「平和への希望と葛藤」ローマの信徒への手紙7章15~25節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも一緒に礼拝できること、神様に感謝します。

 

今月と来月は信仰告白について一緒に考えています。みなさんは「平和」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。安心して眠れる夜でしょうか。争わない家族でしょうか。傷つかなくてよい世界でしょうか。

 

6月23日、私たちは「命は宝(ぬちどぅたから)」の日を迎えました。沖縄と世界の平和に向けた祈りがささげられる日です。

 

私に沖縄と平和のことを教えてくれた牧師がいました。金井創牧師です。彼は辺野古の新基地建設現場近くで不屈と平和丸という2つの船で基地建設反対を訴えていました。私もこの船に乗せてもらいました。美しい海でした。でもその美しさの中に、深い緊張がありました。青い海の上に巨大な基地が作られていたのです。

 

実は私は沖縄に行くまで、沖縄に基地があるのは仕方がないことではないかと思っていました。金井牧師はそんな私を抗議船・不屈に載せてくれました。船は想像以上に小さく、波のたびに身体が揺れました。正直、少し怖かったです。私は船のへりを強く握っていました。そして青い海の上の、広大な基地建設現場を見ました。そして船からおりた後、沖縄の人々が持つ特別強い、平和への願いを聞きました。金井牧師が教えてくれたのは「人間とは平和を願いながら、それを壊してしまう存在だ」ということです。「基地は仕方ない」と思っていた私の考えが、少しずつ揺れ始めました。

 

私は「本当に基地は必要なのだろうか?」と考え始めました。そして平和とは何かを考え続けるようになりました。学習ツアー以来、金井牧師との個人的な関係も続きました。一緒にお酒を飲みながら、沖縄の現実を教わりました。

 

ある日、信じられない知らせが届きました。不屈と平和丸が転覆し、金井牧師と高校生が命を失ったのです。……言葉がありませんでした。そして安全管理が不十分だったこと、遺族への謝罪が遅れたことが、大きな批判を受けました。さらに金井牧師の性暴力のニュースも取り上げられました。私はこのニュースをしっかりと見ることができませんでした。事故と報道を受け入れるまで長い時間がかかりました。

 

私自身も問いかけられている気がしたからです。私は何を見てきたのか。何を信じていたのか、と。でも私はその平和運動の中で失われた命、傷つけられた命に向き合わなければならないと感じています。「平和を願うこと」と「命が失われた現実」の間で立ち尽くしている感覚です。

 

私に託されていることを考えます。私に託されているのは、事故で無くなった高校生とそのご家族の平安と慰めを祈ることです。性暴力の被害者の回復を祈ることです。そして私にもう一つ託されていることがあります。それはやはり基地に頼らなくてよい世界を実現すること、平和への思いを絶やさないことです。

 

私は改めて、人間は多くの過ちを犯す存在だと感じています。新基地建設を愚かなことだと思います。同時に船にのっていた高校生たちにお詫びをしなければならない過ちがありました。性暴力は許されることではありません。

 

私はつくづく、人間とは平和を願いながら、それを壊してしまう存在なのだと感じます。聖書にも、そんな人間の姿が描かれています

 

聖書はローマの信徒への手紙7章15~25節をお読みいただきました。今日の聖書箇所15節には「私は自分の望むことができていない」「それを行っているのは罪である」とあります。

 

ここには、したいと思うことができていない矛盾が描かれています。みなさんも「したいことができない」小さい体験があるでしょうか?仲良くしたいのに言いすぎてしまう。謝りたいのに謝れない。優しくしたいのに怒ってしまう。もしかすると、戦争とは、その延長線上にある大きな悲しみなのかもしれません。

 

人間は誰しも、戦争や軍事的な緊張で成り立つ世界を望んでいないはずです。ただただ平和を求めています。でも世界は軍拡へと進み、平和を望むことができていません。間違っているとわかっているのに、その方向へと突き進んでいます。聖書は、そのような人間のねじれを「罪」と呼ぶのかもしれません。

 

そして完全ではない平和活動もあります。平和を求め、命を守ろうとしていたのに、命を傷つけ、奪ってしまったことがありました。私は今、神様の前に立ち、考えさせられています。人間とは何か、罪とは何かと。

 

私は沖縄のことを通して、人間って何だろうと考えさせられています。仲良くしたいのに傷つける。平和を願うのに壊してしまう。

 

そう考えていた時、私は信仰告白を読みました。そしてあることを不思議に思いました。

「なぜ神様の話の中に、人間の話がこんなに出てくるのだろう?」

 

みなさんはどう思いますか?これは信仰に関わることがらが書かれている文書なのに、なぜ人間理解が書かれているのでしょうか。信仰のことだけが書かれていればいいのではないでしょうか?

 

しかし、きっと信仰を理解するには、人間がどのような存在かを理解することが必要なのでしょう。私たちは人間の現実をしっかりと見つめる必要があるのです。

 

聖書は人間の“明るい面”と“壊れやすさ”の両方を語っています。信仰告白にもあるとおり、人間は神にかたどって創造されました。人間の命は神様に似たものとして作られ、誰にも傷つけられたり、奪われたりしてはいけない、尊いものです。

 

一方、信仰告白に、人間は神様に背いて罪を犯す存在だともあります。神様に創造された尊い存在であるはずの人間に、多くの不完全さがあるということです。

 

人間には尊厳と不完全さの両方があるということは、みなさんも実感していることではないでしょうか? 

 

信仰告白には「自らの力では神の栄光を受けることができなくなった」とありますが、まったくそのとおりです。世界にはひずみがあり、争いがあります。誘惑があり、人間はいつも神の創造の反対の破壊・罪を起こします。人間の力だけでは平和の実現は難しいと感じています。

 

聖書にも18節「善が何であるかを知っていて実行できない」「望まないのに悪を行っている」とあります。「なんで私はまたこうしてしまったんだろう」——パウロも、そんなため息をついているように見えます。望まない悪を行ってしまう、罪を犯してしまう、それが人間なのでしょうか。その矛盾に人間のみじめさを感じます。誰がここから救ってくれるのだろうか?と俯きます。

 

しかし信仰告白によれば人間は愚かな罪を犯す存在だというだけではありません。世界は失望では終わりません。聖書も25節に「神様に感謝します」とあります。それは神様がここから救い出してくださるという希望です。私たちは罪や社会の矛盾の前に立ち尽くし、失望するかもしれません。でも神様は私たちに希望を指し示している、それが私たちの信仰告白です。

 

神様はどのように希望を指し示しているでしょうか?信仰告白には「それにも関わらず、イエス・キリストの神の救いに招かれている」とあります。私たちは欠けを持ち失敗し、争う存在であるかもしれません。世界は矛盾と傷ばかりかもしれません。でもそれにも関わらず、私たちはイエス・キリストの救いに招かれているのです。それが意味しているのはこうです。私たちがどんなに傷つき、この世界に矛盾があふれていても、神様は見捨てないということです。神様は深い痛みの中にいる私たちを救いに招いているということです。

 

この信仰告白と今日の聖書の個所には希望が書かれています。私たちは招かれています。傷つけ合わなくていい世界へ。安心して生きていい世界へ。敵をつくらなくてよい世界へ。

 

神様は私たちが大きな過ちを犯してしまうことをよくご存じです。家族に優しくできなかった夜、謝れなかった日。この世界の矛盾と葛藤をよくご存じです。人間が自分達の力で平和と安全を実現できないことをよくご存じです。

 

でも私たち人間にも希望があります。神様が私たちを、救い・平和へと招いています。殺し合う必要はない、戦争する必要はない、誰の尊厳も失われない世界へと、神様が招いてくださっているのです。

 

神様は人間にそんな希望を準備してくださっているのではないでしょうか?私たちの教会は、罪深い世界の中で、そのような希望を信仰として告白しているのではないでしょうか?

 

今日の個所から問われていることは何でしょうか?この世界のどこに私たちの罪と矛盾があるでしょうか?あなたが今、立ち尽くしている場所はどこでしょうか?

 

神様は私たちの罪深さにも関わらず、どのように私たちと関わろうとしているのでしょうか?矛盾の中に立ち尽くすこともあります。でも、その場所に神様も共に立っておられるのかもしれません。だから私たちは、絶望だけで終わらなくてよいのかもしれません。お祈りします。

 

 

「救われていますか?」ルカ19章1~10節

みなさん、おはようございます。今日も神様に呼び集められた群れとして、一緒に礼拝できること、感謝をしています。私たちは私たちの教会の信仰告白について考えています。今日は「6救い」について一緒に考えましょう。

 

みなさんは、「救われる」と聞くと、どんなことを思い浮かべるでしょうか?心が軽くなること?病気が治ること?人間関係がよくなること?あるいは死んだ後のこと?

 

では、もう一歩聞いてみます。「あなたは救われていますか?」今日は救いについてザアカイの物語から考えてゆきましょう。聖書はルカによる福音書19章1~10節までをお読みいただきました。

 

ザアカイはエリコという関所のある町で徴税人をしていました。おそらくザアカイはその関所で税金を取りたてる仕事をしていました。それは人の弱さにつけ込んで、お金を取るような仕事でした。

 

貧しくて文句を言えない人から、多くのお金を取りました。だから人々から嫌われていました。「あいつは罪人だ」「仲間ではない」そう言われても仕方ない人生だったのです。しかしある日突然、彼に人生の転機、救いが訪れることになります。

 

イエスはこれまでも、多くの罪人と言われ、軽蔑された人間と共に過ごしてきました。ザアカイもそのことを知っていたでしょう。罪人と言われて、うとまれている彼は、イエスに会ってみたくなったのです。しかし多くの人が集まりました。ザアカイは人だかりに飲み込まれ、身長の低い彼はイエスを見ることができませんでした。そこで彼は木によじ登ってイエスを見ようとしました。そこからどんな景色が見えたでしょうか?

 

雑踏の中で、最初に声をかけたのはどちらからだったでしょうか?ザアカイでしょうか。イエスでしょうか。この順番には、大事な意味があるように思います。

 

そしてそれはイエスからでした。イエスから先にザアカイに声をかけました。その言葉はこうです「今日はあなたの家に泊まりたい」。

 

イエスの唐突な言葉です。イエスはわざわざ、罪人の家を選んで、泊まろうとしました。それは偶然ではありません。どこでもよかったわけではありません。イエスはいつも罪人に向き合おうとしました。罪人が選ばれる、それは偶然ではありません。イエスはザアカイに向き合おうとしました。神様は、見放されたと思っている人に先に近づく、そんな方なのです。

 

呼び掛けられたザアカイは急いで木から降りて、喜んでイエスを迎えました。そうです、これまで誰も、自分に関わろうとしなかった。

 

食卓で笑う家族を見た時、ザアカイは何を思ったでしょう。市場で誰かが笑い合う姿を見た時、どんな気持ちだったでしょう。「私は仲間ではない」と思っていたかもしれません。人々から嫌われる人生は、心を固くしました。誰にも期待しなくなる。「どうせ自分なんて」と思う。でも本当は、受け入れてほしい。一緒に笑いたい。誰かと食卓を囲みたい。そんな思いがザアカイにもあったのではないでしょうか。

 

そのザアカイの人生に今、イエスが突然、関わりを持とうと声をかけます。軽蔑されて当然の人生を送っている彼にとって、それはとても大きな喜びでした。こんな私の家に泊まりに来てくれるのか。私と語り合ってくれるのか。私と向き合ってくれるのかと、喜びを感じたのです。神様が私を見つけてくれたと思ったのです。イエスに見つけられ、声をかけられ、家に泊まると言われた瞬間が、ザアカイが救われた瞬間だったのではないでしょうか?

 

彼はイエスを招き、会話を始めると、すぐに自分の財産の半分を貧しい人に寄付すると言い始めます。そして奪った分を4倍にして返すと言い出します。彼の行動に注目をしましょう。彼の人生はイエスと出会って変えられています。ザアカイは心の安心や魂の安らぎを得ただけではありません。彼の人生には具体的な変化が起こったのです。救いは心の変化だけにとどまらず、生き方に具体的な変化を起こすものなのです。そして救われて、過去を水に流したのではありません。しっかりと過去と向き合い、償おうとしたのです。

 

そしてここには、もうひとつ別の救いもあります。それは彼からだまし取られた多くの貧しい人の救いです。だまし取られたお金が4倍になって戻ってきたら、貧しい人々の生活は大きく変わったでしょう。イエスは今日この家に救いが訪れたと言っています。それは多くの貧しい人々の元に経済的な救いが訪れたことも含みます。

 

そしてイエスは言います。「人の子は失われた者を探して救うために来た」これは、私たちが神を探す前に、神が私たちを探しているということです。声をかけたのはザアカイが先ではありませんでした。イエスが先でした。

 

救いとは、私たちが神を見つけることよりも、神が私たちを見つけることなのかもしれません。ザアカイを見ると、救いは交換条件ではないようです。まず先に、愛がある。まず先に、招きがある。信仰告白の言葉で言えば、それは神の愛と恵みです。

 

その一方的な愛と恵みをまず先に受けたもの、救いを先に受けた者が、それによって生き方が変えられてゆきます。愛された人は、変わり始めます。大切にされた人は、大切にし始めます。ザアカイもそうでした。まず先に救われたから、変わったのです。それが救われたものの新しい生き方です。それが今日の物語でザアカイに起こった一連の出来事だったのです。

 

さて、救いとは何かを考えています。救いとは何でしょうか?ザアカイを見ると、それは死んだ後の話だけではありません。今日、今、この人生の中で起こることなのかもしれません。

 

救いは誰に与えられるのでしょうか?ザアカイは、熱心だったから救われたのでしょうか。良い人になったからでしょうか?

 

物語によればきっと違います。ザアカイを見ると、イエスの方から近づいています。神様は、私たちが気づく前から働きかけているのかもしれません。先に愛と恵みがある。そんな物語に見えます。

 

イエスはザアカイに「あなたもアブラハムの子だ」と言っています。これは、もうあなたは私たちの仲間だという意味です。破れていた関係が取り戻されたという宣言です。

 

私たちの教会の信仰告白に目を移しましょう。ここには「救いは、罪を悔い改めて告白し、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって与えられる」と書いてあります。一方、最後の一文にはこうあります「救いは、ただ神の愛と恵みによる」と。私はここに、ひとつ大切な問いを感じます。救いは、頑張った人へのご褒美なのでしょうか?信じ切れた人だけが受け取るものなのでしょうか。でもザアカイを見ると、そうとも言い切れません。イエスの方から近づいているからです。みなさんはどう思うでしょうか? 

 

最初の問いに戻ります。みなさんは救われているでしょうか?私自身はまだ救われきっていないと感じています。私には救われたと感じている部分があります。キリスト教に出会えたこと、神様からの励まし、生きる力をもらうことができたこと。人生のつらい時、支えになってくれるもの。助けてくれる仲間の存在。このことを救われたと感じています。

 

一方、まだ救われていないと感じる部分もあります。救われていない現実があります。人生には苦労が絶えません。病気もするし、挫折もするし、思い通りにならないことも多いものです。世界を見渡せば救われない人がたくさんいるではありませんか。戦争、災害、貧困。世界は一部で救われているけど、完全に救われてはいないと感じます。私はまだ、これから始まる救いを待っています。まだ見えません。だから今日も、木に登ります。ザアカイのように、いちじく桑の木の上で。世界の救いを。自分の救いを。待っています。

 

もしかすると今日、イエスの方から、私たちに声をかけているのかもしれません。

 

「急いで降りておいで。今日はあなたの家に泊まりたい」

 

みなさんにとって救いとは何でしょうか。私たちは、どんな救いを待っているでしょうか。そして今日。

イエスはあなたに、どんな声をかけているのでしょうか。

 

「呼び集められた者の群れ」Ⅰコリント12章12~26節

みなさん、おはようございます。今日もこうして、みなさんと同じ場所に集まれたことを神様に感謝します。実は、ここに集うことは当たり前ではありません。教会は、時に、静かに姿を消していくことがあるからです。今日は少し強い言葉ですが、まず「教会の消滅」についてお話をします。

 

みなさんは教会の消滅という言葉を聞いたことがあるでしょうか?昨今のキリスト教会は体力を落とし、「閉鎖」をする教会も出てきています。近くの日本キリスト教団の教会も閉鎖に向けて手続きをしていると聞きました。教会の閉鎖は私たちにとっても他人事ではありません。教会の閉鎖は悲しいことではありますが、ひとつの教会が歴史の中で役割を終える時は必ず来るものです。聖書に出て来る、手紙をもらった教会の数々も、今日のコリント教会も今では残っていません。歴史の中で役割を終えることはあるものです。

 

ただ教会の閉鎖と違うものとして、教会の「消滅」があります。消滅とはとても寂しい響きの言葉です。教会の消滅とは、電話をしても出ない。手紙を出しても返事がない。訪ねても、礼拝が行われている気配がない。それが長く続きます。そしてある日連盟から「閉鎖しました」ではなく「消滅が確認されました」と連絡がきます。私はその言葉を聞くたび胸が痛みます。

 

しかしもちろん、教会はある日突然、消滅するのではありません。消滅はゆっくりと長い年月をかけて起こります。集会に集わなくなる。教会の近況を聞かなくなる。「最近どうしていますか?」と言う人がいなくなる。そのようにしてまず孤立が起きます。

 

孤立した教会はどうなるのでしょうか。孤立をすると、他の教会が今どんなことに重点を置いて活動をしているのかを知らないということが起こります。他の教会を知らないと「自分たちは今、何を大切にしている教会なんだろう?」も見えにくくなります。違う教会を見るから、自分も見えてくるのです。

 

人間関係と少し似ています。孤立すると他者と自分がどう違うか分からなくなってしまうのです。孤立した教会は、他の教会からの刺激がなく、新しい活動も始まりません。気づくと、ずっと同じ。新しい風が吹かない。「前からこうだから」で止まってしまう。そして少しずつ元気を失ってゆくのです。

 

私たちはどうでしょう。少しずつ孤立してしまうことはないでしょうか。

 

さらに年月が経つと、教会を支えてきた人々が高齢になります。牧師も退きます。そうして支え合いが弱まる時、孤立が深まることがあります。

 

私たちの教会は孤立していないでしょうか?私たちは自主独立した教会です。でも独りぼっちではありません。元気であり続けるために協力をしています。他の教会に出会うと気づくことがたくさんあるのです。「こういう祈り方もあるんだ」「こんな礼拝や賛美の方法もあるんだ」「こんな風に地域に出てゆく教会もあるんだ」違いを見ると、自分たちも見えてきます。そのようにして、私たちは自分自身が元気であり続けるためにも協力をしています。私たちは独りではありません。

 

私たちはこれからも他の教会から刺激を受けて新しいことをはじめましょう。また、私たちが他の教会の刺激になってゆけるようにしましょう。

 

今日の信仰告白7教会の最後の一文には「私たちの教会は自主独立であるが、他の教会との交わりと協力を惜しまない」とあります。私はこの一文がとても大事だと思います。それは教会同士が群れになって、協力しあい、励まし合うことが大事だという告白です。それが教会が存続するのに不可欠だと告白しているのです。

 

このように教会が元気であり続けるためには協力が必要です。そしてそこから大事なことがわかります。もし教会単位ですら協力が必要不可欠なのだったら、私たち一人一人の信仰はなおさら協力が不可欠だということです。

 

私たち一人一人の信仰も教会単位で起こることと同じことが起こります。信仰は孤立すると元気を失うのです。

 

信仰告白には「教会はイエス・キリストのからだ」であるとあります。この言葉は今日読んだⅠコリント12章から来ている言葉です。この手紙は最初はパウロからコリントという一つの教会に送られたものでした。しかし、いつからか他の教会の人々が、私たちにも当てはまると感じ、読みまわしたのです。教会はそのようにみ言葉を分かち合って来ました。

 

それはまるで私たちは体が一部分だけでは存続できないのと同じです。私たちには目として先々の事を見通して励ましてくれる人が必要です。口となって不安な時「大丈夫だよ」と言葉にしてくれる人が必要です。耳になって声にならない小さな声を聞いてくれる人が必要です。教会同士でも、そして教会の中の個人同士としても、そのような支え合う相手が必要なのです。

 

私たちはそのように他者との間で自分に有るものと無いものを確かめつつ、自分ができる励ましを他者に与え続けることが必要です。そうすることで私たち一人一人の信仰が守られてゆくのです。私は誰に支えられているでしょうか?誰の支えになっているでしょうか?

