくなっていることでしょう。会うことができる日を楽しみにしています。私たちはこども、小さくされている人を大切にしてゆきましょう。

今月私たちはジェンダー・男女平等とセクシャルマイノリティー・性的少数者について考えています。とても難しい事柄で、語る言葉には必ず限界があります。でも沈黙していてはいけないことでもあると思います。先週は草島先生をお呼びして、様々な性を持っている人がいるということを学びました。LGBTQIAとしましょう。異性に対して魅力を感じる人だけではなく、同性に魅力を感じる人(LG)、両方に感じる人(B)、身体と心が違う性であるという人(T)、自分が男性か女性かどちらかを決めないという人(Q:クエスチョニング)がいます。さらに生まれつき男女両方の身体的特徴を持つ人(I:インターセックス)、誰にも感じない人(A:アセクシャル)という人々がいます。これらの人は性的少数者(セクシャルマイノリティーやLGBTQIA)と呼ばれます。これは病気ではありません。薬や治療で治すものではありません。そのひとらしさの一つです。

キリスト教ではこのことをどのように受け止めているでしょうか。キリスト教ではセクシャルマイノリティー、特に同性愛を「罪」であるとする教会が多くあります。例えば私たちが多大な支援を受けてきたアメリカ南部バプテストもそうです。「罪」「罪深い欲望」「人間の堕落」だと厳しく批判しています。

ある当事者は、ミッションスクールの先生に「オカマは地獄に落ちる」と言われたといいます。キリスト教はLGBTQIAを、異性では満足できない人の性的不品行の罪として断罪してきました。いまでもそのように考える教会は多くあります。インターネットで検索すると日本でもそのような理解をする教会がまず目に留まります。

LGBTQIAを歓迎する教会といっても様々で注意が必要です。LGBTQIAの人たちを「罪人」として迎える教会もあるからです。神は男と女に創造したのに、男同士、女同士でいるのは、神の創造に反する「罪」だとするのです。そして異性に興味を持つ多数派に「悔い改める」ことを祈り求める教会も多くあります。教会には歓迎するがLGBTQIAをやめたら洗礼を受けることができるとする教会もあります。

ありのままで歓迎しますということを、積極的に公けにする教会は実は少ないように感じます。だから先週お配りしたアンケートが必要なのでしょう。LGBTQIAの人々にとって安心して集える教会は少なく、そしてそれを見分けることも難しいのが現状です。先週の草島先生の宣教にもあった「私たちも礼拝に集いたい」という言葉が本当に聞こえてくるようです。

では私たちの教会はどうでしょうか。昨年の4月から出席者数を男女に分けて数えることをやめました。また新来者に男女を聞くことをやめました(なぜ聞いていたのでしょうか?)。兄・姉・兄弟・姉妹という性別によって呼びわけることも週報ではやめました。それは男女で役割を分けないという事と、様々な性のありかたを受け止めてゆきたいという願いからそのようにしました。私たちの教会で、私たちの信仰においてLGBTQIAは「罪」でしょうか。

私個人はまったくこのことを罪だとは思いません。私は神様がLGBTQIAの人々をそのまま愛し、生きよと言っていると信じます。決して罪とは思いません。そもそも罪とは何でしょうか。様々に表現できますがひとつに、罪とは「対等な関係でないこと」と言えると思います。

対等ではない関係に罪があります。相手に上下関係を押し付けること、自由を奪うこと、偏見と差別をもって命に優劣をつけようとするのが罪といえるでしょう。そして反対に愛とは平等・対等で信頼できる関係を言うのではないでしょうか。

ですから、たとえ異性と共にいても、そこに対等な関係が無ければ愛ではないと思います。愛が異性に向けられるか、同性に向けられるかが罪か愛かの違いではありません。相手の命・性を暴力的に扱い、奪い、否定し、対等でないならばそれこそが罪です。同性・異性どちらに向けられるかに関わらず、対等で信頼のある関係が愛ではないでしょうか。性に優劣をつけず、対等な関係でいることが愛の関係でしょう。まず自分はどの性別であるか、どの性別を愛するかにかかわらず、対等な関係、信頼しあえる関係が大事だと思います。それは男女平等でも見てきたことです。私はLGBTQIAを罪と思いません。それぞれの性と命を、自分の命・性と同じように大切な命・性として尊重したいと思います。

今日は聖書にある、二人の男性の物語を読みます。彼らは「深い愛情」で結ばれていた二人です。私たちに身近な聖書の物語です。私たちはこれまでこの話を「男の友情」と受け取ってきたかもしれません。しかしもう一度この物語をLGBTQIAの視点で読み直してみたいのです。この物語から同性同士の深い愛情、対等で信頼し合う深い愛情を読み取ってゆきたいのです。

 

 

 今日はダビデとヨナタンの物語を読みます。当時イスラエルの王として立っていたのはサウルという王様でした。サウル王は様々な国と戦争をしていましたが、その中でもペリシテ人との戦いは困難な戦いでした。しかしその戦場にダビデという少年が現れます。彼は戦った経験などない、小さな少年で、羊飼いでした。羊飼いとはとても身分の低い仕事でした。しかしダビデは小さな石一つで、ペリシテ軍の最大の巨人、ゴリアテを倒してしまいました。そしてその戦いは勝利をしたのです。それを見ていたサウル王はダビデを呼んで、すぐに自分の軍隊にいれるというのが今日の場面です。

サウル王とダビデの対面の場面にはヨナタンという息子、王子がいました。この場面はサウル王とダビデの初めての出会いということと同時に、ヨナタンとダビデの二人の最初の出会いでもあります。

1節にはこうあります「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」。ヨナタンという男性は深い愛情を同性であるダビデに感じました。そして魂が、自分の存在のすべてがダビデに向けられるようになったのです。また3節には、ヨナタンが自分の上着、来ているものや剣や弓などの一式すべてをダビデに与えてしまったとあります。そしてもう一度、ヨナタンがダビデを自分自身のように愛したという言葉が繰り返されています。

この二人は本来、戦争で手柄を挙げた羊飼いと、王子という圧倒的な上下関係の中にありました。しかし深い愛情を持ったヨナタンはダビデとの関係をまったく対等に持とうとします。自分の着ているもの、持ち物を分け、羊飼いのダビデと対等な関係になろうとしています。相手に尊敬と敬意を持ち、一人の人間として向き合ったのです。3節には「彼と契約を結び」ともあります。どのような契約だったのでしょうか。それはきっとあなたを傷つけないという、平和な契約だったでしょう。

しかしすぐにダビデはその実績からサウル王に憎まれることになります。サウル王はこの勝利で英雄視されるダビデが疎ましくなったのです。19章1節を読むとダビデを殺すようにとサウル王は命じています。

しかしここでもヨナタンはその「深い愛情」からダビデの逃亡を手助けすることになりました。ここではまるで、僕が王様を助けるように王子が羊飼いだったダビデを助けています。この二人がとても親密な関係であったことを描いているとともに、対等な関係であったということも丁寧に描いています。ヨナタンの愛は20章17節でも三度語られています「ダビデを自分自身のように愛していた」とあります。

やがてヨナタンは戦争で死んでしまいますが、ダビデはヨナタンの死を悲しんだ歌が聖書に残されています。サムエル下1章26節にはこうあります。「あなたを思ってわたしは悲しむ 兄弟ヨナタンよ、まことの喜び 女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。」

この二人の男性は深い愛情をもって接していました。同性愛とも十分に解釈できると思います。そしてそれは罪として扱われていません。美しい同性の愛情として聖書には記録されています。

このように、多様な性・愛の在り方が聖書にも記録されています。それは決して罪としてではなく、相互の対等な関係として描かれます。同性の深い愛情が、美しいものとして描かれています。

私たちはこの個所をどのように読むでしょうか。私はこの個所から多様な愛、性の在り方に心がひらかれてゆきます。深い愛情は異性の間だけではなく、同性の間にも同じようにあると知らされます。それはとても身近な物語でした。私たちが今までよく知っていた物語でした。しかしその関係によく気づかなかった物語です。そしてそれは確かに同性同士の愛です。深い愛です。

そして私は、その裏側にある、愛に見えても本当は対等ではない関係に注意をしたいとも思います。愛と言って、本当は差別や偏見が含まれていないかを注意したいと思います。

多様な性を否定し、「罪」として「治す」ことを「愛」という人がいます。でも本当にそうでしょうか。神様は男と女を作っただから男と女で役割を二つに分けることが愛だと語る人がいます。本当にそうでしょうか。私は男か女か、LGBTQIAかどうか、そのことよりも、一人一人の間に対等な関係があるか。差別や偏見が含まれていないかに注目をしたいと思っています。

私たちは1カ月、ジェンダーとセクシャルマイノリティーについて聖書から考えてきました。私たちはすべての命・性と対等に向き合いたいのです。すべての性が平等に生きることができる社会と教会を目指したいのです。私たちの間にある性差別、性的少数者への差別が無くなるように共に祈り、共に礼拝してゆきたい、共に働いてゆきたいと思います。お祈りをいたします。

 

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【全文】「わたしたちも礼拝に集いたい」マルコ3章20節~35節

【はじめに】

本日はこの平塚バプテスト教会の礼拝に招いて下さりありがとうございます。平塚教会の礼拝は、平野先生の就任式と今回で二回目になりますが、平塚パトロールの炊き出しで毎月この教会を訪れており、私にとっては身近な教会に感じております。

さて今日のテーマはセクシャルマイノリティです。セクシャルマイノリティは、LGBTQとかSOGIなど様々な呼び方がありますが、今日はLGBTという言い方を用います。LGBTについて平塚教会のみなさんのお手元に「キリストの風」集会からのアンケート依頼文があるでしょうか。依頼文にある説明を御覧下さい。Lはレズビアン/女性同性愛者、Gはゲイ/男性同性愛者、Bはバイセクシュアル/両性愛者、Tはトランスジェンダー/性同一性障害者や性別違和など、と説明されています。性のあり方は多様なのですが、この四つの頭文字を取って、全体を呼ぶわけです。

ふじみキリスト教会ではLGBTの学びを2019年に行いました。きっかけは教会に「キリストの風」集会からのアンケートが来たことでした。主任牧師が返事を書いていたらこれは牧師個人の意見としてではなく、教会として返さなければならないと気づき執事会に相談がありました。そこでまず執事会で学習会をすることになり、主任牧師から学習会を担当してくれないか、と依頼され私は二つ返事でOKしました。私が引き受けたのには理由がありました。それは私がこれまで何もしてこなかったことへのおわびの気持ちからでした。LGBTの友人たちの苦悩を知りながら、私は何もしてきませんでした。

私自身を振り返ると、若い頃LGBTをバカにしていました。高校生の時、同級生で物腰や口調が柔らかい同級生に対して「AIDS」と呼んでからかい、大学生のときに海外旅行から帰って来た友人が、旅先で同じ男性から口説かれた話しを聞いて一緒に笑う、そんな者でした。そんな私は、あるとき「自分はレズビアンなんです」という告白を聞いてはじめて身近に感じ、また真面目な事なのだと知りました。それからLGBTのクリスチャンたちと出会い、礼拝に参加することさえも決して簡単なことではない事、自分のことを友人に伝える事が、実は命がけでありどれだけ勇気のいることなのかを知りました。また自分が知らないだけで自分の周りに多くのLGBTの方がいることを意識するようになりました。牧師でゲイである友人の口癖はこうです。「気づいていないだけで、神さまもゲイも、いつもあなたのそばにいる」。最近その友人が本を出しました。その本のタイトルが『あなたが気づかないだけで/神様もゲイも/いつもあなたのそばにいる』です。

しかし、知っていながら私は教会でいままで何もしてきませんでした。そんなとき、「キリストの風」集会のアンケートが教会に届いたのです。やらなければ。否、やりたいと思いました。執事会で一年かけて学び、そして翌年教会全体で2回の学習会を開きました。この学びを受けて次にどう行動するか、という段階で新型コロナと緊急事態宣言で中断し今日に至っています。そんな折り、このような機会が与えられてありがたいと思っています。

 

【「キリストの風」集会からの問いかけ】

みなさんのお手元に「キリストの風」集会からのアンケートがあるでしょうか。このアンケートから「私たちも礼拝に参加したい」「信仰の交わりに加わりたい」という切実な願いが感じられます。礼拝に加われない現実があるわけです。それは同時に「あなたの教会の信仰の交わりに私たちは加われますか」という問いかけになっています。この問いかけに私自身、そして教会自身が問われているのです。学習会では様々な意見が出されました。積極的に同意する声がたくさん聞かれました。と同時に、どう考えれば良いのか悩む声や、困惑する声もありました。そして学びの後で私に直接、これこれが自分には納得できないんだ、と戸惑いを訴えてくれた方もありました。そのときは「どう答えたら良いんだろう」と必死でしたが、後で、嬉しかった。それは正直な気持ちを話してくれたのは、私の事を信頼してくれているからです。本当にありがたいです。

ところでイエスだったらどうされるでしょう。それを今日の聖書の箇所から考えたいのです。この箇所で、これまで私には二つひっかかるところがありました。ひとつは28−29節の神を冒瀆してもよいが聖霊を冒瀆してはだめ、というところ。私たちは神、イエス・キリスト、聖霊は同じ三位一体だと学びます。するとここはどんな意味なんだと。もう一つは母に対して「わたしの母とはだれか」ってちょっと冷たすぎないか、と。しかし今では、今日の箇所が非常に好きになりました。

 

【イエスのまなざし】

この物語の前の流れはこうです。イエスは活動を始めてから、漁師を弟子にし、徴税人を弟子にし、汚れた霊に取り憑かれた人、病人、障害のある人をいやし、また教え、と活動しながら町々村々を巡ります。イエスの周りにあつまってくるのは行き場のない群衆たち、病人、障害を持った人。弟子たちも漁師はましな方で、徴税人やら怪しげな人たち。だから弟子たちと一緒に食事をしているとファリサイ派の人々からは後ろ指を指されます。「イエスは罪人、徴税人と一緒に食事しているよ。そんなのありえねー」と。当時「ちゃんとした人」は、そんな「罪人」たちと一緒にはいません。イメージを膨らませながら情景を思い描いてみると、今日の場面はこんな感じでしょうか。

 

イエスはその日もあちこち尋ね歩き、活動していました。もう夕方になったので「じゃあ帰ろう」と、ここんところお世話になっている家に帰って来ました。するとどこからか分からないが、群衆が集まって来る。また教えたり、いやしたりと大わらわ。イエスも弟子もパンを食べる暇もないくらい。そこへイエスの家族がやってきます。

なぜかというと、実はイエスの実家の周りで悪い噂が流れていたのです。「ちょっとちょっと知ってる?マリアちゃんとこの息子のイエスがおかしくなったんだって」「どうして?」「罪人と一緒に食事しているらしいよ」「え〜マリアちゃん大変。うちの子には付き合わないように言っとこう」。家族の周りで人々がそう言い始めます。するとそれを聞いた兄弟が「ちょっとお母さん聞いた。イエスを何とかして!」「もうとっ捕まえてこよう」。とそんなことこんなでかけつけて来たのでしょう。

 

家族が着いた頃、エルサレムから来た律法学者の先生方が、ごちゃごちゃ言い始めています。「ちょっとあれ何だ」「いやしをしてるみたいだが、自分が悪霊に取り付かれていて、悪霊の力でいやしてるんじゃないの」とそんなことを群衆たちの外から遠巻きに話しています。そこでイエスが「何バカなことを言ってるんだ」とたとえで反論するわけです。ここで28節と29節に注目下さい。28節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」は人間に対する神の無条件の赦しが語られています。神への冒瀆さえも赦されると。これはものすごい宣言です。そして29節が続きます「しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。「聖霊を冒瀆する」とはこういうことです。聖霊とは神が私たちに働いている働きです。それを冒瀆するとは、いま神が働いていることを否定すること。つまり神の赦しや祝福を否定すること。神はどんな人に対しても働いている。神の赦し、祝福は全ての人に与えられている。そのことを否定してはいけない、と。

ここでイエスのすぐ周りには弟子、そして群衆がいます。当時「罪人」と言われた人々です。当時のユダヤの常識では、イエスの周りに集まっていたような病人、障害者、また血を扱うような職業に就いていた人々、みな「罪人」と呼ばれていました。その人の病気が治ったり、またその職業を離れて律法を守る生活をしないと神から赦されないと考えられていた。だからイエスのもとに集まって来た人々はずっと赦されないまま。そんな、行くあてのない寄る辺ない人々がイエスのもとに集まっていたのです。そんな社会の常識に対してイエスの見方は違います。31−35節の場面では、再びイエスの家族が登場します。家族は到着したけれど、その「罪人」たちの中に入っていこうとしません。人をやってイエスを呼びにいきます。そのとき、イエスの周りにいた人々はどんな思いになったでしょう。「ああ、やっぱりイエスさまは私たちなんかと一緒にいちゃいけない人なんだ」「家に帰っていくんだ」と寂しい眼差しでイエスを見ていた、そして自分たちが「罪人」なんだ、ということを思い知らされていたのではないでしょうか。するとイエスは自分の周りを見渡してこう言います「見なさい。ここに私の母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。この言葉は家族に向かっての言葉ではありません。なぜなら家族は近くにいないのです。これはイエスを囲む人々にむけての言葉です。当時「罪人」と呼ばれ、神から遠いと考えられていた人々に対して、イエスは「あなたがたは神の御心を行う人だ」と語ります。つまりイエスは彼らのことを「罪人」とは考えていないのです。神が働いている人々。神のゆるしの中にいる人々。そうイエスはみているのです。だからこそ、「この人たちには神が働いていない」「悪霊の働きだ」なんていうことはゆるされない。この人たちに神が働いていることを否定しては絶対にだめだ、というのです。

 

【私たちの立つところ】

 イエスの家族が気にしたのは噂話、つまり世間体。律法学者が気にしたのは誰が正しい人で誰が罪人かということ、イエスが気にしたのはこの目の前の人々、群衆。視点が全く違います。この物語から「キリストの風」集会からの問いを考えたいのです。

 当時の「罪人」は個人的な過ちを犯した人々というよりも職業や身分に近いようです。徴税人、血を扱う食肉や皮なめしを生業にしている人々、病い、障害を持った人々。それは自分ではかえられないもの、現代のLGBTもそうです。LGBTは神に反している、罪人だ、聖書もNOと言っている、そう考えているクリスチャン指導者たちは沢山います。しかし私の聖書理解では、聖書のなかで、LGBTを中心主題に取りあげて直接否定している箇所は一つもありません。ただし、間接的に否定していると解釈できる箇所は何カ所かあります。そしてその箇所について、聖書はLGBTを否定しているのかいないのかで議論があるわけです。この議論の決着は簡単ではありません。議論はずっと続いています。

 ここで大切な事、心に留めておきたい事は、議論が続く限り、LGBTの人々は礼拝に出られない、ということです。礼拝に参加したい、一緒に御言葉を聞きたい、一緒に賛美したい、一緒に祈りたい、そんな人々が礼拝から締め出されたままになるのです。私たちはつい「何が正しいのか」にこだわり、ときに自分を安心させるために「こうだ」と決め、結果として壁を作ってはいないでしょうか。しかし「何が正しいか」は果たして人間がそう簡単に判断できるものでしょうか。誰かに対して「あなたは罪人だ」などとは私には言えません。そしてまた誰が言えるのでしょう。私たちはただ、この私を受け入れてくれる神に感謝するだけです。私の牧師としての人生を振り返ると罪ばかり。言葉で人を傷つけ、行いで人を躓かせてきました。私たちが神の前に集えるのはただ、神によってゆるされているからです。私たちは何か条件を満たしているから、とか何かができるから、何かをしているから神にゆるされているわけではないのです。イエス・キリストが「いいよ」「私のもとに来なさい」と言ってくれるから。ただそれだけです。私たちはそんな神のゆるし、なんの条件もない無条件のゆるし、神の愛への感謝から始めるしかないのです。そしてそこから始めればよいのです。

お祈りします。

 

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【全文】「神の性平等宣言」ガラテヤの信徒への手紙3章26節~28節

みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝できることに感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。小さい者を大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。

今月私たちは男女平等と、性的少数者について聖書に聞いています。難しいテーマでしょう。1カ月の中ではとても私たちは理解することはできないでしょう。でもこれをきっかけに、私たちは様々なことを考えるスタートにできればと思います。

私たちは男女平等を目指します。社会の中で、教会の中で、家庭の中で女性が役割を押し付けられたり、役割を奪われたりすることに反対をします。男女あらゆる性の人が、平等に役割を持ってゆくことを願っています。特にコロナ禍の中では、女性の貧困や行き詰まりが指摘されています。女性に安定した職業が与えらないからです。もちろん教会もこの女性差別と無縁ではありません。特に女性牧師について向き合う必要があります。

平塚バプテスト教会はアメリカ南部バプテストからの多大な支援を受けて設立された教会です。これまでの多くの経済的支援、そして宣教師などの人的な支援を受けてきました。

しかし2000年を区切りに日本バプテスト連盟とアメリカ南部バプテストは別々の方向性に進むことになりました。そのもっとも大きな原因だったのは女性牧師についての考え方の違いでした。

南部バプテストが2000年に出した信仰告白ではこのように宣言されています「男性も女性も教会に仕える賜物を与えられているが、牧師の職は聖書によって資格づけられた通り、男性のみに限定されている。」(Ⅰペテロ5:1~4)。つまりアメリカの南部バプテストの教会は女性は牧師になれない、なってはいけないと決めたのです。

これは当時日本で大変な衝撃をもって受け止められました。アメリカから来ている女性牧師・宣教師であった人々はすべて解任され、帰国するように求められました。

もちろん日本のバプテストはこの姿勢に反対し、アメリカとは別の道を歩むことにしました。私たちは男女、性に関わらず牧師となることができると考えたからです。アメリカから来ていた女性牧師たちは中にはその後も日本に残って牧師として活動を続ける方もいました。

しかし、私たちはそれまでアメリカから様々な影響を受けてきました。そして日本の中でも女性を牧師としないという姿勢は確かにありました。女性は牧師としてではなく、牧師夫人として献身することが求められた時代がありました。そしていまなお女性牧師の比率は13%と非常に低い比率です。

私たちにはもしかすると今でも、牧師といえば、家族を持った男性。牧師の妻といえば教会のことや牧師のアシスタントをする人という考えが根強く残っているかもしれません。性による役割分担を当然とする考えは私たちの中にも残っています。

私たちはアメリカ南部バプテストを批判しますが、それだけではとどまりません。私たちもそれに影響を受け、そのような姿勢でいた、いるのです。

私たちは男女の間に、あらゆる性の間に起こる差別からの解放を目指す教会でありたいと思います。神様はそのような性による差別を否定される方だと私たちは信じます。だからこそ教会も、家庭も、社会も、男女とあらゆる性の人が平等に社会に活躍できることを目指してゆきたいのです。

日本バプテスト連盟は、今日のガラテヤ書3章28節に立ち、このような性差別に反対を表明しています。日本バプテスト連盟が出している宣言にはこのようにあります。「私たちは、私たちの間に様々な違いがあることを、イエス・キリストの福音ゆえに喜び、尊びます。しかしその違いに優劣をつけ、力の差として利用し、支配・被支配の関係性を生じさせる時、あらゆる差別が起こります」

性によって差別をしない、聖書は男女、あらゆる性の平等を語っているのだ、そのように告白がされていますし、それは私たちの信仰と同じでしょう。私たちは性によって役割を決めない教会です。

今日はそのことをこのガラテヤの信徒への手紙からいただいていきましょう。男性も女性も、あらゆる性の人々が神様の前に、あるいは社会の中において平等に生き、働く。聖書がそのことを宣言しているということを見てゆきましょう。私たちの身近、内側に、性による差別はまだまだたくさんあります。しかし神様が男女の、あらゆる性の平等を宣言しているということを見てゆきましょう。

 

 

今日はガラテヤの信徒への手紙ですが、パウロが手紙を送ったこのガラテヤの教会には分断と差別が起ころうとしていました。特に問題となっていたのは、神様はユダヤ人以外も救うのかということでした。

つまりユダヤ人以外、外国人は神様の救い・恵み・守りを受けることができないという人がいたのです。いまの私たちからは想像できない考えかもしれませんが、それは外国人差別と似たものと言うことができるでしょう。神様の救いはユダヤ人のみに起こる、外国人にはないと考える人がいたのです。

そのように二つに分断した人々へパウロは言いました26節「あなた方は皆、神の子だ」と。外国人も含めて全員に対して「全員、神様の子どもです」と呼びかけたのです。すべてに人に対して「神の子」として語り掛けたのです。

そしてパウロはガラテヤに3つの差別があることを挙げています。これは今の社会にも通じる3つの差別です。民族的差別、社会的差別、性差別の3つです。

民族的差別はイメージしやすいでしょうか。たとえば宗教や人種や地域に関する差別です。日本で言えば在日朝鮮民族への差別が民族的差別と言えるでしょう。人種や民族によって差別をしようとすることに、聖書は反対をしています。

もうひとつの差別は奴隷か自由人かという差別です。社会的差別といえるでしょう。それはたとえば職業や身分に関する差別です。日本でいうなら非正規社員への差別的な扱いが挙げられるでしょう。正規も非正規もないということです。

そして三つめは今月取り上げている性別による差別、性差別です。男か女かによっておこる差別、不平等です。おそらく、性による差別がすでにガラテヤ教会の中で起きていたからこそ、このような言葉が出てきたのでしょう。性による差別、それは男と女のゆがんだ力関係です。パウロは女は男に従い、男を補助するという関係を否定しています。男性が優先されることを否定しています。

3つまとめて考えるなら、自国民の身分の高い男性が、より神様に近いと考えていた人々がいたのでしょうか。外国人の身分の低い女性が神様から一番遠いと考えたのでしょうか。現代でも実際はこのような現実にあるかもしれません。平等に見えてもいざ災害、感染症が起きると、一番に追い詰められてゆくのはこのような人々です。

しかし聖書はどの民族か、どのような身分か、性別がどうかは神の前で一切関係ないと教えています。パウロはそのような、ゆがめられた関係性に反対をしています。パウロはその差別は必要ない、必ず終わると宣言しているのです。

そしてその時にパウロが繰り返し強調しているのは、それがキリスト・イエスによって起こるのだということです。私たちのゆがんだ関係はキリストによって、本来の姿へと回復されてゆくのだと言っているのです。私たちの平等は、神の子キリスト・イエスを根拠としているのだということを繰り返しています。

私たちの中には今なお性による差別が多くありますが、その差別は私たちが神様から力をいただいてこそ、乗り越えてゆけるということです。神様が、私たちの中に平等に向けた力を、与えてくださるのです。

私たちは神様の前に平等です。教会の中で平等です。そしてそれは教会の中にとどまりません。その平等は社会や家庭の中に広がってゆくのです。私たちが派遣されてゆく先、社会や家庭にも様々な課題があるでしょう。そこでも私たちはすべての人が平等であるということを確認してゆきたいのです。神様に聞き続けてゆきたいのです。

そして28節には「男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」とあります。私たちは一つだということが強調されています。もともと分断された二つのものが、一つになるのではありません。神様の下に、それはもともと一つのものだったということです。一つに“なる”のではなく、“もともと皆で一つ”だったのです。私たちは差別を超えて、必ずひとつに戻ることができるということです。

それは私たちが分かちがたく共同体として結びついているということを示しています。それは、ひとつの体であるともいえるかもしれません。

聖書はキリストによって差別は終わると宣言し、キリストにある平等が宣言されています。私たちの社会や教会にはまだまだ見えない差別、性差別、格差が存在します。私たちにも、なおガラテヤの教会と同じように分断と差別があるはずです。しかし私たちのその差別のただ中に、神の平等宣言が響きわたっています。

神様は性の平等を宣言しておられます。男、女、あらゆる性の人が神様の前に平等に恵みを受けてゆくと語っています。性に関わらず、神様に応答し、働くように招かれています。

私たちはこの神様の言葉を歩みましょう。この教会で、そして家庭で、そして社会全体のゆがんだ関係が、神様の平等に戻されてゆくように祈り、働いてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「性を分け隔てない神」マタイによる福音書27章55節~56節

みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちも見てくれているでしょうか。

私たちは今月、4回の宣教の中で、ジェンダーとセクシャルマイノリティーについて考えながら、聖書に聞いてゆこうと思います。といっても横文字は難しいですね。考えたいのは男女差別や偏見をなくし平等になってゆこうということです。神様は性を分け隔てない方だと言うことです。そしてもうひとつは性的少数者いわゆるLGBTQと聖書・教会のことを考えようというです。1カ月かけて取り組みたいと思います。前半2回は男女平等について、後半の2回は性の多様さを知るということに重点を置いてゆきたいと思います。

1回目の今日は、神様は男女の役割を分ける方ではなく、すべての性の人々を招き、主とお互いに、尊重し合い歩むように促しているということを見てゆきたいと思っています。私たち平塚バプテスト教会では昨年の4月から週報の男女別の礼拝参加人数の表記を止めました。男性〇人、女性〇人という集計をやめました。そして週報に名前を書くのに最後に兄・姉をつける表記も止めました。男女にかかわる表記をしないこととなりました。

教会はいままでお互いを兄弟姉妹と呼び合い、お互いの特別な心のきずなを大事にしてきました。私たちはキリストにあって家族なんだ、そう親しみを込めて互いに兄弟姉妹と呼びかけあっていました。それは素晴らしいことです。

一方で家族として呼びかけるだけではなく、男女を呼び分けていました。このように教会は知らず知らずのうちに男女を分けて呼んだり、男女の役割分担を当たり前のこととして受け止めるようになりました。

男は男らしさ、女は女らしさが大事だということは教会でも言われてきました。男なら泣くな、女ならおしとやかにしなさいと教会も教えてきたのです。でもそれをこれからも私たちが続けていくかどうかは立ち止まって考えてゆきたい事です。

私たちは本当は、男らしさ、女らしさよりも、その人らしさを大切にした方がいいということに気づき始めました。男だからこう、女だからこうというのではなく、いままでからするとその中間にいる人や、反対にいる人がいてもいいのではないかと気づくようになりました。それがその人らしさなのではないかと思うようになったのです。むしろ、今までのように男は男らしく、女は女らしくを続けてゆくことは、女性や少数者、あるいは男性さえも、そこに抑えつけ、縛り付ける力になってきたのです。

ジェンダーギャップ指数という国際的な指標があります。国別に男女平等がどれだけ進んでいるかを示すランキングです。日本は2006年は80位でした、しかし2020年日本は121位でした。日本の男女平等は先進国の中、東アジアの中で最低です。特に評価が低いのは政治、経済、教育の分野です。政治ではたとえば日本の内閣の中に女性が2名しかいない事が減点の理由です。ランキングの高い国では半数近くが女性だったり、リーダー・大統領自体が女性であることも珍しくありません。

経済で減点となっているのも女性がリーダーに抜擢されることが少ないのが原因です。日本の企業で女性管理職は14%、世界の平均の半分以下です。教育でも女性と男性の大学進学率に大きな違いがあります。

教会も男女平等が進んでいるとはいいがたいでしょう。平塚教会に関わらず、昔の教会の姿を聞くと、女性は執事になれない教会、女性は講壇の上に上ってはいけない教会など役割が分かれていた教会は多くあります。私たちの教会はそのような性別で役割を分けることから少しずつ解放されてきました。今日の司会者も女性です。でも教会の中にもきっとまだまだ私たちの気づいていない男女の格差。差別は残っているでしょう。教会を指数当てはめてみるとどうでしょうか。執事は女性多数でプラスの得点です。しかし過去に女性の牧師を招聘したことのないところは減点でしょうか。

神様は性を分け隔てせずに、招いておられるお方です。性別による役割分担を取り除いていきたいのです。それはきっともう私たちの無意識になってしまっています。その無意識をもう一度問い直し、男らしく、女らしくということを超えてゆきたいのです。

神様は性別で役割を決めるお方ではありません。神様は女性も男性も、あらゆる性の人を招いておられます。神様はすべての人が従い、互いに仕えあうことを求めています。今日そのことを聖書からいただきたいのです。

 

今日読んだ聖書も実は無意識に男女差別が含まれている箇所といえるでしょう。今日の個所では55節「イエスに従って来て世話をしていた」女性たちが記録されています。

女性はやはりいわゆる女らしくイエス様の身の回りのお世話をしながら、ついてきたのでしょうか。女性はリーダーではなく、男性を補助する者として後ろからついて回ったのでしょうか。男性に活動の中心をまかせ、女性たちは雑用係だったのでしょうか。もちろんそうではありませんでした。

この個所にある「世話をする」という言葉に注目をします。この言葉は聖書の言葉ではディアコネオーという言葉です。この言葉には食事の世話をするという意味があります。食事している人の周りで食事を出したり、水を出したりするのです。レストランのスタッフのイメージでしょうか。それが世話をするという意味です。

しかし、聖書ではこの言葉は食事の世話だけではなく、信仰的な言葉として重要な言葉です。世話をするとはすなわち、イエス様に「仕える」、そして他者に「仕える」尊重してゆくという意味を持ちます。それはただ単にイエス様に食事を出すということではなく、神の業、イエス様の福音宣教に仕えるという大切な意味です。もっと踏み込んで言うならば、イエス様に仕える指導者・リーダーとして活動に加わってゆくということを表す言葉です。信仰者としてイエス様に仕えるという意味です。

しかしこの「仕える」「奉仕する」(ディアコネオー)という言葉、なぜか日本語に翻訳されるとき、女性が主語になる個所で「世話をする」とか「もてなす」という言葉として訳されてしまいました。本来「仕える」と訳されるべきところが、女性にこの言葉が付くと「もてなす」と訳される、これは問題ではないでしょうか。聖書のもともと同じ「仕える」という言葉なのに女性なら食事当番、男性ならイエスに仕えると訳し分けてしまっているのです。

ここにはおそらく翻訳した人や社会の全体の無意識な感覚が入り込んでしまったのでしょう。神様は性によって分け隔てをされないお方です。でもこの個所は女性だからつまり食事や洗濯の世話をしたということでしょうという感覚です。そんな無意識な男女差別、男女の役割分担、ジェンダー差別がこの翻訳には表れてしまったのです。

おそらく背景には翻訳委員会の男女構成比が影響しているでしょう。いま私たちが使っている新共同訳は翻訳の検討委員会に女性は3%しかいなかったそうです。

数年前に新しい協会共同訳が出版されています。新しい翻訳をみますとこの個所は「仕えてガリラヤから従って来た」と修正されました。女性たちは世話をしていたのではない、イエスに仕えていたのだと改められています。

女性がイエスを「もてなした」と翻訳されている箇所もありましたが、これもイエスに「仕えた」に変更されました。男性の場合も、女性の場合も「仕えた」という言葉に基本的には統一されました。聞くところによれば、新しい翻訳の委員会の女性の比率は23%まで増えているそうです。私たちの聖書の中にすら、無意識に男ならこう、女ならこう、こうしてあたりまえという感覚が入り込んできてしまうのです。最近ようやくそれが変えられたのです。

この個所は教会に男女の役割分担を改めて考えさせる個所です。決して女性はお世話係ではなかったということです。教会にはたくさんの女性奉仕者、たくさんの女性指導者がいたということです。

この3人を見てゆきましょう。3人はイエス様にガリラヤからずっと従って来た初期からのメンバーでした。その3人はイエス様の最期の十字架を真正面から目撃をした3人でした。初めから終わりまで従った弟子でした。一緒に従ってきた他のペテロなどの男性の弟子たちは、その時みな逃げて、そこにはいませんでした。

十字架に真に向き合ったのはこの3人の女性でした。これ以外にも初期の教会にはたくさんの女性のリーダーがいたでしょう。多くの女性がこの十字架の出来事を目撃し、逃げて行った男たちに伝えたのです。

この女性たちは、イエス様に最後まで仕えたはずだったのに、後の時代、お世話をしてついて回った、雑用係ということにされてしまいました。しかし彼女たちは確かに一人の人間として、その十字架に確かに向き合ったのです。

さて、私たちは今日、神様はどんな人かを知るために集まっています。神様は性の分け隔てなく私たちを招かれるお方です。性別によって役割を分けるのではなく、男女やあらゆる性に向けて、分け隔てなく招きを下さっている方です。

神様は男性はこのように従いなさい、女性はこのように従いなさいと招くのではありません。すべての人に従いなさい。すべての人に仕えなさいとおっしゃっているお方です。

でも時に私たちの受け止め方は男女に分けてしまいがちです。しかし、神様は性の分け隔てせず、私たちを招き、私たちに仕えるようにと促しておられます。私たちの教会や社会や生活にもそのような出来事が多く残っているでしょう。社会に性別による格差がなくなるように願います。そして教会とそれぞれの生活の中にもその格差が無くなるように願います。

神様の福音はすべての性の人に与えられ、すべての人が仕えることに招かれています。その主に共に仕えてゆきましょう。

このあと私たちはオンラインで、主の晩餐の時を持ちます。今日はすべての人がこの主の晩餐に招かれています。共にいただきましょう。そして主イエスが私たちパンを配って、仕えて下さったように、私たちも互いに仕えましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「一点一画の愛」マタイ5章17節~20節

 みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですけれども、互いを感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も集ってくれているでしょうか。一緒にみ言葉を聞きましょう。

私たちは今月、協力伝道をきっかけに聖書を読んできました。私たち一人一人が交わり、助け合うことが必要なように、一つ一つの教会も協力が必要だということを見てきました。国外伝道の働きや牧師養成の働き、今この変化の時互いに学びあう存在としてお互いが必要であるということを見てきました。私たち一人一人と同様に、教会同士も愛し合い、励ましあい、助けあい、学びあうことを見てきました。

平塚バプテスト教会の歴史の中で、もっとも協力伝道の愛を感じたのは、おそらく無牧師の時期ではなかったでしょうか。梶井先生の退任から杉野先生の着任までの期間の無牧師の時、礼拝の宣教を自分たちで担わなければならなかった時、他の教会から宣教の奉仕に来てくださった先生のどれほど大きな愛を感じたでしょうか。私も信徒の時に無牧師を経験し、信徒説教の大変さを経験しました。他の教会からの協力がどれだけ大きな助け、愛だったのかをよく覚えています。神奈川連合の牧師がかわるがわる宣教を担ってくださいました。

教会は70年間で3500回以上の礼拝をしてきたとして、無牧師の期間はそれは半年ほど30回ほどだったのでしょうか。歴史の中からすれば、それは点のような出来事かもしれません。

でもそれは、確かに教会同士が助け合った「愛」の実践でした。小さい点のような出来事ですが、そこには大切な教会同士の愛が示されていたのではないでしょうか。周囲の教会が平塚教会とそこに集う人々を愛し、支えてくれたこと、それによって礼拝が守られたのです。歴史の中では、昔の事、ほんの一瞬の事、点のような事であるかもしれませんがそれは、大切な愛の記憶としてずっと覚えておきたいことです。この支えがなければ、私たちの礼拝は途切れてしまっていたかもしれないのです。

「愛」とは長い文脈の中から見れば「点」のようなことかもしれません。しかしその「点」はとても大事な「点」で、それによって私たちは支えられているということがあります。愛は小さな点のようなものかもしれません。しかし単語や文章に一点一画が抜けてしまうと全く意味が違ってきてしまうことがあります。愛もそのように点の様に小さくても、もし無ければ遠くからは同じことのように見えても、全く違うものなのです。愛は全体からすれば、小さな点であるかもしれないけれども、全体の意味を決定する、大事な「点」なのです。決して失われてはいけないこと。絶対に変えてはいけないこと。忘れてはいけないこと。それが愛です。

そして愛の形は変化し続けるものです。特に今の時代は大きく変化をしています。例えばたった1年前まで、私たちは礼拝の中で互いに握手することが愛の表現でした。しかし今は握手をしないことが愛になりました。互いに距離を取り合うことが愛になりました。無牧師に対する協力という愛の形も、きっとオンラインにされることも増えてくるでしょう。

愛の形は変わり続けます。しかしいつも事柄の中心にある「点」、愛に目を向けていたいのです。そして愛の形が変わるように、私たちの協力関係の形も時代によって変わり続けてゆくのです。

そして変化してゆくとは今までの事をすべて忘れる、捨てるのではありません。今まで大切にしてき点・愛はこれからもずっと大切にしてゆくのです。点のような出来事だったかもしれません。小さかったかもしれません。だけれども、その「点」は確かに必要な「点」だったのです。点が無いと全体の意味が変わってしまいました。この単語、この文章、この歴史は、愛があって初めて完成させられてきたのです。この点のような愛が、すべてを形作ってきたのです。愛がすべてを完成させてきたのです。

いまこの時代で、これからどのように愛を実践してゆくか、新しい形が問われています。私たちは様々に形を変えるけれども、イエス様が教えてくれた愛を大事にしてゆきたいのです。イエス様は、愛は「点」のように小さく見えるかもしれないが、その愛こそ大事にせよと教えておられます。

今日の私たちは聖書の個所から、このことを頂きます。愛は点のように小さくとも、全体の意味を決定する大きな役割を持っています。そして愛の形は変わります。神様はどんなに時間が経過しても、どんなに変化を繰り返しても、その小さな「点」である愛を大切にし、残してゆきなさいと語っておられます。今日の聖書個所を一緒に読んでまいりましょう。

 

今日の聖書個所の時代、イエス様に従う人々の中には、もう旧約聖書はいらないのではないかという人がいました。イエス様の教えがあまりにも新しく、そして常識から外れていたので、これまでの教え、旧約聖書はもういらないと考えたのです。一方、イエス様に従いつつ、旧約聖書の教えを熱心に守り続ける人もいました。

そんな人々の間でイエス様が旧約聖書をどのようにとらえたのかというのが今日の話です。イエス様はもう旧約聖書はいらないというその人々に、18節、旧約聖書は一文字も、一点一画も消え去ること、失われることはないと教えたのです。そして旧約聖書は変わらないということと同時に愛は形を変え続けるとも教えたのです。

今日はお読みしませんでしたが、続く21節以降を見るとそれがよくわかるでしょう。「あなた方も聞いているとおり、〇○と命じているが、しかし私は言っておく」という教えが繰り返されています。それがずっと5章の中で繰り返されるのです。今日の部分はその導入です。イエス様が言おうとしたこと、それは旧約聖書にはこう書いてあるけれど、しかし私はこれを愛として受け取りなおすということです。

旧約聖書は一点一画も失われない、でも愛は人や時によって、形を変え続けるということを語っています。

一番その特徴が出ているのは43節の敵を愛しなさいという箇所でしょう。イエス様は旧約聖書を愛の教えとして理解をしているのです。旧約聖書・律法を愛として解釈したとき、いままでとは違う新しい行動を起こすべきであると言っているのです。今まではこう聞いていたかもしれない、それは失われることはない。しかし私はいっておく、今この時、愛はこうであると言っているのです。イエス様はこのようにして旧約聖書の命令を愛として受け取り、愛の実践を語ったお方でした。

イエス様は、この時において、古代から伝わる言葉の、何が愛なのかを問い続け、答えたお方です。その「しなさい」「してはならない」中にある「点」のような愛を明らかにしたお方です。そして文章全体をこの「点」のような愛から解釈をし直したお方です。命令のことばを愛として解釈をし直したお方だったのです。

17節にはイエス様が「私は律法を廃止するために来たのではない。完成させるために来た」とあります。イエス様は旧約聖書を棄てるお方ではありません。旧約聖書を完成させるお方でした。完成させるのはイエス様の愛です。

たとえどんなに良い事をしても、どんなに律法を忠実に守ったとしても、そこに愛が無ければそれは空しい事です。ただ機械のようにルールに従って生きるだけです。しかしもし点のように小さくても、そこに愛があれば、単語と文章が完成するように、そこに意味が生まれるのです。愛が絆を作るのです。

そしてイエス様は特に、この愛の実践を大切にされたお方です。言葉だけではない愛の行動が大事だとおっしゃるお方です。20節にあるようにファリサイ派や律法学者は熱心にこの律法を実践する人でした。イエス様はその人たちを攻撃しているのではありません。その徹底的な実践に対して私たちも、それに勝るとも劣らない、愛の実践が必要だと私たちに教えているのです。

私たちも今、協力伝道の中で、教会の交わりの中で、どのような愛が実践されてきたのか、愛を受けて来たのかを思い出します。そしてこれからの時代にどのように、一人一人の間に、協力伝道の間に、愛の実践をしてゆくべきかを考えます。

今まで私たちの間には愛がありました。それと変わらない愛の示し方があるはずです。そして同時に新しい愛の示し方があるはずです。その愛は点のように小さいものかもしれないけれども。しかしその点・その愛は、無ければすべての意味が変わってしまうほど、大事なものです。その点・その愛を探し求めてゆきたいのです。そしてそれを今の私たちなりに、実践として示してゆきたいと思うのです。

私たちにはいつも協力伝道という愛に囲まれていました。教会の交わりという愛の中に確かにいるのです。その点を、その愛を大事にしながら、今この時にふさわしい愛の形をもとめてゆきたいのです。その形をイエス様に聞き続けてゆきたいのです。

1カ月協力伝道をテーマ、きっかけにして聖書を読んできました。どのようなことをお感じになったでしょうか。教会は一人ではできないことがあります。国外伝道や牧師養成は一つの教会ではできません。そして教会は相互に学びあい、励ましあう仲間です。これからも他の教会と共に歩みましょう。そして私たちは互いに祈り会うように、教会同士のことも互いに祈り、愛し合い歩みましょう。

私たち一人一人も同じです。会って大きな愛を示すことができない時にいます。昔と同じ愛を示すことができない時を迎えています。それでも互いの間にある点のような、小さいけれども確かにある、愛を大事にしましょう。形は変わることがあるかもしれませんが、今できる愛、この時にふさわしい愛を大事にしましょう。神様は小さな愛を大切にするお方です。互いに祈り、愛し合いましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「協力に招く神」マタイ4章18節~25節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。子どもたちも一緒に礼拝しているでしょうか。今はこどもや互いの声を聞くことはできませんが、共に礼拝していることを覚えながら礼拝をしましょう。

私たちは今月、協力伝道をきっかけに聖書を読んでいます。私たちの教会は全国300以上の教会と協力し、バプテスト連盟というグループを作っています。このバプテスト連盟ですが今、曲がり角を迎えています。

これまで連盟は、戦後アメリカから莫大な支援を受けてきました。その支援を基金として現在まで様々な活動を行ってきました。しかしあと数年で、その基金が枯渇する見込みとなりました。教会ごとにささげられる協力伝道献金のみで活動する、新しい体制が求められています。一方で、変化が求められているのは何もお金が無いということだけではありません。

近年の教会の状況は大きく変化してきています。多くの教会で、少子高齢化や財政の縮小などが起こり、これまでの教会の方針の転換が迫られています。さらにコロナ禍もこのような時に起こりました。今、各教会はどのような未来を目指してゆけば良いのかを必死に模索しています。

各教会が、どのような姿を目指してゆけばよいのか模索をしていますが、この問いに答えてゆくためには、自分の教会だけを見ていては答えがでないでしょう。各教会が互いの取り組みを学びあい、祈りあって、共に考え続けることによって、それぞれの教会に答えが出てゆくのでしょう。

そして連盟から送られてきた総会資料にはこのように書かれていました。「『キリストを証しする』とは『持っている者が持っていない者へ』という一方通行の証しではなく、教会自らが出て行って他者と共にキリストと出会い直し、共に福音にあずかってゆくこと」そのように書いてありました。

これからの連盟・教会は支援する側とされる側に分かれるのではないということです。連盟が教会を支援する、大きい教会が小さい教会を支援するという関係ではないということです。これから連盟・教会の姿を考える時、教会同士の相互の協力関係を築いてゆくことが大事だということです。

「支援する側とされる側が分かれてしまう」という事柄は各教会の中でも起きていることかもしれません。教会の中で、牧師と信徒の関係でサービスする側とされる側に分かれてしまうことがあるでしょうか。教会員同士で奉仕する人、される人に分かれてしまっていたかもしれません。あるいは教会と地域も支援する側とされる側に分けてしまっていたかもしれません。

 

これから私たちの教会の姿を考えてゆくうえで、ますます相互関係は大事になってくるでしょう。教会は助ける側、教える側、救う側だけにいるのではないのです。教会は地域の人々と、助け合い、互いに学びあい、祈り会う相互関係になってゆくでしょう。

私たちはこのように協力伝道から気づかされることがあります。私たちは助ける側にいるだけではないということです。私たちが救いを独占しているのではないのです。教会も助けられ、教会も共に救いを探している一人なのだということに気づかされるのです。

私たちは、共に学び、共に探す群れです。牧師と信徒が、昔からの信徒と最近信徒になった人が、教会と地域が、教会と連盟が相互に関係をしながら互いに探しあう、助け合う群れなのです。

そしてその時大事にしたいのは、小さいものからよく学ぶということです。社会で痛んでいる人々からよく学ぶということです。その人と出会い、協力し、その人から学ぶということを大切にしたいのです。そのことから私たちは福音とは何かを知ることができる、主イエスに出会うことができるのです。

神様は私たちを、そのような相互関係に招いてくださるお方です。神様は「あなたの正しさを世に知らせなさい」と言うお方ではありません。神様はあなたの弱さ、人々の弱さを、互いに知りながら、共に歩みなさいと言うお方です。そして神様は共に礼拝しなさいと招いておられます。そのように、神様は小さな私たちを相互関係、協力関係に招いてくださっているのです。小さき者との出会いに招いておられるのです。今日の聖書の個所もそのようなことが語られていると思います。

今日の聖書の個所を見てゆきましょう。今日の個所にある「人間を取る漁師にしよう」という言葉、実は私は少しこの言葉が怖いのです。この言葉はもしかすると、信者獲得の合言葉として理解されてきたかもしれません。教会が網を投げて信者を強引に獲得する姿も想像してしまいます。それはまるで、とる側、取られる側に人を分ける言葉のように聞こえます。

しかしマタイ福音書を読んでゆけばわかりますが、人を魚のように捕まえ、引き連れていくペテロ姿はどこにも見つかりません。むしろ、マタイ福音書の中で見つけるのは、主イエスにとらえ続けられるペテロの姿です。

「人間を取る漁師にする」と言われて、実はずっとペテロ自身がイエスにとらえ続けられていたのです。ペテロはイエスの愛の網から抜けようとしても、逃げることができませんでした。この言葉は拡大・成長・信徒獲得の合言葉ではありません。この言葉はイエスの「招き」を表している言葉です。

ここで現れていることはペテロの歩みが、このイエスの招きによって始まったということです。ペテロがイエスを選んだのではありません。イエスが一方的にペテロを選んだのです。ペテロの新しい人生が始まった場面、それはイエスに一方的に指名され、呼び出され、それに従ったことがスタートだったのです。

これが神様の招きです。私たち弟子のすべての始まりは招きです。神様は私たちを一方的に従いなさいと招いておられます。その招きからすべてが始まるのです。私たちの努力や決心が始まりではありません。まず初めて神の招きがあるのです。

そしてペテロは一人でイエスに従ったのではないということも見ておきたいことです。ペテロには仲間が与えられました。同じようにイエスに招かれた仲間です。ここでは3人が登場します。一人は兄弟アンデレ、さらにもう二人、イエス様は一緒に従う仲間を与えてくださるお方です。

この後、4人は共にイエスの歩みに従うことになります。共にイエスの話を聞き、共にイエスから逃げ出し、そして共に十字架を見ることになるのです。共に復活を見るのです。

一人で従ったのではありませんでした。一人で見たのではありませんでした。そして弟子たちの関係は、誰かが教え、誰かが助けるという一方的な関係ではありませんでした。

主にある相互関係がここからスタートしたのです。共に招かれた仲間、共に逃げ出した仲間、共に十字架を見た仲間、共に復活を見た仲間が与えられたのです。その主にある相互関係がここから生まれたのです。その関係は共に助け合い、共に学びあい、共に祈り会う関係でした。そのような仲間が主によって与えられたのです。

そしてそれは私たちも同じです。私たちにも主によって仲間が与えられています。主の招きによる仲間には上下はありません。する側、される側の分け隔てはありません。私たちには相互関係が与えられたのです。

イエス様に目を向けましょう。イエス様はどのように人々と関わったのかが書かれています。23節には、「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と書かれています。イエス様の活動は福音を宣べ伝えること、そして苦しみと思い煩いを持つ人々に会いにでかける活動だったのです。

それはガリラヤ中を回ったとあります。ただ待っていたのではありません。イエス様から出会いに出かけて行ったのです。困っている人が来てくださいというのではなく、どんどん出かけていったというのです。

そして人々の反応も書かれています。遠く離れた場所にまでその噂は広まりました。そして苦しみや痛みを持った人々が、互いに誘いあって、近くから遠くから、さらにイエス様の下に集まって来たのです。

これが教会の在り方ではないでしょうか。私たちはイエス様に招かれ従います。そして神様は仲間を与えられます。私たちは様々な苦しみをもった人々に出会いにでかけます。そして共にイエス様に出会い、ともに礼拝をするのです。

ここから私は教会に信者が多く与えられ、維持・成長してゆくことを読み取るのではありません。ここから私が読み取るのは、主イエス・キリストの招き、主イエス・キリストが仲間を与えられること、主イエスが苦しみのただ中に向かわれること、そしてその中からこそ礼拝する人が越されるということです。そこから福音が広がっていったのです。

私たちの連盟も、教会も、一人一人もそのようにありたいと願います。私たちは主イエスに招かれています。その招きに従いましょう。私たちには主イエスによって、仲間が与えられています。助け合い、学びあい、祈り会う仲間となってゆきましょう。私たちは福音を聞きながら、苦しむ人、患いを覚える人に出会いに行きましょう。そして癒しを共に主の前に祈りましょう。

