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「がんばれ 子ロバ」ヨハネによる福音書12章12~15節

私たちの教会では「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。この活動は多くのボランティアさんに支えられています。先日から9歳(小3)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。こどもがボランティアに加わったことで良い影響があります。他のボランティアさんは自分の作業以外に気を配るようになりました。すごいねと、他者をほめながら作業する様になりました。利用者もこどもが料理を運んでいるのなら、しっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て自分で食器を下げるようになりました。これが本当の「平和」です。

神様はこのように、一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。今日の聖書の個所にもこどもが登場します。ロバのこどもです

当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力、軍事力の象徴です。馬に乗ることこそ、王様にふさわしい姿でした。しかしイエス様は子ロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。でもイエス様はロバを選び、ロバに乗ることを決めたのです。ここには神様の選びが示されています。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力のものを選ぶのです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方なのです。

神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバはもっと強く、馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。

民衆の視線はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしているロバ。人々にはきっと私にも何かできるはずだと思ったでしょう。人々に大きな変化があったはずです。

私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。

私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。「ホサナ、ホサナ」私たちにもそんな応援の声が聞こえるはずです。お祈りします。

 

「原発と命は共存できない」ヨハネによる福音書12章1~8節

マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。   ヨハネによる福音書12章3節

 

珠洲市には原発計画がありました。もし原発があったら深刻な原子力災害になっていたはずです。原発の恐ろしさを改めて感じています。珠洲市の原発の反対運動の中心的存在だったのは、地元のお坊さんでした。原発反対は宗教者の役割でした。

原発を建てるために電力会社は住民に猛烈な接待をします。「カネ」の力で賛成させるのです。そんな中、ある一人のお坊さんが「危険な原発と命は共存できない」と道路に座り込み、お念仏を唱えながら原発反対を訴えました。今このお坊さんは住民から、原発に反対して私たちを救ってくれたと大変感謝されているそうです。

「あまりに危険な原発と命は共存できない」それが多くの宗教者の共通した訴えです。今だけ、カネだけ、自分だけを考えるなら原発がよいのでしょう。しかし、宗教者は何よりも命の大切さを判断基準にします。だから危険な原発に反対をしてます。今日はカネより大切なものがあることを聖書からみていきたいと思います。

マリアはたくさんの香油をイエス様の頭に注ぎました。おそらく彼女は日々の稼ぎから少しずつ香油を貯めていました。仕事でつらいことがあっても、悲しいことがあっても耐え、少しずつ貯めました。それはまさに彼女の汗と涙の結晶、不屈の精神の塊でした。しかし彼女がこれだけ苦労して稼いだお金を、このように使わせるものは何だったのでしょうか?何が彼女をつき動かしたのでしょうか。

彼女を突き動かしたのはイエス様の行動と言葉です。イエス様は罪人とされた人、汚れているとされた人と連帯しました。イエス様は小さくされた命、隅に追いやられた命に目を向けました。マリアはこのイエス様の命への向かい合い方に深く共感をしました。自分のように隅に追いやられ、それでも一生懸命生き、働く、そのような人々に目を向けるイエス様に深く共感をしたのです。その命へのまなざしを持つ方に、私のあの香油をすべて注ぎたいと強く思ったのです。

私たちの世界では相変わらずカネや費用対効果が基準とされ、原発が作られようとしています。この物語はそのようなカネ中心の社会に、生き方に抵抗する物語です。イエス様の命へ向き合う姿勢に強く共感し、行動を起こした人の物語です。イエス様は私たちにもこのような命への向き合い方を求めておられるのでしょう。

私たちは何に価値を見出し、何を守るでしょうか。私たちにはカネや効率よりも大切なものがあります。何よりも大切なのは命です。イエス様は命の大切さ、平等さを教えています。私たちはその命へのまなざしを何よりも大事にしたいのです。世界には命と共存できないものがあります。特に戦争や差別、不正なカネ、原発は、命と共存することができません。私たちは主イエスの教えに従い、命を守る働きをしてゆきましょう。たとえ小さくても効率が悪くても、無駄のように思われても、命が守られる手立てを選んでゆきましょう。お祈りします。

 

「愛を生き抜いた十字架」ヨハネ6章60~71節

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

ヨハネによる福音書6章66節

 

最近の平塚バプテスト教会の礼拝出席人数は増加傾向にあります。私たちの活動や信仰が少しでも理解、共感、支持、応援されることはうれしいことです。ただし私たちの教会の目標は、人数を増やすことではありません。私たちがここに集うのは互いを愛し合うため、互いに仲良く生きていくためにここに集っています。その結果として人が増えるだけです。人数を目標とし始めると、愛し合うことよりも、人数を集めることが先だってしまいます。今日は聖書から、共同体に多くの人が集まった時のこと、そこで愛を貫いたイエス様の姿を見てゆきたいと思います。

今日の個所は奇跡のパン・主の晩餐を受けて、弟子たちが増えて拡がった後の話です。イエス様自身が、弟子の拡大に派手に失敗をしている様子が書かれています。弟子たちの拡大の先には、大きな分裂がありました。イエス様でも人数が増えるとうまくいかないことがあったのです。

イエス様はそれを悲しんだでしょう。しかしイエス様は去っていく人たちを追いかけませんでした。引き留めるための新しい説得も、自分の方針をもっと人々に受け入れられやすいものとする変更もしませんでした。イエス様はただ淡々と町を巡ります。そしてこれまでどおり、互いに愛し合うこと、大切にしあう事、仲良くすることをまた言葉と行動で教えました。イエス様にとって誰かが自分を離れようと、誰かが自分を無視しようと、誰かが自分を殺そうとも、関係ありませんでした。ただ自分が神様に従うかどうか、自分が愛するかどうかだけが重要なことだったのです。イエス様はその後も活動を続け、人々の反発を招き、殺されてしまいます。殺されないためには方針転換が必要でした。しかしイエス様は方針転換をしないのです。ただ神様に従うということ、他者を愛することを貫きました。

私たちの生活に目を向けます。私たちは神様・イエス様ではありません。ですから他人の意見をよく聞くことは大事です。しかし一方で私たちは他者の態度に振り回されてしまうことばかりです。他者の態度や行動に傷ついたり、落ち込んだりすることばかりです。きっとイエス様もそうだったのでしょう。私たちは他者との関係において一喜一憂することがあります。私たちにはうまく関係が作れた時、うまく関係が作れなかった時があります。でもその時も私たちはイエス様のように愛し続けましょう。イエス様のように相手を大切にし続けましょう。

私たちの日常には離別、裏切り、関係の破綻があります。でもその中で、私は神様の愛をどう生きてゆくかが問われます。そこで問われているのは相手の愛ではなく私の愛です。私がどう生きるか、私が神様の愛をどう生きるかが問われています。私たちの1週間もこのことを覚えて生きましょう。この後主の晩餐を持ち、パンを食べます。私たちは食べた後、どう生きるかが問われます。これは神の愛を受けて生きる象徴です。このパンを食べ、どんな時も他者を愛しましょう。祈ります。

 

「聖書の女性指導者」出エジプト記15章19~21節

ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。     出エジプト記15章21節

 

ジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えます。戦後、日本バプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。しかし日本のバプテストは2000年にアメリカ南部バプテストが「女性は牧師になってはいけない」と明言したことから距離を置くようになりました。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。一方、日本のバプテスト連盟でも大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象が起きています。根底にある私たちの考えが問われています。

私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見と差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。

今日の聖書箇所のミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。ユダヤの人々は奴隷とされたエジプトを脱出しました。しかし目の前には海があり、後ろにはエジプトの追手がいます。そんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。

この様子は15章で2つの歌として記録されています。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続きます。それは危機から脱した時の喜びの祈りです。神様のすばらしさを表現するために踊りました。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。ミリアムはそれを導く女性指導者でした。

ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。

私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。

 

「こどもの命をつないだ人たち」出エジプト1章15節~2章10節

助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。

出エジプト記1章17節

 

教会には女性会というグループがあります。性の多様さから考えると性別でグループを作ることには課題があります。一方で女性だけが集まるのことに様々な良い面があります。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあります。また男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは意義のあることです。そのようなグループは社会や教会で中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆく視点があります。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切です。今日と来週は聖書の中の女性を見たいと思います。

ファラオはヘブライ人の人口を増やさないために、二人の助産師(シフラとプア)を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。しかし人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いはずです。ファラオが女性を殺さないのは、女の奴隷は高く売れたからです。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いからです。だからファラオは生まれた男だけ殺せと命令をしました。

助産師の女性たちは神様を畏れていました。さらに二人は実体験から命は神様から授かったものであると知り、男性であるファラオの命令に従いませんでした。彼女たちは社会の中心から追われる命に対して、特別なまなざしを持ち、その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信したのです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは小さな命を守るための非暴力の戦いです。

2章1節からはもう一つの物語です。ある女性が男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまうので、赤ん坊をカゴに入れて川に流しました。そしてその命を受け取ったのも女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育て、やがて彼は解放のリーダーに成長します。このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。

女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。男たちが支配する世界で彼女たちは考えました。どのようにしたら平和に生きることができるだろうか?どうしたらこどもたちを守ることができるだろうか?と考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。

私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。男も女もどの性も、その小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。私たちの教会でも同じです。性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。お祈りします。

 

「ちゃんと休みなさい」出エジプト記16章1~31節

よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。   出エジプト記16章29節

 

明日から休息に感謝します。社会では休息をとることについて大きく意識が変わってきています。残業時間の上限が設定され、仕事と生活のバランスが重視されるようになりました。社会はがむしゃらな労働と、それによる成長・安価な商品を求めるのをやめたのです。社会は充実した安息の重要性を理解したとも言えるでしょう。このお休みを神様が準備して下さった安息だと受け止め、感謝し、また次の働きに向けて備えたいと思っています。

今日はマナの個所です。人々は過酷な労働からの自由と安息のために、エジプトを脱出しました。しかし食料の確保が困難でした。彼らは目の前の困難を、過去を理想化することで乗り越えようとしました。そこに神様の言葉が響きます。

神様はすべての人にパンを降らすと提案しました。あなたたちはそれを食べ、命をつなぐようにと提案をしたのです。そしてそれは毎日ちょっとずつ集めればよいという提案でした。大きな倉は必要ないのです。無理にたくさん集める必要はないのです。反対にこのマナを無理に集めることこそ、過重労働、働きすぎです。とにかくたくさん集める、たくさんあればあるほど幸せになれるから、1gでも多く集めるためにがむしゃらに休まずに働く、そのような労働は必要ないのです。

また自分が食べきれない分までマナを集める人がいました。それは富の独占と蓄積を連想させます。その富には虫が湧き、腐り、悪臭がします。神様は過度な富の蓄積を嫌ったお方でした。神様は、人間が働きすぎることなく、蓄えすぎることなく生きることを求めているのです。

そして神様は安息の日も用意してくださるお方です。日々日々働きすぎるだけではなく、1日まるごと休む日も与えて下さったのです。神様はこのように働きすぎを禁止しました。今日は何をしてもうまくいかない日、だから休みなさいと言って安息の日を定めたのです。20節は「ちゃんと休みなさい!」という意味です。30節「民はこうして、七日目に休んだ」とあります。

神様は何と恵み深い方でしょうか。不満に、怒りで返すのではなく、マナという食べ物で応えてくださるお方です。そして神様はなんとおせっかいなお方でしょうか。私たちに「ちゃんと休みなさい」と厳しく教えてくださるお方です。働いても何も成果のない安息日を与えてくれるお方です。神様はそのように私たちを大切に思い、生きる糧を与え、強制的な安息を与えてくださるお方です。

みなさんの忙しい1週間の中でふさわしい休息が与えられる様にお祈りしています。私達にはすべきことがたくさんありますが、焦らずに、安息をしながら歩みましょう。これから主の晩餐の時を持ちます。このマナをいただき、神様が与えてくれる恵み、神様が与えて下さる安息を覚えましょう。お祈りします。

 

「性的少数者 歓迎教会」使徒8章26~40節

道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」使徒言行録8章36節

 

今月は聖書と性・セクシャリティーについて考えています。今日は宦官について考えます。宦官とは、睾丸や陰茎を切除した男性です。旧約聖書は宦官は「主の会衆に加わることはできない」つまりユダヤ教に入信することができないとしています(申命記23章2節)。どんなに信仰があってもユダヤ人になれず、神殿に入ることは許されなかったのです。旧約聖書を見ると宦官が好意的に描かれている場面が多くあるものの、やはり軽蔑すべき存在だったのです。

今日の聖書箇所は、エチオピアからエルサレムに来た宦官の物語です。宦官は聖書に興味があり、聖書の神を求めました。しかし彼は排除されるべき存在でした。体の一部が無い、完全な男ではないから、神殿には入ることができないと排除されたのです。その時、彼の信仰や内面は一切関係ありませんでした。彼の外形的な性が判断基準とされ、神殿から排除されたのです。彼の信仰は打ち砕かれたでしょう。失意の帰り道、神様はフィリポを遣わしました。神様は排除された性的少数者との出会いを導いたのです。そして宦官はバプテスマへと導かれてゆきます。

宦官は「バプテスマに何か妨げがあるますか」と確認します。これまで彼は性的少数者として、社会から、神殿から徹底的に排除されてきました。それはこんな私でも洗礼を受けることができるのですか?クリスチャンになることができるのですか?キリスト教では、私もその仲間に加わることが出来るのですか?という問いです。フィリポは速やかにバプテスマを実行し、それに応えています。フィリポは性的少数者を排除しなかったのです。宦官は喜びあふれたとあります。キリスト者が差別せずに受け止めてくれたという喜びです。宦官は何の妨げも無くキリスト者として受け入れられることを通じて、神様を知りました。神様はこの私を受け入れ、守ってくださるのだと知ったのです。

現代の教会、社会とも重ねて考えてみましょう。多くの性的少数者が、その性を否定されています。性的少数者の人々は、それは罪だと言われ、教会から排除され、追われるように逃げ、失意の中で帰り道を歩いていました。しかし今日の個所によれば、性の在り方は入信・バプテスマの条件に一切なっていません。教会はそのようにすべての性を受け止めてゆくことができるのです。すべての性を罪としないことができるのです。それが今日この物語が伝えている福音です。

この宦官は異邦人の中で最初に洗礼・バプテスマを受けた人となりました。性的少数者である彼から、世界中にキリスト教会が広まっていったのです。私は性的少数者の方がそのままの性を生きることを、神様は何も妨げないと思います。神様はそのような人を用いて福音を拡げるのだと思います。私はこの教会が性的少数者の方が来ることに何の妨げもない教会になるように願っています。そのようにしてすべての人を歓迎する教会になりたいと思っています。お祈りします。

 

「聖書と性の尊厳」Ⅰコリント6章9~10節

みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。

 Iコリント6章9~10節

 

今月は性と聖書に考えています。最近テレビでは芸能界の性暴力について報道がされています。性暴力は魂の殺人と呼ばれます。教会はこれらの問題を魂の問題として関わるべきでしょう。教会が性の問題に沈黙するのは良くないと思います。

性の問題について、キリスト教には様々な立場があります。特に同性愛については意見が大きく割れています。私の理解では聖書全体に同性愛という言葉は一切登場しません。同性愛という言葉は19世紀に生まれた言葉だからです。しかし偏見を持って聖書が読まれた結果、同性愛への差別が生まれました。

今日の聖書の個所には男色するという言葉があります。やはり聖書は同性愛を禁止しているように思えます。もっと深く考えましょう。男色するという言葉は元のギリシャ語で「アルセノコイタイ」という言葉です。この言葉は語源から考えると、男が男に対して横たわるという意味で、同性間の性行為を指す言葉と推測されます。しかし文脈からその意味を推測すると経済的搾取の意味があります。おそらくこの「アルセノコイタイ」は同性間の性行為と経済的不正を掛け合わせた言葉で、お金や地位にものを言わせて、相手の性の尊厳を奪うことを意味していると思われます。

社会背景からも考えます。2000年前のローマでは年長の男性によって身分の低い少年や、奴隷の少年に対して性搾取が行われていました。少年たちには愛も自由な選択もありません。地位のある者が、少年の性を搾取していたのです。それは愛、同性愛とは全く違います。

しかし19世紀に同性愛という言葉が生まれました。本来、性的搾取を意味した「アルセノコイタイ」は、同性愛のことだと誤解されました。そして同性愛が悪、罪とされるようになり、同性愛者は神の国を受け継ぐことができないと解釈されるようになりました。しかし本来、この個所は同性が愛し合うことを禁止しているのではなく、性の尊厳を奪うことを禁止しているはずです。

私たちの社会を見渡します。世界では魂が殺される、魂が踏みにじられる事件が繰り返されています。私は聖書が性暴力・性搾取をはっきりと否定しているものとして、それに反対してゆきたいと思います。そしてそれと混同されるかのように、同性愛に対する偏見もまだ続いています。特にそれはキリスト教の中で続いています。偏見をもって、同性愛と性搾取が混同されることにも反対をしたいと思っています。

10節、神の国を受け継ぐ者とはどんな人かを想像します。それは互いの性を奪い、否定するのではなく、互い性の在り方を尊重できる人ではないでしょうか。そのような人が神の国を受け継いでゆくのではないでしょうか?教会は魂の問題として性に目を向けてゆく必要があるのではないでしょか?互いの性を尊重できる教会になりたいと思います。祈ります。

 

「同性愛は罪ではない」創世記19章1~15節

あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。創世記19章12節

 

今月はセクシャルマイノリティー(性的少数者)をテーマに宣教をします。セクシャルマイノリティー(性的少数者)とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーなど、性の在り方が少数派である人のことを指す言葉です。3年前にも同じテーマで宣教をしました。YouTubeには批判のコメントが多くありました。きっと当事者の方たちはずっとこのような批判の中で、生きてきたのだということを思い知りました。このテーマは触れない方が無難です。でもそのように見過ごされている人がいるからこそ、そこに目を注ぎたいと思っています。またあくまでこれは私の聖書の理解です。この教会やバプテスト連盟の統一見解ではありません。

今日は創世記19章1~11節です。神様の遣いが二人、ソドムという町に来ました。ロトという人は旅人をもてなそうとします。しかしソドムの町の男たちが戸口に現れ、男性である旅人に性的暴力を加えようとします。ロトは自分の娘を差し出すという最悪の方法で対処します。二人の神の遣いはロトたちに逃げるように言いました。実はこの神の遣いこの罪深いソドムの町を滅ぼすために来ていたのです。

キリスト教ではこの物語を伝統的に、同性愛を断罪する話として解釈してきました。同性間の性交を英語で「ソドミー」「ソドミズム」と呼ぶことがあります。ソドムの罪とはまさしく同性愛の罪で、同性愛の罪によって、神はソドムを町ごと滅ぼすのだ。それほどに同性愛は罪深いことで、死に値する罪である。聖書の罪の中でもっとも重い罪であると解釈されてきました。そして多く性的少数者はもはや教会に居ることができず、追われるように教会から去って行かなければなりませんでした。

