「信仰は決断である」 ヘブライ人への手紙11章1-12節

ヘブライ書11章を語るには、1節を抜きにしては語れない。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。著者の願いは、キリストにあるすべての者たちが、この言葉に示されているような生涯を走り抜くことだった。

 信仰は一つであるから、別々の信仰があるわけではない。しかし、ヘブライ書は他の聖書記者たちと異なるアクセントをもって、他のどの箇所にもない信仰の側面を提示している。再び11章の冒頭の言葉をもって言うなら、信仰とは「この世界が神の言葉によって創造され」たことが「分かる」ことであり、「見えない事実」を確かに認めて、それを人生の選択において表わし、行動において実践することである。このヘブライ書は、神の民に与えられた使命としての信仰を強調する。信仰とは闘いであり、素晴らしい挑戦であり、そして決断であり、生涯をかけての壮大な冒険である。この独自性をしっかりふまえて、繰り返される「信仰によって」の内実を汲み取りたい。

 「信仰によって」生涯を生きた一人であるアブラハムは平和な生活を送っていた。ところが、神から突然召された。召されてハランの地から出たときには、随分たくさんの財産を持っていたことだろう。その財産で悠々自適の暮らしができたであろう。その彼が、神の言葉を聞いたのである。神の言葉は、その人だけにこそこそと語られるのでなく、天地をとどろかすように語られる。にもかかわらず、神の言葉は気をつけていないと聞くことができない。「うっかりしていた」ということもよくある。また、聞いても、それを自分に受け入れないことが多い。それは無理だとか、私にはできないなどと幾重にも弁解を用意して、聞き入れようとはしない。最も致命的なことは、私に語られたと思わず聞かないことである。

 アブラハムが神の言葉を聞いたという単純な記述は、彼が、自分自身に語られたと聞いたのである。このように、語られた言葉を自分への言葉として受け取っていく。それが、私たちに決断を求め、生活の変化を迫ってくるのである。これが神の言葉である。

 アブラハムはそのところから出て行った。「行き先も知らずに出発した」という決断、ここに信仰があった。しかし、出て行った彼には、様々な失敗が待っていた。彼は倫理上も許されぬ失敗や罪を重ねた。私たちの基準からするなら、決して手本などにできる人ではなかった。にもかかわらず、アブラハムはその中で神の約束にしがみついていったのである。

 信仰の世界では、失敗を恐れる必要はない。大事なことは、失敗なく従うことではなく、ただ神に信頼して従うことなのである。何もしない人は失敗もしないだろう。でも何もなすこともない。もちろん神に従うこともできない。アブラハムは失敗の上に恥をかき、罪を重ねても、なお神の約束に頼っていたから、彼は、信仰の父と呼ばれたのである。モーセの生涯もしかりである。

 アブラハムもモーセも、立場は違っても、神に聞き従ったということは同じである。また、神の意志に従うことは、あくまでもその人の自由意志だということである。従っても従わなくてもよい。そういう中で、従っていったというところが、この人たちの道であり、信仰だったのである。ある書物に「十字架とは、背負っても背負わなくてもよいものを背負うことである」と書いてあった。キリスト者にとっての十字架とは、逃げることができる、避けることができるのに、しかもそれを背負っていくものである。どんな小さな十字架でもよい。これを神の言葉として受け、逃げずに背負って従っていくならば、主の祝福に与る者となることができるのである。その決断こそ信仰。

平塚バプテスト教会

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