 

教会だけではない、個人個人も一人で信仰を守ることは難しいことです。人生の苦しみの中では、祈れなくなることもあります。そんな時、誰かの祈りを聞くと心が支えられることがあります。他者が何を信じているのかを感じると、自分は何を信じているかに改めて気づかされます。神様は今日、誰を通してあなたを励まそうとしているでしょうか?

 

そして私たちが、自分たちで集まっているのではないということも信仰告白には書かれています。私たちは相互協力といった利害関係で繋がっているのではありません。それを超えた力で集まっています。信仰告白には私たちは「呼び集められた者の群れ」と書いてあります。呼び集められたという言葉は、エクレシアという言葉で、神に招かれた群れという意味です。私たちは自分の判断で、自分の損得で、ここに来ているのではありません。私たちは神様に呼び出されて、ここに集っているのです。神様の呼びかけに応答して、今日同じ場所に集っているのです。

 

私たちは時々、「人と関わるのは疲れる」と思います。教会に行く元気がない日もあります。誰とも話したくない時もあります。人生にはそういう季節があります。病気をした時。家族のことで悩む時。仕事がうまくいかない時。歳を重ねて、昔できたことができなくなった時。祈る言葉すら出てこない日があります。

 

そんな時、人は少しずつ孤立します。自分のことが分からなくなります。「私は何を信じていたのだろう」と心が曇ることもあります。けれど神様は、そんな私たちを独りにしません。

 

神様は私たちを呼び集め、群れとします。そしてそこで誰かの言葉を通して、誰かの祈りを通して、誰かの笑顔を通して、神様は私たちに呼びかけています。「あなたは独りではない」「新しい方法が見つかるはず」「一緒に生きよう」と。教会とは、立派な人が集まる場所ではなく、支えが必要な人が集められる場所なのかもしれません。

 

だから教会には、強い人だけがいるわけではありません。迷う人もいます。不安な人もいます。疲れている人もいます。信じたいけれど信じきれない人もいます。祈りたいけれど祈れない日もあります。

 

けれど、そのままでよいのです。私たちは完成した人としてではなく、呼び集められた者としてここにいます。誰かに支えられながら、誰かを支えながら、少しずつ生きる力を取り戻していく。そのために教会があるのかもしれません。

 

これは大事なことです。それは教会同士にしろ、個人にしろ、神様がその関係、その協力の中心にいるということです。神様が私たちを結び付けようとしているということです。神様は他者を通して、私たちを支えているのです。

 

神様は、あなたは独りでは生きていけない、独りでは荷が重すぎると言って、私たちを呼び出し群れにしているのです。

 

私たちは呼び集められ、群れとされます。そして自分と違う特徴を持つ人と一つの群れにします。私たちは互いと自分の違いを知ります。その中で真似をしあったり、励ましあいながら生きるようになります。たったひとりでは、気づけなかったことを知るようになります。神様はそのような群れへと私たちを呼び集めているのです。

 

今日の聖書と信仰告白から何を問いとしましょうか?私たちはどのように他の教会と協力できるのでしょうか?他の教会と私たちが信じていることの共通点と小さな違いはなんでしょうか? 

 

私たち個人個人として、どう協力し、どう互いに励まし合いながら生きてゆけるでしょうか?神様が私たちをここに呼び集め、群れ、仲間としてくださいました。私とあなたの共通点と違いはなんでしょうか?神様がこの出会いを私たちに準備してくださいました。私たち一人一人が神様から信仰と愛の交わりに招かれています。それは互いに平等で、交わりと協力を惜しまない関係です。それが私たちの教会です。神様が今日、あなたをここへ呼びました。あなたもこの群れの大切な一

 

「2つのこだわり」Ⅰコリント11:23~26、マタイによる福音書28:19-20章

 

みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと一緒に礼拝できること、神様に感謝をいたします。4月5月は初めて教会に来た方に届く聖書の言葉を探してきましたが、ここからの2か月は今までずっと教会に通っている人に向けて届く言葉を探したいと思っています。

 

もちろん、初めて来た人に向けての言葉が、ずっと集ってきた人の心にも届くように、ずっと教会に集っていた人に向けての言葉は、初めて来る人にも届くことになると思っています。

 

実は私はこの1年間ほど、宣教について模索してきたことがあります。それはなるべく答えを言わないことです。すぐに答えを出すより、“問いの中に留まること”を大切にしたいと思うようになりました。

 

この宣教とはなんでしょうか?それは聖書の解説や答えが明かされる場所と思われがちです。でも今私が大事にしたいと思っていることは、私がみなさんに答えを教えることではありません。大事にしたいことは、神様のみ言葉が、みなさんの心に、どんな言葉として残るのか。皆さん自身がどう受け止めていくか、そしてどう生きるかが大事だと思います。

 

牧師が宣教ですべきことは、みなさんに答えを教えることではなく、問いを投げかけることではないかと感じています。1年間少しずつそれを意識し、心掛けてきました。聖書を読んで、一人一人が心の中でどう感じるかがもっとも重要です。それを問いかけ、引き出してゆくのがこの宣教の役割だと思っています。

 

一方で、キリスト教が2000年間、何を大事にしてきたのかを解説することも大切なことだと思います。答えが常に自分の中にあるとは限らないものです。みなさんにキリスト教が大事にしてきたこと伝えることで、それぞれの信仰理解が形作られてゆくはずです。そして知っているつもりでも知らなかったことにも気付くはずです。

 

この2か月間は、難しくなりすぎないように、解説になりすぎないように注意しつつ、キリスト教・バプテストが何を大事にしているものかを一緒に考えてゆきたいと思います。

 

考えるにあたっては、教会の信仰告白をテーマにしようと思います。教会の信仰告白は教会の定めた信仰のガイドライン、信仰の目安のような存在です。みなさんの手元にも2か月間置いておこうと思います。

 

信仰告白はこれに同意しないと入会できないというものではありません。自分の信仰とは少し違うということでもOKです。2か月間この信仰告白から信仰とは何か?神とは何か?私たちはどう生きるべきか?を一緒に考えてゆきたいと思います。

 

 

今日は信仰告白の8番、礼典について考えたいと思います。礼典とは何でしょうか。礼典とは、神様を“頭で理解する”だけではなく、“体で受け取る”ためのものです。水の中に深く沈められる、小さなパンを分かち合う。信仰は教えを知ることだけではなく、体験するものなのかもしれません。神様の働きを、

ただ頭で考えるだけではなく、体験として受け取る、礼典とは、そのために与えられているものなのかもしれません。

 

この礼典について考えましょう。私たちの教会の信仰告白を見ると「礼典は2つである」と書かれています。バプテスマと主の晩餐の2つだとあります。バプテスマとはイエス・キリストを信じる時に水の中に沈む儀式のことです。主の晩餐は今日このあと行います。イエス・キリストを思い出すためにパンとブドウジュースを飲む儀式のことです。

 

まず「2つである」という意味を考えましょう。私たちの信仰告白はあえて「2つだけである」と言い切っています。ここにはどんな理由があるでしょうか?礼典が2つしかないということは、実はかなり強いこだわり、譲れないものです。

 

私たちはプロテスタントの中のバプテストというグループですが、もう一つ大きな教派のカトリックでは礼典は2つではありません。キリスト教の中には、もっと多くの礼典を大切にしてきた教会もあります。

 

たとえば結婚式はカトリックの教会でもプロテスタントの教会でも行っているものですがその意味は違います。私たちは結婚式を神様の前で「人が誓う行為」として受け取ります。一方、カトリックは礼典(秘跡)として「神様の働き」という意味で持たれます。

 

似ているようで、意味は大きく違います。そして、その違いはその後の生き方、家族観や離婚などにも大きく影響してゆきます。結婚を“人の誓い”と見るのか、“神の働き”と見るのか。何を神の働きとして受け取るのか。そこにそれぞれの教会のこだわりが現れ、それが生き方へとつながっているのです。

 

なぜこのような違いとこだわりが生まれるのでしょうか?なぜプロテスタントでは礼典が2つなのでしょうか?それは聖書に明確にこれを行いなさいと書いてあることが、この2つだからです。今日は聖書の2か所お読みいただきました。それぞれバプテスマと主の晩餐の明確な根拠となる聖書箇所です。一方でそれ以外のことは、聖書に明確にされていません。聖書に書いてある「2つ」に特にこだわって、大事にするのがプロテスタントだと言えるでしょう。反対に幅広く、目に見える儀式を大事にするのがカトリックと言えるでしょう。

 

おおまかにいうと目に見える礼典を重視するカトリックで、一人一人の信仰を強く大切にしてきたのがプロテスタントです。

 

どちらが正しいかということを議論するつもりはありません。これは私たちが何にこだわっているかということを示しています。プロテスタントは2つにこだわっているのです。人はなぜ“こだわり”を持つのでしょうか?

 

そしてその中でもバプテストはもっと強いこだわりを持っています。バプテストとは特に洗礼(バプテスマ)に強いこだわりを持っているのです。

 

例えば生まれてすぐに赤ちゃんに洗礼をするというグループもあります。それは本人の意思に関わらず行われます。なぜなら洗礼は神様の一方的な恵みだからと考えるからです。しかし私たちの信仰告白にはこうあります「信じて自らの信仰を告白する者に授けられる」と。つまりこれは、本人の意思表明を最も大事にするということです。反対に言えば本人が意思表明、信仰の告白をしなければ、絶対バプテスマをしないということです。これは個々人の自覚的な信仰を大切にするという立場です。本人の自覚的信仰にこだわっているのがバプテストです。

 

またバプテストはバプテスマの方法にも細かいこだわりを持っています。ここにそのこだわりが記載されています。「罪の身が十字架に死に、復活において新しい生命にあずかることを象徴する浸礼の形でこれを守る」とあります。他の教会では洗礼(バプテスマ)は頭に水を垂らすという形式で行われます。しかしバプテスト教会では全身を水に沈めるという形を今も守り続けています。この1回きりのバプテスマを人生の転換点とすることにこだわっているからです。そしてバプテスト教会という名前はこのこだわりから来ている名前です。

 

そして主の晩餐のあり方も私たちはこだわりがあります。昨年度この意味を繰り返し考えて、新しい方法で、全員が食べるという方法を選んでいます。私たちは、かなり“こだわりの強い教会”なのだと思います。それが私たちバプテスト教会なのです。この教会の信仰告白8番礼典から、私たちが何を大切にし、何にこだわろうとしているのかが分かるのです。

 

キリスト教のどのグループも何かにこだわって信仰を持っています。それは小さな違いに見えて、大きな違いです。小さな礼典の違いが大きな生き方の違いにつながっています。生き方につながる問題だからこそ、礼典にこだわることは大事なことではないでしょうか?

 

むしろ、何にもこだわらずに信仰を持つことなどできるのでしょうか?そんな信仰は、何でもいい信仰になってしまわないでしょうか?偏らずに信仰を持つことなどできるのでしょうか?もちろん強いこだわりが人を傷つけることもあります。でも私たちの信仰にはこだわるところがあって当然なのではないでしょうか?

 

では私たちはこの信仰告白から何を問われているでしょうか?問いを考えましょう。

 

私たちは信仰にしろ、生き方にしろ“こだわり”によって生きています。みなさんは自分自身の信仰で、何にこだわりを持っていますか?私たちはみな、なにかにこだわり、偏り、特徴を持って生きているのではないでしょうか?みなさんは自分自身の生き方でどんなこだわりを持っていますか?みなさんの人生には、どんな譲れないもの、守りたい物がありますか?それが今日の問いです。

 

このあと主の晩餐を行います。私たちは小さなパンを受け取ってゆきます。これは本当に小さなものです。でもそこにはさまざまこだわりが込められているパンです。このパンをいただきましょう。そのパンはあなたに何かを問いかけているでしょうか?そのパンを受け取りながら、少し考えてみたいのです。私たちは、何を大切にして生きてい

 

「あなたに届く風」使徒言行録2章1~13節

みなさんおはようございます。今日もこうして、大人も、子どもも、初めて来た方も、一緒に礼拝できることを感謝します。共に礼拝できることを感謝します。4月と5月は、特に「教会は初めて」という方にも届く言葉を探しています。

 

今日は、教会では「ペンテコステ」と呼ばれる日です。これはイースターから50日目にイエスが弟子たちに現れたことを記念する日です。イエスは、人を愛しなさいと語りましたが、権力を持つ人たちによって、十字架につけられてしまいました。しかし聖書は、イエスは復活したと語ります。その50日後に再び弟子たちの前に現れたと聖書は語っています。

 

聖書によれば教会はここから始まりました。ペンテコステは、教会が産声を上げた誕生日とも言える日です。世界の教会はそれ以来2000年間、私たちの教会は76年間、見えない風に押されるように、ここまで歩んできました。

 

そして導かれているのは教会だけではありません。私たち一人一人にも、きっと導きがある。そう信じています。人生は、自分だけで決めているように見えます。でも時々「自分だけではない」と感じる瞬間があります。不思議と背中を押される時があるのです。

 

たとえば、みなさんには「あの時の出会いは不思議だったな」と感じたことはありますか?神様の導きだと信じたいと思うことはありますか?今日ここに来たことも、何かの風に導かれたのかもしれません。他にこれまで神様の導きだったと感じること、あなたの人生であったでしょうか?

 

聖書は、人に届けられてきた言葉です。人生の途中で、人を支える言葉です。聖書は、もともとはギリシア語で書かれました。いまでは世界中の、数えきれないほどの言葉に訳されています。多くの言葉に翻訳されているということは、この聖書があなたにも届くために存在しているということを意味しています。

 

聖書は、専門家だけのものではありません。神様は「どうしたらあなたに届くだろう」と考えたのです。聖書は、あなたに届く形で語ろうとしています。その言葉は、今を生きるあなたへ、あなたが分かる形で語りかけようとしています。神はそのように、聖書の言葉を通じて、あなたを導こうとしているのです。

 

そしてあなたがもっともよくわかる言葉を選んで聖書の言葉を届けるのです。

 

そう考えると、神様はあなたに合わせるお方だということが分かります。あなたの歩幅に合わせるお方です。私たちが神様の言葉を聞くことができるように変わったのではありません。神様の方が、あなたに合わせた言葉を選んだのです。あなたに伝わるように、あなたに届くように、その言葉は語られています。

 

ここには、大事なことがあります。何語で話すのかという言語だけのことを言っているのではありません。神様はあなたに神の存在が分かるように、あなたにふさわしい形で語り掛けているということです。神は、あなたなりの感じ方を通して触れてくるのです。ある人には音楽を通じて語り掛けています。音楽を聴いていて、急に涙が出る時があります。神様はある人には絵を通じて語り掛けています。一枚の絵に、救われる人もいます。親子関係を通じて、幼稚園を通じて。介護で疲れた夜、不思議と支えを感じることがあります。悲しみの中で、誰かに抱えられているように感じる時があります。

 

神様はこのように一人一人違った方法を選んで導くお方なのです。

 

私自身はかなり計画を立てるタイプです。先週も教会のこれからの計画について協議をしました。教会の未来を考えていると様々な可能性に開かれていると、神様の導きを感じます。

 

実は私は、100歳までの人生計画を作っています。その日その時の思いよりも1年、5年、10年と長い期間を見渡しながら計画を立てるのが好きです。それは時々笑われます。「そんな先々の計画を立てて楽しいの?」とか。「どうせ計画通りにはいかないでしょ」と言われます。それでも私は、また次の計画を立てています。

 

時々、私は計画を立てていると「これは自分だけで考えた気がしない」「ここには追い風が吹いた気がする」と感じる時があります。その計画は確かに自分で考えて立てたのだけれども、神様がきっとこの計画を導いてくださると感じる時があるのです。神様は私に、計画の中で、風を感じさせています。それが私への神様の語り掛け方なのだと感じています。

 

計画を立てるのは苦手という人もいるでしょう。そういう人に対して神様はわざわざ計画を立てることを通じては語り掛けたりはしないでしょう。神様はそのような人には、ふっと浮かぶ直感を通して静かに背中を押すこともあるでしょう。若い頃と、年を重ねた今とでは、感じる風も違います。私も年齢を重ねればまた別の導き方を感じることがあるかもしれません。

 

神は、一人一人に違う形で触れます。きっとあなたに向けても、最適の言葉で、最善の方法で語り掛けているはずです。神様は今のあなたに一番響くように語り掛けてきます。あなたにもきっと神様に導かれていると感じる時がくるでしょう。それは他の人からは笑われるような、本当にそうなのと不思議がられる方法かもしれません。でもきっと導きがあるはずです。

 

必ずしも、誰かを通さなくてもよいのです。神様は案外、あなたにまっすぐと触れてきます。神は、遠くから命令するのではなく、あなたの日常の中に入り込んでくるのです。あなたは、どんな時に風を感じますか?あなたは何をしている時に、神様の導きを感じやすいでしょうか?その導きを感じるとしたらそれはいつでしょうか?神様はあなたを導こうと、いろいろな場面に導きを用意しているはずです。今日は、その風の話を聖書から聞いてみたいと思います。

 

聖書を読みましょう。使徒言行録2章1~11節までをお読みいただきました。ある時、弟子たちは一つの家に集まっていました。イエスが十字架に掛けられた後、イエスは何度か弟子たちの前に現れていました。それを復活と呼んでいます。しかしその復活をもって弟子たちが、世界中に増えたわけではありませんでした。人々にはまだ理解できないことが多かったのです。弟子たちは集まって祈っていました。どうしたらもっと神様の言葉が人々に届くのか?どうしたらもっと神様の導きを感じることができるのか?集まって祈っていました。

 

そこに神の霊が降り注いだとあります。霊とは風のようなものです。見えないけれど、そこに確かに存在する力のことです。窓を少し開けた時、カーテンがふわっと揺れるように見えない力、庭の木々を揺らすような見えない力、そのように見えない、けれども確かに存在する力が霊です。見えないのに、人を動かしていく力、それが霊です。霊が弟子たち一人一人の上に留まりました。そして弟子たちは、その風に押し出されていきました。

 

弟子たちに起こったのは、様々な国の言葉で話し出すという出来事でした。弟子たちは、その日初めて「世界」に向かって話し始めました。それまでは神様のことは、限られた人だけのものと思われていました。しかし今それは、世界中の言葉で語られるようになったのです。これは神様のことが世界中の人たちに向けて告げられ始めたという出来事でした。

 

それまでは一部の人を対象として、限定された人にしかわからないものでした。しかし今、その瞬間からすべての人が分かるようになったのでした。神様の導きは特定の人・民族だけにあると思われていたのに、そうではないとはっきりした出来事でした。

 

風は縦横無尽、自由自在に吹き抜けます。目に見えないけれど確かに存在します。それと同じ様に、世界中に風が吹き抜けます。あなたにも吹いているのかもしれません。そしてあなたにも神様の導きが起こるのです。信じているか、信じていないかに関わらず、あなたにも神様の風が吹きぬけ、あなたをゆっくりと動かします。風を受けた人はいつもとは違った行動をするようになるでしょう。今までのあなたからすると、酔っぱらっていると笑われる行動かもしれません。でも神様はそのように、あなたに語り掛け、あなたを導くのです。あなたが上を向いて歩けるような、少し前を向ける場所へ導いているのです。今までとは違う一歩へ押し出します。

 

神様はそのようにして、あなたを今までしなかった、新しいことへと導きます。また「もう無理だ」と思っていた方向へ、もう一度歩かせることがあります。それが神様の霊の力です。

 

あなたは神のみ言葉に励まされて、見えない後押しに背中を押されるでしょう。きっと新しい歩き方が始まる時があるのです。みなさんにはそんな導きを感じることができますか?もしかすると今も、その風は吹いているのかもしれません。お祈りをします。

 

「神に守られているんだよ」ヨハネ17章1~15節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をします。大人もこどもも、初めての方も共に礼拝をしてゆきましょう。4月5月は初めて教会に来るという方が多い季節です。歓迎します。難しい話よりも、初めての方に届く言葉を探したいと思っています。

 

私たちはこの聖書という本を毎週、少しずつ読んでいます。それは私たちがここに書いてあるルールを守るためではなく、ここからどうやって新しい生き方を見つけてゆくかを考えるためです。今日は聖書からどんな生き方が問いかけられているでしょうか?共に読んでゆきましょう。今日はヨハネによる福音書17章1~15節までをお読みいただきました。イエスが弟子たちと別れる前の祈りが記されている箇所です。イエスは弟子たちと別れる前に、長く、たくさんのことを神様に祈っています。

 

イエスの祈りを聞いてみて、実にいろいろなことが盛り込まれすぎていて正直「難しい」「何を言っているのかよくわからない」と感じるかもしれません。でもその中に大切な言葉がでてきます。それは2節「永遠の命」という言葉です。

 

「永遠の命」と聞いてどんなイメージが浮かぶでしょうか?2節にはイエスは永遠の命を与えることができると書いてあります。「キリスト教を信じると“永遠の命”を受けることができる」。みなさんはそう聞いたらどんなことを想像しますか?嘘だと思う人がいるでしょう。だってキリスト教を信じた人でも死ぬではないかと。そうです。キリスト教を信じていても必ず死は訪れます。ではキリスト教の教える「永遠の命」とは何でしょうか? 

