みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら、礼拝しましょう。
今月は地域協働というテーマで宣教をしています。教会は地域とどのように関わっていくかを考えています。私たちの教会では毎月2回、誰でも1食200円で利用できる「こひつじ食堂」を始めました。これを始めたことで圧倒的に教会と地域の関りが増えはじめています。地域のたくさんの方が教会を訪ねて下さり、いろいろな方と話をするようになりました。教会を訪ねてくれた人の多くが口を合わせたように言う言葉があります。それは「昔からここに教会があるのは知っていたけど、中を見たことはない。入るのは初めて」という言葉です。
うれしいと同時に、少し残念でもあります。私たちは73年間どれだけの集会をし、伝道をしてきたでしょうか。どれだけのチラシをまいてきたでしょうか。どれだけ新しい方が来るのを祈ってきたでしょうか。しかし、まだ多くの人が平塚教会の中を知らないのです。平塚教会は地域の人にこう思われています。あるのは知っている、でも入ったことはない。そして何をしているのかわからない場所。商店街のお店ではなく、私たちの教会のことです。クリスチャンが身近にいないという人は、中で何をしているか、もっとわからないでしょう。私はこんな質問をされたことがあります。お酒は飲むのですか?お肉は食べるのですか?牧師さんは黒魔術はできますか?町で「神父さん」と声をかけられます。
地域の方にとって、教会はとにかく体験したことのない、未知の世界なのです。入るのは怖い、不安、勧誘されて出てこれないかもしれない場所です。時々、初めて礼拝に出席するという方もいます。もうそれだけで、すごい勇気だと思います。
キリスト教系の学校、ミッションスクールの経験がある人はだいぶ違うでしょう。学校の礼拝に出たことがあり、讃美歌が歌え、イースターの意味を知っている。もうこれはかなりの上級者です。「聖書が家にある」はもうかなり私たちに近いです。
教会は多くの人にとって、何をしているかわからない、敷居が高い、入りづらい場所です。毎週集う私たちにその自覚は全くありませんが、私たちは毎週その高いハードルを越えて、集まっています。でも私たちは今、こひつじ食堂を始めたことによって、地域の方たちとの交流が増えました。地域の方たちから見て、教会の敷居はとても下がっています。今まで入ったことのなかった会堂の中に入って来て、ご飯を食べて、おしゃべりをして、牧師と会話をします。こどもは中で走り回るのです。宗教施設の中で食事することに最初はためらいがあったはずです。
それでもこの活動によって、教会は身近な存在だと感じてもらえるようになったでしょう。教会は危なくない。クリスチャンもお肉を食べるんだ。なんだ、みんな私と同じような人間だと感じてもらえるようになります。それはお互いにとってかなり大きな一歩、新しい体験だと思います。
私たちはこの人たちを勧誘して、教会に引っ張り込むわけではありません。私たちもミッションスクールのように、その人の人生の体験のひとつになりたいと思っています。別にこの教会でなくてもいいのです。どこかの教会に、何年後か、いつか訪ねてくれればよいと思っています。
教会はとにかく敷居が高い場所です。入るのに、躊躇があり、緊張する場所です。私はこひつじ食堂によって敷居がぐっと下がったと思います。そしてこの敷居をもっと下げたいと思っています。今日は聖書から教会の敷居の高さを下げてゆくことを見てゆきたいと思います。今日も聖書を一緒にお読みしましょう。
今日はコリントの手紙Ⅰ 9章19節~23節をお読みいただきました。9節にはできるだけ多くの人を得るためだとあります。信者獲得の大号令、顧客獲得ノウハウの勧めのように思えてしまうかもしれません。でもきっと違います。信仰とは生き方の問題です。何として新しい生き方を見つけて欲しい、新しい生き方をする仲間を得たいというのが、ここでの「なんとかして得る」という意味でしょう。生き方という視点で読みたいと思います。
パウロというイエス様の弟子がいました。その弟子パウロは、コリントという地域にある教会に手紙を書きました。手紙を最初から読むとわかるのですが、コリント教会には実に様々な人がいたようです。裕福な人、貧しい人、身分の高い人、低い人、男性、女性、あらゆる性。いろいろな人が集まる教会だったのです。そしてそのような中で問題になったのは、宗教的な熱心さの違いということでした。宗教的な熱心さの温度感が全く違う人が集まっていたのです。
例えば何世代も続く熱心な家系で、お腹の中にいる時から教会に来ていたという人がいました。小さい頃から習慣の様に教えを守っているという人がいました。一方で親は全く違う宗教で、最近コリント教会にき始めたという人もいました。
新しい人から見るとその輪の中に入るのは大変、難しいものです。熱心で何世代も続く家系の人たちは当たり前のように戒律を実践していました。いわば上級者です。集まっている人はみんな家族のようなに付き合っています。家族構成も性格もなんでもお互いのことを知っているようです。そこにある日キリスト教に興味を持って、初めて教会に訪ね人が加わってきたらどうでしょうか。そのような人がコリント教会に徐々に多くなっていきました。そこには今まで熱心だった人と、最近来た人の温度感の違いがあったはずです。家族のような関係の中に入っていく、そこにかなりの敷居の高さを感じたはずです。
パウロはそのような教会に向けて手紙を書いています。そしてパウロはその教会に対して、こう言います。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」。ユダヤ人とはつまり上級者のことです。上級者には上級者のようになりましたということ。そしてこうもあります。「律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました」律法を持たない人とはいわば初心者です。初心者に対しては初心者のようになったということです。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」とあります。弱い人とはここではおそらく教会に行くことを迷っている人でしょう。自分がその教会のなかでどうしたらいいかわからない人です。パウロはわからない人にはわからない人のようになったと言っています。
手紙を書いたパウロ自身は超上級者ですが、注目したいのはパウロが、全員ユダヤ人になるようにとは言わないことです。パウロは全員が上級者になりなさいとは言わないのです。これが注目をしたい点です。パウロは私のような超上級者を目指しなさいとは言っていないのです。パウロは「私はすべての人に対してすべての人になった」と言っています。
これはつまり私は上級者かもしれないが、最近来始めた人も、初めての人も、まだ迷っている人もいる、私はそういう人になると言っているのです。どのような意味でしょうか。私はこの個所「教会は敷居を下げなさい」と言っている様に聞こえます。みんながいきなり上級者なわけではないのだから、初めてくる人が入りやすい様に、迷っている人がわたしも大丈夫だと思えるように、敷居を下げなさいと言っている様に聞こえます。
もし初めて礼拝に参加するという人と一緒に礼拝するなら、初めての人のようになることが大事なのでしょう。こどもがいたらこどものように礼拝することが大事なのでしょう。子連れの親子がいれば子連れの親子のように、高齢者がいれば高齢者のようになることが大事なのでしょう。それが、今日の個所にある「すべての人がすべてになる」ということでしょう。ありふれた言葉に置き換えるならパウロはコリント教会と私たちにこう言いました「その集まりを初めての人、まだ加わっていない人の立場から考えましょう」そのように勧めています。
私たちの教会について考えましょう。私たちはまだ中に入ったことのない人を、どんどん招き、迎えてゆきましょう。そしてこの新しい生き方をする仲間を得てゆきましょう。そのために入りやすい教会、敷居の低い教会になってゆきましょう。私たち一人一人が初めて来た人のようになりましょう。そのようにして、すべての人がすべての人になってゆきましょう。そんな敷居の低い共同体になってゆきましょう。
そして私たちのそれぞれの1週間も同じす。私たちは今週も様々集まりに出かけてゆくでしょう。そこにはきっと上級者も、初級者も、初めての人も、まだ入ろうか迷っている人もいるでしょう。私たちはその時、すべての人になる、そのことを心がける1週間にしましょう。そのような生き方をしましょう。
23節にはこうあります。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」私たちは福音のために、そしてその敷居を下げるために、どんなことでも、いろいろなことを試してゆきましょう。23節の続きにはこうあります「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」これを信者獲得、教会存続のためにするのではありません。私たちはそれを、ただ共に福音にあずかるため、キリストにある新しい生き方を共に歩むためにするのです。
私たちはすべての人がすべてになる。そんな敷居の低い教会になってゆきましょう。そしてそれぞれの場所でそのように生きましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。今日からは1ヶ月間「地域協働」ということをテーマに宣教をしたいと思います。特に私たちは「こひつじ食堂」というこども食堂の運営から様々な刺激を受けています。食堂で起きていることから、私たちの教会のことを考えてゆきたいと思います。
私たちは2020年から「こひつじ食堂」という毎月第3・第4金曜日にだれでも1食200円で利用できる地域食堂を始めました。この数年でキリスト教の教会でも、こども食堂をはじめる教会が増えてきました。多くの教会系のこども食堂があります。その中で私たちの「こひつじ食堂」の特徴は何でしょうか?いろいろあると思うのですが、他の教会との一番の違いは地域のボランティアさんたちの存在です。私たちは毎回20~30名のスタッフで運営していますが、教会員のみで運営しているのではなく、スタッフの半分は地域の方たちです。地域の方と一緒になって食堂をする教会、さらに半々でやっている教会は、まだとても珍しい存在です。
教会の活動だから、教会の人でできる範囲でやるというのは正しいと思います。私もボランティアの募集を始める時はかなり戸惑いがありました。教会の働きに地域の人が加わることが、どんな影響があるか想像できませんでした。想いも動機もまったく違う人が教会で一緒に活動できるのだろうか?私たちは信仰的な動機で奉仕として活動しているけれども、地域の“ボランティアさん”と一緒に活動してうまくいくのだろうか?すれ違いがたくさん起きるのではないかと思いました。しかし何も心配する必要はありませんでした。実際に働いてみると、考えていることや動機が多少違うことは、活動にまったく関係がありませんでした。
もちろん、最初に趣旨や目的を丁寧に説明をしています。そうすることで私たちはボランティアさんと、誰かのために働きたいという目的で一致することができました。どんなに動機が違っていても目的は同じです。目的のために一生懸命働くということに何の違いもありません。考えていることや動機は違っても、同じことのために一緒に働く、それができれば十分なのではないかと思っています。
地域の食堂の一覧などで平塚教会の名前をよく見かけるようになりました。地域の方はよく教会を協会(協力する会)と字を間違えます。私はその時「私たちの教会は協力の“協”ではなく、教えるの“教”です」と訂正しなければなりません。でもこの訂正をするたび息苦しい思いがしています。自分は教える側ですと言っているような気がするのです。私たちは教える側なのでしょうか。少なくともここには偉い先生が、何かを教えてはいません。
ここは生き方を一緒に考える場所です。信仰について、愛と平和と希望について考える場所です。誰かが上から教え、誰かが教わる場所ではありません。学び合う場所です。そして今の平塚教会は誰かのために一緒に働き、誰かと一緒に食事をする場所です。
間違えを訂正するたびに、今の平塚教会は本当は、協力の協の協会の方がふさわしいのではないかと感じています。なぜなら平塚教会は地域の人と力を合わせて、誰かのため、自分のため、地域のために、神様のためにある場所だからです。よく見ると協会の協の字は、十字架に力が3つ集まっています。平塚教会はまさしく十字架の下で力を合わせる場所です。私は今、教える教会よりも、協力する協会の方が私たち平塚バプテスト教会にはふさわしい様に感じています。今日は聖書からも、協力すること、協力する集まり、きょうかい(協会・教会)について考えたいと思います。
今日はルカによる福音書9章10~17節をお読みいただきました。後半は私たちの週報の表紙にもある年間主題聖句です。5000人の食事の場面です。私たちはこれまで数年間、繰り返し平塚教会はこの5000人の集まりの様だと見て来ました。平塚教会はパンと魚、たくさんの食べ物の寄付が集まる教会です。食べ物がどんどん増える教会です。一緒に食べることを大事にする教会です。食堂利用者が5000人を超えた教会です。13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。これは私たち平塚教会に語りかけられた「あなたがたが食堂をしなさい」という命令です。私はここを勝手に“大食堂命令”と名前を付けています。私たちは日本一、世界一、この5000人と共通点がある教会で、私たちはイエス様の大食堂命令によって突き動かされているのだと紹介をしています。
今日は特にこの5000人の食事の中で、どれだけの協力があったのかを考えてみたいと思います。この5000人はどんな協力をする集まりだったのかを考えたいと思います。
5000人の食事とはどれだけの規模の食事でしょうか。とにかく広大な面積に、たくさんの人がいました。むこうの人はかすんで見えたでしょう。その場所で協力するということを想像しながら聖書を読みます。これだけ広い場所で、全員が同時に食事をするのは相当大変です。たくさんの準備と協力が必要だったはずです。これは食事の準備に苦労している教会、独特の視点です。特に16節「弟子たちに渡しては群衆にむけて配らせた」について想像します。
私たちは150食作るのに毎回20人~30人のスタッフ、食数に対して20%くらいのスタッフが必要です。5000人いたらスタッフは何人必要でしょうか。私たちの感覚を当てはまめると5000人の20%は1000人です。この5000人の食事にはおそらく1000人の協力が必要だったはずです。「これから全員で食事をします。このパンを運ぶのを手伝ってください」大きな声が響いたでしょう。あっという間に1000人のスタッフが集まりました。当時のパンは一人3つで満腹になると言われていました。15000個のパンを配らなければいけません。
私ならこのように協力をお願いします。1000人のスタッフの内、半分の500人はそれぞれ一人30個のパンをもって、ひとり3個ずつ、10人に配ってください。別の500人もそれぞれ一人10人に魚を配ってください。落としたり、転んでケガしないように注意してください。端っこグループに届けるのはかなり遠いです。近くに運ぶ人は自分の分が終わったら、遠くに運ぶ人を手伝ってあげてください。4000人に運び終わったらスタッフの方1000人もどうぞ一緒に食べてください。今、イエス様が歌って、祈って、裂いて、増やしていますから。おかわりは何回でも自由です。食べ終わって、余ったものは集めてこの籠にいれてください。最後の片付けもご協力をお願いします。そんな風に協力を求めたでしょうか。
始めてこのような想像をしましたが、ここはきっと5000人が食べただけではありませんでした。今なら私たちはそこに1000人スタッフが力を合わせて食事を運んだことを想像できます。手伝う1000人もスタッフとして協力することも楽しんだはずです。みんなで準備するからこそ、食事の楽しさ、にぎやかさがあったでしょう。この食事は大勢が大混乱の中で、にぎやかさの中で、満腹になる食事を楽しんだのです。
16節には「弟子たちに渡して群衆に配らせた」とあります。文法上、配ったのは群衆ではなく、弟子たちだったとあります。群衆が配ったわけではありません。群衆に向けて弟子が配ったと書いてあります。でも私は思います。配った人がイエス様の弟子だったかどうかあまり関係ないのではないでしょうか。5000人の食事にはとにかく1000人のスタッフが必要でした。1000人いれば誰が弟子で、誰が弟子ではないかは関係なかったはずです。弟子か、弟子ではないかを超えて、そこにいた15節「このすべての人のために」、全員が食べることができるように、1000人がこの食事を手伝ったのです。1000人すべてが弟子だったわけではないと思います。実は1000人の動機は1000とおりあって、みんなそれぞれ一生懸命働いたのです。そのような垣根のない協力が起きたのが5000人の食事だったのではないでしょうか。少なくとも12人の弟子が5000人の食事の準備をしたのではありません。そこには間違えなく弟子かどうかを超えた、大勢の協力がありました。与える側、もらう側と別れていたわけでもありません。みんなで準備して、みんなで食べて、みんなで片付けたのです。みんながみんなのために働いたのです。私たちは今、こひつじ食堂でそれと同じ光景を毎回見ています。
今の私たち教えることよりも、協力することを大事にしていると言えるでしょう。だとするなら私たちは教会よりも協会の方がふさわしいかもしれません。そして私たちはもっとみんなと力を合わせる場所になることはできないでしょうか。この食事の様に、イエス様の奇跡の周りで一緒に働く1000人になることが出来ないでしょうか?私たちの教会の事、そして私たちの生活のこともそうです。私たちは垣根を超えて、いろいろな人と協力することがもっとできるのではないでしょうか。それぞれに考えてみたいのです。
私たちはこれから主の晩餐を行います。主の晩餐にも、パンとブドウジュースの準備をしてくださった方や、配餐というお皿を持って回る奉仕者がいます。カップを洗ってくださる方がいます。感謝です。今は執事が多くを担っていますが、そうでなくてもいいと思います。私たちもこの1000人のようにみんなで担ってゆければよいと思っています。このあと主の晩餐を行います。この5000人の食事を思い出してパンと杯をいただきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も一緒に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。
4月・5月と2か月にわたって信仰入門というテーマで宣教を続けてきました。今日が最後です。今日はペンテコステ礼拝という名前の礼拝です。ペンテコステとはどんな意味でしょうか。アメリカ国防省は五角形だからペンタゴン、音楽グループにペンタトニックスという5人組がいます。ペンタは5を表す言葉です。ペンテコステ礼拝とは3月のイースターから50日後に行われる礼拝なので、ペンテコステ礼拝と呼んでいます。イースターから50日後の礼拝という意味です。
イースター、復活の出来事から50日後にある事件が起きます。この事件は特に「聖霊」が重要な役割を果たします。聖霊とは何かということも問題です。聖霊は特に「風」から説明することができます。今日は聖霊について風から考え、私たちの生き方を考えたいと思います。
車で海沿いの道を走っていると、湘南の海ではいろいろなマリンスポーツをしている人が見えますが、ウィンドサーフィンをしている人もよく見かけます。帆に風を受けてぐんぐんと進んでいました。結構、沖の方まで出ているし、スピードもある様子です。風の力だけであんな沖まで行くのはすごいと思いながら、昔の人は船に帆を張って、風を受けて海を渡ったことを思い出しました。風の力で世界を巡ったのです。ロマンのある話です。
よくよく考えると、風は面白い存在だと思います。私たちは風そのものを目で見ることはできません。目で見えているのは、風ではなく、風で進んでいるウィンドサーフィンや、風によって揺られる木や草です。私たちは、風そのものを見ることはできませんが、風に動かされているものを見て、風が吹いていること、存在していることが分かります。さらに風は目を閉じても感じることができます。吹いていることを五感で感じることができます。風を肌で感じることができます。春はここちよいさわやかな風が吹きます。風は音で感じることもできます。おいしい食べ物の香りも風にのってやってきます。風は縦横無尽、自由自在に吹き巡ります。風の動きを正確に予測するのは現代の科学でも非常に難しいことです。風を捕まえることもできません。でも確かに風は存在し、私たちは毎日感じています。夜風にあたって来るという言葉もあります。これも不思議な言葉ですが、風にあたると気分が変わる、落ち着くという効果があります。風とは不思議な存在です。それは口では説明することができません。体験でしか伝えられないことです。このような言葉を体験的言語というのだそうです。
今日はキリスト教の聖霊についてご紹介しますが、この言葉は風という意味も持つ言葉です。風をヒントに聖書の聖霊をご紹介しようと思います。
聖書には聖霊という言葉がありますが、おそらくキリスト教用語で、最も難易度の高い言葉だと思います。なんだかよくわからないもの、うまく説明できないものです。聖霊という言葉は、もともとヘブライ語では「ルーアハ」という言葉です。ルーアハには聖霊以外にも、息や風と言う意味があります。ですから風について口で説明するのが難しいのと同じように、聖霊を口で説明するのも難しいのです。聖霊も風と同様に、体験的言語、体験しないとわからないものです。
風は人をどこかに運び、人の気分を変え、人に刺激を与える存在です。それは聖霊も同じです。聖霊は私たちをどこかに運び、私たちの気分を変え、刺激を与える存在です。聖霊を注がれる、聖霊を体験をするとは、私たちが神様から来た風に吹かれることです。私たちは自分の外側から風のように力が加えられ、刺激を受け、動かされること、あるいは立ち止まることがあります。それが聖霊を受けるということです。
船が帆に風を受けると、驚くような力が与えられ、世界中どこまでも行けます。それと同じ様に、私たちが聖霊を受けるとは私たちは大きく進むことができます。聖霊は私たちを新しい場所へと連れてゆきます。もちろん風は前に進ませるだけではありません。風はそよ風のように気持ちいいことがあります。聖霊も同じです。聖霊を受けると、沈んでたり、気分が暗かったりしたのに、気分が変えられるのです。それが聖霊の働きです。
聖書では聖霊の体験はみんなで集まっていた時に起ったとあります。1節、人びとは一つになって集っていました。きっと礼拝をしていたのでしょう。そこに、激しい風が吹きました。聖霊が下ったのです。
そうするとどうなったでしょうか。聖霊に満たされた人々には不思議な力が与えられます。習ったことの無い、いろいろな国の言語で自由に神様について語るようになったのです。彼らはこっそり勉強していたのではありません。ただ神様の風、聖霊に吹かれ、聖霊に満たされただけです。おそらく彼ら自身も何を語っているのか、よくわかっていなかったでしょう。彼らは霊の語らせるままに言葉を発しただけです。いろいろな言語が人々の間を飛び交いました。そして外国から来た人々は驚きました。初めて自分の言葉で神様のことを聞くことになったからです。
これは実は画期的な事件です。実はイエス様の時代まではその風・聖霊はユダヤ人にしか吹かない、聖霊はユダヤ人だけにしか、与えられないと信じられていました。外国人、他の宗教を信じる人、神を知らない人には聖霊の風は吹かないと考えられていたのです。しかしこの事件がきっかけに、その考えがひっくり返されることになります。これまではユダヤ人にだけしか神様の事はわからないと思われていたのが、全世界の人たちに告げられ始めたのです。神様の風は特定の民族、宗教、特定の地域にだけ吹くと思われていたのに、そうではないとはっきりしたのです。神様の風は、聖霊は、すべての人に与えられる、すべての人に吹くとはっきりしたのです。その事件以来、すべての人に聖霊は注ぐ、すべての人に神様からの風がふいていると信じられるようになりました。それが今日の個所です。
この風・聖霊は今日もすべての人に吹き、すべての人に注がれています。クリスチャンになると、このように神様の風を受ける、聖霊の力を受けるのではありません。神様の風は、聖霊は皆さんにすでに吹き抜けていて、すでに注がれているのです。あなたが信じようが、信じまいが、すべての人がこの風・聖霊をすでに受けているのです。
私たちは知らない言葉が口から出てくる、奇跡体験を期待しているわけでは決してありません。ほとんどの人もそのような奇跡を体験しません。私たちがこの聖霊から知りたいことは、私たちには神様からの風が吹くということです。私たちは自分の進みたい方向があります。きっと神様は私たちに風、聖霊を注ぎます。私たちは風を受けるようにそれに向けて進むことができるはずです。
そしてその風は私たちに思いがけない方向を指し示すことがあります。そして時には風の向きが違い、私たちが望む方向とは違う風が吹くこともあります。私たちはその風に方向転換を求められます。風は私たちの想いを超えて吹く時があるのです。私たちには苦しい時があります。神様はそのような時、私たちに憩いの風・聖霊を送ってくださるでしょう。私たちがその風を受けるとまた前に進むことができます。そのように神様が私たちに影響を与えてくれるのです。先ほどの証しも、そのように語られてはないでしょうか。風が私に吹き、聖霊が私に注がれて、私は新しく生きることができたという証しだったのではないでしょうか。
風まかせという言葉があります。無計画でその場その場のなりゆきまかせを表す言葉です。でもクリスチャンはある意味で、風まかせの生き方をする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊をしっかり感じて、風をしっかりととらえて、どちらに進むべきか考える人のことです。クリスチャンは神様の風がどこから来ているのか、神様の風は自分をどこに向かわせようとしているのかを五感で感じとろうとする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊に逆らわずに生きようとする人です。
私たちはこのような風を感じる生き方を生きたいのです。神様からの風をよく感じ、聖霊をよく感じ、聖霊にまかせる人生を送りたいのです。聖霊から受ける力で前に進んでゆきたいのです。聖霊から安らぎをいただきたいのです。
この風はすべての人にすでに与えられているものです。すでにすべての人が聖霊を受けています。それを感じて、それから力を受けて生きてゆく、それがクリスチャンの生き方です。みなさんにもぜひこの風、聖霊を感じて欲しい、それに吹かれる生き方をしてほしいと願っています。
信仰入門というテーマで2か月宣教しました。信仰とは超常現象を信じることではありません。信仰とは聖書から、私はどう生きるかを考えることです。どう生きるか考える私たちに、聖書がどのように答えているのかを見ることが信仰なのです。
私たちは新しい生き方を探します。聖霊から力を受けて進みます。みなさんはすでにその風に吹かれています。その風を感じて、神様から押し出されて1週間を過ごしましょう。みなさんと一緒に新しい生き方をしてゆきたいと願っています。一緒に、聖書から、神様から生き方を探してゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。
4月5月と信仰入門というテーマで宣教をしてきました。今回と次回で終わりになります。紹介できたのは聖書の本当に一部分だったと思います。聖書は全体で3万節くらいありますが、今日はその中の4節についてお話をします。私たちはこのように少しずつ聖書を読み、どう生きるべきかを考えています。今日はたった4節ですが、きっと私たちの生き方を指し示すものとなります。本当に一部分ですが、ご紹介できたらと思います。
今日はからし種のたとえと、パン作りのたとえの話をします。この個所は18節「神の国は何に似ているだろうか、何にたとえようか」というイエス様の疑問から始まっています。神の国についてイエス様が説明をしようとしているところです。
ちなみに、神の国とは死んだ後に行くあの世、天国とは全く違います。神の国は死後の世界ではありません。神の国とは、神様が求める、理想の世界のことです。神様の支配とも言い換えることが出来ます。神様の願っていることが、隅々に渡って実現してゆく場所、それが神の国です。それは私たちの生きている地上、世界全体で実現してゆくものです。世界が神様の理想通りになる日は果たしていつ来るのでしょうか。私たちにはわかりません。でもイエス様はそれはやがて必ず来る、実現すると言っています。もう始まっていると言っています。今日のこの話はその神の国、神様の求める世界がどのように実現されてゆくのかを話しています。私たちの世界はどのように変わってゆくのか、神の国がどのように実現してゆくのかをイエス様は説明しようとしています。
からし種という言葉がでてきます。からし種とは要はマスタードの粒です。ピリッと辛いあのマスタードの種です。後ろのテーブルに聖書植物図鑑が置いてありますので、クロガラシという植物がどんなものか後でご確認ください。からし種は他の植物よりも小さな種です。しかし小さいにも関わらず、この種は嫌われ者の一面があります。からし種は繁殖力が高く、一粒地面に落ちると、ものすごいスピードで広がってゆくのです。そのため農民の間では畑の近くには絶対に植えてはいけないと言われている植物でした。私たちからすると手ごわい雑草のようなイメージでしょうか。一度根付いてしまうと抜いても抜いても無くならない雑草です。
イエス様はこのからし種を神の国に似ていると言いました。神の国を、あまりみんなに好かれていない、嫌われている植物が、大きくなる様子に似ていると言います。そしてその枝でやがて鳥が休むようになる、そこが憩いの場所となる、そのように神の国は実現すると言っています。どんな意味でしょうか。
おそらく神の国、神様の求める世界は、ハウス栽培、温室育ち、純粋培養で育つのではないということでしょう。最初はみんなに嫌われているような場所から、踏みつけられてるような場所から、神様の理想は始まるということです。神の国は、やっかい者から始まります。神の国はここには来て欲しくないと思われる、異物のような存在として始まります。神の国は周りからは好かれない、異物と感じられていたものから始まるのです。でもそれが広がり、神の国が始まるとそこは憩いの場所となるのです。不思議な話です。
続くのはパン作りの話です。この話は聖書には珍しく女性が主人公のたとえ話です。女性が主人公のたとえ話が少ないのは、おそらく当時の女性の身分が低かったからです。女性は男性の所有物とされたからです。しかしイエス様は大切なたとえの主人公に女性をあてました。
たとえの女性は3サトンの粉からパンを作るとあります。聖書の後ろには単位の換算表がついています。3サトンとは実は34kgに相当する大量の粉です。この粉からできるのは約100人分のパンです。34kgの粉を混ぜるのは相当な重労働です。一人でこのような重労働をしていたのはおそらく貧しい女性か、奴隷や下働きの女性だったでしょう。主人公は大量のパンを作る女奴隷です。そしてこれは神様の役割でもあります。神の国の実現の担い手となる女奴隷の話です。まず女性は粉にパン種を混ぜます。パン種は現代の私たちが想像するイースト菌ではありません。パン種とは要は腐りかけのパンです。当時は残って腐りかけたパンを粉に混ぜてパンを発酵させたのです。これのおかげでふわふわのパンになります。
一方、聖書におけるパン種は、からし種と同様、あまりいいイメージでは使われないものでした。聖書でパン種は、不浄、悪、腐敗の象徴としてよく登場します。例えば「ファリサイ派の人々のパン種に気をつけなさい。それは偽善である」と使われます。不浄、悪、腐敗のイメージです。聖書にはさらに種無しパンというのも登場します。種無しパンは発酵させないのでクラッカーのような固いパンです。そして種無しパンはパン種と正反対に、聖なるものというイメージがあります。腐敗の象徴であるパン種が入っていないことから、聖なるパンというイメージがあります。しかしイエス様は神の国は聖なる種無しパンのようだとは言いませんでした。イエス様の教えた神の国とは不浄を象徴するパン種が大量の粉の中に混ぜられていくイメージだということです。一握りの汚れたように思えるもの、腐敗したように思えるものが、多くの聖なるものと言われる中に入って来る、それが神の国だと言ったのです。それは異物です。パン種はからし種同様、本来はそれと距離を置いて、影響を受けないように、汚されない様にしたいと思う対象です。しかし神の国では違います、神の国ではそれらは混ぜ合わされるのです。しかも混ぜるのは奴隷の女性です。
ここには神様の働き、神様がどのように神の国、神様の願う場所を作られるのかが書かれています。神様はこのように、汚れていると言われるものと、清いと言われているものを混ぜ合わせるお方です。そしてそのようにして、神の国、神様の理想の場所を作ろうとするお方です。神様はパン種と粉を混ぜて、こねて、発酵させ、おいしいパンを作るのです。
それが、イエス様が人々に教えた「神の国」でした。民衆はびっくりしたでしょう。神の国が私たちのイメージとは違うのです。私たちは、神の国とは汚れがなく、曇りなく、不純物が徹底的に取り除かれた先にあるのだと想像します。でもイエス様は違うと言います。神の国、神様が喜ぶ世界とは、雑草が茂るように好かれていない人やものが共に混ざり、やがて憩いの世界となるのです。神様が喜ぶ世界とは、腐敗したパン種と粉が混ぜ合わされて、おいしいふっくらとしたパンになるような世界なのです。民衆たちもこの話にはひっくり返されたように驚いたでしょう。
さて、この話から私たちの生き方と目指す世界、神の国の実現を考えてゆきたいと思います。私たち一人一人はどうやって生きるでしょうか。私たちの人生には異物と思えるものや異物と思える事柄に出会うことがあるものです。自分が一緒にいるのに心地悪い存在があるものです。
からし種とパン種を聖書の教えと置き換えてみましょう。もしかすると聖書の教え自体もそのような異物かもしれません。聖書の教えは自分とは相いれない価値観、聞いたことのない価値観、納得できない価値観かもしれません。私たちは聖書において、自分と全然違う考え、反対の考えに出会います。しかし聖書によれば、それから全体が変化し、神様の理想へと近づいてゆくのです。
イエス様は聖書の教えが自分と違うものがあなたを豊かにすると言っています。それは一度入り込んだら繁殖力がつよいのです。最初はちょっと意味がわからない、自分とは違う違和感があるものです。しかし、やがてそれに癒されることになります。聖書の言葉が私たちにとってきっとそうなるはずです。
神様は私たちの人生に様々な出会いを与えます。からし種とパン種をそれぞれの出会いと置き換えてみましょう。それぞれが生きる場所では自分と全然違う人との出会いがあります。私たちはそれに戸惑い、イライラしながら生きています。でも神様はきっと混ぜ合わせてくださるお方です。私とあの人をパン種と粉のように、どちらがパン種でどちらが粉だかはわかりませんが、神様はこの二つを混ぜ合わせ、パンとするお方です。そしてやがて、その混ざり合わされたものが、心地よく、柔らかく感じるようになる時が来るはずです。
私たちはどのように神様の理想とする世界を実現できるでしょうか。聖書によればそれは、相応しいと思われる者だけが選ばれ、選抜された世界ではありません。そのような選抜された、選び抜かれた人の世界は神様の理想ではありません。むしろ厄介者、汚れていると言われている者を通じて、自分とは相いれない価値観を通じて、聖書の言葉を通じて、神様の理想は実現されてゆくのです。
神様は私を、私と違う人や違う教えと出会わせ、そしてまぜこぜにします。そこに新しいことが生まれる、それが神様の理想です。私たちはそのようなまぜこぜの世界をめざしたいのです。全く違うお互いが混ぜられて、練られて、違う教えにもまれ、変わってゆけるような世界を目指したいのです。私たちの次の1週間、どのように自分と違う人と共に、聖書の教えと共に生きてゆくことができるでしょうか。それぞれの場所で神の国が実現するように願います。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に、声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は信仰入門というテーマで宣教をしています。初めて聖書の話を聞くという方、まだ教会に来て間もないという方にもわかりやすくお話をできればと思っています。
今日は100匹の羊と羊飼いの話をします。これもキリスト教の中ではとても有名な話です。初めての方に向けてお話をしますが、この話もイエス様から、聖書を長く勉強した学者たちに向けて話をしている物語です。聖書が初めての人も、間もない人も、長く親しんでいる人も、一緒にこの個所から生き方を見つけてゆきましょう。
SDGsという言葉をみなさんもテレビでもよく聞くと思います。国連の「持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)」のことです。それは国連によって定められた「誰も置き去りにしない社会」を作る目標です。SDGsは世界の課題を解決させるための目標です。しかし日本ではどうも「私たちの企業はこれに貢献している」といった企業のイメージアップにばかり利用されています。SDGsのバッジを付けて歩いている人をよく見かけます。日本のSDGsは世界への関心や世界規模の課題の解決には目が向けられず、企業の広告宣伝のひとつの様になってしまっています。
SDGsの本当の目標は、世界の中で開発から取り残されてしまっている人を助けることです。SDGsは大きな開発をするのではなく、それぞれの国や地域で、自分たちで維持・発展し続けてゆくことができる社会や農業を作っていくことに重点が置かれています。
例えば女性の社会進出なども目標の一つです。女性が置き去りにされる社会、女性が活躍できない社会は持続的な発展してゆくことができません。開発を支援するのではなく、女性を支援してゆくことが大事です。他にも農業では大規模な農場を開発するのではなく、家族で営まれている農業を支援しようとしています。そちらの方が、長く続くからです。
このようにして今、とにかく大きな開発をするということよりも、小さくても持続可能な開発をたくさんすることが重点にされています。そのようにして世界はSDGs「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。
「誰も置き去りにしない社会」と聞いて、私は2000年前に語られた今日の聖書の話を思い出します。これは置き去りにされた1匹の羊をめぐる物語です。聖書は2000年前からSDGs、誰も置き去りにされない社会を訴えていました。しかし、そのような社会はこれまで実現できずにいました。世界は今もう一度「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。今日は聖書から誰も置き去りにしない社会、誰も置き去りにしない一人一人の生き方を見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。
今日はルカによる福音書15章1~7節をお読みいただきました。まずこの話がどのような場面で語られたのかを見ましょう。2節でイエス様は「罪人を迎えて食事まで一緒にしている」と言われています。イエス様の時代、イスラエルでは誰と食事をするかということは大変重要なことでした。外国人や宗教の違う人とは絶対に食事をしなかったのです。
罪人とは犯罪を犯した人だけを指す言葉ではありません。嫌われ者くらいまで含む意味の言葉です。例えば徴税人という税金を取る仕事をしている人が嫌われて、罪人と呼ばれていました。当時は罪人、嫌われ者とも絶対に一緒に食事をしてはいけなかったのです。そのような大きな差別がある時代の中でイエス様は、分け隔ての無い食事をしました。それが人々に支持されたのです。
社会からのけ者にされて、嫌われて、排除され、寂しい思いをしていた人を受け止めてゆくのがイエス様の活動でした。社会で排除され、取り残されている人を受け止め、共に食事をしてゆくのがイエス様の主な活動だったのです。そのような場所でイエス様はこんなたとえ話を始めました。ある時、羊飼いと100匹の羊がいました。しかし羊飼いは羊を1匹見失ってしまいました。これでは羊飼い失格です。羊飼いの仕事は放牧した羊たちを導き、安全に草を食べさせる、そして1匹も置き去りにせず、家まで帰すことです。しかしこの羊飼いは1匹の羊を見失ってしまいました。羊飼いが見失ったとあるので、この事件は羊飼いの責任です。
しかし羊飼いは間違えを犯してもやはり100匹の羊飼いです。99匹の羊飼いでも、多数派の羊飼いでもありません。不注意で1匹を置き去りにしてしまいましたが、1匹くらいいなくなってしまってもしょうがない、多少の脱落者は織り込み済み、ついてこれる羊だけ世話をすればよいとは考えませんでした。
そして今度は羊飼いは99匹の羊を野原に置き去りにして1匹を探しにいきます。それでよいのでしょうか?それでは今度は99匹が危険です。99匹を危険にさらして1匹を探し出すのは非合理的です。99匹の危険と1匹の迷子を天秤にかければ、99匹の安全が優先されるべきです。99匹から「たった1匹のために自分たちに危険が及ぶのはおかしい」とクレームがくるかもしれません。
しかし、羊飼いは1匹を探しに出かけます。見失ってしまった1匹、置き去りにされてしまった1匹が見つかるまで探すのです。羊飼いは1匹でも、置き去りにしないのです。そして羊飼いはその置き去りにされてしまった1匹を見つけると大喜びします。もし私だったら羊を見つけて喜ぶでしょうか。真っ先に、どこに行っていたのか、なぜ周りと同じ行動をとらなかったのかと問い詰め、怒ってしまうかもしれません。しかしこの羊飼いは怒りません。羊飼いは羊を抱きかかえ、もう一度群れに連れ戻すのです。そしてみんなに一緒に喜んで欲しいと伝えます。99匹は複雑な感情を持ったでしょう。この1匹のせいで、全体に迷惑がかかったのです。しかし、羊飼いはい1匹が置き去りにされなかったこと、また私たちの群れに戻ってきたことを、一緒に喜んで欲しいと伝えます。そしてまたこの話にも結末がありません。羊たちは喜ぶことが出来たのでしょうか?
この物語から私たちの社会、私たちの生き方について考えます。どのようなことが考えられるでしょうか。私たちはこのような羊飼い、このような群れになれているでしょうか。私たちの社会は合理的に考え、1匹を置き去りにしてしまう社会です。多数を優先し、少数者・マイノリティーを置き去りにしてしまう社会です。私たちはこの物語を通じて神様から注意を促されています。それは誰かが置き去りにされていないか考えなさいという注意です。
社会には様々な場面で置き去りが発生します。外国人の権利、沖縄の基地問題、こども、高齢者、障がい者・・・。あるいは家庭の中でも誰かを置き去りにしてしまうことも起こるでしょう。そこにもう一度注意をむけるように促しています。
この物語は古くから、失われた1匹に自分を重ね、羊飼いを神様に重ね、人生に迷う私のことを神様は探し、救い出してくださるという物語として読まれてきました。それも大切な読み方です。しかしその読み方だけでは、いま本当に社会や家庭の中で置き去りにされてしまっている人に目が向かないのです。神様が私だけを見ている神様になってしまいます。この物語の誰に自分を重ねるかが大事です。この失われた1匹に自分を重ねるのもよいのですが、違う視点も持ちたいのです。
この羊飼いと私たちを重ねます。私たちはいつも、大事な大事な1匹を見失ってしまう存在です。99匹に気を取られるのはしょうがないことかもしれません。でも羊飼いの仕事は1匹も置き去りにしないことです。そして99匹を説得することです。私たちもそのことに注意して、一人も取り残さない社会を目指してゆきましょう。
私たちは、ついて来れなかった羊を注意力がない、努力が足りないと責めるために探すのではありません。私たちは一緒にいることを喜ぶために探すのです。私たちはそのような世界を創ってゆきましょう。99匹と共に1匹を追い求める生き方、誰も置き去りにしない生き方を探してゆきましょう。
私たち自身を99匹の羊と重ねる読み方も大事でしょう。私たちはいつも自分を多数派だと思う存在です。そしてやはり私たちの中にいる少数者を見逃してしまう存在です。置き去りにしてしまうのです。99匹である自分が普通で、自分が優先されて当然だと思ってしまう存在です。この話からその考えも変えられてゆきましょう。
私たちは1匹のために多少の危険や遅れを引き受けてゆきましょう。遅れてしまう、ついて来れない1匹に気を配って、声をかけながら100匹でい続けることができるようにしてゆきましょう。私たちは信仰入門というテーマで聖書を見ています。教会に最近になって加わった人を大切にしてゆきましょう。
私たちの生き方を今日の個所から考えます。私たちは誰一人置き去りにしない社会、世界、家族、教会を願い求めてゆきましょう。羊飼いのように1匹を見失わないようにしましょう。もし見失ってしまってもその1匹を一生懸命に探す者でいましょう。そして99匹のように、1匹のために足を止め、待ち、共に100匹となってゆきましょう。
誰一人仲間外れにならない社会を求めてゆきましょう。私たちがいる、それぞれの場所で、そのような人がいないか、私たちはよく見つめて1週間の生活をしましょう。それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。4月・5月と信仰入門というテーマで宣教をしています。教会に初めて来た方、来て間もない方に向けてキリスト教について紹介をしたいと思っています。また、長く教会に来ているという方には、ぜひ初心に戻る機会になるようにと願っています。私たちは聖書について知っているつもり、理解しているつもりでいても、実はあいまいな部分も多いものです。一緒に考えてゆきましょう。
今日は、キリスト教がとても大事にしている「主(しゅ)の晩餐(ばんさん)」という儀式についてご紹介をします。他の教会では「聖餐(せいさん)」とも呼ばれる儀式です。この儀式はこの後、礼拝の中で行われます。小さく切り分けられたパンを食べて、小さいグラスに入ったぶどうジュースを飲むという何とも不思議な儀式です。説明なしにはじまると怖いですね。
私たちの教会ではこの儀式を毎月第一日曜日に行っています。そしてこの教会では洗礼・バプテスマを受けたクリスチャンの方のみ、これを食べ、飲むということにしています。洗礼・バプテスマを受けていない人はどんなことをしているのか見守っていてください。洗礼・バプテスマを受けていない方は、食べたことがないと思いますので、これが一体何かということをご紹介します。
食べているのは普通に市販されている食パンと、ブドウジュースです。誰かの血ではありません。担当の方が朝少し早く来て、食パンを小さく切り分けて、お皿に並べてくださいます。またブドウジュースをこぼれないように、小さなグラスに分けて下さっています。私たちの教会では市販されている食パンを使っていますが、教会によって食パンではなくクラッカーのようなものだったり、ブドウジュースではなく、ワインを使っていたりします。またパンをその場で切り分けたりする教会、毎月1回ではなく毎週やるという教会、クリスチャンに限らず誰でも食べてよいという教会もあります。教会によっていろいろな意味づけがあって、作法が違っています。
このパンを食べるとどうなるのでしょうか。のどが熱くなり、特別な力が湧いて、奇跡的な力が宿る、魔力がつくということはありません。これを食べると、汚れが取り払われて聖なる者になるのでもありません。何かのご褒美であったり、偉い人が食べるわけでもありません。
なぜこのような儀式を行うのかを説明します。簡単に言うと、このパンとブドウジュースは、聖書の話を思い出すために行っています。教会風に言うと、イエス様を記念するため、つまり思い出すために食べて飲んでいます。記念するとは何でしょうか。それぞれに皆さんには記念日があると思います。週報にも教会の方の洗礼・バプテスマを受けた記念日と、誕生日が記載されています。記念日は生まれた日や新しい人生を歩み出した時のことを思い出す日です。出会った記念日、交際を始めた記念日、結婚記念日、命日、祝日も記念日の一つでしょう。あの時はこんな気持ちだった、あの時はうれしかった、今思うと〇〇だった、そんなことを思い出す日です。記念日とは、その日の出来事を思い出し、これまでの人生に感謝する日です。それが記念するということです。
今日のパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式も同じように「記念」として行われます。目的はイエス様との食事、イエス様との時間を思い出すことです。そしてそこから今までの人生を振り返り、感謝することです。私たちは直接はイエス様と会ったわけではありませんが、聖書の物語の中に自分たちを置き、イエス様の行動を思い出すために、この儀式を繰り返しています。そのようにして、主の晩餐は2000年間続いています。
なぜ、食べる事と飲むことによって、記念することになったのでしょうか?他の方法で記念するということもできたはずです。なぜ食べる事と飲むことによって記念することになったのか、それはイエス様が聖書の中で何度も食事をしたからです。イエス様はいろいろな人と食事をしました。イエス様は絶対一緒に食事をしてはいけないと差別された人と一緒に食事をしました。分け隔てのない、食事をすることが多くの人の共感を呼んだのです。聖書には食事の場面がたくさんあります。5000人の食事、差別されていた人との食事、宗教指導者との食事、弟子たちとの食事、楽しいお祝いのような食事、緊張が走る食事、利害関係の中にある食事、お別れ会のような食事など様々です。私たちはイエス様がこのように様々な食事をしたことを思い出すために、パンを食べ、ブドウジュースを飲んでいます。真剣にこの儀式をやっています。聖書には様々な食事があり、それらを思い出すために主の晩餐という儀式があります。今日は様々な食事の中でも「最後の晩餐」と呼ばれる箇所をご紹介します。
今日の聖書はルカによる福音書22章14~23節です。イエス様の活動、一緒に食事をする活動、そして互いを愛し合いなさいという教えは多くの人を巻き込み始めていました。ブームが起き始めていたのです。しかしそれを気に入らない勢力もいました。愛し合って生きるということを邪魔しようとした人がいたのです。そして最後にはイエス様はその人たちによって、十字架に架けられ殺されてしまいます。その時、弟子たちはイエス様を守るどころか、見捨てて、逃げ出してしまったのです。
十字架に架けられる前、おそらくイエス様はこのまま愛の教えを続けたら、殺されてしまうだろうと考えました。そして弟子たちはきっと逃げてしまうだろうとわかっていました。だからイエス様は弟子たちと最後の食事をすることにしました。今日の場面を最後の晩餐と言います。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐という絵画はこの風景を想像して書かれた絵です。
この食事には偉い人、特別な人がいたわけではありません。この食事は反省や悔い改め、自分の悪いところを点検する目的があったわけではありません。弟子たちはただ集められて、あなたたちはこの後裏切ってしまうだろうと言われています。イエス様はこういったのです。この後、君たちは私を裏切ってしまう、私の教えを忘れてしまう。だけど、私と一緒に食べたこと、一緒に過ごしたこと、教えられた愛を忘れないようにしなさい。パンとワインの儀式を繰り返して、私と一緒にいたことを記念し、思い出しなさいと言ったのです。そしてこの後イエス様は十字架にかかります。私たちはこのパンとブドウジュースを飲むことによって、イエス様がした事、教えた事、十字架にかかったことを記念し、思い出しています。
この食事の時にイエス様が言った言葉が19節・20節にあります。この言葉は主の晩餐の儀式の中でも読み上げられます。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
イエス様は食事の時、パンをとってこれは私の体だと言いました。その意味はこのパンはイエス様との食事を象徴するものであるとともに、イエス様の体、そのものを象徴するものでもあるということです。イエスはパンをちぎりながら、私もこのパンのようにひきさかれるだろうと言ったのです。これは私の血だとも言っています。ブドウジュースは十字架で流されるイエス様の血も象徴しているのです。私たちの儀式には思い出すことに加えて、十字架のイエス様を食べるという意味もります。
18節には「神の国が来るまでは、二度と飲まない」とあります。神の国とは死後の世界のことではありません。神の国とは神様が喜ぶ世界のことです。この地上が神様の喜ぶ、平和な世界になることが神の国が来るということです。18節の強調点は「もう飲まない」ではなく、神の国が来るとき「また飲む」という点です。イエス様はこれから悲しいことが起きるが、神の国、神様が喜ぶ世界になる時が必ず来る、その時はまたこうやって一緒にお祝いしようと言っています。要は、いつか一緒にまたこうやってご飯を一緒に食べようねという、イエス様の約束です。これは未来に向けての希望でもあります。またいつか、一緒に食事ができる日が来る、その約束を待って、神の国を願って、私たちはこの儀式をするのです。
最後に23節を見ましょう。残念ながら、弟子たちはイエス様の伝えようとしたことを理解していなかったようです。パンを食べ思い出すこと、記念すること、神の国・平和な世界を願う事は弟子たちには伝わりませんでした。弟子たちは、誰が裏切るのか、誰が悪い奴か、誰が不適格かを議論しだしてしまったのです。これでは思い出す儀式、主の晩餐にならなかったはずです。これは悪いお手本です。
まとめます。この後、私たちは主の晩餐を行います。このパンとブドウジュースはイエス様の愛の教え、生き方、十字架を象徴するものです。私たちはそれを思い出すために、記念するために、この儀式を持ちます。そして私たちは神の国を願ってこの儀式をします。神の国、神様が求める愛と平和にあふれる世界が来ること、その時をイエス様とまた一緒に祝うことが出来るような時が来ることを願って、私たちはこの儀式を行います。私たちはパンを食べブドウジュースを飲むことによって、イエス様の生き方を思い出し、その生き方を自分の生き方とし、神の国を求めてこの主の晩餐を繰り返します。賛美の後、主の晩餐を行いましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら共に礼拝をしましょう。
今月・来月と信仰入門というテーマで宣教をしています。特に初めて教会に来た方、来て間もない方にキリスト教のことをご紹介したいと思っていますし、以前から教会に通っているという方も新鮮に聖書を読むきっかけになればと思っています。今日はルカ15章11節からの放蕩息子(ほうとうむすこ)と呼ばれる、クリスチャンの間では超有名なお話をご紹介します。今日はここから神様の無条件の愛について、そして私たちはどう生き、どう他者との関係を作るのかを考えてゆきたいと思います。
今日の登場人物は父、弟、兄、そして宴会に出る村人たちです。伝統的には神様が父として置き換えられ、神様から離れて自分勝手に生きる私たちは弟として置き換える解釈がされています。私たちは神様から離れて遊び暮らすのだけれども、やっぱり人生で大変なことがあると、神様のもとに戻ってくるのだという話としてクリスチャンは大切にしています。教会では多くの場合、聖書の登場人物に自分たち重ねて聖書を読みます。今日もそのように読みたいと思います。そして今日は家族全体の物語としてもこの話を捉えてみたいと思います。
ある日、弟は自分のためだけに生きたい、自分だけが楽しければよい、今だけが良ければ良いと考え、まだ生きている父から土地の相続を受け、それをすぐに売ってお金に換えてしまいました。当時の社会で土地を売るのは一大事です。土地は何百年も前から先祖代々受け継がれてきたものです。そしてそこで作物を育てる食糧源でもあります。それを他人に売るのはとても大きな決断でした。しかし彼はそれをあまりにも軽々と行います。そして彼は村から出ていきます。
村とは生活共同体です。当時は村の人々の協力なしには生きることはできませんでした。村にはしがらみがあります。面倒な関係です。特に若い人は嫌がります。でも収穫や結婚、出産や葬儀など生きてゆくために助け合う関係は、どうしても必要な関係でした。うまく助け合い村八分にされないようにしなければいけません。しかし弟は土地を売り払い、村から都会へと出てゆきました。村の人は怒ったでしょう。「この薄情者が。あと足で田舎の町に砂ばかよって、出て行くなら二度とここば住めんからな」そう言ったでしょうか。彼が捨てたのは土地による先祖との関係、父との関係、兄や家族との関係、そして村人との関係です。
13節、彼はすべての関係を捨てて、遠い国に出て行ったのです。そして彼は行った先で持っているものを全部遣いはたしました。放蕩して使い果たしたとあります。要は無駄遣い、浪費をしたということです。自分の楽しみのためだけ、自分だけのため、その一時のために使ってしまったのです。そんな時、飢饉が起きます。彼はお金を使い果たし困窮します。そして彼は行った先でも新しい助け合いの関係を作ることができませんでした。16節、食べ物をくれる人はだれもいませんでした。村人や家族のような、助け合う仲間は作れなかったのです。彼は動物のえさを食べるほど困窮しました。これは経済的困窮であり、関係性の困窮でもあります。お金も、助けてくれる人も、どちらも無くなってしまったのです。
そこで、弟である彼はもう一度、村に戻りたいと思いました。もちろん彼はもう自分には父のもとにも、家族にも、村にも居場所がないことを知っています。すべての関係を絶ち切って来たからです。だから家族の一員としてではなく、19節せめて「雇い人」として帰ろうと思ったのです。聖書によればこのような状況でしたが、父は弟を大歓迎して迎えてくれました。
20節からの父のことを見たいと思います。父は伝統的には神様に重ねて読まれています。父は関係を絶ち切り、散財し、ボロボロになって戻ってきた弟を寛大な態度で迎えました。父はまだ見えないうちから弟を見つけ、走り寄り、着替えさせ、宴会を開きます。これが父の態度であり、神様の態度です。ここでは神様がどのように人間を受け止めてくれるのか、そして絶たれた関係をどのように回復してゆくかが表されています。
まずここで、神様は神様の方から走り寄ります。私たちが神様に走り寄るのではありません。神様が走り寄ってくださるのです。神様は正しい人、善い人にだけ走り寄るのではありません。神様は関係を絶ち切って失敗し、ボロボロになった者に走り寄るお方です。まだ私たちからは神様が見えないかもしれません。しかし、神様の側から見つけ出し、走り寄って来て下さいます。神様はただ神様の方から、私たちを見つけ、走り寄り、抱きしめて下さるのです。それが神様の無条件の愛です。
神様から走り寄るのに、失敗か成功か、信じるか信じないか、悔い改めるか悔い改めないかは関係ありません。神様はどんな人にも、神様の方から走り寄ってくださいます。それが聖書の無償の愛です。その愛に励まされて、力をもらって、私たちは人生をやり直すことが出来るのです。
物語に戻りましょう。父はすぐに宴会を始めるように指示をします。この物語は村人も重要な登場人物です。宴会をするのは村の人々にも、この弟を受け入れてもらうための大切なプロセスです。弟は村の人々との関係を切り捨て捨てて出て行きました。この村で生きるには、もう一度、村の人々に受け入れてもらわなければいけません。父は村の人々にも弟が受け入れてもらえるように、みんなにごちそうをしたのです。村の人はその宴会に来てくれました。みんな村を捨てた弟をもう一度受け入れてくれたのです。一安心です。弟は父の取り計らいによって、元の関係を回復し、共同体に戻ることが出来たのです。
しかし次に兄が登場します。私は放蕩息子ですというクリスチャンは多くいるのですが、私は放蕩息子の兄ですと、自分を重ねるクリスチャンは少ないです。しかし兄こそ私たちです。兄は弟の帰りを喜びませんでした。兄は父が、弟を受け入れてくれるようにという思いで設定した宴会から父を呼び出します。そして父と大喧嘩をするのです。兄は父の愛と配慮の宴会を台無しにしようとしたのです。村人がせっかく受け入れ、関係を作り直そうとしている横で、もう一度その関係を壊してやろうと思ったのです。関係を断ち切ろうとする、実はそれは弟も兄もやっていることが同じです。
今度は兄が弟と人々との関係を切ろうとしています。父との関係、村人との関係、すべて切ろうとしているのです。でも父は何とか兄弟たちと村人をつなぎ合わせようとしています。私たちの心の中には兄の側面もあるでしょう。家族や仲間が、元の共同体、仲間に戻ってくることを喜べないのです。もう、あなたは私の仲間ではなくなった、関係なくなった。あなたはまじめに関係を作ってこなかった。だからもうあなたは帰ってこなくていい。そう考えてしまうのです。
私たちは父である、神様のような、寛大で、無条件の愛を持って生きたいと願います。私たちの人生には関係が切れてしまう、自分から切ってしまう、誰から切られてしまうことがあります。でも関係をどのように回復し、持ち続けるかを模索しながら、生きてゆきたいと思います。そこに父である神様からの助けと導きがあり、関係が回復できるように祈ります。神様が必ずこの父のように取り計らってくださる、だから私たちも父のように関係の回復をあきらめない生き方をしてゆきたいと願います。ちなみに物語の結末は描かれていません。関係は回復できたのでしょうか。それともやはり関係は戻らなかったのでしょうか。
一人一人に自分を重ねる解釈を見てきましたが。最後にもう一つ今日は、あまり一般的ではないですが、この物語を家族全体の物語として解釈してみましょう。この物語は家族崩壊の物語です。おそらくこの家族はずっと以前からその関係に問題を抱えていました。この物語で弟はそもそもなぜ家と村を出たかったのでしょうか。なぜこの物語に母や女性が登場しないのでしょうか。女性たちが家族に無関心だったのでしょうか。それとも抑えつけられ、間に割って入ることが怖かったでしょうか。家族が崩壊しているように見えます。家族との関係にどのように向き合うかというのもここから示されているテーマだと思います。
さてこの物語から私たちは何を学ぶでしょうか。信仰を大切にしようと読むことができるでしょう。父である神様から離れるとは、すなわち自分だけよければよいという生き方をすることです。もし自分だけが良ければいい、そう思って生きているのなら、必ず行き詰るはずです。
神様はそのような生き方をする私たちを、見つけ出し、走り寄り、抱きしめ、再び仲間との愛と助け合いの関係の中に戻してくださいます。神様は私たちの関係を回復してくださるお方です。私たちも兄の様にではなく、父のように、人々との関係づくりを大切にする、そんな人生を歩みましょう。
そして私たちには家族や親族がいます。問題がない家族や関係はありません。私たちもその関係の中に生きる一人です。私たちは不完全な関係や家族の中でどのように生きたら良いのでしょうか。私たちは今ある関係を大切にしましょう。よりよい関係になってゆきましょう。その力を神様からいただきましょう。神様が私たちを向き合わせ、つなぎ合わせ、よりよい関係を創り出す力を与えて下さるはずです。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。今月と来月は信仰入門というテーマで、初めて教会に来た方にキリスト教の信仰を紹介できるような、そんな宣教をできたらと思っています。今日は大変有名で、とても印象に残りやすい話です。よきサマリヤ人のたとえからお話をします。
この話を新しく礼拝に加わってくださる方に向けてお話ししたいと思いますが、この話は本来、宗教指導者とイエス様との会話です。ですから長く信仰を持った人とイエス様の会話です。長く信仰を持ち、一生懸命に聖書を勉強しているという者こそ大切に聞かなければいけない箇所とも言えるでしょう。長い人も最近の人も、今日の個所一緒に読んでゆきましょう。
ある時、聖書を専門に勉強をする「律法の専門家」がいました。彼は一生懸命に聖書を勉強して、聖書が「神様と人を愛しなさい」と言っていることをよく知っていました。でも本当に神様と人を愛する、大切にする生き方ができていたのかはわかりません。残念ながら学んだことは、イエス様を試すために利用されました。律法の専門家は、自分はあいつより優れていると証明するために、質問をしました。学んだ事を、相手を論破する自己満足のために使うのはとても空しいことです。
律法の専門家はイエス様との会話の最後に「私の隣人とは誰ですか」と質問をしました。これは「私たちが愛するべき人は誰か」と尋ねたのです。イエス様はそのような質問にたとえ話で答えます。30節からがたとえ話です。
ある人が、エルサレムからエリコという町に向かっていました。おそらくエルサレムに行って礼拝をした帰り道でしょう。当時のエルサレムからエリコの道は治安が悪くて有名な道でした。曲がりくねった道で、急な坂道や岩や洞窟があります。隠れて、強盗するにはうってつけの道だったのです。イエス様の話を聞いていた人もそれを知っていたでしょう。エルサレムからエリコに下る道と聞いて、あの危ない道か、私もヒヤッとしたことがある、あそこを一人で通るなんて危ない、そう思ってこの話を聞いたでしょう。
彼はそこで追いはぎにあい、殴られ、半殺しにされてしまいます。意識不明の重体です。そこに宗教指導者である祭司が通ります。この祭司もまたエルサレムからエリコに下っている最中です。おそらくこの祭司も礼拝の帰り道でしょう。そこで祭司は、裸で意識不明、生死不明の人を一人で見つけてしまったのです。面倒なことに遭遇してしまったのです。
祭司は無視することにしました。31節には祭司は向こう側を通ったとありますが、この道は細く、狭い道です。見て見ないふりでは済みません。まるで倒れている彼をまたぐかのように、無視して通り過ぎたのです。なぜ祭司はそのようなことをしたのでしょうか。いろいろな理由が言われています。死体に触れると汚れるという律法・戒律があったとも言われます。しかし、祭司にはケガ人を助けなければいけないという律法・戒律もありました。おそらく祭司がけが人を無視して家に帰ることを正当化できる理由は何一つ無かったでしょう。祭司は誰かがこの死体を片付けるだろう、こんなところでトラブルに巻き込まれたくない、助けているうちに今度は自分が強盗に合うかもしれない。そんな理由でこの人を見捨てました。次に通ったレビ人も同じです。レビ人とは礼拝の奉仕を担当する人です。レビ人は礼拝奉仕を終えて家に帰る途中でした。彼もまたケガ人に気づいても、無視し、彼をまたいで、通りすぎました。さてその次にみなさんが通ったらどうするでしょうか。
次に通ったのはみなさんではなく、あるサマリヤ人でした。サマリヤ人とはユダヤ人、特に祭司や、レビ人から激しく差別されていた人たちのことです。もともとは同じ宗教・同じ民族だったのですが、分断されてゆく過程で、サマリヤ人は宗教的に間違った人々、汚れた民族、混血民族、会話してはいけない、ましてや絶対に一緒に食事してはいけないと言われていました。「サマリヤ」という言葉を口にすることさえ嫌われるほど、差別をされていました。ケガ人は祭司とレビ人に無視されてしまいます。次にそこを通りがかったのはサマリヤ人でした。聴衆は「まさか」と思ったでしょう。この話はあの汚れたサマリヤ人が助ける話なのかとざわついたはずです。当時はサマリヤ人に助けられるくらいなら死んだ方がましと思った人もいたほどです。
しかしたとえ話はこのサマリヤ人がケガ人を助けます。33節サマリヤ人である彼はケガをしている人を見て憐れに思ったとあります。聖書では憐れに思ったという言葉はとても大事な言葉です。イエス様がよくこの感情を持ちました。この言葉は内臓に由来する言葉で、強い共感を表す言葉です。ある翻訳では「はらわたがちぎれる思い」と訳しています。サマリヤ人はケガ人に強い共感を持ったのです。そのケガの痛々しさを見て、裸にされた人を見て、自分のことのように、自分が痛いと思えるほどに、そのケガに共感をしたのです。普段は差別され、見下され、汚れていると言われたサマリヤ人だけが、他者の痛みに共感することが出来たのです。普段からそのような差別を受けていたから、その痛みに共感できたとも言えるでしょうか。
彼は油とぶどう酒と包帯を持ち、ロバを連れていたとあります。人の宿代も出すお金も持っています。おそらくある程度の経済力のある人です。しかしもしそうなら強盗には格好の餌食です。それは強盗の罠かもしれません。そこに立ち止まることは、祭司よりもレビ人よりも他の通行人よりも、かなり危険な行為です。彼は強盗から最も狙われやすい状況でした。しかし彼は危険を冒します。裸で意識不明で、身元不明の人に関わろうとします。彼はこの人をロバに乗せ、おそらく自分はロバを引いて歩きました。彼は宿代まで出し、一泊を共にし、その後もう一度ここに戻って来て、世話をすると言うのです。
聖書を勉強し、礼拝に出席し、いい事を話し、礼拝の奉仕をしていたあの人々は通りすぎてゆきました。しかし差別され、最も嫌われ、強盗に狙われやすい人だけがケガ人を助けたのです。
イエス様はこのたとえ話をした後、誰が彼の隣人となったかと聞きました。誰がケガ人を最も愛したのかと聞いたのです。そしてそれは誰が最も神様に従って生きたのかという質問でもあるでしょう。律法の専門家は「もちろん助けた人だ」と答えます。サマリヤ人ですとは答えませんでした。サマリヤという言葉を口に出すのも嫌だったのでしょう。ケガ人に具体的な助けをした人が、隣人となったのです。困っている人を助けることが、愛することだ、そうイエス様は語ったのです。イエス様は最後に37節「行って、あなたも同じ様に行いなさい」と言います。困っている人を見過ごさず、助ける人となりなさい、それが愛ですと言ったのです。
私たちに求められることは何でしょうか。この話はたくさん聖書の勉強をした人への話です。「行って、同じように行いなさい」という言葉が私の胸に響きます。聖書は学んだ者に、愛の実践を促しているのです。私たちに他者を愛し、助ける、生き方を示しています。学ぶだけ、聞くだけで終わってしまってはいけません。私たちはサマリヤ人と同じ様に愛の業をおこなってゆきましょう。困っている人を見過ごさずに、関わる人になりましょう。
そしてこの話は差別の問題にも特別に触れています。私たちの社会の中にある差別がいかに不必要なものか気づくように促しています。私たちの社会の中にはまだ根強い差別、宗教や人種や国籍や性別による差別があります。それがいかに不必要であるかもこのたとえ話は示しているでしょう。
そしてこの話は、私たち自身をケガ人と置き換えることも可能です。私たちは意外な人に助けられるだろうということです。私たちは自分と関わりがないと思っていた人から助けられるだろう。実は助けられているだろうということです。自分が嫌いだと思っている人から、善意を受けるだろう、愛されている、大切にされているだろうと語られています。
この物語から、私たちはたくさんのことを考えることができるでしょう。私たちはきっと通りすぎてしまっている者です。私たちにはもっと愛すべき人がいるはずです。私たちが隣人となるべき人がいるはずです。その人はもしかして厄介者かもしれないし、関わるとトラブルになる人かもしれないし、いっしょにいると居心地の悪い人かもしれません。助けるのにお金がかかるかもしれません。そして私たちはきっと誰かに助けられている者です。私たちはきっと私たちが差別している人々から助けられているはずです。
聖書を学んだ私たちは誰かに、はらわたから共感し、愛の行動することができるでしょうか。差別や自己保身を捨てて、他者に関わることができるでしょうか。聖書を聞き、学ぶだけではなく、愛の行いをすることができるでしょうか。それが私たちがイエス様から頂いた問いかけでしょう。私たちは誰を愛するのでしょうか?