私たちはそのような相互関係を教会の中で作りたいのです。そして他の教会ともそのような相互関係を作りたいです。そして地域ともそのような相互関係でありたいのです。お祈りいたしましょう。

 

 

【全文】「列に並ぶ神」マタイ3章13節~17節

 みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所から共に礼拝をできること、感謝です。日に日にコロナの情報が入ってきて心が休まりませんけれども、今日この短い時間ですが、共に集い、主に心を向けてゆきましょう。今日は子どもたちも集ってくれているでしょうか。私たちは子どもたちを大切にする教会です。今日は声を聞くことができませんが、共に礼拝をしましょう。

今月私たちは協力伝道という事をきっかけに福音を考えています。1回目は国外伝道について佐々木和之さんを挙げて、聖書を読みました。「和解の協力伝道」です。先週はコロナ禍の中でのオンライン礼拝や主の晩餐について各教会の取り組みから考えました。今日は協力伝道の中の「牧師養成(神学教育)」について考えてゆきたいと思います。

一人の牧師を育てることは、一つの教会では難しいことだと思います。いろいろな分野の専門知識や能力を一か所の学校に集め、教えてゆくことが必要だからです。聖書の専門家のみならず、バプテストの専門家、教会の現場の専門家、あるいはカウンセリングの専門家、パワハラ・セクハラの研修など、それぞれ専門とする教師から学ぶ必要があり、一つの教会でそれをカバーするのは不可能です。そういった意味で、神学教育・牧師養成には各個教会の協力が必要です。私たちはそれを神学校献金という形で支えています。

もちろん学びは神学校で終わるわけではありません。牧師になってからこそ、いろいろな失敗や学びがあるのです。私たちの教会が未経験で未熟な牧師を招聘するということも、真の牧師養成に参加しているといえるのではないでしょうか。私の平塚教会での経験は次の教会に活かされるでしょうし、いままでの牧師先生方もこれまでの教会の経験を豊かに活かしてきたでしょう。それが協力伝道です。

今日は私自身が神学校に入学する時のことをお話します。私は6年前に大井バプテスト教会から西南学院大学の神学部に入学をしました。私はまったく覚えていないのですが、大井教会を出発するとき、私が加藤誠先生に何と言ったか「必ずビックになって帰ってきます」と言って、教会を出たらしいのです。何年か経ってから教えてもらいました。

今思うととても恥ずかしいのですが、それは神学校入学前の私らしい言葉かもしれないと思います。私はずっとベンチャー企業に勤めていたので、日夜、成長すること、大きくなることを目指していました。もっと大きく、強くなろう、そんな思いが入学前にはあったのだと思います。実際、私の入学の時の志望動機を見直してみたのですが「キリスト教はもっと人々を導く力があって、社会でもっと評価されるべきだ。本当の価値を伝えたい」と書いてありました。ビックになろうとしていたのでしょう。

しかし神学校で教えられ、学び、気づいたのは真逆の事でした。神学校に通う間、小さいということの大切さを教わったように思います。学べば学ぶほど、知れば知るほど、小ささの中に神様の力が働くことを知りました。学べば学ぶほど、小さい命に目を向ける神様の働き、社会で小さくされている人とこそ神様が共にいることを知るようになりました。

大きくなることよりも、ビックなることよりも、小さいことを大切にしたいと思うようになりました。神様の働きはそこにあるのだと知るようになりました。大きな声を聞くよりも、小さな声を聞くこと。強さよりも弱さを大切にすることを知りました。その意味では、自分がひっくり返されるような4年間だったように思います。

きっとあのまま一つの教会にいてはできない学びをさせてもらいました。そして何より多くの体験によって福音を様々な面から見ることができました。ビックになるという目標は、小さくあり続けようという目標に変えられました。そして小さき者として、小さいことに目を向け、小さい者同士として共に歩むという目標に変えられました。それは今でも続けたい目標です。

今、コロナの時を過ごしているわけですが、その時も小さいことに目を向けたいのです。この時自分の小ささを受け止めたいのです。自分がいかに関わりに支えられていたのかを知りたいのです。また、このコロナに翻弄されて、小さくされている人々を覚えて祈りたいと思うのです。

神学校教育の大切さを私は痛感しています。そしてこれからも神学教育を支えることの大事さを感じます。そして今、これから神学校に通う献身者にもぜひ様々な学びを通じて、小さいものをたくさん見つけて欲しい、そのように願っています。

今日の聖書個所を読んでゆきたいと思いますが、今日の聖書からも、神様は小ささを大事にするお方だということを私は知ります。イエス様は大きさよりも、小ささを選んだお方でした。強さよりも、弱さを選んだお方でした。そこに共にいるお方だった。そのことを見てゆきたいのです。

 

 

今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様はバプテスマのヨハネに洗礼を受けたとあります。少し前の5節には、様々な地域から多くの人がバプテスマのヨハネの「悔い改めよ」という呼びかけに応え、洗礼を受けていました。おそらく多くの人々が集い、列になっていたでしょう。そのようにヨハネからバプテスマを受けました。

イエス様もきっとその列に並んでいたのです。他の人と同じように、悔い改める人々の列に並びました。イエス様は大きさや、強さ、威厳を持たないお方のように見えます。ヨハネの洗礼の活動を見て、悔い改める一人として洗礼を受けたように見えるのです。

イエス・キリストは神の子であるにも関わらず、悔い改めの列に並んでいるのです。私はそこに、へりくだる神の姿があると感じます。これは神がどこにいるのかをよく指し示している物語です。神は大きく、強く、勢力を拡大する場所に共にいてくださるのではありません。

神様は小さな人間たちが、悔い改めて列に並ぶその場所にいたのです。神様は私たちの悔い改めの列に一緒に並んでくださっていたのです。その長い列は大きく強くなるための列ではありませんでした。自分の小ささを知り、それを告白する人々の列でした。小さくされた人を大事にしようとする列でした。そしてそのような小さい者に、神の愛が注がれているということ信じる者の列でした。神様はそれを見逃さず、その列に共に並んでくださったのです。そこに共にいて下さる神がいます。マタイ福音書が繰り返し言う、インマヌエルの神様、我々と共にいる神がそこにおられるのです。

14節ヨハネはイエス様の申し出を何度も断っています。「私にそんな資格はありません」「私の方こそあなたからバプテスマを受けるべき者です」そう断ったのです。しかしイエス様は今、自分がバプテスマを受けるのは「正しい」といってそのバプテスマを受けたのです。

神の子であるイエス様は、自分より劣っているはずの人間からバプテスマを受けたのです。それが神の子という存在です。イエス様は自分を大きくすることよりも、小さな人々と共にいることを選んだお方だということです。

イエス様にとって「正しいこと」とは何だったのでしょうか。それは自分が力をもち、大きくなること、自分の偉大さを証明することではありませんでした。それよりも大事にしたこと、「正しい」としたこと、それは今悔い改めている小さな人々と共に、バプテスマを受けるということでした。それがイエス様にとって「正しいこと」だったのです。

イエス様のバプテスマは小さな人々と共に生きるという、たくさん方法の一つでした。15節「正しいこと」とは、小ささと共にいるということです。その一つが、このバプテスマです。力ある方、大いなる方、神様が、へりくだり、小さきものと連帯し、私たちと共に歩むという象徴がこのバプテスマです。イエス様のへりくだりと連帯がここにあります。小さき者と共にいる神、小ささを大切にする神が、ここに描かれているのです。

そして17節、神の霊もそのように歩むイエス様を「わたしの心に適う者」と言っています。

この後イエス様は宣教の旅を開始しました。しかしイエス様は大都市からその宣教を始めないのです。非効率な地方、ガリラヤから宣教を始めます。大都市にいけばすぐに信者がたくさん集まるのにと思います。神奈川県だったらまず横浜で宣伝するのが効率がよいでしょう。ビックになる近道です。でもイエス様は大都市に行くのではありません。ガリラヤという田舎町から宣教を始め、偶然出会った無学な漁師を最初の弟子にしたのです。そこにも神様の在り方が示されているでしょう。小ささと共にいるということです。

今日のイエス様がバプテスマを受けたという物語、実は後代の人々はこの個所の解釈に相当悩んでいました。なぜ力強き神の子が、それに劣る者から洗礼を受けたのか。偉大なる神にとって都合が悪いと思ったのです。でもだからこそここは大事なことが語られています。この個所はこのように、キリストがへりくだり、悔い改める小さなものと共にいたお方だということが示されているからです。

今日の物語で私たちは自分をバプテスマの列に並ぶ人々にかさねます。イエス様はその私たちの悔い改めの列に共に並んでくださるお方です。小さい者と共にいて下さるお方です。ご自分の大きさよりも、小ささを大事にするお方です。「正しいこと」それは、自分を大きな者とせず、へりくだり、小さい者、弱い者として人々と共に歩んでゆくことです。それが神様にとっての正しさなのではないでしょうか。

今この時、私たちは小さくいたいのです。コロナに振り回される弱い私、神の助けが必要な私を見つけたいのです。ピンチをチャンスに変えるのではなく、ピンチに共にいて下さる神様を見つけたいのです。

そして私たちは小さくされている人々にも目を向けたいのです。コロナに振り回される人々を祈りたいのです。

私は協力伝道の中で、神学教育の中でそれを教えられ、知りました。これからもこの協力伝道が続くことを願っています。小さき者が小さき者と共に生きる歩みが、多くの人々に起こされていくことを願っています。お祈りましょう。

 

「共にオンライン」Ⅰコリント11章17節~26節

 

 みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、礼拝できることに感謝です。互いを感じながら共に礼拝をしてゆきましょう。子どもたちも集ってくれているでしょうか。

協力伝道ということを宣教のきっかけにしてゆきたいと思います。このコロナの時、連盟の教会音楽室からは「礼拝さいこう」という冊子が発行されており、コロナ禍における礼拝について、教会の様々な取り組みが紹介されています。その中でも特にオンラインでの主の晩餐について書かれている箇所が目に留まりました。東京の花小金井教会ではオンラインの主の晩餐を行う際に、それぞれの自宅でパンとブドウジュースを用意して、共にあずかるという方法を取ったと紹介されています。

礼拝や礼典は私たちの知恵によって行われるものではありません。礼拝と礼典は神様が起こしてくださるものです。そのような中で、それぞれの教会は今、どのように主がこの礼拝・礼典を起こそうとしているのかを探し求めています。そして今、多くの教会が、神様は礼拝を、会堂だけではなく、それぞれの自宅でも起こされようとしている、そう信じ、それぞれの自宅で礼拝をしています。

今、連盟の教会同士は今まで以上に神様の起こす礼拝についてあり方を考えるようになっています。そして同時に教会同士、互いのつながりを意識し、より強く互いに祈り会うようになっています。

神様の礼拝について問い、同時に教会同士のお互いののつながりを意識するということが連盟の教会で起きています。そしてそれは私たち平塚バプテスト教会でも起きている、これからもっともっと起きて欲しいことです。

私たちの教会も毎週会堂に集まって、礼拝を持つことを大事にしてきました。しかし私たちは今オンラインで、それぞれの自宅で礼拝をしています。会うことがかなわない今はこのような形を取らざるを得ません。しょうがないと思います。

しかし、このオンライン礼拝、それぞれの場所からの礼拝もまた、私は神様の招きだと思います。たくさんの人がこの礼拝に参加しています。神様がこのオンライン礼拝、それぞれの場所からの礼拝にたくさんの人を招いてくださっていることも覚えておきたいのです。

神様は、このようなオンライン礼拝を通じて、それぞれの自宅からの礼拝を通じて、私たちと結びついてくださるお方です。そしてこの礼拝を通じて、私たち同士をもつなげて下さるお方です。

 

忘れないでいたのは、たくさんの人が神様によってこの画面の前に招かれ、礼拝しているということです。直接お互いを見ることはできませんが、たくさんの人がこの画面の前で礼拝しているのです。神様は今、そのようにして礼拝に招き、神様の側から私たちに結びついて下さり、私たちお互いを結び付けて下さるお方です。

私たちは必ず再会できるでしょう。会って安心し、喜び合うでしょう。でもその時に覚えておきたいことがあるのです。会堂に集まりさえすれば、共に礼拝できたということではないということです。会堂に一緒にいることだけで、ひとつになって礼拝できるというわけではないのです。会堂に集まったことと、真に共に礼拝をささげたということとはイコールではないということです。

集っても孤独に礼拝をするということがあるということです。集っても他者に無関心でいることがあるということです。それでは真に共に礼拝をささげたことにはならないのです。

私たちは会堂で集う礼拝でも、このオンライン礼拝でも、私たちは互いを意識し、祈り会うからこそ共に礼拝をしていることになるのです。特に今顔や姿は見えなくとも、互いを覚え、祈り会い、共に礼拝している仲間を感じて、この礼拝を頂きたいのです。

先週はオンラインで主の晩餐も持ちました。今まで集って、互いを感じながらしてきたこの主の晩餐を、それぞれの場所で行いました。一人で画面の前にいるのは特に寂しい事かもしれません。でも私たちは一人ではありません。共にその主の晩餐に招かれ、あずかったのです。

私たちは必ず再会し、礼拝し、また共に主の晩餐にあずかるでしょう。そして礼拝と同じように、主の晩餐も会堂に集まりさえすれば共にあずかれるということではありません。会堂に集い再び主の晩餐にあずかっても、孤独であること、他者に無関心でいることがあるのです。それではたとえ集ったとしても主の晩餐になりません。

私たちは神様によってそれぞれの場所での礼拝に招かれています。そして多くの仲間も神様から礼拝に招かれています。多くの仲間が神様によって主の晩餐に招かれ、それにあずかっているのです。

今日覚えておきたいことは、神様は私をこの礼拝に招いておられるということ、そして私たちは集まるにしろ、集まらないにしろ、一人で礼拝や礼典にあずかっているのではないということです。私たちはこの礼拝を共にあずかっているのだということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書の個所を見てゆきましょう。主の晩餐の個所です。今日私たちに示されいる聖書で20節は衝撃です。ここにはこうあります「それでは一緒に集まっても、主の晩餐をしたことにならない」とあるのです。一緒に集まることができない、一緒に主の晩餐をすることができない私たちにとって衝撃的なみ言葉です。

私たちは一緒に集まりさえすれば、会いさえすれば、豊かな礼拝や主の晩餐ができると今本当に思っています。しかしそうではないというのです。一緒に集まっていても、仲間争いや、お互いに無関心に集うなら、それは一緒に主の晩餐をしていることにならないというのです。

当時のコリント教会の状況でいうと、皆が一緒に食べるのではなく、勝手に食べてしまう人、他人のことを考えずに先に食べてしまう人がいたという状況でした。多くの人々は裕福な人が先に食べ、貧しい人は余り物を食べたのです。そのような集まり、主の晩餐を見てパウロは17節「集まりが良い結果ではなく、悪い結果を招いている」と言いました。なんでもかんでも集まれば良いのではないということです。

こんなに集まりたい私たちは今、聖書から集まる意味を問われます。もし教会で仲間争いするならば、あるいは主の晩餐で周りの人のことに無関心であるならば、たとえ会堂に集まってみんなそれにあずかったとしても、真に共に主の晩餐をしたことにはならないというのです。

これは私たちの主の晩餐にも問いかけています。互いにいたわり、励ましあう仲間として互いの存在を感じながら主の晩餐をできているかということです。礼拝も同じです。会堂に集いさえすれば一緒に礼拝することができたというのではないのです。真の意味で共に礼拝をするということは、互いにいたわり、励ましあう仲間として互いの存在を感じながら礼拝をするということです。

私たちは集うにしろ、集わないにしろ、互いを覚える、互いを祈る仲間になることができているだろうかということが問われます。この礼典で、この礼拝でお互いを感じることができているかが問われているのです。

これはどのような礼拝・礼典でも同じです。集う礼拝でもオンラインの礼拝でも同じです。神様はこの礼拝によって、ご自分と私たちを結び付けると共に、私たちお互いおも結び付けようとして下さっています。それが真に共に献げる礼拝です。

それぞれの場所では互いの存在はより感じづらいものです。でも私たちは共に礼拝をしているということ、このことを覚えながら礼拝してゆきたいのです。主の晩餐も共にあずかっているということを覚えながら、あずかりたいのです。

 

今日も、この画面の前に多くの人がいます。私たちは、距離が離れていても、お互いを覚えていたいのです。離れていても、心は互いとつながっていたい、私たち同士がつながっていたいと思います。お互いに祈りでつながっていたい、私たち同士が互いにオンラインでいたいのです。離れていても共に礼拝する仲間を感じて礼拝したいのです。

これが神様の招きです。神様はあなただけを礼拝に礼典に招いているのではありません。それはオンラインではそう感じてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。神様は多くの仲間をこの礼拝に招いておられます。神様は多くの仲間を主の晩餐に招いておられます。そして私たちは共にそれにあずかり、一つに結びつけられるのです。

24節には「これはあなたがたのための、私の体である」とあります。神様の体はあなた「だけ」のための体ではありません。あなた方、つまり私たちみんなの体だということです。それは画面の向こうでも、会堂に集っても同じです。私たちはどんなときも一人で礼拝するのではなく、共に礼拝し、ともに結び付けられるのです。

いま、この礼拝、一人で画面を見て寂しい思いをしている人が多くいるでしょう。でも今神様が多くの人々をこのような形で礼拝に招いてくださいました。この礼拝も大切にしましょう。

今日、この礼拝に神様が私たちみんなを招いてくださり、共に礼拝ができたことに感謝しましょう。神様は私たちとこんな風につながって下さるお方です。

そして今多くの人が、あの人もこの人も画面の前に座り、一緒に礼拝をしています。先週は一緒に主の晩餐もすることができました。飲むたびに食べる度に主イエスを一緒に思い起こすことができたのです。私もカメラに向かって話していますが、皆さんを感じながらこの礼拝をしています。

画面の前に集った私たち、それぞれの自宅で礼拝する私たちです。私たちは離れていても一つです。互いに祈り会い、励ましあう仲間となりましょう。

そしてただ単に会堂に集うことが私たちの希望ではありません。次に会堂で集う時、次に会堂で主の晩餐を持つとき、私たちはより深く主イエスを覚え、互いを覚えることができるでしょう。

神様は私たちとこのようにしてつながっていてくださいます。私たちを礼拝によって互いにつなげて下さいます。私たちは主なる神を覚え礼拝しましょう。そして主にある仲間を覚えこの礼拝をささげましょう。主にあるそれぞれの教会も覚えこの礼拝をささげましょう。お祈りをいたします。

 

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【全文】「和解の協力伝道」(マタイ2章13節~23節))

みなさん、おはようございます。今日からまたこのように、自宅で献げる礼拝となりました。会うことができない事はとても残念ですが、また再び集うことができるという希望を忘れずに集いましょう。私自身も冬休みを延期しました。楽しみにしていた予定はキャンセルとなって残念なのですが、入学以来学校にいけない学生たち、卒業式がどうなるのか不安な学生たちの気持ちがよく分かったような気がいます。持っていきどころのない思い、くやしさ、焦りがあります。その気持ち、神様に向けてゆきましょう。神様にぶつけてゆきましょう。今年も私たちはこどもを大切にする教会です。また子どもたちも見てくれているでしょうか。子どもたちの声は聞こえませんが、共に礼拝をしましょう。このような状況ですが、今月は「協力伝道」というテーマで1月の4回の宣教を行ってゆきたいと思っています。

私たちはバプテスト連盟に加盟している教会です。バプテストは各個教会主義を大事にしています。それぞれの教会が自分の教会のことを自分で決めるという、当たり前のことを大事にしています。平塚バプテスト教会は、誰からも何かを強制されたりしませんし、従わなければならないという事はありません。すべてを自分たちで考えて、祈って決めます。そのために経済的にも自立しています。よく聞かれるのですが、牧師のお給料やこの会堂の管理をどうしているのですかというと、すべて私たちの献金で賄っています。私たちはそのように自立しています。誰かからの指示ではなく、自分たちで集う礼拝を続けるかどうかを決めています。

そして自立と同時に、孤立しないように、仲間と協力をしています。一つの教会だけではできない事、解決できない問題もあるからです。協力伝道献金という形でそれぞれの教会から献金し、様々な活動に用いられています。平塚教会だけではできないことがあるから、協力をするのです。

その大きな柱は国外伝道、牧師養成、無牧教会の支援です。あるいはこのコロナ禍を乗り切る知恵の分かち合いもそうでしょうか。ひとつひとつの教会では海外に宣教師を送ることもできません。牧師に専門的な教育をすることはできませんし、牧師がいない期間や教会もあります。コロナ対策をどうするか情報共有が必要です。だから協力をしているのです。

私たちはこの時、1カ月をかけて協力伝道について、国外伝道、牧師養成、無牧教会の支援などを一つずつ考えてゆきたいと思います。今日はその中の国外伝道について考えます。

私たち日本バプテスト連盟ではカンボジア、シンガポール、インドネシアに宣教師を派遣しています。そしてルワンダには宣教師ではなく、自分で活動費を集めながら奉仕する国際ミッションボランティア(IMV)として佐々木和之さんを派遣しています。国外伝道は非常に多く資金を必要とします。年間3000万円~4000万円が国外伝道のために使われています。とても各個教会でできる働きではありません。連盟の教会が協力し合って派遣しています。ちょうど今私たちはパネル展を開催中です。「アフリカ・ルワンダで和解と平和のために働く佐々木和之パネル展」です。どうぞ食堂の展示をご覧になって帰ってください。ここには衝撃的な写真もあります。人々が折り重なって亡くなっている写真です。

ルワンダでは1995年、二つの民族の憎しみから虐殺が始まりました。100日間で80万人が犠牲になったと言われています。昨日まで隣で仲良く暮らしていた人が、突如殺しあう関係になってしまったのです。ルワンダは野蛮な人々の住む国ではありません。控えめな人々が穏やかに暮らす国です。

しかしある時期から指導者や、マスメディアの扇動、差別が始まり、虐殺に発展したのです。この虐殺の対象は、大人に限りませんでした。多くの生まれてまもない子どもたちも犠牲になったのです。

この虐殺の原因は、誰の心にもある差別や暴力への誘惑です。遠い国の人の話ではありません。差別と暴力の誘惑は誰の心の中にもあるのです。その証拠に日本人も南京大虐殺や、関東大震災の時の朝鮮人虐殺などをしています。考えるだけで暗い気持ちになります。ルワンダの虐殺は私たちの罪、私たちの暴力性を真正面から提示する事件といえるでしょう。しかし、私たちは協力伝道によって、その闇に一筋の光を見ています。それが佐々木和之さんの働きです。佐々木さんはその二つの民族、人々の和解と平和のために働いています。謝罪すること、償うこと、生活を再建すること、教育を通じた和解と平和の働きを粘り強く行っています。

 

虐殺は神の導きではありません。人間の弱さ、残酷さ、罪の結果です。しかし神様は私たちに和解してゆく力を与えてくださいました。罪を犯すままにされるのではなく、それを和解する力を神様が下さったのです。私たちはその力を協力伝道によって知るのです。佐々木さんは、人々が虐殺の悲しみ、憎しみを乗り越えて、歩めると信じ活動をしています。生き残った人々が憎しみを超えて、共に生きる道、平和の道を歩めると信じて活動しています。そしてゆっくりですが、少しずつ、現実になってきています。キリストにあるその平和の働きは虐殺後の希望となっています。この和解の出来事は、世界の裏側の出来事ではありません。私たちに和解について問いかける事柄です。私が和解を促されている人がいるだろうか。私たちの国が和解を促されている国があるだろうかということが私たちに問われています。

絶対良くならないと思う関係があるかもしれません。しかし神様は和解の力を与えてくださるお方です。私たちはそれを協力伝道、国外伝道から学んでいるのではないでしょうか。コロナで切れてしまったと思う関係があるかもしれません。しかし神様はつながり続ける力を下さるお方です。人間の罪や欠けの大きさと、それに勝る、神の和解の力を知らされてゆくのが協力伝道なのではないでしょうか。

今日の個所をご一緒に読みしましょう。聖書に書かれているのは幼児虐殺の悲しい物語です。この虐殺は決して神の導きではありません。人間ヘロデ王の残虐行為です。それが聖書の預言を実現させてしまったのです。

このヘロデは残虐な王として歴史に名を残しています。自分の脅威になる親族を片っ端から殺した王様です。妻、兄、伯父、3人の息子。自分の王の座が失われるかもしれないとなると、誰でも殺した王でした。今日の個所でも、次の王がでるという小さな噂で一つの町の2歳以下の子どもが全員殺されたのです。アルケラオスという人も出てきますが、この人もヘロデと同じように残虐だったと言われています。

彼が虐殺を行ったのは、自分をひたすら守るためです。王としての立場を守るためです。そのために邪魔な人間は誰でも殺しました。自分を脅かすものを憎しみ、自分以外の命を物のように扱い、差別しました。人々にとっては禍であったでしょう。

しかし悪者は本当に彼ヘロデだけでしょうか。私は虐殺にいたる心、憎しみや憎悪、差別にかられたときに人間がどのような行動をとるかをルワンダから学んでいます。あるいはコロナ流行で起きた差別からもそう思います。

1995年のあの虐殺の時、多くの市民が虐殺に参加しました。子どもを殺しました。あの虐殺に参加した人、全員がヘロデだったのです。日本人も同じです。南京大虐殺や、関東大震災の朝鮮人虐殺の時、すべての人がヘロデでした。人間は誰しも、ヘロデの残虐さを心に持っているのです。

実際ヘロデはこの虐殺でイエスを殺すことに失敗をしました。しかしその後、イスラエルの人々はイエスを十字架にかけて殺すことに成功しました。イエスの死は、一人の権力者だけでは起きませんでした。イエスの死、十字架は民衆の「殺せ」という扇動された声によって行われたのです。

大勢のヘロデがそこで声をあげ、イエスは殺されたのです。そして私たちも簡単にその群衆の一人、ヘロデになってしまう弱さ、差別する心を持っているのだと思います。私もいつでも、短い期間でヘロデに変わることができてしまうのです。戦争を始めてしまうのです。だからこそ、いつも主イエスから目を離さないでいたいと思うのです。

主イエス・キリストそれは、虐殺をぎりぎりのところで生き残った人、虐殺生存者・災害生存者でした。多くの悲しみを背負い生きた人でした。そして平和を訴えた人でした。ヘロデ王の支配という暗い社会に、虐殺が頻繁に起こる社会に現れた希望でした。そして暴力ではなく、平和を訴えたお方です。憎しみではなく愛を訴えたお方です。復讐ではなく和解を訴えたお方でした。豊かに満たされることを求めると同時に貧しい人にまずそれが起こるように願ったお方でした。

私たちは何とかこの希望が地上で実現してほしいと願います。虐殺はもう二度と起きてほしくないのです、十字架は一度きりで十分なのです。もう誰も犠牲にならないで欲しいと、平和を願うのです。もう二度と誰にもヘロデになってほしくないと思うのです。そして私たち自身のもヘロデになってはいけないと思うのです。

私たちが直接虐殺を直接起こすことはないかもしれません。でも私たち自身が誰かを傷つけることはあるでしょう。自分を守るために、自分の都合を優先させることがあるでしょう。何かを失うのが怖くて、相手に強く出てしまうこと、傷つけてしまうことがあるでしょう。

しかしその中に生まれてきたのが、イエス・キリストなのです。そしてキリストは神に従順にしたがうヨセフによって、その命が守られました。神の言葉を聞き続けることが、命を守ることにつながるのです。そしてイエス・キリストは生き残ったのち、和解と平和を訴えました。暴力に暴力で返すのをやめなさい、剣を捨てなさいと語ったのです。

私たちは生き残った小さな命が平和の礎となってゆくと信じます。そして十字架で犠牲になった命も平和の礎となってゆくと信じるのです。このように協力伝道は、絶対良くならないと思う関係を、和解させてくれる力がキリストにあると教えてくれます。必ずその和解の日は来る。それがすでにルワンダで始まっている、それを見て、信じたいのです。

私たちの協力伝道はキリストの業を証しするためにあります。協力伝道が私たちの罪の大きさと、その中にあるキリストの和解の力強さを証ししています。ひとりではできないことですが、共にその業を担いたいのです。このコロナも一人では乗り越えることができません。互いに励ましあい乗り越えてゆきましょう。そしてこれからもこの協力伝道に加わり続けましょう。お祈りいたします。

 

 

【全文】「神が共にいる1年」イザヤ62章1節~5節

 みなさん、あけましておめでとうございます。YouTubeで参加されている方も、あけましておめでとうございます。一年のスタートをこのように礼拝で迎えることができることをうれしく思います。私たちは今年もこどもを大切にする教会です。こどもたちもあけましておめでとうございます。

元日の朝、気持ちよく迎えているでしょうか。今年はいつものお正月とは違う、不安をもって始まるお正月です。今年も1年どうなるのかなぁと不安に思いながらスタートしています。去年できなかったあの行事、今年はできるのでしょうか。今年も集まり続けることができるでしょうか。そんな不安なスタートの元日です。

そもそも神様がいるならどうして、こんなひどい禍が起きるのでしょうか。どうしてこれをとめて下さらないのでしょうか。そもそも戦争も災害も感染症も神様は止めて下さらないのでしょうか。これを止めない神様は、どこで何を考えているのでしょうか。

そもそも私たちは運動会の前に、明日晴れにしてくださいと祈っても、雨が降ってしまう時があります。熱心に「晴れにしてください、晴れにしてください」と祈っても、やっぱり雨が降る時は降ります。コロナも「終われ、終われ」と祈っていますが、なかなか終わらないのです。

神様は黙って、この世界の混乱を見ているのでしょうか。神様は存在するのでしょうか。「だから神なんていないのよ」という声が聞こえてきそうです。神様は私たちを見捨ててしまったのでしょうか。

実は驚くことに神様の子、イエス・キリストも同じ疑問を持った人でした。イエス・キリストは神の子なのに、十字架刑で殺されてしまいました。ひどい話です。

その時イエス・キリストは言ったのです「エリ、エリ、レバサバクタニ」「わが神、わが神なぜ私を見捨てになったのですか?」。なぜ私はこのまま死んでゆかなければならないのですか。イエス様はそう問いかけながら、死んでいったのです。悲しい出来事です。

私たちも今、イエス・キリストの十字架の叫びがよくわかるかもしれません。感染予防をしても、祈っても、コロナにかかる時があります。神様は私たちが感染することを防ごうとしません。クリスチャンはコロナにかからないということはまったくありません。どんな人にも等しくコロナはやってきます。教会だけは絶対に守られるというわけではありません。信じている人も、病にかかり、死ぬのです。

しかし、聖書は語っています。イエス・キリストが一番苦しい十字架の時も、神様はイエス様と一緒にいたということです。神の子が死ぬとき、神様はそれを止めなかったけれども、神は共にいたということを聖書は語っています。イエス様の最期の時も希望がありました、神様が共にいるという希望があったのです。

十字架のイエス・キリストが「神はどこにいった」と聞いたように、今私たちも聞くでしょう。神様はどこに行った。でもそれを問う時も、神は共にいたのです。片時も離れず、イエス・キリストと共にいたのです。私たちも同じです。どんなにコロナが広がって、どんなに死が広がって、どんなに絶望が広がっても、そのさなかにも神は共にいるのです。

旧約聖書の言葉ヘブライ語ではそのことを「インマヌエル」といいます。神はわれわれともにいるという意味です。つらく、不条理なことは人生に起こります。死は必ず訪れます。でも神様はどんな時も最後の最後まで私たちと一緒にいてくれるお方だと聖書は語っています。あなたは一人ではないのです。その希望を胸にいただき、私たちは1年をスタートしたいのです。

今年もコロナに振り回される1年になるでしょう。でもその中にも神様が共にいてくださるのです。その希望をいただき1年をスタートしましょう。今日の聖書の個所も同じことを語っています。一緒にお読みしましょう。

 

実は今日の聖書の物語も再スタートをする人々の物語です。当時イスラエルは戦争で負け、町や神殿はめちゃくちゃにされ、人々は強制的に移住をさせられていました。バビロン捕囚という時代です。

そしてこのイザヤ書62章の時代では、人々がその強制移住を終えて、故郷に戻ったという場面が描かれています。数十年ぶりにイスラエル・エルサレムにかえって来た人々です。人々は再スタートをするという気持ちだったでしょうか。希望を持った再スタートだったでしょうか。でも目の前には、戦争で焼かれ、捨てられ、手が入れられずに荒廃しきっていた町が広がっています。かつてソロモン王が建てた美しい神殿も焼けてもう残っていません。

新しい生活を始める希望と共に、目の前に広がる荒れ果てた光景の前に人々は希望を見失っていました。本当にこの町、この神殿を再建し、前に進んでゆくことができるだろうか。それにどれほど大きな困難がまっているのだろうか。に尻込みし、不安な思いでいました。

そんな時代に神様の声が、預言者を通じて響いたのです。再スタートを切ろうとする人々に、不安と希望が入り混じる、それでも再スタートせざるをえない人々に、神様は語り掛けています。神様が語り掛けているのは再スタートするイスラエルの人々であり、今日から1年を再スタートする私たちに向けてです。

1節にある「わたし」とは神様の事です。神様は絶対に口を閉ざさない人だとあります。神様はどんなときにも私たちに語って下さるお方です。私たちが疑う時も、信じる時も、希望の時も、不安の時も、神様は黙っておられないお方です。神様はこの1年も、絶えず、私たちにみ言葉を与えてくれるお方だということです。そしてみ言葉によって私たちを励まし、導いてくださるお方だということです。「彼女」とはイスラエルの人々、そして私たちのことです。神様は私たちが暗く沈んで生きるのではなく、松明のように、明るく光り輝く時まで、そのみ言葉を私たちに注いでくださるお方です。その時まで、必ず共にいてみ言葉を下さるお方です。

2節の「あなた」は神様の事です。2節で語られているのは、神様の正しさを全員が見る、目で見る時が必ず来るということを示しています。今つらく、不安だけど、神様が共にいるということを具体的に感じる時が必ず訪れるということです。

3節の「あなた」は、今度は私たちのことです。私たちはやがて冠、王冠となります。冠とは、誰が王であるか、誰が一番偉いのかを示すしるしです。私たちその王冠となるのです。今、荒廃した町の前で、不安と希望を両方があるけれども、あなたたちはきっと神様を指し示すしるしに変えられるという意味です。不安に思うあなたたちが、王冠のように輝くように変えられて、神様の存在を証明するようになるということです。大きな希望が語られています。

4節の「あなた」も私たちのことです。自分は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。特にコロナにかかるならば、隔離され、強く見捨てられたと感じるでしょう。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。土地とは当時の人々にとっては人生そのものでした。土地が荒廃するすること、つまり人生がめちゃくちゃになったように思えることがあっても、神様はあなたを見捨てないと語られています。あなたはどんな状況になっても、神様から「望まれるもの」と呼ばれるのです。あなたに夫が与えられるとあります。それはつまり、あなたの人生を共に歩む方、神様が与えられるということです。神様があなたと共にいることを望んでいます。あなたがどう思うかは関係ありません。絶望しようが、神はいないと思おうが関係ありません。神があなたを求めて、一緒にいて下さるのです。一方的に一緒にいて下さるのです。

5節、それは結婚するように神様が共にいてくださるということです。神様は私たちと一緒にいてくださり、私たちの再スタートに一緒にいてくださるということです。私たちの神様は、私たちと共にいることを喜びとしてくださるということです。

このように神様は、イスラエルの人々の再スタートに共にいるお方です。そして共にいることは神様の望みであり、喜びであると語っています。

そのみ言葉と共に、イスラエルの人々は新しい生活を再スタートしました。めちゃくちゃにされた人生を、町を、信仰を、1年を再スタートさせたのです。神様に祈ってもなにも状況は変わらないかもしれません。祈って町が再建されるわけではありません。祈ったのに、神殿は壊されてしましました。

でも人々が信じたこと、それはつらい時も神様が共にいたということ。そしてこれからも様々なことがあるけれども、必ず神様が共にいるということ。それを信じたのです。神は黙っていないと信じたのです。

私たちもそれを信じてこの1年をスタートしたいのです。そこにはとても温かい希望があるのではないでしょうか。

私たちの1年はコロナに壊されて、再建し、また壊される、またそんな一年になるでしょう。でも神の言葉は決して止まりません。私たちはその神の言葉をまた今年も聞き続けましょう。

希望を失うことがあるかもしれません。神はどこにいった「エリ、エリ、レバサバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と聞きたくなる時もあるでしょうか。でも神様は必ず共にいてくださいます。この1年も神様は1年じゅう、私たちと共にいて下さるお方です。私たちと共にいることを、喜びとしてくださるお方です

激動の1年が今日からスタートしました。でも神様が共にいてくださる1年のスタートでもあります。この1年もまた、決して黙らない、決して途絶えない神様のみ言葉を聞きながら、希望を持って共に歩みましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「クリスマスの和解」マタイ2章1節~12節

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝します。子どもたちも集ってくれています。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちも共に礼拝をしましょう。子どもたちの声を聞きながら、礼拝をしましょう。

私は「佐々木和之さんを支援する会」の事務局を担当しています。現在全国でパネル展の開催を計画しておりまして、そのパネル製作を担当していますが、全国で開催する前にまず平塚教会で試し、全国に広げてゆく予定です。平日も会堂を開放して展示していますし、日曜日は食堂のスペースでパネルを掲示しています。ぜひご覧ください。

佐々木和之さんはアフリカ・ルワンダで和解と平和のために働く、バプテスト教会のメンバーです。アフリカ・ルワンダでは1995年、3カ月で80万人の死者がでる大虐殺事件が起きました。フツと言われる民族が、ツチといわれる民族の人々を襲撃したのです。それは市民が市民を襲う虐殺でした。人々に心身ともに深い傷を残しました。佐々木和之さんはそこで虐殺後の和解と平和構築のための教育をしています。

パネルでも詳しく説明していますので、ご覧ください。特に私が興味を持ったのは、サラベアナさんとタデヨさんの物語でしょう。サラベアナさんは大虐殺で自分の家族ほとんどを殺されました。そして彼女自身の顔にも大きな傷があります。大きなナタで顔を切りつけられたのです。その現場にタデヨさんもいました。直接切り付けたのではありませんが、確かに襲撃のグループの一員として現場にいたのです。

タデヨさんは裁判にかけられ、言い渡された刑を服役しました。しかしサラベアナさんに対して、ずっと直接の謝罪をせずに過ごしてきました。しかしタデヨさんは佐々木さんの活動を通じて、虐殺後15年たってようやく当時のことを直接サラベアナさんに謝罪し、償いをすることができたのです。今二人は同じ村で暮らし、助け合って、和解して生きています。時には佐々木さんの大学の講師として、和解の授業にも参加しています。ルワンダでもこのような和解はとても珍しいことです。

パネル展で紹介できなかったのはムキザちゃんという赤ちゃんの物語です。サベリアナさんとタデヨさんが和解の後、実はサベリアナさんと、タデヨさんの親せき同士が結婚するという、うれしい出来事が起きました。対立し殺し、殺されそうになった人と家族になることになったのです。とても信じられない事です。さすがにこの結婚には戸惑ったそうですが、本当に私たちは和解をしたのだからと、サベリアナさんもこの結婚を認めたのです。

最近この家に赤ちゃんが生まれました。その子の名前はムキザちゃんです。ルワンダ語で「救い主」の意味だそうです。この新しい命、赤ちゃんは二人の和解の象徴です。そして佐々木さんにとっても、これまでの和解の働きが、その希望が、命となった瞬間でした。

今ムキザちゃんの周りを、様々な人が囲んでいます。被害者と加害者、その家族、その和解に立ち会った人々が、その子どもの誕生から勇気をもらっています。世界に平和と和解を伝えようとする人々がムキザちゃんを囲んでいます。

ルワンダの佐々木和之さんの働きはこのように広がり、民族や対立を超えて、和解と平和を生み出しています。佐々木さんはこの平和構築を大学で平和学として教えています。授業では学生たちとサベリアナさんとタデヨさんを訪ねます。学生たちの中にも家族に虐殺の加害者や被害者がいます。あるいは近隣の紛争地帯から留学してきた学生もいます。

学生たちはこの二人の和解、新しい命の誕生を目のあたりにして衝撃を受けます。そして平和と和解が実現可能なのだと、その小さな命から確信を持つのです。大学卒業後、学生たちは世界に広がり、世界中で平和と和解の活動を担うようになるはずです。

これは民族や対立を超えて、小さな子どもの命を中心にする輪です。小さな子どもの命を囲んで未来の平和と和解を確信する輪です。小さな子どもの命が平和と和解の象徴となり、対立を超え、平和と和解を実現してゆくのです。

私たちの世界ではこのような殺し、殺される関係の加害者と被害者がもう一度共に生きる、家族として生きるということが起きています。私たちもこのことからたくさんのことを教えられるのです。

戦争は残酷ということ。犯した罪は刑務所に入るだけでは終わらないということ。直接その人に謝罪し、償わなければいけないということ。でもどんな状況でも和解と平和が可能であるということ。深く和解してゆくことで、平和が訪れること。新しい小さな命がそれを伝えてくれること。それを囲む人々が平和を確信すること。それはきっと私たちの人間関係にも起こること、起きてほしいことです。絶対に仲良くすることなんかできないと思う人と共に生きることができるようになる、私たちにも欲しい希望です。ルワンダからその和解と平和の希望をいただきます。

私は今日のこのクリスマス物語も同じことが起きていたのではないかと思います。博士たちの訪問は、小さな命を囲む、和解のできごとだったのではないかと思うのです。今日の個所を「クリスマスの和解」として読んでゆきたいのです。

今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。占星術の学者、博士たちは東の方から来たとあります。イスラエルから見て東と言えばバビロニアの方角にあたります。イスラエルにとってバビロニアはいつも自分たちを脅かす大国、恐ろしい存在でした。イスラエルという弱小国家は常に、自分たちから大国に貢物をし、大国の王様にひれ伏さなければならなりませんでした。彼にとって東の方の人々は脅威だったのです。

そして今回、東の方から来たのは、占星術の学者でした。ユダヤの人々にとって占星術・星占い人々とは詐欺師、ペテン師、魔術師、嘘つきと同じ分類の人でした。当時の人々は東の方からきた星占いと聞いて、何ひとつよいイメージを持たなかったでしょう。二重の負のイメージ、帝国の詐欺師、帝国の魔術師がやってきたのだと受け止めたでしょう。

しかし、聖書によると、彼らがイスラエルの多くの人々より、まず先にその誕生を知り、イエス様を探していたのです。神様は帝国の詐欺師だった彼らを、大きく光る星によって導きました。神様はまったく正反対に思える人、ふさわしくないと思える人を選び、救い主の存在を告げ、旅に招いたのです。

彼らはその子どもを、小さな国の小さな家で生まれてきた、その救い主を見つけました。そして拝み、貢物を渡したのです。これでは今までの現実とはまるで話が逆です。現実ではイスラエルが大国にひれ伏し、貢物をささげ、だまされます。それがイスラエルという弱小国家の現実です。しかしここでは大国の詐欺師が貢物をもって、小さな国の赤ん坊に会うために訪れるのです。そのような訪問はあり得ない訪問でした。東の国の占星術師の平和的な訪問などありえなかったのです。

しかしこの一人のこどもをきっかけに、対立の関係が平和の関係に変わります。その子の名はイエス、彼もまた「救い」という意味の名前です。この場面では、対立するイスラエルの人々と、東の国の占星術の学者たちが、同じ一人の赤ちゃんに目を向けています。

この訪問は対立する民族の緊張のご対面ではありませんでした。博士たちは、小さな国の小さな命を心から喜んだ、喜びがあふれたのです。それは対立とは真逆の、平和と和解がありました。共に一人の赤ちゃんを囲む喜びがあふれていたのです。

博士たちはその赤ちゃんにひれ伏したとあります。彼らがひざまずくのは王様ではありませんでした。彼らがひざまずいたのは、子どもでした。王に貢物をするのではありませんでした。子どもにプレゼントをしたのです。なんと平和な事でしょうか。

そして「ひれ伏した」という言葉、これは「礼拝をした」という言葉でもあります。ともに子どもを囲み、ともに主イエスを礼拝したということです。そこに私たちと同じ礼拝が起こったということです。赤ちゃんを囲む礼拝、小さな命が大切にされる礼拝、主イエスの礼拝が起こったのです。聖書には誕生物語だけではなく、その背後に和解と平和の物語が隠されています。

12節には博士たちは来た道とは別の道を通って帰ったとあります。これまで歩んできた道、それは対立したり、殺しあったりする道でした。しかしその平和の象徴に出会った人々は、平和の礼拝をした人々は、もうその道を通ってはゆきません。別の道を選びます。暴力の道ではない、圧迫の道ではない、平和の道を歩んでゆくのです。

私たちの礼拝もそんな体験でありたいと思います。私たちの礼拝にも様々な人が集います。仲のいい人悪い人がいるかもしれません。全然知らない人もいるかもしれません。様々なルーツを持った人がいるでしょう。でも私たちもこどもを囲み、平和の礼拝をささげる者です。この子どもたち、そしてなによりも主イエス・キリストを囲んで礼拝する者となりたいのです。

それぞれの立場を超えて、集いあうのがクリスマス、教会です。私たちは子どもを大切にする教会、幼子救い主イエス・キリストを大切にする教会です。多くの人とこのイエス・キリストを中心にして、子供を中心にして、共に生きようとする群れです。

そして私たちは毎週、この礼拝から派遣される者でもあります。私たちはこの次の週を来た道とは別の道に行かされる者です。今までの1週間とは別の態度や別の姿勢、和解と平和の道に派遣される者です。その歩みのために、主イエスは私たちの下に生まれてきてくださったのです。クリスマス、私たちに、アフリカに、世界に、和解と平和が起こるように、祈りましょう。お祈りをします。

 

 

【全文】「クリスマスの決心」マタイ1章18節~25節

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

マタイによる福音書11章20~21節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。

今年を振り返って皆さんは、どのような1年だったでしょうか。全員がコロナに振り回された1年だったわけですが、その中で一人一人がいろいろな決心・決断を迫られる1年だったのではないでしょうか。

県からは外出自粛要請、営業自粛要請、時短要請、テレワークの要請。様々な要請が出されました。要請には強制力がなく、あくまで“それぞれの決断”を促すものです。やめた方がいいが、強制ではない、自分で決めてねと言われたのです。

GOTOトラベルも各都道府県ごとに、やるかどうか決めてね。そして、おそらくこの後ワクチンを打つかどうかも自分で決めてねとなるでしょう。全部、全部、自分で決めることが求められるのです。

決定したことについて誰も責任はとれないから、自分で決めて下さいとなるのでしょう。ですから私たちは旅行に行くか、旅行をキャンセルするかみんな自分で決めました。となりの中学が修学旅行にいったけど、自分たちで考え、行かないと決断した学校もありました。誰もが正解のわからない中で、様々な決断をした1年でした。

特に医療についても多くの決断を迫られています。誰を、どのように検査し、どのような場所に入院をさせるか、あるいは自宅に待機させるのか。医療機関では、命に係わる大きな決断を、それぞれがしなければならない状況です。

教会も同じでした。大きな決断をしました。礼拝をオンラインにするという、これまでの常識では考えられない決断をしたのです。いままで教会は、集まることが何よりも大事だと教えてきました。集まらなければ信仰は継続できないのだと教えてきました。しかし突然、教会には集まらないでくださいと言うようになったのです。

礼拝で握手しないでください、礼拝で歌わないでください、親しく隣に座らないで離れて座ってください、食事をしないでください。そして集まらないでください。教会は今までとはまるで違うことを言いました。

感染がさらに拡大すれば再びそう決めるかもしれません。何が神様の示す道か、今までの常識を超えて決断する必要に迫られました。教会にとって究極ともいえる選択を迫られました。逃げることはできなかったのです。

私たちはコロナ禍の中で、祈ってそう決めました。今までの常識、いままでと言ってることは違うけれど、神はいまどのように思うかということ。命を守るということを第一に考え、決断をしました。美しい決断ではありません。ひとつひとつ、迷って迷って、迷いに迷って決断しました。決断がぶれることも何度もありました。本日の祝会も、できるかなという迷いがあり、やってみようという決断があり、やはりやめようという決断をする経緯で、中止となりました。

私たちはこれからもまだまだ決断を迫られてゆくでしょう。いままで大切にしてきたものを、続けるのか、あきらめるのか、また新しい決断が求められるでしょう。私たちはその時々、祈り、最善と思う決断を神様の下で、神様の前でするしかありません。

神様がこのコロナ禍を起こしたのではありません。神様が私たちに試練を与えるためにこのコロナを起こしたのではありません。神様は最後にはきっと良いものを私たちに準備してくれているはずです。そう信じて、待っています。

私たちは、神の前で祈り、それまでの常識を超えて、決断しました。誰かが決めてくれたら楽でしたが、そうしませんでした。これからも自分で決断することが続くでしょう。そして決断するということは教会も、そして一人一人の人生でも起こります。私たちはこれからも、様々なことを祈って自分で決断してゆかなければならないでしょう。

コロナ禍であっても、そうでなくてもそれは同じです。人生の中で決断が迫られるときがあります。その時私たちは、神様に祈って決断をしたいのです。必ずこの先に神様が良いものを準備してくださっていると信じて、決断をしたいのです。

今日の聖書個所で私たちは難しい決断の前に置かれた一人の人を見つけます。彼は神に祈り、良いものを確信し、決断しました。そしてそこにはイエス・キリストという希望が与えられたのです。祈って決める、そしてそこに必ず良いものが与えられます。今日、このクリスマス、その希望を皆さんと確認したいのです。

今日の聖書の個所をお読みしましょう。クリスマスに聖書の中で注目をされるのは、マリアや羊飼いや、博士です。しかし今日の個所はヨセフが描かれています。今日私たちが目を留めるのは、私たちと同じように難しい決断を迫られたヨセフです。彼は婚約者が妊娠をしたのです。まだ夫婦としての関係を持つ前に、妻が妊娠をし、迷い、決断するヨセフが描かれています。

婚約者が他の人の子を妊娠した場合、当時の律法では、当時の常識では、いえ現代にあっても、その婚約を破棄するのが常識でした。彼は当時の常識に従って、19節「縁を切ろうと決心した」のです。

しかしある夜、彼に天使が現れ21節「聖霊によって妊娠したのだから、迎え入れ、そしてイエスと名付けなさい」と告げるのです。そして24節ヨセフは目が覚めて言われたとおりにしたとあります。

私はこの二度目の決心、目覚めてから、すぐに決心が起こったのか、本当はもっとこの決心に時間がかかったのではないかと思っています。この常識を超えた決心を夢で見て、目覚めてすぐできるとは思えません。

この結婚は家族や親戚も猛反対をしたでしょう。神様がもし本当に、マリアを妊娠させたのだとしても、あと数か月、結婚まで待ってくれれば、何の問題もない事でした。でも聖霊は、結婚待ちませんでした。もっとも都合の悪いタイミングでそれが起こり、突然に決断が迫られたのです。

婚約者を迎え入れるとは不倫の可能性がある人と結婚をするということです。その子どもを名付けるとは、その子を自分の子どもであると認知し、名付け親、育ての親となるということを示します。彼は大いに悩んだのです。彼はそこで祈ったでしょう。そして彼には常識を超えた、驚くべき決心が、決断が与えられたのです。それは聖霊の言うままに、受け入れる、名付ける、この子の親になるということでした。離縁の決心を変えたのです。

男性目線と言われるかもしれませんが、ヨセフはマリアとは状況が違います。マリアは自らが妊娠をするということを告げられるのです。「この身になりますように」と彼女の受け入れる信仰は実に素晴らしいものです。マリアの妊娠は神様の業です。それから逃れることも、何も決心することもありません。それを受け入れることが求められました。

しかし、ヨセフに求められたことは、マリアに求められたこととは違います。彼はマリアを受け入れない事も、殺すことも、自分が逃げ出すこともできたのです。逃げ道や別の方法は無数にあったのです。その中で神様はヨセフに選ばせようとしています。彼に迎え入れ、名付けるということを選ばせようとしているのです。彼は大いに迷いました。何日も迷いました。神様の前に決断を迫られ、ある時ようやく決断ができたのでしょう。

その決心はぶれています。一度は離縁しようと決心しましたが、二度目の決心は受け入れ、親になるということを決心したのです。常識を超えた決断をしたのです。

私はこのヨセフ、素晴らしい決断ができた人として見るだけではなく、彼がきっとこの決断に相当の迷いを持ったのではないかと想像します。今さまざまな決断を迷いながら選ぶ私はそのように感じます。

受け入れがい事実、逃げ出したくなるような事実、一度決めたこと、今まで常識だったこと、それを神様の前に問われたのです。そしてヨセフは神様の前で、神の示すままの決断をしました。受け入れ、親となる決断をしたのです。迷いながらも祈って決めたと言えるでしょう。

もし彼が神なしに決断したとしたら、常識や憶測や自分の都合に基づいて決断したとしたら、最初の決心の通りでした。マリアは生きていたのか、イエスは生まれていたのかもわかりません。キリストは生まれなかったかもしれないのです。彼の祈り、迷い、決断がこの誕生の背景にはあるのです。

私たちにも日々、何かを決めることが迫られています。このコロナの時、特に多くの機会でそれを迫られています。しかもヨセフのように、こうしなさいとは神様の声がはっきり聞こえることは少ないものです。

