「礼拝は一番大事」ローマ12章1節

 今日から「礼拝は○○」という12回シリーズで、4月と6月7月は礼拝を考える「礼拝再考」の時をいただこうと思います。教会が一番大事にしていることは礼拝です。礼拝をやめてしまった教会というのは存在しません。なぜなら礼拝をやめたとき、教会は教会でなくなってしまうからです。

 教会がいろいろなことにチャレンジする時、礼拝以外の事柄に一番の力を注ぎ始めてしまうことに注意をします。たとえば子供を大切にしようと言っている教会。子どもを歓迎すると言っても、子供が礼拝にとても参加しづらいという教会がたくさんあります。「子供とどう礼拝するか」まずそれを第一の事柄として悩みたい、そう思うのです。それが教会が礼拝を中心にする、一人ひとりが礼拝を一番大切にするという事ではないでしょうか。その礼拝とは何か、今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。

 神様の礼拝に招かれるのは、神の憐れみによってです。人間の憐れみや権威によって、礼拝に招かれるのではありません。教会の牧師の人柄や、教会の人間関係によって礼拝に招かれているのではありません。

礼拝に集うということ、それは私たち人間の応答といえるでしょう。神の招きに私がたまたま応えることができた、それが礼拝に集うということです。神様が招いているからこそ、教会は礼拝がなによりも大事なのです。そして今、私たちは神様の招きがそれぞれの場所にある、そう信じ、今、それぞれの場所で礼拝を捧げているのです。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる 生ける、いけにえとして献げなさい」。ここには自分の体とあります。私たちの「体」とは、この地上に生き、汗をかいて働き、病気になり、不安になります。体を捧げなさいという時、それは不完全なままで献げる、礼拝をするということでしょう。だから聖書は、「聖なる体に“なって”献げなさい」とは言いません。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」

 ここでパウロは「生けるいけにえ」と言います。この「生けるいけにえ」は生き生きとしたまま捧げられるということです。私たちの生きている人生、生きたまま捧げる、生きる喜びをささげようということです。ありのままで、傷ついたままで礼拝においで。それで神様は喜んでくださるよ。そして、私たち人生を神様に献げようという意味です。

 「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝です」そう、これこそ私たちのなすべき礼拝です。礼拝とは神様からの招きです。そして私たちは今の体のままで、生きて、喜びの応答する、それが礼拝です。

 私たちはこの礼拝を中心にしましょう。そのままの姿で、その体で招かれ、そのままで聖とされるこの礼拝を一番大切にしましょう。礼拝は一番大事なのです。これからしばらく礼拝について共に考え、また改めてこの礼拝を大切にするときいただいてゆきましょう。