信仰入門というテーマで考えています。信仰とは生き方です。この細く、険しい道が人生でしょうか。私たちの人生には災難があり、裏切りがあり、無関心があり、差別があり、出会いがあります。私たちはその道をどのように歩むのでしょうか。礼拝を終えた後の道をどのように生きるのでしょうか。具体的な愛を持ってその道を歩みたいと思います。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に、こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝しましょう。
今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。1回目、キリスト教は愛の宗教ですとご紹介しました。2回目はクリスチャンになるとは、信じきるということよりも、信じたいという願いを持つことなのだとお話しました。3回目の今日からは、聖書の中でも特に有名な個所を選んで開いてゆきたいと思います。今日の個所は、イエス様の説教として有名な個所で「幸いである」という響きが親しまれている箇所です。
今日はこの個所から、キリスト教が「あなた方は幸いである」「あなた方は大丈夫ですよ」と、一方的に幸いを宣言する宗教であるということをご紹介したいと思います。キリスト教はそのように希望を受け取ることができる宗教であるということをご紹介します。
私は牧師を始めて5年目になります。神学校という牧師養成の学校で学んでから、平塚教会の牧師として赴任しました。卒業前に私はお世話になった先輩の牧師の家を訪ねる機会がありました。本当に牧師をやってゆけるのだろうか、いろいろな心配事があって話を聞いて欲しかったのです。私のいろいろな心配事を聞いた後、先輩の牧師は力強くこう言いました。「大丈夫、大丈夫」。先輩は「大丈夫だ」と力強く言い切ったのです。私にとって信頼していた先輩でしたので、すごく気持ちが楽になって、安心をしたのを覚えています。信頼している先輩からの「大丈夫」という言葉を今でも大切にしています。でも実はその時、先輩牧師のお連れ合いも一緒にいました。そして横からすかさず言ったのです。「あなたそんな簡単に、人に大丈夫だなんて言うもんじゃないよ」確かにそうです。心配事のある人に、簡単に大丈夫、大丈夫という声をかけてはいけません。それは心配事のある人に対してとても無責任で、不安に思っている相手に対して不誠実で、いい加減な励ましです。それは間違えて使うと親身に不安に耳を傾けてくれていない様に感じさせる言葉です。
大丈夫という言葉は、信頼している人に言われるととても安心できる言葉です。でも信頼関係が十分ではないと、相手を突き放す、投げやりな言葉に聞こえるかもしれません。
聖書にも実はこの「大丈夫」に似た言葉が出てきます。それは今日の個所にある「幸いである」という言葉です。イエス様はここで「あなた方は幸せである」「あなた方は大丈夫である」と断言をしています。みなさんはここに安心を感じるでしょうか。希望を感じるでしょうか。それとも無責任さや突き放された思いを感じるでしょうか。
きっと神様を信頼する時には、この言葉から大きな安心と希望をいただけるはずです。この個所から「あなた方は大丈夫だ」そう宣言し、私たちに希望を与えてくれる神様の姿を見てゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。
ルカによる福音書6章20~23節をお読みいただきました。イエス様は2000年前、現在のパレスチナで活動をしていました。イエス様の教えに共感し、たくさんの人が従いました。その人々の多くは極めて貧しい人々だったと言われています。お金を1円も持ってない人、今日の食べ物がない人、今日寝る家のない人、そのような人がイエス様に従っていたのです。
21~22節には、飢えている人、泣いている人、憎まれている人、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人と書いてありますが、イエス様の目の前に居る人はまさにそのような人々だったと考えられています。イエス様に従ったのは貧乏で、お腹が空いていて、泣いていて、元居た場所から追い出されてきた人の集まりだったのです。そのような人が大勢集まっている様子を想像します。きっとみんな疲れて、ボロボロになって、行く当ても、食べる物もない人です。彼らは今日生きることができるかどうかという不安、将来に対する失望、悲惨な現実の中に、うつむいていた人々です。
多くの場合、宗教はこのような苦難を神の試練や、天罰と考えます。彼らの周りも、そして彼ら自身もそう考えたでしょうか。私がダメな人間だから、悪い人間だから、徳が足りないから、だから私はこのような苦労をしているのだと考えます。でもそう考えると、ますます落ち込むでしょう。そのように貧しく、落ち込んだ、ふさぎ込んだ人々がイエス様の元に集まっていたのです。そこにイエス様はおられたのです。
今日読んだ箇所では驚くべきことがあります。それはイエス様はこの、どう見ても幸せには見えない人々に向けて「あなた方は幸いである」と断言をしているという事です。それは今、空腹でも「大丈夫だ」、今泣いていても「大丈夫だ」という宣言です。イエス様は「幸いだ」「大丈夫だ」という希望を断定的に、一方的に宣言しています。
イエス様は今の状況は必ず変わると宣言します。それはイエス様が彼らに約束をしているとも言えるでしょう。イエス様は貧しいものは、豊かになると約束しています。イエス様はお腹空いている人はお腹いっぱいになるのだと約束しています。涙は笑顔に変わる、追い出されて嫌われていた人は受け入れられ愛される、そう約束をしているのです。これは単純な話です。いま苦しくても絶対良くなるよと言っているということです。これは今悲しくても笑える日が来るという極めて単純な希望です。明るい未来がある、大丈夫だということです。単純で、幼稚とも思える希望が聖書には書かれています。
状況をよく考えると、何も大丈夫ではありません。もしこれが人間同士の会話であったなら「そんな簡単に、人に大丈夫だなんて言うんじゃないよ」という注意が聞こえてくるでしょう。それは無責任な言葉として響くかもしれません。しかしここでは希望があると語られています。ここでは、どう見ても大丈夫な状況ではない、幸せな状況ではないその中で「大丈夫だ」「幸いである」と語られています。この状況からどうやって満たされるの?なぜ笑顔になれるの?どのように愛されるようになるの?と疑問に思います。私は戸惑いを覚えます。
ここには、神様からの経緯、経過、理由の説明は一切ありません。要はこの宣言には一切の根拠と説明がないのです。なぜ大丈夫なのか、なぜ幸せなのかまったく根拠や理由が示されないまま、ただ神様があなた方は大丈夫だ、あなた方は幸いであると一方的に宣言しているのです。このような希望を語れる、語って良いのは、神様だけです。人間の同士が励まし合い、活力をもらうことは多くあります。しかし、大丈夫、どうにかなるという根拠のない励ましは、時には無責任な励ましにもなります。しかし神様はこの様にまったく根拠のない幸いを宣言します。そこに不思議な力が生まれるのです。神様は一切の根拠なく、一切の変化や努力も求めず、ただ私たちの幸いを約束しています。私たちは必ずお腹が満たされ、笑い、愛されると約束されているのです。神様を信じていない人にとって、それは無責任な約束かもしれません。でも神様を信頼する時、私たちにとってそれは大きな希望、大きな安心へと変わってゆきます。
私たちの希望は極めて単純です。私たちが信頼する神様は、君は幸いだ、必ず満たされると約束をしてくださっています。神様は一切の根拠なしにそれを断定し、一方的に宣言しているのです。目の前にいる人々は明らかに、全然大丈夫じゃない人たち、全然幸せそうに見えない人たちです。でもイエス様は「大丈夫だ」「幸いである」と宣言しています。聖書にはそのような単純で、純粋な希望が書かれているのです。
私たちの生き方について考えます。人生にはなんともならないことが多いものです。誰かに簡単に「大丈夫だ」なんて言われたくないことばかりです。誰かの苦労に簡単に「大丈夫だ」と言ってあげることができないことばかりです。
でも神様は違います。神様はとても単純です。神様は「大丈夫」「幸いである」「なんとかなる」と言っているのです。私たちはそんな単純な希望を信じています。私たちの中に何か根拠があるわけではありません。でも神様が大丈夫、幸いであると言うならば、そうなるのかもしれないと思って歩んでいるのです。みなさんの生活にも様々な問題や悩みがあるでしょう。おそらくそれは私から見ればまったく大丈夫ではない問題、心配するに十分に値する問題でしょう。大いに不安に思う問題でしょう。
しかし神様は言います。「あなたがたは幸いだ」「あなたがたは大丈夫だ」私はこの単純な希望を信じたいと願っています。どうして大丈夫なのか、何が大丈夫なのか、何をすれば良いのかさっぱりわかりません。でも大丈夫、でも幸いであるという神様からの希望を受け取ってゆきたいのです。
神様を信じる人にとって、神様を信頼する人にとって、この言葉は大きな希望の言葉なのです。このように神様を信じると、根拠のない希望が与えられます。神様を根拠とした希望が与えられます。神様から一方的にいただく希望が私たちに迫って来るのです。
みなさんにもその希望を受け取って欲しいと願っています。神様を信じる者、神様に信頼する者となるようにお勧めをします。きっとそれぞれにいろいろな問題を抱えておられるでしょう。でも神様に信頼すると、そのような中でも希望を持って生きることができるはずです。この私を「幸いだ」と宣言してくださる神様を信頼し、共に歩んでゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おようございます。今日はイースターです。イースターおめでとうございます。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。
今月・来月と信仰入門というテーマで宣教をしています。初めて教会に来るという方、もっとキリスト教について知りたい方、よくわからないけど興味があるという方を特に歓迎する期間にしたいと思っています。どうぞ礼拝に加わってください。
多くの人は教会にはキリスト教を信じている人が集まっていると思っています。初めて教会に来る方は、熱心に信じてる人の中に、興味半分の私なんかが行っていいのだろうか、そんな風に思うのです。でも実は教会に集まっている人は、信じている人だけの集まりではありません。そして「信じている」という人も実は、聖書の事に疑問に思ったり、ある部分についてわからない、信じられないと思ったり、わかったつもりだったのに分からなくなってしまったりしています。
教会はこのように、信じている人の集まりというよりも、信じたいと願い、探している人が集まる場所です。疑問や問いを持つ集まりです。わかっているような顔に見えるかもしれませんが、実は一人一人わからないことだらけです。そのようにして、みんな教会に集っています。教会は信じきれない人の集まりです。みんな実はいろいろ疑問に思っています。でも長く教会に通っていると、疑問だと思わなくなってしまったり、本当は疑問に思っていても忘れてしまうものです。そこに新しい方が来て、わかりませんと質問をしてくださるのはとても貴重です。他の人が「私もそこを疑問に思っていた」と思い出すことができるのです。教会はそのようにしてまた、問いと疑問を持ち続けることができます。教会はだからこそ、いつも初めての人を、初めての方の率直な疑問を歓迎しています。
今日は特にイースターという日です。キリスト教の信仰の中心には、十字架で死んだイエスが復活したという信仰、復活信仰があります。私たちが日曜日に礼拝という集会をするのも、イエスの復活が日曜日の朝だったということに由来します。クリスチャンになるにあたってイエスの復活、これを信じるのはなかなか難しいことです。イエス・キリストが十字架で死んだあと、復活したと信じるのです。他の事柄と同じように、クリスチャンならば復活を信じて当然と思うかもしれません。
しかし、よくよくみんなの話を聞いていると、ある人はこういいます。小さい頃からそういうものだと教えられたのでそう信じています。別の方はこう言います。聖書に書いてあることを疑いなく、そのままを信じているし、そうでなければ信仰とは言えない。別のある人は復活についてはよくわかりませんと答えます。クリスチャンといっても、復活の出来事をそのままを猛烈に信じている人ばかりではないのです。
キリスト教にとって復活をどう考えるかは大問題です。私たちのバプテストというグループは自由を大事にするグループです。特にこう信じなければいけないというものはありません。ですから復活を信じるといっても、その復活のイメージは実はひとりひとりで違うのです。みんなが復活を信じているといっても、その復活のイメージがひとりひとり違うのです。普段あまり話さないのですが、それぞれにイメージがあり、かなり幅があり、少しずつ違うのです。復活とは何でしょうか。
復活とはただの心肺蘇生を指すことではないでしょう。一度心肺停止になったが、もう一度心臓が動き出したことは、復活ではありません。仮死状態、気絶状態だったという理解も私たちとは違います。イエスは間違えなく、徹底的に十字架で死にました。生き返りようがないほど死にました。どん底を味わって、そこから何かが起きたのです。
肉体は死んでも魂はよみがえったと信じるのはどうでしょうか。肉体は死んでも魂がみんなの心の中に残り、永遠にいる、それこそが復活だと考えるのはどうでしょうか。死んでしまったけど、みんなの心の中にはもう一度イエスが来た、今も私たちの心の中で生きているという復活理解です。それならば、信じるというハードルはずいぶん低いでしょう。でもイエスの復活を、私の心の中の出来事と結論づけてしまってよいのでしょうか。この後イエスは「私には肉も骨もある」と言っています。復活は心の中の問題ではないはずです。
心理学から考えると復活は幻視体験です。弟子たちはリーダーが十字架刑で殺されるという強いストレスを受けて、復活のイエスの幻を見たのです。これは行き過ぎた復活の理解かもしれませんが、これには復活理解のヒントもあります。それは、弟子たちは本当に見たという自覚があるということです。単に心の中の問題ではなく、弟子たちは確かに見た、はっきりと見たのです。何時何分に会った、そこには肉と骨があったという、実体験として本人には理解されています。これは聖書の記述と多くの共通点があります。
私はこの復活を聖書の記述通りに信じるでもいいし、様々な背景があって起こったと信じるのでも、どちらでもよいと思います。では牧師であり、宗教者である平野は何を信じているのか。どう信じているのかと問われるかもしれません。復活とは何でしょうか。私はまだ結論がでないままです。きっと聖書の通りの出来事が起きたに違いないと思う反面、その背景が必ずあったはずだと考えています。私としては、こうだった、こう信じる、そのような結論に達していません。何が起きたのかわからない、でも何かが起きたのです。聖書をそのまま文字通り信じることができる人がうらやましいです。私はまだ答えを探しています。私は復活を信じています、でも復活がどのように起こされ、どのような意味を持つのか、それは幅広い理解の可能性があると信じています。何が起きて、どんな意味があるのかを、私はずっと問い続けたいと思いますし、それが私にとって信仰をもつということです。少なくとも復活は、十字架の死で終わらない希望があったことを指し示していると思います。死で終わらない希望、絶望の先にある希望を指し示していると理解しています。信じた人は洗礼・バプテスマを受けるのですが本当にそうでしょうか。少なくとも一生懸命勉強したら復活の意味が理解できたということにはならないでしょう。問い続けながら、何を信じるのかを問いながら歩んでゆくのが信仰です。
私たちのテーマは信仰入門ですが、あらかじめお断りしておくと、入門後にはゴールがあるわけではないのです。その門の中で考え続けるのが信仰になのです。今日は聖書からそのようなことを考えてゆきましょう。
ルカ24章1~12節をお読みいただきました。今日の場面は、イエスが十字架にかかり、死に、墓に納められた後の場面です。女性たちはイエスの遺体に香料を塗るために、墓に行きました。しかしそこにはイエスの遺体が無くなっていたのです。徹底的に死んだはずのイエスの遺体がなくなっていたのです。4節、女性たちは途方に暮れていました。何が起ったのかまったく理解できず、困惑し、悩んでいたのです。そこに輝く衣を着た天使が現れます。そして天使は女性たちに「十字架で死んだイエスは三日目に復活すると言っていたではないか」と言います。女性たちは繰り返しイエスに復活すると言われていても、それを覚えていなかったのです。もし女性たちが復活を信じていたのなら、遺体がなくなったのを見て、すぐに復活したのだと確信したはずでしょう。
しかしそうはなりませんでした。女性たちは復活すると繰り返し教えられていても、そんなことあるのかな?不思議だと思って聞き過ごしていたのです。良く考えないでいたのです。だから彼女たちは遺体が無いのを見て、まさか復活したとは思わなかったのです。8節で女性たちは天使に言われて、ようやくで思い出しました。そういえばイエスは復活すると言っていたと思い出しました。女性たちはどうしたでしょうか、すぐに信じたとは書いていません。とりあえず別の弟子たちにこのことを話すことにしたのです。9節、女性たちは見たことを男性の弟子たちに伝えました。しかし男性たちもまた復活を信じませんでした。たわごとだ、愚かな話、馬鹿な話だと思ったのです。復活なんてあるわけなかろうと言ったのです。
弟子たちはなんと不信仰なのでしょうか。繰り返し教えられた復活がキリスト教の信仰の中心です。しかし、復活なんてあるのだろうかと思ったのです。それが初代クリスチャンです。それがクリスチャンの本音でしょうか。イエスは復活したと何度言われてもその前に途方に暮れる、そんなことあるはずがないと思う、それこそが弟子たちの本当の姿なのでしょう。不信仰で、見習ってはいけない人たちかもしれません。しかし私はこの気持ち大事にしたい、大事にしてほしいと思います。
弟子たちは復活なんてないと思っていました。復活を疑っていました。復活を信じていなかった、それを否定していたのです。それがイースターの朝、日曜日の朝の出来事だったのです。しかし不思議にもその人たちに大きな変化が起きていくのです。その始まりが復活、イースター、日曜日の朝なのです。
おそらく私たちの信仰は信じるか、信じないかはあなた次第というような、二択ではありません。信じたいけど信じられない、そのはざまに信仰があるのです。特に復活という出来事はそうでしょう。
クリスチャンになるとは、信じたいという願いを持つことと言えるでしょう。私たちは信じて集まっていると同時に、信じられないけど信じてみたい、私たちはそのような集まりです。今日の聖書によれば、信じられないことから始まる変化がきっとあるのです。これから共に探し続けてゆきましょう。お祈りします。
議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 ルカ福音書23章35節
信仰入門というテーマで2か月間、宣教をします。キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれますが、愛とは何でしょうか。日本語で「愛」は「恋愛」を指す、ドキドキする気持ちを表す言葉です。しかし聖書の愛とは、もともとアガペーという言葉です。アガペーは恋愛とは違い「大切にする」という意味です。相手を大切に思うことが愛する、アガペーすることなのです。ですから好きになれないところがあってよいのです。嫌いでもお互いを大切にするのがアガペーです。イエスは人々にお互いを大切にするように教えました。そしてその考えに深く共感する人がたくさんいました。
しかしイエスは十字架刑で殺されてしまうことになります。十字架刑とは何週間も苦しみながら死んでゆく極めて残酷な死刑の方法です。なぜこの残酷な処刑装置が、キリスト教のシンボルなのでしょうか。それは十字架に到るまで、他者を愛し、大切にしたというイエスの姿を忘れないためです。そのことは私たちの聖典である、聖書に書いてあります。
今日の場面はイエスが十字架に架けられている場面です。イエスは十字架上で、様々な人から侮辱をされています。35節では政治家である議員から、36節では兵士から、39節では、同時に十字架刑になっている犯罪者からです。3人は口をそろえて言います。「自分を救え」。イエスを殺そうとした人とは、自分のためだけに生きてきた人でした。彼らにはその生き方がまったくわからなかったのです。なぜ自分のためではないのか?自分にメリットがないのになぜそのような生き方をするのかと疑問に思ったのです。だから彼らは「自分を救ってみろ」と言うのです。
しかし、登場人物の中にはごく少数、イエスの十字架の痛みを知り、共感する人がいました。同じく十字架に架けられている二人の中の一人です。彼は最期が迫ってくる時、自分ではなく、他者の痛みに共感し、他者を大切に思いました。
この十字架の出来事の上に、イエスの生き方が凝縮されています。まず自分のために頑張れ、まず自分、自分を優先させろ、そのような時代と声の中で生きた人がイエスでした。自分が大事、その思いに飲み込まれた人々が、イエスを十字架に架けたのです。しかし、イエスは最後までアガペーを貫いたお方です。私たちは苦難の時もアガペー、愛をもって生きることを忘れないために十字架をシンボルにしています。
私たちがこの宗教を信じているのは自分が天国・楽園に行くために信じているのではありません。どこまでも愛・アガペー・他者のために生きるために信じているのです。私たちもこのような愛を実践したいと願って信じているのです。
そして私たちはこの生き方に一人でも多くの人に加わって欲しいと思っています。その生き方は、毎週の礼拝の中で、その愛・アガペーを確かめ、それぞれの場所愛・アガペーを実践するという生き方です。そのような仲間が一人でも増えて欲しいと願っています。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。私たちは今、教会の暦でレント・受難節の中にいます。レント・受難節はイースターの前の約40日間を指します(厳密にはそれに6回の日曜日を加えた46日間です)。この期間はイエス様の十字架に到る聖書箇所が多く選ばれます。私たちは今月、共に旧約聖書を読んでいますので、直接十字架の個所を読むわけではありませんが、今日の個所も十字架と無関係ではありません。直接その箇所を読むわけではありませんが、40日間を共に過ごしてゆきましょう。
キリスト教は40という数字がよく登場します。ノアが箱舟に乗ったのは40日間、モーセが荒野でさまよったのは40年、イエス様が荒野で断食をしたのも40日間でした。40はとても長い期間を表し、そして神様との関係を考える期間として繰り返し登場します。今日の箇所も40日間です。モーセは神様からの言葉を聞くために、シナイ山に登るようにと言われます。そこで神様の戒めを石板に彫り付けるためです。28節、モーセは山の上で四十日四十夜、主と共に留まりました。そこではパンも食べず、水も飲まず、ひたすら神と共に、二人きりで共にいたとあります。モーセは40という数字に象徴されるような長い期間そこにとどまりました。モーセは長い期間、山の上で、神と二人きりで、共にいたのです。今日はこの場面について見てゆこうと思います。
人間は夫婦や、家族、友人と長く一緒に時間を過ごしていると、言葉やしぐさが似てくるものです。あるいはもっと深いところで、考え方や物の見方、習慣までが似てくることがあります。顔や表情まで似てくるものだと聞いたこともあります。あるいはワンちゃんさえも飼い主に似てくると聞きます。そのように人間は長く時間を共にすると、似てきてしまう者なのでしょう。モーセは四十日四十夜という長期間、神様と二人きりで共にいました。その期間は寝食を忘れ、神の言葉を石の板に刻み、神様と共にいました。神様との豊かな出会いをいただいたのです。それだけ神様と一緒にいれば、神様に似てくるでしょうか。
神様の言葉を聞いたモーセは大変大きな恵みを受けて帰ってきました。山から降りてきたモーセを見た人々は驚きました。なぜならモーセの顔が光り輝いていたからです。顔の皮膚が発光していたという現象です。本当に神様による奇跡によってそのような現象が起きたのかもしれませんが、あるいは顔を輝かせて帰って来たという意味かもしれません。
モーセは四十日四十夜、神様との濃密な時間を過ごしたのです。神様と少し似た顔つきになって帰ってきたのかもしれません。モーセは神様の言葉を聞いて、輝くような顔になったのです。全く別人のような表情になって帰って来たのです。神様はそのように人を変えるのです。神様の言葉が人をそのように変えるのです。神様の言葉がモーセの顔を輝かせました。神様ととにかく一緒に居続けるということが、人の表情を変えてゆくのです。
私は教会に来て、そのようなことが毎週の教会で起っていると感じます。私はたくさんの光り輝く顔を知っています。皆さんが前を向いているので、私が一番皆さんの表情を見ています。ときどき皆さんとは教会の外、町で会うこともありますが、教会に来ている時、礼拝している時の顔が、一番明るくて輝いています。皆さんの顔は教会で輝いています。あるいはご葬儀の時に、棺の中に入った先輩を見て、光り輝くような顔をしていると感じる時もありました。そのように人の顔は教会で輝くのです。テカるのと違います(笑)。人間は教会で神様の言葉に出会うと、安心して、ニコニコして、笑顔になって、輝くのです。それがモーセに起きた事で、毎週この教会で起きていることです。
29節によれば、周りの人が怖がるくらい顔が輝いているのに、モーセ自身は光を放っていることに気づいていませんでした。皆さん自身、私自身もそうかもしれません。自分が教会でどんな表情をしているかはわからないのです。でも教会の中ではみなさんいい顔しています。正面からよく見えます。あるいは最初に教会に来た時より、ずっと穏やかで、笑顔で、安心していて、輝いています。教会では一人一人が自分では気づかない光を放っています。
神様の言葉とずっと親しむこと、礼拝をずっと続けてゆくこと、それは私たちの表情と私たちの内面を変えるのです。神様とずっと一緒にいることは、必ず私たちを変えます。夫婦や友人やペットでさえ一緒にいると、見た目も中身も似てくるものです。それと同じように、神様と長く一緒にいるなら、神様の言葉を長く聞き続けるなら、私たちは神様に似た者に変えられてゆくのです。それがモーセに起きた事、私たちに起きている事です。
神様の言葉は光です。その光は私たちの顔を、私たちの心を明るくします。神様の言葉は私たちを暗い気持ちにするのではありません。神様の言葉は冷たいものではありません。神様の言葉は、聞いた人の心が温まる言葉です。そして神様の言葉をずっと聞き続けると人は神様に似てきます。心が変わり、輝き、自分でも気づかない間に、今度は周りを明るく照らしているのです。
32節まででモーセは輝いた顔のままで、神様の言葉をみなに伝えましたが、33節からは自分の顔に覆いをかけるようになってしまいました。この覆いにはどんな意味があるでしょうか、理由はまったくわかりません。神様の言葉をいただき、輝いて帰って来たモーセでしたが、山を下って、人々の間に入ると、輝く顔を覆ってしまいました。せっかく輝いている顔を隠してしまったのです。怖がらせないため、気持ち悪がられないために必要だったのでしょうか、恥ずかしくて覆ったのでしょうか。もしかするとそれは日常では出せない表情、出さない表情だったのかもしれません。本当の自分を隠し、仮面をかぶらなければいけなかったのかもしれません。
34節、モーセの顔の覆いは神様の前では外されたとあります。モーセは神様の前では覆いのない、本当の自分が出せたのです。外では出せない本当の自分、変えられた自分がここでなら出せたのです。あるいは神様の前に行き、再び神様の言葉を聞くことで、また光り輝くようになったとも理解できるでしょう。35節、人々がもう一度モーセの顔を見ると、やはり光り輝いていたのです。誰も、本当の自分の姿に覆いをかぶせる必要はないはずです。モーセは恥ずかしがらずに、その光り輝く顔を出してよかったのではないでしょうか。それは神様からいただいた光なのですから。
私は今日の個所を読んで、まず自分が教会にいる時の顔ってどんな顔なのだろうと思いました。もしかして教会では日常よりも笑顔が多いかもしれないと思いました。そしてそうならば、教会以外の日々が無表情になっていないか、あるいは顔の輝きを覆うように生きていないかとも考えました。
そして私は毎日を輝くような表情、態度で過ごしたいと思います。毎日を教会に来た時のような、神の言葉を受けて光り輝くようなそんな顔で、そんな表情で、そんな態度、そんな内側・心で日々を歩みたいと思いました。私たちはその顔の輝きに、覆いをする必要はありません。教会で見せる表情や態度のまま、毎日を生きてゆけば良いのです。そのように感じました。
社会ではマスクが定着しています。外すのか外さないのかが話題になっています。いずれにしても、お互いの表情や気持ちは前よりもわかりづらくなっています。私たちの顔が光り輝いていても、わかりづらいのです。マスクで分かりづらいからこそ、少しだけ見えている私たちの表情や態度はより大切と言えるかもしれません。いつかマスクが必要ないと思える時が来るように願いますし、もう少し様子を見てゆきましょう。
でも私たちが知っておきたいのは、神様の言葉をずっと聞いていると、神様とずっと一緒にいると、神様に似てくるということです。そして表情や態度が明るくなるということです。神様とずっと一緒にいると神様に似て来て、生きる力にあふれ、人生を楽しむ力にあふれてくるのです。神様と長く一緒にいればいるほど、その顔は輝いてくるのです。だから私たちは神様との時間を大切にしましょう。そして豊かな表情に、恵みをいただいたその顔に、覆いはいらないのです。恵まれたその顔で毎日を送りましょう。
レント・受難節ですからイエス様の歩みも見てゆきます。福音書にはイエス様も同じように、山の上で顔が輝く出来事がありました。ルカだと9章48節です。イエス様も神様の言葉を受けて、神様との出会いによって顔が光り輝いたのです。
イエス様も神様からいっぱいの光を受けて顔を輝かせていました。そして大勢の人々が待っている山の下へと下ってゆきました。山の下で多くの人に出会い、人々を励まして生きてゆかれました。礼拝の場所から、神様との出会いから、神様の言葉、光をいただき人々と出会いに行ったのです。その歩みは十字架まで続きます。私たちもそのように歩みましょう。
この礼拝で神様の言葉、光をいただきましょう。神様とずっと共にいて神様に似る者となってゆきましょう。そしてそれぞれが輝き、それぞれの場所で輝いてゆきましょう。心に覆いをせずに、輝いたままの姿で、1週間を過ごしてゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。3月は旧約聖書を一緒に読もうと思っています。そして今、教会の暦ではレントという期間にあたります。レントとは日本語で受難節とも呼ばれ、イースターの前の40日間、イエス様の十字架を覚える期間です。イエス様の十字架を特に深く考える期間です。今日は旧約聖書からレント・受難節を考えたいと思います。
新約聖書のイエス・キリストは人々に愛し合うようにと教えました。分かち合って生きるようにと教えました。しかしその教えは人々に受け入れられなかったのです。人々は受け入れずにイエス様を十字架で殺してしまったのです。受け入れなかった理由はいくつかあるのですが、一つには政権の安定のためということがありました。人を愛する生き方を勧めたイエス様は、人々に熱狂的に迎えられました。その時政治家たち、権力者たちは自分の立場が危ういと感じたのです。自分の立場を守るために早く殺しておこうと思ったのです。もう一つは既得権益のためです。宗教者も政治家も裁判官も、もっと自分にお金が集まるようにしたかったのです。愛と分かち合いは、自分にお金を集めたい人にはまったく不都合でした。早く殺そうと思ったのです。民衆もイエス様の十字架を支持しました。この世界に革命を起こして、新しい王が誕生することを願ったのですが、イエス様は地上の王になろうとはしませんでした。民衆にとってそれは大きな期待外れでした。
結局イエス様は十字架刑という大変な苦痛を伴う刑で殺されることになりました。愛と分かち合いに生きようとした、主イエスは十字架で殺されてしまったのです。そのことを忘れないために、レント・受難節があります。
当時は他にも多くの人が十字架刑に架けられました。しかし中でもイエス様が特殊であったのは、十字架の上に到る最後まで、他者のために生きようとしたことです。そしてさらにその後、復活と呼ばれる出来事があったと言われていることです。私たちはこの方をキリスト、私たちの救い主、私たちの人生の道しるべとしています。イエス・キリストを神と等しい存在として、毎週礼拝をしています。
神様と等しい存在であるイエス・キリストが十字架に架けられて死んでしまったということ、どのように考えればよいでしょうか。神様はイエス様が十字架刑で激しい苦痛を味わっている時、一体どこで、何をしていたのでしょうか。他者のために生きようという素晴らしい教えを広げようとしていた人が、十字架に架けられて、もがいている時、神様はどこで、何をしていたのでしょうか。
神様はなぜイエス様を見捨てたのでしょうか。神はどこにいたのでしょうか。神はどのようなお方なのでしょうか。このことは私たちにもつながる問題です。私たちが他者のために生きようとするときも必ず苦痛が伴います。その時、神様はどこにいるのでしょうか。今日は旧約聖書から、私たちが苦難の時、神様がどこいるのかを考えたいと思います。今日の個所を読みましょう。
今日はイザヤ書を63章7~14節お読みいただきました。イザヤ書も、先週のエゼキエル書同様、神様からの言葉を預かった預言者イザヤの言葉が記された書です。特にこの個所はイスラエルが戦争に徹底的に負けた後に書かれたものだと言われています。つまり大きな苦難を通された後に、あの時神様はどこにいたのだろうかと考えている時、神様から与えられた言葉だということです。ここから、神様は苦難の時にどこにいるのかを考えたいと思います。
まず目に留まるのは8節「彼らは私たちの民、偽りのない子らである」という箇所です。神様は私たちをこどもにしてくださるお方です。私たちは神様のこどもと言われてもピンとこないかもしれません。それはこの命が神様から特別に大事にされているという意味ですが、もう一つ意味があります。それは、私たちは神様と直接つながっているということです。これは当時の宗教では考えられないことでした。当時の宗教の多くは、王様一人だけが神の子でした。戦争に勝った王様が、神様から守られた人、王こそが神様のこどもと考えられていたのです。ローマでもエジプトでも戦争に勝った最高権力者こそ、神の子だと言われていたのです。では王様以外の人間はどうだったのでしょうか。それ以外の人間は神の子ではありません。ただの人間、ただの生き物でした。ただ王様、神の子の命令に従うだけの存在だったのです。それが当時みんなが知っている神の子でした。
しかしイスラエルの神の子は大きな違いがありました。イスラエルの神様のこどもは戦争に勝った王ではありませんでした。神様は8節で、あなた方はわたしのこどもだと語り掛けています。イスラエルの神は戦争に負けた弱い国の民衆一人一人に、私のこどもと呼びかけたのです。これがイスラエルの神様です。戦争に勝つ強い王様だけではなく、民衆一人一人が神の子だと言うのです。これこそ命の神です。すべての人を神の子としてくださる神です。誰にも独占されない神です。民主的な神の姿です。
苦難の時、神様はどこにいるのでしょうか。神様は戦争に勝った王と共にいるのではありません。神様はすべての人と共にいます。特に弱い人、苦しんでいる人、不幸が降りかかっている人、神様に遠いと思える人に、私のこどもと呼びかけるのです。あなたと共にいると呼びかけるのです。神様は誰か強いリーダーと共にいるのではありません。民衆一人一人、私たち一人一人と共にいます。あなたは私の子というのはそのような意味です。神様はどんなに苦しくて、どんなに虐げられても、どんなに負け続けても、一人一人と直接的な関係にあり、共にいるお方なのです。
苦難を感じる時、神様はどこにいるのかということについて。もう一つ目に留まるのは、9節の「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし」という箇所です。神様はその苦しみを自分のものとするとあります。神様は私たちが苦しいと感じる時、一緒に苦しいと感じているということです。私たちはこどもや家族や親しい人が苦しい時「代わってあげたい」と思うことがあります。そして自分まで苦しい気持ちになる時があります。神様も同じです。神様もあなたの苦しみを見て、自分まで苦しいと思うお方です。神様は私たちの苦しみを常に、自分の苦しみとしているお方なのです。私たちの神様は、一緒に苦しむ神様です。神様は常に平常心で、何事にも動じない神様ではありません。神様は私たちと一緒に泣いたり笑ったりするのです。神様は天高くおられ、地上をのんびり見ているという考え方は聖書的ではありません。神様は私たちとともにおられ、私たちと共に、喜怒哀楽しているお方なのです。
そして9節後半にも目を向けます。神様は私たちを救ってくださるお方です。私たちに愛と憐みを示し、救ってくださるお方です。神様は私たちが苦しい中でも、愛と憐みを持って生きるようにしてくださるお方です。私たちを救ってくださる神様は、私たちの重荷を共に背負い、愛と憐みに生きる苦労を分かち合ってくださるお方です。私たちを背負ってくださるお方なのです。
11節には「神はどこにいるのか」という私たちと同じ問いかけがあります。私たちの世界には戦争や災害、自らに降りかかる苦難があります。その時「神はどこにいるのか」と思わざるを得ないのです。
しかしその問いにこの個所は答えています。13節にあるように荒れ野をゆく時も躓かず、14節神は「谷間を降りてゆく家畜のように」「ご自分の民を導」くのです。神様は共にいるのです。苦難の時も、主が共に苦しみ、主が新しい場所へと導いてくださるのです。神様は私たちに希望があると言っています。私たちが困難な時も神様が私たちを見捨てたわけではない、必ず安心して暮らすことが出来る場所へと導くと約束してくださっているのです。
私たちはそのことを今日、旧約聖書・イザヤ書から知ることができるのです。そしてもっとはっきりと、イエス・キリストの歩みから知ることができます。イエス・キリストは神と等しいお方でしたが、人間として地上に来られました。私たちと共にいる者として歩まれたのです。イエス・キリストは人々と共に泣き、共に食べ、共に笑いました。このイエス・キリストが私たちに与えられたのです。
そして、イエスは愛と憐みに生きようとして苦労をしました。死に至る十字架の苦難を通ったのです。そのときイエス・キリストさえも「神はどこにいるのか」と叫びました。それほどまでに人間の苦難を知ったお方だったのです。神様はどこにいたのでしょうか。神様は叫びをあげたそこにいました。叫んだ人自身が神様でした。神様は一緒に叫んだのです。そして神様はそこで苦難と死で終わらない希望を示しました。イエス・キリストを復活させたのです。
私たちにもこの神様が、このイエス・キリストが共にいます。今キリストの苦難を覚える時をいただいています。それはただ痛くてかわいそうということを感じるときではありません。それは神様が私たちの苦難の時、共に苦しんでいることを感じる時です。私たちには苦しくとも、神様が共にいるのです。苦しい時も神様が新しい道を備えて下さるのです。神様はもっとも恐れる死さえも超えて、新しい希望を示してくださるお方なのです。
神様はどこにいるでしょうか。その迷いの中にいます。その叫びの中にいます。その苦痛の中にいます。そのあなたを、神様は神の子として深い関係にあろうとしてくださいます。
今日、十字架を覚え、そして苦難のただなかにあっても共にいる神様を覚えましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちを大切にするとは、未来を大切にすることです。私たちは今だけ、自分だけではなく、こどもたちの未来を大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。
今月は1ヶ月間「旧約聖書」というテーマで宣教をします。普段なかなか開く機会がないので、一緒に読んでゆきましょう。そして今日は東日本大震災祈念礼拝を持っています。2011年3月11日に起きた東日本大震災では多くの方が亡くなり、被災されました。そのことを覚えて祈りをささげてゆきたいと思います。あの時、一人一人に様々なことが起きましたが、原発の事故は衝撃的でした。
私は「さよなら原発ひらつかアクション」という市民活動に参加をしています。3月11日には新しくできた文化芸術ホールの前で原発反対の集会を持ち、駅前をデモ行進します。全市議会議員には公開質問状も送付しています。
原発に反対するキリスト者・牧師は全国に多くいます。さまざまな理由で反対の声を上げていますが、もっとも大きな問題は、原発が誰かを犠牲にした発電システムであるという点です。誰も自分の家の近くに、危険な原発を作りたくないものです。だから原発は人口が少なくて困っている町、お金が必要で困っている町を狙って造られます。この構造は都市部の人が小さな町にお金を払って危険を押し付けているという構造です。そのような犠牲のシステムの上に成り立った発電方法でいいのでしょうか。地方の貧しい町を犠牲にして、都会で豊かな生活を送ることは良いことなのでしょうか。ひとたび事故が起きれば、その町はすべてを失うことになります。命も、家族も、ふるさとも奪われます。そんな原発をこの世界のどこかに作ってよいのでしょうか。原発の問題をただ電気の問題ではなく、命の問題として、多くのキリスト者が反対の声を上げています。
今日は特に様々な原発の問題の中でも「核のゴミ問題」を紹介したいと思います。一度は聞いたことがあると思います。原子力発電はたくさんのゴミ(放射性廃棄物)が出ます。まったく環境にやさしくない発電です。ゴミはこれまでどうしてきたのでしょうか。日本は1950年代・60年代に放射性廃棄物をドラム缶1600本に入れて海に捨てました。これはもちろん太平洋の島々と国際社会から猛反対を受けました。放射能は海に捨てればいい、これが日本の基本的な考え方です。処理水ももうすぐ放出が始まります。実は核のゴミは処分方法が一切決まっていません。再処理・再利用も、やるやると言って、一切の見通しが立っていません。行き場所のないゴミが増え続けている状況です。
この問題はよく「トイレのないマンション」と言われます。ゴミの処理が決まっていない、持っていく先がないのはトイレがないマンションと同じだという指摘です。私たちの教会も昨年トイレが壊れましたが、みんなで汚れながらつまりを取りました。トイレがない不安を味わいました。それはこの先どうしようという不安ではありません。今どうするかという不安と緊張感でした。日本は原子力政策において同じ状況です。どんどんゴミが溜まっています。今どうするか決めなくてはいけない時です。しかしゴミをどうするかという問題についてまったく議論のないまま、今度はさらに再稼働、運転期間延長を決めようとしています。
ゴミをどうするか全く決まらないまま、原発を動かすつもりです。このゴミは数百万年間危険とされるものです。誰がどう管理するのか、決まっていません。決まっているのは、次の世代、何百万年先の世代まで問題を押し付けるという事だけです。ゴミはこども任せということです。まったく先のことを見ていない政策で、倫理的に許されることではありません。
教会で原発の問題に触れられることはほとんどありません。教会の中のことで大事なことがたくさんあるからです。確かに自分たちの内側を見つめなおすことも大事です。どうして教会がこのような社会の問題に関わらなければいけないのでしょうか?自分たちに余力があるときにすれば良いとも言われます。しかし私はこの問題、教会だからできること、教会にしかできないことがあると思います。一人一人の命を大切にできる教会だからこそ、できることがあると思います。社会の中で、誰かが何かを押し付けられていないか、命がないがしろにされ、危険にさらされていないかは元々聖書の大事なテーマです。それをずっと考え続けてきたのが教会です。そして教会は今だけではなく、永遠を見渡してきました。
今のこの問題を、電気が足りないという問題ではなく、命のこととして考えこの先々のことを見渡すことができるのが教会です。教会の視点でこの問題を見て、社会に訴えてゆく必要性が大いにあると思います。正義と公平について教会は、社会に訴えてゆく必要があると思います。今日は、このような教会の社会的な使命について聖書から考えたいと思います。
エゼキエル書3章16~21節をお読みいただきました。エゼキエル書はエゼキエルという人が神様から預かった言葉を記したものです。エゼキエルの役割は「預言者」といって、神様から預かった言葉を取り次ぐ役割です。未来を言い当てる「予言者」ではありません。神様からの言葉を預かって、人々に伝えてゆくことが預言者の仕事です。神様は17節で、この預言者の役割は見張り役なのだと言っています。
見張り役の仕事とはどんな仕事でしょうか。見張り役とは町の入り口に高い塔を建てて、外から敵が来ないかを見張る役割です。彼らの仕事は遠くを見渡すことです。町の内側のことも大事ですが、彼らは地平線の先にある小さな変化に目を向けます。見張り役はもし敵が来たり、危険が迫っていることを知ったら、ラッパを鳴らし住民に伝えます。それによって住民はいち早く危険に気づくことができます。門をしっかりと閉めたり、逃げる準備をしたり、火事にならないように火を消したり、準備をすることができるのです。もし見張りがいなかったらどうなるでしょうか。住民は目の前に危機が迫って、門を破られて、誰かが悲鳴を上げた時、初めて危険に気づきます。準備の時間はありません。そのとき思いつく限りの対応をするしかできません。もし見張りが自分にしか関心がない人間だったらどうなるでしょうか。見張りは敵を見つけるのが遅れるでしょう。もし見張りが自分のことだけしか考えない人間で、敵を見つけたら自分だけ一目散に逃げだしたらどうなるでしょうか。自分は一番に逃げるのだから助かるかもしれません。でもそれはとても無責任です。彼は自分だけがいち早く逃げる、自分だけが助かるためにそこにいるのではありません。彼は自分のためだけではなく、町のすべての人のために、異変を告げるラッパを鳴らす必要があるのです。そのように人々に危険を警告するが、見張り役の責任、見張り役の使命です。
神様は預言者エゼキエルをこの見張り役に任命をしました。エゼキエルの役割は内側に目を向けつつも、外側に、なるべく遠くに目を置くことです。誰よりも早く変化と危険に気づき、人々に伝えることです。その働きはとても社会的な役割です。社会に訴えてゆくことが使命とされたのです。そのように預言者がしっかりと見張り役の使命を果たすとき、誰も命を落とすことがなく、すべての人の命が守られるのです。
神様は悪人が滅ぶこと、悪人が罰を受けることを望んでいるのではありません。神様は悪人が立ち帰り、再び神のもとに戻ることを望んでいます。だからこそ神様は大きな失敗にならないうちに、それに気づくように、私たちに語り掛けています。これ以上の過ちを犯さないように、神様からの言葉をよく聞くように語っているのです。預言者の役割は人々に、そのような神様の言葉を伝えることです。
神様は預言者の役割・神様の言葉を牧師だけではなく、教会へ、一人一人へと託しています。教会と一人一人が神様から見張り役の使命を与えられているのです。教会は今や内側だけに関心を持つのではありません。教会は見張り役です。教会の役割は世界と時代の一番遠くを見渡すことです。今ではなく、永遠に目を向け、今だけではなく、次の世代に目を向けるのが役割です。
今の原子力政策、核のごみ問題は遠くを見渡しているとは思えません。様々な問題を先送りし、危険を過小評価しています。教会はこのことについて見張り役にならなくてはいけません。このままではやがて行き詰まること、大きな破滅が訪れることを社会に訴えてゆく必要があります。教会にはそのように神様から社会的な使命が与えられているのです。教会はこのように社会を見渡す見張り役でいたいのです。どんな危険が近づいているのか、どんな人にしわ寄せが行っているのか、何が必要なのか。今しか見えなくなっている世界に、はるか先を見渡すように伝えたいのです。原発のことだけではありません。震災後の事、環境問題のこと、貧困のこと、社会には様々な課題があります。すべてに向き合い、活動をすることは出来ません。しかし自分たちの内側だけを見て、自分たちがどう逃げるかだけを考えるのは見張り役としてあまりに無責任です。
教会ははるか先のことを見ます。命について考えます。こどもたちについて考えます。お金のこと、効率の事はその次です。教会は社会の中で先を見渡す、命を守る見張り役の使命をいただいています。私たちには、それぞれの場所で見張り役の使命が与えられています。それぞれの場所で、見張り役として共に働いてゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの足音や声を命の音として、礼拝の一部としています。一緒に礼拝をしましょう。
先週は松藤先生から宣教をいただきました。感謝です。様々なことを思いめぐらせることができた恵みに感謝します。そして2月は2回、地域協働というテーマで宣教をします。今日はその2回目です。1回目は「屋根に穴の開いた教会」という話をしました。教会に入りづらいと感じることがあるけれども、今の平塚教会にはいろいろなつながり方、入口があって、屋根からとも思えるようなつながり方も歓迎をしようというお話をしました。そしてもっとはいりゃすい教会になろうとお話をしました。今日は「聖書とこひつじ食堂」の話をします。
私たちの教会ではいわゆるこども食堂である「こひつじ食堂」を毎月第2・第3金曜日に開催しています。1人200円で、誰でも利用できる食堂です。これまで数十回開催してきました。1回1回とても楽しく開催しています。そしてこれまで作って、食べたメニューはよく覚えています。利用されるお客さんもあれがおいしかった、これもおいしかったと言って覚えてくれています。よく言われるのは、ルーローハン、ロコモコ丼、タコライスなどでしょうか。こひつじ食堂で提供したメニューは、地域の人々の記憶に焼き付いています。おいしかった、あの日すごくたくさんの人が並んでいた、早くしないと無くなっちゃうと急いだ、久しぶりに誰々さんと会った、あの人と一緒に食べたという思い出、楽しかった記憶と共にあります。だからこそいろいろな人から次のメニューは何ですかと声をかけられます。
このような食事の楽しさ、思い出は教会のクリスマス愛餐会も同じでしょう。こどもがほおばったカリフォルニアロールを覚えています。私が一番好きだったのは、ピケマッチョでした。フライドポテトの上にソーセージやたまごが乗っていて、マヨネーズがたっぷりかかっているボリビア料理です。他にもフルーツポンチやポテサラタワーがおいしかったし、ビンゴも楽しかったです。食べることは思い出作りでもあると思います。一緒に食べたことはすごくよく覚えているものです。記憶に残るのです。
私が食堂で今まで一番おいしかったのはブリのから揚げです。釣りたてのブリをもらって、私もさばきました。指を怪我しました。それをから揚げにして食べたのですが、感動しました。まさしく忘れられない味になりました。大事な思い出です。ブリは結局、たくさんいただいた分を調理しきれず、食堂を利用するお客さんにプレゼントすることしました。入り口に大きなクーラーボックスを置いて、大きな魚を一匹まるのままどうぞと渡そうとしたのです。とても新鮮なものですが、そんな方法でもらってくれる人がいるのか心配でした。案の定、若いママは戸惑った表情でした。でもおばあちゃんは喜んでもらってくれました。昔は自分でさばいていたという方が、ものすごく喜んで持って帰ってくれました。クーラーボックスはすぐに空になりました。
教会は配るだけではなく、いろいろなものをもらっています。いろいろなものが集まってきます。先日はとうとうあるものもらってしまいました。それはパンです。食パンをもらってしまったんです。とうとう私たちは地域の方から魚をもらい、パンをもらいました。ちなみに100%ブドウジュースも、もらったことがあります。このようにして、教会にはたくさんの人が訪ね、2020年10月から始めて、提供した量は5000食を超えています。
今日私は、宣教の個所としてこの個所を改めて読んで、驚いています。今日の聖書個所は私たちの教会の年間主題聖句としている箇所です。週報の表紙にも毎月の祈りの課題にも載っています。今年度宣教で扱うのも2回目で、何回も読んでいる箇所です。しかし私は改めて地域協働の視点で読んで、感動しました。震えたのです。この5000人の共同体と私たちの教会との、恐ろしいほどたくさんある、共通点を見つけたのです。
私たちの教会は魚が集まる教会です。私たちの教会はパンが集まる教会です。私たちの教会は5000人が食事をする教会です。私たちの教会はこの5000人たちと非常に多くの共通点を持っています。世界に、日本に、私たちよりこの5000人と共通点のある教会は無いのではないでしょうか。私たちこそどんなことがここで起きていたのか一番想像できるのではないでしょうか。私たちはいまその体験の中にいるのです。今日はそのような地域協働の視点で聖書を読みたいと思います。今日の聖書を読みましょう。
今日は年間主題聖句であるルカ9章10~17節をお読みいただきました。大勢の人たちがイエス様に従っていました。イエス様の教えを聞きたい人、病気で悩んでいる人がいました。イエス様の前にきっと長蛇の列ができていたでしょう。私たちの食堂のように列ができたでしょうか。整理券が配られたでしょうか。そして多くの人が空腹でした。
イエス様は弟子たちに13節「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言います。私には、あなた方が食堂をしなさいと聞こえます。弟子たちはそれぞれ別に別に、自分のお金で食べればいいという思いがありました。この共同体は解散をした方がよいと考えたのです。しかしイエス様は言いました。「あなたがたが食べ物を与えなさい」。イエス様は一緒に食べること、一緒にお腹を満たすために働くように私たちを促しています。弟子たちはきっと最初は、私たちと同じように、そんなことをして一緒に食べる人がいるだろうか?そう思ったでしょう。困っている人ってそんなにたくさんいるの?と思ったでしょう。地域にはそんな必要性があるのだろうか?と思ったでしょう。たとえその必要があったとしても食材はどうするのか、ご飯もおかずもない、自分たちが5000人に提供するのは無理だと思ったでしょう。しかしイエス様に促されて食事が始まりました。
イエス様は14節、50人ずつくらいの組にさせたとあります。全員が同時に食事をしたわけではありません。組に分かれて、各テーブルに分かれて食事をしたのです。これも私たちと同じです。私たちも5000人に食事を出しましたが、一度にできたのではありません。毎回120人くらいに分けて提供しました。これも共通する様に思います。この5000人にはパンも魚もありませんでした。しかしどこからか、誰からか、魚もパンも集まって来たのです。そして不思議と全員が満腹になる量が集まりました。足りないと思っていたものは17節、最終的には余るほどだったのです。
余っていることはどんな意味を持つでしょうか。最初は足りない、できないと思っていたのに、終わってみたら、まだやれると思えたということです。最初は絶対に無理と思っていたのが、終わってみたら、もうちょっとできたねと言い合えるほどだったということです。これも私たちは同じ経験があります。最初は大丈夫かなといろいろな心配を持っていました。本当にできるのか、そう思って始めました。でも終わってみて、何回かやってみて思うのです。まだやれると。まだまだいけると思えるのです。また次も頑張ろうねと思えるのです。それがこの12籠のパンなのではないかと思います。
5000人の食事は人々の記憶にしっかりと残りました。みんなで食べたよね、足りないと思ったけど、まだまだいけるくらいだったね、おいしかったね。一緒にたべたことをよく覚えていたのです。あの時イエス様がいて、祈って、分けて、みんなで配って食べたよね。おいしかったよね。そうしっかりと記憶したのです。忘れられない味、忘れられない食事としてみんなの記憶にしっかり残り、語り伝えられたのです。そしてこの食事は聖書にも記録されました。
この5000人の食事は主の晩餐につながってゆきます。主の晩餐はイエス様を想起すること、イエス様を思い起こす儀式として、パンとブドウジュースを飲むということで伝わってゆきました。パンとブドウジュースを飲むことによって、私たちはイエス様と一緒にいた、一緒にいるということを思い出す、確かめるようになったのです。イエス様を思い出す、それが主の晩餐です。イエス様との食事を忘れられない食事として、イエス様を想起するために、食事を伴う儀式である主の晩餐が持たれたのです。私たちの食堂もこのような機会になっているでしょう。私たちは直接み言葉を伝えているわけではありませんが、ここで作られた食事を食べた事、一緒に食べたこと、食べ終わった後に遊んだこと、また来ようと思ったことは地域の人の記憶にしっかりと残っているでしょう。みんなの思い出になるでしょう。いつかはわかりませんが、いつかきっと教会で、十字架の下で食事をしたということを思い出す時が来るでしょう。
いつ思い出してくれるでしょうか。ブリを見たら思い出してくれるでしょうか。ロコモコ丼を見て思い出す人がいるかもしれません。パンを見て思い出す人がいるでしょうか。その時、教会の十字架を思い出す人がいるかもしれません。食事の思い出と共に、私たちの教会があります。食事の思い出と共にイエス様がいるのです。
そしてこれも私たちと同じです。イエス様との食事を思い出すのが主の晩餐です、パンを食べて思い出すのです。私たちはこのように、地域と関わり、地域との共食を大切にしてゆきましょう。食事を通じた交わり、食事の思い出を大事にしましょう。私たちの間でも、食事の思い出を大切にしましょう。そして地域の人たちに大切な思い出として、この食堂を覚えてもらいましょう。そして地域の人々と一緒に5000人になってゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。
昨日2月11日は「建国記念日」でした。日本の建国記念日は、日本国憲法が施行された日ではなく、2600年ほど前に初代天皇の神武天皇が即位した(といわれている)日です。もともとは紀元節と言われた日です。天皇が即位した日が日本の建国記念日であるということは、この国が天皇を中心とした国であるということをよく表しています。天皇制は様々な宮中祭祀を行う宗教です。天皇の仕事には五穀豊穣を祈ることが含まれています。税金で宗教行事が行われています。ですからキリスト教ではこの日を「信教の自由を守る日」として、信教の自由を考える様々な集会を持っています。今日は信教の自由について特に、宗教2世について考えたいと思います。
宗教2世とは主に、親が宗教活動にのめり込んで、家庭が経済的に破綻し、また非常識な教義を押し付けられ、苦しんでいるこどもを指します。例えば高額な献金で最低限の生活さえできなかったり、学校行事や就職が制限されるなど、日常生活を極端に制限されたこどもたちが宗教2世です。
私たちバプテストは本人の自覚的な信仰を重視するグループです。本人の意思・信仰が確認できない人、特に赤ちゃんには絶対にバプテスマをしません。ですからバプテストには親の宗教が強制されている宗教2世はいません。いないはずです。本当にいないでしょうか?実は私たちの教会にもここまで極端ではなくても、問題があります。キリスト教の宗教2世もこのような声を上げています。
「日曜日に部活動に参加できないのがすごくいやだったが、宗教なんて怪しいと思われるのが怖くて部活の欠席の理由も3年間本当のことが言えなかった」「両親が牧師だったため、幼少期から当たり前に教会のことを手伝っていた。何度も抵抗していた『洗礼』を断り切れずに中学生の時に受けざるを得なかったことは、自分の意志に沿わないことを強要されたこととして印象深く覚えている」「本人の努力の賜物である事柄を『すべて神様のお陰であり私の努力ではない』と言っていた。発言者の自己肯定感が低く、恐ろしかった」「結婚したら離婚してはならないと言われた」「恋愛や結婚は信者以外には許されていなかった」「婚前交渉をしないように指導された」私はこれまでの教会生活で似た話を聞いたことがあります。こどもたちはこのことを押し付けられたと感じています。宗教を押し付けるということはキリスト教、バプテスト、この教会でも多少なりとも起きています。私たちは天皇制を押し付けられると共に、誰かに私たちの宗教を押し付けているのかもしれません。
特に根の深い問題は、聖書の教えに従わないと、幸せになれないといった類の言葉です。聖書に基づいて生活をしないと、礼拝にしっかりと出席しないと、救われない、裁きが下る、悪魔に取り憑かれる、死ぬ、地獄に行くといった恐怖の教えは、相手の心を強く縛りつけます。人を自由にするはずの宗教が、人の自由を奪うのです。失敗はあなたの不信仰が原因だと教え、信じればうまくゆくと心が支配されてゆくのです。私はそのような考えは福音、良い知らせではなくもはや「呪い」だと思います。お前の災難と失敗は不信仰のせいだ、不信仰の先には災難があるというなら、それは呪いです。そのようなことをこどもに教えたくありません。
私たちは信仰が自由であることを伝えたいのです。信仰を持つことは、本当は自由になることなのだと伝えたいのです。信仰をもつことは縛られることではなく、希望につながることなのだと伝えたいのです。宗教2世を解放したいのです。私たち自身も解放されたいのです。そのことを今日の聖書の個所から見てゆきましょう。
今日はルカ8章4~15節までをお読みいただきました。今日の話の解釈は11節以降に書かれています。そこでは種まきをするのが神、種がみ言葉、まかれた土地は私たちの心と解釈されます。そして自分を道端や岩や茨の地に置き換えるように促されます。この解釈によれば、良い土地ではない自分は、自らの不信仰を反省し、悔い改める必要があります。貧しい人、失敗をした人、人生が思う様にいかない人は、心が良くない人です。そして成功している人は、立派な心、善い心を持っている人です。この個所はそのように人々から自信を奪います。私は神の国に入るには値しないと思わせてきました。そしてもっと厳しく教えを守らなければ実りが無いと人々を縛ってきました。このような解釈はとても息苦しいです。
でもイエス様は本当にそのようなことを言っているのでしょうか。神様は、立派な人には良いものを与え、悪い人には悪い物を与えるお方なのでしょうか。それならば他の宗教の神様とあまり変わらないような気がします。イエス様は他にも多くことを譬え話で教えるのですが、ほとんどの場合、明確な答えを言いません。なぞを残したまま、人々に考えさせる終わり方をします。しかしこの個所は、イエス様が具体的に解説を加えたと書いてあります。本当でしょうか?実は9節以降は、後の時代の人間が加えた可能性が指摘されています。だとすると私たちは9節以降の解釈に縛られずに、4~8節まででイエス様が伝えようとしたことを理解することができるでしょう。
4~8節を見ましょう。この話の主人公は「種」でも「土地」でもなく「種まきをする人」です。種をまくという行為がこの話の中心です。イエス様に従っていた人の多くは農民でした。皆まかれた種よりも、種をまく人に自分を重ねたでしょう。農夫はいつも豊かに実ることを願って畑に種まきをしました。収穫の喜びが来ることを神に祈りながら種をまいたでしょう。豊かな収穫が必ず来ることを神様に信頼して種をまいたのです。5節の「種をまく人が、種まきに出ていった」とは、そのような農夫の姿です。
しかし一生懸命な働きにも、時には失敗があります。5節以降は種をまく人の失敗が描かれます。道端にこぼれてしまったり、岩の上に落ちてしまったり、茨の中にまいてしまったのです。種のすべてを狙った場所にまくことは出来ませんでした。うまくいく時、うまくいかない時があったのです。それでも種まきは続けられます。完ぺきでなくていいのです。そして全部が全部実るわけでもないのです。だいたいの種は良い土地にまかれ、だいたいの種が豊かな収穫となります。もちろん農夫たちは知っています。たとえ良い土地にまかれても、いつも豊作だとは限らないのです。どんなに頑張っても不作の時があります。豊かな収穫を祈って種をまいても、一生懸命やっても不作の時は不作です。どんなに祈っても凶作の時があります。一方、たいして頑張らなくても、祈らなくても、豊作の時があります。それが種まきです。
イエス様はどんなことをここから伝えているのでしょうか。私はここから、すべての事がうまくいくわけではないけれども、でも実りが必ずあることを期待し、希望を持って、祈り、働きを続けよう、そう語っていると感じます。神様は善い心の人にはたくさんの恵み、悪い心の人は恵みはゼロ、そんなケチな存在ではないではずです。神様はきっと、あなたの心がどんなにすさんでいようが、いばらだろうが、砂漠だろうが関係ありません。神様は私たちに希望を持って、種をまくように促しています。
イエス様はこう言っているのではないでしょうか。何をするにしても、それが良い結果になるかどうかわからない、善い人が良い結果とも限らないし、誰でも道端や茨にまいてしまうような失敗をする。でも大丈夫。神様を信頼して、実りを期待し、祈り、取り組もう、一生懸命やってみよう。私たちはこの先もきっと失敗するけれども、安心して種をまこう。神様を信頼し、種をまこう。神様は一生懸命に種をまく人を、一生懸命生きている人を見捨てないはず。無駄も失敗も不作もあり、凶作もある。でもきっと豊作の喜びがある。その希望を一緒に見よう。イエス様はそのように伝えているのではないでしょうか。
私たちの宗教、イエス様の教えは誰か否定し、縛るものではないはずです。誰かの自己肯定感を下げるものでもないはずです。イエス様は、自分や誰かの心を悪い土地だと言って、悪い心は悪い結果を生むと教え、怖がらせ、反省させ、支配するために来たのではありません。イエス様は私たちに、恵みに期待し、祈り、日々を一生懸命生きるように教えたのです。失敗の中でもあなたが活き活きとすることができるように、あきらめずに生きるようにと教えたのです。
教会には毎週、そのように種をまき続ける人が集います。教会には人生にいろいろありながらもやっぱり種をまき続けようとする人がたくさん集います。種をまく希望を受け取るために教会に集います。
この福音は誰かを縛るため、誰かを反省させるために、誰かを縛り付けるためにあるのではありません。誰かの生活に制限を加えるためにあるのではありません。福音とはあきらめそうになっていたことを、神様に信頼して、やってみようと思わせるものです。福音とは、もうだめだ、何をやっても変わらないという思いから、やってみようと思わせるものです。福音とはそのように人々を解放し、自由にするのです。福音はあなたを否定し、縛り付けるのではありません。福音とはあなたを自由にし、種をまくような希望をもって生きるようにさせるものです。私たちはその福音を伝えてゆきましょう。お祈りをいたします。
みなさん、おようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声、足音も礼拝の一部としてお献げしています。共に礼拝をしましょう。今月は2回「地域協働」をテーマとして、宣教をしたいと思います。来週は信教の自由をテーマにし、その次は松藤先生をお招きします。第4週にまた地域協働をテーマとしたいと思います。
今年の平塚教会のクリスマスの行事にはたくさんの人が来ました。キャンドル礼拝に60人、こどもクリスマスに51人、こひつじ食堂は194食。週報に掲載された人数を見て、別の教会の数字なのではないかと思ったほどです。ここ最近のキャンドル礼拝の中では一番人数が多かったかもしれません。うれしかったのは木曜日のこひつじ広場に遊びに来ていたこどもが、家族と一緒にキャンドル礼拝に来てくれたことです。いろいろな方が集いました。初めて来られた方、久しぶりに来られた方、教会員の家族の方、そして地域の活動から来た方がいました。いろいろな方がいました。もちろん中には、事情があって集えない人もいて残念でしたが、YouTubeで見ていたという方も多くいらっしゃいました。
きっと平塚教会は今、以前より入りやすい教会になっているのではないでしょうか。平塚教会は地域の方たちから、あそこには教会があるという印象以上に新しく、様々印象を持たれるようになっています。私たちは食堂をしている教会、こどもに関わろうとする教会、YouTubeで配信されている教会です。先日地域のある方にも、平塚教会は地域に密着していますねと言われました。うれしかったです。
平塚教会は地域の方たちと交流し、地域の方同士の交流が生まれる場所として、用いられています。多くの教会がありますが、ここまで地域との関わりが多い教会は珍しいと言ってよいでしょう。食堂でも、広場でも、炊き出しでも、まず教会の中に入って来てもらうことが大事だと思います。この会堂に親しみを持ってもらい、私たちと会話をして、顔を覚えてもらうことが大事です。私は時々あの教会に行きます、そう意識してもらう事が、とても大切なことだと思います。
私たちは今までもずっと、地域の人たちを歓迎してきました。しかし、今まではなかなかそれは伝わらなかったかもしれません。でも私たちがもう一歩、地域に踏み出したとき、愛の実践をしようとした時、地域から応援され、地域に愛され、いろいろな方が訪ねてくださるように変化が起きてきています。たとえば食材を分けて下さる方が訪ねてきます。お菓子を買って差し入れて下さる方がいます。ボランティアがしたいと訪ねてくださる方がいます。私たちの想像もしないような方法で、教会につながる、教会に訪ねてくる方が増えています。
72年目にして、教会と地域の人たちの新しい関係が出来ようとしています。このことをもっと進めてゆきたいと思っています。もっと入りやすい教会にしてゆきたいし、もっと協力して歩むことができる教会になりたいし、ここにずっと建っていることができるように、修繕と土地の売却の事も進めてゆきたいと思います。
私たちの教会の会堂の屋根には穴が空いています。そこから雨漏りがあります。この穴はどうにかしないといけません。教育館にはネズミの穴があるようです。この穴もどうにかしなければいけません。一緒に未来について考えましょう。
今日の聖書に登場するも私たちの教会と同様に、屋根に穴の開いた教会の物語です。そして私たちの教会と同様に、想像もしないような方法で、教会につながってゆく物語です。屋根の穴から新しい仲間が与えられる物語を一緒に読みましょう。
今日はルカ5章17節~26節までを読んでいただきました。今日の聖書の箇所は4人の仲間の信仰に注目するのが、多くの読み方です。このようにお友達を教会に連れてくる信仰はすばらしい信仰です。伝道しましょう。一人が一人を連れてきましょうと語られてきた箇所です。しかしこの個所を地域協働という視点で読むときどのように読むことが出来るでしょうか。今日は平塚教会の地域協働の視点でこの個所を読みたいと思います。
今日私が目に留まったのは、19節「群衆に阻まれて」礼拝堂に入ることができなかったという箇所です。どうして群衆は彼らが礼拝堂に入ることを阻んだのでしょうか?阻む理由がわかりません。ファリサイ派や律法学者が阻むならわかりますが、阻んだのは群衆でした。群衆には、誰かを礼拝に加えたくない、阻む気持ちがあったのでしょうか。阻む理由は障がいを持っていたことではなかったはずです。なぜならそこでたくさんの癒しが行われていたのです。彼らは歓迎されるはずでした。しかし彼らは阻まれました。もしかしたら群衆は阻む気持ちなど、なかったのではないでしょうか。でも後から来た人にとっては阻まれたように感じられたのではないでしょうか。なんか入りづらい雰囲気だったということです。私なんかが入ってもいいの?自分なんかきっと歓迎されない。そんな気がしたのです。
しかし彼らはこの集会に大変興味がありました。のぞいてみたい、一緒に賛美をしたい、仲間のこと相談したい、そう強く願ったのです。そして彼らは、屋根に上って穴をあけ、そこから入ろうとしました。正面からは入れない、入りづらいと感じた人は、屋根から入ってきました。入り口ではない場所に、穴をあけて、新来者が入って来たのです。彼らは新しい入り口を作って入って来たのです。屋根には大きな穴が空きました。しかし、そこからは新しい仲間が入って来ました。入り口はここにあって、もう誰も入ってこないという、内側の人々の思い込みを超えて、屋根から新しい仲間が入って来たのです。それは内側の人からすると、天に穴が空いて新しい風が吹いたという出来事でした。その穴は教会に今までにない在り方、今までにない関わり方をもたらす風穴となったのです。新しい風が礼拝堂に吹いたのです。そしてイエス様は、入り口ではない場所から入ってきた人を見て、素晴らしい信仰だ「罪は赦された」と言っています。
私はこの屋根に穴が開いた事件を想像して、これは私たちの教会にも当てはまるかもしれないと思いました。私たちの教会は決してだれも阻んでいませんが、何度それを言葉で言っても、伝わりません。敷居が高いと感じられ続けています。しかし、もしかしたら私たちの地域活動は、この屋根に開いた穴なのではないかと感じます。こひつじ食堂やこひつじひろば、ホームレスの支援が屋根の穴なのではないでしょうか。
私たちにとっての「入り口」ではない場所から仲間が与えられる、その穴です。私たちにとって新しく仲間が加わるとは、聖書に興味のある人がある日、教会の正面から会堂に入り、徐々に定着をしてゆく、やがてバプテスマを受けて教会員になる、そのようなことを考えます。しかし、今の平塚教会は、つながり方が多様になってきています。地域活動から礼拝につながる人、こひつじ広場で教会につながる人、食堂で教会につながる人などさまざまな入口から教会につながっています。そういえばずいぶん前から多くの人がホームページやYouTubeを見て教会に来るようになりました。いままで想像もしなかった入り口から、入ってくる仲間がいるのです。それは私たちにとっては屋根の穴から入って来る仲間のように感じるかもしれません。
もしかして私たちもこの群衆のようになっていないでしょうか。阻んでいるつもりは全くなく、むしろ歓迎をしています。でもそのような雰囲気になっていないでしょうか。もっと正面から入れるような雰囲気にしたいと思います。
そして私たちの思いを超えて、屋根から入って来る仲間がいます。屋根から入って来る仲間も大歓迎です。イエス様が歓迎をしています。礼拝につながる、教会につながるのはどこからでもいいのです。屋根からでも、正面からでもどこからでもいいのです。どんなきっかけでもいいのです、この礼拝を、この会堂での体験を共にすることが大事なのです。この穴はきっと神様が開けて下さった穴です。神様は私たちの地域活動によって、教会に穴をあけて下さいます。新しい仲間を与えて下さいます。この穴をもっと広げてゆきましょう。
内側にいた群衆も見ておきましょう。内側にいた人々は屋根に穴が開いたら大騒ぎするはずなのに、誰も迷惑そうにする様子はありません。そのまま礼拝が続いています。おもしろい光景です。もしかしたら、これも私たちの礼拝と共通するかもしれません。こども達の声がしていても礼拝が続くような雰囲気です。大きな音を立てる人がいました。でもみんないつもどおり礼拝したのです。そのような音も礼拝の一部として礼拝していたのです。私たちもそのような礼拝をしています。
このように神様は私たちの教会に風穴を開けて下さるお方です。その風穴からいろいろな人が入って来ます。神様はどんなつながり方も歓迎するお方です。私たちはこの群衆のようにさまざまな形で教会に関わろうとする仲間、特にこどもたちを、優しいまなざしで受け止めてゆきましょう。一緒に礼拝をしてゆきましょう。地域との活動を続けてゆきましょう。
そして、入るのにためらいのない、もっと入りやすい教会、入るきっかけがたくさんある教会、お友達を誘いやすい教会になってゆきましょう。神様がそのように私たちの教会の屋根にも風穴を開けてくださることを願います。神様が私たち一人一人の心にも思いもよらない穴をあけ、そこから新しい風を吹き込んでくださることを願います。私たちはその風に吹かれながら、礼拝しましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音と共に礼拝をしましょう。今月は神学ということをテーマに宣教をしています。神学とはキリスト教の信仰を理解する方法のひとつです。例えば大学に神学部があり、キリスト教の信仰を研究しています。神学には4つの分野があると紹介をしています。聖書学、組織神学、実践神学、歴史神学の4つです。私の専門は聖書学で多くの場合、聖書学の視点で宣教をしています。しかし聖書の読み方、信仰には様々な視点があります。今回は歴史神学の視点で聖書を読み、信仰について考えたいと思います。
歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史に影響を与えてきたのか、あるいは影響を受けてきたのかということを考える分野です。キリスト教の歴史を考える分野です。歴史から学ぶことはとても大切な事です。歴史を学ぶことは、同じ過ちを繰り返さないために必要です。先人たちの知恵ある選び取りを、私たちもしてゆくために必要です。
キリスト教の歴史の中でターニングポイントになったことはいくつかあります。そのひとつにユダヤ戦争があります。ユダヤ戦争は西暦67年に起きた戦争です。イエス様の十字架は西暦30数年頃に起きたと言われていますから、さらにその30年以上後にあった戦争です。西暦67年、ローマの総督が、エルサレム神殿から宝物を略奪する事件が起きました。このことがきっかけで、エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊されました。エルサレム神殿にも火がつけられ、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。現在もエルサレムには嘆きの壁という場所があります。この壁はこの時の戦争で崩壊した神殿の西側の壁だと言われています。神殿が壊されたことを、ユダヤの人々が嘆く壁です。
神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教にとって、エルサレム神殿は信仰の中心でした。人々にとっては神殿で献げ物をすることが、信仰の大事な要素でした。その神殿に祭司がおり、神殿で犠牲の献げ物がされていました。しかしユダヤ戦争によって神殿も、そこにいた祭司もいなくなってしまったのです。神様の大切な献げ物をすることが出来なくなってしまったのです。この神殿崩壊の出来事はユダヤ教の信仰に大きな影響を与えました。この時から、信仰の中心は神殿での献げ物や、神殿の祭司ではなくなりました。信仰の中心はそれぞれの町のシナゴーグ(教会)になり、町の宗教者であったファリサイ派が中心となってゆきました。そしてユダヤ戦争から逃がれて、世界中に逃げて行った人もいました。それはユダヤ人が世界に広がってゆくことにつながりました。ユダヤ教が大転換する時だったのです。
キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。それまでキリスト教はまだユダヤ教の中の1グループでした。ユダヤ教ナザレ派と呼ばれたのです。ユダヤの人々と共に神殿に通っていたのです。しかしキリスト教も神殿の崩壊で独自の信仰を歩みだすことになります。イエスをキリストと信じるグループもエルサレム神殿中心ではなく、世界へと散ってゆくことになりました。そしてキリスト教は特に、異邦人、現地で知り合った人々に、イエス・キリストを伝え、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。外部の人と出会い、食事や割礼などの律法の理解も変えてゆきながら、キリスト教が成立してゆくことになります。そしてキリスト教では平和の問題も大切なテーマとなりました。戦争の混乱を通じて形成されたグループは、何より平和を願うグループへと発展してゆきました。それが約2000年後、私たちの教会へとつながっています。
ルカ福音書はこのユダヤ戦争の後に書かれたと考えられています。つまり西暦30年頃にイエス様の生きている時代があり、その後西暦67年にユダヤ戦争・神殿崩壊があり、その後さらに西暦90年ころに、ルカ福音書は書かれたと言われます。イエス様はこの後ユダヤ戦争が起こる、神殿が崩壊するということを知りませんでした。歴史的な順序としてはイエス様の言葉があり→神殿崩壊があり→ルカ福音書が書かれたのです。ルカはエルサレム神殿が徹底的に破壊されたことを知ったうえで、この福音書を書いています。おそらくルカは本当に崩壊した神殿をイメージしながら、今日のこの個所を書いています。
今日はユダヤ戦争という歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら聖書を読みたいと思います。そして戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。聖書を読んでゆきましょう。
イエス様たちはエルサレムにいました。5節にはある人がエルサレム神殿の美しい石、輝かしい装飾をほめたとあります。しかしイエス様は6節で見とれている神殿が崩れ落ちるだろうと言います。歴史的に本当にそれは起こったことです。この後神殿は、ユダヤ戦争によって、徹底的に破壊されました。しかし人々はそのようなことが起るなど信じることができませんでした。誰しも何百年も変わらずに続いてきたものは、これからも続くと思うでしょう。自分たちの信仰の中心であった神殿はいつまでも続くと思っていたでしょう。神殿が美しい姿のままでいることを願ったでしょう。だからこそ7節にあるように、いつそんなことが起きるのか、どのように起こるのかを聞いたのです。もしそれが起きるならどのような徴、前兆があるかを聞いたのです。
8節でイエス様はその前兆として偽物がたくさん来ると言いました。「私がみんなを救う」という偽物のキリストが来ると言うのです。それは偽物の希望と言えるでしょう。偽物の希望を語る人が大勢起こると注意をしたのです。偽物は「時は近づいた」と言います。彼らは世界の終わりが近いと不安をあおります。偽物は人々の心を、希望ではなく不安で満たそうとします。すぐに行動を起こさなければ自分も世界も終わってしまうと訴え、扇動するのです。偽物は人々を不安にさせ、偽りの希望を持たせ、人々を扇動します。イエス様はそのような偽物に「ついて行ってはならない」と注意をしています。そしてイエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は残念ながら起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。
この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。神殿が崩壊をします。その時人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。おそらく人々は絶望をしたはずです。俺たちは終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。実際のキリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は絶望して終わったわけではありませんでした。それぞれの場所で、もう一度イエス様のことを伝えようとしたのです。イエス様のことを書き記そうとしたのです。それがルカ福音書やマタイ福音書になりました。平和・シャロームを求めて宣教がされ、福音書が書かれたのです。そのように神様は私たちの歴史に働かれました。そのようにして聖書、キリスト教は成立をしたのです。
このように神様は歴史に働くお方です。神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。戦争を使って私たちを動かすお方でもありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。戦う者ではなく、戦争から逃げる者と共におられたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。たとえ神殿がなくなったとしても、神様は歴史の中で働き続けるお方です。歴史神学の視点でこの個所を読むとそのような希望をいただくことが出来るでしょう。
そしてこの歴史は私たちにつながっています。神様はこのように歴史に働き、私たちへと信仰をつないでくださいました。そして神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。私たちにある私たち自身の神殿が崩壊してしまうような出来事があるものです。大切にしているものが壊れてしまうことがあるものです。それは残念ですがきっと起こるものです。
でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。大切なものが壊れてしまう時がいつか来る。でもそれがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。絶望の時に、終わりではないと呼びかけた、それが神の歴史、神が働きかけた歴史だったのです。私たちには希望があるのです。偽物の希望に惑わされてはいけないのです。
今日は歴史神学の視点で聖書を読みました。神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。
今月は3回の宣教を「神学」というテーマで持っています。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。他の学問と同じように、キリスト教を深く研究し、考えてゆくことが神学です。キリスト教の神学には4つの分野があります。聖書学・組織神学・歴史神学・実践神学です。前回は組織神学の視点で宣教をしました。キリスト教の信仰を神、聖霊、キリスト、人間、教会といった分け方で見てゆく考えということを紹介しました。私たちの教会の信仰告白もこのような分け方で信仰を表しています。このように信仰を整理することで、言葉にしてゆくことで信仰がより深まってゆくことを見ました。
今日は聖書を「実践神学」という分野の視点で見たいと思います。実践神学は4つの分野の中で私たちにもっとも身近な視点でしょう。神学をどのように実践するかという分野、キリスト教の信仰をどのように実践してゆくかを考える分野です。
キリスト教には信仰の実践が必要です。頭の中に知識や理論だけがあって、悟るだけではダメです。神様の事をよく知って、私たちは具体的にどう生きるか、どうキリスト教の信仰を実践するのかが大事です。それを考えるのが実践神学という分野です。実践神学ではたとえば、キリスト者の生活はどうあるべきかを考えます。他にも教会の奉仕にどう向き合うべきか、人権や差別、平和とどのように向き合うべきかを、どのように礼拝すべきかを考えます。
中でもどのように礼拝するかを考えることは実践神学の大事な分野です。礼拝の中でどんな曲を歌い、どんなプログラムで、どんな雰囲気で持つか。それは私たちの信仰の実践に深く関わる問題です。ちなみに来週には説教の作り方講座という勉強会を持ちますが、これもまさに実践神学の問題です。説教とはそもそも何か、説教をどのように作るのかということを一緒に考えます。ぜひどなたでもご参加ください。
今日はこの個所を実践神学の視点で、特に礼拝をどのように持つかということを考えます。今日の聖書個所によればイエス様も礼拝に参加し、聖書の朗読をしています。この個所から私たちの礼拝に大切なものは聖書だということ、当たり前ですがもう一度確認をしたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。
ルカ福音書4章16節~21節を朗読していただきました。11月の祈祷会、教会学校でも同じ個所を読みました。祈祷会の参加者の方からはこんな意見がありました。「聖書を読み上げたイエス様の声が、どのように響いたのかを想像しました。その響きが胸に刺さるような気がします」。また別の方は「イエス様の聖書朗読を聞いてみたかった。聖書はどう朗読したらよいのでしょうか?すらすら読むよりかは、かみしめながら読みたいと思います。同じ個所でも数か月後に読むと感じ方が違うものです。み言葉はその時その時必要なものを与えてくれると思います」そのような意見を聞くと、私もどのように聖書朗読がされたのか想像をしたくなりました。
私たちの教会でも聖書朗読を司会者だけではなく、一部分を順番で担ってもらうことにしました。聖書朗読が順番としていることはとてもよい雰囲気だと感じています。まず礼拝にいろいろな人が代わる代わる登場するのが面白いです。いろいろな人が登場すると、礼拝が一方通行に聞く、出席するだけではなく、みんなで礼拝をしている感覚があります。礼拝は座って一方的に聞く集まりではないということを思い出させてくれます。そうです、礼拝は立ったり座ったり、挨拶したり、いろいろな人が来る場所だと気づかせてくれます。
朗読する人、一人一人の個性と多様さも伝わってくる気がしています。聖書を朗読する人は、それぞれのテンポやそれぞれの想像力で、聖書を朗読してくださいます。それは私の感覚とは違っていて、聖書を新鮮にいただくことができます。時々、なぜか聞いているだけで心が打たれるような気もします。聖書をかみしめながら礼拝できている気持ちがしています。このような聖書朗読の持ち回りが続いてゆくとうれしいと思っています。聖書朗読をかみしめながら聞いていると、イエス様はどんな風にこの言葉を語ったのだろうと想像力が湧いてきます。
聖書にはイエス様が礼拝に出席し、聖書の朗読をしたとあります。イエス様の読んだ聖書はイザヤ書61章ですが、2000年前の人たちと、私たちとでは状況は大きく違います。まず2000年前の人は一人一冊聖書を持っていたわけではありません。それができるようになったのは2000年の歴史からいうとごく最近です。活版印刷が発明された後、ここ500年くらいの事です。イエス様の時代の聖書は羊の皮に手で文字を書いた巻物でした。他の巻物を手書きで写し、また別の巻物に手書きで書くという、写経のように聖書は伝えられてゆきました。今日読んだイザヤ書だけで1つの巻物になっていました。旧約聖書を全部集めたら39本の巻物でした。巻物は大変高価なもの、貴重な物でした。聖書は人々が自由に触れ、自由に読めるものではありませんでした。町の会堂に大切にしまってある貴重品だったのです。
聖書が手元にないということは、人々はどのように聖書の言葉に接したのでしょうか。人々は礼拝において朗読される聖書のみ言葉を聞くこと以外には、聖書のみ言葉に接する機会が非常に少なかったのです。礼拝は聖書のみ言葉が聞ける貴重な機会だったのです。聖書は一人一人の手元にある、便利なものではありませんでした。だから人々は、暗唱したのです。こどもたちに繰り返し暗唱する様に教えたのです。聖句の暗唱のルーツはそこにもあります。
聖書に触れる機会がとても貴重だったということから考えると、礼拝の中で聖書の朗読がされることが、いかに重要であったかがわかります。聖書朗読はそこでしか聞けない話であり、読み返すことができず、聞き逃すことができなかったのです。20節には「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。聖書朗読が貴重だったから、すべての人が心も体も集中して聖書の朗読を聞いたのです。まさしく聖書の朗読が礼拝の中心だったのです。
当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕はとても大切なものとされました。その日に礼拝に来たお客さんや、町の有力者が聖書朗読をしたと言われています。聖書朗読の奉仕は礼拝の中で最も名誉ある奉仕とされました。聖書・聖書朗読が礼拝の中心だったからです。私たちの礼拝の聖書朗読が順番となったというのは、このあたりからルーツがあると思います。新しいようで、伝統的な方法です。イエス様の時代の礼拝も、私たちの礼拝も、大切にしているのは聖書のみ言葉です。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉です。
聖書の言葉はむずかしいかもしれません。まったく意味がわからないかもしれません。でも聖書の言葉、そのものが何より大事です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムです。それが私たちの礼拝の中心です。礼拝で一番長く時間を取るのはこの宣教の時間です。聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。解説や解釈が必要な時があり、イエス様もこの後、説明をしました。そんな時、私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしそうではありません。礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。
礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば礼拝は聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わかっても、わからなくても、寝ていても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉が中心にある限り、それが礼拝なのです。もし礼拝から聖書の言葉を無くしてしまうとどうでしょうか。どんなに歌って、どんなにいい話がされても、それは礼拝ではありません。
聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。もちろん聖書を、意味の分からない呪文にしてはいけません。でも一番大事なことは、聖書のみことばそのものです。そのことを心にとめながら礼拝したいのです。わかってもわからなくても、聖書の言葉を一人一人がかみしめ、想像する、そのような礼拝をしてゆきたいのです。聖書の朗読の奉仕は、そのことを気づかせてくれる、促してくれる働きなのではないでしょうか。
今日はイエス様が聖書を朗読した場面を読んでいただきました。巻物を渡されたイエス様はどのように聖書の朗読をされたのでしょうか。そしてなぜこの個所を選んだのでしょうか。どのような意味でこの言葉を語ったのでしょうか。わからなくてもいいのです。でもそれをしっかりと受け止めてゆきたいのです。なにより聖書の言葉を大事にしてゆきたいのです。
今日は実践神学の視点で聖書を見ました。礼拝の聖書朗読はもっとも大切な奉仕で、礼拝の中心です。イエス様もされた大切な奉仕です。これを分かち合う喜びは大きなものです。これからも私たちは聖書のことばを礼拝の中心にしましょう。聖書の言葉を私たちの生活の中心にしましょう。礼拝でのみ言葉から力をいただき、そのみ言葉を生活で実践して行く者となりましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に主に招かれ、礼拝を共にできる事、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら、共に礼拝をいたしましょう。
1月は残り3回の日曜日がありますが「神学」というテーマで宣教をしたいと思っています。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。大学には経済学部や物理学部といったように学問が分類されていますが、その一つに神学部というものもあります。キリスト教について学んだり、研究したりしています。大学の学部はさらに細かな分野、学科に分かれてゆきます。経済学部は経営学科と金融学科に分かれたります。神学も同様に分野が細かく分かれてゆきます。大きく4つに分けられるでしょう。聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学の4つです。
聖書学とは文字通り聖書の分析をする学問です。組織神学とは神、聖霊、人間とは何だろうとテーマごとに分けて研究する学問です。組織神学は私たちの信仰告白が分かりやすい例となるでしょう。信仰告白には聖書・神・人間などをどのように考えるかということがまとめられています。歴史神学はキリスト教が歴史にどのように影響を与え、影響を受けてきたのかを知る学問です。そして実践神学は今の私たちがどのようにキリスト者の生活を実践するか、そしてどのように礼拝・礼典をするのかを考える学問です。
例えば今日の聖書の箇所、同じ個所でも専門によって視点の違いがあります。私は聖書学が専門なので、聖書の分析から入ります。この話がどのように成立をしたのかを考えたりするのです。例えばきっとマルコ福音書にあるシンプルな従う話が先にあって、ルカはそれを補充・拡大してこの話を伝えたのだろう。またヨハネ福音書はこの話を復活の後に置いていて、復活と関係付けたのだろう。では、もともとの核になる出来事は何で、それぞれの福音書が強調している部分はどこかだろうかと考えます。そんな風にして聖書を読むことが多いです。
実践神学の視点でこの個所を読むとどうなるでしょうか。実践神学では、たとえばこの個所は献身とは何かを考えさせる箇所です。そしてさらに教会の中での実践、礼拝とはこのように、神の前にひざまづくことだと考えるでしょう。
歴史神学の視点でこの個所をとらえるとどうでしょうか。歴史神学では、たとえばこの個所が歴史的にどのような影響を与えたかを考えます。おそらく今日の個所は、中世の修道院の活動に影響を与えた箇所です。すべてを捨てて従うというモチーフは、修道院のモデルとなったでしょう。
神学はもっとさらにもっと細かく分類したり、横断的に考えたりしますが、このような4つの視点、聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学が基本となります。1月は残り3回ですが、今日は組織神学、次回は実践神学、最後は歴史神学とそれぞれの視点から聖書を読んでゆきたいと思います。今日は組織神学の視点で考えたいと思います。私たちの信仰告白のように、組織神学の視点で神、聖霊、イエス、人間、救いについて考えます。聖書や歴史といった軸から少し離れ、神とはどんな方か、イエス・キリストとはどんな方か、人間とはどんな存在なのかを考えます。今日は物語よりも、組織神学の視点で、この聖書を読んでゆきたいと思います。そしてそこから、神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったお方だということ。そのイエス・キリストがすべての人間を愛に招いているということを見てゆきたいと思います。今日の個所からどのように神様、イエス・キリスト、人間を理解してゆくことができるのか見てゆきましょう。
神様とは人間にイエス・キリストを派遣したお方です。神様はもともと旧約聖書の時代に様々な方法で、自分の思い、願いを人間に伝えていました。時には直接語りかけ、時には天使を遣わし、時には預言者を通じて、ご自分の思いを伝えようとしました。しかしある時、神様はイエス・キリストを通じて、人間に自分のことを教えようと決断をされました。イエス・キリストを、地上に人間として派遣し、実際に地上で人々と共に生きることによって、そして十字架と復活によって、神の愛を伝えようとしたのです。神様はそのように、そのひとり子を地上に送るほど、人間を愛したお方なのです。今日のシモン・ペテロにとっては、ゲネサレトの湖畔でこの出来事が起きました。ペテロのもとに、神様からイエス・キリストが派遣されたのです。神様とはこのように人間にイエス・キリストを派遣するお方です。
イエス・キリストとは神様からこの地上に、人間のもとに派遣されてきたお方です。神様の愛を指し示す存在として、そしてそれは神様に等しい存在として、人間に与えられました。そしてイエス・キリストは、このゲネサレト湖畔での出来事のように突然、人間の日常生活の中に現れるお方です。人間には、うまくいかないことがあります。人間には、漁に出ても何の成果もでず、網を洗っていたあの弟子たちのような時があります。人間には努力の果てに何の成果も出ずに、気持ちが沈む時があります。イエス・キリストはそのような人間に現れるお方です。イエス・キリストは順調な人生の中に現れるのではありません。私たちがイエス・キリストを探すのでもありません。イエス・キリストは失意の人間を探し出し、声をかけるのです。イエス・キリストはそのように、私たちをご自分の元に招くお方です。この物語はイエス・キリストの招きで始まります。イエス・キリストは特に熱心な人間、ふさわしい人間を招いたのではありません。多くの群衆がイエス・キリストの言葉を求め、押し寄せていました。その群衆の中にこそ、イエス・キリストに招かれるべき、もっとふさわしい人間がいたでしょう。しかしイエス・キリストは成果の出ない、無関心な人間に声をかけたのです。イエス・キリストの招きはこのように起こります。イエス・キリストは、ふさわしい人間を招くのではありません。ふさわしさを超えて、すべての人を招くのです。特に、落ち込んでいる人、残念な思いを持っている人間を選び、招くのです。それがイエス・キリストです。
人間とは罪深い存在です。ペテロも自分のことを罪深いと言っています。罪深いとは一体どのようなことでしょうか。人間の罪とは何でしょうか。罪とは法律上の犯罪を犯すことだけではありません。罪とは命の尊厳を踏みにじることです。神は人を愛し、いたわり、助けることを求めています。罪とはその反対に、人を無視し、冷たく接し、困っているのに見ないふりをして助けないことです。人は皆誰しも、このような罪を持っています。私は罪を犯していないという人間はいません。人間とはいつも、誰かを愛することができない、罪を持った存在といえるでしょう。ペテロもそのような人間の一人です。そのように人を愛することができない罪深い人間は、本来神の愛に値しないでしょう。人間の側からもまた、罪深い人間とキリストが同じ世界に生きること、同じ舟に乗ること、恩恵を受けること、共にいることは、ふさわしくないと思うのです。ペテロはイエス・キリストに自分から離れるべきだと言います。しかし今日の物語によれば、そのような罪深い人間こそ、神と出会い、人生を変えられてゆきます。人間は「人を愛せ」と教えたイエス・キリストに従うことによって、変えられてゆきます。人間はこれまでにあきらめていたことでも、イエス・キリストに出会うと「み言葉ならば」と再び行動する者へと変えられるのです。それが人間です。
救いとは、人間が人間を愛せるようになるということです。もう誰も愛せないと失望していた人間が、もう一度人間を愛そうと思えること、それが救いです。イエス・キリストは人間に救いを示す存在です。人を捕る漁師にさせるとは、人を支配するようになるという意味ではありません。人を捕る漁師になるとは、人間を愛し、人間を大切に守る者になるということです。人間を愛せる者としようということです。それが私たちの救いです。イエス・キリストのように、人間を愛せることが救いです。それよりも大きな救いはありません。イエス・キリストはその愛に、救いに人間を招いています。
教会とはこのように救いに招かれた者の集まりです。教会に集い、み言葉に出会い、イエス・キリストに出会った者は変えられます。人間を愛する者へと変えられてゆきます。教会はそのように人間を愛するために集められた群れです。私たちは愛し合い、大切にしあう様に招かれた群れなのです。そして教会は礼拝します。教会は神の愛の招きが繰り返しあることを覚えて、毎週礼拝します。ペテロがイエス・キリストに出会い、イエスに膝まづいたように、教会も毎週、礼拝をするのです。
今日いつもとは違う視点で、聖書を読みました。神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださるお方です。イエス・キリストはすべての人間を愛に招くお方です。すべての人間は罪深い存在ですが、イエス・キリストに従うことによって変えられ、救われます。人間は救われると、人間を愛することができようになります。教会とはそのように神に招かれた、救いに招かれた者の集まりです。そこで人間は礼拝をするのです。
私たちは今日の個所から神様、イエス・キリスト、人間、救い、教会、礼拝について考えました。これからもこの主イエス・キリストから、主にある希望をいただいてゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音と共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行う予定です。実は昨年から法律が変わり、「成人」の年齢は20歳から18歳に変わりました。平塚市の成人式も「はたちのつどい」と名前が変わったそうです。法律上は18歳ですでに「成人」ですが、とりあえず今年の教会は成人祝福祈祷とします。来年は「はたち祝福祈祷」でしょうか?
