この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
マタイによる福音書13章55節
今日も共に礼拝できること主に感謝します。クリスマスまでの日付を数えています。ここ平塚市豊原町の人口は約1000人ほどだそうです。豊原町内会は小さな町内会ですが、まだ地域の触れ合いが残る良い町です。このくらいの人数がなんとなく顔が分かってちょうどよいものです。小さい頃から平塚・豊原町で育った人々は、驚くほど地域の人ことをよく知っています。それは長年の交流が積み重ねなのでしょう。この町は人と人との距離感がとても近く、温かい場所です。
なんでも聖書の時代と重ね合わせてしまいます。考古学的な発掘によればナザレは500人以下の村だったと推測されています。ナザレは町内会ほどの小さな村だったのです。村の家は集合住宅で、数家族が住む長屋が多くあったそうです。イエス様はこのナザレで育ちました。ナザレの人は神秘的なクリスマス物語について、何も知らないようです。イエス様は普通の男の子、小さい村の近所のこどものひとりだったのです。長屋の子どもでした。
ナザレの人々は、自分たちの村、まるで小さな町内会のようなコミュニティから、世界を救う宗教指導者が生まれることを想像できなかったのでしょう。ナザレの住民の反応は容易に想像できます。イエス様が駆け回っていたナザレ村の広場に、大人になったイエス様の姿があります。イエス様はそのような距離感で一緒に暮らした人々に現れました。だから57節にもあるように「人々はイエスにつまずいた」のです。受け入れられなかったのです。なぜなら距離感が近すぎるからです。
これはナザレだけでおきた反応ではありません。この反応は他の地域での先取りとして起きています。もしかして私たちがそこに居たら「あなたが救い主のはずがない」と他の人々と共に怒ったかもしれません。そんなうそつきは十字架に掛けろと一緒に叫んだかもしれません。さらに復活のその後まで見通すと、イエス様は復活の後、ガリラヤに行くと言います。やはりまたガリラヤなのです。
この物語は、私たちにとって神様とはどのような方なのかを示唆しています。それはつまり、神様とは私たちにとって近すぎるくらい、近いお方であるということです。まだ私には神様なんて来ない、こんな私に神様なんて来ない、そう思っている方は注意が必要です。そう思う人の心に神様はもうすでに近すぎるほどに来ているのです。神様は私たちのイメージを超える場所と、時間に現れるお方です。
その距離感も私たちの心に近すぎるくらい近くにすでにいるのです。ここではない、今ではない、私ではないと思う場所にこそ、神様は現れるのです。
クリスマスをそのことを感じながら迎えてゆきましょう。私たちのすぐ近くに神様がいます。それを私たちの普段の生活の中で感じ取ることができるでしょうか。私たちが見過ごしてしまいそうな場所に神様がいいます。私たちはきっとその存在を見つけることができるはずです。お祈りをいたします。
だから、あなたがたも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。マタイ24章36~44節
今年も毎日のように「いつまでに」という何かの日付に追われた一年でした。一方、こどもの誕生の日付は人間の手で決めることができません。私たちにはその奇跡を静かに、祈って待ちます。私たちのクリスマスには、日付がついています。でも違う希望もあります。それは日付の無い希望です。いつだかわからないけど、必ず起こるという約束のある希望が私たちを前に進ませてゆくのです。そしてその希望にはきっともうすでに始まっている部分があるのではないでしょうか。
当時のユダヤの人々は救い主の誕生を何百年も待っていました。同じクリスマスを待つということでも、日付を知っている私たちと違い、当時の人はまるで泥棒のように、あるいは突然帰って来る主人のように、いつ起こるのかわからないものだったのです。いつ来るかわからないものを待つというのは、どれだけたいくつで、どれだけ長く感じたでしょうか。日付の無い約束は、口先だけの約束に感じるかもしれません。苦しい時、せめてそれがいつ終わるのか、その日付さえ分かれば、先が見えさえすれば、それまで我慢することができるものです。日付こそ希望のように思います。それでも人々はいつ起こるかわからないことを、希望にしていました。
そしてそれは何百年も続く、息の長い希望となりました。救い主の誕生をずっと待ち続けることが、彼らの信仰だったのです。息の長い希望を持つことの大切さを思います。何月何日という日付はないけれども、でも確実に訪れる希望を信じます。息の長い希望を持った人は日々の歩みの根底に希望を持つ者となります。毎日が一日一日が神様の希望に近づいてゆく、感謝の一日になるのです。私たちはこの先に神様が私たちに約束している希望があることを信じ、待ちましょう。
弟子たちもまた救い主を待っていました。しかしずっと待ち続けていた人はすでに目の前にいたのです。いつか必ず来ると何百年も待っていた希望は、実はすでに自分たちの目の前にあったのです。私たちはこのような希望のあり方にも心にとめておきましょう。すでに私たちには神様の希望が実現し始めているのです。もう実現しかかっている小さな希望が私たちの日々の中にも見いだせるでしょう
この個所から待つということについても考えます。イエス様は希望を寝て待てと言っているのではありません。イエス様はその希望を祈って待ちなさいと教えられているのです。私たちは祈って、希望がくることを待ちたいのです。そのようにして目を覚ましていたいのです。
私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。これはイエス様が私たちに来るという約束を思い出すために、すでに来ているということを知るために行われます。その約束を忘れないために行われます。希望がやがて来ること、希望がすでに来ていることを覚えてこのパンを食べましょう。そして新しい希望の約束を信じ続けてゆきましょう。お祈りします。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
マタイ6章3節
こども食堂から見えてくる福音について考えています。ボランティアの方への趣旨説明では、私たちの食堂は貧しい人が集まっているという雰囲気にしたくないと説明をしています。誰でも貧しい人の集まる場所に行くということは自分の尊厳が打ち砕かれるような気がするものです。それは「私はそんな場所には絶対に行きたくない」という気持ちにさせ、かえって食事を必要としている人に届きません。だから食堂を貧しい人専用にしないことを大事にします。明るく、楽しく、誰でも利用できる雰囲気だからこそ、困っている人が利用できるのです。
そのようにして教会はみんなの心の穴、お財布の穴を埋めています。利用者自身は何を埋められているのか気付かないかもしれません。でもそれでいいのです。この考え方は聖書の教えとも重なると思っています。今日は、イエス様が困っている人と出会う時、どうすればよいかを教えている箇所を読みます。
イエス様の時代にも、多くの生活困窮者がいました。ユダヤの人々には助け合いの知恵がありました。今日イエス様は助け合いにおいて一番してはいけないことと知恵を教えています。イエス様は貧しい人に対して、人前で支援を行う事を禁止しました。それは貧しい人を利用した、自己顕示であり、お金で周囲から良い評価を買おうとする、偽善の行為です。
今日はもう一歩踏み込んで、こども食堂の経験から、貧しい人の立場、善行を施される側の立場に立って読みたいと思います。この個所でイエス様は手助けをする際は他の人に悟られることなく、手助けをするようにと言っているのです。イエス様の教えには手助けをする前提に、相手の尊厳に対する配慮があります。この話はただ、自己満足な支援をするなという教えにとどまっていません。イエス様は相手の尊厳への配慮があって、初めて手助けにつながるのではないかということを、ここで投げかけています。それは誰かに手助けをするときは、相手への配慮と相手の尊厳を何よりも大切にすべきであるという教えです。
この教えを私たちの内面にもっと広げて考えてみましょう。神様は私たちに何か良い物を下さる時、人々の目の前で、私たちに渡すようなお方ではありません。神様は良い物を下さる時、密かにそれを下さるのです。神様は右手が左手のすることを知らないように、私たちにはひそかに良い物を下さるお方です。私たちが誰にも知られたくない心の中に、神様はそっと贈り物を下さるお方なのです。
本当に良い物は、私たちの心の誰にも知られたくない場所に、そっと神様から与えられてゆくのです。それが神様の配慮です。神様は、私たち一人ひとりの心にそっと寄り添い、密かな恵みを授けてくださいます。その配慮に倣い、私たちもまた、誰かの心にそっと寄り添う活動を続けたいと願っています。こひつじ食堂も神様の配慮を地上で実現する活動をとして続いてゆくことを願っています。お祈りします。
稲垣久和の『閉鎖日本を変えるキリスト教 公共神学の提唱」という本を読みました。この本では社会全体を『個人と集団』『自己と他者』という2つの軸で4つに分類しています。教会は人の内面に関わることを専門としています。最近、教会以外の3つのグループは垣根を超えて協力し、自分たちの専門分野をより発展させています。一方、教会は自己・個人という枠組みの中に居続けようとしています。この本では、教会ももっと垣根を超えて他の領域に進出し出会ってゆくことで発展することができるはずだと言っています。私はこひつじ食堂がまさに他の領域に進出する取り組みに位置づけられると思いました。
今日はマタイ6章38~48節をお読みいただきました。今まで私たちはこの世のことを教会とは別のことととして、敵視してきたかもしれません。でも今日イエス様は、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。私たちとは異なる社会の領域の人々に対しても愛をもって接するよう導いているのです。反対に私たちの領域以外からは、私たちのことが敵に思えることもあるかもしれません。さまざまな宗教が、人の気持ちに付け込んで、お金を巻き上げています。平塚バプテスト教会も誤解され、敵視されているかもしれません。私たちが自分たちの領域から一歩踏み出さなければ、教会がその人と接点を持つことはまず無いでしょう。私たちは私たちの方からその人が暮らす領域に出てゆきます。そのようにして出会う時、はじめて教会への誤解が解けたり、私たちの信仰を知ったりするようになるのです。
イエス様の活動はまさにそのような活動でした。イエス様は旅をしながら福音と愛を広げました。自分から相手を訪ねて歩きました。そしてイエス様は、誰にでも太陽が登るように、誰にでも雨が降るように、神様の愛はすべてのひとにあまねく注がれると教えたのです。それが神様の愛です。イエス様はそのように自分たちと違う人に福音を、愛を伝えたのです。
教会の人同士が愛し合うことは当然です。私たちに教えられていることは、教会の仲間だけでなく、他の領域に出て行って、そこでも他者を愛しなさいということです。私たちの地域への活動は教会にとって二次的な「おまけ」ではありません。私たちの中心である信仰をより広げてゆくために、私たちの自身の信仰をより豊かなものにするために、愛を広げるために必要な活動です。
私たちは教会の中で互いに愛し合いましょう。そしてこの愛を教会の外にも、違う領域にも広げてゆきましょう。その時、出会いがありイエス様の愛を伝えてゆくことになるのでしょう。お祈りをいたします。
悔い改めにふさわしい実を結べ。 マタイによる福音書3章8節
地域活動と福音というテーマで聖書を読んでいます。私たちの教会のこども食堂はこれまで看板に「アレルギー対応はしていません」と記載していました。でも保管できるアレルギー対応食品を準備しておくという方法で表記の方法や利用できる人が増えることを教えてもらいました。
地域の方に平塚バプテスト教会は素晴らしい活動をしているとほめていただく機会が増え、誇らしく思います。でもまだまだ配慮していないことに気付かされ、そのことを悔い改めます。食堂にたくさんの人が来ているからこそ、少数への対応は無理と言ってしまうのです。もう一歩少数者への配慮をしてゆきたいと思っています。
もちろん少数者への配慮は食堂だけではなく教会全体のこととしても、私たちそれぞれの日常生活の中でも目を向けてゆきたい事柄です。今日はこのことをきっかけにして、聖書を読みます。
バプテスマのヨハネという人がいました。彼の元には大勢の人が集まっていました。ファリサイ派やサドカイ派の人々には誇りがありました。9節「我々の父はアブラハムだ」という誇りです。自分たちは選ばれた者であり、尊敬され、正しい事をしている、すばらしいことをしているという自覚があった人々でした。
そのような中でヨハネのバプテスマは、自分が正しい、自分が誇らしいという思いを捨てるという意味を持ちました。彼のバプテスマは人や世界を、これまでの正しさや誇りといった高みから見るのではなく、悔い改めや信仰の始まりといった低みから見直そうという運動でした。彼らは人々を見下してきた罪を告白し、バプテスマを受けて、新しい人生を歩もうとしたのです。
13節以降はイエス様がバプテスマを受けます。イエス様こそ自分を誇るべき神の子だったはずです。しかし神の子イエスが、誇ることを捨て、地上での活動をスタートしました。この後のイエス様の活動もこのバプテスマの延長線上にあります。イエス様は多数派になったのではありませんでした。ただ貧しい人、罪人と言われ差別された人、病に苦しむ人を訪ね、目を向け続けてゆきました。その人たちと食事をし、同じ場所で時を過ごしたのです。そしてイエス様はその後、十字架に掛かられてゆきます。バプテスマよりさらに低い場所へと向かわれていったのです。
しかし、その十字架は人々の絶望ではなく希望となりました。イエス様は人々の絶望の中に、共にいるという希望となったのです。イエス様は高みから私たちを見下ろして、善悪を判断し、審判を下そうとしているのではありません。イエス様は今も誇るのではなく、低みから、十字架から私たちを見ているのです。
私たちの地域活動は人々に支持されています。そしてみなさん自身にも誇るべきすばらしいものがあります。しかし私たちは誇らずに共に生きましょう。いつも私たちが置かれた場所で、見過ごされている人に目を向けてゆきましょう。イエス様のように、その人と共に過ごし、食べ、歩んでゆきましょう。お祈りをいたします。
『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタイによる福音書25章40節
今日は召天者記念礼拝です。私はキリスト教を良いことをした人は死んだ後に天国へ行く、悪いことをした人は死んだ後に地獄へ行くという宗教ではないと思っています。では人は死後どうなるのでしょうか。私は、人は死後、すべての魂が神様にのもとに迎えられ、安らぎを与えられると信じています。ですから、故人が苦しんでいるのではないかと心配する必要はありません。
キリスト教では死のさらに先に、復活するという信仰も持っています。復活とは神様がこの世界を完全なものにされる時、すべての人が新しい命を受けるということです。天に召された方々も、まだ復という次の希望も持っています。
そしてやがて私たち自身も死を迎える時が来るでしょう。私たちは最期の日まで精一杯生きてゆきましょう。
今日も聖書箇所は死んだ後の話をしているのではありません。この話は生きている者に語り掛けている話です。私たちはこの話から、天に見送った方が神様の元に安らかにいることを信頼し、そして残された私たちが、この地上でどのように生きるべきなのかを考えたいと思います。
聖書の物語を見ます。右側の人も左側の人も王様になら仕えて当然です。誰もが一生懸命、王様のお世話をしたのでしょう。しかし右側の人と、左側の人で大きく違ったことがありました。それは王様以外の人々への態度でした。王様は人々がもっとも小さい者へどのように接しているのかを厳しく見ていました。
「もっとも小さい者」とはどんな人のことでしょうか。それは小さいこども、助けを必要としている人、社会的に弱い立場に置かれた人、社会構造の中で自分らしく生きることが出来ない人ともいえるでしょう。私たちは本当に様々な場所で、小さくされている人と出会うはずです。私たちはそのような人々への接し方で、死後に天国に行くか、地獄に行くかが決まるわけではありません。しかし神様は、私たちがそのような小さくされた人とどのように接しているのかを、厳しく見ておられます。
これは地上に残された私たちへのメッセージです。神様は、あなたたちはこの地上の残された人生で、小さい者・小さくされた者に目を向けてゆきなさいとおっしゃっています。私たちが良い事をするのは、決して私たちが天国に行くため、自分の死後のためではありません。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 ヨハネ20章19~29節
私たちは、ある時は他者に傷つけられ、またある時は他者を傷つけながら生きています。一度生まれてしまった対立関係、そして、心の中に沈潜した敵意や憎しみから癒されること、すなわち、他者と和解することは、とても困難な、しかし、大切な課題です。私たちは30年前に大虐殺が起きたルワンダで平和と和解の働きに仕えながら、その課題の困難さをひしひしと感じながら生きてきました。
ヨハネによる福音書の20章では、復活されたイエスが自分を見捨てた弟子たちと再び出会っていく物語りが描かれています。そこでイエスは驚くべき言葉を弟子たちに語られました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」(21節)。そしてその後、弟子たちに息を吹きかけられました。その息とはイエスご自身の霊、聖霊です。それは、イエスの命、愛と赦しの霊です。そして、弟子たちに赦し合って生きる共同体を築き、赦しと和解のために人々を執成していくようにとの任務を授けられたのでした。
23節には、イエスの謎めいた言葉が記されています。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」時としてこの言葉は、聖霊を与えられた弟子たちが、罪を犯した人々を赦したり赦さなかったりする権限を与えられたという解釈がなされるようです。しかし私は、むしろこのみことばの中に、イエスが私たちに「赦しと和解という希望をゆだねられた」という福音を見るのです。神による罪の赦し、そして、神と人間との和解は、主イエスの十字架を通して成し遂げられました(エフェソ2:11-22)。しかし、人間同士の赦しと和解は、私たち人間にゆだねられているのです。
私は主イエスが、傷つけられ「赦せない」と思っている人々に対して、赦しを義務として負わされるような方ではないと信じています。赦しは神から来る恵みなのです。心と身体に深い傷を負わされながらも生き残った者、サバイバーによる赦しは、イエスですら要求されるようなものではありません。人間の努力によって出来るようになるものではない。それはただ、神ご自身が癒しと共に、恵みとして与えてくださるものなのです。
罪ある私たち人間が、神によって赦されたことも恵みです。その赦された私たちが赦すことの出来る者へと変えられていくことも恵みです。赦しが恵みとして神から与えられることによってのみ、私たちは赦すことのできる者になるからです。そして、私たちが何者かを傷つけたにも関わらず、その被害者の方に赦していただけるとするならば、私たちはその方を通して神の「恵みとしての赦し」を受け取るのです。しかし、この赦しの恵みを、それぞれの立場にある私たちが受け取るかどうかは、私たち一人一人にゆだねられているのです。赦しと和解、それは、十字架にかかられ、三日目に、傷を負ったままの姿で復活された主イエスが、私たちにゆだねられた希望なのです。
#佐々木和之
わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ
コリントの信徒への手紙二12章9節
私たちはいま世界で起きている惨状を前にして戸惑い苦しみながら「なぜ戦争を止められないのか」と嘆く。しかし力で解決しようとして強さを求める姿勢が問題であり、それは信仰の強さを求める姿勢も無関係ではない。そこで「弱さを誇る」という言葉に込められたパウロの思い、信仰に注目したい。
パウロの働きによって地中海沿岸の都市に多くの教会ができ、多くのギリシア人キリスト者が生まれた。しかし教会の中に現れた熱狂的な人々が自分たちはもう救われて「完全な者」になったと誇り、エルサレムから来た人々が割礼を受けてユダヤ人になり、律法に従わなければならないと説いた。霊において完全になったと誇る人々はその霊的な強さを誇り、ユダヤ主義者は律法を守る強い信仰で得られる強い力を誇った。そんな力を誇る人々に対してパウロはこれまでの自分の苦労を語った上で「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」と断言する。また「キリストは弱さのゆえに十字架につけられました」と語るようにパウロにとって十字架は弱さの象徴。律法では木にかけられた者は呪われた者。十字架刑で処刑されたイエスは神から呪われた者であり、神から見捨てられた者となる。そのイエスを神は引き上げられた。9-10節の「力」「強い」と訳されている言葉は、動詞になると「〜できる」という意味になる。何ができるのか、それは「人の心を動かすこと」すなわち「福音を伝えること」。つまりパウロが言おうとしているのは、自分自身が弱いときこそ、あの十字架につけられたキリストが自分の中に働いて、自分もまた福音を伝えることができるということ。