それでも私たち一人一人は、教会は神様の声を聞いて決断をしたいのです。祈って決断したいのです。私たちの都合・希望・常識で決断するのではありません。何が神が示す道なのかを考え、祈って決めたいのです。聖書を読んで決めたいのです。礼拝して決めたいのです。誰かに決めてもらうのは楽だけど神様の前で自分で決めたいのです。時にそれは常識を超える決断となるでしょう。

でも私たちはその先に必ず良いものが生まれると信じて決断をします。イエス・キリストの誕生がこのヨセフの決断の先にあったように、私たちが迷い、祈り、決心することの先に神様の大きな希望が必ずあるということを信じて歩みたいのです。

そして聖書は神への祈りなしに決める時、ヨセフの一度目の決心も描いています。神なしの決心は命が奪われる決心です。関係が奪われる決心です。その決心は変えていいのです。一晩で変えていいのです。神様に新しいことが示されたら、すぐに変わっていいのです。

コロナはしばらく続きます。もうしばらく一人一人が決断を迫られるでしょう。日々の決断、そして信仰の決断も迫られるでしょう。その決心をこれからも祈って決めてゆきましょう。その先に希望があると信じて決心しましょう。今までの常識とは違う決断を、神様の前に祈って、神の導きがあることを信じて、希望をもって決めてゆきましょう。

イエス・キリストの誕生が待っています。私たちが神様の前でする決断は必ず希望につながってと信じて歩みだしましょう。お祈りします。 

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【全文】「神を共に待つ」マタイ11章2節~19節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。YouTubeで共に礼拝しておられる方も歓迎します。そして何より、今日は転入会の信仰告白の時を持ちました。今日こうして新しい信仰の友が与えられることに感謝をします。

先ほどの信仰告白には『私は神様を信じているのだろうかと気持ちがぐらつき、神様の前から逃げてしまおうかと思った』そんな時、平塚教会を知り『あまりにも自然に、信仰を行動で示されるみなさんの姿を目のあたりにしてから、そのようなことは脇に置いてもいいと思いました。まずみ言葉を聞きたい、そしてみなさんの行いに加わらせていただきたい』と思ったと、告白がされました。

自分の信仰のぐらつきを脇において、平塚教会の神様のための働きに加わろうと思っているという告白を聞いてどのように皆さんは感じたでしょうか。私がこの信仰告白を受けて感じるのは、私もまったく同じだということです。

実は私も信仰がぐらついている者の一人です。神様なんてこの世界にいるのかと問いたくなることが山ほどあります。聖書を読んでちっとも意味が分からない時があります。信じようと強く思えば思うほど、自分がそうできない弱い人間で、ちっとも良い人間でないことを知るのです。

でもそんな時、ここに集い礼拝することで何かが変わるときがあります。私の信仰のぐらつき、心の内側のぐらつきはいったん脇に置いて、集ってみるとき、共に礼拝する時間を持つとき、新しい道が開けることがあります。疑いながらでも、共にいる時間を持つということ、何かを一緒に取り組んでみるということは大事なことかもしれません。

自分は何を信じるのか、深く考えることも大事です。でもきっと考えているだけでは答えはでないでしょう。一緒に集ってみて、手を動かして、一緒にこの礼拝に参加してみて、一緒に祈ってみて、一緒に歌ってみて、一緒に神様の行いに加わってみて、実感できること、わかることがあるのではないでしょうか。

その点で教会は「信じている人の集まり」というよりかは、教会は「信じてなくてもいいから、まず集まってみてください」という集まり、それで良いのではないかと感じます。

信仰のことを仰々しく考えずに、まず集まってみる、参加してみるというのはどうでしょうか。一緒にご飯食べてってください。一緒にクリスマスを祝ってみてください。一緒に礼拝に参加してみてください。

私たちは外側から見ると、熱心に信じている者の集まりに見えるかもしれませんが、実はみんな確固たる信仰を持っているわけではないのです。実はみんな信仰が揺さぶられ、失敗が続き。立派に見えるあの人も、家庭では実は・・・。という人ばかりです。

一人一人集いながらも、迷いや悩みがあるものです。でもその中でも共に集まり、時間を過ごし、痛みや弱さを持ったお互いと共に過ごすことが、私たちは新しい一歩につながっています。この転入会を本当に歓迎します。そして他にも新たにこの弱き者たちの輪に入って、共に集ってくださる方、励ましあって下さる方を探しています。

私たちは今、「待つ」ということをテーマにアドベント・待降節をもっています。クリスマスまでの4週間を、イエス様を心に招く時として持っています。私たちは主イエス・キリストをじっと座って待つ、寝て待つのではなく、共に集まりながら待ちたい、集えることを喜びたいと今日、思うのです。

一人一人がそれぞれに待つのではなく、一緒に待つのです。一緒に祈りながら待ちましょう。共に礼拝に集いながら待ちましょう。励ましあいながら待ちましょう。アドベント、そのように一緒に待ちたいのです。共に祈って待ちたい、共に集って待ちたい、そして共に何かをしながら待ちたいのです。私たちはコロナで集まる喜び、共にいる喜びを知ったのです。

私は今日の個所もこのような場面だと私は思います。一人で待つのは寂しいものです。一人でいるなら信仰が揺れてしまうものです。でもイエスに従うという歩み、そして共に従うという歩み、共にその方を待つという歩みを聖書は語っています。今日の個所を共に見てゆきましょう。

 

 

今日はバプテスマのヨハネが登場します。彼は今、牢獄に捕らわれ、孤独の中にいます。捕らえられているのは、彼が王の結婚に反対をしたからだと言われています。このようにバプテスマのヨハネは権力者に対しても、臆することなく批判をした預言者です。

そしてこのバプテスマのヨハネはイエスをキリストだと早くから見抜いた人でもありました。イエスをキリスト・救い主と信じた人、一番はじめにそれを公にした人でもありました。

しかし今日の個所、彼の孤独が彼に疑いを起こしたのでしょうか。3節「あなたが待つべき方でしょうか」と尋ねるのです。なぜかわざわざ牢獄から遣いを送ってまで自分の弟子に問わせるのです。その問いには疑いがにじみ出ます。

この問いをいろいろなニュアンスで受け取ることができますが、きっと牢獄という孤独の中で自分の信じていることが揺らいできてしまったのでしょうか。もう一度確認をしたくなる衝動が抑えきれなかったのかもしれません。わざわざ弟子を遣わしてまで確認をしようとしたのです。

どんなに強い信仰を持つ人も、その信仰は揺れるものです。一人ならなおさらです。バプテスマのヨハネもそうだったでしょう。本当にあなたでいいんですよねと聞きたくなるのです。信じていても、一人でいるならそれは揺らぎます。牢にとらわれた孤独な状態の中で強い疑いがヨハネを襲い、そしてそれよりさらに強い確信が欲しいと彼は願って弟子たちを送ったのです。

これを彼の不信仰の問い、疑いの問いとは思いません。イエスがキリストであるか確認すること、問いかけること、心配になることの何が悪いのでしょうか。今怖くて信じることができない、でも今それを超えて、信じたいという願いが、この問いには含まれています。

バプテスマのヨハネの信仰は揺らぎました。しかしヨハネはこの方が希望だと信じ続けようとています。だからこそ3節「私はあなたを待っています。それでよいのですか」と尋ねたのです。

これに対してイエス様の答えはあいまいです。〇か×かで答えてはくれません。イエス様は「見よ、聞け、それを伝えよ」としか教えてくれません。もっと信じたいと熱心に思うヨハネに、ちっとも説明・説得をしてはくれないのです。

イエス様はただ「働きから証明される」とおっしゃいます。その働きの一つは癒しです。本当に目が治ったのか、足が治ったのか、信じれば病気は治るのか、あるいは熱心に祈れば死んだ人が本当に生き返るのかということ私にはわかりません。そんなことは起こらないとも言いませんし、祈れば必ず病は治りますとも言いません。

しかしここで確かにはっきりと言えるのは、イエス・キリストが目の見えない人を集め共にいたという事です。耳の聞こえない人を集め共にいた事です。死んでしまった人とも共にいたことです。そのことは確かなことです。そして一番最後に挙げられているのは、貧しい人々と共にいたことです。

イエス様は言います。「この姿を見て信じなさい」と。それは説明や言葉よりも人々と「共にいる姿」を見なさいということです。私がどうしてキリストであるか、救い主であるかということは、苦しみ、悲しみ、痛む人と共にいる姿からそれを信じなさいというのです。共に過ごす背中を見て信じろとでもいうことでしょうか。

そしてイエス様は言います、6節「幸いだ、私に躓かない人は」と。イエス様は「私に躓く人は不幸だ」とは言いません。「私を信じない人は不幸になる」「地獄に落ちる」とは決して言いません。もし「この共にいる姿を見て、信じることができれば、それはとても幸せなことだよ」と言っているのです。もしイエス・キリストの活動を見て、イエス・キリストが人々と共にいる姿を見て、そこから神様を信じることができたら、なんと幸せなことだろうかと言うのです。

私たちもそれを大事にしたいことです。信仰の説明・説得をします。説教では美しい言葉を並べます。でもそれだけではなく、私たちが共にいる姿から信じることも幸いなことです。

私たち自身が集まることに支えられているように、集まることでイエス様を伝えてゆけたらと思うのです。イエス・キリストがどれだけすごい人か、説得や説明も大切です。でも私たちが共にいる姿、共に礼拝する姿によって伝わる信仰があると思うのです。

痛みを持ったお互いと共にいる、困っている仲間と共にいる、そしてそのために共に働くということ、そのことから人々に信仰が起こされていくということです。

平塚バプテスト教会は特にこれを今まで大切にしてきたでしょう。あの教会はなんだか困っている人に対していろいろやっている教会だ、その姿からこの教会を知って下さっている人がたくさんいるのです。

もしかしたら私たち一人一人、それぞれの信仰は葦のように、風に揺られ今にも折れそうなほど弱いものかもしれません。しかしその中でも私たちは共にいるという幸いがあります。共にいることで確かな信仰とされてゆくのです。

私たちは待つ季節を頂いています。イエス・キリストを待つ季節をいただています。本当にあなたを信じて良いのかと揺れる時を頂いています。信仰が風に揺られるときがあります。そんな時、主イエスは共にいる姿によって信じなさいと言います。私たちは共に集えることを喜び、この時を待ちましょう。そこにイエス様への新しい信仰が生まれてくるのです。お祈りをいたしましょう。

 

【全文】「泡沫候補のキリスト」マタイ13章53節~58節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝を共にできること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしてゆきましょう。

今日はアドベント・待降節の第2週です。2本目のろうそくに火をつけました。4本目の火がつく日を待っています。イエス様の誕生を待ち望む4週間をいただいています。今日はその2回目の礼拝です。共に聖書を読んでゆきましょう。

今日はイエス様の生まれ故郷、生まれた場所の話です。ナザレの話です。イエス様の地元での出来事を記されています。

地元から有名人が出るというのは大変誇らしいことです。平塚出身の有名人をご存じでしょうか。山瀬まみあるいはキンプリの高橋さんが平塚出身だそうです。そして、もしかしたら平塚から総理大臣もでるかもしれません。総理大臣にしたいランキング第3位に平塚市出身の河野太郎さんが挙げられていました。ちなみに彼は今はありませんが、平塚YWCA幼稚園卒業だそうです。もしかしたら、この教会の紫苑幼稚園に入っていたかもしれません。

平塚から総理大臣がでたらどんな気分になるのでしょうか。失言があったり、失敗があったり、いい加減な答弁をしたら恥ずかしい思いをするでしょうが、なんとなく誇らしい気持ちもします。応援したい気持ちも出てくるかもしれません。地元平塚では多くの人がそれを歓迎するでしょう。

私たちは彼が日本を代表する政治家の家柄だということも知っています。おじいちゃんの代から国会議員で、様々な大臣を歴任し、メディアの注目度も高い政治家です。自民党にしては少し型破りなところが、第三位、総理大臣にふさわしいと言われる理由かもしれません。

一方、平塚はずっと河野一族の地盤で、それ以外の国会議員はほとんどいません。河野太郎に本当に対抗する候補者は平塚から長らく出ていません。選挙の無風地帯、つまりほとんど戦いが起こらない選挙が行われている地域と言われています。そんな場所で立候補してもどうせ負けるに違いありません。それでも立候補する議員のことを世間では「泡沫候補(ほうまつこうほ)」と呼びます。とても差別的な呼び方です。負けて泡のように消える人という意味です。

今まで平塚は何十年間そうでした。負けるとわかっている選挙に出る人はほとんどいませんでした。家柄があって、有名人で、次期総理大臣候補とは誰も戦いません。もし私が河野太郎に対抗して選挙に衆議院選挙に立候補したらどうでしょうか。家族・親戚・教会のみなさんは猛反対するでしょう。まず絶対負けるし、家族の恥、教会の恥だからやめろと言われます。子どもからはパパ恥ずかしいからやめてと言われるでしょう。河野さんの対抗馬になれば、地元の人も急に冷たくなるかもしれません。間違えなく「泡沫(ほうまつ)候補」でしょう。

どんなに強い思い、やる気、しっかりとした政策があっても、それは関係ありません。知名度や家柄で圧倒的に負けてしまうのが「泡沫候補」です。その人は落選し、笑われ、恥をかくことになるでしょう。

しかし今日の個所、実はイエス様もそれによく似た状況だったのではないかと思います。イエス様も泡沫候補の一人だったのではないかと思います。人々は確かに救い主を待っていました。何百年も待っていました。その間繰り返し自分が救い主キリストだという人が現れました。しかしどの人もキリストではありませんでした。私がキリストだと言う泡沫候補が現れる度に、みんなそれを笑い、それを拒否しました。

イエス様の時も同様です。「イエス、お前が救い主のはずがないだろ。そういう人は、もっとちゃんとした一族から、学歴のある人とか、祭司の家系から出てくるもんだよ。こんな貧しい小さな村のナザレから、出るわけがないでしょ」と諭されたでしょう。

しかし確かに救い主イエス・キリストはこの小さな村で生まれ、育ったのです。そのことの意味を今日は知りたいのです。それは神の子が、こんな場所に神の子は生まれないとみんなが思う場所にこそ生まれたということです。汚い、狭い、小さい場所に、神はいないと思う場所に生まれたということを示しています。今日はそのことを聖書から読んでゆきましょう。

今日の聖書の個所をお読みしましょう。今日の個所ではナザレに戻ってきたイエス様の姿が描かれています。イエス様の活動を家族や地元の人はどう思ったのでしょうか。人々はイエス様を誇らしく迎えたのではありませんでした。

54節「人々は教えを聞いて驚いた」とありますが、素晴らしさに驚くということではありません。もっと否定的なニュアンスです。何をこいつは教えているのだ、まったくという驚きです。

地元から有名人が誕生したという誇り、喜びすらありません。まさしく泡沫候補としての扱いを受けています。お前なんかが救い主なわけがないだろ。お前なんかがそれになれるわけがないだろうと評価されています。54節続きには「だってお前は近所の大工の息子だろ。小さい頃は汚い格好で、そこら辺を鼻垂らして歩いてただろ。きょうだいと一緒にバカ騒ぎしてただろ。そんなお前が救い主、キリストなわけがないだろう」そう言われたのです。

まさしく「泡沫候補」です。金持ちの子どもでも町一番のこどもでもなかったキリスト候補者です。貧乏で学歴も実績も家柄もないキリスト候補者です。家族にとってみれば恥です。誰にも相手にされない馬鹿なことを言い出す人が身内から生まれてしまったのです。人々は56節「どこからこんなことを知ったのか」とその由来を聞いています。こんな小さな町ナザレで生まれ育ったイエスがどこでそれを知ったのかと疑問に思ったのです。

おそらくイエス様の活動を最も評価しなかったのは、このナザレの町の人々です。今までの自分の見てきたこと、聞いてきたことから判断すれば、誰に目にもイエスが神の子ではないことが明確でした。それは無理のないことかもしれません。身内にそういう人がいたら信じるどころか、迷惑だろうなと同情します。

同情する一方で、ナザレの人々のその判断に疑問も残ります。彼らはイエスが神の子であるという可能性をまったく考えなかったのです。どう考えても自分たちの判断が正しいと自信を持っていたのです。激しく憤るほどに、自分たちが正しいと思ったのです。こんな汚い村から、こんな小さな家から、世界を救う神の子が生まれるわけが無い、イエス様の話を聞いてなおそのように判断したのです。

「しかし」です。「しかし」まさしくここに神様の在り方が現れています。それがキリスト、神の子だったのです。神の子は、人々の想像もできない場所から現れたのです。まずもってお前はちがうだろうと思う、そこに神がいます。まずもってこのような場所には神の子は生まれない、そう皆が認める場所に、神の子はお生まれになったのです。

神の子は人々がここに生まれたら誰もが神の子だと信じる、そのような場所、そのような家柄を選んで生まれたのではありません。とても受け入れることができない、場所に受け入れがたい方法で現れたのが神です。そしてキリストはそのナザレをふるさととして下さったのです。それは偶然、ナザレだったのではありません。それが聖書の神様の選び方なのです。

神様は私たちの常識では考えられない場所から現れるお方です。神様は私たちの想像を超える場所から現れるお方です。それがイエス・キリストの誕生ということです。小さな民族の、小さな村ナザレの、小さな大工の家に、偉大な神の子が生まれるのが神の選びなのです。

そしてキリストは特別な存在ではなく、一人の人間として、小さいころを、ナザレの町の人々と共に生きたのです。ふつうの子どもとしてその村で生きたのです。そのような神の子の現れ方は全く想像を超えます。ナザレの人々はそのようなことはあるはずがない、そう常識的な判断をしたのです。

イエス・キリストとはこのように私たちの常識を超えて現れるお方です。そしてまた時代を超えて、私たちにも現れ、共にあろうとしてくださるお方です。イエス様が生まれ、住まわれる場所、それは小さな私の中です。取るに足らない私に、神様は現れて下さるお方です。

罪深く、不完全な私の中こそ、神様は現れて下さいます。共にいるといってくださいます。神を受け入れることのできない私に現れて下さるのです。すばらしい人格を持ったあの人にこそ神様は現れるに違いないと思うでしょう。でもそれは神様の選び方ではありません。この不完全な私に、不完全なあなたに神は現れて下さるのです。

神様はこの不完全な私たちをふるさととしてくださいます。私たちは、この待降節・アドベントでそれを待ち望みたいのです。こんな私たちに神様が来て下るのを待ちたいのです。イエス様どうぞ、私の心に来てくださいと、この時を待ち望みたいのです。あなたを私の心にお迎えする準備、それは全くできていません。いつまでたっても狭くて、汚くて、小さい私です。とてもあなたをお呼びできる美しい心ではありません。あなたをお呼びするなどきっとできない、私はあなたの前でも泡沫候補です。

でも神様は、そんな場所こそを選ばれるお方だと今日の個所は語っています。あなたを招けず、受け入れられず、自分の常識でしか測れない、落選確実の泡沫候補の私にこそ、神様は現れて下さいます。そして主イエスも泡沫候補でした。泡沫候補であるキリストが泡沫候補である私に現れて下さったのです。

それが起きる時は本当にうれしいことでしょう。みんなで万歳をする喜びでしょう。その時こそ、うれしいクリスマスとなるでしょう。共にその時を待ち望みましょう。神様は私たちが絶対にここに神はいない、私にはあなたを迎える準備などできていない、そう思う場所に生まれ、住んで下さるお方です。小さな場所を選んで来てくださるお方です。私たちと共に生きて下さるお方です。この方をお待ちしましょう。お祈りします。

 

【全文】「神は待たせる」マタイ24章36節~44節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることをうれしく思います。子どもたちも共に礼拝をしています。私たちは子どもを大切にする教会です。日々成長する子どもたちを感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

またコロナウイルスが再流行の兆しを見せています。寒くなってきましたが、礼拝前後の換気にご協力ください。どうぞ温かい格好でお越しください。もし体調がすぐれない場合は、無理なさらずにご自宅で礼拝をささげて下さい。ライブ配信をしています。

今日はこの後、クリスマスの飾り付けを行います。飾り付けは見るのもそうですが、飾り付けが面白いものです。クリスマスが近づいてきていることを一番実感できるタイミングでしょう。

今日から教会はアドベントに入ります。日本語ではこのアドベントを「待降節」と呼びます。イエス様が天から地上に「降」りて生まれるそのことを「待」つ季「節」です。イエス・キリストの誕生日を待ち望む4週間を持ちます。今年のアドベントは「待つ」ということをテーマに見てゆきたいと思っています。

アドベントという言葉はよく、アドベンチャーと同じ語源だと言われます。今年は本当にアドベンチャーがない1年だったと思います。待ってばかりの1年だったと感じます。私たちは今年、とにかく待たされた1年でした。

いろいろな行事の準備をしていましたがコロナの影響で、ぎりぎりまで検討し、延期・中止・縮小を決定しました。バザーや集会がなかったことを残念に思います。

教会の行事ならまだしも多くの人々は人生において待つことを強いられました。学生は学校の授業開始を待たされました。修学旅行も待たされました。就職も待たされました。結婚式も待て。病院に行くのも待て。手術も待て。待て待て待て待て待て待て。家で待たされるばかりの1年でした。人々はもうこれ以上待つのに飽き飽きしています。日本語では待降節と書きますが、また待つのですか。私たちはもう十分に待ったでしょう。

待ってばかりの中でしたが、待ってくれないものがあることも知りました。コロナの中でも子どもたちの成長は待ってくれません。少し集わないうちにどんどん大きくなってゆきました。おなかの赤ちゃんの成長も、妊婦の出産も待ってくれません。人の死も待ってはくれません。命の事については私たちがコントールできないスピードで進んでゆきます。命の事で焦ったり、無理したりしてはダメなのだと教えられました。

命の始まり、その成長、命の終わりは、コロナの中でも待ってくれたり、早くなったりはしません。コロナよりももっと大きな力がそこに働き、そのスピードと時が決まるのです。でも必ず来るその時を待つことが大事なのでしょう。

待たされて気づくことが多くありました。私たちはもともと急ぎすぎていたかもしれません。忙しすぎたかもしれません。私たちは待たされて、日常の大切さを知りました。近所の風景が違って見えるという体験をしました。

そして待たされて、礼拝の大事さも知ったでしょう。オンラインでもできるけど、教会に来る事自体に大切な意味があるということを知ったのです。心だけではなく身体が集まる喜びを改めて知ったのです。そして礼拝以外をやめて、礼拝が教会の中心であることをもう一度知りました。その点では待つことも悪くなかったと思う私たちです。

少しずつ行事は再開しているものがありますが、私たちには新しい気づきがあります。私たちはただ単に元に戻る希望ではなく、新しい希望が来ることを待ちたいと思います。以前に戻ることではなく、以前よりももっと大きな新しい希望を期待して、もうしばらくの間待ちたいのです。

それはただじっと座って待つのとは違うでしょう。希望に向けて祈って待つということです。赤ちゃんの誕生を祈って待つように、病床で死を迎える人を祈りながら送るように、祈ってその時を待ちたいのです。

この「待降節」、待つことにあきあきした私たちに、神様はもう一度待つように語っています。コロナ禍で私たちは様々なことを「待つ」経験をしました。このアドベント・待降節もイエス様がクリスマスにもう一度私たちの心に来てくださるように、待つ時です。アドベント・待降節の4週間、一緒に祈って、待ち続けましょう。主イエスがもう一度私たちの心に来てくださるように、祈って待ちましょう。

 

今日の個所の個所をお読みしましょう。今日は祈りながら待つことがテーマです。神様は私たちを待たせるお方です。今日の個所ではイエス様が再び来られる日をどのように待つべきかということが語られています。再びイエスが地上に現れることを、再臨と言います。最後の時にイエス様がもう一度地上に現れるということが起こります。

 

イエス様がいつ来られるのか、その日付は誰にもわかりません。それは神様が決める時だからです。神様の事柄を、そのタイミングを私たちは決めたり、ずらしたりすることができません。生まれる日、死ぬ日、成長のスピードは私たちが決めることができないのです。ただ私たちに知らされているのは、イエス様は必ず来るという確かさだけです。必ず来る、だから私たちはその日まで待つしかないのです。

いつ来るかわからない事のたとえとして聖書はノアの箱舟の話を引用しています。38節、ノアの箱舟に乗らなかった人々は、飲食を共にしたり、結婚式のような大規模集会を開いたり、普段と変わらない生活を過ごしていました。そんなあるとき突然、大洪水の禍が起きて、初めて自分が決められない時があるということを彼らは知ったのです。

その禍は生活を共にした人の命を奪いました。40節、臼を引く女性の一人を、畑で働く人の一人の命を奪いました。43節の泥棒も同じです。いつ来るかわかりません。洪水も、泥棒も、そしてコロナもいつ来るかわからない、いつ終わるかもわからないものです。突然日常に起こされて、私たちの生活はそれによって大きく変えられてしまうのです。

悲しみ、苦しみ、感染症は突然私たちを襲います。コロナは神が私たちに与えた試練だとは私は思いません。しかし神様の起こすことは、それと同じくらい突然に起こるのだと聖書は語ります。私たちには予測することも、決めることもできないタイミングで、神様の出来事は起こされるのです。その中で私たちにできることは、ただ神様の時を待つことしかありません。神様がいつか私たちの下に来るはず、確かに来ると信じ、待つことしかできないのです。私たちにはその時を動かす力はありません。待つしかないのです。しかしその中で、今日イエス様は私たちに待ち方を教えています。待つことしかできないけれど、待ち方があるというのです。

42節には「目を覚ましていなさい」とあります。私たちは眠らないで待っていることはできません。礼拝でも眠ってしまいますから。眠らない事はできません。イエス様は眠らないで待てと言っているのではありません。実はイエス様は別の個所でも「目を覚ましていなさい」と言って待つことを教えています。それはゲッセマネでの出来事です。

イエス様はマタイ26章38節ゲッセマネでご自分が祈っている間、弟子たちに「目を覚ましているように」と言いました。しかし弟子たちは本当に眠ってしまい、再び来られたイエス様はもう一度弟子たちに言います。今度は26章41節「目を覚まして祈っていなさい」、そう言ったのです。

実はこの言葉はイエス様が弟子に直接語った最後の言葉でもあります。イエス様が行ったり来たりしながら、弟子に眠らずに目を覚ましていなさ言うという場面は今日の場面とどこか似ています。イエス様が伝えようとしていることはこのことでしょう。目を覚まして待ちなさいとは、祈って待ちなさいという意味です。

イエス様は私たちに、神の時は動かすことはできない、でもだからといってただ座って待つのではなく、祈って待ちなさいと教えられているのです。祈って神様の時が、神様の業が起こるのを待ちなさいと言っているのです。そしてもちろん「目を覚ましていなさい」とはこの後の困難をよく見て起きないという意味も含むでしょう。苦難を、十字架を、復活をよく見るようにとの言葉です。

今日の個所「目を覚ましていなさい」とは、私たちにはその時がいつかはわからないけれども、祈りながら待ちなさいという意味です。私たちも目を覚ましていましょう。

私たちは食べたり飲んだりするだけではなく、祈って待ちましょう。私たちはコロナの終息を寝て待つ、ただ座って待つのではなく、祈って待ちましょう。そして私たちはクリスマスを祈って待ちましょう。ただ待つ、寝て待つのではく、祈ってクリスマスを待ちましょう。クリスマスは神様が私たちにイエス様を送って下さったことを喜ぶときです。

神様はすでにイエス・キリストを私たちに送って下さいました。それはすでに起こされています。しかし、もう一度クリスマスにイエス様を自分の心の真ん中に迎えてみてはどうでしょうか。クリスマスの時に、私たちの心の中にもう一度イエス様が来て下さるように、祈って待ってみてはどうでしょうか。それが待降節なのではないでしょうか。私たちの日常には待たなければならないことがたくさんあります。焦る気持ち、早く進めたい気持ちがあります。でもそれも祈って待ってみてはどうでしょうか。

今年はいつもと違うクリスマスです。あわただしさのない、静かなクリスマスです。何かを祈って待つには良いかもしれません。

毎年と同じクリスマスが迎えられるように願うのではなく、コロナ禍を経て今までとは違う新しい思いを頂くこと、新しい信仰を頂くこと、新しい希望を頂くことを祈ります。クリスマスまで一緒に祈ってゆきましょう。

確かに神様は私たちの下へ来てくださいます。クリスマスは必ず来ます。その時まで私たちは、目覚めて、祈って、待ちたいのです。そこにイエス様が必ず来てくださるはずです。お祈りをいたします。

 

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【全文】「生活困窮の神」マタイ25章31節~46節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができ、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちの教会は生活困窮者のためのシェルターを設置しています(場所は非公開です)。私が来て1年半ほどですが、多くの方が利用されました。宿泊の申し込みの方法は様々です。教会関係からの紹介、DVの相談機関からの紹介、直接訪ねてくるケース、市から依頼されるケースなど様々です。

シェルターに誰かを泊めるのは、正直言って心配です。怖い人ではないか、ちゃんとルールを守ってくれる人か、突然いなくなったりしないか・・・。考えれば考えるほど、断った方がいいに違いありません。

しかし、ここに泊まらなければ、その人たちは野宿をしなければいけません。それは私が泊める危険以上に、彼らにとって雨風にさらされ、無防備で、より危険なことです。私は宿泊の依頼をほとんど断ることができません。1週間ですが、住む場所が見つかるまでの間、シェルターを貸します。

本当はじっくり話を聞いて、事情がよく理解できてから受け入れるかどうかを判断したいと思っていますが、そうできないときの方が多いです。疲れ果て、今日泊まる場所に困っている人に、まず一から事情を教えてほしいというのはあまりにも酷です。多くの場合、簡単な事情を聴くのみでお貸ししています。

シェルターを利用される方の多くは、部屋に入ってすぐに眠ります。初日はほとんど一日中寝ているでしょうか。ここにたどり着くまでの様々な困難にへとへとになっているのです。何より、寝る場所がある、食べ物があることに安心して、ぐっすりと眠るのです。朝会うと、久しぶりに布団で寝た、久しぶりに朝までぐっすり眠れたと言います。翌朝、着るものが必要であれば、着る物を。食べるものが必要であれば食べるものを渡します。時にはこちらからするとわがままに思えることも要求されますが、なるべく応えるようにしています。

私たちがこの支援をするのは、困っている人を助けるためです。なぜ人を助けるのか、そこに目的は必要ありません。神様が造った命を守ること、助けることが目的だからです。利用される方の中には、礼拝に参加したいとおっしゃる方もいます。本当に礼拝に興味のある方と「泊めていただいているのだから、それくらいは参加しないと」と気を使ってくれている方の半々といった印象です。私は「ご自由にどうぞ」とそっけなく応えるようにしています。

私たちは礼拝参加を条件にシェルターを貸しているのではありません。無言も圧力になります。私たちは何かと引き換えに支援をしようとしているのではありません。ただその神様の造られた命を守るために、短い期間ですが泊まる場所をお貸ししているだけです。

宿泊は原則1週間としています。1週間、一緒の敷地に住むというだけで、お互いのことを理解しあい、互いに親近感を持つものです。毎回シェルターを利用された方が出発する時は寂しさを覚えます。「もう少し泊まっていけば?」と言いたくなる気持ちもありますが、彼らには次の行き先があります。

シェルターを利用し、また旅立っていく時の顔は、はじめて教会を訪ねた時の顔とだいぶ違う表情であるように感じます。少し安心したような、でも力強いような、でもやはり不安そうな表情です。利用者がいなくなると、私の気持ちは寂しくもあり、正直ほっとする気持ちもあります。また次の方はいつ来るだろうかと考えながら見送っています。

私がこの支援をするときに大事にしているのは、必ずこの方に神様の力が働いて、道が開けてゆくはずと信じて支援をすることです。いろいろな諦めや疲れを覚えてこの教会を訪ねます。きっとその回復には時間がかかるでしょう。でもその中に必ず神様の力が、必ず働くと信頼し、この支援を続けています。今は苦しいことが重なっているけれども、必ずこの方に神様の力が与えられ、平安で、その人らしい人生を、輝いて生きるときがくる。笑顔になるときが来る。神様がそうしてくださると信じて支援をしています。私はその神様への信頼を試されながら、この支援を続けています。神様への信頼を問われる1週間です。やっぱり難しいかな、いやきっと何か道があるはず、そう信じる1週間です。

きっと神様を知る方法は、聖書を読むということだけではのだと思います。そのような人との出会い、関係を通じても、神様はご自分の力を私たちにお示しになるのだと思います。

私たちはそのような人との出会いを大切にしましょう。シェルターのみならず、サロン虹、こひつじひろば、こひつじ食堂、バザー、炊き出し、そして新来者すべてにおいてそうです。そのような出会いを、神様の力がきっと示される出会いとして大切にしてゆきましょう。

 

今日の聖書個所もそのように語っていると思います。私たちの愛は見返りを求めません。命を守るそのこと自体が目的です。そして支援を通じ神様の力を見るようになるということです。今日の個所からそのことを共にいただきましょう。

今日の個所にも生活困窮者が登場します。目に浮かびます。食べるもの(食)・住む場所(住)着るもの(衣)・健康・外出の自由が不足している人がいました。今日私はその世話をした人につい注目がいってしまいます。

35節、ある人はこの人にできる限りの世話をしました。誰かに衣食住、特に住居を支援するのは簡単なことではありません。彼は時間やお金や労力を割いて、自らの危険を冒して、その人の助けとなったのです。彼は見ず知らずの人を招き、精一杯のもてなしをしたのです。

どのくらいの期間を共にしたのかはわかりません。1週間かもしれません。おそらくその期間で支援を受けた人は、心身ともに休息の時間を得たでしょう。初日はぐっすり眠ったでしょう。寝る場所と食べるものを得て、安心をしたでしょう。励まされたでしょう。そして安心と、力と、不安をもって、そこを旅立つときが来たのです。

自分も、もう一歩頑張ってみよう。自分の人生に向き合ってみよう。次の目標に向かってみよう。そう励まされたのです。住居を提供した人は、いつかきっと見返りがあるはずとは思ってもいませんでした。その後すっかりそのことは忘れ、過ごしていたのです。

なぜこの人は助けたのでしょうか?目的や理由は書かれていません。きっとなぜ助けたのか聞かれても困ったでしょうか。助けることに目的があったのでしょうか。きっと助けること自体が目的だったのです。神様の造られた命を守る、それが目的だったのです。

あるときその人は王であるイエス・キリストに出会いました。自分が家を提供した人が神の兄弟・仲間だったという自覚などありません。助けたことすら忘れてしまっていました。しかし王、イエス・キリストに40節「助けたのは私の兄弟だ。それは私を助けたことと同じだ」と言われます。彼は驚いています。38節「いつ私がそんなことしたでしょうか?」と聞いている通りです。

私はこの物語から2つのことが大事だと思います。一つは住居を貸した側は何の見返りも求めず、見返りなど忘れるほどであったということです。彼は何かの見返りを求めていたのではありません。忘れるほどに、あらゆる見返りを求めていませんでした。もし助けたら、信者になってくれるかもしれない。もし助けたら地域に一目置かれるようになるかもしれない。もしかしたらこの人を教会に人を引っ張れるかもしれないと思って助けたのではないということです。目的は助けることそのものだったのです。

それは愛とも言い換えることができるでしょう。目的は愛そのものでした。愛を使って何かをしようとするのではなく、愛そのものが目的であったということです。見返りを求めずに命を大切にしてゆくこと、それが愛です。

もう一つこの物語で大事なことは、私たちはどのように神様に出会うのかという問題です。私たちは聖書のみ言葉によって神様と出会います。でもそれだけではないということです。困っている人、寂しい思いをしている人、自由がない人、最も小さい人、その人たちとの出会いの中で、神様に出会うということです。

その人たちに出会うと、私たちは神様への信頼を問われます。神様の栄光がその人に表れると信じれるかどうかが問われます。そして、その人たちを通じて私たちは神様の力を知るようになるのです。貧しい、困っている、寂しい、不自由、小ささ、その人たちと共に立とうとするときに神様と出会うことができるということです。

この二つ、見返りを求めない事、神と出会う事はきっと、これまでの、そしてこれからの私たちのすべての活動の中に言えることでしょう。こひつじ食堂、こひつじひろば、サロン虹、炊き出しやバザー。私たちがそれを行う時、その支援に立つとき、私たちは見返りを求めません。何か教会にメリットがあるからやるわけではありません。今日の聖書の中の、助けた彼と同じです。ただ神の命のために私たちは働きます。

そして私たちは教会の様々な活動の中で、出会いを大切にします。互いの痛みや悲しみ破れに関わることを大切にします。できる限り、共に立つこと、連帯することを大切にします。助けた彼が神様に出会ったように、そのことが神様との出会いにつながるのです。

私たちはこれからも地域を愛し、仕えてゆきましょう。見返りをもとめずに出会ってゆきましょう。そして私たちの教会の中でももちろんそうです。私たちこそ愛し合い、仕えてゆきましょう。痛み悲しみを共に祈りあってゆきましょう。必ず神様がすべての人に力を与えてくださるはずです。お祈りをいたします。

 

【全文】「敵を愛しなさい」マタイ5章38節~48節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝を持つことができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。

先日新聞の記事にもなっていましたが、いま日本では少年法の厳罰化が議論されています。未成年の犯罪にも大人と同じ罰を与えようという議論です。少年の犯罪はこれまで何度も厳罰化されてきましたが、さらなる厳罰化が進められようとしています。

通常20歳未満の未成年が罪を犯すと、処罰よりも保護や更生、教育が優先されます。更生に期待し、刑罰よりも教育が重視されてきました。しかし一方で少年法は犯罪に甘い、もっと刑罰を重くすべきだという声は根強くあります。

現在、少年法の対象を20歳未満から、18歳未満に引き下げること、18歳以上は大人と同じ罰を受けることが議論されています。結局今のところは、対象年齢の一律の引き下げは見送られる方針ですが、強盗などの一部の犯罪で20歳未満という基準を18歳未満に変更をしてはどうかと提案がされています。来年度の国会で議論されることになります。

少年犯罪への厳罰化の背景には少年犯罪の増加・凶悪化があるかと思えば、そうではありません。実は少年犯罪は減少し続け、この10年で軽微なもの、重いものどちらの少年犯罪も大幅に減少し、戦後最低を更新したそうです。今の子どもたちが凶悪化していることなど決してありません。私たちが少年凶悪犯が増えていると感じるのは、マスコミの報道が原因でしょう。少数の凶悪事件をことさら報道し続けることで、社会に間違ったイメージを植え付けています。若者はすぐキレる、怖い、凶暴化している、社会の敵と刷り込まれているのです。

少年犯罪は減少しているにも関わらず、厳罰化が求められています。本来罪を犯した少年、未成年はまだ発達段階にある人間です。成長の途中に犯した罪には罰を与えるだけではなく、様々な教育や支援が求められているはずです。

正しく導く関わり、人との温かい関わり、私たちの言葉で言い換えるなら「罰」よりも「愛」が必要とされているのではないでしょうか。日本は過ちを犯した未成年を保護し、更生する社会から、厳しい処罰を加えようとする社会に変わろうとしています。本当は罰ではなく、愛が必要なはずです。

罪を犯す少年に、罰を強化するのではなく、もう一度命の大切さを知り、共に生きることを選びたいと思うのです。だって人はやり直せるではないですか。人は生まれ変われるではないですか。

私たちだって毎週変わりたい、それを願って礼拝をしているのではないでしょうか。罰せられるのではなく愛されることがどれほど大きな力になるのか、私たちは知っているではありませんか。子どもであればなおさらです。罪を犯した少年を、社会の敵としてはではなく、もう一度共に命の大切さを知る者として共に生きることはできないでしょうか。今日の子どもと共にある礼拝のように、子どもを受け止め大切にする社会にできないでしょうか。

今日このことを聖書から聞いてゆきたいのです。今日は聖書の「愛敵命令」と呼ばれる個所です。神様は隣人を愛しなさいというだけではなく、敵と思えるような人さえも愛しなさいといいます。相手に条件を付けずに愛しなさいと言います。そして誰よりも神様ご自身がそのようなお方です。神様は条件を付けずに人を愛するお方です。そのことを今日の個所からいただきましょう。

 

今日の聖書の個所を見ましょう。39節、右のほほを殴られたら、反対側のほほを差し出しなさいと聖書は語ります。そもそも、殴られない様にするにはどうすればよいでしょうか。殴られるのは、相手に抵抗するからです。殴られないためには相手の言うことに従えばよいのです。間違っている、絶対におかしいと思っていても、我慢し、無言で従えば殴られることはありません。

しかし間違っていると思う相手に正直に反対を表明する時、その人は殴られるのです。我慢するか、殴られるかを迫られて、我慢しない、負けないと選択する時、人は殴られるのです。

今の日本では、人事が暴力的に扱われます。政権に文句を言う人は不利益を得ます。今の政治に例えるなら、人事で不利益を受けたくなければ、改ざんしようがうそをつこうが政権の言うとおりに従わなければいけません。日本でもごく一部の人は、報復の人事が怖くても、毅然と間違えだと語っています。

この個所は、私たちはやられても、絶対やり返すなということだけではなく、善と悪をしっかりと見極め、殴られるとしても、悪に毅然とした態度をとるように求めています。私たちは殴られ続けても、悪をうやむやにするのではありません。社会から悪をなくすために、毅然と立ちたいのです。

 

イエス様は暴力で報復することを否定します。やられたらやりかえすのではありません。暴力に暴力で抵抗するのではありません。罪に罰で対処するのではありません。あらゆる暴力と罪に毅然と立ち続けることを私たちに教えているのです。

私は今、勇ましく、暴力に毅然と立ち向かおうと言いましたが、聖書の要求はさらに私たちに厳しく迫ってきます。続く44節には「敵を愛しなさい」とあります。まさか敵と思えるような相手に、毅然と立つことはできても、愛することなどできるでしょうか。

自分に暴力で向かってくる相手を愛することなどできないものです。愛とは感情ではなく、相手を大切にすることです。別に抱きしめたいほど強い愛情を持つことを命令されているわけではありません。でも大切にするということだとしても、私たちは暴力で向かってくる相手にそれができるでしょうか。暴力で向かってくる相手を大切にすることできるでしょうか。私たちは自分や誰かを殴る人を大切にすることができるでしょうか。報復と制裁、罰ではなく、愛することができるでしょうか。

家族とでさえ、ご近所とでさえ、教会の仲間とでさえ、愛し合うことができない私たちです。傷つけ合ってしまう私たちです。にもかかわらず、私たちの隣人だけでも愛するのが大変なのに、どうして隣人のみならず、敵を愛することなどできるでしょうか。

聖書の教えは素晴らしいと思います。敵を愛せという言葉は人々の胸に響く言葉です。しかし敵を愛しましょうという聖書の言葉を読むとき、私たちは冷や汗をかきます。素晴らしい教えですが、それは本当に難しいことです。私はキリスト教の教えは素晴らしいと思いながらも、それを実践できないクリスチャンです。人は隣人を、敵を愛したいと願いながらも、愛せる時と愛せない時があるのです。

でも一つだけ確かなことがあります。それは、神様は隣人も敵もどちらも愛するお方だということです。

神様は隣人を愛しなさいと言います。そう、神様は隣人を愛するお方です。隣人とはたとえば神様を信じ、神様に従う仲間のことです。神様はご自分に従う者たちを愛するお方なのです。そして神様は敵でさえも愛せといいます。なによりもまず神様ご自身が敵を愛するお方です。自分に暴力で向かってくる人も、神様は愛するのです。神様が愛する範囲は、もはや隣人であることを超えてしまっているのです。

神様は敵か味方か関係なしに、すべての人を愛し、大切にされるお方です。私たちに敵を愛せという以前に、そもそも神様が敵を愛しているお方なのです。

神様はこの点で不公平です。神様は罪を犯した人も愛します。こどもならなおさら愛するでしょう。神様の愛は一切の条件が無いのです。それが無条件の愛です。45節、太陽が人々を等しく照らすように、神様の愛は無条件なのです。

私たち人間はいつも条件付きの愛の中にいるでしょう。敵を愛したいと思っても、身体はなかなか動かない、そのはざまにいます。でも神様は違います。すでにすべての人を無条件に愛してくださっているお方です。神様はその命を大切に思ってくださっているのです。私たちには人を愛する限界があります。しかしそれでも私たちは無条件の愛にむけて歩みを始めたいのです。今日神様の愛を頂いて、今週もすべての人を愛する、大切にするその歩みを始めたいのです。特に敵、苦手と思う人をもう一度愛する、大切にするチャレンジを今週したいのです。

そうした方が人生や社会がうまくいくから愛しましょうというではありません。愛することで、人生が、社会がうまくいくようになるから、愛するわけではありません。愛はそのような「手段」ではありません。愛はそれ自体が目的です。愛することそれ自体が目的です。神は愛です。神様の命を大切にすること、そのこと自体に意味があるのです。愛することで人生や社会がうまくいかかどうかはわかりません。でも私たちは敵を愛したいのです。大切にしたいのです。神は愛だからです。

私たちは個人で、そして社会で罪と暴力に向き合いたいと思います。そして悪に対して罰や暴力ではなく、毅然とした態度で生きたいと思います。そして罰や報復ではなく愛に生きたいと願います。

イエス・キリストがまさに地上でその歩みをされたお方です。たとえ十字架につけられたとしても、人々を愛し続けたお方です。その暴力に十字架で向きあわれたお方です。

誰よりも神様が、このように向き合い愛してくださいます。神様は無条件に愛するお方です。愛に条件を付けないお方です。私たちもそのように生きたいのです。そのように生きることが、44節天の父の子として生きる、神の子として生きることなのでしょう。

今日も私たちは聖書のみ言葉をいただきました。48節簡単に、完全な者になることができない私たちです。しかし、私たちの不完全さにも関わらず、完全な神は私たちを愛してくださいます。だからこそ愛し合いたいのです。悪と罪と敵に罰ではなく、愛で向き合いたいのです。その希望を胸に、この1週間を愛をもって歩みましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「バプテスマって何?」マタイ3章7節~12節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。私たちは子どもたちを大切にする教会です。特に今日は子どもたちを祝福する時をこの後に持ちます。大切にする子どもたちの成長は私たちにとってとてもうれしいことです。一緒に礼拝をしましょう。

今日から1年間、マタイによる福音書からの宣教をスタートします。ヨハネ福音書を1年間かけて読んできたことにも感謝です。聖書には4つの福音書があります。同じ一人のイエス様を描きながらも、書いた人が違います。同じ出来事でも4つの視点で書かれています。

ヨハネ福音書を1年間読んできてどうでしょうか?特徴、キーワードはいろいろあったと思いますが、迫害の時代に書かれた福音書です。苦しい中にも光・希望を見出した書、イエス様は神であると証しした書、子供や女性の活躍が書かれる書、対話の中で書かれた書、そのような印象を受けた福音書でした。

今日からはマタイ福音書をスタートします。この福音書にも大きな特徴がいくつかあります。一つは当時のユダヤ人向けに書かれたということです。ですからユダヤの人になじみ深かった、旧約聖書の引用が多くあります。旧約聖書・ユダヤ教と照らしながら読むと面白いのです。一番の特徴はなんといっても、「インマヌエル」「神われわれとともに」という言葉でしょう。マタイ福音書は1章からインマヌエルと始まり、28章20節も「いつもあなた方とともにいる」というインマヌエルで終わります。インマヌエルのサンドイッチになっている福音書です。「神様は私たちとともにいる」ということを一番に伝えているともいえる福音書です。もちろんその他にもテーマがあります。平和と和解、山上の説教で愛が語られるのが特徴です。ともに1年間、他の個所に寄り道をしながらですが、共に、スタートしましょう。

今日のキーワードはバプテスマです。聖書には「洗礼」と書いて「バプテスマ」とフリガナがふられています。バプテスマとはキリスト教の入信の儀式です。多くの教会で滴礼という方式で、水少しを頭に垂らすのですが、私たちの教会は全身を水に沈める方式でバプテスマを行います。一度水の中で死に、もう一度生き返るということ、そのことが新しい生活をスタートするということを象徴します。全身を一度水に沈めます。今日はそのための水をためてみましたので、興味のある方はどうぞ見てみてください。

バプテスマにはさまざまな方式がありますが、イエス・キリストが誰よりも大切な方だと信じる時、このバプテスマを受けます。

このバプテスマは天国への切符ではありません。これを受けると悪いことをしても神様に大目に見てもらえて、天国に行けるというものではありません。バプテスマは私たちが信仰の決断を神様から与えられた時に受けるものです。バプテスマを受けると罪が取り消されたり、その後罪を犯さなくなるわけではありません。バプテスマを受けてクリスチャンになっても相変わらず罪は犯し続けます。悪いことをします。要はバプテスマを受けても、受けなくても全員が罪人です。

しかし、バプテスマを受けて新しい生活をスタートすると、信仰の決断をした人は、イエス様を誰よりも大切だと告白した人は、同じ罪人でも違いがあると思います。バプテスマを受けた罪人はその罪を神様の前で素直に認め、悔い改める者となるのです。神様に向き合い、神様の前に自分の小ささを繰り返し知る、それがバプテスマを受けた者の生き方と言えるでしょう。

礼拝で毎週その決心を頂きます。もう人を傷つけずに生きよう、愛するように生きようとする。再スタートする。それがバプテスマを受けたクリスチャンの歩みです。同じ罪人ですが、悔い改めるのがクリスチャンと言えるでしょう。

私たちはまだバプテスマを受けていない人にこのバプテスマを受けてほしいと願っています。ひとりでも多くの人にこの生き方に加わってほしいと思っています。特に今日は子どもにこの生き方に加わってほしいと願っています。共に神様の前に立って生きてゆきたいと願っています。

神様はすべての人をその生き方に招いておられます。毎週の週報にもあるとおり、この生き方、バプテスマを希望される方は、どうぞ私までご相談ください。

 

 

さて今日の個所をお読みしましょう。今日は洗礼者ヨハネという人が登場します。この洗礼者ヨハネはヨハネによる福音書のヨハネとは全く別の人物です。この人はイエス様の先駆者、イエス様の道づくりをする人でした。

実はこのバプテスマスという習慣はユダヤ教に古くからありました。しかし、それは今の私たちのバプテスマ理解とは大きく違います。例えば今日出てくるファリサイ派にとってバプテスマとは、外国人がユダヤ教に入信・改宗する時に行われるものでした。外国人がユダヤ人になるために、けがれを取るために受けるものがバプテスマでした。両親がユダヤ人、生まれながらにユダヤ人だった人には、バプテスマを必要としませんでした。

ところがこのバプテスマのヨハネは、バプテスマにまったく新しい意味を持たせた人でした。ヨハネは外国人だけではなく、ユダヤ人も、みんなバプテスマを受けなさいと言ったのです。それは当時ではまったく新しい事でした。バプテスマは外国人が受けるもの、入信・改宗ときにけがれを取り払うものでした。しかしヨハネはユダヤ人も、バプテスマを受けなさいと言ったのでした。それが彼の大きな活動の一つです。

なぜヨハネは全員にバプテスマを勧めたのでしょうか。実は当時ユダヤの人々は自分たちにだけ神様の救いがある、恵みがあると考えていました。外国人に神様の恵みは及ばないと考えていました。アブラハムの子孫・血統である私たちにだけ、神様の助けがあると考えていたのです。選民思想という考えです。自分たちはアブラハムの血統だと自負をしていました。だからこそバプテスマを受けて自分たちの仲間になれば神様の助けがあると考えたのです。

そんな自負を持つユダヤ人の人々に、ヨハネは言いました。9節「神はアブラハムなんぞ石ころからでもつくのだ」と。自分たちはアブラハムの子孫だと自負を持つ人々に、アブラハムを石ころからできたというのです。それほど強く、自分だけを神様が助けてくれる、そのように、おごりたかぶるのをやめるなさいと語ったのです。

ヨハネがすべての人へのバプテスマを広めようとしたのは「自分はユダヤ人だから大丈夫」と思っている人々に、必要ないと思っている人に、もう一度注意を促すため、神様の等しい愛に気づかせるため、すべての人々へのバプテスマを呼びかけたのです。異邦人もユダヤ人も関係ありません。すべての人が神様の恵みの中で、創造された人間です。すべての人に同じように神様の恵みがあります。神の前に平等で、神様の愛は全員に等しく注ぐのです。しかし、当時のユダヤの人々はこのことを忘れてしまっていました。自分たちだけに神の恵みがある、自分たち以外には無いと思ってしまったのです。

ヨハネが厳しく非難していることはこのことです。自分だけが救われると考えること、まさにそのことが罪だということです。「俺様は大丈夫」と思うそこに罪があるということです。だからこそ全員が、ユダヤ人もバプテスマを受けるべきだというのです。

そしてバプテスマは罪を消すためのものではありません。ヨハネはバプテスマを受けて、その罪を、差別を、悔い改めて、新しい生活をスタートしなさい、再スタートしなさいと語っています。それが8節、実を結びなさいということです。

バプテスマを受けたから、神様に助けてもらえるのではありません。バプテスマを受けると神様に怒られないのではありません。ヨハネはそのように自分は大丈夫だと思ってしまうことを「罪」と言います。そして罪を悔い改めるために全員がバプテスマを受けなさいと言ったのです。全員に恵みがあり、全員に罪がある。だから全員が神様にもう一度心を向ける、再スタートをしよう。そのために全員がバプテスマを受けなさいと語ったのです。

バプテスマを受けるとは日々の悔い改めをスタートするということを意味します。すべての人に神の愛が等しく注ぐこと、すべての人が罪を犯し、人を傷つけてしまうこと、そのことを知り、自分が正しいと思って見下すのをやめる、低みに行くこと、それがバプテスマを受けた者の生き方となります。バプテスマを受ける、そこから良い実を結ぶ生活をスタートさせるのです。

