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みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも、初めての方も共にひとつとなって礼拝できること、心から感謝いたします。6月7月は私たちの教会の信仰告白について一緒に考えています。今日は「神」の項目について一緒に考えましょう。
ここに水の入ったコップがあります。この水は海と同じ水です。でもこの水から海を理解しようとするのは、あまりに難しいことです。私たちは小さなコップから海全体を理解することはできません。でもコップの水からわかることもあります。それは、海はコップと比べてとてつもなく大きいということです。海は比べ物にならないほど深く広いということです。私たちは海のことを全部知らなくても、コップの水から海の大きさを想像することはできます。海はコップの中に入りません。でもコップから海を想像することならできます。
私たちが神様について考えることも同じではないでしょうか?神様は、私たちの理解よりずっと大きな存在です。私たちの頭では少ししかわからないでしょう。でもきっとそこから、神様の愛の大きさを想像することはできるのではないでしょうか。皆さんは神様をどれくらい知っていると思いますか?あるいは、本当に神様を理解できる日は来るのでしょうか?
今日はコップがいくつあっても足りないほどの、海のような神様の愛の大きさを想像し、心で感じてゆきましょう。その広い海を少しだけ眺めてみましょう。私たちは海のように深くて広い、神様の愛の中に生きているのです。
私たちの信仰告白から一緒に考えます。
キリスト教は一神教の宗教です。一人の唯一の神を信じる宗教です。ただし唯一の神といっても、三位一体という考え方もあって、ただの“唯一”ではありません。
信仰告白でも神様の説明をしようとして、まずイエス・キリストの説明から始めます。唯一の神様はなぜイエスという形で現れたのでしょう?
神様は唯一でありながら、イエス・キリストという存在もいます。どうやら神様はひとりで働くわけではないようです。神様は啓示をするとあります。啓示するとは自分を現わすということです。
皆さんはどうでしょう。神様を遠く感じること、祈っても返事がないように感じることはないでしょうか?本当に神様はいるのだろうか。そんなふうに思ったことはありませんか。
だから神様はイエスとなって来られたのかもしれません。神様はイエスを通して、ご自身を見せようとしたのです。
神様は不思議なことに、直接ではなく人を通して語ります。旧約聖書では預言者を通じて、そして新約聖書ではイエスを通じて神様の声が届けられます。特にイエスはその誕生自体が、神様からのメッセージとなっています。
今日はヨハネ福音書1章を読みました。詩のような聖書の箇所です。「初めに言があった」とあります。言とは神様の思いと願いのことです。ヨハネ福音書も神様のことを伝えるのに苦労しています。ヨハネは詩のようにして伝えることにしました。まるでコップから海を想像するかのようです。
初めに言、神様の思いと願いがありました。そしてその言は肉となりました。それは神の思いが、肉体を伴ったという意味です。神様は遠くにいて思い願うだけの存在ではなくなりました。私たちにその存在を、見える、触れることができる形で示そうとしたのです。神様は肉体をともなって、人として、地上に来ることにしました。それがイエス・キリストです。神様はイエス・キリストとなって地上にやって来たのです。私たちが神に近づく前に、神の方が近づいてきたのです。
神様は唯一の神様です。しかし実際に神様はひとりで働くのではなかったのです。イエス・キリストという別の形をとって、神様はこの地上にやって来ました。肉体を伴った存在として神様は地上にやって来ました。唯一の神は、唯一のかたちではなく、イエス・キリストというかたちで地上に現れたのです。
神様はこのように、いつも誰かと一緒に働こうとしています。神様は合計3つのかたちで私たちに働きます。それが父・子・聖霊です。ここに3つのかたちがあります。
父なる神から見てゆきましょう。父なる神様は愛と恵みを持って、天地を創造しました。父なる神様は全ての命を創ったお方です。神様は命を創り、そして命の中でも特別に人間の命を愛しました。その愛ゆえに神様は天の上から人間を眺めているだけでは満足しませんでした。神様は肉体を伴って地上にやってくることにしたのです。
それが神の子イエス・キリストでした。父なる神は、子であるイエス・キリストを通じて、地上に自分を啓示しました。つまりご自分の愛をイエス・キリストによって地上に表したのです。
その愛はどのような愛だったでしょうか?それは地上で苦しむ人の隣に立つという愛でした。先週も考えたとおりイエス・キリストは地上で貧しい人、弱さを持っている人と共に歩みました。神様は肉体を伴って地上に来て、誰にも歓迎されない人の隣に座り、誰からも名前を呼ばれない人の名前を呼び、誰にも触れられない人に手を伸ばし、共に涙したのです。そのように愛を伝えたのです。
そして神様はもうひとつのかたちをとりました。神様は聖霊を使って、風のように私たちの背中を押しています。
なぜ神様は、ひとりで働こうとしなかったのでしょう?私たちの人生は唯一の神様が3つの方向から包んでいます。私たちは父、子、聖霊によって、囲まれて生きています。命を創造する神、愛を地上で実現してみせた神、風のように力を与える神が私たちを囲んでいるのです。私たちはそのように神様の3つの方向に囲まれて生かされているのです。
あなたの人生には3方向から神様が働いています。あなたの命は父なる神様に創られ愛された命です。神の子イエス・キリストは地上に来てあなたの隣に座ります、神様は聖霊を通してあなたに力を与え不思議な一歩を踏み出させます。それが三位一体の神様です。神様はこのようにして私たちを3つの方向から守り、導いているのです。
三位一体は教理としてはもっと難しいのかもしれません。私も海に対してコップほどの理解しかしていません。でもきっと大事なのは三位一体を完璧に説明できることではないでしょう。
大切なのはきっと、神様は私たちをあらゆる方向から守り、導こうとしていることを想像し、心で感じることでしょう。
神様は点のような存在ではないのです。神様は立体的な広がりを持った存在です。様々な方向からこの世界に充満しているのです。神様は見えないけど私たちを包んでいる空気のように、私たちを包み込んで、隙間なく空気のように満ちているのです。私とあなたとの間に、あなたとあなたの間に、私たちの間に、父と子と聖霊の神様が満たされているのです。そのように私たちは毎週、知らないうちに三位一体の神様の中に生かされているのです。
三位一体の満たされた私たちはどんな生き方が示されているでしょうか?この神様のあり方は、私たちの生き方にどう響くでしょうか?それが今日の問いです。
神様は唯一の存在でありながらも、ひとりではありませんでした。もし私たちが神様に似た存在として創られたのなら、私たちも誰かと共に生きるために創られたはずです。私たちもひとりではないはずです。神様に似せて造られた私たちも、仲間と共に協力して生きることへと導かれているといえるでしょう。神様が唯一であるように、あなたも唯一です。でも神様がひとりではないように、私たちもひとりではないのです。私たちは誰かと共に生きてゆけるのです。
そして神様が唯一だったけど、3つのかたちをとったということは、私たちにどんな生き方を示すでしょうか?それは違っているけどひとつだったということでした。
神様がそうであったように、私たちも同じではないでしょうか。私たちは姿形が違っても、同じ神様の作った命です。それは私たちが違いがあってもひとつになれるということを示しているのではないでしょうか?私たちは違っても互いに耳を傾けることができます。私たちは「あの人と私は違う」で終わりません。三位一体は、違いがあっても共に生きる道があるのではないか、そんなことを私たちに語りかけているのかもしれません。違いがあっても同じ食卓を囲めるのです。神様が違っていてもひとつであったように、わたしたちも違ってもひとつになれるのではないでしょうか。違いがあったら離れるしかないのでしょうか。それとも違いを抱えたまま共に生きる道があるのでしょうか。
三位一体は正しく知ること以上に、心で感じる事でしょう。私たちには三位一体の神様が共にいます。私たちはそれを心に感じ、希望をもって生きてゆきましょう。お祈りをいたします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして、大人もこどもも一緒に礼拝できること、神様に感謝をいたします。6月と7月は私たちの教会の信仰告白について考えています。どんなことを感じておられるでしょうか?今日はいよいよ、イエス・キリストについて、一緒に考えてみたいと思います。みなさんにとって、イエスとはどんな存在でしょう?
私たちの教会では、クリスチャンになる時、そして他の教会からこの教会のメンバーになる時にお願いしていることがあります。それはみんなの前での信仰を告白していただくということです。この教会では、誰かの言葉をそのまま信じるより、「あなたは何を信じていますか?」を大切にしています。
これはどの教会にも共通することではなく、バプテスト独特の方法です。他の教派であると、信仰告白を求められることは多くありません。その代わりに「使徒信条」への同意が確認されることがあります。「使徒信条」を聞いたことがありますか?このような言葉から始まります
「天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し・・・」
と続いてゆきます。
キリスト教会では古くからこの使徒信条が信仰の基本として位置づけられてきました。けれども私たちは言葉や誰かの信仰ではなく、あなたが何を信じているのか、あなたの言葉で語って欲しいということを大事にしているのです。あなた個人がどう思うか?あなたが重要視されます。
一方、教会としては個人個人の信仰は何でもいいというわけでもありません。私たちの信仰の概要を言葉にしたのが、教会の信仰告白です。イエス・キリストの項目を読んでみると、使徒信条と共通点も多いのが分かりますし、そして違いも多くあります。
ここで、少し不思議に思いませんか? イエスは何十年も地上の生涯があったのに、その生き方があまり語られていないのです。教会の信仰告白と使徒信条のもっとも大きな違いは、イエスの地上での生涯の有無と言えるでしょう。使徒信条には、イエスがこの地上を生きて、病んだ人に手を置き、誰からも相手にされない人と食卓を囲み、泣いている人のそばに立ちました。そのことが書かれていないのです。誕生し十字架に掛かったと、イエスの生涯を飛ばしてしまうのです。
一方、私たちの教会の信仰にはこうあります。「イエス・キリストは神の子として、神のみ旨に従って人となられた」「神の国の福音を宣べ伝えた」。私たちの信仰告白を使徒信条と比較すると、イエスの生涯に重点があると言えるのではないでしょうか?
このように使徒信条と私たちの信仰告白の違いは、私たちが一人一人が、どんな信仰を持つのか?どんなイエス像を持つのか?を問いかけていると言えるでしょう。今日の聖書から、イエスが地上で、どのような人だったのかを一緒に考えてゆきましょう。
今日はルカによる福音書4章16~30節をお読みいただきました。今日の箇所はイエスがキリスト(救い主)として、地上での活動を始める宣言をしている箇所です。イエスは故郷の会堂で立ち上がります。静まった会堂の中で、旧約聖書イザヤ書の巻物を開きます。
まずイエスは「主の霊が私の上にある」と言います。イエスは、自分の力ではなく、神に背中を押されて歩む人でした。それが「聖霊が私の上にある」ということです。イエスが宣言しているのは、自分は神に突き動かされているということです。
イエスは会堂で人々に「私は誰のそばに立つのか」を語り始めます。その宣言は貧しい人たちに福音が告げられるというものでした。
イエスが最も心を向けたのは、神殿でのいけにえや、儀式そのものよりも、そこで苦しみながら生きる人々でした。イエスはこの地上の現実に生きる人々、特に貧しくて苦労している人々に向かいました。ここでいう『貧しい』とは、お金のことだけではありません。
心が折れそうな人、自信を失った人、『自分なんて』と思っている人も含まれるのかもしれません。「もうだめだ」「誰も分かってくれない」そんな気持ちになっている人に、イエスは、そんな人たちに近づきました。「あなたはひとりではない」と伝えるために。そう自分の役割を語っています。そのために私は油注がれた、自分には特別な使命があると語っています。
イエスが目指した「神の国」とは何でしょうか?『もう無理だ』と思う人が少し顔を上げることかもしれません。孤独だった人が、“ひとりじゃない”と思えることかもしれません。そんな出来事が少しずつ起きていく場所、それを神の国と呼びました。イエスは生まれて、十字架に掛かって、復活したのではありません。この地上で神の国が実現しようと歩んだのです。
私たちの信仰告白にもあるとおりです。「イエス・キリストは神の子として、神のみ旨に従って人となられた」のです。そして「神の国の福音を宣べ伝えた」のです。この地上で、神の国を実現させる、それはもう始まっていて実現しつつあるとイエスは語ったのです。
イエスはなおも続けて語っています。干ばつが起きた時に、預言者が遣わされたのは、やもめなどのもっとも貧しい人だったと。たくさんの病人がいる時に預言者が遣わされたのは、もっとも軽んじられている外国人のところだったと。
イエスは来たのです。貧しい人、傷ついている人、軽んじられている人のために。その人たちの生きる希望となるために、イエスは来たのです。その人たちに、あなたは一人ではない、これから先に希望がある、それを伝えるためにイエスは地上に来たのです。これはイエスの信仰告白だったとも言えるでしょう。
しかし28節によると、人々はイエスの信仰告白に対して強く反発しました。憤慨をしたとあります。まず貧しい人に、弱っている人に届けられる福音を、励ましや希望ととらえなかったのです。
なぜこんな怒りを買ったのでしょうか?なぜあんな奴らが優先されるのだと感じたのでしょうか?でも私たちにも、少し分かる気がしませんか。『なぜあの人ばかり』と思う心。『もっと頑張っている人が報われるべきでは』と思う気持ち。私たちの中にも、あの日の会堂の人々がいるのかもしれません。
29節、会衆は総立ちになりました。会堂全体に怒りが広がりました。そしてイエスを町の外へ押し出します。崖の上まで連れて行くのです。活動の初めからイエスの苦難が垣間見えています。この時、イエスは、その場を去ることができましたが、このあと結局十字架につけられて、殺されてしまいます。
十字架の最終判断はポンティオ・ピラトが下しました。でも実際に十字架に掛けろと叫んだのは、宗教指導者と扇動された民衆でした。
イエスはこのような貧しい人、弱さをもった人、軽んじられる人こそが、神様に深く愛されていると語りました。それがイエスの語った神の国でした。それによって十字架に掛けられて、三日目に復活をしました。
十字架で死んでも、復活をしたということは何を意味しているでしょうか?十字架で終わらなかった――それが復活です。絶望が最後ではなかったということです。希望は押しつぶされない。イエスの願いは、消えなかったのです。
イエスが語った希望は、死後のことだけではありませんでした。今ここを生きる人の痛みや不安、そのただ中に届く希望でもあったのです。今、ここに生きる、日々の生活に困惑する人々の希望を語ったのです。それが信仰告白にある、神の国の福音を宣べ伝えたということです。
私たちの教会は、“イエスはどう生きたのか”を大切にしています。なぜなら、その問いの先に、“では私はどう生きるのか”という問いが生まれるからです。
私たちの信仰告白は、イエスがどう生きたかに注目をしています。そして私たちはイエスを見つめて、自分はどう生きるのか?を考えます。もしイエスが今日この世界にいたら、誰のそばに立つでしょう。どんな人に声をかけるでしょう。そして、そのイエスを見ながら、私たちは何を感じるでしょう。
イエスとは誰でしょう。神の子でしょうか。救い主でしょうか。苦しむ人の隣に立った人でしょうか。希望を語った人でしょうか。あるいは、まだよく分からない存在でしょうか。
今日すぐに答えは出なくてもいいのかもしれません。ただ問いを持ちながらでもいいでしょう。ただもう少しイエスを見つめてみたい。そんな時間になればと思います。あなたにとってイエス・キリストとは、どんな存在でしょうか。
お祈りをいたします。
みなさん、おはようございます。今日も神様に呼び集められて、大人もこどもも一緒に礼拝できること、神様に感謝します。今月と来月は私たちの信仰告白について考えています。
みなさんは最近「ひとりでは無理だったな…」そんな出来事はありましたか?ありませんか。誰かが隣にいてくれて、なんとか前に進めた。そんな経験です。人は案外、助けられながら生きているものです。
私はときどき市役所に、ホームレスの方の生活保護申請の同行に行きます。
しかし実際に、ホームレスの方たちは申請に行くことに、気が引けてしまうものです。「人に迷惑をかけるようで嫌だ」「まだ我慢できる」「また今度にしよう」そう言って立ち止まり、次も「また今度」にしてしまう。気づけば一年、二年と過ぎてしまう。ホームレスの生活が何年も続くことになってしまうのです。
それでも教会には、どうしようか迷っているホームレスの方がよく来ます。私は「誰かの助けを借りて生きるのは恥ずかしい事ではない」「一緒に行きましょう」と背中を押します。そうすると「じゃあ明日、生活保護の申請に行ってみようかな」という気持ちになります。翌日一緒に市役所を訪ねます。
私はそのたびに思います。人は本当にひとりで生きられるのでしょうか。
市役所に行くと、どうしてホームレスになってしまったのかを話し始めます。涙が出る人がいます。怒りが込み上げる人もいます。言葉にならない人もいます。長い、苦労の人生を順序だてて短く説明するのは難しいことです。あふれる気持ちを整理して言葉にしなければいけません。
うまく言葉にならない時、私は横から言葉を足すことがあります。以前に聞きとったことを、本人に代わって説明をすることがあります。
ようやく、ひとしきり事情を伝えることができました。そうすると生活保護の申請用紙を渡されます。「ここに名前を書いてください」。多くのホームレスの方は字を書くことなんて何年ぶりだろうと戸惑い、手が震えます。「家族の名前と生年月日も教えてください」。何年も音信不通の家族の名前や生年月日はすぐには思い出せなくなっています。小さく笑って、少し泣きそうな顔をする人もいます。
私は励まします。「ゆっくりでいいよ」。ようやくできたのは、まっすぐではない文字の申請書です。でもそれは、生き直そうとする文字です。その日から自立のための施設に入り、屋根のある場所、布団で寝ることができるようになります。
なぜ私はこんなことをしているのでしょう。自分でも考えることがあります。私はこの活動を個人的なボランティアとしてではなく、教会の牧師として、教会の働きとして、活動しています。
ときどき素晴らしい活動だとほめて下さる方がいます。私も清らかな心で支援ができたらいいのですが、実際の腹の内ではそうでもありません。正直に言えば、私は立派ではありません。牧師なのに。「早く終わらないかな」「何で分かってくれないのかな」「これ以上関わるのはしんどいな」・・・心ではそう思いながら支援をしています。
私自身の腹の内はいろいろあります。それでも不思議と、また行くのです。重たい腰を上げてしまう。まるで私の背中を押す風があるかのようです。その風に背中を押されて、重たい腰があがります。
みなさんは最近、人を助けたことがあるでしょうか?反対に人に助けられた経験があるでしょうか?人は、助けたり助けられたりしながら生きています。その中で神様はどこで働くのでしょうか?
信仰告白とヨハネ14章をお読みいただきました。聖霊と言われても、少し分かりにくいかもしれません。でも、「あの時なぜか助けられた」という経験なら、みなさんにもあるでしょうか?
信仰告白には「聖霊はイエス・キリストによって約束された助け主だ」と書いてあります。そしてヨハネ14章には聖霊とは「弁護者」だとあります。
私たちは独りでは生きていけない時や、どうすればいいのかわからないことがありますよね?神様はそんな時、聖霊を通じて私たちを助けてくださるのです。
ヨハネ福音書14章26節には「弁護者すなわち父がわたしの名によってお遣わしなる聖霊」という言葉があります。ひとりで説明できない時、代わりに言葉を探してくれる人、「大丈夫、一緒に考えよう」と隣に座る人に聖霊は働いています。
市役所で言葉が出なくなる人がいます。そんな時、私は横から少し言葉を足します。聖書の言う「助け主」とは、そんな存在に少し似ているのかもしれません。
みなさんにはそんな風に助けになってくる人はいますか?困った時、隣にいてくれる人、私と一緒に考えてくれる人、代わりに声をあげてくれた人を思い出せるでしょうか? あれはただの善意だったのでしょうか。それとも、聖霊の見えない働きだったのでしょうか。
私たちの生活には誰かの助けが必要な時があります。だからこそ、助け主が与えられるという言葉は私たちの希望となるのではないでしょうか?困った時、私たちは本当に独りなのでしょうか?聖書は「違う」と言います。助け主がいる、と。
私たちには、聖霊を通じた助け手が与えられるのです。私たちが解決できないと思う問題に、神様の聖霊が働いた人、聖霊に動かされた誰かが、私たちに寄り添ってくれるのです。そしてそれは信仰告白によれば「約束されている」とあります。
もしかすると、その助ける人は自ら進んでというより、何かの風に・聖霊に押されるように、仕方なく、私たちを助けてくれているのかもしれません。人生には時々、少し風に押されるような瞬間があります。もしそんなことが起きているとしたら、それが約束された助け手なのではないでしょうか。
助けられた時、あとから思うことがあります。「あの人がいてくれてよかった」。そしてその方を動かしている助け主・聖霊に感謝をします。私たちはその助けを、聖霊に助けられたと思って遠慮せず受け取っていいのかもしれません。助けられることを、人に迷惑をかけてしまったと思うのではなく、聖霊に助けられたと思って、その助けを受け取っていいのかもしれません。
そして時々、気づけば私たち自身も助け手として立つことがあります。大したことではありません。話を聞く、代わりに伝える、「大丈夫」と言う。それだけかもしれません。神様の風に吹かれて、神様の見えない力を受けて、助けようと思うことがあるかもしれません。そのように人を助けるというのは、何かに突き動かされて始まるものです。
私たちの命はそのような見えない神の力、聖霊と助け手に支えられているのではないでしょうか?今日もきっと聖霊は人を揺り動かし、誰かの助け手としています。そして人は少しずつ変えられてゆきます。聖霊に助けられながら。聖霊に支えられながら。
そしていつか、自分も誰かを支える側になることがあるでしょう。助けられながらしか私たちは生きられないのですから。
神様は、空の上だけにいるのでしょうか。それとも、助けたり助けられたりする、その間におられるのでしょうか。信仰告白にある私たちの間に働かれるとは、助けたり、助けられたりする中に、聖霊の働きが隠れているという意味ではないでしょうか。そして助けたり助けられたりする関係の中に、信仰の導きと救いがあるのではないでしょうか?
みなさんにも、誰かに助けられた記憶があるでしょうか?あの時隣にいてくれた人、声をかけてくれた人、話を聞いてくれた人。あれは偶然だったのでしょうか?ただの親切だったのでしょうか。それとも、約束された助け主が、誰かを通してあなたを支えていたのでしょうか。
私たちはこれから主の晩餐の時を持ちます。今日の聖書の言葉を少し心に留めながら、私たちは今から主の晩餐をいただきます。主の晩餐の第二の意味には「イエスと弟子たちの食事には、豊かな交わりがあった、それを思い出すため」とあります。私たちは主イエスを中心とした豊かな交わり、豊かな助け合いを思い出しながら、このパンと杯をいただきましょう。神様から豊かにお互いに聖霊が注ぐように、互いに助け合いが起こるように、祈りながら主の晩餐をいただきましょう。お祈りします
みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも一緒に礼拝できること、神様に感謝します。
今月と来月は信仰告白について一緒に考えています。みなさんは「平和」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。安心して眠れる夜でしょうか。争わない家族でしょうか。傷つかなくてよい世界でしょうか。
6月23日、私たちは「命は宝(ぬちどぅたから)」の日を迎えました。沖縄と世界の平和に向けた祈りがささげられる日です。
私に沖縄と平和のことを教えてくれた牧師がいました。金井創牧師です。彼は辺野古の新基地建設現場近くで不屈と平和丸という2つの船で基地建設反対を訴えていました。私もこの船に乗せてもらいました。美しい海でした。でもその美しさの中に、深い緊張がありました。青い海の上に巨大な基地が作られていたのです。
実は私は沖縄に行くまで、沖縄に基地があるのは仕方がないことではないかと思っていました。金井牧師はそんな私を抗議船・不屈に載せてくれました。船は想像以上に小さく、波のたびに身体が揺れました。正直、少し怖かったです。私は船のへりを強く握っていました。そして青い海の上の、広大な基地建設現場を見ました。そして船からおりた後、沖縄の人々が持つ特別強い、平和への願いを聞きました。金井牧師が教えてくれたのは「人間とは平和を願いながら、それを壊してしまう存在だ」ということです。「基地は仕方ない」と思っていた私の考えが、少しずつ揺れ始めました。
私は「本当に基地は必要なのだろうか?」と考え始めました。そして平和とは何かを考え続けるようになりました。学習ツアー以来、金井牧師との個人的な関係も続きました。一緒にお酒を飲みながら、沖縄の現実を教わりました。
ある日、信じられない知らせが届きました。不屈と平和丸が転覆し、金井牧師と高校生が命を失ったのです。……言葉がありませんでした。そして安全管理が不十分だったこと、遺族への謝罪が遅れたことが、大きな批判を受けました。さらに金井牧師の性暴力のニュースも取り上げられました。私はこのニュースをしっかりと見ることができませんでした。事故と報道を受け入れるまで長い時間がかかりました。
私自身も問いかけられている気がしたからです。私は何を見てきたのか。何を信じていたのか、と。でも私はその平和運動の中で失われた命、傷つけられた命に向き合わなければならないと感じています。「平和を願うこと」と「命が失われた現実」の間で立ち尽くしている感覚です。
私に託されていることを考えます。私に託されているのは、事故で無くなった高校生とそのご家族の平安と慰めを祈ることです。性暴力の被害者の回復を祈ることです。そして私にもう一つ託されていることがあります。それはやはり基地に頼らなくてよい世界を実現すること、平和への思いを絶やさないことです。
私は改めて、人間は多くの過ちを犯す存在だと感じています。新基地建設を愚かなことだと思います。同時に船にのっていた高校生たちにお詫びをしなければならない過ちがありました。性暴力は許されることではありません。
私はつくづく、人間とは平和を願いながら、それを壊してしまう存在なのだと感じます。聖書にも、そんな人間の姿が描かれています
聖書はローマの信徒への手紙7章15~25節をお読みいただきました。今日の聖書箇所15節には「私は自分の望むことができていない」「それを行っているのは罪である」とあります。
ここには、したいと思うことができていない矛盾が描かれています。みなさんも「したいことができない」小さい体験があるでしょうか?仲良くしたいのに言いすぎてしまう。謝りたいのに謝れない。優しくしたいのに怒ってしまう。もしかすると、戦争とは、その延長線上にある大きな悲しみなのかもしれません。
人間は誰しも、戦争や軍事的な緊張で成り立つ世界を望んでいないはずです。ただただ平和を求めています。でも世界は軍拡へと進み、平和を望むことができていません。間違っているとわかっているのに、その方向へと突き進んでいます。聖書は、そのような人間のねじれを「罪」と呼ぶのかもしれません。
そして完全ではない平和活動もあります。平和を求め、命を守ろうとしていたのに、命を傷つけ、奪ってしまったことがありました。私は今、神様の前に立ち、考えさせられています。人間とは何か、罪とは何かと。
私は沖縄のことを通して、人間って何だろうと考えさせられています。仲良くしたいのに傷つける。平和を願うのに壊してしまう。
そう考えていた時、私は信仰告白を読みました。そしてあることを不思議に思いました。
「なぜ神様の話の中に、人間の話がこんなに出てくるのだろう?」
みなさんはどう思いますか?これは信仰に関わることがらが書かれている文書なのに、なぜ人間理解が書かれているのでしょうか。信仰のことだけが書かれていればいいのではないでしょうか?
しかし、きっと信仰を理解するには、人間がどのような存在かを理解することが必要なのでしょう。私たちは人間の現実をしっかりと見つめる必要があるのです。
聖書は人間の“明るい面”と“壊れやすさ”の両方を語っています。信仰告白にもあるとおり、人間は神にかたどって創造されました。人間の命は神様に似たものとして作られ、誰にも傷つけられたり、奪われたりしてはいけない、尊いものです。
一方、信仰告白に、人間は神様に背いて罪を犯す存在だともあります。神様に創造された尊い存在であるはずの人間に、多くの不完全さがあるということです。
人間には尊厳と不完全さの両方があるということは、みなさんも実感していることではないでしょうか?
信仰告白には「自らの力では神の栄光を受けることができなくなった」とありますが、まったくそのとおりです。世界にはひずみがあり、争いがあります。誘惑があり、人間はいつも神の創造の反対の破壊・罪を起こします。人間の力だけでは平和の実現は難しいと感じています。
聖書にも18節「善が何であるかを知っていて実行できない」「望まないのに悪を行っている」とあります。「なんで私はまたこうしてしまったんだろう」——パウロも、そんなため息をついているように見えます。望まない悪を行ってしまう、罪を犯してしまう、それが人間なのでしょうか。その矛盾に人間のみじめさを感じます。誰がここから救ってくれるのだろうか?と俯きます。
しかし信仰告白によれば人間は愚かな罪を犯す存在だというだけではありません。世界は失望では終わりません。聖書も25節に「神様に感謝します」とあります。それは神様がここから救い出してくださるという希望です。私たちは罪や社会の矛盾の前に立ち尽くし、失望するかもしれません。でも神様は私たちに希望を指し示している、それが私たちの信仰告白です。
神様はどのように希望を指し示しているでしょうか?信仰告白には「それにも関わらず、イエス・キリストの神の救いに招かれている」とあります。私たちは欠けを持ち失敗し、争う存在であるかもしれません。世界は矛盾と傷ばかりかもしれません。でもそれにも関わらず、私たちはイエス・キリストの救いに招かれているのです。それが意味しているのはこうです。私たちがどんなに傷つき、この世界に矛盾があふれていても、神様は見捨てないということです。神様は深い痛みの中にいる私たちを救いに招いているということです。
この信仰告白と今日の聖書の個所には希望が書かれています。私たちは招かれています。傷つけ合わなくていい世界へ。安心して生きていい世界へ。敵をつくらなくてよい世界へ。
神様は私たちが大きな過ちを犯してしまうことをよくご存じです。家族に優しくできなかった夜、謝れなかった日。この世界の矛盾と葛藤をよくご存じです。人間が自分達の力で平和と安全を実現できないことをよくご存じです。
でも私たち人間にも希望があります。神様が私たちを、救い・平和へと招いています。殺し合う必要はない、戦争する必要はない、誰の尊厳も失われない世界へと、神様が招いてくださっているのです。
神様は人間にそんな希望を準備してくださっているのではないでしょうか?私たちの教会は、罪深い世界の中で、そのような希望を信仰として告白しているのではないでしょうか?
今日の個所から問われていることは何でしょうか?この世界のどこに私たちの罪と矛盾があるでしょうか?あなたが今、立ち尽くしている場所はどこでしょうか?
神様は私たちの罪深さにも関わらず、どのように私たちと関わろうとしているのでしょうか?矛盾の中に立ち尽くすこともあります。でも、その場所に神様も共に立っておられるのかもしれません。だから私たちは、絶望だけで終わらなくてよいのかもしれません。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も神様に呼び集められた群れとして、一緒に礼拝できること、感謝をしています。私たちは私たちの教会の信仰告白について考えています。今日は「6救い」について一緒に考えましょう。
みなさんは、「救われる」と聞くと、どんなことを思い浮かべるでしょうか?心が軽くなること?病気が治ること?人間関係がよくなること?あるいは死んだ後のこと?
では、もう一歩聞いてみます。「あなたは救われていますか?」今日は救いについてザアカイの物語から考えてゆきましょう。聖書はルカによる福音書19章1~10節までをお読みいただきました。
ザアカイはエリコという関所のある町で徴税人をしていました。おそらくザアカイはその関所で税金を取りたてる仕事をしていました。それは人の弱さにつけ込んで、お金を取るような仕事でした。
貧しくて文句を言えない人から、多くのお金を取りました。だから人々から嫌われていました。「あいつは罪人だ」「仲間ではない」そう言われても仕方ない人生だったのです。しかしある日突然、彼に人生の転機、救いが訪れることになります。
イエスはこれまでも、多くの罪人と言われ、軽蔑された人間と共に過ごしてきました。ザアカイもそのことを知っていたでしょう。罪人と言われて、うとまれている彼は、イエスに会ってみたくなったのです。しかし多くの人が集まりました。ザアカイは人だかりに飲み込まれ、身長の低い彼はイエスを見ることができませんでした。そこで彼は木によじ登ってイエスを見ようとしました。そこからどんな景色が見えたでしょうか?
雑踏の中で、最初に声をかけたのはどちらからだったでしょうか?ザアカイでしょうか。イエスでしょうか。この順番には、大事な意味があるように思います。
そしてそれはイエスからでした。イエスから先にザアカイに声をかけました。その言葉はこうです「今日はあなたの家に泊まりたい」。
イエスの唐突な言葉です。イエスはわざわざ、罪人の家を選んで、泊まろうとしました。それは偶然ではありません。どこでもよかったわけではありません。イエスはいつも罪人に向き合おうとしました。罪人が選ばれる、それは偶然ではありません。イエスはザアカイに向き合おうとしました。神様は、見放されたと思っている人に先に近づく、そんな方なのです。
呼び掛けられたザアカイは急いで木から降りて、喜んでイエスを迎えました。そうです、これまで誰も、自分に関わろうとしなかった。
食卓で笑う家族を見た時、ザアカイは何を思ったでしょう。市場で誰かが笑い合う姿を見た時、どんな気持ちだったでしょう。「私は仲間ではない」と思っていたかもしれません。人々から嫌われる人生は、心を固くしました。誰にも期待しなくなる。「どうせ自分なんて」と思う。でも本当は、受け入れてほしい。一緒に笑いたい。誰かと食卓を囲みたい。そんな思いがザアカイにもあったのではないでしょうか。
そのザアカイの人生に今、イエスが突然、関わりを持とうと声をかけます。軽蔑されて当然の人生を送っている彼にとって、それはとても大きな喜びでした。こんな私の家に泊まりに来てくれるのか。私と語り合ってくれるのか。私と向き合ってくれるのかと、喜びを感じたのです。神様が私を見つけてくれたと思ったのです。イエスに見つけられ、声をかけられ、家に泊まると言われた瞬間が、ザアカイが救われた瞬間だったのではないでしょうか?
彼はイエスを招き、会話を始めると、すぐに自分の財産の半分を貧しい人に寄付すると言い始めます。そして奪った分を4倍にして返すと言い出します。彼の行動に注目をしましょう。彼の人生はイエスと出会って変えられています。ザアカイは心の安心や魂の安らぎを得ただけではありません。彼の人生には具体的な変化が起こったのです。救いは心の変化だけにとどまらず、生き方に具体的な変化を起こすものなのです。そして救われて、過去を水に流したのではありません。しっかりと過去と向き合い、償おうとしたのです。
そしてここには、もうひとつ別の救いもあります。それは彼からだまし取られた多くの貧しい人の救いです。だまし取られたお金が4倍になって戻ってきたら、貧しい人々の生活は大きく変わったでしょう。イエスは今日この家に救いが訪れたと言っています。それは多くの貧しい人々の元に経済的な救いが訪れたことも含みます。
そしてイエスは言います。「人の子は失われた者を探して救うために来た」これは、私たちが神を探す前に、神が私たちを探しているということです。声をかけたのはザアカイが先ではありませんでした。イエスが先でした。
救いとは、私たちが神を見つけることよりも、神が私たちを見つけることなのかもしれません。ザアカイを見ると、救いは交換条件ではないようです。まず先に、愛がある。まず先に、招きがある。信仰告白の言葉で言えば、それは神の愛と恵みです。
その一方的な愛と恵みをまず先に受けたもの、救いを先に受けた者が、それによって生き方が変えられてゆきます。愛された人は、変わり始めます。大切にされた人は、大切にし始めます。ザアカイもそうでした。まず先に救われたから、変わったのです。それが救われたものの新しい生き方です。それが今日の物語でザアカイに起こった一連の出来事だったのです。
さて、救いとは何かを考えています。救いとは何でしょうか?ザアカイを見ると、それは死んだ後の話だけではありません。今日、今、この人生の中で起こることなのかもしれません。
救いは誰に与えられるのでしょうか?ザアカイは、熱心だったから救われたのでしょうか。良い人になったからでしょうか?
物語によればきっと違います。ザアカイを見ると、イエスの方から近づいています。神様は、私たちが気づく前から働きかけているのかもしれません。先に愛と恵みがある。そんな物語に見えます。
イエスはザアカイに「あなたもアブラハムの子だ」と言っています。これは、もうあなたは私たちの仲間だという意味です。破れていた関係が取り戻されたという宣言です。
私たちの教会の信仰告白に目を移しましょう。ここには「救いは、罪を悔い改めて告白し、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって与えられる」と書いてあります。一方、最後の一文にはこうあります「救いは、ただ神の愛と恵みによる」と。私はここに、ひとつ大切な問いを感じます。救いは、頑張った人へのご褒美なのでしょうか?信じ切れた人だけが受け取るものなのでしょうか。でもザアカイを見ると、そうとも言い切れません。イエスの方から近づいているからです。みなさんはどう思うでしょうか?
最初の問いに戻ります。みなさんは救われているでしょうか?私自身はまだ救われきっていないと感じています。私には救われたと感じている部分があります。キリスト教に出会えたこと、神様からの励まし、生きる力をもらうことができたこと。人生のつらい時、支えになってくれるもの。助けてくれる仲間の存在。このことを救われたと感じています。
一方、まだ救われていないと感じる部分もあります。救われていない現実があります。人生には苦労が絶えません。病気もするし、挫折もするし、思い通りにならないことも多いものです。世界を見渡せば救われない人がたくさんいるではありませんか。戦争、災害、貧困。世界は一部で救われているけど、完全に救われてはいないと感じます。私はまだ、これから始まる救いを待っています。まだ見えません。だから今日も、木に登ります。ザアカイのように、いちじく桑の木の上で。世界の救いを。自分の救いを。待っています。
もしかすると今日、イエスの方から、私たちに声をかけているのかもしれません。
「急いで降りておいで。今日はあなたの家に泊まりたい」
みなさんにとって救いとは何でしょうか。私たちは、どんな救いを待っているでしょうか。そして今日。
イエスはあなたに、どんな声をかけているのでしょうか。
みなさん、おはようございます。今日もこうして、みなさんと同じ場所に集まれたことを神様に感謝します。実は、ここに集うことは当たり前ではありません。教会は、時に、静かに姿を消していくことがあるからです。今日は少し強い言葉ですが、まず「教会の消滅」についてお話をします。
みなさんは教会の消滅という言葉を聞いたことがあるでしょうか?昨今のキリスト教会は体力を落とし、「閉鎖」をする教会も出てきています。近くの日本キリスト教団の教会も閉鎖に向けて手続きをしていると聞きました。教会の閉鎖は私たちにとっても他人事ではありません。教会の閉鎖は悲しいことではありますが、ひとつの教会が歴史の中で役割を終える時は必ず来るものです。聖書に出て来る、手紙をもらった教会の数々も、今日のコリント教会も今では残っていません。歴史の中で役割を終えることはあるものです。
ただ教会の閉鎖と違うものとして、教会の「消滅」があります。消滅とはとても寂しい響きの言葉です。教会の消滅とは、電話をしても出ない。手紙を出しても返事がない。訪ねても、礼拝が行われている気配がない。それが長く続きます。そしてある日連盟から「閉鎖しました」ではなく「消滅が確認されました」と連絡がきます。私はその言葉を聞くたび胸が痛みます。
しかしもちろん、教会はある日突然、消滅するのではありません。消滅はゆっくりと長い年月をかけて起こります。集会に集わなくなる。教会の近況を聞かなくなる。「最近どうしていますか?」と言う人がいなくなる。そのようにしてまず孤立が起きます。
孤立した教会はどうなるのでしょうか。孤立をすると、他の教会が今どんなことに重点を置いて活動をしているのかを知らないということが起こります。他の教会を知らないと「自分たちは今、何を大切にしている教会なんだろう?」も見えにくくなります。違う教会を見るから、自分も見えてくるのです。
人間関係と少し似ています。孤立すると他者と自分がどう違うか分からなくなってしまうのです。孤立した教会は、他の教会からの刺激がなく、新しい活動も始まりません。気づくと、ずっと同じ。新しい風が吹かない。「前からこうだから」で止まってしまう。そして少しずつ元気を失ってゆくのです。
私たちはどうでしょう。少しずつ孤立してしまうことはないでしょうか。
さらに年月が経つと、教会を支えてきた人々が高齢になります。牧師も退きます。そうして支え合いが弱まる時、孤立が深まることがあります。
私たちの教会は孤立していないでしょうか?私たちは自主独立した教会です。でも独りぼっちではありません。元気であり続けるために協力をしています。他の教会に出会うと気づくことがたくさんあるのです。「こういう祈り方もあるんだ」「こんな礼拝や賛美の方法もあるんだ」「こんな風に地域に出てゆく教会もあるんだ」違いを見ると、自分たちも見えてきます。そのようにして、私たちは自分自身が元気であり続けるためにも協力をしています。私たちは独りではありません。
私たちはこれからも他の教会から刺激を受けて新しいことをはじめましょう。また、私たちが他の教会の刺激になってゆけるようにしましょう。
今日の信仰告白7教会の最後の一文には「私たちの教会は自主独立であるが、他の教会との交わりと協力を惜しまない」とあります。私はこの一文がとても大事だと思います。それは教会同士が群れになって、協力しあい、励まし合うことが大事だという告白です。それが教会が存続するのに不可欠だと告白しているのです。
このように教会が元気であり続けるためには協力が必要です。そしてそこから大事なことがわかります。もし教会単位ですら協力が必要不可欠なのだったら、私たち一人一人の信仰はなおさら協力が不可欠だということです。
私たち一人一人の信仰も教会単位で起こることと同じことが起こります。信仰は孤立すると元気を失うのです。
信仰告白には「教会はイエス・キリストのからだ」であるとあります。この言葉は今日読んだⅠコリント12章から来ている言葉です。この手紙は最初はパウロからコリントという一つの教会に送られたものでした。しかし、いつからか他の教会の人々が、私たちにも当てはまると感じ、読みまわしたのです。教会はそのようにみ言葉を分かち合って来ました。
それはまるで私たちは体が一部分だけでは存続できないのと同じです。私たちには目として先々の事を見通して励ましてくれる人が必要です。口となって不安な時「大丈夫だよ」と言葉にしてくれる人が必要です。耳になって声にならない小さな声を聞いてくれる人が必要です。教会同士でも、そして教会の中の個人同士としても、そのような支え合う相手が必要なのです。
私たちはそのように他者との間で自分に有るものと無いものを確かめつつ、自分ができる励ましを他者に与え続けることが必要です。そうすることで私たち一人一人の信仰が守られてゆくのです。私は誰に支えられているでしょうか?誰の支えになっているでしょうか?
