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「信じるために食べる」ルカによる福音書24章13~35節

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。ルカによる福音書24章13~35節

 

今月は主の晩餐について考えています。今日は信仰とは体験しないとわからない一面がある、信仰とは体験してこそわかるものだということについて考えます。

ソムリエのためのワインのテキストには様々ことが書かれています。しかし一番大事なのはワインを実際に飲んでみる事です。これに勝ることはありません。どんなに説明をされても味や香りは体験しないとわかりません。それはスポーツや音楽、料理にも共通します。今日の聖書の個所もどんなに知識として持っていても体験をしなければわからないことがあると教えています。

聖書の二人はイエス様を直接確かめようとしてエルサレムに向いました。しかし二人が見たものは、イエス様の十字架でした。そして彼らはイエス様が復活をしたという不思議な話も聞きました。二人は一体に何が起きたのか十分に理解できないまま、帰ることになったのです。そんな彼らに復活したイエス様がそっと現れます。

覚えておきましょう。私たちの神様は私たちが良い行いをした時に登場するのではありません。願いが叶わず、出来事の意味が十分に理解できず、うつむき歩いて帰る時、神様はそっと近づき、寄り添うように現れるのです。そのようにして神様は私たちに伴ってくださるお方です。この物語の大切なポイントです。

今日はこの物語から主の晩餐について考えます。二人がエルサレムの出来事を説明する様子はまるでキリスト教全体の説明のようです。彼らは事前に十分に学び、イエス様から直接、熱心に教えを受けていました。しかし彼らの目が開かれたのは、主の晩餐を受けた時でした。二人はこの特別な食事を体験して、初めてイエス様が復活をして共にいるということに気付きました。二人はこの食事・主の晩餐を通じて、それがわかったのです。

この物語は私たちの主の晩餐とどんな関係があるでしょうか。私たちは信じてから食べているのでしょうか。それとも食べることによって信じるようになるのでしょうか。私はあいまいかもしれません。信じるために食べているような気がしています。私たちは主の晩餐について食べてみなければわからないこと、食べればわかることがあります。私たち自身もこの二人のような存在です。いろいろ知っているけれど、食べてわかるようになる存在なのです。私は信じてからパンを食べるのか、パンを食べてから信じるのか、聖書はどちらの可能性にも開かれていると思います。

私たちはどのようにパンを食べるでしょうか。きっと信仰とは体験しないとわからない一面があるのでしょう。そのことに思いを巡らせながらまた主の晩餐をしてゆきたいと思います。イエス様はきっとそのような迷いや混乱に伴ってくださる方です。論じ合うそのそばにそっと近づき、導いてくださるお方です。お祈りします。

 

「よく確かめてから食べる」 Ⅰコリント11章17~34節

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節

 

こひつじ食堂で一番混乱するのは、ご飯がなくなったときです。計算して準備しても時々ご飯が足りなくなってしまう時があります。全員が楽しく食べるためには、きめ細かい確認と、配慮が必要です。それをみんなで確認します。それぞれ自分の分があるかを確かめているのではありません、全員分、足りるかどうかをみんなで確かめながら食堂をしています。それはとても大切な配慮だと思います。今日は聖書の食事の中にどんな配慮があったのかを見てゆきます。

コリント教会では礼拝の後、みんなで持ち寄りの食事会を行っていました。当初はこれを主の晩餐と呼んでいました。しかし食事の時に先に食べて、先に飲んでしまう人がいました。後から空腹の人がやって来る時には、食べ散らかした残り物しかないという状態でした。コリント教会では食事の際に、全員分が足りるかという配慮が全くなく、自分の事だけを考えて食事をしていたのです。パウロは食事会をするならば全員が食べることが出来るように、食事の量や内容や、持ち方を良く確かめて、配慮しなさいと言っています。

自分だけ食べてしまう、その根底にはどんな考えがあったのでしょうか。他者への無関心や無理解があったでしょう。食事の事だけではなく忘れられている人、一人になっている人、見下されている人、後回しにされた人がたくさんいたはずです。

パウロはそのような共同体になっていないかよく確かめるように言っています。パウロがここで伝えようとしていることは主の晩餐を自分の内面や罪深さと深く向き合って、よく確かめてこのパンを食べる様にと言っているのではありません。

ここでよく確かめるべきことは、他の人との関係性です。自分の食べ物、自分の事、自分の罪を考えて食べるだけではなく、他者の食べもの、他者の事、他者への配慮をよく確かめて食べる様にと言っているのです。

パウロはふさわしくないままで食べてはいけないとあります。わたしたちはどこまで、その食事にふさわしい者でしょうか。私は自分自身をふさわしくないと思っています。周りの人を良く確かめて配慮することがまだまだ足りないと思っています。そのような中でも、主の晩餐を食べるのですけれども、のども通らないような気持ちで食べています。

私たちは食事の時だけではなく様々な場面で、忘れられている人、一人になっている人、後回しにされている人がいないかに目を配り、よく確かめたいと思います。それが今日の聖書箇所が指し示している生き方ではでしょうか。

ひとりも取り残されず、ひとりも忘れられない、そのようによく確かめられ、配慮された共同体が神の国と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは今週1週間、それぞれの場所でそれをよく確かめて生きてゆきましょう。神様はそのようにして私たちのいる場所に働き、導いてくださっています。お祈りします。

 

「縁食的主の晩餐」マタイによる福音書26章20~30節

夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。

マタイによる福音書26章20節

 

7月から主の晩餐について考えます。主の晩餐とはパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会では洗礼を受けたクリスチャンが食べるとしています。私たちの教会で主の晩餐を考える時、こひつじ食堂のことも考える必要があるでしょう。同じ場所でパンが分かち合われていることは互いに影響しあいます。

こひつじ食堂のことを共生文明学の観点から論文としてまとめてくれた方が私に「縁食」という言葉を教えてくれました。どの文明でも共通して、共に食事をすることは仲間であることを確認する意味があるそうです。どのように食べるかは、どのような共同体を作るかにつながっています。その中で彼が教えてくれた「縁食」とは誰と一緒に食事をしているのかあいまいな食事を指します。「縁食」はこひつじ食堂でもよく見かける光景です。例えば一人で来たけれど、ボランティアと顔見知りで何か話しながら食べています。それは「共食」でも孤食でもない「縁食」です。

私たちの教会の主の晩餐はどうでしょうか。私たちの教会の主の晩餐は限られた人だけでする食事です。この食事は誰がこの共同体に属しているか、誰が共同体に属していないのかを明確にします。一緒に食べた人は結束します。一方、一緒に食べていない人は何を感じているのでしょうか?どう食べるかは、どんな共同体を作るかを決めています。私たちの主の晩餐においても縁側が必要でしょうか?今日は聖書から私たちの主の晩餐にどんな可能性があるのかを考えてゆきたいと思います。

マタイによる福音書26章の食事は最後の晩餐と呼ばれます。12人の弟子に限定されていた食事が私たちの主の晩餐のルーツです。しかし12人の中に洗礼を受けた弟子は一人もいませんでした。彼らは洗礼を条件とせず、ただ主イエスに招かれて、パンを与えられたのです。この食事会は参加者の中に信じる人も、信じない人もいた非常に幅のある集まりだったのです。

そしてさらにイエス様の血と十字架は、信じていない人、裏切り者、不特定多数の多くの人々、多様な人々、まだ出会ったことすらない人々のためにも流されるものでした。この食事も多くの人々との出会いに向けられた食事だったのです。

私はこのように最後の晩餐を見る時、そこに「縁食」の要素があると思います。もともとは共同体性の強い食事でしたが、でもそれを越える大きな可能性を持った食事でした。それが私たちの主の晩餐のルーツなのです。どんな食事をするか、それはどんな共同体を作るかに直結しています。どんな主の晩餐をしてゆくのかは、どんな教会を作るかに直結してゆくでしょう。私たちはどんな主の晩餐をしてゆくのでしょうか?マタイ26章の主の晩餐には限定されている様に見えて、実は開かれている部分があります。そこに縁側のような部分があるのではないでしょうか。

この後、私たちは主の晩餐を持ちます。共に主イエス・キリストとの食事を思い出しましょう。そしてそこにいた様々な人々を思いめぐらせましょう。お祈りします。

 

「他者を励ます使命」使徒言行録27章13節~44節

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。     使徒言行録27章22節

 

使徒言行録には、イエス様の弟子たちがどのように生き、信仰を実践したかが記されています。今日もこの使徒言行録から、困難の中でも希望を持ち、他者を励ます生き方について学んでゆきましょう。パウロは船でローマに向かう途中、激しい嵐に遭遇しました。人々は積み荷を捨てて、船を軽くしようとしました。しかしそれでも状況は改善しませんでした。彼等は希望を失っていました。

しかしそんな時、一人だけ希望を失わなかった人物がいました。それがイエス・キリストの弟子パウロです。パウロは希望をもって人々を励まし続けました。そしてこのような希望を持った人物が船の中に一人でも存在すると全体の雰囲気は大きく変わります。このように希望を持ち続け、他者を励まし続けることは、キリストの弟子の大事な役割です。希望を持っているのは一人でよいのです。私たちはそのような一人になっているでしょうか。私たちはたった一人になっても、まだ希望があると言える存在になりたいと思います。それがキリストの弟子になるということです。

希望をもってあきらめない人がいる中で、逃げ出した船員がいたとあります。それはとても悲しい光景です。彼らは自分たちだけ助かろうとしました。これは他者を犠牲にし、見捨てるという罪です。キリストの弟子パウロはこのような行動を見逃しません。それは全員が助かる道ではないと引き留めます。全員で助かろうとみなを励ましたのです。全員が生きる道を求める、それがイエス・キリストの教えでした。誰かが十字架に掛かって犠牲になって、みんなが助かればいいのではありません。神様は一人も漏れることなく、命を守ろうとするお方です。

36節、この後船に乗っていた人びとは食事をしたとあります。それはまるで主の晩餐のようです。その食事をすると一同に元気が湧いてきました。全員が励まされて、全員で助かろうと思う様になったのです。船の人々は大きく変えられてゆきました。一人のキリストの弟子から、主の晩餐のような食事から全体が変えられてゆきました。全員が助かるために、すべての食べ物を捨てる決断をしたのです。自分の命だけではなく、みんなが助かるために、大切な荷物を捨てました。そして全員が無事に上陸することができたのです。

今日の物語、船は様々なものに置き換えて考えることができます。教会も一つの船です。家族も一つの船かもしれません。職場や地域も一つの船でしょう。それぞれ困難に直面します。でも一人の弟子の存在が全体の雰囲気を変えるのです。

その船にキリストの弟子が一人いればいいのです。人を励まし、共に命をつないでいこうとする希望を示す人が一人いると、全体の雰囲気は大きく変わります。全員の命をつなぐ選択へと導かれてゆくのです。私たちはそれぞれの置かれた場所で、その一人になってゆきましょう。神様の言葉に聞きながら、他者を励まし、希望を持つその一人になりましょう。お祈りします。

 

「命こそ宝 平和への方向転換」使徒言行録16章16~34節

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。          使徒言行録16章25節

 

今日6月23日は79年前、沖縄で組織的な戦闘が終わった日です。私たちはこの日を「命どぅ宝の日」と呼び、平和を考える時として大切にしています。沖縄の人々は激しい地上戦の中で、洞窟に逃げ込みました。そしてそこで、どう死ぬか、どう殺すかでなく、どうやって命をつなぐかを考えました。彼らは洞窟の中で「命どぅ宝」命こそ宝だと互いに励ましあい、何とかして生きようとしました。

沖縄にはあの時から今も大きな基地がいくつも存在します。私たちは普天間、辺野古を含めて沖縄、日本、世界のすべての基地がなくなることを祈り願っています。沖縄の普天間基地の前で毎週、戸塚駅の駅前で月1回、基地に反対して讃美歌が歌われています。世界に平和に目覚めて欲しいと願って、世界の人々に暴力ではなく、愛と平和を選んで欲しいと願って歌っています。小さな行動でも私たちは軍事力に反対をし、暴力の無い平和を求めてゆきたいと思っています。今日は神様の示す平和と、平和を目指す生き方について考えたいと思います。

世界が隣人を愛し、敵を憎めと教えている中で、イエス様は敵を愛しなさいと教えました。その平和の教えを世界に広めていた弟子がパウロとシラスでした。しかしパウロは牢獄に入れられることになりました。パウロは何度も鞭に打たれ、牢に投げ込まれました。足には足かせをはめられ、自由を奪われました。そして暴力の象徴である武器・剣もった看守がそれを見張っていました。暴力が支配する牢獄の中で、彼らはなんと歌いました。きっと平和を願う歌、自由を願う歌、神様への感謝の歌だったでしょう。圧倒的な暴力に対して歌を歌って何になるでしょうか。でも彼らは歌いました。その歌から、賛美から奇跡が起こされてゆきます。

地震は神様が起こす奇跡の象徴です。彼らは逃げることができるようになりました。看守は自死を選ぼうとします。しかしパウロはそれを止めます。死んではいけない、どんな命にも暴力を向けてはいけないと教えたのです。私にはこのパウロの言葉が「命どぅ宝(命こそ宝)」という言葉に聞こえます。それは平和を望む言葉です。そして看守はそのイエスの平和の福音に救われ平和へと方向転換します。

彼はパウロの傷を洗いました。他者の傷の痛みを知り、共感をするものとなったのです。それは暴力から愛への転換でした。敵を愛しなさいという教えの実践でした。彼はバプテスマを受け、そして食事を共にしました。暴力で支配してきた者と同じテーブルで食事をしたのです。これは神様によって起こされた出来事です。

私たちもこの看守のような、暴力から愛への転換をしたいと願います。世界が暴力を辞めて、愛に目覚める様に神様に求めましょう。私たちにできることは賛美歌を歌うことです。神と人に向けて平和の賛美歌を歌いましょう。沖縄からまずその歌が聞こえます。私たちの賛美から世界に平和が広がるように祈ります。平和こそ宝、命こそ宝であることが伝わるように祈ります。お祈りします。

 

「神が与える調和」使徒言行録15章1~21節

それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。

使徒言行録15章19節

 

私たち平塚バプテスト教会は今日、創立74周年を迎えることができました。本当に神様のおかげです。74年間多くの課題がありました。バプテストは民主的に話し合って決めることを大切にしています。話し合いは疲れるものですが、私たちは多くの困難を話し合うこと、互いの理解を深めることで乗り越えてきました。そしてこれからの私たちも大きな決断のための議論を控えています。もし神様のご計画ならば、今後の計画が成し遂げられてゆくはずです。

物事を決めてゆく時、大事なことは、時に妥協し、調和し、折衷案を持つことです。建築はどうしても、全員の要望を盛り込むことは難しいものです。私たちも大きな議論をするとき、互いに妥協し、調和し、折衷案を持ち前に進んでゆくことを覚えておきましょう。今日は聖書に記録される会議もそのような出来事です。

今日は使徒言行録のエルサレム会議をみてゆきます。初期のキリスト教には二つのグループがありました。ユダヤ教の律法を重視するグループと、そうでないグループです。この二つのグループは決して対立をしていたわけではありません。人や献金を送ったりする良好な関係でした。ただどこまで律法の実践を求めるべきか、二つのグループは意見が分かれていました。その妥協点を探るために、エルサレムで会議をすることになりました。このエルサレム会議はどちらが正しいか決着をつける会議ではありません。どうすればキリストの弟子として一致し、仲間であり続けられのるかを話し合うために持たれたのです。

決定の内容は伝統的にユダヤの律法を重視する人が守ってきたことの一部でした。そしてこの4項目以上の事は求めないという寛容な決定でした。大部分は食べ物に関する取り決めです。そしておそらくこれは律法を守る人とそうでない人が一緒に食事をする時の決まり事でした。律法を重視する人と一緒に食事をするときにおいては、ユダヤの習慣を尊重、配慮をするようにと決められたのです。うまい妥協点だと思います。この調和重視の案によって温かい一致が生まれました。両方が喜ぶことのできる決定でした。よい決め方だったと思います。

その会議には神様の力が働いたのでしょう。神様はこのようにして共同体を導いてくださるお方です。互いに話し合い、折り合いをつけ、私たちを結び付けて下さるのが、神様の働きなのです。私たちの歩んだ74年間もそれが起り続けて、私たちは今に至るのでしょう。創立記念の時、これから起きる様々な議論に心を準備したいと思います。その時このエルサレム会議を覚えておきましょう。

私たちはいろいろな違いがあります。でも神様が導いてくださって妥協し、調和し、折衷となる選びが示されてゆくはずです。エルサレム教会では互いを尊重し、互いに苦しまない決定が選ばれました。それは誰かの喜びと励ましになる決定でした。私たちもこれからそのような選びへと導かれてゆくはずです。お祈りします。

 

「愛は骨折り損」使徒言行録11章19~30節

すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。 使徒言行録9章18~19節

 

今日から聖書の使徒言行録を1ヶ月間読んでゆきます。みなさんは価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?キリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変えるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。聖書の教えを価値観の中心にするスタートが洗礼(バプテスマ)です。

洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。今日は聖書のサウロという人物から、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。

十字架の後、イエス様の教えた愛の輪が広がっていました。そしてもともとの枠組みであるユダヤ教から大きくはずれる様になりました。サウロはユダヤ教を信仰していましたがそのキリスト教を激しく否定していました。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。

そんなサウロにある日突然、運命を変える出来事が起こりました。それによって彼は自分が否定し、殺そうとしていた人の助けを必要としました。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。

ここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロの価値観の転換です。これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。彼の変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化でした。彼は弱さと無力の中で、その価値観が、生きる態度、他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人に敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた変化でした。

神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。

本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。

 

「他者を尊重する方向転換」使徒言行録9章1~22節

すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。

使徒言行録9章18~19節

 

今日から聖書の使徒言行録を1ヶ月間読んでゆきます。みなさんは価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?キリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変えるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。聖書の教えを価値観の中心にするスタートが洗礼(バプテスマ)です。

洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。今日は聖書のサウロという人物から、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。

十字架の後、イエス様の教えた愛の輪が広がっていました。そしてもともとの枠組みであるユダヤ教から大きくはずれる様になりました。サウロはユダヤ教を信仰していましたがそのキリスト教を激しく否定していました。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。

そんなサウロにある日突然、運命を変える出来事が起こりました。それによって彼は自分が否定し、殺そうとしていた人の助けを必要としました。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。

ここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロの価値観の転換です。これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。彼の変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化でした。彼は弱さと無力の中で、その価値観が、生きる態度、他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人に敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた変化でした。

神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。

本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。

 

「つながっていようよ」ヨハネ15章1~10節

「つながっていようよ」

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。   ヨハネによる福音書15章5節

 

毎週水曜日の「祈祷会(きとうかい)」という集会では聖書から感じた自由な感想を話し合います。互いの感想を聞いていると、神様の事、生き方のことたくさんの気づきを得ます。祈祷会では祈りの時も持っています。互いのこと、みんなで祈りたいことのリストをもとに黙祷し、心の中で神様に祈ります。私はこの「祈祷会」をとても大事だと感じています。祈祷会が神様とのつながりだけではなく、他者とのつながりをも感じる場所だからです。今日はつながりをテーマに宣教します。ヨハネ福音書15章1~10節から3つ大事なつながりを紹介します。