私たちは「クリスチャンはこうあるべきだ」という無意識のイメージを持っていないか。できているときは誇らしく感じ、できないと「信仰が弱くなった」と落ち込む。しかしイエスが十字架に磔にされている姿は、何もできない姿。神から見捨てられた呪われた姿。しかしそのイエスをこそ神は引き上げた。つまりこれができるから、これをしているから神が人を認めるのではない。まず神がこの私たちを愛している。パウロもまた弱さの中でその神の愛を伝えようとした。私たちは教えを守り、義しく過ごす事が信仰で、その姿が証しだと考える。しかしこのできない、惨めな私だからこそ、その私を愛される神のすばらしさを伝えることができる。そしてその愛に応えたいから神に従いたい。従うアピールをしたから神が私たちを愛されるのではなく、まず赦されている、その愛に応えたいのだ。自分の義しさを貫こうとするのではなく神の前で頭を垂れ、神の言葉を聞くように相手の言葉を聞き、自分の信仰を誇るのではなく神の愛を誇り、その愛が自分に注がれていると同じように相手にも注がれていると、分かち合っていきたい。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
マタイによる福音書15章35~36節
今日は10月16日の世界食糧デーに合わせてこの礼拝を、収穫感謝礼拝としています。私たちの教会で運営している「こひつじ食堂」に多くの食品が寄付されることに感謝しています。頂いた食べ物が、どこでどのように収穫されたのかを聞くと、食べ物の命を強く感じます。そして食べ物に命を感じると、感謝の気持ちが深くわいてきます。こども食堂はそのように食べ物と命に特別に感謝する場所です。
クリスチャンは食前に感謝の祈りをする習慣を持っています。私たちは食前の祈りで生産者の人に感謝すると同時に、それだけではなく、食べ物を神様が与えて下さったものとして感謝の祈りをします。キリスト教ではすべての命は神様が創造したものだと考えます。そして神様が創造した命を食べることを感謝して祈ります。食前の祈りは神様が私たちに命を与えて下さったことへの感謝の表現です。私たちはこの感謝と祈りを大切にしましょう。今日は聖書からイエス様が感謝している場面を見ます。その物語から、神様に収穫を感謝するということを考えましょう。
今日は特にイエス様の食前の感謝の祈りに注目します。この食前の感謝の祈りはどのような祈りだったのでしょうか。イエス様が感謝したのは、まずこの食べ物を寄付してくれた人に対してでしょう。そしてそれ以上に神様に対しての感謝を祈ったのです。それはすべての恵みは神様からのものだからです。
そしてこの食べ物をよく見ます。それらの多くはもともと命でした。穀物も魚もすべては命でした。神様に創造された大切な命でした。イエス様はここで、神様がこの命を創造し、この命を私たちがいただくということに感謝をしたのです。
イエス様は地上に人間として生まれました。そしてイエス様は神様の創造した命を食べて生きたのです。イエス様は食べる前にその命に感謝して祈りました。イエス様はこのように神様に向けて、その命を食べることに深く感謝をしたお方でした。
驚くべきことに私たちは神様が創造した命を食べて生きています。普段それを感じることはできないかもしれません。でも私たちが食前に祈るとき、それを思い出すことができます。私たちが誰かから食べ物をもらったとき、それを分かち合ったとき、私たちが命を食べていることを深く感じることができます。私たちは命に感謝して、神様に感謝して、それを頂きましょう。そのようにして私たちの命はつながっているのです。
私たちはただ収穫物に感謝するだけでなく、その背後にある生産者の努力に感謝をしましょう。そして神様からの豊かな恵み、私たちが神様の創造した命を食べていることに感謝しましょう。私たち自身の命に心から感謝しましょう。神様の愛が私たちのすべてを満たしてくださいます。私たちは収穫と命に感謝しましょう。私たちは食前の祈るたびに神様の愛を深く感じましょう。お祈りをいたします。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイによる福音書7章12節
2か月間、地域活動と福音というテーマで宣教をします。こどもには、できるだけいろいろな体験させたいと思います。大人とこどもが共に礼拝することは双方にとって素晴らしい体験です。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもと共にする礼拝をしましょう。また地域のこどもたちにも良い物をたくさん残したいと思います。多くのこどもたちが教会を訪れるようになり、きっとそのうち何人かは大人になって教会に訪ねてくるはずです。地域のこどもの声が響く教会してゆきましょう。そしてこの教会を次の世代も安心して集い、礼拝し、運営できる場所として引き継いでゆきましょう。できるだけ良い物をこどもたちに残しましょう。
これからの平塚教会は、こどもたちに関わり、未来に良い物を渡そうとする活動の中で、新たな道が示されてゆくでしょう。このような思いで私たちは2024年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。
私たちはこどもに少しでもよいものを与えたいという強い熱意がありますが、今日の聖書の言葉によれば、神様は私たちの熱意を上回る熱意をもっています。
今日は私たちの年間主題聖句マタイ7章9~12節を読みます。今は私たちには必要な物が不足しています。でも神様は良い物を下さると約束をしています。私たちはそれを信じましょう。
12節からは神様からの恵みを受ける話から、他者への実践を求める命令へと展開しています。私たちはただ良い物を受け取るだけの存在ではありません。恵まれている、だからこそ良い物を他者に手渡してゆけと言われているのです。私たちはこの命令を実践しましょう。例えば私たちはこどもたちに一番良い物を、一番良い状態で渡してゆきましょう。「人にされて嫌なことは、自分もしない」よりもう一歩踏み出して、良いものを渡してゆきましょう。
イエス様の律法理解は一貫しています。同じマタイ22章でも第一に神を愛し、第二に、隣人を自分と同じように愛することを勧めています。ほかならぬ他者に良い物を渡すことが、律法の実践なのです。
私たちはこの主題聖句と「こどもの声がする教会」という標語をもって歩んでいます。私たちは礼拝をするとき、神様が私たちに良い物を準備していることを思い出すことができるでしょう。そして特にこどもと共に礼拝をするとき、私たちもこどもに精一杯の良い物を渡してゆこうという気持ちになるでしょう。だから私たちはこどもの声を聞きながら礼拝をしましょう。教会の仲間の必要が満たされるように祈りましょう。地域のこどものために祈りましょう。教会を未来に残していけるように祈りましょう。お祈りします。
シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。イザヤ書62章1節
8月9月は平和について考えています。イスラエルとパレスチナの戦争について、世界のキリスト教信者の中には、イスラエル側に立つという立場をはっきりと表明し、積極的に応援する人々が多くいます。背景には聖書に書いてあることを、その文字通りに受け取っていくという信仰があります。たとえば聖書の中に、神はイスラエルにこの土地を与えると約束しているという記述があれば、それをそのまま理解します。いわゆるシオニズムはアメリカで非常に大きな勢力です。
私たちの聖書理解では、神様は暴力で物事を決めようとするどちらのグループも誤りとし、そのような暴力を最も嫌われるお方です。私たちはイスラエルとパレスチナの双方が間違っていると考えます。私たちには聖書を文字通りではなく、歴史や文脈に応じて解釈することが求められます。そして、強い者ではなく、傷ついた人々や虐げられている人々に目を向けて聖書を読むことが重要です。
聖書を読みましょう。この個所を文字通り、現代のイスラエル国に結び付けて読むのではなく、私たち人間全体に向けて語られている言葉として受け止め、戦争に疲れ果てた人々の視点から理解しましょう。
1節にある「わたし」とは神様の事です。神様はすべての人間が松明のように、明るく光り輝くことを願っておられます。神様はそれが叶うまで、黙っていないお方です。人間から徹底的に光を奪うのは戦争です。人間同士の戦争で傷ついた人にとって、最も強い心の支えになるのは、神様の言葉です。神様の言葉と光はいつも私たち全員に注ぎます。その神様の言葉は、止まることのない、平和の言葉です。
2節、人間の決める正しさと平和はいつも不完全です。しかし完全である神様の正しさと平和の実現はやがて必ず全員に来ます。神様が全員に正しさと平和を起こしてくださる時を「終末」と呼びます。終末は平和の約束です。必ず平和がくるということ。私たちはその終末の時に希望を持っています。
3節は傷ついた人々が回復される約束です。これは戦争で傷ついた人々によって王が立てられるということです。傷ついた人が王を指名してゆくのです。それこそが平和の王の在り方です。平和の王を建てるのは戦争で傷ついた庶民なのです。
4節と5節、人は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。
私たちは聖書から平和に生きる方法を聞いてきました。神様は平和について、黙っていないお方です。神様は口を閉ざさず、平和を語り続けて下さるお方です。私たちは神様の正しさと平和を追い求め続けてゆきましょう。私たちも平和の大切さを語ることを止めないでいましょう。私たちは戦争を見る時、傷ついた人に目を向けましょう。傷ついた人が平和の王を選ぶ世界にしてゆきましょう。これからも諦めずに平和を祈ってゆきましょう。お祈りします。
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
ルカによる福音書10章27節
私はバブル期に証券会社で働き、この世ですべてを失った経験から神様に出会い、今は東京バプテスト神学校神学専攻科で学んでおります。また同時に、これからの教会牧会には心理学が大変重要になると感じ、並行して通信制大学で心理学を学んでいます。心理学を学んでいると、聖書と結びつく箇所がたくさんあります。今日の聖書の箇所である「善いサマリア人のたとえ話」もそのような箇所の一つです。宣教題にしました「傍観」とは「岩波国語辞典」によると、「(手出し・口出しをせず)その場でながめること。当事者でないという立場・態度で見ること。」とあります。追いはぎに襲われた人を助けなかった祭司やレビ人は正に「傍観者」でした。この話はたとえ話ですが、今日は1964年に実際にアメリカで起こった「キティ・ジェノヴィーズ事件」という多くの人の見ている前で起こった凶悪犯罪を参照し、なぜそのようなことが起こるのか、ということを聖書の視点と心理学の視点から見てまいりたいと思います。
私たちも、日常生活の中で誰かの助けを必要としている人に遭遇することがあります。しかし、多くの人はサマリア人のように行動できるでしょうか?「他にも人がいるから大丈夫だろう」「急がなければ大切な用件に遅刻しそうだ」などの理由で見過ごしてしまうことはないでしょうか?
このような心理学における「傍観者効果」という現象は、多くの人が見ている状況で誰も行動を起こさない心理状態を言います。これは責任が分散されることや、誰かが助けるだろうという思いから、行動を躊躇してしまう等の原因で起こります。
このサマリア人の行動は、単なる親切心に留まらない愛の実践です。元々、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったのですが、イエス様の時代は特にひどかったようです。しかしこのサマリア人はその様な自分の感情や立場を度外視して「その人を憐れに思い」助けるという、まさにキリストの愛の姿を示しました。
イエス様は、このたとえ話を通して「隣人」とは元々備えられているものではなく、自分から作るものであると、そしてそのためにはどのように行動すれば良いかを教えてくださいます。律法学者たちは「隣人」を同族や同胞と限定的に考えていましたが、イエス様は民族や宗教を超えてすべての人が「隣人」と成り得るのだ、と教えてくださいました。
私ももう「傍観者」にはなりたくありません。心理学は、このような聖書の中にある人間の心の奥底を捉えた深い真理を科学で証明しようとする学問である、ということを改めて実感しています。
また教会は、愛の実践を促し、互いに支え合う共同体です。教会で経験した愛を通して、私は自分自身が「新しい命」を得るという経験をしました。それは、教会の人々が私の「傍観者」とならず、愛を示してくださり、私を「隣人」として、具体的に行動してくださったおかげなのです。(堀端洋一)
わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
イザヤ書46章4節
礼拝の中で高齢者祝福祈祷の時を持ちます。今日は神様が私たちの人生を導いてゆくということについて考えます。「あしあと」という有名な物語があります。この話は聖書の話ではありませんが、神様の愛と支え、導きを良く表している美しいたとえ話です。私たちはつらく悲しい時、神様が助けてくれないで、一人で人生を歩んでいるように思うかもしれません。でも神様は私たちを背負って歩いてくれているのです。聖書にはいくつか、この話のモチーフになる箇所があります。
イザヤ書46章1~4節の時代、イスラエルの人々はバビロニア帝国との戦争に負け強制移住させられました。移り住んだ先にはバビロニアの神々が石や木で掘られ、街中に飾ってありました。
聖書は神の姿を石や木で掘って拝むこと(偶像礼拝)を禁止しています。一つの理由は、神様の願い・御心を、自分の欲望と混同しないようにするためです。人間が神様の形を掘り出せば、神様を人間の理想を詰め込んだ姿にします。どこにでも好きな場所に持ち出します。しかし注意していないと、神様を人間の思い通り、意のままの存在にしてしまいます。神様はそのように私たちの思い通りに、願いをかなえてくれる存在ではありません。だから聖書は偶像礼拝を禁止しています。
聖書によれば神様は私たちが見えていなくても、いつも一緒にいる存在です。見えないけれど確かに共にいて下さるのが神様です。姿・形に彫り出され動物にひいてゆかれる神は、聖書の神の特徴と反対です。聖書では神様が人間を背負うのです。
神様が私たちの人生を背負っています。私たちは神様の背中に乗って、運ばれている存在なのです。3節にはそれは生まれる前から死ぬ時までだとあります。そしてきっと死んだ後も私たちを背負ってくださるのです。それが聖書の神様です。
神様が私たちを背負うとは私たちだけでは前に進めない時、神様が私たちを支え導いてくれるということです。それは先ほど紹介した「あしあと」の話のようです。
私たちの人生はひとりでは生きていけないものです。私たちの神様はつらい時、確かに私たちを支えてくださるお方です。私たちはその神様を支えにして生きます。心の支え、魂の支え、生活の支えとして生きます。神様によって人生が願ったとおりになるわけではありません。でも私たちは神様が支え導いてくれると信じながら歩むのです。
このことをこどもたちにも伝えたいと思っています。これからずっと神様が一緒に歩き、つらい時あなたを背負ってくれるのだと。そして高齢者のみなさんと分かち合いたいとも思っています。みなさんの人生もきっとそうだったはずです。私たちにはこのように神様が共にいて下さいます。だから安心してこれからも歩んでゆきましょう。お祈りします。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 イザヤ書40章4節
沖縄の伊江島という小さな島から、平和とは単に戦争がないことに加えて、もっと人々が自由で、平等な様子を言うのだということを考えます。
1945年伊江島の人々は日本軍から人間扱いされず、特攻のための箱型爆弾を背負わされました。戦後はアメリカ軍から人間扱いされず土地を奪われました。伊江島は戦争が終わっても平和は訪れていません。真の平和とは人々の権利が守られ、自由に平等に生きてゆける状態のことです。平和を実現する行動とは、伊江島の人々のように、戦争に反対し自由と平等に向けて働いてゆくことです。抗議運動を率いた一人に阿波根昌鴻という人がいました。彼はクリスチャンで、沖縄のガンジーと呼ばれる人です。彼は非暴力でアメリカ軍と対峙することにしました。さまざまな活動のひとつに「あいさつさびら(あいさつしようね)」があります。お互いが同じ人間同士だと伝えるための平和的な抗議運動として行われました。
その働きは聖書の平和と共通しています。イザヤ書40章はイスラエルが戦争に負けた後、戦争が起こした苦痛に苦しむ人々に向けられた神様の言葉です。「谷はすべて身を起こし、山と丘は低くなる」これが聖書の平和が実現してゆく様子です。
それはゆがんだ丸から説明することができます。現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとして高ぶる者が居ます。聖書の平和とは押し込められていた人が元に戻り、高みにいた人が元に戻される、みんなが対等に、等しく満たされている状態です。ゆがんだ丸が平らになっていくことが平和です。
5節、私たちすべての人間は、共に神を見る者として存在をしています。人間の中にだれ一人、鬼畜はいません。すべての者が共に神の栄光を見る、尊い存在です。同じ人間として他者がいることを忘れずにいましょう。共に神を見る者として互いを思いあうことは私たちが平和を実現するための第一歩です。7節には「この民は草に等しい」とあります。私たち人間は葦のように弱い存在です。でも私たちはただの草ではありません。私たちには神様の言葉があります。私たちは同じ人間であるという神様の言葉、神が私たちに平和を与えるという言葉が、弱い私たちにはあります。弱くても共に神のことを求め、平和のために働くことができるのです。
私たちの世界は平和ではありません。まだ様々な場所に、低くされ、抑えつけられ、人間扱いされていない人がいます。私たちは特に痛みを覚える人に目を向けましょう。そしてそれが元に戻されるために働きましょう。互いを対等な人間として、共に神の栄光を見上げる存在として大切にしましょう。挨拶をしてゆきましょう。そして神様の平和の約束を信じましょう。お祈りします。
まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 イザヤ書25章4節
8月と9月は平和について考えています。私の心を特に締め付けるのは戦争で泣いているこどもたちや、血だらけになって泣いているこどもたちです。世界中でその光景が繰り返されるたびに「神様はどこにいるのか」「神様はなぜ戦争を止めないのか」と疑問に思います。そしてこどもたちの笑い声が響きわたるのがどれだけ平和を象徴しているかを想像します。神様は一体どこでこの世界の様子を見ているのでしょうか。今日は戦争の中で神様はどこにいるのかを考えたいと思います。
4節は、神様は戦争において弱い者の砦であり、弱い者を守る側にいるということを示しています。誰が神に戦争の勝利を祈ろうとも、神はその力でどちらかに勝敗を下すことはありません。神様は弱い者の砦です。神様が関わるのは、弱さと貧しさです。神様は弱くて小さな者を見つけ、それを自分の元に集め、守ろうとします。弱い者、貧しい者の希望となるのが、神様なのです。戦争の報道は、どちらがどのような兵器で、どちらが優勢かという点に目を向けがちです。でも私たちも戦争に触れる時、傷つき、犠牲にされ、人生を壊された人を想像し、目を向けてゆきましょう。その時神様が戦争の中でどこにいるのかを見つけることが出来るはずです。
6節には神様が山で祝宴を開くとあります。山とは神様を礼拝する場所という意味です。祝宴・礼拝は神様の側からの招待です。この個所には「すべて」という言葉が3回出てきます。すべての民が、神様に招かれて、山に集まった者全員が祝宴に参加します。それが神様の礼拝の在り方です。この祝宴・礼拝に出て楽しみ、食べて、力をもらうのです。私たちにとってこの食べ物は、聖書の言葉です。聖書の言葉から命、愛、祈り、平和をいただきます。あるいは今日いただく主の晩餐も、この食べ物をよく象徴しているでしょう。神様に招かれて、私たちは聖書の言葉と、主の晩餐をいただいて、生きる活力、希望をいただくのです。
8節には主なる神はすべての顔から涙をぬぐうお方だとあります。戦争の光景にはいつも涙があります。神様はただひたすら泣く人間の涙を、ぬぐってくださるお方です。神様は敵味方関係なく、涙が流される場所、弱さと貧しさのある場所、安全な場所を求めて逃げまどう人と共にいるのです。神様はそのようにして戦争のただなかに、戦争の一番の悲しみの中にいるのです。
そして神様はすべての人を平和、礼拝へと招いています。世界では戦争によってたくさんの涙が流されています。そのような世界で、私たちは山の上の礼拝に招かれています。私たちはこの礼拝で平和を祈りましょう。