しかしもう一度この聖書の個所を読んでみて、この個所は同性愛とどのような関係があるのかよくわかりません。ここで起きている出来事は、同性愛とは全く違う、明らかな性暴力です。同性愛と性暴力はまったく違います。ここで問題になっているのは性暴力です。長くソドムは同性愛の罪で滅ぼされたと解釈をされてきましたが、この個所から同性愛は罪だと解釈するのは不可能です。むしろ解釈されるべきことは社会にあふれる性暴力、セクハラ、性的搾取をどれだけ神が憤りをもって見ているかということです。

このように同性愛は罪だ。そう解釈されてきた箇所でも、もう一度読み直してみると、決してそのような意味で語られていないことが分かります。聖書が本当にやめるべきと指し示しているのは、同性愛ではなく、性の尊厳を奪う事、性暴力です。聖書はここでも弱い立場の人に目を注ぎなさいと語っているのです。この個所からは特に少数派の人たちの性を守りなさいと聞こえてきます。

私たちが本当に目を注ぐことは、性の尊厳が守られているかどうかです。私たちの社会が互いの性の尊厳を守ることができるように祈ります。そして何より教会が今までのことを悔い改め、互いの性を尊重できる場所となることを祈ります。

 

「主のご来光」マタイ4章12~17節

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。

マタイによる福音書4章16節

 

あけましておめでとうございます。今年最初の日曜日を礼拝から始めることができたこと感謝です。平塚で初日の出を見るなら、湘南平がお勧めだそうです。地平線の向こうから昇るご来光は、きっとスピリチュアルな体験です。日の出を見ることは、キリスト教の信仰と重なる部分もあります。今日の聖書の個所にはイエス様の登場が日の出のように、ご来光のように、私たちを照らすと書かれています。

16節の「光が射す」という言葉は「光が昇る」という日の出を表す言葉です。この個所は日が昇る時に、暗闇が光に照らされていく様子を、イエス様の登場に重ねています。イエス様は日の出やご来光にように、暗闇を照らし出す方なのです。

暗闇と死の陰に住む人々とは、光の当たらない人のことです。普段みんなから見過ごされてしまう、隅に追いやられている人のことです。イエス様の登場は見過ごされていた人が見つけられることです。その光は社会の隅々に届き、取り残される人はいなくなります。イエス様はそのような世界の訪れを私たちに告げています。

光が当たらない場所、暗闇は私たち個人の中にもあるものです。私たちには暗い一面があります。しかしイエス様は私たち個人にとっても太陽、日の出のようなお方です。イエス様の光は私の暗い部分に日の出のように射しこんできます。今年もきっと私たちには神様の光がこの日の出のように注がれるでしょう。

もう一つ注意を引くのは13節にある「住まわれた」という言葉です。この「住む」も本来は「座る」という意味です。特に権威ある人が座る時によく使われる言葉です。ここは権威のある人として、隅々にまで目を行き渡らせたというイメージがあります。これも私たちの世界や個人の心としてもとらえることができるでしょう。イエス様は世界の、私たちの心の真ん中に座してくださるお方です。

もう一か所、私が気になったのは17節です。「近づいた」も厳密に見ると、現在完了形で「し終わった」という意味です。それはもうすでに来ているという意味です。つまり天の国、神様の光はすでに世界を、私たちを、照らしているということです。

今日の個所では、私たちには3つの希望が示されています。ひとつ目は神様の光が私たちの世界と心を照らすという希望です。二つ目は、神様は私たちの世界と私たちの心の真ん中に来て下さるという希望です。そして三つめは、すでにそれは来ている、もう始まっているという希望です。

今年も1年、イエス様の光が世界と私たちを照らし出してくださるはずです。そして今年も1年、イエス様が世界の真ん中に、私の真ん中に座ってくださるはずです。そして今年、すでに、イエス様の光は私たちを照らしています。今年1年の主の導きを信じます。だから私たちは今年1年も安心して生きてゆきましょう。お祈りします。

 

「生きづらさの中の神」マタイ2章1~12節

『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」                  マタイによる福音書2章6節

 

2000年前のイエス様の時代は今の私たちの価値観と大きく違います。特に人間関係のウチとソトの概念と、恥と名誉という概念に違いがあります。古代のユダヤ社会では人々は内輪とは親しくし、助け合い、その結束は固かったのです。反対に、外側の人とされた人には驚くほど冷たい社会でした。特に外国人はよそもの中のよそ者だったでしょう。もうひとつ古代ユダヤでは名誉が大事にされました。そんな価値観の中でイエス様は生まれました。

マタイ福音書1章によればマリアの妊娠は結婚前に起りました。それは当時恥とされることでした。マリアの恥、父の恥、家の恥でした。そのような恥は家から取り除かなければなりませんでした。ルカ福音書によると、ヨセフとマリアは旅先で宿屋が見つからなかったとあります。おそらく旅先の人間関係が内輪ではなくソトの関係だったからでしょう。ソトの人間にはそのくらいの対応で十分だったのです。イエス様はそのようにソト、外側に追いやれて生まれたのです。イエス様の誕生を見に来た学者たちも、古代のユダヤの基準からするととんでもなくソトの人です。そのまったくソトの人が、同じくソトにされたイエス様を訪ねています。

イエスの誕生を見ると恥から始まり、そしてソトに追いやられます。そしてさらにもっとソトの人が、イエス様を訪ねて来ます。それがクリスマスの物語です。イエス様の誕生物語はこのように、ソトと恥の物語です。

今日のことからどのように神様のことを考えるでしょうか。神様は私たちにどのように関わる方だと考えることができるでしょうか?今日感じるのは、神は私たちの内側の誇らしい場所に居るのではないということです。神様は恥、不名誉とされる中に、私たちがソトだとする人の中にいるということです。それが私たちの神様です。神様は当時の価値観の中で隅に追いやられた者として生まれました。生きづらい者として生まれました。

今の私たちの世界の、時代の、どのような価値観が、誰を隅に追いやっているのでしょうか。イエス様の誕生はそれに目を向けるようにと、私たちに訴えているのではないでしょうか。特に日本ではこどもや若者や外国にルーツを持つ人が生きづらいと感じていると聞きます。そこに神様は来てくださるでしょうか。そこにこそ、生きづらいと感じる人にこそ神様はきっと来て下さるのではないでしょう。そのような中にこそイエス様が生まれたのが、クリスマスなのではないでしょうか?

私は次の1年をこの時代に生きづらさを抱える人とその場所に、目を向けて向けてゆく、そのような1年にしてゆきたいと思いました。そして生きづらいと感じている人に、そこにこそ神様が共にいることが伝わる、そのような1年になることを願っています。お祈りします。

 

「時をかける神」ヨハネ福音書1章1節~18節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。ヨハネ1:1

 

今日もクリスマス礼拝をみなさんと共にできること、主に感謝します。もしタイムマシンがあったらどうしますか?タイムマシンを使う時、過去や未来を変えてはいけません。タイムマシンのある世界では歴史を変えるのは時間犯罪です。

クリスマス、神様の働きについて考えます。クリスマスは神様という人間とは全く違う方が、人間の歴史に介入しようとしている出来事です。神様にとって人間はもともと自分とは全く違う、別存在だったはずです。神様は人に関わらないことができたのです。しかし神様はご自分で人間の世界に、歴史に、直接介入することを決めました。神様は人間の未来を変えることを決めたのです。それがクリスマスです。

イエス様はそのように地上に生まれました。そして地上での人生は大勢の人の生き方を変えました。神様が歴史を変え、未来を変えたのです。今日の個所から、私たちの歴史、未来を変える神様について考えたいと思います。聖書を読みましょう。

イエス様の誕生について、マタイ福音書は唐突な系図から始まります。系図を重視するユダヤ人らしいとらえ方です。一方ヨハネ福音書はもっと時空を超えて理解します。世界・宇宙の始まり以前から、神様、イエス様がいたのだと言っています。まさに時をかける神です。

ルカ福音書は地上のイエス様を「時の中心」として順序だてて書いています。一方ヨハネ福音書の時間軸はまるでタイムトラベルのように複雑です。イエス様の誕生以前からイエス様は世界と関わりを持ち、複雑に私たちの歴史、時間に関わっていると書いています。これは「先在のイエス」と言われます。ヨハネ福音書の時間概念は複雑です。ヨハネ福音書にとってイエス様とは一体いつの時代の人なのか、よくわからなくなります。まるでタイムトラベラーのように、自由に時間を超えて存在し、時間軸を自由に行き来している様です。

14節のことばは肉となって私たちの間に宿られたとは神様が私たちの時代の、生活の中に入ってきたという意味です。私達に介入しなくてもよい神が、私たちの歴史に入り込んできたということです。そして人間の時間軸に複雑に入りこんでくるということです。

私たちは2023回目のイエス様の誕生を祝うという他にも、もっと時間を超える、時をかけるような喜び方ができるのではないでしょうか。私たちは時をこえて神様とつながることができるのです。私たちは2000年前の出来事を祝っています。でも私たちはそれを、もっと昔からのこととして、そしてもっと今のこととして、もっと未来のこととしても祝ってよいはずです。

神様が私たちの歴史を変えてきました。そしてそれと同じようにこれからの私たち一人一人の未来に、イエス様が関わってくれることを祝ってよいはずです。神様は時を超えます。私たちは、ずっと前から、そして今にわたるまで、そして未来も、私たちに直接関わってくださるイエス様の誕生を喜びましょう。お祈りします。

 

「入りやすい教会」ヨハネによる福音書1章19~27節

ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」       ヨハネによる福音書1章23節

 

普段教会は敷居が高いと言われます。これから教会に入ろうとする人は、急な階段を上るような敷居の高さを感じています。教会にスムーズに入るにはスロープの様なものが必要です。私たちの教会に置き換えると、このスロープはこひつじひろば、こひつじ食堂、こひつじまつり、こどもクリスマスなどでしょう。私たちはスロープを拡げてゆき、いつかたくさんの人と礼拝したいと思っています。愛と平和の神に続くまっすぐで、ゆるやかな道を作ってゆきたいと思っています。

ユダヤ教には当時、いろいろな信仰のグループがありましが、どれもそのグループに入るのは高いハードルがありました。それらと比較すると、新しい生き方を始めるバプテスマ・洗礼という入会方式はハードルが低いものだったはずです。それは血縁や身分、性別、経済力を問わない、誰でも入ることができる、平和的なグループだったのです。どんな人でもバプテスマによって新しい生き方を始めることができる、誰でもそれは受けることができる。それに共感する人々はどんどん増えて、多くの人がバプテスマを受けてゆきました。

ヨハネの「主の道をまっすぐにせよ」とはどんな意味でしょうか?それはつまり、神様のために平らな道を作りなさいということです。彼の目的は神様に通じる道をまっすぐ平らにし、みんなが通りやすい様にすることだったのです。みんなが神様にたどり着くことができるように、神の愛と平和にたどり着くことができるように、そのための道を平らに整える、それが彼の目的です。

これはイラストのイメージと重なります。私たちは今、バプテスマのヨハネと同じ使命をいただいているのかもしれません「主の道をまっすぐにせよ」「平らにせよ」。私たちはその声に促されて、道を造っているのではないでしょうか。

もうすぐクリスマスです。光を求めて多くの人が教会を訪ねて来るでしょう。私たちは平らでまっすぐな道を造りましょう。キリストの愛と平和にまっすぐに、緩やかに向かうことができるように、まっすぐで平らな道を造りましょう。みんなが入りやすい道を造りましょう。私たちにはヨハネと同じ役割が与えられています。お祈りします。

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「お互いをほめ合う教会」ヨハネ福音書5章41~45節

わたしは、人からの誉れは受けない。 ヨハネ5章41節

 

教会で互いをほめ合っている様子をよく見かけます。ほめることは関係を良くするだけではなく、その言葉を受けた人を積極的にします。それぞれの1週間は怒ってばかりだったかもしれません。でも日曜日に互いをほめ合うように、次の1週間はもっと他者を認め、ほめたいものです。ローマ12章10節に「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあるとおりです。

特に教会が大切にしていることは神様をほめるということです。神様をほめるとは、神様のすばらしさが言葉や歌などで表現されることです。教会では神様のすばらしさが語られ、賛美の歌が歌われています。そしてほめているのは、私たち人間だけではありません。神様も私たちほめて下さるお方です。今日はほめることをテーマに聖書を読みたいと思います。

41節でイエス様は「私は人からの誉れは受けとらない」とあります。どんな意味でしょうか。この言葉から私は十字架を連想しました。十字架の死は屈辱の死でした。ほめられることとは正反対、罵られて死にました。イエス様はこのようにほまれを受け取らなかったのです。アドベントに読んで、イエス様の誕生も連想しました。どこにも泊まる場所のない母マリアは、馬小屋で出産をしなければなりませんでした。社会の隅に追いやられて出産したのです。私は誰かを十字架に架けるのではなく、互いを認め合い、ほめ合いたいと思いました。そして誰かを、母や子を隅に追いやるのではなく、受け止めたいと思いました。私はこのようなイエス様の十字架や誕生の、不名誉や抑圧を二度と私たちの社会や生活で繰り返したくありません。この個所は互いを拒絶するばかりではなく、もっと認め合い、ほめ合おうと伝えているのではないでしょうか。

44節を見ましょう。「あなたたちは唯一の神から誉れを受けようとしない」とあります。ほめるのは私たちの側だけからではありません。神様も私たちをほめるのです。私たちはすでに唯一の神からほめられているのです。私たちは、あなたは頑張っている、すばらしいとほめられています。神様はちゃんと私たちを見ているのです。そしてそのほめ言葉をあなたに受け取って欲しいと思っているのです。私たちは神様がわたしたちをほめている、その言葉を受け止めましょう。

神様からほめられ、それを受け入れるなら、私たちはもっと積極的になることができるはずです。これをやろう、もっとやろうという気持ちがわいてくるはずです。そして私も他の人のよいところをもっとほめようと思う様になるはずです。私たちは、神様にほめられています。だから自信をもって歩みましょう。そして私たちが互いをほめ合う様に、神様のこともほめたたえましょう。

今日、神様をほめる、祈りと賛美を神様にささげてゆきましょう。そして私たちは互いにほめ合いましょう。神様が私たちをほめてくださっています。私たちも神様をほめ、互いにほめ合いましょう。お祈りします。

 

「そばにいる神」ヨハネ7章25~31節

わたしはその方のもとから来た者であり、

その方がわたしをお遣わしになったのである。   ヨハネ7章29節

 

ふじみ教会で「最近、平塚教会を身近に感じる」と言ってくださる方がいました。うれしかったです。みなさんには最近になって身近に感じると思ったことはあるでしょうか?ふじみ教会、根塚さん、神学生、横須賀長沢教会も身近に感じるようになったことです。遠くにあると感じていたものを、身近なものとして感じるようになるという体験は神様と私たちの関係にもよく似ていると思います。神様から遠いと思う場所にも、神様は必ずいてくださいます。神様は私たちみんなの身近に、私たちみんなのそばにいてくださるお方です。そばにいるよという言葉は、愛していると同じ意味です。神様は私たちを離れず、そばに、身近にいてくださいます。

今日の聖書の個所を読みましょう。エルサレムの人々は私達よりも何百倍もイエス様のことをよく知っていました。そして、こんな身近に救い主がいるはずないと思いました。救い主はもっと劇的に登場するはずだと思ったのです。その感覚は私もわかるような気がします。しかし、イエス様はそれに対して28節大声で話をします。「みんな私のことは知っていると思いますが、みなさんは神様のことはまだまだ知らないはずです」群衆はこの言葉に怒りました。お前は私たちが思うような神ではない、お前には救い主らしさが無い。神から来たものとは、もっと神秘的で、特別なはずだ。神はこんな身近ではないと思ったのです。

しかし、救い主はそうではなく、身近な存在でした。イエス様が知っていて、エルサレムの人が知らなかったこと、それは神は身近な存在だということです。神様は近くにいる。そばにいる。身近にいる。みんなのそばにもう来ている。それがイエス様が伝えようとしたことです。イエス様が伝えた希望、それはこんなところに神はいないと思う場所にこそ神がいるという希望、神がそばにいるという希望でした。

クリスマスはまさしくそのような出来事です。クリスマスはこんな場所に生まれるはずがないと思う、貧しい、汚い場所で起きた出来事です。私たちはどこに神様がいるのか探すでしょう。光り輝く場所に神がいると感じるでしょう。でもそこだけではありません。暗い場所、悲しいことが起きている場所、私たちのよく知っている場所に神様はいて下さるのです。神様はそのようにしてみんなのそばにいるのです。

神がそばにいてくれる、そのことを心強く思います。そして私自身も誰かのそばにいて、人を愛し大切にする存在でありたいと思います。この教会自身も地域にそんな存在であって欲しいと思います。地域のそばにいる教会、地域を愛し大切にする教会でありたいと思います。そのようにして今週も互いに愛し合い歩みましょう。

これから私たちはパンを食べます。神を一番身近に感じる方法はパンを食べるという方法です。私たちが食べるパンは、神様の体を象徴しています。それが私たちの体を巡ります。これほど身近な神体験はないでしょう。この後の主の晩餐で、私たちはこのパンを食べて、神様を身近に感じましょう。お祈りをします。

 

「共に生きる」ルカ10章25~37節

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエス様は言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」        

ルカによる福音書10章36~37節

 

律法の専門家が、イエス様を試そうとして質問をしました。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」これに対してイエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか?」と質問しました。そうすると彼はこう答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と。イエス様は、こう言われました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」すると、律法の専門家は「では、わたしの隣人とは誰ですか」と切り返しました。

イエス様はそれに答えないで、話をしました。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。そこに、ある祭司が、たまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。次に、レビ人がその場所にやって来ましたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱してあげました。そして次の日になったら、彼は出発しないとならないので、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して、「この人の面倒を見てあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と。

サマリア人はユダヤの国の人に忌み嫌われていました。しかし、半殺しになっていた人を可哀そうに思って宿屋に連れて行って介抱をし、宿屋の主人にお金を渡してまでしてこの人を介抱してあげて欲しい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。と言って出かけた。イエス様は、律法の専門家に言いました。あなたは、この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。そうすると律法の専門家は、言いました。「その人を助けた人です。」そこでイエス様は、言いました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。

私たちも、通り過ぎてしまうかもしれません。しかし、大切なのは、通り過ぎたとしても、思いなおして戻ってきて、傷ついた人の隣人になることであるとイエス様は言っているように思います。わたしたちが、隣人の隣人になろうとする時、真に皆が幸せで平和な社会が実現するのではないでしょうか。(根塚幸雄)

 

「みんな神の子」ローマ8章14~17節

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。ローマ8章14節

 

