「負わされた十字架の意味」マルコによる福音書15章21~25節

イエスが十字架を背負って処刑場であるゴルゴダの丘に向かう途中、ローマ兵は「シモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(21節)。不運といえばそれまでだが、シモンは旅先のエルサレムにおいて予想だにしなかった、とんでもない仕事をさせられることになってしまった。シモンはローマ兵につかまった瞬間、おそらく「しまった」と思ったのではないだろうか。そして近くにいた人たちは、自分たちに当たらなかったことにホッとしたのではないか。それが人間というもの。

 しかし、この突然の出来事は、よくよく考えれば単純に不運というべきことではなく、シモンは人類の救いのためにいのちを捨てられたイエスの十字架を代わりに負ったわけだから、素晴らしい奉仕であったと考えることもできるのではないか。つまり、十字架を無理やり負わされたということは結果的にイエスの苦痛を和らげ、助けることになったのだから。

 マザー・テレサが次のように言っている。「苦しみはそれ自体では空しいもの。しかしキリストの苦難を分かち合う苦しみは素晴らしい神さまへの贈り物です。人の捧げる最も美しい贈り物はキリストと苦しみを分かつことができることです」。苦難をこのようにも解釈できるのは素晴らしいことだ。確かにシモンは代わりに十字架を負うことによってイエスを助けたわけだから、キリストの苦難を分かち合うことになった負わされた十字架は「神への贈り物」と表現することも可能だろう。

 考えてみたいのは、十字架をこのように「神への贈り物」とまで考えることができなくても、誰かの代わりに、しかも無理やり負わされることになった場合、それはやはり大きな意味があるのではないかということである。職場や家庭において、またさまざまな人たちとの関わりの中で、望んでいないというより、引き受けたくないような責任を持たされることがある。貧乏くじを引くという。

 重荷を負う人がいないため、いてもみな逃げてしまうため、自分が責任をとらなくてはならなくなった場合、「どうしてこの私が……」という気持ちになってしまう。それは人間感情としては普通のことだ。たとえば親の介護や苦しい家計の責任、また家族の者が体や心の病気になって、自分に特別な負担がかかってくるときなど、無理やり「負わされた十字架」という感じを持つのではないだろうか。

 しかし、そんな時少し視点を変えて、事態を「理解に苦しむ不運」「不当な運命」とばかり見ないで、それを他の人への奉仕、それこそ「贈り物」にもなり得ると考えることもできるだろう。

 人間の世界は、誰かが他の誰かの代わりに重荷を負うことによって助けられ、その愛の贈り物によって心が温められ、個人も集団もよい方向へ向かって前進していくものではないだろうか。まして私たちはまさに重荷を負って下さったキリストによって助けられ、愛の贈り物をもらった者ではないか。今度は私たちが重荷を負う番だ。愛の贈り物を届ける番だ。出て行こう。

平塚バプテスト教会

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