「不安に振り回されないキリスト」ヨハネ18章1節~14節

私たちはコロナウイルスの影響で1か月前より礼拝と祈祷会以外を中止し、そして今週はついにそれぞれの場所で礼拝を守ることとしました。会堂に集わないということは私たちに様々な影響を与えています。失ったものが多いと感じます。しかし、礼拝と祈祷会以外を辞めるという決断の時、礼拝と祈祷会は絶対にやめないという思いを込めていました。私自身、早く交わりを持ちたいと思いはあります。しかしまず今日は、礼拝が出来るという恵みに目を向けたいのです。不安な時だからこそ、できないこと、足りないものではなく、神様からの恵みを数えるということを大事にしたいのです。

今日皆さんと分ちあいたいのは、この不安の時代、もう一度礼拝の恵みを、イエス様の恵みを、いま私たちが失っているものではなく、私たちが受けている恵みに感謝し礼拝をしようといことです。私たちは無いものではなく、あるものに目を向けます。ないものではなく、「ある」「私はある」というお方に、神様に目を向けたいのです。だから今日も共にみ言葉を頂きましょう。

今日の物語の中でもっとも不安なのはペテロです。彼は自分の信頼してきたイエス様が犯罪者として逮捕される、そのような不安からめちゃくちゃに剣を振り回します。不安で神を忘れる姿です。私たち人間は不安の時、誰でもいいから不安をぶつけたくなります。剣を振り回して、相手を傷つけることで、誰かにぶつけることで、不安から逃れようとします。そしてカヤファも不安に襲われました。彼は一人のために全体が迷惑をこうむるなら、その一人は死ぬのもやむを得ないと考えました。一人が死ねば済む問題、犠牲になってもらうという考え方です。これが人間が不安に直面した時の考えです。不安から逃れるため、すぐ暴力や犠牲を選んでしまうのが人間です。

しかしイエス様はそのような人間の罪のために、十字架にかかられます。私たちは不安の時、どのようにその不安に向かい合うべきでしょうか。暴力でも犠牲でもない向き合い方を私たちは探し求めます。その時、イエス様がどんなに不安でも、苦難を受けると分かっていても、神様に視線を合わせ続けたお方だという事を知るのです。

イエス様は苦難と苦しみの中で、神の働きを、神の恵みを、神の導きを求めたお方です。そこから逃れる、相手を打ち破るのではなく、その中に神様の導きを見つけようとしたお方です。どんな時も神を忘れません。その姿をイエス様の十字架の中に見つけます。イエス様は十字架で「成し遂げられた(ヨハネ19章30節)」と息を引き取られたのです。十字架の上の、最後の一息まで、イエス様は神の働きを見続けたのです。私たちも苦難の時、神を見る者、礼拝を続ける者でありたいのです。

私たちは今日、また1週間それぞれの場所へと出てゆきます。不安と共に出発をするのは、私たちもイエス様も同じです。でも私たちは不安ではなく神を見つめ、委ね、歩んでゆきましょう。

 

「マスクより愛が足りない」ヨハネによる福音書12章20~36節

 マスクは足りているでしょうか?私たちはウイルス感染拡大の不安の中に生きています。不安な時、私たちは本能的に自分の身は自分で守ろうとしますが、その思いはバランスを崩してしまいやすいものです。足りないマスク、自分の分だけを確保しようという思いが、パニックを起こします。

 あるいはこの時、人々の不安な気持ちをお金に変えようとする人がいます。マスクが高額で転売されました。今すべきことはお金儲けではなく、分かち合う事です。命や安全を踏み台にして金儲けをするのではなく、分かち合うことが大切です。私はこの転売を「罪」と呼びたいのです。

 この罪は人間誰しもの中にあります。すべての人が罪人です。状況がもっと悪くなれば、私も人を押しのけてでも自分の分を確保しようとするかもしれません。転売したかもしれません。私たちにはそのような性質があります。それが罪です。人を押しのけて自分だけが生きようとするのが罪です。私たち人間はそれがやめられない罪人です。今本当に足りないのは、マスクではなく、分かち合う心です。マスクより愛が足りないのです。マスクより互いの命への配慮が足りないのです。このような時、聖書は他者を犠牲にして、自分自身を愛することをやめるように語っています。

 今日の個所、イエス様は自分の命の危険を感じ、震えながら、十字架に向かわれます。しかしイエス様は恐怖の中でも自分だけ助かろうとはなさらないお方です。イエス様は逃げる事ができました。しかしイエス様は自分の命が守られるということよりも、他者の命を守るという行動をとるのです。

 その姿は自分の命に固執しなかった姿といえるでしょう。自分を守ることはもちろん大事だけれども、イエス様は他者のために生き、そして死ぬことを選んだお方なのです。26節、イエス様は自分の命を憎めと言います。誰しもが、自分の命がかわいいものです。しかし自分だけを愛し、人を蹴落として生きる命は必ず終わる命です。一方、一生懸命に「共に」生きようとすること、分かち合おうとすることは、新しい輝きを持つ生き方です。それは生死を超えた輝きがあります。

 共に生きようとする時にこそ、神様はその命を、永遠の命、永遠に輝く命であるとしてくださいます。実にそれは、失うことによって多くを得るという生き方です。「自分だけ」から「共に」という生き方の逆転ともいえる事が、今日の十字架の歩みが示していることです。イエス様はこの苦難の時、私たちに3回も繰り返し、仕えなさいと言います。すべての人が、互いに仕え、協力し合うこと、それこそが全員が生きる道なのです。

 私たちは今、病と不安からの解放を願います。そして罪からの解放、自己中心の悪循環からの解放を願います。イエス様はその罪のために死んだのです。今、自分に固執して、自分を守るか。それとも助け合うかが問われています。私たちは助け合うことによって、永遠の命をいただく者となるのです。

 

「女性に従うキリスト」ヨハネ福音書12章1節~8節

 4月から週報に記載されている「兄」「姉」の表記をなくすことになりました。この表記を変更するのは一つにはジェンダー(役割としての性)の視点、もう一つはセクシャリティー(性自認)の視点によるものです。

 ジェンダーの偏見とは性別によって役割分担を強いることです。女は家庭・男は仕事という区分けをなくしていくこと、それがジェンダーフリーです。日本は特に女性が政治やリーダーから排除される傾向にあります。一方セクシャリティーとは自らの性の在り方を自分で決める事です。恋愛対象を異性に限定しない事や服装などの選択について自分で決める自由があります。その人たち選んだ生き方を受け止めてゆくということが、セクシャリティーの視点です。どちらも多様性を認めてゆくことにつながります。この2つの視点から週報の「兄」「姉」表記の変更を行います。

 教会は男女差別しません。役割を性別によって決めません。多様な性の在り方を認めます。しかしそのように本当に言い切れるでしょうか。私たちが本当に男女差別から解放される時、それは聖書の読み方が変えられる時ではないかと思います。

 今日の個所を見てゆきましょう。今日の個所にはマルタとマリアという女性が登場します。マルタは兄弟ラザロの死の悲しみとつらさの只中にあってもイエス様に助けを求めた、信仰の深い人です。マルタはイエス様への信仰をはっきり告白する人です。これは他の福音書ではペテロが担っている役割です。マルタはイエスを告白する信仰のリーダーだったのです。そして同時に人々に仕える人でした。証しし、食事の奉仕にも立ったのです。

 もう一人の女性マリアも見てみましょう。誰かに油を注ぐとは、その人を王に任命するという意味を持ちます。注いだのはこの女性、ベタニヤのマリアです。ふつうは頭から油を注ぎますが、ここではなぜか頭にではなく、足に注ぎ、さらに足の油を自分の髪で拭ったとあります。すこし不思議な方法ですが、それは確かに油を注ぐというキリストの任命方式です。

 そして驚くべきことにこの後、洗足の出来事が起きます。今さっき、女性、ベタニヤのマリアに油を注がれ、足を洗われたイエス様が、今度は自分が弟子の足を洗い出したのです。まるでそれはベタニヤのマリアを真似するかのような行動です。きっとイエス様は真似をしたのです。イエス様は女性に従ってこの奉仕を行うのです。

 今、大事にしたいことがあります。それはどのように私たちがイエス様に従って行くのかということです。どのように人々に仕える人になるのかということです。男女差別、男女の差、男女の表記を乗り越えて私たちは考えたいのです。イエス様に従いたいのです。性別を超えて人々に仕える生き方を選びたいのです。一緒に家族として、互いに仕える者として、イエス様を追いかけてゆきましょう。

 

「さよなら原発」ヨハネ福音書9章13~41節 

 日本バプテスト連盟では繰り返し、原発に反対する声明を出しています。原発の課題というのはいくつかに分かれます。例えば核兵器への転用、労働者被爆、コスト、廃棄物の処理方法などです。キリスト教が反対する一番の理由は原発が極端に危険な発電方法だということです。ひとたび事故が起きると、どのような事になるか皆さんもよくご存知でしょう。

 キリスト教は原発が起こす「犠牲を伴う社会構造」に反対をしています。原発は都市部で使う電力のリスクを地方に押し付ける構造です。福島や新潟で大変な危険を冒して作られた電力は、この東京や神奈川で消費されるのです。キリスト教はこのような犠牲に基づいた豊かさに反対をします。

 それは必ず他の犠牲を正当化する社会を産むからです。広く犠牲を求める社会になるからです。私たちの犠牲はイエス・キリストの十字架で十分です。もうこれ以上の犠牲は必要ありません。私たちはこれまで原発の前に、“見えない者”でした。その犠牲を知りながら、向き合ってこなかった者です。

 今日の聖書個所、いろいろな登場人物が出てきます。宗教指導者は終始、自分が正しいと思っています。自分は見えている、見通すことができていると思っています。しかしどうでしょうか、彼らには目を癒したという真実に、向き合う力はありませんでした。次に登場するのは、目の癒された人の家族です。この両親もまた事実に目を向けない人です。一見、中立的態度にも見えますが、無関係、無関心、無知を装います。見ていない、見えない、知らない、私は関係ないと言う態度です。人間はこのような態度を取るのです。

 目を癒された人はどうでしょうか。彼も始めは同じです。25節のように、無関心な態度を取ります。しかし、次第に彼は気づくのです。そしてはっきりとイエス・キリストを証しするようになります。 33節 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです!それは「いい加減に、見るべきものをちゃんと見ろ」というメッセージです。

 この目を癒された人の姿を見て考えさせられます。私たちは何を見ているのか。何を見通すことができているのか、そして想定外として、何を見通すことができないのでしょうか。私は人間の限界に目を向けたいと思います。そしてその中で、犠牲になっている人を見ないようにしていないか、私たちがそれに無関心でいないかを考えたいのです。誰かが誰かの犠牲になっていないか、そのような構造に目を向けたいのです。東日本大震災から9年が経とうとしています。様々に示された犠牲を直視したいと思っています。

 私たちは見たくない現実に、真実に、犠牲に目を向ける物でありたいと思うのです。そして同時に、私たちは神の希望に目が開いた者でいたいと願います。私たちはその御言葉によって目が開かれ、犠牲を止め、希望をいただく者です。私たちは、希望を与えて下さるのは神であることを知っています。それをもう一度受け止め、証しする者となりたいと思うのです。

 

「ウイルスより差別が怖い」ヨハネによる福音書9章1節~12節

 新型コロナウイルスへの対策について教会でも様々な検討を行いました。基本的に3月中は礼拝と祈祷会以外はすべて中止とすることにしました。苦渋の決断で、この判断がよかったのかどうか、まだわかりませんが、必ずまた再開するという気持ちで一時中断します。

 教会から世界に目を向ける時、今私が心配をしているのは、コロナウイルスの感染と共に、世界中で差別的な言動が起こっているという事です。ある箱根のお店では「コロナウイルスをばらまく中国人は入店を禁止する」と貼り紙が出されました。私たちの身近で、すでに差別が始まっています。

 ウイルスが心配であるという気持ちは誰にもあります。しかし、ウイルスよりも危険なのは、その心配というエネルギーが差別のエネルギーに変わる事です。心配という気持ちは、すぐに差別に変わりやすいこと、予防と差別と境目があいまいになる事も知っておきたいのです。もし私が感染者だとしたらという想像力を働かせましょう。そしてたとえそうでも私たちの関係は何も変わらないということを確認しましょう。同じように神様に愛されている仲間であることに変わりはない、そのことを今日の礼拝で確認しあいましょう。すべての命が神様から等しく愛されている、私たちもすべての命を大切にする。必ず大切にされる。いまこの時、改めてそれを覚えましょう。

 私たち教会の役割は今この時、心配な気持ちを差別のエネルギーに変えない事です。そしてそのエネルギーを祈りと一致のエネルギーに変えてゆくことです。差別をなくしてゆくことにエネルギーを向けたいのです。本当に怖いのはウイルスより差別です。差別はウイルスより早く、そして深く、世界に広がります。そのことに注意を向けていましょう。

 今日の聖書個所、ある場所に生まれつき目の見えない人がいました。彼は地面にしゃがみ込み、物乞いをして生活をしていました。彼を追い詰めたのは目が見えない事よりも、社会からの差別だったはずです。多くの人々は彼を無視し、施しをする人も彼の姿を見て「どんな罪が原因なのだろうか」「どんな悪いことをした罰なのだろうか」と考えながら施しをしたのでした。人びとの中に「私も同じ不自由をもって生まれたかもしれない」という想像力はありませんでした。

 しかしイエス様の態度は違いました。他の人のように差別をしなかったのです。イエス様は彼を一人の人格として、向き合い、声をかけ、触れあい、差別の言葉を否定し、癒し、そしてもう一度社会の中に戻したのです。それこそがイエス様の働きです。実に、差別とは罪です。命に優劣をつける罪です。しかしそれは、主イエス・キリストの十字架によって、もう必要のないこととされたのです。イエス・キリストの十字架によって、私たちはもう誰も差別しない、誰にも差別されないで生きるようになるのです。不安な日々かもしれませんが、今こそ祈りと一致を大切にしましょう。

 

「毎週宣教題に悩んでいます」

本日は冬季休暇をいただいています。宣教は安西徹さんに担っていただき、この紙面を借りて、いつも悩んでいることをお分かちします。
宣教題についていつも悩んでいます。宣教題は入り口の看板に1週間掲示されます。八間通りを通る多くの学生や散歩中の方、仕事に向かう方の目に触れています。宣教題は不特定多数の方が見る物なので、一般の人にもなるべくわかりやすい言葉にしたいと思っています。例えば「信仰義認」や「悔い改め」「アガペー」といった言葉は通行人の方からは意味が分からないと思いますので、宣教題にするのを避けています。そしてできれば、その一言の宣教題が、うつむいて教会の前を通る人の励ましになることも願って名前を付けています。
先週は「神か、神以外か」という宣教題を付けました。芸能人のローランドさんが「俺か、俺以外か」という言葉で話題になっていることから、興味を引くだろうと思ってこの宣教題にしました。宣教題が道行く人の注意を引くようにということだけであれば、あまり悩むことではないかもしれません。とにかく面白ければよいのです。しかし必要な言葉は面白いだけの言葉ではありません。ある時の「駆け寄って下さる神」という宣教題は、その一言で通行人の方に励ましになるようにと願って付けました。正面玄関の前にはポストを設置して、週報を持ってゆけるようにしています。毎週、何枚週報が無くなったかを楽しみに数えています。
そして何よりも実際に宣教を聞く、礼拝に出席する人にとってこそ、この宣教題は大切です。宣教題は今日の宣教を一言で言い表すとどのような言葉になるかを考えて決めます。宣教の内容すべてを理解し、覚えておくことはできません。全体を理解する導きとなるという意味で宣教題は重要です。その宣教題の一言が、宣教全体をイメージさせるものでありたいと思っています。その御言葉とイメージの積み重ねが私たちを建てあげてゆくのです。
「神様は家族になってくださる」「なんとなく従う」という宣教題をつけた週がありました。宣教題が全体を言い表している事は聞き手にとっても助けになることだと思います。さらにこの宣教題はホームページにも掲載され、全世界に発信されます。誤解の無い宣教題にしなければいけません。
このように考えると、私たちの宣教は言葉と切り離すことが出来ないということに気づきます。私たちの言葉には限界がありますが、宣教とはどのような言葉が神様のことを一番表現できるのかを探す作業だと思うのです。そしてその言葉は、教会を超えて地域や世界に向けて発信される言葉です。
私たちは言葉で礼拝し、言葉で神を現わそうとし、言葉が心の中に残ります。礼拝では互いに言葉を交わします。私たちは今日の礼拝を、言葉を大切にし、心に受ける礼拝としてゆきましょう。今日の礼拝と行き交う言葉のためにお祈りをしています。