今日のバプテスマ式はたくさんの人の喜びです。私もジェイソンさんの信仰生活のために、これからも祈ってゆきたいと思います。

今日はローマの信徒への手紙8章14節~17節までを読みました。14節には「神の霊によって導かれる者」という言葉があります。私たちはなんでも個人で決断する時代に生きています。そのような時代にあって、聖書は「神様があなたを導く」と言っています。素晴らしい信仰告白は個人の信仰の決断であると同時に、神の霊の導きの結果でもあります。私たちは神の霊に導かれる者です。

14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とあります。神様はすべての人を導きます。だからみんな神の子です。

私たちは15節、奴隷ではありません。私たちは神様が怖くて従うのではありません。私たちは神の愛を受けて、従う存在になります。私たちは愛されている実感を持って生きることができる、神の子です。さらに15節の「子とする」という言葉は養子縁組をするという意味の言葉です。神様は自分のこどもと何一つ変わらずに私たちを愛してくださっているのです

17節、たとえ神の子であっても、苦しみの時があります。あの神の子イエス・キリストも十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と叫びました。神の子にも苦しい時があるのです。しかし神は決して、子を見捨てません。神は苦しみの時も、叫ぶ時も、私たちと共におられます。イエス・キリストに復活があったように、私たちの苦しみの後にも、必ず希望が準備されています。神様と私たちは親子です。だからどんな苦しみも神と私を切り離すことができないのです。

神の子という言葉を聞くと、もともとそれはイエス・キリストの称号だったはずです。イエス・キリストこそ神の子です。そして私もあなたも、イエス・キリストもみんな神の子です。神様は私たちに、神の子として地上にこられ、イエス・キリストととして歩まれたあの方と同じ役割を与えて下さっています。私たちはイエス・キリストのように、神の子として、隣人を愛するように求められています。

17節には、私たちが神の相続人だともあります。神様の看板を引き継ぐことになったと言ったらわかりやすいでしょうか。神様の相続人になるとは、愛するということを引き継ぐものとなったという意味です。私たちは神から受けた愛を、また次の人へと途絶えることが無い様に、次の世代へ受け渡してゆきます。愛を受け、渡してゆくこと、それが神の子の役割、相続人の役割です。

16節には、私たちは確かに神の子であることを、神様とお互いが証明しているとあります。それはつまり私たちはお互いを神の子として愛し合おうということです。私たちはお互いをイエス・キリストと同じ、神の子として大切にしましょう。

今日、新しく従う命が与えられました。私たちは神の子です。私たちは愛する1週間を、愛する人生を歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

「死に勝る、神の愛」ローマ8章35~39節

わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。       ローマの信徒への手紙8章39節

 

今日は召天者記念礼拝です。天に召された方たちを覚えて礼拝を献げます。仏教では死の7日後に三途の川を渡り、49日後にあの世へと行きます。そしてその後、来世があると信じられています。生まれ変わってまた、別の時代を生きようになるのです。仏教では、死んだ後どのようになるのか、明確な順序があり、生まれ変わるという明確な行先が示されています。ではキリスト教では死後をどのように考えるでしょうか。聖書には死んだ後について様々なことが書いてありますが、はっきりとしたことは書いていません。神様は死に向き合う私たちに何を語り掛けるのでしょうか。聖書に聞いてゆきたいと思います。

今日の個所は死についてはっきりと宣言をしていることがあります。それは「死さえも神の愛と私たちを引き離すことができない」ということです。死んでも続くものがあるのです。それは神様の愛です。人間の死は多くの意味で節目です。死はたくさんの事との別れをもたらします。だからこそ私たちは、死はすべての終わりだと思うのです。でも聖書は死すらも、神様の愛と私たちを引き離すことができないと語っています。

私たちには人生に行き詰まる時があります。人生に行き詰まり、もうこれ以上できることはない、できないと思う時があります。しかしその時も、神様の愛は私たちから離れません。何ものも私たちから神様の愛を引き離すことはできないのです。

私たちが何とか神様の愛にしがみつくのではありません。神様はどんな時も私たちを離さないお方です。神様の愛が私たちを離れないのです。神様が私たちをつかみ、神様の愛から離れないようにしてくださるのです。

現在も未来も、神様の愛を私たちから引き離すことはできません。人間同士の関係は時間がたつと変わり、薄れていってしまうものです。でも神様の愛は違います。高いところ、低いところとは、宇宙全体を意味する言葉です。宇宙全体よりも神様の愛が勝るということです。どんな被造物も、宇宙すらも、空間すらも神様の愛から私たちを引き離すことはできないということです。神様の愛は時間も、空間も超えて私たちから引き離れないのです。そして神様の愛はたとえ死んだとしても、私たちに変わらずに注がれ続けます。神様の愛は死すらも私たちから引き離すことができないのです。私はそこに私の希望を置きたいと思います。

写真の方たちは今日も神様に愛されています。中には時の経過とともに、この教会との関係が徐々に分からなくなってきている方もおられます。でも神様の愛は引き離れません。どんなに長い時間も、空間も、死も神様の愛からこの方たち、私たちを引き離すことができないのです。

私たちは今この地上の生涯を一生懸命生きましょう。神様からの変わらぬ愛を受けて、精一杯を生きてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「マウントよりも愛」ガラテヤ6章11~18節

このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。              ガラテヤ6章14節

 

礼拝の中で5回、ガラテヤ書を読んできました。ガラテヤ書を読んでいる最中に、イスラエルとパレスチナで戦争がはじまりました。イスラエルとパレスチナの上に平和と憐みがあるように私たちも祈ってゆきましょう。

パウロは繰り返し割礼を批判しています。割礼とはユダヤ教の入信の際に、陰部の皮を切り取る儀式のことです。当時は教会に2グループの人がいました。生まれた時に割礼を受けたユダヤ人と、他の宗教から来て割礼を受けていない異邦人です。ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者に、神様を信じるならば絶対に割礼を受けるべきだと言いました。しかしこれはかなりハードルの高いことです。異邦人キリスト者は割礼を受けるべきか、当時の教会で大きな問題になっていました。

この割礼は、信じることの象徴ということよりも、ユダヤ民族の象徴という意味が強くありました。割礼はユダヤ民族の誇りだったのです。割礼を受けることはユダヤ民族の優位性を受け入れることにつながりました。自分の民族を捨ててユダヤ民族に同化する、そのような意味でした。パウロはそのような割礼を批判し、必要ないと言っています。それぞれ今の民族の、今の暮らしの中で、神様を信じ、愛の実践を行うことが大事だと教えたのです。

マウントを取るという言葉があります。相手との会話の中で、自分の方が上で、優位に立っているということを示す行動です。割礼はマウントとも言えるでしょう。ユダヤ人が悪いと言っているのではありません。人間はこのような態度を取ることが多くあります。自分が優位に立とうとすること、自分の正しさを押し付けてしまうことが多くあります。それは日常でも、世界でもそうです。

パウロはイエス・キリストの十字架を誇ると言っています。十字架とはイエス様が愛に生きようとした時に起きた拒絶です。イエス様が愛に生きようとした時、多くの人がその価値観、生き方に拒絶を示しました。その拒絶の結果が十字架です。しかしそれに生き方に従う人もいました。それは人を愛するという生き方でした。パウロは見捨てられ、拒絶された、愛するという価値観を誇りにしています。

16節の原理という言葉には基準という意味があります。世界の基準は豊かさや強さです。それを争って決めようとしています。しかし私たちの基準はそうではありません。私たちの基準は十字架です。愛するという生き方です。

私たち教会とはどんな集まりでしょうか。私たちはもちろん、マウントを取り合うためにここに来ているのではありません。私たちは互いを愛する生き方を確認するために、今日も集っているのではないでしょうか。それは拒絶され、苦労が多い生き方です。でも私たちの誇りは十字架です。その愛に誇りを持って生きようと、私たちは今日も集まっているのではないでしょうか。それが十字架を誇るという意味ではないでしょうか。お祈りします。

 

「キリストへの信仰」ガラテヤ2章16節

 

人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 ガラテヤ2章16節

 

2018年に約40年ぶりに新しい聖書翻訳「協会共同訳」が出版されました。これまでの研究成果が凝縮された翻訳です。16節は「キリストへの信仰」から「キリストの真実」という翻訳に変更されました。このことを見てゆきます。

これまで16節「キリストへの信仰(信頼)」だったものは「キリストの真実(信頼)」に変わりました。「へ」が一文字抜けました。文法上はどちらにも翻訳可能です。キリストへの信仰の方が意味が分かりやすかったでしょう。それは私たちの信仰の対象がイエス・キリストだからです。この考え方は私たち人間がいかにキリストを信じるかが大事だという見方です。信仰義認とも共通する考えです。

一方、近年は「キリストの信仰(真実)」という翻訳を支持する人も増えてきています。これは大きな解釈変更です。「キリストの信仰」だとするなら、それはイエス様の持っていた信仰のことを示します。イエス様の信仰とは、イエス様がどのように神様を信頼し、生きたのかということを示します。イエス様を信じる「キリストへの信仰」が大事なのか、それともイエス様のように生きる「キリストの信仰」が大事なのかという大きな違いがあるのです。パウロが本当に語ろうとしたのは何かという全体の理解の変更にもつながる議論です。

私自身はパウロが語ったのは信仰義認ではなく、キリストの様な生き方の勧めだったと考えています。その立場からは「キリストの信仰」を支持したいところです。しかし私は迷っています。おそらくパウロはここで、私たちは律法によって一つになっているのではなく、信仰・神様の約束を信頼することによって、ひとつになっているということを語ろうとしています。考え方が違っても、共同体が一致していることは何か、それは神様を信頼する事だと語ろうとしています。だとするなら、この個所はやはり「キリストへの信仰」と訳されるべきだと思います。

行動や生き方、律法を守るかどうかはそれぞれ違ってバラバラで良いのです。でもその中でキリストへの信仰・信頼が私たちを一つにするのです。パウロはそのような一致を語っているのではないでしょうか。私はそのような理由で今日の時点では「キリストへの信仰」を支持したいと思っています。

私たちはそれぞれ違う人生、違う考えを持ちますが、キリストを信頼することにおいては一致できるのです。キリストへの信仰か、キリストの信仰か、どちらかに決めることはできないのは、信仰か生き方かどちらかを決めることができないこと、生き方が一つに固定できないことともつながっているでしょう。

私たちはどう生きるのか、お互いに何を信じ、どう生きているのかを聞きながら、歩んでゆきましょう。ともにキリストへの信仰、キリストの信仰を持ち、それぞれの1週間を歩んでゆきましょう。お祈りいたします。

 

「愛の実践を伴う信仰こそ大切」ガラテヤ5章2~15節

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 ガラテヤ5章6節

 

今日は収穫感謝礼拝です。私は農薬を使わないオーガニックコットンの服をなるべく選んでいます。綿は非常に多くの農薬を使います。世界の農薬の7%が、綿の生産のために使われていると言われています。農薬や化学肥料に頼りすぎた農業をすると土壌はやせてゆきます。農薬はそれを使う農家の健康にも負担があります。

私の服の選択肢は無数にあり自由です。しかし私の着る物が誰かの負担や犠牲のもとに成り立つのなら、私はそのような服を着続けたくないと思います。できれば少しでも生産者の負担や犠牲が少ない商品を選択したいと思います。

私たちの着るもの、食べるもの、生活はすべて、誰かに支えられています。好みのもの、安いものを選ぶだけではなく、生産者を考えて商品を選びたいと思います。今日は収穫感謝礼拝です。この収穫を神様に感謝しましょう。そして、その収穫を支えている人が、誰かの犠牲になっていないかにも思いを巡らせたいと思います。そして私たちは精一杯の愛の選択をしたいと思います。神様はきっと一人一人が愛の選択をする、その方向へと世界が進んでゆくことを願っておられるはずです。

今日の聖書の個所を読みましょう。ガラテヤ教会の一部の人は、信仰を持ったなら、ユダヤ人の習慣である割礼(男性の性器の皮を切る儀式)を当然すべきだと言いました。しかし割礼は受ける人にとって大きな負担です。ガラテヤ教会が割礼のことで揺れていました。そこにパウロから手紙が届きました。

パウロは手紙の中で6節「愛の実践を伴う信仰が大切」だと訴えています。割礼の有無よりも、私たちの生き方が大事ということです。他の人が自分と同じか違うかということよりも、お互いが愛をもって生きることが出来ているかどうかが大事だということです。これは私たちにも語られていることです。

私たちに一人一人にとって、愛の実践を伴った信仰を持って生きるとはどんな生き方なのでしょうか?私たちは何を着るか、何を食べるか自由です。私たちは自由に生きるように神様に示されています。他の人と同じ選択をする必要はありません。

ただ私たちの自由は罪、誰かを傷つけるものとなっていないかも考える必要があるでしょう。自由に生きるからこそ、他者を傷つけないこと、他者を愛することを忘れないようにしましょう。愛によって互いに恵みがあるようにしましょう。人と地球にやさしい物を選ぶことは、本当に小さな選択かもしれません。でもその小さな愛の選択が私たちの世界を少しずつ変えるはずです。

14節、隣人を自分のように愛す、これが律法全体、聖書全体を表す言葉です。私たちの生活を支える誰かを犠牲にしない選択をしましょう。それが愛です。15節、世界がお互いによって滅ぼされないように祈ります。私たちが自分だけ良ければよいと思う時が、世界が共食いを始める時です。私たちは収穫を神に感謝し、愛のある選択をしましょう。神様からいただいた収穫に感謝します。お祈りします。

 

「神のゆるやかな一致」ガラテヤ書2章11~14節

なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。   ガラテヤ2章12節

 

今日はガラテヤ書から当時の食事の問題について考えます。当時キリストを信じる人は大きく「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」がいました。アンティオキア教会では「ユダヤ人キリスト者」も「異邦人キリスト者」も、みんなで一緒に礼拝し食事をしました。このことは当時大変珍しいことでした。ユダヤ人はユダヤ人以外とは絶対に食事をしないという人がいたからです。

食事の規定の中には、豚肉を食べないなどの規定もありました。どうやって一緒に食事をしたのでしょうか。ユダヤ人キリスト者が食事規定のすべてを捨てて、異邦人キリスト者と一緒に食事をしたわけではなかったはずです。また逆に、異邦人キリスト者が、ユダヤ人のように豚肉を食べるのをやめたというのも考えづらいです。おそらくお皿や食べ物が分かれていました。一緒には食べるけど、食事はそれぞれの考えに合わせて作られたのでしょう。このように一堂に会する食事はアンティオケ教会ではとても大事にされました。それはこの教会の特徴であり、この教会の宣教でした。神様はこのようにして、ゆるやかな一致を起こされました。

当初はペテロも一緒に食事をしていました。しかしエルサレムから厳格派が来て注意されると、ペテロは徐々に態度を変え異邦人キリスト者との食事を避けるようになりました。これにはアンティオケ教会一同、大変がっかりしたに違いありません。異邦人キリスト者は、自分たちを受け入れないのだとがっかりしたでしょう。これがアンティオケアの事件でした。

どちらが良い悪いではなく、2000年前から、誰と一緒に食事をするのかということ多様な考え方がありました。ユダヤ人社会の中でどうやってキリストを信じるかということと、様々な宗教が混在するアンティオキアでキリストを信じる事とは大きな違いがありました。置かれた場所によって理解が違ったのです。

さて、この個所からどのような生き方を考えるでしょうか。まず私たちはアンティオキア教会と同様に昼食会やこども食堂にもっといろいろな人が来て、一緒に食事がしたいと思っています。それが私たちの教会の特徴であり、宣教だからです。主の晩餐はどうでしょうか。それは一緒に考えたいと思っています。神様は私たちをそのようにゆやかに一致させる方なのではないでしょうか。

私たちのそれぞれの生き方はどうでしょうか。私たちは誰かに無理に同一、同質、“同化”を押し付けなくてよいでしょう。誰かに私たちが無理に一致する必要もないでしょう。私たちの社会でも違いをもったまま、ゆるやかに一致することができないでしょうか。同じテーブルだけどメニューは違う、でも大切にしているものは同じ。社会も教会もそんなゆるやかな一致ができないでしょうか。神様は私たちをそのように一致させてくださる方なのではないでしょうか。お祈りします。

 

「パウロへの新しい視点」ガラテヤ2章15~21節

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 ガラテヤ2章16節

 

今月から2か月間、パウロ書簡から宣教をします。世界中のキリスト教の中でNPP“New Perspective on Paul”パウロを新しい視点でとらえようという試みが盛んです。これまでパウロは書簡全体で律法批判と信仰義認論を語っていると考えられてきました。しかし、近年の研究でそのとらえ方は大きく変わってきています。NPPではパウロが批判しているのは律法ではなく差別であるということ、信仰と行い両方が大事だととらえています。この潮流は世界的なうねりになっています。

今日の聖書個所の執筆当時、まだキリスト教とユダヤ教ははっきりと分かれていませんでした。そこではイエス・キリストを信じる人は、まずユダヤ教に入ることが必要なのかという問題がありました。男性がユダヤ教に入信するには割礼(男性の性器の皮を切り取る儀式)が必要です。キリストは信じるが、本当にユダヤ教の習慣に従うべきか迷っている人が多くいました。キリストを信じている人の中には2つの立場がありました。割礼を受けるべきだと考えたのが厳格派、割礼はいらないと考えたのが穏健派です。後にキリスト教は穏健派が中心になってゆきます。

パウロの論争の中心はキリストの信仰をすでに持っている人を、共同体がどのように受け止めていくかということです。割礼は信じている印ではなく、ユダヤの民族の印でした。割礼の有無は人々の隔ての壁になっていたのです。パウロはどのような民族であっても、キリストを信じる信仰があれば、無理に割礼をしなくてもよいと考えました。パウロが本当に批判したのは割礼そのものではなく、割礼の有無による差別でした。パウロは、あなたはあなたのままで、キリスト者としてこの仲間に加わることができると訴えたのです。

16節には「信仰によって義とされる」とあります。人は割礼を基準として義とされるのではないという意味です。元々この共同体は割礼の有無ではなく、神様を信じているという信仰の有無が一番に大事にされる集まりであったはずです。

19節には「私は神に対して生きる」とあります。それはどう生きるかという私たちの行為に対する問いです。大切なのは信仰か行為かどちらかではありません。大切なのは信仰を持ってどう生きるかということです。私が十字架にかかるとは差別と隔てを持った私が、キリストと共に十字架につけられて殺されるということです。

20節には「キリストが私のうちに生きておられる」とあります。私の隔ての壁は十字架に架けられて死にます。その後の私の中にはキリストが生きるのです。

21節それが、神の恵みを無駄にしない生き方なのです。

私たちの社会を考えます。私たちはその壁をどうやって低くし、無くすことができるでしょうか。その人のそのままを受け止めてゆくことができるでしょうか?私たちの教会はどうでしょうか。私たちは共同体としてどのようにして、どこまで、ありのままを受け入れることができるでしょうか。お祈りします。