これは神様に若者たちがここまで成長してきたことを感謝する祈りです。そして若者のこれからの人生に神様の守りがあるように祈ります。互いの感謝と守りはいつも祈っていることですが、20歳という人生の大きな節目を迎える時を、改めて神様に祈りたいと思います。クリスマスはこどもたちや赤ちゃん、それを囲むママたちの物語を読みました。元旦の主日礼拝は高齢者を覚えました。今日は若者を覚えます。神様はあらゆる年齢の者、すべての人を祝福しています。神様からの祝福とはつまり神様が「いいね」と言ってくれているということです。
成人を迎えたからには、ぜひ自覚と責任をもって生きて欲しいと上から言いたいところですが、実は当の私が成人としての自覚が足りていません。私たちもまだまだこどものようなものです。こどものようなわがままを言ったり、こどものような失敗をしたり、こどものような言い訳をしたりします。年を重ねるごとにわがままになっていったりするものです。18歳、20歳に関わらず、すべての大人たちが、もう一度自分が成人であることを自覚しなければいけないでしょう。
神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。それぞれの世代に良さと不足があります。私たちはその互いの命を祈り合いたいと思います。互いの命を祈りあいましょう。私は高齢者のように祈りたいし、若者のように祈りたいのです。そして自分のわがままに生きるのではなく、自分のためにだけに生きるのではなく、他者のために生きたい、そう思うのです。
今日も聖書を読みますが、このことを見てゆきましょう。神様はすべての命を喜んでくださるお方です。「いいね」と言ってくださるお方です。そして、自分のためだけではなく、他者のために生きるように、他者を下支えする様な人になるように、そう聖書は語っているということを見てゆきましょう。聖書を読みましょう。
今日はルカ福音書3章15節~22節をお読みしました。イエス様はよく神様の特徴を説明するのに、農作業を例に挙げました。聞いていた人々のほとんどが農民でしたから、神様の特徴を農作業に例えると、とてもよく理解できたのです。今日のヨハネも、他の個所と同じように神様の特徴を農作業にたとえています。今日はもみ殻を取る作業です。
おそらく当時の人々が食べたのは大麦か小麦でしょう。麦は収穫されると、まずよく乾燥させます。そして叩いて穂先の粒だけを取り、殻を割ります。打穀です。そしてさらに実の周りについているもみ殻を取ります。それを箕(み)というカゴに移し、空に舞い上げました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。もみ殻やごみだけが、宙を舞い地面に落ちたのです。そうやってようやく食べられる部分が出てきます。さらに実際は食べる前には、それを臼でひいて、粉にして、こねて、焼いて、パンにしました。気が遠くなります。もみ殻は乾燥しているので、とても良く燃えるそうです。一度火がつくとなかなか火は消えません。でもきっと昔はなんでも無駄にしなかったでしょう。燃やしたもみ殻はよい肥料になるそうです。
17節には、神様はもみ殻を吹き飛ばし、燃やし尽くすお方だとあります。このもみ殻とは何を指しているのでしょうか。ここには神様の選びが書かれていると言われます。神様は麦の実ともみ殻を分け、もみ殻を永遠に消えない炎に投げ入れる方です。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。神様は信じない人をもみ殻のように吹き飛ばし、地獄の消えない火へ投げ込むというのでしょうか。教会に通う人と、教会に通わない人をふるい分け、教会に通わない人を地獄に追いやるのでしょうか。バプテスマを受けた人と受けてない人をふるい分け、バプテスマを受けていない人に天罰を与え、地獄に落とすのでしょうか。もし聖書に書いてある神がそのような神であるなら、私は絶対信じたくありません。そんな神様は嫌です。そんな罰を与えるだけの神様なら信じたくありません。
実はヨハネも厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。ヨハネも自分の思う神様の特徴を農業の風景でたとえています。9節には「良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」とあります。ここで切り倒されるのは実ができない木ではなく、よい実をつけないです。実を1個食べてまずいだと思ったら、根っこから切り倒してしまう神様です。これは相当厳しい神様のイメージです。
でもヨハネは同時に言っています。16節、私より優れた方がやって来ると。私よりも優れた、イエス・キリストがあなたたちに訪れると言っています。それはまるでもっと優しい神様が来ると言っているように聞こえます。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。麦ともみ殻の話をどう理解したらよいでしょうか。私はこうも理解できると思います。
私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点とも言えるでしょうか。私たちの罪、私たちの欠け、私たちの良くないところ、それがもみ殻です。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちはみんな余計な部分があります。不必要な部分があります。悪いところがあります。神様はそれを良い部分だけにするために、ふるい取り分けて下さるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊という言葉も出てきますが、聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様は私たちを揺さぶり、舞い上げ、風・聖霊が私たちの不必要な部分を吹き飛ばしてくれるのです。そして私体の良い部分だけが残るのです。それが今日のたとえです。
神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分はどうなるのでしょうか。私たちのむけた部分は、永遠の炎で焼き尽くされます。神様は私たちを一皮むき、悪い部分、罪、欠点を取り払い、そしてすべて焼き尽くしてくださるお方です。
神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。私たちはこの麦の穂のように、揺らされ、ぶつかりあい、風に吹かれ、一皮むけてゆきます。不必要な部分が取り除かれてゆきます。教会とは脱穀場のような場所でしょうか。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。
私たちだけが正しい、教会以外は、クリスチャン以外は救われないと思う人もいるでしょうか。それはまだ一皮むけていない考えかもしれません。そんな思いは神様に揺さぶられ、聖霊と風に吹かれ、吹き飛んで燃やされて、無くなればいいと私個人は思います。神様はきっと、一粒残らずすべての命を、大切に思い、守ってくださるお方です。
16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。履物の紐をほどくとは、当時の奴隷の仕事で、奴隷でも嫌がる仕事だったそうです。それをする価値すらも自分にはないということは、私など神様の前に価値がないと思っていたのでしょう。自分は必ず罰が当たる存在だと思っていたのです。しかしイエス様はどうだったでしょう。イエス様は他の聖書の個所によれば、弟子たちの足を洗ったお方です。イエス様は弟子の履物の紐をほどき、さらに足を洗ったお方でした。イエス様はこのように、人の下に立とうとしたお方です。へりくだったお方、低い場所から物事をみたお方、謙虚であったお方です。決して上から裁いて地獄に落とす方ではありません。
私はそんなイエス様、良い人だと思います。この姿こそ成人の姿だと思います。成人とは年齢によって自動的に迎えるものではないでしょう。成人とは神様の風に吹かれて、もみ殻が焼き払われた人です。そしてもみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者のために働くようになるのです。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。それは他者の靴を脱ぐ、履くの手伝いができる人です。これがイエス様の姿です。
私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。神様にこれまでの命に感謝し、これからの命の守りを祈ります。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。
私たちはそのような者、そのような大人になりたい一人一人です。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。
みなさん、あけましておめでとうございます。年の初め1月1日から礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を足音を聞きながら礼拝をしましょう。クリスマスを無事終えてほっとしています。クリスマスは赤ちゃんを囲んだ物語でした。教会にもたくさんのこどもたちが訪ねてくれました。自然と教会でもこどもの話題が多くなる時期でした。来週は成人の日もあります。この期間は特に若い人にスポットが当たり続ける期間かもしれません。
私たちはこどもを大切にする教会です。しかしもちろん私たちは高齢者を大切にしない教会ではありません。事実、この教会は高齢者が大切にされていると思います。この教会は若さを大切にしているわけではありません。若々しくいることを大切にしているわけではないのです。0歳も100歳も、小さくても、長くても、どんな命でも大切にできる教会になりたいのです。それを象徴するものとして、平塚教会はこどもを大切にする教会ですと語っています。
年が変わって新年度が近づくと、多くの教会で、就職や進学で引っ越しをする若者がいます。大人たちにとっては、旅立つこどもが、引っ越し先でちゃんと教会に通うかどうかが心配です。良い教会にめぐり会って欲しいのですが、なかなか定着するのは難しいものです。あの教会に行っても若い人がいない、少ない、高齢者ばかりだと嘆きを聞くことがあります。しかしある先輩牧師は、引っ越し先で教会を探すときは、高齢者がたくさんいる教会を選びなさいと言っていました。高齢者がたくさんいる教会は、教会の中でそれだけ長く信仰を持てる教会だということだからです。教会の高齢者は、信仰を長く育むことができるというしるしなのです。若い人がたくさんいて、元気のある教会もいいけれど、ぜひ高齢者のたくさんいる教会に通うようにと勧めていました。よいアドバイスだと思います。
神様を信じる信仰を持つことは素晴らしいことです。熱意を持って信じることができればなおさらです。でも信仰を長く途切れずに持ち続けることは、きっとそれより難しい事です。きっとクリスチャンになってもつらい事、悲しい事、うれしい事はたくさんあるはずです。そのような人生の中で信仰を持ち続けることはとても難しいことですが、それこそが大切なことです。そんな時私たちを励ましてくれるのは、信仰を持ち続けた先輩の存在です。教会には長い人生の中で、紆余曲折、様々な苦労をしながらも、信仰を守り続けてきた人がいます。その方の話が、その方の信仰が、その方の存在が、私たちの身に染みて、励ましてくれるのです。私もいつも励まされています。高齢の方に「大丈夫だからね、神様がいるから」と言われるととても安心します。重みが違うのです。
私たちは高齢者の話を良く聞く教会になりたいのです。信仰を守り続けた高齢者から元気をもらいたいのです。そしていつか私もあのおばあちゃん、あのおじいちゃんみたくなりたいと思います。あの人のようになりたい、そう若者があこがれる高齢者がたくさんいる教会になってゆきたいと思いますし、すでにたくさんいると思います。
今日は新年最初の礼拝です。この1年の始まりを「高齢者を大切にする教会」という話から始めたいと思います。聖書から老いることについて考えたいと思います。聖書の中にある、信じ続けた高齢者の話を見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。
今日の個所はルカ2章21~40節です。マリアとヨセフは赤ちゃんのイエス様を連れて、神殿に来ました。献げ物をするためです。神殿の祭司はこの両親を迎えるのが仕事だったはずです。おそらく祭司は他のこどもと同じように律法通りに献げ物を受け取り、二人を見送りました。祭司はイエス様と他のこどもとの違いに全く気付きませんでした。マルコとヨセフは他のこどもと同じように献げ物を済ませ神殿から帰ろうとします。そして二人とイエス様は神殿の境内でシメオンという人と出会います。
シメオンとはどんな人でしょうか。29節でシメオンは「この僕を安らかに去らせてくださいます」と言っています。この言葉から彼は相当長く、救い主の誕生を待ち望んでいたと考えられます。おそらくシメオンは高齢者だったのではないかと言われています。シメオンを想像します。彼は白髪でしわしわの老人だったかもしれません。杖をついて、むこうからゆっくり歩いて来る、衰えた老人かもしれません。でも31節からは、シメオンのあふれる豊かな感情が伝わってきます。イエス様に出会って、これはすべての人の救いだ、光だ、誉れだと興奮して喜んでいます。この時を待っていたのだ、私は主イエスに出会えてとてもうれしいと、彼の顔がまぶしく輝いているのを想像できます。これもイエス様が生まれてすぐ、クリスマスの8日目の物語です。でもどうしてクリスマスは赤ちゃんばかりが登場するのでしょう。クリスマスにイエス様の誕生を祝ったのは羊飼いと博士だけではありません。シメオンもその一人です。シメオンのしわだらけでも、キラキラした目を想像します。赤ちゃんを抱いて、救い主を賛美するおじいちゃんは、クリスマスのすばらしい登場人物です。
シメオンは長く信仰を貫いてきた人です。ずっと待っていた人です。楽しい時も、苦しい時も、病気の時もあったでしょう。それでも待ち続けた人です。そして彼は神殿に通い続けた人です。今日こそは救い主に会えるだろうか、彼はきっと彼はそう思いながら毎日神殿に行きました。毎日、祈り、礼拝したのです。彼はそのように、人生の紆余曲折を経ながらも、息の長い信仰を持ち、礼拝を続けた人です。彼はイエス様と出会って、これで私の役目は終わったと言います。でも私は想像します。まだまだ生きたのではないでしょうか。だってこんなに喜んでいるのです。この誕生と出会いから元気と活力をいただいたのです。きっと彼はもうしばらく生きたはずです。
36節以降にはもう一人の高齢者が登場します。アンナは84歳だったとあります。この個所は原文では結婚して夫を亡くしてから84年間だったとも読める箇所です。もしかすると100歳を超えていたかもしれません。いずれにしても非常に年をとっていたのです。38節には彼女もまた「近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。彼女も腰が曲がっていたでしょうか。しわだらけだったかもしれません。でも想像します。彼女もきっと輝きと、感謝にあふれていた晴れやかな顔をしていたに違いありません。
彼女の人生には困難なことがあったと記されています。彼女はずいぶん前に夫を亡くしています。彼女は人生のパートナーを失う、深い悲しみを経験した女性です。でも彼女はそれでも信仰を捨てなかった人です。いえむしろ、人生に悲しみがあったからこそ、その悲しみを深く知り、悲しむ人のために祈り続けた人でした。「大丈夫、神様がいるから」と神様の慰めを語り続けた人でした。若い者のために幼い者のために祈ることができた人でした。そして37節、彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた人でした。
祭司はイエス様と他の人間にまったく違いを感じませんでした。だから、規定通りに事を終えたのです。しかしこの二人の高齢者は違いました。彼らは、この人こそ救い主だと、救い主を見極めたのです。それは祭司にはできませんでした。本当に救い主を見抜くことができたのは、信仰と人生の経験を深めた、年を重ねた信仰者だったのです。
人は死ぬ前に衰えを感じてゆくものです。それに恐れを感じる時もあります。実際に衰えてゆくのはつらい事です。できないことが増えていくのに、もどかしいように感じるでしょう。でも私たちはこの二人の高齢者に励まされます。彼らは衰えてもなお、神殿に通い続けたのです。衰えや不自由の中でも礼拝を続けたのです。彼らこそ、神の言葉、神との出会いを待ち続けた人でした。神殿に通い続け、信仰を守り続けた人でした。そのような人こそが、本当の救い主を見極めることができるのです。そのよう人が、周囲の人を励ますことができるのです。
私たちの教会に目を移します。私たちの教会にもシメオンとアンナがたくさんいます。こどもを抱いて、喜んで、大事にする、高齢者がたくさんいます。こどもと出会って目を輝かせている方がたくさんいます。そしてその方たちは信仰を守り続けた方です。人生の様々な苦労がありながらも、信仰を持ち続けた人、礼拝に通い続けた方々です。この教会のシメオンと、アンナです。
私たちはこの教会のおじいちゃんとおばあちゃん、シメオンとアンナのような、長い信仰をいただきたいと思います。人生には様々なことがあり、年老いてゆき、肉体は衰えてゆきます。そして人はやがて天に召されてゆきます。でもそれでも信仰を守り続け、礼拝をし続ける者に、私もなりたいと願います。
そしていつか、これで地上の役割が十分果たせたと思う時が来るでしょうか。私の地上の仕事は終わりました。礼拝し続け、あなたを待ち続けることができました。そう言える時が来るでしょうか。そう言えるように生きたいのです。
私たちはこどもを大切にする教会です。わたしたちは高齢者を大切にする教会です。高齢者が赤ちゃんを喜ぶ教会です。私たちには今日、新しい1年が与えられました。今年も1年、健康に気を付けて、礼拝をし続けましょう。自分の命が続く限り礼拝し、主を待ち望む、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。また私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。
今日はこの後パーティーがあります。とても楽しみで、ワクワクしています。この後、楽しいことがあるから、説教を短くしたいと思っています。料理も楽しみだし、ゲームや出し物も楽しみです。こんなに楽しい、楽しみと思えるのは、みんなが楽しそうだからです。みんなが楽しそうにしているのを見て、なんだか自分も楽しくなります。こどもたちの声や笑顔がうれしいです。おじいちゃんおばあちゃんの声や笑顔がうれしいです。「本当のクリスマスというのはパーティーをする日ではありません、礼拝をする日です」教会はそう言ってきました。しかし、とにかく楽しむということもクリスマスにはふさわしいいのではないでしょうか。楽しい雰囲気を大事にしましょう。教会はこの礼拝と、この後のパーティーに、たくさんの人に加わって欲しいと思っています。今日、イエス様の誕生を祝いたいと思っている人、寂しいと思っている人、せっかくのクリスマスなのに予定が無い人、そのような人といっしょに礼拝し、パーティーをしたいのです。今日もし、なかなか希望を持てないという人がいたら、一緒に礼拝しパーティーしたいのです!
今日は今年1年の最後の礼拝でもあります。今年は楽しい事ばかりではありませんでした。特にウクライナの戦争に心を痛めます。戦争はまだ続いています。ウクライナからロシア本土への攻撃も始まっています。この戦争はプーチンが悪で、ゼレンスキーが正義かのように報道されました。でもウクライナに武器を提供してきた西側諸国が正しくて、ロシアが間違っているのでしょうか。そもそも戦争に正義はあるのでしょうか。正義のための戦争があるのでしょうか。きっとそんなものはありません。正しい戦争はありません。すべての戦争が間違えです。ゼレンスキーもプーチンも間違っています。
日本も軍事費(防衛費)を倍増させる議論が続いています。私たちは武器を買うために追加で毎年1兆円の税金を納めることが求められています。正しい戦争はありません。武器は必要ありません。私たちはこんなに生活が苦しいのです。武器を捨てて、鋤を持てです。私たちがしたいのは壊すことではなく、育むことです。欲しいのは武器ではなく食べ物です。政治が間違っています。自分たちは使途不明金がたくさんあるのに、国民からは軍事費をきっちり徴収するそうです。
暗い時代だと思います。お互いの軍事力に恐れを持ち、より強い軍事力が必要だと思い込んでいる世界です。息苦しい世界です。10年後、20年後の日本や世界はどうなっているのでしょうか。こんな暗い時代、息苦しい時代に希望はどこにあるでしょうか。
希望一つはこの後のパーティーが楽しいことでしょう。そして希望はこのような暗い時代の中でも、イエス様が私たちの心に光として来てくださることでしょう。今日は聖書から息苦しい時代にある喜び、イエス・キリストが私たちにあるという希望について見たいと思います。
今日はルカ福音書2章8~20節です。ルカ福音書はイエス様の誕生について事細かに記しています。しかしこれまで読んできて気づくのは、イエス様の誕生そのものについてはあまり記載がないということです。たくさんの記載があるのは、イエス様の誕生に際しての周りの人々の様子です。アドベントの期間の宣教はイエス様の誕生を迎える人々の様子を見てきました。そして今日注目したいのは、イエス様の誕生は社会情勢と密接に関係していたということです。ルカ2章1節には、皇帝からの勅令があったこと、どのような総督の時代にあったのかが記されています。この誕生物語は世界の情勢・政治と関係があると示されているのです。
先日こどもに、皇帝アウグストゥスとはどんな人なのかと聞かれました。アウグストゥスは分裂していたローマ帝国を統一した王様です。そして世界一強い軍隊を持っていた王様です。その王様は世界最強の軍隊で、支配しました。だれも逆らえない、恐ろしい力を持つことで「平和」を実現した王様なのです。つまりこれは軍事的抑止力を使ったということです。相手より強い武器を持っていれば戦争が起きず、世界が「平和」になるという考え方です。では世界最強のローマ帝国の軍事力、その費用・軍事費はどうしたのでしょうか。それはもちろん人々からの税金です。アウグストゥスはきっちりもれなく全員から、軍事費のための税金を取り立てました。そのために2節人口調査をし、税金を集めます。そのようにして「平和」を実現したのです。税金を逃れることはできません。妊婦であろうと、人口の調査の対象です。みなが皇帝アウグストゥスを恐ろしいと感じていました。戦争のための税金が集められる、行く先が見えない時代、世界情勢です。そこにイエス様の誕生物語が置かれているのです。暗い時代、暗い社会、暗い世界情勢の一筋の光として、イエス様の誕生が描かれています。
しかし、聖書からはそういった暗さは感じられません。人々の嘆きや悲しみの声は記されていません。このような厳しい戦争の時代、貧しさ、激しい税金、赤ちゃんにとっての環境の悪さにも関わらず、何か希望を感じさせる物語になっています。汚れているはずの飼い葉桶、動物用のエサ入れの周りには大きな光があり、平安があります。クリスマスの飼い葉桶を書いた絵本がたくさんあります。その絵本はどれも、飼い葉桶は光に包まれて、赤ちゃんが安らかな顔をしています。それはきっと間違えではありません。神様は暗い時代、不安な時代に、光として、平安として、私たちに希望を与えて下さいました。神様は暴力を見せつけられている時代に、救い主を与えました。それが神からのプレゼントだったのです。
羊飼いに現れた天使は10節「恐れるな」と言います。恐れるべきことがたくさんある時代です。しかし天使は「恐れるな」と言います。大丈夫だよ、怖がらないで、必ず地に平和が来るよと呼びかけています。最も恐ろしい事、それは暴力が支配する戦争です。天使はそれを恐れるなと言います。地には平和が来る、力ではなく愛が世界を支配する時が訪れるという告知です。軍事力を恐れる必要はないということです。相手の軍事力に恐ろしさを感じた人間は、より強い軍事力を持とうとします。でもそれに恐れる必要はないのです。地には平和が来ます。その光が私たちに与えられています。恐ろしい、恐ろしい、武器が必要だと言っていないで、平和を探しなさいと言っているのです。
羊飼いはベツレヘムへと旅立ちました。恐れではなく、平和を探すために旅立ちました。天使は私たちの不安や恐れに対する答えをすぐに教えてくれたわけではありませんでした。自分たちで協力をして探すように言ったのです。私たちの人生もそうです。平和を探すのが人生です。その答えは自動的に与えられるものではありません。私たちは恐れずに、平和を探すことが求められています。
天使はしるしを教えました。そのしるしは12節、布にくるまれた赤ちゃんです。布とはおくるみや、おむつです。おむつをした赤ちゃんがしるしですと言ったのです。赤ちゃんはみんなおむつをしますから、特別な赤ちゃんではありませんでした。それではしるしになりません。よく目にする光景がしるしとされました。きっとそれは神様がわたしたちがよく見る光景におられるというしるしとなっているのでしょう。さらにしるしは飼い葉桶に寝かせられているということです。
羊飼いたちは「さあベツレヘムに行こう」といって旅立ちました。しかし、どのように赤ちゃんを探したのか疑問に思います。まさかベツレヘムの家を1件1件訪ねたのでしょうか。家の外にある洗濯物、おむつが干してある家を探したのでしょうか。それがしるしだったのでしょうか。それも夜だとしたら難しいでしょう。私の想像ですが、羊飼いはきっとこどもの声を頼りに探したのではないでしょうか。こどもの声がする場所が、泣き声と足音のする場所が、赤ちゃんのいる場所でした。羊飼いは希望のしるし、平和のしるしである、赤ちゃんの泣き声を頼りに探したのです。その声をたどって、そしてようやくイエス様に出会ったのです。
私たちは今日クリスマスを迎えています。私たちには楽しみしていることがあります。暗い時代でも、私たちは楽しみ、希望を持つことができるのです。きっと私たちがそうできるのは、イエス様の希望があるからでしょう。暗い時代にあっても、恐ろしい戦争が起こる時代にあっても、私たちも「恐れるな」と告げられています。イエス様の誕生・平和という希望があると告げられているのです。
聖書によれは、それは決して特別な場所に起こるのではありません。それはありふれた場所に起こります。私たちはつらい時もしんどい時も、恐ろしいと思う時も、希望をもって生きましょう。楽しんで生きましょう。そして、その目印はこどもです。こどもたちの声のするところに希望と平和があります。私たちの礼拝もこどもの声がしるしです。私たちもこどもの声を目印に、恐れず、希望と平和を探し続けましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に集うことができたこと、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音と共に礼拝をしましょう。
今年も1年、教会のこひつじひろば、こひつじ食堂にたくさんのこどもたちが訪ねてくれました。そして同時にたくさんの親、特にママたちも訪ねてくれました。こどもたちが仲良くしていると、自然にママ同士の仲も深まってゆきます。ママ友という言葉があります。こどもを通じた母親同士の友達のことです。教会での様子を見ていると、ママ友の絆は強いものだと感じます。ママ友には子育てという共通のミッションがあり、共通の悩みがあります。こども同士が楽しく遊ぶと、ママ同士も打ち解けやすいものです。私もときどきママ友に混ざる時がありますが、本当に話題は尽きないものです。こどもの成長の事や食事のこと、どんな予防接種を打ったか、よく遊びに行かせるところはどこか、学校ではどんな出来事があったか、誕生日プレゼントは何にするかなど、いろいろな話をします。ママ友は多少年齢が離れていても、こどもの年齢が近ければ、すぐに仲良くなります。そしてときどき夫のグチを言い合っているのも聞きます。「うちの夫はこうで困る」「うちもそう、まじほんと困るよね」「どうにかなんないのかしら」そんなことも話しています。
未来のこと、これからの社会のことも自然に話題になります。特に教育のこと、医療のことにはみんな関心があります。教育でいうと、平塚の市内にも大きな教育格差があって、どうやってそれを超えてゆくか、平等にしてゆくのか、進学先はどうするのか、そんな話題もママ友の間ではよくあります。
ママ友に限らず大人は、こどもが身近にいることで、未来や社会がより身近になります。こどもが身近にいれば、この子たちが大人になった時に困らないように、今どんな教育が必要のかを考えるようになります。こどもが身近にいれば、この子が大人になったとき、未来はどんな世界で、どのように暮らすのかを想像するようになります。そのように、こどもたちは私たちに、未来や社会について考えさせてくれるのです。こどもたちが身近にいると、私たちには未来への祈りが湧いてきます。こどもたちが身近いると、いままで気にならなかった社会のことが、気になるようになります。
今日の聖書箇所もそのようなことだと思います。最もこどもを身近に感じているのは、お腹に赤ちゃんが入っている妊婦です。今日のマリアの祈りはこどもが最も身近にいる人の祈りです。こどもが身近にいて、未来について考えさせられ、生まれた祈りです。
私たちもこどもプロジェクトを進めています。そして私たちは未来を考えています。私たちは今、こどもと関わり持ったからこそ、未来を想像し、未来へと祈ってゆくことができるのではないでしょうか。私たちはこどもが身近になり、そして未来への祈りが与えられています。世界のことを祈る者にされています。今日はこどもを通じて、私たちに与えられる祈りを聖書から見てゆきたいと思います。そしてこどもの命を喜び、未来を語ることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。
今日はルカによる福音書1章39節~54節です。マリアがエリサベトを訪問するという物語です。マリアはなぜエリサベトを訪問したのでしょうか。一番は天使ガブリエルからのお告げ、エリサベトの妊娠を確かめるためでしょう。しかし、その滞在は3か月だったとあります。妊娠しているかどうかの確認だけには長すぎる滞在です。マリアも妊婦です。妊婦が旅先に3か月も滞在した動機は何だったのでしょうか。おそらくマリアはエリサベトの出産直前にナザレに帰っています。マリアは出産の手伝いをしたわけでもない様子です。ではどうして3か月も滞在したのでしょうか。想像します。おそらくエリザベトとマリアは3か月間たくさんのことを話し合ったのではないでしょうか。今で言うところのママ友だったのではないでしょうか。あるいは妊娠中の友達のことはマタニティの友達、マタ友とも言うそうです。二人は同じ時期に妊娠した者同士、そして不思議な妊娠をした者同士、親族同士、つよい絆を感じていたのではないでしょうか。
きっとマリアはママ友を訪ねるために、遠くの親族を訪ねたのです。片道3日間かかる道のりだったと言います。妊婦が一人で3日間の旅をし、旅先で3か月滞在するのは、かなり注意が必要です。しかし、マリアはそれほどまでにこの妊娠について、そしてこれから先のことを分かち合う仲間に会いたかったのです。マリアはママ友と話したかったのです。ママ友に会いに3日間歩き、ママ友と3か月過ごしたのです。ママ友は、互いに会えたことを喜んでいます。エリサベトは42節で「あなたは祝福されている」と言います。マリアも47節「神を喜びます」とあります。おめでとうとお互いに声を掛け合ったということです。お腹のこどもも動きました。お腹のこどもも喜んでいるのでしょうか。マリアとエリサベトは互いの出会いと、互いに生まれてくるこどもの命を喜びあっています。
マリアとエリサベト、二人のママ友はいろいろなことを話したでしょう。こどもの成長のこと、家族のこと。夫のグチも言い合ったでしょうか。ママ友の会話を想像します。「うちの夫ヨセフは私が結婚前に妊娠して相当ビビっていたわ。でもようやく受け入れてくれたわよ。まあよく頑張ってる方かしらね。」「あらいいわね、うちの夫ザカリヤなんか私が妊娠してからひと言もしゃべんないのよ。まあ家が静かでいいけどね。」「でもこれから住民登録があるわよね、エリサベトは、生まれてすぐの小さい赤ちゃんと住民登録に行くのは大変でしょうね。」「あなただって出産時期と重なるから気を付けてね、まさか旅先で産気づかないか心配だわ(笑)。」そんなママ友の会話が延々と3か月続いたでしょうか。
そして現代のママ友と同じように社会のことも話題になったはずです。将来この社会はどうなるのか。今どんな問題点があるのかを話し合ったはずです。マリアの祈りはそのような、ママ友との会話の中で紡がれた祈りだったのではないでしょうか。マリアの祈り、それはママ友と過ごす時間の中で与えられた祈り「ママ友の祈り」だったのではないでしょうか。
このマリアの祈りは前半と後半に分けることができると言われています。前半の50節までは妊娠の喜び、自身のことを祈っています。そして51節からは社会全体について祈っています。こどもたちの未来を考えた祈り、それが51節以降の祈りです。おそらくマリアたちにとって、こどもが身近になったからこそ、社会の権力構造や格差に目が行くようになったのでしょう。こどもたちが生きていく世界のことを考えると、その社会構造や不平等について祈らざるを得なかったのでしょう。こどもたちにはもっと平和で、平等な社会に育って欲しい。これはそのようなこどもたちの未来を考えた祈りです。
ママ友であるマリアとエリサベトはたくさんの対話をしました。互いを喜び、励まし合いました。そしてこのこどもたちが育つ社会がもっと良いものになって欲しいと語りあいました。マリアとエリサベトの対話、それがマリアの祈りとなりました。この祈りはきっとママ友の祈りなのです。
ある注解書を読んでいると、こんな言葉がありました「富める者と貧しい者の社会的境遇の逆転という社会革命を、年若い未婚女性が祈ったとは考えづらく、きわめて不自然である」。妊娠中のママは、社会正義や不平等の解消を祈らないだろうというのです。この注解書を書いた学者は、少し想像力が足りないかもしれません。こどもがいるから、未来について考えるのです。こどもがいるから不平等について考えるのです。自分のことだったら「世の中はそういうのも、しょうがない」で終わるかもしれません。でもこどもたちの未来ことだから、強く願い、強く祈るようになるのです。こどもが身近だからこそ、こどもたちが成長する世界、成長したあとの世界が、自由で平等であると祈るようになるのです。
こどもが身近になると、未来への祈りが湧いてきます。そしてそれは今の私たちにも起きていることではないでしょうか。私たちもこどもたちがいるからこそ、未来に目が向くのでしょう。こどもたちがいるから社会に目が向くのでしょう。こどもとかかわりを始めたマリアだからこそ、社会の平等を祈れたように、私たちもこどもたちと関わる時、社会の平等や正義を祈ることができるようになるのではないでしょうか。自分のことはさておき、こどもたちの事を祈ることができるのではないでしょうか。
神様はこのようにして、こどもを通じて、私たちに新しい祈りを与えられます。神様はこどもを通じて私たちに未来を考え、今を変えるように、そして祈るように、促しておられます。そのような祈りを私たちもしたいのです。こどもたちのための祈り、そしてこどもたちの未来への祈り、それを私たちも大切にしたいのです。そして私たちもマリアとエリサベトのように、こどもの命を喜びあいたいのです。マリアとエリサベトのようにこどもの命を温かく迎えたいのです。未来を共に語りあいたいのです。
私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを大切にすると、未来を考えるようになります。こどもを大切にすると、世界を考えるようになります。来週はクリスマスです。街や教会でこどもたちの笑顔をたくさん見ることができるでしょう。その命を互いに喜びあいましょう。そして未来について祈ってゆきましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。アドベントの礼拝をみなさんと共に持つことができること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。こどもたちの声も足音もこの礼拝の一部です。
私たちの教会では事情があって泊まる場所のない方をお泊めするシェルターを運営しています。場所は安全上の問題から非公開です。先日もそのシェルターの利用がありました。こひつじ食堂が終わって疲れていた夜でした。平塚社会福祉協議会から連絡があり、住居がなく困っている夫婦をシェルターに泊めてあげて欲しいという依頼を受けました。このご夫婦は事情があって家を出なくてはならず、ホテルで生活をしていたそうです。しかし所持金がなくなって、今日泊まる場所がなくなってしまいました。そして泊まる場所がないだけではありません。聞けばなんとその女性は妊娠をしているのだそうです。
食堂が終わって疲れていて、できれば利用を断りたいと思っていました。しかし妊娠した女性とその夫が、今日泊まる場所が無いという事情を、私は無視することができませんでした。私が引き受けなければ今日は野宿しなければいけないということ以上の問題です。私は聖書のある物語を思い出します。聖書に登場する今日寝る場所のない夫婦の物語です。マリアもこのご夫婦の様に妊娠中に今日寝る場所を夫ヨセフと探していたのです。このような夫婦が教会を訪ね、泊めて欲しいと言われた時、断ることができる教会があるでしょうか?そして私たちは何より、こどもを大切にする教会です。大人は多少しんどくても我慢できます。でも、こどもにそれを強いてはいけません。こどもの命のために、シェルター利用を受け付けました。お二人は夜9時頃、教会を訪ねて来られました。
翌朝、ご本人たちから話を聞けばお二人のお金のこと、家族の事、いろいろな課題がありました。この後の人生をどう生きるかを二人は決めなくてはいけません。これからの自分たちの人生に責任を取ることも必要になってくるでしょう。人一倍苦労し、生活の再建をしてゆかなければならないでしょう。大人たちには自分の人生に責任があります。しかし生まれてくるこどもは別の話です。親がどんなに貧しく、どんなに問題を抱えていても、こどもに一切の非はありません。こどもの命は育まれ、大切にされなくてはいけません。こどもはどんな家に生まれても、どんな親のもとに生まれても、どんな生まれ方をしても、大切な命です。どの命も大切な命です。家柄や、貧しさや、両親によって、健康に生まれてくることができなかったり、人生の機会が失われたり、差別されたりしてはいけません。すべてのこどもの命は守られ、育まれなければならないです。
生まれてくるのにふさわしくない命、生きるのにふさわしくない命、そんな命はありません。すべての命が大切にされるべき命です。守られなくてもしょうがない命はありません。死んでしまってもしょうがない命はありません。こどもにおいては特にそうです。お二人は10日ほど滞在し、様々な人の助けを受けてアパートへと引っ越されてゆきました。
今日は聖書から命について考えたいと思います。聖書からふさわしい命とか、ふさわしくない命というものはないのだということ。すべての命が神様にとってふさわしいのだということを見ます。すべての命を大切にしたいのです。そしてむしろ、私たちがふさわしくないと思う、そのような場所に、そのような人に神様が来て下さる、そのことを見てゆきたいと思います。今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。
今日の聖書箇所はルカ1章26~38節、受胎告知と呼ばれる箇所です。教会学校でも分かち合われた箇所だと思いますが、どんな言葉が交わされたでしょうか。
聖書によれば、イエス様が生まれたのは男女の性交によるものではなく、奇跡による受胎だったとあります。現代において、初めてこの話を聞いた人のなかでどれほどの人がこの話を「そのまま」信じることができるでしょうか。私はさまざまな解釈の可能性があると思いますし、開かれた議論が必要だと思います。少なくとも日本には昔から、こどもは天からの授かりものだという言葉があります。どの命も、天からの授かりものなのです。
イエス・キリストは神の子、人類の救い主です。神の子なのだから、普通の人と違った妊娠方法であるということは当然でしょうか。それにしても、これはかなり特殊な出生です。もし現代でそのようなことが起きたらどうでしょうか。こどもは奇異の目で見られ、学校でいじめられるでしょうか。しかし聖書を見ると、イエス様の出生を批判する人、奇跡の様子を話す人は一人もいません。おそらくイエス様は、このような特殊な出生の逸話が残っているにも関わらず、他のこどもと同じように、育てられました。それは不思議なことです。イエス様は他のこどもとほとんど変わらない扱いを受けました。他のこどもと同じように、貧しい家に生まれ、貧しい家庭に育ったのです。
貧しい家に生まれたことはキリストにはふさわしくないと思うかもしれません。ではキリストにふさわしい妊娠や育ちとはなんでしょうか。どのような生まれ方がキリストにふさわしかったのでしょうか。もしかするともっと選ばれた親や選ばれた環境、選ばれたタイミングがあったはずです。例えば神の子は大祭司のこどもとして生まれる、王様のこどもとして生まれることもできたはずです。人類の救い主なら、貧しい家のこどもよりも、王様のこどもの方がふさわしいのではないでしょうか。
しかしイエス様の出生の不思議は、ふさわしくないと思える場所に起こります。まずその妊娠は34節にもあるように、結婚する前に起こります。結婚前の妊娠は当時のユダヤの律法に違反するものでした。周囲から見れば、それはふさわしくない妊娠でした。神の子なら、もっとふさわしい生まれ方があったはずです。しかしその妊娠は、結婚前の律法違反の妊娠で、貧しい親の妊娠で、出産場所に困る妊娠でした。しかし神の子はそこに生まれたのです。神の出来事は私たちがふさわしいと思う場所ではない場所に起こりました。マリアに起きました。
マリアと私たちにはどのくらいの差があるでしょうか。マリアは世界一信仰深い女性だったから、神様に選ばれて妊娠したのでしょうか。神様は最もふさわしい人を選んで、妊娠させたのでしょうか?私はそうは思いません。マリアにも当然、戸惑いと疑いがありました。29節にはいったい何のことかと戸惑ったとあります。彼女も信じられなかったのです。この戸惑ったには計算するという意味を含みます。マリアはこの後の自分の人生に何が起こるか、計算をしたのです。周囲からどのような視線を受けるか、ヨセフとの関係にどのような変化があるのか、とっさに計算したのです。
そしてなぜ自分にそんなことが起るのかも考えたはずです。他のナザレで生きる女性と同じように生きている自分に、同じように貧しい自分に、なぜこのようなことが起るのかを思いめぐらせました。彼女は不安と疑問でいっぱいだったはずです。なぜ私にと思ったはずです。私よりもっとふさわしい人がいっぱいいるはずなのに、なぜ私が。いまよりもっとふさわしいタイミングがあるはずなのに、なぜ今、神の子を妊娠するのかと思ったはずです。彼女はその後38節「お言葉どおり、この身に成りますようにと」言っています。すべてを受け入れたように書いてあります。でもそこにはきっと信じられない思いや不安がありました。もっとふさわしい人がいる、ふさわしい時があるという思いがありました。
しかし、マリアに神の子は宿りました。もっとふさわしい人がいる、わたしなどふさわしくない、そんな思いを持つマリアに、神の子の命は宿ったのです。そうです、わたしなどふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。今はふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。
神様はこのようなお方です。神様は私たちのふさわしさを超えるお方です。ふさわしくないと思うところに神の出来事は起ります。そして神様は神の子を産むのに、これはふさわしい命、これはふさわしくない命と選ばなかったお方です。神様は自分の子を地上に生まれさせるにあたって、親や、環境や経済力をもってふさわしいとしたのではありません。神の子は私たちがふさわしいと思う生まれ方はしませんでした。神の子はふさわしくないと思う人に、ふさわしくないと思うタイミングで、ふさわしくない場所で生まれたのです。
神様はこのことによって、生まれ方や、育ち、環境で命の優劣はないということを示しています。神様は命の優劣をつけないお方です。神様にとってふさわしい命、ふさわしくない命はないのです。ふさわしい生まれ方も、ふさわしくない生まれ方も無いということです。神様は私たちが思うふさわしさを超えて、私たちの間に生まれてくる方なのです。
神の子はふさわしくない私たちの間に生まれてくるお方なのです。神の子は私たちのどんな不足や不信仰も超えてやって来るお方です。こんな私はダメと思っている人、ふさわしくないと言われている人に神の子がやって来るのです。私なんかふさわしくないと思う、そこに神様の出来事が起こるのです。それがクリスマスです。そのように、神様はすべての命をふさわしいとされるのです。
私たちは私たちの思うふさわしさを超えてゆきましょう。神様はすべての命をふさわしい命として下さっています。私たちは互いの命、こどもの命を大切にしましょう。ひとりひとりの命が神にふさわしい命として大切にされる教会になりましょう。お祈りをいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集うことができたこと感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの泣き声も足音も礼拝の一部としてお献げしています。共に礼拝をしましょう。
今日はアドベントの第二週です。クリスマスの到来を待ち望む期間をいただいています。私たちの心にイエス様が来ること、私たちに希望が与えられること、時間がかかったとしてもそれを待ち望み、祈ってゆきましょう。
今日は、私たちと共に礼拝をしていたAさんについて、最近の方はご存じ無いかもしれませんので、ご紹介します。彼は障がいを持っていて、支援を受けながら生活をしている50代の男性です。彼はかつて毎週日曜日、礼拝に集い、会堂に来るとすぐに、誰かを捕まえてはお祈りをしていました。最近見かけないのは、彼の通っている福祉施設の人に、コロナが終わるまで人が集まる礼拝には出ないようにと言われているからです。彼は代わりに日曜日の10時30分に、教会の前まで来て、礼拝堂には入らず、道路の脇に座って私と一緒に祈っています。
彼の願いは私が出会った4年前からずっと変わらず3つです。就職をしたい、健康でありたい、バレエを習いたいです。しかし彼は行く先々で、あなたは就職できない、あなたに仕事は無理だ、誰もあなたなんか雇わないと言われているそうです。そして大好きな食事をしていると、そんなに食べると病気になると言われているそうです。彼は毎日夕方4時半に私に電話をしてきます。電話の内容は3つの願いと、今日も誰々に就職は無理だと言われた、あなたに紹介できる仕事はないと言われたという内容です。
彼はよく「平野先生は僕が就職できると思うか」と聞いてきます。私は正直に「コロナでみんな仕事を探しているし、障がいのこともあるし、私もきっと難しいと思う」と答えています。そしてこうも付け加えています「でも無理かどうかはわからない。誰もあなたの願いを無理だと言うことはできないし、無理と言う権利もない」と。私は「それは無理そうだから祈るのは止めた方がいい」とか「私は無理だと思うので祈れません」とか「祈る内容をもう少し現実的なものに変えた方が良い」とは言いません。彼の願いが叶うようにひとまず一緒に祈ります。そして私は彼との祈りに感謝を付け加えています。いろいろな願いと不満を持ちながらも、神様に守られ、支えてくれる人がたくさん与えられていることに感謝して生きことができるようと付け加えて祈っています。
彼は自分が就職できる日をまだかまだかと待っています。周りが無理、あるいは相当難しいと言っても、彼自身はその日が必ず来る、すぐに来ると信じています。彼は信じて、祈って、待っています。時々私は彼に「これだけみんなに無理と言われてもまだ就職できるようにと祈りますか?」と聞きます。そうすると彼は必ず「まだ祈り続ける」と言います。彼はもし就職できそうな先があれば、私の車で、私と一緒に面接に行くそうです。彼は実現のイメージを持って、いつそれが起っても良い様に祈っています。
私たちは彼から学ぶことがあるでしょうか。私たちは今アドベント、待つ時をいただいています。私たちは身近にいる彼から、待つこと、辛抱強く祈り続けることを学べるのではないでしょうか。今日も聖書から待つということを学びたいと思います。そして希望を持って待つということ、祈り続けるということを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。
今日の聖書箇所はルカ福音書1章5~25節です。ルカ福音書はイエス様の誕生以前を丁寧に描きます。特にヨハネの誕生については詳しく書いています。おそらくそれは、旧約聖書と新約聖書をつなげる役割をしています。読者は早くイエス様の誕生の話、奇跡の話、結末を聞きたいと思うでしょうか。でも聖書は少し待つように言っています。ユダヤ教とキリスト教の架け橋、新約聖書と旧約聖書の架け橋、これまでの時代とこれからの時代の架け橋の物語から始まります。
ザカリヤという祭司が登場します。彼はずっとこどもが欲しいと願っていましたが、年を重ねてあきらめていました。もう自分には難しいと思っていたのです。こどもがいないことは妻のエリザベトにとってもつらい事でした。当時の女性にとって妊娠しないということは、恥、神の罰と考えられました。それも女性の側だけの問題とされました。妻エリザベトは周囲から、ずっと願いが叶わない人、罰が当たった人と言われたのです。でも本当はそうではありませんでした。この夫婦は神様を一生懸命信じて、人にやさしくできる夫婦、非のうちどころのない夫婦でした。神様はそんなこの二人をいつも見守っていたのです。
ある時、ザカリヤはある時、神殿の聖所で1人でお香をたく奉仕をすることになりました。この奉仕は名誉ある奉仕です。奉仕はくじ引きで決められますが、当時の祭司は1万8000人いたと言われます。1万8000分の1の、人生に1回当たるかどうかというくじです。そして一度あたるともう一生、くじには参加できないルールになっていました。
くじ引きですから入ってすぐの新人が当たることもあったでしょう。でもザカリヤはこどもをあきらめる年齢になっても、くじに当たりませんでした。もう何十年もはずれを引き続けてきたのです。それでも待って、待って、待ってようやく当たりが出たのです。彼の神殿奉仕は、人生に一度あるかないか、待って、待って、ようやく当たった、一世一代の奉仕、名誉でした。お香をたく神殿の聖所には1人しか入ることが許されていません。そして聖所の外では大勢の民衆が祝福の祈りを待っています。民を待たせず、滞りなく済ませることが大事です。しかしそこでザカリヤに天使が現れ、こどもが生まれると予告したのです。
ザカリヤにとってくじに当たることも、こどもができることも、ずっと祈ってきたことでした。何十年も祈ったことでした。でも待っても、待っても叶わなかった願いでした。もうあきらめていたことでした。ザカリヤはようやく当たった奉仕に、複雑だったでしょう。もっと早くあたりたかったという気持ちもあったでしょう。
そして今さらこどもが生まれると言われても、それを信じることなんてできなかったのです。そのようなことを言われても、信じることも、さらにこれ以上待つことはできなかったのです。彼は求めていたのにそれを信じませんでした。彼は本当なら何か証拠となるものを示すように求めました。そして天使は話せなくなるという証拠を与えたのです。
このやりとりの間、10節大勢の民衆は外で待っていました。ザカリヤが出て来て祈るのを待っていたのです。でも他の人より手間取っている様子です。心配でした。でも待ちます。そしてザカリヤは言葉が話せなくなり戻ってきました。民衆たちはザカリヤに何かが起ったことを知ったのです。エリザベトはどうしたでしょうか。24節彼女は妊娠の事実を誰にもいわず、家にこもりました。どこにも出かけずに、待つことにしたのです。自分が確かに神様によって妊娠する、出産することを、信じて、隠れて、待ち続けたのです。彼女は自分の体に起こる変化を待ち続けました。
今日の物語は待つことがテーマになっているように思えます。ザカリヤも大勢の民衆もエリザベトもみんな待っていたのです。ザカリヤは待ちきれない時もありましたが、でも待ちました。そしてこの物語はやがて、ヨハネが生まれ、イエス様が生まれる話へとつながってゆきます。この物語はすべての人が待ち、希望へとつながってゆく物語です。
私たちは祈っても、祈っても、待っても、待っても、願いが叶わないという時があります。どれほど待っても叶わない願いがありました。願い続けるのに疲れ、祈るのを止めてしまう時があったでしょうか。私たちの教会のおいても、私たちの人生においてもそうです。どれだけ待っても、いまだ叶わない願いがあります。しかし、今日の聖書箇所によれば、もしかするとある時、その願いが叶う時が来るかもしれません。それはもう何年も前にすでにあきらめた事だったかもしれません。でも神様は、神様のタイミングでそれを起こすことがあります。まさか私たちにそんなことが起るのでしょうか。周囲から無理と言われていることが起きるでしょうか。私たちが待ち続けたけれど、もうあきらめたことが、私たちにも起こるのでしょうか?きっと誰にもそれを無理と言うことはできないでしょう。大勢の民衆が聖所の外で待ち続けました。そしてエリザベトもひっそりと待ち続けました。ザカリヤもこの後、言葉を失いながらも待ち続けました。そして人々は希望を見ました。私たちの希望もそのようにあるのでしょう。
私たちにはきっと叶わないとあきらめてしまうもの、無理と思えるものがたくさんあります。でも私たちは無理と決めつけるのではなく、共に祈り、待ちたいのです。そしてもしそれが示されるとき、大胆にその恵みを選び取りたいのです。私たちはどんなに周りに無理と言われても、自分自身さえ無理だと思っていても、希望をあきらめないでいたいのです。そしてそれが実現するときが来るかもしれません。その時、大胆にそれを選び取りたいのです。私はAさんの祈りを思い出します。あきらめずに、実現のイメージを持ち続ける祈りの大切さを学びます。
私たちは今日、クリスマスの到来を待つ時をいただいています。私たちがあきらめている希望はあるでしょうか。願い続けることに疲れてしまっているでしょうか。でも私たちは、希望を待ち続けたいと願います。細くても息の長い希望を持って歩みたいと思うのです。神様がきっと私たちに希望を与えてくださいます。そのことを信じ、待ち続けましょう。きっといつか神様は、希望へとつながる道を私たちに示してくれるはずです。
アドベントはそれを信じる時です。忘れずに待つことを覚える時です。今日、神様は私たちをその希望へと促しています。神様が私たちに希望を与えて下さること信じ、待ちましょう。きっとそれを待つ力も神様が与えてくださるはずです。お祈りします。
みなさんおはようございます。今日も共に集い、礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聴きながら礼拝しましょう。今日からアドベントです。クリスマスの到来を待ち望む時です。ろうそくを1本ずつ灯し、クリスマスを待ち望みながら礼拝をしてゆきましょう。
今日は昼食を食べた後、大掃除と飾りつけを行います。今年もいろいろあって、あっという間の1年でした。時が流れるのは本当に早いものです。教会は落ち葉の季節になりました。庭や道路にたくさんの葉が落ちています。葉がすべて落ちるまで、しばらくは落ち葉の掃除が大変な時期です。気づいた方はどうぞお手伝いください。
数年教会で過ごして気づいたのは、春と夏は雑草との戦いであること、秋は落ち葉との戦いであることです。雑草を刈るのに一生懸命だと思ったら、次は落ちてくる葉を拾うのが忙しくなります。庭の草木は、葉を茂らすことと、葉を落とすことを毎年変わらずに繰り返しています。木々にとって、葉が落ちない冬はないし、葉が茂らない夏もありません。植物はそのように確実に季節を巡っています。私たちもあとひと月ほどでクリスマスです。クリスマスも毎年必ずやってくるものです。その後には必ず春が来て、その後には必ず夏が来ます。多少の気候変動があっても、それは確実です。そのように時や季節が巡る確かさを、私たちは知っています。春は待っていても、待っていなくても必ずやって来るのです。
季節が確実に巡る一方、人生はいつも不確実です。人生は確実に時を刻むとは限りません。人生には春夏秋冬が順番に訪れるわけではありません。喜びのさなかに突然の悲しみがあり、反対に悲しみの中に突然喜びがあります。そして人間はすぐに気が変わります。人間はいつも不確実です。人間はいつも予測不可能です。人間の人生は、自然や時間の確実さとは違う、不確実さにあふれています。
アドベントとは「到来」という意味の言葉です。クリスマスの到来を待ち望む1ヶ月です。時の流れは正確です。春も12月25日も、待っていても、待っていなくても、それは確実にやって来ます。良い子にも悪い子にもクリスマスはやってきます。私たちにはそれが必ず来るでしょう。私たちはクリスマスをどう待つのかが大事です。人間がそれをどう待つのかが不確実なのです。
必ず来るクリスマス。私たちの心にイエス様は必ず来て下さいます。私たちにとって大事なのは必ず来るものをどう待つかです。それを考えるのがアドベントです。今日は聖書から、クリスマスが確実に来るように、私たちにもきっと神様が来て下さるということを見ます。そして私たちはそれを待つ間、顔を上げて、うつむいた顔を上げて、前を向いて、それを待とうということを見てゆきたいと思います。
今日の聖書箇所をお読みしましょう。今日はルカ福音書21章25節~33節です。25節には「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。」とあります。これは世界の終りの時、様々な超常現象が起こるという意味ではありません。太陽と月、星は世界の確実さの象徴です。太陽と月と星は数千年、数億年にわたって規則正しく動き続けてきました。日はまた昇るという言葉があるように、天体の動きは人間に左右されません。天体の運動とは確実で、信頼できるものの象徴です。
しかし25節ではその確実と思えたものに徴が現れるとあります。それは確実であったものに、変化が起るということです。26節には天体が揺れ動くとあります。これまで動きが完全に規則的で、予測できたはずのものが、予測不応な不確実な状態になるということです。今まで規則正しく、確実であったものが、揺れる、変化する時、人々はそれを恐ろしく感じます。変わらないと思っていたものが変わる時、不安になるのです。変わらないと思っていたものが、変わってしまう時、自分は何をしたら良いのか分からなくなってしまうのです。26節「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。」とあります。人間は変化に対して、不安になるのです。
確実で変わらないと思っていたことが、変わることがあります。春夏秋冬も気候変動によって少しずつ確実ではなくなっています。ゲリラ豪雨や季節はずれの台風、コロナの事、予測不可能なことが増えてきています。変わらないと思っていたものが、変わってゆく不安は私たちにも、よくわかります。変わらない自然さえ変わってしまう時代です。人間はならなおさら変わるでしょう。仲間同士の関係は変わらないと思っていても、案外、簡単に変わってしまうものです。時間がたてば家族との関係も変わります。友人との関係も時と共に大きく変わります。教会員同士も同じでしょう。関係はどんどん変わります。ずっと来るのだと思っていた方が教会を離れることがあります。もう戻ってこないと思っていた人が戻って来ることがあります。人間はころころ変わるのです。人間はいつもその変化に悩みます。いつもと違う事、思っていたことと違うこと、予想と違うことに人は悩むのです。
確実なものはこの世界にどんどん少なくなっています。天候も変わる、人間も変わる、変わらないのは太陽と月と星くらいです。でもそれさえも変わる時がくるのでしょうか。そのような中で、変わらないものは無いのでしょうか。
26節には「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあります。これは神様は天地が変わる時、変わらないと思っていたものが変わる時、不安に思っている時に、私たちのもとに来てくださるという約束です。聖書は、イエス様が必ず来ると、それをあなたたちは必ず見ると語っています。私たちの世界は大きく変わるかもしれません。変わらないと思っていたこと、変わらないと思っていたあの人との関係は、変わってしまうかもしれません。想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害がおこるかもしれません。それはすでに起きているかもしれません。しかし私たちにはただひとつ、変わらないものがあります。それが26節にあるように、神様が来るという約束です。
神様が来るという約束、それは私たちの変化のただ中に与えられた約束です。私たちの変化の中に、神様が来るという約束です。どんなに自然が変わっても、どんなに人間が変わっても、どんなに世界が変わっても、この約束だけは確かなものです。どんなに人間が変わろうとも、どんな天変地異が起きようとも、変わらないものがただ一つだけあります。それが人の子、イエス・キリストがやって来る、それを私たちが見るという約束です。私たちは様々な変化の中にあっても、その変わらない、確実な約束をいただいています。
そしてイエス様は私たちがその約束をどのように待つべきかを教えています。28節には「身を起こして頭を上げなさい」とあります。私たちの人生には様々な困難や、求められる変化があります。しかし私たちがその人生を、うつむいて歩くのはいけないということです。聖書は私たちに体を起こして、背筋を伸ばして、顔を上げて、前を向いて歩みなさいと言っています。不確実で不条理な時代の中にあっても、神様が必ず来るという約束を信じ、顔を上げて歩こうと言っているのです。私たちはそのように歩みましょう。
イエス様はこの後、いちじくの木のたとえ話を始めます。いちじくや、他の木が成長しているのを見たら、神様のことを思い出すようにと言っています。ここでも、季節が巡り、葉が茂り、また枯れてゆく、その確かさのように、神様はあなたのもとに来るのだと言っています。
そして31節には「神の国は近づいている」とあります。それは神様の方から近づいてくるという意味です。神の国は神様の方から近づいてくるもので、私たちが一生懸命探すのではありません。私たちに求められているのは、神の国に到達するために頑張ることではありません。すでに神様の方から私たちに到来しているのです。私たちに求められていること、それは待つことです。世界は変わります。人の心、人間関係も変わります。変わっていいのです。変わらないものの方が少ないのです。そして私たちは変化に不安を感じるかもしれません。外に出たくなくなるかもしれません。しかし神様は必ず、私たちのもとに来てくださるのです。
そして33節にこうあります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。聖書の言葉は天地が滅んでも、人間がどんなに変わっても、変わらない、無くならないのです。私たちにはその確実さが与えられているのです。
人生や世界には、予想もしないような変化が起きます。私たちはそれを不安に思ったり、どうしたらよいかわからないものです。でも私たちに変わらないものがあります。それは神様が私たちのもとに来るという約束と、神様の言葉です。神様の約束と神様の言葉は変わらない確実なものです。私たちの人生には不確実と困難さあります。しかし私たちは顔を上げて歩みたいのです。イエス様が必ず私の心に来て下さるという確かな希望を持って、顔を上げて歩みたいのです。どんなに世界が変わっても、神様のことばは決して滅びないことに希望をもって、顔を上げて歩みたいのです。うつむいた顔を上げて、主イエスを見上げましょう。背を伸ばし、心を開き、主イエスの愛を受け取りましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声も足音もこの礼拝の一部です。共に礼拝を献げましょう。
今日は特に礼拝の後半でこども祝福祈祷の時を持ちます。こどもたちが神様に愛されていることを感謝し、こどもたちが教会で元気に、のびのびと育つことを祈ります。こどもたちには、将来偉くなって欲しい、他の人よりいい暮らしをして欲しいと、立身出世を祈るのではありません。平和を実現する者として育って欲しいと願って祈ろうと思います。
平和は何より大切なことです。ですから毎年のように話します。平和はすべての生活の基盤です。しかし聖書の平和は戦争をしないという狭い意味ではありません。何も変化が無い、波のない凪の状態が平和なのではありません。聖書の平和はヘブライ語で「シャローム」といいます。シャロームは何もない状態ではなく、もっとダイナミックな動きをあらわす言葉です。聖書の平和、シャロームは動きを表します。それはちょうどでこぼこな丸が、きれいな丸の状態になってゆく動作に似ています。シャロームとはきれいな丸になる状態です。どこもへこんだり、どこもでっぱったりしない、美しい丸です。それは、みんなが等しく満たされている状態です。
図にも示しましたが、現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとしている場所があります。自分だけが良ければいいという考えです。一方低く押し込められている場所があります。誰かに抑えつけられてしまっている場所です。イエス様の十字架は、このへこみの下にあります。低み、一番深い谷、悲しみの底にイエス様の十字架があります。シャロームとは歪んだ丸がもとの丸に戻る動作です。谷が満たされるようにし、高ぶりが低められるようにする、そのダイナミックな動きがシャローム、聖書の平和です。シャローム・平和を作るには、押し込められている人と共に十字架から力をいただき、満たされていくことが必要です。シャローム・平和を作るには、高ぶりの中にいる人と共に十字架を見て、低くなってゆくことが必要です。
そのようなダイナミックな動きがシャロームです。子どもたちにはぜひシャロームのために働く人になって欲しいと願っています。そしてもちろん私たちもまだまだシャロームのために働きたいのです。今日は聖書から私たちに求められているシャローム、平和のための働きを見たいと思います。そこから「私たちはどう生きればよいのか」を考えたいと思います。聖書を読みましょう。
今日の聖書箇所はルカによる福音書3章1~14節です。バプテスマのヨハネという人が登場をします。バプテスマのヨハネとは、イエス様が公の活動を始める前から、活動をしていた預言者です。特にヨルダン川の付近で悔い改めのバプテスマを呼び掛けていました。どの福音書も必ず、このバプテスマのヨハネを取り上げるのですが、ルカ福音書はヨハネの描き方が独特です。
例えばバプテスマのヨハネといえば荒野で、動物の皮を着て、悔い改めを叫ぶ、荒々しいイメージを持つのですが、ルカ福音書ではそのようなイメージではありません。風貌の記述もありませんし、もともとヨハネのもとに人々が集まったのではなく、ヨハネが出かけて行って、話をしたとあります。ずいぶん他の福音書とイメージが違います。
バプテスマのヨハネの記述で他の福音書と共通しているのは、4節『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』はイザヤ書40章からの引用です。どの福音書にも共通して記述があります。しかしやはり、ルカ福音書だけが強調している点がいくつかあります。他の福音書には無く、ルカ福音書だけにしかないのは、5節と6節、そして10節以降です。5~6節はルカ福音書にのみに伝わる記述です。そこではこう言われています。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされるというのは、まさしくこの図の通りです。5節~6節は、まさしく丸になるように、シャロームに近づく動きを示しています。バプテスマのヨハネはシャロームの教えを広めていたとも言えるでしょう。
谷は埋められる、山は低くされるはそれぞれ〇〇されると書いてあります。それは神様によってなされるということです。神様の力、シャロームの力によってそれが起ると言っています。一人一人が、すべての人が満たされる世界が、シャロームな世界が、神様によって作られていくのだと、バプテスマのヨハネは教えたのです。この呼びかけには多くの人が賛同したと書かれています。多くの群衆がそのシャロームの教えを聞くために集まったのです。その中には徴税人や兵士たちもいました。いろいろな身分、職業の人が、シャロームの教えを聞いていたのです。
ヨハネは人々に「悔い改め」を呼び掛けました。当時の信仰者に求められた悔い改めとは、犠牲の献げ物や断食でした。しかしヨハネの求めた悔い改めはそうではありませんでした。だからこそ人々はそれぞれに聞きました。「私たちはどうすればよいでしょうか?」何をすればよいのか、どう生きてゆけばよいのかを聞いたのでしょう。私はこれからどうやって生きてゆけば良いのですか?と聞きました。人間の根源的な問いとも言えるでしょう。私はどう生きるべきなのかを聞いたのです。
群衆、徴税人、兵士それぞれが尋ねています。徴税人と兵士からみましょう。徴税人には必要以上に取り立てるなと言いました。彼らは納めるべき税金より多く集め、その差額を自分たちの収入・利益にしていました。だから民衆から嫌われていたのです。ヨハネは決まり以上に不正な取り立てしないように言いました。兵士たちにも同様です。市民から暴力でお金を取るようなことをしないように言いました。それぞれの場所で公正な、誠実な仕事をする様に教えたのです。
徴税人も兵士もおそらくどちらも組織の中では下っぱの存在です。徴税人の頭や百人隊長から命令されてお金を取り立て、ほとんどは頭や隊長に取られていきました。彼らも決して裕福ではなかったでしょう。彼らも裕福ではなかったけれども、不正な取り立てをしないようにと言われたのです。それはそれぞれに与えられた場所で不正をせず、誠実に働くことを求めたということです。神様にも隣人にも、誠実に生きるということが、悔い改めを訴えたヨハネの「どう生きてゆけばよいか」への答えだったのです。
群衆への答えも見ましょう。群衆には下着を2枚持っていたら、持っていない人に1枚手渡すようにと言います。注目するのは、この話の登場人物はみんな貧しいことが前提にあることです。徴税人も兵士も、民衆もみな貧しいのです。この群衆は着る物を2枚しか持っていません。たった2枚のうち1枚は、洗濯している時の着替えでした。それは自分にとって余っているものではありません。必要なものです。本来、人にあげることができないものです。
しかし、バプテスマのヨハネは2枚持っている下着を1枚、持っていない人に渡すように求めています。これは貧しい人は、より貧しい人の助けになるようにという教えです。それがシャロームの教えなのです。有り余っているものがあったら、もちろん分け合いましょう。でもそれだけではありません。たった2枚しかない、私も貧しい、私も必要、でもその中から分かち合うということです。無い袖は振れないのですが、無い袖の中から、分け合ってゆく、それがシャロームの教えです。有り余っている者はもちろんですが、貧しい者同士も分かちあうように教えているのです。
バプテスマのヨハネは「どう生きればよいか」と質問を受けて、それぞれ貧しい者も互いに分かち合って生きるようにと言いました。支え合って生きるようにと言いました。バプテスマのヨハネが伝えようとしたことは、神の前に誠実に生きることです。私たちは神の前で祈り、献げることと、隣人とも共に祈り、分かち合ってゆくことが求められたているのです。まさしくこの丸の様にシャロームを目指す、小さくても丸になってゆくことを目指す、そのような働きが、悔い改めた者には起こされるはずだと語ったのです。
今日の個所にはイエス様は登場しませんが、イエス様はこのあと、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けることになります。イエス様もこの群衆の一人だったかもしれません。バプテスマのヨハネのシャロームの教えに共感し、さらに活動を広げていったのです。イエス様は高い者を低くし、傷ついている人を訪ねました。そしてご自身から十字架へと向かわれたのです。シャロームの実現のために、この地上に来られ、十字架にかかられたのです。
私たちはどう生きればよいでしょうか。この問いは私たちの問いでもあります。私たちは今日もイエス様に尋ねます「私たちは、どうすればよいのですか」「私たちは、どう生きればよいのですか」と。今日の個所、そして様々な聖書の箇所にその答えが書いてあるのではないでしょうか。今私たちの生活は本当に苦しいです。どんどん物の値段が上がるけど、どんどん年金は下がります。まるで下着が2枚のような生活です。でも私たちは、できることをしたい。2枚のうち1枚を分かち合ってゆきたい。ヨハネはそれがシャロームのために、平和のために必要なのだと教えています。私たちはどう生きるべきでしょうか。それぞれが主に尋ねて歩んでゆきましょう。そしてこどもたちが高みに行くのではなく、シャロームの実現のために働く人となるように祈りましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日、この召天者記念礼拝にようこそお集り下さいました。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声がするかもしれませんが、それもこの礼拝の一部として捧げています。私たちは今日特に、天に召された人を覚える礼拝を持っています。神様にこれまでの命を感謝し、そしてこれからの命に感謝をし、礼拝をしてゆきましょう。
この1年、教会では1月にお一人の教会員の方の葬儀が執り行われました。ご家族も、そして私たちも寂しい思いを持っています。彼は今頃、どう過ごしているでしょうか?今はきっと神様のもとで苦しみや不安、心配事の無い毎日を過ごしているはずです。私たちの社会にある、不安定や格差、争いや、差別がない世界にいるはずです。きっと平安な時を過ごしているでしょう。私たちも全員、すべての人がやがて神様のもとへ帰ります。そしてすべての人と再会する時が来ます。その日はいつかわかりません。私たちは今日という日を精一杯生きてゆきましょう。今日この礼拝を、この方々の死を覚えつつ、そして私たちがどう生きるかを考える時としてゆきましょう。
1年ぶり、久しぶりに教会に来られた方がいるでしょうか。教会も少しずつ変化しています。週報には礼拝出席人数の報告があります。以前は男〇名、女〇名と表記されていました。男性と女性に分ける集計にはどんな意味があったのでしょうか。男性が先で女性が後に表記されることにはどんな意味があったのだろうかと思います。社会でも男女に分けて物事を考えることから解放されつつあります。例えば学校はもう、男女別の名簿を使っていません。出席番号も男子が先で、女子が後ではありません。名前の順になっています。社会でも性別による役割分担を見直す動きが出ていますが、教会も同じです。教会はこれまでの、牧師やリーダーは男性がなるべきという考えから解放されて、女性の牧師も増えてきています。女性は男性のサポートをするという性別による役割分担を止めて、性別を超えてみんなで教会を作っていこうとしています。そのような中、平塚バプテスト教会では男女別の表記を止めて、大人とこどもに変更をしました。みんなでこどもを大切にする教会へと向かう、子どもがどれくらい来ているかを毎週確認できるように変えています。この教会の中でも、他の多くの教会の中でも、男女に分けて考えること、女性の位置づけ、ジェンダーが見直され、これまでの反省と新しい出発が求められています。
聖書には当時の時代背景から来る、女性蔑視の表現が多くあります。しかし同時に、当時常識だった男女差別を超える表現として、見直されている箇所もたくさんあります。例えば創世記のアダムとイブの物語です。聖書によれば神様は女性を助け手として創造されたとあります。長らくそれは、女性は男性の「ヘルパー」として創造したと扱われてきました。でも聖書をよく読めば、そうではありません。神様は男性と対等な「パートナー」として女性を創造しました。神様は、対等な人間、対等な性、対等な関係を創造したのです。
イエス様も同じです。今日の個所でイエス様は男女、あらゆる性別が対等に生きることを望まれています。イエス様は、何も不安のない場所、平安な場所とは、男女やあらゆる性が対等な場所だと言っています。それを今日の聖書の個所で、死というテーマから教えています。今日の聖書箇所、天に召された方を覚え、また私たちがどう生きるかを考えたいと思います。今日の聖書箇所を読みましょう。
今日の聖書箇所をお読みしましょう。昨年の召天者記念礼拝でも似た箇所からお話をさせて頂きました。命は天に召されてもなお神様のもとで続き、生きているのだという話をしました。今日は似た箇所ですが、去年とは少し違う視点で話をしようと思います。今日は夫に死なれた女性が夫の弟と結婚をするという話です。日本にも戦後このような夫の弟と結婚をするという習慣があったそうですが、ユダヤ教にも似た習慣がありました。夫が死ぬとその妻は、兄弟の家に嫁いだのです。これには女性の生活を守るという意味もありましたが、一番は「家」を守るということでした。夫の家系を守るために弟に嫁いだのです。日本の時代劇にもよくある光景ですが、女性の人生最大の役割は健康な男子の跡取りを産むことでした。サドカイ派はこのような社会情勢の中で、たとえ話を持ち出しています。サドカイ派とは貴族祭司ともいえます。権力とお金があって、民衆を見下していた宗教者です。イエス様をバカにして話しかけています。こんなたとえ話と質問を始めます。
ある女性がいました。男子を産むことがないまま、夫に先立たれてしまいました。この女性は夫の弟と結婚しますが、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。さらにこの女性は次の弟とも結婚し、さらに男子を産まないまま、夫に先立たれてしまいました。このような結婚が7回続きました。サドカイ派は質問をします。みんな復活した時、あるいは天国で再会した時、この女性の夫は誰でしょうか?
