【全文】「食堂でつながる教会」 マルコによる福音書3章31~35節

周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もいっしょにこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

私たちは今月と来月、こひつじ食堂と福音について考えています。こひつじ食堂は毎月第三と第四金曜日にこの会堂で開催している、だれでも来てよい食堂です。1人200円でおなか一杯の食事ができます。いろいろな人と食事をするのは、本当に楽しいことです。まだ来たことのない方はぜひ食べに来て下さい。お弁当も販売をしています。また今日の礼拝後の信徒会ではこの活動についても皆さんと相談をさせていただきます。

全国でこども食堂の活動は広がっています。先日あるインターネットの記事に目が留まりました。記事のタイトルは『独身の86歳男性は「死ぬまでひとり飯」なのか…SNS以上、しがらみ未満でつながれる「こども食堂」の魅力 』 というものです。

記事よれば、あるこども食堂では86歳おじいちゃんが1人で食堂を利用しているそうです。このように私たちの食堂も含め、ほとんどのこども食堂はどんな年齢の人も歓迎しています。この男性はお連れ合いに先立たれて一人暮らしです。自分で料理もするし、一人でしっかりと生活をされています。にもかかわらず、地域のこども食堂に顔を出しています。

おじいちゃんはこども食堂でたくさんの方の顔を見ながら食べることを、言葉ではいえなくらい楽しい、最高だと語ります。やはり、一人で食べるのと、誰かと一緒に食べるというのは、ぜんぜん違うのです。記事にはさらにこう続きます。高齢化とともに交友関係は減るということ、コロナ禍でさらに交友は狭まっていること、コロナの影響で多くの地域交流が停滞していること、そこにこども食堂のニーズがあると書かれていました。さらに高齢の方々の子どもたちも「親が地元で、話をする人はいるのか」を心配している。それは政府の現金給付でどうにかできるものない。高齢の方々にも、自分には関係ない場所だと思わずに、ぜひ近所の「こども食堂」=「地域食堂」のドアを叩いてみてほしい。そのように記事には書いてありました。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが、貧しい人だけが対象ではありません。どんな人も、どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたい、そう思っています。

しかし振り返ると教会はずっと昔から「一人ではない」と思える場所だったのではないでしょうか。礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。2000年間、あるいは私たちの教会の70年間、毎週礼拝し、一人ではないと確認をしてきました。神様が共にいる、仲間が共にいる、それを毎週礼拝で確認してきたのです。互いの声を聞き、一緒に賛美をしてきたのです。

私たちは寂しいと思っている人や、人生に困っている人に出会ったとき、一緒に教会に行きませんかと誘ってきました。もちろん困っていない人も、どなたでもどうぞと教会にお誘いしてきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は食堂にしろ、礼拝にしろ、その他のことにしろ、誰かの居場所になるのが得意です。

教会はいつもあなたと一緒にいたいと伝え続けてきました。困っていても、困っていなくても、一緒にいようと誘って来ました。そのようにして少しずつ礼拝の輪が広がってきました。そしてそれと同じように、今食堂の輪が広がってきています。

食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは教会で起きていることです。神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。その延長線上に食堂があります。私はそのように感じています。

今日は私たちは、こひつじ食堂や礼拝で起きていることを聖書から見てゆきたいと思います。食堂や礼拝は、神様のもとで集い、仲間になってゆくこと、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

今日の聖書個所を見ましょう。まず目に留まるのはイエス様と家族の関係の難しさです。少し前の21節には身内の人々がイエス様のもとに来て「あの男は気が変になっている」と言って、取り押さえようとしたとあります。イエス様の活動は血縁関係のある家族に、まったく理解されなかったのです。イエス様の行動は家族にとっては迷惑で、気持ちの悪いことだったのです。家族だから理解し合える、信仰を分かち合えるというわけではなかったのです。

家族に理解されないということが、私たちにもあるでしょうか。自分の行動や信仰が家族に理解されないということが、あるものです。あるいは逆に、私たち自身が家族の行動や信仰を、理解できないと思うことも、あるものです。信仰を家族と分かち合うこと、家族と理解しあうことはとても難しいことです。家族と理解し合えないのは寂しいものです。イエス様も寂しさを感じたはずです。33節に「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とあります。私はそこにイエス様の寂しさを感じます。

そして従った人々の多くも家族のいない人、家族と離れている人だったと言われています。従った人の多くは干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族とばらばらになってしまった人々だったと言われます。家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。自分はこの後どうなるのだろうと不安に思っていた人々がイエス様に従ったのです。家族がいないことの寂しさは、家族と分かり合えない寂しさよりも、もっと大きいものでしょう。喧嘩する相手も、わがままを言う相手もいないことは寂しい事です。

この物語の登場人物は家族と分かり合えない寂しさを持つイエス様と、家族とばらばらになってしまって寂しさを持つ民衆です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族とも思えるような、不思議な集まりになっていったのです。

この集まりは、いろいろな家族関係を持った人、家族を持たない人が、寂しいと感じた人が、親戚の集まりの様に集い、祈りあう集まりでした。自分は一人ではない、共に生きていると実感できる集まりでした。そのような集いがイエス様を中心に生まれたのです。本当の家族と同じくらい大切な仲間ができたのです。

34節でイエス様は『周りに座っている人々を見回して言われた「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」』と言います。イエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。この集まりは私たちの教会と似た集まりです。私たち一人一人もいろいろな家族関係をもっていますが、毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。

イエス様の様に、周りに座っている人々を見回して思うのです。教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会は2000年前からずっとこのような集まりを続けてきました。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。

このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。この礼拝の雰囲気が、食堂の雰囲気につながっているでしょう。ここに来ればたとえ家族と離れていても、家族がいなくても、寂しく思っていても、誰かとつながれるような気がするのです。一人ではないと感じることができるのです。それが教会の食堂の特徴です。

教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。そこで共に食事をすることは、誰かとつながるには最高の場所といえるでしょう。礼拝も食堂も、誰かとつながっていたいと思う人に最高の場所です。

友達や家族と疎遠になりがちな高齢の方々に最高の場所です。ぜひこの輪に入って欲しいのです。若者はSNS、インターネット、YouTubeでつながっています。でもそれ以上のつながりを持ちたい若者に、最高の場所です。ぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。一緒に礼拝をしたい、一緒に食事をしたいのです。

34節には「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とあります。神の御心を行う、それは今私たちの教会にとってはこひつじ食堂を続けてゆくというでしょう。教会はこひつじ食堂を通じて、地域とつながりを持ってきています。誰かと一緒にいるということを、これからも続けてゆきましょう。きっとそれが御心です。あなたは一人ではないということを私たちは伝えてゆきましょう。礼拝と食堂の御心を続けてゆきましょう。

私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。御心を行う人が神様とつながっている人です。誰かとつながろうとするとき、神様とつながっているとも言えるでしょう。

私はこの食堂のような、たくさんの人が集まり、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。いろいろな人が来て、一人ではないと思える礼拝がしたいと思っています。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。

 

 

【全文】「断食か、食堂か」マルコ福音書2章23節~28節

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。     マルコによる福音書2章27~28節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月・来月とこひつじ食堂から福音を聞いています。先日4月15日(金)は慌ただしい一日でした。お弁当を124食販売しました。特に忙しかったのは、午前中はいただいたタケノコのあく抜きがあったこと、午後は120人分のホイコーローづくりでした。

さらにこの日、特別忙しかったのは、4月15日(金)がキリスト教の暦では、受難節の「受難日」であったからです。イエス様が十字架にかけられ死んでしまったことを覚える日です。「聖金曜日」とも言われます。多くの教会ではこの日の夜、受難日祈祷会を持ちます。以前私のいた教会では、ろうそくの明かりで聖書を読み、十字架のイエス様を追いながら、ろうそくを1本ずつ消す「消灯礼拝」を持ちました。受難節は別名レントとも呼ばれます。レントはラテン語で「断食」を現わす言葉です。日没まで食事を抜いて、イエス様の十字架の苦しみを私たちも感じようとする期間です。本当に断食を行う人はあまりいませんが、この期間は何かを我慢する、例えばコーヒーを飲まない、カフェインを取らないといったことをするクリスチャンは多くいます。

私たちの教会でも受難日祈祷会を持ちました。食堂を中止することはできないので、午前の仕込みと、午後の調理との間に持ちました。本来この期間はレントであり、断食の期間です。にもかかわらず私たちは、120人のお弁当を販売するために、朝から夜まで働いたのです。多くのクリスチャンが食べること、飲むことを控え、祈っている日です。受難日、聖金曜日です。その聖なる日に私たちは一体何をしているのでしょうか。いつも祈祷会が行われている部屋では料理が作られています。礼拝する会堂には近所の人が集まり、お弁当が販売され、おまけとしてコーヒーが配られています。よく考えると、この教会は何をしているのかと恐ろしい気持ちになります。聖なる日に、聖なる場所で、なんということでしょうか!レントの聖金曜日に、食堂をするという意味を考えさせられます。私たちの選択は正しいのでしょうか。

私たちの選びの意味は、誰かのために何かを「する」ことの大事さを現わしているのではないでしょうか。何かを我慢して、一緒に苦しみを味わうだけでは何も変わらないのです。その痛みを知ったならば、状況を変える、他者を助けるための行動を起こすことが大事です。聖なる時間は大事です。手を止め、足を止め、祈ることは大事です。でもそれをしているだけで、何かをした気持ちになってはいけないと思います。宗教は特にそのような危険があります。礼拝すると他者の痛みに目が向くかもしれません。気分は落ち着くかもしれません。でもそこで終わってしまうことがあります。祈って気分が落ち着き、その後、行動を起こさなくても良いと思ってしまうことがあります。誰かの必要に応えることを忘れてしまうのです。

私たちは聖なる金曜日に、朝から働き、祈り、午後また働きました。それが私たちの聖金曜日の過ごし方でした。そうですこの聖なる体は、誰かのために使う時、本当に聖なる体となるのです。この聖なる会堂は、誰かのために使われる時、本当に聖なる会堂となるのです。私たちは礼拝するだけではなく、人々のためにできることをしてゆきたいのです。この体を、この会堂を、他者のために使いたいのです。それが私たちが聖金曜日に食堂をする意味ではないでしょうか。

ちなみにその日の13時からの受難日祈祷会は多くの方が集いました。私たちはいっぱい祈り、いっぱい礼拝する。そして地域のために、隣人のためにいっぱい働く。そんなことが凝縮された1日だったと思います。

今日は祈り、礼拝することの大切さを覚えます。そしてそれぞれのできることを働いてゆくことの大切さを覚えます。神様は私たちに、今日祈り、明日からまた善き行動を起こすように促している、そのことを見てゆきたいと思います。ご一緒に聖書を読みましょう。 

 

 

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の聖書の個所では安息日が問題になっています。今でもユダヤの人々の一部は安息日を守ります。多くの人が安息日・土曜日は働かず、礼拝に行ったり、家で家族と過ごしたりします。さらに厳格な人は、安息日にはあらゆる作業・労働をしません。例えばエレベーターのボタンを押さない、スマホも使わないという人もいるそうです。しかしよく言われる、凝り固まった形式主義という批判はまったくの的外れです。律法を他者批判の道具にしてはいけません。彼らはその日を大切に守っています。現代ならなおさらこの日は大事です。スマホをしない日、しなくてよい日はとは、とてもうらやましく思います。

もちろん律法より命が優先されます。安息日でもお医者さんは働きます。命にかかわることは、なにより優先されます。私たちキリスト教では日曜日が安息日にあたります。他の事はせず、礼拝に集う日として、聖なる日として、私たちも安息日を大切にしていると言えるでしょう。

本来、安息日は1週間に1度、あわただしい日常から離れ、休み、神様からもう一度、生きる力をいただく日です。しかし、今日の聖書箇所24節を見ると、ある人がまた安息日を誰かを批判する道具にしています。安息日は本来、礼拝すべき日、神様から力をいただく日です。しかしこの人たちは違いました。彼らは戒律を破っている人がいないか、あら捜しに出かけたのです。

聖書には旅人が麦畑の麦を食べるのは許されるとあります 。お腹の空いた旅人は畑の麦を勝手に食べることが許されたのです。本来律法とはこのような他者への慈しみのためにありました。命を守るために多くの律法がありました。

しかしこの人たちはそれを批判の道具とします。麦をつまんだ事を、安息日に麦を刈り取る労働だ、律法違反だと言いがかりをつけたのです。そしてその批判は当事者の弟子ではなく、イエス様に向けられました。

イエス様はその人たちにダビデの逸話を話し始めます。この話はサムエル記上21章に出てくるエピソードです。ダビデという人が、王様から命を狙われて逃げる時、おながが空いて、神殿を訪ねました。そこにいた祭司は供えてあったパンを分かち合ったという話です。そのパンは本来、祭司しか食べることが許されていない、聖なるパンでした。しかし祭司はダビデとそれを分かち合ったのです。祭司にとって供えのパンは聖なるものです。しかしそれをダビデと分かり合いました。それは良いことをするのは物や、日時を選ばないということを示すでしょう。必要としている人と分かち合う事、それをしてはいけないもの、日、時、場所はないということです。どんな時でも、どんな場所でも、慈しみの分かち合いは許されるのです。

この個所でイエス様は、戒律を守る、何々をしないという事だけでなく、何をするかに注目をさせます。してはいけないことだけではなく、すべきことに目を向けさせます。私たちは日曜日、礼拝をします。他の事をしません。日曜日は仕事や用事を入れず、予定を調整し、礼拝に参加します。しかし大事なことは何をしないかだけではありません。何をするか、すべきことをするということも大事でしょう。

 

私たちは1週間の始まりの日曜日を、祈り、礼拝することから始めます。それは変えません。守り続けます。そしてその1週間、私たちは何をすべきでしょうか。善き事をしたいのです。今日、たくさん祈り、1週間を始めましょう。そしてこの1週間、誰かの悪い箇所を探すのではなく、私たちはいままでとは違う、善き事をしたいのです。

27節に「安息日は人のためにある」とあるのはそのような意味ではないでしょうか。安息日は誰かを悪者にするスタート、悪者を探すスタートではありません。安息日は人のために善き事を始めるためのスタートです。人のために何か行動を起こす、そのスタートです。私たちはこの安息日をスタートに1週間、何か善き事をしたいのです。すべきことをしたいのです。人のために何かしたいのです。人のお腹と心が満たされるような何かをしたいのです。今日いっぱい祈り、その1週間をスタートしたいのです。

私は受難日・聖金曜日のこひつじ食堂通じて、何をすべきかを問われました。断食なんてしなくていいということではありません。祈らなくてよい、礼拝しなくてよい、善い事をしていればよいのではありません。礼拝と祈りは誰かの心、痛みを想像するために必要なのです。祈りと共感が必要なのです。神様からの力が必要なのです。でも私たちはそれだけではありません。そこで終わりません。痛みをもった人々と具体的に共に分かち合うのです。善き事を行うのです。私たちは、祈りと行動のどちらかだけを求められているのではありません。祈りつつ、そして善き事を行うことが求められているのではないでしょうか。だから受難日に祈りつつ、働くのです。私たちがこの体、あるいはこの会堂を、祈りの場として以外に、どんな善い事のために使うかということはとても大事なことです。27節の「安息日は人のためにある」とは、安息日は私のためにあるということです、そして安息日は他者のためにあるということです。そしてその安息日は主イエスのものなのです。

聖なる会堂、聖なる体が祈り、他者のために使われる時、本当に聖なるものとなるのです。私たちはこの安息日からスタートします。神様から力をもらい、他者のために、善き事のために働く1週間を始めます。私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へと派遣されましょう。そしてこの会堂でまた分かち合ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

 

【全文】「調理で元気にする神」マルコ1章29節~32節

 

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした

マルコによる福音書1章31節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月・来月はこひつじ食堂から見えてきた福音を共に分かち合ってゆきたいと思います。先週は5000人の食事とこひつじ食堂と主の晩餐の共通点を見てきました。今日はボランティアさんとの関りから、神様が私たちにどのように力を与えて下さるのかということを見てゆきたいと思います。

こひつじ食堂にはたくさんのボランティアの方々が集まっています。先日は旗が立っているのを見てボランティアに加わってくださる方もいました。多くの方は、平塚市の商工会議所青年部(YEG)が作ってくださったホームページを見て、平塚教会のボランティアに応募をしてくださっています。

ボランティアに加わる方には1時間程度、趣旨説明の面談をしています。これまでに20名近くの方々と面談をしました。面談の最後ではボランティアさんが、こひつじ食堂を手伝おうと思ったきっかけや動機を教えてもらっています。ボランティアの方々の動機は本当にさまざまです。

Aさんはお母さんの介護のために最近、お仕事を退職されました。家での介護が続く日々に煮詰まっていました。本当は仕事をしたいと思っているのだけれど、介護のことを考えると、確実な曜日や時間が決められず、働くことができなかったそうです。そんな時にこひつじ食堂のボランティアの募集を見て、自分が行ける時だけのボランティアならできる、そう思って連絡を下さいました。

Bさんは障がいをお持ちで、なかなか就職をする自信が出ないそうです。でもその日の体調が良い時だけ、月に1・2回だけでいいなら、自分にもできると思って、ボランティアを始めたいと訪ねてこられました。この方はお料理が得意で、本当に助けられています。教会の包丁を研いでくださり、よく切れるようにしてくださいました。

Cさんはシングルマザーの方です。お子さんが大きくなって、ようやく手が離れてきたそうです。これまで本当に育児と仕事の両立に追われてきたと教えて下さいました。やっとこどもも大きくなって自分の時間ができた、さあ何かしたいと思った時に、こひつじ食堂の存在を知ったそうです。私が大変だったあの時にもこんな食堂があったら良かったなぁ。そうだこの食堂を手伝ってみよう。そう思ってボランティアに応募して下さったそうです。

いろいろな動機があるものですが、どれも「何かしたい」「誰かのためにしたい」そんな気持ちから手伝って下っています。そしてとても活き活きと、笑顔で手伝ってくださっています。

それぞれの方が、決して楽ではない時に手伝ってくださっています。きっと人生の中で、大変な時にも関わらずボランティアをしたいと、言ってくださっています。逆にボランティアさんに少ないのは、今時間にも体力にも余裕があるという方です。そういう方はボランティアではなく、一般的な就職をするのでしょうか。私たちのボランティアさんは私も含め、決して強くたくましい人ばかりではありません。不自由や痛みを経験したり、悩みを抱えた人ばかりです。でもだからこそ、人一倍、誰かのためにこの働きに加わろうとする気持ちはある方たちです。食堂のこの1食は、地域のみんなの、そんな思い、小さな力が少しずつ集まってできています。

地域の人の多くが、誰かの力になりたいと願っていると知りました。そして誰かのために働く、手伝うこと、それ自身がその人の活力になることを知りました。教会は何かを提供するのではなく、教会と言う場所が、やりがいと、力を出せる場所となっているとことをうれしく見ています。教会で活き活きと働いてくれることをうれしく思います。

これはきっと神様の働きでしょう。神様は見えない力で一人一人を教会に引き寄せて下さっています。神様が、教会で体を動かすように招き、一人一人を元気にしてくださっています。神様は調理するということを通じて、みんなを元気にして下さっているのです。そして神様はそれを食べる人も元気にしてくださっているのです。

今日の聖書を読みたいと思います。高熱で立ち上がることができない女性がいました。その人はイエス様によって癒され、立ち上がることができました。そして立ち上がった後を見たいのです。彼女は立ち上がるとすぐに、他者のために働こうとします。私はこの姿がボランティアの人々に重なります。イエス様はそのように人々に活力を与えてくださるお方です。今日はそのことを見てゆきましょう。

 

今日の聖書箇所を見ると、ある女性がいました。彼女は熱にうなされています。でも彼女の周りには優しい人がたくさんいました。彼女を心配し、その病が癒されるように願い、具体的に行動を起こす人、祈ってくれる人が周囲にたくさんいたのです。その中の一人が、イエス様なら彼女を助けてくれると信じました。そしてイエス様に話をしたのです。

イエス様はそのような場所に、イエス様の方から来て下さるお方です。女性はいのちからがら、藁にもすがる気持ちでイエス様を訪ねたのではありませんでした。いちばんしんどい時、仲間が祈り、イエス様が来てくれたのです。そばで手を握ってくださったのです。

私たちも熱を出すときがあるでしょうか。その時きっとイエス様は私たちの心に来て、共にいて下さいます。手を握ってくださいます。あるいはもっとこのことを広く解釈することができるでしょう。私たちの人生にも高熱を出しているような、しんどい時期があるものです。人生で立ち上がれない、食事がのどを通らない、眠れない、混乱し、誰かの助けが必要、そのような時期が人生にはあります。

その時、イエス様は私たちを訪ねてくださるお方です。私たちの手を取って癒してくださるのです。そして私たちがもう一度立ち上がることができるようにして下さるのです。体調を守り、立ち上がる気力、活力をイエス様がくださるのです。

今日の立ち上げられた女性の続きを見ます。女性は31節すぐに「もてなした」とあります。これはもともと「食事の提供をする」「給仕する」という意味の言葉です。聖書では多くの場合、イエス様に「仕える」という意味で訳されます。しかし男性だったら「仕える」と訳されている言葉が、女性だと食事を「もてなす」と訳されます。これは女性は家庭で、男をもてなすものだという考えに基づいた発想・翻訳です。新しい翻訳では男でも女でも、仕えるに修正されています。しかしもちろん、仕えることの中には、食事を作り、運ぶことが含まれます。彼女は「仕えた」のですが、料理をふるまったかもしれません。むしろ私は料理でもてなす彼女の様子を想像します。

こひつじ食堂を通じて、私は誰かに料理を作り、手渡すことの喜び、あふれてくる活力を知っています。きっと彼女は活き活きと料理をしたのではないでしょうか。私はこの物語をさっきまで熱にうなされていたのに、治ったらすぐに誰かのために働きたくなる女性の話と読みます。物語はこうです。ある時、いつも元気なあのおばちゃんが高熱になりました。近所の人、周りの人、教会の人がみんな心配しました。そして信仰のある一人がイエス様に祈りました。するとイエス様がその人を訪ねて、そばに行き、手を握り、祈り、癒したのです。

するとどうでしょか。そのおばちゃんは早速起き上がってしまいます。みんなに何か作って食べさせるんだと言いだします。周りはいくらなんでも、もうちょっと休んだ方がいいと止めたでしょう。でもおばちゃんは、絶対作ると言い張ります。みんなはしょうがないので作ってもらうことにしました。だってあのおばちゃん、いつもみんなに料理を作るのが、本当に楽しそうだから。誰かのために働くこと、働けることで、おばちゃんがもっと活き活きとし、元気になるのを知っていたのです。みんな心配しながらも、その料理をおいしく食べたでしょう。治って良かった、またおばちゃんの料理が食べれて良かったと言いながら、笑いあったでしょう。

そういう事がここで起きたのではないでしょうか。そういうことをイエス様が、ここで起こしたのではないでしょうか。イエス様は病や弱さを持っていた人を、起き上がらせました。そして、また元気にさせ、活力を与え、またみんなのために仕える人に変えた。それがイエス様が起こした奇跡ではないでしょうか。熱はしんどかったけど、熱を出す前よりももっとみんなとの関係、イエス様のとの関係は深くなりました。イエス様はそんな奇跡をここで起こしたのではないでしょうか。

イエス様は私だって誰かのために、何かしたい。体と時間の許す限り、誰かのために生きたい、そんな女性の願いをかなえ、立ち上がらせ、働く者とした。私はこひつじ食堂を見ていると、そのように感じます。

今日私たちは聖書を見ました。神様は苦しいとき、私たちを訪ねて下さるお方です。手を握り祈ってくださるお方です。私たちもそのように、苦しむ人がいる時、共に歩み、神に祈りましょう。そして神様は傷と苦しみから、私たちを癒して下さるお方です。もう一度立ち上がらせてくださるお方です。そして神様は私たちをもう一度活躍できる、誰かのために働けるようにしてくださるお方です。誰かのために祈れる者としてくださるお方です。誰かのために生きる者としてくださるお方です。私たちに生きる活力をお与えくださるお方です。そして神様はもう一度、私たちを強く結びつけてくださるお方です。私たち、この神様を信じましょう。共に従ってゆきましょう。力をいただき、誰かのために働き、祈ってゆきましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「5000人食堂」ルカ9章12節~17節

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。ルカ9章16~17節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。私たちは毎年「主題聖句」という1年間大切にする聖書の言葉を決めています。週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会で読み合わせています。昨年度までの3年間はルカ9章48節でした。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」この聖句から、私たちはこどもを大切にする教会ということを追いかけてきました。

今年はルカ9章16節・17節としました。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」

もちろんこれからもこどもを大切にしつつ、この聖句から今取り組んでいる「こひつじ食堂」を大切にしてゆきたいと思っています。「こひつじ食堂」とは毎月第三・第四金曜日、17時~19時まで、この教会を会場にして行われている食堂です。一人200円で、だれでも利用することができます。貧しい人だけが来る場所ではなく、誰でも、寂しいと思う人、誰かと会いたいと思う人、節約したい人、誰かの役に立ちたい人、すべての人に食べて、満腹になってほしいと思っています。こひつじ食堂の様子から、大勢で食事をする聖書の場面を主題聖句としました。

市内には他にもこども食堂があり、似たことをしています。その人たちにやり方を教わって始めました。しかし私たちにはきっと別のルーツがあります。そのルーツというのは聖書です。聖書の中に記される、イエス様がいろいろな人といろいろな場所で食事をしたことが「こひつじ食堂」のルーツです。聖書には食事がきっかけで、イエス様のことを知ることができたり、仲間ができたりする場面がたくさんあります。だからこそ、私たちは一緒に食事をすることを大切にするのです。

さらにこひつじ食堂は教会のメンバーだけではなく、地域の人と一緒に食事をする場所になりました。分かち合いをする場所になりました。一緒に働く場所になりました。

このことをきっかけに私たちは今、地域協働計画を進めています。今、私たちはもっと地域と一緒に食事をし、一緒に活動してゆく教会を目指しています。そしてそのような願いを持って聖書を読む時、きっと新しくみ言葉をいただくことができると思います。私は最近、聖書を読んでいるとどうも、読む個所、読む個所にこひつじ食堂のことが書いてあるような気がしています。今日から2か月この「地域協働」「こひつじ食堂」をテーマにして、聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

 

今日の聖書箇所は、イエス様がパンを増やしたという「奇跡」に目がゆきがちです。イエス様がマジシャンの様にパンと魚を増やすことをもって、イエス様は信じるに値する人だと言われることもあるでしょうか。イエス様に従えば、奇跡が起きて、飢えることなく、満たされるのだと言われるでしょうか。不思議だけどそれを信じるのが信仰だと教わって来たでしょうか。あるいはこれは食事や腹が満たされるという低い次元の話ではなく、心の内面、魂が満たされたのだと言う人もいるでしょうか。

しかしこひつじ食堂をはじめると、もっと違う読み方ができるのではないかと思います。私は5000人の食事を想像すると、今こひつじ食堂で一緒にしている食事と重なってくるのです。

たしかに聖書の言葉は人々の心の活力になるでしょう。私にとってはそうです。でも私はこひつじ食堂を始めて、言葉だけではない、食べ物を分かち合うことが、どれほど多くの人の励ましになるかを知りました。1食の食事を分かち合うことの喜び、力強さを知りました。

ここで注目をしたいのは、マジックのように食べ物が増えた、あるいは言葉を聞いて満たされたということではありません。ここで注目をしたいのは、食事を分かち合う、一緒に食べるということを通じて、人々の心、体、関係など様々なニーズが満たされていったということです。今日この個所を、食事を分け合った、一緒に食べたということを強調点として見てゆきたいのです。みんなが一緒に食べて、元気になったこと、それは奇跡によってパンが増えたことよりももっと大切なことではないかと思うのです。

食べ物の分かち合いによって、5000人のにぎやかな食事によって、おなか一杯、楽しく食事をした人々はもう一度、生き生きと歩んだでしょう。励まされて、自分の元いた場所に心の余裕を持って戻ったでしょう。ストレスが解消されたでしょう。もしかするとストレスからくる病気がすこし良くなったという人もいたかもしれません。

もちろん増えたパンも気になります。しかしそれももしかすると、私たちの食堂から考えると、人々が持っているパンを分け合ったのではないかと思えてきます。私たちの食堂がそうであるように、どこからか余っている食べ物が届けられたのではないかと思うのです。

13節にはイエス様が「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言ったとあります。この食事の主催者はイエス様です。イエス様がこの食事をするようにと弟子に命じました。それがこの食事の始まりでした。すべての始まりはイエス様の言葉です。イエス様はみんなばらばらに食事をするのではなく、全員で食べようじゃないかと言いました。弟子の役割はそれを準備することだとイエス様は言います。イエス様のこの言葉からこの食事は始まったのです。この言葉は2000年前の言葉です。でもこれは私たちへの言葉でもあるでしょう。「あなたたちが準備しなさい」これがこひつじ食堂のルーツです。

そしてここにはイエス様の招きも記されていると思います。イエス様に従った人々は自分の食べ物すら持たずに従った人でした。着の身着のまま従った人でした。準備の無い人が食事の輪の中に招かれたのです。神様とはそのような招きをするお方です。神様は準備のない人、持ち合わせのない私を、無条件に食堂に招いてくださるお方です。

14節には「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」とあります。この5000人はもともとバラバラの5000人でした。しかしバラバラだった5000人はイエス様の指示によって50人ごとのグループにされます。イエス様はお互いの顔が見えるグループに分けます。そしてそこに座らせるのです。50人は互いがおなかが空いているのを表情から知ったでしょう。名前の知らいない人と名前を教え合ったでしょう。50人の中にかつての友人を見つけ、共通の友人を見つけたでしょう。そうしているうちに奇跡とも言える分かち合いが起きたのです 。

このように神様は、準備の不十分な私たちを、招いてくださるお方です。そして一緒に向き合い、食事をするようにと命じます。弟子が準備するようにと命じます。私たちは顔を見て、分かち合い、一緒に食事をし、互いに励まし合います。そしてお互いにまた力を受けて、それぞれの場所へと戻るのです。私はそのような姿が、5000人の食事でも、こひつじ食堂でも起こっていると思います。

16節には「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」とあります。今日の個所は主の晩餐として行われていることは明白です。「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」とあるのは、主の晩餐の際によく使う表現です。イエス様はこれを主の晩餐として持ちました。

この5000人の食事が主の晩餐だとするなら、私はすべてがつながります。5000人の食事と、こひつじ食堂と、主の晩餐がすべてひと続きのものとしてつながります。実は私たちがしているこひつじ食堂は、5000人の食事であり、主の晩餐なのではないでしょうか。あるいは逆に、5000人の食事や主の晩餐とは実はこひつじ食堂の様な食事だったのではないでしょうか。私たちの食堂は、主の晩餐がルーツだともいえるのではないでしょうか。

今日私たちもこのあと主の晩餐式をもちます。久しぶりに小さなパンとぶどうジュースを皆さんと分かち合います。これから持つ主の晩餐はまさに5000人の食事の出来事です。そしてこひつじ食堂とも似た出来事です。今日それをともにいただきましょう。

私たちは今、イエス様から主の晩餐に招かれています。これを食べる・飲むことによって、バラバラの私たちは、顔の見える、分かち合いの関係の中に入ります。イエス様のもとで分かち合う5000人になります。50人になります。共に食べることによって、こひつじ食堂のように、励まされ、またそれぞれの場所で力強く歩むようになるのです。もしかしたら、このことで病気が楽になる、治る人がいるでしょうか。

私たちの教会では、パンと杯は、バプテスマ(洗礼)を受けたクリスチャンの方とともに食べるとしています。しかし私はいつか17節「すべての人が満腹した」とあるように、すべての人に加わって欲しいと願っています。イエス様はすでに招いておられます。一人でも多くの方が、これに加わって欲しいと思っています。賛美の後、ともに主の晩餐をいただきましょう。私たちは一緒に食べる教会として、地域と共に歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「はじめての教会」マルコ1章16節~20節

 

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

マルコによる福音書1章17節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもをたいせつにする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

先週はイースター礼拝を持つことができました。宣教でマルコの最終章が1章につながっているということを見ました。イエス様のガリラヤの姿を見ることで、私たちは復活の主に出会うことができるのだと、聖書を読みました。ですから今日はマルコ1章のガリラヤのイエス様と弟子の最初の出会いを見てゆきたいと思います。

教会には絶えず、新来者、初めてこの教会の礼拝に来たという方がいます。多い時期、少ない時期があります。4月は比較的多い時期でしょうか。わたしたちはこどもを大切にする教会ですが、たいせつにするのはこどもに限りません。こどもをはじめ、すべての人を大切にする教会です。初めてきた人も大切にする教会です。

見知らぬ場所、見知らぬ人に会うのはとても緊張して、勇気がいるものです。初めて教会に行くという時、あらかじめ電話をしてきて「自分なんかが行ってもよいのか」と確認する方も多くいます。初めての場所、特に宗教がらみとなれば、当然いろいろな不安があるものです。よく聞かれることは、私も行ってよいのか?どんなことをするのですか?どんな服装でいけばいいのか?お金はいくら払ったらいいのか?と聞かれます。

私は、準備は必要ない事、緊張しないで、手ぶらで普段着でお越しくださいと伝えるのですが、どんな言葉をかけられても、見知らぬ人の集まる場所に行くのは、とても緊張するでしょう。興味はあるけど、入る勇気はないという人はたくさんいるものです。教会はそのような方たちを温かいまなざしを持ってお迎えしたいと思います。よくある失敗は「あなたの名前は?お住まいは?家族は?仕事は?」と質問攻めにしてしまうパターンです。初めての方を知りたいと思う気持ちで、悪気はないのです。しかし聞かれた側としては「その前に、あなたは誰ですか?」と感じるものです。私たちは教会の中で、相手が自分のことを知っている前提で話をしてしまうものです。

私たちはまず自分から自己紹介しましょう。「私は平野と言います、豊原町に住んでいます。こどもが2人います。牧師をしています。今日はよろしくお願いします」そんな風に声がかけられたら良いと思います。聖書や讃美歌を開くというのも、お手伝いください。初めはページ数を言われても開くことができないものです。そっと前後左右に座った方に教えてあげるようにしてください。

私たちは初めて来た方も大切にする教会です。見知らぬ人の中にいて、不安に思う人を大切にする教会です。今日はYouTubeで、来ることを不安に思う方、来るのに勇気がでないという方も見ているでしょうか。その方たちに伝えたいのは、あなたはここにいて、ここに来てOKということです。すべての人がこの礼拝にくるのにふさわしい人です。失敗はありません。とにかくこの時間を一緒に過ごしてくれればOKです。ぜひ一緒に礼拝しましょう。

話が難しくてわからなかったと思うかもしれません。大丈夫です。周りの方はわかったような顔をしていますが、意外とわかっていないものです。牧師自身もそうです。わかったような話し方していますが、わからないことがたくさんあるまま話をしています。とにかく私たちは聖書の事もお互いの事も、わからないながらも、この場所にいよう、人生を一緒に歩もうとする集まりです。少しずつお互いと、神様の事を知ろう、そんな集まりです。どうぞゆっくりと、一緒に過ごしましょう。そんな気持ちで今日、礼拝を共にしましょう。

今日は聖書から、イエス様のこと、全部わかるわけではないけど、私たちは神様に招かれているということ、そしてイエス様と一緒に歩みましょうということを聞きたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日はマルコ福音書1章16節~20節(新約聖書61ページ、後半三分の一あたりの61ページ、小さい16という番号からの箇所)です。イエス様が四人の漁師を弟子にするという場面です。

先週は、マルコ福音書には大事な復活のありさまが書かれていないということを見ました。今週も肝心なことが書いていないと思います。それは弟子たちの葛藤です。弟子たちはこんなにあっさり、見知らぬ人について行ってしまったでしょうか。初めて会った人について行くのに葛藤はなかったのでしょうか。多くの人は教会に初めて来るということに、とても慎重です。しかし、この人たちは初めて出会った見知らぬ人についていくということに一切の迷いがありません。それ以外にも仕事辞めて大丈夫なのか?家族は置いて行って大丈夫なのか?いろいろと疑問に思います。

今日の個所にはそのような心配や不安や葛藤、イエス様について行く際にあっただろう途中経過が一切書いてありません。葛藤したけれども従うことにしたのだという記載の方が、力強い印象を与えるはずです。しかしそれは書かれていません。見知らぬ人に声をかけられ、ついていってしまう危険な話です。

経緯が記されないでいると、印象に残るのは、やはり直前の言葉です。それは「私についてきなさい」という言葉です。「ついてきなさい」という言葉は、聖書のもともとの言葉をみると「一緒に歩む」という意味のある言葉です。つまり「ついてきなさい」とは「一緒に歩もう」という意味です。イエス様は見知らぬ人として4人の前に突然現れ「一緒に歩もう」と言うのです。

「人間をとる漁師になろう」とは少々乱暴な印象を持つ言葉ですが、人間に罠をかけて捕まえるような強引な布教をするということではありません。「たくさんの仲間を作ろう」という意味です。私たちはイエス様の網の中にある、元気な魚です。4人はこのような出会いをしました。ある日突然、仕事をしていると、見知らぬ人が現れて「一緒に歩もう」と言われるのです。そしていろいろ都合があったのだけれども、一緒に行ってみようと決めたのです。

イエス様はそのように弟子たちに現れたお方です。まずイエス様は、イエス様の方から会いに来てくださるお方です。何の準備もないもない、知識もない者に声をかけるのです。イエス様の方から弟子にならないかと招くのです。私たちは一生懸命、教会に来る、イエス様に従うために一生懸命ですと思うかもしれません。でも神様は私たちに、神様の側から会いに来てくださるお方です。

イエス様は私たちに、そのように現れるお方です。神様は最初は誰にとっても、名前も知らない人です。見知らぬ人です。でもその方に「一緒に歩もう」と誘われ、一緒にいるようになるのです。そして一緒に歩むことで、毎週少しずつ、神様のことがわかるようになるのです。私たちは神様の事よく知らないかもしれません。いろいろな準備ができていなかもしれません。でも神様が、神様の方から私たちに現れてくれるのです。私たちが知らなくても、準備できていなくても神様は私たちに現れくださるのです。

そしてイエス様が現れる場所も見ておきたいと思います。イエス様はなんと仕事中に突然現れるのです。神様は日常生活の中に現れると言えるでしょう。イエス様が私たちに会いに来てくださるのは、教会や神殿や、パワースポットだけではないのです。神様は私たちの日常に現れるお方です。職場や毎日いる場所に現れるのです。神様はそのように自分を現わすお方です。私たちはそれぞれ1週間過ごす場所で神様に出会うでしょう。職場や学校や、デイサービス、日々私たちの行く場所に神様は現れるのです。

それは職場の同僚や上司、友人知人、一緒に過ごす人を通じてとも言えるかもしれません。出会う人の輝きや、痛みや苦しみを知り、神様がきっとここに働くと感じことになるでしょう。神様は私たちの毎日にそのようにして、誰かを通じて現れて下さるお方でもあります。

そしてもうひとつ見ておきたいのは、神様は特別な人に現れるのではないということです。神様は当時ありふれた職業だった漁師に現れました。知恵と理解力とパワーのある人に現れたのではありません。労働者に、普通の人に、ごく一般人に、私に現れるのです。初めての人にも現れるのです。それが神様の選びです。神様は偉い人、賢い人を選ぶのではありません。神様の温かいまなざしは毎日を生きる私たち、全員に注がれているのです。

「ついていく」という言葉をすなわちそれは教会の奉仕を頑張ることだ、牧師になることだ、そう理解されてきた歴史もあります。もちろんそういう事も含むでしょう。しかしそれだけではないはずです。毎日の生活の中で、神様は私に、私たちに「一緒に歩もう」「仲間といよう」そう呼びかけておられるのです。

神様はこのようなお方です。神様は見知らぬ私に突然、出会いに来て下さるお方です。神様は私の日常に出会いに来てくださるお方です。神様は特別な人にではなく、あなたを、私を選ぶお方です。

今日、私たちはそのイエス様に「一緒に歩もう」と呼びかけられています。私たちはそれに応えてイエスさまと一緒に歩みましょう。この仲間と共に歩んでゆきましょう。神様は私たちの日常に、先に、すでにおられるお方です。先週見た「先にガリラヤへ行かれた」とはそのような意味です。私たちの主は、私たちの日常に先に行っておられます。今週もそれぞれの場所で、共に主イエスと出会ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「終わりじゃない、終わり」マルコ福音書16章1節~8節

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』マルコによる福音書16章7節

 

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音をたくさん聞きながら共に礼拝をしましょう。そしてイースターおめでとうございます。イースターを共に祝うことができること感謝です。

何より転入会が起こされたことを大変うれしく、歓迎します。証しを聞きました。17という数字もこの出会いきっかけでした。家族で過ごした最後の17日間。命日だった3月17日。そして私たちの信仰告白の日付が3月17日でした。そして今日は4月17日。そして今日は初めて来たクリスマスから17週間後。今年は初めて教会に通ってから17年目だそうです。不思議なめぐり合わせです。

信仰を改めて強く意識したのは、お連れ合いの死に直面した時だったでしょうか。お連れ合いを天に送ってしばらくは活力がわかない日々が続いたそうです。しばらくして、このままではいけないと思って、そして不思議に予定が巡り合わされこの教会へと導かれました。

誰かの死は人を大きく変えると感じます。特に親しい人の死は私たちの心を大きく動かします。死は人を悲しませ、人の気力を長く奪います。しかし同時に死は、人を動かします。遺された者の生き方を変えるのです。私たちは誰かの死に突き動かされることがあります。

2つの意味で死はスタートです。ひとつは天に召された人にとって、神様のもとでの歩みを始めるスタートです。そしてもうひとつは、地上に残された者たちにとっても、新しいスタートになります。私たちの大切な人の死は、私たちを立ち止まらせます。でもそれはスタートになります。新しい歩みのスタートになるのです。私たちは誰かの死、あるいは自分の死で終わるのではありません。そこから新しくスタートする歩みがあるのです。終わりと思う場所は、終わりではありません。それはスタートにつながっているのです。

終わりの様に見える死も、終わりではありません。お連れ合いは最後に「また、会おうね」と天に召されていったそうです。終わりの様に見える死は、終わりではありません。その証しをこのイースターに聞くことができたのは大きな喜びです。

今日の聖書個所も特に「これは終わりじゃない、スタートなのだ」そのように言える個所です。今日の個所はもう一度スタートをしたくなる、そんな終わり方をしています。それは「終わりじゃない終わり」です。この個所は終わりの様で、始まりなのです。今日見たいことは、復活の主は、終わることなく、私たちに繰り返し、出会ってくださるということです。共に聖書を読みましょう。

 

今日の個所を読みましょう。今日はマルコ最終章16章の1~8節です。聖書がお手元にある方は開いて見て下さい。9節以降には人々がどのように復活の主と出会い、宣教へと派遣されてゆくのかが描かれています。特に「結びの二」の個所を見ると、素晴らしい終わり方だと思います。イエス様が現れて弟子たちは朽ちることのない福音を広めていったと書いてあります。めでたしめでたしのハッピーエンドです。

しかし、実は9節以降を見ると〔カッコ〕でくくられています。ひとつ目のカッコは9節~20節まで、そして二つ目のカッコは結びの二の個所です。聖書の言葉がカッコでくくられている意味は、当初は聖書に書かれていなかった文章で、後の時代の人が後から付け加えた文書だということを示しています。聖書のオリジナルの言葉ではなないのだけれども、後から付け加えられ、聖書と同じように読まれてきた箇所という意味です。聖書なのかどうか、すこし曖昧な箇所でもあります。ここで2つのカッコがあるのは3通りの結末、いろいろな終わり方があったということを示しています。

一つ目はオリジナルです。8節で終わる終わり方です。2通り目は後の時代の人が20節までを付け加えた終わり方です。そして3通り目は、8節の後に結び二を付け加えた終わらせ方です。3通りの終わり方がありましたが、いずれにしても当初はこの8節まででマルコ福音書は終わっていました。

マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたと考えられます。だとするとどのような意味がそこにあるでしょうか。お手元に聖書がある方は9節からを手で覆って、隠してみてください。そうするとわかることは、もともとのマルコ福音書は復活のありさまについて記していないということです。8節は女性たちが恐ろしく思ったということで終わっているのです。イエス様は復活しないで終わります。もしここで福音書のドラマが終わるとしたらどんな印象を持つでしょうか。とても唐突な終わり方に感じます。後の時代の人の中に、こんな終わり方ではよくないと思って、話を付け加えた人がいました。確かに結びの二の方が終わりにはふさわしいでしょう。しかし福音書の著者はあえて8節で終わらせたのです。

もちろん著者は復活の出来事を知っていたはずです。しかしあえてそれを書いていないのです。あえて肝心な部分を書いていないのです。これでは結末として不十分ではないでしょうか。まるで終わり方の中途半端なドラマを見ているようです。え、ここで終わり?と感じるのです。大事なことが書かれていないのです。

しかし8節で終わることはまさしく、マルコ福音書の著者の狙っていることだと思います。え、ここで終わり?ここで終わりではないよね?そう思わせるために、途中で終わらせたのではないでしょうか。

著者は、復活の事をよく知っていたにも関わらず、復活がどのように起きたのかを詳しく描写することをあえて辞めました。この後何が起きたのかを詳しく書くのをあえて辞めたのです。復活をわざと描かなかったのです。

このようにあえて中途半端にマルコ福音書が終わっているとしたら、最後に印象に残るのは何でしょうか。それは終わる直前でしょう。白い長い衣を着た若者が言った7節の言葉が印象に残ります。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という言葉です。

マルコはイエス様がガリラヤに先にいっているという印象を残して終わっています。それ以降は描かないのです。弟子も何も行動を起こさないのです。なぞはなぞのまま終わり「イエス様はガリラヤに先にいる」という事だけが示されて終わるのです。

テレビドラマだとしたらこの最終話は視聴者を混乱させます。視聴者は不思議に思ってもう一度見返すでしょう。それがドラマ制作者の狙いです。ドラマの制作側からのメッセージは、このドラマの意味を分かるには、もう一度第1話から見てくださいというものです。

つまり「ガリラヤに行かれた」という終わり方は、これまでこの福音書に書かれてきた、ガリラヤのイエス様とはどんな人だったのかをもう一度見るように、そう促しているのです。イエス様が地上でどのように生きたか、1章からもう一度見よと指し示しています。ですからこの16章8節は1章1節へとつながってゆきます。「イエス様は先にガリラヤに行っている」という姿が終わりで指し示される時、私たちはもう一度、イエス様のガリラヤの歩みを読むように促されているのです。

ガリラヤのイエス様の姿を思い浮かべます。イエス様はガリラヤで貧しい人と共にいました。ガリラヤで病を負った人と共にいました。寂しさを抱える人と共にいました。ガリラヤで差別をされる人と共にいたのです。弟子と一緒に食事をしました。罪人と一緒に分け隔ての無い食事をしました。その姿を私たちはもう一度読みます。そしてきっと私とも共にいてくださるだろうと気づくのです。

再びイエス様の地上の歩みを読む時に、十字架のイエス様がガリラヤでどのように歩んだかを知る時、イエス様の姿が、私たちの心の中にもう一度、生き生きと浮かびます。共にいると感じることができるのです。もう一度イエス様と出会うことができるのです。

私たちは今日、そのことを「イエス様は復活した」と呼ぶことはできないでしょうか?

十字架を知った私たちが、もう一度ガリラヤのイエス様の姿を知る。私たちはそのことを私たちの中にイエス様が「復活」したと言うことはできないでしょうか。十字架で終わってしまった、弟子たちも怖がって終わってしまった物語です。しかしそこから私たちがもう一度ガリラヤのイエス様の姿を読むとき、イエス様は復活し、私と共にいる、そう感じることはできないでしょうか。

今日私たちはマルコ福音書を16章まで読み進めてきました。でも私たちは今日からまた繰り返し、聖書を読み返してゆきたいのです。イエス様の復活を聖書の中に見つけてゆきたいのです。そのような意味で、今日の個所は終わりじゃない終わりです。終わりですが、スタートの日です。今日の最終章は終わりではありません。ガリラヤのイエス様の姿を指し示しています。もう一度ガリラヤのイエスを見よと指し示しています。そしてもう一度読み直す時、あなた自身が主イエスの復活に出会うだろうと指し示しています。「復活の主はガリラヤに先におられる」とはそのような意味ではないでしょうか。

今日、私たちはイースターを迎えています。新しいスタートをした仲間をうれしく思います。そして、終わりは終わりじゃないと感じます。終わりはスタートにつながっています。ガリラヤの姿、復活へとつながっているのです。

今日の個所に復活のありさまは書かれていませんでしたが、すでに、先に、復活の主イエスは聖書の中に、ガリラヤの姿に記されています。神様はそのようにして、私たちを、復活の主と出会わせて下さいます。ガリラヤに先におられるのです。終わりとスタートは結び付けられているのです。今日、共にその主の復活、スタートを喜びましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「十字架に向かう神」マルコ14章32~42節

イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14章33~34節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることをうれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、泣き声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。私たちは受難節の中の受難週、イエス様が十字架へと向かってゆく姿を覚える時を迎えています。

そして毎日ウクライナのニュースに心が痛みます。特に心が痛むのは、戦闘機やミサイルが狙っているのは、軍事施設ではなく幼いこどもや、病院にいる人を標的にしていることです。こどもたち、病院にいる人たちが戦争の中に置かれた恐怖を思うと、押しつぶされるように心が痛みます。

ウクライナでは自分の死を目の前にして、眠ることができない人がいるでしょうか。死の恐怖の中で、祈る人がいるでしょうか。私たちはそのような恐怖を感じている人と同じ世界に住んでいます。彼らが恐怖で眠れない時、私たちは毎日静かに眠っています。私たちの肉体は弱いものです。祈りが続かないものです。しかし今は、祈りたいと思っています。イエス様が待っているようにと言ったあの時は寝てしまったけれど、今私たちは現実をしっかり見て、祈り続けたいと思っています。

私たちもこの戦争に恐怖を感じています。それは次は私に爆弾が飛んでくるかもしれないという恐怖ではありません。私が今、もっとも恐ろしいと思うのは、人間はこのような戦争を起こすことができるということです。人間とはこのように人間を殺すことができるのかということに驚き、恐怖を覚えています。戦争の恐ろしさとは、人間が戦争によって、このように人間を殺すことができるということです。戦争を起こす人間そのものに恐怖を感じます。

このような戦争を見る時、私たちはいつも神はどこにいるのか、神は今何をしているのかを問いたくなります。いったい今神はどこにいるのでしょうか。早くこの戦いを終わらせてくれないのかを問いたくなります。

しかし神様はまだ今日もこの戦いを終わらせてはくれません。神様は沈黙しておられます。私はそこにも恐怖を覚えます。人間がどんなに残酷な戦争をはじめても、神様は止めて下さらないのです。私たちがどんなに平和を祈っても、神様は沈黙しておられるのです。そのような中で、神様がどこにいるのかを聞きたくなるのです。神様はこの状況に沈黙している、神様はいないのではないかと恐怖を感じるのです。

一方、今日の個所から思い出すことがあります。それは、私たちの神様は苦しみのただなかにおられる神様なのだということです。私たちの神様は、苦しみもだえ、祈る神様なのです。神様は苦しみを避け、死を避けてゆくのではありません。十字架に向けて、ご自身から向かい、そのただなかにおられるのが、私たちの神様なのです。

私たちの神様は、私たちが「神はどこにいるのか」「神などいない」と思う、その場所におられます。その苦しみの中心に、神はいないと思うその中心に、神様はおられるのです。そのことを今日、覚えたいのです。そして神様がいる場所に、私たちも目を向けたいのです。苦しみのある場所、苦しむ人のいる場所に神様おられます。そこに心を向けたいのです。共に、目を覚まして祈りたいのです。今日の聖書箇所を一緒にお読みしましょう。 

 

 

今日の個所で、イエス様は33節ひどく恐れてもだえ始め、34節「死ぬばかりに悲しい」と語っています。私たちが従おうとする神様は苦しんでいます。神様はこのように苦しむお方なのです。でも、なぜイエス様はこの場面で苦しみもだえ、死ぬばかりに悲しむのでしょうか。実はその理由ははっきりしません。

弟子たちが眠っていて、一緒に祈ってくれないから悲しいというのは、この後の37節の出来事です。イエス様は弟子たちが眠ってしまった、祈っていない以前から、すでに苦しみ、悲しみを持っているのです。ですから弟子たちの弱さが、悲しかった、苦しかったのではありません。

ではやはり、自分が死ぬということが悲しかったのでしょうか。それももちろんあるでしょう。この後の十字架によって自分が死ぬということはとても怖かったのでしょう。何度も自分は死ななければならないと語り、その運命を知っていたとしても、それは近づけば近づくほど、もだえ、苦しむほど恐ろしかったでしょう。

しかし今日私はイエス様の苦しみは、ただ自らの死の恐怖や、孤独だけではないと思います。自分の死や、孤独だけがこの悲しみ、恐怖の原因ではないでしょう。その悲しみは個人の痛みではなく、もっと深い痛みであったと思うのです。イエス様の悲しみをもっととらえたいのです。

おそらく、イエス様の深い悲しみは、この死が一人の人間の死ではないということと関係するでしょう。これから起こる死は、神に最も愛された人の死であり、御心にかなう人の死であり、救い主として地上に遣わされた人が殺される死です。それは神の子の死です。神ご自身の死でした。

十字架が目前に迫っている今、人間は神の子を殺そうとしています。神を殺そうとしています。人間にはそのようなことができるのです。人間は戦争であのような残酷な攻撃ができるように、神をも残酷な十字架につけることができるのです。イエス様はそのことに恐怖を感じたでしょう。自分が殺される、仲間は祈ってくれないということ以上に、人間が神の子さえも、救い主さえも殺そうとしている、その人間に恐怖を感じたでしょう。

イエス様は人間の身勝手さ、残酷さに恐怖を感じているのではないでしょうか。人はこのように残酷になることができるのです。人間が殺すことができるのは、人間だけではないのです。人間は神すら殺すことができるのです。人間とはそのように、恐ろしい存在です。イエス様はその人間の罪の大きさを感じ、ひどく恐れてもだえ始め、死ぬばかりに悲しんだのでしょう。そして、もう一つイエス様が恐ろしいと感じたことがあったと思うのです。それはこの状況になっても、神様が何も語らないということです。恐ろしいことに神様はイエス様の祈りに対して、ずっと沈黙をしているのです。イエス様は36節で苦しみを取り除いて欲しい、でも御心が叶うようにと祈っています。イエスは神様に必死に祈りました。地面にひれ伏してまでも祈りました。神の御心が叶うようにと祈ったのです。

しかし神様はイエス様に何かを応えたのでしょうか。今日の個所には神様の発言は記されていません。神様はひたすら沈黙を続けてゆきます。その沈黙は十字架までずっと続きます。イエス様が「わが神、わが神、なぜあなたは私を見捨てるのか」そう叫んだときも、神様の声は聞こえませんでした。神様は沈黙しておられたのです。

イエス様がもっとも恐ろしかったのは、神様がずっと沈黙をしていることだったのではないでしょうか。大きな困難が迫っている。でも私に向けて神様は直接話しかけたり、救い出したりしてくれないのです。神様これでいいのでしょうか。これが御心なのでしょうか?その問いに神様は答えないのです。そして同じように、私たちも神様の声を聞いたりすることは少ないでしょう。

では神様はいないのでしょうか。どこにいたというのでしょうか。私たちは知っています。神様は十字架の上にいたということを知っています。神様はもだえ苦しみ、死んでゆくものとして、十字架の真ん中におられたのです。私たちはそのことを知っています。

神様はそのようにして沈黙し、苦しみます。神様は沈黙し、その苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、十字架で死んでゆくのです。神様の声は聞こえなかったでしょう。

でも神様は確かにそこに、十字架にいたのです。それが私たちの神様です。私たちの神様は苦難の時、恐怖の時、痛むとき、声はしなくても、共にいる、その苦しみの真ん中に共にいるのが神様なのです。十字架はそれを表しています。

今、私たちの世界で、最も痛み、もっとも恐怖を感じているのはウクライナの人々でしょう。人間は残酷です。神様はどこにいるのでしょうか。神様の声と業で戦争が止まらないでしょうか?それは今日まで起きていません。

しかしそのような現実にあって、神様はどこよりも、ウクライナの人々と共におられるでしょう。ウクライナの攻撃された病院のがれきの下におられるでしょう。戦争に恐怖を感じ、傷ついたこどもたちと共におられるでしょう。未来を見渡せなくなって悲しむ人々と共に神様はおられるでしょう。戦争の中で神様はどこにいるのかと叫ぶ時、その真ん中におられるでしょう。

神様はそのように苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、あるいは共に死んでゆくお方です。声は聞こえなくもと、神様はそこに確かにおられます。それがイエス様の十字架が示していることです。

一方、神様がいない場所があります。それはどこでしょうか。それは墓の中です。神様は墓の中にはおられません。墓にとどまらず3日後に復活をしたのです。それは地上の悪や罪、人間の残酷さが、勝利しないことを示しています。

神様はもだえ苦しみ、死んでゆく命を、蘇られせるお方です。命は墓に閉じ込めておくことができません。戦争は、暴力は人を殺すことができない、命は永遠に続く、そう神様は示したのです。

神様はこのように、沈黙しながら、苦しみもだえ、そして苦しむ人と共にいるお方です。苦しむ私たちと共にいるお方です。私たちもそうありたいのです。私たちも苦しいけど、苦しい人に目を向けてゆく、目を覚まし祈ってゆきたいのです。

今日の最後の個所42節でイエス様は「立て、さあ行こう」と言います。イエス様の目的地は十字架です。「十字架にさあ行こう」と、イエス様は弟子たち、私たちに語っています。十字架に行こう、それは共に苦しみの道を歩もうということでしょう。そして苦しみを感じている人に目を向け祈るということでしょう。イエス様は立って、十字架に行こうと促しています。私たちはその主イエスに従い、目を覚まし、祈り続けましょう。お祈りします。

 

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【全文】「神は計画を変える」マルコ9章2~10節

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。マルコ9章2~3節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。特に今日は礼拝に集い、また賛美を再開することができてうれしいです。久しぶりに声を合わせて賛美することができる恵みを感じています。

先週はお休みをいただきありがとうございました。また教会の働きに励みたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

今日から新年度に変わります。今年はいよいよ教会にとって大きな一歩を踏み出してゆく年になるでしょう。特に地域と共に働く、地域協働、こひつじ食堂の広がりを大切にしたいと思っています。地域と共に、地域の中で歩む、一緒に食べることを大切にしてゆきましょう。

私たちの始めた「こどもプロジェクト」は大きなうねりになってきています。私たちが自分の予定を変えて、他者のために動き出すとき、大きなうねりが起こりました。私たちは自分のためではなく、他者のために、特にこどもたちのためにこれからも歩んでゆきましょう。

新年度、新しい計画を始める前に確認しておきたいのは、物事を進めてゆく時には必ず紆余曲折があるということです。計画には浮き沈み、うまくいく時とそうでない時があるものです。

そして元の計画は必ず変更になります。問題が出てくるたびに、いちいち右往左往し、三歩進んで二歩も三歩も下がります。一つの問題を解決すれば、別の問題が出てきます。最後に完成した姿を見ると、最初の計画とは似ても似つかない、違うものになっていたということはよくあることです。

現状とは案外、いろいろなバランスがとれているものです。それを変えようとするとき、様々な場所でバランスが崩れるはずです。だから現状維持が楽です。でも一歩歩み出したい、これまでと違う一歩、できなかった一歩を歩みだしたいと思っています。「計画はコロナ次第で変わります」という事も増えました。教会の計画も、人生の計画もコロナ次第で、振り回されています。あえて良かったといえる事は、計画が変わることに慣れたことでしょうか。期待しすぎないこと、今できなくても必ずいつかできること、それを待つことができるようになりました。必ずできると信頼して待つことができるようになりました。

計画というのは直線的であっても、実施は柔軟な曲線のようなものになるでしょう。私たちが祈るのは、計画が私たちの考えた通り、まっすぐ直線的に実現されることではありません。この計画に神様の力が働いて、変えられて、私の計画が曲げられて、神様の計画が実現されてゆくことを祈りたいと思っています。

新年度、一人一人の人生の計画も残念ながら思い通りにはいかないこともあるでしょう。思い描いていたこと、一直線に描いた計画は、思っていたものとは違うものになるでしょう。でも変化を受け止めてゆくことが大事です。私の計画は実現しないかもしれないけれど、神様の計画が実現してほしい、そう祈って歩みましょう。

私たちの人生でも最後に目にするのは、最初に私が願っていたのとは違うものかもしれません。でも神様の計画はきっとそのように実現します。神様の計画が実現することを祈ってゆきましょう。そして計画が変えられる時、その中で神様がいつも共にいてくれることを忘れないでいましょう。

今日は私たちの人生には良いときも悪いときも、神様がいつも共におられることを見ます。そして神様は私たちの計画を変えながら、導いてゆかれることを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。 

 

 

今日の個所は「キリストの変容」と言われる箇所です。3節でイエス様は、山の上で真っ白に輝きだします。その白さはどんな人間の力さえも超える白さでした。この場面は、イエス様の地上の人生で、もっとも神の栄光を受けている、まさしく輝いている瞬間と言えるでしょう。イエス様はイスラエルの偉大な預言者モーセとエリヤと話をしています。イエス様がただの人間ではない、神の子であるということが、示されています。

受難節にこの栄光に包まれるイエス様の姿を読むとまた違った印象を持ちます。それは、今日の場面はイエス様の地上の人生でまさしく最も輝いている場面ですが、イエス様の人生は紆余曲折の連続だったということです。

紆余曲折を図にすると次のとおりです。イエス様が最初に地上に生まれたのは貧しい家畜小屋でした。それは、神と等しい身分に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられ(フィリピ2:6-7)た出

来事でした。しかしそのイエス様は今日の場面で、山の頂に登り、偉大な預言者と並んで、神の栄光を受けています。そしてこの後、十字架にかかり、さらに復活をするのです。イエス様の歩みはこのように紆余曲折するのです。

この紆余曲折はすべて神様によって起こされた事です。家畜小屋も十字架も復活も、すべて神様が起こしたことです。そしてもちろん今日の変容も神様が起こしたことです。2節にはイエス様は「変わった」とありますが、ここは正確に翻訳すると「変えられた」という訳になります。このような表現を神的受動態といいます。神によって〇〇されるという表現です。イエス様は自分で変わったのではありません。神様から力を受けて「変えられた」のです。神はこのように人を変えるお方です。地上へと遣わし、変化させ、苦難をとおし、復活へと導くお方です。

そして神様は7節で雲の中から「わたしの愛する子、これに聞け」と呼びかけます。それは輝く姿を見たかどうかではなく、その言葉、聖書の言葉をよく聞けということでしょう。み言葉を聞きないさいと言われています。

変えられたイエス様は、山頂にそのままずっと留まったのではありません。この後イエス様は山を下ります。そして14節からは病気を持った人に出会ってゆくのです。そのように人間と苦難を共にしながら、十字架へと向かってゆきます。十字架に架けられて、どん底と思える無残な死に方をしてゆくのです。そしてその後にはイースター・復活があります。再び神の栄光を受けるときが来るのです。

このようにイエス様の人生は紆余曲折します。上下し、大きく揺れ動きます。それがイエス様の人生です。人間の計画が実現してゆくのではなく、神の計画が実現してゆくのです。私たちの人生も、教会の計画も紆余曲折してゆくでしょう。またコロナで何かが中止・変更になるかもしれません。もっとこひつじ食堂が広がってゆくかもしれません。私たちの計画も上下してゆくでしょう。神はそのように計画を変えて導かれるお方です。

今日、このような人生と計画が紆余曲折してゆくという場面でも覚えておきたいことがあります。それは、私たちの人生の紆余曲折の中にイエス様がいつも共にいるということです。一つ目の谷、イエス様誕生の出来事も、まさに神様が地上で人間と共にいるということでした。地上に生まれることによって、神様は私たちと共にいるお方になったのです。そして今日の個所からもそれを読みとることができます。イエス様は今日の場面によれば、一人で山に登ったのではありません。2節、弟子たちを連れて上ったのです。連れて行ったという言葉は聖書の言葉で、担ぎ上げること、運び上げることを意味します。弟子が一生懸命に登るのではかったのです。イエス様が弟子が引っ張って、連れて行ってくださったのです。神様が栄光の場所へと共に連れて行ってくださる、一緒に来て下さるのです。神様はそのようにして、人間にできないことを、計画にないことを見せて下さるのです。

この山頂の栄光は復活の栄光に似ているといえるでしょう。山頂の変容は、復活の先取り、予告ともいえるでしょう。神様は人間がたどり着けない、計画をしない事柄を起こすお方だということが示されています。私たちの知っている現実とは、違うことが神様の働きによって起こるのです。そしてそこへは神様が連れて行ってくださるのです。

イエス様の歩みをさらに追っていきましょう。9節には「一同が」山を下りるとあります。ここからわかるのは、その下り坂も弟子たちだけで行くのではなかったということです。イエス様は共に、山から下りてきてくださるお方です。それはイエス様がベツレヘムの家畜小屋に生まれてきてくださったことと似ているでしょう。人間の住むこの世界に、イエス様は私たちと共にいてくださる、下ってきてくださるのです。10節、弟子たちは下り坂の歩みで、論じ合いました。私たちが今見た栄光は何だったのだろうか、復活とはなんだろうか、意見を言い合いながら、山を下ったのです。私たちもそのように歩みましょう。つらいことが起こる時、人生の下り坂のとき、計画がうまくいかないと思うとき、神様はどんなお方なのか、互いの言葉を聞き合ってゆきましょう。その先にはきっと希望があるはずです。

このようにして神様は私たちと共にいて下さるお方です。人生の紆余曲折の中で共にいて下さるお方です。そして神様は、私たちの思う計画を変えるお方です。神様ご自身の計画を実現されるお方です。私たちの人生は、私たちの教会の計画は一直線に実現するのではないでしょう。神様が計画を変えるでしょう。

神様が私たちに与えた道はグネグネと曲がっている道です。良いことも悪いこともあるでしょう。一直線ではないでしょう。でも最後に希望があること、その時までずっとその道をイエス様が一緒にいて下さること、そのことを忘れないでいましょう。神様は私たちの思い描く計画を変えるでしょう。そして私たちと共にいて下さるでしょう。そのことを覚えてそれぞれの1年を歩みだしましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「もう十字架を背負わせるな」マルコ8章27~38節

 

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

マルコ8:34

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。受難節の時を共に過ごしましょう。ウクライナの戦争のことを、なかなか言葉にできずにいます。21世紀にこのような戦争が始まったことをどのように受け止めたらよいのか戸惑っています。どう祈ったらよいのかわからない気持ちでいます。

多くの人と同じように、ウクライナに武器をたくさん送って、ロシアをやっつけて欲しい、プーチンを倒して欲しい、そのように応援したい気持ちもあります。しかしそのような思いを持ちつつも、やはり私は非暴力の観点から、平和の観点から、私の信じているイエス・キリストの観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持することができません。「この状況で非暴力による解決が役に立つのか」という質問は厳しい質問です。自分たちの国土を守ると必死になっている人に、攻撃をするなと声をかけることは難しいことです。しかしウクライナ・ゼレンスキー大統領の、国のために全員が武器を取って戦おうという呼びかけは、私がもっとも反対してきた言葉です。全世界から武器を集めて戦おうとする姿勢は勇敢なヒーローに見えます。しかし、どのように平和を作るかはもはや議論されていません。お互いを一人でも多く殺すことにしか目標は置かれていないのです。

確かなことは、一度戦争が始まってしまうと、それを止めることは難しいということです。一度戦争を始めると、日本がそうであったように終わらせることはとても難しいのです。遅かれ早かれ私たちが考えなければいけないことは、この状況になる前にできることはなかったのかということです。こうなる前にまだたくさんのことが非暴力によってできたはずです。ロシアの言い分からすればロシアは歴史的にいつも西側諸国からの脅威を受けてきました。フランスのナポレオンに侵略され、ナチス・ドイツに侵略されてきました。もちろん、だからといって自分たちが侵略することは許されません。こうなる前に互いが脅威と感じる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったのではないかと思います。

しかしロシアやウクライナは、あるいは国際社会は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。殺し合って、負けた側が勝った側の言うことを聞くという方法を選び取りました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し、よりたくさん殺された方が、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。

多くの人の命が戦争、殺し合いにささげられています。どのような状況でも、戦争を支持すること、暴力を支持すること、それに協力すること、これは明白な間違えです。たとえ戦争の勝敗がついて、どちらかが勝利をしたとしても、平和は訪れません。家族が殺されたことは何世代にもわたって大きな憎しみを残します。戦争が終わっても、平和・シャロームは戻ってきません。貧しさ、憎しみ、復讐、テロが残されるでしょう。

この状況で何を祈るべきか戸惑います。しかし私がまずこの状況で祈りたいと思っているのは、ウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事です。多くのこどもたちの命が傷つけられて犠牲になっています。私がまず祈りたいのは、戦争にウクライナが勝つというような勝敗がつくことではありません。私が祈りたいのは銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲にされる人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。

新しい憎しみを生み出す戦争が一日も早く終わるように祈ります。そして避難する人々、命を脅かされている人に、食べるもの、着るもの、安全な場所、薬などの必要が満たされるよう祈ります。そして魂の平安が与えられるように祈ります。希望をもって生きることができるように祈ります。そして特にウクライナのこどもが大切にされるように祈ります。世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことができる様に祈ります。

都合の悪い者を殺し合うという暴力に反対し、犠牲とされる人々の痛みを覚えて、自分たちが何をすべきか祈りたいと思います。私たちは防弾ベストを送るのではなく、互いが平和に生きることについて支援ができなかを探し、祈りたいと思っています。私たちは受難節を迎えています。イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。

 

今日の個所にはイエス様の質問から始まった、弟子との激しい会話が記されています。そうです私たちとイエス様との関係は激しい葛藤の関係です。私たちとイエス様の対話は、暴力と戦争に満ちた社会の中で、どのように生きるべきなのかという激しい対話、葛藤なのです。そのような中でイエス様は27節で周りの人々はどのように言っているのかを聞きます。そして、あなた自身はどう思うかを聞きます。

戦争の事をニュースでどういっているか?各国はどんな立場を表明しているでしょうか。そしてあなた自身はどう思うでしょうか?そのように質問されることは葛藤を生むでしょう。私たちはその質問から、戦争から、自分の信じているものが何なのかを問われています。一人一人が葛藤の中でその答えを探したいのです。イエス様とペテロの対話はそのような葛藤の対話です。

31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス様が十字架にかかることが予告されます。しかしイエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。私たちの罪を贖い救うためでしょうか。この個所ではイエス様は人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのだ、それによって愛を示すのだという事は書いてありません。ここに書いてあるのはイエス様が十字架にかかるのは、長老、祭司長、律法学者から排斥されて、殺される出来事なのだということです。しかもそれをはっきりお話になったと書いてあります。イエス様の十字架は長老、祭司長、律法学者という権力者たちによって、起こされた殺人だったというのです。

34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。しかしイエス様ご自身に十字架を背負わせたのは誰でしょうか。それは長老、祭司長、律法学者という権力者たちです。権力者たちは、平和を求め、貧しい人たちに希望を与え、勇気付け、権力を批判したイエス様が邪魔でしょうがありませんでした。権力者たちにとってイエス様は非常に都合の悪い人物でした。だから権力者はイエス様に十字架を背負わせよう、殺そうと決めたのです。戦争と同じです。自分の都合の悪い者は、理由をつけて殺してしまえという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。十字架を背負わせるとは権力者にとって都合の悪い事を消し去るという出来事でした。そのようにしてイエス様は十字架を背負わされたのです。

私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。自分に都合の悪いからと言って、その人を犠牲にして自分たちを守ってはいけません。都合が悪いからといって十字架を背負わせ、殺してはいけません。戦争とはまさしく誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。戦争とは他者に十字架を背負わせることです。

十字架を背負わせられる運命にあるイエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。イエス様がペテロに言う「自分の十字架を背負う」とはどんなことでしょうか。

それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。あなたが誰かの犠牲になれということではありません。あなたは自分の十字架を自分で背負いなさい、誰かに背負わせてはならないということです。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。ペテロがもし自分の十字架を背負わず、それを誰かに背負わせるのだとしたら、彼は他者の痛みに目を向けない、他者の痛みを無視する人間となるでしょう。それが十字架を背負わないということです。自分の命だけを救いたいと思い、他者の命をないがしろにする人は、自分の十字架を他者に押し付け、背負わせるのです。イエス様は自分の十字架を背負えと言います。

プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。彼には人間性が欠けているのではないかと考えています。自分の命を失うことになるとは、そのようなことです。世界を手に入れたとしても人間性が失われるのです。たとえ世界を手に入れても、他者から奪い、殺し、押し付けて手に入れるなら、あなたの人間性は失われます。自分の十字架を他者に押し付けて、十字架を負わす者、誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。「自分の十字架を背負う」とは自分にとって都合が悪いと思う現実も受け止め、対話してゆくということでしょう。それを誰かに押し付けないということです。そしていま押し付けられている人に目を向けてゆくということ、連帯をしてゆくことが大事です。

命が傷つけられようとしている人、他人の十字架を負わされて痛む人が誰なのかを知ること、それが自分の十字架を背負うということではないでしょうか。イエス様はこのような暴力の時代に、暴力しか解決方法がないと言われる時代に、私の平和のことばを恥じるなと言います。今の私たちも残念ながら同じ時代に生きています。暴力でしか解決ができないと思われる時代です。そのような時代、イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。

ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。

 

【全文】「神と野獣」マルコ1章12~15節

 

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコ1章13節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。3月2日(水)から受難節が始まっています。改めてレント・受難節とは何かというと、キリスト教の伝統的な暦で、イースター、主イエスの復活の日の前の40日間を言います 。多くの教会ではこの期間をキリストの苦難、十字架を覚える時としています。そして40日間という期間は今日の個所から来ています 。

週報にも記載していますが40日間の間で転入会、バプテスマを準備する方、準備を始める方を特に歓迎する期間としようと思います。共にイエス・キリストの歩みを学び、クリスチャンとなる、この教会のメンバーとなる、その学びを受け付けています。希望される方はぜひご相談ください。

私たちにとっては誰かがバプテスマを受けること、転入会をすることは、私たちの信仰の仲間が増えることです。仲間ができることはとてもうれしく、また心強いものです。しかしクリスチャンになると私たちと同じ考え、同じ人間になるということではないでしょう。私たちは引き続き、それぞれ違う人間です。

私たちは同じことでも感じ方が違います。感じ方には間違いというものはありません。そして感じ方には正解もありません。同じようにこの交わりには間違いも正解もありません。だから私たちは、交わりによって相手を変えることを目的としていません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。ですから私たちはこの交わりに仲間が増えること、また異なるあなたが加わってくれることを心強いことだと思っています。どうぞこの交わり、信仰に加わってください。

また受難節はすでに私たちの教会に属しているという方にとっても、もう一度改めて信仰の決心をするのにふさわしい時でしょう。もう一度、この交わりの中で共に、主の道をスタートしてゆきましょう。

私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。勝手に相手を敵とみなし、同じになるように迫り、一部とし、力でそれを押し付けようとしています。

私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはより詳しい説明があり、私たちはその様子を想像するかもしれません。マタイ、ルカではイエス様は霊によって荒野に導かれ、悪魔からパンや繁栄についての誘惑を受けます。そしてイエス様はその誘惑に勝利し、悪魔が離れ去るというのがマタイ・ルカの物語です。

どの福音書でも共通しているのは、バプテスマを受けると苦難がなくなるというわけではないということでしょう。でも私たちはみ言葉によって励まされ、荒野と思える場所でも生きてゆくことができます。それがクリスチャンとして生きるということでしょう。

今日はマルコ福音書の特徴、40日間特徴を見てゆきます。まず12節には「霊に送り出される」とあります。この「送り出す」という言葉は本来「投げる」「放り出す」という意味です。イエスはどうぞどうぞと導かれたのではありません。荒野に放り出されたのです。バプテスマを受けてまず、苦難に放り出されてしまったのです。

マルコ福音書には他の福音書に書いていないことも多く書かれています。まずどのような誘惑があったのか書いていません。パンの誘惑、繁栄の誘惑もありません。そして肝心のイエス様が悪に勝利する場面が一切書かれていないのです。マタイ、ルカにはサタンが離れたと書いてありますが、マルコにはサタンが離れたという言葉は見当たりません。もしかするとサタンはこの後もイエス様と共にいたのでしょうか。

一方、マルコにだけに記載がある事柄もあります。それは40日間、野獣と共にいたということです。イエス様は40日間どんなことを体験したのでしょうか。マルコによれば、イエス様はサタン・野獣をやっつけたのではありません。野獣を蹴散らし、勝利したとも書いてありません。マルコ福音書にはただ40日間「サタンからの誘惑があった」「野獣と一緒におられた」とだけ書かれてあるのです。

ここから示されていることは何でしょうか?それはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。それがイエス様の苦難の40日間だったということです。自分を傷つける人、気が合わない人、悪、敵と40日間も一緒にいるのは、なんという苦難でしょうか。

パンがない試練、富への誘惑も試練でしょう。でも、自分を傷つける、自分とは違う他者と共に過ごすことも、大きな試練、苦痛なのです。イエス様はそのように自分の敵と一緒に過ごす苦難を40日間味わったのです。そしてそこでイエス様は何をしたのでしょうか。マルコによれば相手を打ち倒したのではありません。そこでただ一緒にいたのです。

イエス様はこの後の15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」とは何でしょうか。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りにできる、支配できる場所、それが私の国、私の領土です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。私たちは「神の国」を求めています。

イエス様にとって神の国が近づいたとはどんな意味でしょうか。この直前の様子から考えると、それは自分とは違う野獣と一緒に生きるという事でした。神の国とはマルコによれば、敵を打ち負かしたりすることではありません。異なる者が一緒にいるということなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。イエス様の試練とはそのようなことだったのです。

その神の国が「近づいた」とあります。イエス様はこの異なる他者と共に生きることを「神の国が近づいた」と言ったのです。神の国とは、私の国ではありません。私の自由に思い通りになる場所ではありません。神の国は、神の願いが叶う場所です。それは、この苦難の様に、敵対する者が傷つけあうのではなく、共に生きる場所のことです。

私たちも荒野に神様の霊によって放り出されるでしょう。バプテスマを受けた後、そして毎週ごとに霊によって、嫌い、苦手、自分とは違うと思う人と出会う場所に放り出されるのです。そして私たちは苦労しながらも、そこで一緒に生きようします。でもそれが神の国なのです。

放り出される場所とは、苦しい、神様なんていないと思える所かもしれません。でもみ言葉が励ましてくれるでしょう。40という数字が私たちを励ましてくれるでしょう。モーセは40年間荒野をさまよいました。この40年間、神様はどこにいたのでしょうか。神様は確かにイスラエルの人々と共にいました。イスラエルの民とは「ここに神などいない」と感じましたが、神様は40年間確かに一緒にいたのです。

40という数字は私たちが自分と異なる人と出会い、共に過ごす時、神様は必ず共にいて下さることを象徴する数字です。私たちはそのように、神様と共にある苦難、異なる他者と出会う苦難に送り出されてゆくのです。違う他者と生きる苦難を私たちはいただきます。そしてそこに神様が共にいて、そこに神の国があるのです。

一人一人、そして教会も同じです。教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会いが大事です。そして教会は相手を変えたり、相手を打ち倒し、勝利するのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。

世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。

イエス様の地上での苦難とは何も、十字架にかかったことだけではありません。異なる他者と生きる、その苦難も受難節で覚えたいのです。

そして最後にもう一つ、私たち自身をイエス様に重ね合わせる読み方に加えて、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができない者です。イエス様の教えに反して、いつも傷つけあっている者です。私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。

私たちの一人一人が、苦しいけれど、異なる他者と共に生きる、神の国となりたいと思います。そしてこの教会が、世界か異なる他者と共に生きる神の国になりたいと願います。私は他者が私と同じになること、私の国が実現することではなく、違っていても一緒にいることができる、神の国が実現することを願います。

今週もそのように私たちはそれぞれの場所へと派遣をされてゆきましょう。それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごし、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。

 

 

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【全文】「さよなら原発」マルコ10章42~45節

しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、

皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

マルコ10章43~44節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。そして私たちは今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝として持っています。1年に一度ですけれども、あの災害を覚えて、いまだ苦しみの中にある人を覚えて礼拝をしましょう。

あの日からもうすぐ11年が経過し、出来事を忘れかけてしまっている私たちです。失われた家は再建されたかもしれません。失われた街並みが戻って来たかもしれません。しかし失われた命は戻ってきません。そして失われた交わりも戻ってこないものです。多くの人は新しい場所、新しい環境で生き、新しい交わりを持とうと苦労をされてきました。しかし誰かと信頼関係を築くということに、11年という歳月はまだまだ短いといえるでしょう。その方々の困難と痛みを想像します。

そして今日は特に、今も失い続けているものがあるということを覚えたいのです。私たちがあの日以前から今日まで、私たちが奪い続けているものがあることに目を向けます。私たちは原発の問題を知らなければなりません。原発の問題はあの日から全く解決しないまま、むしろ問題は拡大し続けています。