 

「礼拝説教って何?」使徒言行録17章22~34節

すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 

使徒言行録17章25節

 

今日は礼拝の説教について考えます。礼拝の中で一番大事なのは「聖書朗読」です。説教のない礼拝はありますが、聖書を読まない礼拝はありません。礼拝は第一に聖書・み言葉を中心とした集まりです。しかし聖書は一人で読んでいてもわからないものです。教会では毎週、誰かの聖書の受け止め方を聞きます。誰かの話を聞くと、わからなかった個所に、何か生きるヒントがあるような気がしてくるのです。

説教とはおそらく、そのように聖書の言葉を私たちの現実の中でどう聞くのかを考える取り組みです。私たちは今日このような礼拝と説教の時に呼び集められています。神様が教会に行き、仲間と会い、聖書を分かち合う様に促しています。神様が教会でどう生きるか考えてくるようにと促しているのです。今日この説教の時間、聖書からどう生きるか一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。

今日の聖書箇所は使徒言行録17章22節~34節です。パウロのこの説教は4つの事を語っています。1つ目は25節、神様はすべての命を作った方であり、その命は尊ばれるものであるということです。語っているのは刑事裁判の会場です。パウロは命を傷つけあう現実が明らかにされる、そのただなかで、命は大切にしなければならないということを語っています。その生き方を聴衆に問いかけています。2つ目に語っていることは27節、神様は私たちのすぐそばにいるということです。神様なんて存在しないと感じる現実があります。でもそんな時にこそ一人一人の近くにいるのです。だから希望を失う必要がないという宣言です。希望を持つ生き方をしようということです。3つ目は30節、悔い改めについてです。悔い改めとは生き方の方向転換をすることです。私たちの生き方を変えるようにと語っています。4つ目は31節です。パウロは、イエス様が確証を与えてくれると言っています。命の大切さ、希望を持つことの大切さ、生き方の方向転換、それはイエス様が教えています。イエス様がいるから神様の創った命の大切さ、希望も持って生きる事の大切さに確信を持ち、方向転換することができるのです。

32節、聞いた人々は一人一人感想が違いました。みな自分で考えたのです。その中から少数ですが従って生きる人が起こされました。これがパウロの説教です。私たちの礼拝でもこのような時が持たれています。アレオパゴスの現実のように、私たちには置かれた現実があります。その中で聖書の言葉が響き、説教が語られます。互いの理解を聞いて、私はどう生きるのかを考えます。私たちはその生き方の確証、確信を得るために今日集まっています。神様に集められています。

礼拝の中心に聖書があります。そして礼拝の中に説教があります。今週も聖書の言葉を聞き、互いの言葉を聞きました。そしてイエス様からの確証をいただきます。さて私たちは今週をどのように生きてゆけば良いでしょうか?それぞれの1週間が豊かな愛にあふれた1週間であるように願います。お祈りします。

 

「礼拝から派遣されて生きる」Ⅱコリント13章13節

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章13節

 

今月の宣教は礼拝と礼典について考えています。8月から礼拝の「祝祷」が試験的に「派遣の祈り」になっています。礼拝は招きで始まり、派遣で終わる構造です。これは私たち礼拝者の1週間をよく表しています。私たちの1週間は日曜日、神様に招かれてこの礼拝に集うことから始めます。私たちは礼拝から生きる力をもらい、聖書とお互いから励ましをもらい、また派遣されてゆくのです。

派遣の祈りは平塚教会では次のように祈られています。「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」

クリスチャンは神様から1週間、職場や家庭や地域に派遣されていくと考えます。派遣された先では難しい人間関係や難しい問題に対処することになります。でも週の始めに神様が力を下さいます。だから私たちは1週間なんとか生き抜くことができ、なんとか愛をもって1週間を過ごすことができます。よい共同体を作る、そのために働くことができます。礼拝で一人一人が力と言葉をいただき、それぞれの場所に派遣されます。私たちはそこで愛し、仕える、1週間を過ごしてゆきましょう。

今日の聖書箇所を見ましょう。「聖霊の交わり」という言葉があります。教会では私たち同士の交流や祈り合い、励まし合い、食事を「交わり」と呼びます。教会は交流や信頼関係のある共同体づくりを大切にしてきました。聖霊の交わりとは、聖霊によって生まれる交わりのことです。神様が私たちに力と言葉を与え、私たち人間の間によい交流が、よい信頼関係が、よい共同体があることが聖霊の交わりです。

コリント教会は様々な課題があり、分裂しそうな教会でした。ぎくしゃくする共同体に、神様の力と言葉によって、よい信頼関係が起るようにと祈っています。そしてこの言葉は私たちに向けた言葉でもあります。派遣された場所で聖霊の交わりがある、よい信頼関係がある、そのような共同体を作ることが勧められています。

私たちの1週間が始まりました。私たちは今日またこの礼拝から派遣されます。私たちは聖霊から力をいただき、よい交わりを、より人間関係を創ることができるはずです。私たちはそのような聖霊の交わりを作る1週間を歩んでゆきましょう。

今日、敬老祝福祈祷の時を持ちます。高齢の方々の1週間が守られるようにお祈りします。高齢者の方がこの共同体のよい交わり、聖霊の交わりを守り続けて下さったことに感謝します。

私たちは1週間、こどもも大人も高齢者もそれぞれの場所でできる愛、仕えること、聖霊の交わりをつくること、その祈りを大事にしてゆきましょう。そのために今日もこの礼拝からまた派遣されてゆきます。お祈りをいたします。

 

「教会の境界線が変わる」ルカ14章7~14節

宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。

 

ルカによる福音書14章13節

 

 聖書教育の発行回数の変更をきっかけに、教会員以外の方にも週報棚ができました。教会にとって大きな変化です。社会でも所属意識が変化しています。教会の境界線はどこにあるのかを疑問に思っています。ある数学のモデルが参考になるかもしれません。右に2つの図があります。左側のこれまでの教会はAさん・Dさんと、Bさん・Cさんは、はっきりとした境界線で区切られていました。誰がメンバーで、誰がそうでないかはっきりとしていたのです。しかし右側のモデルは違います。この共同体の境界線はアメーバのように変化します。いままで外側の人であったCさんはメンバーの中におり、Cさんを受け止める柔軟さがあります。Bさんは引き続き違う人です。Dさんは今まで同じと思っていましたが、実は境界線上にいる人です。大事なのは真ん中の点です。そして大事なのはその点に近いか遠いかではなく、その点を目指しているかどうかです。この共同体は、中心の点から多少距離が離れていても、その人を取り込むように組織の形を変えることができます。この図は教会の新しい境界線に示唆を与えてくれます。

今日はルカによる福音書14章7節~14節です。この個所は私たちに変化を求めている箇所です。柔軟に境界線を変えようという話です。特に後半を見たいと思います。私たちは誰を招くかが問われています。聖書によればこの人たちがまっさきにパーティーに招きたいと思ったのは気心の知れた仲間と、価値観が一緒の仲間です。そこにお金持ちや有力な人が入ると組織に箔がつきます。

しかしイエス様は言います。もしパーティーを催すときには、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を招くようにと。私たちが招く人を変えるようにという教えです。このパーティーは教会と言い換える変えることができるでしょう。イエス様は誰をこの共同体に招くのかという境界線を見直すように言っています。そこには私たちが今まで思ってきた招きと違う招きがあるはずです。

私たちは価値観も違う、血縁もない、たいして金持ちでもない集まりです。でも私たちは今日神様に集められています。お互いに人生に困り、疲れ、悩み、不自由を感じています。その私たちを神様が今日集めて下さったのです。私たちは今までの境界線を変えることができます。イエス様はそのように私たちに伝えているのではないでしょうか。お祈りします。

「食事に招かれた人」ルカ14章15~26節

今日から1ヶ月は礼典をテーマとして宣教をします。今日は主の晩餐について考えます。主の晩餐とはイエス様のことを思い出すために行われる、小さな食パンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会ではこれに参加できるのはクリスチャンのみとしています。ただしバプテスト連盟の調査によれば諸教会の主の晩餐の持ち方は多様で、以下の通りです(数字は教会数と構成比)。教会ごとに祈った選びに正解も不正解もないと思います。大事なのは、私たちの教会はなぜそのような選びをするのかを考え、知り、紹介できるようにしておく事です。

 

  • 当該教会のメンバーのみ        1教会 0.3%
  • 他のバプテスト教会の信徒を含める 3教会 1%
  • 教会・教派を問わずバプテスマを受けたクリスチャンを含める 169教会 62%
  • イエスを信じバプテスマの決心をした人を含める 27教会 10%
  • バプテスマの予定を問わずその場でイエスを信じている人を含む 58教会 21%
  • すべての会衆で行う 16教会 6%

 

今日はルカによる福音書14章15節~24節です。一緒に食事をしていた人が言いました「この食事でこんなに幸せなのだから、神様に愛されている、大切にされているのを感じながら食事したら、どれだけ幸せなのだろう」。イエス様はそんな時、食事会のたとえ話を始めます。たとえ話で主人は次々に友人から宴会の出席を断られます。主人はとても傷ついたはずです。落ち込んだ主人は、自分と同じように悲しい思いをしている人に食べてもらおうと考えます。宴会はそのような人が呼び集められました。そしてまだ席が空いていました。主人は誰でもいいと言いました。

このたとえ話でイエス様はこれが神の国だと伝えました。神の愛はだれにでも無条件、無償で分かち合われるのです。神様の愛、招きとは、席はすでにそこにあり、誰でもいいからこの席・この愛に加わって欲しいという招き、それが神様の愛です。

主人は当初、限られたメンバーで食事をしようとしたとあります。私はそれは、それでよい部分があったのではないかと思います。きっと主人は自分の喜びと気持ちを深く理解して、一緒に喜んでくれる仲間が欲しかったはずです。せっかくのごちそうだから、私の喜びをよく理解している人と食べたい、祝ってもらいたいと思ったのが主人の最初の気持ちでした。それも良くわかります。でもこのような結果になりました。主人は次の食事会をどのように持ったでしょうか?

私たちはこの食事のたとえから何を考えるでしょうか?私たちの主の晩餐の意味をどのように考えるでしょうか。イエス様を思い起こす主の晩餐に、正解か不正解かはありません。私たちはどうして今の在り方なのか、これからどう進んでゆけば良いのか、来週も共に考えてゆきましょう。

 

「救い出したまえ」マタイ6章9~13節

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。 マタイ6章13節

 

主の祈りを宣教のテーマとしています。今日が最後です。主の祈りの中にある豊かなイメージをもう一度確認してきました。

キリスト教の「救われる」とはどんな意味でしょうか。ご存じのとおり、キリスト教を信じれば悪いことが起きないわけではありません。この祈りを祈っている人は皆、まだ救われていない人、いま試練と誘惑と悪の真っただ中にいる人です。だからこそ私たちはすべての人が一緒に祈ります。

聖書のもともとの言葉で「救う」とは、戦場から脱出する時に使う言葉です。敵に囲まれた戦場から引っ張り出されることが「救われる」ことです。

キリスト教を信じていても試練や誘惑が起きます。ではキリスト教を信じるメリットは何でしょうか。キリスト教のメリットを挙げるなら、祈ることができるということでしょう。どんな人も同じ試練に遭遇します。しかしその時、キリスト教には「救ってくれ」と祈る先があります。それは事態を変えない、ただの気休めのように感じるかもしれませんが、そうではありません。誰かに祈ることができること、それは私たちを変えます。私たちは孤立無援ではないのです。神様が共にいます。神様の存在が私たちを絶望させず、私たちに力を与えるのです。

クリスチャンはいつも神様に弱々しく「救ってください」と祈っています。自分の弱さを良く知っているから祈るのです。このように自分の弱さを知って、祈るのがクリスチャンといえるでしょう。私たちは弱さと欠けを持った等身大の私として神に祈るのです。

私たちが救われたいのは何からでしょうか?今抱えているひどい人間関係の中から、ひどい病気の中から・・・私たちは救いを求めています。そしてもうひとつ大事なことがあります。これは私の救いではなく、私たちの救いを求める祈りだということです。個人的な祈りではなく世界の救いを求める祈りでもあるということです。私たちの世界には大きな試練、悪と不正がたくさんあります。この祈りはそのような世界からの救いを求める祈りでもあります。

「救い出したまえ」それは試練にあう私たち、すべての人の祈りです。そこからの脱出を求める祈りです。この祈りは、神は私たちと共にいると感じさせ、力を与える祈りです。そしてこれは世界の救いを求める祈りです。

6回にわたって主の祈りを見てきました。私たちのいつものお決まりの祈りは、私たちの知らないところで豊かな意味を持っていることを知りました。信仰を持つ、キリスト教を信じるとはいったいどんなことでしょうか。それはきっと何かの教理を信じること、洗礼を受けることだけを指すのではありません。大事なのはこの主の祈りを一緒に祈っているかどうかではないでしょうか。私はこの祈りを祈る者、この祈りを生きる者になりたいと思います。最後に一緒にこの主の祈りを祈りましょう。

 

「ゆるせなくていいよ」マタイ6章9~13節

我らが罪をゆるすがごとく、我らの罪をもゆるしたまえ マタイ6章12節

 

主の祈りについて考えています。今日見てゆきたいのは「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」についてです。この祈りには「私はあの人のことを赦します」という宣言が含まれています。だからこの個所は主の祈りの中で一番自信を持って祈ることができない箇所です。「我らが罪を○%×$☆♭#▲!※、我らの罪を赦したまえ」とごまかしたい祈りです。なかなか宣教もしづらい箇所です。

この祈りをもっと知るために、罪とは何か、赦すとは何かという2つの側面から考えたいと思います。罪とは大きくは命を傷つけることです。法律で禁止されているかどうかに関わらず、人の命を傷つけたり、見下したり、物のように扱う事が罪です。一番大きな罪、わかりやすい罪は戦争です。私たちは直接的かどうかに関わらず、いつも誰かの命を傷つけてしまう存在です。私たちは罪人です。私は罪人ではないという人は、自分の罪に気づいていない罪人でしょう。

では赦しとはどんなことでしょうか?赦すとはもうこれ以上その問題について相手を責めないことです。以前の関係に戻ることです。関係の回復が赦しです。一番わかりやすい赦しは借金・負債の免除です。ただここで注意が必要なのは「赦す」とはきれいに水に流し、忘れてしまうことではないということです。赦しとは、忘れはしないけど、でも関係を回復するということが赦しです。

キリスト教では「赦しなさい」と教え、赦しを強制してきた部分があります。しかしその教えは、多くの二次被害を生んできました。赦すか赦さないかは本人の自由です。赦しには時間がかかるものです。簡単に赦す必要はありません。加害者の誠実な謝罪や償いは赦しへの一歩となるときがあります。でも本人が赦せないと思うなら、赦さなくていいのです。人が人を赦すことは難しく時間がかかります。

では神様はどうでしょうか?神様は罪を犯した横から自動的に、機械的に赦してゆく方なのでしょうか。違います。神様はきっと私たちが自分の罪を罪と認め、もうしないと固く思うことを期待しています。そしてもう二度としないと誓う時に、初めて神様は私たちの罪を赦してくださるのです。それが神様の赦しです。神様は私たちが罪を罪と認め、もうしないと誓う時、赦し、関係を回復してくださいます。

今日の祈り「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」は赦しますと思っていない人、赦さない人はこの祈りは祈れません。おそらく誰も祈れないはずです。しかし「私は赦す」と祈ります。そこには私たちの矛盾と破れがあります。祈れない祈りです。でも私たちはその矛盾に希望を置くのかもしれません。赦せないのに赦しますと祈る、赦されないことが赦される、その矛盾と破れの中に私たちの希望があるのではないでしょうか。赦せないのに、赦しますと祈る、そのはざまに神様はいて下さるのではないでしょうか。

これは本当に祈れない祈りです。今日は主の祈りは祈らずにおきましょうか。でもやはり祈りましょう。赦せなくてもいいから、赦すと一緒に祈りましょう。

 

「貧困撲滅祈祷」マタイ6章9~13節

我らの日用の糧を今日も与えたまえ マタイ6章11節

 

今月と来月は主の祈りをテーマとして宣教をしています。この祈りには食べ物を求める祈りと、心が満たされることを求める祈りの2つの側面があります。今日はそれぞれの側面を見てゆきたいと思っています。

イエス様の時代、飢饉と貧困と格差は大きな社会問題でした。食べ物が無い飢餓の様子は地獄の様でした。飢饉の恐ろしさ、残酷さは一度体験したら一生忘れることが出来なかったでしょう。パンが無いことは心にも体にも深刻なダメージを残しました。飢饉に対して人々は差し迫った恐怖感をいつも持っていました。飢餓は天候不良だけが原因ではありません。飢饉が起るとお金持ちはありったけの食料を買い上げ、大儲けしました。不平等な制度も飢饉の原因です。イエス様の祈りはこのように元来、食べ物のための必死の祈りです。生存を求める祈りです。社会の不平等が終わる公正さを求める祈り、飢餓撲滅、貧困撲滅の祈りでした。

もう一つの側面をみましょう。余裕があり飢饉とはほとんど無縁の生活をしている人たち(私たち)はこの祈りを、日々私を支える聖書の言葉、霊的な支えが与えられるための祈りと解釈しました。私たちはこの2つの側面を知り、この2つを両方とも大事にしながら祈りたいと思います。そして特に私たちが特に忘れてしまっている貧困撲滅の祈りの側面を見直すきっかけは「我らの」という言葉だと思います。

「我らの」とは「私の」ではなく「私たちの」という意味です。この祈りはみんなの食べ物が与えられる様にという共同体の祈りです。それは私が(私だけが)食べればよいという祈りではありません。私の周りでどんな人が食べられないかを考えさせられます。私の身の周りには最近食事があまり食べられなくなってきているという高齢者がいます。私だけではなくておじいいちゃん、おばあちゃんがしっかりご飯を食べることができますように、この祈りはそのような祈りです。夏休み期間中に体重が減ってしまうこどもがいます。こどもたちが夏休み、しっかり栄養とバランスの良い食事を食べることができるように祈りたいと思います。もっと世界に目を向け「我ら」を私たちの世界とまで広げることができます。戦争は世界の飢餓の原因のひとつです。みんなに食べ物がゆきわたりますようにというのは、戦争が終わりますように、平和がありますようにという祈りとつながっています。

今日は主の祈り「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」を見て来ました。私たちはこの祈りをどのように新しく祈ることができるでしょうか。これは我らの、みんなの祈りです。食べ物の祈りです。貧困撲滅の祈り、飢餓撲滅の祈り、平和の祈りです。みんなが満たされるように祈る祈りです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」は食べ物と平和が世界にゆきわたりますようにという祈りです。この祈りがもっと世界に広がるように祈ります。私たち一人一人の中にもこの祈りが広がってゆくことを祈ります。私たちはこの祈りで結び付けられ、それぞれの場所で具体的に働けるように力が与えられるはずです。主の祈りをもう一度一緒に祈りましょう。

