「信じない人を歓迎する教会」ヨハネ福音書20章19~28節

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 

ヨハネ20章25節

 

先週からキリスト教にはじめて触れる方に向けて話をしています。よく誤解されがちですが、教会はキリスト教を信じている人だけが集まる場所ではありません。信じるつもりはないという人も歓迎します。この教会にとって信じない人は一緒にいてくれないと困る存在です。ここが信じる人だけの集まりとなると閉鎖的になります。信じている人にとっても、信じない人と一緒にいるのがよいのです。

「信じるかどうかはあなた次第」という言葉があります。しかしキリスト教は不思議な事ばかりで、自分次第なら、信じないのが当然の結果です。でも多くの方が、何かに押し出されるように、何か追い風のようなものを受けて、信じていると言えるようになります。信じるかどうかは、私次第ではありません。行き先は風まかせの様な不思議さがあるものです。今日は聖書から信じない弟子を見たいと思います。

イエス様の復活を見ていなかった弟子が1人だけいました。トマスという名前です。彼はもし釘の跡を見て、その穴に自分の指を入れ、脇腹の傷に手を入れることができれば、信じようと言いました。すると8日後、本当にイエス様が現れました。

聖書はトマスのようにつべこべ言わず、疑わないで信じましょうと言っているのではありません。私たち人間は確かな証拠や奇跡によって信じるようになるものです。トマスもきっと奇跡を体験がすれば、信じることができると思っていました。

しかし聖書にはトマスが実際に手と指を入れたとは書いてありません。それができれば私は信じると言っていたのに、彼は結局、手と指を入れませんでした。

私はよく信じない人から、もし〇〇になったらキリスト教を信じるという言葉を聞きます。合格したら、結婚できたら…。でも私個人のこれまでの実感として、条件をクリアしたら信じると言って、その条件が満たされた後に信じるようになる人は多くありません。自分の設定した条件や願いが達成されても信仰を持つ人は少ないのです。一方、条件はクリアしなかったけれど、信じるようになったという人は多くいます。信じるとは自分の設定した条件をクリアして起こるものではないのです。

トマスも同じです。彼は手と指を入れませんでした。自分で設定した条件をクリアしませんでした。でもトマスはきっと信じるようになったのでしょう。自分の設定した条件ではなく、一方的なイエス様の登場、イエス様との出会いの体験によって彼は信じるようになったのです。信仰とはそのように始まります。何かが私の中に勝手にやって来るのです。信じるつもりはなかったのに、不思議と心の中に入って来る、現れる、それが信仰の始まりです。そのような神の一方的な働きかけ、追い風の様な働きかけによって、人は神の存在を信じるようになります。

信じない人を歓迎ます。信じるかどうかはあなた次第ではありません。人間が神を信じるようになるのは、私たち人間の条件を超えた、神様の一方的な働きかけによってです。いつかみなさんにその時が来ることを願っています。お祈りをします。