教会だけではない、個人個人も一人で信仰を守ることは難しいことです。人生の苦しみの中では、祈れなくなることもあります。そんな時、誰かの祈りを聞くと心が支えられることがあります。他者が何を信じているのかを感じると、自分は何を信じているかに改めて気づかされます。神様は今日、誰を通してあなたを励まそうとしているでしょうか?
そして私たちが、自分たちで集まっているのではないということも信仰告白には書かれています。私たちは相互協力といった利害関係で繋がっているのではありません。それを超えた力で集まっています。信仰告白には私たちは「呼び集められた者の群れ」と書いてあります。呼び集められたという言葉は、エクレシアという言葉で、神に招かれた群れという意味です。私たちは自分の判断で、自分の損得で、ここに来ているのではありません。私たちは神様に呼び出されて、ここに集っているのです。神様の呼びかけに応答して、今日同じ場所に集っているのです。
私たちは時々、「人と関わるのは疲れる」と思います。教会に行く元気がない日もあります。誰とも話したくない時もあります。人生にはそういう季節があります。病気をした時。家族のことで悩む時。仕事がうまくいかない時。歳を重ねて、昔できたことができなくなった時。祈る言葉すら出てこない日があります。
そんな時、人は少しずつ孤立します。自分のことが分からなくなります。「私は何を信じていたのだろう」と心が曇ることもあります。けれど神様は、そんな私たちを独りにしません。
神様は私たちを呼び集め、群れとします。そしてそこで誰かの言葉を通して、誰かの祈りを通して、誰かの笑顔を通して、神様は私たちに呼びかけています。「あなたは独りではない」「新しい方法が見つかるはず」「一緒に生きよう」と。教会とは、立派な人が集まる場所ではなく、支えが必要な人が集められる場所なのかもしれません。
だから教会には、強い人だけがいるわけではありません。迷う人もいます。不安な人もいます。疲れている人もいます。信じたいけれど信じきれない人もいます。祈りたいけれど祈れない日もあります。
けれど、そのままでよいのです。私たちは完成した人としてではなく、呼び集められた者としてここにいます。誰かに支えられながら、誰かを支えながら、少しずつ生きる力を取り戻していく。そのために教会があるのかもしれません。
これは大事なことです。それは教会同士にしろ、個人にしろ、神様がその関係、その協力の中心にいるということです。神様が私たちを結び付けようとしているということです。神様は他者を通して、私たちを支えているのです。
神様は、あなたは独りでは生きていけない、独りでは荷が重すぎると言って、私たちを呼び出し群れにしているのです。
私たちは呼び集められ、群れとされます。そして自分と違う特徴を持つ人と一つの群れにします。私たちは互いと自分の違いを知ります。その中で真似をしあったり、励ましあいながら生きるようになります。たったひとりでは、気づけなかったことを知るようになります。神様はそのような群れへと私たちを呼び集めているのです。
今日の聖書と信仰告白から何を問いとしましょうか?私たちはどのように他の教会と協力できるのでしょうか?他の教会と私たちが信じていることの共通点と小さな違いはなんでしょうか?
私たち個人個人として、どう協力し、どう互いに励まし合いながら生きてゆけるでしょうか?神様が私たちをここに呼び集め、群れ、仲間としてくださいました。私とあなたの共通点と違いはなんでしょうか?神様がこの出会いを私たちに準備してくださいました。私たち一人一人が神様から信仰と愛の交わりに招かれています。それは互いに平等で、交わりと協力を惜しまない関係です。それが私たちの教会です。神様が今日、あなたをここへ呼びました。あなたもこの群れの大切な一
みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと一緒に礼拝できること、神様に感謝をいたします。4月5月は初めて教会に来た方に届く聖書の言葉を探してきましたが、ここからの2か月は今までずっと教会に通っている人に向けて届く言葉を探したいと思っています。
もちろん、初めて来た人に向けての言葉が、ずっと集ってきた人の心にも届くように、ずっと教会に集っていた人に向けての言葉は、初めて来る人にも届くことになると思っています。
実は私はこの1年間ほど、宣教について模索してきたことがあります。それはなるべく答えを言わないことです。すぐに答えを出すより、“問いの中に留まること”を大切にしたいと思うようになりました。
この宣教とはなんでしょうか?それは聖書の解説や答えが明かされる場所と思われがちです。でも今私が大事にしたいと思っていることは、私がみなさんに答えを教えることではありません。大事にしたいことは、神様のみ言葉が、みなさんの心に、どんな言葉として残るのか。皆さん自身がどう受け止めていくか、そしてどう生きるかが大事だと思います。
牧師が宣教ですべきことは、みなさんに答えを教えることではなく、問いを投げかけることではないかと感じています。1年間少しずつそれを意識し、心掛けてきました。聖書を読んで、一人一人が心の中でどう感じるかがもっとも重要です。それを問いかけ、引き出してゆくのがこの宣教の役割だと思っています。
一方で、キリスト教が2000年間、何を大事にしてきたのかを解説することも大切なことだと思います。答えが常に自分の中にあるとは限らないものです。みなさんにキリスト教が大事にしてきたこと伝えることで、それぞれの信仰理解が形作られてゆくはずです。そして知っているつもりでも知らなかったことにも気付くはずです。
この2か月間は、難しくなりすぎないように、解説になりすぎないように注意しつつ、キリスト教・バプテストが何を大事にしているものかを一緒に考えてゆきたいと思います。
考えるにあたっては、教会の信仰告白をテーマにしようと思います。教会の信仰告白は教会の定めた信仰のガイドライン、信仰の目安のような存在です。みなさんの手元にも2か月間置いておこうと思います。
信仰告白はこれに同意しないと入会できないというものではありません。自分の信仰とは少し違うということでもOKです。2か月間この信仰告白から信仰とは何か?神とは何か?私たちはどう生きるべきか?を一緒に考えてゆきたいと思います。
今日は信仰告白の8番、礼典について考えたいと思います。礼典とは何でしょうか。礼典とは、神様を“頭で理解する”だけではなく、“体で受け取る”ためのものです。水の中に深く沈められる、小さなパンを分かち合う。信仰は教えを知ることだけではなく、体験するものなのかもしれません。神様の働きを、
ただ頭で考えるだけではなく、体験として受け取る、礼典とは、そのために与えられているものなのかもしれません。
この礼典について考えましょう。私たちの教会の信仰告白を見ると「礼典は2つである」と書かれています。バプテスマと主の晩餐の2つだとあります。バプテスマとはイエス・キリストを信じる時に水の中に沈む儀式のことです。主の晩餐は今日このあと行います。イエス・キリストを思い出すためにパンとブドウジュースを飲む儀式のことです。
まず「2つである」という意味を考えましょう。私たちの信仰告白はあえて「2つだけである」と言い切っています。ここにはどんな理由があるでしょうか?礼典が2つしかないということは、実はかなり強いこだわり、譲れないものです。
私たちはプロテスタントの中のバプテストというグループですが、もう一つ大きな教派のカトリックでは礼典は2つではありません。キリスト教の中には、もっと多くの礼典を大切にしてきた教会もあります。
たとえば結婚式はカトリックの教会でもプロテスタントの教会でも行っているものですがその意味は違います。私たちは結婚式を神様の前で「人が誓う行為」として受け取ります。一方、カトリックは礼典(秘跡)として「神様の働き」という意味で持たれます。
似ているようで、意味は大きく違います。そして、その違いはその後の生き方、家族観や離婚などにも大きく影響してゆきます。結婚を“人の誓い”と見るのか、“神の働き”と見るのか。何を神の働きとして受け取るのか。そこにそれぞれの教会のこだわりが現れ、それが生き方へとつながっているのです。
なぜこのような違いとこだわりが生まれるのでしょうか?なぜプロテスタントでは礼典が2つなのでしょうか?それは聖書に明確にこれを行いなさいと書いてあることが、この2つだからです。今日は聖書の2か所お読みいただきました。それぞれバプテスマと主の晩餐の明確な根拠となる聖書箇所です。一方でそれ以外のことは、聖書に明確にされていません。聖書に書いてある「2つ」に特にこだわって、大事にするのがプロテスタントだと言えるでしょう。反対に幅広く、目に見える儀式を大事にするのがカトリックと言えるでしょう。
おおまかにいうと目に見える礼典を重視するカトリックで、一人一人の信仰を強く大切にしてきたのがプロテスタントです。
どちらが正しいかということを議論するつもりはありません。これは私たちが何にこだわっているかということを示しています。プロテスタントは2つにこだわっているのです。人はなぜ“こだわり”を持つのでしょうか?
そしてその中でもバプテストはもっと強いこだわりを持っています。バプテストとは特に洗礼(バプテスマ)に強いこだわりを持っているのです。
例えば生まれてすぐに赤ちゃんに洗礼をするというグループもあります。それは本人の意思に関わらず行われます。なぜなら洗礼は神様の一方的な恵みだからと考えるからです。しかし私たちの信仰告白にはこうあります「信じて自らの信仰を告白する者に授けられる」と。つまりこれは、本人の意思表明を最も大事にするということです。反対に言えば本人が意思表明、信仰の告白をしなければ、絶対バプテスマをしないということです。これは個々人の自覚的な信仰を大切にするという立場です。本人の自覚的信仰にこだわっているのがバプテストです。
またバプテストはバプテスマの方法にも細かいこだわりを持っています。ここにそのこだわりが記載されています。「罪の身が十字架に死に、復活において新しい生命にあずかることを象徴する浸礼の形でこれを守る」とあります。他の教会では洗礼(バプテスマ)は頭に水を垂らすという形式で行われます。しかしバプテスト教会では全身を水に沈めるという形を今も守り続けています。この1回きりのバプテスマを人生の転換点とすることにこだわっているからです。そしてバプテスト教会という名前はこのこだわりから来ている名前です。
そして主の晩餐のあり方も私たちはこだわりがあります。昨年度この意味を繰り返し考えて、新しい方法で、全員が食べるという方法を選んでいます。私たちは、かなり“こだわりの強い教会”なのだと思います。それが私たちバプテスト教会なのです。この教会の信仰告白8番礼典から、私たちが何を大切にし、何にこだわろうとしているのかが分かるのです。
キリスト教のどのグループも何かにこだわって信仰を持っています。それは小さな違いに見えて、大きな違いです。小さな礼典の違いが大きな生き方の違いにつながっています。生き方につながる問題だからこそ、礼典にこだわることは大事なことではないでしょうか?
むしろ、何にもこだわらずに信仰を持つことなどできるのでしょうか?そんな信仰は、何でもいい信仰になってしまわないでしょうか?偏らずに信仰を持つことなどできるのでしょうか?もちろん強いこだわりが人を傷つけることもあります。でも私たちの信仰にはこだわるところがあって当然なのではないでしょうか?
では私たちはこの信仰告白から何を問われているでしょうか?問いを考えましょう。
私たちは信仰にしろ、生き方にしろ“こだわり”によって生きています。みなさんは自分自身の信仰で、何にこだわりを持っていますか?私たちはみな、なにかにこだわり、偏り、特徴を持って生きているのではないでしょうか?みなさんは自分自身の生き方でどんなこだわりを持っていますか?みなさんの人生には、どんな譲れないもの、守りたい物がありますか?それが今日の問いです。
このあと主の晩餐を行います。私たちは小さなパンを受け取ってゆきます。これは本当に小さなものです。でもそこにはさまざまこだわりが込められているパンです。このパンをいただきましょう。そのパンはあなたに何かを問いかけているでしょうか?そのパンを受け取りながら、少し考えてみたいのです。私たちは、何を大切にして生きてい
みなさんおはようございます。今日もこうして、大人も、子どもも、初めて来た方も、一緒に礼拝できることを感謝します。共に礼拝できることを感謝します。4月と5月は、特に「教会は初めて」という方にも届く言葉を探しています。
今日は、教会では「ペンテコステ」と呼ばれる日です。これはイースターから50日目にイエスが弟子たちに現れたことを記念する日です。イエスは、人を愛しなさいと語りましたが、権力を持つ人たちによって、十字架につけられてしまいました。しかし聖書は、イエスは復活したと語ります。その50日後に再び弟子たちの前に現れたと聖書は語っています。
聖書によれば教会はここから始まりました。ペンテコステは、教会が産声を上げた誕生日とも言える日です。世界の教会はそれ以来2000年間、私たちの教会は76年間、見えない風に押されるように、ここまで歩んできました。
そして導かれているのは教会だけではありません。私たち一人一人にも、きっと導きがある。そう信じています。人生は、自分だけで決めているように見えます。でも時々「自分だけではない」と感じる瞬間があります。不思議と背中を押される時があるのです。
たとえば、みなさんには「あの時の出会いは不思議だったな」と感じたことはありますか?神様の導きだと信じたいと思うことはありますか?今日ここに来たことも、何かの風に導かれたのかもしれません。他にこれまで神様の導きだったと感じること、あなたの人生であったでしょうか?
聖書は、人に届けられてきた言葉です。人生の途中で、人を支える言葉です。聖書は、もともとはギリシア語で書かれました。いまでは世界中の、数えきれないほどの言葉に訳されています。多くの言葉に翻訳されているということは、この聖書があなたにも届くために存在しているということを意味しています。
聖書は、専門家だけのものではありません。神様は「どうしたらあなたに届くだろう」と考えたのです。聖書は、あなたに届く形で語ろうとしています。その言葉は、今を生きるあなたへ、あなたが分かる形で語りかけようとしています。神はそのように、聖書の言葉を通じて、あなたを導こうとしているのです。
そしてあなたがもっともよくわかる言葉を選んで聖書の言葉を届けるのです。
そう考えると、神様はあなたに合わせるお方だということが分かります。あなたの歩幅に合わせるお方です。私たちが神様の言葉を聞くことができるように変わったのではありません。神様の方が、あなたに合わせた言葉を選んだのです。あなたに伝わるように、あなたに届くように、その言葉は語られています。
ここには、大事なことがあります。何語で話すのかという言語だけのことを言っているのではありません。神様はあなたに神の存在が分かるように、あなたにふさわしい形で語り掛けているということです。神は、あなたなりの感じ方を通して触れてくるのです。ある人には音楽を通じて語り掛けています。音楽を聴いていて、急に涙が出る時があります。神様はある人には絵を通じて語り掛けています。一枚の絵に、救われる人もいます。親子関係を通じて、幼稚園を通じて。介護で疲れた夜、不思議と支えを感じることがあります。悲しみの中で、誰かに抱えられているように感じる時があります。
神様はこのように一人一人違った方法を選んで導くお方なのです。
私自身はかなり計画を立てるタイプです。先週も教会のこれからの計画について協議をしました。教会の未来を考えていると様々な可能性に開かれていると、神様の導きを感じます。
実は私は、100歳までの人生計画を作っています。その日その時の思いよりも1年、5年、10年と長い期間を見渡しながら計画を立てるのが好きです。それは時々笑われます。「そんな先々の計画を立てて楽しいの?」とか。「どうせ計画通りにはいかないでしょ」と言われます。それでも私は、また次の計画を立てています。
時々、私は計画を立てていると「これは自分だけで考えた気がしない」「ここには追い風が吹いた気がする」と感じる時があります。その計画は確かに自分で考えて立てたのだけれども、神様がきっとこの計画を導いてくださると感じる時があるのです。神様は私に、計画の中で、風を感じさせています。それが私への神様の語り掛け方なのだと感じています。
計画を立てるのは苦手という人もいるでしょう。そういう人に対して神様はわざわざ計画を立てることを通じては語り掛けたりはしないでしょう。神様はそのような人には、ふっと浮かぶ直感を通して静かに背中を押すこともあるでしょう。若い頃と、年を重ねた今とでは、感じる風も違います。私も年齢を重ねればまた別の導き方を感じることがあるかもしれません。
神は、一人一人に違う形で触れます。きっとあなたに向けても、最適の言葉で、最善の方法で語り掛けているはずです。神様は今のあなたに一番響くように語り掛けてきます。あなたにもきっと神様に導かれていると感じる時がくるでしょう。それは他の人からは笑われるような、本当にそうなのと不思議がられる方法かもしれません。でもきっと導きがあるはずです。
必ずしも、誰かを通さなくてもよいのです。神様は案外、あなたにまっすぐと触れてきます。神は、遠くから命令するのではなく、あなたの日常の中に入り込んでくるのです。あなたは、どんな時に風を感じますか?あなたは何をしている時に、神様の導きを感じやすいでしょうか?その導きを感じるとしたらそれはいつでしょうか?神様はあなたを導こうと、いろいろな場面に導きを用意しているはずです。今日は、その風の話を聖書から聞いてみたいと思います。
聖書を読みましょう。使徒言行録2章1~11節までをお読みいただきました。ある時、弟子たちは一つの家に集まっていました。イエスが十字架に掛けられた後、イエスは何度か弟子たちの前に現れていました。それを復活と呼んでいます。しかしその復活をもって弟子たちが、世界中に増えたわけではありませんでした。人々にはまだ理解できないことが多かったのです。弟子たちは集まって祈っていました。どうしたらもっと神様の言葉が人々に届くのか?どうしたらもっと神様の導きを感じることができるのか?集まって祈っていました。
そこに神の霊が降り注いだとあります。霊とは風のようなものです。見えないけれど、そこに確かに存在する力のことです。窓を少し開けた時、カーテンがふわっと揺れるように見えない力、庭の木々を揺らすような見えない力、そのように見えない、けれども確かに存在する力が霊です。見えないのに、人を動かしていく力、それが霊です。霊が弟子たち一人一人の上に留まりました。そして弟子たちは、その風に押し出されていきました。
弟子たちに起こったのは、様々な国の言葉で話し出すという出来事でした。弟子たちは、その日初めて「世界」に向かって話し始めました。それまでは神様のことは、限られた人だけのものと思われていました。しかし今それは、世界中の言葉で語られるようになったのです。これは神様のことが世界中の人たちに向けて告げられ始めたという出来事でした。
それまでは一部の人を対象として、限定された人にしかわからないものでした。しかし今、その瞬間からすべての人が分かるようになったのでした。神様の導きは特定の人・民族だけにあると思われていたのに、そうではないとはっきりした出来事でした。
風は縦横無尽、自由自在に吹き抜けます。目に見えないけれど確かに存在します。それと同じ様に、世界中に風が吹き抜けます。あなたにも吹いているのかもしれません。そしてあなたにも神様の導きが起こるのです。信じているか、信じていないかに関わらず、あなたにも神様の風が吹きぬけ、あなたをゆっくりと動かします。風を受けた人はいつもとは違った行動をするようになるでしょう。今までのあなたからすると、酔っぱらっていると笑われる行動かもしれません。でも神様はそのように、あなたに語り掛け、あなたを導くのです。あなたが上を向いて歩けるような、少し前を向ける場所へ導いているのです。今までとは違う一歩へ押し出します。
神様はそのようにして、あなたを今までしなかった、新しいことへと導きます。また「もう無理だ」と思っていた方向へ、もう一度歩かせることがあります。それが神様の霊の力です。
あなたは神のみ言葉に励まされて、見えない後押しに背中を押されるでしょう。きっと新しい歩き方が始まる時があるのです。みなさんにはそんな導きを感じることができますか?もしかすると今も、その風は吹いているのかもしれません。お祈りをします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をします。大人もこどもも、初めての方も共に礼拝をしてゆきましょう。4月5月は初めて教会に来るという方が多い季節です。歓迎します。難しい話よりも、初めての方に届く言葉を探したいと思っています。
私たちはこの聖書という本を毎週、少しずつ読んでいます。それは私たちがここに書いてあるルールを守るためではなく、ここからどうやって新しい生き方を見つけてゆくかを考えるためです。今日は聖書からどんな生き方が問いかけられているでしょうか?共に読んでゆきましょう。今日はヨハネによる福音書17章1~15節までをお読みいただきました。イエスが弟子たちと別れる前の祈りが記されている箇所です。イエスは弟子たちと別れる前に、長く、たくさんのことを神様に祈っています。
イエスの祈りを聞いてみて、実にいろいろなことが盛り込まれすぎていて正直「難しい」「何を言っているのかよくわからない」と感じるかもしれません。でもその中に大切な言葉がでてきます。それは2節「永遠の命」という言葉です。
「永遠の命」と聞いてどんなイメージが浮かぶでしょうか?2節にはイエスは永遠の命を与えることができると書いてあります。「キリスト教を信じると“永遠の命”を受けることができる」。みなさんはそう聞いたらどんなことを想像しますか?嘘だと思う人がいるでしょう。だってキリスト教を信じた人でも死ぬではないかと。そうです。キリスト教を信じていても必ず死は訪れます。ではキリスト教の教える「永遠の命」とは何でしょうか?
聖書の永遠の命とは、死なないことではない、と言われたらどう感じますか?永遠の命とは、永遠に変わらない愛の中にいることです。それは永遠に変わらない神様の愛の中にある命という意味です。もし、すでにその愛に包まれているとしたらどうでしょう?それが永遠だということです。それは神の愛はみなさんが、生きていても死んでしまっても永遠に変わらずに続くのだよという意味です。
神様は永遠にみなさんの命を愛し、命をあたたかく抱きしめてくださるお方なのです。キリスト教ではその中にとどまることを永遠の命を受けるといいます。そんな果てしなく、永遠に続く命、みなさんはあると思いますか?もしあるのだとした、その中に入りたいと思いますか?そこに入る時、変わらない神の愛の中に身を置く時、きっとそこには抱きしめられるような安心感があるでしょう。みなさんはそのような神の愛に守られている、と感じたことはありますか?
キリスト教の信仰を持つと、不安を持ったときに「大丈夫」と思えることがあります。理由なくそう思える、安心できる時があります。それが何かに守られているということかもしれません。永遠の命というと、言葉は重いです。しかしそれは、神様は私が生きている間も死んでしまった後もずっと守ってくれるという、安心の言葉です。
人生は自分で頑張って切り開くものです。頑張った分だけ、一生懸命生きた分だけ道が開かれてゆきます。でもそれだけではありません。あなたの人生には良い時も、悪い時も、頑張れている時も、頑張れない時もあるものです。私たちが良い時も悪い時も神様の愛は永遠です。あなたはそんな神様の守りが自分にあると思いますか? そのような永遠の命を知った時からあなたの人生はどう変わるでしょうか?神様がいて、永遠に温かく抱きしめられるとしたら、あなたの人生はどう変わりますか?
3節には永遠の命とはイエスを知ることだとあります。イエスを知ることが永遠の命につながっています。そしてこの知るとは勉強して習得することではなさそうです。学校で教わるような知識を得ることではありません。キリスト教の難しいことを勉強することでもありません。知る、それは心で感じるということです。体験的に感じることです。自分はひとりではない、きっと大丈夫と感じること、神様が守ってくれているということを、心で感じることです。といっても幻が見えるような、神秘的な体験というわけではありません。なんとなく感じるものです。自分は神様と何らかの関係にあると感じる感覚が大事です。信仰とは情報や理論ではなく関係性の問題です。私を知っている、私に深く関係を持っている神様が存在すると思う、それが知るということです。それが神様を知るということです。それは知識よりも体験、知識よりも経験、知識よりも感覚、知識よりも関係性です。私は神様の中にいる、温かさの中にいる、神のぬくもりの中にいる、それを感じることが、神を知ることです。あなたは自分も神が温かく抱きしめてくれると、そう感じるでしょうか?
愛に抱かれていると感じることが、永遠の命のはじまりです。信仰は「自分で頑張ること」ではなく、「守られていることに気づくこと」です。あなたは誰かに守られていると感じることができますか?
この神の愛を誰よりもこの地上にはっきりと伝えた人、それがイエス・キリストでした。イエスは神の永遠に続く愛を自分の態度で、自分の言葉で、はっきりと伝えました。イエスがこの世に来たのは、人々に神の愛を語り、また人々にそれを具体的に示すためだったのです。
イエスはその生涯で、神の愛に際限がないことを示しました。4節「業を成し遂げた」というのは、もう愛を伝えきった、自分の仕事は終わったという意味です。愛を伝える仕事をこの地上でやり切ったのだと言っています。イエスは地上での自分の仕事、人間に神の愛を伝えるという仕事をやりきった、と感じていたのかもしれません。イエスが神の愛を人間に教えたのです。
そしてこの後イエスにはもう一つ最後にしなければならないことがありました、それは十字架に掛かるという事でした。彼の伝えた愛は、時の権力者からは都合の悪いものでした。なぜなら上から抑えつける権力者には、平等で、あまねく人に永遠に与えられる愛は都合が悪かったからです。
イエスは権力者にとって都合の悪い愛を伝えたゆえに、命を失うことになります。しかしイエス自身もそれをわかっていたようです。自分はこのあと十字架で殺される、その前に神様にたくさんのことを語り掛けています。
そして気づかされるのは祈りの中でイエスは神のみではなく、同時に弟子たちをも見ているということです。イエスは弟子たちのことを祈っています。イエスは神様にこう祈っています。「この弟子たちはあなたの愛を知っています」「あなたにこの弟子を守って欲しい」「その愛を信じている」そして「彼らに喜びが満ち溢れるように」と祈っています。
これは深い愛の祈りです。このように私たちはイエスに祈られています。私たちは誰も一人でこの世界に生きているのではありません。イエスがあなたのことを祈っています。あなたは「守られるように」「人生に喜びが満ち溢れるように」と祈られています。あなたは今日それを聖書から読みました。それを心で感じることができるでしょうか?イエスに祈られているということを感じることはできますか?もしそれを感じることができるなら、知ることができるなら、信じることができるなら、あなたはもうすでに永遠の命を受け取っていると言えるでしょう。あなたがそれを信じられたら、どんな生き方になるでしょうか?
そしてもう一つ、あなたは祈られているだけではありません。あなたの人生には変化が起きるでしょう。それはきっと誰かのことを祈るようになるという変化です。あなたが誰かに祈られているように、あなたの守りと幸せが誰かに祈られているように、あなたも誰かのことを祈るようになるでしょう。自分が守られていることの安心と感謝だけではなく、私の仲間が世界の人々が守られることを期待し、祈るようになるでしょう。
あなたなら誰のために祈りますか?あなたは愛されているだけではなく、次はあなたが愛する番だとしたら、その祈りはどんな相手に対してですか?その人のために祈ってください。
黙祷をしましょう。耳を澄まして、心を沈め、永遠の愛と神様を感じましょう。今日の言葉に思いを巡らせましょう。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができることを神様に感謝いたします。今月は特に初めて教会に来るという方に届く言葉を探しています。聖書は「~してはいけない」「~しなさい」という答えを押し付ける教科書ではありません。
聖書には人生が豊かになるヒントと問いがたくさん書かれています。ヒントと問いをみんなで考えてゆきましょう。答えではなく、「問い」を一緒に持ち帰れたらと思います。
みなさんはもし今、私が「あなたの足を洗わせてください」と言って、水を張ったタライとタオルをもって、あなたの前にひざまずいたら、どう感じるでしょうか?
「あ、今日…靴下に穴が…」そんなことを思うかもしれません。「こんな靴下を見られたら笑われるかもしれない」「今、足の爪が伸びている、分かっていればきれいにしてきたのに」・・・。足を洗ってもらうということは、あるがままの自分を見られるようで恥ずかしいと感じるでしょう。一度家に帰って、よく洗ってたくさんクリームを塗ってきれいにしてから人に見せたいと思うでしょう。それは、着飾った自分ではなく、隠しきれない『生の自分』をさらけ出すような怖さがあることかもしれません。あるがままの自分を見せるのは恥ずかしく、怖いものです。
少しだけ、問いを変えてみます。「この人なら洗ってもらってもいい」と思えるのは、どんな人でしょうか。あなたの汚いところや傷跡、長年抱えてきたものを、この人なら見せてもいい。そう思える人はいますか?
では反対だったらどうでしょうか?もし今から、あなたが誰かの足を洗って下さいと言われたらどう感じるでしょうか?他人の足を洗うのも、小さくない抵抗があるでしょう。あなたには見られたくないと言われるかもしれません。あなたならいいと心をゆるし、足を差し出す人はいるでしょうか?あなたはその足を見て、これは汚いと言わずに、靴下に穴が開いていることを笑わずに、洗うことができるでしょうか?誰の足だったら洗うことができますか?
足を洗うには深い関係が必要です。それは相手の痛みを、自分の手のひらで包み込むような、相手を丸ごと受け止めるような関係です。自分の足を洗われるということは、自分をさらけだすということだからです。洗うことも洗われることも、深い関係の中でこそできることです。
自分の足を洗ってもらうのに、この人だけは洗ってもらっては困るという人はいるでしょうか?私が足を洗われて一番困るのは、自分より目上の人、自分が尊敬している人です。自分の憧れの人にこそ、汚い足を洗われたくないと思います。
足を洗われるという関係には、相当な親しさが必要です。もし皆さんがお互いに足を洗ってもいい、足を洗ってもらってもいいと思える人がいるのなら、その人とはとても親しい関係でしょう。汚れている部分や隠している部分を見せてもいい関係、弱さを見せていい関係が、そこにあるのでしょう。今日は足を洗い合うという関係について聖書から考えてゆきましょう。
* * *
ヨハネによる福音書13章1~15節までをお読みいただきました。これは先生と呼ばれる地位のある人が弟子の足を洗ったという物語です。このことから私たちの生き方、私たちがどう生きるかを考えましょう。
当時から足を洗うというのは、今の私たちの感覚と同じです。嫌なこと、恥ずかしい事でした。2000年前、人々は舗装されていない泥だらけの道をサンダルで歩いていました。人々の足は私たちより、もっと汚れていたはずです。砂と汗と、長い一日の疲れが、その足にこびりついていました。奴隷や召使いは、客の足を洗う習慣がありました。家の主人のホスピタリティーとして、奴隷が足を洗ったのです。
しかしイエスはこの足を洗うという意味と関係性を、大きく変えようとしています。イエスはいわば主賓、メインゲスト、一番目上の人です。そのイエスが、弟子たちの汚れた足を洗うというのです。イエスがタライをもってきて、足を洗い、タオルでキレイに拭こうと、ひざまずいています。
弟子たちにとってこれは受け入れられないことでした。弟子たちはイエスとはそういう関係性ではないと直感しました。いつもお世話になっている先生です。先生の期待に応えたい、失望されたくない。プライドがあったはずです。先生の前ではしっかりした自分でいたいと感じました。先生の前では弱さを見せたくない。先生には自分の汚い部分を隠しておきたいと思っていました。しかし、それでもイエスは弟子の足を洗うと言います。弟子たちは困りました。決してそんなことをしないで欲しいと言いました。
しかしイエスは言います。「もし洗わないなら、あなたとわたしは何の関わりもないことになる」と。私とあなたの関係性は、この足をあらうという行為の中にあるのだと言うのです。イエスは弟子の足を洗うことによって、深い関係になろうとしたのです。「あなたの弱さや汚れを受け取らなければ、私たちは繋がることができないんだ」。イエスはそう迫ります。
少し角度を変えて考えましょう。イエスは「さあ俺の足を洗え」とは言わないお方でした。反対にイエスは弟子の汚れた足を洗おうとします。イエスは弟子にひざまずいています。イエスは弟子の足の指一本一本、指の間の汚れまできれいに洗い落としました。すべての弟子の足を洗いました。特に優秀な弟子の足を洗ったのではありません。とにかく全員の足を洗いました。そこにはこの後、自分を裏切ろうとしているユダという弟子の足まできれいに洗ったのでした。
そしてイエスは言いました「あなたがたは私のしたとおりに、互いに足を洗い合いなさい」それは「これからは、お互いの弱さを『絆』にして生きていきなさい」という意味でした。
この場面を、あなたはどう受け取りますか?最初の質問に戻ります。足を洗わせてくださいと言ったらどう感じるでしょうか?
イエスは私たちお互いに、足を洗い合う関係を求めています。イエスは他者との関係の“深さ”を問いかけています。あなたたちは、足を洗い合えるような深い信頼関係になれているかと問われているのです。
それは、私たちはお互いの傷も、汚れも、隠していることも、分かち合う関係になろうということです。人間とはいつも、お互いにいいところばかりを見せ合おうとするものです。できた箇所ばかり、きれいな写真ばかり見せ合って、喜びばかりを分かち合っています。
でも足を洗い合うとは、そうではありません。悪い事も、悲しい事も、痛みも傷も分かち合うということです。イエスはそのような関係ではなければ、何の関わりもないのと同じだと言っています。傷や痛みを分かち合わない関係、それではうわべだけの関係ではないかと言っているのです。
私たちにはよいところだけではなく、自分の傷や、痛み、弱さをさらけ出すことができる人がいるでしょうか?互いに足を洗い合いなさいという言葉は、それができる仲間づくりをしてゆきなさいという教えなのではないでしょうか?私たちは強がらなくていいのです。私たちは弱さや傷を絆にかえてゆくことができるのです。私たちには足を洗うということから、そんな生き方が示されています。
反対に、私たちは誰かの傷や、痛み、弱さに触れることがあるでしょうか?誰かからそれを打ち明けられることがあるでしょうか?あなたは隠していたはずの傷を見せてもいいと思われる人になることができているでしょうか。そんな風に信頼されているでしょうか?
私たちは今日の個所から問われています。私たちの生き方が問われています。それはあなたは他者とどのような関係を築いてゆきますか?という問いです。あなたはそのような関係を誰かと作ろうとしていますか?あなたは誰かに自分の傷や汚れを見せることができますか?あるがままの姿で歩き出す未来は描くことができますか?一番触れられたくない場所を打ち明けられる、そんな信頼をされる人になっていますか?誰かの傷や痛みを優しく受け止めることができる人になっていますか?そのようにこの物語から問われています。
そしてもう一つの励ましも受け取ってゆきましょう。私たちには神様がいます。もし神の存在を信じるならば、神の存在を仮定できるならば、神様になら遠慮せずに、何でも伝えることできるでしょう。神様という存在だったら本当の弱音を吐けるのではないでしょうか。神様と言う存在だったら、本当に汚い自分の足を遠慮せずに差し出せるのではないでしょうか?
私はその神様の存在を信じています。いい事も悪い事も、言葉にできないことも伝えることができる神様がいることを信じています。すべてを受け止めてくれる神様の存在は、きっと多くの人の人生を支えるものとなるはずです。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること神様に感謝します。春は新しい事を始める方も多くいます。特に教会に初めて来る人を歓迎する期間としています。今日はこのあと主の晩餐という儀式があります。今日はあるパンについて、一緒に考えたいと思います。
私たちは毎月第一日曜日に主の晩餐という儀式を行っています。これはみんなで一緒にパンとブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会では、礼拝に出席している人なら、誰でもどうぞ、パンとブドウジュースを取ってくださいとご案内しています。これらの趣旨にご賛同いただける方はどうぞ取って食べてください。無料です。もちろんあなたには取らない自由もあります。
この儀式の目的は、手元の資料にも書いてあります。大きく分けて3つです。第二として書かれていることに注目をします。そこには主イエス・キリストとの様々な食事を思い出すためとあります。
私たちはこのパンを食べる儀式を2000年前から大切にしています。私たちはこのパンを大切なパンとして祈って感謝して食べています。でも私たちは、そのパンの価値をよく理解している人だけが食べてくださいというルールにはしません。そんな風にすると実は私も含めてよくわかっていない部分もあって、誰も食べれなくなってしまうからです。
私も含めて、十分にその重さが分かっていないのですが食べています。相応しくないのですが、でも食べています。食べて、なんとかイエスのことを分かろうとしています。3つの目的を思い出しながら、食べています。みなさんも価値が分からなくてもかまいません。何か大切なものらしい、そんな風に感じながら食べて下さればと思います。まずはぜひ体験してみてください。
私は先日、パン作りを初めて体験しました。みなさんはパンを作ったことがあるでしょうか?小麦粉をこねる作業からパンを作りました。素早く、力を入れてこねるのが大変な重労働で、腕の痛みを感じながら、それでもやめずに、ただこね続ける。20分間こね続けるという作業でした。ひとつのパンを作るのにこんな大変な苦労があるのかと私は驚かされました。そしてパンが出来上がりました。香ばしい香りのするパンが焼きあった時、とても胸が高鳴りました。そのこのパンは、私にとっては他のパンとは大きく違う、ひときわ思い入れのあるパンとなりました。
しかし焼きあがった時、ある人が言いました。「このパンを隣にいる別のグループに分けてはどうか?」。私は分けたくない人の顔を思い浮かべて答えました「このパンの価値や、苦労をわからない人にあげるはもったいない」「正直、あげたくない」「だって自分で苦労して作ったパンなのだから、その苦労や意味を理解している人に食べて欲しい」と思ったのです。でもその時、胸にはっとする思いが湧きました。自分も今の今までその苦労を知らなかったくせにと。そしてもう一つ気づきました。イエスはどうだっただろうか?と。
イエスはパンを価値が分かる人とだけ分かち合っただろうか?いや、違いました。イエスはどうしたでしょうか?今日はみなさんと、イエスがパンを分かち合う物語から、私たちがどう生きるべきか、愛とは何かを一緒に考えたいと思います。
聖書に目を移しましょう。2000年前に話を移します。ヨハネによる福音書6章5~15節までをお読みいただきました。ある時、イエスに従う5000人以上の人がお腹を空かしていました。そして食べ物も、それを買うお金もありませんでした。もしあなたが2000年前にそこにいたらどうしますか?
その時、ある一人のこどもが自分の持っている2匹の魚と5つのパンを差し出しました。子ども自身はその行動の意味、それが5000人に対してどれほどの量だったのかわかっていたでしょうか?大人たちは「これだけでは何の役に立ちません」と言っています。そのパンの価値をどう感じていたのでしょうか?それは無垢な子どものほほえましい善意でした。しかし必要に対して、あまりに少なすぎました。大人が思わず「何の役にも立ちません」と口に出してしまうほどでした。
イエスがどうしたかに目を移しましょう。イエスはただ「座らせなさい」とだけ言います。そしてそのパンと魚を取って、感謝の祈りを献げました。イエスだけがその役に立たないものに価値を見出し、感謝しました。イエスだけがその価値を知っていました。そしてイエスはその価値をさらに大きく変えようとしています。
イエスはこれは小さなパンだが、ただのパンではない、これは新しい奇跡を起こすパンだと信じて、感謝し祈りました。そして不思議なことが起こりました。パンと魚が増えて人々に行き渡ったのです。
弟子たちはそれをただ配る役割でした。弟子たちは、このパンの意味や、イエスの苦労がわかる人にだけ配ったのではありませんでした。感謝して受け取る人にだけ配ったのではありませんでした。いちいち確認しながら配ったのではありません。そもそも弟子たち自身も良く意味を理解していません。弟子は大切さが分かろうが、分からなかろうが、とにかくそこにいる、あまねく全員に配ったのです。性別や年齢、宗教も思想も問わない。とにかくそこにいた人、全員と分かち合ったのです。そして人々は満腹になったのです。
ここにはもう一つの驚きがあります。それはパンがなんと12カゴも余ったと書いてあることです。残してしまったのです。みなさんが2000年前にその場所にいたらどう感じましたか?ちょっともったいないと感じませんか?これは現代風に言うとフードロスです。イエスは、もったいないと思わなかったのでしょうか。食べ物への感謝が足りないと思わなかったでしょうか?この民衆はパンを食べて、満腹になってなお、このパンの価値が分かっていなかったのでしょうか?
彼らはそのパンをありがたく、ありがたくいただいて、あまらせるなんて、そんな罰当たりな事をしてはいけないとは思いませんでした。最後のパンくずまで残さずに、食べようとはしませんでした。
でもイエスはこのような人々とパンを分かち合った人でした。イエスは残してしまうほど価値を理解していない人、感謝の足りない人に配りました。イエスはそんな人々に、必要以上にたくさん与えたのです。分かち合ったのです。イエスは自分の力を、その価値を全く理解できない人々のために、有り余るほど使った人だったのです。
さて、この物語は私たちの生き方にどう関係するでしょうか?私たちの明日とどんな関係があるでしょうか?一緒に考えましょう。
私たちは、私が作ったパンの様に、自分が時間をかけたり、心を込めたりしたものを特別に、大切に思うものです。時間をかければかけるほど、大切なものになります。だから「わかってくれる人に渡したい」と思うはずです。でも私たちはそれを誰とでも惜しみなく分かち合うことができるでしょうか?
私たちにはそれを誰かと分かち合う時、必ず惜しいという感情がでます。しかし聖書によればイエスにそのやり方はそれとは違ったようです。イエスは有り余るほど他者に、自分の力を注いでいます。他者のために無償で汗をかきます。他者のために自分の力を使います。感謝されるかどうかに関わらず。それは私たちに何を示しているでしょうか?
私たちの生きる時代は、何でも値段のつく時代です。食事もマッサージも介護も、すべてが1回いくらと値段があります。代金を払うとこんなサービスを受けられると値段が設定されています。でもイエスは違いました。イエスは無償で、愛を、あまねく人に注いだお方だったのです。
イエスにとってはその価値が理解されようが、されまいが関係ありませんでした。感謝されようが、されまいが関係ありませんでした。それがこの食事だったのです。それがイエスの示した愛だったのです。
私たちはこのような生き方を選べるでしょうか?誰かに無償で愛を注げるでしょうか?価値を理解せず、感謝もせず、むしろ余らせてしまうような他者に、私たちは自分の大切な力を使うことができるでしょうか?私たちは、何度でも、何度でも、その他者に愛を注げるでしょうか?このパンの物語から、そんな生き方ができるかと問われているのではないでしょうか?