福島第一原発では、今日も壊れた原子炉を冷やすために、注水が続けられています。使われた水は放射能に汚染されるため、除去装置にかけます。しかしトリチウムという放射性物質は取り除くことができません。この処理水はタンクに貯められ増え続けています。

政府は以前「地元の理解なしに海洋放出はしない」と説明していました。しかし、まだ地元の猛反対があるにも関わらず、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。政府によれば「放出までに理解を得る」のだそうです。

トリチウムに健康被害はないと言われています。しかし健康被害がなければ放出してよいのでしょうか。自分たちの海に処理水が捨てられるのは誰だって嫌です。科学的に云々よりも、嫌なものは嫌なのです。風評被害があれば東京電力が補償すると言っています。「お金なら払います」と言われると、ますます嫌です。そしてこの放出は30年~40年続くそうです。福島の特に漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。

爆発した原発の廃炉も進みません。今年からいよいよデブリの取り出しが始まります。まずは1g採取する予定です。ちなみにデブリの総量は880トンです。しかしデブリを取り出せたとしても、その核のゴミを廃棄・保管する場所は決まっていません。誰かがこのデブリを引き取らなくてはならないのです。期間は数百年です。もうある程度取り出したところで、そのまま埋めてはどうかという議論も始まっています。これから先も誰かが犠牲になってゆくでしょう。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。次の世代、数百年後まで、どれほどの犠牲が生まれるのでしょうか。

原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。まず都心部に原発がないのは、爆発しても最小限の犠牲で済むためにです。そして事故が起き、福島が犠牲になりました。東京への電力の犠牲となったのです。福島の人も本当はそんなもの作りたくなかったはずです。しかし東京が必要としているから、村の財政が潤うから、仕方なく作りました。しかし事故が起き、その本当の犠牲の姿が明らかになりました。人々はその土地を捨てるように、離れなければならなかったのです。

世界には原発回帰の流れもありますが、私はもっと世界に日本の現状を見て欲しいと思っています。原発があまりにも大きな犠牲の上に成り立つ発電であることを、もっと世界に理解してほしいのです。

私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。もうこれ以上の犠牲は出してはいけないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にしないことを求めて、今も犠牲になり続けている人の解放を求めて、この礼拝を持ちたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。3月2日から受難節が始まりました。十字架を覚える40日間です。今日の個所はイエス・キリストの「贖罪(しょくざい)」として受け止められてきた箇所です。

贖罪とは「イエス様は私の罪の身代わりとして十字架にかかり、私のために死んだ」という信仰理解です。「イエス様が私のために十字架で犠牲の献げ物となってくれたことによって、私の罪は赦されて、神の愛を知ることができる」という信仰理解です。このような理解を贖罪論といいます。

私のために誰かが犠牲になったという印象は強烈ですし、わかりやすいでしょうか。パウロの信仰理解にも一部でそのような贖罪の理解というものがあります。キリスト教では古くからこの贖罪論が信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人としては少し苦手な理解です。贖われるとは、一体どのようなことを言っているのか、実感を持つこと、うまく説明をすることができません。

そして思うことは、この罪の贖い、贖罪論には注意をしなければいけないこともあるということです。贖罪論を強調しすぎると、犠牲を容認することにつながるのです。イエス様は人間のために犠牲の死を選んだ、だから私たちも誰かの犠牲になることがあるという発想につながるのです。

贖罪論は、イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたいないと考えることにつながります。それはお国のために死ぬことは良いことだ、理不尽でも誰かのためにあなたが我慢するのはしょうがないことだという考えにつながってきます。犠牲を容認することにつながってゆくのです。

私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。罪が清められるとか、それによって贖われ、救われたということよりも、イエス様が十字架の上で苦しみ死んでいったことに目を向けたいのです。

イエス様の十字架の犠牲の痛みを、もう二度と、この世界で絶対に起こしてはいけないものとして受け止めたいのです。それによって私たちは確かに愛を知ったかもしれないけれども、それはとても大きな犠牲で、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。だからもう誰かが犠牲になるのは、このイエス様の十字架で十分なのです。

受難節、私が大切にしたいのは、贖われたかどうかということよりも、もうこれ以上の犠牲はいらないということです。

今日の個所の42節には「支配者とみなされる人」とあります。おそらくローマ皇帝の事でしょう。ローマ皇帝はユダヤの人々、世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にし、その上に君臨していました。「偉い人」も同じです。世に言う「偉い人」は権力を振りかざし、人々に犠牲を強いて、巻き上げ、生きていました。

そんな世界の中でイエス様はこう語っています43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」「あなた方はそれではいけない」と語っています。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの便利さ、快適さ、安さ、利益を追いかける、あなた方はそうではないということです。

本当に偉大な人とは、誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの利益を追いかけてゆくのではないのです。イエス様は本当に偉い者とは43節「仕える者」なのだと語っています。この「仕える」とは食事を運ぶことに由来する言葉です。「仕える」という言葉それは、作った食事を運ぶ、自分のところにある食べ物を誰かに渡してゆくということです。その食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくこと、それが「仕える」ということです。逆に仕えさせるとはどんなことでしょうか。無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。

私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」と言われています。それは44節「すべての人の僕」となってゆくことです。それはあなたが犠牲になりなさいということではありません。あなたたちは共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいということです。

45節「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために・・・来た」とあります。イエス様は誰かを犠牲にするために来たのではありません。人々に、神様に仕えるため、共に分かち合い、共に担い合うために来たのです。そしてイエス様は「自分は」命を献げると言いました。イエス様は犠牲となるのは自分が最後だ。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。

イエス様は人々が犠牲になること、それはこの1回限りの十字架で最後としなくてはならないと語ったのです。だから犠牲はもうイエス様の十字架で十分なのです。この1回で私たちは誰も私たちのために痛み、苦しむことはもう二度とあってはいけないと知ったのです。これ以上の犠牲はいらないと知ったのです。誰かを犠牲にするのではなく、互いに担い合い、支え合い、仕え合わなくてはいけないと知ったのです。

私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。沖縄もそうです。そこに目を向けてゆきたいのです。そして広く、長く、たくさんの犠牲を生み出すこの原発に反対をしてゆかなければならないのです。

受難節、私は罪が贖われたかどうかより、イエス様の十字架が苦しいものであったことを覚えます。十字架の血によって清められたということよりも、その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。

今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。

 

 

 

 

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【全文】「信教の自由の荒波」マルコ4章35~41節

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。

今月は信教の自由というテーマで宣教をしてきました。今日はその最後です。これまで信教の自由をバプテスト、靖国神社、天皇制の視点から考えてきました。今日は戦時中の教会の姿、特にホーリネスというグループのことから考えたいと思っています。

先日2月11日に神奈川連合の集会に参加し、戦時中に弾圧されたにホーリネスのお話を聞きました。戦時中にホーリネスは信教の自由を訴えたグループです。天皇を崇拝することに反対をしたグループだったのです。

日本は戦時中(そして一部では今も)天皇を中心とした国でした。そのような時代の中で、ホーリネスの人々は天皇を崇拝しない非国民として、政府や軍の監視対象とされていました。そして今回の集会で聞いたことですが、監視をしていたのは政府や軍だけではなかったそうです。地域の人々からの目も監視のひとつでした。日本全体が天皇制を中心とするように迫った時代、多くの教会は「天皇かキリストか」それを政府だけではなく地域からも監視され、迫られたそうです。

なにか危機が起こる時、お互いのことを監視するようになるというのは、今の私たちもよくわかることです。コロナが始まり、営業している飲食店はないか、熱のある人はいないか、お互いを監視するようになりました。戦時中もきっとこんな雰囲気だったのでしょう。日本全体が天皇を中心として戦争をしているとき、天皇制に反対する者はいないか、戦争に反対する者はいないか、相互に監視されました。ホーリネスの人々は白い目で見られ、指さされ、差別されました。中には逮捕され、拷問され、死んでいった人もいたのです。

当時の大半の教会は、おそらく「天皇もキリストも両方信じる」という立場でした。天皇制と折り合いをつけて礼拝を守りました。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、教会が生き残ることを選びました。多くの教会は国家の指導に従いました。自分たちの信仰を変えたのです。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。礼拝は皇居に向けて一礼してから始めました。それが戦時中の教会でした。教会はその時代に抗うことが十分にできなかったのです。自分たちの信仰を貫けなかったのです。

しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。自分たちの「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。

その時、周囲の教会・教派はどうしたでしょうか。多くの教派はホーリネスを批判しました。自分たちは天皇制を支持していて、あんなホーリネスとは違うと批判したのです。信仰の仲間を切り捨て、自分たちを守る足がかりとさえしたのです。

これが天皇制で起きたことです。これが戦争で起きることです。私たちは忘れてはいけません。キリスト教は気づいたら、自分たちの信教の自由、信仰を捨てていたのです。そして信仰を守る仲間を見捨てていたのです。

多くのホーリネスの牧師は逮捕されました。そしてその中に長尾三二という人がいました。彼は戦後バプテストに加わり、この平塚バプテスト教会の初代牧師となりました。私たちはそのような歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。

私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。そして世界で信教の自由が守られているかに目を注いでゆきたいのです。それは私たち、特にホーリネスの流れを持つ平塚バプテスト教会の大切な使命ではないでしょうか。そして、この平塚の地の信教の自由を守ってゆく大きな役割が私たちにあるのではないでしょうか。

今日は嵐の中の舟の話を読みます。この話から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

今日の個所を見ると、もともとこの船旅は、イエス様ご自身が「向こう岸に渡ろう」と言って始まった旅です。しかしイエス様に従ったにも関わらず嵐にあいます。それはイエス様に従うと平穏無事、凪のような人生が約束されるのではないということを示します。イエス様に従っても人生に嵐は起こるのです。

旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります 。ヨナの乗った舟が沈みかけた時、そこで人々はこの災難は誰のせいなのかと指をさし合いました。この舟でもそのようなことが起きたでしょうか。誰の悪事のせいで嵐になっているのか、犯人捜しが起きたでしょうか。コロナのような犯人捜しが起きたでしょうか。ヨナ書では人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も、そのようなことを起こします。嵐よりも恐ろしい、人間の分断を呼び起こすのです。

舟には何度も大波が襲い掛かり、水が溜まってゆきます。弟子たちは必死に舟から水を汲み出したでしょう。少しでも舟を軽くするため、大切な荷物を捨てたでしょう。必死で波と戦ったのです。人間のできうる努力をすべて試みたのです。そして自分の力では対処できないと感じた時、弟子たちは叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。

これは元の言葉では破滅を表すことばです。「私が破滅してもかまわないのですか」という叫びです。困難にある時、私たちは神様が何もしてくださらないと感じる時があります。この時もそうです。振り返るとイエス様は寝ていたのです。私たちの神様は、このように私たちの危機の時、眠っているのでしょうか。神様はこの状況から、弟子たちを助けようとしません。

弟子たちがイエス様に叫んだのは、おそらく嵐からしばらくたったころでしょう。荒波にもまれ、舟の底から水をだし、必死だった彼らは、死と破滅を覚悟するまで、イエス様に声をあげませんでした。

自分たちの経験や知識で対処しようとしたと言えるでしょう。その人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、弟子たちは初めてイエス様に声をあげたのです。破滅を覚悟した時、初めて、舟の後ろにいた、イエス様を振り返り、呼びかけることができたのです。

私は改めてこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。なぜ眠っていたのか、本当に眠っていたのでしょうか。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、じっと私たちを見ている、そのまなざしを感じるのです。イエス様は自分に声をかけるその時まで待っていたのではないでしょうか。

イエス様は眠っています。しかし本当は全ての状況を知っておられるのです。その気配を私は舟の後ろから感じます。そして、いつ弟子たちが自分に声をかけてくるのか、じっと待っている。そんな気配を感じるのです。

大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということではないでしょうか。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくこと。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたと思うのです。この物語は荒波にもまれる時、私たちの舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと語っているのではないでしょうか。

私たちには時代の荒波が必ず押し寄せてきます。災害のような困難が襲ってきます。信教の自由を奪おうとする嵐、戦争の嵐、私たちの生活を脅かすコロナという嵐がすでに押し寄せています。私たちはそれに対してどう向き合えばよいのでしょうか。

舟が沈まないようにしないといけません。生き残ってゆかなければいけません。そのために必死に努力をするでしょう。教会を守ろうと必死になるかもしれません。しかし、危機の時こそイエス様を振り返りたいと思うのです。眠っているように見える、イエス様に振り返りたいのです。

私たちが振り返る時、舟に一緒に舟に乗っておられる方がいるということが分かります。そしてその方は私たちを待っているのです。嵐の中で振り返ること「自分の力では破滅しそうで、あなたの力が必要です」そう告白することを待っているのです。それがこの物語です。

戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯だったように見えます。あらゆる努力をし、舟を守りました。仲間を見捨てながら、自分たちの大切なものを捨てながらなんとか生き残ろうとしました。しかし本当にそれが正解だったのでしょうか。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。

私たちもこのことをよく覚えてゆきたいのです。危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして覚えていましょう。危機の時にも、必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。

そばにいないように感じても、確かに私たちを見て、何が起きているのか知っておられるのです。イエス様は私たちが振り返ることをずっと舟の後ろで待っておられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。

ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こしてゆきました。そしてこの教会もその一つです。この平塚教会があるということが、その嵐を乗り越えたという証しなのではないでしょうか。私たちにも大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、私たちの信仰を守ってゆきたいのです。

信教の自由について1ヶ月見てきました。どんなことをお感じでしょうか。時代の荒波の中、信教の自由が脅かされる嵐の中でも、私たちはイエス様に信頼してゆく、このことを貫き、大切にしてゆきましょう。お祈りいたします

 

 

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【全文】「信教の自由の礼拝」マルコ2章1節~12節

「信教の自由の礼拝」

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

マルコ福音書2章4節 

 みなさん、おようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの声も足音も礼拝の一部としてお献げしています。一緒に礼拝をしてゆきましょう。子どもも大人も自由を感じれるような礼拝をしてゆきましょう。

今月は信教の自由というテーマで宣教をしています。今日は天皇制について考えましょう。キリスト教が天皇制に反対するのは、いくつかの理由があります。一番は政教分離の原則から反対してします。国が特定の宗教を支持したり、あるいは禁止したり、その行事のために税金を使ったりするのはおかしいということです。

例えば天皇は毎年11月23日に新嘗祭という宮中祭祀を執り行っています。天皇が代表して日本の神様に収穫を感謝し、天照大神の霊を身に受ける行事だそうです。立派な宗教行事です。これが毎年税金で行われています。特に天皇の就任1年目は大嘗祭と呼ばれ、大がかりです。令和元年は27億円がかけられました。

日本は天皇の宗教行事を国が執り行うことを続けてきました。結果、日本に住むなら日本の神を信じて当たり前という風習につながっています。年号は天皇中心に数えられます。他の宗教の自由が侵されているのです。キリスト教は天皇制について、税金で宗教行事をするのをやめるべきだと訴えています。

天皇制については人権の問題もあります。天皇の一族には基本的人権がありません。国民には基本的人権が保障されていますが、天皇の一族にはありません。まず選挙権がありません。この制度を変えたいと思っても、投票することができないのです。立候補もできません。生まれながら職業や住む場所を選ぶこともできません。表現の自由がありません。言論の自由もありません。結婚の自由もありません。小室圭さんと眞子さんの結婚もそうでした。国民が「ふさわしい」と支持する人、「模範的」と祝福される結婚でないと国民からの激しい非難を浴びます。なんと不自由なのでしょか。

もちろん信教の自由もありません。自分の信じることや、願いは関係ありません。どのような信仰を持っていても、ただ税金で執り行われる日本の神々への五穀豊穣祈願を続けなくてはならないのです。それをやめることも、変えることも、変えたいと言うことも許されないのです。人権無視も甚だしいこの制度はやめた方がいいでしょう。信教の自由の観点から、そして人権の観点から、キリスト教は天皇制を廃止した方がよいと主張しています。

私たちは自覚的な信仰を重んじる、自らの信仰の決断を重んじるバプテストというグループです。誰かからこれこれを信じなければいけないと言われません。あれをしなければいけないと言われることがありません。

個人個人の自由と、平等を大切にするのがバプテストです。私たちバプテストから見ていると天皇制が見ていてかわいそうすぎます。生まれてきた家によって、決められた宗教行事を行わないといけない。信教の自由も無い、行動の自由も無い、表現の自由も無い。やめる自由もありません。早く個人のためにも、天皇制は廃止した方が良いです  。

それに比べて私たちはどうでしょうか。私たちはとても自由な雰囲気の中で礼拝をしています。服装も自由です。礼拝に来ないといって怒られたり、脅かされたりしません。誰かの理想を押し付けられたりしません。時々、子どもの声や足音が響きます。私たちの礼拝はとても自由な礼拝です。この自由な姿を大切にしてゆきたいですし、もっと礼拝に自由さが表せることもまだまだたくさんあると思います。そしてこの自由、しっかりと守られていくようにしたいと思います。自由が守られるように、自由がこの礼拝から広がってゆくように、私たちの生活にも、日本にも、世界にも自由が広がってゆくように願って、この自由な礼拝をささげてゆきたいと思います。今日の聖書を読みます。今日は不自由な人と自由な人が登場する物語です。それを見てゆきたいと思います。 

 

今日の聖書箇所をお読みしましょう。いろいろな登場人物がいます。まず4人の仲間に注目しましょう。この4人、なんと常識破りで自由な人々でしょうか。2節、彼らがついたとき、もう戸口まで満員で家に入ることができなかったとあります。そこから考えると、彼らは前もって計画を立て、早めに家を出てイエス様のところに向かったのではなかったのでしょう。おそらく彼らは思い付きでイエス様に会いに行きました。誰かに日付と時間を決められたのではなかったのです。彼らは思い立った時、出発しました。自分たちが思い立った時、イエス様のもとに歩み出したということです。それはとても自由な一歩、自覚的な信仰の一歩でした。

彼らが出発したのは、イエス様の語るみ言葉が何か起こすのではないかという期待からです。イエス様の言葉を聞くと、あの仲間に何かが起こるような気がしたのです。仲間の不自由さが自由になる、体の不自由さも自由になるのではないかと期待して出発をしたのです。ちょっと今から行ってみようよ。そんな自由な出発です。

彼らの自由さは続きます。そういう自由な人というのはだいたい遅れてきて、いい席がないものです。時間より前にちゃんと来た人が良い席に座ることができます。でも彼らは自由でした。天井から大人4人の足音がします。彼らは屋根に穴をあけ、仲間を吊り下げました。なんと縛られない発想、自由な人なのでしょうか。礼拝中はおしゃべり禁止、座りなさい、背筋を伸ばしなさい、手は膝の上、足をぶらぶらしてはいけません、そういう堅苦しさを全く持たない4人です。彼らは足音を立てて屋根に上り、屋根を突き破って、仲間を吊り下げたのです。

彼らはかなり自由な人です。でも強い期待を持っていました。それは神様がきっと何かを起こしてくれるはずという信頼でした。この痛みを持ち、立ち上がれないでいる仲間がいる、でも神様ならきっとどうにかしてくれるという信頼を4人は持っていたのです。イエス様はこの仲間に、私たちに自由を与えてくれるはずと信頼したのです。み言葉が何かを起こすはず。だから私たちも一緒に礼拝をしよう。遅れてもいい。4人はそのような自由でがむしゃらな神様への信頼を持っていました。ちょっと危ない、先に来て、ちゃんと礼拝している人にとってはちょっと迷惑です。でもイエス様はこの4人あるいは、吊り下げられている人も含めて5人の思いを受け止めています。そしてイエス様はこの5人のことを神様への確かな信頼を持っている人だと見たのです。その信仰・信頼を見て、赦しと癒しを行ったのです。そしてそこで何かが、奇跡のような何かが起きたのです。

私も神様にそんなまっすぐな信頼を向けてゆきたいです。彼らは、聖書の言葉を聞けば自分たちに何か起こると信じました。自由になれると信じたのです。そのように神様に信頼し、自由に駆け出し、自由に礼拝をしました。私もこの5人のようになりたいと思います。

そして5人の自由さを見ていて、これこそ信教の自由だと思うのです。自由に信じ、駆け出し、自由に礼拝する。こんな風にすべての人に信教の自由があればよいと願います。誰もが信じる自由を持つ、そのような世界になって欲しいと思います。

 

そしてこの5人の自由さを見ると、本当に天皇制の息苦しさに胸が詰まります。一族の不自由さ、それが税金で執り行われるこの国の息苦しさを感じます。そして私はその不自由からの解放を求めて、今日もこの自由な礼拝をささげたいのです。

私が不自由を感じるという時、床に横たわり吊り下げられる人に目が行きます。彼にも自分を重ねます。自由がないということの苦しさを想像します。彼だけでは、礼拝に行くことは難しかったでしょう。私も同じです。自分ひとりだけでは礼拝できないと思います。オンライン礼拝で分かったことでもあります。自分ひとりだけで礼拝を続け、イエス様の言葉を聞き続けることは難しいのです。誰かに誘われる、導いてくれる、誰かが待っているから私たちはそこに集い、神様の言葉を聞くことができるのです。礼拝できるのです。

私たちも思いはありながらも体がなかなか動かないもの、行動に起こせないものです。しかし今日の個所によれば、自分だけで礼拝できない、お互いに頼りながらここに集う、その弱さの中に、不自由さの中に、神様の力が働くのです。この中風の人の信仰や行動力は何も記されていません。イエス様は、ただここに来た、連れて来られた、その人に一方的に恵みを、自由をお与えになるお方です。その神様の力が彼の身体を動かしたのです。

私たちにも今日、このことが起こるでしょう。なかなか体の動かない私たちに、立ちなさい、行きなさい、自由になりなさいと励ましの言葉がかけられるでしょう。み言葉というのはそのようにして、人にはできない出来事を起こすのです。自由さを起こすのです。それがこの礼拝から世界へと広がるのです。

今日の最後の箇所12節には、大勢の人がそれに驚いたとあります。何に驚いたのでしょうか。屋根を破って入ってくるその自由さ、その信頼にも驚いたでしょう。そして弱さや不自由のあるところに、イエス様のみ言葉が響き、力と自由が訪れたそのことに驚いたのです。

神様の言葉のあるところには何かが起こります。その信頼、期待はまた多くの人をこの家に集めたでしょう。たくさんの人が自由を求めてこの家に集ったでしょう。私たちもそんな礼拝をしたいのです。

今日、私たちは礼拝に集っています。私たちは礼拝できる自由があります。それはかけがえのないことです。そしてこの礼拝は自由を分かち合う礼拝です。そして私たちを自由にする礼拝です。この礼拝から、礼拝する自由、信教の自由が日本と世界に、天皇制の廃止へと広がっていくことを願います。お祈りいたします。

 

 

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【全文】「信教の自由と死」マルコ4章1節~9節

 

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、

あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。 

マルコによる福音書4章8節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

教会では、皆さんの葬儀の希望を聞いています。掲示スペースに用紙がありますので、お書きください。また、これ以外でもどんな形でも構いません。口頭でも、いつでも、何度でも希望をお伝えください。自分の死について考えることはきっと、今自分が誰と関わり、残りの人生をその人たちとどう生きるかということ、遺された人がどう生きてゆくかを考えることにつながるはずです。

今月は宣教のテーマを信教の自由としていますが、葬儀とは人生最後の信教の自由ともいえるでしょう。

キリスト教の葬儀では「喪主」という言葉を使わず、親族代表と呼びます。それはきっと「主」という文字にあります。人生のすべて、最後の葬儀においても私たちの「主」は神様だけだからです。キリスト教の葬儀の中心「主」は親族ではなく、亡くなった故人でもありません。あくまで神様が主です。ですからキリスト教の葬儀では、亡くなった人を高い場所に祀ったり、大きな顔写真を掲示したりしません。あくまで神様を中心として、礼拝として進めます。

経歴の表記も控えめです。経歴が誕生、バプテスマ、召天日だけということも多いです。生前の業績をほめたたえたりもしません。長い戒名もつけません。葬儀の目的が故人の生前の偉業を評価することではないからです。

人間の人生には成功も失敗もあるはずです。失敗だけでもないし、成功だけでもないはずです。どちらも人生の一部だったということです。大事なのは与えられた命を神様の下で精一杯生きたということでしょう。そして葬儀で私たちは、命をくださった神様に感謝をし、遺された人たちがどう生きるかを考える、それが私たちの葬儀です。どんな風にそれを礼拝の中で表すのか、この教会は皆さんの希望、信教の自由を大切にしています。

信教の自由と死ということを考えるなら、靖国神社の問題から避けることはできません。靖国神社は「国のために命を落とした人を祀る神社」です。国のために命を落としたとは、主には天皇のために戦争をして命を落とした人のことです。靖国神社はA級戦犯も、空襲にあった民間人も、強制連行された朝鮮の人々も全員「国のために死んだ」霊として祀っています。

靖国神社は戦争で亡くなった方を本人や遺族の意思に関係なく「国のために死んだ」と一方的に評価し、国の英雄としています。そのようにして靖国神社は戦争で死んだことを美化し、戦争の犠牲者を美化する装置として働いています。靖国神社は「ああ国のために死ぬことはなんと素晴らしいことか。国のために死ぬことは名誉なのだ」と思わせる仕組みです。それは必ず次の戦争につながるでしょう。

キリスト教はこのような死の扱い方に反対します。戦争の犠牲者を国のため、天皇のために死んだ名誉と評価し、美化することに反対します。人間はだれかの犠牲になってはいけないのです。犠牲を美化してはいけないのです。失敗を美化してはいけないのです。

私たちの人生に成功と失敗があるように、人間にも成功と失敗があります。そのような人生の中で私たちは、恵みに感謝すること、失敗を美化せずに向き合い生きること、それが神様の下で誠実に生きる、精一杯生きるということでしょう。

精一杯生きるとは、自分自身の歩みや、天に召された人々の歩みから、痛みや苦しみ、失敗や成功を体験しながら生きることです。神様は成功も失敗も受けとめながら生きることを求めています。命に感謝し、良い事にも悪い事にも向き合う事、それが神様の下にある誠実な生き方、精一杯の生き方というのではないでしょうか。今日の聖書かからもそのことを聞いてゆきましょう。

 

 

今日の聖書箇所を見ましょう。今日の聖書箇所を1節~9節としました。13節~20節にもこのたとえの解釈が続いています。その解釈によれば、み言葉を受け入れる人は何十倍にも豊かにされ、受け入れない人は貧しくなるといいます。不信仰な私にとってはすこし息苦しい解釈です。

私はきっと道端や岩場のような人間です。反省が必要な人間です。人生がうまく

いかないのは、み言葉をしっかりと受け入れない人だからです。神様の言葉を聞いたのに教会に来なくなってしまった人がいます。その人は悪い種なのでしょうか。滅びるのでしょうか。一方、教会に来ている人は、何十倍も豊かになる種のでしょうか。あの人は良い種、あの人は悪い種、聖書をそういう読み方をしていると、少し気分が悪いです。

 

この13節以降はイエス様ご自身の説明というより、後の教会の人々が加えた説明ではないかと言われます。なぜならイエス様はたとえの説明というものをあまりしないからです。さらになぞも残ります。14節を読むと、種とはみ言葉とたとえられているように聞こえますが、15節を見るとその種が今度は人間に例えられている様にも書かれています。

多くの神学者もこの13節以降のたとえの解釈は混乱していると指摘します。そしてそれゆえこのたとえ話、本来の意味は分からなってしまっているとも指摘します。簡単なようでこの話、実は答えがわからないたとえです。答えはひとつではないたとえです。答えを決めてはいけないたとえです。

今日は、もう少し希望のある読み方をしたいと思います。先週と同じように、種をまくことが希望だという読み方です。多くの収穫を期待する種まきは希望の出来事だということです。一方、今日の箇所には種まきはただ収穫を願う希望の時のみではないということも示されています。それは時に、種の中でも意図せずこぼれてしまう種があるということです。希望の出来事の中でも、うまく実を結ばず、枯れてしまうような出来事があるということです。

私たちは多くの実りを期待して様々なことにチャレンジをします。種まきは人生のいろいろな努力や精一杯と言えるでしょう。数えきれないほど、人生の出来事はたくさんあります。でもそれはすべて、100%うまくいくとは限らないものです。時々、道端に落ちたり、鳥に食べられたり、岩場に落ちたりする。うまくいかないことがあったりするものです。

いろいろな災難に見舞われることがあります。病気もある、事故もある、感染症に振り回されることもあるのです。それが私たちの人生です。豊かに実る時もあれば、実らないこともある。それが私たちの人生です。その中で私たちは精一杯生きるのです。たとえすべてが実るわけではなくとも、今日の様に種をまき続けるのが人生なのではないでしょうか。

種をまくような希望が私たちにはあります。そしてやがて必ず収穫があるように、私たちにも神様の恵みが用意されていいます。その恵みと希望を、神様に感謝する生き方をしたいと思います。それが種をまくような生き方です。

危険なのは失敗が無かったことにされることです。人生の良いところだけがとりあげられたり、他の人に好き勝手に人生が評価されたりすることです。あるいは失敗が美化されることです。失敗は失敗として、痛みは痛みとして、人生と人間の一部として受け止めることが大事です。実らなかったことは、実らなかったこととして受け止めてゆくことも大事です。

人生や死を美化したり、失敗をなかったことにしてはいけないのです。靖国神社はその死と悲しみを覆い隠すためにあります。国のために命を献げたという言葉で死と戦争を覆い隠しています。

もちろんキリスト教も戦時中、戦争に協力し、それを推進したという失敗を忘れてはいけません。私たちはその失敗を美化することなく、その死を美化することなく、歩みたいのです。人間は戦争という失敗をし、多くの人の命を奪ったことを覚えたいのです。私たちがまいた種、人間の歩みで実った種と実らなかった種があることを覚えておきたいのです。

そしてそれはイエス・キリストの死への理解もつながってくるでしょう。キリストの死は美化されてはいけません。それは本当に苦しい死だったはずです。私たちはそれを忘れたりしません。そしてそれを美化したり、見習うべき犠牲としないのです。十字架を、犠牲を、もう二度と起きてはいけないこととして覚え、理解したいのです。そのようにして、死を美化すること、失敗をなかったこととすることに反対をしたいのです。

私たちはたくさんの恵みを期待し、種をまきます。しかし意図に反しすべてが良い土地にまかれるわけではありません。人生には実らないこともあるのです。私たちはそのような中でも実りがあった時、神様に感謝します。そしてできなかったこと、実とならなかったことも、この種たとえ話のように覚えます。うまくいったことだけではなく、うまくいかなかったことも人生の一部だからです。実らない種を、見ない、隠す、美化するのではありません。

聖書は私たちが生きる時、成功も失敗もあると告げています。大切なのは、私たちが失敗を失敗として心にとめてゆくこと。そして恵みを恵みとして心にとめることです。神様はそのことを「聞きなさい」と言っているのではないでしょうか。お祈りします。

 

【全文】「信教の自由の種」マルコ4章31~32節

それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。

マルコによる福音書4章31~32節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちの声や足音も礼拝の一部として、声を聞きながら礼拝しています。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。

1月は旧約聖書をテーマとして取り上げてきました。2月は信教の自由をテーマとして宣教をしてゆきたいと思います。また聖書は引き続きマルコ福音書から読んでゆきます。

信教の自由というテーマで2月4回の宣教する予定なのですが、なぜこのようなテーマを教会で扱うのか疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、バプテストと信教の自由はとても関係が深いのです。私たちバプテストが信教の自由について考え、語っていくことはとても大切な責任です。ですから4回の宣教で考えたいと思っています。

今日はこの信教の自由について、特に17世紀のアメリカから考えます。私たちバプテストはイギリスで生まれたグループです。そのグループは自由を求めてアメリカに渡ったのです。しかし当時のイギリスもアメリカも信教の自由はまったく存在しませんでした。

自由の国アメリカが当時、宗教に対してどのような姿勢だったかということが記録にあります。例えば選挙権があるのは、教会籍のある人のみとされていました。もちろん先住民やキリスト教徒以外は、どんなにそこに長く住んでいても、選挙権はありませんでした。クリスチャンは国民ではないという考えです。

驚くことに、自分が通う教会は自分で決めるのではありませんでした。通う教会は政府が指定し、その教会に通わなければなりませんでした。「あなたはこの教会に毎週通いなさい」と政府に決められた教会に通うのです。それ以外の教会の礼拝出席は禁止され、違反者は処罰されました。

そして教会では政府が公認した牧師が説教するということが法律で定められていました。政府に公認されていない人、資格のない人が礼拝で説教をした場合、死刑にされることもあったそうです  。

そんな時代にバプテストというグループが、極めて少数ですが存在しました。自由と自覚的な信仰をかたくなに守ろうとするグループです。バプテストの彼らは本人の自覚のない幼児洗礼はしないと言いました。これは出生届を出さないようなものです。国の公認のない、無資格な牧師を自分たちで立てて、礼拝を行うと主張しました。バプテストは周囲から、死刑覚悟の危険なグループとみられました。当然政府は社会秩序を乱す集団として、バプテストを厳しい監視と取り締まり対象としました。

バプテストはこのような時代の中で、宗教と政治が一体となったこと、信教の自由がないことに反対をした小さなグループでした。バプテストは信じる宗派・宗教によって行政が迫害し、処罰し、差別をすることに反対したのです。政治が個々人の内面、宗教に介入してくることに反対したのです。行政の権力は市民の生活を守るため“のみ”に使われるべきだと主張したのです。これがアメリカの信教の自由の始まりです。

そしてこのようなバプテストの活動は当初はごく少人数でしたが、少しずつ広がってゆきます。バプテストの訴えた信教の自由がアメリカに広がっていったのです。そしてやがてアメリカには憲法が制定されます。その憲法第一条にはこのように書かれました。「この国では国教〔国が支援する特定の宗教〕を定めてはならない」「自由な宗教活動を禁止する法律を制定してはならない」そう第一条に書かれたのです。バプテストの主張が憲法に反映されたと言えるでしょう 。

このようにバプテストは信教の自由を大切に守ってきたグループです。誰にも強制されない信仰を持つことを大切に守ってきたグループです。今はもちろんかつてより圧倒的に自由です。しかし私たちバプテストには責任があります。本当に信教の自由があるか、制限されていないか、そのことをバプテストは見守り続けてゆく責任があるのです。これから1ヶ月、信教の自由について一緒に考えてゆきたいと思います。今日も私たちは聖書から信教の自由について聞いてゆきましょう。

 

今日の聖書箇所を読みます。今日の箇所は、イエス様は神の国とはどんな所なのかを、たとえ話で教えている箇所です。まず神の国あるいは天の国とも言いますが、これは死んだ後に行く場所ではありません。この地上で起こることなのです。主の祈りで御国が来ますように、天においても地においてもと祈っている通り、地上のことです。

そしてこの地上で神の国が起こるということとは、キリスト教が国教、国が支援する特定の宗教になるということではありません。神の国とは牧師が総理大臣になって、法律でキリスト教を信じるように強制することではありません。神の国とは全員が生まれてすぐに洗礼を受けさせられることでもありません。神の国とは世界中の人が全員クリスチャンになることではないのです。では神の国とは何か。それが今日のたとえで説明されています。

イエス様に従い、話を聞いた人々の多くは貧しい農民だったと言われます。ですからイエス様の話は農業や自然についてのたとえが多く出てきます。今日の箇所、前半の26節~29節では神の国が種まきにたとえられています。

農民にとって種まきとは希望を持って行うことでした。たくさんの収穫を願いながら、土に種をまいたのです。豊かな実りを期待すること、希望があるということ、それが土に種をまくということです。やがてそれは29節「収穫の時を迎える」のです。

神の国とは花や作物の種を植えて、収穫をすることに似ているのです。希望の種、期待の種があり、豊かな恵みがある場所、それが神の国なのです。小さくても希望があるところ、種をまくことができる希望、それが神の国です。神の国とは、希望の種をまき、収穫することのようだと言われているのです。

畑には様々な種がまかれます。30節~32節にある、からし種もそうです。からし種は特に小さな種ですが、それは大きく豊かに茂ります。小さな希望でも、大きな実りを生むということもここで伝えられているでしょう。神の国とはものすごく小さな希望が大きく広げられるところだということです。たとえどんなに小さな希望、小さな群れでも、大きくなってゆくということです。

私は信教の自由を訴えた少数派、バプテストをこのからし種に重ね合わせます。からし種が大きく茂るということはまさに、非常識なごく少数の集団が訴えた信教の自由がやがて一つの国の基礎となったことに重なるでしょう。私たちバプテストはからし種だったのです。神様がバプテストを信教の自由のからし種とし、豊かなものとしてくださったのです。様々な種が実る場所としてくださったのです。

神の国とは全員クリスチャンになるということではありません。神の国は、信教の自由が守られるところと言えるでしょう。神の国とは、それぞれの自由が、それぞれの希望が大切にされる場所です。バプテストはその信教の自由のからし種です。神様はそれが最も小さい種だとしても大きくし、茂らしてくださいます。神様はからし種のように信教の自由を広げて下さるお方なのです。

そしてこのからし種にはもうひとつの意味があると言われます。からし種は農民にとってはやっかいな存在だったということです。からしの草は生命力が強く、一度生えると抜いても抜いてもまた生えてきて、除去するのが難しい、危険な草でした。駆除できない草、危険な草がからし種でした。農家の人にとっては生命力が強すぎて、迷惑な存在でもありました。たった一粒でも、自分の畑に入るとなかなか駆除できず、大きくなってしまうからです。

神の国はまた、そのようなものだとも言えるでしょう。神の国、その種とはどんなに小さな始まりでも、踏みつけられても、引っこ抜かれても、また生えてくるのです。どんなに駆除しようとしても無くならないのが神の国の種なのです。どんな困難な時も無くならない希望が神の国の種なのです。

雑草魂とでも言えるでしょうか。神の国とはからし種のようなものだと聞いたとき、農民はそれを聞いて笑ったのではないでしょうか。「ああそうか。あれは小さい種のくせに、抜いても、踏んでも、しつこく生えてきて無くならない。あれが神の国か。それが神様の希望なのか。そうかそれならきっと無くならないだろう。どんなに小さくても、どんな目にあっても、きっと大きくなる、それが神の国だ」そう受け止められたのです。

神の国とは小さくても無くならない希望のある場所です。神の国はからし種のようなものです。そしてバプテストもからし種のような存在でした。そしてバプテストの訴えた信教の自由も神の国の種だったのです。

私たちもこの種をいただいてゆきましょう。小さくても豊かに広がる希望、踏みつけられても決して無くならない希望をいただきましょう。そして私たち自身も種になってゆきましょう。信教の自由の種になってゆきましょう。当時のアメリカで信教の自由が広がったように、私たち自身も小さくても信教の自由を訴えてゆきましょう。

日本にもアメリカにも信教の自由はまだたくさんの問題を抱えています。そして信教の自由の問題を日本で訴える人はごく限られた少数派です。

でもバプテストは信教の自由をずっと訴えてきました。私たちは小さくてもこの信教の自由を大切に守ってゆきたいのです。そして私たちはなくならないのです。雑草のように、抜いても抜いても生えてくる草のように、私たちは希望をあきらめないでいたいのです。お祈りします。

 

 

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【全文】「折れた心を献げる礼拝」詩編51篇12~19節

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。詩編51篇19節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。そして今日もこどもたちが集っています。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝しましょう。

もうすぐ牧師を始めてまる3年となります。本当に未熟な私を祈り支えて下さっていることに感謝します。私は神学生の時、ある教会の牧師に言われた言葉を大切にしています。それは「教会がうまくいっていると感じる時こそ、注意が必要だよ」という言葉です。その言葉は、教会で何かがうまくいっていると思う時、喜びの出来事がある時にも、教会の中には痛みや、傷ついている人が必ずいることを忘れないように注意をしなさいという意味だと受け取っています。

私たちは何かがうまくいっている時こそ、お互いのこともうまくいっている、そう思い込んでしまうものです。そしてうまくいっている時こそ、神様の恵みを忘れ、自分や自分たちががんばった、自分たちは正しかったと思ってしまうものです。私たちはうまくいっていると感じる時にこそ、緊張感が大事です。

自分たちの力でうまくいっていると思えること、そのすべてが神様の導きにあったと感謝することが大事です。そしてうまくいっていると思う時にこそ、お互いの痛みを祈りあうことが大事です。うまくいっていると感じる時こそ、前だけを向いて生きるのではなく、前後左右、周りを見渡しながら歩むことが必要なのです。

たとえば教会に新来者がたくさん来られる時、それはうれしい時です。新しい方との関わりを大事にしたいものです。しかし同時に、今までずっと一緒に礼拝してきた方との関わりも忘れずに大事にしたいのです。教会全体の中でそのような気持ちがないと、寂しい思いをする人が出てきてしまうでしょう。うまくいっていると感じている時こそ、もう一度お互いのことを祈りあってゆくことを大切にしてゆきましょう。

実は本当に祈れない時、神様にゆだねることができない時、それは物事がうまくいっている時かもしれません。「つらいことがあって、私は祈れないのです」そう言っている時はまだましかもしれません。うまくいっている時こそ「祈っていない時」かもしれません。うまくっている時も、そうでない時も、私たちは互いに祈りあってゆきましょう。励まし合う交わりを大切にしましょう。先輩牧師のアドバイスはこう続いたのです。「注意をしないと、うまくいっていたはずの教会が、あっという間にばらばらになってしまう時があるよ」と。

これは牧師だけではなく、この教会全体への大切なアドバイスだと思います。今の私たちはどうでしょうか。礼拝出席者数はすこしずつ増えてきています。いろいろな方が集うようになっています。子どもも楽しそうです。先日の信徒会ではみんなで希望を持って前に進む話し合いができました。他の教会もきっと私たちの在り方を応援してくれるはずと思っています。そんな希望がたくさんあります。でもそんな時こそ、私たちは忘れないでいましょう。互いに祈りあう事、互いに起きている様々な変化に気を付けたいのです。今、私たちの教会、交わり、祈りあいの中にはきっと、今までずっとあった欠けと共に、新しい欠けと、新しいほころびがきっと生まれているはずです。そこに目を注いでゆきましょう。

今日も様々な人が教会に集っています。しんどいと思う方、今あなたはきっと深い祈りが与えられる時です。主にゆだね、一緒に祈りましょう。そしてまあまあうまくいっていると思う方、今あなたはきっと注意が必要な時です。きっともっと深い祈りが必要な時です。主にゆだね、一緒に祈りましょう。

今日は聖書から、うまくいっている時こそ祈るということを見ます。そして神様は私たちの中にある欠けやほころびを、神様の前に献げ、礼拝をしなさいといっていることを一緒に見てゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今月は5回にわたって、旧約聖書から福音を聞いています。今日はその最後です。これまでゼカリア書・出エジプト記・エレミヤ書・申命記から見てきました。今日は詩編をみます。今日この詩編51篇はダビデが歌った歌として伝えられています。51篇の1節の小さい見出しには「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンが来た時の詩」とあります。

ダビデ王とはイスラエルで最も成功した王様です。彼は貧しい羊飼いの家に生まれた8番目の男の子でした。しかしその彼が、ある日突然油を注がれ、巨人のゴリアテを倒します。今度はサウル王から追われながらも、彼は必死に生き延びました。やがて彼はイスラエルの全土を統一し、近隣諸国も支配下に置きました。

ダビデはイスラエルの歴史上の中で最も大きな成功を収めた人です。最も成功を収めた王様でした。様々な困難を乗り越えた王様でした。しかしその時、彼の心には緩みがありました。うまくいっていると感じた時こそ、自分と他者に注意が必要だったのに、彼はそれをすることができませんでした。彼はバト・シェバという美しい女性を自分のものとするために、その夫ウリヤを戦場の最前線に送りだし、殺してしまったのです。

ダビデはうまくいっている時に、卑劣な罪を犯しました。そこから最高の王だった彼は最悪の王へと転落してゆきます。そしてバト・シェバとのこどもソロモンが王になる過程では、多くの血が流れ、混乱が生まれました。今日の詩編51篇前半で彼はそれを後悔しています。

そして今日の箇所に続きます。12節以降は、ダビデはもう一度、神様のもとに戻り、より頼もうしている祈りが記されています。うまくいっていると思っていたあの時期は、祈ることができなかった時期だったのです。彼は今もう一度、神様に祈っています。

12節でダビデが祈っている内容に目を向けましょう。彼は新しく確かな霊・心が授けられることを求めて祈っています。彼は今までの心が回復することを求めたのではありません。今までの自信とやる気に満ちた心や権力を取り戻すことを求めたのではなかったのです。

彼が求めているのは新しく、確かで、清い心です。それを創造してくださいと神様に祈っています。12節にある「創造する」という言葉、これは聖書の中では神様の働きにだけ使われる言葉です。天地創造において使われている言葉です。天地創造において神様が混沌の中から光を創造したように、私の中にあなたが清い心を創造してくださいという願いが書かれています。

その創造は神様にしかできないことなのです。神様にのみ、私たちに清い心を創造し、新しい確かな霊を授けることができるのです。私たちの中に神様が新しい心を創造し、授けて下さるのです。ダビデはそれを祈っているのです。

私たちもそう祈りたいのです。私が創り出すのではなく、神様だけが創造できる、その清い心、新しい霊、新しい心を受け取りたいと祈るのです。

そして続く18節を見ましょう。神様は私たちが礼拝するとき、祈る時どんなことを求めているのでしょうか。それはいけにえではないとあります。18節には「焼き尽くす献げ物」とあります。「焼き尽くす献げ物」とは、動物を丸ごと1匹、真っ黒になるまで焼いて献げる献げ物のことです。傷のない最上の動物を焼いて献げつくすことです。でも今日の箇所に書かれているのは、神様が喜ばれるのは、そのようないけにえではないということです。

神様が求めるものが19節にこう書かれています。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」とあります。神様が献げるように求めるもの、それは「打ち砕かれた霊」です。打ち砕かれるとは、折れてしまうことや、粉々になってしまうこと、引き裂かれることです。

神様は成功や、成果、大金を献げてほしいと願っているのではありません。神様は折れてしまった心、粉々になってしまった心、引き裂かれた心、それを持って神様の前に来るようにと招いているのです。神様にささげるのは良いものばかりではなくていいのです。むしろ苦しい思いをもって、痛みを持って、神様の前に来るようにと招かれているのです。

神様はそのような打ち砕かれた心をささげる時、喜んでくださるお方です。神様は打ち砕かれた心こそ献げ物にふさわしいと言います。そして神様がそこに新しい心を創造してくださるのです。ダビデの本当の祈りと献げ物は、そのような打ち砕かれた霊の中に起きたのです。

うまくいくということはいい事です。でも教会のすべてや、それぞれの生活がすべてうまくいっているわけではないはずです。私たちが大切にしたいのは、うまくいってそうな教会の中で、あるいはそれぞれの生活の中でも、互いの傷ついた心、しんどい思い、それをこの礼拝にもって来て、献げようということです。

うまくいく時も、そうでない時も必ずそのような打ち砕かれた霊は自分や他者の中にあるものです。それを一緒にこの礼拝で、祈りの中でささげてゆきたいのです。

そこそこうまくいっていると感じた時は注意が必要です。ダビデのような失敗をしてしまう時だからです。自分は正しかった、自分の思い通りになると思ってしまう時です。私たちが礼拝でささげるのは、そのような思いではありません。私たちが礼拝で献げるのはひたすら打ち砕かれた霊なのです。

私たちはその打ち砕かれた霊の中に、神様が清い心を創造してくださることを、祈り求めてゆきましょう。そして新しく確かな霊・心が授けられるように祈ってゆきましょう。私たちは毎週、互いの中にある痛みや欠けを持ち寄って、神様に献げてゆきましょう。折れた心、引き裂かれた自分を献げてゆきましょう。

神様はそこから、そこにこそ新しい心、新しい霊、新しい道を創造してくださるお方です。お祈りをいたします。

 

【全文】「むずかしくない福音」 申命記30章11節~14節

 

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

申命記30章14節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。みんなが大切にされる教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

私たちの礼拝には様々な方が集いますが、他の教派の教会から来ましたという方もたくさんいます。どなたでも歓迎をしますが、私の楽しみのひとつは、その方たちから、この平塚バプテスト教会とご自分が今通っている教会との違いを聞くということです。

実は私たちは他の人から聞いて、自分たちの特徴を知っていくものです。自分たちの当たり前に、他の人がびっくりしているの見たり、聞いたりして、そうかそんな特徴が私たちにはあったのかということを私たちは知ることができるのです。私は初めて来た人から、私たち自身の特徴を教えてもらうのがとても楽しみです。

よく挙げられる特徴のひとつはこどもの声のことです。こどもがのびのびと自由に過ごしていますねと言われます。これはとても意識していることです。二つ目は社会的な活動や発言のことです。この教会は社会や生活のことについての話題が多いですねと言われます。私たちは他の教会より、社会との関り、社会の中にある福音に目を向けているのでしょう。

確かに平塚市内にも多くの教会がありますが、子ども食堂やホームレス支援をする教会は他にほとんどありません。この教会は社会での働き、関わりを重視しています。福音を社会の中で実践することを大切にしていと言えるでしょう。よく他の教派から来た方が驚きます。社会のことは社会の事、教会のことは教会の事と別けて考えているという教会も多いのです。私たちは社会との関わりと実践ということを大切にしています。

この教会の特徴、次によく言われるのが教会学校のことです。教会学校はこどもだけという教会も多いのですが、この教会は大人も教会学校があります。そしてこの大人の教会学校は誰かが教える、誰かが教わるという形式ではなく、聖書から感じたことを自由に語り合う場所となっています。私たちはこれを当たり前のようにしていますが、他の教派ではあまり見られないことです。

多くの教派では正しい教理や解釈があり、それが教えられます。しかし私たち、特にバプテスト教会は「正しい教理」というものを固定していません。ですから教会学校は聖書を学びあうという集まりになります。教える側と教わる側に分かれるのではなく、みんなが発言し、考え、教わりあうという集まりなのです。これもよく驚かれることです。

教会学校に初めて来た人の何気ない質問に、信仰の大先輩が驚かされる時があります。祈祷会もそうです。一生懸命勉強して準備してきた牧師も実は信徒の方のひと言にとても教えられているのです。それが私たちの教会です。教会は教える会、教える集いではありません。教会は教わる会、教わりあう集いです。そんな風に私たちの教会は、他の教派の方が驚くほど、自由に聖書を語り合う教会です。特に信徒説教にはみなさん驚きます。

もちろん長所は短所でもあります。自由に考えることは都合よく自分勝手な考えも生みます。自分の考えと聖書の考えがまぜこぜになってしまう解釈も生みます。だからこそ一人一人が聖書にしっかりと向き合わなければいけません。聖書にはどう書いてあるかに注意して学び合ってゆかなければいけません。

社会のとの関わり、実践ということも注意が必要です。教会と社会との差がわからなくなってしまうときがあります。人間の実践は長続きしない者です。私たち福音に励まされ続けなくては、実践が続いてゆかないのです。元気の源ではないですが、モチベーションの根源になるものが福音、礼拝だということも、しっかりと押さえておきたいのです。

今日の箇所から、私たちは聖書のみ言葉をそれぞれの口から、語り合ってゆこうということ。それぞれの派遣された社会と生活の中で、福音を実践してゆこう。神様はそのように招いているということを考えたいと思います。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。聖書の言葉は難しいものです。読んでも読んでもわからない箇所ばかりです。私も勉強をしていますが、わからないことだらけです。しかし一人ではわからないことも、集まって読み、言葉を交わし合うと、なんとなくわかるような気がするということは、私たちの教会でよくあることです。分級も「今日の箇所はよくわかりませんね」で終わってしまうことが多々ありますが「ああ、そう考えればいいのか」と思うこともあるものです。

聖書は簡単だということはありません。でも今日の箇所で聖書が語っているのは、福音はむずかしくないよということです。

12節~13節を見ましょう。聖書のみ言葉は私たちの生活とかけ離れたものではないということが書かれています。そうです。私たちは毎週集まって、天国はどんな場所か?を考えているのではありません。海の彼方、宇宙の彼方に何があるのか?を想像し、議論しているのでもありません。

そうではなく、私たちは毎週集まって、私たちの生活の中に、どんな福音があるかを考えています。こんな生活の中にどんな希望、喜びがあるのかを聖書から聞いているのです。だから社会との関りなしに、生活の事柄抜きに、福音はわからないものなのです。

私たちは福音を遠くに探し求めるのではありません。私たちの生活の別世界や死後に求めるのではありません。今生きる、私たちの生活の中に希望を求めています。私たちは福音を、今生きる社会・生活の中、その関わりの中で探しています。社会の事、生活の事、抜きには福音はわからないのです。

そのようにして福音は近く、身近にあるものです。だから誰かが見てきて、聞いてきて、私に教えてくれるというものではありません。私たちの福音は誰かが見た聞いたという天国や宇宙の話を聞くのでもありません。天国から取って来たものを教えてくれれば、すぐやりますよというものではありません。福音は私たちの一人一人の生活の中にあるのです。一人一人のごく近くにあるものなのです。14節「み言葉はあなたのごく近くに」とある通りです。

14節の続きにはみ言葉は「あなたの口と心にある」とあります。そうです、福音はあなたの口にあるものです。福音は牧師の口だけにあるもの、先生の口だけにあるものではありません。あなたの口にもあるのです。

私たちは牧師や先生の語ることを聞きます。解説書を聞いたり読んだりします。それに励まされたり、教わったりします。でも私たちは一方的に聞く、読むだけではありません。そうです14節「あなたの口と心に」み言葉があるのです。お互いの口と心にみ言葉あるのです。

だとするならば聞くだけではなく、一人一人の口から語られるみ言葉が大事です。先ほど挙げた教会学校はまさにそのような場所でしょう。一人一人がみ言葉を語ります。それから感じたことを語り合います。それはとても大事なことです。み言葉は遠くにあるのではないからです。一人一人の口と心にあるものだからです。

教会学校や祈祷会、礼拝の前後で交わされる言葉を大切にしましょう。生活の中で聖書について想像をめぐらし、こう思ったということをもっと分かち合ってゆきましょう。逆に聖書を読んで、私の生活の中ではこんな風に感じたともっと語り合いましょう。あなたの口で聖書について語ることが大事なのです。それは先ほども話したように、この教会の特徴、バプテストの特徴でもあるでしょう。福音はごく近くにあります。そして私たちは特に、聖書を語り合う教会です。一人一人の口と心にみ言葉があるからです。

もちろんそこには注意も必要です。社会と教会の違いが分からなくなってしまうこと、生活に満足していれば福音がいらないように感じてしまうことがあります。私たちの口からはつい、いろいろな言葉ができてしまいます。私たちは聖書を繰り返し読み、心に刻んでゆくことも大切でしょう。口と心に聖書を入れてゆくということも大切にしましょう。そのことはよく注意したいと思います。

私たちはこの教会の在り方をこれからも大切にしてゆきましょう。私たちは聞くだけではなく、自分も語るのです。私たちの教会は、他の人が見ても、語り合うことを大切にしています。ぜひそのような場所をこれからも持ってゆきましょう。教会学校、礼拝の前後、食事の中で、信徒説教、語り合ってゆきましょう。

私たちは聖書のみ言葉、信仰の実践を難しいと感じています。でも聖書にはそれは難しくないとあります。14節の最後には「行うことができる」とあります。あなたは福音の実践がすぐできるようになるよということです。

福音の実践とは互いの口からでる言葉をよく聞き、その心を良く知ることがスタートです。今日の箇所で「行うことができる」という言葉は3回繰り返されています。私たちが互いに聞き合う時、互いに語り合う時、み言葉はむずかしいものではなくなります。私たちが「行うことができる」ものになるのです。

それが今日、神様が私たちに聖書を通じて伝えていることです。今日の箇所はむずかしいことは言っていません。むずかしくない福音です。神様は、福音は難しくないとおっしゃっています。福音は身近な場所にあるものだよと言います。お互いの口と心にあるものだよと言います。必ずあなたにもできることだよと語ります。私たちは、社会と生活の中で福音を聞くこと、互いに聖書を語りあうことを、福音を実践してゆくこと大切にしてゆきましょう。私たちにも必ずできるはずです。お祈りいたします。

 

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【全文】「できない人を選ぶ神」エレミヤ書1章4~10節

 

わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。/わたしは若者にすぎませんから。」            エレミヤ書1章6節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしてゆきましょう。

今日この後は臨時総会が持たれ、執事選挙と会計監査の選出が行われます。まずは思うのは、今の執事の皆さんに感謝したいということです。2年間の任期、本当にお働きお疲れ様でした。今日はこの後、選挙を行いますが、もしみなさんが執事に選ばれたらどうするでしょうか?「どうしよう、なんと言って断ろうか」と考えるでしょうか。

最近、どの組織でも担い手不足という問題があるものです。教会も同じです。多くの教会で執事を選ぶということに苦労しています。ある教会では再任の制限、期間の制限を設けています。選挙でえらばれると、2年や6年といった任期以上に働くことができないという制度です。こういう制限があった方が、誰かに集中しないで、みんなで分散させて担うことができるというメリットがあります。

もちろん課題もあります。いつも慣れない人が執事をやることになるのです。さらに短い任期だとどうしても前例踏襲が中心になってしまいます。そういった面でこの教会のように長く執事が変わらないことは良い面も多いものです。

チームワークやチームバランスが整います。阿吽の呼吸が生まれてきます。長期的な視点を持って教会を見ることができます。もちろん長く務める課題もあります。一番は代替わりが難しい事です。長く執事をしてきたベテランの後を担う、同じように働くのはとても難しいものです。代替わりがうまくできず、高齢になっても負担が続くということも課題です。

選挙では断る権利があるということも大事なことでしょう。仕事や介護、病気、年齢、育児などの理由で「できません」と辞退する権利がしっかりと守られないといけません。そうではないと押し付け合いになってしまうからです。

奉仕を押しつけられて礼拝や教会、生活がうまくいかなくなってしまってはいけません。誰にでも断る権利があることは大事です。無理な奉仕のお願いをしたくないと思っています。できないものはできないと断ってください。しつこく説得するもの好きではありません。教会の奉仕をすることで何かを犠牲にしないで欲しいのです。家族の時間、自分のための時間を大事にしてほしいのです。

ただできない理由というのは無限にあるものです。私はある教会にいた時、奉仕を依頼する側だったことがあります。選ばれた方に連絡をする係だったですが、連絡するとすぐに断られました。次点だった方に連絡をしましたが、また断られるのです。さらにその次の方も、その次の方も断られるのです。繰り返し断られてゆくうちに本当に心が折れてしまったということがありました。涙が出てくるような体験でした。

牧師として執事というのはなんでも相談できる、相談相手です。毎月の議事録には性質上一部しか掲載されませんが、教会のすみからすみまで、人間関係も含めて、いろいろなことを報告・相談しています。私の宣教についても感想やヒントをもらっています。それは個人的に相談しているのではなく、選挙で選ばれた方々に相談をしています。執事のみなさんはそのようにして私の心の支えとなっている存在です。

もちろん執事や選挙の制度そのものの改善も必要でしょう。選ばれた人、それぞれが担えるボリュームにしてゆくことも必要でしょう。礼拝も行事も相談事も、何でもすべて執事に任せるのではなく、できることを細かく分散してゆくということも考えなければいけないでしょう。全部はできないけれど「これならできる」それを増やしてゆく工夫も必要でしょう。

いずれにしても私たちの選挙は、不十分な制度の中で、不十分な私たちが、不十分な者の中から、不十分な者を選ぶという選挙です。仕組みにも個人にも不十分ばかりです。

私たちはどのように投票をしたら良いでしょうか。私にはできないから、あの人にお任せしようと投票することは、もうできないでしょう。きっとあの人もできないのです。あの人だって事情があってできないのです。私は誰かを選ぶけれども、私も精一杯を献げるという思いを持って投票をすることが必要でしょう。私たちは、私もできる限りの精一杯を担う、そのような思いで投票をしたいのです。共に精一杯を献げる、その気持ちを持って投票をしてゆきましょう。

そして今日の聖書から一緒に、神様の選びを見てゆきましょう。私たちがお互いから不十分な者を選ぶように、神様も不十分な者を選ぶお方だということを見てゆきたいのです。今日の聖書を読みましょう。

 

今日の箇所、5節で神様は「わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」とエレミヤに語っています。神様はエレミヤをイスラエルの預言者、神様の言葉を伝える者として、選んだというのです。それに対してエレミヤは6節「ああ、わが主なる神よ

わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と応えています。その神の選びを断っているのです。自分は未熟で、その働きには不十分だと言っているのです。

無理もないでしょう。この「若い」という言葉をみると、それは結婚前を意味する言葉、当時では10代を表す言葉です。おそらくこのころのエレミヤはまだ10代だったのではないかと言われています。

旧約聖書、民数記には一人前の祭司として働くことができるのは三十歳からだと書いてあります 。ですからこのような若者が立てられるのは異例のサプライズ人事です。多くの人は思ったでしょう。そして誰よりエレミヤ自身が思ったはずです。神様はこんなにも幼い、こんなにも未熟な、不十分な者を選ぶのだろうかと。

しかしそれが神様の選びでした。神様は人々から尊敬され、すでに指導的な立場にいる人を選んだのではなかったのです。神様はできる人ではなく、できない人を選んだのです。若くて未熟な者を選んだのです。神様は一見、不適切、不十分と思われる人を、ご自分の働きのために選ぶお方なのです。

神様は、神の民が最も困難な時代に、幼い預言者を選びました。その神の任命はあまりにも重いものだったでしょう。残酷ともいえる選びだったでしょう。

当然彼は繰り返し断りました。なんども辞退したのです。やっぱり私にはできないと。それは大事な権利です。それぞれに事情があるからです。しかし神様はそれでもしつこくエレミヤを選んだのです。このように神様はふさわしくない者を選ぶのです。

エレミヤはその後、どのような人生を歩んだのでしょうか。彼は神に守られ何不自由なく暮らしたのではありませんでした。神様はエレミヤに苦労のない道を歩ませたのではありませんでした。選ばれたエレミヤは人一倍苦労の多い道を歩まなければなりませんでした。それゆえエレミヤは涙の預言者と呼ばれます。エレミヤは聖書の中で繰り返し、つらくて涙を流すのです。

思い通りにいかず、その預言者の働きがつらくて、しんどくて泣いたのです。エレミヤはそのような泣き虫預言者でした。神様は確かに8節「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と言いました。しかしそれは、万事うまくいくという意味ではありませんでした。苦労が続いたのです。エレミヤは自分の器に対して大すぎる役割を与えられ、泣きながらその預言をしたのです。神が共にいるとはそのようなことです。万事がうまくいくというのではなく、つらくて涙を流す時も、そのような時こそ神が共にいるという意味です。エレミヤの働きはつらくて大変な働きだったと思います。この奉仕を受けたエレミヤは幸せだったのかと思ってしまいます。

しかし私も様々な働きを通される時があります。しぶしぶ受けた働きで苦労するときがあります。そんな時、このエレミヤの姿に励まされることがあります。それはたとえどんなに神様の導きを感じたことだとしても、その働きがうまくいくわけではないということを教えてくれるからです。あのエレミヤでさえうまくいかなった事なのです。私にもきっとうまくゆかないのです。あのエレミヤでさえ泣きながら働いたのです。やりたくない、できないと何度も不満を言いながら、働いたのです。私もそうです。泣きながら不満を言いながら働くのです。その姿が私にとって大きな励ましになります。

いいのです。しぶしぶ受けても、できなくても当然です。うまくいかなくても当然です。泣いてもいいのです。不満を言いながらでもいいのです。そのただなかにこそ神様は共にいてくれるのです。そのように感じます。

多くの預言者たちも同じでした。神様に選ばれた、招きを受けたとき、戸惑い、断っています。そしてしぶしぶそれを受けて、失敗し、苦労し、不満を言いながら歩んでいます。でもそれで良いのです。それが神様の選びなのでしょう。

私たちもエレミヤと同じでしょう。私たちも不十分な者です。未熟な者です。断ります。でもしぶしぶそれを受ける時もあります。そしてやっぱり苦労するでしょう。でもきっと神様はそのような時こそ私たちと共にいてくださるでしょう。

私たちは自分の精一杯を献げたいのです。私たちの先にはきっと喜びと、そして涙があるでしょう。それを共に受けてゆきましょう。私たちは一緒に喜び、一緒に涙する仲間となってゆきましょう。わたしは必ずあなたたちと共にいるという神の下で、共に精一杯をささげてゆきましょう。お祈りいたします。

 

 

【全文】「教会には夢がある」出エジプト記14章15~22節

 

イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。                    出エジプト記14章22節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。

来週は臨時総会が開催されます。次の2年の執事を決める大切な選挙を行います。そしてその後、信徒会を開き、先日からの続き「地域協働計画」について、話を深めてゆきたいと思っています。ぜひご参加ください。教会員以外の方も臨時総会の選挙権はありませんが、ぜひお昼を一緒に食べて話を聞いていってくださるとうれしいです。

今のこの教会を見渡すと、こひつじ食堂、こひつじ広場は本当に教会に様々な変化と必要を起こしていると感じています。教会は礼拝する場所です。毎週クリスチャンが集う場所です。でも今平塚教会は、その枠組みに留まらなくなってきています。

平塚教会はみんなとワイワイ食事をするところです。近所の知り合いと久しぶりにのんびりおしゃべりをして、食事をできる場所になっています。教会は分かち合いを実現する場所になっています。余った食材、だれかに使って欲しい食材が教会に集まってきます。それをみんなで分かち合っています。教会はボランティアをする場所にもなっています。宗教に関わらず、何か人のためになることをしたいという思いをもった人が集まる場所になっています。

教会がそんな場所に変化してゆくのを見ていて、私たちには未来があると感じます。希望がある、「教会には夢がある」と感じるのです。キング牧師が「私には夢がある」と言ったように「教会には夢がある」と感じるのです。いつの日か地域の様々な人が集い、こども同士が仲良く食事をして、お年寄りがそれを見て笑う、そのような教会にすでになりつつあります。これをもっと広げてゆきたいと思うのです  。

その「教会の夢への道」は確かに開かれてきていると思います。こどもを大切にすること、地域と共に歩むこと、私たちの夢、願い、希望の道はすでに開かれつつあると思います。

そしてこの道を歩み出した教会は、必要な設備が変わってきています。140食を作るにはキッチンは狭すぎです。毎週のようにイスを動かしレイアウトを変える大変さがあります。

さらにそもそも教会には以前からすぐに手を加えなければいけないところが多くありました。コンクリートの塀はグラグラし、石垣が崩れています。教育館の東側は倒壊の危険が指摘されています。会堂は雨漏りし、漏電し、トイレがつまり、ドアは閉まりません。大雨や強風の度に会堂が壊れていないか心配になります。手を加えなければならないのは明確です。

私たちは礼拝を続けてゆくことこそが大事です。でもこのまま礼拝を続けていてよいのでしょうか。この先も、礼拝を続けて行けるのでしょうか。教会には夢があります。その道は開かれつつあると感じています。こどもを大切にする。地域と共に歩む。それが私たちの願い、希望、夢です。

でも会堂建築のことが後ろから迫って来るようにも感じています。日々壊れる箇所は増えてきています。もちろん建築献金がたくさん積み立ててあるわけではありません。自分達では修繕や建て替えもができるのかという現実があります。

前に希望が見えている、向こう岸に希望がある。「私たちには夢がある」と感じていても、八方ふさがりのような気がするのです。私たちの教会に新しい道は開けるのでしょうか。ただわかっているのは、私たちは待っていてはいけないということです。何かを選択し、歩みださなければいけないということです。

そんなことを考える時、私は今日の箇所、この出エジプトをした民が私たち一人一人、そして教会に重なるような気がするのです。今日の箇所を一緒に読みましょう。

 今日の箇所を見ましょう。今月の宣教は旧約聖書を読んでいます。旧約の時代イスラエル人々はエジプトで差別され、不自由、不平等な奴隷として、厳しい毎日を送っていました。人々はそのエジプトから逃れて、神様の約束の土地へと出発したのです。それが今日お読みした出エジプト記の物語です。

彼らは自由を求めて、夢を持って、約束の地へと出発をしました。しかし出エジプト記によれば、その希望への道は険しかったとあります。希望への道は困難な道だったのです。

自由や希望はただ待っていればやってくるものではありませんでした。人々は約束の場所に行くために、ファラオのかたくなな心に直面しなければならなりませんでした。繰り返し説得する必要があったのです。待っているだけでは、約束の場所にたどり着くことができなかったのです。待っているだけ、受け身ではいけないということです。何か行動を起こさなければ、自由と希望の場所にはたどり着けなかったということを示しています。

イスラエルの民は二つの困難にまさに板挟みでした。後ろからは軍隊が迫ってきています。前には進むことのできない海が広がっています。人々の道は閉ざされ、なすがままにされるしかないと思ったのです。

しかしそこに神様からの風が吹き、新しい道が開かれたのです。風が吹くと海の水が割れ、乾いた土地、道が造られたのです。それはモーセが造った道ではありませんでした。神様が開いた道でした。

イスラエルの民は海が割れて出てきた乾いた土地に、一歩を踏み出しました。民は喜んで渡ったのでしょうか。いえ、もうそれしか道がなかったのです。水が壁のよう押しのけられた乾いた土地を歩くのは恐ろしかったでしょう。もし途中で水が流れ込んできたらどうしようと考えたでしょう。危険だから渡らない方がよいと考えた人もいたでしょう。神様は渡りきるまで水をせき止め続けて下さるのかと心配したでしょう。でももう彼らには選択肢がありませんでした。

彼らは与えられたその一歩の道を歩みだすしかなかったのです。その一歩を勇気と信仰をもって歩みださざるを得なかったのです。道が造られ、さあ渡りなさい、もうそれしかないという神様の導きがあったからこそ、人々は応答し、信仰を持って一歩を踏み出すことができたのです。

私たち一人一人にもこのような出来事は起るでしょう。私たちは2つの問題で板挟みとなる時があります。行き詰ってしまう時があります。家族や友人や仕事の事、もうこのままがまんするしかないと思うことがあるでしょう。しかし今日の聖書箇所によれば、そのとき神様は新しい道を開いてくださるお方です。

私たち一人一人には、何か新しいことを始めるのには勇気がいるものです。自分は新しい仕事、新しいことを始めて本当に大丈夫だろうかと考えるでしょう。しかし今日の聖書箇所によれば、神様は不安の中で勇気を出して、信仰の一歩を踏み出しなさいと語っています。それが出エジプトの物語です。神様が造られた道を、神様に励まされて、私たちは歩むのです。

そして教会も歩み出す一人一人と同じです。教会には夢があります。その夢に向けて新しい一歩を踏み出そうとしています。その新しい一歩は信仰の一歩です。神様が道のない場所に道を作り、私たちを導いてくださっています。私たちは信仰をもってその道の一歩を踏み出してゆきたいのです。

建物はどうなるかまだまだ道がはっきりあるとは言えないでしょう。今の私たちは海の向こうに希望があることを見つつも、道のない海を前にして、どうすることもできずにいます。後ろからはすぐに対処しなければいけない軍が迫ってきているような感覚です。私たちは海と軍との間にいる出エジプトしようとしている民と言えるでしょう。

そんな私たちにも、神様は必ず道を造ってくださるでしょう。そしてもしその道を見つけたならば、待っていてはいけないのです。勇気と信仰をもって、一歩を踏み出さなくてはいけないのです。そのことを覚えて総会・信徒会、そしてそれぞれの生活を迎えてゆきましょう。

そしてもうひとつここから、非暴力ということも見ておきたいのです。自由、希望、未来、夢、約束は力によって得るものではないというメッセージもあります。この物語は非暴力のデモ行進の物語です。平和的な行進の物語です。非暴力によって夢が実現してゆく物語です。これは私たちの歩みもそうです。私たちは力・パワーで道を開くのではありません。誰かを傷つけて、押しのけ、抑えつけて解決するのではありません。むしろそこから出エジプトし、神様が用意してくださった道を、平和に歩むのです。神様は力の道ではなく、新しい非暴力の道を示してくださるお方です。

渡った後の人々の姿にも目を向けましょう。残念ながらモーセ自身は約束の地に入ることはかないませんでした。約束の地はこどもたちが見たのです。結果的に出エジプトは自分たちのためではなく、子どもたちのための出エジプトだったのです。

私たちもそうかもしれません。今していること、歩んでいることのゴールを私たちは見ることができないかもしれません。でもいま始めれば子どもたちが、次の世代が見ることができるのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。大切にするこどもたちが乳と蜜が流れる場所を見るために、私たちは出エジプトするのです。私たち自身はゴールにたどり着けるかどうかわかりません。でも今出発すれば、こどもたちがそれを見れるかもしれない。次の世代が見れるかもしれない。私たちにはそのような希望もあるのです。教会も一人一人もそのような信仰を持って新しい一歩、出エジプトを踏み出してゆきましょう。

そして今日は成人祝福祈祷の時も持ちます。成人となる仲間を覚えます。伝えたいことは聖書の物語です。出エジプトです。新しい希望へと出発する時です。その先には困難があるでしょう。板挟みになることがあるでしょう。でも必ず神様は新しい道を下さるはずです。勇気と信仰を持ってその道を歩みましょう。私たちも若い人、こどもたちが希望をもって歩むことができるように、一歩を踏みだしたいと願っています。お祈りします。

 

 

 

【全文】「ジェラる神」ゼカリア書8章1節~8節

 

万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。

ゼカリア8章2節

 

みなさん、おはようございます。またあけましておめでとうございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること感謝です。今年も1年、毎週の日曜日、共に礼拝をおささげしましょう。私たちは今年もこどもを大切にする教会です。今年1年も子どもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。

今日はやきもちを焼くということについてお話をします。お正月と言えばおもちですが、やきもちを焼くという言葉があります。誰かに嫉妬するという意味です。やきもちを焼くという感情は案外、誰にでもあるものでしょう。

みなさんは最近やきもちを焼いたのはいつでしょうか?やきもちを焼く、ジェラシーです。若者ことばで、ジェラシーを感じるということを、ジェラると言うそうです。ジェラシーを感じる、嫉妬するというのはこどもだけではありません。むしろ大人こそ嫉妬し、ジェラシーを感じる、ジェラってしまうものです。

あの人はいつも、私にだけに冷たい。あの人はいつもあの人にだけ甘い。あの人ばっかりちやほやされている。もっと私も・・・。そのような嫉妬・ジェラシーの感情は小さくても私たちの心の中を見れば、実はよくあるものです。めんどうくさいものです。

嫉妬は特に恋愛の中では起こりやすいものです。自分の好きな人が、他の人のことをかっこいいとか、きれいとか言っているのを聞くと嫉妬・ジェラシーが起こります。自分の好きな人が誰かと仲良くしているのを見ると、嫉妬、ジェラシーが起こります。恋愛では嫉妬から、私だけを見て欲しい、他の人は近寄らないで欲しい、他の人としゃべらないで欲しい、世界に二人だけになったらいいのにと思うのです。

やきもちというは、扱いづらくも、どこかかわいげのある感情でしょう。好きな相手がいるからこそ抱く感情なのです。やきもちを焼いている時、自分の感情を正直に認めることも大事でしょうか。

好きな人からのやきもちを焼かれる側はどうでしょうか。めんどうくさくもありますが、愛されている感じがしてちょっと照れくさく、嬉しいものでもあります。もし嫉妬・ジェラシーをされてしまった時は、自分の気持ちがしっかりその相手に向いていると伝えることが大事です。相手にしっかりと見ていることを伝えれば、安心し、ジェラシーは収まることも多いものです。嫉妬・ジェラシーとは、相手の気持ちが自分に向いていないと感じた時に起こる感情だからです。自分の優先順位が低くされていると感じた時に起こる感情だからです。

時にはそれがもつれて、憎しみや、恨みになってしまうこともあります。冷静でいられなくなってしまうのです。独占したいという気持ちになってきてしまうのです。もっと強くなってゆくと自分も相手も苦しくなってしまいます。相手はどんどん引いていってしまいます。嫉妬するという感情は無理に気持ちを押さえつける必要はありませんが、相手との適度な距離感というのも大事なのではないでしょうか。

そして今日お話しするのは、神様も激しくやきもちを焼くお方だということです。神様は激しくジェラるお方なのです。私たちの中にあるあの感情を神様もお持ちなのです。今日はそのことを聖書から読んでゆきましょう。

 

今月の宣教のテーマは旧約聖書を読むということにしています。旧約聖書の神様はどうも怖い、怒っている。そんな印象をもつ私たちです。さらにゼカリア書はあまり宣教で取り扱わない箇所でもありますけれども、一緒に読んでゆきましょう。

今日の聖書箇所を見ましょう。2節には「激しい熱情」とあります。口語訳や新しい協会共同訳では「激しく妬む」と訳されています。熱情とは妬むことです。やきもちを焼くことです。嫉妬することです。ジェラシーを感じることです。ジェラることです。神様は激しくやきもちを焼くお方です。神様は激しく嫉妬し、ジェラシーを感じる、激しくジェラるお方だということです。

人間からみてあまり好ましいと思わない感情を、神様が激しく持っているというのです。しかしよく考えると、このジェラシーは私たちに神様のことをよく理解させてくださるかもしれません。

私たちは誰かに、自分だけ見ていて欲しい、自分だけに特別に接してほしいと思うものです。表に出さなくても自分の中に確かにあるものです。その激しい感情を私たちは自分自身がよく知っています。今日の箇所はその激しい感情は、神様も同じなのだということを語っているのです。

神様は激しい嫉妬、激しいジェラシーの感情をもっているお方です。でも神様は他の人間と一切しゃべらず、社会と一切関わらないで欲しい、私だけのことを考えていて欲しい、世界で二人だけになって欲しいと言っているのではありません。

神様が嫉妬するのは、他の人との関係も大事だけれども、私を一番にして欲しいということです。他の神や物・人を見ている人に向けて、私が一番ではないとダメと嫉妬をしているのです。それが神様のジェラシーです。

神様は私たちにジェラシーを燃やしています。神様は私たちに、神様を大切にしていること、神様への愛をしっかりと示してほしい、一番だと示して欲しいと願っているのです。私たちに、あなただけを私の神様とします、大切しますということを、知らせて欲しいと強く願っているのです。それが神様の激しい熱情です。

ですから神様は怒っているのとは違います。罰を下そうとしているのではありません。神様は私たちを愛していて、そしてちょっと愛が強すぎて、冷静でいられないのです。神様は私たちが少し怖いと思うくらい、私たちを激しく愛しているということです。

私たちは、神様にやきもちを焼かれています。私たちはその激しい熱情を怖いと思うのではなく、ちょっと嬉しいかもと感じてみてはどうでしょうか。やきもちはなんだか照れくさいけれど嬉しい、そう感じてみてはどうでしょうか。

神様が私たちを愛していて、もっと私だけを見て欲しいと激しくジェラっているのです。それを知って、ちょっとうれしさを感じるのです。神様はそのように私たちにジェラっているのです。

神は私たちが神以外のものに目を向けることから、自分に目を向けるように強く、冷静さを欠くほど願っています。私たちは神様を中心としてゆきましょう。他の宗教に惑わされてはいけませんというのではなく、それ以上にこの神様を私たち一人一人の中心としましょうということです。

私たちはすぐに優先順位を変えてしまいがちです。神様が一番でなければいけません。お金のこと、将来の事、人間関係のこと、介護のこと、病気の事、たくさんの心配があり、私たちの生活でそれが中心になってしまうことがあります。それに神様はジェラっています。

だからこそ神様は語ります。本日の箇所3節です。「私がエルサレムの真ん中に住まう」とあります。エルサレムとは私たちのことです。神様は私の、私たちの、私たちの教会の真ん中におられるということです。これが神様の願いです。神様は私を一番にしてほしい、真ん中にして欲しいと、強い愛情を持ってやってくるのです。私はあなたの真ん中にいるというのです。神様は私たちに心のすみっこではなく、真ん中に神様を迎えるようにと言っているのです。

そのために3節から繰り返されている言葉があります。「主はこう言われる」とあります。神様を真ん中にするために、私たちには神様の言葉が、繰り返しやって来るのです。私たちが神様を真ん中にすることができるように、神様の言葉が繰り返し、私たちにやってくるのです。

4節からは「エルサレムの広場」という言葉があります。聖書にはエルサレムの広場で杖をついたお年寄りが、こどもたちが笑うのを見ている様子が記されています。これは私たちの教会が大事にしている姿でもあるでしょう。教会に子供たちの笑い声が広がる様子と重なります。その声を聞いて、お年寄りが楽しそうに見ている姿です。神様を真ん中にして礼拝するということは、まさにこういう事をいうのだとつくづく思うのです。

神様が実現なさろうとしていることはこの姿なのです。神様は嫉妬から、争いと戦いを起こすお方ではありません。激しい罰を振りかざす方に見えても、本当は平和を実現しようとされる方なのです。

当時、戦争が始まれば真っ先に置き去りにされてしまったのはこどもと高齢者です。しかしここでは、こどもや高齢者が平和に暮らし、そして笑うのです。この平和を実現させ下さるのは神様です。神様はその平和の神を私たちの中心にしてほしいと、強く願って、嫉妬しているのです。

