【全文】「神はウブムエして下さる」ヨハネ6章41節~59節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝が出来る事に感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。共に、子どもの声を聴きながら礼拝をしましょう。そして私たちは8月、平和をテーマに礼拝をしています。先週は「平和の食べ物」平和を求めながら、イエス様を求めながら、食べ物と生きる道を求めてゆこう、それがシャロームにつながるという事を話しました。今日はアフリカのルワンダ共和国で和解の働きをされている佐々木和之さんの報告を元に、聖書から平和を聞いてゆきたいと思います。

佐々木和之さんは東アフリカにあるルワンダ共和国で、和解のプロジェクトをすすめています。ルワンダは東アフリカにある、小さな国です。95%がクリスチャンというキリスト教国です。しかし1994年ルワンダでは大虐殺事件がありました。100日間で80万人、人口の約一割が殺される大虐殺事件が起こりました。きっかけは大統領の暗殺でしが、虐殺の背景には植民地時代に植え付けられた分断と差別と憎悪がありました。

分断と差別は一般市民が、一般市民を殺す、隣人が隣人を殺すという虐殺事件を生みました。26年前の出来事です。虐殺が収束した後、ルワンダの社会や地域が元の状態に戻ることは容易ではありません。市民による虐殺によって、多くの市民が刑務所に入りました。街に残されたのは、虐殺から生き残り傷ついた被害者と、家族が虐殺に加わったという加害者の家族でした。

元々農民だった人々は簡単に引っ越すわけにはいきません。虐殺後もなおも被害者と加害者の家族が隣に住むということも多くありました。

被害者と加害者。もう共に生きる、助け合って生きると言うことは本来できない関係です。しかし今ルワンダでは両者がどのように共に生きるかを模索しています。多くの人々がまだ平和を探し求めています。そしてその中で和解と平和のために働いているのが、佐々木和之さんです。彼は洋光台バプテスト教会の教会員でもあります。

私は佐々木和之さんを支援する会の事務局の仕事を引き受けている関係で、皆様にも会報「ウブムエ」をお配りします。ぜひ支援の輪に入って下さい。今日はこの中から一つのエピソードウムチョ・ニャンザの支援をご紹介します。

ウムチョ・ニャンザとは虐殺事件の生存被害者である女性たちと加害者を夫に持つ女性たちが共に働く女性協働グループです。ブックカバーを購入されたことのある方も多いいでしょう。被害者と加害者の家族が同じスペースで、協力して、物を作り、それを売り、自分達の生活を再建しようとしています。もちろん様々な葛藤があります。しかし分断され、殺し合った過去を超えて、ともに生き、一致し、生活を再建しようと働いているグループです。その活動を支援しています。ウブムエには、コロナの中でどのようにウムチョ・ニャンザ―のメンバーが一致し、助け合ったが報告をされています。1ページ目の右下です。

 

“夫が虐殺加害者として刑務所にいるエレナさんは、普段なら他の人の農地で働くことで生活の糧を得ています。彼女は、ロックダウンが始まってから仕事がなくなり、子どもたちに食べさせる食料も尽き、途方にくれた時の様子を語りました。女性たちの何人かは、ウィルス感染の恐怖、生活の困窮、いつ状況が良くなるのか全く分からないことから来る不安の中で、絶望しかかったというのでした。しかし、彼女たちはその苦境を生き延びました。勇気を出して助け合うことによって。ロックダウン導入から 10 日が過ぎた頃、グループの世話役たちが電話で連絡を取り合い、銀行に預けてあった運営資金から、日本円で 2,300 円に相当するお金をそれぞれの口座に振り込むことを決めたのでした。女性たちは、携帯電話で伝言ゲームのようにその朗報を一人、また一人と伝えていきました。電話が不通になっていた仲間には、警察に拘束されないように、裏道を通って仲間の女性の家まで行って伝えたのです。その時の苦労話を複数の女性たちがユーモラスな語り口で笑顔を見せながら話してくれました。そして、昨日集った全ての女性たちが、そのお金を手にしたときの喜びと感謝、「一緒に働いてきて良かった」と心の底から感じたことを語っていました。”

 

被害者と加害者が分断を超えて一致し、共に働き、お金を分かち合い「一緒に働いてきてよかった」と感じたと言うのです。佐々木さんはこのことを次の様に考察しています。3ページです。

 

“この苦境がただ過ぎ去ることを待ち望むことからは本当の希望は見えてきません。また、以前の日常を取り戻すことが希望であってはならないとも思います。今日一日、私が出会うお一人お一人と、どんな形であれ共に希望を見出していくこと。その希望を紡ぐ営みに具体的に関わり、今、祈り行動していくことが大切なのです。そして、やがてコロナ禍を生き延びた時に、その方々との関係がより強く愛に満ちたものになっていることを心から願います。そこからしか、コロナ後にあるべき社会を創る営みは始まらないのではないでしょうか。”

 

このことはコロナだけではなく、虐殺の被害者と加害者の関係も含めた言葉だと思います。憎しみ合った二人が、引き離された二人が、それが無かったことの様に過ごすことが、平和、希望ではありません。困難の後に、二人の関係がより強く愛に満ちたものになっている関係を求めたいのです。

この会報のタイトルは「ウブムエ」と言います。「ウブムエ」はルワンダ語で「一致」「調和」「和」を表す言葉です。この会報のタイトルが事柄を良く表しているのではないでしょうか。私たちにも様々な分断があります。コロナや、外出自粛や、差別や民族や国境。私たちはその隔てを超えて、その隔てを乗り越えて、関係がより強く愛に満ちた者になってゆく、一致、「ウブムエ」をしたいのです。困難があっても、いえ困難があるからこそ、もっと大きな希望があると期待して、「ウブムエ」して歩みだしたいのです。

そこにはイエス様が必ず一緒にいて下さいます。力を与えて下さいます。イエス様がまず私たちと共に生き、私たちとの一致し、ウブムエして下さいました。私たちと神様の間を、イエス様が乗り越えて来て下さり、私たちの元に来てくださったのです。そのことを今日の個所から聞いてゆきたいのです。私とイエス様が強い関係にある、一致し、ウブムエして下さっている、そのことを見てゆきたいのです。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。イエス様は今日の個所44節で、父が私を遣わしたと言っています。イエス様が神様の言葉を伝える者であること、その意味でイエス様が神様と等しい方であるということです。

そして神様の元に行く方法を教えてくださっています。それは、神様が私たちを引き寄せて下さるかどうかです。神様の元にいること、神様と一致し、ウブムエする事、それは神様が起こすことです。私たちが行くのではありません。何かをすれば行けるのではありません。神様が私たちを招き、一致・ウブムエして下さるのです。私たちは神様の招きに応えるだけで良いのです。

48節、イエス様は私はパンだ。そして私の肉を食べなさいと言います。私たちは主の晩餐を毎月していました。あのパンはイエス様の肉だというのです。小さいブドウジュース、あれはイエス様の血だというのです。もちろん私が持ち上げて祈ると何かが起こって変化するというわけではありません。あれを食べると不老長寿・不死身の体、病気が治ったりするわけではありません。

このパンを食べるとどうなるのでしょうか?56節にはこうあります。「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」ことになるのです。これを食べるとイエス様の中にいるような体験、イエス様が中にいるような体験、そんな一致、そう「ウブムエ」が起こるというのです。

58節そのパンは普通の食べ物とは違います。モーセたちが荒野で食べた食糧としてのパンとは違います。それは小さいけれど、イエス様、神様との一致・ウブムエを私たちに教えてくれるパンなのです。それを食べると57節「私を食べる者は、私によって生きる」のです。イエス様の体を、肉を食べて頂くとき、私たちはイエス様によって生きる者になります。すぐに分断してしまう人間が、そのパンを頂く事によって、神様の内に生きるようになり、神様との一致を体験するのです。そしてそれは他者との一致への体験へと広がってゆくのです。

永遠の命、それは不老長寿・不死身の体ではありません。それは殺し合わない命です。ずっと共に生き続けようとする命です。永遠に傷つけ合わない命です。その命は、一致はイエス様が私たちと一致、ウブムエして下さっていることから始まるのです。

あのパンを食べるという事、それはイエス様との一致、ウブムエの体験です。その一致を通じて、私たちには互いに一致をしてゆく者とされるのです。分断を超えて、平和を生きる者とされるのです。

53節にある「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とはそのようなことです。イエス様が与えるパン、その一致のパン、ウブムエのパンは、51節、世を活かすためのパンです。一人だけではない、世全体を活かすパンなのです。

このようにイエス様のパンは命のパン、平和のパン、一致のパンなのです。イエス様は私たちと一致をしてくださる、ウブムエして下さるお方です。だから私たちもお互いに一致ができるはずです。どんなに違いがあって、どんなに強い憎しみがあって、どんなに困難があっても、どんな過去があっても、それにまさる希望、一致、ウブムエを神様が必ず用意して下さっているのです。イエス様は私たちの壁と分断を壊し、一つにしてくださる。ウブムエさせて下さるのです。

私たちの世界と日常には分断が多くあります。日本と韓国、中国とアメリカ、富裕層と貧困層、私とあの人、あの人とあの人。でも私たちは必ず一致、「ウブムエ」できるはずです。平和が実現できるはずです。イエス様の肉を頂き、祈り、行動をしてゆきましょう。お祈りします。

 

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【全文】「平和の食べ物」 ヨハネ6章22節~27節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。今日は平和祈念礼拝です。今日から8月いっぱい、平和をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。今日も子ども達が集ってくれました。子ども達がのびのびといられることは平和の象徴です。平和のない場所に、こどもの笑顔やこどもの笑い声はありません。こどもを大切にする教会は平和を大事する教会でもあると思います。子ども達と共に、声を聞きながら平和を願い、礼拝をしてゆきましょう。

聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。この話は繰り返ししようと思いますが、聖書の平和・シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争によって歪んでいます。そして戦争ではなくても、同じ様に構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。

そのような世界でシャロームとは、図のように、高い場所と低い場所が均等になり、きれいな丸になってゆくことです。飛び出ているものは元に戻され、押し込められているところは引き上げられるのがシャロームです。その押し込められ、低くされている場所には十字架があります。イエス様の力は、低くされたその一番下から元に戻そうと働き、完全な丸にしようとします。その動き・運動がシャロームです。それが十字架の働きです。聖書の平和、それは戦争がないだけではなく、小さくされた人に神様の力が働くことによって、すべての人々が等しく豊かに生きる事、それが聖書の平和・シャロームです。

今日は平和祈念礼拝ですが賛美は出来なくても応答賛美の時にフランシスコの「平和の祈り」という賛美の奏楽をしてはどうかと提案をいただきました。コロナの関係で賛美は許されませんが、後ほど心の中でこの賛美を歌いましょう。いくつか翻訳がありますが、次のような歌詞です。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのある所に、愛を置かせてください。

侮辱のある所に、許しを置かせてください。

分裂のある所に、和合を置かせてください。

誤りのある所に、真実を置かせてください。

疑いのある所に、信頼を置かせてください。

絶望のある所に、希望を置かせてください。

闇のある所に、あなたの光を置かせてください。

悲しみのある所に、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。

なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

 

この平和の祈りを見てもわかるように、小さくされた場所に、憎しみ、侮辱、分裂、そのような小さくされた人々のいる場所に神様の力が働き、平和・シャローム・完全な丸になるように願う祈りがここでも繰り返されています。

平和は戦争がないことだけではありません。しかしもちろん私たちは戦争がもっとも平和を崩すことだということを知っています。日本は80年前、世界のシャローム・平和を大きく壊しました。日本は自分たちの繁栄だけを求めて、アジアに進出・侵略を始めました。自分達だけがこの〇からとび出ようとしました。アジアの国々・人々を侵略し、搾取し、利用し、押し込めることで、自分たちだけが繁栄をしようとしたのです。

繁栄を求める事自体は悪い事ではありません。ただ、誰かを犠牲にして、押し込めてそれをしようとすること、自分だけが繁栄をしようとすること、それは平和を生みません。私たちはアジアに大きな憎しみと侮辱と絶望をもたらしました。

私たちは8月ひと月、主にある平和を知ろうとしています。いままた日本は75年前の反省を忘れようとしています。世界も忘れようとしています。自分たちの国だけ繁栄すればいいと考えるとどうなるか、私たちは知っていたはずです。しかし世界は、日本はまた自国優先主義へと向かおうとしています。平和憲法を持つ日本、戦争への反省を繰り返してきた日本。その私たちは、世界の平和、シャロームを実現の歩みを進める事はできるのでしょうか。経済力のある日本が足を引っ張り合う様な過度な国際競争を止め、世界が等しく発展し、置き去りや犠牲を生まない世界の形成を訴える事ができるでしょうか。武力によって世界を変えようとしないこと。そしてそれに断固反対するという声を挙げることができるでしょうか。

そこに必要なものは、何でしょうか。私たちに必要とされるのは、シャロームの丸の下から世界を見る事です。イエス・キリストの十字架から世界を見る事、十字架から平和を考える事です。そして平和のためにできる事をそれぞれがしてゆくことです。それが神様に求められていくことです。

 

今日の聖書個所を読みましょう。6章には5000人の給食、パンが配られる奇跡が描かれています。イエス様は食事を大事にされたお方です。イエス様は食べものや着るものは次元が低いもので、精神的な豊かさを優先されたお方だということではありません。それは食べ物がたくさんある、世界のごく一部の人の考え方です。十字架からこの物語を見たいのです。

イエス様は飢える人々の食事の必要に応えるお方です。人は宗教だけでは生きていけません。食べ物と飲み物が必要です。イエス様はそんな人間の胃袋を満腹にしてくださるお方です。がっちり胃袋を抑えるお方です。そしてあまり物までしっかり集めなさいとまで語り、食べ物を大事にするお方です。

しかし、人間のパンへの願い、食べ物への願いはバランスを崩しやすいものです。その食べ物は、恵みのパン、奇跡のパン、感謝のパン、分かち合いのパン、一致を確認するパンでした。それこそまさに完全な丸をイメージする、平和のパンであったはずです。しかし人間はそのパンを自分勝手に理解してしまう時があります。

人々の中には「あの人はパンをくれる」と欲望のまなざしを向ける人がいたのです。彼らはパンをくれる人を探します。探し求めます。探しているのはパンです。恵み・奇跡・感謝・分かち合い、しるし、イエス・キリストを探しているのではありませんでした。ただ自分の欲望を満たすことを求め、自らの繁栄を求め、舟を出し、イエスを探していたのです。そのような自分だけの繁栄や自分だけの欲望を満たすことは平和、シャロームを生み出すことではありません。そのように舟を出す姿は、日本がアジアに侵略戦争として舟を出すのと同じ発想です。

イエス様はこのような独善的な欲望を批判します。27節「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい」と言います。

イエス様は食べ物には、朽ちる食べ物と、永遠の命に至る食べ物があると言います。どちらも同じ食べ物です。しかしそれは追い求め方、あるいは動機、用い方によって、滅びにも、永遠の命にもなるというのです。自らの欲望と繁栄を求めて舟を出すとき、その食べ物は必ず滅びへと向かいます。それは朽ちるものとなります。誰かを犠牲にして、押し込めてそれを得ようとするとき、自分だけ繁栄をしようとするとき、それは絶対に平和を生みません。そのように食べ物を求める時、繁栄を求める時、そこに起こるのは戦争と貧困と格差と差別です。

私は平和を求めつつ、パンを求めてゆきたいと願うのです。それこそがパンではなくイエス・キリストを探すということではないでしょうか。イエス様は私たちに5000人が一緒にパンを食べる奇跡を通じて、神の恵みの大きさを教えてくださいます。欲望が満たされる喜びではなく、みんな神様のめぐみによって生かされていることを教えてくれます。これを食べ、命を大切に生きなさいと教えてくれます。これは神様の恵みです。命と食べ物は自分のものにするだけではなく、天からのものとして分かち合いなさいと教えてくれるのです。私たちが求めるもの、それはそのように恵みと感謝を呼び起こす食べ物です。平和の食べ物です。イエス様は私たちに、このように永遠の命、平和を求めなさいと語るのです。

自分の食べ物を追いかけるのではなく、イエス・キリストの姿を、生き方を追いかけなさい、それが永遠の命に至る道であり、それが平和を作り出すのだというのです。

それが、イエス様の歩み、朽ちない食べ物、永遠に無くならない、平和・シャロームの食べ物、永遠の命にいたるものです。それはイエス様の歩みと生き方を知る事から始まります。イエス様がどのように生きられたのかを知ることから、平和は始まるのです。

平和・シャロームはイエス様が低く、小さくされている場所にいたことを知ることからはじまります。平和はイエス様がこの丸のへこんだ部分の一番下にいたことを、十字架にかかられたことを知るところから始まるのです。

その視点から平和の歩みを起こすことが、永遠の命、朽ちない世界につながってゆくのです。すべての人々が活き活きと輝く世界、それが十字架から始まるのです。

できれば今日私たちは主の晩餐をぜひともしたかったのですが、今日はそうすることができません。しかし私たちそれぞれ、イエス様から今日、永遠に朽ちないパン、私たちの心にいただきましょう。

私たちがパンを頂くのは、自分だけのため、自分の満足のためではありません。そのことをよく吟味して食べたいのです。私たちは世界の平和・シャロームを願ってイエス様のパンを食べ、永遠の命を頂きたいのです。また主の晩餐に預かれること、平和の食べ物を囲むことが出来る事を願っています。お祈りいたします。

【全文】「70年間の目的地」ヨハネ6章16節~21節

 

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝出来る事、その神様の招きに感謝します。共に集うことができることを嬉しく思います。また今日も子ども達が集ってくれています。私たちは子ども達を大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは今年度で70周年を迎えています。この宣教で3回、70周年について語っています。1回目は「70年間の勇気」神様が70年平和を語り続ける勇気を下さったということ。また2回目は「70年間の無力の強さ」無力な私たちに神様が力を与え続けてくれた70年だったということを見てきました。今日は「70年間の目的地」私たちは70年間、何を目指して歩んできたのかということ、それは成果ではなく、イエス様と出会うことが目的だった、イエス様と出会ったその場所が私たちの目的地だということについて、考えたいと思います。そしてそれを小田原伝道所という出来事から考えてゆきたいのです。

1990年頃バプテスト連盟全体では500の教会と5万人の信者を目標とする「500と5万」が目標とされました。そして500の教会を作る方法として、「母教会主義」が取られていました。それまで教会の開設は連盟が主導的に教会を開設してゆくこと、牧師が一人で伝道をはじめてゆくことが多かったのですが、徐々に教会が教会を生み出してゆくという方法に変わってゆきました。既存の教会のメンバーの一部が株分けされて、近隣に新しい教会を生み出してゆくという形式です。母教会(親教会)と呼ばれる教会が主体的に、責任を持って教会を開設してゆくという方法です。

この近くでは戸塚教会がそうです。1983年に東京の恵泉教会と藤沢教会が母教会となって戸塚伝道所を開設しました。戸塚伝道所は4年後の87年には自給自立できる規模となり、戸塚教会として教会組織がされました。そのように「母教会主義」という方法で教会の開設がされてゆきました。

その後2000年代になると、徐々に、人数や教会の数を目標にするのではなく、小さくされた人と共に生きる、分断や差別を超えてゆくということを目標にしています。数値が目的ではなく、どのように寄り添うのかということに目的が改められ、今に至っています。

90年代、平塚教会もこの流れにあったのでしょうか。平塚教会にも小田原伝道所のビジョンが与えられました。1991年から検討が始められ、1993年6月小田原の地へ根付こうと、小田原伝道所が開設され、礼拝が始まりました。この歴史を調べていますが、やはりこれにも資料に限りがあります。

しかし限られた資料中ではありますが、小田原伝道への熱意が込められている文章は少ないように感じます。むしろ開設に向けた戸惑いや心配の声が記録として多く残されています。しかし、その中でも平塚教会は伝道所開設へと踏み出しました。そういうチャレンジするところが大好きです。平塚教会が母教会として、小田原伝道所を開設しました。

開設翌年には、引退された川上牧師が小田原伝道所の牧師となられます。当初は平塚教会からかなりの財政支援をしており、年間240万円の支援の記録があります。その後20年ほど小田原伝道所は続いたのですが、しかし他の教会組織をできた伝道所と違い、人数は当初の10名ほどで推移したまま、なかなか自立した教会組織、財政的な自立には至りませんでした。

そんな中、小田原伝道所では川上牧師が退任されることとなります。小田原伝道所が、牧師をどのように招聘してゆくかを考える中で、バプテストにこだわるかどうかが課題になった様です。

2011年には小田原伝道所から平塚教会との関係、バプテスト連盟との関係を解消したいと申し出がありました。平塚教会は残念な思い持ちながらも、小田原伝道所の意思として尊重しました。小田原伝道所は単立の教会として歩みを始めます。その後聞くところによれば、現在では小田原教会は役割を終えて、今は礼拝などの集会を持っていないとのことです。

小田原伝道所と平塚教会の関係は、資料を見ていると結束した堅い関係だったようには感じません。開設数年は頻繁な往復が記録されていますが、年々減少してゆきます。10年ほどたつと顕著に距離感が出てくる様子が見て取れます。どのような理由で距離感が生まれて来たのかは分かりませんが、両方の教会に課題や痛み、葛藤があったのでしょう。総会資料を見ると、そのように思います。

平塚バプテスト教会としては当初の目的を達成することができませんでした。伝道所を成長させ、教会として地域に定着させてゆく、500の教会の一つにする、自立自給させてゆくという目標は達成できませんでした。

この取り組みは失敗だったのでしょうか?〇×をつけたいわけではありません。歴史を振り返りたいのです。私たちはあの時何をしようとしていたのか。目的がなんだったのかを考えたいのです。それは少なくとも伝道所に人が満たされることではなかったはずです。もちろん多くの人に伝えたい願いはありました。

しかしもう一度私たちの目的、思いがなんだったのかを考えたいのです。私たちが小田原伝道所を出した目的はなんだったのでしょうか。それはその過程で人々と出会うこと、そしてイエス様と出会うことではなかったのでしょうか。

小田原伝道が成功か失敗かではなく、私たちはその過程で、人々に、イエス様に出会うことができたのかどうか。私は歴史からそのことが問われているのではないかと思います。

そして今の私たちの教会も同じです。人数が、数がということ以上に、この歴史の中でどのように、平塚の地域の人々に、そしてイエス様にどうやって出会うことができたのか、それが問われているのではないでしょうか。