私たちはこれから主の晩餐という儀式を行います。このパンはとても大切なものですが、無料で、誰でも食べて良いパンです。その意味が十分に分かっていない私たちがとって食べます。きっとそこから何かが始まるはずです。
イエスの愛は無償で無条件です。イエスはお金や何かと交換で人々にパンを与えたでしょうか?このパンは、無償・無条件です。そのパンをみんなで分かち合いましょう。
私たちはこれからパンを食べます。あなたに愛を差し出したくないと思う相手がいるでしょうか?イエスはあなたの明日の生き方に、明日の愛に期待しています。あなたはそれを差し出すことができるでしょうか?私たちはこのパンを頂きましょう。お祈りします。
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。ヨハネ6章11節
私たちは毎月第一日曜日に主の晩餐という、パンとブドウジュースを飲む儀式を持っています。みなさんも価値が分からなくても、まずは体験してみてください。
私は先日、パン作りを体験しました。小麦粉を素早く、力を入れて、20分間こね続ける重労働でした。その分、パンが焼きあった時、それは私にとっては他のパンとは大きく違う、ひときわ思い入れのあるパンとなりました。
焼きあがった時、ある人が言いました。「このパンを隣にいる別のグループに分けてはどうか?」。私は「苦労して作ったパンなのだから、その苦労や意味を理解している人に食べて欲しい」と思いました。でもその時、イエスはパンを、価値が分かる人とだけ分かち合っただろうか?と思いました。今日はみなさんと、イエスがパンを分かち合う物語から、愛とは何かを一緒に考えたいと思います。
ある時、イエスに従う5000人以上の人がお腹を空かしていました。そして一人のこどもが自分の持っている2匹の魚と5つのパンを差し出しました。大人たちは思わず「何の役にも立ちません」と言ってしまいました。
一方、イエスはパンと魚を取って、感謝の祈りを献げました。イエスだけがその役に立たないものに価値を見出し、感謝しました。イエスだけがその価値を知っていました。そしてイエスはその価値をさらに大きく変えようとしています。そして不思議なことが起こりました。パンと魚が増えて人々に行き渡ったのです。
弟子たちは、このパンの意味やイエスの苦労がわかる人、感謝して受け取る人にだけ配ったのではありませんでした。弟子は大切さが分かろうが、分からなかろうが、とにかくそこにいる、あまねく全員に配ったのです。性別や年齢、宗教も思想も問わない。とにかく全員と分かち合ったのです。
そしてもう一つの驚きがあります。なんと民衆はそれを残してしまったのです。ちょっともったいないと感じませんか?この民衆はこのパンの価値が分かっていなかったのででしょうか?でもイエスはこのような人々とパンを分かち合った人でした。イエスは自分の力を、その価値を全く理解できない人々のために、有り余るほど使った人だったのです。
さて、この物語は私たちの生き方にどう関係するでしょうか?私たちの明日とどんな関係があるでしょうか?私たちは誰とでも惜しみなく分かち合うことができるでしょうか?誰かに無償で愛を注げるでしょうか?価値を理解せず、感謝もせず、むしろ余らせてしまうような他者に、私たちは自分の大切な力を使うことができるでしょうか?イエスの愛は無償で無条件です。このパンも、無償・無条件です。そのパンをみんなで分かち合いましょう。イエスはあなたが明日、愛に生きることを期待しています。あなたはそれを差し出すことができますか?私たちはまず、このパンを頂きましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを感謝します。今月は春から初めて教会に来てみたという方に向けて、聖書の入門になるようなメッセージをしてゆきたいと思います。難しいことよりも、キリスト教の大切にしているエッセンスが伝わったらよいと思っています。15分程、今日の聖書の個所について、祈りながら私が感じたことを話します。あなたはどう感じるでしょうか?
今日の聖書箇所には「互いに愛し合いましょう」という言葉がありました。みなさんは誰かと愛し合っていますか?「愛している」なんていうと、なんだか照れくさいイメージがあるかもしれません。日本人は「愛してる」なんて口には出さないものです。愛し合うって何をしたらいいのかもわかりません。
この「愛」という言葉、あなたにとってどんな響きでしょうか?日本では愛という言葉は恋愛のイメージで受け取られがちです。年齢の違う人や、恋愛対象と感じない人、ましてや初めて会うような人を「愛しなさい」と言われるとなんだかむずがゆく、照れくさいと感じます。
聖書はもともとギリシャ語で書かれていて、それが日本語に翻訳されて手元にあります。愛はもともと、ギリシャ語でアガペーという言葉でした。聖書を日本語に翻訳しようとした人は悩みました。アガペーはどんな日本語に訳せばいいだろうか?と。
いつの間にかアガペー=愛するという翻訳が定着をしましたが、当初は「大切にする」という翻訳がされたこともありました。私はむしろ、その方がしっくりきます。聖書の愛、聖書のアガペーとは「大切にすること」と訳した方が受け止めやすいと感じています。
そうするとこの個所はどう読めるでしょうか。これは「互いに愛し合いなさい」ではなく「互いに大切にしあいなさい」という教えとも読めるようになります。そちらの方が、照れくささがなくなるかもしれません。みなさんは最近、誰かを「大切にした」ことはありましたか?
「互いに愛し合いなさい」とはすなわち、「互いに大切にしなさい」ということです。それは互いを尊重、リスペクトしなさいとも言えるでしょう。
もしかすると、愛することはできなくても、大切にすることならできるかもしれません。私たちには正直に言って、なんかちょっと気が合わないという人がいるものです。人生で出会うたくさんの人の中には、どうしても好きになることができない人もいるかもしれません。でも「大切にする」ことが大事なのだとしたら、無理に好きにならなくていいのです。愛さなくてもいいのです。大切にすることが大事です。それなら可能ではありませんか?
苦手な相手を深く愛し、大好きになろうとしなくていいのです。嫌いな相手を深く愛することは難しいでしょう。でも大切にすることならできませんか?
相手を大切にすることとはどんなことでしょうか?今、目の前にいる人を大切にするとはどんなことでしょうか。それは大きなことではなくて、小さなことから始まるのではないでしょうか。たとえば気持ちよく挨拶することや、笑顔でほほ笑むこと。愛は大きなことでなくていいのです。今日小さく集った私たちが大切にしあいましょう。
日本には「お大事にどうぞ」という言葉があります。最近、誰かにそう声をかけたことはありますか?あるいは、そう言ってもらって、少しほっこりしたことはないでしょうか?愛とは、もしかすると、そういう一瞬の出来事なのかもしれません。キリスト教ではこの「互いに愛し合いなさい」「互いを大切にしあいなさい」という教えをとても大事な教えとしています。
イエスはこの教えを自分に近い弟子たちに教えました。おそらく12人+アルファ。今日ここに集まっているのと同じくらいの人数に教えました。自分の元に集まっているごく少人数の弟子たちに向けて教えました。
人数が少なかったのは、実はイエスの活動があまり周囲に理解をされていなかったからでした。周囲に理解されなかったイエスは、まず目の前にいる少数の弟子が、互いを大切にすることから始めようと教えました。世界を救おうという話ではありませんでした。「なあ、小さなグループの私たちが、いま目の前にいる人を大切にしようよ」と呼びかけたのです。イエスによって、とても小さい範囲の愛が語られました。あなたとあなたが大切にし合いなさいと語られました。
それはとても小さい範囲の愛です。教会の中だとしたら、となりに座っている人を、まず大切にしようという呼びかけです。家族の中だったらお父さんお母さんや夫婦、パートナー、こどもやきょうだいを大切にしようという呼びかけです。イエスはこのようにまずそばに、目の前にいる人に目を注ぎ、小さい範囲の人を大切にするように教えました。
そしてイエスはそこから愛が広がると語っています。イエスはそこから愛が、その人が目の前の人を大切に思う思いが世界へとつながってゆくと語っています。イエスはこう言っています。「あなたがたが大切にし合う姿から、それによってイエスの弟子だとわかる」と。
これは私たちがそばにいる人を大切にしている姿から、イエスの教えが世界へと広がってゆくということです。私たちは顔の見えない誰か、人類全体を愛することについて何をすればいいかわかりません。でもイエスは、いまここにいる、あなたとあなたが大切にしあいなさい、そこから世界に愛が広がると教えているのです。
イエスは私たちの身近にいる、あの人との関係を、大切にしあうものにしてゆきなさいと教えています。一つの愛で急に世界が変わるわけではありません。あなたとあなたが互いに愛しあうことから弟子が増える、そこから少しずつに大きな愛が始まるのです。もっとよい世界のために目の前の人を大切にすることから、私たちは始める様にと言われているのです。
そばにいる人なら大切にすることは簡単に感じるでしょうか?実は聖書にはそばにいる人を大切にすることさえ難しいことだと書かれています。
実はイエスの「互いに大切にし合いなさい」という掟を守るのは難しい事でした。この後、聖書を読み進めてゆくとそれがわかります。イエスはこの後捉えられ、十字架という道具で死刑にされてしまいます。「私はあなたたちのこれないところに行く」という言葉はこの後、十字架に掛かって死んでしまうという意味です。
実はイエスが逮捕される時、弟子たちは逃げ、誰もイエスのそばにいなくなります。弟子のペテロはイエスを簡単に裏切ってしまいました。自分が大切にしてきたものを自分で3度も否定してしまったと書かれています。他の弟子も同じです。互いに大切にしあうように教えを受けた弟子たちは、イエスに追手が迫ると、イエスも仲間も見捨てて一目散に逃げ出しました。
互いを大切にしあうのではなく、互いにバラバラになって、散り散りになって逃げてゆきました。弟子たちは早速、大切にしあうことができなかったのです。この教えを聞いたすぐ後に、ちょっと状況が変わっただけで、目の前の人を大切にすることが、できなくなってしまったのです。
聖書はこのように目の前にいる人を大切にすることは、難しいことだと語っています。だから、世界の人が世界の人を大切にするのはもっと難しいのかもしれません。こんな戦争が絶えない世界なのは、私たちが身近な人を愛せないから、大切にできないからなのかもしれません。私たちが身近な人をもっと大切にできたら、世界はもっとかわるのかもしれません。でもイエスは世界は変わると言っています。
私たちは互いを大切にしてゆきましょう。互いを大切にしているサインを出しあいましょう。あなたとあえてうれしいという思いを言葉や態度で表現してゆきましょう。いきなり大好きにならなくてもいいです。嫌いだっていいのです。苦手のままでもいいのです。でも大切にすることはできるはずです。嫌いな人にでも互いの傷や痛みをいたわる気持ちは持てるはずです。そして初めて教会に来てくれた人を大切にしましょう。初対面の人を愛したりはできないかもしれません。でも大切にすることならできるでしょう。初めて教会に来た人と大切にしあいましょう。
今日初めて聖書の話を聞いた人はどう感じたでしょうか?私たちはこんな風に、あなたと隣に座る人が大切に思い合う、そんな気持ちがたくさんある教会になりたいと思っています。そこから世界が変わってゆくと信じています。ぜひあなたもその仲間の一人に加わって欲しいと思っています。小さい集まりですけれども「互いに愛し合いなさい」は小さい集まりからこそできることです。ぜひこの空気を一緒に作ってゆけたら嬉しいです。
神様はあなたにお客さんではなく、誰かを大切にする当事者として加わって欲しいと願っています。YouTubeを見ている人はどうでしょうか。今あなたのそばにいる人を大切にしてください。そしてどこでもいい、ぜひどこかの教会の大切にし合う仲間に加わってみてください。
すぐに世界を変えることはできないかもしれません。でも、目の前の一人を大切にすることならできるかもしれません。それが世界を変えてゆくのです。そばにいる人を大切にすることから、始めてみませんか。
聖書によればイエスは「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」と語ります。イエスがまず先に、あなたを大切に思っています。あなたはイエスに大切に思われています。その思いを胸に目の前の人を大切にすることから始めませんか?お祈りします。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 ヨハネ福音書13章34節
「互いに愛し合いましょう」「愛している」なんて照れくさい言葉です。聖書の愛とはもともと、ギリシャ語でアガペーという言葉です。この言葉は「大切にする」と翻訳できる言葉です。これは「互いに愛し合いなさい」ではなく「互いに大切にしあいなさい」という教えでもあります。
もしかすると、愛することはできなくても、大切にすることならできるかもしれません。人生で出会うたくさんの人の中には、どうしても好きになることができない人がいます。でも「大切にする」ことが大事なのだとしたら、無理に好きにならなくていいのです。それなら可能ではありませんか?今、目の前にいる人を大切にするとは、小さなことから始まります。たとえば気持ちよく挨拶することや、笑顔でほほ笑むこと。愛は大きなことでなくていいのです。
イエスはこの教えを自分の元に集まっているごく少人数の弟子たちに向けて教えました。まず目の前にいる少数の弟子の間で、互いを大切にすることから始めようと教えました。それはとても小さい範囲の愛です。教会の中だとしたら、となりに座っている人を、まず大切にしようという呼びかけです。イエスはこのようにまずそばに、目の前にいる人に目を注ぎ、小さい範囲の人を大切にするように教えました。そしてイエスはそこから愛が広がると語っています。「あなたがたが大切にし合う姿から、それによってイエスの弟子だとわかる」と。一つの愛で急に世界が変わるわけではありません。あなたとあなたが互いに愛しあうことから弟子が増える、そこから少しずつ大きな愛が始まるのです。
実はイエスの「互いに大切にし合いなさい」という掟を守るのは難しい事でした。イエスが逮捕された時、互いに大切にしあうように教えを受けた弟子たちは、イエスも仲間も見捨てて一目散に逃げ出しました。互いにバラバラになって、散り散りになって逃げてゆきました。聖書はこのように目の前にいる人を大切にすることは、難しいことだと語っています。それでもイエスは、世界は変わると言っています。
私たちは互いを大切にしているサインを出しあいましょう。いきなり大好きにならなくてもいいです。苦手のままでもいいのです。でも大切にすることはできるはずです。嫌いな人に対しても痛みをいたわる気持ちは持てるはずです。
今日初めて聖書の話を聞いた方へ。私たちはこんな風に、あなたと隣に座る人が大切に思い合う、そこから世界が変わってゆくと信じています。ぜひあなたもその仲間の一人に加わって欲しいと思っています。
聖書によればイエスは「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」と語ります。イエスがまず先に、あなたを大切に思っています。その思いを胸に目の前の人を大切にすることから始めませんか?お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共にみ言葉を聞き、礼拝できることを神様に感謝します。4月5月とキリスト教入門というテーマで宣教をします。この春から初めて教会に来られる方を歓迎します。一緒に、少しだけ「声」に耳を澄ませてみませんか。YouTubeで見ている方もいます。一緒に礼拝をしてゆきましょう。
私たちはみんな、何かの「囲い」の中で生きています。囲いは学校、職場、家族、教会、地域、友人などです。いろいろな囲いがあります。今、あなたはどんな囲いの中にいるでしょうか?それは大切な場所かもしれません。そして私たちはそこで誰かの「声」を聞いて生きています。誰かからの期待、評判、そういう「声」を聞きながら生きています。時に、その中の大きな声が囲いの中に響き、私たちを縛ることがあります。いっそすべての声と囲いから抜け出して、その外で生きたいと思うこともあるかもしれません。
21世紀です。今は、ひとりで生きることも選べる時代です。囲いから抜け出して生きている人も増え、どんな声にも縛られない生活を選ぶことができます。しかし一方で、社会では孤立の問題も深刻になってきています。囲いから出るのは自由。でも自由になると、誰かの声は聞こえなくなるものです。誰の声も聞こえないと、人は孤独を感じます。囲いと、声はある程度私たちに必要なものです。私たちには「自由な囲い」と「自由にさせる声」が必要ではないでしょうか?もしそんな囲いと声があるなら、そこに入りたいと思います。私は、私があるがままの私でいられて、本当の私でいられる囲い、私を幸せへと導く声のする囲いに入りたいのです。
教会はどうでしょうか?教会も様々な囲いのひとつです。多くの人から見て教会という囲いは、かなり異質です。あそこに行くとどんな声をかけられるのだろうかと不安になります。想像がつかない、怖い場所に思えるかもしれません。だから初めての参加者は緊張します。入って大丈夫だろうか? どんな声をかけられるのだろうか?教会は世間からそんな風にみられています。
でも、本当の教会は違います。教会はそんな怖い場所ではありません。まず私たちは囲いのために生きているわけではありません。囲いを守るために羊がいるのではありません。羊を守るために囲いがいるのです。
大切なのは、囲いではなく、そこに響く声です。一人ひとりの命なのです。聖書には命について私たちに何を示しているでしょうか?新しい命、自由な命、豊かな命が、どう示されているだろうか?聖書からどんな声が聞こえるでしょうか?見てゆきましょう。
今日お読みした箇所はヨハネ福音書10章7~18節(186頁)です。私たちはこの聖書を神様からの言葉・声として受け取っています。神様からの言葉・声は宗教の教義を教えることが目的ではありません。あれはだめ、これはダメという戒律が書かれたものではありません。
この聖書、神様の声は私たちがどうすれば人生を豊かに生きることができるかということを問いかけています。聖書は人生に問いを投げかける書物です。聖書にはあなたはどうすれば今より幸せに生きることができるかという問いかける声が並んでいます。人生の単純な答えが書かれているわけではありません。聖書には質問とヒントが書かれていて、その声に私たちがどう応えるかを問いかけられています。聖書とは、人生への問いかけの書です。私たちはどう生きるべきか?その問いを胸にもちながら聖書を読んでゆきます。
では7節を見てゆきましょう。イエスが「はっきり言っておく」と宣言している声が聞こえます。それは「私は門である」という声です。そして同時に「羊は私の声を知っている」とあります。イエスはこう言ったのです。「私は羊の門である」「羊は私の声を知っている」これが今日の中心メッセージです。これはどういう意味でしょうか?
羊は弱い動物です。すぐにオオカミなどの肉食動物に食べられてしまいます。弱いから群れを成します。そして特に夜に、肉食動物から守られる囲いを必要とします。昼は囲いから出て、自由に草を食べます。羊はそのために羊飼いの声をよく聞きます。羊飼いの声を聞いた羊は夜はその囲いに守られて、安心して眠ることができます。それが羊です。
イエスはそんな羊の光景に重ねて、自分のことを「羊の門である」と声を出しました。イエスは門なのです。イエスとは囲いの入り口にあたるということです。そして8節にはこうあります「門を入って、囲いの中に入るものは救われる」。
当然ですが、羊たちは囲いのために存在しているのではありません。羊のために囲いと門があります。そしてその門の入り口にはイエスが立っています。そしてイエスは門の外に向けて語っています。
さあ門から入っておいでと語っているのです。それは全ての羊に開かれている門です。イエスは誰でもこの門から入ってくるようにと招いています。わたしなんかが入っていいのだろうか?と思う必要はありません。イエスの方からすべての人を招いているのだから、ぜひ入って来て下さい。
イエスの門からその囲いに入るとはどんなことでしょうか?それはイエスの声に耳を傾けて生きるということです。それが「門に入る」ということです。これは「宗教に入りなさい」という意味ではありません。団体に所属すれば安心感があるというわけではありません。
門に入るとは、イエスとの関係に入り、その声を聞くようになるということです。イエスの声に耳を傾けて生きることが門に入るということです。門の中に入るとはイエスの示す生き方を生きるようになるということです。そうそれは、イエスの声に聞き、イエスの生き方という道に入門をすることです。イエスの声を聞き、生き方に入門をすることです。
入門した羊たちができることはどんなことでしょうか。羊たちは羊飼いの言葉を聞き分けることができるとあります。羊が羊飼いに従おうとするとき、様々な声が聞こえます。でも羊たちがイエスに従おうとする時、入門しようとするとき、その様々な声の中から、イエスの声を聞きわけることができるようになるのです。
そうです。イエスは今も、静かに、しかし確かにあなたに向かって語りかけています。あなたはその声を聞き分けることができます。その声は、誰かを責める声ではなく、あなたの名前を呼ぶ声です。「大丈夫?」と言う声かもしれません。「そっちでいいの?」という声かもしれません。その声はあなたにどのように生きてゆくのかを問いかける声です。神の声は全てを決めてくれる声ではありません。私たちはイエスの声を、自分に問いかけながら、イエスに従って生き方を選ぶ者です。イエスの声を聞きながら人生を決めてゆく者です。
教会は、ただの囲いではありません。教会は、その声を一人でなく、一緒に聞く羊の群れです。教会はみんなで安心してイエスの声を聞くためにあります。私たちはイエスの声を聞くための集まりです。イエスの生き方に従う集まりです。イエスを自分の羊飼いとする集まりです。私たちはイエスの声によって一つの群れになっています。ここに集う一人一人が、それぞれに幸せな生き方ができる様に、もっと声が聞こえる様に、私たちは群れで聞いています。
10節でイエス自身がそのことをもっとはっきり語っています。イエスはここで自分の存在理由を説明します。「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」とあります。イエスの目的ははっきりしています。イエスが来た目的は私たちがもう一度命を受けとりなおすためです。そしてその命をもっと豊かにしてゆくためです。私たちが幸せになるために、イエスの声が、あなたの命を導こうとしているのです。イエスの声は私たちの豊かな命のために、進むべき道を問いかけ、導いているのです。イエスは命がけでその声を伝えようとしています。
さて、私たちの人生に目を向けましょう。私たちがどう生きるかは、私たちが何を聞いて生きるかにかかっているのではないでしょうか?私たちは何を聞いて生きているでしょうか?イエスに入門した者は、イエスの声に聴き従うと決心した人です。
「イエスの声から新しい生き方を教えてもらおう」教会はそんな人の集まりです。すでにあなたに門は開かれています。あなたを縛るために囲いがあるのではありません。この門は全員が招かれているが、出入り自由な門です。そして何よりあなたの人生を豊かにするための門です。あなたの命がもっとあなたらしくなるための声を聞いてみませんか?
今日、みなさんにもイエスの声が聞こえたでしょう。「私は命を豊かにするために来た」その声はあなたをもっと自由にします。その声はあなたをもっとあなたらしくさせる方へと導いています。あなたにはきっともっとその声が聞こえるはずです。私たちはその声を少しずつ聞きながら生きてゆきましょう。その声は、今もあなたを呼んでいます。そして今、少しでもその声を感じているなら、それが、門の前に立っているということです。あなたには、聞こえていますか?あなたに門は開かれています。これから私たちと一緒に、その声を聞きませんか?きっとその声があなたの人生の光になるはずです。お祈りします。
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 ヨハネによる福音書10章16節
4月5月とキリスト教入門というテーマで宣教をします。私たちはみんな、何かの「囲い」の中で生きています。そして私たちはそこで誰かからの期待、評判などの「声」を聞きながら生きています。それは私たちを縛ることがあります。
囲いから出るのは自由ですが、囲いから出れば人は孤独を感じます。私たちには「自由な囲い」と「自由にさせる声」が必要ではないでしょうか?大切なのは、囲いではなく、そこに響く声です。聖書はどんな声を私たちに何を示しているでしょう?
今日お読みした箇所は、私たちがどうすれば人生を豊かに生きることができるかということを問いかけています。イエスはこう言ったのです。「私は羊の門である」「羊は私の声を知っている」これが今日の中心メッセージです。イエスは門から入っておいでと語っています。それは全ての羊に開かれている門です。
イエスの門からその囲いに入るとはどんなことでしょうか?それはイエスの声に耳を傾けて生きるということです。入門した羊たちができることは羊飼いの言葉を聞き分けることです。私たちには周囲から様々な声が聞こえます。でも羊たちがイエスに従おうとする時、その様々な声の中から、イエスの声を聞きわけることができるようになるのです。そして教会は、ただの囲いではありません。教会は、その声を一人でなく、一緒に聞く羊の群れです。私たちはイエスの声によって一つの群れになっています。ここに集う一人一人が、それぞれに幸せな生き方ができる様に、もっと声が聞こえる様に、私たちは群れで聞いています。
10節でイエス自身がそのことをもっとはっきり語っています。「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」とあります。イエスの目的ははっきりしています。イエスが来た目的は私たちがもう一度命を受けとりなおすためです。そしてその命をもっと豊かにしてゆくためです。私たちが幸せになるために、イエスの声が、あなたの命を導こうとしているのです。
さて、私たちの人生に目を向けましょう。私たちがどう生きるかは、私たちが何を聞いて生きるかにかかっているのではないでしょうか?私たちは何を聞いて生きているでしょうか?イエスに入門した者は、イエスの声に聴き従うと決心した人です。
今日、みなさんにもイエスの声が聞こえたでしょう。「私は命を豊かにするために来た」その声はあなたをもっと自由にします。その声はあなたをもっとあなたらしくさせる方へと導いています。あなたにはきっともっとその声が聞こえるはずです。
あなたには、聞こえていますか?あなたに門は開かれています。これから私たちと一緒に、その声を聞きませんか?きっとその声があなたの人生の光になるはずです。お祈りします。
みなさんおはようございます。休暇を頂き、今日、久しぶりにここで聖書の言葉を語る機会をいただきました。1月~3月と杉野先生やふじみ教会、役員のみなさんなど多くの支えによって教会が守られたことを感謝しています。休暇を頂き、本当にありがとうございます。
11月末に連盟理事会から平塚教会プロジェクト・否決という連絡を受けました。その時私には心がぽきっと折れるような感覚がありました。予想していた事ではあったのですが、それでも実際にその結果を突き付けられた時、とても大きな挫折を感じました。休暇に入りました。そして、私はひとつ決めました。「とにかく誰かに会おう」「誰かと一緒に食事をしよう」。牧師仲間や先輩に会いに出かけました。福岡では神学生時代の仲間が温かく迎えてくれました。福岡では西南学院大学の授業にも参加しました。福岡は私にとって、牧師へ献身するスタートの場所でした。その体験は私が牧師になるという志をもって学んでいた「初心」を思い出させてくれました。
たくさんの食事の中でも忘れられないのは、炭火で焼いたカキでした。炭火でカキが、ぱちぱちと音を立てます。それを食べながら自分の気持ちを聞いてもらったり、励ましてもらったり、昔話をしたり、仲間が頑張っている様子や葛藤している様子も教えてもらいました。
そんな風に私の献身の原点となる場所で、いろいろな人と一緒に食事をしていると、自分も心折れてないで、前を向いて一歩、歩み出そうと思えるようになりました。もう一度ここから始めよう、再スタートしようと思えたのです。それは私にとって回復の時でした。献身の原点に戻る、原点回帰する機会でした。これは後から知ったことですが、心理学的にも落ち込んだ時は、慣れている場所に行くことや、慣れている人と会うことが良いそうです。
こんな風に2か月を過ごしていました。このような回復の機会を平塚教会からいただいたことを感謝しています。また一から、新しくスタートする気持ちで始めたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
この経験のあと、今日の聖書を読みました。不思議なことに、弟子たちの気持ちが分かるような気がしてきました。聖書の物語を見てゆきたいと思います。
* * *
ヨハネによる福音書21章1~14節を一緒にお読みしましょう。弟子たちは、イエスに従って生きていました。自分の仕事を手放して、イエスに従う人生を送っていました。イエスの様になりたいと願って従っていました。しかし、弟子たちの見たものは、イエスの受難、十字架でした。弟子たちにとってそれはどんな出来事だったでしょうか?
それは弟子たちの心をぽっきりと折る出来事だったのではないでしょうか?さらに弟子たちは怖くてその場から逃げだしてしまいました。そしてペテロは3度イエスを知らいなと否定し、逃げました。自分自身に対して自己嫌悪も感じたでしょう。弟子たちはその十字架の後、何をしていたのでしょうか?イエスは3日後にはもう、弟子たちの前に復活し、現れました。しかし弟子たちは3日後から、すぐに積極的な宣教を始めたわけではありませんでした。イースターの出来事の後、弟子たちは実家のある地元、ガリラヤに帰って、元々していた職業、漁師に戻ってしまっていたのです。そこでかなりの時間を過ごしたでしょう。
弟子たちがガリラヤに戻り、漁師に戻るという行動は、伝統的な解釈では、信仰の弱さだと説明されてきました。弟子たちはイエスの復活を見たのに、やっぱり尻込みしてガリラヤに帰り、漁師に戻ってしまった。弟子たちはやっぱり弱い存在だったと解釈されてきました。しかし本当にそうでしょうか?実は私も似たような経験をしました。心が折れる時、元にいた場所に戻るという体験です。それはもちろん弱さからくるものです。でもただ弱かったのではありません。弟子たちは、大きなストレスを味わいました。そこから心を回復させてゆくには相当の時間と環境が必要だったのです。傷ついた弟子たちの行動は本能的なものでした。弟子たちはその傷から心を回復するために、一度いつもの場所に戻る、昔から慣れている場所に戻る必要があったのです。
弟子たちはそこで、原点回帰を体験したのではないでしょうか。そこに身を置くことで、そうだもう一度ここからやり直そう、私たちはここからスタートして、イエスに従ったのではないか。そう気持ちを新たにすることができたのではないでしょうか?再スタートするためには、ガリラヤでの回復の時間が必要だったのではないでしょうか?
そしてそこにイエスが登場します。イエスの登場はこうです。イエスはまず、自分だとはわからないくらいそっと現れます。誰も気づかないくらいさりげなく登場するのです。そして小さな声で優しく聞きます「朝ご飯は食べた?」「網を何回、下ろしても失敗だって?」「じゃあ私が言うちょっと違う方法を試してごらん」「きっとうまくいくよ」。イエスはそんな風にさりげなく登場したのです。復活したイエスは漁師たちの冷えた体を、炭火を起こして待っていました。
ここでひとつ気になる言葉が登場します。それは炭火という言葉です。実は聖書にも、たった2回だけ炭火という言葉が登場します。そのどちらもがヨハネ福音書です。1回目の炭火が登場するのは、ペテロが「イエスなんて知らない」と言ったあの夜のことです。そのときも、炭火がありました。ペテロは炭火の明かりでイエスの仲間だとばれてしまいました。そして炭火の前でイエスを三度否定したのです。炭火はイエスを否定する経験と結びついていました。炭火は心が折れた場所でした。
そして炭火が再び登場するのが今日の場面です。イエスはその朝、炭火を準備していたのです。そしてその上に、魚を載せて、パンも準備して待っていました。ペテロは、この炭火を見て何を思ったでしょうか。あの夜を思い出したかもしれません。そして今日の個所はペテロが三度、イエスを愛していると告白する場面につながってゆきます。ペテロは炭火の前で三度否定しました。そして今、炭火の前でイエスへの愛を三度、誓おうとしているのです。イエスの期待はペテロが自分の痛みを、もう一度主の前に差しだすことでした。そしてイエスの期待は弟子がそこから回復し、再スタートすることでした。
これはただの食事ではありません。それは折れた心を回復させるための食事だったのです。ペテロは炭火の前から逃げ出しました。裏切りました。心が折れたのです。でもそれを回復させるために、イエスは食事を準備し、再び炭火の前に招いたのです。炭火の上で焼いたパンと魚、それは冷えた体を温める、疲れた体を癒す、回復の食事でした。そしてもう一度、愛そうとする、立ち上がろうとする心を回復させる食事でした。そしてイエスとの関係を回復させる食事でした。それが今日の物語です。
ここでイエスがしなかったことは何でしょうか?イエスは弟子を全く責めません。ただ側にいて、炭火を起こしパンと魚を準備していたのです。
イエスのあり方から私たちの生き方を考えましょう。イエスは甘えるんじゃない、休んでいないで出発しなさいとは言わないお方です。イエスはまず弟子たちに休息を与えるお方でした。イエスは不安で立ち上がれない弟子たちに、どうしたらいいかわからなくなった弟子たちに、心折れた弟子たちに、そっと現れて、声をかけました。「ちゃんとご飯は食べてるか?」と。それが私たちの信じる、復活の主でした。弟子たちはその食事に本当に励まされたのです。ここから弟子たちの新しいチャレンジが始まってゆきます。それは原点からの再出発となりました。
他に、あなたはこの物語からどんな生き方を教わりますか?私には、もし疲れているならイエスがあなたを休ませてくださると聞こえます。そしてイエスの寄り添い方にも注目します。イエスはあなたが前に進めないとき、そっとあなたに現れて、あなたを励まし、回復させ、また送り出してくださるお方なのです。
あなたはそのようなイエス・キリストの弟子です。私たちは疲れている人がいる時、不安に思う人がいる時、心が折れるような体験をした人がいる時、失敗をしてしまった人がいる時にどのように関わるでしょうか?
イエスならわからないくらい、さりげなくそっと側にいたでしょう。そして「ちゃんと食べてる?」と気遣ったでしょう。一緒に温かい食事をし、絆を確認し、回復を助けたでしょう。食事にはそんな不思議な力があるものです。人は一緒に食べると心を開きます。誰かと食卓を囲むと孤独が少しやわらぎます。イエスは聖書の中で何度もそのような食事をしました。
私たちはそんな、イエスのような生き方ができるでしょうか?私たちは心折れた人の側にそっといること、ただ一緒に食事を囲むこと、誰かに温かさを届けるような生き方、誰かと絆を確認するような生き方ができるでしょうか? 私はそんなイエスのような生き方がしたいと思いました。私はこの物語に押し出されて、人生をもう一度スタートをしたいと思っています。お祈りします。
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 ヨハネによる福音書21章5節
多くの方の、支えによって教会が守られたこと、休暇を頂いたことを感謝しています。本当にありがとうございました。11月末に連盟理事会から平塚教会プロジェクト・否決という連絡を受け、心がぽきっと折れるような感覚がありました。そして休暇を頂くことになりました。私は「誰かと一緒に食事をしよう」と決めました。
いろいろな人と一緒に食事をしていると、自分も心折れてないで、前を向いて一歩、歩み出そうと思えるようになりました。もう一度ここから始めよう、再スタートしようと思えたのです。それは私にとって回復の時、原点回帰する機会でした。
この経験のあと、今日の聖書を読みました。不思議なことに、弟子たちの気持ちが分かるような気がしてきました。
イエスの十字架は弟子たちの心をぽっきりと折りました。イエスは3日後にはもう、弟子たちの前に復活しました。しかし弟子たちはすぐに積極的な宣教を始めたわけではありませんでした。ただ弱かったからではありません。弟子たちは、大きなストレスから心を回復させてゆくために、相当の時間と環境が必要でした。弟子たちはその傷から心を回復するために、一度ガリラヤに戻る必要があったのです。弟子たちはそこで、原点回帰を体験しました。
そしてそこにイエスが登場します。小さな声で優しく聞きます「朝ご飯は食べた?」イエスはそんな風にさりげなく登場します。そしてイエスは漁師たちの冷えた体を、炭火を起こして待っていました。聖書には、たった2回だけ炭火という言葉が登場します。1回目の炭火が登場するのは、ペテロが「イエスなんて知らない」と言ったあの夜のことです。そして炭火が再び登場するのが今日の場面です。この後、炭火の前でイエスへの愛を三度、誓うことになります。イエスの期待はペテロが炭火の前で自分の痛みを、もう一度主の前に差しだすことでした。そしてイエスの期待はペテロがそこから回復し、再スタートすることでした。
今日の場面の食事、これはただの食事ではありません。それは折れた心を回復させるための食事だったのです。これは冷えた体を温め、疲れた体を癒す、回復の食事でした。そしてもう一度、愛そうとする、立ち上がろうとする、心を回復させる食事でした。そしてイエスとの関係を回復させる食事でした。
イエスのあり方から私たちの生き方を考えましょう。イエスの寄り添い方に注目します。イエスはあなたが前に進めないとき、そっとあなたに現れて、あなたを励まし、回復させ、また送り出してくださるお方です。
私たちは疲れている人がいる時どのように関わるでしょうか?私たちは心折れた人の側にそっといること、ただ一緒に食事を囲むこと、誰かに温かさを届けるような生き方、誰かと絆を確認するような生き方ができるでしょうか?私はこの物語に押し出されて、人生をもう一度スタートをしたいと思っています。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして、みなさんと共に礼拝を持てること、神様に感謝をいたします。クリスマスに関係するいろいろな行事が終わり少しほっとしています。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声に安らぎをもらいながら、今日も共に礼拝をしましょう。
みなさんは最近、これは楽だ、道具を変えるだけでこんなに快適になった、買ってよかったと思ったものはありますか?新しいスポンジとか、あったかい靴下とか。私が最近これは便利と思ったのは、落ち葉を吹き飛ばすブロワーという道具と、片手で使えるチェーンソーです。
私は教会の庭の桜の木の落ち葉に悩んでいました。紅葉している木の葉を見て、あの葉が全部落ちて来ると思わず気持ちが重たくなりました。ほうきで集めるのが大変なのです。時間がかかるのと、腰が痛いのです。葉が落ち始めた時、ブロワーという機械を買いました。強い風が出て、落ち葉を吹き飛ばし、一か所に集める道具です。これを使うと落ち葉拾いはかなり楽になりました。時間も体力も半分以下で終わるようになりました。そして何より少し楽しい気持ちで落ち葉を拾うことができるようになりました。負担が軽くなると、同じ作業でも少し心が明るくなるものです。
さらに私は以前買った小型のチェーンソーでまだ紅い葉のついている枝を切ることにしました。道路側に出ている枝を切ったのです。これもかなり効果があり、落ち葉の数が大幅に減らすことに成功しました。道具一つでだいぶ楽になるものです。みなさんにもこんなことありますか?道具ひとつで、こんなに軽くなるんだと驚く時があります。みなさんが最近、肩の荷が少し軽くなった瞬間はどんな時でしたか?
落ち葉の季節は終わりました。この後しばらく植物もお休みの時です。植物は寒い間成長を止めて、休眠期となり、春に花を咲かせるまで力を蓄えます。おかげでそれまでお庭の仕事はありません。しばらくお庭の管理は休息が出来そうです。しばし、春までの静かな休息をいただきましょう。春になればまた草が生えてきます。またみんなで草刈りをしましょう。
皆さんは休息をどのように取っているでしょうか。もうすぐお正月休みという人が多いでしょうか。みなさんはお正月休みはどのように過ごされますか?楽しみにしていることをしたり、テレビを見たりしますか?寝正月という人もいるでしょう。家族や仕事のことでいつも以上に忙しいという人もいるでしょう。お正月とその前後が心と体を休める時となるように祈っています。実は私自身も、この休むという恵みをしばらくいただこうと考えています。
聖書にも働くことと休息についての話があります。そこには道具を変えるだけで、すごく違うよという話もあります。そして休息の話が出てきます。働くことと休息について考えたいと思います。
今日はマタイによる福音書11章28~30節をお読みいただきました。当時の人々は生きるために、休みなく働かなければなりませんでした。イエスはいつも貧しく、休みなく働かなければいけない人々を見ていました。そして疲れ果てた動物も見ていたはずです。疲れに押しつぶされそうになる、それは昔の人々に限らず、私たちもまた同じです。イエスは疲れた人々を目の前にして何かを語ろうとしています。
29節を見ると「私の軛(くびき)を負え」とあります。“くびき”とは、牛や馬が働くときに身につける道具のことです。軛に様々な農機具を付けることによって、土を耕したり、重いものをひっぱったりことができます。
動物にとってはつらい仕事です。そして軛にはよい軛と悪い軛があります。よい軛は力の入りどころにしっかりとかみ合っている軛です。しかし悪いくびきは体に合わず、痛みを生みます。うまく力が入らないのです。動物がその力の本領を発揮するには良い軛が必要です。当時の人々はこの言葉を自分や動物の体験に重ねて納得をしたでしょう。
私達もそれぞれにくびきを負う者でしょう。それぞれの人生で重たいものを引いています。イエスが新しい軛を下さるとは、イエスの励ましによって私たちは、本来持っている力を発揮し、前に進むことができるという意味です。自分が力の入る場所を見つけ、自分らしく進めるための助けです。自分に合う生き方のリズムのことです。何かを動かしたい、前に進みたいと思う時に、時にはまったく新しい運び方を示してくださるのが神様です。
私たちはどうでしょうか?私たちの人生にもどうしても前に進むことができない時があります。引っ張っても、押しても、すべての力を注いでも動かないことがあるものです。でも、イエスは言います。その方法でどうしてもダメなら、違う方法で前に進めない?ひとつの方法がだめでも、すこし違う方法にしたら前に進めない?そちらの方が軽くない?私たちにそう問いかけています。
私はイエスが私に、そして私たちの教会に、新しく前に進む方法を与えてくれると信じています。なかなか前に進まないことを体験しました。でも「何だ、こっちの方が良かったじゃないか(笑)」という方法を神様が示してくださることを信じています。神様がこんなつらい思いをしないで、もっと私たちに合った軽やかに前に進める方法を示してくださる、私はそう信じています。
そしてイエスはこの言葉の中で「休ませてあげよう」とも言っています。人間には誰しも、人生の中でもうダメだと心折れる時があるものです。神様はそのとき、今までの軛を変えて、負いやすいものにしてくださいます。「もう少し軽くなる方法で頑張ってごらん」と。それはとても優しい言葉です。でも人生にはどんなに荷物を軽くしても、引けなくなるときがあるものです。力が入らない時があるのです。そんな時にイエスは「私のもとで休ませてあげよう」と言ってくださるお方です。イエスは私たちに優しく「少し軽くしてみる?それでもだめなら休んでみる?」と語りかけています。
今日は28節の「休ませる」という言葉、そして29節「安らぎを与える」という言葉に注目をしたいと思います。この言葉はどちらもギリシア語のアナパウオーという言葉で、身体的、内面的な休息を意味します。このアナパウオーという言葉は“アナ”と“パウオー”の合成語です。語源から意味を考えると、アナは下から上へのニュアンスを持ちます。アナがつく言葉はたくさんありますが、例えば立ち上がる、復活する、元の状態に戻す、回復させるという言葉にアナが付きます。いずれも下から上というニュアンスです。
アナパウオーのパウオーはどうでしょうか。パウオーには中止させる、制止する、終わる、立ち止まる、待つという意味があります。
つまり28節の「休む」29節の「安らぎを与える」と訳されている言葉アナパウオーは“立ち上がるために終わる”“回復させるために一時的に立ち止まって息をつく”という意味です。そこから日本語では「休む」「安らぎを与える」という翻訳が充てられました。日本語の聖書はこのアナパウオーを様々な言葉に翻訳し分けています。例えばあなたは私をアナパウオーしたという時に、聖書では「あなたは私を慰めた」「あなたは私を元気づけた」あるいは「あなたは私を待たせた」などと訳されています。
聖書の言う「休む」「安らぎを与える」とは温かい言葉です。それは下から上へとまた起き上がるためにいったん立ち止まること、慰められること、元気が出るまで待つという意味を持っている言葉です。まるで、うつむいていた顔が、ゆっくりと上を向くような言葉です。
みなさんは、この「休む」という言葉にどんな風景を思い描きますか?それはいったん立ち止まって、深呼吸をして、気持ちを落ち着けることと言えるでしょう。不安が取り除かれることを時間をかけて待つとも言えるでしょう。それはまた前に進もうと思える時まで待つことと言えるでしょう。イエスはそのように私たちに「休み」の時を与えてくださるお方です。
みなさんの人生にはどんな重荷があるでしょうか。みなさんに勧められているのはまず軛を変える事、荷物が軽くなるようにしてみることです。でも、それでもダメな時があるでしょう。軽いからといって毎日引っ張ることができるわけではないでしょう。イエスはそんな時があるのを知っていました。イエスはそれでもだめならアナパウオーしなさいと言います。イエスは「休みなさい」「立ち止まりなさい」「時間をかけて前に進もうと思える時を待ちなさい」と言っています。
そうです。神様は、私たちの人生について、ずっと軛を負い続けなさいとは言っていません。時に休み、不安がなくなるまで、また前に進もうと思える時まで休む、神様はそんな時を下さるお方です。神様が私たちに休息を与えてくださるのです。そして私自身も今、立ち止まらなければ前に進めないと気づいています。だから私はこのアナパウオーの休息をしばらく受け取りたいと思っています。そして休む期間にまた、神様が導き、立ち上げて下さる時が来ると信じています。その間神様がこの教会を支えてくださると信じています。
私たちはそれぞれの疲れを神様の前に差し出しましょう。きっと神様が良い軛を与えてくださり、思わず笑みがこぼれるほど、重荷が軽くなる経験を与えてくださるでしょう。そして神様は私たちがまた立ち上がることができるように、私たちに休息の時間もまた備えてくださっています。どうしても力ができない時、私たちは勇気を持って休むこともひとつの方法ではないでしょうか?
