「教会は対話する」使徒言行録 2章1節―11節

教会の言葉は難しいと言われることがあります。今日私たちはペンテコステ礼拝を持っていますが、「ペンテコステ」というこの言葉は教会で一番難しい言葉の一つです。「ペンテコステ」これはギリシャ語で五十番目という意味です。日本語ではこれを五旬祭と言います。旬は上旬・中旬・下旬といったように十を現わす文字です。五十日目のお祭りという意味で五旬祭と言うのです。ユダヤ教の人にとって一番大切なお祭りは過越祭というお祭りですが、そのお祭りから五十日後に、過越しの期間が終わるのを祝うお祭りが五旬祭でした。キリスト教では過越祭の日はイエス様の復活をお祝いするイースターとして祝っています。そして、その五十日後をペンテコステとして祝っています。私たちは、この日を聖霊が天から下って来て、教会の働き、宣教が始まった日として祝っています。しかしペンテコステという言葉一つで、これだけ説明をしなければいけないのですから、教会で使う言葉というのはやはり難しいのです。丁寧に、慎重に語りたいと感じています。
しかし今日の聖書個所を読んでいると、教会が始まった時、教会は大胆に語っています。そして教会の始まりの時、その言葉が通じあったと書いてあります。それはどんな変化だったのでしょうか。それは相手が私の言葉を理解できるように変えられた、のではありません。弟子たちの話す言葉が変わったのです。こちらの側が話す言葉が変わったのです。
私たちはどうしても、話がうまくかみ合わない時、理解されない時、相手に変わって欲しいと思いものです。しかしここはそうではありません。教会の側の言葉に変化が起きているのです。それは相手にとって、ふるさとの言葉のように、温かくて、懐かしくて、やさしい言葉に変わったのです。
 だから私たちは変わろう、相手の言葉に合わせようと頑張ります。しかし、もう一つ大切にしたいことがあります。聖書によれば、実はその変化は私たちの頑張りだけで起こるものではないと書いてあります。そこには一方的に注ぐ聖霊の力が必要なのです。聖霊の力が私たちに与えられる時、私たちは相手の言葉で、語るよう変えられます。聖霊がそこに導いてくれるのです。私たちがすべきこと、それは相手をよく理解すること、そして聖霊を私たちの心に招く事です。神様を心に招くことです。今何を話すべきか、どのように話すべきか、私自身を神様に明け渡して、満たしていただいて、神様の事を語るのです。
聖霊から、他者と対話してゆく力をいただきましょう。神の言葉は必ず世界に広がってゆきます。私たちはその対話の器とされていくのです。私たちに相手に伝わる言葉が与えられ、それが広がっていくのです。
教会は対話します。お互いが分からなくなった時も聖霊を祈り求め、対話を続けます。諦めません。私たちは必ず理解し合えるのです。聖霊を祈り求め、新しい言葉を求め、対話してゆきましょう。