12節には殻という言葉がでてきます。殻とはもみ殻、麦の実をとった部分です。人間は弱い者、もみ殻です。たとえバプテスマを受けても、すべての人は罪人です。神様が私たちの内側を見れば、すべての人がもみ殻のように燃やされなくてはならないでしょう。そのことにおいてはバプテスマを受けようが受けまいが関係ありません。たとえバプテスマを受けても、どの人も等しく神様の赦しに頼らざるをえないのです。それがヨハネの語ったことでした。

神様はクリスチャンも含めすべての人に生き方を変えるように求めています。悔い改め、具体的に実のある生き方となるように求められています。今日そのスタートを切るように求めておられます。バプテスマはスタートです。

私たちは今週もそれぞれに生活をします。私たちはもみ殻です。でもバプテスマを受けた者たちは、信仰のスタートを切った者たちは悔い改めながら歩みます。もみ殻だけど、実を結ぶ生き方を願い、今週を歩みましょう。

実は聖書を読み進めると、この後イエス様もヨハネの洗礼を受けたとあります。きっとバプテスマに共感したのでしょう。自分を誇るのではなく、悔い改め、神に向けて再スタートする、そのバプテスマをイエス様も受けたのです。イエス様もそこから地上の活動をスタートしたのです。

イエス様もすべての人がバプテスマを受けるように願っています。そしてご自身もこのバプテスマを受けた者の歩みに加わって下さいます。神は私たちと共にいて下さいます。今日もこの主の礼拝から1週間をスタートしましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「病と死でも続く、神の愛」ヨハネ11章1節~16節

 

 みなさん、おはようございます。今日も礼拝に共に集うことができ感謝です。今日は召天者記念礼拝の時を持ちます。私たちが主のもとに送った仲間たちを覚えてこの礼拝を持ちましょう。そして死を悼むと同時に、残された私たちがどのように生きるのかが今日、問われています。そのことも覚えながらみ言葉に聞いてゆきましょう。

数年前私は、神学校に通いながら十床ほどの小さな病院でアルバイトをしていました。夜勤で、電話番とお見舞いに来る方の対応をする仕事でした。このアルバイトでもっとも緊張するのは末期の患者さんが入院している夜でした。ある患者さんの死期が近くなると、夜の院内はあわただしくなり、そして家族なども続々と集まってきます。やがて入院患者さんは亡くなります。小さな病院でしたので、遺体を安置する場所はありませんでした。ご遺族のお別れが済むと、すぐに葬儀会社が来て、ご遺体を運んでゆきました。葬儀社はあっけないほど早く来るものです。看護師とともに、涙を流す遺族を玄関で見送るのも仕事でした。

病院は患者さんが死を迎えた後、できることがほとんどありません。無力です。死をもってその人との関係、関わりが終わります。そして翌朝にはまた別の患者さんが同じ病室に入院をしてきます。死に対する無力感が襲いながらも、次から次に患者さんは入院してこられ、無力感に浸っている時間はありません。その無力感はすぐに自分たちが今できること、今生きている患者さんに向きあってゆくことに向けられてゆきました。

その病院にあるときクリスチャンのおばあちゃんが入院されました。死期の迫る方でした。病室にはいつも讃美歌が流されていました。私も時には夜勤のあい間にベッドの横で聖書の朗読をしたり、祈ったりすることがありました。その後亡くなってしまいましたが、なぜだが不思議とその死に無力感を感じることはありませんでした。私たちもコロナ禍が始まってから、この病気で亡くなる方々を見て無力感を覚えることがあるかもしれません。しかし祈りはそこに不思議な力を与えてくれるようです。

教会では今「この病の時、私たちの祈り」という祈りを繰り返し祈っています。特に祈祷会では毎回、声を合わせて祈っています。この祈りの中には医療従事者や困窮者への祈りも含まれています。

そして同時に亡くなった方たちのためにも祈っています。「この病で亡くなられた人を、あなたのもとに迎え入れて下さい」と祈っています。私たちは祈りによって死者との関係を毎週続けています。死んでしまったら関係が終わりと感じることがあるかもしれません。しかし私たちは祈り続けています。祈り続けるという関係において、亡くなった方との関係は終わりではありません。無力ではありません。神様のもとに迎え入れられるようにと祈ることができるという関係が続きます。

この地上の命は死んだら終わりかもしれません。でも神様の下にある命と、私たちの関係は、死んでしまったら終わりというものではありません。死はすべての終わりではありません。祈りの関係は死で終わるものではありません。地上の命はいったん終わったとしても、私たちが彼らを祈るという関係は続きます。そして私も、死んだ後、きっと今祈られているのと同じように、祈られ続けるでしょう。

私たちは生きていても、そしてたとえ死んでしまっても、祈りの関係の中にいます。そしてそれは神様の愛の中にいるという関係です。神様の愛にある関係は変わりません。神様の愛の関係は続くのです。

私たちが亡くなった方を覚えて祈る時、私たちは生死を超えた関係を持ちます。そしてもちろん神様の愛も同じように、生死を超えて続くものです。私たちが今日、亡くなった方々のことを変わらずに祈り続けるように、神様も、いえ神様こそが最も亡くなった方々をいままでと変わらずに愛し続けて下さっているのです。

私たちはどのような生、どのような病の中であっても、祈り続けましょう。亡くなった方々も覚え続けて祈りましょう。そして、誰よりも神様がそうしてくださるお方です。神様は私たちの地上の命を愛し、祈って下さっています。そしてたとえ死に、地上の命を終えたとしても神様の愛は変わりません。永遠に続くのです。今日はそのことを聖書から分かち合いたいと思います。 

 

今日の聖書個所に目を移しましょう。今日の個所、イエス様の友人が病の中にあります。すぐに見舞って励ますのが真の友人でしょう。しかしイエス様の行動は謎です。死が迫っている知らせを聞いてから、なんと2日間もそこに滞在し続けたのです。友人が死にそうなのにずいぶん薄情な人物のように思います。

イエス・キリストは大切な友人の病の知らせを聞いていました。おそらく重篤で死が迫っているとの報告だったでしょう。しかし、すぐに向かわずに、こう言います「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と。

「この病気は死で終わらない」とはどんなことを意味するのでしょうか。神様の栄光のためにとは、どのような意味なのでしょうか。難しい言葉ですが、今日の私たちにはこの言葉の意味が分かるような気がします。

そうです、この病気は、コロナも、あるいはどのような病も、死で終わり、死んで終わりではないということです。死で終わらずに、その先に神様との関係が必ず続いているのだということ、そのことを示しています。死によっても神様との関係は終わらない、神様に愛され続けることは変わらないということです。

イエス様は友人の死に立ち会いませんでした。2日の時を動かずに待ちました。それはまるで死ぬ前ではなく、死んだ後に会いに行くことを選んでいるように見えます。イエス様はラザロが生きている間ではなく、すでににおい、埋葬されたラザロに会いに行くことを選んだのです。それがイエス・キリストでした。14・15節を見ると「さあ死んだラザロに会いに行こう」と言っているようにも見えます。

イエス様はそのように、死を超えて、死で終わらず、死んだにも関わらず、関係を持とうとするお方です。確かにラザロの地上の命は終わりました。しかしイエス様にとっては神の愛は死で終わるものではありませんでした。だからイエス様はラザロが死んだ後に尋ねたのです。

イエス様は11節で死んだラザロのことを眠っているのだと言います。死を眠りと表現しています。イエス様は死をすべて終わりではなく、眠りのように過ぎていく一時的な時とみています。イエス様は死をすべての終わりとして受け止めていません。眠っている間のように関係が続くのだと言うのです。

12節、弟子たちにはその意味が分かりません。私たちにもよくわかりません。やはり死はすべての終わりだと感じ、その人との関係は終わったものと思ってしまうものです。

イエス様は今日の個所で、死ですべてが終わるわけではないということ、人と神の関係は死で終わるものではないということを伝えようとしました。イエス様がすでに死んだ者に、死者にこそ関わる姿によって、死んでも神様との関係が続くということを伝えようとしました。それを信じるように、私たちに示してくださいました。イエス様は言います「さあ行こう」「さあ死んだラザロに会いに行こう」と言うのです。

このように死者に関わり続けるのが神様です。生きている時と変わらぬ愛で、亡くなった方たちを包んでいる、それが神様です。そして今日、私たちもこの同じ愛の内に全員がいます。生きる私たちもその一人です。様々な背景をもって亡くなった方がいます。信仰をもって亡くなった方、もう少しで信仰を持とうとしていた方、信仰とは遠かった方。その全員と今日私たちは同じ愛の中にいます。生前の姿や生死さえ問わず、神様は愛し、会いに来られるお方です。この物語はラザロの病から死までずっと神様が愛し、貫いているということを伝えています。これが無条件の愛です。神様が愛し続けて下さっているから、関係が続いているからこそ、私たちは祈りによってつながり続けることができるのです。神に愛されている者として、私たちの関係も変わらずに続くのです。

さて聖書を読み進めてゆくと、この後今度はイエス様ご自身が死ぬことになります。そうです。十字架にかけられて殺されてしまうのです。でも私たちはイエス様が死んで終わりではなかったということを知っています。

イエス様は復活し、再び私たちに関わってくださいました、今も関わり続けて下さっているということを知っています。イエス様がご自身の死をもって、死がすべての終わりではないことを示したのです。ラザロを通じて、ご自分の十字架を通じて、神様の愛はずっと続くのだと語っているのです。

今コロナ禍、自死、多死社会に生きる私たちです。今のこの地上の命を大事にしてゆきましょう。生きていればよいことがある、生きていてよかったと思えることがあるはずです。そして同時に死を受け止めましょう。死はすべての終わりではありません。神様が愛してくださっているその関係がずっと続くのです。

むしろ死は新しい関係の始まりともいえるでしょうか。残されたものはどう生きるかを問う始まりになります。イエス・キリストの十字架がまさにそうでした。その死は私たちに新しい関係を起こしたのです。新しい関係、死を超えて神の愛は続くという関係に気づかせてくれたのです。

今日私たちは召天者記念礼拝に集ったのは、この死を忘れないでいるためです。どう生きるかという問いを考えるためです。今日一人一人が死の意味を問われています。神様の愛は、病の中でも、たとえ死んでしまっても変わらずに続きます。だからこそ私たちも神様に変わらず祈りを続けてゆきたいのです。十字架の死が終わりではなく始まりであったように、私たちも共に主イエスの十字架から日々を出発したいのです。お祈りします。

 

【全文】「低みに立つ宗教」ヨハネ13章1節~20節

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちとともに礼拝をしてゆきましょう。

私たちは今月「世界」というテーマで聖書読んでいます。主の晩餐について、食糧問題についてなどを考えてきました。キリスト教の視点から世界を見てきたわけですが、それと同時に世界から見てキリスト教はどう見えるのだろうかと考えます。

世界を見渡す時、宗教が原因の一つとなる紛争があることは認めざるをえない事です。宗教の違いが他者との違いを際だたせ、対立を生む時があります。宗教が自分のみを正しいと信じ込ませ対立が起きる時があります。先日ようやく停戦合意したアルメニアとアゼルバイジャンの紛争の背景もキリスト教とイスラム教の対立があると言われます。日本でも一神教は自分だけが本物で、あとは偽物とする、排他的な宗教だと言われることがあります。一神教だから寛容になれず、戦争を起こすのだといわれます。その批判は十分に受けとめたいと思います。

実際に私たちにはそのような態度があったかもしれません。他者が手を合わせて大切に拝むものに対して、十分な敬意を払わずに、偽物と否定をしてきたもしれません。あるいはキリスト教に比べて劣った宗教として見下すことがあったかもしれません。ただし多神教だからといって戦争が起こらないというわけではありません。ミャンマーのロヒンギャ問題は仏教勢力が関わっているといわれていますし、日本の仏教・神道の歴史の中でも戦争は繰り返されてきました。

私たち自身は他の宗教とキリスト教を徹底的に比較して選んだわけではありません。私たちはただ聖書に出会い、主なる神に出会い、イエス・キリストを信じているのみです。私たちはイエス・キリストと出会い、この方こそ私たちの模範となる人だ、そう信じているだけです。

もし他の宗教から私たちへの批判があれば、それを聞きますし、その態度を変えたいと思います。もちろん時には私たちが他の宗教を批判することもあるでしょう。私たちは違う神を信じる人と、どのように共に生きてゆくことができるでしょうか。異なる神を信じる相手に対して、私の神だけが唯一の神で、あなたの神は偽物だとは言いません。私自身はこの神を神と信じます、この方しか拝みません。でも異なる神を拝む人がいればそれを尊重したいと思います。私もそうして欲しいからです。

いろいろな宗教も元をたどれば一つの神に行きつくはずだと考える人もいます。宗教多元主義と言います。私はそのような立場を取りません。共通点を感じながらも、大きな違い、出発点もゴールも違うと感じることが多いからです。

私たちは自分の神をしっかりと紹介し、そして相手から紹介される神のことをよく聞きたいと思います。そして自分の神との違いを知りたいのです。そしてその時、自分が正しいという前提を一度置いて、他者と対話したいのです。神様からのメッセージは別の宗教の信じる人からも伝えられることがあるのです。クリスマスの物語、星占いの博士たちがイエスの誕生を最初に知ったようにです。

私たちはキリストについて証ししつつ、他の宗教と常に対話をします。そしてそれは私たちにとって新しい出会いであり、私たちキリスト教はそれによって変わる可能性があります。私たちは決して他の宗教を見下しません。他の宗教を見下すときが暴力的な関係が始まるのです。

私たちキリスト教はどのように神様に出会うでしょうか。私たちの神様は低きにいる神です。私たちの神は弱さの中にいる神です。それは何かを積み重ね、階段を上っていくと近づき、会える神様ではありません。私たちの神は、低い場所にいる神です。階段を下っていくと会える神です。

階段の一番下で私たちは十字架のイエスに出会います。高みに行こうとすれば、私たちの神とは離れてゆきます。神は弱き者、小さき者とともに、その人々のいる底辺におられます。弱い者、小さい者、弱い私、小さい私を探し、階段を降りる時、神様と出会うことができるのです。それはちょうどこの図のようです。

キリスト者が神様に近づこうとする時、そして他の宗教の人々と対話する時、大事にしたいことは、階段を下りて対話することです。低みから話し、聞いてゆくことです。イエス・キリストが傷つき叫んだ、あの十字架の下で聞くということです。

見下して聞かないこと、見下して語らない事。低みから証しすること。そこから私たちの対話は始まります。教会は、キリスト者はそのようにして世界に仕えたいのです。なぜそうするのか、それは私たちがイエス・キリストを模範とするからです。そのイエスの姿を見てゆきましょう。

 

 今日の聖書個所を読みましょう。私たちはイエス・キリストを唯一の模範として聖書を読みます。今日の場面でイエス様は弟子の足を洗ったとあります。その仕事は本来奴隷の仕事でした。当時は乾燥し、もちろん舗装されていない大地をサンダルで歩く生活をしていました。足はホコリと汗と泥にまみれていました。その汚れた足を洗うのは奴隷の仕事、召使いの仕事でした。しかし今日の場面では主イエスご自身が足を洗い、布でふき取ってくださっています。

主人であるイエス様は弟子の中で、自分を最も低い立場に置かれました。そしてこの後、ヨハネ福音書は十字架の出来事へと続いてゆきます。階段を降り、低みに立ったイエスが、十字架にかかってゆくのです。まさしくこの図の歩みはイエス様の歩みでした。イエス様は特別な力をもって人々の上に君臨するのではなく、人々より低い場所に、底辺に立つのが私たちの神様でした。

イエス様が足を洗った弟子の中には様々な人がいました。そしてイエス様は18節、どんな人を選んだのかを知っていました。この中にイスカリオテのユダも含まれています。2節によればすでにこの時、彼には悪魔が入り、裏切るつもり、売り渡すつもりでいたのです。イエス様はその悪魔が入った裏切り者の足さえ洗うのです。

ペテロもいました。この後ペテロはイエスのことなど知らないと3度言う者です。この後イエスとの関係を否定する者です。イエス様はその彼の足さえ洗ったのです。イエス様は裏切らない人、イエスを信頼した人、清い人の足だけを洗ったのではありません。その場所にいた全員に低くひざまずき、足を洗ったのです。イエス様はそのように全員に、低く立たれたお方です。

1節にはこうあります「世にいる弟子を愛して、この上なく愛し抜」いた。イエス様は自分に反対する、自分と違うどのような人間をも、大切にした、この上なく大切にし抜いたお方でした。どこぞの総理大臣のように、自分に反対する人は異動させるような人とは違います。愛し、この上なく愛しぬくという表現、それは徹底的に大切にするということ、裏切られようが、見捨てられようが、最後の最後まで相手を大切にし続けるという意味です。イエス様はこのように、弟子たちに低く立たれ、大切にするお方でした。

弟子もこの姿には驚き、戸惑ったのでしょう。ぺテロは言っています「洗わないでください」と。本当はこれは私がすべきこと、あるいは奴隷がすべきことで、主であるあなたはもっと別のことをすべきだということです。あなたは主であり、神の子であり、キリストである。あなたはもっと威厳のある関わり方があるはずだと言います。図で言うならば、もっと高みから私たちと関わるべきだということです。

しかし、イエス様は言います。8節「私があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」というのです。それは低みに立つ神と人という関係以外に、神と人との関係は何も無いということです。神が低みおられるからこそ、神なのだということです。もし私たちが神様の足を洗うように、神が高き所にいるならば、もうそれは神と人との関係ではないということです。

神様はどんなときも、私たちより低い場所におられ、私たちの足を洗い、私たちを愛し、愛し抜く、最後の時まで大切にしてくださるお方です。

14節・15節では私たちも互いに足を洗いあいなさいとあり、このイエス様の姿が私たちの模範であると言います。今日イエス様の姿から何を学ぶでしょうか。私たちは宗教や立場を超えてどのような人にも向き合い、仕えてゆくことができるのかが問われているのではないでしょうか。裏切り者の足を洗うほど、低みに立つ神がいます。低みにいる神とそこに下ろうとする人間、そのような関係でなければ、神と人との関係ではなくなると言っています。

イエス様は私たちの間にも同じように、この関係を求めるお方です。私たちにも互いに足を洗いあうように求めるのです。低みに立って、どんな人でも愛し、愛し抜く、最後まで大切にし続けることが求められています。もちろん洗われることも必要です。弱さを分かち合ってゆくことが必要です。

そしてその時、私たちは互いの弱さに触れあい、共に神を、十字架のイエス・キリストを見つける仲間となるのでしょう。19節、「事が起こる前」あるいは「事が起こったとき」の「事」とは十字架の出来事のことです。十字架とはイエス・キリストが最も低い場所に立たれた出来事です。神の子が人々の手によって殺される、神が最も低い場所におられた出来事です。イエス様は言います。私が最も低みに行く時、あなた方は私を信じるようになる。低い場所でこそ、神と出会い、神を信じるようになるというのです。

私たちには様々な対話があります。異なる宗教との対話が世界で、私たちの日常で起こされています。私たちはそれを低みから続けたいのです。今まで昇ってきた階段を下りて、低みにいる十字架のイエスの下で出会いたいのです。

キリスト者が神様に近づこうとする時、そして異なる宗教の人々と対話する時、大事にしたいことは、階段を下りて対話することです。低みから聞いてゆくことです。そして最後まで相手を愛し抜くこと、最後まで相手を大切にし続けることです。

私たちそのように低く下る時、イエス・キリストが傷つき叫んだ、十字架に近づくことができるのです。私たちは互いに足を洗いあいましょう。低みに下りましょう。そのようにイエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストをこの地上に遣わした神を信じましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「70年間のつながり」ヨハネ15章1節~17節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をささげましょう。今日は突然のように感じるかもしれませんが、6月に行うことができなかった、創立記念礼拝、特に70年に感謝して献げる礼拝を持ちたいと思っています。

6月に予定されていた礼拝を、コロナの影響で今日に移動しました。10月に移動した理由は、特にイベントが無いからというのではなく、伝道開始が10月だったからです。実は教会組織記念日とは教会がある程度の規模や建物をもってスタートしたという日です。一方、伝道開始という日付も大事だと思います。この10月で伝道開始74年となります。また献堂も10月です。10月でこの会堂は69周年となりました。

70年誌の原稿を皆さんにお願いしています。原稿は10月25日、来週までとなっております。教会員の方、全員に原稿をお願いしています。テーマは「10年を振り返って」です。10年間は自分にとって、教会にとってどんな10年だったか、どうぞ考えてみてください。

これまでの10年、教会全体として様々なことに向き合っていったでしょう。私が勝手タイトルをつけるなら「バプテストらしさ」という10年だったのではないかと思います。一番は信仰告白を作ったことです。バプテスト教会は各個教会がそれぞれ信仰告白を持ちます。自分たちは何を信じているのか、それを言葉とすることができたことは、教会の信仰にとって大きな礎となっていると思います。転入会のクラスではこの信仰告白の学びを一番大事にしています。

信徒会を始めたこともそうでしょう。学びあい、分かち合いによって教会の歩みを決めてゆくのはバプテストの豊かさです。設備としてはこひつじ館・トイレ・エアコン・音響・ホームページが整備されました。これはただの設備という意味以上に、居場所としての教会、人が集う場所としての機能が強化されたともいえると思います。礼拝への招きと教会で過ごす時間を大切にすることができたという出来事だったのだと思います。

さらにもう10年前、2000年からの10年は「地域とともに生きる教会」という方向性だったと総会資料に書いてありました。この頃からホームレス支援を開始しています。これはその後20年で大きな働きとなり、平塚教会の特徴にもなっています。実はバプテスト連盟300以上の教会で、教会としてホームレス支援に直接かかわるのは数教会です。この時に地域とともに生きるという決定的な方向性が定まってきたと思います。この流れは今のこひつじ館の地域との関わりにもつながっている、大きな選択でした。

また2000年代は祈りを大事にする10年だったのではないでしょうか。早天祈祷会、半徹夜祈祷会、湘南平祈祷会、韓国や台湾の人々とも祈ったと聞きます。

この20年間共通すると思うのは、3つのつながりを大事にしたことです。ひとつは信仰告白など神様とのつながり、そして2つ目は祈りや信徒会、修繕など教会の中のつながり、そして3つ目はこども支援やホームレス支援など地域とのつながり。この3つのつながりを大事にし続けたことがこの20年間で共通していることだと思います。

私たちは何とかつながろうと様々な働きをしてきました。そしてその中でも一番強いつながりは神様とのつながりです。私たちが一生懸命につながった以上に、神様が私たちにつながってくださいました。それがもっとも大きな力でした。私たちはさまざまなつながりを求め、働きましたが、だれよりも神様が最も強いつながりで私たちにつながって下さっていた、それがこの20年70年だったのではないでしょうか。私たちはこのつながりなしに、どのようなつながりも持てなかったのではないでしょうか。

さあ次の10年どうなるのでしょうか?2020年から2030年に向けて何がこの教会で起こされていくのでしょうか。ここ最近で、面白そうなのはこども食堂が始まることです。そしてコロナで様々なことを考えさせられました。会堂のこどもスペース、コロナで始まったオンラインの礼拝などもあります。次の10年にわくわくしてきます。いろいろ未来への可能性と希望があると思います。そして何よりその中で神様はきっと私たちに強くつながり続けて下さることでしょう。私たちを導き支え続けてくださるでしょう。

いままで教会の歩んだ歴史、主に支えられた歴史をしっかりと見つめ、20年間、70年間大事にしてきたものを大事にしながら次の10年を迎えてゆきたいと思います。私たちが大事にしてきたものは神様とのつながり、教会員同士のつながり、地域とのつながり、この3つのつながりです。いままで大事にしてきたこのつながりを大事にし続け、次の10年を共に歩みましょう。

そして今日はこの3つのつながりについて、聖書から聞いてゆきます。この3つのつながりは偶然ではないように感じます。聖書に様々なつながりが示されている、そのうちの3つなのだと思います。聖書に示されているからこそ、私たちはこのつながりを大事にしてきたのだと思うのです。今日の聖書に聞いてゆきましょう。

今日の聖書の個所、1節~3節で神様は農夫です。イエス様はブドウの木、私たちは枝にとたとえられています。私たちは様々な活動を行い、その枝を広げてきました。そして何度も神様は私たちを手入れなさいました。神様が手入れされるとは時には剪定されることも含まれるでしょう。もっと大きな実をつけるために、神様は私たちをチョキンと剪定するのです。それでもまだまだ私たち枝は伸び続けるでしょう。そして神様にチョキチョキと手入れされ続けてゆくでしょう。そして神様はそのご自分が手入れされている教会を「清いものだ」と言ってくださいます。教会はいつの時代も神様に手入れされた清いものなのです。

4節が今日目を止めたい個所です。神様は2つのことを言ってます。一つは私につながっていなさい。もう一つは、私はつながっているということです。つながるとは日本語では細い糸をイメージするかもしれません。なんと途切れないでいる状態が「つながる」というイメージです。

しかし聖書の「つながる」は、もっと強い意味です。とどまる、中にいるという意味を持ちます。9節のとどまるも実は「つながる」と同じ単語が使われています。つまり私につながっていなさいとは、わたしにとどまりなさいということです。細い糸でつながるのではなく、身体をそこにとどめなさい、それほど強い結びつきを持ちなさいということです。

神様は私たちに「つながっていなさい」と強く命令をしています。その通りに私たちは70年間、神様になんとかつながりつづけようと歩み続けました。神様に熱心に祈ったり、信仰告白を作ったのです。70年間そのようにして、神様とつながろうとし続けてきました。まるで4節後半、風が吹いても枝が木から離れてしまわないように。神様につながろうと私たちの精一杯をささげた70年でした。

一方で4節では「つながっていなさい」の後に「つながっている」と続きます。私たちにつながりなさいと命令する一方、神様は私たちに、神様の側からもつながっているよと言うのです。私につながりなさい、そして、私からもつながっているよという関係です。私たちの側からだけではなく、神様の側からつながっていて下さるということです。そしてもちろんここの「つながる」も強い結びつきを意味します。神様の側から、私たちの内にとどまってくださる、それほどに近く強く結びついてくださるということです。

その力はきっと、私たちからつながろうとする力よりも何倍も強いものでしょう。私たちがどんななに神様から離れようとしても、神様は絶対離れない、強く結びついてくださるお方です。この70年間の私たちの努力よりも強いのは、神様からのつながりです。

そしてもしかするとその70年の間で教会から、神様から離れたと思っている人もたくさんいるでしょう。でも違います。神様はその人たちとも強くつながっています。どんなに教会や信仰から離れていても、神様の側から必ずつながっているのです。私たちは一生懸命に神様につながろうとしてきました。でもそれには限界があります。でも神様は私たちにつながって下さいます。強い結びつきから離れないと言ってくださるのです。

12節を見ましょう。今度は神様と私の関係から、私たちの同士の関係へと話が変わります。愛し合いなさいと命令されるのです。17節でももう一度言われます。私たちに互いに愛し合え、大事にしあえと命令しています。神様に大事にされている人間同士として互いをいたわりあい、優しくしあうことが求められています。

私たちは神様と結びついていればそれで良いというわけではありません。神様に結びついている者は互いに愛し合うように促されます。神様とのつながりは、他者へのつながりと広がってゆきます。それは教会員同士、そして地域との結びつきへと促されるのです。出かけて行って実を結ぶように促されます。

私たちもそうでした。神様に結ばれた70年、互いに結びついた70年、出かけて行った70年だったのではないでしょうか。

私たちは70年間一生懸命神様につながろう、神様の内にとどまろうとしてきた。そしてその70年間、神様はずっと私たちを手入れし続けてくださった。そして今の教会を、私を清い者として下さっているのです。私たちにつながり、手入れをし続けてくださった神様に感謝をします。そして私たちはこれからも愛し合いたいのです。これからの教会の10年について考えたいのです。

どう神様につながろうか、どう神様は私たちにつながってくださるのでしょうか。私たちはどう愛し合うでしょうか。私たちはどこに出かけて行って実を結ぶのでしょうか。次の10年も精一杯、枝を伸ばしてゆきたいと思います。お祈りをします。

 

【全文】「食糧問題とキリスト教」ヨハネ6章1節~15節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることに感謝です。また子供たちも集ってくれています。私たちは子どもを大切にする教会です。共に礼拝できる恵みに感謝です。今月は世界をテーマに宣教をしています。そして今日は収穫感謝の礼拝の時を持ちます。収穫感謝礼拝は通常11月に持たれてきました。アメリカに渡ったクリスチャンたちが飢えに苦しんでいるとき、先住民から食べ物を分けてもらったということが起源になっています。

おいしい秋の実りに感謝ということよりも、食べ物への感謝を表し、飢えと分かち合いを覚える時です。今年度はこの収穫感謝の時を、10月16日の「世界食糧デー」に合わせて、10月第2週とさせていただきました。特にこのことを覚えて礼拝をしてゆきたいと思います。

私も平塚に来てから小さな家庭菜園をしています。今年はジャガイモにチャンレジをしました。ポテトサラダを作ってもらおうと思っていたのです。しかし残念ながら、あまり大きく育たず失敗をしました。。ジャガイモの葉がすべてバッタに食べられてしまったことが原因でした。来年は虫除けネットをしようと思います。

今年、教会の庭はなぜかバッタが去年より多くいました。ほかの植物の葉も柔らかいものはどんどん食べられてしましました。バッタが多かったのは雨が多く、植物がよく育ったからでしょうか。

教会の庭と世界が関係しているわけではありませんが、今年はアフリカでもバッタ(サバクトビバッタ)が大量発生し、大きな被害を受けています。原因は気候変動によって、普段雨の降らない場所に雨が降り、生物の生息数に変化が起きたからと言われています。

農作物にも甚大な被害が出ています。1日で数万人の食料がなくなるほどの被害を受けているということです。

さらにコロナの影響も、バッタの被害を拡大させました。流通網がストップしたことから、殺虫剤が現地に届くのが遅れたのです。バッタ、コロナの二つの影響で飢餓と栄養不足が拡大しています。通常でも多くの人が飢え、栄養不足でいるなか、さらに2500万人が、バッタとコロナの影響で飢えに苦しんでいると言われます。

アフリカではもともと20%の人々が栄養不足と言われていますが、このままでは2030年には25%に、つまり今より3割も多くの人が飢えるようになるということです。国連はSDGsの目標のひとつ、2030年までに飢餓をなくすという目標を立てていますが、その目標が、達成できない見込みだと報告しています。今後10年するとますます飢餓は広がると見込みを立てています。

飢餓は最も体力のない、子どもに様々な影響を与えます。成長期に必要な栄養が不足することは、一生の体格や健康を左右します。他にも教育の機会などにも影響を及ぼします。

コロナで世界とのつながりを知った私たちです。この飢餓の問題も世界の裏側の出来事として見過ごすことはできません。私たちは収穫に感謝するとき、世界の共通の課題として飢餓・栄養不足の問題を覚えたいのです。

教会は毎年バザーの収益の一部を日本飢餓対策機構という先に寄付をしていました。今年はバザーがないので、寄付することができませんが、合同の募金箱を設置しています。どうぞおささげください。また飢餓対策機構では使わなくなった歯ブラシを集めています。リサイクルをすると1本2円になるそうです。教会からもホームレス支援物資の中から使わない歯ブラシを寄付しました。家にいっぱいあるという方はお持ちください。

身近な食料問題への関わりでいうと、私たちの子ども食堂の取り組みもそうです。先週の執事会で検討しましたが、子ども食堂を10月からOPENしようと思います。世界には、そして平塚にも十分な栄養を得ることができず、様々な問題を抱える子どもがいます。世界で起きていることも考えながら、私たちの身近な場所から、できることからをしたいと願っています。

そして聖書には多くの飢餓が描かれています。それがきっかけで様々な信仰が起こされています。どのように聖書・キリスト教とこの食糧問題・飢餓問題は関りがあるのでしょうか。今日も聖書から読んでゆきたいのです。おそらくそれはキリスト教がこの食糧問題、飢餓問題に古くから関わる原因にもなっています。今日イエス様がどのように食糧問題・飢餓問題に向き合うのかを見てゆきたいのです。

 

 

今日の聖書の個所、5000人の共食と呼ばれる個所です。4つの福音書すべてに記されている、大切な物語です。イエス様に従う人々は、自分では今日食べるものも準備できない、貧しい人々の集まりでした。おそらく土地を持たず、小作農として雇われ、その日のわずかな糧を不安定に得ていた人々です。激しい格差と食糧不足の中にあった人々がイエス様に従っていました。

イエス様はこの問題に関心を寄せるお方です。宗教の役割を心の内面に関わることだけに限定しません。おなかを満たしてゆくこと、身体の必要を満たしてゆくことも、宗教の役割とするのです。

イエス様は弟子たちがこの食糧問題・飢餓問題にどのように向き合うのか見ておられました。特にフィリポに尋ねています。イエス様は「どこにこの人々のパンはあるか?」と『どこ』にあるのかを聞きます。しかし、フィリポの答えは『どこ』にではなく、『いくらかかるか。どの程度の経済対策が必要か』ということについて答えています。

イエス様の問いとは『どこ』にその解決があるかを考えてみよという問いでした。しかしフィリポは、問題の解決は無理、こんなに大きな問題は私たちの手に負えない、必要な食料が多すぎて、経済的な打撃が大きすぎて解決できないという回答をしたのです。これではイエス様の問いに答えていません。答弁のすり替えです。

もう一人の弟子アンデレは正しく「ここにある」と答えています。おそらく、この深刻な状況を知った、ある子どもが自分の持っている分をささげたのでしょう。子どもが一人進み出て、自分の食べ物、5つのパンと2匹の魚をみんなと分けたいというのです。ほほえましい光景です。

みなさんだったらそれを受け取るでしょうか。私だったらこれを受け取ることを躊躇します。一番食べ物が必要なのは子どもです。一番私たちが優先して食べてほしいと思うのは子どもだからです。最も小さく、もっとも抵抗力がなく、成長に必要なあなたが、そしてこのパンの持ち主であるあなたが、まず優先して食べるべきです。

しかし今それを、子どもがささげています。一番必要なはずのあなたが、一番小さいはずのあなたが、ささげています。私がイエス様だったらこれを受け取れません。

これは君の分でしょ。自分で食べていいよ。大人は大人でどうにかするから、心配しないで「まず君が食べな」そう言うでしょう。あるいは本当にそういうやり取りがあったかもしれません。

しかしイエス様は不思議にもこのパンを受け取りました。圧倒的に不足する食糧に対して、こども一人の小さな捧げもの、大切なものを受け取りました。イエス様は貧しく、最もそれを必要としている子どもの捧げものを受け取ったのです。

 

そしてイエス様はその5つのパンと2匹の魚に感謝し、祈りました。小さな者の小さな捧げものを受け取られるのです。それをみんなと分け始めたのです。5つのパンを5000人で分けることはできないはずです。しかし不思議にも、それはなくなることなく、全員に行き渡り必要な分を満たし、なお12かごいっぱいに余った、まだ他の人が食べる事ができるほどに増えたというのです。

イエス様は不思議な力の持ち主です。小さな者の、小さな捧げものを受け、それを何倍にも、1000倍にして返してくださるお方です。この奇跡を私は手品のように受け取るのではなく、捧げれば魔法で増やしてくれるのではなく、象徴として今日受け取りたいのです。イエス様は一人の小さな者の、小さな捧げものを大きくして下さるお方だということです。

私たちはあまりに多くの人々の飢え・栄養不足に直面した時、無力で自分一人が何かをしても、ほとんど世界は変わらないと感じてしまいます。私は役に立たないと感じてしまいます。でもそうではないと、イエス様はおっしゃっています。小さな私の、本当にできる限りの小さな捧げものが、イエス様によって、大きなものへと変えられてゆくということを見せられているのです。いえ、むしろ最も小さい者の、小さな捧げものが、世界を変えるというのです。だから、どんなに私が小さくてもできることから、小さくてもそれに向き合いたいのです。

私たちは今、グローバルな課題への対処が求められています。気候変動や食糧問題、プラスチック問題。そのどれもが私たちにできることはあまりにも小さいのです。自分一人がしたことで、何も変わらないのです。課題のスケールが大きすぎるのです。でもイエス様はそのスケールに対してあまりにも小さい行動をしっかりと受け止めて下さるお方です。そしてそれを大きくし、解決へと導いてくださるお方なのです。

世界にパンが行き渡ること、私たちが少しでも世界と分かち合うこと、必ず世界は一致できることを覚えて、私たちは歩んでゆきましょう。私たち小さい者の小さな行動を、必ずイエス様は大きなものとして下さいます。それは様々な問題においても同じです。私たちは収穫感謝の時、その恵みに感謝し、歩みだしましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「イエス様の行動から信じる」ヨハネ10章31節~42節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も子どもたちとともに、礼拝をしましょう。また今月は世界をテーマにしながら聖書のみ言葉に聞いてゆきたいと思います。

先週ご説明したように、今日はこの後、久しぶりに主の晩餐を行います。いつもは祈り、パンとブドウジュースを飲んでいます。それはイエス様とともに過ごした日々を思い出す、忘れないために行う大切な儀式です。

今日はコロナの防止の観点から、パンと杯をなしで、み言葉のみで執り行います。それがなくては主の晩餐にならないという思いもありますが、今できる最大限の方法だと思います。

これを機会に改めて主の晩餐について考えてどのように自分が受け取っていたか、もう一度確認をしてゆきましょう。あのパンを食べるという行為は一体何を目的としていたのでしょうか。それはイエス様と一緒にした食事と、一緒に行動した日々を記念するため、思い出し、忘れないようにするためです。

ですから本当はパンと杯があった方が良いのだけれども、その方がより強く思い出すのだけれども、今は事情が許しません。今できる形で最大限イエス様との食事を、イエス様との行動を思い出すという方法をとります。

どんなかたちであれ、主の晩餐ができることはやっぱりよかったと思うことでしょう。しかし、主の晩餐とは「ああ、久しぶりにできて良かった」で終わることができない事柄です。主の晩餐を受けると、それを受けてどう生きるか、イエス様との食事と日々を思い出してしまったあなたは、この1週間をどう過ごすのかが問われます。それが主の晩餐です。イエス様の愛を近くに感じるからこそ、私たちはそれに突き動かされてしまうのです。

今月私たちは世界をテーマに聖書を見てゆきます。今日はキリスト教の多くの教会で、教派・グループを超えて「世界聖餐日」という日をもっています。あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、世界聖餐日とは、世界中のキリスト者が主の晩餐によって一致しを確認し、互いの信仰を認め合う日です。

この世界聖餐日は特に第二次大戦中に世界に広がりました。世界中のクリスチャンが戦争のさなかにあって、この主の晩餐において一致を確認し、平和を求めたのです。それがこの世界聖餐日です。今日、世界中の教会がコロナ禍の中で、様々な形で主の晩餐を持っている、あるいは中止をしています。私たちはこの世界に連帯する主の晩餐を今日持ちたいと思います。

このコロナ禍の中で、世界の一致、連帯、愛の行動がより強く求められています。世界聖餐日、そのことを覚えたいのです。

私たちは、はやくワクチンを打って、安心して礼拝をできるようになりたものです。しかし、コロナワクチンは新しい問題を突き付けています。ワクチンナショナリズムの問題です。いま世界はワクチンの争奪戦と開発競争のなかにあります。力とお金のある国がワクチン独り占めにしようとします。あるいは人々のためではなく、国際社会で優位に立とうという理由で、世界に先駆けてワクチンを開発しようとしている国もあります。そして世界のワクチンの三分の二は欧米や先進国だけに使われると言われています。このままでは途上国での感染拡大を抑えることができません。それは結果的に世界的な再流行を招きます。

ワクチンについて世界がどう一致と連帯のある行動をとれるかということが問われています。今、世界が愛の行動をとり、分かち合うことができるかが問われています。

WHOは、世界各国にワクチンを公平に届けるための枠組みを作り、それに参加するように呼びかけています。日本の他150か国以上はこの枠組みに参加していますが、米国や中国、ロシアは参加していません。日本は自国分を確保したうえでこれに参加しています。

国籍や国境によってワクチンの有無が決まるのではなく、より必要な人に行き渡るように願います。自分と自分の周りが守られればよいのではなく、世界の命が守れること、必要な人に、必要な支援とワクチンが行き渡ることを願います。人々が愛の行動をとることができるように願います。

コロナの時、主の晩餐をするとき、イエス様の愛の行動を思い出します。そして世界が自国優先、自分優先ではなく、一致と連帯、愛の選択、愛の行動をすることを願いつつこの主の晩餐をいただきます。世界聖餐日、このことを覚え、主の晩餐にあずかり、そして聖書を読みたいのです、

 

今日の個所をお読みしましょう。今日も石をもって、殺意をもって、暴力でイエス様に対峙する人々が現れます。イエス様は暴力にどう向き合うのでしょうか。今日もイエス様は非暴力で向き合います。パワーに対して、パワーで返すことはしません。

彼は神の言葉によって抵抗をします。非暴力で抵抗するのです。力、軍事力や経済力で問題を解決しようとしないイエス様の姿です。聖書には確かに暴力を容認するような箇所もあります(レビ)。しかしイエス様はそれを否定します。非暴力によって、抵抗をするのです。愛の行動によって、問題に立ち向かわれるのです。

今日の個所でイエス様は38節、私を信じなくても、私の業・行いを見て信じなさいと言います。業とは奇跡だけを指す言葉ではありません。奇跡を見たのだから信じないさいということではありません。業とはイエス様の人生全体、行動全体、生きざまそのものを指します。

イエス様の行動、生き様、それは今日の個所では暴力に対して非暴力・み言葉で立ちむかうという生き様です。その私の生き様、姿、後ろ姿を見て、信じなさいというのです。

イエス様の愛の行動・生きざまを見て、私を信じなさいといいます。イエスの生きざま、どのような生き様だったでしょうか。今日の個所では非暴力です。あるいは別の個所で石に打たれて殺されそうになった女性がいました。姦淫の罪を犯したと言われる女性です。イエス様の生き方、行動は、死に直面している弱い立場の側に立つという生き方でした。

あるときは差別をされているサマリアの女性に出会いました。その時も差別を超えて、対話した女性は、イエスのその業、愛の行動によって信じるようになりました。

あるときは生まれつき目の見えない人、この両親はどんな悪いことをしたのかと指をさされている人に向けて、愛の行動をとられました。それは罪からではなく、そこに必ず神様が働かれるのだと言いました。不自由を持つ人の名誉を回復する行動、愛の行動でした。

ヨハネの主の晩餐、5000人の共食でいうならば、食べ物を独占するのではなく、分かち合う、独占に反対する生きざまでした。生活に困窮する人々と食べ物を分かち合う愛の行動でした。

イエス様の業、生き様、行動とはそのようなことです。神様の愛をそのまま生きる、生きざま、愛の行動だったのです。

イエス様は、業を見て信じなさいと言います。私たちは聖書の知識や奇跡の体験だけで神様を信じるようになるのではありません。私たちはイエス様の生き様、愛の行動を見て信じるようになるというのです。

イエス様はヨルダン川の向こう側に退かれました。そしてその先で多くの人がイエス様を信じたといいます。その理由は「しるしを行ったから」です。愛の行動を目撃した人々が、イエス様の生き様を通じて、愛の行動を通じて、神様の存在を信じるようになったのです。

イエス様を信じた人とは、洗礼者ヨハネにはないイエス様の行動、生きざまに関心を示し、信じるようになった人々です。愛の行動を見て、信じたのです。

私たちがもし、神様のことを信じることができないと思うのなら、難しくてわからないと思うなら、言葉が難しい、愛とはなんであるかわからないと思うなら、ぜひイエス様の生きざまを見てください。イエス様の愛の行動を見てください。そうすればきっと神様のことをわかる、そう今日の個所は語っています。

イエスの行動を知れば、ああこの人を信頼したい、この人との関係を続けたい、この関係の中に生きたい、入りたいと思うでしょう。それが業を見てしんじるということです。イエス様の愛の生きざま、地上での歩みを通じて、神様の存在を信じるようになるのです。

私たちはイエス様の行動を見て、信じます。そしてその愛の行動を思い出すために、この主の晩餐を持ちます。この主の晩餐によって、イエス様の愛の行動を繰り返し思い出すのです。そしてこの主の晩餐によって、私たちも愛の行動へと押し出されます。これを受けると、あなたも愛の行動をしたいと願うようになります。それがイエス様に従うようになるということです。

信仰とはイエス様にならって、具体的に従うということです。愛の行動をするということです。愛のある態度をとるということです。イエスのような生きざまを目指すことが信仰です。自分優先、今優先、経済優先をやめること。他者に仕え、未来を守り、命を優先にしてゆくことが愛の行動です。

私たちは久しぶりの主の晩餐、イエス様と一緒にいた食卓を覚えて、イエス様の愛の行動を思い出して、この晩餐をいただきます。

私と神様、私ととなりびと、私と世界の人々を覚えて、この主の晩餐をいただきましょう。そしてこの主の晩餐で、イエス様の愛の行動を思い出しましょう。これをいただき、私たちも愛の行動を選びましょう。

今日は世界で共に主の晩餐が行われます。私たちもそれにあずかり、愛に生きるものとして歩みましょう。お祈りいたします。

 

 

【全文】「神様の一体感」ヨハネ10章1節~16節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができること、感謝です。今月は子どもということをテーマにしながら宣教をしています。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちの声を聴きながら共に礼拝をしましょう。

私たちは毎週木曜日10時30分から12時まで、教会の西側にある「こひつじ館」で、幼児向けの集まりを持っています。小さなお子様連れの方であればどこに住んでいる方でも歓迎です。集まって子供たち同士は遊んだり、親たち同士が子育てや日頃のことなどを話しあい、子育てに行き詰らないようにしています。これを手伝ってくださるボランティアさんも募集しています。

先日この「こひつじひろば」に27名の方が来ました。12名の子どもと12名の保護者、3名のスタッフです。子どもたちや保護者の方たちもこの日を楽しみにしてくれている様子です。27名だった日は、久しぶりに集まった、すこし大きな2歳くらいのこどもたちもいて、にぎやかになりました。密にならないように会堂のこどもスペースを解放したところ、礼拝堂の探検をされる方もいました。

この瞬間、平塚バプテスト教会が地域の一つになれた瞬間だったように感じます。この教会が地域に必要とされ、楽しみにされ、頼られている存在だと感じることができました。平塚教会は70年間ずっとこのことを大切にしてきた教会だと思います。今年中止になってしまいましたが、毎年のバザーには、楽しみにしてくれている人がたくさんいました。一年で一番教会に人が集まるのがバザーです。

教会と地域の結びつきは様々な形で持たれています。ホームレス支援やフードバンクに一室を貸し出したり、コンサートやクリスマスなど様々にあります。私たちの教会は地域との一体感がある教会ではないでしょうか。そして子ども食堂も早く始めたいと思っています。平塚の豊原町にある教会として、大きな群れではないけれど、草の根の活動を続けてゆきたいと思います。地域との一体感を感じてゆきたいと思います。もちろんそこから私たちの教会の一員になってくれる方がいたらうれしいのですが、まず私たちが地域の一員になりたい、そう思います。こひつじひろばもこどもが一人、しかもうちの子どもという時期もありました。でも私たちは地域とのかかわりをやめませんでした。関係を待ち続けて、こどもを待ち続けました。

たくさんの方が教会を楽しみにしたり、頼ったりして下さっています。でも私たちのメインコンテンツ、一番大事にしているのは礼拝です。だから緊急の時は礼拝だけに活動を絞りました。それは私たちが礼拝共同体だからです。多くの人に求められ、多くの人に頼られ、礼拝よりたくさんの人が教会に集まります。ときどきどっちが本業かわからなくなる時もあるかもしれません。それは、どこかうれしくもあります。もっと礼拝も増えないのかなと考えるときもありますが大丈夫です。きっとこれを続けることで仲間が増えるはずです。

私たちは地域との結びつきを大事にします。でもそれは会員獲得が目的ではありません。どちらかというと礼拝は私たちの出発点です。様々な活動がありますが、私たちの出発点は礼拝です。神様との結びつきを礼拝で確認することからすべてを始めます。神様が私たちと一緒に歩んでくださり、共にいて下さることを確認する礼拝が私たちの出発点です。神様が共にいる、強く私たちと結びついてくださる、一体となってくださる。だからこそ私たちも、地域や社会の人たちと他者と共に生きよう、そのように歩むのです。

私たちが誰かとつながろうとするのは、神様が私たちとつながろうとして下さるからです。神様は私たちと一体となってくださいます。神様と私たちの一体感、それが私たちと地域との一体感の出発点です。

私たちは礼拝なしに、神様とのつながりを知ることはできません。神様とのつながりを知らずに、私たちは誰かと強くつながることはできません。それはつながってもすぐにほどけてしまうものです。

私たちは、神様が共にいて下さる、その一体感を礼拝で知ります。そしてまた地域で、社会で、それぞれの場所で、私たち自身が他者とつながりあってゆく、その歩みに派遣されます。今日の礼拝でこの聖書の個所から神様との一体感を感じて、またそれぞれに派遣をされてゆきましょう。

 

今日の聖書個所を読みましょう。今日の個所は神殿奉献祭という場面です。神殿奉献祭について説明をします。この祭りは簡単にいうと、神殿を外国から自分たちのもとに取り戻すことができたということを祝う祭りです。紀元前164年シリアが神殿を支配し、神殿には異教の神々がまつられました。しかしユダヤの人々は多くの犠牲を出しながらもシリアを倒し神殿を奪い戻したという出来事、それが神殿奉献祭の始まりです。口語訳では「宮きよめ」とありましたが、宮・神殿から異教を追い出した、汚れた神殿を清めたのを記念する祭りだったという意味です。

この祭りの最中に人々が一番求めていたこと、それはもう一度、宮清めが起こることでした。シリアに代わっていま自分たちを支配しているローマがこのエルサレムから出ていくことを待ちきれないほど、24節気をもませるように、期待したのです。ユダヤの人々はイエス様にその力があるのかどうか見極めようとしました。だからイエス様に迫るのです。24節「もしメシアならば早く言え」と迫ったのです。

しかしどうやらイエス様には、ローマの支配を終わらせるような強い力、軍事力はなさそうです。イエス様は無力な田舎者でした。彼を信じて従ったのはサマリヤの女やガリラヤの無学な漁師です。ユダヤの人々の期待は外れました。宮清めの期待が裏切られた人々は、イエスを殺せと言う様になります。自分の期待通りに動かないならは死んでしまえということです。

相手に利用価値があるかどうか、自分の意に添うように動くかどうかが基準となる関係はとても弱い関係です。いまの首相も自分の意に沿わない人は異動と言い切っていますが、他者ととても細い結びつきしか持たない、薄い関係しかもたない人間です。すぐに見捨てられたり、裏切られたりするでしょう。

しかし、そんな利害関係、利用価値でしか相手を見ることができない人たちにもイエス様はあきらめずに語り続けておられます。25節どんなに響かないと思われる人にも、何度でも語り続ける姿がそこにあります。関わりをやめない、真の関係を作ろうとするイエス様の姿、はっきりと言い切る姿があります。

今日私が一番重要だと思う言葉は、30節「私と父は一つだ」という言葉です。「私と父は一つだ」それは不思議な言葉です。神様とイエス様の二つ、二人の方がおられます。でもそれはひとつだというのです。神様とイエス様、その二つは、とても不思議な結びつきでつながって、ひとつなのです。

ひとつであるとは、イエス様と神様は引き離すことができない関係だということでしょう。人間の結びつきとは時に弱いものです。たとえ親子、兄弟、夫婦であっても、結びつきがほどけてしまうときがあります。しかし神様とイエスは非常強い結びつきです。まさに、ひとつ、一体なのです。ひとつと言われるほどに神様とイエス様は強い結びつきなのです。これに聖霊を加えると三位一体という言葉になります。

そして、イエス様は神様とだけではなく、私たちとも強く結びついてくださるお方です。神様とイエス様が固く結ばれているように、私たちもイエス様と固く結ばれているのです。私たちはイエス様の羊だからです。私たちは、羊飼いであるイエス様の声を聞き分けます。もちろん、時々聞き漏らしたり、間違えたりします。100匹の集団から私1匹だけはぐれてしまうこともあります。でもイエス様は、あなたは私の羊だと言って私たちとともにいて下さるお方です。私たちとどんな時も固く結びついてくださるお方です。

イエス様を信じるとはどんなことでしょうか。イエス様を信じる、イエス様の羊となるということは、何かを強く念じたり、強く思い込むことではありません。それはイエス様との関係に入ることです。イエス様が絶対に離れないと言ってくださる、その関係の中に私も入るということが信じるということです。信じるとは信頼する、イエス様との関係に信頼するということです。イエス様は絶対に私と離れないという信頼に入ることが信じるということです。

その関係に入ると、死ぬことがなくなります。何百歳も生きるのではありません。復活された方、死に打ち勝つ方との関係に入るということです。それが28節滅びない「永遠の命」の中に生きるということです。

私たちはイエス様と特別に強いきずなをいただくものです。それは私たちがしがみつく、すがり付くものではなく、イエス様の方からそのような関係になってくださっているのです。だから私たちを襲うどんな苦境や災難も、イエス様と私たちの関係を壊すことはありません。イエス様と私たちを引き離すものは何もないのです。29節誰も神様との関係から私たちを引き離すことはできないのです。神様の愛から私たちを引き離すものは何もないのです。そのことを信頼して歩みましょう。