7節を見ましょう。神様は東の果てから、西の果てまで、いろいろな場所から人を集めるお方です。私を中心にしなさいと人々を集めるお方です。私をもっと中心にしなさいと語るお方です。そして神様は神様のもとで、あるいは神様の建てた教会のもとで、心休まる場所で、過ごすようにさせて下さるのです。そのように神様は私たちの神となってくださるのです。8節「彼らは私の民となり…私は彼らの神となる」とあるとおりです。

さて、新年を迎えています。神様は私を中心とせよ、そう激しい熱情を持って私たちに繰り返し語り掛けています。それができない私たちに嫉妬し、ジェラっています。

私たちの1年はきっとまた神様の言葉が繰り返し注がれる1年となるでしょう。そして私たちはそのような神様を中心とする、そんな1年にしてゆきたいと願います。この私たちを激しい熱情で愛してくださる神様を、そしてこどもと高齢者が笑い合う平和を実現させてくださる神様を今年もまた中心にしてゆきましょう。そんな教会にしてゆきましょう。

私たち一人一人の心の中心に神様を迎える、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「来年こそ、別の道」マタイ2章1節~12節

 

「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。            マタイによる福音書2章12節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。そして今日この主日礼拝で教会の集会は今年最後となります。共に礼拝をお献げしましょう。

もうすぐ2022年の元旦ですが、私は初詣というのに一度も行ったことがありません。どんなことをするのでしょうか。行った事のないというのは少し寂しい気もするものです。おみくじとかやってみたいものです。

キリスト教はおみくじのような、占いをまったく信じません。世の中には毎日たくさんの占いがありますが、私たちは占いで人生を決めるのではありません。占いには頼らないのです。クリスチャンは聖書の物語から神様の招き探し歩もうとします。もちろんどうすればいいかわからないこと、わかっていても従えないことがあります。占いのようにきっぱり答えを聞かせてくれた方が楽でしょう。しかし私たちは聖書に聞き、葛藤しながら歩むのです。

私たちは来年の運勢が大吉か小吉かどうかということよりも、来年も神様の招きに従って歩めるようにということを願います。私も今年はいろいろ、神様に従う歩みができず反省していることがあります。来年こそ、今年できなかった神様に従う歩みを、来年こそ、もう少ししたいと思っています。来年こそ神様に従い、礼拝をしたい、そんな気持ちでいます。

皆さんはどんな1年で、来年はどんな1年としたいと願っているでしょうか。まずは1年間神様に招かれて、繰り返し礼拝をできたこと、繰り返し礼拝から派遣されたことに感謝です。来年もまた共に礼拝をしてゆきましょう。

そして来年こそ、礼拝をしましょう。来年こそは、今年とは違う心で、また新たにされて、礼拝をお献げしましょう。そして精一杯の献げ物をしましょう。礼拝から始まる、礼拝から派遣される1週間を、来年こそ共に歩みましょう。そのように思っています。

私たちは来年も、そして来年こそ神様の招きをいただき、礼拝し、歩んでゆきましょう。今年とは違う、別の道を歩んでゆきましょう。今日は、神様は今いる道とは別の道に招いてくださるお方だということ。来年も私たちは神様に招かれて礼拝をする、別の道を歩む、きっとそれが私たちに起こるということ、そのことを一緒に聖書から読んでゆきましょう。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所、1節には「占星術の学者」とあります。以前の翻訳の聖書では「博士」と訳されていました。この個所は博士という言葉から「外国の偉い学者でさえ、イエス様にひれ伏しのだからキリスト教はすごい宗教なのだ」と解釈をされてきたかもしれません。

しかし近年においてはそのようには解釈はされません。この博士は占星術の学者と訳されて、星占いをする人だったとされています。星占いは各国で行われました。占い師は占いの結果をもとに王様に様々なアドバイスしたのです。

しかしイスラエルは占いをしませんでした。占いによる意思決定はしなかったです。イスラエルから見れば異教の占い師はペテン師、魔術師同然の存在でした。博士とは決して尊敬を込めた言葉ではありません。このように博士と聞くと誤解を生むということから、新共同訳では占星術の学者と訳されています。

これをもっと意味が伝わる表現としようとした翻訳には「星を読む占い師ども」という翻訳ありました。歓迎されない存在、疑わしいと思われている存在ということがよく表れている翻訳です。今日はあえて「占い師ども」と呼びましょう。とにかく疑わしい存在なのです。決してイスラエルでは歓迎・尊敬されるような人ではなかったのです 。

しかし神様の招きというは不思議なものです。神様は不思議なきっかけを使って、人々をご自分へと招くお方です。その選び方も不思議です。よりによってこの占い師どもが一番にキリストのもとへと招かれるのです。

これは神様の選びがよく表されている事柄だと思います。マタイによれば、一番最初にキリストの誕生を知ったのはこの占い師どもでした。ユダヤ人より早く占い師がキリストの誕生を知ったのです。

その選びは私たちの想像とは逆の選びです。私たちが神様からもっとも遠いと思っているその場所に、その人に、神様の選びと導きがあるということが示されているのです。それは私たちも押さえておきたい、神様の選びの特徴です。まさかそこにと思う場所、まさかあの人にと思う人に、神様の選びが隠されているということです。

神様は占い師どもをユダヤへと導きました。2節には占い師が旅の途中、ヘロデ王のところに寄ったとあります。時に王にアドバイスをした占い師である彼らは、きっと王の機嫌を伺うことには慣れていたでしょう。しかし彼らはヘロデ王に対して大変ぶしつけな態度をとっています。王にひれ伏すことなく「ユダヤの王として生まれた方はどこか」と聞いたのです。現職の王に、次の王はどこかと尋ねるのは大変失礼なことです。それは神様に導かれた彼らが、もうヘロデ王は王でない。新しい王がもういると信じているから出てきた言葉なのでしょう。

占い師どもはさらに、9節にあるように、先立つ星によって、先立つ神様によって招かれています。そして10節占い師はその招きを喜びにあふれたのです。11節占い師たちはついに星の下に幼子イエスを見つけました。占い師どもは今度はひれ伏して拝んだとあります。ヘロデ王への態度とは対照的です。

ここで言う「ひれ伏した」とはつまり礼拝をしたということです。彼らは星に導かれ、家に入り、主イエスを礼拝したのです。

11節は続いて、占い師どもが宝(黄金・乳香・没薬)を献げたとあります。この黄金・乳香・没薬の意味は諸説ありますが、わかっていません。ある説によればそれはもしかすると占いの道具だったのではないかと言われます。だとするとイエス様と出会って占いをやめて、主イエスを礼拝をすることにした。そのような解釈もできるかもしれません。

いずれにしても、何をあげた、どんな意味があったが重要な点ではありません。とにかく占い師が主イエスに出会うと、彼らは礼拝をしたのです。彼らは大切にしていたものを献げたくなったのです。何か気持ちを届けたくなったのです。応答したくなったのです。それは私たちと同じです。神様を礼拝し、大切にしているものを献げるのです。占い師にこのような応答が起こされたのです。

神様は疑わしいと思われた占い師どもを選び、彼らこそ礼拝へと招き、そして占い師どもは献げ物をしました。この物語はプレゼント物語ではありません。神様の豊かな選びと招き、人々の礼拝と応答が描かれている物語です。

12節に目を向けます。12節には占い師どもは「別の道を通って、自分たち国へと帰った」とあります。別の道とはどんな道でしょうか。それは直接的にはヘロデ王に寄らない道を示します。ヘロデ王に主イエスの誕生を知らせないという道です。

しかしこの「別の道」には、もっと深い意味を感じます。彼らの人生に起こった新しい道、新しいスタートを切ったということ、それが「別の道」です。別の道とはもはや王様に忖度する道ではありません。占いに頼って物事を決める道でもありません。イエス・キリストの道を歩み始めたと言うことです。

彼らはいつから別の道を歩み始めたでしょうか。振り返れば、神様が彼らに輝く星を見せたことがすでに別の道の始まりでした。その旅立ちがすでに別の道の始まりだったのです。そして、彼らはイエス様へ招かれ、礼拝し、応答し、献げ、元の場所へと戻っていったのです。それはすでに別の道の始まりでした。そして改めて、彼らは別の道を歩み出したのです。

これは大切なことを示していると思います。私たちが礼拝に集うということと似ていると思います。神様に招かれて礼拝に集うということ、喜んで礼拝し、そこで献げ物をするということ、そしてまたそれぞれのもといた場所に派遣されるということ、この毎週の私たちのサイクルと似ています。そして派遣される時、私たちは別の道、人間の道ではなく、主の道を歩む、そのようにして派遣されるのです。別の道に派遣されるのです。

私はこの「星を読む占い師ども」に自分を重ねます。私たちもこの占い師どもの様に、まさか私に神様の招きがあるのだろうかと思う者です。しかし神様の招きが確かに私にあり、礼拝する者となるのです。そして礼拝し、大切なものを献げます。そして1週間自分の思う道ではなく、別の道、主の道を歩むのです。私は自分がこの疑わしい占い師どもの一人のような気がします。

私たちはこの1年、どのような1年だったでしょうか。いろいろな言葉や出来事に惑わされた1年だったかもしれません。しかし神様は私たちを私たちはすでに、繰り返し招き、私たちは礼拝し、派遣され、別の道を歩むことができました。

神様が与えてくれた、イエス・キリストという星、光に向かって歩み続けた1年だったでしょう。たくさんの豊かな礼拝を献げることができました。たくさんの献げ物をすることができた1年でした。

そして今、私たちにまた新しい1年が始まろうとしています。新しい1週間が始まろうとしています。私たちにも疑わしい占い師どものように、神様はきっとまた別の道、主の道を準備してくださっているでしょう。

私たちは共にまたその道を歩みましょう。人の道ではない、別の道、主の道を共に歩みましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「神はひとりにしない」ルカ1章39節~56節

みなさん、おはようございます。今日、クリスマスの喜びを共に分かち合えること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。そして今日はこの後、昼食会と小さな祝会を持ちます。この交わりもとても楽しみにしています。どうぞご参加ください。

さて先日は、教会のチャリティーバザーが行われました。たくさんの方のお手伝いをいただき、たくさんの寄付ができたこと感謝でした。バザーでは「OHANA(オハナ)」という団体のコーナーがあり、手芸品などが販売されました。その売上分はその団体の活動費としていただきました。

この「OHANA」という団体は、平塚市内でDVや性暴力による被害を受けた女性を支援している団体です。代表の方とは平塚市内でシェルターをしているというつながりから、いろいろなお話を聞かせていただくようになりました。OHANAさんの様々な関わりを聞かせてもらうのがとても勉強になっています。

先日は「妊娠SOSかながわ」という行政の電話相談窓口の存在を教えてもらいました。そのHPを見ると「思いがけない妊娠のお悩み相談。予期しない妊娠等に関する悩みを抱えた方のために、電話等による相談支援を行っています。相談料は無料」とのことです。

予期しない妊娠について電話で様々な相談ができる窓口です。誰にも相談できない時、このような窓口があることは大切なことだと思います。ただ課題もあるようです。電話相談を受け付けている時間を見ると、月・水・金の夕方4時~夜7時までととても短いのです。週3回3時間です  。

電話しても必ずつながるわけではありません。電話が重なれば、折り返しの電話となることもあるそうです。その場合は次の営業日(数日後)になることもあるそうです。さらにこの電話に電話しても、多くの場合次の相談先を紹介される仕組みです。十分な相談窓口とは言えないのが現状です。

OHANAの方がこうおっしゃったのを覚えています。「話を聞くだけならば、行政ではなくて、地域の人が良い」。考えさせられる言葉です。もちろん教会として24時間電話相談を受けるということは難しいのですが、私たち一人一人が、それぞれの地域で、それぞれの置かれた場所で、できることがあるのではないかと考えさせられる話でした。すべての支援はできなくとも、今その時、しんどい思いをしている人に声をかけ、話をじっと聞くことなら私にもできるのではないかと思わされました。

きっと私たちも誰かと出会い、聞くことによって、誰かの隣人になることができるはずです。そして、誰かが私と出会い、話も聞いてくれることよって、私の隣人となってくれるはずです。神様はきっと「どんな人もひとりにはしない」お方です。

クリスマスはにぎわいの中に、どこか取り残された寂しさを感じる時期でもあるでしょう。独りぼっちと感じる時があるでしょう。でもクリスマスこそ、神様は一人にしておかないお方です。神様は私たちに共に戸惑い、喜びを分かち合うことのできる仲間を与えて下さるお方です。そして神様ご自身が共にいて下さるお方です。今日、礼拝でこのことを聖書から読んでゆきたいのです。

 

 今日の聖書の箇所を見ましょう。聖書によればマリアも自身が予期しない妊娠をしていました。彼女がそれを聞いたときの混乱が聖書にしるされています。今日の箇所の少し前の箇所、34節です。「どうして、そんなことがおこるのでしょう」と戸惑ったのです。

マリアが予期しない妊娠を知った時、相談した人は誰でしょうか。両親や親しい友人など、かえって身近な人には相談できなかったのかもしれません。マリアの時代には未婚女性が妊娠することは、律法によって罰せられる可能性がありました。彼女が相談することができたのは、両親やきょうだいではなく、離れて住む「親類」のエリザベトでした。

この相談相手は神様に与えられた仲間でした。天使がマリアにエリザベトも同じ境遇だと教えたのです。その相談相手は行政が用意したのではなく、神様が似た境遇の相談相手として準備してくださっていたのです。

マリアはそのエリザベトに会いに行くことにしました。39節「急いで山里に向かいユダの町に行った」とあります。ユダの町がどこを指すのかはわかりませんが、伝説によればナザレから数日もかかる道のりだったのではないかと言われています。妊娠中の彼女が、大急ぎで、一人で、数日かかる、山里に向かうのです。そしてその滞在は3か月間だったとあります。それは妊婦がするには、とても危険な旅であったはずです。

しかしそんな危険な旅でも彼女は、強く行きたい、すぐに行きたいと願ったのです。SOSを出したのです。不安な気持ちを聞いてほしい、そう急いでエリザベトに会いに行ったのでしょう。

一方のエリザベトも自分が妊娠したことに戸惑っていました。これも前の箇所24節ですが、エリザベトは妊娠した後「身を隠していた」とあります。エリザベトはこどもを持つことを、ずっと願っていたはずです。しかしいざそれが現実になると戸惑い、不安になってしまったのです。そして彼女は家に引きこもったのです。その行動からは妊娠の喜びは感じません。

しかしそんなエリザベトと、同じ境遇であるマリアの二人が出会うことになりました。エリザベトとマリアと出会った時、二人は互いに同じ仲間を得たのです。エリザベトにとっても、マリアとってもすぐに互いが大切な存在となったでしょう。

マリアはエリザベトのもとに滞在した期間に、様々な癒しと励ましをもらったはずです。まず訪ねたとき42節、声高らかにエリザベトから「あなたは女の中で祝福された方です」そう祝福の言葉をかけられたのです。そしてさらに45節「なんと幸いだろう」と喜んでくれたのです。今まであれほど戸惑っていたことを、吹き飛ばすような大声で喜んでくれる仲間を見つけたのです。

マリアにとってエリザベトの存在はとても心強かったでしょう。自分の出来事を一番喜んでくれる存在でした。そしてさらに同じ境遇で、妊娠ということについては6か月の先輩です。自分にこれから起こる変化をよく知っているのです。

何よりも励ましになったのは、おなかのこどもの命だったでしょう。エリザベトのこどもが、おなかの中で、喜び踊っています。マリアもエリザベトのお腹に耳を当てて、こどもが喜び踊るのを聞いたでしょう。

エリザベトにとってもマリアは大きな励ましとなったでしょう。エリザベトも戸惑っていたのです。しかし、マリアが訪ねるとエリザベトは聖霊に満たされました。隠れていた人が、大きな声で「なんと幸いでしょう」と叫んだのです。

二人はそれぞれ予期していないことに遭遇し、戸惑っていました。しかし二人の出会いはお互いに大きな励ましとなりました。二人は分かち合い、励まし合うことができたのです。予期せぬ自分の妊娠を受け入れ、前に進むことができたのは、このような仲間の存在が大きかったはずです。その貴重な3か月、分かち合う仲間をいただいた、大切な時間になったでしょう。

そしてこの仲間は確かに神様が与えて下さった仲間です。神様が準備をしてくださっている仲間です。神様はこのように私たちを一人にしないお方です。神様は戸惑う私たちを出会わせ、互いに励まし合い、分かち合うことのできる、喜び合える仲間を用意してくださるお方なのです。私たちには「あなたは神様に祝福されているよ」「なんと幸いだろうね」と言い合える仲間が与えられるのです。

私たちにもきっとマリアにとってのエリザベト、エリザベトにとってのマリアが与えられるでしょう。その仲間はきっと教会の中でこそよく見つけることができるはずです。そしてもちろん教会の中だけではなく、それぞれに与えられた場所で、見つけ、出会うことができるでしょう。

私たちには誰かの話を聞く、戸惑いを聞く。私たちが誰かに話を聞いてもらう、戸惑いを聞いてもらう、そのような出会いが起きるでしょう。そしてその先の不安にも、祝福と幸いがあると信じ、共に喜ぶことができる仲間が与えられるはずです。マリアとエリザベトに起きたことが私たちにも与えられるはずなのです。

続く、有名なマリアの賛歌をよく見ましょう。51節~53節には「権力ある者をその座から引き降ろし…」とあります。ここでは「わたし」のことだけではない、社会正義に関わることが語られています。

51節~53節は文脈からはとても不思議な内容です。妊娠中の女性が、社会で思い上がる者を打ち散らすこと、身分の逆転、貧富の差の逆転を神に願っています。唐突に感じるでしょう。しかし私はどこか行政と社会が変えられるようにという願いにも聞こえるのです。それは私たちが互いに支え合い、励まし合い、聞き合って生きると同時に、行政や社会の変革を願うという態度と通じているでしょう。

私たちは今日、このようにクリスマス礼拝を迎えています。イエス様の誕生を祝う時をいただいています。まず神様はこのように、イエス様の誕生に際しても、一人一人を一人ぼっちにしないお方です。神様は助け手、相談相手、同じ境遇の人と出会わせてくださるお方です。

そしてそれはこの教会の交わりや、私たちのそれぞれの場所でも起こるはずです。戸惑いの中でも「祝福」と「幸い」を見つけ、共に喜び合うことができる仲間が与えられるはずです。

私たちはもう一度、そのような「祝福」と「幸い」の出会いを、出会い直したいのです。戸惑うことを分かち合い、喜びを分かち合い、互いに励まし、祈りあってゆきたいのです。そのような愛し合う教会になりたいのです。

神様は決して私たちを一人にしないお方です。どんな時も、共に戸惑い、共に喜びを分かち合う仲間を与えて下さるお方です。そして何より神様が共にいてくれるお方です。今日その喜びを共に分かち合いましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「低きに生まれる神」マルコによる福音書1章1~13節

神の子イエス・キリストの福音の初め。マルコによる福音書1章1節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、礼拝をしてゆきましょう。

数年来入院しているKさんと、コロナが始まってから面会ができなくなってしまいました。彼は病院の公衆電話からよく電話をくれます。電話は不定期なのですが、祈祷会のある水曜日にかかってくることが多いような気がします。毎週祈っているよということを伝えています。

彼に面会できた時、彼は決まっての自分で書いた詩を束でくれました。その中にこんな詩がありました。

「総合公園の柵、小さい子は見えない。上から見せろと言われる。確かにしゃがんでみると全然見えない。見えないという声、立ったままでは分からない。」

他にも考えさせられるような詩をたくさんもらって帰ってきます。確かに私たちは他人も、自分と同じものを見ていると思うものです。でも同じものでも他の人には見え方がまったく違うものです。見えないという人の声を聞き、しゃがんで見て、初めて見えるものが違うことに気づくのです。しゃがんで見ることは大事なことです。会堂でしゃがんで見ると、こどもが頭をぶつけそうな危険な場所や、躓きそうな場所に気づきます。そして、しゃがむとクリスマスツリーがずっと大きく、きれいに見えることも発見します。

福音書を書いた人物もそうでしょう。4つの福音書はそれぞれ視点が違います。私たちは11月からマルコ福音書を読んでいますが、この特徴はイエス様の誕生物語、クリスマス物語が無いということが挙げられます。

マルコ福音書にはベツレヘムも、博士も、羊飼いも、系図も出てこないのです。ヨセフも登場しません。マルコ福音書は、イエス様がどのような経緯で生まれたのか、まったくと言っていいほど伝えていないのです。それはマルコ福音書を書いた人が、イエス様誕生の経緯にあまり興味がなかったとも言えるでしょう。大きな視点の違いです。

今日の箇所でマルコが唯一、イエス様の出生に関する記載をしている点は、イエス様がガリラヤのナザレ出身だったということです。9節にそのように紹介されています。ガリラヤは中心地エルサレムや、ベツレヘムとは違う、農村地帯です。そしてその中でもナザレは小さな村です。マルコ福音書によればイエス様はイスラエルのはずれであるガリラヤ地方の小さな村ナザレから来た、出身だったと記しています。イエス様は無名の町でひっそりと生まれ、やって来たのです。

マルコとルカとマタイにはそれぞれに別のイエス様の誕生物語が記録されています。それはそれぞれの視点が違うからです。ルカは母マリアの視点から書かれ、身分の低い羊飼いがイエス様を見つけます。マタイは父ヨセフの視点から書かれ異教の占星術の学者がイエス様を見つけます。それぞれの記載で視点が異なることは、豊かな事です。

そして私はどの福音書にも一貫している、共通点があると思います。ベツレヘムだろうと、羊飼いだろうと、あるいはナザレであろうと変わらない意味、共通点があります。それは救い主イエス・キリストが弱い、小さい、中心から外れた場所に生まれたということです。人々の期待する場所とは違う場所に、生まれたということです。マルコはそれを、イエス様が「ガリラヤのナザレから来た」という言葉で表しています。

そしてどの福音書にももう一つ共通しているのは、洗礼者ヨハネの記事が残されているという点です。そこには救い主を待ち望んだ人々の様子が記録されます。洗礼者ヨハネは7節「私の後に、私より優れた方」が来る、救い主が来ると宣べ伝えました。

それを聞いて、救い主を待つ多くの人々がユダヤ全土からヨハネの下に押し寄せたのです。厳しい現実に生きる人々は、強くその救い主の到来を待ち望んだのです。自分の体が、魂が救われるように、救い主に希望を見出そうとする人々が押し寄せました。

洗礼者ヨハネはそのように救い主を待ち望む人に、バプテスマを受けるように促しました。バプテスマを受けて、救い主を待つようにと言ったのです。4節をみると、そのバプテスマは悔い改めのバプテスマと呼ばれています。悔い改めに向けたバプテスマとも言えるでしょう。

よくキリスト教では「悔い改める」と言いますが、実際、悔い改めとは何を指すのでしょうか。案外曖昧なままで使っている言葉かもしれません。悔い改めとは、悪いことを反省し、もう二度としませんと考えるのが、悔い改めではありません。

悔い改めとは聖書の言葉ギリシャ語ではメタノイアという言葉です。メタは変わる、超えるという意味、ノイアは理解や判断を示す言葉です。つまり悔い改めとは、判断を変えるということです。

いわば悔い改めは、見る視点を変えるともいえるでしょう。悔い改めとはしゃがんで見ることです。今の自分の見方を変えてみることです。自分と異なる視点に立つことが悔い改めなのです  。

この世界と現実が貧しい者にどう見えるか、小さくされている人にどのように見えるか、子どもにどのように見えるか、私たちの視点を変えるということ、それが悔い改めるということです。洗礼者ヨハネが語ったのは、そのためのバプテスマでした。新しい視点に立つこと、生き方・見方を変えてゆくこと、それが悔い改めに向けたバプテスマなのです。

9節には、イエス様もそのバプテスマの列に加わったとあります。イエス様も悔い改めに向けたバプテスマを受けたのです。反省すべきことがあったのでバプテスマを受けたのではありません。イエス様も視点を変えようとしたのです。私たちと同じ目線、低い目線になろうとされたのです。

イエス様は雲の上から人間を見て、教えたのではありませんでした。水に深く沈んだのです。水の流れる、もっとも低い場所に、自分の居場所を、自分の視点を変えたのです。イエス様はバプテスマによって、最も低い場所に身を置くお方となったのです。それが悔い改め向けたバプテスマの意味です。

イエス様がバプテスマを受けると、10節天が裂けて「愛する子、心にかなう者」とイエス様だけに聞こえたとあります。そうです。高い場所から、低い場所に身を移した者、視点を移した者こそ「神の愛する子、心にかなう者」だというのです。イエス様はまさに、そのようなお方です。

私たちは本当にヨハネと同様、そのお方の靴ひもを解く、つまり奴隷の仕事さえする値打ちのない者かもしれません。しかし今日の箇所によれば、私は無価値だ、値打ちがないと思う、その低みにイエス様は現れる方なのです。このどん底から救われたいと願う人の列に共にいて下さるのがイエス様なのです。イエス様は私には神の前に進み出る資格などないと思う人にこそ、来られるお方なのです。

そして12節、バプテスマを受けると「神が」イエス様を荒野に送り出したとあります。荒野、悪魔の誘惑へと送り出したのは、神様です。神様はこのように、バプテスマを受けた者に何不自由のない生活を約束するのではありません。むしろ荒野へと送りだされるのです。

誕生物語と同様に、それがどんな誘惑だったのかマルコは記録していません。興味がなかったのでしょうか。しかし13節、荒野でイエス様は野獣と一緒にいたとあります。本来自らに襲い掛かってくる動物と、共にいることができたということです。視点を変え、荒野に送りだされた時、苦難や敵と思っていたものと争うことなく、共に生きる、平和に過ごすことができるようになったということです  。

私たちの歩みもそうです。バプテスマを受けると苦難がなくなるのではありません。むしろ神様はバプテスマを受けた私たちを再び荒野へと送り出すのです。試みの中で生きるようにさせるのです。しかし悔い改めをする時、視点を変える時、私たちはその荒野で、共に、平和に、生きることができるのです。

今日の箇所はこうです。イエス様はナザレと言う無名の小さな村から来られました。そして低い場所に身を置く、低い場所に視点を置くそのようなお方でした。それが悔い改めのバプテスマです。そしてそのような場所に身を置くとき、天から「神の心にかなう」と言われたお方でした。そして試練へと送り出されましたが、そこで共に、平和に生きるお方でした。

1節を見ましょう。そこには「福音の初め」とあります。マルコの言う、福音のはじまりとはこのことでした。イエス様が無名小さな村から来た事、悔い改めに向けたつまり視線を低くするバプテスマを受けたこと、私たちと共にその列に一緒に並んでくださったこと、それがイエス様の福音、私たちの福音の初めなのです。そしてそう、それはマタイや、ルカにあるクリスマス物語と通じるものでしょう。

神様は、私たちの思う身分の高い、近寄ることのできない場所に生まれるのではありませんでした。私たちと共に、地上に生まれ、バプテスマを受け、試練のあったお方でした。それは高い場所にではなく、低い場所に生まれた神と言えるでしょう。

今私たちはイエス様を待ち望む、アドベントを持っています。私たちも救い主をもとめる大勢の一人です。

私たちはクリスマスに向けて、どこかに出かけるのではありません。イエス様を探しに出発するのではありません。この大勢の中にイエス様が現れたように私たちのもとに、取るに足らない小さな私に、イエス様は生まれてくださる、私たちはそれを待つのです。

来週はクリスマス礼拝を迎えます。私たちも悔い改めましょう。物事をしゃがんで見てみましょう。そのようにして、低きに生まれる神、主イエス・キリストが来るのを共に待ちましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「差別を超える神」マルコによる福音書7章1~13節

 

こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。

また、これと同じようなことをたくさん行っている。マルコ7章13節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も元気なこどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

さて、私たちはバプテストというグループの教会です。キリスト教の中でも自由や平等を大事にするグループです。バプテストという名前は、全身を水に沈めるという意味のバプティゾーという言葉から由来しています。洗礼の形式を全身で水に浸かる(全浸礼)形式であることから「バプテスト」と呼ばれています。私たちはこの形式に強いこだわりを持っています。全身を沈め、また出てくることから、死と復活を象徴する形式と理解しています。

ただし、私たちの教会では、この形式でなければ絶対だめということでもありません。病気や水が怖いなどの理由によって、頭に水を注ぐという形式で行う場合もあります。そして何より他の教会の形式で洗礼を受け、この教会に集っておられる方々もいます。その洗礼ももちろん私たちと同じ洗礼として考えています。

それよりも目を向けたいのはバプテスマにおいて誤解されやすいことです。それはバプテスマを受けることによって、自分が清められ、聖なる者になるという誤解です。バプテスマを受けても、聖人になるわけではありません。その後も悪いことをいっぱいします。またバプテスマを受ければ、これまでの罪・悪い行いがまさしく水に流されるように、無くなるということでもありません。

ではどんな意味があるのでしょうか。それは神様と一緒に生きるという意味です。神様を信じる者として生きてゆくという決心がバプテスマです。誤解されやすいのでもう一度言いますが、バプテスマを受けた人イコール、罪から解放され、他の人より清く、神様に近く、偉く、優秀で、真理を知っているというわけではありません。

バプテスマとは実に不思議な儀式です。私たちにはこのように、周りの人から見ると極めて不思議な形式とその中身を大切にしています。

水を使った様々な宗教的な儀式というのは世界中にあります。日本の神社には手水や禊といった習慣もあります。ヒンドゥー教にも沐浴という習慣があります。それぞれ神様の前で、身を清めるという意味があるでしょう。水に対する私たちの理解とは違いますが、神様の前に襟を正すということ、神様にしっかり向き合うという姿勢は、キリスト教とも共通する姿勢だと思います。それを形式主義だとは思いません。

一方で、どの宗教を信仰し、確信があったとしても、自分の信じる宗教的行為の有無によって、人を清いとか、汚れていると言うのは大きな間違いです。実は宗教はその熱心さゆえに、そのような差別を起こしやすいのです。多くの宗教が、誤った熱心さによって、差別を生んできました。キリスト教も例外ではありません。キリスト教こそ多くの差別を生み出してきました。私たちこそ注意をしなければいけません。

聖書によれば、神様はみんなの命を尊いものとして創られたはずです。だからすべての命は等しく、尊いのです。宗教や、出身、国籍、肌の色、性、障がいに関わらず、すべて神様が造った命です。だから私たちは命に優劣をつけない、差別しないのです。

私たちは主イエスを信じています。熱心に形式を守ります。一方で気を付けたいことは、そこから生まれる差別です。他の宗教やグループを、間違っている、劣っていると見下し、差別するようになることに注意をしなければいけません。

今日はこの個所から、神様は差別をしないお方であること。命に優劣をつけないお方であることを見てゆきたいと思います。

 

 

 今日の聖書箇所をお読みしましょう。3節・4節は水に関するユダヤ教の習慣を説明しています。ユダヤ教の人々は宗教的な理由で手をよく洗います。汚れをはらうために洗うのです。ユダヤ教における汚れとは血が出たり、血を触ったりすることです。そしてその汚れは他の人に触るとうつると考えられていました  。血によって汚れた人やモノと触ることによって、自分も汚れると考えたのです。

たとえば市場などの不特定多数の人が集まる場所に行くと、汚れた人に触ったかもしれないので、身の清めが必要でした。帰るとバプテスマのように、全身に水浴びをしたのです。手を洗うも同様です。汚れたものに触れた、触れたかもしれないので、念入りに手を洗いました。これ自体を形式主義だと批判するつもりはありません。他から見れば、私たちのバプテスマもかなり不思議な習慣ですから、互いに尊重したいと思います。

しかし私たちが注意したいのは、誰がこの習慣を決めたのか、背景にある差別の問題です。食前に手を洗えという命令は、旧約聖書のどこにもありません。食前に手を洗って汚れを清めなければならないというのは、聖書を読んだ人間・学者が、厳密に解釈し、規定として決めたことだったのです。これは聖書ではなく、学者の決めたことです。このようないわゆる「言い伝え」は多くありました。

それは多くの場合、イスラエルの中心地エルサレムの学者が編み出した規定です。そして中心地のエリートたちが編み出した基準は、律法学者が各地を巡回し「指導」してまわったのです。それが1節にあるエルサレムから来た律法学者とあるとおりです。都会のエルサレムから、農村地方のガリラヤの人々にいろいろな規定が持ち込まれました。中心地エルサレムではこうしている、これが正しい、だからお前たちガリラヤ人もそうしなさい、そうしないと汚れた者だと指導されたのです。そしてその基準は多くの場合、農村では現実的ではない、厳しい基準でした。

この宗教的熱心はかなり差別に近づいてきていると思います。宗教として、汚れをはらうということが、神様に向き合う自らの姿勢として持たれるのは大切なことだと思います。しかし、それが自分に向けられるだけではなく、他者に向けられる時、大きな差別の危険が伴います。自らの神の前の姿勢という意味を超えて、他者を「汚れた者」とする差別へと発展するのです。

自分たちの決めた規定で、他者の命を汚れているものとして、優劣をつけ、それと触れたかもしれない手を念入りに洗う自分たちを、清い者、優れた者と感じる集団になってゆくのです。

その習慣に入らない他者を、汚れていると差別をしました。なぜ俺の思う清い基準、正しい基準にお前は従わないのか。お前は汚れていると言ったのです。そして汚れていると言われた者は社会からどんどん排除されました。近寄ってはいけない、一緒に食事をしてはいけない、話をしてはいけないと言われたのです。

このような差別はキリスト教の歴史にもあるものです。宗教はその差別に特に注意しなければいけません。今日の箇所も「だからキリスト教が優秀で、形式主義の他の宗教・ユダヤ教は劣っている」と読むのは大きな間違いです。その考えはユダヤ人虐殺に発展しました。キリスト教がユダヤ人は劣っているとして、命の優劣をつけ、差別したのです。教会こそこの差別に特に注意を払わなければいけません。宗教的熱心さは時に、激しい差別を生み出すからです。

イエス様は今日の箇所で、どちらが優秀か、どちらが清いかという視点を変えるように促してます。そしてイエス様は、その習慣を守らない人、守れない人が汚れている、劣っていると言われること、差別されることに反対した方だったのではないでしょうか?汚れや差別ではなく、10節父や母、他者への慈しみに目を向けるようにと語っているのです。

私たちは今、アドベントを迎えています。今日この聖書の箇所からクリスマスの出来事をどのように思いめぐらすでしょうか。私が今日思い起こしたいクリスマスは、イエス様の誕生は聖なる場所で起きたことではないということです。聖書によればイエス様は、人間扱いされず、汚れた家畜小屋で生まれたのです。

そしてイエス様の誕生を最初に見つけたのは、異教の神々を拝むと差別された博士たちや、汚れていると差別された羊飼いだったのです。そのような場所にイエス様は生まれたのです。

そしてイエス様はいつも汚れていると差別された人の真ん中におられました。一緒に食事をしたり、直接触れたりしました。差別のただなかに生まれ、差別のただなかに生きたのがイエス様だったのです。そしてイエス様の最後は十字架刑というもっとも汚れた死に方だったのです。

私たちはクリスマスを聖なる日、聖なる夜として迎えようとしています。ろうそくを見ていると清らかな心になるような気がするのです。でもイエス様が生まれたのは聖なる場所ではなく、汚れていると言われる場所、人間が住む場所ではない家畜小屋、差別のただなかだったのです。私たちの主は聖なる夜に、汚れていると差別される、そのただなかに生まれたのです。それは私たちのクリスマスのイメージとは逆かもしれません。でも神は人々から避けられ、劣っていると言われ、触りたくないと差別されるそこに生まれたのです。それがクリスマスの出来事です。

私たち今日、主イエスに従いたいと願って集っています。イエス様はどこにいるのでしょうか。聖なる夜を待ち望む私たちです。でも本当にイエス様がおられるのは、きっとみなから汚れていると差別される、そこではないでしょうか。そして私の中の差別をする気持ち、そこに神様は来られるのではないでしょうか。そこにイエス様が生まれることを祝うのがクリスマスなのではないでしょうか。神様は差別の中に生まれ、差別を超えてゆくお方です。お祈りをいたします

 

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【全文】「クリスマスと終末の希望」マルコによる福音書13章24~37節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

ご覧いただいてわかるとおり、今日からアドベントです。ろうそくをともしながら礼拝をします。今年のクリスマス礼拝は12月19日です。私たちは毎年第四日曜日をクリスマス礼拝、12月24日をクリスマスイブ、25日をクリスマス、イエス様の誕生日として祝っています。今年も12月25日クリスマスは必ずやってくるでしょう。

クリスマスは毎年12月25日に必ず来ます。しかし、もちろんイエス様誕生以前は、救い主が地上に生まれるということは、いつ起こるかわからないことでした。人々は何百年も救い主の誕生を待ち望んでいました。今日も生まれなかった、今年も生まれなかった、もうどれくらい待っているかわからない、いつ来るのかわからないということが何百年も続き、ようやく、そしてある日突然、イエス・キリストは地上に生まれたのです。

これは私たちの祝うクリスマスとは大きく違います。私たちが待ち望むのは、12月25日という明確に決められた日付、そこまでの1か月ほどです。毎年クリスマスは私たちに規則正しく訪れ、待つ期間は決まっています。それは私たちにとって決して突然の出来事ではありません。むしろ待っていなくても、あっという間に12月25日が来るでしょう。実は私たち、待たなくても、12月25日に自動的にクリスマスが来るのです。しかし、二千数百年前の人々にとっては、待たなければいけない期間も、またその日付もわかりませんでした。人々はいつ起こるかわからないということを、ただ待たなければなりませんでした。

私たちにとってのクリスマスは、「やがて」必ず来るものです。そしてそれは私たちにとっては2000年前に「すでに」来たものです。私たちのクリスマスは、「やがて」来るクリスマスであり「すでに」来たクリスマスです。私たちはこの二つ「すでに」と「やがて」を祝っています。

イエス様は2000年前から「すでに」私たちと共にいる、そしてまた「やがて」私たちに生まれて下さるその日が来る、それが私たちのクリスマスです。

キリスト教には、いろいろな事柄についてこの「すでに」と「やがて 」という視点で考えます 。例えば終末についてもそのように考えます。今日の箇所は終末についてイエス様が語っている箇所ですが、この終末も「すでに」と「やがて」で理解をします。その点で、クリスマスと終末は同じように、「すでに」あるものであり「やがて」来るものです。

私たちはクリスマスを待ち望むことを始めました。それと同時に私たちは終末も待ち望む。今日はそのことを覚えてゆきたいと思います。

今日の箇所を見ましょう。今日の箇所は世界の終わりについて、終末について語っている箇所です。私たちクリスチャンには世界には終わりがあるという考え方、終末思想という考え方があります。

この終末思想とは、イエス様が再び地上に現れる時に、世界が終わりを迎えるという考えです。しかしこの終末思想は時代によって、大きく考え方が変わってきました。特に中世ヨーロッパの終末の理解が一番有名でしょう。

中世では、終末の時、天変地異が起こって、クリスチャンは天国へ、ノンクリスチャンは地獄へ振り分けられると考えていました。そして地獄に落ちると永遠に罰を受け続けるのです。中世では盛んに明日にも終末が来て、みな地獄に落ちる、だから急いですぐに洗礼を受けなさい、滅びから救われなさいと、布教がされました。1000年前、終末はそのような出来事と考えられました。

もちろん現代でも終末を、人が天国と地獄に振り分けられる閻魔大王様のような出来事と理解する人はいますが、私はそのようには理解しません。この教会もそうでしょう。私たちの信仰告白にも11番「終末の希望」とあります。終末とは希望の時だと理解をしているのです。終末、それは決して恐怖の瞬間ではなく、希望の出来事なのです。

そうです、終末とはイエス様がもう一度地上に来られる、希望の出来事です。イエス様が来るという出来事の1回目はクリスマスに起こりました。そして2回目が終末の時です。2回目にイエス様が来られる時もクリスマスと同じです。それは希望の時となるはずです。

私たちはこの終末を恐怖の瞬間としてとらえるのではなく、クリスマスと同じように、希望としてとらえています。それはどんな希望でしょうか。それは神様が造られたこの世界が完成するという希望です。世界では神様がなさろうとしていることがあります。それはいまだ終わってはいません。しかし、それがすべて完成する時がきます。それが終末、希望の時です。この不完全な世界が、ゆがんだ世界が、イエス様がもう一度来る時に完全なものへと完成してゆく、それが終末の希望です。

そこではもちろん裁きも起こるでしょう。しかしその裁きはバプテスマの有無よって裁かれるのではないでしょう。神様はすべての人を集め、裁きます。27節に四方から人々を呼び集めるとは、あらゆる方角からという意味です。全世界のすべての人が裁きの対象となります。

神様の裁きとは、すべての人の不正や不正義を公にし、悪や罪を宣言することです。そしてすべてを正し、完成させ、満たし、回復させてくださるのです。それはシャロームと言えるでしょう。ゆがみのない世界、きれいな丸、シャロームにしてくださる、それが世界の完成、終末の時です。

不完全な世界に生きる私たち、どうしようもない絶望が覆っている世界に生きる私たちはそこに、希望を持つのです。どんなにこの世界が不完全で、どんなに私の人生に苦痛があっても、いつか必ず終わりが来る、いつか必ず完成する時が来る、希望の時が来るのです。それが私たちの終末の希望です。

本当につらいとき、不完全な世界に生きる時、完成と回復の時がいつ来るか、その日付を知りたいと願うでしょう。しかし32節その日付はイエス様さえも知らないことです。それはいつ来るかわからないのです。本当は終末の希望が何年何月何日に訪れると書いてあった方がよいでしょうか。

どうでしょうか。希望には日付を決めない方がよいのかもしれません。神様は、何月何日まで頑張ればいいという希望ではなく、息の長い希望を持ち続けるようにと促しているのでしょう。どんな時もあきらめないで生きるためです。日付の無い終末、希望こそが私たちを励ますのです。今ではないけど、いつかはわからないけど、でも「やがて」必ず来る、イエス様が来る、この世界が完成する時が来る、希望の時が来る、それを待ち望むのが私たちの終末の希望です。

どこか終末を待つということは、クリスマスを待ち望むことに似ているでしょう。終末も「やがて」必ず来るものです。私たちもいつ来るかわからないクリスマスを待った人々と同じ気持ちで終末を待ちましょう。それはいつ来るかわかりません。明日なのか、数百年後なのか。それはいつ来るかわからない出来事なのです。でもそれは、自分が天国と地獄のどっちに行くか決まる、恐怖の裁きの時ではありません。

神様がすべてを完成させる、希望の出来事、希望の時です。終末はクリスマスと同じように、私たちが待つ希望の時なのです。

 

私たちはそれをどのように待つでしょうか。32節から門番のたとえがあります。いつ帰ってくるかわからない、日付を決めない主人は門番に、仕事を割り当てて、責任を与えました。神様が門番に期待したことはなんでしょうか。神様から責任と役割を託された僕は、そこで互いに平和に、愛し合う役割を与えられて誠実に待つように求められたのです。

もう二度と来ないとあきらめず、いつまでも待つようにと言われたのです。そして主人の帰りを恐れるのではなく、それを希望の時として待ち望む門番として待つように求めたのです。私たちに目を覚ましていなさいと言ったのです。

35節「だから、目を覚ましていなさい」。それはしっかりとこの世界を、現実を見るようにということでしょう。世界の不正を不正義を見過ごさずに、自分の不正に目をつぶらないようにしなさいということです。そこで役割をしっかりと果たすということです。終末までそのように主に、そして託された世界に誠実に生きることが、門番と私たちに求められているのです。

終末を待つことはクリスマスを待つことに似ていると言いました。それはやがて必ず来るものだからです。そしてもうひとつ、終末とクリスマスの共通点があると言えるでしょう。それは「すでに」来ているという点です。

2000年前イエス様が来られたときから終末は時始まっているのです。「すでに」クリスマスが始まっているように、終末も「すでに」始まりつつあるのです。イエス様が私たちと共におられるということにおいてです。それがイエス様との2回目の出会いの始まりです。このように「すでに」始まっているのです。クリスマスも、終末も「やがて」だけではなく、「すでに」を含むのです。どちらもすでに起き始めています。

クリスマスと終末の共通点を見てきました。「すでに」と「やがて」という共通点を見てきました。私たちには苦しい人生の中でも必ず「やがて」来る希望があります。そして今「すでに」ある希望がきっとあるでしょう。「すでに」来ている希望に感謝をしましょう。そして「やがて」来るその希望を共に待ちましょう。お祈りいたします。

 

 

 

【全文】「福音のためのバザー」マルコ10章18節~31節

「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  マルコ福音書10章34~35節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

今日の聖書箇所を読んで、どうお感じになったでしょうか?キリスト教は全財産を教会に寄付しないと、本当の信者とはいえないのでしょうか?キリスト教は全財産を寄付するように私たちに求めているのでしょうか?もちろん私はそうではないと思います。あなたの全財産を寄付しないと、イエス様に従うことができないということではありません。ご自分の財産はご自身や家族の生活のためにどうぞ使ってください。

みなさんは様々な苦労を乗り越えてその収入や、その財産を築かれたことでしょう。それは一番には本人の努力によって、築き上げた財産です。一生懸命働き、一生懸命節約し、蓄えてきたものでしょう。そしてもし今は多少の余裕があるとしても、それは将来をために、少しでもとっておかなければならいないものでしょう。ですから、ご自分の財産はご自分のために使ってください。その使い道は、皆さんが決めるものです。

しかし、立ち止まって考えたいのは、その財産は本当に自分だけのものかどうかということです。その財産は本当にあなただけの力によって築いたものでしょうか?その財産は様々な影響のもとにつくられてきたはずです。学校を卒業してたくさんの奨学金という借金を抱えてスタートする人がいます。一方、借金なしにスタートする人もいます。親の都合によって左右されるでしょう。就職する時の景気によって、安定した就職が叶わない人々、専門的な訓練を受けることができなかった人がいます。一方、景気の良い時期には多くの人が職に就き、自然に賃金が上がりました。いろいろな環境のもとで築いた財産は、決して自分だけの努力で作ってきた財産ではないはずです。

私たちの持つ財産、あるいはちょっとした貯金や、ちょっとした収入は、どこかで誰かに支えられて、受け取ることができたものでしょう。もしそうだとしたら、それを自分のためだけではなく、誰かのために、何かのために献げたい、返したいと思うものではないでしょうか。

その収入の一部はきっと、もともと私のものではなかったからです。私のものだったら私が自由にします。でもそれは元々私のものではなかったのでしょう。それはきっと誰かに返さなければならないものなのです。だから私の財産であっても、私のためだけに使うのではないのです。それは最近よく話題になる所得の再分配ということとも通じていると思います。

今日はこのあと私たちはバザーの準備を予定していします。バザーで販売するのは、中古の衣料品や物品です。商品を買って仕入れたものではありません。教会員や、近所の方々や、様々な人たちが持ち寄って、下さったものです。まさしく、もともと私たちのものではなかった物がそこで売られます。もともと私たちのものではなかったので、この収益は私たちのものとはしません。これらの収益は世界や地域の人たちのために、困窮している人たちのためにすべて寄付されます。あるいは寄付というよりもそれを「返す」といった方が近いでしょうか。これは再分配の交わりです。この交わりを準備と当日、一緒に楽しみながら、やってゆけたらと思っています。

バザーの収益はペシャワール会、日本飢餓対策機構、フードバンク湘南などに送られます。ペシャワール会はアフガニスタンで灌漑用水路を作り、農地回復の取り組みを続けてきた団体です。中村哲さんが有名です。日本飢餓対策機構は世界の食糧問題に取り組む団体です世界中で毎年9万人を支援しています。フードバンク湘南は企業や個人から食材を譲り受け、平塚市内を中心に生活に困窮する人々約2000世帯へ食料を届けている団体です。どれくらいの売り上げになるか、決して大きな金額ではありませんが、売り上げをそれぞれの団体に再分配する予定です。私たちはそのようにそれを返します。

教会はなぜこれに取り組むのか、それは福音のためです。持っているものを売り払って、貧しい人と分かち合い、従いなさいという福音のために、このバザーをしています。受け取ったものを自分のものにするのではなく、分かち合います。今日はそのことを聖書から聞いてゆければと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

 今日の聖書箇所を読みましょう。あるところに金持ちの男がいました。当時の金持ちとはどんな存在でしょうか。一生懸命頑張って金持ちになった人もいたでしょう。しかし当時は身分や格差が固定されていた時代です。ほとんどの金持ちは自分の努力ではなく、もともと豊かな家に生まれ、親の財産を相続することで、金持ちになりました。

この金持ちは、どのように金持ちであり続けたのでしょうか。それは多くの場合、貧しい農民からの搾取によってでした。大きな土地を持ち、そこで農民を不当に安く働かせ、大きな利益を得たのです。金持ちといっても本当は貧しい人々から労働力を奪って得たお金でした。その蓄えとは本来、金持ちのお金ではなかったはずのものです。本当は今、貧しく暮らしている人に返さなければいけないものでした。

そんな金持ちの彼がイエス様を訪ね、求めたものは17節「永遠の命」でした。1日のパン、1日1日の命を守るのがやっとという人々がいる一方、金持ちは永遠の命を求めたのです。そしてイエス様はその金持ちに言います。21節「従う前にまず、すべての財産を売り払い、貧しい人々に与えるように 」と命令したのです。

イエス様は金持ちに、貧しい人々から巻き上げた財産を返すように命令をしました。そのすべての財産が、人々から搾取したものであれば、そのすべてを返すように命令したのです。永遠の命を受け取ろうとする前に、まず自分の財産をよく見て、返すように、再分配するようにと命令をしたのです。それが貧しい人々と分かち合うようにという命令でした。

しかしこの金持ちにはそれができませんでした。イエス様の前から悲しみながら立ち去ってしまったのです。イエス様に従うことができませんでした。イエス様に出会っても、従えずに去ってゆく人、聖書にはとても少ないのですが、金持ちは従うことができませんでした。

金持ちは貧しい人々にその財産を返すことができませんでした。自分が持っている財産、自分が受け継いできたものは、どこまでいっても自分の物だと考えたのです。彼は返すこと、再分配を拒否したのです。金持ちは分かち合えない自分の弱さ、それを返すことのできない弱さをよく理解していたでしょうか。悲しみながら、葛藤しながら、自分の家へと帰ってゆきました。

私はこの話を、富を独占する者に向けた話と聞きました。すべての人が全財産を貧しい人に分かち合わなければ、従うことにはならないとは思いません。聖書は、自らの財産は自らの力によってのみで作られ、自分のためだけに使うものだという考えを批判しているのでしょう。聖書はその財産の中の大部分は本当は分かち合わなければいけない、返さなくてはいけないものだと語っているのです。

そしてイエス様はそれをできない人間の弱さ、罪もよくご存じでしょう。私たちの社会でそれを実現することはとても難しいことです。イエス様はこの出来事に驚いている弟子たちに向けて語ります。25節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。ラクダとはイスラエルでもっとも身近で、大きな動物です。その大きな動物が針の穴を通るほど、金持ちが神の国に入るのは難しいと言うのです。

つまり自分の持っているものを十分に分かち合うことはとても難しいものだということです。どうしてもその財産を自分のものだとしか考えられないということです。悲しいほどにそれを痛感しても、分かち合うことができないということです。

でも私たちのバザーがまったく人々から持ち寄られたものであるように、自分のもののように感じていても、本当はそうではないものがたくさんあるのでしょう。

イエス様は財産を手放すことの難しさ、分かち合うことの難しさ、富を独占する人の罪、搾取を生む世界の罪を鋭く語っておられるのではないでしょうか。いかにそれが人間にとって難しい問題であるかを示しているのでしょう。

私のものは私のもの。私の自由にします。でも聖書を通じ、それは本当に私のものかを問い直します。イエス様は財産をすべて売り払って、貧しい人と分かち合ってから従えと命令します。

きっと私のものと思っている多くのものが、私たち自身も、誰かから受け取ったものなのでしょう。そしてそれは持っている人から、必要としている人に、返すべきものであるのでしょう。それは本当に難しいことです。27節「人間にできることではない」のでしょう。しかし同時に27節「神にはできる。神はなんでもできる」お方なのです。その福音を聞いた私たちは、きっと何かを分かち合うことができるはずです。

私たちがイエス様に従うことを妨げるのは、自分ががんばった、自分だけの成果、すべて自分の財産という驕りです。イエス様の福音はそこから私たちを解放してくださる、良い知らせです。福音は私たちの財産も命も、誰かからいただいたものだと語ります。それを返し、従う。それが私たちの聞いている福音ではないでしょうか。バザーをそのような分かち合い、福音のためのバザーとしたいと願います。

イエス様の命令は、21節に3つあります。売り払いなさい、与えなさい(施しなさい)、従いなさいです。ともに売り、与え、イエス様に従ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「こどもを大切にする教会」マルコ10章13節~16節

 

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10章14~15節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもの声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。また今日はこの後、こども祝福祈祷の時を持ちます。

毎週こどもを大切にするという言葉から宣教を始めていますが、私たちがこどもを大切にしているのは、なぜでしょうか?マクドナルドもこどもを大切にしています。こども向けにハッピーセットという、おもちゃのついたメニューがあります。こどもを呼べば、大切にすれば、一緒に来た親も何かを買ってくれるからです。売上のためにこどもは大切です。さらにこどもは将来のお客さん、未来の売上にもつながります。このように企業の成長のために、マクドナルドはこどもを大切にしています。

教会もこどもを大切しています。こどもが来れば、親も一緒に来るようになるでしょう。そのこどもが将来教会の奉仕を担ってくれるかもしれません。元気な子供がいたら教会も活性化するでしょう。教会にこどもがいることのメリットは多いものです。

しかし、私たちは教会にとってメリットが多いから、こどもを大切にするのではありません。教会の成長のために、こどもをターゲットにしているのではありません。それは私たちがこどもを大切にする理由ではありません。

子どもを大切にする、それはもっと深く広がりのある意味を持っています。私たちにとってこどもを大切にするとは、一人前ではない、半人前の人こそ大事にするということです。誰かに世話をしてもらわなければいけない人を大切にするということです。人の役に立つことができない存在を、誰かに頼らないと生きてゆけない人を、この教会は大切にするということです。それがこどもを大切にする教会です。

ですから教会が大切にするのはこどもだけはありません。教会は誰かの助けが必要な人を大切にします。教会は生活に困っている人、障がいをもっている人、誰かに頼りたい人、心の支えが欲しい人、一人では生きていけない人を大切にします。

こどもを大切にする教会は、子ども以外も大切にします。その中にはきっと、私も含まれるでしょう。私もこどものような一人です。一人では生きていけない。誰かに助けてもらわないといけない半人前です。

こどもを大切にする教会は、助けを必要とする人を大切にする教会です。私たちは神様を頼りとし生きています。そしてお互いを頼りとして生きています。私たちも誰かに頼り、甘え、助けを必要とする、こどものような一人です。こどもを大切にする教会は、全員がこどもである教会です。私たちは全員こどもです。助けを必要とし、それを受け入れる存在です。それが私たちです。

今日の箇所は、私たちにこどもの様に、神の国を受けとめるようにと語っています。それは自分が誰かの助けを必要な者である、神なしでは立つことができない、そのような者に神の国が来るということです。このことを聖書から読んでゆきたいと思います。

今日の箇所を読みましょう。こどもがたくさん出てきます。にぎやかだったでしょうか?現代に生きる私たちはこどもを「ほほえましい存在」として、一人の人格として見ます。しかし聖書の時代の子供たちはもっと厳しい環境にありました。ある研究によれば当時イスラエルで生まれた子どものうち3割しか16歳になることができなかったといいます。

それ以外の7割は出産や成長の途中で死んでしまいました。病気や事故だけではありません。戦争や飢饉があれば真っ先にこどもが犠牲になりました。さらに当時は孤児や、みよりのない子どもも多くいました。

13節には「人々」という言葉が出てきます。ここに「親」と書いていないのは、親のいない子ども、親ではない大人がその周りにいたからかもしれません。こどもは、そのような環境で生きなければなりませんでした。

親や周りの大人は、きっとそのようなこどもたちに、イエス様に少しでも出会い、触れてほしい、そう願って、連れて来たのでしょう。無理やり連れてきたのではありません。「さあ触れてもらいなさい」と、そっとイエス様の前にこどもを連れてくるのです。いろいろな大人たちの温かいまなざしが伝わってきます。

しかし13節の後半を見ると、弟子たちはそのこどもたちが進み出てくることを強く注意したとあります。怒られたのもまた「人々」とあるだけで、誰が怒られたのか書いてありません。叱られたのは大人たちとも読めます。だとするなら「あなたは親なんだからこどもをちゃんと静かにさせなさい、後ろに座らせてなさい」と怒られたのかもしれません。

あるいは直接こどもが怒られたとも読めます。「うるさい。あっち行ってなさい」と怒られたのです。大人もこどもも、両方怒られた可能性もあります。いずれにしても弟子たちの態度はまず、大人の気持ちを踏みにじるものだったでしょう。大人たちが持っていたこどもをそっと信仰に導こうとする姿勢、願い、まなざしは、弟子たちによって完全に踏みにじられました。そしてこども自身も拒絶され、傷ついたでしょう。

弟子たちはなぜ怒ったのでしょうか。イエス様を求める人々の群れをしかりつけたのでしょうか?実はこれも不思議です。人々がイエス様の話を遮ったというわけでもありませんし、触ってもらおうとしただけなのに、どうして怒られたのでしょうか。こどもを静かにさせるのが親の責任だと考えて怒ったのでしょうか?ちゃんと教育しろと怒ったのでしょうか?

イエス様に触ってもらうには、こどもではなく、もっとふさわしい人がいると思ったのでしょうか?こどもではなく、もっと偉い人から順番に触ってもらうべきだと考えたのでしょうか。あるいはイエス様を守ろうとしたのかもしれません。イエス様が穢れたこどもと触ることの無いようにしたのかもしれません。でも私だけでしょうか。弟子たちはどこかイエス様のために怒って追い返したというよりかは、自分たちのためにそうしたと感じるのです。自分がそばにいるイエス様は簡単に近づけない人なのだと、特別な人しか近寄れないのだと言っているように私には聞こえます。

そしてそんな場面にイエス様が登場します。今度はイエス様が怒って言います。14節15節にはこうあります。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 

要は「こどもたち、どんどんおいで」と言うのです。そして16節、彼らを受け止め、抱きしめてくださるのです。

今日の箇所によれば、こどものようではなくては、神の国には入ることができないとあります。ここにあるこどものようとは、天真爛漫、無邪気、元気、かわいいという意味ではありません。こどもとは、自分のことが自分でできない人のことです。一人では生きていけない人のことです。誰かに頼らないと生きることができない人のことです。社会の中で真っ先に犠牲にされてしまう人のことです。

イエス様はそういうこども・人が神の国に入ることができると言っています。神の国は何かができる人、他の人より優秀で、生産性が高い人、実績のある人、特別な人が入るのではないのです。こどものように、誰かを頼り、弱く、社会で小さくされた人こそが、神の国に入る、聖書はそう語っているのです。

イエス様は頑張った順に救われていくという、私たちの常識を全く逆転させて語っています。その逆です。何もできない、弱い者こそ神の国に入るというのです。だからこどもどもが神の国に入るのです。

こどもは成長するにしたがって出来ることが増えてゆきます。そしてなんでもできると思うようになります。そしてそのような時期のこどもが一番危ないのです。大人も同じです。私は一人でできる、一人で生きようとする時が、一番危ないのです。神の国から遠いのです。

私たちも何もできない、一人では生きていけない、こどものように生きるように勧められています。私たちは一人では立つことができない、神様を必要とするものです。私たちもこどもなのです。

こどもがそうであるように、私たちも支えを必要とし、祈りを必要とします。そしてそのような、一人では生きることができない、半人前の者として神様の前に進み出てゆくのです。こどものようになるとはそのようなことです。

こどもが親や大人に頼るように、私たちも神様や他者に頼って生きるのです。そのような歩みの上に、神の国が訪れるのです。私は大丈夫、自分のことは自分でできると思うところには神の国は来ないのでしょう。

私たちは神様に頼り、仲間に頼ります。その信仰を持って歩みたいのです。それが15節こどものように神の国を受け入れるということです。

それは私たちが、一人で生きなくていいということを示すでしょう。私たちは一人前でなくていいのです。子どもみたいに誰かに頼って、泣いていいのです。そのような人こそ、神の国に入るとイエス様は言っています。

それは私たちにとって福音でしょう。私たちはこどもを大切にする教会です。誰かに頼る人を大切にする教会です。私たちはみんな、誰かに頼る、こどものような人が集まる教会です。でもそこに神の国が始まるのです。

こどもが神と人との助けを受け、神の国を受け入れているように、私たちも神と人との助けを受け、神の国を受け入れてゆきましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。神を互いを、なくてはならない存在として大切にする教会です。お祈りします。

 

「みんな神のもとで生きている」マタイによる福音書4章1節~11節

 

 

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。                  マルコ12章27節

 

 

みなさん、おはようございます。今日こうして召天者記念礼拝に集えたこと、うれしく思います。私たちは今こどもを大切にする教会として歩んでいますが、もちろん天に召された方も大切にし、今日この礼拝を持ちます。今日も子どもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。

今日は、神様は地上の生死にかかわらず、人に命を与え、人と共にいて下さるお方なのだということをお話しようと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

今年も私たちは2名の方を教会のご葬儀で見送りました。私たちは亡くなった方々がいまどこで、どのようにすごしているかを想像します。ちゃんと天国に行けたのだろうか?私たちが悲しむ横で、今頃、仲の良かったあの人たちと再会して、ワイワイと喜んでいるだろうかと想像をしたりします。そう考えていると自然と祈りが生まれます。いつの間にかその思いめぐらしは祈りへと変わるものです。

ある人は死が怖いと言います。死ぬと自分が今まで傷つけた人々と会わないといけないからだそうです。例えば人を殺してしまった人は、死んだ後、自分が殺してしまった人と再会するのでしょうか。もしかすると先に亡くなった人との再会はうれしいことばかりではないかもしれません。

私たちには会いたい人がいるのと同じように、どんな顔で会えばよいのかわからない人、会ったら謝らなくてはいけない人がいるものです。もし私たちの地上の関係が、そのまま死後に再会した時に続くなら、私たちは死んでもなお人間関係に悩むことになるでしょう。確かにそのような死は怖いかもしれません。

もし復活によって、かつての地上の関係が再開するなら、皆さんはそれを願うでしょうか?またかつての日々を過ごすことができることは希望でしょうか。復活したらまた介護が始まるかもしかもしれません。困難もあるでしょう。それではあまり希望とは言え無いかもしれません。

死後にある、私たちの再会とはいったいどんなものなのでしょうか。キリスト教には復活という信仰があり、クリスチャンはこの復活を信じています。しかし実は聖書には復活とはこういう事だと事細かに書かれている場所はなかなか見つかりません。しかしそれでも復活を信じています。

私たちが信じている復活というのは一度死んでも、墓の下から這い上がって来るゾンビのような復活ではありません。そして私たちが信じる復活とは、死がなかったことになるということでもありません。

もし復活が希望だとするとするなら、どんな復活だったら私たちの希望でしょうか。復活が希望なら、いつかの時点の元通りになることではないはずです。もっとそれを超える出来事であるはずです。

復活ということが実際に何を指すのか、実は私も聖書をよく読んでも、わかりません。でも私たちクリスチャンは、命は死で終わるものではない、その続きがある、必ずいつか復活の時があるということを信じています。そしてその復活に希望を持っています。その時、地上の関係ではなく、新しい関係で出会いなおすことができると信じているのです。

しかし聖書はさらに不思議です。この復活がすでに起きていると書かれる箇所があるのです。私たちがすでに死んでしまっていると思っている人が、すでに復活し、生きていると語る箇所があります。そうだとするならば私たちがこれまで見送った人々もすでに復活をし、また生きているのでしょうか。

もちろん地上で元通りに生きているのではありません。それは神のもとで生きているということです。聖書はすでに死んでしまった人が、神のみもとで生きていると語っているのです。そして神に仕える天使のように穏やかに過ごしていると語っています。このようにすでに復活はおこり始めているというのです。そうだとするならば、私たちは地上で生きています。そして亡くなった方たちも、復活し、神のもとで生きていることになるのです。

それならば今日の宣教題にしたとおり「みんな生きている」と言えるでしょう。誰も死んでいないことになります。それはキリスト教のひとつの死生観とも言えるでしょう。それを一緒に聖書から見てゆきたいのです。

 

 

今日の箇所をみてゆきましょう。ユダヤ教のサドカイ派という人々がでてきます。この人たちは当時の宗教的エリートです。神殿で働き、地位と名誉、政治的な権力を持った人でした。政治を司る祭司とはまさに現実路線・現世主義を行く人たちです。現世主義の人々は復活を信じません。そしてサドカイ派のもう一つの特徴は、聖書をなんでも文字通りに解釈をしようとしたことです。

18節以降の質問はサドカイ派らしい質問です。復活はないと思っているサドカイ派、現実路線のサドカイ派、字義どおりに聖書を解釈する彼ららしい質問です。19節にあるとおり、当時は子どもがいない女性の、夫が死んでしまった場合、夫の兄弟がその女性と結婚をすると定めされていました。これをレビラート婚と言いました。この習慣の理由はいくつかありますが、死んでしまった夫の財産の相続の問題が大きなものです。サドカイ派はこのレビラート婚が繰り返し行われた場合、復活ということが起きた時にどのような関係、主に相続関係になるのかを聞きました。権利関係が複雑になり、社会が混乱するから、このような復活はないと考えたのです。まさしく復活を地上の再開と考えたのです。確かに復活をこのように、肉体のよみがえり、地上の関係の再開としようとするならば、このような問題に直面するはずです 。 

イエス様はそれにどのように応えるでしょうか。イエス様は復活を地上での関係の延長にとらえることは、28節「大変な思い違いをしている」と言っています。そして復活の時、最も地上で深い関係にあった、結婚の関係さえ無くなるというのです。そして天使のようになるのだと言います。

天使のようになる、それはただ神様にしがたい、仕える、神様の下に存在する者となるということです。イエス様は復活を地上の関係の再開ではない、神に仕える天使のように新しい関係になるとはっきりと言ったのです。

そしてイエス様は旧約聖書のある箇所を示します。この個所は今日の招詞でもお読みした出エジプト3章15節の出来事です。モーセという旧約聖書の人物が、ある日、燃え尽きない柴を見つけ、その時神からの呼びかけを受けるという話が引用されます。その時神は「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言ってモーセに呼びかけた物語です。

しかしモーセがこの声を聞いたとき、すでにアブラハムもイサクもヤコブもずっと前に死んでしまっています。そしてもちろん今も死んでしまっているはずです。しかしイエス様の言葉は続きます。27節「神は死んだ者の神ではない」と続くのです。イエス様が「死んでしまったら、もうその人の神ではない」というのです。これではまるで、死んでしまったらそれで終わり、神とも関係ないと言っているようにも聞こえます。

しかしイエス様がここで言おうとしていることは違います。イエス様が言おうとしていることはなんとアブラハムも、イサクも、ヤコブも「生きている」ということです。

イエス様は、アブラハムは一度死んでしまったが、すでに復活し生きているということを言っているのです。死んでしまったと思う人も、すでに復活し、神様のもとで生きているということ、天使のようになっていると言っているのです。イエス様は彼らは生きていると答えたのです。これがイエス様の死生観です。

イエス様の言っていることはこうです。「アブラハムは地上での命を終え、死んでしまったが、すでに復活し、神様のもとに生きている。このように神様は死んだ者の神ではない。生きている者の神だ。あなたたちは思い違いをしている」。イエス様の考えた復活とはそのような復活でした。

イエス様の言う復活とは不思議です。それは私たちにはまだ起こっていないのですが、すでに天に召された人々には起こっているのです。死んでしまった人も神様のもとで生きているというのです。これが聖書に書いてあることです。

私たちの命は、死んで終わりではないとは今日の話からも言えるでしょう。命は死んでしまってもこのように続くのです。復活し、神様のもとで「生きる」ようになるのです。神様の愛は、生きている私たちにだけ、注がれるのではありません。神様は死んでしまった人たちも復活させ、生かし、愛を注いでくださるお方なのです。神様は死んだ者の神様ではありません。神様は生きる者の神様です。死んでしまった人を神様のもとで再び命を与えるお方です。このようにして地上の生涯を終えても、私たちの神となり共にいてくれるお方です。

私たちの希望とは何でしょうか。それは生きている間、神様が私たちの神様であり続け、共にいて下さる事です。そして希望とは、私の大切な人が、そして私自身が、死んでもなお、神様は復活により命を与え、生かし、その人の神様であり続け共にいて下さることです。

今日の召天者記念礼拝にこの言葉を覚えましょう。神様は死んだ人の神様ではありません。神様は生きている者の神様です。今日この一人一人は今、神様の下で生き、神と共にいます。それが私たちの揺るがない希望です。今日みなさんも、この希望の中にいます。私たちも召天者の一人一人も「みんな神様のもとで生きている」のです。お祈りをいたします。

 

 

【全文】「神は谷中にあり」 マタイによる福音書4章1~11節

イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』            マタイによる福音書4章4節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこどもたちと共に礼拝をできること、うれしいです。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

今月は公害問題と教会にどんな関係があるのかを考えています。私は教会が公害問題に関わるのは、教会の基本的な働きのひとつだと思います。今日は明治時代に起きた足尾銅山鉱毒事件から考えたいと思っています。

足尾銅山鉱毒事件と聖書にどんな関係があるのか。関係ないように見えます。しかし今月みなさんと一緒に歌って来た386番「あまつ真清水」という賛美は足尾銅山鉱毒事件の回復を願う歌です。当時毎日新聞記者だった永井ゑい子さんの記事によって、この公害問題が社会に広く知れ渡るようになりました。後に、鉱毒で汚染された渡良瀬川の回復を願って作詞されたのがこの讃美歌です。

足尾銅山は明治時代に東アジア最大の銅産出量を誇った鉱山です。日本の富国強兵のためには絶対に必要な鉱山でした。しかしというかやはり、その精錬工程で様々な有害物質(硫酸や鉛、酸化銅など)を含む土砂が発生しました。その土砂は工場の近隣に捨てられました。当然、雨が降れば、その土砂は農地へと流れ出ます。大雨の後は稲が腐り、川の魚が死ぬようになりました。

農作物が育たなくなった農民は激しい困窮に見舞われます。汚染物質はどんどん広がり、利根川や江戸川にも広域に汚染が広がるようになりました。政府はやがて対策を取ることにします。その方法は有害物質を貯める広大な池を作るという方法でした。

それが現在の渡良瀬遊水地です。当時そこには谷中村という村があり、多くの人が住んでいました。もちろん谷中村の人々は自分たちの村が水没することに反対をしました。自分たちが受け継ぎ、耕し、暮らした土地だったからです。

田中正造はこの公害問題に反対し、当初から運動の先頭に立っていた国会議員です。様々な反対運動をしましたが、それは無視され、問題はまったく解決しませんでした。田中自身も繰り返し逮捕されました。そして彼は獄中で聖書に出会ったのです。田中正造は出所した後、遊水地となることが決まった谷中村で暮らすことにしたのです。

汚染した土砂の埋め立て場所とされることとなった谷中村は移住が進められますが、反対する住民は最後までそこに住もうとしました。強制退去の命令が出され、人々は家から引きずりだされ、家々は強制的に破壊されました。しかしそれでも人々は出てゆきません。壊された家のがれきでもう一度家を建て、そこに住み、鉱毒事件に反対をし続けたのです。金銭による買収の誘惑も断りました。身も心もボロボロになりながら、それでも谷中村の人々はこの公害問題の解決を訴え続けたのです。

田中はそのような被害者の姿に心を打たれました。そして田中は、今まで自分は村人を無知無能で、活動について私が教えてあげようと思っていたことに気づきます。でも次第に田中はそうではなく、この村人たちの声をもっと聴いてゆこうと感じるようになったのです。この出会いが田中正造の転換点でした。

田中正造は谷中村に、一人の村人として生き、谷中村の人々の話をよく聞こうとしました。そして聞くたびに、社会こそ彼らから学ぶべきことがあると信じるようになります。田中はそれを谷中学と呼びました。

彼は谷中村の人の話を聞き続けました。そして弱者を通じて、強者が悔い改めるきだと考えたのです。弱者こそが社会を悔い改めさせることができると考えたのです。弱者こそ、社会を所有欲・支配欲から解放させることができると考えたのです。そしていつからか田中は、鉱毒問題の解決を訴える谷中村の人々を見て「神は谷中にあり」と言ったそうです。田中は貧しく虐げられ、小さくされ、それでも訴え続ける谷中村の人々を通じてこそ、神を知ることができるのだと考えたのです。

そして田中自身も持っていた財産を売り払い、貧しさの中で死んでゆきます。彼が死んだときに遺されたものは、渡良瀬川の石ころや日記などわずかだったそうです。しかしそのわずかな遺品の中には、新約聖書がありました。そして大日本憲法とマタイ福音書が一冊になった本があったそうです。田中はそのように生きました。

この公害も、国家や利益が優先される中で起き、そして小さい者の声はかき消されました。しかし聖書を読んだ一人の人がそのどん底にいた民の声を聞こうとしたのです。そして共に生きようとしました。社会が悔い改めるべきことを、この谷中村で貧乏に暮らす人々から教えてもらおうとしたのです。それはまさに小さき者の声を聞くということでした。そして田中の手記には「神は谷中にあり、聖書は谷中人民の中にあり」と残されています。この田中の生き方、苦しむ人と共に生き、そこから聖書を読んでゆく生き方は私たちの生き方にも影響を与えるでしょう。

 

 

今日の箇所を読みましょう。今日の箇所はイエス様が宣教を始め、40日の断食を終えた場面です。断食を終えたイエス様に悪魔は繰り返し誘惑をしています。悪魔はイエス様に、パンも名誉も繁栄もすべて手にすることができると誘惑したのです。

悪魔の誘惑として挙げられているものは所有欲、支配欲と言い換えることができるでしょう。それは知らぬ間にすべての人間が求めてしまうものです。そしてその力は本当に強く、根深く、悪魔そのものです。悪魔とは実に人間の所有欲や支配欲、様々な欲望の塊のような存在です。悪魔とは虫歯菌のように向こう側からやって来て、私たちを突っついて悪さをしてくるような存在ではありません。悪魔とは私たちの心の中にあり、それが社会の中で塊になるのです。一人一人の欲望や行動が社会に悪魔を生むのです。

悪魔の誘惑に対して、イエス様は「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と応えています。この時もっともパンを求めていたのは、断食を終え、空腹を覚えたイエス様だったはずです。しかしイエス様はそれを受け取りませんでした。イエス様は空腹でも「人間はパンだけで生きるのではない」「もっとそれと同じくらい大切なことがある」と言ったのです。それは「神の言葉」だと言います。

実は今日の個所、特に4節は田中正造の遺品であった手記に繰り返し書いてあったみ言葉でもあります。彼はバプテスマを受けることはありませんでしたが、獄中で聖書と出会って以降、手記にはたくさんの聖書の引用があります。たしかに彼はキリスト者として歩もうとした人でした。そして田中正造はこの個所を谷中村の人々に重ね合わせて読んだのです。私たちもこの個所を谷中村の人々をカギに読みたいと思います。

公害による極貧の中で生きる谷中村の人々にとって、食料は何よりもまず必要なものでした。それは3節、この石が食料になって欲しいと願うほど、必要とされるものだったでしょう。しかしそれは公害で荒れ果てたこの土地を捨てて、移り住まなければ得ることができないのでした。

しかしそれでも谷中村の人々は先祖から受け継ぎ、耕し続けた場所を守ろうとします。谷中村の人々には、どんなに貧しくされ、奪われ、抑えつけられても、訴えなければならないことがあったからです。どれだけお金を積まれ、誘惑されても譲れない、訴えなければいけないことがあったのです。谷中村の人々は、自分がパンをもらうこと、補償をいくらもらうかということをもとめていたのではありません。この足尾銅山の公害問題の解決を訴えたのです。工場の停止と、公害の解決を訴え、社会に大きな問いを投げかけたのです。

谷中村の人々にとっては、人はパンのみで生きるのではありませんでした。人はお金だけで生きるのではないのです。補償金をもらえば解決する問題ではないのです。しかし当時の日本は富国強兵の時代です。日本全体が所有欲や支配欲といった悪魔に完全に取りつかれていました。人々は富国強兵のために、所有欲と支配欲のために、足尾銅山を掘り進め、地域の人々の命を見下し、軽んじたのです。そしてそこに公害問題が起きたのです。

谷中村の人々が突き付けているのは、その現実です。日本はこのまま強さ、豊かさのために人々が犠牲となってゆく、奪われていく、悪魔の誘惑にされるがままとなっている、それでよいのかという問いが谷中村からの問いだったのです。そのような谷中村は田中正造にとっても、私たちにとっても聖書を読む鍵のような存在となるのです。

田中は谷中村の人々にすっかり変えられてしまいました。田中は谷中村に住んで、自分たちの解放は強い者、知識のある者から学ぶのではなく、無学な者、無力な者、社会にとって無に等しいとされる者から聞くことができると考えたのです。

田中にとって、「人はパンのみでいきるのではない」という言葉の意味は、谷中村の人々と生きてすっかり理解が変わってしまいました。人はパンのみで生きるのではない。被害者は補償金をもらえばよいのではない。人間には尊厳のある生き方をする、正義が貫かれることが必要なのだ。そのように考えたのです。

後に田中は「神は谷中にあり」と言いました。谷中とは貧しく、社会の悪に苦しむ人、社会に置き去りにされた人々と言い換えることができるでしょう。神はそのどん底にいる、そこで生きる人々と一緒にいると田中は谷中村から教わったのです。私はそれは十字架のイエス様と神様が共にいたという姿と重なるのです。

私たちも声を聞きたいと願います。公害に苦しむ人々、社会の犠牲にされてしまっている人の声を聞きたいのです。神様は必ずそこにいるからです。私たちは神様をそこで見つけるはずです。その苦しみの声を聞いてゆくことは教会の大切な働きです。その声は神様のいる場所から聞こえる声なのです。

今、日本がもっとも直面している公害問題は原発の問題です。どこかこの話、原発も問題と重なります。公害をまき散らし、汚染水が溜まり、それが漏れ出し、人々が散り散りになるというのは原発とまったく同じ話です。福島から避難している人は、仕事も収入も失いました。それに対する補償もされているでしょうか。でもたとえどんなに補償されても、人はパンのみで生きるのではありません。その声を私たちも聞いてゆきたいのです。

私たちはこれからも公害問題に目を向けてゆきたいのです。それに痛む人々の声を聞き続けることが、私たちの福音理解につながるのです。お祈りいたします。

 

 

 

【全文】「私たちのバプテスマ」ローマ6章1~11節

 

 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 ローマ信徒への手紙6章4節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

先ほど信仰告白とバプテスマ式を行いました。私の胸を撃ち抜いた言葉は「この教会の好きなところはこどもを大切にするところです」という告白です。この言葉は誰かに促されて入れたのではなく、本人の言葉でそのように告白がされました。

自分が大切にされていると感じる中でこそ、バプテスマは起こるのでしょう。そしてバプテスマを受け、自分も誰かを大切にしようと思うのでしょう。それがまさしく神の愛への応答という出来事です。自分は愛されている、だから自分も愛そうという決心、それこそがバプテスマの決心です。素晴らしい信仰の告白を主に感謝します。

そしてこのこどもを大切にするということは、私が来る以前、私がこどもを大切にする教会ですと語る以前から、教会が祈って決めていたことです。「こどもプロジェクト」という事柄が今日の事の起こりでしょう。私たちがこどもを愛すると決心した時が、今日の物語の始まりです。あるいはこの教会が幼稚園を始めた時、それを終えてもなおこどもに関わろうとした時、それがこの物語の始まりだったのでしょう。今日までの主の不思議な恵みと導きに感謝します。

今日初めてこの儀式を見たという方もいらっしゃるでしょう。このバプテスマ式とは、キリスト教の入信の儀式です。自分の言葉で信じていることを公にし、後ろにある大きな浴槽・バプテストリーに全身を沈めます。その時からクリスチャンとなります。私たちの教会にとっても久しぶりの出来事でした。

今日までご本人とはバプテスマクラスを重ね、聖書の事や、特にバプテスマの意味を一緒に学んできました。しかしバプテスマの意味をすべて理解したわけではありません。すべて理解してバプテスマを受ける人はいないでしょう。皆、意味がよくわからないまま受けるのです。それが何かわからないままクリスチャンになるのです。

そして何十年か信仰を重ねれば、その意味わかるということでもないでしょう。私たち一人一人が、人生の中でそれはどんな意味があったのかを問いかけ続けることになります。バプテスマとは何か、クリスチャンとは何かを問い続けながら生きるのが、クリスチャンと言えるでしょう。でもそれはやってみないと、はじめてみないとわからないものです。バプテスマが先にあって、それから生き方がついてくるとも言えるでしょう。

わからないにも関わらず信仰を告白することができるのは、聖霊の導きだと信じます。自分ではよくわからないにも関わらず、聖霊がその口を使って信仰の告白をさせます。聖霊がその口に言葉を与えた時がバプテスマを受ける時で、今日だったのです。

今日が新しい誕生日となります。誕生日、私たちはどうして生まれてきたのか、どう生きていくのか知らずに生まれました。そして今もまだ知らないのです。でも確かに誕生日から私の歩みが始まったはずです。そのようなスタートが今日始まります。