まず一つ目は、神様は私たちにあなたたちは私としっかり「つながっていなさい」と言っています。あなたたち人間は、神様をつかんでいるその手を絶対に放してはダメだと言っています。私たちは忙しい時でも神様につながっていましょう。たとえばなるべく礼拝や祈祷会に集ったり、祈ったりすることを頑張ってゆきましょう。

2つ目に神様は私はあなたがたに「つながっています」と言っています。私が手を離したら、神様が離れてしまうのではありません。私が忙しくて、つかまっていられない時も、どんなにつらい時も、神様の方からつながってくださるのです。だから神様を信じる人は安心して生きることができます。うまく自分から神様につながれなくても、神様はあなたにもうつながっています。これが大事なこと2つ目です。

大事なことの3つ目は「あなたがた」という言葉に隠れています。この「あなたがた」は私個人を指す言葉ではなく「みんな」を指す言葉です。みんなで神様につながりなさい、神様はみんなにつながっていますと言っているのです。

みんなで神様につながる時、私たちの間には神様とのつながりだけではなく、私たち同士、人間同士のつながりも生まれるはずです。神様は人と神がつながっていると伝えると同時に、私たちに人間同士も、神様によってつながっているというのです。そのような人間のつながりも、神様がおこしてくださるのです。

自分はどうやって神様につながればよいのか、仲間をよく見るとわかります。神様はそのように私たちも互いにつながっていることを感じるように言っています。礼拝・祈祷会は毎週この3つのながりを確認する場所だと言えるでしょう。

初めて来た方、これからもどうぞ神様につながってゆきましょう。神様もあなたにしっかりとつながっています。そして私たちはみんなで神様につながりましょう。毎週教会ではこの礼拝・祈祷会という集会を持っています。私たちはみんなで神様につながろうね、わたしたちもつながっていようねと言い合います。それは私たちみんなの人生にとって大きな励ましになっています。私たちはそこから前に進むことができるのです。そんな風に教会で、神様とのつながり、人とのつながりを感じながら生きてゆく生き方をお勧めします。お祈りします。

 

「風に吹かれればいい」

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

使徒言行録2章2節

 

先月と今月は初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。聖書の話を毎週の礼拝でするのが大変ですが、準備に行き詰まった時は、風に吹かれながら思いを巡らせます。風に吹かれていると、時々新しい言葉がひらめいたり、やり直そうと思えたりします。風に吹かれながら、神様の導きを求めています。

今日は新しい仲間の信仰の言葉を聞きましたが、きっとこの言葉を紡ぐのも大変だったでしょう。この告白ではっきりしていることは、神様は不思議な力で、私たちを教会へと呼び集めるのだということです。神様が私たちを導くとは、神様の吹かす風に押し出されて進むようなことです。私の宣教の言葉も、今日の信仰の言葉も、神様からの風に、押し出され、発せられたものです。

聖書・創世記によれば、神様が土で人間の形を作り、息・風を送り込むと人間は生きるものとなったと書かれています。神様の風とは私たちに生命を吹き込む風です。私たちは神様の風に吹かれると生きるようになるのです。私たちの人生には、どうすればいいかわからないことがあります。そんな時、風に吹かれてみてはどうでしょうか?体で風を感じれば、きっと心にも神様の風を感じることができるはずです。風に吹かれ、神様からもう一度命を、新しい生き方を頂きましょう。今日は聖書から風に吹かれた弟子たちの話をします。

キリスト教はイエス様が死んでしまった後も続いてゆきました。それは弟子たちが一生懸命に頑張ったから続いたのではありません。神様からの不思議な力、不思議な風を受けることで続けることが出来ました。弟子たちがみんなで集まっている時、突然強い風が吹きました。風は神様の一方的な決断で吹きました。神様の風は神様の決めたタイミングで吹きます。そしてそこにいた全員に吹きました。神様の風に吹かれると不思議なことが起こりました。自分にはできないことでも、神様が力を与えて下さって、できるようになったのです。様々な国の言葉で語られたのは、みんなにわかる言葉で神様の希望を示すためでした。そのようにして神様の風は全員に命と活力と言葉を吹き込みました。

私たちもそんな神様からの風を受けて歩んでいるのです。私たちが毎週集まれるのは熱心さや一生懸命さではなく、神様の風に吹かれているからです。私たちが神様の風に身をゆだねているから集うことができるのです。神様の風はきっと私たちをどこかへと運ぼうと導いています。だから私たちは自分の願いだけではなく、神様からの風がどう吹いているのかを感じて生きゆきたいです。

神様が私たちに風を送っていす。私たちはその風に吹かれながら生きましょう。私たちには何もできなくても、神様が風を吹かせ、導いてくださいます。神様の風が私たちに必要な言葉と力、新しい生き方を与えてくださるはずです。お祈りします。

 

「心洗われる教会」ヨハネ13章1~15節

初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。2000年前舗装されていない道をサンダルで歩けば、足は泥だらけになりました。汗と汚れが混ざって臭いもしたでしょう。シャワーを浴びることもできません。足を洗うのは、自分をいたわるホッとするひとときでした。裕福な家では足を洗うのは召使いの仕事でした。

しかし今日の聖書にはイエス様が弟子の足を洗ったと書いてあります。これは他者のために働き、他者を尊重するという模範的、象徴的な行為でした。今も昔もリーダーは威張り腐っています。しかしイエス様は他のリーダーと大きく違いました。弟子たちの汚れた足を洗おうとします。これがキリスト教の神と等しいとされた人の姿です。他者のために働き、他者を尊重する生き方を体現しています。神様は徹底的に低みに立つ方なのです。

そして、この物語はもう一つ重要なことを伝えています。もしかすると誰かの足を洗うよりも、誰かに足を洗われる方が嫌かもしれません。自分の悪い部分、汚い部分は隠したいものです。弟子も「決して洗わないでください」と言っています。しかしイエス様は14節「互いに洗い合わなければならない」と言っています。疲れて、汚れた、お互いの足を隠しあったら、我々の関係は成り立たないというのです。

ここから示されることは、私たちの人生にはそれぞれに疲れや困難があり、そのときは恥ずかしいけれど、誰からの支えを必要とするということです。私たちは神様と仲間の支えなしに生きてゆくことはできないのです。私たちは足を洗ってもらう様な、励ましや祈りが必要なのです。

教会では互いを尊重し、励ましあう言葉を交わしています。それはまるで毎週教会で互いに足を洗い合っている様です。神様から、仲間から足を洗ってもらっている様です。誰かが疲れて汚れた私に、温かい言葉を掛けてくれます。それは私にとって足を洗われるということです。同時に誰かに温かい声を掛けます。それが誰かの足を洗うことです。互いに足を洗い合うからこそ1週間が頑張れるのです。

私たちは洗う側と洗われる側に分かれているのではありません。みんな洗われるべき汚い足をしており、みんながやさしく互いの足を洗います。そのような教会に来ると、心洗われたような気持ちになります。ほっとする気持ちになるのです。

イエス様はこのように私たちに互いに足を洗い合いなさいと伝えました。足を洗うことによって、他者のために働き、他者を尊重する生き方がキリスト者の生き方だと示しました。そして互いにいたわり合い、励まし合う関係の大事さを私たちに教えてくれたのです。教会にはそのことを信じる信仰を持つ人が毎週集っています。私はたくさんの人がこの生き方・信仰に加わること、増えることを願っています。お祈りします。

 

「こどもの声が世界を変える」ヨハネによる福音書9章1~19節

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」ヨハネによる福音書9章9節

 

今月と来月は初めて教会に来た方に向けてお話をしています。私たちの教会では、月2回会堂でこども食堂を開催しています。最近4名の小学生がボランティアに加わってくれました。このことによって様々なよい変化が起きています。教会員のある方は「こどものボランティアを見て、ヨハネの5000人の食事(今日の個所)の意味がようやくわかった」とおっしゃっていました。私たちは今年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。こどもたちの声が私たちの礼拝や食堂の雰囲気と方向性を決定づけています。同じことが聖書にも書いてあります。

2000年前、イエス様は様々な背景や事情を持った人たちと全員で食事をしようとしました。一緒に食事をすることは私たちのこども食堂と同様に友好関係にあることを示す行動です。でも準備が大変です。弟子たちは無理だと思いました。

そこにひとりの少年が声をあげ、少ない食事を差し出しました。それは「僕にできることがあればします」という姿勢でした。この少年ができる精一杯の小さなボランティアでした。弟子たちはそれを笑いました。「どうせ役に立たない」と思ったのです。小さなもので全体は変わらないと思ったのです。

しかしイエス様は小さくて役に立たないと思われているボランティアに目をとめて、いったん座って、何が起きているのか全員でよく考えるように促しました。そしてイエス様は感謝の祈りを唱えました。イエス様はそれが小さくてもどれだけ重要であるかを知り、感謝して祈ったのです。物語全体の雰囲気がここで変わります。イエス様はパンと魚を分けはじめました。そうすると不思議にも全員が満腹になる食べ物が現れたのです。普通は決して起きない奇跡的なことが起きたのです。

私たちは今日の物語からどんなことを考えるでしょうか。私はパンを増やすおまじないには興味がありません。今日の個所で小さな者の声に立ち止まるという生き方を学びます。私たちの社会では強い者の意見が通ります。私はそのような社会だからこそ小さな者の声、少数意見に耳を傾ける必要があると思います。

小さな働きの力を信じるということも、この物語から学びます。私たちそれぞれの前にある課題は大きすぎて、自分はたいして役に立たないと感じることばかりです。でも今日の物語によれば小さなボランティアが全体の雰囲気と方向性を変えたのです。小さなこどもたちのボランティアが私たちの礼拝とこども食堂の雰囲気を決定づけてゆくように、小さな働きが世界の方向を変えるのです。今日の物語から私たちはそれを信じましょう。

このあと私たちは主の晩餐という儀式を持ちます。これは小さなパンと、小さな杯にいれたブドウジュースを飲む儀式です。イエス様がこのような食事をしたことを再現する儀式です。こんな小さなパンですが私たちは大きな変化が起こると信じています。お祈りします。

 

「神が私を立ち上げて下さる」ヨハネ5章1~13節

イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」

ヨハネによる福音書5章8節

 

今月と来月は、キリスト教が初めてという人に向けて話をしています。2000年前にベトザタという池がありました。この池には天使が降りてくると、池の水面にゆらゆらと小さな波ができ、その時、池の中に入ると、一番先に入った人は病気が治るという伝承がありました。

しかしこの伝承は残酷です。治るためには他の人を押しのけてでも、誰よりも早く水に入らなければいけないのです。そこは生存競争の場であり、人間関係は最悪でした。その中に38年間病気の男性がいました。彼は自分では起き上がることができませんでした。しかし彼が失望していたのは、もはや自分が病であることではありませんでした。彼が失望していたのは誰も他者を助けようとしない世界です。イエス様はそのような場所に現れました。イエス様は苦しみと失望と緊張関係に満ちた場所に現れるのです。

そこでイエス様は「起き上がりなさい」と言いました。世界に失望し、あきらめていた彼はもう一度立ち上がって、歩きだしました。そしてイエス様は歩き出すときに床を担いで歩きなさいという条件を付けました。床とは38年間寝ていたマットです。マットには汗と涙がしみ込み、擦り切れ、ボロボロになっていました。そのマットは彼の人生を象徴するものです。そして彼がいた池の周りの世界を象徴するものです。彼の苦労と屈辱の象徴でした。その床を担ぐようにとは、これからもその現実を背負って生きてゆきなさいという意味です。この38年間の苦労を忘れずに、あの池で見た世界を忘れずに生きるようにと条件を付けられたのです。

今日の物語から私たちはどんなことを考えるでしょうか。まず私が思うことは、この世界はまるでベトザタの池の様だということです。世界はこの池のように、自分中心、自国優先、強い者が勝つ世界です。隣人と愛し合うのではなく、たがいに敵同士のように競争する世界です。互いを喜び合えない世界です。私たちもこのような世界・日常に生きています。イエス様はそのただなかに現れるお方です。ひどい現実の、どん底の、この世界の真ん中に現れるお方です。

そしてイエス様は、私たちを立ち上がらせ下さいます。私たちは苦しみを忘れて、苦しみと無関係に生きるのではありません。それに責任をもって生きるようになります。神様はそのようにして私たちを立ち上がらせるのです。今私たちのいる世界を良くするために、神様は私たちを立ち上げてくださるのです。

この礼拝で、私たちは神様から床を担いで立ち上がれと言われています。私たちは現実を背負って立ち上がります。私たちはそれぞれの場所で、互いに愛し合い、困っている人を助け、隣人と喜びをともにしましょう。それぞれの場所で弱肉強食ではない、愛と慈しみにあふれる世界を創ってゆきましょう。その1週間を今日から歩みましょう。神様が私たちを立ち上げて下さいます。お祈りします。

 

「誤解から始まる信頼」ヨハネ4章1~30、39~42節

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

ヨハネによる福音書4章7節

 

4月と5月は新しくキリスト教に触れる人に向けて話をしています。今日登場するサマリアの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。いわゆる混血とされ見下され、差別されました。さらに女性という点でも差別を受けました。

そのサマリアの女性が、日中の一番暑い時間に井戸に水を汲みに来ました。彼女がサマリアの女性たちからも疎外されていたからです。5回の離婚を経験した彼女の波乱の人生は、村の人から奇異の目で見られていましたのです。

そんな時、イエス様と出会います。水を巡ってのイエス様と女性との会話は誤解が生じやすい話です。イエス様が与える水というのは、肉体的にのどを潤す水分補給のことではないようです。その水とは心と魂を潤す水のこと、心と魂が求めていることを満たしてくれるものが、イエス様の渡そうとしている水です。

しかしイエス様と女性の会話にも誤解があります。16節でイエス様は突然話題を変えます。イエス様は対話をあきらめていないようです。対話をあきらめずにまた別の角度から伝えようとしています。全体をみるとかなりかみ合わない会話です。それでも二人が対話を続けていることはとても印象深いことです。

20節からイエス様は繰り返し礼拝という言葉を使っています。イエス様の言った心と魂を潤す水、それは礼拝と言い換えることができるでしょう。この今私たちの持っている礼拝とは、自分の生き方を考える集まりです。イエス様はその礼拝が、あなたの心と魂を潤す水となると言ったのです。この礼拝というキーワードからようやく二人の話がかみ合ってきます。女性はこのような対話からイエス様を信頼するようになりました。イエス様との対話によって誤解が解かれ、イエス様を信頼するようになりました。そして彼女はその信頼を村の人々に告げ広めたのです。

イエス様とこの女性はすれ違いながらも、忍耐強く対話を続けることによって信頼が生まれました。誤解は信頼へと変わってゆきました。今日この個所を見て私は改めて対話の大切さを感じます。私たち人間にはたくさんの誤解があります。誤解は人々を苦しめます。差別も命に優劣があるという誤解から生まれます。でも私たちはイエス様のように向き合い、対話することをあきらめずにいたいのです。今日の個所のように誤解から始まる信頼がきっとあるはずだからです。

私たちは、誤解を信頼に変える力を礼拝からいただくことができます。私たち人間は人間の力だけでは、豊かな信頼関係を築くことができないことを良く知っています。でもだからこそ私たちは神様から、その力をいただきたいのです。この礼拝で神様から他者を理解する力、誤解のある他者と信頼を作ってゆく力を受け取りたいと思うのです。礼拝からその力をもらい、それぞれの場所で誤解を信頼に変えてゆきたいのです。共に礼拝を献げ、神様から、誤解を信頼に変える力を互いに頂いてゆきましょう。お祈りします。

 

「信じない人を歓迎する教会」ヨハネ福音書20章19~28節

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 

ヨハネ20章25節

 

先週からキリスト教にはじめて触れる方に向けて話をしています。よく誤解されがちですが、教会はキリスト教を信じている人だけが集まる場所ではありません。信じるつもりはないという人も歓迎します。この教会にとって信じない人は一緒にいてくれないと困る存在です。ここが信じる人だけの集まりとなると閉鎖的になります。信じている人にとっても、信じない人と一緒にいるのがよいのです。

「信じるかどうかはあなた次第」という言葉があります。しかしキリスト教は不思議な事ばかりで、自分次第なら、信じないのが当然の結果です。でも多くの方が、何かに押し出されるように、何か追い風のようなものを受けて、信じていると言えるようになります。信じるかどうかは、私次第ではありません。行き先は風まかせの様な不思議さがあるものです。今日は聖書から信じない弟子を見たいと思います。

イエス様の復活を見ていなかった弟子が1人だけいました。トマスという名前です。彼はもし釘の跡を見て、その穴に自分の指を入れ、脇腹の傷に手を入れることができれば、信じようと言いました。すると8日後、本当にイエス様が現れました。

聖書はトマスのようにつべこべ言わず、疑わないで信じましょうと言っているのではありません。私たち人間は確かな証拠や奇跡によって信じるようになるものです。トマスもきっと奇跡を体験がすれば、信じることができると思っていました。

しかし聖書にはトマスが実際に手と指を入れたとは書いてありません。それができれば私は信じると言っていたのに、彼は結局、手と指を入れませんでした。

私はよく信じない人から、もし〇〇になったらキリスト教を信じるという言葉を聞きます。合格したら、結婚できたら…。でも私個人のこれまでの実感として、条件をクリアしたら信じると言って、その条件が満たされた後に信じるようになる人は多くありません。自分の設定した条件や願いが達成されても信仰を持つ人は少ないのです。一方、条件はクリアしなかったけれど、信じるようになったという人は多くいます。信じるとは自分の設定した条件をクリアして起こるものではないのです。

トマスも同じです。彼は手と指を入れませんでした。自分で設定した条件をクリアしませんでした。でもトマスはきっと信じるようになったのでしょう。自分の設定した条件ではなく、一方的なイエス様の登場、イエス様との出会いの体験によって彼は信じるようになったのです。信仰とはそのように始まります。何かが私の中に勝手にやって来るのです。信じるつもりはなかったのに、不思議と心の中に入って来る、現れる、それが信仰の始まりです。そのような神の一方的な働きかけ、追い風の様な働きかけによって、人は神の存在を信じるようになります。

信じない人を歓迎ます。信じるかどうかはあなた次第ではありません。人間が神を信じるようになるのは、私たち人間の条件を超えた、神様の一方的な働きかけによってです。いつかみなさんにその時が来ることを願っています。お祈りをします。

 

「聖書が教える生き方のヒント」ヨハネ20章1~14節

イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

ヨハネによる福音書21章13節

 

今日から2か月、初めてのキリスト教というテーマで宣教をします。まだキリスト教のことを知らないという方に届いたら嬉しいです。

キリスト教は聖書から「どう生きるか」を考える宗教です。聖書には、どうすれば仲良く、平和に、前を向いて生きて行けるかを考えさせるエピソードがたくさん書いてあります。主人公はイエス様という人物です。イエス様は当時のタブーを破り、他の人が絶対一緒に食事しない人と積極的に食事をしました。そのようにイエス様は食事自体を通じて、食事をしながら「生き方」を教えました。今日も聖書から新しい生き方を見つけてゆきたいと思います。聖書のエピソードを見てゆきましょう。

弟子たちは死んだ人が目の前に現れるとは思ってもみませんでした。そんな中、イエス様は「何か食べる物はあるか?」と言って登場します。お腹の空いたこどものようなかわいい登場です。イエス様は大変親しみやすく私たちに現れます。

弟子たちは食べ物を持っていませんでした。イエス様は舟をだすように言います。そうするとさっきは獲れなかった、たくさんの魚が獲れました。このように、イエス様は奇跡的な力を使ってまで、一緒に食事をしようとしました。弟子たちは一緒に食事をすることができるようになって初めて、それがイエス様だと気づきました。イエス様は一歩先に岸で炭火を起こして、魚を焼いていました。この食事は、これまでの食事同様、弟子たちの心を癒し、励ます食事だったでしょう。そして他者を愛しなさい、仲良くしなさいという教えをもう一度思い出す食事だったでしょう。

今日の個所から私たちが生きるヒントはどこにあるでしょうか?一つは不思議な事ですが、死ですべてが終わるのではないということを教わります。悲しみは悲しみで終わらないのです。もうひとつの生き方のヒントはイエス様は私たちに困難を乗り越える力をくれるということです。イエス様は魚が獲れなくても、私たちがもう一度チャレンジする力を下さるのです。

そして何より共に食事をすることを大切にするということも生き方のヒントでしょう。悲しみの時、寂しい時、誰かと一緒に食事をすることが、イエス様の大事にした行動です。一緒に食事をすると、生きる力が湧いてくるのです。教会で共に食事をすることを愛餐と呼ぶように、共に食事をすることは互いに愛し合っていること、大切に思い合っていることを表す行動です。そこから生きる力が湧いてくるのです。私たちは共に食事をすることをもっと大事にしてはどうでしょうか?食事で互いが大切であることを確かめ合ってはどうでしょうか。それも生き方のヒントです。

私たちはこの後の主の晩餐で、そのイエス様の教えを思い出し、教会の仲間同士や、1週間関わる人たちと互いに愛し合うということを確認します。

私たちはみなさんと、聖書から生きるヒントをもらって、一緒に歩みたいと思っています。少しずつ、この礼拝に参加し、新しい生き方を始めてみませんか?

