【全文】「命どぅ宝」マタイによる福音書5章21節~26節

その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。           マタイによる福音書5章22節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、うれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。一緒に声を聞きながら礼拝をできることを喜びます。集った全員で礼拝をしてゆきましょう。

5月のペンテコステから1か月「教会」というテーマで宣教をしてきました。今日から7月まで「平和」というテーマで宣教を続けてゆきたいと思います。またこの月ごとのテーマの計画は総会資料にも掲載されいていますので、ぜひそちらもご確認ください。

今月は平和をテーマに宣教をしてゆきますが、特に6月に平和を考えるのは沖縄の事について考える時を持ちたいからです。6月23日は「沖縄慰霊の日」です。沖縄の地上戦で20万人以上が犠牲となった、そのことを祈る日です。

バプテスト連盟、特に女性連合がこの沖縄の歴史、そして今に続く基地問題に向き合い続けています。この6月23日を「命どぅ宝(ぬちどぅたから)の日」として覚え続けています。「命どぅ宝」とは琉球の時代から沖縄に伝わる「命こそ宝だ」という意味の言葉です。

沖縄の地上戦では、多くの住民がガマと呼ばれる洞窟に隠れました。しかし多くのガマでは集団自決(集団自死の強制)が起こりました。それは日本軍が米兵に見つかったら捕虜にならず、自決するようにと教育をしてきたからでした。

しかしその中でも多くの人が生き延びたガマ・洞窟がありました。シムクガマというガマです。ここは1000人以上の人が隠れていた大きなガマでした。リーダーはハワイからの帰国者で、英語も話すことができた人物だったと聞きます。もちろん普段はこのことで非国民と呼ばれたでしょう。

シムクガマに隠れていた人々もやはり米兵に見つかってしまいました。米兵は「殺さないから出てこい」と言います。人々はどうするのか話しました。捕虜になることに反対する人々は集団自決を主張しました。しかしこのガマのリーダーは「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」「命こそ宝だ」と人々を説得し、生きる道を選びました。それによって多くの人が助かったのです。

あの時、何を宝とするかが人々の生死を分けました。国家・国体・天皇を宝とするか、一人一人の命を宝とするかの選択が、生死を分けました。命こそ宝です。「命どぅ宝」です。今の私たちには当たり前の選択でしょうか。命は何よりも大事です。

でも戦争が起きたらどうでしょうか。戦争は命よりも国家を優先します。国家のために死ぬように言われるのが戦争です。国のために命を懸けるのが軍隊です。戦争が起こると若者が、国のために死ぬことは素晴らしいと言って送りだされます。

私たちは戦争に反対します。命は神様からいただいた宝だからです。だから神様からいただいた命を奪いあう戦争に反対をします。そして私たちは戦争をしないだけではありません。戦争の準備や訓練にも反対をします。問題の解決を戦争や軍事力・抑止力によってしないからです。

この姿勢はバプテスト連盟と女性連合の基地問題への基本的な姿勢にもなっています。戦争はいらないから、軍隊がいらないのです。軍隊がいらないのなら、基地もいらないのです。普天間をどこに移転するかではなく、そもそも戦争・軍隊・基地がいらないというのが私たちの基本的姿勢です。私たちは人を殺しません。殺す準備も、殺す練習もしません。

もちろんすぐに基地が無くならないのもわかっています。しかしそうであってもこれ以上沖縄に負担をかけたくないのです。日本のどこか、あるいはまずアメリカに帰ってもらえないかと考えます。

もちろん戦争がなくなる、基地がなくなるだけでは、世界の問題は解決しないでしょう。戦争や軍事力に頼らない関係を造る努力が必要になるでしょう。

例えば、お互いの文化を理解することによって平和と和解を造ることが可能です。シムクガマのリーダーがハワイにいたことがあり米兵が日本の宣伝するような鬼畜ではないことを知っていました。そのような互いの理解を深めることよって、平和を作ることができるでしょう。命を宝とすることができるでしょう。

平和は宗教が大きな役割を果たす必要がある事柄です。どんなに社会が戦争に流れても、宗教こそ最後まで命を優先し、平和を訴えてゆくことができるからです。私たちは常に平和、命は神様からの宝、「命どぅ宝」と訴えてゆく必要があります。そして逆に宗教が戦争を支持したとき、暴力が神の名のもとに正当化される危険があります。