 

「愛と平和の祈り」マタイによる福音書6章9~13節

御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ

マタイによる福音書6章10節

 

主の祈りをテーマに宣教しています。今日は沖縄訪問の話を聞き、絵本を読みます。今日は平塚大空襲があった日です。平和についてこの祈りから考えましょう。

「御国が来ますように」。御国は「おくに」ではなく「みくに」と読みます。神様の支配が世界の隅々までありますようにという祈りです。神様の愛と平和が世界のすみずみまで支配するようにという祈りです。

78年前の戦争は御国(みくに)のためではなく、御国(おくに)のためでした。その中心は天皇でした。御国(おくに)のため、天皇の支配のために多くの人が殺されました。結果は証しと絵本のとおりです。沖縄では残酷な地上戦が行われました。人々は這いずり回って逃げました。命が宝だ「ぬちどぅたから」と言い合い逃げました。天皇の支配する国、力と暴力の支配の恐ろしさがわかります。それはまるで神様の支配する天とは正反対の地獄です。

もし私たちがあのガマ・洞窟で主の祈りを祈ったらと想像します。主の祈りをガマで祈ったとしたらきっと一番力を込めるのは「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」です。神様に求める御国(みくに)とは天皇の支配する御国(おくに)ではありません。天皇の支配ではなく、アメリカの支配でもなく、力と暴力の支配ではなく、神様の愛と平和を求める祈りです。平和な世界が来ますように。愛にあふれる世界が来ますようにという祈りです。

祈りは「御心が天になるごとく地にもなりますように」と続きます。御心とは神様の意思、神様の願いのことです。七夕の短冊には自分の願い事を書きます。しかしキリスト教の祈りは神様の願いが叶いますようにと祈るです。

「天になるごとくに地にもなさせたまえ」の「天」とは神様の愛と平和の支配が行き渡っている場所です。死後の世界ではなく、私たちが今生きている地上が、力と暴力が支配するこの地上が、天のように、愛と平和で満たされるようにという祈りです。この地上が天国のようになって欲しいという祈りです。様々な力と様々な暴力がこの地上を支配しています。そんな世界だからこそ私たちは祈りましょう。この地上があの天のように、神の愛と平和で満たされてることを祈りましょう。今私たちが生きる、この場所が天、神の愛と平和で満たされた場所となるように祈りましょう。今この祈りが本当に必要とされています。

「なさせたまえ」は神様が実現してくださいという意味です。しかし私たちは神様にお任せして、何もせず待つだけではありません。「なさせたまえ」にはそのために私たちを使ってくださいという意味も含みます。待つだけではなく、私たちを御心を地上で実現させる者と「なさせたまえ」という願いを含んでいます。

私たちはこの祈りをどのように祈るでしょうか。それぞれの場所で御国と御心を祈り、そのために働きましょう。一緒に主の祈りを祈りましょう。

 

「神聖な生き方」マタイによる福音書6章9~13節

御名が崇められますように。 マタイによる福音書6章9節

 

主の祈りについて宣教をしています。今日は主の祈りの「願わくは御名を崇めさせたえ」について意味を考えましょう。大事なのは「御名を崇めさせたまえ」です。

御名(みな)とはキリスト教用語です。キリスト教では神様のことについて頭に「御(み)」をつけます。人びとは神様の名前をみだりに唱えないために、神様のことを「御名」と言い換えました。

「崇めさせたまえ」とは「聖なるものとなりますように」という意味です。神様を聖なるものとするとはどんなことでしょうか。反対に神様を汚すこと、神様の顔に泥を塗るなら、私たちは簡単に想像ができるかもしれません。

たとえば日本の教会では戦時中、戦闘機購入のための献金が熱心に募られました。当時のバプテスト教会も熱心に協力をしました。戦闘機には「日本基督教団号」と書かれ、戦争へと旅立っていったそうです。教会は戦争に熱心に協力をしました。これは神様の顔に泥を塗ることです。広島に原爆を落とした飛行機エノラゲイは出発前、牧師が作戦成功の祈りをささげたそうです。これも神様を汚すことです。ナチスドイツの兵士のヘルメットにも「神は我々と共にいる」と記されていたそうです。

このようなことが神の名を汚すことといえるでしょう。戦争のために神が利用されました。みだりに神の名が唱えられ、汚されました。神を聖なるものとせず、あがめず、自分たちを正当化するために利用したのです。「崇めさせたまえ」「聖なるものとされますように」というこの祈りは、神を汚すことが起りませんように、私たちが神様を聖なる存在にし続けることができるようにという祈りです。

レビ記19章2節(191ページ)では神様が私たちにこう呼びかけています。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。」そしてその後に、聖なる生き方とはどのような生き方なのかが書いてあります。貧しい人や外国人と食べ物を分かち合え。盗むな。嘘をつくな。奪い取るな。雇人は賃金をちゃんと払え・・・。神様はそれが聖なる生き方であり、神様を聖とする生き方だと教えています。そしてレビ記19章18節には「隣人を自分のように愛しなさい」とあります。これはイエス様がもっとも大事なことだと言った箇所です。これが聖なる生き方です。隣人を愛して生きる事、それが“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”なのです。神様を聖とすること、それはなにより私たちが互いに愛し合って生きるということです。神を聖とすることとは、私たちがお互いを大切にしあうことです。御名を崇めるとは私たちが愛し合う事なのです。

私たちは「御名を崇めさせたまえ」をどう祈ったらよいでしょうか。聖書によれば私たちが愛し合うことが、神様を聖なるものとすることです。私たちは神様の名が聖なるものとして、崇められるように祈ります。そしてこの祈りに促されて、お互いを大事にしあうという“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”を始めたいと思います。最後に一緒に主の祈りを祈りましょう。

 

「わたしたちの神」マタイによる福音書6章9~13節

 

天にまします我らの父よ(マタイによる福音書6章9節)

 

7月と8月は主の祈りをテーマに宣教します。主の祈りはイエス様が私たちに直接教えて下さった祈りとして、教会の中で特に大切に祈られています。この祈りは、ただ覚えればよい、唱えればよいのではありません。呪文としないで「主の祈り」を「私の祈り」とすることができているでしょうか。

今日は主の祈りの「天にまします我らの父よ」について考えます。まず「まします」は「ある」や「居る」の尊敬語です。ですからこれは「天にいらっしゃるわたしたちの父よ」という意味です。父はイエス様の話したアラム語では「アッバ」という言葉です。アッバはこどもが父親のことを『おとうちゃん』と呼ぶ表現だと紹介されます。しかし後の調査で「アッバ」はそのような使われ方をしないことが判明しました。紹介した学者も今は発言を撤回しています。しかし一度浸透した情報・信仰の訂正・更新は難しいものです。

わかっていることは、当時、神様に向けて「父よ」という呼びかけをしたこと自体は特殊なことであったということです。先日こどもに「パパ、神様って男なの?」と聞かれました。多くの人はいつのまにか、神は男性であるというイメージもっているでしょう。神様は男性でも女性でもありません。主の祈りは「我らの母よ」「我らの親よ」「我らの神よ」でもいいはずです。また神様が男であると強調することは、支配者は男であるべきという発想につながる課題があります。神様は男でも女でもありません。神様は神様です。私たちは私たちの持っている、男女二分法に注意しながら「父よ」と祈る必要があります。

なぜイエス様は「父よ」と祈ったのでしょうか。そのように祈った理由のひとつに、ローマ皇帝に対する抵抗が含まれていたという説があります。ローマ皇帝は自分のことを「神の子」「地上の国民の『父』」「救世主」と言いました。そして自分を神と等しいものとして拝むように、人々に強制をしました。イエス様はそのような中で神様に向けて「父よ」と祈るように教えました。

神様にむけて「父よ」と呼びかけることは、私たち一人一人は皇帝の奴隷ではないこと、一人一人に人権があり、自由があり、尊ばれるべき命があることを意味しています。「我らの父よ」と呼びかけるのは、私の命は誰にも侵害されない命だ、私たち一人一人の命が大事にされるべき存在だということを表明する祈りなのです。私たちはお互いが、そしてすべての命が神の子であり、尊い存在であるというイメージを持って、「天にまします我らの父よ」を祈りましょう。

私たち人間は全員が神の子です。だからもう誰にも性別や年齢や職業やルーツによって抑えつけられる必要はありません。そのことを祈りましょう。そして私たちは地上の支配者にも注意を向けます。私たちを本当に導くのは平和の神です。戦争へと導くリーダーは「我らの父」「我らの神」ではありません。私たちは私たちの神に向けて祈りましょう。最後に主の祈りをともに祈りましょう。

 

「ごゆっくりどうぞ」詩編23編1~6節

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 詩編23編1~3節

 

今月は地域協働をテーマに宣教しています。こひつじ食堂にまつるエピソードをいつくか紹介します。いつもお弁当を買うおばあちゃんがいます。先日、町であって挨拶すると、お疲れの様子でした。おばあちゃんは「本当は私も食堂のお手伝いしたいのだけど、95歳で要介護3の親が同居していて介護が大変なのよ」と言っていました。「また気分転換に食堂に来てくださいね」と言いました。

きれいなマンションに住んでいる人がお弁当の列に並んでいました。その方は一人暮らしですが、夕食分と明日のお昼の分2個のお弁当を買いました。すると後から生活保護を受けているおじちゃんが、並びました。そして行列に並んでいる最中に疲れて座り込んでしまいました。もうすぐお弁当は売り切れです。見かねた女性は「自分の分を一つあげてもいい」「お金はいらないから、あのおじちゃんにあげて」と言いました。私はそのお弁当を受け取って、おじちゃんに手渡しました。

いつも営業終了間際に来るおじさんがいます。お代わりしたいとか、あっちの席で食べたいとか、いろいろわがままを言うおじさんです。彼は帰りがけに「また来ます、俺は奥さんにも、家族にも逃げられちゃって寂しいからさ」と言い残して帰っていきました。「また来てね」と言いました。

教会が地域の方とこのように関わることが出来ていることがうれしいです。しかもその関係が伝える、教わるといった堅苦しいものではなく、どこかほのぼのとするような、ほっとするような関係であることがうれしいです。このような地域との関わりが、教会からもっと広がってゆけばよいと思っています。

私は今日の聖書の個所にも、食堂のほのぼのとした風景と同じ印象を持っています。ほのぼのとした教会と地域の関わりをイメージしながら、この個所を読みたいと思いました。私は食堂を利用している方たちに、教会がこんな印象を与えられたらいいなと思いました。

1節、教会は、自分に足りない物が何かをとやかく言われる場所ではありません。いわゆる説教される場所ではありません。教会に来たら、ああ私にはたくさんの恵みがあって、たくさんの仲間がいて、自分に欠けているものなんて、ちっともない。教会はそのように思えるような場所になりたいです。

5節、苦しい時こそ、教会は食卓を整えて迎えましょう。私たちは杯があふれるほど、蓋が閉まらないほどのお弁当を作って、皆さんを迎えましょう。教会はそのような場所になりたいです。神様がそのように杯をあふれさせるお方だからです。

6節、命ある限り、慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。ずっと来たい、自分の家のようだ、ずっと元気でいよう、教会がそんな活力につながるのならうれしいです。そして食堂の雰囲気を通じて、生きる力をくれる神様の事も伝わったらうれしいです。お祈りします。

 

「人はパンのみで生きるのではない」ルカ4章1~4節

イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

ルカによる福音書4章1~4節

 

今日は創立記念礼拝です。今月は教会の歴史の転換点となっている「地域協働」をテーマに宣教をしています。私たちの教会では毎月第3・第4金曜日に「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。1食200円でだれでも利用できる食堂です。「こひつじ食堂」はお弁当の販売ではなく、会食が中心です。利用者にとってもスタッフにとってもお弁当が楽で、会食は面倒ですが、会食を大事にしています。

それはこひつじ食堂が単に食事を提供することだけが目的ではないからです。食事だけではなく、他者との関わり、友ができる場所を提供したいのです。人間は食べるだけではありません。人間には友、仲間が必要だからです。

「人はパンのみで生きるのではない」本当にイエス様のおっしゃる通りです。「こひつじ食堂は弁当のみで開催するのではない」です。人はパン以外のもの、人との関わり、友が必要です。友との会食が必要です。今日の聖書箇所を読みましょう。

悪魔はイエス様に「石をパンに変えてみよ」と言いますが、それに対してイエス様が答えた言葉は「人はパンのみで生きるのではない」という言葉でした。特にルカ福音書では明らかにはされていませんが、パン以外にも何か必要なものがあると言っています。パン以外に必要なものがあるとしたら一体それは何でしょうか。

私たちには衣食住に加え医職友が必要です。特に私たちには友が必要です。人生には誰か一緒にいてくれる人が必要なのです。一緒に落ち込み、一緒に喜んでくれる人が必要なのです。しかし今、友を得るということはとても難しいことです。友を得る必要はわかっていても、なかなかそれを得ることができないのです。私たちの教会はそのような友に出会うの場所になりたいと願っています。この食堂で友達同士になる人ができたらいいと願い、そしてすでに多くの人が友達になっています。

このようにして誰かと一緒に食事していると、きっと感じるはずです。「私は食べ物だけで生きるのではない」と。このような友との温かい関わり、食事があるからこそ、自分は生きることができると感じるはずです。それは聖書が教えていることです。この教会で食事をすることによって「食べるだけではなくて、友が私には必要だ」それを知ってくれたら、気づいてくらたらうれしいと思います。教会をそのように地域の中で友を作る場所にしてゆきたいです。そしていつの間にか聖書の言葉を体験している場所にしてゆきたいと思うのです。

人はパンのみで生きるのではありません。私たちには神様の言葉と仲間が必要です。私たちはどちらも大事にしてゆきましょう。また今日から私たちの1週間がはじまります。私たちは1週間どんな生き方をしましょうか。私たちは一緒に食べる事、誰かの友達になることを大事にしましょう。人はパンのみで生きるのではありません。神様がよくご存じです。神様はきっと私たちに友を得ることができるように、私たちを導いてくださるはずです。お祈りします。

 

「教会の敷居を下げたい」コリントの信徒への手紙Ⅰ9章19~23節

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。         コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章23節

 

今月は地域協働というテーマで宣教をしています。「こひつじ食堂」を始めてから地域の方たちとの交流が増えました。教会を訪ねる人は「昔からここに教会があるのは知っていたけど、入るのは初めて」と言います。教会は多くの人にとって、何をしているかわからない、敷居が高い、入りづらい場所でした。しかし教会の敷居は下がり、身近な存在になっています。それはお互いにとってかなり大きな一歩だと思います。私たちはこの人たちを勧誘するわけではありません。ミッションスクールのように、その人の人生の体験のひとつになりたいと思っています。今日は聖書から教会の敷居の高さを下げてゆくことを見てゆきたいと思います。

パウロというイエス様の弟子がコリントという地域にある教会に手紙を書きました。そこでは宗教的な熱心さにおいて違いがありました。例えば何世代も続く熱心な家系で、お腹の中にいる時から教会に来ていたという人がいました。一方で親は全く違う宗教で、最近コリント教会にき始めたという人もいました。新しい人から見るとその輪の中に入るのは大変です。そこに敷居の高さを感じたはずです。

パウロはそのような教会に対して「律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました」と言います。律法を持たない人とはいわば初心者です。初心者に対しては初心者のようになったということです。

手紙を書いたパウロ自身は超上級者です。しかしパウロは私のような超上級者を目指しなさいとは言いません。「私はすべての人に対してすべての人になった」と言っています。これはつまり私は上級者かもしれないが、最近来始めた人も、初めての人も、まだ迷っている人もいる、私はそういう人になると言っているのです。

私はこの個所「教会は敷居を下げなさい」と聞こえます。みんながいきなり上級者なわけではないのだから、初めてくる人や、迷っている人がわたしも大丈夫だと思えるように、敷居を下げなさいと言っている様に聞こえます。

もし初めて礼拝に参加する人と一緒に礼拝するなら、初めての人のようになることが大事なのでしょう。こどもがいたらこどものように、子連れの親子がいれば子連れの親子のように、高齢者がいれば高齢者のようになることが大事なのでしょう。それが、今日の個所にある「すべての人がすべてになる」ということでしょう。

私たちの教会はまだ中に入ったことのない人を、どんどん招き、迎えましょう。そしてこの新しい生き方をする仲間を得てゆきましょう。そのために入りやすい教会、敷居の低い教会になりましょう。私たち一人一人、すべての人がすべての人になってゆきましょう。そんな敷居の低い共同体になってゆきましょう。

そして私たちのそれぞれの1週間の集まりも同じです。私たちは様々な集まりですべての人になる、そのことを心がけましょう。私たちはそれを、共に福音にあずかるため、キリストにある新しい生き方を共に歩むためにしましょう。お祈りします。

 

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「平塚バプテスト“協会”」ルカ9章10~17節

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 ルカ9章16節

 

今日からは1ヶ月間「地域協働」ということをテーマに宣教します。「こひつじ食堂」は毎月第3・第4金曜日にだれでも1食200円で利用できる地域食堂です。他の教会の食堂との一番の違いは、スタッフの半分が地域の方たちだという点です。

当初はボランティアの募集をするか迷いましたが、何も心配する必要はありませんでした。考えていることや動機は違っても、同じことのために一緒に働く、それができれば十分です。地域の方は教会をよく協会と字を間違えます。「私たちの教会は協力の“協”ではなく、教えるの“教”です」と訂正するたび、今の平塚教会は本当は、協力の協の協会の方がふさわしいのではないかと感じます。なぜなら平塚教会は地域の人と力を合わせて、誰かのため、地域のために、神様のために働く場所だからです。協会の協の字は十字架に力が3つ集まっています。平塚教会はまさしく十字架の下で力を合わせる場所です。私は今、教える教会よりも、協力する協会の方が私たち平塚バプテスト教会にはふさわしい様に感じています。今日は聖書から協力する集まり、きょうかい(協会・教会)について考えたいと思います。

13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」は私たち平塚教会に語りかけられた“大食堂命令”です。今日は特に5000人の食事の中で、どれだけの協力があったのかを考えてみたいと思います。私たちの食堂から考えるとおそらく1000人の協力が必要だったはずです。当時のパンは一人3つで満腹になると言われていました。15000個のパンを配らなければいけません。

私ならこう言います。「1000人の協力が必要です。半分の500人はそれぞれ30個のパンをもって、ひとり3個ずつ、10人に配ってください。別の500人もそれぞれ10人に魚を配ってください。運び終わったらスタッフの方1000人もどうぞ一緒に食べてください。今、イエス様が歌って、祈って、裂いて、増やしていますから。おかわりは何回でも自由です。食べ終わって、余ったものは集めてこの籠にいれてください。最後の片付けもご協力をお願いします。」