 

「悲しむ人々は幸いである」ヨハネ20章1~18節

後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。  

ヨハネによる福音書20章14節

 

イースター礼拝を共にできる事、主に感謝します。3月と4月は様々な出会いと別れがある季節です。誰かとの別れは人の心に大きな影響を与えます。その悲しみの深さは、その時々によって違います。お別れをしっかりできた時は受け入れやすいものです。でも突然の別れは受け入れるのに時間がかかるものです。

神様はそのような別れと悲しみの時、そっと悲しむ者のそばに共にいてくださるお方です。悲しむ者にこそ現れ、そばにいて下さるお方です。そしてゆっくりと悲しみとは違う方向へと導いてくださるお方です。神様はこのように、悲しむ人々に幸いを約束してくだいます。今日は悲しみと共にいてくださる神様の姿を見ます。

イエス様の十字架は無実の罪、若い人の死、突然の別れ、心の支えだった人との別れ、尊敬する人との別れでした。それは、もっとも受け入れるのが難しい別れでした。マグダラのマリアという女性は他の弟子たちが逃げ惑う中、イエス様の十字架を最後まで見届けました。しかし一方でそれはマリアにとって、大きな心の負担になったはずです。マリアはイエス様の無残な死に方を直接見てしまいました。痛み、苦しみ、渇き、流れる血、その姿をすべて見て、受け取ってしまったのです。きっとマリアはそれに強い衝撃を受け、それはトラウマになったはずです。

もっとも悲しみ、涙のとまらないマリア、イエス様はそのマリアに一番はじめに現れました。神様はこのように悲しむ者のもとに現れるのです。悲しみを受け入れた先に神がいるのではありません。神様は深い悲しみの底に現れてくださるのです。イエス様はそのようにそっと現れます。いつからそこにいたのかわかりません。でもイエス様はきっと、ずっと涙する者のそばにいました。

彼女が気づいたのは名前を呼ばれた時でした。それはまるで羊と羊飼いの様です。羊が自分の羊飼いの声を聞きわけるように、マリアはイエス様の声を聞き分かることができました。そしてイエス様は羊飼いの様です。1匹の迷った羊飼いを探すように、マリアの元に現れたのです。そして彼女から全世界へと復活が伝わりました。

今日の個所をからどんなことを考えるでしょうか。神様はこのようにして、悲しむ私たちと共にいるお方です。神様は迷った羊を探す羊飼いのように、悲しむ私たちの名前を呼んでくださるお方です。一緒にいるよ、だから立ち上がって、前に進もうと言ってくださるのです。そして私たちはそれぞれの場所に派遣されるのです。

イエス様が復活したとは、死が無くなることではなく、その悲しみの中にイエス様が共にいて下さったということではないでしょうか。悲しみの中に主が共にいて下さることが、主が復活されたということなのではないでしょうか。

私たちの人生でも、きっとそのようなことが、主の復活が起こるはずです。神様は復活し、悲しむ者と共にいて下さいます。神様は復活し、私たちと共にいて下さいます。その復活を信じ、歩みましょう。お祈りをいたします。

 

「愛を成し遂げる力」ヨハネ19章28~30節

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

ヨハネによる福音書19章30節

 

今週は教会の暦で受難週です。今日はイエス様の十字架の上の「成し遂げられた」という言葉を見たいと思います。十字架刑は政治的な反乱者に科された刑です。何日も、何週間も苦しみが続きます。それは見せしめのために、二度と権力に反抗しないように、丘の上や大通りなど人々の良く見える場所で行われました。処刑される者は、苦しみ、呪いの言葉を口にしながら死んでいったと言います。

しかしヨハネ福音書では、イエス様が苦しみの言葉を発した記録はほとんどありません。なんとこのような状況でイエス様は「成し遂げられた」と言いました。このような苦しみの中で一体何が成し遂げられたというのでしょうか?イエス様の宣教の活動はたった数年だったと言われます。伝えきれなかったこと、やり残したことは非常に多かったはずです。イエス様にとっても、弟子たちにとっても志半ばでの十字架だったはずです。しかし、それにもかかわらずイエス様は最後に「成し遂げられた」と言っています。

成し遂げ「られた」の「られた」に注目をします。これは「私は成し遂げた」ではありません。それは神様がイエス様を通じて「成し遂げた」のです。神様はイエス様の地上の生涯を通じて、愛に生きることを教えました。共に食事をし、隅に追いやられた者に目をとめるように教えました。そのように神様はイエス様を通じて互いに愛し合うことを教えました。イエス様は神様から与えられた、その使命を生きました。そして十字架の死に至るまで、他者を愛し続けたのです。どんなにつらい時も、自分の思い通りにいかない時も、死ぬその時まで他者を愛し続けたのです。それを今、イエス様は神様の力によって成し遂げたのです。神様から愛を成し遂げる力を頂いて、神の計画は「成し遂げられた」のです。

私たちの人生で、自分の力で成し遂げることは多くありません。でもそこに神様から成し遂げる力と計画をいただいて、成し遂げられることがあるでしょう。きっと私たちを通じても神様が「成し遂げられる」計画があるはずです。それは私たちの思いを超えて実現するものです。

神様が成し遂げようとしているのはイエス様の人生においてもそうだったように、生涯を通じて、神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕えることです。それが、神様が成し遂げようとしている計画です。神様はその計画を成し遂げるために私たちに力をくださいます。神様が苦難の時も愛に生きる力を与えて下さいます。どんなつらい時も、神様は愛に生きる力を与えて下さいます神様は、私たちを通じてその計画を成し遂げるお方です。

私達では到底成し遂げることができないことを、愛を、神様は成し遂げて下さいます。その愛を成し遂げる力を私たちも頂きましょう。私にはできないけれど、神にはできる、愛を成し遂げる力を神様から頂き、今週も歩みましょう。お祈りします。

 

「がんばれ 子ロバ」ヨハネによる福音書12章12~15節

私たちの教会では「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。この活動は多くのボランティアさんに支えられています。先日から9歳(小3)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。こどもがボランティアに加わったことで良い影響があります。他のボランティアさんは自分の作業以外に気を配るようになりました。すごいねと、他者をほめながら作業する様になりました。利用者もこどもが料理を運んでいるのなら、しっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て自分で食器を下げるようになりました。これが本当の「平和」です。

神様はこのように、一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。今日の聖書の個所にもこどもが登場します。ロバのこどもです

当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力、軍事力の象徴です。馬に乗ることこそ、王様にふさわしい姿でした。しかしイエス様は子ロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。でもイエス様はロバを選び、ロバに乗ることを決めたのです。ここには神様の選びが示されています。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力のものを選ぶのです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方なのです。

神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバはもっと強く、馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。

民衆の視線はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしているロバ。人々にはきっと私にも何かできるはずだと思ったでしょう。人々に大きな変化があったはずです。

私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。

私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。「ホサナ、ホサナ」私たちにもそんな応援の声が聞こえるはずです。お祈りします。

 

「原発と命は共存できない」ヨハネによる福音書12章1~8節

マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。   ヨハネによる福音書12章3節

 

珠洲市には原発計画がありました。もし原発があったら深刻な原子力災害になっていたはずです。原発の恐ろしさを改めて感じています。珠洲市の原発の反対運動の中心的存在だったのは、地元のお坊さんでした。原発反対は宗教者の役割でした。

原発を建てるために電力会社は住民に猛烈な接待をします。「カネ」の力で賛成させるのです。そんな中、ある一人のお坊さんが「危険な原発と命は共存できない」と道路に座り込み、お念仏を唱えながら原発反対を訴えました。今このお坊さんは住民から、原発に反対して私たちを救ってくれたと大変感謝されているそうです。

「あまりに危険な原発と命は共存できない」それが多くの宗教者の共通した訴えです。今だけ、カネだけ、自分だけを考えるなら原発がよいのでしょう。しかし、宗教者は何よりも命の大切さを判断基準にします。だから危険な原発に反対をしてます。今日はカネより大切なものがあることを聖書からみていきたいと思います。

マリアはたくさんの香油をイエス様の頭に注ぎました。おそらく彼女は日々の稼ぎから少しずつ香油を貯めていました。仕事でつらいことがあっても、悲しいことがあっても耐え、少しずつ貯めました。それはまさに彼女の汗と涙の結晶、不屈の精神の塊でした。しかし彼女がこれだけ苦労して稼いだお金を、このように使わせるものは何だったのでしょうか?何が彼女をつき動かしたのでしょうか。

彼女を突き動かしたのはイエス様の行動と言葉です。イエス様は罪人とされた人、汚れているとされた人と連帯しました。イエス様は小さくされた命、隅に追いやられた命に目を向けました。マリアはこのイエス様の命への向かい合い方に深く共感をしました。自分のように隅に追いやられ、それでも一生懸命生き、働く、そのような人々に目を向けるイエス様に深く共感をしたのです。その命へのまなざしを持つ方に、私のあの香油をすべて注ぎたいと強く思ったのです。

私たちの世界では相変わらずカネや費用対効果が基準とされ、原発が作られようとしています。この物語はそのようなカネ中心の社会に、生き方に抵抗する物語です。イエス様の命へ向き合う姿勢に強く共感し、行動を起こした人の物語です。イエス様は私たちにもこのような命への向き合い方を求めておられるのでしょう。

私たちは何に価値を見出し、何を守るでしょうか。私たちにはカネや効率よりも大切なものがあります。何よりも大切なのは命です。イエス様は命の大切さ、平等さを教えています。私たちはその命へのまなざしを何よりも大事にしたいのです。世界には命と共存できないものがあります。特に戦争や差別、不正なカネ、原発は、命と共存することができません。私たちは主イエスの教えに従い、命を守る働きをしてゆきましょう。たとえ小さくても効率が悪くても、無駄のように思われても、命が守られる手立てを選んでゆきましょう。お祈りします。

 

「愛を生き抜いた十字架」ヨハネ6章60~71節

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

ヨハネによる福音書6章66節

 

最近の平塚バプテスト教会の礼拝出席人数は増加傾向にあります。私たちの活動や信仰が少しでも理解、共感、支持、応援されることはうれしいことです。ただし私たちの教会の目標は、人数を増やすことではありません。私たちがここに集うのは互いを愛し合うため、互いに仲良く生きていくためにここに集っています。その結果として人が増えるだけです。人数を目標とし始めると、愛し合うことよりも、人数を集めることが先だってしまいます。今日は聖書から、共同体に多くの人が集まった時のこと、そこで愛を貫いたイエス様の姿を見てゆきたいと思います。

今日の個所は奇跡のパン・主の晩餐を受けて、弟子たちが増えて拡がった後の話です。イエス様自身が、弟子の拡大に派手に失敗をしている様子が書かれています。弟子たちの拡大の先には、大きな分裂がありました。イエス様でも人数が増えるとうまくいかないことがあったのです。

イエス様はそれを悲しんだでしょう。しかしイエス様は去っていく人たちを追いかけませんでした。引き留めるための新しい説得も、自分の方針をもっと人々に受け入れられやすいものとする変更もしませんでした。イエス様はただ淡々と町を巡ります。そしてこれまでどおり、互いに愛し合うこと、大切にしあう事、仲良くすることをまた言葉と行動で教えました。イエス様にとって誰かが自分を離れようと、誰かが自分を無視しようと、誰かが自分を殺そうとも、関係ありませんでした。ただ自分が神様に従うかどうか、自分が愛するかどうかだけが重要なことだったのです。イエス様はその後も活動を続け、人々の反発を招き、殺されてしまいます。殺されないためには方針転換が必要でした。しかしイエス様は方針転換をしないのです。ただ神様に従うということ、他者を愛することを貫きました。

私たちの生活に目を向けます。私たちは神様・イエス様ではありません。ですから他人の意見をよく聞くことは大事です。しかし一方で私たちは他者の態度に振り回されてしまうことばかりです。他者の態度や行動に傷ついたり、落ち込んだりすることばかりです。きっとイエス様もそうだったのでしょう。私たちは他者との関係において一喜一憂することがあります。私たちにはうまく関係が作れた時、うまく関係が作れなかった時があります。でもその時も私たちはイエス様のように愛し続けましょう。イエス様のように相手を大切にし続けましょう。

私たちの日常には離別、裏切り、関係の破綻があります。でもその中で、私は神様の愛をどう生きてゆくかが問われます。そこで問われているのは相手の愛ではなく私の愛です。私がどう生きるか、私が神様の愛をどう生きるかが問われています。私たちの1週間もこのことを覚えて生きましょう。この後主の晩餐を持ち、パンを食べます。私たちは食べた後、どう生きるかが問われます。これは神の愛を受けて生きる象徴です。このパンを食べ、どんな時も他者を愛しましょう。祈ります。

 

「聖書の女性指導者」出エジプト記15章19~21節

ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。     出エジプト記15章21節

 

ジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えます。戦後、日本バプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。しかし日本のバプテストは2000年にアメリカ南部バプテストが「女性は牧師になってはいけない」と明言したことから距離を置くようになりました。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。一方、日本のバプテスト連盟でも大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象が起きています。根底にある私たちの考えが問われています。

私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見と差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。

今日の聖書箇所のミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。ユダヤの人々は奴隷とされたエジプトを脱出しました。しかし目の前には海があり、後ろにはエジプトの追手がいます。そんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。

この様子は15章で2つの歌として記録されています。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続きます。それは危機から脱した時の喜びの祈りです。神様のすばらしさを表現するために踊りました。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。ミリアムはそれを導く女性指導者でした。

ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。

私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。

 

「こどもの命をつないだ人たち」出エジプト1章15節~2章10節

助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。

出エジプト記1章17節

 

教会には女性会というグループがあります。性の多様さから考えると性別でグループを作ることには課題があります。一方で女性だけが集まるのことに様々な良い面があります。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあります。また男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは意義のあることです。そのようなグループは社会や教会で中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆく視点があります。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切です。今日と来週は聖書の中の女性を見たいと思います。

ファラオはヘブライ人の人口を増やさないために、二人の助産師(シフラとプア)を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。しかし人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いはずです。ファラオが女性を殺さないのは、女の奴隷は高く売れたからです。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いからです。だからファラオは生まれた男だけ殺せと命令をしました。

助産師の女性たちは神様を畏れていました。さらに二人は実体験から命は神様から授かったものであると知り、男性であるファラオの命令に従いませんでした。彼女たちは社会の中心から追われる命に対して、特別なまなざしを持ち、その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信したのです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは小さな命を守るための非暴力の戦いです。

2章1節からはもう一つの物語です。ある女性が男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまうので、赤ん坊をカゴに入れて川に流しました。そしてその命を受け取ったのも女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育て、やがて彼は解放のリーダーに成長します。このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。

女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。男たちが支配する世界で彼女たちは考えました。どのようにしたら平和に生きることができるだろうか?どうしたらこどもたちを守ることができるだろうか?と考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。

私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。男も女もどの性も、その小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。私たちの教会でも同じです。性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。お祈りします。

 

「ちゃんと休みなさい」出エジプト記16章1~31節

よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。   出エジプト記16章29節

 

明日から休息に感謝します。社会では休息をとることについて大きく意識が変わってきています。残業時間の上限が設定され、仕事と生活のバランスが重視されるようになりました。社会はがむしゃらな労働と、それによる成長・安価な商品を求めるのをやめたのです。社会は充実した安息の重要性を理解したとも言えるでしょう。このお休みを神様が準備して下さった安息だと受け止め、感謝し、また次の働きに向けて備えたいと思っています。

今日はマナの個所です。人々は過酷な労働からの自由と安息のために、エジプトを脱出しました。しかし食料の確保が困難でした。彼らは目の前の困難を、過去を理想化することで乗り越えようとしました。そこに神様の言葉が響きます。

神様はすべての人にパンを降らすと提案しました。あなたたちはそれを食べ、命をつなぐようにと提案をしたのです。そしてそれは毎日ちょっとずつ集めればよいという提案でした。大きな倉は必要ないのです。無理にたくさん集める必要はないのです。反対にこのマナを無理に集めることこそ、過重労働、働きすぎです。とにかくたくさん集める、たくさんあればあるほど幸せになれるから、1gでも多く集めるためにがむしゃらに休まずに働く、そのような労働は必要ないのです。

また自分が食べきれない分までマナを集める人がいました。それは富の独占と蓄積を連想させます。その富には虫が湧き、腐り、悪臭がします。神様は過度な富の蓄積を嫌ったお方でした。神様は、人間が働きすぎることなく、蓄えすぎることなく生きることを求めているのです。

そして神様は安息の日も用意してくださるお方です。日々日々働きすぎるだけではなく、1日まるごと休む日も与えて下さったのです。神様はこのように働きすぎを禁止しました。今日は何をしてもうまくいかない日、だから休みなさいと言って安息の日を定めたのです。20節は「ちゃんと休みなさい!」という意味です。30節「民はこうして、七日目に休んだ」とあります。