今日の聖書のみ言葉をみなさんはどのように感じたでしょうか?1分間の黙想の時をもちたいと思います。ぜひそれぞれに今日のみ言葉を思いめぐらせてみてください。お祈りします。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書11章28節
みなさんはちょっとしたことで快適になったという経験がありますか?私はブロワーという機械のおかげで楽に、そして少し楽しい気持ちで落ち葉拾いができるようになりました。落ち葉の季節は終わり、植物は春に花を咲かせるまで力を蓄えています。それまで庭の管理は休息が出来そうです。皆さんは休息をどのように取っているでしょうか。今日は聖書から働くことと休息することについて考えます。
イエスはいつも休みなく働かなければいけない人々を見ていました。それは昔の人々に限らず、私たちもまた同じです。“軛(くびき)”とは、牛や馬が働くときに身につける道具のことです。軛に農機具を付けることによって土を耕しました。悪い軛は体に合わず、うまく力が入りません。本領を発揮するには良い軛が必要でした。
イエスが新しい軛を下さるとは、私たちが本来持っている力を発揮し、前に進むことができるようになるという意味です。それは自分が力を発揮できる場所を見つけ、自分らしく進むための助けになり、自分に合う生き方のリズムのことです。私たちの人生にもどうしても前に進むことができない時があります。でも私はイエスが私と私たちの教会に、新しく前に進む方法を与えてくれると信じています。なかなか前に進まないことを体験しました。でも「何だ、こっちの方が良かったじゃないか(笑)」という方法を神様が示してくださることを信じています。
そしてイエスはこの言葉の中で「休み」についても語っています。人間には誰しも人生の中で心折れる時があるものです。イエスは私たちに優しく「少し軽くしてみる?それでもだめなら休んでみる?」と語りかけています。
「休ませる」という言葉はギリシア語のアナパウオーという言葉です。それは“立ち上がるために終わる”“回復させるために一時的に立ち止まって息をつく”という意味です。日本語の聖書はこのアナパウオーを「慰める」「元気づける」「待たせる」と訳しています。聖書の言う「休む」はまるで、うつむいていた顔が、ゆっくりと上を向くのを待つような言葉です。
みなさんの人生にはどんな重荷があるでしょうか。勧められているのはまず軛を変える事です。でもそれでもダメな時は「休みなさい」と言っています。不安がなくなるまで、また前に進もうと思える時まで休む、神様はそんな時を下さるお方です。
そして私自身も今、立ち止まらなければ前に進めないと気づいています。だから私はこのアナパウオーの休息をしばらく受け取りたいと思っています。そして休む期間にまた神様が導き、立ち上げて下さる時が来ると信じています。その間神様がこの教会を支えてくださると信じています。
私たちはそれぞれに疲れています。きっと神様が良い軛を与えてくださり、思わず笑みがこぼれるほど、重荷が軽くなる経験を与えてくださるでしょう。そして神様はどうしても力ができない時「休み」を与えて下さるでしょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして礼拝に集うことができること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さなこどもたちの大きな声と共に礼拝を献げましょう。そしてたくさんの方とこの後の食事会を持てること、うれしく思っています。
この1年間、私たちは様々な地域への活動をしてきました。こども食堂、こひつじ広場、こひつじまつり・・・。誰かの一日が、ほんの少しでも温かくなるようにと願って続けています。そして私たちに流れているキリストの愛が、そっと背中越しに伝わればと願っています。
平塚のたくさんの方がこの活動に賛同し、寄付を下さっています。ある方はパンを、ある方はお米を、ある方は野菜を、ある方は毎月自分の誕生日に献金を。支え合って生きる、ということを私たち自身が実感させてもらっています。地域のみなさんの小さな愛が積み重なり、私たちの想像を超える働きになりました。
時々教会には特別な困りごとを持った人が相談にきます。困りごとは様々です。日頃からそういう方に対応していると、そういう困りごとなら、あの団体が得意だ。そういう時はあの人に相談するといい。こういう時は私たちの出番だ。地域と協力できるようになりました。
平塚市内のいろいろな人と協力しながら、困りごとを持った方たちの支援をしています。言葉にすると地域で連携するという言葉ですが、それは仕組みではなく温もりでつながる関係です。このような方が今目の前にいるのですが、そちらは今、支援ができますか?こちらはこんなことまではできるけど。そのような、お互い様の助け合いで、他の団体と協力しながら地域の困りごとに対応をしています。
年末はこういった相談が毎年多くなる時期です。忙しさの中にこそ、イエスの愛の深さを思い知らされる季節でもあります。いつも以上に愛をもって向き合いたいと思っています。
聖書にもたくさんの特別な困りごとを持った人が登場します。今日はその困りごとを持った人を助け合う、支え合う、連携する、そんな視点で聖書の物語を見てゆきたいと思います。きっと物語の中にある愛を見つけられるはずです。
今日はルカによる福音書2章1~7節までをお読みいただきました。イエスが誕生する直前、父と母は住民登録をするためにナザレという町からベツレヘムという町に移動しなければならなりました。ナザレからベツレヘムの距離は約150km。今の距離で言えば、平塚から高崎ほどです。身重の母が何日も移動しなければいけない過酷な旅路でした。あなたなら、この距離をどうやって旅するでしょうか?何とか目的地ベツレヘムにつきました。しかし彼らには宿屋が無かったとあります。泊まる場所が無かったのです。
かつて教会で演じた劇が、今も心に残っています。聖書には詳しく書いていない空白を豊かな想像力で劇にしました。私が見た劇ではこうでした。父が宿屋のドアをたたきます。「泊めて下さい」。そうすると、いじわるな宿屋が出て来て「満室だよ」と言います。次の宿屋にもまた次の宿屋にも断られ、最後は家畜小屋に案内されます。そして母はそこで出産し、イエスはそこにあったエサを入れるカゴ、飼い葉桶に寝かされるのです。
劇は大変心温まるものでしたが、でももう一度今の私たちの目で、この空白を想像してみましょう。ベツレヘムは100人ほどの小さな村でした。そもそも宿屋は多くなかった村です。たとえあったとしてもすぐにいっぱいになったはずです。旅をしている人の多くはホームステイ、誰かの家に泊めてもらったのです。
このような背景から状況を考えると、宿泊先の候補は、元々宿屋ではなく、いくつかある大きな家の客間でした。でもおそらくその客間にもすでに先客がいたのです。そのような状況だったのではないでしょうか?
みなさんはこの物語の空白をどのように想像しますか?私はベツレヘムの町の人々は平塚の人々と同じ様に、温かい心のある人だったと想像します。これを優しさの物語と想像します。
父はベツレヘムの出身でわざわざ住民登録をしに帰ってきました。だとしたら、父を知っている人がいたのではないでしょうか?ベツレヘムの町の人々は意地悪で、無関心だったのではなく、もしかすると、優しさでいっぱいの人々だったのではないでしょうか?
村に入るとすぐに「あれ、ヨセフじゃないか?」そんな声がどこかで上がったかもしれません。「久しぶり。え?婚約して赤ちゃんがいるの?今夜泊まるところあるの?え?まだ決まってないの?泊まれるところがないかちょっと聞いてみようか?」小さな村ではすぐに、そして自然にそんな会話になったのではないでしょうか?
そこから地域の連携が始まったでしょうか?「あそこだったら泊まらせてもらえないかね」「あそこはどうだろうか?」「あの人ならこういう時どうすればいいか知っているはずだ」。思わず手を貸したくなる気持ち、愛が村じゅうを駆け回ったのかもしれません。
ベツレヘム中の人を巻き込んでこの夫婦とお腹の赤ちゃんをほっておけないと思いました。小さな愛が動き出しました。それでもなかなか宿屋も客間も見つけることができなかったのです。でも村の人々はようやく見つけることができました。「うちで良ければどうぞ。うちのひと間、こんな場所でよければ」そう言ってくれる人を見つけ出したのです。
決して満足のいく場所ではありませんでした。でもみんなで一生懸命探した場所でした。この人のためにみんなができることを少しずつ、でも精一杯しました。ベツレヘムの人は意地悪ではありません。みんなが愛を少しずつ出し合って、愛を少しずつ分け合って、なんとか夫婦の居場所を見つけたのです。そこで出産することになりますが、出産にも多くの人の手助けがあったはずです。小さな点と点が少しずつ結ばれ、一枚の絵になるように、村の人々は力を合わせていったのです。ベツレヘムのクリスマスとはそんな小さな愛が重なってゆく物語だったのではないでしょうか?
ゆっくり積み重なるもの、それは愛だけではありません。小さな過ちもまた、積もると私たちを傷つけます。私たちは知っています。小さな罪が積もると、大きな悪が生まれることを。気候変動も、人種差別も一人一人の行動が大きな悲劇を生んでゆきます。一人一人の小さな罪が大きな悪につながります。
でもそれは反対のこともまた同じだということも示しています。それは私たちの小さな愛が積み重なると、想像できないほど大きな奇跡が起こるということです。みんなのちょっとずつの愛は大きな奇跡を起こすとも言えるのです。一人一人の少しずつの小さな愛がとても尊い力へつながってゆくのです。
この物語の背景にもそれが隠されているのではないでしょうか?イエスは決して恵まれた場所に生まれた存在ではありませんでした。でもこんな場所で生まれて不幸だったとは決めつけてはいけません。イエスは、多くの小さな愛につつまれて生まれたのかもしれません。それはとても大きな幸せだったのではないでしょうか?
イエスの誕生は孤独で、誰からも大切にされない誕生だったのではありませんでした。きっとそこには、自分には何の責任もないのに、他人の困りごとに関わって何の利益もないのに、でも真剣に寄り添った人、真剣に隣人を愛した人が、そこにいたのではないでしょうか?
僕で良ければ手伝います。こんな場所でよければどうぞ。これで良かったら使ってください。そう分かち合う物語です。イエスの誕生は孤独で寂しい誕生ではありません。たくさんの人に愛されて、愛のバトンがつながれ、この地上へと生まれてきたのです。クリスマスはそんな小さな愛の物語だったのではないでしょうか?
みなさんはこの物語の空白をどのように想像するでしょうか?考えてみてください。もしあなたがベツレヘムの村の一人だったらどうしましたか?そこで、どんなことができたでしょうか?
時を超えて考えましょう。私たちは、周りにいる、ちょっと困っている人に、どんなことができるでしょうか?
あなたにはあなたの役割で忙しさがあるでしょう。あなたが宿屋になってすべてを受け止めなさい。聖書はそうは言っていません。その時、あなたの小さな手で今できるたった一つのことは何でしょうか?あなたが人の痛みに触れ、何かをしてあげたいと思った時、これならできると思うことはどんなことでしょうか?
その小さな手が愛と言うのではないでしょうか?このクリスマスの物語は、あなたができる愛とは何か?それを私たちに問いかけているのではないでしょうか?私たちはこの小さな愛を、もっと信じましょう。私たちは小さな愛を大切にしてゆきましょう。小さな愛が世界、この街をそっと変えていく。そんな物語を、私たちも生きていきましょう。
またみなさんは、誰からも助けがないと感じる時があるでしょうか?見向きもされず、置いて行かれていると思う時があるでしょうか?きっとそのときあなたに誰かが、小さな愛を持ってやって来てくれるでしょう。足りないものはたくさんあるけれど、一つではどうにもならないけれど、みんな集まれば大きな奇跡となる愛。あなたもすでにそれに支えられているのかもしれません。それに気づかずに、飼い葉桶で眠っているのかもしれません。
聖書とイエスは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と教えています。私たちにできる愛はなんでしょうか?それぞれに思いめぐらせてみてください。
彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書2章6~7節
この1年間、私たちは様々な地域への活動をしてきました。平塚のたくさんの方がこの活動に賛同し、寄付を下さっています。地域のみなさんの小さな愛が積み重なり、私たちの想像を超える働きになりました。
時々教会には特別な困りごとを持った人が相談にきます。平塚市内のいろいろな人と連携しながら支援をしています。聖書にも困りごとを持った人が登場します。今日はそんな人を助け合う、支え合う、連携するという視点で聖書の物語を見てゆきたいと思います。きっと物語の中にある愛を見つけられるはずです。
私はベツレヘムの町の人々は平塚の人々と同じ様に、温かい心のある人だったと想像します。村に入るとすぐに「あれ、ヨセフじゃないか?」と声がして、地域の連携による泊まれる場所探しが始まったはずです。ベツレヘムの人々の思わず手を貸したくなる気持ち、愛が村じゅうを駆け回りました。村の人々は「うちで良ければどうぞ」そう言ってくれる人を見つけ出しました。決して満足のいく場所ではありませんでしたが、みんなで一生懸命探した場所でした。そこで出産することになりますが、出産にも多くの人の手助けがあったはずです。小さな点と点が少しずつ結ばれ、一枚の絵になるように、村の人々は力を合わせていったのです。ベツレヘムのクリスマスとはそんな小さな愛が重なってゆく物語だったのではないでしょうか?
小さな愛が積み重なると、想像できないほど大きな奇跡が起こるのです。みんなのちょっとずつの愛は大きな奇跡を起こすのです。一人一人の少しずつの小さな愛がとても尊い力へつながってゆくのです。この物語の背景にもそれが隠されているのではないでしょうか?
イエスの誕生、きっとそこには自分には何の責任もないのに、他人の困りごとに関わって何の利益もないのに、でも真剣に寄り添った人、真剣に隣人を愛した人がいたはずです。みなさんはこの物語の空白をどのように想像するでしょうか?
もしあなたがベツレヘムの村の一人だったらどうしましたか?そこで、どんなことができたでしょうか?時を超えて考えましょう。私たちは、周りにいる、ちょっと困っている人に、どんなことができるでしょうか?あなたが人の痛みに触れ、何かをしてあげたいと思った時、これならできると思うことはどんなことでしょうか?
その小さな手が愛と言うのではないでしょうか?このクリスマスの物語は、あなたができる愛とは何か?それを私たちに問いかけているのではないでしょうか?
聖書とイエスは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と教えています。私たちにできる愛はなんでしょうか?クリスマスの時、それぞれに愛を思いめぐらせてみましょう。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も、子どもたちの声に包まれながら礼拝をしましょう。アドベント3週目を迎えました。アドベントは、心がゆっくりとクリスマスへ向かっていく季節です。アドベンチャーも同じ語源だと言われています。
みなさんはファーストペンギンという言葉を聞いたことがあるでしょうか?さきほどのビデオで氷山の上のペンギンを見ました。氷の崖の上で、前に進むか戸惑い、身をすくませているペンギンたち、まるで誰かが最初に飛び込んでくれないかと待っているようです。あなたがあの崖の上にいたらどんな気持ちでしょうか?
そしてその瞬間が来ます。最初の一匹が水の中に飛び込みました。思わず「よくやった」と言いたくなる光景です。そうするとペンギンは次々に海に飛び込んでゆきます。ペンギンのアドベンチャーのはじまりです。このようなペンギンたちの中で、一番最初に飛び込んだペンギンはファーストペンギンと呼ばれます。
ファーストペンギンは、誰より先に“未知”へと足を踏み出す存在です。飛び込んだ水の中にはシャチやアザラシ、オットセイがペンギンを食べようと待っているかもしれません。これはとても危険なダイブです。ファーストペンギンとはこのようにもっとも危険を冒したペンギンです。このようなファーストペンギンは「勇気のある先駆者」の代名詞となりました。
私たちの教会もファーストペンギンと言えるかもしれません。地域との新しい関わりを求めて様々な取り組みを始めました。最初は他の教会から「そんなことをして本当に大丈夫?」と心配されることもありました。それでも今は多くの教会が地域とどのように新しい関わりを持つかを、それぞれに模索を始めています。
実は自然界のファーストペンギンは必ずしも勇敢な先駆者だとは限らないこともあるそうです。体を押しあっているうちに、思わず落ちてしまうケース。さらには2匹目が前のペンギンを蹴り飛ばすケース。性格的にまっさきに飛び込むケース。しかしいずれにしてもファーストペンギンは他のペンギンよりもかなり高い確率で他の動物に食べられてしまうのだそうです。
私たちの教会はそのような意味においてもファーストペンギンかもしれません。何か新しいことを始めようと思った時にそれは自分たちの決心だったのでしょうか?もしかするとやむを得ない事由が発端だったかもしれません。あるいは何か見えない力によって、後ろから蹴り出されたり、押し出されたりしたのかもしれません。平塚教会らしい自由さや柔らかさがそうさせた面もあったでしょう。
気づけば私たちも、大きな海へ押し出されるように踏み出していました。私たちの歩みがどんな実りを持つのかは、まだ誰にもわかりません。でも断崖絶壁ぎりぎりで踏ん張るよりかは、思い切って水の中に飛び込んで、自由に泳ぎ回る方がずっと気持ちいいような気がします。新しい宣教を始めるときは、その先頭に立つ教会が必要です。神様の福音の広がりは、ファーストペンギンとなる教会が必要です。神様と仲間に押し出され、時に状況に蹴り出され、神様を信じて飛び込む、そこに新しい宣教が生まれて来るのではないでしょうか?
今日はみなさんと福音宣教の先駆者について考えてみたいと思います。バプテスマのヨハネは先駆者ファーストペンギンとして、この地上に現れました。その姿を見てゆきましょう。
今日はマルコによる福音書1章1~13節までをお読みいただきました。イエス・キリストが地上での活動を始める前の物語です。当時は多くの「自称キリスト」がいました。その中でバプテスマのヨハネは非常にユニークな存在でした。彼は「私の後にキリストが来る」そう伝える活動をしていました。
彼は言いました「水に沈み、古い生き方をいったん手放し、新しく歩み始めなさい」。それは水の中に体を沈めることをきっかけにして、自分の今までの生き方を新しくしなさいという教えでした。多くの人が先駆者バプテスマのヨハネに従って、水の中に飛び込んでゆきました。金持ちも、貧しい人も、男も女もあらゆる性の人が、新しい生き方を始めるために。先駆者バプテスマのヨハネに従う様に、まるで“もう一度生まれ直す”ように、水に身をゆだねていきました。
そして「私の後にキリストが来る」そう言っていたバプテスマのヨハネは、イエスに出会うことになりました。しかしその出会いはヨハネの想像するものとは違いました。気がつくと、イエスは人々と同じ列に静かに立っておられたのです。イエスは「私も同じ水に入る」と静かに言われました。そして他の人々と同じ様に、水の中に飛び込み沈む、バプテスマを受けたのです。イエスもそのようにしてバプテスマから新しい生き方をスタートさせたお方でした。
バプテスマのヨハネはその後どうなったでしょうか?彼はユダヤの王の行動に反対の声を挙げ、処刑されてしまいました。ファーストペンギンであったヨハネは、権力の前に孤独に立たされ、命を奪われてしまいました。
イエスもそれをよく知っていたはずです。最初に飛び込んだ者がどうなるのか。自分ももしこのまま活動を続ければ、どうなるのか。それはとても危険な冒険・アドベンチャーだと分かっていました。そこに飛び込めば必ず支配者から目をつけられ、命を奪われるだろう、イエスはそのリスクを知っていたはずです。しかしイエスはその活動を始め、やめることはありませんでした。
イエスはどのようなことを教えたでしょうか?その教えはバプテスマのヨハネと共通することが多くあります。他者と分かち合う事、平和的な行動を通じて社会を変える事は共通した教えです。そしてもちろんイエス独自の教えもありました。
ヨハネが強調したのは、悪と汚れへの厳しい裁きでした。しかしイエスはいつも罪人や病人と行動しました。イエスは弱さを持った他者をいつくしむ「愛」を強調したのです。ヨハネは荒野で孤独に生きるという方法を選びました。しかしイエスは町や村を巡り歩き、人々の中で他者と共に生きるという方法を選びました。ヨハネは良いものと悪い者を二つに分けようとしました。しかしイエスは善悪や汚れと清さを超えて、垣根無く共に生きるという態度を示しました。ヨハネは荒野でイナゴと野蜜を食べました。しかしイエスは人々と共に食事をする生き方を選びました。イエスの伝えたのは、他者を愛すること、他者と共に生きる事、そのような態度・行動だったのです。
イエスはその後どうなったでしょうか?イエスは、愛に生きる道を選びました。その愛ゆえに十字架へとかけられてゆきました。他者を愛する生き方を選ばなければ、そのような苦痛はなかったはずなでした。イエスは、他の誰かが愛を語り出すまで待っていれば、良かったのです。しかしイエスは一番最初に愛を語り、一番最初にそれを実行に移しました。そしてイエスは殺されてしまいました。
イエスは愛を語るリスクを、他者を愛する行動のリスクをヨハネの姿を見て、良く知っていたでしょう。でもイエスは愛に飛び込んでゆきました。愛することが危険で、痛みをもたらすと知っていました。それでもイエスが愛を選んだという勇気は、どこから湧いてくるのでしょう?この十字架は愛に身を投じた証です。そしてその愛の中を自由に歩もうとした証しです。十字架はイエスが愛に生きようと、この世界に飛び込んできた証しです。
2000年後の今、私たちに目を向けましょう。私たちはイエス・キリストに従い、新しい生き方を目指す、他者を愛す、そう決心し、洗礼・バプテスマを受けました。水の中に沈みました。でも本当に自分たちの決心でしょうか?きっとそれは見えない神様の力・聖霊に押し出されたという部分もあったのでしょう。私たちの思いを超えて信仰へと押し出された部分もあるでしょう。
いずれにしても私たちクリスチャンは水の中に飛び込んだ者です。様々な物から自由になって生きる、そこからアドベンチャーを始めた者です。イエスように他者を愛し生きる、その生き方には苦労とリスクがあります。他者を愛することで自分が傷つくことがあります。愛には痛みも伴いますが、その痛みの向こうに、関係がもう一度開く時があります。
みなさんにおたずねします。あなたが最近「愛するのが怖い」「愛に飛び込むのが怖い」と感じた時はいつでしたか?みなさんにとってこの1週間の中で“愛に向かって踏み出す小さな一歩”とはどんなことでしょうか?みなさんが今、恐れている愛の一歩はなんですか?大きくなくていいでしょう。誰かの話を聴くこと、祈ること、それらも立派な“愛へのダイブ”です。
私たちはもうすでに水に飛び込んだ者です。神に押し出され水に飛び込みました。すでに水に入った者として、自由に、愛に向かって泳ぐ者でありたいのです。アドベントの時、イエス・キリストの誕生を待ち望む時を迎えています。私たちは私たちの前に生まれ、愛に生きようと、この地上に飛びこんだイエスを、愛に生きる生き方に飛び込んだイエスを見つめています。
他者を愛する生き方、共に生きる生き方、分かち合う生き方へと歩み出したいのです。互いに支え合いながら、愛の海へ、もう一度飛び込んでみたいのです。愛へ飛び込むとは、恐れの中で他者を愛することです。あなたのペースで自由に泳いでいい海です。アドベントの光の下、もう一度、愛の海へと飛び込んでゆきませんか?
イエスが選んだこの愛の道を、あなたはどう感じますか?1分間静かな時を持ちます。それぞれの祈りを神様に向けてゆきましょう。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
マルコによる福音書1章5節
氷の崖の上から一番最初に水に飛び込むペンギンをファーストペンギンと呼びます。ファーストペンギンは誰より先に“未知”へと足を踏み出す存在として「勇気のある先駆者」の代名詞となりました。私たちの教会もファーストペンギンと言えるかもしれません。地域との新しい関わりを求めて様々な取り組みを始めました。
そして実は自然界のファーストペンギンは体を押しあっているうちに落ちてしまうケース、蹴り飛ばされ落ちるケースもあるそうです。私たちの教会はそのような意味においてもファーストペンギンかもしれません。何か見えない力によって、後ろから蹴り出されたのかもしれません。いずれにしても神様を信じて飛び込む、そこに新しい宣教が生まれて来るのではないでしょうか?今日は先駆者を考えます。
バプテスマのヨハネは水の中に体を沈めることをきっかけにして、自分の今までの生き方を新しくしなさいと最初に教えた人です。人々はまるで“もう一度生まれ直す”ように水に身をゆだねていきました。そしてイエスも他の人々と同じ様に、水の中に飛び込み沈むバプテスマを受け、新しい生き方をスタートさせました。
バプテスマのヨハネはその後、命を奪われてしまいました。イエスも最初に飛び込んだ者がどうなるのか知っていたはずです。しかしイエスは愛の活動をやめることはありませんでした。
ヨハネが強調したのは、悪と汚れへの厳しい裁きでした。しかしイエスはいつも罪人や病人と行動しました。イエスは弱さを持った他者をいつくしむ「愛」を強調しました。イエスの伝えたのは、他者を愛すること、他者と共に生きる事、そのような態度・行動だったのです。イエスはその愛ゆえに十字架へととかけられてゆきました。一番最初に愛を語り、一番最初にそれを実行に移しました。そしてイエスは殺されてしまいました。この十字架はイエスが愛に生きようとした証し、この十字架はイエスが私たちの世界に飛び込んできた証しです。
私たちに目を向けましょう。私たちは新しい生き方を目指す、他者を愛す、そう決心し、洗礼・バプテスマを受けました。水の中に沈みました。私たちもアドベンチャーを始めた者です。
あなたが最近「愛するのが怖い」「愛に飛び込むのが怖い」と感じた時はいつでしたか?みなさんにとってこの1週間の中で“愛に向かって踏み出す小さな一歩”とはどんなことでしょうか?みなさんが今、恐れている愛の一歩はなんですか?他者を愛することは痛みも伴いますが、その痛みの向こうに、関係がもう一度開く時があります。大きくなくていいでしょう。誰かの話を聴くこと、祈ること、それらも立派な“愛へのダイブ”です。他者を愛する生き方、共に生きる生き方、分かち合う生き方へと歩み出したいのです。アドベントの光の下、もう一度、愛の海へと飛び込んでゆきませんか? イエスが選んだこの愛の道を、あなたはどう感じますか?
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、当たり前ではないことです。まずそれを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたち小さな足音や笑い声が響く、いのちの満ちた教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしましょう。クリスマスの前の4週間をアドベントと呼び、クリスマスを迎える心の備えをしています。街にも、心にも、クリスマスが近づいてきました。教会では21日にクリスマス礼拝とお楽しみ会を予定しています。たくさんの人と祝うことができるのを楽しみにしています。
みなさんはそれぞれの家でクリスマスを祝う予定はありますか?みなさんはクリスマスにショートケーキは食べますか?コンビニやテレビではクリスマスにショートケーキを食べませんか?予約しませんか?という広告があふれています。
私は最近、クリスマスにショートケーキを食べるという習慣があるのは日本だけだということを聞いて少し驚きました。日本でクリスマスにショートケーキを食べるという習慣は、不二家のキャンペーンがきっかけだったそうです。サンタクロースと色が似ている、紅白でお祝いにふさわしいということから、日本ではクリスマスの定番となったそうです。七面鳥を食べる習慣は、身近なフライドチキンに、家族で過ごすという習慣は、ロマンチックな日として恋人同士の日となりました。気づけば私たちは、日本独特のクリスマスを過ごしています。
でも形が変わっていく時というのは、本当に大切にしているものは何かを問われる時でもあります。「これだから日本人はだめだ」そう批判することは、とても簡単です。けれどもそれで何かが伝わるでしょうか。聖書にはサンタクロースもクリスマスツリーも登場しません。クリスマスが12月25日だったとも書かれていません。ショートケーキやチキンを食べるのが本当のクリスマスではありませんと言うのは簡単です。
でも私たちクリスチャンは日本の文化に対抗したいというわけではありません。私たちは今生きるこの日本の文化の中から、少しでもイエス・キリストが伝わることを願っています。何を食べてもいいのではないでしょうか。そして大切なのは「何を食べるか」より「どんな思いで迎えるか」ではないでしょうか。私たち自身がクリスマスをイエスが生まれた日という意味を忘れずにいることが大事です。クリスチャンにとって、騒がしさの中でも、イエスが自分の胸の中にいることを静かに感じる日とすればいいのではないでしょうか。
そして少しでも、ほんの少しでもこの日本のクリスマスからイエス・キリストが伝わればいいと思います。伝えたい。人生には希望があることとその安心を。伝えたい。心の支えとなるみ言葉を。この文化の中から、イエス・キリストが伝わってゆくことを祈っています。
伝統的に教会では「教会で本当のクリスマスを迎えましょう」と伝えてきました。しかしそこには“自分たちこそ正しい”という響きがあります。「教会だけが本当のことを知っていて、あなたは知らない、あなたは間違っている」という意味も帯びていました。こういったフレーズは相手の習慣の否定として響き、本当に伝えたいことを伝える機会を逃してしまっていたのではないでしょうか?私は他者の文化と習慣を尊重しながら、共存しながら、本当に大切なことを伝えたいと思っています。今日本にあるクリスマスの文化・ショートケーキの文化を大切にしながら、キリスト教の持つクリスマスの意味、イエス・キリストの希望を伝えてはどうでしょうか?
実は聖書にも、文化や習慣にずれが生じた時のことが書いてあります。2000年前の人もそれに悩んでいました。そんな時、イエスはどう語ったのでしょうか。今日はそこを聖書から一緒に見てゆきたいと思います。
聖書マルコによる福音書7章1~13節までをお読みいただきました。ある時イエスたちのもとにエルサレムから律法学者が来て言いました。「食事の前に手を洗わないのはおかしい」。これは私たちの習慣とも共通しています。衛生の観点から、食事の前に手を洗うのは当然のことです。しかし当時の人と私たちで手を洗う理由は大きく違いました。エルサレムの律法学者はこう考えました。体が宗教的な意味で汚れているから手を洗わなければいけない。日本風に言うと、手を清めてからではないと食べてはいけない、そうしないと汚れるといった意味です。
しかし食事の前に手を洗って汚れを清めなければならないという決まりは、聖書のどこにも書いてありません。聖書にはそのような記述は見当たらないのです。つまりそれはエルサレムの律法学者が考えだした習慣だったのです。ただそのようにすべきと考える人が、毎日している習慣だったというだけのことです。しかしエルサレムから来た律法学者は自分の習慣を押し付けました。自分のしている習慣を全員が守るべきものして、人々に「こうあるべきだ」「これが本当の食事の方法だ」「これが本当に正しい方法だ」と人々に押し付けたのです。このような習慣の違いには2000年前の人々も悩んだでしょう。
エルサレムから来た律法学者とは一体何者なのでしょうか?話の舞台となっているのは前の6章53節の続きから考えるとゲネサレトという町です。そこはガリラヤ地方の小さな農村です。つまりここで対比されているのは中央から来たエリートと地方の農民です。偉い先生が言いました「あなたは間違っていますよ」「汚れていますよ」「これこそが本当の食事の方法ですよ」「正しい方法ですよ」そうやって全国を教えて回っていたのです。どこもかしこも訪ねては、相手の習慣や事情を尊重しようとせず、否定して巡り歩いていました。なぜエルサレムのエリートの考えた習慣を庶民が守る必要があったのでしょうか?律法学者が本当に伝えたいことはなんだったのでしょうか?神様の愛?それとも自分たちの正しさ?自分たちの優秀さ?
イエスは6節で旧約聖書イザヤ書を引用してこう言います。「この民は口先では《神》を敬うが、その心は《神》から遠く離れている」イエスは相手の習慣を無視して、自分たちの習慣を押し付けようとした人に、その心は神様から遠く離れていると指摘しました。相手を間違っている習慣の持ち主と見下す姿勢は、神様から心が離れていると指摘したのです。
イエスが伝えた事、神様と心が近くなる事、それは互いに競って、互いの習慣を否定しあうことはではありませんでした。そうではなくイエスは互いを尊重し合うことで、神様と心が近くなると教えたのです。どんな習慣を持っているかは二の次です。イエスは互いを尊重し合う事こそが心が神様に近くなる事だと語ったのです。
コルバンの話も同じです。自分の家族や隣人と分かち合うべきものを神様に献げたと言って、分かち合いをしない人がいました。当然それで困る人が出てきました。神様へ献げたという言葉が、隣人への無責任・無関心の言い訳になっていたのです。神様にきっちり献げ物をしているのだから、人間への責任は果たさなくていいと言う人がたくさんいたのです。それは神様にさえ忠実であれば、どのような生き方をしてもいいという考えでした。
イエスはこれにも反対をしました。神様に献げる事、隣人と分かち合う事、神様と人、どちらの手も離さずに歩みなさいと。どちらも尊重にするようにと伝えたのです。イエスは神様だけではなく、互いも尊重をしあいなさいと伝えたのです。互いを尊重すると、心が神様に近くなるよと教えたのです。
この聖書の個所から私たちはどのようにクリスマスを迎える準備をしたらよいでしょうか?他人の習慣を否定し、押しつけようとすることは、私たちの中にも起こり得ることではないでしょうか?私たちは時々エルサレムから来た人になってないでしょうか?相手を知らない人、間違っている人と見下してしまうことはないでしょうか?
新しいものがよいとは限りません。伝統が悪いとは限りません。私たちは今ある習慣と、その本当の意味の両方を大切にしたいのです。今あるこの習慣を大切にしながら、その先にいる神様に、心を合わせてゆきたいのです。今の目の前にいる人と、その先にいる神様、その両方を尊重する時、神様に心が近くなるのではないでしょうか?
私たちは日本の文化に囲まれながら、ショートケーキと共にクリスマスを迎えます。私たちはそれを否定せずに、その中でどうクリスマスの喜びを他者と分かち合うことができるでしょうか?自分だけが神様に忠実にクリスマスを守ればいいのではありません。クリスマスに他者とどのように喜びを分かち合えるかも大切なことです。
クリスチャンである私たちこそ、そのような神様と人と両方を大切にする、本当のクリスマスを迎えることができるでしょうか?主イエスが地上に生まれた、それが私たちの希望です。貧しい私の心にイエスが来る、それを他者と喜ぶクリスマスを迎えることができるでしょうか?神様と向き合い、隣人と向き合うことができるでしょうか?私たちは身近な人と、あるいは隔たりのある人と互いの文化と習慣を尊重し合い、喜びを分かち合えるでしょうか?互いに愛し合うことができるでしょうか?
私たちはこの後、主の晩餐を頂きます。クリスマスの前に持たれる主の晩餐を特別に頂きましょう。ショートケーキではありませんが、パンとブドウジュースを頂きます。私たちの主の晩餐はすべての人と共に持たれます。神様の存在を感じながら、互いの存在を感じながら、このパンと杯をいただきましょう。
1分間静まる時を持ちます。どうぞそれぞれにこの聖書のみ言葉に思いを巡らせてください。お祈りします。
「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」
マルコによる福音書7章6節
クリスマスが少しずつ近づいてきました。みなさんはクリスマスにショートケーキを食べますか?クリスマスにショートケーキを食べるという習慣があるのは日本だけだそうです。サンタクロースと色が似ている、紅白でお祝いにふさわしいということから、日本ではクリスマスの定番となったそうです。気づけば私たちは、日本独特のクリスマスを過ごしています。
形が変わる時というのは、本当に大切にしているものは何かを問われる時でもあります。クリスチャンにとって、騒がしさの中でも、イエスが自分の胸の中にいることを静かに感じることを大切にする日です。私たちは文化を否定するのではなく、今生きるこの日本の文化の中から、少しでもイエス・キリストが伝わることを願っています。実は聖書にも、文化や習慣にずれが生じた時のことが書いてあります。2000年前の人も悩んでいました。そんな時イエスはどう語ったのでしょうか。
ある時イエスたちのもとにエルサレムから律法学者が来て言いました。「食事の前に手を洗わないのはおかしい」。衛生とは関係なく、エルサレムの律法学者は自分が考えだした習慣を人々に押し付けました。律法学者が本当に伝えたかったことは何だったのでしょうか?神様の愛?それとも自分たちの正しさ?自分たちの優秀さ?
イエスは6節で旧約聖書イザヤ書を引用してこう言います。「この民は口先では《神》を敬うが、その心は《神》から遠く離れている」イエスは相手の習慣を無視して、自分たちの習慣を押し付けようとした人に、その心は神様から遠く離れていると指摘しました。イエスは互いを尊重し合う事こそが心が神様に近くなる事だと語ったのです。
この聖書の個所から私たちはどのようにクリスマスを迎える準備をしたらよいでしょうか?私たちは時々エルサレムから来た律法学者になってないでしょうか?私たちは今ある習慣と、その本当の意味の両方を大切にしたいのです。今あるこの習慣を大切にしながら、その先にいる神様に、心を合わせてゆきたいのです。今の目の前にいる人と、その先にいる神様、その両方を尊重する時、神様に心が近くなるのではないでしょうか?
私たちは日本の文化に囲まれながら、ショートケーキと共にクリスマスを迎えます。私たちはそれを否定せずに、その中でどうクリスマスの喜びを他者と分かち合うことができるでしょうか?クリスチャンである私たちこそ、そのような神様と人と両方を大切にする、本当のクリスマスを迎えることができるでしょうか?
私たちはこの後、主の晩餐を頂きます。ショートケーキではありませんが、パンとブドウジュースを頂きます。私たちの主の晩餐はすべての人と共に持たれます。神様の存在を感じながら、互いの存在を感じながら、このパンと杯をいただきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、命を感じながら礼拝をしましょう。
今日からアドベントに入ります。キリスト教のカレンダーではクリスマスの前の4週間をアドベントと呼び、クリスマスを迎える心の準備をする期間、クリスマスを待ち望む期間としています。この時期が来ると1年はあっという間だったと感じます。今年もあと1ヶ月、やり残したことはなんですか?心に引っかかったままのことはありませんか?