「神か、神以外か」出エジプト記20章1節-7節

「建国記念の日」2月11日は、もともと紀元節と呼ばれた日です。紀元節は富国強兵を推し進めた明治時代から祝われ、日本書紀の神武天皇が即位したという伝説に基づいています。神道では天皇は神ですから、私にとってこの休日は天皇を祝えと言われているように感じます。神道の神・天皇を祝うかどうかは、個人の信仰によって決められるべきです。しかし今日本では、全員が祝う様に、祝日と定められています。ですから教会は2.11を「建国記念の日」とは呼びません。「信教の自由を守る日」と呼び、様々な集会を持ち、信教の自由の大切さ覚える日にしています。
今日の個所でも信教の自由が語られていると私は読みます。私たちは神様と私の一対一の関係の中で、何を、誰を神とするのかが問われます。そしてその中で私は富国強兵の神ではなく、イエス・キリストによって示された神様の事を見つけるのです。今日はそのことを共に見てゆきたいのです。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とは、キリスト教は一神教なので自分達以外の神は全部間違っている、関係してはいけないという意味ではありません。聖書はそのような排他的、独善的な信仰ではありません。ここでの対話「あなた(人間)には私(神)を」はそれぞれ単数形です。神様は人間に一対一の個人的な関係の中で語り掛けています。しかも語り掛けられているのは出エジプトによって、主に救われた者です。主に自由にされた人に向けて、他の神ではなく、主に従う様に促されているのです。様々な神の中で、あなたはここまで導いてきた私以外の神に、従うはずはないと語り掛けられているのです。
そしてもうひとつ、私たちの従う神様の特徴を押さえておきたいのです。日本の中にいる多くの神々は「豊かさ」をもたらす神様です。しかしイエス様は「貧しい者は幸いだ」と言います。それは、キリスト教が豊かさばかりを追い求める信仰とは違うということを示しています。明治時代の日本のように相手を負かして、豊かになるという宗教ではないのです。私たちは弱く、貧しい者として、この導いてくれる神様しか頼る場所がいない者として弱さ持って生きてゆく事が促されています。教会より豊かさを感じる場所はたくさんあります。でも私たちは豊かさを求めず、そこに行かないのです。
私たちは豊かさを神としない道を歩みます。この貧しい者と共にいる神以外を拝まないのです。私たちは誇るのは豊かさではなく貧しさです。私たちの神はまずしき者と共にいる神です。私たちの神は痛みと苦しみを負った、十字架のイエス・キリストです。私たちはこの方以外を神としません。他の人々がどんなに豊かさと強さを追い求めたとしても、私たちはそれを神としません。祝わないのです。今週も私たちは一週間を生きていきます。豊かさと強さが欲しくなる一週間です。しかし、神様は貧しさと弱さの中に、おられます。その中に神を見つけて歩む一週間としてゆきましょう。

「キリスト教のご利益」出エジプト記17章1節-7節

よく「教会に行くとどんなご利益があるんですか」と聞かれます。「あまりない」とか「キリスト教はご利益宗教ではございません」と答えると「じゃあなんで毎週行くのですか?」と不思議がられます。
神様を熱心に信じていても失敗や事故や災害に遭うものです。私たちは、教会に行かない人と同じ様に苦労しています。むしろ毎週教会に行くという分、余計に苦労して生きているともいえるかもしれません。
キリスト教のご利益は無いのでしょうか?私たちはそれにこう答えてはどうでしょうか。「人生いろいろな苦労がある。でも苦労があってもいつも神様が励ましてくれること、それがキリスト教のご利益です。そして神様は励まし合う仲間を下さいます。それもご利益です」今日の聖書の個所も神様の励まし、仲間たちの励ましの物語です。
彼らには災難が起こります。水が足りないのです。そして同じくらい深刻な問題は、仲間割れが起きているという事です。水不足を乗り切るには、全員が一致団結して水を探さなくてはなりません。しかし今、この人々には水を探すために何よりも大切な信頼関係がありません。
神様はモーセに水の探し方、命のつなげ方を教えました。それは励ましでした。もう一度長老たち協力して探してごらんとモーセを励ましたのです。自分を殺そうと言っている人ともう一回協力するように励ますのです。
イスラエルの人々は水を見て気づいたことがありました。それは自分たちの“間”に神様がいたということです。彼らは今までもめていました、そのもめている、その“間”にも、神様が一緒にいたということです。
そして「間」という言葉(ヘブライ語でケレブ)には、もうひとつ意味があります。それは内臓・はらわたという意味です。心の中心、感情の奥深い場所も指します。民は気づいたのです。私たちの“間”にいるということ、そして、私たちの“内側”心の一番奥深くに、神様がいたということに気づいたのです。
この物語は仲間割れの人々、その間に神様がいて下さったという物語です。私たちもときに仲間割れを起こします。家族、グループ、あるいは教会で起こります。ありとあらゆる仲間割れがあります。私たちはこの物語から、仲間割れの間におられ、励ます神様の姿を見つけます。もう一度関係の中に押し出して下さる神の姿を見つけるのです。
そして私たちは一人ひとりが心の奥に、神様からの励ましいただく者です。その励ましを受けて互いに手を取り合いましょう。それが私たちのご利益です。互いに励まし合いましょう。「私たちの間に神様がいる」のです。手がつなげない時もあるかもしれない。でも神様がその間にいる、真ん中にいる、そのことを覚えて1週間を歩みましょう。

「神の平等さを求めて」出エジプト記16章4節-5節、17節-31節

今日から3回、出エジプト記から神様の姿を見てゆきたいと思います。
ある経済格差に関する報告書によると、去年の時点で10億ドル以上の資産を持つ富裕層、約2100人の資産の合計は、世界の総人口のおよそ6割に当たる46億人の資産の合計を上回っているということです。驚くべき格差です。私たちの世界はこのような激しい格差の中にあります。格差は私たちの身近にも起きています。この豊原町には戸建て住宅が多く、食べ物に事欠く人などいないかのように見えます。しかし、この地域にも生活に困窮している人は多くいます。こども食堂のニーズがきっとあると思います。この地域に結びついてゆくためにも、私たちにできることがあります。神様のみ言葉に押し出されて、その働きをしてゆきたいと思うのです。
今日登場するのは「マナ」という食べ物です。イスラエルの民は奴隷だったエジプトからたくさんの家畜や食料を持って脱出しました。しかしその食料もやがて底をついてしまいます。そこで神様は人々に、食べ物を天から降り注ぐという奇跡を起こされました。蜜の入ったウエハースのような食べ物が空から降り注ぎました。そのマナとは、すべての人に平等で、誰も多くなく、だれも少なくない平等な食べ物でした。
しかし人間の愚かさが現れます。自分だけこのマナをたくさん集めようとする人がいました。今日の分を独占し、自分だけ食べようと考えたのです。止まらない人間の欲望。貧富の差はこのようにして生まれてゆきます。自由を得たはず共同体は平等と公平と格差の問題に苦しんだのです。
しかし神様はそのような欲望には答えられなかったお方です。神様は人々に同じものを同じ様に与えるお方でした。たとえ多く集めたように見えても、それは腐って、臭いを放って価値の無いものになりました。みなを欺いて不正に集めようとしても、独占しようとしても、それは集まられなかったのです。それが神様が私たちに与えられたマナ、平等の食べ物でした。
私たちの世界は平等とは言いがたい世界です。しかし今日の個所によるならば、神様は、きっと私たちに平等を起こして下さいます。多く集めたものはやがて腐るときがきます。多く集めようとした者が何も得るものが無いという時が、必ず起こります。マナが降る時が必ず起こるのです。
私たちは神さまのみ言葉に動かされ、平等を求め、分かち合いを始めます。私たちにできる分かち合いを始めたとき、共に食べることを始めたとき、平等さを感じる時、それがマナの奇跡ではないでしょうか。
私たちは今日、主の晩餐を持ちます。イエス様はヨハネ6:33「私は天から降って来たパンである」と言います。私たちには今日、イエス様というマナが与えられます。それはみ言葉であり、食べ物であり、平等さです。そのマナは私たちの世界の中に平等と公平、平和を起こす力です。私たちは分かち合い、共に同じ分を食べます。そして、世界の事を祈りながら食べるのです。

「神様もパーティーを楽しむ」ヨハネによる福音書2章1節-11節

出前のお寿司屋さんで働いていた当時、一番つらい事は、そのお寿司を届けられなくなってしまう事でした。様々な事情から届けるのが数時間遅れることがありました。当然、届けた先でお客さんから怒られ、怒鳴られます。家の奥からはお腹の空いた子どもの泣き声が聞こえ、機嫌悪そうに言い争う家族の声が聞こえます。たかが寿司です。でもそれが無いとどれだけ場がしらけるか、どれだけ人を怒らせるかを私は痛いほど知っています。
一方、お客さんの家では犯人捜しが始まっています。そして、だいたい注文をしたお父さんが犯人扱いされているものです。「お父さんがちゃんと頼まなかった」と家族に怒られ、白い目で見られます。今日は贅沢にお寿司だぞと、大風呂敷を広げて、自慢していたお父さんの面目は丸つぶれです。
食事が足りない、飲み物が足りないって案外、大ごとです。特にそれが大事な日であればあるほど、その食事は失敗の許されない食事になります。
今日の聖書個所、他人ごとではありません。イエス様は食事や飲み物が足りない現場にいて、宴会が続くようにして下さるお方です。楽し時を過ごそうよ、そう言って、守って下さるお方です。神様が一緒にいるのは悲しい時だけではありません。喜びの時も神様はともにいて下さいます。そして、それが続くように取り計らってくださるのです。
今日の物語でイエス様は「今あるものに感謝して、満足しましょう」とは言いませんでした。だれも飲みきれない程の量のワインを奇跡によって出しました。それはこの喜びの宴会を続けようというメッセージです。
聖書にはたくさん、悲しみと苦しみに伴ってくださる神様が描かれています。人生の暗闇の中で輝くイエス様の姿が描かれています。でも、神の姿はそれだけではありません。神様は人間の喜びや祝や楽しみがある時も、共にいて下さることがここで示されています。イエス様はこの楽しい時が、人生の喜びの時が終わらないように、続くように、私たちにはからってくださるお方なのです。みんなの笑顔を願われるのが神様の姿です。
宴会に参加している人はこの奇跡には気づきません。気づかず歌って楽しんでいました。私たちもそうかもしれません。楽しみの時、喜びの時、神様の守りを忘れてしまう存在です。この喜びがどこから来たのか、知らない者なのです。でも私たちの喜び、平安には、イエス様が背後におられるのです。
弟子たちはなぜ信じたのでしょうか?それはイエス様が、私たちの喜びを共にしてくださるお方、その喜びが続くように願っているお方だということを知ったから、彼らは信じる者となったのです。私たちもそうなりたいのです。喜びの背後に神様の姿を見つけたいのです。
今の私たち、大きな苦しみの中にある方がおられます。神様はそのような方と共におられます。そして、喜びの中にある方もおられます。そのような方とも神さは一緒にいて下さいます。

「なんとなく従う」ヨハネによる福音書1章35節-51節

バプテストは民主主義「みんなで決める」を大切にする教会です。大事なことは、総会で決めます。今日の総会では執事を選ぶ選挙を行います。私たちは「“すべて”をみんなで決める」ことはできません。だから執事に多くの判断を委ねます。執事はそれだけ重い責任を担います。バプテスト教会の中で決定的に大事な役割です。大切な働きを祈りながら投票しましょう。
しかし執事の皆さんにも自分の家族、仕事、休みを大事にしてほしいと思っています。投票した皆は、何かを犠牲にしてほしいと思っていません。選ばれたあなたにできることを、出来る範囲でやって欲しい、そのことに信頼して投票をしています。あんまりプレッシャーを感じずにいきましょう。気負いせず、楽しみながらやってみませんか?
さて今日の聖書個所を見てみましょう。今日の聖書の召命物語、他の3つの福音書では、ドラマチックな献身が描かれています。イエス様の呼び掛けにペテロが網を捨てるそんな献身の姿が描かれています。しかし今日のヨハネ福音書はそういうドラマチックな献身は書かれていないのです。
アンデレがまず聞いたのは「今日どこに泊まっているのですか?」です。イエス様へのただの興味です。ナタナエルも最初から疑っています。すぐに信じて従う素直さはありません。彼が信じたのはイエス様が自分のことを「見たことある」と言ったからです。それがなんとなく嬉しくて従ったのです。この弟子たちの従う動機の頼りなさを見て下さい。立派な理由はまるでありません。彼らに覚悟とか知識は一切ありません。ただ興味があったので、ついて行ってみました様な感じです。
私たちも何で教会に来たの?と聞きます。なんとなく入ってみた、それでいいのではないでしょうか。ぶらっと来た、でもそこから始まるのです。とにかく来て見て、やってみて、イエス様と一緒に歩んでみる、イエス様について行ってみる、そういう始め方でいいのではないでしょうか。
イエス様も39節「来なさい、そうすればわかる」と言います。細かい動機を尋ねたり、こんな恵みがあるとか説明をしようとしません。見ればわかる、聞けばわかる、やればわかると言うのです。「くれば分かる」と言われても私たち困ってしまいますが。でもそういうことだそうです。
執事になる、それは一大決心です。だけれども「とにかくやってみましょう」「来なさい、そうすればわかる」それが神様の招きではないでしょうか。
そして今日、いろいろな方が礼拝に来られています。どうぞ構えずに、これからも教会に来てください。一緒にイエス様のこと考えてみませんか。なんか面白そうだからイエス様について行ってみませんか?わからなくてもいいのです。「行けば、わかる」そうです。
神様は「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいます。私もなんとなくついて行ってみようかなと思っています。

「神は小羊になる」ヨハネによる福音書1章29節-34節

「神は人になる」ヨハネによる福音書1章14節-18節

先日ある方が祈祷会で「80歳の苦労は80歳にならないと分からない」とおっしゃっていました。きっとそうなのでしょう。その立場になってみないとわからない事がたくさんあると感じます。でもときどき自分と似た体験をしている方がいます。その時私たちは、同じ立場の友がいることをとても心強く思うものです。特に教会ではそういう出会いがよく起こります。そして私たちが、何より感じておきたいのが、神様もそのようなお方だという事です。神様は私たちと同じ立場にいてくださる方だということです。
イエス様はこの地上に、人として生きられました。実際に人間になられたのです。今日はそのことを聖書から聞いていきたいと思います。
当時あるグループの考え方に霊肉二元論というものがありました。これは霊と肉体は別々のものであり、霊は聖いもの、肉体は汚れたものと考える思想でした。そしてキリストが不完全な肉体を持つはずがないと考えたのです。そしてキリストの十字架と生涯も、幻の姿だったと考えました。
しかし、この考えは衰退し、イエス様は人間であり、神であられるお方だと考えられるようになりました。人間か、神かどちらかではなく、どちらでもあるお方だったのです。50%が人間、50%は神だったわけでありません。100%人間です。そして100%神であられた。それがイエス様だったのです。
その立場になってみないと分からないことは多くあるものです。しかし驚くことに、神様は人間になられたのです。この地上に私たちと共に生きるという事を通じて、私たちを理解し、伴ってくださろうとする、それが神様です。神様は「地上は汚れた物、私は聖なる者」そのように自分とこの世を分け隔てなさらない、分離しない、お方なのです。
私達は聖なるもの、汚れたもの、世界を二つに分けてしまうことがあります。でも神様ご自身は分け隔てをしないお方です。聖い場所を求めるだけではなく、今ここに神がいます。神は聖い場所にいるのではなく、いまここに神がいるのです。そのような神をいただく、私達です。
このことは私たちに、相手と自分を二分するのではなく、もう少し互いに立場から考えることも教えてくれるかもしません。神が私たちの立場になって下さるお方だからです。同じ苦しみを持つ人と分かち合うという事を教えてくれるでしょう。神様がそうして下さる方だからです。
私達は今日、主の晩餐を持ちます。私たちはこの主の晩餐を、確かに神がこの地上に生き、色々な人と、分け隔てなく共に食事をした。そのことを記念して行います。そして、イエス様はおっしゃいました。「このように行いなさい、これは私の体である、取って食べなさい」と。今日、私たちは再びこの地上に、私たちの中に、このパン、イエス様をいただきましょう。そしてイエス様が私たちのところに、確かに来て下さった、そのことを私達がもう一度確認しましょう。