サドカイ派は復活を信じないというグループでしたから、だから復活などないということが言いたいようです。復活を信じるかどうかは個人の自由ですが、それ以上に彼らには問題があります。それは女性に対しての差別です。これがたとえ架空の話だったとしても、あまりにひどい話です。この女性がどれほどの苦しみを感じていたか、サドカイ派はまったく想像していません。女性に負わされた、男子を産む、跡取りを産むという役割と負担、そして夫を亡くした悲しみ、それが7回繰り返される悲しみは、この話にはまったく出てきていません。サドカイ派の偉い祭司はそのような悲しみ、女性差別にまったく興味がありません。死んで復活したら、この女はだれのものか?と問います。サドカイ派は最後まで徹底して、男性中心主義で語り抜きます。21世紀に男女の平等に目が開かれている私たちは、このサドカイ派に驚き、がっかりします。そしてこれはいくら2000年前だったとしても、ひどいたとえ話です。
このたとえ話にイエス様はどのように答えるでしょうか。イエス様は「次の世ではめとることも、嫁ぐこともない」と答えます。次の世では女性がこの人と結婚、この人と結婚と、男性に振り回されて生きる必要はないということです。この女性は天使に等しい一人の大切な存在として、神の子として生きるのだということです。神様が約束している次の世、それは女性が男性に振り回されない世です。男を産め、男を助けろと言われない世です。そして次の世では、この人たちは天使に等しい、神の子だと言われています。地上での激しい差別と、生き抜くための苦労、負担、心配は次の世にはもうないということです。次の世では男も女もすべての性が、すべての不安や心配や痛みから解放されるということです。それが今日、召天者の方々に起きていることです。この方々もすべての不安から解放されて、いま天使に等しく、神の子とされているのです。
そしてもう一つ大切なことがあります。死んだら、天国に行ったら平等ですということだけを言っているのではありません。38節でイエス様は「神様は生きているものの神だ」言っています。死んでしまったら、苦しみはもうないということから、地上で生きる私たちがどう生きるのかということに目を向けさせます。
イエス様は言います。「すべての人は神によって生きている」。男も女もすべての性の人が、大人もこどもすべての人が、神様によって生きていると言っています。すべての人が神様から命を与えられており、その命に優劣はないということです。一人一人の命はみな天使、神の子と等しい命だということです。それが召天者にも、私たちにも与えられている命です。生きている者も、召天した者も、男も女もすべての性も、同じ命が与えられています。すべての人は神に与えられた命によって生きているのです。すべての命が天使の命、神の子の命です。
今の社会ではどうでしょうか。引き続き女性が男性に劣るものとして扱われることがあります。さまざまな差別や不安が多くあります。神様は生きている者の神様です。この地上でも、神様から与えられたすべての命が、天使や神の子の命として大切に扱われるように祈ります。そして神様によって与えられたこの命も、天に召されて平安の中にある命と同じように、大切に扱われてゆくことを願います。
イエス様はこのことを応えています。次の世には、もう女性がこのように扱われない、すべての命が天使、神の子のように大切に扱われ生きるのだ。そう語っています。早くその世が来るように願います。天に召された人はすでにそのような世におられるでしょう。そしてこの地上にも、そのようなすべての命が天使、神の子として大切にされることを願います。そこにいた別の学者はこう言いました39節「先生、立派な答えです」と。私もそう思います。立派なお答えです。
今日私たちは召天者を記念する礼拝に来ています。天に召された方たちがどうしているのか想像します。きっと不安もなく、苦しみもなく、心配事もありません。誰かにもののように扱われることなく、天使の様に、神の子の様にすごしているでしょう。だからこそ私たちは安心してこの皆さんを天へと送りだしています。
そして私はこの地上もそのような場所になることを願っています。すべての人が神のよって、生かされています。すべての人が神様に作られた、同じ命を持っています。神様はこの地上でも平和で平等な社会を望んでおられます。一人一人の命が天使、神の子のように大切にされることを望んでおられます。御心が天になるがごとく、地にもなりますようにと祈っておられます。召天者に与えられた平安が、地上の私たちにも与えられるように祈りましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝ができること感謝です。こどもたちの声と足音を聴きながら礼拝しましょう。
今日、新しい命がスタートをしました。ひとつの命が神様に従うという決心に導かれ、バプテスマを受けました。これはただ単に個人に起きたことではなく、私たちにとっても大きな喜びです。私も神様と共に生きる仲間を新しくいただいたことを、うれしく思います。信仰告白もいただきました。私には生きる資格なんてないのだと思ったとき、私はダメな人間だと思ったとき、神様はその人を離れませんでした。神様はその時にこそ、生きる力を与えて下さいました。神様はその人に、ずっと昔に語られた神様の言葉を思い出させました。「あなたは失ったものばかりではないはず。しっかりと自分の周りを見てみなさい。大切にするべき新しい家族がいるはず。」そう呼びかけられたのです。そしてその呼びかけは今も続いていると思います。もう一度周りを見渡してください。この教会の仲間も家族です。大切にしあえる家族です。共に主に従う者として、歩んでゆきましょう。その信仰はまだ小さな芽かもしれません。でもきっとこの仲間の中で大きく育ってゆくはずです。一緒に育ってゆきましょう。
今日、まかれた種が芽を出しました。まいても、まいても芽が出ない、そう思っていました。でも信仰の芽は、植物のようにすぐに芽を出すのではありませんでした。長い時間を経て芽が出たのです。私たちはそこにも大きな励ましをもらいました。今すぐに芽はでないけれども、いつか私の家族が、いつか私の友人が、いつかこの教会を訪ねた地域の人が、信仰の種が芽を出すのです。今日思います。私たちはやはりたくさんの種をまいてゆきましょう。芽の出そうな人にまくのでは足りません。とにかくまくのです。小さくてもいい、すぐに芽が出なくていいのです。たくさんまいてゆきましょう。
教会にどなたかをお誘いすると、よく言われることがあります。私なんかが行ってもいいのでしょうか?私なんか俗世間の人間で、立派なことを何もしていません。まじめに礼拝している方々の中に私なんかが居ていいのでしょうか?私はクリスチャンのような清い生活ではありません。それは、まるで自分を汚れた者だと思っているようです。イメージと中身にギャップがあると思いませんか。教会の内側と外側にギャップがある様に思います。私たちはそんな聖人のような生活をしているわけではありませんし、私は他の人以上に立派だと胸をはれるわけでもありません。それなのに、どうしてこんなイメージがついてしまったのか不思議です。クリスチャンは清い、汚れなきクリスチャン、そんなイメージを持たれていますが、もしかするとそのイメージはクリスチャン自身が造り出したものかもしれません。でも私たち大切にしたいことは、あれは清い、これは汚れていると別ける事ではありません。大切にしたいことは、汚れたものに近寄らないことではありません。
私たちが本当に大切にしたいことは、愛を持って行動することです。汚れているとか、清いとか、そのようなことを超えて、他者に愛を示してゆくことを大切にしたいのです。むしろ汚れていると言われる人、自分はダメな人間だと思っている人にこそ関わり、愛を示したいのです。清いか汚れているかではなく、そのような愛のある1週間がおくれるかどうか、それが私たちの問題です。
今日の信仰告白にもあったように、人が愛に接するとき、人の中にあった絶望は変えられてゆきます。神の愛に触れる時、絶望は希望や感謝に代わってゆくのです。イエス様もそのように人と関わられたお方だったのではないでしょうか。今日はそのことを見てゆきたいと思います。聖書を一緒に読みましょう。
ルカ11章33~44節までを読みました。今日の場面を見ると、イエス様は清い、汚れているという区別を超えていたお方だということが分かります。37節、今日はファリサイ派の人々と食事をしています。イエス様は罪人や汚れていると言われる人ともたくさん食事をしましたが、今日のように自分たちは清いという人たちとも食事をしました。そういう意味でも分け隔てのないお方です。
しかし38節イエス様は食事の場面で手を洗いませんでした。当時のユダヤでは、食事の前に手を洗わなければいけないという言い伝えがありました。食前に手を洗えという律法は、旧約聖書のどこにもありませんので、ただの言い伝えです。それは衛生上の問題でもありません。自分の身を清める、汚れを取り払うという意味で手を洗いました。日本のお寺にも「手水(ちょうず・てみず)」という似た習慣があります。食事の前には手と、お皿の内側と外側の汚れも取り払ってから食事をしたそうです。イエス様はそういう習慣を徹底する、ファリサイ派の祭司の人と食事をします。そういう人の中で食事をするのですから、周りに合わせて、ちゃちゃっと形式的に手を洗えばよかったのです。しかしイエス様はそれをしません。汚れをはらわずに、食事を始めてしまったのです。これにはみな驚いて、不思議に思いました。ファリサイ派の祭司はとにかくいろいろな物を清いか、汚れているか細かく言う人々でした。それは律法から考えられた言い伝えで、他の民族との違いとして大切にしていたのですが、でも時々行き過ぎがありました。
細かい言い伝えは、祭司ぐらいは守れたかもしれませんが、一般庶民は普段の生活ではそこまで徹底できませんし、細かすぎるものでした。一般庶民はファリサイ派から自分にはできないこと、わからないこと、細かなことで、あなたは汚れていると言われていました。どこがどうして汚れているのか、全く身に覚えのない人が、汚れていると言われていたのです。イエス様はそれは間違っていると感じていたのでしょう。だからあえて、清いと自負する人々の食事会で手を洗うことを拒んだのです。
イエス様はこの祭司たちを、知らない間に踏んづけた墓みたいな人ですねと譬えています。当時はお墓も触ると自分が汚れるものでした。触ると汚れ、汚れを取り払うためにまた手や全身を洗い清めなければならなかったのです。イエス様は祭司たちに、あなたはお墓みたいな人ですねと言っています。それは一般庶民に、汚れている、汚れていると言っているが、本当はそういうあなたが一番汚れているのではないか、あなたはまるで知らないうちに踏んづけたお墓みたいな人です。本人が気づかない、あるいはどうすることもできないことで、人を汚れていると言って周って、ひどいですねと言ったのです。それより大事なものあるのではないですかと言ったのです。「この墓野郎」ともう少し汚い言葉で言ったかもしれません。
イエス様は何が清いとか、何が汚れている、そのようなことを問題にしないお方です。汚れているものに触るな、汚れているものから離れろ、汚れているもの憎めと言いません。イエス様は汚れているといわれるものから遠ざかる方でもありません。むしろその中に向かってゆき、汚れてなどいない、あなたは清い、そう宣言される方でした。イエス様はそのように汚れていると言われている人と、ご自分の力を分かち合った方でした。
前半の33節を見ましょう。イエス様はともし火をみんなから見えるように置きなさいと言っています。これはあなたの内側にもっている光を大切にするようにということです。あなたの内側に光がありますか?と聞いているのではありません。あなたの中にはすでに光があるのです。そのすでにある光が消えそうになっていないか、暗くなっていないか調べなさいと言っています。あなたの内側にはすでに光があるということです。私なんか内側に光がないと思うあなたにも、しっかりと光があるのです。それは神様が命を創造した時にすべての人に与えて下さった光です。今は見えない時かもしれません。でもそれはただ少し隠れているだけです。神様はあなたの中には人々を照らす明かりがある。それをもっと輝かせてごらんといいます。あなたは汚れてなんかいない、すべての人がすでに清い、美しい光を持っている、そう言うのです。
そしてその光を他者が見えるように、輝かせなさいと言います。入って来る人に見えるようにしないとあります。そしてあなたが輝く時、あなたが輝きだすとき、きっと周囲の人の絶望は、希望や感謝に代わってゆくはずです。私たちは器の中身、私たちの中にある光、私たちが自分という器の中に持っている光を分かち合うことが大事です。汚れている、ダメな人間だ、そう周りから、偉い人からそう言われることがあるかもしれません。そして自分自身でさえそう思うことがあるかもしれません。でもそんなことありません。あなたの中には光があります。それがすこし隠れているだけです。もっと輝かせてください。そしてあなたの光を他者を照らすために使ってください。明るい暗い、清い汚れているその差別を生み出すための光ではありません。あなたの光が他者の光を生むように、汚れていると言われている人が尊厳を取り戻すために、私たちは輝いてゆきましょう。
今日のたとえ話でそれが促されています。清さと汚れを超えて、私たちには光がある。共に輝く。それが今日私たちに与えられたメッセージではないでしょうか。私たちの世界には差別と暴力があります。見えない、普段は表に出さない汚れの意識があります。自分はダメな人間だと思っている人がいます。それを私たちがいただいている神様の光で照らしてゆきましょう。私たちの内側にある光を、共に輝かせてゆきましょう。これからも神様の光を私たちの中で輝かせてゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に集い礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしてゆきましょう。
今月は世界ということをテーマに宣教をしています。私たちの日本バプテスト連盟ではアフリカのルワンダに佐々木和之さんを派遣し、人々の和解を支援しています。ルワンダでは1995年に集団虐殺があり、80万人の人が殺されたといわれます。当時、同じ教会に通い、隣の家に住む人を、違う民族だと言う理由で殺す、そのような虐殺がルワンダ各地で起きました。虐殺によって人々の受けた傷、破壊された生活、憎しみはとても深い問題です。佐々木さんは時間をかけて、その和解のために働いています。現在は大学で平和学も教えていますが、学生たちの中にも多く、虐殺の被害者がいます。虐殺によって家族と生き別れになったまま、遺骨も見つからないという人がいます。多くの人が友人や家族を失い、様々な思いを残したまま学んでいます。今日はある時学生を対象に行われた、平和を教えるためのワークショップをご紹介します。
このワークショップでは学生たちは、家族を失った悲しみ、そのために引き起こされた困窮、加害者への怒りや憎しみを小さな紙に書いてゆきます。学生たちは何とか忘れようとして心にしまい込んではいるものの、癒されることなくずっと心に残っている一つ一つの傷に向き合い、それらを何とか言葉にするのです。それはとてもしんどいものです。そして自分の苦しみ悲しみを書き出した紙は、金槌を使って、釘で十字架に打ち付けてゆきます。祈りと賛美の後、この紙は焼かれて灰とされます。ワークショップでは、このようにして、悲しみや憎しみを主にゆだねてゆきます。これによって、他者を赦し、自分自身を赦し、平和へと導かれてゆくのです。
参加者の一人、エティエンさんを紹介します。彼は当時虐殺から逃れ、難民キャンプにいた学生です。しかしその難民キャンプも襲撃にあい、家族と離散してしまいます。その時まだ7歳だったそうです。彼はその襲撃の日以来、父親に会っていません。彼は、父親がいない苦しみと悲しみについて紙に書き、釘で十字架に打ち付けました。
学生のそれぞれが自分の中にある悲しみや、他者へのわだかまりを正直に、十字架に向けて言葉にしてゆきます。憎しも悲しみもわだかまりもすべて、十字架にぶつけてゆきます。それを通じて初めて他者や自分自身を赦すのです。これは世界の裏側の戦争、虐殺を体験した人の話です。しかし、私たちにも共通する点があるのではないでしょうか。私たちもそれぞれに様々なわだかまりや不満、憎しみ、悲しみがあります。
私たちにも赦しが与えられるためには、その思いを正直に十字架へと差し出してゆくことが必要なのではないでしょうか。憎しみも、悲しみも、後悔も、心配も十字架の前で言葉にし、差し出してゆくこと、主にゆだねてゆくこと、それが和解と赦し、新しい歩みにつながってゆくのではないでしょうか。今日の聖書からもそれを見たいと思います。
今日はルカによる福音書23章35~43節です。ここの箇所は十字架について、4つの立場が書かれています。ひとつ目の立場は民衆です。民衆は、一度はイエス様にホサナと熱狂しますが、この場面ではどうすることもできず、無言で、黙って、突っ立って見ています。十字架の前に何もできないという立場です。二つ目は指導者の立場です。彼らはあざ笑ったとあります。他者の苦しみを見下し、笑いにする立場です。三つめは兵士の立場です。彼らも、酸い葡萄酒を飲ますという、苦しむ人にさらに追い打ちをかけるような行為をするという立場です。そしてもう一つ、四つ目の立場は犯罪人の立場です。彼ら犯罪人は、イエス様と同じように十字架につけられているという立場です。今日はこの十字架の場面を、犯罪人の視点で読みたいと思います。
39節には犯罪人とありますが、具体的にどのような罪を犯したのかははっきりとしません。他の福音書では強盗とありますが、単なる強盗では十字架刑にまでなりません。十字架刑にまでなるのは奴隷で重大な犯罪を犯した者か、あるいは政治的な反乱者でした。おそらくここで犯罪人とされているのは、政治的な反乱を起こそうとした人だったのではと考えられます。この犯罪人とは政治的理由で十字架に架けられているのです。33節にはその十字架はイエス様の十字架の右と左にあったとあります。イエス様は罪人として二人の犯罪人の間に挟まれています。これは屈辱の様ですが、彼の生涯をよく表しているものだと思います。イエス様の歩みは罪人と言われる人の間にいる歩みだったからです。罪人と食事し、罪人を癒し、罪人を助けました。二つの十字架に挟まれた姿は、イエス様の歩みが最初から最後まで罪人とされる人と共に、苦しむ人と共に歩んだということが表れています。
十字架に架けられた二人は、2種類の罪人だったと言えるでしょう。一人は悔い改める罪人です。自分の人生の最期にあって、自分の非、自分の罪を認め、神の前に赦しを乞いました。彼は私たち信仰者のモデルとされてきたでしょうか。私たちも罪人としてイエス様の前で悔い改めよう、そのようにこの個所を受け取ってきました。一方、同じ十字架にかかりながら、最期までイエス様を侮辱した罪人がいました。彼は悔い改めないかたくなな人間です。最期の最期まで信仰を持たなかった愚かな人間と評価されてきたでしょうか。でもどうでしょうか。私はルワンダでの佐々木さんのワークショップの話を聞くと、この人が悔い改めなかった罪人だったという思いは変えられます。私はこの罪人が痛み、苦しみを十字架のイエス様に正直にぶつけた人として見えてきます。
十字架刑はなるべく長く苦痛を感じさせ、人々にさらされながら死んでゆく死刑の方法でした。苦痛は体だけではなく、心も深い傷を与えたはずです。苦しみ、怒り、悲しみ、憎しみ、十字架に架けられた者には様々な感情が起ったはずです。
十字架に架けられた彼はそんな時、自分の痛み、心の深い傷、魂の傷をイエス様に向けて、隠すことなく、正直に言葉にしました。イエス様の十字架に向けて、自分の思いのたけを叫んだのです。なぜ神がいるのに、救われない人がいるのか。なぜ私は救われないのか。キリストなら自分と私を救ってくれ。そのように叫んだのです。これは不信仰な侮辱の言葉でしょうか。私はルワンダで和解を目指し、苦しみや憎しみわだかまりに向き合い、言葉にし、十字架に差し出してゆく人々を思い出します。彼らはそうすることによって、持っていく場所のない思いを、神様にぶつけ、赦しへと導かれてゆきました。偽りのない、魂の叫びをイエス様にぶつけることができたのです。十字架に架けられた彼が、思いをぶつけた相手は、自分が受けている十字架の苦しみを誰よりも知っている人でした。一緒に苦しむお方でした。彼は自分の気持ちを、誰よりも知っている人に、自分の正直な思いをぶつけることができたのです。周りの人間は、自分が苦しいときに神を呪ってどうすると言います。もともとそれは自分の責任で、しょうがない事だろと言います。まるで自己責任です。イエス様はその苦しみの言葉に対してどうしたでしょうか。イエス様はその言葉を遮りません。イエス様は苦しみの言葉も、悔い改めの言葉もそのまま受け止めているのです。
イエス様は43節「今日、あなたは私と共に楽園にいる」と言います。当然、悔い改めた人に対して、私と一緒に楽園にいると答えたのでしょう。しかし実は、聖書にはこの言葉、誰に答えたのか、相手が明確に書いてありません。聖書にはただ彼に言ったとだけ書いてあります。誰に答えたのでしょうか。文脈からすれば当然、悔い改めた者と楽園にいると答えているように見えます。しかしイエス様を罵り、自分の苦しみを全部ぶつけたあの罪人が「あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた可能性もあります。悔い改めた者が楽園へ、そうでない者は地獄に行ったと考えたくありません。私はどちらもその日イエス様と楽園に行ったのではないかと思いたいのです。イエス様は、十字架に苦しみをぶつけるその言葉も、信仰の告白として受け取ってくださったのではないでしょうか。
イエス様はこのように、すべての苦しみを引き受けて下さるお方です。私たちの偽りのない苦しみや憎しみの言葉を十字架に差し出すとき、それを引き受けてくださるお方です。そしてイエス様の苦しみを十字架にぶつけた者に、楽園を、神様の愛の下にあることを約束して下さったのです。
イエス様は楽園にいるのは「今日」だとおっしゃいます。神様の愛の下にいるのは今日なのだと言っています。いつか必ずではありません。今日です。これも大きな希望です。あなたが悔い改める今日、あなたが苦しみを十字架に吐き出す今日、あなたは楽園にいる、あなたはイエス様の愛の下にいるということです。
私たちは今日、イエス様とともに十字架にかかる者として自分の身をおきたいと思います。そしてイエスの前に悔い改めてゆきたいと思います。そして十字架に苦しみ、悲しみ、憎しみ、すべての思いを言葉にして、すべてぶつけてゆきたいのです。その間にイエス様の十字架があります。そこに苦しみを知り、引き受け、愛の下にいる約束をしてくださる十字架のイエス様がいます。私たちも今日、それぞれの思いを正直に十字架へと向けてゆきましょう。今日、神の愛の下、楽園にいる約束がされています。お祈りをいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。今日から半年間、ルカ福音書を読みたいと思います。そして今日は収穫感謝礼拝です。収穫感謝礼拝の直接の起源は諸説あるようですが、メイフラワー号にあると紹介されることが多いでしょう。
1621年イギリスのクリスチャン、ピューリタン(清教徒)というグループが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカに渡りました。新しいグループはイギリスでの迫害を逃れるために、信教の自由を得るために、新天地アメリカに渡ったのです。しかし船がアメリカに到着したのは冬でした。人々は新天地でまず、厳しい冬を乗り越えることから始めなければなりませんでした。
メイフラワー号の人々はこの危機を先住民からの援助によって乗り切ることができました。先住民からトウモロコシの種をもらい、栽培方法を教わり、魚や貝の取り方を教わったそうです。アメリカで生きる知恵をすべて先住民から教えてもらったのです。そして翌年の秋には、たくさんの収穫をすることができました。メイフラワー号の人たちはお祭りをすることにしました。収穫を先住民と一緒に喜び、分かち合おうと考えたのです。先住民の人々も食事を持ち寄りました。皆で七面鳥を食べ、ゲームをしたそうです。私たちの持ち寄り愛餐会に似ています。助けてくれた先住民に感謝する時、そしてもちろんメイフラワー号の人々にとっては神様が与えて下さった新天地・恵みに感謝をする時でした。これが収穫感謝の起源です。
しかし、もうひとつ確認しておきたい事実があります。その後どうなったかということです。キリスト教の新天地を求めたクリスチャンたちは、どんどんアメリカに来て入植してゆきます。最初は100人だったのが、1000人、2000人と人が増えてゆきました。彼らにはより広い土地が必要になります。彼らはどうしたでしょうか。彼らは助けてくれたはずの先住民を追いやっていったのです。先住民の土地を奪い、強い武器で追い払い、殺してしまったのです。そして多くの先住民を捕まえ、奴隷として、売りさばいていったのです。先住民と分かち合う、助け合うという関係はすぐに終わってしまいました。入植したクリスチャンは、先住民の命を売り買いする対象としてしまったのです。
収穫感謝は実りを感謝する時として残っています。ただし先住民の分かち合いは忘れられてしまっています。私たちは400年前のクリスチャンが、助けてくれた先住民から土地を奪い、命を奪った歴史も忘れないでいたいのです。クリスチャンは分かち合ってくれたはずの人から奪い、奴隷としました。富や土地を『私の』ものだと独占し、そこにあった命さえも『私の』所有物として扱ったのです。私たちは収穫感謝の時、このことも忘れないでいたいと思います。
私たちはすべての恵みは神様から来たと感謝します。そしてそれを分かち合います。そして、お互いの命は神様が与えた下さったものだということ、どんなことがあっても命は人間が好き勝手にしてはいけないということを確認したいのです。神様に感謝すること、互いの命を感謝し大切にすること、分かち合うこと、それを収穫感謝礼拝の時に覚えたいのです。この教会では今日、収穫感謝礼拝を持つこととしました。今日は世界食料デーです。恵みに感謝し、世界と分かち合いたいという願いを込めてこの礼拝を持ちたいのです。
現代の世界に目を向けると飢餓が広がっています。特にこの2年、世界の食糧不足は深刻です。原因はコロナや紛争や気候変動によるものです。そして不平等も大きな原因です。先進国は途上国から多くの作物を輸入していますが、途上国では食べる物が足りません。この世界は分配がうまくいっていない世界です。分かち合いができていない世界です。感謝して分かち合うことができる、そんな世界を目指してゆきたいと願いますし、私たちの教会も子ども食堂やフードバンクの応援も、これに貢献をしていると思います。神様は私たちに分かち合うことを求めています。神様は、食べ物は神様からいただいたものとして分かち合う様に、そして互いの命も神様からいただいたものとして大切にするように教えています。今日の聖書の個所もそのことを言っていると思います。今日の聖書の個所を読みましょう。
今日はルカ福音書12章13~21節までを読みました。遺産相続の話から始まります。遺産問題が、きょうだいの仲を引き裂きます。この男は、自分の取り分が不満でした。『私の』配分が少ないと言ったのです。配分が不平等だったのでしょうか?それとももっと欲しいという欲望だったのでしょうか。いずれにしてもお金持ちの世界の話です。イエス様は「そんなことは知らない」と関わろうとしません。
そしてイエス様は豊作だった畑のたとえ話を始めます。これはもともと金持ちだった人の畑が、さらに豊作だったというたとえ話です。ひとくちに豊作といっても、豊作には様々な条件があります。一番は天候に恵まれることです。そしてたくさんの収穫のためには、たくさんの人手が必要です。要作はたくさんの労働者によって支えられました。種をまく人、雑草をむしる人、収穫する人、脱穀する人、蔵に入れる人、市場にもっていく人、いろいろな人が関わって初めて豊作になるのです。いろいろな人が協力した流れの中で初めて豊作となります。この物の流れをサプライチェーンと呼びます。
しかしこの金持ちの考えたことは卑劣です。この豊作において協力者のことを一切考えていません。「どうしよう、これ以上ため込めない。そうだ、蔵を大きくしよう」と考えました。彼が考えなかったこと、それは分かち合う事でした。この個所の日本語訳には『私の』という所有をあらわす言葉が省略されていることを見つけました。おそらく『私の』という言葉が繰り返されていることが、文章としてくどくて、削除されたのでしょう。でもここにはしつこく『私の』と書いてあるのです。17節「どうしよう。『私の』作物をしまっておく場所がない。18節「こうしよう。『私の』倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに『私の』穀物や財産をみなしまい、 19節『私の』魂に言ってやるのだ…。『私の』作物、『私の』蔵、『私の』穀物、『私の』財産、『私の』魂、自分、自分、自分。この金持ちは豊作の恵みをすべての『私の』ものだとして独占しました。彼は神様に感謝の献金をすることもなかったし、分かち合おうなど考えもしませんでした。ただ自分、自分、自分、金、金、金です。
イエス様はそこで言います。今日あなたは死ぬ、そうしたらそれは誰のものになるのかと問います。イエス様は財産は天国に持っていけないという以上の事を言っていると思います。それは元々、誰のものだったのかと問うているのです。
イエス様は、それはあなただけのものではなかったはずだと言っています。一緒に手伝ってくれた人、支えてくれた人、関わった人、励ましてくれた人、たくさんいたでしょう。感謝してる?分かち合ってる?雑草むしってくれた人、お腹すかしてない??収穫してくれた人お腹いっぱいになっている?あなたの蔵にしまったもの、本当はそれ、みんなのものなんじゃないの?あなたが死んだらそうなるの?きっとみんなそれを分け合うんじゃない?そう問いかけています。イエス様は、自分のために富を積んでもしょうがないよ。神様の前に一緒に豊かになろうと言っています。それが21節、神様の前に豊かということだよと言っているのです。それが収穫に感謝するということだよと言っているのです。
15節には「人の命は財産によってどうすることもできない」とあります。本当でしょうか。この言葉にも関わらず奴隷売買は長く続きました。人が人の命を売り買いしました。しかし本来、人は人を買う事はできません。奴隷にしてはいけないのです。これはお金を払えば、命を好き勝手にしてよいという発想です。お金払ったら何してもよいという発想です。神様は人の自由と尊厳を奪うことを許しません。
22節以降は思い悩むなと続きます。この個所も今日の流れから考えると、質素倹約を勧めている話ではありません。自分の分ばかりに思い悩んでいないか?この金持ちと同じように『私の』食べもの、『私の』着るもの、自分、自分、自分になっていないかが問われているのです。神への感謝、仲間への感謝があるかどうかが問われているのです。
もう一度、世界に目を向けます。私たちは本当に世界と分かち合うことができているでしょうか。そしてそれは収穫に感謝しているでしょうか、という問いに言い換えることができると思います。神様に感謝しているでしょうか?そしてサプライチェーンの人々が豊かになっているでしょうか?
今日は収穫感謝礼拝です。私たちはこの手にあるものが、すべて神様からいただいた恵みであることに感謝しましょう。そしてこの手にあるものは多くの人の支えによってあることに感謝しましょう。だからこそ、それを神様に献げ、仲間と世界とそれを分かち合ってゆきましょう。神様の前で世界が共に豊かになってゆきましょう。神様は私たちに収穫に感謝するように教えています。神様が与えて下さった恵み、それを『私の』ものだと蔵にいれるのではなく、神様に感謝し、仲間と分かち合ってゆきましょう。それが神様に収穫を感謝するということではないでしょうか。それが収穫感謝礼拝ではないでしょうか。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声を聴きながら礼拝をしましょう。今月は世界・環境ということテーマに聖書を読んでゆきたいと思っています。先週は世界と共に、主の晩餐を持つことを見てきました。今週も世界に目を向けて聖書を読んでゆきましょう。
今の世界に目を向けると何が見えてくるでしょうか?私には世界が相変わらず戦争を繰り返しているのが見えてきます。第二次世界大戦で平和の尊さを知ったのはずの世界は、今もまた再び戦争を繰り返しています。さらに、核兵器の恐ろしさを知っている世界が、再びそれを使おうとしています。人類は広島・長崎に続き三度目の過ちを繰り返そうとしています。
私たち人類は平和をどこまで貫くことができるのでしょうか。私たちはいつまで核兵器を使わずにいることができるでしょうか。きっと人間はいつかそれを使ってしまうのでしょうか。戦争をすること、それこそがまさしく「私はイエスなど知らない」と言い表すことだと思います。私には繰り返される戦争が「私はイエスなど知らない」と告白しているよう思えます。広島・長崎のきのこ雲の写真は、私には「私はイエスなど知らない」と言っているように聞こえるのです。ロシアとウクライナが戦っているのを見て「私はイエスなど知らない」と言っているのが聞こえます。
これから先、世界はどうなってゆくのでしょうか。戦争への不安や経済的な不安がますます強くなってきています。先の見通せない世界になってきています。世界はこれからさらに「私はイエスなど知らない」「神などいない」そんな世界になってゆくのでしょうか。
私たちはこの世界で一体何に、どこに希望を持てばよいのでしょうか。こんな世界で希望をいただくためにこそ、今日も聖書を読みましょう。私たちは「イエスなど知らない」と言う者ではなく。イエス様を知る者となってゆきましょう。そこからきっと希望が見えてくる、私たちはそう信じて集っています。こんな世界でも私たちに必ず希望を与えてくださるのがイエス様です。今日も一緒に聖書を読みましょう。
今日はマルコ14章27節~31節までを読みしました。27節には「つまずく」という言葉があります。つまずくとは、人生につまずく、教会につまずく、人につまずくといった様に使われます。小さな出来事に対して、全体が倒れてしまう、倒れそうになってしまうことを「つまずく」と言います。
しかし、この言葉、もともとはおっとっとと足がもつれる程度の意味ではないようです。聖書の言葉、ギリシャ語では動物の罠を仕掛ける際に使う棒から生まれた言葉です。それは罠にかかる、生死にかかわる危機が訪れることを意味します。つまずくどころではありません。絶望する、挫折するという意味です。人生を左右する、生死を左右する大きな失敗があなたに訪れるという意味です。イエス様はその危機が自分に従う最中に起ると予告をしました。あなた方には、信仰の危機が訪れるだろう、失敗し、絶望するだろう。羊が散っていくように、あなたがたはバラバラになってしまうだろうと言ったのです。
するとペテロは言います。29節「たとえ、みんながつまずいたとしても、わたしはつまずきません」。それに対してイエス様はまた言います。30節「あなたは今日、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。あなたは繰り返し失敗するだろうと言うのです。イエス様は人の弱さ、人の決心の弱さを知っておられます。ペテロはそれでも31節でこう答えます。「死んでも、あなたを知らないなどとは決して申しません」。そして周りの皆も言ったとあります「決して知らないなどとは言わない」と。
ペテロの反応を見てみると「私は大丈夫、私は強い」と言っています。たとえ他の人がだめでも、私は大丈夫だと言っています。ペテロは周囲の弱さに引き合いに出して、自分の強さを強調しようとします。私は大丈夫、私は他とは違います、私はちゃんとした信仰を持っていますと、区別をしたのです。そしてたとえ死の恐怖が迫っても私は大丈夫だと言います。死も怖くないと言うのです。
このような信仰は一番危険な信仰と言わなければならないでしょう。自分は大丈夫、そして私は他の人と比べて信仰が強い、ちゃんとした信仰を持っている、どんな危機にも打ち勝つことができる、そのような信仰はとても危険です。本当の信仰の強さは、弱さの中にあります。私の信仰は強いと思うことが、つまずき、危機を招きます。イエス様は自分の強さを主張するペテロに「お前が一番弱い」「これから3回私を知らないと言う」と言います。
聖書はいつもペテロを弟子の代表として描きます。人間の代表として描きます。ペテロを人間全体として見る時、どんなことが見えてくるでしょうか。ペテロは危機が訪れた時、三度「イエスなど知らない」と言いました。呪いの言葉さえ口にしながら言いました。自分の身に危険が迫ると、いとも簡単にその言葉を翻してしまったのです。
人間の決心は、このように弱く、もろいものです。決してそうしたいと思っているわけではなくても、裏切ってしまうのです。そんなこと誰も願っていないことだとわかっていても、人間はそれを選んでしまうのです。自分を守るためには仕方なかったと言いながら、それを選んでしまうのです。
イエス様は人間の弱さをよくご存じです。今は決心が固くても、危機が訪れる時、裏切ってしまう、逃げ出してしまう人間の弱さをよくご存じです。私たちも自分たちの弱さ、人間の弱さ、この世界の弱さをよく知る者となりましょう。
そして、こんな私たちには、こんな私たちの世界には、どこに希望があるでしょうか。私たちはイエス様から希望をいただきましょう。イエス様が私たちに下さる希望は28節「私は復活した後、あなたがたより先に先にガリラヤへ行く」という言葉です。
イエス様あなた方は裏切ってしまうという失敗の予告よりも先に大切なことを伝えました。28節「あなた方より先にガリラヤに行く」ということです。イエス様は人間には失敗と絶望が必ず起こるけれども、その後に必ず立ち上がり、再会をできると約束をしておられます。つらい事がある、不本意なことがある、でもそこで失望することはない、その先に私は待っているとおっしゃっているのです。それが私たちの希望です。イエス様の「ガリラヤに先に行っている」それは、あなたが私を裏切り、すべてに失望した先にもなお、あなたと共にいるという意味です。神は私たちと共にいる神であり、神は私たちの先にいる神なのです。
人間には失敗があります。これ以上の戦争を起こさないと繰り返し誓ってきました。もう繰り返さないというのが私たちの決意です。しかし戦争は繰り返されてきてしまいました。それはまるで「イエスなど知らない」と言っているかのようです。
しかしそのような私たちの先にさえ、イエス様は待っていて下さいます。裏切り、逃げ出した者にも、イエス様との出会いが約束されているのです。そこに希望があるのです。私たちは繰り返し失敗をするかもしれない。したくない。でもその先にもイエス様は待っておられます。私たちは復活のイエス様と出会い、もう一度新たに生きる者となってゆくのです。そして弟子たちだけではなく、イエス様ご自身も苦難を超えたお方です。十字架と死を超えて、復活し、そこで待っているのです。どんな失敗も、絶望も、死も、それで終わりではないことが復活によって示されています。
この個所は希望が二重に示されている箇所と言えるでしょう。弟子にとってもイエス様を裏切ったことが終わりではなく、イエス様と再会できる、待っているという希望があります。そしてイエス様自身も死で終わるのではいという希望があります。イエス様にとっても、弟子にとっても失望で終わらないのです。
いま私たちの世界は戦争が起り、暗い世界です。失敗と絶望が続く世界です。神を裏切り、「イエスなど知らない」と繰り返し表している世界です。でも聖書は言います。これで終わりではない。私たちの行く先には必ず希望がある、復活のイエス様がおられるのです。この世界の先に、神様は待っておられるのです。その方に出会う時、私たちはもう一度、新しい命をいただくことができるのです。今日、その希望をいただきましょう。
世界の中にいる、私たち一人一人の生活、一週間についても、同じことが言えるでしょうか。私たちの1週間も失敗し、「イエスなど知らない」と言ってしまう一週間でしょう。病や痛み、苦難がある1週間でしょう。できればそれは避けたいものです。でもたとえそれができなかった時も、神様はその先に待っておられます。今日私たちも、その約束をいただいています。私たちはそれぞれの一週間で「私はイエス様を知っている」そのような証しとなる歩みをしましょう。そしてまた来週も礼拝に集いましょう。
今日までマルコ福音書を1年間読んできましたが、すべての個所で神の愛を読むことができたでしょう。今日で最後となります。でももちろん、この先にも物語は続き、この先にもイエス様がおられます。これからも先を歩まれるイエス様に向かって、共に歩みましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしましょう。
礼拝の宣教ではマルコ福音書を去年の10月から読んできました。あと2回で終える予定です。私たちはマルコ福音書を1年間、行ったり来たりしながら、かなり細かく読んできました。10月後半からは半年間ルカを読む予定です。この4年間で4つの福音書をそれぞれ1年間、通して読むことになります。次年度はどんな宣教のスケジュールにしようかと考えています。どんな箇所を読もうか、どんなキーワードで読んでゆこうか考えています。旧約聖書か、パウロ書簡か、それとも・・・。今月の宣教のテーマは世界・環境としました。先月までの「礼拝」というテーマは私たちの礼拝の内側を考えるものでした。今月はもう少し視野を広げて、視野を外に向けて、世界を意識して聖書を読みたいと思います。世界に向けて開放された、聖書の読み方をしたいと思っています。
今日はこの後、主の晩餐の時を持ちます。久しぶりにパンとぶどうジュースを使った晩餐です。そして今日10月の第一日曜日は「世界聖餐日」と呼ばれる日です。教派や教会を超えて、世界で同時に主の晩餐を行うという運動がされる日です。教派によって主の晩餐(聖餐)の形は様々ですが、今日は多くの教会で主の晩餐が行われています。
「世界聖餐日」は世界が戦争へと傾斜していく1940年代にはじまりました。全世界の教会がそれぞれの教会で主の晩餐を持ち、国境、人種、差別を越えて、キリストのもとに一つであると確認する日です。異なる文化や国、政治や経済の状況にあって、世界のキリスト者が主にあって一つであることを確認する日です。世界中のキリスト者が私たちはイエス様を中心とする仲間であると証する日です。私たちも今日の主の晩餐を、この教会のメンバーだけではなく、世界の仲間たちと共に行うものとしましょう。世界に目を向けると様々な問題が起きています。一番大きなことはロシアとウクライナのことでしょうか。二つのキリスト教国が戦争をしています。キリスト教が戦争に加担し、兵士を鼓舞し、戦争への勝利を祈っています。1日も早く戦争が終わること、クリスチャン同士がまず戦争を止めることを願います。世界情勢の変化は私たちには物価上昇をもたらしています。しかし大変なのは私たちだけではありません。途上国の物価上昇はさらに深刻です。途上国では3回の食事を2回に減らす人がいます。世界の格差がどんどん大きくなり、格差の犠牲になってゆく人が増えています。私たちは今日、食べる物に事欠く人々と共に、このパンとブドウジュースを飲みます。私たちはそのような罪深い世界を見つめながら礼拝し、主の晩餐をしたいのです。今日世界で、そのような主の晩餐が行われます。その連帯性、同時性を意識しましょう。戦争をしている人がいます。世界の富を独占する人がいます。今日の安全がなく、眠れない人がいます。食べることができない人がいます。そして私がいます。
今日この主の晩餐は、そんな世界と私を考えながら、共に持ちたいのです。自分を点検するだけではなく、この世界を見つめ、この主の晩餐をいただきましょう。私たちはこの世界の中で、共に、主の晩餐をする一人です。イエス様が中心の仲間だと証しする一人です。そして世界に責任を負う一人です。主の晩餐をそのような視点からいただいてゆきましょう。今日の聖書箇所も主の晩餐の個所です。
今日はマルコ福音書14章10節~26節までをお読みしました。主の晩餐、最後の晩餐の場面です。今日はこの食事の場面に裏切り者のユダが同席していたことを考えたいと思います。
12節から先に読みましょう。私たちは主の晩餐へどのように招かれるのかが書いてあります。12節以降によれば、主の晩餐は私たちの努力で一生懸命続けるのではなく、不思議と準備されているものです。イエス様が必ずその場所が見つかるように導いてくださいます。
イエス様が目印とした人が特徴的です。目印とされたのは水がめを運ぶ男でした。当時、水を運ぶのは女性の仕事でした。ですから水がめを運ぶ男は珍しく、よい目印だったのです。イエス様は性別役割分担を超えて働く人を目印としました。神様が準備される場所には、かならずこのような人が起こされます。神様の働きの目印は富や権力や影響力ではありません。神様の働きの目印は、性別にとらわれない、コツコツとした働きなのです。
弟子たちは、主の晩餐をする場所、家へと導かれます。これは主の山に備えあり、アブラハムがイサクを献げようとした物語を連想させます。どちらも神様が定めた事、神様が準備をなさってくれたということを表す物語です。このようにイエス様と弟子たちにはふさわしい場所が与えられました。食事会が始まります。イエス様は22節で言います。「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい、これは私の体である』。また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そしてイエスは言われた『これは多くの人のために流される私の血である』」この言葉は、私たちの主の晩餐にも受け継がれています。
今日見たいのは、この主の晩餐は「ふさわしい者」だけが集い、食事をしたのではないということです。実はこの主の晩餐には、この後イエス様を裏切るユダが同席していた食事だったのです。特別に選抜された弟子が、この食事にあずかったのではありません。裏切り者も招かれたのです。
イエス様は18節で弟子たちからの裏切りを予告します。弟子たちの反応はどうでしょうか。「私は決して違う」と否定したわけではありませんでした。誰も「私は大丈夫」と思いませんでした。逆です。19節「まさか、私のことでは」と言い合います。みんな「まさかそれは私の事では」と裏切るのは自分だと思ったのです。
弟子は皆イエス様を裏切ることにおいて、心当たりがあったのです。この12人の中に裏切る人が1人いると言われて、それは自分だと思う者、それほどの信仰しか持たない者の集まりだったのです。そしてその食事のメンバーには一人、本当に間違ったことをする人がいました。この食事会は自分の信仰に自信がない者、うまく従えず裏切ってしまう者、にもかからず神様から招かれた者の食事会でした。この食事会は12人のメンバーの結束を確認するためだったのでしょうか。私には逆に見えます。この食事ではメンバーの結束のほころびがあらわになります。これからバラバラになってゆく食事会です。そんな食事会ならしない方がよいでしょうか。裏切るならば、生まれてこない方がよいでしょうか。いいえ、決してそうではありません。イエス様がこの食事会を開催することを選ばれたのです。
イエス様はなぜ、このような食事会を持ったのでしょうか。それはこの仲間たちがどんなにバラバラになってもイエス様を中心とする仲間であることを確認するためでした。間違いを犯す人、そういう危険のある人、自分たちと正反対の人たちも含めて、共にイエス様を中心とする仲間だと確認するために食事会は行われました。懐の深い食事会です。その食事会は、弟子たちの中心にはいつもイエス様がいることを忘れないための食事会でした。そしてそれは繰り返すように呼び掛けられました。それが私たちの主の晩餐につながっています。私たちの主の晩餐も、同じです。私たちの中心にイエス様がいる、そのことを忘れないために行われます。
私たちは今日、世界中で行われる主の晩餐を覚えながらこの礼拝を持ちます。世界の仲間たちと一緒に主の晩餐を持ちます。同じキリスト教の中でも、それはキリストの教えと違う、間違っていると思える仲間がいます。そんな人を徹底的につるし上げ、排除したい気持ちになります。そもそも仲間になんかならない方がよかったと思うかもしれません。しかし今日の個所によればイエス様は、バラバラの私たちを、バラバラになる私たちを同じ食事に招くお方です。主の晩餐に招くお方です。私たちの世界の中心にイエス様がいる、それを繰り返し、思い出すように促しておられます。イエス様を中心として生きる世界の仲間が、正しく導かれるように祈りながら、このパンと杯をいただきたいのです。そしてもう誰にも裏切って欲しくないのです。
そしてもちろん私も弟子たちのように、私が裏切ってしまうのではないかと思う一人です。いえ、きっと私こそイエス様を裏切ってしまうユダです。心当たりがいくつもあるのです。でも主は今日も一緒に食事に加わるように招いておられます。なんという恵みでしょうか。いつ裏切ってしまうかわからない者さえもあずかってよいとされています。それが神様の愛です。そして私は思います。招かれたからこそ、愛されるからこそ、イエス様を裏切りたくないと思うのです。それぞれの場所でイエス様を裏切らない歩みをしたいのです。私たちはすぐに忘れてしますでしょう。だからこそ、この主の晩餐を繰り返しましょう。そしてもし裏切ってしまっても、また主の元に集いましょう。それでもイエス様はそれでも食事へと招いてくださいます。それが神様の愛です。
この後、主の晩餐を持ちます。世界と共に、主の晩餐を持ちます。この世界はどこへ向かってゆくのでしょうか。神を裏切り、分裂し、殺し合う世界になるのでしょうか。どんな世界になろうとも神様は、主の晩餐に招いておられます。
そして神様は私たちに平和への一致を求めておられます。平和への一致への道は必ず用意されています。世界の平和と一致がこの主の晩餐から始まるように、願います。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。
私たちは今月「礼拝」というテーマで宣教をしています。今日がこのテーマでは最後です。先週は「ハチドリのひとしずく」として、レプトン銅貨2枚を献げた、やもめの個所を読みました。小さくて、みんなから笑われてしまうようなことでも、精一杯を献げてゆく信仰が大事だということ、その精一杯をイエス様はアーメンと言ってくださるということを見ました。私たちは今日もそのような礼拝を献げましょう。今日はレプトン銅貨2枚を精一杯献げた人とは真逆の話をします。300デナリ、300日分働いた分の香油を献げた人の話です。
ある日の食事の際中のことです。女性がイエス様に対して、頭から油を注ぐという出来事が起こりました。その香油は大変高価な香油でした。女性はそれを惜しみなく、頭からドバドバと注いだのです。頭に油を注ぐ、それは聖書の中では特別な意味を持ちます。例えばサムエル記に記されています。サムエルはサウルを王様として任命する際に、象徴的な行為として頭に油を注ぎました。それはこの人は王様だと人々に明らかにする象徴行為です。ちょうど王様の頭に冠を載せて、この人が王様だと宣言する行為に似ています。頭に油を注ぐとはそのような特別な意味を持ちました。
メシア=救い主という言葉がありますが、メシアとはヘブル語で油注がれた者という意味です。そしてキリストも油注がれた者という意味のギリシャ語です。ですから油を注ぐということは、この人は救い主だ、メシアだ、キリストだ、それを人々に公にするという重要な意味を持ったのです。新しい王様に油を注ぐことは重要な役割です。そして今日の場面では、油を注ぐ役割を女性が担ったとあります。この女性は預言者サムエルの役割を果たしています。イエス様に油を注ぎ、この人がキリストだと最初に宣言をしたのは女性だったのです。このように最初期のキリスト教では女性が中心的な指導者として活躍をしていました。この後、イエス様の十字架を見届け、墓に訪ねたのも女性たちでした。
男性の弟子たちはどうだったでしょうか。8章で、ペテロはイエス様に私を誰だと思うかと問われ、あなたはメシア、油注がれた者ですと答えています。しかし結局はイエス様を裏切ってしまいました。男性の弟子たちは口先ばかりです。この後すぐイエス様を裏切り、イエス様を知らないと言ってしまいます。男性の弟子たちは十字架の場面にもいません。肝心な時に裏切り、逃げ出したのです。女性の小さな献げものを「何になるのか」と笑い、多くの献げ物を「無駄だ」と非難した男たちは、まっさきに逃げしたのです。
一方、この女性は、口先ではなく具体的な行動として、イエス様に油を注ぎ、キリストであると宣言した弟子でした。マルコ福音書には残念ながらこの女性の名前は残っていませんが、中心的な指導者だったと言えるでしょう。しかし歴史的に見ると、この女性指導者は、時代が経過と共に徐々に、地位を下げられてゆく傾向にあります。マルコ福音書にはただ「女」としか書かれていませんので、食事の中にいた中心的な弟子の一人という印象を持ちます。少し後の時代に書かれたヨハネ福音書では、この女性は頭ではなく足に油を塗り、髪の毛でぬぐったとされています。油は頭ではなく、足に塗られます。頭に油を注ぐ、王様を任命するという意味は失われてしまっています。さらにルカ福音書ではキリストと宣言した弟子であったはずの女性は、罪深い女として登場します。やはり頭ではなく足に油を塗り、さらに涙を流しながら、接吻をして、髪で油をぬぐいます。油を注いだのは足で、それは罪を悔い改める女性だったとされています。さらになぜか現代においては、この足に油を塗った罪深い女性とは娼婦・売春婦だったとまで解釈されています。どこにもそのようなことは書いてありません。
今日のマルコ福音書にはそもそも女が罪深い者であったこと自体が書いてありません。マルコ福音書ではこの女性は中心的な弟子のひとりとして、イエス様と共に食事をした、そして油を頭に注いだそう読むことができます。私たちはどうしてもルカやヨハネに影響されて、この女性を罪深い女、娼婦の女の話と連想してしまいます。知らず知らずのうちに、聖書を男性中心に読んでいたかもしれません。今日はそこから解放されたいのです。男性中心ではなく、この女性を罪深い女として読むのではなく、素晴らしい信仰を持った女性指導者の話として読みたいのです。
ある女性指導者が高価な油をたっぷりと頭から注いだことについて、周りは無駄遣いだと批判をしました。しかしイエス様はそれを支持しました。6節「そのままにさせなさい」と言ったのです。頭に油を注ぐのは「この人は私の王だ」という告白です。イエス様はそれを信仰の告白として受け取りました。そしてイエス様はその信仰の告白を、私たちの信仰を「無駄だ」「その力を他に使え」と言わないお方です。その信仰を大事にしなさいと受けてとめて下さるお方なのです。私たちの精一杯の信仰告白は誰にも批判される必要はないのです。
油を塗ることには王様の宣言以外に、もうひとつの意味がありました。香油という言葉が聖書で次に出てくるのは、イエス様が十字架で死んだ後です。イエス様の体に「香油」を塗りに墓に向かうという場面で「香油」が登場します。香油は死者を埋葬するときに使われたのです。油を塗るとは死者の葬りをするという意味もありました。
この弟子の女性は「イエス様は私の王だ」そう告白して油を注ぎました。そして同時に女性は、イエス様がこのまま活動を続けたらきっと死んでしまう、きっと殺されてしまうと思ったのでしょう。イエス様の十字架の死の危険に、誰よりも早く気づき、油を塗ったのが、この女性だったのです。
イエス様も油を注がれるということに2つの意味を感じていたでしょう。一つは自分をキリストと告白し、油を注ぐ者が初めて起こされたという意味です。そして二つ目は8節「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」とある通りです。十字架の準備をしてくれたという意味です。
油を注いだということ共に、それが大変高価な香油で、大量であったということも問題です。彼女の献げ物は、無謀で、ぜいたくで、過剰です。彼女はおそらく全財産ともいえる、数百万円分の油を、一瞬で使い果たしてしまいます。この女性はバランスを欠いているように思えます。もう少し自分の生活や欲しいものとのバランスを考えて献げ物をして方がよいでしょう。
しかし彼女は違いました。自ら収支計算、計画、欲しい物を超えて、イエス様に信頼し、献げました。イエス様に信頼し、献げたのです。それは私たちから見ればバランスがおかしいものでした。しかしそれは自発的で、打算のない、無欲の、時にかなった献げ物でした。イエス様への自分の信仰を表現する物でした。イエス様は8節「この人はできるかぎりのことをした」それでよいと言ってくださるのです。
今日私たちに求められているのは、他の人々の信仰の表現を批判することではありません。他の人の信仰の表現を、小さいと笑ったり、多すぎると批判したりすることでもありません。私たちがただ求められていることは9節です。「福音が宣べ伝えられるところでは、いつでもこの人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とあります。私たちに求められているのは「記念として語り伝える」ということです。
記念として語り伝える場所は「福音が宣べ伝えられる場所」です。それはまずこの礼拝と言えるでしょう。私たちは礼拝でこの女性を記念するようにと期待されています。今日私たちはこの女性を記念する礼拝をしたいのです。
この女性を記念する礼拝とはどんなでしょうか。それは彼女がイエス様の事を「この人が王だ」「私の人生を導く」と告白をする礼拝です。救い主をはっきりと告白する礼拝です。私たちも彼女の告白を記念するような礼拝、イエス様を救い主と告白する礼拝を献げてゆきましょう。それをイエス様が願っています。
毎週教会に通い、礼拝すること、それは周囲からバランスを欠いた人のように思われるでしょうか。大切な時間を使って、毎週繰り返し礼拝することは、無駄だと思われるでしょうか。礼拝することは、まるで高い油を無駄遣いしているように見えるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいのです。私たちの油、時間、思いをイエス様に惜しみなく献げたいのです。そのような礼拝を献げることが最高の献げ物なのではないでしょうか。
そして油を注ぐ、それは十字架に向かう葬りの準備でもあったということを見ました。その油にはイエス様の十字架の死と復活を覚えるという意味があります。イエス様はその生き様ゆえに、十字架にかけられ、殺されました。私たちはイエス様の十字架への歩みと復活を覚えて、この礼拝をしましょう。
私たちは礼拝について考えてきました。私たちはこの礼拝で、この女性が記念されるような、思い出されるような礼拝をしましょう。イエス様を救い主と告白する礼拝、自らの予定を超える礼拝、十字架と復活を覚える礼拝、そのような礼拝をお献げしてゆきましょう。お祈りいたします。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
マルコ12章43節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。今月は礼拝をテーマに宣教をしています。
こんな話を聞きました。南アメリカ・アンデス地方に伝わる「ハチドリのひとしずく」という話です。ある時、森が火事になりました。多くの生き物は逃げ出しました。でもクリキンディという名のハチドリだけは森に残ったのです。クリキンディ1羽だけが、森の中を行ったり来たりしています。クリキンディはなんと、くちばしで水を一滴ずつ運んで、火の上に落とし、火事を消そうとしていたのです。他の動物たちはそれを見て「そんなことしていったい何になるんだ」といって笑いました。しかしクリキンディはこう答えたと言います。「私は、私にできることをしているだけ」。
この本の最後には、この物語の続きはあなたが考えて下さいともあります。私たちはどのようにこの物語の最後を描くでしょうか。ある人は、それを聞いたハチドリは別のハチドリに伝え2羽に、2羽が4羽に、4羽が16羽に、それが40回続くと1万羽に。あっという間に火が消えたとつけ加えています。無理にハッピーエンドにしなくてもいいでしょう。森は焼けてしまったけれども、ハチドリの姿を見ていた動物たちが、森の再生のためにそれぞれできることを一生懸命したというのはどうでしょか。私たちの想像力を掻き立てる話です。このハチドリとは、いつも一生懸命なあの人のことを言っている様に思えます。私もこのハチドリのようになりたい。私はハチドリを笑う動物になっていないだろうか。この山火事とは今の世界の現状だ。山火事とは私たちの目の前にある現実のことだ。いろいろな想像力を掻き立てます。いずれにしても「私は、私ができることをしているだけ」ということの大切さを教えてくれる話です。
大きな必要に対して、小さすぎる、私の働きはほとんど無意味と思える時があります。ほとんど役に立たないと思える時があります。でも決してそうではありません。その一滴が大事なのです。あきらめない一滴が大事なのです。日常にも、世界にも、すぐに解決が難しいと思える課題があるでしょう。でもあきらめない。ひとしずくのできることをする。このひとしずくは大切なのではないでしょうか。
イエス様の生き方、イエス様の物の見方も、そうだったのではないかと思います。イエス様はあきらめないで、小さなことを大切にする生き方を勧めたお方です。イエス様も事柄の大小ではなく、あなたにできることをすることが大事と言っています。イエス様はあきらめず、小さい事を、大きな愛で進めてゆこう、そう私たちに呼びかけています。聖書からイエス様のそんな姿を見てゆきましょう。
マルコ12章38節~44節をお読みしましょう。ここには律法学者が登場します。彼らは長い衣、キラキラした服を着て歩いています。集会ではいつも来賓席、上席に案内されます。尊敬を受けること、きれいな服を着ること自体は決して悪いことではありません。しかし聖書によれば40節、律法学者はやもめを食い物にしていたとあります。当時の女性にとって、夫に先立たれると、厳しい生活が待っていました。やもめは激しい男女差別、男女格差の時代の中で、経済的にも困窮したのです。
そんな生活困窮者、やもめに律法学者はどんなことをしていたのでしょうか。食い物にするとはおそらく、死んでしまった夫から受け継ぐはずの財産を横取りしたり、お祈りに高いお金を要求したのでしょう。現代で言うなら、宗教詐欺です。人の人生の混乱や不安や紛れて、財産を奪おうとしたのです。祈らないと災いが起る、これを買わないと災いが起る、霊感商法と同じです。イエス様は人前で長々と祈るような律法学者は信用するなと言います。人前で祈ることは難しいものです。きれいな言葉で上手に祈るはかっこいいものです。人が涙するような、感動させる祈りをしたいものです。
でも本当の祈りとは違います。祈りは上手ではなくて良いのです。きれいな言葉でない方が良いです。つっかえながら、間違えながら、祈るのが良いのです。誰かの言葉を借りなくていいのです。自分の言葉で祈ることが大事です。
イエス様は律法学者のような偉い、偉大、きれいに祈るとされる人ではなく、社会で見過ごされる人に目を向けました。今日の物語の主人公は偉大な者ではなく、見過ごされている人です。でもイエス様はかわいそうだと思ったのではありません。イエス様は小さな力にこそ信頼をしました。小さなできることにこそ、信頼をしたのです。
やもめの信仰を見てゆきましょう。エルサレムの神殿にはいくつか、献金を入れる賽銭箱がありました。しかしおそらくこの賽銭箱にはプライバシーの課題がありました。誰がどれくらい献金したのかわかってしまったのです。中身が丸見えだったのでしょうか。あるいは献げる時に音がしたのかもしれません。お金持ちはパチンコ屋さんのようにジャラジャラジャラと献金します。まわりは「おぉ」となり、拍手が沸いたでしょう。それは長い衣や長い祈りと同じです。
やもめの献金はどうだったのでしょうか。すべての人がジャラジャラとたくさん献げています。そこにやもめの順番が回ってきます。チャリン。聞こえるか聞こえないか程の、小さな音が響きます。それは誰かが小銭を落としたかのような音です。周りで見ていた人、多く献げた人は、それを笑ったでしょうか。そんなことして何になるのかと笑ったでしょうか。しかし聖書によればこのやもめはレプトン銅貨を2枚献げたとあります。もう一度チャリンと小さな音がします。人々はもう一度笑ったでしょうか。もう一度、そんなことして何になるのかと言ったでしょうか。
彼女は1枚でも恥ずかしい思いをしたのに、2枚も入れました。そして彼女の状況、宗教詐欺にあって困っていいた彼女からすれば、1枚でもきっと十分な献げ物だったはずです。しかし彼女はもう1枚、2枚を献げました。そこに彼女の信仰があったのではないでしょうか。小さくても、笑われようとも、私ができることをする。そんな信仰があったのではないでしょうか。
イエス様はこんなとき、あなたは詐欺にあって、かわいそうだから、大変そうだから、あなたは献金しなくてもいいですよとは言いません。あなたは施しを受ける側なんだから、献金をしなくていいとは絶対言いません。もちろんもっとしないさいとも言いません。イエス様はそのレプトン銅貨2枚を、そのひとしずくを、素晴らしいとおっしゃるお方です。あなたの、小さくても、自分ができる精一杯をしようという気持ちが、その信仰が素晴らしいというのです。イエス様はこの様子を見て「はっきり言っておく」と弟子たちに話します。実はこの言葉、聖書では「アーメン」という言葉です。「アーメン」という言葉が、日本語には「はっきり言っておく」と訳されています。つまりイエス様はこの女性の信仰を見て「アーメン」と言ったのです。女性が献げる信仰を見て「アーメン」「確かにそれは真理だ」とおっしゃったのです。
そしてイエス様は弟子たちに言います。彼女はだれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。イエス様はこの女性の信仰を真理だと言っています。
私たちは今月礼拝というテーマで宣教をしています。私たちもこのやもめのように、礼拝を献げてゆきたいと思います。献金のこともありますが、まず私たち一人一人が、できる限りの礼拝を献げてゆきましょう。一人一人が精一杯の礼拝を献げてゆきましょう。
周囲の人たちからすれば、私たちの礼拝も何の役に立つのかわからないものかもしれません。でも、私たちはできる限りの礼拝を続けましょう。私たちは強くて、大きくて、影響力を持つ人間ではないかもしれません。でも私たちは笑われても自分ができることをする、自分ができる礼拝をする、そんな生き方をしてゆきましょう。そして今週、礼拝から派遣されたそれぞれの場所で、小さいけれど大きな愛で、私にできることをしてゆきましょう。派遣されるそれぞれの場所で精一杯を献げましょう。きっとその姿にイエス様が「アーメン」と言ってくれるはずです。
そしてそれは教会自体も同じだと思います。教会は自分が大きくなることを目指すのではありません。教会が精一杯を献げる、そんな教会になってゆきましょう。もちろん私たちの教会はお金持ちではありません。いろいろ大変なことも多いです。でも小さくても精一杯を神様に献げる教会になりましょう。自分たちのためではなく、誰かのために精一杯になりましょう。例えば地域のために、地域の子どもたちのために、小さくても働いてゆきましょう。その教会の姿にきっとイエス様が「アーメン」と言ってくれるはずです。
今日は特に、この後、高齢者祝福祈祷の時を持ちます。平塚バプテスト教会は元気な高齢者が多い教会です。でももしかして体力の衰えを感じている方がおられるかもしれません。前よりできないこが増えたと感じているかもしれません。でも今日の聖書の個所によれば、大きなことができなくてもいいのです。山火事に対して一滴でもいいのです。2枚でいいのです。それぞれにできることを、精一杯してゆきましょう。それぞれができる礼拝を、一滴ずつしてゆきましょう。きっと神様は、そのような私たちを見て、誰よもよりもたくさん入れた、アーメンと言ってくれるはずです。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集えたこと感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたち、そしてお互いを感じながら礼拝をしてゆきましょう。
中島みゆきの「糸」という曲をご存じでしょうか。1990年代の歌ですが、若い世代のアーティスト、ミスチル、リトグリ、エメなどにもカバーされ、広い世代に人気の曲です。その歌詞が心に残ります。
この歌では私たち一人一人は一本の糸の様に弱い者かもしれないけれど、お互いが紡がれて布になってゆく時、何かができるかもしれないと歌っています。大事なのは縦糸と横糸の関係で、それがしっかりと紡がれて、組み合わされている時、誰かを暖めたり、癒したりすることができるのだとあります。
今月私たちの礼拝では「礼拝」をテーマにしています。礼拝とはなんだろうかということを考えています。糸の話をしましたが、礼拝にも縦糸と横糸があると思います。私は礼拝がこの歌に似ていると感じました。
礼拝において縦の糸とは、神様と私がつながる糸です。そして礼拝において横の糸とは、私と仲間とがつながる糸です。礼拝は縦糸だけでも、横糸だけでもありません。この縦糸と横糸が織られ、紡がれるのが礼拝です。礼拝のプログラムを見るとそれを直接感じることができるでしょう。例えば「招詩」招きの言葉は神様からの招き、神様との関係、つまり縦糸を示すものです。続く「平和の挨拶」は仲間の確認する時間です。横の関係を確認します。それは横糸です。「聖書朗読」は神様の言葉をいただく、縦の糸と言えるでしょう。礼拝は一つ一つのプログラムが、縦糸と横糸が織り重なるようにすすみます。礼拝には縦糸と横糸があり、全体で織られた布のようになっています。神様との関係を考える、仲間との関係を考える、それが交互に織り重なったのが礼拝です。その礼拝は誰かを暖めうるかもしれません。傷をかばうかもしれないのです。
私たちはこのような礼拝を持っています。礼拝の中で儀式のように意味が分からなくなっている部分、よく考えずに通り過ぎてしまっている部分もあるかもしれません。でも礼拝を縦糸と横糸の視点で見直したいのです。私たちにはコロナで礼拝に集えない期間がありました。YouTubeの礼拝はどこか物足りない、寂しい気持がしました。それはきっと横の糸がなかったからでしょう。仲間を感じづらい礼拝は、縦の糸はあっても横の糸が足りないのです。いろいろな技術があっても、私たちがなお今日、集まって礼拝をするのは、横の糸を感じながら礼拝をするためです。様々な事情があったとしても、集うことを大事にし、精一杯集ってゆきたいのです。仲間と共に礼拝すること、それは礼拝の大切な要素です。大切な横糸なのです。こどもの声が聞こえるということもそうでしょう。一人で礼拝しているのではないことを、こどもたちの声が教えてくれます。きっとそれも大切な横糸です。
礼拝は縦糸と横糸とどちらも大事です。礼拝は神様と自分の関係を考える時、そして同時に仲間と自分の関係を考える時なのです。どちらかだけではなく、両方が大事なのです。今日は礼拝とは神様と自分の関係を考えることはもちろんとして、礼拝は人と人との関係を考える場所でもあるということを見てゆきたいと思います。今日の聖書を読みましょう。
あるとき一人の律法学者がいました。当時の律法学者たちの信仰の中心は、神殿で犠牲を献げることでした。エルサレムの神殿で牛を丸ごと1匹、黒焦げになるまで焼くのです。それが焼き尽くす献げ物でした。煙を神様に献げたと言われています。彼らにとって神を愛するとことは、神様に献げ物をするということでした。神殿での犠牲と献げ物を何よりも大事にしたのです。しかし今日の律法学者は、話の最後で自分の考えをすっかり変えてしまっています。神殿での犠牲の献げ物を最も大事にしていた律法学者が、それにも勝る大切なことがあると宣言してしまったのです。これは驚くべき変化です。
律法学者ははじめ、イエス様に質問をしました。ここは議論を吹っ掛けたのではなさそうです。純粋に教えて欲しい、わからないと思って質問をしました。質問をする、疑問を持つということ、それを誰かにぶつけることは大事なことです。聖書に書いてあることを、ただそのまま信じればよいのではありません。疑問に思い、考え続けること、誰かに聞いてみること、神様になぜと問いかけてみることが大事です。なぜなら疑問、質問が私たちを新しい信仰へと導くからです。
疑問や質問は、信仰にとってとても大切です。なぜと思い、周囲や神様に聞くことで、私たちの信仰の優先順位が逆転することがあるからです。今日まさに、律法学者に起きた事がそのようなことでした。彼は疑問に思ったことを問いかけ、その答えによって、自分の信仰の優先順位が逆転されることになるのです。
イエス様の答えをみてゆきましょう。律法学者は一番大事なものは何かとイエス様に尋ねました。イエス様は一番重要なのは何かと聞かれて、第一に神を愛することだと言っています。聖書の元の言葉では、第一に神をアガペーすることだと書かれています。アガペーは愛するという意味です。そしてさらに愛するという意味以外にも、大切にするという意味を持ちます。
アガペーは日本語の愛するという言葉よりも、大切にするという表現が私にはふさわしいように思います。イエス様は第一に神様をアガペーしなさいと言っています。神様を大切にしなさいと言っているのです。心、精神、思い、力を尽くし神様を大切にしないさいと言っています。それを難しく言えば、全身全霊、全人格ともいえるでしょう。心と生活の端から端まで神様を大切にしなさいということです。私たちの心も生活も神様を大切にする、そうでありたいと願います。
そして神様を第一に大切にするとは、もちろん礼拝をすることと言えるでしょう。私たちは神様を第一とするこの礼拝から、1週間を始めます。今週も全身全霊、全人格、生活の隅々まで、神様を大切にしながら生きてゆきましょう。そしてまた来週も、集って神様を大切に思う時、礼拝を持ちましょう。毎週の礼拝出席が難しいという方もいるでしょう。それぞれの精一杯で礼拝をしましょう。そのような一週間を繰り返してゆきましょう。
聖書を読み進めます。31節にはイエス様は第二にと答えます。イエス様は一つだけ答えて欲しいという問いに二つ答えようとしています。これは好きなものを一つだけ教えてと言われて、どうしても選べずに二つ答える心理と同じです。それはどちらも同じくらい好きで選べないから、両方を挙げるのです。イエス様も今日、選べないほど両方とも大事だからこそ、二つ答えているのです。イエス様は神様を愛するのと同じくらい大事なことを私たちに教えています。それは隣人を愛するということです。隣人を愛することは、神様を愛するのと同じくらい大事だというのです。神様と隣人のどちらも愛しなさい、神様と人間のどちらも大切にしなさいと言っています。私たちは今日の礼拝から、この1週間、全身全霊、全人格、生活の隅々まで、神様を大切にしながら生きてゆこうと願って集いました。そして、それと同じくらい大事なことがあると今日の聖書箇所は示しています。
それは隣人を全身全霊、全人格、生活の隅々まで、大切にしなさいということです。隣人を愛しなさいということです。隣人とは誰のことでしょうか。今日、隣の席に座っている人とも言えるでしょう。そしてあなたの職場で隣の席の人、あなたの家の隣の家に住んでいる人、私たちの国の隣の国に住んでいる人です。よく考えるなら、すべての人、すべての命が私たちの隣人と言えるでしょう。私たちは神様からすべての隣人を、すべての命を大切にしてゆくことが求められています。命と優しく接し、いたわりあう事。世界中の隣人が大切にされるように願うこと。それは神様を愛するのと同じくらい大事な事なのです。私たちは神様を愛しましょう。神様を大切にし、アガペーしましょう。そして私たちは他者を愛しましょう。他者を大切にし、アガペーしてゆきましょう。その一週間を歩みましょう。
イエス様はこのあと十字架に架けられることになります。十字架とはただ犠牲なったという出来事ではありません。十字架は私たちに、神を愛すること、そして隣人を愛することを強烈に指し示しているものです。イエス様は神様に十字架の上でも神を愛し、大切にし続けました。そして十字架の上でも罪人や家族へ語り続けました。私たちは礼拝でこの十字架を見てそれを思い出します。イエス様の十字架はどんな時も神を愛し、隣人を愛した主イエスを思い出せるものです。
私たちは今日の礼拝から1週間を始めました。私たちはどんな献げ物や犠牲にも勝るように、神様を愛し、隣人を愛しましょう。神様を全身全霊で大切にする1週間、他者を、命を全身全霊で大切にする1週間をこの礼拝から始めてゆきましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。先週はお休みをいただき、ありがとうございました。私は大井教会の礼拝に出席させていただき、恵みをたくさんいただきました。
さて、9月末まで「礼拝」というテーマで宣教をしています。私は信仰生活の上で何より、礼拝を大事にしたいと思っています。私は礼拝にはできれば毎週欠かさずに集いたいと思っています。なぜなら私は弱い者だからです。毎週の礼拝で神様のみ言葉をいただかなければ、すぐに神様のことを忘れてしまうのです。聞いたとしてもすぐに忘れてしまうのですが、それでもきっと心の奥でその言葉は生きて、生活に影響を与えてくれる。そう願って毎週この礼拝に集っています。そして弱い者だからこそ、一人ではなく、励まし合える仲間と一緒に礼拝をしたいと思って集っています。
もちろんすべての人が毎週欠かさず礼拝に来れるわけではありません。それぞれに、それぞれの事情があります。大切な家族との関係もあるでしょう。大切なお仕事の事情もあるでしょう。健康の問題もあるでしょう。特にコロナの時期は、家族に負担や心配をかけないように、自宅で礼拝するということもあるでしょう。私はもし誰かが毎週来ることができなかったとしても「ちゃんと毎週来なさい」と互いを責め合いたくないのです。私たちは「来ないこと」「来れないこと」を責め合うのではなく、今日この礼拝に集えたこの1回の礼拝、この1回限りの礼拝を、守られて、精一杯に集い、共に礼拝できたことを喜びあいたいのです。
特に私たちはこの日本で信仰を守っています。圧倒的多数の人は、日曜日に礼拝に行ったりしません。今日の礼拝に集ったのは、日本のごく一部のクリスチャンの中の、さらにさらにその一部です。他の人から見ると、日曜日に教会に行くというのはなんと不思議な習慣でしょうか。礼拝に集うということは、他の人がめったにしないことです。めったに選ばないことです。人生に1回あるかどうかということが、今私たちに起っています。周囲からは熱心で奇特な方と見えるでしょう。他の人がほとんどしないことを、ほとんど選ばないことを、私たちはしているのです。
私たちはそのように礼拝を大切にし続けてきたのです。毎週ではないけれど、いつもではないけれど、さらに他の人はほとんどしない、選ばない、この礼拝に招かれ、集って来ました。他の人はあまりしないのだけれども、私自身も毎週欠かさずというわけではないのだけれども、でも今日この礼拝に集うことができたこと、この1回を共に喜んでゆけたらと願っています。
今日の聖書から礼拝に集う事、礼拝を大切にし続けることを聞いてゆきましょう。聖書をお読みしましょう。
今日はマルコ福音書12章1~12節です。「ぶどう園と農夫のたとえ」という表題が付いています。この個所は伝統的な解釈があります。お聞きになったことがあるでしょう。それはぶどう園=イスラエル、主人=神、息子=イエス・キリスト、農夫=ユダヤ人とする解釈です。預言者を信じずに殺してきたユダヤ人を批判している話です。そしてクリスチャンはこの個所から、自分たちもイエス様を信じない者となっていないか、自分たちの生活の中に神から送られたイエス様を受け入れない者になっていないかということを受け取ってきました。私たちはイエス様を信じ、神の国を受け継ごうと語られてきました。これが伝統的に解釈をされてきた内容です。
しかし今日はせっかくの礼拝ですから、もう少し視点を変えて読みたいと思っています。それは当時イエス様に従った貧しい農民たちはどのように聞いたのかという視点です。この視点で少しこの個所を読んでみたいと思います。
まずぶどう園です。この土地はともとは農民たちの土地でした。しかし飢饉や災害が起き、食べる物が無くなってしまうと、農民は土地を売らなければなりませんでした。そのようにして土地は、大土地所有者の手に渡ってゆきました。生きていくための穀物を作っていた畑は、より利益の出るぶどう園に変えられてゆきました。そして土地を手放した農民たちは、今度はぶどう園で雇われ農夫として、小作人として働くことになります。主人である大土地所有者は収穫の25%の土地使用料を取ったと言われます。そのほかの税金と合わせれば、農民の手元にはほとんど残りません。格差はますます広がってゆきました。このような格差の中、農民はよく一揆を起こしました。大勢で大土地所有者や土地の管理者を襲い、自分たちの土地を奪い返そうとしたのです。1節にはぶどう園に「垣を巡らし」とあります。土地所有者には防犯上の壁が必要だったのです。
農民はこのような現実に生きていました。その農民たちからすると、この話はどのように聞こえたでしょうか?息子を殺すところまでは勧善懲悪の話です。いつも自分たちを搾取する主人が殺されるというのはスカッとする話だったはず。自分の奪われた土地でもそれが起きて欲しいと切実に思ったはずです。この話を聞くと胸が晴れるような気持ちになったでしょうか。
しかし、イエス様の話には続きがあります。農民一揆は結局すぐに鎮圧され、全員殺されてしまったというのです。それは現実でも同じでした。農民一揆が頻繁に起きましたが、それらはことごとく失敗をします。強い軍隊が来て、参加した農民は全員殺されてしまったのです。一揆が鎮圧される姿を想像し、農民たちは再び、現実の厳しさを知ったことでしょう。ではこのたとえ話は農民たちにとって何を意味したのでしょうか?結論は謎です。でもイエス様は農民を前に、本当に「主人=神」だとたとえたのでしょうか。イエス様は本当に「農民は逆らうと殺されるから、ちゃんと主人に従え」と伝えたのでしょうか。
私はそうではない解釈もあると思います。むしろ私は、イエス様が平和を愛したお方だと考えて読みたいのです。平和を愛するイエス様の視点からこのたとえをとらえたいのです。その視点から読むと、イエス様は奪われた土地を農民一揆などの暴力によって奪い返したとしても、結局また暴力によって奪われるだけだと言っている様に聞こえてきます。暴力で奪っても何も解決しないのだ。暴力に代わる手立てはないのかとイエス様が問いかけている様に感じるのです。そうすると10節・11節につながります。これは「誰かが役に立たないと捨てたものが重要な役割を担うようになった」ということです。みんなが見向きもしないものが、土台になってゆくということです。何の役にもたたないと思われたものが、物事の基礎となるのだということが語られています。
ここで言われている、捨てられた、何の役にも立たないとされたものとは何のことでしょうか。ひとつは殺されたイエス様を表すでしょう。十字架で捨てられたイエス様が、私たちの土台となったということです。そしてもう一つことで捨てられているものがあると思います。それは暴力以外の手立てです。皆が困った時にまず取った手段は暴力でした。その時、暴力以外の選択肢は捨てられていました。農民が捨てたもの、それは平和的な解決方法、対話、愛です。農民もそして私たちもすぐにそれを捨て、力、暴力によって解決しようとしてしまうのです。イエス様はそれでは解決しないよと言っています。みんなが捨ててしまっている様な、価値を見過ごしている、平和な方法を選びなさい、そう呼びかけているのです。
私たちは今日、礼拝をテーマにして聖書をみています。もしかすると礼拝ということも多くの人にとって、価値のない、自分の人生に役に立たない、不必要なものとされているでしょう。多くの人にとって、自分の人生を豊かにするにはもっと有効な手段、他の方法があると思われているのでしょう。礼拝こそ多くの人に捨て石とされています。でも私たちは違います。人々がしない礼拝という捨て石を、自分たちの土台としようとしています。それは11節「とても不思議なことに見える」でしょう。でもそれが私たちの信仰です。人々が選ぶ方法ではなく、見過ごされている方法、礼拝によって一人一人の人生を豊かなものにしたいと願うのです。
私たちは礼拝を大事にしたいと願っています。この礼拝は多くの人々に必要とされているものではないかもしれません。しかし私たちはこの礼拝こそ、一人一人の人生を豊かにする、私たちの人生の土台となるものだと信じます。これこそが私の土台だ、そんな礼拝をささげたいのです。人生を豊かにする方法は争いや、戦いではなく礼拝なのです。聖書に聞くことなのです。そのような方法で、豊かな人生を目指してゆくことはできないでしょうか。多くの人々には不思議に思える、礼拝という手立てによって、人生を豊かにすることができないでしょうか。そんな礼拝を献げてゆきたいのです。
この個所をどのような解釈をするにしても、大切なことは神様から送られたイエス様を大切にしようということです。私たちは聖書を読み、礼拝を続けましょう。私たちは捨て石にされてしまう礼拝を、土台としてゆきましょう。そして、私たちはこれから主の晩餐を持ちます。イエス様の血と体の象徴をいただきます。十字架によって殺された、イエス様の血と肉を覚えて主の晩餐を持ちましょう。暴力のただなかで、人を愛することを教えた主イエスを覚えて、暴力ではなく人々が捨てた愛がもっとも私たちを豊かにすることを覚えて、この礼拝の中で主の晩餐を持ちましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聴きながら礼拝をしましょう。そして今日から1ヶ月間「礼拝」をテーマとして宣教をします。私たちが変わらずに一番大切にしてきたのは礼拝です。私たちはこの礼拝にどのように向き合うべきなのか共に聖書から見てゆきましょう。
こどもと一緒に礼拝をすることについて、どのようにお感じでしょうか?やはり静かに礼拝したいと思う人もいるでしょう。み言葉を求めて教会に来たら、こどもの声がして集中できなかったという人もいるでしょう。あるいは子育てに疲れた人が、礼拝くらいはこどもに邪魔されず、ちゃんと話を聞きたいのにと思うこともあるでしょう。もちろん、こどもの元気な声が聞こえてうれしいという人もいるでしょう。
実は私は落ち着いて座っているのが苦手なタイプです。同じ場所にずっといることが苦手なのです。本当は私も席を立ったり座ったり、落ち着きがありません。すぐにスマホが気になってしまします。皆さんの前ではなんとか我慢していますが、私も落ち着きのないこどもの一人かもしれません。
そんなこどもたちとどのように礼拝を共にするかは教会の難しいテーマです。教会のレイアウトや歴史、考え方が違うので、それぞれの教会でこどもたちとの礼拝し方は違います。また集っているこどもの年齢や特徴も考慮されて、それぞれの教会の在り方が決められています。教会にこどもがいる限り、どのように一緒に礼拝するかという問いはずっと続きます。でも教会ににぎやかなこどもがいることは贅沢な悩みかしれません。感謝できる事かもしれません。こどもたちと礼拝できることに感謝です。こどもがいない教会では、どのように一緒に礼拝するかは問いにならないのです。
私は休暇中、いろいろな教会に行くようにしています。他の教会で礼拝を受けることは、自分にとっても大きな刺激になるからです。しかし、こどもと一緒に礼拝に出ることは実はなかなか難しいことです。親としてはせっかく一緒に教会に来たのだから、できれば一緒に礼拝に出たいと思って向かいます。多くの教会では、受付の方に一緒でもいいかと尋ねると「歓迎しますよ」と言われます。
しかし注意が必要です。いざ礼拝堂に入ると他のこどもは別の部屋で遊んでいて、礼拝堂がとても静かなのです。私はこどもたちを、きっとおとなしくさせていられないと思って、慌ててこども部屋に連れてゆきます。そしてこども部屋で一緒に礼拝をするのですが、あまり礼拝をした気分にはならなかったりします。そもそも音声が聞こえなかったりもします。
少数ですが、一緒に礼拝をできる教会もあります。こどもの声も別に構わないという教会もごくまれにあるものです。そのような教会はこどもの様子を見れて安心ですが、他のこどもが気になったり、礼拝に集中できなかったりもします。うまくメッセージに集中できないことがあるのです。他にも、教会によっては礼拝の最後、祝祷の時間になるとこどもたちが前に出てきて、牧師が一人ずつに手を置くという教会もありました。
それぞれの教会が、それぞれの方法でこどもを大切にしようとしています。その正解はひとつではないと思います。こどもといっしょに礼拝できる喜びと、礼拝に集中できることはどちらも大切だと思います。親でさえ一緒に礼拝したい気持ちと、礼拝に集中したい両方の気持ちがあるものです。ただ願うのは、大人によってこどもが教会から排除されず、受け入れられることです。「歓迎します」「大切にします」というのが、言葉だけではなく、具体的な形になってゆくことが大事です。
私たちの教会はこどもプロジェクトから「こどもを大切にする教会」を始めました。私たちはこどもをどのように受け止めてゆくでしょうか。正解は一つではありませんし、こども自身が成長し大人になります。そして新しい命も生まれます。大人もこどもも変わるのです。私たちなりにどのようにこどもを受け止めてゆくか。今の子どもたちとどのように礼拝するか、いつも考え続けてゆきたいのです。聖書からこのことを読み、考えてゆきましょう。聖書を読みましょう。
今日お読みするのはマルコ10章13節~16節です。ルカ福音書で並行する箇所が、昨年度までの主題聖句でしたので、何回か似た場所から宣教をしている箇所です。13節、人々はイエス様に触れていただくために、こどもを連れてきました。人々と書いてあるだけで、親とは限定されていません。近所の人か、親戚の人か、おじいちゃんおばあちゃんかわかりません。とにかく人々はこどもに、イエス様に近づいて欲しいと願い、連れてきたのです。あなたにも信仰を持って欲しい、そう願って連れてきたのです。しかし弟子たちはこどもたちを叱りました。なぜ叱ったのかという理由も、どのように叱られたのかということも書かれていません。あるいは誰が叱られたのかも書いていません。人々は誰なのか、どのような理由で怒られたのかは私たちの想像力にゆだねられています。
怒られたのは、連れてきた人々だったとも読めます。こどもを連れてくるな、静かにさせなさいと怒られたのでしょうか。もちろんこどもが怒られたとも読めます。こどもが怒られている姿はすぐに想像がつきます。ふざけない、おしゃべりしない、落ち着きがない・・・。
そのような態度は礼拝者としてふさわしくないと怒られたのでしょうか。怒る気持ちも怒られる気持ちも、どちらもわかるような気がします。落ち着いていられない私。ちゃんと集中できない私。他のことにすぐ気が行ってしまう私。眠くなってしまう私。礼拝者としてもとても不十分な私。おそらく私もこの場所にいたなら、イエス様に近づいて怒られた一人だったでしょう。この話は礼拝にふさわしいのは誰かということが投げかけられています。
この話は「金持ちの男」の話の前にあります。実は次の話も、誰がふさわしいかというテーマで展開します。当時は、たくさんの財産を持っている人こそ、神様に祝福された人で、救われる人と考えられていました。金持ちこそ神の国に入ると信じられていたのです。社会で成功するような人間こそ、豊かさを受け継いだ人間こそ、神の前にふさわしいと考えられていたのです。逆に子どもや貧しい者は神の国入れないと信じられていました。ですからイエス様に近づく、礼拝者にふさわしくないとされたのです。不十分な者は、じゃまにならないように、近づかないで遠くから礼拝するように言われたのです。
しかしイエス様は23節「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しい事か」と言っています。それは今日の14節「神の国はこのような者たちのものである」と対比される言葉です。金持ちの男の話と、こどもたちの話、この二つの共通するテーマは人の目にはふさわしくないと思えるような人が神の国に入るということです。私たちがふさわしいと思う人こそ、神の国に入るのが難しいということです。
むしろ私たちから見て、不完全な者、不十分な者こそ、神の国に入るのだということです。イエス様はこの不十分と思われている人が、礼拝に来るのを妨げてはならないと言います。むしろそういう人を連れてきなさいと言うのです。イエス様は不十分と思える人こそ神の国に入る、礼拝に招かれていると言うのです。
この招きは私たちの礼拝にもつながっています。ここは礼拝するには不十分な者が集められている場所です。本当は私なんか、神様の前に立つ資格なんてないと思う人が招かれている場所です。ちゃんとできない人こそ招かれています。こどもこそ招かれているのです。すべての人が招かれていると言えるでしょう。大事なのは14節「連れてくること」と「妨げとならないこと」です。神の国はいつも叱られっぱなし、失敗ばかり、不十分で、とても神様には近づけないように思われる人たちのものです。神様はこのような人が神の国に入ると言うのです。
私は自分をこのこどもに重ねます。私にはいろいろな不十分や力不足があります。神様の前に出るにはとても自信がありません。私はきっと神の国には入れないと思います。でも神様はそのような私を招いてくださいます。不十分な私を神の国に招き、礼拝に招き、そして手を置いて祈ってくださるのです。
きっとみなさんもこのこどもの一人でしょう。それぞれには不十分や力不足があるでしょう。神様の前に胸を張ることができない部分があるでしょう。誰もが、自分は神の前にふさわしいという自信を持つことはできません。でもそんなあなたを、イエス様は神の国に招き、礼拝に招き、手を置いて祈ってくださるのです。
もちろん教会に集うこどもたちも、同じです。神様の前にふさわしいとは思えないかもしれません。でも神様は、こどもたちこそ神の国に招き、礼拝に招き、抱き上げて、手を置いて祈ってくださるお方です。
今日集った私たちは、大人もこどもも皆、この物語にでてくるこどもです。ほんとうは不十分だけど、神様に招かれて集いました。年齢も考え方も違う私たちの共通点、それは互いに不十分だということです。そしてこのような者こそ神様に招かれているのです。
イエス様はこのように、こどもを、私たちを招き、抱き上げて、喜んでくださるお方です。私たちはこの仲間と共に礼拝をしてゆきましょう。神様に招かれた者として、礼拝を共にしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。私たちは不十分なお互いを大切にする教会です。そこに神様の招きがあると信じ、共に礼拝をしましょう。そしてどのようにすれば、よりよく共に礼拝できるかを考え続けてゆきましょう。イエス様が集まった人を喜び祈ったように、私たちも集えたことを喜び互いに祈りましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に集えたこと、またYouTubeでも共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝しましょう。
また、コロナでなかなかできなかった「証し」を聞くことができ、本当に感謝です。互いの声に足を止め、聞いてゆくことは、大切なことです。私たちは互いの言葉を聞くことによって互いを知るだけではなく、お互いの言葉を通じても神様に出会うことができるからです。特に沖縄からの声は私たちの耳にはあまり届いていないでしょう。私たちは沖縄からの声を聞き逃しているでしょう。私たちが今日、仲間の言葉と沖縄からの声に耳を傾け、立ち止まって考えることができたことに感謝します。
今日は平和祈念礼拝です。これまで平和をテーマに1ヶ月間宣教をしてきました。先週は平和とは、あきらめず叫び声をあげてゆくことだと聖書から見てゆきました。息子の病からの癒しを願う父親のように、「救ってください」と叫ぶように、平和を叫び求めてゆきたいと聖書を読みました。今日聖書から見ることは、それとは反対のことかもしれません。平和とは、小さな声に耳を傾けてゆくことなのだということを見ます。平和とは声にならない叫びを聞いてゆくことです。平和を願っていても、言葉を取り上げられている人がいます。平和を願っていても声を出せないでいる人がいます。平和を願っていても声を出しづらい人がいます。周りの大きな声に遮られている人がいます。
私たちは平和を願う小さな声に耳を傾けたいのです。平和とは少数者や小さな声が大切にされることです。大きな声、社会全体の雰囲気に流されないようにしたいのです。今日は立ち止まり、声を聞くイエス様を見てゆきましょう。そして新しい道を示して下さるイエス様をみてゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。
今日はマルコ10章46節~52節の物語を読みました。バルティマイという視覚障がいを持っている人が登場します。当時は(今も)障がいを持っていると激しい差別を受けました。そして必要な福祉は提供されず、経済的にも困窮をしていたのです。バルティマイもそうでした。46節彼は道端に座って物乞いをしなければ生きてゆけなかったのです。彼の居場所はどこにもありませんでした。彼は道端にしか自分の居場所を見つけることができなかったのです。道端へと追いやられていたのです。社会からはじき出されていました。彼がすぐに必要としていたのは何より、今日寝る場所、今日の食べる物だったでしょう。そのために物乞いをせざるを得ませんでした。
バルティマイはイエス様がこの道を通る聞きました。そしてある言葉を叫んだのです。イエス様に一番初めにしてほしい、具体的な行動として求めたことを叫びました。しかし彼の叫びは「施しをください」や「治してください」という叫びではありませんでした。彼は「わたしを憐れんでください」という叫びだったのです。これは驚くべきことではないでしょうか?彼はイエス様に呼びかける時、何よりもまず「憐れんでください」と叫んだのです。
憐れむというのは難しい言葉ですが、聖書の元の言葉では「憐れむ」という意味以外にも、同情する、慈しむという意味があります。それは具体的に「私に同情し、憐れみ、慈しんでくれ」という叫びです。私がもし憐れむという言葉を自分の言葉に置き換えるとするなら「自分の気持ちを分かってもらう」それが憐れんでもらうという意味でしょう。「憐れんでください」という叫びは、「私の気持ちを分かってください。どうか私が、今までどんな気持ちで生きて来たのか、聞いてください、分かってください」そんな叫び声だったのではないでしょうか。誰もが彼を無視し、通りすぎ、彼が声を上げてもかき消されてしまったのです。彼はそのすべての気持ちを「憐れんでください」という言葉に込めて叫んだのです。
聖書にはその時、周囲がどのように反応したかも残しています。48節「多くの人が叱りつけて黙らせようとした」とあります。なんと群衆は黙らせようとしたのです。障がいをもった人、弱さを持った人、道端に追いやられている人が救いを求めて叫んでいる状況です。それを叱りつけ、黙らせようとする、冷徹な反応です。
「気持ちを分かってほしい」と言う叫びは群衆には、全く聞こえていませんでした。群衆は聞こうとしていませんでした。周囲の人々、それは社会と言い換えてもいいかもしれません。この目の見えない人は、社会から無視され、社会の隅に追いやられていたのです。そして彼は社会に必死に声を上げました。しかし社会はそれを聞こうといませんでした。それどころか社会から黙れと恫喝さえされたのです。この場面はそのような冷たい社会が描かれています。小さな声を聞かない社会が描かれています。そのたびに彼は「だれも聞いてくれない」「だれも分かってくれない」と孤立感を味わったでしょう。でもだからこそ彼はもっと大きな声で叫びます。「今度こそ、今度こそ、きっと分かってくれる人が来る」「私の前を通る」そう期待して彼は叫んだのです。
そして多くの人が通りすぎる場所でイエス様は立ち止りました。49節「イエスは立ち止まって」とあります。イエス様はそこに足を止めたのです。誰も足を止めなかった場所でイエス様は足を止めるお方です。そしてイエス様が黙らせたのは、バルティマイではなく、その叫びを遮ろうとする群衆でした。そして道端から、社会の隅から、彼を自分の前に連れてこさせました。神の前に呼び出すのです。そしてイエス様は51節「何をしてほしいか」と尋ねます。これは今までの群衆の反応、社会の反応とは全く正反対の行動です。イエス様だけが、彼に足を止めたお方です。イエス様だけが彼を呼び出したお方です。イエス様だけが、その話を聞こうとしたお方でした。
彼はようやく本当の願いを口にすることができました。本当はずっと願っていたことがあったのです。彼は51節「目が見えるようになりたいのです」と言いました。重い一言です。「目がみえるようになりたい」それは今までの彼の人生の苦労が凝縮された言葉です。障がいをもち、困窮し、無視され、黙らされていた、彼は本当の願いをようやく言葉にすることができました。それこそがもうすでにイエス様が起こした奇跡と言えるでしょう。聖書によれば、52節彼はすぐに見えるようになり、イエス様に従ったとあります。
この物語をどのよう理解しましょうか。私はただの奇跡物語としてだけではなく、イエス様の生き方をここから学びます。私たちは誰かに「わかってほしい」そう思うことがあるものです。本当は今こんな気持ちでいる。こんな出来事があった。誰かにそれを「わかってほしい」という叫びは私たち一人一人の中にもあるのではないでしょうか。
そして本当は私たちの周りにも「わかって欲しい」と叫んでいる人がいるのではないでしょうか?彼らはきっと私たちに、何かをすることよりも、まず先に「憐れんで欲しい」「わかって欲しい」そう思っているのではないでしょうか?