私たちは世界の平和を求めて礼拝をしましょう。壊れたがれきと涙するこどもを見て、神様は必ずそこにいる、涙をぬぐってくださると信じましょう。そしてその戦争が早く終わるように祈りましょう。一人一人が平和のためにできることをしましょう。そしてこれから主の晩餐を持ちます。このパンと杯を受けて、平和を実現させるための力と知恵と励ましをいただきましょう。お祈りいたします。
地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
イザヤ書9章4節
今日は平和祈念礼拝です。平良修という牧師を紹介します。戦後沖縄はアメリカ軍に占領され植民地とされました。植民地のトップには帝王と呼ばれる「高等弁務官」がおり、沖縄の政治・行政・司法を掌握していました。その就任式に招かれたのが平良修牧師でした。平良牧師はその就任式で「新高等弁務官が最後の高等弁務官となりますように」と祈りました。戦争に負け、暴力的に支配されている側の人間が、絶対権力者を前に、あなたが最後になりますようにと神様に祈ったのです。この祈りは大きな驚きと反響を呼びましたが、沖縄の人々を大きく励ましました。私たちもこのような祈りを持ちたいと思います。戦争をするリーダーが最後になりますようにという祈りです。今日の個所も就任式での平和の祈りです。
当時のイスラエルは戦争直前の状態でした。多くの人は軍備を拡張し、戦争に勝つことでしかこの状況を変えることはできないと考えました。そんな時に王様の交代がありました。
1節の「闇の中を歩む民」とは、おそらくすでに戦争に負けた、北側の住民たちのことです。望まない戦争を戦わされ、人権が蹂躙された人々のことです。彼らは、暗い闇を生きるように、死を身近に感じたでしょう。しかし神様は戦争の起こる世界の中でも絶望せず、光・希望があることを伝えています。2節、私たちには深い喜びが準備されているのです。4節は軍事力の放棄が語られています。神様は軍隊の装備、武器をすべて焼き尽くすお方なのです。平和には武器も装備も必要ないのです。私たちには平和と武器と基地の無い世界が神様から約束されているのです。それを信じましょう。5節の王とは「私たちみんな」に与えられた王です。王は私たちのみんなの命と生活を守る、神の僕です。そのような王が平和を実現するリーダーになるのです。6節正義とは正しいことです。そして恵みの業とは、偏りがなく公平に与えられる様子です。平和とは戦争がないだけではありません。平和とは正しさと公平さが行き渡る場所で起るのです。神様はそのような正義と公正から、平和を成し遂げてくださるお方です。神様はこのように平和を私たちに成し遂げると約束してくださっています。イザヤの祈りは平良修牧師の祈りとも重なるように思います。
私たちは平和を大事にするリーダーを選びましょう。武器を捨て、正義と、公平さを持ったリーダーを選びましょう。そして私たちが選んだリーダーが平和を選ぶように祈り続けてゆきましょう。
そして私たち自身も1週間、平和のリーダーとなってゆきましょう。私たちは自分の強さと勝利を求めるのではありません。私たちは暴力と力を焼き払い、正義と公正さ持ちましょう。そして平和の実現のためにそれぞれの場所で働きましょう。神様は必ず地上に、私たちに平和を与えて下さいます。今日はそのための平和祈念礼拝です。お祈りをします。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。イザヤ2章4節
8月と9月は平和をテーマに宣教します。ある平和学の教授が、人間同士の対立を理解するために「誰がお皿を洗うか」というたとえを使っています。教授は誰がお皿を洗うのかを決めただけでは、対立は解決しないと言います。その対立の中には実は互いへの期待や、思いやり、関係性、意思決定の方法など多くの要素が含まれています。お皿洗いはどちらがするのかという問題の中には、どのような関係性でありたいかという問題が隠れているのです。今日どちらがお皿を洗うかをとりあえず決めるだけでは、本当の問題は解決しません。常にその問題の中にある関係性、互いへの期待に目を向けてゆくことが大事です。
教授は、まず山積みの食器に目を向けるのではなく、その向こう側に目を向けて、問題となっている人間関係や構造を理解しようと勧めています。その後から、食器をどのように洗うかを考えようと勧めています。その場しのぎの答えではなく、問題の中の人間関係、構造に目を向けようと言っています。このたとえ話は平和を考える上で、とても重要な視点を教えてくれます。今日は聖書からも平和と、その実現のために必要な、私たちの転換について考えたいと思います。
当時イスラエルは近隣諸国から軍事的な圧力に直面していました。他国からの脅威があるとき、戦争しかないと訴える人はどの時代にもいます。このような緊張関係の中、神様はイザヤという人を通じて4節の言葉を人々に伝えました。この言葉は武器を捨てて平和を求めようということを意味しています。
そして今回、私はもう一つの意味を見出します。それは対立の原因となっている関係や構造に目を向けることが重要だということです。「剣を打ち直して、鋤とする」は、対立するのをやめて我慢する様に言っているのではありません。4節には打ち直せという言葉があります。私たちにその場しのぎの解決ではなく、問題の見方を転換し、背景にある人間の関係を深く考えるようにと促しています。「剣を打ち直して鋤とする」とは私たちに新しい方法で、対立を解決するように促しているのです。
これは対立について、内容ではなく関係に重点を置いた受け止め方です。対立をこのように関係に重点を置いて受け止める時、私たちはその対立をもっと積極的に受け止めることができるようになります。他者の理解を深める機会とすることができます。それは人間同士の対立にも、国と国との対立にも当てはまることです。
私たちの周りにはたくさんの対立があります。でもその対立について、根本的な人間関係に目を向けたいと思います。それが対立を平和へと転換する努力、打ち直すなのだと思います。剣を鋤に打ち直すとは問題を関係性の視点でとらえ、暴力以外の方法で解決しようとする姿勢です。私たちは今週それぞれの場所で対立に出会うでしょう。そのような時、私たちは剣を鋤に打ち直してゆきましょう。平和を実現するものとして歩んでゆきましょう。お祈りします。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
マタイによる福音書15章35~37節
私たちの教会は正面の道路から礼拝堂の椅子に座るまで、大小9個の段差があります。教会もまだまだ配慮がたりないところがあります。教会は体に不自由がある人も健康な人も、こどももお年寄りも、だれでも歓迎します。私たちはそれを心と言葉だけではなく、教会の設備でも実現できたらいいと思っています。私たちがイエス様から愛をいただいたように、その愛を私たちが多くの人に手渡したいと思っています。今日は聖書の中に出て来る、体の不自由な人の物語から主の晩餐と私たちの愛のある生き方について考えたいと思います。
聖書の時代、病や障がいは罪の結果とされました。障がいをもった人々は、行いが悪いから病気になったと差別されました。それは当事者の心に、体の不自由よりももっと深く傷を負わせるものでした。イエス様は障がい者に無関心で差別的な社会にあって、障がいをもった人々を罪人と決めつけるのではなく、人々をいたわり、励まし、手を置いて祈り、癒しました。その愛が人々を回復へと導いたのです。
イエス様はそのあと全員で食事をしょうとしました。当初パンと魚は全く足りませんでした。それはまるで愛と配慮が不足した社会の様です。でもイエス様はそのような中で祈りました。すべての人にパンと魚が行き渡るように祈りました。障がいをもった人への差別がなくなり、愛され、合理的な配慮がなされるように祈ったのです。イエス様が祈ると不思議とパンと魚はすべての人にゆきわたり、余るほどになりました。イエス様の愛と配慮はすべての人に届き、有り余るほどなのです。この食事は主の晩餐でした。主の晩餐は差別と無関心のただなかで行なれ、そこからの解放と、愛と配慮がゆきわたることを求めるものだったのです。
パンと魚を弟子が群衆に配ったことにも注目します。弟子たちはイエス様からそのパンを一度預かって、配る役割を担ったのです。イエス様が愛し、配慮する姿を、弟子たちは同じ様に実践する使命を与えられたのです。
イエス様は差別され、排除されている人を励ますためにこの食事を持ちました。愛と配慮を伝えるために主の晩餐をしたのです。そのようにして社会的なバリアを取り除いてゆこうとしました。きっと私たちの教会が障がいをもった人、弱さをもった人を歓迎するのは、このイエス様の態度、イエスの食事に起源があるのでしょう。イエス様はそのような包容力のある社会、共同体を目指していたはずです。そして食事によってそれを実現しようとしたお方です。私たちもこのような包容力のある人間、包容力のある共同体でありたいと願います。そして私たち自身が、イエス様から受け取ったパン・愛を多くの人に配る使命をいただいています。来週の主の晩餐、このことを覚えてパンを食べましょう。お祈りいたします。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。ルカによる福音書24章13~35節
今月は主の晩餐について考えています。今日は信仰とは体験しないとわからない一面がある、信仰とは体験してこそわかるものだということについて考えます。
ソムリエのためのワインのテキストには様々ことが書かれています。しかし一番大事なのはワインを実際に飲んでみる事です。これに勝ることはありません。どんなに説明をされても味や香りは体験しないとわかりません。それはスポーツや音楽、料理にも共通します。今日の聖書の個所もどんなに知識として持っていても体験をしなければわからないことがあると教えています。
聖書の二人はイエス様を直接確かめようとしてエルサレムに向いました。しかし二人が見たものは、イエス様の十字架でした。そして彼らはイエス様が復活をしたという不思議な話も聞きました。二人は一体に何が起きたのか十分に理解できないまま、帰ることになったのです。そんな彼らに復活したイエス様がそっと現れます。
覚えておきましょう。私たちの神様は私たちが良い行いをした時に登場するのではありません。願いが叶わず、出来事の意味が十分に理解できず、うつむき歩いて帰る時、神様はそっと近づき、寄り添うように現れるのです。そのようにして神様は私たちに伴ってくださるお方です。この物語の大切なポイントです。
今日はこの物語から主の晩餐について考えます。二人がエルサレムの出来事を説明する様子はまるでキリスト教全体の説明のようです。彼らは事前に十分に学び、イエス様から直接、熱心に教えを受けていました。しかし彼らの目が開かれたのは、主の晩餐を受けた時でした。二人はこの特別な食事を体験して、初めてイエス様が復活をして共にいるということに気付きました。二人はこの食事・主の晩餐を通じて、それがわかったのです。
この物語は私たちの主の晩餐とどんな関係があるでしょうか。私たちは信じてから食べているのでしょうか。それとも食べることによって信じるようになるのでしょうか。私はあいまいかもしれません。信じるために食べているような気がしています。私たちは主の晩餐について食べてみなければわからないこと、食べればわかることがあります。私たち自身もこの二人のような存在です。いろいろ知っているけれど、食べてわかるようになる存在なのです。私は信じてからパンを食べるのか、パンを食べてから信じるのか、聖書はどちらの可能性にも開かれていると思います。
私たちはどのようにパンを食べるでしょうか。きっと信仰とは体験しないとわからない一面があるのでしょう。そのことに思いを巡らせながらまた主の晩餐をしてゆきたいと思います。イエス様はきっとそのような迷いや混乱に伴ってくださる方です。論じ合うそのそばにそっと近づき、導いてくださるお方です。お祈りします。
だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節
こひつじ食堂で一番混乱するのは、ご飯がなくなったときです。計算して準備しても時々ご飯が足りなくなってしまう時があります。全員が楽しく食べるためには、きめ細かい確認と、配慮が必要です。それをみんなで確認します。それぞれ自分の分があるかを確かめているのではありません、全員分、足りるかどうかをみんなで確かめながら食堂をしています。それはとても大切な配慮だと思います。今日は聖書の食事の中にどんな配慮があったのかを見てゆきます。
コリント教会では礼拝の後、みんなで持ち寄りの食事会を行っていました。当初はこれを主の晩餐と呼んでいました。しかし食事の時に先に食べて、先に飲んでしまう人がいました。後から空腹の人がやって来る時には、食べ散らかした残り物しかないという状態でした。コリント教会では食事の際に、全員分が足りるかという配慮が全くなく、自分の事だけを考えて食事をしていたのです。パウロは食事会をするならば全員が食べることが出来るように、食事の量や内容や、持ち方を良く確かめて、配慮しなさいと言っています。
自分だけ食べてしまう、その根底にはどんな考えがあったのでしょうか。他者への無関心や無理解があったでしょう。食事の事だけではなく忘れられている人、一人になっている人、見下されている人、後回しにされた人がたくさんいたはずです。
パウロはそのような共同体になっていないかよく確かめるように言っています。パウロがここで伝えようとしていることは主の晩餐を自分の内面や罪深さと深く向き合って、よく確かめてこのパンを食べる様にと言っているのではありません。
ここでよく確かめるべきことは、他の人との関係性です。自分の食べ物、自分の事、自分の罪を考えて食べるだけではなく、他者の食べもの、他者の事、他者への配慮をよく確かめて食べる様にと言っているのです。
パウロはふさわしくないままで食べてはいけないとあります。わたしたちはどこまで、その食事にふさわしい者でしょうか。私は自分自身をふさわしくないと思っています。周りの人を良く確かめて配慮することがまだまだ足りないと思っています。そのような中でも、主の晩餐を食べるのですけれども、のども通らないような気持ちで食べています。
私たちは食事の時だけではなく様々な場面で、忘れられている人、一人になっている人、後回しにされている人がいないかに目を配り、よく確かめたいと思います。それが今日の聖書箇所が指し示している生き方ではでしょうか。
ひとりも取り残されず、ひとりも忘れられない、そのようによく確かめられ、配慮された共同体が神の国と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは今週1週間、それぞれの場所でそれをよく確かめて生きてゆきましょう。神様はそのようにして私たちのいる場所に働き、導いてくださっています。お祈りします。
夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
マタイによる福音書26章20節
7月から主の晩餐について考えます。主の晩餐とはパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会では洗礼を受けたクリスチャンが食べるとしています。私たちの教会で主の晩餐を考える時、こひつじ食堂のことも考える必要があるでしょう。同じ場所でパンが分かち合われていることは互いに影響しあいます。
こひつじ食堂のことを共生文明学の観点から論文としてまとめてくれた方が私に「縁食」という言葉を教えてくれました。どの文明でも共通して、共に食事をすることは仲間であることを確認する意味があるそうです。どのように食べるかは、どのような共同体を作るかにつながっています。その中で彼が教えてくれた「縁食」とは誰と一緒に食事をしているのかあいまいな食事を指します。「縁食」はこひつじ食堂でもよく見かける光景です。例えば一人で来たけれど、ボランティアと顔見知りで何か話しながら食べています。それは「共食」でも孤食でもない「縁食」です。
私たちの教会の主の晩餐はどうでしょうか。私たちの教会の主の晩餐は限られた人だけでする食事です。この食事は誰がこの共同体に属しているか、誰が共同体に属していないのかを明確にします。一緒に食べた人は結束します。一方、一緒に食べていない人は何を感じているのでしょうか?どう食べるかは、どんな共同体を作るかを決めています。私たちの主の晩餐においても縁側が必要でしょうか?今日は聖書から私たちの主の晩餐にどんな可能性があるのかを考えてゆきたいと思います。
マタイによる福音書26章の食事は最後の晩餐と呼ばれます。12人の弟子に限定されていた食事が私たちの主の晩餐のルーツです。しかし12人の中に洗礼を受けた弟子は一人もいませんでした。彼らは洗礼を条件とせず、ただ主イエスに招かれて、パンを与えられたのです。この食事会は参加者の中に信じる人も、信じない人もいた非常に幅のある集まりだったのです。
そしてさらにイエス様の血と十字架は、信じていない人、裏切り者、不特定多数の多くの人々、多様な人々、まだ出会ったことすらない人々のためにも流されるものでした。この食事も多くの人々との出会いに向けられた食事だったのです。
私はこのように最後の晩餐を見る時、そこに「縁食」の要素があると思います。もともとは共同体性の強い食事でしたが、でもそれを越える大きな可能性を持った食事でした。それが私たちの主の晩餐のルーツなのです。どんな食事をするか、それはどんな共同体を作るかに直結しています。どんな主の晩餐をしてゆくのかは、どんな教会を作るかに直結してゆくでしょう。私たちはどんな主の晩餐をしてゆくのでしょうか?マタイ26章の主の晩餐には限定されている様に見えて、実は開かれている部分があります。そこに縁側のような部分があるのではないでしょうか。
この後、私たちは主の晩餐を持ちます。共に主イエス・キリストとの食事を思い出しましょう。そしてそこにいた様々な人々を思いめぐらせましょう。お祈りします。
しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。 使徒言行録27章22節
使徒言行録には、イエス様の弟子たちがどのように生き、信仰を実践したかが記されています。今日もこの使徒言行録から、困難の中でも希望を持ち、他者を励ます生き方について学んでゆきましょう。パウロは船でローマに向かう途中、激しい嵐に遭遇しました。人々は積み荷を捨てて、船を軽くしようとしました。しかしそれでも状況は改善しませんでした。彼等は希望を失っていました。
しかしそんな時、一人だけ希望を失わなかった人物がいました。それがイエス・キリストの弟子パウロです。パウロは希望をもって人々を励まし続けました。そしてこのような希望を持った人物が船の中に一人でも存在すると全体の雰囲気は大きく変わります。このように希望を持ち続け、他者を励まし続けることは、キリストの弟子の大事な役割です。希望を持っているのは一人でよいのです。私たちはそのような一人になっているでしょうか。私たちはたった一人になっても、まだ希望があると言える存在になりたいと思います。それがキリストの弟子になるということです。
希望をもってあきらめない人がいる中で、逃げ出した船員がいたとあります。それはとても悲しい光景です。彼らは自分たちだけ助かろうとしました。これは他者を犠牲にし、見捨てるという罪です。キリストの弟子パウロはこのような行動を見逃しません。それは全員が助かる道ではないと引き留めます。全員で助かろうとみなを励ましたのです。全員が生きる道を求める、それがイエス・キリストの教えでした。誰かが十字架に掛かって犠牲になって、みんなが助かればいいのではありません。神様は一人も漏れることなく、命を守ろうとするお方です。
36節、この後船に乗っていた人びとは食事をしたとあります。それはまるで主の晩餐のようです。その食事をすると一同に元気が湧いてきました。全員が励まされて、全員で助かろうと思う様になったのです。船の人々は大きく変えられてゆきました。一人のキリストの弟子から、主の晩餐のような食事から全体が変えられてゆきました。全員が助かるために、すべての食べ物を捨てる決断をしたのです。自分の命だけではなく、みんなが助かるために、大切な荷物を捨てました。そして全員が無事に上陸することができたのです。
今日の物語、船は様々なものに置き換えて考えることができます。教会も一つの船です。家族も一つの船かもしれません。職場や地域も一つの船でしょう。それぞれ困難に直面します。でも一人の弟子の存在が全体の雰囲気を変えるのです。
その船にキリストの弟子が一人いればいいのです。人を励まし、共に命をつないでいこうとする希望を示す人が一人いると、全体の雰囲気は大きく変わります。全員の命をつなぐ選択へと導かれてゆくのです。私たちはそれぞれの置かれた場所で、その一人になってゆきましょう。神様の言葉に聞きながら、他者を励まし、希望を持つその一人になりましょう。お祈りします。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。 使徒言行録16章25節
今日6月23日は79年前、沖縄で組織的な戦闘が終わった日です。私たちはこの日を「命どぅ宝の日」と呼び、平和を考える時として大切にしています。沖縄の人々は激しい地上戦の中で、洞窟に逃げ込みました。そしてそこで、どう死ぬか、どう殺すかでなく、どうやって命をつなぐかを考えました。彼らは洞窟の中で「命どぅ宝」命こそ宝だと互いに励ましあい、何とかして生きようとしました。