神様とイエス様は固い関係で結ばれ、ひとつの関係です。そうであるのと同じように、私たちとイエス様も固い関係で結ばれた、ひとつの関係です。そして私たちはイエス様が私たちと強い関係の中にいて下さるからこそ、地域と、社会と、他者と強い関係を作ることができるのです。それが神様にある一体感です。その一体感を多く人とともに感じたいのです。

こどもをテーマに礼拝をしています。礼拝は、神様が共にいて下さる、その一体感、神様の側から私たちに強く結びついてくださる一体感、そのことを礼拝でも表したいと思います。そして私たちの一体感を大事にしましょう。こどもたちとの一体感を礼拝で大事にしたいのです。神様が私たちと強く結びついてくださるように、私たちも子どもたち、教会の仲間たち、地域の人たちと結びついてゆきたいのです。そして子供たち自身にも、神様からの強い結びつき、一体感を感じてほしいのです。これからも子どもととともに礼拝をしてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

 

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【全文】「私たちは羊、イエス様は羊飼い」ヨハネ10章1節~16節

みなさんおはようございます。今日も共に集まって礼拝をできることを感謝します。私たちは子どもたちを大切にする教会です。今日も共に、声を聴きながら礼拝をしましょう。そして子どもというテーマで今月はみ言葉を聞き続けています。

子どもというテーマで聖書を聞きますが、今日は後ほど敬老祝福祈祷を持ちます。先日ある木曜日、教会員のSさんの家を訪問しました。100歳になられたお祝いに伺ったのです。木曜日でしたので午前中はこひつじ広場で0歳の子どもと遊び、午後は100歳の方を訪問するという一日でした。0歳も100歳も大事にする。教会っていい場所だなと思いながら、それに携わる牧師の仕事って幸せな仕事だなぁと思いながら帰ってきました。

Sさんは娘さんと一緒にYouTubeで礼拝をされたこともあるそうです。今日も一緒に見ているでしょうか。離れていて、オンラインで礼拝に参加している方々も、共に心を合わせて礼拝をしましょう。

私たちはヨハネ福音書を1年間かけて読もうとしていいます。途中で礼拝をテーマにした期間は少し違う箇所を取り上げる日もありましたが、今日でヨハネを取り上げるのは36回目になります。あと5回ほどヨハネが続く予定です。ここまで一緒に読んできたヨハネ福音書の特徴を振り返ってみると、いくつかのキーワードが思い浮かびます。光、言葉、羊、女性、対話、従う、そして私は〇である、といったことがキーワードだったでしょう。ほかの福音書よりもこういったキーワードが繰り返し語られています。

またほかの福音書と比較すると、たとえ話が少ないことも気づきます。ルカによる福音書では放蕩息子、マタイによる福音書ではからし種のたとえが有名です。でもヨハネ福音書にはたとえ話が少ないのです。私は光だ、私は子羊だという比喩はたくさんあるのですが、ストーリーとして物語るようなたとえばなしは多くありません。ですから今日の個所を味わって読んでゆきましょう。

 

 

羊飼いの大事な仕事は何でしょうか。それはまず羊を群れにすることです。羊は弱い動物です。一匹一匹ではとても弱く、襲われたり、迷ってしまう動物です。羊飼いは迷わないように、羊を群れにさせます。

そして羊飼いは羊の群れに餌となる草を食べさせるのも大事な仕事です。草のある場所へ羊の群れを導きます。適当に、やみくもに導くのではありません。しっかりとどこが豊かな草に覆われているか、どこに草がないかを知っているのが羊飼いです。水も同じでしょう。井戸や水のある場所も知り、導くのです。

獣から羊の群れを守るのも大事な仕事です。狼などの野獣に出会うときは、石を投げてその野獣を追い払ったそうです。時には自分の命を危険にさらしても羊を守る、それが羊飼いです。それだけ羊飼いが羊の群れを大事にしていたということです。

また夜に出て行ってしまわないように、あるいは夜に獣に襲われないように安全な囲いの中に入れるのも、羊飼いの仕事です。羊たちは囲いの中で安心して眠ることができます。

そしてただ囲いに入れるだけではありません。門で羊飼いは、羊の群れ一匹一匹がケガをしていないか点検します。羊飼いはそうやって群れの一匹一匹を丁寧に見るのです。

羊飼いは羊一匹ずつに名前をつけ、見分けることができます。例えば水辺や牧草地ではほかの羊のグループと混ざってしまうときもあります。あるいは共同で囲いを作り、羊をその中に入れるときもあります。しかし羊飼いはどれが自分の群れの羊かをしっかりと見分けることができます。それほど一匹一匹を知っているのです。

羊飼いの仕事はこのような仕事です。集める、導く、守る、食べさせる、けがをしていないか点検する。それが羊飼いの仕事です。

今日のたとえでイエス様は11節でご自分を「私は良い羊飼いだ」といいます。イエス様はこのようなお方なのです。イエス様は羊飼いのように、私たちを集め、守り、食べさせ、けがをしていないか点検する。それがイエス様というお方です。

私たちはイエス様に集まられて礼拝する群れです。私たちはイエス様に日々を守られている群れです。イエス様に生きる糧をいただく群れです。私たちはイエス様に優しく見守られている群れです。イエス様の囲いの中で安心して眠る群れなのです。

ヨハネには羊という言葉がよく出てきます。羊は弱い動物ですが、その特徴は、4節自分の羊飼いの声を聞きわけることができるということです。似ている声であっても、自分の羊飼いの声ははっきりと聞くことができるのです。聞き分けることができるのです。

そしてその弱さゆえに、羊は群れになる。一人では生きていけないからです。その群れはただ群れる、集まるのではありません。羊飼いによって群れとされるのです。

この人についていけば、この人に導かれれば、安全だと信頼をするから、多くの羊が従います。群れになるのです。もし私がけがをしたら、もし私の足が遅くても、この羊飼いなら、私を置いていくことがない。私が野獣に襲われるとき必ず、自分を危険にしても助けてくれる、それが私の羊飼いだと従うのです。

その信頼ゆえに、羊は羊飼いの声を聞き分けます。ですからこの群れは、ただの群れではなく、羊飼いを信頼する群れです。羊同士には親子や血のつながりがあるかもしれませんが、一番はこの羊飼いに信頼する仲間という関係です。このように羊と羊飼いとの特別な信頼関係、そして羊同士の信頼関係がこの群れにはあります。それが羊、羊の群れです。

このたとえでイエス様は、私たちのことを羊の群れだと言っています。羊の群れとは教会のことです。私たちはイエス様のもとで、み言葉を聞く群れです。私たちは何が神様のみ言葉かよく聞き分ける群れです。

一人一人は弱いかもしれません。でもだからこそ群れ・教会になります。その群れは、どんな時も私たちを導いてくださるイエス様に信頼する群れです。その群れ、教会の仲間は、おなじ一人の方を信頼する仲間です。それぞれにイエス様を信頼する群れです。

そしてそれぞれがイエス様を信頼する時、私たちの間にも特別な信頼関係が生まれます。それが教会の交わりです。教会にいくと眠くなる、そんな方いませんか?教会で眠くなるのはきっと、囲いの中で、信頼関係の中で安心をするからでしょう。イエス様への信頼、仲間への信頼があなたを眠くさせるのでしょう。

そして牧師ということばがある。でも私は本当は羊飼いではありません。本当の羊飼いはイエス様ただおひとりです。私もみなさんと同じ羊です。お互いに、こっちこっち、あっちあっちと言いあいながら、一緒に羊飼いに従う羊です。ちょっと色の違う羊ともいえるでしょうか。

今日のたとえには羊の門という言葉も出てきます。この信頼できる安心の中に入ることができるのが門です。この門は、信頼と安心にいたる門です。しかし、良い羊飼いの門だけではなく、偽物の羊飼いもいます。

偽の羊飼いは見た目はそっくりでも、羊を大事にしません。13節、羊は心にかけられない、大事にされないのです。その群れでは、羊は困難な状況になるとすぐに切り捨てられ、置き去りにされてしまいます。一度、獣に狙われたら最期、自分の力だけでどうにかするしかありません。逃げ足の速い羊しかもう生き残れません。自助・公助・共助という言葉がありますが、この群れは厳しい自助を求められます。自分の力で生き残るしかないのです。この群れに安心はありません。本当に羊を大事にする羊飼いの中でこそ、羊は安心して生きて行けるのです。

このたとえでイエス様はご自分をこの門だといいます。信頼と安心に至る入り口だというのです。この入り口に入らない世界とは、偽りの指導者に導かれる世界です。そこは弱肉共食の世界です。弱者、こども、高齢者は切り捨てられ、見放される世界です。だれも他者を助けようとしない、自分の力だけで、周りなど見ずに、一生懸命、ただ自分の命のためだけに恐怖から逃げ続けるのが人生になる。そのような世界です。

イエス様は16節まだこの信頼と安心の囲いに入っていない羊がいるといいます。今まさにそのような厳しさの中に生きている人がいます。その人は声をかければ必ず聞き分けるでしょう。こっちの門の方が安心できるよ。必ずその声は聞き分けられるはず。

16節の最後こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになるとあります。もうお判りでしょう。イエス様という一人の方に導かれ、私たちは教会になるということです。

イエス様は私たちの羊飼いです。私たちを安心と信頼に導くお方です。私たちは羊の群れです。私たちは主を信頼します。そして私たちは同じ主を信頼する者として、互いに信頼しあいながら歩みます。世界では見捨てられる人がいます。私たちとともにこの羊飼いのもとで生きよう、私たちはそう伝えたいのです。

さて、今月はこどもというテーマでもみましょう。子羊は群れの中でもっとも大切にされる存在です。ぜひ私たちも名前を呼びあい、傷ついていないか点検しあう羊でいましょう。この場所を子どもたちに信頼と安心を感じてもらえる場所にしたいです。教会の子どもたちだけではなく、多くの子どもたちの名前を覚え、安心してもらいたいのです。きっと子供たちは聞き分けて、信頼してくれるはずです。

 

このあと高齢者祝福祈祷を持ちます。年を重ねた羊ももっとも群れの中で大切にされる存在です。私たちは、子どもも大人もイエス様の信頼と安心のもとにある、一つの群れです。ともに神様の導きと守りを感謝し、信頼し、互いに祈りあいましょう。私たちは羊、イエス様は羊飼いです。お祈りをいたします。

【全文】「愛に生きる自由」ヨハネ8章31節~47節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができて感謝です。子どもたちも集ってくれています。平塚教会はこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聴きながら、共に礼拝をしてゆきましょう。特に今月は子どもをテーマとしながら宣教をしてゆきたいと思います。

今日の宣教題は「愛に生きる自由」という宣教題ですが、皆さんにとって「自由」とはどんなことでしょうか。たとえば食べ放題、好きなものを好きなだけ食べる自由です。回転寿司もそうでしょうか。家族で行っても、好きなネタを好きなだけ食べることができます。以前オーダーメイドのスーツを作ったことがあります。いろいろなオプションが選択できました。選べるのはスーツの生地や色、シルエットだけではありません。ボタンの色や形、ポケットの傾き方、裏地の色、すべて自分の自由に作ることができます。私たちの生活はなんでも自分で選び、決めることができるように思います。ドラッグストアのシャンプーは種類が多すぎて選ぶことができません。

しかしそれが本当の自由かというと、自由はそんなに安っぽいことではないはずです。本当の自由とは何か、自分は自由であるかを考える時、私たちの内面を見る時、自分はそれほど自由ではないと感じるのです。

私たちには本当はこう生きたい、こんな人間になりたいと思っているのに、なかなかそうなることができない、不自由さがあります。本当はあんなことすべきではなったとわかっているのに、そうしてしまった。本当はもっとこんな言い方をすればよかったのに、あの時すぐに謝っておけばよかったのに、そんなつもりはなかったのに。私たちは自分がすべきと思うことができない不自由な存在です。したいことができない不自由さを生きている存在です。誰も傷つけたくないのに傷つけてしまう、不自由さの中に生きている存在です。シャンプーが選べるのは表面的な自由です。でも人間はその本質で、誰もが不自由さの中に生きています。

クリスチャンはさらに不自由に見えるでしょうか。多くの人から見て、毎週日曜日に教会に来るということは、大きな不自由に見えるでしょう。日曜日に誘われるゴルフ、BBQ、同窓会、家族サービス、休日出勤。みんな「できません」と断って教会に行きます。周りの人は「ああ、キリスト教は、なんて不自由な宗教なんだろう」と見えるでしょう。教会に来る、礼拝に続けて出席するとは不自由の極みではないでしょうか。でも私たちはこの不自由を選び続けています。今日も選びました。

教会に毎週集うこと、それは表面的には不自由に見えます。でも本当の自由が教会にはあるのではないでしょうか。教会は自分がどう生きたいか、どう生きたくないのかを考える場所です。そして神様と仲間から、それを生きる力を頂くことができるのが教会・礼拝です。一番私たちがしたいこと、それは愛に生きるということです。その一番したいことと正面から向き合っている教会・礼拝、それは私たちにとって一番したいことに取り組んでいる自由な時ではないでしょうか。

目先の自由ではなく、本当に私たちがどう愛に生きるかを考える、本当の自由さを求める、本当の自由さがあるのが教会・礼拝ではないでしょうか。キリスト者は不自由に見えますが、本当は最も自由です。しかも教会では、神様の前では何だって祈っていいのです。どれだけ実現不可能と思えることだとしても神様に祈っていいのです。どんなに自分が不足と欠けのある人間であっても、人を愛することができるように、愛に生きるようになりたいと祈ってよいのです。

教会に集うこと、一番したい愛に生きるということの為に集うことの方が、シャンプーを選ぶよりも何倍もしたいこと、何倍も自由な時ではないでしょうか。本当に私たちがしたいことを目指す場所、純粋にそれを目指すことができる場所、自由な場所、それが教会・礼拝ではないでしょうか。だからこそ教会はなるべく自由な場所でありたいと思います。ああこうしなさい、こうすべきだというよりも私たちは愛に生きるために「どうなりたいか?」とか「どうありたいか?」を大事にしたいのです。それを聖書から聞いてゆきたいのです。

私たちは今日も、神様の言葉の中に、とどまるために集まりました。この礼拝に集いました。私たちは「愛」を選びたくても、なかなか選ぶことができないものです。でも今日、私たちが一番欲しい、愛に生きるということができる力、それをこの礼拝で受け取りたい、そう思うのです。それが私たちの一番したいことだからです。

 

 

今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所では自分たちは自由だという人々が登場します。イエス様はそんな彼らに、本当の自由とは何かを問いかけます。ここではユダヤの人々と出てきますが、律法でがんじがらめの自己中心的な人というような差別的な読み方はしたくありません。

 

よく読むと、31節「自分を信じたユダヤ人」とあります。この話はイエス様を信じますと言った人、少なくとも一度は信じた人に向けて語っています。つまり信じているのだけれども、何が自由かということが、再びわからなくなってしまっている人に語り掛けているのです。これは私たちのことも含むでしょう。一度はイエス様を信じても、本当の自由が何だったのか、わからなくなってしまう者、私たちです。

ユダヤの人々は自分が自由だと思っていました。奴隷ではないのだから、自分の生き方は自分で決めることができるのだから、自分たちはアブラハムの子孫、解放の歴史を持つ民族なのだと思っていました。

だから自分たちは自由だと感じてきたのです。たしかに彼らは困難の中でも自分たちの自由を守り続けてきました。しかしそれでもイエス様は、あなたたちは不自由だと言います。ユダヤの人々はあなたがたは不自由だと言われて怒りました。そしてもうそれ以上イエス様の言葉を受け入れようとしませんでした。37節むしろ殺そうとするようになったのです。

人々は、自分たちの自由を否定するイエス様を侮辱します。41節「私たちは姦淫の子ではない」とはイエス様の母親のマリアは結婚前に妊娠していたのだという、イエス様の出自を馬鹿にしている発言です。彼らの不自由さというのは、まさしくその言葉に表れています。

一度は信じたはず、神様の恵みを教えてもらったはず、でも目の前の相手を大切にできないのです。愛の関わりを持つことができないのです。そうすべきとわかっていても、出自への差別の言葉がでてきてしまうのです。なんと不自由な姿でしょうか。愛しあいたいと思っていても、口からはののしりの言葉が出てきてしまうのです。思うようにいかない、人間の不自由さを表しています。

そんな人々に44節でイエス様は言います。人は「初めから人殺し」だと、厳しく人の不自由さを指摘しています。旧約聖書のカインとアベルのことを指しているのでしょう。兄弟として力を合わせて歩むはずが、弟を殺してしまったアベル。

人は神の愛、恵みを知りながら、人と人とは共に生きる存在だと知りながら、不自由にもそれができず、殺しあう存在です。したくもない人殺しをしてしまった不自由。殺してはいけないとわかっていても殺してしまった不自由。ともに生きたいと思っていたのに、傷つけてしまった不自由。人間は愛の実践をできない不自由な存在、真理に立っていないのです。

 

私たちは本当にしたいことをできる、自由を求めます。私たちのしたいこと、すべきことができる自由さを手に入れたいのです。私たちはすべての人を愛することができる自由が、欲しいのです。殺しあうのではなく、愛し合うことをしたいのです。そのためにはイエス様が必要だと挙げていることが今日の最後の個所、47節に示されています。「神に属する者は神の言葉を聞く」という箇所です。

「神に属する者は神の言葉を聞く」というのは、言い換えるならば、神様に属する自由を得るためには、神の言葉を聞くことが大事だということです。表面的な自由ではなく、神に属する自由を得るためには、神様の言葉が必要です。聖書に聞いてゆくことが必要ということです。

私たち人間は自分の力では本当の自由を得ることはできません。自分の力だけではもっともしたい、愛に生きるということができないのです。自分の力だけでは不自由さのなかにとどまらざるを得ません。私たちは自分の、人間の不自由さにまず気づく必要があるでしょう。神のもとにいなければ、神に属さなければ、どれだけ日常を自由に過ごしても、愛に生きることはできない不自由なものであり続けるのです。

私たちは神なしには、他者を傷つけるということから逃れられない、不自由な存在です。私たちは本当の自由を求めます。誰も傷つけず、傷つけられず、共に生きる道、それが一番歩みたい道です。それは神様の導きの中にあります。それを生きる自由さを神様からいただいてゆきたいのです。

こどもというテーマを頂いています。その視点からも考えましょう。どうしても私たちは子どもに、あなたも教会に来なさいと言ってしまうものです。そして教会に来てからは静かにしなさいと言ってしまうのです。

本当は神様からいただく、自由を感じてほしいのに、そう言ってしまうのです。もしかして新しく来た方も不自由を感じているかもしれません。でも私たちは伝えていきたいのは、忘れないでおきたいのは、ここがまず本当の自由を求める場所なんだということです。愛に生きる、その一番したいけど、一番難しいことを、ここでしているのだということです。

それはもちろん、なんでもかんでも自分の思い通りにできるという、安っぽい自由ではありません。愛に生きること、あなたを大切にしたい、誰もあなたを傷つけない、その実現を求める場所です。そのことを忘れないようにしたいのです。

私たちは神様の前に、本当の自由を求めましょう。そして大人も子どもも共に礼拝をしてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「神はすべての人の光」ヨハネ12章20節~31節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝をいたします。今日も主の晩餐をできないことはとても残念です。主の晩餐がないのが普通になってしまうことを心配しています。いま私たちは主の晩餐にあずかることができませんが、ともにそれができる日を祈りましょう。

8月は共に平和を覚えてみ言葉を聞いてきました。9月は「こども」をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。平塚教会はこどもプロジェクトをすすめています。こどもを大事にする教会です。こどもたちとともに礼拝をささげましょう。

先日、私は夏休みを頂き、裾野のキャンプ場に行ってきました。私もこどもに戻って休暇を楽しんで過ごさせていただきました。キャンプ場にテントを張って、そこから近くの動物園に行ったり、洞窟探検をしたりしました。とてもよい気分転換になりました。

キャンプにはいろいろな道具が必要ですが、中でも照明器具、明かりが大事です。初めてのキャンプで、なぜだかランタンに火が付かなかったとき、とても味気のない、薄暗いキャンプになってしまったことがあります。今は、小さな明かりも含めれば10個以上の明かりをもってキャンプに行きます。全体を明るくするランタン、足元を明るくするライト、テントの中で寝るときに使うライト、キャンドル、あとは焚火も大事です。焚火を囲んでいろいろな話をします。

たくさんの明かり、いろいろな明かりを持っていくと、普段は気づかないけれども、私たちの生活が、あふれる光に囲まれているということに気づかされます。私たちはいつもスイッチ一つで、眩しすぎるくらいの光の中にいるということに気づくのです。

あえて不便な場所、テントで寝泊まりをすることで、光・明かりの大事さ、いつもそれに囲まれていることに気づくのです。そして星の明かりもそうです。不便な場所、人里離れた場所でこそ、星の明かりは、美しく見えるものです。テント中では、不便さも贅沢に感じます。暗さの中ではかえって光を敏感に感じるようになるのです。テントの中は朝、日の出とともに明るくなります。いつもカーテンを閉めた部屋で寝ていますが、テントの中は日の出とともに明るくなります、そうするともう寝ていられないくらい明るく、いつもよりずいぶん早く目を覚まします。

 

私たちは普段、たくさんの明かりに囲まれています。しかし停電が起きたり、このようにテントで過ごすような、いつもと違う環境になったとき、はじめて光の中にいたことに気づくものです。でもそんなことを考えていると、このことは私たちが、たくさんの神様の恵みに囲まれているということと似ているのではないかと感じます。

いつも私たちが明るい光に囲まれて生活をしているように、私たちはいつも光、神様の恵み中に生きているということです。それは普段は気づかないことです。いちいち意識しないものです。でもいったん、いつもと違う環境になったとき、暗い気持ちなるような出来事が起きた時、自分たちはいままで光の中にいた、神様の恵みの中にあったということに気づくのです。

コロナがそうだったでしょうか。普段、私たちを囲んでいるものがいかに明るく、大切なものだったのかに気づきました。そして毎週、習慣のように来ていた主日礼拝の恵みを改めて知りました。それはきっと、日々当たり前に明るい中で生きる私たちが、明かりの大事さを知った出来事に似ているでしょう。

私たちは、日々神様の豊かな恵み、光の下で生きています。それに気づいていても気づいていなくても、感謝しても感謝しなくても、みんな神様の恵みのもとに生きています。私たちは時々足を止めて、あるいは足を止めざるをえない状況になって、はじめて神様のもとに生きているということを実感できるのでしょう。

もし暗い気持ちになるような出来事があったのなら、なおさらです。その中にも必ず神様の恵みを見つけます。光があります。それは今までずっとあったものですが、周りが暗くなる時、いままでよりもっと明るく感じることができるはずです。

それが神様の希望の光を見つける時です。絶対消えない希望を見つける時です。すでに神様は私たちを明るく、すべての人を照らしてくださっています。今日はそのことをもう一度感じる時にしたいのです。

今日の聖書個所を読みましょう。今日の個所も実はテントと光が重要なカギです。今日の場面は、仮庵祭という祭りの最終日に起きた出来事でした。仮庵とは仮小屋のことです。出エジプトの際に人々が仮小屋、テントで過ごしたという出来事を忘れないためのお祭りでした。この祭りでは、人々は自分の畑に仮小屋を作り、過ごしたといわれます。キャンプです。

そしてその祭りは、光の祭りでもありました。出エジプトの時、自分たちを導いてくれたのは、雲の柱、火の柱でした。その火の柱が再現されたのです。エルサレムの神殿の一番高い場所に炎がともされたのです。それはエルサレムの町中から見えたといいます。神様の火の柱、神様の光が苦境にあった自分たちを導いたということを思い出す祭りが仮庵祭、今日の場面です。自分たちが仮小屋で、テントで不便な生活をする中で、光に気づいたということを記念する祭りでした。

聖書にはたびたび光という言葉が使われます。天地創造は「光あれ」から始まります。そしてエフェソ5:8には「光の子として歩みなさい」とあります。様々に光が語られています。時には全く違うように語られている場所もあります。今日の個所でイエス様は「私は世の光だ」といっていますが、マタイ5:13、14には有名な「あなた方は地の塩、世の光」とあります。ヨハネはイエス様は光なのだといい、逆にマタイは私たちは光だと言っています。

様々な表現方法がありますが、まず大事なのは、光は神様から出ているものだということです。私たちが、自分自身で輝く、自家発電しているのではありません。私たちは神様から光を頂いて、光を放つのです。神様の光を受けて、私たちも光の子として歩むことができるというのです。まず神様は光だということです。

そしてそれに照らされて私たちも光となるのです。世の光である神が、私たちを世の光として下さるのです。この光は普段は気づかないものでしょう。意識をしないものでしょう。しかし、今いる場所が暗くなれば、気づくものです。あるいは暗い場所に行けば気づくものです。不自由さや病や苦しみの中でこそ気づくものです。疲れたり、暗い気持ちになったりする時により、光に気づくのです。

神様はそうやって私たちにご自分を表そうとします。普段から私たちとともにいて下さり、私たちを囲み存在してくださっているお方です。しかし、私たちが仮小屋にいる時、テントにいる時、不自由の中にいる時、苦難の中にいる時、その時にこそ私たちによりはっきりとわかるように、光として、明るく私たちに表れて下さるのです。

そして神様はただの光ではありません。ただ私を照らすただの光ではありません。イエス様は世の光です。世の光、それは世のための光、世界全体のための光といえるでしょう。私一人のための光ではない、みんなの光です。

光はイエスを信じた人だけを照らすのではありません。いえ確かに「私に従うものは暗闇を歩かない」とあります。ですから、従わない人、信じない人は暗闇をさまよっているかのように聞こえます。しかし、それではイエス様は世の光ではありません。せいぜいクリスチャンの光です。神様は従った人にだけ光をあげる、キリスト教はそんなケチな宗教ではありません。イエス様は世の光です。世界全体を照らす光です。

13節には、信じようとしない人の代表としてファリサイ派の人々が登場します。いろいろな理由をつけて、イエス様は世の光なんかではないと言おうとします。でもそれでもその彼らも光に照らされている人々です。14節「あなた方は私がどこから来て、どこに行くのか知らない」とあります。この人々も光に照らされています。でも光がどこから来て、どこを照らしているのかを知らない人々だというのです。

私に従うものは暗闇を歩かないとは、イエス様に従おうとする時、自分がずっと光にてらされていたということに気づくということです。苦しい時、暗闇に思える時も、イエス様に従おうとする時、いままで照らされていた光に気づくということです。そしてその光がイエス様から発していて、私たちに向けて発せられていて、私たちを輝かせているということを知るということです。イエス様に照らされて、私たちは光となっているのです。だから私たちは命の光を持っているのです。

イエス様の光は世の光です。世界全体、すべての人を照らす光です。この世界には闇の人と光の人の2種類がいるのではありません。すべての人が太陽の光に照らされているように、すべての人が神の光を受けて生きるのです。

イエス様に従おうとするとき、それに気づきます。光がどこから出ているかを知ります。そしてその光が自分と他者に向けられていると気づきます。その時もう自分は闇にはいないと気づくのです。イエス様に従おうとするとき、すでに照らされ続けていて、自分が、人々が輝いていることに気づくのです。今日の個所はそのことを語っています。

さて、子どもというテーマでと言いましたが、子供というテーマでも加えておこうと思います。もちろん光の子と闇の子がいるのではありません。教会の子が光の子、教会に来ない子は闇の子ではありません。すべての子供が光の子です。いえ、すべての人間と被造物が光の子です。

大事なのは、その光に照らされていると子供が自分で気づくことです。教会はそれを助ける場所です。教え育てる場所です。子供がつらい時、我慢ができないときも温かく見守ることが大事です。こども食堂ってそういうことでしょう。私たちが子供を大事にする時、なんか僕にも光が当たっているかもと子供に伝わっていくのではないでしょうか。

それは大人たちも同じでしょう。つらい時、誰かに大事されたとき、お互いに大事にしあうとき、そっと寄り添うとき、光を指し示すとき、お互いが神様の光に照らされていることに気づくのではないでしょうか。お祈りをいたします

 

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【全文】「非暴力抵抗の神」ヨハネ8章3節~11節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。また先週は夏休みをいただきありがとうございました。また今日からよろしくお願いいたします。そしてその間の宣教の奉仕を担ってくださったYさんにも感謝です。

先週はお休みをいたしましたが、私たちは今月平和をテーマに礼拝を持ってきました。第1週は「平和の食べ物」自分だけの利益ではなく共に食べる共に生きる道をさがすのが平和ということ。第2週は「神はウブムエして下さる」神様が私たちと一致して下さる、だから絶対一致できないと思う私たちの関係にも、必ず一致・平和があるということ。第3週は「力を誇示しない神」神様は強さを見せつけるのではなく、十字架を見せることによって平和を示すということを見てきました。第4回目の今日は、神様は非暴力による抵抗で平和を作り出す方だということを見てゆきたいと思います。

こんな問いを受けたら皆さんはどうするでしょうか。たとえばある男があなたの家族を縄で縛り、ナイフを持って、いまにも殺そうとしているとします。警察を呼ぶことができないとしましょう。あなただったらそんな時どうするでしょうか。あるいはもしその時、みなさんの手に拳銃があったらどうするでしょうか。それを使って、凶悪な男を撃ち、家族を助けるでしょうか。

でもよく考えてみてください。皆さんは拳銃を撃ったことがあるでしょうか。仮に撃つことができたとしてその弾は、家族にはあたらず、犯人にあたり、死なない程度で、動けない程度のちょうどよい傷を負わせることができるでしょうか。

そんな事を考えていたら、やはり家族は殺されてしまいました。ではあなたはどうするでしょうか。私も罪人だからあなたを赦しますと言えるでしょうか。それともその男を殺すでしょうか。あるいは自分がされたのと同じ様に、復讐としてこの男の家族を殺しに行くでしょうか。倍返しにして、家族全員を殺すでしょうか。

でもそもそも、この男。なぜ私の家族を殺そうとしているのでしょうか、私の家族が何かをしたのでしょうか。そもそも、警察を呼べないという前提も無理のある問いでしょう。

この問いには色々な答えがあると思うのですが、家族を殺されたら、相手の家族を全員殺す。その選択をする人はまずいないと思います。その選択をすると、今度は相手の家族がまたあなたを殺しに来るからです。この選択はもっとも不毛で、負のサイクルに陥る選択です。

 

しかし、それと同じ事が世界で起こっています。戦争です。例えばアフガニスタンの紛争はそのようにしてはじまりました。9・11、アメリカ世界貿易センタービルに2つの飛行機が突っ込み、3000名の人々が命を奪われました。当時、その映像は世界に衝撃を与えました。その翌日です。アメリカのブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言します。そしてアフガニスタンのタリバン、ウサマ・ビン・ラディンを容疑者として攻撃を開始しました。

戦争は兵隊同士がするはずのものです。しかし、この戦争が開始されて以降、いえどの戦争もそうですが、空爆や国内の混乱などで、何万人もの民間人が命を落としました。結局、貿易センタービルの何倍もの死者が生まれたのです。

この戦争は、自分の家族を殺された人が、相手の家族を殺すという構造です。自分の家を壊された人が、相手の家族の家を近所まるごと爆破するという構造です。いったいこの戦争はなんだったのでしょうか。民間人が殺されたことによって始まった「テロとの戦い」。それは皮肉なことにより多くの民間人の犠牲者をだしました。そしてこの紛争は20年近くたっても続いています。

この紛争は誰が被害者で、誰が加害者だったのか、もうわからなくなってしまいました。最初に攻撃をしたのはビン・ラディンの側かもしれません。3000人の人が無惨に殺されました。しかし一方アフガニスタンでは何万人もが無惨に殺されています。

私の家族が殺されたら、当然怒りが収まりませんが、だからといって相手の家族を皆殺しにしようとは全く考えません。家が壊されたからといって、相手の家を近所ごと爆破していいわけはありません。でも戦争とはそのような考え方です。やられたら何倍にもして返す。たとえ相手が抵抗できない民間人であっても関係ありません。それが戦争です。

私たちはその戦争に断固反対をします。日本がそのような戦争に協力することも反対します。当時日本の自衛隊はアメリカの船に給油をしていました。私たちも攻撃に協力をしていたのです。それは、私たちの目指す平和とは全く違う形です。私たちは暴力ではない力で、平和を実現させたいのです。たとえ暴力を受けたとしても、暴力で返すのではなく、違う方法で平和を実現させたいのです。そのことを1カ月間ずっと考えてきました。今日も聖書からそれを考えてゆきたいのです。

今日の聖書個所を見ましょう。今日の聖書の個所は7:53から8:11までが一塊ですが、実はおおもとの聖書には記述の無い個所です。おおもとの聖書に無い、後から追加された個所です。ですからカッコでくくられています。聖書には後からくわえられたけれども、イエス様が実際にこう言ったのではないかと考えられて、とりあえずカッコ書きにして載せられています。こういうカッコ書きは何か所もあります。やや聖書としては宙ぶらりんな位置づけです。しかし宙ぶらりんがたくさんあるのは、聖書には一言一句の誤りが無いというわけではなく、聖書自体にこういうあいまいな個所があるということを示しています。聖書自体が、これが答え、唯一の答え、と言っていないということです。

さてそんな今日個所ですが、イエス様がいるのは、抵抗するすべをなにも持たない女性が、いままさに殺されるようとしている・・・先ほど皆さんに問いかけた質問と同じ場面です。そういう場面にイエス様は本当に居合わせたことがありました。彼女は姦淫の罪、不倫をおかしているその場所で、現行犯逮捕されたのです。

こういう場合当時の法律、レビ記20:10によれば、不倫は必ず死刑だと明確に書いてあります。正確には「男も女も必ず死刑」と書いてありますが、どうやら実際の運用は女性だけが殺されたのでしょうか。

暴力による死を目前としたイエス様はどのような行動をとったでしょうか。もちろん律法学者と一緒になって石を投げようともしませんでした。イエス様は石を取って投げ返し女性を守ろうともしませんでした。また法律だからしかたがないと、粛々と法律が執行されるのを見ていたのでもありません。祈ったでしょうか。天使が律法学者・ファリサイ人を止めるように祈り求めたでしょうか。あるいはまた弟子たちを呼び、石をとって石の投げ合いをしたりもしませんでした。イエス様は暴力に暴力で抵抗しませんでした。

イエス様は暴力を否定します。たとえ法律にそれで良いと書いてあったとしても、誰かの命を守るためであっても、暴力を用いることを否定します。でも見ているだけではありません。非暴力で抵抗します。このあと十字架に至る場面で、剣に頼ろうとしたペテロを止めているのも同じです。イエス様は非暴力の抵抗によって歩むのです。

イエス様がここでした行動、それは非暴力による抵抗です。暴力に暴力で抵抗するのではなく、人々の敵意・憎しみを捨て去らせるという行動をとったのです。被害者・加害者を超えて、物事を考えるように促します。そして彼らの良心に訴えます。人を殺そうとする暴力に対して、それとはまったく別の力を用いて、彼らに立ち向かったのです。

石を持って投げようとしていた人々はイエス様の問いかけによって気づいたはずです。法律にはそう書いてあっても、殺される必要はないと。人はまた必ず立ち返って歩むことができる。そして私たちと共に生きていくことが出来る、石を投げようとした人は気づいたのです。

 

イエス様は暴力によってではなく、そして罪をうやむやにすることでもなく、これに立ち向かわれました。イエス様が大事にしたのは、非暴力の力です。非暴力こそ人を変え、動かすことを示したのです。

そしてその時、イエス様はこの物語の中で一番死に近い、小さく、弱い立場に追いやれている人の側からこの出来事を見たということも大事です。一番殺されてしまいそうな人から見ています。そこに加害者も被害者もありません。この女性の命を、暴力以外の方法で救うという事を一番にしたのです。もし男性が一緒に石打ちにされようとしても同じ行動をとったでしょう。

私たちもこの視点を大事にしたいと思います。出来事の中で誰が一番小さく、弱くされ、暴力に直面し、死に直面しているかということです。その時一番小さくされている人から物事を見る、そして暴力ではない力で平和を求めてゆく。それがイエス様の方法だったのです。

私たちも世界を、そして日常をそのような視点で見たいのです。世界には暴力によって状況を変えようとすることがたくさん起きています。でもそれに暴力で立ち向かおうとする時、新しい暴力で立ち向かう時、必ず負の連鎖が生まれ、多くの人が死にます。私たちの日常でもそうです。DV、パワハラ、セクハラ、忖度、様々な暴力があります。これに非暴力で抵抗したいのです。

私たちはイエス様の様に、非暴力抵抗によって、状況を変えてゆきましょう。いま世界で、日本で、平塚で小さく、弱くされている側から世界を見ましょう。そして暴力によってではない力で、非暴力によって平和を実現してゆきましょう。イエス様がそのことを私たちに示して下さっています。

暴力に直面したとき、私たちはどのようにすべきでしょうか。やむを得ず暴力しかないと考えるのは間違えです。必ず非暴力による抵抗が出来るはずです。イエス様と共に非暴力の中で何ができるか共に考えてゆきましょう。お祈りをします。

 

 

【全文】「力を誇示しない平和の神」ヨハネ7章1節~17節

皆さんおはようございます。今日も共に集うことができたことに感謝です。日に日にコロナの感染拡大が進み、平塚市でも感染が報告されています。十分に注意をしながら共に礼拝をしてゆきましょう。また再び集まらずに、それぞれの自宅で礼拝を献げようという日も来るかもしれません。あの日々を思い出します。集まれる恵みを一回一回、大事にしながら礼拝をしてゆきましょう。

子ども達も礼拝に集ってくれています。今私たちは平和をテーマに8月の礼拝を持ちます。子ども達が健やかに育つために一番必要なのは平和です。子どもを大切にし、平和を大切にする教会として、共に礼拝をしましょう。

8月15日は敗戦記念日です。75年前日本全国は焦土と化し、もはや戦争継続は困難でした。玉音放送が流れ、天皇が戦争を止めると宣言し、日本は無条件降伏をしました。

その前の8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾、核爆弾が投下されました。この核爆弾、原爆投下が戦争終結を早め、多くの人を救ったと考える人もいます。本土決戦になったらより多くの人が犠牲になった、それをこの原爆が止めたというのです。原爆はしょうがなかったという理論です。昭和天皇が、天皇がそれを言うのかとも思いますが、天皇も原爆は「広島の人には気の毒だが、やむを得なかった」と言っています。

私はこの歴史、犠牲もやむなしだったとは思いません。ましては最高司令官だった天皇がそう振り返ることには怒りも覚えます。私はそもそもこの原爆投下は必要なかったと理解しています。実際当時のアメリカも良く日本の状況を知っていました。食糧確保もままならず、もうすぐ日本は降伏する、11月には降伏するとアメリカはわかっていました。しかし降伏まであと3か月という所で、日本に最新・最強の兵器が使われたのです。

原爆の目的は戦争を早く終わらせるためではありませんでした。ではなぜ原爆を投下したのか、それはこの核兵器の威力を世界中に見せつける事で、戦後の国際覇権を自分たち、アメリカのものとするために使われたのでした。つまりアメリカは、戦後ソ連より優位に立つために、日本に原爆を投下したのです。戦後の世界を主導するのはソ連ではなく、アメリカだ。そのようなアピールをするために、原爆は私たちに落とされたのです。だからソ連も、その後を核兵器の開発を急ぎ、そして冷戦時、核開発競争になってゆくのです。

もちろん日本はただの被害者ではありません。当時の日本もアジアを徹底的に侮辱しました。それは本当に必要のなかったことです。ただ力を見せつけ、支配すること、奪い取る事が目的でした。

戦争とは何でしょうか。それは互いが互いの力を見せつけ合う事です。なるべく自分を強く、大きく見せるために人を殺す、それが戦争です。

人間は、戦争中も、戦争が終わるときも、戦争が終わった後も、圧倒的な力を見せつける事で、物事を動かそうとしてきました。いまもまだ同じです。最新の戦闘機や経済力やあるいは技術力を見せつけて、相手を従わせようとしています。

日本は戦後、平和を誓いました。日本はこの、強さを誇示した歴史を反省しました。だから憲法の前文にはこうあります。「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」。

力を誇示し、見せつけ相手を動かすのではなく、私たちは平和を守る事、抑圧から解放され、解放を手伝う事、そのことで名誉を受けようというのです。力の誇示ではなく、抑圧からの解放、平和に資することによって、国際社会で名誉ある地位を占めたいと願ったのです。この決意を大切にしたいと思います。

そしてこの憲法の精神は、私はイエス・キリストの願う平和と重なる部分が多いと思います。イエス様の願う平和も見てゆきたいのです。

 

今日の聖書個所を見てゆきましょう。兄弟たちはイエス様にこう言います。(3節)あなたのしている業をガリラヤの田舎者ではなく、エルサレムの神殿の人たちにも見せてやりなよ。(4節)こういうのは、自分の力をはっきり世間に見せつけた方がいいよというのです。

兄弟たちは、イエス様を信じていなかったとあります。なぜ信じてもいない人が、みんなに見せてこいというのでしょうか。これは、その奇跡を皆の前で見せつけて来いと言うことです。兄弟たちは、みんなの前で奇跡を起こしたら、圧倒的な力を見せつけたら、みんなお前に服従するようになるよ。だからユダヤで、神殿で、力を見せつけてきなよ。そうイエス様を誘ったのです。

それは神様への信仰からの発言ではありません。彼らが頼みにしていたのは神様ではなく、力・パワーです。彼らは神様よりも、力を信じていました。神様はいてもいなくてもどっちでもいい、奇跡を起こす力さえあれば皆、その人に従うだろう。神様を信じていようが、信じていなかろうが、力に従わざるを得ないだろう。兄弟たちはそうイエス様に勧めたのです。

イエスはきっぱりと断ります。私の時はまだ来ていないからといって、人々に奇跡を見せつける事をしないのです。イエス様はそれができたかもしれません。しかしイエス様は、自分の力を見せつけるという事に全く関心がありません。私の時はまだだと言います。まだとは、いつか来るということです。いつか私の力を皆が見るようになる時が来る、その時とはいつでしょうか。そう、その時とは十字架・受難の時のことです。

私がみんなの前に出てはっきり自分を示すのは、十字架の時だと言うのです。イエス様は圧倒的な力を見せつけることによって、人々を従わせようとはなさいませんでした。むしろイエス様が人々にはっきりと見せたもの、イエス様のその時とは、十字架でした。十字架という、苦しみの姿を人々に示したのです。

イエス様は強い姿ではなく、弱い姿を示しました。唾を掛けられ、みなに笑われた姿です。しかし、その時、十字架の時、ヨハネによればイエス様は「成し遂げられた」と言って息を引き取りました。イエス様が示したこと、それは十字架の出来事でした。イエス様はその時を待ち、自分を現わしたお方です。

ここに私たちはなぜイエス様を信じるのかということが隠されています。私たちがイエス様を、神様を信じるのは、どんな奇跡でも起こせるからではありません。パンを増やせるから、水の上を歩けるからではありません。

私たちが信じるのは、イエス様がつらく苦しい十字架の只中に、神様の力が働くと信じたからです。私たちもそれを信じるのです。イエス様はどんなに圧倒的な力、理不尽な力、それに打ち負かされようとも、必ずそこに神様の平和の力が働くと信じたお方です。十字架を通して、私たちもそれを信じるのです。

神様の力、それは復讐の力ではありません。平和を作り出す力です。その平和を作り出す力が、苦しみの只中に与えられる、イエス様がそれを信じ続けた、だから私たちも神様を信じるのです。

もう少し聖書を読み進めましょう。「祭りには行かない」イエス様一度はそう言ったはずなのに、やっぱり神殿に、祭りに向かいました。隠れて行ったのです。これは矛盾していると思います。行かないと言ったのに。密かに向かいます。そして人々に聖書を教え始めるのです。

しかしイエス様は気が変わったわけではありません。やはり力を見せ、一旗揚げようかと考えたのではありません。それは見せつける事とは違いました。イエス様が語れば、やはり「この人は勉強したわけでもないのに、聖書を良く知っている」という驚きの言葉が人々から出ます。でもイエス様はそこで自分の力を見せつけるお方ではありません。「これは神様がこうだと言っていることで、私自身の言葉ではない」と言います。自分の名声を挙げようとすること、そのことに反対するのです。あくまで自分ではなく、神様を指し示すのです。

そして、イエス様が一度は行かないと、きっぱり否定したけれども、やっぱり向かった、その場所にも注目をしたいのです。そこは分断と抑圧のある場所でした。そこは自分が信じていることを、恐ろしくて言えない場所でした。それを言ったら権力者・指導者に歯向かうことになるのです。そのことが恐ろしくて、イエス様の事を「良い人」とすら言えなかった場所です。

イエス様は自分の力を見せつけるためにはどこにも行かないと言います。しかし、抑圧の現場には現れるお方です。イエス様が現われたのは、それは祭りの真っ最中・祭りの真ん中でした。そして抑圧の真ん中でした。言いたいことも言えない、信じていることを信じていると言えない、イエスはその抑圧の真ん中に登場したのです。そして他の人が恐ろしくて言えないことを堂々と語ったのです。

イエス様はそのようなお方です。自分の力を見せつけることは拒否され、むしろ十字架でご自分を示すお方です。そして、抑圧された、不自由の中にも、そのまん中に現われて下さるお方です。そこで神様の言葉を私たちに語り、私たちに神様を示して下さるのです。

最後に、17節「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」とあります。同じことをイエス様は6節の後半でも語っています。「私たち時まだ、でも、あなたがたの時はいつも備えられている」という言葉です。

イエス様は私たちを具体的な行動へと招いておられます。私たちの時はいつも来ているのです。私たちが苦難に会う事、それはいつもです。その度に私たちには時が来ています。私たちは迫られているのです。力で、力を見せつけることによって対抗するのか、それともイエス・キリストの十字架で対抗するかをいつも迫られるのです。

力を見せつけることによって、軍事力によって世界を動かそうとすることに反対をします。世界に平和を作り出したいと思います。そしてそんなスケールの大きい事だけではなく、私たちの身の回りにできる事はいつも備えられているのではないでしょうか。私たちが見せつけられている力があります。いつもその時はきています。私たちに言葉を発せさせないような力、それはいつも来ています。それにイエス・キリストの十字架によって対抗したい。弱さの中に働く神の力によってむかってゆきたい、それが平和を作るのではないでしょうか。平和は力を誇示する場所には生まれません。平和は十字架から生まれるのです。共にイエス様からその力をいただいてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「神はウブムエして下さる」ヨハネ6章41節~59節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝が出来る事に感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。共に、子どもの声を聴きながら礼拝をしましょう。そして私たちは8月、平和をテーマに礼拝をしています。先週は「平和の食べ物」平和を求めながら、イエス様を求めながら、食べ物と生きる道を求めてゆこう、それがシャロームにつながるという事を話しました。今日はアフリカのルワンダ共和国で和解の働きをされている佐々木和之さんの報告を元に、聖書から平和を聞いてゆきたいと思います。

佐々木和之さんは東アフリカにあるルワンダ共和国で、和解のプロジェクトをすすめています。ルワンダは東アフリカにある、小さな国です。95%がクリスチャンというキリスト教国です。しかし1994年ルワンダでは大虐殺事件がありました。100日間で80万人、人口の約一割が殺される大虐殺事件が起こりました。きっかけは大統領の暗殺でしが、虐殺の背景には植民地時代に植え付けられた分断と差別と憎悪がありました。

分断と差別は一般市民が、一般市民を殺す、隣人が隣人を殺すという虐殺事件を生みました。26年前の出来事です。虐殺が収束した後、ルワンダの社会や地域が元の状態に戻ることは容易ではありません。市民による虐殺によって、多くの市民が刑務所に入りました。街に残されたのは、虐殺から生き残り傷ついた被害者と、家族が虐殺に加わったという加害者の家族でした。

元々農民だった人々は簡単に引っ越すわけにはいきません。虐殺後もなおも被害者と加害者の家族が隣に住むということも多くありました。

被害者と加害者。もう共に生きる、助け合って生きると言うことは本来できない関係です。しかし今ルワンダでは両者がどのように共に生きるかを模索しています。多くの人々がまだ平和を探し求めています。そしてその中で和解と平和のために働いているのが、佐々木和之さんです。彼は洋光台バプテスト教会の教会員でもあります。

私は佐々木和之さんを支援する会の事務局の仕事を引き受けている関係で、皆様にも会報「ウブムエ」をお配りします。ぜひ支援の輪に入って下さい。今日はこの中から一つのエピソードウムチョ・ニャンザの支援をご紹介します。

ウムチョ・ニャンザとは虐殺事件の生存被害者である女性たちと加害者を夫に持つ女性たちが共に働く女性協働グループです。ブックカバーを購入されたことのある方も多いいでしょう。被害者と加害者の家族が同じスペースで、協力して、物を作り、それを売り、自分達の生活を再建しようとしています。もちろん様々な葛藤があります。しかし分断され、殺し合った過去を超えて、ともに生き、一致し、生活を再建しようと働いているグループです。その活動を支援しています。ウブムエには、コロナの中でどのようにウムチョ・ニャンザ―のメンバーが一致し、助け合ったが報告をされています。1ページ目の右下です。

 

“夫が虐殺加害者として刑務所にいるエレナさんは、普段なら他の人の農地で働くことで生活の糧を得ています。彼女は、ロックダウンが始まってから仕事がなくなり、子どもたちに食べさせる食料も尽き、途方にくれた時の様子を語りました。女性たちの何人かは、ウィルス感染の恐怖、生活の困窮、いつ状況が良くなるのか全く分からないことから来る不安の中で、絶望しかかったというのでした。しかし、彼女たちはその苦境を生き延びました。勇気を出して助け合うことによって。ロックダウン導入から 10 日が過ぎた頃、グループの世話役たちが電話で連絡を取り合い、銀行に預けてあった運営資金から、日本円で 2,300 円に相当するお金をそれぞれの口座に振り込むことを決めたのでした。女性たちは、携帯電話で伝言ゲームのようにその朗報を一人、また一人と伝えていきました。電話が不通になっていた仲間には、警察に拘束されないように、裏道を通って仲間の女性の家まで行って伝えたのです。その時の苦労話を複数の女性たちがユーモラスな語り口で笑顔を見せながら話してくれました。そして、昨日集った全ての女性たちが、そのお金を手にしたときの喜びと感謝、「一緒に働いてきて良かった」と心の底から感じたことを語っていました。”

 

被害者と加害者が分断を超えて一致し、共に働き、お金を分かち合い「一緒に働いてきてよかった」と感じたと言うのです。佐々木さんはこのことを次の様に考察しています。3ページです。

 

“この苦境がただ過ぎ去ることを待ち望むことからは本当の希望は見えてきません。また、以前の日常を取り戻すことが希望であってはならないとも思います。今日一日、私が出会うお一人お一人と、どんな形であれ共に希望を見出していくこと。その希望を紡ぐ営みに具体的に関わり、今、祈り行動していくことが大切なのです。そして、やがてコロナ禍を生き延びた時に、その方々との関係がより強く愛に満ちたものになっていることを心から願います。そこからしか、コロナ後にあるべき社会を創る営みは始まらないのではないでしょうか。”

 

このことはコロナだけではなく、虐殺の被害者と加害者の関係も含めた言葉だと思います。憎しみ合った二人が、引き離された二人が、それが無かったことの様に過ごすことが、平和、希望ではありません。困難の後に、二人の関係がより強く愛に満ちたものになっている関係を求めたいのです。

この会報のタイトルは「ウブムエ」と言います。「ウブムエ」はルワンダ語で「一致」「調和」「和」を表す言葉です。この会報のタイトルが事柄を良く表しているのではないでしょうか。私たちにも様々な分断があります。コロナや、外出自粛や、差別や民族や国境。私たちはその隔てを超えて、その隔てを乗り越えて、関係がより強く愛に満ちた者になってゆく、一致、「ウブムエ」をしたいのです。困難があっても、いえ困難があるからこそ、もっと大きな希望があると期待して、「ウブムエ」して歩みだしたいのです。

そこにはイエス様が必ず一緒にいて下さいます。力を与えて下さいます。イエス様がまず私たちと共に生き、私たちとの一致し、ウブムエして下さいました。私たちと神様の間を、イエス様が乗り越えて来て下さり、私たちの元に来てくださったのです。そのことを今日の個所から聞いてゆきたいのです。私とイエス様が強い関係にある、一致し、ウブムエして下さっている、そのことを見てゆきたいのです。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。イエス様は今日の個所44節で、父が私を遣わしたと言っています。イエス様が神様の言葉を伝える者であること、その意味でイエス様が神様と等しい方であるということです。

そして神様の元に行く方法を教えてくださっています。それは、神様が私たちを引き寄せて下さるかどうかです。神様の元にいること、神様と一致し、ウブムエする事、それは神様が起こすことです。私たちが行くのではありません。何かをすれば行けるのではありません。神様が私たちを招き、一致・ウブムエして下さるのです。私たちは神様の招きに応えるだけで良いのです。

48節、イエス様は私はパンだ。そして私の肉を食べなさいと言います。私たちは主の晩餐を毎月していました。あのパンはイエス様の肉だというのです。小さいブドウジュース、あれはイエス様の血だというのです。もちろん私が持ち上げて祈ると何かが起こって変化するというわけではありません。あれを食べると不老長寿・不死身の体、病気が治ったりするわけではありません。

このパンを食べるとどうなるのでしょうか?56節にはこうあります。「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」ことになるのです。これを食べるとイエス様の中にいるような体験、イエス様が中にいるような体験、そんな一致、そう「ウブムエ」が起こるというのです。