神様は何と恵み深い方でしょうか。不満に、怒りで返すのではなく、マナという食べ物で応えてくださるお方です。そして神様はなんとおせっかいなお方でしょうか。私たちに「ちゃんと休みなさい」と厳しく教えてくださるお方です。働いても何も成果のない安息日を与えてくれるお方です。神様はそのように私たちを大切に思い、生きる糧を与え、強制的な安息を与えてくださるお方です。

みなさんの忙しい1週間の中でふさわしい休息が与えられる様にお祈りしています。私達にはすべきことがたくさんありますが、焦らずに、安息をしながら歩みましょう。これから主の晩餐の時を持ちます。このマナをいただき、神様が与えてくれる恵み、神様が与えて下さる安息を覚えましょう。お祈りします。

 

「性的少数者 歓迎教会」使徒8章26~40節

道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」使徒言行録8章36節

 

今月は聖書と性・セクシャリティーについて考えています。今日は宦官について考えます。宦官とは、睾丸や陰茎を切除した男性です。旧約聖書は宦官は「主の会衆に加わることはできない」つまりユダヤ教に入信することができないとしています(申命記23章2節)。どんなに信仰があってもユダヤ人になれず、神殿に入ることは許されなかったのです。旧約聖書を見ると宦官が好意的に描かれている場面が多くあるものの、やはり軽蔑すべき存在だったのです。

今日の聖書箇所は、エチオピアからエルサレムに来た宦官の物語です。宦官は聖書に興味があり、聖書の神を求めました。しかし彼は排除されるべき存在でした。体の一部が無い、完全な男ではないから、神殿には入ることができないと排除されたのです。その時、彼の信仰や内面は一切関係ありませんでした。彼の外形的な性が判断基準とされ、神殿から排除されたのです。彼の信仰は打ち砕かれたでしょう。失意の帰り道、神様はフィリポを遣わしました。神様は排除された性的少数者との出会いを導いたのです。そして宦官はバプテスマへと導かれてゆきます。

宦官は「バプテスマに何か妨げがあるますか」と確認します。これまで彼は性的少数者として、社会から、神殿から徹底的に排除されてきました。それはこんな私でも洗礼を受けることができるのですか?クリスチャンになることができるのですか?キリスト教では、私もその仲間に加わることが出来るのですか?という問いです。フィリポは速やかにバプテスマを実行し、それに応えています。フィリポは性的少数者を排除しなかったのです。宦官は喜びあふれたとあります。キリスト者が差別せずに受け止めてくれたという喜びです。宦官は何の妨げも無くキリスト者として受け入れられることを通じて、神様を知りました。神様はこの私を受け入れ、守ってくださるのだと知ったのです。

現代の教会、社会とも重ねて考えてみましょう。多くの性的少数者が、その性を否定されています。性的少数者の人々は、それは罪だと言われ、教会から排除され、追われるように逃げ、失意の中で帰り道を歩いていました。しかし今日の個所によれば、性の在り方は入信・バプテスマの条件に一切なっていません。教会はそのようにすべての性を受け止めてゆくことができるのです。すべての性を罪としないことができるのです。それが今日この物語が伝えている福音です。

この宦官は異邦人の中で最初に洗礼・バプテスマを受けた人となりました。性的少数者である彼から、世界中にキリスト教会が広まっていったのです。私は性的少数者の方がそのままの性を生きることを、神様は何も妨げないと思います。神様はそのような人を用いて福音を拡げるのだと思います。私はこの教会が性的少数者の方が来ることに何の妨げもない教会になるように願っています。そのようにしてすべての人を歓迎する教会になりたいと思っています。お祈りします。

 

「聖書と性の尊厳」Ⅰコリント6章9~10節

みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。

 Iコリント6章9~10節

 

今月は性と聖書に考えています。最近テレビでは芸能界の性暴力について報道がされています。性暴力は魂の殺人と呼ばれます。教会はこれらの問題を魂の問題として関わるべきでしょう。教会が性の問題に沈黙するのは良くないと思います。

性の問題について、キリスト教には様々な立場があります。特に同性愛については意見が大きく割れています。私の理解では聖書全体に同性愛という言葉は一切登場しません。同性愛という言葉は19世紀に生まれた言葉だからです。しかし偏見を持って聖書が読まれた結果、同性愛への差別が生まれました。

今日の聖書の個所には男色するという言葉があります。やはり聖書は同性愛を禁止しているように思えます。もっと深く考えましょう。男色するという言葉は元のギリシャ語で「アルセノコイタイ」という言葉です。この言葉は語源から考えると、男が男に対して横たわるという意味で、同性間の性行為を指す言葉と推測されます。しかし文脈からその意味を推測すると経済的搾取の意味があります。おそらくこの「アルセノコイタイ」は同性間の性行為と経済的不正を掛け合わせた言葉で、お金や地位にものを言わせて、相手の性の尊厳を奪うことを意味していると思われます。

社会背景からも考えます。2000年前のローマでは年長の男性によって身分の低い少年や、奴隷の少年に対して性搾取が行われていました。少年たちには愛も自由な選択もありません。地位のある者が、少年の性を搾取していたのです。それは愛、同性愛とは全く違います。

しかし19世紀に同性愛という言葉が生まれました。本来、性的搾取を意味した「アルセノコイタイ」は、同性愛のことだと誤解されました。そして同性愛が悪、罪とされるようになり、同性愛者は神の国を受け継ぐことができないと解釈されるようになりました。しかし本来、この個所は同性が愛し合うことを禁止しているのではなく、性の尊厳を奪うことを禁止しているはずです。

私たちの社会を見渡します。世界では魂が殺される、魂が踏みにじられる事件が繰り返されています。私は聖書が性暴力・性搾取をはっきりと否定しているものとして、それに反対してゆきたいと思います。そしてそれと混同されるかのように、同性愛に対する偏見もまだ続いています。特にそれはキリスト教の中で続いています。偏見をもって、同性愛と性搾取が混同されることにも反対をしたいと思っています。

10節、神の国を受け継ぐ者とはどんな人かを想像します。それは互いの性を奪い、否定するのではなく、互い性の在り方を尊重できる人ではないでしょうか。そのような人が神の国を受け継いでゆくのではないでしょうか?教会は魂の問題として性に目を向けてゆく必要があるのではないでしょか?互いの性を尊重できる教会になりたいと思います。祈ります。

 

「同性愛は罪ではない」創世記19章1~15節

あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。創世記19章12節

 

今月はセクシャルマイノリティー(性的少数者)をテーマに宣教をします。セクシャルマイノリティー(性的少数者)とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーなど、性の在り方が少数派である人のことを指す言葉です。3年前にも同じテーマで宣教をしました。YouTubeには批判のコメントが多くありました。きっと当事者の方たちはずっとこのような批判の中で、生きてきたのだということを思い知りました。このテーマは触れない方が無難です。でもそのように見過ごされている人がいるからこそ、そこに目を注ぎたいと思っています。またあくまでこれは私の聖書の理解です。この教会やバプテスト連盟の統一見解ではありません。

今日は創世記19章1~11節です。神様の遣いが二人、ソドムという町に来ました。ロトという人は旅人をもてなそうとします。しかしソドムの町の男たちが戸口に現れ、男性である旅人に性的暴力を加えようとします。ロトは自分の娘を差し出すという最悪の方法で対処します。二人の神の遣いはロトたちに逃げるように言いました。実はこの神の遣いこの罪深いソドムの町を滅ぼすために来ていたのです。

キリスト教ではこの物語を伝統的に、同性愛を断罪する話として解釈してきました。同性間の性交を英語で「ソドミー」「ソドミズム」と呼ぶことがあります。ソドムの罪とはまさしく同性愛の罪で、同性愛の罪によって、神はソドムを町ごと滅ぼすのだ。それほどに同性愛は罪深いことで、死に値する罪である。聖書の罪の中でもっとも重い罪であると解釈されてきました。そして多く性的少数者はもはや教会に居ることができず、追われるように教会から去って行かなければなりませんでした。

しかしもう一度この聖書の個所を読んでみて、この個所は同性愛とどのような関係があるのかよくわかりません。ここで起きている出来事は、同性愛とは全く違う、明らかな性暴力です。同性愛と性暴力はまったく違います。ここで問題になっているのは性暴力です。長くソドムは同性愛の罪で滅ぼされたと解釈をされてきましたが、この個所から同性愛は罪だと解釈するのは不可能です。むしろ解釈されるべきことは社会にあふれる性暴力、セクハラ、性的搾取をどれだけ神が憤りをもって見ているかということです。

このように同性愛は罪だ。そう解釈されてきた箇所でも、もう一度読み直してみると、決してそのような意味で語られていないことが分かります。聖書が本当にやめるべきと指し示しているのは、同性愛ではなく、性の尊厳を奪う事、性暴力です。聖書はここでも弱い立場の人に目を注ぎなさいと語っているのです。この個所からは特に少数派の人たちの性を守りなさいと聞こえてきます。

私たちが本当に目を注ぐことは、性の尊厳が守られているかどうかです。私たちの社会が互いの性の尊厳を守ることができるように祈ります。そして何より教会が今までのことを悔い改め、互いの性を尊重できる場所となることを祈ります。

 

「主のご来光」マタイ4章12~17節

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。

マタイによる福音書4章16節

 

あけましておめでとうございます。今年最初の日曜日を礼拝から始めることができたこと感謝です。平塚で初日の出を見るなら、湘南平がお勧めだそうです。地平線の向こうから昇るご来光は、きっとスピリチュアルな体験です。日の出を見ることは、キリスト教の信仰と重なる部分もあります。今日の聖書の個所にはイエス様の登場が日の出のように、ご来光のように、私たちを照らすと書かれています。

16節の「光が射す」という言葉は「光が昇る」という日の出を表す言葉です。この個所は日が昇る時に、暗闇が光に照らされていく様子を、イエス様の登場に重ねています。イエス様は日の出やご来光にように、暗闇を照らし出す方なのです。

暗闇と死の陰に住む人々とは、光の当たらない人のことです。普段みんなから見過ごされてしまう、隅に追いやられている人のことです。イエス様の登場は見過ごされていた人が見つけられることです。その光は社会の隅々に届き、取り残される人はいなくなります。イエス様はそのような世界の訪れを私たちに告げています。

光が当たらない場所、暗闇は私たち個人の中にもあるものです。私たちには暗い一面があります。しかしイエス様は私たち個人にとっても太陽、日の出のようなお方です。イエス様の光は私の暗い部分に日の出のように射しこんできます。今年もきっと私たちには神様の光がこの日の出のように注がれるでしょう。

もう一つ注意を引くのは13節にある「住まわれた」という言葉です。この「住む」も本来は「座る」という意味です。特に権威ある人が座る時によく使われる言葉です。ここは権威のある人として、隅々にまで目を行き渡らせたというイメージがあります。これも私たちの世界や個人の心としてもとらえることができるでしょう。イエス様は世界の、私たちの心の真ん中に座してくださるお方です。

もう一か所、私が気になったのは17節です。「近づいた」も厳密に見ると、現在完了形で「し終わった」という意味です。それはもうすでに来ているという意味です。つまり天の国、神様の光はすでに世界を、私たちを、照らしているということです。

今日の個所では、私たちには3つの希望が示されています。ひとつ目は神様の光が私たちの世界と心を照らすという希望です。二つ目は、神様は私たちの世界と私たちの心の真ん中に来て下さるという希望です。そして三つめは、すでにそれは来ている、もう始まっているという希望です。

今年も1年、イエス様の光が世界と私たちを照らし出してくださるはずです。そして今年も1年、イエス様が世界の真ん中に、私の真ん中に座ってくださるはずです。そして今年、すでに、イエス様の光は私たちを照らしています。今年1年の主の導きを信じます。だから私たちは今年1年も安心して生きてゆきましょう。お祈りします。

 

「生きづらさの中の神」マタイ2章1~12節

『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」                  マタイによる福音書2章6節

 

2000年前のイエス様の時代は今の私たちの価値観と大きく違います。特に人間関係のウチとソトの概念と、恥と名誉という概念に違いがあります。古代のユダヤ社会では人々は内輪とは親しくし、助け合い、その結束は固かったのです。反対に、外側の人とされた人には驚くほど冷たい社会でした。特に外国人はよそもの中のよそ者だったでしょう。もうひとつ古代ユダヤでは名誉が大事にされました。そんな価値観の中でイエス様は生まれました。

マタイ福音書1章によればマリアの妊娠は結婚前に起りました。それは当時恥とされることでした。マリアの恥、父の恥、家の恥でした。そのような恥は家から取り除かなければなりませんでした。ルカ福音書によると、ヨセフとマリアは旅先で宿屋が見つからなかったとあります。おそらく旅先の人間関係が内輪ではなくソトの関係だったからでしょう。ソトの人間にはそのくらいの対応で十分だったのです。イエス様はそのようにソト、外側に追いやれて生まれたのです。イエス様の誕生を見に来た学者たちも、古代のユダヤの基準からするととんでもなくソトの人です。そのまったくソトの人が、同じくソトにされたイエス様を訪ねています。

イエスの誕生を見ると恥から始まり、そしてソトに追いやられます。そしてさらにもっとソトの人が、イエス様を訪ねて来ます。それがクリスマスの物語です。イエス様の誕生物語はこのように、ソトと恥の物語です。

今日のことからどのように神様のことを考えるでしょうか。神様は私たちにどのように関わる方だと考えることができるでしょうか?今日感じるのは、神は私たちの内側の誇らしい場所に居るのではないということです。神様は恥、不名誉とされる中に、私たちがソトだとする人の中にいるということです。それが私たちの神様です。神様は当時の価値観の中で隅に追いやられた者として生まれました。生きづらい者として生まれました。

今の私たちの世界の、時代の、どのような価値観が、誰を隅に追いやっているのでしょうか。イエス様の誕生はそれに目を向けるようにと、私たちに訴えているのではないでしょうか。特に日本ではこどもや若者や外国にルーツを持つ人が生きづらいと感じていると聞きます。そこに神様は来てくださるでしょうか。そこにこそ、生きづらいと感じる人にこそ神様はきっと来て下さるのではないでしょう。そのような中にこそイエス様が生まれたのが、クリスマスなのではないでしょうか?

私は次の1年をこの時代に生きづらさを抱える人とその場所に、目を向けて向けてゆく、そのような1年にしてゆきたいと思いました。そして生きづらいと感じている人に、そこにこそ神様が共にいることが伝わる、そのような1年になることを願っています。お祈りします。

 

「時をかける神」ヨハネ福音書1章1節~18節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。ヨハネ1:1

 

今日もクリスマス礼拝をみなさんと共にできること、主に感謝します。もしタイムマシンがあったらどうしますか?タイムマシンを使う時、過去や未来を変えてはいけません。タイムマシンのある世界では歴史を変えるのは時間犯罪です。

クリスマス、神様の働きについて考えます。クリスマスは神様という人間とは全く違う方が、人間の歴史に介入しようとしている出来事です。神様にとって人間はもともと自分とは全く違う、別存在だったはずです。神様は人に関わらないことができたのです。しかし神様はご自分で人間の世界に、歴史に、直接介入することを決めました。神様は人間の未来を変えることを決めたのです。それがクリスマスです。

イエス様はそのように地上に生まれました。そして地上での人生は大勢の人の生き方を変えました。神様が歴史を変え、未来を変えたのです。今日の個所から、私たちの歴史、未来を変える神様について考えたいと思います。聖書を読みましょう。

イエス様の誕生について、マタイ福音書は唐突な系図から始まります。系図を重視するユダヤ人らしいとらえ方です。一方ヨハネ福音書はもっと時空を超えて理解します。世界・宇宙の始まり以前から、神様、イエス様がいたのだと言っています。まさに時をかける神です。

ルカ福音書は地上のイエス様を「時の中心」として順序だてて書いています。一方ヨハネ福音書の時間軸はまるでタイムトラベルのように複雑です。イエス様の誕生以前からイエス様は世界と関わりを持ち、複雑に私たちの歴史、時間に関わっていると書いています。これは「先在のイエス」と言われます。ヨハネ福音書の時間概念は複雑です。ヨハネ福音書にとってイエス様とは一体いつの時代の人なのか、よくわからなくなります。まるでタイムトラベラーのように、自由に時間を超えて存在し、時間軸を自由に行き来している様です。

14節のことばは肉となって私たちの間に宿られたとは神様が私たちの時代の、生活の中に入ってきたという意味です。私達に介入しなくてもよい神が、私たちの歴史に入り込んできたということです。そして人間の時間軸に複雑に入りこんでくるということです。

私たちは2023回目のイエス様の誕生を祝うという他にも、もっと時間を超える、時をかけるような喜び方ができるのではないでしょうか。私たちは時をこえて神様とつながることができるのです。私たちは2000年前の出来事を祝っています。でも私たちはそれを、もっと昔からのこととして、そしてもっと今のこととして、もっと未来のこととしても祝ってよいはずです。

神様が私たちの歴史を変えてきました。そしてそれと同じようにこれからの私たち一人一人の未来に、イエス様が関わってくれることを祝ってよいはずです。神様は時を超えます。私たちは、ずっと前から、そして今にわたるまで、そして未来も、私たちに直接関わってくださるイエス様の誕生を喜びましょう。お祈りします。

 

「入りやすい教会」ヨハネによる福音書1章19~27節

ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」       ヨハネによる福音書1章23節

 

普段教会は敷居が高いと言われます。これから教会に入ろうとする人は、急な階段を上るような敷居の高さを感じています。教会にスムーズに入るにはスロープの様なものが必要です。私たちの教会に置き換えると、このスロープはこひつじひろば、こひつじ食堂、こひつじまつり、こどもクリスマスなどでしょう。私たちはスロープを拡げてゆき、いつかたくさんの人と礼拝したいと思っています。愛と平和の神に続くまっすぐで、ゆるやかな道を作ってゆきたいと思っています。

ユダヤ教には当時、いろいろな信仰のグループがありましが、どれもそのグループに入るのは高いハードルがありました。それらと比較すると、新しい生き方を始めるバプテスマ・洗礼という入会方式はハードルが低いものだったはずです。それは血縁や身分、性別、経済力を問わない、誰でも入ることができる、平和的なグループだったのです。どんな人でもバプテスマによって新しい生き方を始めることができる、誰でもそれは受けることができる。それに共感する人々はどんどん増えて、多くの人がバプテスマを受けてゆきました。

ヨハネの「主の道をまっすぐにせよ」とはどんな意味でしょうか?それはつまり、神様のために平らな道を作りなさいということです。彼の目的は神様に通じる道をまっすぐ平らにし、みんなが通りやすい様にすることだったのです。みんなが神様にたどり着くことができるように、神の愛と平和にたどり着くことができるように、そのための道を平らに整える、それが彼の目的です。

これはイラストのイメージと重なります。私たちは今、バプテスマのヨハネと同じ使命をいただいているのかもしれません「主の道をまっすぐにせよ」「平らにせよ」。私たちはその声に促されて、道を造っているのではないでしょうか。