沖縄にはあの時から今も大きな基地がいくつも存在します。私たちは普天間、辺野古を含めて沖縄、日本、世界のすべての基地がなくなることを祈り願っています。沖縄の普天間基地の前で毎週、戸塚駅の駅前で月1回、基地に反対して讃美歌が歌われています。世界に平和に目覚めて欲しいと願って、世界の人々に暴力ではなく、愛と平和を選んで欲しいと願って歌っています。小さな行動でも私たちは軍事力に反対をし、暴力の無い平和を求めてゆきたいと思っています。今日は神様の示す平和と、平和を目指す生き方について考えたいと思います。
世界が隣人を愛し、敵を憎めと教えている中で、イエス様は敵を愛しなさいと教えました。その平和の教えを世界に広めていた弟子がパウロとシラスでした。しかしパウロは牢獄に入れられることになりました。パウロは何度も鞭に打たれ、牢に投げ込まれました。足には足かせをはめられ、自由を奪われました。そして暴力の象徴である武器・剣もった看守がそれを見張っていました。暴力が支配する牢獄の中で、彼らはなんと歌いました。きっと平和を願う歌、自由を願う歌、神様への感謝の歌だったでしょう。圧倒的な暴力に対して歌を歌って何になるでしょうか。でも彼らは歌いました。その歌から、賛美から奇跡が起こされてゆきます。
地震は神様が起こす奇跡の象徴です。彼らは逃げることができるようになりました。看守は自死を選ぼうとします。しかしパウロはそれを止めます。死んではいけない、どんな命にも暴力を向けてはいけないと教えたのです。私にはこのパウロの言葉が「命どぅ宝(命こそ宝)」という言葉に聞こえます。それは平和を望む言葉です。そして看守はそのイエスの平和の福音に救われ平和へと方向転換します。
彼はパウロの傷を洗いました。他者の傷の痛みを知り、共感をするものとなったのです。それは暴力から愛への転換でした。敵を愛しなさいという教えの実践でした。彼はバプテスマを受け、そして食事を共にしました。暴力で支配してきた者と同じテーブルで食事をしたのです。これは神様によって起こされた出来事です。
私たちもこの看守のような、暴力から愛への転換をしたいと願います。世界が暴力を辞めて、愛に目覚める様に神様に求めましょう。私たちにできることは賛美歌を歌うことです。神と人に向けて平和の賛美歌を歌いましょう。沖縄からまずその歌が聞こえます。私たちの賛美から世界に平和が広がるように祈ります。平和こそ宝、命こそ宝であることが伝わるように祈ります。お祈りします。
それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
使徒言行録15章19節
私たち平塚バプテスト教会は今日、創立74周年を迎えることができました。本当に神様のおかげです。74年間多くの課題がありました。バプテストは民主的に話し合って決めることを大切にしています。話し合いは疲れるものですが、私たちは多くの困難を話し合うこと、互いの理解を深めることで乗り越えてきました。そしてこれからの私たちも大きな決断のための議論を控えています。もし神様のご計画ならば、今後の計画が成し遂げられてゆくはずです。
物事を決めてゆく時、大事なことは、時に妥協し、調和し、折衷案を持つことです。建築はどうしても、全員の要望を盛り込むことは難しいものです。私たちも大きな議論をするとき、互いに妥協し、調和し、折衷案を持ち前に進んでゆくことを覚えておきましょう。今日は聖書に記録される会議もそのような出来事です。
今日は使徒言行録のエルサレム会議をみてゆきます。初期のキリスト教には二つのグループがありました。ユダヤ教の律法を重視するグループと、そうでないグループです。この二つのグループは決して対立をしていたわけではありません。人や献金を送ったりする良好な関係でした。ただどこまで律法の実践を求めるべきか、二つのグループは意見が分かれていました。その妥協点を探るために、エルサレムで会議をすることになりました。このエルサレム会議はどちらが正しいか決着をつける会議ではありません。どうすればキリストの弟子として一致し、仲間であり続けられのるかを話し合うために持たれたのです。
決定の内容は伝統的にユダヤの律法を重視する人が守ってきたことの一部でした。そしてこの4項目以上の事は求めないという寛容な決定でした。大部分は食べ物に関する取り決めです。そしておそらくこれは律法を守る人とそうでない人が一緒に食事をする時の決まり事でした。律法を重視する人と一緒に食事をするときにおいては、ユダヤの習慣を尊重、配慮をするようにと決められたのです。うまい妥協点だと思います。この調和重視の案によって温かい一致が生まれました。両方が喜ぶことのできる決定でした。よい決め方だったと思います。
その会議には神様の力が働いたのでしょう。神様はこのようにして共同体を導いてくださるお方です。互いに話し合い、折り合いをつけ、私たちを結び付けて下さるのが、神様の働きなのです。私たちの歩んだ74年間もそれが起り続けて、私たちは今に至るのでしょう。創立記念の時、これから起きる様々な議論に心を準備したいと思います。その時このエルサレム会議を覚えておきましょう。
私たちはいろいろな違いがあります。でも神様が導いてくださって妥協し、調和し、折衷となる選びが示されてゆくはずです。エルサレム教会では互いを尊重し、互いに苦しまない決定が選ばれました。それは誰かの喜びと励ましになる決定でした。私たちもこれからそのような選びへと導かれてゆくはずです。お祈りします。
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。 使徒言行録9章18~19節
今日から聖書の使徒言行録を1ヶ月間読んでゆきます。みなさんは価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?キリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変えるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。聖書の教えを価値観の中心にするスタートが洗礼(バプテスマ)です。
洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。今日は聖書のサウロという人物から、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。
十字架の後、イエス様の教えた愛の輪が広がっていました。そしてもともとの枠組みであるユダヤ教から大きくはずれる様になりました。サウロはユダヤ教を信仰していましたがそのキリスト教を激しく否定していました。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。
そんなサウロにある日突然、運命を変える出来事が起こりました。それによって彼は自分が否定し、殺そうとしていた人の助けを必要としました。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。
ここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロの価値観の転換です。これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。彼の変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化でした。彼は弱さと無力の中で、その価値観が、生きる態度、他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人に敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた変化でした。
神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。
本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。
使徒言行録9章18~19節
今日から聖書の使徒言行録を1ヶ月間読んでゆきます。みなさんは価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?キリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変えるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。聖書の教えを価値観の中心にするスタートが洗礼(バプテスマ)です。
洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。今日は聖書のサウロという人物から、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。
十字架の後、イエス様の教えた愛の輪が広がっていました。そしてもともとの枠組みであるユダヤ教から大きくはずれる様になりました。サウロはユダヤ教を信仰していましたがそのキリスト教を激しく否定していました。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。
そんなサウロにある日突然、運命を変える出来事が起こりました。それによって彼は自分が否定し、殺そうとしていた人の助けを必要としました。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。
ここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロの価値観の転換です。これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。彼の変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化でした。彼は弱さと無力の中で、その価値観が、生きる態度、他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人に敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた変化でした。
神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。
本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。
「つながっていようよ」
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 ヨハネによる福音書15章5節
毎週水曜日の「祈祷会(きとうかい)」という集会では聖書から感じた自由な感想を話し合います。互いの感想を聞いていると、神様の事、生き方のことたくさんの気づきを得ます。祈祷会では祈りの時も持っています。互いのこと、みんなで祈りたいことのリストをもとに黙祷し、心の中で神様に祈ります。私はこの「祈祷会」をとても大事だと感じています。祈祷会が神様とのつながりだけではなく、他者とのつながりをも感じる場所だからです。今日はつながりをテーマに宣教します。ヨハネ福音書15章1~10節から3つ大事なつながりを紹介します。
まず一つ目は、神様は私たちにあなたたちは私としっかり「つながっていなさい」と言っています。あなたたち人間は、神様をつかんでいるその手を絶対に放してはダメだと言っています。私たちは忙しい時でも神様につながっていましょう。たとえばなるべく礼拝や祈祷会に集ったり、祈ったりすることを頑張ってゆきましょう。
2つ目に神様は私はあなたがたに「つながっています」と言っています。私が手を離したら、神様が離れてしまうのではありません。私が忙しくて、つかまっていられない時も、どんなにつらい時も、神様の方からつながってくださるのです。だから神様を信じる人は安心して生きることができます。うまく自分から神様につながれなくても、神様はあなたにもうつながっています。これが大事なこと2つ目です。
大事なことの3つ目は「あなたがた」という言葉に隠れています。この「あなたがた」は私個人を指す言葉ではなく「みんな」を指す言葉です。みんなで神様につながりなさい、神様はみんなにつながっていますと言っているのです。
みんなで神様につながる時、私たちの間には神様とのつながりだけではなく、私たち同士、人間同士のつながりも生まれるはずです。神様は人と神がつながっていると伝えると同時に、私たちに人間同士も、神様によってつながっているというのです。そのような人間のつながりも、神様がおこしてくださるのです。
自分はどうやって神様につながればよいのか、仲間をよく見るとわかります。神様はそのように私たちも互いにつながっていることを感じるように言っています。礼拝・祈祷会は毎週この3つのながりを確認する場所だと言えるでしょう。
初めて来た方、これからもどうぞ神様につながってゆきましょう。神様もあなたにしっかりとつながっています。そして私たちはみんなで神様につながりましょう。毎週教会ではこの礼拝・祈祷会という集会を持っています。私たちはみんなで神様につながろうね、わたしたちもつながっていようねと言い合います。それは私たちみんなの人生にとって大きな励ましになっています。私たちはそこから前に進むことができるのです。そんな風に教会で、神様とのつながり、人とのつながりを感じながら生きてゆく生き方をお勧めします。お祈りします。
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
使徒言行録2章2節
先月と今月は初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。聖書の話を毎週の礼拝でするのが大変ですが、準備に行き詰まった時は、風に吹かれながら思いを巡らせます。風に吹かれていると、時々新しい言葉がひらめいたり、やり直そうと思えたりします。風に吹かれながら、神様の導きを求めています。
今日は新しい仲間の信仰の言葉を聞きましたが、きっとこの言葉を紡ぐのも大変だったでしょう。この告白ではっきりしていることは、神様は不思議な力で、私たちを教会へと呼び集めるのだということです。神様が私たちを導くとは、神様の吹かす風に押し出されて進むようなことです。私の宣教の言葉も、今日の信仰の言葉も、神様からの風に、押し出され、発せられたものです。
聖書・創世記によれば、神様が土で人間の形を作り、息・風を送り込むと人間は生きるものとなったと書かれています。神様の風とは私たちに生命を吹き込む風です。私たちは神様の風に吹かれると生きるようになるのです。私たちの人生には、どうすればいいかわからないことがあります。そんな時、風に吹かれてみてはどうでしょうか?体で風を感じれば、きっと心にも神様の風を感じることができるはずです。風に吹かれ、神様からもう一度命を、新しい生き方を頂きましょう。今日は聖書から風に吹かれた弟子たちの話をします。
キリスト教はイエス様が死んでしまった後も続いてゆきました。それは弟子たちが一生懸命に頑張ったから続いたのではありません。神様からの不思議な力、不思議な風を受けることで続けることが出来ました。弟子たちがみんなで集まっている時、突然強い風が吹きました。風は神様の一方的な決断で吹きました。神様の風は神様の決めたタイミングで吹きます。そしてそこにいた全員に吹きました。神様の風に吹かれると不思議なことが起こりました。自分にはできないことでも、神様が力を与えて下さって、できるようになったのです。様々な国の言葉で語られたのは、みんなにわかる言葉で神様の希望を示すためでした。そのようにして神様の風は全員に命と活力と言葉を吹き込みました。
私たちもそんな神様からの風を受けて歩んでいるのです。私たちが毎週集まれるのは熱心さや一生懸命さではなく、神様の風に吹かれているからです。私たちが神様の風に身をゆだねているから集うことができるのです。神様の風はきっと私たちをどこかへと運ぼうと導いています。だから私たちは自分の願いだけではなく、神様からの風がどう吹いているのかを感じて生きゆきたいです。
神様が私たちに風を送っていす。私たちはその風に吹かれながら生きましょう。私たちには何もできなくても、神様が風を吹かせ、導いてくださいます。神様の風が私たちに必要な言葉と力、新しい生き方を与えてくださるはずです。お祈りします。
初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。2000年前舗装されていない道をサンダルで歩けば、足は泥だらけになりました。汗と汚れが混ざって臭いもしたでしょう。シャワーを浴びることもできません。足を洗うのは、自分をいたわるホッとするひとときでした。裕福な家では足を洗うのは召使いの仕事でした。
しかし今日の聖書にはイエス様が弟子の足を洗ったと書いてあります。これは他者のために働き、他者を尊重するという模範的、象徴的な行為でした。今も昔もリーダーは威張り腐っています。しかしイエス様は他のリーダーと大きく違いました。弟子たちの汚れた足を洗おうとします。これがキリスト教の神と等しいとされた人の姿です。他者のために働き、他者を尊重する生き方を体現しています。神様は徹底的に低みに立つ方なのです。
そして、この物語はもう一つ重要なことを伝えています。もしかすると誰かの足を洗うよりも、誰かに足を洗われる方が嫌かもしれません。自分の悪い部分、汚い部分は隠したいものです。弟子も「決して洗わないでください」と言っています。しかしイエス様は14節「互いに洗い合わなければならない」と言っています。疲れて、汚れた、お互いの足を隠しあったら、我々の関係は成り立たないというのです。
ここから示されることは、私たちの人生にはそれぞれに疲れや困難があり、そのときは恥ずかしいけれど、誰からの支えを必要とするということです。私たちは神様と仲間の支えなしに生きてゆくことはできないのです。私たちは足を洗ってもらう様な、励ましや祈りが必要なのです。
教会では互いを尊重し、励ましあう言葉を交わしています。それはまるで毎週教会で互いに足を洗い合っている様です。神様から、仲間から足を洗ってもらっている様です。誰かが疲れて汚れた私に、温かい言葉を掛けてくれます。それは私にとって足を洗われるということです。同時に誰かに温かい声を掛けます。それが誰かの足を洗うことです。互いに足を洗い合うからこそ1週間が頑張れるのです。
私たちは洗う側と洗われる側に分かれているのではありません。みんな洗われるべき汚い足をしており、みんながやさしく互いの足を洗います。そのような教会に来ると、心洗われたような気持ちになります。ほっとする気持ちになるのです。
イエス様はこのように私たちに互いに足を洗い合いなさいと伝えました。足を洗うことによって、他者のために働き、他者を尊重する生き方がキリスト者の生き方だと示しました。そして互いにいたわり合い、励まし合う関係の大事さを私たちに教えてくれたのです。教会にはそのことを信じる信仰を持つ人が毎週集っています。私はたくさんの人がこの生き方・信仰に加わること、増えることを願っています。お祈りします。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」ヨハネによる福音書9章9節
今月と来月は初めて教会に来た方に向けてお話をしています。私たちの教会では、月2回会堂でこども食堂を開催しています。最近4名の小学生がボランティアに加わってくれました。このことによって様々なよい変化が起きています。教会員のある方は「こどものボランティアを見て、ヨハネの5000人の食事(今日の個所)の意味がようやくわかった」とおっしゃっていました。私たちは今年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。こどもたちの声が私たちの礼拝や食堂の雰囲気と方向性を決定づけています。同じことが聖書にも書いてあります。
2000年前、イエス様は様々な背景や事情を持った人たちと全員で食事をしようとしました。一緒に食事をすることは私たちのこども食堂と同様に友好関係にあることを示す行動です。でも準備が大変です。弟子たちは無理だと思いました。
そこにひとりの少年が声をあげ、少ない食事を差し出しました。それは「僕にできることがあればします」という姿勢でした。この少年ができる精一杯の小さなボランティアでした。弟子たちはそれを笑いました。「どうせ役に立たない」と思ったのです。小さなもので全体は変わらないと思ったのです。
しかしイエス様は小さくて役に立たないと思われているボランティアに目をとめて、いったん座って、何が起きているのか全員でよく考えるように促しました。そしてイエス様は感謝の祈りを唱えました。イエス様はそれが小さくてもどれだけ重要であるかを知り、感謝して祈ったのです。物語全体の雰囲気がここで変わります。イエス様はパンと魚を分けはじめました。そうすると不思議にも全員が満腹になる食べ物が現れたのです。普通は決して起きない奇跡的なことが起きたのです。
私たちは今日の物語からどんなことを考えるでしょうか。私はパンを増やすおまじないには興味がありません。今日の個所で小さな者の声に立ち止まるという生き方を学びます。私たちの社会では強い者の意見が通ります。私はそのような社会だからこそ小さな者の声、少数意見に耳を傾ける必要があると思います。