私たちは、それを今日の個所のような無視をする群衆となっていないでしょうか?どなって声をかき消す群衆の一人となってはいないでしょうか。私はもう一度苦しみの声を聞こう、そのために立ち止まりたいと願います。かき消されてゆくその声に耳を傾け、足を止めて、共感し、突き動かされて、行動する。イエス様のようなそんな人間になりたいと思うのです。
私たちにとって今日の個所から知る希望とは何でしょうか?それは、私たちの神様は苦しみに足を止めて、共感し、わかって下さるお方だということです。そして神様は私たちの目を開き、新しい人生に送りだして下さるお方だということです。私たちには人生の中で傷つき、誰にも理解されないことがあります。でも私たちは神様に「憐れんでくれ」「わかってください」と祈ることができるのです。それが今日の個所の希望、福音ではないでしょうか。神様は私たちの声に立ち止まり、聞いてくださるお方です。私たちがこの福音を生きてゆくとはどんなことでしょうか?イエス様のように生きるとはどんなことでしょうか。それは多くの仲間が持つ、社会の中にある「憐れんでください」「わかってほしい」という叫びに立ち止まって、聞くこと、聞き取ってゆくことではないでしょうか?
個人個人の願いがあるでしょう。それに足を止め、互いの言葉を聞いてゆきましょう。そして平和を求める声があるでしょう。平和を求める声は小さくさせられています。どこの国が危ない、どこの国が攻めてくるという大きな声に、日本人は平和ボケしているという大きな声があります。しかし私たちは平和を願う小さな声に、立ち止まって、聞いてゆきましょう。その声は特に沖縄から聞こえてくると思います。沖縄の基地を抱える痛みが黙らせられ、かき消され、本土の私たちに聞こえないようにされているでしょう。私たちはその声にしっかりと足を止めて、聞いてゆきたいのです。沖縄から聞こえる平和を願う声に耳を傾けたいのです。小さな声を聞いてゆきたいのです。様々な場所からの平和への思い、その声を聞いてゆきたいのです。今日私たちは平和祈念礼拝を持っています。共に平和を祈ってゆきましょう。大きな声ではなく、平和を求める小さな声に立ちどまり、聞いてゆきましょう。イエス様がそのよう歩んだお方です。イエス様は立ち止まり、声を聞いてくださるお方です。この方に従いましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に、み言葉に出会ってゆきましょう。また特に今日はこどもが登場する場面です。このみ言葉を通じて、神様に出会ってゆきましょう。
1ヶ月間、平和をテーマとして宣教をしています。この教会は平和を祈り続けてきました。平和への祈りは、この教会が始まった時からの祈りです。長尾先生も川上先生も熱心に平和を祈った先生でした。教会はこのようにして、平和をあきらめずに祈ってきました。私たちの教会は平和をあきらめずに祈り続けてきた教会です。
そして同時に、私たちは平和への無力さを繰り返し感じてきたとも言えるでしょう。私たちが祈る間にも、たくさんの戦争が起きました。平和を祈っても、世界はなかなか平和にならないのです。私たちは戦争が起きるたびに、神様がいるのにどうして戦争が起こるのだろうか?神様は本当にいるのだろうか?そう神様を疑ってきた私たちです。特にウクライナの戦争に衝撃を覚えています。平和を祈っても、なかなか戦争は終わりません。しかし、それでも私たちは平和を祈ります。目を背けたい現実をしっかり見て、祈り続けてゆきたいのです。
平和を祈っていくことは教会の大切な役割です。憎しみや衝突に対して暴力ではなく、愛と和解、感謝すること伝えてゆくことが教会の役割です。殺すのではなく、命をはぐくむことを訴えるのが、教会の大事な役割です。私たちは争いが続くこの時代にあって、あきらめずに平和を祈ってゆきましょう。平和を訴えてゆきましょう。自分自身の平和、家族の平安、心の安定の祈りも大切です。でも私たちはそれだけではなく、世界の平和、東アジアの平和、この地域の平和、隣人の平和も祈ってゆきたいのです。自分自身の平和のためだけではなく、他者の、周囲の平和を祈ってゆきたいのです。
私たちが平和を祈り続けることができるのは、毎週の礼拝を通じて、み言葉を通じて、祈りへと導かれるからです。神様から希望をいただくから、私たちは平和をあきらめずにいられるのです。平和について祈るのをやめるようにする力、平和をあきらめさせようとする力こそ悪霊の力です。悪霊とは私たちに平和をあきらめろ、あきらめろと誘惑をします。戦争もしょうがないと誘惑します。私たちは悪霊に負けず、どんなときも平和を祈ることをあきらめないでいたいのです。
教会にはたくさんの、あきらめない祈りがあります。戸が開くまでたたき続けるような祈りがたくさんあります。周りには無理と思える祈りを、粘り強く続けている祈りがあります。周囲は共に祈ることが大切です。それは、きれいな祈りではなくてよいのです。疑い半分でもよいのです。私たちの平和の願い、言葉にならない叫びを神様にささげてゆきたいのです。
今日は聖書から祈りをあきらめないこと、神様はあきらめず祈ろうと私たちを励ましているということを見たいと思います。今日の聖書から平和への祈り、他者への祈りをあきらめず、励ますイエス様の姿を見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。
今日の個所の少し前の個所で、イエス様は山の上におられました。そこで光り輝く姿、栄光の姿に変えられたのです。しかしイエス様はその山の上から下って来られました。イエス様は聖なる場所から、下って来られるお方です。イエス様は高い聖なる場所から人々が議論し、争う場所にやってこられたのです。
群衆は驚いたとあります。群衆にとって山から下ってこられたこと自体が驚きだったのです。山の上にいるはずの方が、この地上に来たこと、争いの現場に来たこと自体が驚きだったのです。それは私たちが争いあう現実の世界にイエス様が来て下さるということも示しているでしょう。
山の下でイエス様は悪霊と出会いました。悪霊の力とは、その人をしゃべれなくしました。悪霊は自分の思いを口にさせない力を持っていました。そして悪霊の力はその身体を傷つけ、引き倒します。体を硬直させ動かないようにさせます。人を死んだようにさせる力でした。弟子たちはこの悪の力を追い出すことができませんでした。このこどもをその悪霊の力から自由にすることができなかったのです。弟子たちの力ではできなかったのです。
イエス様は20節で弟子たちに「私のもとに連れてきなさい」と言います。そうです、弟子たちの役割はイエス様になることではありません。弟子たちの役割はイエス様のもとに連れてゆくことです。私たち弟子の役割は、伴って、手を取って、友人を、こどもをイエス様へと連れてくることです。
イエス様は21節「いつからか」と尋ねます。父親は「幼いころから」だと答えます。いろいろな病院を回ってもこどもの病名がわからない親を想像しました。次こそ原因がわかる、そう希望をもって次の病院を訪ねるでしょう。しかし原因は分からず、そのたびにがっかりして帰るのです。この父親もそうだったでしょう。いろいろな場所で、いろいろな人に見てもらいました、祈ってもらいまいた。しかしすべて駄目でした。今回もほらまた弟子たちに祈ってもらったけれど治りません。父親はもう期待することに疲れていたでしょう。あきらめかけていました。気力の無い言葉が続きます。22節の趣旨は「もしあなたにまだ何かできることがあれば、してください」そう、あきらめながら尋ねたニュアンスを持ちます。
イエス様も父親があきらめかけていることを感じたでしょう。悪霊はとはそのような力を持っています。悪霊とはあきらめさせる力です。祈りによって病気が治るのかどうかはわかりません。しかし、ここで病気以上に悪霊の力とされているのは、あきらめてしまう力です。人をあきらめさせようとする力です。もうダメだ、そうあきらめさせるのが悪霊の大きな力なのです。父親は悪霊に負けそうになっていました。あきらめさせる力に負けそうになっていた、あきらめかけていたのです。
イエス様は23節「信じる者は、なんでもできる」と言います。本当になんでもできるかどうか自信はありません。でも信仰、つまり神様への信頼があれば、祈り続けることができるでしょう。あきらめず祈り続けてゆくことできるでしょう。あきらめず祈り続けることが信仰なのです。私たちはすべてが可能となるときまで、あきらめずに祈ることができるのです。
父親はこれにすぐに答えます「信じます!」「神様を信頼し、あきらめません」と答えたのです。信じることができず、あきらめそうになってしまう私を救ってくださいと言ったのです。父親が「私を」救ってくださいと言ったことも大事なことです。彼は息子を救って欲しいと願うと同時に、「私」の救いも祈ったのです。この「私」に息子のことを祈ることを、あきらめないようにさせてください、そう願ったのです。
父親の言葉は24節「叫び」でした。その願い、その祈りは叫びだったのです。私たちもそのように祈っていいのです。祈りは叫びです。叫びが祈りです。美しい言葉にならなくてよいのです。祈りは叫びなのです 。
そしてこれは息子自身の祈りではなかったことも見ておきましょう。イエス様が見ているのは、周囲の人々の祈りなのです。周囲の大人の祈りです。周囲の大人のあきらめない叫びが、神様に届いたのです。
そして25節、イエス様は悪霊をしかりつけて追い出します。その子の持つ願いを黙らせ、引き倒した力、周囲をあきらめさせ、絶望させた力、その力をイエス様は追い出したのです。そしてそれは祈りによって起こるのだと言います。あきらめさせるのが、悪の力です。祈り続けることがそれに勝つことなのです。祈ることがあきらめを追い出すのです。イエス様はこの物語からこの希望を教えてくれています。私たちがあきらめそうになる時、そのことをもう一度祈れ、あきらめるな、祈りよってこそ、このあきらめは追い出すことができると言っています。
私たちは何かをあきらめそうになっているでしょうか。私たちはあきらめずに祈り続けたいのです。特に平和について祈り続けましょう。私たちには何度も戦争が起きて、何度も平和をあきらめそうになってしまいます。戦争を見て、いつも祈っているのに、また戦争が起きてしまったとがっかりします。でも私たちはあきらめずに祈りたいのです。祈ることであきらめない力をいただきたいのです。悪霊の力はいつも、私たちをあきらめようとさせます。そんな願いはかなわないと誘惑し、平和をあきらめるようにささやき、私たちを黙らせ、引き倒すのです。私たちはその悪霊を追い出すように祈りたいのです。父親の祈りが叫びだったように、私たちも祈り叫びましょう。声をあげましょう。平和が欲しいと神様に叫びましょう。
そして実はイエス様も叫んだお方です。十字架の上で「わが神わが神なぜ見捨てるのか」と叫んだのは、イエス様でした。イエス様こそ暴力のただなかで平和を求めて叫び、神に祈ったのです。その祈りを私たちも祈りましょう。暴力が満ち溢れる世界の中で、あきらめずに平和を主に叫び願ってゆきましょう。今日の聖書によれば、本人以上に、周囲の人の祈りが大事です。大人たちの祈りが大事です。私たちは互いのこと、こどものことを主に叫び祈ってゆきましょう。平和のために叫び祈ってゆきましょう。
このあと主の晩餐を持ちます。この杯は十字架の主が流した血を象徴します。イエス様が血を流し、叫び、平和を祈られたことを覚えてこの杯をいただきましょう。そして私たちも叫び、平和を祈りましょう。お祈りいたします。
私は、東京バプテスト神学校から参りました小平公憲と申します。所属教会は横浜ニューライフバプテスト教会です。今日このように宣教の機会を与えてくださった、平塚バプテスト教会の皆様と平野先生に深く感謝いたします。また、普段から東京バプテスト神学校のためお祈りとご支援をたまわりありがとうございます。
神学生ということで、若い青年が来るのかと思われた方もいらしたかもしれませんが。残念ながら、私はもう還暦を迎えたおじいちゃんかもしれません。私には何もできませんが、残りの人生を神様のために捧げられたらという思いで、献身を決意し4年目を迎えました。
ここで、東京バプテスト神学校について紹介させていただきます。東京バプテスト神学校は、誰でも学べる学校です。大学のような試験はありません。面接があるだけです。もちろん通学することもできますが、インターネットによるライブ授業、録画によるデジタル教材など、時間と空間を超えて、コロナ禍においても安心して授業を受けることができます。私の受講している授業でも、北海道から九州まで同時にライブ授業を行っています。働きながらでも、子育てや介護を行いながらでも学ぶことができます。神学校で学びたい方、お知り合いの方などに、ぜひ、ご紹介していただければと思います。
宣教のメッセージに入る前に、私のことを知っていただくため、簡単に証しをさせてください。私は小学校4年生の時にある大学生の青年に家庭教師に来てもらい、勉強を教わることになりました。その方は20歳の青年で、クリスチャンではありませんでした。求道中の彼は、やがてクリスチャンとなり、聖霊の働きとしか言いようのない不思議なことがたくさん起こりました。私は、彼からイエス・キリストを教わり、受け入れたのです。彼は自分の志を180度変え、西南学院大学神学部へ進み、牧師を目指すことになったのです。その後私は高校大学へと進学し、教会から離れてしまい、暗澹たる生活を送っていたのです。
私は真剣に「神様私を救ってください。神様私をどのように救ってくださるのですか。」と、祈り続けました。
私は大学卒業後、中学校の先生になったのですが、躓いてしまい、にっちもさっちもいかなくなり、あるバプテスト教会に救いを求め、飛び込みました。その教会では、80過ぎの牧師先生が杖を突きながら講壇に上がっていました。やっと通い始めた教会でしたが、牧師は高齢のため1か月ほどで引退し、無牧師になってしまいました。しかし、その6か月後に赴任した新牧師は、私の家庭教師であったあの大学生の青年だったのです。
私はイエス・キリストを教えていただいた、自分の家庭教師からバプテスマを授かることになったのです。このようなことが起こる確率は、宝くじの一等に当たる確率より低いことを知っています。宝くじに当たった方がよかったですか?私は宝くじに当たるより救われたほうが、はるかに幸せで、良かったと思っています。
次に「イエス様は本当に優しい王様」という題でメッセージを致します。話は飛びますが、最近読んだ本でユヴァノ・ノア・ハラリの21Lessonsという本があります。4~5年前になるかもしれませんが、彼は。サピエンス全史という本を著し、大変話題になりました。その本は全世界で600万部以上売れたそうです。私は結構ハラリの本にハマっています。ハラリはユダヤ人の歴史学者であり、哲学者なので、聖書やユダヤ教のことにもとても詳しいです。
ハラリは、人類の歴史を動かしてきたものは3つあるといっています。『帝国主義』、『貨幣』つまりお金です。そして、『宗教』です。この3つは、何千年もの間、人類を支えてきた仕組みであると言っています。いま、ウクライナ戦争が起こっていますが、これも極めて帝国主義的な様相を示しています。
イエス様の時代も、イスラエルはローマ帝国という帝国に支配・占領されていました。当時のユダヤ人は、この帝国主義から解放してくださる真の救世主を待望していました。この救世主は、ダビデ王やソロモン王のように強いリーダーシップで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかし、目の前に現れた救世主のイエス様はそのような力強さを持った方ではありませんでした。ユダヤ人は自分たちの待ち望む救世主のイメージからかけ離れていることを理由に、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と言って、イエス様を十字架につけてしまったのではないでしょうか。
総督ピラトは大した人ではなかったと言われていますが、でも、彼はイエス様の本質を見抜いていました。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。つまり、ピラトは、イエス様を本気でユダヤ人の王と考えていたのです。そのことは、300年後に証明されます。有名なことですが、ローマ帝国はキリスト教を受け入れ、キリスト教国になるのです。当時の言葉でパックス・ローマ―ナという言葉がありますが、それはローマ帝国の繁栄を表す言葉です。つまり、当時の世界を覇権していたローマ帝国。当時の世界一の国です。
その国が、従属国の大工の子であるイエス様を受け入れたのです。そんなことが世界史の中で他に例があるでしょうか?歴史学者のハラリも「不思議なこと」という言葉を使って、このことを表現しています。この説明は「本気でイエス様に聞き従った人々」と「神の計画」によってなったとしか言いようがないのです。当時のユダヤ人たちは、イエス様を救世主である王とは認めませんでした。でも、ピラトが言った通り、イエス様の説いた教えは、ある意味ローマを征服したのです。これはすごいことです。一つの宗教が覇権帝国主義を凌駕したのです。彼こそ真の王ではないでしょうか。その方法は、武力や力ではありませんでした。彼の武器は、愛と恵みでした。
最近、キリスト教会が、元気がないという話をよく耳にします。日本だけではなく、諸外国でも、教会の衰退が話題になります。ウクライナ戦争を見ても、ウクライナとロシアというキリスト教国同士が戦争をしています。私は、キリスト教や教会が衰退する原因は、ずばり「人がイエス様に聞き従わない。」からだと思います。別な言い方をすると聞き従うようなふりをして「イエス様に背いている。」からだと思います。私も4年前に、仕事を早期退職して、東京バプテスト神学校へ入学し、実家で両親の在宅介護を始めました。最初は信仰に燃え、仕えるものとして、イエス様に聞き従って、「私はできる。」と自信満々でした。しかし、両親の衰えが進むと、介護が大変になり、身体が悲鳴を上げ、自分を優先するようになりました。両親に不平を言ったり、怒鳴ったりしました。とどのつまりが、両親の介護度も上がり、自分では面倒を見切れない状態になってしまい、施設に預ける決断をしました。あのペテロのように、私には自信があったのです。しかし私は、イエス様に聞き従うことができない自分を、認めざるを得ませんでした。私は、あのペトロのように激しく泣きました。「私はあなた様の靴の紐を説く値打ちもないものです。」、と。
しかしイエス様は、そんなダメ人間が大好きです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」本当に彼は優しい方です。このヨハネの福音書の続きにも、あの挫折したペトロに、復活したイエス様は、もう一度「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。私たちは、イエス様に近づこうとしても、なかなか近づけないダメ人間です。また、世の中でもたくさん失敗や挫折を味わいます。でも、イエス様はそんな私たちに再び声をかけてくださり。私を愛しているか?と優しく聞いてくださり、私の羊を飼いなさいと言ってくださるのです。イエス様には、どうしてこのようなことができるのでしょうか。それは、イエス様が私たちの代わりに死んでくださったからです。確かにその方の十字架の上には、「ユダヤ人の王」と書いてあったのです。つまり、私たちは、この王様によって「赦された罪人」なのです。真の王であるイエス様が、今日も私たちを優しく取り扱ってくださるのです。帝国主義を凌駕するイエス様の方法は、この愛と恵みです。私たちも、この愛と恵みという方法で、再びイエス様の羊を探し出そうではありませんか。お祈りいたします。
天の神様、あなたの聖名を讃美いたします。
あなたがイエス様を遣わしてくださったことを感謝します。
私たちは、自己中心的な存在です。でも、イエス様の人格に触れる時、私たちは生まれ変わることができます。どうか、私たちの中心に居座る自分自身をイエス様に明け渡すことができますように、あなたが導いてください。
私たちがイエス様という王様に「赦された罪人」として、イエス様に聞き従うことができますように。
復活したイエス様は今も生きて共にいてくださることを感謝いたします。
あなたの守りがとこしえにありますように。
この祈りをイエスの聖名によりお祈りいたします。
アーメン
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの平和の足音を聞きながら礼拝をしましょう。
今月は平和について考えています。平和とはただ戦争が無い状態を指すのではありません。聖書の平和とはひとつひとつの命が大切にされ、輝いていることです。聖書の平和から、私たちのこの日本を見渡すと決して、平和とは言えないと思います。平和は命を大切にすることから始まります。命を壊すのではなく、愛し、育てることから平和は始まります。平和は命への慈しみをもつことから始まるのです。
先日、私は近所の方から、植物の苗をいただきました。それはどんぐりの種から芽が出た苗でした。ドングリが二つに割れて、そこから芽が出ている苗でした。どんぐりから芽がでているのを始めてみたので、とてもうれしい気持ちでそれをいただきました。
その方の自宅のお庭も見せてもらったのですが、そうするとアジサイの挿し木がたくさん並べてありました。アジサイの枝を切ってまた新しいアジサイの苗を作っておられたのです。お庭を見ていて、どんぐりの苗を見ていて、その方の命に対する姿勢、命に対して慈しみを持っていること、命に対するあたたかいまなざしを感じ、感動して帰ってきました。どんぐりは公園にたくさん落ちているけど、あのどんぐりは、本当はこんな素敵な命なのだということを教わりました。
そんなことを考えていると、どんぐりの背比べということわざを思い出しました。そのことわざの意味は「どれも代わり映えのしない、ぱっとしない者同士が競い合っている様子。突出した者がいない様子」という意味です。よくよく考えると、ひどいことわざではないでしょうか。本当はひとつひとつ違う命です。確かにそこから芽が出る命です。しかしその命と、命の小さな違いを見逃し、まるで見下して、笑っているようです。
どこかこのことわざは、自分はどんぐりとは違う場所に居て、上に立ち、二人を比較し、評価するという視点を持っています。2つを見下す視点です。そして大きな違いがないことを笑っているように感じます。でも、どんぐりは命です。どんぐりも競い合っていいではないですか。どちらも大した違いがないと言われるが筋合いはありません。同じ様に見えて本当は全く違うはずです。2つの命の小さな違いが大事なのではないでしょうか。どんぐりは、小さくて踏みつけられそうな命です。違いがない、個性がないと笑われる命です。私はそんなどんぐりをひろって育てる、命をはぐくむ者でありたいと思いました。捨てられてしまうどんぐりに命を見出し、温かいまなざしを注ぎたいのです。
命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。この命を大切に思うことが、平和の始まりです。競い合ってよいのです。私はこう違うということを、どんぐりの背比べをしても良いのです。
大事なのは何を競うかです。相手を自分の下に置いて、評価し、笑うこと、命に差をつけること平和ではありません。私たちはそうではなく、この命をどれだけ大切にできるのか、命への慈しみを競いたいのです。命を大切にする人を見て「ああ、私もあの人のように、あの人よりもっと命を大切にしたいと思う」そんな競い合いをしたいのです。
それがたとえどんぐりの背比べのような違いでも、私たちは少しでも命を大切にするまなざしをもって生きる、そのような群れになりたいのです。その命の慈しみから平和が生まれてくるのです。
今日は聖書で競い合う弟子を見ます。誰が一番、偉いかを競うどんぐりの背比べです。しかしイエス様はその競い合いを、この命をどれだけ大切にできるかという競い合いに変えるお方です。イエス様はどちらが偉いかを競い合う弟子に、この命を大切にする様を見せました。今日私たちはイエス様の命への慈しみ、まなざしを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。
今日の聖書はマルコ9章33節~37節です。イエス様と弟子たちはカファルナウムのある家に滞在することになります。そこでイエス様が弟子たちに聞きます。「途中で何を議論していたのか?」弟子たちは口ごもってしまいます。帰り道で自分たちの中で誰が一番偉いかを決めようとしていたからです。自分たちに序列をつけようとしていたからです。
イエス様はそのような弟子12人を呼び集めて言います。35節「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。ここで注目をするのは、イエス様は競い合うことはやめなさいとは言っていないことです。「いちばん先になりたいのなら」と、競い合うこと自体は否定しないのです。お前たちが頑張ってもどうせ、どんぐりの背比べだとは言わないのです。私たちは競い合ってよいのです。私たちには切磋琢磨という言葉があります。私たちは競い合い、励まし合い、お互いを高め合うことができるのです。
イエス様は「先になりたい者はすべての者の後になり、仕えるように」と言います。イエス様はまず「すべての人の後となるように」と言っておられます。後になるとはどんなことでしょうか。それは先を競うのではなく、後を競うということでしょう。競うのは、自分が先に行くことではなく、自分が後ろ行くことです。大事なのは後ろに目を向けてゆくことです。
後ろの人とは、どんな人のことでしょうか。集団について来れずに遅れてしまう人のことでしょうか。いつも後回しにされてしまう人の事でしょうか。早く走れない人のことでしょうか。他にどんな人が後になっているでしょうか。この世界で、私たちの住む町で、生活の中で、教会の中でどんな人が後になっているでしょうか?
イエス様は私たちにすべての人の後になりなさいと言っています。すべての人の後になるとは、いつも後回しになってしまう人たちに目を向け、手を取って共に歩んでゆくことでしょう。イエス様はそのことをする人が偉いと言います。先になりたいなら、置き去りにされてしまう命を大切にし、命をはぐくむことが大事だと言ったのです。それが「すべての人の後になる」という意味です。
そして36節を見ましょう。私にはこの個所、この中で誰が一番偉いかという競争に、イエス様も参加したように見えます。一番偉いとはどんなことかをイエス様ご自身が示したのだと思います。その様子が36節に書かれています。当時はこどもの命とは、今よりずっと大切にされない命でした。いつも大人優先で、後回しにされてしまう命でした。こどもの命は親の所有物だったのです。
イエス様はここでどんな人が偉いかを具体的に示そうとします。それは自分が先になることではありませんでした。イエス様が示したのは、いつも後回しにされてしまいそうな命をかえりみることでした。そしてイエス様の動作に目を向けましょう。イエス様はこどもの手を取りました。手をつないだのです。それはその命に対する慈しみであり、思いやりであり、連帯でした。いつも後回しにされてしまう命に、足を止め、温かいまなざしを持って見つめたのです。
さらにイエス様を見ましょう。次はこのこどもを人々の真ん中に立たせたのです。隅に、はじっこに、後ろに立たせたのではありません。人々の真ん中に立たせたのです。いつも隅に追いやられ、叱られ、後回しにされるこどもを、真ん中に呼んだのです。それがイエス様の命へのまなざしです。
さらにイエス様をみましょう。次はこどもを抱き上げます。こどもを抱きしめたのです。愛をもってその命を自分の腕の中に迎えたのです。この命を慈しみをもって迎えたのです。大切だ、大事にするよ、それが相手に一番伝わる行動を起こしたのです。
これがイエス様です。これがもっとも偉いお方の姿です。私には競い合うなら、こう競え、そう言っている様に聞こえます。この命をどれだけ大切にできるか競いなさい、そう言わんばかりに、こどもを抱きしめたのです。私たちもすべての命、その命を大切にするように競い合いたいのです。手を握り、真ん中に招き、抱きしめてゆきたいのです。
そしてイエス様は最後にこう言いました。「この命を大切にすることが、神様を受け入れる事だ。」「この命を受け入れる者は、神様に受け入れられる」そう語ったのです。もちろんそれは、こどもの命だけではないはずです。後回しにされてしまう命、見過ごされてしまう命、遅れて取り残されてしまいそうな命、大した違いがないと笑われる命、物のように扱われる命、踏みつけにされる命、イエス様はこのような命こそ、受け入れるお方です。命への慈しみを持つお方なのです。
私たちもそれぞれの命に目を向けましょう。命を大切にすることが、命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。どんぐりと笑われる命があるでしょうか。どんなに笑われても、それは命です。どこにでもあるような命かもしれません。でもそれは命です。イエス様はその命を大切にはぐくむお方です。イエス様はその命と手をつないで、真ん中にして、抱きしめて下さるお方です。それがイエス様の愛です。
私たちはどんぐりのように小さいかもしれませんが、背を比べたいのです。お互いがどうやって互いの命、こどもたち命、後回しにされてしまう命を大切にできるか競い合ってゆきたいのです。
平和はそこから始まります。殺すことの反対は殺さないことではありません。殺すことの反対は命をはぐくむことです。私たちは殺さないだけではなく、命をはぐくむことを大切にしてゆきましょう。それが平和を実現させてゆくはずです。お祈りします。
みなさんおはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝します。また今日はこのあと、水遊び会も予定しています。たくさんのこどもたちが来てくれるように祈っています。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもに一番必要な平和を大切にする教会です。今日もこの礼拝で、こどもたちと共に平和を覚えてゆきましょう。この1ヶ月は平和をテーマに宣教をしています。
77年前の7月16日の夜、平塚大空襲がありました。72年前の今日は、空襲が終わり、一面が焼け野原になり、空襲の被害が明らかになってきた時間でしょうか。この中にもその空襲を経験された方、その話をよく聞いた方がいらっしゃると思います。多くの人の命が奪われたことと平和の大切さを覚えて礼拝をしましょう。
戦争は、小さなことがきっかけで起こります。小さなことに対しての気持ちが、どんどんエスカレートしていって、大きくなってゆくことで戦争は始まります。戦争は私たちの中にある小さな気持ちから始まるのです。そしてだんだん「自分たちを守るためだ」「戦争もしょうがない」そのような思いへと高まって戦争が始まってゆきます。戦争は誰か一人が始めるものではありません。一人一人の小さな思いから始まってゆくものです。小さな思いが大きくなって戦争になります。戦争は悲惨です。戦争こそもっとも大きな「罪」と言えるでしょう。
そして小さなことが大きくなってゆくのは、平和も同じです。平和もだれか一人が実現させるものではありません。平和はみんなの小さな「平和は大切」「戦争は嫌だ」という気持ちから、どんどん広がってゆきます。平和は大事さを確認しあうことで、広がってゆきます。そのように小さな平和の気持ちがどんどん大きくなって、広がって、世界の平和が実現してゆきます。だからこそ小さくても、私たちが平和を求める気持ちを持っていることが大切です。
私たちは小さな平和を持ち寄って、大きな平和を実現させてゆきましょう。すぐに世界の平和を実現させることはできないかもしれません。でも何かお互いの平和につながることはできないでしょうか?小さなことが大事です。ちゃんと挨拶をする、いつもしてもらっていることに感謝を伝える、落ち込んでいる人に励ましの言葉をかける、困っている人と分かち合う、ゆっくりと話を聞く、こどもを大切にする・・・。私たち一人一人の生活の中で、お互いの中で、どのような平和を造り出すことができるでしょうか?大きなことでなくて構いません。小さなことが大事です。神様は平和への気持ちをきっと大きくしてくださるお方です。そして神様は全員が満たされるような平和を下さるはずです。神様は平和を実現するものとして、私たちを用いて下さるはずです。自分ができる平和に思いを巡らせて、祈ってゆきましょう。
今日は聖書から、イエス様は「戦争はしょうがない」そういう気持ち、罪を小さくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。イエス様はそういう気持ちに気を付けなさいと、私たちに注意をしてくださいます。そしてイエス様は「平和は大切」そう思う小さな気持ちを大きくしてくださるお方だということを読んでゆきましょう。イエス様は私たちの心にある小さな平和の思いを大きくしてくださるお方です。聖書を読んでゆきましょう。
今日はマルコによる福音書8章14節~21節をお読みしました。今日の個所では14節、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れています。そして16節では何かを論じ合っています。パンを忘れたというほほえましい小さな出来事が、弟子たちの間で大きなイライラに発展してゆきます。パンを忘れた責任はだれにあるのか、誰が食べて、誰が食べないのかを議論していたのでしょうか?
イエス様は15節で「パン種によく気をつけなさい」と言います。パン種とは、パンを膨らませるための、パンのひとかけらです。当時は、前に食べたパンのかけらを取っておいて新しく作るパンに混ぜ、パンを膨らませました。パン種とはどんな意味でしょうか?
聖書においてパン種は善いたとえにも、悪いたとえにも使われます。善いたとえの例は、ルカ13章21節にあります。神の国はパン種のようなものだ。パン種は一度生地の中に入り込むと、その影響を止めることはできません。どんどん膨らんでゆきます。このようにパン種は、神の国がイエス様という一人の人から、大きく広がってゆくのだというイメージで使われています。
そしてパン種は悪いイメージにも使われます。パン種は腐敗すること、罪の象徴です。ひとたびパン種がパンの中に入り込むと、小さくてもその人全体、その社会全体に影響し、全体の性質を変えてしまうというイメージです。罪や汚れが入り込むと、人間全体に影響するという意味です。
今日、パン種が具体的に何のことを言っているのかわかりませんが、悪いイメージの方で使われているのは確かでしょう。何か小さな悪いものが、自分たちに入ると、大きく広がっていくということに注意を促しています。他人を責める思いが知らぬ間に自分たちの中に入ってきて、大きくなって、私たちの自身の考え方、そしてメンバー全員の気持ちが変わってしまうことに注意しなさいと言っています。
おそらくイエス様はパンを忘れたときの、弟子たちの反応を見て、この言葉を語ったのでしょう。ほほえましい小さな出来事から誰が食べるのか、誰の責任か、そのような大きな思いへと広がっていることを見抜いたのでしょう。今、自分の中にある悪い思い、パン種、罪に気をつけなさいと言ったのです。
パン種は罪とも言い換えることができるでしょう。罪とは人を傷つけたり、人から奪ったり、人を利用したり、怖がらせたり、独占しようとすることです。そのようなことが小さくてもお互いの中で大きくなり、いつのまにかそれが当然のことになってゆくのです。
小さなパン種がパン全体を変えるように、自分たちの罪が、周囲の人々も変えてしまうのです。周囲の人を巻き込んで本当は間違っていることを、正しいこと、しょうがないことと思うようになってしまうのです。他の人もやっているし、このくらいいいやと思ってしまうのです。今日の場面で言うなら、自分がファリサイ派やヘロデ派の考え方と同じなってしまうということが起こるのです。小さくても間違った事を繰り返し見ていると、いつのまにか正しいように感じ、自分もそれをしていいと思ってしまうのです。イエス様はそのことに注意を向けています。
イエス様は自分の身近に起きている罪、人を傷つけている事に注意するようにと言っています。そしてそれがパン種のように自分の中に入ってこないように気をつけなさいと言っているのです。困った時にふと思う悪い思い、一人一人の中にあるパン種、罪に気を付けなさいと言っているのです。
ではイエス様が目を向けさせようとしているのは何でしょうか?イエス様が目を向けて欲しいのは19節「あの時パンが増えたではないか」ということです。イエス様はパンの奇跡のことを思い出させようと繰り返し問いかけています。5000人に配った時はいくつ余ったのか、4000人の時はいくつ余ったのかと聞いています。これは何を意味するのでしょうか?みなさんもパンの奇跡を思い出してください。あの奇跡は圧倒的に足りなかったもの(5つのパンと2匹の魚)が、不思議と増えて、満たされて、余るほどになったという奇跡でした。イエス様は今度は、善いものが増えるイメージを語っています。圧倒的に不足しているもの、小さな善いものが増えてゆくイメージを思い出させているのです。イエス様はここで2つのイメージを語っています。悪いものが増えることへの注意と、良いものを増やす神様の働きです。
イエス様はここで2つのイメージを語っています。1つはパン種が全体に影響するように罪が大きくならないように、気をつけなさいというイメージです。そしてもう1つは5000人の食事のように、イエス様はこれしかないと思うような小さな思いを大きくしてくださるというイメージです。ここでは神様は小さくても、少なくても良いものを大きく広がるようにしてくださると伝えているのです。
平和への思いも同じです。それぞれが持っている平和への思いはすごく小さいかもしれません。みんなを平和にするには本当に小さいかもしれません。できることは目の前の人との平和だけかもしれないけれども、でもイエス様はその本当に小さな平和を大きくしてくださるお方です。
今日私たちは小さな平和を大切にしたいのです。イエス様は「あまったパンはカゴいくつだったか」そう呼びかけ、私たちの小さな思いを大きくしてくださること、小さな平和への思いを大きくしてくださることを約束してくださっています。そして私たちは小さくても悪・罪に注意をしたいのです。イエス様は今日私たちに「パン種に気を付けなさい」と呼びかけているからです。
この世界でもっとも大きな悪、罪は戦争をすることです。戦争も小さな、戦争を容認する気持ちから始まります。私たちはそのパン種、自分の中の気持ちに気を付けてゆきましょう。
平和をもっと願ってゆきましょう。小さくてもいいのです。自分たちの目の前のことでもいいのです。平和を願って隣人と接してゆきたいのです。イエス様がきっとそれを大きくして、世界にありあまるほどにしてくれるのです。今日それを悟りたいのです。
イエス様は私たちに「悟りなさい」と呼びかけています。小さくても悪いものが大きくならないように、そして小さくても良いもがは大きくなるように、イエス様が導いてくださいます。私たちはその希望を持って、歩んでゆきたいのです。イエス様の声を聞き続けたいのです。そのように共に平和を祈って、イエス様に従って歩んでゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集えたこと、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの平和の声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。先週まで長く、こひつじ食堂と福音というテーマで聖書から聞いてゆきました。たくさんの恵みに感謝します。今日からは8月14日の平和祈念礼拝まで「平和」をテーマに聖書を見てゆきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
平和というテーマでまず思い浮かぶのは、ロシアのウクライナ侵攻についてでしょう。一日も早くこの暴力が終わることを祈っています。特に私が心を痛めているのは、キリスト教のひとつであるロシア正教の最高指導者がこの侵攻を支持していることです。ロシア正教の最高指導者・総主教キリル1世は、この侵攻を正義と悪の黙示録的戦いだ、神の加護があると積極的に支持しています 。また総主教はウクライナの人々が同性愛を認めつつあることも侵攻の理由にしています。ロシアでは現在、司祭がウクライナに出征する兵士や戦車、ミサイルに聖水をふりかけ、祝福の祈りをし、軍隊を鼓舞しています。これは聖なる戦争だ、魂の救済だと語っています。EUではこの最高指導者は経済制裁の対象にもなっています。これがロシアのキリスト教の姿です。私たちもキリスト者としてこの戦争に対し無関係ではありません。宗教が戦争・平和にどのように関わるべきかをこの戦争からも痛感しています。ロシア正教のウクライナへの侵攻の支持はこの戦争に、宗教的お墨付きを与えるという役割を持っています。戦争が宗教上、善い事だと支持された時、戦争は「聖戦」とされ、激しさを増します。そしてロシアとロシア正教の場合もそうですが、多くの場合、国家と宗教が深く結びつくことによって、宗教が国家の戦争を支持するようになります。腐敗した権力と宗教が結びつくことによって、宗教も腐敗し、平和について妥協するようになるのです。まさしくロシアで起きていることでしょう。
権力は必ず腐敗します。どんなに素晴らしい人でも権力を手にすると、変わってしまいます。その権力は、監視され続けなくてはいけません。宗教は、権力と一体になるのではなく、誤った判断をするとき、違うと大きな声で反対しなければいけないのです。そのように宗教は政治に関わらないのではなく、監視し続ける必要があるのです。宗教の本来の役割は戦争の芽に誰よりも早く気づき、平和を訴えることです。どんな戦争も支持せず、毅然と反対をし続けることです。どんなに国家・国民が熱狂的に戦争を支持しようとも、宗教は最後まで戦争に反対することが役割です。そのために宗教は国家・行政と結びつくのではなく、監視を続けることが大事です。国家が平和に反する方向に進んでいないかを監視し、訴えてゆくことが教会の大切な役割です。
だからこそ、私たちがこの礼拝の中で平和について考えることは大事なことです。宗教が戦争に反対することは、戦争を未然に防ぐことに大きな効果があるのです。戦争を防ぐための非常に効果的な方法なのです。だからこそ一緒に礼拝で、平和を願ってゆきましょう。
私たちの国でも今日は参議院選の投票日です。ぜひそれぞれの1票を平和のために投じてゆきましょう。今回の選挙では、軍事費の倍増(GDPの2%)、敵基地攻撃能力の保有を公約として堂々と挙げている政党があります。私たちは軍事力による平和を求めません。私たちは剣ではなく、鍬を選ぶのです。私たちは戦うことではなく、命をはぐくむことを選んでゆきたいのです。それぞれの大切な1票を祈り、投じてゆきましょう。
私たちは平和に関わる責任があります。平和への大きな影響力があります。政治に目を向け、今平和が実現されようとしているのか、それとも戦争が開始されようとしているのかを見極めなくてはいけません。私たちの教会は、平和について日本・世界の中で果たす大切な役割があります。
私たちの信仰告白にもこうあります「教会は地上の権威、権力に常に目を注」ぐ。今日は地上の権力に目を注ぐこと、平和を求めてゆくことを、聖書から聞いてゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。
今日の聖書箇所はマルコ6章14節~29節です。バプテスマのヨハネが殺されるいきさつが書いてあります。ある日、ヘロデはお友達を読んで、誕生日パーティーをしていました。国民から吸い上げられた税金は、国民の福祉のために使われたのではありません。誕生日パーティーのために使われたのです。パーティーには21節「高官や将校、ガリラヤの有力者」が集まりました。そこではコンサートとダンスショーが持たれています。権力の腐敗がよく表れている箇所です。蒸し返すのも嫌ですが、これはユダヤ版の「桜を見る会」です。税金で持たれた「桜を見る会」のように、権力者のパーティーに、お友達、その利権に群がる者どもが集まったのです。
腐敗した権力者はパーティーでも、失言をします。みんなの前で気持ちよくなった権力者が、自らの権力を見せつけるために口がすべったのです。ダンサーに23節「なんでもかなえてやる」と言ってしまったのです。腐敗した権力者は自分の発言が間違っているとわかっていても、取りけすことができません。自分の権力が失墜することを恐れ、決定を覆すことができません。自分の間違えを認めれば、自分の失敗を認めることになるからです。プーチン大統領が想定以上の犠牲がでても戦争をやめないのも同じでしょうか。腐敗した権力者は自分の発言や行動の誤りを認めることができないのです。ヘロデは、本当はヨハネのことを尊敬すべき宗教者だとわかっていたにも関わらず、パーティーを盛り上げるため、ダンスのご褒美とするため、そして自分の失言・失敗を隠すため、自分の権力を守るためにヨハネを殺しました。
一方のヨハネは権力者にも間違いをはっきりと指摘できる、宗教者のモデルです。彼が殺されたのは、権力者の近親婚に反対をしていたからです。彼は権力者の間違えを告発し、民衆にそれを訴えていたのです。だからヨハネは権力者たちにとって都合が悪く、殺されたのです。これも蒸し返したくありませんが、近畿財務局の赤木さんを思い出します。彼は権力の腐敗に抵抗しようとしました。命令された公文書改ざんを拒否し、抵抗をしました。しかし権力に都合の悪い者は、追い詰められ死を選ばされたのです。
この誕生日パーティーも同じです。権力者はお友達を優遇します。権力者は間違えを認めません。権力者は都合の悪い者を殺すのです。権力者にもヨハネを敬う善意があったかもしれません。しかしそれは野心と利権への妥協に飲み込まれました。権力はこのように腐敗をしてゆくのです。
今日の話はヘロデが、16節「首をはねたヨハネが復活したのではないか」とイエス様の事を恐れることから始まっています。イエス様はヘロデに、ヨハネの生き返りだと思われたのです。ヘロデはイエス様の姿にヨハネと同じものを見たのでしょう。権力者である自分を躊躇なく告発し、民衆に訴え、人々に大きな力を与えるのではないかと恐ろしくなったのです。自分の権力への危険を敏感に感じたのです。ヘロデにとってイエス様の奇跡とは、自分の権力を危険にさらすものでした。権力者にとってイエス様の奇跡はとても危険なものだったのです。その奇跡は権力への抵抗を含むものだったのです。その奇跡は人々に勇気を与えるものでした。人々を目覚めさせ、権力に変革を起こすものだったのです。
イエス様が具体的にヘロデにしたことは書かれていません。イエス様はこの後、十字架によって殺されてゆきます。イエス様は扇動された民衆とピラトによって殺されてゆきます。人々の目にさらされるように十字架にかけられてゆきます。ここでもヨハネとイエス様は重なります。
ヨハネもイエス様も権力に躊躇せず抵抗したことが重なります。そして殺されて首をさらされたように、イエス様は十字架に架けられ殺されてゆくのです。そして16節、イエス様はまさに復活したお方なのです。この16節はヨハネとイエス様の共通点が挙げられています。
私たちは今日の個所で、権力は必ず腐敗すること、権力は必ず人の命を踏みつけにしてゆくこと、どんな人間でも権力をもてば、そのようにふるまうことを学びます。そしてそれに反対をするのは、宗教の大切な役割だということを学びます。権力者がもっとも好むのは利害を共にするお友達です。そして権力者がもっとも嫌がるのは、声を上げる宗教者なのです。権力者がもっとも嫌がるのは宗教に監視されることです。権力者は宗教に口出しされるのが本当に嫌いです。ヨハネもイエス様も殺すほど、口出しされるのが嫌なのです。だからこそ私たちの教会は平和への監視を続けてゆきたいのです。それはもっとも権力者が恐れ、平和に向けて効果のあることなのです。
神様はこのようにヨハネを地上に遣わしました。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣したのです。そしてイエス様もそのように遣わしました。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣したのです。私たちもそのように遣わされています。権力に向かうように、地上の権力に常に目を注ぎ、祈るように、平和のために派遣されているのです。
私たちは平和を大切にしましょう。この礼拝で平和を考え、訴えてゆきましょう。常に権力が平和の実現に向かっているかどうか目を注ぎ続けてゆきましょう。お祈りいたします。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。マルコ6章41節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることに感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞き、感じながら礼拝をしましょう。2か月間、こひつじ食堂と福音というテーマで聖書を読んできました。新しく気づいた神様の姿があったと感じています。2月にまた地域との関わりについて取り上げてゆく予定ですが、今日がとりあえず最後です。
こひつじ食堂は、この教会は誰のためにあるのかということを教えてくれます。こひつじ食堂にたくさんの人が来るのを見て、この教会は私たちのためだけにあるのではないとうことを教わりました。この教会は地域の人のためにあるのです。私たちのためだけの場所ではないのです。私たちのためだけではなく、地域のためにこの教会は立っています。もしかすると教会はこれまで自分のことばかり考えていたかもしれないとも思います。
人をたくさん集め、教会を拡大しようとする教会があります。それは一体誰のためにしているのでしょうか。他者のためだ、神様のためだといって、本当は自分たちのためだったのではないでしょうか?自分の教会が成長し、大きくなることが第一の目的で、他者や地域をその手段・道具としてきたのではないでしょうか?教会を維持するためには伝道しかない。伝道しないと、この教会はなくなってしまう。献金が減っているから伝道する。会堂を建て替えるためには伝道しかない。神様のためだと言いながら、本当は自分たちのために一生懸命だったのではないでしょうか。こひつじ食堂は、自分たちにメリットはなくても、他者のために働くことの大切さ、他者と共に生きる大切さを、教えてくれました。神様はこひつじ食堂を通じて、自分たちの必要ではなく、地域の必要に応えてゆく大切さを教えて下さったのではないでしょうか。
今、私はこれまでとは違い、教会が必要とされている実感があります。教会が地域の必要に応えてゆく、地域が何を必要としているのかに目を向けることの大切さを思います。地域の必要に応えてゆくこと、きっとそれ自体が福音です。この働き、福音を続けてゆきたいのです。
教会が地域の必要に応えてゆくことは大切なことです。地域と困りごとを共有してゆくことが大事です。教会が地域の困りごとに一緒に向き合う時、人々は励まされ、生きる力を受け取ってゆきます。多くの人が他者のために生きることを知るようになるでしょう。
一方、人々の必要に応えない教会は、やがて役割を終えてゆくでしょう。なぜなら地域から必要とされない教会だからです。そこに建っていても、地域から孤立してゆくからです。必要とされない教会を何とか残そうと努力するのはむなしい努力です。必要とされないのに、ただ残そうとすることは空しいことです。しかしもし地域に必要とされるなら、地域が求める役割があるなら、様々な場所から残すための知恵と力が与えられるでしょう。地域から必要とされる教会はきっと残ります。神様がまだ使命・ミッションを下さっている教会は必ず残ります。しかし、神様から与えられた役割が終わった教会は必ず閉鎖します。
私たちの教会には希望も不安もあります。その時私たちは、地域の必要に耳を傾け、応え続けてゆきましょう。私たちにとって、何の得にもならなくても、疲れるばかりでも、そこからだれも礼拝につながらなくても、私たちは地域の必要に応えてゆきましょう。それが私たちの生き方です。もし神様がこれを私たちの地上での役割・使命・ミッションとしてくださるなら、私たちの教会はきっと残るはずです。
今日、このテーマで最後に見たいことは、神様は他者の必要に応えるように、私たちを導いているということです。神様は私たちに「他者のために生きよ」と語っている、そのことを見たいと思います。
今日の聖書は5000人の食事の場面です。他の福音書にも似た箇所がありますが、今日はマルコ福音書からこの物語を読みます。他の福音書でも似た記録がありますが、マルコ福音書が強調していることがあります。それは34節、イエス様が「深く憐れんだ」という事です。
聖書ではここの言葉(ギリシャ語では)は、イエス様はスプラグニゾマイしたと書いてあります。スプラグニゾマイは内臓を指す言葉です。内臓から来る強い気持ちを表します。日本語には「はらわたがちぎれる」という言葉があります。その言葉が最も近いでしょう。イエス様まさにここで、はらわたがちぎれる思いを持ったのです。イエス様には人々が飼い主のいない羊に見えました。イエス様は人々が孤独で、寂しい思いをしていることを深く知ったのです。そして人々のお腹が空いていることを、よく知ったのです。それはつまり、人々が今、何を必要としているのかを知り、自分の事の様に深く共感したということです。
一方、弟子たちも人々の必要は知っていました。お腹が空いていることは、よくよく知っていたのです。だから解散しようと言いました。それぞれの必要はそれぞれで解決するようにと考えたのです。この人々の必要を満たすのは私たちの役割ではないと考えたのです。弟子たちは深く憐れまず、スプラグニゾマイせず、共感せず、同じ痛みを感じようとしませんでした。
イエス様は37節で「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」と言います。イエス様は弟子たちに向けて「あなた方の手で人々の必要を満たせ」と言ったのです。弟子たちに、人々の必要を知り、それに深く共感し、同じ痛みを感じ、人々の必要に応えるように伝えたのです。
しかし弟子たちはやはり、自分の必要にしか目がいきません。私たちには200デナリもない、もっていてもそれに他人に全部使うわけにはいかない。私には自分の分しかない。他者の必要を満たすことに関心と意欲がなかったのです。弟子たちを攻めるのもかわいそうかもしれません。みんな自分のことで精一杯だからです。他人よりまず自分です。自分がまずしっかりしなくてはいけません。自分を守ることに精一杯で、他人の事まで手も心も回らないのです。そのことは私たちがよくわかっていることです。だって私たちには5つのパンと、2匹の魚しかないのだから。これっぽっちじゃ何もできないのです。
でもイエス様の奇跡はそこに起きるのです。自分の必要にしか目がいかない弟子に、他者の必要には応えられないと思う弟子に、イエス様の奇跡が起こるのです。そこで不思議とパンと魚は増えて、全員が満たされていったのです。
パンが増えてゆく時の弟子たちに目を向けます。41節でイエス様は「弟子たちに渡しては配らせ」ました。弟子たちは配る係をしたのです。ここで弟子たちには大きな変化が起きています。
自分の必要にしか目がいかない弟子、他者の必要には応えられないと思う弟子たちは、他者の必要に応える者に変えられたのです。自分に何もできることはないという姿から、パンを配る者に変えられたのです。それはイエス様によって起こった変化です。イエス様は弟子たちを、必要に応える者に変えたのです。
この物語は、人々は食べて満腹した、5000人もいたと終わります。物語は人々の必要が満たされて終わります。必要を満たされた人がどう行動したのかは書いていません。これによってバプテスマ者が増えたとか、群れが拡大したとか、献金が増えたとは書いていないのです。最後まで弟子たちにメリットはありませんでした。でもそれが大事なことです。これはただ弟子たちが、他者の必要に応える者に変えられたということを伝えています。他者の必要の応える働きこそ、神様の働きなのだと伝えています。それができることが奇跡なのだと語っているのです。他者の必要に応えればメリットがあるという話ではありません。他者の必要に応えること、それ自体が与えられた役割だったのです。
私たちもこの弟子になりたいのです。他者の必要から目をそらすのではなく、他者の必要に応える者となりたいのです。自分の分さえ足りない私たちだけれど、でも他者の必要に応えてゆきたいのです。私たちには必ず奇跡が起きて、それができるはずです。
これから私たちは主の晩餐を持ちます。今日の41節は主の晩餐にも重なる箇所です。天を仰いで、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、渡すのは主の晩餐と同じ言葉遣いです。私たちもこの食事にあずかる者です。そして配餐、弟子がパンを配る奉仕に目を向けます。私たちの教会では主の晩餐の時、誰か直接、一人一人に配ったり、皆さんが一人ずつ前に出てきてパンをもらう形式をとりません。信徒の方2名がお皿を受け取って、みなさんに配るという形式を持ちます。これは受け取ったものを配るという奉仕が大切であることを表しています。弟子が皆に配ることが大事なのです。配餐の奉仕はただ配る係ではなく、他者の必要に応えるように変えられた弟子たちの象徴なのです。
私たちはこれから、パンと杯をいただきます。これは他者の必要を満たすことの大切さを覚えるために持つものです。私たちには自分の分しかないけれど、でも他者の必要に応えることができる、奇跡が起きる、そのことに信頼し、このパンと杯をいただきましょう。神様はきっと他者の必要を満たすということを私たちの教会の使命、一人一人の使命としてくださるはずです。私たちは地域の必要に耳を澄まし、必要に応える教会でありたいと願います。他者の必要を聞き、それに応える一人一人でありたいと思います。その時、神様の奇跡が私たちに起こるはずです。きっとできないと思っていたことが、私たちに起こる、できるはずです。それがこひつじ食堂ですでに始まっていることではないでしょうか?そこに希望を持ちましょう。お祈りをいたします。
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた
マルコによる福音書6章4節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。5月・6月と「こひつじ食堂」と福音について考えてきました。この食堂は私たちの会堂を会場にして行われる、誰でも歓迎の食堂です。1食200円でお腹も心もいっぱいになれる食堂です。「こひつじ食堂」と福音というテーマは今日と来週の1回で終えようと思っています。振り返ると、聖書のたくさんの個所が「こひつじ食堂」に重なる、つながる部分があったことを見てきました。「こひつじ食堂」は、とても聖書的な活動なのだと感じています。
「こひつじ食堂」を始めて近隣の方々のこの教会への注目度が上がっているのを実感しています。これまで多くの人が、自分と教会は関係ないと思っていました。しかし旗を立てて、食事を出し始めると多くの人が「教会が何か自分と関係があることをしている」そう思うようになりました。教会を身近に感じてもらえるようになってきました。
私は食堂の日も玄関に立つのですが、私が牧師ですと言うと驚かれます。牧師がエプロンを着た普通のおじさんだからです。牧師というと髭の生えた、カラーのついた服を着ている、白髪のおじいさんのイメージでしょうか。驚く相手からは「牧師が普通の人間だ」という表情が伝わってきます。食堂を通じて、教会のイメージが変わり、気軽さ、親しみやすさを感じてもらえることは、うれしいことです。利用される方は、近所に住んでいるけれど、初めて教会の内側に入ったという方が多いです。食堂は教会を身近な存在と感じてもらうきっかけになっています。礼拝ではなく食堂ですが「私はあの教会に毎回通っている」という人はものすごく増えています。
私たちはこの会堂の内側にいると気づかないのですが、この建物は立派です。風格があり、この通りのシンボル、この地域のシンボルです。しかし毎週、内側にいるからこそ気づかないことがあるのかもしれません。例えば、この風格だと入りづらい、のぞいてはいけないような気がする、そんな場所であるかもしれません。私たち内側の人間は、それに気づきづらいのでしょう。
でも一度、内側に入り、互いに交流し、楽しいことがあれば、教会がぐっと身近になります。怖い場所じゃない、私も行っていい場所なのだ、気軽に立ち寄っていい場所なのだと感じてもらえるのです。私はこの食堂を通じて、教会をすごく身近に感じてもらえるようになっていると感じます。そして気づかされるのは、教会は地域の人にもっと身近に感じてもらうということが必要だったということです。教会はもっと地域の人と関わる接点を持つことが必要だ、そう気づかされています。
いま全国のどこの教会でも、地域とどのように関わるかという模索が続き、苦戦をしています。私たちは「こひつじ食堂」によって、そのきっかけをつかみかけていると思います。そして教会を身近に感じるということは、キリスト教を身近に感じてもらうことでもあります。そしてどこかでそれはきっと、神様のことを身近に感じるということにつながるはずです。私たちの食堂では「布教活動」は一切しません。でもこの食堂を通じて、宗教が身近な存在であること、キリスト教が身近な存在であること、神様は身近な存在であることが必ず伝わってゆくはずです。
神様は身近にいる「インマヌエル(神は我々と共にいる)」。それを伝えることに私たちはすでに一部で成功しているのではないでしょうか。食堂を通じて、教会の身近さ、神様の身近さはすでにこの平塚に大きく広がってきているのではないでしょうか。この福音を、もっと広げていきたい、そう思っています。
今日、聖書を読みます。私が「こひつじ食堂」から教えられた、神様を身近に感じることの大事さ、そのことは今日の個所にも書いてあると思います。聖書を一緒に読みましょう。
今日の個所はマルコ福音書6章1節~6節です。イエス様は故郷に帰っていました。おそらくナザレでしょう。ナザレは小さな村です。旧約聖書には様々な町の名前が出てきますが、ナザレは一度もでてきません。それだけ小さな町、何もない町だったのです。誰もそんな場所からキリスト・自分を救ってくれる方が生まれるとは思わなかったのです。キリストがこんな場所に来るとも思わなかったのです。人々は、キリスト・救い主はもっと特別な人だと想像していました。そのような力の持つ人なら、きっと由緒正しいお生まれ、育ち、血筋に違いないと思ったのです。
そしてもし、キリストがいたとしても、自分なんかは決して近づくことができない、雲の上におられるはずだという思いがありました。たとえ近づけたとしても、自分はそれに近づいてはいけない、汚れた存在だとも思ったでしょう。ナザレの人々には神は身近なものではない、そんな思い込みがあったのです。
2節にはイエス様の話を聞いて驚いたとあります。これは否定的意味での驚きです。「そんなことあるはずはないではないか」という意味です。ナザレの人々はすぐ拒絶反応を示しました。地域の人はイエス様がキリストではない理由を挙げ始めます。あいつはマリアの子だという表現は、普通は父親ヨセフの子だと表現されます。おそらく、父親が分からない、父親の定かではない男のくせにという出生に対する侮辱でしょう。彼は大工ではないかというのは、祭司の家系でもなんでもない、ありふれた職業の人間ではないかという、職業への侮辱でしょう。きょうだいも普通に私たちと生きていると言っています。要は「お前は俺たちと変わらない、平凡な人間じゃないか」「そこらへんにいる普通の人間ではないか」そう言ったのです。
ナザレの人々は、高き場所にいる神、手の届かない場所にいる神、人間とは姿かたちが全く違う神を想像していました。しかしその神概念が信仰に入るのを妨げたのです。神様は自分の身近に、地元に、家族みたいに存在するものではないと思ったのです。だからナザレに現れた、目の前のキリストを信じることができなかったのです。
しかし神様はそうではありませんでした。神様は平凡さ、普通、日常の中にいたのです。生活のすぐそばに神様がいたのです。良く知っている場所、よく知っている人、近所のあの人のうちにおられたのです。それが今日、語られていることです。神様は近くにおられます。あなたの近くに、この地に、神様はおられるのです。神は我々と共にいる方、インマヌエルなのです。神様は私たちの日常の中にいたのです。先ほど、こどもさんび「祈ってごらんよわかるから」を歌いました。「小川のほとりでも、ひとごみの中でも、広い世界のどこにいても、本当の神様は、今も生きておられる」とあるとおりです。神様は本当に近くに、身近におられるお方です。
もちろん神様は日常の中にいる存在というだけではありません。神様は奇跡を起こす方です。イエス様はたくさんの奇跡を起こしました。しかし今日の5節には、信仰の無い場所では神様の奇跡も、十分に働かなかったとあります。不信仰の中では、奇跡は大きな広がりがないのです。
決して私たちの信仰が奇跡を起こすわけではありません。奇跡はあくまで神様の自由な働きです。神様が起こす働きです。しかし、この個所にもあるように、人々の不信仰は神様の働きを小さなものとするのです。起こるべき奇跡が小さなものになってしまうのです。しかし逆に神様への信仰がある場所では、奇跡は大きく広がるということも意味するでしょう。奇跡は起こります。そして信仰の中に起る奇跡は、大きな広がりを見せるのです。
私たちは身近にいる神様にこそ気づいてゆきたいと思います。身近なところに神様の存在を発見してゆくことが大事なのです。地域の人々に伝えたいことはそれです。伝えたいことは、あなたの身近に教会があるように、あなたの身近に神様がいるということです。自分に関係ないと通りすぎていたところに、神様がいるということです。
そして信仰を持つ時、あなたに起こる、神様の奇跡はもっと豊かになるのです。ぜひ身近にこの教会を感じて欲しいと思います。そして、神様を身近に感じて欲しいと願います。「こひつじ食堂」からそれが起きて欲しいと思うのです。
そして、この教会の内側にいる私たちにも目を向けましょう。私たちこそ神の身近にいる者です。しかし今日の個所によれば、イエス・キリストに身近な者こそ、神様を理解できなかったとあります。神様の身近さを知らなかったのは、実はもっとも身近な者だったです。神様の身近にいる者こそ、神様のことをもっと受け入れ、知るべきだということです。
身近にいるのに信じられない者とは私のことです。私こそ、信じれない者、信仰の足りない者だったのです。私たちも、神様を信じて救われた者ではなく、神様を信じられない者としてこの物語を聞きたいのです。そして神様はすぐそこにいる、私たちと共にいるということを私たちも、もう一度発見したいのです。教会の中にいるからこそ気づかないことがあるでしょう。神様は身近にいるという発見を、私たちももう一度したいのです。
私たちは地域の人にもっと神様、教会を身近に感じて欲しいと願って「こひつじ食堂」をしています。きっとこの働きは神様の奇跡をもっと大きくしてゆくはずです。そして神様を身近に感じることは、私たちにとってこそ大事なことです。私たちこそ神様の身近さをもう一度見つめてゆきましょう。神様は私たちと共におられるお方です。お祈りします。
イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
マルコによる福音書5章8節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、平和の声を聞きながら礼拝をしましょう。先月・今月と「こひつじ食堂」と福音について考えています。今日はそのことを少しお休みし、沖縄の事について考えたいと思います。なぜなら6月23日は沖縄慰霊の日だからです。私たちはこの日を「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」と呼んでいます。
第二次世界大戦末期、沖縄では激しく残酷な地上戦が繰り広げられました。沖縄の人々は本土のため、日本のため、天皇のために、死ぬことを求められました。アメリカにつかまるのは恥だ、それよりも死を選ぶべきだと、日本人全員が教えられ、信じていたのです。沖縄では多くの市民が洞窟の中に逃げました。しかし追い詰められた人々は自決を迫られました。しかしある洞窟では「命どぅ宝」、沖縄の言葉で「いのちこそ宝だ」と互いに言い合いながら、生きる道を選びました。決して死んではいけないと励ましあったのです。
私たちは戦争を始めると、命より大切なものがあるように感じてしまいます。命より戦うことが大事だと教えられます。誰かのために死ぬことは尊く、素晴らしい事だと教えられるのです。兵隊になり、一人でも多くの人を殺し、死んでゆくことを美しい事だと感じるようになるのです。私たちは「命どぅ宝」命こそ宝という言葉を大切にしたいと思います。命は神様からいただいたものです。敵でも味方でも殺してはいけません、誰でも殺されてはいけません。私たちは戦争ではなく、命を選んでゆくという選びを示すのが、命どぅ宝の意味です。「命どぅ宝」それは神様からいただいた命を大切にするということです。世界が命を大切にすることでつながり、平和を実現してゆくという願いです。バプテスト連盟女性連合では6月23日に合わせ「命どぅ宝」ツアーを開催します。
特に今は辺野古基地の問題を考えなければいけません。沖縄に米軍基地が必要だという声は、キリスト教内外で高まっています。ウクライナの姿を見て、日本にも脅威がある、だからもっと軍事費・武器・基地が必要だという声は日増しに大きくなっています。私はもっと強い軍事力が必要だとは思いません。むしろ、この地上から基地が無くなることを願っています。この地上から、暴力で現状を変えようとすること、暴力に対して暴力で守ろうとすることがなくなって欲しいと願っています。もちろん現実には、明日すぐに基地がなくなることはないかもしれません。でも1つずつでも減らすことはできないのでしょうか?普天間で一個なくしたら、辺野古に一個作らなければいけないのでしょうか。それならずっと基地はなくならないのです。基地をまず沖縄から減らしたいと思います。沖縄こそ基地を減らせるはず。
今世界は狂気に取り憑かれています。暴力で、世界を変えることができると信じている人・国がいます。そして暴力には暴力で徹底的に対抗するんだという人・国がいます。武器があれば世界を変えられると思う人、逆に武器を持っていれば安全だと思う人がいます。そのような軍事力の神話に、狂気に、世界全体が取り憑かれています。「命どぅ宝」という言葉はそれを私たちに問いかけているのではないでしょうか。私たちに、暴力と死に代わる問題解決の手立てはないかを考えさせる言葉ではないでしょうか。
今日は聖書から平和について聞いてゆきたいと思います。戦争はいらない、基地はいらない。そのことを聖書から見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。
今日はマルコによる福音書5章1節~20節です。聖書には暗号の様に、隠れた背景をもつ話がいくつもあります。この話も軍事力、暴力を背景にした話だということを見ます。
イスラエルは当時、ローマ帝国が占領し、支配していました。もちろんローマ帝国の支配は世界最強の軍事力に基づく支配でした。ローマ帝国は世界各地に強力な軍隊を駐留させ、人々を軍事力で抑えつけたのです。世界中に基地を作ったのです。ローマ兵はたびたび、地域の住民を虐げました。多くの無実の人が暴力を受け、殺されました。多くの女性たちもローマ兵に傷つけられました。ユダヤ人たちはいつも、ローマの占領軍にこの国から出て行って欲しいと思っていたのです。
この様子が沖縄に重なるのは私だけでしょうか。激しい戦争があり、その後、占領軍の基地が作られました。沖縄では米軍の起こす事件が絶えません。特に1995年の沖縄米兵少女暴行事件は大きな衝撃を与えました。12歳の少女が被害にあい、日米地位協定がその解決を遅らせたのです。事件は沖縄で繰り返されています。そしてイスラエルでも同じことが繰り返し起きたことでしょう。
2節には「汚れた霊」という言葉がでてきます。「汚れた霊」「悪霊」とは一体何の事でしょうか?この暗号に隠されているのは「汚れた霊」とはローマ帝国のことだということです。ローマ帝国の帝国主義、軍国主義、軍事力によって世界を支配することを汚れた霊と呼んでいます。人間が生み出した軍事力は、人間とは思えぬ大きな力を持ちます。それは4節のように誰も鎖で縛ることができない、止められない力を持ちます。そして自らさえも傷つけるのです。そして10節、そこにとどまることを望むのです。軍隊は駐留し続けることを望むのです。この「汚れた霊」とはローマ、軍事力によって世界を支配しようとする考え、そのものです。
なぜそのような読み方ができるのか説明します。9節、この人に取り憑いていた「汚れた霊」の名は「レギオン」という名前です。ここでは人の名前の様ですが、レギオンとは本来、軍隊の単位を表す言葉です。6000人の部隊をレギオンと呼ぶのです。現代の軍隊では師団や旅団にあたる言葉です。このレギオンという名前が、この物語が軍事力に関係する話であること示しています。今日の場面ではゲラサの近くに駐留していた「レギオン」は、ローマの10個目の軍隊でした。第十師団、第十レギオンでした。このレギオンにはロゴマークがありました。それは豚と船でした。つまりこの「レギオン」とは、ゲラサの近くに駐留していたローマ第十師団を指すのです。
そのことを踏まえてこの話をもう一度見ると、暗示されていることが分かります。この話は鎖や足枷によっても押さえることができないレギオンという汚れた霊が、豚に入り、猛突進して、海になだれ込んでいくという話です。それが意味するのは、豚と船がロゴマークのローマ第十レギオンが、海に沈むように、去っていく、そのことを願うという意味です。ゲラサの人々はローマ第十レギオンがここからいなくなって欲しいという願いを持っていました。もちろんこのことは口には出すことはできませんでした。それを訴えれば、ローマ軍に殺されるからです。彼らは直接言えない平和の願いを、悪霊の話に置き換えたのです。軍事力こそ人を狂気にさせる力、「汚れた霊」だと譬えたのです。それが水に沈むように、いなくなれと願ったのです。
イエス様に目を向けます。汚れた霊はイエス様に7節「かまわないでくれ」と言います。我々の事は無視をしてくれ、考えないでくれ、確かにここにいるが、いないものと考えてくれと言います。イエス様に軍隊が駐留していることは無視し、関心を持たず、いないものと考えるようにと言うのです。それは沖縄のレギオン・沖縄の軍隊からも聞こえてくる言葉です。関心を持たないでください。考えないでください。その間に大きな基地を作ります。いないものと思ってください。そのような言葉です。イエス様は「かまわないでくれ」というレギオンに対してはっきり言います「汚れた霊、この人から出て行け」。汚れた霊とは、暴力、軍事力、基地です。イエス様ははっきりと言いました。ここに軍隊はいらないと。ここに基地はいらないとはっきりと言ったのです。
イエス様はこのようなお方です。イエス様はレギオン・軍隊はいらないとはっきりと言い、それを追い出す力を持つお方だったのです。基地、軍事力はしょうがない、これからますます必要だ、あった方がよいという考えは、汚れた霊です。イエス様はその汚れた霊を追い出すお方です。この物語は軍事力による支配からの解放、軍事力神話からの解放の話なのです。私たちは平和に生きよう、そのようなイエス様の導きが描かれた物語なのです。
2000年後の人間も全く変わっていません。軍事力で世界を占領したローマのように、相変わらず人間は軍事力という汚れた霊に取りつかれています。イエス様はそれを追い出してくださるお方です。沖縄にある、世界にある、基地と暴力へむけて「ここから出て行け」とおっしゃるお方です。今まさに、汚れた霊が世界を覆っています。やはり強力な軍事力が必要だ、基地が必要だ、そのような汚れた霊が世界を再び覆っています。それらはとてつもなく強い力で迫ってきます。どのような足枷も鎖も引きちぎり、どのような反対運動も引き裂き、軍事力は拡大されようとしています。まったく汚れた霊です。そして汚れた霊は自分にかまわず、基地問題を無視して生きるように誘惑をします。
しかし私たちにはイエス様がいます。イエス様は汚れた霊を豚に送り、海に沈めるお方です。イエス様は軍事力と暴力と基地を、必ず無くしてくださいます。そのような世界が必ずくるのです。そのことに信頼してゆきたいのです。だからこそ、私たちもイエス様と一緒に「出て行け」と声を上げたいのです。沖縄の平和を聖書から考えます。私たちには沖縄から、世界から軍事力、基地、軍隊が無くなって欲しいと願います。私たちはそのことを祈ってゆきましょう。
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
マルコによる福音書3章3節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に、声を聞きながら、礼拝をしてゆきましょう。今日はこの平塚バプテスト教会の創立記念礼拝です。この教会は1950年に創立され、72周年を迎えました。72年前にこの地に教会が建てられた時の思い、そしてずっと大切に守られてきた思い、変化を繰り返してきた思いを想像します。そしてそこにいつもあった主の護りに感謝したいと思います。
私たちはこの72周年の時、「こひつじ食堂」からの福音を聞いています。このこひつじ食堂は1食200円で誰でも利用できる食堂です。私たちはもっと食堂が豊かになるように修繕や建築をしたいと考えています。改めてこの教会の建築を見ると、礼拝のための会堂があって、その周りにトイレや分級室やこどもスペースがくっついている構造であることが分かります。私たちはまさにこの教会の中心である礼拝堂で、食堂をしているのです。
先日、食堂の様子をビデオに撮りました。ぜひ見てください。年齢や性別に関わりなく、いろいろな人が来ている様子が分かります。まず、こどもたちが座って食事をしているのが目に留まります。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを隅に追いやらず、中心にしてゆく教会、そのことがよく表されている風景でした。こどもたちは今、給食の際中は話してはいけない「黙食」をしています。だからここに集まって話をしながら食べるのが、楽しくてしょうがないのです。こどもたちがのびのびと、ニコニコしています。あの顔をみなさんにも見せたいです。
こどもたちは食べ終わったあと、こどもスペースで遊び始めます。この前は、こどもたちにはさみ将棋を教えて、いっしょにやりました。子どもたちが遊びに行くと、会堂に座っている中心はママになります。ママやパパにとってはこどもから少し目を離すことができる、安息の時です。ママ同士の会話も弾んでいます。最後にママたちが「これはママにとっても良い支援だ」と言いながら帰っていきました。よい安息の時となってよかったです。
ビデオには他にもいろいろな人が写っています。こどもたちを見守る温かいまなざしを向ける人がいます。食事を運びながら、いろいろな人に声をかけるボランティアさんがいます。
一人で来た人も写っていました。しかしよく見ると、いつの間にか誰かと相席になって、一人ではなくなっていて、話が弾んでいます。和やかで、にぎやかで、温かい空間、安息の空間となっています。
今日は創立記念礼拝です。私たちの教会が守られてきたことを感謝する時です。その日、教会の真ん中に何があるかを考えます。教会の真ん中にはイエス・キリストがいます。そして「こひつじ食堂」から見る時、教会の中心にはこどもや、子育てが大変な人がいます。一人で食事をする人がいます。教会はそんな人を教会の隅ではなく、中心に招きます。そしてそこでのびのびとした時間を過ごすのです。安息の時を過ごすのです。教会は、イエス様を中心とします。そしてこどもや、ママや、一人でいる人を中心に招きます。それが私たちの教会です。
今日も一緒に聖書を見たいと思いますが、今日はイエス様が誰を真ん中にしたのかを見ます。今日の話によれば、イエス様は手に障がいを持った人を中心としました。当時の社会では隅に追いやられてしまう人、そのような人をイエス様は中心に招いたのです。そのことを見てゆきましょう。
今日の聖書を見ましょう。今日の個所では、イエス様を会堂で待っている人々がいます。安息日という戒律で、一切の作業をしてはいけない日でした。遠くへ出かけたり、緊急でない治療はしてはいけない日です。そんな日に、人々は、あえて手に障がいをもった人を会堂に連れてきました。治って欲しいと願ったのではありません。人々は悪意を持っていました。イエス様が安息日という戒律と、癒しのどちらを取るのか、こいつを使って、見てやろうと罠にかけようとしていたのです。
非常に悲しいことに、人々から手の不自由な人への同情や、心配、励ましは一切ありません。人々はただ、自分たちの正しさを証明する「道具」として利用します。彼の苦労や不自由に耳を傾ける者はいません。人々の心は、そのような冷たい心、かたくなな心、硬い心でした。人の命に対する慈しみはありません。社会と会堂の隅に追いやり、一人にしておいたのです。
現代の社会も同じでしょうか。これでもだいぶましになったのかもしれません。しかし障がいをもった人が隅に追いやられるという状況は変わりありません。2000年たった今も弱い立場の人、助けを必要とする人が隅へ追いやられる社会は続いています。社会は、健康で、能力があって、お金がある人が中心とされています。そうでない人は、隅に追いやられ、小さくなって生きなければならない社会です。私たちの時代も同じです。
しかしそこにイエス様が現れます。そしてイエス様は3節で言います「真ん中に立ちなさい!」。イエス様はその人を立ち上がらせ、真ん中に招くのです。隅に追いやられていた人に、あなたは堂々と真ん中に立つように招くのです。彼は今まで隅に追いやられていました。彼はようやく招かれたと思ったら、誰かを陥れる罠・道具として招かれたのでした。誰も彼に目を止めようとしませんでした。
そんな時、彼が聞いたイエス様の「真ん中に立ちなさい!」という招きはどれほど、うれしかったでしょうか。この後、彼の腕が治るとありますが、声をかけられた時から、彼は大きな喜びを感じたのではないでしょうか。これまでずっと隅に追いやられていた自分が、直接声を掛けられ、立つように、真ん中に来るようにと言われたのです。それはまず彼の魂についた傷を、ボロボロにされた心の傷を癒したはずです。イエス様の呼びかけは、傷つけられた尊厳、人格を回復する呼びかけだったのです。その言葉をかけられた時、彼には安息が訪れたのです。
続いてイエス様は4節で「安息日に赦されるのは、善い事か悪い事か、魂を守ることか、殺すことか」と言います。イエス様はかなり両極端な選択肢を出します。魂は命とも訳せることばです。安息日は命を守る日か殺す日か、魂を守る日か殺す日か、二者択一です。ここでは中間の選択肢がありません。守りも、殺しもしないという選択肢はないのです。何もしないで様子を見る、事態を見守っていくという選択肢はないのです。今日の場面でもそうです。障がいをもった人がこのように利用されるとき、何もしないことは魂を殺すのと同じです。障がいをもっている人が隅に追いやられているのを見たとき、何もしないのは、その命・魂を殺すのと同じなのです。見殺しです。二者択一の問いは、何もしないことは、殺すことと同じだと言っています。
しかし4節の後半、それでも人々は黙っていました。誰一人言葉を発する者はいません。静寂と沈黙しかありませんでした。5節でイエス様は悲しんだとあります。そのかたくなさに激しく怒り、悲しみ、同情をしたのです。イエス様が悲しみを覚えたのは、もちろん不自由をもっている事だったでしょう。しかしそれ以上に、人々がそのことを利用し、隅に追いやろうとしたこと、助けることを訴えても沈黙し、何もしようとしないこと、それに深い悲しみを覚えたのです。そしてその時、奇跡が起きました。イエス様が「手を伸ばしなさい」と言ったのです。そうすると、不自由だった手から、不自由さが取り払われてゆきました。
6節には、ここからイエス様を殺そうと相談が始まったとあります。このことが、イエス様への十字架へとつながっていくのです。今度はイエス様が排除されようとします。殺され、隅に追いやられようとします。イエス様はそれを受けとめたお方でした。今度は自分が隅に追いやられる者となってゆかれたのです。
私たちは今日、創立記念礼拝を迎えています。今日、私たちの教会は何を中心にするか、誰を中心にするかが問われています。私たちはこれまでもそうだったように、社会の隅に追いやられてしまいそうな人を大切にしてゆきましょう。特に私たちは今、こどもに強い関心を持っています。そしてそこからその周りにいる人にも目を向けます。こどもや、ママ、パパ、一人で食事をする人に目を向けます。私たちの教会は、さみしいと思う人こそ中心に招きましょう。
そして社会の中で、沈黙せずにいましょう。何もしないことは殺すことと同じです。命と魂を守ることを具体的な行動として、証しとして、続けてゆきましょう。それは「こひつじ食堂」で、あるいはそれぞれの生活の中できっとできるはずです。すべきことがあるはずです。今日、その力を神様からいただいてゆきましょう。
神様は私たちに奇跡を起こしてくださるお方です。私たちのかたくなな心にも、硬くなった心にも、不自由な心にも呼びかけて下さいます。私たちの心にも「伸ばしなさい」と呼びかけて下さいます。聖書の言葉によって、私のかたくなな心がほどかれて、柔らかくなるように、呼びかけて下さるのです。
神様は、弱き私たちを、中心へと招いてくださるお方です。隅に追いやられ、寂しい思いをしている人を中心に招いてくださるお方です。そして私たちのかたくなな心をまっすぐに伸ばしてくだるお方です。私たちはこれからもこの教会の中心としてたくさんの方々を招いてゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は「こひつじ食堂」から聞こえる福音について考えています。「こひつじ食堂」は1人200円で誰でも利用できる食堂です。200円でお腹一杯になることができます。
地域の方と食事を一緒にしていると本当に楽しいです。こどもには「おじさん何歳ですか?」と聞かれ「何歳に見える?」と話しながら食べています。ありふれた会話でも、話しながら食べるのは、とても楽しいものです。誰でもお腹一杯になると、自然と笑顔になるものです。
一方で、誰でもお腹がすくとイライラするものです。我が家で起こるいざこざもたいていお腹が空いている時に起ります。教会でも、お腹の空いている時に、集まって何かを議論したりしない方がよいでしょう。昼食前の会議はうまくいきません。仕事でも同じでしょうか。物事や人間関係がうまくいかない理由のひとつに「空腹だった」ということはあるでしょう。
広島県では40年以上、自宅で地域のこどもに食事を出し続けているおばあちゃんがいます。おばあちゃんはいわゆる非行少年を自宅に招き、無償で食事を提供し続けています。そのおばあちゃんは言います。「お腹がいっぱいになれば悪いことはしない」。戦争も同じです。貧困こそ戦争の大きな原因の一つです。アフガニスタンで働いた中村哲さんは言います。「飢えている者に必要なのは弾丸ではない。温かい食べ物と、温かい慰めだ」。
お腹が空いているということは、家庭でも、教会でも、社会でも、世界でもいろいろな衝突と紛争の原因となるものです。みなさんにも経験があるでしょう。満腹の時に赦せたことが、空腹の時は赦せなくなるのです。そう考えると、私たちが一緒にお腹一杯になる「こひつじ食堂」は、とても大事な活動ではないでしょうか。いっしょにお腹いっぱいになることは互いに愛し合うことにつながるでしょう。いっしょにお腹いっぱいになることは家庭、地域、社会の平和にもつながる活動でしょう。
自分の愛の無さ、罪深さを恥じることも大事です。しかしお腹一杯にしてから始めることも大事です。私たちの「こひつじ食堂」は小さいけれども、この地域でイライラをなくし、いざこざをなくし、愛と平和に向かって働いていると言えるでしょう。私たちはお腹がすいたままでは、なかなか他者を愛せないのです。お腹いっぱいになることは愛と、平和の始まりなのです。
今日は聖書から、お腹一杯になることの大事さをみます。このような聖書の読み方は「こひつじ食堂」があるからこそ想像できる読み方です。そして今日は教会の暦ではペンテコステです。聖霊、特にここでは赦しというテーマも見てゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。
教会の暦では今日はペンテコステです。ペンテコステとはイエス様が復活して50日後に弟子たちに聖霊が下り、力を与えたという出来事を覚える時です。ペンテコステは50日後という意味です。聖霊とは何かということを詳しく話すことは省略します。ただ羽の生えた妖精ではありません。簡単にいうと、神様との関係を感じさせるものです。
聖書を読むと、今日のイエス様はかなり厳しい言葉をかけています。特に「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」というのは、死後も永遠に罰を受け続けるといったような厳しい印象も受けます。どう受け止めたらよいでしょうか。
まず28節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」とある箇所から読みましょう。そうです、神様はすべてを赦してくださるお方です。神様は私たちがどんなに悪いことをしても赦してくださるお方です。神様はどんな失敗も、連続殺人も銀行強盗も、どんな失敗も赦して下さるお方です。もちろん神様の赦しとは、神様が罪を水に流し、帳消しにし、無かったことにする、しょうがなかったねといってくれることではありません。神様の赦しとは、何回罪を犯しても、新しく生きるようにさせてくれるということです。もうするな。そして方向転換して、生きよと神様が呼びかける、それが神様の赦しです。このように神様はどんな罪も赦すお方です。
しかしこの赦しには、一つだけ条件が付いています。それは29節「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦され」ないということです。聖霊とは神様との関係を感じさせるものです。その聖霊を冒涜するとは、神様との関係を否定するということです。私は神様とは一切関係ありませんと言う人の罪は、赦されないということです。赦しの条件は一つです。神様の前で自分が悪かった、そう認めることです。逆に神様の前で自分が悪くないと思っている人、自分に罪はないと思っている人は永遠に赦されません。その人にとっては赦される必要がないとも言えるでしょう。神様は、私が悪かった、もう二度としないと思う時、どんな罪でも赦してくださるお方です。そして、もうするな、新しく生きろと呼びかけて下さいます。
29節「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし聖霊を冒瀆する者は永遠に赦され」ないという意味は、神様は私たちが告白する罪をすべて赦してくださることを示します。新しく生きよと言ってくれることを示します。そして神様の前で私に罪はないと言う時、その罪は赦されないということを示します。
私たちもお互いを赦し合いましょうとは言いません。ここでは神様との関係が語られていて、人間同士の赦しは語られていません。教会はこれまで他者への赦しを強制しすぎてきました。何をされても「クリスチャンだから相手を赦しなさい」と強制してきました。それはかえって人を傷つけてきました。私が相手を赦すかどうかは私が決める問題です。相手が私を赦すかどうかは相手が決める問題です。でも神様は神様の前で罪を認める時、どんなことでも赦してくださいます。神は新しく生きろと言ってくださいます。人間が人間をすぐに赦す必要はありません。赦したいと思えた時に赦せばよいのです。謝罪と償いを受けてから赦せばよいのです。気が向かなければ、一生赦さなくてもよいのです。逆に、一生赦されないこともあるでしょう。ただ神様は赦すということだけが真実です。神様は失敗をした人に神様の前でそれを認め、新しく生きるようにと言っているのです。
22節にはエルサレムから律法学者が下って来て、イエス様を批判したとあります。彼らはエルサレムから下ってきました。エリート学者が上から下に下ってきたのです。彼らは病人には興味も示さず、目立っている人間を批判するためにだけに、上から下に下ってきました。彼らはまだ自分たちの罪に気づいていません。病気の人、お腹の空いている人を無視した罪にまったく気づいていません。むしろ寄り添い、癒しを行うイエス様を罪だ、悪魔だと大騒ぎするのです。神様はこの学者たちを、自分の罪を認めるまで永遠に赦さないでしょう。イエス様は今日そのことを28節・29節で宣言しています。
それにしても、イエス様はかなりイライラしている様子です。よく読むと20節には「一同は食事をする暇もないほどであった」とあります。忙しくて食事をとっていない時の出来事だったのです。あえて食事をとる暇もないほどだったと聖書に書いてあるのも驚きです。きっとイエス様もお腹が空いていて、イライラしていたでしょう。いつもより厳しい言葉をかけています。
イエス様はいろいろな人と食事をしました。そしてその中で一人一人が神様との関係に気づいたのです。イエス様と共に食事をすることで、自分の罪に気づいたのです。お腹が満たされたとき、自分の罪を認めることができたのです。今日の場面ではそのような食事はありません。律法学者は批判し、空腹なイエス様たちは、それに強く反発をしています。だれも新しい人生を歩みだしていません。
やはり今日の場面を見て、私はいっしょにお腹一杯になることの大事さを思います。その時、自分の罪を認めることができるのです。非を知ることができるのです。新しい関係が生まれるのです。お腹が満たされて、わからなかったことがわかるようになるのです。他者を赦せるようになるのはお腹が満たされた時なのです。今日残念なのは、共なる食事がないまま、争いが続くことです。
今日私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。パンは小さくて決してお腹一杯にはなりませんが、記念として、象徴としてこのパンを食べます。このパンを食べて、イエス様が人々と一緒に食事をした様子を思い出します。そこには平和と愛があふれたでしょう。そして、一緒に食べると自分の罪に気づいたでしょう。神様に赦されていることにも気づくでしょう。そして相手を赦す気持ちに少し近づくかもしれません。
私たちはこの主の晩餐によって、共に満たされることを確認します。この主の晩餐から愛と平和が生まれてきます。まるで食堂で笑顔があふれるように、私たちはこの主の晩餐をいただきましょう。
神様は私たちを赦してくださるお方です。条件はひとつ、聖霊を認めること、神様との関係を認めることです。神様の前にそれが悪い事だったと認めることです。そうすればすべての罪は赦されます。新しく生き直す力をいただけます。お腹を満たし、神様との関係の中に生きましょう。神様は私たちのお腹も心も満たしてくださるお方です。お祈りします。
イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 マルコ7章27節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。特にこどもたちに関心を寄せて、礼拝し、様々な活動をしています。今日もこどもたちの声を聞き、感じながら共に礼拝をしましょう。今月、来月と「こひつじ食堂」から聞こえてきた福音に目を向けています。「こひつじ食堂」はこの会堂で行われている食堂で、1食200円で、誰でも利用できる食堂です。
全国には6000以上のこども食堂があります。こども食堂といっても、8割が子どもも高齢者も、誰でも参加できる、地域交流の場として運営されています。皆さんの家の近くにもきっとあるはずですから、訪ねてみてください。多くのこども食堂は、子どもの貧困問題に強い関心を持って始まりました。そのため、子ども食堂と聞くと、貧困の子供が行く場所というイメージがついてしまっています。ですから私たちは「こひつじ食堂」と名付けました。「こども食堂」と呼ばないのは、本当に誰でも歓迎する食堂だからです。こひつじ食堂はだれでも来ていい食堂です。貧しい人に限定しません。そもそも困っている人、貧しい人の定義は難しくなってきています。コロナで全員に10万円が配られた時代です。全員困っているから配られたのです。困っている人を探す必要はありません。私もあなたもみんな困っています。
そして食堂では、宗教の布教活動を一切していません。教会関係の方からはよく、チラシを配ったりしているか?食堂に来た方がどれくらい礼拝に来るのか?勧誘はうまくいっているのか?と聞かれます。私たちは勧誘を一切していません。この食堂の目的は隣人に仕えることであり、他者への奉仕で、自己拡大が目的ではないからです。だからこそ誰でも来て下さいと言えるのです。この食卓はすべての人に開かれているのです。所得や年齢は関係ありません。宗教や民族も関係ありません。悪人か善人かももちろん関係ありません。あらゆる条件を付けない、誰でも来ていい食堂です。
私たちは食堂で布教活動をしません。でも私はこの食堂は神様の愛をとてもよく表していると思います。食堂は神様の愛を証ししていると思います。私たちの食堂はすべての人が招かれています。おなかも心もいっぱいになれる場所です。違いがあっても一緒にいれる場所です。それは神様の愛をよく表している場所です。食堂こそ「神の国」と言えるのではないでしょうか。もちろんそこか教会に興味を持ってくれる人はいるでしょう。利用者の方は、教会の掲示物をよく読んでいます。
私たちはこのような格差の時代、経済的に苦しい時代、子育てがしにくい時代にあって、社会に強い関心を持っています。そしてだれでも来れる食堂を始めました。少しでも社会が変わって欲しいと願っています。そしてこれは私たちなりの証しです。ただの社会活動ではなく、私たちの証しです。神様の愛はすべての人に注がれていることを「こひつじ食堂」で証ししているのです。
今日の個所は私たちと重なります。この物語は、神様は社会とこどもたちに強い関心を持っておられること、そして神様の愛はすべての人に注がれることを示しています。今日の個所を一緒にお読みしましょう。
今日の個所の場面はティルス地方とあります。ここはユダヤ人よりも異邦人(外国人で宗教の違う人)がたくさんいる町でした。この母も異邦人でした。この母はイエス様を訪ねました。そして娘の病の癒しを、イエス様の足にひれ伏して願いました。しかしイエス様の返事は大変冷たい言葉でした。「まず、こどもが優先だ。犬は後だ」と言います。犬とは異邦人のことです。神様の働きはイスラエルの自国民が優先で、外国人は後だというのです。なんと民族主義的で、冷たい返答でしょうか!