私が小学生の頃にあった、良く覚えている思い出を紹介します。私は母が出かけるので、一人で留守番をすることになりました。母は「帰ってくるまでに宿題を終わらせなさい」と言いました。私は「わかった」と応え、テレビを見ていました。母はドアの鍵をガチャっと閉めて出てゆきました。しばらくテレビを見ていて「そろそろ宿題をやらなきゃだめだな」と思いました。「早くやった方がいいな」と思いました。けれど、リモコンを持つ手が動かない。おもしろかったわけではないのに。しばらくしてまた時計を見て「ああ、もうやらなきゃ」と思いました。それでもテレビを消すことが出来ませんでした。こどもでもすべきことはわかっていました。テレビを消さなければならない。もうこれ以上テレビを見るべきでないことをわかっていました。「さあもう時間だ」「さすがにもう帰ってくる」「もうはじめないといけない」「このままだと怒られる」と思いました。そわそわした気持ちになりました。でもテレビを消すことができなかった。その瞬間、カチャッという鍵の音が部屋に響きました。私はあわててテレビを消して、宿題のノートを広げました。その後は覚えていません。怒られたのか?いまからやっているのか?と言われたのか。でも待っていた時のあの葛藤は、いまでも覚えています。そしていまでも似たような経験があります。
大人になっても変わりません。やるべきことを“やる”までの一歩が、なぜか重たい。さあやろうと思うまで、さあやろうと思ってから手を動かすまで、時間のかかる私たちです。格言のような言葉はたくさんあります。「いつやるか、今でしょ」「明日やろうは、ばかやろう」「始めたら終わったも同じ」「やれば終わる」…。分かっていても、なぜか腰が上がらない。そんな私たちです。そんな私たちを、神様はどんなまなざしで見ておられるでしょうか?やるのか、やらないのか、もどかしく私たちを見ているでしょうか?私たちはなすべきことがたくさんあります。それを終わらせたいのです。
年末が迫ってくると、改めてやめること、終わらせることというのは大事なことだと感じます。すべきでないことをやめる。なすべきことを終える。それは大事なことです。なすべきことが終わった時には心地よさ、すがすがしさを思い出して下さい。今、みなさんがなすべきことは何でしょうか?終わらせるべきことはなんでしょうか?今日は聖書から終わることについて、最後の時、終末の時について考えたいと思います。
今日はマルコによる福音書13章21~37節までをお読みいただきました。この個所はイエスが「終末」終わりの時について述べた箇所で、イエスの終末思想を示す箇所と言われます。キリスト教では長年、終末思想が大切にされてきませんでした。その理由は人類の文明が少しずつ発展してきたからです。だから“終わり”なんて、遠い先の話だと思っていました。人類の発展と共に、聖書の終末思想は忘れ去られてゆきました。しかしやがて、世界を舞台にした大きな戦争が起きるようになってきました。そしてついに核兵器が生まれました。世界で核兵器開発競争が始まります。人類を何度も絶滅させるほどの核兵器が存在するようになりました。文明が発展すれば世界は良くなると信じていました。けれど現実は違いました。
人間はその時、ようやく終わりに目が向くようになりました。終わらない神の愛だけに目を注ぐのではなく、終わってほしいものも、確かにある。戦争、核兵器、気候変動、男女格差、貧困、どれも早く終わって欲しいものです。早く終わらせるべきものです。ますます混沌となってゆく世界で、いつしか人々は、世界のゆがみの終わりを期待するようになりました。すべてが終わる時が来る、キリスト教の終末思想が再び見直されるようになりました。
私たちは誰一人取り残されることのない世界を求めています。私たちは完全な平和、完全な公平、完全な愛に満たされた世界を求めています。すべての争い、分断、不平等が終わる日を期待しています。でもそれらを終わらせることの難しさも知っています。世界のゆがみのすべてを終わらせるのは人間の力だけでは難しい、多くの人がそう感じています。だからこそ人々は終末の日を期待するようになりました。神様が起こす、完成の日、終末を期待するようになったのです。人々は終末を、平和な毎日の終わり、絶望の日ではなく、争いが終わる日、希望の日として待ち望むようになったのです。私たちはそのように終末を期待しています。終末を、希望の日として待ち望んでいます。
それは私たちの教会の信仰告白の11番「終末の希望」にも書いてあります。終末は希望なのです。戦争や不正義が正される、その時が来る、イエスは必ずもう一度来て、そのような完成・回復・正義をこの世界に起こしてくださる。それが私たちの終末の希望です。みなさんもそんな終末を待ちたいと思いませんか?悲しい事、不条理、不平等、それらに終わりがあって欲しい、そう信じたくありませんか?
32節によると、その時がいつかは誰も知らないのです。その時を知るのは、神様お一人。いままでに何度も、いついつにそれが起こると言う人がいました。しかしこれまでは、それらはすべて嘘でした。私たちはどのように終末を待ったら良いのでしょうか?
34節のたとえではこうあります「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当て、責任を持たせる」と。主人は僕たちに仕事と責任を割り当てたのです。このたとえでは主人が返ってくるまで、僕たちはその家族の命と家、畑を守るように、それぞれに役割が与えられました。いつ主人が返ってくるかはわかりません。いつか主人が返ってくるその日まで、僕たちは命と財産を主人からゆだねられたのです。
僕たちにとっていつ主人が帰って来るか、何月何日か、これが兆候だと騒ぐのは無駄です。僕たちにとって大事なこと。それはただ慌てずに、自分に託された務めを、丁寧に果たしていくことでした。僕たちは役割を終えるために自分たちがなすべき事は何かを考えたのです。役割を果たすとは、未来を考えるということにつながります。僕たちは未来に、そしてその先にある“完成”に目を向けました。なすべきことが終わった未来、その未来を見ながら、今なすべきことに取り組んだのです。
クリスマスは、2000年前の過去にイエス・キリストが生まれたことを記念する日です。私たちは2000年前にイエスが生まれたことに目を向けます。でも私たちのクリスマス・アドベントは2000年前の過去の出来事を祝うためだけにあるのではありません。私たちは過去を振り返りながら、未来へと歩むのです。私たちは未来を見て、生きます。私たちは終末の希望を見て生きるのです。そして私たちはそれまで委ねられた役割を精一杯生きるのです。
主人が僕たちに与えた役割、神様が私たちに与えた役割とは何だと思いますか?具体的には書いてありません。イエスのこれまでの教えから考えましょう。イエスは隣人を愛して生きるということを教えました。神様が私たちに与えた役割、それは隣人を愛することです。私たちはすぐに隣人を愛せなくなってしまう存在です。まるで眠さに負けて、眠ってしまう人ように、私たちは気づくと人を愛することを忘れてしまいます。
36節「目を覚ましていなさい」。大事なのは私たちがその愛を眠らせないことです。私たちは愛を眠らせず、愛を目覚めさせ、愛をもう一度立ち上がらせましょう。例えば愛は、誰かの痛みに共感すること、人を励まし勇気づけること。愛は誰かの側にそっと寄り添う事です。私たちは1日1日を大切に生きましょう。今週出会う誰かを精一杯愛して生きましょう。それが神様が私たちに与えた役割ではないでしょうか?私たちは神様から他者を愛するという役割を与えられています。私たちは他者を愛しながら、この不完全な世界が完成する日、終末を待ち望むのです。アドベントのこの季節に、もう一度、心を澄ませて考えてみましょう。
私たちは今、何を終わらせるべきでしょうか?私たちが本当に終わらせるべきものを考えてみましょう。私たちは愛の無いことを止められることができるでしょうか?偽りの愛をやめることができるか?
私たちは今、何をすべきでしょうか?本当にすべきことは何かを考えましょう。私たちはどのように他者を愛することができるでしょうか?どのように神からの役割を生きることができるでしょうか?
イエスの語ったたとえでは、主人は、まだ帰ってきません。つまりまだ僕たちの役割は終わっていないのです。僕たちはまだ待ち続けています。役割を果たそうとしながら、祈りながら、他者を愛しながら、主人を待っています。私たちも神の僕です。この先に、きっと希望の終末が来ると信じて、歩み続けましょう。
みなさんには今日の言葉、どのように響いたでしょうか?どうぞ思い巡らせてみてください。お祈りします。
気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
マルコ福音書13章33節
今日からアドベント、クリスマスを待ち望む期間です。1年はあっという間。やり残したことはなんですか?やろうと思ってから手を動かすまで、時間のかかる私たちです。神様はそれをどんなまなざしで見ておられるでしょうか?私たちはなすべきことがたくさんあります。それを終わらせたいのです。今日は聖書から終わることについて、最後の時、終末の時について考えたいと思います。
キリスト教では長年、終末思想は注目されませんでした。しかし世界大戦が起き、人類を何度も絶滅させる核兵器が生まれました。人間はその時、ようやく終わってほしいものに気付きました。いつしか人々は世界のゆがみの終わりを期待するようになりました。キリスト教の終末思想が再び見直されるようになりました。
34節には「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当て、責任を持たせる」とあります。主人は僕たちに仕事と責任を割り当てたのです。僕たちはいつか主人が返ってくるその終末の日まで、命と財産を主人からゆだねられました。僕たちがいつ主人が帰って来るか、前兆は何かを騒いでも無駄です。僕たちは役割を終えるために自分たちがなすべき事は何かを考えました。そして慌てずに、自分に託された務めを、丁寧に果たしました。役割を果たすことは、未来を考えるということにつながります。僕たちは未来を見ながら、今すべきことに取り組んだのです。
私たちのクリスマス・アドベントは2000年前の過去の出来事を祝うためだけにあるのではありません。私たちは過去を振り返りながら、未来へと歩むのです。私たちは未来を見て、生きます。私たちは終末の希望を見て生きるのです。そして私たちはそれまで委ねられた役割を精一杯生きるのです。
主人が僕たちに与えた役割、神様が私たちに与えた役割とは何だと思いますか?それは隣人を愛することです。私たちはすぐに隣人を愛せなくなってしまう存在です。まるで眠さに負けて、眠ってしまう人ように、私たちは気づくと人を愛することを忘れてしまいます。
36節「目を覚ましていなさい」。大事なのは私たちがその愛を眠らせないことです。私たちは愛を眠らせず、愛を目覚めさせ、愛をもう一度立ち上がらせましょう。例えば愛は、誰かの痛みに共感すること、人を励まし勇気づけること。愛は誰かの側にそっと寄り添う事です。私たちは1日1日を大切に生きましょう。今週出会う誰かを精一杯愛して生きましょう。それが神様が私たちに与えた役割です。
私たちは今、何を終わらせるべきでしょうか?私たちは愛の無いことを止められることができるでしょうか?私たちは今、何をすべきでしょうか?私たちはどのように他者を愛することができるでしょうか?僕たちはまだ待ち続けています。役割を果たそうとしながら、祈りながら、他者を愛しながら、主人を待っています。私たちも僕としてこの先に、きっと希望の終末があると信じて、歩み続けましょう。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は、希望のしるし。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。
みなさんには心のどこかに、今そっとうずいている“痛み”があるでしょうか?私たちには普段お互いに口にしない、人には簡単に口にできない悩みや痛み、不安がそれぞれにあるものです。本当に深い痛みは、人に話すどころか、自分でも考えたくなくなるものです。祈って欲しいと思う事こそ、伝えることができない難しさ、もどかしさがあるものです。私にも胸にひっかかっている失望があります。この教会の今後の計画についてバプテスト連盟の理事会と意見の相違があります。そのことに悩み、痛み、不安を感じています。もちろん感謝もしています。平塚教会のことで、たくさんの時間を割いてくれた。でも私たちの思い描く計画には届かないかもしれない。感謝と痛みが混ざった複雑な思いを持っています。教会の将来のことは、神様が導いてくださると信じます。でもやはり不安なものです。この先のことを祈ります。
私たち人間の人生には深い悲しみや不安があります。死別、挫折、不条理、人間関係、失敗、それぞれに深い悲しみがあります。私たちの人生には数えきれない苦しみがあります。そのような苦しみの多い人生の中で私たちは“希望”“望み”を持って生きることができるのでしょうか?今日は聖書から生きる希望について考えたいと思います。
マルコによる福音書13章1~13節までをお読みいただきました。当時エルサレムには荘厳な神殿がありました。その神殿はイスラエル全体の象徴でした。神殿はエルサレムの真ん中に立ち、金色の光を放つ巨大な建物でした。金色の神殿は太陽の光が反射するとまぶしくて目を向けることができないほど輝いたと言われています。神殿はユダヤの人々の誇りでした。信仰の中心であり、心のよりどころでした。繁栄の象徴でもありました。
一方、神殿には別の意味もありました。黄金の神殿は人々から集めた税金でできていました。その輝きは、多くの人の汗と涙の上に成り立っていました。人々の間には複雑な思いがあったはずです。私は十年ほど前、大阪でホームレスの方と夜の公園で話したことがありました。彼は高くそびえる高層ビルを指して『あれ、俺が作ったんや』と笑いました。その言葉に、私は胸をつかまれました。輝く建物の下には、見えない人たちの働きがある。その風景は、当時の神殿に重なるはずです。神殿は様々なものを象徴していました。
それは何の象徴で、何の結晶だと言うべきでしょうか?神殿は人々への重い税金で建てられた血と汗と涙の結晶でした。でも神殿は人々の信仰と神への確信の象徴でもありました。神殿は民族のプライドの結晶でした。それは祝福の光と、影の痛み、その両方を抱えた場所でした。神殿はきっと感謝と痛みが混ざり合った場所。すべての信仰とすべての感情が複雑に凝縮された場所、それが神殿でした。イエスはこの神殿を肯定的にはとらえませんでした。壊して3日で再建できると言ったり、神殿の経済システムに反対する行動をとったりしました。それは人々に大きな反感を起こしました。
エルサレムの人々が何よりも心を痛めることとは何だったでしょうか?それは自分たちのすべてを象徴する神殿が崩壊することでした。信仰も矛盾も誇りも、すべてを包含したもの、その象徴が崩れ落ちる時、人々は自分の心の柱までもが折れたように感じたでしょう。そしてそれは現実になりました。イエスの死と復活の後、西暦70年、神殿はローマ帝国によって徹底的に破壊されました。神殿は戦火の中で崩れ、燃え、ついには灰になってしまいました。エルサレムの多くの人が殺され、すべてのものが略奪されました。人々は神殿と家族を一度に失ったのです。そこには一つの壁だけが残されています。その壁は今でも「嘆きの壁」と呼ばれています。
人々の喪失感はどれほどのものであったでしょうか?これ以上ない喪失感。人々はまさにこれが終末、これが世界の、人生の終わりだと感じたに違いありません。マルコ福音書は神殿が崩壊した直後に書かれたと言われています。信仰の中心と家族を失った深い悲しみの中にある人に語りかけています。マルコ福音書が書かれた時代の人々は神殿を失い、世界の終わりと思えるような苦痛の時代を生きていました。聖書はその痛みに向けて、語られているのです。聖書は言っています。あなたにも、思いがけない苦しみが訪れる時がある。惑わす者、戦争、地震、食糧危機が起こる、それは苦しみのはじまりだ。鞭を打たれるような苦痛。家族の間のいざこざ。周りの人すべてから恨まれる経験。ありとあらゆる苦難があなたを襲うだろう。
しかし聖書は苦しみだけではなく、望みも語っています。その闇の中に細い光を見つけます。神殿が崩壊するずっと前、苦難が起こるずっと前、イエスが語っていた言葉があります。それが13節「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」という言葉です。イエスは『ただ耐えなさい』と言ったのではありません。イエスは苦しみの先に、救いが待っていると伝えようとしています。イエスはこの先に、絶望的な苦しみがいくつもある、それでもその先に必ず息をつける場所があると教えています。
当時、神殿崩壊を目のあたりにして失望していた人々は、イエスの言葉を信じることができたでしょうか?耐え忍ぶものは救われる、そのことを信じることができたでしょうか?戦争、飢餓、地震、家族の分断、挫折、失敗。その中で人々は神の希望を最後まで信じることができたのでしょうか?希望は続いてゆきました。今私たちの教会があるのは、希望が今まで続いてきたからです。人々はこれまで希望を信じることを諦めずにいました。その希望は続き、私たちにまでつながっています。最後まで耐え忍ぶ者がいて、今その希望が私たちまで続いているのです。
深い悲しみを意味する神殿崩壊を考えます。私たちにとっての“神殿”とは何でしょうか?心の中にある大きなもの、心の拠り所となる場所、大切に思っていた人、住んでいる家、職業、信頼していた人との関係、健康、お金。それらが崩れる時、それらを失う時、それは私たちにとっての神殿崩壊かもしれません。あなたには、どんな“崩れた神殿”がありますか。私たちが人生設計の前提にしていたことが壊れてしまうこと、それが私たちにとっての「神殿の崩壊」かもしれません。何かが終わり、もう戻らないと感じる瞬間。そのとき、私たちはどうやって立ち上がることができるのでしょうか。私にも、心の中で崩れ落ちるような体験があります。誰にも言えず、ただ夜中にため息だけこぼれた時期がありました。しかしそのたびに、もう壊れたと思った計画から、神様はまた新しい別の道を与えてくれます。それが有って欲しいと願っています。
私たちは苦しみや悲しみ、挫折の中で何を信じて生きるのでしょうか。足元が揺らぐ体験をするとき、私たちは何に頼って歩いていくのでしょう。私たちは神様がこの先に希望を準備していると信じ続けることができるでしょうか。信じられなくてもいい。ただ信じたいと思えるでしょうか?
神様が沈黙しているように思える時、祈っても返事がないように感じる夜があります。神殿崩壊の時がそうでした。祈っても応えが聞こえない。その沈黙に、どんな意味があるのでしょうか?イエスもまた苦難の中で沈黙の神と向き合った方です。10節にあるようにイエスは引き渡され、連れてゆかれました。そして十字架に掛けられ、沈黙の神と向きあいました。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んでゆきます。私たちはその意味を問います。でもそれはただの崩壊ではありませんでした。復活という光へとつながってゆきます。神殿が崩壊しても新しい教会が立ち上がったように、イエスが十字架で死んでも復活して再び立ち上がる様に、私たちには希望が待っているはずなのです。
あなたはつらい出来事が起こる日々、その中で神様が希望を備えて待っていることを信じることができますか?その希望まで耐えることができますか?しんどいかもしれません。一人で待つのは大変かもしれません。私たちは共に希望をもちましょう。あなたひとりで耐えるのではない。私たちは共に信じ、待ちましょう。苦難の中で、共にこの先に希望があると、信じましょう。私たちは互いに苦難の中にいながらも、共に祈り、共に希望へと立ち上がりましょう。希望を信じ続けましょう。神様の希望の物語はいつ私たちに始まるのでしょうか。私たちは仲間と、家族と、友人とどのように共にその希望を待つことができるでしょうか?どのように共に苦難を生きることができるのでしょうか?
いま、あなたの胸の奥で引っかかっているものは何でしょうか?言葉にならないその思いを、神様にならオープンにできますか?神様にその思いを差し出すとしたら、どんな祈りになるでしょうか?誰にも打ち明けられない思いを打ち明ける、そんな神様がいるということだけでも、すばらしいことかもしれません。私は信じたい。小さくても、かすかでも、この先に差す光を。一緒にその光を待ちたいと思うのです。1分間の黙想の時を持ちます。ぜひそれぞれがみ言葉から感じたことを、書いてみてください。お祈りします。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マルコによる福音書13章13節
みなさんには心のどこかに“痛み”があるでしょうか?私たち人間の人生には深い悲しみや不安があります。苦しみの多い人生の中で私たちは“望み”を持って生きることができるのでしょうか?今日は聖書から生きる希望について考えます。
当時エルサレムには荘厳な神殿がありました。神殿は金色に輝くユダヤの人々の誇りでした。信仰の中心であり、繁栄の象徴でもありました。一方、神殿は人々から集めた税金でできていました。その輝きは多くの人の汗と涙の上に成り立っていました。人々の間には複雑な思いがあったはずです。神殿はすべての信仰とすべての感情が複雑に凝縮された場所でした。
エルサレムの人々が何よりも心を痛めること、それは自分たちのすべてを象徴する神殿が崩壊することでした。西暦70年に神殿が崩れ落ちた時、人々は自分の心の柱までもが折れたように感じたでしょう。マルコ福音書は神殿が崩壊した直後に書かれました。心の支えを失った深い悲しみの中にある人に語りかけています。
聖書は言っています。ありとあらゆる苦難があなたを襲うだろう。しかし聖書は苦しみだけではなく、望みも語っています。苦難が起こるずっと前、イエスが語っていた言葉があります。それが13節「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」という言葉です。イエスは苦しみの先に、救いが待っていると伝えようとしています。
当時、神殿崩壊を目のあたりにして失望していた人々は、イエスの言葉を信じることができたでしょうか?
深い悲しみを意味する神殿崩壊について考えます。私たちにとっての“神殿”とは何でしょうか?心の中にある大きなもの、心の拠り所となる場所、大切に思っていた人、住んでいる家、職業、信頼していた人との関係、健康、お金。それらが崩れる時、それらを失う時、それは私たちにとっての神殿崩壊かもしれません。そのとき、私たちはどうやって立ち上がるのことができるのでしょうか。
私たちは何に頼って歩いていくのでしょう。悲しみの中にあるとき、私たちは神様がこの先に希望を準備していると信じ続けることができるでしょうか。信じられなくてもいい。ただ信じたいと思えるでしょうか?あなたはつらい出来事が起こる日々、その中で神様が希望を備えて待っていることを信じることができますか?その希望まで耐えることができますか?
一人で待つのは大変かもしれません。私たちは共に希望をもちましょう。あなたひとりで耐えるのではない。私たちは共に信じ、待ちましょう。苦難の中で、共にこの先に希望があると、信じましょう。言葉にならないその思いを、神様にならオープンにできますか?神様にその思いを差し出すとしたら、どんな祈りになるでしょうか?ぜひそれぞれがみ言葉から感じたことを、神様に伝えてみてください。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に励ましをもらいながら礼拝をしましょう。11月からはマルコによる福音書を読んでゆきます。
みなさんは最近、誰かの言葉に心を刺されるような痛みを感じたことはありますか?あるいは誰かを傷つけてしまったということはあるでしょうか?夜、思い出して胸が痛む、あの一言を取り消せたらと願う夜がありませんか?
私はあります。何度もあります。言われた言葉が悔しくて眠れなかった夜があります。そして反対に誰かを傷つけてしまった言葉もあります。日々悔い、祈り、しかしまた語ってしまう。牧師としては致命的な欠陥と言えるでしょう。自分の牧師としての適性の無さを痛感しています。みなさんは周りの人にどんな風に言葉をかけているでしょうか?他者からどんな言葉をかけられているでしょうか?今日はそんなことを考えたいと思います。
マルコ福音書7章14~23節までをお読みいただきました。旧約聖書にはたくさんの食物規定が書かれています。大きく分けて3つの規定があるのですが、その一つが汚れた動物を食べてはいけないという規定です。
旧約聖書において汚れているとされる動物は、例えば豚が有名です。なぜユダヤ教・旧約聖書において豚が汚れていると言われるのかは諸説あるところですが、理由ははっきりしません。ライバル宗教の人が豚をよく食べていたからとか、豚が草食ではなく雑食だからとか、あるいは汚い場所に住むからなどなど。豚が汚れているとされる理由はいくつか考えられていますが、なぜ豚が汚れているのか明確な理由はわかりません。
ただ旧約聖書には問答無用で「豚は汚れている」と書かれているだけです。とにかくその言葉によってユダヤの多くの人々は豚を食べません。
私たちからすると変わった習慣に思えますが、これはユダヤの人々にとって非常に大事な習慣です。ユダヤの人々は歴史上、様々な外国勢力から侵略をされてきました。そのたびに自分たちの宗教や文化が奪われてきたのです。ユダヤの人々は何度も国を奪われ、そのたびに“自分は誰か”アイデンティティーを問われました。
自分たちが何者かを忘れないために、生ける命の神を信じる民であることを忘れないために、食物規定がありました。なぜ食べてはいけないのかという理由は重要ではありません。何を食べて何を食べないのか共通の基盤を持つことによって、人々は強く結びついていました。そしてそれは神様との結び付きを象徴するものでもありました。
どんなに外国に侵略されても、ユダヤ人であるというアイデンティティーは信仰と食物規定の実践によって支えられていました。例えばダニエル書には他国の王様に仕えても食物規定だけは守ったという話があります。食物規定は現代のユダヤの人々にとって大切なものですし、今もなお尊重されるべきものだと思います。
一方でイエスの時代、信仰を守るための掟が、いつしか人を縛るものになっていきました。そして徐々に、食物規定を守ることができない人々がでてきました。本来、食物規定は同じ仲間であることを確認するものだったはずです。しかしそれが分断の原因ともなり始めました。自分達の連帯を確認するはずだったの食物規定を、他者を排除する理由にした人がいたのです。そのように食物規定は分断の材料にされてしまいました。
イエスの時代、食物規定を守らない、守れない人は汚れた人、罪人と呼ばれるようになりました。食物規定を守らない、守れない人は、あなたは私たちの仲間ではないと言われ、一緒に食卓を囲むことを拒否されたのです。
イエスはどうだったでしょうか?イエスはその境界線を静かに越えられました。イエスが汚れているとされているものを食べたかどうかはわかりません。しかし律法を守らない、守れない、汚れているとされた人、罪人と呼ばれた人と共に食事をしたという記述は繰り返しあります。ユダヤ人からすると、それはタブーとされた行動でした。決して見習ってはいけない汚れた行動でした。イエスはその境界線を越えてしまったのです。その指摘は「なぜ罪人と食事をするのか」という言葉で聖書に残されています。
イエスは汚れていると言われ続ける人々と一緒に食事をしました。そのように食事をした上で言います。15節、人を汚すのは外からくる食べ物ではないと。イエスは神様が創造したものを食べるのだから、汚れるはずはないと言いました。どんなものを食べても、みんな同じように、全て腹を通って外に出てゆく、だから何かを守れないからと言って、汚れた人間だということではないと言いました。
この言葉は、食物規定の無い私たちからすると、当然の言葉のように聞こえます。しかしこの言葉、汚れているとずっと言われ続けた人々にとってはどんな響きを持ったのでしょうか?それはきっとその人々を勇気づける言葉、人々を強く励ます言葉になったのではないでしょうか?“汚れている”と呼ばれ続けた人々がいました。でもイエスは、私はその人たちを汚れているなんて思わない、それによって差別される必要はないと言いました。その言葉は、どれだけ人々を励ましたでしょうか?私はあなたの仲間だという言葉は、人々にとって大きな励ましになったはずです。イエスはこのように、分断ではなく共に生きることを目指したお方でした。イエスは、分けるより、つなぐ方でした。
そしてイエスは続けて言います。むしろ人間を汚すのは食べ物ではなく、人間の内側から、内面から出てくるものだと。人間の内側から出て来て、相手を汚すものとは何でしょうか?みなさんは何だと思いますか?
私の心に浮かんだのは、街頭で聞くあの荒い言葉でした。「外国人は出ていけ」「自分の国に帰れ」という言葉は、日に日に増えてきており、人々の心を蝕んでいます。さまざまな社会課題の原因を外国人に押し付ける言葉です。自らの不満をぶつける標的にしています。私たちの心からは、あんなに汚れた言葉が出て来るのです。そしてその言葉は相手も蝕む、他の人も汚すのです。
私はそういう性質を自分自身が持っていることを知っています。私が心無い言葉を語ってしまうのは、私が豚肉を食べているせいではありません。それは私の心・私の内側に問題があるからです。
私たちが何を食べるかはとても重要なことですが、私たちの口から何が出るか、私たちが何を語るかはもっと重要な問題です。私たちはどんな言葉を語るでしょうか?
みなさんにもおたずねします。最近どんな言葉を語っているでしょうか?私自身にも問いかけています。私の言葉は、相手の心を蝕む言葉となっていないでしょうか?それを自分自身に問いかけると言葉に詰まって、もう何も言葉が出て来なくなってしまいます。何を語ればよいのかわからず、言葉が出ません。
では、反対に考えてみましょう。私たちにとっての清い言葉とはどんな言葉でしょうか?相手を清める言葉とはどんな言葉でしょうか?清い言葉とは、貴族のように優雅で美しく、上品に話すことではないでしょう。
清い言葉。それは、イエスのように、誰かをそっと包む言葉です。傷ついている人を受け止める言葉です。仲間外れにされている人、居場所を求めている人を受け止める言葉です。相手をそっと励ます言葉です。相手の良さを引き出すような、勇気を与える言葉です。相手の中にある光を見つける言葉です。それを清い言葉と呼ぶのでしょう。
イエスの「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」という言葉、これはまさに清い言葉でした。追いやられた人を励ます、愛の言葉でした。そのような他者を励ます言葉こそ、清い言葉と言えるのではないでしょうか?
私たちが本当に語るべき言葉はなんでしょうか?私たちは、誰かを照らす言葉を語りたい。励まし、愛する言葉を。私たちは相手を清める言葉を。相手を汚れていると評価する言葉、相手を悪い点を指摘する言葉ではなく、相手を受け止め、愛し、励ます言葉を語りたいのです。
そして私たち自身もそれぞれの1週間で、誰かからの励ましを必要としています。私たちは他者からの励まし無しに歩むことができません。迷いや後悔を受け止めてくれる仲間。前へ押し出してくれる一言。その支えがなければ歩けません。私は私を清めて、励ましてくれるような言葉を必要としているのです。
だから私たちは互いに励まし合う人でありたいのです。神の子であるイエスが私たちに伝えたこと、それは互いを認め合うような、そして励まし合うようなの言葉を語り合う事だったのではないでしょうか?私たちは互いに聞き合い、祈りあい、励まし合う1週間を送ってゆきましょう。
私たちはこれから主の晩餐を行います。清い人だけがこのパンを食べるのでしょうか?そうではありません。このパンを食べるのは、内側にさまざまな痛みや傷を持った人、そして相手を傷つけてしまう鋭さをもった人です。
私たちは清いからこのパンを食べるのでしょうか?そうではありません。清くない私が、この愛のパンに招かれています。
このパンを食べると清くなるのでしょか?そうではありません。これはイエスが汚れていると言われてた人々を、受け止め、励まし、愛を語ったことを思い出すために食べるパンです。
私たちはこのパンを食べて、イエスの温かい抱擁と、励まし、愛を受け取りましょう。そして私たちもイエスのように、他者を励ます者として生きてゆくことができるように、願いながら食べましょう。神様は今日、全員がパンを食べ歩みだすことを導いています。このパンを食べて、互いを愛し、互いを励まし合いましょう。1分間の黙想の時を持ちます。それぞれにこのみ言葉に思いを巡らせましょう。
最近、誰かの言葉に痛みを感じたり、誰かを傷つけてしまったりしたことはありますか?みなさんは周りの人にどんな言葉をかけ、かけられているでしょうか?
ユダヤの人々は歴史上、様々な外国勢力から侵略をされました。食物規定は自分たちの宗教や文化のアイデンティティーとして重要なものでした。一方で食物規定を守らない人は汚れた人、罪人と呼ばれ、分断が生まれていました。
イエスはその境界線を越え、律法を守らない、汚れているとされた人、罪人と呼ばれた人と共に食事をしました。そして15節で言います「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」と。この言葉は、汚れていると言われ続けた人々にとって、勇気を与える言葉、強く励ます言葉でした。イエスはこのように、分断ではなく共に生きることを目指したお方でした。
イエスは続けて、他の人間を汚すのは、人間の内側から出てくるものだと言います。私の心に浮かんだのは、街頭で聞く外国人排斥の言葉です。「外国人は出ていけ」という言葉は、人々の心を蝕んでいます。私たちの心からは、あんなに汚れた言葉が出て来るのです。そしてその言葉は相手も蝕み、他の人の心も汚すのです。心無い言葉を語ってしまうのは、豚肉を食べているせいではありません。それは私たちの心・私たちの内側に問題があるからです。
私たちにとっての清い言葉とは、どんな言葉でしょうか?それはイエスのように、誰かをそっと包む言葉です。傷ついている人を受け止める言葉です。仲間外れにされている人、居場所を求めている人を受け止める言葉です。相手をそっと励ます言葉です。相手の良さを引き出すような、勇気を与える言葉です。相手の中にある光を見つける言葉です。それを清い言葉と呼ぶのでしょう。イエスの「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」という言葉、これはまさに清い言葉でした。追いやられた人を励ます、愛の言葉でした。
私たちは互いに励まし合う人でありたいのです。神の子であるイエスが私たちに伝えたこと、それは互いを認め合うような、そして励まし合うようなの言葉を語り合う事だったのではないでしょうか?私たちは互いに聞き合い、祈りあい、励まし合う1週間を送ってゆきましょう。
私たちはこれから主の晩餐を行います。清い人だけがこのパンを食べるのではありません。このパンを食べると清くなるわけでもありません。これはイエスが汚れていると言われていた人々を、受け止め、励まし、愛を語ったことを思い出すために食べるパンです。私たちはこのパンを食べて、イエスの温かい抱擁と、励まし、愛を受け取りましょう。そして私たちもイエスのように、他者を励ます者として生きてゆくことができるように願いながらパンを食べましょう。このパンを食べて、互いを愛し、互いを励まし合いましょう。
みなさんおはようございます。今日もご一緒に礼拝できることを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の声と命の息吹に包まれながら礼拝をしましょう。今日は特に、召天者記念礼拝としてこの礼拝をもちます。神様の前で“命”を思い起こしながら、すでに神様のもとにある仲間たちを、静かに思い出す礼拝です。
みなさんは自分の“命の終わり”を想像したことがありますか?肉体は火葬されて骨になり、お墓に納められます。では肉体以外のものはどうなるのでしょうか?そもそも私たち自身の存在には肉体以外のもの、霊や魂といったものが、あるのでしょうか?
みなさんはもし自分が死んだら、どんなお葬式にしたいですか?たくさんのお友達に囲まれて、お見送りされたいと思う人もいます。ひっそりと家族だけでいい。葬儀なんてしなくてもいいと思う人もいます。
ご遺族や周囲はどうでしょうか?死別の別れと悲しみは長く続くものです。何か区切りとなるものがあった方がよいでしょうか。たくさんの人が葬儀に来て、自分の家族が愛されていたと知ることは大きな慰めになります。一方、ひっそりと家族だけで別れの時をもった方が、慰めとなる場合もあります。もちろん、ご遺族の負担を考えると、葬儀をしないという選択もあるでしょう。その静けさにも深い祈りがあります。いろいろな考え方があります。どれも大事な思いとして、尊重し、受け止めたいと思っています。
キリスト教の葬儀は、ただ亡くなった方を送る儀式ではありません。悲しみの中にあっても、そこには不思議な静けさと温もりがあります。「ありがとう」「また会う日まで」。言葉にならない祈りが満ちてゆく時間です。たとえ悲しみの中でも、そこには感謝と希望が響きます。涙と賛美がひとつになる場所――それが教会の葬儀です。
教会の門の前に、新しい看板を立てました。そこにはこう書きました「ここで、キリスト教式の葬儀ができます」と。私たちの教会ではクリスチャンかどうかに関わらず、地域の方がキリスト教式の葬儀をすることができます。
教会で行うキリスト教の葬儀は、毎週日曜日の礼拝と同じ形式で行われます。今日の礼拝と仏式のお葬式を比較すると、その違いが分かるでしょう。私たちはお線香をあげませんし、お経も唱えません。その代わりに歌を歌います。神様に向けて。心をこめて。葬儀で、慰めと平安を神様に求め、歌を歌います。
そして聖書を読むというのも特徴でしょう。悲しみの別れの中にあって、聖書のことばから、この悲しみのどこに神様の愛があるのかを探します。そして私たちは亡くなった方の命を、神様に感謝します。キリスト教の葬儀には3つの特徴があると言えるでしょう。賛美があり、聖書の言葉があり、祈りがあります。悲しみの中で、神の愛を探す時間――それがキリスト教の葬儀です。
キリスト教は死をどのようにとらえるでしょうか。はっきりとこうなると書いてある箇所は少なく、断定してお伝えできることは多くありません。しかしキリスト教は死をすべての終わりとは考えません。死んでしまっても、すべてがなくなるわけではなく、その存在は神様のもとに帰る、そして永遠に神様のもとにい続けると考えます。そこには先に亡くなった方もおられ、別れた方ともまた会うことができると考えられています。
キリスト教にとって“死は終わり”ではありません。神様が下さった命の旅の“通過点”です。神様によって命が与えられ、地上の人生があり、死があります。そして死の延長線上にも、その先があり、命は続いてゆくのです。神様が地上での生活を導いたように、死の向こうでも神様が導きつづけてくださいます。ずっと永遠に、神の導きのうちにいるのです。変わることなく。それがキリスト教の命のとらえ方です。
神様のまなざしの前には、“生きている者”も“死んだ者”もありません。それはただ“愛される存在”として見つめられています。生きていても、死んでも、何か大きなことができても、何も出来なくても、悪いことばかりをしていても。私たちは神様の愛のうちに生きる者なのです。
神様の愛は変わりません。これは永遠と言えるでしょう。そして永遠は時間の長さだけを表すのではありません。それは関係の深さでもあります。神様の絶えることのない愛が続くのです。キリスト教の葬儀・礼拝も神様のこのような変わらない愛を確認する時です。その愛から慰めを受け取り、神様に祈る場所、それが礼拝、葬儀です。
教会も神様のように、亡くなった方の命と、残された方の涙の両方に、そっと寄り添いたいと思っています。そこにはきっと無宗教よりも大きな慰めがあるでしょう。教会は毎週、神の愛を確認し、心のやすらぎが得られる場所です。もしこの教会で葬儀が出来たなら、きっと神の愛、心のやすらぎをしっかりと感じられるはずです。
私は信者であってもそうでなくても、ぜひみなさんの葬儀を教会でさせていただけませんか?と思っています。ぜひみなさんご自身の葬儀、ご家族のご葬儀をこの教会ですること、考えてみて欲しいです。きっと、神様の元に帰り、永遠に神様の愛の中にいることを強く感じることができるはずです。
今日の聖書箇所を読みましょう。聖書から生きること、死ぬこと、そしてその後のことを考えます。マルコによる福音書12章18節~27節までをお読みいただきました。
難しいことが書かれています。ゆっくり紐解きましょう。イエスはサドカイ派という人から挑戦を受けています。それは人間は死んだらどうなるのか?という問いです。サドカイ派の人たちは18節にもあるとおり「死んだら終わり」と考えていました。彼らにとって、死後の世界は“無”でした。現代の私たちにも、似た考えを持つ人がいるかもしれません。そしてそれに加えてサドカイ派の人々は、まさか死者が生き返ることなどないと思っていました。もしそんな風に人間が生き返ったら、誰が誰と夫婦になるのか、社会が大混乱するではないかと考えました。だからサドカイ派の人々は人間というのは、死んだら終わり、その存在は消えてなくなるのだと主張しました。
イエスはそれになんと応えるでしょうか?27節でイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」と言います。イエスもやはり、死んだらその存在は終わりだと思ったのでしょうか。神様とは生きている人間にのみ関係する方で、死んだ人には関係しない方なのでしょうか。イエスもこのように言っているように聞こえます。
しかしゆっくり読むと違うということに気が付きます。26節には「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉があります。アブラハム、イサク、ヤコブとは聖書に登場する、有名なご先祖にあたる人です。もちろん彼らはもうすでに、数千年前に地上の生涯を終え、死んでしまった人々です。イエスは、神様とはすでに地上の生涯を終えたアブラハム、イサク、ヤコブの神であると言っています。
つまりイエスが言っているのはこうです。神様は、生きている者の神様だ。そしてイエスはアブラハム、イサク、ヤコブは死んでいないのだと考えています。あのご先祖は、神様のもとで今も生きているのだというのです。
イエスは言われました。「彼らは今も、生きている」神の愛のうちに。そして神に愛され、大切にされ続けているのだ。そう、人の命は生きていても、死んでしまっても終わることなく続くのだ。神様のもとで永遠に生き、大切にされるのだ。死んで終わりだと思うな。それは大きな思い違いだ。と言っているのです。このように人は神のもとで、永遠の愛のもとで生かされ続けてゆくのです。みなさんはこのような死生観、宗教観をどう思うでしょうか?
私は自分の命をそこまで受け取り、大切にしてくれる方がいることをとても嬉しく思います。死んでしまっても、その先にも良いものが待っている。死は怖いですが、そのことを少し楽しみにも思います。みなさんはどうでしょうか?