 

今日の聖書個所を読みましょう。今日の個所は1月の聖書教育でも読んだ個所です。Aさんから「船」と「舟」の違いは何かと質問をいただきました。舟は小さい舟を表す漢字で、聖書では小舟と訳す場合もあります。それは小さな舟だったのです。弟子たちその舟で向こう岸に漕ぎ出そうとします。彼らの目的地は17節カファルナウムです。

実は「舟」という言葉が今日のキーワードです。いつからか人々はこの聖書個所の舟とは教会の事だと理解するようになりました。小さな舟が暗闇を漕ぎ出してゆく、教会は小さな群れとして暗闇に漕ぎ出すのです。

しかし湖は荒れ始めます。19節25スタディオンとあります。この湖の幅は狭い場所でも60スタディオンくらいあります。つまり25スタディオンとは、湖の真ん中を指します。湖の真ん中、引き返すことも、向こう側を目指すこともできない一番危険な場所で、彼らは強い風に会うのです。漕ぎ出した舟はまるで私たち平塚教会の様であり、小田原伝道所のようでしょうか。沈まないように、目的地へと向かって、力を合わせて漕ぎ続けるのです。

そこに不思議にも、イエス様が湖の上を歩いて現われます。彼らは恐ろしくなりました。この個所、イエス様の水上歩行は不思議な奇跡です。でも、もう一つ不思議な事が起こっていることを見逃さないでください。それは21節「イエス様を迎え入れようとすると、間もなく、舟は目指す目的地についた」ということです。

イエス様を受け入れようとしたら、いつの間にか目的地だったのです。残りの道はどうしたのでしょうか。水上歩行よりも、瞬間移動の方が大きな奇跡でしょう。

しかしもしかすると、イエス様に出会う時、不思議と私たちもそんな経験をするのかもしれません。イエス様と出会った時、そこが私たちの目的の地だったということです。私たちはどこかを目指して、舟を漕いでいるのかもしれません。目標を目指しているのです。しかし、本当に私たちの目指す場所は、イエス様と出会う場所です。私たちの決めた目標が目的地ではなく、その途中でイエス様と出会った場所が目的地になるのです。

イエス様は「私だ、恐れるな」と言います。この物語は水の上を歩いたという奇跡に目を奪われがちです。でもそこを恐れるなと言います。指し示されているのは、「私だ」という言葉です。そうイエス様との出会いを見よということです。様々な出来事が、私たちの歴史の中にはあります。恐れるような事、奇跡のような事があります。そしてその時、その事柄だけではなく、そこにどのようにイエス様との出会いがあったのかを見よとイエス様は言うのです。イエス様は私たちの70年間の中にも確かにおられました。でもそれは私たちの目的とした場所とは違う所におられたのかもしれません。

私たちの目的地、目指す場所、それは活動目標の達成ではありません。その途中にある、人生の途中に、突然起こる、嵐の中でイエス様との出会うということ、それが目的地です。そこが私たちの目的地です。私たちの歴史をそのような視点で見つめてゆきたいのです。大切なのはそのことです。

私たちは舟です。出発した70年間、様々な目標を持ちチャレンジをしてきました。目標が達成できたこと、できなかったこと、どちらもあります。その歴史には成功も失敗も、奇跡も困難もありました。でも大切なのはその旅の途中で、イエス様と出会うということです。「私だ」というイエス様と出会うことです。目的地それは、イエス様と出会った場所です。私たちがどこを目指そうかそれは関係ありません。イエス様と出会う時、そこが本当の目的地になるのです。

私たちの歴史にはこれからもチャレンジがあるでしょう。その中の嵐を大事にしましょう。きっとイエス様との出会いが隠されているはずです。そして私たち一人ひとりの人生も同じでしょう。目標、なりたい自分、それを一生懸命目指します。でもたとえそれができなかったとしても大事にしたいのはイエス様との出会いです。それが私たちの本当の目的地だからです。お祈りします。

 

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【全文】「70年間の無力の強さ」ヨハネ5章19節~36節

みなさん、おはようございます。本日も共に礼拝をできること感謝です。すでにお伝えしたとおり、徐々に通常の礼拝に戻そうとしていた最中ですが、今日からまた礼拝を短縮版に戻すこととなりました。コロナに振り回され、疲れてしまう毎日ですが、そんな時こそ変わらない神様のみ言葉から力をいただいてゆきましょう。今日も子ども達が一緒に礼拝に集ってくれています。平塚バプテスト教会はこどもを大切にする教会です。互いの命を感じながら、礼拝をしましょう。子どもを連れて来たお母さん、おじいちゃんも、自分の子どもの声が気になることがあると思いますが、大丈夫です。一緒に礼拝をしましょう。

先週から3回にわたって、平塚バプテスト教会が70周年を迎えたということについて考えたいと思っています。いろいろ資料を掘り返したり、インタビューをしたりしています。みなさんにも原稿の依頼をしますので、どうぞ言葉を寄せください。資料を見ながら私は70年間、神様の力がこの教会におよび、建てられ続けて来たこと、その栄光の歴史を探していました。年表を見て、どのような恵みがあったのかを70年間という視点で振り返っていました。たとえば70年間で10個教会のトピックを挙げるとしたら、創立、宣教師、幼稚園、土地問題、小田原伝道所、梶井牧師招聘(バプテスト)、礼拝堂工事、信仰告白作成、こひつじ館建設、コロナのことになると思います。

しかし振り返ると70年間、いい事、栄光ばかりではなかった、いろいろな苦労があったことを知ります。特に私が注目しているのは、幼稚園と小田原伝道所についてです。記録からはそうは書いていなくても、そこから痛みを感じとります。

先日お二人の方に幼稚園閉鎖の歴史についてヒアリングをしました。幼稚園閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の執事会の記録によりますと、1978年12月31日に初代牧師・長尾三二先生が天に召されました。その後2月に川上牧師が着任されます。しかし、4月からの附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の教育方針を引き継いで主任、長尾牧師のご親族に委ねていくのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園の先生全員が退職をしてゆくことになります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が平塚バプテスト教会を去ることになってしまったのです。何とか幼稚園は続きましたが、結局8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。

当時対立したお互いが、守ろうとしたものは何だったのでしょうか。そこで教会が示されたことは何だったのでしょうか。当時そこにいない私は、断片的な報告から想像するしかありません。しかし、確かに教会を去る人がおり、幼稚園は閉園してしまいました。痛みが残り、その痛みの癒しは終わったわけではありません。

教会は幼稚園を通じて、この地域に福音を伝えて行こうとしました。あるいは地域の子どもたちの成長を願いました。そのスピリッツは素晴らしいと思いますし、こひつじ館、子どもを大切にするという形で今も受けつがれていると思います。しかし思う様にはいかなかったのです。記憶・記録からは、大きな課題を前に教会は無力で、分裂の危機の前に教会は無力だったようにさえ感じます。礼拝出席者数も目に見えて減少したでしょう。

教会が幼稚園に関わる問題で混乱することは、決して珍しい事ではありません。平塚教会はこの事の前に無力で、分裂し、教会が閉じてしまう可能性も十分にあったでしょう。しかし教会は続きました。その後も確かに礼拝が続き、教会は続いたのです。

このような状況でも教会が続いたこと、そこには不思議な力が働いたと言えると思います。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や先輩者の頑張りがありました。「人の言葉に惑わされない」という堅い意志、一致しようという思いがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断をされたからこそ、この教会は続きました。この教会を残すと神様が決断されたのです。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様はこの教会を建て続けることを選ばれたのです。

教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」がしっかりと刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことも刻まれています。栄光ばかりではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注ぎました。私はその在り方が好きです。「弱い時こそ強い」それを体現している存在として、この教会は立ち続けているのだと思います。

さて今日の聖書の個所を見てゆきましょう。今日の個所はベトサダの池の話の直後の個所です。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。今日の個所の、19節後半です。「自分からは何事もできない」と「自分には力がない、能力が無い」ということを語ります。自分は無力だというのです。

しかしイエス様は、その無力の中に神様が働き、神様の業が起こっていると話します。20節に、神様はイエスさまを愛して、自分の力をイエス様に与え、それを示すとあるとおりです。神様は力の無い場所を愛するお方です。神様は弱いもの、無力な者を愛し、力が注がれるお方です。それによって大きな業が地上に起こる。私たちにとって驚くような出来事が起こるのです。

21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わった、ばらばらになってしまったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。神様からの命を受けて、もう一度一つのものとして働きを始める、起き上がる出来事です。

そのような出来事が、イエス様が選んだ場所に起こります。それは23節、すべての人が父を敬い、子を敬うために起こります。この地上の誰かのためではなく、すべての人のためです。全ての人が神様とイエスを敬うようなるためです。敬うとは、評価するという意味です。その本当の価値を知り、大切なものであるということ、従う価値のあるものであると知ることです。その本当の価値を知らせるために神様の業が起こるのです。

24節、私の言葉を聞いてとあります。神様の言葉を聞く、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。死んでしまったよう見えた場所に、命が湧きおこるのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。

そこでは25節、死んでしまった様に見える人、その無力さの中に神の声が響き渡るという出来事、その時が来る、その時は来ます。それは今がその時です。弱い私たちがその言葉を聞く時、私たちは生きるようになる、私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。それは今起こることです。

28・29節、驚いてはならないとありますが、私たちはそれに驚くでしょう。死んでしまった心に、終わってしまったと思う場所に、無力さの中に、神様の声が響きます。その時は善い行いをした人も悪い行いをした人も等しく、神様の力をいただくのです。そしてもう一度、そこから出てくる、新しくスタートができるのです。

30節もう一度イエス様は繰り返しています。「わたしは自分では何もできない」と。イエス様ですら、自分では何もできない、神の力が働いて、御心が実現されるのだと言います。私たちも、もちろん同じはずです。私たちは無力です。でもそこに神の力が働くのです。私たちが70年間頑張ったのではありません。神様が70年間、無力な私たちに力を与えてくれたのです。それが私たちの歴史です。

31節イエス様は自分を証し、賞賛することはしません。イエス様は自分の歴史を賞賛することはしないのです。36節、人はさまざまな評価をするでしょう。証言をするでしょう。しかし無力なイエス様に力が与えられ、成し遂げられたこと、そのものが一番の証しだとおっしゃいます。

今日の個所、神様の力、それは「わたしは自分では何もできない」という無力なイエス様に働くということをみてきました。私たちも同じでしょう。

私たち自身では何もできないかもしれません。現実に、コロナに振り回されるばかりです。でもそこに神様が働くのです。私たちは70年間を賞賛したい思いがあります。でも強い時ばかりではありません。教会の歴史には傷があり、無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、今も立ち続けている事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力を証ししているのではないでしょうか。

平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。この教会をもっと大きく、もっと力強い、もっと影響力のある教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。現実に振り回される、無力な人間の集まりでありましょう。そしてそこにこそ神様の力を求めてゆきましょう。

私たちは世に派遣されます。そしてそうする度に躓いて、右往左往して、分断の危機に悩むかもしれません。でも、それでも歩む教会でいましょう。それでいいのです。その中でこそ、そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。この教会の70年間はそのような歩みだったのではないでしょうか。

そして私たち一人ひとりの歩みも、そのような歩みだったのではないでしょうか。これからもそのような歩みであるのではないでしょうか。お祈りいたします。

 

 

【全文】「70年間の勇気」ヨハネ16章25節~33節

皆さんおはようございます。今日も共に礼拝をできる事、うれしく思います。子ども達も集ってくれています。平塚バプテスト教会は子どもを大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。先週までは礼拝について12回シリーズで宣教をしてきました。その実りに感謝です。予定では、6月子ども何回か創立記念、70周年について考える計画でしたが、コロナで集う事ができない中で、やはり礼拝の大事さを一層覚えるというで、礼拝をテーマとして宣教を続けてゆく事としました。少し時期は遅れますが、今日より改めて私たちの教会が70年を迎えたという事について、3回に分けて考えてゆきたいのです。

70周年という事で、教会の資料保存をしっかりしようと、整理をしています。その中で、古い執事会の記録や証し集なども目を通しています。資料を読むと、70年間で何回もこの教会にはピンチの時があったという事を知りました。冷や汗をかきながら記録を読みました。その度にかしい選択が迫られ、今の教会がある事を知りました。もちろんコロナのこともその歴史の一つに加えられると思います。

この教会が様々に形、あり方を変えてきた事も知りました。それと同時に教会がこれまでの70年間、変わらずに続けてきた事は何だったのかも考えさせられました。何が語られ続けてきたのかという事を考えています。

変わらず語られ続けている事、その一つは平和という事が言えると思います。教会は70年間平和を語り続けていました。初代の長尾先生は戦時中に戦争に反対し、逮捕された96人の牧師の一人でした。二代目の川上先生もシベリア抑留の話を良くされたと聞きます。続く牧師たちも平和について語っています。それぞれの牧師が、この教会の業、宣教の時に、平和を語り続けていました。私もそうでありたいのです。

私たちは6月14日で創立70周年を迎えましたが、同時に今週の7月16日は、75年前、平塚大空襲が起きた日であった事も覚えます。私たちの街に焼夷弾の雨が降った、空爆が行われた、その日から75年でもあります。創立と平和を祈念する時です。

私は敗戦記念日や広島・長崎に原爆が落とされた事と同じ様に、この記憶を大事にしたいと思っています。私たちの住んでいた町が戦場となり、目の前に爆弾が落ちた事を忘れないでいたいのです。

礼拝で平和を宣べ伝える、それは牧師個人の願いを超えるものです。神様が私たちに平和のためのみ言葉を与え続けて下さったのです。70年間神様は、平和を実現するために、み言葉によって、私たちを勇気づけ、私たちに語り続けて下さったのです。神様は、私たちが平和を作り出す者となるために、私たちに語り掛け、勇気を与え続けて下さっていたのです。

教会が立ち続ける事、この教会が平和を語り続けた事、それは何より神様の働きです。もちろん先人たちの大きな働きもありますが、それを超える、それに先立つ神の働きがあった70年間だったのです。

教会は平和を語ってきました。しかし一方、私たち人間の決意、平和への決意とは弱いという事も知らされています。75年前の空襲の夜、どれほど強く平和を願った夜だったでしょうか。敗戦後それは憲法9条という形で、戦争をしない誓いが建てられました。しかし今、その憲法9条を、より戦争に近づくように変えようという人物が総理大臣になっています。日本は再び軍備拡張の道を歩みだし、アメリカ軍から言われるままに兵器を買い、アメリカ軍と一体化し、平和から遠ざかろうとしています。軍事力への誘惑は非常に強い力です。また教会の内側も70年間平和だったとは言い難いものでした。分裂や閉鎖の危機さえもありました。

このような中で、私たちが平和を求め続けてゆくには、神様から励ましが必要です。平和は、私たちが戦後に選ぶ以前に、神様が戦わない、殺し合わない選択へと導いておられました。私たちは神様に平和へと導かれ、神様から励ましをもらい、平和を実現してゆく者として立たされるのです。神様は70年間、そのようにして平和を私たちに語り続け、その実現のために勇気と励ましをくださったのです。

だからこそ本当の平和、それは神様を信頼する時に起こるのだと思います。私たちに平和が起こるのは、命の造り主が神様であると、知った時です。その命が何よりも大事であると知る時、私たちは戦争を止めて争いを止めて、平和を選び取る事ができるのです。

もちろん神様を信じて平和のために働く、その中には様々な苦労があります。平和のために苦難を味わいながら歩む。しかし苦しみがあったとしても、平和は必ず実現します。それが神様の約束だからです。

一人一人に神様が働きかけ、強い平和への願い、行動を与えて下さいます。平和、それは戦争の無い平和だけに限りません。暴力の無い平和、差別の無い平和、格差の無い平和、命に優劣のつかない平和。その平和を神様からの励ましをいただき、私たちは70年間求めました、そしてこれからも求めてゆくのです。

 

さて、本日の聖書に目を向けましょう。今日の個所はイエス様が13章から続く、最後の晩餐の席でずっと教えを語られてきた、最後の部分です。その教えの最後が今日の部分です。イエス様は33節最後の最後にこう言います「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」

イエス様のここまでの長い話、それは平和のためだったというのです。イエス様は平和、シャロームを伝えたお方です。聖書の平和、それは戦争が無い事だけに限りません。差別の無い平和、格差の無い平和、命に優劣のつかない平和。その平和のために神様の元にいなさいという事が13章からずっと書かれているのです。

25節には「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とあります。そのイエス様はもうそれを言葉やたとえによって伝えるのを終えると言います。これからをもっとはっきりした形で知らせるというのです。

はっきりと知らせるとは、十字架によって知らせるという事です。イエス様は十字架の出来事によって、歴史に残る形によって私たちに福音を知らせようとしています。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちに平和を告げ知らせようとしているのです。

ここで弟子たちは30節「今、分かった」「私は信じます」というのです。しかし、この後の弟子たちはどうでしょうか。イエス様が捕らわれようとする時に、どうしたでしょうか。剣を抜いて、立ち向かおうとします。そしてイエス様を見捨てて、散り散りに逃げて行きました。さらにイエス様を三度知らないと言うのです。「わかりました」「信じます」と言ったすぐ後に、簡単に暴力に訴え、簡単に裏切ってしまうのです。

弟子たちのあの「分かりました」という決心はどこに行ったのでしょうか。剣を振り回し、逃げる弟子たちのその姿は、虚しく、平和をすぐに諦めてしまう、弱い者たちの姿です。平和を求めるけれども、苦難に会うと、すぐに挫折する者たちです。私たちの決意とは、私たちの教会もまた、そのような弱さを持ちます。平和への決意、信じると告白する信仰の決意は、それほどまでにもろく、弱いものなのです。

だからこそ私たちには神様の力が必要です。私たちの決意に先立つ恵みと導き、神様からの励ましと勇気が必要です。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちにその力を、平和を実現するための力をお与えになるのです。

十字架とは神様と等しいイエス様が、もっとも平和から遠い、もっとも悲惨な場所に身を置かれ、それを味わったという出来事です。私たちはそれを見ます。そしてもう二度と誰も十字架にかけてはいけない、誰も剣を持たない、誰も見棄てない、困難から逃げない、その力を私たちはいただくのです。その十字架から私たちは力をいただき、平和を願い求め続ける者となるのです。決意に先立つ恵み、勇気、励ましを頂くのです。

平和を願い求める時、32節後半です。イエス様は「父が共にいて下さる」と、確信を持って進んでゆかれます。そしてまるで自分にも言い聞かせるように、苦難があっても、勇気を出しなさい。神が既に世に勝っていて、共にいて、必ず平和を実現して下さると言います。神様がその力を私たちに、平和を実現する力を私たちにお与えになるのです。

平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私たちの教会は、この教会を建て続けるという決心を何度も打ちのめされそうになりながらも、神様によって建てられ続けていました。そして平和を語り続けてきました。それができたのは、ひとりひとりのがんばりに先立つ、十字架のイエス様がいたからです。私たちは十字架のイエス様から、励ましと勇気をいただく事で70年間を歩んだのです。それは平和の尊さと、平和の難しさを知りながらの歩みです。この70年間を主に感謝しましょう。神様の励ましと勇気によって、十字架の励ましと勇気によって、私たちは立たされ平和を語り続けてきたのです。

これからも神様は共にいて下さいます。私たちは平和を求め続け、み言葉に聞き続けましょう。神様からの勇気を求め続けましょう。お祈りします。

 

【全文】「礼拝は一緒の食事」Ⅰコリント11章17節~22節

 

みなさんおはようございます。今日から7月の礼拝、一緒に賛美できるのはいいですね。「礼拝は歌う」です。私たちは、一度は中止していた賛美を再開することを選びました。歌うのはストレス発散になり、気持ちいいものです。でも私たちはこの歌を互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら、そしてなにより神様にむけて、賛美をしています。その恵みに感謝です。今日からまた教会が、一歩通常に戻ります。礼拝以外のことも、もう少し時間をかけて戻してゆきたいと思います。私個人としては早く皆さんと食事をしたいという願いを持っています。

こどもたちも集まってくれました。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。子ども達の存在も感じながら、礼拝をしてゆきましょう。そして今日で12回シリーズの「礼拝は〇〇」というテーマの宣教は最終回です。

今日皆さんと一緒に賛美するのは4か月ぶりですが、主の晩餐をするのは2月の礼拝が最後ですから、実に5か月ぶりとなります。コロナの期間、それぞれの自宅で礼拝を守るとした平塚教会では、主の晩餐を一時中断していました。その期間パンとぶどう酒のカードを送ってみたりもしました。後から他の教会に聞いてみますと、主の晩餐をインターネットでする教会もあったそうです。リモート主の晩餐でしょうか。方法は様々で、それぞれがパンとぶどうジュースを買ってきて画面の前で食べたり、教会で行われる主の晩餐の様子を配信したりしたそうです。

もとより主の晩餐の在り方はというのは驚くほど多様です。同じキリスト教でもカトリックは毎週行い、これを礼拝の中心としています。プロテスタントは月に一度という教会が多いですが、月に一度という明確な理由はありません。毎週では恵みを忘れてしまうので、月に1回としています。それでも多いので年に数回とする教会もあるそうです。またバプテストの教会なかでも多様です。主の晩餐の時は牧師がガウンを着る教会もあります。あるいはオープン、クローズという違いもあります。どのような頻度や方法で行っていくかは、主の晩餐とは何かという理解の違いともいえるのでしょう。

私たちも70年間この主の晩餐を繰り返してきましたが、初めてできない期間に直面しました。皆さんは主の晩餐ができないことへのもどかしさや、喪失感はどれほどあったでしょうか。実は私はあまり感じないのです。どうしても早く皆さんと主の晩餐をしたいとは、残念ながら感じなかったのです。礼拝をしたい、会いたい、賛美したい、食事したいとは思いました。でも、主の晩餐をしたくてたまらない。そういう気持ちには不思議とならなかったのです。私が不信仰で無理解なところもあるでしょう。しかしそれが正直なところです。私は、いえもしかしたら教会も、主の晩餐を不要不急としてきたかもしれない。本当は礼拝に欠かせない要素である主の晩餐を、無意識に繰り返していたかもしれない、私はそのような自分の気持ちに気づかされました。今日もう一度、この主の晩餐のパンとぶどう酒を頂く前に、一体何がここでされているのかを確認しておきたいのです。