私がバプテスマを受けた時、これで自分も少しはましな人間になるかなと思いました。2節にもあるとおり、もうかつての私は死に、罪の中に生きないと思ったのです。パウロは「なおも罪の中にいることなどできない」と言っています。

しかし私がバプテスマを受けても、罪が清められ、穢れが取り払われ、聖なる人になったわけではありませんでした。水から上がっても、すぐに罪を犯しました。水に入る以前と同じように、人を傷つけ、イエス様に従うことができず、悩み、苦しみました。

バプテスマを受けた後にかえって苦しむということも起こるかもしれません。クリスチャンになったにも関わらず、引き続き人を傷つけてしまう自分が嫌になるかもしれません。

でもバプテスマを受けると過去の罪やこれからの罪が消えて無くなるわけではないのです。バプテスマは人間を完全な者にするわけではありません。バプテスマが人間を完成させるのでもありません。バプテスマは救いを完成させるものではないのです。バプテスマを受けてもなお私たち人間は未完成なのです。

しかしそれでも確かにバプテスマは人生の新しいスタートです。命の新しいスタートです。3節を見ましょう。私たちはイエス様に結ばれるためにバプテスマを受けたとあります。私たちのバプテスマとはイエス様と結ばれる出来事なのです。私たちの新しいスタートとは、イエス様に結び付けられて歩むスタートということなのです。

5節にも似たことが書いてあります。バプテスマはキリストと一体になることだとあります。バプテスマとはイエス様に結び付けられて生きるようになることです。つまりあなたはもう一人ではないということです。イエス様と共に生きる者となったのです。そのように今日、生まれ変わるのです。

もちろん、イエス様はバプテスマを受けた人とも、受けていない人とも一緒にいて下さるお方です。気づいていなくても、どんなに逃げ回っても、一緒にいて下さるお方です。

バプテスマを受けるとは、今日から私も、私の側からもイエス様の歩みを共に歩むという表明です。私がイエス・キリストと共に歩む。私が結びつき、共に生きるという表明が信仰告白とバプテスマです。

この信仰告白とバプテスマによって、主イエスと共に、主イエスの様に、主イエスにあって生きるようになるのです。もう以前と生き方が変わるはずなのです。11節に、あなたはイエスに結ばれて、神に対して、神に向けて生きるようになるとあるのはそのことです。

もうかつての自分はいなくなります。以前の自分は6節十字架のキリストのように死んでしまうのです。これまでの人生はそこでいったん終わり、死に、今日から新しくイエス様と共に生きる、スタートになるのです。

この信仰告白とバプテスマは取り消すことができません。1回きりで、もう二度と受けることができません。それは焼き印のように、押しなおすことも、消し去ることもできないのです。そのように大事な、人生で一度きりの転換点です。

よくバプテスマをお葬式と誕生日と結婚式がひとつになったものとたとえることがあります。以前の人生が死に、新しく生まれ、キリストに結び付けられるということを今日の箇所が語っているでしょう。そのバプテスマを今日、執り行ったのです。

このバプテスマは、受ける人個人とイエス様の関係、一対一の結びつきの出来事です。それが一番大切な事です。でもイエス様とその一人の関係ができただけではありません。

私たちは今日から共にイエス様を信じ、従う群れとなるのです。今日からこの教会に集い、一緒に従う群れになるのです。イエス様に従おうとする時、イエス様との関係を考えるとき、必ず私たちは他者との関係ということを考えさせられます。

イエス様の教えはどのように、私たちが他者と関わるべきかを考えさせるものです。だからこれはバプテスマを受ける個人とイエス様の一対一の出来事であると同時に、私たち全員とイエス様の出来事でもあるのです。今日それを私たちは感じているでしょう。

今日のこのバプテスマは私たちの教会の出来事です。私たちに共に従う仲間、共に生きる仲間が与えられたという大切な私たちの出来事、私たちのバプテスマなのです。それを共に喜びましょう。そして共にスタートを切りましょう。

今日、バプテスマを受けた人全員が、自分がバプテスマを受けたあの日に引き戻されるでしょう。あの日確かに私にも聖霊が力を与え、告白をし、バプテスマを受けたのです。イエス様に従って歩むという告白をしたのです。

あの日から様々なことがそれぞれにあったでしょう。従えない時も、疑う時も、恵みも喜びもあったでしょう。私たちはあの日から、確かに主イエスと共に、新しい道を歩んでいいます。確かに私たちもあの日からスタートを切ったのです。その時は意味が分からかったかもしれませんし、今もまだ意味が分からないかもしれませんけれども、確かに新しい命をスタートしたのです。それぞれにそのことを覚えて、今日のバプテスマからもう一度歩み出しましょう。

今日新しい命が、主イエスと共に歩む決心をし、バプテスマを受け、キリストと結び付けられます。イエス様とバプテスマを受ける命の2つの命が結び付けられる時です。そして私たちの命ももう一度イエス様に結びけられ、互いに結び付けられるのです。その時を今日喜びましょう。そしてまた私たちに、私たちの中から、新しい決心が起こされるように祈りましょう。

 

お祈りをいたします。

 

 

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【全文】「公害問題と教会」マタイによる福音書18章10~14節

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。マタイ18:10

 

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に、こどもの声を聞きながら、礼拝できること感謝です。先週は相模中央教会の礼拝で奉仕をしてまいりました。不在の時の信徒宣教に感謝します。

今月は環境ということをテーマに宣教をします。今日は収穫感謝礼拝でもあります。日々の恵み、特に神様からいただく、大地の恵み海の恵みに感謝してこの礼拝をおささげしましょう。

今日の宣教題を「公害問題と教会」という宣教題としました。公害問題と教会に何か関わりがあるのですか?とよく聞かれます。教会と公害問題は関係ないのではないか、それに取り組むことは教会の仕事ではないのではないかと言われます。

しかし私は公害問題に関わることは教会の基本的な働きだと感じています。そのことを水俣病や足尾銅山鉱毒事件など有名な公害問題から考えたいと思っています。また特にみなさんご存じのように、この水俣病は恵みの海だったはずの場所を、人間が壊し、奪ったという公害でもありました。

水俣病は1950年代から熊本県水俣市を中心に起きた公害問題です。チッソ株式会社という企業の工場排水には有機水銀が含まれていました。有機水銀はプランクトンに取り込まれ、それを食べる魚、それを食べる魚とどんどん凝縮されました。まず魚を食べる多くの猫が、もがき苦しみ、狂い死にをしました。そして次第に様々な症状が人間にも現れました。

その魚を食べた人間も水銀中毒になったのです。水銀中毒は脳神経を壊し、視野狭窄や、まっすぐ立っていることができない、全身の痙攣がとまらない、言語障がい、聴力障がいなど様々な症状を引き起こします。それは治ることがありません。またその症状は胎児・生まれてくる赤ちゃんにも見られたのです。

当初原因がわからず、人から人にうつる脳の感染症と考えられました。そして町には激しい分断と差別が起きます。人々は自分や家族に症状が出ても隠したのです。就職や、結婚ができないかもしれない。差別を受けたくない。人々は症状や出身地を隠し、生きたのです。被害の実態調査も非常に難しいものでした。激しく差別されてきた人は、医師に見せたくなかった、写真を撮られたくなかったのです。水俣の人々は声を上げることができなかったのです。

原因企業であるチッソ株式会社は当時、日本を代表する化学メーカー、エリート企業でした。地域の人々はみなチッソにものを言うことなどできません。かなり早くからチッソの工場排水が疑われていましたが、チッソは自分たちが原因と知りながらそれを隠蔽し、損失を最小限にしようとしました。貧しい漁師に少ない解決金で和解をもちかけます。人々は今日生きるお金を受け取らざるをえず、被害を訴えることができませんでした。被害を訴えるその声は大企業にかき消されてしまったのです。

教会とこの水俣病にどんな関係があるでしょうか。関係ないように見えます。確かに水俣病の歴史の中に教会はほとんど登場しません。でも本当に関係ないのでしょうか。水俣にも当然教会がいくつもありました。人々の命が軽んじられ、ふみにじられ、差別されていたとき時も毎週礼拝を繰り返したでしょう。でも教会が声をあげたという記録はありません。もし平塚で同じ問題が起きたらどうでしょうか。平塚のある企業から工場排水が相模湾に流れ、魚も猫も人も死ぬとき、私たちの教会と関係がないはずはありません。

公害問題とは企業の利益と、人間の命のどちらを優先するかという問題です。多少の犠牲がでても、安い、便利なものを手に入れたいという、人々の欲望が集まって、公害問題が生まれます。公害が起きてから、差別がうまれるのではありません。もともと命の差別があるところに、命への軽視があるところに、公害が生まれるのです。誰かが犠牲になってよいという発想自体が公害を生むのです。

私たちの社会は99人の人の便利や利益のために、1人が犠牲となり我慢をしなければいけない社会なのでしょうか。私の命は70億分の1の命で、他の多くの人のためなら犠牲になってもしょうがない命なのでしょうか。

私は違うと思います。そして何より聖書が違うと語っていると思います。1つの命が大事だ、小さな命が大事だ、聖書はそのように語っていると思います。今日はその箇所を見たいのです。

 

 

今日の聖書箇所を見てゆきましょう。今日は99匹と1匹の羊の話です。ある時、100匹の羊の群れの中の1匹がいなくなってしまいました。当時の羊飼いは羊を移動させながら、草のある場所を巡りました。その途中で、迷子になってしまう羊がいたのです。

羊が迷子になった理由はわかりません。自分の意志ではぐれたのか、他の羊にいじめられてはじき出されたのか、けがをして遅れてしまったかもしれません。誰の責任かはわかりません。

羊飼いにとっては、失われた羊が生きているか、死んでしまっているかも、わかりません。生きていても大きなけがをしているかもしれません。それでも羊飼いは探しに出かけます。そしてとことん探すのです。1匹でもひたすら探すのが羊飼いです。それは一匹一匹を大事にするからです。羊飼いにとって、1匹は100分の1ではありません。100匹いたら、1匹くらい死んでもしょうがないとは思わないのです。羊飼いはたった1匹のために時間と労力を使い、危険を冒して探しだすのです。

羊飼いは探しに出てゆくと、羊がいないかよく目を凝らします。動くものがないか、茂みの陰にいないか、暗い場所にいないか、隠れていないかを見つけようとします。そして羊飼いは羊に呼びかけるでしょう。声をかけ、自らのところ、仲間のところ、安心して過ごせる場所に戻ってくるように呼び掛けるのです。そして羊飼いは耳を立てて声を聞こうとするでしょう。羊の小さな声が聞こえないか耳を澄ませ、小さなうめき声が聞こえないか、おびえて隠れる息遣いが聞こえないか耳を澄ますのです。羊飼いはそのように注意をして、羊を探すのです。

そして羊が見つかった時、その命を喜びます。見つけた羊飼いも、村の人々も、99匹も全員がその1匹の命を喜びます。そこでは99匹の命も、1匹の命も同じように大切に扱われます。たかだか1匹だからと言って、見下されたりしない、軽んじられないのです。

これは10節にあるとおり「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という話です。軽んじるとはどんなことでしょうか。聖書の軽んじるとは馬鹿にするという意味もあります。そしてその語源には下に考える、見下すという意味があります。1匹の命を、99匹の命より下だ、その命は99匹に対して価値の低いものだと見下すこと、それが軽んじるということです。羊飼いは迷った1匹の羊の命を見下さないのです。見捨てないのです。よく見て、よく聞き、大切な1匹を探し出すのです。

もちろんこの羊飼いは神様のことです。このように神様は99匹の安心のために1匹を犠牲にする方ではありません。神様は99匹の安心や、安全、便利や利益のために1匹を見捨てる方ではありません。神様は99匹を置いて、1匹を探し続けるお方です。神様は1匹を大切な命として、たったひとつの取り換えのきかない命として愛し、探すのです。

私たちはこの1匹の羊です。弱くて、迷ってしまう者です。神様が私たちを探し出し、道を示して下さるのです。そしてもう一つこの話が指し示すことがあるでしょう。それは私たちも羊飼いのようになるのだということです。私たちも1匹の命を探し、声を聞き、見つける者になるのだということです。

私たちの社会は多数派を優先する社会です。多数派が少数派を圧倒し、飲み込む世界にいます。水俣病はまさにそこのことを突き付けています。大企業が大多数の社会の利便性と利益の追求のために、工場から水銀を排出しました。

周囲の人々の命は、公害が始まる前から見下され、軽んじられていました。人々は痛んでも、苦しんでも、声をあげることができませんでした。そして声を上げても、それはかき消され、無視され続けました。それはまるで探されなかった羊のようです。水俣の人々はまるで探されない、見つけられない、声をだせない、声を聞かれない羊のようでした。それは99匹のために、犠牲になろうとしている1匹のようです。

私は今日の物語から、そのような1人を探し出しなさいと聞こえます。私たち自身が苦しむ1匹を探し、目を止め、声を聞き、共に安心して暮らす場所を見つけるようにと促されているのです。

私たちは探されるだけではなく、探したいのです。忘れられてしまうような一人の命を見つけ、見つめ、声を聞きたいのです。その命を守り、小さな声に耳を傾けてゆきたいのです。その1匹を探し、声を聞くこと、それは本当に教会の大切な使命ではなでしょうか。

いま私たちの教会は何をすべきでしょうか。今も世界中で水銀による被害が繰り返されています。特にそれは金の採掘現場で起きています。まさしく、命より金(キン・カネ)が優先され、公害問題が起きているのです。

教会は何をすべきか、公害問題から問われます。私たちにすべてができるわけではありません、問題を解決できるわけではありません。でも私たちは痛む一人を探し続け、声を聞くことができるのではないでしょうか?一緒に平安の場所、世界を目指すことができるのではないでしょうか。今日の聖書の箇所はそのことを指し示しているのではないでしょうか。

教会にこそ、利益や多数派によって失われる命に目を向けることができるでしょう。教会こそ欲望と差別を捨て、1人の命を守ることを訴えてゆけるでしょう。神様は私を探し出し、導いてくださるお方です。そして私たちも小さな声、小さくされている命、1匹を探し、その声に耳を傾けたいのです。公害問題から教会はそのように突き動かされるのです。お祈りいたします。

 

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【全文】「罪人が招かれた晩餐」マルコによる福音書2章13節~17節

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

マルコによる福音書1章17節

 みなさん、おはようございます。今日は本当に集うことができて感謝です。それぞれの顔を見て礼拝できることに感謝です。そして今日この場所に集うことができない方がおられることも覚え礼拝を献げましょう。

そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声が久しぶりに礼拝に響き、うれしい思いでいます。こどもたちと共に、声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。

9月は主の晩餐をテーマとして宣教をしてきました。本日の10月第一主日でこのテーマを終えようと思います。私たちはいろいろな食事、主の晩餐を聖書から見てきました。主の晩餐とは十字架の体と血を記念して行われること、主の晩餐とは共同体を吟味するために行われること、主の晩餐はイエス様が復活したことを記念して行われること、主の晩餐は奇跡の食事を記念して行われることを見てきました。

どんなことをお感じになったでしょうか。せっかく一緒に礼拝をしていますから、久しぶりと声を掛け合いながら、そしてみ言葉からお互いが感じたかも分かち合えたらうれしいと思っています。

今日見たいのは罪人との晩餐です。この食事はあの言い回し「パンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂き、与えた」その言い回しは出てこないのですが、これもイエス様の食事の大事な一場面です。私はこれも主の晩餐の起源の一つだと思います。一緒に見てゆきましょう。

さて今日の場面では徴税人という人が登場します。徴税人とはもちろん税金を取りたてる人です。このレビはおそらく関所のような場所(収税所で)で通行税を取っていたと思われます。この通行税はいくらと決まっていたわけではないようです。王様は徴税人頭に、この関所から税金を集め、いくらいくら納めるようにと命令をします。徴税人はそこから、通行税をなるべくたくさんとって、命令された額を納めます。言われた額より多く集めることができれば自分たちの儲け、少なければ自腹で王様に払ったと言われます。ですから通行料いくらというルールは決めず、そこを通る人から取れるだけ取るという、さじ加減で通行税を払わせていました。徴税人とは王様と民衆の間の、中間搾取の仕事だったのです。このような職業はユダヤの人々から大変憎まれる存在、軽蔑をうける存在でした。

おそらく今日出てくるレビは中でも下っ端の徴税人です。現場で直接、人々から通行税を取り立てる仕事をしていたでしょう。徴税人の中でも一番人々から嫌われる存在だったでしょう。

15節には徴税人と並んで「罪人」という言葉も出てきます。徴税人と罪人は同じ扱いです。罪人とはどんな人でしょうか。何かの犯罪を犯した人、人を傷つけた人、もちろんそれも罪人です。しかし聖書の時代の罪人とは、もっと広い意味を持っていました。これは差別を含む言葉でした。たとえば羊飼いは罪人でした。移動しながらの生活は律法を守ることができなかったからです。他にも異邦人・外国人もみんな罪人でした。このように職業、住所、出身、宗教、国籍などによっても罪人とされたのです。従いたくても従えない人もたくさん含まれていました。

当時の社会では、「ふさわしくないとされた人」「罪人」との関わりが禁じられていました。特に食事の場面で厳しく禁じられました。徴税人や罪人と一緒に食事をすることは禁じられていたのです。16節の「どうして一緒に食事をするのか」という問いはそこから生まれています。

しかしイエス様の態度はどうでしょうか。徴税人や罪人と平気で食事をしています。しかもイエス様の方からレビに「私に従いなさい」と声をかけ、その後一緒に食事をしています。これがイエス様の態度です。イエス様の側から罪人と呼ばれる人をご自分の下へと招く、それがイエス様の招きなのです。

みんなで食事をするときに、一人だけ誘わない、食べれないのはかわいそうだから、例外として罪人も仲間に入れてあげたのではありません。イエス様はまず徴税人に「従いなさい」と言葉をかけ、招き、食卓を共にしたのです。この場面が大事です。かわいそうだから仲間にいれてあげたということではありません。この徴税人こそイエス様に「従いなさい」と招かれ、食事を共にしているのです。それはイエス様の一方的な招きをよく表している出来事です。その食事には罪人が招かれました。他の人は絶対に一緒に食事をしない人が、イエス様により一方的に招かれたのです。

私は食事の場面も想像します。当時も食事の際の席順は重要な意味を持ちました。さらに当時は身分差によって席順だけではなく、出てくる食事の内容も違ったそうです。入り口に近い方が下座で、身分が低い人は量や質の劣る食事をとりました。身分の高い人は部屋の奥に座り、良いものをたくさん食べました。本来であれば徴税人や罪人は入口のすぐ脇で肩身の狭い食事をしたでしょう。

しかしイエス様はどうだったでしょうか。私は想像します。イエス様の方こそきっと下座に座ったのではないでしょうか。イエス様が食事の際に奴隷の仕事である、弟子の足を洗ったという話を思い出します。あの時のように、イエス様は本来奴隷や低い身分の者がすること、いる場所に身を置いたのではないでしょうか。それがイエス様立ち方です。

この食事も同様に、徴税人や罪人が招待客としてイエス様に招かれたのではないでしょうか。そのような人々が隅に追いやられるのではなく、真ん中に座るように勧められ、もてなされたのではないでしょうか。イエス様の招き、イエス様との食事とはそのような逆転の食事です。

そう思うのは、17節の言葉からです。イエス様の来た目的がここに書かれています。イエス様は何のために来たのかが書かれています。聖書によればそれははっきりと「罪人を招くため」と書いてあります。そうイエス様が来たのは「罪人を招くため」です。イエス様は罪人こそを招くために来ました。罪人を食卓に招くために来ました。それがイエス様との食事、招きです。マルコによればイエス様は「罪人を悔い改めさせるため」に来たのではありません。「罪人を正しい人に変えさせるため」に来たのでもありません。イエス様はただ「罪人を招く」そのために来たと言うのです。

イエス様は正しいと言われる人ではなく、罪人といわれる人を招いたお方です。正しい人とは、ここに出てくる律法学者やファリサイ派です。律法を守り、神を第一とする熱心な人々です。彼らは罪人が招かれているのを見て、どう感じたでしょうか。

自分たちこそ一生懸命に信仰を守ろうとしてきたのに、罪人や徴税人が招かれているなんておかしいと感じたでしょう。正しい自分たちがまず食べるべきではないか。そのうえで例外として、徴税人や罪人も食事をすることを認めることがあるかもしれないけれど、でもまずは正しい者が招かれ食べるべきだと考えたでしょう。

イエス様の態度はそのような熱心な、正しい信仰を持つ人々を傷つけました。正しい人は優先順位が変わるイエス様の教えに傷ついたのです。でもイエス様はそのことにここではフォローをしていません。

イエス様は正しいといわれる人々を招かなかったのです。聖書にあるとおりイエス様は罪人を招くお方です。それがイエス様の食事でした。それがイエス様の招き、晩餐だったのです。17節にあるとおり「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とはそのような出来事でした。

これがイエス様と罪人の食事でした。この食事は私たちの主の晩餐とどのような関係にあるでしょうか。私はこの食事も主の晩餐の起源のひとつだと考えます。

イエス様は正しい者ではなく、罪人こそ食事に招いたお方です。だからこそ主の晩餐でもこの招きを思い出したいのです。正しい者ではなく、罪人がこの晩餐に招かれているということを思い出したいのです。

私たちはこの主の晩餐をクリスチャンに限定しています。クリスチャンに限定している理由がどこにあるのでしょうか。もし限定する理由があるのだとすれば、招かれている人と招かれていない人がいるということでしょう。何か招かれない理由があるのでしょうか。招かれる人と招かれない人がいるというのでしょうか。2つの立場がありそうです。

主の晩餐をいただく時、私たちは律法学者の側に立って、正しい者の側に立ってそれをいただくのでしょうか、あるいは徴税人や罪人の側に立ってそれをいただくでしょうか。どちらの自覚をもって、主の晩餐にあずかるでしょうか。

今日の箇所に照らすならば、非常に残念ですが、自分を正しいと思う人は晩餐に招かれていません。そして他者を罪人と指さしイエス様から遠ざけようとする人も非常に残念ですが、食事に招かれていません。

もし私たちが食べてよいのはクリスチャンのみと限定することに意味があるとするならば、それはきっとクリスチャンが「正しい人」だから食べてよいということではないでしょう。むしろ今日の箇所によれば、クリスチャンこそ自分が罪人だとよく知っているからこそ招かれている、そう言えるのではないでしょうか。

クリスチャンこそ自分が罪人であるにも関わらず、主イエスに招かれているということを知る者です。自分は神様の前に正しくない、従いたくても従えない者だとよく知る者です。でもそんな罪人だからこそこの主の晩餐に招かれているのです。クリスチャンこそ、あまりにその招きを受けるのにふさわしくない者として招かれているのではないでしょうか。そのようにして今日の主の晩餐を持ちたいのです。

このあと主の晩餐を持ちます。これまで今日を含め5回、主の晩餐について聖書を読んできました。主の晩餐は十字架の体と血を記念するものです。主の晩餐は共同体を吟味するものです。主の晩餐は復活を記念するものです。主の晩餐は奇跡の食事を記念するものです。そして主の晩餐は罪人が招かれた食事を記念するものです。今日この豊かな食事をともにいただきましょう。

 

 

【全文】「群衆との奇跡の晩餐」マタイによる福音書24章29節~39節

群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

マタイによる福音書15章32節

 

みなさん、おはようござます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。家ではなく、教会でこどもたちの声を聞きながら礼拝できる日を楽しみに待っています。一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは9月は「主の晩餐」をテーマにしています。1回目は主の晩餐とは十字架を覚えることだということ、2回目は主の晩餐は共同体を吟味するということ、3回目は主の晩餐は復活を覚えることだということを見てきました。今回が4回目です。今日は主の晩餐は群衆との奇跡の食事を覚えることだということを見てゆきたいと思います。

今日の箇所は4000人にパンが配られたという話ですが、5月の宣教で似た箇所5000人の食事の宣教をしました。「食堂の教会」という宣教題でした。5000人、こんなにたくさんの人が食事するとき、誰かが誰かを助ける、助ける側助けられる側に分かれるのではなく、相互性のある助け合いの食事だったのではないかと考えました。そして私たちの教会もただ与える側にいようとするのではなく、地域と支え合う関係になろう。教会も5000人の一人になる時、地域や他者との境界線がなくなるのではないかという話をしました。

9月のこひつじ食堂はお弁当の調理も密になるので、無料の食料品配布をするということになりました。今教会にはたくさんの食品が集まるようになっています。お米やお菓子や野菜がどんどん集まっています。今回もたくさんのものを配ったのですが、自分たちが買ったものは、それを入れるビニール袋だけでした。私たちはそれを配っているのですが、それはどこからか不思議にささげられたものです。5000人の食事のような分かち合いが、教会で起こっていることを実感しています。

さて今日は、その5月の箇所と似た話が出てきました。そっくりな話です。マタイ福音書には、4000人の食事と5000人の食事、そっくりな2つの食事が記録されます。マルコも2度記録しています。ルカは1回です。もしかするとルカは似た話だから1回でよいと思って削ってしまったのかもしれません。今日はこの個所を主の晩餐と重ね合わせて読んでゆきましょう。そして前回の食事との違いも見ながら読んでゆきましょう。

まずこの個所は二重記事とも呼ばれます。おそらく1回の核になる出来事がありました。それはいろいろな伝えられ方をしました。そしてやがてそれは2つの出来事だったと理解されるようになりました。それが今日2つの記事になったと考えられています。

似た記事が2回繰り返されることは、そのような二重記事ということから説明ができるのですが、もう一つ大事なことは、この大勢の食事が二度記載されるほど、大事な出来事だったということです。繰り返す価値のある話だったということです。大事だからこそ、ここに繰り返されているのです。

そしてそれは本来は1回の出来事だったかもしれませんが、前回も見たように食事や主の晩餐は1回きりだったわけではありません。イエス様は何度もパンを裂きました。その食事は様々に繰り返されたのです。だからこそ聖書のなかで、繰り返しが起きているともいえるでしょう。ですから似た箇所だから飛ばすのではなく、私たちも繰り返し読んでゆきたいと思います。

この中で14章の食事と今日の15章の食事の違いは何でしょうか。5000人と4000人の人数の違いがありますが、それは大きなことではありません。一番の違いは29節~31節の記載だと思います。この奇跡の食事がどんな人と持たれたのかということの強調点が違うのです。

29節~30節、そこには様々な障がいをもった人々がいたことが14章よりも、より細かく記録されています。14章の5000人の食事も病気の人がいやされた後ですが、その様子は15章今日の箇所の方が事細かに書かれているのです。足、目、体、口、その他、いろいろな不自由や病を持った人がここにいたとあります。当時はよく(今もそうですが)病気と罪が結び付けられました。この人々の中には、おそらく病や不自由を持つことで、それだけではなく社会の中からのけ者にされた人もいたでしょう。立場が弱く、小さくされた人々こそ、この4000人の中にはたくさんいたのです。

ここにいた人々は異邦人・外国人だったのではないかという説もあるそうです。4000という数字が、四方から来た外国人を表しているという説です。もしかすると障がいをもった異邦人が、31節「イスラエルの神を賛美した」のかもしれません。

とにかく、立場の弱い、また体も決して強いとは言えない、この小さくされた人々がイエス様のもとにいました。そしてそこに癒し奇跡が起きたのです。癒しの奇跡とはどのような出来事でしょうか。私にはわかりません。本当にけががすぐに治った、病気が無くなった、手足が自由に動くようになったということだったかもしれませんし、それとは違うことだったかもしれません。

でもここにはとにかく話し、治り、歩き、見えるようになったとあります。そこでは少なくともイエス・キリストによって差別のない言葉がかけられたはずです。そして人々はその言葉から生きる力をいただいたのです。

それによって痛みは和らいだはずです。そして痛みと共に、痛み以上に罪だと指さされ、差別に悩まされていた人々が、イエス様に出会い、新しい希望を持つことができるようになったのです。そのようにして人々はイエス様に癒されたのです。

今日の食事はそのような障がいを持った人々、のけ者にされた人々がたくさんイエス様の下に集められ、そして癒されたという場面設定の後に始まります。癒しと共食(食事)がここでは連続し、つながっています。ここでイエス様は癒しの奇跡の後に食事をもったのです。イエス様は障がいをもった人々と一緒に食事をしたのです。

イエス様は彼らを見て32節「かわいそうだ」と言っています。かわいそうという言葉は注意が必要でしょう。かわいそうと思われたくない人もいます。どこか冷たさも感じる時もあります。

このかわいそうとは元の言葉は「スプラグニゾマイ」という、内臓に由来する言葉です。内臓に由来することから他の翻訳では「胸が張り裂ける」「はらわたがちぎれる」とも訳される言葉です。あるいは沖縄の言葉では「チムリグサ」という言葉も近いでしょう。それは深い共感の言葉です。相手の体の苦しみが、自分の体の苦しみに感じるということが、スプラグニゾマイです。

イエス様は人々の痛みや空腹を自分の痛みや体のことのように感じたのです。だからこそイエス様は疲れている人々を前に、このままで解散するのではなく、おなか一杯になってから帰ろう、そう呼びかけたのです。

そして次の奇跡がここで起こります。人々が癒されただけではなく、今度は足りないはずの食事が不思議と満たされたのです。ここでも一体なにが起きたかわかりません。みんなが隠していた分を少しずつ出し合ったのかもしれません。どこかから支援があったのかもしれません。本当に奇跡が起きたのかもしれません。しかし37節「人々は皆、食べて満腹した」のです。足りないはずのパンで満腹するという奇跡が起きたのです。

その食事の中身を見ましょう、36節です。私たちが今月毎回、繰り返し見てきたあの言い回しが登場します。この言い回しが出てきたら主の晩餐を連想してください。私たちの主の晩餐でも言われるあの言葉です。「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちにわたした」がまた今週も登場しました。ここでも主の晩餐が行われたのです。この病を癒された人々との奇跡の食事は主の晩餐だったのです。

ここでの主の晩餐にはどんな意味や強調点があるでしょうか。ひとつはイエス様は弱さを持った人、痛みをもった人、空腹の人を目の前にして、その人々に心底共感をしたということです。そしてここでの主の晩餐は、痛みを持った人々と共感しながらの食事だったということです。その痛みへの共感の食事こそ主の晩餐だったのです。

そしてこのことは主の晩餐で私たちが何を思い出すのかということを指し示しています。主の晩餐は単にこの奇跡を記念して持たれるのではありません。イエス様が苦しむ人々と共にある事を思い出すためにされます。そしてこの主の晩餐はそれを食べた私たちも他者の痛みに共感し行動することを促しています。

私たちはこの主の晩餐にあずかることによって、イエス様に癒され、満たされること、イエス様のように生き、行動するようになるのです。それが主の晩餐の意味です。

私たちは毎月主の晩餐をしています。その起源や意味を見てきました。聖書には様々な場面で「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちにわたした」が出てきます。そしてその様々な食事の中でも今日の箇所のイエス様が、弱さをもった人々と共におられたことを象徴する食事をみました。イエス様が傷ついた人々に希望を与える食事をみました。その食事によってすべての傷ついた人々が、一人も忘れされることなく癒され、満腹になりました。このようにして、この群衆は一つになったのです。痛み、奇跡、晩餐によってイエス様は人々を結び付け、一致させたのです。私たちもこのような主の晩餐を、毎月いただいているのです。

私たちの主の晩餐には、込められた意味がたくさんあります。十字架の体と血、共同体を吟味すること、復活を覚えること、そして今日のイエス様の奇跡と癒し、共感ということが含まれています。

来週いよいよ私たちは主の晩餐をいただきます。1か月主の晩餐の様々な意味をとらえてきました。いままでと違った思いで、その主の晩餐をいただけるのではないでしょうか。イエス様を覚え、主の晩餐を心待ちに1週間を過ごしましょう。お祈りいたします。

 

 

【全文】「最後じゃない晩餐」ルカによる福音書24章28節~36節

 

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。             ルカによる福音書24章30~31節

 

みなさん、おはようございます。今日も離れた場所からですが、共に礼拝をいたしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。礼拝にすべての人が集えること、こどもたちの声が戻ってくることを願いながら、今日もそれぞれの場所から一緒に礼拝をしましょう。

私たちは9月、主の晩餐式をテーマとして、一緒に考えています。1回目は主の晩餐とは十字架にかかられたイエス様を覚えて、その体と血を忘れないためにするのだということを考えました。そしてそれは本当にふさわしくない弟子が受けたものだったということも見ました。前回は主の晩餐とは自己吟味を超えて、今日誰がいないか、私たちは誰かを置き去りにしていなかを吟味するものだということを考えました。今日は3回目です。

今日の聖書箇所はイエス様が復活の後に現れ、共に食事をした場面です。イエス様と弟子たちがした食事は、最後の晩餐だけではないということを見たいと思います。聖書はイエス様が本当にいろいろな場面で食事をされたと伝えています。復活後でも人々と食事をしているのです。

マタイやマルコには復活の後に食事をしたことは書かれないのですが、ルカとヨハネはその食事を記録しています。イエス様が復活した後の記事は多くないのですが、その中で食事を共にしたことが記されているのは、やはりイエス様が一緒に食事をすることを大事にしたからでしょう。今日はその復活後の主の晩餐を見てゆきましょう。

ところで最後の晩餐という言葉があります。私は今回また気づいてしまったのです。前回私は主の晩餐を昼にやっているのに「晩餐」と呼んでいるということに気づいてしまったのですが、今回は最後のという言葉に引っ掛かりました。

あの最後の晩餐は、今日の箇所によれば実は最後ではないのです。そもそも聖書には最後の晩餐という言葉はありません。私たちが過越の食事の場面を「最後の晩餐」と呼んでいるだけです。イエス様は1回もこれが最後だなんて言っていないのです。それはあくまで十字架の前の最後という意味で、私たちが呼んでいるだけです。

今日の場面のように、復活後も主の晩餐は繰り返し続くのです。最後の晩餐は最後ではなかった。それは復活後も続き、そして今なお私たちに繰り返されています。最後の晩餐が最後ではなかったという光景が今日の聖書には書かれています。その箇所を一緒に読んでゆきましょう。

 

 

今日の場面はエマオの途上という物語の後半部分です。二人はエマオからイエス様に会いに出かけてゆきました。ちなみにこの二人の性別や年齢はわかりません。私がなぜか成人男性二人を想像してしまうのは、思い込みです。男女だったかもしれません。夫婦だったかもしれません。親子だったかもしれません。

この二人は結局イエス様に会うことはできなかったのでしょう。代わりに二人が聞いたのは不思議な話でした。イエスが十字架で殺され、その死体が墓から無くなった、どうも生き返ったらしいという話です。二人は会うことのできなかった失意のうちに、そして不思議な出来事への疑問と混乱のうちに家へと向かっていました。

そしてそこには、一人寄り添って歩く人が与えられました。その人は二人に忍耐強く寄り添い、聖書の話をしました。そして二人は旅の途中、宿をとることになった時、そこに一緒に泊まるように願いました。二人は共に旅をするこの人が誰かを知らないまま、無理に引き留め、一緒に泊まらせます。そしてそこで、この人との食事が始まったというのが今日の場面です。

30節には「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。これはイエス様の過越の食事、いわゆる最後の晩餐の際とまったく同じ言い回しです。この言い回しはイエス様の食事に繰り返し出てきます。この言い回しが出てきたら、これは主の晩餐だったと想像したいのです。

明らかにこの食事では主の晩餐が行われました。ここでの主の晩餐にはどんな特徴や意味があるでしょうか。一つは誰だか知らない人との食事が、急に主の晩餐になったということです。ここにいたのは準備も知識も資格もない二人です。イエス様に「ああ、物わかりが悪く、心の鈍い」と言われた二人がこのパンを受け取っています。

何も知らない二人にそれが与えられたということです。信じている者が食べたのではありませんでした。信じて食べたのではありません。食べたら、その後目が開けたのです。二人は食べることで初めて目の前にいる人、今まで自分に寄り添ってくれた人、十字架によって死んだ人、復活された方がわかったのです。いままで自分と一緒にいてくれた、誰だかわからない人、それが主イエスだったとこのパンを食べて初めて知ったのです。

この聖書の箇所によれば、信仰が先にあってその確認のためにパンを食べたのではありませんでした。まずパンが先にあって、それを食べて、そこに確信が生まれたのです。洗礼が先か、晩餐が先かという問題がありますが、この場合では晩餐が先でした。晩餐によって、主イエスの存在に気づかされた。これがこの個所の大きな特徴です。

しかし今日ここで見たいことは、洗礼が先か、晩餐が先かというではありません。このように、聖書の中の主の晩餐は多様だと言うことです。最後の晩餐や、コリントの人々の晩餐を見てきましたが、それだけが主の晩餐の根拠ではないということです。

この「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き」の言い回しは次に見る5000人の給食でも現れる言い回しです。イエス様は本当にいろいろな人と、いろいろな場所で食事をする人でした。いろいろな場面で、いろいろな人々と持たれた食事、いろいろな主の晩餐の形があったということです。

最後の晩餐と言われる主の晩餐がありました。でもそれは1回きりで、最後だったのではありません。今日のように復活後も主は主の晩餐を繰り返しています。

様々な主の晩餐が伝えられていますが、それぞれ強調点が違うということが言えるのでしょう。最後の晩餐では、十字架に引き裂かれる体、流される血が強調されるものでした。コリントの人々は共同体ということを強調するものでした。

今日の主の晩餐の場面では何が強調されているでしょうか。復活の後だったということが大きな特徴です。その強調点は「イエス様は死んでもなお、私たちと共にいる」ということではないでしょうか。

イエス様は十字架にかけられ、その後、復活をされました。そのイエス様は気づかれないほどにそっと寄り添い、聖書を解き明かして下さるお方でした。そこで示されるのは、主イエスは私たちの気づかない場所で、私たちと共におられるということです。

今日の物語がまさにそうです。イエス様は失望や疑問を持つ者に、イエス様の側から歩み近づいてきてくださいます。私たちの言葉を聞いてくれます。イエス様は失望と混乱の道の途上でも、私たちと共にいてくれるお方なのです。

その道の中で、イエス様は聖書全体を解き明かしてくださいます。そして心を燃やしてくださいます。私たちと共にいて下さいます。

このことを二人は主の晩餐によってはじめて実感することができました。それを受けると、見えなかった主イエスが見えるようになったのです。気づかなかった主イエスの存在に気付くことができたのです。

この食事、主の晩餐を見て、私たちは次の主の晩餐をどのように受けるでしょうか。イエス様の食事が繰り返し行われ、様々な意味がこめられました。だからこそ主の晩餐の在り方も多様になってゆきました。教派、教会、個人によって様々な理解が生まれてきました。

私たち次の主の晩餐をどのように受けるでしょうか。今日は特にこのこと覚えよう、例えば十字架を覚えようという主の晩餐でもよいと思いますし、私たちの教会は主の晩餐のこの部分、共同体ということを大事にしようということもよいと思います。

イエス様はいろいろなメッセージを主の晩餐に込めています。私たちそれを豊かに受け取ってゆきたいのです。様々な意味があった、そのことを思い出して、次のパンと杯をいただきたいと思っています。

最後にこの二人の物語の続きを見てゆきましょう。32節、二人は一緒にいたのがイエス様だったと気づいたとき、すぐに道を引き返してエルサレムの仲間にそれを伝えに行きました。そうすると11人の弟子たちも復活があったと言っているのです。二人は自分たちが見たことを分かち合いました。互いに出会ったイエス様を証しあったのです。イエス様の主の晩餐とは、このようにして人を結び付けてゆくものです。失意や疑問を持った人々を結び付けるのが主の晩餐です。

その分かち合いをしている時、36節こういうことを話していると、再びイエス様が真ん中に現れたとあります。イエス様は集められた人々の真ん中に、現れて下さるのです。そして実はイエス様はまたそこでも何かを食べます。みんなの前で魚を食べてみせるのです。

私たちは毎月主の晩餐を持っています。そこでイエス様の十字架を覚えます。でも主の晩餐の意味はそれだけではないでしょう。イエス様が復活してもなお、私たちと伴い、私たちに教え、目を開かせ、信仰へと導いてくれる、そのことも主の晩餐で覚えましょう。そして神様はそこから信仰の仲間を与えてくれるのです。このこと主の晩餐から始まるのです。

私たちはこの主の晩餐を大事に守ってゆきましょう。私たちは主の晩餐で主イエスの十字架を覚えます。私たちの共同体を吟味します。そして主イエスが復活し私たちと共にいるこのことを覚え、主の晩餐をいただきましょう。お祈りします。

 

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【全文】『誰がいないか吟味する晩餐』Ⅰコリント11章17節~34節

 

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節

 

みなさん、おはようございます。今日も共にそれぞれの場所から礼拝できること、感謝です。共に礼拝しましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。それぞれの場所で多くの方は、こどもの声が聞こえない場所で礼拝をされているでしょう。つくづくそれぞれの場所での礼拝、オンライン礼拝は誰がいるのか、また誰がいないのかがわからない礼拝です。早く集い、互いを感じながら集えることを願っています。

私たちは今、礼典「主の晩餐」をテーマとして宣教を続けています。今日は2回目です。前回私たちは、十字架を、イエス様を忘れてしまう、ふさわしくない者だけれども、この主の晩餐を受けて十字架を覚えて歩んでゆこうということをみてきました。

今日は早く集いたいということも願いつつ、最初の主の晩餐がどのような集いだったのか、聖書から見てゆきたいと思います。イエス様が教えた主の晩餐に、人々がどのように集い、持っていたのかを見ながら、今の私たちの主の晩餐について考えたいと思います。

ところで私たちは主の「晩餐」と呼びますが、日曜日のお昼にやるのに「晩餐(夜の食事)」と呼ぶのは面白いと思います。私たちが昼に行うこれを晩餐と呼ぶのは、イエス様との食事は夕食が多かったからです。特に前回見た最後の晩餐がそうでした。その他の食事も多くが夕食だったと思います。私たちは昼間に「晩餐」をしますが、そう呼ぶのは、イエス様との食事の名残です。

さて今日の箇所はコリントの信徒への手紙Ⅰです。コリントの人々も毎週日曜日の夕方に家に集まって食事会をしていました。家で集会をしていたのです。キリスト教はまず貧しい人々に伝わってゆきました。貧しい人々がそれぞれ少しずつ食べ物を持ち寄って、家で夕食会をしていたのです。当初は豪華な食事会ではなかったでしょう。

その夕食会は、イエス様がいろいろな人と分け隔てなく食事をしたことが再現されていました。民族や身分や性を問わない、ギリシャ人もユダヤ人もない、部外者ものけ者もいない、初めての人もそうでない人も、誰でも加わることができる、垣根のない、にぎやかな食事が家でもたれました。そしてその中で、主イエスを覚えて私たちの主の晩餐のように、パンを裂いたり、祈ったり、証しをしたり、賛美をしたりしたのです。

このような集い、貧しい人たちの多くは遅くまで働いてから参加しました。夜遅く少しずつ食べ物を持ち寄って集まったのです。そのような食事の輪はどんどん広がってゆきました。一緒にご飯を食べて、証しを聞いて、一緒に祈るという運動がキリスト教をどんどん広めてゆきました。コリント教会もそのようにして広がっていったのです。

しかしキリスト教が広まってゆくと、最初は貧しい人が多かったのですが、徐々に経済的に豊かな人も加わるようになってゆきました。富裕層お金持ちたちはそんなに夜遅くまで働きません。仕事を早く終わらせて、早く集まって、先に食事会を始めてしまうようになったのです。

コリントの教会ではお金持ちの人々が他の人を待たずに、先に食事を始めてしまうようになりました。そうすると遅れてきた人、つまり貧しい人たちは余り物を食べるしかありませんでした。そのような集まりをどう感じるでしょうか。気分はよくありません。22節きっと貧しい人々にとってそれは自分への見くびりであり、侮辱であり、恥をかかせることでした。そしてこのような行為は、分け隔てのない神の教会全体を侮辱する行為でもありました。このようにして、垣根のない食事会はうまくいかなくなってきたのです。

パウロはそのような食事の様子を聞いて、コリントの人々に手紙を書いています。17節にある、その集まりはむしろ悪い結果を招くものだとあるのは、このような食事のことです。そこでは本来、イエス様がいろいろな人と食事をしたこと、愛とお互いへの配慮が確認される食事の場所だったはずです。しかしそこでは自分だけが食べる、先に食べる、金持ちが先に食べる食事会でした。そのような食事はむしろ、互いの間に愛がないことを確認する食事、侮辱と差別に満ちた食事になってしまったのです。仲間割れ、分裂を起こす食事会になってしまったのです。

21節にも似た注意があります。各自が勝手に、我先にと食べました。誰がまだ来ていないのか、そろっているかどうかは確認されませんでした。互いへの配慮や愛を確認するための食事会は、遅れてくる人、貧しい人を無視する、かえって仲間割れの原因を作ることになってしまったのです。

29節も愛のない食事会への指摘です。無関心や自分勝手、差別は食事に現れていました。そのような差別が人を殺すのです。後から来る人、貧しい人、弱い者や病人を無視する共同体や社会が人を殺すとパウロは言っているのです。

パウロはこれ見て、20節それでは一緒に集まっても、もうこれは主の晩餐にはならないと言います。パウロはコリントに人に、2つの命令をしている。ひとつは28節「よく確かめなさい」という言葉です。日本語ではそうなっていませんが、もともとの言葉ではここは命令形です。もう一つは33節の命令です「互いに待ち合せなさい」です。

この個所でパウロが言おうとしていることは、主の晩餐において、みんながちゃんとそろっているかどうか、よく確かめて、互いに待って、食べなさいということです。誰かいない人がいないか、誰かの分が足りなくないか、誰かを忘れていないか、それをよく確かめて食べなさいということです。

自分の事ばかり考えて、自分だけが食べればいい、そんな集まりになっていないか、それを確かめなさい、吟味しなさいということです。28節の確かめなさいは、コリント教会の集まり、共同体に向けて言ったことです。集まり自体が、差別や他人への配慮がない集まりになっていないか、よく周りを見て確かめて食べなさいということです。

確かめるこれは、吟味するとも訳される言葉です。この個所から、よく自分自身を吟味してから食べなさいと言われます。自己吟味です。自分自身が洗礼を受けたかどうかを吟味する、自分が神様を信じているかどうか吟味する、罪を犯していないか吟味する、パウロはそういう意味でここを言っているのではありません。自己吟味をするようにいっているのではありません。

ここで吟味されるのは、私自身の資格や適性ではなく、共同体です。この集まりが誰かを置いていったり、差別したりしていないか、そのことを吟味しなさいとのパウロは言っているのです。そして共同体を吟味するとは、相互監視のようなことではありません。あの人は食べていいのかと他者の資格を吟味することでもありません。私たちは食べる時、この集いが何かを忘れていないか、誰かを忘れていないかを吟味するのです。

パウロは34節で、これができない食事会はもうやめてしまってはどうかと提案をしています。そんなかえって仲間割れになるような食事会だったら、やめてしまいなさいと言っています。それぞれ家で、金持ちは大きな家に住んだでしょう、いい家があるんだったら、その自分の家で食事をしてから集まりなさいと言っているのです。共なる食事でも、神様はそんな食事、喜ばないというのです。

この後も、この垣根のない食事がなんとか続いてほしかったと思うのですが、残念ながらパウロのいうとおりになりました。この後、食事と主の晩餐というのは別々に行われるようになりました。それぞれの家で食事をし、教会に集まり、主の晩餐だけを教会でするようになりました。それが今の私たちの教会で行う主の晩餐につながっています。

一方、食事会は様々に形を変えて残りました。歴史の中で愛餐会として様々に持たれて続きました。私たちは年に数回クリスマスやイースターに持ち寄りの食事会を行っていました。早く再開できたらうれしいです。どちらかというと、あの愛餐会や私たちのやっているこひつじ食堂や炊き出しの方が、主の晩餐の原型に近いでしょう。

さて、このように主の晩餐について考えてきました。今日は私たちが主の晩餐の時に確かめることは何かということについて考えてきました。それは自己吟味だけではありません。食べるとき、よく確かめなさいといわれていることがあります。それは私たちの共同体が誰かを置き去りにしていないかということです。共同体を吟味するということです。そして共同体吟味とは、あの人に食べる資格があるかどうかを見張ることではありません。この共同体が誰かを置き去りにしたり、差別したり、無視したりしていなかを点検しながら食べなさいということです。

今日誰がいないのか、主の晩餐にあずかっていないのかをよく確かめなさいということです。この教会を吟味して食べるということす。そしてその時どう感じるでしょうか。よし教会は大丈夫、100点だと確認できるでしょうか。もしそれができたらうれしいです。しかしどうでしょうか、私たちの中には、誰かを置き去りにしてしまっているということがあるでしょう。

教会に集えない方々もそうです、このオンラインの礼拝もそうです。インターネットがつながっていない人もいます。そのような破れがあることを、共同体吟味は教えてくれるでしょう。つながれない人がいる、集えない人がいる、食べることのできない人がいる、そのことをよく吟味して、食べたいのです。一緒にまた集い、食べれることを願って、主の晩餐をしたいのです。

誰を置き去りにしてしまっているか吟味し、全員が主の恵みの礼拝にあずかることを願いながら、この主の晩餐を共にいただきたいそう思うのです。

私たちの主の晩餐、そこに加わっていない人を覚えて持ちましょう。その人々との一致を願って、そのことを覚えて次の主の晩餐をいただきましょう。お祈りいたします。

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【全文】『ふさわしくない人の晩餐』マタイによる福音書26章17節~30節

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である」

                     マタイによる福音書26章26節

 

 

 みなさん、おはようございます。一日一日の礼拝に集うことができること、感謝です。今日も共に礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。

8月は礼拝というテーマで3回の宣教をしました。9月からは礼典「主の晩餐」を5回、10月の第一週まで、テーマとして宣教をしてゆきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

この1か月で、私たちの主の晩餐式の意味を、様々な角度から考えてゆきたいと思っています。今日、この後も私たちは主の晩餐式を持つわけですが、なぜこれを毎月繰り返しているのでしょうか?そう聞かれたら、みなさんは何と答えるでしょうか?何のためにしているのでしょうか?答えは一つではありません。1か月一緒に考えてゆきたいと思います。

初めての方のために、主の晩餐とはこのぶどうジュースとパンを食べる儀式です。まずは皆さんも知っているように、この儀式には魔法のような力があるわけではありません。食べたら急に何かできるようになったり、聖なる人間になったり、罪が消えて無くなったりするものでもありません。

私たちはイエス様を「思い出す」ために主の晩餐式をしています。主の晩餐式とはイエス様を思い出し、新たに生きる者とされる。そのための礼典です。

では「イエス様を思い出す」とは、いったいイエス様の何を思い出すのでしょうか?イエス様の歩みは誕生、十字架、復活、様々な歩みがありますが、その中でもイエス様はいろいろな食事をされたお方です。それはイエス様の宣教にとってとても大事なことでした。罪人と食事をしました、5000人の群衆との奇跡的な食事をしました、復活後も食事をしました。そして今日の箇所、最後の晩餐も大切な食事の場面です。

いろいろな食事がありますが、なかでも今日は特に、この最後の晩餐から主の晩餐を思い出し、考えてゆきたいと思います。

私たちの主の晩餐には様々な意味が込められているわけですが、最も有名なのは、今日の箇所、最後の晩餐に起因するものです。私たちはこのイエス様との最後の晩餐を記念して、この出来事を忘れないようにするために、主の晩餐式をしています。イエス様との最後の晩餐を忘れないこと、イエス様の十字架を忘れないために、私たちはこれを毎月繰り返しているのです。

今日の箇所、17節、イエス様は過越の食事を弟子たちとしていたとあります。過越の食事とは、旧約聖書・出エジプト記にさかのぼります。神様から導かれ、奴隷から解放される時、人々が急いでエジプトを脱出する時、イーストを入れてパンを膨らませている時間はありませんでした。急いで出発した時に、作ったのが種無しパンでしたクラッカーのようなものです。

神様がそのようにイスラエルの人々を救い出してくれた、そのことを忘れないために、毎年種無しのパンを食べる、それが除酵祭に行われる、過越の食事でした。今日の箇所はその過越の食事をイエス様と弟子が食べている場面です。

ちょうど今私たちも、種無しパンで主の晩餐をしています。発酵していないパンです。主の晩餐を種無しのカリカリパンでやるか、ふわふわのパンでやるかは教派や教会によって違います。どちらにするかは主の晩餐式で最後の晩餐をどれくらい重視するかによって選ばれます。

最後の晩餐で特にイエス様が言っているのは「これは私の体である」という言葉です。この言葉は主の晩餐でももっとも象徴的な言葉として使われています。このパンはイエス様の体なのです。それは食べると魔法の力が与えられるパンではありません。イエス様はそれをわざわざ裂いて、これは私の体と言っています。そうです。この体、このパンとは十字架で傷ついたイエス様の体を象徴するものです。引き裂かれた体を象徴します。

杯も同じです。「これは私の血である」と言います。これも十字架を象徴します。イエス様はこの後、十字架で血を流されます。この杯は十字架の上で流れる、イエス様の血を象徴するものなのです。

このように私たちの主の晩餐は、イエス様の十字架の体と血を象徴するものです。そしてイエス様ご自身が、最後の食事の時、十字架を目前にした時、パンを自分の体、杯を自分の血として弟子たちに教えられ、弟子たちに分け、共に食べるようにと言ったのです。それが最後の晩餐という出来事でした。

そして弟子たちはその後、その食事の真似事をするようになりました。ちょうどこどもたちのおままごとのように。イエス様の十字架を忘れないために、イエス様の約束を忘れないために、この食事会を繰り返すようになったのです。それが私たちの主の晩餐につながってゆきます。

私たちも同じです。大真面目に私たちは、小さなパンと杯で主の晩餐式を行います。そしてそれをイエス様の体、血としていただき、十字架を思い出すのです。その十字架とは神の子である方が、体を裂かれ、血を流す、神の子が痛みの中におられたという出来事です。そこでは魔法のように苦痛が消えることはありませんでした。神の子イエスは痛みながら、地上の生涯を終えてゆきました。

私たちにとって、この十字架の神こそ大きな希望です。十字架によって、神は苦しみのただなかにおられ、共に苦しみ、共に血を流してくださるお方だと示されているから希望なのです。

十字架によってそれが私たちによく示されました。十字架のイエスの体と血によって、神が私たちと共にいるということが具体的に示されたのです。これが神の愛です。私たちの主の晩餐はその神の愛、十字架の体と血を、食べるという儀式なのです。今日これを覚えましょう。

誰がこのパンを食べるのにふさわしいかということも大切な問いです。この最後の晩餐によるならば、このパンと杯を受け取ったのは、弟子たちです。そこにいる人が、誰でも食べたわけではありませんでした。イエス様に従った12人だけがパンと杯を受け取りました。この主の晩餐は誰でも食べてよいものではない、クリスチャンのみが受けるものだという理解はここからきています。

たしかにこの最後の晩餐は内輪の食事でした。他の5000人の食事のように、誰でもかれでも招かれているのではありません。弟子限定の食事です。弟子とイエス様との特別な関係の確認がこの食事で行われたのです。イエス様を知らないまま、食べると言うことは、最後の晩餐の趣旨には合わないのかもしれません。弟子に限定するというのはイエス様と弟子の関係を確認するためという理由でしょう。

もちろんあまり厳密に考えすぎると問題もあります。十二弟子は男だけだったということにもなりますし、この弟子たちはバプテスマを受けていません。

イエス様を知らないで食べるのではなく、その方の歩みと十字架を知って、それを食べて欲しい、それがこの教会の願いでしょう。ですからバプテスマを受けた方に限定にするのでしょう。知らないまま食べないで欲しいという願いです。十字架を知り、信じてから食べてほしいというのが教会の願いです。

20節から25節を見ると、クリスチャンが特別な人だからこれを食べることができるというのは誤解だとわかります。イエス様は弟子に裏切り者がでるということを伝えています。イエス様の十字架の愛が確認されるだけではなく、弟子たちは裏切る、失敗をするというということが語られています。

特別に選ばれた弟子が受けたのではありません。この後裏切るユダさえもこのマタイの最後の晩餐には参加しています。そしてこの後逃げた弟子、三度イエスなど知らないと言った弟子すらもこの最後の晩餐にはいます。

弟子は特別だからこの晩餐にあずかったのではありませんでした。ここではイエス様の愛が示されると同時に、弟子の弱さも示されています。従うつもりでいても、忘れてしまう弱さが示されています。

イエス様の最後の晩餐、それは弟子の弱さのためでもありました。主の晩餐を弟子に限定する意味はここにあるでしょう。弟子が特別なのではなく、弟子こそ弱い者だから、弟子に限定してそのパンと杯を与えたのです。

そして弟子はこの後すぐ忘れてしまいます。裏切ってしまいます。知っているのに、知らないと言ってしまうのです。弟子は弱い弟子です。特別などではなく、あまりにもふさわしくない弟子がこの食事にあずかったのです。

私たちは毎月の晩餐をバプテスマを受けた弟子たちのみで執り行います。限定する意味がそこにはあるのでしょう。それはバプテスマを受けた弟子が特別だからではありません。弟子はパンと杯を、あまりにふさわしくない弟子としていただきます。忘れたくないと思いながらも、次に忘れてしまうのは自分かもしれない、忘れてしまう者としてこの主の晩餐をいただきます。ふさわしくない者としてこの主の晩餐をいただくのです。

私たちは本当にふさわしくない者です。でもふさわしくない者だからこそ、この食事にあずかりましょう。毎月の主の晩餐の式文では「ふさわしくないままで食べることのないように、自分をよく確かめて」と読みます。ふさわしい方のみ食べて下さい、そのように言われて、誰が食べることができるでしょうか。食べることのできる人は今日ここに一人もいないでしょう。

今日の主の晩餐は言葉のみです。どなたも限定されずにこの式に参加します。私たち全員が、ふさわしくない者としていただきましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに食べましょう。それを思い出し、忘れないようにあずかりましょう。

そして今日共に礼拝にし、まだバプテスマを受けておられない方。ぜひバプテスマを受けこの群れに加わってください。このふさわしくない者、すぐに忘れてしまうけれども、何とかイエス様を忘れないように、小さなパンと杯をいただく、み言葉をいただく、この群れにどうぞバプテスマを受けて加わってください。イエス様はきっとそのように招いておられます。賛美の後、言葉による主の晩餐を持ちます。

 

【全文】「私たちを派遣する神」マタイによる福音書10章16節~25節

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。マタイ10章16節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。先週はお休みをいただきました。信徒の方に宣教のご奉仕をお願いいたしました。生まれて初めての宣教の奉仕だったそうです。どのようにみなさんに響いたでしょうか。

宣教はどのような内容が語られたのかといこうことと同時に、どのようにそれが受け止められたのかが重要です。皆さん自身はどう聞いたでしょうか。

今日の聖書の箇所の19節~20節には語るべきことは、神様が示してくださるとあります。宣教あるいは証しもそうですが、祈りながら、神様の示しを聞きながら、語ることが大事です。まずよく聞くこと、そこから語ることが大事です。

この聖書箇所をもとに、宣教の準備はいらない、講壇に立って示されたことを語ればよいと解釈する人もいます。私自身は聖書にこう書いてあったとしても、誠実な準備と、祈りの中で、神様の声を聞くことが大事だと思います。時間をかけて宣教の言葉を紡ぎ、煩って、煩って証しと宣教の言葉となってゆきます。よく聞き、よく語ってくださったことに感謝します。そして何より、神様の言葉に感謝します。ありがとうございました。

8月は礼拝というテーマで宣教を続けています。合計3回の最後の1回です。これまで、礼拝は変わり続けること、礼拝はすべての人が招きを受けていることを見てきました。今日は最後ですが、礼拝は派遣されることだということを聞きたいと思います。神様は礼拝から私たちを派遣されるお方です。私たちは神様から礼拝に招かれる、そして礼拝からまたそれぞれへの場所へと派遣されます。私たちはこの招きと派遣の循環の中で生きているのです。

それは礼拝の中でもよく表されています。礼拝の最後の方には祝祷があります。これは私が神に成り代わって皆さんに特殊な能力を与える儀式ではありません。祝祷は祝福と派遣の祈りです。神様が1週間、私たちと共にいていくださるという喜びの宣言と、神様が私たちをそれぞれの場所に派遣されることの宣言です。私たちの礼拝は毎回、この祝祷で終わります。この祝祷によって、私たちは神様によって礼拝からそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。

神様はそれぞれの場所で、神様を愛し、隣人を愛し、神様に仕え隣人に仕えるように私たちを派遣されます。神様はこのように招き、派遣されるお方です。

この1週間はどんな1週間になるでしょうか。小学校は明日から始まります。一番こどもたちにとってはしんどい1週間かもしれません。夏休みが終わる、新しい学期が始まる1週間です。緊張や大変なことがたくさんあるでしょう。でも大丈夫です。神様はみんなにいってらっしゃいと言っています。そして一緒にいるよと言っています。でももししんどかったら教会に逃げてきてもいいです。

大人にとってもこの1週間はどんな1週間でしょうか。大人だってうれしい事ばかりの1週間ではないでしょう。しなければならないことがたくさんあるでしょう。なんだか忙しい1週間でしょう。うれしいこともきっとたくさんあるけれど、いろいろなストレスを感じることもある1週間でしょう。

私たちの決心や忍耐は弱いものです。でも神様が背中を押して行ってらっしゃいと言ってくれるから、私たちは1歩目を歩み出すことができます。神様から派遣される、神様から力をいただき歩む、その1週間を始めましょう。そしてまた来週の日曜日の礼拝に集いましょう。

今日は弟子たちが派遣される話を福音書から聞きます。この個所から1週間の希望をいただきましょう。弟子たちもまた、決して楽しいだけではない時を過ごすことが予告されています。弟子たちもしんどい1週間になりそうです。喜びと栄光が待っているだけではなさそうです。でも神様は、弱い弟子たちを派遣します。その物語を聞いてゆきましょう。

 

 

今日の場面、イエス様が12人の弟子たちを派遣するという場面です。しかし、派遣される先はかなりしんどい状況です。17節、とらえられて、裁判所に連れてゆかれます。不当な裁判を受けるということです。そして会堂で鞭を打たれます。18節、総督や王の前に引き出されるとあります。22節、あなた方はすべての人に憎まれるとあります。

こんな場所には絶対派遣されたくありません。弟子たちは考えるだけで悲しい、苦しい現実に派遣されるのです。21節そこにはきょうだいが殺し合うような現実があります。親子が殺し合う現実の中に弟子は派遣されるのです。

こんな場所には絶対派遣されたくありません。弟子たちにとって、行けばどうなにかなる、楽しもう、きっと大丈夫という状況ではありません。どれだけ楽しもうとしても、やはり苦しい現実が待っているのです。

イエス様は厳しい現実を前にする時、どのように生きてゆけばよいかを教えて下さるお方です。イエス様は弟子に、そのような苦しみにあったときどう対処すべきかを今日教えています。

まずそれは18節「彼らや異邦人に証しをする」ということです。12人の弟子たちは派遣された場所で、証しをするように勧められています。証しをするということは喜びの中だけではなく、苦しみや悲しみ、痛みの中で、神様を周囲へと表してゆくことです。喜びや苦しみがあるさ中にあって、弟子たち自身の態度と言葉で神様の愛を表現すること、それが証しをするということです。

証しをするとは、弟子たちが困難に出会う時どんな態度をとるかということです。弟子たちは困難にある時、相手を傷つけて、誰かを犠牲にしてそれを解決するのではありません。苦しいときこそ、傷付けあうのではなく、愛し合うということを選びます。それが愛の神を証しするということです。

19節、その時12人の弟子がどんな態度で、どんな言葉を語るべきかは聖書が教えてくれるとあります。どのような態度をとるべきか、それは神様が教えてくださることです。弟子たちに必要なこと、それはよく聞くことです。そして最後まであきらめないことです。愛し続けることです。弟子は聞き、耐え、愛するのです。

もちろん、弟子たちはもうこれ以上無理と思うこともあるでしょう。しかし神様はあなたがたはそこに派遣されたのだから、絶対に持ち場を離れるなとは言わないお方です。23節を見るとイエス様は「他の町へ逃げなさい」と言っています。そうです。最後まで愛し続けることが、どうしてもうまくいかない時があります。その時の神様の命令は「逃げなさい」です。他の町に逃げるのです。逃げることも大事です。学校や職場、家庭、絶対そこから逃げちゃいけない場所なんてありません。生きるために逃げることも、時には大事です。

弟子たちはだめなら次の町へ逃げるように言われます。そしてそこもまただめなら、また次の町へと逃げるように言われます。逃げて逃げて逃げるのです。そして逃げる場所がなくなることはありません。イスラエルの町に逃げ場所が無くなる前に、イエス様が来てくださるのです。

その苦難には必ず終わりがあるということも示されているでしょう。いつまでも苦しみが続くのではないのです。イエス様が来られ、それが終わる時が必ず来るのです。

ここまででイエス様が12人の弟子に言われていることは、苦難の中にあっても愛し続けなさいということです。そして時には逃げることもあるということです。

そして24節、弟子たちの目指すのは、師に勝ることではないともあります。師とはイエス様のことです。弟子たちの目指すのはイエス様を超えることではありません。

25節、弟子は「ようになれば十分」なのです。イエス様のようになることはハードルが高いことのように聞こえます。でもそれは弟子はイエス様になれと言っているのとは大きな違いがあります。弟子は師になる必要はありません。弟子は弟子のままでいいのです。弟子は弟子として、イエス様の「ように」なれば十分なのです。それはいわばイエス様を真似するということです。できるだけイエス様に近づいてゆくことです。精一杯の愛を示すことです。弟子はそれで十分なのです。

このようにイエス様によって弟子たちは派遣されます。苦しみの中に派遣されます。そこで証しをするように、愛し仕えるように派遣されます。どうしてもだめなら逃げてもいいと派遣されます。そしてできるだけイエス様の真似をして生きてごらんそうやって、12人の弟子たちは派遣されていったのです。

ここに出てくる12人の弟子、私たち一人一人もこのようにイエス様から派遣される者です。私たちはこの礼拝から派遣されます。しんどい1週間かもしれないけれど、その時こそあなたの態度が問われるよ、その時こそ証しする時だよ、愛し、仕える時だよ。イエス様はそう声をかけてから私たちを今日、派遣されます。

そしてもし私たちが超えられない壁に出会う時、乗り越えられない時、その時は逃げなさい、何度でも逃げなさいとイエス様は私たちを派遣されます。その苦しみは必ず終わる、神様が私たちに必ず来る、そう語って派遣します。イエス様のように、イエス様の真似をして、できるだけイエス様に近づけて1週間やってごらん。それであなたの1週間は十分だよ、そう今日の箇所は語っています。

私たちの1週間はこのようにはじまります。今日この礼拝から派遣され1週間が始まります。皆さんは神様からそれぞれの場所に派遣されてゆきます。それぞれが派遣された場所で神に仕え、隣人に仕えましょう。神様を愛し、隣人を愛しましょう。そしてダメな時は逃げましょう。できる限りイエス様を真似して、生きてみましょう。

私たちは今日もそのような1週間に派遣されます。そしてまた来週集い、神様から力をいただきましょう。礼拝はすべての人を招かれています。そして礼拝から派遣されます。神様のみ言葉を胸に、今週も歩みましょう。お祈りをいたします。

 

 

 

【全文】「シャロームは丸」マタイによる福音書5章1節~11節

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

マタイによる福音書5章6節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。今日はこの礼拝を平和祈念礼拝として持っています。平和を覚えて共に礼拝をしてゆきましょう。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもと一緒に平和に思いをめぐらせる、子どもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。

 

今日は8月15日終戦記念日でもあります。私たちの祈る平和とは何でしょうか。私たちはどんな平和を祈るのでしょうか。日本語で平和と言えば、一番は戦争が無い事を指すでしょう。日本語で平和といえば、戦争がない状態を指す言葉です。

 

そしてだからこそ日本において平和という言葉は「安全保障」という言葉と混同されています。自分たちが戦争に巻き込まれないことを平和というのです。その意味において、日本は平和と言えるでしょう。直接戦争をしていませんし、侵略もされていません。巻き込まれていません。日本は平和です。

 

一方、聖書の「平和」にはもっと広い意味があります。聖書の「平和」はヘブライ語でシャロームという言葉です。ヘブライ語の平和・シャロームにはいろいろな意味があって、単に戦争がない状態を指すだけではありません。もちろんシャロームには戦争がない平和という意味もありますが、この言葉はもっとダイナミックな動き、動作を現す言葉です。波が立たない、何も起きない、なぎの状態を言うのではなく、激しい動きを示す言葉です。

 

さらにこの言葉には平等という意味があります。格差や社会の不公平、不当な差別が正しくされ、平等になるという意味です。いままでの上下がひっくり返るような激しい平等・公平への動きがシャロームです。シャロームとは何もない、穏やかな様子ではなく、動作、動き、プロセス、逆転現象、ダイナミズムです。それがシャロームです。

 

聖書の平和・シャロームとは例えるなら丸です。週報にも図を載せています。でもこの丸は歪んでいます。飛び出している個所と、押し込められている個所があります。シャロームとは、このゆがみがなくなり、完全な丸になる動作のことです。完全な丸になろうとするその矢印の力がシャロームです。きれいな丸になっていくプロセスがシャロームです。ちょうど風船から手を離すと丸くなる様子に似ています。

 

全員が満たされること、抑えつけられる人がいないこと、人権が侵害される人がいないこと、それが回復されてゆくことも含めて、平和なのです。それがシャローム、聖書の平和です。人を見下す人が同じ目線に、低い目線に立たされていくこと、それがシャローム、聖書の平和です。格差や差別や、偏見や暴力、抑圧に抵抗すること、丸になってゆくこと、それが聖書の平和、シャロームなのです。

 

日本は平和かもしれません。でも、聖書に立って日本や世界が平和か、シャロームかを見るならば、全くそうではないでしょう。戦争はしていないけれども、日本の社会を見れば、シャロームではありません。

 

格差、偏見、暴力、ハラスメント、無責任があふれています。私たちは真の平和、シャロームを求めます。戦争しないだけではありません。それ以上に公正で平等な社会、あらゆる暴力の無い社会を求めていく、いつもその動きがある、それがシャロームなのです。

 

そして、その時に大切にしたいことがあります。私たちがこの丸のゆがみを見る時、どこからゆがみを見るかということです。この丸には十字架があります。イエス様の十字架、それは最も低い場所に起きた出来事です。暴力と偏見に満ちた、もっとも低い場所で起きた出来事、それがイエス・キリストの十字架でした。

 

この丸の最もへこんだ部分にあったのが、十字架なのです。私たちはこの丸をどこから見るか、中立的にみるのではありません。私たちは十字架のある場所から見るのです。弱くされ、小さくされている人々のいる場所から見るのです。十字架がある、そこから私たちはこの世界が丸いかどうかを見てゆきたいのです。

 

イエス様はこのシャロームを繰り返し語ったお方です。今日の箇所からイエス様の語る平和、シャロームを見てゆきましょう。 

今日の場面はイエス様の山上の垂訓と呼ばれる何度も読んできたお決まりの箇所かもしれません。しかし、平和・シャロームの中でこの話を聞いてゆきましょう。

 

当時、山上の垂訓を直接聞いていた人、イエス様に従っていた人々は、貧しい人々だったと言われます。極貧の人だったと言われます。もともとみんな激しい税金の中で暮らしていました。自分の土地がある人は、そこから離れることはしません。イエス様に従った人とは、自分の土地がない人、あるいは土地をもっていたが借金の代わりに奪われてしまった人、財産を失った人、そのような人が多くイエス様に従っていました。

 

イエス様に従うということは、住み慣れた地域を離れるということも含みます。それを選択した人の中には、病気などからおこる差別に悩んでいた人もいたでしょう。差別に苦しみ、場所を変え、イエス様に従った人々がいました。

 

この1節にある「群衆」とはそのような人々です。イエス様の魅力に感動して従った人だけではありません。搾取され、傷つき、失意の中にいた人々がたくさんいました。社会の中の最下層、底辺、いわば谷の底の部分にいた人々が従っていたのです。

 

3節からのイエス様の視点は、その丸の底からの視点です。十字架の視点です。山の上から語っていますが、その視点は谷の底にあります。イエス様はこの谷は起こされ、山は平坦にされる、きれいな丸になる、そのように平和が起こるとここで語っています。

 

3節には心の貧しい人は幸いだとあります。心が貧しいとは、心が狭いとはすこし違うと思います。心の貧しい人とは今まさに、へこまされている心のことです。貧しさや困難で、心が疲れ切った人です。イエス様はその疲れた人々に、幸いだと語り掛けています。

 

イエス様が幸いだと言っているのは、その谷は必ず満たされ、回復するからです。そこにこそ神様の力が働くから、シャロームの力が働くから、幸いだと言うのです。天の国とは、今へこんでいる、へこまされている、困難がある、あなたたちのものになるのだと言うのです。

 

イエス様は疲れた心は必ず、シャロームになると、そう希望を語っています。4節も同様です。悲しむ者は必ず慰められるとあります。回復され、丸になるというイメージです。悲しみは必ず、神様によって、励ましと回復をいただく、シャロームになるということです。

 

5節にある「柔和」とは難しい言葉ですが、謙遜と同じ意味です。つまり上から目線にならないで、自分を低い場所に置き、相手の話をよく聞くことを意味します。上から物を言うのではなく、下から聞く人、それが柔和な人です。イエス様は谷の底の声をよく聞くお方でした。神様は、そのような柔和・謙遜な人に祝福を与えるお方です。

 

6節には「義に飢え渇く者」とあります。それは不公平、不平等、差別にあえぐ人たちのことです。正義が欲しい、平等と公平が欲しいと、水を求める人のように、願う人です。イエス様はそのような人に言います。必ずあなたにシャロームが起こる、その渇きは満たされる、丸くなると言うのです。7節、そのシャロームの実現のために、憐み深さを出す人々も、神様は幸いだと宣言をしています。

 

9節には平和という言葉そのものがあります。シャロームを実現する者こそが、神の子なのです。10節、義のために迫害されている人とあります。それはシャロームのために働くけれど、なかなかうまくゆかないという人です。でもその人にも必ず幸いが訪れるというのです。そこに神様の力が与えられ、丸にもどす力が与えられるのです。

 

シャロームは戦争がなくなるということだけではありません。社会の中の様々なでっこみ引っ込みに、公平、平等が実現する、それがシャロームです。そしてイエス様はそれが必ず起こると約束をしています。そしてそのための力を私たちに与え、そのために働く者を神の子と呼ぶのです。

 

大事なことは、イエス様の視点が丸の底からみていることです。貧しい人、悲しむ人、義に飢え渇く人。谷の底にいる人たちの視点で見ていることです。そして必ずそれが回復すると約束をされています。平等になっていく、満たされてゆく、その力が人に与えられてゆくということを約束している、それがイエス様の言葉です。私たちはシャロームを約束されているものです。そしてシャロームのために力をいただいている者です。

 

そして私はイエス様こそシャロームであるお方だったといえると思います。まさにイエス様の歩みが十字架と復活がシャロームという動的な、ダイナミックな動きの中にある出来事だったと言えるでしょう。イエス様は神の身分でありながら、地上に生まれ、もっとも低い場所、十字架に行かれました。そして復活をされたお方です。

 

このイエス様はへこんだ場所に、へこんだ時にそこにおられるお方です。そしてそれを押し戻し、どのような悲しみも、不平等もすべて丸くする、その力を私たちに与えて下さるお方です。イエス様はシャロームであるお方なのです。

 

私たちは、イエス様からシャロームの希望をいただきましょう。戦争しないだけではない、私たちの社会の中で苦しむ人が回復されていく希望です。そのための力です。私の苦しみの底に、共におられ、回復の力を与えて下さるという希望です。その力、シャロームを神様は約束をしてくださっています。

 

私たちは神様からシャロームのための力をいただきましょう。そしてそのために繰り返し、イエス様の十字架と復活に目を向けたいのです。シャロームの物語を聞いてゆきたいのです。そのシャロームである方を覚えましょう、そしてそのシャロームを今日も祈り、礼拝をしましょう。その約束を喜ぶ礼拝を今日も持ちましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「みんな礼拝しようよ」イザヤ書25章6節~10節

 

万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒          イザヤ書25章6節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。おとなもこどもも神様から等しくこの礼拝に招かれています。こどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしてゆきましょう。

先週から礼拝というテーマで宣教を続けています。先週は礼拝と世界は分かちがたくつながっているのだということ、礼拝から世界が変わる、世界から礼拝が変わるそのようなことがおきることを学びました。

礼拝についてはコロナの中で様々なことを、それぞれが感じでしょう。私にとって一番つらかったのは、礼拝について会堂に集まって持つのかどうかの判断をしなければいけなかったことです。それがつらかったです。

この会堂に集まるかどうかを決断するということには、大きな葛藤がありました。決断を迫られたとき、これは人間が決めることなのだろうか、誰か人間が「会堂に集まりません」なんて言えるのだろうか、人間にそんな権利があるのだろうか、そんな葛藤がありました。祈ったり、聖書を開いてみたりしてもなかなか答えは出ません。むしろ神様は人を集めるお方だという箇所がたくさん目に留まるばかりでした。

でもコロナを通じてより明確になったことは、礼拝に集まるか、集まらないかを決めるのは人間だということです。礼拝に集まります、集まりません、オンラインです、どのような方法で礼拝をするのか決断をするのは、私たち人間が葛藤しながら、決めることなのです。

会堂に集うかどうかということ、それは私たち一人一人が決めることなのです。今日礼拝に出席するかどうかはそれぞれ皆さんが決めたことです。一人一人の判断です。どうぞそれぞれの事情、体調、判断によって、礼拝に集うかどうか決めてください(と言うと冷たく聞こえるでしょうか)。

一方で、気づかされるのは、礼拝とは私たち人間が勝手にしているのではないということです。そこには先立って働く、神様の働きがあります。その働きとは神様が人々を礼拝に「招く」という働きです。礼拝するかどうかを決めるのは自分です。でも私たちは何よりまず先に神様から招かれています。すべての人が神様から礼拝へと招かれているのです。

この招きはコロナ禍の中、自宅やオンラインで礼拝した時は感じづらかったことかもしれません。教会に集うことができない時、集わないことを自分たちで決断したとき、神様から礼拝に「招かれている」ということはとても感じづらかったことでしょう。今日オンラインで、自宅で礼拝している人もそうかもしれません。

でもあの時も、今も、みなさんは神様から礼拝するようにと招かれています。礼拝堂で一緒に礼拝できなくとも、時としてそれぞれの自宅で、病床で礼拝するようにと神様が招いておられるのです。私たちは今日どこで招かれているかを祈りながら、葛藤しながらどこで礼拝をするかを決断するのです。もしかするとその場所は時々によって変わるかもしれません。

でもどこで礼拝をしていても変わらないものがあります。それはどんな人も、どんな状況でも、神様はすべての人を礼拝に招いているということです。たとえ神様の事を知らなくてもそうです。神様はその方を礼拝へと招いています。神様の招きは信者かどうかも関係ありません。どこにいても関係ありません。神様はその方を礼拝へと招いています。

私たちが礼拝している事、それは神様の招きへの応答と言えるでしょう。神様の招きへ応答して、今日私たちは礼拝をしているのです。

そして集うことができたとき、本当に豊かに神様の招きを感じることができます。教会に来ればみんなが招かれていること、みんなが一生懸命それに応答して集っている姿を肌身で感じることができます。いろいろな年齢、性の人が招かれて、応答しているということを感じることができます。慌てて会堂に来る人を見て、神様の招きと、精一杯の応答を感じることができます。

コロナではっきりしたこと、それは礼拝するかどうか、どこでどのように礼拝するかということは人間が決めるだということです。しかし、そこには必ず先立つ神様の「招き」があるということです。神様は礼拝するように、すべての人を招いています。そしてその招きは教会に来ることで一番感じることができるということです。オンラインの方にも等しく神様の招きがあります。なかなか神様の招きを感じることができない方もおられるかもしれませんが、私たちは等しく神様に招かれている者です。

実はこれはコロナではっきりしただけのことで、新しいことではありません。実際、以前からからある礼拝のプログラムを見ると、礼拝は招詩、招きのことばから始まっています。それは礼拝が神の招きから始まる、招きに応答して私たちが礼拝を捧げるという意味がここには込められているからです。今日すべての人が招かれています。そしてそれぞれの場所から、応答として礼拝が献げられます。一緒にこの招きに感謝して礼拝しましょう。神様は礼拝に招いておられます。「みんな礼拝しようよ」と招いておられます

今日の箇所をお読みしましょう。神様は礼拝へと招くお方です。その招き何度も聖書に繰り返し出てきますが、聖書の中での神様の招きは、よく食事会の招きに例えられています。

今日の箇所はイザヤ書ですが。これも神様が私たちを礼拝へと招いておられる、そう読むことができる箇所です。6節には山とあります。山は礼拝する場所をさすことが多い言葉です。モーセも、イエス様も山で祈り礼拝をしました。主はこの山で祝宴を開くとは、神様が礼拝に人々を招くということを示します。

この食事会の誘い、招きを受けて参加するかどうか決めるのはあなた自身です。自分で決めてください。でも神様は私たちを食事会へと招いています。招かれたものは、それに応答し、山で行われる食事会へ参加します。つまり礼拝するのです。