今日はたくさんの方の写真を飾っています。この方たちは地上での生涯を終えた人たちです。地上での生涯は死を迎え終わりました。しかしこの方たちにイエスが伝えている確かな事。それはこの方たちは、神のもとでずっと生きているということです。
確かに地上での命は終わりました。一人一人の人生にはうれしい事も苦労もたくさんあったでしょう。そして今は、神様のもとにあって、生きています。そして神様はずっとその存在を大切に思い、愛し続けています。
私たちはそれを、永遠の愛と呼びます。神の愛が命を超えて続く、その愛を。神様は生死にかかわらず、能力や地位に関わらず、ずっとあなたの存在を、永遠に大切にし続けお方なのです。あなたは死んでも、なお愛のうちに生きる者として、神様の愛のもとに生きるようになるのです。今日の聖書の個所はあなたの命をそのように語っています。
この写真の方々も深くて永遠の神の愛を感じて、満たされているでしょう。
そして私たちはその永遠の愛を、死んでしまった後だけではなく、生きている今もたくさん感じることができるはずです。礼拝の時も、葬儀の時も、賛美をするときも、静かに祈るときも。神様の永遠の愛を感じることができるはずです。愛する人を思い出すたびに、その人を通して神の愛を感じることがある。それも永遠の愛の証です。
みなさんは地上の命が終わったらどうなると思いますか?神様は今もあなたを愛し、死を越えても、その愛は途切れることがありません。そのような永遠の愛が本当にあると思いますか?あって欲しいと思いますか?永遠の愛の中に生きたいと思いますか?私はすでにあなたの命が神様の永遠の愛のうちにあると信じています。
1分間静かな時をもちます。心の中に浮かぶ言葉を、カードに書いてみてください。神への思いを、そっと形にしてみてください。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」マルコによる福音書12章26~27節
今日は召天者記念礼拝です。すでに神様のもとにある仲間たちを、静かに思い出す礼拝です。みなさんは自分の“命の終わり”を想像したことがありますか?もし自分が死んだら、どんなお葬式にしたいですか?教会の門の前の新しい看板には「ここで、キリスト教式の葬儀ができます」とあります。私たちの教会ではクリスチャンかどうかに関わらず、地域の方がキリスト教式の葬儀をすることができます。
キリスト教にとって“死は終わり”ではありません。神様が下さった命の旅の“通過点”です。神様のまなざしの前には、“生きている者”も“死んだ者”もありません。神様の愛は変わりません。これは永遠と言えるでしょう。ぜひみなさんの葬儀を教会でさせていただけませんか?きっと、神様の元に帰り、永遠に神様の愛の中にいることを強く感じることができるはずです。
今日の聖書個所でイエスはサドカイ派という人から挑戦を受けています。それは人間は死んだらどうなるのか?という問いです。サドカイ派の人たちは「死んだら終わり」その存在は消えてなくなると主張しました。イエスはそれになんと応えるでしょうか?27節でイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」と言います。イエスもやはり、死んだらその存在は終わりだと思ったのでしょうか。
しかしゆっくり読むと違うということに気が付きます。26節には「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉があります。彼らはもうすでに、数千年前に地上の生涯を終え、死んでしまった人々です。つまりイエスが言っているのはこうです。神様は、生きている者の神様だ。そしてイエスはアブラハム、イサク、ヤコブは死んでいないのだ。あのご先祖は、神様のもとで今も生きているのだと言うのです。神様のもとで永遠に生き、大切にされるのだ。死んで終わりだと思うな。それは大きな思い違いだと言っているのです。このように人は神のもとで、永遠の愛のもとで生かされ続けてゆくのです。
今日は亡くなった方の写真を飾っています。この方たちについてイエスが伝えている確かな事、それはこの方たちは、神のもとでずっと生きているということです。確かに地上での命は終わりました。でも神様はずっとその存在を大切に思い、愛し続けています。私たちはそれを、永遠の愛と呼びます。神様は生死や能力、地位に関わらず、ずっとあなたを永遠に大切にし続けお方なのです。もしあなたが死んでしまったとしても、なお愛のうちに生きる者として、神様の愛のもとに生きるのです。
みなさんは地上の命が終わったらどうなると思いますか?永遠の愛が本当にあると思いますか?あって欲しいと思いますか?永遠の愛の中に生きたいと思いますか?私はすでにあなたの命が神様の永遠の愛のうちにあると信じています。1分間静かな時をもちましょう。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をいたします。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。
今月は教会とSDGsという不思議な組み合わせを見つめています。でもこの17個の目標は単なる目標ではなく、わたしたちにとっては17個の“祈り”です。
今日はSDGsの中の10番「人や国の不平等をなくそう」について考えます。SDGsは個人や国だけに行動を求めるものではありません。特に企業には環境、社会、統治の3の責任が問われています。これは頭文字をとってESG経営やESG投資などと呼ばれます。企業が経営や投資を行う時には、ただ利益が生まれるかどうかという基準だけではなく、環境を壊すビジネスではないか、社会に貢献する事業かどうかを考慮して経営や投資をすることが求められています。
企業はただ利益追求をすること、自分たちの企業が大きくなることだけを考えていてはいけないのです。例えば工場を経営する企業であっても、それを運ぶ人、売る人、買う人、ゴミ、環境や社会に良いものに目を注ごうという考え方です。環境を壊したり、社会問題を起こしたりして、誰かの涙の上に、お金を積み上げていないか――それを問うのです。SDGsの達成につながる大事な視点です。
聖書はこういったSDGsあるいはESGについて何か言っているだろうか?今日はタラントンのたとえから考えたいと思います。
聖書を読みましょう。今日はマタイによる福音書25章14~30節をお読みいただきました。あるとき大金持ちがいました。大金持ちは贅沢な旅にでることにしました。そして3人の僕を呼び出します。3人と面接をし、それぞれの能力を見極め、それぞれに資産を預けることにしました。1タラントンは6000日分の給与に相当します。人間が約20年分働いたの収入です。当時の寿命から考えると生涯賃金ともでも言える金額だったでしょう。自分が一生働いてようやく1タラントンでした。このお金持ちは8タラントンを3人に預けました。
僕たちはお金を預かりました。主人からな何も指示がありません。しかし、僕はそれを受け取った瞬間に分かりました。私はこのお金を増やすことを期待されている。主人が戻ってくるまでにこの預かったお金をもっと増やしていないといけない。できないと追い出される。そう察して、すぐに資産運用を始めました。
主人はどれくらいの期間、旅に出たのでしょうか?数か月?それとも数年?贅沢旅行から戻ってきました。そして主人は戻ってきて僕たちの運用実績を確認します。3人のうち2人の資産は倍増していた。「すばらしい」「よくやった」主人は喜びました。そしてもっとたくさん与えました「何をすればいいか言わなくてもわかるな?」
しかし一人は風変わりな僕でした。その僕はなんと1タラントを丸ごと、土の中に埋めていたのです。増えることも減ることもありませんでした。主人は怒りました。「何をしているのだ!銀行にでも預けておけば、少しは増えたものを!この愚か者!」「こいつにはもう何も与える必要はない。外の暗闇に追い出せ。そこで泣いていろ!」
物語は、あっけなく途切れます。
さて、この個所は教会では長らく、スチュワードシップ月間に語られる箇所でした。伝統的に、このタラントンの教えは、私に与えられたお金や才能を活かすことが大事であると教えられてきました。教会は「あなたの中に眠るものを、土の中に眠らせないで使いなさい」と教えてきました。お金を持っていたらささげよう。時間や体力があったら教会のために奉仕しよう。献金しよう、良い信者になるための勧めとして語られていました。資本主義の発展にも貢献したみ言葉でもあります。でも今日はSDGsの視点で読みたいと思います。
1タラントを1億円としましょう。みなさんは5億円あったら何に使いますか?2億円、1億円あったらどうですか?ただし5億円渡されて、暗に増やせと言われたらどうでしょうか?10億円にしろと言われたらどうでしょうか?
僕たちはまさにそのような状況でした。5億円を渡されて、短期間で10億にするにはどうしたらいいか考えたのです。しかし、どう考えても数年間ではまっとうな方法で5億円を10億円にすることはできません。当時そんな博打のようなお金儲けができるのは、例えば貿易でした。リスクは高いですが利益率は非常に高かったのです。そして身近にある利回りの良い投資は不動産投資でした。
もともと律法では土地の売買を禁じていましたが、現実には抜け道を使って取引が行われていました。災害や戦争の混乱の中で、土地は安く買いたたかれました。貧しい農民は今日の生活のために嗣業の土地を手放さざるを得なかったのです。僕たちはおそらくこのような不動産投資で利益をだしていました。5億円預かった僕はおそらく、すぐに買えるだけの土地を、ありったけ買いあさりました。お見事、投資は大成功。資産は10億円。贅沢旅行から帰ってきた主人は大喜び。もっと増やしてこーいと言って、もっとたくさんのお金を受け取りました。
でもこれでいいのでしょうか?これはSDGSな持続的な社会でしょうか?土地を安く買いたたかれた人がいました。先祖から受け継いだ嗣業の土地を、災害や戦争で失った人がいました。そのような何も手元になくなって、イエスに従おうとした人が大勢いました。イエスの弟子たちは、自分の農地を持たない貧しい者ばかりでした。増やす資産の無い人でした。イエスはそのようにいつも貧しい人と共にいました。でもイエスはこのような資産の倍増を見習うべき話として語ったのでしょうか?
イエスは多くのたとえで、金持ちと貧しいものの逆転を語っていました。にもかかわらず、この物語を持っているお金を増やすことが良い事だと受け取ってよいのでしょうか。もっと持続可能な方法で読みましょう。環境・社会・ガバナンスの視点で見直しましょう。二人の僕がしたのは貧困ビジネスでした。それは搾取、抑圧、格差、不平等の拡大に加担する商売でした。29節、このようにして貧しいものと富める者の格差が拡大されていくとは、そのとおりです。聞いている貧しい民衆はどう思ったでしょうか?自分もそういうやつに土地を買いたたかれた。悔しいと思ったに違いありません。
しかし、物語の僕の中にひとり、変わった人間がいました。彼は預かった1億円を土に埋めたのです。土に埋めても何にもなりません。銀行の方がマシです。でも銀行といっても、当時の銀行はいまのような健全な経営をしている銀行では多くありません。今でいう高利貸しです。結局、銀行に預けてもそれを元手に誰かがか誰かをむさぼったのです。どこにお金をもっていっても、人々を苦しめる元手になったのです。彼は勇気ある決断をしました。倫理的で持続可能な判断。それは、どこにも使わない。それを土に埋める。そんな決断でした。
それは搾取への静かな反逆でした。周りの人間はやりたい放題の金儲けをしています。自分の利益だけを求めて、商売をしています。でも私は嫌だ。それに抵抗する。自分の利益だけを求めるやり方をやめたのです。彼は汗をかきながら大きな穴を掘り始める。それは不平等と格差、搾取に抵抗する穴掘り。誰にもわからない様にその金を隠す。お金を埋めて、人々から土地を奪う方法をとらなかった。そのように誰も傷つかない方法を考えて穴を掘ったのです。
彼はどうなったでしょう。案の定、贅沢旅行から帰ってきた主人に、ののしられ、追い出されてしまいました。愚かです。彼は追い出され、自分の土地を持たない農民と同じように困窮する者になりました。彼は追い出された。歯を食いしばった。それでも止まらない涙が頬を伝った。他の人みたいに自分だけいい思いをすればよかったのに。でもそれは、彼が選んだ人生だった。人々と共に歯を食いしばり、共に涙する、それを彼は選んだのです。
私たちは、主人が神で、良い信徒とは5タラントンを10タラントンに増やす信徒。持っているものを土に埋めるのは、何もしない信徒。そう理解してきました。でもそれ以外の読み方はありますか?
14節にはこの例え話は天の国のたとえだとあります。天の国はこんな風に頑張った人が入る場所なのですか?もっているものを増やした人がいくところが、天の国ですか?
私たちが今まで見てきた物語からはそうではありません。天の国は持っている人も持っていない人も、すべての人が受け入れられる場所だったはず。むしろ増やしたくても、増やす元手もない人、増やしようがない人、何も持たない者が招かれる場所ではありませんでしたか?
この物語で、すべての人が受け入れられる場所を目指したのは誰か。それはこの3人目の僕ではないでしょうか。彼は人と共に生きる道を選んだのです。そして暗闇の中で、共に歯ぎしりしながら、共に涙し、共にもがいて生きたのです。天の国はそのような共感共苦の中にあるのではないでしょうか?
物語に結末は書いてありません。私たちがすべきことも書いてありません。私たちはこの物語からどうやって生きるべきでしょうか。私たちに何ができるでしょうか?少なくとも誰かを苦しめるお金の増やし方はしたくない。誰かの涙の上に立つなら、そのお金はいらない。お金を増やすことよりももっと大事なものがある。もっているものを誰か、困っている人、仲間のために使いたい。みんなの希望につながるなら減ってもいい。それが天の国なのではないのでしょうか。あなたなら、どう生きるでしょうか?
それぞれにこのみ言葉を思い巡らせる時を持ちましょう。1分間の黙想の
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 マタイによる福音書25章29節
今月は教会とSDGsという不思議な組み合わせを見つめています。でもこの17個の目標は単なる目標ではなく、わたしたちにとっては17個の“祈り”です。今日はSDGsの中の10番「人や国の不平等をなくそう」について考えます。
SDGsは個人や国だけに行動を求めるものではありません。特に企業には環境、社会、統治の3の責任が問われています。企業はただ利益追求をすること、自分たちの企業が大きくなることだけを考えていてはいけないのです。誰かの涙の上に、お金を積み上げていないか――それを問うのです
今日はタラントンのたとえからSDGsを考えます。あるとき主人が3人の僕に大金を預けました。そして増えた僕と、増えなかった僕がいたという物語です。この個所は教会では長らく「あなたの中に眠るものを、土の中に眠らせないで使いなさい」と教えてきました。でも今日はSDGsの視点で読みたいと思います。
短期間で資産を倍にするには、まっとうな方法ではできません。利回りの良い投資は不動産投資です。災害や戦争の混乱の中で、土地を安く買いたたき、利益をだしました。でもこれでいいのでしょうか?これはSDGSな持続的な社会でしょうか?先祖から受け継いだ嗣業の土地を、災害や戦争で手放さざるをえない人がいました。そのような何も手元になくなって、イエスに従おうとした人が大勢いました。イエスはこのような資産の倍増を見習うべき話として語ったのでしょうか?この時、どこにお金をもっていっても、人々を苦しめる元手になったのです。彼は勇気ある決断をしました。倫理的で持続可能な判断。それは、どこにも使わない。それを土に埋める。そんな決断でした。それは搾取への静かな反逆でした。周りの人間は自分の利益だけを求めて、商売をしています。でも私は嫌だ。それに抵抗する。自分の利益だけを求めるやり方をやめたのです。
彼はどうなったでしょう。彼は追い出され、自分の土地を持たない農民と同じように困窮する者になりました。人々と共に歯を食いしばり、共に涙する、それを彼は選んだのです。14節にはこの例え話は天の国のたとえだとあります。天の国はこんな風に頑張った人が入る場所なのですか?もっているものを増やした人がいくところが、天の国ですか?この物語で、すべての人が受け入れられる場所を目指したのは誰か。それはこの3人目の僕ではないでしょうか。彼は人と共に生きる道を選んだのです。そして暗闇の中で、共に歯ぎしりしながら、共に涙し、共にもがいて生きたのです。天の国はそのような共感共苦の中にあるのではないでしょうか?
お金を増やすことよりももっと大事なものがある。もっているものを誰か、困っている人、仲間のために使いたい。みんなの希望につながるなら減ってもいい。それが天の国なのではないのでしょうか。あなたなら、どう生きるでしょうか?それぞれにこのみ言葉を思い巡らせる時を持ちましょう。1分間の黙想の時を持ちます。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。私たちは未来でもこどもの声がする教会でありたいと願っています。未来の地球のこどもたちのことも思い描きながら礼拝を献げましょう。
招きの詞では創世記1章をお読みいただきました。神様は創世記1章で創造された天と地を見て「良し」されました。聖書の最初のページには、神様が光と天と生き物を創造し「良し」と喜んだ場面が記されています。その「良い世界」は、今どんな姿になっているでしょうか?神様はまだこの地球を「良し」と思っているでしょうか?
今月、私たちは「聖書とSDGs」という少し不思議な組み合わせを見つめています。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標です。さまざまにある課題の解決目標です。でも今月このテーマで聖書を読み始めてから、私にはそれが目標やゴールではなく、祈りに聞こえるようになりました。SDGsは17の祈り。①貧困がなくなりますように、②飢餓がなくなりますように、③健康と福祉がすべての人にありますように・・・。地球に住むすべての人が私たち一人一人と共に生きることができるように。私たちは世界が、持続可能な世界となりますように。SDGsは17の祈りです。今日はこの17の祈りすべてにまたがる気候変動について考えてゆきたいと思います。
あの三角の窓を見てください。やわらかな光が差し込む、あの古い窓です。75年前から変わらない窓です。最近、この窓から雨が吹き込んでくるようになりました。かつては、そんなこと、なかったかもしれません。しかしゲリラ豪雨、線状降水帯など、強い雨と風が吹くとあそこから雨が吹き込んできます。古い建物にいると、地球の変化を肌で感じるものです。私の住む家も、もう築60年を超えました。雨音が強くなるたびに、少し不安になります。弱い建物にいると、地球の変化を身近な不安として感じられます。
とはいえ日本では防災が進み、地域全体としてはある程度の備えができるようになりました。それによって私たちは今のところ、気候変動に対処することができている様です。しかし世界を見渡すと、そのような設備を持つことができない国がたくさんあります。洪水の対策ができず、川を氾濫するままにせざるをえない国、豪雨が来ると予想できない国がたくさんあります。古くて脆弱な建物に住む私にとって、強い雨は大きな脅威です。そしてそれと同じ様に、強い雨は途上国の人々にとって大きな脅威です。気候変動の影響を特に受けるのは、そのような災害に十分備えることのできない、途上国の人々です。気候変動は私たち先進国にとっては、今のところ対処できるものかもしれませんが、途上国にとっては取返しのつかないダメージを与えるものなのです。
ここに、大きな逆説があります。気候変動の原因は先進国にあるにも関わらず、苦しむのは途上国であるという逆説です。原因となる先進国は対処でき、原因ではない途上国は対処できないという逆説です。この問題は今CO2排出量が多い国に責任があるはずです。CO2排出量第5位の私たちにも責任があるはずです。
私たちはつい、必要のない電気を消さずにいること、ありませんか?神様は、その姿を見てどう感じておられるでしょうか。「良し」としているでしょうか?私たちクリスチャンの生き方は清く正しくニコニコ生きることではありません。気候変動は私たちが世界の隣人とどう向き合うかという問いかけです。私たちは世界の隣人を愛することの具体的行動としてCO2削減ができるかどうかが、問われています。そのことを見つめながら今日の聖書を読みましょう
今日はマタイによる福音書22章33~40節をお読みいただきました。33節には群衆という言葉があります。大勢の人がイエスに従いました。どんな人がイエスに従ったのでしょうか?
群衆の中にはペテロのように仕事をやめて従った人がいたでしょう。すべての持ち物を売り払って従った人もいたかもしれません。自分の仕事、畑の仕事を終わらせてから従った人もいたかもしれません。しかしこの群衆にはきっと少なくない人数で、本当に何も持たない最も貧しい人が含まれていました。
貧しさの原因は様々にあったはずです。その一つが災害であったことは間違えのないことでしょう。この群衆の中には、災害によって多くのものを失った人がいたはずです。災害を自然災害と呼ぶべきか、人災と呼ぶべきか境界線はいつも曖昧です。その災害は誰かが誰かの家族や財産、未来を直接奪ったわけではありません。今奪ったわけではありません。でも確実に誰かが影響を及ぼし、見知らぬ家族と財産と未来を奪ったのです。
イエスに従ったその群衆の中にはきっと、気候に左右された被災者がたくさんいたはずです。イエスはそのような被災者と共に歩かれたのです。
もちろん聖書には「気候変動」という言葉は登場しません。でも聖書には自然災害によって深い傷を負わされてた人々が多く登場します。創世記のヨセフの家族は7年におよぶ干ばつの影響で、故郷を去らなければなりませんでした。ヨセフの家族は空を見上げて、気候変動がおさまる様に祈ったはずです。ルツ記のルツも干ばつが原因で移住せざるをえないという場面から物語が始まります。士師記のエリヤは干ばつのさなか一人のやもめに救われました。どの時代も、自然の変化の中で最も苦しむのは、いつも貧しい人々でした。
数えきれない人が、自然災害によって人生を変えられ、命を奪われました。聖書にはその気候変動への祈りと物語が、いくつもあります。
もしイエスが、21世紀の気候変動の中におられたら、どんな言葉を語られるでしょうか。今まで雨の降っていた地域に雨が降らなくなる時どんな言葉を語るでしょうか。大型の台風で家を失った人の手を、イエスはどんなふうに取るでしょうか。乾いた大地に立つこどもたちの前で、イエスはどんな祈りを捧げるでしょうか。私はそのイエスの姿を、心の中に描きながら、この世界を見つめていたいのです。
イエスだったらどう祈ったでしょうか?冷房の中にいる人と炎天下にいる人とイエスは両方を見つめたでしょう。イエスの愛と祈りは近くにいる隣人だけではなく、世界の果てにまで及んだはずです。それが神の愛と祈りです。
日本には様々な災害があり、多くの被災者がいます。同じ様に、世界にも気候変動によって家や家族を失っている人がいます。聖書を、他人の物語ではなく、自分の物語として読む――それが私たちの信仰です。聖書の登場人物の中に、自分の顔を見つける。そんな読み方を大切にしたい。その私たちは今どれだけ、気候変動に苦しむ人々を他人事にせず、それは私だと感じることができるでしょうか。
イエスに従う群衆の中に、私がいる。そしてその群衆の中には気候変動に苦しむ仲間がいる。私たちの仲間の人生が気候変動に振り回されている。彼らの出来事を私の仲間の出来事、私の出来事としてとらえることができるでしょうか?私たちがいつも聖書に登場する人物に自分を重ねるように、その人と共感することができるでしょうか?私たちはこの気候変動の時代をどう生き、どう祈るのでしょうか。教会でできること、一人一人の生活でできることはなんでしょうか?
聖書には悲しい物語がたくさんありますが同時にどの話も、苦難の中に神の力が働くということが記されています。聖書を読むのは、絶望を探すためではなく、希望の種を探すためです。未来はあります。人には届かないと思えるゴールがあっても、神が力を与えてくださるのです。
今日の聖書箇所でイエスは私たちにもっとも重要な掟を教えています。どの律法が最も重要でしょうか?という質問にイエスは第1に神を愛しなさいと教えます。そしてそれと並べて2つ目に、隣人を自分の様に愛しなさいと教えました。
隣人とは誰のことでしょうか?隣人とは私たちの側に暮らしている人だけ、目の前にいる人だけではありません。お隣さんだけではありません。地球の裏側で気候変動に苦しむ人も、神様の目からは私たちの隣人です。私たちは自分のことのように、隣人のこととして、地球の裏側でおこる気候変動を祈ることができるでしょうか?
私たちがCO2を出さない様にするのは、節電をするのは、電気代の節約のためだけではないはずです。自分のためだけではないはずです。それは世界の仲間、世界の裏側の隣人への愛。私たちは隣人愛の問題として気候変動を考えたいのです。
私たちが小さなスイッチを切る、その一瞬に、愛が宿るのです。私たちは、スイッチを切るとき、神の声を聞いているでしょうか。あなたは「私の小さな行動が、遠くの隣人を守る」と信じることができるでしょうか。紙を再利用する。そんな小さな工夫にも、神を愛し隣人を思う心が宿ります。教会やそれぞれの場所からできる祈りや行動を想像してみてください。隣人を愛するとは、隣人の未来を守ることでもあります。
私たちの世界に生きる仲間は、共に神の子どもです。イエスに従う群衆の一人です。隣人を愛するように、手を取り合うように。地球の人々とも、共に生きてゆきましょう。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を愛しなさい。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。
神の造られたこの地球と、共に歩みたい。そう願いながら、今日も17の祈りを祈りましょう。1分間の黙想の時を持ちます。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
マタイによる福音書22章37~39節
今月は「聖書とSDGs」というテーマでお話します。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標ですが、私にはそれが目標やゴールではなく、祈りに聞こえます。SDGsは17の祈りです。今日はこの17の祈りすべてにまたがる気候変動について考えましょう。
強い雨は途上国の人々にとって大きな脅威です。気候変動には大きな逆説があります。気候変動の原因は先進国にあるにも関わらず、苦しむのは途上国であるという逆説です。気候変動は私たちが世界の隣人とどう向き合うかという問いかけです。
マタイによる福音書22章33節には「群衆」とあります。この群衆の中には、災害によって多くのものを失った被災者が含まれていました。聖書には自然災害によって深い傷を負わされてた人々が多く登場します。創世記のヨセフの家族は7年におよぶ干ばつの影響で、故郷を去りました。ヨセフの家族は空を見上げて、気候変動がおさまる様に祈ったはずです。ルツ記のルツも、士師記のエリヤも。聖書には気候変動への祈りと物語が、いくつもあります。もしイエスが、21世紀の気候変動の中におられたら、どんな言葉を語り、どんな祈りを捧げるでしょうか。
聖書を、他人の物語ではなく、自分の物語として読む――それが私たちの信仰です。気候変動に苦しむ人々を他人事にせず、それは私だと感じることができるでしょうか。その人と共感することができるでしょうか?この気候変動の時代をどう生き、どう祈るのでしょうか。 今日の聖書箇所でイエスは私たちにもっとも重要な掟を教えています。第1に神を愛しなさい。第二に、隣人を自分の様に愛しなさいです。隣人とは誰のことでしょうか?地球の裏側で気候変動に苦しむ人も、神様の目からは私たちの隣人です。私たちは自分のことのように、隣人のこととして、地球の裏側でおこる気候変動を祈ることができるでしょうか?
私たちがスイッチを切る、その一瞬に、愛が宿るのです。地球の人々と共に生きてゆきましょう。今日も17の祈りを祈りましょう。1分間の黙想の時を持ちます。それぞれに今日のみ言葉に思いを巡らせてください。
■SDGs17のゴール■
1貧困をなくそう
2飢餓をゼロに
3すべての人に健康と福祉を
4質の高い教育をみんなに
5ジェンダー平等を実現しよう
6安全な水とトイレを世界中に
7エネルギーをみんなに。そしてクリーンに
8働きがいも経済成長も
9産業と技術革新の基盤を作ろう
10人や国の不平等をなくそう
11住み続けられるまちづくりを
12つくる責任、つかう責任
13気候変動に具体的な対策を
14海の豊かさを守ろう
15陸の豊かさも守ろう
16平和と公正をすべての人に
17パートナーシップで目標を達成しよう
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。今日もこどもたちから生きる力を頂きながら礼拝をしましょう。今日は収穫感謝礼拝の日、そして同時にバプテスマ式の日でもあります。この2つの恵みを共に喜び、分かち合いましょう。テーブルには教会の庭でとれた柿やこの後、分かち合って食べる果物が並んでいます。たくさん教会の仲間たちと喜びを分かち合いましょう。
今日誰よりもこのバプテスマを喜んでいるのは、神様でしょう。彼は小さい頃キリスト教の幼稚園に通っていました。そこで神様は彼の心に本当に小さな種を蒔きました。そしてその種はしばらくはじっとしていました。そして何十年もたった今日、その芽が出てきたのです。それはとっても不思議な出来事です。心の中にずっと秘められてきた種が芽吹いたのです。芽吹く時期やきっかけは人それぞれです。神様の働きです。それは本人の頑張りを超えたものです。命の神秘、神様の神秘、感動のスタートです。このバプテスマは清められ聖なる存在になる儀式ではありません。人より一つ上のランクになる儀式ではありません。完全な人になる儀式でもありません。バプテスマを受けてもまだ私たちと同じ様に何かが足りない人間です。欠けのある人間のままです。
だからこそ、これからが大事です。これから、神様からの光と栄養をたっぷり受けて続けてください。そして少しずつで良い、太くて大きな木になって欲しいのです。この教会の先輩方のようなどっしりとした樹齢何十年の大木のような信仰を持って欲しいのです。神様は、きっとそのように導いてくださるでしょう。あなたがさらに豊かな実りをつけるように導くでしょう。みんながあなたの歩みを見守り、支え、祈っています。本当におめでとうございます。
今日は収穫に感謝しながら聖書を読みたいと思います。そしてこの時を「私が」恵まれていることに感謝するのではなく「誰かと」この恵みを感謝し、分かち合う時にしたいと思っています。私一人が味わうのではなく、共に味わいたいのです。共に生きてゆきたい、互いと神様に感謝しながら生きてゆきたいと思います。今日は感謝と分かち合いを聖書から読んで行きましょう。
今日はマタイによる福音書19章16~30節までをお読みいただきました。今日はある金持ちの青年の話です。
伝統的にこの個所は所有の放棄の命令と読まれてきました。カトリックの修道院はこの聖句を元に発展します。完全な形での所有の放棄を求めて、人里離れた場所にこもって自給自足の生活を実践しました。何も持たずに生きる、それはなんと素晴らしい生活でしょうか。でもすべての人がそれをできるわけではありませんでした。この方法は人間を二つに分けてしまいました。それは完全に所有を放棄した人と、そうでない普通の人です。所有を放棄した人はその生活を続ければよいでしょう。しかし普通の人はどうしたらよいかわからないのです。所有を放棄できない普通の人はどうこの個所を受け止めたら良いのでしょうか?
私たちはどのように読みましょう?私たちは完全に富を放棄することはできません。でもそれを特別な人がする、すごいことで私には関係のない事とは考えたくありません。私たちは所有と放棄の間を生きなければなりません。そうです。所有と放棄の間の「分かち合う」を軸にこの物語を読んで行きたいのです。
ある時、金持ちの青年がいました。彼はとても神様の教えに忠実に生きた人でした。そして彼にはたくさんのものがありました。お金、きっとそれは家柄の良さから来たものでしょう。性格、若さ、健康、家族との良好な関係、掟を守る心の強さ、容姿や体格、コミュニケーション能力、高収入、高学歴、高身長・・・。たくさんの才能と環境に恵まれてきた人です。今風に言えばハイスペック男子でしょうか。
もちろん彼自身が頑張りもあるでしょう。彼の「そういうことはみな守ってきました」という発言からはあふれる自信が伝わってきます。ちょっと自慢もあるかもしれません。誰もがこの青年を見て、うらやましいと思ったでしょう。でも彼自身が思ったのです。「自分にはまだ何か欠けている」。自分にまだ何かが足りない。自分の人生を真に豊かにするために、まだ何かが足りないと思ったのです。そしてイエスに、それが何なのかを聞いたのです。
イエスは応えます「持ち物を売り払って、貧しい人々に施しなさい」「それから私に従いなさい」。彼はそれを聞いたときどのような気持ちだったでしょうか。彼は深く悲しみ、その場を去って行きました。たくさんのものを持つ自分に足りないものを、鋭く指摘された彼は何の言葉も残さずに、悲しみながら、黙って立ち去って行ったのです。
そしてイエスは言います。「金持ちが天の国に入るのは、ラクダが針の穴をとおるより難しい」。ペテロや他の弟子たちはこのやりとりを見て驚きました。彼ほどに沢山の才能と、恵まれた環境に生きている人はいない。あの素晴らしい青年が、天の国、神様に近い場所に行くことができないのなら、もはや誰がそこに行けるのだろうか。私たちのような普通の者には到底無理だ。誰が救われるだろうかと思ったのです。
イエスがこの物語で教えていること、みなさんは何だと思うでしょうか?私たちには一切の所有を放棄することはできません。そのような不完全な私たちです。でも私たちは欠けがありながらも少しでもそれに近づく道があります。それが分かち合って生きるという生き方ではないでしょうか?
少し極端な例かもしれませんが、イエスが伝えようとしているのは、分かち合って生きることと言えるでしょう。私たちはどんな風に分かち合いができるでしょうか?分かち合うことができるのはお金だけではありません。
たとえば煮物を隣の家におすそ分けすることも分かち合いです。病院の待合室で、隣の人の話を少し聞いてあげることもそうです。孫の写真を見せ合って笑うこと。一緒に祈ること。不安の中にいる人の話を聞くのも不安を分かち合うことでしょう。どれも神様が喜ばれる分かち合いです。この後のバプテスマの喜びを分かち合います。教会の柿をみんなで食べるのも分かち合いです。私たちは時間、喜びや悲しみ、力、食べ物、才能や経験・・・様々なものを分かち合うことができます。
イエスは青年に「分かち合って生きよう」と勧めました。あなたは恵まれている。でもそれを自分だけのために抱え込むのではなく、誰かに渡せるだろうか?イエスはそう青年に問いかけたのです。お金持ちなのは、自分や家族が頑張ったことかもしれない、でも分かち合うことはできてる?そう問いかけたのではないでしょうか?金持ちの青年はすべての才能と環境を兼ね備えた自分に足りないことを見つけました。それは分かち合うということでした。手にあるものを神様からいただいたものとして、感謝し、分かち合うことが彼にはできなかったのです。本当は、すべてではなくても、その一部でも分かち合うことができたはずです。しかし彼は何も分かち合わず、その場所を黙って去って行きました。
弟子たちは思わず聞きました。あの青年が天の国に入れず、こんな凡人の私たちに何か良いものが、待っているのでしょうか?イエスはまた言います「私のためにたくさんのものを捨てた人は何百倍も報いを受ける」。こうして物語は30節で突然終わってしまいます。私は弟子たちが意味が分からず、ぽかんとした顔をしているのを想像します。
弟子たちが聞いたのは分かち合う先に何が待っているのか?ということでした。イエスは何百倍も報いがあると言います。私たちは信仰のために財産や家族や大切なものを捨てたりはしません。する必要もありません。私たちには何が待っているのでしょうか?
ここでイエスが私たちに示していることは、分かち合ってゆく生き方の中に、よりよいものが待っているということです。分かち合うからこそ大切なものや、家族とのよりよい関係が待っているのです。別の言葉で言えば、私たちは分かち合う時に、家族や血縁を超えた結びつき、仲間が与えられてゆくのです。教会の仲間もそうでしょう。すべてを分かち合う事はできません。でもここでみ言葉や喜びや悲しみを分かち合うとき、新しい家族が与えられます。たくさんの新しい家族、教会のお父さん、教会のお母さん、教会のお姉さんや子ども、孫のような存在が与えられるのです。イエスは、分かち合う時に新しい世界が開かれてゆくと語っています。
感謝し、分かち合う時、私たちが大切にしているものは、もっと輝き出すはずです。私たちがもっと分かち合う時、きっと私たちにはもっとたくさんの仲間が与えられてゆくはずです。私たちはみんなで永遠の命、神様の永遠の愛を分かち合ってゆきましょう。
この個所がみなさんに問うていることは何でしょうか?あなたの大切なものは何ですか?どうか思い起こしてみてください。あなたは何を持っていますか?それにどうやって感謝しますか?そしてあなたが持っているもの、大切にしているもの、喜びや悲しみをどうやって分かち合ってゆくでしょうか?それを分かち合う時、きっと神様はたくさんの恵み、新しい世界を与えてくださるでしょう。すべての財産でなくてもいいのです。何を分かち合って生きることができますか?時間、場所、思い出、信仰、若さ、経験、食べ物・・・。今日、この場で喜びを分かち合いましょう
あなたの欠けは何ですか?私の欠けは何でしょうか?しかし、その欠けにこそ神の愛が注がれるのです。だから私たちは感謝して、分かち合って、ここから歩んでいきましょう。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
マタイによる福音書19章21節
今日は収穫感謝礼拝の日、そして同時にバプテスマ式の日でもあります。この2つの恵みを共に喜び、分かち合いましょう。そしてこの時を「私が」恵まれていることに感謝するのではなく「誰かと」この恵みを感謝し、分かち合う時にしたいと思っています今日は感謝と分かち合いを聖書から読んでゆきましょう。所有と放棄の間の「分かち合う」を軸にこの物語を読んでゆきましょう。
ある金持ちの青年の物語を読みます。彼はたくさんのものを持っていました。お金、家柄、性格、若さ、健康、家族との良好な関係、たくさんの才能と環境に恵まれてきた人です。彼の「そういうことはみな守ってきました」という発言からはあふれる自信も伝わってきます。誰もがこの青年を見て、うらやましいと思ったでしょう。
でも彼自身が思ったのです。「自分にはまだ何か欠けている」。そしてイエスに、それが何なのかを聞いたのです。イエスは応えます「持ち物を売り払って、貧しい人々に施しなさい」「それから私に従いなさい」。彼は黙って立ち去って行きました。
イエスがこの物語で教えていること、みなさんは何だと思うでしょうか?私たちには一切の所有を放棄することはできません。でも私たちは欠けがありながらも少しでもそれに近づく道があります。それが分かち合って生きるという生き方です。私たちはどんな風に分かち合いができるでしょうか?分かち合うことができるのはお金だけではありません。たとえば煮物のおすそ分け、病院の待合室の会話、孫の写真を見せ合って笑うこと、一緒に祈ること、不安の中にいる人の話を聞くのも分かち合うことでしょう。どれも神様が喜ばれる分かち合いです。この後のバプテスマの喜びも分かち合います。教会の柿をみんなで食べるのも分かち合いです。私たちは時間、喜びや悲しみ、食べ物、才能・・・様々なものを分かち合うことができます。
この後、弟子たちは思わず聞きました。分かち合う先に何が待っているのか?と。イエスは新しい世界が待っていると言います。分かち合うからこそ大切なものや、家族とのよりよい関係が待っているのです。別の言葉で言えば、私たちは分かち合う時に、家族や血縁を超えた結びつき、仲間が与えられてゆくのです。
イエスは、分かち合う時に新しい世界が開かれてゆくと語っています。感謝し、分かち合う時、私たちが大切にしているものは、もっと輝き出すはずです。私たちがもっと分かち合う時、きっと私たちにはもっとたくさんの仲間が与えられてゆくはずです。私たちはみんなで永遠の命、神様の永遠の愛を分かち合ってゆきましょう。
この個所がみなさんに問うていることは何でしょうか?あなたの大切なものは何ですか?それにどうやって感謝しますか?どうやって分かち合ってゆくでしょうか?あなたの欠けは何ですか?その欠けにこそ神の愛が注がれるのです。だから私たちは感謝して、分かち合って、ここから歩んでいきましょう。
みなさんおはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝を献げましょう。9月は礼拝について考えていました。どちらかというとそれは、教会の中のことだったかもしれません。今月はそれと正反対に教会の外、世界について聖書から考えたいと思います。特に10月はSDGsをテーマとしながら聖書を読んでゆきたいと思います。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標です。人権も、経済も、地球も。そのすべてを守ろうという世界の目標です。目標は単に途上国を支援するということだけではなく、先進国や企業にも社会的な責任を求めています。教会はこの世界と無関係ではありません。神の家族として、私たちはどう世界に関わったらよいのでしょうか?
17個の目標の8番目は「働きがいと経済成長を実現する」というものです。「誰もが人間らしく生産的な仕事ができる社会を作ろう」とあります。その中で特に取り上げられているのは、児童労働の問題についてです。今、世界では10人に1人近い子どもが、学ぶ代わりに働かされています。児童労働とは、家事の手伝いの範囲を超えて、こどもたちが働くことです。無償や安い賃金で雇用され、仕事をしなければいけない環境のことです。児童労働は様々な問題を生みます。まず児童労働は学ぶ時間を奪います。その結果、貧しさと不平等が親から子へ、子から孫へと連鎖してしまうのです。児童労働は生産性が低く、経済成長も弱めます。児童労働を行った本人は、こども時代だけでなく、その後の人生においても、健康を損ないます。児童労働は持続可能な世界とまったく正反対のものです。
もっとも児童労働が多いのは農業だと言われます。特に大規模な児童労働はガーナのカカオ農園です。カカオは児童労働によって支えられる代表的な作物です。ガーナでは、ランドセルを背負うはずの子どもが、農園で重い荷物を背負っています。そのカカオをチョコレートにして食べているのは私たちです。こどもたちが働かなければいけない理由は、先進国がカカオを安く買いたたくからです。カカオ農家はどんなに働いても豊かにならず、安いこどもの労働力に頼るしかありません。子どもたちが農薬をまき、重いものを運んでいます。その子は誰のために汗を流しているのでしょうか?その他にもレアメタルの鉱山で働かされる子供も多くいます。このような世界で私たちは何ができるでしょうか?例えば子どもがよく食べるブラックサンダーは児童労働の関わるカカオを使わないと宣言しています。
私たちは自分達の身の回りのものが、どのように作られ、売られているのかに興味を持った方がいいのかもしれません。製品だけではなく、働いている人の状況や、世界の構造に目を向けるべきです。このことは最近のお米の高騰からも気づかされることです。
聖書はどうでしょうか?聖書は心の奥だけではなく、この世界の現実についても語ります。聖書もまた世界をどう見るのかを私達に問いかけています。今日は教会とSDGsについて考えたいと思います。
マタイによる福音書20章1~16節をお読みいただきました。イエスは農村地帯に生まれ育ちました。だから農業に関するたとえ話を多くしました。今日はぶどうの収穫のたとえ話です。ぶどうの収穫の時期、熟したぶどうをすばやく収穫しなければいけません。ぶどうの収穫は村中が忙しくなる大イベントでした。人手が最も足りない時期です。朝からたくさんの人が雇われました。足りなければ、午後からでも人を雇って、収穫はすすめられました。そんな忙しいさなか、夕方になっても、まだ声がかからない人がいました。村中が働いているのに、ただ一人。取り残された人です。彼は村中が忙しくしている中でひとりだけ、声がかからなかったのです。残されている間、彼の胸にあった気持ちはどんなものでしょうか?恥ずかしさ?孤独?「自分なんて必要とされない人間なのか」という痛みでしょうか。そこに再び農園の主人が現れ、声をかけました。「あなたも来なさい」。彼は主人の声にほっとしたでしょう。喜び、一生懸命働いたでしょう。
そして日当を払う時間になりました。本来、日当は早くから来て、長く働いた人から順番に支払われるものです。しかし渡される順番は反対になりました。最後に来た自分から日当を受け取ったのです。そしてなんと、全員が同じ賃金でした。朝から汗を流した人も、夕方から来た私も同じ日当でした。早くから働いた人は、これに抗議の声を上げました。しかし主人は言いました。「いくら払うかは私の自由だ」。その言葉は、慰めでしょうか?それとも横暴でしょうか?
このたとえ、伝統的には主人=神、労働者=人間と解釈されてきました。神様の愛は、取り残された人に豊かに注ぐのです。神様は業績主義、成果主義ではありません。神様は多くの良い事をしたら、多くの良いものがあたえられる、できない人には与えられないという方ではないのです。ここから神様の愛のあり方が読み解かれてきました。それはとても共感できる教えです。神様の温かい包容力が伝わってくる話です。イエスのこれまでの言動から考えても、確かに誰ひとりも取り残されない大切さが語られたのでしょう。神様は取り残され、役に立たないといわれる人に声をかけ、役割を与え、用いて、恵みをくださるお方なのです。
しかし、このたとえにはもう一つ見落としてはいけない背景が隠されています。それは労働問題の側面です。労働問題の視点からこの個所を捉えると、別のものが見えてきます。私はイエスは、ただ神様の愛の温かさを表しただけではなく、同時に現実の問題も指摘していると思います。みなさんは、このたとえの主人は本当に神様だと思いますか?不公平だと感じませんか?これが神様の目指す姿なのでしょうか?このようなあり方は持続可能でしょうか?これは労働者の自尊心を奪う行為だったはずです。
労働の問題を視点に加え考えましょう。その日1日の仕事を求める、日雇い労働者が集まる場所があったはずです。まず想像するのは雇用主側の視点です。雇用者が真っ先に欲しがるのはどんな人でしょうか?まず欲しいのは安い労働力です。多少効率が悪くても、日当が安くすむ人の方を選びます。人件費は安ければ、安い方がいいのです。言葉が通じるかどうか、筋肉がモリモリかどうか、能力があるかどうかよりも重要なのは安さです。文句をいわず安く働く人を求めます。主人は「こいつなら安く働きそうだ」そういう人に声をかけました。黙って、安く働きそうな人から順番に声をかけたのです。十分想像できます。仕事を求める場所にはさまざまな人が集まりました。想像力を働かせます。そこにこどもはいたでしょうか?そこにもきっと学校に行かずに働かざるを得ないこどもがいたはずです。
こどもこそ真っ先に雇用されたかもしれません。安い給料で文句を言わないで従うからです。今も世界でこどもの労働が蔓延しているように、このぶどう畑でもこどもたちが働かされたでしょうか。安い労働力として真っ先に採用されて、長く働かされたでしょうか。そして最後に支払われたのは不当にも、後から来た大人と同じ給料だったのです。勇気のあるこどもが声をあげました。「おかしいじゃないか。私たちだけ安く働かされているではないか?」と。でもすぐに主人に恫喝されました。給料は俺が決める、俺の好きなように払って何が悪いと。圧倒的に強い立場の雇用者が、自らの正しさを振りかざし、自分の思う様に給与を決めてゆきました。好みの人間に高い給与を払ってゆきました。それが奪ったものはなんでしょうか?それは人々の働きがいを奪いました。やる気を奪いました。農業全体の発展を奪いました。これは持続的な方法でしょうか?