私たちは主の晩餐、一体ここで何をしているのでしょうか。先ほどもお伝えした通り、主の晩餐の理解には大きな幅があります。見てわかる部分だけでも、パンは種無しパンか、食パンか。来会者にオープンかクローズか。ぶどう酒はジュースか、ワインか。目の前でパンをちぎるのか、あらかじめ切れているのか。様々な違いがあります。私自身はバプテスマを受けていない方や子ども、すべての人がパンを受けてよい、そして毎週したいと考える、いわゆるオープンな立場です。このように教会の中でも理解は違います。もちろんこれは私個人の理解でするものではなく、教会の業です。平塚バプテスト教会では、これに預かるのは洗礼・バプテスマを受けた方にクローズしています。そして限定するだけではなく、どの教派に属していても参加できるとオープンにしています。

あまりに多様である主の晩餐。でも久しぶりの主の晩餐を、今日、ともに考えたいのです。

まず初代教会がどのように主の晩餐を持ったのかを見てゆきましょう。初代教会では主の晩餐は、今でいうところの愛餐会・食事会でした。礼拝の奉献の時に持ち寄ったもので食事をしていたのです。それが主の晩餐の原型です。最初はとにかく全員でとる賑やかな食事だったのです。

どうして礼拝で食事をしたのでしょうか。それはイエス様との食事を元にしています。聖書にはイエス様がいろいろな人と食事をした場面が出てきます。関わらない方がいいと言われる罪人や外国人と食事をします。関わるにはふさわしくない、神の恵みにはふさわしくないとされた者と、その垣根を超えて、分け隔てのない食事すること、それがイエス様の運動だったのです。一緒にご飯を食べるのが、イエス様の愛の運動だったのです。そのことを初代教会は忘れずに、みんなで賑やかに食事をしていました。

聖書には様々なイエス様の食事を描いています。主の晩餐は大きく分けて4つの食事のモチーフがあります。罪人との食事、最後の晩餐、復活後の食事、奇跡の食事です。礼拝の中に食べるということがあるのは、これらの4つの豊かな意味を含みます。だからこそ多様なのです。イエス様としたさまざまな食事にルーツを持つ礼典、それが主の晩餐なのです。

食事の記憶、それは私たちの記憶にしっかりと焼き付くものです。南小会室で一緒に食べた食事、なんと懐かしいことでしょうか。私は正直に申しますと、主の晩餐の喪失感よりも、礼拝後の食事が無いことの喪失感が私にとっては大きいのです。そう、きっと私たちが一緒にしていたあの教会のお昼ご飯は、イエス様との食事、主の晩餐だったのではないでしょうか。礼拝の中の主の晩餐にもきっとそんな恵みが隠されているのです。 今日の聖書の個所から、その恵みを見てゆきましょう。

 

当時コリント教会でも礼拝で主の晩餐、食事が行われていました。しかし、そのコリント教会の主の晩餐に対してパウロが「それでは主の晩餐にならない」と手紙を送っています。一体何が起きていたのでしょうか。

キリスト教は当初、貧しい人々に伝わっていきました。だから礼拝の食事とは本当に食べ物の分かち合いだったのです。みんなで食事をとっていたのです。しかし徐々にお金持ちも共同体に加わるようになります。その人たちはなんと先に食事を始めてしまうのです。そして例えば働いてから礼拝に集ってきた、遅れて来た貧しい人がいたとします。彼らは空腹です。しかしその時すでに、食べ終わっている人がいて、満腹し、酔っている人がいたのです。

貧しい信徒はどうしたでしょうか。金持ちの食べ散らかした、そのあまりものを食べていたのです。パウロがわざわざ手紙で怒っているのはそんな主の晩餐の在り方です。そんなんじゃ主の晩餐にならないというのです。これこそ18節にある仲間割れです。パウロは金持ちのそういう食事は家でしろと言います。22節「あなた方に家があるでしょう」のこの家は複数形です。家々をたくさん持っているにもかかわらず、分かち合わずに、先に食べる人たちに、家で食べろと言うのです。

少し先の28節にある「誰でも自分を良く確かめなさい」とはこのことです。確かめるのは、自分だけ良ければいいや、食べてない人がいるかどうかなんて関係ない、えい自分が全部食べちゃえ。そういうことが無いかをよく確かめながら、主の晩餐をしなさいと言うのです。

ですから主の晩餐は1か月の個人的に罪を犯してないか、ふさわしいか確認して食べる、自己吟味をして食べるという意味だけにはとどまりまりません。食べれない人が周りにいないか、まだ食べてない人がいないか、ちゃんと確認して食べようということです。一緒に食べようということです。

ここで求められるのは自己吟味だけではありません。いわば共同体吟味です。私たちがその食事を分かち合う群れになっているか、共同体を点検する、吟味する、そのことがこの食事では求められているのです。互いに仲間割れが起きていないか、配慮しあう、祈りあうことができる共同体か、そのことが吟味される食事なのです。主の晩餐、それはイエス様との食事です。イエス様が私を食事に誘ってくださる恵みです。イエス様との濃厚接触です。イエス様とのいろいろな食事を、それぞれ思い出しながら、記念しながら、食べてゆくのものなのです。

共同体を吟味する。もちろんそれは礼拝共同体の吟味です。礼拝する共同体になれているかどうかの吟味です。そしてその吟味をするとき、それは教会の内側だけに留まらないでしょう。私たちの人間の共同体で、この地域や世界で仲間割れが起きていないかを点検し、吟味することに広がるでしょう。それが毎回の主の晩餐で行われることです。

私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で70年間続けてきました。礼拝の中でイエス様とのさまざまな食事を思い出し続けていました。今日もイエス様とのあの食事、それぞれに思いだしながら食べましょう。そしてこれはみんなで一緒にする食事です。私たちの仲間のことも、世界のことも思い出しながら食べましょう。それは礼拝の中で欠かせないものであるはずです。

さて、私たちは礼拝について、3か月ほど共に考え続けてきました。どのような事をお感じになったでしょうか。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集い、礼拝はみ言葉が中心、礼拝は献身、礼拝は派遣、礼拝は続く、そして礼拝は一緒の食事です。

礼拝とはなんと豊かなものでしょうか。そして礼拝とは何と多様なものでしょうか。私たちは礼拝の何を忘れ、何を思い出したでしょうか。何を守り、何を変えてゆくのでしょうか。これから共に考えてゆけたらと思います。学ぶだけで終わりではなく、日々の新しい礼拝につなげてゆきましょう。

皆さんの中でもお一人ひとりの中でもこの礼拝を思いめぐらせて続けてください。お祈りします。

 

【全文】「礼拝は続く」ヨハネ17章15節~23節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、うれしく思います。共に精いっぱいの礼拝を捧げてゆきましょう。こどもたちも集ってくれました。新しい子ども室の評判はいろいろです。2週間ほど前にお配りした、執事会の記録に詳しく経緯を載せていますのでどうぞご確認ください。子どもとの礼拝を別にしてしまうのは簡単なのですが、お互いの存在を感じながら礼拝をすることを大事にしたいと願い、この場所で礼拝をしています。みなさんもだいだいいつも同じ席に座る居場所があるように、子ども達にも居場所となればと願っています。

さて、先週は礼拝は派遣というテーマで宣教をしました。礼拝は招きで始まり、派遣で終わる。そして派遣される私たちと共に、イエス様がいて下さり、私たちは弟子として歩むのだということを考えました。今日は礼拝から派遣された私たちが、その後をどのように歩むのかということについて考えたいと思います。私たちは礼拝というテーマに集中して考えてきましたが、それはともすると教会の中ばかりの、内向きのテーマでした。私たちが礼拝から派遣される場所、そのことに目を向けてゆくことも大事なことです。今日は派遣された後、礼拝はそれぞれの生活の中で続いていくのだという事を考えたいのです。

 私たちは礼拝に招かれて礼拝に集いました。そして神様の恵みとみ言葉を頂き、共に生きる他者とあいさつし、歌い、お互いの存在を知る、そのような礼拝体験をします。そして礼拝の最後には派遣の時が持たれ、6日間それぞれの場所へと派遣されます。また7日後に再び招かれるまで、それぞれの場所を一生懸命に生きるのです。イエス様の弟子として歩むのです。

 しかし私たちの生きる、私たちの派遣される世は厳しい現実の中にあります。私たちはシャロームとは遠い、破れと歪みに満ちた世界に派遣されるのです。今、最も大きなゆがみとして世界に突きつけられているのは、人種差別でしょう。特にアメリカでは黒人への差別の問題が根深く残っています。5月25日にジョージ・フロイドさんが、警察官に取り押さえられ窒息死した、それをとらえた映像は目に焼き付いています。

 人種差別、日本ではあまりない。そうとっさに考えてしま私たちは間違えています。それは世界の裏側の出来事ではなく、私たちの身近な出来事です。私たちのすぐそばに、目の前に外国人差別・偏見が多くあるのです。

 ここに『クラスメイトは外国人「課題篇」』という本があります。学校でも使われることがあるそうです。絵はみなみななみさん、クリスチャンの方が書いています。この本の中の第5章「外国人のこどもの貧困」の舞台は平塚市の子ども食堂です。外国人の親を持つ子供たちの困窮と、それに対する偏見・差別が描かれています。

 こんなストーリーです。あるきょうだいが、登場人物・園子さんの始めた子ども食堂を訪ねてきました。そしてこのきょうだいに虫歯がたくさんあることに気付いたのです。よく聞くと、シングルマザーの母親が生活に困窮し、夜に仕事をしており、子ども達の歯を磨いてあげる事、歯ブラシを買ってあげる事が出来ないというのです。他の人々は、母親のだらしなさを指摘します。あるいは養育できないのに子供を産んだ自己責任、行政の支援を使わない自己責任を問います。嫌なら自分の国に帰れば良いのではないか。あるいは外国人だから仕方がない、ちゃんとやっている外国人もいる、だから自己責任だと繰り返します。まるで安倍政権みたいな意見です。

 私たちは同じ町に住んでいる住民なのに、「外国人だからしょうがない」そう考えてしまうのです。平塚に住む人の貧困の問題は、平塚に住む私たちの問題なのに、私たちはつい「外国人だからしょうがない」そう、差別のまなざしで見てしまうのです。

 コロナで分断された社会で、いままで差別が無いように見えてきたかもしれません。しかし、なにか問題が起こると、すぐに差別は頭を出してきます。日本は中国人を差別し、世界はアジア人を差別するのです。人種やルーツを超えて、世界が連帯し一つになること、格差が無くなることを切に望む期間だったはずなのに、人々の差別と偏見が表面化する期間となってしまいました。

 私たちはどのように共に生きるかを考える群れです。子どもと、あらゆるルーツを持った人と、どうしたら一緒に生きて行けるか、一緒に礼拝をできて行けるかを考える群れです。私たちに何かできることはあるでしょうか。私たちも、こども食堂を始める準備をしていますが、それは世界が共に生きるということの助けになるでしょうか。私たちも子ども食堂を通じてこのような課題に巡りあうようになるのでしょうか。私たちはこのような歪んだ世界に派遣される者たちです。そして教会そのものもこの世に派遣されているものです。私たちは世に派遣された教会から、さらに世へと派遣されるのです。

 このような現実世界の中で、イエス様の弟子であり続けることは難しいことです。自分のためだけではなく、他者のため、神様のために生きようとすることは難しいことです。私たちのどんな決意も、打ち砕かれてしまうのです。私たちにはそれに向かってゆくためにはありあまるほどの力が必要です。必要なのは一方的な恵みの力です。使っても使っても使いきれない程の恵みが無ければ、弟子として歩むことはできません。だからこそ今日の礼拝、今日の教会でその恵みをはっきりと受け取って派遣されたいのです。祝福の宣言を受けてこの世へと派遣されてゆくのです。

 そして教会自体も世へと派遣されたものと言えるでしょう。世界には、聖なる教会と罪深い世があるのではありません。教会もこの場所へと派遣されているものなのです。この地域に神の国をもたらす、平和と平等をもたらす共同体として、教会が建てられているのです。私たちはそのように、この地域の福音として、立つ役割を持っているのです。

礼拝から派遣されていく私たち。礼拝は一度は終わります。しかし、弟子としての歩みは続きます。礼拝は日曜日に終わるけれども、派遣は続きます。皆さんは6日間、教会から、礼拝の中から、派遣され続けるのです。その意味で礼拝は続いていくのです。礼拝の延長線上に私たちの弟子の歩みがあるのです。

 さて今日の聖書個所を見てゆきましょう。15節「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とあります。イエス様が願っておられること、それは私たちが世から隔絶されることでありません。仏教には出家という文化があります。世と隔絶する生き方です。しかし私たちは出家するのではありません。私も出家しているのではありません。私たちは世にあって礼拝をするのです。戸を閉め切って礼拝するのではありません。イエス様が神様に願うのは、汚れたこの世界からの隔絶ではなく、この世界のただなかに生きることです。そしてその中にあって、悪い者から私たちを守ってくれるように祈るのです。いろいろな問題に会わないようにではなく、問題に会っても守られるように、イエス様は祈るのです。

 18節、神様はこの地上に、イエス様を人として派遣されました。そして礼拝の最後、今度は私たちがイエス様に派遣される番なのです。19節イエス様が御自分の人生を神様に献げた様に、私たちも神様に人生を献げて行く生き方が求められ、派遣されるのです。7日に一回、礼拝の恵みを頂いて、あふれる恵みをいただいて6日間、それぞれの場所へと派遣されるのです。

 イエス様は私たちの役割も祈っています。21節、すべての人をひとつにするという役割です。私たちが派遣されるそれぞれの場所には必ず分断があります。差別や偏見や衝突があります。その分断に和解をもたらし、平和をもたらし、一つにするようにと、私たちは派遣されるのです。それが私たちの役割、使命です。平和を作るのが使命です。

22節でもそのことは言われます。私たちがひとつであるように、彼らも一つになるようにというのは、イエス様と神様が一つであるように、私たちも堅い結びつきで一つになることができるようにという祈りです。分断が決してほどけない強い関係に、ひとつになるために、私たちは世へと派遣をされてゆくのです。

 そして21節後半です。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」とあります。私たちが分断を一つにしてゆこうとするとき、平和を作りだそうとする時、必ず私たちを通じて神様を知るようになる人が起こされるということです。イエス様が伝わるのは、分断が一つになった所です。分断をひとつにしようとする姿によって、人々はイエス様を知るようになるのです。

 私たちが礼拝から、神様から派遣されていることを知った時、相手に、神様がイエス様を地上に派遣されたことが伝わるようになります。神様を知るようになる。それが伝道・福音宣教になるのです。

 このようにして、私たちは派遣されます。祈られて、使命を持たされて、分断へと派遣されます。イエス様の願いは、私たちの派遣された先ある、すべての分断が和解し一つになる事です。すべてが完全に一つになる事です。分断のない連帯をする、差別の無い、助け合う社会・関係になっていくことがイエス様の願いです。そして遣わされた私たちが他者を愛することによって、神様がイエス様を愛したこと、神様が分け隔てなく人々を愛することが伝わるのです。

 礼拝は祝祷と派遣で終わります。でも「はい礼拝終了」とはなりません。派遣は続いてゆくものです。私たちの歩みのなかで、その派遣は続いてゆくものなのです。礼拝とこの世の二つがあるのではありません。世にあって、礼拝を続けている、それが私たちなのです。私たちの1週間、神様を礼拝をしながら歩みましょう。奉献の後、祝祷・派遣の時を持ちます。お祈りします。

 

【全文】「礼拝は派遣」マタイ28章16節~20節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできることを感謝です。そして子どもたちも集まってくれました。私たちはこどもを大切にする教会です。今日子どもたちは三密を避けて、北小会議室で一緒に礼拝をすることにしてみました。以前より親子室が狭いという課題がありました。新しい親子室として、とりあえず使ってみますのでよろしくお願いいたします。

ここ以外にもいろいろな場所を候補として挙げました。こひつじ館や教育館が子どもたちの居場所としては最適でしょう。しかし、私たちが子どもたちを大事にするなら、ぜひ一緒に礼拝をしたいと思っています。それによってお互いにとって多少、居づらさが生まれるはずです。でもそれが教会にとって大事な事です。いま礼拝について学んでいるのは、礼拝で大事なのは神様を感じるだけではなく、お互いのことも感じる時も大事だ、そう学んでいます。神様に向かい合いつつ、お互いの存在が感じることができる選択として、上下左右の表現としてこの場所を親子室としてみました。

もちろん試行錯誤の最中です。でもそれは大人の交わりにおいても同じです。こうすればいいという方法があるわけではないのと同じです。保護者の方、みなさんとも相談しながら、どうしてゆくべきかを試し、考えてゆきたいと思っています。どうぞご意見があれば、私まで届けてください。

さて私たちは礼拝をテーマに宣教をしています。12回のうち、今日は10回目です。今日私たちは、宣教・献金の後にある祝祷について考えたいと思います。私たちの教会では次の様に祝祷がされています。「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また小さくされた者と共に、全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」と祝祷がされています。これは第二コリント13:13をベースに、私が考えて使っているものです。他にも聖書の多くの書簡が祝祷で終わっていると言えます。どうぞ探してみてください。

祝祷を私がするといのは当然の事ではありません。教会では古くから按手礼を受けなければ主の晩餐、そして祝祷が出来ないという伝統がありました。今でも、牧師がいない場合は祝祷を省いたり、祝祷を終祷、終わりの祈りと表記を変えることがまだあります。按手礼問題ともかかわっています。祝祷というもの、改めて考えてみると、実はいろいろな疑問が湧いてくる、広がりのある事柄なのです。

祝祷といえば、牧師が手を挙げて祈る。昔風に言うと「願わくは集わしめられた一人びとりとともにとこしなえにあらんことを」と言われていた。あのポーズは一体何の意味があるのでしょうか。私は手を挙げません。手を挙げる理由が分からないのです。もちろん手を挙げる先生がほとんどですが、挙げ方にも色々なスタイルがあるようです。私の分析では片手派、両手派があります。片手派はだいたい同じ。斜め前に手を挙げます。おそらくその起源はローマ帝国時代の宣誓の習慣にあります。両手派もいます。こちらの起源はおそらくルカ24:50にあるのではないかと考えています。イエス様が手を挙げて祝福しているこの手が複数形なのです。イエスが両手を挙げて祝福したことが、この動作の起源かもしれません。

これらの事を調べると私は手を挙げなければならない理由は無いと現時点では思います。むしろ私が心配しているのは、この祝祷が何か誤解を生んでいないかということです。

祝祷は牧師がイエス様に成り代わって、皆さんに恵み・祝福を与えているのではありません。何かありがたいパワーが牧師の手からレーザービームの様に発射されているわけではありません。これを受けるとご利益があるというものではありません。

ではこの祝祷、いったい何がされているのでしょうか。祝祷の中でされていることは大きく分けて二つです。ひとつは祝福の宣言、もうひとつは派遣です。この祝祷は第一に神様の祝福を宣言するものです。祝福の宣言というと難しいですが、つまり神様の愛が私たちに一方的に注がれる。すでに注がれている、そしてこれからも注がれるという宣言です。

恵み・祝福は牧師から皆さんに注がれるものではありません。牧師が皆さんを祝福するわけではありません。私も含めた私たちみんなに、神様から与えられるものです。先ほど祝祷は第二コリント13:13に影響を受けていると言いました。しかしこの個所の言葉そのままで祝祷はできません。思い切って聖書から文言を変えているのです。

このままだと「あなた方」ですが、それを「私たち」に変えています。あなた方に祝福があるようにと私が皆さんに言ったら、まるで私から祝福が出てくるように感じるからです。祝福は牧師からあなたがた皆さんに行くものではなく、神様から私たちにあるものです。この祝福は牧師や誰かから出るものではありません。神様の恵みが私たちに等しく、豊かに注ぐよということが宣言されているのです。対象はすべての人とすべての生き物です。あらゆる生命、大人も子どもも、ペットも。すべての命に神様の恵みが注ぎますという宣言を最後にしているのです。

そしてこの祝祷の一番大きな意味は派遣ということです。これが大事だと思います。神様の恵み、祝福は礼拝の中で繰り返し確認をされますが、派遣はそれまで礼拝の中ではさほど意識されません。

私たちは礼拝が招きではじまると学びました。そして今日学ぶのは、礼拝は派遣で終わるということです。私たちの祝祷では「私たちを呼び集められた神様、いまあなたは私たちを派遣されます」と宣言されています。祝祷とは派遣なのです。礼拝は招きで始まり、派遣で終わるのです。

そしてこの派遣も、もちろん私が、牧師が皆さんを派遣するのではありません。神様が皆さんをそれぞれの場所に派遣をされるのです。

礼拝はこのように招きと派遣の繰り返しです。一度来たら終わりではなく、行ったり来たりする、それが私たちの信仰なのです。それが示しているのは、私たちの礼拝と生活が決して切り離されてた別々の出来事ではなく、その往復であるということです。私たちはその繰り返しによって、自らの生活を見直し、自らの信仰を見直すのです。

 

 さて今日の個所を読みましょう。マタイ福音書の最後、クライマックスの場面です。イエス様は16節集まるように指示されていました。それは神様の招きです。そして人々はひれ伏しました。「ひれ伏した」は礼拝をするという意味です。イエス様に招かれて礼拝をしていたのです。もちろんその集まりは、熱心に信じる者の集まりであると同時に、信じ切ることが出来ない、疑いや不安を持った人々集まりでした。私たちと同じです。招かれ礼拝する、信仰と疑いをあわせ持つ私たちです。

しかしその共同体にはイエス様の方から歩み寄ってくださり、語りかけて下さいます。「すべての民を私の弟子にしなさい」というのです。弟子にしなさい。その対象はすべての人です。ユダヤ人だけでもない、あらゆる人々を、弟子にしなさいというのです。あらゆる場所と人々に向けて、出ていきなさいと言われています。私たちはイエス様に今、様々な場所に派遣されるということです。

イエス様が大事になさったのは、弟子になるということです。先生になりなさいというのではありません。今日教わったことをあなたはみんなに教えて回るのは弟子になった次のことです。まずは、私たちがイエス様の弟子になることが大事です。

私たちが求められているのは、どこに行ってもイエス様の弟子であること、弟子であり続けることです。私たちが他の誰の弟子にもならないことです。家庭や職場には自分の主人と思える人はたくさんいます。でもその中にあっても、私たちが主とするのはイエス様だけです。私たちは他の誰でもない、イエス様の弟子です。たとえどこへ派遣されても、イエス様の弟子であり続けるということがここで言われているのです。ただの派遣ではありません。弟子を派遣しているのです。