しかしもう少し社会に関心をもってこの個所を読みたいと思います。場面となっているティルスは貿易によって豊かになった港町でした。いわゆる富裕層の町です。イエス様の宣教は貧しい地域が中心でしたから、ティルスに行ったということ自体、特殊な例と言えるでしょう。
ティルスは貿易で発展した町ですが、貿易をしていたのはイエス様が生まれたガリラヤ地方の穀物でした。要は穀物をガリラヤで安く買いたたいて、海外に売り飛ばすという商売です。そのようにして富裕層は生活をしていました。ガリラヤの人々は自分たち作物を安く買いたたかれ、貧しく暮らしていました。おかしいと感じますが、現代の世界の縮図でもあります。先進国は、貧しい国から安く大量に作物を買い付けます。貧しい国は貧しいままで、先進国は贅沢を続けるのです。それがガリラヤとティルスの関係でした。イエス様が27節で「子供」と言っているのはガリラヤのような貧しくされた地域のことです。そして「子犬」とはティルスのような、富を吸い上げ、搾取し、豊かになった地域のことです。イエス様が27節で言ったことは、まず貧しい国から穀物を安く買いたたくのを止めなさいということです。だからこそ、まず貧しくされている国への助けが必要だということを言ったのです。これはイエス様が貧しい人と共にいたという聖書の全体の姿とも重なります。
イエス様はこのように、社会に強い関心を持ったお方でした。豊かな街を見て、わたしもそうなりたい、すばらしいとは思わなかったのです。この豊かさの中で、誰か苦しんでいる人がいるはずだと感じたのです。それがこの冷たいように思える答えの意味です。
もちろん母親もただでは食い下がりません。28節の母は、「食べこぼしでもよいから、恵みをいただきたい」となんとか癒しを求めます。この母の発言は、貧しい国が優先され、そのあまりものを豊かな国が受け取るということです。イエス様が求めている、社会の在り方に呼応する発言でした。母の発言はさらに、大切なことを示していると思います。この神様の食卓が、ユダヤ人に限定されないはずだという指摘です。神様恵みは異邦人とか外国人とか異教徒にも、関係なく、すべての人に開かれているはずだと言っているのです。神様の食卓、神様の恵みはユダヤ人かどうか、キリスト者がどうかに関わらず、広がっていくはずだと訴えているのです。
このように、イエス様と母の会話には二重の意味があると言えるでしょう。一つは経済的な意味です。貧しい人が優先されることです。二つ目は神様の愛についてです。神様の恵みはユダヤ人だけに限定されないことを示しています。
イエス様は母の発言を、もちろん正しいと言いました。イエス様とこの母は、まず貧しい国が優先され、豊かな国はその後になるという世界観を確認しました。そしてもうひとつ、神様の恵みは民族や宗教を超えるということを確認したのです。そしてそれを確認するとイエス様は悪霊を追い払ったのです。
母の言葉がイエス様を変えたようにも見えます。母はイエス様に呼応して、世界の経済は変わるべきだと言いました。そして神様の恵みはユダヤ人だけではなく、すべての人に分かち合われるはずだとイエス様に訴えたのです。イエス様はユダヤ人が先だという部分について、自らの考えを変えました。神様も考えを変えるのです。
この物語は何を示しているでしょうか。イエス様が社会とこどもへの強い関心を持っていたという事を示しています。そしてこの物語は、すべての人に神様の愛と恵みがおよぶことを示しています。イエス様と女性の対話から、社会への関心と、神様のすべての人への愛が示されているのです。そこに神様の癒しが起こりました。
母がイエス様と出会い、対話し、こどもが癒された後、どのように生きたのかを想像してみましょう。想像力を持って読むなら、この女性はこの後、子ども食堂をはじめたのではないでしょうか。裕福な地域に生まれながら、病の子を持ち、子育ての大変さを知ったでしょう。イエス様と出会い、自らの裕福な暮らしがどのように支えられているかに気づいたでしょう。そして神様の愛はすべての人におよぶと強く確信をもったでしょう。この日から新しい生き方が始まったのです。そのことを誰かに伝えたい、表現したい、証しをしたい、そう突き動かされたとき、こども食堂を始めたに違いありません。ティルスに住むいろいろな人を集めて、どのような年齢、身分、所得の人も一緒に食事をしようと呼びかけたのではないでしょうか。誰かがパンくずを食べるのではありません。全員が神様のこどもとして、満腹できる食堂をティルスで始めたのではないでしょうか。
それはとてもよく神様のことを表す食堂です。メシア的食卓共同体です。地域にすばらしい証しとなったのではないでしょうか。私たちのしている「こひつじ食堂」とはまさにこのような食堂ではないでしょうか。私たちが社会に関心をもっており、その社会の中で神様の愛がすべての人におよぶ、食堂はそれを証ししているのです。
イエス様はこのように格差や不平等に反対をしたお方です。社会に強い関心を持っているお方です。そして、すべての人に恵があると、母とのやりとりでイエス様自身も変わったお方です。そして母も変わりました。私たち自身にもイエス様との出会いによって変化が起こるでしょう。イエス様に出会って私たちは証しをしたいと思うように変えられます。イエス様に出会い、豊かさを追い求めるだけではなく、社会に強く関心を持つように変えられます。そして神様がすべての人に食べ物、平和、愛を注いでくださることを知るように変えられるのです。
私たちはこの食堂で、地域に神様の愛を証しをしています。この食堂は神様の愛を豊かに表現した食堂です。この集まりにもっとたくさんの人、様々な人が集うことができるように、祈り、礼拝し、働いてゆきましょう。お祈りします。
周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。マルコによる福音書3章34節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もいっしょにこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。
私たちは今月と来月、こひつじ食堂と福音について考えています。こひつじ食堂は毎月第三と第四金曜日にこの会堂で開催している、だれでも来てよい食堂です。1人200円でおなか一杯の食事ができます。いろいろな人と食事をするのは、本当に楽しいことです。まだ来たことのない方はぜひ食べに来て下さい。お弁当も販売をしています。また今日の礼拝後の信徒会ではこの活動についても皆さんと相談をさせていただきます。
全国でこども食堂の活動は広がっています。先日あるインターネットの記事に目が留まりました。記事のタイトルは『独身の86歳男性は「死ぬまでひとり飯」なのか…SNS以上、しがらみ未満でつながれる「こども食堂」の魅力 』 というものです。
記事よれば、あるこども食堂では86歳おじいちゃんが1人で食堂を利用しているそうです。このように私たちの食堂も含め、ほとんどのこども食堂はどんな年齢の人も歓迎しています。この男性はお連れ合いに先立たれて一人暮らしです。自分で料理もするし、一人でしっかりと生活をされています。にもかかわらず、地域のこども食堂に顔を出しています。
おじいちゃんはこども食堂でたくさんの方の顔を見ながら食べることを、言葉ではいえなくらい楽しい、最高だと語ります。やはり、一人で食べるのと、誰かと一緒に食べるというのは、ぜんぜん違うのです。記事にはさらにこう続きます。高齢化とともに交友関係は減るということ、コロナ禍でさらに交友は狭まっていること、コロナの影響で多くの地域交流が停滞していること、そこにこども食堂のニーズがあると書かれていました。さらに高齢の方々の子どもたちも「親が地元で、話をする人はいるのか」を心配している。それは政府の現金給付でどうにかできるものない。高齢の方々にも、自分には関係ない場所だと思わずに、ぜひ近所の「こども食堂」=「地域食堂」のドアを叩いてみてほしい。そのように記事には書いてありました。私たちのこひつじ食堂も、こどもだけが、貧しい人だけが対象ではありません。どんな人も、どんな年齢の人でも歓迎する食堂です。一緒に食事をし、楽しい、一人じゃないと思える場所になりたい、そう思っています。
しかし振り返ると教会はずっと昔から「一人ではない」と思える場所だったのではないでしょうか。礼拝こそ「一人ではない」と思える場所です。2000年間、あるいは私たちの教会の70年間、毎週礼拝し、一人ではないと確認をしてきました。神様が共にいる、仲間が共にいる、それを毎週礼拝で確認してきたのです。互いの声を聞き、一緒に賛美をしてきたのです。
私たちは寂しいと思っている人や、人生に困っている人に出会ったとき、一緒に教会に行きませんかと誘ってきました。もちろん困っていない人も、どなたでもどうぞと教会にお誘いしてきました。今、食堂もそのような場所になってきています。きっと教会は食堂にしろ、礼拝にしろ、その他のことにしろ、誰かの居場所になるのが得意です。
教会はいつもあなたと一緒にいたいと伝え続けてきました。困っていても、困っていなくても、一緒にいようと誘って来ました。そのようにして少しずつ礼拝の輪が広がってきました。そしてそれと同じように、今食堂の輪が広がってきています。
食堂が人と人とをつなぎ合わせています。それは教会で起きていることです。神様がつなぎ合わせてくれていると言えるでしょう。それは今までも、礼拝で起きていたことです。その延長線上に食堂があります。私はそのように感じています。
今日は私たちは、こひつじ食堂や礼拝で起きていることを聖書から見てゆきたいと思います。食堂や礼拝は、神様のもとで集い、仲間になってゆくこと、家族のようになってゆくことなのだということを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。
今日の聖書個所を見ましょう。まず目に留まるのはイエス様と家族の関係の難しさです。少し前の21節には身内の人々がイエス様のもとに来て「あの男は気が変になっている」と言って、取り押さえようとしたとあります。イエス様の活動は血縁関係のある家族に、まったく理解されなかったのです。イエス様の行動は家族にとっては迷惑で、気持ちの悪いことだったのです。家族だから理解し合える、信仰を分かち合えるというわけではなかったのです。
家族に理解されないということが、私たちにもあるでしょうか。自分の行動や信仰が家族に理解されないということが、あるものです。あるいは逆に、私たち自身が家族の行動や信仰を、理解できないと思うことも、あるものです。信仰を家族と分かち合うこと、家族と理解しあうことはとても難しいことです。家族と理解し合えないのは寂しいものです。イエス様も寂しさを感じたはずです。33節に「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とあります。私はそこにイエス様の寂しさを感じます。
そして従った人々の多くも家族のいない人、家族と離れている人だったと言われています。従った人の多くは干ばつや貧しさから、自分の土地を売り払い、家族とばらばらになってしまった人々だったと言われます。家族と離れ離れになり、寂しい思いをしてきた人々です。自分はこの後どうなるのだろうと不安に思っていた人々がイエス様に従ったのです。家族がいないことの寂しさは、家族と分かり合えない寂しさよりも、もっと大きいものでしょう。喧嘩する相手も、わがままを言う相手もいないことは寂しい事です。
この物語の登場人物は家族と分かり合えない寂しさを持つイエス様と、家族とばらばらになってしまって寂しさを持つ民衆です。そのような人々は、イエス様を中心に、家族とも思えるような、不思議な集まりになっていったのです。
この集まりは、いろいろな家族関係を持った人、家族を持たない人が、寂しいと感じた人が、親戚の集まりの様に集い、祈りあう集まりでした。自分は一人ではない、共に生きていると実感できる集まりでした。そのような集いがイエス様を中心に生まれたのです。本当の家族と同じくらい大切な仲間ができたのです。
34節でイエス様は『周りに座っている人々を見回して言われた「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」』と言います。イエス様も集った人々を家族のように感じたということです。私たちも今、このイエス様の集まりの中にいます。この集まりは私たちの教会と似た集まりです。私たち一人一人もいろいろな家族関係をもっていますが、毎週イエス様に招かれ、イエス様を中心に集まり、お互いを家族のように大切にしあっています。
イエス様の様に、周りに座っている人々を見回して思うのです。教会のおじいちゃん、おばあちゃんは、私のおじいいちゃん、おばあちゃんです。教会のこどもは、私のこども、私の孫なのです。2000年前の集いも、今日の集いも同じです。教会は2000年前からずっとこのような集まりを続けてきました。教会が得意なのは、家族のようになれること、いろいろな人の居場所になることなのです。
このような教会の「あなたは一人ではない」「一緒にいよう」という雰囲気はこひつじ食堂にもにじみ出ていると思います。この礼拝の雰囲気が、食堂の雰囲気につながっているでしょう。ここに来ればたとえ家族と離れていても、家族がいなくても、寂しく思っていても、誰かとつながれるような気がするのです。一人ではないと感じることができるのです。それが教会の食堂の特徴です。
教会は食堂をするのに最高の場所です。ここは毎週「あなたは一人ではない」「神が共にいる」「仲間が共にいる」と語られている場所です。そこで共に食事をすることは、誰かとつながるには最高の場所といえるでしょう。礼拝も食堂も、誰かとつながっていたいと思う人に最高の場所です。
友達や家族と疎遠になりがちな高齢の方々に最高の場所です。ぜひこの輪に入って欲しいのです。若者はSNS、インターネット、YouTubeでつながっています。でもそれ以上のつながりを持ちたい若者に、最高の場所です。ぜひ食堂に、礼拝に加わって欲しいのです。一緒に礼拝をしたい、一緒に食事をしたいのです。
34節には「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とあります。神の御心を行う、それは今私たちの教会にとってはこひつじ食堂を続けてゆくというでしょう。教会はこひつじ食堂を通じて、地域とつながりを持ってきています。誰かと一緒にいるということを、これからも続けてゆきましょう。きっとそれが御心です。あなたは一人ではないということを私たちは伝えてゆきましょう。礼拝と食堂の御心を続けてゆきましょう。
私たちはこひつじ食堂を続けることによって地域の人々とつながっています。そしてそれを御心として行う時、私たちは神様とつながっています。御心を行う人が神様とつながっている人です。誰かとつながろうとするとき、神様とつながっているとも言えるでしょう。
私はこの食堂のような、たくさんの人が集まり、たくさんの人とつながることができる礼拝がしたいと思います。いろいろな人が来て、一人ではないと思える礼拝がしたいと思っています。そして私はこの礼拝のような、つながりを持つことができる食堂にしたいと願っています。神様とのつながり、仲間とのつながりを感じれるような、家族と思える関係になってゆける食堂・礼拝にしたいと願っています。お祈りいたします。
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。 マルコによる福音書2章27~28節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月・来月とこひつじ食堂から福音を聞いています。先日4月15日(金)は慌ただしい一日でした。お弁当を124食販売しました。特に忙しかったのは、午前中はいただいたタケノコのあく抜きがあったこと、午後は120人分のホイコーローづくりでした。
さらにこの日、特別忙しかったのは、4月15日(金)がキリスト教の暦では、受難節の「受難日」であったからです。イエス様が十字架にかけられ死んでしまったことを覚える日です。「聖金曜日」とも言われます。多くの教会ではこの日の夜、受難日祈祷会を持ちます。以前私のいた教会では、ろうそくの明かりで聖書を読み、十字架のイエス様を追いながら、ろうそくを1本ずつ消す「消灯礼拝」を持ちました。受難節は別名レントとも呼ばれます。レントはラテン語で「断食」を現わす言葉です。日没まで食事を抜いて、イエス様の十字架の苦しみを私たちも感じようとする期間です。本当に断食を行う人はあまりいませんが、この期間は何かを我慢する、例えばコーヒーを飲まない、カフェインを取らないといったことをするクリスチャンは多くいます。
私たちの教会でも受難日祈祷会を持ちました。食堂を中止することはできないので、午前の仕込みと、午後の調理との間に持ちました。本来この期間はレントであり、断食の期間です。にもかかわらず私たちは、120人のお弁当を販売するために、朝から夜まで働いたのです。多くのクリスチャンが食べること、飲むことを控え、祈っている日です。受難日、聖金曜日です。その聖なる日に私たちは一体何をしているのでしょうか。いつも祈祷会が行われている部屋では料理が作られています。礼拝する会堂には近所の人が集まり、お弁当が販売され、おまけとしてコーヒーが配られています。よく考えると、この教会は何をしているのかと恐ろしい気持ちになります。聖なる日に、聖なる場所で、なんということでしょうか!レントの聖金曜日に、食堂をするという意味を考えさせられます。私たちの選択は正しいのでしょうか。
私たちの選びの意味は、誰かのために何かを「する」ことの大事さを現わしているのではないでしょうか。何かを我慢して、一緒に苦しみを味わうだけでは何も変わらないのです。その痛みを知ったならば、状況を変える、他者を助けるための行動を起こすことが大事です。聖なる時間は大事です。手を止め、足を止め、祈ることは大事です。でもそれをしているだけで、何かをした気持ちになってはいけないと思います。宗教は特にそのような危険があります。礼拝すると他者の痛みに目が向くかもしれません。気分は落ち着くかもしれません。でもそこで終わってしまうことがあります。祈って気分が落ち着き、その後、行動を起こさなくても良いと思ってしまうことがあります。誰かの必要に応えることを忘れてしまうのです。
私たちは聖なる金曜日に、朝から働き、祈り、午後また働きました。それが私たちの聖金曜日の過ごし方でした。そうですこの聖なる体は、誰かのために使う時、本当に聖なる体となるのです。この聖なる会堂は、誰かのために使われる時、本当に聖なる会堂となるのです。私たちは礼拝するだけではなく、人々のためにできることをしてゆきたいのです。この体を、この会堂を、他者のために使いたいのです。それが私たちが聖金曜日に食堂をする意味ではないでしょうか。
ちなみにその日の13時からの受難日祈祷会は多くの方が集いました。私たちはいっぱい祈り、いっぱい礼拝する。そして地域のために、隣人のためにいっぱい働く。そんなことが凝縮された1日だったと思います。
今日は祈り、礼拝することの大切さを覚えます。そしてそれぞれのできることを働いてゆくことの大切さを覚えます。神様は私たちに、今日祈り、明日からまた善き行動を起こすように促している、そのことを見てゆきたいと思います。ご一緒に聖書を読みましょう。
今日の聖書箇所を読みましょう。今日の聖書の個所では安息日が問題になっています。今でもユダヤの人々の一部は安息日を守ります。多くの人が安息日・土曜日は働かず、礼拝に行ったり、家で家族と過ごしたりします。さらに厳格な人は、安息日にはあらゆる作業・労働をしません。例えばエレベーターのボタンを押さない、スマホも使わないという人もいるそうです。しかしよく言われる、凝り固まった形式主義という批判はまったくの的外れです。律法を他者批判の道具にしてはいけません。彼らはその日を大切に守っています。現代ならなおさらこの日は大事です。スマホをしない日、しなくてよい日はとは、とてもうらやましく思います。
もちろん律法より命が優先されます。安息日でもお医者さんは働きます。命にかかわることは、なにより優先されます。私たちキリスト教では日曜日が安息日にあたります。他の事はせず、礼拝に集う日として、聖なる日として、私たちも安息日を大切にしていると言えるでしょう。
本来、安息日は1週間に1度、あわただしい日常から離れ、休み、神様からもう一度、生きる力をいただく日です。しかし、今日の聖書箇所24節を見ると、ある人がまた安息日を誰かを批判する道具にしています。安息日は本来、礼拝すべき日、神様から力をいただく日です。しかしこの人たちは違いました。彼らは戒律を破っている人がいないか、あら捜しに出かけたのです。
聖書には旅人が麦畑の麦を食べるのは許されるとあります 。お腹の空いた旅人は畑の麦を勝手に食べることが許されたのです。本来律法とはこのような他者への慈しみのためにありました。命を守るために多くの律法がありました。
しかしこの人たちはそれを批判の道具とします。麦をつまんだ事を、安息日に麦を刈り取る労働だ、律法違反だと言いがかりをつけたのです。そしてその批判は当事者の弟子ではなく、イエス様に向けられました。
イエス様はその人たちにダビデの逸話を話し始めます。この話はサムエル記上21章に出てくるエピソードです。ダビデという人が、王様から命を狙われて逃げる時、おながが空いて、神殿を訪ねました。そこにいた祭司は供えてあったパンを分かち合ったという話です。そのパンは本来、祭司しか食べることが許されていない、聖なるパンでした。しかし祭司はダビデとそれを分かち合ったのです。祭司にとって供えのパンは聖なるものです。しかしそれをダビデと分かり合いました。それは良いことをするのは物や、日時を選ばないということを示すでしょう。必要としている人と分かち合う事、それをしてはいけないもの、日、時、場所はないということです。どんな時でも、どんな場所でも、慈しみの分かち合いは許されるのです。
この個所でイエス様は、戒律を守る、何々をしないという事だけでなく、何をするかに注目をさせます。してはいけないことだけではなく、すべきことに目を向けさせます。私たちは日曜日、礼拝をします。他の事をしません。日曜日は仕事や用事を入れず、予定を調整し、礼拝に参加します。しかし大事なことは何をしないかだけではありません。何をするか、すべきことをするということも大事でしょう。
私たちは1週間の始まりの日曜日を、祈り、礼拝することから始めます。それは変えません。守り続けます。そしてその1週間、私たちは何をすべきでしょうか。善き事をしたいのです。今日、たくさん祈り、1週間を始めましょう。そしてこの1週間、誰かの悪い箇所を探すのではなく、私たちはいままでとは違う、善き事をしたいのです。
27節に「安息日は人のためにある」とあるのはそのような意味ではないでしょうか。安息日は誰かを悪者にするスタート、悪者を探すスタートではありません。安息日は人のために善き事を始めるためのスタートです。人のために何か行動を起こす、そのスタートです。私たちはこの安息日をスタートに1週間、何か善き事をしたいのです。すべきことをしたいのです。人のために何かしたいのです。人のお腹と心が満たされるような何かをしたいのです。今日いっぱい祈り、その1週間をスタートしたいのです。
私は受難日・聖金曜日のこひつじ食堂通じて、何をすべきかを問われました。断食なんてしなくていいということではありません。祈らなくてよい、礼拝しなくてよい、善い事をしていればよいのではありません。礼拝と祈りは誰かの心、痛みを想像するために必要なのです。祈りと共感が必要なのです。神様からの力が必要なのです。でも私たちはそれだけではありません。そこで終わりません。痛みをもった人々と具体的に共に分かち合うのです。善き事を行うのです。私たちは、祈りと行動のどちらかだけを求められているのではありません。祈りつつ、そして善き事を行うことが求められているのではないでしょうか。だから受難日に祈りつつ、働くのです。私たちがこの体、あるいはこの会堂を、祈りの場として以外に、どんな善い事のために使うかということはとても大事なことです。27節の「安息日は人のためにある」とは、安息日は私のためにあるということです、そして安息日は他者のためにあるということです。そしてその安息日は主イエスのものなのです。
聖なる会堂、聖なる体が祈り、他者のために使われる時、本当に聖なるものとなるのです。私たちはこの安息日からスタートします。神様から力をもらい、他者のために、善き事のために働く1週間を始めます。私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へと派遣されましょう。そしてこの会堂でまた分かち合ってゆきましょう。お祈りいたします。
イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした
マルコによる福音書1章31節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月・来月はこひつじ食堂から見えてきた福音を共に分かち合ってゆきたいと思います。先週は5000人の食事とこひつじ食堂と主の晩餐の共通点を見てきました。今日はボランティアさんとの関りから、神様が私たちにどのように力を与えて下さるのかということを見てゆきたいと思います。
こひつじ食堂にはたくさんのボランティアの方々が集まっています。先日は旗が立っているのを見てボランティアに加わってくださる方もいました。多くの方は、平塚市の商工会議所青年部(YEG)が作ってくださったホームページを見て、平塚教会のボランティアに応募をしてくださっています。
ボランティアに加わる方には1時間程度、趣旨説明の面談をしています。これまでに20名近くの方々と面談をしました。面談の最後ではボランティアさんが、こひつじ食堂を手伝おうと思ったきっかけや動機を教えてもらっています。ボランティアの方々の動機は本当にさまざまです。
Aさんはお母さんの介護のために最近、お仕事を退職されました。家での介護が続く日々に煮詰まっていました。本当は仕事をしたいと思っているのだけれど、介護のことを考えると、確実な曜日や時間が決められず、働くことができなかったそうです。そんな時にこひつじ食堂のボランティアの募集を見て、自分が行ける時だけのボランティアならできる、そう思って連絡を下さいました。
Bさんは障がいをお持ちで、なかなか就職をする自信が出ないそうです。でもその日の体調が良い時だけ、月に1・2回だけでいいなら、自分にもできると思って、ボランティアを始めたいと訪ねてこられました。この方はお料理が得意で、本当に助けられています。教会の包丁を研いでくださり、よく切れるようにしてくださいました。
Cさんはシングルマザーの方です。お子さんが大きくなって、ようやく手が離れてきたそうです。これまで本当に育児と仕事の両立に追われてきたと教えて下さいました。やっとこどもも大きくなって自分の時間ができた、さあ何かしたいと思った時に、こひつじ食堂の存在を知ったそうです。私が大変だったあの時にもこんな食堂があったら良かったなぁ。そうだこの食堂を手伝ってみよう。そう思ってボランティアに応募して下さったそうです。
いろいろな動機があるものですが、どれも「何かしたい」「誰かのためにしたい」そんな気持ちから手伝って下っています。そしてとても活き活きと、笑顔で手伝ってくださっています。
それぞれの方が、決して楽ではない時に手伝ってくださっています。きっと人生の中で、大変な時にも関わらずボランティアをしたいと、言ってくださっています。逆にボランティアさんに少ないのは、今時間にも体力にも余裕があるという方です。そういう方はボランティアではなく、一般的な就職をするのでしょうか。私たちのボランティアさんは私も含め、決して強くたくましい人ばかりではありません。不自由や痛みを経験したり、悩みを抱えた人ばかりです。でもだからこそ、人一倍、誰かのためにこの働きに加わろうとする気持ちはある方たちです。食堂のこの1食は、地域のみんなの、そんな思い、小さな力が少しずつ集まってできています。
地域の人の多くが、誰かの力になりたいと願っていると知りました。そして誰かのために働く、手伝うこと、それ自身がその人の活力になることを知りました。教会は何かを提供するのではなく、教会と言う場所が、やりがいと、力を出せる場所となっているとことをうれしく見ています。教会で活き活きと働いてくれることをうれしく思います。
これはきっと神様の働きでしょう。神様は見えない力で一人一人を教会に引き寄せて下さっています。神様が、教会で体を動かすように招き、一人一人を元気にしてくださっています。神様は調理するということを通じて、みんなを元気にして下さっているのです。そして神様はそれを食べる人も元気にしてくださっているのです。
今日の聖書を読みたいと思います。高熱で立ち上がることができない女性がいました。その人はイエス様によって癒され、立ち上がることができました。そして立ち上がった後を見たいのです。彼女は立ち上がるとすぐに、他者のために働こうとします。私はこの姿がボランティアの人々に重なります。イエス様はそのように人々に活力を与えてくださるお方です。今日はそのことを見てゆきましょう。
今日の聖書箇所を見ると、ある女性がいました。彼女は熱にうなされています。でも彼女の周りには優しい人がたくさんいました。彼女を心配し、その病が癒されるように願い、具体的に行動を起こす人、祈ってくれる人が周囲にたくさんいたのです。その中の一人が、イエス様なら彼女を助けてくれると信じました。そしてイエス様に話をしたのです。
イエス様はそのような場所に、イエス様の方から来て下さるお方です。女性はいのちからがら、藁にもすがる気持ちでイエス様を訪ねたのではありませんでした。いちばんしんどい時、仲間が祈り、イエス様が来てくれたのです。そばで手を握ってくださったのです。
私たちも熱を出すときがあるでしょうか。その時きっとイエス様は私たちの心に来て、共にいて下さいます。手を握ってくださいます。あるいはもっとこのことを広く解釈することができるでしょう。私たちの人生にも高熱を出しているような、しんどい時期があるものです。人生で立ち上がれない、食事がのどを通らない、眠れない、混乱し、誰かの助けが必要、そのような時期が人生にはあります。
その時、イエス様は私たちを訪ねてくださるお方です。私たちの手を取って癒してくださるのです。そして私たちがもう一度立ち上がることができるようにして下さるのです。体調を守り、立ち上がる気力、活力をイエス様がくださるのです。
今日の立ち上げられた女性の続きを見ます。女性は31節すぐに「もてなした」とあります。これはもともと「食事の提供をする」「給仕する」という意味の言葉です。聖書では多くの場合、イエス様に「仕える」という意味で訳されます。しかし男性だったら「仕える」と訳されている言葉が、女性だと食事を「もてなす」と訳されます。これは女性は家庭で、男をもてなすものだという考えに基づいた発想・翻訳です。新しい翻訳では男でも女でも、仕えるに修正されています。しかしもちろん、仕えることの中には、食事を作り、運ぶことが含まれます。彼女は「仕えた」のですが、料理をふるまったかもしれません。むしろ私は料理でもてなす彼女の様子を想像します。
こひつじ食堂を通じて、私は誰かに料理を作り、手渡すことの喜び、あふれてくる活力を知っています。きっと彼女は活き活きと料理をしたのではないでしょうか。私はこの物語をさっきまで熱にうなされていたのに、治ったらすぐに誰かのために働きたくなる女性の話と読みます。物語はこうです。ある時、いつも元気なあのおばちゃんが高熱になりました。近所の人、周りの人、教会の人がみんな心配しました。そして信仰のある一人がイエス様に祈りました。するとイエス様がその人を訪ねて、そばに行き、手を握り、祈り、癒したのです。
するとどうでしょか。そのおばちゃんは早速起き上がってしまいます。みんなに何か作って食べさせるんだと言いだします。周りはいくらなんでも、もうちょっと休んだ方がいいと止めたでしょう。でもおばちゃんは、絶対作ると言い張ります。みんなはしょうがないので作ってもらうことにしました。だってあのおばちゃん、いつもみんなに料理を作るのが、本当に楽しそうだから。誰かのために働くこと、働けることで、おばちゃんがもっと活き活きとし、元気になるのを知っていたのです。みんな心配しながらも、その料理をおいしく食べたでしょう。治って良かった、またおばちゃんの料理が食べれて良かったと言いながら、笑いあったでしょう。
そういう事がここで起きたのではないでしょうか。そういうことをイエス様が、ここで起こしたのではないでしょうか。イエス様は病や弱さを持っていた人を、起き上がらせました。そして、また元気にさせ、活力を与え、またみんなのために仕える人に変えた。それがイエス様が起こした奇跡ではないでしょうか。熱はしんどかったけど、熱を出す前よりももっとみんなとの関係、イエス様のとの関係は深くなりました。イエス様はそんな奇跡をここで起こしたのではないでしょうか。
イエス様は私だって誰かのために、何かしたい。体と時間の許す限り、誰かのために生きたい、そんな女性の願いをかなえ、立ち上がらせ、働く者とした。私はこひつじ食堂を見ていると、そのように感じます。
今日私たちは聖書を見ました。神様は苦しいとき、私たちを訪ねて下さるお方です。手を握り祈ってくださるお方です。私たちもそのように、苦しむ人がいる時、共に歩み、神に祈りましょう。そして神様は傷と苦しみから、私たちを癒して下さるお方です。もう一度立ち上がらせてくださるお方です。そして神様は私たちをもう一度活躍できる、誰かのために働けるようにしてくださるお方です。誰かのために祈れる者としてくださるお方です。誰かのために生きる者としてくださるお方です。私たちに生きる活力をお与えくださるお方です。そして神様はもう一度、私たちを強く結びつけてくださるお方です。私たち、この神様を信じましょう。共に従ってゆきましょう。力をいただき、誰かのために働き、祈ってゆきましょう。お祈りします。
すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。ルカ9章16~17節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。私たちは毎年「主題聖句」という1年間大切にする聖書の言葉を決めています。週報の表紙に掲載し、毎週の祈祷会で読み合わせています。昨年度までの3年間はルカ9章48節でした。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」この聖句から、私たちはこどもを大切にする教会ということを追いかけてきました。
今年はルカ9章16節・17節としました。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」
もちろんこれからもこどもを大切にしつつ、この聖句から今取り組んでいる「こひつじ食堂」を大切にしてゆきたいと思っています。「こひつじ食堂」とは毎月第三・第四金曜日、17時~19時まで、この教会を会場にして行われている食堂です。一人200円で、だれでも利用することができます。貧しい人だけが来る場所ではなく、誰でも、寂しいと思う人、誰かと会いたいと思う人、節約したい人、誰かの役に立ちたい人、すべての人に食べて、満腹になってほしいと思っています。こひつじ食堂の様子から、大勢で食事をする聖書の場面を主題聖句としました。
市内には他にもこども食堂があり、似たことをしています。その人たちにやり方を教わって始めました。しかし私たちにはきっと別のルーツがあります。そのルーツというのは聖書です。聖書の中に記される、イエス様がいろいろな人といろいろな場所で食事をしたことが「こひつじ食堂」のルーツです。聖書には食事がきっかけで、イエス様のことを知ることができたり、仲間ができたりする場面がたくさんあります。だからこそ、私たちは一緒に食事をすることを大切にするのです。
さらにこひつじ食堂は教会のメンバーだけではなく、地域の人と一緒に食事をする場所になりました。分かち合いをする場所になりました。一緒に働く場所になりました。
このことをきっかけに私たちは今、地域協働計画を進めています。今、私たちはもっと地域と一緒に食事をし、一緒に活動してゆく教会を目指しています。そしてそのような願いを持って聖書を読む時、きっと新しくみ言葉をいただくことができると思います。私は最近、聖書を読んでいるとどうも、読む個所、読む個所にこひつじ食堂のことが書いてあるような気がしています。今日から2か月この「地域協働」「こひつじ食堂」をテーマにして、聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。
今日の聖書箇所は、イエス様がパンを増やしたという「奇跡」に目がゆきがちです。イエス様がマジシャンの様にパンと魚を増やすことをもって、イエス様は信じるに値する人だと言われることもあるでしょうか。イエス様に従えば、奇跡が起きて、飢えることなく、満たされるのだと言われるでしょうか。不思議だけどそれを信じるのが信仰だと教わって来たでしょうか。あるいはこれは食事や腹が満たされるという低い次元の話ではなく、心の内面、魂が満たされたのだと言う人もいるでしょうか。
しかしこひつじ食堂をはじめると、もっと違う読み方ができるのではないかと思います。私は5000人の食事を想像すると、今こひつじ食堂で一緒にしている食事と重なってくるのです。
たしかに聖書の言葉は人々の心の活力になるでしょう。私にとってはそうです。でも私はこひつじ食堂を始めて、言葉だけではない、食べ物を分かち合うことが、どれほど多くの人の励ましになるかを知りました。1食の食事を分かち合うことの喜び、力強さを知りました。
ここで注目をしたいのは、マジックのように食べ物が増えた、あるいは言葉を聞いて満たされたということではありません。ここで注目をしたいのは、食事を分かち合う、一緒に食べるということを通じて、人々の心、体、関係など様々なニーズが満たされていったということです。今日この個所を、食事を分け合った、一緒に食べたということを強調点として見てゆきたいのです。みんなが一緒に食べて、元気になったこと、それは奇跡によってパンが増えたことよりももっと大切なことではないかと思うのです。
食べ物の分かち合いによって、5000人のにぎやかな食事によって、おなか一杯、楽しく食事をした人々はもう一度、生き生きと歩んだでしょう。励まされて、自分の元いた場所に心の余裕を持って戻ったでしょう。ストレスが解消されたでしょう。もしかするとストレスからくる病気がすこし良くなったという人もいたかもしれません。
もちろん増えたパンも気になります。しかしそれももしかすると、私たちの食堂から考えると、人々が持っているパンを分け合ったのではないかと思えてきます。私たちの食堂がそうであるように、どこからか余っている食べ物が届けられたのではないかと思うのです。
13節にはイエス様が「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言ったとあります。この食事の主催者はイエス様です。イエス様がこの食事をするようにと弟子に命じました。それがこの食事の始まりでした。すべての始まりはイエス様の言葉です。イエス様はみんなばらばらに食事をするのではなく、全員で食べようじゃないかと言いました。弟子の役割はそれを準備することだとイエス様は言います。イエス様のこの言葉からこの食事は始まったのです。この言葉は2000年前の言葉です。でもこれは私たちへの言葉でもあるでしょう。「あなたたちが準備しなさい」これがこひつじ食堂のルーツです。
そしてここにはイエス様の招きも記されていると思います。イエス様に従った人々は自分の食べ物すら持たずに従った人でした。着の身着のまま従った人でした。準備の無い人が食事の輪の中に招かれたのです。神様とはそのような招きをするお方です。神様は準備のない人、持ち合わせのない私を、無条件に食堂に招いてくださるお方です。
14節には「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」とあります。この5000人はもともとバラバラの5000人でした。しかしバラバラだった5000人はイエス様の指示によって50人ごとのグループにされます。イエス様はお互いの顔が見えるグループに分けます。そしてそこに座らせるのです。50人は互いがおなかが空いているのを表情から知ったでしょう。名前の知らいない人と名前を教え合ったでしょう。50人の中にかつての友人を見つけ、共通の友人を見つけたでしょう。そうしているうちに奇跡とも言える分かち合いが起きたのです 。
このように神様は、準備の不十分な私たちを、招いてくださるお方です。そして一緒に向き合い、食事をするようにと命じます。弟子が準備するようにと命じます。私たちは顔を見て、分かち合い、一緒に食事をし、互いに励まし合います。そしてお互いにまた力を受けて、それぞれの場所へと戻るのです。私はそのような姿が、5000人の食事でも、こひつじ食堂でも起こっていると思います。
16節には「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」とあります。今日の個所は主の晩餐として行われていることは明白です。「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」とあるのは、主の晩餐の際によく使う表現です。イエス様はこれを主の晩餐として持ちました。
この5000人の食事が主の晩餐だとするなら、私はすべてがつながります。5000人の食事と、こひつじ食堂と、主の晩餐がすべてひと続きのものとしてつながります。実は私たちがしているこひつじ食堂は、5000人の食事であり、主の晩餐なのではないでしょうか。あるいは逆に、5000人の食事や主の晩餐とは実はこひつじ食堂の様な食事だったのではないでしょうか。私たちの食堂は、主の晩餐がルーツだともいえるのではないでしょうか。
今日私たちもこのあと主の晩餐式をもちます。久しぶりに小さなパンとぶどうジュースを皆さんと分かち合います。これから持つ主の晩餐はまさに5000人の食事の出来事です。そしてこひつじ食堂とも似た出来事です。今日それをともにいただきましょう。
私たちは今、イエス様から主の晩餐に招かれています。これを食べる・飲むことによって、バラバラの私たちは、顔の見える、分かち合いの関係の中に入ります。イエス様のもとで分かち合う5000人になります。50人になります。共に食べることによって、こひつじ食堂のように、励まされ、またそれぞれの場所で力強く歩むようになるのです。もしかしたら、このことで病気が楽になる、治る人がいるでしょうか。
私たちの教会では、パンと杯は、バプテスマ(洗礼)を受けたクリスチャンの方とともに食べるとしています。しかし私はいつか17節「すべての人が満腹した」とあるように、すべての人に加わって欲しいと願っています。イエス様はすでに招いておられます。一人でも多くの方が、これに加わって欲しいと思っています。賛美の後、ともに主の晩餐をいただきましょう。私たちは一緒に食べる教会として、地域と共に歩んでゆきましょう。お祈りします。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
マルコによる福音書1章17節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもをたいせつにする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。
先週はイースター礼拝を持つことができました。宣教でマルコの最終章が1章につながっているということを見ました。イエス様のガリラヤの姿を見ることで、私たちは復活の主に出会うことができるのだと、聖書を読みました。ですから今日はマルコ1章のガリラヤのイエス様と弟子の最初の出会いを見てゆきたいと思います。
教会には絶えず、新来者、初めてこの教会の礼拝に来たという方がいます。多い時期、少ない時期があります。4月は比較的多い時期でしょうか。わたしたちはこどもを大切にする教会ですが、たいせつにするのはこどもに限りません。こどもをはじめ、すべての人を大切にする教会です。初めてきた人も大切にする教会です。
見知らぬ場所、見知らぬ人に会うのはとても緊張して、勇気がいるものです。初めて教会に行くという時、あらかじめ電話をしてきて「自分なんかが行ってもよいのか」と確認する方も多くいます。初めての場所、特に宗教がらみとなれば、当然いろいろな不安があるものです。よく聞かれることは、私も行ってよいのか?どんなことをするのですか?どんな服装でいけばいいのか?お金はいくら払ったらいいのか?と聞かれます。
私は、準備は必要ない事、緊張しないで、手ぶらで普段着でお越しくださいと伝えるのですが、どんな言葉をかけられても、見知らぬ人の集まる場所に行くのは、とても緊張するでしょう。興味はあるけど、入る勇気はないという人はたくさんいるものです。教会はそのような方たちを温かいまなざしを持ってお迎えしたいと思います。よくある失敗は「あなたの名前は?お住まいは?家族は?仕事は?」と質問攻めにしてしまうパターンです。初めての方を知りたいと思う気持ちで、悪気はないのです。しかし聞かれた側としては「その前に、あなたは誰ですか?」と感じるものです。私たちは教会の中で、相手が自分のことを知っている前提で話をしてしまうものです。
私たちはまず自分から自己紹介しましょう。「私は平野と言います、豊原町に住んでいます。こどもが2人います。牧師をしています。今日はよろしくお願いします」そんな風に声がかけられたら良いと思います。聖書や讃美歌を開くというのも、お手伝いください。初めはページ数を言われても開くことができないものです。そっと前後左右に座った方に教えてあげるようにしてください。
私たちは初めて来た方も大切にする教会です。見知らぬ人の中にいて、不安に思う人を大切にする教会です。今日はYouTubeで、来ることを不安に思う方、来るのに勇気がでないという方も見ているでしょうか。その方たちに伝えたいのは、あなたはここにいて、ここに来てOKということです。すべての人がこの礼拝にくるのにふさわしい人です。失敗はありません。とにかくこの時間を一緒に過ごしてくれればOKです。ぜひ一緒に礼拝しましょう。
話が難しくてわからなかったと思うかもしれません。大丈夫です。周りの方はわかったような顔をしていますが、意外とわかっていないものです。牧師自身もそうです。わかったような話し方していますが、わからないことがたくさんあるまま話をしています。とにかく私たちは聖書の事もお互いの事も、わからないながらも、この場所にいよう、人生を一緒に歩もうとする集まりです。少しずつお互いと、神様の事を知ろう、そんな集まりです。どうぞゆっくりと、一緒に過ごしましょう。そんな気持ちで今日、礼拝を共にしましょう。
今日は聖書から、イエス様のこと、全部わかるわけではないけど、私たちは神様に招かれているということ、そしてイエス様と一緒に歩みましょうということを聞きたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。
今日はマルコ福音書1章16節~20節(新約聖書61ページ、後半三分の一あたりの61ページ、小さい16という番号からの箇所)です。イエス様が四人の漁師を弟子にするという場面です。
先週は、マルコ福音書には大事な復活のありさまが書かれていないということを見ました。今週も肝心なことが書いていないと思います。それは弟子たちの葛藤です。弟子たちはこんなにあっさり、見知らぬ人について行ってしまったでしょうか。初めて会った人について行くのに葛藤はなかったのでしょうか。多くの人は教会に初めて来るということに、とても慎重です。しかし、この人たちは初めて出会った見知らぬ人についていくということに一切の迷いがありません。それ以外にも仕事辞めて大丈夫なのか?家族は置いて行って大丈夫なのか?いろいろと疑問に思います。
今日の個所にはそのような心配や不安や葛藤、イエス様について行く際にあっただろう途中経過が一切書いてありません。葛藤したけれども従うことにしたのだという記載の方が、力強い印象を与えるはずです。しかしそれは書かれていません。見知らぬ人に声をかけられ、ついていってしまう危険な話です。
経緯が記されないでいると、印象に残るのは、やはり直前の言葉です。それは「私についてきなさい」という言葉です。「ついてきなさい」という言葉は、聖書のもともとの言葉をみると「一緒に歩む」という意味のある言葉です。つまり「ついてきなさい」とは「一緒に歩もう」という意味です。イエス様は見知らぬ人として4人の前に突然現れ「一緒に歩もう」と言うのです。
「人間をとる漁師になろう」とは少々乱暴な印象を持つ言葉ですが、人間に罠をかけて捕まえるような強引な布教をするということではありません。「たくさんの仲間を作ろう」という意味です。私たちはイエス様の網の中にある、元気な魚です。4人はこのような出会いをしました。ある日突然、仕事をしていると、見知らぬ人が現れて「一緒に歩もう」と言われるのです。そしていろいろ都合があったのだけれども、一緒に行ってみようと決めたのです。
イエス様はそのように弟子たちに現れたお方です。まずイエス様は、イエス様の方から会いに来てくださるお方です。何の準備もないもない、知識もない者に声をかけるのです。イエス様の方から弟子にならないかと招くのです。私たちは一生懸命、教会に来る、イエス様に従うために一生懸命ですと思うかもしれません。でも神様は私たちに、神様の側から会いに来てくださるお方です。
イエス様は私たちに、そのように現れるお方です。神様は最初は誰にとっても、名前も知らない人です。見知らぬ人です。でもその方に「一緒に歩もう」と誘われ、一緒にいるようになるのです。そして一緒に歩むことで、毎週少しずつ、神様のことがわかるようになるのです。私たちは神様の事よく知らないかもしれません。いろいろな準備ができていなかもしれません。でも神様が、神様の方から私たちに現れてくれるのです。私たちが知らなくても、準備できていなくても神様は私たちに現れくださるのです。
そしてイエス様が現れる場所も見ておきたいと思います。イエス様はなんと仕事中に突然現れるのです。神様は日常生活の中に現れると言えるでしょう。イエス様が私たちに会いに来てくださるのは、教会や神殿や、パワースポットだけではないのです。神様は私たちの日常に現れるお方です。職場や毎日いる場所に現れるのです。神様はそのように自分を現わすお方です。私たちはそれぞれ1週間過ごす場所で神様に出会うでしょう。職場や学校や、デイサービス、日々私たちの行く場所に神様は現れるのです。
それは職場の同僚や上司、友人知人、一緒に過ごす人を通じてとも言えるかもしれません。出会う人の輝きや、痛みや苦しみを知り、神様がきっとここに働くと感じことになるでしょう。神様は私たちの毎日にそのようにして、誰かを通じて現れて下さるお方でもあります。
そしてもうひとつ見ておきたいのは、神様は特別な人に現れるのではないということです。神様は当時ありふれた職業だった漁師に現れました。知恵と理解力とパワーのある人に現れたのではありません。労働者に、普通の人に、ごく一般人に、私に現れるのです。初めての人にも現れるのです。それが神様の選びです。神様は偉い人、賢い人を選ぶのではありません。神様の温かいまなざしは毎日を生きる私たち、全員に注がれているのです。
「ついていく」という言葉をすなわちそれは教会の奉仕を頑張ることだ、牧師になることだ、そう理解されてきた歴史もあります。もちろんそういう事も含むでしょう。しかしそれだけではないはずです。毎日の生活の中で、神様は私に、私たちに「一緒に歩もう」「仲間といよう」そう呼びかけておられるのです。
神様はこのようなお方です。神様は見知らぬ私に突然、出会いに来て下さるお方です。神様は私の日常に出会いに来てくださるお方です。神様は特別な人にではなく、あなたを、私を選ぶお方です。
今日、私たちはそのイエス様に「一緒に歩もう」と呼びかけられています。私たちはそれに応えてイエスさまと一緒に歩みましょう。この仲間と共に歩んでゆきましょう。神様は私たちの日常に、先に、すでにおられるお方です。先週見た「先にガリラヤへ行かれた」とはそのような意味です。私たちの主は、私たちの日常に先に行っておられます。今週もそれぞれの場所で、共に主イエスと出会ってゆきましょう。お祈りいたします。
『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』マルコによる福音書16章7節
みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音をたくさん聞きながら共に礼拝をしましょう。そしてイースターおめでとうございます。イースターを共に祝うことができること感謝です。
何より転入会が起こされたことを大変うれしく、歓迎します。証しを聞きました。17という数字もこの出会いきっかけでした。家族で過ごした最後の17日間。命日だった3月17日。そして私たちの信仰告白の日付が3月17日でした。そして今日は4月17日。そして今日は初めて来たクリスマスから17週間後。今年は初めて教会に通ってから17年目だそうです。不思議なめぐり合わせです。
信仰を改めて強く意識したのは、お連れ合いの死に直面した時だったでしょうか。お連れ合いを天に送ってしばらくは活力がわかない日々が続いたそうです。しばらくして、このままではいけないと思って、そして不思議に予定が巡り合わされこの教会へと導かれました。
誰かの死は人を大きく変えると感じます。特に親しい人の死は私たちの心を大きく動かします。死は人を悲しませ、人の気力を長く奪います。しかし同時に死は、人を動かします。遺された者の生き方を変えるのです。私たちは誰かの死に突き動かされることがあります。
2つの意味で死はスタートです。ひとつは天に召された人にとって、神様のもとでの歩みを始めるスタートです。そしてもうひとつは、地上に残された者たちにとっても、新しいスタートになります。私たちの大切な人の死は、私たちを立ち止まらせます。でもそれはスタートになります。新しい歩みのスタートになるのです。私たちは誰かの死、あるいは自分の死で終わるのではありません。そこから新しくスタートする歩みがあるのです。終わりと思う場所は、終わりではありません。それはスタートにつながっているのです。
終わりの様に見える死も、終わりではありません。お連れ合いは最後に「また、会おうね」と天に召されていったそうです。終わりの様に見える死は、終わりではありません。その証しをこのイースターに聞くことができたのは大きな喜びです。
今日の聖書個所も特に「これは終わりじゃない、スタートなのだ」そのように言える個所です。今日の個所はもう一度スタートをしたくなる、そんな終わり方をしています。それは「終わりじゃない終わり」です。この個所は終わりの様で、始まりなのです。今日見たいことは、復活の主は、終わることなく、私たちに繰り返し、出会ってくださるということです。共に聖書を読みましょう。
今日の個所を読みましょう。今日はマルコ最終章16章の1~8節です。聖書がお手元にある方は開いて見て下さい。9節以降には人々がどのように復活の主と出会い、宣教へと派遣されてゆくのかが描かれています。特に「結びの二」の個所を見ると、素晴らしい終わり方だと思います。イエス様が現れて弟子たちは朽ちることのない福音を広めていったと書いてあります。めでたしめでたしのハッピーエンドです。
しかし、実は9節以降を見ると〔カッコ〕でくくられています。ひとつ目のカッコは9節~20節まで、そして二つ目のカッコは結びの二の個所です。聖書の言葉がカッコでくくられている意味は、当初は聖書に書かれていなかった文章で、後の時代の人が後から付け加えた文書だということを示しています。聖書のオリジナルの言葉ではなないのだけれども、後から付け加えられ、聖書と同じように読まれてきた箇所という意味です。聖書なのかどうか、すこし曖昧な箇所でもあります。ここで2つのカッコがあるのは3通りの結末、いろいろな終わり方があったということを示しています。
一つ目はオリジナルです。8節で終わる終わり方です。2通り目は後の時代の人が20節までを付け加えた終わり方です。そして3通り目は、8節の後に結び二を付け加えた終わらせ方です。3通りの終わり方がありましたが、いずれにしても当初はこの8節まででマルコ福音書は終わっていました。
マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたと考えられます。だとするとどのような意味がそこにあるでしょうか。お手元に聖書がある方は9節からを手で覆って、隠してみてください。そうするとわかることは、もともとのマルコ福音書は復活のありさまについて記していないということです。8節は女性たちが恐ろしく思ったということで終わっているのです。イエス様は復活しないで終わります。もしここで福音書のドラマが終わるとしたらどんな印象を持つでしょうか。とても唐突な終わり方に感じます。後の時代の人の中に、こんな終わり方ではよくないと思って、話を付け加えた人がいました。確かに結びの二の方が終わりにはふさわしいでしょう。しかし福音書の著者はあえて8節で終わらせたのです。
もちろん著者は復活の出来事を知っていたはずです。しかしあえてそれを書いていないのです。あえて肝心な部分を書いていないのです。これでは結末として不十分ではないでしょうか。まるで終わり方の中途半端なドラマを見ているようです。え、ここで終わり?と感じるのです。大事なことが書かれていないのです。
しかし8節で終わることはまさしく、マルコ福音書の著者の狙っていることだと思います。え、ここで終わり?ここで終わりではないよね?そう思わせるために、途中で終わらせたのではないでしょうか。
著者は、復活の事をよく知っていたにも関わらず、復活がどのように起きたのかを詳しく描写することをあえて辞めました。この後何が起きたのかを詳しく書くのをあえて辞めたのです。復活をわざと描かなかったのです。
このようにあえて中途半端にマルコ福音書が終わっているとしたら、最後に印象に残るのは何でしょうか。それは終わる直前でしょう。白い長い衣を着た若者が言った7節の言葉が印象に残ります。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という言葉です。
マルコはイエス様がガリラヤに先にいっているという印象を残して終わっています。それ以降は描かないのです。弟子も何も行動を起こさないのです。なぞはなぞのまま終わり「イエス様はガリラヤに先にいる」という事だけが示されて終わるのです。
テレビドラマだとしたらこの最終話は視聴者を混乱させます。視聴者は不思議に思ってもう一度見返すでしょう。それがドラマ制作者の狙いです。ドラマの制作側からのメッセージは、このドラマの意味を分かるには、もう一度第1話から見てくださいというものです。
つまり「ガリラヤに行かれた」という終わり方は、これまでこの福音書に書かれてきた、ガリラヤのイエス様とはどんな人だったのかをもう一度見るように、そう促しているのです。イエス様が地上でどのように生きたか、1章からもう一度見よと指し示しています。ですからこの16章8節は1章1節へとつながってゆきます。「イエス様は先にガリラヤに行っている」という姿が終わりで指し示される時、私たちはもう一度、イエス様のガリラヤの歩みを読むように促されているのです。
ガリラヤのイエス様の姿を思い浮かべます。イエス様はガリラヤで貧しい人と共にいました。ガリラヤで病を負った人と共にいました。寂しさを抱える人と共にいました。ガリラヤで差別をされる人と共にいたのです。弟子と一緒に食事をしました。罪人と一緒に分け隔ての無い食事をしました。その姿を私たちはもう一度読みます。そしてきっと私とも共にいてくださるだろうと気づくのです。
再びイエス様の地上の歩みを読む時に、十字架のイエス様がガリラヤでどのように歩んだかを知る時、イエス様の姿が、私たちの心の中にもう一度、生き生きと浮かびます。共にいると感じることができるのです。もう一度イエス様と出会うことができるのです。
私たちは今日、そのことを「イエス様は復活した」と呼ぶことはできないでしょうか?