小さな働きの力を信じるということも、この物語から学びます。私たちそれぞれの前にある課題は大きすぎて、自分はたいして役に立たないと感じることばかりです。でも今日の物語によれば小さなボランティアが全体の雰囲気と方向性を変えたのです。小さなこどもたちのボランティアが私たちの礼拝とこども食堂の雰囲気を決定づけてゆくように、小さな働きが世界の方向を変えるのです。今日の物語から私たちはそれを信じましょう。
このあと私たちは主の晩餐という儀式を持ちます。これは小さなパンと、小さな杯にいれたブドウジュースを飲む儀式です。イエス様がこのような食事をしたことを再現する儀式です。こんな小さなパンですが私たちは大きな変化が起こると信じています。お祈りします。
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
ヨハネによる福音書5章8節
今月と来月は、キリスト教が初めてという人に向けて話をしています。2000年前にベトザタという池がありました。この池には天使が降りてくると、池の水面にゆらゆらと小さな波ができ、その時、池の中に入ると、一番先に入った人は病気が治るという伝承がありました。
しかしこの伝承は残酷です。治るためには他の人を押しのけてでも、誰よりも早く水に入らなければいけないのです。そこは生存競争の場であり、人間関係は最悪でした。その中に38年間病気の男性がいました。彼は自分では起き上がることができませんでした。しかし彼が失望していたのは、もはや自分が病であることではありませんでした。彼が失望していたのは誰も他者を助けようとしない世界です。イエス様はそのような場所に現れました。イエス様は苦しみと失望と緊張関係に満ちた場所に現れるのです。
そこでイエス様は「起き上がりなさい」と言いました。世界に失望し、あきらめていた彼はもう一度立ち上がって、歩きだしました。そしてイエス様は歩き出すときに床を担いで歩きなさいという条件を付けました。床とは38年間寝ていたマットです。マットには汗と涙がしみ込み、擦り切れ、ボロボロになっていました。そのマットは彼の人生を象徴するものです。そして彼がいた池の周りの世界を象徴するものです。彼の苦労と屈辱の象徴でした。その床を担ぐようにとは、これからもその現実を背負って生きてゆきなさいという意味です。この38年間の苦労を忘れずに、あの池で見た世界を忘れずに生きるようにと条件を付けられたのです。
今日の物語から私たちはどんなことを考えるでしょうか。まず私が思うことは、この世界はまるでベトザタの池の様だということです。世界はこの池のように、自分中心、自国優先、強い者が勝つ世界です。隣人と愛し合うのではなく、たがいに敵同士のように競争する世界です。互いを喜び合えない世界です。私たちもこのような世界・日常に生きています。イエス様はそのただなかに現れるお方です。ひどい現実の、どん底の、この世界の真ん中に現れるお方です。
そしてイエス様は、私たちを立ち上がらせ下さいます。私たちは苦しみを忘れて、苦しみと無関係に生きるのではありません。それに責任をもって生きるようになります。神様はそのようにして私たちを立ち上がらせるのです。今私たちのいる世界を良くするために、神様は私たちを立ち上げてくださるのです。
この礼拝で、私たちは神様から床を担いで立ち上がれと言われています。私たちは現実を背負って立ち上がります。私たちはそれぞれの場所で、互いに愛し合い、困っている人を助け、隣人と喜びをともにしましょう。それぞれの場所で弱肉強食ではない、愛と慈しみにあふれる世界を創ってゆきましょう。その1週間を今日から歩みましょう。神様が私たちを立ち上げて下さいます。お祈りします。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
ヨハネによる福音書4章7節
4月と5月は新しくキリスト教に触れる人に向けて話をしています。今日登場するサマリアの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。いわゆる混血とされ見下され、差別されました。さらに女性という点でも差別を受けました。
そのサマリアの女性が、日中の一番暑い時間に井戸に水を汲みに来ました。彼女がサマリアの女性たちからも疎外されていたからです。5回の離婚を経験した彼女の波乱の人生は、村の人から奇異の目で見られていましたのです。
そんな時、イエス様と出会います。水を巡ってのイエス様と女性との会話は誤解が生じやすい話です。イエス様が与える水というのは、肉体的にのどを潤す水分補給のことではないようです。その水とは心と魂を潤す水のこと、心と魂が求めていることを満たしてくれるものが、イエス様の渡そうとしている水です。
しかしイエス様と女性の会話にも誤解があります。16節でイエス様は突然話題を変えます。イエス様は対話をあきらめていないようです。対話をあきらめずにまた別の角度から伝えようとしています。全体をみるとかなりかみ合わない会話です。それでも二人が対話を続けていることはとても印象深いことです。
20節からイエス様は繰り返し礼拝という言葉を使っています。イエス様の言った心と魂を潤す水、それは礼拝と言い換えることができるでしょう。この今私たちの持っている礼拝とは、自分の生き方を考える集まりです。イエス様はその礼拝が、あなたの心と魂を潤す水となると言ったのです。この礼拝というキーワードからようやく二人の話がかみ合ってきます。女性はこのような対話からイエス様を信頼するようになりました。イエス様との対話によって誤解が解かれ、イエス様を信頼するようになりました。そして彼女はその信頼を村の人々に告げ広めたのです。
イエス様とこの女性はすれ違いながらも、忍耐強く対話を続けることによって信頼が生まれました。誤解は信頼へと変わってゆきました。今日この個所を見て私は改めて対話の大切さを感じます。私たち人間にはたくさんの誤解があります。誤解は人々を苦しめます。差別も命に優劣があるという誤解から生まれます。でも私たちはイエス様のように向き合い、対話することをあきらめずにいたいのです。今日の個所のように誤解から始まる信頼がきっとあるはずだからです。
私たちは、誤解を信頼に変える力を礼拝からいただくことができます。私たち人間は人間の力だけでは、豊かな信頼関係を築くことができないことを良く知っています。でもだからこそ私たちは神様から、その力をいただきたいのです。この礼拝で神様から他者を理解する力、誤解のある他者と信頼を作ってゆく力を受け取りたいと思うのです。礼拝からその力をもらい、それぞれの場所で誤解を信頼に変えてゆきたいのです。共に礼拝を献げ、神様から、誤解を信頼に変える力を互いに頂いてゆきましょう。お祈りします。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
ヨハネ20章25節
先週からキリスト教にはじめて触れる方に向けて話をしています。よく誤解されがちですが、教会はキリスト教を信じている人だけが集まる場所ではありません。信じるつもりはないという人も歓迎します。この教会にとって信じない人は一緒にいてくれないと困る存在です。ここが信じる人だけの集まりとなると閉鎖的になります。信じている人にとっても、信じない人と一緒にいるのがよいのです。
「信じるかどうかはあなた次第」という言葉があります。しかしキリスト教は不思議な事ばかりで、自分次第なら、信じないのが当然の結果です。でも多くの方が、何かに押し出されるように、何か追い風のようなものを受けて、信じていると言えるようになります。信じるかどうかは、私次第ではありません。行き先は風まかせの様な不思議さがあるものです。今日は聖書から信じない弟子を見たいと思います。
イエス様の復活を見ていなかった弟子が1人だけいました。トマスという名前です。彼はもし釘の跡を見て、その穴に自分の指を入れ、脇腹の傷に手を入れることができれば、信じようと言いました。すると8日後、本当にイエス様が現れました。
聖書はトマスのようにつべこべ言わず、疑わないで信じましょうと言っているのではありません。私たち人間は確かな証拠や奇跡によって信じるようになるものです。トマスもきっと奇跡を体験がすれば、信じることができると思っていました。
しかし聖書にはトマスが実際に手と指を入れたとは書いてありません。それができれば私は信じると言っていたのに、彼は結局、手と指を入れませんでした。
私はよく信じない人から、もし〇〇になったらキリスト教を信じるという言葉を聞きます。合格したら、結婚できたら…。でも私個人のこれまでの実感として、条件をクリアしたら信じると言って、その条件が満たされた後に信じるようになる人は多くありません。自分の設定した条件や願いが達成されても信仰を持つ人は少ないのです。一方、条件はクリアしなかったけれど、信じるようになったという人は多くいます。信じるとは自分の設定した条件をクリアして起こるものではないのです。
トマスも同じです。彼は手と指を入れませんでした。自分で設定した条件をクリアしませんでした。でもトマスはきっと信じるようになったのでしょう。自分の設定した条件ではなく、一方的なイエス様の登場、イエス様との出会いの体験によって彼は信じるようになったのです。信仰とはそのように始まります。何かが私の中に勝手にやって来るのです。信じるつもりはなかったのに、不思議と心の中に入って来る、現れる、それが信仰の始まりです。そのような神の一方的な働きかけ、追い風の様な働きかけによって、人は神の存在を信じるようになります。
信じない人を歓迎ます。信じるかどうかはあなた次第ではありません。人間が神を信じるようになるのは、私たち人間の条件を超えた、神様の一方的な働きかけによってです。いつかみなさんにその時が来ることを願っています。お祈りをします。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
ヨハネによる福音書21章13節
今日から2か月、初めてのキリスト教というテーマで宣教をします。まだキリスト教のことを知らないという方に届いたら嬉しいです。
キリスト教は聖書から「どう生きるか」を考える宗教です。聖書には、どうすれば仲良く、平和に、前を向いて生きて行けるかを考えさせるエピソードがたくさん書いてあります。主人公はイエス様という人物です。イエス様は当時のタブーを破り、他の人が絶対一緒に食事しない人と積極的に食事をしました。そのようにイエス様は食事自体を通じて、食事をしながら「生き方」を教えました。今日も聖書から新しい生き方を見つけてゆきたいと思います。聖書のエピソードを見てゆきましょう。
弟子たちは死んだ人が目の前に現れるとは思ってもみませんでした。そんな中、イエス様は「何か食べる物はあるか?」と言って登場します。お腹の空いたこどものようなかわいい登場です。イエス様は大変親しみやすく私たちに現れます。
弟子たちは食べ物を持っていませんでした。イエス様は舟をだすように言います。そうするとさっきは獲れなかった、たくさんの魚が獲れました。このように、イエス様は奇跡的な力を使ってまで、一緒に食事をしようとしました。弟子たちは一緒に食事をすることができるようになって初めて、それがイエス様だと気づきました。イエス様は一歩先に岸で炭火を起こして、魚を焼いていました。この食事は、これまでの食事同様、弟子たちの心を癒し、励ます食事だったでしょう。そして他者を愛しなさい、仲良くしなさいという教えをもう一度思い出す食事だったでしょう。
今日の個所から私たちが生きるヒントはどこにあるでしょうか?一つは不思議な事ですが、死ですべてが終わるのではないということを教わります。悲しみは悲しみで終わらないのです。もうひとつの生き方のヒントはイエス様は私たちに困難を乗り越える力をくれるということです。イエス様は魚が獲れなくても、私たちがもう一度チャレンジする力を下さるのです。
そして何より共に食事をすることを大切にするということも生き方のヒントでしょう。悲しみの時、寂しい時、誰かと一緒に食事をすることが、イエス様の大事にした行動です。一緒に食事をすると、生きる力が湧いてくるのです。教会で共に食事をすることを愛餐と呼ぶように、共に食事をすることは互いに愛し合っていること、大切に思い合っていることを表す行動です。そこから生きる力が湧いてくるのです。私たちは共に食事をすることをもっと大事にしてはどうでしょうか?食事で互いが大切であることを確かめ合ってはどうでしょうか。それも生き方のヒントです。
私たちはこの後の主の晩餐で、そのイエス様の教えを思い出し、教会の仲間同士や、1週間関わる人たちと互いに愛し合うということを確認します。
私たちはみなさんと、聖書から生きるヒントをもらって、一緒に歩みたいと思っています。少しずつ、この礼拝に参加し、新しい生き方を始めてみませんか?
後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
ヨハネによる福音書20章14節
イースター礼拝を共にできる事、主に感謝します。3月と4月は様々な出会いと別れがある季節です。誰かとの別れは人の心に大きな影響を与えます。その悲しみの深さは、その時々によって違います。お別れをしっかりできた時は受け入れやすいものです。でも突然の別れは受け入れるのに時間がかかるものです。
神様はそのような別れと悲しみの時、そっと悲しむ者のそばに共にいてくださるお方です。悲しむ者にこそ現れ、そばにいて下さるお方です。そしてゆっくりと悲しみとは違う方向へと導いてくださるお方です。神様はこのように、悲しむ人々に幸いを約束してくだいます。今日は悲しみと共にいてくださる神様の姿を見ます。
イエス様の十字架は無実の罪、若い人の死、突然の別れ、心の支えだった人との別れ、尊敬する人との別れでした。それは、もっとも受け入れるのが難しい別れでした。マグダラのマリアという女性は他の弟子たちが逃げ惑う中、イエス様の十字架を最後まで見届けました。しかし一方でそれはマリアにとって、大きな心の負担になったはずです。マリアはイエス様の無残な死に方を直接見てしまいました。痛み、苦しみ、渇き、流れる血、その姿をすべて見て、受け取ってしまったのです。きっとマリアはそれに強い衝撃を受け、それはトラウマになったはずです。
もっとも悲しみ、涙のとまらないマリア、イエス様はそのマリアに一番はじめに現れました。神様はこのように悲しむ者のもとに現れるのです。悲しみを受け入れた先に神がいるのではありません。神様は深い悲しみの底に現れてくださるのです。イエス様はそのようにそっと現れます。いつからそこにいたのかわかりません。でもイエス様はきっと、ずっと涙する者のそばにいました。
彼女が気づいたのは名前を呼ばれた時でした。それはまるで羊と羊飼いの様です。羊が自分の羊飼いの声を聞きわけるように、マリアはイエス様の声を聞き分かることができました。そしてイエス様は羊飼いの様です。1匹の迷った羊飼いを探すように、マリアの元に現れたのです。そして彼女から全世界へと復活が伝わりました。
今日の個所をからどんなことを考えるでしょうか。神様はこのようにして、悲しむ私たちと共にいるお方です。神様は迷った羊を探す羊飼いのように、悲しむ私たちの名前を呼んでくださるお方です。一緒にいるよ、だから立ち上がって、前に進もうと言ってくださるのです。そして私たちはそれぞれの場所に派遣されるのです。
イエス様が復活したとは、死が無くなることではなく、その悲しみの中にイエス様が共にいて下さったということではないでしょうか。悲しみの中に主が共にいて下さることが、主が復活されたということなのではないでしょうか。
私たちの人生でも、きっとそのようなことが、主の復活が起こるはずです。神様は復活し、悲しむ者と共にいて下さいます。神様は復活し、私たちと共にいて下さいます。その復活を信じ、歩みましょう。お祈りをいたします。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
ヨハネによる福音書19章30節
今週は教会の暦で受難週です。今日はイエス様の十字架の上の「成し遂げられた」という言葉を見たいと思います。十字架刑は政治的な反乱者に科された刑です。何日も、何週間も苦しみが続きます。それは見せしめのために、二度と権力に反抗しないように、丘の上や大通りなど人々の良く見える場所で行われました。処刑される者は、苦しみ、呪いの言葉を口にしながら死んでいったと言います。
しかしヨハネ福音書では、イエス様が苦しみの言葉を発した記録はほとんどありません。なんとこのような状況でイエス様は「成し遂げられた」と言いました。このような苦しみの中で一体何が成し遂げられたというのでしょうか?イエス様の宣教の活動はたった数年だったと言われます。伝えきれなかったこと、やり残したことは非常に多かったはずです。イエス様にとっても、弟子たちにとっても志半ばでの十字架だったはずです。しかし、それにもかかわらずイエス様は最後に「成し遂げられた」と言っています。
成し遂げ「られた」の「られた」に注目をします。これは「私は成し遂げた」ではありません。それは神様がイエス様を通じて「成し遂げた」のです。神様はイエス様の地上の生涯を通じて、愛に生きることを教えました。共に食事をし、隅に追いやられた者に目をとめるように教えました。そのように神様はイエス様を通じて互いに愛し合うことを教えました。イエス様は神様から与えられた、その使命を生きました。そして十字架の死に至るまで、他者を愛し続けたのです。どんなにつらい時も、自分の思い通りにいかない時も、死ぬその時まで他者を愛し続けたのです。それを今、イエス様は神様の力によって成し遂げたのです。神様から愛を成し遂げる力を頂いて、神の計画は「成し遂げられた」のです。
私たちの人生で、自分の力で成し遂げることは多くありません。でもそこに神様から成し遂げる力と計画をいただいて、成し遂げられることがあるでしょう。きっと私たちを通じても神様が「成し遂げられる」計画があるはずです。それは私たちの思いを超えて実現するものです。
神様が成し遂げようとしているのはイエス様の人生においてもそうだったように、生涯を通じて、神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕えることです。それが、神様が成し遂げようとしている計画です。神様はその計画を成し遂げるために私たちに力をくださいます。神様が苦難の時も愛に生きる力を与えて下さいます。どんなつらい時も、神様は愛に生きる力を与えて下さいます神様は、私たちを通じてその計画を成し遂げるお方です。
私達では到底成し遂げることができないことを、愛を、神様は成し遂げて下さいます。その愛を成し遂げる力を私たちも頂きましょう。私にはできないけれど、神にはできる、愛を成し遂げる力を神様から頂き、今週も歩みましょう。お祈りします。
私たちの教会では「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。この活動は多くのボランティアさんに支えられています。先日から9歳(小3)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。こどもがボランティアに加わったことで良い影響があります。他のボランティアさんは自分の作業以外に気を配るようになりました。すごいねと、他者をほめながら作業する様になりました。利用者もこどもが料理を運んでいるのなら、しっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て自分で食器を下げるようになりました。これが本当の「平和」です。
神様はこのように、一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。今日の聖書の個所にもこどもが登場します。ロバのこどもです
当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力、軍事力の象徴です。馬に乗ることこそ、王様にふさわしい姿でした。しかしイエス様は子ロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。でもイエス様はロバを選び、ロバに乗ることを決めたのです。ここには神様の選びが示されています。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力のものを選ぶのです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方なのです。
神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバはもっと強く、馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。
民衆の視線はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしているロバ。人々にはきっと私にも何かできるはずだと思ったでしょう。人々に大きな変化があったはずです。
私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。
私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。「ホサナ、ホサナ」私たちにもそんな応援の声が聞こえるはずです。お祈りします。
マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 ヨハネによる福音書12章3節