元旦礼拝「神は家族になって下さる」イザヤ書43章1節-7節

あけましておめでとうございます。お正月は東西南北へ散っていた家族が集まる時を持たれる方も多いでしょう。家族の温かさ、気兼ねなさを思い出したり、自分の家に帰る居心地の良さを感じているでしょうか。また親族とのちょっとした緊張があるのもお正月の独特な雰囲気かもしれません。
私達は、今日もこの礼拝で「主の祈り」を祈りました。この中にも家族の関係が登場します。私たちは神様を「父」と呼びます。私たちは神様の家族なのです。父という言葉はもともとアッバという言葉でした。アッバは、父という言葉を、より親しみを込めた「お父ちゃん」という意味の呼びかけです。私たちと神様は「お父ちゃん」と呼びかける親しい家族の関係なのです。
今日の個所も、旧約聖書イザヤ書ですが「神様は私たちの家族になって下さる」という事を伝えています。そして神様は東西南北から、子どもである私たちを集めて下さるお方です。そして神様が私たちを礼拝する者にしてくださるという事を伝えています。ご一緒に聖書に目を移しましょう。
「贖い(ガーアール)」という言葉があります。ガーアールという言葉は、例えばルツ記で使われています。去年、教会学校で一緒にお読みしました。ルツ記にはナオミの親戚ボアズはナオミとルツを守るために、親族の役割としてルツと結婚したという物語が残っています。ボアズは寡婦を守るために彼女の家族になるのです。この結婚のことをゴーエールと言います。このゴーエールは「ガーアール(贖い)」が元の言葉です。それは他の人の代わりに、その人の家族となり、助けるということが基本的な意味です。神様は私たちを贖ってくださいます。家族を愛し、助けるように、特別に大切にしてくださるのです。神様は特別な親しみを持って、私たちを守って下さるお方です。その愛は私達一人ひとりに注がれているのです。
神様は様々な困難から私たちを守って下さいます。行き詰まりを感じたとき、モーセが海が開けて対岸に渡ったように、私達が行き詰った時にも必ず希望があります。ダニエルが火の中に入れられても守られたように、どんなに苛酷な状況に置かれても、主の守りがある、神様が一緒におられるのです。
神様はいつも私達と共におられる方です。そして神様は東西南北から子供たち、私達を集められます。地の果てからでも、この礼拝に招くのです。これは中東のイスラエル共和国に集結・・・という話ではありません。それは私たちが今集っているこの礼拝です。この礼拝がイスラエルなのです。
今日、元旦、私たちはまた東西南北、色々な場所から集まり、礼拝を共にしています。素晴らしいことです。今年一年も家族のように時間を共にしましょう。そして神様が私達を礼拝に呼び集めて下さいます。礼拝で共に神様が呼び集め、私たちの家族となって下さり、特別に愛を注いでくださっていることを喜びましょう。その招きから始まる一年を喜びましょう。その恵みに応答し、礼拝を献げる1年をとしてゆきましょう。

イブ・キャンドル礼拝「飼い葉桶のイエス様」

ルカによる福音書2章6節~7節
「ところが彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

イエス・キリストの母マリアは旅先で出産しなければなりませんでした。どれほど不安だったでしょう。さらに彼らには泊まる宿屋すらありません。
もし、そのような妊婦が私の宿泊するホテルを訪ねているのを知ったら、私は大急ぎでその人に部屋を譲るでしょう。しかし、この時それは起きませんでした。ホテルの先客たちはそれを知らずにいたか、あるいはそれを知っても見なかったふりをしました。
イエス・キリストは人々の保護と愛情を一身に受けて生まれたとは言い難い環境に囲まれていました。彼らは仕方なく、家畜小屋で出産をすることとしました。出産に必要なものはほとんどありません。彼は「飼い葉桶」、つまり動物の餌を入れておく箱、エサ入れの中に寝かされたのです。それは動物の唾液とニオイで臭く、ひどく不衛生なものでした。そこにしか彼に居場所はなかったのです。赤ん坊がおよそ人間らしい扱いをされない場面、それが私たちが祝うクリスマスです。
この苛酷な出産の何が、孤独な出産の何が一体、喜びなのでしょうか。私たちの喜びは大いに逆説的な喜びです。素直には喜べない、この痛みと孤独、その中に私たちは希望を見つけるのです。
それはイエス・キリストは、私たちが一番状態がいい時に、私たちに訪れるのではないということを示しています。順調、健康、裕福、仲間に支えられている、イエス・キリストの誕生は全くそれとは逆の場面に起きた出来事でした。逆境、痛み、貧困、孤独のさなか、そのような中に、イエス・キリストが生まれたてきたのです。
イエス・キリストが私たちの中に生まれて来た、その喜びをここに見出します。神様と等しい方が、このような逆境と、痛みと貧困と孤独の中に生まれて来たということが喜びです。そうです、神様は私たちの遠くに、天高くいて、私たちを見下ろし、善い行いをした者にはよい出来事を、悪い行いをした人には悪い出来事を起こす、そのような方ではありません。
あなたの苦しみを知り、あなたの現実に目を向け、あなたの現実といつも共にいて下さるのがイエス・キリストなのです。皆さんにも今日、その喜びが与えられています。あなたの地上の厳しい現実の只中に、痛みの中におられるのがイエス・キリストです。あなたのその中に、神様と等しい方が生まれ、一緒に歩んでくださる、それがクリスマスの喜びです。
一緒にそのクリスマスを喜びましょう。メリークリスマス。

クリスマス礼拝「まず神の言葉からはじめる」ヨハネによる福音書1章1節-14節

言葉を交わす、それはもっとも人間らしい事柄です。言葉は人を励ます力を持っています。励ましの言葉を聞くだけで、何かを始める意欲が湧いてくるものです。そして同時に、言葉は人を傷つけもします。言葉を発した人の意図とは関係なく、相手を深く傷つけるのです。言葉によって人は何かが手につかなくなったり、辞めてしまったりするのです。私たちの人生は良くも悪くも言葉に、振り回されます。人と人とが生きる時、必ず言葉を交わします。そして必ず傷が生まれるのです。私たちが誰かと生きようとする時、その人としっかりと向かい合おうとする時にこそ、言葉の行き違い、気持ちの行き違いは起きます。
でも、そんな中で神様に目を向けたいのです。私たちの難しい現実はあるかもしれないけれども、人と人との様々な言葉があるのだけれども、まず神様の言葉を聞いていこうと思います。人間のお互いの言葉だけではなく、まず神様の言葉を聞いていこう、そう思うのです。神様の言葉をいただくことによって、私は再び人と向き合う力をいただくからです。
今日の聖書個所、「初めに言があった」とあります。ヨハネはこのみ言葉から、福音書を始めます。一番最初に何があったかを、それを最初に語っています。「初めをもって始める」のです。
まず私たちは、神様の言葉が何よりも先にあったという事を知りたいのです。私達は人間の言葉によって混乱し、振り回されるものです。傷つき、傷つけるものです。しかし、世界には神様の言葉がまず最初にありました。人間同士の混乱より、ずっと前からある光、それが神様の言葉です。だから、私たちは人の言葉ではなく、まず神の言葉に目を向けたいのです。神の言葉の中にこそ私たちの命はあります。そしてその光は、神の下で輝いているだけではなく、9節「世のすべてを照らす光」なのです。
神様の言葉は一人の人間によって、世界に伝えらえることとなりました。その方がイエス・キリストです。イエス様はそのような人間の言葉の、人間の混乱の、人間の暗闇の只中にお生まれになったお方でした。それは14節にあるとおりです。クリスマスとはまさに「言葉は肉となって私たちの間に宿られた」という出来事です。神様は私たちと共にいて下さるお方です。神様は私たちの混乱した現実の中に、疲れ果てた中に、現れて下さるのです。私達にはどのように人の言葉を受け止め、言葉を発したらよいか迷う時があります。そんな時、私たちは始まり、神の言葉を思い出したいのです。
そして、神の言葉がどのように私たちと一緒にいてくださるのかも思いだしましょう。神様の言葉は私たちといつも一緒にいてくださいます。言葉であるイエス様は私たちの間に宿って下さるお方なのです。神様は人間の言葉の中、人間の生活の中、人間の暗闇の中におられます。神様が言葉であるイエス様を私たちに送って下さったからです。

「あなた方の中に神がいる」ヨハネによる福音書1章19節-28節

クリスマスに向けた礼拝では教会のみんなの一体感を感じます。みんながろうそくの火一点に目を留めるからです。とても小さなあかりですが、全員がこの光を見つめます。そこで気づくのは、私たちがこの小さい光を囲む一つの集まりだということです。私たちは光を中心にする仲間です。
もちろんその光とはイエス・キリストを指します。私たちはイエス・キリストを中心にする集まりです。私たちの礼拝は、特にこのアドベントの期間、光を囲む礼拝です。光であるイエス様の誕生を待ち望みつつ、それを中心にして礼拝をするのです。光であり、中心におられるキリストを覚えてアドベントを過ごしたいのです。
今日の聖書個所はすべての福音書に記載がありますが、ヨハネ福音書の特徴・表現があります。それは「エルサレムのユダヤ人たち」という存在です。ヨハネ福音書はユダヤ人からの迫害の中で書かれた福音書です。この福音書の時代、身近にうまくいっていない関係にある人がいます。その相手が登場しながら福音が語られるのです。
ヨハネは「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる」と言います。敵対者に向けてイエス様を迫害する人に向けて、救い主であるイエス様は、あなた達の中にいる、この真ん中にいるというのです。あなた方とは、迫害をする、敵対関係にあって、身元の確認にきている、乱暴な言葉遣いの人々です。その人々に向かって、あなた方の真ん中に救い主イエス・キリストはいるというのです。
イエス様はどこにおられる方なのでしょうか。それはここを読むならば、それは、私たちが嫌だなと思う相手、その真ん中です。自分に敵意をもって、乱暴に接し、自分を困らせたり、イライラさせたりする相手、そのまん中にイエス様がいるという事です。洗礼者ヨハネはそう証ししています。つまりそれは敵と思える人の中にこそ神がいるということです。
そして、あなた方の知らない方がおられるとあります。その人たちも自身の中心にイエス様がいることに気付いていないかもしれません。たとえそうだとしても、確かにその中にイエス様はおられるのです。だからこそ私たちは難しい相手でも、共に生きようとする者にされるのです。
イエス様は、私たち一人ひとりとうまくいかない、敵対する、迫害する、あの人たちの中にいます。その真ん中にイエス様がおられるのです。そしてイエス様はこのろうそくの光のように、私たちの真ん中にもおられる方です。礼拝の真ん中にはイエス様がおられます。それぞれの教会の奉仕の真ん中もイエス様です。私達の中心も、すべての人の中心にイエス様がおられます。そのことを忘れないでいたい。そのことを知るものでいたいのです。あの人の真ん中に、私の真ん中に、教会の真ん中にイエス様がおられるのです。このクリスマス、そのことを知る時としたいのです。

「神が宣教する」ヨハネによる福音書5章36節-47節

先週の礼拝の前、Aさんが「ろうそくが一本しかついていない」と言ってくれました。大事なことです!私たちはアドベントの期間、毎週一本ずつ火をともします。そうするのはイエス様の誕生を少しずつ待ち望むからです。
クリスマスは一年で一番イエス様が注目を集める日でしょう。私もなんとかイエス様を伝えたいと一生懸命です。しかし聖書によれば、信じるという不思議な出来事は聖霊によって起こります。私たちは自分の力、人間の力で信じるのではなく、聖霊によって押し出されて、信じる者になるのです。
もちろん私達自身が、誰かにイエス様を救い主であると伝えることはとても大切なことです。ぜひクリスマス、お友達を誘ってきてほしいと思います。しかし伝える時に大切なのは説き伏せない事、押し付けない事です。
信仰を持つとは不思議です。私たちが上手に説明をすれば、誰かが信仰持つというわけではありません。神様の真理は、人間の手によって広がるわけではないのです。何よりも大切にしたいのは神様が伝えて下さるということです。誰よりもまず、神様が伝道する、神様が宣教するということです。
だからこそ私たちの伝道の働きは、先頭を行く神様に仕える働きです。そして同時に隣人に仕える働きです。隣人の価値観を変える、相手を変える運動ではなく、隣人に仕える運動、相手と出会いお互いに変えられていく運動です。宣教・伝道の中心は自分や人間ではなく神様だからです。
今日の個所も人はどのように信じる者になるのかという事がテーマです。このユダヤの人々には、これまでにいろいろな人が、何回もイエスは救い主だと説明・説得をしてきたはずです。一生懸命伝えてきたはずです。でも彼らはどんなに人間から説明をされても、信じることはありませんでした。
イエス様はそんな時「私が行っている業そのものが、父がわたしをおつかわしになったことを証ししている」と言います。なぜ私が救い主であるのか、それは人間が説明できるものではない、業によって証明されるのだということです。その業とはどんな業でしょうか。ここには「成し遂げられるように、お与えになった業と」あります。「成し遂げられた」それはヨハネ福音書でイエス様が十字架の上で最後に発した言葉です。なし遂げられるだろう業、それはイエス様の生き様、死に様です。それを直接、見なさいということです。
アドベントを向かえています。私たちはキリストを待ち望むものです。私達から行って、捕らえるのではありません。私たちは一生懸命福音を伝える者です。でもその時大切にしたいのは、一緒に待ち望むことです。一緒に変わっていくことです。私たちはみんな、神様を待つ者とされています。神様がイエス様によって、人を信じる者に変えてくださいます。神様の言(ことば)であるイエス様によって、変えて下さるのです。神様はその生きざまによって、死にざまによって、救い主の姿を示してくれます。私たちは一緒に待ちましょう。そして一緒に変えられてゆきましょう。

「会いに行ける神様」ヨハネによる福音書7章25節-31節

今日からアドベントです。今、私たちが読んでいるヨハネ福音書にはいわゆるクリスマス物語がありません。博士も羊飼いも登場しません。もちろん当時の人々は、救い主、メシアが地上に現われるのを待ち望んでいました。その期待の大きさからでしょうか、メシアは奇跡を伴って、華やかに登場する、劇的に目の前に現れると考えられていました。輝いて天から来る、そんなイメージを持っていたのでしょうか。
でもイエス様はそのようにして人々の前に現われたのではありませんでした。それは、他の福音書でも同じです。その誕生は確かに様々な奇跡に囲まれていましたが、イエス様の登場はとても穏やかに描かれています。生まれたのは家畜小屋です。ふつうの人間の子、田舎者の大工の子として生まれてきたのです。それは日常の中に現われた救い主だったと言えるでしょう。
日常の中に現われるのが救い主の姿だ、聖書はそう語っています。聖書によれば、そのような救い主の姿を信じる人が大勢いました。そんな救い主の在り方に共感し、従おうとする人が確かにいたのです。
私達もイエス様のイメージがあるでしょうか。栄光、奇跡、勝利。もちろん神様はそれらすべてお持ちの方です。しかし、もう一つの姿もあります。今日の個所を読むならば、イエス様は私たちの日常に現れる方なのです。それは高い講壇の上に現われるのではありません。きっとイエス様は普段着で現れます。私たちと同じ目線で現れます。私たちのよくとおる道に現われます。会いに行ける距離、すごく近くにあらわれてくださるのです。
私達の礼拝は、いままでのイメージとは違う、騒がしい礼拝です。でも私はそんな騒がしさの中、日常の中にいるイエス様に出会いたいのです。私たちの日常にいる救い主イエス・キリストに出会いたいのです。ここでは神を見つけられないと考えた時、人はそこを立ち去ります。でももう少しとどまって、一緒にこの騒がしさの中で救い主を探したいのです。
アドベントが始まります。主イエスの誕生を待ち望む時をいただいています。神様をもっと近くに感じたい、そう願う時です。神様を待ち望むとき。その姿は栄光に満ちた、権威ある姿とは限りません。十字架にかけられた救い主は私たちの日常に来て下さるお方です。私たちの今に、ここに、現われてくださるお方です。どこかに探しにいくのではなく、今この場所で出会いたい、出会えるはずだと思うのです。だから一緒に全員で、一人も欠けることなく、礼拝をしたいのです。
これから主の晩餐をもちます。主の晩餐は一番身近に救い主を感じることができる礼典です。食べるという日常と同じ体験を通じて、神様を感じます。一緒にこのパンと杯をいただき、神様を近くに感じましょう。そして、これは独りで食べる、一人で飲むものではありません。みんなで一緒に体験をするものです。神様の近さ、みんなで体験をしてゆきましょう。