58節そのパンは普通の食べ物とは違います。モーセたちが荒野で食べた食糧としてのパンとは違います。それは小さいけれど、イエス様、神様との一致・ウブムエを私たちに教えてくれるパンなのです。それを食べると57節「私を食べる者は、私によって生きる」のです。イエス様の体を、肉を食べて頂くとき、私たちはイエス様によって生きる者になります。すぐに分断してしまう人間が、そのパンを頂く事によって、神様の内に生きるようになり、神様との一致を体験するのです。そしてそれは他者との一致への体験へと広がってゆくのです。

永遠の命、それは不老長寿・不死身の体ではありません。それは殺し合わない命です。ずっと共に生き続けようとする命です。永遠に傷つけ合わない命です。その命は、一致はイエス様が私たちと一致、ウブムエして下さっていることから始まるのです。

あのパンを食べるという事、それはイエス様との一致、ウブムエの体験です。その一致を通じて、私たちには互いに一致をしてゆく者とされるのです。分断を超えて、平和を生きる者とされるのです。

53節にある「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とはそのようなことです。イエス様が与えるパン、その一致のパン、ウブムエのパンは、51節、世を活かすためのパンです。一人だけではない、世全体を活かすパンなのです。

このようにイエス様のパンは命のパン、平和のパン、一致のパンなのです。イエス様は私たちと一致をしてくださる、ウブムエして下さるお方です。だから私たちもお互いに一致ができるはずです。どんなに違いがあって、どんなに強い憎しみがあって、どんなに困難があっても、どんな過去があっても、それにまさる希望、一致、ウブムエを神様が必ず用意して下さっているのです。イエス様は私たちの壁と分断を壊し、一つにしてくださる。ウブムエさせて下さるのです。

私たちの世界と日常には分断が多くあります。日本と韓国、中国とアメリカ、富裕層と貧困層、私とあの人、あの人とあの人。でも私たちは必ず一致、「ウブムエ」できるはずです。平和が実現できるはずです。イエス様の肉を頂き、祈り、行動をしてゆきましょう。お祈りします。

 

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【全文】「平和の食べ物」 ヨハネ6章22節~27節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。今日は平和祈念礼拝です。今日から8月いっぱい、平和をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。今日も子ども達が集ってくれました。子ども達がのびのびといられることは平和の象徴です。平和のない場所に、こどもの笑顔やこどもの笑い声はありません。こどもを大切にする教会は平和を大事する教会でもあると思います。子ども達と共に、声を聞きながら平和を願い、礼拝をしてゆきましょう。

聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。この話は繰り返ししようと思いますが、聖書の平和・シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争によって歪んでいます。そして戦争ではなくても、同じ様に構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。

そのような世界でシャロームとは、図のように、高い場所と低い場所が均等になり、きれいな丸になってゆくことです。飛び出ているものは元に戻され、押し込められているところは引き上げられるのがシャロームです。その押し込められ、低くされている場所には十字架があります。イエス様の力は、低くされたその一番下から元に戻そうと働き、完全な丸にしようとします。その動き・運動がシャロームです。それが十字架の働きです。聖書の平和、それは戦争がないだけではなく、小さくされた人に神様の力が働くことによって、すべての人々が等しく豊かに生きる事、それが聖書の平和・シャロームです。

今日は平和祈念礼拝ですが賛美は出来なくても応答賛美の時にフランシスコの「平和の祈り」という賛美の奏楽をしてはどうかと提案をいただきました。コロナの関係で賛美は許されませんが、後ほど心の中でこの賛美を歌いましょう。いくつか翻訳がありますが、次のような歌詞です。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのある所に、愛を置かせてください。

侮辱のある所に、許しを置かせてください。

分裂のある所に、和合を置かせてください。

誤りのある所に、真実を置かせてください。

疑いのある所に、信頼を置かせてください。

絶望のある所に、希望を置かせてください。

闇のある所に、あなたの光を置かせてください。

悲しみのある所に、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。

なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

 

この平和の祈りを見てもわかるように、小さくされた場所に、憎しみ、侮辱、分裂、そのような小さくされた人々のいる場所に神様の力が働き、平和・シャローム・完全な丸になるように願う祈りがここでも繰り返されています。

平和は戦争がないことだけではありません。しかしもちろん私たちは戦争がもっとも平和を崩すことだということを知っています。日本は80年前、世界のシャローム・平和を大きく壊しました。日本は自分たちの繁栄だけを求めて、アジアに進出・侵略を始めました。自分達だけがこの〇からとび出ようとしました。アジアの国々・人々を侵略し、搾取し、利用し、押し込めることで、自分たちだけが繁栄をしようとしたのです。

繁栄を求める事自体は悪い事ではありません。ただ、誰かを犠牲にして、押し込めてそれをしようとすること、自分だけが繁栄をしようとすること、それは平和を生みません。私たちはアジアに大きな憎しみと侮辱と絶望をもたらしました。

私たちは8月ひと月、主にある平和を知ろうとしています。いままた日本は75年前の反省を忘れようとしています。世界も忘れようとしています。自分たちの国だけ繁栄すればいいと考えるとどうなるか、私たちは知っていたはずです。しかし世界は、日本はまた自国優先主義へと向かおうとしています。平和憲法を持つ日本、戦争への反省を繰り返してきた日本。その私たちは、世界の平和、シャロームを実現の歩みを進める事はできるのでしょうか。経済力のある日本が足を引っ張り合う様な過度な国際競争を止め、世界が等しく発展し、置き去りや犠牲を生まない世界の形成を訴える事ができるでしょうか。武力によって世界を変えようとしないこと。そしてそれに断固反対するという声を挙げることができるでしょうか。

そこに必要なものは、何でしょうか。私たちに必要とされるのは、シャロームの丸の下から世界を見る事です。イエス・キリストの十字架から世界を見る事、十字架から平和を考える事です。そして平和のためにできる事をそれぞれがしてゆくことです。それが神様に求められていくことです。

 

今日の聖書個所を読みましょう。6章には5000人の給食、パンが配られる奇跡が描かれています。イエス様は食事を大事にされたお方です。イエス様は食べものや着るものは次元が低いもので、精神的な豊かさを優先されたお方だということではありません。それは食べ物がたくさんある、世界のごく一部の人の考え方です。十字架からこの物語を見たいのです。

イエス様は飢える人々の食事の必要に応えるお方です。人は宗教だけでは生きていけません。食べ物と飲み物が必要です。イエス様はそんな人間の胃袋を満腹にしてくださるお方です。がっちり胃袋を抑えるお方です。そしてあまり物までしっかり集めなさいとまで語り、食べ物を大事にするお方です。

しかし、人間のパンへの願い、食べ物への願いはバランスを崩しやすいものです。その食べ物は、恵みのパン、奇跡のパン、感謝のパン、分かち合いのパン、一致を確認するパンでした。それこそまさに完全な丸をイメージする、平和のパンであったはずです。しかし人間はそのパンを自分勝手に理解してしまう時があります。

人々の中には「あの人はパンをくれる」と欲望のまなざしを向ける人がいたのです。彼らはパンをくれる人を探します。探し求めます。探しているのはパンです。恵み・奇跡・感謝・分かち合い、しるし、イエス・キリストを探しているのではありませんでした。ただ自分の欲望を満たすことを求め、自らの繁栄を求め、舟を出し、イエスを探していたのです。そのような自分だけの繁栄や自分だけの欲望を満たすことは平和、シャロームを生み出すことではありません。そのように舟を出す姿は、日本がアジアに侵略戦争として舟を出すのと同じ発想です。

イエス様はこのような独善的な欲望を批判します。27節「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい」と言います。

イエス様は食べ物には、朽ちる食べ物と、永遠の命に至る食べ物があると言います。どちらも同じ食べ物です。しかしそれは追い求め方、あるいは動機、用い方によって、滅びにも、永遠の命にもなるというのです。自らの欲望と繁栄を求めて舟を出すとき、その食べ物は必ず滅びへと向かいます。それは朽ちるものとなります。誰かを犠牲にして、押し込めてそれを得ようとするとき、自分だけ繁栄をしようとするとき、それは絶対に平和を生みません。そのように食べ物を求める時、繁栄を求める時、そこに起こるのは戦争と貧困と格差と差別です。

私は平和を求めつつ、パンを求めてゆきたいと願うのです。それこそがパンではなくイエス・キリストを探すということではないでしょうか。イエス様は私たちに5000人が一緒にパンを食べる奇跡を通じて、神の恵みの大きさを教えてくださいます。欲望が満たされる喜びではなく、みんな神様のめぐみによって生かされていることを教えてくれます。これを食べ、命を大切に生きなさいと教えてくれます。これは神様の恵みです。命と食べ物は自分のものにするだけではなく、天からのものとして分かち合いなさいと教えてくれるのです。私たちが求めるもの、それはそのように恵みと感謝を呼び起こす食べ物です。平和の食べ物です。イエス様は私たちに、このように永遠の命、平和を求めなさいと語るのです。

自分の食べ物を追いかけるのではなく、イエス・キリストの姿を、生き方を追いかけなさい、それが永遠の命に至る道であり、それが平和を作り出すのだというのです。

それが、イエス様の歩み、朽ちない食べ物、永遠に無くならない、平和・シャロームの食べ物、永遠の命にいたるものです。それはイエス様の歩みと生き方を知る事から始まります。イエス様がどのように生きられたのかを知ることから、平和は始まるのです。

平和・シャロームはイエス様が低く、小さくされている場所にいたことを知ることからはじまります。平和はイエス様がこの丸のへこんだ部分の一番下にいたことを、十字架にかかられたことを知るところから始まるのです。

その視点から平和の歩みを起こすことが、永遠の命、朽ちない世界につながってゆくのです。すべての人々が活き活きと輝く世界、それが十字架から始まるのです。

できれば今日私たちは主の晩餐をぜひともしたかったのですが、今日はそうすることができません。しかし私たちそれぞれ、イエス様から今日、永遠に朽ちないパン、私たちの心にいただきましょう。

私たちがパンを頂くのは、自分だけのため、自分の満足のためではありません。そのことをよく吟味して食べたいのです。私たちは世界の平和・シャロームを願ってイエス様のパンを食べ、永遠の命を頂きたいのです。また主の晩餐に預かれること、平和の食べ物を囲むことが出来る事を願っています。お祈りいたします。

【全文】「70年間の目的地」ヨハネ6章16節~21節

 

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝出来る事、その神様の招きに感謝します。共に集うことができることを嬉しく思います。また今日も子ども達が集ってくれています。私たちは子ども達を大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは今年度で70周年を迎えています。この宣教で3回、70周年について語っています。1回目は「70年間の勇気」神様が70年平和を語り続ける勇気を下さったということ。また2回目は「70年間の無力の強さ」無力な私たちに神様が力を与え続けてくれた70年だったということを見てきました。今日は「70年間の目的地」私たちは70年間、何を目指して歩んできたのかということ、それは成果ではなく、イエス様と出会うことが目的だった、イエス様と出会ったその場所が私たちの目的地だということについて、考えたいと思います。そしてそれを小田原伝道所という出来事から考えてゆきたいのです。

1990年頃バプテスト連盟全体では500の教会と5万人の信者を目標とする「500と5万」が目標とされました。そして500の教会を作る方法として、「母教会主義」が取られていました。それまで教会の開設は連盟が主導的に教会を開設してゆくこと、牧師が一人で伝道をはじめてゆくことが多かったのですが、徐々に教会が教会を生み出してゆくという方法に変わってゆきました。既存の教会のメンバーの一部が株分けされて、近隣に新しい教会を生み出してゆくという形式です。母教会(親教会)と呼ばれる教会が主体的に、責任を持って教会を開設してゆくという方法です。

この近くでは戸塚教会がそうです。1983年に東京の恵泉教会と藤沢教会が母教会となって戸塚伝道所を開設しました。戸塚伝道所は4年後の87年には自給自立できる規模となり、戸塚教会として教会組織がされました。そのように「母教会主義」という方法で教会の開設がされてゆきました。

その後2000年代になると、徐々に、人数や教会の数を目標にするのではなく、小さくされた人と共に生きる、分断や差別を超えてゆくということを目標にしています。数値が目的ではなく、どのように寄り添うのかということに目的が改められ、今に至っています。

90年代、平塚教会もこの流れにあったのでしょうか。平塚教会にも小田原伝道所のビジョンが与えられました。1991年から検討が始められ、1993年6月小田原の地へ根付こうと、小田原伝道所が開設され、礼拝が始まりました。この歴史を調べていますが、やはりこれにも資料に限りがあります。

しかし限られた資料中ではありますが、小田原伝道への熱意が込められている文章は少ないように感じます。むしろ開設に向けた戸惑いや心配の声が記録として多く残されています。しかし、その中でも平塚教会は伝道所開設へと踏み出しました。そういうチャレンジするところが大好きです。平塚教会が母教会として、小田原伝道所を開設しました。

開設翌年には、引退された川上牧師が小田原伝道所の牧師となられます。当初は平塚教会からかなりの財政支援をしており、年間240万円の支援の記録があります。その後20年ほど小田原伝道所は続いたのですが、しかし他の教会組織をできた伝道所と違い、人数は当初の10名ほどで推移したまま、なかなか自立した教会組織、財政的な自立には至りませんでした。

そんな中、小田原伝道所では川上牧師が退任されることとなります。小田原伝道所が、牧師をどのように招聘してゆくかを考える中で、バプテストにこだわるかどうかが課題になった様です。

2011年には小田原伝道所から平塚教会との関係、バプテスト連盟との関係を解消したいと申し出がありました。平塚教会は残念な思い持ちながらも、小田原伝道所の意思として尊重しました。小田原伝道所は単立の教会として歩みを始めます。その後聞くところによれば、現在では小田原教会は役割を終えて、今は礼拝などの集会を持っていないとのことです。

小田原伝道所と平塚教会の関係は、資料を見ていると結束した堅い関係だったようには感じません。開設数年は頻繁な往復が記録されていますが、年々減少してゆきます。10年ほどたつと顕著に距離感が出てくる様子が見て取れます。どのような理由で距離感が生まれて来たのかは分かりませんが、両方の教会に課題や痛み、葛藤があったのでしょう。総会資料を見ると、そのように思います。

平塚バプテスト教会としては当初の目的を達成することができませんでした。伝道所を成長させ、教会として地域に定着させてゆく、500の教会の一つにする、自立自給させてゆくという目標は達成できませんでした。

この取り組みは失敗だったのでしょうか?〇×をつけたいわけではありません。歴史を振り返りたいのです。私たちはあの時何をしようとしていたのか。目的がなんだったのかを考えたいのです。それは少なくとも伝道所に人が満たされることではなかったはずです。もちろん多くの人に伝えたい願いはありました。

しかしもう一度私たちの目的、思いがなんだったのかを考えたいのです。私たちが小田原伝道所を出した目的はなんだったのでしょうか。それはその過程で人々と出会うこと、そしてイエス様と出会うことではなかったのでしょうか。

小田原伝道が成功か失敗かではなく、私たちはその過程で、人々に、イエス様に出会うことができたのかどうか。私は歴史からそのことが問われているのではないかと思います。

そして今の私たちの教会も同じです。人数が、数がということ以上に、この歴史の中でどのように、平塚の地域の人々に、そしてイエス様にどうやって出会うことができたのか、それが問われているのではないでしょうか。

 

今日の聖書個所を読みましょう。今日の個所は1月の聖書教育でも読んだ個所です。Aさんから「船」と「舟」の違いは何かと質問をいただきました。舟は小さい舟を表す漢字で、聖書では小舟と訳す場合もあります。それは小さな舟だったのです。弟子たちその舟で向こう岸に漕ぎ出そうとします。彼らの目的地は17節カファルナウムです。

実は「舟」という言葉が今日のキーワードです。いつからか人々はこの聖書個所の舟とは教会の事だと理解するようになりました。小さな舟が暗闇を漕ぎ出してゆく、教会は小さな群れとして暗闇に漕ぎ出すのです。

しかし湖は荒れ始めます。19節25スタディオンとあります。この湖の幅は狭い場所でも60スタディオンくらいあります。つまり25スタディオンとは、湖の真ん中を指します。湖の真ん中、引き返すことも、向こう側を目指すこともできない一番危険な場所で、彼らは強い風に会うのです。漕ぎ出した舟はまるで私たち平塚教会の様であり、小田原伝道所のようでしょうか。沈まないように、目的地へと向かって、力を合わせて漕ぎ続けるのです。

そこに不思議にも、イエス様が湖の上を歩いて現われます。彼らは恐ろしくなりました。この個所、イエス様の水上歩行は不思議な奇跡です。でも、もう一つ不思議な事が起こっていることを見逃さないでください。それは21節「イエス様を迎え入れようとすると、間もなく、舟は目指す目的地についた」ということです。

イエス様を受け入れようとしたら、いつの間にか目的地だったのです。残りの道はどうしたのでしょうか。水上歩行よりも、瞬間移動の方が大きな奇跡でしょう。

しかしもしかすると、イエス様に出会う時、不思議と私たちもそんな経験をするのかもしれません。イエス様と出会った時、そこが私たちの目的の地だったということです。私たちはどこかを目指して、舟を漕いでいるのかもしれません。目標を目指しているのです。しかし、本当に私たちの目指す場所は、イエス様と出会う場所です。私たちの決めた目標が目的地ではなく、その途中でイエス様と出会った場所が目的地になるのです。

イエス様は「私だ、恐れるな」と言います。この物語は水の上を歩いたという奇跡に目を奪われがちです。でもそこを恐れるなと言います。指し示されているのは、「私だ」という言葉です。そうイエス様との出会いを見よということです。様々な出来事が、私たちの歴史の中にはあります。恐れるような事、奇跡のような事があります。そしてその時、その事柄だけではなく、そこにどのようにイエス様との出会いがあったのかを見よとイエス様は言うのです。イエス様は私たちの70年間の中にも確かにおられました。でもそれは私たちの目的とした場所とは違う所におられたのかもしれません。

私たちの目的地、目指す場所、それは活動目標の達成ではありません。その途中にある、人生の途中に、突然起こる、嵐の中でイエス様との出会うということ、それが目的地です。そこが私たちの目的地です。私たちの歴史をそのような視点で見つめてゆきたいのです。大切なのはそのことです。

私たちは舟です。出発した70年間、様々な目標を持ちチャレンジをしてきました。目標が達成できたこと、できなかったこと、どちらもあります。その歴史には成功も失敗も、奇跡も困難もありました。でも大切なのはその旅の途中で、イエス様と出会うということです。「私だ」というイエス様と出会うことです。目的地それは、イエス様と出会った場所です。私たちがどこを目指そうかそれは関係ありません。イエス様と出会う時、そこが本当の目的地になるのです。

私たちの歴史にはこれからもチャレンジがあるでしょう。その中の嵐を大事にしましょう。きっとイエス様との出会いが隠されているはずです。そして私たち一人ひとりの人生も同じでしょう。目標、なりたい自分、それを一生懸命目指します。でもたとえそれができなかったとしても大事にしたいのはイエス様との出会いです。それが私たちの本当の目的地だからです。お祈りします。

 

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【全文】「70年間の無力の強さ」ヨハネ5章19節~36節

みなさん、おはようございます。本日も共に礼拝をできること感謝です。すでにお伝えしたとおり、徐々に通常の礼拝に戻そうとしていた最中ですが、今日からまた礼拝を短縮版に戻すこととなりました。コロナに振り回され、疲れてしまう毎日ですが、そんな時こそ変わらない神様のみ言葉から力をいただいてゆきましょう。今日も子ども達が一緒に礼拝に集ってくれています。平塚バプテスト教会はこどもを大切にする教会です。互いの命を感じながら、礼拝をしましょう。子どもを連れて来たお母さん、おじいちゃんも、自分の子どもの声が気になることがあると思いますが、大丈夫です。一緒に礼拝をしましょう。

先週から3回にわたって、平塚バプテスト教会が70周年を迎えたということについて考えたいと思っています。いろいろ資料を掘り返したり、インタビューをしたりしています。みなさんにも原稿の依頼をしますので、どうぞ言葉を寄せください。資料を見ながら私は70年間、神様の力がこの教会におよび、建てられ続けて来たこと、その栄光の歴史を探していました。年表を見て、どのような恵みがあったのかを70年間という視点で振り返っていました。たとえば70年間で10個教会のトピックを挙げるとしたら、創立、宣教師、幼稚園、土地問題、小田原伝道所、梶井牧師招聘(バプテスト)、礼拝堂工事、信仰告白作成、こひつじ館建設、コロナのことになると思います。

しかし振り返ると70年間、いい事、栄光ばかりではなかった、いろいろな苦労があったことを知ります。特に私が注目しているのは、幼稚園と小田原伝道所についてです。記録からはそうは書いていなくても、そこから痛みを感じとります。

先日お二人の方に幼稚園閉鎖の歴史についてヒアリングをしました。幼稚園閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の執事会の記録によりますと、1978年12月31日に初代牧師・長尾三二先生が天に召されました。その後2月に川上牧師が着任されます。しかし、4月からの附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の教育方針を引き継いで主任、長尾牧師のご親族に委ねていくのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園の先生全員が退職をしてゆくことになります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が平塚バプテスト教会を去ることになってしまったのです。何とか幼稚園は続きましたが、結局8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。

当時対立したお互いが、守ろうとしたものは何だったのでしょうか。そこで教会が示されたことは何だったのでしょうか。当時そこにいない私は、断片的な報告から想像するしかありません。しかし、確かに教会を去る人がおり、幼稚園は閉園してしまいました。痛みが残り、その痛みの癒しは終わったわけではありません。

教会は幼稚園を通じて、この地域に福音を伝えて行こうとしました。あるいは地域の子どもたちの成長を願いました。そのスピリッツは素晴らしいと思いますし、こひつじ館、子どもを大切にするという形で今も受けつがれていると思います。しかし思う様にはいかなかったのです。記憶・記録からは、大きな課題を前に教会は無力で、分裂の危機の前に教会は無力だったようにさえ感じます。礼拝出席者数も目に見えて減少したでしょう。

教会が幼稚園に関わる問題で混乱することは、決して珍しい事ではありません。平塚教会はこの事の前に無力で、分裂し、教会が閉じてしまう可能性も十分にあったでしょう。しかし教会は続きました。その後も確かに礼拝が続き、教会は続いたのです。

このような状況でも教会が続いたこと、そこには不思議な力が働いたと言えると思います。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や先輩者の頑張りがありました。「人の言葉に惑わされない」という堅い意志、一致しようという思いがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断をされたからこそ、この教会は続きました。この教会を残すと神様が決断されたのです。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様はこの教会を建て続けることを選ばれたのです。

教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」がしっかりと刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことも刻まれています。栄光ばかりではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注ぎました。私はその在り方が好きです。「弱い時こそ強い」それを体現している存在として、この教会は立ち続けているのだと思います。

さて今日の聖書の個所を見てゆきましょう。今日の個所はベトサダの池の話の直後の個所です。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。今日の個所の、19節後半です。「自分からは何事もできない」と「自分には力がない、能力が無い」ということを語ります。自分は無力だというのです。

しかしイエス様は、その無力の中に神様が働き、神様の業が起こっていると話します。20節に、神様はイエスさまを愛して、自分の力をイエス様に与え、それを示すとあるとおりです。神様は力の無い場所を愛するお方です。神様は弱いもの、無力な者を愛し、力が注がれるお方です。それによって大きな業が地上に起こる。私たちにとって驚くような出来事が起こるのです。

21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わった、ばらばらになってしまったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。神様からの命を受けて、もう一度一つのものとして働きを始める、起き上がる出来事です。

そのような出来事が、イエス様が選んだ場所に起こります。それは23節、すべての人が父を敬い、子を敬うために起こります。この地上の誰かのためではなく、すべての人のためです。全ての人が神様とイエスを敬うようなるためです。敬うとは、評価するという意味です。その本当の価値を知り、大切なものであるということ、従う価値のあるものであると知ることです。その本当の価値を知らせるために神様の業が起こるのです。

24節、私の言葉を聞いてとあります。神様の言葉を聞く、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。死んでしまったよう見えた場所に、命が湧きおこるのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。

そこでは25節、死んでしまった様に見える人、その無力さの中に神の声が響き渡るという出来事、その時が来る、その時は来ます。それは今がその時です。弱い私たちがその言葉を聞く時、私たちは生きるようになる、私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。それは今起こることです。

28・29節、驚いてはならないとありますが、私たちはそれに驚くでしょう。死んでしまった心に、終わってしまったと思う場所に、無力さの中に、神様の声が響きます。その時は善い行いをした人も悪い行いをした人も等しく、神様の力をいただくのです。そしてもう一度、そこから出てくる、新しくスタートができるのです。

30節もう一度イエス様は繰り返しています。「わたしは自分では何もできない」と。イエス様ですら、自分では何もできない、神の力が働いて、御心が実現されるのだと言います。私たちも、もちろん同じはずです。私たちは無力です。でもそこに神の力が働くのです。私たちが70年間頑張ったのではありません。神様が70年間、無力な私たちに力を与えてくれたのです。それが私たちの歴史です。

31節イエス様は自分を証し、賞賛することはしません。イエス様は自分の歴史を賞賛することはしないのです。36節、人はさまざまな評価をするでしょう。証言をするでしょう。しかし無力なイエス様に力が与えられ、成し遂げられたこと、そのものが一番の証しだとおっしゃいます。

今日の個所、神様の力、それは「わたしは自分では何もできない」という無力なイエス様に働くということをみてきました。私たちも同じでしょう。

私たち自身では何もできないかもしれません。現実に、コロナに振り回されるばかりです。でもそこに神様が働くのです。私たちは70年間を賞賛したい思いがあります。でも強い時ばかりではありません。教会の歴史には傷があり、無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、今も立ち続けている事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力を証ししているのではないでしょうか。

平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。この教会をもっと大きく、もっと力強い、もっと影響力のある教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。現実に振り回される、無力な人間の集まりでありましょう。そしてそこにこそ神様の力を求めてゆきましょう。

私たちは世に派遣されます。そしてそうする度に躓いて、右往左往して、分断の危機に悩むかもしれません。でも、それでも歩む教会でいましょう。それでいいのです。その中でこそ、そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。この教会の70年間はそのような歩みだったのではないでしょうか。

そして私たち一人ひとりの歩みも、そのような歩みだったのではないでしょうか。これからもそのような歩みであるのではないでしょうか。お祈りいたします。

 

 

【全文】「70年間の勇気」ヨハネ16章25節~33節

皆さんおはようございます。今日も共に礼拝をできる事、うれしく思います。子ども達も集ってくれています。平塚バプテスト教会は子どもを大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。先週までは礼拝について12回シリーズで宣教をしてきました。その実りに感謝です。予定では、6月子ども何回か創立記念、70周年について考える計画でしたが、コロナで集う事ができない中で、やはり礼拝の大事さを一層覚えるというで、礼拝をテーマとして宣教を続けてゆく事としました。少し時期は遅れますが、今日より改めて私たちの教会が70年を迎えたという事について、3回に分けて考えてゆきたいのです。

70周年という事で、教会の資料保存をしっかりしようと、整理をしています。その中で、古い執事会の記録や証し集なども目を通しています。資料を読むと、70年間で何回もこの教会にはピンチの時があったという事を知りました。冷や汗をかきながら記録を読みました。その度にかしい選択が迫られ、今の教会がある事を知りました。もちろんコロナのこともその歴史の一つに加えられると思います。

この教会が様々に形、あり方を変えてきた事も知りました。それと同時に教会がこれまでの70年間、変わらずに続けてきた事は何だったのかも考えさせられました。何が語られ続けてきたのかという事を考えています。

変わらず語られ続けている事、その一つは平和という事が言えると思います。教会は70年間平和を語り続けていました。初代の長尾先生は戦時中に戦争に反対し、逮捕された96人の牧師の一人でした。二代目の川上先生もシベリア抑留の話を良くされたと聞きます。続く牧師たちも平和について語っています。それぞれの牧師が、この教会の業、宣教の時に、平和を語り続けていました。私もそうでありたいのです。

私たちは6月14日で創立70周年を迎えましたが、同時に今週の7月16日は、75年前、平塚大空襲が起きた日であった事も覚えます。私たちの街に焼夷弾の雨が降った、空爆が行われた、その日から75年でもあります。創立と平和を祈念する時です。

私は敗戦記念日や広島・長崎に原爆が落とされた事と同じ様に、この記憶を大事にしたいと思っています。私たちの住んでいた町が戦場となり、目の前に爆弾が落ちた事を忘れないでいたいのです。

礼拝で平和を宣べ伝える、それは牧師個人の願いを超えるものです。神様が私たちに平和のためのみ言葉を与え続けて下さったのです。70年間神様は、平和を実現するために、み言葉によって、私たちを勇気づけ、私たちに語り続けて下さったのです。神様は、私たちが平和を作り出す者となるために、私たちに語り掛け、勇気を与え続けて下さっていたのです。

教会が立ち続ける事、この教会が平和を語り続けた事、それは何より神様の働きです。もちろん先人たちの大きな働きもありますが、それを超える、それに先立つ神の働きがあった70年間だったのです。

教会は平和を語ってきました。しかし一方、私たち人間の決意、平和への決意とは弱いという事も知らされています。75年前の空襲の夜、どれほど強く平和を願った夜だったでしょうか。敗戦後それは憲法9条という形で、戦争をしない誓いが建てられました。しかし今、その憲法9条を、より戦争に近づくように変えようという人物が総理大臣になっています。日本は再び軍備拡張の道を歩みだし、アメリカ軍から言われるままに兵器を買い、アメリカ軍と一体化し、平和から遠ざかろうとしています。軍事力への誘惑は非常に強い力です。また教会の内側も70年間平和だったとは言い難いものでした。分裂や閉鎖の危機さえもありました。

このような中で、私たちが平和を求め続けてゆくには、神様から励ましが必要です。平和は、私たちが戦後に選ぶ以前に、神様が戦わない、殺し合わない選択へと導いておられました。私たちは神様に平和へと導かれ、神様から励ましをもらい、平和を実現してゆく者として立たされるのです。神様は70年間、そのようにして平和を私たちに語り続け、その実現のために勇気と励ましをくださったのです。

だからこそ本当の平和、それは神様を信頼する時に起こるのだと思います。私たちに平和が起こるのは、命の造り主が神様であると、知った時です。その命が何よりも大事であると知る時、私たちは戦争を止めて争いを止めて、平和を選び取る事ができるのです。

もちろん神様を信じて平和のために働く、その中には様々な苦労があります。平和のために苦難を味わいながら歩む。しかし苦しみがあったとしても、平和は必ず実現します。それが神様の約束だからです。

一人一人に神様が働きかけ、強い平和への願い、行動を与えて下さいます。平和、それは戦争の無い平和だけに限りません。暴力の無い平和、差別の無い平和、格差の無い平和、命に優劣のつかない平和。その平和を神様からの励ましをいただき、私たちは70年間求めました、そしてこれからも求めてゆくのです。

 

さて、本日の聖書に目を向けましょう。今日の個所はイエス様が13章から続く、最後の晩餐の席でずっと教えを語られてきた、最後の部分です。その教えの最後が今日の部分です。イエス様は33節最後の最後にこう言います「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」

イエス様のここまでの長い話、それは平和のためだったというのです。イエス様は平和、シャロームを伝えたお方です。聖書の平和、それは戦争が無い事だけに限りません。差別の無い平和、格差の無い平和、命に優劣のつかない平和。その平和のために神様の元にいなさいという事が13章からずっと書かれているのです。

25節には「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とあります。そのイエス様はもうそれを言葉やたとえによって伝えるのを終えると言います。これからをもっとはっきりした形で知らせるというのです。

はっきりと知らせるとは、十字架によって知らせるという事です。イエス様は十字架の出来事によって、歴史に残る形によって私たちに福音を知らせようとしています。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちに平和を告げ知らせようとしているのです。

ここで弟子たちは30節「今、分かった」「私は信じます」というのです。しかし、この後の弟子たちはどうでしょうか。イエス様が捕らわれようとする時に、どうしたでしょうか。剣を抜いて、立ち向かおうとします。そしてイエス様を見捨てて、散り散りに逃げて行きました。さらにイエス様を三度知らないと言うのです。「わかりました」「信じます」と言ったすぐ後に、簡単に暴力に訴え、簡単に裏切ってしまうのです。

弟子たちのあの「分かりました」という決心はどこに行ったのでしょうか。剣を振り回し、逃げる弟子たちのその姿は、虚しく、平和をすぐに諦めてしまう、弱い者たちの姿です。平和を求めるけれども、苦難に会うと、すぐに挫折する者たちです。私たちの決意とは、私たちの教会もまた、そのような弱さを持ちます。平和への決意、信じると告白する信仰の決意は、それほどまでにもろく、弱いものなのです。

だからこそ私たちには神様の力が必要です。私たちの決意に先立つ恵みと導き、神様からの励ましと勇気が必要です。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちにその力を、平和を実現するための力をお与えになるのです。

十字架とは神様と等しいイエス様が、もっとも平和から遠い、もっとも悲惨な場所に身を置かれ、それを味わったという出来事です。私たちはそれを見ます。そしてもう二度と誰も十字架にかけてはいけない、誰も剣を持たない、誰も見棄てない、困難から逃げない、その力を私たちはいただくのです。その十字架から私たちは力をいただき、平和を願い求め続ける者となるのです。決意に先立つ恵み、勇気、励ましを頂くのです。

平和を願い求める時、32節後半です。イエス様は「父が共にいて下さる」と、確信を持って進んでゆかれます。そしてまるで自分にも言い聞かせるように、苦難があっても、勇気を出しなさい。神が既に世に勝っていて、共にいて、必ず平和を実現して下さると言います。神様がその力を私たちに、平和を実現する力を私たちにお与えになるのです。

平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私たちの教会は、この教会を建て続けるという決心を何度も打ちのめされそうになりながらも、神様によって建てられ続けていました。そして平和を語り続けてきました。それができたのは、ひとりひとりのがんばりに先立つ、十字架のイエス様がいたからです。私たちは十字架のイエス様から、励ましと勇気をいただく事で70年間を歩んだのです。それは平和の尊さと、平和の難しさを知りながらの歩みです。この70年間を主に感謝しましょう。神様の励ましと勇気によって、十字架の励ましと勇気によって、私たちは立たされ平和を語り続けてきたのです。

これからも神様は共にいて下さいます。私たちは平和を求め続け、み言葉に聞き続けましょう。神様からの勇気を求め続けましょう。お祈りします。

 

【全文】「礼拝は一緒の食事」Ⅰコリント11章17節~22節

 

みなさんおはようございます。今日から7月の礼拝、一緒に賛美できるのはいいですね。「礼拝は歌う」です。私たちは、一度は中止していた賛美を再開することを選びました。歌うのはストレス発散になり、気持ちいいものです。でも私たちはこの歌を互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら、そしてなにより神様にむけて、賛美をしています。その恵みに感謝です。今日からまた教会が、一歩通常に戻ります。礼拝以外のことも、もう少し時間をかけて戻してゆきたいと思います。私個人としては早く皆さんと食事をしたいという願いを持っています。

こどもたちも集まってくれました。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。子ども達の存在も感じながら、礼拝をしてゆきましょう。そして今日で12回シリーズの「礼拝は〇〇」というテーマの宣教は最終回です。

今日皆さんと一緒に賛美するのは4か月ぶりですが、主の晩餐をするのは2月の礼拝が最後ですから、実に5か月ぶりとなります。コロナの期間、それぞれの自宅で礼拝を守るとした平塚教会では、主の晩餐を一時中断していました。その期間パンとぶどう酒のカードを送ってみたりもしました。後から他の教会に聞いてみますと、主の晩餐をインターネットでする教会もあったそうです。リモート主の晩餐でしょうか。方法は様々で、それぞれがパンとぶどうジュースを買ってきて画面の前で食べたり、教会で行われる主の晩餐の様子を配信したりしたそうです。

もとより主の晩餐の在り方はというのは驚くほど多様です。同じキリスト教でもカトリックは毎週行い、これを礼拝の中心としています。プロテスタントは月に一度という教会が多いですが、月に一度という明確な理由はありません。毎週では恵みを忘れてしまうので、月に1回としています。それでも多いので年に数回とする教会もあるそうです。またバプテストの教会なかでも多様です。主の晩餐の時は牧師がガウンを着る教会もあります。あるいはオープン、クローズという違いもあります。どのような頻度や方法で行っていくかは、主の晩餐とは何かという理解の違いともいえるのでしょう。

私たちも70年間この主の晩餐を繰り返してきましたが、初めてできない期間に直面しました。皆さんは主の晩餐ができないことへのもどかしさや、喪失感はどれほどあったでしょうか。実は私はあまり感じないのです。どうしても早く皆さんと主の晩餐をしたいとは、残念ながら感じなかったのです。礼拝をしたい、会いたい、賛美したい、食事したいとは思いました。でも、主の晩餐をしたくてたまらない。そういう気持ちには不思議とならなかったのです。私が不信仰で無理解なところもあるでしょう。しかしそれが正直なところです。私は、いえもしかしたら教会も、主の晩餐を不要不急としてきたかもしれない。本当は礼拝に欠かせない要素である主の晩餐を、無意識に繰り返していたかもしれない、私はそのような自分の気持ちに気づかされました。今日もう一度、この主の晩餐のパンとぶどう酒を頂く前に、一体何がここでされているのかを確認しておきたいのです。

私たちは主の晩餐、一体ここで何をしているのでしょうか。先ほどもお伝えした通り、主の晩餐の理解には大きな幅があります。見てわかる部分だけでも、パンは種無しパンか、食パンか。来会者にオープンかクローズか。ぶどう酒はジュースか、ワインか。目の前でパンをちぎるのか、あらかじめ切れているのか。様々な違いがあります。私自身はバプテスマを受けていない方や子ども、すべての人がパンを受けてよい、そして毎週したいと考える、いわゆるオープンな立場です。このように教会の中でも理解は違います。もちろんこれは私個人の理解でするものではなく、教会の業です。平塚バプテスト教会では、これに預かるのは洗礼・バプテスマを受けた方にクローズしています。そして限定するだけではなく、どの教派に属していても参加できるとオープンにしています。

あまりに多様である主の晩餐。でも久しぶりの主の晩餐を、今日、ともに考えたいのです。

まず初代教会がどのように主の晩餐を持ったのかを見てゆきましょう。初代教会では主の晩餐は、今でいうところの愛餐会・食事会でした。礼拝の奉献の時に持ち寄ったもので食事をしていたのです。それが主の晩餐の原型です。最初はとにかく全員でとる賑やかな食事だったのです。

どうして礼拝で食事をしたのでしょうか。それはイエス様との食事を元にしています。聖書にはイエス様がいろいろな人と食事をした場面が出てきます。関わらない方がいいと言われる罪人や外国人と食事をします。関わるにはふさわしくない、神の恵みにはふさわしくないとされた者と、その垣根を超えて、分け隔てのない食事すること、それがイエス様の運動だったのです。一緒にご飯を食べるのが、イエス様の愛の運動だったのです。そのことを初代教会は忘れずに、みんなで賑やかに食事をしていました。

聖書には様々なイエス様の食事を描いています。主の晩餐は大きく分けて4つの食事のモチーフがあります。罪人との食事、最後の晩餐、復活後の食事、奇跡の食事です。礼拝の中に食べるということがあるのは、これらの4つの豊かな意味を含みます。だからこそ多様なのです。イエス様としたさまざまな食事にルーツを持つ礼典、それが主の晩餐なのです。

食事の記憶、それは私たちの記憶にしっかりと焼き付くものです。南小会室で一緒に食べた食事、なんと懐かしいことでしょうか。私は正直に申しますと、主の晩餐の喪失感よりも、礼拝後の食事が無いことの喪失感が私にとっては大きいのです。そう、きっと私たちが一緒にしていたあの教会のお昼ご飯は、イエス様との食事、主の晩餐だったのではないでしょうか。礼拝の中の主の晩餐にもきっとそんな恵みが隠されているのです。 今日の聖書の個所から、その恵みを見てゆきましょう。

 

当時コリント教会でも礼拝で主の晩餐、食事が行われていました。しかし、そのコリント教会の主の晩餐に対してパウロが「それでは主の晩餐にならない」と手紙を送っています。一体何が起きていたのでしょうか。

キリスト教は当初、貧しい人々に伝わっていきました。だから礼拝の食事とは本当に食べ物の分かち合いだったのです。みんなで食事をとっていたのです。しかし徐々にお金持ちも共同体に加わるようになります。その人たちはなんと先に食事を始めてしまうのです。そして例えば働いてから礼拝に集ってきた、遅れて来た貧しい人がいたとします。彼らは空腹です。しかしその時すでに、食べ終わっている人がいて、満腹し、酔っている人がいたのです。

貧しい信徒はどうしたでしょうか。金持ちの食べ散らかした、そのあまりものを食べていたのです。パウロがわざわざ手紙で怒っているのはそんな主の晩餐の在り方です。そんなんじゃ主の晩餐にならないというのです。これこそ18節にある仲間割れです。パウロは金持ちのそういう食事は家でしろと言います。22節「あなた方に家があるでしょう」のこの家は複数形です。家々をたくさん持っているにもかかわらず、分かち合わずに、先に食べる人たちに、家で食べろと言うのです。

少し先の28節にある「誰でも自分を良く確かめなさい」とはこのことです。確かめるのは、自分だけ良ければいいや、食べてない人がいるかどうかなんて関係ない、えい自分が全部食べちゃえ。そういうことが無いかをよく確かめながら、主の晩餐をしなさいと言うのです。

ですから主の晩餐は1か月の個人的に罪を犯してないか、ふさわしいか確認して食べる、自己吟味をして食べるという意味だけにはとどまりまりません。食べれない人が周りにいないか、まだ食べてない人がいないか、ちゃんと確認して食べようということです。一緒に食べようということです。

ここで求められるのは自己吟味だけではありません。いわば共同体吟味です。私たちがその食事を分かち合う群れになっているか、共同体を点検する、吟味する、そのことがこの食事では求められているのです。互いに仲間割れが起きていないか、配慮しあう、祈りあうことができる共同体か、そのことが吟味される食事なのです。主の晩餐、それはイエス様との食事です。イエス様が私を食事に誘ってくださる恵みです。イエス様との濃厚接触です。イエス様とのいろいろな食事を、それぞれ思い出しながら、記念しながら、食べてゆくのものなのです。

共同体を吟味する。もちろんそれは礼拝共同体の吟味です。礼拝する共同体になれているかどうかの吟味です。そしてその吟味をするとき、それは教会の内側だけに留まらないでしょう。私たちの人間の共同体で、この地域や世界で仲間割れが起きていないかを点検し、吟味することに広がるでしょう。それが毎回の主の晩餐で行われることです。

私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で70年間続けてきました。礼拝の中でイエス様とのさまざまな食事を思い出し続けていました。今日もイエス様とのあの食事、それぞれに思いだしながら食べましょう。そしてこれはみんなで一緒にする食事です。私たちの仲間のことも、世界のことも思い出しながら食べましょう。それは礼拝の中で欠かせないものであるはずです。

さて、私たちは礼拝について、3か月ほど共に考え続けてきました。どのような事をお感じになったでしょうか。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集い、礼拝はみ言葉が中心、礼拝は献身、礼拝は派遣、礼拝は続く、そして礼拝は一緒の食事です。

礼拝とはなんと豊かなものでしょうか。そして礼拝とは何と多様なものでしょうか。私たちは礼拝の何を忘れ、何を思い出したでしょうか。何を守り、何を変えてゆくのでしょうか。これから共に考えてゆけたらと思います。学ぶだけで終わりではなく、日々の新しい礼拝につなげてゆきましょう。

皆さんの中でもお一人ひとりの中でもこの礼拝を思いめぐらせて続けてください。お祈りします。

 

【全文】「礼拝は続く」ヨハネ17章15節~23節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、うれしく思います。共に精いっぱいの礼拝を捧げてゆきましょう。こどもたちも集ってくれました。新しい子ども室の評判はいろいろです。2週間ほど前にお配りした、執事会の記録に詳しく経緯を載せていますのでどうぞご確認ください。子どもとの礼拝を別にしてしまうのは簡単なのですが、お互いの存在を感じながら礼拝をすることを大事にしたいと願い、この場所で礼拝をしています。みなさんもだいだいいつも同じ席に座る居場所があるように、子ども達にも居場所となればと願っています。

さて、先週は礼拝は派遣というテーマで宣教をしました。礼拝は招きで始まり、派遣で終わる。そして派遣される私たちと共に、イエス様がいて下さり、私たちは弟子として歩むのだということを考えました。今日は礼拝から派遣された私たちが、その後をどのように歩むのかということについて考えたいと思います。私たちは礼拝というテーマに集中して考えてきましたが、それはともすると教会の中ばかりの、内向きのテーマでした。私たちが礼拝から派遣される場所、そのことに目を向けてゆくことも大事なことです。今日は派遣された後、礼拝はそれぞれの生活の中で続いていくのだという事を考えたいのです。

 私たちは礼拝に招かれて礼拝に集いました。そして神様の恵みとみ言葉を頂き、共に生きる他者とあいさつし、歌い、お互いの存在を知る、そのような礼拝体験をします。そして礼拝の最後には派遣の時が持たれ、6日間それぞれの場所へと派遣されます。また7日後に再び招かれるまで、それぞれの場所を一生懸命に生きるのです。イエス様の弟子として歩むのです。

 しかし私たちの生きる、私たちの派遣される世は厳しい現実の中にあります。私たちはシャロームとは遠い、破れと歪みに満ちた世界に派遣されるのです。今、最も大きなゆがみとして世界に突きつけられているのは、人種差別でしょう。特にアメリカでは黒人への差別の問題が根深く残っています。5月25日にジョージ・フロイドさんが、警察官に取り押さえられ窒息死した、それをとらえた映像は目に焼き付いています。

 人種差別、日本ではあまりない。そうとっさに考えてしま私たちは間違えています。それは世界の裏側の出来事ではなく、私たちの身近な出来事です。私たちのすぐそばに、目の前に外国人差別・偏見が多くあるのです。

 ここに『クラスメイトは外国人「課題篇」』という本があります。学校でも使われることがあるそうです。絵はみなみななみさん、クリスチャンの方が書いています。この本の中の第5章「外国人のこどもの貧困」の舞台は平塚市の子ども食堂です。外国人の親を持つ子供たちの困窮と、それに対する偏見・差別が描かれています。

 こんなストーリーです。あるきょうだいが、登場人物・園子さんの始めた子ども食堂を訪ねてきました。そしてこのきょうだいに虫歯がたくさんあることに気付いたのです。よく聞くと、シングルマザーの母親が生活に困窮し、夜に仕事をしており、子ども達の歯を磨いてあげる事、歯ブラシを買ってあげる事が出来ないというのです。他の人々は、母親のだらしなさを指摘します。あるいは養育できないのに子供を産んだ自己責任、行政の支援を使わない自己責任を問います。嫌なら自分の国に帰れば良いのではないか。あるいは外国人だから仕方がない、ちゃんとやっている外国人もいる、だから自己責任だと繰り返します。まるで安倍政権みたいな意見です。

 私たちは同じ町に住んでいる住民なのに、「外国人だからしょうがない」そう考えてしまうのです。平塚に住む人の貧困の問題は、平塚に住む私たちの問題なのに、私たちはつい「外国人だからしょうがない」そう、差別のまなざしで見てしまうのです。

 コロナで分断された社会で、いままで差別が無いように見えてきたかもしれません。しかし、なにか問題が起こると、すぐに差別は頭を出してきます。日本は中国人を差別し、世界はアジア人を差別するのです。人種やルーツを超えて、世界が連帯し一つになること、格差が無くなることを切に望む期間だったはずなのに、人々の差別と偏見が表面化する期間となってしまいました。

 私たちはどのように共に生きるかを考える群れです。子どもと、あらゆるルーツを持った人と、どうしたら一緒に生きて行けるか、一緒に礼拝をできて行けるかを考える群れです。私たちに何かできることはあるでしょうか。私たちも、こども食堂を始める準備をしていますが、それは世界が共に生きるということの助けになるでしょうか。私たちも子ども食堂を通じてこのような課題に巡りあうようになるのでしょうか。私たちはこのような歪んだ世界に派遣される者たちです。そして教会そのものもこの世に派遣されているものです。私たちは世に派遣された教会から、さらに世へと派遣されるのです。

 このような現実世界の中で、イエス様の弟子であり続けることは難しいことです。自分のためだけではなく、他者のため、神様のために生きようとすることは難しいことです。私たちのどんな決意も、打ち砕かれてしまうのです。私たちにはそれに向かってゆくためにはありあまるほどの力が必要です。必要なのは一方的な恵みの力です。使っても使っても使いきれない程の恵みが無ければ、弟子として歩むことはできません。だからこそ今日の礼拝、今日の教会でその恵みをはっきりと受け取って派遣されたいのです。祝福の宣言を受けてこの世へと派遣されてゆくのです。

 そして教会自体も世へと派遣されたものと言えるでしょう。世界には、聖なる教会と罪深い世があるのではありません。教会もこの場所へと派遣されているものなのです。この地域に神の国をもたらす、平和と平等をもたらす共同体として、教会が建てられているのです。私たちはそのように、この地域の福音として、立つ役割を持っているのです。

礼拝から派遣されていく私たち。礼拝は一度は終わります。しかし、弟子としての歩みは続きます。礼拝は日曜日に終わるけれども、派遣は続きます。皆さんは6日間、教会から、礼拝の中から、派遣され続けるのです。その意味で礼拝は続いていくのです。礼拝の延長線上に私たちの弟子の歩みがあるのです。

 さて今日の聖書個所を見てゆきましょう。15節「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とあります。イエス様が願っておられること、それは私たちが世から隔絶されることでありません。仏教には出家という文化があります。世と隔絶する生き方です。しかし私たちは出家するのではありません。私も出家しているのではありません。私たちは世にあって礼拝をするのです。戸を閉め切って礼拝するのではありません。イエス様が神様に願うのは、汚れたこの世界からの隔絶ではなく、この世界のただなかに生きることです。そしてその中にあって、悪い者から私たちを守ってくれるように祈るのです。いろいろな問題に会わないようにではなく、問題に会っても守られるように、イエス様は祈るのです。

 18節、神様はこの地上に、イエス様を人として派遣されました。そして礼拝の最後、今度は私たちがイエス様に派遣される番なのです。19節イエス様が御自分の人生を神様に献げた様に、私たちも神様に人生を献げて行く生き方が求められ、派遣されるのです。7日に一回、礼拝の恵みを頂いて、あふれる恵みをいただいて6日間、それぞれの場所へと派遣されるのです。

 イエス様は私たちの役割も祈っています。21節、すべての人をひとつにするという役割です。私たちが派遣されるそれぞれの場所には必ず分断があります。差別や偏見や衝突があります。その分断に和解をもたらし、平和をもたらし、一つにするようにと、私たちは派遣されるのです。それが私たちの役割、使命です。平和を作るのが使命です。

22節でもそのことは言われます。私たちがひとつであるように、彼らも一つになるようにというのは、イエス様と神様が一つであるように、私たちも堅い結びつきで一つになることができるようにという祈りです。分断が決してほどけない強い関係に、ひとつになるために、私たちは世へと派遣をされてゆくのです。

 そして21節後半です。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」とあります。私たちが分断を一つにしてゆこうとするとき、平和を作りだそうとする時、必ず私たちを通じて神様を知るようになる人が起こされるということです。イエス様が伝わるのは、分断が一つになった所です。分断をひとつにしようとする姿によって、人々はイエス様を知るようになるのです。

 私たちが礼拝から、神様から派遣されていることを知った時、相手に、神様がイエス様を地上に派遣されたことが伝わるようになります。神様を知るようになる。それが伝道・福音宣教になるのです。

 このようにして、私たちは派遣されます。祈られて、使命を持たされて、分断へと派遣されます。イエス様の願いは、私たちの派遣された先ある、すべての分断が和解し一つになる事です。すべてが完全に一つになる事です。分断のない連帯をする、差別の無い、助け合う社会・関係になっていくことがイエス様の願いです。そして遣わされた私たちが他者を愛することによって、神様がイエス様を愛したこと、神様が分け隔てなく人々を愛することが伝わるのです。

 礼拝は祝祷と派遣で終わります。でも「はい礼拝終了」とはなりません。派遣は続いてゆくものです。私たちの歩みのなかで、その派遣は続いてゆくものなのです。礼拝とこの世の二つがあるのではありません。世にあって、礼拝を続けている、それが私たちなのです。私たちの1週間、神様を礼拝をしながら歩みましょう。奉献の後、祝祷・派遣の時を持ちます。お祈りします。

 

【全文】「礼拝は派遣」マタイ28章16節~20節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできることを感謝です。そして子どもたちも集まってくれました。私たちはこどもを大切にする教会です。今日子どもたちは三密を避けて、北小会議室で一緒に礼拝をすることにしてみました。以前より親子室が狭いという課題がありました。新しい親子室として、とりあえず使ってみますのでよろしくお願いいたします。

ここ以外にもいろいろな場所を候補として挙げました。こひつじ館や教育館が子どもたちの居場所としては最適でしょう。しかし、私たちが子どもたちを大事にするなら、ぜひ一緒に礼拝をしたいと思っています。それによってお互いにとって多少、居づらさが生まれるはずです。でもそれが教会にとって大事な事です。いま礼拝について学んでいるのは、礼拝で大事なのは神様を感じるだけではなく、お互いのことも感じる時も大事だ、そう学んでいます。神様に向かい合いつつ、お互いの存在が感じることができる選択として、上下左右の表現としてこの場所を親子室としてみました。