珠洲市には原発計画がありました。もし原発があったら深刻な原子力災害になっていたはずです。原発の恐ろしさを改めて感じています。珠洲市の原発の反対運動の中心的存在だったのは、地元のお坊さんでした。原発反対は宗教者の役割でした。
原発を建てるために電力会社は住民に猛烈な接待をします。「カネ」の力で賛成させるのです。そんな中、ある一人のお坊さんが「危険な原発と命は共存できない」と道路に座り込み、お念仏を唱えながら原発反対を訴えました。今このお坊さんは住民から、原発に反対して私たちを救ってくれたと大変感謝されているそうです。
「あまりに危険な原発と命は共存できない」それが多くの宗教者の共通した訴えです。今だけ、カネだけ、自分だけを考えるなら原発がよいのでしょう。しかし、宗教者は何よりも命の大切さを判断基準にします。だから危険な原発に反対をしてます。今日はカネより大切なものがあることを聖書からみていきたいと思います。
マリアはたくさんの香油をイエス様の頭に注ぎました。おそらく彼女は日々の稼ぎから少しずつ香油を貯めていました。仕事でつらいことがあっても、悲しいことがあっても耐え、少しずつ貯めました。それはまさに彼女の汗と涙の結晶、不屈の精神の塊でした。しかし彼女がこれだけ苦労して稼いだお金を、このように使わせるものは何だったのでしょうか?何が彼女をつき動かしたのでしょうか。
彼女を突き動かしたのはイエス様の行動と言葉です。イエス様は罪人とされた人、汚れているとされた人と連帯しました。イエス様は小さくされた命、隅に追いやられた命に目を向けました。マリアはこのイエス様の命への向かい合い方に深く共感をしました。自分のように隅に追いやられ、それでも一生懸命生き、働く、そのような人々に目を向けるイエス様に深く共感をしたのです。その命へのまなざしを持つ方に、私のあの香油をすべて注ぎたいと強く思ったのです。
私たちの世界では相変わらずカネや費用対効果が基準とされ、原発が作られようとしています。この物語はそのようなカネ中心の社会に、生き方に抵抗する物語です。イエス様の命へ向き合う姿勢に強く共感し、行動を起こした人の物語です。イエス様は私たちにもこのような命への向き合い方を求めておられるのでしょう。
私たちは何に価値を見出し、何を守るでしょうか。私たちにはカネや効率よりも大切なものがあります。何よりも大切なのは命です。イエス様は命の大切さ、平等さを教えています。私たちはその命へのまなざしを何よりも大事にしたいのです。世界には命と共存できないものがあります。特に戦争や差別、不正なカネ、原発は、命と共存することができません。私たちは主イエスの教えに従い、命を守る働きをしてゆきましょう。たとえ小さくても効率が悪くても、無駄のように思われても、命が守られる手立てを選んでゆきましょう。お祈りします。
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
ヨハネによる福音書6章66節
最近の平塚バプテスト教会の礼拝出席人数は増加傾向にあります。私たちの活動や信仰が少しでも理解、共感、支持、応援されることはうれしいことです。ただし私たちの教会の目標は、人数を増やすことではありません。私たちがここに集うのは互いを愛し合うため、互いに仲良く生きていくためにここに集っています。その結果として人が増えるだけです。人数を目標とし始めると、愛し合うことよりも、人数を集めることが先だってしまいます。今日は聖書から、共同体に多くの人が集まった時のこと、そこで愛を貫いたイエス様の姿を見てゆきたいと思います。
今日の個所は奇跡のパン・主の晩餐を受けて、弟子たちが増えて拡がった後の話です。イエス様自身が、弟子の拡大に派手に失敗をしている様子が書かれています。弟子たちの拡大の先には、大きな分裂がありました。イエス様でも人数が増えるとうまくいかないことがあったのです。
イエス様はそれを悲しんだでしょう。しかしイエス様は去っていく人たちを追いかけませんでした。引き留めるための新しい説得も、自分の方針をもっと人々に受け入れられやすいものとする変更もしませんでした。イエス様はただ淡々と町を巡ります。そしてこれまでどおり、互いに愛し合うこと、大切にしあう事、仲良くすることをまた言葉と行動で教えました。イエス様にとって誰かが自分を離れようと、誰かが自分を無視しようと、誰かが自分を殺そうとも、関係ありませんでした。ただ自分が神様に従うかどうか、自分が愛するかどうかだけが重要なことだったのです。イエス様はその後も活動を続け、人々の反発を招き、殺されてしまいます。殺されないためには方針転換が必要でした。しかしイエス様は方針転換をしないのです。ただ神様に従うということ、他者を愛することを貫きました。
私たちの生活に目を向けます。私たちは神様・イエス様ではありません。ですから他人の意見をよく聞くことは大事です。しかし一方で私たちは他者の態度に振り回されてしまうことばかりです。他者の態度や行動に傷ついたり、落ち込んだりすることばかりです。きっとイエス様もそうだったのでしょう。私たちは他者との関係において一喜一憂することがあります。私たちにはうまく関係が作れた時、うまく関係が作れなかった時があります。でもその時も私たちはイエス様のように愛し続けましょう。イエス様のように相手を大切にし続けましょう。
私たちの日常には離別、裏切り、関係の破綻があります。でもその中で、私は神様の愛をどう生きてゆくかが問われます。そこで問われているのは相手の愛ではなく私の愛です。私がどう生きるか、私が神様の愛をどう生きるかが問われています。私たちの1週間もこのことを覚えて生きましょう。この後主の晩餐を持ち、パンを食べます。私たちは食べた後、どう生きるかが問われます。これは神の愛を受けて生きる象徴です。このパンを食べ、どんな時も他者を愛しましょう。祈ります。
ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。 出エジプト記15章21節
ジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えます。戦後、日本バプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。しかし日本のバプテストは2000年にアメリカ南部バプテストが「女性は牧師になってはいけない」と明言したことから距離を置くようになりました。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。一方、日本のバプテスト連盟でも大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象が起きています。根底にある私たちの考えが問われています。
私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見と差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。
今日の聖書箇所のミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。ユダヤの人々は奴隷とされたエジプトを脱出しました。しかし目の前には海があり、後ろにはエジプトの追手がいます。そんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。
この様子は15章で2つの歌として記録されています。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続きます。それは危機から脱した時の喜びの祈りです。神様のすばらしさを表現するために踊りました。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。ミリアムはそれを導く女性指導者でした。
ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。
私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。
助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
出エジプト記1章17節
教会には女性会というグループがあります。性の多様さから考えると性別でグループを作ることには課題があります。一方で女性だけが集まるのことに様々な良い面があります。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあります。また男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは意義のあることです。そのようなグループは社会や教会で中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆく視点があります。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切です。今日と来週は聖書の中の女性を見たいと思います。
ファラオはヘブライ人の人口を増やさないために、二人の助産師(シフラとプア)を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。しかし人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いはずです。ファラオが女性を殺さないのは、女の奴隷は高く売れたからです。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いからです。だからファラオは生まれた男だけ殺せと命令をしました。
助産師の女性たちは神様を畏れていました。さらに二人は実体験から命は神様から授かったものであると知り、男性であるファラオの命令に従いませんでした。彼女たちは社会の中心から追われる命に対して、特別なまなざしを持ち、その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信したのです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは小さな命を守るための非暴力の戦いです。
2章1節からはもう一つの物語です。ある女性が男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまうので、赤ん坊をカゴに入れて川に流しました。そしてその命を受け取ったのも女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育て、やがて彼は解放のリーダーに成長します。このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。
女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。男たちが支配する世界で彼女たちは考えました。どのようにしたら平和に生きることができるだろうか?どうしたらこどもたちを守ることができるだろうか?と考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。
私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。男も女もどの性も、その小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。私たちの教会でも同じです。性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。お祈りします。
よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。 出エジプト記16章29節
明日から休息に感謝します。社会では休息をとることについて大きく意識が変わってきています。残業時間の上限が設定され、仕事と生活のバランスが重視されるようになりました。社会はがむしゃらな労働と、それによる成長・安価な商品を求めるのをやめたのです。社会は充実した安息の重要性を理解したとも言えるでしょう。このお休みを神様が準備して下さった安息だと受け止め、感謝し、また次の働きに向けて備えたいと思っています。
今日はマナの個所です。人々は過酷な労働からの自由と安息のために、エジプトを脱出しました。しかし食料の確保が困難でした。彼らは目の前の困難を、過去を理想化することで乗り越えようとしました。そこに神様の言葉が響きます。
神様はすべての人にパンを降らすと提案しました。あなたたちはそれを食べ、命をつなぐようにと提案をしたのです。そしてそれは毎日ちょっとずつ集めればよいという提案でした。大きな倉は必要ないのです。無理にたくさん集める必要はないのです。反対にこのマナを無理に集めることこそ、過重労働、働きすぎです。とにかくたくさん集める、たくさんあればあるほど幸せになれるから、1gでも多く集めるためにがむしゃらに休まずに働く、そのような労働は必要ないのです。
また自分が食べきれない分までマナを集める人がいました。それは富の独占と蓄積を連想させます。その富には虫が湧き、腐り、悪臭がします。神様は過度な富の蓄積を嫌ったお方でした。神様は、人間が働きすぎることなく、蓄えすぎることなく生きることを求めているのです。
そして神様は安息の日も用意してくださるお方です。日々日々働きすぎるだけではなく、1日まるごと休む日も与えて下さったのです。神様はこのように働きすぎを禁止しました。今日は何をしてもうまくいかない日、だから休みなさいと言って安息の日を定めたのです。20節は「ちゃんと休みなさい!」という意味です。30節「民はこうして、七日目に休んだ」とあります。
神様は何と恵み深い方でしょうか。不満に、怒りで返すのではなく、マナという食べ物で応えてくださるお方です。そして神様はなんとおせっかいなお方でしょうか。私たちに「ちゃんと休みなさい」と厳しく教えてくださるお方です。働いても何も成果のない安息日を与えてくれるお方です。神様はそのように私たちを大切に思い、生きる糧を与え、強制的な安息を与えてくださるお方です。
みなさんの忙しい1週間の中でふさわしい休息が与えられる様にお祈りしています。私達にはすべきことがたくさんありますが、焦らずに、安息をしながら歩みましょう。これから主の晩餐の時を持ちます。このマナをいただき、神様が与えてくれる恵み、神様が与えて下さる安息を覚えましょう。お祈りします。
道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」使徒言行録8章36節
今月は聖書と性・セクシャリティーについて考えています。今日は宦官について考えます。宦官とは、睾丸や陰茎を切除した男性です。旧約聖書は宦官は「主の会衆に加わることはできない」つまりユダヤ教に入信することができないとしています(申命記23章2節)。どんなに信仰があってもユダヤ人になれず、神殿に入ることは許されなかったのです。旧約聖書を見ると宦官が好意的に描かれている場面が多くあるものの、やはり軽蔑すべき存在だったのです。
今日の聖書箇所は、エチオピアからエルサレムに来た宦官の物語です。宦官は聖書に興味があり、聖書の神を求めました。しかし彼は排除されるべき存在でした。体の一部が無い、完全な男ではないから、神殿には入ることができないと排除されたのです。その時、彼の信仰や内面は一切関係ありませんでした。彼の外形的な性が判断基準とされ、神殿から排除されたのです。彼の信仰は打ち砕かれたでしょう。失意の帰り道、神様はフィリポを遣わしました。神様は排除された性的少数者との出会いを導いたのです。そして宦官はバプテスマへと導かれてゆきます。
宦官は「バプテスマに何か妨げがあるますか」と確認します。これまで彼は性的少数者として、社会から、神殿から徹底的に排除されてきました。それはこんな私でも洗礼を受けることができるのですか?クリスチャンになることができるのですか?キリスト教では、私もその仲間に加わることが出来るのですか?という問いです。フィリポは速やかにバプテスマを実行し、それに応えています。フィリポは性的少数者を排除しなかったのです。宦官は喜びあふれたとあります。キリスト者が差別せずに受け止めてくれたという喜びです。宦官は何の妨げも無くキリスト者として受け入れられることを通じて、神様を知りました。神様はこの私を受け入れ、守ってくださるのだと知ったのです。
現代の教会、社会とも重ねて考えてみましょう。多くの性的少数者が、その性を否定されています。性的少数者の人々は、それは罪だと言われ、教会から排除され、追われるように逃げ、失意の中で帰り道を歩いていました。しかし今日の個所によれば、性の在り方は入信・バプテスマの条件に一切なっていません。教会はそのようにすべての性を受け止めてゆくことができるのです。すべての性を罪としないことができるのです。それが今日この物語が伝えている福音です。
この宦官は異邦人の中で最初に洗礼・バプテスマを受けた人となりました。性的少数者である彼から、世界中にキリスト教会が広まっていったのです。私は性的少数者の方がそのままの性を生きることを、神様は何も妨げないと思います。神様はそのような人を用いて福音を拡げるのだと思います。私はこの教会が性的少数者の方が来ることに何の妨げもない教会になるように願っています。そのようにしてすべての人を歓迎する教会になりたいと思っています。お祈りします。
みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
Iコリント6章9~10節
今月は性と聖書に考えています。最近テレビでは芸能界の性暴力について報道がされています。性暴力は魂の殺人と呼ばれます。教会はこれらの問題を魂の問題として関わるべきでしょう。教会が性の問題に沈黙するのは良くないと思います。
性の問題について、キリスト教には様々な立場があります。特に同性愛については意見が大きく割れています。私の理解では聖書全体に同性愛という言葉は一切登場しません。同性愛という言葉は19世紀に生まれた言葉だからです。しかし偏見を持って聖書が読まれた結果、同性愛への差別が生まれました。
今日の聖書の個所には男色するという言葉があります。やはり聖書は同性愛を禁止しているように思えます。もっと深く考えましょう。男色するという言葉は元のギリシャ語で「アルセノコイタイ」という言葉です。この言葉は語源から考えると、男が男に対して横たわるという意味で、同性間の性行為を指す言葉と推測されます。しかし文脈からその意味を推測すると経済的搾取の意味があります。おそらくこの「アルセノコイタイ」は同性間の性行為と経済的不正を掛け合わせた言葉で、お金や地位にものを言わせて、相手の性の尊厳を奪うことを意味していると思われます。
社会背景からも考えます。2000年前のローマでは年長の男性によって身分の低い少年や、奴隷の少年に対して性搾取が行われていました。少年たちには愛も自由な選択もありません。地位のある者が、少年の性を搾取していたのです。それは愛、同性愛とは全く違います。
しかし19世紀に同性愛という言葉が生まれました。本来、性的搾取を意味した「アルセノコイタイ」は、同性愛のことだと誤解されました。そして同性愛が悪、罪とされるようになり、同性愛者は神の国を受け継ぐことができないと解釈されるようになりました。しかし本来、この個所は同性が愛し合うことを禁止しているのではなく、性の尊厳を奪うことを禁止しているはずです。
私たちの社会を見渡します。世界では魂が殺される、魂が踏みにじられる事件が繰り返されています。私は聖書が性暴力・性搾取をはっきりと否定しているものとして、それに反対してゆきたいと思います。そしてそれと混同されるかのように、同性愛に対する偏見もまだ続いています。特にそれはキリスト教の中で続いています。偏見をもって、同性愛と性搾取が混同されることにも反対をしたいと思っています。
10節、神の国を受け継ぐ者とはどんな人かを想像します。それは互いの性を奪い、否定するのではなく、互い性の在り方を尊重できる人ではないでしょうか。そのような人が神の国を受け継いでゆくのではないでしょうか?教会は魂の問題として性に目を向けてゆく必要があるのではないでしょか?互いの性を尊重できる教会になりたいと思います。祈ります。
あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。創世記19章12節
今月はセクシャルマイノリティー(性的少数者)をテーマに宣教をします。セクシャルマイノリティー(性的少数者)とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーなど、性の在り方が少数派である人のことを指す言葉です。3年前にも同じテーマで宣教をしました。YouTubeには批判のコメントが多くありました。きっと当事者の方たちはずっとこのような批判の中で、生きてきたのだということを思い知りました。このテーマは触れない方が無難です。でもそのように見過ごされている人がいるからこそ、そこに目を注ぎたいと思っています。またあくまでこれは私の聖書の理解です。この教会やバプテスト連盟の統一見解ではありません。
今日は創世記19章1~11節です。神様の遣いが二人、ソドムという町に来ました。ロトという人は旅人をもてなそうとします。しかしソドムの町の男たちが戸口に現れ、男性である旅人に性的暴力を加えようとします。ロトは自分の娘を差し出すという最悪の方法で対処します。二人の神の遣いはロトたちに逃げるように言いました。実はこの神の遣いこの罪深いソドムの町を滅ぼすために来ていたのです。