もうすぐクリスマスです。光を求めて多くの人が教会を訪ねて来るでしょう。私たちは平らでまっすぐな道を造りましょう。キリストの愛と平和にまっすぐに、緩やかに向かうことができるように、まっすぐで平らな道を造りましょう。みんなが入りやすい道を造りましょう。私たちにはヨハネと同じ役割が与えられています。お祈りします。

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「お互いをほめ合う教会」ヨハネ福音書5章41~45節

わたしは、人からの誉れは受けない。 ヨハネ5章41節

 

教会で互いをほめ合っている様子をよく見かけます。ほめることは関係を良くするだけではなく、その言葉を受けた人を積極的にします。それぞれの1週間は怒ってばかりだったかもしれません。でも日曜日に互いをほめ合うように、次の1週間はもっと他者を認め、ほめたいものです。ローマ12章10節に「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあるとおりです。

特に教会が大切にしていることは神様をほめるということです。神様をほめるとは、神様のすばらしさが言葉や歌などで表現されることです。教会では神様のすばらしさが語られ、賛美の歌が歌われています。そしてほめているのは、私たち人間だけではありません。神様も私たちほめて下さるお方です。今日はほめることをテーマに聖書を読みたいと思います。

41節でイエス様は「私は人からの誉れは受けとらない」とあります。どんな意味でしょうか。この言葉から私は十字架を連想しました。十字架の死は屈辱の死でした。ほめられることとは正反対、罵られて死にました。イエス様はこのようにほまれを受け取らなかったのです。アドベントに読んで、イエス様の誕生も連想しました。どこにも泊まる場所のない母マリアは、馬小屋で出産をしなければなりませんでした。社会の隅に追いやられて出産したのです。私は誰かを十字架に架けるのではなく、互いを認め合い、ほめ合いたいと思いました。そして誰かを、母や子を隅に追いやるのではなく、受け止めたいと思いました。私はこのようなイエス様の十字架や誕生の、不名誉や抑圧を二度と私たちの社会や生活で繰り返したくありません。この個所は互いを拒絶するばかりではなく、もっと認め合い、ほめ合おうと伝えているのではないでしょうか。

44節を見ましょう。「あなたたちは唯一の神から誉れを受けようとしない」とあります。ほめるのは私たちの側だけからではありません。神様も私たちをほめるのです。私たちはすでに唯一の神からほめられているのです。私たちは、あなたは頑張っている、すばらしいとほめられています。神様はちゃんと私たちを見ているのです。そしてそのほめ言葉をあなたに受け取って欲しいと思っているのです。私たちは神様がわたしたちをほめている、その言葉を受け止めましょう。

神様からほめられ、それを受け入れるなら、私たちはもっと積極的になることができるはずです。これをやろう、もっとやろうという気持ちがわいてくるはずです。そして私も他の人のよいところをもっとほめようと思う様になるはずです。私たちは、神様にほめられています。だから自信をもって歩みましょう。そして私たちが互いをほめ合う様に、神様のこともほめたたえましょう。

今日、神様をほめる、祈りと賛美を神様にささげてゆきましょう。そして私たちは互いにほめ合いましょう。神様が私たちをほめてくださっています。私たちも神様をほめ、互いにほめ合いましょう。お祈りします。

 

「そばにいる神」ヨハネ7章25~31節

わたしはその方のもとから来た者であり、

その方がわたしをお遣わしになったのである。   ヨハネ7章29節

 

ふじみ教会で「最近、平塚教会を身近に感じる」と言ってくださる方がいました。うれしかったです。みなさんには最近になって身近に感じると思ったことはあるでしょうか?ふじみ教会、根塚さん、神学生、横須賀長沢教会も身近に感じるようになったことです。遠くにあると感じていたものを、身近なものとして感じるようになるという体験は神様と私たちの関係にもよく似ていると思います。神様から遠いと思う場所にも、神様は必ずいてくださいます。神様は私たちみんなの身近に、私たちみんなのそばにいてくださるお方です。そばにいるよという言葉は、愛していると同じ意味です。神様は私たちを離れず、そばに、身近にいてくださいます。

今日の聖書の個所を読みましょう。エルサレムの人々は私達よりも何百倍もイエス様のことをよく知っていました。そして、こんな身近に救い主がいるはずないと思いました。救い主はもっと劇的に登場するはずだと思ったのです。その感覚は私もわかるような気がします。しかし、イエス様はそれに対して28節大声で話をします。「みんな私のことは知っていると思いますが、みなさんは神様のことはまだまだ知らないはずです」群衆はこの言葉に怒りました。お前は私たちが思うような神ではない、お前には救い主らしさが無い。神から来たものとは、もっと神秘的で、特別なはずだ。神はこんな身近ではないと思ったのです。

しかし、救い主はそうではなく、身近な存在でした。イエス様が知っていて、エルサレムの人が知らなかったこと、それは神は身近な存在だということです。神様は近くにいる。そばにいる。身近にいる。みんなのそばにもう来ている。それがイエス様が伝えようとしたことです。イエス様が伝えた希望、それはこんなところに神はいないと思う場所にこそ神がいるという希望、神がそばにいるという希望でした。

クリスマスはまさしくそのような出来事です。クリスマスはこんな場所に生まれるはずがないと思う、貧しい、汚い場所で起きた出来事です。私たちはどこに神様がいるのか探すでしょう。光り輝く場所に神がいると感じるでしょう。でもそこだけではありません。暗い場所、悲しいことが起きている場所、私たちのよく知っている場所に神様はいて下さるのです。神様はそのようにしてみんなのそばにいるのです。

神がそばにいてくれる、そのことを心強く思います。そして私自身も誰かのそばにいて、人を愛し大切にする存在でありたいと思います。この教会自身も地域にそんな存在であって欲しいと思います。地域のそばにいる教会、地域を愛し大切にする教会でありたいと思います。そのようにして今週も互いに愛し合い歩みましょう。

これから私たちはパンを食べます。神を一番身近に感じる方法はパンを食べるという方法です。私たちが食べるパンは、神様の体を象徴しています。それが私たちの体を巡ります。これほど身近な神体験はないでしょう。この後の主の晩餐で、私たちはこのパンを食べて、神様を身近に感じましょう。お祈りをします。

 

「共に生きる」ルカ10章25~37節

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエス様は言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」        

ルカによる福音書10章36~37節

 

律法の専門家が、イエス様を試そうとして質問をしました。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」これに対してイエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか?」と質問しました。そうすると彼はこう答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と。イエス様は、こう言われました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」すると、律法の専門家は「では、わたしの隣人とは誰ですか」と切り返しました。

イエス様はそれに答えないで、話をしました。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。そこに、ある祭司が、たまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。次に、レビ人がその場所にやって来ましたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱してあげました。そして次の日になったら、彼は出発しないとならないので、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して、「この人の面倒を見てあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と。

サマリア人はユダヤの国の人に忌み嫌われていました。しかし、半殺しになっていた人を可哀そうに思って宿屋に連れて行って介抱をし、宿屋の主人にお金を渡してまでしてこの人を介抱してあげて欲しい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。と言って出かけた。イエス様は、律法の専門家に言いました。あなたは、この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。そうすると律法の専門家は、言いました。「その人を助けた人です。」そこでイエス様は、言いました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。

私たちも、通り過ぎてしまうかもしれません。しかし、大切なのは、通り過ぎたとしても、思いなおして戻ってきて、傷ついた人の隣人になることであるとイエス様は言っているように思います。わたしたちが、隣人の隣人になろうとする時、真に皆が幸せで平和な社会が実現するのではないでしょうか。(根塚幸雄)

 

「みんな神の子」ローマ8章14~17節

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。ローマ8章14節

 

今日のバプテスマ式はたくさんの人の喜びです。私もジェイソンさんの信仰生活のために、これからも祈ってゆきたいと思います。

今日はローマの信徒への手紙8章14節~17節までを読みました。14節には「神の霊によって導かれる者」という言葉があります。私たちはなんでも個人で決断する時代に生きています。そのような時代にあって、聖書は「神様があなたを導く」と言っています。素晴らしい信仰告白は個人の信仰の決断であると同時に、神の霊の導きの結果でもあります。私たちは神の霊に導かれる者です。

14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とあります。神様はすべての人を導きます。だからみんな神の子です。

私たちは15節、奴隷ではありません。私たちは神様が怖くて従うのではありません。私たちは神の愛を受けて、従う存在になります。私たちは愛されている実感を持って生きることができる、神の子です。さらに15節の「子とする」という言葉は養子縁組をするという意味の言葉です。神様は自分のこどもと何一つ変わらずに私たちを愛してくださっているのです

17節、たとえ神の子であっても、苦しみの時があります。あの神の子イエス・キリストも十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と叫びました。神の子にも苦しい時があるのです。しかし神は決して、子を見捨てません。神は苦しみの時も、叫ぶ時も、私たちと共におられます。イエス・キリストに復活があったように、私たちの苦しみの後にも、必ず希望が準備されています。神様と私たちは親子です。だからどんな苦しみも神と私を切り離すことができないのです。

神の子という言葉を聞くと、もともとそれはイエス・キリストの称号だったはずです。イエス・キリストこそ神の子です。そして私もあなたも、イエス・キリストもみんな神の子です。神様は私たちに、神の子として地上にこられ、イエス・キリストととして歩まれたあの方と同じ役割を与えて下さっています。私たちはイエス・キリストのように、神の子として、隣人を愛するように求められています。

17節には、私たちが神の相続人だともあります。神様の看板を引き継ぐことになったと言ったらわかりやすいでしょうか。神様の相続人になるとは、愛するということを引き継ぐものとなったという意味です。私たちは神から受けた愛を、また次の人へと途絶えることが無い様に、次の世代へ受け渡してゆきます。愛を受け、渡してゆくこと、それが神の子の役割、相続人の役割です。

16節には、私たちは確かに神の子であることを、神様とお互いが証明しているとあります。それはつまり私たちはお互いを神の子として愛し合おうということです。私たちはお互いをイエス・キリストと同じ、神の子として大切にしましょう。

今日、新しく従う命が与えられました。私たちは神の子です。私たちは愛する1週間を、愛する人生を歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

「死に勝る、神の愛」ローマ8章35~39節

わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。       ローマの信徒への手紙8章39節

 

今日は召天者記念礼拝です。天に召された方たちを覚えて礼拝を献げます。仏教では死の7日後に三途の川を渡り、49日後にあの世へと行きます。そしてその後、来世があると信じられています。生まれ変わってまた、別の時代を生きようになるのです。仏教では、死んだ後どのようになるのか、明確な順序があり、生まれ変わるという明確な行先が示されています。ではキリスト教では死後をどのように考えるでしょうか。聖書には死んだ後について様々なことが書いてありますが、はっきりとしたことは書いていません。神様は死に向き合う私たちに何を語り掛けるのでしょうか。聖書に聞いてゆきたいと思います。

今日の個所は死についてはっきりと宣言をしていることがあります。それは「死さえも神の愛と私たちを引き離すことができない」ということです。死んでも続くものがあるのです。それは神様の愛です。人間の死は多くの意味で節目です。死はたくさんの事との別れをもたらします。だからこそ私たちは、死はすべての終わりだと思うのです。でも聖書は死すらも、神様の愛と私たちを引き離すことができないと語っています。

私たちには人生に行き詰まる時があります。人生に行き詰まり、もうこれ以上できることはない、できないと思う時があります。しかしその時も、神様の愛は私たちから離れません。何ものも私たちから神様の愛を引き離すことはできないのです。

私たちが何とか神様の愛にしがみつくのではありません。神様はどんな時も私たちを離さないお方です。神様の愛が私たちを離れないのです。神様が私たちをつかみ、神様の愛から離れないようにしてくださるのです。

現在も未来も、神様の愛を私たちから引き離すことはできません。人間同士の関係は時間がたつと変わり、薄れていってしまうものです。でも神様の愛は違います。高いところ、低いところとは、宇宙全体を意味する言葉です。宇宙全体よりも神様の愛が勝るということです。どんな被造物も、宇宙すらも、空間すらも神様の愛から私たちを引き離すことはできないということです。神様の愛は時間も、空間も超えて私たちから引き離れないのです。そして神様の愛はたとえ死んだとしても、私たちに変わらずに注がれ続けます。神様の愛は死すらも私たちから引き離すことができないのです。私はそこに私の希望を置きたいと思います。

写真の方たちは今日も神様に愛されています。中には時の経過とともに、この教会との関係が徐々に分からなくなってきている方もおられます。でも神様の愛は引き離れません。どんなに長い時間も、空間も、死も神様の愛からこの方たち、私たちを引き離すことができないのです。

私たちは今この地上の生涯を一生懸命生きましょう。神様からの変わらぬ愛を受けて、精一杯を生きてゆきましょう。お祈りいたします。

 

「マウントよりも愛」ガラテヤ6章11~18節

このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。              ガラテヤ6章14節

 

礼拝の中で5回、ガラテヤ書を読んできました。ガラテヤ書を読んでいる最中に、イスラエルとパレスチナで戦争がはじまりました。イスラエルとパレスチナの上に平和と憐みがあるように私たちも祈ってゆきましょう。

パウロは繰り返し割礼を批判しています。割礼とはユダヤ教の入信の際に、陰部の皮を切り取る儀式のことです。当時は教会に2グループの人がいました。生まれた時に割礼を受けたユダヤ人と、他の宗教から来て割礼を受けていない異邦人です。ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者に、神様を信じるならば絶対に割礼を受けるべきだと言いました。しかしこれはかなりハードルの高いことです。異邦人キリスト者は割礼を受けるべきか、当時の教会で大きな問題になっていました。

この割礼は、信じることの象徴ということよりも、ユダヤ民族の象徴という意味が強くありました。割礼はユダヤ民族の誇りだったのです。割礼を受けることはユダヤ民族の優位性を受け入れることにつながりました。自分の民族を捨ててユダヤ民族に同化する、そのような意味でした。パウロはそのような割礼を批判し、必要ないと言っています。それぞれ今の民族の、今の暮らしの中で、神様を信じ、愛の実践を行うことが大事だと教えたのです。

マウントを取るという言葉があります。相手との会話の中で、自分の方が上で、優位に立っているということを示す行動です。割礼はマウントとも言えるでしょう。ユダヤ人が悪いと言っているのではありません。人間はこのような態度を取ることが多くあります。自分が優位に立とうとすること、自分の正しさを押し付けてしまうことが多くあります。それは日常でも、世界でもそうです。

パウロはイエス・キリストの十字架を誇ると言っています。十字架とはイエス様が愛に生きようとした時に起きた拒絶です。イエス様が愛に生きようとした時、多くの人がその価値観、生き方に拒絶を示しました。その拒絶の結果が十字架です。しかしそれに生き方に従う人もいました。それは人を愛するという生き方でした。パウロは見捨てられ、拒絶された、愛するという価値観を誇りにしています。

16節の原理という言葉には基準という意味があります。世界の基準は豊かさや強さです。それを争って決めようとしています。しかし私たちの基準はそうではありません。私たちの基準は十字架です。愛するという生き方です。

私たち教会とはどんな集まりでしょうか。私たちはもちろん、マウントを取り合うためにここに来ているのではありません。私たちは互いを愛する生き方を確認するために、今日も集っているのではないでしょうか。それは拒絶され、苦労が多い生き方です。でも私たちの誇りは十字架です。その愛に誇りを持って生きようと、私たちは今日も集まっているのではないでしょうか。それが十字架を誇るという意味ではないでしょうか。お祈りします。

 

「キリストへの信仰」ガラテヤ2章16節

 

人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 ガラテヤ2章16節

 

2018年に約40年ぶりに新しい聖書翻訳「協会共同訳」が出版されました。これまでの研究成果が凝縮された翻訳です。16節は「キリストへの信仰」から「キリストの真実」という翻訳に変更されました。このことを見てゆきます。

これまで16節「キリストへの信仰(信頼)」だったものは「キリストの真実(信頼)」に変わりました。「へ」が一文字抜けました。文法上はどちらにも翻訳可能です。キリストへの信仰の方が意味が分かりやすかったでしょう。それは私たちの信仰の対象がイエス・キリストだからです。この考え方は私たち人間がいかにキリストを信じるかが大事だという見方です。信仰義認とも共通する考えです。

一方、近年は「キリストの信仰(真実)」という翻訳を支持する人も増えてきています。これは大きな解釈変更です。「キリストの信仰」だとするなら、それはイエス様の持っていた信仰のことを示します。イエス様の信仰とは、イエス様がどのように神様を信頼し、生きたのかということを示します。イエス様を信じる「キリストへの信仰」が大事なのか、それともイエス様のように生きる「キリストの信仰」が大事なのかという大きな違いがあるのです。パウロが本当に語ろうとしたのは何かという全体の理解の変更にもつながる議論です。

私自身はパウロが語ったのは信仰義認ではなく、キリストの様な生き方の勧めだったと考えています。その立場からは「キリストの信仰」を支持したいところです。しかし私は迷っています。おそらくパウロはここで、私たちは律法によって一つになっているのではなく、信仰・神様の約束を信頼することによって、ひとつになっているということを語ろうとしています。考え方が違っても、共同体が一致していることは何か、それは神様を信頼する事だと語ろうとしています。だとするなら、この個所はやはり「キリストへの信仰」と訳されるべきだと思います。

行動や生き方、律法を守るかどうかはそれぞれ違ってバラバラで良いのです。でもその中でキリストへの信仰・信頼が私たちを一つにするのです。パウロはそのような一致を語っているのではないでしょうか。私はそのような理由で今日の時点では「キリストへの信仰」を支持したいと思っています。

私たちはそれぞれ違う人生、違う考えを持ちますが、キリストを信頼することにおいては一致できるのです。キリストへの信仰か、キリストの信仰か、どちらかに決めることはできないのは、信仰か生き方かどちらかを決めることができないこと、生き方が一つに固定できないことともつながっているでしょう。

私たちはどう生きるのか、お互いに何を信じ、どう生きているのかを聞きながら、歩んでゆきましょう。ともにキリストへの信仰、キリストの信仰を持ち、それぞれの1週間を歩んでゆきましょう。お祈りいたします。

 

「愛の実践を伴う信仰こそ大切」ガラテヤ5章2~15節

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 ガラテヤ5章6節

 

今日は収穫感謝礼拝です。私は農薬を使わないオーガニックコットンの服をなるべく選んでいます。綿は非常に多くの農薬を使います。世界の農薬の7%が、綿の生産のために使われていると言われています。農薬や化学肥料に頼りすぎた農業をすると土壌はやせてゆきます。農薬はそれを使う農家の健康にも負担があります。

私の服の選択肢は無数にあり自由です。しかし私の着る物が誰かの負担や犠牲のもとに成り立つのなら、私はそのような服を着続けたくないと思います。できれば少しでも生産者の負担や犠牲が少ない商品を選択したいと思います。

