【全文 】「平和の門をたたきなさい」マタイによる福音書7章6節~15節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。      マタイ7章7節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして集うことができること感謝です。共に礼拝をおささげしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。子供たちの声が響く礼拝はなんと平和でしょうか。今日もこどもたちとも一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちは平和というテーマで宣教をしています。平和というと8月のテーマという印象があるでしょうか。私たちの教会でも8月15日の前後は平和記念礼拝を持っています。8月は平和を考える大切な時期です。しかし6月7月に平和を考えることもとても意味のあることでしょう。8月には注目されない、沖縄のことや私たちの加害責任に目を向けることができるからです。私たちは原爆を落とされた被害者としてだけではなく、戦争の加害者としての歴史を忘れてはいけません。

そして戦争が起こる、起こりそうな時に宗教がどのような姿勢をとるかは大きな影響力のあることだということも忘れてはいけないことです。その戦争を宗教が支持する時、その戦争は宗教的お墨付きを与えられ、正当化され、聖戦となります。その戦争を宗教が反対をし続ければ、その戦争は内外から大きな批判を受けるようになります。宗教が戦争に対してどのような姿勢をとるかは、戦争の開始・継続に大きな影響力を持つのです。

では第二次世界大戦中はどうだったでしょうか。キリスト教は反対することができませんでした。いえ賛成に回り、積極的にこの戦争に協力をしました。ここには負の歴史があります。あまり聞いていて心地の良いものではありませんが、でも向き合う必要のあることです。一緒に考えたいのです。

実は戦時中、日本の多くのキリスト教会は戦争を支持していました。反対できなかった、全体に流されてしまったのではありません。戦争をはっきりと支持していました。たとえば大東亜共栄圏という東アジアを植民にする構想がありました。この侵略はアジアの人々を深く傷つけました。しかしこの時、キリスト教は反対するどころか、東アジアの植民地化を「東アジアに神の国を出現させる働き」だと語りました。宗教的お墨付きを与え正当化していたのです。

日本のキリスト者たちは東アジアの人々の信仰も奪いました。朝鮮の人々に、朝鮮各地に作られた神社に参拝するように強制したのです。朝鮮の牧師たちは当然、それは偶像崇拝だと猛反対をしました。しかし政府は反対する朝鮮の200の教会を閉鎖し、2000人を逮捕し、獄中で命を落とした牧師もいました。このような中で日本のキリスト教は戦争の支持を続けました。

まだあります。日本の教会では戦時中、献金が募られました。この献金は戦闘機を購入するための献金でした。全国の教会から多くの献金が集まり4機の戦闘機が購入され、戦地に投入されました。その戦闘機には「日本基督教団号」と書かれていました。このように戦時中、日本のほとんどのキリスト教会が戦争に協力し、その戦争を「聖戦」と呼び支持をしていました。

もちろん私たちの教会は戦後にできた教会ですが、これと無関係ではありません。当時の日本基督教団というグループにはバプテストも入っていたのです。あのときバプテスト教会は戦争を支持したのです。

全員が支持したわけではありません。私たちの教会の初代の牧師、長尾三二先生は戦争に反対し、逮捕された144名の牧師の一人です。「天皇は神にあらず」と語り、投獄されました。戦争反対を訴えた貴重な牧師です。私たちの教会はこのような系譜の中にあります。

私たちはもう二度と戦争に協力しません。戦争を見過ごしません。そして戦争が起これば、また明確に反対する使命があるのです。

キリスト教はあの時、戦争に協力し、それを勧めさえしてしまいました。聖書を戦争の道具としました。今私たちは、平和を訴えます。でもまず私たちは自分たちの過ちを真摯に反省する、そのことから始めなければいけません。その過去を知らなければ、未来の平和を訴えてゆくことはできないのです。

まず私たちが戦争にどのようにかかわったのかを知り、平和にどのように関わってゆくかを考えたいのです。平和を訴えるだけではなく、自らの過ちに目を向け、そこから平和を訴えてゆきたいのです。そのことが一番私たちに平和の大切さと、難しさを教えてくれるのではないでしょうか。

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の箇所は、相手の目のおがくずを取らせてほしいという者の目に、実は丸太が刺さっているという話です。イエス様のユーモアが含まれています。「あの人は自分のことを棚に上げてよく言うよね」「あの人の目には丸太が刺さっているよね」そう読まれることを聖書は望んでいないでしょう。聖書はこれを読む人自身の、まさに私の目に、丸太が刺さっているのだということを伝えようとしています。