 

聖書の永遠の命とは、死なないことではない、と言われたらどう感じますか?永遠の命とは、永遠に変わらない愛の中にいることです。それは永遠に変わらない神様の愛の中にある命という意味です。もし、すでにその愛に包まれているとしたらどうでしょう?それが永遠だということです。それは神の愛はみなさんが、生きていても死んでしまっても永遠に変わらずに続くのだよという意味です。

 

神様は永遠にみなさんの命を愛し、命をあたたかく抱きしめてくださるお方なのです。キリスト教ではその中にとどまることを永遠の命を受けるといいます。そんな果てしなく、永遠に続く命、みなさんはあると思いますか?もしあるのだとした、その中に入りたいと思いますか?そこに入る時、変わらない神の愛の中に身を置く時、きっとそこには抱きしめられるような安心感があるでしょう。みなさんはそのような神の愛に守られている、と感じたことはありますか?

 

キリスト教の信仰を持つと、不安を持ったときに「大丈夫」と思えることがあります。理由なくそう思える、安心できる時があります。それが何かに守られているということかもしれません。永遠の命というと、言葉は重いです。しかしそれは、神様は私が生きている間も死んでしまった後もずっと守ってくれるという、安心の言葉です。

 

人生は自分で頑張って切り開くものです。頑張った分だけ、一生懸命生きた分だけ道が開かれてゆきます。でもそれだけではありません。あなたの人生には良い時も、悪い時も、頑張れている時も、頑張れない時もあるものです。私たちが良い時も悪い時も神様の愛は永遠です。あなたはそんな神様の守りが自分にあると思いますか? そのような永遠の命を知った時からあなたの人生はどう変わるでしょうか?神様がいて、永遠に温かく抱きしめられるとしたら、あなたの人生はどう変わりますか?

 

3節には永遠の命とはイエスを知ることだとあります。イエスを知ることが永遠の命につながっています。そしてこの知るとは勉強して習得することではなさそうです。学校で教わるような知識を得ることではありません。キリスト教の難しいことを勉強することでもありません。知る、それは心で感じるということです。体験的に感じることです。自分はひとりではない、きっと大丈夫と感じること、神様が守ってくれているということを、心で感じることです。といっても幻が見えるような、神秘的な体験というわけではありません。なんとなく感じるものです。自分は神様と何らかの関係にあると感じる感覚が大事です。信仰とは情報や理論ではなく関係性の問題です。私を知っている、私に深く関係を持っている神様が存在すると思う、それが知るということです。それが神様を知るということです。それは知識よりも体験、知識よりも経験、知識よりも感覚、知識よりも関係性です。私は神様の中にいる、温かさの中にいる、神のぬくもりの中にいる、それを感じることが、神を知ることです。あなたは自分も神が温かく抱きしめてくれると、そう感じるでしょうか?

 

愛に抱かれていると感じることが、永遠の命のはじまりです。信仰は「自分で頑張ること」ではなく、「守られていることに気づくこと」です。あなたは誰かに守られていると感じることができますか?

 

この神の愛を誰よりもこの地上にはっきりと伝えた人、それがイエス・キリストでした。イエスは神の永遠に続く愛を自分の態度で、自分の言葉で、はっきりと伝えました。イエスがこの世に来たのは、人々に神の愛を語り、また人々にそれを具体的に示すためだったのです。

 

イエスはその生涯で、神の愛に際限がないことを示しました。4節「業を成し遂げた」というのは、もう愛を伝えきった、自分の仕事は終わったという意味です。愛を伝える仕事をこの地上でやり切ったのだと言っています。イエスは地上での自分の仕事、人間に神の愛を伝えるという仕事をやりきった、と感じていたのかもしれません。イエスが神の愛を人間に教えたのです。

 

そしてこの後イエスにはもう一つ最後にしなければならないことがありました、それは十字架に掛かるという事でした。彼の伝えた愛は、時の権力者からは都合の悪いものでした。なぜなら上から抑えつける権力者には、平等で、あまねく人に永遠に与えられる愛は都合が悪かったからです。

イエスは権力者にとって都合の悪い愛を伝えたゆえに、命を失うことになります。しかしイエス自身もそれをわかっていたようです。自分はこのあと十字架で殺される、その前に神様にたくさんのことを語り掛けています。

 

そして気づかされるのは祈りの中でイエスは神のみではなく、同時に弟子たちをも見ているということです。イエスは弟子たちのことを祈っています。イエスは神様にこう祈っています。「この弟子たちはあなたの愛を知っています」「あなたにこの弟子を守って欲しい」「その愛を信じている」そして「彼らに喜びが満ち溢れるように」と祈っています。

 

これは深い愛の祈りです。このように私たちはイエスに祈られています。私たちは誰も一人でこの世界に生きているのではありません。イエスがあなたのことを祈っています。あなたは「守られるように」「人生に喜びが満ち溢れるように」と祈られています。あなたは今日それを聖書から読みました。それを心で感じることができるでしょうか?イエスに祈られているということを感じることはできますか?もしそれを感じることができるなら、知ることができるなら、信じることができるなら、あなたはもうすでに永遠の命を受け取っていると言えるでしょう。あなたがそれを信じられたら、どんな生き方になるでしょうか?

 

そしてもう一つ、あなたは祈られているだけではありません。あなたの人生には変化が起きるでしょう。それはきっと誰かのことを祈るようになるという変化です。あなたが誰かに祈られているように、あなたの守りと幸せが誰かに祈られているように、あなたも誰かのことを祈るようになるでしょう。自分が守られていることの安心と感謝だけではなく、私の仲間が世界の人々が守られることを期待し、祈るようになるでしょう。

 

あなたなら誰のために祈りますか?あなたは愛されているだけではなく、次はあなたが愛する番だとしたら、その祈りはどんな相手に対してですか?その人のために祈ってください。

 

黙祷をしましょう。耳を澄まして、心を沈め、永遠の愛と神様を感じましょう。今日の言葉に思いを巡らせましょう。

 

「洗足ー傷を見せ合える関係」ヨハネ福音書13章1~15節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝ができることを神様に感謝いたします。今月は特に初めて教会に来るという方に届く言葉を探しています。聖書は「~してはいけない」「~しなさい」という答えを押し付ける教科書ではありません。

聖書には人生が豊かになるヒントと問いがたくさん書かれています。ヒントと問いをみんなで考えてゆきましょう。答えではなく、「問い」を一緒に持ち帰れたらと思います。

みなさんはもし今、私が「あなたの足を洗わせてください」と言って、水を張ったタライとタオルをもって、あなたの前にひざまずいたら、どう感じるでしょうか?

「あ、今日…靴下に穴が…」そんなことを思うかもしれません。「こんな靴下を見られたら笑われるかもしれない」「今、足の爪が伸びている、分かっていればきれいにしてきたのに」・・・。足を洗ってもらうということは、あるがままの自分を見られるようで恥ずかしいと感じるでしょう。一度家に帰って、よく洗ってたくさんクリームを塗ってきれいにしてから人に見せたいと思うでしょう。それは、着飾った自分ではなく、隠しきれない『生の自分』をさらけ出すような怖さがあることかもしれません。あるがままの自分を見せるのは恥ずかしく、怖いものです。

少しだけ、問いを変えてみます。「この人なら洗ってもらってもいい」と思えるのは、どんな人でしょうか。あなたの汚いところや傷跡、長年抱えてきたものを、この人なら見せてもいい。そう思える人はいますか? 

では反対だったらどうでしょうか?もし今から、あなたが誰かの足を洗って下さいと言われたらどう感じるでしょうか?他人の足を洗うのも、小さくない抵抗があるでしょう。あなたには見られたくないと言われるかもしれません。あなたならいいと心をゆるし、足を差し出す人はいるでしょうか?あなたはその足を見て、これは汚いと言わずに、靴下に穴が開いていることを笑わずに、洗うことができるでしょうか?誰の足だったら洗うことができますか? 

足を洗うには深い関係が必要です。それは相手の痛みを、自分の手のひらで包み込むような、相手を丸ごと受け止めるような関係です。自分の足を洗われるということは、自分をさらけだすということだからです。洗うことも洗われることも、深い関係の中でこそできることです。

自分の足を洗ってもらうのに、この人だけは洗ってもらっては困るという人はいるでしょうか?私が足を洗われて一番困るのは、自分より目上の人、自分が尊敬している人です。自分の憧れの人にこそ、汚い足を洗われたくないと思います。

足を洗われるという関係には、相当な親しさが必要です。もし皆さんがお互いに足を洗ってもいい、足を洗ってもらってもいいと思える人がいるのなら、その人とはとても親しい関係でしょう。汚れている部分や隠している部分を見せてもいい関係、弱さを見せていい関係が、そこにあるのでしょう。今日は足を洗い合うという関係について聖書から考えてゆきましょう。

 

* * *

 

ヨハネによる福音書13章1~15節までをお読みいただきました。これは先生と呼ばれる地位のある人が弟子の足を洗ったという物語です。このことから私たちの生き方、私たちがどう生きるかを考えましょう。

当時から足を洗うというのは、今の私たちの感覚と同じです。嫌なこと、恥ずかしい事でした。2000年前、人々は舗装されていない泥だらけの道をサンダルで歩いていました。人々の足は私たちより、もっと汚れていたはずです。砂と汗と、長い一日の疲れが、その足にこびりついていました。奴隷や召使いは、客の足を洗う習慣がありました。家の主人のホスピタリティーとして、奴隷が足を洗ったのです。

しかしイエスはこの足を洗うという意味と関係性を、大きく変えようとしています。イエスはいわば主賓、メインゲスト、一番目上の人です。そのイエスが、弟子たちの汚れた足を洗うというのです。イエスがタライをもってきて、足を洗い、タオルでキレイに拭こうと、ひざまずいています。

弟子たちにとってこれは受け入れられないことでした。弟子たちはイエスとはそういう関係性ではないと直感しました。いつもお世話になっている先生です。先生の期待に応えたい、失望されたくない。プライドがあったはずです。先生の前ではしっかりした自分でいたいと感じました。先生の前では弱さを見せたくない。先生には自分の汚い部分を隠しておきたいと思っていました。しかし、それでもイエスは弟子の足を洗うと言います。弟子たちは困りました。決してそんなことをしないで欲しいと言いました。

しかしイエスは言います。「もし洗わないなら、あなたとわたしは何の関わりもないことになる」と。私とあなたの関係性は、この足をあらうという行為の中にあるのだと言うのです。イエスは弟子の足を洗うことによって、深い関係になろうとしたのです。「あなたの弱さや汚れを受け取らなければ、私たちは繋がることができないんだ」。イエスはそう迫ります。

少し角度を変えて考えましょう。イエスは「さあ俺の足を洗え」とは言わないお方でした。反対にイエスは弟子の汚れた足を洗おうとします。イエスは弟子にひざまずいています。イエスは弟子の足の指一本一本、指の間の汚れまできれいに洗い落としました。すべての弟子の足を洗いました。特に優秀な弟子の足を洗ったのではありません。とにかく全員の足を洗いました。そこにはこの後、自分を裏切ろうとしているユダという弟子の足まできれいに洗ったのでした。

そしてイエスは言いました「あなたがたは私のしたとおりに、互いに足を洗い合いなさい」それは「これからは、お互いの弱さを『絆』にして生きていきなさい」という意味でした。

この場面を、あなたはどう受け取りますか?最初の質問に戻ります。足を洗わせてくださいと言ったらどう感じるでしょうか?

イエスは私たちお互いに、足を洗い合う関係を求めています。イエスは他者との関係の“深さ”を問いかけています。あなたたちは、足を洗い合えるような深い信頼関係になれているかと問われているのです。

それは、私たちはお互いの傷も、汚れも、隠していることも、分かち合う関係になろうということです。人間とはいつも、お互いにいいところばかりを見せ合おうとするものです。できた箇所ばかり、きれいな写真ばかり見せ合って、喜びばかりを分かち合っています。

でも足を洗い合うとは、そうではありません。悪い事も、悲しい事も、痛みも傷も分かち合うということです。イエスはそのような関係ではなければ、何の関わりもないのと同じだと言っています。傷や痛みを分かち合わない関係、それではうわべだけの関係ではないかと言っているのです。

私たちにはよいところだけではなく、自分の傷や、痛み、弱さをさらけ出すことができる人がいるでしょうか?互いに足を洗い合いなさいという言葉は、それができる仲間づくりをしてゆきなさいという教えなのではないでしょうか?私たちは強がらなくていいのです。私たちは弱さや傷を絆にかえてゆくことができるのです。私たちには足を洗うということから、そんな生き方が示されています。

反対に、私たちは誰かの傷や、痛み、弱さに触れることがあるでしょうか?誰かからそれを打ち明けられることがあるでしょうか?あなたは隠していたはずの傷を見せてもいいと思われる人になることができているでしょうか。そんな風に信頼されているでしょうか?

私たちは今日の個所から問われています。私たちの生き方が問われています。それはあなたは他者とどのような関係を築いてゆきますか?という問いです。あなたはそのような関係を誰かと作ろうとしていますか?あなたは誰かに自分の傷や汚れを見せることができますか?あるがままの姿で歩き出す未来は描くことができますか?一番触れられたくない場所を打ち明けられる、そんな信頼をされる人になっていますか?誰かの傷や痛みを優しく受け止めることができる人になっていますか?そのようにこの物語から問われています。

そしてもう一つの励ましも受け取ってゆきましょう。私たちには神様がいます。もし神の存在を信じるならば、神の存在を仮定できるならば、神様になら遠慮せずに、何でも伝えることできるでしょう。神様という存在だったら本当の弱音を吐けるのではないでしょうか。神様と言う存在だったら、本当に汚い自分の足を遠慮せずに差し出せるのではないでしょうか?

私はその神様の存在を信じています。いい事も悪い事も、言葉にできないことも伝えることができる神様がいることを信じています。すべてを受け止めてくれる神様の存在は、きっと多くの人の人生を支えるものとなるはずです。お祈りします。

 

【全文】「大切なパン・無料」ヨハネによる福音書6章5~15節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること神様に感謝します。春は新しい事を始める方も多くいます。特に教会に初めて来る人を歓迎する期間としています。今日はこのあと主の晩餐という儀式があります。今日はあるパンについて、一緒に考えたいと思います。

私たちは毎月第一日曜日に主の晩餐という儀式を行っています。これはみんなで一緒にパンとブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会では、礼拝に出席している人なら、誰でもどうぞ、パンとブドウジュースを取ってくださいとご案内しています。これらの趣旨にご賛同いただける方はどうぞ取って食べてください。無料です。もちろんあなたには取らない自由もあります。

この儀式の目的は、手元の資料にも書いてあります。大きく分けて3つです。第二として書かれていることに注目をします。そこには主イエス・キリストとの様々な食事を思い出すためとあります。

私たちはこのパンを食べる儀式を2000年前から大切にしています。私たちはこのパンを大切なパンとして祈って感謝して食べています。でも私たちは、そのパンの価値をよく理解している人だけが食べてくださいというルールにはしません。そんな風にすると実は私も含めてよくわかっていない部分もあって、誰も食べれなくなってしまうからです。

私も含めて、十分にその重さが分かっていないのですが食べています。相応しくないのですが、でも食べています。食べて、なんとかイエスのことを分かろうとしています。3つの目的を思い出しながら、食べています。みなさんも価値が分からなくてもかまいません。何か大切なものらしい、そんな風に感じながら食べて下さればと思います。まずはぜひ体験してみてください。

私は先日、パン作りを初めて体験しました。みなさんはパンを作ったことがあるでしょうか?小麦粉をこねる作業からパンを作りました。素早く、力を入れてこねるのが大変な重労働で、腕の痛みを感じながら、それでもやめずに、ただこね続ける。20分間こね続けるという作業でした。ひとつのパンを作るのにこんな大変な苦労があるのかと私は驚かされました。そしてパンが出来上がりました。香ばしい香りのするパンが焼きあった時、とても胸が高鳴りました。そのこのパンは、私にとっては他のパンとは大きく違う、ひときわ思い入れのあるパンとなりました。

しかし焼きあがった時、ある人が言いました。「このパンを隣にいる別のグループに分けてはどうか?」。私は分けたくない人の顔を思い浮かべて答えました「このパンの価値や、苦労をわからない人にあげるはもったいない」「正直、あげたくない」「だって自分で苦労して作ったパンなのだから、その苦労や意味を理解している人に食べて欲しい」と思ったのです。でもその時、胸にはっとする思いが湧きました。自分も今の今までその苦労を知らなかったくせにと。そしてもう一つ気づきました。イエスはどうだっただろうか?と。

イエスはパンを価値が分かる人とだけ分かち合っただろうか?いや、違いました。イエスはどうしたでしょうか?今日はみなさんと、イエスがパンを分かち合う物語から、私たちがどう生きるべきか、愛とは何かを一緒に考えたいと思います。

 

 

聖書に目を移しましょう。2000年前に話を移します。ヨハネによる福音書6章5~15節までをお読みいただきました。ある時、イエスに従う5000人以上の人がお腹を空かしていました。そして食べ物も、それを買うお金もありませんでした。もしあなたが2000年前にそこにいたらどうしますか?