私たちは世界のあらゆる戦争を支持しません。軍隊・基地を支持しません。平和を語り続けたいのです。

私たちがそう考えるのは、イエス様が平和を繰り返し訴えたお方だからです。イエス様は暴力ではない方法で、平和を造り出すことを訴えたお方です。今日の聖書の箇所でもそうです。イエス様の語られた平和を共に見てゆきましょう。

 

 

今日の聖書箇所を見ましょう。21節には殺してはならないとあります。旧約聖書の十戒からの引用です。十戒にはどんな条件だったら人を殺してよいのかということは書いてありません。条件を付けず「殺してはならない」と書いてあります。

聖書はどんなに害悪を及ぼし、人を殺し、無意味、無価値に思える命も「殺してはならない」と言っています。なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。それは命は神様が造られたものだからです。神様が造られ「よい」と言われたものだから、命は神様が作った宝だから、それを壊してはいけないのです。人を殺してはいけないです。「命どぅ宝」なのです。

しかしイエス様が今日伝えようとしていることは、人を殺さなければよいということではありません。イエス様はもっと積極的に平和を造りだそうとするお方です。

22節には腹を立てる者は裁き、神の裁きを受けるとあります。しかし私たちに怒るなというのは無理な話です。そして怒りは大切な感情でもあるでしょう。時に泣くことが大事であるのと同じように、怒ることも大事なことです。怒らないことなど無理です。

しかし怒りが引き起こすことは理解しておく必要があるでしょう。怒りは私たちをいつもと違う異常な行動に駆り立てます。普段は決してしない行動を、怒りは引き起こします。それが直接の殺人や、暴力、暴言につながる感情であることを注意をしたいのです。イエス様の十字架も祭司や民衆の怒りが原動力でした。

怒りのエネルギーをどのように、平和を造る力に変えてゆくことができるかが大事なことでしょう。暴力で返すのではなく、どうやったら平和の力に変換してゆくことができるかをイエス様は語ろうとしています。

23節の登場人物は、平和を造り出す必要に気づいた人の話です。彼は神様への捧げものをしようとした時、自分と神様の関係を考えました。しかし、そのとき自分と神様とだけではなく、自分と隣人の関係を思い出したのです。神に愛されている私は、隣人を愛しているかと思い出したのです。そして、彼は捧げものをいったんそこに置いて、平和を造り出すために出て行きました。

彼は暴力ではなく、対話によって平和作り出そうとしました。神様に感謝したとき、そのことに、平和を造ろうと気づかされたのです。彼は殺さないだけではなく、平和を造ることを選んだのです。

私たちにも「和解しなければいけない人がいるので、また後改めて教会に来ます」。それができるなら、どんなにうれしいことしょうか。しかしそれは簡単なことではありません。相変わらず、平和を造れずに、礼拝を続ける私たちです。でもいま私たちは、今主の愛をいただいています。この礼拝が平和を造る者と変えられてゆきたいのです。

殺さないだけじゃない、主の愛を受けて平和を造り出すものとして、また私たちは派遣されてゆきたいのです。

25節を見ましょう。おそらくこれは、裁判所に訴訟の相手と連れだって行くという場面です。もし私たちが加害者であるならば、相手に対し早く謝罪と償いが必要な場面です。この二人が私と沖縄だったらどうでしょうか。私が沖縄に負担を押し付ける加害者であるとき、歴史と基地の事柄を誠実に謝罪と償いをしたいのです。1クァドランス、最後の1円まで、私たちはそこから決して逃げることはできません。

二人のうち、私たちが被害者のこともあるでしょうか。訴訟に行くまでの間、その時私たちは、暴力を使う必要はありません。私たちの行く先には、必ず裁判官である神様がいます。神様はその罪を決して、あいまいにしないお方です。加害者の謝罪と償いが終わるまで、主は決してその人を牢から出すことはありません。

私たちはこのように、暴力ではなく、平和を造りたいのです。対話と和解をいただきたいのです。その力を聖書から、神様からいただいているのです。

神様が作った命は宝です。命は宝、命どぅ宝です。私たちは誰も殺しません。そして殺さないだけではなく、平和を作り出すために歩みます。どんな怒りも暴力に変えません。その怒りを、平和を作り出すことへ向けてゆきます。対話と和解を求めます。神様は必ず最後まで私たちに、平和を造り出す力をこの礼拝から与えて下さるお方です。お祈りいたします。