「食事に招いてくださる神」マタイによる福音書9章9節~13節

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 マタイによる福音書9章10節

 

私たちは「地域と福音」というテーマで地域活動から福音を聞いています。教会の庭では毎月第二金曜日「炊き出し」を行っています。あつあつの豚汁とおにぎりをボランティアと参加者が一緒に、同じテーブルで食べます。食事の時間を共有することで、自然にお互いの事を語り合うようになります。一緒の食事を通じて、この場所で同じ命、同じ人間として対等で、尊重しあい、信頼しあえる関係が作られます。

今日のマタイ福音書を見ると、食事会の場所が示されておらず、イエス様が人々を自分の家に招いたと想像できます。イエス様はご自分の家の食事会に人々を招いたのです。自宅に招いたのは罪人と呼ばれた人でした。この罪人という言葉には、多くの差別が含まれています。宗教的や社会的に見て「ふさわしくない人」と判断された人はみな、罪人と呼ばれたのです。そして当時の社会では、特に食事の関わりに対して厳しく「ふさわしくないとされた人」がいれば食事会の参加をきっぱりと断りました。

そのような背景の中で読むとき、イエス様が罪人と呼ばれる人、差別された人を、自分の家に招き、一緒に食事会までしたというのは大変な驚きだったということがわかります。ヤバイ食事会です。でもその食事会、きっと本当に楽しかったのではないかと思います。ふだんなかなか食事会に誘ってもらえない人が招かれた食事会です。それは社会からのけ者にされ、希望を持てずにいた人たちが招かれた食事会でした。

招かれた人々はイエス様のことをどんな命も対等に扱う人だ。私のことを招いて、そのまま受け止める人だと感じたのではないでしょうか。まさにイエス様とはそのようなお方です。ふさわしくなくても招いてくださる神様ではありません。ふさわしくない者こそ招いているのがこの食事会です。招かれた場所は、大きな喜びが待っている場所です。仲間が待っている場所です。

私たちの教会もこうありたいのです。ふさわしい者の集まりではなく、ふさわしくない者が招かれたことを喜び合う場所、私たちはそんな教会でありたいと思うのです。それがイエス様の家、教会だと思うのです。

毎月第二金曜日に炊き出しが行われています。イエス様が招いたように、誰とも分け隔てせず一緒に食事をする場所となることを目指しています。そして日曜日の礼拝もそのような場所になることを願っています。