その時、ある一人のこどもが自分の持っている2匹の魚と5つのパンを差し出しました。子ども自身はその行動の意味、それが5000人に対してどれほどの量だったのかわかっていたでしょうか?大人たちは「これだけでは何の役に立ちません」と言っています。そのパンの価値をどう感じていたのでしょうか?それは無垢な子どものほほえましい善意でした。しかし必要に対して、あまりに少なすぎました。大人が思わず「何の役にも立ちません」と口に出してしまうほどでした。

イエスがどうしたかに目を移しましょう。イエスはただ「座らせなさい」とだけ言います。そしてそのパンと魚を取って、感謝の祈りを献げました。イエスだけがその役に立たないものに価値を見出し、感謝しました。イエスだけがその価値を知っていました。そしてイエスはその価値をさらに大きく変えようとしています。

イエスはこれは小さなパンだが、ただのパンではない、これは新しい奇跡を起こすパンだと信じて、感謝し祈りました。そして不思議なことが起こりました。パンと魚が増えて人々に行き渡ったのです。

弟子たちはそれをただ配る役割でした。弟子たちは、このパンの意味や、イエスの苦労がわかる人にだけ配ったのではありませんでした。感謝して受け取る人にだけ配ったのではありませんでした。いちいち確認しながら配ったのではありません。そもそも弟子たち自身も良く意味を理解していません。弟子は大切さが分かろうが、分からなかろうが、とにかくそこにいる、あまねく全員に配ったのです。性別や年齢、宗教も思想も問わない。とにかくそこにいた人、全員と分かち合ったのです。そして人々は満腹になったのです。

ここにはもう一つの驚きがあります。それはパンがなんと12カゴも余ったと書いてあることです。残してしまったのです。みなさんが2000年前にその場所にいたらどう感じましたか?ちょっともったいないと感じませんか?これは現代風に言うとフードロスです。イエスは、もったいないと思わなかったのでしょうか。食べ物への感謝が足りないと思わなかったでしょうか?この民衆はパンを食べて、満腹になってなお、このパンの価値が分かっていなかったのでしょうか?

彼らはそのパンをありがたく、ありがたくいただいて、あまらせるなんて、そんな罰当たりな事をしてはいけないとは思いませんでした。最後のパンくずまで残さずに、食べようとはしませんでした。

でもイエスはこのような人々とパンを分かち合った人でした。イエスは残してしまうほど価値を理解していない人、感謝の足りない人に配りました。イエスはそんな人々に、必要以上にたくさん与えたのです。分かち合ったのです。イエスは自分の力を、その価値を全く理解できない人々のために、有り余るほど使った人だったのです。

さて、この物語は私たちの生き方にどう関係するでしょうか?私たちの明日とどんな関係があるでしょうか?一緒に考えましょう。

私たちは、私が作ったパンの様に、自分が時間をかけたり、心を込めたりしたものを特別に、大切に思うものです。時間をかければかけるほど、大切なものになります。だから「わかってくれる人に渡したい」と思うはずです。でも私たちはそれを誰とでも惜しみなく分かち合うことができるでしょうか?

私たちにはそれを誰かと分かち合う時、必ず惜しいという感情がでます。しかし聖書によればイエスにそのやり方はそれとは違ったようです。イエスは有り余るほど他者に、自分の力を注いでいます。他者のために無償で汗をかきます。他者のために自分の力を使います。感謝されるかどうかに関わらず。それは私たちに何を示しているでしょうか?

私たちの生きる時代は、何でも値段のつく時代です。食事もマッサージも介護も、すべてが1回いくらと値段があります。代金を払うとこんなサービスを受けられると値段が設定されています。でもイエスは違いました。イエスは無償で、愛を、あまねく人に注いだお方だったのです。

イエスにとってはその価値が理解されようが、されまいが関係ありませんでした。感謝されようが、されまいが関係ありませんでした。それがこの食事だったのです。それがイエスの示した愛だったのです。

私たちはこのような生き方を選べるでしょうか?誰かに無償で愛を注げるでしょうか?価値を理解せず、感謝もせず、むしろ余らせてしまうような他者に、私たちは自分の大切な力を使うことができるでしょうか?私たちは、何度でも、何度でも、その他者に愛を注げるでしょうか?このパンの物語から、そんな生き方ができるかと問われているのではないでしょうか?

私たちはこれから主の晩餐という儀式を行います。このパンはとても大切なものですが、無料で、誰でも食べて良いパンです。その意味が十分に分かっていない私たちがとって食べます。きっとそこから何かが始まるはずです。

イエスの愛は無償で無条件です。イエスはお金や何かと交換で人々にパンを与えたでしょうか?このパンは、無償・無条件です。そのパンをみんなで分かち合いましょう。

私たちはこれからパンを食べます。あなたに愛を差し出したくないと思う相手がいるでしょうか?イエスはあなたの明日の生き方に、明日の愛に期待しています。あなたはそれを差し出すことができるでしょうか?私たちはこのパンを頂きましょう。お祈りします。

 

【全文】「目の前の人を大切にすることから始める」ヨハネによる福音書13章31~35節

 みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを感謝します。今月は春から初めて教会に来てみたという方に向けて、聖書の入門になるようなメッセージをしてゆきたいと思います。難しいことよりも、キリスト教の大切にしているエッセンスが伝わったらよいと思っています。15分程、今日の聖書の個所について、祈りながら私が感じたことを話します。あなたはどう感じるでしょうか?

 

今日の聖書箇所には「互いに愛し合いましょう」という言葉がありました。みなさんは誰かと愛し合っていますか?「愛している」なんていうと、なんだか照れくさいイメージがあるかもしれません。日本人は「愛してる」なんて口には出さないものです。愛し合うって何をしたらいいのかもわかりません。

 

この「愛」という言葉、あなたにとってどんな響きでしょうか?日本では愛という言葉は恋愛のイメージで受け取られがちです。年齢の違う人や、恋愛対象と感じない人、ましてや初めて会うような人を「愛しなさい」と言われるとなんだかむずがゆく、照れくさいと感じます。

 

聖書はもともとギリシャ語で書かれていて、それが日本語に翻訳されて手元にあります。愛はもともと、ギリシャ語でアガペーという言葉でした。聖書を日本語に翻訳しようとした人は悩みました。アガペーはどんな日本語に訳せばいいだろうか?と。

 

いつの間にかアガペー=愛するという翻訳が定着をしましたが、当初は「大切にする」という翻訳がされたこともありました。私はむしろ、その方がしっくりきます。聖書の愛、聖書のアガペーとは「大切にすること」と訳した方が受け止めやすいと感じています。

 

そうするとこの個所はどう読めるでしょうか。これは「互いに愛し合いなさい」ではなく「互いに大切にしあいなさい」という教えとも読めるようになります。そちらの方が、照れくささがなくなるかもしれません。みなさんは最近、誰かを「大切にした」ことはありましたか?

 

「互いに愛し合いなさい」とはすなわち、「互いに大切にしなさい」ということです。それは互いを尊重、リスペクトしなさいとも言えるでしょう。

 

もしかすると、愛することはできなくても、大切にすることならできるかもしれません。私たちには正直に言って、なんかちょっと気が合わないという人がいるものです。人生で出会うたくさんの人の中には、どうしても好きになることができない人もいるかもしれません。でも「大切にする」ことが大事なのだとしたら、無理に好きにならなくていいのです。愛さなくてもいいのです。大切にすることが大事です。それなら可能ではありませんか?

 

苦手な相手を深く愛し、大好きになろうとしなくていいのです。嫌いな相手を深く愛することは難しいでしょう。でも大切にすることならできませんか?

 

相手を大切にすることとはどんなことでしょうか?今、目の前にいる人を大切にするとはどんなことでしょうか。それは大きなことではなくて、小さなことから始まるのではないでしょうか。たとえば気持ちよく挨拶することや、笑顔でほほ笑むこと。愛は大きなことでなくていいのです。今日小さく集った私たちが大切にしあいましょう。

 

日本には「お大事にどうぞ」という言葉があります。最近、誰かにそう声をかけたことはありますか?あるいは、そう言ってもらって、少しほっこりしたことはないでしょうか?愛とは、もしかすると、そういう一瞬の出来事なのかもしれません。キリスト教ではこの「互いに愛し合いなさい」「互いを大切にしあいなさい」という教えをとても大事な教えとしています。

 

イエスはこの教えを自分に近い弟子たちに教えました。おそらく12人+アルファ。今日ここに集まっているのと同じくらいの人数に教えました。自分の元に集まっているごく少人数の弟子たちに向けて教えました。

 

人数が少なかったのは、実はイエスの活動があまり周囲に理解をされていなかったからでした。周囲に理解されなかったイエスは、まず目の前にいる少数の弟子が、互いを大切にすることから始めようと教えました。世界を救おうという話ではありませんでした。「なあ、小さなグループの私たちが、いま目の前にいる人を大切にしようよ」と呼びかけたのです。イエスによって、とても小さい範囲の愛が語られました。あなたとあなたが大切にし合いなさいと語られました。

 

それはとても小さい範囲の愛です。教会の中だとしたら、となりに座っている人を、まず大切にしようという呼びかけです。家族の中だったらお父さんお母さんや夫婦、パートナー、こどもやきょうだいを大切にしようという呼びかけです。イエスはこのようにまずそばに、目の前にいる人に目を注ぎ、小さい範囲の人を大切にするように教えました。

 

そしてイエスはそこから愛が広がると語っています。イエスはそこから愛が、その人が目の前の人を大切に思う思いが世界へとつながってゆくと語っています。イエスはこう言っています。「あなたがたが大切にし合う姿から、それによってイエスの弟子だとわかる」と。

 

これは私たちがそばにいる人を大切にしている姿から、イエスの教えが世界へと広がってゆくということです。私たちは顔の見えない誰か、人類全体を愛することについて何をすればいいかわかりません。でもイエスは、いまここにいる、あなたとあなたが大切にしあいなさい、そこから世界に愛が広がると教えているのです。

 

イエスは私たちの身近にいる、あの人との関係を、大切にしあうものにしてゆきなさいと教えています。一つの愛で急に世界が変わるわけではありません。あなたとあなたが互いに愛しあうことから弟子が増える、そこから少しずつに大きな愛が始まるのです。もっとよい世界のために目の前の人を大切にすることから、私たちは始める様にと言われているのです。

 

そばにいる人なら大切にすることは簡単に感じるでしょうか?実は聖書にはそばにいる人を大切にすることさえ難しいことだと書かれています。

 

実はイエスの「互いに大切にし合いなさい」という掟を守るのは難しい事でした。この後、聖書を読み進めてゆくとそれがわかります。イエスはこの後捉えられ、十字架という道具で死刑にされてしまいます。「私はあなたたちのこれないところに行く」という言葉はこの後、十字架に掛かって死んでしまうという意味です。

 

実はイエスが逮捕される時、弟子たちは逃げ、誰もイエスのそばにいなくなります。弟子のペテロはイエスを簡単に裏切ってしまいました。自分が大切にしてきたものを自分で3度も否定してしまったと書かれています。他の弟子も同じです。互いに大切にしあうように教えを受けた弟子たちは、イエスに追手が迫ると、イエスも仲間も見捨てて一目散に逃げ出しました。

 

互いを大切にしあうのではなく、互いにバラバラになって、散り散りになって逃げてゆきました。弟子たちは早速、大切にしあうことができなかったのです。この教えを聞いたすぐ後に、ちょっと状況が変わっただけで、目の前の人を大切にすることが、できなくなってしまったのです。

 

聖書はこのように目の前にいる人を大切にすることは、難しいことだと語っています。だから、世界の人が世界の人を大切にするのはもっと難しいのかもしれません。こんな戦争が絶えない世界なのは、私たちが身近な人を愛せないから、大切にできないからなのかもしれません。私たちが身近な人をもっと大切にできたら、世界はもっとかわるのかもしれません。でもイエスは世界は変わると言っています。

 

私たちは互いを大切にしてゆきましょう。互いを大切にしているサインを出しあいましょう。あなたとあえてうれしいという思いを言葉や態度で表現してゆきましょう。いきなり大好きにならなくてもいいです。嫌いだっていいのです。苦手のままでもいいのです。でも大切にすることはできるはずです。嫌いな人にでも互いの傷や痛みをいたわる気持ちは持てるはずです。そして初めて教会に来てくれた人を大切にしましょう。初対面の人を愛したりはできないかもしれません。でも大切にすることならできるでしょう。初めて教会に来た人と大切にしあいましょう。

 

今日初めて聖書の話を聞いた人はどう感じたでしょうか?私たちはこんな風に、あなたと隣に座る人が大切に思い合う、そんな気持ちがたくさんある教会になりたいと思っています。そこから世界が変わってゆくと信じています。ぜひあなたもその仲間の一人に加わって欲しいと思っています。小さい集まりですけれども「互いに愛し合いなさい」は小さい集まりからこそできることです。ぜひこの空気を一緒に作ってゆけたら嬉しいです。

 

神様はあなたにお客さんではなく、誰かを大切にする当事者として加わって欲しいと願っています。YouTubeを見ている人はどうでしょうか。今あなたのそばにいる人を大切にしてください。そしてどこでもいい、ぜひどこかの教会の大切にし合う仲間に加わってみてください。

 

すぐに世界を変えることはできないかもしれません。でも、目の前の一人を大切にすることならできるかもしれません。それが世界を変えてゆくのです。そばにいる人を大切にすることから、始めてみませんか。

 

聖書によればイエスは「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」と語ります。イエスがまず先に、あなたを大切に思っています。あなたはイエスに大切に思われています。その思いを胸に目の前の人を大切にすることから始めませんか?お祈りします。

 

【全文】「キリスト教入門」ヨハネによる福音書10章7~18節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共にみ言葉を聞き、礼拝できることを神様に感謝します。4月5月とキリスト教入門というテーマで宣教をします。この春から初めて教会に来られる方を歓迎します。一緒に、少しだけ「声」に耳を澄ませてみませんか。YouTubeで見ている方もいます。一緒に礼拝をしてゆきましょう。

私たちはみんな、何かの「囲い」の中で生きています。囲いは学校、職場、家族、教会、地域、友人などです。いろいろな囲いがあります。今、あなたはどんな囲いの中にいるでしょうか?それは大切な場所かもしれません。そして私たちはそこで誰かの「声」を聞いて生きています。誰かからの期待、評判、そういう「声」を聞きながら生きています。時に、その中の大きな声が囲いの中に響き、私たちを縛ることがあります。いっそすべての声と囲いから抜け出して、その外で生きたいと思うこともあるかもしれません。

21世紀です。今は、ひとりで生きることも選べる時代です。囲いから抜け出して生きている人も増え、どんな声にも縛られない生活を選ぶことができます。しかし一方で、社会では孤立の問題も深刻になってきています。囲いから出るのは自由。でも自由になると、誰かの声は聞こえなくなるものです。誰の声も聞こえないと、人は孤独を感じます。囲いと、声はある程度私たちに必要なものです。私たちには「自由な囲い」と「自由にさせる声」が必要ではないでしょうか?もしそんな囲いと声があるなら、そこに入りたいと思います。私は、私があるがままの私でいられて、本当の私でいられる囲い、私を幸せへと導く声のする囲いに入りたいのです。

教会はどうでしょうか?教会も様々な囲いのひとつです。多くの人から見て教会という囲いは、かなり異質です。あそこに行くとどんな声をかけられるのだろうかと不安になります。想像がつかない、怖い場所に思えるかもしれません。だから初めての参加者は緊張します。入って大丈夫だろうか? どんな声をかけられるのだろうか?教会は世間からそんな風にみられています。

でも、本当の教会は違います。教会はそんな怖い場所ではありません。まず私たちは囲いのために生きているわけではありません。囲いを守るために羊がいるのではありません。羊を守るために囲いがいるのです。

大切なのは、囲いではなく、そこに響く声です。一人ひとりの命なのです。聖書には命について私たちに何を示しているでしょうか?新しい命、自由な命、豊かな命が、どう示されているだろうか?聖書からどんな声が聞こえるでしょうか?見てゆきましょう。

今日お読みした箇所はヨハネ福音書10章7~18節(186頁)です。私たちはこの聖書を神様からの言葉・声として受け取っています。神様からの言葉・声は宗教の教義を教えることが目的ではありません。あれはだめ、これはダメという戒律が書かれたものではありません。

この聖書、神様の声は私たちがどうすれば人生を豊かに生きることができるかということを問いかけています。聖書は人生に問いを投げかける書物です。聖書にはあなたはどうすれば今より幸せに生きることができるかという問いかける声が並んでいます。人生の単純な答えが書かれているわけではありません。聖書には質問とヒントが書かれていて、その声に私たちがどう応えるかを問いかけられています。聖書とは、人生への問いかけの書です。私たちはどう生きるべきか?その問いを胸にもちながら聖書を読んでゆきます。

では7節を見てゆきましょう。イエスが「はっきり言っておく」と宣言している声が聞こえます。それは「私は門である」という声です。そして同時に「羊は私の声を知っている」とあります。イエスはこう言ったのです。「私は羊の門である」「羊は私の声を知っている」これが今日の中心メッセージです。これはどういう意味でしょうか?

羊は弱い動物です。すぐにオオカミなどの肉食動物に食べられてしまいます。弱いから群れを成します。そして特に夜に、肉食動物から守られる囲いを必要とします。昼は囲いから出て、自由に草を食べます。羊はそのために羊飼いの声をよく聞きます。羊飼いの声を聞いた羊は夜はその囲いに守られて、安心して眠ることができます。それが羊です。

イエスはそんな羊の光景に重ねて、自分のことを「羊の門である」と声を出しました。イエスは門なのです。イエスとは囲いの入り口にあたるということです。そして8節にはこうあります「門を入って、囲いの中に入るものは救われる」。

当然ですが、羊たちは囲いのために存在しているのではありません。羊のために囲いと門があります。そしてその門の入り口にはイエスが立っています。そしてイエスは門の外に向けて語っています。

さあ門から入っておいでと語っているのです。それは全ての羊に開かれている門です。イエスは誰でもこの門から入ってくるようにと招いています。わたしなんかが入っていいのだろうか?と思う必要はありません。イエスの方からすべての人を招いているのだから、ぜひ入って来て下さい。

イエスの門からその囲いに入るとはどんなことでしょうか?それはイエスの声に耳を傾けて生きるということです。それが「門に入る」ということです。これは「宗教に入りなさい」という意味ではありません。団体に所属すれば安心感があるというわけではありません。

門に入るとは、イエスとの関係に入り、その声を聞くようになるということです。イエスの声に耳を傾けて生きることが門に入るということです。門の中に入るとはイエスの示す生き方を生きるようになるということです。そうそれは、イエスの声に聞き、イエスの生き方という道に入門をすることです。イエスの声を聞き、生き方に入門をすることです。

入門した羊たちができることはどんなことでしょうか。羊たちは羊飼いの言葉を聞き分けることができるとあります。羊が羊飼いに従おうとするとき、様々な声が聞こえます。でも羊たちがイエスに従おうとする時、入門しようとするとき、その様々な声の中から、イエスの声を聞きわけることができるようになるのです。

そうです。イエスは今も、静かに、しかし確かにあなたに向かって語りかけています。あなたはその声を聞き分けることができます。その声は、誰かを責める声ではなく、あなたの名前を呼ぶ声です。「大丈夫?」と言う声かもしれません。「そっちでいいの?」という声かもしれません。その声はあなたにどのように生きてゆくのかを問いかける声です。神の声は全てを決めてくれる声ではありません。私たちはイエスの声を、自分に問いかけながら、イエスに従って生き方を選ぶ者です。イエスの声を聞きながら人生を決めてゆく者です。

教会は、ただの囲いではありません。教会は、その声を一人でなく、一緒に聞く羊の群れです。教会はみんなで安心してイエスの声を聞くためにあります。私たちはイエスの声を聞くための集まりです。イエスの生き方に従う集まりです。イエスを自分の羊飼いとする集まりです。私たちはイエスの声によって一つの群れになっています。ここに集う一人一人が、それぞれに幸せな生き方ができる様に、もっと声が聞こえる様に、私たちは群れで聞いています。

10節でイエス自身がそのことをもっとはっきり語っています。イエスはここで自分の存在理由を説明します。「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」とあります。イエスの目的ははっきりしています。イエスが来た目的は私たちがもう一度命を受けとりなおすためです。そしてその命をもっと豊かにしてゆくためです。私たちが幸せになるために、イエスの声が、あなたの命を導こうとしているのです。イエスの声は私たちの豊かな命のために、進むべき道を問いかけ、導いているのです。イエスは命がけでその声を伝えようとしています。

さて、私たちの人生に目を向けましょう。私たちがどう生きるかは、私たちが何を聞いて生きるかにかかっているのではないでしょうか?私たちは何を聞いて生きているでしょうか?イエスに入門した者は、イエスの声に聴き従うと決心した人です。

「イエスの声から新しい生き方を教えてもらおう」教会はそんな人の集まりです。すでにあなたに門は開かれています。あなたを縛るために囲いがあるのではありません。この門は全員が招かれているが、出入り自由な門です。そして何よりあなたの人生を豊かにするための門です。あなたの命がもっとあなたらしくなるための声を聞いてみませんか?