そして神様が招く礼拝とはまるでごちそうの並ぶ楽しい食事会のようだというのです。6節、受け取ると力が湧いてくる食べ物が用意されているのです。礼拝し、み言葉をいただくことこそが、私たちの生きる力の源となります。生きる糧となるのです。

次に目に留まるのは「すべて」という言葉が繰り返されていることです。すべての民、すべての国、すべての顔がとあります。神様の招きはすべてに対してなのです。神様の招きには国籍も、人種も、信仰も関係ありません。すべての人、すべての命が招かれています。教会を嫌いな人、絶対教会には行かないという家族も全員、神様から招かれているのです。

すべての人とは、つまりすべての人です。一人も欠けない、全員を現しています。知らない、行きたくない、私なんか礼拝ふさわしくないと思える人、そのような人にも、すべての人に招きがあるということです。その招きは一人も見捨てたりしない招きです。命を選ばない招きです。すべての人が招かれる食事会のような招きです。そのような招かれた食事会に参加することが、礼拝するということです。その招きに応えて、応答するのが礼拝なのです。

そして8節、神様はその山の宴会で涙をぬぐってくれるお方です。その招きの中には様々な人が応答します。泣いてもいいのです。元気になったら、気分が落ち着いたら礼拝するというのではなくていいのです。泣いたまま、涙を流した姿のままで招かれています。そのまま礼拝すればよいのです。それが神様の招きです。神様は礼拝ですべての人の涙をぬぐってくださるお方です。神様はその礼拝で最後の一人の涙が乾くまで、ひとりひとりの顔の涙をぬぐわれるお方です。

そして恥という言葉もあります。それは失敗や失望のことでしょう。消したい過去のことでしょう。神様はその礼拝で涙も失敗も失望もすべてをぬぐってくださるお方です。私たちはそれだからこそ、礼拝から新しい1週間のスタートをきることができるのです。

9節にはこうあります「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。」

これは信仰の告白です。人々は礼拝に招かれて、祝宴にあずかって、涙をぬぐわれる、その時、信仰の告白をします。この方こそ神様だと告白をするようになるのです。私たちはこの方こそ神様だと信じてから教会に来るようになるのではありません。神様に招かれ、礼拝し、涙をぬぐわれて、初めて神様を神様だとわかるのです。信仰と招きは、招きが先にあるものです。私たちは神様の招きを受けて、礼拝し、信仰を持つようになります。

9節の最後には「その救いを祝って喜び躍ろう」とあります。その礼拝には喜びがあふれるのでしょう。体が動き出すように、喜びがあふれるのでしょう。

10節、神様の手はその山にとどまるとあります。神様は必ずそれぞれの礼拝の場所に、私たちの礼拝する場所に共にいて、とどまってくださるお方です。

このように神様は、すべての人を招き、涙ぬぐい、喜びを与えて下さるお方です。私たちが招かれているのは、このような礼拝です。

今日ここに集っている方は、この招きをよく実感できるでしょう。みなさんもこの平塚バプテスト教会の礼拝という山に招かれ、そしてご自身で決断し登ってこられたお方です。そこでみ言葉をいただき、涙をぬぐわれ、喜び歌います。前後左右には同じように招かれた仲間を感じることができます。礼拝とはそのような招きです。

集うことができない方も、同じようにそれぞれの場所での礼拝に招かれています。集えずとも一緒にその招きを感じ、礼拝をしましょう。

礼拝は神様の招きです。神様は「みんな礼拝しようよ」そのように、みんなを招いておられるお方です。その招きに応えて一緒にみんなで礼拝をしてゆきましょう。お祈りをします。

 

【全文】「変わり続ける礼拝」イザヤ1章11節~20節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に、お互いを感じながら礼拝をささげましょう。

だいたいひと月ごとにテーマを決めて宣教を続けています。テーマはおおむね教会の内側と外側の事が交互なるようになっています。5月は地域活動、6月は教会、7月は平和、8月は礼拝といった順番です。このような宣教のテーマの持ち方をどのように感じているでしょうか。

テーマがあった方がわかりやすい、深く考えることができる。忘れずに覚えることができる。あるいは聖書が恣意的に解釈されていないか、聖書よりテーマが重要視されていいないかそんな感想もあるかもしれません。そこは問い続けながら聖書を読んでゆきましょう。今日から3回、礼拝ということをテーマに宣教をしたいと思います。

どのように礼拝をするかということについて、平塚教会は常に変化し続けています。最近ですとこどもプロジェクトが始まり、こどもメッセージが始まりました。こどもが増えて成長してゆくのに合わせて、こどもスペースを広げました。このように教会の礼拝は変わり続けてきました。でもこれで完成というわけではありません。

もっと子供を大切にするにはどうすればよいでしょうか。いろいろな方法があると思います。バプテストの相模中央教会では礼拝の最後にこども達が前に出てきて、牧師が手を置くという礼拝がされています。それもこどもを大切にするという礼拝だと思います。私たちの教会はこれからもこどもの成長や人数によって、礼拝を変え続けてゆくでしょう。

礼拝はコロナ・ウイルスによっても変化してきました。残念ですが平和のあいさつの中の握手を中止しています。全体の時間を短くしたり、オンラインでも参加できるようにしたり、主の晩餐が言葉だけやカップになったりと変化をしてきました。高齢の先輩方はこの教会の礼拝がこれまでどのように変わってきたか、また変わらずに来たかをよくご存じではないでしょうか。

私たちが礼拝で何を大事にするかは、その時の信仰によって変わるでしょう。何を神様に表したいかが変わってくるのでしょう。そして社会の状況によっても礼拝は変わるのでしょう。礼拝はこれまでも様々に変化をし続け、これからも変わり続けてゆくでしょう。私たちの信仰理解と、社会の状況は変わり続けます。だからこの礼拝も変わり続けてゆくのです。

礼拝は神様が主催者です。礼拝は神様が起こされるものです。しかし同時に、どのように礼拝をしてゆくかは私たち人間が、信仰によって決めることです。それを真剣に考えて決めなくてはいけません。

一番怖いのは「これでよい」と決めつけてしまうことです。ずっとこれでやって来たのだから、昔からこうだから、このままでよい、変えてはいけないということが、一番怖いことです。神様に献げる礼拝は常に、これでよいのだろうかと問い続ける姿勢が大切です。これでよいと決めつけず、真剣に考え続けてゆくのが私たちの信仰です。

これでよいと決めつけてしまった瞬間から、礼拝の主催者が人間になってしまいます。形だけが残り、形骸化が進みます。中身が失われ、変化する社会と乖離してゆきます。

みんなでどうやったらもっと神様を礼拝できるか、今の私たちが大切にしているものを表すことができるのか、今の世界の中でどのように礼拝をするのかを考えたいのです。どのように変わってゆくべきかを考えたいのです。

そしてこの礼拝を私たちが生きる残りの6日間としっかりと結び付いているものにしたいのです。「神がすべての人を愛している、さあ残りの6日間、私も人を愛そう」そう思える礼拝にしてゆきたいのです。

どのように礼拝するのかということ、しばらく一緒に考えてゆきましょう。

 

 

今日の聖書の箇所を読みましょう。預言者イザヤの厳しい言葉が並んでいます。信仰者にとってはあまり聞いていて気持ちのよいもの、元気がでる箇所ではありません。

当時の人々もきっと一生懸命に礼拝し、献げ物をしていたのだと思います。特に神殿の献げ物は何よりも重要とされていました。人々は一生懸命に持っているものを献げ、その献げ物は神殿に山のようになりました。そして人々は12節にあるとおり、新月祭、安息日、祝祭を大切に守ってきました。神様の出来事を覚えてそれを祝っていたのです。

しかし今日の箇所、神様はその一生懸命な献げ物を喜んでいないようです。神様はそれを見て途方に暮れていました。11節には「もうそれに飽きた」「喜ばない」、13節には「もう耐えられない」、14節には「憎んでいる」「重荷だ」「疲れ果てている」、15節には「目を覆いたい」「もう決して聞かない」とあります。

人間が一生懸命に献げて、礼拝しているのに、神様はそんな風に感じて、受け取っていると聞くとショックですし、残念に思います。私たちのこの教会の礼拝を、神様どう感じているのか心配になります。

15節にはその手が血だらけだとありますが、どういうことでしょうか。手が血だらけであること、それは誰かを傷つけているという証拠です。手が血だらけとは、一生懸命礼拝し、一生懸命献げ物をしているが、残りの6日間は誰かを傷つけて、手が血にまみれになっているということです。

神様は礼拝も献げ物も大事だけど、まずその誰かを傷つけるのをやめなさい、傷ついている人をしっかりと見なさいということです。貧しい人から絞りとるのをやめさせ、こどもの権利をまもり、やもめの訴えを聞く、そのことをしっかりとしなさいと語っています。

つまり神様が問いかけているのは、礼拝や献げ物には一生懸命だけど、残りの6日間で目の前の困っている人、小さくされている人をまったく忘れていないか?そう問いかけているのです。神様は世界の事柄を無視して礼拝していませんか?社会に、世界に目を向けて礼拝していますか?あなた個人の礼拝になっていませんか?と問いかけているのです。

神様はイスラエルの人々に、このままこの世界の問題を見逃し続けて礼拝するなら、必ず平和は崩れると語っています。神様に感謝して献げるのに、世界に目をむけない、日々の生活が変わらないということ、神様はそれに戸惑っているのです。

一方、神様は礼拝なんかしなくていい、献げ物なんてしなくていい、幸せならそれでいいと言っているのではありません。神様は礼拝しなさい、ただし社会、世界で起きている問題を無視して行われる礼拝はもう飽きたと言っているのです。現実を忘れた礼拝、現実を忘れるための礼拝はもういらないのです。日々の生活を忘れた礼拝はもういらないというのです。

ここでは二つの方向が示されているでしょう。ひとつは本当に礼拝しているのだったら、それぞれの生き方、生活が変わるはずだという方向です。礼拝から力をいただいて、私たちの世界や、生活の中で助けと励ましを必要としている人と関わってゆくようになるということです。その原因にしっかりと向き合ってゆくこと、礼拝からその力をいただいて、それぞれの生活の中で具体的に愛を示すように求められています。礼拝から生活が変わるという方向です。

 

私たちの教会にたとえるなら、礼拝でこどもを大切にすることから、私たちの日々の生活の中でもこどもを大切にするという姿勢が生まれてくるということです。礼拝でこどもを大切にしている人々の生活で、こどもを大切にしないことは起こらないはずです。

礼拝は必ず生き方を変えます。生き方を変えずに礼拝を続けることはできません。生き方を変えずに礼拝をすることは、血だらけで礼拝することです。

そしてもうひとつの方向もあるでしょう。それは生き方が変わる時、礼拝が変わるはずだという方向です。生き方の変化を願う時、礼拝に変化が起こるのではないでしょうか。生き方の変化が、礼拝の変化を起こすのではないでしょうか。

たとえば平塚教会では現代のこどもがおかれた難しさを知る時に、この礼拝でこそ、こどもを大切にしようと礼拝が変わるのではないでしょうか。たとえばコロナに向き合うとき、礼拝を変えなくてはなりませんでした。私たちは礼拝はこれでいい、ということはいつまでも起こらないのです。

このように礼拝から世界が変わり、世界から礼拝が変わるのです。生き方の変化が礼拝を変え、礼拝の変化が生き方を変えるのです。私たちの生きる場所、生活の場所が変化するように、教会の礼拝も変化してゆく、礼拝の献げ方も変わってくるのです。そして礼拝から私たちの生活・世界が変わるのです。

私たちにはこのような礼拝が必要です。私たちにとってそれぞれの場所で愛をもって歩むために礼拝が必要です。そしてただ礼拝を繰り返すだけではありません。生き方が変わるように、礼拝の形も変わり続けるのです。世界が変わるだけではなく、私たちも変わるのです。

私たちは1週間が始まりました。どんな1週間をおくるでしょうか。この今持っている礼拝と同じように、神様に祈り、聞いてゆくこと、こどもを大事にしてゆくこと、そのような1週間を歩んでゆきましょう。

そしてまた来週集う時、それぞれに起きた出来事を持ち寄って集いましょう。苦しみや願い、聞いたことを持ち寄って礼拝してゆきましょう。そしてどうやって礼拝をすべきかをともに考えてゆきましょう。

このあと私たちは主の晩餐を持ちます。もちろんこれも今の形が完成形ではありません。問い続けるべきことがあるでしょう。なぜするのか、何のためにするのか、誰とするのか、問い続ける中で、今日もこれにあずかってゆきましょう。お祈りをします。

 

 

【全文】「平和を祈ろう」マタイによる福音書8章5節~13節

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

マタイによる福音書8章10節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちを感じ、声を聞きながら、平和を覚えるという大事さもあるでしょう。一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは6月中旬から平和をテーマに5回の礼拝を持ちました。沖縄、戦争責任、空襲、ミャンマー、それぞれと平和について考えてきました。聖書が暴力ではなく、非暴力、愛の力によって平和を実現するように指し示しているということを見てきました。

戦争反対、暴力反対と唱えていれば平和になるかというと、そんな簡単なことではないとも感じました。戦争の誘惑、暴力の誘惑は私たちのすぐ近くに、私たち一人一人の中にすでにあって、いつでも誰でもその誘惑に落ちいってしまうのです。私たちはいつも自分たちに、自分たちの世界に注意を向けなくてはいけません。いつも平和かどうかに目を向けてゆかなければなりません。そうしない時、すぐに戦争を初めてしまうのが私たち人間なのです。

命を守る、平和ということについて、私たちに何ができるでしょうか。デモに参加しよう、寄付をしよう、署名活動をしよう、いろいろなことができるかもしれませんが、祈ることもとても大事なことではないでしょうか。私たちは自分自身、人間の力だけでは暴力の誘惑を乗り越えることができません。私たちには決定的に外側からの力が必要です。私たちが心の方向を変えて、暴力を止め、平和へと向かってゆくには神様の力が必要なのです。私たちにとって平和を与えて下さるのは神様です。平和を神様に祈ってゆくことは、平和を実現するために何よりも大切なことです。一緒に祈ってゆきましょう。

平和は誰でも願うことです。でも私たちには、平和を実現なさろうとする神様が共におられます。とても心強い神様がおられます。私たちがどんなに平和を忘れても、どんなに平和をあきらめても、神様は忘れない、あきらめないお方です。私たちには、平和の神様がいます。一人一人が精一杯、世界の平和を神様に祈り続けてゆきましょう。

そして祈りといってもいろいろな形があるでしょう。手を組んで目を閉じて祈ることだけが祈るというはないでしょう。歩きながら、電車に乗りながら、平和を祈ることができます。オリンピックを見ながら平和を祈ることができます。

いつも熱心に祈るという以外にも祈る方法はあるでしょう。毎日少しずつ祈る、ピンチの時に集中して深く祈る。そんな風にいろいろな場所やあり方で、平和への祈りを続けてゆきたいのです。暴力の誘惑は常に人間を襲います。だからこそ平和は特に祈り続ける、ずっと祈り続ける、祈り続ける期間の長さが大事だと思います。祈り続けることは教会が得意なことです。平和を忘れずに祈り続けてゆきましょう。

そして私たちは、自分の周りの平和ばかりに目を向けがちです。でも平和の祈りを、私たちの周りだけではなく、世界に広げてゆきたいのです。沖縄の事、世界のこと、歴史の事を、自分のこととして祈ってゆけるかが私たちに問われているのではないでしょうか。

今日も聖書を読みますが、熱心に平和を祈る姿、その姿を見て、この平和というテーマの宣教を終えようと思います。私たちは世界の平和を祈りましょう。それを自分のことのように、熱心に主に祈りたいと思うのです。

私たちはその戦争を直接止めることはできなくても、祈ることで、平和の力がそこに与えられてくるはずです。それを信じて祈りたいのです。今日の聖書にはそのように、他者を愛し、そのために熱心に祈る一人の男が登場する箇所です。この百人隊長の祈り、平和の祈りを一緒に見てゆきましょう。

 

今日の箇所を読みましょう。平和というテーマでどうやってこの個所を読むことができるでしょうか。この個所のどこかに平和の関係があるか、そんなことを考えながら聖書を読みます。

6節には僕が「中風」という病気だったとあります。これは麻痺を伴う病気のことです。さらに「ひどく苦しむ」と書いてあります。これは強烈な苦痛を表す言葉です。例えば出産の痛みを表す時にも使われる言葉です。おそらく僕は立ち上がれないほどの痛みに襲われました。ある人はくも膜下出血の症状に似ていると言います。くも膜下出血はバットで殴られたような痛みだと言います。

似た記事はルカ福音書とヨハネ福音書にあります。「中風でひどく苦しむ」ことは変わりませんが、ヨハネ福音書ではこの人を、百人隊長の「息子」とも表現をします。息子であればこの話の関係性は分かりやすいように思います。激しく痛む子どもを目の前にして、親は子どもが助かるためならどんなことでもするでしょう。どんな宗教にでも救いを求めるはずです。必死に嘆願した百人隊長の気持ちが想像できます。

一方、ルカ福音書では苦しむのは「部下」だったと書かれています。百人を従えていた隊長がそのうちのたった一人の部下のためにこんなにまでしてくれる、上司と部下を超えた関係、絆を感じます。

マタイ福音書では読んだ通り「僕」とあります。息子でもなく、部下でもなく、奴隷でもない「僕」です。そしてこの言葉は少年を表すことばでもあります。百人隊長とどういう関係、距離感なのかわかりません。家族の一員だったのか、召使いという位置づけなのか、どれほど近い関係なのか、遠い関係なのかは言葉からでは良くわかりません。

しかし、百人隊長の態度から関係性がわかります。おそらくこの僕は百人隊長にとってかけがえのない、大切な存在だったのです。きっと直接血のつながった家族、血族ではないけれど、雇われて仕えている関係かもしれないけれど、でもこの主人にとっては我が子のように大切な存在だったのです。それがこの二人の関係です。

私は今日の箇所の中で、この苦しむ僕と百人隊長との関係に目がゆきます。この僕のひどい苦しみの前に、百人隊長の助かってほしいという強い願いや、祈り、焦り、混乱が伝わってきます。

百人隊長にとってこの僕はどれほど大切な存在だったのでしょうか。それは恥も外聞も捨てて、公衆の面前で、新しい宗教者イエスにその救いを5節「懇願する」ほど大切だと思える存在だったのです。ここにある懇願するという言葉は「祈る」という意味のある言葉です。

百人隊長は彼の命のためならどこへでも、何度でも行くつもりだったはずです。そしてイエス様に出会い、祈ったのです。しかもイエス様には1節や10節にありますが、従って来た大勢の群衆がいました。

想像してみてください、大勢の群衆、貧しい群衆が見ている前で、社会的地位のある人がイエス様に懇願するのです。イエス様に祈るのです。多くの人の前で自分の僕の癒しを祈ったのです。そしてさらに群衆が見ている前で、必死に自分はイエス様を家に呼ぶ資格はないかもしれないけど、それでも助けてほしいと祈ったのです。イエス様なら一言で十分なはず、きっと直してくれるはずと信じ、懇願した、祈ったのです。涙ながらに祈ったのです。

よく見ると百人隊長の8節9節の言葉は懇願というよりも、まるで祈りのようです。私にはこれが祈りに聞こえます。「主よ」という神様への呼びかけ、自らの罪の告白、癒しの願い、なんでもするという思いが祈られています。百人隊長はイエス様の前、群衆の前で、恥じらいもせず、僕のために熱心に祈ったのです。

イエス様は10節、それに感心したとあります。何にそんなに感心したのでしょうか。百人隊長の神様への信頼に感心したと読まれることが多い箇所です。たしかに危機の中で百人隊長に与えられた信仰の深さに驚いたでしょう。

しかし私は、イエス様が感心したことが他にもあったはずだと思います。それは彼の祈りです。百人隊長はこの僕の命のために、イエス様にどうか助けてほしい、平安を与えてほしいと必死に祈ったのです。

イエス様はこの「祈り」に感心したはずです。それほどまでに「僕」のために祈ることができるのかと感心したのです。イエス様はたったの一人の「僕」のためにここまで熱心に祈る隊長の祈りに驚いたのです。

そこにある姿は僕の痛みを自分の痛みのように感じ、助けてほしい、平安を与えてほしいと熱心に祈る姿でした。地位ある人の恥も外聞も捨てた、プライドを捨てた祈りだったのです。イエス様はこの百人隊長の祈りに共感をしたのではないでしょうか。イエス様は、家族でもない他者の痛みに共感し、熱心に救いを求め祈ること、そして救いを探し回っていること、そのことに感心したのです。

私はこの物語の中に平和を感じます。百人隊長は平和を祈ったのです、イエス様に熱心に平和を祈り求めたのです。家族のためではなく、一人の僕のために。本来は通りすぎてしまう、忘れてしまうような命、あきらめてしまうような命、そんな身分の僕のために、百人隊長は走り、祈ったのです。

私もこの百人隊長のような祈りをしたいと思わされます。百人隊長は、自分だけ、自分の家族だけの平和を祈ったのではありませんでした。もっと外側にいる「僕」のために熱心祈りました。私も自分や家族、親戚だけではなく、もっと広い世界のために、祈ってゆきたい、この個所を読んでそう思うのです。イエス様が感心したのは、他者の命への熱心な祈り、平和の祈りだったのです。

私は世界にある命、苦しむ命、暴力と抑圧の中にある命のために、親身に祈りたいと、この百人隊長の個所から思います。百人隊長が何かできることはないか、走り回って、そしてイエス様に祈ったように。私たちにできる平和の祈りをささげたいのです。

神様に平和を祈る時、きっと神様はそこに目をとめてくださるはずです。戦争は遠い国で起こっているかもしれません。しかしそこで起こる苦しみを、自分の苦しみ、家族の苦しみのように、祈りたいのです。もしそのように熱心に祈ることができるならそれは素晴らしい事なのではないでしょうか。

神様が平和のために、命のためにそんなに祈っているかと驚くほどの祈り、そんな平和の祈りをささげてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「平和を造る者になりなさい」マタイによる福音書5章9節

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

マタイによる福音書5章9節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして集うことができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、全員で一緒に礼拝をしてゆきましょう。私たちは6月・7月と平和をテーマに聖書を読んでいます。特に今日は平塚大空襲を覚えたいと思います。

1945年7月16日深夜、当時最新の爆撃機B29 が133機、平塚を爆撃しました。これによって多くの人が命を落としました。76年前の7月ですが、私たちのいる場所がまさに戦場だったということ忘れないでいたいと思います。

B29は現在のまちかど広場を中心に、まずその外側を大きく円を描いて爆撃しました。そのあと円の中に集中的に爆撃をしたそうです。市民は炎に囲まれ逃げ出すことのできないまま爆撃を受けることになりました。それは無差別虐殺でした。今の総合公園、横浜タイヤのあたりが海軍の工場で、軍需工場が狙われのだと言います。しかしこの空爆は工場を狙ったのではありません。一般市民を狙って爆撃が行われました。その被害をみるとわかります。住宅は57%が被害を受けた一方、工場の被害は25%でした。住宅地にこそ被害が多かった、市民が狙われた、市民が空爆の対象とされたのです。当時の平塚市の人口5万人程度に対して40万発以上の爆弾が投下されました。

その様子の証言集が博物館で販売されています。掲示スペースにも置いてありますのでご覧ください。その証言によれば、爆撃された平塚は生き地獄だったと証言されています。爆撃は現在の教会の敷地の手前まででした。市中心部にあったほとんどの病院は焼けてしまい、残ったのはこの教会の向かい側にあった済生会病院で、そこには入りきれないほど多くのけが人が運ばれたそうです。もちろん十分な処置は行われなかったでしょう。たくさんのこどもが死んだという証言もされていました。

戦争は国と国の戦い、軍人と軍人の戦いと思われています。しかし実際の戦争はそうではないことをよく表していると感じました。戦争は多くの一般人を巻き込み、市民を対象としながら行われます。空爆は、対象が軍事施設だという建前で始まります。しかし必ず一般市民が対象になります。空爆の中身は結局、市民虐殺です。このような空爆は世界中でいまも行われています。シリア、ミャンマー、パレスチナで繰り返されています。そのどれを見ても建前は軍事施設を狙ったということですが、結局標的は一般市民、弱い立場の人たちです。

戦争が終わった後はどうなるのでしょうか。命は一度奪われたら取り戻すことができません。多くの人は体の一部を失ったり、心が傷ついたまま、生きなければならないのです。早く戦争を終わらせるため、早く平和を実現するために、やむをえず空襲があったのでしょうか。ある証言はもう一か月早く戦争をやめていたら悲惨な空襲はなかったはずだと証言しています。そうです。あと一か月降伏が早ければ広島も、長崎も、平塚も原爆・空襲を受けることはありませんでした。だから原爆と空襲によってやっと平和が実現したのでしょうか。

しかし日本は戦争をやめることができませんでした。終戦が遅れたのは国体、天皇を守るためと言われます。天皇を神とするこの国には必ず神風が吹く、神が戦争に負けるわけがないと信じ、この戦争を続けたのでした。

戦争をもっと早く終わらせる方法、それは空襲や原爆以外の方法はなかったのでしょうか。やはり原爆・空爆によって戦争が終わり、平和が訪れたのでしょうか。その平和とはどんな平和でしょうか。空爆によって実現した平和とは本当の平和なのでしょうか。殺され、傷つき、平和が実現したのでしょうか。私は空爆では平和は実現できないと思います。平和を実現するための空爆はいらないと思います。

戦争を終わらせること、平和を実現すること。それは本当に難しいことです。しかし私たち一人一人が平和を大切にし、訴えてゆくことが私たちの世界の平和につながると思います。私たちの目の前で起きた出来事を忘れずに、空襲・戦争・軍事力・暴力によっては決して平和は実現しないのだということを、一人一人が考えてゆくことそれが大切だと思います。

聖書は「平和を実現する者は幸いだ」と言っています。この平和とは何か、実現するとはどんなことかを考えてゆきたいと思います。

 

 

 今日の聖書を読みましょう。今日の箇所は山上の説教と呼ばれる箇所です。ルカによる福音書にも似た箇所がありますが、今日の箇所「平和を実現する人は幸いである」はルカ福音書からは抜けています。

この個所はマタイの福音書のグループが考えたことをイエス様の言葉として聖書に加えたのではないかと考えられています。そのような個所は聖書にいくつもあります。

イエス様の十字架の後、ユダヤとローマの間には激しい戦争が起きました。ユダヤも徹底抗戦をしました。しかしマタイによる福音書を書いたグループは戦うことを選びませんでした。逃げだしたのです。その後ローマ軍によってユダヤの神殿は徹底的に破壊され、市民は虐殺されました。マタイによる福音書を書いた人々は、その戦争から逃げてきた難民のグループだったのではないかと言われています。

マタイたちは戦火をくぐり抜け、ユダヤから逃げだした人々です。空爆から逃げ惑う市民を想像させます。マタイたちは平和を求めて逃げまどったのです。そして彼らは戦うことを選ばない人たちでした。非暴力、非武装を貫いて逃げる人々でした。ですからマタイ福音書にはほかの福音書よりも特別、平和や和解が語られています。

平和とは彼らの何よりも大切にした願いでした。そして彼らは暴力や戦争ではなく、非暴力を貫くことが、神様から祝福をいただくのだと考えました。殺し合わない選択を神は祝福するのだと考えました。そのように神様・平和を理解したのです。そしてそれをイエス様の言葉として、聖書に記載したのです。そのような非暴力と平和の願いが込められた言葉です。

ここに「平和を造り出す者」とありますが、実は当時、ローマ皇帝が「平和を造り出す者」と呼ばれていました。ローマの軍事力によって世界に平和がもたらされているという意味です。ローマ皇帝は軍事力によってすでに「平和を造り出すもの」だったのです。

「神の子」も同じです。当時ローマ皇帝が「神の子」と呼ばれていました。神とはどんな神かというと、戦争の神です。敵を踏みつけにしてくれる神です。神の子とはその戦争の神様の子、つまりローマ皇帝という意味でした。

ですから今日の箇所は明らかにローマ皇帝を意識して、言葉を選び、書かれています。そしてここには皮肉が込められています。地上ではローマ皇帝が、戦争の神の子、軍事力で平和を造り出すものと言われている。

しかし私たちは皇帝のように軍事力・暴力によって「平和を実現するもの」にはならないという皮肉です。平和はローマ皇帝、軍事力、支配によって実現するものではないということを宣言しているのです。ローマの軍事力による平和は本当の平和ではないと言っているのです。彼らは自らの戦争体験をもとに証言をしているのです。

ではマタイはどのような意味で「平和を造る者」と言ったのでしょうか。マタイたちは、皇帝ではなく、私たち一人一人が平和を実現する者となるのだと考えました。戦争を経験した、小さな難民集団が、私たちが「平和を造る」と考えたのです。それは軍事力ではなく、一人一人が隣人を愛することで平和を造るのだと考えたのです。

戦火をくぐり逃げ、生き延びた難民が、平和は非暴力によって実現するのだと証言しています。平和は非暴力の行動をとる者たち、私たち一人一人から生み出されていくのだと証言をしているのです。

そして神の子、それは戦争の神の子という意味ではありません。神の子とは、私たちの信仰する聖書の神、平和の神の、その子という意味です。平和を造り出す者、非暴力を選ぶ者こそが「平和の神の子ども」なのだ、そう証言をしたのです。

ここには戦わない平和、誰かに与えられるのではなく一人一人が実現させ造り出してゆく、平和が語られています。神は平和を願っていること、そしてその平和の担い手は皇帝ではなく、支配者ではなく、私たちなのだ、私たちこそ平和のために用いられる「神の子」なのだと語っています。

私にはこの言葉が戦争を体験したマタイたちの平和宣言に聞こえます。神は戦争ではなく平和を願われているのだ。そして平和は軍事力や支配からではなく、私たち一人一人から生まれてくるのだ。一人一人の非暴力運動、戦争への反対によって生まれてくるものだと証言をしている、そのように聞こえます。

戦争を目のあたりにした人々の平和への願い、証言、それが今日の箇所です。この証言はきっと平塚大空襲の証言と重なるでしょう。平和のために空爆があったのではないのです。空爆・軍事力では平和は造れないのです。暴力によっては神の子となることはできないのです。平和を実現するのは、平和の神の子、私たち一人一人の平和への願い、祈りなのです。聖書はこのように私たちを平和へと導いているのです。

平和への願い、非暴力の願いはきっと神様が祝福してくださるでしょう。そのことを神様は「幸いだ」としてくださるでしょう。

平和の神様は、平和を祈る人々には必ず平和を与えるお方です。平和の神は、それを祈る者を自分の子、神の子とするお方です。神様は平和のために祈り、造り出すものに、幸いだと宣言なさるお方です。

私たちはそのみ言葉を聞きましょう。聖書から平和を実現してゆく力をいただいてゆきましょう。一人一人が平和を求めましょう。一人一人が祈り、働きいてゆきましょう。お祈りいたします。

 

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【全文 】「平和の門をたたきなさい」マタイによる福音書7章6節~15節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。      マタイ7章7節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして集うことができること感謝です。共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。子供たちの声が響く礼拝はなんと平和でしょうか。今日もこどもたちとも一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは平和というテーマで宣教をしています。平和というと8月のテーマという印象があるでしょうか。私たちの教会でも8月15日の前後は平和記念礼拝を持っています。8月は平和を考える大切な時期です。しかし6月7月に平和を考えることもとても意味のあることでしょう。8月には注目されない、沖縄のことや私たちの加害責任に目を向けることができるからです。私たちは原爆を落とされた被害者としてだけではなく、戦争の加害者としての歴史を忘れてはいけません。

そして戦争が起こる、起こりそうな時に宗教がどのような姿勢をとるかは大きな影響力のあることだということも忘れてはいけないことです。その戦争を宗教が支持する時、その戦争は宗教的お墨付きを与えられ、正当化され、聖戦となります。その戦争を宗教が反対をし続ければ、その戦争は内外から大きな批判を受けるようになります。宗教が戦争に対してどのような姿勢をとるかは、戦争の開始・継続に大きな影響力を持つのです。

では第二次世界大戦中はどうだったでしょうか。キリスト教は反対することができませんでした。いえ賛成に回り、積極的にこの戦争に協力をしました。ここには負の歴史があります。あまり聞いていて心地の良いものではありませんが、でも向き合う必要のあることです。一緒に考えたいのです。

実は戦時中、日本の多くのキリスト教会は戦争を支持していました。反対できなかった、全体に流されてしまったのではありません。戦争をはっきりと支持していました。たとえば大東亜共栄圏という東アジアを植民にする構想がありました。この侵略はアジアの人々を深く傷つけました。しかしこの時、キリスト教は反対するどころか、東アジアの植民地化を「東アジアに神の国を出現させる働き」だと語りました。宗教的お墨付きを与え正当化していたのです。

日本のキリスト者たちは東アジアの人々の信仰も奪いました。朝鮮の人々に、朝鮮各地に作られた神社に参拝するように強制したのです。朝鮮の牧師たちは当然、それは偶像崇拝だと猛反対をしました。しかし政府は反対する朝鮮の200の教会を閉鎖し、2000人を逮捕し、獄中で命を落とした牧師もいました。このような中で日本のキリスト教は戦争の支持を続けました。

まだあります。日本の教会では戦時中、献金が募られました。この献金は戦闘機を購入するための献金でした。全国の教会から多くの献金が集まり4機の戦闘機が購入され、戦地に投入されました。その戦闘機には「日本基督教団号」と書かれていました。このように戦時中、日本のほとんどのキリスト教会が戦争に協力し、その戦争を「聖戦」と呼び支持をしていました。

もちろん私たちの教会は戦後にできた教会ですが、これと無関係ではありません。当時の日本基督教団というグループにはバプテストも入っていたのです。あのときバプテスト教会は戦争を支持したのです。

全員が支持したわけではありません。私たちの教会の初代の牧師、長尾三二先生は戦争に反対し、逮捕された144名の牧師の一人です。「天皇は神にあらず」と語り、投獄されました。戦争反対を訴えた貴重な牧師です。私たちの教会はこのような系譜の中にあります。

私たちはもう二度と戦争に協力しません。戦争を見過ごしません。そして戦争が起これば、また明確に反対する使命があるのです。

キリスト教はあの時、戦争に協力し、それを勧めさえしてしまいました。聖書を戦争の道具としました。今私たちは、平和を訴えます。でもまず私たちは自分たちの過ちを真摯に反省する、そのことから始めなければいけません。その過去を知らなければ、未来の平和を訴えてゆくことはできないのです。

まず私たちが戦争にどのようにかかわったのかを知り、平和にどのように関わってゆくかを考えたいのです。平和を訴えるだけではなく、自らの過ちに目を向け、そこから平和を訴えてゆきたいのです。そのことが一番私たちに平和の大切さと、難しさを教えてくれるのではないでしょうか。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所は、相手の目のおがくずを取らせてほしいという者の目に、実は丸太が刺さっているという話です。イエス様のユーモアが含まれています。「あの人は自分のことを棚に上げてよく言うよね」「あの人の目には丸太が刺さっているよね」そう読まれることを聖書は望んでいないでしょう。聖書はこれを読む人自身の、まさに私の目に、丸太が刺さっているのだということを伝えようとしています。

誰に丸太が刺さっているかではなく、まず私自身に丸太が刺さっていることを知ることが大事です。そして、それを取った者だけが、相手の目のおがくずをとることができるのです。

目に丸太の刺さった人とはキリスト教のことともいえるでしょう。キリスト教はまず自分たちの目にどれだけ大きな丸太が刺さっているかを知り、それを取らなければ、他者の目のおがくずを取ることができません。

平和という文脈で読みましょう。つまりそれは私たちがどのように戦争に協力してきたか、それをまず知らなければ、その丸太を取らなければ、平和を訴えてゆくことができないということです。私たちがあの時、誰を踏みにじったのかを知らなければ、これからの世界の平和を語ってゆくことができないということです。私たちの戦争責任、私たちがアジア、沖縄をどれだけ踏みにじってきたかを知らないと、私たちは平和を造り出すことができない、語ることができないということです。

私たちは過去を変えることができません。過去をなかったことにもできません。丸太を刺さっていないことにはできません。私たちはすべての過去を引き受けて、向き合わなければいけません。そうしなければ、平和を造り出すことができないだけではなく、また同じ失敗をしてしまうでしょう。

過去に目を閉ざすものに、未来を語る資格はありません。それこそが自分の丸太に気づかない者に、おがくずは取れないということです。自分の過去に向き合わない者は、未来を語ることができないということです。自分の目に丸太が刺さっているという事実に気づくことは、つらくて、苦しい、考えたくないことです。でも丸太が刺さったままではいけない。それに向き合わなければいけないのです。

7節を見ましょう。私たちは何を神様に求めるのでしょうか。私たちは自らの繁栄を求めて東アジアに進出しました。戦時中のキリスト者たちは、神様に東アジアを自分のものとすることを求めたでしょうか。求めれば領土が与えられる、そう祈ったでしょうか。大東亜共栄圏を求めたでしょうか。

 

しかし、神様が与えたいものは何だったのでしょうか。戦争をしたがる子供に、戦争を与える親がいるでしょうか。友達のものを欲しがる子に、友達から奪って子に与える親がいるでしょうか。

親は盗もうとしている子供に、盗ませません。親は子の平和を願います。11節、神様は良いものを与えるとあります。神様は戦争や身勝手な願いをかなえるお方ではありません。植民地を与えるのではありません。神様は私たちに真によいもの「平和」を与えて下さるお方です。私たちはこのテキストを植民地支配ではなく、平和の文脈で読みたいのです。

平和の文脈で読む時、7節以降はこうです。平和を求めなさい。そうすれば平和は与えられます。平和を探しなさい、そうすれば平和が見つかります。平和の門をたたきなさい、そうすれば開かれます。誰でも平和を求める者は受け、探すものは見つけ、平和の門をたたく者には平和は開かれるのです。

誰が平和を欲しがるこどもに戦争を与えるでしょうか。平和を求めるのに、戦争を与えるでしょうか。私たちは戦争を起こしてしまう罪あるものですが、神は私たちに平和を与えるお方です。天の父は平和を求める者に、きっと平和をくださるに違いありません。

私たちは平和の門をたたきましょう。狭い門、平和の門から入りましょう。戦争への門は広く、その道は広々としています。戦争の道を行く人が多いでしょう。一方、平和に通じる門は狭く、か細く、頼りなく、人もまばらです。でも私たちは平和を求めるのです。か弱く見える平和の道、平和の門を私たちは選ぶのです。

このように神様は私たちに戦争や、植民地や、暴力を与えるお方ではありません。神様は私たちに平和を与えるお方です。私たちはその平和を、その神様を求めたいのです。そうすれば、私たちに平和は必ず与えられます。今日私たちは自分の目、それぞれの目にある丸太に目を向けます。そしてそれに向き合い、それを取り除きたいと思います。自分たちの過去に向き合いたいのです。そして過去に向き合う者にこそ未来が待っているのです。私たちは平和を主に求めます。それがどんなに少数派であっても、それを求め続けます。神様は必ず平和をお与えになるお方です。私たちはそれを求めたいのです。

このあと主の晩餐を持ちます。これはパンとブドウジュースをいただく、共に食卓を囲むことを表す儀式です。共に食卓を囲むのもまた平和の象徴と言えるでしょう。イエス様は多くの人と食事し、宴会をしました。罪人との食事、敵対する者との食事、自分と違う者との食事、垣根を超えた食事をしました。それはそれぞれが自分の目の丸太に気づく食事でした。そしてそれは平和を生み出す食事となったのです。この後、私たちもこの食事を記念して主の晩餐にあずかりましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「抑止力か、愛か」マタイによる福音書6章24節

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。             マタイによる福音書6章24節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしましょう。そして私たちはこの教会のこどもだけを大切にするのではありません。この地域のこどもを大切にします。そしてさらにこどもの今だけを大切にするのでもありません。こどもたちの未来も大切にしたいのです。こどもたちに平和な世界を渡してゆくことも、私たちが大切にすることのひとつです。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしてゆきましょう。

先週から平和について考える礼拝を持っています。先週は命は宝、命どぅ宝(ぬちどぅたから)という沖縄の言葉、そして沖縄の歴史の中から、命は神様が造った宝だから殺さない、戦争をしないのだということ。そしてこの礼拝から平和を造る者と変えられてゆきたいということを考えました。今日ももう少し沖縄のことから福音を考えたいと思います。今日は沖縄の今から考えたいと思います。

「沖縄に基地は必要だ」という声は根強くあります。「沖縄には申し訳ないが、やはり抑止力として沖縄に基地が必要だ」と言われます。その時はよく沖縄を中心にした地図を見せて「沖縄からなら、アジアのどこでもすぐに駆け付けられる場所にある、沖縄ならすぐに相手を攻撃できる場所にある」と示され、だから抑止力として沖縄に基地が必要なのだと言われます。

「抑止力」とは相手より強い軍事力を持つことで、相手に攻撃をさせないこと、その力です。強い大きな基地が沖縄にあることで、相手が日本を攻撃してくることがなく、日本全体が平和になるということです。沖縄に基地があるから、近隣諸国は反撃を恐れて好き勝手にすることができず、おとなしくしているのだという考えです。

しかし、私たちキリスト者が目指す世界はこのような世界でしょうか。目指す平和はこのような平和でしょうか。私たちが目指すのは強い軍事力で牽制しあう、抑止力に頼った平和でしょうか。そもそもその「抑止力」には、本当に効果があるのでしょうか。

私たちの周りにも抑止力はあります。犯罪を犯した人は罰を受けます、罰を受けたくないから犯罪をしないというのも抑止力です。でもそれで犯罪がなくなるわけではありません。自分も死んでいい、死刑になってもいいと思って犯罪をする人には、抑止力は一切効果がありません。もちろん、戦争や犯罪を思いとどまらせる一定の効果はあるでしょう。でも私たちはそれを使うかどうか問われています。私たちの人間関係にも抑止力は働いています。

あの人には文句の一言も言いたいけれど、そんなことしたらその何倍も嫌味を言われるのでやめておこう。だからなにも言わない。それも抑止力です。そこでは表立って争いは起きません。でもそれは平和でしょうか。それは平和ではなく、ただ相手を押さえつけているだけです。抑止力で生まれるのは平和ではありません。ただ力で押させつけているだけです。

さらに抑止力は相手より強いということを常に維持しなければならない問題もあります。新しい兵器、基地を作り続けなければ力関係を保つことができないのが抑止力です。世界は本当にこのような仕組みを続けるでしょうか。そしてキリスト教はこの世界の仕組みをこれからも支持するのでしょうか。日本はこれからも沖縄の基地を抑止力として使い続けるのでしょうか。

平和は抑止力によっては生まれません。軍事力によって平和は作ることはできません。平和なように見えて、それは必ずひずみを起こし、次の戦争を起こします。私たちは軍事力によって平和を造り出すことができないのです。

もちろん基地が無くなりさえすれば平和になるかといえば違うでしょう。もっと平和を造っていく働きが大事です。例えば文化的な交流によって、例えば格差をなくすことによって、歴史をよく学ぶことによってです。私たちは一生懸命抑止力を強くすることに力を使うのではなく、そのような平和を造り出すことに力を使いたいと思うのです。

このように軍事力で平和を造ることはできません。私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできないのです。それは今日の聖書箇所にあるように、神と富と両方に仕えることができないのと同じです。私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできません。私たちはどちらによって命を守るのか、ひとつを選ばなくてはならないのです。今日の聖書箇所を読んでゆきましょう。 

 

 

今日の聖書箇所をもう一度読みましょう「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」とあります。

イエス様は二人の主人に仕えることはできないと言っています。神か富かどちらかを選ばないといけないと言っています。クリスチャンは全財産を捨てなさいという意味ではないでしょう。これは私たちの命や関係について語っている言葉です。

このことはまず私たちのお互いの関係において当てはめることができることです。私たちの関係は、特に教会での関係は富や力によって決まるのではありません。お金持ちの人、肩書がある人が偉いわけではありません。教会の中ではあの人はお金持ちであることとか、肩書があることとかはどっちでもいいことです。教会はそれを軽んじます。

それより私たちが大切にする、親しむのは、私たちの関係は神様を中心にした関係だということです。力や富の有無ではなく、神様との親しみの中にある関係を大切にします。だからこそ教会の中では上下がなく、肩の力の抜けた、互いに優しさのある言葉を交わします。私たちはそのように神様の中で関係を造ろうとしています。それが教会の良さではないでしょうか。教会って場所は平和だなって思うのではないでしょうか。

この教会の中で起きていることは私たちの世界でも本当に起きてほしいことです。特に私たち、平和の礼拝を持つとき、私たちの命が何によって守られているのかを、この個所から考えます。

私たちの住む世界は、お金と力がものをいう世界です。お金や力があればたいていの問題は解決することができる世界です。お金があれば武器を揃えることができます、医療も受けることができます。生活が楽になります。健康で長生きができます。だいたいの問題はお金で解決できるのでしょう。

だからこそ私たちの世界は富・お金によって自分を守ることができると錯覚するのでしょう。富が私たちの命を守ると錯覚するのでしょう。軍事力はこの富とよく似ています。それが人よりたくさんあれば自分を守ることができると錯覚するのです。軍事力が他より大きければ自分たちの命は守られると思ってしまうのです。

しかし富・お金・軍事力をいくら自分のもとに集めても、本当の平和は生まれません。相手との関係を造ること、互いの命を守ることはできません。富や力に支えられた平和は、平和に見えても、平和ではないからです。

私たちは富や力が平和を生み出すとは考えません。むしろそれは次の戦争を起こします。私たちは何によって平和を造るのでしょうか。私たちは平和は神の力によって造られると信じます。この教会の中で起きているように、世界も神の愛によって平和が造られると信じます。神の愛こそ平和の源であり、私たちの命を守ると信じます。

私たちははっきり選ばなければいけません。その間はありません。いつでも相手を攻撃できる体制を整えてから握手をするのでは、平和でも愛でもありません。富と力で相手より優位に立とうとすること、相手を押さえつけることは愛でも平和ではありません。抑止力に頼りながら、他者を愛することはできないのです。私たちは抑止力か愛かどちらかを選ばなければいけません。「愛を憎んで抑止力を愛するか、愛に親しんで抑止力を軽んじるか」どちらかなのです。

「抑止力か、愛か」私たちはどちらかを選ぶでしょうか?極端に思える選択が、私たちに迫られているのではないでしょうか。

神様は私たちに富や力による平和ではなく、神の愛による平和を造り出すことを求めておられます。私たちは抑止力、基地を持ったままでは、隣国を愛することができないのです。基地を持ったままでは愛し合うことができないのです。

私たちの教会ではすでに、富と力を軽んじ、愛を選んでします。その選択を世界でもしてゆきたいのです。私たちが互いに愛し合う群れを作るように、互いに愛し合う世界を造ってゆきたいのです。そのためにもう基地をやめたいのです。沖縄に基地が必要ないのです。厚木にも横須賀にも、日本にも、世界にも基地はいらないのです。

私たちは2回にわたって沖縄の歴史と今から平和を考えました。東京・関東からではなく、日本の小さな島、沖縄から日本、そしてキリストを見ると様々なことに気づかされるということがわかります。

私たちは力の強い者、富のある者に親しみ、声を聞くのではありません。基地の存在に苦しむ場所、世界で日本で小さくされている人の声を聞いてゆくことに親しみたいのです。その人々が抑えつけられている力を知り、そこから解放されることを祈り、連帯してゆきたいのです。基地と抑止力ではなく、愛を選びたいのです。お祈りします。

 

【全文】「命どぅ宝」マタイによる福音書5章21節~26節

その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。           マタイによる福音書5章22節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、うれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。一緒に声を聞きながら礼拝をできることを喜びます。集った全員で礼拝をしてゆきましょう。

5月のペンテコステから1か月「教会」というテーマで宣教をしてきました。今日から7月まで「平和」というテーマで宣教を続けてゆきたいと思います。またこの月ごとのテーマの計画は総会資料にも掲載されいていますので、ぜひそちらもご確認ください。

今月は平和をテーマに宣教をしてゆきますが、特に6月に平和を考えるのは沖縄の事について考える時を持ちたいからです。6月23日は「沖縄慰霊の日」です。沖縄の地上戦で20万人以上が犠牲となった、そのことを祈る日です。

バプテスト連盟、特に女性連合がこの沖縄の歴史、そして今に続く基地問題に向き合い続けています。この6月23日を「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」として覚え続けています。「命どぅ宝」とは琉球の時代から沖縄に伝わる「命こそ宝だ」という意味の言葉です。

沖縄の地上戦では、多くの住民がガマと呼ばれる洞窟に隠れました。しかし多くのガマでは集団自決(集団自死の強制)が起こりました。それは日本軍が米兵に見つかったら捕虜にならず、自決するようにと教育をしてきたからでした。

しかしその中でも多くの人が生き延びたガマ・洞窟がありました。シムクガマというガマです。ここは1000人以上の人が隠れていた大きなガマでした。リーダーはハワイからの帰国者で、英語も話すことができた人物だったと聞きます。もちろん普段はこのことで非国民と呼ばれたでしょう。

シムクガマに隠れていた人々もやはり米兵に見つかってしまいました。米兵は「殺さないから出てこい」と言います。人々はどうするのか話しました。捕虜になることに反対する人々は集団自決を主張しました。しかしこのガマのリーダーは「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」「命こそ宝だ」と人々を説得し、生きる道を選びました。それによって多くの人が助かったのです。

あの時、何を宝とするかが人々の生死を分けました。国家・国体・天皇を宝とするか、一人一人の命を宝とするかの選択が、生死を分けました。命こそ宝です。「命どぅ宝」です。今の私たちには当たり前の選択でしょうか。命は何よりも大事です。

でも戦争が起きたらどうでしょうか。戦争は命よりも国家を優先します。国家のために死ぬように言われるのが戦争です。国のために命を懸けるのが軍隊です。戦争が起こると若者が、国のために死ぬことは素晴らしいと言って送りだされます。

私たちは戦争に反対します。命は神様からいただいた宝だからです。だから神様からいただいた命を奪いあう戦争に反対をします。そして私たちは戦争をしないだけではありません。戦争の準備や訓練にも反対をします。問題の解決を戦争や軍事力・抑止力によってしないからです。

この姿勢はバプテスト連盟と女性連合の基地問題への基本的な姿勢にもなっています。戦争はいらないから、軍隊がいらないのです。軍隊がいらないのなら、基地もいらないのです。普天間をどこに移転するかではなく、そもそも戦争・軍隊・基地がいらないというのが私たちの基本的姿勢です。私たちは人を殺しません。殺す準備も、殺す練習もしません。

もちろんすぐに基地が無くならないのもわかっています。しかしそうであってもこれ以上沖縄に負担をかけたくないのです。日本のどこか、あるいはまずアメリカに帰ってもらえないかと考えます。

もちろん戦争がなくなる、基地がなくなるだけでは、世界の問題は解決しないでしょう。戦争や軍事力に頼らない関係を造る努力が必要になるでしょう。

例えば、お互いの文化を理解することによって平和と和解を造ることが可能です。シムクガマのリーダーがハワイにいたことがあり米兵が日本の宣伝するような鬼畜ではないことを知っていました。そのような互いの理解を深めることよって、平和を作ることができるでしょう。命を宝とすることができるでしょう。

平和は宗教が大きな役割を果たす必要がある事柄です。どんなに社会が戦争に流れても、宗教こそ最後まで命を優先し、平和を訴えてゆくことができるからです。私たちは常に平和、命は神様からの宝、「命どぅ宝」と訴えてゆく必要があります。そして逆に宗教が戦争を支持したとき、暴力が神の名のもとに正当化される危険があります。

私たちは世界のあらゆる戦争を支持しません。軍隊・基地を支持しません。平和を語り続けたいのです。

私たちがそう考えるのは、イエス様が平和を繰り返し訴えたお方だからです。イエス様は暴力ではない方法で、平和を造り出すことを訴えたお方です。今日の聖書の箇所でもそうです。イエス様の語られた平和を共に見てゆきましょう。

 

 

今日の聖書箇所を見ましょう。21節には殺してはならないとあります。旧約聖書の十戒からの引用です。十戒にはどんな条件だったら人を殺してよいのかということは書いてありません。条件を付けず「殺してはならない」と書いてあります。

聖書はどんなに害悪を及ぼし、人を殺し、無意味、無価値に思える命も「殺してはならない」と言っています。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは命は神様が造られたものだからです。神様が造られ「よい」と言われたものだから、命は神様が作った宝だから、それを壊してはいけないのです。人を殺してはいけないです。「命どぅ宝」なのです。

しかしイエス様が今日伝えようとしていることは、人を殺さなければよいということではありません。イエス様はもっと積極的に平和を造りだそうとするお方です。

22節には腹を立てる者は裁き、神の裁きを受けるとあります。しかし私たちに怒るなというのは無理な話です。そして怒りは大切な感情でもあるでしょう。時に泣くことが大事であるのと同じように、怒ることも大事なことです。怒らないことなど無理です。

しかし怒りが引き起こすことは理解しておく必要があるでしょう。怒りは私たちをいつもと違う異常な行動に駆り立てます。普段は決してしない行動を、怒りは引き起こします。それが直接の殺人や、暴力、暴言につながる感情であることを注意をしたいのです。イエス様の十字架も祭司や民衆の怒りが原動力でした。

怒りのエネルギーをどのように、平和を造る力に変えてゆくことができるかが大事なことでしょう。暴力で返すのではなく、どうやったら平和の力に変換してゆくことができるかをイエス様は語ろうとしています。

23節の登場人物は、平和を造り出す必要に気づいた人の話です。彼は神様への捧げものをしようとした時、自分と神様の関係を考えました。しかし、そのとき自分と神様とだけではなく、自分と隣人の関係を思い出したのです。神に愛されている私は、隣人を愛しているかと思い出したのです。そして、彼は捧げものをいったんそこに置いて、平和を造り出すために出て行きました。

彼は暴力ではなく、対話によって平和作り出そうとしました。神様に感謝したとき、そのことに、平和を造ろうと気づかされたのです。彼は殺さないだけではなく、平和を造ることを選んだのです。

私たちにも「和解しなければいけない人がいるので、また後改めて教会に来ます」。それができるなら、どんなにうれしいことしょうか。しかしそれは簡単なことではありません。相変わらず、平和を造れずに、礼拝を続ける私たちです。でもいま私たちは、今主の愛をいただいています。この礼拝が平和を造る者と変えられてゆきたいのです。

殺さないだけじゃない、主の愛を受けて平和を造り出すものとして、また私たちは派遣されてゆきたいのです。

25節を見ましょう。おそらくこれは、裁判所に訴訟の相手と連れだって行くという場面です。もし私たちが加害者であるならば、相手に対し早く謝罪と償いが必要な場面です。この二人が私と沖縄だったらどうでしょうか。私が沖縄に負担を押し付ける加害者であるとき、歴史と基地の事柄を誠実に謝罪と償いをしたいのです。1クァドランス、最後の1円まで、私たちはそこから決して逃げることはできません。

二人のうち、私たちが被害者のこともあるでしょうか。訴訟に行くまでの間、その時私たちは、暴力を使う必要はありません。私たちの行く先には、必ず裁判官である神様がいます。神様はその罪を決して、あいまいにしないお方です。加害者の謝罪と償いが終わるまで、主は決してその人を牢から出すことはありません。

私たちはこのように、暴力ではなく、平和を造りたいのです。対話と和解をいただきたいのです。その力を聖書から、神様からいただいているのです。

神様が作った命は宝です。命は宝、命どぅ宝です。私たちは誰も殺しません。そして殺さないだけではなく、平和を作り出すために歩みます。どんな怒りも暴力に変えません。その怒りを、平和を作り出すことへ向けてゆきます。対話と和解を求めます。神様は必ず最後まで私たちに、平和を造り出す力をこの礼拝から与えて下さるお方です。お祈りいたします。

 

 

 

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【全文】「地の塩、世の光、立派な行い」マタイによる福音書5章13節~16節

あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。マタイ5章16節

 

みなさんおはようございます。今日は71回目の創立記念日を迎えています。この教会は1950年からこの地で少しずつ変化をしながら礼拝を続けてきました。今日この日を迎えられること、先輩方がこの教会を大切に守って下ったこと、そして何より神様がこの教会を守り導いてくださったこと感謝します。

私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声が聞こえる礼拝をしています。このこどもたちとも、礼拝を一緒に持ちたいと願っています。一緒に礼拝してゆきましょう。

今日の聖書箇所は地の塩、世の光という言葉で皆さんに親しまれてきた箇所です。教会やクリスチャンのあり方を表す言葉として親しまれてきました。

教会は71年間「地の塩」だったと言えるでしょう。教会は他の様々な集まりとは違う集まりです。その特徴は神様を中心とした集いということです。それは様々な集いに似ているようで全く違うものです。

愛とか、平和とか、いたわりとか、世界ではもう使い古され、忘れられてしまったようなことを大切にし続けています。教会は社会の不公平や、正義、命に関わりつづけています。そのように神様を中心にし続けています。

それは塩のような存在と言えるでしょう。社会と同じようになるのではなく、社会の基準とは距離をとってきました。そしてそれを言葉にし続けてきたのです。クリスチャン一人一人も塩です。世界とはすこし異なる生き方をする人です。

塩気を失うとは、教会が神様を中心しないということです。神様を中心にしなくなったら、塩が塩で亡くなるように、教会は教会ではなくなってしまいます。教会がその存在の意味を持ち続けてきたのは、神様を中心にし続けてきたからです。私たちが神様を中心にしないとき、あるいは別の何かを中心しようとするとき私たちは塩でなくなってしまいます。

そして教会は71年間、世の光でもありました。暗い社会の中で教会はいつも希望を示し続けてきました。この教会の十字架は通りの向こうからも見えます。存在感のある教会です。

世の光とは、世の中、世界に対して隠されないで、輝くことです。この光はクリスチャンのためだけ、ここに集まった人のためだけの光ではありません。「世の」光です。教会は世界の光です。教会は戸を閉ざし、隠れるのではありません。扉を開けて、疲れた人、社会で希望を持てなくなった人を招き入れ、励ましてきました。閉ざされた仲間のためではなく「世のための」光、教会なのです。

そしてクリスチャン一人一人もそうです。私たち一人ひとりは毎週それぞれの場所から集まり、それぞれの場所にまた派遣されています。光の子として世に、派遣され続けています。それぞれの場所で、光として周囲に希望を与える存在として派遣されてゆきます。教会はこのように71年間、地の塩、世の光でした。

そしてもう一歩踏み込んで考えてゆきたいのです。私たちは教会とは地の塩、世の光だと思っています。しかし、周囲からはどのようにみられているのでしょうか。教会の存在そのものが異質だし、目立ってはいます。

しかしその内側についてはほとんど知られていないと言えるでしょう。自分たちが自分たちを地の塩、世の光だと思うように、周囲から教会は世に光と思われているのでしょうか。もしかすると、私たちが世の光であると思うほど、地域の方々は意識していないかもしれません、教会が世の光だとは感じていないかもしれません。

私たちのことを地の塩、世の光と感じるのは、地域との交流があってこそのことでしょう。地域と様々な交流と通じて、この教会ことを「塩」と感じたり、「光」と感じたりするのでしょう。

例えばサロン虹という活動があります。高齢者の方々が集まって聖書の話を聞いて、おしゃべりをしています。他とは違う神様を中心としながら、ここで安心したり、満たされたりするときにこそ、ここを地の塩、世の光と感じてもらえるのだと思います。もし地域との関わりがなかったら、どんなに私たちが自分たちを地の塩、世の光と思っていても、誰からも地の塩、世の光とは思われないでしょう。

この教会は素晴らしいところだと思います。そして、ただ自分たちの教会の存在をほめたたえるのではなく、しっかりと71年の振り返りもしたいのです。私たちには塩のように独自性のある集まりです。私たちは光のように閉ざされないオープンな集まりです。そしてもう一つ上げるなら、私たちは地域との交流によって活動によって、地の塩、世の光となることができるのです。

今日の聖書箇所、私は3つのことを言っていると感じます。地の塩、世の光この2つに加えて、立派な行いということ。この3つが大事だと聖書は語っています。地の塩であり続けること、世の光であり続けること、そして行い・活動をもってそれを世の、世界の、地域のものとしてゆくこと、それが大事なのではないでしょうか。地の塩、世の光、立派な行いの3つを今日は聖書から聞いてゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。イエス様の時代、イスラエルの荒野にクムランという場所がありました。その荒野で信仰生活を守る人々がいました。ここは死海の近くです。死海とは塩分濃度が高くてなんでも浮いてしまう湖です。彼らはまさしく塩の湖の近くに、地の塩として暮らしていました。

クムランの人々は洞窟にこもって生活をしました。社会と分離し、まったく違う価値基準で、自らに厳しい生活をしていました。そのようにして自分たちの独自性を守ろうとしたのです。彼らは他の集まりとはまったく違う、まさしく塩の近くに住む、地の塩の人々だったのです。

そしてクムランの人々は、自分たちを光の子と呼びました。そして一般社会の人々を闇の子と呼びました。しかし、彼らは本当に光だったのでしょうか。もし彼らが光だったとしても、おそらく洞窟で暮らした人々の光は人々には届かなかったでしょう。彼らは確かに地の塩でしたが、世の光ではありませんでした。

イエス様はおそらくこのクムランの人々の生活が「塩」であることは認めたのでしょう。社会での独自性を評価しつつ彼らを「地の塩」だと考えました。しかしもう一方で、クムランの洞窟に住む彼らは世の光ではないと批判しました。

15節にある、灯火を桝の下に光を置くとはそのようなことです。たとえ光であったとしても、それに覆いをかけて、箱をかぶせて、隠していては、光の意味はありません。山の上の町ではなく洞窟の中にあるのでは、光は光ではありません。

イエス様はクムランの人々のように社会から独自性を持った地の塩のようになりなさいということと同時に、隠れず世に出てゆき「世の光」となりなさいと語ったのです。

よく聖書からは、「地の塩、世の光」とセットで引用されます。しかし私はここで伝えられていることは3つあると思います。それは地の塩、世の光、そして「立派な行い」ということです。聖書はこの3つ「地の塩、世の光、立派な行い」を大切にするように言っているのではないでしょうか。

私たちは地の塩であるだけではなく、世の光です。世の光として私たちは世と関わることが求められています。そしてそこでは、16節「立派な行い」をするように勧められているのです。

立派な行いとは、善い行いとも言えるでしょう。地域、世界の中に必要とされることを行うことです。教会や私たちが困っている人、寂しさを感じているに寄り添い、共に歩むことが立派な行いです。病気や寂しさから元気をなくしている人と共に過ごし、共に歩むことそれが立派な行いです。他にも様々な立派な行いがあるでしょう。

今日の箇所からすれば、教会はそれを教会の中だけではなく、外に向かって、世に向かって行ってゆくことが促されています。他とは違う神様の希望を言い表し、希望のための行い・活動をしてゆきなさいというのが、イエス様の促しです。私たちは自分たちを塩、光と呼ぶだけではなく、それを具体的に現す者として歩むように促されています。

聖書は私たちに「地の塩になりなさい」「世の光となりなさい」「立派な行いをしなさい」と語っているのではないでしょうか。

私たちは塩であるだけではなく、世の光になりたいのです。そしてそれを行い、具体的な活動で表す集まりになりたいのです。教会は確かに他とは違う集まりです。教会は希望の集まりです。そして教会は立派な行いの集まりなのです。

私たちが立派な行いをするからこそ、世の塩であり、世の光となるのです。人々の幸いのために語り、行動を起こしてゆくのが、教会なのではないでしょうか。そしてそれはこの教会が大事にしてきた地域活動という行いで、表されているのではないでしょうか。

ひとりひとりの生活も振り返りましょう。それぞれが地の塩となりましょう。世の光となりましょう。立派な行いを大事にしましょう。それぞれが社会に流されず、社会から隠れず、具体的に働いてゆきたいのです。

創立71周年を祝います。私たちは塩として歩みましょう。多くの人と違う基準、神の言葉を中心とする集いであり続けましょう。そして閉じこもるのではなく、世へと出て行く「世の光」となりましょう。そして神様に従う人が多く起こされるように、私たちは働いてゆきましょう。教会は、私たち一人一人は「地の塩」「世の光」を目指し、「立派な行い」をしてゆきましょう。それが神様が私たちに示していることではないでしょうか。お祈りします。

 

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【全文】「バプテストのヨハネ」 マタイによる福音書3章1節~12節

エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

マタイによる福音書3章5~6節

 

みなさん、おはようございます。先週はお休みをいただきまして、ありがとうございました。コロナで延期になっていた冬休みをようやくいただくことができました。感謝です。こどもたちも集まってくれました。私たちはこどもたちを大切にする教会です。声を聞きながら、今日も一緒に集えることを喜びながら礼拝しましょう。

来週はこの教会の71回目の創立記念日でもあります。今回と次回、引き続き「教会」というテーマで宣教をしてゆきたいと思っています。改めてですけれども、私たちはキリスト教の教会です。その中でもバプテスト主義を大切にする教会です。

バプテストとは、バプテスマという全身を水に沈める洗礼の方法をとることから、バプテストと呼ばれます。入信の儀式において、後ろに大きな浴槽に水をためて、その中に全身を沈めるのがバプテスマです。その日からクリスチャンとしての信仰生活がスタートします。他の教派では滴礼という水を少し頭に垂らす方法が一般的ですが私たちはわざわざ全身でそれを受けます。

バプテストがこの洗礼の方法にこだわったのは、当時は幼児洗礼といって、生まれてすぐに自動的に滴礼による洗礼を受けさせられたという背景があったからです。バプテストを始めた人々は、バプテスマは生まれてすぐ、無自覚に与えられるものではなく、本人の意思に基づいて行われるべきものだと考えました。信じた者、信仰を告白したものだけがバプテスマを受けるのだと考えました。信仰をもっと自覚的にとらえようとした人々がよりよい洗礼の方式を考え、この方式をとりました。

このようにバプテストは個人の自覚的な信仰を大切にするグループです。ですからバプテスマを受けるみんなの前で信仰の告白を聞きます。それをみんなで確認しあうのです。誰かにこれこれを信じなさいといわれるのではなく、自分の言葉で信仰を表現します。ですから、それぞれ何を信じるかは自由なのがバプテストです。

そして教会のことも、誰かが決めるのではありません。自分たちで自覚的に決める。教会全員が話し合って決めることを大切にします。

このようにバプテスト教会の特徴は洗礼の形式にとどまらず、その中身、自由と平等、民主主義を大事にするということが特徴です。私はよくキング牧師を引き合いに出して説明をします。彼もバプテストです。アメリカの公民権運動を主導しました。彼は黒人差別に反対し、特に選挙権を得るために平和的なデモ行進でそれを訴えました。教会が自由と平等と民主主義を社会に訴えたバプテストらしい活動だったと思います。

私たちはキリスト教のバプテスト教会です。この教会は自由と平等と民主主義を大切にする教会です。教会員全員、あるいは今日初めてきた人もみんな平等に尊重される教会です。教会の中に上下ありません。自分たちの教会の事は本部が決めるのではなく、自分たちで決めます。教会の全員が一人一票を持ち、民主主義的に運営されています。

このことは実は当たり前のようで当たり前ではありません。これは他の教派から見ると、やや異端です。例えば他の教派は自分たちの牧師を自分たちが決めるわけではありません。上の人が決めます。牧師は信徒名簿に載らないと聞きます。牧師は牧師で信徒ではないからです。私たちの教会は様々な面で、平等、自由、民主主義を大切にしています。

さて、今日の聖書箇所は、バプテスマのヨハネと呼ばれる箇所です。バプテストの事と、バプテスマのヨハネとどんな関係があるのかと疑問に思うかもしれません。確かに歴史的にバプテストは17世紀にイギリスで発祥し、アメリカを経由して日本に伝わってきました。直接にバプテスマのヨハネとバプテストがつながっているわけではありません。

しかし、私はバプテスマのヨハネとバプテストにはたくさんの共通点があると思います。まず洗礼方式が今の私たちと似た形式です。このバプテスマのヨハネの洗礼も私たちのルーツとも言ってよいと思います。そして私たちが大事にしている平等ということも、彼は大切にしているのではないかと私は思います。バプテスマと平等を大事にしているという意味で、彼もバプテストだったのではないかと私は思います。今日はヨハネが大事にしたバプテスマと平等さということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。今日はバプテスマのヨハネをバプテストのヨハネと呼びます。実はヨハネ以前からバプテスマは行われていました。しかしそれは、沐浴に近いようなものでした。何回でも受けてよいもので、自分で水に潜るものというものでした。

この沐浴のようなバプテスマをするのは例えば、ユダヤ人が律法に違反し穢れてしまった時です。穢れを取り払うために自分で水に潜りました。そしてまた穢れたときは繰り返し水に沈んだのです。あるいは穢れているとされた外国人は、ユダヤ教に入信するときにこれを行いました。

しかしこのヨハネのバプテスマは、これまでとは全く違う特徴を持ったバプテスマでした。まず彼の洗礼は自分で自分にするものではありませんでした。誰かにしてもらう必要があったのです。

ですからバプテスマのヨハネは初めて洗礼を他人に対して行った人になります。初めてのバプテストといえます。そしてこのバプテスマは1回限りのものでした。何度でもできるのではなく、この1回を人生の転換点とするように迫るものでした。

そしてその人生を転換するという内容は、穢れを払うということだけではなく6節にあるように罪の告白を伴うものでした。言い換えるならば信仰の告白が伴ったと言えるでしょう。ただ穢れを取る儀式ではなく、罪を自覚し、告白し、決定的な1度きりの再スタートを切るということを意味したのです。その点で言えば、私たちのバプテスマとの共通点は多くあります。

このバプテストのヨハネのバプテスマ。ここには平等というテーマが含まれていると思います。なぜならそれは、穢れた者や外国人だけが受けるのではなく、全員が受けるべきものとされたからです。祭司もラビもファリサイ派も律法学者も全員がそれを受けるべきだとバプテストのヨハネは主張したのです。だからこそその列には7節ファリサイ派やサドカイ派、特にサドカイ派はエルサレムの都会のエリート祭司です。エリートから一般庶民まで、いろいろな人々が等しく、バプテスマを受けるようにと迫られ、ヨルダン川に来ていたのです。

そしてバプテストのヨハネは特に宗教的なエリートに向けて、厳しく語っています。自分たちを誇らないようにと厳しく伝えています。ヨハネは彼らにこう言います。お前たちは何か特別な存在なのではなく、神様の前では、全員同じ石ころ、同じように実を結ばない木だというのです。

バプテストのヨハネはこのように、エリート祭司も律法学者も躊躇なく、みんな平等に批判しました。結局彼は王様も躊躇なく批判したので、殺されてしまいました。彼が7節以降で主張しているのは、神の前に全員が等しく罪人であるということです。神様の前に罪人であるということにおいて、平等だと主張しています。自分だけが特別、誰かが特別という考えは間違っている、全員が神様の前に平等に罪人であると主張します。

そしてだからこそ全員が、その罪の告白と信仰の告白、そしてバプテスマが必要だというのです。これを見ると、バプテストのヨハネも現代のバプテストと同じく、平等を訴える者だったと思います。

彼はみんな同じ罪人だといいます。そう、私たちは平等です。神様の前に平等です。神様の前に等しく大切な命であり、そして等しく罪を犯す者です。完全に神に従うことができる者はいません。多かれ少なかれ神に従うことができない者なのです。その意味で神様の下に私たちは平等です。バプテストのヨハネはその私たちの平等さを訴えたのではないでしょうか。全員平等に罪人、だから全員神様に立ち返れ、このバプテスマを受けて決定的な再スタートしないさいと主張したのがバプテストのヨハネだったのではないでしょうか。

バプテストのヨハネについてみてきました。このバプテスマは自覚して受けるものでした。自ら罪人であると信仰を告白してから受けるものでした。罪と信仰の告白なしでは受けることはできないものでした。それはすべての人に求められました。すべての人が神の前に罪人であること、平等であるからこそ、全員に求められたのです。

私たち現代のバプテストもそのように考えます。私たちは誰かに勝手にバプテスマを受けさせられるのではありません。自分で自分にするのでもありません。自身の信仰に基づいてバプテスマを受けます。そこには罪の告白、信仰の告白が伴います。そしてすべての人が罪人で、神様の前に平等であるからこそ、全員がそれを受けるように促されます。そこから決定的な生き方の転換が始まるのです。

すでにバプテスマを受けた方々はその意味をすべて理解してバプテスマを受けたのではないでしょう。意味をよく理解せずに受けたのでしょう。私もそうです。すべてを理解してから受けるのでは、いつまでたってもそれは受けることができません。

でもそれを受けた人はすでに新しい生き方をスタートしている方です。生き方の転換がすでにそこからはじまっています。もう一度それぞれに自分の信仰を確認しましょう。平等ということ、命の等しさということ、もう一度覚えて、今週1週間を歩みましょう。

これからバプテスマを受けたいと思っている方もいるでしょうか。ぜひ私にお知らせください。新しい生き方のスタートを一緒に切りたいと願っています。すべてを理解する必要はありません。ふさわしくなったらバプテスマを受けるのでもありません。今のあなたからスタートしてほしいのです。このあと私たちは主の晩餐を持ちます。みなさんもこの祝福にあずかることに招かれています。お祈りをします。

 

【全文】「希望を持ち続ける教会」マタイによる福音書12章14節~21節

彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。

マタイによる福音書12章20~21節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に集って礼拝ができること感謝です。こどもたちも集まってくれています。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝を持ちましょう。今日はバプテストリーにお湯をためてみました。給湯器が壊れているので、電気湯沸かし器を使っています。無事にお湯がたまるようです。

バプテスマとは神様を信じるという信仰を告白した後、この中に全身を沈める儀式です。教会は私たちの信仰に加わってくださる人が起こされることをいつも祈っています。どうぞ中をご覧になってください。

今日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは「50日目」を意味するギリシャ語です。使徒言行録2章によれば、イエス様の復活の50日目に弟子たちに聖霊が下り、それぞれの言葉で信仰を語りだした、信仰の告白が起こったということが記録されています。それが教会のスタートでした。聖霊が弟子たちに下ったとき、信仰の告白が始まった時、ペンテコステから教会が始まったのです。

聖霊が下り、告白が始まり、教会が始まったのですが、この聖霊とは一体何でしょうか。聖霊とは妖精ではありません。小さな羽の生えた小人とは違います。聖霊とは目に見えないけれども、たしかに神様が働いている、その力です。人を動かす力。信仰を告白させる力です。

私たちはよく「信仰を決心する」と言いますが、厳密にいえば信仰は自分で持つと決めるものではありません。人間の力だけではそれは起こらないのです。信仰は見えない聖霊の働きかけによってこそ起こります。そして見えない聖霊の力によってこそ、私は信じていると告白することができます。聖霊とはそのように働きます。人を動かし、信仰を告白させるのが聖霊です。この聖霊の力を受けて、教会は始まりました。そして今も聖霊の力を受けて教会は立っています。

今日このペンテコステ礼拝からの1か月「教会」ということをテーマに宣教をしてゆければと思っています。また一緒に考えてゆきましょう。今日は聖霊によって力づけられている教会についてみてゆきましょう。

教会のことについて最近感じていることがあります。それはこのコロナの状況にもかかわらず、なぜだか教会の中で「感謝です」という言葉が以前にもましてよく聞くようになったということです。社会の状況を見れば、ちっとも感謝できるような状況にない中で、それでもなぜか教会の中では「感謝です」という言葉が交わされています。教会では自然な会話ですが、脇からそのような会話を見ていると、本当に不思議な集いに思います。

礼拝が再開して交し合う挨拶も「集まれたことに感謝」という会話でした。みんなそれぞれに、あんなに大変で、寂しいかったのに「感謝です」と言葉を交わしています。それを聞いてとても心が安らぎます。皆さんから、これによってたくさん学んだ、知らされた、そしてまた「感謝だね」と言葉が行き交っています。何もそこまで前向きにとらえず、しっかり悲しんだ方がいいように思うときもあります。でも、それほどまでに私たちにとって「感謝だね」という言葉は何気ない挨拶です。

教会はなぜこんなにも、感謝できるのでしょうか。きっとそれは私たちがどんな時でも神様から希望をいただくことができると信じているからです。「しんどいね」と話が始まっても、いつのまにか「感謝だね」と話が終わってゆきます。それはきっと、神様の希望は無くならない、そう信じている信仰があるからでしょう。それは例えばご葬儀でも同じです。どんなに悲しい死の別れがあっても、神様の希望は無くならないと信じる、感謝できる、それが私たちの葬儀です。

ピンチがチャンスになるという話ではありません。ピンチが感謝になるのです。そのようにして、神様にあって希望を持ち続けることができる、それが教会なのでしょう。

その信仰は私が信じると決めたから、決心したから信仰を持っている、信仰が続いているのではありません。いろいろ考えてそう決めたから信仰が続いているのではありません。神様が与えてくださったからこそ、その信仰が起こっています。それを起こす力が聖霊です。聖霊が働いて、私たちはなぜだかピンチで感謝ができるのです。聖霊が私たちに、教会に働くからこそ、私たちはどんなときでも希望を持ち続けることができます。希望はどんな時も絶対になくならないと信じることができるのです。

今日の箇所、イエス様は希望を失っている人々と共にいます。そして自分も命を狙われます。でもそこでもイエス様からの希望は続いていくのだと語られています。私たちはどんなに苦しくとも、神様によって、希望を持ち続けることができるということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所の18節を読むと、イエス様がバプテスマを受けた物語を思い出します。バプテスマを受けた時、聖霊が現れて「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」といった場面(マタイ3章17節)です。

イエス様は聖霊の力を受けて活動を始められました。そして聖霊の働きは地上での活動の間もずっと続きました。イエス様も聖霊の力を受けたお方です。そしてイエス様の働きとは弱さを持つ者に寄り添い、福音を告げてゆくということでした。弱っている人々、苦しんでいる人々に希望を与えてゆくということ、なによりもそれがイエス様の働きだったのです。

20節を見るとここには「葦」という言葉あります。葦は細長くすぐに折れてしまう植物です。弱さや、不安定さの象徴です。ここにはさらに傷ついた葦とありますから、今にも折れてしまいそうな状況を示しています。そんな状況を守ってくださるのがイエス様だということです。そして葦にはもうひとつ意味があります。裁判で葦の棒を折るというジェスチャーは被告を死刑とすることを意味するジェスチャーだったそうです。ここにある「彼は葦を折らない」という意味は、弱いものを殺さないという意味です。イエス様は傷ついた葦のように、弱くされている人を守り、殺さないお方だということが示されています。

20節には「くすぶる灯心」という言葉も出てきます。くすぶる灯心とは、ランプの紐が焦げて短くなってしまった様子です。あるいはランプの油が切れかかっている状態です。いつ消えるともわからない弱々しい光です。

ここにある「消す」という言葉はふっと消すというよりも、押し消す、押しつぶすイメージのある言葉です。消えそうなランプを押しつぶす、つまりそれは、力を失っている人、今にも光が消えてしまいそうな人、その小さな希望を絶つ、踏みつぶすことを意味します。最後の小さな希望、最後の力を踏みつぶすこと、それがくすぶる灯心を消すということです。

それをしないイエス様は小さな灯を消さないお方です。イエス様は最後の最後の、燃えかすのような小さな光でも守り、それを消さないお方です。最後の最後まで希望を守り続けてくださるお方です。

イエス様は葦を折らない方、灯火を消さないお方です。傷ついた弱き者、私たちの、消えそうな小さな明かり、希望を守ってくださるお方です。私たちはそれを自分の力ではなく、聖霊の力によって信じます。

私たちは、消えそうに小さな希望でも、それはなくならないと信じます。教会のあの「感謝です」という言葉、それはこの希望に基づいているのではないでしょうか。私たちの希望はどんな時も決して無くならなりません。だから、私たちはどんなときでも感謝ができるのではないでしょうか。必ず守られると、信じることができるから、こんなピンチの時でも教会には感謝の言葉があふれているのではないでしょうか。

21節には「異邦人は彼の名に望みをかける」とあります。ふさわしくないとされた人が、イエス様に望みを置くようになるのです。本当は希望なんか持てない状況にいる、その私たちが、イエス様に望みを置くようになるのです。ピンチを感謝するようになるのです。

私たちはこのようにして、聖霊が働いて、その希望を信じることができます。教会は聖霊が働いてその希望を信じ続ける、持ち続けることができます。私たちはこの不思議な希望の集まりに一人でも多くの方に加わってほしいと願っています。一緒にどんな時も神様の希望に感謝する集いに加わってほしいと祈っています。

すでにその聖霊は一人一人に働き、信仰を言葉にすること、信仰の告白へと導いています。与えられている希望とそれへの感謝を表明するようにと、すべての人を導いています。

今日は特別な聖霊について考える特別な礼拝ですから、ぜひ新しく来られている方にもお伝えします。私たちはこの不思議な希望に、イエス様に望みを置く教会に、一人でも多くの仲間に加わってほしいと願っています。あなたにも聖霊が働き「私はこの希望を信じている」と告白し、バプテスマを受けてほしいと願っています。そしてもしそのお気持ちがある方は、私や信仰の仲間にお示しください。もっとそれがはっきりと与えられるように、一緒に祈ってゆきましょう。

でももちろん今の気持ちも大切にされてください。聖霊が人々に下る前は、イエス様はまだ言いふらさないようにと言いました。自分の中に大切にしておきなさいと言います。そのことも大事なことです。聖霊があなたに注がれるとき、その希望を公にするときが来ます。その時、信仰の告白がきっと起きるでしょう。一緒にその時を待ちましょう。

そして特にすでに信じて信仰を告白しているという方にもお伝えます。信じますという告白は一度きりのものではありません。もう一度信じますという告白が、繰り返し起こされるはずです。イエス様に希望を置くという告白、スタートがもう一度今日、みなさんに起こるはずです。一緒に聖霊を受けて、その歩みを進めましょう。お祈りします。

 

【全文】「地域に仕える教会」マタイによる福音書19章1節~12節

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

マタイによる福音書23章11節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。こどもたちも集ってくれています。声を聴きながら共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちはイースターの後から「地域と福音」というテーマでみ言葉を聞いてきました。今日がこの「地域と福音」というテーマの最終回です。シェルターを通じて、神様は家になってくださるお方だということ。パトロールを通じて神様は訪ねてくださるお方だということ。炊き出しを通じて神様は私たちを食事に招いているということ。そしてこひつじ食堂を通じて、相互関係の中に教会があることと、教会が具体的な必要に応えることを読んできました。どのようにお感じになったでしょうか? 

