【全文】「礼拝は共同体作り」使徒15章3節~21節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。またこどもたちもテレビやパソコンの前にいるでしょうか。平塚教会はこどもを大切にする教会をめざしています。ぜひいっしょに礼拝をしましょう。

私たちは今、「礼拝は○○」というテーマで12回の宣教の最中です。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマで見てゆきたいと思います。

礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められる、そこで私たちは一つのチーム、一つの教会になります。私たちの教会は礼拝共同体です。私たちにはいろいろな仲間がいます、学生時代の仲間、飲み仲間、ゴルフ仲間、職場の仲間がいます。では私たちは何の仲間でしょうか?それは礼拝仲間と言えると思います。私たちは礼拝をする共同体です。私たちを一番結び付けているもの、それは礼拝なのです。神様から招かれて礼拝をする、礼拝仲間なのです。

私たちは集えない今、もう一度礼拝について考える時を頂いています。先週から礼拝のプログラムひとつずつを考えています。最初に招詞について考えました。礼拝は私たちの頑張りではなく神様の招きによって始まるのだ、だからこそ最初に招詞が読まれるのだとということを見てきました。今日は礼拝の中の「報告」について、見てゆきたいのです。「報告」は私たちの礼拝プログラムの一番最後に置かれています。礼拝の一部であることを忘れられがちですが、しっかりと礼拝プログラムの中に組み込まれている、礼拝の一部なのです。

私自身も礼拝について学び直していますが、改めて礼拝の中の「報告」について調べてみました。調べていると報告を礼拝に入れるべきなのかどうか、わからなくなってきました。礼拝学事典という本には「報告」という項目すらありません。多くの教会で報告も礼拝の一部であるはずなのに、事典に項目すらないのはというのは残念です。さらにバプテストの礼拝学の本を見るとこんなことが書いてありました「報告は礼拝ではない」「週報に載っていることは繰り返して報告する必要はない」とありました。さらに「報告によって教会が建てられることはないし、未信者を救いに導くことはない、報告を聞いて心臓がどきどきすることも無い」と書いてありました。私たちの持つ礼拝の報告の時間が真っ向から批判のようで、思わず私は笑ってしまいました。

私たちは「報告」を礼拝の中で持ち、しかも週報の報告欄を丁寧に読み上げているのです。やはり報告は礼拝終了の後にすべきであり、礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で続けるべきでしょうか。「報告」が礼拝の中にある意味とは一体何でしょうか?

どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。いずれ皆さんとも話し、分ちあう時がくればいいなと思います。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。礼拝の中に報告があることに、大切な意味があると思います。報告は平塚バプテスト教会の礼拝には、なくてはならいないことだと私は思います。

週報に書いてある「報告」とはただの連絡事項ではありません。私たちの信仰の共同体に関わる重大な事柄、そして具体的な事柄が書いてあります。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているのです。もちろん礼拝の中心は聖書のみ言葉です。しかしこの報告も礼拝では大切な要素だと思います。

私たちは神様によって変えられる者です。神様が私を変えて下さるように願います。神様のみ言葉によって変えられる者です。しかし多くの場合、神様は教会の仲間や、私たちの友人を通じて私たちに変化を起こそうとなさいます。私たちは他者を通じて神様に変えられるのです。

誰かと話することで、お互いを知ることで、神様の事を知るようになります。信仰とは神様と私の一対一の事柄です。誰の指図も受けない、神様を信じるかどうかはあなた個人の問題です。しかし同時に、私たちは他者との関わりによって、神様に導かれていく者でもあります。だから今インターネットで礼拝をする寂しさがあるのだと思います。同じ様に礼拝を聞いていても、他者との関わりがないと、十分な礼拝体験をすることができないのです。

私たちは一人ひとりがみ言葉を聞いていれば、それでいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。礼拝とは一人の出来事ではなく、共同体の出来事、共同体を作っていく出来事なのです。