今日、みなさんにもイエスの声が聞こえたでしょう。「私は命を豊かにするために来た」その声はあなたをもっと自由にします。その声はあなたをもっとあなたらしくさせる方へと導いています。あなたにはきっともっとその声が聞こえるはずです。私たちはその声を少しずつ聞きながら生きてゆきましょう。その声は、今もあなたを呼んでいます。そして今、少しでもその声を感じているなら、それが、門の前に立っているということです。あなたには、聞こえていますか?あなたに門は開かれています。これから私たちと一緒に、その声を聞きませんか?きっとその声があなたの人生の光になるはずです。お祈りします。

 

 

【全文】「弟子を回復させるイエス」ヨハネ21章1~14節

みなさんおはようございます。休暇を頂き、今日、久しぶりにここで聖書の言葉を語る機会をいただきました。1月~3月と杉野先生やふじみ教会、役員のみなさんなど多くの支えによって教会が守られたことを感謝しています。休暇を頂き、本当にありがとうございます。

11月末に連盟理事会から平塚教会プロジェクト・否決という連絡を受けました。その時私には心がぽきっと折れるような感覚がありました。予想していた事ではあったのですが、それでも実際にその結果を突き付けられた時、とても大きな挫折を感じました。休暇に入りました。そして、私はひとつ決めました。「とにかく誰かに会おう」「誰かと一緒に食事をしよう」。牧師仲間や先輩に会いに出かけました。福岡では神学生時代の仲間が温かく迎えてくれました。福岡では西南学院大学の授業にも参加しました。福岡は私にとって、牧師へ献身するスタートの場所でした。その体験は私が牧師になるという志をもって学んでいた「初心」を思い出させてくれました。

たくさんの食事の中でも忘れられないのは、炭火で焼いたカキでした。炭火でカキが、ぱちぱちと音を立てます。それを食べながら自分の気持ちを聞いてもらったり、励ましてもらったり、昔話をしたり、仲間が頑張っている様子や葛藤している様子も教えてもらいました。

そんな風に私の献身の原点となる場所で、いろいろな人と一緒に食事をしていると、自分も心折れてないで、前を向いて一歩、歩み出そうと思えるようになりました。もう一度ここから始めよう、再スタートしようと思えたのです。それは私にとって回復の時でした。献身の原点に戻る、原点回帰する機会でした。これは後から知ったことですが、心理学的にも落ち込んだ時は、慣れている場所に行くことや、慣れている人と会うことが良いそうです。

こんな風に2か月を過ごしていました。このような回復の機会を平塚教会からいただいたことを感謝しています。また一から、新しくスタートする気持ちで始めたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

この経験のあと、今日の聖書を読みました。不思議なことに、弟子たちの気持ちが分かるような気がしてきました。聖書の物語を見てゆきたいと思います。

 

* * *

 

ヨハネによる福音書21章1~14節を一緒にお読みしましょう。弟子たちは、イエスに従って生きていました。自分の仕事を手放して、イエスに従う人生を送っていました。イエスの様になりたいと願って従っていました。しかし、弟子たちの見たものは、イエスの受難、十字架でした。弟子たちにとってそれはどんな出来事だったでしょうか?

それは弟子たちの心をぽっきりと折る出来事だったのではないでしょうか?さらに弟子たちは怖くてその場から逃げだしてしまいました。そしてペテロは3度イエスを知らいなと否定し、逃げました。自分自身に対して自己嫌悪も感じたでしょう。弟子たちはその十字架の後、何をしていたのでしょうか?イエスは3日後にはもう、弟子たちの前に復活し、現れました。しかし弟子たちは3日後から、すぐに積極的な宣教を始めたわけではありませんでした。イースターの出来事の後、弟子たちは実家のある地元、ガリラヤに帰って、元々していた職業、漁師に戻ってしまっていたのです。そこでかなりの時間を過ごしたでしょう。

弟子たちがガリラヤに戻り、漁師に戻るという行動は、伝統的な解釈では、信仰の弱さだと説明されてきました。弟子たちはイエスの復活を見たのに、やっぱり尻込みしてガリラヤに帰り、漁師に戻ってしまった。弟子たちはやっぱり弱い存在だったと解釈されてきました。しかし本当にそうでしょうか?実は私も似たような経験をしました。心が折れる時、元にいた場所に戻るという体験です。それはもちろん弱さからくるものです。でもただ弱かったのではありません。弟子たちは、大きなストレスを味わいました。そこから心を回復させてゆくには相当の時間と環境が必要だったのです。傷ついた弟子たちの行動は本能的なものでした。弟子たちはその傷から心を回復するために、一度いつもの場所に戻る、昔から慣れている場所に戻る必要があったのです。

弟子たちはそこで、原点回帰を体験したのではないでしょうか。そこに身を置くことで、そうだもう一度ここからやり直そう、私たちはここからスタートして、イエスに従ったのではないか。そう気持ちを新たにすることができたのではないでしょうか?再スタートするためには、ガリラヤでの回復の時間が必要だったのではないでしょうか?

そしてそこにイエスが登場します。イエスの登場はこうです。イエスはまず、自分だとはわからないくらいそっと現れます。誰も気づかないくらいさりげなく登場するのです。そして小さな声で優しく聞きます「朝ご飯は食べた?」「網を何回、下ろしても失敗だって?」「じゃあ私が言うちょっと違う方法を試してごらん」「きっとうまくいくよ」。イエスはそんな風にさりげなく登場したのです。復活したイエスは漁師たちの冷えた体を、炭火を起こして待っていました。

ここでひとつ気になる言葉が登場します。それは炭火という言葉です。実は聖書にも、たった2回だけ炭火という言葉が登場します。そのどちらもがヨハネ福音書です。1回目の炭火が登場するのは、ペテロが「イエスなんて知らない」と言ったあの夜のことです。そのときも、炭火がありました。ペテロは炭火の明かりでイエスの仲間だとばれてしまいました。そして炭火の前でイエスを三度否定したのです。炭火はイエスを否定する経験と結びついていました。炭火は心が折れた場所でした。

そして炭火が再び登場するのが今日の場面です。イエスはその朝、炭火を準備していたのです。そしてその上に、魚を載せて、パンも準備して待っていました。ペテロは、この炭火を見て何を思ったでしょうか。あの夜を思い出したかもしれません。そして今日の個所はペテロが三度、イエスを愛していると告白する場面につながってゆきます。ペテロは炭火の前で三度否定しました。そして今、炭火の前でイエスへの愛を三度、誓おうとしているのです。イエスの期待はペテロが自分の痛みを、もう一度主の前に差しだすことでした。そしてイエスの期待は弟子がそこから回復し、再スタートすることでした。

これはただの食事ではありません。それは折れた心を回復させるための食事だったのです。ペテロは炭火の前から逃げ出しました。裏切りました。心が折れたのです。でもそれを回復させるために、イエスは食事を準備し、再び炭火の前に招いたのです。炭火の上で焼いたパンと魚、それは冷えた体を温める、疲れた体を癒す、回復の食事でした。そしてもう一度、愛そうとする、立ち上がろうとする心を回復させる食事でした。そしてイエスとの関係を回復させる食事でした。それが今日の物語です。

ここでイエスがしなかったことは何でしょうか?イエスは弟子を全く責めません。ただ側にいて、炭火を起こしパンと魚を準備していたのです。

イエスのあり方から私たちの生き方を考えましょう。イエスは甘えるんじゃない、休んでいないで出発しなさいとは言わないお方です。イエスはまず弟子たちに休息を与えるお方でした。イエスは不安で立ち上がれない弟子たちに、どうしたらいいかわからなくなった弟子たちに、心折れた弟子たちに、そっと現れて、声をかけました。「ちゃんとご飯は食べてるか?」と。それが私たちの信じる、復活の主でした。弟子たちはその食事に本当に励まされたのです。ここから弟子たちの新しいチャレンジが始まってゆきます。それは原点からの再出発となりました。

他に、あなたはこの物語からどんな生き方を教わりますか?私には、もし疲れているならイエスがあなたを休ませてくださると聞こえます。そしてイエスの寄り添い方にも注目します。イエスはあなたが前に進めないとき、そっとあなたに現れて、あなたを励まし、回復させ、また送り出してくださるお方なのです。

あなたはそのようなイエス・キリストの弟子です。私たちは疲れている人がいる時、不安に思う人がいる時、心が折れるような体験をした人がいる時、失敗をしてしまった人がいる時にどのように関わるでしょうか?

イエスならわからないくらい、さりげなくそっと側にいたでしょう。そして「ちゃんと食べてる?」と気遣ったでしょう。一緒に温かい食事をし、絆を確認し、回復を助けたでしょう。食事にはそんな不思議な力があるものです。人は一緒に食べると心を開きます。誰かと食卓を囲むと孤独が少しやわらぎます。イエスは聖書の中で何度もそのような食事をしました。

私たちはそんな、イエスのような生き方ができるでしょうか?私たちは心折れた人の側にそっといること、ただ一緒に食事を囲むこと、誰かに温かさを届けるような生き方、誰かと絆を確認するような生き方ができるでしょうか? 私はそんなイエスのような生き方がしたいと思いました。私はこの物語に押し出されて、人生をもう一度スタートをしたいと思っています。お祈りします。

 

 

【全文】「休息をください」マタイ11章28~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして、みなさんと共に礼拝を持てること、神様に感謝をいたします。クリスマスに関係するいろいろな行事が終わり少しほっとしています。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声に安らぎをもらいながら、今日も共に礼拝をしましょう。

 

みなさんは最近、これは楽だ、道具を変えるだけでこんなに快適になった、買ってよかったと思ったものはありますか?新しいスポンジとか、あったかい靴下とか。私が最近これは便利と思ったのは、落ち葉を吹き飛ばすブロワーという道具と、片手で使えるチェーンソーです。

 

私は教会の庭の桜の木の落ち葉に悩んでいました。紅葉している木の葉を見て、あの葉が全部落ちて来ると思わず気持ちが重たくなりました。ほうきで集めるのが大変なのです。時間がかかるのと、腰が痛いのです。葉が落ち始めた時、ブロワーという機械を買いました。強い風が出て、落ち葉を吹き飛ばし、一か所に集める道具です。これを使うと落ち葉拾いはかなり楽になりました。時間も体力も半分以下で終わるようになりました。そして何より少し楽しい気持ちで落ち葉を拾うことができるようになりました。負担が軽くなると、同じ作業でも少し心が明るくなるものです。

 

さらに私は以前買った小型のチェーンソーでまだ紅い葉のついている枝を切ることにしました。道路側に出ている枝を切ったのです。これもかなり効果があり、落ち葉の数が大幅に減らすことに成功しました。道具一つでだいぶ楽になるものです。みなさんにもこんなことありますか?道具ひとつで、こんなに軽くなるんだと驚く時があります。みなさんが最近、肩の荷が少し軽くなった瞬間はどんな時でしたか?

 

落ち葉の季節は終わりました。この後しばらく植物もお休みの時です。植物は寒い間成長を止めて、休眠期となり、春に花を咲かせるまで力を蓄えます。おかげでそれまでお庭の仕事はありません。しばらくお庭の管理は休息が出来そうです。しばし、春までの静かな休息をいただきましょう。春になればまた草が生えてきます。またみんなで草刈りをしましょう。

 

皆さんは休息をどのように取っているでしょうか。もうすぐお正月休みという人が多いでしょうか。みなさんはお正月休みはどのように過ごされますか?楽しみにしていることをしたり、テレビを見たりしますか?寝正月という人もいるでしょう。家族や仕事のことでいつも以上に忙しいという人もいるでしょう。お正月とその前後が心と体を休める時となるように祈っています。実は私自身も、この休むという恵みをしばらくいただこうと考えています。

 

聖書にも働くことと休息についての話があります。そこには道具を変えるだけで、すごく違うよという話もあります。そして休息の話が出てきます。働くことと休息について考えたいと思います。

 

今日はマタイによる福音書11章28~30節をお読みいただきました。当時の人々は生きるために、休みなく働かなければなりませんでした。イエスはいつも貧しく、休みなく働かなければいけない人々を見ていました。そして疲れ果てた動物も見ていたはずです。疲れに押しつぶされそうになる、それは昔の人々に限らず、私たちもまた同じです。イエスは疲れた人々を目の前にして何かを語ろうとしています。

 

29節を見ると「私の軛(くびき)を負え」とあります。“くびき”とは、牛や馬が働くときに身につける道具のことです。軛に様々な農機具を付けることによって、土を耕したり、重いものをひっぱったりことができます。

 

動物にとってはつらい仕事です。そして軛にはよい軛と悪い軛があります。よい軛は力の入りどころにしっかりとかみ合っている軛です。しかし悪いくびきは体に合わず、痛みを生みます。うまく力が入らないのです。動物がその力の本領を発揮するには良い軛が必要です。当時の人々はこの言葉を自分や動物の体験に重ねて納得をしたでしょう。

 

私達もそれぞれにくびきを負う者でしょう。それぞれの人生で重たいものを引いています。イエスが新しい軛を下さるとは、イエスの励ましによって私たちは、本来持っている力を発揮し、前に進むことができるという意味です。自分が力の入る場所を見つけ、自分らしく進めるための助けです。自分に合う生き方のリズムのことです。何かを動かしたい、前に進みたいと思う時に、時にはまったく新しい運び方を示してくださるのが神様です。

 

私たちはどうでしょうか?私たちの人生にもどうしても前に進むことができない時があります。引っ張っても、押しても、すべての力を注いでも動かないことがあるものです。でも、イエスは言います。その方法でどうしてもダメなら、違う方法で前に進めない?ひとつの方法がだめでも、すこし違う方法にしたら前に進めない?そちらの方が軽くない?私たちにそう問いかけています。

 

私はイエスが私に、そして私たちの教会に、新しく前に進む方法を与えてくれると信じています。なかなか前に進まないことを体験しました。でも「何だ、こっちの方が良かったじゃないか(笑)」という方法を神様が示してくださることを信じています。神様がこんなつらい思いをしないで、もっと私たちに合った軽やかに前に進める方法を示してくださる、私はそう信じています。

 

そしてイエスはこの言葉の中で「休ませてあげよう」とも言っています。人間には誰しも、人生の中でもうダメだと心折れる時があるものです。神様はそのとき、今までの軛を変えて、負いやすいものにしてくださいます。「もう少し軽くなる方法で頑張ってごらん」と。それはとても優しい言葉です。でも人生にはどんなに荷物を軽くしても、引けなくなるときがあるものです。力が入らない時があるのです。そんな時にイエスは「私のもとで休ませてあげよう」と言ってくださるお方です。イエスは私たちに優しく「少し軽くしてみる?それでもだめなら休んでみる?」と語りかけています。

 

今日は28節の「休ませる」という言葉、そして29節「安らぎを与える」という言葉に注目をしたいと思います。この言葉はどちらもギリシア語のアナパウオーという言葉で、身体的、内面的な休息を意味します。このアナパウオーという言葉は“アナ”と“パウオー”の合成語です。語源から意味を考えると、アナは下から上へのニュアンスを持ちます。アナがつく言葉はたくさんありますが、例えば立ち上がる、復活する、元の状態に戻す、回復させるという言葉にアナが付きます。いずれも下から上というニュアンスです。

 

アナパウオーのパウオーはどうでしょうか。パウオーには中止させる、制止する、終わる、立ち止まる、待つという意味があります。

 

つまり28節の「休む」29節の「安らぎを与える」と訳されている言葉アナパウオーは“立ち上がるために終わる”“回復させるために一時的に立ち止まって息をつく”という意味です。そこから日本語では「休む」「安らぎを与える」という翻訳が充てられました。日本語の聖書はこのアナパウオーを様々な言葉に翻訳し分けています。例えばあなたは私をアナパウオーしたという時に、聖書では「あなたは私を慰めた」「あなたは私を元気づけた」あるいは「あなたは私を待たせた」などと訳されています。

 

聖書の言う「休む」「安らぎを与える」とは温かい言葉です。それは下から上へとまた起き上がるためにいったん立ち止まること、慰められること、元気が出るまで待つという意味を持っている言葉です。まるで、うつむいていた顔が、ゆっくりと上を向くような言葉です。

 

みなさんは、この「休む」という言葉にどんな風景を思い描きますか?それはいったん立ち止まって、深呼吸をして、気持ちを落ち着けることと言えるでしょう。不安が取り除かれることを時間をかけて待つとも言えるでしょう。それはまた前に進もうと思える時まで待つことと言えるでしょう。イエスはそのように私たちに「休み」の時を与えてくださるお方です。

 

みなさんの人生にはどんな重荷があるでしょうか。みなさんに勧められているのはまず軛を変える事、荷物が軽くなるようにしてみることです。でも、それでもダメな時があるでしょう。軽いからといって毎日引っ張ることができるわけではないでしょう。イエスはそんな時があるのを知っていました。イエスはそれでもだめならアナパウオーしなさいと言います。イエスは「休みなさい」「立ち止まりなさい」「時間をかけて前に進もうと思える時を待ちなさい」と言っています。

 

そうです。神様は、私たちの人生について、ずっと軛を負い続けなさいとは言っていません。時に休み、不安がなくなるまで、また前に進もうと思える時まで休む、神様はそんな時を下さるお方です。神様が私たちに休息を与えてくださるのです。そして私自身も今、立ち止まらなければ前に進めないと気づいています。だから私はこのアナパウオーの休息をしばらく受け取りたいと思っています。そして休む期間にまた、神様が導き、立ち上げて下さる時が来ると信じています。その間神様がこの教会を支えてくださると信じています。

 

私たちはそれぞれの疲れを神様の前に差し出しましょう。きっと神様が良い軛を与えてくださり、思わず笑みがこぼれるほど、重荷が軽くなる経験を与えてくださるでしょう。そして神様は私たちがまた立ち上がることができるように、私たちに休息の時間もまた備えてくださっています。どうしても力ができない時、私たちは勇気を持って休むこともひとつの方法ではないでしょうか?