振り返ると、教会の平日の様子ばかりを話したような気がします。もしかして毎週日曜日に長く通ってきた教会員の方々にとって疎外感を感じるテーマだったかもしれません。でも、この教会が一番大切にしているのは紛れもなく礼拝です。ここからすべての活動をスタートしています。私たちは一緒にスタートしています。私たちは礼拝共同体です。

そして同時に今回は、私たちの教会は礼拝だけをしている場所ではないということもよく知ることができました。教会には平日もたくさんの人が出入りしていることを知りました。今日はこひつじひろばについて、少し全体をまとめながら考えたいと思います。

教会は毎週木曜日10:30~12:00、教会の裏側にある「こひつじ館」を「こひつじひろば」として開放しています。誰でも使える無料の子育てスペースです。近所の保護者とこどもたちがぞろぞろと集っています。おもちゃや滑り台があって、こどもたちが自由に遊んでいますし、ここでお母さん同士が友達になっています。帰りにデニーズに行ったり、お互いの家で遊んだりと、お友達作りの場となっています。

この「こひつじひろば」の特徴はプログラムがまったくない「自由遊び」という点です。他にも似た場所がありますが、そこでは絵本を読んだり、保育士さんが来て相談に乗ったりするケースも多いようです。でも、ここにはプログラムはありません。のんびり子育てや世間話をするのが「こひつじひろば」の特徴です。そしてもう一つの特徴は公共施設以外で行われているのは、市内でこの平塚バプテスト教会だけということです。

このことはとりわけコロナ禍の中で、地域に必要とされることになりました。公共施設はのきなみ使用ができなくなる中で「こひつじひろば」は庭を使ったり、会堂のこどもスペースを使ったりして続けることができました。「ここしかやってない」という声も聴きました。多くの人がこどもを遊ばせる場所として、ここを必要として集いました。

こひつじひろばの活動や、特徴、あるいはその他の地域活動は、私たちが地域とどう関わろうとしているのか、どのように隣人になろうとしているのかをよく表していると思います。私たちは地域の必要に応えているということです。そしてそこでは何かを教えるのではなく、保護者の感じた子育ての喜びや楽しさ、そして苦労話を聞くばかりです。でも私はその教会の関わり方が良いと思っています。

教会は地域との関係を上下関係でとらえず、教える側、提供する側、救う側になるのではなく、対等な相互関係としてとらえて活動をしているとうことです。私たちの地域活動は、必要に応えてゆくこと、人々の声を聞いてゆくことを、大切にしているといえるでしょう。

今日の聖書箇所を読みますが、私はこの個所から教会と地域の関係、そして私たちの在り方について教えられるような気がします。教会は地域に、教える側、提供する側ばかりになるのではなく、地域の必要に応えてゆく場所、仕えていく場所になってゆこうということを見てゆきたいと思います。神様が教会は地域に必要に応え、仕えなさい。そして具体的に働きないと私たちに語り掛けていることを聞いてゆきたいと思います。

 

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所でイエス様は宗教指導者に対して、人々との関わり方を批判しています。伝統的なユダヤの人々は今も、祈るときに聖句の入った小箱を頭につける習慣が今でもあります。しかし宗教指導者の中にはこの箱を大きくしたり、服の裾を長くしたりする人がいました。これは宗教指導者と一般民衆を一目で見分けることができる、差がはっきりするということにつながりました。

イエス様が批判しているのは、宗教指導者が、私は一般民衆とは違うのだとアピールすることです。着る者や身に着けるもの人々と変えるということには、上下の意識があったでしょう。見た目の違いは、私は上、あなたは下であるという、宗教指導者と民衆の上下をはっきりさせるものとなりました。宗教指導者と民衆が対等ではなくなってしまっている、イエス様はその関係を批判したのです。

これは誰への批判でしょうか。愚かで律法主義に凝り固まったユダヤ人への批判という理解を超えてゆきましょう。私たちは地域と福音というテーマの中でこの福音を聞いています。その時、私は私たちのキリスト教の教会をこの宗教指導者たちに重ねます。ユダヤ教への批判ではなく、キリスト教の教会への批判としてこの個所をとらえたいのです。教会は地域と上下関係にあるのではない、対等で相互的な関係にあると、私はここから聞きます。教会は人々の上に立とうとするなと聞きます。

私たちもこのこと、十分に気を付けなければいけません。教会はどこか上から目線になってしまうことがあります。私が真理を知っていて、あなたは真理を知らない。教会は光、この世は闇。教会はそのような上下関係で他者との関係をとらえてしまうことがあります。この批判をキリスト教、私たちの教会の批判として受け取りたいのです。教会と人々が対等で相互的な関係であることをイエス様は語ったのだと私は思います。

そしてイエス様は続けてもう一つ批判をしています。宗教指導者は教えていることは正しいが、指を一本も動かさないという批判です。よくキリスト教は信仰義認ですと言われることがあるでしょうか。神様は何か良いことをしたかどうかというよりも、心・信仰があるかどうかを大事にしていますよと教会は語ってきました。

もちろんそれは大事なことです。イエス様も教えは守りなさいと言っています。しかし聖書は「行為よりも信仰が大事」とばかり語っているわけではありません。特にマタイ福音書では行為・実行を大事にするという箇所が多くみられます。教えや心の持ち方だけではなく、行動に移すことが重要だと語る場面が多いのです。今日の箇所もその一つです。教える、学ぶだけで実行しない者になってはいけないということです。

イエス様はここで私たちの教会の姿について、二つの批判をしています。上下関係になるなということ、そして実行しない者になるなということです。

イエス様は「上下関係になるな」「行動しない者になるな」という2つの禁止の命令と共に、こうなりなさいという命令も合わせて語ります。11節で「仕える者になりなさい」と言っています。これは地域活動のテーマとなる言葉でしょう。聖書の言葉(ギリシャ語)では仕えることを「ディアコニア」と言います。この「ディアコニア」は地域と教会の関係を考えるときによく出てくる言葉です。仕える(ディアコニア)はもともと食事を運ぶという意味です。お盆を持って食べ物を運ぶイメージです。それは多くの場合、奴隷、身分の低い者が担う仕事でした。

ですから仕えなさいとは、こうです。教会が地域から尊敬される教えを語るだけではなく、一緒になって働きなさいということです。もちろん語っていくことも大事だと言っています。しかしそれと同時に、必要なものを必要な人に一緒に届けてゆくこと、みんなで必要なものを運ぶことをイエス様は「仕えなさい」という言葉で求めておられます。

それはこの禁止の命令に沿って考えるなら、ただ提供する、上から下に提供されるのではないはずです。むしろそれが逆転されるような、教会が下とも思えるような、対等な関係で必要に応えてゆくこと、それが仕えるということです。

イエス様は教会は地域に教える場所、指導する場所である以上に、人々に仕えることを大事にしなさいと教えられています。一目置かれることよりも、これまでの上下の逆転するような、上下のなくなっていくような、そんな教会になりなさいというのが「仕えなさい」という意味でしょう。教会と地域が対等になる、地域に連帯する教会になってゆきなさいとここで語られているでしょう。

そして必要に応えることも大事なことです。教えるだけ、社会を批判するだけ、救いを語るだけではいけないとイエス様は語ります。対等な関係で具体的な必要に応えてゆくこと、私たちの活動によってそれを表してゆくことを勧めています。そのことがイエス様の「仕えなさい」という言葉の意味でしょう。

私たちは対等な関係でありましょう。教会の中のわたしたち同士が対等な関係でありましょう。そして、私たちはこの信仰と共に、具体的な活動も大事にしてゆきましょう。私たちは福音のみ言葉を土台として、これらの活動を行います。「仕えなさい」という言葉が土台に活動をしてゆきましょう。

地域と福音というテーマで聖書を読んできました。私たちは人々の声を聴き、一緒によい世界を実現してゆくことを願います。そのようにして地域の人々と一緒に歩むのです。そのようにして私たちは「隣人」となってゆくことができるのです。地域のために祈り、対等な関係として地域と出会う、地域の必要に応えてゆく。仕えてゆく、そこから必ず福音が聞こえてくるはずです。地域に仕えましょう、そして互いに仕えましょう。地域のために祈りましょう。そして互いのために祈りましょう。お祈りします。

 

【全文】「食べ物を祈る神」マタイによる福音書6章9節~13節

 

御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。マタイによる福音書6章10~11節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、うれしく思います。こどもたちもともに集ってくれました。こどもたちとともに礼拝をしてゆきましょう。

地域と福音というテーマでみ言葉を聞いています。前回はこひつじ食堂(大人もこどもも歓迎の地域食堂)から聞こえた福音、相互の助け合いということについてみ言葉に聞いてゆきました。今日も引き続きこひつじ食堂から聞こえてきたことを考えてゆきたいと思います。

私たちの教会では「こどもプロジェクト」として、地域の子供たちに向けて関わろうとしています。近年こどもたちの貧困が深刻になっているとよく聞きます。私の子どもも4月から小学校に入学しました。平塚市では子供が入学すると「就学援助費」のお知らせというのが同封されます。

入学の費用について経済的な支援が必要な場合、市がその費用を援助してくれるという仕組みです。例えばランドセルの購入代金などの援助があります。入学の際にその制度が案内されます。これが「就学援助費」です。この利用について統計があるのですが、こどもの貧困を図る指標として、よく使われています。この統計によれば私が小学生だった当時の就学援助費の利用率は6%程度でした。しかし現在の利用率は15%近くになっています。30年ほど前より、こどもを小学校に通わせることが経済的に苦しくなってきている人が2倍以上になっているということです。

私がこどもだった頃より、確実にこどもたちは貧しくなっているということです。貧しくさせられています。私の親が子育てしていた時代より、いまの子育ての方がずっと環境は厳しいのです。生活を守っていくうえで何ができるでしょうか。家賃や光熱費は下げることができません。携帯電話も絶対必要です。どんなに貧しくても服装、身なりだけはしっかりしようと考えるでしょう。削減するのは何でしょうか。一番は食費です。生活費をねん出してゆくためにできるのは、食費を切り詰めるくらいしかありません。外見から見て何も変わらなくても、食事の量や内容を落とさざるを得ないこどもが増えているのです。もっと言うと日々の食事に精一杯で、お菓子なんて買う余裕はありません。

先日の食堂ではオープン前に20人以上が列を作ってお弁当とお菓子をもって帰りました。みなさんニコニコしながらお弁当を持って帰り、何かに困っているようには全く見えない、幸せそうな方ばかりでした。でも中には、本当に食事を必要としている人がいるのかもしれません、きっといたでしょう。

教会はこひつじ食堂を通じて、この問題に少しですが関わっています。食費を削る窮屈な思いをしている方々に、月に1食ですが、ちょっと安くて、手作りで、心があったまる、そんな食事をお渡しています。それだけではみんなの状況をほとんど変えることはできませんけれども、でも少しでも支援につながるなら、教会として大切なことができたのではないでしょうか。私たちのこの働き、続けていけるように祈ってゆきましょう。

教会が関わるのは、何も心の内面の問題、霊の問題、魂の問題だけではありません。おなかがすいているという問題に関わることも大事なことです。教会は人の内面だけではなく、小さくとも必要を満たすという活動も大事なことです。

特にこの働きのためにボランティアも募集していますが、どうぞまず祈ってください。みんながちゃんと食事できるように、教会がそのために働きを続けることができるように、どうぞ祈ってください。祈ってゆきましょう。そこからが私たちのスタートです。

今日の聖書を箇所は、主の祈りと呼ばれる箇所です。この中にはなんと、食べることへの願いが含まれています。それは今の私たちにとって、大切なことでしょう。神様は食べることができるようにと祈っておられるのです。

 

 

今日の聖書箇所を一緒に見てゆきましょう。弟子たちはイエス様に、私たちはどう祈ったらよいのかを聞きました。後にこの祈りは「主の祈り」として、私たちキリスト教の教会でもっとも大切な祈りとして祈られるようになりました。私がまず目をとめるのは、11節「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りです。主の祈りとしては「我らに日用の糧を今日も与えたまえ」と暗唱しています。

ここにある糧という言葉は、パンを表す言葉です。パンが日本語では糧と訳されています。必要な、一日分の食べ物の「パン」を祈っているのです。経済的に裕福な時代や地域では、この糧の願いというのは精神的・内面的な糧と受け取られてきました。1日の精神的な支えやあるいは1日の心の支えとなるみ言葉が与えられるようにと受け取られてきました。もちろんそれも必要でしょう。あるいは裕福な時代と場所で糧とはただの食事ではなく、おいしい食事、グルメ志向と混同されてきたでしょうか。

しかし、本当に食事に事欠く時代や地域では、この祈りの受け止め方は大きく違います。内面的な、精神的な支えを祈るだけではなく、まず本当に口に入れる食べ物を願う祈りとして祈られています。今日の食事ができるようにという祈りです。そしてもちろんイエス様に従う人々の多くはそのように今日の食事ができるかどうかわからない、貧しくされている人々でした。イエス様もこの祈りをおそらく、まず必要な食べ物をしっかりと食べるということに向けられた祈りだったでしょう。

イエス様が祈ったのは、今日の食べ物をくださいという祈りです。食事をしっかりと食べることができますように、食費を削らなくてもいいように、そのほかの必要を満たしてくださいというのが、この祈りだったでしょう。

この祈り、私は今のこひつじ食堂への祈りと重なります。私たちのこひつじ食堂はこの祈りの中にあるといえるでしょう。しっかりと食べることができますようにという祈りが、この活動につながっています。心の支え、魂の支えも大事です。教会はずっとその支えになってきました。でもいまこの時代、食べ物を分かち合っていくことも、教会の大事な働き、大事な祈りです。食べ物への祈りを大切にしてゆきましょう。

そしてイエス様の教えたこの祈りは「私」の食べ物、「私」の生活の守りを願う祈りではないということも大事なことです。それは「私」ではなく「私たちに」という複数形で祈るようにと教えられています。だから私だけ食べれればいいのではないのです。この祈りは、みんなの食事がありますように、みんなに食事が行き渡りますようにという祈りなのです。

私だけ食べて、ほかの人が、ほかの子供が食べていないなら、この祈りを祈っている意味はどこにあるのでしょうか。全員が食費を削らずに、十分に食べることのできる社会を目指す。そういう人のために祈る。そして少しだけど、できることをする。それがこの祈りを通じてイエス様が示されていることではないでしょうか?

次に10節も見てゆきましょう。イエス様は「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とも祈るようにと教えています。

御心とは神様の考えること、神様の実現しようとしていることという意味です。この御心は天、天の国、神様のもとではすでに実現をしています。神様の元ではすべての人に不足がありません。「天におけるように、地の上にも」とは、そのように天、天の国、神様のもとで起きていることを、天だけではなく、この地上でも起こしてくださいという祈りです。神様のもとで全員が満たされるのが天の国、神様の元だとするなら、それを地上でも起こしてくださいとここで祈っているのです。

いつか必ず全員が満たされるときが来ます。でも私たちはただそれを待つだけではありません。それがこの地上で起こるように祈ります。いま私たちの生きているこの現実が変わることを祈り、願うのです。これは地上では、いろいろ不足があるけれど、天の国に行ったら何不自由ないよねという話ではありません。いまのこの地上の現実が、天の国のように、変わってゆきますようにという願いです。イエス様はそのように祈りなさいと私たちに教えてくださいました。

具体的にこの地で御心が、起こることを願う祈りです。食事が分かち合われ、不足のない生活をすることが今この現実に起きることを願う祈りです。私はこひつじ食堂がこの祈りに支えられ、その器として用いられてゆくと思います。

私たちこひつじ食堂のために祈ってゆきましょう。たくさんの方々の必要な糧となっているこの食堂を祈りましょう。すべての人に糧を、今この場所が、全員の必要が満たされる場所になるように祈りましょう。イエス様がその祈りを私たちに教えてくださいました。そして祈りに支えられて、平塚バプテスト教会は小さな働きだけれども、歩みだしました。

神様は私たちにどう祈ったらよいのかを教えてくださるお方です。そしてその中にははっきりと食べ物について祈るようにと教えられています。みんなが食べれるように祈ろうと教えられています。神様の御心が地上で実現するようにと祈ろうと教えられています。私は今この主の祈りがこひつじ食堂への祈りと重っています。この祈りを大切にしてゆきましょう。お祈りします。今日はもう一度、こひつじ食堂の祈りに、この主の祈りを重ねて祈りましょう。

 

 

「主の祈り」

天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

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【全文】「食堂の教会」マタイによる福音書14章13節~21節

イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」       マタイによる福音書14章16節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうしてともに集うことができることに感謝です。こどもたちも集まってくれています。一緒に感謝しながら礼拝をいただきましょう。さて「地域と福音」というテーマで宣教を続けています。先月はホームレス支援の中から福音を聞きました。神様は神様の方から訪ねてくださること、神様は私たちの家になってくださること、神様は食事に招いてくださるということを見てきました。今月はもう3回にわたって私たちが今一番頑張っている「こどもプロジェクト」から聞こえた福音を聞いてゆこうと思います。

私たちは、昨年の10月から毎月第四金曜日「こひつじ食堂」を始めました。こひつじ食堂は大人でもこどもでも誰でも利用できる地域食堂です。地域の方々の助けになろうとこの食堂をはじめました。困窮や孤立の解消に向けて教会が何かできるか、特にこどもに何ができるか、その人たちを助けよう、支えようと食堂を始めたのです。

助けるために始めた、教会のこひつじ食堂ですが、この食堂を始めてみて、いかにこの活動が地域の人々に支えられているかを実感しています。地域の支援がなくてはこの食堂はとてもじゃないけれど継続できません。今まで関わりのなかった人々が、教会を支援してくれています。相模原で野菜を作っている方、平塚商工会議所、市議会議員、高齢者の包括支援センター、フードバンク、社会福祉協議会、他のこども食堂、市のボランティアセンター、企業、もちろん教会関係からの支援もあります。

私もいろいろな人との接点が増えました「スペース・会堂はあるんですが、人も物も足りないので助けてほしい」と言いながら地域を回っています。そして徐々に食材やボランティアや寄付が集まっています。最初は足りないかもしれないと思っていたものが、不思議に集められてゆきます。余るほど集まるときもあります。

今日は、教会がにぎわってうれしいとか、教会が成長しているという報告ではありません。私は教会の在り方を考えさせられています。教会は食堂を生活に困窮している人を助けようと始めました。助ける側になろうと思ってスタートしました。でも始めてみて知ったのは、私たちこそ実は助けられる側なのだということです。この活動は地域の助けなしには継続できません。平塚市の人々が助けてくれなければ、私たちのこの活動は続けることができません。

私はこの活動にこれからの教会の在り方を見る気がします。これからの教会は一方的に伝える、提供する、教えるということではなくなってゆくでしょう。きっとこれからの教会は、地域との相互性を持った姿となってゆくでしょう。助ける側と助けられる側、教える側と教えられる側、救う側と救われる側に分かれるのではなく、相互関係が大切にされてゆくでしょう。

教会は助けられながら助ける、聞きながら話す、教えながら教わる。そのような相互性を大事にする姿になってゆくでしょう。教会と地域が、助け合ってゆく形に、教会の在り方は変わってゆくでしょう。

そしてきっとそれはもっと大きなうねりとなるでしょう。教会と教会、私とあなたも同じです。教える、教わる。助ける、助けられるという関係から、相互に教え教わる、相互に助け助けられる。そのような関係にもっと変わってゆくでしょう。助けあいの関係に変わり、今まであった見えない境界線がますますなくなってゆくでしょう。見えない上下もなくなってゆくでしょう。

今日も聖書箇所を見ますが、私はこの聖書の箇所、どこか境界線を前提にして読んでいたような気がします。パンを与える側と与えられる側に分けて読んでいたような気がします。しかし今私たちの食堂がこれだけの助けを受けているのを見るとき、この5000人の食事の豊かさ、境界線の無さを改めて感じます。この食事はもっと相互性のある食事、助け合いの食事だったのではないかと想像するのです。今日この個所から、神様は相互の助け合いを起こすお方だということを見てゆきたいと思います。

今日の聖書箇所を読みましょう。男だけで5000人、女性と子供を入れれば数万人となったでしょうか。とにかくたくさん人がいたということです。

たくさんの人がイエス様に従っていました。そして弟子たちは夕食の時間になってこの群衆を解散させようとしました。もう食事の時間だし、食事はそれぞれ自分で用意してもらいましょうと考えたのです。その気持ちもよくわかります。

ここで自分たちが食事を提供する必要、ニーズがあるのかどうかということを考えたのでしょう。弟子たちは「解散してそれぞれで買って、それぞれで食べましょう」と考えたのです。

しかしイエス様は言います16節「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」イエス様はここで、みんなで食事をすることにこだわります。それにはいろいろな問題が伴います。まず心配されるのは、食材不足です。自分たちがこの人数に食事を提供するには、食材が圧倒的に足りませんでした。だから、やはり解散し、それぞれ自分で買って、ばらばらに食べようと考えたのです。

しかしイエス様はほんの少しの食事を手に取って、天を仰いで賛美の祈りを唱えました。すると不思議にパンと魚は全員にゆきわたり、余るほどになりました。この食材はどこから来たのでしょうか、本当に奇跡的に増えたのか、あるいはどこかから支援が集まったのでしょうか、わかりません。でもとにかく、全員にゆきわたり、余るほどになったのです。

私は今までこの数万人の食事、パンが増えてゆく奇跡的な雰囲気の中での、静かな、厳かな食事を想像していました。しかしコロナ禍の中で一緒に食べることを控えている今、一緒に食事する楽しさを思い出しながら、この物語を読みます。そしてこひつじ食堂に様々な人がにぎやかに集まる食事に、この場面を重ねます。

確かにこの食事は、聖書の時代に多くいた、貧しく、疲れ果てた人々が大でした。でもだからといって静かな雰囲気を想像する必要はないのではないでしょうか。黙食のような、しゃべらない食事を想像する必要はないでしょう。

とてもにぎやかな食事だったと想像することもできると思います。むしろ数万人で食べるのです。今は絶対にしてはいけない、相当にぎやかな食事をしちゃったのではないでしょうか。20節にはこの食事で「すべての人が満腹した」とあります。私は読んでいたら、この言葉の後にニコニコマークの絵文字が見えるような気がします。とにかくみんながニコニコしながら、楽しくて笑いながら、おなかいっぱいになったという話です。食堂と同じです。

食事の風景、教会のにぎやかな食事会や天城山荘の食事会を想像しました。食事をしていると自然に会話が生まれます。準備からここに箸が足りません、お茶が足りません。食べ始めれば、これとってください。あれとってください。あっちではこんにちは、始めましてと自然とにぎやかな食事になります。ましてや数万人、これだけの人数がいたら、相当がやがや、にぎやかな食事になったのではないかと思います。

これじゃ足りないという人と、こんなに食べれないという人が分け合いながら食べたでしょう。パンばかり余るグループと、魚ばかり余るグループが、パンと魚を交換して食べたでしょう。こっちは何が足りない、余っているところありませんか。そんな賑わいの中での食事だったのではないでしょうか。

ここにはそのパンと魚は弟子が「与えた」と書いてあります。伝統的にはこの弟子は選ばれた奉仕者と理解されてきたでしょうか。でもこれだけの人数の食事を12人で配るのは無理です。規模から考えると、弟子が配る、それ以外の人が食べるという一方的な関係ではなかったはずです。もっと相互的な食事だったとしか想像できません。食べ物がいったりきたり、人がいったり来たり、あーじゃないこーじゃないと言いながら、誰が弟子で誰が群衆か、そんな区別なく、大騒ぎしながら食べたのでしょう。そしてよくわからないけれど、最後は全員が満腹して、ニコニコしたのです。

最後21節には人数の報告がされますが、数え方は「食べた人」とある。食べ終わったら、弟子は何人、群衆は何人という分け隔てはなくなったのです。みんなで準備し、みんなで分け合った。そして最後にそこにいたのは全員「食べた人」という一つのグループだったのです。

もちろん女性と子供が排除されたカウント方法は受け入れられません。当時の男性優先の中の言葉です。しかし、それも聖書は超えていけると思います。女が準備するとか、お台所するとかではなく、この時、性や年齢に関わらず全員がそれを担ったはずです。

この食事は足りないはず、別々に分かれて取るはずの食事でした。しかしイエス様の一声で不思議に始まった食事でした。そしてそこでは、にぎやかで、いろいろな人と、分かち合って食べる食事会が始まりました。そこには豊かな相互性があったはずです。助ける側、助けられる側の境界線はもうそこにはありませんでした。私たちもそんな食堂になりたいと思うのです。

私たちは今、この教会と地域が同じ5000人になることができるだろうかということが問われているのではないでしょうか。私たちの教会と地域が、相互に助け合う関係性になってゆくことができるかが問われているのではないでしょうか。教会が、人々を救う、助けるという一方的な立場からではなく、助けを受けながら活動してゆくということができるかどうかということが問われていると感じます。

もちろん私たちには心配なことは山ほどある。足りないものも山ほどあります。でもそのなかでも、主イエスに信頼し、助けられながら、歩んでいけるかどうかということが問われているのではないでしょうか。

このあと主の晩餐を持ちます。私たちの教会ではクリスチャンがいただくものとして執り行います。でも私たちは信じてこの食事にみなさんも加わってほしいと願っています。この聖書の物語の中に一緒に生きてほしいと願っています。信仰への歩みを起こしてほしいと願っています。お祈りいたしましょう。

 

【全文】「食事に招いてくださる神」マタイによる福音書9章9節~13節

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 マタイによる福音書9章10節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、心から感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもも一緒に、すべての人が共に礼拝をしています。声が聞こえることもありますが、それも礼拝の一部として、ともに礼拝をしてゆきましょう。

私たちは今月「地域と福音」というテーマで地域活動の中から聞こえてきた福音を考えています。特にこの3回はホームレス支援から聞こえてきた福音を見てきました。ホームレスのパトロールから、神様は訪ねてくださるお方だということ。シェルターから神様は家になってくださるお方だということ。そして今日は炊き出しから、神様は食事に招いてくださるお方だということを見てゆきたいと思います。

私たちの教会の庭で、毎月第二金曜日に市民団体と協力して「炊き出し」を行っています。現在はコロナで会食ができないこともあって、食料配布という形ですが、普段は庭であつあつの豚汁とおにぎりをみんなで一緒に食べています。

参加は誰でもOKです。ホームレスの方だけではなく、普通の家に住んでいる方も集まっています。参加者は食料を求めてやってくるという面ももちろんありますが、どちらかと言うと、誰かとの交流を求めてやってくる方が多いように感じます。誰かと話したい、寂しい、そんな思いでこの教会を訪ねてくるのです。月に一度ですが、仲間たちと声をかけ合って、それぞれの近況・健康・生存を確認しあう場所になっています。

食事は準備するボランティアと参加者が一緒に、同じテーブルで食べます。これは他の多くの炊き出しと違って珍しいことかもしれません。食べ始めれば誰が渡す側で、誰がもらう側かの区別はなくなります。みんなが一緒に食事をするスタイルです。

一緒に食事をすることはとても大切な時間です。こちらが訪ねるパトロールではゆっくりは話できないのですが、食事の準備ができるのを待つ、一緒に食べる、片付けるといった時間を共有することで、自然にお互いの事を語り合うようになります。

パトロールではほとんど会話をしてくれない方でも、一緒にテーブルの準備をし、一緒に膝を合わせて食事をしていると、いつの間にか打ち解け合うことができます。ボランティアと参加者の垣根が取り払われる、ボーダーレスな時間です。ワイワイと楽しく食事をしながら、お互いの今までの経験や自慢話、家族の事、健康の事さまざまなことを話し合っています。

忘れられないのは、ある夏の暑い日の炊き出しのことです。暑い中、汗びっしょりになりながら、福島県出身のSさんと同じテーブルでアツアツの豚汁を食べました。ワイワイと食事をしているうちにお互いに自分の出身地の話になりました。

Sさんの実家は震災で津波に流されてしまったそうです。自分の家族も津波で亡くされたのだという話を教えてくれました。Sさんと一緒に大粒の汗を流しながら熱い豚汁を食べていたのですが、その目には涙が浮かんでいるように見えました。汗だか涙だかわからなくなりながら、とにかく一緒に食事をし、お互いのことを話しながら食べたのです。食事を通じてできた交流の深さ、大事さを教わったような気がします。

参加者の方はよく、教会の事を心配してくださいます。食べ終わった後、植木の手入れをしてくれたり、自転車を修理して下さったりします。このように食事をすることがきっかけになって、様々な相互関係、信頼関係が生まれています。

そういった信頼関係は、私たちだけではなく参加者の方たちにとってもかけがえのないものかもしれません。社会から白い目で見られることも少なくないでしょう。自分の名前を呼ばれることも少ないでしょう。その方たちもこの場所では同じ命、同じ人間として対等で、尊重しあい、信頼しあえるのです。私はこの炊き出しの場所がそれぞれの命の大切さを知る場所になっていると感じます。

今日も聖書を見ますけれども、イエス様との食事もそのような、偏見や垣根のない食事会でした。この食事会は招かれた人が同じ命、同じ人間として、対応に尊重しあえる食事会でした。イエス様はそのような集いへと、すべての人を招いてくださるお方です。神様は私たち全員が同じ命、対等な人間なのだということを教えてくださるお方です。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。イエス様が人々と一緒に食事をしたと記されています。この食事会の場所はどこだったのでしょうか。マルコを読むと、それは徴税人の家だったと書いてあります。ルカもおそらくそう考えているでしょう。イエス様が招かれて食事をしています。

しかし今日のマタイ福音書を見ると、実は食事会の場所は明確に示されていません。あいまいなのです。10節には「その家」とありますが、いったい誰の「その家」なのかは書いてありません。むしろ9節の「従いなさい」という文脈からすると、イエス様の家だったという読み方も十分にできます。この場面はイエス様が人々を自分の家に招いたと想像できる箇所です。イエス様はご自分の家の食事会に人々を招いたのです。イエス様が自宅に招いたのは罪人と呼ばれた人でした。この罪人とは誰のことでしょうか。どんな人でしょうか。何かの犯罪を犯した人、人を傷つけた人、もちろんそれも罪人です。しかし聖書の時代の罪人とは、もっと広い意味を持っていました。

これは差別を含む言葉でした。たとえば羊飼いは罪人でした。移動しながらの生活は律法を守ることができなかったからです。他にも異邦人・外国人もみんな罪人でした。このように職業、住所、出身、宗教、国籍などによっても罪人とされたのです。この罪人という言葉には、多くの差別が含まれています。宗教的や社会的に見て「ふさわしくない人」と判断された人はみな、罪人と呼ばれたのです。

よく罪とは「的外れ」を意味するといいますが、罪人もそうです。「的を外れた人」という意味です。この丸の中にいない人、ふさわしいと思われる、丸の中にいない人を罪人と呼んだのです。

当時の社会では、特に食事の場面で厳しく「ふさわしくないとされた人」「罪人」との関わりが禁じられていました。食事会に誘われると、行く前に必ず、誰が参加者かを聞き、その中に罪人がいないかを確認するという習慣があったそうです。そして罪人、ふさわしくないと思われる人がいた場合、一緒に食事すると自分も穢れてしまうという理由で、その食事会をきっぱり断ったそうです。

そのような背景の中で読むとき、イエス様が罪人と呼ばれる人、差別された人を、自分の家に招き、一緒に食事会までしたというのは大変な驚きだったということがわかります。当時の常識から考えれば、ヤバイ食事会です。あんな人とは関わってはいけない、まして食事など絶対に一緒に食べてはいけないといわれる人が、差別された人が、たくさんイエス様の家に招かれたのです。

でもその食事会、きっと本当に楽しかったのではないかと思います。ふだんなかなか食事会に誘ってもらえない人が招かれた食事会です。それは社会からのけ者にされ、希望を持てずにいた人たちが招かれた食事会でした。メニューは何だったのでしょうか?(ユダヤの人々は豚肉を食べないので、豚汁は出なかったはずです)。それは本当に垣根のない食事会でした。

いまの私たちなら一緒に食事ができないという寂しさをよく知っています。一緒に食事をしてはいけないと言われる気持ちがよくわかります。食事ができないと交わりが十分にできないものです。早く一緒に食事したいねという言葉もよく聞きます。でもここで罪人と呼ばれている人は何十年もずっとそれを感じていた人です。ずっとみんなと食事をすることが許されなかった人です。

しかし彼らは今日、食事に招かれました。何十年も寂しさ、苦しみを感じ、お前とは食事をしないと言われ続けてきた、その人が招かれた喜びはどれほどのものだったでしょうか。人生の記憶に残る食事会になったでしょう。

そして、招いたイエス様のことをどう感じたでしょうか。この人はどんな人も、どんな命も対等に扱う人だ。私のことを招いて、そのまま受け止める人だ。そう感じたのではないでしょうか。

まさにイエス様とはそのようなお方です。イエス様はどのような人でも、分け隔てなく神様のもとに招くお方です。私なんか、ふさわしくないと思うでしょうか。今日の箇所によれば、その人こそ招くお方です。

ふさわしくなくても招いてくださる神様なのではありません。ふさわしくない者こそ招いているのがこの食事会です。神様はこのように人を招くお方です。食事に招くお方です。私たちはふさわしい者でしょうか。ふさわしくない者でしょうか。私は自分こそ神に呼ばれてふさわしい者だとは思いません。私はふさわしくない者です。しかし神様は、ふさわしくない私を、神様のもとに招いてくださるお方です。

そして招かれた場所は、大きな喜びが待っている場所です。仲間が待っている場所です。神様は素晴らしいと、招かれたことを一緒に喜ぶ集まりです。私は私たちの教会もそのような教会でありたいと思います。ふさわしい者の集まりではなく、ふさわしくない者が招かれたことを喜び合う場所、そんな教会でありたいと思うのです。それがイエス様の家、教会だと思うのです。

13節には『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とあります。神様は宗教儀式を繰り返すことを望んでおられるのではありません。憐みを求めておられます。憐みとは「かわいそうだ」と思うことではありません。相手の気持ちをわかる、相手の気持ちに触れるということです。

毎月第二金曜日に炊き出しが行われています。イエス様が招いたように教会が、誰とも分け隔てせず一緒に食事をする、そのような場所を目指しています。そして日曜日の礼拝もそのような場所にしてゆきたいと願います。ふさわしくない者同士が招かれたことを喜び合う、愛し合う場所としてゆきたいと願います。私はこの福音を炊き出しから聞きました。お祈りいたします。

 

 

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【全文】「家になってくださる神」ヨハネ14章1節~4節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。私たちは子どもを大切にする教会です。こどもと共にこの礼拝をお献げしましょう。私たちはペンテコステまで「地域と福音」ということをテーマにみ言葉を聞いています。特に今月はこの教会がホームレスの方々から気づかされた福音について見てゆきたいと思います。先週は訪ねて下さる神、神様は私たちを訪ねて下さるお方ということをパトロール、また私たち同士が声を掛け合うことから考えました。今日はシェルターの働きから福音を考えてゆきたいと思います。

私たちの教会は住む場所を失った人たちのために、シェルターを運営しています。場所は安全のため非公表です。このシェルターは年に数回ですが利用されています。

今日は利用されたある方のお話をしたいと思います。1年ほど前です、40代の男性が教会を訪ねてこられました。住む場所と所持金を失い、3日間野宿をしている方でした。インターネットでこの教会のことを知り、相談をしたいと、この教会を訪ねてきました。

彼はこれまでの人生から話を聞かせてくれました。一生懸命仕事をしてきた人でした。たくさんの資格を持っていました。彼はずっと寮付きの工場で仕事をしていました。一旦そこでの仕事、契約期間が終わると、彼はいつも次の寮付きの職場を捜していました。そのように働き続け、いろいろな場所に住み、働くのは、充実していたそうです。しかし、今回はなかなか次の仕事を見つけることができませんでした。彼はその期間ネットカフェを転々としていました。そして、とうとう所持金が無くなってしまい、2月の寒い日、初めての野宿を経験しました。とても寒く一睡もできなかったそうです。役所に支援を求めたこともありましたが、窓口で冷たい対応を受け、支援は受けられませんでした。

行き詰まった彼は、自分は社会から必要とされていないと感じたと言います。死にたいと思う様になりました。そして生まれ育った町にあった、海を思い出したそうです。死ぬ前にもう一度、海を見ようと平塚に来たのです。でも彼は死にきれず、教会に助けを求めました。

教会に来た彼は今の苦しみを堰を切ったように私に話をしてくれました。彼は誰かと会話すること自体が久しぶりだったそうです。そしてこんな風に誰かに身の上を話して「助けて欲しい」と言うのも、もちろん初めてでした。

「相談する人がいなくて気が滅入っています」「今ならホームレスが怠けているわけではないことがわかります」そんな思いと身の上を2時間ほど話し続けた後、彼は「今日一日泊めて欲しい」と言いました。もう一日も野宿をするのは嫌だ。今まで誰にも迷惑をかけずに、一人でできるところまでやって来たつもりです。でももう無理です。最後の望みを持って教会に来たんです。自分には誰かの助けが必要なのです。だから今日一泊、泊めて下さい」最後は泣きながら訴えました。

私は彼の宿泊を引き受けることにしました。そして翌朝、一緒に市役所に行き、改めて事情を説明し、自立のための施設に住むことになりました。彼と話していて様々なことを感じました。一番強く感じたのは単純な事です。私たちには家が必要なのだということです。そしてもう一つは、私たちは自分を助けてくれる人、精神的な支えになってくれる人が必要なのだということです。

人は誰も家無しに、そして支え無しに生きることはできません。家の無い人に、助けの無い人に、私たちが出来ることをしてゆくことが、一緒に生きる、共に命を生きるという事につながるのだと思いました。そして、それは彼が私に教えてくれたことだと思います。

教会がこのシェルターの働きを、神様の働きとして担っていくことはとても大切なことだと思います。一泊ですが教会は彼の「家」になれた事、彼が前を向いて、生きようと、神様の働きを少しだけ手伝うことが出来たことをうれしく思います。そしてこのコロナの中で生活に行き詰る人、家を失う人も増えています。家の無い人、助け手の必要な人を覚えたいと思います。

私たちは誰でも具体的に住む家と、心の支えを必要としています。それは何かに困っているかどうかは関係なく、すべての人がそれを必要としています。私は、すべての人にそれが与えられるように、神様に祈り、神様の働きとして、それに関わってゆきたいと思っています。

今日聖書から、神様は家になって下さるお方だということを読んでゆきたいと思います。神様は私たちに家、住む場所、留まる場所を与えて下さるお方です。そして神様は私たちの心の居場所、拠り所となってくださる、その事を見てゆきたいと思います。

今日の個所を改めてみてゆきましょう。2節にはこうあります「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」この言葉に目が留まります。聖書によれば、神様のところには、私たちが住む家がたくさんあるそうです。そしてもし足りなければ神様はまた作ってくださるそうです。

そしてさらに3節にはこうあります。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。神様は迎えるための家を作った後、家の無い人を迎えに行って下さるお方です。そしてその家に招き入れてくださるのです。それが神様の働きです。なんと、準備して待っているだけではなく、ここがあなたの家だよと招き、迎えに行って下さるお方だというのです。

私は神様のこの姿に、とても勇気をもらいます。これこそ私たちが実現しようと目指す、すべての人に家があるという世界です。

今この時代こそ、本当に聖書に書いてある通りの出来事が起きて欲しいと願います。今この社会を、神様の示す姿に変えてゆきたいと思います。すべての人に家を、住宅をと、いま切に願います。

住居の無い人のために家があること、もし足りなければ作ること、困っている人を迎えに行って、どうぞここで過ごして下さいと言える世界、本当にそのような世界になって欲しいと願います。

そして教会がそれを少しでも実現できたらと思います。教会は住む場所を失った人を、また住む場所を得るまで、本当に短い期間ですがシェルターをご用意します。大変なことはたくさんありますが、これを神様の働きとして続けてゆきたいと思っています。

神様は私たちに家を用意して下さるお方です。教会はシェルターの働きを小さくとも続けたいと思います。教会はみんなの「家」になりたいのです。教会は泊まる場所の無いときの家になってゆきたいのです。神様が家に迎えて下さるその働きが、私たちの教会のしているシェルターの働きではないでしょうか。

してもちろんこの個所は住む住宅のことだけを言っているのではないという事も見ましょう。神様が私たちに心の家を与えてくださる、心の家になってくださるということもここで示されています。

私たちに必要なのは住宅だけではありません。相談できる人、安心できる場所、心を休めることが出来る場所、心の家となる場所が必要です。

今日ここにいる方の多くの人は住む場所があるでしょう。神様は住む場所を下さると言われてもピンとこないかもしれません。でもたとえ家があったとしても、安心して過ごすことができる場所が無い人は多くいます。私たちがStayHomeしていても、安心できないのと同じです。住宅があれば良いわけではありません。

私たちには住宅と共に、心・魂が安心して過ごせる場所が必要です。私たちには住宅があっても、心の家が必要です。私たちの人生には様々な出来事が起こります。私たちはその時どこかで、人生の寒さをしのぎ、人生の雨風をしのがなければなりません。人生の休息の場所が必要です。私たちは住宅が無ければ、生きていけないように、そのような心の家となる場所、心・魂が安心して過ごせる場所が必要です。それが無ければ、生きてゆく事ができません。

神様はその家、心の家にもなって下さるお方です。神の家にいるから、私たちは人生の苦しさを乗り越える事がきるのでしょう。実に神様は家の無い人に家・住宅を準備してくださるお方です。そして神様は私たちの家、私たちの心の家・魂の家となって下さるお方でもあります。私たちが、生きていくためには必ず家・住宅が必要なように、私たちが生きていくために必ず神様、心の家が必要なのです。神様はその両方を準備してくださるお方です。

1節には「神を信じなさい、イエスを信じなさい」とあります。神様が、住む場所を必ず与えてくださる、そう信じましょう。神様は必ずこの地上で住む場所を与えてくださるのです。そしてもうひとつ、神様は私たちの心の家・魂の家になって下さるお方です。そこで私たちは心を休めます。神様が家となられ、心配しないでいいよ、大丈夫だよ、すこしここで休みなさい。そう私たちを守って下さるのです。そのことを信じましょう。

4節には私たちはすでにイエス様の道を知っているとあります。そうです私たちはこのような神様の姿、イエス様の姿を今日すでに知っています。神様は私たちの家になって下さると知っているのです。

教会は家の無い人のために、シェルターを開いてゆきましょう。短い時間ですが、ここで休息をしてもらいましょう。そして私たちも、神様の家に留まりましょう。そこで安心して過ごし、休憩し、歩みましょう。お祈りいたします。

 

 

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【全文】「訪ねてくださる神」マタイ8章14節~17節

イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。             マタイ8章14節

 

今週から地域と福音というテーマ、特にホームレス支援、こども支援について聖書に聞いてゆきます。私たちが地域と関わるのは教会員獲得のためではありません。聖書にイエス様が多くの困っている人を訪ねたと記されているから、私たちも地域に関わるのです。そこに神様との出会いがあるのです。

私は市内のホームレスを巡回する、平塚パトロールという活動をしています。Mさんは平塚駅前のバス停のベンチで4年間寝起きしているホームレスの方でした。1年ほど毎月パトロールで訪ね続けましたが、小さな一言から生活保護を申請することになりました。Mさんが路上に出てしまう前後に必要だった事、それは短くとも訪ね、共に悲しみ、慰めることだったと思います。パトロールとは短い訪問ですが、そこから開ける未来があったのです。

きっとそれは私たちの生活の中でも同じことだと思います。私たちの生活にも孤独があります。その時、短い一声が一歩前に歩むきっかけになることがあります。一言声をかける、それなら私たちにもできる事でしょうか。

イエス様は人間の弱さ、人間の無力さをよくご存じです。そしてその人々を訪ね、関わり、励ましてくださるお方です。今日私はイエス様が人々を訪ねた姿を聖書から見てゆきたいのです。

今日の聖書個所によれば、14節、イエス様はイエス様の側から訪ねてくださるお方です。私たちが病の時、苦しいとき、イエス様に会いに行く、すがるのではありません。それは神様の一方的な愛、無条件の愛と言えるでしょう。そしてこの訪問で私は病が癒される以前に、癒されていたものがあったのではないかと想像します。きっと彼女が感じていた不安や孤独は、イエス様が訪問した時、病より先に癒されていたのではないでしょうか。そして彼女はもう一度、立ち上がることができました。他者のため、イエス様のために、働こうと立ち上がったのです。

私たちにはイエス様のように病を癒す奇跡の力はありません。でも似たこと、イエス様の真似事ならば私たちにもできるのではないでしょうか。さみしいと感じる人、不安に思っている人に声をかけ、触れあう、関わりあう。そんな小さなことからその人が元気づけられ、一歩を歩みだすこと、それは私たちにもできることではないでしょうか。私たちもそのイエス様の働きをしたいのです。

神様はこのように、私たちを訪ねてくださるお方です。私たちを一方的に愛し、訪ねてくださるお方です。私たちを励まし、立ち上がらせてくださるお方です。神様は訪ねてくださるお方です。私たちも訪ねること、声をかけてゆくことをしてゆきましょう。

 

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【全文】「この先に待っている神」マタイ28章1節~10節

みなさん、おはようございます。またイースターおめでとうございます。たくさんの方と共に、この礼拝に集い、礼拝できること本当にうれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちはしばらく、マタイ福音書からみ言葉を聞いていますが、この福音書は「インマヌエル」「神は私たちとともにいる」ということを大切にしている福音書です。はじまりの1章と、最後の28章に同じ「神は私たちと共にいる」という言葉が出てきて、「神が共にいる」という言葉で福音書が囲い込まれています。

マタイ福音書は、神様は私たちと共にいる、そう語っています。しかしもちろん聖書はそれ以外にも神様の様々な姿を語っています。神様はいつも私たちと共にいる、でもそれだけではない神様の姿が豊かに書かれています。

例えば、神様は私たちの先にいる、先で待っているとも書かれています。私はこの神様の姿が好きです。苦しいとき、悲しいときに一緒にいてくださる神様という姿も好きですが、神様は私たちがこれから向かう場所に、先におられ、待っているという姿も好きです。

特に今、神様のこの姿を大切にしたいと思います。コロナ禍の中で、一体どこに神様がいるかわからなくなってしまう時です。神様が一緒にいるという実感が特に持てないコロナ禍の中にいます。新しい年度が始まりますが、この先が見通せない時にいます。教会もすべての行事が思うようにできるかどうかわかりませんし、それよりも学校や人生のイベントが予定通りできるのかどうか、この先全く分からなくなってしまっています。

でも神様は今ここに、私たちと共におられる方です。そして、神様は私たちが向かうその先で待っておられるお方です。先が見通せない中で、何が起こるか不安の中で、神様は先に待っておられます。先に待っている神様の姿、それは今の私たちにとって何より大きな希望ではないでしょうか。先行きの見えない私たちの行く先に、必ず主は待ってくださっているのです。

今日は神様はいつも私たちと共におられるということと同時に、神様は私たちが向かう場所に先に行って待っておられる方だということを見てゆきたいと思います。そして待っておられるからこそ、私たちは不安で、迷い悩みながらもその先に向かうことができるのだということ、安心して歩んで良いのだということ、礼拝しながら歩もうということを聖書に聞いてゆきたいと思います。今日の聖書の個所を一緒に読んでゆきましょう。 

 

今日の場面は、十字架の後の場面です。男性の弟子たちはイエス様の十字架が恐ろしくなり逃げだしました。そして十字架の姿に絶望し、家にこもり、人と会うのをやめてしまったのです。

しかし最後まで従い続けた女性たちは、外へと向かいます。墓に行き、死んだイエス様の体を確認しようとしました。そしてその墓で天使の声を聞いたのです。5節~7節の言葉です。

6節で天使は「見なさい」といいます。しかし厳密に言うと、彼女たちが実際に「見た」のかどうかは書かれていません。天使に見よといわれ、女性たちがイエス様が置いてあった場所にいなくなっているのを「見た」とは書いていないのです。

ここでこの女性たちはこの目で見たから信じたのではなく、み言葉がそのように語っているのを「聞いた」から信じたと言えるでしょう。それは私たちも同じです。私たちは空の墓を見たわけではありませんが、この信仰をいただいています。信仰を持つとはそのようなことなのでしょう。見たかどうか、体験したかどうかではないのです。そのみ言葉を「聞いて」信じるかどうかなのです。ですからどうやって遺体がなくなったのか、どうやって体が復活するのかということはここでは全く問題になっていません。

天使たちの言葉に戻ります。天使は「イエス様はここにはいない。ガリラヤに先にいる」と言います。彼女たちは8節、仲間に伝えるように告げられ、恐れと喜び半々のまま、急いで走りだしました。イエス様はこのように、行く先で待っておられる方なのだと天使が告げています。

しかし、イエス様はなぜガリラヤにいるのでしょうか。なぜエルサレムではなく、わざわざガリラヤに行くのでしょうか。エルサレムとガリラヤの距離は100㎞以上あったといわれます。

ガリラヤとは弟子たちの生まれた自宅がある場所でした。弟子たちの日常生活がそこにありました。今はエルサレムにいますが、自分の職業、住所、親族が暮らす街、それがガリラヤでした。

そして弟子たちにとってガリラヤとは、イエス様と一緒に過ごした場所でもありました。様々な奇跡や、教えを聞き、共に日常を過ごした場所だったのです。

イエス様にとってもガリラヤはそのような日常の生活を送った場所でした。そこでは直接民衆の生活に関わりながら、触れながら、み言葉を語ることができた場所でした。

イエス様はとどまる場所に、そのような日常の場所を選ぶお方なのです。イエス様は自分のそして、弟子たちの日常に、先に、戻ってゆかれるお方です。イスラエルの中心都市、神殿のあるエルサレムではなく、日常を過ごした場所に、イエス様は先に、戻られるのです。

天使たちは、それを追うように促します。女性たちに、他の仲間や弟子たちと一緒にイエス様を追いかけるようにと、派遣するのです。これが先に待っている神です。

女性たちは弟子たちにこのことを告げるため急ぎます。すると途中でガリラヤで待っているはずのイエス様に出会ったのです。ここでは「いつも共にいる神」と、「先に待っている神」が交互に現れます。

彼女らはイエス様と出会ったその場所で拝みました。イエス様に出会い、礼拝をしたということです。彼女たちは礼拝をはさみながら、他の弟子たちに、人々にイエス様を伝えようとしたのです。

エス様はこの途中で、恐れるな、行け、告げろ、待っているといわれました。その不安な道で、恐れないこと、しっかりと前に進むこと、神様の言葉を皆に告げることを勧めています。そしてその先に待っているというのです。神様はここにいます。神様はその途中にいます。神様は行く先で待っています。

イエス様はこのように彼女たちに姿を現し、礼拝を起こし、人々を励まし、送り出すお方なのです。

今日はイースターです。私たちも死んだはずのイエス様がもう一度私たちに現れることを祝うその礼拝の時をもっています。私たちもこの物語の中にいる共同体です。私たちもこの女性、弟子たちの一人一人です。私たちもここまでの受難節で十字架を覚え、そして今日礼拝しています。私たちの戻るガリラヤとはどこでしょうか。それはきっと私たちの日常でしょう。

それぞれの日常に先に、派遣された先にイエス様がおられます。神様がそこで待っておられます。私たちが礼拝から戻る先、家庭に、職場に、あの場所に、イエス様が今日も先に待っていてくださっているのです。そしてもちろん今日、今神様はここにも共におられます。

私たちも今日、それぞれのガリラヤに戻ります。恐れと喜びを抱えながらでしょう。あの日常があります。でも神様は弱気になりながら進んでいく道のりを共におられ、励ましてくださるお方です。私たちは神様の足にしがみつくように礼拝をしながら、歩んでゆきましょう。すぐにはたどり着けないかもしれませんが、礼拝しながらそこに向かってゆきましょう。そしてそれぞれの向かう先で必ず神様が待っていてくださいます。

神様は私たちが毎日を過ごす、あの場所に、今日も先におられるお方です。私たちより前に、先に、早く、それぞれの場所におられるお方です。そしてその途中にもおられ、礼拝に招いてくださるお方です。

私たちは神様が待っていると知るとき、先が見通せなくとも安心してそこに向かうことができるでしょう。悩み悲しみながら向かうのでもよいのです。その途中にも神様は必ず現れ、私たちを励まし、礼拝をさせてくださるでしょう。そして私たちの向かう先に必ず神様はおられます。

私はこの神様の姿も好きです。いつも共にいるとはよく聞く姿です。でも私たちの行く先にもすでに待っているという姿にも、私は希望を見ます。私たちは戸惑いながら生きるけれども、ときどき神様はここにいないと思うようなことに出会うけれども、でも行く先に必ず神様は待っている。もうすでに待っている。その希望をもって歩みたいと思います。神様は共にいるという喜びと同時に、神様は私たちの向かう先にすでにおられるという喜びをも知りましょう。

そして、これから私たちは主の晩餐をもちます。イエス様は十字架にかかる前に、悲しみがこれからあるがイエス様と共にいたことを覚えているようにと言われ、パンと杯を分けられました。

私たちは今日悲しみ、苦しみの中にも神様が共におられることを覚えて、このパンと杯を食べたいと思います。

そして他の福音書によれば、復活後にイエス様と食事をしたことが記録されています。その食事のことも覚えたいと思います。イエス様は復活された後にも、弟子たちと食事を共にしました。そのパンと杯を今日いただくのです。主イエスがいつも共にいてくださる、主イエスが私たちの向かう場所に先に待っていてくださる、そしてそこでまた共に食事をしてくださる、そのことを覚えながら、この杯とパンをいただきましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「『なぜ』と共にいる神」マタイ27章45節~47節

イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マタイ27章46節

 

みなさん、おはようございます。今日は12月最後の礼拝から、3カ月ぶりに皆さんと集うことができました。本当にうれしく思います。様々な顔を見る事ができ、本当にうれしいです。お互いを感じながら礼拝をすること、一緒に集まって礼拝できることはなんと素晴らしい事でしょうか。「わたしたちがここにいるは、すばらしい」と今日は大声で言いたいと思っています。一緒に喜びましょう。

私たちはこどもをたいせつにする教会です。こども達の声を聞きながら礼拝するのも久しぶりです。子ども達の声をまた聞きながら礼拝をしましょう。こどもの声を聴いて、今この礼拝はひとりではないと感ながら礼拝をしましょう。

久しぶりに集えたことは本当にうれしいことです。会えない期間、寂しいことはたくさんありました。それぞれによくみなさん頑張っておられたと思います。

苦しい時期でしたが、その中にも、前向きにとらえることのできたこともあるでしょうか。このときだからこそ、感じることが出来た事、考えることができたことがあるのではないでしょうか。一緒に礼拝することの恵みと大切さを知りました。集うかけがえの無さを知りました。家族の大切さを知りました。オンラインでの可能性を知りました。

コロナの出来事はただの絶望ではないし、もちろん希望でもありません。私たちは明るさと暗さ、その間で、何をこの期間から受け取ったら良いのか、まだ神様への問いが続いてゆきます。

この後どのように社会は変わり、教会は変わるのでしょうか、あるいは変わらないのでしょうか。私たちの信仰はどのように変わってゆくのか様々な問いが生まれています。

コロナの時期とはこのように、ずっと神様に問い続けている時期でもあるでしょう。神様、どうやってこの状況を生きてゆけばよいでしょうか。なぜこんなことが起こってつらい目にあうのですか。私はどこに向かってゆけば良いのでしょうか。それを神様に問い続ける時期となっているのではないでしょうか。そしてその中に、神様との出会いが隠されているという時期ではないでしょうか。

その中の問いを大切にしたいのです。過ぎ去ったこととするのではなく、この期間に問われたこと、「なぜ」と思ったことを大切にしてゆきたいのです。ただ以前のように戻る、戻れたという希望ではなく、問われた「なぜ」ということを大切にしたいのです。

私たちは集えた喜びをもっと分かち合いたいと思う一方で、今日集ったのが受難週ということも覚えておきたいことです。イエス様の十字架を特に覚える1週間を持ちます。4月2日(金)10 時30分から受難日祈祷会を持ちます。そちらもどうぞ参加されてください。

集った今日は、十字架について考えたいと思います。せっかく集えたので、本当はもっと明るい話をしたいのですが、来週のイースターを前に十字架にしっかりと目を向けてゆきましょう。

今日は集えた喜びを味わうと同時に、イエス・キリストの十字架を覚えましょう。いま私たちは苦難の中に、希望がある。希望の中に苦難がある。そのような時です。喜びの日に十字架を覚えましょう。十字架の下で、この集えた喜びを覚えてゆきましょう。

私たちはコロナの中苦難と希望の間にいます。そしてその間で様々な問い「なぜ」が起こっています。そしてその問いの中に神様との出会いが隠れています。同じ様に、十字架も絶望と希望の間の問いの中にあります。その問いの中に神様の出会いが描かれています。

今日は、その苦難の中、絶望と希望の間にあった「なぜ」という問いに、神様との出会いが隠されていた。それが今日示されている十字架という出来事だったのではないかということを見てゆきたいと思います。今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 

今日の聖書個所は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉が出てきます。この言葉をどう受け取るかは難しい問題です。イエス様が受けた最後の誘惑だった。いや神様への堅い信頼だった。両方のとらえ方があります。十字架の下でこの言葉を聞いた人々も困惑をしたでしょう。十字架の下で聴いた人々にとっては、47節にもあるとおり、イエス様が預言者エリヤを呼んでいると思ったとあります。

この十字架上での「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」をどのようにとらえ、受け取って行くかは、キリスト教にとってとても難しい問題です。

この十字架の叫びには大きく分けると3つのとらえ方、解釈があります。ひとつは絶望と受け取る解釈、もうひとつは希望と受け取る解釈、そして3つ目はその間と受け取る解釈です。

まず叫びを絶望と取る解釈を見てゆきたいと思います。この言葉どおり、イエス様は神様に「見捨てられた」という絶望を味わっています。希望が無いと感じています。神様は私たちと同じ苦痛を味わうお方なのです。この十字架にイエス様が人間として地上に生まれてきた姿が現されています。苦難の時に人間が絶望してしまうこと、それを神様は身をもってよくご存じです。人が絶望を感じるのは、たとえば自分や、身近な人の死です。戦争や災害や病気、コロナ。その中で死を迎えるとき、美しい死ばかりではありません。絶望しながら、苦痛の中で死を迎えてゆくということは確かにあります。

神様を信じられなくなるような出来事、死は確かにあります。その無惨な死を味わったのがイエス様だったのです。ある人は「神は俺を見捨てやがった。そう言って叫び、無残に死んだ」と解釈をします。この解釈、とらえ方は暗い解釈ですけれども、それほど私たちの死の苦しみを知って下さっているイエス様、神様の姿ととらえることもできます。

2つ目の解釈はこの叫びは希望だという、まったく正反対の解釈です。特に日本では遠藤周作の「イエスの生涯」という小説によって広がっています。その解釈によれば、このイエス様の最期の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22篇の冒頭の個所であり、22篇全体を読むと苦難から希望へと変わっていく詩になっている。だからイエス様は十字架でこの詩の冒頭部分を述べる事で22編全体が表している「絶望の中でも神様を堅く信頼し続ける」ということを言い表そうとしたという解釈です。イエス様はやっぱり苦難の中でも揺るがずに、神様を堅く信頼し続けたのだという解釈です。

広く浸透している解釈なのですが、古代も今も「詩編の冒頭の言葉を言えば全体を示す」という習慣は見当たりません。どうもこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が22編全体を表現したとは言えそうにありません。この叫びは十字架上での信頼と希望の言葉だったというのは、美しい解釈、理想的な解釈なのですが、可能性は低いと思います。

3つ目の解釈はその間ともいえる解釈です。この解釈が広がりつつあり、私もそのような叫びだったのではないかと思っています。全くの絶望、全くの希望どちらでもない、中間、第三の道となる解釈です。この解釈では叫びの中の「レマ」という言葉に注目をします。「レマ」それは「なぜ」という意味の言葉です。特に目的や理由を尋ねる時に使われる言葉です。

新たに広がりつつあるのはイエス様の叫びは絶望と希望の中間にある「なぜ」を問い続けた叫びだったという受け止め方です。イエス様の最期の叫びは、「なぜ」という神様への懸命な問いだったのです。

神様を信頼していたのに「なぜ」このような苦痛があるのか、神様を信頼して来たのに「なぜ」このような死を迎えるのかと疑問をぶつけながら死んでいったのがイエス様の死だったのです。「なぜ」「なぜ」「なぜ」と神様にその苦難の理由と目的を問いながら、死んでいったのがイエス様の死です。

この受け止め方では、イエス様は確かに苦難の、絶望の中にいます。しかしその一方でイエス様は神様に呼び掛け続け、理由を尋ね続け、神様との関係を諦めてはいません。最後の最後まで神様に呼びかけ、絶望しきらずに「わが神」「なぜ」と呼びかけ続けているのです。

私もイエス・キリストの十字架はそのような出来事だったのではないかと思います。まったく絶望しきっていたわけではないでしょう。またこのような苦痛の中でも神を信頼し続けるといった、単純な事柄ではなかったと思います。

苦難の中でイエス様は懸命に「なぜ」と神様に向けて問い続けたのです。そしてその叫びの先にこそ神様がおられたのではないでしょうか。誰よりもその叫びをしっかりと聞き取っていたのが神様だったのではないでしょうか。イエス様が「なぜ」と叫ぶ、そのただなかに神様と出会いがあったのではないでしょうか。

私たちは今日集うことができ、希望の中にいます。でもやはりまだコロナの収束しない絶望の中にいます。その間にいます。それは十字架の上と同じ状況でしょう。神様への信頼を持ちつつも、なぜと問う私たちです。

苦難の中で神様に呼びかけ、「なぜ」を問い続ける私たちです。イエス様にも私たちにもその答えは簡単に与えられません。でも今日の十字架のイエス様の姿から、その問いの先に、その中に神様がきっとおられるのだと思います。そのような「なぜ」という叫びの中で、私たちも神様に出会うことになるのだと思います。

いま私たちは絶望と希望、暗さと明るさ、悲しみと喜び、それらの間に置かれています。しばらくはそれが続くでしょう。私たちはそこで神様に「なぜ」と問いかけを続けます。何に向かってゆけばよいのか、何のためにこの苦難があるのかを問います。その問いと共に、問いの中にきっと神様がおられます。これからも私たちには様々な問いは続くでしょう。でも必ずそこに、神様との出会いがあるはずです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、“なぜ”私を見捨てるのですか」今週、その問いの中で、神様とまた出会ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

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【全文】「低みに立つ十字架」マタイ20章20節~28節

みなさん、おはようございます。今日も離れた場所からですが、共に礼拝をしましょう。来週から集って礼拝をする予定です。共に礼拝できることを楽しみにしつつ、また今日も一緒に礼拝をしましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしましょう。

私は公正・平等な選挙改革にとりくむプロジェクト(通称:とりプロ)という市民団体に加わっています。様々な選挙制度の問題点について法律の改革、特に公職選挙法の改革を訴える市民団体です。

選挙の時、候補者は「清き1票を」と大声で訴え、一生懸命、握手し、頭を下げます。「私は国民のために頑張ります」「国民の声を政治に反映させます」とアピールします。でも当選後どうでしょうか。国民のために働いているのかどうか。どうやらすべての政治家が国民の為に働いているというわけではなさそうです。

選挙期間中の姿に騙されてしまったかもしれません。謙虚に、あんなに深々と頭を下げて、一人一人の目を見て握手したあの人が、議員になるとまるで別人のようです。国民の質問に答えなかったり、官僚に責任を押し付けたりします。そこには言葉だけの、うわべだけの謙虚さが当たり前のように存在します。当選して議員になるまでは、選挙の期間だけは謙虚で低姿勢でいる。当選したら態度が変わるような、偽りの謙虚さは本当に必要ないと思います。

聖書にもよく「仕える」という言葉が出てきます。「仕える」とはどんなことでしょうか。イエス様は仕えられるのではなく、仕える者になるために来たと言います。それは高くあげられるためのではなく、低みに立つために来たのだと言うことがきるでしょう。ちやほやされるために来たのではなく、苦しみや悲しみを持った人の元に来たということです。

その低みの一番下のあるのが十字架です。人々に仕える、最も低い場所に立つという出来事が、十字架という出来事だったのです。私は今日の個所から、救い主イエス様がどこに立とうとするのかを見てゆきたいと思います。そして低みに身を置き、生きたお方だということを見つけたいのです。そして私たちもこの話から、人に低く、他者に仕えて生きようと促されていることを受け取ってゆきたいと思います。今日の聖書の個所をお読みしましょう。

 

今日の聖書個所、当時イスラエルを政治的に支配していたのはローマ帝国です。ローマ皇帝は人々の頂点に立っていました。世界の人々の上に君臨していたのです。そのピラミッド構造の下にいた人々、底辺にいた人々は経済的に搾り取られていく対象でした。そして支配する側、される側に大きく分断し、差別が広がる社会でした。人々はその社会の変化を求めていたでしょう。だからこそ新しい王を求めました。イエス様に新しい王様になってほしいという期待があったのです。

今日の物語でまず登場するのは、ゼベダイの息子たちの母です。彼女はイエス様が王になった時、自分のこどもを左と右、いわば要職として地位を与えて欲しいと願いました。彼女をどう感じるでしょうか。権力を欲しているのでしょうか。自分の子がかわいいあまり人を押しのけようとしているのでしょうか。あるいは権力の欲しい息子たちに利用されているのかもしれません。

彼女は謙虚な様子に見えます。20節、まずひれ伏して登場します。自分からぶしつけに願いを言うことはありません。イエス様に21節「何が望みか」と聞かれるまで深々と頭を下げ続けるのです。そして母はあなたが王になった時、自分の子どもを要職につけて欲しいと願います。

他の弟子たちはこれを聞いて怒ったとあります。やはりみんな地位と権力が欲しかったのでしょう。もしイエス様が王になったら、自分たちは支配する側として、地位と利権を持つことができると考えたのです。それを奪われそうになって十人は怒っているのです。

この弟子たちに対してイエス様は、自分は王にならないということ、そして自分は仕える者になる、もっと低い場所に身を置くということを語っています。イエス様は王になることを選びません。それは地上の権力において、自分が支配される側から、支配する側になろう、下剋上を考えたのではないということです。

イエス様は王になって支配するのではなく、無残に十字架にかかるということを選びました。十字架を選んだということは、自分の身を最も低い場所に置くという選びでした。イエス様は自らの地位や権力には一切興味を示さず、徹底的に虐げられる民衆の側に立とうとしました。人々を支配し、十字架に架ける側ではなく、十字架に架けられる側にいることを選んだのです。

イエス様は弟子たちに22節「杯を飲むことができるか」と聞きます。杯を飲むとは十字架に架けられてゆく、苦難を受けてゆくという意味です。王になり権力を握るのではなく、苦難の道を歩むことができるかと弟子たちに聞いています。

弟子たちは簡潔に「できます」と応えています。でも私たちは十字架の物語を知っています。この後、12人の弟子たちはすべてイエス様が十字架にかかろうとする時に、逃げ出してしまいました。杯を飲むことのできた者は一人もいなかったのです。

そして25節以降で改めてこう言います。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と。これはおそらくローマの支配について、地上の支配者たちについて言っているでしょう。彼らは自分の利益のために好き勝手に権力を使っています。

そしてイエス様は弟子たちに言います。26~27節「あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

高い地位を得たいなら、表面的にでもまずは謙虚な、低姿勢を装いなさいということではありません。それでは現代の政治家と同じでしょう。後から上になりたいから今、下に身を置いておくということではありません。ここで譲った方が、後々大きいものが待っている。だから今は譲っておきなさいという計算をしているのではありません。イエス様はただ、仕えられるためではなく仕えるために来たのだとはっきり言います。

イエス様は後にも先にも地上で偉くなるため、高い地位を得るためにきたのではないということです。むしろ逆です。小さくなり、低くなるために来た。地上に来られたのです。仕えさせるためではなく、仕えるために来た、それがイエス様です。

これを低みに立つと言うことができるでしょう。そしてその中心が十字架にかかるということです。地上で最も低い場所、十字架にいたのがイエス様です。この後のより大きな栄光を受けるため、偉大になるため、高い地位になるために十字架にかかったのではありません。ただ低みに立つことを、そこに居続けることを選んだのが、十字架なのです。復活して栄光を受けるために、十字架があったのではありません。ただ低みを選び、そこの神がおられることを示すためにイエスは来られたのです。

今日もうひとつ注目しておきたいのは、ゼベダイの息子たちの母についてです。彼女は息子の地位と権力を求めた人として理解されるかもしれませんが、実はもう一度登場する場面があります。

それはイエス様の十字架の場面です。ゼベダイの母は最期の十字架を目撃したと記録される3人の女性の一人でした。彼女が大いなる者になってほしいと願った自分の子どもは、そこにはいません。十字架を前に逃げてしまったのです。栄光とは程遠い神の姿を見ようとはしませんでした。結局母だけがイエス様に従い続け、十字架を見たのです。

ゼベダイの子らの母は、自分の子を大いなる者にして欲しいと願ったあの人は、いま地上で、最も残酷な刑を受けて、低く小さく死のうとしている、十字架を目撃したのです。その生き様、死にざまを直接見たのです。イエスが偉大になるのではなく、小さく低く死んでいった姿を見たのです。

どうでしょうか。私はきっと彼女はこの後熱心にイエス様に仕える者となっただろうと想像します。自分の地位ではなく、低みに、苦しみに身を置くことを選んだのではないでしょうか。十字架を目撃した者として彼女は、人々を従えるのではなく、人々に仕えてゆく人になったのではないかと思うのです。

私たちも今、受難節をいただいています。私たちもゼベダイの母のように十字架を目撃したいのです。始めは地位や偉大さを求めていたかもしれません。大きさと成長を求めていたかもしれません。でもイエス様がどんなお方か、何を目指したお方か、それを十字架によって知ったのがゼベダイの子らの母です。

彼女は私たちと同じと言えるでしょう。聖書を通じて十字架を目撃している私たちも、イエス様が低く、小さい場所に身を置いたということを知りたいのです。受難節、イエス様の低さを知ります。イエス様が仕える者となったこと知ります。イエス様が他者に仕える方だと知ります。私たちもそのような歩みを始めましょう。

来週から集うことができることに感謝します。教会の中でも、そしてそれぞれの場所でも、私たちは互いにに仕えあいましょう。それはうわべだけの謙遜や、仲良しごっこではありません。神を愛し、隣人を愛する。神に仕え、隣人に仕える。私たちはそのような共同体をまた来週から作ってゆきましょう。

 

そしてもちろん、今皆さんがいる、私たちが生きるそれぞれの場所でも同じです。それぞれの場所からも神を愛し、隣人を愛する。神に仕え、隣人に仕える。私たちが派遣された場所でまた、1週間をそのように歩みましょう。次週に皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。次に皆さんに仕えて、お会いできるのを楽しみにしています。お祈りいたします。

 

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【全文】「私たちが集まるのは、すばらしい」マタイ17章1節~13節

 みなさん、おはようございます。今日は本来ですと久しぶりに、会堂で集まっての礼拝の予定でした。しかし週報でもお伝えした通り、緊急事態宣言の延長に伴い、それぞれの場所での礼拝をもうしばらく続けることになりました。とても残念ですが、いい加減振り回されるのに疲れてきましたが、それぞれの場所から精一杯の礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。きっと子どもたちも大きくなっています。

この期間、それぞれどのように過ごしておられるでしょうか。なんでもなるべく自宅で、少人数で、小さな声でと言われ、息苦しく過ごしています。何とか適応しつつ、楽しもうとしてきた私たちです。一人で何かをすることが増えたでしょうか。

最近は一人登山というのも増えているそうです。あるサイトを見ていたところ「一人登山のメリット」が書かれていました。こんなメリットがあるそうです。まず一人なら自分のペースで歩ける、話しながらの登山は楽しくても実は疲れる、一人なら好きなときに立ち止まれる、一人なら行きたい山だけに行きたいときに行ける、一人ならすぐに中止できる。そんなメリットが書いてありました。

記事を読んでいて、私はこのYouTubeでの礼拝に重なるような気がしました。YouTubeの礼拝は確かに自分のペースで礼拝できました。なにより自分の体調を心配せずに礼拝できます。体調がすぐれない時は少し休んでから見ることもできます。会堂に集まるのは楽しいですが、人と会話することは実は疲れるということも確かにあります。一人なら、トイレに行くとき、一時停止もできるかもしれません。あるいは他の教会の礼拝をすぐに見に行くことも可能です。話を聞いていて難しそうならすぐ停止するということもできるかもしれません。

そしてサイトにはもう一つの記事があり、「山を一人で昇るのは危険」という注意もありました。例えば一人登山はすべて自分の判断で行わなわなければならないので注意が必要とありました。もちろん二人以上いれば判断が正しいわけではありませんが。一人だと思わぬ判断ミスをする危険もあります。一番怖いのはけがや遭難です。けがをしてしまったら、とても心細さを感じるでしょう。誰が見知らぬ人に助けを求めなくてはならないかもしれません。また道を間違え、遭難してしまえば、行方不明になっても誰も気づかず助けてくれないかもしれません。

また、一人登山は上達するのに限界があるともありました。経験の豊富な人と一緒に教わりながら登山した方が、たしかに上達が早いでしょう。

一人登山は危険という記事を読んでいて、私はこれもYouTube礼拝と重なるような気がしました。一人だと、後でいつでも見れるから、後にしようという判断も働くでしょうか。先にあれこれ用事を済まそうとしてしまいます。いつでもできるということは、今しなければいけないという判断を狂わすことになるでしょう。

行方不明も大きな問題です。YouTubeの礼拝では私が参加していなくても、誰もそのことはわかりません。いつも集まれば「今日あの人いなかったね」「久しぶりにあの人に会えたね」という会話が自然に起こります。でもYouTube礼拝はそれをすることができません。

そして経験のある人と一緒の方がよいということは信仰でもまったく同じです。登山の心地よさ、注意は先輩方が一番詳しいのです。経験のある人と一緒に礼拝すると安心感があります。その背中を見ながら礼拝することは、とても私たちを励ますのです。高齢の教会員の方々は私たちの心の支えです。

もちろん今は、集うことができない時です。私たちはそれぞれの場所から礼拝をします。これには良い点も多くあります。でもできれば私はやはり皆さんと一緒に、集まって礼拝をしたいのです。礼拝は信仰は自分だけでは不安です。一人では行方不明になってしまいます。一人ではなく経験のある人と一緒に礼拝したいのです。

今日、特に私たちは集まることができず残念です。早く共に礼拝をできる日が来ることを祈ります。共に集って礼拝できる恵み、今日の個所から聞いてゆきましょう。そしてまた集えるように祈りましょう。

神様がまた教会に私たちを集めて下さる日を待ちましょう。礼拝は神様の招きです。神様はこの礼拝に、共に集う礼拝に必ずまた私たちを招いてくださいます。礼拝で私たちは共に神様のみ言葉を聞きます。そこからそれぞれの場所に派遣されてゆきます。そして、神様は派遣されたそれぞれの場所にも共にいて下さるお方です。今日もそのことを、聖書から頂いてゆきましょう。

今日の聖書個所を読みましょう。今日の話はイエス様と弟子とが一緒に山に登るという話です。マタイによる福音書で山はとても重要な要素です。マタイ福音書は重要な事を語る時、繰り返しそれが山の上だったと記録しています。特に山上の説教が有名でしょう。そしてイエス様はよく山に一人で登り、祈りました。一人登山です。イエス様にとって一人登山は大切な時でした。静かに自分のペースで祈ることができる大切な時でした。

しかし今日は一人登山ではありません。高い山に登ることに、弟子たちを招くイエス様の姿があります。みんなで一生懸命、力を合わせて山を登るのかと思うと、そうではありません。1節には「イエスはペテロ、それにヤコブとその兄弟を連れて」とあります。イエス様が連れてとあります。その山の山頂には、私たちが自分の力で登るのではありません。そこへはイエス様が連れていってくださるのです。イエス様が山頂へと招き導いてくださるのです。

礼拝も同じです。私たちは自分で礼拝をしている、また集えるようになったら教会へ行く、そう思うかもしれません。でもそうではありません。今日それぞれの場所の礼拝も、集うことができる日の礼拝も、そこへはイエス様が連れて来てくれくださるのです。

そして弟子たちは山頂でイエス様の本当の姿を初めて知ることになります。今まで一緒にいたイエス様が光り輝く姿を見るのです。

ペテロはその時言うのです「主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」。まったくそうです!今日こそ私たちがこの言葉に目を止める日があるでしょうか。イエス様によって、いっしょに礼拝に連れてこられ、その光を受けた弟子たちが発した言葉です。私がではなく「私たちが」とあります。「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」主を集まって共に礼拝することがどれほど、素晴らしい事か、私たちは今日本当に知るのです。

ここに集えたことはなんとすばらしいことか。ペテロは言いました。私たちも、もし集えたらなんと素晴らしいことでしょう。

ペテロは仮小屋(幕屋・テント)を建てようとしました。それは神様にずっとそこにいてもらうための仮小屋でした。ずっとここにいて下さい、ずっとここに住んでくださいとペテロたちは願いました。しかしその幕屋は必要ありませんでした。神様はそこに留まる方ではないからです。神様は一部の人しか行けない場所で、光り輝くのではありません。私たちに触れて、高いところから地上に一緒に降りてきてくださるお方です。

そしてイエス様は何よりも私たちと共にその山を降りて下さるお方です。この物語は下山が大事です。イエス様は山を降りながら復活と十字架について弟子たちに語りかけています。受難節、」特に十字架と復活について、この山から降りながら話をされたということを覚えたいと思います。

山を降ったのは、イエス様は高い場所にずっとおられるお方ではない、私たちと共にいるのだという事を示しています。そして同時に、山を降るとは栄光から十字架への下り坂を意味しています。今日の山頂の栄光は苦しみの十字架へと変わってゆくのです。

イエス様は山頂から十字架に向かうことによって、栄光の姿だけではなく、苦しみ痛みを伴う場所に現れるのだということが示されています。イエス様は山を降りながらそのことを弟子に伝えています。

そして実際に山を降るとそうです。次の場面では、傷つき痛みを負った人々にまた出会いに出かけています。イエス様はこのように、共にいて下さるお方です。私たちを一緒に山頂へと、礼拝へと連れて行ってくださるお方です。しかし、そこに留まらないお方です。私たちと共に山を降り、地上を歩んでくださるお方です。病を負った人に向けて山を降りるお方です。十字架へと降りてゆかれるお方です。

神は人を礼拝に招き、人として地上に降り、苦しみ小さくされた人に向けて歩むお方だということがこの物語の中には詰められています。

私たちは今日もそれぞれの場所から礼拝をしています。早く集えることを願っています。共にイエス様から礼拝へと招かれ、共に山頂に連れてこられ、共にみ言葉を聞き、「私たち一緒にここにいるのは、すばらしいことです」!そう言える日を待ち望んでいます。

私たちは、共にイエス様に礼拝に招かれ、共に山を登ります。その山頂で礼拝し、私たちは主の言葉と出会いました。しかし私たちも神も、そこに留まりません。またそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。

今日イエス様に招かれ、集える日を待ち望みましょう。「私たちが一緒にここにいるのは、すばらしいことです。」そう、主に礼拝をささげることができる日を祈りましょう。そしてイエス様は今週も私たちと共に歩んでくださいます。十字架という痛みの中におられる姿を示してくださいます。また礼拝に集えることを祈ります。今週もまた1週間の歩みをイエス様と共に歩みましょう。

 

 

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【全文】「他者の十字架を背負う」マタイ16章21節~26節

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もそれぞれの場所からですが共に礼拝をしましょう。今日私たちは10年前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を覚えて礼拝を持ちます。どうぞ心を合わせてこの時を持ちましょう。

10年前のあの日、皆さんはどこで何をしていたでしょうか。それぞれが、はっきりと思い出すことができるのではないでしょうか。私もはっきりと思い出します。電話が通じなかった事、大渋滞が起きた事、歩いて帰ったこと、津波をテレビで見た衝撃、原発が爆発する様子をはっきりと思い出すことができます。自分が体験したこと、自分が被災者になったことはきっと一生忘れないでしょう。自分が体験した痛みは、忘れずに、長く心に残るものです。