今なら私たちはそこに1000人スタッフが力を合わせて食事を運んだことを想像できます。そして配った人がイエス様の弟子だったかどうかはあまり関係ないのではないでしょうか。そのような垣根のない協力が起きたのが5000人の食事だったのではないでしょうか。

私たちはもっとみんなと力を合わせる場所になることはできないでしょうか。この食事の様に、イエス様の奇跡の周りで一緒に働く1000人になることが出来ないでしょうか?私たちの教会の事、そして私たちの生活のこともそうです。私たちは垣根を超えて、いろいろな人と協力することがもっとできるのではないでしょうか。それぞれに考えてみたいのです。このあと主の晩餐を行います。この5000人の食事を思い出してパンと杯をいただきましょう。お祈りします。

 

「風まかせに生きる」使徒言行録2章1~14節

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

使徒言行録2章4節

 

信仰入門というテーマで宣教しています。湘南の海ではウィンドサーフィンをしている人をよく見かけます。風の力だけで沖まで行くことができます。昔は風の力で世界を巡りました。風は面白い存在です。風を目で見ることはできませんが、風に動かされているものを見て、風が吹いていると分かります。風は自由自在に吹き巡ります。夜風にあたると気分が落ち着きます。風は口では説明することがでず、体験でしか伝えられないことです。このような言葉を体験的言語と言います。

聖霊はおそらくキリスト教用語で最も難しい言葉だと思います。今日は風をヒントに聖書の聖霊をご紹介します。聖霊という言葉には息や風と言う意味もあります。風は人をどこかに運び、人の気分を変え、人に刺激を与える存在です。それは聖霊も同じです。聖霊を体験するとは、私たちが神様から来た風に吹かれることです。船が帆に風を受け、世界中どこまでも行くのと同じ様に、私たちが聖霊を受けるとは私たちは大きく進むことができます。

今日の聖書箇所では聖霊に満たされた人々に不思議な力が与えられます。いろいろな言語が人々の間を飛び交いました。そして外国から来た人々が驚きました。初めて自分の言葉で神様のことを聞くことになったからです。これは実は画期的な事件です。当時、聖霊はユダヤ人だけにしか、与えられないと信じられていました。しかしこの事件がきっかけに神様の風は、聖霊は、すべての人に与えられる、すべての人に吹くとはっきりしたのです。

この風・聖霊は今日もすべての人に吹き、すべての人に注がれています。神様の風は、聖霊は皆さんにもすでに吹いていて、すでに注がれているのです。あなたが信じようが、信じまいが、すべての人がこの風・聖霊をすでに受けているのです。

この風は私たちに思いがけない方向を指し示し、方向転換を求めるときがあります。風が私たちの想いを超えて吹くこともあります。私たちには苦しい時もありますが、神様はそのような時、私たちに憩いの風を送ってくださいます。

風まかせという言葉があります。無計画でなりゆきまかせを表す言葉です。でもクリスチャンはある意味で、風まかせの生き方をする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊をしっかり感じて、風をしっかりととらえて、どちらに進むべきか考える人のことです。クリスチャンは神様の風がどこから来ているのか、神様の風は自分をどこに向かわせようとしているのかを五感で感じとろうとする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊に逆らわずに生きようとする人です。

私たちはこのような風を感じる生き方を生きたいのです。この風はすべての人にすでに与えられているものです。私たちは新しい生き方を探します。聖霊から力を受けて進みます。みなさんはすでにその風に吹かれています。その風を感じて、神様から押し出されて1週間を過ごしましょう。お祈りします。

 

「パン作りから考える生き方」ルカ13章18~21節

神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。   ルカによる福音書13章20~21節

 

4月・5月は信仰入門をテーマに宣教をしています。今日はからし種のたとえと、パン作りのたとえの話をします。これは神の国を説明するためのたとえです。神の国とは死んだ後に行く天国とは違います。神の国とは、神様が求める、理想の世界のことです。神様の願っていることが、隅々に渡って実現してゆくのが神の国です。今日はその神の国がどのように実現されてゆくのかを考えます。

からし種とはマスタードの粒です。からし種は他の植物よりも小さな種であるにも関わらず嫌われ者です。なぜなら繁殖力が高く、一粒地面に落ちると、ものすごいスピードで広がってゆくからです。イエス様は神の国を、嫌われている植物が、大きくなる様子に似ていると言います。神の国はやっかい者として、異物として始まるのです。でもそれが広がりみんなの憩いの場所となるのです。

続くのはパン作りの話です。この話は聖書には珍しく女性が主人公のたとえ話です。3サトンの粉からパンを作るとありますが、これは約100人分のパンです。34kgの粉を混ぜるのは相当な重労働です。おそらく貧しい女性か、奴隷や下働きの女性だったでしょう。神の国の実現の担い手となる女奴隷の話です。

パン種とは要は腐りかけのパンです。当時は残って腐りかけたパンを粉に混ぜてパンを発酵させたのです。これのおかげでふわふわのパンになります。聖書におけるパン種は不浄、悪、腐敗の象徴としてよく登場します。イエス様の教えた神の国とは不浄を象徴するパン種が大量の粉の中に混ぜられていくイメージです。パン種もからし種も、距離を取りたい対象です。しかし神の国では違います、神の国ではそれらは混ぜ合わされるのです。

私たちは、神の国とは汚れがなく、不純物が徹底的に取り除かれた先にあるのだと想像します。でもイエス様の神の国、神様が喜ぶ世界とは人やものが混ざり、やがて憩いの世界となるのです。

からし種とパン種を聖書の教えと置き換えてみましょう。もしかすると聖書の教えは自分とは相いれない価値観かもしれません。しかしそれから全体が変化し、神様の理想へと近づいてゆくのです。からし種とパン種をそれぞれの出会いと置き換えてみましょう。人生には自分と全然違う人との出会いがあります。私たちはそれにイライラしながら生きています。でも神様はきっと混ぜ合わせてくださるお方です。私とあの人をパン種と粉のように、どちらがパン種でどちらが粉だかはわかりませんが、神様はこの二つを混ぜ合わせ、パンとするお方です。神様は私を、私と違う人や違う教えと出会わせ、そしてまぜこぜにします。そこが神の国なのです。

私たちの次の1週間、どのように自分と違う人と共に、聖書の教えと共に、生きてゆくことができるでしょうか。それぞれの場所で神の国が実現するように願います。お祈りします。

 

「誰も置き去りにしない」ルカ15章1~7節

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

ルカによる福音書15章4節

 

信仰入門というテーマで宣教をしています。今日は100匹の羊と羊飼いの話をします。国連では「持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)」を掲げています。それは「誰も置き去りにしない社会」を作る目標です。大きな開発をよりも、小さくても持続可能な開発をたくさんすることが目標です。そのように世界は「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。

「誰も置き去りにしない社会」と聞いて、置き去りにされた1匹の羊をめぐる物語を思い出します。聖書は2000年前からSDGs、誰も置き去りにされない社会を訴えていました。しかし、そのような社会はこれまで実現できずにいました。今日は聖書から誰も置き去りにしない社会と、生き方を見てゆきたいと思います。

ある時、羊飼いと100匹の羊がいました。しかし羊飼いは羊を1匹見失ってしまいました。これでは羊飼い失格です。しかし羊飼いは間違えを犯してもやはり100匹の羊飼いです。羊飼いは99匹の羊を野原に置き去りにして1匹を探しにいきます。それは非合理的ですが、羊飼いは1匹を探しに出かけます。羊飼いは1匹でも、置き去りにしないのです。羊飼いは羊を見つけ出し、再び仲間に加えます。

この物語から私たちの社会、私たちの生き方について考えます。私たちの社会は1匹を置き去りにしてしまう社会です。多数を優先し、少数者・マイノリティーを置き去りにしてしまう社会です。私たちはこの物語を通じて神様から、誰かが置き去りにされていないか注意を促されています。

この羊飼いと私たちを重ねます。私たちはいつも1匹を見失ってしまう存在です。でも羊飼いの仕事は1匹も置き去りにしないことです。99匹を説得することです。私たちも一人も取り残さない社会を目指してゆきましょう。

私たち自身を99匹の羊と重ねる読み方も大事です。私たちはいつも自分を多数派、自分が普通、自分が優先されて当然と思ってしまう存在です。そうではなく私たちは1匹のために多少の危険や遅れを引き受けてゆきましょう。

私たちは誰一人置き去りにしない社会、世界、家族、教会を願い求めてゆきましょう。羊飼いのように1匹を見失わないようにしましょう。もし見失ってしまってもその1匹を一生懸命に探す者でいましょう。そして99匹のように、1匹のために足を止め、待ち、共に100匹となってゆきましょう。私たちがいる、それぞれの場所で、そのような人がいないか、私たちはよく見つめて1週間の生活をしましょう。それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。お祈りします。

 

「パンを食べる儀式の紹介」ルカ22章14~23節

イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。

ルカによる福音書22章19節

 

信仰入門というテーマで宣教をしています。今日は、キリスト教の「主の晩餐」という儀式をご紹介します。この儀式は礼拝の中で、小さく切り分けられたパンを食べて、小さいグラスに入ったぶどうジュースを飲むという不思議な儀式です。私たちの教会では毎月第一日曜日に行っています。食べているのは普通に市販されている食パンとブドウジュースです。また教会ごとに少しずつ作法が違います。このパンを食べると聖なる者になるのではありません。これは聖書の話を思い出すためにあります。教会風に言うと、イエス様を「記念」するためです。

皆さんにも記念日があると思います。記念日は、その日の出来事を思い出し、これまでの人生に感謝する日です。今日の儀式も「記念」として行われます。目的はイエス様との食事、イエス様との時間を思い出すことです。そしてそこから今までの人生を振り返り、感謝することです。

なぜ食べる事と飲むことによって記念することになったのか、それはイエス様が聖書の中で何度も食事をしたからです。聖書には様々な食事があり、それらを思い出すために主の晩餐という儀式があります。今日は様々な食事の中でも「最後の晩餐」と呼ばれる箇所をご紹介します。

イエス様の一緒に食事をする活動、そして互いを愛し合うという教えは多くの人に広がりました。しかしそれを気に入らない勢力もいました。そしてイエス様は十字架に架けられ殺されてしまいます。その時、弟子たちは逃げ出しました。

イエス様も自分の危険に気づいていました。だから弟子たちと最後の食事をすることにしました。最後の晩餐です。この食事には反省や悔い改め、自分の悪いところを点検する目的はありませんでした。イエス様はこの後、君たちは私を裏切ってしまう、私の教えを忘れてしまう。だけど、私と一緒に食べたこと、一緒に過ごしたこと、教えられた愛を忘れないようにしなさい。パンとワインの儀式を繰り返して、私と一緒にいたことを記念し、思い出しなさいと言ったのです。

この後、私たちは主の晩餐を行います。このパンとブドウジュースはイエス様の愛の教え、生き方、十字架を象徴するものです。私たちはそれを思い出すために、記念するために、この儀式を持ちます。そして私たちは神の国を願ってこの儀式をします。神の国、神様が求める愛と平和にあふれる世界が来ること、その時をイエス様とまた一緒に祝うことが出来るような時が来ることを願って、私たちはこの儀式を行います。私たちはパンを食べブドウジュースを飲むことによって、イエス様の生き方を思い出し、その生き方を自分の生き方とします。神の国を求めてこの主の晩餐を繰り返します。賛美の後、主の晩餐を行いましょう。お祈りします。

 

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「失われた関係のたとえ」ルカ15章11~32節

彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。ルカ15章20節

 

信仰入門というテーマで宣教しています。今日は放蕩(ほうとう)息子(むすこ)という超有名なお話をご紹介します。ここから神様の無条件の愛と、他者との関係について考えます。

ある日、弟は父から相続した土地を売って村を出ます。彼は家族や村人とのすべての関係を絶ち切って遠い国へ行きました。そこで彼は自分ためだけにお金を使いました。しかし飢饉が起きた時、彼にはお金も、助けてくれる関係もありませんでした。彼は「雇い人」として家族と村に帰ろうとします。

父は弟を大歓迎して迎えてくれました。父は伝統的には神様に重ねられます。ここでは神様が人間をどのように迎え、絶たれた関係を回復してゆくかが表されています。神様は正しい人にだけ走り寄るのではありません。神様はただ神様の方から、私たちを見つけ、走り寄り、抱きしめて下さいます。それが神様の無条件の愛です。その愛に励まされて、力をもらって、私たちは人生をやり直すことが出来るのです。父は宴会を設け、村の人々にも弟をもう一度受け入れてもらえるように、取り計らいます。これによって弟は元の関係を回復し、共同体に戻ることができます。

しかし兄は弟の帰りを喜びませんでした。兄は宴会の横で大喧嘩し、宴会を台無しにします。もう一度その関係は壊されます。関係を断ち切ろうとするのは弟も兄も同じです。でも父は何とか兄弟たちと村人をつなぎ合わせようとしています。

私たちは父である、神様のような、寛大で、無条件の愛を持って生きたいと願います。私たちの人生には関係が切れてしまうことがあります。でも関係をどのように回復し、持ち続けるかを模索しながら、生きてゆきたいと思います。そこに父である神様からの助けと導きがあり、関係が回復できるように祈ります。私たちも父のように関係の回復をあきらめない生き方をしてゆきたいと願います。この物語の結末は描かれていませんが、関係は回復できたのでしょうか?

もう一つ、この物語を家族全体の物語として解釈します。この物語は家族崩壊の物語です。この家族はずっと以前からその関係に問題がありました。家族との関係にどのように向き合うかというのもここから示されているテーマです。

この物語から私たちは何を学ぶでしょうか。父である神様から離れるとは、自分だけよければよいという生き方をすることです。それは必ず行き詰ります。神様はそのような生き方をする私たちを見つけ出し、走り寄り、抱きしめ、再び仲間との愛と助け合いの関係の中に戻してくださいます。神様は私たちの関係を回復してくださるお方です。私たちも父のように、他者との関係を大切にしましょう。

私たちは、不完全な関係や不完全な家族の中でどのように生きたら良いのでしょうか。私たちは今ある関係を大切にし、よりよい関係になりましょう。その力を神様からいただきましょう。神様が私たちを向き合わせる、つなぎ合わせる、よりよい関係を創り出す力を与えて下さるはずです。お祈りします。

 

「よきサマリヤ人のたとえ」ルカ10章25~37節

イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」ルカ10章37節

 

信仰入門というテーマで宣教しています。今日はよきサマリヤ人のたとえからお話をします。この話は本来、宗教指導者とイエス様との会話です。教会に長く集う人も最近の人も、今日の個所を一緒に読んでゆきましょう。

ある人が、エルサレムで礼拝をした後、治安が悪くて有名な道を通って帰りました。彼はそこで追いはぎにあい、意識不明の重体となります。そこに宗教指導者である祭司が通ります。祭司は彼を無視することにしました。まるで倒れている彼をまたぐかのように、無視して通り過ぎたのです。おそらく祭司がけが人を無視して家に帰ることを正当化できる理由は何一つありません。次に通ったレビ人も同じです。

次に通ったのはサマリヤ人でした。サマリヤ人とはユダヤ人、特に祭司やレビ人から激しく差別されていた人たちです。このサマリヤ人がケガ人を助けます。33節でケガをしている人を見て憐れに思ったとあります。イエス様がよくこの感情を持ちました。それは強い共感を表す言葉です。普段から差別されていたから、その痛みに共感できたとも言えるでしょうか。そして彼はおそらくある程度の経済力のある人です。彼は強盗から最も狙われやすい状況でした。しかし彼は危険を冒します。

イエス様はこのたとえ話をした後、誰が彼の隣人となったかと聞きました。もちろんケガ人に具体的な助けをした人が、隣人となったのです。困っている人を助けることが、愛することだとイエス様は語ったのです。

そしてイエス様は37節「行って、あなたも同じ様に行いなさい」と言います。困っている人を見過ごさず、助ける人となりなさい、それが愛ですと言ったのです。聖書は私たちに他者を愛し、助ける生き方を示しています。学ぶだけ、聞くだけで終わってはいけません。私たちはサマリヤ人と同じ様に愛の業をおこなってゆきましょう。困っている人を見過ごさずに、関わる人になりましょう。

そしてこの話は差別の問題にも特別に触れています。私たちの社会の中にはまだ根強い差別があります。それがいかに不必要であるかも示しています。私たちはきっと通りすぎてしまっている者です。私たちには愛すべき人がいるはずです。そして私たちはきっと誰かに助けられている者です。私たちはきっと私たちが差別している人々から助けられているはずです。

聖書を学んだ私たちは誰かに、はらわたから共感し、愛の行動することができるでしょうか。差別や自己保身を捨てて、他者に関わることができるでしょうか。聖書を聞き、学ぶだけではなく、愛の行いをすることができるでしょうか。それが私たちがイエス様から頂いた問いかけでしょう。私たちは誰を愛するのでしょうか?