十字架を知った私たちが、もう一度ガリラヤのイエス様の姿を知る。私たちはそのことを私たちの中にイエス様が「復活」したと言うことはできないでしょうか。十字架で終わってしまった、弟子たちも怖がって終わってしまった物語です。しかしそこから私たちがもう一度ガリラヤのイエス様の姿を読むとき、イエス様は復活し、私と共にいる、そう感じることはできないでしょうか。
今日私たちはマルコ福音書を16章まで読み進めてきました。でも私たちは今日からまた繰り返し、聖書を読み返してゆきたいのです。イエス様の復活を聖書の中に見つけてゆきたいのです。そのような意味で、今日の個所は終わりじゃない終わりです。終わりですが、スタートの日です。今日の最終章は終わりではありません。ガリラヤのイエス様の姿を指し示しています。もう一度ガリラヤのイエスを見よと指し示しています。そしてもう一度読み直す時、あなた自身が主イエスの復活に出会うだろうと指し示しています。「復活の主はガリラヤに先におられる」とはそのような意味ではないでしょうか。
今日、私たちはイースターを迎えています。新しいスタートをした仲間をうれしく思います。そして、終わりは終わりじゃないと感じます。終わりはスタートにつながっています。ガリラヤの姿、復活へとつながっているのです。
今日の個所に復活のありさまは書かれていませんでしたが、すでに、先に、復活の主イエスは聖書の中に、ガリラヤの姿に記されています。神様はそのようにして、私たちを、復活の主と出会わせて下さいます。ガリラヤに先におられるのです。終わりとスタートは結び付けられているのです。今日、共にその主の復活、スタートを喜びましょう。お祈りいたします。
イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14章33~34節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることをうれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、泣き声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。私たちは受難節の中の受難週、イエス様が十字架へと向かってゆく姿を覚える時を迎えています。
そして毎日ウクライナのニュースに心が痛みます。特に心が痛むのは、戦闘機やミサイルが狙っているのは、軍事施設ではなく幼いこどもや、病院にいる人を標的にしていることです。こどもたち、病院にいる人たちが戦争の中に置かれた恐怖を思うと、押しつぶされるように心が痛みます。
ウクライナでは自分の死を目の前にして、眠ることができない人がいるでしょうか。死の恐怖の中で、祈る人がいるでしょうか。私たちはそのような恐怖を感じている人と同じ世界に住んでいます。彼らが恐怖で眠れない時、私たちは毎日静かに眠っています。私たちの肉体は弱いものです。祈りが続かないものです。しかし今は、祈りたいと思っています。イエス様が待っているようにと言ったあの時は寝てしまったけれど、今私たちは現実をしっかり見て、祈り続けたいと思っています。
私たちもこの戦争に恐怖を感じています。それは次は私に爆弾が飛んでくるかもしれないという恐怖ではありません。私が今、もっとも恐ろしいと思うのは、人間はこのような戦争を起こすことができるということです。人間とはこのように人間を殺すことができるのかということに驚き、恐怖を覚えています。戦争の恐ろしさとは、人間が戦争によって、このように人間を殺すことができるということです。戦争を起こす人間そのものに恐怖を感じます。
このような戦争を見る時、私たちはいつも神はどこにいるのか、神は今何をしているのかを問いたくなります。いったい今神はどこにいるのでしょうか。早くこの戦いを終わらせてくれないのかを問いたくなります。
しかし神様はまだ今日もこの戦いを終わらせてはくれません。神様は沈黙しておられます。私はそこにも恐怖を覚えます。人間がどんなに残酷な戦争をはじめても、神様は止めて下さらないのです。私たちがどんなに平和を祈っても、神様は沈黙しておられるのです。そのような中で、神様がどこにいるのかを聞きたくなるのです。神様はこの状況に沈黙している、神様はいないのではないかと恐怖を感じるのです。
一方、今日の個所から思い出すことがあります。それは、私たちの神様は苦しみのただなかにおられる神様なのだということです。私たちの神様は、苦しみもだえ、祈る神様なのです。神様は苦しみを避け、死を避けてゆくのではありません。十字架に向けて、ご自身から向かい、そのただなかにおられるのが、私たちの神様なのです。
私たちの神様は、私たちが「神はどこにいるのか」「神などいない」と思う、その場所におられます。その苦しみの中心に、神はいないと思うその中心に、神様はおられるのです。そのことを今日、覚えたいのです。そして神様がいる場所に、私たちも目を向けたいのです。苦しみのある場所、苦しむ人のいる場所に神様おられます。そこに心を向けたいのです。共に、目を覚まして祈りたいのです。今日の聖書箇所を一緒にお読みしましょう。
今日の個所で、イエス様は33節ひどく恐れてもだえ始め、34節「死ぬばかりに悲しい」と語っています。私たちが従おうとする神様は苦しんでいます。神様はこのように苦しむお方なのです。でも、なぜイエス様はこの場面で苦しみもだえ、死ぬばかりに悲しむのでしょうか。実はその理由ははっきりしません。
弟子たちが眠っていて、一緒に祈ってくれないから悲しいというのは、この後の37節の出来事です。イエス様は弟子たちが眠ってしまった、祈っていない以前から、すでに苦しみ、悲しみを持っているのです。ですから弟子たちの弱さが、悲しかった、苦しかったのではありません。
ではやはり、自分が死ぬということが悲しかったのでしょうか。それももちろんあるでしょう。この後の十字架によって自分が死ぬということはとても怖かったのでしょう。何度も自分は死ななければならないと語り、その運命を知っていたとしても、それは近づけば近づくほど、もだえ、苦しむほど恐ろしかったでしょう。
しかし今日私はイエス様の苦しみは、ただ自らの死の恐怖や、孤独だけではないと思います。自分の死や、孤独だけがこの悲しみ、恐怖の原因ではないでしょう。その悲しみは個人の痛みではなく、もっと深い痛みであったと思うのです。イエス様の悲しみをもっととらえたいのです。
おそらく、イエス様の深い悲しみは、この死が一人の人間の死ではないということと関係するでしょう。これから起こる死は、神に最も愛された人の死であり、御心にかなう人の死であり、救い主として地上に遣わされた人が殺される死です。それは神の子の死です。神ご自身の死でした。
十字架が目前に迫っている今、人間は神の子を殺そうとしています。神を殺そうとしています。人間にはそのようなことができるのです。人間は戦争であのような残酷な攻撃ができるように、神をも残酷な十字架につけることができるのです。イエス様はそのことに恐怖を感じたでしょう。自分が殺される、仲間は祈ってくれないということ以上に、人間が神の子さえも、救い主さえも殺そうとしている、その人間に恐怖を感じたでしょう。
イエス様は人間の身勝手さ、残酷さに恐怖を感じているのではないでしょうか。人はこのように残酷になることができるのです。人間が殺すことができるのは、人間だけではないのです。人間は神すら殺すことができるのです。人間とはそのように、恐ろしい存在です。イエス様はその人間の罪の大きさを感じ、ひどく恐れてもだえ始め、死ぬばかりに悲しんだのでしょう。そして、もう一つイエス様が恐ろしいと感じたことがあったと思うのです。それはこの状況になっても、神様が何も語らないということです。恐ろしいことに神様はイエス様の祈りに対して、ずっと沈黙をしているのです。イエス様は36節で苦しみを取り除いて欲しい、でも御心が叶うようにと祈っています。イエスは神様に必死に祈りました。地面にひれ伏してまでも祈りました。神の御心が叶うようにと祈ったのです。
しかし神様はイエス様に何かを応えたのでしょうか。今日の個所には神様の発言は記されていません。神様はひたすら沈黙を続けてゆきます。その沈黙は十字架までずっと続きます。イエス様が「わが神、わが神、なぜあなたは私を見捨てるのか」そう叫んだときも、神様の声は聞こえませんでした。神様は沈黙しておられたのです。
イエス様がもっとも恐ろしかったのは、神様がずっと沈黙をしていることだったのではないでしょうか。大きな困難が迫っている。でも私に向けて神様は直接話しかけたり、救い出したりしてくれないのです。神様これでいいのでしょうか。これが御心なのでしょうか?その問いに神様は答えないのです。そして同じように、私たちも神様の声を聞いたりすることは少ないでしょう。
では神様はいないのでしょうか。どこにいたというのでしょうか。私たちは知っています。神様は十字架の上にいたということを知っています。神様はもだえ苦しみ、死んでゆくものとして、十字架の真ん中におられたのです。私たちはそのことを知っています。
神様はそのようにして沈黙し、苦しみます。神様は沈黙し、その苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、十字架で死んでゆくのです。神様の声は聞こえなかったでしょう。
でも神様は確かにそこに、十字架にいたのです。それが私たちの神様です。私たちの神様は苦難の時、恐怖の時、痛むとき、声はしなくても、共にいる、その苦しみの真ん中に共にいるのが神様なのです。十字架はそれを表しています。
今、私たちの世界で、最も痛み、もっとも恐怖を感じているのはウクライナの人々でしょう。人間は残酷です。神様はどこにいるのでしょうか。神様の声と業で戦争が止まらないでしょうか?それは今日まで起きていません。
しかしそのような現実にあって、神様はどこよりも、ウクライナの人々と共におられるでしょう。ウクライナの攻撃された病院のがれきの下におられるでしょう。戦争に恐怖を感じ、傷ついたこどもたちと共におられるでしょう。未来を見渡せなくなって悲しむ人々と共に神様はおられるでしょう。戦争の中で神様はどこにいるのかと叫ぶ時、その真ん中におられるでしょう。
神様はそのように苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、あるいは共に死んでゆくお方です。声は聞こえなくもと、神様はそこに確かにおられます。それがイエス様の十字架が示していることです。
一方、神様がいない場所があります。それはどこでしょうか。それは墓の中です。神様は墓の中にはおられません。墓にとどまらず3日後に復活をしたのです。それは地上の悪や罪、人間の残酷さが、勝利しないことを示しています。
神様はもだえ苦しみ、死んでゆく命を、蘇られせるお方です。命は墓に閉じ込めておくことができません。戦争は、暴力は人を殺すことができない、命は永遠に続く、そう神様は示したのです。
神様はこのように、沈黙しながら、苦しみもだえ、そして苦しむ人と共にいるお方です。苦しむ私たちと共にいるお方です。私たちもそうありたいのです。私たちも苦しいけど、苦しい人に目を向けてゆく、目を覚まし祈ってゆきたいのです。
今日の最後の個所42節でイエス様は「立て、さあ行こう」と言います。イエス様の目的地は十字架です。「十字架にさあ行こう」と、イエス様は弟子たち、私たちに語っています。十字架に行こう、それは共に苦しみの道を歩もうということでしょう。そして苦しみを感じている人に目を向け祈るということでしょう。イエス様は立って、十字架に行こうと促しています。私たちはその主イエスに従い、目を覚まし、祈り続けましょう。お祈りします。
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。マルコ9章2~3節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。特に今日は礼拝に集い、また賛美を再開することができてうれしいです。久しぶりに声を合わせて賛美することができる恵みを感じています。
先週はお休みをいただきありがとうございました。また教会の働きに励みたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
今日から新年度に変わります。今年はいよいよ教会にとって大きな一歩を踏み出してゆく年になるでしょう。特に地域と共に働く、地域協働、こひつじ食堂の広がりを大切にしたいと思っています。地域と共に、地域の中で歩む、一緒に食べることを大切にしてゆきましょう。
私たちの始めた「こどもプロジェクト」は大きなうねりになってきています。私たちが自分の予定を変えて、他者のために動き出すとき、大きなうねりが起こりました。私たちは自分のためではなく、他者のために、特にこどもたちのためにこれからも歩んでゆきましょう。
新年度、新しい計画を始める前に確認しておきたいのは、物事を進めてゆく時には必ず紆余曲折があるということです。計画には浮き沈み、うまくいく時とそうでない時があるものです。
そして元の計画は必ず変更になります。問題が出てくるたびに、いちいち右往左往し、三歩進んで二歩も三歩も下がります。一つの問題を解決すれば、別の問題が出てきます。最後に完成した姿を見ると、最初の計画とは似ても似つかない、違うものになっていたということはよくあることです。
現状とは案外、いろいろなバランスがとれているものです。それを変えようとするとき、様々な場所でバランスが崩れるはずです。だから現状維持が楽です。でも一歩歩み出したい、これまでと違う一歩、できなかった一歩を歩みだしたいと思っています。「計画はコロナ次第で変わります」という事も増えました。教会の計画も、人生の計画もコロナ次第で、振り回されています。あえて良かったといえる事は、計画が変わることに慣れたことでしょうか。期待しすぎないこと、今できなくても必ずいつかできること、それを待つことができるようになりました。必ずできると信頼して待つことができるようになりました。
計画というのは直線的であっても、実施は柔軟な曲線のようなものになるでしょう。私たちが祈るのは、計画が私たちの考えた通り、まっすぐ直線的に実現されることではありません。この計画に神様の力が働いて、変えられて、私の計画が曲げられて、神様の計画が実現されてゆくことを祈りたいと思っています。
新年度、一人一人の人生の計画も残念ながら思い通りにはいかないこともあるでしょう。思い描いていたこと、一直線に描いた計画は、思っていたものとは違うものになるでしょう。でも変化を受け止めてゆくことが大事です。私の計画は実現しないかもしれないけれど、神様の計画が実現してほしい、そう祈って歩みましょう。
私たちの人生でも最後に目にするのは、最初に私が願っていたのとは違うものかもしれません。でも神様の計画はきっとそのように実現します。神様の計画が実現することを祈ってゆきましょう。そして計画が変えられる時、その中で神様がいつも共にいてくれることを忘れないでいましょう。
今日は私たちの人生には良いときも悪いときも、神様がいつも共におられることを見ます。そして神様は私たちの計画を変えながら、導いてゆかれることを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。
今日の個所は「キリストの変容」と言われる箇所です。3節でイエス様は、山の上で真っ白に輝きだします。その白さはどんな人間の力さえも超える白さでした。この場面は、イエス様の地上の人生で、もっとも神の栄光を受けている、まさしく輝いている瞬間と言えるでしょう。イエス様はイスラエルの偉大な預言者モーセとエリヤと話をしています。イエス様がただの人間ではない、神の子であるということが、示されています。
受難節にこの栄光に包まれるイエス様の姿を読むとまた違った印象を持ちます。それは、今日の場面はイエス様の地上の人生でまさしく最も輝いている場面ですが、イエス様の人生は紆余曲折の連続だったということです。
紆余曲折を図にすると次のとおりです。イエス様が最初に地上に生まれたのは貧しい家畜小屋でした。それは、神と等しい身分に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられ(フィリピ2:6-7)た出
来事でした。しかしそのイエス様は今日の場面で、山の頂に登り、偉大な預言者と並んで、神の栄光を受けています。そしてこの後、十字架にかかり、さらに復活をするのです。イエス様の歩みはこのように紆余曲折するのです。
この紆余曲折はすべて神様によって起こされた事です。家畜小屋も十字架も復活も、すべて神様が起こしたことです。そしてもちろん今日の変容も神様が起こしたことです。2節にはイエス様は「変わった」とありますが、ここは正確に翻訳すると「変えられた」という訳になります。このような表現を神的受動態といいます。神によって〇〇されるという表現です。イエス様は自分で変わったのではありません。神様から力を受けて「変えられた」のです。神はこのように人を変えるお方です。地上へと遣わし、変化させ、苦難をとおし、復活へと導くお方です。
そして神様は7節で雲の中から「わたしの愛する子、これに聞け」と呼びかけます。それは輝く姿を見たかどうかではなく、その言葉、聖書の言葉をよく聞けということでしょう。み言葉を聞きないさいと言われています。
変えられたイエス様は、山頂にそのままずっと留まったのではありません。この後イエス様は山を下ります。そして14節からは病気を持った人に出会ってゆくのです。そのように人間と苦難を共にしながら、十字架へと向かってゆきます。十字架に架けられて、どん底と思える無残な死に方をしてゆくのです。そしてその後にはイースター・復活があります。再び神の栄光を受けるときが来るのです。
このようにイエス様の人生は紆余曲折します。上下し、大きく揺れ動きます。それがイエス様の人生です。人間の計画が実現してゆくのではなく、神の計画が実現してゆくのです。私たちの人生も、教会の計画も紆余曲折してゆくでしょう。またコロナで何かが中止・変更になるかもしれません。もっとこひつじ食堂が広がってゆくかもしれません。私たちの計画も上下してゆくでしょう。神はそのように計画を変えて導かれるお方です。
今日、このような人生と計画が紆余曲折してゆくという場面でも覚えておきたいことがあります。それは、私たちの人生の紆余曲折の中にイエス様がいつも共にいるということです。一つ目の谷、イエス様誕生の出来事も、まさに神様が地上で人間と共にいるということでした。地上に生まれることによって、神様は私たちと共にいるお方になったのです。そして今日の個所からもそれを読みとることができます。イエス様は今日の場面によれば、一人で山に登ったのではありません。2節、弟子たちを連れて上ったのです。連れて行ったという言葉は聖書の言葉で、担ぎ上げること、運び上げることを意味します。弟子が一生懸命に登るのではかったのです。イエス様が弟子が引っ張って、連れて行ってくださったのです。神様が栄光の場所へと共に連れて行ってくださる、一緒に来て下さるのです。神様はそのようにして、人間にできないことを、計画にないことを見せて下さるのです。
この山頂の栄光は復活の栄光に似ているといえるでしょう。山頂の変容は、復活の先取り、予告ともいえるでしょう。神様は人間がたどり着けない、計画をしない事柄を起こすお方だということが示されています。私たちの知っている現実とは、違うことが神様の働きによって起こるのです。そしてそこへは神様が連れて行ってくださるのです。
イエス様の歩みをさらに追っていきましょう。9節には「一同が」山を下りるとあります。ここからわかるのは、その下り坂も弟子たちだけで行くのではなかったということです。イエス様は共に、山から下りてきてくださるお方です。それはイエス様がベツレヘムの家畜小屋に生まれてきてくださったことと似ているでしょう。人間の住むこの世界に、イエス様は私たちと共にいてくださる、下ってきてくださるのです。10節、弟子たちは下り坂の歩みで、論じ合いました。私たちが今見た栄光は何だったのだろうか、復活とはなんだろうか、意見を言い合いながら、山を下ったのです。私たちもそのように歩みましょう。つらいことが起こる時、人生の下り坂のとき、計画がうまくいかないと思うとき、神様はどんなお方なのか、互いの言葉を聞き合ってゆきましょう。その先にはきっと希望があるはずです。
このようにして神様は私たちと共にいて下さるお方です。人生の紆余曲折の中で共にいて下さるお方です。そして神様は、私たちの思う計画を変えるお方です。神様ご自身の計画を実現されるお方です。私たちの人生は、私たちの教会の計画は一直線に実現するのではないでしょう。神様が計画を変えるでしょう。
神様が私たちに与えた道はグネグネと曲がっている道です。良いことも悪いこともあるでしょう。一直線ではないでしょう。でも最後に希望があること、その時までずっとその道をイエス様が一緒にいて下さること、そのことを忘れないでいましょう。神様は私たちの思い描く計画を変えるでしょう。そして私たちと共にいて下さるでしょう。そのことを覚えてそれぞれの1年を歩みだしましょう。お祈りいたします。
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
マルコ8:34
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。受難節の時を共に過ごしましょう。ウクライナの戦争のことを、なかなか言葉にできずにいます。21世紀にこのような戦争が始まったことをどのように受け止めたらよいのか戸惑っています。どう祈ったらよいのかわからない気持ちでいます。
多くの人と同じように、ウクライナに武器をたくさん送って、ロシアをやっつけて欲しい、プーチンを倒して欲しい、そのように応援したい気持ちもあります。しかしそのような思いを持ちつつも、やはり私は非暴力の観点から、平和の観点から、私の信じているイエス・キリストの観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持することができません。「この状況で非暴力による解決が役に立つのか」という質問は厳しい質問です。自分たちの国土を守ると必死になっている人に、攻撃をするなと声をかけることは難しいことです。しかしウクライナ・ゼレンスキー大統領の、国のために全員が武器を取って戦おうという呼びかけは、私がもっとも反対してきた言葉です。全世界から武器を集めて戦おうとする姿勢は勇敢なヒーローに見えます。しかし、どのように平和を作るかはもはや議論されていません。お互いを一人でも多く殺すことにしか目標は置かれていないのです。
確かなことは、一度戦争が始まってしまうと、それを止めることは難しいということです。一度戦争を始めると、日本がそうであったように終わらせることはとても難しいのです。遅かれ早かれ私たちが考えなければいけないことは、この状況になる前にできることはなかったのかということです。こうなる前にまだたくさんのことが非暴力によってできたはずです。ロシアの言い分からすればロシアは歴史的にいつも西側諸国からの脅威を受けてきました。フランスのナポレオンに侵略され、ナチス・ドイツに侵略されてきました。もちろん、だからといって自分たちが侵略することは許されません。こうなる前に互いが脅威と感じる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったのではないかと思います。
しかしロシアやウクライナは、あるいは国際社会は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。殺し合って、負けた側が勝った側の言うことを聞くという方法を選び取りました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し、よりたくさん殺された方が、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。
多くの人の命が戦争、殺し合いにささげられています。どのような状況でも、戦争を支持すること、暴力を支持すること、それに協力すること、これは明白な間違えです。たとえ戦争の勝敗がついて、どちらかが勝利をしたとしても、平和は訪れません。家族が殺されたことは何世代にもわたって大きな憎しみを残します。戦争が終わっても、平和・シャロームは戻ってきません。貧しさ、憎しみ、復讐、テロが残されるでしょう。
この状況で何を祈るべきか戸惑います。しかし私がまずこの状況で祈りたいと思っているのは、ウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事です。多くのこどもたちの命が傷つけられて犠牲になっています。私がまず祈りたいのは、戦争にウクライナが勝つというような勝敗がつくことではありません。私が祈りたいのは銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲にされる人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。
新しい憎しみを生み出す戦争が一日も早く終わるように祈ります。そして避難する人々、命を脅かされている人に、食べるもの、着るもの、安全な場所、薬などの必要が満たされるよう祈ります。そして魂の平安が与えられるように祈ります。希望をもって生きることができるように祈ります。そして特にウクライナのこどもが大切にされるように祈ります。世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことができる様に祈ります。
都合の悪い者を殺し合うという暴力に反対し、犠牲とされる人々の痛みを覚えて、自分たちが何をすべきか祈りたいと思います。私たちは防弾ベストを送るのではなく、互いが平和に生きることについて支援ができなかを探し、祈りたいと思っています。私たちは受難節を迎えています。イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。
今日の個所にはイエス様の質問から始まった、弟子との激しい会話が記されています。そうです私たちとイエス様との関係は激しい葛藤の関係です。私たちとイエス様の対話は、暴力と戦争に満ちた社会の中で、どのように生きるべきなのかという激しい対話、葛藤なのです。そのような中でイエス様は27節で周りの人々はどのように言っているのかを聞きます。そして、あなた自身はどう思うかを聞きます。
戦争の事をニュースでどういっているか?各国はどんな立場を表明しているでしょうか。そしてあなた自身はどう思うでしょうか?そのように質問されることは葛藤を生むでしょう。私たちはその質問から、戦争から、自分の信じているものが何なのかを問われています。一人一人が葛藤の中でその答えを探したいのです。イエス様とペテロの対話はそのような葛藤の対話です。
31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス様が十字架にかかることが予告されます。しかしイエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。私たちの罪を贖い救うためでしょうか。この個所ではイエス様は人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのだ、それによって愛を示すのだという事は書いてありません。ここに書いてあるのはイエス様が十字架にかかるのは、長老、祭司長、律法学者から排斥されて、殺される出来事なのだということです。しかもそれをはっきりお話になったと書いてあります。イエス様の十字架は長老、祭司長、律法学者という権力者たちによって、起こされた殺人だったというのです。
34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。しかしイエス様ご自身に十字架を背負わせたのは誰でしょうか。それは長老、祭司長、律法学者という権力者たちです。権力者たちは、平和を求め、貧しい人たちに希望を与え、勇気付け、権力を批判したイエス様が邪魔でしょうがありませんでした。権力者たちにとってイエス様は非常に都合の悪い人物でした。だから権力者はイエス様に十字架を背負わせよう、殺そうと決めたのです。戦争と同じです。自分の都合の悪い者は、理由をつけて殺してしまえという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。十字架を背負わせるとは権力者にとって都合の悪い事を消し去るという出来事でした。そのようにしてイエス様は十字架を背負わされたのです。
私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。自分に都合の悪いからと言って、その人を犠牲にして自分たちを守ってはいけません。都合が悪いからといって十字架を背負わせ、殺してはいけません。戦争とはまさしく誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。戦争とは他者に十字架を背負わせることです。
十字架を背負わせられる運命にあるイエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。イエス様がペテロに言う「自分の十字架を背負う」とはどんなことでしょうか。
それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。あなたが誰かの犠牲になれということではありません。あなたは自分の十字架を自分で背負いなさい、誰かに背負わせてはならないということです。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。ペテロがもし自分の十字架を背負わず、それを誰かに背負わせるのだとしたら、彼は他者の痛みに目を向けない、他者の痛みを無視する人間となるでしょう。それが十字架を背負わないということです。自分の命だけを救いたいと思い、他者の命をないがしろにする人は、自分の十字架を他者に押し付け、背負わせるのです。イエス様は自分の十字架を背負えと言います。
プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。彼には人間性が欠けているのではないかと考えています。自分の命を失うことになるとは、そのようなことです。世界を手に入れたとしても人間性が失われるのです。たとえ世界を手に入れても、他者から奪い、殺し、押し付けて手に入れるなら、あなたの人間性は失われます。自分の十字架を他者に押し付けて、十字架を負わす者、誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。「自分の十字架を背負う」とは自分にとって都合が悪いと思う現実も受け止め、対話してゆくということでしょう。それを誰かに押し付けないということです。そしていま押し付けられている人に目を向けてゆくということ、連帯をしてゆくことが大事です。
命が傷つけられようとしている人、他人の十字架を負わされて痛む人が誰なのかを知ること、それが自分の十字架を背負うということではないでしょうか。イエス様はこのような暴力の時代に、暴力しか解決方法がないと言われる時代に、私の平和のことばを恥じるなと言います。今の私たちも残念ながら同じ時代に生きています。暴力でしか解決ができないと思われる時代です。そのような時代、イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。
ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
マルコ1章13節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。3月2日(水)から受難節が始まっています。改めてレント・受難節とは何かというと、キリスト教の伝統的な暦で、イースター、主イエスの復活の日の前の40日間を言います 。多くの教会ではこの期間をキリストの苦難、十字架を覚える時としています。そして40日間という期間は今日の個所から来ています 。
週報にも記載していますが40日間の間で転入会、バプテスマを準備する方、準備を始める方を特に歓迎する期間としようと思います。共にイエス・キリストの歩みを学び、クリスチャンとなる、この教会のメンバーとなる、その学びを受け付けています。希望される方はぜひご相談ください。
私たちにとっては誰かがバプテスマを受けること、転入会をすることは、私たちの信仰の仲間が増えることです。仲間ができることはとてもうれしく、また心強いものです。しかしクリスチャンになると私たちと同じ考え、同じ人間になるということではないでしょう。私たちは引き続き、それぞれ違う人間です。
私たちは同じことでも感じ方が違います。感じ方には間違いというものはありません。そして感じ方には正解もありません。同じようにこの交わりには間違いも正解もありません。だから私たちは、交わりによって相手を変えることを目的としていません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。ですから私たちはこの交わりに仲間が増えること、また異なるあなたが加わってくれることを心強いことだと思っています。どうぞこの交わり、信仰に加わってください。
また受難節はすでに私たちの教会に属しているという方にとっても、もう一度改めて信仰の決心をするのにふさわしい時でしょう。もう一度、この交わりの中で共に、主の道をスタートしてゆきましょう。
私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。勝手に相手を敵とみなし、同じになるように迫り、一部とし、力でそれを押し付けようとしています。
私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。
今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはより詳しい説明があり、私たちはその様子を想像するかもしれません。マタイ、ルカではイエス様は霊によって荒野に導かれ、悪魔からパンや繁栄についての誘惑を受けます。そしてイエス様はその誘惑に勝利し、悪魔が離れ去るというのがマタイ・ルカの物語です。
どの福音書でも共通しているのは、バプテスマを受けると苦難がなくなるというわけではないということでしょう。でも私たちはみ言葉によって励まされ、荒野と思える場所でも生きてゆくことができます。それがクリスチャンとして生きるということでしょう。
今日はマルコ福音書の特徴、40日間特徴を見てゆきます。まず12節には「霊に送り出される」とあります。この「送り出す」という言葉は本来「投げる」「放り出す」という意味です。イエスはどうぞどうぞと導かれたのではありません。荒野に放り出されたのです。バプテスマを受けてまず、苦難に放り出されてしまったのです。
マルコ福音書には他の福音書に書いていないことも多く書かれています。まずどのような誘惑があったのか書いていません。パンの誘惑、繁栄の誘惑もありません。そして肝心のイエス様が悪に勝利する場面が一切書かれていないのです。マタイ、ルカにはサタンが離れたと書いてありますが、マルコにはサタンが離れたという言葉は見当たりません。もしかするとサタンはこの後もイエス様と共にいたのでしょうか。
一方、マルコにだけに記載がある事柄もあります。それは40日間、野獣と共にいたということです。イエス様は40日間どんなことを体験したのでしょうか。マルコによれば、イエス様はサタン・野獣をやっつけたのではありません。野獣を蹴散らし、勝利したとも書いてありません。マルコ福音書にはただ40日間「サタンからの誘惑があった」「野獣と一緒におられた」とだけ書かれてあるのです。
ここから示されていることは何でしょうか?それはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。それがイエス様の苦難の40日間だったということです。自分を傷つける人、気が合わない人、悪、敵と40日間も一緒にいるのは、なんという苦難でしょうか。
パンがない試練、富への誘惑も試練でしょう。でも、自分を傷つける、自分とは違う他者と共に過ごすことも、大きな試練、苦痛なのです。イエス様はそのように自分の敵と一緒に過ごす苦難を40日間味わったのです。そしてそこでイエス様は何をしたのでしょうか。マルコによれば相手を打ち倒したのではありません。そこでただ一緒にいたのです。
イエス様はこの後の15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」とは何でしょうか。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りにできる、支配できる場所、それが私の国、私の領土です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。私たちは「神の国」を求めています。
イエス様にとって神の国が近づいたとはどんな意味でしょうか。この直前の様子から考えると、それは自分とは違う野獣と一緒に生きるという事でした。神の国とはマルコによれば、敵を打ち負かしたりすることではありません。異なる者が一緒にいるということなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。イエス様の試練とはそのようなことだったのです。
その神の国が「近づいた」とあります。イエス様はこの異なる他者と共に生きることを「神の国が近づいた」と言ったのです。神の国とは、私の国ではありません。私の自由に思い通りになる場所ではありません。神の国は、神の願いが叶う場所です。それは、この苦難の様に、敵対する者が傷つけあうのではなく、共に生きる場所のことです。
私たちも荒野に神様の霊によって放り出されるでしょう。バプテスマを受けた後、そして毎週ごとに霊によって、嫌い、苦手、自分とは違うと思う人と出会う場所に放り出されるのです。そして私たちは苦労しながらも、そこで一緒に生きようします。でもそれが神の国なのです。
放り出される場所とは、苦しい、神様なんていないと思える所かもしれません。でもみ言葉が励ましてくれるでしょう。40という数字が私たちを励ましてくれるでしょう。モーセは40年間荒野をさまよいました。この40年間、神様はどこにいたのでしょうか。神様は確かにイスラエルの人々と共にいました。イスラエルの民とは「ここに神などいない」と感じましたが、神様は40年間確かに一緒にいたのです。
40という数字は私たちが自分と異なる人と出会い、共に過ごす時、神様は必ず共にいて下さることを象徴する数字です。私たちはそのように、神様と共にある苦難、異なる他者と出会う苦難に送り出されてゆくのです。違う他者と生きる苦難を私たちはいただきます。そしてそこに神様が共にいて、そこに神の国があるのです。
一人一人、そして教会も同じです。教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会いが大事です。そして教会は相手を変えたり、相手を打ち倒し、勝利するのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。
世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。
イエス様の地上での苦難とは何も、十字架にかかったことだけではありません。異なる他者と生きる、その苦難も受難節で覚えたいのです。
そして最後にもう一つ、私たち自身をイエス様に重ね合わせる読み方に加えて、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができない者です。イエス様の教えに反して、いつも傷つけあっている者です。私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。
私たちの一人一人が、苦しいけれど、異なる他者と共に生きる、神の国となりたいと思います。そしてこの教会が、世界か異なる他者と共に生きる神の国になりたいと願います。私は他者が私と同じになること、私の国が実現することではなく、違っていても一緒にいることができる、神の国が実現することを願います。
今週もそのように私たちはそれぞれの場所へと派遣をされてゆきましょう。それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごし、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、
皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
マルコ10章43~44節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。そして私たちは今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝として持っています。1年に一度ですけれども、あの災害を覚えて、いまだ苦しみの中にある人を覚えて礼拝をしましょう。
あの日からもうすぐ11年が経過し、出来事を忘れかけてしまっている私たちです。失われた家は再建されたかもしれません。失われた街並みが戻って来たかもしれません。しかし失われた命は戻ってきません。そして失われた交わりも戻ってこないものです。多くの人は新しい場所、新しい環境で生き、新しい交わりを持とうと苦労をされてきました。しかし誰かと信頼関係を築くということに、11年という歳月はまだまだ短いといえるでしょう。その方々の困難と痛みを想像します。
そして今日は特に、今も失い続けているものがあるということを覚えたいのです。私たちがあの日以前から今日まで、私たちが奪い続けているものがあることに目を向けます。私たちは原発の問題を知らなければなりません。原発の問題はあの日から全く解決しないまま、むしろ問題は拡大し続けています。
福島第一原発では、今日も壊れた原子炉を冷やすために、注水が続けられています。使われた水は放射能に汚染されるため、除去装置にかけます。しかしトリチウムという放射性物質は取り除くことができません。この処理水はタンクに貯められ増え続けています。
政府は以前「地元の理解なしに海洋放出はしない」と説明していました。しかし、まだ地元の猛反対があるにも関わらず、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。政府によれば「放出までに理解を得る」のだそうです。
トリチウムに健康被害はないと言われています。しかし健康被害がなければ放出してよいのでしょうか。自分たちの海に処理水が捨てられるのは誰だって嫌です。科学的に云々よりも、嫌なものは嫌なのです。風評被害があれば東京電力が補償すると言っています。「お金なら払います」と言われると、ますます嫌です。そしてこの放出は30年~40年続くそうです。福島の特に漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。
爆発した原発の廃炉も進みません。今年からいよいよデブリの取り出しが始まります。まずは1g採取する予定です。ちなみにデブリの総量は880トンです。しかしデブリを取り出せたとしても、その核のゴミを廃棄・保管する場所は決まっていません。誰かがこのデブリを引き取らなくてはならないのです。期間は数百年です。もうある程度取り出したところで、そのまま埋めてはどうかという議論も始まっています。これから先も誰かが犠牲になってゆくでしょう。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。次の世代、数百年後まで、どれほどの犠牲が生まれるのでしょうか。
原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。まず都心部に原発がないのは、爆発しても最小限の犠牲で済むためにです。そして事故が起き、福島が犠牲になりました。東京への電力の犠牲となったのです。福島の人も本当はそんなもの作りたくなかったはずです。しかし東京が必要としているから、村の財政が潤うから、仕方なく作りました。しかし事故が起き、その本当の犠牲の姿が明らかになりました。人々はその土地を捨てるように、離れなければならなかったのです。
世界には原発回帰の流れもありますが、私はもっと世界に日本の現状を見て欲しいと思っています。原発があまりにも大きな犠牲の上に成り立つ発電であることを、もっと世界に理解してほしいのです。
私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。もうこれ以上の犠牲は出してはいけないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にしないことを求めて、今も犠牲になり続けている人の解放を求めて、この礼拝を持ちたいと思います。聖書をお読みしましょう。
今日の聖書箇所を見ましょう。3月2日から受難節が始まりました。十字架を覚える40日間です。今日の個所はイエス・キリストの「贖罪(しょくざい)」として受け止められてきた箇所です。
贖罪とは「イエス様は私の罪の身代わりとして十字架にかかり、私のために死んだ」という信仰理解です。「イエス様が私のために十字架で犠牲の献げ物となってくれたことによって、私の罪は赦されて、神の愛を知ることができる」という信仰理解です。このような理解を贖罪論といいます。
私のために誰かが犠牲になったという印象は強烈ですし、わかりやすいでしょうか。パウロの信仰理解にも一部でそのような贖罪の理解というものがあります。キリスト教では古くからこの贖罪論が信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人としては少し苦手な理解です。贖われるとは、一体どのようなことを言っているのか、実感を持つこと、うまく説明をすることができません。
そして思うことは、この罪の贖い、贖罪論には注意をしなければいけないこともあるということです。贖罪論を強調しすぎると、犠牲を容認することにつながるのです。イエス様は人間のために犠牲の死を選んだ、だから私たちも誰かの犠牲になることがあるという発想につながるのです。
贖罪論は、イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたいないと考えることにつながります。それはお国のために死ぬことは良いことだ、理不尽でも誰かのためにあなたが我慢するのはしょうがないことだという考えにつながってきます。犠牲を容認することにつながってゆくのです。
私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。罪が清められるとか、それによって贖われ、救われたということよりも、イエス様が十字架の上で苦しみ死んでいったことに目を向けたいのです。
イエス様の十字架の犠牲の痛みを、もう二度と、この世界で絶対に起こしてはいけないものとして受け止めたいのです。それによって私たちは確かに愛を知ったかもしれないけれども、それはとても大きな犠牲で、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。だからもう誰かが犠牲になるのは、このイエス様の十字架で十分なのです。
受難節、私が大切にしたいのは、贖われたかどうかということよりも、もうこれ以上の犠牲はいらないということです。
今日の個所の42節には「支配者とみなされる人」とあります。おそらくローマ皇帝の事でしょう。ローマ皇帝はユダヤの人々、世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にし、その上に君臨していました。「偉い人」も同じです。世に言う「偉い人」は権力を振りかざし、人々に犠牲を強いて、巻き上げ、生きていました。
そんな世界の中でイエス様はこう語っています43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」「あなた方はそれではいけない」と語っています。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの便利さ、快適さ、安さ、利益を追いかける、あなた方はそうではないということです。
本当に偉大な人とは、誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの利益を追いかけてゆくのではないのです。イエス様は本当に偉い者とは43節「仕える者」なのだと語っています。この「仕える」とは食事を運ぶことに由来する言葉です。「仕える」という言葉それは、作った食事を運ぶ、自分のところにある食べ物を誰かに渡してゆくということです。その食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくこと、それが「仕える」ということです。逆に仕えさせるとはどんなことでしょうか。無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。
私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」と言われています。それは44節「すべての人の僕」となってゆくことです。それはあなたが犠牲になりなさいということではありません。あなたたちは共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいということです。
45節「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために・・・来た」とあります。イエス様は誰かを犠牲にするために来たのではありません。人々に、神様に仕えるため、共に分かち合い、共に担い合うために来たのです。そしてイエス様は「自分は」命を献げると言いました。イエス様は犠牲となるのは自分が最後だ。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。
イエス様は人々が犠牲になること、それはこの1回限りの十字架で最後としなくてはならないと語ったのです。だから犠牲はもうイエス様の十字架で十分なのです。この1回で私たちは誰も私たちのために痛み、苦しむことはもう二度とあってはいけないと知ったのです。これ以上の犠牲はいらないと知ったのです。誰かを犠牲にするのではなく、互いに担い合い、支え合い、仕え合わなくてはいけないと知ったのです。
私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。沖縄もそうです。そこに目を向けてゆきたいのです。そして広く、長く、たくさんの犠牲を生み出すこの原発に反対をしてゆかなければならないのです。
受難節、私は罪が贖われたかどうかより、イエス様の十字架が苦しいものであったことを覚えます。十字架の血によって清められたということよりも、その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。
今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。
今月は信教の自由というテーマで宣教をしてきました。今日はその最後です。これまで信教の自由をバプテスト、靖国神社、天皇制の視点から考えてきました。今日は戦時中の教会の姿、特にホーリネスというグループのことから考えたいと思っています。
先日2月11日に神奈川連合の集会に参加し、戦時中に弾圧されたにホーリネスのお話を聞きました。戦時中にホーリネスは信教の自由を訴えたグループです。天皇を崇拝することに反対をしたグループだったのです。
日本は戦時中(そして一部では今も)天皇を中心とした国でした。そのような時代の中で、ホーリネスの人々は天皇を崇拝しない非国民として、政府や軍の監視対象とされていました。そして今回の集会で聞いたことですが、監視をしていたのは政府や軍だけではなかったそうです。地域の人々からの目も監視のひとつでした。日本全体が天皇制を中心とするように迫った時代、多くの教会は「天皇かキリストか」それを政府だけではなく地域からも監視され、迫られたそうです。
なにか危機が起こる時、お互いのことを監視するようになるというのは、今の私たちもよくわかることです。コロナが始まり、営業している飲食店はないか、熱のある人はいないか、お互いを監視するようになりました。戦時中もきっとこんな雰囲気だったのでしょう。日本全体が天皇を中心として戦争をしているとき、天皇制に反対する者はいないか、戦争に反対する者はいないか、相互に監視されました。ホーリネスの人々は白い目で見られ、指さされ、差別されました。中には逮捕され、拷問され、死んでいった人もいたのです。
当時の大半の教会は、おそらく「天皇もキリストも両方信じる」という立場でした。天皇制と折り合いをつけて礼拝を守りました。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、教会が生き残ることを選びました。多くの教会は国家の指導に従いました。自分たちの信仰を変えたのです。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。礼拝は皇居に向けて一礼してから始めました。それが戦時中の教会でした。教会はその時代に抗うことが十分にできなかったのです。自分たちの信仰を貫けなかったのです。
しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。自分たちの「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。
その時、周囲の教会・教派はどうしたでしょうか。多くの教派はホーリネスを批判しました。自分たちは天皇制を支持していて、あんなホーリネスとは違うと批判したのです。信仰の仲間を切り捨て、自分たちを守る足がかりとさえしたのです。
これが天皇制で起きたことです。これが戦争で起きることです。私たちは忘れてはいけません。キリスト教は気づいたら、自分たちの信教の自由、信仰を捨てていたのです。そして信仰を守る仲間を見捨てていたのです。
多くのホーリネスの牧師は逮捕されました。そしてその中に長尾三二という人がいました。彼は戦後バプテストに加わり、この平塚バプテスト教会の初代牧師となりました。私たちはそのような歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。
私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。そして世界で信教の自由が守られているかに目を注いでゆきたいのです。それは私たち、特にホーリネスの流れを持つ平塚バプテスト教会の大切な使命ではないでしょうか。そして、この平塚の地の信教の自由を守ってゆく大きな役割が私たちにあるのではないでしょうか。
今日は嵐の中の舟の話を読みます。この話から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。聖書を読みましょう。
今日の個所を見ると、もともとこの船旅は、イエス様ご自身が「向こう岸に渡ろう」と言って始まった旅です。しかしイエス様に従ったにも関わらず嵐にあいます。それはイエス様に従うと平穏無事、凪のような人生が約束されるのではないということを示します。イエス様に従っても人生に嵐は起こるのです。
旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります 。ヨナの乗った舟が沈みかけた時、そこで人々はこの災難は誰のせいなのかと指をさし合いました。この舟でもそのようなことが起きたでしょうか。誰の悪事のせいで嵐になっているのか、犯人捜しが起きたでしょうか。コロナのような犯人捜しが起きたでしょうか。ヨナ書では人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も、そのようなことを起こします。嵐よりも恐ろしい、人間の分断を呼び起こすのです。
舟には何度も大波が襲い掛かり、水が溜まってゆきます。弟子たちは必死に舟から水を汲み出したでしょう。少しでも舟を軽くするため、大切な荷物を捨てたでしょう。必死で波と戦ったのです。人間のできうる努力をすべて試みたのです。そして自分の力では対処できないと感じた時、弟子たちは叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。
これは元の言葉では破滅を表すことばです。「私が破滅してもかまわないのですか」という叫びです。困難にある時、私たちは神様が何もしてくださらないと感じる時があります。この時もそうです。振り返るとイエス様は寝ていたのです。私たちの神様は、このように私たちの危機の時、眠っているのでしょうか。神様はこの状況から、弟子たちを助けようとしません。
弟子たちがイエス様に叫んだのは、おそらく嵐からしばらくたったころでしょう。荒波にもまれ、舟の底から水をだし、必死だった彼らは、死と破滅を覚悟するまで、イエス様に声をあげませんでした。
自分たちの経験や知識で対処しようとしたと言えるでしょう。その人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、弟子たちは初めてイエス様に声をあげたのです。破滅を覚悟した時、初めて、舟の後ろにいた、イエス様を振り返り、呼びかけることができたのです。
私は改めてこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。なぜ眠っていたのか、本当に眠っていたのでしょうか。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、じっと私たちを見ている、そのまなざしを感じるのです。イエス様は自分に声をかけるその時まで待っていたのではないでしょうか。
イエス様は眠っています。しかし本当は全ての状況を知っておられるのです。その気配を私は舟の後ろから感じます。そして、いつ弟子たちが自分に声をかけてくるのか、じっと待っている。そんな気配を感じるのです。
大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということではないでしょうか。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくこと。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたと思うのです。この物語は荒波にもまれる時、私たちの舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと語っているのではないでしょうか。
私たちには時代の荒波が必ず押し寄せてきます。災害のような困難が襲ってきます。信教の自由を奪おうとする嵐、戦争の嵐、私たちの生活を脅かすコロナという嵐がすでに押し寄せています。私たちはそれに対してどう向き合えばよいのでしょうか。
舟が沈まないようにしないといけません。生き残ってゆかなければいけません。そのために必死に努力をするでしょう。教会を守ろうと必死になるかもしれません。しかし、危機の時こそイエス様を振り返りたいと思うのです。眠っているように見える、イエス様に振り返りたいのです。
私たちが振り返る時、舟に一緒に舟に乗っておられる方がいるということが分かります。そしてその方は私たちを待っているのです。嵐の中で振り返ること「自分の力では破滅しそうで、あなたの力が必要です」そう告白することを待っているのです。それがこの物語です。
戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯だったように見えます。あらゆる努力をし、舟を守りました。仲間を見捨てながら、自分たちの大切なものを捨てながらなんとか生き残ろうとしました。しかし本当にそれが正解だったのでしょうか。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。
私たちもこのことをよく覚えてゆきたいのです。危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして覚えていましょう。危機の時にも、必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。
そばにいないように感じても、確かに私たちを見て、何が起きているのか知っておられるのです。イエス様は私たちが振り返ることをずっと舟の後ろで待っておられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。
ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こしてゆきました。そしてこの教会もその一つです。この平塚教会があるということが、その嵐を乗り越えたという証しなのではないでしょうか。私たちにも大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、私たちの信仰を守ってゆきたいのです。
信教の自由について1ヶ月見てきました。どんなことをお感じでしょうか。時代の荒波の中、信教の自由が脅かされる嵐の中でも、私たちはイエス様に信頼してゆく、このことを貫き、大切にしてゆきましょう。お祈りいたします
「信教の自由の礼拝」
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
マルコ福音書2章4節
みなさん、おようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの声も足音も礼拝の一部としてお献げしています。一緒に礼拝をしてゆきましょう。子どもも大人も自由を感じれるような礼拝をしてゆきましょう。
今月は信教の自由というテーマで宣教をしています。今日は天皇制について考えましょう。キリスト教が天皇制に反対するのは、いくつかの理由があります。一番は政教分離の原則から反対してします。国が特定の宗教を支持したり、あるいは禁止したり、その行事のために税金を使ったりするのはおかしいということです。
例えば天皇は毎年11月23日に新嘗祭という宮中祭祀を執り行っています。天皇が代表して日本の神様に収穫を感謝し、天照大神の霊を身に受ける行事だそうです。立派な宗教行事です。これが毎年税金で行われています。特に天皇の就任1年目は大嘗祭と呼ばれ、大がかりです。令和元年は27億円がかけられました。
日本は天皇の宗教行事を国が執り行うことを続けてきました。結果、日本に住むなら日本の神を信じて当たり前という風習につながっています。年号は天皇中心に数えられます。他の宗教の自由が侵されているのです。キリスト教は天皇制について、税金で宗教行事をするのをやめるべきだと訴えています。
天皇制については人権の問題もあります。天皇の一族には基本的人権がありません。国民には基本的人権が保障されていますが、天皇の一族にはありません。まず選挙権がありません。この制度を変えたいと思っても、投票することができないのです。立候補もできません。生まれながら職業や住む場所を選ぶこともできません。表現の自由がありません。言論の自由もありません。結婚の自由もありません。小室圭さんと眞子さんの結婚もそうでした。国民が「ふさわしい」と支持する人、「模範的」と祝福される結婚でないと国民からの激しい非難を浴びます。なんと不自由なのでしょか。
もちろん信教の自由もありません。自分の信じることや、願いは関係ありません。どのような信仰を持っていても、ただ税金で執り行われる日本の神々への五穀豊穣祈願を続けなくてはならないのです。それをやめることも、変えることも、変えたいと言うことも許されないのです。人権無視も甚だしいこの制度はやめた方がいいでしょう。信教の自由の観点から、そして人権の観点から、キリスト教は天皇制を廃止した方がよいと主張しています。
私たちは自覚的な信仰を重んじる、自らの信仰の決断を重んじるバプテストというグループです。誰かからこれこれを信じなければいけないと言われません。あれをしなければいけないと言われることがありません。
個人個人の自由と、平等を大切にするのがバプテストです。私たちバプテストから見ていると天皇制が見ていてかわいそうすぎます。生まれてきた家によって、決められた宗教行事を行わないといけない。信教の自由も無い、行動の自由も無い、表現の自由も無い。やめる自由もありません。早く個人のためにも、天皇制は廃止した方が良いです 。
それに比べて私たちはどうでしょうか。私たちはとても自由な雰囲気の中で礼拝をしています。服装も自由です。礼拝に来ないといって怒られたり、脅かされたりしません。誰かの理想を押し付けられたりしません。時々、子どもの声や足音が響きます。私たちの礼拝はとても自由な礼拝です。この自由な姿を大切にしてゆきたいですし、もっと礼拝に自由さが表せることもまだまだたくさんあると思います。そしてこの自由、しっかりと守られていくようにしたいと思います。自由が守られるように、自由がこの礼拝から広がってゆくように、私たちの生活にも、日本にも、世界にも自由が広がってゆくように願って、この自由な礼拝をささげてゆきたいと思います。今日の聖書を読みます。今日は不自由な人と自由な人が登場する物語です。それを見てゆきたいと思います。
今日の聖書箇所をお読みしましょう。いろいろな登場人物がいます。まず4人の仲間に注目しましょう。この4人、なんと常識破りで自由な人々でしょうか。2節、彼らがついたとき、もう戸口まで満員で家に入ることができなかったとあります。そこから考えると、彼らは前もって計画を立て、早めに家を出てイエス様のところに向かったのではなかったのでしょう。おそらく彼らは思い付きでイエス様に会いに行きました。誰かに日付と時間を決められたのではなかったのです。彼らは思い立った時、出発しました。自分たちが思い立った時、イエス様のもとに歩み出したということです。それはとても自由な一歩、自覚的な信仰の一歩でした。
彼らが出発したのは、イエス様の語るみ言葉が何か起こすのではないかという期待からです。イエス様の言葉を聞くと、あの仲間に何かが起こるような気がしたのです。仲間の不自由さが自由になる、体の不自由さも自由になるのではないかと期待して出発をしたのです。ちょっと今から行ってみようよ。そんな自由な出発です。
彼らの自由さは続きます。そういう自由な人というのはだいたい遅れてきて、いい席がないものです。時間より前にちゃんと来た人が良い席に座ることができます。でも彼らは自由でした。天井から大人4人の足音がします。彼らは屋根に穴をあけ、仲間を吊り下げました。なんと縛られない発想、自由な人なのでしょうか。礼拝中はおしゃべり禁止、座りなさい、背筋を伸ばしなさい、手は膝の上、足をぶらぶらしてはいけません、そういう堅苦しさを全く持たない4人です。彼らは足音を立てて屋根に上り、屋根を突き破って、仲間を吊り下げたのです。
彼らはかなり自由な人です。でも強い期待を持っていました。それは神様がきっと何かを起こしてくれるはずという信頼でした。この痛みを持ち、立ち上がれないでいる仲間がいる、でも神様ならきっとどうにかしてくれるという信頼を4人は持っていたのです。イエス様はこの仲間に、私たちに自由を与えてくれるはずと信頼したのです。み言葉が何かを起こすはず。だから私たちも一緒に礼拝をしよう。遅れてもいい。4人はそのような自由でがむしゃらな神様への信頼を持っていました。ちょっと危ない、先に来て、ちゃんと礼拝している人にとってはちょっと迷惑です。でもイエス様はこの4人あるいは、吊り下げられている人も含めて5人の思いを受け止めています。そしてイエス様はこの5人のことを神様への確かな信頼を持っている人だと見たのです。その信仰・信頼を見て、赦しと癒しを行ったのです。そしてそこで何かが、奇跡のような何かが起きたのです。
私も神様にそんなまっすぐな信頼を向けてゆきたいです。彼らは、聖書の言葉を聞けば自分たちに何か起こると信じました。自由になれると信じたのです。そのように神様に信頼し、自由に駆け出し、自由に礼拝をしました。私もこの5人のようになりたいと思います。
そして5人の自由さを見ていて、これこそ信教の自由だと思うのです。自由に信じ、駆け出し、自由に礼拝する。こんな風にすべての人に信教の自由があればよいと願います。誰もが信じる自由を持つ、そのような世界になって欲しいと思います。
そしてこの5人の自由さを見ると、本当に天皇制の息苦しさに胸が詰まります。一族の不自由さ、それが税金で執り行われるこの国の息苦しさを感じます。そして私はその不自由からの解放を求めて、今日もこの自由な礼拝をささげたいのです。
私が不自由を感じるという時、床に横たわり吊り下げられる人に目が行きます。彼にも自分を重ねます。自由がないということの苦しさを想像します。彼だけでは、礼拝に行くことは難しかったでしょう。私も同じです。自分ひとりだけでは礼拝できないと思います。オンライン礼拝で分かったことでもあります。自分ひとりだけで礼拝を続け、イエス様の言葉を聞き続けることは難しいのです。誰かに誘われる、導いてくれる、誰かが待っているから私たちはそこに集い、神様の言葉を聞くことができるのです。礼拝できるのです。
私たちも思いはありながらも体がなかなか動かないもの、行動に起こせないものです。しかし今日の個所によれば、自分だけで礼拝できない、お互いに頼りながらここに集う、その弱さの中に、不自由さの中に、神様の力が働くのです。この中風の人の信仰や行動力は何も記されていません。イエス様は、ただここに来た、連れて来られた、その人に一方的に恵みを、自由をお与えになるお方です。その神様の力が彼の身体を動かしたのです。
私たちにも今日、このことが起こるでしょう。なかなか体の動かない私たちに、立ちなさい、行きなさい、自由になりなさいと励ましの言葉がかけられるでしょう。み言葉というのはそのようにして、人にはできない出来事を起こすのです。自由さを起こすのです。それがこの礼拝から世界へと広がるのです。
今日の最後の箇所12節には、大勢の人がそれに驚いたとあります。何に驚いたのでしょうか。屋根を破って入ってくるその自由さ、その信頼にも驚いたでしょう。そして弱さや不自由のあるところに、イエス様のみ言葉が響き、力と自由が訪れたそのことに驚いたのです。
神様の言葉のあるところには何かが起こります。その信頼、期待はまた多くの人をこの家に集めたでしょう。たくさんの人が自由を求めてこの家に集ったでしょう。私たちもそんな礼拝をしたいのです。
今日、私たちは礼拝に集っています。私たちは礼拝できる自由があります。それはかけがえのないことです。そしてこの礼拝は自由を分かち合う礼拝です。そして私たちを自由にする礼拝です。この礼拝から、礼拝する自由、信教の自由が日本と世界に、天皇制の廃止へと広がっていくことを願います。お祈りいたします。
また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、
あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
マルコによる福音書4章8節
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。
教会では、皆さんの葬儀の希望を聞いています。掲示スペースに用紙がありますので、お書きください。また、これ以外でもどんな形でも構いません。口頭でも、いつでも、何度でも希望をお伝えください。自分の死について考えることはきっと、今自分が誰と関わり、残りの人生をその人たちとどう生きるかということ、遺された人がどう生きてゆくかを考えることにつながるはずです。
今月は宣教のテーマを信教の自由としていますが、葬儀とは人生最後の信教の自由ともいえるでしょう。
キリスト教の葬儀では「喪主」という言葉を使わず、親族代表と呼びます。それはきっと「主」という文字にあります。人生のすべて、最後の葬儀においても私たちの「主」は神様だけだからです。キリスト教の葬儀の中心「主」は親族ではなく、亡くなった故人でもありません。あくまで神様が主です。ですからキリスト教の葬儀では、亡くなった人を高い場所に祀ったり、大きな顔写真を掲示したりしません。あくまで神様を中心として、礼拝として進めます。
経歴の表記も控えめです。経歴が誕生、バプテスマ、召天日だけということも多いです。生前の業績をほめたたえたりもしません。長い戒名もつけません。葬儀の目的が故人の生前の偉業を評価することではないからです。
人間の人生には成功も失敗もあるはずです。失敗だけでもないし、成功だけでもないはずです。どちらも人生の一部だったということです。大事なのは与えられた命を神様の下で精一杯生きたということでしょう。そして葬儀で私たちは、命をくださった神様に感謝をし、遺された人たちがどう生きるかを考える、それが私たちの葬儀です。どんな風にそれを礼拝の中で表すのか、この教会は皆さんの希望、信教の自由を大切にしています。
信教の自由と死ということを考えるなら、靖国神社の問題から避けることはできません。靖国神社は「国のために命を落とした人を祀る神社」です。国のために命を落としたとは、主には天皇のために戦争をして命を落とした人のことです。靖国神社はA級戦犯も、空襲にあった民間人も、強制連行された朝鮮の人々も全員「国のために死んだ」霊として祀っています。
靖国神社は戦争で亡くなった方を本人や遺族の意思に関係なく「国のために死んだ」と一方的に評価し、国の英雄としています。そのようにして靖国神社は戦争で死んだことを美化し、戦争の犠牲者を美化する装置として働いています。靖国神社は「ああ国のために死ぬことはなんと素晴らしいことか。国のために死ぬことは名誉なのだ」と思わせる仕組みです。それは必ず次の戦争につながるでしょう。
キリスト教はこのような死の扱い方に反対します。戦争の犠牲者を国のため、天皇のために死んだ名誉と評価し、美化することに反対します。人間はだれかの犠牲になってはいけないのです。犠牲を美化してはいけないのです。失敗を美化してはいけないのです。
私たちの人生に成功と失敗があるように、人間にも成功と失敗があります。そのような人生の中で私たちは、恵みに感謝すること、失敗を美化せずに向き合い生きること、それが神様の下で誠実に生きる、精一杯生きるということでしょう。
精一杯生きるとは、自分自身の歩みや、天に召された人々の歩みから、痛みや苦しみ、失敗や成功を体験しながら生きることです。神様は成功も失敗も受けとめながら生きることを求めています。命に感謝し、良い事にも悪い事にも向き合う事、それが神様の下にある誠実な生き方、精一杯の生き方というのではないでしょうか。今日の聖書かからもそのことを聞いてゆきましょう。
今日の聖書箇所を見ましょう。今日の聖書箇所を1節~9節としました。13節~20節にもこのたとえの解釈が続いています。その解釈によれば、み言葉を受け入れる人は何十倍にも豊かにされ、受け入れない人は貧しくなるといいます。不信仰な私にとってはすこし息苦しい解釈です。
私はきっと道端や岩場のような人間です。反省が必要な人間です。人生がうまく
いかないのは、み言葉をしっかりと受け入れない人だからです。神様の言葉を聞いたのに教会に来なくなってしまった人がいます。その人は悪い種なのでしょうか。滅びるのでしょうか。一方、教会に来ている人は、何十倍も豊かになる種のでしょうか。あの人は良い種、あの人は悪い種、聖書をそういう読み方をしていると、少し気分が悪いです。
この13節以降はイエス様ご自身の説明というより、後の教会の人々が加えた説明ではないかと言われます。なぜならイエス様はたとえの説明というものをあまりしないからです。さらになぞも残ります。14節を読むと、種とはみ言葉とたとえられているように聞こえますが、15節を見るとその種が今度は人間に例えられている様にも書かれています。
多くの神学者もこの13節以降のたとえの解釈は混乱していると指摘します。そしてそれゆえこのたとえ話、本来の意味は分からなってしまっているとも指摘します。簡単なようでこの話、実は答えがわからないたとえです。答えはひとつではないたとえです。答えを決めてはいけないたとえです。
今日は、もう少し希望のある読み方をしたいと思います。先週と同じように、種をまくことが希望だという読み方です。多くの収穫を期待する種まきは希望の出来事だということです。一方、今日の箇所には種まきはただ収穫を願う希望の時のみではないということも示されています。それは時に、種の中でも意図せずこぼれてしまう種があるということです。希望の出来事の中でも、うまく実を結ばず、枯れてしまうような出来事があるということです。
私たちは多くの実りを期待して様々なことにチャレンジをします。種まきは人生のいろいろな努力や精一杯と言えるでしょう。数えきれないほど、人生の出来事はたくさんあります。でもそれはすべて、100%うまくいくとは限らないものです。時々、道端に落ちたり、鳥に食べられたり、岩場に落ちたりする。うまくいかないことがあったりするものです。
いろいろな災難に見舞われることがあります。病気もある、事故もある、感染症に振り回されることもあるのです。それが私たちの人生です。豊かに実る時もあれば、実らないこともある。それが私たちの人生です。その中で私たちは精一杯生きるのです。たとえすべてが実るわけではなくとも、今日の様に種をまき続けるのが人生なのではないでしょうか。
種をまくような希望が私たちにはあります。そしてやがて必ず収穫があるように、私たちにも神様の恵みが用意されていいます。その恵みと希望を、神様に感謝する生き方をしたいと思います。それが種をまくような生き方です。
危険なのは失敗が無かったことにされることです。人生の良いところだけがとりあげられたり、他の人に好き勝手に人生が評価されたりすることです。あるいは失敗が美化されることです。失敗は失敗として、痛みは痛みとして、人生と人間の一部として受け止めることが大事です。実らなかったことは、実らなかったこととして受け止めてゆくことも大事です。
人生や死を美化したり、失敗をなかったことにしてはいけないのです。靖国神社はその死と悲しみを覆い隠すためにあります。国のために命を献げたという言葉で死と戦争を覆い隠しています。
もちろんキリスト教も戦時中、戦争に協力し、それを推進したという失敗を忘れてはいけません。私たちはその失敗を美化することなく、その死を美化することなく、歩みたいのです。人間は戦争という失敗をし、多くの人の命を奪ったことを覚えたいのです。私たちがまいた種、人間の歩みで実った種と実らなかった種があることを覚えておきたいのです。
そしてそれはイエス・キリストの死への理解もつながってくるでしょう。キリストの死は美化されてはいけません。それは本当に苦しい死だったはずです。私たちはそれを忘れたりしません。そしてそれを美化したり、見習うべき犠牲としないのです。十字架を、犠牲を、もう二度と起きてはいけないこととして覚え、理解したいのです。そのようにして、死を美化すること、失敗をなかったこととすることに反対をしたいのです。
私たちはたくさんの恵みを期待し、種をまきます。しかし意図に反しすべてが良い土地にまかれるわけではありません。人生には実らないこともあるのです。私たちはそのような中でも実りがあった時、神様に感謝します。そしてできなかったこと、実とならなかったことも、この種たとえ話のように覚えます。うまくいったことだけではなく、うまくいかなかったことも人生の一部だからです。実らない種を、見ない、隠す、美化するのではありません。
聖書は私たちが生きる時、成功も失敗もあると告げています。大切なのは、私たちが失敗を失敗として心にとめてゆくこと。そして恵みを恵みとして心にとめることです。神様はそのことを「聞きなさい」と言っているのではないでしょうか。お祈りします。
それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。
マルコによる福音書4章31~32節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。子どもたちの声や足音も礼拝の一部として、声を聞きながら礼拝しています。今日も共に礼拝をしてゆきましょう。
1月は旧約聖書をテーマとして取り上げてきました。2月は信教の自由をテーマとして宣教をしてゆきたいと思います。また聖書は引き続きマルコ福音書から読んでゆきます。
信教の自由というテーマで2月4回の宣教する予定なのですが、なぜこのようなテーマを教会で扱うのか疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、バプテストと信教の自由はとても関係が深いのです。私たちバプテストが信教の自由について考え、語っていくことはとても大切な責任です。ですから4回の宣教で考えたいと思っています。
今日はこの信教の自由について、特に17世紀のアメリカから考えます。私たちバプテストはイギリスで生まれたグループです。そのグループは自由を求めてアメリカに渡ったのです。しかし当時のイギリスもアメリカも信教の自由はまったく存在しませんでした。
自由の国アメリカが当時、宗教に対してどのような姿勢だったかということが記録にあります。例えば選挙権があるのは、教会籍のある人のみとされていました。もちろん先住民やキリスト教徒以外は、どんなにそこに長く住んでいても、選挙権はありませんでした。クリスチャンは国民ではないという考えです。
驚くことに、自分が通う教会は自分で決めるのではありませんでした。通う教会は政府が指定し、その教会に通わなければなりませんでした。「あなたはこの教会に毎週通いなさい」と政府に決められた教会に通うのです。それ以外の教会の礼拝出席は禁止され、違反者は処罰されました。
そして教会では政府が公認した牧師が説教するということが法律で定められていました。政府に公認されていない人、資格のない人が礼拝で説教をした場合、死刑にされることもあったそうです 。
そんな時代にバプテストというグループが、極めて少数ですが存在しました。自由と自覚的な信仰をかたくなに守ろうとするグループです。バプテストの彼らは本人の自覚のない幼児洗礼はしないと言いました。これは出生届を出さないようなものです。国の公認のない、無資格な牧師を自分たちで立てて、礼拝を行うと主張しました。バプテストは周囲から、死刑覚悟の危険なグループとみられました。当然政府は社会秩序を乱す集団として、バプテストを厳しい監視と取り締まり対象としました。
バプテストはこのような時代の中で、宗教と政治が一体となったこと、信教の自由がないことに反対をした小さなグループでした。バプテストは信じる宗派・宗教によって行政が迫害し、処罰し、差別をすることに反対したのです。政治が個々人の内面、宗教に介入してくることに反対したのです。行政の権力は市民の生活を守るため“のみ”に使われるべきだと主張したのです。これがアメリカの信教の自由の始まりです。
そしてこのようなバプテストの活動は当初はごく少人数でしたが、少しずつ広がってゆきます。バプテストの訴えた信教の自由がアメリカに広がっていったのです。そしてやがてアメリカには憲法が制定されます。その憲法第一条にはこのように書かれました。「この国では国教〔国が支援する特定の宗教〕を定めてはならない」「自由な宗教活動を禁止する法律を制定してはならない」そう第一条に書かれたのです。バプテストの主張が憲法に反映されたと言えるでしょう 。
このようにバプテストは信教の自由を大切に守ってきたグループです。誰にも強制されない信仰を持つことを大切に守ってきたグループです。今はもちろんかつてより圧倒的に自由です。しかし私たちバプテストには責任があります。本当に信教の自由があるか、制限されていないか、そのことをバプテストは見守り続けてゆく責任があるのです。これから1ヶ月、信教の自由について一緒に考えてゆきたいと思います。今日も私たちは聖書から信教の自由について聞いてゆきましょう。
今日の聖書箇所を読みます。今日の箇所は、イエス様は神の国とはどんな所なのかを、たとえ話で教えている箇所です。まず神の国あるいは天の国とも言いますが、これは死んだ後に行く場所ではありません。この地上で起こることなのです。主の祈りで御国が来ますように、天においても地においてもと祈っている通り、地上のことです。
そしてこの地上で神の国が起こるということとは、キリスト教が国教、国が支援する特定の宗教になるということではありません。神の国とは牧師が総理大臣になって、法律でキリスト教を信じるように強制することではありません。神の国とは全員が生まれてすぐに洗礼を受けさせられることでもありません。神の国とは世界中の人が全員クリスチャンになることではないのです。では神の国とは何か。それが今日のたとえで説明されています。
イエス様に従い、話を聞いた人々の多くは貧しい農民だったと言われます。ですからイエス様の話は農業や自然についてのたとえが多く出てきます。今日の箇所、前半の26節~29節では神の国が種まきにたとえられています。
農民にとって種まきとは希望を持って行うことでした。たくさんの収穫を願いながら、土に種をまいたのです。豊かな実りを期待すること、希望があるということ、それが土に種をまくということです。やがてそれは29節「収穫の時を迎える」のです。
神の国とは花や作物の種を植えて、収穫をすることに似ているのです。希望の種、期待の種があり、豊かな恵みがある場所、それが神の国なのです。小さくても希望があるところ、種をまくことができる希望、それが神の国です。神の国とは、希望の種をまき、収穫することのようだと言われているのです。
畑には様々な種がまかれます。30節~32節にある、からし種もそうです。からし種は特に小さな種ですが、それは大きく豊かに茂ります。小さな希望でも、大きな実りを生むということもここで伝えられているでしょう。神の国とはものすごく小さな希望が大きく広げられるところだということです。たとえどんなに小さな希望、小さな群れでも、大きくなってゆくということです。
私は信教の自由を訴えた少数派、バプテストをこのからし種に重ね合わせます。からし種が大きく茂るということはまさに、非常識なごく少数の集団が訴えた信教の自由がやがて一つの国の基礎となったことに重なるでしょう。私たちバプテストはからし種だったのです。神様がバプテストを信教の自由のからし種とし、豊かなものとしてくださったのです。様々な種が実る場所としてくださったのです。
神の国とは全員クリスチャンになるということではありません。神の国は、信教の自由が守られるところと言えるでしょう。神の国とは、それぞれの自由が、それぞれの希望が大切にされる場所です。バプテストはその信教の自由のからし種です。神様はそれが最も小さい種だとしても大きくし、茂らしてくださいます。神様はからし種のように信教の自由を広げて下さるお方なのです。
そしてこのからし種にはもうひとつの意味があると言われます。からし種は農民にとってはやっかいな存在だったということです。からしの草は生命力が強く、一度生えると抜いても抜いてもまた生えてきて、除去するのが難しい、危険な草でした。駆除できない草、危険な草がからし種でした。農家の人にとっては生命力が強すぎて、迷惑な存在でもありました。たった一粒でも、自分の畑に入るとなかなか駆除できず、大きくなってしまうからです。
神の国はまた、そのようなものだとも言えるでしょう。神の国、その種とはどんなに小さな始まりでも、踏みつけられても、引っこ抜かれても、また生えてくるのです。どんなに駆除しようとしても無くならないのが神の国の種なのです。どんな困難な時も無くならない希望が神の国の種なのです。
雑草魂とでも言えるでしょうか。神の国とはからし種のようなものだと聞いたとき、農民はそれを聞いて笑ったのではないでしょうか。「ああそうか。あれは小さい種のくせに、抜いても、踏んでも、しつこく生えてきて無くならない。あれが神の国か。それが神様の希望なのか。そうかそれならきっと無くならないだろう。どんなに小さくても、どんな目にあっても、きっと大きくなる、それが神の国だ」そう受け止められたのです。
神の国とは小さくても無くならない希望のある場所です。神の国はからし種のようなものです。そしてバプテストもからし種のような存在でした。そしてバプテストの訴えた信教の自由も神の国の種だったのです。
私たちもこの種をいただいてゆきましょう。小さくても豊かに広がる希望、踏みつけられても決して無くならない希望をいただきましょう。そして私たち自身も種になってゆきましょう。信教の自由の種になってゆきましょう。当時のアメリカで信教の自由が広がったように、私たち自身も小さくても信教の自由を訴えてゆきましょう。
日本にもアメリカにも信教の自由はまだたくさんの問題を抱えています。そして信教の自由の問題を日本で訴える人はごく限られた少数派です。
でもバプテストは信教の自由をずっと訴えてきました。私たちは小さくてもこの信教の自由を大切に守ってゆきたいのです。そして私たちはなくならないのです。雑草のように、抜いても抜いても生えてくる草のように、私たちは希望をあきらめないでいたいのです。お祈りします。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。詩編51篇19節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。そして今日もこどもたちが集っています。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝しましょう。
もうすぐ牧師を始めてまる3年となります。本当に未熟な私を祈り支えて下さっていることに感謝します。私は神学生の時、ある教会の牧師に言われた言葉を大切にしています。それは「教会がうまくいっていると感じる時こそ、注意が必要だよ」という言葉です。その言葉は、教会で何かがうまくいっていると思う時、喜びの出来事がある時にも、教会の中には痛みや、傷ついている人が必ずいることを忘れないように注意をしなさいという意味だと受け取っています。
私たちは何かがうまくいっている時こそ、お互いのこともうまくいっている、そう思い込んでしまうものです。そしてうまくいっている時こそ、神様の恵みを忘れ、自分や自分たちががんばった、自分たちは正しかったと思ってしまうものです。私たちはうまくいっていると感じる時にこそ、緊張感が大事です。
自分たちの力でうまくいっていると思えること、そのすべてが神様の導きにあったと感謝することが大事です。そしてうまくいっていると思う時にこそ、お互いの痛みを祈りあうことが大事です。うまくいっていると感じる時こそ、前だけを向いて生きるのではなく、前後左右、周りを見渡しながら歩むことが必要なのです。
たとえば教会に新来者がたくさん来られる時、それはうれしい時です。新しい方との関わりを大事にしたいものです。しかし同時に、今までずっと一緒に礼拝してきた方との関わりも忘れずに大事にしたいのです。教会全体の中でそのような気持ちがないと、寂しい思いをする人が出てきてしまうでしょう。うまくいっていると感じている時こそ、もう一度お互いのことを祈りあってゆくことを大切にしてゆきましょう。
実は本当に祈れない時、神様にゆだねることができない時、それは物事がうまくいっている時かもしれません。「つらいことがあって、私は祈れないのです」そう言っている時はまだましかもしれません。うまくいっている時こそ「祈っていない時」かもしれません。うまくっている時も、そうでない時も、私たちは互いに祈りあってゆきましょう。励まし合う交わりを大切にしましょう。先輩牧師のアドバイスはこう続いたのです。「注意をしないと、うまくいっていたはずの教会が、あっという間にばらばらになってしまう時があるよ」と。
これは牧師だけではなく、この教会全体への大切なアドバイスだと思います。今の私たちはどうでしょうか。礼拝出席者数はすこしずつ増えてきています。いろいろな方が集うようになっています。子どもも楽しそうです。先日の信徒会ではみんなで希望を持って前に進む話し合いができました。他の教会もきっと私たちの在り方を応援してくれるはずと思っています。そんな希望がたくさんあります。でもそんな時こそ、私たちは忘れないでいましょう。互いに祈りあう事、互いに起きている様々な変化に気を付けたいのです。今、私たちの教会、交わり、祈りあいの中にはきっと、今までずっとあった欠けと共に、新しい欠けと、新しいほころびがきっと生まれているはずです。そこに目を注いでゆきましょう。
今日も様々な人が教会に集っています。しんどいと思う方、今あなたはきっと深い祈りが与えられる時です。主にゆだね、一緒に祈りましょう。そしてまあまあうまくいっていると思う方、今あなたはきっと注意が必要な時です。きっともっと深い祈りが必要な時です。主にゆだね、一緒に祈りましょう。
今日は聖書から、うまくいっている時こそ祈るということを見ます。そして神様は私たちの中にある欠けやほころびを、神様の前に献げ、礼拝をしなさいといっていることを一緒に見てゆきたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。
今日の聖書箇所を読みましょう。今月は5回にわたって、旧約聖書から福音を聞いています。今日はその最後です。これまでゼカリア書・出エジプト記・エレミヤ書・申命記から見てきました。今日は詩編をみます。今日この詩編51篇はダビデが歌った歌として伝えられています。51篇の1節の小さい見出しには「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンが来た時の詩」とあります。
ダビデ王とはイスラエルで最も成功した王様です。彼は貧しい羊飼いの家に生まれた8番目の男の子でした。しかしその彼が、ある日突然油を注がれ、巨人のゴリアテを倒します。今度はサウル王から追われながらも、彼は必死に生き延びました。やがて彼はイスラエルの全土を統一し、近隣諸国も支配下に置きました。
ダビデはイスラエルの歴史上の中で最も大きな成功を収めた人です。最も成功を収めた王様でした。様々な困難を乗り越えた王様でした。しかしその時、彼の心には緩みがありました。うまくいっていると感じた時こそ、自分と他者に注意が必要だったのに、彼はそれをすることができませんでした。彼はバト・シェバという美しい女性を自分のものとするために、その夫ウリヤを戦場の最前線に送りだし、殺してしまったのです。
ダビデはうまくいっている時に、卑劣な罪を犯しました。そこから最高の王だった彼は最悪の王へと転落してゆきます。そしてバト・シェバとのこどもソロモンが王になる過程では、多くの血が流れ、混乱が生まれました。今日の詩編51篇前半で彼はそれを後悔しています。
そして今日の箇所に続きます。12節以降は、ダビデはもう一度、神様のもとに戻り、より頼もうしている祈りが記されています。うまくいっていると思っていたあの時期は、祈ることができなかった時期だったのです。彼は今もう一度、神様に祈っています。
12節でダビデが祈っている内容に目を向けましょう。彼は新しく確かな霊・心が授けられることを求めて祈っています。彼は今までの心が回復することを求めたのではありません。今までの自信とやる気に満ちた心や権力を取り戻すことを求めたのではなかったのです。
彼が求めているのは新しく、確かで、清い心です。それを創造してくださいと神様に祈っています。12節にある「創造する」という言葉、これは聖書の中では神様の働きにだけ使われる言葉です。天地創造において使われている言葉です。天地創造において神様が混沌の中から光を創造したように、私の中にあなたが清い心を創造してくださいという願いが書かれています。
その創造は神様にしかできないことなのです。神様にのみ、私たちに清い心を創造し、新しい確かな霊を授けることができるのです。私たちの中に神様が新しい心を創造し、授けて下さるのです。ダビデはそれを祈っているのです。
私たちもそう祈りたいのです。私が創り出すのではなく、神様だけが創造できる、その清い心、新しい霊、新しい心を受け取りたいと祈るのです。
そして続く18節を見ましょう。神様は私たちが礼拝するとき、祈る時どんなことを求めているのでしょうか。それはいけにえではないとあります。18節には「焼き尽くす献げ物」とあります。「焼き尽くす献げ物」とは、動物を丸ごと1匹、真っ黒になるまで焼いて献げる献げ物のことです。傷のない最上の動物を焼いて献げつくすことです。でも今日の箇所に書かれているのは、神様が喜ばれるのは、そのようないけにえではないということです。
神様が求めるものが19節にこう書かれています。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」とあります。神様が献げるように求めるもの、それは「打ち砕かれた霊」です。打ち砕かれるとは、折れてしまうことや、粉々になってしまうこと、引き裂かれることです。
神様は成功や、成果、大金を献げてほしいと願っているのではありません。神様は折れてしまった心、粉々になってしまった心、引き裂かれた心、それを持って神様の前に来るようにと招いているのです。神様にささげるのは良いものばかりではなくていいのです。むしろ苦しい思いをもって、痛みを持って、神様の前に来るようにと招かれているのです。
神様はそのような打ち砕かれた心をささげる時、喜んでくださるお方です。神様は打ち砕かれた心こそ献げ物にふさわしいと言います。そして神様がそこに新しい心を創造してくださるのです。ダビデの本当の祈りと献げ物は、そのような打ち砕かれた霊の中に起きたのです。
うまくいくということはいい事です。でも教会のすべてや、それぞれの生活がすべてうまくいっているわけではないはずです。私たちが大切にしたいのは、うまくいってそうな教会の中で、あるいはそれぞれの生活の中でも、互いの傷ついた心、しんどい思い、それをこの礼拝にもって来て、献げようということです。
うまくいく時も、そうでない時も必ずそのような打ち砕かれた霊は自分や他者の中にあるものです。それを一緒にこの礼拝で、祈りの中でささげてゆきたいのです。
そこそこうまくいっていると感じた時は注意が必要です。ダビデのような失敗をしてしまう時だからです。自分は正しかった、自分の思い通りになると思ってしまう時です。私たちが礼拝でささげるのは、そのような思いではありません。私たちが礼拝で献げるのはひたすら打ち砕かれた霊なのです。
私たちはその打ち砕かれた霊の中に、神様が清い心を創造してくださることを、祈り求めてゆきましょう。そして新しく確かな霊・心が授けられるように祈ってゆきましょう。私たちは毎週、互いの中にある痛みや欠けを持ち寄って、神様に献げてゆきましょう。折れた心、引き裂かれた自分を献げてゆきましょう。
神様はそこから、そこにこそ新しい心、新しい霊、新しい道を創造してくださるお方です。お祈りをいたします。
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