私が礼拝の中で報告が大事だと思うのは、このことからです。共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。今日の週報の報告にもたくさん共同体の出来事が書かれています。私たちがどのように礼拝をするのか、何を祈るのか、どのように情報を共有するのか、どのように献金を捧げるのか、それらが分かちあわれています。これは私たちが礼拝の共同体であるために必要な情報です。さらにこの時間、新来者の紹介もします。私たちは不特定多数の人が集まって礼拝するのではありません。新しく来た方がいれば、私たちの礼拝仲間に誰が加わっていたいのかが、分かち合われるのです。礼拝共同体としての具体的な分かち合いのです。

 

人は独りでは生きていけない。これは信仰も同じです。一人では信仰は続きません。神様と1対1で向き合いながらも、みんなで互いを知り合い、励まし合いながら神様に向き合う必要があるのです。教会はそのような礼拝・報告によって共同体になっていくのです。教会がひとつの共同体となってゆくために、互いをよく知るために報告は必要なのです。報告、それは礼拝の中で持たれるのがふさわしい。もっと大事にされるべきものだと思います。

だからもし次の予定があって、急いでいても、報告が終わる最後まで帰らないで欲しいのです。そして、何か小さくても皆さんからの報告があれば、ぜひ前に出て、報告してみて欲しいと思います。そして週報を見ると、他の教会の報告もされています。教会同士も励まし合い、知り合う、そのことでそれぞれの信仰を深めてゆくことが出来るのです。

 

今日の聖書個所見てゆきましょう。今日の個所は、報告の大切さが示されています。報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。今日の個所ではパウロが教会に報告をしています。2節です。報告の内容は、今までユダヤ教の神様を信じる人がイエス・キリストを信じていたのですが、それだけではなくユダヤ教の神様を知らない人、外国人も、イエス・キリストを信じるようになったという報告でした。そのような人々がたくさん出て来たという報告でした。

その報告によって教会は大きな喜びに満たされたとあります。思いもよらない事です。自分たちの民族以外にもこのように福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。

ある人は考えました。ユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになるのだ。だからイエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだというのです。形ばかりに凝り固まった律法主義、そんな単純な話ではありません。多くの人が律法の実践は神様の恵みへの応答なんだと考えたのです。だから一生懸命、律法を実践してゆこう。一緒に律法を実践してく共同体になろう。そう考えたのです。

またある人は考えました。神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだ。それなのにどうして、ユダヤ教の方法や伝統を新しくイエス・キリストを信じるようになったものに、押し付けるのか。ユダヤ人と同じように律法を忠実に実践しなければいけないわけではない。それぞれに応答の仕方があるそう考えたのです。

この二つ、どちらの考えも大事だと思います。私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。

今日皆さんと見たいのは、どちらの考えが正しい、間違っているという問題ではなく、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。

パウロの報告の影響を見てゆきましょう。聖書によれば、この共同体は今までと同じ方法ではなく、境界線をなくしてゆくという方法を選びました。報告によって、活発に意見が交換されました。わたしたちは、自分たちがどう応答するかによって救われるかが決まるのではなく、ただ主イエスの恵みによって救われるのだと、共同体が気づいたのです。だから神に立ち帰る人に今までの律法すべてを実践するように求めないという結論になったのです。もちろんいくつかの条件は付きました。

報告によって、共同体の在り方が大きく問われました。報告によって自分たちが信じている事、大切にしていることが見えるようになったのです。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを考えるのです。そこから具体的な信仰の歩みが始まるのです。

私たちの教会でもこの報告を大切にしたいと思います。そしてもっと活き活きとした報告、みなさんに問いを投げかけるような報告、互いの事を知ることが出来るような報告、そのような報告に変えてゆきたいと私も思いました。そしてもっと教会の一方的な報告ではなく、みなさんからの報告もたくさんあっていいのではと思います。

そのことによって、私たちは、共同体への問いを感じながら歩んでゆくことができるのではないでしょうか。そして報告をしながらもうワンステップ、キリストを礼拝する共同体に近づいてゆくことが出来るのではないでしょうか?

礼拝は共同体を作ります。報告によって私たちは新しい共同体とされてゆくのです。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りなのです。

 

お祈りいたします。