 

今日の聖書のみ言葉をみなさんはどのように感じたでしょうか?1分間の黙想の時をもちたいと思います。ぜひそれぞれに今日のみ言葉を思いめぐらせてみてください。お祈りします。

 

【全文】「小さな愛が奇跡に」ルカ2章1~7節

みなさん、おはようございます。今日もこうして礼拝に集うことができること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さなこどもたちの大きな声と共に礼拝を献げましょう。そしてたくさんの方とこの後の食事会を持てること、うれしく思っています。

 

この1年間、私たちは様々な地域への活動をしてきました。こども食堂、こひつじ広場、こひつじまつり・・・。誰かの一日が、ほんの少しでも温かくなるようにと願って続けています。そして私たちに流れているキリストの愛が、そっと背中越しに伝わればと願っています。

 

平塚のたくさんの方がこの活動に賛同し、寄付を下さっています。ある方はパンを、ある方はお米を、ある方は野菜を、ある方は毎月自分の誕生日に献金を。支え合って生きる、ということを私たち自身が実感させてもらっています。地域のみなさんの小さな愛が積み重なり、私たちの想像を超える働きになりました。

 

時々教会には特別な困りごとを持った人が相談にきます。困りごとは様々です。日頃からそういう方に対応していると、そういう困りごとなら、あの団体が得意だ。そういう時はあの人に相談するといい。こういう時は私たちの出番だ。地域と協力できるようになりました。

 

平塚市内のいろいろな人と協力しながら、困りごとを持った方たちの支援をしています。言葉にすると地域で連携するという言葉ですが、それは仕組みではなく温もりでつながる関係です。このような方が今目の前にいるのですが、そちらは今、支援ができますか?こちらはこんなことまではできるけど。そのような、お互い様の助け合いで、他の団体と協力しながら地域の困りごとに対応をしています。

 

年末はこういった相談が毎年多くなる時期です。忙しさの中にこそ、イエスの愛の深さを思い知らされる季節でもあります。いつも以上に愛をもって向き合いたいと思っています。

 

聖書にもたくさんの特別な困りごとを持った人が登場します。今日はその困りごとを持った人を助け合う、支え合う、連携する、そんな視点で聖書の物語を見てゆきたいと思います。きっと物語の中にある愛を見つけられるはずです。

 

今日はルカによる福音書2章1~7節までをお読みいただきました。イエスが誕生する直前、父と母は住民登録をするためにナザレという町からベツレヘムという町に移動しなければならなりました。ナザレからベツレヘムの距離は約150km。今の距離で言えば、平塚から高崎ほどです。身重の母が何日も移動しなければいけない過酷な旅路でした。あなたなら、この距離をどうやって旅するでしょうか?何とか目的地ベツレヘムにつきました。しかし彼らには宿屋が無かったとあります。泊まる場所が無かったのです。

 

かつて教会で演じた劇が、今も心に残っています。聖書には詳しく書いていない空白を豊かな想像力で劇にしました。私が見た劇ではこうでした。父が宿屋のドアをたたきます。「泊めて下さい」。そうすると、いじわるな宿屋が出て来て「満室だよ」と言います。次の宿屋にもまた次の宿屋にも断られ、最後は家畜小屋に案内されます。そして母はそこで出産し、イエスはそこにあったエサを入れるカゴ、飼い葉桶に寝かされるのです。

 

劇は大変心温まるものでしたが、でももう一度今の私たちの目で、この空白を想像してみましょう。ベツレヘムは100人ほどの小さな村でした。そもそも宿屋は多くなかった村です。たとえあったとしてもすぐにいっぱいになったはずです。旅をしている人の多くはホームステイ、誰かの家に泊めてもらったのです。

 

このような背景から状況を考えると、宿泊先の候補は、元々宿屋ではなく、いくつかある大きな家の客間でした。でもおそらくその客間にもすでに先客がいたのです。そのような状況だったのではないでしょうか?

 

みなさんはこの物語の空白をどのように想像しますか?私はベツレヘムの町の人々は平塚の人々と同じ様に、温かい心のある人だったと想像します。これを優しさの物語と想像します。

 

父はベツレヘムの出身でわざわざ住民登録をしに帰ってきました。だとしたら、父を知っている人がいたのではないでしょうか?ベツレヘムの町の人々は意地悪で、無関心だったのではなく、もしかすると、優しさでいっぱいの人々だったのではないでしょうか?

 

村に入るとすぐに「あれ、ヨセフじゃないか?」そんな声がどこかで上がったかもしれません。「久しぶり。え?婚約して赤ちゃんがいるの?今夜泊まるところあるの?え?まだ決まってないの?泊まれるところがないかちょっと聞いてみようか?」小さな村ではすぐに、そして自然にそんな会話になったのではないでしょうか?

 

そこから地域の連携が始まったでしょうか?「あそこだったら泊まらせてもらえないかね」「あそこはどうだろうか?」「あの人ならこういう時どうすればいいか知っているはずだ」。思わず手を貸したくなる気持ち、愛が村じゅうを駆け回ったのかもしれません。

 

ベツレヘム中の人を巻き込んでこの夫婦とお腹の赤ちゃんをほっておけないと思いました。小さな愛が動き出しました。それでもなかなか宿屋も客間も見つけることができなかったのです。でも村の人々はようやく見つけることができました。「うちで良ければどうぞ。うちのひと間、こんな場所でよければ」そう言ってくれる人を見つけ出したのです。

 

決して満足のいく場所ではありませんでした。でもみんなで一生懸命探した場所でした。この人のためにみんなができることを少しずつ、でも精一杯しました。ベツレヘムの人は意地悪ではありません。みんなが愛を少しずつ出し合って、愛を少しずつ分け合って、なんとか夫婦の居場所を見つけたのです。そこで出産することになりますが、出産にも多くの人の手助けがあったはずです。小さな点と点が少しずつ結ばれ、一枚の絵になるように、村の人々は力を合わせていったのです。ベツレヘムのクリスマスとはそんな小さな愛が重なってゆく物語だったのではないでしょうか?

 

ゆっくり積み重なるもの、それは愛だけではありません。小さな過ちもまた、積もると私たちを傷つけます。私たちは知っています。小さな罪が積もると、大きな悪が生まれることを。気候変動も、人種差別も一人一人の行動が大きな悲劇を生んでゆきます。一人一人の小さな罪が大きな悪につながります。

 

でもそれは反対のこともまた同じだということも示しています。それは私たちの小さな愛が積み重なると、想像できないほど大きな奇跡が起こるということです。みんなのちょっとずつの愛は大きな奇跡を起こすとも言えるのです。一人一人の少しずつの小さな愛がとても尊い力へつながってゆくのです。

 

この物語の背景にもそれが隠されているのではないでしょうか?イエスは決して恵まれた場所に生まれた存在ではありませんでした。でもこんな場所で生まれて不幸だったとは決めつけてはいけません。イエスは、多くの小さな愛につつまれて生まれたのかもしれません。それはとても大きな幸せだったのではないでしょうか?

 

イエスの誕生は孤独で、誰からも大切にされない誕生だったのではありませんでした。きっとそこには、自分には何の責任もないのに、他人の困りごとに関わって何の利益もないのに、でも真剣に寄り添った人、真剣に隣人を愛した人が、そこにいたのではないでしょうか?

 

僕で良ければ手伝います。こんな場所でよければどうぞ。これで良かったら使ってください。そう分かち合う物語です。イエスの誕生は孤独で寂しい誕生ではありません。たくさんの人に愛されて、愛のバトンがつながれ、この地上へと生まれてきたのです。クリスマスはそんな小さな愛の物語だったのではないでしょうか?

 

みなさんはこの物語の空白をどのように想像するでしょうか?考えてみてください。もしあなたがベツレヘムの村の一人だったらどうしましたか?そこで、どんなことができたでしょうか?

 

時を超えて考えましょう。私たちは、周りにいる、ちょっと困っている人に、どんなことができるでしょうか?

 

あなたにはあなたの役割で忙しさがあるでしょう。あなたが宿屋になってすべてを受け止めなさい。聖書はそうは言っていません。その時、あなたの小さな手で今できるたった一つのことは何でしょうか?あなたが人の痛みに触れ、何かをしてあげたいと思った時、これならできると思うことはどんなことでしょうか?

 

その小さな手が愛と言うのではないでしょうか?このクリスマスの物語は、あなたができる愛とは何か?それを私たちに問いかけているのではないでしょうか?私たちはこの小さな愛を、もっと信じましょう。私たちは小さな愛を大切にしてゆきましょう。小さな愛が世界、この街をそっと変えていく。そんな物語を、私たちも生きていきましょう。

 

またみなさんは、誰からも助けがないと感じる時があるでしょうか?見向きもされず、置いて行かれていると思う時があるでしょうか?きっとそのときあなたに誰かが、小さな愛を持ってやって来てくれるでしょう。足りないものはたくさんあるけれど、一つではどうにもならないけれど、みんな集まれば大きな奇跡となる愛。あなたもすでにそれに支えられているのかもしれません。それに気づかずに、飼い葉桶で眠っているのかもしれません。

 

聖書とイエスは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と教えています。私たちにできる愛はなんでしょうか?それぞれに思いめぐらせてみてください。

 

【全文】「ファーストペンギンの信仰」マルコ1章1~13節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も、子どもたちの声に包まれながら礼拝をしましょう。アドベント3週目を迎えました。アドベントは、心がゆっくりとクリスマスへ向かっていく季節です。アドベンチャーも同じ語源だと言われています。

みなさんはファーストペンギンという言葉を聞いたことがあるでしょうか?さきほどのビデオで氷山の上のペンギンを見ました。氷の崖の上で、前に進むか戸惑い、身をすくませているペンギンたち、まるで誰かが最初に飛び込んでくれないかと待っているようです。あなたがあの崖の上にいたらどんな気持ちでしょうか?

そしてその瞬間が来ます。最初の一匹が水の中に飛び込みました。思わず「よくやった」と言いたくなる光景です。そうするとペンギンは次々に海に飛び込んでゆきます。ペンギンのアドベンチャーのはじまりです。このようなペンギンたちの中で、一番最初に飛び込んだペンギンはファーストペンギンと呼ばれます。

ファーストペンギンは、誰より先に“未知”へと足を踏み出す存在です。飛び込んだ水の中にはシャチやアザラシ、オットセイがペンギンを食べようと待っているかもしれません。これはとても危険なダイブです。ファーストペンギンとはこのようにもっとも危険を冒したペンギンです。このようなファーストペンギンは「勇気のある先駆者」の代名詞となりました。

私たちの教会もファーストペンギンと言えるかもしれません。地域との新しい関わりを求めて様々な取り組みを始めました。最初は他の教会から「そんなことをして本当に大丈夫?」と心配されることもありました。それでも今は多くの教会が地域とどのように新しい関わりを持つかを、それぞれに模索を始めています。

実は自然界のファーストペンギンは必ずしも勇敢な先駆者だとは限らないこともあるそうです。体を押しあっているうちに、思わず落ちてしまうケース。さらには2匹目が前のペンギンを蹴り飛ばすケース。性格的にまっさきに飛び込むケース。しかしいずれにしてもファーストペンギンは他のペンギンよりもかなり高い確率で他の動物に食べられてしまうのだそうです。

私たちの教会はそのような意味においてもファーストペンギンかもしれません。何か新しいことを始めようと思った時にそれは自分たちの決心だったのでしょうか?もしかするとやむを得ない事由が発端だったかもしれません。あるいは何か見えない力によって、後ろから蹴り出されたり、押し出されたりしたのかもしれません。平塚教会らしい自由さや柔らかさがそうさせた面もあったでしょう。

気づけば私たちも、大きな海へ押し出されるように踏み出していました。私たちの歩みがどんな実りを持つのかは、まだ誰にもわかりません。でも断崖絶壁ぎりぎりで踏ん張るよりかは、思い切って水の中に飛び込んで、自由に泳ぎ回る方がずっと気持ちいいような気がします。新しい宣教を始めるときは、その先頭に立つ教会が必要です。神様の福音の広がりは、ファーストペンギンとなる教会が必要です。神様と仲間に押し出され、時に状況に蹴り出され、神様を信じて飛び込む、そこに新しい宣教が生まれて来るのではないでしょうか? 

今日はみなさんと福音宣教の先駆者について考えてみたいと思います。バプテスマのヨハネは先駆者ファーストペンギンとして、この地上に現れました。その姿を見てゆきましょう。

 

 

今日はマルコによる福音書1章1~13節までをお読みいただきました。イエス・キリストが地上での活動を始める前の物語です。当時は多くの「自称キリスト」がいました。その中でバプテスマのヨハネは非常にユニークな存在でした。彼は「私の後にキリストが来る」そう伝える活動をしていました。

彼は言いました「水に沈み、古い生き方をいったん手放し、新しく歩み始めなさい」。それは水の中に体を沈めることをきっかけにして、自分の今までの生き方を新しくしなさいという教えでした。多くの人が先駆者バプテスマのヨハネに従って、水の中に飛び込んでゆきました。金持ちも、貧しい人も、男も女もあらゆる性の人が、新しい生き方を始めるために。先駆者バプテスマのヨハネに従う様に、まるで“もう一度生まれ直す”ように、水に身をゆだねていきました。

そして「私の後にキリストが来る」そう言っていたバプテスマのヨハネは、イエスに出会うことになりました。しかしその出会いはヨハネの想像するものとは違いました。気がつくと、イエスは人々と同じ列に静かに立っておられたのです。イエスは「私も同じ水に入る」と静かに言われました。そして他の人々と同じ様に、水の中に飛び込み沈む、バプテスマを受けたのです。イエスもそのようにしてバプテスマから新しい生き方をスタートさせたお方でした。

バプテスマのヨハネはその後どうなったでしょうか?彼はユダヤの王の行動に反対の声を挙げ、処刑されてしまいました。ファーストペンギンであったヨハネは、権力の前に孤独に立たされ、命を奪われてしまいました。

イエスもそれをよく知っていたはずです。最初に飛び込んだ者がどうなるのか。自分ももしこのまま活動を続ければ、どうなるのか。それはとても危険な冒険・アドベンチャーだと分かっていました。そこに飛び込めば必ず支配者から目をつけられ、命を奪われるだろう、イエスはそのリスクを知っていたはずです。しかしイエスはその活動を始め、やめることはありませんでした。

イエスはどのようなことを教えたでしょうか?その教えはバプテスマのヨハネと共通することが多くあります。他者と分かち合う事、平和的な行動を通じて社会を変える事は共通した教えです。そしてもちろんイエス独自の教えもありました。

ヨハネが強調したのは、悪と汚れへの厳しい裁きでした。しかしイエスはいつも罪人や病人と行動しました。イエスは弱さを持った他者をいつくしむ「愛」を強調したのです。ヨハネは荒野で孤独に生きるという方法を選びました。しかしイエスは町や村を巡り歩き、人々の中で他者と共に生きるという方法を選びました。ヨハネは良いものと悪い者を二つに分けようとしました。しかしイエスは善悪や汚れと清さを超えて、垣根無く共に生きるという態度を示しました。ヨハネは荒野でイナゴと野蜜を食べました。しかしイエスは人々と共に食事をする生き方を選びました。イエスの伝えたのは、他者を愛すること、他者と共に生きる事、そのような態度・行動だったのです。

イエスはその後どうなったでしょうか?イエスは、愛に生きる道を選びました。その愛ゆえに十字架へとかけられてゆきました。他者を愛する生き方を選ばなければ、そのような苦痛はなかったはずなでした。イエスは、他の誰かが愛を語り出すまで待っていれば、良かったのです。しかしイエスは一番最初に愛を語り、一番最初にそれを実行に移しました。そしてイエスは殺されてしまいました。

イエスは愛を語るリスクを、他者を愛する行動のリスクをヨハネの姿を見て、良く知っていたでしょう。でもイエスは愛に飛び込んでゆきました。愛することが危険で、痛みをもたらすと知っていました。それでもイエスが愛を選んだという勇気は、どこから湧いてくるのでしょう?この十字架は愛に身を投じた証です。そしてその愛の中を自由に歩もうとした証しです。十字架はイエスが愛に生きようと、この世界に飛び込んできた証しです。

2000年後の今、私たちに目を向けましょう。私たちはイエス・キリストに従い、新しい生き方を目指す、他者を愛す、そう決心し、洗礼・バプテスマを受けました。水の中に沈みました。でも本当に自分たちの決心でしょうか?きっとそれは見えない神様の力・聖霊に押し出されたという部分もあったのでしょう。私たちの思いを超えて信仰へと押し出された部分もあるでしょう。

いずれにしても私たちクリスチャンは水の中に飛び込んだ者です。様々な物から自由になって生きる、そこからアドベンチャーを始めた者です。イエスように他者を愛し生きる、その生き方には苦労とリスクがあります。他者を愛することで自分が傷つくことがあります。愛には痛みも伴いますが、その痛みの向こうに、関係がもう一度開く時があります。

みなさんにおたずねします。あなたが最近「愛するのが怖い」「愛に飛び込むのが怖い」と感じた時はいつでしたか?みなさんにとってこの1週間の中で“愛に向かって踏み出す小さな一歩”とはどんなことでしょうか?みなさんが今、恐れている愛の一歩はなんですか?大きくなくていいでしょう。誰かの話を聴くこと、祈ること、それらも立派な“愛へのダイブ”です。

私たちはもうすでに水に飛び込んだ者です。神に押し出され水に飛び込みました。すでに水に入った者として、自由に、愛に向かって泳ぐ者でありたいのです。アドベントの時、イエス・キリストの誕生を待ち望む時を迎えています。私たちは私たちの前に生まれ、愛に生きようと、この地上に飛びこんだイエスを、愛に生きる生き方に飛び込んだイエスを見つめています。

他者を愛する生き方、共に生きる生き方、分かち合う生き方へと歩み出したいのです。互いに支え合いながら、愛の海へ、もう一度飛び込んでみたいのです。愛へ飛び込むとは、恐れの中で他者を愛することです。あなたのペースで自由に泳いでいい海です。アドベントの光の下、もう一度、愛の海へと飛び込んでゆきませんか? 

イエスが選んだこの愛の道を、あなたはどう感じますか?1分間静かな時を持ちます。それぞれの祈りを神様に向けてゆきましょう。

 

【全文】「ショートケーキと福音」マルコ7章1~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、当たり前ではないことです。まずそれを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたち小さな足音や笑い声が響く、いのちの満ちた教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしましょう。クリスマスの前の4週間をアドベントと呼び、クリスマスを迎える心の備えをしています。街にも、心にも、クリスマスが近づいてきました。教会では21日にクリスマス礼拝とお楽しみ会を予定しています。たくさんの人と祝うことができるのを楽しみにしています。

みなさんはそれぞれの家でクリスマスを祝う予定はありますか?みなさんはクリスマスにショートケーキは食べますか?コンビニやテレビではクリスマスにショートケーキを食べませんか?予約しませんか?という広告があふれています。

私は最近、クリスマスにショートケーキを食べるという習慣があるのは日本だけだということを聞いて少し驚きました。日本でクリスマスにショートケーキを食べるという習慣は、不二家のキャンペーンがきっかけだったそうです。サンタクロースと色が似ている、紅白でお祝いにふさわしいということから、日本ではクリスマスの定番となったそうです。七面鳥を食べる習慣は、身近なフライドチキンに、家族で過ごすという習慣は、ロマンチックな日として恋人同士の日となりました。気づけば私たちは、日本独特のクリスマスを過ごしています。

でも形が変わっていく時というのは、本当に大切にしているものは何かを問われる時でもあります。「これだから日本人はだめだ」そう批判することは、とても簡単です。けれどもそれで何かが伝わるでしょうか。聖書にはサンタクロースもクリスマスツリーも登場しません。クリスマスが12月25日だったとも書かれていません。ショートケーキやチキンを食べるのが本当のクリスマスではありませんと言うのは簡単です。

でも私たちクリスチャンは日本の文化に対抗したいというわけではありません。私たちは今生きるこの日本の文化の中から、少しでもイエス・キリストが伝わることを願っています。何を食べてもいいのではないでしょうか。そして大切なのは「何を食べるか」より「どんな思いで迎えるか」ではないでしょうか。私たち自身がクリスマスをイエスが生まれた日という意味を忘れずにいることが大事です。クリスチャンにとって、騒がしさの中でも、イエスが自分の胸の中にいることを静かに感じる日とすればいいのではないでしょうか。

そして少しでも、ほんの少しでもこの日本のクリスマスからイエス・キリストが伝わればいいと思います。伝えたい。人生には希望があることとその安心を。伝えたい。心の支えとなるみ言葉を。この文化の中から、イエス・キリストが伝わってゆくことを祈っています。

伝統的に教会では「教会で本当のクリスマスを迎えましょう」と伝えてきました。しかしそこには“自分たちこそ正しい”という響きがあります。「教会だけが本当のことを知っていて、あなたは知らない、あなたは間違っている」という意味も帯びていました。こういったフレーズは相手の習慣の否定として響き、本当に伝えたいことを伝える機会を逃してしまっていたのではないでしょうか?私は他者の文化と習慣を尊重しながら、共存しながら、本当に大切なことを伝えたいと思っています。今日本にあるクリスマスの文化・ショートケーキの文化を大切にしながら、キリスト教の持つクリスマスの意味、イエス・キリストの希望を伝えてはどうでしょうか?