私たちの着るもの、食べるもの、生活はすべて、誰かに支えられています。好みのもの、安いものを選ぶだけではなく、生産者を考えて商品を選びたいと思います。今日は収穫感謝礼拝です。この収穫を神様に感謝しましょう。そして、その収穫を支えている人が、誰かの犠牲になっていないかにも思いを巡らせたいと思います。そして私たちは精一杯の愛の選択をしたいと思います。神様はきっと一人一人が愛の選択をする、その方向へと世界が進んでゆくことを願っておられるはずです。

今日の聖書の個所を読みましょう。ガラテヤ教会の一部の人は、信仰を持ったなら、ユダヤ人の習慣である割礼(男性の性器の皮を切る儀式)を当然すべきだと言いました。しかし割礼は受ける人にとって大きな負担です。ガラテヤ教会が割礼のことで揺れていました。そこにパウロから手紙が届きました。

パウロは手紙の中で6節「愛の実践を伴う信仰が大切」だと訴えています。割礼の有無よりも、私たちの生き方が大事ということです。他の人が自分と同じか違うかということよりも、お互いが愛をもって生きることが出来ているかどうかが大事だということです。これは私たちにも語られていることです。

私たちに一人一人にとって、愛の実践を伴った信仰を持って生きるとはどんな生き方なのでしょうか?私たちは何を着るか、何を食べるか自由です。私たちは自由に生きるように神様に示されています。他の人と同じ選択をする必要はありません。

ただ私たちの自由は罪、誰かを傷つけるものとなっていないかも考える必要があるでしょう。自由に生きるからこそ、他者を傷つけないこと、他者を愛することを忘れないようにしましょう。愛によって互いに恵みがあるようにしましょう。人と地球にやさしい物を選ぶことは、本当に小さな選択かもしれません。でもその小さな愛の選択が私たちの世界を少しずつ変えるはずです。

14節、隣人を自分のように愛す、これが律法全体、聖書全体を表す言葉です。私たちの生活を支える誰かを犠牲にしない選択をしましょう。それが愛です。15節、世界がお互いによって滅ぼされないように祈ります。私たちが自分だけ良ければよいと思う時が、世界が共食いを始める時です。私たちは収穫を神に感謝し、愛のある選択をしましょう。神様からいただいた収穫に感謝します。お祈りします。

 

「神のゆるやかな一致」ガラテヤ書2章11~14節

なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。   ガラテヤ2章12節

 

今日はガラテヤ書から当時の食事の問題について考えます。当時キリストを信じる人は大きく「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」がいました。アンティオキア教会では「ユダヤ人キリスト者」も「異邦人キリスト者」も、みんなで一緒に礼拝し食事をしました。このことは当時大変珍しいことでした。ユダヤ人はユダヤ人以外とは絶対に食事をしないという人がいたからです。

食事の規定の中には、豚肉を食べないなどの規定もありました。どうやって一緒に食事をしたのでしょうか。ユダヤ人キリスト者が食事規定のすべてを捨てて、異邦人キリスト者と一緒に食事をしたわけではなかったはずです。また逆に、異邦人キリスト者が、ユダヤ人のように豚肉を食べるのをやめたというのも考えづらいです。おそらくお皿や食べ物が分かれていました。一緒には食べるけど、食事はそれぞれの考えに合わせて作られたのでしょう。このように一堂に会する食事はアンティオケ教会ではとても大事にされました。それはこの教会の特徴であり、この教会の宣教でした。神様はこのようにして、ゆるやかな一致を起こされました。

当初はペテロも一緒に食事をしていました。しかしエルサレムから厳格派が来て注意されると、ペテロは徐々に態度を変え異邦人キリスト者との食事を避けるようになりました。これにはアンティオケ教会一同、大変がっかりしたに違いありません。異邦人キリスト者は、自分たちを受け入れないのだとがっかりしたでしょう。これがアンティオケアの事件でした。

どちらが良い悪いではなく、2000年前から、誰と一緒に食事をするのかということ多様な考え方がありました。ユダヤ人社会の中でどうやってキリストを信じるかということと、様々な宗教が混在するアンティオキアでキリストを信じる事とは大きな違いがありました。置かれた場所によって理解が違ったのです。

さて、この個所からどのような生き方を考えるでしょうか。まず私たちはアンティオキア教会と同様に昼食会やこども食堂にもっといろいろな人が来て、一緒に食事がしたいと思っています。それが私たちの教会の特徴であり、宣教だからです。主の晩餐はどうでしょうか。それは一緒に考えたいと思っています。神様は私たちをそのようにゆやかに一致させる方なのではないでしょうか。

私たちのそれぞれの生き方はどうでしょうか。私たちは誰かに無理に同一、同質、“同化”を押し付けなくてよいでしょう。誰かに私たちが無理に一致する必要もないでしょう。私たちの社会でも違いをもったまま、ゆるやかに一致することができないでしょうか。同じテーブルだけどメニューは違う、でも大切にしているものは同じ。社会も教会もそんなゆるやかな一致ができないでしょうか。神様は私たちをそのように一致させてくださる方なのではないでしょうか。お祈りします。

 

「パウロへの新しい視点」ガラテヤ2章15~21節

けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 ガラテヤ2章16節

 

今月から2か月間、パウロ書簡から宣教をします。世界中のキリスト教の中でNPP“New Perspective on Paul”パウロを新しい視点でとらえようという試みが盛んです。これまでパウロは書簡全体で律法批判と信仰義認論を語っていると考えられてきました。しかし、近年の研究でそのとらえ方は大きく変わってきています。NPPではパウロが批判しているのは律法ではなく差別であるということ、信仰と行い両方が大事だととらえています。この潮流は世界的なうねりになっています。

今日の聖書個所の執筆当時、まだキリスト教とユダヤ教ははっきりと分かれていませんでした。そこではイエス・キリストを信じる人は、まずユダヤ教に入ることが必要なのかという問題がありました。男性がユダヤ教に入信するには割礼(男性の性器の皮を切り取る儀式)が必要です。キリストは信じるが、本当にユダヤ教の習慣に従うべきか迷っている人が多くいました。キリストを信じている人の中には2つの立場がありました。割礼を受けるべきだと考えたのが厳格派、割礼はいらないと考えたのが穏健派です。後にキリスト教は穏健派が中心になってゆきます。

パウロの論争の中心はキリストの信仰をすでに持っている人を、共同体がどのように受け止めていくかということです。割礼は信じている印ではなく、ユダヤの民族の印でした。割礼の有無は人々の隔ての壁になっていたのです。パウロはどのような民族であっても、キリストを信じる信仰があれば、無理に割礼をしなくてもよいと考えました。パウロが本当に批判したのは割礼そのものではなく、割礼の有無による差別でした。パウロは、あなたはあなたのままで、キリスト者としてこの仲間に加わることができると訴えたのです。

16節には「信仰によって義とされる」とあります。人は割礼を基準として義とされるのではないという意味です。元々この共同体は割礼の有無ではなく、神様を信じているという信仰の有無が一番に大事にされる集まりであったはずです。

19節には「私は神に対して生きる」とあります。それはどう生きるかという私たちの行為に対する問いです。大切なのは信仰か行為かどちらかではありません。大切なのは信仰を持ってどう生きるかということです。私が十字架にかかるとは差別と隔てを持った私が、キリストと共に十字架につけられて殺されるということです。

20節には「キリストが私のうちに生きておられる」とあります。私の隔ての壁は十字架に架けられて死にます。その後の私の中にはキリストが生きるのです。

21節それが、神の恵みを無駄にしない生き方なのです。

私たちの社会を考えます。私たちはその壁をどうやって低くし、無くすことができるでしょうか。その人のそのままを受け止めてゆくことができるでしょうか?私たちの教会はどうでしょうか。私たちは共同体としてどのようにして、どこまで、ありのままを受け入れることができるでしょうか。お祈りします。

 

「礼拝説教って何?」使徒言行録17章22~34節

すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 

使徒言行録17章25節

 

今日は礼拝の説教について考えます。礼拝の中で一番大事なのは「聖書朗読」です。説教のない礼拝はありますが、聖書を読まない礼拝はありません。礼拝は第一に聖書・み言葉を中心とした集まりです。しかし聖書は一人で読んでいてもわからないものです。教会では毎週、誰かの聖書の受け止め方を聞きます。誰かの話を聞くと、わからなかった個所に、何か生きるヒントがあるような気がしてくるのです。

説教とはおそらく、そのように聖書の言葉を私たちの現実の中でどう聞くのかを考える取り組みです。私たちは今日このような礼拝と説教の時に呼び集められています。神様が教会に行き、仲間と会い、聖書を分かち合う様に促しています。神様が教会でどう生きるか考えてくるようにと促しているのです。今日この説教の時間、聖書からどう生きるか一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。

今日の聖書箇所は使徒言行録17章22節~34節です。パウロのこの説教は4つの事を語っています。1つ目は25節、神様はすべての命を作った方であり、その命は尊ばれるものであるということです。語っているのは刑事裁判の会場です。パウロは命を傷つけあう現実が明らかにされる、そのただなかで、命は大切にしなければならないということを語っています。その生き方を聴衆に問いかけています。2つ目に語っていることは27節、神様は私たちのすぐそばにいるということです。神様なんて存在しないと感じる現実があります。でもそんな時にこそ一人一人の近くにいるのです。だから希望を失う必要がないという宣言です。希望を持つ生き方をしようということです。3つ目は30節、悔い改めについてです。悔い改めとは生き方の方向転換をすることです。私たちの生き方を変えるようにと語っています。4つ目は31節です。パウロは、イエス様が確証を与えてくれると言っています。命の大切さ、希望を持つことの大切さ、生き方の方向転換、それはイエス様が教えています。イエス様がいるから神様の創った命の大切さ、希望も持って生きる事の大切さに確信を持ち、方向転換することができるのです。

32節、聞いた人々は一人一人感想が違いました。みな自分で考えたのです。その中から少数ですが従って生きる人が起こされました。これがパウロの説教です。私たちの礼拝でもこのような時が持たれています。アレオパゴスの現実のように、私たちには置かれた現実があります。その中で聖書の言葉が響き、説教が語られます。互いの理解を聞いて、私はどう生きるのかを考えます。私たちはその生き方の確証、確信を得るために今日集まっています。神様に集められています。

礼拝の中心に聖書があります。そして礼拝の中に説教があります。今週も聖書の言葉を聞き、互いの言葉を聞きました。そしてイエス様からの確証をいただきます。さて私たちは今週をどのように生きてゆけば良いでしょうか?それぞれの1週間が豊かな愛にあふれた1週間であるように願います。お祈りします。

 

「礼拝から派遣されて生きる」Ⅱコリント13章13節

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章13節

 

今月の宣教は礼拝と礼典について考えています。8月から礼拝の「祝祷」が試験的に「派遣の祈り」になっています。礼拝は招きで始まり、派遣で終わる構造です。これは私たち礼拝者の1週間をよく表しています。私たちの1週間は日曜日、神様に招かれてこの礼拝に集うことから始めます。私たちは礼拝から生きる力をもらい、聖書とお互いから励ましをもらい、また派遣されてゆくのです。

派遣の祈りは平塚教会では次のように祈られています。「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」

クリスチャンは神様から1週間、職場や家庭や地域に派遣されていくと考えます。派遣された先では難しい人間関係や難しい問題に対処することになります。でも週の始めに神様が力を下さいます。だから私たちは1週間なんとか生き抜くことができ、なんとか愛をもって1週間を過ごすことができます。よい共同体を作る、そのために働くことができます。礼拝で一人一人が力と言葉をいただき、それぞれの場所に派遣されます。私たちはそこで愛し、仕える、1週間を過ごしてゆきましょう。

今日の聖書箇所を見ましょう。「聖霊の交わり」という言葉があります。教会では私たち同士の交流や祈り合い、励まし合い、食事を「交わり」と呼びます。教会は交流や信頼関係のある共同体づくりを大切にしてきました。聖霊の交わりとは、聖霊によって生まれる交わりのことです。神様が私たちに力と言葉を与え、私たち人間の間によい交流が、よい信頼関係が、よい共同体があることが聖霊の交わりです。

コリント教会は様々な課題があり、分裂しそうな教会でした。ぎくしゃくする共同体に、神様の力と言葉によって、よい信頼関係が起るようにと祈っています。そしてこの言葉は私たちに向けた言葉でもあります。派遣された場所で聖霊の交わりがある、よい信頼関係がある、そのような共同体を作ることが勧められています。

私たちの1週間が始まりました。私たちは今日またこの礼拝から派遣されます。私たちは聖霊から力をいただき、よい交わりを、より人間関係を創ることができるはずです。私たちはそのような聖霊の交わりを作る1週間を歩んでゆきましょう。

今日、敬老祝福祈祷の時を持ちます。高齢の方々の1週間が守られるようにお祈りします。高齢者の方がこの共同体のよい交わり、聖霊の交わりを守り続けて下さったことに感謝します。

私たちは1週間、こどもも大人も高齢者もそれぞれの場所でできる愛、仕えること、聖霊の交わりをつくること、その祈りを大事にしてゆきましょう。そのために今日もこの礼拝からまた派遣されてゆきます。お祈りをいたします。

 

「教会の境界線が変わる」ルカ14章7~14節

宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。

 

ルカによる福音書14章13節

 

 聖書教育の発行回数の変更をきっかけに、教会員以外の方にも週報棚ができました。教会にとって大きな変化です。社会でも所属意識が変化しています。教会の境界線はどこにあるのかを疑問に思っています。ある数学のモデルが参考になるかもしれません。右に2つの図があります。左側のこれまでの教会はAさん・Dさんと、Bさん・Cさんは、はっきりとした境界線で区切られていました。誰がメンバーで、誰がそうでないかはっきりとしていたのです。しかし右側のモデルは違います。この共同体の境界線はアメーバのように変化します。いままで外側の人であったCさんはメンバーの中におり、Cさんを受け止める柔軟さがあります。Bさんは引き続き違う人です。Dさんは今まで同じと思っていましたが、実は境界線上にいる人です。大事なのは真ん中の点です。そして大事なのはその点に近いか遠いかではなく、その点を目指しているかどうかです。この共同体は、中心の点から多少距離が離れていても、その人を取り込むように組織の形を変えることができます。この図は教会の新しい境界線に示唆を与えてくれます。

今日はルカによる福音書14章7節~14節です。この個所は私たちに変化を求めている箇所です。柔軟に境界線を変えようという話です。特に後半を見たいと思います。私たちは誰を招くかが問われています。聖書によればこの人たちがまっさきにパーティーに招きたいと思ったのは気心の知れた仲間と、価値観が一緒の仲間です。そこにお金持ちや有力な人が入ると組織に箔がつきます。

しかしイエス様は言います。もしパーティーを催すときには、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を招くようにと。私たちが招く人を変えるようにという教えです。このパーティーは教会と言い換える変えることができるでしょう。イエス様は誰をこの共同体に招くのかという境界線を見直すように言っています。そこには私たちが今まで思ってきた招きと違う招きがあるはずです。

私たちは価値観も違う、血縁もない、たいして金持ちでもない集まりです。でも私たちは今日神様に集められています。お互いに人生に困り、疲れ、悩み、不自由を感じています。その私たちを神様が今日集めて下さったのです。私たちは今までの境界線を変えることができます。イエス様はそのように私たちに伝えているのではないでしょうか。お祈りします。

「食事に招かれた人」ルカ14章15~26節

今日から1ヶ月は礼典をテーマとして宣教をします。今日は主の晩餐について考えます。主の晩餐とはイエス様のことを思い出すために行われる、小さな食パンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会ではこれに参加できるのはクリスチャンのみとしています。ただしバプテスト連盟の調査によれば諸教会の主の晩餐の持ち方は多様で、以下の通りです(数字は教会数と構成比)。教会ごとに祈った選びに正解も不正解もないと思います。大事なのは、私たちの教会はなぜそのような選びをするのかを考え、知り、紹介できるようにしておく事です。

 

  • 当該教会のメンバーのみ        1教会 0.3%
  • 他のバプテスト教会の信徒を含める 3教会 1%
  • 教会・教派を問わずバプテスマを受けたクリスチャンを含める 169教会 62%
  • イエスを信じバプテスマの決心をした人を含める 27教会 10%
  • バプテスマの予定を問わずその場でイエスを信じている人を含む 58教会 21%
  • すべての会衆で行う 16教会 6%

 

今日はルカによる福音書14章15節~24節です。一緒に食事をしていた人が言いました「この食事でこんなに幸せなのだから、神様に愛されている、大切にされているのを感じながら食事したら、どれだけ幸せなのだろう」。イエス様はそんな時、食事会のたとえ話を始めます。たとえ話で主人は次々に友人から宴会の出席を断られます。主人はとても傷ついたはずです。落ち込んだ主人は、自分と同じように悲しい思いをしている人に食べてもらおうと考えます。宴会はそのような人が呼び集められました。そしてまだ席が空いていました。主人は誰でもいいと言いました。

このたとえ話でイエス様はこれが神の国だと伝えました。神の愛はだれにでも無条件、無償で分かち合われるのです。神様の愛、招きとは、席はすでにそこにあり、誰でもいいからこの席・この愛に加わって欲しいという招き、それが神様の愛です。

主人は当初、限られたメンバーで食事をしようとしたとあります。私はそれは、それでよい部分があったのではないかと思います。きっと主人は自分の喜びと気持ちを深く理解して、一緒に喜んでくれる仲間が欲しかったはずです。せっかくのごちそうだから、私の喜びをよく理解している人と食べたい、祝ってもらいたいと思ったのが主人の最初の気持ちでした。それも良くわかります。でもこのような結果になりました。主人は次の食事会をどのように持ったでしょうか?