この主人は、人のやる気を見事にしぼませる天才でした。そんな人、みなさんの周りにもいませんか?不公平な職場、ありませんか?お給料はこれでいいのかと思う時がありますか?「私は正当に扱われていない」。その感覚はとても大事です。不平等への敏感さは、人を守る力になります。それはこのままの社会でいいの?という疑問につながるはずです。私たちは気前の良さをアピールする社長に従えばいいのでしょうか?どう思いますか?この話は神様の愛だけを示しているのでしょうか?もちろんここからは神様の愛が語られています。それは疑いのない事でしょう。弱いもの、置いてゆかれるもの、忘れられる者、後回しにされる者に神様の愛は注がれるのです。
でもこのたとえが投げかけているのはそれだけではありません。同時にこのたとえの中には不平等やひずみに苦しむ人々が描かれているのではないでしょうか?神様は弱いもの、後回しにされるもの、小さいこどもを愛するお方、では地上ではどう?と問いかけています。神様の愛はこんなにも無条件に注がれるのに、地上はどう?こんな不公平なことがあっていいの?地上にはこんな横暴な主人がたくさんいるんじゃない?アフリカの子どもが働き、私たちが安くチョコレートを食べる。この世界のままで、いいのでしょうか?
この後主の晩餐を持ちます。誰ひとり取り残されず、このパンとブドウジュースを頂きましょう。どんな気持ちでそれを食べますか?
私たちこそこの主人のように、カカオ農場でこどもを不当に働かせていない?聖書は、私たちに問いかけています。「あなたは、この主人と同じではないか?」と。
聖書は最後に「あなたはわたしの気前のよさをねたむのか?」という問いかけで終わっています。あなたはこの主人をどう思いますか?憧れますか?ねたみますか?どちらでしょうか?
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。
マタイによる福音書20章1~15節
10月はSDGsをテーマとしながら聖書を読んでゆきます。SDGsとは「誰も取り残さない」ための17の目標です。教会は神の家族として、どう世界に関わったらよいのでしょうか?無関係ではありません。今、世界では10人に1人近い子どもが働かされています。児童労働は学ぶ時間を奪い、貧しさと不平等を連鎖させます。ガーナのカカオ農園ではこどもたちが重い荷物を背負っています。こどもたちが働かなければいけない理由は、先進国がカカオを安く買いたたくからです。
このような世界で私たちは何ができるでしょうか?聖書の物語に聞きましょう。ぶどうは収穫の時期、すばやく収穫をしなければいけません。朝からたくさんの人が雇われました。しかし夕方になっても声がかからない人がいました。「自分は必要とされない」という痛みを感じたでしょう。そこに主人が現れ、雇われました。彼はそれを喜び、一生懸命働いたでしょう。しかし日当は朝から働いた人も、夕方から来た人も同じでした。早くから働いた人は、これに抗議しました。しかし主人は言いました。「いくら払うかは私の自由だ」。その言葉は慰めでしょうか?横暴でしょうか?
このたとえは伝統的には主人=神、労働者=人間と解釈されてきました。神様は業績主義、成果主義ではありません。神様は取り残され、役に立たないといわれる人に声をかけ、役割を与え、用いて、恵みをくださるお方なのです。しかし、このたとえにはもう一つ見落としてはいけない労働問題の背景が含まれています。
雇用主が真っ先に欲しがるのは安い労働力です。黙って、安く働きそうな人から順番に声をかけたのです。きっとこの中に働かざるを得ないこどもがいたはずです。今も世界でこどもが働かされるように、このぶどう畑でもこどもたちが働かされたでしょうか。勇気のあるこどもが声をあげました。でもすぐに主人に恫喝されました。圧倒的に強い立場の雇用主が、自らの正しさを振りかざし、自分の思う様に給与を決めてゆきました。雇用主は人々の働きがいとやる気を奪いました。「私は正当に扱われていない」。その感覚はとても大事です。不平等への敏感さは、人を守る力になります。それはこのままの社会でいいの?という疑問につながるはずです。
もちろんここでは神様の愛が語られています。でもこのたとえが投げかけているのはそれだけではなく、不平等やひずみに苦しむ人々が描かれている人です。たとえは、神様は弱いもの、後回しにされるもの、小さいこどもを愛するお方、では地上ではどう?と問いかけています。アフリカの子どもが働き、私たちが安くチョコレートを食べる。この世界のままで、いいのでしょうか?私たちこそこの主人のように、カカオ農場でこども不当に働かせていないでしょうか?聖書は、私たちに問いかけています。「あなたは、この主人と同じではないか?」と。
聖書は最後に「あなたはわたしの気前のよさをねたむのか?」という問いかけています。あなたはこの主人をどう思いますか?憧れますか?ねたみますか?
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声・命と一緒に礼拝を献げましょう。
今月はここまで3回、礼拝について考えてきました。礼拝は目的ではなく手段です。神様とのつながりを持つためのものです。礼拝は良いものを求めて変わり続けてゆくものです。私たちは今の礼拝に欠けているものを探しています。3回の礼拝でどんなことをお感じになったでしょうか?そして私たちは聞くだけではない、一人一人によって形作られる礼拝、参加型の礼拝を目指しています。
礼拝は神と人とのつながり、人と人とのつながりを考える時間です。私たちはどうしたらもっと深く神様と、他者とつながることができるのでしょうか?そのために普段とは違うことに取り組んできました。みなさんは教会のために礼拝に来るのではないはずです。神様や他者とのよりよい関係のために礼拝に来ています。今日も礼拝とは何か?もう一度問いかけながら聖書の言葉に耳を傾けましょう。
さて私たちの日常にある人と人との関係から考えてみましょう。人と人との関係は嬉しい時もありますが、難しさもあるものです。特にお金が絡むと問題は急に複雑になります。みなさんは友達や親せきにお金を貸したことがありますか?そのお金はかえってきましたか?返ってこなかった時、どんな気持ちになりましたか?怒りですか?悲しみですか?もうあの人は信用できないという気持ちでしょうか? 正直に言うと、牧師である私は、お金があればかなり多くの問題が解決すると思っています。ホームレスの問題も、教会の建物の問題も、家族の問題も。お金があれば解決することが多いのです。
お金は人を助ける力を持っています。しかし同時に人と人との信頼関係を壊す力も持っています。お金は人と人との関係を少しずつ、でも確実に変えてゆきます。お金の貸し借りで壊れる友情、遺産の相続で仲が裂ける家族、お金を間に置いた人間関係はとても壊れやすいのです。そこまでにどれだけ深くて長い関係があっても、お金で関係が壊れます。「お金の切れ目が縁の切れ目」という言葉は現実を言い当てています。お金を間において、人間は仲良くし続けることができないのです。お金の貸し借りで信頼関係が深まることは、ほとんどありません。基本的に教会員同士のお金の貸し借りはやめしましょう。もし必要なら誰か一人ではなく、みんなで助けることにしましょう。
聖書にもそんな人間の姿を映し出す物語があります。今日はみなさんがよく知っている人間の関係の難しさ、複雑さを一緒に考えます。そしてそれとまったく正反対であるまっすぐな神様の愛、単純で分かりやすい神様の愛、その深さ、広さを考えてみましょう。その中でどのように礼拝をするのかを考えたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。
今日はマタイによる福音書18章21~35節までをお読みいただきました。聖書の難しいたとえ話の一つです。ある時、王様は決算をすることにしました。そこで家来の一人が1万タラントン、現代にすれば6000億円、国家予算規模の莫大な借り入れを返済できなくなりました。王は激しく怒ります。家族も財産もすべてを売り払い徹底的に回収しようとします。それが普通の王の姿でしょう。それでも6000億円の借金に対しては、これらは大したお金になりません。お金の問題というよりは、信頼が裏切られたことへの強い報復感情による行動です。これが普通の人間の行動です。
しかし物語に出て来る王は違いました。あまりにも寛大すぎるのです。王は憐れに思い、なんと返済を待つどころか、借金を帳消しました。驚きの行動です。王の行動は信じられないほどに寛大です。王はこれまでの関係に戻ろうとしたのです。しかし赦された家来は、ほんの小さな額の借金の返済を、きっちり取り立てようとしました。それを聞いた王は激しく怒り、家来を牢屋に入れました。この金額の返済は無理です。おそらく一生牢獄で過ごしたのでしょう。
伝統的に教会はこの個所を「だからあなたもすぐに赦しなさい」と解釈してきました。あなたが赦されているのだから、あの人がどんなにあなたにひどい事をしたとしても水に流しなさい、忘れなさいと教えてきました。それは確かにに憎しみと復讐からの解放の教えでした。しかしこの読み方は危うさもあります。被害者にとって、すぐに赦しなさいという言葉は、本人の痛みを無視した赦しの押し付けとなってきました。教会はその痛みに無関心だったのです。教会は時に「泣き寝入りしなさい」と同じ響きを持つ言葉を語り、権力者たちの不正を温存させてきました。赦しはそんなに簡単ではありません。クリスチャンは相手をただ赦すだけではなく、周囲から失った信頼を取り戻せるような謝罪や行動を強く促すべきでしょう。だからこの個所は「あなたもすぐに赦しなさい」と読まないことが大事です。
今日はこれまでとは違う読み方をしましょう。ここから私たちは何を感じ取り、どんな問いを持つでしょうか?今日のこの物語の中心はなんでしょうか?赦されたのに赦さない家来が中心のように見えます。しかしこの王が神様を示しているのなら、この物語の中心は王です。この物語の中心点は王の驚くほど寛大な行動です。王の行動に注目をします。通常、借金が返済できないという事態がもたらすのは経済的な損失だけではありません。それよりももっと大きな影響は人間同士の信頼関係の破断です。約束が果たせないことは、この王と家来の関係の破断を招きました。そうです、お金を間に挟む関係は難しいものです。普通の王はこう考えるはずです。もうこれはお金の問題ではない。私はもうお前を信用できないのだ。たとえお金を返したとしても、もうお前に用は無い。
しかしこの王は他の王と大きく違いました。王は非常に寛大な行動をとります。王は借金を帳消しにするというのです。この王は変わり者です。王は借金を免除し、さらに家来に対して、これまでと変わらない関係を築こうとしました。家来はもう王様に一生、頭が上がらなかったでしょう。何とかして恩に報いなければならない。王の行動は乗り越えられるはずのない借金問題を乗り越えて、二人の信頼関係をより深くしたはずです。こんなことは私たちの生きる世界では現実には起こりません。人間の世界では考えられない行動です。でもこれが神様の姿を映し出しています。
今日の個所からどんなことを読み取ることができるでしょうか?ひとつ読み取ることができるのは、これが神様の提案する、神と人との関係だということです。神様はたとえあなたがどんなに罪深い人間で、あなたがどれだけお金にだらしない人間で、あなたがどれだけ約束を守れない人間だったとしても、あなたとの関係を諦めないということです。神様はもうあなたとは関わりたくないと言わないお方です。神様はどんなに欠けのあるあなたとも、関係をより一層強いものにしたいと提案をしています。神様はあなたの悪いところ、ダメなところ、欠けのあるところ、その一切を丸ごと引き受けて、愛し、これからずっと、もっと深くつながろうとしているのです。
お金の絡む人間関係は複雑で難しいものです。でも神様との関係は違います。神様と人間の関係は驚くほど単純で、驚くほど確かなものです。その関係はどんなことがあっても途切れることがないのです。人間関係は大小さまざまな問題で断裂します。でも神と人との関係は人間同士の関係を超越した、深い関係なのです。
ここには神様の強い愛が示されています。神様はあなたを愛し、何があっても深い絆を持ち続けようとするのです。神様が罪深い私に関わり続けてくださるのです。それはどんな問題も破ることができない強い絆です。
私たちは神の愛の深さがわからないかもしれません。でも人間関係のもろさ、悲しみならすぐに想像ができるでしょう。神様は私たちを、そのもろさの何倍も、深い愛で、包み込んでくださるのです。
今月は礼拝という視点で聖書を読んでいます。私たちの礼拝とは何でしょうか?礼拝はそのような神との深い結びつき、絆を確かめる時間です。私たちは礼拝で、決して途切れることのない神様のとの強い絆を確かめます。私たちは礼拝で神様の大きすぎる恵みに包まれていることを思い出します。神様は特定の誰かとの絆を大切にするのではありません。神様は、一人一人、あなたと直接の絆を大切にするのです。礼拝はその絆を確かめるときなのです。
その絆は確かなものです。人間の問題の複雑さをひっくり返して考えてみてください。神の愛はまっすぐで、決して切れません。神様の愛は単純で深いものです。あなたの悩みは深いでしょう。けれどもそれよりも圧倒的な深さで神様はあなたを愛しているのです。神様はあなたを大切に思っているのです。だから前に一歩、進んでみましょう。
今日のみ言葉からみなさんに問いかけをします。あなたは今どのように人間関係に悩み、もがいていますか?お金の問題で心が重くなっていませんか?赦せない相手の顔が思い浮かぶでしょうか?そのような毎日の中で、あなたはどこに神様の愛を感じますか?どうすればこの礼拝でそれを感じることができるでしょうか?礼拝で神様との絆をもっと感じるにはどうしたらいいと思いますか?
礼拝は私たちが神様に近づくだけではなく、神様が私たちに近づいてくださる時間です。人間の複雑で壊れやすい関係を超えて、神様の愛は真っすぐに私たちに注がれます。その愛はほどけることのない愛です。心の中の悩みや葛藤を神様の前に差し出しましょう。そして神様が見捨てないことを思い出しましょう。黙想の時間を持ちます。
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
マタイによる福音書18章27節
今月は礼拝について考えています。礼拝は神と人とのつながり、人と人とのつながりを考える時間です。私たちはどうしたらもっと深く神様と、他者とつながることができるのでしょうか?人と人との関係はお金が絡むと複雑になります。みなさんは友達にお金を貸したことがありますか?お金は人を助ける力を持っています。しかし同時に人と人との信頼関係を壊す力も持っています。
聖書にもお金で人間関係が壊れる物語があります。そして人間の関係の複雑さ、壊れやすさとまったく正反対である、まっすぐで単純な神様の愛が描かれています。
ある時一人の家来が1万タラントン、現代にすれば6000億円の借り入れを返済できなくなりました。普通の人間は信頼が裏切られたことへの強い報復感情を抱くはずです。しかし物語に出て来る王はあまりにも寛大です。借金を帳消しにしました。王は家来とこれまでの関係に戻ろうとしたのです。
伝統的に教会は「だからあなたもすぐに赦しなさい」と解釈してきました。しかしその教えは被害者の痛みを無視した赦しの押し付けとなってきました。赦しはそんなに簡単ではありません。今日はこれまでとは違う読み方をしましょう。
この物語の中心点は王の驚くほど寛大な行動です。王の行動に注目をします。この王は変わり者です。王は借金を免除し、これまでと変わらない関係を築こうとしました。こんなことは私たちの生きる世界では現実には起こりません。でもこれが神様の姿を映し出しています。これが神様の提案する、神と人との関係です。
神様はあなたがどんなに罪深い人間でも、あなたとの関係を諦めないのです。神様はどんなに欠けのあるあなたとも、関係をより一層強いものにしたいと提案をしています。お金の絡む人間関係は難しいものです。でも神様との関係は違います。神様と人間の関係は驚くほど単純で、驚くほど確かなものです。その関係はどんなことがあっても途切れることがないのです。ここに神様の強い愛が示されています。
今月は礼拝という視点で聖書を読んでいます。礼拝はそのような神との深い結びつき、絆を確かめる時間です。私たちは礼拝で、決して途切れることのない神様のとの強い絆を確かめます。
人間の問題の複雑さをひっくり返して考えてみてください。神の愛はまっすぐで、決して切れません。神様の愛は単純で深いものです。あなたの悩みは深いでしょう。けれどもそれよりも圧倒的な深さで神様はあなたを愛しているのです。
あなたは今どのように人間関係に悩んでいますか?お金の問題で心が重くなっていませんか?そのような毎日の中で、あなたはどこに神様の愛を感じますか?どうすればこの礼拝でそれを感じることができるでしょうか?礼拝で神様との絆をもっと感じるにはどうしたらいいと思いますか?心の中の悩みや葛藤を神様の前に差し出しましょう。そして神様が見捨てないことを思い出しましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして、みんなで神様に向かえることを感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。今、この瞬間を大切にしましょう。
今月は「礼拝」をテーマにお話をしています。私たちは、なぜ礼拝をするのでしょう?ただの習慣でしょうか?それとももっとあなたの人生にとって、深い意味があるのでしょうか?礼拝は神様と人との、人と人との結びつきを強めるためのものです。その結びつきを深めるために礼拝をしています。そして私たちは今月、どんな礼拝をすれば、もっとその結びつきが強くできるのかを考えながら礼拝をしています。講壇を無くしてみたり、下に降りてみたり、神様への応答カードを書くようにしてみたり、いろいろことを試しています。
大きな方向性としては参加する要素を強くした礼拝を目指して、いろいろなことにチャレンジしています。そして20年後の形を想像しながら、これからの礼拝のことを考えてきました。
これまで礼拝は、牧師の話をただ聞いて帰る場所、と感じていた方も多いかもしれません。礼拝はどこか受け身なものとされてきました。牧師や司会者が話し、参加者は静かに聞くだけ――そんな構図が長く続いてきました。牧師が立つ場所と、皆さんが座る場所。その間には、目に見えない壁があったかもしれません。もちろん礼拝は牧師の講演会ではありません。一人一人が牧師を通じて神様につながるのではありません。一人一人は直接、神様とのつながりを持つことができるのです。そして一人一人に神様の愛が直接示されてゆくのです。みなさん一人一人がより、神様とのつながりを感じることができる礼拝にしてゆきたいと願っています。そのような、参加型の礼拝を目指したいと思っています。
いろいろ試していますが、最近の礼拝を通して、みなさんはどんな思いや発見をしてきたでしょうか?来週の信徒会では皆さんの感想と意見を分かち合う時を持ちたいと思います。私たちの礼拝はこれが最高、今が最高ではなく、もっと良いものにしていけるはずです。私たちの礼拝には、きっと見落としている要素があるはずです。主の晩餐に全員で参加するということも大きな変化です。それは今まで参加したことがない人がどうしたらもっと参加できるようになるかを考えるという出来事でした。
礼拝も宣教も、一方的に受け取るものではなく、一人一人が近くで味わい、共に作るものです。聞くだけではなく、参加する要素を探し求め、旅をしてゆきたいのです。
神様とのより深い関係、人とのより深い関係のために礼拝について考えたいのです。今日は参加型の礼拝という視点でこの個所を読み直してみましょう。その時、この個所はどんな風に聞こえるのでしょうか?私たちの礼拝をもっと深いものとしてゆくために欠けている事、加えてゆくべきこと、やめるべきことはなんでしょうか?一緒に考える時にしましょう。
今日はマタイによる福音書18章10~14節をお読みいただきました。聖書のたとえ話はこうです。ある時、100匹の羊と一人の羊飼いがいました。しかし1匹足りません。1匹が欠けて99匹になってしまいました。1匹は迷子になってしまったのです。一人の羊飼いは99匹を山に置いて、危険にさらして、1匹を探しに出てゆきました。そして1匹を探し出し、見つけました。そこには大きな喜びがあったというたとえ話です。
この話は多くの場合、羊飼い=神様、1匹の羊=私と解釈をされてきました。神様がはぐれた1匹の羊のような「私」を探し出してくれると理解されてきました。神様が99匹を残し、はぐれた1匹を探す姿は、とても心温まる話です。神様の愛、神様と私の深い関係を感じさせる話です。
しかし一方で、1匹の羊を私とする解釈は、聖書の個人主義的な解釈にもつながります。その時神様は、他者を置いて私だけに関わる姿が想定されます。神様は私を探し、私にどうかかわるかが中心に置かれたのです。それはとても大事な視点ですが、それでは神様が「私だけ」を見つめる存在であり「私だけ」を愛する神であり「他者よりも私を優先する神様」という解釈にもなります。この読み方には、何か大切なものが欠けていないでしょうか?それは、「私」以外の、他の99匹の羊たちの視点です。
今日は、この物語を、私たち一人ひとりが集まった「共同体」として読んでみませんか?99匹と1匹の関係に目を向けてみましょう。まず迷子になった1匹を探すという決断は誰の決断だと思うでしょうか?一人のリーダーの勇敢な決断だったのでしょうか?99匹はそれに黙って従い、主人の帰りを待ったのでしょうか?それでは受け身です。
もっとバプテストらしい民主主義を大切にする読み方はないでしょうか?それは一人のリーダーの勇敢な決断を受け入れるという読み方ではなく、100匹の共同体の選びとして読む読み方です。今日は99匹の視点から読んでみたいと思います。
ある時、99匹のうちの誰かが、1匹足りないということに気付きました。それは一人のリーダーの二つの目だけでは気づけないことでした。99匹の多くの目があるからこそ、一匹の不足に気付くことができました。彼らは相談をし、その1匹を探しだすことを決断したのです。そして99匹が羊飼いを派遣する決断したのです。
99匹の総意は、1匹を探すことでした。もちろん99匹の中には様々な意見や立場があったはずです。羊飼いが探しに出ることに不満の声もあったでしょう。今までこのペースで進んできた、そのやり方を変えるべきではない。私は一生懸命ついてきたのに遅れるのはおかしい、追いかけるのはおかしい。遅い羊に合わせたらいつまでも進まずたどり着かない。置いて行かれる99匹の危険も考慮すべきだ。
単純な利害関係だけの多数決なら、このまま進む、見捨てるという一択しかなかったでしょう。しかし99匹はそのような決断をしませんでした。99匹はよく話し合ったのです。そしてやはり1匹でも欠けるのは良くないという結論に達しました。そして羊飼いにあの1匹を追わせようと決断し、派遣したのです。
99匹はいろいろな立場があったけれど、それぞれに納得して1匹を探し求めることにしました。99匹は、どうしてそんな決断ができたのでしょうか?それは14節「一人でも滅びることは神様の御心ではない」と知っていたからです。99匹は1匹も欠けることなく全員でゴールを目指そうと思ったのです。そしてそのために一人の羊飼いを送り出したのです。その選択が100匹にとって、自分たちと神様、お互いの良い関係につながると思ったからです。それは自分達の中に欠けているひとつものを探す旅の始まりでした。
羊飼いが探したのは、たった1つ。しかし決して小さくない“欠け”でした。99で十分だったのかもしれません。でも1足りない、その欠けているひとつのものを探し求めたのです。どこにあるのか、それが欠けている事にはどんな意味があるのか?その欠けの意味を考えながら、探し求めたのです。
すぐに見つかったわけではないでしょう。彼はそれが見つかるまで探し求めました。森の奥、川のほとり、岩陰…。行き先を変えながら、必死に探し続けました。
そして羊飼いはその1つの欠けをようやく見つけ出しました。そして大喜びで99匹のもとに帰っていったのです。きっと99匹の仲間も喜んだでしょう。「探してよかった!」仲間たちは声をあげ、胸を熱くしたに違いありません。まるでパズルの最後の1ピースのようにそれを喜んだのです。
この99匹の物語を私たちと重ねてみましょう。私たちが99匹だとすると、私たちに欠けているたった1つのものとは何でしょうか?私たちはそれを探し求めたいのです。私たちの礼拝には、どんな部分が抜け落ちているのでしょう? その穴をどう見つけますか?
私たちの礼拝も99なのかもしれません。100に限りなく近いのでしょう。でも私たちの礼拝で何か置いてきてしまった要素があるのではないでしょうか?私たちが礼拝の中で置き忘れてきてしまったものは何でしょうか?いろいろ試行錯誤します。そんな私たちは今、1匹の羊を探す羊飼いの様に、失ったものを探す旅の途中にいるのです。
私たちは今、礼拝に欠けているものを探す旅人なのです。その旅の先に小さな出会い、でもみんなで喜び合える出会いがあるのだと信じています。今、私たちはその旅の途中です。
今日、この物語は私たちにどんな挑戦を投げかけているでしょうか?私たちの礼拝に欠けているものは何でしょうか?礼拝でもっとこうすることが、神様の御心だと思えることは一体、何でしょうか?これまでに礼拝が99だとするなら、もし99にもうひとつを加えるなら、それはどんな1でしょうか?欠けているものは何でしょうか?残りの1を探し求める礼拝とはどんな礼拝でしょうか?神様は私たちにそれを探し求める旅に出る様に促しているのではないでしょうか?その1を見つけるために、御心のために。共同体として、私たちとして、99匹として、どうやってそれを探していったらよいのでしょうか?この問いを、私たちみんなで一緒に考え、分かち合いましょう。みなさんのアイディアを聞かせて下さい。
そしてそれぞれの場所にいるみなさん一人一人のこととしてもとらえてみましょう。きっとみなさんの戻られる場所があるはずです。家族や仲間、職場や学校という共同体があるでしょう。みなさんのいる共同体もきっと99匹の共同体です。みなさんはそれぞれの場所の中で、どのように欠けたものを探し、見つけることができるのでしょうか?この1週間、みなさん自身も小さな1を探す旅に出てみませんか?あなたの家族や、職場、学校。その99匹の中に、残された1匹の羊はいないでしょうか?どこに残された1匹の羊を見つけるでしょうか?あなたには、思いがけない喜びと感動が待っているはずです。
黙想の時を持ちます。心に残った言葉を、そっと神様に献げてみてください。
祈ります。
これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。
マタイによる福音書18章14節
私たちは、なぜ礼拝をするのでしょう?ただの習慣でしょうか?それとももっとあなたの人生にとって、深い意味があるのでしょうか?礼拝は神様と人との、人と人との結びつきを強めるためのものです。その結びつきを深めるために礼拝をしています。みなさん一人一人がより、神様とのつながりを感じることができる礼拝にしてゆきたいと願って、いろいろ試しています。私たちの礼拝には、きっと見落としている要素があるはずです。今日は参加型の礼拝という視点でこの個所を読み直してみましょう。その時、この個所はどんな風に聞こえるのでしょうか?
ある時、100匹の羊と一人の羊飼いがいました。しかし1匹が欠けて99匹になってしまいました。一人の羊飼いは99匹を山に置いて、危険にさらして、一匹を探しに出てゆきました。そして1匹を探し出し、見つけました。そこには大きな喜びがありました。今日は、この物語の99匹と1匹の関係に目を向けてみましょう。
バプテストらしい民主主義を大切にするならば、リーダーの勇敢な決断を受け入れたのではなく、100匹の共同体の選びとして読みます。ある時、99匹のうちの誰かが、一匹足りないということに気付きました。彼らは相談をし、その一匹を探しだすために、羊飼いを派遣する決断しました。99匹にはいろいろな立場があったけれど、それぞれに納得して一匹を探し求めることにしました。99匹がそのような決断ができたは「一人でも滅びることは神様の御心ではない」と知っていたからです。それは自分達の中に欠けているものを探す旅の始まりでした。
羊飼いが探したのは、たった1つ。しかし決して小さくない“欠け”でした。どこにあるのか、それが欠けている事にはどんな意味があるのか?その欠けの意味を考えながら、探し求めたのです。森の奥、川のほとり、岩陰…。行き先を変えながら、必死に探し続けました。そして羊飼いはその一つの欠けをようやく見つけ出しました。きっと99匹の仲間は「探してよかった!」仲間たちは声をあげ、胸を熱くしたに違いありません。この99匹の物語を私たちと重ねてみましょう。
私たちの礼拝も99なのかもしれません。100に限りなく近いのでしょう。でも私たちの礼拝で何か置いてきてしまった要素があるのではないでしょうか?私たちが礼拝の中で置き忘れてきてしまったものは何でしょうか?いろいろ試行錯誤します。そんな私たちは今、1匹の羊を探す羊飼いの様に、失ったものを探す旅の途中にいるのです。今日、この物語は私たちにどんな挑戦を投げかけているでしょうか?私たちの礼拝に欠けているものは何でしょうか?
そしてみなさんには家族や仲間、職場や学校という共同体もあるでしょう。みなさんのいる共同体もきっと99匹の共同体です。この1週間、みなさん自身も小さな1を探す旅に出てみませんか?思いがけない喜びと感動が待っているはずです。
黙想の時を持ちます。心に残った言葉を、そっと神様に献げましょう。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもの声は命の音です。今日も共に礼拝をしましょう。
今月は「礼拝」ということをテーマに宣教をしています。先週は、教会はどのようにしたら神様と人とのつながりをより深いものとしていゆけるかを考えました。神様とより深くつながるために、どんな礼拝ができるでしょうか?もっと神様とのつながり、人とのつながりを深くする礼拝を探し求めています。
礼拝に「完成版」というものはありません。いつも未完成であり続けます。これでよいと固定し、完成させてしまった瞬間から、神様とのつながりへの問いはなくなってしまいます。だからこそ、いつも試作品であることが大事です。
20年後に多くの教会がなくなるかもしれないという状況の中で、私たちの教会はどんな時を過ごし、どんな教会になっているのでしょうか?少し怖いですが20年後の教会を、一緒に想像してみましょう。どんな教会になっていると思いますか?
教会はあまり変わらないと思うでしょうか?では20年前の教会はどうだったでしょう?2005年9月18日の週報を見てみました。司会は今日と同じ古田さんです。週報には毎週「礼拝出席の心得」が記されていました。そのひとつにはこうあります。「礼拝にやむを得ず遅刻する場合はスリッパの音をたてない様に静かに後ろの席につきましょう。お祈りや説教の時には歩くことは厳に慎みましょう」少なくとも、こどもに足音についてはまったく正反対のことを言っています。こどもの足音は平和の音です。と呼びかけています。このように私たちの礼拝大きく変化をしています。
他にもこうあります「礼拝後に敬老祝福祈祷がございます、大先輩の方々の健康と主の祝福を祈りましょう」これは今日もかわらない。この後も敬老祝福祈祷をします。ずっとこの祈りを大切にし、続けています。
他にはこうあります。9月23日は半徹夜祈祷会があります。お誘いあわせてご出席ください。夜の何時まで祈っていたのでしょうか?どんな祈りがあったのでしょうか?
教会や礼拝のあり方は20年前と大きく変わってきています。神様はこのことをどう思っているでしょうか?ずっと今のままでいい、すべて今の礼拝がいい、いまの形が完成で、変えてはいけない。そうは思っていないはずです。神様はきっと、良い部分をもっと伸ばしなさいと招いておられます。もっとみんなで考えて、変えたりやめたりしてもいいと思っているはずです。
礼拝は同じ儀式を繰り返すことに価値があるのではありません。礼拝は、神様と私たちを結びつける時間です。大事なことはより深いつながりのために、試作品として、礼拝を試してゆくことです。変わってゆくことです。できることをすることです。私たちはいつもいろいろな試行錯誤を続けてゆきたいのです。
神様はその試みの中で良いものを残し、育ててくださいます。そして変えるべき部分を変え、やめるべき部分を取り去ってくれるでしょう。それは私たち一人一人の人生にも言えることでしょう。今日は聖書からそのことを見てゆきたいと思います。
今日はマタイによる福音書13章44~50節をお読みいただきました。今日は天の国のたとえという話です。このたとえは、天の国がどのようなものなのか、どのような事態なのかを伝えようとしています。天の国とは何だと思いますか?天の国とは死んだ後に行く場所ではありません。
天の国とは私たちの生きるこの地上で実現することです。天の国とは神様と人間の深い結びつきが実現している場所のことです。神様は死んだ後ではなく、この私たちがいま生きる地上での結び付きを大事にしています。このたとえは神様が私たちとどのような絆を持としているのかを教えています。
最初のたとえは、畑で宝物を見つけた人の話です。みなさんには、見つけたらどうしても欲しい物があるでしょうか?見つけたら、その土地を丸ごと買い上げたくなるような物です。彼は宝を見つけ、その喜びのあまり、畑全体を買い取りました。欲しいのは宝だけだったはずです。周りの畑にはそれほどの価値はありません。でも彼は一部分だけではなく、畑全体を買い上げたのです。
このたとえは神様と私たちが、どのような関係だと伝えているのでしょうか?神様は私たちの全てを受け止めてくださる方と言えるでしょう。神様は宝物も畑も全部、買い取ってくださるお方です。神様はあなたの良いところも弱いところも、全部抱きしめてくださるお方です。神は宝物だけをとって、捨てるのではありません。私たちのすべてを受け止めて下さるお方なのです。
二つ目のたとえは、真珠の話です。ある日商人は小さな一粒の真珠に出会います。そして彼はその一粒に人生のすべてをかけようとするのです。ここでどのような神様と人の関係が書かれているでしょうか?神様はあなたのいいところ、そのひとつに全力を傾けるお方です。あなたの小さくても素晴らしいところを、神様は誰よりも早く見つけ、そこにすべての愛を注ぐお方です。神はあなたという人間を、丸ごとの総合評価で見るのではありません。あなたの心の奥の小さな真珠を、神様は必ず見つけ、愛を注がれます。
三つ目のたとえは魚の話です。ある人がたくさんの魚を獲りました。彼は良い魚は器に入れます。しかし悪い魚は捨て、燃え盛る炉の中に投げ込みます。悪い魚は火で焼かれ泣きわめきます。このたとえはどんなことを語っているのでしょうか?
もし私自身を一匹の魚に置き換えるなら、私は悪い魚としてすぐに投げ捨てられ、丸焼きにされてしまうでしょう。この中で、私は捨てられず、焼かれずに済むという人はいますか?この話を「誰が悪い人で、誰が良い人か」を振り分ける話だとするなら、話は成立しません。それでは誰一人残れません。
この話は、神を信じる人と信じない人が、ある日最後の審判の日に二つに選り分けられ、一方は天国、残りは地獄という話でもありません。
このたとえは、私たちの中にある、良い部分と悪い部分と理解ができるでしょう。神様に出会った私たちは、神様によって、私たちの心の中にある、悪い部分をすべて選り分けられ、焼き尽くされるのです。そして私たちの心の良い部分だけが残されるのです。それが神様の愛、導きです。そのように私の心は選り分けられてゆくのです。そのような、神様と深い関係の中に天の国があるのです。
この三つのたとえは、少しずつ違うことを語っています。神様は全てを受け止め、小さな良いものを見つけ愛を注ぎます。そして良い部分だけを残すのです。これが私たちに示された天の国です。
私たちは礼拝について考えています。この礼拝も同じでしょう。神様は、畑すべてを買い取る様に、私たちの礼拝のすべてを受け止めてくださるでしょう。神様は小さな真珠を探し出し、買い取るように、私たちの小さな礼拝を見つめ、その礼拝に愛を注いでくださるでしょう。そして神様は良い魚と悪い魚を分ける様に、私たちの礼拝を変えて下さるでしょう。終えるべきもの、変えるべきもの伝え、良いものだけを残してくださるでしょう。
私たちの礼拝は神様にそのように受け止められながら繰り返されています。この礼拝はそのすべてが畑と宝のように受け止められています。この礼拝は小さな真珠のように見えても、神様が必ず見つけ、受け止めてくださいます。この礼拝は変えらながら歩んでゆきます。神様が良いものと、悪いものを分け、良いものを残してくださるのです。私たちは礼拝のすべてを大切なものとして献げながら、そして礼拝を変えながら歩んでゆきましょう。
今日の個所、みなさん自身の人生にはどう響くでしょうか?みなさん自身と神様の関係について考えてみてください。神様はあなたの中に宝物を見つけてくださるお方です。神様は、あなたは私の宝物なのだよと言っています。そして全部を受け止めてくださいます。
みなさんの中にはどんな真珠があるでしょうか?小さくて誰も気づないようなあなたの良いところです。「私には何もない」と思いますか?でも神様は知っています。神様は、世界中から一粒の真珠を探し出すように、あなたの小さな良いところを見つけ、すべてをかけて受け止めるよと言っています。それほど、あなたを価値のあるものとしています。自信を持って生きて下さい。
そして神様は神様はあなたの良い部分を輝かせ、悪い部分を焼き尽くしてくださると約束しています、あなたの中の良い事だけをのばし、悪い事だけを滅ぼされるのです。みなさんはそのように神様に導かれて生きるのです。みなさんの先に待っているのは裁きではなく、救いです。天の国です。神様とのきずなが待っているのです。それを確かめながら、この礼拝をしましょう。
今日の問いです。あなたの心には、どんな真珠が眠っていますか??どんなに小さくて見つからなくても、神様は見つけて下さいます。では、みなさん自身は何を宝としますか?何を宝として、何を真珠として、何をいらないものとしますか?神様は私たちにそれをどのように教えてくださるのでしょうか?
教会の礼拝はどのように変わってゆくのでしょうか?変わらずに続くことは何だと思いますか?神様はこの教会の何を宝、真珠としてくださるのでしょうか?何を変えていいというのでしょうか。みなさんはこの個所をどう受け止めるでしょうか?教会とみなさんの人生に神様はどのように絆を持とうとしているのでしょうか?
(1分間の黙想)
祈ります。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
マタイによる福音書13章45~46節
今月は「礼拝」をテーマに、もっと神様とのつながり、人とのつながりを深くする礼拝を探し求めています。今は礼拝で「こどもの足音は平和の音」と呼びかけていますが、20年前の週報を見ると「静かに席につきましょう」と書かれています。また「半徹夜祈祷会」の案内が記載されています。どんな祈りがあったのでしょうか?教会や礼拝のあり方は20年前と大きく変わってきています。
神様は、教会はずっと今のままでいい、いまの形が完成とは思っていないはずです。礼拝は神様と私たちを結びつける時間です。大事なことはより深いつながりのために、さまざまな礼拝を試してゆくことです。神様はその試みの中で良いものを残し、育ててくださいます。そして変えるべき部分を変え、やめるべき部分を取り去ってくれるでしょう。それは私たち一人一人の人生にも言えることでしょう。
今日は天の国のたとえという話です。天の国とは神様と人間の深い結びつきが実現している場所のことです。神様は死んだ後ではなく、この私たちがいま生きる地上での結び付きを大事にしています。
最初のたとえは、畑で宝物を見つけた人の話です。彼は宝を見つけ、その喜びのあまり、畑全体を買い取りました。神様はあなたの良いところも弱いところも、全部抱きしめてくださるお方なのです。二つ目のたとえは、真珠の話です。ある日商人は小さな一粒の真珠に出会い、その一粒に人生のすべてをかけます。神様はあなたのいいところを誰よりも早く見つけ、それに全力の愛を注ぐお方です。三つ目のたとえは魚の話です。ある人がたくさんの魚を獲りました。彼は良い魚は器に入れ、悪い魚は捨てました。このように神様に出会った私たちは、神様によって、私たちの心の中にある、悪い部分をすべて選り分けられ、焼き尽くされるのです。そして私たちの心の良い部分だけが残されるのです。この三つのたとえは、少しずつ違うことを語っています。神様は全てを受け止め、小さな良いものを見つけ愛を注ぎます。そして良い部分だけを残すのです。これが私たちに示された天の国です。
この礼拝も同じです。神様は私たちの礼拝のすべてを受け止め、小さな礼拝を見つめ、大きな愛を注いでくださいます。そして私たちの礼拝を変えて下さいます。
今日の個所、みなさん自身の人生にはどう響くでしょうか?神様はあなたの中に宝物を見つけてくださるお方です。みなさんの中にはどんな真珠があるでしょうか?神様は神様はあなたの良い部分を輝かせ、悪い部分を焼き尽くしてくださると約束しています。では、みなさん自身は何を宝としますか?何を宝として、何を真珠として、何をいらないものとしますか?
教会の礼拝はどのように変わってゆくのでしょうか?教会とみなさんの人生に神様はどのように絆を持とうとしているのでしょうか?
みなさん、おはようございます。今日もこうして、共に礼拝できることを、心から神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝する教会です。こどもたちの声と一緒に礼拝を献げましょう。9月は「礼拝」について、みんなで考えてゆきたいと思います。今日はいつもの説教台からではなく、もっと皆さんの近くでお話をさせてください。
この20年、私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。公衆電話を思い出してください。みなさんが最後に公衆電話を使ったのはいつですか?懐かしいですね。10円玉やテレホンカードを入れるとツーという音がします。そして電話番号を一つずつ押します。よく使う電話番号なら覚えていました。そうでない番号は手作りの電話帳を見て番号のボタンを押しました。テレホンカードの目盛りがどんどん減ってゆくのを見ながら親しい人と長電話をした思い出があります。今思うと、公衆電話はとても不便でしたが、その分コミュニケーションは貴重で、意味深さがあったかもしれません。しかしコミュニケーションの形はどんどん変わってゆきました。ある日、携帯電話を持った時から、公衆電話をほとんど使わなくなりました。あれ以来公衆電話は大幅に減少しています。事故や災害などのために、完全にはならないそうです。でもその数はどんどん減っています。公衆電話は役割を終えようとしています。
私は「公衆電話を守らなければ」とは思いません。なぜなら、たとえ公衆電話が姿を消しても、人と人との「つながり」が途絶えたわけではないからです。大事なのは公衆電話ではなく、その中で育まれた、心と心のコミュニケーションそのものだからです。コミュニケーションの方法は公衆電話から携帯電話へと発達しました。それによってコミュニケーションは、電話のある場所に固定されなくなりました。かつて電話は各家庭に1台でした。その家族単位のコミュニケーション手段は、一人一人との直接的なコミュニケーションに変わりました。私たちのコミュニケーションのスタイルは大きく発達してきました。どんなに懐かしくても、もう公衆電話には戻りませんよね?