実は聖書にも、文化や習慣にずれが生じた時のことが書いてあります。2000年前の人もそれに悩んでいました。そんな時、イエスはどう語ったのでしょうか。今日はそこを聖書から一緒に見てゆきたいと思います。

 

 

 

聖書マルコによる福音書7章1~13節までをお読みいただきました。ある時イエスたちのもとにエルサレムから律法学者が来て言いました。「食事の前に手を洗わないのはおかしい」。これは私たちの習慣とも共通しています。衛生の観点から、食事の前に手を洗うのは当然のことです。しかし当時の人と私たちで手を洗う理由は大きく違いました。エルサレムの律法学者はこう考えました。体が宗教的な意味で汚れているから手を洗わなければいけない。日本風に言うと、手を清めてからではないと食べてはいけない、そうしないと汚れるといった意味です。

しかし食事の前に手を洗って汚れを清めなければならないという決まりは、聖書のどこにも書いてありません。聖書にはそのような記述は見当たらないのです。つまりそれはエルサレムの律法学者が考えだした習慣だったのです。ただそのようにすべきと考える人が、毎日している習慣だったというだけのことです。しかしエルサレムから来た律法学者は自分の習慣を押し付けました。自分のしている習慣を全員が守るべきものして、人々に「こうあるべきだ」「これが本当の食事の方法だ」「これが本当に正しい方法だ」と人々に押し付けたのです。このような習慣の違いには2000年前の人々も悩んだでしょう。

エルサレムから来た律法学者とは一体何者なのでしょうか?話の舞台となっているのは前の6章53節の続きから考えるとゲネサレトという町です。そこはガリラヤ地方の小さな農村です。つまりここで対比されているのは中央から来たエリートと地方の農民です。偉い先生が言いました「あなたは間違っていますよ」「汚れていますよ」「これこそが本当の食事の方法ですよ」「正しい方法ですよ」そうやって全国を教えて回っていたのです。どこもかしこも訪ねては、相手の習慣や事情を尊重しようとせず、否定して巡り歩いていました。なぜエルサレムのエリートの考えた習慣を庶民が守る必要があったのでしょうか?律法学者が本当に伝えたいことはなんだったのでしょうか?神様の愛?それとも自分たちの正しさ?自分たちの優秀さ?

イエスは6節で旧約聖書イザヤ書を引用してこう言います。「この民は口先では《神》を敬うが、その心は《神》から遠く離れている」イエスは相手の習慣を無視して、自分たちの習慣を押し付けようとした人に、その心は神様から遠く離れていると指摘しました。相手を間違っている習慣の持ち主と見下す姿勢は、神様から心が離れていると指摘したのです。

イエスが伝えた事、神様と心が近くなる事、それは互いに競って、互いの習慣を否定しあうことはではありませんでした。そうではなくイエスは互いを尊重し合うことで、神様と心が近くなると教えたのです。どんな習慣を持っているかは二の次です。イエスは互いを尊重し合う事こそが心が神様に近くなる事だと語ったのです。

コルバンの話も同じです。自分の家族や隣人と分かち合うべきものを神様に献げたと言って、分かち合いをしない人がいました。当然それで困る人が出てきました。神様へ献げたという言葉が、隣人への無責任・無関心の言い訳になっていたのです。神様にきっちり献げ物をしているのだから、人間への責任は果たさなくていいと言う人がたくさんいたのです。それは神様にさえ忠実であれば、どのような生き方をしてもいいという考えでした。

イエスはこれにも反対をしました。神様に献げる事、隣人と分かち合う事、神様と人、どちらの手も離さずに歩みなさいと。どちらも尊重にするようにと伝えたのです。イエスは神様だけではなく、互いも尊重をしあいなさいと伝えたのです。互いを尊重すると、心が神様に近くなるよと教えたのです。

この聖書の個所から私たちはどのようにクリスマスを迎える準備をしたらよいでしょうか?他人の習慣を否定し、押しつけようとすることは、私たちの中にも起こり得ることではないでしょうか?私たちは時々エルサレムから来た人になってないでしょうか?相手を知らない人、間違っている人と見下してしまうことはないでしょうか?

新しいものがよいとは限りません。伝統が悪いとは限りません。私たちは今ある習慣と、その本当の意味の両方を大切にしたいのです。今あるこの習慣を大切にしながら、その先にいる神様に、心を合わせてゆきたいのです。今の目の前にいる人と、その先にいる神様、その両方を尊重する時、神様に心が近くなるのではないでしょうか?

私たちは日本の文化に囲まれながら、ショートケーキと共にクリスマスを迎えます。私たちはそれを否定せずに、その中でどうクリスマスの喜びを他者と分かち合うことができるでしょうか?自分だけが神様に忠実にクリスマスを守ればいいのではありません。クリスマスに他者とどのように喜びを分かち合えるかも大切なことです。

クリスチャンである私たちこそ、そのような神様と人と両方を大切にする、本当のクリスマスを迎えることができるでしょうか?主イエスが地上に生まれた、それが私たちの希望です。貧しい私の心にイエスが来る、それを他者と喜ぶクリスマスを迎えることができるでしょうか?神様と向き合い、隣人と向き合うことができるでしょうか?私たちは身近な人と、あるいは隔たりのある人と互いの文化と習慣を尊重し合い、喜びを分かち合えるでしょうか?互いに愛し合うことができるでしょうか?

私たちはこの後、主の晩餐を頂きます。クリスマスの前に持たれる主の晩餐を特別に頂きましょう。ショートケーキではありませんが、パンとブドウジュースを頂きます。私たちの主の晩餐はすべての人と共に持たれます。神様の存在を感じながら、互いの存在を感じながら、このパンと杯をいただきましょう。

1分間静まる時を持ちます。どうぞそれぞれにこの聖書のみ言葉に思いを巡らせてください。お祈りします。

 

【全文】「愛を眠らせない」マルコ13章21~37節

みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、命を感じながら礼拝をしましょう。

今日からアドベントに入ります。キリスト教のカレンダーではクリスマスの前の4週間をアドベントと呼び、クリスマスを迎える心の準備をする期間、クリスマスを待ち望む期間としています。この時期が来ると1年はあっという間だったと感じます。今年もあと1ヶ月、やり残したことはなんですか?心に引っかかったままのことはありませんか? 

私が小学生の頃にあった、良く覚えている思い出を紹介します。私は母が出かけるので、一人で留守番をすることになりました。母は「帰ってくるまでに宿題を終わらせなさい」と言いました。私は「わかった」と応え、テレビを見ていました。母はドアの鍵をガチャっと閉めて出てゆきました。しばらくテレビを見ていて「そろそろ宿題をやらなきゃだめだな」と思いました。「早くやった方がいいな」と思いました。けれど、リモコンを持つ手が動かない。おもしろかったわけではないのに。しばらくしてまた時計を見て「ああ、もうやらなきゃ」と思いました。それでもテレビを消すことが出来ませんでした。こどもでもすべきことはわかっていました。テレビを消さなければならない。もうこれ以上テレビを見るべきでないことをわかっていました。「さあもう時間だ」「さすがにもう帰ってくる」「もうはじめないといけない」「このままだと怒られる」と思いました。そわそわした気持ちになりました。でもテレビを消すことができなかった。その瞬間、カチャッという鍵の音が部屋に響きました。私はあわててテレビを消して、宿題のノートを広げました。その後は覚えていません。怒られたのか?いまからやっているのか?と言われたのか。でも待っていた時のあの葛藤は、いまでも覚えています。そしていまでも似たような経験があります。

大人になっても変わりません。やるべきことを“やる”までの一歩が、なぜか重たい。さあやろうと思うまで、さあやろうと思ってから手を動かすまで、時間のかかる私たちです。格言のような言葉はたくさんあります。「いつやるか、今でしょ」「明日やろうは、ばかやろう」「始めたら終わったも同じ」「やれば終わる」…。分かっていても、なぜか腰が上がらない。そんな私たちです。そんな私たちを、神様はどんなまなざしで見ておられるでしょうか?やるのか、やらないのか、もどかしく私たちを見ているでしょうか?私たちはなすべきことがたくさんあります。それを終わらせたいのです。

年末が迫ってくると、改めてやめること、終わらせることというのは大事なことだと感じます。すべきでないことをやめる。なすべきことを終える。それは大事なことです。なすべきことが終わった時には心地よさ、すがすがしさを思い出して下さい。今、みなさんがなすべきことは何でしょうか?終わらせるべきことはなんでしょうか?今日は聖書から終わることについて、最後の時、終末の時について考えたいと思います。

 

 

今日はマルコによる福音書13章21~37節までをお読みいただきました。この個所はイエスが「終末」終わりの時について述べた箇所で、イエスの終末思想を示す箇所と言われます。キリスト教では長年、終末思想が大切にされてきませんでした。その理由は人類の文明が少しずつ発展してきたからです。だから“終わり”なんて、遠い先の話だと思っていました。人類の発展と共に、聖書の終末思想は忘れ去られてゆきました。しかしやがて、世界を舞台にした大きな戦争が起きるようになってきました。そしてついに核兵器が生まれました。世界で核兵器開発競争が始まります。人類を何度も絶滅させるほどの核兵器が存在するようになりました。文明が発展すれば世界は良くなると信じていました。けれど現実は違いました。

人間はその時、ようやく終わりに目が向くようになりました。終わらない神の愛だけに目を注ぐのではなく、終わってほしいものも、確かにある。戦争、核兵器、気候変動、男女格差、貧困、どれも早く終わって欲しいものです。早く終わらせるべきものです。ますます混沌となってゆく世界で、いつしか人々は、世界のゆがみの終わりを期待するようになりました。すべてが終わる時が来る、キリスト教の終末思想が再び見直されるようになりました。

私たちは誰一人取り残されることのない世界を求めています。私たちは完全な平和、完全な公平、完全な愛に満たされた世界を求めています。すべての争い、分断、不平等が終わる日を期待しています。でもそれらを終わらせることの難しさも知っています。世界のゆがみのすべてを終わらせるのは人間の力だけでは難しい、多くの人がそう感じています。だからこそ人々は終末の日を期待するようになりました。神様が起こす、完成の日、終末を期待するようになったのです。人々は終末を、平和な毎日の終わり、絶望の日ではなく、争いが終わる日、希望の日として待ち望むようになったのです。私たちはそのように終末を期待しています。終末を、希望の日として待ち望んでいます。

それは私たちの教会の信仰告白の11番「終末の希望」にも書いてあります。終末は希望なのです。戦争や不正義が正される、その時が来る、イエスは必ずもう一度来て、そのような完成・回復・正義をこの世界に起こしてくださる。それが私たちの終末の希望です。みなさんもそんな終末を待ちたいと思いませんか?悲しい事、不条理、不平等、それらに終わりがあって欲しい、そう信じたくありませんか? 

32節によると、その時がいつかは誰も知らないのです。その時を知るのは、神様お一人。いままでに何度も、いついつにそれが起こると言う人がいました。しかしこれまでは、それらはすべて嘘でした。私たちはどのように終末を待ったら良いのでしょうか?

34節のたとえではこうあります「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当て、責任を持たせる」と。主人は僕たちに仕事と責任を割り当てたのです。このたとえでは主人が返ってくるまで、僕たちはその家族の命と家、畑を守るように、それぞれに役割が与えられました。いつ主人が返ってくるかはわかりません。いつか主人が返ってくるその日まで、僕たちは命と財産を主人からゆだねられたのです。

僕たちにとっていつ主人が帰って来るか、何月何日か、これが兆候だと騒ぐのは無駄です。僕たちにとって大事なこと。それはただ慌てずに、自分に託された務めを、丁寧に果たしていくことでした。僕たちは役割を終えるために自分たちがなすべき事は何かを考えたのです。役割を果たすとは、未来を考えるということにつながります。僕たちは未来に、そしてその先にある“完成”に目を向けました。なすべきことが終わった未来、その未来を見ながら、今なすべきことに取り組んだのです。

クリスマスは、2000年前の過去にイエス・キリストが生まれたことを記念する日です。私たちは2000年前にイエスが生まれたことに目を向けます。でも私たちのクリスマス・アドベントは2000年前の過去の出来事を祝うためだけにあるのではありません。私たちは過去を振り返りながら、未来へと歩むのです。私たちは未来を見て、生きます。私たちは終末の希望を見て生きるのです。そして私たちはそれまで委ねられた役割を精一杯生きるのです。

主人が僕たちに与えた役割、神様が私たちに与えた役割とは何だと思いますか?具体的には書いてありません。イエスのこれまでの教えから考えましょう。イエスは隣人を愛して生きるということを教えました。神様が私たちに与えた役割、それは隣人を愛することです。私たちはすぐに隣人を愛せなくなってしまう存在です。まるで眠さに負けて、眠ってしまう人ように、私たちは気づくと人を愛することを忘れてしまいます。

36節「目を覚ましていなさい」。大事なのは私たちがその愛を眠らせないことです。私たちは愛を眠らせず、愛を目覚めさせ、愛をもう一度立ち上がらせましょう。例えば愛は、誰かの痛みに共感すること、人を励まし勇気づけること。愛は誰かの側にそっと寄り添う事です。私たちは1日1日を大切に生きましょう。今週出会う誰かを精一杯愛して生きましょう。それが神様が私たちに与えた役割ではないでしょうか?私たちは神様から他者を愛するという役割を与えられています。私たちは他者を愛しながら、この不完全な世界が完成する日、終末を待ち望むのです。アドベントのこの季節に、もう一度、心を澄ませて考えてみましょう。

私たちは今、何を終わらせるべきでしょうか?私たちが本当に終わらせるべきものを考えてみましょう。私たちは愛の無いことを止められることができるでしょうか?偽りの愛をやめることができるか?

私たちは今、何をすべきでしょうか?本当にすべきことは何かを考えましょう。私たちはどのように他者を愛することができるでしょうか?どのように神からの役割を生きることができるでしょうか?

イエスの語ったたとえでは、主人は、まだ帰ってきません。つまりまだ僕たちの役割は終わっていないのです。僕たちはまだ待ち続けています。役割を果たそうとしながら、祈りながら、他者を愛しながら、主人を待っています。私たちも神の僕です。この先に、きっと希望の終末が来ると信じて、歩み続けましょう。

みなさんには今日の言葉、どのように響いたでしょうか?どうぞ思い巡らせてみてください。お祈りします。

 

【全文】「望みを持って生きれるか」マルコ13章1~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は、希望のしるし。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。

みなさんには心のどこかに、今そっとうずいている“痛み”があるでしょうか?私たちには普段お互いに口にしない、人には簡単に口にできない悩みや痛み、不安がそれぞれにあるものです。本当に深い痛みは、人に話すどころか、自分でも考えたくなくなるものです。祈って欲しいと思う事こそ、伝えることができない難しさ、もどかしさがあるものです。私にも胸にひっかかっている失望があります。この教会の今後の計画についてバプテスト連盟の理事会と意見の相違があります。そのことに悩み、痛み、不安を感じています。もちろん感謝もしています。平塚教会のことで、たくさんの時間を割いてくれた。でも私たちの思い描く計画には届かないかもしれない。感謝と痛みが混ざった複雑な思いを持っています。教会の将来のことは、神様が導いてくださると信じます。でもやはり不安なものです。この先のことを祈ります。

私たち人間の人生には深い悲しみや不安があります。死別、挫折、不条理、人間関係、失敗、それぞれに深い悲しみがあります。私たちの人生には数えきれない苦しみがあります。そのような苦しみの多い人生の中で私たちは“希望”“望み”を持って生きることができるのでしょうか?今日は聖書から生きる希望について考えたいと思います。

 

マルコによる福音書13章1~13節までをお読みいただきました。当時エルサレムには荘厳な神殿がありました。その神殿はイスラエル全体の象徴でした。神殿はエルサレムの真ん中に立ち、金色の光を放つ巨大な建物でした。金色の神殿は太陽の光が反射するとまぶしくて目を向けることができないほど輝いたと言われています。神殿はユダヤの人々の誇りでした。信仰の中心であり、心のよりどころでした。繁栄の象徴でもありました。

一方、神殿には別の意味もありました。黄金の神殿は人々から集めた税金でできていました。その輝きは、多くの人の汗と涙の上に成り立っていました。人々の間には複雑な思いがあったはずです。私は十年ほど前、大阪でホームレスの方と夜の公園で話したことがありました。彼は高くそびえる高層ビルを指して『あれ、俺が作ったんや』と笑いました。その言葉に、私は胸をつかまれました。輝く建物の下には、見えない人たちの働きがある。その風景は、当時の神殿に重なるはずです。神殿は様々なものを象徴していました。

それは何の象徴で、何の結晶だと言うべきでしょうか?神殿は人々への重い税金で建てられた血と汗と涙の結晶でした。でも神殿は人々の信仰と神への確信の象徴でもありました。神殿は民族のプライドの結晶でした。それは祝福の光と、影の痛み、その両方を抱えた場所でした。神殿はきっと感謝と痛みが混ざり合った場所。すべての信仰とすべての感情が複雑に凝縮された場所、それが神殿でした。イエスはこの神殿を肯定的にはとらえませんでした。壊して3日で再建できると言ったり、神殿の経済システムに反対する行動をとったりしました。それは人々に大きな反感を起こしました。

エルサレムの人々が何よりも心を痛めることとは何だったでしょうか?それは自分たちのすべてを象徴する神殿が崩壊することでした。信仰も矛盾も誇りも、すべてを包含したもの、その象徴が崩れ落ちる時、人々は自分の心の柱までもが折れたように感じたでしょう。そしてそれは現実になりました。イエスの死と復活の後、西暦70年、神殿はローマ帝国によって徹底的に破壊されました。神殿は戦火の中で崩れ、燃え、ついには灰になってしまいました。エルサレムの多くの人が殺され、すべてのものが略奪されました。人々は神殿と家族を一度に失ったのです。そこには一つの壁だけが残されています。その壁は今でも「嘆きの壁」と呼ばれています。

人々の喪失感はどれほどのものであったでしょうか?これ以上ない喪失感。人々はまさにこれが終末、これが世界の、人生の終わりだと感じたに違いありません。マルコ福音書は神殿が崩壊した直後に書かれたと言われています。信仰の中心と家族を失った深い悲しみの中にある人に語りかけています。マルコ福音書が書かれた時代の人々は神殿を失い、世界の終わりと思えるような苦痛の時代を生きていました。聖書はその痛みに向けて、語られているのです。聖書は言っています。あなたにも、思いがけない苦しみが訪れる時がある。惑わす者、戦争、地震、食糧危機が起こる、それは苦しみのはじまりだ。鞭を打たれるような苦痛。家族の間のいざこざ。周りの人すべてから恨まれる経験。ありとあらゆる苦難があなたを襲うだろう。

しかし聖書は苦しみだけではなく、望みも語っています。その闇の中に細い光を見つけます。神殿が崩壊するずっと前、苦難が起こるずっと前、イエスが語っていた言葉があります。それが13節「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」という言葉です。イエスは『ただ耐えなさい』と言ったのではありません。イエスは苦しみの先に、救いが待っていると伝えようとしています。イエスはこの先に、絶望的な苦しみがいくつもある、それでもその先に必ず息をつける場所があると教えています。

当時、神殿崩壊を目のあたりにして失望していた人々は、イエスの言葉を信じることができたでしょうか?耐え忍ぶものは救われる、そのことを信じることができたでしょうか?戦争、飢餓、地震、家族の分断、挫折、失敗。その中で人々は神の希望を最後まで信じることができたのでしょうか?希望は続いてゆきました。今私たちの教会があるのは、希望が今まで続いてきたからです。人々はこれまで希望を信じることを諦めずにいました。その希望は続き、私たちにまでつながっています。最後まで耐え忍ぶ者がいて、今その希望が私たちまで続いているのです。

深い悲しみを意味する神殿崩壊を考えます。私たちにとっての“神殿”とは何でしょうか?心の中にある大きなもの、心の拠り所となる場所、大切に思っていた人、住んでいる家、職業、信頼していた人との関係、健康、お金。それらが崩れる時、それらを失う時、それは私たちにとっての神殿崩壊かもしれません。あなたには、どんな“崩れた神殿”がありますか。私たちが人生設計の前提にしていたことが壊れてしまうこと、それが私たちにとっての「神殿の崩壊」かもしれません。何かが終わり、もう戻らないと感じる瞬間。そのとき、私たちはどうやって立ち上がることができるのでしょうか。私にも、心の中で崩れ落ちるような体験があります。誰にも言えず、ただ夜中にため息だけこぼれた時期がありました。しかしそのたびに、もう壊れたと思った計画から、神様はまた新しい別の道を与えてくれます。それが有って欲しいと願っています。

私たちは苦しみや悲しみ、挫折の中で何を信じて生きるのでしょうか。足元が揺らぐ体験をするとき、私たちは何に頼って歩いていくのでしょう。私たちは神様がこの先に希望を準備していると信じ続けることができるでしょうか。信じられなくてもいい。ただ信じたいと思えるでしょうか?