私たちはこの食事のたとえから何を考えるでしょうか?私たちの主の晩餐の意味をどのように考えるでしょうか。イエス様を思い起こす主の晩餐に、正解か不正解かはありません。私たちはどうして今の在り方なのか、これからどう進んでゆけば良いのか、来週も共に考えてゆきましょう。

 

「救い出したまえ」マタイ6章9~13節

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。 マタイ6章13節

 

主の祈りを宣教のテーマとしています。今日が最後です。主の祈りの中にある豊かなイメージをもう一度確認してきました。

キリスト教の「救われる」とはどんな意味でしょうか。ご存じのとおり、キリスト教を信じれば悪いことが起きないわけではありません。この祈りを祈っている人は皆、まだ救われていない人、いま試練と誘惑と悪の真っただ中にいる人です。だからこそ私たちはすべての人が一緒に祈ります。

聖書のもともとの言葉で「救う」とは、戦場から脱出する時に使う言葉です。敵に囲まれた戦場から引っ張り出されることが「救われる」ことです。

キリスト教を信じていても試練や誘惑が起きます。ではキリスト教を信じるメリットは何でしょうか。キリスト教のメリットを挙げるなら、祈ることができるということでしょう。どんな人も同じ試練に遭遇します。しかしその時、キリスト教には「救ってくれ」と祈る先があります。それは事態を変えない、ただの気休めのように感じるかもしれませんが、そうではありません。誰かに祈ることができること、それは私たちを変えます。私たちは孤立無援ではないのです。神様が共にいます。神様の存在が私たちを絶望させず、私たちに力を与えるのです。

クリスチャンはいつも神様に弱々しく「救ってください」と祈っています。自分の弱さを良く知っているから祈るのです。このように自分の弱さを知って、祈るのがクリスチャンといえるでしょう。私たちは弱さと欠けを持った等身大の私として神に祈るのです。

私たちが救われたいのは何からでしょうか?今抱えているひどい人間関係の中から、ひどい病気の中から・・・私たちは救いを求めています。そしてもうひとつ大事なことがあります。これは私の救いではなく、私たちの救いを求める祈りだということです。個人的な祈りではなく世界の救いを求める祈りでもあるということです。私たちの世界には大きな試練、悪と不正がたくさんあります。この祈りはそのような世界からの救いを求める祈りでもあります。

「救い出したまえ」それは試練にあう私たち、すべての人の祈りです。そこからの脱出を求める祈りです。この祈りは、神は私たちと共にいると感じさせ、力を与える祈りです。そしてこれは世界の救いを求める祈りです。

6回にわたって主の祈りを見てきました。私たちのいつものお決まりの祈りは、私たちの知らないところで豊かな意味を持っていることを知りました。信仰を持つ、キリスト教を信じるとはいったいどんなことでしょうか。それはきっと何かの教理を信じること、洗礼を受けることだけを指すのではありません。大事なのはこの主の祈りを一緒に祈っているかどうかではないでしょうか。私はこの祈りを祈る者、この祈りを生きる者になりたいと思います。最後に一緒にこの主の祈りを祈りましょう。

 

「ゆるせなくていいよ」マタイ6章9~13節

我らが罪をゆるすがごとく、我らの罪をもゆるしたまえ マタイ6章12節

 

主の祈りについて考えています。今日見てゆきたいのは「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」についてです。この祈りには「私はあの人のことを赦します」という宣言が含まれています。だからこの個所は主の祈りの中で一番自信を持って祈ることができない箇所です。「我らが罪を○%×$☆♭#▲!※、我らの罪を赦したまえ」とごまかしたい祈りです。なかなか宣教もしづらい箇所です。

この祈りをもっと知るために、罪とは何か、赦すとは何かという2つの側面から考えたいと思います。罪とは大きくは命を傷つけることです。法律で禁止されているかどうかに関わらず、人の命を傷つけたり、見下したり、物のように扱う事が罪です。一番大きな罪、わかりやすい罪は戦争です。私たちは直接的かどうかに関わらず、いつも誰かの命を傷つけてしまう存在です。私たちは罪人です。私は罪人ではないという人は、自分の罪に気づいていない罪人でしょう。

では赦しとはどんなことでしょうか?赦すとはもうこれ以上その問題について相手を責めないことです。以前の関係に戻ることです。関係の回復が赦しです。一番わかりやすい赦しは借金・負債の免除です。ただここで注意が必要なのは「赦す」とはきれいに水に流し、忘れてしまうことではないということです。赦しとは、忘れはしないけど、でも関係を回復するということが赦しです。

キリスト教では「赦しなさい」と教え、赦しを強制してきた部分があります。しかしその教えは、多くの二次被害を生んできました。赦すか赦さないかは本人の自由です。赦しには時間がかかるものです。簡単に赦す必要はありません。加害者の誠実な謝罪や償いは赦しへの一歩となるときがあります。でも本人が赦せないと思うなら、赦さなくていいのです。人が人を赦すことは難しく時間がかかります。

では神様はどうでしょうか?神様は罪を犯した横から自動的に、機械的に赦してゆく方なのでしょうか。違います。神様はきっと私たちが自分の罪を罪と認め、もうしないと固く思うことを期待しています。そしてもう二度としないと誓う時に、初めて神様は私たちの罪を赦してくださるのです。それが神様の赦しです。神様は私たちが罪を罪と認め、もうしないと誓う時、赦し、関係を回復してくださいます。

今日の祈り「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」は赦しますと思っていない人、赦さない人はこの祈りは祈れません。おそらく誰も祈れないはずです。しかし「私は赦す」と祈ります。そこには私たちの矛盾と破れがあります。祈れない祈りです。でも私たちはその矛盾に希望を置くのかもしれません。赦せないのに赦しますと祈る、赦されないことが赦される、その矛盾と破れの中に私たちの希望があるのではないでしょうか。赦せないのに、赦しますと祈る、そのはざまに神様はいて下さるのではないでしょうか。

これは本当に祈れない祈りです。今日は主の祈りは祈らずにおきましょうか。でもやはり祈りましょう。赦せなくてもいいから、赦すと一緒に祈りましょう。

 

「貧困撲滅祈祷」マタイ6章9~13節

我らの日用の糧を今日も与えたまえ マタイ6章11節

 

今月と来月は主の祈りをテーマとして宣教をしています。この祈りには食べ物を求める祈りと、心が満たされることを求める祈りの2つの側面があります。今日はそれぞれの側面を見てゆきたいと思っています。

イエス様の時代、飢饉と貧困と格差は大きな社会問題でした。食べ物が無い飢餓の様子は地獄の様でした。飢饉の恐ろしさ、残酷さは一度体験したら一生忘れることが出来なかったでしょう。パンが無いことは心にも体にも深刻なダメージを残しました。飢饉に対して人々は差し迫った恐怖感をいつも持っていました。飢餓は天候不良だけが原因ではありません。飢饉が起るとお金持ちはありったけの食料を買い上げ、大儲けしました。不平等な制度も飢饉の原因です。イエス様の祈りはこのように元来、食べ物のための必死の祈りです。生存を求める祈りです。社会の不平等が終わる公正さを求める祈り、飢餓撲滅、貧困撲滅の祈りでした。

もう一つの側面をみましょう。余裕があり飢饉とはほとんど無縁の生活をしている人たち(私たち)はこの祈りを、日々私を支える聖書の言葉、霊的な支えが与えられるための祈りと解釈しました。私たちはこの2つの側面を知り、この2つを両方とも大事にしながら祈りたいと思います。そして特に私たちが特に忘れてしまっている貧困撲滅の祈りの側面を見直すきっかけは「我らの」という言葉だと思います。

「我らの」とは「私の」ではなく「私たちの」という意味です。この祈りはみんなの食べ物が与えられる様にという共同体の祈りです。それは私が(私だけが)食べればよいという祈りではありません。私の周りでどんな人が食べられないかを考えさせられます。私の身の周りには最近食事があまり食べられなくなってきているという高齢者がいます。私だけではなくておじいいちゃん、おばあちゃんがしっかりご飯を食べることができますように、この祈りはそのような祈りです。夏休み期間中に体重が減ってしまうこどもがいます。こどもたちが夏休み、しっかり栄養とバランスの良い食事を食べることができるように祈りたいと思います。もっと世界に目を向け「我ら」を私たちの世界とまで広げることができます。戦争は世界の飢餓の原因のひとつです。みんなに食べ物がゆきわたりますようにというのは、戦争が終わりますように、平和がありますようにという祈りとつながっています。

今日は主の祈り「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」を見て来ました。私たちはこの祈りをどのように新しく祈ることができるでしょうか。これは我らの、みんなの祈りです。食べ物の祈りです。貧困撲滅の祈り、飢餓撲滅の祈り、平和の祈りです。みんなが満たされるように祈る祈りです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」は食べ物と平和が世界にゆきわたりますようにという祈りです。この祈りがもっと世界に広がるように祈ります。私たち一人一人の中にもこの祈りが広がってゆくことを祈ります。私たちはこの祈りで結び付けられ、それぞれの場所で具体的に働けるように力が与えられるはずです。主の祈りをもう一度一緒に祈りましょう。

 

「愛と平和の祈り」マタイによる福音書6章9~13節

御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ

マタイによる福音書6章10節

 

主の祈りをテーマに宣教しています。今日は沖縄訪問の話を聞き、絵本を読みます。今日は平塚大空襲があった日です。平和についてこの祈りから考えましょう。

「御国が来ますように」。御国は「おくに」ではなく「みくに」と読みます。神様の支配が世界の隅々までありますようにという祈りです。神様の愛と平和が世界のすみずみまで支配するようにという祈りです。

78年前の戦争は御国(みくに)のためではなく、御国(おくに)のためでした。その中心は天皇でした。御国(おくに)のため、天皇の支配のために多くの人が殺されました。結果は証しと絵本のとおりです。沖縄では残酷な地上戦が行われました。人々は這いずり回って逃げました。命が宝だ「ぬちどぅたから」と言い合い逃げました。天皇の支配する国、力と暴力の支配の恐ろしさがわかります。それはまるで神様の支配する天とは正反対の地獄です。

もし私たちがあのガマ・洞窟で主の祈りを祈ったらと想像します。主の祈りをガマで祈ったとしたらきっと一番力を込めるのは「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」です。神様に求める御国(みくに)とは天皇の支配する御国(おくに)ではありません。天皇の支配ではなく、アメリカの支配でもなく、力と暴力の支配ではなく、神様の愛と平和を求める祈りです。平和な世界が来ますように。愛にあふれる世界が来ますようにという祈りです。

祈りは「御心が天になるごとく地にもなりますように」と続きます。御心とは神様の意思、神様の願いのことです。七夕の短冊には自分の願い事を書きます。しかしキリスト教の祈りは神様の願いが叶いますようにと祈るです。

「天になるごとくに地にもなさせたまえ」の「天」とは神様の愛と平和の支配が行き渡っている場所です。死後の世界ではなく、私たちが今生きている地上が、力と暴力が支配するこの地上が、天のように、愛と平和で満たされるようにという祈りです。この地上が天国のようになって欲しいという祈りです。様々な力と様々な暴力がこの地上を支配しています。そんな世界だからこそ私たちは祈りましょう。この地上があの天のように、神の愛と平和で満たされてることを祈りましょう。今私たちが生きる、この場所が天、神の愛と平和で満たされた場所となるように祈りましょう。今この祈りが本当に必要とされています。

「なさせたまえ」は神様が実現してくださいという意味です。しかし私たちは神様にお任せして、何もせず待つだけではありません。「なさせたまえ」にはそのために私たちを使ってくださいという意味も含みます。待つだけではなく、私たちを御心を地上で実現させる者と「なさせたまえ」という願いを含んでいます。

私たちはこの祈りをどのように祈るでしょうか。それぞれの場所で御国と御心を祈り、そのために働きましょう。一緒に主の祈りを祈りましょう。

 

「神聖な生き方」マタイによる福音書6章9~13節

御名が崇められますように。 マタイによる福音書6章9節

 

主の祈りについて宣教をしています。今日は主の祈りの「願わくは御名を崇めさせたえ」について意味を考えましょう。大事なのは「御名を崇めさせたまえ」です。

御名(みな)とはキリスト教用語です。キリスト教では神様のことについて頭に「御(み)」をつけます。人びとは神様の名前をみだりに唱えないために、神様のことを「御名」と言い換えました。

「崇めさせたまえ」とは「聖なるものとなりますように」という意味です。神様を聖なるものとするとはどんなことでしょうか。反対に神様を汚すこと、神様の顔に泥を塗るなら、私たちは簡単に想像ができるかもしれません。

たとえば日本の教会では戦時中、戦闘機購入のための献金が熱心に募られました。当時のバプテスト教会も熱心に協力をしました。戦闘機には「日本基督教団号」と書かれ、戦争へと旅立っていったそうです。教会は戦争に熱心に協力をしました。これは神様の顔に泥を塗ることです。広島に原爆を落とした飛行機エノラゲイは出発前、牧師が作戦成功の祈りをささげたそうです。これも神様を汚すことです。ナチスドイツの兵士のヘルメットにも「神は我々と共にいる」と記されていたそうです。

このようなことが神の名を汚すことといえるでしょう。戦争のために神が利用されました。みだりに神の名が唱えられ、汚されました。神を聖なるものとせず、あがめず、自分たちを正当化するために利用したのです。「崇めさせたまえ」「聖なるものとされますように」というこの祈りは、神を汚すことが起りませんように、私たちが神様を聖なる存在にし続けることができるようにという祈りです。

レビ記19章2節(191ページ)では神様が私たちにこう呼びかけています。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。」そしてその後に、聖なる生き方とはどのような生き方なのかが書いてあります。貧しい人や外国人と食べ物を分かち合え。盗むな。嘘をつくな。奪い取るな。雇人は賃金をちゃんと払え・・・。神様はそれが聖なる生き方であり、神様を聖とする生き方だと教えています。そしてレビ記19章18節には「隣人を自分のように愛しなさい」とあります。これはイエス様がもっとも大事なことだと言った箇所です。これが聖なる生き方です。隣人を愛して生きる事、それが“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”なのです。神様を聖とすること、それはなにより私たちが互いに愛し合って生きるということです。神を聖とすることとは、私たちがお互いを大切にしあうことです。御名を崇めるとは私たちが愛し合う事なのです。

私たちは「御名を崇めさせたまえ」をどう祈ったらよいでしょうか。聖書によれば私たちが愛し合うことが、神様を聖なるものとすることです。私たちは神様の名が聖なるものとして、崇められるように祈ります。そしてこの祈りに促されて、お互いを大事にしあうという“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”を始めたいと思います。最後に一緒に主の祈りを祈りましょう。

 

「わたしたちの神」マタイによる福音書6章9~13節

 

天にまします我らの父よ(マタイによる福音書6章9節)

 

7月と8月は主の祈りをテーマに宣教します。主の祈りはイエス様が私たちに直接教えて下さった祈りとして、教会の中で特に大切に祈られています。この祈りは、ただ覚えればよい、唱えればよいのではありません。呪文としないで「主の祈り」を「私の祈り」とすることができているでしょうか。

今日は主の祈りの「天にまします我らの父よ」について考えます。まず「まします」は「ある」や「居る」の尊敬語です。ですからこれは「天にいらっしゃるわたしたちの父よ」という意味です。父はイエス様の話したアラム語では「アッバ」という言葉です。アッバはこどもが父親のことを『おとうちゃん』と呼ぶ表現だと紹介されます。しかし後の調査で「アッバ」はそのような使われ方をしないことが判明しました。紹介した学者も今は発言を撤回しています。しかし一度浸透した情報・信仰の訂正・更新は難しいものです。

わかっていることは、当時、神様に向けて「父よ」という呼びかけをしたこと自体は特殊なことであったということです。先日こどもに「パパ、神様って男なの?」と聞かれました。多くの人はいつのまにか、神は男性であるというイメージもっているでしょう。神様は男性でも女性でもありません。主の祈りは「我らの母よ」「我らの親よ」「我らの神よ」でもいいはずです。また神様が男であると強調することは、支配者は男であるべきという発想につながる課題があります。神様は男でも女でもありません。神様は神様です。私たちは私たちの持っている、男女二分法に注意しながら「父よ」と祈る必要があります。

なぜイエス様は「父よ」と祈ったのでしょうか。そのように祈った理由のひとつに、ローマ皇帝に対する抵抗が含まれていたという説があります。ローマ皇帝は自分のことを「神の子」「地上の国民の『父』」「救世主」と言いました。そして自分を神と等しいものとして拝むように、人々に強制をしました。イエス様はそのような中で神様に向けて「父よ」と祈るように教えました。

神様にむけて「父よ」と呼びかけることは、私たち一人一人は皇帝の奴隷ではないこと、一人一人に人権があり、自由があり、尊ばれるべき命があることを意味しています。「我らの父よ」と呼びかけるのは、私の命は誰にも侵害されない命だ、私たち一人一人の命が大事にされるべき存在だということを表明する祈りなのです。私たちはお互いが、そしてすべての命が神の子であり、尊い存在であるというイメージを持って、「天にまします我らの父よ」を祈りましょう。

私たち人間は全員が神の子です。だからもう誰にも性別や年齢や職業やルーツによって抑えつけられる必要はありません。そのことを祈りましょう。そして私たちは地上の支配者にも注意を向けます。私たちを本当に導くのは平和の神です。戦争へと導くリーダーは「我らの父」「我らの神」ではありません。私たちは私たちの神に向けて祈りましょう。最後に主の祈りをともに祈りましょう。

 

「ごゆっくりどうぞ」詩編23編1~6節

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 詩編23編1~3節

 

今月は地域協働をテーマに宣教しています。こひつじ食堂にまつるエピソードをいつくか紹介します。いつもお弁当を買うおばあちゃんがいます。先日、町であって挨拶すると、お疲れの様子でした。おばあちゃんは「本当は私も食堂のお手伝いしたいのだけど、95歳で要介護3の親が同居していて介護が大変なのよ」と言っていました。「また気分転換に食堂に来てくださいね」と言いました。

きれいなマンションに住んでいる人がお弁当の列に並んでいました。その方は一人暮らしですが、夕食分と明日のお昼の分2個のお弁当を買いました。すると後から生活保護を受けているおじちゃんが、並びました。そして行列に並んでいる最中に疲れて座り込んでしまいました。もうすぐお弁当は売り切れです。見かねた女性は「自分の分を一つあげてもいい」「お金はいらないから、あのおじちゃんにあげて」と言いました。私はそのお弁当を受け取って、おじちゃんに手渡しました。

いつも営業終了間際に来るおじさんがいます。お代わりしたいとか、あっちの席で食べたいとか、いろいろわがままを言うおじさんです。彼は帰りがけに「また来ます、俺は奥さんにも、家族にも逃げられちゃって寂しいからさ」と言い残して帰っていきました。「また来てね」と言いました。

教会が地域の方とこのように関わることが出来ていることがうれしいです。しかもその関係が伝える、教わるといった堅苦しいものではなく、どこかほのぼのとするような、ほっとするような関係であることがうれしいです。このような地域との関わりが、教会からもっと広がってゆけばよいと思っています。

私は今日の聖書の個所にも、食堂のほのぼのとした風景と同じ印象を持っています。ほのぼのとした教会と地域の関わりをイメージしながら、この個所を読みたいと思いました。私は食堂を利用している方たちに、教会がこんな印象を与えられたらいいなと思いました。

1節、教会は、自分に足りない物が何かをとやかく言われる場所ではありません。いわゆる説教される場所ではありません。教会に来たら、ああ私にはたくさんの恵みがあって、たくさんの仲間がいて、自分に欠けているものなんて、ちっともない。教会はそのように思えるような場所になりたいです。

5節、苦しい時こそ、教会は食卓を整えて迎えましょう。私たちは杯があふれるほど、蓋が閉まらないほどのお弁当を作って、皆さんを迎えましょう。教会はそのような場所になりたいです。神様がそのように杯をあふれさせるお方だからです。

6節、命ある限り、慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。ずっと来たい、自分の家のようだ、ずっと元気でいよう、教会がそんな活力につながるのならうれしいです。そして食堂の雰囲気を通じて、生きる力をくれる神様の事も伝わったらうれしいです。お祈りします。

 

「人はパンのみで生きるのではない」ルカ4章1~4節

イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

ルカによる福音書4章1~4節

 

今日は創立記念礼拝です。今月は教会の歴史の転換点となっている「地域協働」をテーマに宣教をしています。私たちの教会では毎月第3・第4金曜日に「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。1食200円でだれでも利用できる食堂です。「こひつじ食堂」はお弁当の販売ではなく、会食が中心です。利用者にとってもスタッフにとってもお弁当が楽で、会食は面倒ですが、会食を大事にしています。