さて――教会と公衆電話。意外な組み合わせに、どんな共通点があると思いますか?これからの20年で、多くの教会が閉鎖されてゆくと予想されています。教会の数も、礼拝出席の数も公衆電話と同じ様に、減少しつつあります。教会は必要とされていないのでしょうか?教会を維持してゆくことは大事なことです。しかし教会はあくまで目的ではなく手段です。公衆電話も、維持が目的ではなく、他者とのコミュニケーションが目的でした。教会も同じではないでしょうか?教会の目的は何ですか?教会の目的は、建物や組織を守ることではありません。私たち人間同士、そして私たちと神様の間のコミュニケーションがうまく働くことを目的に、教会は存在するのではないでしょうか?
教会が続くことが目的ではありません。教会は、神様とのコミュニケーション、人と人とのコミュニケーションを、より豊かにするための手段です。公衆電話が姿を変えて、携帯電話になったように、教会もまたその目的を果たすために、どんどん変わってゆくべき場所なのです。
私たちの礼拝で何が変わったでしょうか?主の晩餐が変わりました。よりよく私たちの信仰を神様に表すために全員が参加するものに変わりました。よりよく仲間と信仰を体験するために変わりました。このようにもっと私たちの礼拝は変化に開かれて良いはずです。礼拝の形式自体は大きく変わっていません。もしかすると、私たちの礼拝も公衆電話のまま…なのかもしれません。もちろん変わらない良さはあるでしょう。公衆電話にまだ価値があるように、伝統的な教会にも価値があるはずです。
でも私たちの教会は、20年後も、このままの形で存在しているでしょうか?それとも、人々の心のよりどころとして、新しい形に変わっているでしょうか?私は「古き良き」公衆電話の思い出を大切にしながらも、そこから一歩踏み出し、新しいコミュニケーションの形を模索したいと思っています。深めるのは、人間同士のコミュニケーション、神様とのコミュニケーションです。いろいろな方法を試しながら「これはふさわしい」「これはどうもうまくいかない」そんな風に深いコミュニケーションを探し続けたいのです。そうしないと公衆電話になってしまうからです。
様々な試みに挑戦することが大事だと思います。私たちはこれまで主の晩餐や聖書朗読など、参加型の礼拝を目指してきました。これらは神様と人々とのコミュニケーションがより深まってゆくための変化でした。この期間、一方的に受け取るだけではない、参加型の礼拝にチャレンジしてみたいと思います。ぜひみなさんも、こんな風にしたら、神様や人々とより深いつながりを持てるという礼拝のアイディアを教えてください。今日は聖書から変化とチャレンジについて考えたいと思います。
今日はマタイによる福音書13章31~34節までをお読みいただきました。種の話です。この話は伝統的には小さなものが大きくなるという理解で受け止められてきました。小さな信仰が世界を大きく動かす、小さな教会も続けてゆくことで大きな教会になれると読まれてきました。しかし今日は教会自体の維持・存続・拡大ということとは別の角度から読みたいと思います。新しいチャレンジについて、ここから受けとってゆきたいと思います。
聖書を読みましょう。古代の種まきは、いまよりずっとおおざっぱです。私たちが作物を作るように一粒ずつ丁寧に蒔くのではなく、種をつかんで土に投げていました。それは、とにかく数を蒔くという方法です。当然、蒔いたものが全て芽を出すわけではありません。だからこそたくさん蒔く必要があったでしょう。無駄も多くありました。でも必要な収穫を得るには、無駄を承知でたくさん蒔く必要があったのです。人々はケチらずに、収穫を信頼してたくさんの種をつかんで、惜しみなく蒔きました。新しい種を、惜しみなく蒔く人に、成長と収穫があったのです。
種は、持っているだけでは意味がありませんでした。種は年をおうごとに発芽率が下がってゆきます。種を種のまま持っていると、その価値はどんどん下がっていったのです。今あるものを大切に壺に取っておくこともできました。しかしそれを今蒔かないと発芽率が下がり、価値が下がったのです。惜しみなく蒔かれた種、そのいくつかが芽を出しました。そして、大きく育ちました。からし種は木と言うより藪のように成長するそうです。大きくなった藪はたくさんの動物の隠れ家となりました。命が集い、憩う場所になりました。生き物たちが宿る場所、みんなの居場所になりました。
この種のこと、私たちは今日どのように理解しましょうか?今月は礼拝というテーマで考えを巡らせてみましょう。教会にとって種とは何でしょうか?種とは――私たちの中に眠る、新しい可能性そのものではないでしょうか。教会はたくさんの種、たくさんの可能性を持っています。教会は惜しみなく様々なことを試すことが必要です。種まきが厳選した少数の種を蒔くのではなく、とにかくたくさん蒔いてみることが大事だったように。私たちはいろいろなあり方に挑戦をしてゆきたいのです。そして種を種のまま持っていても芽は出ません。種は蒔かないと芽を出しません。アイディアを持っているだけでは、何も始まりません。やってみないと芽が出るかどうかわからないのです。
いろいろな取り組みを試みるからこそ、芽が出るもの、出ないものがあるのです。うまくいくことと、いかないことがあるでしょう。しかし聖書は言っています。挑戦しなさいと。新しい礼拝へ、新しい神と人との出会いへ、私たちはいろいろな礼拝の持ち方、神と人とのコミュニケーションのあり方を、種蒔きの様に、大胆にチャレンジしてみてはどうでしょうか?
きっと全てが成功するわけではありません。でもいつかそのひとつが芽吹き、大きな藪になるはずです。そこが人々の癒しの場所となるはず。そこが人と人が出会い、神様と人が出会う場所になるはずです。教会はそのような場所になりたいのです。教会が、神様と人がより深く出会う場所となるため、たくさんの可能性を試したいのです。
私たちは公衆電話のままでいいのでしょうか?私たちは種を蒔き、深いコミュニケーション、神と人との深い出会いの場所を目指してゆきましょう。この言葉は私たちの教会の礼拝に向けられた言葉です。どんな礼拝なら、人と神様が、より深く、温かく出会うことができるのでしょうか。今日の礼拝が終わった後も、この問いを、ぜひあなたの心の中に持ち帰って考えてみてください。
そしてあなた自身のこととしても考えてみてください。あなたは小さな種をもっています。それは持っているだけではなく、今蒔くべき種です。種は時間が経つと芽を出さなくなります。「今、蒔いてみること」が大事です。さて今、あなたの心の中にある小さな「種」は何でしょうか?それを蒔くとしたら、それはどんな一歩になりますか?より深い人との出会い、神との出会いに向けて、できることは何ですか?すべての種が芽を出すわけではありません。でもそのいくつかが木となり、次の世代へと命をつなぐのです。
そしてこの後、主の晩餐を持ちます。これも神様とのコミュニケーションの一つです。全員でこのコミュニケーションに参加しましょう。1分の黙想を持ちます。それぞれに感じたこと、神様への応答をぜひカードに書いてみてください。
天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。
マタイによる福音書12章32~33節
9月は「礼拝」について、みんなで考えてゆきたいと思います。この20年、私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。携帯電話を持った時から、公衆電話をほとんど使わなくなりました。私は「公衆電話を守らなければ」とは思いません。なぜなら、大事なのは公衆電話ではなく、その中で育まれた、心と心のコミュニケーションそのものだからです。
教会や礼拝出席の数も公衆電話と同じ様に、減少しつつあります。教会を維持してゆくことは大事なことです。しかし教会はあくまで目的ではなく手段です。公衆電話も、維持が目的ではなく、他者とのコミュニケーションが目的でした。教会も同じではないでしょうか?公衆電話が姿を変えて、携帯電話になったように、教会もまたその目的を果たすために、どんどん変わってゆくべき場所なのです。
私たちの教会は20年後も、このままの形で存在しているでしょうか?それとも、人々の心のよりどころとして、新しい形に変わっているでしょうか?様々な試みに挑戦することが大事だと思います。ぜひみなさんも、こんな風にしたら、神様や人々とより深いつながりを持てるという礼拝のアイディアを教えてください。
聖書を読みます。古代の種まきはとにかく数を蒔くという方法でした。蒔いたものが全て芽を出すわけではありませんでした。しかし人々はケチらずに、収穫を信頼してたくさんの種をつかんで、惜しみなく蒔きました。新しい種を、惜しみなく蒔く人に、成長と収穫があったのです。そのいくつかが芽を出し、大きく育ちました。大きくなった藪はたくさんの動物の隠れ家、命が集い、憩う場所になりました。
この種のこと、私たちは今日どのように理解しましょうか?種とは私たちの中に眠る、新しい可能性そのものではないでしょうか。教会はたくさんの可能性を持っています。教会は惜しみなく様々なことを試すことが必要です。種は蒔かないと芽を出しません。やってみないと芽が出るかどうかわからないのです。うまくいくことと、いかないことがあるでしょう。しかし聖書は言っています。挑戦しなさいと。私たちは新しい礼拝へ、新しい神と人との出会いへ、いろいろな礼拝の持ち方、神と人とのコミュニケーションのあり方を、種蒔きの様に、大胆にチャレンジしてみてはどうでしょうか?どんな礼拝なら、人と神様が、より深く、温かく出会うことができるのでしょうか?
そしてあなた自身のこととしても考えてください。あなたは小さな種をもっています。それは今蒔くべき種です。それを蒔くとしたら、それはどんな一歩ですか?
この後、主の晩餐を持ちます。全員でこのコミュニケーションに参加しましょう。そして1分の黙想を持ちます。それぞれに感じたこと、神様への応答をぜひカードに書いてみてください。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。こどもたちの声は平和の象徴です。この会堂いっぱいにこどもたちの声と平和で満たされるように祈っています。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。
8月は礼拝で、平和について考えてきました。それぞれに平和をどのようなことを感じているでしょうか?世界や日本が、平和に近づいていると思うでしょうか?それとも世界や日本は戦争へと進んでいると思うでしょうか?
世界終末時計というものがあります。世界がどのように破綻に向かっているかを示す時計です。科学的統計というよりも主観的な表現ですが、私たちの破滅への危機感を視覚的に訴え、インパクトのあるものです。1947年から発表されているこの統計、推移は次の通りです。1947年、アメリカとソ連の冷戦時代に初めての発表された時刻は、終末を示す午前0時まで「残り7分」でした。1991年。私が幼い頃です。冷戦終結やアメリカとソ連の核軍縮がありました。時計は「残り17分」まで戻りました。破滅までの時間は伸び、平和へと向かっていったのです。私は小さい頃、信じていました。世界はきっと平和へと向かってゆくと。しかしその後、ソ連の核兵器はインドやパキスタンに拡散してゆきます。時計の針は再び短くなり、世界は破滅へと向かってゆきました。
日本にもこの時計が有ったらどんな数字になるでしょうか?1945年8月は0秒だったと言えるでしょう。一番長かったのはいつでしょうか?1947年に憲法9条・平和憲法が制定された時でしょうか?しかし今はどうでしょう?決して平和に向かって時を刻んでいるわけではないでしょう。自衛隊は海外に派遣されるようになりました、軍事費はますます増大しています。先の参議院選挙では各党の憲法案が論点となりました。新たに憲法作ると訴える党がいました。その憲法案からは9条が削除されていました。この党は「核兵器は安上がりだ」という発言もしています。そしてこの党は選挙でとても人気がありました。私たちは戦争に向けて再び時を刻んでいます。私たちは大きな戦争を体験し、もう二度としないと誓いました。軍隊を持たない、武力ではなく平和を信じると宣言したはずでした。しかし日本はまた自ら戦争へと近づこうとしています。私たちは一度手放したはずの戦争・武力に再び戻っていないでしょうか?日本は再び戦争・破滅に向けて時を刻んでいます。戦争、核兵器の再使用、人類の絶滅に再び近づいています。みなさん自身はそんな世界の平和、日本の平和について今どう思うでしょうか?今日の個所を読みながら、一緒に考えてください。
今日はマタイによる福音書12章43~50節をお読みいただきました。今日の個所は伝えたいことが謎だと言われる個所です。聖書にはイエスは何を言おうとしたのか、謎に包まれている箇所がたくさんあります。しかし私たちの戦争へと向かう現状を重ねた時、この個所がもう少し分かるかもしれません。
聖書にあるイエスの話をもう一度振り返ります。イエスは追い出された汚れた霊が再び家に戻ってきたという話をしました。汚れた霊は一度は家から追い出されたのです。汚れた霊は自分から、自主的に家から出て行ったのではありません。その家の主に追い出されたのです。もう汚れた霊はいらない。その決心と祈りとによって、汚れた霊は追い出されました。しかしその時、汚れた霊の存在が消えたわけではありませんでした。汚れた霊はまた次に住まうべき別の場所を探し始めました。汚れた霊は自分にもっとふさわしい場所があるはずだと信じ、その場所を探しました。しかしそのような場所はなかなか見つけることはできませんでした。
行く当てのない汚れた霊は「そうだ、戻ってみよう」と考えました。一度は自分を徹底的に追い出したあの場所。しかしあそこも、きっと時間が経てば、再び自分に居心地のいい場所になっているのではないかと思ったのです。行って、のぞいてみると、案の定、その家は空でした。もしすでに誰かが入っていたら、話が別でした。しかしそこは空。誰もいなかったのです。しかも掃除されて、整えられていました。他の翻訳によれば、飾り付けがされるほどきれいだったのです。それはまるで、汚れた霊をもう一度歓迎するかのようでした。その家は汚れた霊にとって、居心地が最高の場所に戻っていました。汚れた霊は自分の他にもたくさんの汚れた霊の仲間を招いて、そこを居場所にします。気付くと、そこは一度は汚れた霊を追い出したはずなのに、再び汚れた霊が住み込み、前よりさらにひどい場所になっていました。このような話です。
さて、この話をどのように理解したらよいでしょうか?この個所は、ユダヤ人排斥の文脈で理解されてきた歴史があります。ユダヤ人は真理であるキリストを受け入れず、律法主義やファイリサ派など入れ替わり立ち代わり汚れた教えを心に招きいれている、どうしようもない人種だ。彼らには神の厳しい裁きがあるだろう。そしてそんなユダヤ教とは反対に、キリストを迎え入れる者だけが、神に救われると解釈してきました。私はその解釈自体が、非常に差別的であると思います。クリスチャンが聖、それ以外の人が俗・汚れという考えこそが、汚れた霊による考えだと思います。
私はこの個所を、一人ひとりの心に何を住まわすのかという問題として読みたいと思います。今日私たちが与えられている問いは一人ひとりは何を心に住まわせるのかというものです。私たちは汚れた考えを、徹底的に追い出しましょう。汚れた考えとはどんな考えですか?想像してみてください。暴力、戦争、核兵器、差別、格差、いじめ、無関心・・・みなさんの心にはどんな汚れた霊がいますか?それは人間一人ひとりにあるものです。私たちは時々大きな失敗をします。そうするとそれが汚れている考えだったと気づきます。もうやめよう、捨てようと思います。そしてそれを追い出すのです。戦争はだめだ、差別はだめだと心から追い出すのです。
しかしどうでしょうか?そう時間が経たぬうちに、私たちには、再び汚れた霊が住みつくものです。それはいつの間にか起こります。でも実は少しずつ、静かに、汚れた霊を迎える準備は進んでいます。そこは汚れた霊が来るはずがないような、美しい家になってゆきます。そこにいるものは飾り付けられ、新しく、魅力的に見えます。しかしいつの間にか、そこは前よりひどい汚れた霊がいくつも居るようになるのです。私はこの汚れた霊が、戦争や差別に見えます。それは私たちの心の中、私たちの社会に静かにやって来ます。少しずつ、場所が整えられ、飾られた場所に忍び込んできます。人気に推されて、新しいものとしてやってきます。
私たちは注意をしなければなりません。きっとイエスは警告したのです。汚れた霊、戦争や差別がそれぞれの心と社会に入ってくることを。私たちはどうすれば汚れた霊を心に迎え入れずに済むのでしょうか?
私は今日、この家が空っぽだったということに注目をします。この家に足りなかったものは汚れた霊を追い出しただけで終わってしまっていたということです。汚れた霊を追い出しても部屋が空いたままならば、また入ってきてしまうのです。戦争を否定しただけでは、まだ不十分で、解決しないのです。私たちは汚れた霊が再び家に入ってこないように、そこを別のもので満たさなければいけなかったのです。もう二度と汚れた霊が入って来ない様に、隙間なく別のもので満たさなければならなかったのです。もう二度と入りこむ余地はないと示す必要があったのです。
汚れた霊のいなくなった場所を、私たちは何で満たすことができたでしょうか?考えてみてください。例えば平和の願いで満たすのはどうでしょうか?他にも祈り、誓い、憲法、戦争の証言、様々なもので満たすことができるはずです。そしてキリスト者はそこを愛と平和、神の言葉で満たすことができるはずです。何でそこを満たすことができるのか想像してみてください。
私は汚れた霊を自分の心から徹底的に追い出したいと思います。そして平和の主であるイエスをこの家、私の心に迎えたいのです。私の心から暴力と差別を徹底的に排除し、平和の主イエスを心に迎え入れたいのです。
そこにイエスが入っていなければ、きっと私の心はまた暴力と差別で満たされてしまうでしょう。そして前よりもっと深刻になるでしょう。私はそこにイエスの十字架を置きたいのです。十字架とはイエスが暴力的な力で、殺されたことの印です。けれども同時に十字架は暴力を超えて、復活があった印です。それを胸の中に、私の家に置きたいのです。イエスが心に住み続けてくれるように、私はいつも十字架の前に祈り、汚れた霊・戦争と差別を追い出し続けてゆきたいのです。世界の人たちの心から、戦争をする心が追い出され、平和が住むように祈りたいと思います。世界は確実に、再び汚れた霊が住む場所になり、前より深刻になっています。
みなさんにも問いかけます。私たちの世界がその心から追い出すべきことは何でしょうか?私たちの日常ではどのような場面で汚れた霊を見ることができるでしょうか?みなさんの心には今、何が住んでいるでしょうか?大切なのは飾りつけられていることではありません。その中身です。今、みなさんの心に迎え入れるべきことは何でしょうか?みなさんが心に迎え入れるべき人は誰でしょうか? そのために私たちができることは何でしょうか?もっと心のスペースの中身を入れ替えるにはどうしたらいいのでしょうか?私たちは何を心に招くのでしょうか?それぞれに祈り、考えてゆきましょう。お祈りします。
汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。 マタイによる福音書12章43~44節
8月は礼拝で平和について考えています。先の参議院選挙では新たに憲法を創ると訴える党がいました。その憲法案からは9条が削除されていました。そしてこの党は選挙でとても人気がありました。私たちは戦争に向けて再び時を刻んでいます。私たちは大きな戦争を体験し、もう二度としないと誓いました。武力ではなく平和を信じると宣言したはずでした。しかし日本はまた自ら戦争へと近づこうとしています。日本は再び戦争・破滅に向けて時を刻んでいます。戦争、核兵器の再使用、人類の絶滅に再び近づいています。みなさん自身はそんな世界の平和、日本の平和について今どう思うでしょうか?今日の個所を読みながら、一緒に考えてください。
聖書を読みます。汚れた霊は一度は家から追い出されました。しかしその存在が消えたわけではありませんでした。行く当てのない汚れた霊はしばらくした後「戻ってみよう」と考えました。きっと時間が経てば、再び自分に居心地のいい場所になっているのではないかと思ったのです。戻ってみると案の定、掃除され、整えられ、飾り付けがされ、汚れた霊はもう一度歓迎されました。汚れた霊は自分の他にもたくさんの汚れた霊の仲間を招いて、そこを居場所にしました。
この話をどのように理解したらよいでしょうか?今日私たちが与えられている問いは、一人ひとりは何を心に住まわせるのかというものです。私たちは汚れた考えを、徹底的に追い出しましょう。汚れた考えとはどんな考えですか?想像してみてください。暴力、戦争、核兵器、差別、格差、いじめ、無関心・・・みなさんの心にはどんな汚れた霊がいますか?汚れた霊は私たちの心の中、私たちの社会に静かにやって来ます。少しずつ、場所が整えられ、飾られた場所に忍び込んできます。人気に推されて、新しいものとしてやってきます。
私たちはどうすれば汚れた霊を心に迎え入れずに済むのでしょうか?私たちは汚れた霊が再び家に入ってこないように、そこを別のもので満たさなければいけなかったのです。例えば平和の願い、祈り、誓い、憲法、戦争の証言、様々なもので満たすことができるはずです。そしてキリスト者はそこを愛と平和、神の言葉で満たすことができるはずです。私の心から暴力と差別を徹底的に排除し、平和の主イエスを心に迎え入れたいのです。
そして私はそこにイエスの十字架を置きたいのです。十字架とはイエスが暴力的な力で、殺されたことの印です。けれども同時に十字架は暴力を超えて、復活があった印です。それを胸の中に、私の家に置きたいのです。
みなさんにも問いかけます。私たちの世界がその心から追い出すべきことは何でしょうか?私たちの日常ではどのような場面で汚れた霊を見ることができるでしょうか?私たちは何を心に招くのでしょうか?
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に囲まれながら礼拝をしましょう。
8月は平和について考えています。80年前にも私たちの国で戦争がありました。あの時、一人一人が戦争に関わらないこと、戦争から逃げることがどんなに難しかったことかを想像します。ひとたび戦争がはじまると、逃げたい人は逃げる、戦いたい人は戦う、そんな自由ありません。全員が戦争に駆り出され、巻き込まれ、関わらないで済む人はいません。
かつての日本では、軍に徴兵されると、近所の人が集まって万歳して送り出されました。お国のために素晴らしい事をするのだと教えられました。親は心の中で本当は、息子に戦争になんか行って欲しくありませんでした。本人も行きたくありませんでした。でも戦争から逃げることはできませんでした。逃げることは不名誉なことだったからです。戦争で戦って死ぬことこそが名誉とされました。逃げることは「恥」とされ、選べなかったのです。
戦争が始まった時「戦争に反対だ」「戦いたくない」と言葉にすることはどれくらい危険で勇気が必要だったのでしょうか。平塚教会の初代牧師の長尾三二は勇気のある人でした。戦時中に「戦争反対」を訴えて、平塚警察に捕まりました。
しかしそれを言葉にできなかった人がどれだけ多くいたでしょうか。本当は戦いたくないのに、戦わざるを得ない状況に追いやられてゆきました。本当は載りたくない特攻機に乗せられ、敵艦に向かわされました。
私はどんな時でも、「戦いたくない」と言える勇気を持ちたいのです。戦争から一歩、後ろに踏み出す勇気が欲しいのです。戦うことを強制される戦争から、暴力で戦うことが良い事だと言われる場所から、国のために死ぬことが美しいと言われる場所から、逃げる勇気が欲しいのです。それが平和につながるのではないでしょうか。
今月は平和について一緒に考えています。一緒に戦いから逃げること、その先に平和があること考えてゆきたいと思います。「逃げる」と聞くと、弱さの象徴のように感じるかもしれません。でも思い出してください。聖書の中には逃げた人がたくさん登場します。アブラハムもソドムから逃げます。モーセもエジプトから逃げます、イエスの父ヨセフはエジプトに逃げます。それぞれの先に平和がありました。聖書には逃げることで守られた命がいくつも描かれています。一緒に聖書から平和を求めて逃げる事を考えましょう。
今日はマタイによる福音書10章16~23節をお読みいただきました。この個所は伝統的な教会では「負けずに伝える」ことに焦点を当てる解釈をしてきました。困難が有ってもキリスト教を伝えてゆこう、1か所だめでもまた次、また次と伝道してゆきましょうと教えられてきました。頑張ったその先に救いがあると教えられてきました。でもその解釈に息苦しさも感じます。今日はそこから逃れて、平和というテーマで読んで行きましょう。
マタイ福音書4章24節には、イエスの教えがシリアで広がったという言葉が唐突に出てきます。おそらくマタイによる福音書を書いたグループはシリアを中心に活動していました。シリアはエルサレムからも、イスラエルからもずいぶん北にある遠い場所です。
なぜ彼らはそのような場所で活動していたのでしょうか。この時代にイスラエルはローマ帝国と激しい戦争をしていました。この時代に彼らがイスラエルからシリアに移動したとするなら、もっとも可能性の高い理由は、戦争から逃げたという理由です。
イスラエルの中で勢いがあったのは徹底抗戦をしようとした主戦派グループでした。徹底的に戦って、ローマ帝国を追い返そう、自分たちは勝てるはずだ、愛国心と信仰心が混ざり、彼らは熱狂的にローマと戦いました。戦えば必ず勝てると信じていたのです。
しかしそんな状況に水を差すように、あえて戦わず「逃げる」という選択をし、シリアへと逃げだしたグループがいました。それがマタイたちです。戦っている人々からは、どう見えたでしょうか?日本の戦時中の雰囲気から想像します。きっと祖国と家族を捨てて逃げ出した非国民、国と神殿を守るために戦わない腰抜けと思われたでしょう。彼らは味方からも白い目で見られるように、シリアへと逃げていったはずです。
きっとマタイのグループの中にも逃げずに、戦うべきだ、やりかえそう、力で自分たちの正しさを証明しようと思う人がいたでしょう。しかしマタイのグループはそれらを選びませんでした。
今日の個所には22節で「最後まで耐えしのぶものは救われる」と書かれています。彼らは何を耐え忍んだのでしょうか?それは暴力の誘惑に耐え忍んだということです。多くの人が戦いたい、やり返したいと思ったでしょう。しかしマタイたちはその誘惑と向き合い、別の道を選びました。
マタイのグループは自分の願いを叶えるために暴力を使う、その誘惑に耐え続けたのです。戦う誘惑をしのび、平和を求めて行動をしました。それが逃げるという行動だったのです。平和のために、もっとも勇気のいる行動「戦わずに逃げる」を選んだのです。戦わないという選択、逃げるという勇気、それはヘビのように賢く、鳩のように素直で平和な選択でした
マタイのグループがこのように平和を求め、戦わずに逃げる、その勇気ある選択の原動力はなんだったのでしょうか。私はそれが23節のみ言葉だったのではないかと思います23節にはこうあります「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」
聖書には今日の個所と似た話がマルコとルカにも納められています。しかしどちらにもこの「逃げなさい」という言葉がありません。「逃げなさい」という言葉はマタイ福音書の大きな特徴です。マタイたちは、特にこの「逃げなさい」という教えを大切にしていたのです。
マタイのグループは危険に遭遇した時に戦うのではなく「逃げよ」そう教わっていたのです。彼らはこの教えに従って戦わずにシリアへ逃げたのです。そして結果的に4章24節にあるように、逃げた場所で彼らの平和の福音が広がったのです。
そして歴史的にはこの後、イスラエルに残り、逃げずに徹底抗戦したグループはローマ軍の前に全滅してゆきました。結果を見ると、暴力の誘惑に負けずに、逃げ、耐え抜いたものこそが救われたのです。
そしてキリスト教も、あえて逃げる道を選んだ人々、暴力よりも平和を愛するグループがその中心を担うことになったのです。
戦わなかった姿、それはイエス・キリストの生き方とも共通するでしょう。17節以降には鞭で打たれ、王の前に連れていかれ、死に引き渡されるとあります。これはイエスが十字架に掛けられる前の出来事とまったく同じ姿です。イエス・キリストは一切の暴力的な抵抗をしませんでした。イエス・キリストは戦わず、十字架に掛けられたお方でした。私たちには逃げる様にと教えましたが、逃げることさえ、選ばなかったのです。それが、神に等しいお方の静かな選択でした。
イエス・キリストはあなた方は戦わず、また死ぬこともなく、逃げなさいと教えています。
今日の個所からどのように平和を考えたらよいでしょうか。戦争がはじまった時、逃げる事、関わらわずにいることの難しさを改めて想像します。そして絶対に戦争を始めたくないと胸に強く思います。
そしてもし、私たちの国で戦争が始まってしまったら、私はマタイのように、戦うことよりも、逃げることを選びたいと思います。その時はきっと「逃げた」と笑われ、非難されるでしょう。しかしそれでも勇気をもって逃げることを選びましょう。
私たちは信じましょう。戦わないその先に、神様の救いがあるのです。イエスの十字架の歩みにも暴力に暴力で抵抗しない生き方が示されています。私たちはそのような平和を貫きましょう。戦争から逃げて、戦うことから逃げて、誘惑に耐え抜き、平和と救いを求めてゆきましょう
決して人間はどうあがいても戦争をしてしまう存在ではありません。戦争は止められると信じます。神様は私たち人間が何度戦争を起こしても、いつも平和のチャンスを与えてくださるお方です。
戦うことから逃れて、勇気を持ってもう一度平和に向けたチャレンジするとき、神様は確かな平和・救いを私たちに与えて下さるのです。私たちは暴力の誘惑に負けずに耐え抜き、平和に挑戦し続けましょう。
私たちはそれぞれの1週間、この平和を胸に歩みましょう。私たちの1週間の中でどのようにして平和を実現することができるでしょうか?私たちが派遣されるそれぞれの場所ですべきことはどんな事でしょうか?想像してみてください。
私たちそれぞれの場所にある、暴力に反対しましょう。小さいことから、大きなことまで、私たち人間からはすぐに暴力的で汚い言葉が出てきてしまうものです。私たちはその暴力から逃げましょう。暴力に暴力で対抗するのではなく、23節にあるとおり「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行き」ましょう。
そしてそれぞれが逃げた場所で、平和の言葉を語りましょう。平和を実現する言葉、平和がそれぞれの場所に広がってゆく言葉とはどんな言葉でしょうか?マタイが逃げたシリアの先で広げたように、私たちも平和を広げてゆきましょう。そのために必要な言葉を神様に聞きながら話してゆきましょう。
私たちは今週もそれぞれの場所で精一杯、他者を愛しましょう。そしてどうしても平和が難しいなら、一度離れてみましょう。そんな生き方が今日の個所から示されているのではないでしょうか?お祈りします。
「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」
マタイによる福音書10章23節
8月は平和について考えています。戦争がはじまると、逃げたい人は逃げる、戦いたい人は戦うという自由ありません。戦争が始まった時「戦争に反対だ」「戦いたくない」と言葉にすることは危険で勇気が必要なことです。私はどんな時でも、「戦いたくない」と言える勇気を持ちたいです。暴力で戦うことが良い事だと言われる場所から逃げる勇気が欲しいのです。それが平和につながるのではないでしょうか。
「逃げる」と聞くと、弱さの象徴のように感じるかもしれません。でも聖書の中には逃げた人がたくさん登場します。アブラハム、モーセ、イエスの父ヨセフ…それぞれ逃げた先に平和がありました。聖書には逃げることで守られた命がいくつも描かれています。一緒に聖書から平和を求めて逃げる事を考えましょう。
マタイ福音書4章24節には、イエスの教えがシリアで広がったとあります。当時イスラエルとローマ帝国は激しい戦争をしていました。愛国心と信仰心が混ざり、彼らは熱狂的にローマと戦いました。その時期にもしマタイによる福音書を書いたグループがシリアにいたとするなら、それは戦争から「逃げた」ということです。マタイのグループはあえて戦わず「逃げる」という選択をしたのです。
22節に「最後まで耐えしのぶものは救われる」と書かれています。マタイのグループは自分の願いを叶えるために暴力を使う、その誘惑に耐え続けました。戦う誘惑をしのび、平和を求めて行動をしました。それが逃げるという行動だったのです。
戦わずに逃げる、その勇気ある選択の原動力は23節のみ言葉だったのではないでしょうか「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」。彼らはこの教えに従って戦わずにシリアへ逃げ、逃げた場所で彼らの平和の福音が広がったのです。戦わなかった姿、それはイエス・キリストの生き方とも共通するでしょう。イエス・キリストは戦わず、十字架に掛けられたお方でした。イエス・キリストは、あなた方は戦わず、また死ぬこともなく、逃げなさいと教えているのです。
今日の個所からどのように平和を考えたらよいでしょうか。もし、私たちの国で戦争が始まってしまったら勇気をもって逃げることを選びましょう。私たちは信じましょう。戦わないその先に、神様の救いがあるのです。イエスの十字架の歩みにも暴力に暴力で抵抗しない生き方が示されています。私たちはそのような平和を貫きましょう。
私たちの1週間の中でどのようにして平和を実現することができるでしょうか?私たちそれぞれの場所にある、暴力に反対しましょう。私たちは暴力に暴力で対抗するのではなく、23節にあるとおり、逃げましょう。そしてそれぞれが逃げた場所で、平和の言葉を語りましょう。私たちは今週もそれぞれの場所で精一杯、他者を愛しましょう。そしてどうしても平和が難しいなら、一度離れてみましょう。そんな生き方が今日の個所から示されているのではないでしょうか?お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は私たちの教会にとって、平和を告げる音です。平和を感じながら共に礼拝をしましょう。
今日は平和祈念礼拝です。私たちは今年、戦後80年を迎えます。8月は平和の大切さをかみしめながら、礼拝をしてゆきましょう。
アメリカの方から「“戦後”という言葉はアメリカでは通じにくい」という話を聞きました。私たちにとって戦後とは第二次世界大戦の後を意味する言葉です。しかしアメリカでは「戦後」と言っても「それはどの戦争の後のことですか?」と聞かれるそうです。それだけ戦争は繰り返されているのです。
私たちの日本には憲法9条があり、80年前に平和への決意と確信をもってこの国のあり方を選びました。そのおかけで、これまで直接的に戦争に加わらないでいることができました。ずっと戦後が続くように祈っていますが、いつまで戦後が続くのか不安に思っています。
軍事費は増え続け、沖縄には新しい基地が建設され、自衛隊はアメリカ軍と一体化しています。もはや戦後ではなく、戦前ではないかという声も聞こえます。
そして世界はどうでしょうか。多くの地域で戦争が続いています。世界全体は「戦後」ではなく、いつも「戦時中」です。
先日お昼のニュースでパレスチナの状況が報道されました。ガザ地区の国境が閉鎖され市民に飢餓が蔓延しているという情報が告げられ、映像が流れました。その映像にはこどもからお年寄りまで少ない食料に何時間も並ばなければいけない、長蛇の列が作られている様子が写りました。食料を受け取れなかったこどもたちがカメラに向かって「食べ物が足りない」と怒りと大粒の涙で訴えていました。私が胸が張り裂けそうな思いになりました。そして画面は切り替わり、今度はイスラエル軍が別の食糧配給所で市民に発砲し、多くの死者がでていると伝えられました。
パレスチナとイスラエルの問題はユダヤ教・イスラム教・キリスト教が複雑に絡み合う問題です。ユダヤ教の多いイスラエル、イスラム教が多いパレスチナ、イスラエルを支持するキリスト教右派。同じ聖書を土台にする宗教が戦争をしています。ロシアとウクライナもキリスト教国です。
キリスト教は一時期、イスラム教が戦争を肯定していると盛んに批判していましたが、キリスト教徒も負けずに一生懸命戦争をしています。キリスト教徒である私たちも、自らを省みなければならないと感じます。もちろん仏教国のミャンマーでも紛争が続いています。そもそもなぜ信仰者が戦争を起こすことができるのでしょうか。
私は世界に平和と食べ物が行き渡ることを願っています。私自身は今や、どの宗教かということは問題ではないと感じています。宗教を超えて、平和と食べ物とこどもたちのために祈り、互いが共存できる世界にしたいと祈っています。何よりも世界のこどもたちに平和と食べ物が行き渡ることを願っています。
もちろん私たちの土台には、聖書と信仰があります。聖書には神が人間を創造したと書いてあります。私たちは神が創造した命を壊してはいけないはずです。私たちは平和と共存を求めながら、聖書を読みましょう。聖書全体がその前提で読まれるべきだと思います。
今日の聖書箇所を見てゆきましょう。
今日はマタイによる福音書8章5~13節までをお読みいただきました。今日の個所には軍人である百人隊長が登場します。ある人はここで、軍人がイエスの奇跡の対象になるということは、イエスも軍隊の存在を容認していていた。イエスが軍人が肯定されるなら、当然戦争も肯定していたはずだと主張します。そんなばかげた読み方があるでしょうか。戦争肯定のために聖書を使わないで欲しいです。平和を求めてこの個所を読みましょう。
ある時、僕の病気のことで、百人隊長がイエスを尋ねてきました。カファルナウムにはヘロデ王の軍隊が駐留していました。ヘロデの軍隊は非ユダヤ人で構成されていたと言います。つまりイエスとは宗教の違う軍人が、病の癒しを頼んできたのです。宗教を超えて、命を救ってくれと求めにきたのです。この人の必死さが伝わってきます。
7節でイエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と言っています。イエスはそれをためらわず、すぐに了承し、百人隊長の家に行こうとしています。しかしこれは非常に驚くべき行動です。
当時、ユダヤ教の人々は違う宗教の人の家に行ったり、一緒に食事をすることは律法で汚れた事として禁止されていたのです。それは宗教的タブーだったのです。しかしイエスは軽やかに私が行こうと言っています。
まず、今日このイエスの行動に何を見出すべきでしょうか?私はこの個所から、イエスは命を守るためになら、戒律を超えようとした方だと感じます。それがタブーだと言われていても、命を守るための行動はためらわなかったのです。イエスはそれにまったく躊躇しませんでした。イエスは国籍、宗教、血縁に関係なく、また軍人であるかどうかにも関わらず、命が大切にされることを願うお方なのです。
家に早速向かおうとするイエスに、百人隊長が言います。あなたは家に来なくても命を救うことができるはずだと。わたしでさえ命令すれば軍隊を動かすことができる。あなただって、直接行かなくてもできるはずだと叫びました。
イエスはこの百人隊長の発言に足を止めました。イエスは彼が神様の力に全幅の信頼を寄せていることを強く感じ、感動したのです。本当にあなたは神様の力を信じているのだね。神様が命を守ると強く信じているのだね。イエスは異なる宗教の百人隊長が神を強く信じる気持を感じ取ったのです。イエスは、神様はどんな難しいことでもきっとできると信じる気持ちを、大事に思ったのです。
そしてイエスの応答が11節と12節に続きます。この部分は今日もっとも大事にしたい箇所です。
11節の東や西から大勢の人が来るとは、イスラエルから見て宗教や国籍、肌の色が違う人たちが大勢やって来るということです。そしてその人たちが、アブラハム、イサク、ヤコブと食事と宴会をするということです。アブラハム、イサク、ヤコブといえば、ユダヤ教の始まりを刻んだ族長たちです。その大御所3人が、外国人と宴会をするという光景が書かれています。
しかしこの光景には大きな問題があります。先ほども紹介したように、ユダヤ人は異教徒の家を尋ねたり、食事をしたりしては決していけないのです。しかし、それにも関わらずイエスはここで、この大御所たちがいつか宗教を超えて、みんなで食事をする日が来ますと言うのです。
これは、宗教や人種、国籍を越えて、多くの人が神の国に招かれることを示しています。しかし世界中から様々な宗教、国籍、人種の人が集まって、アブラハム、ヤコブ、イサクと食事をする、これはもう当時、考えられないタブーでした。しかしイエスはこのタブーが実現するのだ、ボーダーレスな出来事が起こるのだと言っているのです。
イエスは何を言おうとしているのでしょうか?それは異なる他者と平和に過ごす時が来るということです。今まで対立していた者と共に食事をし、平和が広がっていくのだと語ったのです。
12節を見ましょう。12節は「だが」と続きます。イエスは「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される」と言います。御国の子らとは当時、自分たちのみが正しい、自分たちだけが神様の恵みを受けると思っていたユダヤ人のことです。彼らは自分たちの宗教だけが正しく、自分たち以外の宗教は全て間違っている、劣っていると考えていました。自分たちは神の国の子だと自負していたのです。
しかし、イエスはそんな「自分を御国の子」と呼ぶ人たちこそ、その宴会に入ることができないと言いました。自分たちこそ正しいと信じ、他を排除するなら、共に食卓を囲むことはできないのです。
もちろんこの言葉はユダヤ人だけに向けられた言葉ではありません。クリスチャンにも向けられています。自分たちだけが正しく、自分たちだけが神に選ばれたと思うなら、他者との宴会・平和には入ることができないのです。これは私たちクリスチャンにも向けられた言葉です。
この個所から平和について考えます。平和とはまさしく、宗教や国籍を超えて、共に食事にあずかるような出来事です。領土や利権を争い合うのではなく、対話し、分かち合い、共存共栄をしてゆくことが平和です。
イエスが百人隊長を訪ねようとした行動と、語られた驚きの風景に、平和のビジョンが表されています。
この聖書の光景が世界で実現されるように祈りましょう。困っている他者のために隔たりを軽やかに超えて行動する世界を求めます。いつかイスラエルとパレスチナの人々が、ウクライナとロシア、日本とアジアが天の国の宴会のような交流をできるように願います。私はイエスがそのように私たちに平和を示しているのだと感じます。
13節イエスは「あなたが信じたとおりになるように」と言います。これは私たちに告げられている福音です。これは世界は私たちの信じたとおりに作り上げられています。るとの約束です。そしてこれは「世界は、私たちが何を信じるかによって形づくられていく」という、神様からの励ましです。
私たちは平和を信じ続けることが大事です。平和を信じ続ければ、平和が世界に実現するのです。信じたとおりになるのです。しかし、いややはり戦争で決着をつけるしかないと信じるならば、戦争が起こるのです。
絶対に信じたとおりになる、平和が実現する、神様はそのように私たちに約束しています。私たちは今日もそのように平和を信じ続ける、その信仰を持つクリスチャンでいましょう。お祈りします。