一方、私たちは他者の痛みはすぐに忘れてしまう者たちでしょう。被災地の今を知らない私たちです。福島の復旧工事は97%が終了したとのこと。福島の復旧工事は終わりつつあります。宮城県では去年の12月最後に残っていた仮設住宅が取り壊されました。少し生活は落ち着いてきたのでしょうか。岩手県では最後まで残っていた陸前高田市のかさ上げ工事が終わりつつあります。土地がかさ上げされ、街は津波に強くなりました。

しかし当然、失われ続けているものがあります。かさ上げされた土地になかなか住民は戻らないようです。例えば気仙沼市は防潮堤や、盛り土をして、津波対策などはできたものの、病院など医療機関が少なく、人口は震災前から45%になっています。土地の整備に時間がかかり、故郷を離れざるを得ない、別の場所で生活再建を始めざるをえない人々も多くいます。津波対策をすれば復興が終わるというわけではないということを知ります。

一方、住民が増えている場所もあるそうです。宮城県新地町の人口は震災前より24%増加したそうです。震災後に仙台市のベッドタウンとして開発され人気があるそうです。しかしここでは昔から住んでいた人と、移住者に溝があると聞きます。昔からの住民は多くのイベントを開催し交流しようしていますが、新しい住民は無理やりコミュニティーに取り込まれたくないと感じることがあるそうです。

震災からの復興は、ただ津波に強くなる、住宅ができる、人が戻る、集まるということだけでは解決にならないのだと知らされます。地域のコミュニティー、私たちは交わりと言いますが、それが失われた痛みは現在も続いています。それをもう一度新しい形で作り直してゆくことはまだまだ始まったばかりです。十年ちょっとでは解決できない問題はまだ多くあるのです。

そして原発の問題はほとんど進展がありません。それどころか2月13日にあった地震で福島第一原発の原子炉の亀裂部分が広がり、水位が30㎝も低下しています。原発についてはまた来週、お話をしようと思います。いずれにしても、被災地は見た目には、表面的には復興を遂げているように見えるでしょうし、実際にそうでしょう。しかし、見えない部分では多くの苦しみが続き、危険が伴い、生活の再建はまだまだこれからも続くという状況なのでしょう。

私たちは、今日もこの被災地を覚えて祈り、主に礼拝をささげる日曜日を持ちます。まだ痛みが続いていることを覚え続けてゆきたい、忘れないでいたいのです。自分の痛みは忘れないように、まだその痛みが続いている人を忘れないでいたいのです。そしてそのままにしないでいたい。私たちにできる祈りをささげてゆきたいのです。震災の痛みはまだ続いていることを覚え続けてゆきたいのです。

3月のテーマは受難としています。今日は、自分の十字架を背負うということについて考えてゆきたいと思います。自分の十字架を背負うとは、個人的な痛みや失敗を負い続けるということではなく、他者の痛みを知りつつ、他者の痛みを覚え続け、それに連帯をすることが、自分の十字架を背負うことなのだということを覚えてゆきたいと思います。今日も聖書に聞いてゆきたいのです。

 

 

今日の個所には24節「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。十字架を背負うとは、一般的には「長く我慢すること」を意味します。辞書には「耐えがたい苦難、重い負担、消えることのない罪などをいつまでも身に持ち続けること。使用例『裏切り者としての十字架を背負う』」とありました。

しかし私たちは「十字架を背負う」という言葉をそのような、我慢する、耐え忍ぶといった意味には使いません。それは痛い場所を我慢するとか、人を裏切ってしまったような失敗に負い目を感じ続けるということではありません。

自分の十字架を背負うとは、私たちにとってどんな意味を持つでしょうか。それは自分が痛むというよりも、イエス様の十字架の痛みを知るという体験でしょう。自分の十字架を背負うとは、イエス様が感じた、あの十字架の痛みを私も体験するということです。

ではイエス様の十字架の痛みとはどんな痛みでしょうか。無実の中で鞭うたれ、重い木を持たされる痛みです。しかし十字架の痛みとはその肉体的な痛みを意味するわけではありません。イエス様の受けた痛み、十字架、それは当時の宗教・政治の指導者たち、それに扇動された人々によって起こされたものです。

貧しい人、差別を受けている人、汚れていると言われてた人、ゆがんだ構造に搾り取られていく人、イエス様はその人々の為に歩んできました。あるいは干ばつなどの自然災害で生活基盤を失った人たちも含まれていたでしょう。その人々ためにイエス様歩まれました。

イエス様の十字架の痛みとは、それは小さくされた者のための痛みでした。他者のための痛みでした。貧しい人々のための痛みでした。イエス様は苦しむ人々をめぐり、働き、福音を伝えました。そして苦しむ人々が力をつけてゆく姿は、権力者たちには危険に思えました。現状の安定を揺るがす、危険なことに見えたのでした。だからこそイエス様を十字架に架けると決めたのでした。

イエス様が背負った十字架、それは共に苦痛を味わい、その理不尽に反対するという意味を持ちました。そのためにイエス様は十字架の痛みを背負ったのです。人々の苦しみが続くことに反対し、十字架を背負ったのです。それは他者のために背負った十字架でした。貧しく、小さくされた者たちのために背負った十字架だったのです。

イエス様の十字架を知るということ、それは他者の痛みを知ることと言えるでしょう。自分の十字架を背負うとは他者の痛みに連帯し、それを取り除こうとしてゆくことと言えるでしょう。

イエス様の十字架は、苦しみを共感し、それに反対をしたという出来事でした。そして、私たちが担う十字架もそれと同じ十字架です。苦しみに共感し、それに反対をする。それが私たちが十字架を背負うということです。

痛みに共感し、それを取り除こうとする、それが十字架です。イエス様の十字架と私たちの十字架はそのようにして結びついています。

自分の痛みを我慢するだけでは、自分の十字架を背負うことにはなりません。互いの痛みを知り続けなければ、自分の十字架を背負うことにならないのです。互いの痛みを知り、共感し、それに反対をしてゆかなければ自分の十字架を背負うということにはならないのです。

他者の痛みを共に感じてゆくこと、共にその苦しみに向かってゆくこと、それが自分の十字架を背負うということです。この苦痛がきっと希望に変わる、いっしょに変えてゆこうと信じ、共に働き、歩み続けることが自分の十字架を背負うことなのです。聖書には自分の十字架を背負うとありますが、他者の痛みを知り、共に働くことが自分の十字架を背負うということなのです。

 イエス様の苦難の予告を聞いたペテロは22節「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言います。「あなただけは生き残ってほしい」と願ったのです。しかし、イエス様は自分だけが生き残れば良いという声をサタンの声と言います。自分だけが生き残る道を選択しなかったのがイエス様です。自分だけが幸せになる道ではなく、人々の痛みを感じ、受け取ってゆくことを選んだのがイエス様です。

26節には「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」とあります。自分の命を失うとあります。自分の命を失う、それは人間性を失うということでしょう。自分だけが救われる道を選ぶとするならば、そこで人間性が失われます。全世界の豊かさ、便利さを手に入れても、もしあなたの人間性が失われたら、他者の痛みを見て見ぬふりをするなら、何の得になるのでしょうか。どんなもの、豊かさよりも、あなたの人間性、共感し、共に苦しみ、共に働くその人間性がなによりも大事だとイエス様は言っているのです。

自分だけが生き残る道、それこそが十字架を背負わない生き方、人間性を失う生き方と言えるでしょう。痛みを感じる人、貧しい人を見て見ぬふりをして、あれは終わった、あとは自分がいけないのだと正当化することが十字架を背負わない生き方でしょう。

私たちは東日本大震災から10年を迎えます。私たちは自分の十字架を背負って生きることができているでしょうか。他者の十字架を背負うことができているでしょうか。自分の十字架、それは被災地の痛みと伴い、生活の再建を具体的に祈り、働いてゆくことです。私たちが同じ人間として共に痛み、苦しみ、働いてゆくことが、十字架を背負うことです。それは全世界を手に入れることよりも大事なことです。それが自分の十字架を背負うことです。これからも私たちは被災地のために祈り、働きましょう。私たちの十字架を背負いましょう。お祈りをいたします。

 

 

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【全文】「キリスト教とLGBTQIA」サムエル記上18章1~4節、19章1~2節

 

「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」サムエル記上18章1節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。それぞれの場所からですが、共に礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと次に会う時、一回り大きくなっていることでしょう。会うことができる日を楽しみにしています。私たちはこども、小さくされている人を大切にしてゆきましょう。

今月私たちはジェンダー・男女平等とセクシャルマイノリティー・性的少数者について考えています。とても難しい事柄で、語る言葉には必ず限界があります。でも沈黙していてはいけないことでもあると思います。先週は草島先生をお呼びして、様々な性を持っている人がいるということを学びました。LGBTQIAとしましょう。異性に対して魅力を感じる人だけではなく、同性に魅力を感じる人(LG)、両方に感じる人(B)、身体と心が違う性であるという人(T)、自分が男性か女性かどちらかを決めないという人(Q:クエスチョニング)がいます。さらに生まれつき男女両方の身体的特徴を持つ人(I:インターセックス)、誰にも感じない人(A:アセクシャル)という人々がいます。これらの人は性的少数者(セクシャルマイノリティーやLGBTQIA)と呼ばれます。これは病気ではありません。薬や治療で治すものではありません。そのひとらしさの一つです。

キリスト教ではこのことをどのように受け止めているでしょうか。キリスト教ではセクシャルマイノリティー、特に同性愛を「罪」であるとする教会が多くあります。例えば私たちが多大な支援を受けてきたアメリカ南部バプテストもそうです。「罪」「罪深い欲望」「人間の堕落」だと厳しく批判しています。

ある当事者は、ミッションスクールの先生に「オカマは地獄に落ちる」と言われたといいます。キリスト教はLGBTQIAを、異性では満足できない人の性的不品行の罪として断罪してきました。いまでもそのように考える教会は多くあります。インターネットで検索すると日本でもそのような理解をする教会がまず目に留まります。

LGBTQIAを歓迎する教会といっても様々で注意が必要です。LGBTQIAの人たちを「罪人」として迎える教会もあるからです。神は男と女に創造したのに、男同士、女同士でいるのは、神の創造に反する「罪」だとするのです。そして異性に興味を持つ多数派に「悔い改める」ことを祈り求める教会も多くあります。教会には歓迎するがLGBTQIAをやめたら洗礼を受けることができるとする教会もあります。

ありのままで歓迎しますということを、積極的に公けにする教会は実は少ないように感じます。だから先週お配りしたアンケートが必要なのでしょう。LGBTQIAの人々にとって安心して集える教会は少なく、そしてそれを見分けることも難しいのが現状です。先週の草島先生の宣教にもあった「私たちも礼拝に集いたい」という言葉が本当に聞こえてくるようです。

では私たちの教会はどうでしょうか。昨年の4月から出席者数を男女に分けて数えることをやめました。また新来者に男女を聞くことをやめました(なぜ聞いていたのでしょうか?)。兄・姉・兄弟・姉妹という性別によって呼びわけることも週報ではやめました。それは男女で役割を分けないという事と、様々な性のありかたを受け止めてゆきたいという願いからそのようにしました。私たちの教会で、私たちの信仰においてLGBTQIAは「罪」でしょうか。

私個人はまったくこのことを罪だとは思いません。私は神様がLGBTQIAの人々をそのまま愛し、生きよと言っていると信じます。決して罪とは思いません。そもそも罪とは何でしょうか。様々に表現できますがひとつに、罪とは「対等な関係でないこと」と言えると思います。

対等ではない関係に罪があります。相手に上下関係を押し付けること、自由を奪うこと、偏見と差別をもって命に優劣をつけようとするのが罪といえるでしょう。そして反対に愛とは平等・対等で信頼できる関係を言うのではないでしょうか。

ですから、たとえ異性と共にいても、そこに対等な関係が無ければ愛ではないと思います。愛が異性に向けられるか、同性に向けられるかが罪か愛かの違いではありません。相手の命・性を暴力的に扱い、奪い、否定し、対等でないならばそれこそが罪です。同性・異性どちらに向けられるかに関わらず、対等で信頼のある関係が愛ではないでしょうか。性に優劣をつけず、対等な関係でいることが愛の関係でしょう。まず自分はどの性別であるか、どの性別を愛するかにかかわらず、対等な関係、信頼しあえる関係が大事だと思います。それは男女平等でも見てきたことです。私はLGBTQIAを罪と思いません。それぞれの性と命を、自分の命・性と同じように大切な命・性として尊重したいと思います。

今日は聖書にある、二人の男性の物語を読みます。彼らは「深い愛情」で結ばれていた二人です。私たちに身近な聖書の物語です。私たちはこれまでこの話を「男の友情」と受け取ってきたかもしれません。しかしもう一度この物語をLGBTQIAの視点で読み直してみたいのです。この物語から同性同士の深い愛情、対等で信頼し合う深い愛情を読み取ってゆきたいのです。

 

 

 今日はダビデとヨナタンの物語を読みます。当時イスラエルの王として立っていたのはサウルという王様でした。サウル王は様々な国と戦争をしていましたが、その中でもペリシテ人との戦いは困難な戦いでした。しかしその戦場にダビデという少年が現れます。彼は戦った経験などない、小さな少年で、羊飼いでした。羊飼いとはとても身分の低い仕事でした。しかしダビデは小さな石一つで、ペリシテ軍の最大の巨人、ゴリアテを倒してしまいました。そしてその戦いは勝利をしたのです。それを見ていたサウル王はダビデを呼んで、すぐに自分の軍隊にいれるというのが今日の場面です。

サウル王とダビデの対面の場面にはヨナタンという息子、王子がいました。この場面はサウル王とダビデの初めての出会いということと同時に、ヨナタンとダビデの二人の最初の出会いでもあります。

1節にはこうあります「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」。ヨナタンという男性は深い愛情を同性であるダビデに感じました。そして魂が、自分の存在のすべてがダビデに向けられるようになったのです。また3節には、ヨナタンが自分の上着、来ているものや剣や弓などの一式すべてをダビデに与えてしまったとあります。そしてもう一度、ヨナタンがダビデを自分自身のように愛したという言葉が繰り返されています。

この二人は本来、戦争で手柄を挙げた羊飼いと、王子という圧倒的な上下関係の中にありました。しかし深い愛情を持ったヨナタンはダビデとの関係をまったく対等に持とうとします。自分の着ているもの、持ち物を分け、羊飼いのダビデと対等な関係になろうとしています。相手に尊敬と敬意を持ち、一人の人間として向き合ったのです。3節には「彼と契約を結び」ともあります。どのような契約だったのでしょうか。それはきっとあなたを傷つけないという、平和な契約だったでしょう。

しかしすぐにダビデはその実績からサウル王に憎まれることになります。サウル王はこの勝利で英雄視されるダビデが疎ましくなったのです。19章1節を読むとダビデを殺すようにとサウル王は命じています。

しかしここでもヨナタンはその「深い愛情」からダビデの逃亡を手助けすることになりました。ここではまるで、僕が王様を助けるように王子が羊飼いだったダビデを助けています。この二人がとても親密な関係であったことを描いているとともに、対等な関係であったということも丁寧に描いています。ヨナタンの愛は20章17節でも三度語られています「ダビデを自分自身のように愛していた」とあります。

やがてヨナタンは戦争で死んでしまいますが、ダビデはヨナタンの死を悲しんだ歌が聖書に残されています。サムエル下1章26節にはこうあります。「あなたを思ってわたしは悲しむ 兄弟ヨナタンよ、まことの喜び 女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。」

この二人の男性は深い愛情をもって接していました。同性愛とも十分に解釈できると思います。そしてそれは罪として扱われていません。美しい同性の愛情として聖書には記録されています。

このように、多様な性・愛の在り方が聖書にも記録されています。それは決して罪としてではなく、相互の対等な関係として描かれます。同性の深い愛情が、美しいものとして描かれています。

私たちはこの個所をどのように読むでしょうか。私はこの個所から多様な愛、性の在り方に心がひらかれてゆきます。深い愛情は異性の間だけではなく、同性の間にも同じようにあると知らされます。それはとても身近な物語でした。私たちが今までよく知っていた物語でした。しかしその関係によく気づかなかった物語です。そしてそれは確かに同性同士の愛です。深い愛です。

そして私は、その裏側にある、愛に見えても本当は対等ではない関係に注意をしたいとも思います。愛と言って、本当は差別や偏見が含まれていないかを注意したいと思います。

多様な性を否定し、「罪」として「治す」ことを「愛」という人がいます。でも本当にそうでしょうか。神様は男と女を作っただから男と女で役割を二つに分けることが愛だと語る人がいます。本当にそうでしょうか。私は男か女か、LGBTQIAかどうか、そのことよりも、一人一人の間に対等な関係があるか。差別や偏見が含まれていないかに注目をしたいと思っています。

私たちは1カ月、ジェンダーとセクシャルマイノリティーについて聖書から考えてきました。私たちはすべての命・性と対等に向き合いたいのです。すべての性が平等に生きることができる社会と教会を目指したいのです。私たちの間にある性差別、性的少数者への差別が無くなるように共に祈り、共に礼拝してゆきたい、共に働いてゆきたいと思います。お祈りをいたします。

 

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【全文】「わたしたちも礼拝に集いたい」マルコ3章20節~35節

【はじめに】

本日はこの平塚バプテスト教会の礼拝に招いて下さりありがとうございます。平塚教会の礼拝は、平野先生の就任式と今回で二回目になりますが、平塚パトロールの炊き出しで毎月この教会を訪れており、私にとっては身近な教会に感じております。

さて今日のテーマはセクシャルマイノリティです。セクシャルマイノリティは、LGBTQとかSOGIなど様々な呼び方がありますが、今日はLGBTという言い方を用います。LGBTについて平塚教会のみなさんのお手元に「キリストの風」集会からのアンケート依頼文があるでしょうか。依頼文にある説明を御覧下さい。Lはレズビアン/女性同性愛者、Gはゲイ/男性同性愛者、Bはバイセクシュアル/両性愛者、Tはトランスジェンダー/性同一性障害者や性別違和など、と説明されています。性のあり方は多様なのですが、この四つの頭文字を取って、全体を呼ぶわけです。

ふじみキリスト教会ではLGBTの学びを2019年に行いました。きっかけは教会に「キリストの風」集会からのアンケートが来たことでした。主任牧師が返事を書いていたらこれは牧師個人の意見としてではなく、教会として返さなければならないと気づき執事会に相談がありました。そこでまず執事会で学習会をすることになり、主任牧師から学習会を担当してくれないか、と依頼され私は二つ返事でOKしました。私が引き受けたのには理由がありました。それは私がこれまで何もしてこなかったことへのおわびの気持ちからでした。LGBTの友人たちの苦悩を知りながら、私は何もしてきませんでした。

私自身を振り返ると、若い頃LGBTをバカにしていました。高校生の時、同級生で物腰や口調が柔らかい同級生に対して「AIDS」と呼んでからかい、大学生のときに海外旅行から帰って来た友人が、旅先で同じ男性から口説かれた話しを聞いて一緒に笑う、そんな者でした。そんな私は、あるとき「自分はレズビアンなんです」という告白を聞いてはじめて身近に感じ、また真面目な事なのだと知りました。それからLGBTのクリスチャンたちと出会い、礼拝に参加することさえも決して簡単なことではない事、自分のことを友人に伝える事が、実は命がけでありどれだけ勇気のいることなのかを知りました。また自分が知らないだけで自分の周りに多くのLGBTの方がいることを意識するようになりました。牧師でゲイである友人の口癖はこうです。「気づいていないだけで、神さまもゲイも、いつもあなたのそばにいる」。最近その友人が本を出しました。その本のタイトルが『あなたが気づかないだけで/神様もゲイも/いつもあなたのそばにいる』です。

しかし、知っていながら私は教会でいままで何もしてきませんでした。そんなとき、「キリストの風」集会のアンケートが教会に届いたのです。やらなければ。否、やりたいと思いました。執事会で一年かけて学び、そして翌年教会全体で2回の学習会を開きました。この学びを受けて次にどう行動するか、という段階で新型コロナと緊急事態宣言で中断し今日に至っています。そんな折り、このような機会が与えられてありがたいと思っています。

 

【「キリストの風」集会からの問いかけ】

みなさんのお手元に「キリストの風」集会からのアンケートがあるでしょうか。このアンケートから「私たちも礼拝に参加したい」「信仰の交わりに加わりたい」という切実な願いが感じられます。礼拝に加われない現実があるわけです。それは同時に「あなたの教会の信仰の交わりに私たちは加われますか」という問いかけになっています。この問いかけに私自身、そして教会自身が問われているのです。学習会では様々な意見が出されました。積極的に同意する声がたくさん聞かれました。と同時に、どう考えれば良いのか悩む声や、困惑する声もありました。そして学びの後で私に直接、これこれが自分には納得できないんだ、と戸惑いを訴えてくれた方もありました。そのときは「どう答えたら良いんだろう」と必死でしたが、後で、嬉しかった。それは正直な気持ちを話してくれたのは、私の事を信頼してくれているからです。本当にありがたいです。

ところでイエスだったらどうされるでしょう。それを今日の聖書の箇所から考えたいのです。この箇所で、これまで私には二つひっかかるところがありました。ひとつは28−29節の神を冒瀆してもよいが聖霊を冒瀆してはだめ、というところ。私たちは神、イエス・キリスト、聖霊は同じ三位一体だと学びます。するとここはどんな意味なんだと。もう一つは母に対して「わたしの母とはだれか」ってちょっと冷たすぎないか、と。しかし今では、今日の箇所が非常に好きになりました。

 

【イエスのまなざし】

この物語の前の流れはこうです。イエスは活動を始めてから、漁師を弟子にし、徴税人を弟子にし、汚れた霊に取り憑かれた人、病人、障害のある人をいやし、また教え、と活動しながら町々村々を巡ります。イエスの周りにあつまってくるのは行き場のない群衆たち、病人、障害を持った人。弟子たちも漁師はましな方で、徴税人やら怪しげな人たち。だから弟子たちと一緒に食事をしているとファリサイ派の人々からは後ろ指を指されます。「イエスは罪人、徴税人と一緒に食事しているよ。そんなのありえねー」と。当時「ちゃんとした人」は、そんな「罪人」たちと一緒にはいません。イメージを膨らませながら情景を思い描いてみると、今日の場面はこんな感じでしょうか。

 

イエスはその日もあちこち尋ね歩き、活動していました。もう夕方になったので「じゃあ帰ろう」と、ここんところお世話になっている家に帰って来ました。するとどこからか分からないが、群衆が集まって来る。また教えたり、いやしたりと大わらわ。イエスも弟子もパンを食べる暇もないくらい。そこへイエスの家族がやってきます。

なぜかというと、実はイエスの実家の周りで悪い噂が流れていたのです。「ちょっとちょっと知ってる?マリアちゃんとこの息子のイエスがおかしくなったんだって」「どうして?」「罪人と一緒に食事しているらしいよ」「え〜マリアちゃん大変。うちの子には付き合わないように言っとこう」。家族の周りで人々がそう言い始めます。するとそれを聞いた兄弟が「ちょっとお母さん聞いた。イエスを何とかして!」「もうとっ捕まえてこよう」。とそんなことこんなでかけつけて来たのでしょう。

 

家族が着いた頃、エルサレムから来た律法学者の先生方が、ごちゃごちゃ言い始めています。「ちょっとあれ何だ」「いやしをしてるみたいだが、自分が悪霊に取り付かれていて、悪霊の力でいやしてるんじゃないの」とそんなことを群衆たちの外から遠巻きに話しています。そこでイエスが「何バカなことを言ってるんだ」とたとえで反論するわけです。ここで28節と29節に注目下さい。28節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」は人間に対する神の無条件の赦しが語られています。神への冒瀆さえも赦されると。これはものすごい宣言です。そして29節が続きます「しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。「聖霊を冒瀆する」とはこういうことです。聖霊とは神が私たちに働いている働きです。それを冒瀆するとは、いま神が働いていることを否定すること。つまり神の赦しや祝福を否定すること。神はどんな人に対しても働いている。神の赦し、祝福は全ての人に与えられている。そのことを否定してはいけない、と。

ここでイエスのすぐ周りには弟子、そして群衆がいます。当時「罪人」と言われた人々です。当時のユダヤの常識では、イエスの周りに集まっていたような病人、障害者、また血を扱うような職業に就いていた人々、みな「罪人」と呼ばれていました。その人の病気が治ったり、またその職業を離れて律法を守る生活をしないと神から赦されないと考えられていた。だからイエスのもとに集まって来た人々はずっと赦されないまま。そんな、行くあてのない寄る辺ない人々がイエスのもとに集まっていたのです。そんな社会の常識に対してイエスの見方は違います。31−35節の場面では、再びイエスの家族が登場します。家族は到着したけれど、その「罪人」たちの中に入っていこうとしません。人をやってイエスを呼びにいきます。そのとき、イエスの周りにいた人々はどんな思いになったでしょう。「ああ、やっぱりイエスさまは私たちなんかと一緒にいちゃいけない人なんだ」「家に帰っていくんだ」と寂しい眼差しでイエスを見ていた、そして自分たちが「罪人」なんだ、ということを思い知らされていたのではないでしょうか。するとイエスは自分の周りを見渡してこう言います「見なさい。ここに私の母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。この言葉は家族に向かっての言葉ではありません。なぜなら家族は近くにいないのです。これはイエスを囲む人々にむけての言葉です。当時「罪人」と呼ばれ、神から遠いと考えられていた人々に対して、イエスは「あなたがたは神の御心を行う人だ」と語ります。つまりイエスは彼らのことを「罪人」とは考えていないのです。神が働いている人々。神のゆるしの中にいる人々。そうイエスはみているのです。だからこそ、「この人たちには神が働いていない」「悪霊の働きだ」なんていうことはゆるされない。この人たちに神が働いていることを否定しては絶対にだめだ、というのです。

 

【私たちの立つところ】

 イエスの家族が気にしたのは噂話、つまり世間体。律法学者が気にしたのは誰が正しい人で誰が罪人かということ、イエスが気にしたのはこの目の前の人々、群衆。視点が全く違います。この物語から「キリストの風」集会からの問いを考えたいのです。

 当時の「罪人」は個人的な過ちを犯した人々というよりも職業や身分に近いようです。徴税人、血を扱う食肉や皮なめしを生業にしている人々、病い、障害を持った人々。それは自分ではかえられないもの、現代のLGBTもそうです。LGBTは神に反している、罪人だ、聖書もNOと言っている、そう考えているクリスチャン指導者たちは沢山います。しかし私の聖書理解では、聖書のなかで、LGBTを中心主題に取りあげて直接否定している箇所は一つもありません。ただし、間接的に否定していると解釈できる箇所は何カ所かあります。そしてその箇所について、聖書はLGBTを否定しているのかいないのかで議論があるわけです。この議論の決着は簡単ではありません。議論はずっと続いています。

 ここで大切な事、心に留めておきたい事は、議論が続く限り、LGBTの人々は礼拝に出られない、ということです。礼拝に参加したい、一緒に御言葉を聞きたい、一緒に賛美したい、一緒に祈りたい、そんな人々が礼拝から締め出されたままになるのです。私たちはつい「何が正しいのか」にこだわり、ときに自分を安心させるために「こうだ」と決め、結果として壁を作ってはいないでしょうか。しかし「何が正しいか」は果たして人間がそう簡単に判断できるものでしょうか。誰かに対して「あなたは罪人だ」などとは私には言えません。そしてまた誰が言えるのでしょう。私たちはただ、この私を受け入れてくれる神に感謝するだけです。私の牧師としての人生を振り返ると罪ばかり。言葉で人を傷つけ、行いで人を躓かせてきました。私たちが神の前に集えるのはただ、神によってゆるされているからです。私たちは何か条件を満たしているから、とか何かができるから、何かをしているから神にゆるされているわけではないのです。イエス・キリストが「いいよ」「私のもとに来なさい」と言ってくれるから。ただそれだけです。私たちはそんな神のゆるし、なんの条件もない無条件のゆるし、神の愛への感謝から始めるしかないのです。そしてそこから始めればよいのです。

お祈りします。

 

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【全文】「神の性平等宣言」ガラテヤの信徒への手紙3章26節~28節

みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝できることに感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。小さい者を大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。

今月私たちは男女平等と、性的少数者について聖書に聞いています。難しいテーマでしょう。1カ月の中ではとても私たちは理解することはできないでしょう。でもこれをきっかけに、私たちは様々なことを考えるスタートにできればと思います。

私たちは男女平等を目指します。社会の中で、教会の中で、家庭の中で女性が役割を押し付けられたり、役割を奪われたりすることに反対をします。男女あらゆる性の人が、平等に役割を持ってゆくことを願っています。特にコロナ禍の中では、女性の貧困や行き詰まりが指摘されています。女性に安定した職業が与えらないからです。もちろん教会もこの女性差別と無縁ではありません。特に女性牧師について向き合う必要があります。

平塚バプテスト教会はアメリカ南部バプテストからの多大な支援を受けて設立された教会です。これまでの多くの経済的支援、そして宣教師などの人的な支援を受けてきました。

しかし2000年を区切りに日本バプテスト連盟とアメリカ南部バプテストは別々の方向性に進むことになりました。そのもっとも大きな原因だったのは女性牧師についての考え方の違いでした。

南部バプテストが2000年に出した信仰告白ではこのように宣言されています「男性も女性も教会に仕える賜物を与えられているが、牧師の職は聖書によって資格づけられた通り、男性のみに限定されている。」(Ⅰペテロ5:1~4)。つまりアメリカの南部バプテストの教会は女性は牧師になれない、なってはいけないと決めたのです。

これは当時日本で大変な衝撃をもって受け止められました。アメリカから来ている女性牧師・宣教師であった人々はすべて解任され、帰国するように求められました。

もちろん日本のバプテストはこの姿勢に反対し、アメリカとは別の道を歩むことにしました。私たちは男女、性に関わらず牧師となることができると考えたからです。アメリカから来ていた女性牧師たちは中にはその後も日本に残って牧師として活動を続ける方もいました。

しかし、私たちはそれまでアメリカから様々な影響を受けてきました。そして日本の中でも女性を牧師としないという姿勢は確かにありました。女性は牧師としてではなく、牧師夫人として献身することが求められた時代がありました。そしていまなお女性牧師の比率は13%と非常に低い比率です。

私たちにはもしかすると今でも、牧師といえば、家族を持った男性。牧師の妻といえば教会のことや牧師のアシスタントをする人という考えが根強く残っているかもしれません。性による役割分担を当然とする考えは私たちの中にも残っています。

私たちはアメリカ南部バプテストを批判しますが、それだけではとどまりません。私たちもそれに影響を受け、そのような姿勢でいた、いるのです。

私たちは男女の間に、あらゆる性の間に起こる差別からの解放を目指す教会でありたいと思います。神様はそのような性による差別を否定される方だと私たちは信じます。だからこそ教会も、家庭も、社会も、男女とあらゆる性の人が平等に社会に活躍できることを目指してゆきたいのです。

日本バプテスト連盟は、今日のガラテヤ書3章28節に立ち、このような性差別に反対を表明しています。日本バプテスト連盟が出している宣言にはこのようにあります。「私たちは、私たちの間に様々な違いがあることを、イエス・キリストの福音ゆえに喜び、尊びます。しかしその違いに優劣をつけ、力の差として利用し、支配・被支配の関係性を生じさせる時、あらゆる差別が起こります」

性によって差別をしない、聖書は男女、あらゆる性の平等を語っているのだ、そのように告白がされていますし、それは私たちの信仰と同じでしょう。私たちは性によって役割を決めない教会です。

今日はそのことをこのガラテヤの信徒への手紙からいただいていきましょう。男性も女性も、あらゆる性の人々が神様の前に、あるいは社会の中において平等に生き、働く。聖書がそのことを宣言しているということを見てゆきましょう。私たちの身近、内側に、性による差別はまだまだたくさんあります。しかし神様が男女の、あらゆる性の平等を宣言しているということを見てゆきましょう。

 

 

今日はガラテヤの信徒への手紙ですが、パウロが手紙を送ったこのガラテヤの教会には分断と差別が起ころうとしていました。特に問題となっていたのは、神様はユダヤ人以外も救うのかということでした。

つまりユダヤ人以外、外国人は神様の救い・恵み・守りを受けることができないという人がいたのです。いまの私たちからは想像できない考えかもしれませんが、それは外国人差別と似たものと言うことができるでしょう。神様の救いはユダヤ人のみに起こる、外国人にはないと考える人がいたのです。

そのように二つに分断した人々へパウロは言いました26節「あなた方は皆、神の子だ」と。外国人も含めて全員に対して「全員、神様の子どもです」と呼びかけたのです。すべてに人に対して「神の子」として語り掛けたのです。

そしてパウロはガラテヤに3つの差別があることを挙げています。これは今の社会にも通じる3つの差別です。民族的差別、社会的差別、性差別の3つです。

民族的差別はイメージしやすいでしょうか。たとえば宗教や人種や地域に関する差別です。日本で言えば在日朝鮮民族への差別が民族的差別と言えるでしょう。人種や民族によって差別をしようとすることに、聖書は反対をしています。

もうひとつの差別は奴隷か自由人かという差別です。社会的差別といえるでしょう。それはたとえば職業や身分に関する差別です。日本でいうなら非正規社員への差別的な扱いが挙げられるでしょう。正規も非正規もないということです。

そして三つめは今月取り上げている性別による差別、性差別です。男か女かによっておこる差別、不平等です。おそらく、性による差別がすでにガラテヤ教会の中で起きていたからこそ、このような言葉が出てきたのでしょう。性による差別、それは男と女のゆがんだ力関係です。パウロは女は男に従い、男を補助するという関係を否定しています。男性が優先されることを否定しています。

3つまとめて考えるなら、自国民の身分の高い男性が、より神様に近いと考えていた人々がいたのでしょうか。外国人の身分の低い女性が神様から一番遠いと考えたのでしょうか。現代でも実際はこのような現実にあるかもしれません。平等に見えてもいざ災害、感染症が起きると、一番に追い詰められてゆくのはこのような人々です。

しかし聖書はどの民族か、どのような身分か、性別がどうかは神の前で一切関係ないと教えています。パウロはそのような、ゆがめられた関係性に反対をしています。パウロはその差別は必要ない、必ず終わると宣言しているのです。

そしてその時にパウロが繰り返し強調しているのは、それがキリスト・イエスによって起こるのだということです。私たちのゆがんだ関係はキリストによって、本来の姿へと回復されてゆくのだと言っているのです。私たちの平等は、神の子キリスト・イエスを根拠としているのだということを繰り返しています。

私たちの中には今なお性による差別が多くありますが、その差別は私たちが神様から力をいただいてこそ、乗り越えてゆけるということです。神様が、私たちの中に平等に向けた力を、与えてくださるのです。

私たちは神様の前に平等です。教会の中で平等です。そしてそれは教会の中にとどまりません。その平等は社会や家庭の中に広がってゆくのです。私たちが派遣されてゆく先、社会や家庭にも様々な課題があるでしょう。そこでも私たちはすべての人が平等であるということを確認してゆきたいのです。神様に聞き続けてゆきたいのです。

そして28節には「男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」とあります。私たちは一つだということが強調されています。もともと分断された二つのものが、一つになるのではありません。神様の下に、それはもともと一つのものだったということです。一つに“なる”のではなく、“もともと皆で一つ”だったのです。私たちは差別を超えて、必ずひとつに戻ることができるということです。

それは私たちが分かちがたく共同体として結びついているということを示しています。それは、ひとつの体であるともいえるかもしれません。

聖書はキリストによって差別は終わると宣言し、キリストにある平等が宣言されています。私たちの社会や教会にはまだまだ見えない差別、性差別、格差が存在します。私たちにも、なおガラテヤの教会と同じように分断と差別があるはずです。しかし私たちのその差別のただ中に、神の平等宣言が響きわたっています。

神様は性の平等を宣言しておられます。男、女、あらゆる性の人が神様の前に平等に恵みを受けてゆくと語っています。性に関わらず、神様に応答し、働くように招かれています。

私たちはこの神様の言葉を歩みましょう。この教会で、そして家庭で、そして社会全体のゆがんだ関係が、神様の平等に戻されてゆくように祈り、働いてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「性を分け隔てない神」マタイによる福音書27章55節~56節

みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちも見てくれているでしょうか。

私たちは今月、4回の宣教の中で、ジェンダーとセクシャルマイノリティーについて考えながら、聖書に聞いてゆこうと思います。といっても横文字は難しいですね。考えたいのは男女差別や偏見をなくし平等になってゆこうということです。神様は性を分け隔てない方だと言うことです。そしてもうひとつは性的少数者いわゆるLGBTQと聖書・教会のことを考えようというです。1カ月かけて取り組みたいと思います。前半2回は男女平等について、後半の2回は性の多様さを知るということに重点を置いてゆきたいと思います。

1回目の今日は、神様は男女の役割を分ける方ではなく、すべての性の人々を招き、主とお互いに、尊重し合い歩むように促しているということを見てゆきたいと思っています。私たち平塚バプテスト教会では昨年の4月から週報の男女別の礼拝参加人数の表記を止めました。男性〇人、女性〇人という集計をやめました。そして週報に名前を書くのに最後に兄・姉をつける表記も止めました。男女にかかわる表記をしないこととなりました。

教会はいままでお互いを兄弟姉妹と呼び合い、お互いの特別な心のきずなを大事にしてきました。私たちはキリストにあって家族なんだ、そう親しみを込めて互いに兄弟姉妹と呼びかけあっていました。それは素晴らしいことです。

一方で家族として呼びかけるだけではなく、男女を呼び分けていました。このように教会は知らず知らずのうちに男女を分けて呼んだり、男女の役割分担を当たり前のこととして受け止めるようになりました。

男は男らしさ、女は女らしさが大事だということは教会でも言われてきました。男なら泣くな、女ならおしとやかにしなさいと教会も教えてきたのです。でもそれをこれからも私たちが続けていくかどうかは立ち止まって考えてゆきたい事です。

私たちは本当は、男らしさ、女らしさよりも、その人らしさを大切にした方がいいということに気づき始めました。男だからこう、女だからこうというのではなく、いままでからするとその中間にいる人や、反対にいる人がいてもいいのではないかと気づくようになりました。それがその人らしさなのではないかと思うようになったのです。むしろ、今までのように男は男らしく、女は女らしくを続けてゆくことは、女性や少数者、あるいは男性さえも、そこに抑えつけ、縛り付ける力になってきたのです。

ジェンダーギャップ指数という国際的な指標があります。国別に男女平等がどれだけ進んでいるかを示すランキングです。日本は2006年は80位でした、しかし2020年日本は121位でした。日本の男女平等は先進国の中、東アジアの中で最低です。特に評価が低いのは政治、経済、教育の分野です。政治ではたとえば日本の内閣の中に女性が2名しかいない事が減点の理由です。ランキングの高い国では半数近くが女性だったり、リーダー・大統領自体が女性であることも珍しくありません。

経済で減点となっているのも女性がリーダーに抜擢されることが少ないのが原因です。日本の企業で女性管理職は14%、世界の平均の半分以下です。教育でも女性と男性の大学進学率に大きな違いがあります。

教会も男女平等が進んでいるとはいいがたいでしょう。平塚教会に関わらず、昔の教会の姿を聞くと、女性は執事になれない教会、女性は講壇の上に上ってはいけない教会など役割が分かれていた教会は多くあります。私たちの教会はそのような性別で役割を分けることから少しずつ解放されてきました。今日の司会者も女性です。でも教会の中にもきっとまだまだ私たちの気づいていない男女の格差。差別は残っているでしょう。教会を指数当てはめてみるとどうでしょうか。執事は女性多数でプラスの得点です。しかし過去に女性の牧師を招聘したことのないところは減点でしょうか。

神様は性を分け隔てせずに、招いておられるお方です。性別による役割分担を取り除いていきたいのです。それはきっともう私たちの無意識になってしまっています。その無意識をもう一度問い直し、男らしく、女らしくということを超えてゆきたいのです。

神様は性別で役割を決めるお方ではありません。神様は女性も男性も、あらゆる性の人を招いておられます。神様はすべての人が従い、互いに仕えあうことを求めています。今日そのことを聖書からいただきたいのです。

 

今日読んだ聖書も実は無意識に男女差別が含まれている箇所といえるでしょう。今日の個所では55節「イエスに従って来て世話をしていた」女性たちが記録されています。

女性はやはりいわゆる女らしくイエス様の身の回りのお世話をしながら、ついてきたのでしょうか。女性はリーダーではなく、男性を補助する者として後ろからついて回ったのでしょうか。男性に活動の中心をまかせ、女性たちは雑用係だったのでしょうか。もちろんそうではありませんでした。

この個所にある「世話をする」という言葉に注目をします。この言葉は聖書の言葉ではディアコネオーという言葉です。この言葉には食事の世話をするという意味があります。食事している人の周りで食事を出したり、水を出したりするのです。レストランのスタッフのイメージでしょうか。それが世話をするという意味です。

しかし、聖書ではこの言葉は食事の世話だけではなく、信仰的な言葉として重要な言葉です。世話をするとはすなわち、イエス様に「仕える」、そして他者に「仕える」尊重してゆくという意味を持ちます。それはただ単にイエス様に食事を出すということではなく、神の業、イエス様の福音宣教に仕えるという大切な意味です。もっと踏み込んで言うならば、イエス様に仕える指導者・リーダーとして活動に加わってゆくということを表す言葉です。信仰者としてイエス様に仕えるという意味です。

しかしこの「仕える」「奉仕する」(ディアコネオー)という言葉、なぜか日本語に翻訳されるとき、女性が主語になる個所で「世話をする」とか「もてなす」という言葉として訳されてしまいました。本来「仕える」と訳されるべきところが、女性にこの言葉が付くと「もてなす」と訳される、これは問題ではないでしょうか。聖書のもともと同じ「仕える」という言葉なのに女性なら食事当番、男性ならイエスに仕えると訳し分けてしまっているのです。

ここにはおそらく翻訳した人や社会の全体の無意識な感覚が入り込んでしまったのでしょう。神様は性によって分け隔てをされないお方です。でもこの個所は女性だからつまり食事や洗濯の世話をしたということでしょうという感覚です。そんな無意識な男女差別、男女の役割分担、ジェンダー差別がこの翻訳には表れてしまったのです。

おそらく背景には翻訳委員会の男女構成比が影響しているでしょう。いま私たちが使っている新共同訳は翻訳の検討委員会に女性は3%しかいなかったそうです。

数年前に新しい協会共同訳が出版されています。新しい翻訳をみますとこの個所は「仕えてガリラヤから従って来た」と修正されました。女性たちは世話をしていたのではない、イエスに仕えていたのだと改められています。

女性がイエスを「もてなした」と翻訳されている箇所もありましたが、これもイエスに「仕えた」に変更されました。男性の場合も、女性の場合も「仕えた」という言葉に基本的には統一されました。聞くところによれば、新しい翻訳の委員会の女性の比率は23%まで増えているそうです。私たちの聖書の中にすら、無意識に男ならこう、女ならこう、こうしてあたりまえという感覚が入り込んできてしまうのです。最近ようやくそれが変えられたのです。

この個所は教会に男女の役割分担を改めて考えさせる個所です。決して女性はお世話係ではなかったということです。教会にはたくさんの女性奉仕者、たくさんの女性指導者がいたということです。

この3人を見てゆきましょう。3人はイエス様にガリラヤからずっと従って来た初期からのメンバーでした。その3人はイエス様の最期の十字架を真正面から目撃をした3人でした。初めから終わりまで従った弟子でした。一緒に従ってきた他のペテロなどの男性の弟子たちは、その時みな逃げて、そこにはいませんでした。

十字架に真に向き合ったのはこの3人の女性でした。これ以外にも初期の教会にはたくさんの女性のリーダーがいたでしょう。多くの女性がこの十字架の出来事を目撃し、逃げて行った男たちに伝えたのです。

この女性たちは、イエス様に最後まで仕えたはずだったのに、後の時代、お世話をしてついて回った、雑用係ということにされてしまいました。しかし彼女たちは確かに一人の人間として、その十字架に確かに向き合ったのです。

さて、私たちは今日、神様はどんな人かを知るために集まっています。神様は性の分け隔てなく私たちを招かれるお方です。性別によって役割を分けるのではなく、男女やあらゆる性に向けて、分け隔てなく招きを下さっている方です。

神様は男性はこのように従いなさい、女性はこのように従いなさいと招くのではありません。すべての人に従いなさい。すべての人に仕えなさいとおっしゃっているお方です。

でも時に私たちの受け止め方は男女に分けてしまいがちです。しかし、神様は性の分け隔てせず、私たちを招き、私たちに仕えるようにと促しておられます。私たちの教会や社会や生活にもそのような出来事が多く残っているでしょう。社会に性別による格差がなくなるように願います。そして教会とそれぞれの生活の中にもその格差が無くなるように願います。

神様の福音はすべての性の人に与えられ、すべての人が仕えることに招かれています。その主に共に仕えてゆきましょう。

このあと私たちはオンラインで、主の晩餐の時を持ちます。今日はすべての人がこの主の晩餐に招かれています。共にいただきましょう。そして主イエスが私たちパンを配って、仕えて下さったように、私たちも互いに仕えましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「一点一画の愛」マタイ5章17節~20節

 みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですけれども、互いを感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も集ってくれているでしょうか。一緒にみ言葉を聞きましょう。

私たちは今月、協力伝道をきっかけに聖書を読んできました。私たち一人一人が交わり、助け合うことが必要なように、一つ一つの教会も協力が必要だということを見てきました。国外伝道の働きや牧師養成の働き、今この変化の時互いに学びあう存在としてお互いが必要であるということを見てきました。私たち一人一人と同様に、教会同士も愛し合い、励ましあい、助けあい、学びあうことを見てきました。

平塚バプテスト教会の歴史の中で、もっとも協力伝道の愛を感じたのは、おそらく無牧師の時期ではなかったでしょうか。梶井先生の退任から杉野先生の着任までの期間の無牧師の時、礼拝の宣教を自分たちで担わなければならなかった時、他の教会から宣教の奉仕に来てくださった先生のどれほど大きな愛を感じたでしょうか。私も信徒の時に無牧師を経験し、信徒説教の大変さを経験しました。他の教会からの協力がどれだけ大きな助け、愛だったのかをよく覚えています。神奈川連合の牧師がかわるがわる宣教を担ってくださいました。

教会は70年間で3500回以上の礼拝をしてきたとして、無牧師の期間はそれは半年ほど30回ほどだったのでしょうか。歴史の中からすれば、それは点のような出来事かもしれません。

でもそれは、確かに教会同士が助け合った「愛」の実践でした。小さい点のような出来事ですが、そこには大切な教会同士の愛が示されていたのではないでしょうか。周囲の教会が平塚教会とそこに集う人々を愛し、支えてくれたこと、それによって礼拝が守られたのです。歴史の中では、昔の事、ほんの一瞬の事、点のような事であるかもしれませんがそれは、大切な愛の記憶としてずっと覚えておきたいことです。この支えがなければ、私たちの礼拝は途切れてしまっていたかもしれないのです。

「愛」とは長い文脈の中から見れば「点」のようなことかもしれません。しかしその「点」はとても大事な「点」で、それによって私たちは支えられているということがあります。愛は小さな点のようなものかもしれません。しかし単語や文章に一点一画が抜けてしまうと全く意味が違ってきてしまうことがあります。愛もそのように点の様に小さくても、もし無ければ遠くからは同じことのように見えても、全く違うものなのです。愛は全体からすれば、小さな点であるかもしれないけれども、全体の意味を決定する、大事な「点」なのです。決して失われてはいけないこと。絶対に変えてはいけないこと。忘れてはいけないこと。それが愛です。

そして愛の形は変化し続けるものです。特に今の時代は大きく変化をしています。例えばたった1年前まで、私たちは礼拝の中で互いに握手することが愛の表現でした。しかし今は握手をしないことが愛になりました。互いに距離を取り合うことが愛になりました。無牧師に対する協力という愛の形も、きっとオンラインにされることも増えてくるでしょう。

愛の形は変わり続けます。しかしいつも事柄の中心にある「点」、愛に目を向けていたいのです。そして愛の形が変わるように、私たちの協力関係の形も時代によって変わり続けてゆくのです。

そして変化してゆくとは今までの事をすべて忘れる、捨てるのではありません。今まで大切にしてき点・愛はこれからもずっと大切にしてゆくのです。点のような出来事だったかもしれません。小さかったかもしれません。だけれども、その「点」は確かに必要な「点」だったのです。点が無いと全体の意味が変わってしまいました。この単語、この文章、この歴史は、愛があって初めて完成させられてきたのです。この点のような愛が、すべてを形作ってきたのです。愛がすべてを完成させてきたのです。

いまこの時代で、これからどのように愛を実践してゆくか、新しい形が問われています。私たちは様々に形を変えるけれども、イエス様が教えてくれた愛を大事にしてゆきたいのです。イエス様は、愛は「点」のように小さく見えるかもしれないが、その愛こそ大事にせよと教えておられます。

今日の私たちは聖書の個所から、このことを頂きます。愛は点のように小さくとも、全体の意味を決定する大きな役割を持っています。そして愛の形は変わります。神様はどんなに時間が経過しても、どんなに変化を繰り返しても、その小さな「点」である愛を大切にし、残してゆきなさいと語っておられます。今日の聖書個所を一緒に読んでまいりましょう。

 

今日の聖書個所の時代、イエス様に従う人々の中には、もう旧約聖書はいらないのではないかという人がいました。イエス様の教えがあまりにも新しく、そして常識から外れていたので、これまでの教え、旧約聖書はもういらないと考えたのです。一方、イエス様に従いつつ、旧約聖書の教えを熱心に守り続ける人もいました。

そんな人々の間でイエス様が旧約聖書をどのようにとらえたのかというのが今日の話です。イエス様はもう旧約聖書はいらないというその人々に、18節、旧約聖書は一文字も、一点一画も消え去ること、失われることはないと教えたのです。そして旧約聖書は変わらないということと同時に愛は形を変え続けるとも教えたのです。

今日はお読みしませんでしたが、続く21節以降を見るとそれがよくわかるでしょう。「あなた方も聞いているとおり、〇○と命じているが、しかし私は言っておく」という教えが繰り返されています。それがずっと5章の中で繰り返されるのです。今日の部分はその導入です。イエス様が言おうとしたこと、それは旧約聖書にはこう書いてあるけれど、しかし私はこれを愛として受け取りなおすということです。

旧約聖書は一点一画も失われない、でも愛は人や時によって、形を変え続けるということを語っています。

一番その特徴が出ているのは43節の敵を愛しなさいという箇所でしょう。イエス様は旧約聖書を愛の教えとして理解をしているのです。旧約聖書・律法を愛として解釈したとき、いままでとは違う新しい行動を起こすべきであると言っているのです。今まではこう聞いていたかもしれない、それは失われることはない。しかし私はいっておく、今この時、愛はこうであると言っているのです。イエス様はこのようにして旧約聖書の命令を愛として受け取り、愛の実践を語ったお方でした。

イエス様は、この時において、古代から伝わる言葉の、何が愛なのかを問い続け、答えたお方です。その「しなさい」「してはならない」中にある「点」のような愛を明らかにしたお方です。そして文章全体をこの「点」のような愛から解釈をし直したお方です。命令のことばを愛として解釈をし直したお方だったのです。

17節にはイエス様が「私は律法を廃止するために来たのではない。完成させるために来た」とあります。イエス様は旧約聖書を棄てるお方ではありません。旧約聖書を完成させるお方でした。完成させるのはイエス様の愛です。

たとえどんなに良い事をしても、どんなに律法を忠実に守ったとしても、そこに愛が無ければそれは空しい事です。ただ機械のようにルールに従って生きるだけです。しかしもし点のように小さくても、そこに愛があれば、単語と文章が完成するように、そこに意味が生まれるのです。愛が絆を作るのです。

そしてイエス様は特に、この愛の実践を大切にされたお方です。言葉だけではない愛の行動が大事だとおっしゃるお方です。20節にあるようにファリサイ派や律法学者は熱心にこの律法を実践する人でした。イエス様はその人たちを攻撃しているのではありません。その徹底的な実践に対して私たちも、それに勝るとも劣らない、愛の実践が必要だと私たちに教えているのです。

私たちも今、協力伝道の中で、教会の交わりの中で、どのような愛が実践されてきたのか、愛を受けて来たのかを思い出します。そしてこれからの時代にどのように、一人一人の間に、協力伝道の間に、愛の実践をしてゆくべきかを考えます。

今まで私たちの間には愛がありました。それと変わらない愛の示し方があるはずです。そして同時に新しい愛の示し方があるはずです。その愛は点のように小さいものかもしれないけれども。しかしその点・その愛は、無ければすべての意味が変わってしまうほど、大事なものです。その点・その愛を探し求めてゆきたいのです。そしてそれを今の私たちなりに、実践として示してゆきたいと思うのです。

私たちにはいつも協力伝道という愛に囲まれていました。教会の交わりという愛の中に確かにいるのです。その点を、その愛を大事にしながら、今この時にふさわしい愛の形をもとめてゆきたいのです。その形をイエス様に聞き続けてゆきたいのです。

1カ月協力伝道をテーマ、きっかけにして聖書を読んできました。どのようなことをお感じになったでしょうか。教会は一人ではできないことがあります。国外伝道や牧師養成は一つの教会ではできません。そして教会は相互に学びあい、励ましあう仲間です。これからも他の教会と共に歩みましょう。そして私たちは互いに祈り会うように、教会同士のことも互いに祈り、愛し合い歩みましょう。

私たち一人一人も同じです。会って大きな愛を示すことができない時にいます。昔と同じ愛を示すことができない時を迎えています。それでも互いの間にある点のような、小さいけれども確かにある、愛を大事にしましょう。形は変わることがあるかもしれませんが、今できる愛、この時にふさわしい愛を大事にしましょう。神様は小さな愛を大切にするお方です。互いに祈り、愛し合いましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「協力に招く神」マタイ4章18節~25節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。子どもたちも一緒に礼拝しているでしょうか。今はこどもや互いの声を聞くことはできませんが、共に礼拝していることを覚えながら礼拝をしましょう。

私たちは今月、協力伝道をきっかけに聖書を読んでいます。私たちの教会は全国300以上の教会と協力し、バプテスト連盟というグループを作っています。このバプテスト連盟ですが今、曲がり角を迎えています。

これまで連盟は、戦後アメリカから莫大な支援を受けてきました。その支援を基金として現在まで様々な活動を行ってきました。しかしあと数年で、その基金が枯渇する見込みとなりました。教会ごとにささげられる協力伝道献金のみで活動する、新しい体制が求められています。一方で、変化が求められているのは何もお金が無いということだけではありません。

近年の教会の状況は大きく変化してきています。多くの教会で、少子高齢化や財政の縮小などが起こり、これまでの教会の方針の転換が迫られています。さらにコロナ禍もこのような時に起こりました。今、各教会はどのような未来を目指してゆけば良いのかを必死に模索しています。

各教会が、どのような姿を目指してゆけばよいのか模索をしていますが、この問いに答えてゆくためには、自分の教会だけを見ていては答えがでないでしょう。各教会が互いの取り組みを学びあい、祈りあって、共に考え続けることによって、それぞれの教会に答えが出てゆくのでしょう。

そして連盟から送られてきた総会資料にはこのように書かれていました。「『キリストを証しする』とは『持っている者が持っていない者へ』という一方通行の証しではなく、教会自らが出て行って他者と共にキリストと出会い直し、共に福音にあずかってゆくこと」そのように書いてありました。

これからの連盟・教会は支援する側とされる側に分かれるのではないということです。連盟が教会を支援する、大きい教会が小さい教会を支援するという関係ではないということです。これから連盟・教会の姿を考える時、教会同士の相互の協力関係を築いてゆくことが大事だということです。

「支援する側とされる側が分かれてしまう」という事柄は各教会の中でも起きていることかもしれません。教会の中で、牧師と信徒の関係でサービスする側とされる側に分かれてしまうことがあるでしょうか。教会員同士で奉仕する人、される人に分かれてしまっていたかもしれません。あるいは教会と地域も支援する側とされる側に分けてしまっていたかもしれません。

 

これから私たちの教会の姿を考えてゆくうえで、ますます相互関係は大事になってくるでしょう。教会は助ける側、教える側、救う側だけにいるのではないのです。教会は地域の人々と、助け合い、互いに学びあい、祈り会う相互関係になってゆくでしょう。

私たちはこのように協力伝道から気づかされることがあります。私たちは助ける側にいるだけではないということです。私たちが救いを独占しているのではないのです。教会も助けられ、教会も共に救いを探している一人なのだということに気づかされるのです。

私たちは、共に学び、共に探す群れです。牧師と信徒が、昔からの信徒と最近信徒になった人が、教会と地域が、教会と連盟が相互に関係をしながら互いに探しあう、助け合う群れなのです。

そしてその時大事にしたいのは、小さいものからよく学ぶということです。社会で痛んでいる人々からよく学ぶということです。その人と出会い、協力し、その人から学ぶということを大切にしたいのです。そのことから私たちは福音とは何かを知ることができる、主イエスに出会うことができるのです。

神様は私たちを、そのような相互関係に招いてくださるお方です。神様は「あなたの正しさを世に知らせなさい」と言うお方ではありません。神様はあなたの弱さ、人々の弱さを、互いに知りながら、共に歩みなさいと言うお方です。そして神様は共に礼拝しなさいと招いておられます。そのように、神様は小さな私たちを相互関係、協力関係に招いてくださっているのです。小さき者との出会いに招いておられるのです。今日の聖書の個所もそのようなことが語られていると思います。

今日の聖書の個所を見てゆきましょう。今日の個所にある「人間を取る漁師にしよう」という言葉、実は私は少しこの言葉が怖いのです。この言葉はもしかすると、信者獲得の合言葉として理解されてきたかもしれません。教会が網を投げて信者を強引に獲得する姿も想像してしまいます。それはまるで、とる側、取られる側に人を分ける言葉のように聞こえます。

しかしマタイ福音書を読んでゆけばわかりますが、人を魚のように捕まえ、引き連れていくペテロ姿はどこにも見つかりません。むしろ、マタイ福音書の中で見つけるのは、主イエスにとらえ続けられるペテロの姿です。

「人間を取る漁師にする」と言われて、実はずっとペテロ自身がイエスにとらえ続けられていたのです。ペテロはイエスの愛の網から抜けようとしても、逃げることができませんでした。この言葉は拡大・成長・信徒獲得の合言葉ではありません。この言葉はイエスの「招き」を表している言葉です。

ここで現れていることはペテロの歩みが、このイエスの招きによって始まったということです。ペテロがイエスを選んだのではありません。イエスが一方的にペテロを選んだのです。ペテロの新しい人生が始まった場面、それはイエスに一方的に指名され、呼び出され、それに従ったことがスタートだったのです。

これが神様の招きです。私たち弟子のすべての始まりは招きです。神様は私たちを一方的に従いなさいと招いておられます。その招きからすべてが始まるのです。私たちの努力や決心が始まりではありません。まず初めて神の招きがあるのです。

そしてペテロは一人でイエスに従ったのではないということも見ておきたいことです。ペテロには仲間が与えられました。同じようにイエスに招かれた仲間です。ここでは3人が登場します。一人は兄弟アンデレ、さらにもう二人、イエス様は一緒に従う仲間を与えてくださるお方です。

この後、4人は共にイエスの歩みに従うことになります。共にイエスの話を聞き、共にイエスから逃げ出し、そして共に十字架を見ることになるのです。共に復活を見るのです。

一人で従ったのではありませんでした。一人で見たのではありませんでした。そして弟子たちの関係は、誰かが教え、誰かが助けるという一方的な関係ではありませんでした。

主にある相互関係がここからスタートしたのです。共に招かれた仲間、共に逃げ出した仲間、共に十字架を見た仲間、共に復活を見た仲間が与えられたのです。その主にある相互関係がここから生まれたのです。その関係は共に助け合い、共に学びあい、共に祈り会う関係でした。そのような仲間が主によって与えられたのです。

そしてそれは私たちも同じです。私たちにも主によって仲間が与えられています。主の招きによる仲間には上下はありません。する側、される側の分け隔てはありません。私たちには相互関係が与えられたのです。

イエス様に目を向けましょう。イエス様はどのように人々と関わったのかが書かれています。23節には、「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と書かれています。イエス様の活動は福音を宣べ伝えること、そして苦しみと思い煩いを持つ人々に会いにでかける活動だったのです。

それはガリラヤ中を回ったとあります。ただ待っていたのではありません。イエス様から出会いに出かけて行ったのです。困っている人が来てくださいというのではなく、どんどん出かけていったというのです。

そして人々の反応も書かれています。遠く離れた場所にまでその噂は広まりました。そして苦しみや痛みを持った人々が、互いに誘いあって、近くから遠くから、さらにイエス様の下に集まって来たのです。

これが教会の在り方ではないでしょうか。私たちはイエス様に招かれ従います。そして神様は仲間を与えられます。私たちは様々な苦しみをもった人々に出会いにでかけます。そして共にイエス様に出会い、ともに礼拝をするのです。

ここから私は教会に信者が多く与えられ、維持・成長してゆくことを読み取るのではありません。ここから私が読み取るのは、主イエス・キリストの招き、主イエス・キリストが仲間を与えられること、主イエスが苦しみのただ中に向かわれること、そしてその中からこそ礼拝する人が越されるということです。そこから福音が広がっていったのです。

私たちの連盟も、教会も、一人一人もそのようにありたいと願います。私たちは主イエスに招かれています。その招きに従いましょう。私たちには主イエスによって、仲間が与えられています。助け合い、学びあい、祈り会う仲間となってゆきましょう。私たちは福音を聞きながら、苦しむ人、患いを覚える人に出会いに行きましょう。そして癒しを共に主の前に祈りましょう。

私たちはそのような相互関係を教会の中で作りたいのです。そして他の教会ともそのような相互関係を作りたいです。そして地域ともそのような相互関係でありたいのです。お祈りいたしましょう。

 

 

【全文】「列に並ぶ神」マタイ3章13節~17節

 みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所から共に礼拝をできること、感謝です。日に日にコロナの情報が入ってきて心が休まりませんけれども、今日この短い時間ですが、共に集い、主に心を向けてゆきましょう。今日は子どもたちも集ってくれているでしょうか。私たちは子どもたちを大切にする教会です。今日は声を聞くことができませんが、共に礼拝をしましょう。

今月私たちは協力伝道という事をきっかけに福音を考えています。1回目は国外伝道について佐々木和之さんを挙げて、聖書を読みました。「和解の協力伝道」です。先週はコロナ禍の中でのオンライン礼拝や主の晩餐について各教会の取り組みから考えました。今日は協力伝道の中の「牧師養成(神学教育)」について考えてゆきたいと思います。

一人の牧師を育てることは、一つの教会では難しいことだと思います。いろいろな分野の専門知識や能力を一か所の学校に集め、教えてゆくことが必要だからです。聖書の専門家のみならず、バプテストの専門家、教会の現場の専門家、あるいはカウンセリングの専門家、パワハラ・セクハラの研修など、それぞれ専門とする教師から学ぶ必要があり、一つの教会でそれをカバーするのは不可能です。そういった意味で、神学教育・牧師養成には各個教会の協力が必要です。私たちはそれを神学校献金という形で支えています。

もちろん学びは神学校で終わるわけではありません。牧師になってからこそ、いろいろな失敗や学びがあるのです。私たちの教会が未経験で未熟な牧師を招聘するということも、真の牧師養成に参加しているといえるのではないでしょうか。私の平塚教会での経験は次の教会に活かされるでしょうし、いままでの牧師先生方もこれまでの教会の経験を豊かに活かしてきたでしょう。それが協力伝道です。

今日は私自身が神学校に入学する時のことをお話します。私は6年前に大井バプテスト教会から西南学院大学の神学部に入学をしました。私はまったく覚えていないのですが、大井教会を出発するとき、私が加藤誠先生に何と言ったか「必ずビックになって帰ってきます」と言って、教会を出たらしいのです。何年か経ってから教えてもらいました。

今思うととても恥ずかしいのですが、それは神学校入学前の私らしい言葉かもしれないと思います。私はずっとベンチャー企業に勤めていたので、日夜、成長すること、大きくなることを目指していました。もっと大きく、強くなろう、そんな思いが入学前にはあったのだと思います。実際、私の入学の時の志望動機を見直してみたのですが「キリスト教はもっと人々を導く力があって、社会でもっと評価されるべきだ。本当の価値を伝えたい」と書いてありました。ビックになろうとしていたのでしょう。

しかし神学校で教えられ、学び、気づいたのは真逆の事でした。神学校に通う間、小さいということの大切さを教わったように思います。学べば学ぶほど、知れば知るほど、小ささの中に神様の力が働くことを知りました。学べば学ぶほど、小さい命に目を向ける神様の働き、社会で小さくされている人とこそ神様が共にいることを知るようになりました。

大きくなることよりも、ビックなることよりも、小さいことを大切にしたいと思うようになりました。神様の働きはそこにあるのだと知るようになりました。大きな声を聞くよりも、小さな声を聞くこと。強さよりも弱さを大切にすることを知りました。その意味では、自分がひっくり返されるような4年間だったように思います。

きっとあのまま一つの教会にいてはできない学びをさせてもらいました。そして何より多くの体験によって福音を様々な面から見ることができました。ビックになるという目標は、小さくあり続けようという目標に変えられました。そして小さき者として、小さいことに目を向け、小さい者同士として共に歩むという目標に変えられました。それは今でも続けたい目標です。

今、コロナの時を過ごしているわけですが、その時も小さいことに目を向けたいのです。この時自分の小ささを受け止めたいのです。自分がいかに関わりに支えられていたのかを知りたいのです。また、このコロナに翻弄されて、小さくされている人々を覚えて祈りたいと思うのです。

神学校教育の大切さを私は痛感しています。そしてこれからも神学教育を支えることの大事さを感じます。そして今、これから神学校に通う献身者にもぜひ様々な学びを通じて、小さいものをたくさん見つけて欲しい、そのように願っています。

今日の聖書個所を読んでゆきたいと思いますが、今日の聖書からも、神様は小ささを大事にするお方だということを私は知ります。イエス様は大きさよりも、小ささを選んだお方でした。強さよりも、弱さを選んだお方でした。そこに共にいるお方だった。そのことを見てゆきたいのです。

 

 

今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様はバプテスマのヨハネに洗礼を受けたとあります。少し前の5節には、様々な地域から多くの人がバプテスマのヨハネの「悔い改めよ」という呼びかけに応え、洗礼を受けていました。おそらく多くの人々が集い、列になっていたでしょう。そのようにヨハネからバプテスマを受けました。

イエス様もきっとその列に並んでいたのです。他の人と同じように、悔い改める人々の列に並びました。イエス様は大きさや、強さ、威厳を持たないお方のように見えます。ヨハネの洗礼の活動を見て、悔い改める一人として洗礼を受けたように見えるのです。

イエス・キリストは神の子であるにも関わらず、悔い改めの列に並んでいるのです。私はそこに、へりくだる神の姿があると感じます。これは神がどこにいるのかをよく指し示している物語です。神は大きく、強く、勢力を拡大する場所に共にいてくださるのではありません。

神様は小さな人間たちが、悔い改めて列に並ぶその場所にいたのです。神様は私たちの悔い改めの列に一緒に並んでくださっていたのです。その長い列は大きく強くなるための列ではありませんでした。自分の小ささを知り、それを告白する人々の列でした。小さくされた人を大事にしようとする列でした。そしてそのような小さい者に、神の愛が注がれているということ信じる者の列でした。神様はそれを見逃さず、その列に共に並んでくださったのです。そこに共にいて下さる神がいます。マタイ福音書が繰り返し言う、インマヌエルの神様、我々と共にいる神がそこにおられるのです。

14節ヨハネはイエス様の申し出を何度も断っています。「私にそんな資格はありません」「私の方こそあなたからバプテスマを受けるべき者です」そう断ったのです。しかしイエス様は今、自分がバプテスマを受けるのは「正しい」といってそのバプテスマを受けたのです。

神の子であるイエス様は、自分より劣っているはずの人間からバプテスマを受けたのです。それが神の子という存在です。イエス様は自分を大きくすることよりも、小さな人々と共にいることを選んだお方だということです。

イエス様にとって「正しいこと」とは何だったのでしょうか。それは自分が力をもち、大きくなること、自分の偉大さを証明することではありませんでした。それよりも大事にしたこと、「正しい」としたこと、それは今悔い改めている小さな人々と共に、バプテスマを受けるということでした。それがイエス様にとって「正しいこと」だったのです。

イエス様のバプテスマは小さな人々と共に生きるという、たくさん方法の一つでした。15節「正しいこと」とは、小ささと共にいるということです。その一つが、このバプテスマです。力ある方、大いなる方、神様が、へりくだり、小さきものと連帯し、私たちと共に歩むという象徴がこのバプテスマです。イエス様のへりくだりと連帯がここにあります。小さき者と共にいる神、小ささを大切にする神が、ここに描かれているのです。

そして17節、神の霊もそのように歩むイエス様を「わたしの心に適う者」と言っています。

この後イエス様は宣教の旅を開始しました。しかしイエス様は大都市からその宣教を始めないのです。非効率な地方、ガリラヤから宣教を始めます。大都市にいけばすぐに信者がたくさん集まるのにと思います。神奈川県だったらまず横浜で宣伝するのが効率がよいでしょう。ビックになる近道です。でもイエス様は大都市に行くのではありません。ガリラヤという田舎町から宣教を始め、偶然出会った無学な漁師を最初の弟子にしたのです。そこにも神様の在り方が示されているでしょう。小ささと共にいるということです。

今日のイエス様がバプテスマを受けたという物語、実は後代の人々はこの個所の解釈に相当悩んでいました。なぜ力強き神の子が、それに劣る者から洗礼を受けたのか。偉大なる神にとって都合が悪いと思ったのです。でもだからこそここは大事なことが語られています。この個所はこのように、キリストがへりくだり、悔い改める小さなものと共にいたお方だということが示されているからです。

今日の物語で私たちは自分をバプテスマの列に並ぶ人々にかさねます。イエス様はその私たちの悔い改めの列に共に並んでくださるお方です。小さい者と共にいて下さるお方です。ご自分の大きさよりも、小ささを大事にするお方です。「正しいこと」それは、自分を大きな者とせず、へりくだり、小さい者、弱い者として人々と共に歩んでゆくことです。それが神様にとっての正しさなのではないでしょうか。

今この時、私たちは小さくいたいのです。コロナに振り回される弱い私、神の助けが必要な私を見つけたいのです。ピンチをチャンスに変えるのではなく、ピンチに共にいて下さる神様を見つけたいのです。

そして私たちは小さくされている人々にも目を向けたいのです。コロナに振り回される人々を祈りたいのです。

私は協力伝道の中で、神学教育の中でそれを教えられ、知りました。これからもこの協力伝道が続くことを願っています。小さき者が小さき者と共に生きる歩みが、多くの人々に起こされていくことを願っています。お祈りましょう。

 

「共にオンライン」Ⅰコリント11章17節~26節

 

 みなさん、おはようございます。今日もそれぞれの場所からですが、礼拝できることに感謝です。互いを感じながら共に礼拝をしてゆきましょう。子どもたちも集ってくれているでしょうか。

協力伝道ということを宣教のきっかけにしてゆきたいと思います。このコロナの時、連盟の教会音楽室からは「礼拝さいこう」という冊子が発行されており、コロナ禍における礼拝について、教会の様々な取り組みが紹介されています。その中でも特にオンラインでの主の晩餐について書かれている箇所が目に留まりました。東京の花小金井教会ではオンラインの主の晩餐を行う際に、それぞれの自宅でパンとブドウジュースを用意して、共にあずかるという方法を取ったと紹介されています。

礼拝や礼典は私たちの知恵によって行われるものではありません。礼拝と礼典は神様が起こしてくださるものです。そのような中で、それぞれの教会は今、どのように主がこの礼拝・礼典を起こそうとしているのかを探し求めています。そして今、多くの教会が、神様は礼拝を、会堂だけではなく、それぞれの自宅でも起こされようとしている、そう信じ、それぞれの自宅で礼拝をしています。

今、連盟の教会同士は今まで以上に神様の起こす礼拝についてあり方を考えるようになっています。そして同時に教会同士、互いのつながりを意識し、より強く互いに祈り会うようになっています。

神様の礼拝について問い、同時に教会同士のお互いののつながりを意識するということが連盟の教会で起きています。そしてそれは私たち平塚バプテスト教会でも起きている、これからもっともっと起きて欲しいことです。

私たちの教会も毎週会堂に集まって、礼拝を持つことを大事にしてきました。しかし私たちは今オンラインで、それぞれの自宅で礼拝をしています。会うことがかなわない今はこのような形を取らざるを得ません。しょうがないと思います。

しかし、このオンライン礼拝、それぞれの場所からの礼拝もまた、私は神様の招きだと思います。たくさんの人がこの礼拝に参加しています。神様がこのオンライン礼拝、それぞれの場所からの礼拝にたくさんの人を招いてくださっていることも覚えておきたいのです。

神様は、このようなオンライン礼拝を通じて、それぞれの自宅からの礼拝を通じて、私たちと結びついてくださるお方です。そしてこの礼拝を通じて、私たち同士をもつなげて下さるお方です。

 

忘れないでいたのは、たくさんの人が神様によってこの画面の前に招かれ、礼拝しているということです。直接お互いを見ることはできませんが、たくさんの人がこの画面の前で礼拝しているのです。神様は今、そのようにして礼拝に招き、神様の側から私たちに結びついて下さり、私たちお互いを結び付けて下さるお方です。

私たちは必ず再会できるでしょう。会って安心し、喜び合うでしょう。でもその時に覚えておきたいことがあるのです。会堂に集まりさえすれば、共に礼拝できたということではないということです。会堂に一緒にいることだけで、ひとつになって礼拝できるというわけではないのです。会堂に集まったことと、真に共に礼拝をささげたということとはイコールではないということです。

集っても孤独に礼拝をするということがあるということです。集っても他者に無関心でいることがあるということです。それでは真に共に礼拝をささげたことにはならないのです。

私たちは会堂で集う礼拝でも、このオンライン礼拝でも、私たちは互いを意識し、祈り会うからこそ共に礼拝をしていることになるのです。特に今顔や姿は見えなくとも、互いを覚え、祈り会い、共に礼拝している仲間を感じて、この礼拝を頂きたいのです。

先週はオンラインで主の晩餐も持ちました。今まで集って、互いを感じながらしてきたこの主の晩餐を、それぞれの場所で行いました。一人で画面の前にいるのは特に寂しい事かもしれません。でも私たちは一人ではありません。共にその主の晩餐に招かれ、あずかったのです。

私たちは必ず再会し、礼拝し、また共に主の晩餐にあずかるでしょう。そして礼拝と同じように、主の晩餐も会堂に集まりさえすれば共にあずかれるということではありません。会堂に集い再び主の晩餐にあずかっても、孤独であること、他者に無関心でいることがあるのです。それではたとえ集ったとしても主の晩餐になりません。

私たちは神様によってそれぞれの場所での礼拝に招かれています。そして多くの仲間も神様から礼拝に招かれています。多くの仲間が神様によって主の晩餐に招かれ、それにあずかっているのです。

今日覚えておきたいことは、神様は私をこの礼拝に招いておられるということ、そして私たちは集まるにしろ、集まらないにしろ、一人で礼拝や礼典にあずかっているのではないということです。私たちはこの礼拝を共にあずかっているのだということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書の個所を見てゆきましょう。主の晩餐の個所です。今日私たちに示されいる聖書で20節は衝撃です。ここにはこうあります「それでは一緒に集まっても、主の晩餐をしたことにならない」とあるのです。一緒に集まることができない、一緒に主の晩餐をすることができない私たちにとって衝撃的なみ言葉です。

私たちは一緒に集まりさえすれば、会いさえすれば、豊かな礼拝や主の晩餐ができると今本当に思っています。しかしそうではないというのです。一緒に集まっていても、仲間争いや、お互いに無関心に集うなら、それは一緒に主の晩餐をしていることにならないというのです。

当時のコリント教会の状況でいうと、皆が一緒に食べるのではなく、勝手に食べてしまう人、他人のことを考えずに先に食べてしまう人がいたという状況でした。多くの人々は裕福な人が先に食べ、貧しい人は余り物を食べたのです。そのような集まり、主の晩餐を見てパウロは17節「集まりが良い結果ではなく、悪い結果を招いている」と言いました。なんでもかんでも集まれば良いのではないということです。

こんなに集まりたい私たちは今、聖書から集まる意味を問われます。もし教会で仲間争いするならば、あるいは主の晩餐で周りの人のことに無関心であるならば、たとえ会堂に集まってみんなそれにあずかったとしても、真に共に主の晩餐をしたことにはならないというのです。

これは私たちの主の晩餐にも問いかけています。互いにいたわり、励ましあう仲間として互いの存在を感じながら主の晩餐をできているかということです。礼拝も同じです。会堂に集いさえすれば一緒に礼拝することができたというのではないのです。真の意味で共に礼拝をするということは、互いにいたわり、励ましあう仲間として互いの存在を感じながら礼拝をするということです。

私たちは集うにしろ、集わないにしろ、互いを覚える、互いを祈る仲間になることができているだろうかということが問われます。この礼典で、この礼拝でお互いを感じることができているかが問われているのです。

これはどのような礼拝・礼典でも同じです。集う礼拝でもオンラインの礼拝でも同じです。神様はこの礼拝によって、ご自分と私たちを結び付けると共に、私たちお互いおも結び付けようとして下さっています。それが真に共に献げる礼拝です。

それぞれの場所では互いの存在はより感じづらいものです。でも私たちは共に礼拝をしているということ、このことを覚えながら礼拝してゆきたいのです。主の晩餐も共にあずかっているということを覚えながら、あずかりたいのです。

 

今日も、この画面の前に多くの人がいます。私たちは、距離が離れていても、お互いを覚えていたいのです。離れていても、心は互いとつながっていたい、私たち同士がつながっていたいと思います。お互いに祈りでつながっていたい、私たち同士が互いにオンラインでいたいのです。離れていても共に礼拝する仲間を感じて礼拝したいのです。

これが神様の招きです。神様はあなただけを礼拝に礼典に招いているのではありません。それはオンラインではそう感じてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。神様は多くの仲間をこの礼拝に招いておられます。神様は多くの仲間を主の晩餐に招いておられます。そして私たちは共にそれにあずかり、一つに結びつけられるのです。

24節には「これはあなたがたのための、私の体である」とあります。神様の体はあなた「だけ」のための体ではありません。あなた方、つまり私たちみんなの体だということです。それは画面の向こうでも、会堂に集っても同じです。私たちはどんなときも一人で礼拝するのではなく、共に礼拝し、ともに結び付けられるのです。

いま、この礼拝、一人で画面を見て寂しい思いをしている人が多くいるでしょう。でも今神様が多くの人々をこのような形で礼拝に招いてくださいました。この礼拝も大切にしましょう。

今日、この礼拝に神様が私たちみんなを招いてくださり、共に礼拝ができたことに感謝しましょう。神様は私たちとこんな風につながって下さるお方です。

そして今多くの人が、あの人もこの人も画面の前に座り、一緒に礼拝をしています。先週は一緒に主の晩餐もすることができました。飲むたびに食べる度に主イエスを一緒に思い起こすことができたのです。私もカメラに向かって話していますが、皆さんを感じながらこの礼拝をしています。

画面の前に集った私たち、それぞれの自宅で礼拝する私たちです。私たちは離れていても一つです。互いに祈り会い、励ましあう仲間となりましょう。

そしてただ単に会堂に集うことが私たちの希望ではありません。次に会堂で集う時、次に会堂で主の晩餐を持つとき、私たちはより深く主イエスを覚え、互いを覚えることができるでしょう。

神様は私たちとこのようにしてつながっていてくださいます。私たちを礼拝によって互いにつなげて下さいます。私たちは主なる神を覚え礼拝しましょう。そして主にある仲間を覚えこの礼拝をささげましょう。主にあるそれぞれの教会も覚えこの礼拝をささげましょう。お祈りをいたします。

 

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【全文】「和解の協力伝道」(マタイ2章13節~23節))

みなさん、おはようございます。今日からまたこのように、自宅で献げる礼拝となりました。会うことができない事はとても残念ですが、また再び集うことができるという希望を忘れずに集いましょう。私自身も冬休みを延期しました。楽しみにしていた予定はキャンセルとなって残念なのですが、入学以来学校にいけない学生たち、卒業式がどうなるのか不安な学生たちの気持ちがよく分かったような気がいます。持っていきどころのない思い、くやしさ、焦りがあります。その気持ち、神様に向けてゆきましょう。神様にぶつけてゆきましょう。今年も私たちはこどもを大切にする教会です。また子どもたちも見てくれているでしょうか。子どもたちの声は聞こえませんが、共に礼拝をしましょう。このような状況ですが、今月は「協力伝道」というテーマで1月の4回の宣教を行ってゆきたいと思っています。

私たちはバプテスト連盟に加盟している教会です。バプテストは各個教会主義を大事にしています。それぞれの教会が自分の教会のことを自分で決めるという、当たり前のことを大事にしています。平塚バプテスト教会は、誰からも何かを強制されたりしませんし、従わなければならないという事はありません。すべてを自分たちで考えて、祈って決めます。そのために経済的にも自立しています。よく聞かれるのですが、牧師のお給料やこの会堂の管理をどうしているのですかというと、すべて私たちの献金で賄っています。私たちはそのように自立しています。誰かからの指示ではなく、自分たちで集う礼拝を続けるかどうかを決めています。