「政教分離の問いかけ」ヨハネによる福音書18章33節-40節

11月14日、日本では大嘗祭が行われました。今私たちは、天皇制、特に政教分離について考えたいのです。私達の教会の信仰告白には「信仰による良心の自由、および政教分離の原則は、何ものによっても犯されない。教会は、地上の権威、権力に対して常に目を注ぎ、このために祈り、神のみ旨に反しない限り、これに従う。」とあります。教会は政教分離を守る、それが守られているか行政監視をすると告白されています。大嘗祭とは極めて神道的儀式です。しかしその宗教行事が27億円の税金によって行われました。これは政教分離の原則に反します。政教分離がないと、国の政策のために、宗教が利用されるようになります。それを絶対に許してはいけません。
聖書には直接、政教分離の原則が述べられているわけではありません。しかし、政治と宗教が混同している時代にどのように、信仰を守るのかということはテーマとして書かれていると、私は読みます。
政治家ピラトは統治のために、たびたび宗教に介入し、利用しました。政治と宗教は混同されていた時代です。一方で、大祭司も自分たちの宗教を守るために政治を利用しました。彼らは自分たちの勢力を脅かすものを殺そうと考えました。宗教と政治は混同され、利害関係で結びついています。政治家ピラトは自らの政治的な力を、宗教のために行使し、イエスに死刑を宣告したのです。ピラトの判断は自分の立場を守るためです。彼は法律に従って裁くべきであったのに、それを歪めました。宗教も同じです。自分たちに都合の悪い人間を殺すため、政治を利用したのです。政教分離が守られず、政教が混同し、互いの利益のために、一人の男が十字架にかかりました。政教が混同する、それはお互いを利用し合う関係になるということです。
政治は宗教を利用しない、宗教は政治を利用しない、そのことが私たちにとって、とても重要なことであるということが、ここで示されています。
ではその時、イエス様はどこにいたのでしょうか。イエス様がいた場所は隔離されていたのではありません。大祭司たちから見れば、汚れた場所にいました。イエス様は宗教と政治の衝突し、混同し、互いに利用し合い、かつ無責任な態度、その真ん中にいたのです。混同の真ん中におられたのです。
混同の真ん中におられるイエス様に向き合うと、「真理とは何か」という問いが生まれます。真理とは何か。私たちもイエス様の前でそのような問いを持つ者です。真理とは何でしょうか。真理とは、神様のみ言葉です。真理とは神様の出来事です。真理とは、イエス様からやって来るものです。真理とは聞くものです。真理とは、私たちの中に探しても見つかりません。それは神様から出て来るものです。そして私たちはそれを受け取るだけなのです。真理とはイエス・キリストです。真理とは私たちの希望です。
だから私達は真理において、その希望において妥協しません。私たちはその希望を、真理を、他の何かと、誰かと混同しないのです

特別伝道礼拝野中宏樹牧師「生きるとはがばいよか」マタイによる福音書20章1節-16節

私の母は、私がお腹の中にいるときに教会で洗礼を受けました。ですから、私は小さい頃から教会に通い、聖書の言葉に親しんできました。旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻からなっている分厚い聖書という書物は、日本では弥生時代の頃、2000年も前に書かれたものです。それ故大変難解であるという感想をお持ちの方も少なくないと思います。けれども、聖書に書かれてあることは大変シンプルだと私は思います。聖書は最初から最後まで一貫して「神は愛である」という事を私たちに伝えようとしています。けれども「愛」という言葉がおそらく日本人には難解なのだと思います。最初に日本にキリスト教が伝えられた頃、宣教師たちは神さまからの無償の愛を表すギリシャ語の「アガペー」という言葉を「御大切に」と訳したそうです。その通り、聖書の神さまは、作られた全ての命、もちろん私たち一人一人をも掛け値なしに「御大切に」して下さる方です。
私たちはそれぞれに、自分にしか生きる事の出来ない自分の物語を生きています。けれども時に、自分の人生の物語を全く評価出来ずに「駄目な人生だ」と考える事があるのではないでしょうか。そしていつの間にか、他者の評価ばかりを気にして、人と比べて自分を見失ってしまうこともあります。あるいは他者を見て「あいつは駄目なやつだ」と見下げたりもします。もしも一度きりの人生がそのようなものであるのならば、何と辛く、厳しく、悲しく、そして寂しいものでしょうか。けれども人生はそのようなものではありません。聖書の神さまは、十字架の主イエスさまの物語を通じて、徹底して「私はあなたをとても大切に思っている、あなたは私の宝物だ」と言い抜いて下さる方です。この人生の原点を共に確認しませんか?きっと「生きるとはがばいよか!」という思いの中で他者と共に人生を歩みはじめる事となるでしょう。それこそが聖書の神さまの思いだと私は確信しています。

 

 

 

「こどもを大切にする教会」ヨハネによる福音書6章9節-15節

グレタ・トゥーンベリさんは16歳の少女です。彼女は地球温暖化のリスクを訴え、世界で有名になりました。世界は温暖化への対策を十分に取ることが出来ません。彼女は気候変動に無関心、無力な大人たちにむけて、より強い対策を取るように訴えています。「あなたたちが語り合うのは、お金や、途絶えることのない経済成長のおとぎ話だけ。よくも、そんなことができますね」「なお私たちを裏切る選択をするのであれば、言わせてください。私たちは決してあなたたちを許しません」。大人は何をしているのか、なぜ行動しないのか。そうグレタさんは怒りを込めて問いかけています。彼女は私たちに「あなたは変われますか?」「あなたは子供たちに未来を残せますか?」と問いかけます。世界は、大人は、私達は、変わることができるのでしょうか。
聖書の個所に目を向けましょう。今日の個所にも問題を解決できない、無力でだらしない大人が登場します。1万人が空腹でした。しかし大人は議論ばかり、無理な理由を述べるばかりで、分かち合いの行動を起こしません。そこに一人の子どもが登場します。そのこどもは持っていた自分のお弁当をイエス様に差し出しました。それは怒りの行動だったかもしれません。いつまで議論をしているんだ、大人は自分できることをしろ。そんな彼の怒りが込められたパンです。もちろんこの行動は無力です。しかしイエス様は、それを見逃しません。そのパンを取って、感謝して祈りを唱えたというのです。
一人の子供の行動とイエス様の祈りが1万人を変えました。大人たちを変えたのです。私はこの個所を大人が隠し持っていた分を、分かち合う行動が起きたと理解します。大人たちがこどもが捧げる姿を見て、それを神様に感謝して祈るイエス様の姿を見て、分かち合いを始めたのです。
今の私たちはここから何を学ぶでしょうか。一つには小さくても行動を起こすことです。私がちょっと行動したくらいでは世界は変わりません。私たちがこどもの居場所の建物を建てたくらいでは平塚は変わりません。けれども、今日の聖書の個所によるならば、小さな行動を起こしていくことが大事です。そしてその小さなことを感謝して、神様に祈ることが大切です。私たちは出来る事、祈る事から、子どものために始めましょう。そしてもう一つ、この個所から学ぶこと。それは子ども達の行動を尊重することです。子ども達のアイデアと行動を真剣に聞く事です。そしてそれに感謝と、祈りをささげることです。聖書によれば子どもの行動が世界を変えるのです。
今日私たちがいただくパンは子どもが捧げたあのパンように、小さなパンです。小さいけれど、感謝して、祈って食べましょう。私たちも小さくても何かを始めましょう。そしてこのパンは永遠の命を得させるパンです。神の永遠の中に生きる、そのことを覚えるためのパンです。祈って食べ、神様の永遠の命をいただきましょう。今日はこの後主の晩餐式とこども祝福祈祷の時を持ちます。

「永遠を共に生きる」ヨハネによる福音書3章16節

教会は時代によって、様々に変化をしてゆくものです。変化にとまどうこともあるかもしれませんが、変わらないものもたくさんあります。それは神様を礼拝することです。そして天に召された方を覚え続けるということも、教会が2000年間ずっと大切にしてきたことです。教会はどんなに社会が変わろうとも、神様を礼拝すること、召天者を覚える事において変わりません。
神様は召天された方々に、どのように関わって下さるのでしょうか。そして私たちと召天された方々はどのような関係にあるのでしょうか。本日の聖書個所には神様と天に召された方たちの関係、そしてもちろん神様と私達との関係が書かれています。このみ言葉に聞いてゆきたいのです。
3章16節によれば、神様はこの世を愛して下さるお方です。世とはこの地上、世界、全人類、全生命の事です。世界はめまぐるしく変わります。皆さんも変わります。しかし相変わらず人は不完全で、欠点の多い者で、失敗をします。それは召天された方も、私達も同じでした。神様が大切にして下さるように、お互いを、自分自身を大切にすることが出来ない時がありました。
にもかかわらず、神様は私たちを愛して下さいます。神様はたとえ人間がどんなに不完全でも愛して下さるお方です。それが世を愛する神様です。だからこそ、私たちの生き方が変わります。愛せない他者を愛そう、愛せない自分を愛そうという生き方に変わるのです。それが変えられるということです。そして神様は天に召された後も永遠に愛し続けて下さるお方です。
3章16節によれば、神様は独り子イエス・キリストを与えて下さるお方です。その方は全人類に与えられています。地上に生きているかどうかも超え、神様は天に召された方々のためにも、イエス様をお与えになりました。天に召された方たちと私たちは、共に神様からイエス様をいただく仲間です。
神様は、この私たちをなぜ愛し、大切にされるのでしょうか。それは永遠の命を得させるためとあります。永遠とは変わらずに貫かれてきた神様の愛のことです。「永遠の命」とは変わらない神様の愛の中にある命です。時代は変わる、世界は変わる、お互いは変わる、教会も変わる。でも変わらないものがある。神様がずっと変わらずに大切にしてきたものがある。変わらないものの中に生きる事、神様の中に生きること、それが永遠の命です。すでに召天された方々も同じです。変わらない神様の愛の中に生きているのです。神様の永遠の中で生きるのです。
すでに召天された方と私たちは、共に神様の永遠の中に生きる者です。私たちは地上の生命の有無にかかわらず、神の永遠の愛の中を共に生きるのです。私たちは共に神の愛に、共に神の永遠の中に生きる者なのです。
今日、召天された方を覚えます。そして、自分に残された時を覚えます。地上の生に関わらず、私たちは神の愛を永遠を共に生きる者です。永遠を共に生きたいと願う者なのです。

「苦難の中の光」ヨハネによる福音書1章1節-14節

今中国では急速にキリスト教が広がっています。彼らは抑圧される生活の中で、自らを解放してくれる物語を求めています。しかし中国政府はキリスト教の教会を「公認」と「非公認」に分け弾圧しています。公認されるためには礼拝堂での国旗掲揚・国歌斉唱・監視カメラ設置、十字架塔の撤去などが必要です。多くの十字架塔に火が放たれています。激しい迫害の中で、中国のクリスチャンは光を求めています。いえ、光を求めると言うより、すでに照らされていると言うべきでしょうか。彼らは暗闇と思える中においてこそ、自分達はすでに光に照らされているのだという事を知っています。
私たちが闇と思う時、私たちが闇のような運命にあると思う時、それでも必ず光が私たちを照らしています。私たちが闇だと思っていても、光であるイエス様が私たちの間に必ずいてくださるのです。
今日の個所もそのことが示されています。ヨハネ福音書が書かれた当時もキリスト教は激しい迫害を受けていた、まさに闇の時代でした。創世記1章によれば天地創造の前も、世界は闇に覆われていました。その中で神様は一つずつ言葉を発し、創造してゆきます。神様の言った言葉はどれも、必ず実現をしました。聖書は神様の言葉と出来事を分けていません。聖書は繰り返し「神は言った、そうなった」と伝えます。
ヨハネ福音書もこのことを言っています。始めに言葉があったのです。そしてその言葉は神様と共にあったのです。そこに区別はなく、神ご自身と同じものだったです。そして、10節以降には、言葉はイエス・キリストでもあったともあります。イエス・キリストは神の言葉だったのです。ヨハネはこれを三段論法で説明しています。神=言葉、言葉=イエス・キリスト、だから神様=イエス・キリストですと言っています。
この1章はもう一つ大切なことを言っています。それは創造の時にすでに言葉が存在していたということです。つまり、イエス・キリストが創造の時にすでに存在していたということです。創造のはじめからイエス様が共にいて下さったということです。私たちの生まれる前から、世界ができる以前から、イエス様は共にい続けて下さったということです。
14節、言葉は肉となって私たちの間に宿るとあります。「宿る」とは、「住む」ということです。イエス様は星のような、遠くの光ではありません。人間の世界に、私達の間にすでに宿っている、すぐ近くに一緒にいてくださるお方なのです。すでに神様から、その光は私たちに差し込んでいるのです。
闇と思える時も、私達には必ず、光があります。希望があります。私達が闇のような運命にあると思う時も、必ず光があり、希望があります。私たちが闇だと思っていても必ず、イエスは私たちの間に宿り、住み、とどまって下さいます。いつからか、それはずっと前からです。私たちはその希望に照らされて歩み、礼拝をしたいのです。

「私たちの神は誰か」ルカによる福音書19章11節ー27節

10月22日「即位の礼」が行われます。さらに11月には大嘗祭が行われます。大嘗祭は元々、天皇が神になる祭儀でした。天皇を神と思うことは自由です。キリスト教が警戒をするのは、国家が天皇を神と信じなければならないと押し付けることです。元号法、日の丸・君が代、建国記念日、天皇を中心とする国家神道の国民への押し付けはもうすでに始まっています。
教会はこのことに敏感です。なぜなら教会は天皇制で大きな失敗をしたからです。戦時中、教会学校では「天皇こそ、神様の賜物」と教えました。礼拝で君が代を歌いました。教会はあの失敗を本当に悔いています。自分たちの信仰を隠して、妥協をしました。キリスト教は過去の過ちに立って「天皇は私たちの神ではない」ということをはっきり言わなければいけません。
初代牧師長尾三二先生は戦争に反対をした、珍しい牧師です。戦時中「天皇は神にあらず」と言って逮捕されました。私たちも今、この社会の中で「天皇は私たちの神にあらず」「押し付けないでほしい」そう叫びたいのです。
今日のたとえ話、新しい王とは主イエス・キリストの事です。そして1ムナを預けられたのが私たちです。そして14節でも「私たちの神は誰か」が問題とされています。私たちの神は主イエス・キリスト、愛の神、愛の行動に促す神です。だから私たちはこの話を愛の視点で読みたいのです。繁栄の視点で読むと、再び教会は失敗をするでしょう。
10人が1ムナずつ預かりました。主人は「商売しろ」と命令をしました。十倍になった僕がいますが、彼は相当なリスクのある投資をしたはずです。元金をすべて失うかもしれない、ばくちのような投資をして破産覚悟で「商売しろ」という主人の命令を実践しました。一方で、1ムナを布にくるんで土に隠した僕がいました。減ることを恐れ、土に隠しました。
1ムナとはそれぞれに委ねられた、神様の愛です。神様はそれを「使って増やせ」と言います。模範となるのは、十倍にした僕です。リスクがあっても愛の行動をするということです。愛したのに愛されなかったら、私たちは深く傷つきます。でも恐れずに、愛の行動をとるのです。愛されないかもしれない、傷つくかもしれない、でも愛すのです。一方、土に隠した僕とは、傷つくのが怖くて、愛の行動ができない人でした。まるで自分は愛も持っていないように振る舞いました。自分が傷つかない方法を選んだのです。
私たち一人ひとりが、神様から1ムナの愛をいただいています。それを使い、増やす、愛の行動を起こしたいのです。私たちのいただいている神の愛を、神を恐れず、隠さずに、土に埋めず愛の行動をとりたいのです。
今、私たちは誰が、私たちの神なのかが問われています。私たちは愛と私たちの神を隠しません。天皇は神にあらず。私たちの神は愛の神イエス・キリストです。私たちはその愛を持ったままにしない、傷つくのをおそれず愛の行動をする、そして隠さないで語りたいのです。