キリスト教ではこの物語を伝統的に、同性愛を断罪する話として解釈してきました。同性間の性交を英語で「ソドミー」「ソドミズム」と呼ぶことがあります。ソドムの罪とはまさしく同性愛の罪で、同性愛の罪によって、神はソドムを町ごと滅ぼすのだ。それほどに同性愛は罪深いことで、死に値する罪である。聖書の罪の中でもっとも重い罪であると解釈されてきました。そして多く性的少数者はもはや教会に居ることができず、追われるように教会から去って行かなければなりませんでした。
しかしもう一度この聖書の個所を読んでみて、この個所は同性愛とどのような関係があるのかよくわかりません。ここで起きている出来事は、同性愛とは全く違う、明らかな性暴力です。同性愛と性暴力はまったく違います。ここで問題になっているのは性暴力です。長くソドムは同性愛の罪で滅ぼされたと解釈をされてきましたが、この個所から同性愛は罪だと解釈するのは不可能です。むしろ解釈されるべきことは社会にあふれる性暴力、セクハラ、性的搾取をどれだけ神が憤りをもって見ているかということです。
このように同性愛は罪だ。そう解釈されてきた箇所でも、もう一度読み直してみると、決してそのような意味で語られていないことが分かります。聖書が本当にやめるべきと指し示しているのは、同性愛ではなく、性の尊厳を奪う事、性暴力です。聖書はここでも弱い立場の人に目を注ぎなさいと語っているのです。この個所からは特に少数派の人たちの性を守りなさいと聞こえてきます。
私たちが本当に目を注ぐことは、性の尊厳が守られているかどうかです。私たちの社会が互いの性の尊厳を守ることができるように祈ります。そして何より教会が今までのことを悔い改め、互いの性を尊重できる場所となることを祈ります。
暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。
マタイによる福音書4章16節
あけましておめでとうございます。今年最初の日曜日を礼拝から始めることができたこと感謝です。平塚で初日の出を見るなら、湘南平がお勧めだそうです。地平線の向こうから昇るご来光は、きっとスピリチュアルな体験です。日の出を見ることは、キリスト教の信仰と重なる部分もあります。今日の聖書の個所にはイエス様の登場が日の出のように、ご来光のように、私たちを照らすと書かれています。
16節の「光が射す」という言葉は「光が昇る」という日の出を表す言葉です。この個所は日が昇る時に、暗闇が光に照らされていく様子を、イエス様の登場に重ねています。イエス様は日の出やご来光にように、暗闇を照らし出す方なのです。
暗闇と死の陰に住む人々とは、光の当たらない人のことです。普段みんなから見過ごされてしまう、隅に追いやられている人のことです。イエス様の登場は見過ごされていた人が見つけられることです。その光は社会の隅々に届き、取り残される人はいなくなります。イエス様はそのような世界の訪れを私たちに告げています。
光が当たらない場所、暗闇は私たち個人の中にもあるものです。私たちには暗い一面があります。しかしイエス様は私たち個人にとっても太陽、日の出のようなお方です。イエス様の光は私の暗い部分に日の出のように射しこんできます。今年もきっと私たちには神様の光がこの日の出のように注がれるでしょう。
もう一つ注意を引くのは13節にある「住まわれた」という言葉です。この「住む」も本来は「座る」という意味です。特に権威ある人が座る時によく使われる言葉です。ここは権威のある人として、隅々にまで目を行き渡らせたというイメージがあります。これも私たちの世界や個人の心としてもとらえることができるでしょう。イエス様は世界の、私たちの心の真ん中に座してくださるお方です。
もう一か所、私が気になったのは17節です。「近づいた」も厳密に見ると、現在完了形で「し終わった」という意味です。それはもうすでに来ているという意味です。つまり天の国、神様の光はすでに世界を、私たちを、照らしているということです。
今日の個所では、私たちには3つの希望が示されています。ひとつ目は神様の光が私たちの世界と心を照らすという希望です。二つ目は、神様は私たちの世界と私たちの心の真ん中に来て下さるという希望です。そして三つめは、すでにそれは来ている、もう始まっているという希望です。
今年も1年、イエス様の光が世界と私たちを照らし出してくださるはずです。そして今年も1年、イエス様が世界の真ん中に、私の真ん中に座ってくださるはずです。そして今年、すでに、イエス様の光は私たちを照らしています。今年1年の主の導きを信じます。だから私たちは今年1年も安心して生きてゆきましょう。お祈りします。
『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 マタイによる福音書2章6節
2000年前のイエス様の時代は今の私たちの価値観と大きく違います。特に人間関係のウチとソトの概念と、恥と名誉という概念に違いがあります。古代のユダヤ社会では人々は内輪とは親しくし、助け合い、その結束は固かったのです。反対に、外側の人とされた人には驚くほど冷たい社会でした。特に外国人はよそもの中のよそ者だったでしょう。もうひとつ古代ユダヤでは名誉が大事にされました。そんな価値観の中でイエス様は生まれました。
マタイ福音書1章によればマリアの妊娠は結婚前に起りました。それは当時恥とされることでした。マリアの恥、父の恥、家の恥でした。そのような恥は家から取り除かなければなりませんでした。ルカ福音書によると、ヨセフとマリアは旅先で宿屋が見つからなかったとあります。おそらく旅先の人間関係が内輪ではなくソトの関係だったからでしょう。ソトの人間にはそのくらいの対応で十分だったのです。イエス様はそのようにソト、外側に追いやれて生まれたのです。イエス様の誕生を見に来た学者たちも、古代のユダヤの基準からするととんでもなくソトの人です。そのまったくソトの人が、同じくソトにされたイエス様を訪ねています。
イエスの誕生を見ると恥から始まり、そしてソトに追いやられます。そしてさらにもっとソトの人が、イエス様を訪ねて来ます。それがクリスマスの物語です。イエス様の誕生物語はこのように、ソトと恥の物語です。
今日のことからどのように神様のことを考えるでしょうか。神様は私たちにどのように関わる方だと考えることができるでしょうか?今日感じるのは、神は私たちの内側の誇らしい場所に居るのではないということです。神様は恥、不名誉とされる中に、私たちがソトだとする人の中にいるということです。それが私たちの神様です。神様は当時の価値観の中で隅に追いやられた者として生まれました。生きづらい者として生まれました。
今の私たちの世界の、時代の、どのような価値観が、誰を隅に追いやっているのでしょうか。イエス様の誕生はそれに目を向けるようにと、私たちに訴えているのではないでしょうか。特に日本ではこどもや若者や外国にルーツを持つ人が生きづらいと感じていると聞きます。そこに神様は来てくださるでしょうか。そこにこそ、生きづらいと感じる人にこそ神様はきっと来て下さるのではないでしょう。そのような中にこそイエス様が生まれたのが、クリスマスなのではないでしょうか?
私は次の1年をこの時代に生きづらさを抱える人とその場所に、目を向けて向けてゆく、そのような1年にしてゆきたいと思いました。そして生きづらいと感じている人に、そこにこそ神様が共にいることが伝わる、そのような1年になることを願っています。お祈りします。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。ヨハネ1:1
今日もクリスマス礼拝をみなさんと共にできること、主に感謝します。もしタイムマシンがあったらどうしますか?タイムマシンを使う時、過去や未来を変えてはいけません。タイムマシンのある世界では歴史を変えるのは時間犯罪です。
クリスマス、神様の働きについて考えます。クリスマスは神様という人間とは全く違う方が、人間の歴史に介入しようとしている出来事です。神様にとって人間はもともと自分とは全く違う、別存在だったはずです。神様は人に関わらないことができたのです。しかし神様はご自分で人間の世界に、歴史に、直接介入することを決めました。神様は人間の未来を変えることを決めたのです。それがクリスマスです。
イエス様はそのように地上に生まれました。そして地上での人生は大勢の人の生き方を変えました。神様が歴史を変え、未来を変えたのです。今日の個所から、私たちの歴史、未来を変える神様について考えたいと思います。聖書を読みましょう。
イエス様の誕生について、マタイ福音書は唐突な系図から始まります。系図を重視するユダヤ人らしいとらえ方です。一方ヨハネ福音書はもっと時空を超えて理解します。世界・宇宙の始まり以前から、神様、イエス様がいたのだと言っています。まさに時をかける神です。
ルカ福音書は地上のイエス様を「時の中心」として順序だてて書いています。一方ヨハネ福音書の時間軸はまるでタイムトラベルのように複雑です。イエス様の誕生以前からイエス様は世界と関わりを持ち、複雑に私たちの歴史、時間に関わっていると書いています。これは「先在のイエス」と言われます。ヨハネ福音書の時間概念は複雑です。ヨハネ福音書にとってイエス様とは一体いつの時代の人なのか、よくわからなくなります。まるでタイムトラベラーのように、自由に時間を超えて存在し、時間軸を自由に行き来している様です。
14節のことばは肉となって私たちの間に宿られたとは神様が私たちの時代の、生活の中に入ってきたという意味です。私達に介入しなくてもよい神が、私たちの歴史に入り込んできたということです。そして人間の時間軸に複雑に入りこんでくるということです。
私たちは2023回目のイエス様の誕生を祝うという他にも、もっと時間を超える、時をかけるような喜び方ができるのではないでしょうか。私たちは時をこえて神様とつながることができるのです。私たちは2000年前の出来事を祝っています。でも私たちはそれを、もっと昔からのこととして、そしてもっと今のこととして、もっと未来のこととしても祝ってよいはずです。
神様が私たちの歴史を変えてきました。そしてそれと同じようにこれからの私たち一人一人の未来に、イエス様が関わってくれることを祝ってよいはずです。神様は時を超えます。私たちは、ずっと前から、そして今にわたるまで、そして未来も、私たちに直接関わってくださるイエス様の誕生を喜びましょう。お祈りします。
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 ヨハネによる福音書1章23節
普段教会は敷居が高いと言われます。これから教会に入ろうとする人は、急な階段を上るような敷居の高さを感じています。教会にスムーズに入るにはスロープの様なものが必要です。私たちの教会に置き換えると、このスロープはこひつじひろば、こひつじ食堂、こひつじまつり、こどもクリスマスなどでしょう。私たちはスロープを拡げてゆき、いつかたくさんの人と礼拝したいと思っています。愛と平和の神に続くまっすぐで、ゆるやかな道を作ってゆきたいと思っています。
ユダヤ教には当時、いろいろな信仰のグループがありましが、どれもそのグループに入るのは高いハードルがありました。それらと比較すると、新しい生き方を始めるバプテスマ・洗礼という入会方式はハードルが低いものだったはずです。それは血縁や身分、性別、経済力を問わない、誰でも入ることができる、平和的なグループだったのです。どんな人でもバプテスマによって新しい生き方を始めることができる、誰でもそれは受けることができる。それに共感する人々はどんどん増えて、多くの人がバプテスマを受けてゆきました。
ヨハネの「主の道をまっすぐにせよ」とはどんな意味でしょうか?それはつまり、神様のために平らな道を作りなさいということです。彼の目的は神様に通じる道をまっすぐ平らにし、みんなが通りやすい様にすることだったのです。みんなが神様にたどり着くことができるように、神の愛と平和にたどり着くことができるように、そのための道を平らに整える、それが彼の目的です。
これはイラストのイメージと重なります。私たちは今、バプテスマのヨハネと同じ使命をいただいているのかもしれません「主の道をまっすぐにせよ」「平らにせよ」。私たちはその声に促されて、道を造っているのではないでしょうか。
もうすぐクリスマスです。光を求めて多くの人が教会を訪ねて来るでしょう。私たちは平らでまっすぐな道を造りましょう。キリストの愛と平和にまっすぐに、緩やかに向かうことができるように、まっすぐで平らな道を造りましょう。みんなが入りやすい道を造りましょう。私たちにはヨハネと同じ役割が与えられています。お祈りします。
わたしは、人からの誉れは受けない。 ヨハネ5章41節
教会で互いをほめ合っている様子をよく見かけます。ほめることは関係を良くするだけではなく、その言葉を受けた人を積極的にします。それぞれの1週間は怒ってばかりだったかもしれません。でも日曜日に互いをほめ合うように、次の1週間はもっと他者を認め、ほめたいものです。ローマ12章10節に「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあるとおりです。
特に教会が大切にしていることは神様をほめるということです。神様をほめるとは、神様のすばらしさが言葉や歌などで表現されることです。教会では神様のすばらしさが語られ、賛美の歌が歌われています。そしてほめているのは、私たち人間だけではありません。神様も私たちほめて下さるお方です。今日はほめることをテーマに聖書を読みたいと思います。
41節でイエス様は「私は人からの誉れは受けとらない」とあります。どんな意味でしょうか。この言葉から私は十字架を連想しました。十字架の死は屈辱の死でした。ほめられることとは正反対、罵られて死にました。イエス様はこのようにほまれを受け取らなかったのです。アドベントに読んで、イエス様の誕生も連想しました。どこにも泊まる場所のない母マリアは、馬小屋で出産をしなければなりませんでした。社会の隅に追いやられて出産したのです。私は誰かを十字架に架けるのではなく、互いを認め合い、ほめ合いたいと思いました。そして誰かを、母や子を隅に追いやるのではなく、受け止めたいと思いました。私はこのようなイエス様の十字架や誕生の、不名誉や抑圧を二度と私たちの社会や生活で繰り返したくありません。この個所は互いを拒絶するばかりではなく、もっと認め合い、ほめ合おうと伝えているのではないでしょうか。
44節を見ましょう。「あなたたちは唯一の神から誉れを受けようとしない」とあります。ほめるのは私たちの側だけからではありません。神様も私たちをほめるのです。私たちはすでに唯一の神からほめられているのです。私たちは、あなたは頑張っている、すばらしいとほめられています。神様はちゃんと私たちを見ているのです。そしてそのほめ言葉をあなたに受け取って欲しいと思っているのです。私たちは神様がわたしたちをほめている、その言葉を受け止めましょう。
神様からほめられ、それを受け入れるなら、私たちはもっと積極的になることができるはずです。これをやろう、もっとやろうという気持ちがわいてくるはずです。そして私も他の人のよいところをもっとほめようと思う様になるはずです。私たちは、神様にほめられています。だから自信をもって歩みましょう。そして私たちが互いをほめ合う様に、神様のこともほめたたえましょう。
今日、神様をほめる、祈りと賛美を神様にささげてゆきましょう。そして私たちは互いにほめ合いましょう。神様が私たちをほめてくださっています。私たちも神様をほめ、互いにほめ合いましょう。お祈りします。
わたしはその方のもとから来た者であり、
その方がわたしをお遣わしになったのである。 ヨハネ7章29節
ふじみ教会で「最近、平塚教会を身近に感じる」と言ってくださる方がいました。うれしかったです。みなさんには最近になって身近に感じると思ったことはあるでしょうか?ふじみ教会、根塚さん、神学生、横須賀長沢教会も身近に感じるようになったことです。遠くにあると感じていたものを、身近なものとして感じるようになるという体験は神様と私たちの関係にもよく似ていると思います。神様から遠いと思う場所にも、神様は必ずいてくださいます。神様は私たちみんなの身近に、私たちみんなのそばにいてくださるお方です。そばにいるよという言葉は、愛していると同じ意味です。神様は私たちを離れず、そばに、身近にいてくださいます。
今日の聖書の個所を読みましょう。エルサレムの人々は私達よりも何百倍もイエス様のことをよく知っていました。そして、こんな身近に救い主がいるはずないと思いました。救い主はもっと劇的に登場するはずだと思ったのです。その感覚は私もわかるような気がします。しかし、イエス様はそれに対して28節大声で話をします。「みんな私のことは知っていると思いますが、みなさんは神様のことはまだまだ知らないはずです」群衆はこの言葉に怒りました。お前は私たちが思うような神ではない、お前には救い主らしさが無い。神から来たものとは、もっと神秘的で、特別なはずだ。神はこんな身近ではないと思ったのです。
しかし、救い主はそうではなく、身近な存在でした。イエス様が知っていて、エルサレムの人が知らなかったこと、それは神は身近な存在だということです。神様は近くにいる。そばにいる。身近にいる。みんなのそばにもう来ている。それがイエス様が伝えようとしたことです。イエス様が伝えた希望、それはこんなところに神はいないと思う場所にこそ神がいるという希望、神がそばにいるという希望でした。
クリスマスはまさしくそのような出来事です。クリスマスはこんな場所に生まれるはずがないと思う、貧しい、汚い場所で起きた出来事です。私たちはどこに神様がいるのか探すでしょう。光り輝く場所に神がいると感じるでしょう。でもそこだけではありません。暗い場所、悲しいことが起きている場所、私たちのよく知っている場所に神様はいて下さるのです。神様はそのようにしてみんなのそばにいるのです。
神がそばにいてくれる、そのことを心強く思います。そして私自身も誰かのそばにいて、人を愛し大切にする存在でありたいと思います。この教会自身も地域にそんな存在であって欲しいと思います。地域のそばにいる教会、地域を愛し大切にする教会でありたいと思います。そのようにして今週も互いに愛し合い歩みましょう。
これから私たちはパンを食べます。神を一番身近に感じる方法はパンを食べるという方法です。私たちが食べるパンは、神様の体を象徴しています。それが私たちの体を巡ります。これほど身近な神体験はないでしょう。この後の主の晩餐で、私たちはこのパンを食べて、神様を身近に感じましょう。お祈りをします。
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエス様は言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカによる福音書10章36~37節
律法の専門家が、イエス様を試そうとして質問をしました。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」これに対してイエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか?」と質問しました。そうすると彼はこう答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と。イエス様は、こう言われました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」すると、律法の専門家は「では、わたしの隣人とは誰ですか」と切り返しました。
イエス様はそれに答えないで、話をしました。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。そこに、ある祭司が、たまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。次に、レビ人がその場所にやって来ましたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱してあげました。そして次の日になったら、彼は出発しないとならないので、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して、「この人の面倒を見てあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と。
サマリア人はユダヤの国の人に忌み嫌われていました。しかし、半殺しになっていた人を可哀そうに思って宿屋に連れて行って介抱をし、宿屋の主人にお金を渡してまでしてこの人を介抱してあげて欲しい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。と言って出かけた。イエス様は、律法の専門家に言いました。あなたは、この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。そうすると律法の専門家は、言いました。「その人を助けた人です。」そこでイエス様は、言いました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。