信仰とは生き方です。この細く、険しい道が人生でしょう。私たちの人生には災難、裏切り、無関心、差別、出会いがあります。私たちはその道をどのように歩むのでしょうか。礼拝を終えた後の道をどのように生きるのでしょうか。具体的な愛を持ってその道を歩みたいと思います。お祈りします。

 

「幸いを宣言する神」 ルカ6章20~23節

 

今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。       ルカ6章21節

 

今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。今日の個所は、イエス様の説教として有名な個所で「幸いである」という響きが親しまれている箇所です。イエス様は2000年前、現在のパレスチナで活動をしていました。たくさんの人が従いました。その人々の多くは極めて貧しい人々だったと言われています。イエス様に従ったのは貧乏で、お腹が空いていて、泣いていて、元居た場所から追い出されてきた人の集まりだったのです。

しかし今日読んだ箇所では驚くべきことがあります。それはイエス様が、どう見ても幸せには見えない人々に向けて「あなた方は幸いである」と断言をしているという事です。イエス様は「幸いだ」「大丈夫だ」という希望を断定的に、一方的に宣言しています。それはイエス様が彼らに約束をしているとも言えるでしょう。涙は笑顔に変わる、追い出されて嫌われていた人は受け入れられ愛される、そう約束をしているのです。これは今悲しくても笑える日が来るという極めて単純な希望です。明るい未来がある、大丈夫だということです。単純で、幼稚とも思える希望が聖書には書かれています。

ここには、神様から幸いについて理由の説明が一切ありません。この宣言には一切の根拠と説明がないのです。なぜ大丈夫なのか、なぜ幸せなのかまったく根拠や理由が示されないまま、ただ神様があなた方は大丈夫だ、あなた方は幸いであると一方的に宣言しているのです。神様はこの様にまったく根拠のない幸いを宣言します。神様は一切の根拠なく、一切の変化や努力も求めず、ただ私たちの幸いを約束しています。でも神様を信頼する時、私たちにとってそれは大きな希望、大きな安心へと変わってゆきます。私たちの希望は極めて単純です。

私たちの生き方について考えます。人生にはなんともならないことが多いものです。誰かに簡単に「大丈夫だ」なんて言われたくないことばかりです。誰かの苦労に簡単に「大丈夫だ」と言ってあげることができないことばかりです。でも神様は違います。神様はとても単純です。神様は「大丈夫」「幸いである」「なんとかなる」と言っているのです。私たちはそんな単純な希望を信じています。私たちの中に何か根拠があるわけではありません。でも神様が大丈夫、幸いであると言うならば、そうなるのかもしれないと思って歩んでいるのです。だから神様を信じる人にとって、神様を信頼する人にとって、この言葉は大きな希望の言葉なのです。

このように神様を信じると、根拠のない希望が与えられます。神様を根拠とした希望が与えられます。神様から一方的にいただく希望が私たちに迫って来るのです。みなさんにもその希望を受け取って欲しいと願っています。「幸いだ」と宣言してくださる神様を信頼し、共に歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

「どう信じるか、復活」ルカ24章1~12節

使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。ルカ24章11節

 

イースターおめでとうございます。今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。教会は信じている人の集まりというよりも、信じたいと願い、探している人が集まる場所です。疑問や問いを持つ集まりです。でも長く教会に通っていると疑問だったことを忘れてしまいます。そこに新しい方が来て、わかりませんと質問をしてくださるのはとても貴重です。他の人が疑問を思い出すことができます。

今日は特にイースターという日です。キリスト教の信仰の中心には、十字架で死んだイエスが復活したという復活信仰があります。しかしクリスチャンでも、復活の出来事を猛烈に信じている人ばかりではありません。復活とは何でしょうか。

復活とは心肺蘇生を指すことではないでしょう。イエスは間違えなく、徹底的に十字架で死にました。そこから何かが起きたのです。肉体は死んでも魂がみんなの心の中に残ることが復活だと考えるのはどうでしょうか。それならば、信じるというハードルは低いです。でもイエスはこの後「私には肉も骨もある」と言っています。復活を心の中の問題にしてはいけません。心理学から考えると復活は幻視体験です。行き過ぎた復活の理解かもしれませんが、ヒントもあります。単に心の中の問題ではなく、弟子たちは実体験としてはっきりと見たのです。これは聖書の記述と多くの共通点があります。

私個人はまだ結論がでないままです。でも少なくとも復活は、十字架の死で終わらない希望があったことを指し示していると思います。死で終わらない希望、絶望の先にある希望を指し示していると理解しています。そのように問い続けるのが信仰です。今日の聖書箇所からそのことを見ましょう。

今日はルカ24章1~12節をお読みしました。徹底的に死んだはずのイエスの遺体がなくなってしまいました。女性たちは何が起ったのかまったく理解できず、困惑し、悩んでいます。もし女性たちが復活を信じていたのなら、すぐに復活したのだと確信したはずでしょう。しかしそうはなりませんでした。男性たちもまた復活を信じませんでした。たわごとだ、愚かな話、馬鹿な話だと思ったのです。復活なんてあるわけなかろうと言ったのです。復活がキリスト教の信仰の中心です。しかし、復活なんてあるのだろうかと思ったのです。

私はこの気持ち大事にしたい、大事にしてほしいと思います。おそらく信仰は信じるか、信じないかはあなた次第というような、二択ではありません。信じたいけど信じられない、そのはざまに信仰があるのです。

クリスチャンになるとは、信じたいという願いを持つことと言えるでしょう。私たちは信じて集まっていると同時に、信じられないけど信じてみたい、私たちはそのような集まりです。今日の聖書によれば、信じられないことから始まる変化がきっとあるのです。これから共に探し続けてゆきましょう。お祈りします。

 

「愛に生きよう」ルカ23章32~49節

議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」         ルカ福音書23章35節

 

信仰入門というテーマで2か月間、宣教をします。キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれますが、愛とは何でしょうか。日本語で「愛」は「恋愛」を指す、ドキドキする気持ちを表す言葉です。しかし聖書の愛とは、もともとアガペーという言葉です。アガペーは恋愛とは違い「大切にする」という意味です。相手を大切に思うことが愛する、アガペーすることなのです。ですから好きになれないところがあってよいのです。嫌いでもお互いを大切にするのがアガペーです。イエスは人々にお互いを大切にするように教えました。そしてその考えに深く共感する人がたくさんいました。

しかしイエスは十字架刑で殺されてしまうことになります。十字架刑とは何週間も苦しみながら死んでゆく極めて残酷な死刑の方法です。なぜこの残酷な処刑装置が、キリスト教のシンボルなのでしょうか。それは十字架に到るまで、他者を愛し、大切にしたというイエスの姿を忘れないためです。そのことは私たちの聖典である、聖書に書いてあります。

今日の場面はイエスが十字架に架けられている場面です。イエスは十字架上で、様々な人から侮辱をされています。35節では政治家である議員から、36節では兵士から、39節では、同時に十字架刑になっている犯罪者からです。3人は口をそろえて言います。「自分を救え」。イエスを殺そうとした人とは、自分のためだけに生きてきた人でした。彼らにはその生き方がまったくわからなかったのです。なぜ自分のためではないのか?自分にメリットがないのになぜそのような生き方をするのかと疑問に思ったのです。だから彼らは「自分を救ってみろ」と言うのです。

しかし、登場人物の中にはごく少数、イエスの十字架の痛みを知り、共感する人がいました。同じく十字架に架けられている二人の中の一人です。彼は最期が迫ってくる時、自分ではなく、他者の痛みに共感し、他者を大切に思いました。

この十字架の出来事の上に、イエスの生き方が凝縮されています。まず自分のために頑張れ、まず自分、自分を優先させろ、そのような時代と声の中で生きた人がイエスでした。自分が大事、その思いに飲み込まれた人々が、イエスを十字架に架けたのです。しかし、イエスは最後までアガペーを貫いたお方です。私たちは苦難の時もアガペー、愛をもって生きることを忘れないために十字架をシンボルにしています。

私たちがこの宗教を信じているのは自分が天国・楽園に行くために信じているのではありません。どこまでも愛・アガペー・他者のために生きるために信じているのです。私たちもこのような愛を実践したいと願って信じているのです。

そして私たちはこの生き方に一人でも多くの人に加わって欲しいと思っています。その生き方は、毎週の礼拝の中で、その愛・アガペーを確かめ、それぞれの場所愛・アガペーを実践するという生き方です。そのような仲間が一人でも増えて欲しいと願っています。お祈りします。

 

「神はあなたを輝かせる」 出エジプト34章28~35節)

モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。

出エジプト記34章29節

 

私たちは今月、旧約聖書を読んでいます。モーセは神様からの言葉を聞くために、シナイ山に登るように言われます。28節でモーセは山の上で四十日四十夜、主と共に留まりました。長い期間、山の上で、神と二人きりで、共にいたのです。

人間は夫婦や、家族、友人、ペットと長く一緒に時間を過ごしていると、言葉やしぐさ、考え方や物の見方、習慣、顔や表情まで似てくるものです。そのように人間は長く時間を共にすると、似てきてしまう者なのでしょう。モーセは長期間、神様と二人きりで共にいました。それだけ神様と一緒にいれば、神様に似てくるでしょうか。山から降りてきたモーセを見た人々は彼の顔が光り輝いていたので驚きました。モーセは神様との濃密な時間を過ごし、神様と少し似た顔つきになって帰ってきたのです。神様と一緒に居続けるということが、人の表情を変えてゆくのです。

私は、そのようなことが毎週の教会で起っていると感じます。私はたくさんの光り輝く顔を知っています。それがモーセと、毎週のこの教会で起きていることです。

29節によればモーセ自身は光っていることに気づいていませんでした。私たちも同じように、教会では一人一人が自分では気づかない光を放っています。しかしモーセは自分の顔に覆いをかけ、顔を隠すようになりました。本当の自分を隠し、仮面をかぶらなければいけなかったということかもしれません。34節、モーセの顔の覆いは神様の前では外されたとあります。神様の前では本当の自分が出せたのです。誰も、本当の自分の姿に覆いをかぶせる必要はありません。その光り輝く顔を出してよかったのです。私たちはその顔の輝きに、覆いをする必要はありません。教会で見せる表情や態度のまま、毎日を生きてゆけば良いのです。

私たちは神様の言葉をずっと聞いていると、神様とずっと一緒にいると、神様に似てきます。神様と長く一緒にいればいるほど、その顔は輝いてくるのです。だから私たちは神様との時間を大切にしましょう。そして豊かな表情に、恵みをいただいたその顔に、覆いはいらないのです。恵まれたその顔で毎日を送りましょう。

福音書にはイエス様も同じように、山の上で顔が輝く出来事がありました。イエス様も神様からいっぱいの光を受けて顔を輝かせていました。そして大勢の人々が待っている山の下へと下ってゆきました。山の下で多くの人に出会い、人々を励まして生きてゆかれました。礼拝の場所から、神様との出会いから、神様の言葉、光をいただき人々と出会いに行ったのです。その歩みは十字架まで続きます。私たちもそのように歩みましょう。

この礼拝で神様の言葉、光をいただきましょう。神様とずっと共にいて神様に似る者となってゆきましょう。そしてそれぞれの場所で輝いてゆきましょう。心に覆いをせずに、輝いたままの姿で、1週間を過ごしてゆきましょう。お祈りします。

 

「神はどこにいるのか」イザヤ63章7~14節

 

彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い

愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。

イザヤ63章9節

 

今は教会の暦ではレント・受難節です。イエス様の十字架を考える期間です。新約聖書のイエス様は人々に愛し合い、分かち合って生きるようにと教えました。しかしその教えは受け入れられず十字架刑という大変な苦痛を伴う刑で殺されました。神様と等しい存在であるイエス・キリストが十字架に架けられて死んでしまったということをどのように考えればよいでしょうか。神様は他者のために生きようという素晴らしい教えを広げようとしていた人が、十字架に架けられて、もがいている時、どこで、何をしていたのでしょうか。それを考えるのがレントです。

このことは私たちにもつながる問題です。私たちが他者のために生きようとするときも必ず苦痛が伴います。その時、神様はどこにいるのでしょうか。今日は旧約聖書・イザヤ書から、私たちが苦難の時、神様がどこいるのかを考えたいと思います。

神様は私たちをこどもとしてくださるお方です。当時の宗教の多くは戦争に勝った王様が、神様のこどもと考えられていました。王様以外の人間は神の子ではなく、ただの人間・生き物でした。しかしイスラエルの神は戦争に負けた弱い国の民衆一人一人に、私のこどもと呼びかけたのです。神様は戦争に勝った王と共にいるのではなく、すべての人、特に苦しんでいる人に私のこどもと呼びかけるのです。神様はどんなに苦しく、負け続けても、共にいるお方なのです。

9節には神様はその苦しみを自分のものとするとあります。神様はあなたの苦しみを見て、自分まで苦しいと思うお方です。何事にも動じない神様ではありません。11節以降には「神はどこにいるのか」という私たちと同じ問いと答えがあります。神様は共にいるのです。苦難の時も、主が共に苦しみ、主が新しい場所へと導いてくださるのです。神様は私たちに希望があると言っています。私たちが困難な時も、神様は必ず安心して暮らすことが出来る場所へと導いてくださるのです。

私たちはそのことを今日、旧約聖書・イザヤ書から知り、そしてもっとはっきりと、イエス・キリストの歩みから知ることができます。イエス・キリストは神と等しいお方でしたが、人間として地上に来られ、私たちと共にいる者として歩まれました。そして十字架で「神はどこにいるのか」と叫びました。それほどまでに人間の苦難を知ったお方でした。神様はどこにいたのでしょうか。神様は叫びをあげたそこにいました。そして神様は復活によって苦難と死で終わらない希望を示しました。

レント・受難節はただ痛くてかわいそうと考える時ではありません。それは神様が私たちの苦難の時、共に苦しんでいることを感じる時です。私たちには苦しくとも、神様が共にいるのです。苦しい時も神様が新しい道を備えて下さるのです。神様は死さえも超えて、新しい希望を示してくださるお方なのです。今日、十字架を覚え、そして苦難のただなかにあっても共にいる神様を覚えましょう。お祈りします。

 

「教会と原発」エゼキエル3章16~21節

 

人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。  エゼキエル3章17節

 

今月は「旧約聖書」というテーマで宣教をします。今日は東日本大震災祈念礼拝です。私は「さよなら原発ひらつか」という市民活動に参加をしています。原発は犠牲のシステムの上に成り立った発電方法です。原発のある町はひとたび事故が起きれば命も、家族も、ふるさともすべて奪われる危険を都会のために引き受けています。「核のゴミ問題」も深刻です。行き場所のないゴミが増え続けています。この問題は「トイレのないマンション」と言われます。私たちの教会も昨年トイレが壊れましたが、あれが日本の原子力政策です。トイレのないまま、再稼働、運転期間延長をしようとしています。まったく先のことを見ていない政策でです。

私はこの問題、一人一人の命を大切にする教会だからこそ、できることがあると思います。そして教会は今だけではなく、永遠を見渡してきました。今のこの問題を、電気の問題ではなく、命のこととして考えこの先々のことを見渡すことができるのが教会です。教会の視点でこの問題を見て、社会に訴えてゆく必要性が大いにあります。今日は教会の社会的な使命について聖書から考えたいと思います。

エゼキエルは神様から預かった言葉を取り次ぐ「預言者」です。未来を言い当てる「予言者」ではありません。神様は17節で、この預言者の役割は見張り役なのだと言っています。見張り役とは高い塔から遠くを見渡し、外から敵が来ないかを見張る役割です。彼らは地平線の先にある小さな変化に目を向けます。危険を知ったら、すぐにラッパを鳴らし住民に伝えます。それによって住民は危険に準備することができます。もし見張りがいなかったら準備の時間はありません。もし見張りが自分のことだけしか考えない人間で、敵を見つけても自分だけ逃げたとしたら、それはとても無責任です。彼は自分だけのためではなく、町のすべての人のためにいるのです。人々に危険を警告するのが、見張り役の責任・使命です。神様は預言者エゼキエルをこの見張り役に任命をしました。その働きはとても社会的な役割です。

預言者がしっかりと見張り役の使命を果たすとき、誰も命を落とすことがなく、すべての人の命が守られます。神様は悪人が滅ぶことを望んでいるのではありません。再び神のもとに戻ることを望んでいます。だからこそ神様はそれに気づくように、私たちに語り掛けています。

神様はこのような預言者の役割を教会へ、一人一人へと託しています。教会の役割は内側だけではなく、世界と時代の一番遠くを見渡すことです。今ではなく、永遠に目を向け、次の世代に目を向けるのが役割です。教会ははるか先、命について、こどもたちについて考えるのが使命です。教会と一人一人は社会の中で先を見つめ、命を守る見張り役の使命をいただいています。私たちはそれぞれの場所で、共に預言者として働いてゆきましょう。お祈りします。

 

「聖書とこひつじ食堂」ルカ9章10~17節

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 ルカ9章16節

 

今月は地域協働というテーマで宣教をしています。私たちの教会では「こひつじ食堂」を開催しています。こひつじ食堂で提供したメニューは地域の人々の記憶に焼き付いています。食事の楽しさや思い出は教会のクリスマス愛餐会も同じでしょう。私が一番好きだったのはボリビア料理のピケマッチョです。食べることは思い出作りです。一緒に食べたことは記憶に残るのです。

私が食堂で一番おいしかったのはブリのから揚げです。獲れたてのブリをたくさんもらって、から揚げにしたのが、忘れられない味、大事な思い出です。先日はパンをもらいました。とうとう私たちは地域の方から魚をもらい、パンをもらうようになりました。そのようにして提供した食事は5000食を超えています。

今日私はこの個所を改めて地域協働の視点で読んで感動しました。私たちの教会とのたくさんの共通点を見つけました。私たちの教会は魚とパンが集まり、5000人が食事をする教会です。私たちはいまその体験の中にいるのです。今日はそのような地域協働の視点で聖書を読みたいと思います。

イエス様は弟子たちに13節「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言います。私には、あなた方が食堂をしなさいと聞こえます。イエス様は一緒に食べるために働くように私たちを促しています。弟子たちはきっと、私たちと同じように戸惑ったでしょう。さらにパンも魚もありませんでした。しかしどこからか魚もパンも集まって来たのです。そして足りないと思っていたものは余るほどだったのです。

余っていることはどんな意味を持つでしょうか。最初は絶対に無理と思っていたのが、終わってみたら、もうちょっとできたねと思えたということです。これも私たちは同じ経験があります。いつも終わった後、また次も頑張ろうねと思えるのです。

5000人の食事は人々の記憶にしっかりと残りました。忘れられない食事としてみんなの記憶にしっかり残り、語り伝えられ、聖書にも記録されました。この食事は主の晩餐につながってゆきます。イエス様との食事を忘れられない食事として、イエス様を想起するために、食事を伴う儀式である主の晩餐が持たれたのです。

私たちの食堂もこのような機会になっているでしょう。ここで食事をしたことは地域の人の記憶にしっかりと残っているでしょう。いつ思い出してくれるでしょうか。ブリを見た時、パンを見た時かもしれません。その時、教会の十字架を思い出す人がいるかもしれません。そのように食事の思い出と共に、私たちの教会があります。食事の思い出と共にイエス様がいるのです。これも私たちと同じです。イエス様との食事を思い出すのが主の晩餐です。私たちはパンを食べて思い出すのです。

私たちはこのように、地域と関わり、地域との共食を大切にしてゆきましょう。地域の人々と一緒に5000人になってゆきましょう。お祈りします。

 

「キリスト教と宗教2世」ルカ8章4~15節

種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。            ルカ8章5節

 

今日は宗教2世について考えます。バプテストは本人の自覚的な信仰を重視するグループです。宗教2世はいない「はず」です。キリスト教の宗教2世も声を上げています。「日曜日に部活に参加できないのがすごく嫌だった。欠席の理由も言えなかった」「結婚したら離婚してはならないと言われた」「恋愛や結婚は信者以外には許されていなかった」など。特に根の深い問題は、聖書の教えに従わないと幸せになれない、礼拝に出席しないと救われないといった類の言葉です。恐怖の教えは相手の心を強く縛りつけ、人を自由にするはずの宗教が人の自由を奪うのです。失敗はあなたの不信仰が原因だと教え、信じればうまくゆくと心が支配されてゆくのです。

私はそのような考えは福音ではなくもはや「呪い」だと思います。私たちは信仰を持つこととは縛られることではなく、希望につながることなのだと伝えたいのです。そのことを今日の聖書の個所から見てゆきましょう。