弟子とは洗礼を受けた人とイコールではありません。弟子として歩むとはどんなことでしょうか。私たちは祝祷で「私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう」と言っています。これが弟子として歩むことではないでしょうか。弟子になるとは神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕える事です。

派遣された先で、神様が私を大切にしてくださるように、わたしも神様を大切にし、そして隣人を大切にする、それが愛です。神様が人々に仕えるように、神様に仕え、隣人に仕える。それがイエス様の弟子の生き方です。そしての先に、バプテスマがあり、教えることがあるのです。

私たちの礼拝はその終わりに、祝祷をします。それは神様の恵みの宣言です。そしてこの地上へもう一度派遣されることを示すのです。派遣した先で、弟子として生きよ。そのように私たちは、神様から送り出されているのです。そして私たちは1週間を弟子として生きるのです。

今日の礼拝でも祝祷があります。この宣言と、派遣の祝祷をただきましょう。1週間、それぞれに与えられた場所で、イエス様の弟子として生きることが出来るように、励ましを頂いてゆきましょう。

そして聖書によれば、イエス様は派遣されると同時に、いつでもわたしたちと共にいて下さるお方でもあります。イエス様は私たちを派遣されると同時に、一緒に私たちと歩んでくださるお方、インマヌエルのお方なのです。

神様は招き、派遣し、共にいて下さるお方なのです。その恵みを頂きましょう。お祈りをします。

 

【全文】「礼拝は献身」申命記14章22節~29節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝します。集まることができる喜びを感じています。今日は子ども達も集まってくれています。私たちの教会は子ども達を大切にする教会です。一緒に礼拝できること感謝です。またご自宅でインターネットライブで見ている方も共に礼拝できること感謝です。

私たちは今、礼拝とは何か、そんなテーマを12回にわたって考えています。ここまでをおさらいます。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集まり、礼拝はみ言葉が中心とみてきました。今日は礼拝は献身という題で、献金、奉献について考える時を持ちましょう。

私たちは礼拝で献金をするわけですが、礼拝のプログラムを見ますと「奉献」という言葉が使われています。わかりづらい言葉ですし、すこし固い響きをもった言葉です。すんなり献金という言葉を使えばよいと思うかたもいるでしょう。他の教会を調べてみました。手元に34教会の週報がありましたが、奉献という言葉を使っている教会はわずか2教会だけでした。おそらく奉献という言葉を使うのは全国でも5%かそれ以下でしょう。この奉献という言葉に平塚教会は何かこだわりがあるのでしょうか。

奉献と献金を比較すると、一番大きな違いは「金」という言葉が入るか入らないかです。実際ここで献げられるのはお金ですから、献金の方が事柄をよく言い表しており、何がされるのかも明確です。でもそう表記しなかった70年間、きっと何か意味があったのではないでしょうか。すぐに献金と書き換えたり、言い換えたりしないで、この奉献という言葉の価値について考えたいのです。奉献、献金の時、私たちはいったいこの時に何を献げているのでしょうか。それはズバリお金なのです。しかしこの時間がお金を献げる時間だというのでは、この事柄を正確に言い表してはいません。私たちの奉献の時、ささげているものは、きっとお金だけではないはずだからです。

奉献という言葉を見返すと、わかりづらいことはありますが、献金という言葉と比較して、「金」の字が入らないことが、より正確に意味を表していると思います。この時間、ただ単にお金を献げる時ではありません。私たちはお金ではなく、何事かを献げているわけです。では一体何を献げているのでしょうか。それは私たちの命、私たちの人生を献げていると言えると思います。

 

私たちは、命は神様のものと考えます。命は自分のもの、人間のものではないと考えます。だから、いらない命は無いのです。人間がどんなにこんな命は無意味だと思っても、どんなにその命が小さくても、神様はすべての命が大切だとおっしゃるお方です。だからこそ私たちもお互いの命を大事にしようとします。命が人間のものだったら、人間が自由にすればよいのです。しかし私たちはそのようには考えません。私たちは命の所有者ではありません。全ての命は神様のものです。

お金も同じ様に考えることができるでしょう。そのお金はたしかに自分のものです。自分の自由に使ってよいものです。しかしそれも、私たちは神様からいただいたものと考えます。だから私たちは命もお金もすべてを自分のためだけに使うことをしません。神様のためにまずそれを使おうと考えるのです。そしてお互いのために使おうと考えるのです。神様からの命と恵みに感謝し、自分のためだけに使うことを諦めるのです。

私たちはまず神様に献げ、お返ししすることを選びます。そして、その余ったお金で自分たちの必要を満たすのです。私たちの命と恵みを、自分だけのものとせず、神様にお返し、献げてゆく、そして互いに分かち合うのです。それが私たちの献げ物です。

私たちは奉献の時、ただ単にお金を払うのではありません。自分のものではない恵みを受けて、それをお返しし、分かち合っているのです。

献金は説教に対して謝礼を払うのではありません。願い事を叶えるためのお賽銭でもありません。教会に属するための会費や参加費でもありません。教会を維持運営するためのカンパや参拝料でもありません。神様から罰が無いように払うものでもありません。また神様へのプレゼントでもありません。奉献とは命と恵みに感謝し、お返しすること、分かち合うことなのです。奉献とは献金を超えて、自分自身を献げること、つまり献身をすることと言えるでしょう。

さて、今日の聖書を読みましょう。十分の一を献げよとあります。何%かというのは、らそれぞれに委ねるとして、今日の個所によれば、献げ物は主をおそれる事を学ぶためにあるのだとあります。そしてそれをレビ人、寄留者、孤児、寡婦のために使う様にとあります。今日の個所で献げ物をする目的・動機が書かれています。献げ物は神様が怖い、恐ろしいからするのではありません。神様への畏れを学ぶためにあるのです。その畏れとは、神様の偉大さを知る事、つまり神様がすべての命を作られたと知ることです。自分と互いの命が神様から与えられたものだと知ること、感謝すること、それが神様を畏れるという事です。私たちは神様が命を作られことを学ぶために、献げ物をするのです。これが私たちの献げ物です。

 

神様が命を作られたこと、神様がすべての命を大切にされること、それを考え続けるのが教会の役割であり、レビ人、特に教会に関わる牧師や奉仕者の役割です。献げ物はその学びのためにされるものなのです。献げ物は牧師を支える事が目的ではありません。牧師を支えることによって、み言葉を聞き続けるためにあるのです。

そして献げられたものをどのように使ってゆくかも示されています。人々は神様に献げたものを、献げただけではなく、一緒にみんなでそれを分かち合って食べました。家族と一緒に食べたとあります。つまり、献げ物とは神様の元にある分かち合いだったのです。

旧約聖書の時代だけではありません。初代教会もそうです。献げ物と分かち合いはセットでした。特に主の晩餐がそうです。みんなが持ってきた食べ物で、主の晩餐が行われたのです。献げ物の時間があって、その後それを分かち合うのが主の晩餐だったのです。献げることは分かち合ってゆくことと一体だったのです。

聖書には特に寄留者、孤児、寡婦と分かち合うの様にとあります。これは現代でも外国にルーツを持つ人の貧困、子どもの貧困、シングルマザーの貧困にも重なります。献げものは自分たちの信仰を守る事だけではなく、生活に困窮している人々にも具体的に使うものであるということです。

私たちも教会の予算の中からは震災支援募金、社会福祉献金を支出します。今年度10万円が目標です。教会がその一部から、自分達の信仰のためだけではなく、生活に困る人と具体的に分かち合っていく、そのことも神様が私たちに示していることです。もちろんお金だけに限りません。野宿者に向けてマスクを集めました。品薄が続く中、何百枚も集まりました。それが私たちの信仰です。

また、牧師にいろいろな地域の活動を委ねていくという事そうでしょう。牧師は教会の事だけしていてくださいとは言われません。地域の困窮にも具体的に深く関わるように委託されています。それも献げられたものの分かち合いと言えるでしょう。

聖書によれば、神様に様々なものを献げること、それは自分だけよければいいという思い、まず自分の事が優先ということを超えて、神様に信頼する生き方を示します。

この命は自分のものと考えるのではなく、この命は神様のものと考える生き方です。自分の自由ではなく、神様への感謝のために命とお金を使う、それが献げるということです。献金も奉献もそれは献身といえるでしょう。この身を、この人生を、この命を神様に献げてゆく、献身してゆく、それが献げるという表明です。

献金に痛みが伴います、それは献身の痛みです。そして一番自分を献げられたのは、一番の献身をしたのはイエス・キリストです。自分の人生を献げて、神に仕えたのがイエス様です。私たちは自分が献金をして痛いと思う時、それはイエス様の十字架の痛みと同じものかもしれません。それは自分だけのためだけに生きるではなく、他者と神様を選び取っていく痛みだからです。神様もその痛みを良くご存知なはずです。

この献身、私たちは礼拝の中でしてゆきましょう。神様の恵みと命とお互いを一番感じるのが礼拝の中だからです。礼拝の中で献げものの時をもちましょう。礼拝で献げ物をすることが、私たちの献身を最も良く表すことになると思うのです。それぞれの精一杯を献げて行きましょう。

そして、ご相談です。今後、奉献というこの言葉の表記をどのようにしてゆきましょうか。奉献には大事な意味があります。私はままでの奉献という言葉、分かりづらく固く感じるのでので、変えたいと思っていました。でも豊かな意味があることも知ったのです。もっと、ふさわしい言葉はあるでしょうか。皆さんのお考えもぜひ教えてください。お祈りします。

 

【全文】「礼拝はみ言葉が中心」ルカによる福音書4章16節~26節

みなさん、おはようございます。今日はようやく集うことができること、この礼拝が実現したこと、心から嬉しく思います。心から主に感謝します。どのように過ごされてきたでしょうか。このコロナの出来事、影響を受けない人は一人もいませんでした。その間の生活や仕事に、ひとりひとりのドラマがあったはずです。つらかったこと、悲しかったこと、見つけた喜び、大切な気づき、生活の変化があったでしょう。ゆっくりと皆さんから聞きたいです。これから少しずつ皆さんと分ちあってゆけたらと思います。礼拝終了後、庭にお茶の準備をします。短い時間ですが、ぜひ交わりを持ちましょう。

私たちはこどもたちを大切にする教会です。今日も子ども達が集まってくれました親子室が狭い、密だということも懸念事項です。子ども達が安全に、三密を避けられるように、一緒に礼拝しお互いの命、存在を感じながら、礼拝できるようにということも検討をしています。一緒にこの礼拝の時を守って行きましょう。

またインターネットでも引き続き配信をしています。この機会、様々な事情で集えない方々の気持ちが本当にわかるようになった私たちです。集えなくても私たちは仲間です。それぞれの場所で礼拝をされている方も、一つの体として共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中心はみ言葉、聖書朗読だということ。そして宣教はその御言葉の実現を見てゆくことなのだということを共に考えたいと思います。

私は外出自粛の中、子どもと絵を描いて遊んだことがありました。自分の行きたい温泉旅館の絵や、妻が昼寝をしている様子を描いたりしていました。私は今はそうでもないのですがが、もともと絵を書くのは大の苦手でした。美的センスが乏しいのです。中学校の美術の成績で10段階で2、5段階なら1をとったことがある。それだけ大の苦手でした。そんな私ですが、絵についてもっとも印象に残る出会いは、ピカソです。

ピカソの絵を最初はまったく理解できませんでした。彼の絵は遠近法が無視され、抽象的になっているのが特徴だそうです。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。こういう絵です(絵を見せる)。

この絵を見て、私は直感的に衝撃を感じたのではありません。見ても価値は全く分かりませんでした。しかし、この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知ったのです。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃、いわば市民に向けた爆撃を、市民虐殺をモチーフにした絵です。この絵ゲルニカには、無差別爆撃のイメージが描かれているのです。

その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませます。そのような視点でこの絵を見ていると、折れた剣、バラバラになった体、叫ぶ動物たちを見つけることができます。すべての生き物たちの戦争への怒り、悲しみ、恐怖、平和への願いがこの絵から伝わってきます。

この絵から何を受け取るかは人それぞれ違うでしょう。それぞれにイメージが与えられるはずです。そしてイメージすればするほど、この絵に引き込まれていくのです。この絵から何をイメージするかは自由です。この絵をどのように解釈するかも自由です。何がそこに見えるかはそれぞれが感じることです。そこに正解はありません。

しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに自分なりに感じる、自分なりに理解をするという事を体験しました。短く小さな解説から絵のイメージが膨み、感動を受けたのです。貴重な解説でした。

もちろん、ここで大事なのはその絵の解説ではなく、絵そのものです。そして絵はこのことを感じてくださいとは書いてありません。その絵は私たちに想像力を求めます。絵があなたはどう受け止めるか、何を感じるかを問いかけてくるのです。

私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、み言葉です。礼拝の中心は紛れもなく、み言葉なのです。聖書のみ言葉が中心なのです。私は宣教の時間でその御言葉の解説のようなことをしています。

私は宣教の中で比較的「ここはこういう意味だ、こうしよう」という結論のようなことをはっきりと言う方でしょう。しかしそれはあくまで助けです。理解の助け、想像力の助け、皆さんがどう思うのかという問いかけです。

礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。宣教をきっかけに皆さんの中に、それぞれのみ言葉のイメージが残ることを願っています。

そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます。

聖書はかつて一人が一冊ずつ持つというものではありませんでした。手書きで書き写され、会堂で大切に保管された巻物の形が多かったのです。ですから聖書の言葉は、聖書朗読を「聞く」ことによってしか受ける事が出来ませんでした。読むという機会はほとんどありません。会衆にとって聖書朗読を聞くことはとても貴重な機会で、重要なものでした。それはまさしく礼拝の中心、それは礼拝の中でもっとも重要なプログラムでした。

 

ですから当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉、聖書の言葉です。聖書朗読です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムなのです。

礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですし、聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。そんな時私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしやはり礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。

宣教とは「み言葉の僕」です。私はそのように理解して宣教します。宣教とは聖書のみ言葉を分かち合うものでなければなりません。その中心が話す自分や誰か人間や、誰かの体験であってはなりません。宣教はみ言葉を中心としてされるのです。

礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わからなくても、寝てても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉がある限り、それは礼拝なのです。宣教する私自身も、このみ言葉との出会いを大事にしたいと思っています。

もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。意味が分からない呪文を聞くのではありません。そして宣教は美術の解説と同じではありません。そこに神様の力が働き、神様の力によって、それが生き生き語られる業なのです。

私たちの礼拝はこのように神のみ言葉が中心です。再び集まることが出来た今日、そのことを皆さんと分ちあっておきたいのです。私たちの中心は神様、私たちの礼拝の中心は神様のみ言葉なのです。

今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。イザヤ書です。イエス様も聖書を朗読されたのです。み言葉を中心とされたお方です。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。そしてイエス様はこのみ言葉について、宣教ともいえる言葉を残します。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉です。

み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。そのヒントがここにあります。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。礼拝はみ言葉が中心です。、そしてそのみ言葉が、いま私たちの間でどのように実現をしているのか確認すること、やがて訪れると確信を起こすこと、それが宣教なのです。

今日私たちはまずこのみ言葉をしっかりと聞きましょう。そして私たちにもこのみ言葉がすでに実現したことを、この宣教によって感じてゆきましょう。私たちに実現したこととは何でしょうか。

そうです私たちは2カ月会うことができなかったが、今日私たち一緒に礼拝する、そのことが今日実現したのです。それはまさしく今日の聖書のみ言葉にある通りの出来事でしょう。それは捕らわれていた人が解放されたような出来事です。自宅にいなければならない、自宅に捕らわれていた私たちが解放された出来事。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。

今まで会うことができなかった、YOUTUBEでも見ることができなかった、見えなかった、お互い、あの仲間が今日は目の前にいます。今日私たちには見る事が出来なかったことが見える、そのことが実現したのです。

周囲からはもっとも不要不急と思われるのが礼拝です。しかし私たちは不要不急と言われるその抑圧から解放されて、今日集うことが実現したのです。イエス様は今日すでに実現したとおっしゃいます。それは今日私たちにも同じ様に実現したのです。今日私たちに神の業が、実現しました。神様の言葉が実現をしたのです。この礼拝に集えたこと、それが神様の業です。その御言葉の実現なのです。

今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を思いめぐらせましょう。礼拝はみ言葉が中心です。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂きましょう。

 

お祈りいたします。

 

【全文】「礼拝は平和の集い」ヨハネ20章19節~29節

みなさんおはようございます。今日もそれぞれの場所、インターネットで集うことができること、神様に感謝します。それぞれ離れた場所ですけれども一緒に礼拝をしましょう。そして子どもたちもみてくれているでしょうか。私たちは子どもを大切にする教会です。みんなも一緒に礼拝をしましょう。

今日はペンテコステを迎えています。ペンテコステは教会の誕生日とよく言われます。私たちの教会も来週で70年を迎えます。この70年間の守りに感謝です。もうすこし落ち着いたら、記念誌も発行したいと思います。その際はみなさんどうぞご協力ください。

ペンテコステ、それは50日目を意味することばです。イエス様は復活の後、弟子たちに現われ、40日間を共に過ごしました。そして天にのぼった後、さらに10日後、50日目に弟子たちに聖霊が注がれ、教会の働きが始まったという出来事がありました。それからこのペンテコステを教会の誕生日として祝うようになっています。そしてその後に、私たちの平塚バプテスト教会ができたわけです。平塚バプテスト教会には70年の歴史があり、その中で様々な出来事がありましたが、礼拝の歴史ということも大切な視点です。教会は礼拝共同体、礼拝仲間の集まりだからです。

礼拝の変化が教会の変化とも言えるでしょう。たとえば4月からこどもメッセージが始まっています。これがちゃんと継続できれば、70年の中で大きな変化でしょう。そしてそれぞれの自宅、インターネット配信という礼拝の在り方も、礼拝の歴史上、とても重要です。先日、これまでの礼拝の変遷をたどりました。資料の問題で十分に遡ることはできませんが。、70年間、礼拝の式順を大きくは変わっていない様です。しかしその中でもいくつかの変更がなされています。資料を見る限り、平塚教会の礼拝の歴史の中で、これまでの一番大きな変化、それは「平和の挨拶」が礼拝に取り入れられたことです。

「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。当時の総会資料で梶井先生が短く説明されていました。礼拝の前半で交わりを持つというのが目的だと書いてあります。それ以外が大きく変わらない、守られてきた中で「平和の挨拶」という変化が私たちのなかにありました。今日はこの私たちの教会の歴史上大きな変化だった、平和の挨拶について考えたいのです。

「平和の挨拶」それは、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいる事をお互いに確認しあうためにあるのだという事を見てゆきたいと思います。

平和の挨拶について考える時、疑問が二つあります。ひとつはなぜ礼拝の中で挨拶をするのかということです。私たちは礼拝の前に必ず会堂に入ってくれば挨拶をします。なぜ、もう一度改まって礼拝の中で挨拶をする必要があるのでしょうか。実際平和の挨拶は無い教会が多いのです。そしてもう一つの疑問はその挨拶になぜ「平和」という言葉がつく、「平和の挨拶」なのかといことです。ただの挨拶ではいけないのかという事です。

ひとつ目の疑問、なぜ挨拶するのかということですが、これは比較的すぐに答えがでるかもしれません。礼拝の中で挨拶することは、交わりを持つことの大切さを表現しているからです。それはみなさんもすぐに感じることだと思います。

礼拝の中で挨拶の時間を持つとき、私たちは礼拝は一人で受けているものではない、交わりの中で礼拝をしているのだと感じることができます。そしてそれは今日自分は誰と礼拝に参加しているかを具体的にする時となります。

実はこの平和の挨拶が無い教会では、前に座っている人は、後ろに誰が座っているか礼拝の最中まったく分かりません。今私は誰と一緒に礼拝をしているのかが、わからないのです。

これではなかなか私たち、礼拝共同体にはなることができません。私たちが誰と一緒に礼拝をしているのかを知る、今日どんな人が一緒に集まっているか、その多様性を知るということが平和の挨拶の大事な役割です。

そしてもう一つ大事だと思うのは、平和の挨拶の時、今日誰が来ていないのかにも気づくということです。毎週挨拶をするといつの間にか、今日は誰々さんが来ていないと気づくようになるのです。

今日誰と一緒にいて、誰がここにいないのか、その確認をお互いにしあう事、いったい私は誰と礼拝をしているのかを確認する機会、それが挨拶の時間なのです。礼拝の中で挨拶をする大切さはそこにあります。

しかしこの挨拶、賛否両論があるのも確かです。苦手な人が必ずいるのです。私も初めて礼拝に参加した日のことを覚えています。たくさんの知らない人に囲まれて、次々に握手を求められました。相当戸惑いました。最初はこの時間がとても苦手で、トイレに逃げたり、人のあまりいないところに隠れたりしたこともありました。苦手な方への配慮も具体的に必要だと思います。この共同体がどんな集団なのかまだ分からない人に、握手を突然求めるのは配慮しましょう。今でいうならば感染の不安がある中で、手を握り合うのは、お互いがお互いの事を知るという以上に、お互いを不安にさせることかもしれません。人と時にあわせて考えてゆく必要があるでしょう。でも確認したいのは、挨拶が大事だということです。それも礼拝の中ですることが大事だと言うことです。私たちお互いがひとつの体、礼拝共同体になるために必要な時だと思います。

二つ目の疑問はなぜそれが「平和の」挨拶なのかということです。それはただの挨拶ではなく、「平和の挨拶」なのです。平和の挨拶、それは私たちの関係が平和のうちにあるということを確認するための挨拶なのです。私たちの間には実に様々な人間関係があるわけです。とても平和とはいえない関係もあるわけです。不安な関係もあるわけです。でも、礼拝の中でお互いがお互いの平和を確認しあっていく、信頼を確認しあってゆく、それが平和の挨拶なのです。何かの連絡ごとをしてしまうことがあるのですが、極力やめましょう。互いの平和を確認する時にしましょう。

私たちにとっての平和とは何でしょうか。それは神様が共にいると知ることです。それが平和です。私たちが平和の挨拶をするとき、互いの平和と共に、神様が共にいる平和を私たちは確かめ合うのです。私たちが礼拝の中で「平和の」挨拶をするのは神様の存在を確かめ合うという意味もあります。