私たちも、通り過ぎてしまうかもしれません。しかし、大切なのは、通り過ぎたとしても、思いなおして戻ってきて、傷ついた人の隣人になることであるとイエス様は言っているように思います。わたしたちが、隣人の隣人になろうとする時、真に皆が幸せで平和な社会が実現するのではないでしょうか。(根塚幸雄)
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。ローマ8章14節
今日のバプテスマ式はたくさんの人の喜びです。私もジェイソンさんの信仰生活のために、これからも祈ってゆきたいと思います。
今日はローマの信徒への手紙8章14節~17節までを読みました。14節には「神の霊によって導かれる者」という言葉があります。私たちはなんでも個人で決断する時代に生きています。そのような時代にあって、聖書は「神様があなたを導く」と言っています。素晴らしい信仰告白は個人の信仰の決断であると同時に、神の霊の導きの結果でもあります。私たちは神の霊に導かれる者です。
14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とあります。神様はすべての人を導きます。だからみんな神の子です。
私たちは15節、奴隷ではありません。私たちは神様が怖くて従うのではありません。私たちは神の愛を受けて、従う存在になります。私たちは愛されている実感を持って生きることができる、神の子です。さらに15節の「子とする」という言葉は養子縁組をするという意味の言葉です。神様は自分のこどもと何一つ変わらずに私たちを愛してくださっているのです
17節、たとえ神の子であっても、苦しみの時があります。あの神の子イエス・キリストも十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と叫びました。神の子にも苦しい時があるのです。しかし神は決して、子を見捨てません。神は苦しみの時も、叫ぶ時も、私たちと共におられます。イエス・キリストに復活があったように、私たちの苦しみの後にも、必ず希望が準備されています。神様と私たちは親子です。だからどんな苦しみも神と私を切り離すことができないのです。
神の子という言葉を聞くと、もともとそれはイエス・キリストの称号だったはずです。イエス・キリストこそ神の子です。そして私もあなたも、イエス・キリストもみんな神の子です。神様は私たちに、神の子として地上にこられ、イエス・キリストととして歩まれたあの方と同じ役割を与えて下さっています。私たちはイエス・キリストのように、神の子として、隣人を愛するように求められています。
17節には、私たちが神の相続人だともあります。神様の看板を引き継ぐことになったと言ったらわかりやすいでしょうか。神様の相続人になるとは、愛するということを引き継ぐものとなったという意味です。私たちは神から受けた愛を、また次の人へと途絶えることが無い様に、次の世代へ受け渡してゆきます。愛を受け、渡してゆくこと、それが神の子の役割、相続人の役割です。
16節には、私たちは確かに神の子であることを、神様とお互いが証明しているとあります。それはつまり私たちはお互いを神の子として愛し合おうということです。私たちはお互いをイエス・キリストと同じ、神の子として大切にしましょう。
今日、新しく従う命が与えられました。私たちは神の子です。私たちは愛する1週間を、愛する人生を歩んでゆきましょう。お祈りします。
わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 ローマの信徒への手紙8章39節
今日は召天者記念礼拝です。天に召された方たちを覚えて礼拝を献げます。仏教では死の7日後に三途の川を渡り、49日後にあの世へと行きます。そしてその後、来世があると信じられています。生まれ変わってまた、別の時代を生きようになるのです。仏教では、死んだ後どのようになるのか、明確な順序があり、生まれ変わるという明確な行先が示されています。ではキリスト教では死後をどのように考えるでしょうか。聖書には死んだ後について様々なことが書いてありますが、はっきりとしたことは書いていません。神様は死に向き合う私たちに何を語り掛けるのでしょうか。聖書に聞いてゆきたいと思います。
今日の個所は死についてはっきりと宣言をしていることがあります。それは「死さえも神の愛と私たちを引き離すことができない」ということです。死んでも続くものがあるのです。それは神様の愛です。人間の死は多くの意味で節目です。死はたくさんの事との別れをもたらします。だからこそ私たちは、死はすべての終わりだと思うのです。でも聖書は死すらも、神様の愛と私たちを引き離すことができないと語っています。
私たちには人生に行き詰まる時があります。人生に行き詰まり、もうこれ以上できることはない、できないと思う時があります。しかしその時も、神様の愛は私たちから離れません。何ものも私たちから神様の愛を引き離すことはできないのです。
私たちが何とか神様の愛にしがみつくのではありません。神様はどんな時も私たちを離さないお方です。神様の愛が私たちを離れないのです。神様が私たちをつかみ、神様の愛から離れないようにしてくださるのです。
現在も未来も、神様の愛を私たちから引き離すことはできません。人間同士の関係は時間がたつと変わり、薄れていってしまうものです。でも神様の愛は違います。高いところ、低いところとは、宇宙全体を意味する言葉です。宇宙全体よりも神様の愛が勝るということです。どんな被造物も、宇宙すらも、空間すらも神様の愛から私たちを引き離すことはできないということです。神様の愛は時間も、空間も超えて私たちから引き離れないのです。そして神様の愛はたとえ死んだとしても、私たちに変わらずに注がれ続けます。神様の愛は死すらも私たちから引き離すことができないのです。私はそこに私の希望を置きたいと思います。
写真の方たちは今日も神様に愛されています。中には時の経過とともに、この教会との関係が徐々に分からなくなってきている方もおられます。でも神様の愛は引き離れません。どんなに長い時間も、空間も、死も神様の愛からこの方たち、私たちを引き離すことができないのです。
私たちは今この地上の生涯を一生懸命生きましょう。神様からの変わらぬ愛を受けて、精一杯を生きてゆきましょう。お祈りいたします。
このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。 ガラテヤ6章14節
礼拝の中で5回、ガラテヤ書を読んできました。ガラテヤ書を読んでいる最中に、イスラエルとパレスチナで戦争がはじまりました。イスラエルとパレスチナの上に平和と憐みがあるように私たちも祈ってゆきましょう。
パウロは繰り返し割礼を批判しています。割礼とはユダヤ教の入信の際に、陰部の皮を切り取る儀式のことです。当時は教会に2グループの人がいました。生まれた時に割礼を受けたユダヤ人と、他の宗教から来て割礼を受けていない異邦人です。ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者に、神様を信じるならば絶対に割礼を受けるべきだと言いました。しかしこれはかなりハードルの高いことです。異邦人キリスト者は割礼を受けるべきか、当時の教会で大きな問題になっていました。
この割礼は、信じることの象徴ということよりも、ユダヤ民族の象徴という意味が強くありました。割礼はユダヤ民族の誇りだったのです。割礼を受けることはユダヤ民族の優位性を受け入れることにつながりました。自分の民族を捨ててユダヤ民族に同化する、そのような意味でした。パウロはそのような割礼を批判し、必要ないと言っています。それぞれ今の民族の、今の暮らしの中で、神様を信じ、愛の実践を行うことが大事だと教えたのです。
マウントを取るという言葉があります。相手との会話の中で、自分の方が上で、優位に立っているということを示す行動です。割礼はマウントとも言えるでしょう。ユダヤ人が悪いと言っているのではありません。人間はこのような態度を取ることが多くあります。自分が優位に立とうとすること、自分の正しさを押し付けてしまうことが多くあります。それは日常でも、世界でもそうです。
パウロはイエス・キリストの十字架を誇ると言っています。十字架とはイエス様が愛に生きようとした時に起きた拒絶です。イエス様が愛に生きようとした時、多くの人がその価値観、生き方に拒絶を示しました。その拒絶の結果が十字架です。しかしそれに生き方に従う人もいました。それは人を愛するという生き方でした。パウロは見捨てられ、拒絶された、愛するという価値観を誇りにしています。
16節の原理という言葉には基準という意味があります。世界の基準は豊かさや強さです。それを争って決めようとしています。しかし私たちの基準はそうではありません。私たちの基準は十字架です。愛するという生き方です。
私たち教会とはどんな集まりでしょうか。私たちはもちろん、マウントを取り合うためにここに来ているのではありません。私たちは互いを愛する生き方を確認するために、今日も集っているのではないでしょうか。それは拒絶され、苦労が多い生き方です。でも私たちの誇りは十字架です。その愛に誇りを持って生きようと、私たちは今日も集まっているのではないでしょうか。それが十字架を誇るという意味ではないでしょうか。お祈りします。
人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 ガラテヤ2章16節
2018年に約40年ぶりに新しい聖書翻訳「協会共同訳」が出版されました。これまでの研究成果が凝縮された翻訳です。16節は「キリストへの信仰」から「キリストの真実」という翻訳に変更されました。このことを見てゆきます。
これまで16節「キリストへの信仰(信頼)」だったものは「キリストの真実(信頼)」に変わりました。「へ」が一文字抜けました。文法上はどちらにも翻訳可能です。キリストへの信仰の方が意味が分かりやすかったでしょう。それは私たちの信仰の対象がイエス・キリストだからです。この考え方は私たち人間がいかにキリストを信じるかが大事だという見方です。信仰義認とも共通する考えです。
一方、近年は「キリストの信仰(真実)」という翻訳を支持する人も増えてきています。これは大きな解釈変更です。「キリストの信仰」だとするなら、それはイエス様の持っていた信仰のことを示します。イエス様の信仰とは、イエス様がどのように神様を信頼し、生きたのかということを示します。イエス様を信じる「キリストへの信仰」が大事なのか、それともイエス様のように生きる「キリストの信仰」が大事なのかという大きな違いがあるのです。パウロが本当に語ろうとしたのは何かという全体の理解の変更にもつながる議論です。
私自身はパウロが語ったのは信仰義認ではなく、キリストの様な生き方の勧めだったと考えています。その立場からは「キリストの信仰」を支持したいところです。しかし私は迷っています。おそらくパウロはここで、私たちは律法によって一つになっているのではなく、信仰・神様の約束を信頼することによって、ひとつになっているということを語ろうとしています。考え方が違っても、共同体が一致していることは何か、それは神様を信頼する事だと語ろうとしています。だとするなら、この個所はやはり「キリストへの信仰」と訳されるべきだと思います。
行動や生き方、律法を守るかどうかはそれぞれ違ってバラバラで良いのです。でもその中でキリストへの信仰・信頼が私たちを一つにするのです。パウロはそのような一致を語っているのではないでしょうか。私はそのような理由で今日の時点では「キリストへの信仰」を支持したいと思っています。
私たちはそれぞれ違う人生、違う考えを持ちますが、キリストを信頼することにおいては一致できるのです。キリストへの信仰か、キリストの信仰か、どちらかに決めることはできないのは、信仰か生き方かどちらかを決めることができないこと、生き方が一つに固定できないことともつながっているでしょう。
私たちはどう生きるのか、お互いに何を信じ、どう生きているのかを聞きながら、歩んでゆきましょう。ともにキリストへの信仰、キリストの信仰を持ち、それぞれの1週間を歩んでゆきましょう。お祈りいたします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。2本目のろうそくに明かりをともし、クリスマスまでの日付を数えています。私たちはこどもの声がする礼拝を続けています。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。
もうすぐ平塚に引っ越してきて7年になります。私は一か所に長く住んだ経験があまりありません。人生で10回以上の引っ越しを経験しました。これまで深い近所付き合いというものにあまり経験がありませんでしたが、平塚では近所の方との交流を楽しんでいます。平塚市の人口は約20万人で、ここ豊原町の人口は約1000人ほどだそうです。7年ですが、住んでいるといろいろな人に関わる機会があります。今年は町内会の組長が回ってきました。なんとなく地域の人の顔がわかるようになってきました。
小さな町内会です。いろいろな人間関係や問題がありながらも、うまくやっているようです。豊原町はまだ地域の触れ合いが残る良い町だと思っています。このくらいの人数がなんとなく顔が分かってちょうどよいものです。小さい頃から平塚・豊原町で育った人々は、あそこの家はこうだとか、どこそこの人はこうだと、驚くほど地域の人ことをよく知っています。それは長年の交流が積み重ねなのでしょう。この町が人と人との距離感がとても近く、温かい場所であることを実感します。
やはりなんでも聖書の時代と重ね合わせてしまいます。当時のパレスチナの人口は50万~100万人くらいのだったのではと言われます。ガリラヤにも数万人規模の人口の都市がいくつか存在したようです。考古学的な発掘によればガリラヤのカファルナウムは人口1500~2000人、ナザレは500人以下の村だったと推測されています。ナザレは町内会ほどの小さな村だったのです。多くの村では中央に広場があり、その周辺を家が取り巻くかたちで集落を形成しました。広場は公共の空間で村人たちの話し合いやお祭の場所になりました。家は集合住宅で、数家族が住む長屋のような家が多くあったそうです。中庭もあり、そこは家族や隣人との交流場所で、共用のかまどや水槽などが置かれていました。当時の人々の暮らしを思い浮かべて、想像をします。
イエス様はこのナザレでどのように暮らし、育ったのでしょうか。ナザレの人々にとってイエス様はごく普通の人だったようです。55節には「この人は大工の息子ではないか」とあります。ナザレの人は聖書で伝えられている神秘的なクリスマス物語について、何も知らないようです。イエス様は普通の男の子、小さい村の近所のこどものひとりだったのです。イエス様はナザレという500人以下の町で集合住宅に住む、長屋の子どもでした。今の私たちから見ると家族の様な交流のある共同生活の中に生きていたはずです。ナザレの人々は、自分たちの村、まるで小さな町内会のようなコミュニティから、世界を救う宗教指導者が生まれることを想像できなかったのでしょう。
ナザレのあるガリラヤ地方は、豊かな穀倉地帯でした。農村地域だったのです。聖書にはペテロの言葉が「ガリラヤなまりだ」と言われる場面があります。エルサレムなどの都会に住む人にとってガリラヤはそのような小さな田舎町、とるに足らない町でした。異邦人のガリラヤという言葉もあります。異邦人との交流が多かったガリラヤからは、良いものは出ないと言われていました。旧約聖書にはいろいろな町の名前が無数に登場しますが、ナザレという町の名前は一度も登場しません。そのような歴史に登場しない町、小さな町の、共同住宅に住む、普通の男の子が、ある日預言者として、様々なことを教えだしたのです。奇跡を起こし始めたのです。
ナザレの住民の反応は容易に想像できるでしょう。いつもイエス様が駆け回っていたナザレ村の広場に、大人になったイエス様の姿があります。それは昔から変わらない光景です。「あそこにいるのはマリアの子イエスだろ。知っているよ」。イエス様はそのような距離感で一緒に暮らした人々に現れました。だから57節にもあるように「人々はイエスにつまずいた」のです。受け入れられなかったのです。それはそうです。それは信じられないでしょう。なぜなら距離感が近すぎるからです。憧れの町エルサレムで生まれた救い主なら信じたかもしれません。しかし、まさか小さな自分の住んでいる、誰からも見向きをされない小さな村から、預言者・救い主が登場するとは信じることが出来ませんでした。しかももともとよく知っている、自分たちと一緒に過ごしていたこども・イエスが救い主だなんて、とても信じられなかったのです、人々は奇跡が起きようとも、教えが素晴らしかろうとも信じなかったのです。だってそれがイエスだったからです。彼らにとってイエス様は距離感が近すぎたのです。
ナザレでは特に強くこのような反応がありました。しかしこれはナザレだけでおきた反応ではありません。この反応は他の地域での先取りとして起きています。イエス様はどこに行っても、あのガリラヤから?あのナザレから?ナザレってどこ?と言われたはずです。何百年も待った人が、ガリラヤからナザレから生まれるはずはない、今この時、自分の目の前に居るわけがない。見た目とか意外と普通なのね。みなそう思ったでしょう。何百年も待った救い主が、自分の前に居る、それぞれの救い主イメージとはかけ離れていました。ただ普通の人間が目の前に、近くにいただけだったのです。その距離感は近すぎました。きっと私たちがそこにいてもそう思ったのでしょう。
もしかして私たちがそこに居たら「あなたが救い主のはずがない」と他の人々と共に怒ったかもしれません。そんなうそつきは十字架に掛けろと一緒に叫んだかもしれません。イエス様の十字架には侮辱する看板が立てられたと言われています。それは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という看板でした。その看板はナザレからユダヤ人の王が出るはずがないという侮辱だったのです。しかし、多くの人が復活の後、イエス・キリストは救い主であったということを認めるようになりました。
さらに復活のその後まで見通すと、イエス様は復活の後、ガリラヤに行くと言います。やはりまたガリラヤなのです。それは、神様が私たちの日常の中、見過ごされがちな場所にこそ現れるというメッセージの表れではないでしょうか。人々が魅力を感じる中央ではなく、人々が見過ごしている場所、ガリラヤでまた会おうと言います。イエス様は再びガリラヤを選んだのです。
この物語は、私たちにとって神様とはどのような方なのかを示唆しています。それはつまり、神様とは私たちにとって近すぎるくらい、近いお方であるということです。今ではない、ここではない、この人ではない、そう思う場所に、神様は現れるのです。それが神様の在り方なのです。クリスマス物語で私たちは知っています。神様と等しいお方、イエス・キリストは人知れずに馬小屋で生まれ、他の人と同じ様にナザレで育ち、地域の中で育ったのです。そしてその後、待ち望んだ救い主とは、そのように私たちに近いあり方ではないと十字架に掛けられたのです。しかしそれが本当の神様の在り方でした。ガリラヤの人はあまりにも近すぎる神、自分のイメージと違う神に人々は困惑しました。それが2000年前に起きたことでした。
この物語を私たちの物語として聞きましょう。神様とは私たちの近くにいる存在です。それは近すぎるほどに近くにいる存在なのです。まだ私には神様なんて来ない、こんな私に神様なんて来ない、そう思っている方は注意が必要です。そう思う人の心に神様はもうすでに近すぎるほどに来ているのです。今ではない、まだ私には神が来ていないと思う方も、注意が必要です。もうそこにすでに神様は近すぎるほどに来ています。イエス・キリストを、これは私の思う神の姿ではないと思う方にも注意が必要です。神様はそのようにして十字架に掛かったお方なのです。十字架の姿であなたの近くにすでにおられます。
神様はこのように私たちのイメージを超える場所と、時間に現れるお方です。そしてそれは輝かしい姿ではないのでしょう。その距離感も私たちの心に近すぎるくらい近くにすでにいるのです。ここではない、今ではない、私ではないと思う場所にこそ、神様は現れるのです。
私たちはアドベントの2週目を迎えています。神の一人子イエスは、この地上の貧しいガリラヤのナザレで生まれ、育ちました。ごく普通のこどもとして育ちました。神の子であるにも関わらず、そのようなあり方選びました。それは神様は私たちのすぐそばに、近くにおられるという象徴となっています。イエス様は私の心に近すぎるくらい、近くにいるのです。私たちの神様はそのようにして、私たちと共にいて下さり、私たちを導いてくれるのです。
クリスマスをそのことを感じながら迎えてゆきましょう。私たちのすぐ近くに神様がいます。私たちのすぐ近くに神様の愛があります。それを私たちの普段の生活の中で感じ取ることができるでしょうか。私たちの生活の中で神様が近くにおられることを探してゆきましょう。私たちは見過ごされがちな場所に、隅に追いやられた場所に、寂しいと思う場所にきっと神様がいる、その存在を見つけることができるはずです。アドベントが近づいてきています。神様の愛は、私たちに近づいてきています。神様はいつも近すぎるくらい、私たちの近くに居て下さるお方です、そのことを忘れずにアドベントを過ごしましょう。お祈りをいたします。