そして自立と同時に、孤立しないように、仲間と協力をしています。一つの教会だけではできない事、解決できない問題もあるからです。協力伝道献金という形でそれぞれの教会から献金し、様々な活動に用いられています。平塚教会だけではできないことがあるから、協力をするのです。

その大きな柱は国外伝道、牧師養成、無牧教会の支援です。あるいはこのコロナ禍を乗り切る知恵の分かち合いもそうでしょうか。ひとつひとつの教会では海外に宣教師を送ることもできません。牧師に専門的な教育をすることはできませんし、牧師がいない期間や教会もあります。コロナ対策をどうするか情報共有が必要です。だから協力をしているのです。

私たちはこの時、1カ月をかけて協力伝道について、国外伝道、牧師養成、無牧教会の支援などを一つずつ考えてゆきたいと思います。今日はその中の国外伝道について考えます。

私たち日本バプテスト連盟ではカンボジア、シンガポール、インドネシアに宣教師を派遣しています。そしてルワンダには宣教師ではなく、自分で活動費を集めながら奉仕する国際ミッションボランティア(IMV)として佐々木和之さんを派遣しています。国外伝道は非常に多く資金を必要とします。年間3000万円~4000万円が国外伝道のために使われています。とても各個教会でできる働きではありません。連盟の教会が協力し合って派遣しています。ちょうど今私たちはパネル展を開催中です。「アフリカ・ルワンダで和解と平和のために働く佐々木和之パネル展」です。どうぞ食堂の展示をご覧になって帰ってください。ここには衝撃的な写真もあります。人々が折り重なって亡くなっている写真です。

ルワンダでは1995年、二つの民族の憎しみから虐殺が始まりました。100日間で80万人が犠牲になったと言われています。昨日まで隣で仲良く暮らしていた人が、突如殺しあう関係になってしまったのです。ルワンダは野蛮な人々の住む国ではありません。控えめな人々が穏やかに暮らす国です。

しかしある時期から指導者や、マスメディアの扇動、差別が始まり、虐殺に発展したのです。この虐殺の対象は、大人に限りませんでした。多くの生まれてまもない子どもたちも犠牲になったのです。

この虐殺の原因は、誰の心にもある差別や暴力への誘惑です。遠い国の人の話ではありません。差別と暴力の誘惑は誰の心の中にもあるのです。その証拠に日本人も南京大虐殺や、関東大震災の時の朝鮮人虐殺などをしています。考えるだけで暗い気持ちになります。ルワンダの虐殺は私たちの罪、私たちの暴力性を真正面から提示する事件といえるでしょう。しかし、私たちは協力伝道によって、その闇に一筋の光を見ています。それが佐々木和之さんの働きです。佐々木さんはその二つの民族、人々の和解と平和のために働いています。謝罪すること、償うこと、生活を再建すること、教育を通じた和解と平和の働きを粘り強く行っています。

 

虐殺は神の導きではありません。人間の弱さ、残酷さ、罪の結果です。しかし神様は私たちに和解してゆく力を与えてくださいました。罪を犯すままにされるのではなく、それを和解する力を神様が下さったのです。私たちはその力を協力伝道によって知るのです。佐々木さんは、人々が虐殺の悲しみ、憎しみを乗り越えて、歩めると信じ活動をしています。生き残った人々が憎しみを超えて、共に生きる道、平和の道を歩めると信じて活動しています。そしてゆっくりですが、少しずつ、現実になってきています。キリストにあるその平和の働きは虐殺後の希望となっています。この和解の出来事は、世界の裏側の出来事ではありません。私たちに和解について問いかける事柄です。私が和解を促されている人がいるだろうか。私たちの国が和解を促されている国があるだろうかということが私たちに問われています。

絶対良くならないと思う関係があるかもしれません。しかし神様は和解の力を与えてくださるお方です。私たちはそれを協力伝道、国外伝道から学んでいるのではないでしょうか。コロナで切れてしまったと思う関係があるかもしれません。しかし神様はつながり続ける力を下さるお方です。人間の罪や欠けの大きさと、それに勝る、神の和解の力を知らされてゆくのが協力伝道なのではないでしょうか。

今日の個所をご一緒に読みしましょう。聖書に書かれているのは幼児虐殺の悲しい物語です。この虐殺は決して神の導きではありません。人間ヘロデ王の残虐行為です。それが聖書の預言を実現させてしまったのです。

このヘロデは残虐な王として歴史に名を残しています。自分の脅威になる親族を片っ端から殺した王様です。妻、兄、伯父、3人の息子。自分の王の座が失われるかもしれないとなると、誰でも殺した王でした。今日の個所でも、次の王がでるという小さな噂で一つの町の2歳以下の子どもが全員殺されたのです。アルケラオスという人も出てきますが、この人もヘロデと同じように残虐だったと言われています。

彼が虐殺を行ったのは、自分をひたすら守るためです。王としての立場を守るためです。そのために邪魔な人間は誰でも殺しました。自分を脅かすものを憎しみ、自分以外の命を物のように扱い、差別しました。人々にとっては禍であったでしょう。

しかし悪者は本当に彼ヘロデだけでしょうか。私は虐殺にいたる心、憎しみや憎悪、差別にかられたときに人間がどのような行動をとるかをルワンダから学んでいます。あるいはコロナ流行で起きた差別からもそう思います。

1995年のあの虐殺の時、多くの市民が虐殺に参加しました。子どもを殺しました。あの虐殺に参加した人、全員がヘロデだったのです。日本人も同じです。南京大虐殺や、関東大震災の朝鮮人虐殺の時、すべての人がヘロデでした。人間は誰しも、ヘロデの残虐さを心に持っているのです。

実際ヘロデはこの虐殺でイエスを殺すことに失敗をしました。しかしその後、イスラエルの人々はイエスを十字架にかけて殺すことに成功しました。イエスの死は、一人の権力者だけでは起きませんでした。イエスの死、十字架は民衆の「殺せ」という扇動された声によって行われたのです。

大勢のヘロデがそこで声をあげ、イエスは殺されたのです。そして私たちも簡単にその群衆の一人、ヘロデになってしまう弱さ、差別する心を持っているのだと思います。私もいつでも、短い期間でヘロデに変わることができてしまうのです。戦争を始めてしまうのです。だからこそ、いつも主イエスから目を離さないでいたいと思うのです。

主イエス・キリストそれは、虐殺をぎりぎりのところで生き残った人、虐殺生存者・災害生存者でした。多くの悲しみを背負い生きた人でした。そして平和を訴えた人でした。ヘロデ王の支配という暗い社会に、虐殺が頻繁に起こる社会に現れた希望でした。そして暴力ではなく、平和を訴えたお方です。憎しみではなく愛を訴えたお方です。復讐ではなく和解を訴えたお方でした。豊かに満たされることを求めると同時に貧しい人にまずそれが起こるように願ったお方でした。

私たちは何とかこの希望が地上で実現してほしいと願います。虐殺はもう二度と起きてほしくないのです、十字架は一度きりで十分なのです。もう誰も犠牲にならないで欲しいと、平和を願うのです。もう二度と誰にもヘロデになってほしくないと思うのです。そして私たち自身のもヘロデになってはいけないと思うのです。

私たちが直接虐殺を直接起こすことはないかもしれません。でも私たち自身が誰かを傷つけることはあるでしょう。自分を守るために、自分の都合を優先させることがあるでしょう。何かを失うのが怖くて、相手に強く出てしまうこと、傷つけてしまうことがあるでしょう。

しかしその中に生まれてきたのが、イエス・キリストなのです。そしてキリストは神に従順にしたがうヨセフによって、その命が守られました。神の言葉を聞き続けることが、命を守ることにつながるのです。そしてイエス・キリストは生き残ったのち、和解と平和を訴えました。暴力に暴力で返すのをやめなさい、剣を捨てなさいと語ったのです。

私たちは生き残った小さな命が平和の礎となってゆくと信じます。そして十字架で犠牲になった命も平和の礎となってゆくと信じるのです。このように協力伝道は、絶対良くならないと思う関係を、和解させてくれる力がキリストにあると教えてくれます。必ずその和解の日は来る。それがすでにルワンダで始まっている、それを見て、信じたいのです。

私たちの協力伝道はキリストの業を証しするためにあります。協力伝道が私たちの罪の大きさと、その中にあるキリストの和解の力強さを証ししています。ひとりではできないことですが、共にその業を担いたいのです。このコロナも一人では乗り越えることができません。互いに励ましあい乗り越えてゆきましょう。そしてこれからもこの協力伝道に加わり続けましょう。お祈りいたします。

 

 

【全文】「神が共にいる1年」イザヤ62章1節~5節

 みなさん、あけましておめでとうございます。YouTubeで参加されている方も、あけましておめでとうございます。一年のスタートをこのように礼拝で迎えることができることをうれしく思います。私たちは今年もこどもを大切にする教会です。こどもたちもあけましておめでとうございます。

元日の朝、気持ちよく迎えているでしょうか。今年はいつものお正月とは違う、不安をもって始まるお正月です。今年も1年どうなるのかなぁと不安に思いながらスタートしています。去年できなかったあの行事、今年はできるのでしょうか。今年も集まり続けることができるでしょうか。そんな不安なスタートの元日です。

そもそも神様がいるならどうして、こんなひどい禍が起きるのでしょうか。どうしてこれをとめて下さらないのでしょうか。そもそも戦争も災害も感染症も神様は止めて下さらないのでしょうか。これを止めない神様は、どこで何を考えているのでしょうか。

そもそも私たちは運動会の前に、明日晴れにしてくださいと祈っても、雨が降ってしまう時があります。熱心に「晴れにしてください、晴れにしてください」と祈っても、やっぱり雨が降る時は降ります。コロナも「終われ、終われ」と祈っていますが、なかなか終わらないのです。

神様は黙って、この世界の混乱を見ているのでしょうか。神様は存在するのでしょうか。「だから神なんていないのよ」という声が聞こえてきそうです。神様は私たちを見捨ててしまったのでしょうか。

実は驚くことに神様の子、イエス・キリストも同じ疑問を持った人でした。イエス・キリストは神の子なのに、十字架刑で殺されてしまいました。ひどい話です。

その時イエス・キリストは言ったのです「エリ、エリ、レバサバクタニ」「わが神、わが神なぜ私を見捨てになったのですか?」。なぜ私はこのまま死んでゆかなければならないのですか。イエス様はそう問いかけながら、死んでいったのです。悲しい出来事です。

私たちも今、イエス・キリストの十字架の叫びがよくわかるかもしれません。感染予防をしても、祈っても、コロナにかかる時があります。神様は私たちが感染することを防ごうとしません。クリスチャンはコロナにかからないということはまったくありません。どんな人にも等しくコロナはやってきます。教会だけは絶対に守られるというわけではありません。信じている人も、病にかかり、死ぬのです。

しかし、聖書は語っています。イエス・キリストが一番苦しい十字架の時も、神様はイエス様と一緒にいたということです。神の子が死ぬとき、神様はそれを止めなかったけれども、神は共にいたということを聖書は語っています。イエス様の最期の時も希望がありました、神様が共にいるという希望があったのです。

十字架のイエス・キリストが「神はどこにいった」と聞いたように、今私たちも聞くでしょう。神様はどこに行った。でもそれを問う時も、神は共にいたのです。片時も離れず、イエス・キリストと共にいたのです。私たちも同じです。どんなにコロナが広がって、どんなに死が広がって、どんなに絶望が広がっても、そのさなかにも神は共にいるのです。

旧約聖書の言葉ヘブライ語ではそのことを「インマヌエル」といいます。神はわれわれともにいるという意味です。つらく、不条理なことは人生に起こります。死は必ず訪れます。でも神様はどんな時も最後の最後まで私たちと一緒にいてくれるお方だと聖書は語っています。あなたは一人ではないのです。その希望を胸にいただき、私たちは1年をスタートしたいのです。

今年もコロナに振り回される1年になるでしょう。でもその中にも神様が共にいてくださるのです。その希望をいただき1年をスタートしましょう。今日の聖書の個所も同じことを語っています。一緒にお読みしましょう。

 

実は今日の聖書の物語も再スタートをする人々の物語です。当時イスラエルは戦争で負け、町や神殿はめちゃくちゃにされ、人々は強制的に移住をさせられていました。バビロン捕囚という時代です。

そしてこのイザヤ書62章の時代では、人々がその強制移住を終えて、故郷に戻ったという場面が描かれています。数十年ぶりにイスラエル・エルサレムにかえって来た人々です。人々は再スタートをするという気持ちだったでしょうか。希望を持った再スタートだったでしょうか。でも目の前には、戦争で焼かれ、捨てられ、手が入れられずに荒廃しきっていた町が広がっています。かつてソロモン王が建てた美しい神殿も焼けてもう残っていません。

新しい生活を始める希望と共に、目の前に広がる荒れ果てた光景の前に人々は希望を見失っていました。本当にこの町、この神殿を再建し、前に進んでゆくことができるだろうか。それにどれほど大きな困難がまっているのだろうか。に尻込みし、不安な思いでいました。

そんな時代に神様の声が、預言者を通じて響いたのです。再スタートを切ろうとする人々に、不安と希望が入り混じる、それでも再スタートせざるをえない人々に、神様は語り掛けています。神様が語り掛けているのは再スタートするイスラエルの人々であり、今日から1年を再スタートする私たちに向けてです。

1節にある「わたし」とは神様の事です。神様は絶対に口を閉ざさない人だとあります。神様はどんなときにも私たちに語って下さるお方です。私たちが疑う時も、信じる時も、希望の時も、不安の時も、神様は黙っておられないお方です。神様はこの1年も、絶えず、私たちにみ言葉を与えてくれるお方だということです。そしてみ言葉によって私たちを励まし、導いてくださるお方だということです。「彼女」とはイスラエルの人々、そして私たちのことです。神様は私たちが暗く沈んで生きるのではなく、松明のように、明るく光り輝く時まで、そのみ言葉を私たちに注いでくださるお方です。その時まで、必ず共にいてみ言葉を下さるお方です。

2節の「あなた」は神様の事です。2節で語られているのは、神様の正しさを全員が見る、目で見る時が必ず来るということを示しています。今つらく、不安だけど、神様が共にいるということを具体的に感じる時が必ず訪れるということです。

3節の「あなた」は、今度は私たちのことです。私たちはやがて冠、王冠となります。冠とは、誰が王であるか、誰が一番偉いのかを示すしるしです。私たちその王冠となるのです。今、荒廃した町の前で、不安と希望を両方があるけれども、あなたたちはきっと神様を指し示すしるしに変えられるという意味です。不安に思うあなたたちが、王冠のように輝くように変えられて、神様の存在を証明するようになるということです。大きな希望が語られています。

4節の「あなた」も私たちのことです。自分は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。特にコロナにかかるならば、隔離され、強く見捨てられたと感じるでしょう。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。土地とは当時の人々にとっては人生そのものでした。土地が荒廃するすること、つまり人生がめちゃくちゃになったように思えることがあっても、神様はあなたを見捨てないと語られています。あなたはどんな状況になっても、神様から「望まれるもの」と呼ばれるのです。あなたに夫が与えられるとあります。それはつまり、あなたの人生を共に歩む方、神様が与えられるということです。神様があなたと共にいることを望んでいます。あなたがどう思うかは関係ありません。絶望しようが、神はいないと思おうが関係ありません。神があなたを求めて、一緒にいて下さるのです。一方的に一緒にいて下さるのです。

5節、それは結婚するように神様が共にいてくださるということです。神様は私たちと一緒にいてくださり、私たちの再スタートに一緒にいてくださるということです。私たちの神様は、私たちと共にいることを喜びとしてくださるということです。

このように神様は、イスラエルの人々の再スタートに共にいるお方です。そして共にいることは神様の望みであり、喜びであると語っています。

そのみ言葉と共に、イスラエルの人々は新しい生活を再スタートしました。めちゃくちゃにされた人生を、町を、信仰を、1年を再スタートさせたのです。神様に祈ってもなにも状況は変わらないかもしれません。祈って町が再建されるわけではありません。祈ったのに、神殿は壊されてしましました。

でも人々が信じたこと、それはつらい時も神様が共にいたということ。そしてこれからも様々なことがあるけれども、必ず神様が共にいるということ。それを信じたのです。神は黙っていないと信じたのです。

私たちもそれを信じてこの1年をスタートしたいのです。そこにはとても温かい希望があるのではないでしょうか。

私たちの1年はコロナに壊されて、再建し、また壊される、またそんな一年になるでしょう。でも神の言葉は決して止まりません。私たちはその神の言葉をまた今年も聞き続けましょう。

希望を失うことがあるかもしれません。神はどこにいった「エリ、エリ、レバサバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と聞きたくなる時もあるでしょうか。でも神様は必ず共にいてくださいます。この1年も神様は1年じゅう、私たちと共にいて下さるお方です。私たちと共にいることを、喜びとしてくださるお方です

激動の1年が今日からスタートしました。でも神様が共にいてくださる1年のスタートでもあります。この1年もまた、決して黙らない、決して途絶えない神様のみ言葉を聞きながら、希望を持って共に歩みましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「クリスマスの和解」マタイ2章1節~12節

みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝します。子どもたちも集ってくれています。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちも共に礼拝をしましょう。子どもたちの声を聞きながら、礼拝をしましょう。

私は「佐々木和之さんを支援する会」の事務局を担当しています。現在全国でパネル展の開催を計画しておりまして、そのパネル製作を担当していますが、全国で開催する前にまず平塚教会で試し、全国に広げてゆく予定です。平日も会堂を開放して展示していますし、日曜日は食堂のスペースでパネルを掲示しています。ぜひご覧ください。

佐々木和之さんはアフリカ・ルワンダで和解と平和のために働く、バプテスト教会のメンバーです。アフリカ・ルワンダでは1995年、3カ月で80万人の死者がでる大虐殺事件が起きました。フツと言われる民族が、ツチといわれる民族の人々を襲撃したのです。それは市民が市民を襲う虐殺でした。人々に心身ともに深い傷を残しました。佐々木和之さんはそこで虐殺後の和解と平和構築のための教育をしています。

パネルでも詳しく説明していますので、ご覧ください。特に私が興味を持ったのは、サラベアナさんとタデヨさんの物語でしょう。サラベアナさんは大虐殺で自分の家族ほとんどを殺されました。そして彼女自身の顔にも大きな傷があります。大きなナタで顔を切りつけられたのです。その現場にタデヨさんもいました。直接切り付けたのではありませんが、確かに襲撃のグループの一員として現場にいたのです。

タデヨさんは裁判にかけられ、言い渡された刑を服役しました。しかしサラベアナさんに対して、ずっと直接の謝罪をせずに過ごしてきました。しかしタデヨさんは佐々木さんの活動を通じて、虐殺後15年たってようやく当時のことを直接サラベアナさんに謝罪し、償いをすることができたのです。今二人は同じ村で暮らし、助け合って、和解して生きています。時には佐々木さんの大学の講師として、和解の授業にも参加しています。ルワンダでもこのような和解はとても珍しいことです。

パネル展で紹介できなかったのはムキザちゃんという赤ちゃんの物語です。サベリアナさんとタデヨさんが和解の後、実はサベリアナさんと、タデヨさんの親せき同士が結婚するという、うれしい出来事が起きました。対立し殺し、殺されそうになった人と家族になることになったのです。とても信じられない事です。さすがにこの結婚には戸惑ったそうですが、本当に私たちは和解をしたのだからと、サベリアナさんもこの結婚を認めたのです。

最近この家に赤ちゃんが生まれました。その子の名前はムキザちゃんです。ルワンダ語で「救い主」の意味だそうです。この新しい命、赤ちゃんは二人の和解の象徴です。そして佐々木さんにとっても、これまでの和解の働きが、その希望が、命となった瞬間でした。

今ムキザちゃんの周りを、様々な人が囲んでいます。被害者と加害者、その家族、その和解に立ち会った人々が、その子どもの誕生から勇気をもらっています。世界に平和と和解を伝えようとする人々がムキザちゃんを囲んでいます。

ルワンダの佐々木和之さんの働きはこのように広がり、民族や対立を超えて、和解と平和を生み出しています。佐々木さんはこの平和構築を大学で平和学として教えています。授業では学生たちとサベリアナさんとタデヨさんを訪ねます。学生たちの中にも家族に虐殺の加害者や被害者がいます。あるいは近隣の紛争地帯から留学してきた学生もいます。

学生たちはこの二人の和解、新しい命の誕生を目のあたりにして衝撃を受けます。そして平和と和解が実現可能なのだと、その小さな命から確信を持つのです。大学卒業後、学生たちは世界に広がり、世界中で平和と和解の活動を担うようになるはずです。

これは民族や対立を超えて、小さな子どもの命を中心にする輪です。小さな子どもの命を囲んで未来の平和と和解を確信する輪です。小さな子どもの命が平和と和解の象徴となり、対立を超え、平和と和解を実現してゆくのです。

私たちの世界ではこのような殺し、殺される関係の加害者と被害者がもう一度共に生きる、家族として生きるということが起きています。私たちもこのことからたくさんのことを教えられるのです。

戦争は残酷ということ。犯した罪は刑務所に入るだけでは終わらないということ。直接その人に謝罪し、償わなければいけないということ。でもどんな状況でも和解と平和が可能であるということ。深く和解してゆくことで、平和が訪れること。新しい小さな命がそれを伝えてくれること。それを囲む人々が平和を確信すること。それはきっと私たちの人間関係にも起こること、起きてほしいことです。絶対に仲良くすることなんかできないと思う人と共に生きることができるようになる、私たちにも欲しい希望です。ルワンダからその和解と平和の希望をいただきます。

私は今日のこのクリスマス物語も同じことが起きていたのではないかと思います。博士たちの訪問は、小さな命を囲む、和解のできごとだったのではないかと思うのです。今日の個所を「クリスマスの和解」として読んでゆきたいのです。

今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。占星術の学者、博士たちは東の方から来たとあります。イスラエルから見て東と言えばバビロニアの方角にあたります。イスラエルにとってバビロニアはいつも自分たちを脅かす大国、恐ろしい存在でした。イスラエルという弱小国家は常に、自分たちから大国に貢物をし、大国の王様にひれ伏さなければならなりませんでした。彼にとって東の方の人々は脅威だったのです。

そして今回、東の方から来たのは、占星術の学者でした。ユダヤの人々にとって占星術・星占い人々とは詐欺師、ペテン師、魔術師、嘘つきと同じ分類の人でした。当時の人々は東の方からきた星占いと聞いて、何ひとつよいイメージを持たなかったでしょう。二重の負のイメージ、帝国の詐欺師、帝国の魔術師がやってきたのだと受け止めたでしょう。

しかし、聖書によると、彼らがイスラエルの多くの人々より、まず先にその誕生を知り、イエス様を探していたのです。神様は帝国の詐欺師だった彼らを、大きく光る星によって導きました。神様はまったく正反対に思える人、ふさわしくないと思える人を選び、救い主の存在を告げ、旅に招いたのです。

彼らはその子どもを、小さな国の小さな家で生まれてきた、その救い主を見つけました。そして拝み、貢物を渡したのです。これでは今までの現実とはまるで話が逆です。現実ではイスラエルが大国にひれ伏し、貢物をささげ、だまされます。それがイスラエルという弱小国家の現実です。しかしここでは大国の詐欺師が貢物をもって、小さな国の赤ん坊に会うために訪れるのです。そのような訪問はあり得ない訪問でした。東の国の占星術師の平和的な訪問などありえなかったのです。

しかしこの一人のこどもをきっかけに、対立の関係が平和の関係に変わります。その子の名はイエス、彼もまた「救い」という意味の名前です。この場面では、対立するイスラエルの人々と、東の国の占星術の学者たちが、同じ一人の赤ちゃんに目を向けています。

この訪問は対立する民族の緊張のご対面ではありませんでした。博士たちは、小さな国の小さな命を心から喜んだ、喜びがあふれたのです。それは対立とは真逆の、平和と和解がありました。共に一人の赤ちゃんを囲む喜びがあふれていたのです。

博士たちはその赤ちゃんにひれ伏したとあります。彼らがひざまずくのは王様ではありませんでした。彼らがひざまずいたのは、子どもでした。王に貢物をするのではありませんでした。子どもにプレゼントをしたのです。なんと平和な事でしょうか。

そして「ひれ伏した」という言葉、これは「礼拝をした」という言葉でもあります。ともに子どもを囲み、ともに主イエスを礼拝したということです。そこに私たちと同じ礼拝が起こったということです。赤ちゃんを囲む礼拝、小さな命が大切にされる礼拝、主イエスの礼拝が起こったのです。聖書には誕生物語だけではなく、その背後に和解と平和の物語が隠されています。

12節には博士たちは来た道とは別の道を通って帰ったとあります。これまで歩んできた道、それは対立したり、殺しあったりする道でした。しかしその平和の象徴に出会った人々は、平和の礼拝をした人々は、もうその道を通ってはゆきません。別の道を選びます。暴力の道ではない、圧迫の道ではない、平和の道を歩んでゆくのです。

私たちの礼拝もそんな体験でありたいと思います。私たちの礼拝にも様々な人が集います。仲のいい人悪い人がいるかもしれません。全然知らない人もいるかもしれません。様々なルーツを持った人がいるでしょう。でも私たちもこどもを囲み、平和の礼拝をささげる者です。この子どもたち、そしてなによりも主イエス・キリストを囲んで礼拝する者となりたいのです。

それぞれの立場を超えて、集いあうのがクリスマス、教会です。私たちは子どもを大切にする教会、幼子救い主イエス・キリストを大切にする教会です。多くの人とこのイエス・キリストを中心にして、子供を中心にして、共に生きようとする群れです。

そして私たちは毎週、この礼拝から派遣される者でもあります。私たちはこの次の週を来た道とは別の道に行かされる者です。今までの1週間とは別の態度や別の姿勢、和解と平和の道に派遣される者です。その歩みのために、主イエスは私たちの下に生まれてきてくださったのです。クリスマス、私たちに、アフリカに、世界に、和解と平和が起こるように、祈りましょう。お祈りをします。

 

 

【全文】「クリスマスの決心」マタイ1章18節~25節

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

マタイによる福音書11章20~21節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。

今年を振り返って皆さんは、どのような1年だったでしょうか。全員がコロナに振り回された1年だったわけですが、その中で一人一人がいろいろな決心・決断を迫られる1年だったのではないでしょうか。

県からは外出自粛要請、営業自粛要請、時短要請、テレワークの要請。様々な要請が出されました。要請には強制力がなく、あくまで“それぞれの決断”を促すものです。やめた方がいいが、強制ではない、自分で決めてねと言われたのです。

GOTOトラベルも各都道府県ごとに、やるかどうか決めてね。そして、おそらくこの後ワクチンを打つかどうかも自分で決めてねとなるでしょう。全部、全部、自分で決めることが求められるのです。

決定したことについて誰も責任はとれないから、自分で決めて下さいとなるのでしょう。ですから私たちは旅行に行くか、旅行をキャンセルするかみんな自分で決めました。となりの中学が修学旅行にいったけど、自分たちで考え、行かないと決断した学校もありました。誰もが正解のわからない中で、様々な決断をした1年でした。

特に医療についても多くの決断を迫られています。誰を、どのように検査し、どのような場所に入院をさせるか、あるいは自宅に待機させるのか。医療機関では、命に係わる大きな決断を、それぞれがしなければならない状況です。

教会も同じでした。大きな決断をしました。礼拝をオンラインにするという、これまでの常識では考えられない決断をしたのです。いままで教会は、集まることが何よりも大事だと教えてきました。集まらなければ信仰は継続できないのだと教えてきました。しかし突然、教会には集まらないでくださいと言うようになったのです。

礼拝で握手しないでください、礼拝で歌わないでください、親しく隣に座らないで離れて座ってください、食事をしないでください。そして集まらないでください。教会は今までとはまるで違うことを言いました。

感染がさらに拡大すれば再びそう決めるかもしれません。何が神様の示す道か、今までの常識を超えて決断する必要に迫られました。教会にとって究極ともいえる選択を迫られました。逃げることはできなかったのです。

私たちはコロナ禍の中で、祈ってそう決めました。今までの常識、いままでと言ってることは違うけれど、神はいまどのように思うかということ。命を守るということを第一に考え、決断をしました。美しい決断ではありません。ひとつひとつ、迷って迷って、迷いに迷って決断しました。決断がぶれることも何度もありました。本日の祝会も、できるかなという迷いがあり、やってみようという決断があり、やはりやめようという決断をする経緯で、中止となりました。

私たちはこれからもまだまだ決断を迫られてゆくでしょう。いままで大切にしてきたものを、続けるのか、あきらめるのか、また新しい決断が求められるでしょう。私たちはその時々、祈り、最善と思う決断を神様の下で、神様の前でするしかありません。

神様がこのコロナ禍を起こしたのではありません。神様が私たちに試練を与えるためにこのコロナを起こしたのではありません。神様は最後にはきっと良いものを私たちに準備してくれているはずです。そう信じて、待っています。

私たちは、神の前で祈り、それまでの常識を超えて、決断しました。誰かが決めてくれたら楽でしたが、そうしませんでした。これからも自分で決断することが続くでしょう。そして決断するということは教会も、そして一人一人の人生でも起こります。私たちはこれからも、様々なことを祈って自分で決断してゆかなければならないでしょう。

コロナ禍であっても、そうでなくてもそれは同じです。人生の中で決断が迫られるときがあります。その時私たちは、神様に祈って決断をしたいのです。必ずこの先に神様が良いものを準備してくださっていると信じて、決断をしたいのです。

今日の聖書個所で私たちは難しい決断の前に置かれた一人の人を見つけます。彼は神に祈り、良いものを確信し、決断しました。そしてそこにはイエス・キリストという希望が与えられたのです。祈って決める、そしてそこに必ず良いものが与えられます。今日、このクリスマス、その希望を皆さんと確認したいのです。

今日の聖書の個所をお読みしましょう。クリスマスに聖書の中で注目をされるのは、マリアや羊飼いや、博士です。しかし今日の個所はヨセフが描かれています。今日私たちが目を留めるのは、私たちと同じように難しい決断を迫られたヨセフです。彼は婚約者が妊娠をしたのです。まだ夫婦としての関係を持つ前に、妻が妊娠をし、迷い、決断するヨセフが描かれています。

婚約者が他の人の子を妊娠した場合、当時の律法では、当時の常識では、いえ現代にあっても、その婚約を破棄するのが常識でした。彼は当時の常識に従って、19節「縁を切ろうと決心した」のです。

しかしある夜、彼に天使が現れ21節「聖霊によって妊娠したのだから、迎え入れ、そしてイエスと名付けなさい」と告げるのです。そして24節ヨセフは目が覚めて言われたとおりにしたとあります。

私はこの二度目の決心、目覚めてから、すぐに決心が起こったのか、本当はもっとこの決心に時間がかかったのではないかと思っています。この常識を超えた決心を夢で見て、目覚めてすぐできるとは思えません。

この結婚は家族や親戚も猛反対をしたでしょう。神様がもし本当に、マリアを妊娠させたのだとしても、あと数か月、結婚まで待ってくれれば、何の問題もない事でした。でも聖霊は、結婚待ちませんでした。もっとも都合の悪いタイミングでそれが起こり、突然に決断が迫られたのです。

婚約者を迎え入れるとは不倫の可能性がある人と結婚をするということです。その子どもを名付けるとは、その子を自分の子どもであると認知し、名付け親、育ての親となるということを示します。彼は大いに悩んだのです。彼はそこで祈ったでしょう。そして彼には常識を超えた、驚くべき決心が、決断が与えられたのです。それは聖霊の言うままに、受け入れる、名付ける、この子の親になるということでした。離縁の決心を変えたのです。

男性目線と言われるかもしれませんが、ヨセフはマリアとは状況が違います。マリアは自らが妊娠をするということを告げられるのです。「この身になりますように」と彼女の受け入れる信仰は実に素晴らしいものです。マリアの妊娠は神様の業です。それから逃れることも、何も決心することもありません。それを受け入れることが求められました。

しかし、ヨセフに求められたことは、マリアに求められたこととは違います。彼はマリアを受け入れない事も、殺すことも、自分が逃げ出すこともできたのです。逃げ道や別の方法は無数にあったのです。その中で神様はヨセフに選ばせようとしています。彼に迎え入れ、名付けるということを選ばせようとしているのです。彼は大いに迷いました。何日も迷いました。神様の前に決断を迫られ、ある時ようやく決断ができたのでしょう。

その決心はぶれています。一度は離縁しようと決心しましたが、二度目の決心は受け入れ、親になるということを決心したのです。常識を超えた決断をしたのです。

私はこのヨセフ、素晴らしい決断ができた人として見るだけではなく、彼がきっとこの決断に相当の迷いを持ったのではないかと想像します。今さまざまな決断を迷いながら選ぶ私はそのように感じます。

受け入れがい事実、逃げ出したくなるような事実、一度決めたこと、今まで常識だったこと、それを神様の前に問われたのです。そしてヨセフは神様の前で、神の示すままの決断をしました。受け入れ、親となる決断をしたのです。迷いながらも祈って決めたと言えるでしょう。

もし彼が神なしに決断したとしたら、常識や憶測や自分の都合に基づいて決断したとしたら、最初の決心の通りでした。マリアは生きていたのか、イエスは生まれていたのかもわかりません。キリストは生まれなかったかもしれないのです。彼の祈り、迷い、決断がこの誕生の背景にはあるのです。

私たちにも日々、何かを決めることが迫られています。このコロナの時、特に多くの機会でそれを迫られています。しかもヨセフのように、こうしなさいとは神様の声がはっきり聞こえることは少ないものです。

それでも私たち一人一人は、教会は神様の声を聞いて決断をしたいのです。祈って決断したいのです。私たちの都合・希望・常識で決断するのではありません。何が神が示す道なのかを考え、祈って決めたいのです。聖書を読んで決めたいのです。礼拝して決めたいのです。誰かに決めてもらうのは楽だけど神様の前で自分で決めたいのです。時にそれは常識を超える決断となるでしょう。

でも私たちはその先に必ず良いものが生まれると信じて決断をします。イエス・キリストの誕生がこのヨセフの決断の先にあったように、私たちが迷い、祈り、決心することの先に神様の大きな希望が必ずあるということを信じて歩みたいのです。

そして聖書は神への祈りなしに決める時、ヨセフの一度目の決心も描いています。神なしの決心は命が奪われる決心です。関係が奪われる決心です。その決心は変えていいのです。一晩で変えていいのです。神様に新しいことが示されたら、すぐに変わっていいのです。

コロナはしばらく続きます。もうしばらく一人一人が決断を迫られるでしょう。日々の決断、そして信仰の決断も迫られるでしょう。その決心をこれからも祈って決めてゆきましょう。その先に希望があると信じて決心しましょう。今までの常識とは違う決断を、神様の前に祈って、神の導きがあることを信じて、希望をもって決めてゆきましょう。

イエス・キリストの誕生が待っています。私たちが神様の前でする決断は必ず希望につながってと信じて歩みだしましょう。お祈りします。 

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【全文】「神を共に待つ」マタイ11章2節~19節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。YouTubeで共に礼拝しておられる方も歓迎します。そして何より、今日は転入会の信仰告白の時を持ちました。今日こうして新しい信仰の友が与えられることに感謝をします。

先ほどの信仰告白には『私は神様を信じているのだろうかと気持ちがぐらつき、神様の前から逃げてしまおうかと思った』そんな時、平塚教会を知り『あまりにも自然に、信仰を行動で示されるみなさんの姿を目のあたりにしてから、そのようなことは脇に置いてもいいと思いました。まずみ言葉を聞きたい、そしてみなさんの行いに加わらせていただきたい』と思ったと、告白がされました。

自分の信仰のぐらつきを脇において、平塚教会の神様のための働きに加わろうと思っているという告白を聞いてどのように皆さんは感じたでしょうか。私がこの信仰告白を受けて感じるのは、私もまったく同じだということです。

実は私も信仰がぐらついている者の一人です。神様なんてこの世界にいるのかと問いたくなることが山ほどあります。聖書を読んでちっとも意味が分からない時があります。信じようと強く思えば思うほど、自分がそうできない弱い人間で、ちっとも良い人間でないことを知るのです。

でもそんな時、ここに集い礼拝することで何かが変わるときがあります。私の信仰のぐらつき、心の内側のぐらつきはいったん脇に置いて、集ってみるとき、共に礼拝する時間を持つとき、新しい道が開けることがあります。疑いながらでも、共にいる時間を持つということ、何かを一緒に取り組んでみるということは大事なことかもしれません。

自分は何を信じるのか、深く考えることも大事です。でもきっと考えているだけでは答えはでないでしょう。一緒に集ってみて、手を動かして、一緒にこの礼拝に参加してみて、一緒に祈ってみて、一緒に歌ってみて、一緒に神様の行いに加わってみて、実感できること、わかることがあるのではないでしょうか。

その点で教会は「信じている人の集まり」というよりかは、教会は「信じてなくてもいいから、まず集まってみてください」という集まり、それで良いのではないかと感じます。

信仰のことを仰々しく考えずに、まず集まってみる、参加してみるというのはどうでしょうか。一緒にご飯食べてってください。一緒にクリスマスを祝ってみてください。一緒に礼拝に参加してみてください。

私たちは外側から見ると、熱心に信じている者の集まりに見えるかもしれませんが、実はみんな確固たる信仰を持っているわけではないのです。実はみんな信仰が揺さぶられ、失敗が続き。立派に見えるあの人も、家庭では実は・・・。という人ばかりです。

一人一人集いながらも、迷いや悩みがあるものです。でもその中でも共に集まり、時間を過ごし、痛みや弱さを持ったお互いと共に過ごすことが、私たちは新しい一歩につながっています。この転入会を本当に歓迎します。そして他にも新たにこの弱き者たちの輪に入って、共に集ってくださる方、励ましあって下さる方を探しています。

私たちは今、「待つ」ということをテーマにアドベント・待降節をもっています。クリスマスまでの4週間を、イエス様を心に招く時として持っています。私たちは主イエス・キリストをじっと座って待つ、寝て待つのではなく、共に集まりながら待ちたい、集えることを喜びたいと今日、思うのです。

一人一人がそれぞれに待つのではなく、一緒に待つのです。一緒に祈りながら待ちましょう。共に礼拝に集いながら待ちましょう。励ましあいながら待ちましょう。アドベント、そのように一緒に待ちたいのです。共に祈って待ちたい、共に集って待ちたい、そして共に何かをしながら待ちたいのです。私たちはコロナで集まる喜び、共にいる喜びを知ったのです。

私は今日の個所もこのような場面だと私は思います。一人で待つのは寂しいものです。一人でいるなら信仰が揺れてしまうものです。でもイエスに従うという歩み、そして共に従うという歩み、共にその方を待つという歩みを聖書は語っています。今日の個所を共に見てゆきましょう。

 

 

今日はバプテスマのヨハネが登場します。彼は今、牢獄に捕らわれ、孤独の中にいます。捕らえられているのは、彼が王の結婚に反対をしたからだと言われています。このようにバプテスマのヨハネは権力者に対しても、臆することなく批判をした預言者です。

そしてこのバプテスマのヨハネはイエスをキリストだと早くから見抜いた人でもありました。イエスをキリスト・救い主と信じた人、一番はじめにそれを公にした人でもありました。

しかし今日の個所、彼の孤独が彼に疑いを起こしたのでしょうか。3節「あなたが待つべき方でしょうか」と尋ねるのです。なぜかわざわざ牢獄から遣いを送ってまで自分の弟子に問わせるのです。その問いには疑いがにじみ出ます。

この問いをいろいろなニュアンスで受け取ることができますが、きっと牢獄という孤独の中で自分の信じていることが揺らいできてしまったのでしょうか。もう一度確認をしたくなる衝動が抑えきれなかったのかもしれません。わざわざ弟子を遣わしてまで確認をしようとしたのです。

どんなに強い信仰を持つ人も、その信仰は揺れるものです。一人ならなおさらです。バプテスマのヨハネもそうだったでしょう。本当にあなたでいいんですよねと聞きたくなるのです。信じていても、一人でいるならそれは揺らぎます。牢にとらわれた孤独な状態の中で強い疑いがヨハネを襲い、そしてそれよりさらに強い確信が欲しいと彼は願って弟子たちを送ったのです。

これを彼の不信仰の問い、疑いの問いとは思いません。イエスがキリストであるか確認すること、問いかけること、心配になることの何が悪いのでしょうか。今怖くて信じることができない、でも今それを超えて、信じたいという願いが、この問いには含まれています。

バプテスマのヨハネの信仰は揺らぎました。しかしヨハネはこの方が希望だと信じ続けようとています。だからこそ3節「私はあなたを待っています。それでよいのですか」と尋ねたのです。

これに対してイエス様の答えはあいまいです。〇か×かで答えてはくれません。イエス様は「見よ、聞け、それを伝えよ」としか教えてくれません。もっと信じたいと熱心に思うヨハネに、ちっとも説明・説得をしてはくれないのです。

イエス様はただ「働きから証明される」とおっしゃいます。その働きの一つは癒しです。本当に目が治ったのか、足が治ったのか、信じれば病気は治るのか、あるいは熱心に祈れば死んだ人が本当に生き返るのかということ私にはわかりません。そんなことは起こらないとも言いませんし、祈れば必ず病は治りますとも言いません。

しかしここで確かにはっきりと言えるのは、イエス・キリストが目の見えない人を集め共にいたという事です。耳の聞こえない人を集め共にいた事です。死んでしまった人とも共にいたことです。そのことは確かなことです。そして一番最後に挙げられているのは、貧しい人々と共にいたことです。

イエス様は言います。「この姿を見て信じなさい」と。それは説明や言葉よりも人々と「共にいる姿」を見なさいということです。私がどうしてキリストであるか、救い主であるかということは、苦しみ、悲しみ、痛む人と共にいる姿からそれを信じなさいというのです。共に過ごす背中を見て信じろとでもいうことでしょうか。

そしてイエス様は言います、6節「幸いだ、私に躓かない人は」と。イエス様は「私に躓く人は不幸だ」とは言いません。「私を信じない人は不幸になる」「地獄に落ちる」とは決して言いません。もし「この共にいる姿を見て、信じることができれば、それはとても幸せなことだよ」と言っているのです。もしイエス・キリストの活動を見て、イエス・キリストが人々と共にいる姿を見て、そこから神様を信じることができたら、なんと幸せなことだろうかと言うのです。

私たちもそれを大事にしたいことです。信仰の説明・説得をします。説教では美しい言葉を並べます。でもそれだけではなく、私たちが共にいる姿から信じることも幸いなことです。

私たち自身が集まることに支えられているように、集まることでイエス様を伝えてゆけたらと思うのです。イエス・キリストがどれだけすごい人か、説得や説明も大切です。でも私たちが共にいる姿、共に礼拝する姿によって伝わる信仰があると思うのです。

痛みを持ったお互いと共にいる、困っている仲間と共にいる、そしてそのために共に働くということ、そのことから人々に信仰が起こされていくということです。

平塚バプテスト教会は特にこれを今まで大切にしてきたでしょう。あの教会はなんだか困っている人に対していろいろやっている教会だ、その姿からこの教会を知って下さっている人がたくさんいるのです。

もしかしたら私たち一人一人、それぞれの信仰は葦のように、風に揺られ今にも折れそうなほど弱いものかもしれません。しかしその中でも私たちは共にいるという幸いがあります。共にいることで確かな信仰とされてゆくのです。

私たちは待つ季節を頂いています。イエス・キリストを待つ季節をいただています。本当にあなたを信じて良いのかと揺れる時を頂いています。信仰が風に揺られるときがあります。そんな時、主イエスは共にいる姿によって信じなさいと言います。私たちは共に集えることを喜び、この時を待ちましょう。そこにイエス様への新しい信仰が生まれてくるのです。お祈りをいたしましょう。

 

【全文】「泡沫候補のキリスト」マタイ13章53節~58節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝を共にできること感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしてゆきましょう。

今日はアドベント・待降節の第2週です。2本目のろうそくに火をつけました。4本目の火がつく日を待っています。イエス様の誕生を待ち望む4週間をいただいています。今日はその2回目の礼拝です。共に聖書を読んでゆきましょう。

今日はイエス様の生まれ故郷、生まれた場所の話です。ナザレの話です。イエス様の地元での出来事を記されています。

地元から有名人が出るというのは大変誇らしいことです。平塚出身の有名人をご存じでしょうか。山瀬まみあるいはキンプリの高橋さんが平塚出身だそうです。そして、もしかしたら平塚から総理大臣もでるかもしれません。総理大臣にしたいランキング第3位に平塚市出身の河野太郎さんが挙げられていました。ちなみに彼は今はありませんが、平塚YWCA幼稚園卒業だそうです。もしかしたら、この教会の紫苑幼稚園に入っていたかもしれません。

平塚から総理大臣がでたらどんな気分になるのでしょうか。失言があったり、失敗があったり、いい加減な答弁をしたら恥ずかしい思いをするでしょうが、なんとなく誇らしい気持ちもします。応援したい気持ちも出てくるかもしれません。地元平塚では多くの人がそれを歓迎するでしょう。

私たちは彼が日本を代表する政治家の家柄だということも知っています。おじいちゃんの代から国会議員で、様々な大臣を歴任し、メディアの注目度も高い政治家です。自民党にしては少し型破りなところが、第三位、総理大臣にふさわしいと言われる理由かもしれません。

一方、平塚はずっと河野一族の地盤で、それ以外の国会議員はほとんどいません。河野太郎に本当に対抗する候補者は平塚から長らく出ていません。選挙の無風地帯、つまりほとんど戦いが起こらない選挙が行われている地域と言われています。そんな場所で立候補してもどうせ負けるに違いありません。それでも立候補する議員のことを世間では「泡沫候補(ほうまつこうほ)」と呼びます。とても差別的な呼び方です。負けて泡のように消える人という意味です。

今まで平塚は何十年間そうでした。負けるとわかっている選挙に出る人はほとんどいませんでした。家柄があって、有名人で、次期総理大臣候補とは誰も戦いません。もし私が河野太郎に対抗して選挙に衆議院選挙に立候補したらどうでしょうか。家族・親戚・教会のみなさんは猛反対するでしょう。まず絶対負けるし、家族の恥、教会の恥だからやめろと言われます。子どもからはパパ恥ずかしいからやめてと言われるでしょう。河野さんの対抗馬になれば、地元の人も急に冷たくなるかもしれません。間違えなく「泡沫(ほうまつ)候補」でしょう。

どんなに強い思い、やる気、しっかりとした政策があっても、それは関係ありません。知名度や家柄で圧倒的に負けてしまうのが「泡沫候補」です。その人は落選し、笑われ、恥をかくことになるでしょう。

しかし今日の個所、実はイエス様もそれによく似た状況だったのではないかと思います。イエス様も泡沫候補の一人だったのではないかと思います。人々は確かに救い主を待っていました。何百年も待っていました。その間繰り返し自分が救い主キリストだという人が現れました。しかしどの人もキリストではありませんでした。私がキリストだと言う泡沫候補が現れる度に、みんなそれを笑い、それを拒否しました。

イエス様の時も同様です。「イエス、お前が救い主のはずがないだろ。そういう人は、もっとちゃんとした一族から、学歴のある人とか、祭司の家系から出てくるもんだよ。こんな貧しい小さな村のナザレから、出るわけがないでしょ」と諭されたでしょう。

しかし確かに救い主イエス・キリストはこの小さな村で生まれ、育ったのです。そのことの意味を今日は知りたいのです。それは神の子が、こんな場所に神の子は生まれないとみんなが思う場所にこそ生まれたということです。汚い、狭い、小さい場所に、神はいないと思う場所に生まれたということを示しています。今日はそのことを聖書から読んでゆきましょう。

今日の聖書の個所をお読みしましょう。今日の個所ではナザレに戻ってきたイエス様の姿が描かれています。イエス様の活動を家族や地元の人はどう思ったのでしょうか。人々はイエス様を誇らしく迎えたのではありませんでした。

54節「人々は教えを聞いて驚いた」とありますが、素晴らしさに驚くということではありません。もっと否定的なニュアンスです。何をこいつは教えているのだ、まったくという驚きです。

地元から有名人が誕生したという誇り、喜びすらありません。まさしく泡沫候補としての扱いを受けています。お前なんかが救い主なわけがないだろ。お前なんかがそれになれるわけがないだろうと評価されています。54節続きには「だってお前は近所の大工の息子だろ。小さい頃は汚い格好で、そこら辺を鼻垂らして歩いてただろ。きょうだいと一緒にバカ騒ぎしてただろ。そんなお前が救い主、キリストなわけがないだろう」そう言われたのです。

まさしく「泡沫候補」です。金持ちの子どもでも町一番のこどもでもなかったキリスト候補者です。貧乏で学歴も実績も家柄もないキリスト候補者です。家族にとってみれば恥です。誰にも相手にされない馬鹿なことを言い出す人が身内から生まれてしまったのです。人々は56節「どこからこんなことを知ったのか」とその由来を聞いています。こんな小さな町ナザレで生まれ育ったイエスがどこでそれを知ったのかと疑問に思ったのです。

おそらくイエス様の活動を最も評価しなかったのは、このナザレの町の人々です。今までの自分の見てきたこと、聞いてきたことから判断すれば、誰に目にもイエスが神の子ではないことが明確でした。それは無理のないことかもしれません。身内にそういう人がいたら信じるどころか、迷惑だろうなと同情します。

同情する一方で、ナザレの人々のその判断に疑問も残ります。彼らはイエスが神の子であるという可能性をまったく考えなかったのです。どう考えても自分たちの判断が正しいと自信を持っていたのです。激しく憤るほどに、自分たちが正しいと思ったのです。こんな汚い村から、こんな小さな家から、世界を救う神の子が生まれるわけが無い、イエス様の話を聞いてなおそのように判断したのです。

「しかし」です。「しかし」まさしくここに神様の在り方が現れています。それがキリスト、神の子だったのです。神の子は、人々の想像もできない場所から現れたのです。まずもってお前はちがうだろうと思う、そこに神がいます。まずもってこのような場所には神の子は生まれない、そう皆が認める場所に、神の子はお生まれになったのです。

神の子は人々がここに生まれたら誰もが神の子だと信じる、そのような場所、そのような家柄を選んで生まれたのではありません。とても受け入れることができない、場所に受け入れがたい方法で現れたのが神です。そしてキリストはそのナザレをふるさととして下さったのです。それは偶然、ナザレだったのではありません。それが聖書の神様の選び方なのです。

神様は私たちの常識では考えられない場所から現れるお方です。神様は私たちの想像を超える場所から現れるお方です。それがイエス・キリストの誕生ということです。小さな民族の、小さな村ナザレの、小さな大工の家に、偉大な神の子が生まれるのが神の選びなのです。

そしてキリストは特別な存在ではなく、一人の人間として、小さいころを、ナザレの町の人々と共に生きたのです。ふつうの子どもとしてその村で生きたのです。そのような神の子の現れ方は全く想像を超えます。ナザレの人々はそのようなことはあるはずがない、そう常識的な判断をしたのです。

イエス・キリストとはこのように私たちの常識を超えて現れるお方です。そしてまた時代を超えて、私たちにも現れ、共にあろうとしてくださるお方です。イエス様が生まれ、住まわれる場所、それは小さな私の中です。取るに足らない私に、神様は現れて下さるお方です。

罪深く、不完全な私の中こそ、神様は現れて下さいます。共にいるといってくださいます。神を受け入れることのできない私に現れて下さるのです。すばらしい人格を持ったあの人にこそ神様は現れるに違いないと思うでしょう。でもそれは神様の選び方ではありません。この不完全な私に、不完全なあなたに神は現れて下さるのです。

神様はこの不完全な私たちをふるさととしてくださいます。私たちは、この待降節・アドベントでそれを待ち望みたいのです。こんな私たちに神様が来て下るのを待ちたいのです。イエス様どうぞ、私の心に来てくださいと、この時を待ち望みたいのです。あなたを私の心にお迎えする準備、それは全くできていません。いつまでたっても狭くて、汚くて、小さい私です。とてもあなたをお呼びできる美しい心ではありません。あなたをお呼びするなどきっとできない、私はあなたの前でも泡沫候補です。

でも神様は、そんな場所こそを選ばれるお方だと今日の個所は語っています。あなたを招けず、受け入れられず、自分の常識でしか測れない、落選確実の泡沫候補の私にこそ、神様は現れて下さいます。そして主イエスも泡沫候補でした。泡沫候補であるキリストが泡沫候補である私に現れて下さったのです。

それが起きる時は本当にうれしいことでしょう。みんなで万歳をする喜びでしょう。その時こそ、うれしいクリスマスとなるでしょう。共にその時を待ち望みましょう。神様は私たちが絶対にここに神はいない、私にはあなたを迎える準備などできていない、そう思う場所に生まれ、住んで下さるお方です。小さな場所を選んで来てくださるお方です。私たちと共に生きて下さるお方です。この方をお待ちしましょう。お祈りします。

 

【全文】「神は待たせる」マタイ24章36節~44節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることをうれしく思います。子どもたちも共に礼拝をしています。私たちは子どもを大切にする教会です。日々成長する子どもたちを感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

またコロナウイルスが再流行の兆しを見せています。寒くなってきましたが、礼拝前後の換気にご協力ください。どうぞ温かい格好でお越しください。もし体調がすぐれない場合は、無理なさらずにご自宅で礼拝をささげて下さい。ライブ配信をしています。

今日はこの後、クリスマスの飾り付けを行います。飾り付けは見るのもそうですが、飾り付けが面白いものです。クリスマスが近づいてきていることを一番実感できるタイミングでしょう。

今日から教会はアドベントに入ります。日本語ではこのアドベントを「待降節」と呼びます。イエス様が天から地上に「降」りて生まれるそのことを「待」つ季「節」です。イエス・キリストの誕生日を待ち望む4週間を持ちます。今年のアドベントは「待つ」ということをテーマに見てゆきたいと思っています。

アドベントという言葉はよく、アドベンチャーと同じ語源だと言われます。今年は本当にアドベンチャーがない1年だったと思います。待ってばかりの1年だったと感じます。私たちは今年、とにかく待たされた1年でした。

いろいろな行事の準備をしていましたがコロナの影響で、ぎりぎりまで検討し、延期・中止・縮小を決定しました。バザーや集会がなかったことを残念に思います。

教会の行事ならまだしも多くの人々は人生において待つことを強いられました。学生は学校の授業開始を待たされました。修学旅行も待たされました。就職も待たされました。結婚式も待て。病院に行くのも待て。手術も待て。待て待て待て待て待て待て。家で待たされるばかりの1年でした。人々はもうこれ以上待つのに飽き飽きしています。日本語では待降節と書きますが、また待つのですか。私たちはもう十分に待ったでしょう。

待ってばかりの中でしたが、待ってくれないものがあることも知りました。コロナの中でも子どもたちの成長は待ってくれません。少し集わないうちにどんどん大きくなってゆきました。おなかの赤ちゃんの成長も、妊婦の出産も待ってくれません。人の死も待ってはくれません。命の事については私たちがコントールできないスピードで進んでゆきます。命の事で焦ったり、無理したりしてはダメなのだと教えられました。

命の始まり、その成長、命の終わりは、コロナの中でも待ってくれたり、早くなったりはしません。コロナよりももっと大きな力がそこに働き、そのスピードと時が決まるのです。でも必ず来るその時を待つことが大事なのでしょう。

待たされて気づくことが多くありました。私たちはもともと急ぎすぎていたかもしれません。忙しすぎたかもしれません。私たちは待たされて、日常の大切さを知りました。近所の風景が違って見えるという体験をしました。

そして待たされて、礼拝の大事さも知ったでしょう。オンラインでもできるけど、教会に来る事自体に大切な意味があるということを知ったのです。心だけではなく身体が集まる喜びを改めて知ったのです。そして礼拝以外をやめて、礼拝が教会の中心であることをもう一度知りました。その点では待つことも悪くなかったと思う私たちです。

少しずつ行事は再開しているものがありますが、私たちには新しい気づきがあります。私たちはただ単に元に戻る希望ではなく、新しい希望が来ることを待ちたいと思います。以前に戻ることではなく、以前よりももっと大きな新しい希望を期待して、もうしばらくの間待ちたいのです。

それはただじっと座って待つのとは違うでしょう。希望に向けて祈って待つということです。赤ちゃんの誕生を祈って待つように、病床で死を迎える人を祈りながら送るように、祈ってその時を待ちたいのです。

この「待降節」、待つことにあきあきした私たちに、神様はもう一度待つように語っています。コロナ禍で私たちは様々なことを「待つ」経験をしました。このアドベント・待降節もイエス様がクリスマスにもう一度私たちの心に来てくださるように、待つ時です。アドベント・待降節の4週間、一緒に祈って、待ち続けましょう。主イエスがもう一度私たちの心に来てくださるように、祈って待ちましょう。

 

今日の個所の個所をお読みしましょう。今日は祈りながら待つことがテーマです。神様は私たちを待たせるお方です。今日の個所ではイエス様が再び来られる日をどのように待つべきかということが語られています。再びイエスが地上に現れることを、再臨と言います。最後の時にイエス様がもう一度地上に現れるということが起こります。

 

イエス様がいつ来られるのか、その日付は誰にもわかりません。それは神様が決める時だからです。神様の事柄を、そのタイミングを私たちは決めたり、ずらしたりすることができません。生まれる日、死ぬ日、成長のスピードは私たちが決めることができないのです。ただ私たちに知らされているのは、イエス様は必ず来るという確かさだけです。必ず来る、だから私たちはその日まで待つしかないのです。

いつ来るかわからない事のたとえとして聖書はノアの箱舟の話を引用しています。38節、ノアの箱舟に乗らなかった人々は、飲食を共にしたり、結婚式のような大規模集会を開いたり、普段と変わらない生活を過ごしていました。そんなあるとき突然、大洪水の禍が起きて、初めて自分が決められない時があるということを彼らは知ったのです。

その禍は生活を共にした人の命を奪いました。40節、臼を引く女性の一人を、畑で働く人の一人の命を奪いました。43節の泥棒も同じです。いつ来るかわかりません。洪水も、泥棒も、そしてコロナもいつ来るかわからない、いつ終わるかもわからないものです。突然日常に起こされて、私たちの生活はそれによって大きく変えられてしまうのです。

悲しみ、苦しみ、感染症は突然私たちを襲います。コロナは神が私たちに与えた試練だとは私は思いません。しかし神様の起こすことは、それと同じくらい突然に起こるのだと聖書は語ります。私たちには予測することも、決めることもできないタイミングで、神様の出来事は起こされるのです。その中で私たちにできることは、ただ神様の時を待つことしかありません。神様がいつか私たちの下に来るはず、確かに来ると信じ、待つことしかできないのです。私たちにはその時を動かす力はありません。待つしかないのです。しかしその中で、今日イエス様は私たちに待ち方を教えています。待つことしかできないけれど、待ち方があるというのです。

42節には「目を覚ましていなさい」とあります。私たちは眠らないで待っていることはできません。礼拝でも眠ってしまいますから。眠らない事はできません。イエス様は眠らないで待てと言っているのではありません。実はイエス様は別の個所でも「目を覚ましていなさい」と言って待つことを教えています。それはゲッセマネでの出来事です。

イエス様はマタイ26章38節ゲッセマネでご自分が祈っている間、弟子たちに「目を覚ましているように」と言いました。しかし弟子たちは本当に眠ってしまい、再び来られたイエス様はもう一度弟子たちに言います。今度は26章41節「目を覚まして祈っていなさい」、そう言ったのです。

実はこの言葉はイエス様が弟子に直接語った最後の言葉でもあります。イエス様が行ったり来たりしながら、弟子に眠らずに目を覚ましていなさ言うという場面は今日の場面とどこか似ています。イエス様が伝えようとしていることはこのことでしょう。目を覚まして待ちなさいとは、祈って待ちなさいという意味です。

イエス様は私たちに、神の時は動かすことはできない、でもだからといってただ座って待つのではなく、祈って待ちなさいと教えられているのです。祈って神様の時が、神様の業が起こるのを待ちなさいと言っているのです。そしてもちろん「目を覚ましていなさい」とはこの後の困難をよく見て起きないという意味も含むでしょう。苦難を、十字架を、復活をよく見るようにとの言葉です。

今日の個所「目を覚ましていなさい」とは、私たちにはその時がいつかはわからないけれども、祈りながら待ちなさいという意味です。私たちも目を覚ましていましょう。

私たちは食べたり飲んだりするだけではなく、祈って待ちましょう。私たちはコロナの終息を寝て待つ、ただ座って待つのではなく、祈って待ちましょう。そして私たちはクリスマスを祈って待ちましょう。ただ待つ、寝て待つのではく、祈ってクリスマスを待ちましょう。クリスマスは神様が私たちにイエス様を送って下さったことを喜ぶときです。

神様はすでにイエス・キリストを私たちに送って下さいました。それはすでに起こされています。しかし、もう一度クリスマスにイエス様を自分の心の真ん中に迎えてみてはどうでしょうか。クリスマスの時に、私たちの心の中にもう一度イエス様が来て下さるように、祈って待ってみてはどうでしょうか。それが待降節なのではないでしょうか。私たちの日常には待たなければならないことがたくさんあります。焦る気持ち、早く進めたい気持ちがあります。でもそれも祈って待ってみてはどうでしょうか。

今年はいつもと違うクリスマスです。あわただしさのない、静かなクリスマスです。何かを祈って待つには良いかもしれません。

毎年と同じクリスマスが迎えられるように願うのではなく、コロナ禍を経て今までとは違う新しい思いを頂くこと、新しい信仰を頂くこと、新しい希望を頂くことを祈ります。クリスマスまで一緒に祈ってゆきましょう。

確かに神様は私たちの下へ来てくださいます。クリスマスは必ず来ます。その時まで私たちは、目覚めて、祈って、待ちたいのです。そこにイエス様が必ず来てくださるはずです。お祈りをいたします。

 

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【全文】「生活困窮の神」マタイ25章31節~46節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができ、感謝です。私たちは子どもを大切にする教会です。共に礼拝をしてゆきましょう。

私たちの教会は生活困窮者のためのシェルターを設置しています(場所は非公開です)。私が来て1年半ほどですが、多くの方が利用されました。宿泊の申し込みの方法は様々です。教会関係からの紹介、DVの相談機関からの紹介、直接訪ねてくるケース、市から依頼されるケースなど様々です。

シェルターに誰かを泊めるのは、正直言って心配です。怖い人ではないか、ちゃんとルールを守ってくれる人か、突然いなくなったりしないか・・・。考えれば考えるほど、断った方がいいに違いありません。

しかし、ここに泊まらなければ、その人たちは野宿をしなければいけません。それは私が泊める危険以上に、彼らにとって雨風にさらされ、無防備で、より危険なことです。私は宿泊の依頼をほとんど断ることができません。1週間ですが、住む場所が見つかるまでの間、シェルターを貸します。

本当はじっくり話を聞いて、事情がよく理解できてから受け入れるかどうかを判断したいと思っていますが、そうできないときの方が多いです。疲れ果て、今日泊まる場所に困っている人に、まず一から事情を教えてほしいというのはあまりにも酷です。多くの場合、簡単な事情を聴くのみでお貸ししています。

シェルターを利用される方の多くは、部屋に入ってすぐに眠ります。初日はほとんど一日中寝ているでしょうか。ここにたどり着くまでの様々な困難にへとへとになっているのです。何より、寝る場所がある、食べ物があることに安心して、ぐっすりと眠るのです。朝会うと、久しぶりに布団で寝た、久しぶりに朝までぐっすり眠れたと言います。翌朝、着るものが必要であれば、着る物を。食べるものが必要であれば食べるものを渡します。時にはこちらからするとわがままに思えることも要求されますが、なるべく応えるようにしています。

私たちがこの支援をするのは、困っている人を助けるためです。なぜ人を助けるのか、そこに目的は必要ありません。神様が造った命を守ること、助けることが目的だからです。利用される方の中には、礼拝に参加したいとおっしゃる方もいます。本当に礼拝に興味のある方と「泊めていただいているのだから、それくらいは参加しないと」と気を使ってくれている方の半々といった印象です。私は「ご自由にどうぞ」とそっけなく応えるようにしています。

私たちは礼拝参加を条件にシェルターを貸しているのではありません。無言も圧力になります。私たちは何かと引き換えに支援をしようとしているのではありません。ただその神様の造られた命を守るために、短い期間ですが泊まる場所をお貸ししているだけです。

宿泊は原則1週間としています。1週間、一緒の敷地に住むというだけで、お互いのことを理解しあい、互いに親近感を持つものです。毎回シェルターを利用された方が出発する時は寂しさを覚えます。「もう少し泊まっていけば?」と言いたくなる気持ちもありますが、彼らには次の行き先があります。

シェルターを利用し、また旅立っていく時の顔は、はじめて教会を訪ねた時の顔とだいぶ違う表情であるように感じます。少し安心したような、でも力強いような、でもやはり不安そうな表情です。利用者がいなくなると、私の気持ちは寂しくもあり、正直ほっとする気持ちもあります。また次の方はいつ来るだろうかと考えながら見送っています。

私がこの支援をするときに大事にしているのは、必ずこの方に神様の力が働いて、道が開けてゆくはずと信じて支援をすることです。いろいろな諦めや疲れを覚えてこの教会を訪ねます。きっとその回復には時間がかかるでしょう。でもその中に必ず神様の力が、必ず働くと信頼し、この支援を続けています。今は苦しいことが重なっているけれども、必ずこの方に神様の力が与えられ、平安で、その人らしい人生を、輝いて生きるときがくる。笑顔になるときが来る。神様がそうしてくださると信じて支援をしています。私はその神様への信頼を試されながら、この支援を続けています。神様への信頼を問われる1週間です。やっぱり難しいかな、いやきっと何か道があるはず、そう信じる1週間です。

きっと神様を知る方法は、聖書を読むということだけではのだと思います。そのような人との出会い、関係を通じても、神様はご自分の力を私たちにお示しになるのだと思います。

私たちはそのような人との出会いを大切にしましょう。シェルターのみならず、サロン虹、こひつじひろば、こひつじ食堂、バザー、炊き出し、そして新来者すべてにおいてそうです。そのような出会いを、神様の力がきっと示される出会いとして大切にしてゆきましょう。

 

今日の聖書個所もそのように語っていると思います。私たちの愛は見返りを求めません。命を守るそのこと自体が目的です。そして支援を通じ神様の力を見るようになるということです。今日の個所からそのことを共にいただきましょう。

今日の個所にも生活困窮者が登場します。目に浮かびます。食べるもの(食)・住む場所(住)着るもの(衣)・健康・外出の自由が不足している人がいました。今日私はその世話をした人につい注目がいってしまいます。

35節、ある人はこの人にできる限りの世話をしました。誰かに衣食住、特に住居を支援するのは簡単なことではありません。彼は時間やお金や労力を割いて、自らの危険を冒して、その人の助けとなったのです。彼は見ず知らずの人を招き、精一杯のもてなしをしたのです。

どのくらいの期間を共にしたのかはわかりません。1週間かもしれません。おそらくその期間で支援を受けた人は、心身ともに休息の時間を得たでしょう。初日はぐっすり眠ったでしょう。寝る場所と食べるものを得て、安心をしたでしょう。励まされたでしょう。そして安心と、力と、不安をもって、そこを旅立つときが来たのです。

自分も、もう一歩頑張ってみよう。自分の人生に向き合ってみよう。次の目標に向かってみよう。そう励まされたのです。住居を提供した人は、いつかきっと見返りがあるはずとは思ってもいませんでした。その後すっかりそのことは忘れ、過ごしていたのです。

なぜこの人は助けたのでしょうか?目的や理由は書かれていません。きっとなぜ助けたのか聞かれても困ったでしょうか。助けることに目的があったのでしょうか。きっと助けること自体が目的だったのです。神様の造られた命を守る、それが目的だったのです。

あるときその人は王であるイエス・キリストに出会いました。自分が家を提供した人が神の兄弟・仲間だったという自覚などありません。助けたことすら忘れてしまっていました。しかし王、イエス・キリストに40節「助けたのは私の兄弟だ。それは私を助けたことと同じだ」と言われます。彼は驚いています。38節「いつ私がそんなことしたでしょうか?」と聞いている通りです。

私はこの物語から2つのことが大事だと思います。一つは住居を貸した側は何の見返りも求めず、見返りなど忘れるほどであったということです。彼は何かの見返りを求めていたのではありません。忘れるほどに、あらゆる見返りを求めていませんでした。もし助けたら、信者になってくれるかもしれない。もし助けたら地域に一目置かれるようになるかもしれない。もしかしたらこの人を教会に人を引っ張れるかもしれないと思って助けたのではないということです。目的は助けることそのものだったのです。

それは愛とも言い換えることができるでしょう。目的は愛そのものでした。愛を使って何かをしようとするのではなく、愛そのものが目的であったということです。見返りを求めずに命を大切にしてゆくこと、それが愛です。

もう一つこの物語で大事なことは、私たちはどのように神様に出会うのかという問題です。私たちは聖書のみ言葉によって神様と出会います。でもそれだけではないということです。困っている人、寂しい思いをしている人、自由がない人、最も小さい人、その人たちとの出会いの中で、神様に出会うということです。

その人たちに出会うと、私たちは神様への信頼を問われます。神様の栄光がその人に表れると信じれるかどうかが問われます。そして、その人たちを通じて私たちは神様の力を知るようになるのです。貧しい、困っている、寂しい、不自由、小ささ、その人たちと共に立とうとするときに神様と出会うことができるということです。

この二つ、見返りを求めない事、神と出会う事はきっと、これまでの、そしてこれからの私たちのすべての活動の中に言えることでしょう。こひつじ食堂、こひつじひろば、サロン虹、炊き出しやバザー。私たちがそれを行う時、その支援に立つとき、私たちは見返りを求めません。何か教会にメリットがあるからやるわけではありません。今日の聖書の中の、助けた彼と同じです。ただ神の命のために私たちは働きます。

そして私たちは教会の様々な活動の中で、出会いを大切にします。互いの痛みや悲しみ破れに関わることを大切にします。できる限り、共に立つこと、連帯することを大切にします。助けた彼が神様に出会ったように、そのことが神様との出会いにつながるのです。

私たちはこれからも地域を愛し、仕えてゆきましょう。見返りをもとめずに出会ってゆきましょう。そして私たちの教会の中でももちろんそうです。私たちこそ愛し合い、仕えてゆきましょう。痛み悲しみを共に祈りあってゆきましょう。必ず神様がすべての人に力を与えてくださるはずです。お祈りをいたします。

 

【全文】「敵を愛しなさい」マタイ5章38節~48節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝を持つことができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。

先日新聞の記事にもなっていましたが、いま日本では少年法の厳罰化が議論されています。未成年の犯罪にも大人と同じ罰を与えようという議論です。少年の犯罪はこれまで何度も厳罰化されてきましたが、さらなる厳罰化が進められようとしています。

通常20歳未満の未成年が罪を犯すと、処罰よりも保護や更生、教育が優先されます。更生に期待し、刑罰よりも教育が重視されてきました。しかし一方で少年法は犯罪に甘い、もっと刑罰を重くすべきだという声は根強くあります。

現在、少年法の対象を20歳未満から、18歳未満に引き下げること、18歳以上は大人と同じ罰を受けることが議論されています。結局今のところは、対象年齢の一律の引き下げは見送られる方針ですが、強盗などの一部の犯罪で20歳未満という基準を18歳未満に変更をしてはどうかと提案がされています。来年度の国会で議論されることになります。

少年犯罪への厳罰化の背景には少年犯罪の増加・凶悪化があるかと思えば、そうではありません。実は少年犯罪は減少し続け、この10年で軽微なもの、重いものどちらの少年犯罪も大幅に減少し、戦後最低を更新したそうです。今の子どもたちが凶悪化していることなど決してありません。私たちが少年凶悪犯が増えていると感じるのは、マスコミの報道が原因でしょう。少数の凶悪事件をことさら報道し続けることで、社会に間違ったイメージを植え付けています。若者はすぐキレる、怖い、凶暴化している、社会の敵と刷り込まれているのです。

少年犯罪は減少しているにも関わらず、厳罰化が求められています。本来罪を犯した少年、未成年はまだ発達段階にある人間です。成長の途中に犯した罪には罰を与えるだけではなく、様々な教育や支援が求められているはずです。

正しく導く関わり、人との温かい関わり、私たちの言葉で言い換えるなら「罰」よりも「愛」が必要とされているのではないでしょうか。日本は過ちを犯した未成年を保護し、更生する社会から、厳しい処罰を加えようとする社会に変わろうとしています。本当は罰ではなく、愛が必要なはずです。

罪を犯す少年に、罰を強化するのではなく、もう一度命の大切さを知り、共に生きることを選びたいと思うのです。だって人はやり直せるではないですか。人は生まれ変われるではないですか。

私たちだって毎週変わりたい、それを願って礼拝をしているのではないでしょうか。罰せられるのではなく愛されることがどれほど大きな力になるのか、私たちは知っているではありませんか。子どもであればなおさらです。罪を犯した少年を、社会の敵としてはではなく、もう一度共に命の大切さを知る者として共に生きることはできないでしょうか。今日の子どもと共にある礼拝のように、子どもを受け止め大切にする社会にできないでしょうか。

今日このことを聖書から聞いてゆきたいのです。今日は聖書の「愛敵命令」と呼ばれる個所です。神様は隣人を愛しなさいというだけではなく、敵と思えるような人さえも愛しなさいといいます。相手に条件を付けずに愛しなさいと言います。そして誰よりも神様ご自身がそのようなお方です。神様は条件を付けずに人を愛するお方です。そのことを今日の個所からいただきましょう。

 

今日の聖書の個所を見ましょう。39節、右のほほを殴られたら、反対側のほほを差し出しなさいと聖書は語ります。そもそも、殴られない様にするにはどうすればよいでしょうか。殴られるのは、相手に抵抗するからです。殴られないためには相手の言うことに従えばよいのです。間違っている、絶対におかしいと思っていても、我慢し、無言で従えば殴られることはありません。

しかし間違っていると思う相手に正直に反対を表明する時、その人は殴られるのです。我慢するか、殴られるかを迫られて、我慢しない、負けないと選択する時、人は殴られるのです。

今の日本では、人事が暴力的に扱われます。政権に文句を言う人は不利益を得ます。今の政治に例えるなら、人事で不利益を受けたくなければ、改ざんしようがうそをつこうが政権の言うとおりに従わなければいけません。日本でもごく一部の人は、報復の人事が怖くても、毅然と間違えだと語っています。

この個所は、私たちはやられても、絶対やり返すなということだけではなく、善と悪をしっかりと見極め、殴られるとしても、悪に毅然とした態度をとるように求めています。私たちは殴られ続けても、悪をうやむやにするのではありません。社会から悪をなくすために、毅然と立ちたいのです。

 

イエス様は暴力で報復することを否定します。やられたらやりかえすのではありません。暴力に暴力で抵抗するのではありません。罪に罰で対処するのではありません。あらゆる暴力と罪に毅然と立ち続けることを私たちに教えているのです。

私は今、勇ましく、暴力に毅然と立ち向かおうと言いましたが、聖書の要求はさらに私たちに厳しく迫ってきます。続く44節には「敵を愛しなさい」とあります。まさか敵と思えるような相手に、毅然と立つことはできても、愛することなどできるでしょうか。

自分に暴力で向かってくる相手を愛することなどできないものです。愛とは感情ではなく、相手を大切にすることです。別に抱きしめたいほど強い愛情を持つことを命令されているわけではありません。でも大切にするということだとしても、私たちは暴力で向かってくる相手にそれができるでしょうか。暴力で向かってくる相手を大切にすることできるでしょうか。私たちは自分や誰かを殴る人を大切にすることができるでしょうか。報復と制裁、罰ではなく、愛することができるでしょうか。

家族とでさえ、ご近所とでさえ、教会の仲間とでさえ、愛し合うことができない私たちです。傷つけ合ってしまう私たちです。にもかかわらず、私たちの隣人だけでも愛するのが大変なのに、どうして隣人のみならず、敵を愛することなどできるでしょうか。

聖書の教えは素晴らしいと思います。敵を愛せという言葉は人々の胸に響く言葉です。しかし敵を愛しましょうという聖書の言葉を読むとき、私たちは冷や汗をかきます。素晴らしい教えですが、それは本当に難しいことです。私はキリスト教の教えは素晴らしいと思いながらも、それを実践できないクリスチャンです。人は隣人を、敵を愛したいと願いながらも、愛せる時と愛せない時があるのです。

でも一つだけ確かなことがあります。それは、神様は隣人も敵もどちらも愛するお方だということです。

神様は隣人を愛しなさいと言います。そう、神様は隣人を愛するお方です。隣人とはたとえば神様を信じ、神様に従う仲間のことです。神様はご自分に従う者たちを愛するお方なのです。そして神様は敵でさえも愛せといいます。なによりもまず神様ご自身が敵を愛するお方です。自分に暴力で向かってくる人も、神様は愛するのです。神様が愛する範囲は、もはや隣人であることを超えてしまっているのです。

神様は敵か味方か関係なしに、すべての人を愛し、大切にされるお方です。私たちに敵を愛せという以前に、そもそも神様が敵を愛しているお方なのです。

神様はこの点で不公平です。神様は罪を犯した人も愛します。こどもならなおさら愛するでしょう。神様の愛は一切の条件が無いのです。それが無条件の愛です。45節、太陽が人々を等しく照らすように、神様の愛は無条件なのです。

私たち人間はいつも条件付きの愛の中にいるでしょう。敵を愛したいと思っても、身体はなかなか動かない、そのはざまにいます。でも神様は違います。すでにすべての人を無条件に愛してくださっているお方です。神様はその命を大切に思ってくださっているのです。私たちには人を愛する限界があります。しかしそれでも私たちは無条件の愛にむけて歩みを始めたいのです。今日神様の愛を頂いて、今週もすべての人を愛する、大切にするその歩みを始めたいのです。特に敵、苦手と思う人をもう一度愛する、大切にするチャレンジを今週したいのです。

そうした方が人生や社会がうまくいくから愛しましょうというではありません。愛することで、人生が、社会がうまくいくようになるから、愛するわけではありません。愛はそのような「手段」ではありません。愛はそれ自体が目的です。愛することそれ自体が目的です。神は愛です。神様の命を大切にすること、そのこと自体に意味があるのです。愛することで人生や社会がうまくいかかどうかはわかりません。でも私たちは敵を愛したいのです。大切にしたいのです。神は愛だからです。

私たちは個人で、そして社会で罪と暴力に向き合いたいと思います。そして悪に対して罰や暴力ではなく、毅然とした態度で生きたいと思います。そして罰や報復ではなく愛に生きたいと願います。

イエス・キリストがまさに地上でその歩みをされたお方です。たとえ十字架につけられたとしても、人々を愛し続けたお方です。その暴力に十字架で向きあわれたお方です。

誰よりも神様が、このように向き合い愛してくださいます。神様は無条件に愛するお方です。愛に条件を付けないお方です。私たちもそのように生きたいのです。そのように生きることが、44節天の父の子として生きる、神の子として生きることなのでしょう。

今日も私たちは聖書のみ言葉をいただきました。48節簡単に、完全な者になることができない私たちです。しかし、私たちの不完全さにも関わらず、完全な神は私たちを愛してくださいます。だからこそ愛し合いたいのです。悪と罪と敵に罰ではなく、愛で向き合いたいのです。その希望を胸に、この1週間を愛をもって歩みましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「バプテスマって何?」マタイ3章7節~12節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、うれしく思います。私たちは子どもたちを大切にする教会です。特に今日は子どもたちを祝福する時をこの後に持ちます。大切にする子どもたちの成長は私たちにとってとてもうれしいことです。一緒に礼拝をしましょう。

今日から1年間、マタイによる福音書からの宣教をスタートします。ヨハネ福音書を1年間かけて読んできたことにも感謝です。聖書には4つの福音書があります。同じ一人のイエス様を描きながらも、書いた人が違います。同じ出来事でも4つの視点で書かれています。

ヨハネ福音書を1年間読んできてどうでしょうか?特徴、キーワードはいろいろあったと思いますが、迫害の時代に書かれた福音書です。苦しい中にも光・希望を見出した書、イエス様は神であると証しした書、子供や女性の活躍が書かれる書、対話の中で書かれた書、そのような印象を受けた福音書でした。

今日からはマタイ福音書をスタートします。この福音書にも大きな特徴がいくつかあります。一つは当時のユダヤ人向けに書かれたということです。ですからユダヤの人になじみ深かった、旧約聖書の引用が多くあります。旧約聖書・ユダヤ教と照らしながら読むと面白いのです。一番の特徴はなんといっても、「インマヌエル」「神われわれとともに」という言葉でしょう。マタイ福音書は1章からインマヌエルと始まり、28章20節も「いつもあなた方とともにいる」というインマヌエルで終わります。インマヌエルのサンドイッチになっている福音書です。「神様は私たちとともにいる」ということを一番に伝えているともいえる福音書です。もちろんその他にもテーマがあります。平和と和解、山上の説教で愛が語られるのが特徴です。ともに1年間、他の個所に寄り道をしながらですが、共に、スタートしましょう。

今日のキーワードはバプテスマです。聖書には「洗礼」と書いて「バプテスマ」とフ