「世界と分かち合う」ルカによる福音書16章19節―31節

世界の栄養不足人口は増加しています。地球に暮らす9人に1人が、栄養 不足です。原因は紛争や気候変動など様々です。しかし現在の世界では食料 が不足している訳ではありません。豊かな国はごちそうを好きなだけ食べ、 貧しい国は最低限の食事さえ欠くという、偏りが飢餓の根本的な原因です。 その中で日本は食糧廃棄大国です。日本が捨てている食材は年間600万ト ン。世界が貧しい国に支援をしている、倍の量を毎年捨てています。
世界は二極化しています。貧しくて飢える者と、豊かで有り余る者の差が 広がっています。それは日本でも平塚でも起きています。私たちはその隔て と境界線をなくしたいのです。余ることのない、不足する事の無い社会を目 指したいのです。小さくても私達に出来る事から始めたいのです。
今日の聖書の話、これもたとえ話です。死後の世界の話ではありません。 今をどう生きるかという話です。金持ちは毎日、パンを落としながら食べました。これは食糧廃棄問題です。金持ちは自分の家の門の前で、毎日食べ物 のない男とすれ違い、存在を知っていました。目の前の困った人にパンを分 かち合う責任があったはずにもかかわらず、無視を続けました。
この聖書で登場する、金持ちとは一体誰のことでしょうか。それは私たち です。私たちは金持ちの国に住み、食糧を捨てています。世界に飢えている 人がいることを知っていても無視し、なにも行動を起こさないのです。一方 のラザロは食べ残しでもいいと願っても、それすらかないませんでした。ラ ザロもまた私たちのことです。世界を変えたい、状況を変えたいと思っても、 その圧倒的な力の差を変える力を持っていないのです。私たちは金持ちのように、他者を無視する存在であり、またラザロのように、状況を変える事が できず、ただ神の力を求める存在です。
物語の後半で金持ちは、奇跡を起こし、地上の家族に警告してほしいと頼 みます。しかしアブラハムはその願いを断ります。奇跡は無駄だと答えるの です。律法と預言者たちの言葉、つまり聖書を読んでも変わらないなら、たとえ奇跡を起こしても人は変わらないのだと言うのです。
この物語は世界を変えるものは何かということを、伝えています。それは 奇跡ではありません。人を変えるのは奇跡ではなく、聖書、み言葉なのです。 私たちはみ言葉によって変えられ、突き動かされます。神のみ言葉を聞いて 行動を始めるのです。それが少しずつ世界を変えるのです。神の言葉に突き 動かされる私たちが世界を変えるのです。
私たちの間には、取り払うことが出来ない境界線、解消することができない格差があります。しかし、それはみ言葉によって解消されます。み言葉は 隔ての壁を壊し、絶望的な格差を公平にし、世界を一つにする力を私たちに 与えて下さるのです。この小さい私は何ができるでしょうか。でも小さなことが世界を変えます。教会はこのみ言葉に信頼し、行動を起こしたいのです。

「不当な税率」ルカによる福音書16章1節-13節

「不当な税率」ルカによる福音書16章1節-13節
私たちの信仰告白には、聖書は神の霊感を受けて書かれたとあります。聖書は聖霊を受けた人間によって書かれたのです。人間はなんとか神様の出来事を言葉にしようと苦労しました。限界のある中で自分の信仰を言葉にしました。時には書き間違えたり、難しい個所にはわかりやすいように自分の言葉を付け加えたり、一人ひとり違う視点で出来事を記しました。
今日の個所も、おそらく元々8節前半までがイエス様の言葉です。そして8節の後半からは弟子がこの言葉をどのように受け止め、理解したのかが書かれています。しかも8節後半に対して9節、9節に対して10節というように言葉が積み重ねられていったのでしょう。神の霊感を受けた人々が、イエス様の言葉を何とか理解しようと苦戦した跡がここに残されています。
日本では10月1日から消費税が10%になりました。実質賃金が上がらないのに、消費税が上がり、生活は苦しくなっています。消費税は結局貧しい人が困る税制です。政治には、ぜひ貧しい人にもっとお金を使って欲しいと願います。税率が8%になった後、社会保障費は増えませんでした。その分は法人税の減税にあてられ、大企業の利益のために使われました。私にとっては不当な税率です。どうか大企業の優遇のためではなく、小さき者ためにお金を使って欲しい。貧しい人、困っている人に、子どもに、けちけちしないで、もっとお金ばらまいてほしいと思います。このような聖書観、世界観の中で、私たちはこのたとえ話をどう理解するのでしょうか。
このたとえの中で一番不正をしているのは、金持ちです。当時金持ちは法外な高い利率で食べ物を貸し付けていました。弟子たちも貧しい人の集まりでしたからこの話を、借金をしている者の立場になって聞いたはずです。想像を働かせるなら、この管理人は普段から借金で困っている人に心を痛め、利子を勝手に書き換えていたのかもしれません。あまりにも金利が高いから、勝手に書き換えて、不正に利子を下げて、貧しい人を守っていたのです。彼の不正、それは搾取されたお金を勝手に庶民にばらまくことでした。それは金持ちからすれば当然不正です。だから不正な管理人なのです。
しかしイエス様はこの管理人を誉めました。それはお金は貧しい人のために使えということ、不正に集められた富を、そのまま集めた人に遣わせるなということです。不正に集められた富は困っている人にばらまこう。それが神様が喜ばれることだというのがイエス様のメッセージなのではないでしょうか。イエス様は不正に集められた富を、しっかりと困った人に分配してくれる人を信頼し、誉めます。金持ちに忠実に借金を集めるのではなく、神に忠実に貧しい人に分配する、その管理人をイエス様は信頼されるのです。
私たちの世界でもそれが起こるように切に望みます。そしてこのあと主の晩餐を行います。私たちはひとつのパンを等しく分かち合い、共に生きる事を覚えます。その神の促しを覚えて、この時をいただきましょう

「駆け寄って下さる神」ルカによる福音書15章11節-32節

聖書でもっとも有名な物語のひとつ「放蕩息子のたとえ」。この話はいくつかの視点で読むことができます。ひとつは弟の立場からの読み方でしょう。聖書を読む者自身の人生、身勝手な自分の人生、そして悔い改めと重ね合わせて読まれてきました。もう一つの視点は兄に立った読み方です。兄はまじめに父親に従い続けました。兄は父親が不真面目な弟を大歓迎することを理解できず、その恵みに納得がいかなかったのです。失敗した人を受け止める寛容さが読まれてきました。
しかし父親に注目をしてこの話を読み取りたいと思います。なぜならこの話において父親とは神様の事であり、子ども達が私たちのことだからです。イエス様はこの話によって、神様がどんな方であるかを、私たちに伝えようとしています。神様の無条件の愛、一方的な愛、そしてその愛の中で私たちがどのように生きるのかという問いが投げかけられているのです。
神様は、私たちを見て、私たちが遠くにいるのを見つけて、駆け寄って下さるお方です。私たちが見えるかどうかは関係ありません。神様の方から、見つけ、走り、抱きしめて下さるのです。神様は私たちに、悔い改めを条件にして愛するというお方ではありません。まず先に私たちを愛してくださる、命を、その存在を喜んでくださる、それが神様なのです。
神様が駆け寄って下さるのは、その人が真面目だったとか、正しいことをしてきたとか、そういった事とは関係ありません。神様は、どんな人にも、神様から走って、出かけて行って、歓迎と、励ましを下さるお方です。父親は不真面目で失敗した弟に駆け寄りました。そして、それに納得できない兄にも家から出て励ましに行きました。そのように神様は、あなたに、私に、あの人に無条件で、神様の側から、私たちの目の前に現れて下さるのです。
そして神の分け隔てのない神の愛の只中で兄弟の対立が描かれます。兄弟とは私たちのこと、私たちの世界のことです。この二人の性格は真逆です。共通点はほとんどありません。でも一番大きな共通点は、同じ人を父に持つということです。それは唯一、最も大切な共通点です。
私たちも違いだけではなく共通点に目を向けたいと思います。それは神様がすべての人を愛してくださるということです。私たちの神様は、信仰の有無さえ条件とせず、すべての人に駆け寄り、抱きしめて下さる神様です。それによって、私たちは問われます。どうやって隣人と共に生きるかということを問われます。どうやって異なる人と一緒に生きるかということです。神様はすでに、異なる他者を歓迎し、受け止め、愛しておられます。にもかかわらず、私たちはお互いに何かの条件を付けて愛そう、受け入れようとするのでしょうか。今神様がそうしてくださるように、その存在、命を喜ぶ、共に神様が駆け寄ってくださる大切な存在として喜び合う、そんな共同体に、私たちはなりたいと思うのです。

「弱さを受け入れる」ルカによる福音書9章48節

聖書にはいろいろな場面で子供が登場しますが、2000年前の子どもの命を取り巻く状況は現代の私たちとは大きく違いました。ニコニコしてかわいくて、純粋な存在であるよりも、まず「最も弱い存在」でした。子どもは社会の中で肉体的にも、社会的な地位の上でも、最も弱い存在、最も小さい存在でした。現代において子どもの環境は大きく変わりましたが、弱くて、小さな存在を受け入れることは、なお私たちに必要とされていることです。
平塚教会が弱くて小さな存在、子供たちを受け入れる具体的な働きが「子どもプロジェクト」です。教会は弱い存在を特別に受け入れる場所です。教会は大きくなくていい、小さくていいのです。教会は強くなくていい、弱くていいのです。なぜなら弱くて小さい人たちが集まる場所だからです。教会は、弱くて小さくて、神様の助けが必要と思う人の集まりです。誰かの助けと祈りが無くては生きていけない、子どものような集まりです。だから私は思います。教会には弱い人が集まれ。教会には小さい人集まれ。教会には差別されている人集まれ。教会には居場所無い人集まれ。
そして教会が「この子どもを受け入れなさい」という言葉を聞くとき、外側への関わりだけではなく、私たちの内側にも向き合わされます。それは教会の中で、集うお互いの弱さを受け入れなければいけないということです。他者の弱さを受け入れていく、そしてもちろん自分も、強がらないで弱さを正直に表し、受け入れてもらわなければいけないのです。
私たちは自分の弱さ、お互いの弱さを受け入れる、弱さを持った人を受け入れることが難しいと感じる時があります。しかし聖書は弱い者を受け入れることは、イエス様を受け入れること、そしてイエス様を受け入れるとは神様を受け入れることなのだと言います。
イエス様の十字架をよく見て下さい。それは勝利、強さではありません。神様の子どもが拷問されて死ぬ瞬間です。神様の子どもがもっとも弱い姿になられたのが十字架です。弱いまま、何もできないまま、死んでいきました。弱さと屈辱を受け入れて、死んでいったのです。なんと弱い姿でしょうか。みなさんは、こんな神様の姿を受け入れられるでしょうか?
弱い神の子の姿、十字架を受け入れることは本当に難しいのです。そして、私たちは子どもや他者や自分の弱さを受け入れるのも難しいのです。でも私たちは不思議な力によって、この神の弱さ、十字架を受け入れることが出来るようになります。そのときはじめて私たちは、小さな存在、お互いの弱さを受け入れられるようになるのです。
私たちは今日確認したいのです。なによりも神様が、弱さを受け入れるお方だということです。そして私たちは、神様の弱さを受け入れるとき、つまり十字架を受け入れる時、本当に弱き者、小さき者を受け入れることができる、他者の、自分の、弱さを受け入れることができるのです。

「名誉よりも謙遜」ルカによる福音書14章7節ー14節

今日のイエス様のお話は「たとえ話」です。礼儀作法の話ではありません。このたとえ話は招待した人が神、招待された客が私たちです。神様が私たちを招いてくださいました。神様に招かれた人々はこれから楽しい時がはじまります。しかし、神様に招かれた人々が始めたのは、どちらが神様の前に正しいか、どちらが信仰深いか、そうお互いを評価しあうということでした。
そこに招待した主人である神様が現れます。自分が正しいと思う者、自分が信仰深いと思う者を末席に行かせ、自分は神様の前に、過ちの多い者、信仰の薄い者であるという者に「さあ、もっと近くに来なさい」と神様は言います。11節、神様の前で「高ぶる者は低くされる、へりくだる者は高くされる。」のです。神様は自分の欠けや、弱さを認める者に「もっと近くに来なさい」とおっしゃるお方です。
そしてこの話、23節から二つ目のたとえ話が続きます。イエス様はこのたとえ話で見返りを目当てにしないで愛しなさいと教えます。
見返りを求めない、それは難しいことです。こんなに愛しているのに、愛されないということです。こんなに優しくしているのに、優しくされないということです。こんなに我慢しているのに、ちっとも我慢してくれない。こんなに一生懸命なのに、ありがとうの一言もないということです。
お互いに励まし合い、愛し合い、ありがとうと言い合う関係を大事にしましょう。そしてもし誰かからの優しさ、愛に気づいたら精一杯感謝と愛を伝えたいと思うのです。神様からの愛に気づいたら、隣人からの愛とやさしさに気づいたら、精一杯感謝を伝えましょう。
しかし神様はお返しがあっても、無くてもすべての人に恵みをあたえてくださるお方です。神様は見返りを求めずに、私たちを愛して下さっています。それが神様の愛、無償の愛です。だから私たちも見返りを求めずに、愛し合って生きなさいというのが、この教えです。私にもそういう愛が欲しいです。無私の愛。愛が帰ってこなくてもそれでも愛す神様の愛が欲しいです。
後ほど敬老祝福祈祷をします。今日までのお返しできない大きな恵み、祝福に感謝して、感謝の祈りをささげます。そしてこれからもその恵みと祝福があるように祈ります。そして神様は、13節、体が不自由になっても、私たちが歩けなくなっても、目が見えなくなっても、私たちを招き続けて下さいます。神様がこの礼拝に招き続けて下さるのです。
礼拝は神様の恵みの大きさを知り、感謝をするときです。私ではなく、神様に栄光がある。その謙虚さを証しし続ける時です。続けられる限り、礼拝に集いましょう。それが私たちにできる神様への本当に小さな、お返しです。一緒に神様の前で自分の小ささを知り、へりくだり、謙虚になって、神様に感謝する、その礼拝の時をこれからもいただきましょう。そして集まった人々の愛と優しさを知り、互いに愛し合い感謝し合ってゆきましょう。

「自分の事として聞く」ルカによる福音書14章1節―6節

多くの親はどんなに他の子どもがかわいくても、自分の子どもは特別にかわいいという気持ちをもちます。「やっぱりうちの子が一番大切」と思うのです。もちろん、それは他の子どもがどうでもいいということでは、ありません。私自身、子どもが生まれて敏感になったこともあります。それは他の子どもが事件や事故に巻き込まれるニュースをつらくて見ていられなくなってしまいました。もしこれが自分の子どもが巻き込まれたらと思うと、つらくて最後までニュースを見ることができません。
もしある出来事が、自分の子どもに起きた事だったらどうするか?あるは自分の家族のこと、自分のことだったらどうするか?それはイエス様が私たちに投げかけた問いです。イエス様は5節でこのように言います「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」
イエス様が言うのは、自分の子どもの事として考えてごらん、自分の家族のこととして考えてごらん、自分のこととして考えてごらん、イエス様はそう言うのです。あの人の事を自分の事のように感じてごらん。それが今日私たちに教えようとしていることです。
しかしこの食事にいた人たちは、6節「これに対して答えることができなかった」とあります。「助けます」という答え以外は無いはずです。なぜそれが答えられないのでしょうか。もしかして、彼らは癒すということ、自分の事として考えたことがなかったのではないでしょうか?自分とは関係ない遠くで起きている事として、他人に起きた事とみていたのかもしれません。
この食事にいた人たちは実は律法解釈の議論はするけれども、目の前にいる病を患っている人には、まるで他人です。障がいについて治すか、治さないかの議論ばかりで、それに関わろうとしません。自分の事として考えないのです。口ばかりの議論で、他人事で、行動は伴いません。そして当事者の前では無言です。イエス様はその彼らに自分のこととして考えてごらんと言います。自分の事として向き合ってごらんと言っています。
きっとイエス様は自分の事としてとらえる、そのことを「愛」といったのではないでしょうか。私たちの社会もそうありたいのです。私たちの教会もそうありたいのです。事柄を他者のこととしてではなく、自分事として考える、そんな共同体でありたいのです。相手が、どんな状況か、どんな気持ちか、想像する、家族のような思いを持って、愛を持って考え合ってゆくそんな群れでありたいのです。
もちろんみ言葉も同じです。今日このみ言葉は、教会の中の誰かについて語られている事ではなく、あなた自身、自分自身に語られていると受け取る、そんな共同体でありたいのです。み言葉の前にあの人はどう立つかではなく、私がどう立つかを考えてみ言葉を聞きたいのです。