申命記30章14節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。みんなが大切にされる教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。
私たちの礼拝には様々な方が集いますが、他の教派の教会から来ましたという方もたくさんいます。どなたでも歓迎をしますが、私の楽しみのひとつは、その方たちから、この平塚バプテスト教会とご自分が今通っている教会との違いを聞くということです。
実は私たちは他の人から聞いて、自分たちの特徴を知っていくものです。自分たちの当たり前に、他の人がびっくりしているの見たり、聞いたりして、そうかそんな特徴が私たちにはあったのかということを私たちは知ることができるのです。私は初めて来た人から、私たち自身の特徴を教えてもらうのがとても楽しみです。
よく挙げられる特徴のひとつはこどもの声のことです。こどもがのびのびと自由に過ごしていますねと言われます。これはとても意識していることです。二つ目は社会的な活動や発言のことです。この教会は社会や生活のことについての話題が多いですねと言われます。私たちは他の教会より、社会との関り、社会の中にある福音に目を向けているのでしょう。
確かに平塚市内にも多くの教会がありますが、子ども食堂やホームレス支援をする教会は他にほとんどありません。この教会は社会での働き、関わりを重視しています。福音を社会の中で実践することを大切にしていと言えるでしょう。よく他の教派から来た方が驚きます。社会のことは社会の事、教会のことは教会の事と別けて考えているという教会も多いのです。私たちは社会との関わりと実践ということを大切にしています。
この教会の特徴、次によく言われるのが教会学校のことです。教会学校はこどもだけという教会も多いのですが、この教会は大人も教会学校があります。そしてこの大人の教会学校は誰かが教える、誰かが教わるという形式ではなく、聖書から感じたことを自由に語り合う場所となっています。私たちはこれを当たり前のようにしていますが、他の教派ではあまり見られないことです。
多くの教派では正しい教理や解釈があり、それが教えられます。しかし私たち、特にバプテスト教会は「正しい教理」というものを固定していません。ですから教会学校は聖書を学びあうという集まりになります。教える側と教わる側に分かれるのではなく、みんなが発言し、考え、教わりあうという集まりなのです。これもよく驚かれることです。
教会学校に初めて来た人の何気ない質問に、信仰の大先輩が驚かされる時があります。祈祷会もそうです。一生懸命勉強して準備してきた牧師も実は信徒の方のひと言にとても教えられているのです。それが私たちの教会です。教会は教える会、教える集いではありません。教会は教わる会、教わりあう集いです。そんな風に私たちの教会は、他の教派の方が驚くほど、自由に聖書を語り合う教会です。特に信徒説教にはみなさん驚きます。
もちろん長所は短所でもあります。自由に考えることは都合よく自分勝手な考えも生みます。自分の考えと聖書の考えがまぜこぜになってしまう解釈も生みます。だからこそ一人一人が聖書にしっかりと向き合わなければいけません。聖書にはどう書いてあるかに注意して学び合ってゆかなければいけません。
社会のとの関わり、実践ということも注意が必要です。教会と社会との差がわからなくなってしまうときがあります。人間の実践は長続きしない者です。私たち福音に励まされ続けなくては、実践が続いてゆかないのです。元気の源ではないですが、モチベーションの根源になるものが福音、礼拝だということも、しっかりと押さえておきたいのです。
今日の箇所から、私たちは聖書のみ言葉をそれぞれの口から、語り合ってゆこうということ。それぞれの派遣された社会と生活の中で、福音を実践してゆこう。神様はそのように招いているということを考えたいと思います。
今日の聖書箇所を読みましょう。聖書の言葉は難しいものです。読んでも読んでもわからない箇所ばかりです。私も勉強をしていますが、わからないことだらけです。しかし一人ではわからないことも、集まって読み、言葉を交わし合うと、なんとなくわかるような気がするということは、私たちの教会でよくあることです。分級も「今日の箇所はよくわかりませんね」で終わってしまうことが多々ありますが「ああ、そう考えればいいのか」と思うこともあるものです。
聖書は簡単だということはありません。でも今日の箇所で聖書が語っているのは、福音はむずかしくないよということです。
12節~13節を見ましょう。聖書のみ言葉は私たちの生活とかけ離れたものではないということが書かれています。そうです。私たちは毎週集まって、天国はどんな場所か?を考えているのではありません。海の彼方、宇宙の彼方に何があるのか?を想像し、議論しているのでもありません。
そうではなく、私たちは毎週集まって、私たちの生活の中に、どんな福音があるかを考えています。こんな生活の中にどんな希望、喜びがあるのかを聖書から聞いているのです。だから社会との関りなしに、生活の事柄抜きに、福音はわからないものなのです。
私たちは福音を遠くに探し求めるのではありません。私たちの生活の別世界や死後に求めるのではありません。今生きる、私たちの生活の中に希望を求めています。私たちは福音を、今生きる社会・生活の中、その関わりの中で探しています。社会の事、生活の事、抜きには福音はわからないのです。
そのようにして福音は近く、身近にあるものです。だから誰かが見てきて、聞いてきて、私に教えてくれるというものではありません。私たちの福音は誰かが見た聞いたという天国や宇宙の話を聞くのでもありません。天国から取って来たものを教えてくれれば、すぐやりますよというものではありません。福音は私たちの一人一人の生活の中にあるのです。一人一人のごく近くにあるものなのです。14節「み言葉はあなたのごく近くに」とある通りです。
14節の続きにはみ言葉は「あなたの口と心にある」とあります。そうです、福音はあなたの口にあるものです。福音は牧師の口だけにあるもの、先生の口だけにあるものではありません。あなたの口にもあるのです。
私たちは牧師や先生の語ることを聞きます。解説書を聞いたり読んだりします。それに励まされたり、教わったりします。でも私たちは一方的に聞く、読むだけではありません。そうです14節「あなたの口と心に」み言葉があるのです。お互いの口と心にみ言葉あるのです。
だとするならば聞くだけではなく、一人一人の口から語られるみ言葉が大事です。先ほど挙げた教会学校はまさにそのような場所でしょう。一人一人がみ言葉を語ります。それから感じたことを語り合います。それはとても大事なことです。み言葉は遠くにあるのではないからです。一人一人の口と心にあるものだからです。
教会学校や祈祷会、礼拝の前後で交わされる言葉を大切にしましょう。生活の中で聖書について想像をめぐらし、こう思ったということをもっと分かち合ってゆきましょう。逆に聖書を読んで、私の生活の中ではこんな風に感じたともっと語り合いましょう。あなたの口で聖書について語ることが大事なのです。それは先ほども話したように、この教会の特徴、バプテストの特徴でもあるでしょう。福音はごく近くにあります。そして私たちは特に、聖書を語り合う教会です。一人一人の口と心にみ言葉があるからです。
もちろんそこには注意も必要です。社会と教会の違いが分からなくなってしまうこと、生活に満足していれば福音がいらないように感じてしまうことがあります。私たちの口からはつい、いろいろな言葉ができてしまいます。私たちは聖書を繰り返し読み、心に刻んでゆくことも大切でしょう。口と心に聖書を入れてゆくということも大切にしましょう。そのことはよく注意したいと思います。
私たちはこの教会の在り方をこれからも大切にしてゆきましょう。私たちは聞くだけではなく、自分も語るのです。私たちの教会は、他の人が見ても、語り合うことを大切にしています。ぜひそのような場所をこれからも持ってゆきましょう。教会学校、礼拝の前後、食事の中で、信徒説教、語り合ってゆきましょう。
私たちは聖書のみ言葉、信仰の実践を難しいと感じています。でも聖書にはそれは難しくないとあります。14節の最後には「行うことができる」とあります。あなたは福音の実践がすぐできるようになるよということです。
福音の実践とは互いの口からでる言葉をよく聞き、その心を良く知ることがスタートです。今日の箇所で「行うことができる」という言葉は3回繰り返されています。私たちが互いに聞き合う時、互いに語り合う時、み言葉はむずかしいものではなくなります。私たちが「行うことができる」ものになるのです。
それが今日、神様が私たちに聖書を通じて伝えていることです。今日の箇所はむずかしいことは言っていません。むずかしくない福音です。神様は、福音は難しくないとおっしゃっています。福音は身近な場所にあるものだよと言います。お互いの口と心にあるものだよと言います。必ずあなたにもできることだよと語ります。私たちは、社会と生活の中で福音を聞くこと、互いに聖書を語りあうことを、福音を実践してゆくこと大切にしてゆきましょう。私たちにも必ずできるはずです。お祈りいたします。
わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。/わたしは若者にすぎませんから。」 エレミヤ書1章6節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしてゆきましょう。
今日この後は臨時総会が持たれ、執事選挙と会計監査の選出が行われます。まずは思うのは、今の執事の皆さんに感謝したいということです。2年間の任期、本当にお働きお疲れ様でした。今日はこの後、選挙を行いますが、もしみなさんが執事に選ばれたらどうするでしょうか?「どうしよう、なんと言って断ろうか」と考えるでしょうか。
最近、どの組織でも担い手不足という問題があるものです。教会も同じです。多くの教会で執事を選ぶということに苦労しています。ある教会では再任の制限、期間の制限を設けています。選挙でえらばれると、2年や6年といった任期以上に働くことができないという制度です。こういう制限があった方が、誰かに集中しないで、みんなで分散させて担うことができるというメリットがあります。
もちろん課題もあります。いつも慣れない人が執事をやることになるのです。さらに短い任期だとどうしても前例踏襲が中心になってしまいます。そういった面でこの教会のように長く執事が変わらないことは良い面も多いものです。
チームワークやチームバランスが整います。阿吽の呼吸が生まれてきます。長期的な視点を持って教会を見ることができます。もちろん長く務める課題もあります。一番は代替わりが難しい事です。長く執事をしてきたベテランの後を担う、同じように働くのはとても難しいものです。代替わりがうまくできず、高齢になっても負担が続くということも課題です。
選挙では断る権利があるということも大事なことでしょう。仕事や介護、病気、年齢、育児などの理由で「できません」と辞退する権利がしっかりと守られないといけません。そうではないと押し付け合いになってしまうからです。
奉仕を押しつけられて礼拝や教会、生活がうまくいかなくなってしまってはいけません。誰にでも断る権利があることは大事です。無理な奉仕のお願いをしたくないと思っています。できないものはできないと断ってください。しつこく説得するもの好きではありません。教会の奉仕をすることで何かを犠牲にしないで欲しいのです。家族の時間、自分のための時間を大事にしてほしいのです。
ただできない理由というのは無限にあるものです。私はある教会にいた時、奉仕を依頼する側だったことがあります。選ばれた方に連絡をする係だったですが、連絡するとすぐに断られました。次点だった方に連絡をしましたが、また断られるのです。さらにその次の方も、その次の方も断られるのです。繰り返し断られてゆくうちに本当に心が折れてしまったということがありました。涙が出てくるような体験でした。
牧師として執事というのはなんでも相談できる、相談相手です。毎月の議事録には性質上一部しか掲載されませんが、教会のすみからすみまで、人間関係も含めて、いろいろなことを報告・相談しています。私の宣教についても感想やヒントをもらっています。それは個人的に相談しているのではなく、選挙で選ばれた方々に相談をしています。執事のみなさんはそのようにして私の心の支えとなっている存在です。
もちろん執事や選挙の制度そのものの改善も必要でしょう。選ばれた人、それぞれが担えるボリュームにしてゆくことも必要でしょう。礼拝も行事も相談事も、何でもすべて執事に任せるのではなく、できることを細かく分散してゆくということも考えなければいけないでしょう。全部はできないけれど「これならできる」それを増やしてゆく工夫も必要でしょう。
いずれにしても私たちの選挙は、不十分な制度の中で、不十分な私たちが、不十分な者の中から、不十分な者を選ぶという選挙です。仕組みにも個人にも不十分ばかりです。
私たちはどのように投票をしたら良いでしょうか。私にはできないから、あの人にお任せしようと投票することは、もうできないでしょう。きっとあの人もできないのです。あの人だって事情があってできないのです。私は誰かを選ぶけれども、私も精一杯を献げるという思いを持って投票をすることが必要でしょう。私たちは、私もできる限りの精一杯を担う、そのような思いで投票をしたいのです。共に精一杯を献げる、その気持ちを持って投票をしてゆきましょう。
そして今日の聖書から一緒に、神様の選びを見てゆきましょう。私たちがお互いから不十分な者を選ぶように、神様も不十分な者を選ぶお方だということを見てゆきたいのです。今日の聖書を読みましょう。
今日の箇所、5節で神様は「わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」とエレミヤに語っています。神様はエレミヤをイスラエルの預言者、神様の言葉を伝える者として、選んだというのです。それに対してエレミヤは6節「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と応えています。その神の選びを断っているのです。自分は未熟で、その働きには不十分だと言っているのです。
無理もないでしょう。この「若い」という言葉をみると、それは結婚前を意味する言葉、当時では10代を表す言葉です。おそらくこのころのエレミヤはまだ10代だったのではないかと言われています。
旧約聖書、民数記には一人前の祭司として働くことができるのは三十歳からだと書いてあります 。ですからこのような若者が立てられるのは異例のサプライズ人事です。多くの人は思ったでしょう。そして誰よりエレミヤ自身が思ったはずです。神様はこんなにも幼い、こんなにも未熟な、不十分な者を選ぶのだろうかと。
しかしそれが神様の選びでした。神様は人々から尊敬され、すでに指導的な立場にいる人を選んだのではなかったのです。神様はできる人ではなく、できない人を選んだのです。若くて未熟な者を選んだのです。神様は一見、不適切、不十分と思われる人を、ご自分の働きのために選ぶお方なのです。
神様は、神の民が最も困難な時代に、幼い預言者を選びました。その神の任命はあまりにも重いものだったでしょう。残酷ともいえる選びだったでしょう。
当然彼は繰り返し断りました。なんども辞退したのです。やっぱり私にはできないと。それは大事な権利です。それぞれに事情があるからです。しかし神様はそれでもしつこくエレミヤを選んだのです。このように神様はふさわしくない者を選ぶのです。
エレミヤはその後、どのような人生を歩んだのでしょうか。彼は神に守られ何不自由なく暮らしたのではありませんでした。神様はエレミヤに苦労のない道を歩ませたのではありませんでした。選ばれたエレミヤは人一倍苦労の多い道を歩まなければなりませんでした。それゆえエレミヤは涙の預言者と呼ばれます。エレミヤは聖書の中で繰り返し、つらくて涙を流すのです。
思い通りにいかず、その預言者の働きがつらくて、しんどくて泣いたのです。エレミヤはそのような泣き虫預言者でした。神様は確かに8節「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と言いました。しかしそれは、万事うまくいくという意味ではありませんでした。苦労が続いたのです。エレミヤは自分の器に対して大すぎる役割を与えられ、泣きながらその預言をしたのです。神が共にいるとはそのようなことです。万事がうまくいくというのではなく、つらくて涙を流す時も、そのような時こそ神が共にいるという意味です。エレミヤの働きはつらくて大変な働きだったと思います。この奉仕を受けたエレミヤは幸せだったのかと思ってしまいます。
しかし私も様々な働きを通される時があります。しぶしぶ受けた働きで苦労するときがあります。そんな時、このエレミヤの姿に励まされることがあります。それはたとえどんなに神様の導きを感じたことだとしても、その働きがうまくいくわけではないということを教えてくれるからです。あのエレミヤでさえうまくいかなった事なのです。私にもきっとうまくゆかないのです。あのエレミヤでさえ泣きながら働いたのです。やりたくない、できないと何度も不満を言いながら、働いたのです。私もそうです。泣きながら不満を言いながら働くのです。その姿が私にとって大きな励ましになります。
いいのです。しぶしぶ受けても、できなくても当然です。うまくいかなくても当然です。泣いてもいいのです。不満を言いながらでもいいのです。そのただなかにこそ神様は共にいてくれるのです。そのように感じます。
多くの預言者たちも同じでした。神様に選ばれた、招きを受けたとき、戸惑い、断っています。そしてしぶしぶそれを受けて、失敗し、苦労し、不満を言いながら歩んでいます。でもそれで良いのです。それが神様の選びなのでしょう。
私たちもエレミヤと同じでしょう。私たちも不十分な者です。未熟な者です。断ります。でもしぶしぶそれを受ける時もあります。そしてやっぱり苦労するでしょう。でもきっと神様はそのような時こそ私たちと共にいてくださるでしょう。
私たちは自分の精一杯を献げたいのです。私たちの先にはきっと喜びと、そして涙があるでしょう。それを共に受けてゆきましょう。私たちは一緒に喜び、一緒に涙する仲間となってゆきましょう。わたしは必ずあなたたちと共にいるという神の下で、共に精一杯をささげてゆきましょう。お祈りいたします。
イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。 出エジプト記14章22節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。
来週は臨時総会が開催されます。次の2年の執事を決める大切な選挙を行います。そしてその後、信徒会を開き、先日からの続き「地域協働計画」について、話を深めてゆきたいと思っています。ぜひご参加ください。教会員以外の方も臨時総会の選挙権はありませんが、ぜひお昼を一緒に食べて話を聞いていってくださるとうれしいです。
今のこの教会を見渡すと、こひつじ食堂、こひつじ広場は本当に教会に様々な変化と必要を起こしていると感じています。教会は礼拝する場所です。毎週クリスチャンが集う場所です。でも今平塚教会は、その枠組みに留まらなくなってきています。
平塚教会はみんなとワイワイ食事をするところです。近所の知り合いと久しぶりにのんびりおしゃべりをして、食事をできる場所になっています。教会は分かち合いを実現する場所になっています。余った食材、だれかに使って欲しい食材が教会に集まってきます。それをみんなで分かち合っています。教会はボランティアをする場所にもなっています。宗教に関わらず、何か人のためになることをしたいという思いをもった人が集まる場所になっています。
教会がそんな場所に変化してゆくのを見ていて、私たちには未来があると感じます。希望がある、「教会には夢がある」と感じるのです。キング牧師が「私には夢がある」と言ったように「教会には夢がある」と感じるのです。いつの日か地域の様々な人が集い、こども同士が仲良く食事をして、お年寄りがそれを見て笑う、そのような教会にすでになりつつあります。これをもっと広げてゆきたいと思うのです 。
その「教会の夢への道」は確かに開かれてきていると思います。こどもを大切にすること、地域と共に歩むこと、私たちの夢、願い、希望の道はすでに開かれつつあると思います。
そしてこの道を歩み出した教会は、必要な設備が変わってきています。140食を作るにはキッチンは狭すぎです。毎週のようにイスを動かしレイアウトを変える大変さがあります。
さらにそもそも教会には以前からすぐに手を加えなければいけないところが多くありました。コンクリートの塀はグラグラし、石垣が崩れています。教育館の東側は倒壊の危険が指摘されています。会堂は雨漏りし、漏電し、トイレがつまり、ドアは閉まりません。大雨や強風の度に会堂が壊れていないか心配になります。手を加えなければならないのは明確です。
私たちは礼拝を続けてゆくことこそが大事です。でもこのまま礼拝を続けていてよいのでしょうか。この先も、礼拝を続けて行けるのでしょうか。教会には夢があります。その道は開かれつつあると感じています。こどもを大切にする。地域と共に歩む。それが私たちの願い、希望、夢です。
でも会堂建築のことが後ろから迫って来るようにも感じています。日々壊れる箇所は増えてきています。もちろん建築献金がたくさん積み立ててあるわけではありません。自分達では修繕や建て替えもができるのかという現実があります。
前に希望が見えている、向こう岸に希望がある。「私たちには夢がある」と感じていても、八方ふさがりのような気がするのです。私たちの教会に新しい道は開けるのでしょうか。ただわかっているのは、私たちは待っていてはいけないということです。何かを選択し、歩みださなければいけないということです。
そんなことを考える時、私は今日の箇所、この出エジプトをした民が私たち一人一人、そして教会に重なるような気がするのです。今日の箇所を一緒に読みましょう。
今日の箇所を見ましょう。今月の宣教は旧約聖書を読んでいます。旧約の時代イスラエル人々はエジプトで差別され、不自由、不平等な奴隷として、厳しい毎日を送っていました。人々はそのエジプトから逃れて、神様の約束の土地へと出発したのです。それが今日お読みした出エジプト記の物語です。
彼らは自由を求めて、夢を持って、約束の地へと出発をしました。しかし出エジプト記によれば、その希望への道は険しかったとあります。希望への道は困難な道だったのです。
自由や希望はただ待っていればやってくるものではありませんでした。人々は約束の場所に行くために、ファラオのかたくなな心に直面しなければならなりませんでした。繰り返し説得する必要があったのです。待っているだけでは、約束の場所にたどり着くことができなかったのです。待っているだけ、受け身ではいけないということです。何か行動を起こさなければ、自由と希望の場所にはたどり着けなかったということを示しています。
イスラエルの民は二つの困難にまさに板挟みでした。後ろからは軍隊が迫ってきています。前には進むことのできない海が広がっています。人々の道は閉ざされ、なすがままにされるしかないと思ったのです。
しかしそこに神様からの風が吹き、新しい道が開かれたのです。風が吹くと海の水が割れ、乾いた土地、道が造られたのです。それはモーセが造った道ではありませんでした。神様が開いた道でした。
イスラエルの民は海が割れて出てきた乾いた土地に、一歩を踏み出しました。民は喜んで渡ったのでしょうか。いえ、もうそれしか道がなかったのです。水が壁のよう押しのけられた乾いた土地を歩くのは恐ろしかったでしょう。もし途中で水が流れ込んできたらどうしようと考えたでしょう。危険だから渡らない方がよいと考えた人もいたでしょう。神様は渡りきるまで水をせき止め続けて下さるのかと心配したでしょう。でももう彼らには選択肢がありませんでした。
彼らは与えられたその一歩の道を歩みだすしかなかったのです。その一歩を勇気と信仰をもって歩みださざるを得なかったのです。道が造られ、さあ渡りなさい、もうそれしかないという神様の導きがあったからこそ、人々は応答し、信仰を持って一歩を踏み出すことができたのです。
私たち一人一人にもこのような出来事は起るでしょう。私たちは2つの問題で板挟みとなる時があります。行き詰ってしまう時があります。家族や友人や仕事の事、もうこのままがまんするしかないと思うことがあるでしょう。しかし今日の聖書箇所によれば、そのとき神様は新しい道を開いてくださるお方です。
私たち一人一人には、何か新しいことを始めるのには勇気がいるものです。自分は新しい仕事、新しいことを始めて本当に大丈夫だろうかと考えるでしょう。しかし今日の聖書箇所によれば、神様は不安の中で勇気を出して、信仰の一歩を踏み出しなさいと語っています。それが出エジプトの物語です。神様が造られた道を、神様に励まされて、私たちは歩むのです。
そして教会も歩み出す一人一人と同じです。教会には夢があります。その夢に向けて新しい一歩を踏み出そうとしています。その新しい一歩は信仰の一歩です。神様が道のない場所に道を作り、私たちを導いてくださっています。私たちは信仰をもってその道の一歩を踏み出してゆきたいのです。
建物はどうなるかまだまだ道がはっきりあるとは言えないでしょう。今の私たちは海の向こうに希望があることを見つつも、道のない海を前にして、どうすることもできずにいます。後ろからはすぐに対処しなければいけない軍が迫ってきているような感覚です。私たちは海と軍との間にいる出エジプトしようとしている民と言えるでしょう。
そんな私たちにも、神様は必ず道を造ってくださるでしょう。そしてもしその道を見つけたならば、待っていてはいけないのです。勇気と信仰をもって、一歩を踏み出さなくてはいけないのです。そのことを覚えて総会・信徒会、そしてそれぞれの生活を迎えてゆきましょう。
そしてもうひとつここから、非暴力ということも見ておきたいのです。自由、希望、未来、夢、約束は力によって得るものではないというメッセージもあります。この物語は非暴力のデモ行進の物語です。平和的な行進の物語です。非暴力によって夢が実現してゆく物語です。これは私たちの歩みもそうです。私たちは力・パワーで道を開くのではありません。誰かを傷つけて、押しのけ、抑えつけて解決するのではありません。むしろそこから出エジプトし、神様が用意してくださった道を、平和に歩むのです。神様は力の道ではなく、新しい非暴力の道を示してくださるお方です。
渡った後の人々の姿にも目を向けましょう。残念ながらモーセ自身は約束の地に入ることはかないませんでした。約束の地はこどもたちが見たのです。結果的に出エジプトは自分たちのためではなく、子どもたちのための出エジプトだったのです。
私たちもそうかもしれません。今していること、歩んでいることのゴールを私たちは見ることができないかもしれません。でもいま始めれば子どもたちが、次の世代が見ることができるのです。
私たちはこどもを大切にする教会です。大切にするこどもたちが乳と蜜が流れる場所を見るために、私たちは出エジプトするのです。私たち自身はゴールにたどり着けるかどうかわかりません。でも今出発すれば、こどもたちがそれを見れるかもしれない。次の世代が見れるかもしれない。私たちにはそのような希望もあるのです。教会も一人一人もそのような信仰を持って新しい一歩、出エジプトを踏み出してゆきましょう。
そして今日は成人祝福祈祷の時も持ちます。成人となる仲間を覚えます。伝えたいことは聖書の物語です。出エジプトです。新しい希望へと出発する時です。その先には困難があるでしょう。板挟みになることがあるでしょう。でも必ず神様は新しい道を下さるはずです。勇気と信仰を持ってその道を歩みましょう。私たちも若い人、こどもたちが希望をもって歩むことができるように、一歩を踏みだしたいと願っています。お祈りします。
万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ。
ゼカリア8章2節
みなさん、おはようございます。またあけましておめでとうございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること感謝です。今年も1年、毎週の日曜日、共に礼拝をおささげしましょう。私たちは今年もこどもを大切にする教会です。今年1年も子どもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。
今日はやきもちを焼くということについてお話をします。お正月と言えばおもちですが、やきもちを焼くという言葉があります。誰かに嫉妬するという意味です。やきもちを焼くという感情は案外、誰にでもあるものでしょう。
みなさんは最近やきもちを焼いたのはいつでしょうか?やきもちを焼く、ジェラシーです。若者ことばで、ジェラシーを感じるということを、ジェラると言うそうです。ジェラシーを感じる、嫉妬するというのはこどもだけではありません。むしろ大人こそ嫉妬し、ジェラシーを感じる、ジェラってしまうものです。
あの人はいつも、私にだけに冷たい。あの人はいつもあの人にだけ甘い。あの人ばっかりちやほやされている。もっと私も・・・。そのような嫉妬・ジェラシーの感情は小さくても私たちの心の中を見れば、実はよくあるものです。めんどうくさいものです。
嫉妬は特に恋愛の中では起こりやすいものです。自分の好きな人が、他の人のことをかっこいいとか、きれいとか言っているのを聞くと嫉妬・ジェラシーが起こります。自分の好きな人が誰かと仲良くしているのを見ると、嫉妬、ジェラシーが起こります。恋愛では嫉妬から、私だけを見て欲しい、他の人は近寄らないで欲しい、他の人としゃべらないで欲しい、世界に二人だけになったらいいのにと思うのです。
やきもちというは、扱いづらくも、どこかかわいげのある感情でしょう。好きな相手がいるからこそ抱く感情なのです。やきもちを焼いている時、自分の感情を正直に認めることも大事でしょうか。
好きな人からのやきもちを焼かれる側はどうでしょうか。めんどうくさくもありますが、愛されている感じがしてちょっと照れくさく、嬉しいものでもあります。もし嫉妬・ジェラシーをされてしまった時は、自分の気持ちがしっかりその相手に向いていると伝えることが大事です。相手にしっかりと見ていることを伝えれば、安心し、ジェラシーは収まることも多いものです。嫉妬・ジェラシーとは、相手の気持ちが自分に向いていないと感じた時に起こる感情だからです。自分の優先順位が低くされていると感じた時に起こる感情だからです。
時にはそれがもつれて、憎しみや、恨みになってしまうこともあります。冷静でいられなくなってしまうのです。独占したいという気持ちになってきてしまうのです。もっと強くなってゆくと自分も相手も苦しくなってしまいます。相手はどんどん引いていってしまいます。嫉妬するという感情は無理に気持ちを押さえつける必要はありませんが、相手との適度な距離感というのも大事なのではないでしょうか。
そして今日お話しするのは、神様も激しくやきもちを焼くお方だということです。神様は激しくジェラるお方なのです。私たちの中にあるあの感情を神様もお持ちなのです。今日はそのことを聖書から読んでゆきましょう。
今月の宣教のテーマは旧約聖書を読むということにしています。旧約聖書の神様はどうも怖い、怒っている。そんな印象をもつ私たちです。さらにゼカリア書はあまり宣教で取り扱わない箇所でもありますけれども、一緒に読んでゆきましょう。
今日の聖書箇所を見ましょう。2節には「激しい熱情」とあります。口語訳や新しい協会共同訳では「激しく妬む」と訳されています。熱情とは妬むことです。やきもちを焼くことです。嫉妬することです。ジェラシーを感じることです。ジェラることです。神様は激しくやきもちを焼くお方です。神様は激しく嫉妬し、ジェラシーを感じる、激しくジェラるお方だということです。
人間からみてあまり好ましいと思わない感情を、神様が激しく持っているというのです。しかしよく考えると、このジェラシーは私たちに神様のことをよく理解させてくださるかもしれません。
私たちは誰かに、自分だけ見ていて欲しい、自分だけに特別に接してほしいと思うものです。表に出さなくても自分の中に確かにあるものです。その激しい感情を私たちは自分自身がよく知っています。今日の箇所はその激しい感情は、神様も同じなのだということを語っているのです。
神様は激しい嫉妬、激しいジェラシーの感情をもっているお方です。でも神様は他の人間と一切しゃべらず、社会と一切関わらないで欲しい、私だけのことを考えていて欲しい、世界で二人だけになって欲しいと言っているのではありません。
神様が嫉妬するのは、他の人との関係も大事だけれども、私を一番にして欲しいということです。他の神や物・人を見ている人に向けて、私が一番ではないとダメと嫉妬をしているのです。それが神様のジェラシーです。
神様は私たちにジェラシーを燃やしています。神様は私たちに、神様を大切にしていること、神様への愛をしっかりと示してほしい、一番だと示して欲しいと願っているのです。私たちに、あなただけを私の神様とします、大切しますということを、知らせて欲しいと強く願っているのです。それが神様の激しい熱情です。
ですから神様は怒っているのとは違います。罰を下そうとしているのではありません。神様は私たちを愛していて、そしてちょっと愛が強すぎて、冷静でいられないのです。神様は私たちが少し怖いと思うくらい、私たちを激しく愛しているということです。
私たちは、神様にやきもちを焼かれています。私たちはその激しい熱情を怖いと思うのではなく、ちょっと嬉しいかもと感じてみてはどうでしょうか。やきもちはなんだか照れくさいけれど嬉しい、そう感じてみてはどうでしょうか。
神様が私たちを愛していて、もっと私だけを見て欲しいと激しくジェラっているのです。それを知って、ちょっとうれしさを感じるのです。神様はそのように私たちにジェラっているのです。
神は私たちが神以外のものに目を向けることから、自分に目を向けるように強く、冷静さを欠くほど願っています。私たちは神様を中心としてゆきましょう。他の宗教に惑わされてはいけませんというのではなく、それ以上にこの神様を私たち一人一人の中心としましょうということです。
私たちはすぐに優先順位を変えてしまいがちです。神様が一番でなければいけません。お金のこと、将来の事、人間関係のこと、介護のこと、病気の事、たくさんの心配があり、私たちの生活でそれが中心になってしまうことがあります。それに神様はジェラっています。
だからこそ神様は語ります。本日の箇所3節です。「私がエルサレムの真ん中に住まう」とあります。エルサレムとは私たちのことです。神様は私の、私たちの、私たちの教会の真ん中におられるということです。これが神様の願いです。神様は私を一番にしてほしい、真ん中にして欲しいと、強い愛情を持ってやってくるのです。私はあなたの真ん中にいるというのです。神様は私たちに心のすみっこではなく、真ん中に神様を迎えるようにと言っているのです。
そのために3節から繰り返されている言葉があります。「主はこう言われる」とあります。神様を真ん中にするために、私たちには神様の言葉が、繰り返しやって来るのです。私たちが神様を真ん中にすることができるように、神様の言葉が繰り返し、私たちにやってくるのです。
4節からは「エルサレムの広場」という言葉があります。聖書にはエルサレムの広場で杖をついたお年寄りが、こどもたちが笑うのを見ている様子が記されています。これは私たちの教会が大事にしている姿でもあるでしょう。教会に子供たちの笑い声が広がる様子と重なります。その声を聞いて、お年寄りが楽しそうに見ている姿です。神様を真ん中にして礼拝するということは、まさにこういう事をいうのだとつくづく思うのです。
神様が実現なさろうとしていることはこの姿なのです。神様は嫉妬から、争いと戦いを起こすお方ではありません。激しい罰を振りかざす方に見えても、本当は平和を実現しようとされる方なのです。
当時、戦争が始まれば真っ先に置き去りにされてしまったのはこどもと高齢者です。しかしここでは、こどもや高齢者が平和に暮らし、そして笑うのです。この平和を実現させ下さるのは神様です。神様はその平和の神を私たちの中心にしてほしいと、強く願って、嫉妬しているのです。
7節を見ましょう。神様は東の果てから、西の果てまで、いろいろな場所から人を集めるお方です。私を中心にしなさいと人々を集めるお方です。私をもっと中心にしなさいと語るお方です。そして神様は神様のもとで、あるいは神様の建てた教会のもとで、心休まる場所で、過ごすようにさせて下さるのです。そのように神様は私たちの神となってくださるのです。8節「彼らは私の民となり…私は彼らの神となる」とあるとおりです。
さて、新年を迎えています。神様は私を中心とせよ、そう激しい熱情を持って私たちに繰り返し語り掛けています。それができない私たちに嫉妬し、ジェラっています。
私たちの1年はきっとまた神様の言葉が繰り返し注がれる1年となるでしょう。そして私たちはそのような神様を中心とする、そんな1年にしてゆきたいと願います。この私たちを激しい熱情で愛してくださる神様を、そしてこどもと高齢者が笑い合う平和を実現させてくださる神様を今年もまた中心にしてゆきましょう。そんな教会にしてゆきましょう。
私たち一人一人の心の中心に神様を迎える、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。
「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 マタイによる福音書2章12節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。そして今日この主日礼拝で教会の集会は今年最後となります。共に礼拝をお献げしましょう。
もうすぐ2022年の元旦ですが、私は初詣というのに一度も行ったことがありません。どんなことをするのでしょうか。行った事のないというのは少し寂しい気もするものです。おみくじとかやってみたいものです。
キリスト教はおみくじのような、占いをまったく信じません。世の中には毎日たくさんの占いがありますが、私たちは占いで人生を決めるのではありません。占いには頼らないのです。クリスチャンは聖書の物語から神様の招き探し歩もうとします。もちろんどうすればいいかわからないこと、わかっていても従えないことがあります。占いのようにきっぱり答えを聞かせてくれた方が楽でしょう。しかし私たちは聖書に聞き、葛藤しながら歩むのです。
私たちは来年の運勢が大吉か小吉かどうかということよりも、来年も神様の招きに従って歩めるようにということを願います。私も今年はいろいろ、神様に従う歩みができず反省していることがあります。来年こそ、今年できなかった神様に従う歩みを、来年こそ、もう少ししたいと思っています。来年こそ神様に従い、礼拝をしたい、そんな気持ちでいます。
皆さんはどんな1年で、来年はどんな1年としたいと願っているでしょうか。まずは1年間神様に招かれて、繰り返し礼拝をできたこと、繰り返し礼拝から派遣されたことに感謝です。来年もまた共に礼拝をしてゆきましょう。
そして来年こそ、礼拝をしましょう。来年こそは、今年とは違う心で、また新たにされて、礼拝をお献げしましょう。そして精一杯の献げ物をしましょう。礼拝から始まる、礼拝から派遣される1週間を、来年こそ共に歩みましょう。そのように思っています。
私たちは来年も、そして来年こそ神様の招きをいただき、礼拝し、歩んでゆきましょう。今年とは違う、別の道を歩んでゆきましょう。今日は、神様は今いる道とは別の道に招いてくださるお方だということ。来年も私たちは神様に招かれて礼拝をする、別の道を歩む、きっとそれが私たちに起こるということ、そのことを一緒に聖書から読んでゆきましょう。
今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所、1節には「占星術の学者」とあります。以前の翻訳の聖書では「博士」と訳されていました。この個所は博士という言葉から「外国の偉い学者でさえ、イエス様にひれ伏しのだからキリスト教はすごい宗教なのだ」と解釈をされてきたかもしれません。
しかし近年においてはそのようには解釈はされません。この博士は占星術の学者と訳されて、星占いをする人だったとされています。星占いは各国で行われました。占い師は占いの結果をもとに王様に様々なアドバイスしたのです。
しかしイスラエルは占いをしませんでした。占いによる意思決定はしなかったです。イスラエルから見れば異教の占い師はペテン師、魔術師同然の存在でした。博士とは決して尊敬を込めた言葉ではありません。このように博士と聞くと誤解を生むということから、新共同訳では占星術の学者と訳されています。
これをもっと意味が伝わる表現としようとした翻訳には「星を読む占い師ども」という翻訳ありました。歓迎されない存在、疑わしいと思われている存在ということがよく表れている翻訳です。今日はあえて「占い師ども」と呼びましょう。とにかく疑わしい存在なのです。決してイスラエルでは歓迎・尊敬されるような人ではなかったのです 。
しかし神様の招きというは不思議なものです。神様は不思議なきっかけを使って、人々をご自分へと招くお方です。その選び方も不思議です。よりによってこの占い師どもが一番にキリストのもとへと招かれるのです。
これは神様の選びがよく表されている事柄だと思います。マタイによれば、一番最初にキリストの誕生を知ったのはこの占い師どもでした。ユダヤ人より早く占い師がキリストの誕生を知ったのです。
その選びは私たちの想像とは逆の選びです。私たちが神様からもっとも遠いと思っているその場所に、その人に、神様の選びと導きがあるということが示されているのです。それは私たちも押さえておきたい、神様の選びの特徴です。まさかそこにと思う場所、まさかあの人にと思う人に、神様の選びが隠されているということです。
神様は占い師どもをユダヤへと導きました。2節には占い師が旅の途中、ヘロデ王のところに寄ったとあります。時に王にアドバイスをした占い師である彼らは、きっと王の機嫌を伺うことには慣れていたでしょう。しかし彼らはヘロデ王に対して大変ぶしつけな態度をとっています。王にひれ伏すことなく「ユダヤの王として生まれた方はどこか」と聞いたのです。現職の王に、次の王はどこかと尋ねるのは大変失礼なことです。それは神様に導かれた彼らが、もうヘロデ王は王でない。新しい王がもういると信じているから出てきた言葉なのでしょう。
占い師どもはさらに、9節にあるように、先立つ星によって、先立つ神様によって招かれています。そして10節占い師はその招きを喜びにあふれたのです。11節占い師たちはついに星の下に幼子イエスを見つけました。占い師どもは今度はひれ伏して拝んだとあります。ヘロデ王への態度とは対照的です。
ここで言う「ひれ伏した」とはつまり礼拝をしたということです。彼らは星に導かれ、家に入り、主イエスを礼拝したのです。
11節は続いて、占い師どもが宝(黄金・乳香・没薬)を献げたとあります。この黄金・乳香・没薬の意味は諸説ありますが、わかっていません。ある説によればそれはもしかすると占いの道具だったのではないかと言われます。だとするとイエス様と出会って占いをやめて、主イエスを礼拝をすることにした。そのような解釈もできるかもしれません。
いずれにしても、何をあげた、どんな意味があったが重要な点ではありません。とにかく占い師が主イエスに出会うと、彼らは礼拝をしたのです。彼らは大切にしていたものを献げたくなったのです。何か気持ちを届けたくなったのです。応答したくなったのです。それは私たちと同じです。神様を礼拝し、大切にしているものを献げるのです。占い師にこのような応答が起こされたのです。
神様は疑わしいと思われた占い師どもを選び、彼らこそ礼拝へと招き、そして占い師どもは献げ物をしました。この物語はプレゼント物語ではありません。神様の豊かな選びと招き、人々の礼拝と応答が描かれている物語です。
12節に目を向けます。12節には占い師どもは「別の道を通って、自分たち国へと帰った」とあります。別の道とはどんな道でしょうか。それは直接的にはヘロデ王に寄らない道を示します。ヘロデ王に主イエスの誕生を知らせないという道です。
しかしこの「別の道」には、もっと深い意味を感じます。彼らの人生に起こった新しい道、新しいスタートを切ったということ、それが「別の道」です。別の道とはもはや王様に忖度する道ではありません。占いに頼って物事を決める道でもありません。イエス・キリストの道を歩み始めたと言うことです。
彼らはいつから別の道を歩み始めたでしょうか。振り返れば、神様が彼らに輝く星を見せたことがすでに別の道の始まりでした。その旅立ちがすでに別の道の始まりだったのです。そして、彼らはイエス様へ招かれ、礼拝し、応答し、献げ、元の場所へと戻っていったのです。それはすでに別の道の始まりでした。そして改めて、彼らは別の道を歩み出したのです。
これは大切なことを示していると思います。私たちが礼拝に集うということと似ていると思います。神様に招かれて礼拝に集うということ、喜んで礼拝し、そこで献げ物をするということ、そしてまたそれぞれのもといた場所に派遣されるということ、この毎週の私たちのサイクルと似ています。そして派遣される時、私たちは別の道、人間の道ではなく、主の道を歩む、そのようにして派遣されるのです。別の道に派遣されるのです。
私はこの「星を読む占い師ども」に自分を重ねます。私たちもこの占い師どもの様に、まさか私に神様の招きがあるのだろうかと思う者です。しかし神様の招きが確かに私にあり、礼拝する者となるのです。そして礼拝し、大切なものを献げます。そして1週間自分の思う道ではなく、別の道、主の道を歩むのです。私は自分がこの疑わしい占い師どもの一人のような気がします。
私たちはこの1年、どのような1年だったでしょうか。いろいろな言葉や出来事に惑わされた1年だったかもしれません。しかし神様は私たちを私たちはすでに、繰り返し招き、私たちは礼拝し、派遣され、別の道を歩むことができました。
神様が与えてくれた、イエス・キリストという星、光に向かって歩み続けた1年だったでしょう。たくさんの豊かな礼拝を献げることができました。たくさんの献げ物をすることができた1年でした。
そして今、私たちにまた新しい1年が始まろうとしています。新しい1週間が始まろうとしています。私たちにも疑わしい占い師どものように、神様はきっとまた別の道、主の道を準備してくださっているでしょう。
私たちは共にまたその道を歩みましょう。人の道ではない、別の道、主の道を共に歩みましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日、クリスマスの喜びを共に分かち合えること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。そして今日はこの後、昼食会と小さな祝会を持ちます。この交わりもとても楽しみにしています。どうぞご参加ください。
さて先日は、教会のチャリティーバザーが行われました。たくさんの方のお手伝いをいただき、たくさんの寄付ができたこと感謝でした。バザーでは「OHANA(オハナ)」という団体のコーナーがあり、手芸品などが販売されました。その売上分はその団体の活動費としていただきました。
この「OHANA」という団体は、平塚市内でDVや性暴力による被害を受けた女性を支援している団体です。代表の方とは平塚市内でシェルターをしているというつながりから、いろいろなお話を聞かせていただくようになりました。OHANAさんの様々な関わりを聞かせてもらうのがとても勉強になっています。
先日は「妊娠SOSかながわ」という行政の電話相談窓口の存在を教えてもらいました。そのHPを見ると「思いがけない妊娠のお悩み相談。予期しない妊娠等に関する悩みを抱えた方のために、電話等による相談支援を行っています。相談料は無料」とのことです。
予期しない妊娠について電話で様々な相談ができる窓口です。誰にも相談できない時、このような窓口があることは大切なことだと思います。ただ課題もあるようです。電話相談を受け付けている時間を見ると、月・水・金の夕方4時~夜7時までととても短いのです。週3回3時間です 。
電話しても必ずつながるわけではありません。電話が重なれば、折り返しの電話となることもあるそうです。その場合は次の営業日(数日後)になることもあるそうです。さらにこの電話に電話しても、多くの場合次の相談先を紹介される仕組みです。十分な相談窓口とは言えないのが現状です。
OHANAの方がこうおっしゃったのを覚えています。「話を聞くだけならば、行政ではなくて、地域の人が良い」。考えさせられる言葉です。もちろん教会として24時間電話相談を受けるということは難しいのですが、私たち一人一人が、それぞれの地域で、それぞれの置かれた場所で、できることがあるのではないかと考えさせられる話でした。すべての支援はできなくとも、今その時、しんどい思いをしている人に声をかけ、話をじっと聞くことなら私にもできるのではないかと思わされました。
きっと私たちも誰かと出会い、聞くことによって、誰かの隣人になることができるはずです。そして、誰かが私と出会い、話も聞いてくれることよって、私の隣人となってくれるはずです。神様はきっと「どんな人もひとりにはしない」お方です。
クリスマスはにぎわいの中に、どこか取り残された寂しさを感じる時期でもあるでしょう。独りぼっちと感じる時があるでしょう。でもクリスマスこそ、神様は一人にしておかないお方です。神様は私たちに共に戸惑い、喜びを分かち合うことのできる仲間を与えて下さるお方です。そして神様ご自身が共にいて下さるお方です。今日、礼拝でこのことを聖書から読んでゆきたいのです。
今日の聖書の箇所を見ましょう。聖書によればマリアも自身が予期しない妊娠をしていました。彼女がそれを聞いたときの混乱が聖書にしるされています。今日の箇所の少し前の箇所、34節です。「どうして、そんなことがおこるのでしょう」と戸惑ったのです。
マリアが予期しない妊娠を知った時、相談した人は誰でしょうか。両親や親しい友人など、かえって身近な人には相談できなかったのかもしれません。マリアの時代には未婚女性が妊娠することは、律法によって罰せられる可能性がありました。彼女が相談することができたのは、両親やきょうだいではなく、離れて住む「親類」のエリザベトでした。
この相談相手は神様に与えられた仲間でした。天使がマリアにエリザベトも同じ境遇だと教えたのです。その相談相手は行政が用意したのではなく、神様が似た境遇の相談相手として準備してくださっていたのです。
マリアはそのエリザベトに会いに行くことにしました。39節「急いで山里に向かいユダの町に行った」とあります。ユダの町がどこを指すのかはわかりませんが、伝説によればナザレから数日もかかる道のりだったのではないかと言われています。妊娠中の彼女が、大急ぎで、一人で、数日かかる、山里に向かうのです。そしてその滞在は3か月間だったとあります。それは妊婦がするには、とても危険な旅であったはずです。
しかしそんな危険な旅でも彼女は、強く行きたい、すぐに行きたいと願ったのです。SOSを出したのです。不安な気持ちを聞いてほしい、そう急いでエリザベトに会いに行ったのでしょう。
一方のエリザベトも自分が妊娠したことに戸惑っていました。これも前の箇所24節ですが、エリザベトは妊娠した後「身を隠していた」とあります。エリザベトはこどもを持つことを、ずっと願っていたはずです。しかしいざそれが現実になると戸惑い、不安になってしまったのです。そして彼女は家に引きこもったのです。その行動からは妊娠の喜びは感じません。
しかしそんなエリザベトと、同じ境遇であるマリアの二人が出会うことになりました。エリザベトとマリアと出会った時、二人は互いに同じ仲間を得たのです。エリザベトにとっても、マリアとってもすぐに互いが大切な存在となったでしょう。
マリアはエリザベトのもとに滞在した期間に、様々な癒しと励ましをもらったはずです。まず訪ねたとき42節、声高らかにエリザベトから「あなたは女の中で祝福された方です」そう祝福の言葉をかけられたのです。そしてさらに45節「なんと幸いだろう」と喜んでくれたのです。今まであれほど戸惑っていたことを、吹き飛ばすような大声で喜んでくれる仲間を見つけたのです。
マリアにとってエリザベトの存在はとても心強かったでしょう。自分の出来事を一番喜んでくれる存在でした。そしてさらに同じ境遇で、妊娠ということについては6か月の先輩です。自分にこれから起こる変化をよく知っているのです。
何よりも励ましになったのは、おなかのこどもの命だったでしょう。エリザベトのこどもが、おなかの中で、喜び踊っています。マリアもエリザベトのお腹に耳を当てて、こどもが喜び踊るのを聞いたでしょう。
エリザベトにとってもマリアは大きな励ましとなったでしょう。エリザベトも戸惑っていたのです。しかし、マリアが訪ねるとエリザベトは聖霊に満たされました。隠れていた人が、大きな声で「なんと幸いでしょう」と叫んだのです。
二人はそれぞれ予期していないことに遭遇し、戸惑っていました。しかし二人の出会いはお互いに大きな励ましとなりました。二人は分かち合い、励まし合うことができたのです。予期せぬ自分の妊娠を受け入れ、前に進むことができたのは、このような仲間の存在が大きかったはずです。その貴重な3か月、分かち合う仲間をいただいた、大切な時間になったでしょう。
そしてこの仲間は確かに神様が与えて下さった仲間です。神様が準備をしてくださっている仲間です。神様はこのように私たちを一人にしないお方です。神様は戸惑う私たちを出会わせ、互いに励まし合い、分かち合うことのできる、喜び合える仲間を用意してくださるお方なのです。私たちには「あなたは神様に祝福されているよ」「なんと幸いだろうね」と言い合える仲間が与えられるのです。
私たちにもきっとマリアにとってのエリザベト、エリザベトにとってのマリアが与えられるでしょう。その仲間はきっと教会の中でこそよく見つけることができるはずです。そしてもちろん教会の中だけではなく、それぞれに与えられた場所で、見つけ、出会うことができるでしょう。
私たちには誰かの話を聞く、戸惑いを聞く。私たちが誰かに話を聞いてもらう、戸惑いを聞いてもらう、そのような出会いが起きるでしょう。そしてその先の不安にも、祝福と幸いがあると信じ、共に喜ぶことができる仲間が与えられるはずです。マリアとエリザベトに起きたことが私たちにも与えられるはずなのです。
続く、有名なマリアの賛歌をよく見ましょう。51節~53節には「権力ある者をその座から引き降ろし…」とあります。ここでは「わたし」のことだけではない、社会正義に関わることが語られています。
51節~53節は文脈からはとても不思議な内容です。妊娠中の女性が、社会で思い上がる者を打ち散らすこと、身分の逆転、貧富の差の逆転を神に願っています。唐突に感じるでしょう。しかし私はどこか行政と社会が変えられるようにという願いにも聞こえるのです。それは私たちが互いに支え合い、励まし合い、聞き合って生きると同時に、行政や社会の変革を願うという態度と通じているでしょう。
私たちは今日、このようにクリスマス礼拝を迎えています。イエス様の誕生を祝う時をいただいています。まず神様はこのように、イエス様の誕生に際しても、一人一人を一人ぼっちにしないお方です。神様は助け手、相談相手、同じ境遇の人と出会わせてくださるお方です。
そしてそれはこの教会の交わりや、私たちのそれぞれの場所でも起こるはずです。戸惑いの中でも「祝福」と「幸い」を見つけ、共に喜び合うことができる仲間が与えられるはずです。
私たちはもう一度、そのような「祝福」と「幸い」の出会いを、出会い直したいのです。戸惑うことを分かち合い、喜びを分かち合い、互いに励まし、祈りあってゆきたいのです。そのような愛し合う教会になりたいのです。
神様は決して私たちを一人にしないお方です。どんな時も、共に戸惑い、共に喜びを分かち合う仲間を与えて下さるお方です。そして何より神様が共にいてくれるお方です。今日その喜びを共に分かち合いましょう。お祈りいたします。
神の子イエス・キリストの福音の初め。マルコによる福音書1章1節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、礼拝をしてゆきましょう。
数年来入院しているKさんと、コロナが始まってから面会ができなくなってしまいました。彼は病院の公衆電話からよく電話をくれます。電話は不定期なのですが、祈祷会のある水曜日にかかってくることが多いような気がします。毎週祈っているよということを伝えています。
彼に面会できた時、彼は決まっての自分で書いた詩を束でくれました。その中にこんな詩がありました。
「総合公園の柵、小さい子は見えない。上から見せろと言われる。確かにしゃがんでみると全然見えない。見えないという声、立ったままでは分からない。」
他にも考えさせられるような詩をたくさんもらって帰ってきます。確かに私たちは他人も、自分と同じものを見ていると思うものです。でも同じものでも他の人には見え方がまったく違うものです。見えないという人の声を聞き、しゃがんで見て、初めて見えるものが違うことに気づくのです。しゃがんで見ることは大事なことです。会堂でしゃがんで見ると、こどもが頭をぶつけそうな危険な場所や、躓きそうな場所に気づきます。そして、しゃがむとクリスマスツリーがずっと大きく、きれいに見えることも発見します。
福音書を書いた人物もそうでしょう。4つの福音書はそれぞれ視点が違います。私たちは11月からマルコ福音書を読んでいますが、この特徴はイエス様の誕生物語、クリスマス物語が無いということが挙げられます。
マルコ福音書にはベツレヘムも、博士も、羊飼いも、系図も出てこないのです。ヨセフも登場しません。マルコ福音書は、イエス様がどのような経緯で生まれたのか、まったくと言っていいほど伝えていないのです。それはマルコ福音書を書いた人が、イエス様誕生の経緯にあまり興味がなかったとも言えるでしょう。大きな視点の違いです。
今日の箇所でマルコが唯一、イエス様の出生に関する記載をしている点は、イエス様がガリラヤのナザレ出身だったということです。9節にそのように紹介されています。ガリラヤは中心地エルサレムや、ベツレヘムとは違う、農村地帯です。そしてその中でもナザレは小さな村です。マルコ福音書によればイエス様はイスラエルのはずれであるガリラヤ地方の小さな村ナザレから来た、出身だったと記しています。イエス様は無名の町でひっそりと生まれ、やって来たのです。
マルコとルカとマタイにはそれぞれに別のイエス様の誕生物語が記録されています。それはそれぞれの視点が違うからです。ルカは母マリアの視点から書かれ、身分の低い羊飼いがイエス様を見つけます。マタイは父ヨセフの視点から書かれ異教の占星術の学者がイエス様を見つけます。それぞれの記載で視点が異なることは、豊かな事です。
そして私はどの福音書にも一貫している、共通点があると思います。ベツレヘムだろうと、羊飼いだろうと、あるいはナザレであろうと変わらない意味、共通点があります。それは救い主イエス・キリストが弱い、小さい、中心から外れた場所に生まれたということです。人々の期待する場所とは違う場所に、生まれたということです。マルコはそれを、イエス様が「ガリラヤのナザレから来た」という言葉で表しています。
そしてどの福音書にももう一つ共通しているのは、洗礼者ヨハネの記事が残されているという点です。そこには救い主を待ち望んだ人々の様子が記録されます。洗礼者ヨハネは7節「私の後に、私より優れた方」が来る、救い主が来ると宣べ伝えました。
それを聞いて、救い主を待つ多くの人々がユダヤ全土からヨハネの下に押し寄せたのです。厳しい現実に生きる人々は、強くその救い主の到来を待ち望んだのです。自分の体が、魂が救われるように、救い主に希望を見出そうとする人々が押し寄せました。
洗礼者ヨハネはそのように救い主を待ち望む人に、バプテスマを受けるように促しました。バプテスマを受けて、救い主を待つようにと言ったのです。4節をみると、そのバプテスマは悔い改めのバプテスマと呼ばれています。悔い改めに向けたバプテスマとも言えるでしょう。
よくキリスト教では「悔い改める」と言いますが、実際、悔い改めとは何を指すのでしょうか。案外曖昧なままで使っている言葉かもしれません。悔い改めとは、悪いことを反省し、もう二度としませんと考えるのが、悔い改めではありません。
悔い改めとは聖書の言葉ギリシャ語ではメタノイアという言葉です。メタは変わる、超えるという意味、ノイアは理解や判断を示す言葉です。つまり悔い改めとは、判断を変えるということです。
いわば悔い改めは、見る視点を変えるともいえるでしょう。悔い改めとはしゃがんで見ることです。今の自分の見方を変えてみることです。自分と異なる視点に立つことが悔い改めなのです 。
この世界と現実が貧しい者にどう見えるか、小さくされている人にどのように見えるか、子どもにどのように見えるか、私たちの視点を変えるということ、それが悔い改めるということです。洗礼者ヨハネが語ったのは、そのためのバプテスマでした。新しい視点に立つこと、生き方・見方を変えてゆくこと、それが悔い改めに向けたバプテスマなのです。
9節には、イエス様もそのバプテスマの列に加わったとあります。イエス様も悔い改めに向けたバプテスマを受けたのです。反省すべきことがあったのでバプテスマを受けたのではありません。イエス様も視点を変えようとしたのです。私たちと同じ目線、低い目線になろうとされたのです。
イエス様は雲の上から人間を見て、教えたのではありませんでした。水に深く沈んだのです。水の流れる、もっとも低い場所に、自分の居場所を、自分の視点を変えたのです。イエス様はバプテスマによって、最も低い場所に身を置くお方となったのです。それが悔い改め向けたバプテスマの意味です。
イエス様がバプテスマを受けると、10節天が裂けて「愛する子、心にかなう者」とイエス様だけに聞こえたとあります。そうです。高い場所から、低い場所に身を移した者、視点を移した者こそ「神の愛する子、心にかなう者」だというのです。イエス様はまさに、そのようなお方です。
私たちは本当にヨハネと同様、そのお方の靴ひもを解く、つまり奴隷の仕事さえする値打ちのない者かもしれません。しかし今日の箇所によれば、私は無価値だ、値打ちがないと思う、その低みにイエス様は現れる方なのです。このどん底から救われたいと願う人の列に共にいて下さるのがイエス様なのです。イエス様は私には神の前に進み出る資格などないと思う人にこそ、来られるお方なのです。
そして12節、バプテスマを受けると「神が」イエス様を荒野に送り出したとあります。荒野、悪魔の誘惑へと送り出したのは、神様です。神様はこのように、バプテスマを受けた者に何不自由のない生活を約束するのではありません。むしろ荒野へと送りだされるのです。
誕生物語と同様に、それがどんな誘惑だったのかマルコは記録していません。興味がなかったのでしょうか。しかし13節、荒野でイエス様は野獣と一緒にいたとあります。本来自らに襲い掛かってくる動物と、共にいることができたということです。視点を変え、荒野に送りだされた時、苦難や敵と思っていたものと争うことなく、共に生きる、平和に過ごすことができるようになったということです 。
私たちの歩みもそうです。バプテスマを受けると苦難がなくなるのではありません。むしろ神様はバプテスマを受けた私たちを再び荒野へと送り出すのです。試みの中で生きるようにさせるのです。しかし悔い改めをする時、視点を変える時、私たちはその荒野で、共に、平和に、生きることができるのです。
今日の箇所はこうです。イエス様はナザレと言う無名の小さな村から来られました。そして低い場所に身を置く、低い場所に視点を置くそのようなお方でした。それが悔い改めのバプテスマです。そしてそのような場所に身を置くとき、天から「神の心にかなう」と言われたお方でした。そして試練へと送り出されましたが、そこで共に、平和に生きるお方でした。
1節を見ましょう。そこには「福音の初め」とあります。マルコの言う、福音のはじまりとはこのことでした。イエス様が無名小さな村から来た事、悔い改めに向けたつまり視線を低くするバプテスマを受けたこと、私たちと共にその列に一緒に並んでくださったこと、それがイエス様の福音、私たちの福音の初めなのです。そしてそう、それはマタイや、ルカにあるクリスマス物語と通じるものでしょう。
神様は、私たちの思う身分の高い、近寄ることのできない場所に生まれるのではありませんでした。私たちと共に、地上に生まれ、バプテスマを受け、試練のあったお方でした。それは高い場所にではなく、低い場所に生まれた神と言えるでしょう。
今私たちはイエス様を待ち望む、アドベントを持っています。私たちも救い主をもとめる大勢の一人です。
私たちはクリスマスに向けて、どこかに出かけるのではありません。イエス様を探しに出発するのではありません。この大勢の中にイエス様が現れたように私たちのもとに、取るに足らない小さな私に、イエス様は生まれてくださる、私たちはそれを待つのです。
来週はクリスマス礼拝を迎えます。私たちも悔い改めましょう。物事をしゃがんで見てみましょう。そのようにして、低きに生まれる神、主イエス・キリストが来るのを共に待ちましょう。お祈りします。
こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。
また、これと同じようなことをたくさん行っている。マルコ7章13節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も元気なこどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしてゆきましょう。
さて、私たちはバプテストというグループの教会です。キリスト教の中でも自由や平等を大事にするグループです。バプテストという名前は、全身を水に沈めるという意味のバプティゾーという言葉から由来しています。洗礼の形式を全身で水に浸かる(全浸礼)形式であることから「バプテスト」と呼ばれています。私たちはこの形式に強いこだわりを持っています。全身を沈め、また出てくることから、死と復活を象徴する形式と理解しています。
ただし、私たちの教会では、この形式でなければ絶対だめということでもありません。病気や水が怖いなどの理由によって、頭に水を注ぐという形式で行う場合もあります。そして何より他の教会の形式で洗礼を受け、この教会に集っておられる方々もいます。その洗礼ももちろん私たちと同じ洗礼として考えています。
それよりも目を向けたいのはバプテスマにおいて誤解されやすいことです。それはバプテスマを受けることによって、自分が清められ、聖なる者になるという誤解です。バプテスマを受けても、聖人になるわけではありません。その後も悪いことをいっぱいします。またバプテスマを受ければ、これまでの罪・悪い行いがまさしく水に流されるように、無くなるということでもありません。
ではどんな意味があるのでしょうか。それは神様と一緒に生きるという意味です。神様を信じる者として生きてゆくという決心がバプテスマです。誤解されやすいのでもう一度言いますが、バプテスマを受けた人イコール、罪から解放され、他の人より清く、神様に近く、偉く、優秀で、真理を知っているというわけではありません。
バプテスマとは実に不思議な儀式です。私たちにはこのように、周りの人から見ると極めて不思議な形式とその中身を大切にしています。
水を使った様々な宗教的な儀式というのは世界中にあります。日本の神社には手水や禊といった習慣もあります。ヒンドゥー教にも沐浴という習慣があります。それぞれ神様の前で、身を清めるという意味があるでしょう。水に対する私たちの理解とは違いますが、神様の前に襟を正すということ、神様にしっかり向き合うという姿勢は、キリスト教とも共通する姿勢だと思います。それを形式主義だとは思いません。
一方で、どの宗教を信仰し、確信があったとしても、自分の信じる宗教的行為の有無によって、人を清いとか、汚れていると言うのは大きな間違いです。実は宗教はその熱心さゆえに、そのような差別を起こしやすいのです。多くの宗教が、誤った熱心さによって、差別を生んできました。キリスト教も例外ではありません。キリスト教こそ多くの差別を生み出してきました。私たちこそ注意をしなければいけません。
聖書によれば、神様はみんなの命を尊いものとして創られたはずです。だからすべての命は等しく、尊いのです。宗教や、出身、国籍、肌の色、性、障がいに関わらず、すべて神様が造った命です。だから私たちは命に優劣をつけない、差別しないのです。
私たちは主イエスを信じています。熱心に形式を守ります。一方で気を付けたいことは、そこから生まれる差別です。他の宗教やグループを、間違っている、劣っていると見下し、差別するようになることに注意をしなければいけません。
今日はこの個所から、神様は差別をしないお方であること。命に優劣をつけないお方であることを見てゆきたいと思います。
今日の聖書箇所をお読みしましょう。3節・4節は水に関するユダヤ教の習慣を説明しています。ユダヤ教の人々は宗教的な理由で手をよく洗います。汚れをはらうために洗うのです。ユダヤ教における汚れとは血が出たり、血を触ったりすることです。そしてその汚れは他の人に触るとうつると考えられていました 。血によって汚れた人やモノと触ることによって、自分も汚れると考えたのです。
たとえば市場などの不特定多数の人が集まる場所に行くと、汚れた人に触ったかもしれないので、身の清めが必要でした。帰るとバプテスマのように、全身に水浴びをしたのです。手を洗うも同様です。汚れたものに触れた、触れたかもしれないので、念入りに手を洗いました。これ自体を形式主義だと批判するつもりはありません。他から見れば、私たちのバプテスマもかなり不思議な習慣ですから、互いに尊重したいと思います。
しかし私たちが注意したいのは、誰がこの習慣を決めたのか、背景にある差別の問題です。食前に手を洗えという命令は、旧約聖書のどこにもありません。食前に手を洗って汚れを清めなければならないというのは、聖書を読んだ人間・学者が、厳密に解釈し、規定として決めたことだったのです。これは聖書ではなく、学者の決めたことです。このようないわゆる「言い伝え」は多くありました。
それは多くの場合、イスラエルの中心地エルサレムの学者が編み出した規定です。そして中心地のエリートたちが編み出した基準は、律法学者が各地を巡回し「指導」してまわったのです。それが1節にあるエルサレムから来た律法学者とあるとおりです。都会のエルサレムから、農村地方のガリラヤの人々にいろいろな規定が持ち込まれました。中心地エルサレムではこうしている、これが正しい、だからお前たちガリラヤ人もそうしなさい、そうしないと汚れた者だと指導されたのです。そしてその基準は多くの場合、農村では現実的ではない、厳しい基準でした。
この宗教的熱心はかなり差別に近づいてきていると思います。宗教として、汚れをはらうということが、神様に向き合う自らの姿勢として持たれるのは大切なことだと思います。しかし、それが自分に向けられるだけではなく、他者に向けられる時、大きな差別の危険が伴います。自らの神の前の姿勢という意味を超えて、他者を「汚れた者」とする差別へと発展するのです。
自分たちの決めた規定で、他者の命を汚れているものとして、優劣をつけ、それと触れたかもしれない手を念入りに洗う自分たちを、清い者、優れた者と感じる集団になってゆくのです。
その習慣に入らない他者を、汚れていると差別をしました。なぜ俺の思う清い基準、正しい基準にお前は従わないのか。お前は汚れていると言ったのです。そして汚れていると言われた者は社会からどんどん排除されました。近寄ってはいけない、一緒に食事をしてはいけない、話をしてはいけないと言われたのです。
このような差別はキリスト教の歴史にもあるものです。宗教はその差別に特に注意しなければいけません。今日の箇所も「だからキリスト教が優秀で、形式主義の他の宗教・ユダヤ教は劣っている」と読むのは大きな間違いです。その考えはユダヤ人虐殺に発展しました。キリスト教がユダヤ人は劣っているとして、命の優劣をつけ、差別したのです。教会こそこの差別に特に注意を払わなければいけません。宗教的熱心さは時に、激しい差別を生み出すからです。
イエス様は今日の箇所で、どちらが優秀か、どちらが清いかという視点を変えるように促してます。そしてイエス様は、その習慣を守らない人、守れない人が汚れている、劣っていると言われること、差別されることに反対した方だったのではないでしょうか?汚れや差別ではなく、10節父や母、他者への慈しみに目を向けるようにと語っているのです。
私たちは今、アドベントを迎えています。今日この聖書の箇所からクリスマスの出来事をどのように思いめぐらすでしょうか。私が今日思い起こしたいクリスマスは、イエス様の誕生は聖なる場所で起きたことではないということです。聖書によればイエス様は、人間扱いされず、汚れた家畜小屋で生まれたのです。
そしてイエス様の誕生を最初に見つけたのは、異教の神々を拝むと差別された博士たちや、汚れていると差別された羊飼いだったのです。そのような場所にイエス様は生まれたのです。
そしてイエス様はいつも汚れていると差別された人の真ん中におられました。一緒に食事をしたり、直接触れたりしました。差別のただなかに生まれ、差別のただなかに生きたのがイエス様だったのです。そしてイエス様の最後は十字架刑というもっとも汚れた死に方だったのです。
私たちはクリスマスを聖なる日、聖なる夜として迎えようとしています。ろうそくを見ていると清らかな心になるような気がするのです。でもイエス様が生まれたのは聖なる場所ではなく、汚れていると言われる場所、人間が住む場所ではない家畜小屋、差別のただなかだったのです。私たちの主は聖なる夜に、汚れていると差別される、そのただなかに生まれたのです。それは私たちのクリスマスのイメージとは逆かもしれません。でも神は人々から避けられ、劣っていると言われ、触りたくないと差別されるそこに生まれたのです。それがクリスマスの出来事です。
私たち今日、主イエスに従いたいと願って集っています。イエス様はどこにいるのでしょうか。聖なる夜を待ち望む私たちです。でも本当にイエス様がおられるのは、きっとみなから汚れていると差別される、そこではないでしょうか。そして私の中の差別をする気持ち、そこに神様は来られるのではないでしょうか。そこにイエス様が生まれることを祝うのがクリスマスなのではないでしょうか。神様は差別の中に生まれ、差別を超えてゆくお方です。お祈りをいたします
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。
ご覧いただいてわかるとおり、今日からアドベントです。ろうそくをともしながら礼拝をします。今年のクリスマス礼拝は12月19日です。私たちは毎年第四日曜日をクリスマス礼拝、12月24日をクリスマスイブ、25日をクリスマス、イエス様の誕生日として祝っています。今年も12月25日クリスマスは必ずやってくるでしょう。
クリスマスは毎年12月25日に必ず来ます。しかし、もちろんイエス様誕生以前は、救い主が地上に生まれるということは、いつ起こるかわからないことでした。人々は何百年も救い主の誕生を待ち望んでいました。今日も生まれなかった、今年も生まれなかった、もうどれくらい待っているかわからない、いつ来るのかわからないということが何百年も続き、ようやく、そしてある日突然、イエス・キリストは地上に生まれたのです。
これは私たちの祝うクリスマスとは大きく違います。私たちが待ち望むのは、12月25日という明確に決められた日付、そこまでの1か月ほどです。毎年クリスマスは私たちに規則正しく訪れ、待つ期間は決まっています。それは私たちにとって決して突然の出来事ではありません。むしろ待っていなくても、あっという間に12月25日が来るでしょう。実は私たち、待たなくても、12月25日に自動的にクリスマスが来るのです。しかし、二千数百年前の人々にとっては、待たなければいけない期間も、またその日付もわかりませんでした。人々はいつ起こるかわからないということを、ただ待たなければなりませんでした。
私たちにとってのクリスマスは、「やがて」必ず来るものです。そしてそれは私たちにとっては2000年前に「すでに」来たものです。私たちのクリスマスは、「やがて」来るクリスマスであり「すでに」来たクリスマスです。私たちはこの二つ「すでに」と「やがて」を祝っています。
イエス様は2000年前から「すでに」私たちと共にいる、そしてまた「やがて」私たちに生まれて下さるその日が来る、それが私たちのクリスマスです。
キリスト教には、いろいろな事柄についてこの「すでに」と「やがて 」という視点で考えます 。例えば終末についてもそのように考えます。今日の箇所は終末についてイエス様が語っている箇所ですが、この終末も「すでに」と「やがて」で理解をします。その点で、クリスマスと終末は同じように、「すでに」あるものであり「やがて」来るものです。
私たちはクリスマスを待ち望むことを始めました。それと同時に私たちは終末も待ち望む。今日はそのことを覚えてゆきたいと思います。
今日の箇所を見ましょう。今日の箇所は世界の終わりについて、終末について語っている箇所です。私たちクリスチャンには世界には終わりがあるという考え方、終末思想という考え方があります。
この終末思想とは、イエス様が再び地上に現れる時に、世界が終わりを迎えるという考えです。しかしこの終末思想は時代によって、大きく考え方が変わってきました。特に中世ヨーロッパの終末の理解が一番有名でしょう。
中世では、終末の時、天変地異が起こって、クリスチャンは天国へ、ノンクリスチャンは地獄へ振り分けられると考えていました。そして地獄に落ちると永遠に罰を受け続けるのです。中世では盛んに明日にも終末が来て、みな地獄に落ちる、だから急いですぐに洗礼を受けなさい、滅びから救われなさいと、布教がされました。1000年前、終末はそのような出来事と考えられました。
もちろん現代でも終末を、人が天国と地獄に振り分けられる閻魔大王様のような出来事と理解する人はいますが、私はそのようには理解しません。この教会もそうでしょう。私たちの信仰告白にも11番「終末の希望」とあります。終末とは希望の時だと理解をしているのです。終末、それは決して恐怖の瞬間ではなく、希望の出来事なのです。
そうです、終末とはイエス様がもう一度地上に来られる、希望の出来事です。イエス様が来るという出来事の1回目はクリスマスに起こりました。そして2回目が終末の時です。2回目にイエス様が来られる時もクリスマスと同じです。それは希望の時となるはずです。
私たちはこの終末を恐怖の瞬間としてとらえるのではなく、クリスマスと同じように、希望としてとらえています。それはどんな希望でしょうか。それは神様が造られたこの世界が完成するという希望です。世界では神様がなさろうとしていることがあります。それはいまだ終わってはいません。しかし、それがすべて完成する時がきます。それが終末、希望の時です。この不完全な世界が、ゆがんだ世界が、イエス様がもう一度来る時に完全なものへと完成してゆく、それが終末の希望です。
そこではもちろん裁きも起こるでしょう。しかしその裁きはバプテスマの有無よって裁かれるのではないでしょう。神様はすべての人を集め、裁きます。27節に四方から人々を呼び集めるとは、あらゆる方角からという意味です。全世界のすべての人が裁きの対象となります。
神様の裁きとは、すべての人の不正や不正義を公にし、悪や罪を宣言することです。そしてすべてを正し、完成させ、満たし、回復させてくださるのです。それはシャロームと言えるでしょう。ゆがみのない世界、きれいな丸、シャロームにしてくださる、それが世界の完成、終末の時です。
不完全な世界に生きる私たち、どうしようもない絶望が覆っている世界に生きる私たちはそこに、希望を持つのです。どんなにこの世界が不完全で、どんなに私の人生に苦痛があっても、いつか必ず終わりが来る、いつか必ず完成する時が来る、希望の時が来るのです。それが私たちの終末の希望です。
本当につらいとき、不完全な世界に生きる時、完成と回復の時がいつ来るか、その日付を知りたいと願うでしょう。しかし32節その日付はイエス様さえも知らないことです。それはいつ来るかわからないのです。本当は終末の希望が何年何月何日に訪れると書いてあった方がよいでしょうか。
どうでしょうか。希望には日付を決めない方がよいのかもしれません。神様は、何月何日まで頑張ればいいという希望ではなく、息の長い希望を持ち続けるようにと促しているのでしょう。どんな時もあきらめないで生きるためです。日付の無い終末、希望こそが私たちを励ますのです。今ではないけど、いつかはわからないけど、でも「やがて」必ず来る、イエス様が来る、この世界が完成する時が来る、希望の時が来る、それを待ち望むのが私たちの終末の希望です。
どこか終末を待つということは、クリスマスを待ち望むことに似ているでしょう。終末も「やがて」必ず来るものです。私たちもいつ来るかわからないクリスマスを待った人々と同じ気持ちで終末を待ちましょう。それはいつ来るかわかりません。明日なのか、数百年後なのか。それはいつ来るかわからない出来事なのです。でもそれは、自分が天国と地獄のどっちに行くか決まる、恐怖の裁きの時ではありません。
神様がすべてを完成させる、希望の出来事、希望の時です。終末はクリスマスと同じように、私たちが待つ希望の時なのです。
私たちはそれをどのように待つでしょうか。32節から門番のたとえがあります。いつ帰ってくるかわからない、日付を決めない主人は門番に、仕事を割り当てて、責任を与えました。神様が門番に期待したことはなんでしょうか。神様から責任と役割を託された僕は、そこで互いに平和に、愛し合う役割を与えられて誠実に待つように求められたのです。
もう二度と来ないとあきらめず、いつまでも待つようにと言われたのです。そして主人の帰りを恐れるのではなく、それを希望の時として待ち望む門番として待つように求めたのです。私たちに目を覚ましていなさいと言ったのです。
35節「だから、目を覚ましていなさい」。それはしっかりとこの世界を、現実を見るようにということでしょう。世界の不正を不正義を見過ごさずに、自分の不正に目をつぶらないようにしなさいということです。そこで役割をしっかりと果たすということです。終末までそのように主に、そして託された世界に誠実に生きることが、門番と私たちに求められているのです。
終末を待つことはクリスマスを待つことに似ていると言いました。それはやがて必ず来るものだからです。そしてもうひとつ、終末とクリスマスの共通点があると言えるでしょう。それは「すでに」来ているという点です。
2000年前イエス様が来られたときから終末は時始まっているのです。「すでに」クリスマスが始まっているように、終末も「すでに」始まりつつあるのです。イエス様が私たちと共におられるということにおいてです。それがイエス様との2回目の出会いの始まりです。このように「すでに」始まっているのです。クリスマスも、終末も「やがて」だけではなく、「すでに」を含むのです。どちらもすでに起き始めています。
クリスマスと終末の共通点を見てきました。「すでに」と「やがて」という共通点を見てきました。私たちには苦しい人生の中でも必ず「やがて」来る希望があります。そして今「すでに」ある希望がきっとあるでしょう。「すでに」来ている希望に感謝をしましょう。そして「やがて」来るその希望を共に待ちましょう。お祈りいたします。
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 マルコ福音書10章34~35節
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。
今日の聖書箇所を読んで、どうお感じになったでしょうか?キリスト教は全財産を教会に寄付しないと、本当の信者とはいえないのでしょうか?キリスト教は全財産を寄付するように私たちに求めているのでしょうか?もちろん私はそうではないと思います。あなたの全財産を寄付しないと、イエス様に従うことができないということではありません。ご自分の財産はご自身や家族の生活のためにどうぞ使ってください。
みなさんは様々な苦労を乗り越えてその収入や、その財産を築かれたことでしょう。それは一番には本人の努力によって、築き上げた財産です。一生懸命働き、一生懸命節約し、蓄えてきたものでしょう。そしてもし今は多少の余裕があるとしても、それは将来をために、少しでもとっておかなければならいないものでしょう。ですから、ご自分の財産はご自分のために使ってください。その使い道は、皆さんが決めるものです。
しかし、立ち止まって考えたいのは、その財産は本当に自分だけのものかどうかということです。その財産は本当にあなただけの力によって築いたものでしょうか?その財産は様々な影響のもとにつくられてきたはずです。学校を卒業してたくさんの奨学金という借金を抱えてスタートする人がいます。一方、借金なしにスタートする人もいます。親の都合によって左右されるでしょう。就職する時の景気によって、安定した就職が叶わない人々、専門的な訓練を受けることができなかった人がいます。一方、景気の良い時期には多くの人が職に就き、自然に賃金が上がりました。いろいろな環境のもとで築いた財産は、決して自分だけの努力で作ってきた財産ではないはずです。
私たちの持つ財産、あるいはちょっとした貯金や、ちょっとした収入は、どこかで誰かに支えられて、受け取ることができたものでしょう。もしそうだとしたら、それを自分のためだけではなく、誰かのために、何かのために献げたい、返したいと思うものではないでしょうか。
その収入の一部はきっと、もともと私のものではなかったからです。私のものだったら私が自由にします。でもそれは元々私のものではなかったのでしょう。それはきっと誰かに返さなければならないものなのです。だから私の財産であっても、私のためだけに使うのではないのです。それは最近よく話題になる所得の再分配ということとも通じていると思います。
今日はこのあと私たちはバザーの準備を予定していします。バザーで販売するのは、中古の衣料品や物品です。商品を買って仕入れたものではありません。教会員や、近所の方々や、様々な人たちが持ち寄って、下さったものです。まさしく、もともと私たちのものではなかった物がそこで売られます。もともと私たちのものではなかったので、この収益は私たちのものとはしません。これらの収益は世界や地域の人たちのために、困窮している人たちのためにすべて寄付されます。あるいは寄付というよりもそれを「返す」といった方が近いでしょうか。これは再分配の交わりです。この交わりを準備と当日、一緒に楽しみながら、やってゆけたらと思っています。
バザーの収益はペシャワール会、日本飢餓対策機構、フードバンク湘南などに送られます。ペシャワール会はアフガニスタンで灌漑用水路を作り、農地回復の取り組みを続けてきた団体です。中村哲さんが有名です。日本飢餓対策機構は世界の食糧問題に取り組む団体です世界中で毎年9万人を支援しています。フードバンク湘南は企業や個人から食材を譲り受け、平塚市内を中心に生活に困窮する人々約2000世帯へ食料を届けている団体です。どれくらいの売り上げになるか、決して大きな金額ではありませんが、売り上げをそれぞれの団体に再分配する予定です。私たちはそのようにそれを返します。
教会はなぜこれに取り組むのか、それは福音のためです。持っているものを売り払って、貧しい人と分かち合い、従いなさいという福音のために、このバザーをしています。受け取ったものを自分のものにするのではなく、分かち合います。今日はそのことを聖書から聞いてゆければと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。
今日の聖書箇所を読みましょう。あるところに金持ちの男がいました。当時の金持ちとはどんな存在でしょうか。一生懸命頑張って金持ちになった人もいたでしょう。しかし当時は身分や格差が固定されていた時代です。ほとんどの金持ちは自分の努力ではなく、もともと豊かな家に生まれ、親の財産を相続することで、金持ちになりました。
この金持ちは、どのように金持ちであり続けたのでしょうか。それは多くの場合、貧しい農民からの搾取によってでした。大きな土地を持ち、そこで農民を不当に安く働かせ、大きな利益を得たのです。金持ちといっても本当は貧しい人々から労働力を奪って得たお金でした。その蓄えとは本来、金持ちのお金ではなかったはずのものです。本当は今、貧しく暮らしている人に返さなければいけないものでした。
そんな金持ちの彼がイエス様を訪ね、求めたものは17節「永遠の命」でした。1日のパン、1日1日の命を守るのがやっとという人々がいる一方、金持ちは永遠の命を求めたのです。そしてイエス様はその金持ちに言います。21節「従う前にまず、すべての財産を売り払い、貧しい人々に与えるように 」と命令したのです。
イエス様は金持ちに、貧しい人々から巻き上げた財産を返すように命令をしました。そのすべての財産が、人々から搾取したものであれば、そのすべてを返すように命令したのです。永遠の命を受け取ろうとする前に、まず自分の財産をよく見て、返すように、再分配するようにと命令をしたのです。それが貧しい人々と分かち合うようにという命令でした。
しかしこの金持ちにはそれができませんでした。イエス様の前から悲しみながら立ち去ってしまったのです。イエス様に従うことができませんでした。イエス様に出会っても、従えずに去ってゆく人、聖書にはとても少ないのですが、金持ちは従うことができませんでした。
金持ちは貧しい人々にその財産を返すことができませんでした。自分が持っている財産、自分が受け継いできたものは、どこまでいっても自分の物だと考えたのです。彼は返すこと、再分配を拒否したのです。金持ちは分かち合えない自分の弱さ、それを返すことのできない弱さをよく理解していたでしょうか。悲しみながら、葛藤しながら、自分の家へと帰ってゆきました。
私はこの話を、富を独占する者に向けた話と聞きました。すべての人が全財産を貧しい人に分かち合わなければ、従うことにはならないとは思いません。聖書は、自らの財産は自らの力によってのみで作られ、自分のためだけに使うものだという考えを批判しているのでしょう。聖書はその財産の中の大部分は本当は分かち合わなければいけない、返さなくてはいけないものだと語っているのです。
そしてイエス様はそれをできない人間の弱さ、罪もよくご存じでしょう。私たちの社会でそれを実現することはとても難しいことです。イエス様はこの出来事に驚いている弟子たちに向けて語ります。25節「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。ラクダとはイスラエルでもっとも身近で、大きな動物です。その大きな動物が針の穴を通るほど、金持ちが神の国に入るのは難しいと言うのです。
つまり自分の持っているものを十分に分かち合うことはとても難しいものだということです。どうしてもその財産を自分のものだとしか考えられないということです。悲しいほどにそれを痛感しても、分かち合うことができないということです。
でも私たちのバザーがまったく人々から持ち寄られたものであるように、自分のもののように感じていても、本当はそうではないものがたくさんあるのでしょう。
イエス様は財産を手放すことの難しさ、分かち合うことの難しさ、富を独占する人の罪、搾取を生む世界の罪を鋭く語っておられるのではないでしょうか。いかにそれが人間にとって難しい問題であるかを示しているのでしょう。
私のものは私のもの。私の自由にします。でも聖書を通じ、それは本当に私のものかを問い直します。イエス様は財産をすべて売り払って、貧しい人と分かち合ってから従えと命令します。
きっと私のものと思っている多くのものが、私たち自身も、誰かから受け取ったものなのでしょう。そしてそれは持っている人から、必要としている人に、返すべきものであるのでしょう。それは本当に難しいことです。27節「人間にできることではない」のでしょう。しかし同時に27節「神にはできる。神はなんでもできる」お方なのです。その福音を聞いた私たちは、きっと何かを分かち合うことができるはずです。
私たちがイエス様に従うことを妨げるのは、自分ががんばった、自分だけの成果、すべて自分の財産という驕りです。イエス様の福音はそこから私たちを解放してくださる、良い知らせです。福音は私たちの財産も命も、誰かからいただいたものだと語ります。それを返し、従う。それが私たちの聞いている福音ではないでしょうか。バザーをそのような分かち合い、福音のためのバザーとしたいと願います。
イエス様の命令は、21節に3つあります。売り払いなさい、与えなさい(施しなさい)、従いなさいです。ともに売り、与え、イエス様に従ってゆきましょう。お祈りいたします。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10章14~15節
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもの声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。また今日はこの後、こども祝福祈祷の時を持ちます。
毎週こどもを大切にするという言葉から宣教を始めていますが、私たちがこどもを大切にしているのは、なぜでしょうか?マクドナルドもこどもを大切にしています。こども向けにハッピーセットという、おもちゃのついたメニューがあります。こどもを呼べば、大切にすれば、一緒に来た親も何かを買ってくれるからです。売上のためにこどもは大切です。さらにこどもは将来のお客さん、未来の売上にもつながります。このように企業の成長のために、マクドナルドはこどもを大切にしています。
教会もこどもを大切しています。こどもが来れば、親も一緒に来るようになるでしょう。そのこどもが将来教会の奉仕を担ってくれるかもしれません。元気な子供がいたら教会も活性化するでしょう。教会にこどもがいることのメリットは多いものです。
しかし、私たちは教会にとってメリットが多いから、こどもを大切にするのではありません。教会の成長のために、こどもをターゲットにしているのではありません。それは私たちがこどもを大切にする理由ではありません。
子どもを大切にする、それはもっと深く広がりのある意味を持っています。私たちにとってこどもを大切にするとは、一人前ではない、半人前の人こそ大事にするということです。誰かに世話をしてもらわなければいけない人を大切にするということです。人の役に立つことができない存在を、誰かに頼らないと生きてゆけない人を、この教会は大切にするということです。それがこどもを大切にする教会です。
ですから教会が大切にするのはこどもだけはありません。教会は誰かの助けが必要な人を大切にします。教会は生活に困っている人、障がいをもっている人、誰かに頼りたい人、心の支えが欲しい人、一人では生きていけない人を大切にします。
こどもを大切にする教会は、子ども以外も大切にします。その中にはきっと、私も含まれるでしょう。私もこどものような一人です。一人では生きていけない。誰かに助けてもらわないといけない半人前です。
こどもを大切にする教会は、助けを必要とする人を大切にする教会です。私たちは神様を頼りとし生きています。そしてお互いを頼りとして生きています。私たちも誰かに頼り、甘え、助けを必要とする、こどものような一人です。こどもを大切にする教会は、全員がこどもである教会です。私たちは全員こどもです。助けを必要とし、それを受け入れる存在です。それが私たちです。
今日の箇所は、私たちにこどもの様に、神の国を受けとめるようにと語っています。それは自分が誰かの助けを必要な者である、神なしでは立つことができない、そのような者に神の国が来るということです。このことを聖書から読んでゆきたいと思います。
今日の箇所を読みましょう。こどもがたくさん出てきます。にぎやかだったでしょうか?現代に生きる私たちはこどもを「ほほえましい存在」として、一人の人格として見ます。しかし聖書の時代の子供たちはもっと厳しい環境にありました。ある研究によれば当時イスラエルで生まれた子どものうち3割しか16歳になることができなかったといいます。
それ以外の7割は出産や成長の途中で死んでしまいました。病気や事故だけではありません。戦争や飢饉があれば真っ先にこどもが犠牲になりました。さらに当時は孤児や、みよりのない子どもも多くいました。
13節には「人々」という言葉が出てきます。ここに「親」と書いていないのは、親のいない子ども、親ではない大人がその周りにいたからかもしれません。こどもは、そのような環境で生きなければなりませんでした。
親や周りの大人は、きっとそのようなこどもたちに、イエス様に少しでも出会い、触れてほしい、そう願って、連れて来たのでしょう。無理やり連れてきたのではありません。「さあ触れてもらいなさい」と、そっとイエス様の前にこどもを連れてくるのです。いろいろな大人たちの温かいまなざしが伝わってきます。
しかし13節の後半を見ると、弟子たちはそのこどもたちが進み出てくることを強く注意したとあります。怒られたのもまた「人々」とあるだけで、誰が怒られたのか書いてありません。叱られたのは大人たちとも読めます。だとするなら「あなたは親なんだからこどもをちゃんと静かにさせなさい、後ろに座らせてなさい」と怒られたのかもしれません。
あるいは直接こどもが怒られたとも読めます。「うるさい。あっち行ってなさい」と怒られたのです。大人もこどもも、両方怒られた可能性もあります。いずれにしても弟子たちの態度はまず、大人の気持ちを踏みにじるものだったでしょう。大人たちが持っていたこどもをそっと信仰に導こうとする姿勢、願い、まなざしは、弟子たちによって完全に踏みにじられました。そしてこども自身も拒絶され、傷ついたでしょう。
弟子たちはなぜ怒ったのでしょうか。イエス様を求める人々の群れをしかりつけたのでしょうか?実はこれも不思議です。人々がイエス様の話を遮ったというわけでもありませんし、触ってもらおうとしただけなのに、どうして怒られたのでしょうか。こどもを静かにさせるのが親の責任だと考えて怒ったのでしょうか?ちゃんと教育しろと怒ったのでしょうか?
イエス様に触ってもらうには、こどもではなく、もっとふさわしい人がいると思ったのでしょうか?こどもではなく、もっと偉い人から順番に触ってもらうべきだと考えたのでしょうか。あるいはイエス様を守ろうとしたのかもしれません。イエス様が穢れたこどもと触ることの無いようにしたのかもしれません。でも私だけでしょうか。弟子たちはどこかイエス様のために怒って追い返したというよりかは、自分たちのためにそうしたと感じるのです。自分がそばにいるイエス様は簡単に近づけない人なのだと、特別な人しか近寄れないのだと言っているように私には聞こえます。
そしてそんな場面にイエス様が登場します。今度はイエス様が怒って言います。14節15節にはこうあります。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
要は「こどもたち、どんどんおいで」と言うのです。そして16節、彼らを受け止め、抱きしめてくださるのです。
今日の箇所によれば、こどものようではなくては、神の国には入ることができないとあります。ここにあるこどものようとは、天真爛漫、無邪気、元気、かわいいという意味ではありません。こどもとは、自分のことが自分でできない人のことです。一人では生きていけない人のことです。誰かに頼らないと生きることができない人のことです。