もちろん試行錯誤の最中です。でもそれは大人の交わりにおいても同じです。こうすればいいという方法があるわけではないのと同じです。保護者の方、みなさんとも相談しながら、どうしてゆくべきかを試し、考えてゆきたいと思っています。どうぞご意見があれば、私まで届けてください。

さて私たちは礼拝をテーマに宣教をしています。12回のうち、今日は10回目です。今日私たちは、宣教・献金の後にある祝祷について考えたいと思います。私たちの教会では次の様に祝祷がされています。「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また小さくされた者と共に、全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」と祝祷がされています。これは第二コリント13:13をベースに、私が考えて使っているものです。他にも聖書の多くの書簡が祝祷で終わっていると言えます。どうぞ探してみてください。

祝祷を私がするといのは当然の事ではありません。教会では古くから按手礼を受けなければ主の晩餐、そして祝祷が出来ないという伝統がありました。今でも、牧師がいない場合は祝祷を省いたり、祝祷を終祷、終わりの祈りと表記を変えることがまだあります。按手礼問題ともかかわっています。祝祷というもの、改めて考えてみると、実はいろいろな疑問が湧いてくる、広がりのある事柄なのです。

祝祷といえば、牧師が手を挙げて祈る。昔風に言うと「願わくは集わしめられた一人びとりとともにとこしなえにあらんことを」と言われていた。あのポーズは一体何の意味があるのでしょうか。私は手を挙げません。手を挙げる理由が分からないのです。もちろん手を挙げる先生がほとんどですが、挙げ方にも色々なスタイルがあるようです。私の分析では片手派、両手派があります。片手派はだいたい同じ。斜め前に手を挙げます。おそらくその起源はローマ帝国時代の宣誓の習慣にあります。両手派もいます。こちらの起源はおそらくルカ24:50にあるのではないかと考えています。イエス様が手を挙げて祝福しているこの手が複数形なのです。イエスが両手を挙げて祝福したことが、この動作の起源かもしれません。

これらの事を調べると私は手を挙げなければならない理由は無いと現時点では思います。むしろ私が心配しているのは、この祝祷が何か誤解を生んでいないかということです。

祝祷は牧師がイエス様に成り代わって、皆さんに恵み・祝福を与えているのではありません。何かありがたいパワーが牧師の手からレーザービームの様に発射されているわけではありません。これを受けるとご利益があるというものではありません。

ではこの祝祷、いったい何がされているのでしょうか。祝祷の中でされていることは大きく分けて二つです。ひとつは祝福の宣言、もうひとつは派遣です。この祝祷は第一に神様の祝福を宣言するものです。祝福の宣言というと難しいですが、つまり神様の愛が私たちに一方的に注がれる。すでに注がれている、そしてこれからも注がれるという宣言です。

恵み・祝福は牧師から皆さんに注がれるものではありません。牧師が皆さんを祝福するわけではありません。私も含めた私たちみんなに、神様から与えられるものです。先ほど祝祷は第二コリント13:13に影響を受けていると言いました。しかしこの個所の言葉そのままで祝祷はできません。思い切って聖書から文言を変えているのです。

このままだと「あなた方」ですが、それを「私たち」に変えています。あなた方に祝福があるようにと私が皆さんに言ったら、まるで私から祝福が出てくるように感じるからです。祝福は牧師からあなたがた皆さんに行くものではなく、神様から私たちにあるものです。この祝福は牧師や誰かから出るものではありません。神様の恵みが私たちに等しく、豊かに注ぐよということが宣言されているのです。対象はすべての人とすべての生き物です。あらゆる生命、大人も子どもも、ペットも。すべての命に神様の恵みが注ぎますという宣言を最後にしているのです。

そしてこの祝祷の一番大きな意味は派遣ということです。これが大事だと思います。神様の恵み、祝福は礼拝の中で繰り返し確認をされますが、派遣はそれまで礼拝の中ではさほど意識されません。

私たちは礼拝が招きではじまると学びました。そして今日学ぶのは、礼拝は派遣で終わるということです。私たちの祝祷では「私たちを呼び集められた神様、いまあなたは私たちを派遣されます」と宣言されています。祝祷とは派遣なのです。礼拝は招きで始まり、派遣で終わるのです。

そしてこの派遣も、もちろん私が、牧師が皆さんを派遣するのではありません。神様が皆さんをそれぞれの場所に派遣をされるのです。

礼拝はこのように招きと派遣の繰り返しです。一度来たら終わりではなく、行ったり来たりする、それが私たちの信仰なのです。それが示しているのは、私たちの礼拝と生活が決して切り離されてた別々の出来事ではなく、その往復であるということです。私たちはその繰り返しによって、自らの生活を見直し、自らの信仰を見直すのです。

 

 さて今日の個所を読みましょう。マタイ福音書の最後、クライマックスの場面です。イエス様は16節集まるように指示されていました。それは神様の招きです。そして人々はひれ伏しました。「ひれ伏した」は礼拝をするという意味です。イエス様に招かれて礼拝をしていたのです。もちろんその集まりは、熱心に信じる者の集まりであると同時に、信じ切ることが出来ない、疑いや不安を持った人々集まりでした。私たちと同じです。招かれ礼拝する、信仰と疑いをあわせ持つ私たちです。

しかしその共同体にはイエス様の方から歩み寄ってくださり、語りかけて下さいます。「すべての民を私の弟子にしなさい」というのです。弟子にしなさい。その対象はすべての人です。ユダヤ人だけでもない、あらゆる人々を、弟子にしなさいというのです。あらゆる場所と人々に向けて、出ていきなさいと言われています。私たちはイエス様に今、様々な場所に派遣されるということです。

イエス様が大事になさったのは、弟子になるということです。先生になりなさいというのではありません。今日教わったことをあなたはみんなに教えて回るのは弟子になった次のことです。まずは、私たちがイエス様の弟子になることが大事です。

私たちが求められているのは、どこに行ってもイエス様の弟子であること、弟子であり続けることです。私たちが他の誰の弟子にもならないことです。家庭や職場には自分の主人と思える人はたくさんいます。でもその中にあっても、私たちが主とするのはイエス様だけです。私たちは他の誰でもない、イエス様の弟子です。たとえどこへ派遣されても、イエス様の弟子であり続けるということがここで言われているのです。ただの派遣ではありません。弟子を派遣しているのです。

弟子とは洗礼を受けた人とイコールではありません。弟子として歩むとはどんなことでしょうか。私たちは祝祷で「私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう」と言っています。これが弟子として歩むことではないでしょうか。弟子になるとは神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕える事です。

派遣された先で、神様が私を大切にしてくださるように、わたしも神様を大切にし、そして隣人を大切にする、それが愛です。神様が人々に仕えるように、神様に仕え、隣人に仕える。それがイエス様の弟子の生き方です。そしての先に、バプテスマがあり、教えることがあるのです。

私たちの礼拝はその終わりに、祝祷をします。それは神様の恵みの宣言です。そしてこの地上へもう一度派遣されることを示すのです。派遣した先で、弟子として生きよ。そのように私たちは、神様から送り出されているのです。そして私たちは1週間を弟子として生きるのです。

今日の礼拝でも祝祷があります。この宣言と、派遣の祝祷をただきましょう。1週間、それぞれに与えられた場所で、イエス様の弟子として生きることが出来るように、励ましを頂いてゆきましょう。

そして聖書によれば、イエス様は派遣されると同時に、いつでもわたしたちと共にいて下さるお方でもあります。イエス様は私たちを派遣されると同時に、一緒に私たちと歩んでくださるお方、インマヌエルのお方なのです。

神様は招き、派遣し、共にいて下さるお方なのです。その恵みを頂きましょう。お祈りをします。

 

【全文】「礼拝は献身」申命記14章22節~29節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝します。集まることができる喜びを感じています。今日は子ども達も集まってくれています。私たちの教会は子ども達を大切にする教会です。一緒に礼拝できること感謝です。またご自宅でインターネットライブで見ている方も共に礼拝できること感謝です。

私たちは今、礼拝とは何か、そんなテーマを12回にわたって考えています。ここまでをおさらいます。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集まり、礼拝はみ言葉が中心とみてきました。今日は礼拝は献身という題で、献金、奉献について考える時を持ちましょう。

私たちは礼拝で献金をするわけですが、礼拝のプログラムを見ますと「奉献」という言葉が使われています。わかりづらい言葉ですし、すこし固い響きをもった言葉です。すんなり献金という言葉を使えばよいと思うかたもいるでしょう。他の教会を調べてみました。手元に34教会の週報がありましたが、奉献という言葉を使っている教会はわずか2教会だけでした。おそらく奉献という言葉を使うのは全国でも5%かそれ以下でしょう。この奉献という言葉に平塚教会は何かこだわりがあるのでしょうか。

奉献と献金を比較すると、一番大きな違いは「金」という言葉が入るか入らないかです。実際ここで献げられるのはお金ですから、献金の方が事柄をよく言い表しており、何がされるのかも明確です。でもそう表記しなかった70年間、きっと何か意味があったのではないでしょうか。すぐに献金と書き換えたり、言い換えたりしないで、この奉献という言葉の価値について考えたいのです。奉献、献金の時、私たちはいったいこの時に何を献げているのでしょうか。それはズバリお金なのです。しかしこの時間がお金を献げる時間だというのでは、この事柄を正確に言い表してはいません。私たちの奉献の時、ささげているものは、きっとお金だけではないはずだからです。

奉献という言葉を見返すと、わかりづらいことはありますが、献金という言葉と比較して、「金」の字が入らないことが、より正確に意味を表していると思います。この時間、ただ単にお金を献げる時ではありません。私たちはお金ではなく、何事かを献げているわけです。では一体何を献げているのでしょうか。それは私たちの命、私たちの人生を献げていると言えると思います。

 

私たちは、命は神様のものと考えます。命は自分のもの、人間のものではないと考えます。だから、いらない命は無いのです。人間がどんなにこんな命は無意味だと思っても、どんなにその命が小さくても、神様はすべての命が大切だとおっしゃるお方です。だからこそ私たちもお互いの命を大事にしようとします。命が人間のものだったら、人間が自由にすればよいのです。しかし私たちはそのようには考えません。私たちは命の所有者ではありません。全ての命は神様のものです。

お金も同じ様に考えることができるでしょう。そのお金はたしかに自分のものです。自分の自由に使ってよいものです。しかしそれも、私たちは神様からいただいたものと考えます。だから私たちは命もお金もすべてを自分のためだけに使うことをしません。神様のためにまずそれを使おうと考えるのです。そしてお互いのために使おうと考えるのです。神様からの命と恵みに感謝し、自分のためだけに使うことを諦めるのです。

私たちはまず神様に献げ、お返ししすることを選びます。そして、その余ったお金で自分たちの必要を満たすのです。私たちの命と恵みを、自分だけのものとせず、神様にお返し、献げてゆく、そして互いに分かち合うのです。それが私たちの献げ物です。

私たちは奉献の時、ただ単にお金を払うのではありません。自分のものではない恵みを受けて、それをお返しし、分かち合っているのです。

献金は説教に対して謝礼を払うのではありません。願い事を叶えるためのお賽銭でもありません。教会に属するための会費や参加費でもありません。教会を維持運営するためのカンパや参拝料でもありません。神様から罰が無いように払うものでもありません。また神様へのプレゼントでもありません。奉献とは命と恵みに感謝し、お返しすること、分かち合うことなのです。奉献とは献金を超えて、自分自身を献げること、つまり献身をすることと言えるでしょう。

さて、今日の聖書を読みましょう。十分の一を献げよとあります。何%かというのは、らそれぞれに委ねるとして、今日の個所によれば、献げ物は主をおそれる事を学ぶためにあるのだとあります。そしてそれをレビ人、寄留者、孤児、寡婦のために使う様にとあります。今日の個所で献げ物をする目的・動機が書かれています。献げ物は神様が怖い、恐ろしいからするのではありません。神様への畏れを学ぶためにあるのです。その畏れとは、神様の偉大さを知る事、つまり神様がすべての命を作られたと知ることです。自分と互いの命が神様から与えられたものだと知ること、感謝すること、それが神様を畏れるという事です。私たちは神様が命を作られことを学ぶために、献げ物をするのです。これが私たちの献げ物です。

 

神様が命を作られたこと、神様がすべての命を大切にされること、それを考え続けるのが教会の役割であり、レビ人、特に教会に関わる牧師や奉仕者の役割です。献げ物はその学びのためにされるものなのです。献げ物は牧師を支える事が目的ではありません。牧師を支えることによって、み言葉を聞き続けるためにあるのです。

そして献げられたものをどのように使ってゆくかも示されています。人々は神様に献げたものを、献げただけではなく、一緒にみんなでそれを分かち合って食べました。家族と一緒に食べたとあります。つまり、献げ物とは神様の元にある分かち合いだったのです。

旧約聖書の時代だけではありません。初代教会もそうです。献げ物と分かち合いはセットでした。特に主の晩餐がそうです。みんなが持ってきた食べ物で、主の晩餐が行われたのです。献げ物の時間があって、その後それを分かち合うのが主の晩餐だったのです。献げることは分かち合ってゆくことと一体だったのです。

聖書には特に寄留者、孤児、寡婦と分かち合うの様にとあります。これは現代でも外国にルーツを持つ人の貧困、子どもの貧困、シングルマザーの貧困にも重なります。献げものは自分たちの信仰を守る事だけではなく、生活に困窮している人々にも具体的に使うものであるということです。

私たちも教会の予算の中からは震災支援募金、社会福祉献金を支出します。今年度10万円が目標です。教会がその一部から、自分達の信仰のためだけではなく、生活に困る人と具体的に分かち合っていく、そのことも神様が私たちに示していることです。もちろんお金だけに限りません。野宿者に向けてマスクを集めました。品薄が続く中、何百枚も集まりました。それが私たちの信仰です。

また、牧師にいろいろな地域の活動を委ねていくという事そうでしょう。牧師は教会の事だけしていてくださいとは言われません。地域の困窮にも具体的に深く関わるように委託されています。それも献げられたものの分かち合いと言えるでしょう。

聖書によれば、神様に様々なものを献げること、それは自分だけよければいいという思い、まず自分の事が優先ということを超えて、神様に信頼する生き方を示します。

この命は自分のものと考えるのではなく、この命は神様のものと考える生き方です。自分の自由ではなく、神様への感謝のために命とお金を使う、それが献げるということです。献金も奉献もそれは献身といえるでしょう。この身を、この人生を、この命を神様に献げてゆく、献身してゆく、それが献げるという表明です。

献金に痛みが伴います、それは献身の痛みです。そして一番自分を献げられたのは、一番の献身をしたのはイエス・キリストです。自分の人生を献げて、神に仕えたのがイエス様です。私たちは自分が献金をして痛いと思う時、それはイエス様の十字架の痛みと同じものかもしれません。それは自分だけのためだけに生きるではなく、他者と神様を選び取っていく痛みだからです。神様もその痛みを良くご存知なはずです。

この献身、私たちは礼拝の中でしてゆきましょう。神様の恵みと命とお互いを一番感じるのが礼拝の中だからです。礼拝の中で献げものの時をもちましょう。礼拝で献げ物をすることが、私たちの献身を最も良く表すことになると思うのです。それぞれの精一杯を献げて行きましょう。

そして、ご相談です。今後、奉献というこの言葉の表記をどのようにしてゆきましょうか。奉献には大事な意味があります。私はままでの奉献という言葉、分かりづらく固く感じるのでので、変えたいと思っていました。でも豊かな意味があることも知ったのです。もっと、ふさわしい言葉はあるでしょうか。皆さんのお考えもぜひ教えてください。お祈りします。

 

【全文】「礼拝はみ言葉が中心」ルカによる福音書4章16節~26節

みなさん、おはようございます。今日はようやく集うことができること、この礼拝が実現したこと、心から嬉しく思います。心から主に感謝します。どのように過ごされてきたでしょうか。このコロナの出来事、影響を受けない人は一人もいませんでした。その間の生活や仕事に、ひとりひとりのドラマがあったはずです。つらかったこと、悲しかったこと、見つけた喜び、大切な気づき、生活の変化があったでしょう。ゆっくりと皆さんから聞きたいです。これから少しずつ皆さんと分ちあってゆけたらと思います。礼拝終了後、庭にお茶の準備をします。短い時間ですが、ぜひ交わりを持ちましょう。

私たちはこどもたちを大切にする教会です。今日も子ども達が集まってくれました親子室が狭い、密だということも懸念事項です。子ども達が安全に、三密を避けられるように、一緒に礼拝しお互いの命、存在を感じながら、礼拝できるようにということも検討をしています。一緒にこの礼拝の時を守って行きましょう。

またインターネットでも引き続き配信をしています。この機会、様々な事情で集えない方々の気持ちが本当にわかるようになった私たちです。集えなくても私たちは仲間です。それぞれの場所で礼拝をされている方も、一つの体として共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中心はみ言葉、聖書朗読だということ。そして宣教はその御言葉の実現を見てゆくことなのだということを共に考えたいと思います。

私は外出自粛の中、子どもと絵を描いて遊んだことがありました。自分の行きたい温泉旅館の絵や、妻が昼寝をしている様子を描いたりしていました。私は今はそうでもないのですがが、もともと絵を書くのは大の苦手でした。美的センスが乏しいのです。中学校の美術の成績で10段階で2、5段階なら1をとったことがある。それだけ大の苦手でした。そんな私ですが、絵についてもっとも印象に残る出会いは、ピカソです。

ピカソの絵を最初はまったく理解できませんでした。彼の絵は遠近法が無視され、抽象的になっているのが特徴だそうです。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。こういう絵です(絵を見せる)。

この絵を見て、私は直感的に衝撃を感じたのではありません。見ても価値は全く分かりませんでした。しかし、この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知ったのです。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃、いわば市民に向けた爆撃を、市民虐殺をモチーフにした絵です。この絵ゲルニカには、無差別爆撃のイメージが描かれているのです。

その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませます。そのような視点でこの絵を見ていると、折れた剣、バラバラになった体、叫ぶ動物たちを見つけることができます。すべての生き物たちの戦争への怒り、悲しみ、恐怖、平和への願いがこの絵から伝わってきます。

この絵から何を受け取るかは人それぞれ違うでしょう。それぞれにイメージが与えられるはずです。そしてイメージすればするほど、この絵に引き込まれていくのです。この絵から何をイメージするかは自由です。この絵をどのように解釈するかも自由です。何がそこに見えるかはそれぞれが感じることです。そこに正解はありません。

しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに自分なりに感じる、自分なりに理解をするという事を体験しました。短く小さな解説から絵のイメージが膨み、感動を受けたのです。貴重な解説でした。

もちろん、ここで大事なのはその絵の解説ではなく、絵そのものです。そして絵はこのことを感じてくださいとは書いてありません。その絵は私たちに想像力を求めます。絵があなたはどう受け止めるか、何を感じるかを問いかけてくるのです。

私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、み言葉です。礼拝の中心は紛れもなく、み言葉なのです。聖書のみ言葉が中心なのです。私は宣教の時間でその御言葉の解説のようなことをしています。

私は宣教の中で比較的「ここはこういう意味だ、こうしよう」という結論のようなことをはっきりと言う方でしょう。しかしそれはあくまで助けです。理解の助け、想像力の助け、皆さんがどう思うのかという問いかけです。

礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。宣教をきっかけに皆さんの中に、それぞれのみ言葉のイメージが残ることを願っています。

そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます。

聖書はかつて一人が一冊ずつ持つというものではありませんでした。手書きで書き写され、会堂で大切に保管された巻物の形が多かったのです。ですから聖書の言葉は、聖書朗読を「聞く」ことによってしか受ける事が出来ませんでした。読むという機会はほとんどありません。会衆にとって聖書朗読を聞くことはとても貴重な機会で、重要なものでした。それはまさしく礼拝の中心、それは礼拝の中でもっとも重要なプログラムでした。

 

ですから当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉、聖書の言葉です。聖書朗読です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムなのです。

礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですし、聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。そんな時私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしやはり礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。

宣教とは「み言葉の僕」です。私はそのように理解して宣教します。宣教とは聖書のみ言葉を分かち合うものでなければなりません。その中心が話す自分や誰か人間や、誰かの体験であってはなりません。宣教はみ言葉を中心としてされるのです。

礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わからなくても、寝てても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉がある限り、それは礼拝なのです。宣教する私自身も、このみ言葉との出会いを大事にしたいと思っています。

もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。意味が分からない呪文を聞くのではありません。そして宣教は美術の解説と同じではありません。そこに神様の力が働き、神様の力によって、それが生き生き語られる業なのです。

私たちの礼拝はこのように神のみ言葉が中心です。再び集まることが出来た今日、そのことを皆さんと分ちあっておきたいのです。私たちの中心は神様、私たちの礼拝の中心は神様のみ言葉なのです。

今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。イザヤ書です。イエス様も聖書を朗読されたのです。み言葉を中心とされたお方です。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。そしてイエス様はこのみ言葉について、宣教ともいえる言葉を残します。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉です。

み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。そのヒントがここにあります。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。礼拝はみ言葉が中心です。、そしてそのみ言葉が、いま私たちの間でどのように実現をしているのか確認すること、やがて訪れると確信を起こすこと、それが宣教なのです。

今日私たちはまずこのみ言葉をしっかりと聞きましょう。そして私たちにもこのみ言葉がすでに実現したことを、この宣教によって感じてゆきましょう。私たちに実現したこととは何でしょうか。

そうです私たちは2カ月会うことができなかったが、今日私たち一緒に礼拝する、そのことが今日実現したのです。それはまさしく今日の聖書のみ言葉にある通りの出来事でしょう。それは捕らわれていた人が解放されたような出来事です。自宅にいなければならない、自宅に捕らわれていた私たちが解放された出来事。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。

今まで会うことができなかった、YOUTUBEでも見ることができなかった、見えなかった、お互い、あの仲間が今日は目の前にいます。今日私たちには見る事が出来なかったことが見える、そのことが実現したのです。

周囲からはもっとも不要不急と思われるのが礼拝です。しかし私たちは不要不急と言われるその抑圧から解放されて、今日集うことが実現したのです。イエス様は今日すでに実現したとおっしゃいます。それは今日私たちにも同じ様に実現したのです。今日私たちに神の業が、実現しました。神様の言葉が実現をしたのです。この礼拝に集えたこと、それが神様の業です。その御言葉の実現なのです。

今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を思いめぐらせましょう。礼拝はみ言葉が中心です。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂きましょう。

 

お祈りいたします。

 

【全文】「礼拝は平和の集い」ヨハネ20章19節~29節

みなさんおはようございます。今日もそれぞれの場所、インターネットで集うことができること、神様に感謝します。それぞれ離れた場所ですけれども一緒に礼拝をしましょう。そして子どもたちもみてくれているでしょうか。私たちは子どもを大切にする教会です。みんなも一緒に礼拝をしましょう。

今日はペンテコステを迎えています。ペンテコステは教会の誕生日とよく言われます。私たちの教会も来週で70年を迎えます。この70年間の守りに感謝です。もうすこし落ち着いたら、記念誌も発行したいと思います。その際はみなさんどうぞご協力ください。

ペンテコステ、それは50日目を意味することばです。イエス様は復活の後、弟子たちに現われ、40日間を共に過ごしました。そして天にのぼった後、さらに10日後、50日目に弟子たちに聖霊が注がれ、教会の働きが始まったという出来事がありました。それからこのペンテコステを教会の誕生日として祝うようになっています。そしてその後に、私たちの平塚バプテスト教会ができたわけです。平塚バプテスト教会には70年の歴史があり、その中で様々な出来事がありましたが、礼拝の歴史ということも大切な視点です。教会は礼拝共同体、礼拝仲間の集まりだからです。

礼拝の変化が教会の変化とも言えるでしょう。たとえば4月からこどもメッセージが始まっています。これがちゃんと継続できれば、70年の中で大きな変化でしょう。そしてそれぞれの自宅、インターネット配信という礼拝の在り方も、礼拝の歴史上、とても重要です。先日、これまでの礼拝の変遷をたどりました。資料の問題で十分に遡ることはできませんが。、70年間、礼拝の式順を大きくは変わっていない様です。しかしその中でもいくつかの変更がなされています。資料を見る限り、平塚教会の礼拝の歴史の中で、これまでの一番大きな変化、それは「平和の挨拶」が礼拝に取り入れられたことです。

「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。当時の総会資料で梶井先生が短く説明されていました。礼拝の前半で交わりを持つというのが目的だと書いてあります。それ以外が大きく変わらない、守られてきた中で「平和の挨拶」という変化が私たちのなかにありました。今日はこの私たちの教会の歴史上大きな変化だった、平和の挨拶について考えたいのです。

「平和の挨拶」それは、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいる事をお互いに確認しあうためにあるのだという事を見てゆきたいと思います。

平和の挨拶について考える時、疑問が二つあります。ひとつはなぜ礼拝の中で挨拶をするのかということです。私たちは礼拝の前に必ず会堂に入ってくれば挨拶をします。なぜ、もう一度改まって礼拝の中で挨拶をする必要があるのでしょうか。実際平和の挨拶は無い教会が多いのです。そしてもう一つの疑問はその挨拶になぜ「平和」という言葉がつく、「平和の挨拶」なのかといことです。ただの挨拶ではいけないのかという事です。

ひとつ目の疑問、なぜ挨拶するのかということですが、これは比較的すぐに答えがでるかもしれません。礼拝の中で挨拶することは、交わりを持つことの大切さを表現しているからです。それはみなさんもすぐに感じることだと思います。

礼拝の中で挨拶の時間を持つとき、私たちは礼拝は一人で受けているものではない、交わりの中で礼拝をしているのだと感じることができます。そしてそれは今日自分は誰と礼拝に参加しているかを具体的にする時となります。

実はこの平和の挨拶が無い教会では、前に座っている人は、後ろに誰が座っているか礼拝の最中まったく分かりません。今私は誰と一緒に礼拝をしているのかが、わからないのです。

これではなかなか私たち、礼拝共同体にはなることができません。私たちが誰と一緒に礼拝をしているのかを知る、今日どんな人が一緒に集まっているか、その多様性を知るということが平和の挨拶の大事な役割です。

そしてもう一つ大事だと思うのは、平和の挨拶の時、今日誰が来ていないのかにも気づくということです。毎週挨拶をするといつの間にか、今日は誰々さんが来ていないと気づくようになるのです。

今日誰と一緒にいて、誰がここにいないのか、その確認をお互いにしあう事、いったい私は誰と礼拝をしているのかを確認する機会、それが挨拶の時間なのです。礼拝の中で挨拶をする大切さはそこにあります。

しかしこの挨拶、賛否両論があるのも確かです。苦手な人が必ずいるのです。私も初めて礼拝に参加した日のことを覚えています。たくさんの知らない人に囲まれて、次々に握手を求められました。相当戸惑いました。最初はこの時間がとても苦手で、トイレに逃げたり、人のあまりいないところに隠れたりしたこともありました。苦手な方への配慮も具体的に必要だと思います。この共同体がどんな集団なのかまだ分からない人に、握手を突然求めるのは配慮しましょう。今でいうならば感染の不安がある中で、手を握り合うのは、お互いがお互いの事を知るという以上に、お互いを不安にさせることかもしれません。人と時にあわせて考えてゆく必要があるでしょう。でも確認したいのは、挨拶が大事だということです。それも礼拝の中ですることが大事だと言うことです。私たちお互いがひとつの体、礼拝共同体になるために必要な時だと思います。

二つ目の疑問はなぜそれが「平和の」挨拶なのかということです。それはただの挨拶ではなく、「平和の挨拶」なのです。平和の挨拶、それは私たちの関係が平和のうちにあるということを確認するための挨拶なのです。私たちの間には実に様々な人間関係があるわけです。とても平和とはいえない関係もあるわけです。不安な関係もあるわけです。でも、礼拝の中でお互いがお互いの平和を確認しあっていく、信頼を確認しあってゆく、それが平和の挨拶なのです。何かの連絡ごとをしてしまうことがあるのですが、極力やめましょう。互いの平和を確認する時にしましょう。

私たちにとっての平和とは何でしょうか。それは神様が共にいると知ることです。それが平和です。私たちが平和の挨拶をするとき、互いの平和と共に、神様が共にいる平和を私たちは確かめ合うのです。私たちが礼拝の中で「平和の」挨拶をするのは神様の存在を確かめ合うという意味もあります。

私たちは平和の挨拶を選び取りました。それは互いの存在を知り、互いに神様が共にいることを確認しあう時です。私たちは様々な状況や関係にあっても、お互いの平和、主が共にいる平和を確認する、そのような挨拶を交わしてゆく共同体です。そのために平和の挨拶があるのです。

さて、イエス様もこの平和の挨拶をなさったお方です。今日の個所もそのような場面です。今日の個所を見てゆきましょう。弟子たちは、イエス様が十字架にかけられてしまった後、家に閉じこもっていました。彼らは次は自分がイエス様のように殺されてしまうのではと恐れて隠れていたのです。そして彼らにはもう一つ、外には出たくない理由がありました。それは彼らがイエス様を裏切ったという事でした。彼らはイエス様がとらえられた時、一目散に逃げだし、裏切り、見棄てたのです。きっと彼らが閉じこもっていたのはこの事の方が大きかったではないでしょうか。裏切ってしまった自分への自己嫌悪、罪悪感が彼らを家に閉じこもらせたのです。

彼らは家に隠れていました。その理由は逃げるという事よりも、自分の世界に閉じこもったという出来事です。彼らは集団で、みんなと一緒にいましたが、誰も彼らは言葉も交わさなかったでしょう、自分の心に鍵をかけて閉ざし、集まっていてもバラバラの、人々でした。彼らは十字架のあと、集まっていても、自分の心を閉ざす、孤独で不安な共同体だったのです。そのような中に、その孤独と不安のまん中にイエス様が表れます。そしてイエス様は平和の挨拶をするのです。「あなた方に平和があるように」と言います。イエス様がここで再会をしたのは自分を裏切った弟子たちです。しかしその再会の第一声は、裏切られたことへの恨みではありませんでした。なんで裏切ったのかと理由を問い詰めはしませんでした。まずそこでイエス様は「あなた方に平和があるように」と、平和が告げられたのです。

「あなた方に平和があるように」。ここでおそらくイエス様はヘブライ語で「シャローム」と言っていたはずです。ユダヤの人々はいまでもそうですが、シャロームと挨拶をします。ですから日本語では「こんにちは」とも訳せる言葉です。

しかし、聖書はこの個所をこんにちはと訳しません。シャロームとは、こんにちはという意味と同時に、平和という意味を持つ言葉です。この挨拶は、こんにちは以上にもっと特別な意味がある挨拶だから「あなた方に平和があるように」と訳されているのです。

ヘブライ語のシャロームそれが現わしているのは、部屋に隠れいてれば自分の安全が保たれる、ここなら平和ということではありません。シャロームの平和、それは神様がともにいて、安心している状態です。そして私だけの安心ではなくて、ともにいる人々すべてに安心がある状態、それがシャロームです。つまり神様と共にいる平和とも言えるでしょう。それがイエス様の再会の第一声だったのです。イエス様の挨拶それは、平和の挨拶でした。自分を裏切った相手に対しての恨みではなく、和解の挨拶でした。そして神様が共にいる、それを実感させる挨拶だったのです。

私たちも礼拝の中で平和の挨拶を交わします。平和の挨拶は閉じこもっていないで、自分の心のカギを開けてどうぞ親しみを込めて挨拶をしてください。様々な人間関係があると思います。でもだからこそ互いの信頼と平和を確認し合いましょう。そして挨拶が苦手な方もいるでしょう。みんなで配慮をしましょう。その方が平和と感じることが出来るような挨拶をしてゆきましょう。そしていま私たち握手することが不安という思いもあります。お互いが平和を感じる事ができる挨拶を探してゆきましょう。

イエス様は私たちの真ん中に、私が不安と思うことの真ん中に表れて下さいます。そして「シャローム」「あなた方に平和があるように」そう挨拶をしてくださいます。神様が共にいる、その安心と平和があなたにあるようにと、挨拶をして下さいます。私たちも互いに平和の挨拶を交わし合いましょう。

そして再会できる時を待ち望んでいます。その時また、互いに信頼と、神様が共にいることを確認し合う平和の挨拶を交わしましょう。

 

お祈りをします。

 

【全文】「礼拝はこども歓迎」ルカ9章48節

みなさん、改めておはようございます。今日も共に礼拝をすることができ、感謝です。またこどもたちもテレビやスマホの前に集ってくれているでしょうか。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。ぜひ一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会ではこどもプロジェクトというものを進めています。数年前から様々な取り組みをしていますが、まずは教会の敷地にあたらしい「こひつじ館」を建てました。そこで共同保育をしています。今はコロナの影響で開いてはいませんが、先日前を通った方が、また早く集まりたいと話をしてくださいました。地域の子どもとお母さんの憩いの場となっています。

また教会では「こども食堂」のオープンも準備しています。本来でしたら来月からということを予定していましたが、これもコロナが収まったら始めてゆきたいと思っています。

私たちはこのように子どもを大切にする教会を目指しています。そしてもちろん礼拝の中でもこどもを大切にします。子どもがのびのびと、ありのままでいられる教会を目指しています。いい子になったら教会においで、静かにできる子は教会においでではなく、まずおいで。声が響くかもしれないけれど、それを楽しむくらいの余裕で大人は礼拝します。そうやって子どもたちを歓迎しています。同じ場所で一緒に礼拝することを大切にしています。

今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。私たちはこどもを大切にするという思いで、この言葉を年間主題聖句とし、週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会でも声を合わせて読んでいます。今日はこの一節に心を向け、礼拝は子どもを歓迎するということ、また弱さの中で礼拝を持とうということを見てゆきたいと思います。

 

さて私たちは日々、いろいろなことを祈るわけですが、多くの場合祈りは「神様」や「天におられる神様」という、神様への呼びかけから始まります。それは祈りが神様に向けられているものだから当然です。そして私たちの祈りは多くの場合、「イエス様の御名によって祈ります」とか「イエス様の御名を通じてお祈りします」という言葉で終わります。神様への呼び掛けで始まり、最後は「イエス様の御名によって祈ります」という言葉で終わるのです。今日の個所にも「わたしの名のために」とありますが、この言葉は私たちの祈りの最後と同じ意味の言葉です。

「イエス・キリストの御名によって」とは、イエス様を通してという事です。私たちの祈りは、神様に直接に呼び掛ける祈りです。そして同時にそれは神様によってこの地上に与えられたイエス様を通じても神様に呼び掛ける祈りなのです。神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えるのです。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈るのです。神様に祈り、イエス様を通じて祈る、それが私たちの祈りです。だから最後に「イエス・キリストの御名によって」と加えて祈るのです。

神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れる、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にしたいと受け入れる事が神様を受け入れてゆくことです。信仰を持つということです。イエス様、神様が派遣されたイエス様の歩み方を自分も生きるという事が信じるという事です。

しかし今日の個所、イエス様はこのように言います「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」そういうのです。神様から派遣されたイエス様、イエス様を受け入れる事は神様を受け入れることになるのです。そしてイエス様は子どもを受け入れる事は私を受け入れることになるというのです。いわば連鎖関係にあります。

神様=イエス様、イエス様=こどもと書かれているのです。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。神様を迎え入れるとは、イエス様を迎え入れること。イエス様を迎え入れるとは子ども達を迎え入れる事だと言うのです。つまり今日の個所、神様を迎え入れるとは子どもを迎え入れることなのだと言っているのです。

 

イエス様はどうして、子どもを受け入れる者は、私を受け入れる者だというのでしょうか。子どもがかわいくて、無邪気で、満面の笑顔だからでしょうか?もちろん子どもたちはかわいいのですが、かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。子ども好きならばそれでいいのです。すぐに受け入れられるでしょう。

しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。子ども達を受け止めるというとき、私たちは子ども達の可愛さだけでなく弱さをも受け入れなければならないのです。

子どもを受け入れるという時、私たちには我慢と忍耐が必要かもしれません。キンキン響く声、よく分からない行動、座っていられずソワソワするのが子どもです。楽しいことだけではありません。そして子供を受け入れるという時、子ども達を危険から守り、教えることも受け入れなければならないことです。

今の時代はありのまま、その子らしさということが大事にされますが、イエス様の時代、子ども達は権利などありません。子どもは親の財産、所有物でした。そして小さいうちに多くの子どもが死んでしまいました。そのような弱くて、小さい存在、その命を大切に思う、イエス様はそのように生きたお方です。イエス様はものとして、財産として扱うのではなく、弱くて、保護と忍耐が必要な子どもたちとして、大切な命として受け入れていったのです。

私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのが、今日の聖書の個所です。弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たち、それは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエスを様を、神様を迎え入れることになるのです。

弱くされ、小さく、自分を言葉で十分に伝える事ができない人々と関わり、その人たちを大切にする事がイエス様を受け入れることになるというのです。そして私たちは受け入れるだけではありません。それを受け入れてもらう側でもあります。無力さ、弱さとは全ての人の中にあるものだからです。私もそうです。自分や他者の弱さ、無力を受け止めてゆくということがキリストの生き方なのです。お互いの弱さを認め合い、それを受け入れ合う事、その生き方を選ぶことがキリストを受け入れる事だということです。

そして注意をしたいのはここで私たちは子どもになりなさいと言われているのではないという事です。私たちはすぐに子どもの様になってしまう存在です。待っていられなかったり、集中できなかったり、周りが見えなくなってしまう存在です。私たちはこどものような弱さを持っています。でも私たちは子どもになるのではありません。様々な欠けがある、弱さがある私たち、それを受け入れ合いながら、生きていく。子どもの弱さを当然のこととして受け入れるように、お互いの弱さを受け入れていく。そのような生き方がキリストを受け入れる生き方です。

そして私たちが最後に受け入れるべきものも考えましょう。それはイエス・キリストです。実はイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。イエス・キリスト、その方は強く勇ましく死んでいったのではありません。十字架で無惨に、叫び死んでいったお方です。どうして私がこんな死をと思うような、そんな弱くて惨めな死に方をし、それを受け止めたお方です。その弱いお方が、弱さを受け入れたお方が、子どものような弱さを受け入れなさいと言います。弱い私を受け入れる者こそ、神を受け入れることになるのだとおっしゃっています。

さて、私たちは礼拝ということを今、考えています。礼拝という面から見てもこれは同じです。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。

弱い十字架のキリストの姿。そして1週間の失敗と不足の中で生きた弱い自分の姿、弱い子どもたちの姿、それをまるごと受けとめてゆくことが、私たちの礼拝となってゆくのです。

礼拝にでると、元気になるとは本当はそういうことが起きているのです。1週間に1度礼拝に来て、やせ我慢したり、自分の自慢をして元気になるのでありません。礼拝の中で弱い自分、弱いイエス・キリスト、弱いこどもに向かい合い、強くなっていくのです。弱さを受け入れて強くなるのです。

今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。

自分や他者の無力さを受け入れる事、そして十字架を受け入れる、それがイエス様の歩んだ道です。それを教えてくれるのが子どもたち、傷ついた者、弱い者、弱い私たちなのです。だからこそ礼拝は子どもを歓迎します。礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「礼拝は歌う」出エジプト15章20節~21節

 

みなさんおはようございます。今日もこうしてそれぞれの場所で、そしてインターネットで礼拝をできること、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもたちも一緒に礼拝をしましょう。私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」ということを考えたいと思います。

教会にはたくさんの芸術があります。たとえば音楽、生け花、書道、絵画、礼拝堂のデザインも芸術です。たくさんの芸術にあふれています。私たちは今インターネットの礼拝をしていますが、そこで補えないものがいくつかあると思います。交わりや献げ物が出来ないということもありますが、こういった礼拝の中の芸術にふれることが出来ないことも、それぞれの礼拝、インターネット礼拝の寂しさの一つかもしれません。

いまそれぞれの場所で礼拝することで、教会には芸術が溢れていたということに気づかされています。いままで、私たちはその芸術に囲まれた中で礼拝をしていた、み言葉を聞いていたということ、それぞれの自宅で礼拝する時に気付くのです。そして同時に、あの芸術たちは教会にとってどんな意味があったのか、そのひとつずつがどのような意味や効果があったのか、考えなおす時を頂いています。

たとえば礼拝に一切の芸術がなかったとしたらどうでしょうか。もちろんそれでも礼拝は礼拝であり続けます。礼拝は芸術が無くなったとしても成立をするのです。しかし私たちはこれらの芸術を、礼拝の中に選び取っています。音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつといえると思います。私たちは教会に来る時、聖書と賛美歌集をもって教会に来るのです。そして礼拝が始まる前に讃美歌の練習をします。教会には聖歌隊があり、オルガンがあり、教会のオリジナルの賛美歌もあります。そして礼拝の中で賛美歌を歌います。よく教会音楽と言いますが、それは礼拝のための音楽、礼拝音楽とも言えるでしょう。今日はこの教会がもっとも大切にしている芸術、礼拝音楽について考えたいのです。

私たちはなぜ礼拝で歌を歌うのでしょうか。礼拝で歌うことは当然のことではありません。例えばマルティン・ルターで有名な宗教改革の時、これは礼拝改革でもあったわけですが、礼拝の音楽についても様々な意見が出ました。

実は当初のバプテストは、礼拝で賛美を歌うかどうか熱心な議論がありました。どうして賛美歌がいらないと考えたのか、いくつか理由が挙げられています。バプテストが反対したのは、自由に関わる問題だったからです。一人ひとりの信仰を大切にするのがバプテストです。他の人が決めた歌詞と旋律を全員が一斉に歌うことは、歌の作者や選曲をした人からの信仰の押し付けだ、個人の信仰の自由を侵すと考えたのです。個や自由を大切にするバプテストらしい主張だと思います。

他にも歌は人を熱狂的にさせ自己満足に陥らせ、かえって神を見失うからだ言った人もいます。歌は自己満足やストレス発散になるのだけれども、それが目的になってしまって、かえって神様を見失うことになるのではないか、そう批判して歌わない選択をした人々も多くいたです。歌は危険だと指摘します。

実は歌を歌うことは危険です。歌っているうちに、いつのまにか賛美歌の対象が神様であることを忘れてしまうことが起こるからです。神様を見失って歌うようになってしまうことがあります。時には間違った目的のために賛美が利用されるときがあるのです。

例えば、マルティン・ルターは宗教改革者の中でもっとも音楽を愛した人です。彼の造った「神はわがやぐら」という曲があります。新生讃美歌538番の有名な曲です。聞いてみましょう(再生)。大変よい賛美歌ですが、この曲は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの思想、ユダヤ人虐殺を後押しするものとして利用された曲です。ドイツだけではありません。日本でも戦時中「戦時讃美歌」というのもが作られ、礼拝の中で戦争に賛成する歌がしきりに歌われました。賛美歌が間違った目的のためた例です。私たちも、なぜ歌うのか、何を歌うのかをしっかりと考えて歌わなければ、歴史の過ちを繰り返すでしょう。

私たちはなぜ歌うのでしょうか。今このコロナの影響で共に歌うことができない私たちです。でも感染の拡大が終息すれば、私たちはまた必ず歌を歌うでしょう。私たちは自由や、自己満足や、神を見失うという危険を冒してでも歌うことを選ぶでしょう。

でももう一度、歌うということを選ぶ前に、確認しておきたいのです。それは音楽や歌は自己表現や自己満足、ストレス発散、あるいは自己陶酔が目的ではないということです。

私たちはなぜ礼拝で歌うのでしょうか。礼拝の中で歌うのは、神の素晴らしさを表すためです。その手段が音楽です。神様の素晴らしさを表現するために歌があるのです。音楽は礼拝の助け、手段です。教会の様々な芸術が礼拝の助けとなると言えるでしょう。花や書道や絵や会堂、踊り、楽器。礼拝では様々な芸術によって、神様の素晴らしさを現わすことができるのです。

しかし私は「歌う」ということにまさる、神様の素晴らしさを表す方法、芸術はないと思います。礼拝の中で歌う理由はいくつかあります。

礼拝の中で歌う理由の一つは、歌うことが私たちの共同体を現わすからです。皆さんは歌は何に合わせて歌っているでしょうか。私は奏楽に声を合わせているつもりです。しかし奏楽者は何に合わせているでしょうか。機械のように楽譜どおりにひくだけではありません。それが歌いづらいことを今私たちは実感しています。奏楽者は会衆の声に合わせています。私たちはお互いに合わせています。そうやってお互いに合わせることでひとつの美しいメロディーになるのです。歌を歌うと、一つの共同体になることができるのです。

そしてもちろんその歌は神様の素晴らしさを現わしている歌です。私たちはお互いを意識しながら、神様を素晴らしいと歌っているのです。私たちは神を讃えるために、神様の素晴らしさを表すために、互いの声を聞き、声を合わせ、奏楽に合わせ、神に歌うのです。それが歌う目的です。歌を選ぶ理由です。お互いの、左右の矢印と、下から上への矢印が同時に表現することができるのが賛美歌です。様々な危険に注意しながら、私たちは礼拝で神様の素晴らしさを歌うのです。また集った時、礼拝で一緒に歌いましょう。

様々な芸術があります。その中で教会は特に歌を大切にします。それは皆が互いの命を感じ、神の民がそろって神様の素晴らしさ表すことができるからです。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。聖書にはたくさんの芸術、特に音楽があり、いろいろな楽器が登場します。今日の芸術はダンスと楽器と歌です。マリアムは踊って神様の素晴らしさを表現し、楽器を使って神様の素晴らしさを表現したのです。小太鼓とありますが、これはタンバリンだったと言われています。(タンバリンを見せて)これです。今日私は踊りませんが、今日の個所によれば、楽器をならして、踊ること、その芸術によって神様の素晴らしさを表現したのです。神様を賛美したのです。

そしてミリアムたちは歌ったともあります。ミリアムはみんなに合わせて歌いました。そしてみんなはミリアムに合わせて歌いました。神の民のすべての人々が声を合わせて、体を動かして、神様の素晴らしさを現わしたのです。そこには危険もあったでしょう。踊ることで自分が気持ち良くなったり、ストレス発散になったりして、かえって神様を忘れることになる危険もありました。

でも彼女たちはその踊り、歌をしっかりと神様に向けて歌いました。その芸術はしっかりと神様に向けられました。それは神様の素晴らしさを表し、私たちの共同体を表現していたのです。

歌の内容にも目を向けましょう。歌った内容は出エジプトの出来事でした。神の力によって海を渡ることができた出来事です。自分たちの道が守られて開かれた出来事です。彼女たちは神様がなさった奇跡をそのまま歌にしました。そう、神様への歌は私がどうやって歩むかという決心も大事ですが、ここで歌われているのはそのような私たちの決心ではありません。

ここでは神様の働き、そのものを歌われているのです。神のなさったこと、神の業そのものがここで歌われているのです。これが賛美歌です。神様に歌によって表す第一のもの、それは私たちの決心ではありません。それは神様の素晴らしさです。まず神様の素晴らしさを表わす、それが私たちの賛美なのです。様々な歌、特に新生賛美歌は応答や伝道に関する曲が多いですが、まずその曲も神さまの素晴らしさを表すところからきているのだという事を覚えていたのです。

そしてこのミリアムの歌を見ましょう。この歌は感謝の歌でもあります。苦しい時に、守りを願って歌ったのではなく、かつて守られたことを振り返り、感謝して歌ったのです。私たちの今と、重なります。私たちは今集まって共に歌うことが出来ません。苦しい時にいます。でもいつか必ずまた賛美を歌うことができるようになります。その時、神様に精一杯の感謝の歌を捧げましょう。苦しい時に神様へ祈るだけではなく、乗り越える事が出来た後、今日のミリアムように再び集うことが出来た時に、神様への感謝をまた歌で表したいのです。

 

私たちは一緒に新しい歌を歌いましょう。新しい歌それは、新曲という意味ではありません。それは私たちが歌う、ストレス発散の歌ではなく、それとはまったく違う新しい歌です。新しい気持ち、新しい感謝をもって歌を歌いましょう。その歌は互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら歌いましょう。そして、なにより神様にむけて、賛美をしましょう。

 

お祈りします。

 

【全文】「礼拝は共同体作り」使徒15章3節~21節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。またこどもたちもテレビやパソコンの前にいるでしょうか。平塚教会はこどもを大切にする教会をめざしています。ぜひいっしょに礼拝をしましょう。

私たちは今、「礼拝は○○」というテーマで12回の宣教の最中です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマで見てゆきたいと思います。

礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められる、そこで私たちは一つのチーム、一つの教会になります。私たちの教会は礼拝共同体です。私たちにはいろいろな仲間がいます、学生時代の仲間、飲み仲間、ゴルフ仲間、職場の仲間がいます。では私たちは何の仲間でしょうか?それは礼拝仲間と言えると思います。私たちは礼拝をする共同体です。私たちを一番結び付けているもの、それは礼拝なのです。神様から招かれて礼拝をする、礼拝仲間なのです。

私たちは集えない今、もう一度礼拝について考える時を頂いています。先週から礼拝のプログラムひとつずつを考えています。最初に招詞について考えました。礼拝は私たちの頑張りではなく神様の招きによって始まるのだ、だからこそ最初に招詞が読まれるのだとということを見てきました。今日は礼拝の中の「報告」について、見てゆきたいのです。「報告」は私たちの礼拝プログラムの一番最後に置かれています。礼拝の一部であることを忘れられがちですが、しっかりと礼拝プログラムの中に組み込まれている、礼拝の一部なのです。

私自身も礼拝について学び直していますが、改めて礼拝の中の「報告」について調べてみました。調べていると報告を礼拝に入れるべきなのかどうか、わからなくなってきました。礼拝学事典という本には「報告」という項目すらありません。多くの教会で報告も礼拝の一部であるはずなのに、事典に項目すらないのはというのは残念です。さらにバプテストの礼拝学の本を見るとこんなことが書いてありました「報告は礼拝ではない」「週報に載っていることは繰り返して報告する必要はない」とありました。さらに「報告によって教会が建てられることはないし、未信者を救いに導くことはない、報告を聞いて心臓がどきどきすることも無い」と書いてありました。私たちの持つ礼拝の報告の時間が真っ向から批判のようで、思わず私は笑ってしまいました。

私たちは「報告」を礼拝の中で持ち、しかも週報の報告欄を丁寧に読み上げているのです。やはり報告は礼拝終了の後にすべきであり、礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で続けるべきでしょうか。「報告」が礼拝の中にある意味とは一体何でしょうか?

どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。いずれ皆さんとも話し、分ちあう時がくればいいなと思います。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。礼拝の中に報告があることに、大切な意味があると思います。報告は平塚バプテスト教会の礼拝には、なくてはならいないことだと私は思います。

週報に書いてある「報告」とはただの連絡事項ではありません。私たちの信仰の共同体に関わる重大な事柄、そして具体的な事柄が書いてあります。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているのです。もちろん礼拝の中心は聖書のみ言葉です。しかしこの報告も礼拝では大切な要素だと思います。

私たちは神様によって変えられる者です。神様が私を変えて下さるように願います。神様のみ言葉によって変えられる者です。しかし多くの場合、神様は教会の仲間や、私たちの友人を通じて私たちに変化を起こそうとなさいます。私たちは他者を通じて神様に変えられるのです。

誰かと話することで、お互いを知ることで、神様の事を知るようになります。信仰とは神様と私の一対一の事柄です。誰の指図も受けない、神様を信じるかどうかはあなた個人の問題です。しかし同時に、私たちは他者との関わりによって、神様に導かれていく者でもあります。だから今インターネットで礼拝をする寂しさがあるのだと思います。同じ様に礼拝を聞いていても、他者との関わりがないと、十分な礼拝体験をすることができないのです。

私たちは一人ひとりがみ言葉を聞いていれば、それでいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。礼拝とは一人の出来事ではなく、共同体の出来事、共同体を作っていく出来事なのです。

私が礼拝の中で報告が大事だと思うのは、このことからです。共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。今日の週報の報告にもたくさん共同体の出来事が書かれています。私たちがどのように礼拝をするのか、何を祈るのか、どのように情報を共有するのか、どのように献金を捧げるのか、それらが分かちあわれています。これは私たちが礼拝の共同体であるために必要な情報です。さらにこの時間、新来者の紹介もします。私たちは不特定多数の人が集まって礼拝するのではありません。新しく来た方がいれば、私たちの礼拝仲間に誰が加わっていたいのかが、分かち合われるのです。礼拝共同体としての具体的な分かち合いのです。

 

人は独りでは生きていけない。これは信仰も同じです。一人では信仰は続きません。神様と1対1で向き合いながらも、みんなで互いを知り合い、励まし合いながら神様に向き合う必要があるのです。教会はそのような礼拝・報告によって共同体になっていくのです。教会がひとつの共同体となってゆくために、互いをよく知るために報告は必要なのです。報告、それは礼拝の中で持たれるのがふさわしい。もっと大事にされるべきものだと思います。

だからもし次の予定があって、急いでいても、報告が終わる最後まで帰らないで欲しいのです。そして、何か小さくても皆さんからの報告があれば、ぜひ前に出て、報告してみて欲しいと思います。そして週報を見ると、他の教会の報告もされています。教会同士も励まし合い、知り合う、そのことでそれぞれの信仰を深めてゆくことが出来るのです。

 

今日の聖書個所見てゆきましょう。今日の個所は、報告の大切さが示されています。報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。今日の個所ではパウロが教会に報告をしています。2節です。報告の内容は、今までユダヤ教の神様を信じる人がイエス・キリストを信じていたのですが、それだけではなくユダヤ教の神様を知らない人、外国人も、イエス・キリストを信じるようになったという報告でした。そのような人々がたくさん出て来たという報告でした。

その報告によって教会は大きな喜びに満たされたとあります。思いもよらない事です。自分たちの民族以外にもこのように福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。

ある人は考えました。ユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになるのだ。だからイエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだというのです。形ばかりに凝り固まった律法主義、そんな単純な話ではありません。多くの人が律法の実践は神様の恵みへの応答なんだと考えたのです。だから一生懸命、律法を実践してゆこう。一緒に律法を実践してく共同体になろう。そう考えたのです。

またある人は考えました。神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだ。それなのにどうして、ユダヤ教の方法や伝統を新しくイエス・キリストを信じるようになったものに、押し付けるのか。ユダヤ人と同じように律法を忠実に実践しなければいけないわけではない。それぞれに応答の仕方があるそう考えたのです。

この二つ、どちらの考えも大事だと思います。私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。

今日皆さんと見たいのは、どちらの考えが正しい、間違っているという問題ではなく、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。

パウロの報告の影響を見てゆきましょう。聖書によれば、この共同体は今までと同じ方法ではなく、境界線をなくしてゆくという方法を選びました。報告によって、活発に意見が交換されました。わたしたちは、自分たちがどう応答するかによって救われるかが決まるのではなく、ただ主イエスの恵みによって救われるのだと、共同体が気づいたのです。だから神に立ち帰る人に今までの律法すべてを実践するように求めないという結論になったのです。もちろんいくつかの条件は付きました。

報告によって、共同体の在り方が大きく問われました。報告によって自分たちが信じている事、大切にしていることが見えるようになったのです。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを考えるのです。そこから具体的な信仰の歩みが始まるのです。

私たちの教会でもこの報告を大切にしたいと思います。そしてもっと活き活きとした報告、みなさんに問いを投げかけるような報告、互いの事を知ることが出来るような報告、そのような報告に変えてゆきたいと私も思いました。そしてもっと教会の一方的な報告ではなく、みなさんからの報告もたくさんあっていいのではと思います。

そのことによって、私たちは、共同体への問いを感じながら歩んでゆくことができるのではないでしょうか。そして報告をしながらもうワンステップ、キリストを礼拝する共同体に近づいてゆくことが出来るのではないでしょうか?