それはこひつじ食堂が単に食事を提供することだけが目的ではないからです。食事だけではなく、他者との関わり、友ができる場所を提供したいのです。人間は食べるだけではありません。人間には友、仲間が必要だからです。

「人はパンのみで生きるのではない」本当にイエス様のおっしゃる通りです。「こひつじ食堂は弁当のみで開催するのではない」です。人はパン以外のもの、人との関わり、友が必要です。友との会食が必要です。今日の聖書箇所を読みましょう。

悪魔はイエス様に「石をパンに変えてみよ」と言いますが、それに対してイエス様が答えた言葉は「人はパンのみで生きるのではない」という言葉でした。特にルカ福音書では明らかにはされていませんが、パン以外にも何か必要なものがあると言っています。パン以外に必要なものがあるとしたら一体それは何でしょうか。

私たちには衣食住に加え医職友が必要です。特に私たちには友が必要です。人生には誰か一緒にいてくれる人が必要なのです。一緒に落ち込み、一緒に喜んでくれる人が必要なのです。しかし今、友を得るということはとても難しいことです。友を得る必要はわかっていても、なかなかそれを得ることができないのです。私たちの教会はそのような友に出会うの場所になりたいと願っています。この食堂で友達同士になる人ができたらいいと願い、そしてすでに多くの人が友達になっています。

このようにして誰かと一緒に食事していると、きっと感じるはずです。「私は食べ物だけで生きるのではない」と。このような友との温かい関わり、食事があるからこそ、自分は生きることができると感じるはずです。それは聖書が教えていることです。この教会で食事をすることによって「食べるだけではなくて、友が私には必要だ」それを知ってくれたら、気づいてくらたらうれしいと思います。教会をそのように地域の中で友を作る場所にしてゆきたいです。そしていつの間にか聖書の言葉を体験している場所にしてゆきたいと思うのです。

人はパンのみで生きるのではありません。私たちには神様の言葉と仲間が必要です。私たちはどちらも大事にしてゆきましょう。また今日から私たちの1週間がはじまります。私たちは1週間どんな生き方をしましょうか。私たちは一緒に食べる事、誰かの友達になることを大事にしましょう。人はパンのみで生きるのではありません。神様がよくご存じです。神様はきっと私たちに友を得ることができるように、私たちを導いてくださるはずです。お祈りします。

 

「教会の敷居を下げたい」コリントの信徒への手紙Ⅰ9章19~23節

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。         コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章23節

 

今月は地域協働というテーマで宣教をしています。「こひつじ食堂」を始めてから地域の方たちとの交流が増えました。教会を訪ねる人は「昔からここに教会があるのは知っていたけど、入るのは初めて」と言います。教会は多くの人にとって、何をしているかわからない、敷居が高い、入りづらい場所でした。しかし教会の敷居は下がり、身近な存在になっています。それはお互いにとってかなり大きな一歩だと思います。私たちはこの人たちを勧誘するわけではありません。ミッションスクールのように、その人の人生の体験のひとつになりたいと思っています。今日は聖書から教会の敷居の高さを下げてゆくことを見てゆきたいと思います。

パウロというイエス様の弟子がコリントという地域にある教会に手紙を書きました。そこでは宗教的な熱心さにおいて違いがありました。例えば何世代も続く熱心な家系で、お腹の中にいる時から教会に来ていたという人がいました。一方で親は全く違う宗教で、最近コリント教会にき始めたという人もいました。新しい人から見るとその輪の中に入るのは大変です。そこに敷居の高さを感じたはずです。

パウロはそのような教会に対して「律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました」と言います。律法を持たない人とはいわば初心者です。初心者に対しては初心者のようになったということです。

手紙を書いたパウロ自身は超上級者です。しかしパウロは私のような超上級者を目指しなさいとは言いません。「私はすべての人に対してすべての人になった」と言っています。これはつまり私は上級者かもしれないが、最近来始めた人も、初めての人も、まだ迷っている人もいる、私はそういう人になると言っているのです。

私はこの個所「教会は敷居を下げなさい」と聞こえます。みんながいきなり上級者なわけではないのだから、初めてくる人や、迷っている人がわたしも大丈夫だと思えるように、敷居を下げなさいと言っている様に聞こえます。

もし初めて礼拝に参加する人と一緒に礼拝するなら、初めての人のようになることが大事なのでしょう。こどもがいたらこどものように、子連れの親子がいれば子連れの親子のように、高齢者がいれば高齢者のようになることが大事なのでしょう。それが、今日の個所にある「すべての人がすべてになる」ということでしょう。

私たちの教会はまだ中に入ったことのない人を、どんどん招き、迎えましょう。そしてこの新しい生き方をする仲間を得てゆきましょう。そのために入りやすい教会、敷居の低い教会になりましょう。私たち一人一人、すべての人がすべての人になってゆきましょう。そんな敷居の低い共同体になってゆきましょう。

そして私たちのそれぞれの1週間の集まりも同じです。私たちは様々な集まりですべての人になる、そのことを心がけましょう。私たちはそれを、共に福音にあずかるため、キリストにある新しい生き方を共に歩むためにしましょう。お祈りします。

 

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「平塚バプテスト“協会”」ルカ9章10~17節

すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。 ルカ9章16節

 

今日からは1ヶ月間「地域協働」ということをテーマに宣教します。「こひつじ食堂」は毎月第3・第4金曜日にだれでも1食200円で利用できる地域食堂です。他の教会の食堂との一番の違いは、スタッフの半分が地域の方たちだという点です。

当初はボランティアの募集をするか迷いましたが、何も心配する必要はありませんでした。考えていることや動機は違っても、同じことのために一緒に働く、それができれば十分です。地域の方は教会をよく協会と字を間違えます。「私たちの教会は協力の“協”ではなく、教えるの“教”です」と訂正するたび、今の平塚教会は本当は、協力の協の協会の方がふさわしいのではないかと感じます。なぜなら平塚教会は地域の人と力を合わせて、誰かのため、地域のために、神様のために働く場所だからです。協会の協の字は十字架に力が3つ集まっています。平塚教会はまさしく十字架の下で力を合わせる場所です。私は今、教える教会よりも、協力する協会の方が私たち平塚バプテスト教会にはふさわしい様に感じています。今日は聖書から協力する集まり、きょうかい(協会・教会)について考えたいと思います。

13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」は私たち平塚教会に語りかけられた“大食堂命令”です。今日は特に5000人の食事の中で、どれだけの協力があったのかを考えてみたいと思います。私たちの食堂から考えるとおそらく1000人の協力が必要だったはずです。当時のパンは一人3つで満腹になると言われていました。15000個のパンを配らなければいけません。

私ならこう言います。「1000人の協力が必要です。半分の500人はそれぞれ30個のパンをもって、ひとり3個ずつ、10人に配ってください。別の500人もそれぞれ10人に魚を配ってください。運び終わったらスタッフの方1000人もどうぞ一緒に食べてください。今、イエス様が歌って、祈って、裂いて、増やしていますから。おかわりは何回でも自由です。食べ終わって、余ったものは集めてこの籠にいれてください。最後の片付けもご協力をお願いします。」

今なら私たちはそこに1000人スタッフが力を合わせて食事を運んだことを想像できます。そして配った人がイエス様の弟子だったかどうかはあまり関係ないのではないでしょうか。そのような垣根のない協力が起きたのが5000人の食事だったのではないでしょうか。

私たちはもっとみんなと力を合わせる場所になることはできないでしょうか。この食事の様に、イエス様の奇跡の周りで一緒に働く1000人になることが出来ないでしょうか?私たちの教会の事、そして私たちの生活のこともそうです。私たちは垣根を超えて、いろいろな人と協力することがもっとできるのではないでしょうか。それぞれに考えてみたいのです。このあと主の晩餐を行います。この5000人の食事を思い出してパンと杯をいただきましょう。お祈りします。

 

「風まかせに生きる」使徒言行録2章1~14節

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

使徒言行録2章4節

 

信仰入門というテーマで宣教しています。湘南の海ではウィンドサーフィンをしている人をよく見かけます。風の力だけで沖まで行くことができます。昔は風の力で世界を巡りました。風は面白い存在です。風を目で見ることはできませんが、風に動かされているものを見て、風が吹いていると分かります。風は自由自在に吹き巡ります。夜風にあたると気分が落ち着きます。風は口では説明することがでず、体験でしか伝えられないことです。このような言葉を体験的言語と言います。

聖霊はおそらくキリスト教用語で最も難しい言葉だと思います。今日は風をヒントに聖書の聖霊をご紹介します。聖霊という言葉には息や風と言う意味もあります。風は人をどこかに運び、人の気分を変え、人に刺激を与える存在です。それは聖霊も同じです。聖霊を体験するとは、私たちが神様から来た風に吹かれることです。船が帆に風を受け、世界中どこまでも行くのと同じ様に、私たちが聖霊を受けるとは私たちは大きく進むことができます。

今日の聖書箇所では聖霊に満たされた人々に不思議な力が与えられます。いろいろな言語が人々の間を飛び交いました。そして外国から来た人々が驚きました。初めて自分の言葉で神様のことを聞くことになったからです。これは実は画期的な事件です。当時、聖霊はユダヤ人だけにしか、与えられないと信じられていました。しかしこの事件がきっかけに神様の風は、聖霊は、すべての人に与えられる、すべての人に吹くとはっきりしたのです。

この風・聖霊は今日もすべての人に吹き、すべての人に注がれています。神様の風は、聖霊は皆さんにもすでに吹いていて、すでに注がれているのです。あなたが信じようが、信じまいが、すべての人がこの風・聖霊をすでに受けているのです。

この風は私たちに思いがけない方向を指し示し、方向転換を求めるときがあります。風が私たちの想いを超えて吹くこともあります。私たちには苦しい時もありますが、神様はそのような時、私たちに憩いの風を送ってくださいます。

風まかせという言葉があります。無計画でなりゆきまかせを表す言葉です。でもクリスチャンはある意味で、風まかせの生き方をする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊をしっかり感じて、風をしっかりととらえて、どちらに進むべきか考える人のことです。クリスチャンは神様の風がどこから来ているのか、神様の風は自分をどこに向かわせようとしているのかを五感で感じとろうとする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊に逆らわずに生きようとする人です。

私たちはこのような風を感じる生き方を生きたいのです。この風はすべての人にすでに与えられているものです。私たちは新しい生き方を探します。聖霊から力を受けて進みます。みなさんはすでにその風に吹かれています。その風を感じて、神様から押し出されて1週間を過ごしましょう。お祈りします。

 

【全文】「信じるために食べる」ルカによる福音書24章13~35節

みなさん、おはようございます。今日も共に集って礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの命の存在を確かめながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

 

今月は主の晩餐について考えています。今日は信仰とは体験しないとわからない一面がある、信仰とは体験してこそわかるものだということについてお話をしようと思います。

 

私は若い頃、ソムリエを目指していました。ワインの味だけでなく、その世界観にも惹かれていました。ソムリエになるには、ペーパーテストとテイスティングの実技試験があるのですが、最も大切なのは、実際にワインを見て、香りをかいで、飲んでみることです。ワインのテキストにはこのワインはラズベリーやリンゴのような香り、あのワインはルビー色や黄金色といった表現があります。しかしこれらは実際に飲んで初めて理解できるものです。

 

一番大事なのはテキストを覚えて知識を持つことではなく、ワインを直接見て、香りをかいで、飲んでみる事です。これに勝ることはありません。「百聞は一見にしかず」のように、「百見は一食にしかず」です。実際に飲んでみないと味や香りはわかりません。

 

もちろん高いワインとなればただやみくもに飲むということはありません。いろいろ勉強してからじっくり飲みます。それでもきっと知識よりも飲んでみることが何より大事です。どんなに説明をされても味や香りは体験しないとわからないものだからです。

 

それはいろいろなことにも共通すると思います。スポーツや音楽、料理も知識だけではなく実際に体験してみなければ、わからないことがたくさんあるものです。

 

今日の聖書の個所もそのような事を教えていると思います。どんなに知識としてそれを知っていても、体験をしなければわからないことがあると教えています。そのことを聖書から見てゆきましょう。

今日はルカによる福音書24章13~35節までをお読みいただきました。今日の個所の登場人物は旅をする2人とイエス様です。この二人はおそらくエマオに住んでいました。二人はイエス様の噂を聞きつけてエマオからエルサレムに向かったのです。行いにも言葉にも力がある預言者がいると聞きつけエルサレムに向かったのです。この方こそイスラエルを開放してくださると思ったのです。そして二人はイエス様の話を人づてに聞くのではなく、直接自分の目と耳で確かめようとして、彼らはエルサレムに向かったのです。

 

彼らはイエス様に会って直接の話を聞くことができたでしょうか。その願いは十分に叶わなかったでしょう。体験することができなかったでしょう。その代わりに彼らが体験したもの、見たものは、イエス様の十字架でした。直接その話を聞き、力をもらいたいと思っていたのに、自分たちが体験し見たのは残酷な処刑だったのです。

 

しかし彼らはエルサレムに滞在中にもうひとつ不思議な話を聞きました。それは3日後の朝早く、弟子の女性がイエス様の墓に行ったところ、その遺体がなくなっており、天使たちが現れて「イエスは生きている」と言ったという話でした。イエス様が復活をしたという話を聞いたのです。

 

二人は、話を聞きたいと思っていた人が殺され、その後復活したという話を聞き、混乱したでしょう。理解できないままエマオに帰ることになり、十字架と復活の意味を論じ合いながら帰りました。

 

そんな彼らに復活したイエス様はそっと現れます。イエス様は光り輝いて登場するのではありません。イエス様の方から近づいてきて、一緒に歩くように、寄り添うように現れます。覚えておきましょう。私たちの神様はそのように私たちに現れるのです。私たちが良い行いをした時、強い光に包まれた華々しい存在が登場するのではありません。

 

願いが叶わず、出来事の意味が十分に理解できず、うつむき歩いて帰る時、神様はそっと近づいてきて、寄り添うように現れるのです。そのようにして神様は私たちに伴ってくださるお方です。このことを忘れないでいたいと思っています。

 

主の晩餐でもそうですが、イエス様がこのように人に他者に寄り添う人だったということを思い出すことが大事です。私たちの人生には苦しいこと、思いどおりにならないことがたくさんあります。そんな中でイエス様は私たちとそっと共にいて、励まし、導いてくださるのです。だから私たちは歩むことができるのです。そのことを覚えておきましょう。この物語の大切なポイントです。

 

今日はこの物語から主の晩餐について考えたいと思います。旅をする二人はイエス様のことをとても良く知っていました。二人がエルサレムの出来事を説明する様子はまるでキリスト教全体の説明のようです。彼らはイエス様とはどんな人か、どのように生き、どのように死んだのか的確にまとめられています。二人はイエス様のことをよく知っていました。しかし彼らはそれを知っているだけで、経験をしたことはありませんでした。

 

イエス様は旅路で二人に熱心に説明をしました。地上に生まれた救い主は、苦しみを受けた後に栄光に入ること、聖書全体にそのことが書いてあることを熱心に説明をしました。二人は何かを理解したのでしょうか。そうは書いてありません。二人はよく知っていました、二人は熱心な説明を受けました。しかしそれでもまだ彼らには変化が無いようです。

 

イエス様は彼らと食事をすることになりました。今度は二人がイエス様を引き留めました。先をいそぐイエス様を無理に引き留めて、一緒に食事をしようと招いたのです。30節に食事の様子が記されています。そこにはこうあります。「イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した」。ここでは明らかに主の晩餐が行われました。そうすると彼らは目が開けたのです。

 

二人の目が開けたとは、どんな意味でしょうか。二人は目が見えていなかったわけではありません。確かに見えていました。目が開けたとは、今まで見えなかったもの、わからなかったものが、わかるようになったということです。それが一緒に食べたその時に起りました。

 

一緒に食べた時、一緒にいるのがイエス様だと気づいたのです。彼らは事前に十分に学び、知識を持っていました。イエス様から直接、熱心に教えを受けていました。しかし彼らは目が開いていなかったのです。彼らの目が開かれたのは、主の晩餐を受けた時でした。

 

この特別な食事を体験して、二人は初めて気付いたのです。彼らが気づいたのは自分と一緒に伴っているのがイエス様だったということです。彼ら気付いたのはイエス様が復活をして私たちと共にいるということでした。二人はこの食事・主の晩餐を通じて、わかったのです。二人はこれに気付き、エルサレムの仲間の元に戻ってゆきました。それが今日の物語です。

 

この物語は私たちの主の晩餐とどんな関係があるでしょうか。私たちの教会の主の晩餐はバプテスマを受けた方に限定しています。それはイエス様のことをわかった人、すでに信じている人が食べているはずです。しかしどうでしょうか、今日の聖書箇所によれば、食べることによって信仰が深まるようになるのです。

 

私たちは信じて食べているのでしょうか。それとも食べることによって信じるようになるのでしょうか。私にはどちらなのかよくわかりません。どんなに知識として知っていても、食べなくては目が開かれません。私たちがイエス様を信じるためには知識だけではなく、パンを食べることも必要なのです。

 

私たちは信じているから食べるのでしょうか?それとも食べるから信じる事ができるのでしょうか?実はそれはどちらが先というものなのではなく、あいまいなのかもしれません。私は信じるために食べているような気がしています。

 

確かにこの二人のようにイエス様のことを良く知ってから食べるべきなのかもしれません。大切なイエス様の体です。その意味をよく分かってから食べてもらいたいと思います。でもこの二人はどんなに熱心に説明をしても、わかりませんでした。イエス様が直接説明してもだめでした。二人はこの食事を体験をするまでわからなかったのです。食べて初めて、食べたその時、イエス様のことがわかったのです。

 

この物語は私たちの主の晩餐ともきっと重なる部分があるでしょう。私たちは主の晩餐を勉強したから食べるのではありません。きっとどれだけ勉強をしてもわからないことがあるでしょう。食べてみなければわからないことがあるでしょう。そして食べればわかることがあるのでしょう。私たち自身もこの二人のような存在です。いろいろ知っているけれど、食べてわかるようになる存在なのです。このように今日の物語は、パンを食べる体験を通じて、イエス様がどんな人だったのかをわかったという物語です。

 

私は信じてからパンを食べるのか、パンを食べてから信じるのか、聖書はどちらの可能性にも開かれていると思います。私たちはどのようにパンを食べるでしょうか。私たちのあの小さなパンにどんな意味があるのでしょうか。私たちは信じているから食べるのでしょうか、食べるから信じるのですしょうか。きっと信仰とは体験しないとわからない一面があるのでしょう。信仰とは体験してこそわかるものなのでしょう。そのことに思いを巡らせながらまた主の晩餐をしてゆきたいと思います。

 

イエス様はきっとそのような迷いや混乱に伴ってくださる方です。あの出来事にどのような意味があるのか、二人は熱心に論じ合いました。論じ合うそのそばにそっと近づき、導いてくださるお方です。お祈りします。

 

 

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