善い心には豊かな実りがある。神様は、立派な人には良いものを与え、悪い人には悪い物を与えるお方なのでしょうか。それならば他の宗教の神様とあまり変わらないような気がします。実は9節以降は、後の時代の人間が加えた可能性が指摘されています。4~8節まででイエス様が伝えようとしたことを想像します。

この話の主人公は「種まきをする人」です。農夫は豊かに実ることを願って種まきをしました。収穫の喜びが来ることを神様に祈りながら、信頼して種をまいたのです。しかし一生懸命な働きにも、時には失敗があります。完璧でなくていいのです。そしてどんなに頑張っても不作の時があります。それが種まきです。

私はイエス様が、すべての事がうまくいくわけではないけれども、でも実りが必ずあることを期待し、希望を持って、祈り、働きを続けよう、そう語っていると感じます。何をするにしても、それが良い結果になるかどうかわからない。でも大丈夫。神様を信頼して、実りを期待し、祈り、取り組もう、一生懸命やってみよう。安心して種をまこう。神様は一生懸命に種をまく人を、一生懸命生きている人を見捨てないはず。イエス様はそのように伝えているのではないでしょうか。

私たちの宗教、イエス様の教えは誰か否定し、縛り、自己肯定感を下げるものでもないはずです。イエス様は私たちに、恵みに期待し、祈り、日々を一生懸命生きるように教えたのです。失敗の中でもあなたが活き活きとすることができるように、あきらめずに生きるようにと教えたのです。

福音は誰かを縛るため、誰かを反省させるために、誰かを縛り付けるためにあるのではありません。福音とはあきらめそうになっていたことを、神様に信頼して、やってみようと思わせるものです。福音とは、もうだめだ、何をやっても変わらないという思いから、やってみようと思わせるものです。福音とはそのように人々を解放し、自由にするのです。その福音を伝えてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

「屋根に穴の開いた教会」ルカ5章17~26節

しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。ルカ5章19節 

 

今日の宣教のテーマは「地域協働」です。今年のクリスマス行事にはたくさんの人が来ました。こひつじ広場に遊びに来ていたこどもが、初めての方、教会員の家族、YouTubeでの参加など。きっと平塚教会は以前より入りやすい教会になっています。

私たちは今までもずっと、地域の人たちを歓迎してきました。しかし、今まではなかなか伝わりませんでした。でも私たちがもう一歩、地域に踏み出した時、いろいろな方が訪ねてくださるように変化が起きてきています。もっと入りやすい教会、もっと地域と協力する教会になりたいです。ずっと建っていたいです。そのために修繕と土地の売却の事も進めてゆきたいと思います。今日の聖書に登場する教会も私たちと同様に、屋根に穴が開いています。そしてその穴から新しい仲間が加わってゆく物語です。一緒に聖書を読みましょう。

今日私の目に留まったのは、19節「群衆に阻まれて」礼拝堂に入ることができなかったという箇所です。群衆に阻む気持ちはなくても、後から来た人にとっては阻まれたように感じました。なんか入りづらい雰囲気だったのです。しかし彼らはこの集会に大変興味がありました。入り口ではない場所に、穴をあけて、新来者は入って来たのです。屋根には大きな穴が空きました。もう誰も入ってこないという、内側の人々の思い込みを超えて、屋根から新しい仲間が入って来たのです。それは天に穴が空いて新しい風が吹いたという出来事でした。その穴は教会に今までにない在り方、今までにない関わり方をもたらす風穴です。新しい風が礼拝堂に吹いたのです。そしてイエス様はそれを素晴らしい信仰だ「罪は赦された」と言っています。

もしかしたら私たちの地域活動は、この屋根に開いた穴なのではないかと感じます。私たちにとっての「入り口」ではない場所から仲間が与えられる、その穴です。私たちの思いを超えて、屋根から入って来る仲間がいます。屋根から入って来る仲間も大歓迎です。礼拝につながる、教会につながるのはどんな入り口でもいいのです。この礼拝を、この会堂での体験を共にすることが大事なのです。この穴はきっと神様が開けて下さった穴です。神様は私たちの地域活動によって、教会に穴をあけ、新しい仲間を与えて下さいます。私たちはこの穴をもっと広げてゆきましょう。

神様は私たちの教会に風穴を開けて下さるお方です。その風穴からいろいろな人が入って来ます。神様はどんなつながり方も歓迎するお方です。私たちはこの群衆のように優しいまなざしで受け止めてゆきましょう。一緒に礼拝をしてゆきましょう。地域との活動を続けてゆきましょう。そして、もっと入りやすい教会、入るきっかけがたくさんある教会になってゆきましょう。神様がそのように私たちの教会の屋根にも風穴を開けてくださることを願います。神様が私たち一人一人の心にも思いもよらない穴をあけ、そこから新しい風を吹き込んでくださることを願います。私たちはその風に吹かれながら、礼拝しましょう。お祈りします。

 

「歴史に働く神」ルカ21:4~9

戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。ルカ21章9節

 

今月は神学ということをテーマに宣教をしています。今回は歴史神学の視点で聖書を読みます。歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史と影響しあっているのかを考える分野です。西暦67年に起きたユダヤ戦争は、キリスト教の歴史上のターニングポイントのひとつです。エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊され、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。

神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教の信仰の中心が神殿での献げ物や、神殿の祭司でなくなりました。キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。キリスト教も世界へと散り、特に世界各地で出会った人に、イエス・キリストが伝えられ、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。今日は歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら、戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。

イエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。人々は絶望をしたはずです。終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。キリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は、それぞれの場所で、イエス様のことを伝えたのです。イエス様のことを福音書として書き記したのです。このように神様は歴史に働くお方です。

神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。そしてこの歴史は私たちにつながっています。

神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。それがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。

神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りします。

 

「聖書を朗読する神」ルカ4章16~21節

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。           ルカ4章16節

 

今月は「神学」というテーマで宣教をしています。今日は聖書を「実践神学」という分野の視点で見たいと思います。神学には4つの分野があります。聖書学・組織神学・歴史神学・実践神学です。中でも実践神学は私たちにもっとも身近な視点でしょう。キリスト教の信仰をどのように実践してゆくかを考える分野です。特に礼拝をどのように持つかは実践神学の大事なテーマです。今日の聖書個所によればイエス様は礼拝に参加し、聖書の朗読をしています。この個所から私たちの礼拝に大切なものは聖書だということ、当たり前ですがもう一度確認をしたいと思います。

私たちの教会では聖書朗読を司会者だけではなく、一部分を順番で担ってもらうことにしました。聖書朗読が順番となっているのはとてもよい雰囲気だと感じています。聖書を朗読する人は、それぞれのテンポやそれぞれの想像力で、聖書を朗読してくださいます。それは私の感覚とは違っていて、聖書を新鮮にいただくことができます。時々、なぜか聞いているだけで心が打たれるような気もします。聖書をかみしめながら礼拝できている気持ちがしています。このような聖書朗読の持ち回りが続いてゆくとうれしいと思っています。

聖書にはイエス様が礼拝に出席し、聖書の朗読をしたとあります。当時、聖書の巻物は大変高価なもので人々が自由に触れ、自由に読めるものではありませんでした。礼拝は聖書のみ言葉が聞ける貴重な機会だったのです。聖書の朗読は礼拝でしか聞けない話であり、読み返すことができず、聞き逃すことができなかったのです。だからこそ聖書の朗読が礼拝の中心だったのです。当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕はとても大切なものとされました。

礼拝で一番長く時間を取るのはこの宣教の時間です。しかし礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わかっても、わからなくても、寝ていても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉が中心にある限り、それが礼拝なのです。もし礼拝から聖書の言葉を無くしてしまうとどうでしょうか。どんなに歌って、どんなにいい話がされても、それは礼拝ではありません。

今日はイエス様が聖書を朗読した場面を読んでいただきました。巻物を渡されたイエス様はどのように聖書の朗読をされたのでしょうか。どんな意味だったのか、何を言おうとしたのかわからなくてもいいのです。でもそれをしっかりと受け止めて、聖書の言葉を大事にしてゆきたいのです。

今日は実践神学の視点で聖書を見ました。これからも私たちは聖書のことばを礼拝の中心にしましょう。聖書の言葉を私たちの生活の中心にしましょう。礼拝でのみ言葉から力をいただき、そのみ言葉を生活で実践してゆく者となりましょう。お祈りいたします。

 

「神はどんな方か」ルカ5章1節~11節

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」ルカ5章5節

 

1月は「神学」というテーマで宣教をします。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。神学は他の学問と同じように分野が分かれます。主には聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学の4つです。聖書学とは文字通り聖書の分析をする学問です。組織神学とは神、聖霊、人間とは何だろうとテーマごとに分けて研究する学問です。歴史神学はキリスト教が歴史にどのように影響を与え、影響を受けてきたのかを知る学問です。そして実践神学は今の私たちがどのようにキリスト者の生活を実践するか、そしてどのように礼拝・礼典をするのかを考える学問です。

今日は組織神学の視点で考えたいと思います。私たちの信仰告白がよい例です。聖書や歴史といった軸から少し離れ、神、聖霊、イエス、人間、救いについて考えます。そしてそこから、神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったお方だということ。すべての人間を愛に招いていることを見てゆきたいと思います。

神様とは、人間にイエス・キリストを派遣したお方です。神様はもともと旧約聖書の時代に様々な方法で、自分の思いを人間に伝えていました。しかしある時、神様はイエス・キリストを通じて、人間に自分のことを教えようと決断しました。今日のシモン・ペテロにとっては、ゲネサレトの湖畔でこの出来事が起きました。

イエス・キリストとは、神様からこの地上に、人間のもとに派遣されてきたお方です。神様の愛を指し示す存在として、人間に与えられました。イエス・キリストは人間の日常生活の中に現れるお方です。成果の出ない、無関心な人間に声をかけます。イエス・キリストの招きはこのように起こります。ふさわしい人間を招くのではなく、すべての人を招くのです。特に、落ち込んでいる人を選び招くのです。

人間とは、罪深い存在です。神は人を愛し、いたわり、助けることを求めています。罪とはその反対に、人を無視し、冷たく接し、困っているのに見ないふりをして助けないことです。人間は「人を愛せ」と教えたイエス・キリストに従うことによって、変えられてゆきます。「み言葉ならば」と再び行動する者へと変えられるのです。

救いとは、人間が人間を愛せるようになるということです。もう誰も愛せないと失望していた人間が、もう一度人間を愛そうと思えること、それが救いです。人を捕る漁師になるとは、人間を愛す者になるということです。それが私たちの救いです。

教会とは、このように救いに招かれた者の集まりです。教会はそのように人間を愛するために集められた群れです。私たちは愛し合い、大切にしあう様に招かれた群れなのです。そして教会は礼拝します。ペテロがイエス・キリストに出会い、イエスに膝まづいたように、教会も毎週、礼拝をするのです。

私たちは今日の個所から神様、イエス・キリスト、人間、救い、教会、礼拝について考えました。これからもこの主イエス・キリストから、主にある希望をいただいてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「ひと皮むく神」ルカ3章15~18節

今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行います。神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。私たちにはそれぞれの世代に良さと不足があります。そんな私たちは、お互いの命を祈り合いたいと思います。

麦を食べるには、麦の実の周りについているもみ殻を取る必要があります。穂は打穀された後、箕(み)というカゴに移され、空に舞い上げられました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。

もみ殻とは何を指しているのでしょうか。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。ヨハネもそのような厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。でもヨハネは同時「私より優れた方がやって来る」と言っています。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。

私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点、罪、悪い部分とも言えるでしょうか。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分は永遠の炎で焼き尽くされます。神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。

16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。しかしイエス様は弟子の履物の紐をほどき、足を洗ったお方でした。もみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。

私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。

 

【全文】「がんばれ 子ロバ」ヨハネによる福音書12章12~15節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。またこどもたちと共に礼拝できることも嬉しいです。こどもたちの声を聞き、その存在を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会では「こひつじ食堂」という名前のこども食堂を開催しています。ここは貧しい人が集うためだけの場所ではなく、地域との交流ができる食堂です。誰かと出会うことができる食堂です。毎回200食近く作り、1食200円で提供をしています。たくさんの人が利用していますが、それを支えているのは、たくさんのボランティアさんたちです。ボランティアの登録は60名以上、そのうち毎回20名以上の方がボランティアとして加わってくださっています。毎回のボランティアの半分以上は教会員ではない、地域の方です。先日からは9歳(小学3年生)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。教会に説明を聞きに来た時はお母さんと一緒で、とても不安そうな表情でした。でも「やってみる」と言ってボランティアをはじめてくれました。

初めはお母さんと一緒に参加して、徐々に慣れてくれればいいかなと思っていましたが、始めるとすぐに楽しくなって、もうお母さん帰って大丈夫と言って、一人で加わってくれています。今では人一倍、立派に手伝ってくれています。大人の間違いを指摘して、大人顔負けの働きをしています。その日の最年少ボランティアは9歳、最年長ボランティアは88歳でした。こひつじ食堂は9歳と88歳が力を合わせる食堂です。こどもがボランティアに加わったことで、いろいろな良い影響が出ています。雰囲気が変わってきています。まず他のボランティアさんが刺激を受けています。自分は運ぶ、自分は作るということに一生懸命だった人が、周りで手伝っている子どもたちを見回すようになりました。自分の作業以外に気を配るようになりました。そして、すごいね、すごいねと、他者をほめながらボランティアする様になりました。大人たちだけよりよい雰囲気かもしれません。他のこどもにも影響があり、私もボランティアをしたいというこどもも出て来て、7歳(1年生)のこどもも一緒に働いてくれました。

こひつじ食堂の利用者にも変化があるようです。自分のこどもと来た母親が、自分のこどもより小さい子がお料理を運んで来るのに、目を丸くしました。早く私の料理を持って来てほしいと思っていた大人も、こどもが運んでいるのならしっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て、食べ終わったこどもが自然と自分で食器を下げるようになりました。嬉しい変化です。その食事の風景を見て、これが本当に平和というものなのだなと感じました。

最初はどのように教会がこどものボランティアを受け止めることができるかどうか、心配でしたが、受け入れて本当に良かったと思います。教会のこども食堂が、こどもが活躍できる場所となったことをうれしく思っています。そしてそのことから様々なことを教えられています。

神様はこのように、こどもを用いて、大きな変化を起こして下さるお方です。あるいはこどもにかかわらず一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。神様は私たちに教えて下さっています。神様はそれぞれが活躍できる場所を備えて下さるお方です。神様は共に喜び、互いにすごいねと励まし合うことの大切さを教えて下さっています。神様は待つことの大切さや、平和を私たちに教えてくださっています。

今日の聖書の個所にもこどもが出てきます。人間のこどもではないですが、ロバのこどもです。今日はこの子ロバが大活躍する姿を見てゆきたいと思います。そこから私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか?

 

聖書を読みましょう。ヨハネによる福音書12章12~15節をお読みいただきました。イエス様は互いに愛し合いなさいということを、町々村々を周って教えていました。戦争と暴力と不正がはびこる時代です。何よりも力が重要だった時代です。その時代の中にあってイエス様は愛し合うことを言葉とそして行動で伝えました。今日も愛し合いなさいということをひとつの行動で示しています。

イエス様はエルサレム、イスラエルの中心都市を訪問します。戦争ではなく、力ではなく、愛することを訴えたイエス様です。多くの群衆がその教えを支持していました。イエス様は「ホサナ(主よ、救ってください)」という大きな歓声を受けながらエルサレムの街に迎えられたのです。

今日注目したいのは、乗っていた動物です。イエス様は子ロバに乗っていたとあります。当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力の象徴であり、最新兵器でもありました。軍事力の象徴です。今で言うところの戦車と言えるでしょう。馬に乗って、悠々とエルサレムに来たらかっこいいです。馬に乗ることこそ、王様ふさわしい姿でした。

しかしイエス様は馬には乗りませんでした。その代わりにロバに乗ったのです。馬とは対照的です。ロバは忍耐深く重い荷物を運ぶ、地味な動物です。さらにロバの中でも、小さなこどものロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。ロバは馬よりも歩くのも遅いのです。子ロバならヨロヨロしたでしょうか。でもイエス様は子ロバを選びました。14節にイエス様は子ロバを見つけたとあります。それはイエス様自身が自分が見つけて、自分で選んで、それに乗ることを決めたということです。イエス様は、小さくて、不格好で、力のない動物を選んで、またがったのです。

ここには神様の選びが示されています。神様はどのような人を選ぶのかが示されています。神様は子ロバを選びました。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力の者を選ぶのです。力の強くないもの、こどもやお年寄りなど選びます。選ばれたのはロバの中のさらに子ロバです。神様は小さな力の中の、さらに小さい力しかもっていない者を選びます。それがまさに神様の選びです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方です。

この個所からまだまだ教わることがあります。神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバは馬と比べてかっこ悪い、地味な生き物です。しかも小さなロバに乗ったら、よろよろしたでしょう。子ロバは、みんなの前でよろよろとするのを恥ずかしいと思ったでしょうか。子ロバはもっと強くなりたいと思ったでしょうか。何とか馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。

私たちに置き換えて考えるとどうでしょう。私たちが子ロバだったら、子ロバなのになんとか馬になろう、馬に見えるようにしようと振る舞ったでしょうか。かっこつけたでしょうか。でも神様のもともとの選びはそうではありません。神様は子ロバを選ぶのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。だから私たちはかっこわるいままでいいのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。かっこわるいままで生きるのでよいではないかと、ここから教えられます。

人々がホサナと喜びの声をあげた様子も想像します。この言葉は群衆からイエス様に向けられた歓迎の言葉です。でも民衆の視線と歓声はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。イエス様の姿、それも小さなロバにのったイエス様の姿が、人々の心をとらえたのです。あんな小さなロバがイエス様を載せている。それならば私にも何かできるはずだと思ったでしょう。大きな変化があったでしょう。私を子ロバに置き換えてこの話を読む時、この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。運動会で転んで、ビリだけど、大歓声で応援されるように、頑張れ子ロバという思いがこの群衆の中にはあったのではないでしょうか。

小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしている。私はその子ロバをいとおしく感じます。イエス様のそのような選びを嬉しく思います。きっとその光景こそ、力と暴力の反対の平和があったのではないでしょうか。今日はイエス様とイエス様を背中に乗せた子ロバの話を見ました。私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。

私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。小さな力で前に進もうとする、その姿をみんなが応援する、そんな風景を平和と呼ぶのでしょう。小さな力でも一生懸命なあなたの姿が平和へとつながってゆくでしょう。私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。ホサナ、ホサナ、私たちにそんな応援の声が聞こえるはずです。

私たちの互いの1週間の歩みを祈りあいましょう。互いに小さな力だけれども、神様が大きく用いて下さるように祈りましょう。愛し合う1週間、小さな力に目をとめる1週間を歩みましょう。お祈りします。