「子供のように待つ」ルカによる福音書12章35節-48節

聖書は私たちに、神様を「帯を締めて待つ」「ランプを付けて待つ」「目を覚まして待つ」、このように待つようにと教えています。もちろんこれはたとえです。私たちの待つ姿勢について語っています。慌ただしい現実の私たちに、神が現れると期待する、それを待つ姿勢を教えているのです。
神様を待ち望むこと、それは子どもが母親を待つ、留守番をするときの様子に似ているのではないかと思います。子どもは留守番の最中、時計を何度も確認するように親の帰りをずっと待ちます。そして帰ってくると玄関に向かって走って迎えに行くのです。
大人になると気づくのですが、子どもが留守番をした時に一番うれしいこと、それは子どもが言いつけを全部守ることではありません。それよりももっと嬉しいことは、親である自分のことを待っていてくれた、駆け寄って来てくれたということではないでしょうか。「お帰り、すごく待っていたよ」ということが、親にとって一番うれしい事、神様にとって一番うれしい事です。
私たちが神様を待つ時に大切なこと、それは帯を締める事やランプをともすことではありません。神様を待つとは、何か物事の準備をすることだけではありません。神様がもっとも喜ばれるのは、待つ心です。神様を早く自分のもとに迎えたいという、待ち望む心がもっとも喜ばれるのです。
私たちの教会として、待ち望むとはどんなことでしょうか。教会という共同体が神様を待ち望む、心に迎えることを待ち望むということはどんなことでしょうか。教会にはいろいろなプログラムや奉仕があり、その準備を大切にします。奉仕が「帯」を締めるように、しっかりと準備されている事は大事なことです。でも物事の準備よりももっと大切なことがあるのです。それは神様を待つ、心に招く姿勢だと思うのです。私たちは準備や奉仕、結果やプロセスも大事にしますが、神様を心に迎える時を待つ、何よりもそのことを大切にしたいのです。
聖書は待つ姿勢において、悪い例も挙げています。それは主人の帰りが遅い、つまり神はもういないと思って、人を殴って、自分だけが食べる姿です。神がいない世界は、愛のない世界です。そこには、お互いを認め合うということはありません。奪い合い、傷つけ合いながら、互いを否定し合って、自分だけが生き残る世界です。それが聖書に挙げられる最も悲しい世界です。
しかし私たちは違います。私たちはこの後、主の晩餐をもちます。私たちはパンを皆で分かちあう、共に食べる礼典を行います。私たちは共に同じ主を待ち望む者として、このパンと杯をいただきます。私たちはお互いを否定し合うのではなく、一致して、愛し合い、このパンを食べるのです。私たちは互いに愛し合いながら、主を待ち、この主の晩餐を持ちます。
私たちが完全に一つにされる時、キリストの約束の時を、親を待つ子どものように、待ち望みたいのです。

「お祈りしています」

日付 聖書個所 宣教題
4月7日 ルカ22:14-30 今日から始まる
4月14日 ルカ22:39-53 私たちのリーダーはイエス
4月21日 ルカ24:1-12 思い出してごらん
4月28日 ルカ24:13-35 旅は道連れ
5月5日 ルカ24:36-43 きのう何食べた?
5月12日 ルカ8:1-3 みんなちがって みんなでひとつ
5月19日 ルカ8:26-39 癒しと自由の神
5月26日 ルカ7:1-10 神の言葉は必ず実現する
6月2日 使徒1:1-11 教会は一緒に祈る
6月9日 使徒2:1-11 教会は対話する
6月16日 使徒2:14-36 教会は挑戦する
6月23日 使徒2:37-47 教会はパンを裂く
6月30日 使徒4:5-20 教会は権力に抵抗する
7月7日 イザヤ60:14-22 シャロームは丸
7月14日 エレミヤ33:6-18 空襲とキリスト教
7月21日 イザヤ32:15-20 正義はまっすぐ
7月28日 出エジプト22:20-26 外国人がシャロームに
8月4日 ローマ12:9-21 私たちの勝利
8月11日 コロサイ3:11-15 愛の絆による平和
8月18日 エフェソ2:14-16 和解の希望


今日は夏期休暇をいただきます。他の教会の礼拝に出席をしますが、平塚教会の礼拝・宣教を覚えてお祈りをしています。休みの期間、今までの20回の宣教を振り返っています。聖書個所・宣教題は以上の通りです。皆さんの中に印象に残っているものがあるでしょうか?
牧師は毎週の宣教の働きを、教会から委託されています。今日はお休みをいただきその委託を解かれていますが、特に今日の宣教のために祈っています。そして宣教のために祈るということについても改めて考えています。
宣教は個人の働きではなく教会の働きです。私たちはそれを誰かに「任せきり」にしません。そして宣教者もそれを個人のものとしません。教会は「委託」しつつ、宣教の働きのために「祈る」ことを大切にします。宣教者も共同体の一人として「共に」み言葉に「聞く」ことを大切にします。今日も平塚教会の宣教が「祈り」の中に持たれますように。宣教者を含めた全員でみ言葉を「聞く」礼拝が持てますように、お祈りしています。(平野健治)

「和解の希望」エフェソの信徒への手紙2章14節ー16節

東アフリカのルワンダに生きる二人の女性は「大虐殺の被害者」と「加害者の妻」という関係でした。しかし教会で行われた和解のプログラムでの出会いをきっかけに、和解が始まります。その女性達は、被害者が夫を殺されたことの悲しみを分かち合いました。そしてその後、被害者の女性が加害者である夫が刑務所に入っていることの寂しさ悲しみを分かち合いました。女性達は、立場は違っても同じように生活が困窮し、悲しみの中にありました。
和解のプログラムの中で徐々に二人の間には共感が生まれてきました。最初は目も合わせない人々が、教会での出会い、十字架の前での出会いによって、お互いがお互いの痛み、傷を見ました。そしてお互いの人間性に気づき始めたのです。本当に少しづつゆっくりと和解が始まりました。
佐々木和之さんを支援する会の会報「ウブムエ(日本語で一致という意味)」によれば、先日ある被害者の女性が、加害者の妻である女性達と、仲間になった、その連帯の印として、一緒に加害者のいる刑務所を訪問するということが行われたそうです。それは被害者の方から加害者に会いに行くという出来事でした。被害者にとって大きな心理的な壁、障壁でした。しかしその刑務所の壁を越えていくことで被害者の女性は、連帯と友情と和解を示したのです。彼女たちはまた一歩和解へ、シャロームへと近づいています。彼女たちは別の刑務所の訪問も計画しています。25年前殺す者、殺される者、敵同士であった人々が、今は友となり、共に支え合って生きているのはまさに奇跡としかいいようがありません。
聖書によればみ言葉は二人を一つにするとあります。イエス・キリストは、双方を、被害者と加害者の双方をご自分において、ひとつにするお方です。分断を壊し、憎しみの壁を壊し、一つにするのです。そして新しい人に、新しい関係にもう一度作り直すのです。このようにして、私たちはイエス・キリストによって平和を、和解を実現するのです。敵同士であった彼女たちは、今お互いが今日の食事をとることが出来ているか、お金は足りているか、互いを気遣い合い、心配し合い、分かち合う関係になっています。
私たち一人ひとりにも和解が難しいと思う相手はいるでしょうか。うまくやっていくのが難しいと思う人がいるでしょうか。そんな時私達はもう一度、十字架の前に進みたいのです。それは、イエス・キリストの痛みを知る、相手の痛みを知るために進むのです。そこで憎しみの相手の人間性に気付くのです。十字架の前で必ず、お互いの痛みと人間性に気づかされるはずです。十字架の前ならば、その人と必ずひとつになることができるのです。
十字架による和解、それは壁を乗り越えて、痛みを十字架の前に持ち寄ることから始まります。互いの痛みを知ることで、相手の人間性に気付き、憎しみを持っていた人が互いにひとつになってゆく、それが神の和解です。
14節をもう一度読みましょう「実にキリストは私たちの平和であります」

「愛の絆による平和」コロサイ信徒への手紙3章11節ー15節

ある人は平和を作りだすために大切なのは、普段の関係だと言います。普段その国と仲良くしていれば、問題が起きたとしても、戦争にはならない、平和を守ることができると言います。それは事実だと思いますし、日本もいろいろな方法で交流をしています。例えば経済的な結びつきを強める、人の行き来を自由にする、互いの文化を紹介する。そのことは日頃の結びつきを強め、平和を守ることにつながります。文化や経済、交流によってつながることで、多少の問題が起きても、戦争に発展することは少なくなります。
でも私はそれにも限界があると最近感じています。今の日本と韓国の状況をみると、課題に直面する時、経済的な結びつきは当てになりません。今まで音楽や、人の行き来、経済でこれだけの交流があったのに、それが崩れてしまいそうなのです。それは私たち一人ひとりにも置き換えることができる出来事かもしれません。私たちも一人ひとりが色々な関係で結びついています。その関係があれば問題の解決がしやすくなります。しかしそれにも限界があるということを知っています。
もしかすると、問題が起きたとき、当事者同士の今までの関係が、どのような関係であったのかが問われているのかもしれません。大きな課題が起きたとき、知恵と力を合わせて解決をできる、そんな関係かどうか。それとも、仲が良いように見えても、課題が起きた肝心なときに、そのつながりが破れてしまう。聞き合うことができるか、問題が解決できる関係なのかどうか、それが試されているのだと思うのです。
課題に向き合う時、愛以外の絆はほどけてしまうでしょう。人間の結びつきは簡単にほどけてしまうでしょう。もし私たちの教会が愛以外の絆でつながれているのであれば、私たちもすぐにほどけ、バラバラになってしまうでしょう。でも愛の絆であれば、課題に向き合う時にこそ、ほどけてしまいそうな時こそ、神様によって、強く、堅くされるのです。
神様が与えて下さる愛の絆によって、私たちは招かれ、一つにされます。お互いに不満があっても、神様がそれぞれを愛してくださっているように、理解し合うことを諦めないで、赦しあって、つながっていたいのです。
私たちの関係は、神様の愛が結び付けてくださる関係です。教会の私たち、そして世界の国々が、神の愛によって、ひとつにされてゆくように祈りましょう。愛の絆は、私たちと世界を必ず一致させ、未来に進ませるからです。
教会にもいろいろな関係が生まれます。でもお互いを大切にする、神様の愛でつながって行こうと思うのです。そして一緒に愛の絆で乗り越えようと思うのです。平和に招かれている私たちは、愛の絆でその道を歩みましょう。そしてそれは教会だけではなくて、家族や世界にも広がっていくのです。
愛とは平和への絆です。私たちには神様との愛の絆、隣人との愛の絆があります。愛は私たちに必ず平和を与える絆なのです。

「私たちの勝利」ローマ信徒への手紙12章9節ー21節

74年前の夏、日本は戦争に負けました。戦争に負けて私たちは平和の大切さに気付きました。もう絶対に戦争をしないということを誓ったのです。その決意は憲法に記されました。私はこの憲法の前文が好きです。焼野原の日本の平和への決意がこの前文には詰まっています。「日本国民は…平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」とあります。私たちは軍事力ではなく、公正と信義、世界の国々との信頼関係によって、平和を保つということを決意したのです。
日本は戦争に負けました。しかし日本は「平和への決意」を勝ち取ったのです。そして日本は74年間、その勝利を続けています。74年間一度も直接的に戦争をすることはありませんでした。核兵器を持たずにここまで来ました。私たちは74年間勝利を続けています。私たちは憎しみと暴力を連鎖させず、断ち切ることができました。敵意を信頼関係に変えようと、努力をしてきたのです。
今日の聖書個所は、まさに私たちの敗戦記念日にふさわしい言葉だと思うのです。そしてこの個所は、私たちの敗戦後に定めた憲法の精神とも重なると私は思います。今日の個所でパウロは「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言います。
迫害、それは暴力によって、人の自由を奪うことです。しかし、聖書はそのように、暴力で私たちの自由を奪う者に、暴力を持って抵抗せよとは言いません。むしろ聖書は驚くべきことに、その人のために「祝福を祈れ」と言います。暴力に我慢しながら神の天罰を願うのは呪いの祈りです。あなたを迫害する者のために祝福を祈る、共に泣く、共に喜ぶ、すべての人に等しく善を行う、敵意を信頼関係に変えよというのが聖書の教えです。
これは世界各国と日本の間だけの話に留まりません。私たち一人ひとりの関係も同じです。神様は私たち一人ひとりの間に平和を求めておられます。
聖書は互いに憎しみ合っていたとしても、空腹の人と一緒に食べ、渇いた人と一緒に飲み、身分の違う人と一緒に食べる、相手を自分より優れた人として、一緒に食べることを求めておられます。その食事は愛の食事です。敵意を乗り越えて、お互いの信頼関係を確認し合う食事、その勝利を神様は求めておられます。
私たちは今日、主の晩餐を持ちます。礼拝の中にある食事も、そんな主の晩餐にしませんか。私たちの世界に平和を生み出す食事にしませんか。私たちの生活にも様々な人間関係があり、傷つく事、傷つけてしまう事があります。でもいったん敵意を捨てて、愛を確認する、敵意を信頼関係に変える食事、主の晩餐を持ちたいのです。

「外国人がシャロームに」出エジプト記22章20節ー26節

私たちの身近にはたくさんの不公平があります。私がそれを強く感じるのは外国人の権利、とりわけ外国人技能実習制度についてです。この技能実習制度は人権侵害の温床になり、現代の奴隷制度とさえ呼ばれます。たとえば、ある農業(野菜の収穫)の実習のケースです。彼の給料は月5万円。残業は時給300円です。休日は無く、毎日10時間以上の労働、外出禁止、携帯電話の所有禁止、外部との接触禁止、パスポートの取り上げなどが行われていました。日本の法律や、人権を守るすべを知らないまま数年間、物のように扱われ、酷使され、自分の国へと帰っていきます。
これは私たちに身近な、不公平です。不公平な、安い労働力によって、安い野菜や服が作られています。そしてそれは私たちが安く買っているのです。彼らのうめき声が聞こえています。彼らは守られず、酷使され、捨てられてゆくのです。このような不公平は、必ず敵意を生み出します。
今、外国人のシャロームを願って、キリスト教の中でこの問題に関わる人が増えています。そして外国人である彼らが、社会の歪みを私たちによく教えてくれるのです。外国人が私たちをシャロームにしてくれるのです。
聖書によればイスラエルの人々はかつてエジプトで、奴隷であり、外国人労働者でした。彼らは休みなく、苛酷な労働を強いられて、酷使されました。ファラオは彼らを安い労働力として徹底的に使い捨てにしようとします。そして自分にとって都合の良い労働力だけを、生きてよい存在としました。
彼らはその苦しみの中でうめき声をあげていました。仕事がきつい。ただの労働力としてしか見られないという公平を願う叫びが起きました。今の日本で技能実習生から聞こえる叫びと同じです。
神様はその叫びを必ず聞き、痛みをよく知って下さるお方です。神様はそのような民に深く心を寄せます。神様は不当な重労働と、人権侵害を放っておかれません。必ず解放するお方です。神様はシャロームを実現されるお方です。社会の中で押し込められた部分を押し上げ、高い部分を低くするお方です。神様はシャロームの逆転現象を起こしてくださるのです。苦難を負う人々の叫ぶ声を、神様は必ず聞いておられます。
だからこそ私たちもその苦難の叫びに耳を傾けてゆきたいのです。そして神様に向けて苦難の中にある人と一緒に叫びたいのです。神が心を寄せる人々と一緒に、神が語りかける外国人の彼らと一緒に福音を聞きたいのです。寄留者である彼らの側、彼らから福音を聞きたいのです。
外国人がシャロームになるということは、彼らだけではなく、多くの生活困窮者にシャロームを広げてゆくことになります。シャロームの体験は、その後に自分達の身近な、日常のシャロームにむけて広がってゆくのです。
私たちはシャロームの丸の歪んだ底にある苦難、十字架から世界を見たいのです。シャロームはそこから世界に広がるのです。

