律法の言葉を終えるにあたって、神はイスラエルの民に、「わたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば」(3節)と、律法厳守を求める勧告で結んでいる。他の場面でも、重要な律法が命ぜられた後、同様の勧告がなされている(出エジプト23:20―33、申命記28章)。律法を守る者への祝福(3-13節)と、律法を守らない者に対する懲らしめの言葉(14-39節)による勧告である。
祝福と懲らしめの内容があまりにも違うので、神は律法厳守を強引に民に迫っている印象を受ける。しかし同時に、この違いはイスラエルの民にとって、主の戒めに従うことがいかに決定的なものであるかを喚起させる。なぜならば、神の律法、神の言葉に従って生きる神との関係性が、民の存亡を決定づけるからである。
主の掟に従って歩む者には、約束の地において、豊作、誰からも脅かされることのない平和、勝利、子孫繁栄、神と共に歩む祝福が約束されている。11-13節にある言葉は、神と民との契約の基礎をなす事実である。神は天上に座して、人間の苦しみ、喜び、悲しみ、痛みに無関心なお方ではなく、神の座をかなぐり捨てて、エジプトで叫ぶ民のくびきを打ち砕き、救い出し、彼らの中に住まいを置かれるお方である。神は「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」(12節)という契約を立ててくださる。神が奴隷として苦しむ民の叫びを聞かれて、民の間を巡り歩き、「これはわたしの民だ」と宣言してくださる。そんな熱情の対象として、神はイスラエルの民に、共に生きることを求めておられるのである。インマヌエル(神は我々と共におられる)というマタイ福音書1章23節においてイエス誕生に際して語られた言葉、ヨハネ黙示録21章3,4節の来るべき新しい世界における約束の言葉に類する希望に満ちた言葉である。
そして、このことは将来の希望というだけではない。既に十戒を与えられた後、幕屋を建設し、そこに神が臨在することによって、イスラエルの民の現実となっていたことでもあった。「わたしの戒めを忠実に守るならば」(3節)と語りながら、その祝福として与えられる契約は既に現実となっている。律法を守ることが祝福を受ける条件でも資格でもない。つまり、神が私たちの神となってくださるという祝福の中に生きる者として、当然生きなければならない道が、律法を厳守するということなのである。
祝福の内容は、既に神の民として歩む中で現実となっていること。神の幕屋を中心とし、神の律法に生きることが、どんなに祝福に満ちたものなのかを改めて教えられる言葉である。
イスラエルの民が神に聞き従うことをやめ、律法を守らなかったとしても、自分の罪や神への欺きを悔い改めて告白するならば、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされる。神は、ご自分の民の反逆と罪においてさえ、彼らの神であることをやめようとはされていない。神は、反逆と罪に満ちた民であろうとも、なおも彼らの神となる契約・意志をあきらめないお方なのである。
イスラエルの神となると決断された神との契約は、イスラエルの反逆と罪にもかかわらず有効である。そこで、人間に求められているものは、神の前に自らの罪を告白し、神の憐れみと赦しの中に生き、神に聞き従う歩みを行うことなのである。