私たちは平和の挨拶を選び取りました。それは互いの存在を知り、互いに神様が共にいることを確認しあう時です。私たちは様々な状況や関係にあっても、お互いの平和、主が共にいる平和を確認する、そのような挨拶を交わしてゆく共同体です。そのために平和の挨拶があるのです。

さて、イエス様もこの平和の挨拶をなさったお方です。今日の個所もそのような場面です。今日の個所を見てゆきましょう。弟子たちは、イエス様が十字架にかけられてしまった後、家に閉じこもっていました。彼らは次は自分がイエス様のように殺されてしまうのではと恐れて隠れていたのです。そして彼らにはもう一つ、外には出たくない理由がありました。それは彼らがイエス様を裏切ったという事でした。彼らはイエス様がとらえられた時、一目散に逃げだし、裏切り、見棄てたのです。きっと彼らが閉じこもっていたのはこの事の方が大きかったではないでしょうか。裏切ってしまった自分への自己嫌悪、罪悪感が彼らを家に閉じこもらせたのです。

彼らは家に隠れていました。その理由は逃げるという事よりも、自分の世界に閉じこもったという出来事です。彼らは集団で、みんなと一緒にいましたが、誰も彼らは言葉も交わさなかったでしょう、自分の心に鍵をかけて閉ざし、集まっていてもバラバラの、人々でした。彼らは十字架のあと、集まっていても、自分の心を閉ざす、孤独で不安な共同体だったのです。そのような中に、その孤独と不安のまん中にイエス様が表れます。そしてイエス様は平和の挨拶をするのです。「あなた方に平和があるように」と言います。イエス様がここで再会をしたのは自分を裏切った弟子たちです。しかしその再会の第一声は、裏切られたことへの恨みではありませんでした。なんで裏切ったのかと理由を問い詰めはしませんでした。まずそこでイエス様は「あなた方に平和があるように」と、平和が告げられたのです。

「あなた方に平和があるように」。ここでおそらくイエス様はヘブライ語で「シャローム」と言っていたはずです。ユダヤの人々はいまでもそうですが、シャロームと挨拶をします。ですから日本語では「こんにちは」とも訳せる言葉です。

しかし、聖書はこの個所をこんにちはと訳しません。シャロームとは、こんにちはという意味と同時に、平和という意味を持つ言葉です。この挨拶は、こんにちは以上にもっと特別な意味がある挨拶だから「あなた方に平和があるように」と訳されているのです。

ヘブライ語のシャロームそれが現わしているのは、部屋に隠れいてれば自分の安全が保たれる、ここなら平和ということではありません。シャロームの平和、それは神様がともにいて、安心している状態です。そして私だけの安心ではなくて、ともにいる人々すべてに安心がある状態、それがシャロームです。つまり神様と共にいる平和とも言えるでしょう。それがイエス様の再会の第一声だったのです。イエス様の挨拶それは、平和の挨拶でした。自分を裏切った相手に対しての恨みではなく、和解の挨拶でした。そして神様が共にいる、それを実感させる挨拶だったのです。

私たちも礼拝の中で平和の挨拶を交わします。平和の挨拶は閉じこもっていないで、自分の心のカギを開けてどうぞ親しみを込めて挨拶をしてください。様々な人間関係があると思います。でもだからこそ互いの信頼と平和を確認し合いましょう。そして挨拶が苦手な方もいるでしょう。みんなで配慮をしましょう。その方が平和と感じることが出来るような挨拶をしてゆきましょう。そしていま私たち握手することが不安という思いもあります。お互いが平和を感じる事ができる挨拶を探してゆきましょう。

イエス様は私たちの真ん中に、私が不安と思うことの真ん中に表れて下さいます。そして「シャローム」「あなた方に平和があるように」そう挨拶をしてくださいます。神様が共にいる、その安心と平和があなたにあるようにと、挨拶をして下さいます。私たちも互いに平和の挨拶を交わし合いましょう。

そして再会できる時を待ち望んでいます。その時また、互いに信頼と、神様が共にいることを確認し合う平和の挨拶を交わしましょう。

 

お祈りをします。

 

【全文】「礼拝はこども歓迎」ルカ9章48節

みなさん、改めておはようございます。今日も共に礼拝をすることができ、感謝です。またこどもたちもテレビやスマホの前に集ってくれているでしょうか。平塚バプテスト教会は子ども達を大切にする教会です。ぜひ一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会ではこどもプロジェクトというものを進めています。数年前から様々な取り組みをしていますが、まずは教会の敷地にあたらしい「こひつじ館」を建てました。そこで共同保育をしています。今はコロナの影響で開いてはいませんが、先日前を通った方が、また早く集まりたいと話をしてくださいました。地域の子どもとお母さんの憩いの場となっています。

また教会では「こども食堂」のオープンも準備しています。本来でしたら来月からということを予定していましたが、これもコロナが収まったら始めてゆきたいと思っています。

私たちはこのように子どもを大切にする教会を目指しています。そしてもちろん礼拝の中でもこどもを大切にします。子どもがのびのびと、ありのままでいられる教会を目指しています。いい子になったら教会においで、静かにできる子は教会においでではなく、まずおいで。声が響くかもしれないけれど、それを楽しむくらいの余裕で大人は礼拝します。そうやって子どもたちを歓迎しています。同じ場所で一緒に礼拝することを大切にしています。

今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。私たちはこどもを大切にするという思いで、この言葉を年間主題聖句とし、週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会でも声を合わせて読んでいます。今日はこの一節に心を向け、礼拝は子どもを歓迎するということ、また弱さの中で礼拝を持とうということを見てゆきたいと思います。

 

さて私たちは日々、いろいろなことを祈るわけですが、多くの場合祈りは「神様」や「天におられる神様」という、神様への呼びかけから始まります。それは祈りが神様に向けられているものだから当然です。そして私たちの祈りは多くの場合、「イエス様の御名によって祈ります」とか「イエス様の御名を通じてお祈りします」という言葉で終わります。神様への呼び掛けで始まり、最後は「イエス様の御名によって祈ります」という言葉で終わるのです。今日の個所にも「わたしの名のために」とありますが、この言葉は私たちの祈りの最後と同じ意味の言葉です。

「イエス・キリストの御名によって」とは、イエス様を通してという事です。私たちの祈りは、神様に直接に呼び掛ける祈りです。そして同時にそれは神様によってこの地上に与えられたイエス様を通じても神様に呼び掛ける祈りなのです。神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えるのです。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈るのです。神様に祈り、イエス様を通じて祈る、それが私たちの祈りです。だから最後に「イエス・キリストの御名によって」と加えて祈るのです。

神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れる、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にしたいと受け入れる事が神様を受け入れてゆくことです。信仰を持つということです。イエス様、神様が派遣されたイエス様の歩み方を自分も生きるという事が信じるという事です。

しかし今日の個所、イエス様はこのように言います「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」そういうのです。神様から派遣されたイエス様、イエス様を受け入れる事は神様を受け入れることになるのです。そしてイエス様は子どもを受け入れる事は私を受け入れることになるというのです。いわば連鎖関係にあります。

神様=イエス様、イエス様=こどもと書かれているのです。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。神様を迎え入れるとは、イエス様を迎え入れること。イエス様を迎え入れるとは子ども達を迎え入れる事だと言うのです。つまり今日の個所、神様を迎え入れるとは子どもを迎え入れることなのだと言っているのです。

 

イエス様はどうして、子どもを受け入れる者は、私を受け入れる者だというのでしょうか。子どもがかわいくて、無邪気で、満面の笑顔だからでしょうか?もちろん子どもたちはかわいいのですが、かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。子ども好きならばそれでいいのです。すぐに受け入れられるでしょう。

しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。子ども達を受け止めるというとき、私たちは子ども達の可愛さだけでなく弱さをも受け入れなければならないのです。

子どもを受け入れるという時、私たちには我慢と忍耐が必要かもしれません。キンキン響く声、よく分からない行動、座っていられずソワソワするのが子どもです。楽しいことだけではありません。そして子供を受け入れるという時、子ども達を危険から守り、教えることも受け入れなければならないことです。

今の時代はありのまま、その子らしさということが大事にされますが、イエス様の時代、子ども達は権利などありません。子どもは親の財産、所有物でした。そして小さいうちに多くの子どもが死んでしまいました。そのような弱くて、小さい存在、その命を大切に思う、イエス様はそのように生きたお方です。イエス様はものとして、財産として扱うのではなく、弱くて、保護と忍耐が必要な子どもたちとして、大切な命として受け入れていったのです。

私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのが、今日の聖書の個所です。弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たち、それは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエスを様を、神様を迎え入れることになるのです。

弱くされ、小さく、自分を言葉で十分に伝える事ができない人々と関わり、その人たちを大切にする事がイエス様を受け入れることになるというのです。そして私たちは受け入れるだけではありません。それを受け入れてもらう側でもあります。無力さ、弱さとは全ての人の中にあるものだからです。私もそうです。自分や他者の弱さ、無力を受け止めてゆくということがキリストの生き方なのです。お互いの弱さを認め合い、それを受け入れ合う事、その生き方を選ぶことがキリストを受け入れる事だということです。

そして注意をしたいのはここで私たちは子どもになりなさいと言われているのではないという事です。私たちはすぐに子どもの様になってしまう存在です。待っていられなかったり、集中できなかったり、周りが見えなくなってしまう存在です。私たちはこどものような弱さを持っています。でも私たちは子どもになるのではありません。様々な欠けがある、弱さがある私たち、それを受け入れ合いながら、生きていく。子どもの弱さを当然のこととして受け入れるように、お互いの弱さを受け入れていく。そのような生き方がキリストを受け入れる生き方です。

そして私たちが最後に受け入れるべきものも考えましょう。それはイエス・キリストです。実はイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。イエス・キリスト、その方は強く勇ましく死んでいったのではありません。十字架で無惨に、叫び死んでいったお方です。どうして私がこんな死をと思うような、そんな弱くて惨めな死に方をし、それを受け止めたお方です。その弱いお方が、弱さを受け入れたお方が、子どものような弱さを受け入れなさいと言います。弱い私を受け入れる者こそ、神を受け入れることになるのだとおっしゃっています。

さて、私たちは礼拝ということを今、考えています。礼拝という面から見てもこれは同じです。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。

弱い十字架のキリストの姿。そして1週間の失敗と不足の中で生きた弱い自分の姿、弱い子どもたちの姿、それをまるごと受けとめてゆくことが、私たちの礼拝となってゆくのです。

礼拝にでると、元気になるとは本当はそういうことが起きているのです。1週間に1度礼拝に来て、やせ我慢したり、自分の自慢をして元気になるのでありません。礼拝の中で弱い自分、弱いイエス・キリスト、弱いこどもに向かい合い、強くなっていくのです。弱さを受け入れて強くなるのです。

今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。

自分や他者の無力さを受け入れる事、そして十字架を受け入れる、それがイエス様の歩んだ道です。それを教えてくれるのが子どもたち、傷ついた者、弱い者、弱い私たちなのです。だからこそ礼拝は子どもを歓迎します。礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「礼拝は歌う」出エジプト15章20節~21節

 

みなさんおはようございます。今日もこうしてそれぞれの場所で、そしてインターネットで礼拝をできること、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもたちも一緒に礼拝をしましょう。私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」ということを考えたいと思います。

教会にはたくさんの芸術があります。たとえば音楽、生け花、書道、絵画、礼拝堂のデザインも芸術です。たくさんの芸術にあふれています。私たちは今インターネットの礼拝をしていますが、そこで補えないものがいくつかあると思います。交わりや献げ物が出来ないということもありますが、こういった礼拝の中の芸術にふれることが出来ないことも、それぞれの礼拝、インターネット礼拝の寂しさの一つかもしれません。

いまそれぞれの場所で礼拝することで、教会には芸術が溢れていたということに気づかされています。いままで、私たちはその芸術に囲まれた中で礼拝をしていた、み言葉を聞いていたということ、それぞれの自宅で礼拝する時に気付くのです。そして同時に、あの芸術たちは教会にとってどんな意味があったのか、そのひとつずつがどのような意味や効果があったのか、考えなおす時を頂いています。

たとえば礼拝に一切の芸術がなかったとしたらどうでしょうか。もちろんそれでも礼拝は礼拝であり続けます。礼拝は芸術が無くなったとしても成立をするのです。しかし私たちはこれらの芸術を、礼拝の中に選び取っています。音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつといえると思います。私たちは教会に来る時、聖書と賛美歌集をもって教会に来るのです。そして礼拝が始まる前に讃美歌の練習をします。教会には聖歌隊があり、オルガンがあり、教会のオリジナルの賛美歌もあります。そして礼拝の中で賛美歌を歌います。よく教会音楽と言いますが、それは礼拝のための音楽、礼拝音楽とも言えるでしょう。今日はこの教会がもっとも大切にしている芸術、礼拝音楽について考えたいのです。

私たちはなぜ礼拝で歌を歌うのでしょうか。礼拝で歌うことは当然のことではありません。例えばマルティン・ルターで有名な宗教改革の時、これは礼拝改革でもあったわけですが、礼拝の音楽についても様々な意見が出ました。

実は当初のバプテストは、礼拝で賛美を歌うかどうか熱心な議論がありました。どうして賛美歌がいらないと考えたのか、いくつか理由が挙げられています。バプテストが反対したのは、自由に関わる問題だったからです。一人ひとりの信仰を大切にするのがバプテストです。他の人が決めた歌詞と旋律を全員が一斉に歌うことは、歌の作者や選曲をした人からの信仰の押し付けだ、個人の信仰の自由を侵すと考えたのです。個や自由を大切にするバプテストらしい主張だと思います。

他にも歌は人を熱狂的にさせ自己満足に陥らせ、かえって神を見失うからだ言った人もいます。歌は自己満足やストレス発散になるのだけれども、それが目的になってしまって、かえって神様を見失うことになるのではないか、そう批判して歌わない選択をした人々も多くいたです。歌は危険だと指摘します。

実は歌を歌うことは危険です。歌っているうちに、いつのまにか賛美歌の対象が神様であることを忘れてしまうことが起こるからです。神様を見失って歌うようになってしまうことがあります。時には間違った目的のために賛美が利用されるときがあるのです。

例えば、マルティン・ルターは宗教改革者の中でもっとも音楽を愛した人です。彼の造った「神はわがやぐら」という曲があります。新生讃美歌538番の有名な曲です。聞いてみましょう(再生)。大変よい賛美歌ですが、この曲は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの思想、ユダヤ人虐殺を後押しするものとして利用された曲です。ドイツだけではありません。日本でも戦時中「戦時讃美歌」というのもが作られ、礼拝の中で戦争に賛成する歌がしきりに歌われました。賛美歌が間違った目的のためた例です。私たちも、なぜ歌うのか、何を歌うのかをしっかりと考えて歌わなければ、歴史の過ちを繰り返すでしょう。

私たちはなぜ歌うのでしょうか。今このコロナの影響で共に歌うことができない私たちです。でも感染の拡大が終息すれば、私たちはまた必ず歌を歌うでしょう。私たちは自由や、自己満足や、神を見失うという危険を冒してでも歌うことを選ぶでしょう。

でももう一度、歌うということを選ぶ前に、確認しておきたいのです。それは音楽や歌は自己表現や自己満足、ストレス発散、あるいは自己陶酔が目的ではないということです。

私たちはなぜ礼拝で歌うのでしょうか。礼拝の中で歌うのは、神の素晴らしさを表すためです。その手段が音楽です。神様の素晴らしさを表現するために歌があるのです。音楽は礼拝の助け、手段です。教会の様々な芸術が礼拝の助けとなると言えるでしょう。花や書道や絵や会堂、踊り、楽器。礼拝では様々な芸術によって、神様の素晴らしさを現わすことができるのです。

しかし私は「歌う」ということにまさる、神様の素晴らしさを表す方法、芸術はないと思います。礼拝の中で歌う理由はいくつかあります。

礼拝の中で歌う理由の一つは、歌うことが私たちの共同体を現わすからです。皆さんは歌は何に合わせて歌っているでしょうか。私は奏楽に声を合わせているつもりです。しかし奏楽者は何に合わせているでしょうか。機械のように楽譜どおりにひくだけではありません。それが歌いづらいことを今私たちは実感しています。奏楽者は会衆の声に合わせています。私たちはお互いに合わせています。そうやってお互いに合わせることでひとつの美しいメロディーになるのです。歌を歌うと、一つの共同体になることができるのです。

そしてもちろんその歌は神様の素晴らしさを現わしている歌です。私たちはお互いを意識しながら、神様を素晴らしいと歌っているのです。私たちは神を讃えるために、神様の素晴らしさを表すために、互いの声を聞き、声を合わせ、奏楽に合わせ、神に歌うのです。それが歌う目的です。歌を選ぶ理由です。お互いの、左右の矢印と、下から上への矢印が同時に表現することができるのが賛美歌です。様々な危険に注意しながら、私たちは礼拝で神様の素晴らしさを歌うのです。また集った時、礼拝で一緒に歌いましょう。

様々な芸術があります。その中で教会は特に歌を大切にします。それは皆が互いの命を感じ、神の民がそろって神様の素晴らしさ表すことができるからです。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。聖書にはたくさんの芸術、特に音楽があり、いろいろな楽器が登場します。今日の芸術はダンスと楽器と歌です。マリアムは踊って神様の素晴らしさを表現し、楽器を使って神様の素晴らしさを表現したのです。小太鼓とありますが、これはタンバリンだったと言われています。(タンバリンを見せて)これです。今日私は踊りませんが、今日の個所によれば、楽器をならして、踊ること、その芸術によって神様の素晴らしさを表現したのです。神様を賛美したのです。

そしてミリアムたちは歌ったともあります。ミリアムはみんなに合わせて歌いました。そしてみんなはミリアムに合わせて歌いました。神の民のすべての人々が声を合わせて、体を動かして、神様の素晴らしさを現わしたのです。そこには危険もあったでしょう。踊ることで自分が気持ち良くなったり、ストレス発散になったりして、かえって神様を忘れることになる危険もありました。

でも彼女たちはその踊り、歌をしっかりと神様に向けて歌いました。その芸術はしっかりと神様に向けられました。それは神様の素晴らしさを表し、私たちの共同体を表現していたのです。

歌の内容にも目を向けましょう。歌った内容は出エジプトの出来事でした。神の力によって海を渡ることができた出来事です。自分たちの道が守られて開かれた出来事です。彼女たちは神様がなさった奇跡をそのまま歌にしました。そう、神様への歌は私がどうやって歩むかという決心も大事ですが、ここで歌われているのはそのような私たちの決心ではありません。

ここでは神様の働き、そのものを歌われているのです。神のなさったこと、神の業そのものがここで歌われているのです。これが賛美歌です。神様に歌によって表す第一のもの、それは私たちの決心ではありません。それは神様の素晴らしさです。まず神様の素晴らしさを表わす、それが私たちの賛美なのです。様々な歌、特に新生賛美歌は応答や伝道に関する曲が多いですが、まずその曲も神さまの素晴らしさを表すところからきているのだという事を覚えていたのです。

そしてこのミリアムの歌を見ましょう。この歌は感謝の歌でもあります。苦しい時に、守りを願って歌ったのではなく、かつて守られたことを振り返り、感謝して歌ったのです。私たちの今と、重なります。私たちは今集まって共に歌うことが出来ません。苦しい時にいます。でもいつか必ずまた賛美を歌うことができるようになります。その時、神様に精一杯の感謝の歌を捧げましょう。苦しい時に神様へ祈るだけではなく、乗り越える事が出来た後、今日のミリアムように再び集うことが出来た時に、神様への感謝をまた歌で表したいのです。

 

私たちは一緒に新しい歌を歌いましょう。新しい歌それは、新曲という意味ではありません。それは私たちが歌う、ストレス発散の歌ではなく、それとはまったく違う新しい歌です。新しい気持ち、新しい感謝をもって歌を歌いましょう。その歌は互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら歌いましょう。そして、なにより神様にむけて、賛美をしましょう。

 

お祈りします。

 

【全文】「礼拝は共同体作り」使徒15章3節~21節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。またこどもたちもテレビやパソコンの前にいるでしょうか。平塚教会はこどもを大切にする教会をめざしています。ぜひいっしょに礼拝をしましょう。

私たちは今、「礼拝は○○」というテーマで12回の宣教の最中です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマで見てゆきたいと思います。

礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められる、そこで私たちは一つのチーム、一つの教会になります。私たちの教会は礼拝共同体です。私たちにはいろいろな仲間がいます、学生時代の仲間、飲み仲間、ゴルフ仲間、職場の仲間がいます。では私たちは何の仲間でしょうか?それは礼拝仲間と言えると思います。私たちは礼拝をする共同体です。私たちを一番結び付けているもの、それは礼拝なのです。神様から招かれて礼拝をする、礼拝仲間なのです。

私たちは集えない今、もう一度礼拝について考える時を頂いています。先週から礼拝のプログラムひとつずつを考えています。最初に招詞について考えました。礼拝は私たちの頑張りではなく神様の招きによって始まるのだ、だからこそ最初に招詞が読まれるのだとということを見てきました。今日は礼拝の中の「報告」について、見てゆきたいのです。「報告」は私たちの礼拝プログラムの一番最後に置かれています。礼拝の一部であることを忘れられがちですが、しっかりと礼拝プログラムの中に組み込まれている、礼拝の一部なのです。

私自身も礼拝について学び直していますが、改めて礼拝の中の「報告」について調べてみました。調べていると報告を礼拝に入れるべきなのかどうか、わからなくなってきました。礼拝学事典という本には「報告」という項目すらありません。多くの教会で報告も礼拝の一部であるはずなのに、事典に項目すらないのはというのは残念です。さらにバプテストの礼拝学の本を見るとこんなことが書いてありました「報告は礼拝ではない」「週報に載っていることは繰り返して報告する必要はない」とありました。さらに「報告によって教会が建てられることはないし、未信者を救いに導くことはない、報告を聞いて心臓がどきどきすることも無い」と書いてありました。私たちの持つ礼拝の報告の時間が真っ向から批判のようで、思わず私は笑ってしまいました。

私たちは「報告」を礼拝の中で持ち、しかも週報の報告欄を丁寧に読み上げているのです。やはり報告は礼拝終了の後にすべきであり、礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で続けるべきでしょうか。「報告」が礼拝の中にある意味とは一体何でしょうか?

どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。いずれ皆さんとも話し、分ちあう時がくればいいなと思います。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。礼拝の中に報告があることに、大切な意味があると思います。報告は平塚バプテスト教会の礼拝には、なくてはならいないことだと私は思います。

週報に書いてある「報告」とはただの連絡事項ではありません。私たちの信仰の共同体に関わる重大な事柄、そして具体的な事柄が書いてあります。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているのです。もちろん礼拝の中心は聖書のみ言葉です。しかしこの報告も礼拝では大切な要素だと思います。

私たちは神様によって変えられる者です。神様が私を変えて下さるように願います。神様のみ言葉によって変えられる者です。しかし多くの場合、神様は教会の仲間や、私たちの友人を通じて私たちに変化を起こそうとなさいます。私たちは他者を通じて神様に変えられるのです。

誰かと話することで、お互いを知ることで、神様の事を知るようになります。信仰とは神様と私の一対一の事柄です。誰の指図も受けない、神様を信じるかどうかはあなた個人の問題です。しかし同時に、私たちは他者との関わりによって、神様に導かれていく者でもあります。だから今インターネットで礼拝をする寂しさがあるのだと思います。同じ様に礼拝を聞いていても、他者との関わりがないと、十分な礼拝体験をすることができないのです。

私たちは一人ひとりがみ言葉を聞いていれば、それでいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。礼拝とは一人の出来事ではなく、共同体の出来事、共同体を作っていく出来事なのです。

私が礼拝の中で報告が大事だと思うのは、このことからです。共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。今日の週報の報告にもたくさん共同体の出来事が書かれています。私たちがどのように礼拝をするのか、何を祈るのか、どのように情報を共有するのか、どのように献金を捧げるのか、それらが分かちあわれています。これは私たちが礼拝の共同体であるために必要な情報です。さらにこの時間、新来者の紹介もします。私たちは不特定多数の人が集まって礼拝するのではありません。新しく来た方がいれば、私たちの礼拝仲間に誰が加わっていたいのかが、分かち合われるのです。礼拝共同体としての具体的な分かち合いのです。

 

人は独りでは生きていけない。これは信仰も同じです。一人では信仰は続きません。神様と1対1で向き合いながらも、みんなで互いを知り合い、励まし合いながら神様に向き合う必要があるのです。教会はそのような礼拝・報告によって共同体になっていくのです。教会がひとつの共同体となってゆくために、互いをよく知るために報告は必要なのです。報告、それは礼拝の中で持たれるのがふさわしい。もっと大事にされるべきものだと思います。

だからもし次の予定があって、急いでいても、報告が終わる最後まで帰らないで欲しいのです。そして、何か小さくても皆さんからの報告があれば、ぜひ前に出て、報告してみて欲しいと思います。そして週報を見ると、他の教会の報告もされています。教会同士も励まし合い、知り合う、そのことでそれぞれの信仰を深めてゆくことが出来るのです。

 

今日の聖書個所見てゆきましょう。今日の個所は、報告の大切さが示されています。報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。今日の個所ではパウロが教会に報告をしています。2節です。報告の内容は、今までユダヤ教の神様を信じる人がイエス・キリストを信じていたのですが、それだけではなくユダヤ教の神様を知らない人、外国人も、イエス・キリストを信じるようになったという報告でした。そのような人々がたくさん出て来たという報告でした。

その報告によって教会は大きな喜びに満たされたとあります。思いもよらない事です。自分たちの民族以外にもこのように福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。

ある人は考えました。ユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになるのだ。だからイエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだというのです。形ばかりに凝り固まった律法主義、そんな単純な話ではありません。多くの人が律法の実践は神様の恵みへの応答なんだと考えたのです。だから一生懸命、律法を実践してゆこう。一緒に律法を実践してく共同体になろう。そう考えたのです。

またある人は考えました。神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだ。それなのにどうして、ユダヤ教の方法や伝統を新しくイエス・キリストを信じるようになったものに、押し付けるのか。ユダヤ人と同じように律法を忠実に実践しなければいけないわけではない。それぞれに応答の仕方があるそう考えたのです。

この二つ、どちらの考えも大事だと思います。私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。

今日皆さんと見たいのは、どちらの考えが正しい、間違っているという問題ではなく、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。

パウロの報告の影響を見てゆきましょう。聖書によれば、この共同体は今までと同じ方法ではなく、境界線をなくしてゆくという方法を選びました。報告によって、活発に意見が交換されました。わたしたちは、自分たちがどう応答するかによって救われるかが決まるのではなく、ただ主イエスの恵みによって救われるのだと、共同体が気づいたのです。だから神に立ち帰る人に今までの律法すべてを実践するように求めないという結論になったのです。もちろんいくつかの条件は付きました。

報告によって、共同体の在り方が大きく問われました。報告によって自分たちが信じている事、大切にしていることが見えるようになったのです。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを考えるのです。そこから具体的な信仰の歩みが始まるのです。

私たちの教会でもこの報告を大切にしたいと思います。そしてもっと活き活きとした報告、みなさんに問いを投げかけるような報告、互いの事を知ることが出来るような報告、そのような報告に変えてゆきたいと私も思いました。そしてもっと教会の一方的な報告ではなく、みなさんからの報告もたくさんあっていいのではと思います。

そのことによって、私たちは、共同体への問いを感じながら歩んでゆくことができるのではないでしょうか。そして報告をしながらもうワンステップ、キリストを礼拝する共同体に近づいてゆくことが出来るのではないでしょうか?

礼拝は共同体を作ります。報告によって私たちは新しい共同体とされてゆくのです。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りなのです。

 

お祈りいたします。

【全文】「礼拝は招き」ヨハネ21章1節~14節

みなさん、おはようございます。今日もこうして礼拝を共にできる恵みを感謝します。私たちの教会はもうしばらくの間、5月いっぱい礼拝は集わない形式をとることとしました。もちろん早く集まりたい思いです。また言葉を交わしたいのです。しかし、今それぞれの場所から礼拝に招かれている、そう信じ、それぞれの場所から精一杯の礼拝を献げてゆきましょう。また今日予定されていた主の晩餐は出来ませんが、パンとぶどう酒のカードをお送りしてみました。それぞれにイエス様との食卓を覚えてゆきましょう。

今、私たちはそれぞれに、礼拝ということ考えさせられています。宣教も「礼拝は○○」というテーマで続けています。今日は3回目です。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素を見ました。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣ということです。今日からは具体的に私たちが礼拝のプログラムの中でしている、ひとつずつを、考えていきたいと思います。その一回目は「招詞」についてです。礼拝のプログラムを見るとまず最初は前奏、そして招詞と続きます。礼拝を何から始めるのかは、とても重要です。私たちの礼拝は前奏からはじまります。前奏もただのBGMではありません。人々が心を静めるためです。なぜ心を静めるのか、それは神様の招きを聞くためです。招詞、招きの言葉に心を向けるため、神様が今日この私たちを招いてくださっているという言葉を聞くために前奏があります。前奏はそのことを示しているのです。音楽という事については、また改めてまとめて、話をすることとして、今日はこの招きについて考えたいと思います。

招きという事を考える時、今私たちが集わないという形で礼拝をしているということと無関係には考えられません。いま集まれなくなって、気づかされるのは、ウイルスの蔓延以前にも、年齢を重ね、教会の礼拝に来ることができなくなっていた方が大勢いたということです。自分の足ではいけない、誰かの助けを借りないといけない、体調の都合で毎週は行くことができないという方が、以前から大勢いらっしゃいます。いままで毎週礼拝に集っている者には、なかなかその気持ちをわかることができなかったかもしれません。

でも今ならその気持ちが良くわかります。行きたいと願ってもそれが出来ないもどかしさを、今、全員がわかります。神様との出会い、人との出会いを体験する会堂での礼拝に集えない事は「魂の痛み」を感じる事だと知るのです。礼拝に集うことが出来るようになったら、また一生懸命礼拝に集おう、そう強く思っています。そして、それは大切な神様への応答だと思います。神様への精一杯の応答として、もしまた集まれる時が来たら、また毎週欠かさず礼拝に集いたいと思うのです。でも、きっと集う礼拝を再開したとしても、また様々な事情で集うことができない方がいるということ、そのことも忘れたくないのです。今、私たちが痛感している、集うことができない苦しみ、この魂の痛みを忘れないでいたいのです。集えない今、そして再び集えた時、普段集えない方々のために、ますます祈ってゆきたいのです。集えなくなって、教会に行くことができなくなって、それぞれの場所で礼拝の事を考えます。そして今気づくのは、「礼拝で大事なことは、私が頑張って礼拝に行くということよりも、神様が招いてくださっているという事、その事が大事だ」ということです。その招きは、たとえ礼拝に参加できなかったとしても変わらないものです。

招かれているということ、それは神様を知っているかどうかさえ問いません。もし神様を知らなくても、神様の招きは変わらず、豊かに、その方に、私たちに注がれています。それはすべての人に注がれています。あらゆる世界のすべての人々が、すべての命が、神様から礼拝への招きを受けているのです。繰り返します。私たちの事情はまったく関係ありません。私たちがどのような事情があっても、どのような体調になっても、どのような病になっても、たとえ自分が誰かわからなくなっても、たとえどんなに短い生涯だとしても、私たちは等しく神さまの招きを受けている者です。礼拝とはそのように一方的な神様の招きです。神様がおいでと私たちに語り掛けておられることが、礼拝で大事なことです。神様の愛と招きはすべての人に等しく注がれているのです。

招詞に目を向けましょう。礼拝は第一に、神様の招きです。だからこそ、礼拝の一番初めに、招きの言葉は読まれます。それは礼拝が神様の招きによって始まるということを、とてもよく表しています。今日も一生懸命集った、さあ始めようということではありません。礼拝は私たちの実行力、自発性によって持たれるのではありません。

礼拝はただ神の招きによって持たれるものです。だから私たちは礼拝を始める時、まずその招きを聞くということから始めるのです。心を静めて招きの言葉を聞くことから始めるのです。だから礼拝の一番最初には招詞、招きの言葉があります。礼拝の中でとても大事なことです。礼拝の第一声、それは神の招きの言葉なのです。礼拝で「招詞はなくてもいいか」にはならない。礼拝の招きはとても大事なことなのです。

さて今日の聖書に目を向けてゆきましょう。今日の聖書も、大切な事は神様の招きであるということが語られています。ペテロは漁に出たとあります。漁とは何を示すでしょうか。ルカによる福音書の並行個所5:10によれば、イエス様はペテロに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。漁を、福音を広げる事に例えられたのです。しかし今日のこの福音宣教の漁、まったくうまくいかないのです。一晩中あらゆる方法を試しても、この福音宣教の業は実を結ばなかったのです。

礼拝は神の招きであり、自分達の実行力で執り行うのではないのと同じように、自分達の力で取り組んだこの漁、自分達の力で取り組んだ福音宣教はうまくいかなかったのです。一晩中人間が網を投げ、招いても、何も反応が無かった。誰も礼拝には集わなかったのです。

さらに、そこにイエス・キリストが現れるのです。しかし、不思議なのですが、誰もこのイエス様に気づかないのです。いっしょに過ごして、あれほど印象的な人の事をわからないのです。人間の集まり中では、誰もこの人がイエス・キリストだということがわからないということです。人間の主導する集まりの中では、どんなにイエス・キリストが具体的に現されても、人々は神の存在に気付くことがないのです。神様と出会うには、人間が主催する集まりではなく、神が集める集まり、神の招きである礼拝ではなければいけないのです。

だからこそ、そこで、イエス・キリストの招きが起こります。その招きは舟の右側に網を投げて見なさいという招きです。人間の決断ではなく、イエス・キリストの命令です。人間の力ではなく、神の招きによって始まります。この漁は礼拝と同じです。そして網には持ち上げきれない魚がかかります。その神の招き、礼拝にはもはや人間が支える事ができない程、多くの豊かな実るのです。人間のあらゆる努力にまさる、神様の招きと恵みがあるのです。それが私たちの礼拝です。神様の招きによる、神様が主導する礼拝。神様からいただく、恵み大きい礼拝なのです。

網の中には153匹の魚がいたとあります。当時の地中海この地方の海には153種類の魚がいた言われていました。つまりどういうことか、それはすべての種類の魚がその網の中にいたということです。それは神様が、すべての人々を招いていることが示されています。全世界のあらゆる命が、神様の招きを受けているという事です。弟子たちがイエス様に気づいたのは、実はその目で見た時ではなかったのです。見ただけではわからなかった。見てもわからなかったのです。弟子たちは魚がたくさん取れた時、そう全世界のあらゆる命が神様に招かれているという事を知った時、「ああこれこそ神の業、この方はイエスだ」と分かったのです。礼拝でも同じです。あらゆる人間が神様から招かれているということを知る時、私たちは神様を知る者となるのです。

そしてイエス様はその後、食卓に招いたとあります。これも主の晩餐です。イエス様はきっとパンを分け、弟子たちと食べたでしょう。弟子たちがこの方がイエス様だと知ったのは、神様による招きの豊かさを知った時、そしてイエス様と食事をとった時です。

本当にこれは私たちの礼拝そのものです。私たちも神さまを知るのは、あらゆる人の招きが起こされている礼拝にあずかること、そしてイエス様との食事・主の晩餐によってです。それによって礼拝そしてその中にある主の晩餐によって、私たちはイエス様を復活のイエスを知る者となるのです。今日は本来でしたら主の晩餐を行う予定でしたが、このことを大切に覚えておきましょう。

私たちの礼拝は招きから始める。網を降ろしてみよという招きから始まる。そしてすべての人が、すべての被造物が礼拝に招かれています。神様の招きそれが私たちの礼拝です。

私たちの努力をすべて超えた、神様の招き、そしてイエスの食卓において、私たちはイエス様の復活を知る者となるのです。私たちの礼拝もそのように持ちましょう。私たちの礼拝を招詞・招きのことばから始めましょう。この礼拝が神様の招きによって起こされ、すべての人、すべての被造物に開かれていることを覚えよう。それこそが私たちのなすべき礼拝です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は神の招きです。

お祈りします。

 

【全文】「礼拝は順序が大事」ヨハネ21章15節~25節

 

みなさん、おはようございます。今日も一緒に礼拝をできることを感謝いたします。私たちはこどもを大切にする教会です。今は集うことはできませんが、こどもたちと一緒にそれぞれの場所で礼拝できることを願っています。

私たちの教会は今年、70周年を迎えます。これを機に12回シリーズで「礼拝とは○○」というテーマを宣教の中で考えてゆこうと計画をしていました。その後、集まることができない礼拝となり、ますます「礼拝とは何か」そして「集まるとは何か」を考えさせられています。

今日はこのシリーズの2回目です。前回は教会は「礼拝は一番大事」という宣教をしました。それが大事なのは礼拝が神様の招きだからです。教会は礼拝を止めたら教会ではなくなってしまうんだとお話しました。私たちはこの招きである礼拝を教会の一番にしてゆこう、礼拝に集中しよう、そんなことを考えました。

そして礼拝は聖なる者たちだけの集まりではない、ということもみ言葉からいただきました。礼拝は傷つき、罪深い「体」の集まりです。でも、それでいいのです。元気になったら礼拝するのではありません、元気がないまま礼拝においで、そう招かれているのです。今、ありのまま、そのままを献げ、礼拝をしてゆこう。今ならおなおさらです。今いる場所から礼拝しよう、そんなみ言葉を頂きました。

今日は礼拝の順序ということについて共に考えたいと思います。私たちが礼拝を持つとき、中身が大事で細かな順番にこだわる必要はないと考える方もいらっしゃるかもしれません。もちろんそのような事もあると思います。しかし、礼拝について真剣に検討することは、教会が一番大事にする姿勢、向き合う姿勢です。レビ記にはそのような真剣な礼拝の形式が検討されています。もちろん形式より中身が大事なのですが、中身があればどんな形式でも構わないということではありません。中身を問う時必ず、どのような形式・どのような順番で行うかが問題になるのです。

私たちの間にいつの間にか、定着している礼拝のスタイルがあります。今私たちに必要なのは、この一つ一つの意味を確認しながら礼拝してゆくことです。忘れ去られた意味をもう一度取り戻すことが必要です。何のために音楽があり、何のために挨拶し、何のために宣教があるのか、そしてそれがどのような順番であるのかを考えるのが大事です。

様々な礼拝の順序があります。例えばある教会では献金が礼拝の前半にあります。献金は多くの教会では宣教が終わった後に行われます。順番が変わることにどんな意味があるでしょうか?私はこれは献金がただ宣教、説教に応答して献げられるだけのものではないという事をよく示している順序だと思います。献金とは今日はいい説教だったからたくさん献金するということではありません。もちろん、み言葉に燃やされて精一杯を献げるということもありますが、まず先に献げていくという順序。それも大事な事を示しているのではないかと思います。

またある教会では報告を前半にする教会があります。これも最後にする教会が多いのですが、この報告がおまけではないという事をよく示しています。今の教会の事、私たちの事を報告しよく理解してから、礼拝の中心に向かっていく順序と言えると思います。

 

このように、同じことをしていても、順序の違い一つで物事の意味は大きく変わって来ます。どういう順番になるのかはとても大事なことです。礼拝がどうしてこのような順序で行われているのかについて考えたいのです。

そして私たちの礼拝は大きく分けて5つに分けられます。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣の5つです。まず礼拝は、招詞、招きの言葉から始まり、前半に挨拶や交読文など、お互いの存在を感じるプログラムがあります。そしてその次にはみ言葉のプログラム、聖書朗読と宣教があります。そして応答としての献金、そして祝祷による派遣が行われます。

このような5つの大きな順番の中で、私たちの礼拝は持たれています。そのような構造になっています。矢印を付けると分かりやすいでしょう。招きは神様から人間へ上から下の矢印です。交わりは左右の矢印、み言葉は上から下、感謝は下から上、派遣は上から下です。

礼拝はこのように、上下左右の運動が交互に折り重なりながら進みます。横糸と、縦糸が折り重なりながら一つの形、ひとつの礼拝になっているのです。いわばそれは上下左右の、縦横の対話と言えるでしょう。礼拝とは神様と、そして隣人との対話です。それが示されている順序、それはとても大事なのことです。

ご存知の通り、対話には順序が大事です。「こんにちは」「こんにちは」「いい天気ですね」「気持ちいですね」そういう順序が大事です。ですから私たちはこのようにして対話として礼拝の順序を考えるのです。そして神様との対話、私たちの対話を考える時、必然と礼拝がどのような順番かを真剣に検討する事になるのです。

礼拝の中で順序、これはとても大事なことです。礼拝が対話であることが理解しながら参加してみてください。そうすると礼拝がより豊かな神様との対話、として献げることができます。交わりを持つことができます。その上下左右の運動がこの礼拝の中に生き生きと浮かび上がってくるはずです。だからこそ順番が大事なのです。礼拝の中にある対話が大事なのです。

 

さて今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様が復活され、ペテロと愛する弟子の前に登場した場面です。イエス様が三度ペテロに「愛しているか」と聞いたという場面です。

私は礼拝の順序の事を考えながら、この個所を読んでいて気付くのです。このイエス様とペテロの対話、実は私たちの礼拝と、まったく同じ順序ではないかということです。

先ほど私たちの礼拝は大きく5つに分かれると言いました。招き、交わり、み言葉、応答、派遣です。この要素がこの対話には含まれています。そしてこの対話の順序と礼拝の順序が全く同じ順序なのです。私たちの礼拝と同じように、イエス様とペテロが対話をしている、私はそのように感じるのです。それを見てゆきましょう。

今日の個所での招きとは、イエス様はご自分からシモン・ペテロに声を掛けたということですそれは問いでした。「私を愛しているか?」しかしこの問いは同時に招きでもあります。イエス様はペテロに問いかけることで招いてします。「私を愛しているか?」ペテロが「愛しています」と応答することを、招いておられます。そしてこの招きによって、ペテロは信仰の告白、愛の告白へと導かれています。ペテロはイエス様に問いかけられ、対話と告白に招かれています。神様の招き、それが私たちの礼拝の始まりなのだと、この場所からも思うのです。

次は交わりという事が示されます。イエス様は「私の小羊、羊を飼い、世話をしなさい」と言うのです。あなたが私を愛ししているならそれでよし、ということではありません。愛していますと答えるペテロに、羊飼いになって羊の世話をしなさいと言います。羊飼いの仕事とはばらばらだった羊同士を結び付け、一つの群れ、ワンチームを作ることが仕事です。私たちは交わりによって人との結びつきを作るように、示されるのです。交わりを持ちなさい、一緒に礼拝をしなさい、それがこの呼び掛けです。だからこそ私たちは礼拝で挨拶し、交わりを持つのです。

3つめの要素はみ言葉です。それはもちろんイエス様のみ言葉です。イエス様は3回ペテロに私を愛しているかと問いかけます。3回尋ねられて、ペテロは悲しくなったとあります。3回、そう、自分がイエス様を否定した回数が3回です。あの3回を思い出し、自分の弱さ、卑怯さ、罪深さを思い出し、ペテロは胸が痛かったのです。

イエス様は3回否定したペテロに3回、み言葉を投げかけます。それによってペテロは3回愛ししていると告白することが出来ました。み言葉とはそのような力を持ちます。み言葉とは傷つき、失敗し、弱くて、逃げ出す私たちに向けられた言葉です。そして私たちにもう一度生き直すチャンスと、希望を与える言葉、それがみ言葉です。礼拝はこのみ言葉が中心です。その御言葉によって、私たちは自らの歩みに、失敗や不足、罪を思い出し、悲しくなります。しかしみ言葉によって、もう一度イエスを愛し、信頼し、歩みだそうとする力を頂くのです。信仰を回復させてゆく力、それがみ言葉です。礼拝のみ言葉にはそのような力があるのです。これが礼拝の中心です。

4つ目を見てゆきましょう。次にペテロは感謝の応答をしています。ペテロの告白が続きます。「主よ、あなたはすべてご存知です」という応答は私がどのような思いでいるか、あなたがすべてご存知ですという意味です。言葉にできない気持ちも、あなたが知っていてくださる。心の痛み、体の痛み、不安、すべてのことの本当の気持ちをあなたがご存知ですという告白です。それは委ねる言葉ともいえるでしょうか。イエス様に導かれ、み言葉に励まされた者は、イエス様に委ね、感謝する者になってゆくのです。委ねてゆくこと、それが感謝の応答なのです。