「正義はまっすぐ」イザヤ書32章15節ー20節

公平であるということは、本当に難しいことだと思います。私がそれを一番感じたのは東日本大震災の時でした。震災後まだがれきの残る石巻市を、食べ物を車に積み、被災された方々に配布する場所に向かいました。
長い列ができ、足りるかどうか心配になりました。ある方が「家族が4人なので4人分欲しい」と言われました。私は4人分渡しました。そうすると、後ろの方から大きな声が聞こえました「それで最後の人の分まであるんでしょうね?」私は、その言葉に固まりました。足りるかどうか分かりません。私たちはそこからまた、一人1人分ということで配り始めました。しかし配っていると、繰り返し「家族の分が欲しい」という方が、来るのです。私たちはそれをお断りし、支援の食糧をお詫びしながら、配りました。その方たちはとても不満そうな顔をされていました。そしてそこで私は公平に配ること、公平であるということの難しさを実感したのです。いま考えても、どうしたら公平だったのか、まだ分かりません。
私たち人間はなるべく公平な基準を作ろうと努力します。しかしそれは本当に、いつも不公平な基準であると思うのです。公平ということは本当に難しいと思うのです。そしてその問いを受けるごとに、いつも何が公平なのだろうか、わからなくなるのです。
聖書の平和、シャロームは丸。公平である様子です。そのシャロームを作り出す、源とは何でしょうか。今日の個所よれば17節、平和は正義が作り出すとあります。正義が平和を作り出すのです。聖書の正義とはもともと、「まっすぐ」という意味の言葉です。まっすぐである、曲がりが無いという言葉が、転じて正義が行われるという言葉になりました。
しかし人間にはいつも「まっすぐ」がわからなくなります。私たちはどうしても、完全に公平なルールを作ることが出来ません。まっすぐでいられません。歪んだ基準で、人間の歪んだ物差しで、測ってしまうのです。本当の公平、つまり正義をご存知なのは、神様だけでしょう。
でも私たち人間にはわからないと諦めるのではありません。私たちは何とかそれに基準を合わせようと、近づこうとします。まっすぐであろうとします。私たちは必ず不完全である、でもだからこそ、完全な神を求め、神の正義を求め、まっすぐな神を求め、私たちの世界でどのように公平な社会を実現するかを神に求めるのです。シャロームを求めるのです。人間の力だけでは平和は実現しません。その源となる正義、まっすぐさが、私たちには足りないからです。でもあきらめずに一緒に目指してゆきたいと思うのです。
神様のまっすぐな正義を求める時、私たちは神様への信頼・信仰へと招かれてゆきます。そして私たちが一緒に神の正義を求める時、私たちの間にも豊かな信頼関係が生まれます。世界が手を取り合って、神の正義を求める時、私たちの間に信頼関係が生まれ、平和が訪れるのではないでしょうか。

「空襲とキリスト教」エレミヤ書33章6節―18節

1945年7月16日の夜、平塚市は大空襲に見舞われました。死者343人。焼夷弾42万本。住民一人当たり8発の焼夷弾が投下されました。まさに雨のように爆弾が降った夜でした。攻撃の目標は軍需工場だったと言われていました。しかし目標中心点は平塚市紅谷町の街角広場周辺でした。あの空襲は一般市民にむけて行われたのです。爆弾は市民に落とされたのです。
平塚の市民の多くは間接的に戦争に協力していました。戦争に協力したから、空爆されてもしょうがないのでしょうか?そんなことありません。ここに暮らしていたのは戦争に無理やり協力させられた市民です。子ども達が遠い場所から連れてこられ、工場で働かされました。そのような一般市民を対象にした爆撃、それは絶対に起きてはいけない、倫理上、許されない事です。
実は倫理上許されないこの無差別爆撃を日本はアメリカより先に、中国に向けて繰り返し行っていました。中国の奥地、重慶まで繰り返し空爆を行い、日本は市民虐殺を繰り返したのです。平塚が空襲を受け、多くの人が亡くなった、傷ついたことを覚える時、私たち日本もまた、空襲によって多くの人の命を奪った、傷つけたということを覚えるのです。空爆はキリスト教の教えに反します。罪です。神様の創造に反する行為です。
では、どんな戦争ならしても良いでしょうか?私たちはこんな戦争はダメ、こんな戦争なら仕方ない、してもよい、そういう考えを捨てなくてはいけません。その根っこから、戦争に反対をしてゆく必要があります。軍人同士ならいいと始めた戦争でも、必ず市民虐殺が起こるからです。こちらに正義があるなら戦争していいという事も違います。それは世界中のテロリストがしていることです。自分で自分を正義と決めてテロを起こしています。
私は根っこから戦争に反対をしてゆく必要を感じます。それはあらゆる軍備・武器・基地・暴力に反対をすることです。すべての暴力とその準備がこの地上から取り去られていかなければシャロームは訪れないのです。
本日の聖書個所、廃墟でエレミヤは平和の約束を聞きました。「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。」と神様は私たちに約束をしてくださいました。まことの平和を約束して下さったのです。シャローム、それは羊飼いのイメージです。一匹の子羊が大切にされる、弱い者が大切にされる社会です。そしてもう一つは生け贄を献げるイメージ、それは私たちの礼拝です。平和の神を礼拝する、平和を求めて礼拝するイメージ、それがシャロームです。
私たちの地上に、神の平和がおとずれる時。それは社会の中で小さい者が守られる時、教会が平和を求めて礼拝を献げる時です。すべての軍隊、武器、抑圧が亡くなるように、教会は祈ってゆきましょう。具体的に働いていきましょう。私たちの街、平塚の町から、この礼拝からそれが拡がって行く、その約束に信頼し、礼拝を捧げましょう。

「シャロームとは丸」イザヤ書60章14節―20節

「教会は権力に抵抗する」使徒言行録4章5節―20節

世界報道自由度ランキング、日本は67位、先進7か国の中で最低です。日本は「国民が正確な情報を知らされていない国」です。原因は安倍政権の報道に対する姿勢、閉鎖的な記者クラブ制度、政府に批判的な報道に対する人々の嫌がらせなどだそうです(https://rsf.org/en 国境なき記者団より)。
私たちも実感がある事ではないでしょうか。森友問題を追及していたジャーナリストは会社を解雇されました。菅官房長官は特定の新聞記者の質問に答えないという姿勢を取っています。さらに今国会は異常事態です。国の予算を議論する予算委員会は与党の審議拒否によって4か月も開かれていません。野党からの追求がテレビ中継されると政権の支持率が下がるからと言われています。皆さんは今、報道の自由が守られていない国に住んでいます。いつの時代も権力は情報をコントロールしようとするのです。
そして私たちは教会の中の権力にも注意します。牧師に黙って従うのではなく、しっかりと自分の考えを表明します。バプテスト教会が民主的であることは、教会の内側にある権力にも抵抗してきたということです。私たちは教会の中でも誰かや、何かの権力や権威で物事が動いてないか、注意をします。私たちは「協働」を大切にするということを選び続けています。就任式でもそれを大切にします。
隅の親石。それは家を建てる時、一番最初に置く石の事です。それは土台になります。その石を置くということは、建物の場所と方角、広さ、役割を決める意味を持ちます。つまりこの石がすべての基準となるのです。
私たちは人がいらないという石を拾い上げ、隅の親石とします。人々から捨てられ、追いやられ、十字架にかけられ殺され、それは語るなと言われた、あのイエス・キリストを隅の親石としているのです。これが私たちの基準です。イエス・キリストが私たちの一丁目一番地、出発点であり、基準であり、土台であり、方向を指し示すものなのです。
地上とイエスの基準は違います。捨てられた基準です。だからこそイエス・キリストの基準で語られる言葉は、地上の権威に抵抗する言葉となります。だからこそ他にも社会の中で捨てられた者、追いやられた者、語るなと言われた者がいれば、その声を聞き、共に歩むのです。教会が聖霊を受けた時、地上の権威への抵抗と捨てられた者と共に歩むことが始まるのです。
私たちは社会の権力に目を向け、イエス・キリストの基準で語ります。それは抵抗の言葉です。そして私たち自身もいつもその基準を確認したいのです。私たち自身の教会の中に、地上の権威が、キリスト以外の基準で動く何かが無いか確認をしたいのです。教会は権力に抵抗します。社会の中にある権力に、そして自分たちの中にある権力に抵抗をするのです。

「教会はパンを裂く」使徒言行録2章37節ー47節

先日、家族の誕生日パーティーでホールケーキ🎂を買って食べました。ケーキを切り分けるのはいつも私が担当しています。なかなか上手に切れないものです。きれいに分けられなかったケーキを見て、大きいケーキを買ってくるよりも、一つずつに分かれているケーキ、いろいろな味のものを買ってきて、みんなが自分の好きなケーキを食べる方が、いいのではないかと考えました。でもやはりパーティーでは、あの丸い、ホールケーキが買いたくなります。やっぱり大きいケーキをみんなで取り分けるというのが、お祝いにふさわしく、楽しいと感じるのです。
パーティーでホールケーキを食べる意味は、二つあると思います。ひとつはお祝いにするという意味です。バラバラではお祝いになりません。そしてもうひとつの意味は“ホール(すべて)”ケーキを“全員(すべて)”で切り分けて食べること、そこでパーティーの参加者に一体感が生まれるという意味です。そこには主役との関係と、参加者との関係が二つの意味があります。
聖書でパンを裂くと言う場合、それはまず「主の晩餐」を意味します。しかしそれは私たちの小さなパンと小さな杯ではありません。最初期の教会の「主の晩餐」とは食事そのものでした。つまりお腹いっぱいになる、食事をしたのです。今でいうなら、愛餐会、持ち寄りパーティーです。
私たちの主の晩餐にはイエス様との食事を思い出すという意味があります。その食事の中心におられる主役はイエス様です。私たちはイエス様が私たちに教えて下さった事を思い出しながら、それを食べます。イエス様と自分のつながり、縦の関係を思い起こすのです。
そして「主の晩餐」は隣人と共にあることを思い出すという意味も持ちます。イエス様との食事はいつも隣人との関係を考えさせるものであったからです。だから主の晩餐の度、隣人とのつながり、一体感を感じたのです。それは横の関係とも言えます。イエス様との縦の関係と、隣人との横の関係の両方を感じるのが主の晩餐なのです。
最初期の教会がそれを繰りかえしていると、さらに新しい分かち合いが始まりました。今度は食事だけではなく、様々な「もの」の分かち合いが始まったというのです。“すべて(ホール)”のものの分かち合いが始まったのです。さらにそれは周囲の人をも巻き込み始めました。その集まりを見た人たちが、一人、また一人とその輪の中に加わったのです。彼らのパン裂き、分かち合いの輪はどんどん広がっていきました。それは世界に、イエス様の愛と分かち合いを広げいったのです。
私たちも毎月第一主日にパンを裂きます。その意味は最初期の教会と変わりません。縦の関係と横の関係を感じながらいただくのです。そしてその分かち合いは必ず、それ以外の分かち合いも生みます。そしてそれは教会から世界に広がってゆくのです。だから教会はパンを裂き続けるのです

「教会は挑戦する」使徒言行録2章14節―24節

この教会は69年前、神奈川県で最初のバプテスト教会として誕生しました。当時、誰もこの地域でバプテストという言葉を聞いたことが無かったはずです。平塚教会の宣教も始めはペテロの宣教のように「酔っ払い」と評価されたでしょうか。しかし平塚に確かに新しい生き方を伝えたのです。それは本当に大きな挑戦でした。そして次はアメリカの南部バプテストの力も借りて、この礼拝堂を建てます。そして幼稚園を始めました。大野伝道所を作りました。牧師館を建てました。小田原伝道所を作りました。もちろんそれらの挑戦は役割を終えたものも多くありますが、69年間さまざまなことに挑戦を続け、その役割を全うさせてきました。そして最近ではこひつじ館を建てるという挑戦をしました。これも大きな挑戦です。そして新卒の牧師を迎える挑戦をしました。この教会は本当に69年間、慌ただしく、多すぎるほどの、たくさんの挑戦をしてきました。
どんな信徒の方たちがこの挑戦してきたのでしょうか。なんでもできる優秀な人材が集まっていたかというと、そうとは限らないでしょう。今教会に集う私たちと同じような人が、その挑戦をしていたと思うのです。
そして教会には変わらないものもあります。大切に変えないで来たものがあるのです。一番大切なのはイエス・キリスト。この方を中心とする礼拝を守り続けるということを一番大切にしてきました。
今日の個所はペテロの説教が記されています。ペテロは自分が三度否定していたものを、ある日突然、彼こそ神の子だった、彼こそ正しかった、彼こそキリストであったと、みんなの前で語り出すのです。彼にとってそれはどれほど大きな挑戦だったでしょうか。
ペテロは教会が始まるとどうなるか語ります。「若い者は幻を見る」つまり若い人が理想を描くようになるということです。お年寄りも「夢を見」ます。全員が夢と理想と未来を語りだすのです。それが教会なのです。教会は若者とお年寄りが一緒に祈り、一緒に夢や理想や希望を語り合う場所なのです。
その夢と幻を語らせるのは聖霊です。教会は聖霊の力によって夢と理想、希望を語ります。語られた夢や理想は、その次に必ず挑戦を産みます。語られた夢や理想の実現に向けて、必ず行動、挑戦が起こるのです。教会はいつも聖霊の力によって、夢や理想を語ってきました。そして語られた言葉を実現するために、いつも教会は挑戦をしてきたのです。
私たちいつも挑戦をしてきました。69年目からの歩みもそうするでしょう。そしていつもその背後にあったのは、語らせる聖霊の力です。そして私たちは変わることのないイエス・キリストの福音を宣べ伝えてきました。これからもそれを続けます。私たちは今、夢と希望をもって、新しい挑戦の中を歩んでいます。そして、これからも変わらずに福音を宣べ伝えてゆきます。聖霊の力が一人ひとりに働いて、それが起こされるのです。

「教会は対話する」使徒言行録 2章1節―11節

教会の言葉は難しいと言われることがあります。今日私たちはペンテコステ礼拝を持っていますが、「ペンテコステ」というこの言葉は教会で一番難しい言葉の一つです。「ペンテコステ」これはギリシャ語で五十番目という意味です。日本語ではこれを五旬祭と言います。旬は上旬・中旬・下旬といったように十を現わす文字です。五十日目のお祭りという意味で五旬祭と言うのです。ユダヤ教の人にとって一番大切なお祭りは過越祭というお祭りですが、そのお祭りから五十日後に、過越しの期間が終わるのを祝うお祭りが五旬祭でした。キリスト教では過越祭の日はイエス様の復活をお祝いするイースターとして祝っています。そして、その五十日後をペンテコステとして祝っています。私たちは、この日を聖霊が天から下って来て、教会の働き、宣教が始まった日として祝っています。しかしペンテコステという言葉一つで、これだけ説明をしなければいけないのですから、教会で使う言葉というのはやはり難しいのです。丁寧に、慎重に語りたいと感じています。
しかし今日の聖書個所を読んでいると、教会が始まった時、教会は大胆に語っています。そして教会の始まりの時、その言葉が通じあったと書いてあります。それはどんな変化だったのでしょうか。それは相手が私の言葉を理解できるように変えられた、のではありません。弟子たちの話す言葉が変わったのです。こちらの側が話す言葉が変わったのです。
私たちはどうしても、話がうまくかみ合わない時、理解されない時、相手に変わって欲しいと思いものです。しかしここはそうではありません。教会の側の言葉に変化が起きているのです。それは相手にとって、ふるさとの言葉のように、温かくて、懐かしくて、やさしい言葉に変わったのです。
 だから私たちは変わろう、相手の言葉に合わせようと頑張ります。しかし、もう一つ大切にしたいことがあります。聖書によれば、実はその変化は私たちの頑張りだけで起こるものではないと書いてあります。そこには一方的に注ぐ聖霊の力が必要なのです。聖霊の力が私たちに与えられる時、私たちは相手の言葉で、語るよう変えられます。聖霊がそこに導いてくれるのです。私たちがすべきこと、それは相手をよく理解すること、そして聖霊を私たちの心に招く事です。神様を心に招くことです。今何を話すべきか、どのように話すべきか、私自身を神様に明け渡して、満たしていただいて、神様の事を語るのです。
聖霊から、他者と対話してゆく力をいただきましょう。神の言葉は必ず世界に広がってゆきます。私たちはその対話の器とされていくのです。私たちに相手に伝わる言葉が与えられ、それが広がっていくのです。
教会は対話します。お互いが分からなくなった時も聖霊を祈り求め、対話を続けます。諦めません。私たちは必ず理解し合えるのです。聖霊を祈り求め、新しい言葉を求め、対話してゆきましょう。