誰に丸太が刺さっているかではなく、まず私自身に丸太が刺さっていることを知ることが大事です。そして、それを取った者だけが、相手の目のおがくずをとることができるのです。

目に丸太の刺さった人とはキリスト教のことともいえるでしょう。キリスト教はまず自分たちの目にどれだけ大きな丸太が刺さっているかを知り、それを取らなければ、他者の目のおがくずを取ることができません。

平和という文脈で読みましょう。つまりそれは私たちがどのように戦争に協力してきたか、それをまず知らなければ、その丸太を取らなければ、平和を訴えてゆくことができないということです。私たちがあの時、誰を踏みにじったのかを知らなければ、これからの世界の平和を語ってゆくことができないということです。私たちの戦争責任、私たちがアジア、沖縄をどれだけ踏みにじってきたかを知らないと、私たちは平和を造り出すことができない、語ることができないということです。

私たちは過去を変えることができません。過去をなかったことにもできません。丸太を刺さっていないことにはできません。私たちはすべての過去を引き受けて、向き合わなければいけません。そうしなければ、平和を造り出すことができないだけではなく、また同じ失敗をしてしまうでしょう。

過去に目を閉ざすものに、未来を語る資格はありません。それこそが自分の丸太に気づかない者に、おがくずは取れないということです。自分の過去に向き合わない者は、未来を語ることができないということです。自分の目に丸太が刺さっているという事実に気づくことは、つらくて、苦しい、考えたくないことです。でも丸太が刺さったままではいけない。それに向き合わなければいけないのです。

7節を見ましょう。私たちは何を神様に求めるのでしょうか。私たちは自らの繁栄を求めて東アジアに進出しました。戦時中のキリスト者たちは、神様に東アジアを自分のものとすることを求めたでしょうか。求めれば領土が与えられる、そう祈ったでしょうか。大東亜共栄圏を求めたでしょうか。

 

しかし、神様が与えたいものは何だったのでしょうか。戦争をしたがる子供に、戦争を与える親がいるでしょうか。友達のものを欲しがる子に、友達から奪って子に与える親がいるでしょうか。

親は盗もうとしている子供に、盗ませません。親は子の平和を願います。11節、神様は良いものを与えるとあります。神様は戦争や身勝手な願いをかなえるお方ではありません。植民地を与えるのではありません。神様は私たちに真によいもの「平和」を与えて下さるお方です。私たちはこのテキストを植民地支配ではなく、平和の文脈で読みたいのです。

平和の文脈で読む時、7節以降はこうです。平和を求めなさい。そうすれば平和は与えられます。平和を探しなさい、そうすれば平和が見つかります。平和の門をたたきなさい、そうすれば開かれます。誰でも平和を求める者は受け、探すものは見つけ、平和の門をたたく者には平和は開かれるのです。

誰が平和を欲しがるこどもに戦争を与えるでしょうか。平和を求めるのに、戦争を与えるでしょうか。私たちは戦争を起こしてしまう罪あるものですが、神は私たちに平和を与えるお方です。天の父は平和を求める者に、きっと平和をくださるに違いありません。

私たちは平和の門をたたきましょう。狭い門、平和の門から入りましょう。戦争への門は広く、その道は広々としています。戦争の道を行く人が多いでしょう。一方、平和に通じる門は狭く、か細く、頼りなく、人もまばらです。でも私たちは平和を求めるのです。か弱く見える平和の道、平和の門を私たちは選ぶのです。

このように神様は私たちに戦争や、植民地や、暴力を与えるお方ではありません。神様は私たちに平和を与えるお方です。私たちはその平和を、その神様を求めたいのです。そうすれば、私たちに平和は必ず与えられます。今日私たちは自分の目、それぞれの目にある丸太に目を向けます。そしてそれに向き合い、それを取り除きたいと思います。自分たちの過去に向き合いたいのです。そして過去に向き合う者にこそ未来が待っているのです。私たちは平和を主に求めます。それがどんなに少数派であっても、それを求め続けます。神様は必ず平和をお与えになるお方です。私たちはそれを求めたいのです。

このあと主の晩餐を持ちます。これはパンとブドウジュースをいただく、共に食卓を囲むことを表す儀式です。共に食卓を囲むのもまた平和の象徴と言えるでしょう。イエス様は多くの人と食事し、宴会をしました。罪人との食事、敵対する者との食事、自分と違う者との食事、垣根を超えた食事をしました。それはそれぞれが自分の目の丸太に気づく食事でした。そしてそれは平和を生み出す食事となったのです。この後、私たちもこの食事を記念して主の晩餐にあずかりましょう。お祈りいたします。