5つ目、最後はイエス様は私たちを派遣されるお方ということです。イエス様の言葉は、礼拝から派遣される私たちの歩みを示しています。私たちは、行きたい場所ではない場所に、連れて行かれるのです。派遣された後、私たちの人生は思うようにはゆかないものです。死がもっともそうです。どのように死ぬのかはほとんど選ぶことが出来ないように、私たちの人生はほとんど思う様に行きません。神様との出会い、神様との対話である礼拝の後に、私たちはそのような世に、現実に派遣されてゆくのです。しかし、イエス様は言います。「私に従いなさい」。すべてことが自由になるわけではないけれど、でもその中で「私に従いなさい」というのです。これが派遣です。礼拝でも最後に祝祷。派遣の祈りをしています。

5つを見てきました。これが私たちの礼拝の姿です。今日の個所と同じです。礼拝は招き、交わり、み言葉、感謝、派遣その順序で行われます。この順序はとても大事です。今日の個所を見てわかる通り、神様との対話とは上下、そして左右の運動です。ですからこのように、礼拝も上下左右の運動なのです。この流れの中に私たちの礼拝はあるのです。

もう一度私たちの礼拝の順序の意味をとらえ直したいのです。70年間私たちが大事に守って来た順序があります。それにもう一度意味をしっかりと見つけ出したいのです。「いつもの順序」「もともとこうだ」ではなく、もっと新鮮に、日々新しく、この礼拝を頂きたいのです。そして、もしかしてもっとこうしたら神様との対話になるのではないか、より上下左右の運動がもっと躍動的になってゆくのではないか、そのような部分が私たちの礼拝にはまだまだ残されているでしょう。

そのことを真剣に問う、それは教会にとって大事な役割ではないでしょうか。

礼拝を一番大事にしてゆきましょう。そしてこの順番の意味、その中にある、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣、その意味をもう一度取り戻しましょう。いまそれぞれの場所からする礼拝、毎週の礼拝を、大切にしましょう。より神様と出会い、自分を献げることのできる礼拝を目指してゆきましょう。そして私たちはこれからも毎週一緒に、神様に出会う時、礼拝を献げてゆきましょう。

 

お祈りいたします。

 

【全文】「礼拝は一番大事」ローマ12章1節

 

みなさん、おはようございます。それぞれ自宅での礼拝も3週目です。どのようにおすごしでしょうか。今日も共に礼拝をしましょう。総会資料にも計画が載せられていますが、今週からゆっくりと礼拝とは何かについて、考えてみたいと思います。その中で私たちの礼拝の意味をもう一度見つけられたらと思います。

私たちは今集えずにいます。そして礼拝とは何かとそれぞれが問い直す時を頂いています。今だからこそ、もう一度礼拝することの意味を私たちは理解したい、そう思うのです。そして、礼拝は何かを考える事は今までの礼拝をもう一度、新たに頂くことにつながると思うのです。ですから今年度、今日から「礼拝は○○」という12回シリーズで、4月と6月7月は礼拝を考える「礼拝再考」の時をいただこうと思います。

さっそくですが「礼拝」とは一体何でしょうか。教会が一番大事にしていることは礼拝です。礼拝を辞めてしまった教会というのは存在しません。なぜなら礼拝をやめたとき、教会は教会でなくなってしまうからです。礼拝をやめるのは教会をやめるのと同じ事です。教会の決定的なアイデンティティは礼拝なのです。それだけ教会にとって礼拝は重要な事です。ですから状況が厳しくなっても教会は礼拝をやめません。教会は牧師一人でも続ける、そしてそれぞれの家庭で礼拝を続けるのです。

教会が礼拝を大切にするということは当たり前のことです。でも私は今、それに危機感をもっています。礼拝を大切にする。それが今、当たり前ではなくなってきているからです。

平塚バプテスト教会に限らず、いま教会は、様々な課題を抱えています。集まることができないという以前から、礼拝出席人数は減少していました、若者は特に教会に来なくなりました。そして多くの教会はこの状況を変えるために、いろいろなことにチャレンジしています。アメリカの教会の成長をモデルにしてみたり、様々な社会活動や地域活動をしたりすることで、その突破口を開こうとした教会もあるかもしれません。

しかし私は同時に、そのチャレンジが間違った方向に向いてしまうことにも危機感を持っています。例えば教会が礼拝以外の事柄に一番の力を注ぎ始めることです。新しい活動に一生懸命になって、礼拝に集中できなくなる、礼拝の価値が下げられてしまうことを心配しています。教会が何かを新しいこと、大切にしたいことを表現しようとするとき、何をもってするか、それはまず礼拝の中において、様々な象徴で表されるべきではないでしょうか。

たとえば子供を大切にしようと言っている教会。子どもを歓迎しますとは言うものの、子供が礼拝にとても参加しづらいという教会がたくさんあります。いろいろなプログラムで子供を呼び集めるのもいいですけれど、いざ子供が礼拝に参加しようとすると、参加しづらいのです。じゃあ礼拝は向こうの親子室でお静かにどうぞ。そして大人だけに向けた礼拝が聞こえるのです。どんなにこどものプログラムを充実しても、教会が礼拝の中で子供に対してそのような態度で、子供を大切にしていることになるのでしょうか。

私はこどもを大切にするというのなら、どうやって子供と礼拝をするかをまず悩んでみたいのです。「子供とどう礼拝するか」まずそれを第一の事柄として悩みたい、そう思うんです。今年度から子供メッセージを始めたのも、そのためです。

たとえば伝道を大切にする教会では、新来者を礼拝後にどうやってフォローするか熱心に話し合っています。それもとても大事です。でもやっぱり礼拝の「後」が大事なのでしょうか?礼拝そのものを新来者にやさしいものにしてゆく、安心してもらえるようにする、そのことはされないのでしょうか?

今年度は平塚教会は特別伝道礼拝はお休みすることとしました。今年度は特別な礼拝ではなく、いつもの礼拝に目を向ける時を持とう、そんな思いからです。もう一度毎週の主日礼拝を特別なものとして受け取り直し、考え直してゆきたいのです。

それが教会が礼拝を中心にする、一番大切にするという事ではないでしょうか。どのように礼拝するかを考える、それが教会の一番の事柄ではないでしょうか。礼拝の中で大切にしていることを表現をしてゆく、礼拝が教会の中心であることをもう一度取り戻していく、そんな姿勢が今の多くの教会にもとめられていることではないでしょうか。いろいろな方法やアイディア、活力がある教会の中でこそ、礼拝を大事にしたい。そう思うのです。だからこそ礼拝とは何かを一緒に考えてゆきたいと思っています。礼拝とは何か、今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 

パウロは私たちに「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言っています。神の憐れみとは、神の同情や慈悲といった意味です。それは神様の側からの一方的な思い、愛です。神の一方的な憐れみと愛によって、パウロは勧めるのだと言います。それは、パウロの憐れみよって、ではありません、人間の憐みでもありません。神の憐れみによって勧められている、招かれているということです。神の憐みがそれを勧めているというのです

神様の礼拝に招かれるのは、神の憐れみによってです。人間の憐れみや権威によって、礼拝に招かれるのではありません。教会の牧師の人柄や、教会の人間関係によって礼拝に招かれているのではありません。みんなの顔を見るために礼拝するのでもありません。牧師や人間の力で礼拝に招かれるのではないということです。

礼拝とはただ神が一方的に、その憐れみによって、私たちを招いているのです。パウロがここで伝えようとしているのは「人ではなく神が、まずあなたを憐れんで、礼拝に招いておられる」ということです。そのことを私たちも忘れてはいけないと思うのです。

もちろん神様は私たちを自動的に、教会の礼拝に連れてくるわけではありません。朝、手足が動いて、自分の意思に関係なく歩いて、教会の礼拝に連れてこられたということは起こらないのです。教会まで歩いたのは私です。車のハンドルを握って教会まで運転したのは、神様ではなく私です。礼拝に集うということ、それは私たち人間の応答といえるでしょう。招きは神の一方向的なものです。それに私がたまたま応えることができた、応答できた、それが礼拝に集うということです。

応答として礼拝する、礼拝に参加することも大切です。しかし礼拝が大事な点は、ただ神が一方的に招いておられるからということです。応答するかどうか、応答できたかどういかというのは次の問題です。神様はすべての人を繰り返し招いている、礼拝の徴集者が神であるからこそ、礼拝は大切なのです。神が招いているからこそ、教会は礼拝がなによりも大事なのです。そして今、私たちは神様の招きがそれぞれの場所にある、そう信じ、それぞれの場所で礼拝を捧げているのです。

そして聖書にはこう続きます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる 生ける、いけにえとして献げなさい」。ここには自分の体とあります。私たちは「体」を献げることが、神様に求められているのです。

この個所で私は「体」という言葉が強調されていると思います。例えばこの個所で心も体も捧げなさいとか、全身全霊をささげなさいとかいった言葉の選びができたはずです。そしてそれはすべてを捧げる礼拝というイメージによくあっていると思います。しかし、敢えてここで「体を」献げると表現されます。

「体」それはまず当然、肉体という意味をもちます。全身を捧げる、全身で礼拝をするということです。五感で礼拝をするということもいえるかもしれません。もうひとつ大切な意味があると思います。それは私たちの「体」、それは日常の、この社会の只中にある「体」という意味です。私たちの「体」とは、この地上に生き、汗をかいて働き、人とぶつかり、病気になります、不安になります。人間社会の中に生きる、それが私たちの「体」です。疲れて、汚れて、傷ついている、それが「体」です。

体を捧げなさいという時、それは不完全なままで献げる、不完全なものとしてそのまま礼拝をするということでしょう。苦しい人は苦しいまま、痛みのある人も痛いまま、眠い人は眠いまま、泣いていた人は泣いたまま、礼拝に集うということです。それは本当に、ありのままの「体、今の私」として礼拝をするということでしょう。

聖書が「体を捧げなさい」というとき、そのように現実のありのままの姿で礼拝しよう。そう呼び掛けているのではないでしょうか。今家と言う現実の中で礼拝をしようということではないでしょうか。

神様が呼び集めているすべての人々、その現実が、叫びが、そのまま礼拝になってゆく、礼拝はこの社会との関係を切り離して持たれるものではない。それが礼拝です。

だから聖書は、「聖なる体に“なって”献げなさい」「聖なる体“で”礼拝しなさい」とは言いません。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」聖書は今のあなたのその体を、不完全な体のままでおいで。礼拝し、献げようと言います。苦しい現実、痛みそれが治ったら礼拝においで、聖なる者になったら礼拝においで、とは言いません。今の傷ついたまま、そのままでおいで。そう神が招いているのが礼拝です。そのままでおいで、それを献げなさいというのです。

神様は傷ついている、不安な思いでいる私たちが精いっぱい自分を捧げる時、それを聖なる者、喜ばれるものと受け止めて下さるのです。神様からすれば、そのままでいいから献げてみよう。そのままでうれしいよ。そのままで聖なる者とするよ。神様はそう受けとめてくださるというのです。

今日の個所で一番つまづきとなるのはやはり、次の「いけにえ」という言葉でしょう。自分を生け贄にする、自分が犠牲になる。そんなこと嫌だと思いますよね。

しかしここでパウロは「生ける生け贄」と言います。「生ける」ということが強調されている、いけにえです。当然生け贄というのは一人が犠牲になって「死んで」みんなを救うという概念ですが、ここではそうではありません。大事なのは死なない、生かされる、むしろ生き生きとしたまま捧げられるということです。

私たちの生きている人生を捧げる、生きたまま捧げる、だれも犠牲にしないことを捧げるということです。これが生きるいけにえとして、献げるということです。言い換えるならば命を献げるのではなく、人生を献げるということでしょうか。我慢といういけにえを献げるのではなく、生きる喜びをささげようということです。

つまりこうです。ありのままで、傷ついたままで礼拝においで。それで神様は喜んでくださるよ。そして、私たちの命ではなく、人生を神様に献げようという意味です。

「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝です」そう、これこそ私たちのなすべき礼拝ではないでしょうか。礼拝とは神からの招きです。すべての人々が招かれ、そして私たちは今の体のままで、生きて、喜びの応答する、それが礼拝です。

私たちはこの礼拝を中心にしましょう。そのままの姿で、その体で招かれ、そのままで聖とされるこの礼拝を一番大切にしましょう。それ以外は、礼拝に比べて同じほど大切なことは教会にはありません。礼拝こそ大切なのです。これからしばらく礼拝について共に考え、また改めてこの礼拝を大切にするときいただいてゆきましょう。

 

 

お祈りをいたします。

【全文】「こんな時、希望の神」ヨハネ20章1節~18節

 みなさん、おはようございます。そしてイースターおめでとうございます。今日もそれぞれの家から、それぞれの場所から共に礼拝をしましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもたちも見てくれているでしょうか。スマホやテレビの前のみんなも一緒に礼拝しましょう。

 様々な集まりの自粛はとても残念です。イースター礼拝も一緒に礼拝し、たまご拾いをし、愛餐会をすることを本当に楽しみにしていました。今、このように「集まる」ということがどれだけ大事かを痛感します。一緒に同じ体験をすることを大事だったと気づくのです。私たちは毎週一緒に見る、聞く、触れる、味わうを一緒にしてきたのです。それが共に出来ない事の苦しさを痛感しています。

しかし今、自宅にいるということが大切です。互いの命を守るためにできること、隣人愛を示すためにできる事、そのひとつが自宅に留まるということです。とても悲しいこと、難しく、もどかしいことですが。しかし「自宅にいるという愛」「外出自粛の愛」を私たちは示してゆきたいと思うのです。

 今、私は神様が、この教会に皆さんが足を運ぶことを招いているとは感じないのです。神様が集まるように招いていると感じないのです。今、神様はそれぞれの自宅で、礼拝するように招いているのではないかと思うのです。そしてたとえ今はそうだとしても、また必ず神様の招きと、それへの確信が与えられ、集えるはずだと、堅く思っています。

 その時まで待ちましょう。その時まで愛を貫いてゆきましょう。そう、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、「愛」を貫いてゆきたいのです。互いを五感で感じる事は大事です。でも今はそれが出来ません。でも一切の連絡ができないわけではありません。電話やメール、お手紙で互いに励まし合いましょう。普段しない人と、お互いに電話や連絡をとりあってゆきましょう。今こそ、神様の希望に目を向けましょう。

 私たちは落胆し。落胆ばかり、出来ない事ばかりに目が向かってしまいます。海外の緊張、著名人の死、迫りくるウイルス。中でも志村けんさんの死は私を落胆させました。コロナウイルスの遺族は最後までその遺体にも面会できないそうです。火葬され灰になって初めて再会したお兄さんの姿が忘れられません。大きな悲しみです。

 でも苦しみの中でも神様に、なんとか希望に目を向けてゆきたいのです。一日中テレビでは不安と死者の数が語られます。でも私たちはせめてこの礼拝の1時間だけは希望を持ちたい、希望を見たいのです。神様は希望を与えて下さるお方です。今、不安と死から振り返って、希望に目を向けてゆきたいのです。今日の聖書の個所を一緒に読みましょう。

 

 他の福音書ではマリアは香油を塗りに行き、そこでイエスの遺体がないことを知ったとあります。ですがマリアが香油をもってイエスの墓に行くのを想像するのです。しかしヨハネ福音書ではそうではないのです。マリアたちは既に19章40節で、香油をイエスの体に使っていたのです。すでにイエスの遺体には香料が使われています。では今日、マリアはいったい墓に何をするために行ったのでしょうか。マリアが墓に行く動機は何だったのでしょう。いままで私たちが知っていた動機とは違う動機がここに書かれています。

 マリアはなぜ墓に向かったのでしょうか。まだ夜が明けない。暗いうちに彼女は墓に向かって向かいます。待ちきれないかのように、家を出るのです。向かった動機は、イエスの遺体に遭うためでした。遺体に会う、それは死を確認するという意味を持ちます。私たちは受け入れられない死に直面する時、遺体を見て、本当に死んでしまったのだと実感するのです。その遺体が無ければ、本当に死んでしまった、そのことをなかなか受け入れられないものです。

 マリアはイエスの死をもう一度確認しようとしました。やっぱり本当に死んでしまったのか、それをもう一度確認したい、しなければ納得できない、受け入れられない。それだけイエス様を大切な人と思い、悲しみが止まらなかったです。彼女が墓に向かった動機、それはイエス様の遺体に会うことでした。そしてやはりイエス様は死んだともう一度自分自身の目で、あるいは遺体に触れて確認するために向かったのです。

 しかし、向かう墓の石は開けられ、遺体は無くなっていました。遺体が無いことは、その死を、その絶望をもう一度確認しようとした、受け入れようとした彼女を、さらに混乱させます。遺体に遭えない事の悲しさは、今の私たちにも身近なことです。遺体に降れることは、死を受け入れる事につながるのです。だから私は葬儀の流れで納棺式を大事にしたいので す。それは死を受け入れる儀式だからです。

 マリアも悲しみの中で、もう一度イエスの死を確認しなければならなかったのです。その死を受け入れなければならなかったのです。しかし遺体に会うことはできませんでした。彼女はイエスの遺体が「どこに置かれているのか、私にはわからない」と混乱し、他の弟子たちにも知らせたのです。他の弟子たちもイエスの遺体を見つける事は出来ません。イエスの、あの死はどこに行ったのかを探すマリアです。他の弟子たちが帰っても一人、墓の前で泣き続けます。

 しかし同時に私はマリアがイエスの死ばかりに目を奪われている姿も見つけます。イエスが死んだ、そのことばかりに目を向けすぎているのです。イエスの遺体への執着さえ見る事ができます。泣き続けるマリアに天使が現れます。「なぜ泣いているのか」と問いかけます。マリアは「遺体が無い、どこにいったのか」と答えます。やはり遺体に彼女はこだわります。彼女は死を探します。悲しみを探します。無いものを探します。絶望と悲しみと死を見つけようと必死なのです。

 死を受け入れる事は必要なことです。しかし、そればかりを見ていてはいけません。私たちには希望があるはずです。そこに目を向けて歩みだしたいのです。

 

 そんな時、イエス様が現れます。希望の訪れです。しかしマリアは目の前に登場したのに、あれだけ探していたイエスだと分かりません。そう、マリアが探していたのは生きているイエス、復活したイエスではありません。彼女が探していたのは、遺体です。死んだイエスを探していたのです。だからイエス様ご自身にイエス様の「遺体がない、どこにあるのか」と尋ねます。マリアがそれを尋ねるのは3回目です。1回目は弟子に、2回目は天使に、3回目はイエス様に、遺体がない、遺体がない、どこだ、どこだと尋ねまわるのです。そしてイエス様が目の前に現れても、彼女は分かりません。それは遺体を探しているからです。死を探しているから、絶望を探しているから、イエス様に出会っても気づかないのです。

 

 そんな時、イエス様は名前を呼んでくださいます。「マリア」そう名前を呼び掛けて直接に語り掛けて下さるので。イエス様は後ろからそっと声をかけてくださるお方です。マリアはずっと遺体を探していました。死を探してきました。しかし、イエスはそこに見つかりませんでした。イエスはその死と絶望の全く正反対から、180度違う方向から、語り掛けて下さるお方です。それは命と希望と喜びの方角です。私たちが見る、死と絶望とはまたく違う場所からイエスは私たちに語り掛けておられるのです。

 マリアはそれに振り向きました。これまで探していた、確かめようとしていた死と絶望。そのことから向きを変えたのです。振り返ったのです。方向転換をしたのです。今まで探していた、確かめようとしてきた方向から、まったく見ていなかった希望へと、心の向きが変わったのです。方向転換を始めたのです。

 そしてようやくイエス様を見つけたのです。マリアは希望を見つけたでしょうか。もう少しです。彼女がイエスを見つけて喜んだこと、それはやっぱり体があったことです。彼女はイエスを見つけたとたん、その体にすがりつこうとします。なおもまだその体にしがみつくのです。

 イエス様が言います「私にすがりつくのはよしなさい」。本当に求めるのは私の遺体や、私の体ではないということです。「マリア、遺体や体、死や絶望ばかりを探すのはやめなさい。あなたが見るべきものは、天に上るキリストである」そう言うのです。それが復活のキリストです。死がすべての終わりではない、神のもとに上げられ復活されるキリストを見なさいといっているのです。イエス様の語り掛けを聞いた時、マリアはようやくイエスを認識したのです。それはイエス様が死んだことを確かめることが出来たというのではありません。マリアは死と絶望にばかり目を向けるのではなく、希望に目を向けること、死がすべての終わりではない事、イエス・キリストが復活したことを知ったのです。マリアは他の弟子たちに言います「わたしは主を見ました」それはもう遺体を見つけたという意味ではありません。希望と、命と、復活を見たという言葉なのです。

 イエスはマリアに「私の兄弟たちのところに行ってこう告げなさい」と言います。イエス様はマリアに希望と、命と、復活を示しました。そしてマリアに「告げなさい」と命じます。それは伝える者となりなさいということです。イエス様は死がすべての終わりではない事、神様の業は絶望で終わらないこと、必ず希望が、その続きがあったのだという事を告げる者、伝える者になりなさいと促しておられます。自分の希望を伝えなさいとおっしゃっています。マリアはそのとおり、今度は告げる者として、福音を伝えるものとして、証しするものとして弟子たちも元に帰って行ったのです。

 ここまで今日、マリアの物語を追ってきました。マリアとはいまの私たちです。私たちはマリアと同じです。今、さまざま落胆と悲しみの中にあります。死があります。それは嫌でも目に飛び込み、向い合せられ、死と、不安が渦巻いています。しかし、私たちが探しているのは死と絶望ではありません。たとえ今はそうであったとしても、必ず悲しみでは終わらないのです。

 イエス様からの希望、死から復活するほどの希望が私たちにはあります。いま私たちは悲しみと落胆に目を注ぎ探すのではなく、振り返って、そう振り返って、希望を探したいのです。イエス様は今、私たちの名前を後ろから呼びかけ、方向転換させ、招いてくださるお方です。そしてこの死は悲しみでは終わらない事を語り掛けておられるお方です。その先に必ず希望が続いていると語り掛けておられます。私たちもその希望を見てゆきたい。私たちもそれを告げ知らせる、証しする者となるそのように招かれているのです。お祈りします。

 

【全文】「礼拝やってます」ヨハネ18章28節~38節

 

 みなさんおはようございます。今日もインターネットのみですが、共に礼拝に集えることに感謝します。既に連絡網とHPでご案内のとおり、4月中はこのインターネットでの礼拝参加、会員の皆さんには週報と宣教原稿の郵送し、ご自宅で守っていただく礼拝ということにしました。残念ですが、このようにして礼拝を持てることに感謝しています。どのような1週間でしたでしょうか。なかなかお話する機会がなく、みなさんのお顔を見ることができませんが、今日も共に神様の恵みをいっぱいに頂きましょう。