礼拝は共同体を作ります。報告によって私たちは新しい共同体とされてゆくのです。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りなのです。

 

お祈りいたします。

【全文】「礼拝は招き」ヨハネ21章1節~14節

みなさん、おはようございます。今日もこうして礼拝を共にできる恵みを感謝します。私たちの教会はもうしばらくの間、5月いっぱい礼拝は集わない形式をとることとしました。もちろん早く集まりたい思いです。また言葉を交わしたいのです。しかし、今それぞれの場所から礼拝に招かれている、そう信じ、それぞれの場所から精一杯の礼拝を献げてゆきましょう。また今日予定されていた主の晩餐は出来ませんが、パンとぶどう酒のカードをお送りしてみました。それぞれにイエス様との食卓を覚えてゆきましょう。

今、私たちはそれぞれに、礼拝ということ考えさせられています。宣教も「礼拝は○○」というテーマで続けています。今日は3回目です。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素を見ました。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣ということです。今日からは具体的に私たちが礼拝のプログラムの中でしている、ひとつずつを、考えていきたいと思います。その一回目は「招詞」についてです。礼拝のプログラムを見るとまず最初は前奏、そして招詞と続きます。礼拝を何から始めるのかは、とても重要です。私たちの礼拝は前奏からはじまります。前奏もただのBGMではありません。人々が心を静めるためです。なぜ心を静めるのか、それは神様の招きを聞くためです。招詞、招きの言葉に心を向けるため、神様が今日この私たちを招いてくださっているという言葉を聞くために前奏があります。前奏はそのことを示しているのです。音楽という事については、また改めてまとめて、話をすることとして、今日はこの招きについて考えたいと思います。

招きという事を考える時、今私たちが集わないという形で礼拝をしているということと無関係には考えられません。いま集まれなくなって、気づかされるのは、ウイルスの蔓延以前にも、年齢を重ね、教会の礼拝に来ることができなくなっていた方が大勢いたということです。自分の足ではいけない、誰かの助けを借りないといけない、体調の都合で毎週は行くことができないという方が、以前から大勢いらっしゃいます。いままで毎週礼拝に集っている者には、なかなかその気持ちをわかることができなかったかもしれません。

でも今ならその気持ちが良くわかります。行きたいと願ってもそれが出来ないもどかしさを、今、全員がわかります。神様との出会い、人との出会いを体験する会堂での礼拝に集えない事は「魂の痛み」を感じる事だと知るのです。礼拝に集うことが出来るようになったら、また一生懸命礼拝に集おう、そう強く思っています。そして、それは大切な神様への応答だと思います。神様への精一杯の応答として、もしまた集まれる時が来たら、また毎週欠かさず礼拝に集いたいと思うのです。でも、きっと集う礼拝を再開したとしても、また様々な事情で集うことができない方がいるということ、そのことも忘れたくないのです。今、私たちが痛感している、集うことができない苦しみ、この魂の痛みを忘れないでいたいのです。集えない今、そして再び集えた時、普段集えない方々のために、ますます祈ってゆきたいのです。集えなくなって、教会に行くことができなくなって、それぞれの場所で礼拝の事を考えます。そして今気づくのは、「礼拝で大事なことは、私が頑張って礼拝に行くということよりも、神様が招いてくださっているという事、その事が大事だ」ということです。その招きは、たとえ礼拝に参加できなかったとしても変わらないものです。

招かれているということ、それは神様を知っているかどうかさえ問いません。もし神様を知らなくても、神様の招きは変わらず、豊かに、その方に、私たちに注がれています。それはすべての人に注がれています。あらゆる世界のすべての人々が、すべての命が、神様から礼拝への招きを受けているのです。繰り返します。私たちの事情はまったく関係ありません。私たちがどのような事情があっても、どのような体調になっても、どのような病になっても、たとえ自分が誰かわからなくなっても、たとえどんなに短い生涯だとしても、私たちは等しく神さまの招きを受けている者です。礼拝とはそのように一方的な神様の招きです。神様がおいでと私たちに語り掛けておられることが、礼拝で大事なことです。神様の愛と招きはすべての人に等しく注がれているのです。

招詞に目を向けましょう。礼拝は第一に、神様の招きです。だからこそ、礼拝の一番初めに、招きの言葉は読まれます。それは礼拝が神様の招きによって始まるということを、とてもよく表しています。今日も一生懸命集った、さあ始めようということではありません。礼拝は私たちの実行力、自発性によって持たれるのではありません。

礼拝はただ神の招きによって持たれるものです。だから私たちは礼拝を始める時、まずその招きを聞くということから始めるのです。心を静めて招きの言葉を聞くことから始めるのです。だから礼拝の一番最初には招詞、招きの言葉があります。礼拝の中でとても大事なことです。礼拝の第一声、それは神の招きの言葉なのです。礼拝で「招詞はなくてもいいか」にはならない。礼拝の招きはとても大事なことなのです。

さて今日の聖書に目を向けてゆきましょう。今日の聖書も、大切な事は神様の招きであるということが語られています。ペテロは漁に出たとあります。漁とは何を示すでしょうか。ルカによる福音書の並行個所5:10によれば、イエス様はペテロに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。漁を、福音を広げる事に例えられたのです。しかし今日のこの福音宣教の漁、まったくうまくいかないのです。一晩中あらゆる方法を試しても、この福音宣教の業は実を結ばなかったのです。

礼拝は神の招きであり、自分達の実行力で執り行うのではないのと同じように、自分達の力で取り組んだこの漁、自分達の力で取り組んだ福音宣教はうまくいかなかったのです。一晩中人間が網を投げ、招いても、何も反応が無かった。誰も礼拝には集わなかったのです。

さらに、そこにイエス・キリストが現れるのです。しかし、不思議なのですが、誰もこのイエス様に気づかないのです。いっしょに過ごして、あれほど印象的な人の事をわからないのです。人間の集まり中では、誰もこの人がイエス・キリストだということがわからないということです。人間の主導する集まりの中では、どんなにイエス・キリストが具体的に現されても、人々は神の存在に気付くことがないのです。神様と出会うには、人間が主催する集まりではなく、神が集める集まり、神の招きである礼拝ではなければいけないのです。

だからこそ、そこで、イエス・キリストの招きが起こります。その招きは舟の右側に網を投げて見なさいという招きです。人間の決断ではなく、イエス・キリストの命令です。人間の力ではなく、神の招きによって始まります。この漁は礼拝と同じです。そして網には持ち上げきれない魚がかかります。その神の招き、礼拝にはもはや人間が支える事ができない程、多くの豊かな実るのです。人間のあらゆる努力にまさる、神様の招きと恵みがあるのです。それが私たちの礼拝です。神様の招きによる、神様が主導する礼拝。神様からいただく、恵み大きい礼拝なのです。

網の中には153匹の魚がいたとあります。当時の地中海この地方の海には153種類の魚がいた言われていました。つまりどういうことか、それはすべての種類の魚がその網の中にいたということです。それは神様が、すべての人々を招いていることが示されています。全世界のあらゆる命が、神様の招きを受けているという事です。弟子たちがイエス様に気づいたのは、実はその目で見た時ではなかったのです。見ただけではわからなかった。見てもわからなかったのです。弟子たちは魚がたくさん取れた時、そう全世界のあらゆる命が神様に招かれているという事を知った時、「ああこれこそ神の業、この方はイエスだ」と分かったのです。礼拝でも同じです。あらゆる人間が神様から招かれているということを知る時、私たちは神様を知る者となるのです。

そしてイエス様はその後、食卓に招いたとあります。これも主の晩餐です。イエス様はきっとパンを分け、弟子たちと食べたでしょう。弟子たちがこの方がイエス様だと知ったのは、神様による招きの豊かさを知った時、そしてイエス様と食事をとった時です。

本当にこれは私たちの礼拝そのものです。私たちも神さまを知るのは、あらゆる人の招きが起こされている礼拝にあずかること、そしてイエス様との食事・主の晩餐によってです。それによって礼拝そしてその中にある主の晩餐によって、私たちはイエス様を復活のイエスを知る者となるのです。今日は本来でしたら主の晩餐を行う予定でしたが、このことを大切に覚えておきましょう。

私たちの礼拝は招きから始める。網を降ろしてみよという招きから始まる。そしてすべての人が、すべての被造物が礼拝に招かれています。神様の招きそれが私たちの礼拝です。

私たちの努力をすべて超えた、神様の招き、そしてイエスの食卓において、私たちはイエス様の復活を知る者となるのです。私たちの礼拝もそのように持ちましょう。私たちの礼拝を招詞・招きのことばから始めましょう。この礼拝が神様の招きによって起こされ、すべての人、すべての被造物に開かれていることを覚えよう。それこそが私たちのなすべき礼拝です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は神の招きです。

お祈りします。

 

【全文】「礼拝は順序が大事」ヨハネ21章15節~25節

 

みなさん、おはようございます。今日も一緒に礼拝をできることを感謝いたします。私たちはこどもを大切にする教会です。今は集うことはできませんが、こどもたちと一緒にそれぞれの場所で礼拝できることを願っています。

私たちの教会は今年、70周年を迎えます。これを機に12回シリーズで「礼拝とは○○」というテーマを宣教の中で考えてゆこうと計画をしていました。その後、集まることができない礼拝となり、ますます「礼拝とは何か」そして「集まるとは何か」を考えさせられています。

今日はこのシリーズの2回目です。前回は教会は「礼拝は一番大事」という宣教をしました。それが大事なのは礼拝が神様の招きだからです。教会は礼拝を止めたら教会ではなくなってしまうんだとお話しました。私たちはこの招きである礼拝を教会の一番にしてゆこう、礼拝に集中しよう、そんなことを考えました。

そして礼拝は聖なる者たちだけの集まりではない、ということもみ言葉からいただきました。礼拝は傷つき、罪深い「体」の集まりです。でも、それでいいのです。元気になったら礼拝するのではありません、元気がないまま礼拝においで、そう招かれているのです。今、ありのまま、そのままを献げ、礼拝をしてゆこう。今ならおなおさらです。今いる場所から礼拝しよう、そんなみ言葉を頂きました。

今日は礼拝の順序ということについて共に考えたいと思います。私たちが礼拝を持つとき、中身が大事で細かな順番にこだわる必要はないと考える方もいらっしゃるかもしれません。もちろんそのような事もあると思います。しかし、礼拝について真剣に検討することは、教会が一番大事にする姿勢、向き合う姿勢です。レビ記にはそのような真剣な礼拝の形式が検討されています。もちろん形式より中身が大事なのですが、中身があればどんな形式でも構わないということではありません。中身を問う時必ず、どのような形式・どのような順番で行うかが問題になるのです。

私たちの間にいつの間にか、定着している礼拝のスタイルがあります。今私たちに必要なのは、この一つ一つの意味を確認しながら礼拝してゆくことです。忘れ去られた意味をもう一度取り戻すことが必要です。何のために音楽があり、何のために挨拶し、何のために宣教があるのか、そしてそれがどのような順番であるのかを考えるのが大事です。

様々な礼拝の順序があります。例えばある教会では献金が礼拝の前半にあります。献金は多くの教会では宣教が終わった後に行われます。順番が変わることにどんな意味があるでしょうか?私はこれは献金がただ宣教、説教に応答して献げられるだけのものではないという事をよく示している順序だと思います。献金とは今日はいい説教だったからたくさん献金するということではありません。もちろん、み言葉に燃やされて精一杯を献げるということもありますが、まず先に献げていくという順序。それも大事な事を示しているのではないかと思います。

またある教会では報告を前半にする教会があります。これも最後にする教会が多いのですが、この報告がおまけではないという事をよく示しています。今の教会の事、私たちの事を報告しよく理解してから、礼拝の中心に向かっていく順序と言えると思います。

 

このように、同じことをしていても、順序の違い一つで物事の意味は大きく変わって来ます。どういう順番になるのかはとても大事なことです。礼拝がどうしてこのような順序で行われているのかについて考えたいのです。

そして私たちの礼拝は大きく分けて5つに分けられます。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣の5つです。まず礼拝は、招詞、招きの言葉から始まり、前半に挨拶や交読文など、お互いの存在を感じるプログラムがあります。そしてその次にはみ言葉のプログラム、聖書朗読と宣教があります。そして応答としての献金、そして祝祷による派遣が行われます。

このような5つの大きな順番の中で、私たちの礼拝は持たれています。そのような構造になっています。矢印を付けると分かりやすいでしょう。招きは神様から人間へ上から下の矢印です。交わりは左右の矢印、み言葉は上から下、感謝は下から上、派遣は上から下です。

礼拝はこのように、上下左右の運動が交互に折り重なりながら進みます。横糸と、縦糸が折り重なりながら一つの形、ひとつの礼拝になっているのです。いわばそれは上下左右の、縦横の対話と言えるでしょう。礼拝とは神様と、そして隣人との対話です。それが示されている順序、それはとても大事なのことです。

ご存知の通り、対話には順序が大事です。「こんにちは」「こんにちは」「いい天気ですね」「気持ちいですね」そういう順序が大事です。ですから私たちはこのようにして対話として礼拝の順序を考えるのです。そして神様との対話、私たちの対話を考える時、必然と礼拝がどのような順番かを真剣に検討する事になるのです。

礼拝の中で順序、これはとても大事なことです。礼拝が対話であることが理解しながら参加してみてください。そうすると礼拝がより豊かな神様との対話、として献げることができます。交わりを持つことができます。その上下左右の運動がこの礼拝の中に生き生きと浮かび上がってくるはずです。だからこそ順番が大事なのです。礼拝の中にある対話が大事なのです。

 

さて今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様が復活され、ペテロと愛する弟子の前に登場した場面です。イエス様が三度ペテロに「愛しているか」と聞いたという場面です。

私は礼拝の順序の事を考えながら、この個所を読んでいて気付くのです。このイエス様とペテロの対話、実は私たちの礼拝と、まったく同じ順序ではないかということです。

先ほど私たちの礼拝は大きく5つに分かれると言いました。招き、交わり、み言葉、応答、派遣です。この要素がこの対話には含まれています。そしてこの対話の順序と礼拝の順序が全く同じ順序なのです。私たちの礼拝と同じように、イエス様とペテロが対話をしている、私はそのように感じるのです。それを見てゆきましょう。

今日の個所での招きとは、イエス様はご自分からシモン・ペテロに声を掛けたということですそれは問いでした。「私を愛しているか?」しかしこの問いは同時に招きでもあります。イエス様はペテロに問いかけることで招いてします。「私を愛しているか?」ペテロが「愛しています」と応答することを、招いておられます。そしてこの招きによって、ペテロは信仰の告白、愛の告白へと導かれています。ペテロはイエス様に問いかけられ、対話と告白に招かれています。神様の招き、それが私たちの礼拝の始まりなのだと、この場所からも思うのです。

次は交わりという事が示されます。イエス様は「私の小羊、羊を飼い、世話をしなさい」と言うのです。あなたが私を愛ししているならそれでよし、ということではありません。愛していますと答えるペテロに、羊飼いになって羊の世話をしなさいと言います。羊飼いの仕事とはばらばらだった羊同士を結び付け、一つの群れ、ワンチームを作ることが仕事です。私たちは交わりによって人との結びつきを作るように、示されるのです。交わりを持ちなさい、一緒に礼拝をしなさい、それがこの呼び掛けです。だからこそ私たちは礼拝で挨拶し、交わりを持つのです。

3つめの要素はみ言葉です。それはもちろんイエス様のみ言葉です。イエス様は3回ペテロに私を愛しているかと問いかけます。3回尋ねられて、ペテロは悲しくなったとあります。3回、そう、自分がイエス様を否定した回数が3回です。あの3回を思い出し、自分の弱さ、卑怯さ、罪深さを思い出し、ペテロは胸が痛かったのです。

イエス様は3回否定したペテロに3回、み言葉を投げかけます。それによってペテロは3回愛ししていると告白することが出来ました。み言葉とはそのような力を持ちます。み言葉とは傷つき、失敗し、弱くて、逃げ出す私たちに向けられた言葉です。そして私たちにもう一度生き直すチャンスと、希望を与える言葉、それがみ言葉です。礼拝はこのみ言葉が中心です。その御言葉によって、私たちは自らの歩みに、失敗や不足、罪を思い出し、悲しくなります。しかしみ言葉によって、もう一度イエスを愛し、信頼し、歩みだそうとする力を頂くのです。信仰を回復させてゆく力、それがみ言葉です。礼拝のみ言葉にはそのような力があるのです。これが礼拝の中心です。

4つ目を見てゆきましょう。次にペテロは感謝の応答をしています。ペテロの告白が続きます。「主よ、あなたはすべてご存知です」という応答は私がどのような思いでいるか、あなたがすべてご存知ですという意味です。言葉にできない気持ちも、あなたが知っていてくださる。心の痛み、体の痛み、不安、すべてのことの本当の気持ちをあなたがご存知ですという告白です。それは委ねる言葉ともいえるでしょうか。イエス様に導かれ、み言葉に励まされた者は、イエス様に委ね、感謝する者になってゆくのです。委ねてゆくこと、それが感謝の応答なのです。

5つ目、最後はイエス様は私たちを派遣されるお方ということです。イエス様の言葉は、礼拝から派遣される私たちの歩みを示しています。私たちは、行きたい場所ではない場所に、連れて行かれるのです。派遣された後、私たちの人生は思うようにはゆかないものです。死がもっともそうです。どのように死ぬのかはほとんど選ぶことが出来ないように、私たちの人生はほとんど思う様に行きません。神様との出会い、神様との対話である礼拝の後に、私たちはそのような世に、現実に派遣されてゆくのです。しかし、イエス様は言います。「私に従いなさい」。すべてことが自由になるわけではないけれど、でもその中で「私に従いなさい」というのです。これが派遣です。礼拝でも最後に祝祷。派遣の祈りをしています。

5つを見てきました。これが私たちの礼拝の姿です。今日の個所と同じです。礼拝は招き、交わり、み言葉、感謝、派遣その順序で行われます。この順序はとても大事です。今日の個所を見てわかる通り、神様との対話とは上下、そして左右の運動です。ですからこのように、礼拝も上下左右の運動なのです。この流れの中に私たちの礼拝はあるのです。

もう一度私たちの礼拝の順序の意味をとらえ直したいのです。70年間私たちが大事に守って来た順序があります。それにもう一度意味をしっかりと見つけ出したいのです。「いつもの順序」「もともとこうだ」ではなく、もっと新鮮に、日々新しく、この礼拝を頂きたいのです。そして、もしかしてもっとこうしたら神様との対話になるのではないか、より上下左右の運動がもっと躍動的になってゆくのではないか、そのような部分が私たちの礼拝にはまだまだ残されているでしょう。

そのことを真剣に問う、それは教会にとって大事な役割ではないでしょうか。

礼拝を一番大事にしてゆきましょう。そしてこの順番の意味、その中にある、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣、その意味をもう一度取り戻しましょう。いまそれぞれの場所からする礼拝、毎週の礼拝を、大切にしましょう。より神様と出会い、自分を献げることのできる礼拝を目指してゆきましょう。そして私たちはこれからも毎週一緒に、神様に出会う時、礼拝を献げてゆきましょう。

 

お祈りいたします。

 

【全文】「礼拝は一番大事」ローマ12章1節

 

みなさん、おはようございます。それぞれ自宅での礼拝も3週目です。どのようにおすごしでしょうか。今日も共に礼拝をしましょう。総会資料にも計画が載せられていますが、今週からゆっくりと礼拝とは何かについて、考えてみたいと思います。その中で私たちの礼拝の意味をもう一度見つけられたらと思います。

私たちは今集えずにいます。そして礼拝とは何かとそれぞれが問い直す時を頂いています。今だからこそ、もう一度礼拝することの意味を私たちは理解したい、そう思うのです。そして、礼拝は何かを考える事は今までの礼拝をもう一度、新たに頂くことにつながると思うのです。ですから今年度、今日から「礼拝は○○」という12回シリーズで、4月と6月7月は礼拝を考える「礼拝再考」の時をいただこうと思います。

さっそくですが「礼拝」とは一体何でしょうか。教会が一番大事にしていることは礼拝です。礼拝を辞めてしまった教会というのは存在しません。なぜなら礼拝をやめたとき、教会は教会でなくなってしまうからです。礼拝をやめるのは教会をやめるのと同じ事です。教会の決定的なアイデンティティは礼拝なのです。それだけ教会にとって礼拝は重要な事です。ですから状況が厳しくなっても教会は礼拝をやめません。教会は牧師一人でも続ける、そしてそれぞれの家庭で礼拝を続けるのです。

教会が礼拝を大切にするということは当たり前のことです。でも私は今、それに危機感をもっています。礼拝を大切にする。それが今、当たり前ではなくなってきているからです。

平塚バプテスト教会に限らず、いま教会は、様々な課題を抱えています。集まることができないという以前から、礼拝出席人数は減少していました、若者は特に教会に来なくなりました。そして多くの教会はこの状況を変えるために、いろいろなことにチャレンジしています。アメリカの教会の成長をモデルにしてみたり、様々な社会活動や地域活動をしたりすることで、その突破口を開こうとした教会もあるかもしれません。

しかし私は同時に、そのチャレンジが間違った方向に向いてしまうことにも危機感を持っています。例えば教会が礼拝以外の事柄に一番の力を注ぎ始めることです。新しい活動に一生懸命になって、礼拝に集中できなくなる、礼拝の価値が下げられてしまうことを心配しています。教会が何かを新しいこと、大切にしたいことを表現しようとするとき、何をもってするか、それはまず礼拝の中において、様々な象徴で表されるべきではないでしょうか。

たとえば子供を大切にしようと言っている教会。子どもを歓迎しますとは言うものの、子供が礼拝にとても参加しづらいという教会がたくさんあります。いろいろなプログラムで子供を呼び集めるのもいいですけれど、いざ子供が礼拝に参加しようとすると、参加しづらいのです。じゃあ礼拝は向こうの親子室でお静かにどうぞ。そして大人だけに向けた礼拝が聞こえるのです。どんなにこどものプログラムを充実しても、教会が礼拝の中で子供に対してそのような態度で、子供を大切にしていることになるのでしょうか。

私はこどもを大切にするというのなら、どうやって子供と礼拝をするかをまず悩んでみたいのです。「子供とどう礼拝するか」まずそれを第一の事柄として悩みたい、そう思うんです。今年度から子供メッセージを始めたのも、そのためです。

たとえば伝道を大切にする教会では、新来者を礼拝後にどうやってフォローするか熱心に話し合っています。それもとても大事です。でもやっぱり礼拝の「後」が大事なのでしょうか?礼拝そのものを新来者にやさしいものにしてゆく、安心してもらえるようにする、そのことはされないのでしょうか?

今年度は平塚教会は特別伝道礼拝はお休みすることとしました。今年度は特別な礼拝ではなく、いつもの礼拝に目を向ける時を持とう、そんな思いからです。もう一度毎週の主日礼拝を特別なものとして受け取り直し、考え直してゆきたいのです。

それが教会が礼拝を中心にする、一番大切にするという事ではないでしょうか。どのように礼拝するかを考える、それが教会の一番の事柄ではないでしょうか。礼拝の中で大切にしていることを表現をしてゆく、礼拝が教会の中心であることをもう一度取り戻していく、そんな姿勢が今の多くの教会にもとめられていることではないでしょうか。いろいろな方法やアイディア、活力がある教会の中でこそ、礼拝を大事にしたい。そう思うのです。だからこそ礼拝とは何かを一緒に考えてゆきたいと思っています。礼拝とは何か、今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 

パウロは私たちに「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言っています。神の憐れみとは、神の同情や慈悲といった意味です。それは神様の側からの一方的な思い、愛です。神の一方的な憐れみと愛によって、パウロは勧めるのだと言います。それは、パウロの憐れみよって、ではありません、人間の憐みでもありません。神の憐れみによって勧められている、招かれているということです。神の憐みがそれを勧めているというのです

神様の礼拝に招かれるのは、神の憐れみによってです。人間の憐れみや権威によって、礼拝に招かれるのではありません。教会の牧師の人柄や、教会の人間関係によって礼拝に招かれているのではありません。みんなの顔を見るために礼拝するのでもありません。牧師や人間の力で礼拝に招かれるのではないということです。

礼拝とはただ神が一方的に、その憐れみによって、私たちを招いているのです。パウロがここで伝えようとしているのは「人ではなく神が、まずあなたを憐れんで、礼拝に招いておられる」ということです。そのことを私たちも忘れてはいけないと思うのです。

もちろん神様は私たちを自動的に、教会の礼拝に連れてくるわけではありません。朝、手足が動いて、自分の意思に関係なく歩いて、教会の礼拝に連れてこられたということは起こらないのです。教会まで歩いたのは私です。車のハンドルを握って教会まで運転したのは、神様ではなく私です。礼拝に集うということ、それは私たち人間の応答といえるでしょう。招きは神の一方向的なものです。それに私がたまたま応えることができた、応答できた、それが礼拝に集うということです。

応答として礼拝する、礼拝に参加することも大切です。しかし礼拝が大事な点は、ただ神が一方的に招いておられるからということです。応答するかどうか、応答できたかどういかというのは次の問題です。神様はすべての人を繰り返し招いている、礼拝の徴集者が神であるからこそ、礼拝は大切なのです。神が招いているからこそ、教会は礼拝がなによりも大事なのです。そして今、私たちは神様の招きがそれぞれの場所にある、そう信じ、それぞれの場所で礼拝を捧げているのです。

そして聖書にはこう続きます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる 生ける、いけにえとして献げなさい」。ここには自分の体とあります。私たちは「体」を献げることが、神様に求められているのです。

この個所で私は「体」という言葉が強調されていると思います。例えばこの個所で心も体も捧げなさいとか、全身全霊をささげなさいとかいった言葉の選びができたはずです。そしてそれはすべてを捧げる礼拝というイメージによくあっていると思います。しかし、敢えてここで「体を」献げると表現されます。

「体」それはまず当然、肉体という意味をもちます。全身を捧げる、全身で礼拝をするということです。五感で礼拝をするということもいえるかもしれません。もうひとつ大切な意味があると思います。それは私たちの「体」、それは日常の、この社会の只中にある「体」という意味です。私たちの「体」とは、この地上に生き、汗をかいて働き、人とぶつかり、病気になります、不安になります。人間社会の中に生きる、それが私たちの「体」です。疲れて、汚れて、傷ついている、それが「体」です。

体を捧げなさいという時、それは不完全なままで献げる、不完全なものとしてそのまま礼拝をするということでしょう。苦しい人は苦しいまま、痛みのある人も痛いまま、眠い人は眠いまま、泣いていた人は泣いたまま、礼拝に集うということです。それは本当に、ありのままの「体、今の私」として礼拝をするということでしょう。

聖書が「体を捧げなさい」というとき、そのように現実のありのままの姿で礼拝しよう。そう呼び掛けているのではないでしょうか。今家と言う現実の中で礼拝をしようということではないでしょうか。

神様が呼び集めているすべての人々、その現実が、叫びが、そのまま礼拝になってゆく、礼拝はこの社会との関係を切り離して持たれるものではない。それが礼拝です。

だから聖書は、「聖なる体に“なって”献げなさい」「聖なる体“で”礼拝しなさい」とは言いません。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」聖書は今のあなたのその体を、不完全な体のままでおいで。礼拝し、献げようと言います。苦しい現実、痛みそれが治ったら礼拝においで、聖なる者になったら礼拝においで、とは言いません。今の傷ついたまま、そのままでおいで。そう神が招いているのが礼拝です。そのままでおいで、それを献げなさいというのです。

神様は傷ついている、不安な思いでいる私たちが精いっぱい自分を捧げる時、それを聖なる者、喜ばれるものと受け止めて下さるのです。神様からすれば、そのままでいいから献げてみよう。そのままでうれしいよ。そのままで聖なる者とするよ。神様はそう受けとめてくださるというのです。

今日の個所で一番つまづきとなるのはやはり、次の「いけにえ」という言葉でしょう。自分を生け贄にする、自分が犠牲になる。そんなこと嫌だと思いますよね。

しかしここでパウロは「生ける生け贄」と言います。「生ける」ということが強調されている、いけにえです。当然生け贄というのは一人が犠牲になって「死んで」みんなを救うという概念ですが、ここではそうではありません。大事なのは死なない、生かされる、むしろ生き生きとしたまま捧げられるということです。

私たちの生きている人生を捧げる、生きたまま捧げる、だれも犠牲にしないことを捧げるということです。これが生きるいけにえとして、献げるということです。言い換えるならば命を献げるのではなく、人生を献げるということでしょうか。我慢といういけにえを献げるのではなく、生きる喜びをささげようということです。

つまりこうです。ありのままで、傷ついたままで礼拝においで。それで神様は喜んでくださるよ。そして、私たちの命ではなく、人生を神様に献げようという意味です。

「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝です」そう、これこそ私たちのなすべき礼拝ではないでしょうか。礼拝とは神からの招きです。すべての人々が招かれ、そして私たちは今の体のままで、生きて、喜びの応答する、それが礼拝です。

私たちはこの礼拝を中心にしましょう。そのままの姿で、その体で招かれ、そのままで聖とされるこの礼拝を一番大切にしましょう。それ以外は、礼拝に比べて同じほど大切なことは教会にはありません。礼拝こそ大切なのです。これからしばらく礼拝について共に考え、また改めてこの礼拝を大切にするときいただいてゆきましょう。

 

 

お祈りをいたします。

【全文】「こんな時、希望の神」ヨハネ20章1節~18節

 みなさん、おはようございます。そしてイースターおめでとうございます。今日もそれぞれの家から、それぞれの場所から共に礼拝をしましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもたちも見てくれているでしょうか。スマホやテレビの前のみんなも一緒に礼拝しましょう。

 様々な集まりの自粛はとても残念です。イースター礼拝も一緒に礼拝し、たまご拾いをし、愛餐会をすることを本当に楽しみにしていました。今、このように「集まる」ということがどれだけ大事かを痛感します。一緒に同じ体験をすることを大事だったと気づくのです。私たちは毎週一緒に見る、聞く、触れる、味わうを一緒にしてきたのです。それが共に出来ない事の苦しさを痛感しています。

しかし今、自宅にいるということが大切です。互いの命を守るためにできること、隣人愛を示すためにできる事、そのひとつが自宅に留まるということです。とても悲しいこと、難しく、もどかしいことですが。しかし「自宅にいるという愛」「外出自粛の愛」を私たちは示してゆきたいと思うのです。

 今、私は神様が、この教会に皆さんが足を運ぶことを招いているとは感じないのです。神様が集まるように招いていると感じないのです。今、神様はそれぞれの自宅で、礼拝するように招いているのではないかと思うのです。そしてたとえ今はそうだとしても、また必ず神様の招きと、それへの確信が与えられ、集えるはずだと、堅く思っています。

 その時まで待ちましょう。その時まで愛を貫いてゆきましょう。そう、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、「愛」を貫いてゆきたいのです。互いを五感で感じる事は大事です。でも今はそれが出来ません。でも一切の連絡ができないわけではありません。電話やメール、お手紙で互いに励まし合いましょう。普段しない人と、お互いに電話や連絡をとりあってゆきましょう。今こそ、神様の希望に目を向けましょう。

 私たちは落胆し。落胆ばかり、出来ない事ばかりに目が向かってしまいます。海外の緊張、著名人の死、迫りくるウイルス。中でも志村けんさんの死は私を落胆させました。コロナウイルスの遺族は最後までその遺体にも面会できないそうです。火葬され灰になって初めて再会したお兄さんの姿が忘れられません。大きな悲しみです。

 でも苦しみの中でも神様に、なんとか希望に目を向けてゆきたいのです。一日中テレビでは不安と死者の数が語られます。でも私たちはせめてこの礼拝の1時間だけは希望を持ちたい、希望を見たいのです。神様は希望を与えて下さるお方です。今、不安と死から振り返って、希望に目を向けてゆきたいのです。今日の聖書の個所を一緒に読みましょう。

 

 他の福音書ではマリアは香油を塗りに行き、そこでイエスの遺体がないことを知ったとあります。ですがマリアが香油をもってイエスの墓に行くのを想像するのです。しかしヨハネ福音書ではそうではないのです。マリアたちは既に19章40節で、香油をイエスの体に使っていたのです。すでにイエスの遺体には香料が使われています。では今日、マリアはいったい墓に何をするために行ったのでしょうか。マリアが墓に行く動機は何だったのでしょう。いままで私たちが知っていた動機とは違う動機がここに書かれています。

 マリアはなぜ墓に向かったのでしょうか。まだ夜が明けない。暗いうちに彼女は墓に向かって向かいます。待ちきれないかのように、家を出るのです。向かった動機は、イエスの遺体に遭うためでした。遺体に会う、それは死を確認するという意味を持ちます。私たちは受け入れられない死に直面する時、遺体を見て、本当に死んでしまったのだと実感するのです。その遺体が無ければ、本当に死んでしまった、そのことをなかなか受け入れられないものです。

 マリアはイエスの死をもう一度確認しようとしました。やっぱり本当に死んでしまったのか、それをもう一度確認したい、しなければ納得できない、受け入れられない。それだけイエス様を大切な人と思い、悲しみが止まらなかったです。彼女が墓に向かった動機、それはイエス様の遺体に会うことでした。そしてやはりイエス様は死んだともう一度自分自身の目で、あるいは遺体に触れて確認するために向かったのです。

 しかし、向かう墓の石は開けられ、遺体は無くなっていました。遺体が無いことは、その死を、その絶望をもう一度確認しようとした、受け入れようとした彼女を、さらに混乱させます。遺体に遭えない事の悲しさは、今の私たちにも身近なことです。遺体に降れることは、死を受け入れる事につながるのです。だから私は葬儀の流れで納棺式を大事にしたいので す。それは死を受け入れる儀式だからです。

 マリアも悲しみの中で、もう一度イエスの死を確認しなければならなかったのです。その死を受け入れなければならなかったのです。しかし遺体に会うことはできませんでした。彼女はイエスの遺体が「どこに置かれているのか、私にはわからない」と混乱し、他の弟子たちにも知らせたのです。他の弟子たちもイエスの遺体を見つける事は出来ません。イエスの、あの死はどこに行ったのかを探すマリアです。他の弟子たちが帰っても一人、墓の前で泣き続けます。

 しかし同時に私はマリアがイエスの死ばかりに目を奪われている姿も見つけます。イエスが死んだ、そのことばかりに目を向けすぎているのです。イエスの遺体への執着さえ見る事ができます。泣き続けるマリアに天使が現れます。「なぜ泣いているのか」と問いかけます。マリアは「遺体が無い、どこにいったのか」と答えます。やはり遺体に彼女はこだわります。彼女は死を探します。悲しみを探します。無いものを探します。絶望と悲しみと死を見つけようと必死なのです。

 死を受け入れる事は必要なことです。しかし、そればかりを見ていてはいけません。私たちには希望があるはずです。そこに目を向けて歩みだしたいのです。

 

 そんな時、イエス様が現れます。希望の訪れです。しかしマリアは目の前に登場したのに、あれだけ探していたイエスだと分かりません。そう、マリアが探していたのは生きているイエス、復活したイエスではありません。彼女が探していたのは、遺体です。死んだイエスを探していたのです。だからイエス様ご自身にイエス様の「遺体がない、どこにあるのか」と尋ねます。マリアがそれを尋ねるのは3回目です。1回目は弟子に、2回目は天使に、3回目はイエス様に、遺体がない、遺体がない、どこだ、どこだと尋ねまわるのです。そしてイエス様が目の前に現れても、彼女は分かりません。それは遺体を探しているからです。死を探しているから、絶望を探しているから、イエス様に出会っても気づかないのです。

 

 そんな時、イエス様は名前を呼んでくださいます。「マリア」そう名前を呼び掛けて直接に語り掛けて下さるので。イエス様は後ろからそっと声をかけてくださるお方です。マリアはずっと遺体を探していました。死を探してきました。しかし、イエスはそこに見つかりませんでした。イエスはその死と絶望の全く正反対から、180度違う方向から、語り掛けて下さるお方です。それは命と希望と喜びの方角です。私たちが見る、死と絶望とはまたく違う場所からイエスは私たちに語り掛けておられるのです。

 マリアはそれに振り向きました。これまで探していた、確かめようとしていた死と絶望。そのことから向きを変えたのです。振り返ったのです。方向転換をしたのです。今まで探していた、確かめようとしてきた方向から、まったく見ていなかった希望へと、心の向きが変わったのです。方向転換を始めたのです。

 そしてようやくイエス様を見つけたのです。マリアは希望を見つけたでしょうか。もう少しです。彼女がイエスを見つけて喜んだこと、それはやっぱり体があったことです。彼女はイエスを見つけたとたん、その体にすがりつこうとします。なおもまだその体にしがみつくのです。

 イエス様が言います「私にすがりつくのはよしなさい」。本当に求めるのは私の遺体や、私の体ではないということです。「マリア、遺体や体、死や絶望ばかりを探すのはやめなさい。あなたが見るべきものは、天に上るキリストである」そう言うのです。それが復活のキリストです。死がすべての終わりではない、神のもとに上げられ復活されるキリストを見なさいといっているのです。イエス様の語り掛けを聞いた時、マリアはようやくイエスを認識したのです。それはイエス様が死んだことを確かめることが出来たというのではありません。マリアは死と絶望にばかり目を向けるのではなく、希望に目を向けること、死がすべての終わりではない事、イエス・キリストが復活したことを知ったのです。マリアは他の弟子たちに言います「わたしは主を見ました」それはもう遺体を見つけたという意味ではありません。希望と、命と、復活を見たという言葉なのです。

 イエスはマリアに「私の兄弟たちのところに行ってこう告げなさい」と言います。イエス様はマリアに希望と、命と、復活を示しました。そしてマリアに「告げなさい」と命じます。それは伝える者となりなさいということです。イエス様は死がすべての終わりではない事、神様の業は絶望で終わらないこと、必ず希望が、その続きがあったのだという事を告げる者、伝える者になりなさいと促しておられます。自分の希望を伝えなさいとおっしゃっています。マリアはそのとおり、今度は告げる者として、福音を伝えるものとして、証しするものとして弟子たちも元に帰って行ったのです。

 ここまで今日、マリアの物語を追ってきました。マリアとはいまの私たちです。私たちはマリアと同じです。今、さまざま落胆と悲しみの中にあります。死があります。それは嫌でも目に飛び込み、向い合せられ、死と、不安が渦巻いています。しかし、私たちが探しているのは死と絶望ではありません。たとえ今はそうであったとしても、必ず悲しみでは終わらないのです。

 イエス様からの希望、死から復活するほどの希望が私たちにはあります。いま私たちは悲しみと落胆に目を注ぎ探すのではなく、振り返って、そう振り返って、希望を探したいのです。イエス様は今、私たちの名前を後ろから呼びかけ、方向転換させ、招いてくださるお方です。そしてこの死は悲しみでは終わらない事を語り掛けておられるお方です。その先に必ず希望が続いていると語り掛けておられます。私たちもその希望を見てゆきたい。私たちもそれを告げ知らせる、証しする者となるそのように招かれているのです。お祈りします。

 

【全文】「礼拝やってます」ヨハネ18章28節~38節

 

 みなさんおはようございます。今日もインターネットのみですが、共に礼拝に集えることに感謝します。既に連絡網とHPでご案内のとおり、4月中はこのインターネットでの礼拝参加、会員の皆さんには週報と宣教原稿の郵送し、ご自宅で守っていただく礼拝ということにしました。残念ですが、このようにして礼拝を持てることに感謝しています。どのような1週間でしたでしょうか。なかなかお話する機会がなく、みなさんのお顔を見ることができませんが、今日も共に神様の恵みをいっぱいに頂きましょう。

 多くの人が外出の自粛をしています。行政からもそのような要請が出ています。この時期に外出し、多くの人の集まる場所に行くという事は避けたい事柄です。教会以外は外出を控えよう、そんな方もおられるでしょうか。

ある方はこう言われたのだと電話をくれました。「こんな時期だし、礼拝に行くのは止めた方がいい」周囲にこんな風に言われたそうです。信仰の表明として、感謝の応答として、神様に招かれて教会に行くということ、そのことは毎週私たちが大事にしてきたことです。だからこそ教会にはコロナウイルスの問題の最中でも礼拝を行えば、いつもと変わらない数の人が集ったのです。しかし今は、家族や周囲からは「もう集まりに行くのは止めた方がいい」と言われています。そのような声を聞いています。

 どんなにそう言われても教会でオープンな礼拝をすれば、みなさんは集う、集ったことでしょう。だからこそ教会も葛藤をしていました。私は祈りの中で、今、主はこの会堂に集まって礼拝することを招いておられないのではないか。それぞれの場所で礼拝をすることに招いておられうるのではないか?と感じるようになりました。さまざまな課題がありましたが、教会での礼拝は続け、原稿は郵送する、インターネットで中継するということにして、それぞれの自宅で礼拝を守っていただきました。それぞれの自宅でどのような礼拝を守られたでしょうか。それぞれに恵みと課題のある礼拝だったでしょう。今日もそのようにして礼拝をしています。

 なぜ私たちは、こんな時期にも関わらず、毎週集まることにこだわるのでしょうか。きっぱりと諦めればいいのに、なぜ葛藤するのでしょうか。世の中から見たら、ちょっとわからないでしょう。

 人々から見れば、家族や周囲から見れば、宗教なんてまさしく不要不急の集まりに思えます。今日くらい休んだっていいだろう。落ちくまでは行かなくていいだろう。家族にも反対されるでしょう。

 私たちもその投げかけに戸惑ってしまいます。集まるべきか、今は自宅に留まるべきか悩みます。今このとき、私たちは集まらなくても、自宅でも、一人ひとりでも礼拝はできると気づかされています。しかし、それと同時にでは今までなぜ集まることを大切にしてきたのかが問われるのです。

 もしかすると今までは「なんとなく」や「長年の習慣」で教会に行く、家族への説明はそれで良かったかもしれません。「日曜日くらいは私の自由にさせてもらう」で良かったかもしれません。でも今は違います。「なぜ集まるのか」理由を求められます。私たちも集まる目的と意味を問われるのです。

 私たちはそれに何と答えたらよいでしょうか。私たちが礼拝に集うのは、まず第一に神様が私たちを呼び集めて、呼んでくださっているからです。もちろん私たちが一生懸命時間を作って礼拝をしに行くというのはそうです。でも礼拝は私の決心と実行力で来ているのではありません。何よりもまず先に、神様が呼び集め、招いて下さっているから、集い、礼拝をするのです。

でもこのことは家族にどう説明したらよいでしょうか。「神様が呼んでいるから、私は礼拝に行きます」答えたらどうでしょう。どんな顔をされるでしょうか。笑われるでしょか、気持ち悪がられるでしょうか。でも私たちにはそれ以上の説明のしようがありません。

 はぐらかすことはどのようにでもできます。「なんとなく」や「習慣だから」「行かないと気持ちが悪いから」「お友達に会うのが楽しいから」そういう思いも確かにあるものです。でも今は、それでは家族が送り出してくれません。「その程度の事だったら、辞めておけ」と言われるでしょう。

私たちには今、説明責任があるかもしれません。でも説明はうまくできないものです。「私は信仰を一緒にする仲間と集まりましょうと、神様に呼ばれている」「あなただって呼ばれているのよ」そうとしか、私たちは答えられないのです。そう説明してゆくしかないのです。相手にとっては、ばかばかしい答えかもしれません。

 いま大事なのは、愛とか、神とかいうよりも、手洗いうがい、外出自粛だ。その家族の気持ちもわかります。痛いほどわかります。私も半分はそう思うのです。気持ちが揺れます。でも、神様が呼んでいるからやっぱり礼拝に来たのです。会堂のドアを開けたのです。家族との会話はこの点でかみ合いません。自分の思う様には相手がわかってくれません。動いてくれません。そのようなかみ合わない会話になるでしょう。私たちどう説明すればよいか分かりません。ただ招かれているとしか説明できません。今、言っても伝わらないけれど、かみ合わないけれども、神の招きを証しすることしかできないのです。

 「なぜ」という質問に、「神様が招いている」と証しするしか、すべがありません。相手に合わせることだけを考えるなら、私たちは信仰を保つことはできません。かみ合わなくても明かし続ける。それが私たちとの他者との向き合い方です。

 私たちは人と向き合う時、そこには必ずすれ違いが発生します。かみ合わない会話が生まれます。教会に向かう時も、教会の中に来てもそうです。かみ合わない会話、でも神様を証し続けること、私たちはそのように他者と向き合ってゆきたいのです。

 それは今日の聖書の個所からも学ぶことです。イエス様の他者、この場合はピラトとの向き合い方を見たいのです。そしてそこでの、人々とのかみ合わなさと、それでも証し続ける姿をこの個所から見てゆきたいのです。今日の個所を読みましょう。

 先週はキドロンの谷で捕らえられるイエス様の姿を見てきました。イエス様は、引き渡され、一晩尋問を受けました。肉体は疲れ果てていたでしょう。この世、この地上の王であるピラトは、初めてイエス様という男と出会いました。その姿は、縛られて、家畜のように連れてこられた、ボロボロに疲れた男です。しかし彼はこの国の王だと言っていると告発されています。

ピラトは聞きました「あなたが王か?」と。この世の王から見るとなんと弱々しく、みすぼらしい姿の王でしょう。まるで王には見えないのです。世界を救う存在には見えないのです。ピラトはボロボロになった男に向けて「あなたが王か」と疑問をぶつけたのです。

 それに対してイエス様の応答は分かりづらい答えです。答えと言うよりかは質問で返しています「自分がそう思うのか、それとも誰かにそう聞いたのか」そんな質問です。

 もうちょっとわかりやすく答えてあげられないものでしょうか。「私はこの世の王ではありません。ですから地上で何か悪いことをしようとは考えていません。無罪です」と答えられなかったのでしょうか。

 ピラトが聞きたいことはまさしくそのことです。「自分は王だ」と言って民衆を扇動し帝国に反逆をしようとしているのか、それに対して有罪か無罪か、罪状認否を聞き出そうとしているのです。

 しかし、イエス様の会話はそれとはまったくかみ合っていません。イエス様は自分が有罪か無罪かについて話そうとしません。イエス様はひたすら神の国について答えて話をするのです。王なのか、何をしたのか、その問いにイエス様は、36節にあるとおり「わたしの国は・・・」と答えるのです。ピラトは有罪が無罪について知りたいのです。その答えを求めるのです。しかしイエス様は「私の国は」と、神の国の話を続けるのです。会話は全くかみ合いません。

 しかし淡々とイエス様は神の国について証しを続けておられます。この世の論理と神の国の会話は成立をしません。会話にならないのです。しかし、イエス様は神の国の証しをし続けます。これはどこか私たちにも重なる個所です。教会とこの世の対話はかみ合わないものです。異なる視点で物事を見ているからです。しかしイエス様はこのように世との対話を続けるお方です。

 イエス様の言葉で今日もっとも印象に残るのは36節です。イエス様とピラトの会話がすれ違う原因は、イエス様が「世に属さない」からです。世に属さないとは、イエス様の教えと存在はこの世を起源にもつものではないとうことです。イエス様はこの世に起源をもつのではなく、神様に起源をもつ者だということです。

 この世と神、それは闇と光の違いのように、天と地との違のように隔たりのあることです。まったく起源が違うものです。この世とはその起源において、ルーツにおいて関係のないものです。いわば生まれも育ちもまったく違うから、すれ違うのです。一方がこの世について、一方が神の国について語り、すれ違っているのです。

 まったく違う二人。交わらない二人。闇と光、天と地の様です。でもあることに目を向けたいのです。そこには対話と証しがあるということです。そこには証しがあります。全くすれ違うけれども、たしかにそこには対話と証しがあるのです。そこには全く関係のないものとして二つの世界が、二つの王国があるのではありません。この二つの王国は対話をし、証しがあるのです。

 元来、まったく関係のないはずのものが、イエス様の十字架という出来事によって、対話を始めます。証しが始まります。そのことで二人の王は交わるのです。天と地が、光と闇が、イエス・キリストによって、交わり始めるのです。

 ヨハネ1章5節にはこうあります「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある通りです。闇に光が来る、地に天が押し寄せてくる。それがイエス・キリストの十字架の出来事です。光は光、闇は闇。あなたはあなた。私は私。しかし、イエス様はその闇の中に来る光です。天から地上に来られた方です。その方とこの世は話がかみ合いません。でもイエス様はここに来られたのです。

 イエス様は「みんなに神様の良さをわかってもらうと思って来た」証しするために来られたのです。違う相手に、自分と全く正反対と思う人のところに、対話と証しをするために来られたのです。はぐらかして一緒にいるためではありません。うやむやにするために来たのではありません。証しをするために来たのです。

 ピラトは質問します。「真理とは何か」。真理とは何でしょうか。真理とは隠れていないものという意味です。表面ばかりを飾り付けたり、取り繕ったり、うそをついたりしないことです。ごまかさないで、うやむやにしないで言葉を発することです。イエス様は真理について証しをするために来られました。イエス様は神様のことをごまかさないために、それを証しするために生まれ、この地上に来られた、そして十字架にかかられたのです。

 私たちはなぜ神を礼拝し続けるのでしょうか。礼拝に集うのでしょうか。それは神様の導きによってです。私たちはそれを隠さずに、うやむやにせずに、証しし続けたいのです。そこでは必ず話がすれ違うはずです。かみ合うはずがないのです。しかし、それでも証しをするために来られたイエス、そのイエスに従い、証しをし続けてゆきたいのです。そして礼拝に招かれているものとして、歩みたいのです。一緒に礼拝を続けましょう。また集える日は必ず来ます、それまでそれぞれの場所で、証ししましょう。すれ違っても証しをし続けましょう。

 そしてもう一つ考えておきましょう。それはたとえクリスチャンだけが集まったとしてても同じことがあるということです。私たちは教会にくれば話がかみ合うということではありません。クリスチャン同士でも、教会でもたくさんすれ違うのです。教会でも思いが通じないことがあったではないですか。それはまた集まればすぐ思い出すことです。

 でも私たちは互いに神様を証ししあうから、一緒にいられる集まりです。イエス様が異なる他者と諦めずに対話し、証しを続ける事をお互いが知っているから、私たちは集い続けるのです。私たちはたとえ伝わらなくても互いに証しするものでありたいのです。

 今、私たちは、それぞれの場所で礼拝することを招かれています。そしてそれぞれの場所で証しし続けることを招かれています。「礼拝やってます」そう証しをしてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「不安に振り回されないキリスト」ヨハネ18章1節~14節

みなさんおはようございます。今日もインターネット上ですが、共に礼拝をできること感謝をします。インターネットで共に礼拝が出来る事を感謝しています。また、特に今私たちは祈りを必要としています。新型コロナウイルスに感染された方々、そのご家族、医療従事者の方々を覚えて、祈ります。

私たちの教会でも、3月中はコロナウイルスの関係で礼拝と祈祷会以外をお休みしています。ちなみに先々週の祈祷会で今日の個所を分かち合いました。今日はその分かち合ったことの中から宣教をします。私の言葉だけではなく、皆さんから上がった言葉から宣教をします。みんなで作った宣教です。

私たちは礼拝と祈祷会以外をお休みをしてからもうすぐ1か月がたちます。みなさんはこの期間、どんなことを気付いたでしょうか。そして今日は、会堂に集わずに礼拝をしています。私たちには交わりが不可欠です。今月、そして今日、それができない事が本当に心苦しく思います。

皆さんと顔を合わせることができない、教会に来ても教会学校や昼食が無いということが私たちの共同体にとって、私の生活にと