「教会は一緒に祈る」使徒言行録1章1節-11節

Aさんは教会に来ると、一番に「祈りましょう」と私を誘います。私が玄関で他の人と挨拶をしていても、お構いなしです。こちらの事情はあまり考慮してくれません。私は「後で」と言おうかと思うのですが、教会は何よりも祈りが優先です。「忙しいから祈るのは後で」では、教会でなくなってしまいます。牧師ではなくなってしまいます。教会は祈ることを最優先にします。ですから、挨拶を中断してAさんと祈ります。いつもAさんは3つの祈りをしてほしいと挙げ、それを毎週一緒に祈っていました。ある時その祈りをしていて、私だけがAさんのために祈るのではなく、Aさんに私のこと、教会のことも祈って欲しいと思う様になりました。Aさんにお願いしたところ、教会がピカピカになることと、私の説教のために祈ってくれました。Aさんは私を励まし、説教へ送り出してくれました。
私はAさんとの祈りが終わると、玄関に戻り挨拶を再開します。でももしかすると、玄関で挨拶することよりも、祈祷室で1人ずつと祈り会うこと、そのこと方が牧師の仕事かもしれない。彼の方が牧師の働きをしているかもしれない、私はここで挨拶をしていていいのだろうかと迷うのです。私は迷いながら立っています。もし祈って欲しいということがあったら、どうぞ遠慮せず、声をかけて私の手を止めてください。もちろん私以外の人とも祈りあってゆきましょう。祈りの輪を広げてゆきましょう。
祈りの力、それは聖霊の力ともいえるでしょう。聖霊とは私たちに語らせるものです。聖霊とは私たちに祈らせるものです。聖霊が豊かに注ぐとき、私たちの間に祈りがあふれるのです。聖霊が豊かに注ぐとき、私と違う人、背景の全く異なる人、表現方法の違う人と祈るようになるのです。そして私たちはその聖霊を求め、また祈るのです。
今日の聖書の個所、弟子たちはイエス様の復活を40日間見て、聞いた最後の質問が記されます。残念ながらその質問は、自分達の民族の繁栄についての質問でした。イエス様は愛を教えたのに、弟子たちはやはり地上の力をイエス様に求めていたのです。しかし聖霊を受けると、人は変えられます。いままで交わりの無い、人生の経験も、苦労も、文化も、言葉も違う人と一緒に、互いに、祈るようにさせられるのです。それがイエス様が起こると約束した、聖霊の働きです。聖霊がバプテスマのように豊かに注がれて起きることです。聖霊の力、それは私たちにイエス・キリストを語らせる力です。聖霊の力、それは私たちを民族や文化や言葉や表現方法の違いを超えて、一緒に祈るものに変える力です。イエス様はその力を私たちに下さると約束してくださいました。それはすでにこの教会で始まっているではないですか。
今日私たちは主の晩餐の時を持ちます。聖書によれば、イエス様は食事をしていたとき、その約束をしたとあります。私たちもその約束を覚え、パンとぶどうの杯をいただきましょう。

「神様の言葉は必ず実現する」ルカによる福音書7章1節―10節

ときどき、久しぶりに礼拝に来ることができたという方で「今日はようやく礼拝に来れました」と喜びの表情を見せて出さる方がいます。その方は、なかなか行けないという事ではなくて、その日、その時、礼拝に来ることができた事にたくさんの感謝しておられます。うれしそうな顔を見て、なんだか励まされる思いがあります。礼拝に来れたか、来れないかは大事です。礼拝無しで神様を覚え続けるのは本当に難しいからです。だから礼拝に来ることは大事です。しかし、それぞれが精一杯、日々の生活の中で神様を信じていくということも、同じくらい大切なことです。礼拝に来れたとしても、また来れなかったとしても、一緒に神様を忘れない、神様に信頼する毎日を、共に大切にしたいのです。そしてもし礼拝に来ることができたら、それを喜びたい。久しぶりに来た方たちの笑顔を見て、そう教えてもらいました。
イエス様は、神様に信頼して生きる。そのことを本当に大切にされた方です。イエス様はその生涯全体を通じて、神様の言葉が必ず実現するという信頼を持つようにと伝えておられます。
百人隊長は神様の言葉が必ず実現するという強い信頼を持っていました。そしてそれを自分の姿、自分の軍隊に重ねました。百人隊長はたとえ命の危険がある命令でも絶対に部下をその命令に従わせてきました。自分でさえ、百人の部下に完全に命令を実行させていたのです。だから、ましてや神様の命令がこの地上で実現しないわけがない。神様の言葉は必ず実現する、その信頼を彼は持っていました。だから一言のことばだけで充分だったのです。
イエス様はこれに感心したとあります。イエス様が人間の信仰に感心するのは福音書全体を通じてこの1回だけです。「これほどの信仰は見たことがない」「イスラエルの中でさえ見ない」と驚くのです。
もちろんそれはたくさん献金して会堂建てたから誉めているのではありません。礼拝に通っているから誉められたのではありません。彼がよいとされたのは、彼の神様に信頼するという姿です。神様の言葉は必ず、地上に、そして自分に実現すると信頼する姿です。その信頼する姿を見て、イエス様がよしとされたのです。
世界には苦しみがあふれています、矛盾や不合理や戦争があふれています。私たちの生活の中でも苦しみや矛盾や、不合理があふれています。しかし聖書によれば、それは必ず終わる時が来る、その苦しみや矛盾や、不合理が終わる時、泣いている人が笑う時は必ず来る、いやすでに一部はもう来ている、聖書はそのように語ります。それが世界で、教会で、私の人生で起こるのです。神様の言葉は必ず実現する。それが私たちの希望です。
私はふさわしいと思う人、ふさわしくないと思う人、どちらもいるでしょう。しかし神様はすべての人に神様の言葉は実現すると言います。あなたにもそれは実現するのです。それに信頼をして歩みましょう。

「癒しと自由の神」ルカによる福音書8章26節ー39節

今日の聖書の個所では、悪霊に取りつかれていたという人が登場します。おそらく当時の人々は、心の病と悪霊とを分けませんでした。彼はおそらく心の病を持っていました。彼は鎖と足枷で拘束されました。彼は心の病気を抱えながらも、身体の自由が奪われるという二重の苦痛を受けなければなりませんでした。彼は監視もされました。誰かが助けてくれる、話を聞いてくれるという信頼。監視されるとはその信頼を奪ったのです。彼は人間らしく生きる条件、信頼・自由・希望・家族・名誉、すべてを奪われていたのです。
当時、ゲラサ地方はローマ帝国が支配していました。その支配とは、圧倒的な軍事力による支配でした。そのひとつの部隊、6000人の部隊の単位がレギオンと呼ばれていました。つまりローマの戦争と支配、軍事力の象徴が「レギオン(軍団)」だったのです。彼に取りついた悪霊は、自分の名前を戦争と支配と軍事力の象徴である「レギオン」と名のります。彼の心の病、それは「戦争」と「支配」と「暴力」に由来するものであったのでしょう。社会が戦争と支配と暴力にあふれ、彼の心は病んでいったのです。
ですから悪霊とは乗り移って病気を起こさせる者というだけではありません。戦争と支配と暴力の社会、抑圧の社会の中で生きなければならなかったこと、その圧迫こそが悪霊であったのです。それは社会全員がその圧迫を受けて、彼と同じ病気になる可能性があったということを示します。
イエス様はどのように、彼に関わったのでしょうか。人々は彼との接触を拒みました。かまわない、無視する、縛り付けるという態度でした。しかしイエス様はその彼と関わろうとするのです。舟にのって、み言葉を届けるために、嵐を超えてやってくるのです。そして逃げずに、名前を聞きます。孤独で取り残された彼との関係を作ります。そして、今何に苦しんでいるのか、何におびえ、何に支配されているのかを聞くのです。
イエス様は悪霊、支配しているものを追い出すお方です。癒して下さお方です。あなたを支配している力、あなたの本来の力を奪うものを追い出すのです。あなたを癒し、解放させ、自由にさせるのです。人々は縛り付け、足枷をはめます、しかしイエス様は解き放ち、自由になさるのです。
イエス様は今日、私たちにも、み言葉を届けてくださいます。解放の言葉を届けてくださいます。私たちも癒され、自由にされるのでしょうか。教会はあなたを癒し、自由にする力を神様から与えられています。みなさんは必ず神様に癒されます。イエス様があなたに出会い、そしてあなたは本来の姿に変えられてゆくのです。そして教会は人生の重荷を担っている方から逃げません。むしろその方に会いに行くのです。嵐のような日々の中でも、出会いに向かうのです。そして教会は誰も縛り付けません、誰にも足枷をはめません。教会はそれを取り払い、イエス様に出会って癒しと自由と解放をいただくのです。希望をいただくのです。教会はレギオンに負けないのです。

「みんなちがって みんなでひとつ」ルカによる福音書8章1節―3節

教会は同じ人が集まるのではなく、違う人があつまる場所です。同じになるのではなく、一色になるのではなく、一人ひとり、色とりどり、カラフルな集まりです。それが教会です。でもバラバラではない、カラフルな点が「ひとつ」の絵となるように、同じ神様を私たちは「ひとつ」になって礼拝をささげる、それが私たちの集いです。他の人と同じになる必要はありません。隣に座っている人と違っていいのです。違うのはお互い様なのです。あなたらしさを捨てる必要はないのです。押し付けられなくて良いのです、そして誰かに押し付けないで下さい。私たちは一人ひとり違うのです。
では私たちは何が同じなのでしょうか?それは今日ここにいるということです。それは、神様が集めて下さったということです。私たちお互いが、神様に呼び集められてここに集ったということです。神様がこの教会に違う一人ひとりを呼び集められたのです。だからこそ、あなたは違っていいし、あなたの隣の人も違っていいのです。神様は私と違う人を教会に集め、出会わせ、ひとつの共同体にしてくださるのです。
今日の聖書の三人の女性も大きな違いを持っています。一人目は七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアです。かつて彼女は人々から避けられる存在でした。癒されて共同体に入っても、かつて自分を気味悪がった人々がいたでしょう。でも彼女は一緒に従っていたのです。周囲も彼女の負っている過去を知っていました。でも彼女を受け入れていました。
二人目はヘロデの家令クザの妻ヨハナです。彼女は夫の上司のヘロデが快く思っていない人物、危険人物イエスに従った女性です。おそらく高い地位の夫からは猛反対されたでしょう。しかし反対を押し切って従います。
そして三人目は全く謎な女性です。名前しかわかりません。
この三人には、全く人生に共通点が無いように思います。一方は貧しくて病気で、人々から避けられ、癒しを体験しイエス様に従っている女性。もう一方はお金持ちで、おそらく何不自由のない生活を送っていたセレブ、でも家族に反対されても従っている女性です。そしてもう一人は謎の女性です。
出会うはずのない三人。出会ったとしても意見が一致するはずのない三人。経験、生い立ち、立場、考え方、表現方法も違ったでしょう。しかし、それでも聖書には三人の名前が並んで出てきます。神様はこれだけ違う三人を呼び集め、ひとつの共同体にしたのです。
イエス様は神の国を宣べ伝えたとあります。神の国、それはイエス様に従う共同体の中で、少しずつ実現されてゆきました。その共同体は違いを認め合って、もっと自分が自分らしくあれる共同体でした。神様は教会にいろいろな人をあつめます。それは違った人の集まりです。でもイエス様を囲む共同体はそんな違いを超えて「みんなでひとつ」であったのです。私たちもみんなでひとつ、その共同体になりたいのです。

「きのう何食べた?」ルカによる福音書24章36節ー43節

復活したイエス様が「魚をひと切れ食べた」ことはそんなに重要なことでしょうか? 2000年も語り伝える必要があることだったのでしょうか。
今日の個所で聖書は復活とはどのような事であるかを伝えようとしています。復活とは亡霊ではありません。イエス様は死んだまま私たちに語りかけているではありません。私たちは亡くなった先祖からの声を聞いたと思うことがあります。でもそれは復活とは違います。魚を食べる実体として、私たちの只中に存在をするのがイエス様の復活です。
そしてイエス様の復活は霊魂不滅ということとも違います。死んでしまった大切な人たちは、私たちの心の中で思い出として今でもずっと生きています。私たちは時々それを思い出して、本当に生きているように感じ、心が温かくなります。でもイエス様の復活はそれとは違います。イエス様の復活はもっと現実的です。心の内側の問題ではなく、私たちの目の前に現れ、魚を食べるという復活なのです。復活とはイエス様の心臓がもう一度動き出し、呼吸が始まる、蘇生とも違います。それは明らかでしょう。復活は十字架が無かったことになったのではありません。またまったく別の存在として、この地上に現われたのでもありません。イエス様は「まさしく私だ」とおっしゃいます。イエス様の復活は私たちが普段想像するような死者との関係ではないあり方で、私たちのもとに復活し、現れて下さるのです。それは間違いなく、復活したイエス様なのです。
どうやって弟子たちは復活を知ることができたのでしょうか。それはイエス様が魚をひと切れ食べる姿を見ることによってでした。弟子たちはこの地上でイエス様と何度も食事をしました。五千人の給食や、罪びととの大宴会、そこで魚を食べる姿を見ていました。その記憶を、イエス様が魚を食べている姿を見て思い出したのです。今までと違う、でも確かに同じイエス様がいる。一緒に食べてイエス様は復活されたのだということに気付くのです。
弟子たちにとってイエス様との食事は愛の記憶でした。私たちは今日、月に一度の主の晩餐を持ちます。これから「ひときれのパン」をいただきます。イエス様の復活を希望だと信じ、復活をイエス様の愛だと受け入れた方、つまりクリスチャンとなられた方は、ともにこの主の晩餐のパンを食べ、杯をいただきましょう。イエス様の愛を思い起こしながら、このパンと杯をいただきましょう。
そして食べたことを忘れないようにしましょう。何を食べたか、誰と食べたか、どんな味がしたか、よく覚えていましょう。イエス様の愛を忘れないようにしましょう、イエス様がどんな人だったのか、よく覚えていましょう。
そしてまだその意味がよくわからないという方、どうぞ顔をあげて、食べる姿をよく見ていてください。そして私たちが食べる姿を通じて、イエス様が愛の食事をなさった姿を知って下さい。主があなたを招いておられます。

「旅は道連れ」ルカによる福音書24章13節ー35節

大型連休はどのようにお過ごしでしょうか。今日登場する二人はエマオからエルサレムへ、過越しの祭りに参加するために旅に出ていました。私達の人生はこのエマオの道とどこか似ています。その道をウキウキしながら歩むときもあれば、暗い顔でその道を歩くこともあります。人生には予想しない悲しみが起こることがあります。それは大事な方との別れだったり、自分の失敗だったり、突然見つかった自分や家族の病、降りかかってきたトラブルかもしれません。それはまるで日没に向けて歩む、暗闇に向けて歩むような気持ちにさせます。答えのない疑問や課題が私たちに降りかかってきます。どうして私にこんなことが、どうして喜びの時にこんなことが、なぜあの子に、なぜあんなすばらしい人にこんな不幸が起こるのだろうか?いくら議論しても答えのない疑問がこみあげてきます。「神様なんているのか」と問いたくなることが起こるのです。私も不安になる時があります。
しかし聖書は明確に「イエス様は一緒におられる」と語っています。今日の個所では「一緒に」という言葉が3回出てきます。そしてイエス様の方から近づいて来て、「一緒に」歩き始められたとあります。イエス様の方から、私たちが戸惑っている中に、私たちが気づかないうちに、「一緒に」おられるというのです。私たちは一緒にいてもそれに気づかない時があります。でもイエス様は気づかない私たちと同じ「旅人」として、同じ道を歩んでおられる、道連れになって下さっているのです。
そして私たちに教えてくれるのです。十字架の意味を教えたように、苦しみや悲しみの意味を、聖書を使って解き明かしてくれるのです。イエス様の復活は十字架を帳消しにしたのではありません。「十字架で死んでしまったけど生き返った」のではありません。イエス様は復活することによって十字架の意味を教えてくれるのです。神様の栄光は、このような苦難によって明らかにされるということを教えてくださっているのです。
私たちの悲しみもそうでしょう。祈ったら悲しみの原因が奇跡のようになかったことになる、そのようなことはあまりありません。祈ったら一瞬で解決したり、病気が治るということはほとんどないのです。でもその意味を私たちが問い、聖書から知るようになるということが起こります。旅していた二人と同じように、今は分からないでしょう。でも主は、必ず目を開き、その意味を見つける時が来ると約束をしてくださっています。だから希望をもって、イエス様にもう一度、心に火をつけてもらおう、そのように思うのです。今日の個所によれば、それが起こるのは、信仰についての議論によってだけではありません。イエス様を体験することによって起きるのです。私たちのこの礼拝がまさに体験です。この体験を大切にしましょう。集って確かめ合いましょう。そこにもイエス様は一緒におられ、私たちの目を開いて下さるのです。