 多くの人が外出の自粛をしています。行政からもそのような要請が出ています。この時期に外出し、多くの人の集まる場所に行くという事は避けたい事柄です。教会以外は外出を控えよう、そんな方もおられるでしょうか。

ある方はこう言われたのだと電話をくれました。「こんな時期だし、礼拝に行くのは止めた方がいい」周囲にこんな風に言われたそうです。信仰の表明として、感謝の応答として、神様に招かれて教会に行くということ、そのことは毎週私たちが大事にしてきたことです。だからこそ教会にはコロナウイルスの問題の最中でも礼拝を行えば、いつもと変わらない数の人が集ったのです。しかし今は、家族や周囲からは「もう集まりに行くのは止めた方がいい」と言われています。そのような声を聞いています。

 どんなにそう言われても教会でオープンな礼拝をすれば、みなさんは集う、集ったことでしょう。だからこそ教会も葛藤をしていました。私は祈りの中で、今、主はこの会堂に集まって礼拝することを招いておられないのではないか。それぞれの場所で礼拝をすることに招いておられうるのではないか?と感じるようになりました。さまざまな課題がありましたが、教会での礼拝は続け、原稿は郵送する、インターネットで中継するということにして、それぞれの自宅で礼拝を守っていただきました。それぞれの自宅でどのような礼拝を守られたでしょうか。それぞれに恵みと課題のある礼拝だったでしょう。今日もそのようにして礼拝をしています。

 なぜ私たちは、こんな時期にも関わらず、毎週集まることにこだわるのでしょうか。きっぱりと諦めればいいのに、なぜ葛藤するのでしょうか。世の中から見たら、ちょっとわからないでしょう。

 人々から見れば、家族や周囲から見れば、宗教なんてまさしく不要不急の集まりに思えます。今日くらい休んだっていいだろう。落ちくまでは行かなくていいだろう。家族にも反対されるでしょう。

 私たちもその投げかけに戸惑ってしまいます。集まるべきか、今は自宅に留まるべきか悩みます。今このとき、私たちは集まらなくても、自宅でも、一人ひとりでも礼拝はできると気づかされています。しかし、それと同時にでは今までなぜ集まることを大切にしてきたのかが問われるのです。

 もしかすると今までは「なんとなく」や「長年の習慣」で教会に行く、家族への説明はそれで良かったかもしれません。「日曜日くらいは私の自由にさせてもらう」で良かったかもしれません。でも今は違います。「なぜ集まるのか」理由を求められます。私たちも集まる目的と意味を問われるのです。

 私たちはそれに何と答えたらよいでしょうか。私たちが礼拝に集うのは、まず第一に神様が私たちを呼び集めて、呼んでくださっているからです。もちろん私たちが一生懸命時間を作って礼拝をしに行くというのはそうです。でも礼拝は私の決心と実行力で来ているのではありません。何よりもまず先に、神様が呼び集め、招いて下さっているから、集い、礼拝をするのです。

でもこのことは家族にどう説明したらよいでしょうか。「神様が呼んでいるから、私は礼拝に行きます」答えたらどうでしょう。どんな顔をされるでしょうか。笑われるでしょか、気持ち悪がられるでしょうか。でも私たちにはそれ以上の説明のしようがありません。

 はぐらかすことはどのようにでもできます。「なんとなく」や「習慣だから」「行かないと気持ちが悪いから」「お友達に会うのが楽しいから」そういう思いも確かにあるものです。でも今は、それでは家族が送り出してくれません。「その程度の事だったら、辞めておけ」と言われるでしょう。

私たちには今、説明責任があるかもしれません。でも説明はうまくできないものです。「私は信仰を一緒にする仲間と集まりましょうと、神様に呼ばれている」「あなただって呼ばれているのよ」そうとしか、私たちは答えられないのです。そう説明してゆくしかないのです。相手にとっては、ばかばかしい答えかもしれません。

 いま大事なのは、愛とか、神とかいうよりも、手洗いうがい、外出自粛だ。その家族の気持ちもわかります。痛いほどわかります。私も半分はそう思うのです。気持ちが揺れます。でも、神様が呼んでいるからやっぱり礼拝に来たのです。会堂のドアを開けたのです。家族との会話はこの点でかみ合いません。自分の思う様には相手がわかってくれません。動いてくれません。そのようなかみ合わない会話になるでしょう。私たちどう説明すればよいか分かりません。ただ招かれているとしか説明できません。今、言っても伝わらないけれど、かみ合わないけれども、神の招きを証しすることしかできないのです。

 「なぜ」という質問に、「神様が招いている」と証しするしか、すべがありません。相手に合わせることだけを考えるなら、私たちは信仰を保つことはできません。かみ合わなくても明かし続ける。それが私たちとの他者との向き合い方です。

 私たちは人と向き合う時、そこには必ずすれ違いが発生します。かみ合わない会話が生まれます。教会に向かう時も、教会の中に来てもそうです。かみ合わない会話、でも神様を証し続けること、私たちはそのように他者と向き合ってゆきたいのです。

 それは今日の聖書の個所からも学ぶことです。イエス様の他者、この場合はピラトとの向き合い方を見たいのです。そしてそこでの、人々とのかみ合わなさと、それでも証し続ける姿をこの個所から見てゆきたいのです。今日の個所を読みましょう。

 先週はキドロンの谷で捕らえられるイエス様の姿を見てきました。イエス様は、引き渡され、一晩尋問を受けました。肉体は疲れ果てていたでしょう。この世、この地上の王であるピラトは、初めてイエス様という男と出会いました。その姿は、縛られて、家畜のように連れてこられた、ボロボロに疲れた男です。しかし彼はこの国の王だと言っていると告発されています。

ピラトは聞きました「あなたが王か?」と。この世の王から見るとなんと弱々しく、みすぼらしい姿の王でしょう。まるで王には見えないのです。世界を救う存在には見えないのです。ピラトはボロボロになった男に向けて「あなたが王か」と疑問をぶつけたのです。

 それに対してイエス様の応答は分かりづらい答えです。答えと言うよりかは質問で返しています「自分がそう思うのか、それとも誰かにそう聞いたのか」そんな質問です。

 もうちょっとわかりやすく答えてあげられないものでしょうか。「私はこの世の王ではありません。ですから地上で何か悪いことをしようとは考えていません。無罪です」と答えられなかったのでしょうか。

 ピラトが聞きたいことはまさしくそのことです。「自分は王だ」と言って民衆を扇動し帝国に反逆をしようとしているのか、それに対して有罪か無罪か、罪状認否を聞き出そうとしているのです。

 しかし、イエス様の会話はそれとはまったくかみ合っていません。イエス様は自分が有罪か無罪かについて話そうとしません。イエス様はひたすら神の国について答えて話をするのです。王なのか、何をしたのか、その問いにイエス様は、36節にあるとおり「わたしの国は・・・」と答えるのです。ピラトは有罪が無罪について知りたいのです。その答えを求めるのです。しかしイエス様は「私の国は」と、神の国の話を続けるのです。会話は全くかみ合いません。

 しかし淡々とイエス様は神の国について証しを続けておられます。この世の論理と神の国の会話は成立をしません。会話にならないのです。しかし、イエス様は神の国の証しをし続けます。これはどこか私たちにも重なる個所です。教会とこの世の対話はかみ合わないものです。異なる視点で物事を見ているからです。しかしイエス様はこのように世との対話を続けるお方です。

 イエス様の言葉で今日もっとも印象に残るのは36節です。イエス様とピラトの会話がすれ違う原因は、イエス様が「世に属さない」からです。世に属さないとは、イエス様の教えと存在はこの世を起源にもつものではないとうことです。イエス様はこの世に起源をもつのではなく、神様に起源をもつ者だということです。

 この世と神、それは闇と光の違いのように、天と地との違のように隔たりのあることです。まったく起源が違うものです。この世とはその起源において、ルーツにおいて関係のないものです。いわば生まれも育ちもまったく違うから、すれ違うのです。一方がこの世について、一方が神の国について語り、すれ違っているのです。

 まったく違う二人。交わらない二人。闇と光、天と地の様です。でもあることに目を向けたいのです。そこには対話と証しがあるということです。そこには証しがあります。全くすれ違うけれども、たしかにそこには対話と証しがあるのです。そこには全く関係のないものとして二つの世界が、二つの王国があるのではありません。この二つの王国は対話をし、証しがあるのです。

 元来、まったく関係のないはずのものが、イエス様の十字架という出来事によって、対話を始めます。証しが始まります。そのことで二人の王は交わるのです。天と地が、光と闇が、イエス・キリストによって、交わり始めるのです。

 ヨハネ1章5節にはこうあります「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある通りです。闇に光が来る、地に天が押し寄せてくる。それがイエス・キリストの十字架の出来事です。光は光、闇は闇。あなたはあなた。私は私。しかし、イエス様はその闇の中に来る光です。天から地上に来られた方です。その方とこの世は話がかみ合いません。でもイエス様はここに来られたのです。

 イエス様は「みんなに神様の良さをわかってもらうと思って来た」証しするために来られたのです。違う相手に、自分と全く正反対と思う人のところに、対話と証しをするために来られたのです。はぐらかして一緒にいるためではありません。うやむやにするために来たのではありません。証しをするために来たのです。

 ピラトは質問します。「真理とは何か」。真理とは何でしょうか。真理とは隠れていないものという意味です。表面ばかりを飾り付けたり、取り繕ったり、うそをついたりしないことです。ごまかさないで、うやむやにしないで言葉を発することです。イエス様は真理について証しをするために来られました。イエス様は神様のことをごまかさないために、それを証しするために生まれ、この地上に来られた、そして十字架にかかられたのです。

 私たちはなぜ神を礼拝し続けるのでしょうか。礼拝に集うのでしょうか。それは神様の導きによってです。私たちはそれを隠さずに、うやむやにせずに、証しし続けたいのです。そこでは必ず話がすれ違うはずです。かみ合うはずがないのです。しかし、それでも証しをするために来られたイエス、そのイエスに従い、証しをし続けてゆきたいのです。そして礼拝に招かれているものとして、歩みたいのです。一緒に礼拝を続けましょう。また集える日は必ず来ます、それまでそれぞれの場所で、証ししましょう。すれ違っても証しをし続けましょう。

 そしてもう一つ考えておきましょう。それはたとえクリスチャンだけが集まったとしてても同じことがあるということです。私たちは教会にくれば話がかみ合うということではありません。クリスチャン同士でも、教会でもたくさんすれ違うのです。教会でも思いが通じないことがあったではないですか。それはまた集まればすぐ思い出すことです。

 でも私たちは互いに神様を証ししあうから、一緒にいられる集まりです。イエス様が異なる他者と諦めずに対話し、証しを続ける事をお互いが知っているから、私たちは集い続けるのです。私たちはたとえ伝わらなくても互いに証しするものでありたいのです。

 今、私たちは、それぞれの場所で礼拝することを招かれています。そしてそれぞれの場所で証しし続けることを招かれています。「礼拝やってます」そう証しをしてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「不安に振り回されないキリスト」ヨハネ18章1節~14節

みなさんおはようございます。今日もインターネット上ですが、共に礼拝をできること感謝をします。インターネットで共に礼拝が出来る事を感謝しています。また、特に今私たちは祈りを必要としています。新型コロナウイルスに感染された方々、そのご家族、医療従事者の方々を覚えて、祈ります。

私たちの教会でも、3月中はコロナウイルスの関係で礼拝と祈祷会以外をお休みしています。ちなみに先々週の祈祷会で今日の個所を分かち合いました。今日はその分かち合ったことの中から宣教をします。私の言葉だけではなく、皆さんから上がった言葉から宣教をします。みんなで作った宣教です。

私たちは礼拝と祈祷会以外をお休みをしてからもうすぐ1か月がたちます。みなさんはこの期間、どんなことを気付いたでしょうか。そして今日は、会堂に集わずに礼拝をしています。私たちには交わりが不可欠です。今月、そして今日、それができない事が本当に心苦しく思います。

皆さんと顔を合わせることができない、教会に来ても教会学校や昼食が無いということが私たちの共同体にとって、私の生活にとって、どんな影響を与えているでしょうか。私はああ失ったものはとても大きいと実感しています。皆さんと毎週合うのが楽しみだったのです。一緒に礼拝をするのがうれしかったのです。

食事が無いことも残念です。礼拝を終わった後に会話するのも、なかなか食事をしながらではないと、席に座ってゆっくり話すという事ができないのです。皆さんとの会話に励まされたり、祈りの課題をいただいたりしていたのが、それが足りていないと思います。今日も、この礼拝を寂しく思います。

しかし礼拝と祈祷会以外を辞めるという事は、礼拝と祈祷会は絶対にやめないという思いも含まれていました。今もう一度礼拝に集中し、礼拝を貫くという思いをもって、他の集会を辞めてたのです。それだけ私たちは礼拝を大事にする、祈る場所を大事にするという事です。

しかし様々な制約があり、今日はとうとう集うことをしないということを選びました。私たちは、集いません。しかしこれは礼拝をしないという事ではありません。礼拝は集いがとても大切です。しかし、集えなければ礼拝をしたことにならないかと言えば、そうではありません。私たちはどのような場所や時においても神様を礼拝することができます。できれば一緒に礼拝をしたいのですけれども、今日はそれぞれの場所で礼拝しましょう。今日は礼拝がお休みなのではありません。集うことは休んでいますが、礼拝は休みません。延期もしません。今しかできない、みなさんのいる場所でしかできない礼拝を、今だからできる、今いる場所だからできる、精一杯の礼拝を捧げましょう。

そしてもう一度、集まって礼拝ができる、その当たり前だった事が、当たり前ではない、大きな恵みの出来事だったんだということに、目を向けたいのです。私はすぐに、ああ、はやくいつも通りに礼拝したい、またみんなと一緒にご飯が食べたい、交わりを持ちたいと思ってしまう者、私自身がそうなのですが、いえ、まず今日、それぞれの場所で礼拝が出来るということに、その恵みに目を向けなければいけないと思います。

不安や不満ではなく、足りないものではなく、神様から今日頂いた、恵みを数えるということを大事にしなければいけない。足りないものが、こんな不安が渦巻く時だからこそ、いま私が何に神様の恵みをいただいているかを考えたいのです。祈祷会でもそのような言葉を発せられる方がいました。私もはっと気づかされる思いでいます。今日も集まれないということではなく、礼拝ができる恵みの時としていただきましょう。胸を張って神様の恵みが私たちにあるとこの礼拝を持ちましょう。

いま私たちは不安の中に過ごしています。次に何が起きるのか、世界はどうなるのか、新聞とテレビをしがみつくように見ています。そして誰かこの不安を消してくれないかと望むのです。実に、私たちは不安になりやすい弱い者です。パニックになりやすい者です。そして不安に向き合う時、足りないもの、失われたものにばかり目が行き、いま続いていること、守られている事を忘れがちです。すぐに忘れてしまう者です。私たちは不安になった時、すぐに恵みとイエス・キリストを忘れてしまう者です。

毎週熱心に教会に通い、祈っているにも関わらず、不安な時、イエス様のことを忘れてしまう者です。イエス様をいつもいただいていても「でもさすがに今は」「でもこんな時だから」とか「でも私はちがう」とか、信仰に対してそんな気持ちになってしまう者です。不安な時、不確実な時、私たちはイエス様を忘れてしまう存在、イエス様の恵みをわすれてしまう存在であることを改めて今知るのです。

今日皆さんと分ちあいたいのは、この不安の時代、もう一度礼拝の恵みを、イエス様の恵みを、いま私たちが失っているものではなく、私たちが受けている恵みを感じたいと思うのです。私たちは無いものではなく、あるものに目を向けます。ないものではなく、ある、私はあるというお方に、神様に目を向けたいのです。今日も共に聖書をお読みしましょう。

 

今日の個所、まず私は不安の中で、人間がどのような態度をとるのかということを、聖書から見ます。

今日の物語の中でもっとも不安なのはペテロです。彼は自分の信頼してきたイエス様が犯罪者として逮捕される、そのような喪失を経験しようとしています。自分の大事なものが奪われようとしています。彼にとっては大きな不安だったのです。

彼は、そのような時、剣を手に取ってマルコスという人に切りかかったと言います。彼は相手を殺そうとしたのです。自分に不安を与える存在を殺そう、不安の原因を取り除いてしまおうと考えたのです。彼は持っていた剣を振り回します。しかし、その剣は耳にしか当たりません。耳という言葉は、耳たぶという意味もあります。つまり耳全体が切り落とされる姿ではなく、耳たぶに、かすっただけとも言えます。ちょっと血が出るくらいしか当たらなかったというのです。

ペテロは相手を狙い定めて一振りしたのではありません。やたらめったら、めちゃくちゃに剣を振り回すのです。そこから見えてくるのはペテロが、不安で神を忘れ、剣を振り回す姿です。私たち人間は不安の時このような態度をとるのです。不安や不足がある時、誰でもいいから不安をぶつけたくなるものです。ドラッグストアの店員か、並んでいる人か。外国人か。誰でもいいのです、剣を振り回して、相手を傷つけることで、不安を誰かにぶつけることで、不安から逃れようとします。しかし、イエス様の前ではそれはまったく意味のないことです。かえってそれは神様の働きを損なうことです。不安を相手にぶつけるだけでは、何も起こらないのです。

そして私はもう一人、見ておきたいのはカヤファという人物です。彼も不安に襲われた人物でした。彼は、ユダヤ全体が安定するためには、イエス様が死ぬことは、しょうがないことだと考えました。一人のために全体が迷惑をこうむるなら、その一人は死ぬのもやむを得ないという考え方です。この場合の迷惑とはおそらくイエス様の活動によってユダヤ人の大祭司の支配が揺らぐこと、あるいはローマ帝国から目を付けられることです。

そのような迷惑、不安が起きるならば、その一人が死ねば済む問題だという考え方です。犠牲になってもらうという考え方です。みんなのために、あるいは自分たちのために、誰かを犠牲にするという考え方です。これが人間が不安に直面した時の考えです。この不安を消すために、誰か、犠牲にするしかないそう考えるようになるのが人間です。全ての人間の持った罪です。イエス様はそのような人間の罪のために、十字架にかけられてゆきます。

これが人間の不安に直面したときの姿です。ある者は剣を振り回し、誰かを傷付けることによって、不安から逃れようとします。しかしそれは必ず失敗をします。ある者は一人を犠牲にして、自分達は助かろうします。その罪が、その罪のために、イエス様は十字架にかかられたのです。

 

私たちは不安の時、どのようにその不安に向かい合うべきでしょうか。暴力でも犠牲でもない向き合い方を私たちは探し求めます。その時、イエス様が、私たちとは違う行動をとられたという事を知るのです。イエス様は自分がどんなに不安でも、苦難を受けると分かっていても、神様に視線を合わせ続けたお方です。誰かに暴力を、誰かに犠牲を強いた方ではありません。暴力と犠牲を超えて、神様の道を選ばれたお方です。

イエス様の歩みを見ましょう。イエス様は弟子たちと食事をし終わると「キドロンの谷の向こう」に行ったとあります。イエス様はどうしてそこに行ったのでしょうか。ここは大変危険な場所であったはずです。なぜなら裏切るユダとも来たことのある場所だったからです。

弟子たちと何度も来たことのある場所でした。逃げるならみんなの知らない場所に逃げるべきです。しかしイエス様は弟子たちよく行ったキドロンの谷の向こう、いわゆるゲッセマネに行ったのです。この事は、あえてイエス様が見つかりやすい場所に行かれたということです。見つかりやすい、捕まりやすい場所にイエス様は行かれたのです。

ここにこの十字架の出来事があります。イエス様はもちろん十字架にかかりたくないのです。ご自身も不安な思いでいるのです。でもそれをまるで自分から十字架に進むかのように、積極的に受け止めていくのがイエス様なのです。

この前の食事の場面でもイエス様は、13章27節ではまるでユダに裏切りを促しているようなのです。「しようとしていることを、今すぐしなさい」とイエス様は裏切り実行を迫るのです。イエス様は裏切りを止めようとしません。むしろそれを促し、ご自分から事柄を起こしてゆくのです。

今日の個所にも、イエス様を捕えようとした人々が地に倒されたということがあります。それも同じです。イエス様は相手を倒す力を持っていたお方です。しかしそれにも関わらず、捕まるのです。つまり自分から裏切りを促し、見つかる場所に行き、逃げる事ができても逃げない、それがイエス様が不安に向き合う態度でした。私たちとは大きく違います。

イエス様は自分という殻を抜けて、不安という殻を抜けて、神様が定めた道を歩もうとされたお方です。苦難や不安から逃れる事が出来たはずなのに、そうしなかったお方です。不安と不足の中でも、イエス様は神様のことを見続けたお方です。神様がいま何をなさろうとしているのかに焦点を合わせ続けたお方です。

苦難と苦しみの中で、神の働きを、神の恵みを、神の導きを求めたがのが、イエス様です。そこから逃れる、相手を打ち破るのではなく、その中に神様の導きを見つけようとしたお方です。十字架の中に私たちは見つけます。それはどんな時も神を忘れないイエスの姿です。ヨハネ福音書によれば、イエス様は十字架でこうおっしゃって息を引き取られました19章30節「成し遂げられた」、そう語って息を引き取られたのです。十字架の上の、最後の一息まで、イエス様は神の働きを見続けたのです。

イエス・キリスト、それは十字架の最後まで、苦難にも関わらず神を見続けたお方です。不安ではなく、神を見続けたお方です。そして私たちにもそのように歩めと促しておられます。不安の只中で、十字架のイエス・キリストを、それが指し示している神を見よと、私たちは語り掛けられているのです。

 

不安が先立つ今の時代に、私たちはもう一度、イエス・キリストを覚えたい。不安ではなく、恵みに、不安ではなく神に目を向けたいと思うのです。私たちは出来ない事ではなく、礼拝に、神に目を向けたいと思うのです。私たちは不安の中で暴力と犠牲を選びません。イエス・キリストを礼拝することを選ぶのです。

 

私たちは今日、また1週間それぞれの場所へと出てゆきます。出発をするのは、私たちもイエス様も同じです。私たちもまた、神様の示した場所へと進んでゆくのです。不安ではなく神を見つめ、委ね、続け歩みましょう。