神様が沈黙しているように思える時、祈っても返事がないように感じる夜があります。神殿崩壊の時がそうでした。祈っても応えが聞こえない。その沈黙に、どんな意味があるのでしょうか?イエスもまた苦難の中で沈黙の神と向き合った方です。10節にあるようにイエスは引き渡され、連れてゆかれました。そして十字架に掛けられ、沈黙の神と向きあいました。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んでゆきます。私たちはその意味を問います。でもそれはただの崩壊ではありませんでした。復活という光へとつながってゆきます。神殿が崩壊しても新しい教会が立ち上がったように、イエスが十字架で死んでも復活して再び立ち上がる様に、私たちには希望が待っているはずなのです。

あなたはつらい出来事が起こる日々、その中で神様が希望を備えて待っていることを信じることができますか?その希望まで耐えることができますか?しんどいかもしれません。一人で待つのは大変かもしれません。私たちは共に希望をもちましょう。あなたひとりで耐えるのではない。私たちは共に信じ、待ちましょう。苦難の中で、共にこの先に希望があると、信じましょう。私たちは互いに苦難の中にいながらも、共に祈り、共に希望へと立ち上がりましょう。希望を信じ続けましょう。神様の希望の物語はいつ私たちに始まるのでしょうか。私たちは仲間と、家族と、友人とどのように共にその希望を待つことができるでしょうか?どのように共に苦難を生きることができるのでしょうか?

いま、あなたの胸の奥で引っかかっているものは何でしょうか?言葉にならないその思いを、神様にならオープンにできますか?神様にその思いを差し出すとしたら、どんな祈りになるでしょうか?誰にも打ち明けられない思いを打ち明ける、そんな神様がいるということだけでも、すばらしいことかもしれません。私は信じたい。小さくても、かすかでも、この先に差す光を。一緒にその光を待ちたいと思うのです。1分間の黙想の時を持ちます。ぜひそれぞれがみ言葉から感じたことを、書いてみてください。お祈りします。

 

【全文】「励ましの言葉は清い」マルコ7章14~23節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に励ましをもらいながら礼拝をしましょう。11月からはマルコによる福音書を読んでゆきます。

 

みなさんは最近、誰かの言葉に心を刺されるような痛みを感じたことはありますか?あるいは誰かを傷つけてしまったということはあるでしょうか?夜、思い出して胸が痛む、あの一言を取り消せたらと願う夜がありませんか?

 

私はあります。何度もあります。言われた言葉が悔しくて眠れなかった夜があります。そして反対に誰かを傷つけてしまった言葉もあります。日々悔い、祈り、しかしまた語ってしまう。牧師としては致命的な欠陥と言えるでしょう。自分の牧師としての適性の無さを痛感しています。みなさんは周りの人にどんな風に言葉をかけているでしょうか?他者からどんな言葉をかけられているでしょうか?今日はそんなことを考えたいと思います。

 

マルコ福音書7章14~23節までをお読みいただきました。旧約聖書にはたくさんの食物規定が書かれています。大きく分けて3つの規定があるのですが、その一つが汚れた動物を食べてはいけないという規定です。

 

旧約聖書において汚れているとされる動物は、例えば豚が有名です。なぜユダヤ教・旧約聖書において豚が汚れていると言われるのかは諸説あるところですが、理由ははっきりしません。ライバル宗教の人が豚をよく食べていたからとか、豚が草食ではなく雑食だからとか、あるいは汚い場所に住むからなどなど。豚が汚れているとされる理由はいくつか考えられていますが、なぜ豚が汚れているのか明確な理由はわかりません。

 

ただ旧約聖書には問答無用で「豚は汚れている」と書かれているだけです。とにかくその言葉によってユダヤの多くの人々は豚を食べません。

 

私たちからすると変わった習慣に思えますが、これはユダヤの人々にとって非常に大事な習慣です。ユダヤの人々は歴史上、様々な外国勢力から侵略をされてきました。そのたびに自分たちの宗教や文化が奪われてきたのです。ユダヤの人々は何度も国を奪われ、そのたびに“自分は誰か”アイデンティティーを問われました。

 

自分たちが何者かを忘れないために、生ける命の神を信じる民であることを忘れないために、食物規定がありました。なぜ食べてはいけないのかという理由は重要ではありません。何を食べて何を食べないのか共通の基盤を持つことによって、人々は強く結びついていました。そしてそれは神様との結び付きを象徴するものでもありました。

 

どんなに外国に侵略されても、ユダヤ人であるというアイデンティティーは信仰と食物規定の実践によって支えられていました。例えばダニエル書には他国の王様に仕えても食物規定だけは守ったという話があります。食物規定は現代のユダヤの人々にとって大切なものですし、今もなお尊重されるべきものだと思います。

 

一方でイエスの時代、信仰を守るための掟が、いつしか人を縛るものになっていきました。そして徐々に、食物規定を守ることができない人々がでてきました。本来、食物規定は同じ仲間であることを確認するものだったはずです。しかしそれが分断の原因ともなり始めました。自分達の連帯を確認するはずだったの食物規定を、他者を排除する理由にした人がいたのです。そのように食物規定は分断の材料にされてしまいました。

 

イエスの時代、食物規定を守らない、守れない人は汚れた人、罪人と呼ばれるようになりました。食物規定を守らない、守れない人は、あなたは私たちの仲間ではないと言われ、一緒に食卓を囲むことを拒否されたのです。

 

イエスはどうだったでしょうか?イエスはその境界線を静かに越えられました。イエスが汚れているとされているものを食べたかどうかはわかりません。しかし律法を守らない、守れない、汚れているとされた人、罪人と呼ばれた人と共に食事をしたという記述は繰り返しあります。ユダヤ人からすると、それはタブーとされた行動でした。決して見習ってはいけない汚れた行動でした。イエスはその境界線を越えてしまったのです。その指摘は「なぜ罪人と食事をするのか」という言葉で聖書に残されています。

 

イエスは汚れていると言われ続ける人々と一緒に食事をしました。そのように食事をした上で言います。15節、人を汚すのは外からくる食べ物ではないと。イエスは神様が創造したものを食べるのだから、汚れるはずはないと言いました。どんなものを食べても、みんな同じように、全て腹を通って外に出てゆく、だから何かを守れないからと言って、汚れた人間だということではないと言いました。

 

この言葉は、食物規定の無い私たちからすると、当然の言葉のように聞こえます。しかしこの言葉、汚れているとずっと言われ続けた人々にとってはどんな響きを持ったのでしょうか?それはきっとその人々を勇気づける言葉、人々を強く励ます言葉になったのではないでしょうか?“汚れている”と呼ばれ続けた人々がいました。でもイエスは、私はその人たちを汚れているなんて思わない、それによって差別される必要はないと言いました。その言葉は、どれだけ人々を励ましたでしょうか?私はあなたの仲間だという言葉は、人々にとって大きな励ましになったはずです。イエスはこのように、分断ではなく共に生きることを目指したお方でした。イエスは、分けるより、つなぐ方でした。

 

そしてイエスは続けて言います。むしろ人間を汚すのは食べ物ではなく、人間の内側から、内面から出てくるものだと。人間の内側から出て来て、相手を汚すものとは何でしょうか?みなさんは何だと思いますか?

 

私の心に浮かんだのは、街頭で聞くあの荒い言葉でした。「外国人は出ていけ」「自分の国に帰れ」という言葉は、日に日に増えてきており、人々の心を蝕んでいます。さまざまな社会課題の原因を外国人に押し付ける言葉です。自らの不満をぶつける標的にしています。私たちの心からは、あんなに汚れた言葉が出て来るのです。そしてその言葉は相手も蝕む、他の人も汚すのです。

 

私はそういう性質を自分自身が持っていることを知っています。私が心無い言葉を語ってしまうのは、私が豚肉を食べているせいではありません。それは私の心・私の内側に問題があるからです。

 

私たちが何を食べるかはとても重要なことですが、私たちの口から何が出るか、私たちが何を語るかはもっと重要な問題です。私たちはどんな言葉を語るでしょうか?

 

みなさんにもおたずねします。最近どんな言葉を語っているでしょうか?私自身にも問いかけています。私の言葉は、相手の心を蝕む言葉となっていないでしょうか?それを自分自身に問いかけると言葉に詰まって、もう何も言葉が出て来なくなってしまいます。何を語ればよいのかわからず、言葉が出ません。

 

では、反対に考えてみましょう。私たちにとっての清い言葉とはどんな言葉でしょうか?相手を清める言葉とはどんな言葉でしょうか?清い言葉とは、貴族のように優雅で美しく、上品に話すことではないでしょう。

 

清い言葉。それは、イエスのように、誰かをそっと包む言葉です。傷ついている人を受け止める言葉です。仲間外れにされている人、居場所を求めている人を受け止める言葉です。相手をそっと励ます言葉です。相手の良さを引き出すような、勇気を与える言葉です。相手の中にある光を見つける言葉です。それを清い言葉と呼ぶのでしょう。

 

イエスの「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」という言葉、これはまさに清い言葉でした。追いやられた人を励ます、愛の言葉でした。そのような他者を励ます言葉こそ、清い言葉と言えるのではないでしょうか?

 

私たちが本当に語るべき言葉はなんでしょうか?私たちは、誰かを照らす言葉を語りたい。励まし、愛する言葉を。私たちは相手を清める言葉を。相手を汚れていると評価する言葉、相手を悪い点を指摘する言葉ではなく、相手を受け止め、愛し、励ます言葉を語りたいのです。

 

そして私たち自身もそれぞれの1週間で、誰かからの励ましを必要としています。私たちは他者からの励まし無しに歩むことができません。迷いや後悔を受け止めてくれる仲間。前へ押し出してくれる一言。その支えがなければ歩けません。私は私を清めて、励ましてくれるような言葉を必要としているのです。

 

だから私たちは互いに励まし合う人でありたいのです。神の子であるイエスが私たちに伝えたこと、それは互いを認め合うような、そして励まし合うようなの言葉を語り合う事だったのではないでしょうか?私たちは互いに聞き合い、祈りあい、励まし合う1週間を送ってゆきましょう。

 

私たちはこれから主の晩餐を行います。清い人だけがこのパンを食べるのでしょうか?そうではありません。このパンを食べるのは、内側にさまざまな痛みや傷を持った人、そして相手を傷つけてしまう鋭さをもった人です。

 

私たちは清いからこのパンを食べるのでしょうか?そうではありません。清くない私が、この愛のパンに招かれています。

 

このパンを食べると清くなるのでしょか?そうではありません。これはイエスが汚れていると言われてた人々を、受け止め、励まし、愛を語ったことを思い出すために食べるパンです。

 

私たちはこのパンを食べて、イエスの温かい抱擁と、励まし、愛を受け取りましょう。そして私たちもイエスのように、他者を励ます者として生きてゆくことができるように、願いながら食べましょう。神様は今日、全員がパンを食べ歩みだすことを導いています。このパンを食べて、互いを愛し、互いを励まし合いましょう。1分間の黙想の時を持ちます。それぞれにこのみ言葉に思いを巡らせましょう。

 

【全文】「キリスト教と葬儀」マルコ12章18~27節

みなさんおはようございます。今日もご一緒に礼拝できることを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の声と命の息吹に包まれながら礼拝をしましょう。今日は特に、召天者記念礼拝としてこの礼拝をもちます。神様の前で“命”を思い起こしながら、すでに神様のもとにある仲間たちを、静かに思い出す礼拝です。

 

みなさんは自分の“命の終わり”を想像したことがありますか?肉体は火葬されて骨になり、お墓に納められます。では肉体以外のものはどうなるのでしょうか?そもそも私たち自身の存在には肉体以外のもの、霊や魂といったものが、あるのでしょうか? 

 

みなさんはもし自分が死んだら、どんなお葬式にしたいですか?たくさんのお友達に囲まれて、お見送りされたいと思う人もいます。ひっそりと家族だけでいい。葬儀なんてしなくてもいいと思う人もいます。

 

ご遺族や周囲はどうでしょうか?死別の別れと悲しみは長く続くものです。何か区切りとなるものがあった方がよいでしょうか。たくさんの人が葬儀に来て、自分の家族が愛されていたと知ることは大きな慰めになります。一方、ひっそりと家族だけで別れの時をもった方が、慰めとなる場合もあります。もちろん、ご遺族の負担を考えると、葬儀をしないという選択もあるでしょう。その静けさにも深い祈りがあります。いろいろな考え方があります。どれも大事な思いとして、尊重し、受け止めたいと思っています。

 

キリスト教の葬儀は、ただ亡くなった方を送る儀式ではありません。悲しみの中にあっても、そこには不思議な静けさと温もりがあります。「ありがとう」「また会う日まで」。言葉にならない祈りが満ちてゆく時間です。たとえ悲しみの中でも、そこには感謝と希望が響きます。涙と賛美がひとつになる場所――それが教会の葬儀です。

 

教会の門の前に、新しい看板を立てました。そこにはこう書きました「ここで、キリスト教式の葬儀ができます」と。私たちの教会ではクリスチャンかどうかに関わらず、地域の方がキリスト教式の葬儀をすることができます。

 

教会で行うキリスト教の葬儀は、毎週日曜日の礼拝と同じ形式で行われます。今日の礼拝と仏式のお葬式を比較すると、その違いが分かるでしょう。私たちはお線香をあげませんし、お経も唱えません。その代わりに歌を歌います。神様に向けて。心をこめて。葬儀で、慰めと平安を神様に求め、歌を歌います。

 

そして聖書を読むというのも特徴でしょう。悲しみの別れの中にあって、聖書のことばから、この悲しみのどこに神様の愛があるのかを探します。そして私たちは亡くなった方の命を、神様に感謝します。キリスト教の葬儀には3つの特徴があると言えるでしょう。賛美があり、聖書の言葉があり、祈りがあります。悲しみの中で、神の愛を探す時間――それがキリスト教の葬儀です。

 

キリスト教は死をどのようにとらえるでしょうか。はっきりとこうなると書いてある箇所は少なく、断定してお伝えできることは多くありません。しかしキリスト教は死をすべての終わりとは考えません。死んでしまっても、すべてがなくなるわけではなく、その存在は神様のもとに帰る、そして永遠に神様のもとにい続けると考えます。そこには先に亡くなった方もおられ、別れた方ともまた会うことができると考えられています。

 

キリスト教にとって“死は終わり”ではありません。神様が下さった命の旅の“通過点”です。神様によって命が与えられ、地上の人生があり、死があります。そして死の延長線上にも、その先があり、命は続いてゆくのです。神様が地上での生活を導いたように、死の向こうでも神様が導きつづけてくださいます。ずっと永遠に、神の導きのうちにいるのです。変わることなく。それがキリスト教の命のとらえ方です。

 

神様のまなざしの前には、“生きている者”も“死んだ者”もありません。それはただ“愛される存在”として見つめられています。生きていても、死んでも、何か大きなことができても、何も出来なくても、悪いことばかりをしていても。私たちは神様の愛のうちに生きる者なのです。

 

神様の愛は変わりません。これは永遠と言えるでしょう。そして永遠は時間の長さだけを表すのではありません。それは関係の深さでもあります。神様の絶えることのない愛が続くのです。キリスト教の葬儀・礼拝も神様のこのような変わらない愛を確認する時です。その愛から慰めを受け取り、神様に祈る場所、それが礼拝、葬儀です。

 

教会も神様のように、亡くなった方の命と、残された方の涙の両方に、そっと寄り添いたいと思っています。そこにはきっと無宗教よりも大きな慰めがあるでしょう。教会は毎週、神の愛を確認し、心のやすらぎが得られる場所です。もしこの教会で葬儀が出来たなら、きっと神の愛、心のやすらぎをしっかりと感じられるはずです。

 

私は信者であってもそうでなくても、ぜひみなさんの葬儀を教会でさせていただけませんか?と思っています。ぜひみなさんご自身の葬儀、ご家族のご葬儀をこの教会ですること、考えてみて欲しいです。きっと、神様の元に帰り、永遠に神様の愛の中にいることを強く感じることができるはずです。

 

 

今日の聖書箇所を読みましょう。聖書から生きること、死ぬこと、そしてその後のことを考えます。マルコによる福音書12章18節~27節までをお読みいただきました。

 

難しいことが書かれています。ゆっくり紐解きましょう。イエスはサドカイ派という人から挑戦を受けています。それは人間は死んだらどうなるのか?という問いです。サドカイ派の人たちは18節にもあるとおり「死んだら終わり」と考えていました。彼らにとって、死後の世界は“無”でした。現代の私たちにも、似た考えを持つ人がいるかもしれません。そしてそれに加えてサドカイ派の人々は、まさか死者が生き返ることなどないと思っていました。もしそんな風に人間が生き返ったら、誰が誰と夫婦になるのか、社会が大混乱するではないかと考えました。だからサドカイ派の人々は人間というのは、死んだら終わり、その存在は消えてなくなるのだと主張しました。

 

イエスはそれになんと応えるでしょうか?27節でイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」と言います。イエスもやはり、死んだらその存在は終わりだと思ったのでしょうか。神様とは生きている人間にのみ関係する方で、死んだ人には関係しない方なのでしょうか。イエスもこのように言っているように聞こえます。

 

しかしゆっくり読むと違うということに気が付きます。26節には「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉があります。アブラハム、イサク、ヤコブとは聖書に登場する、有名なご先祖にあたる人です。もちろん彼らはもうすでに、数千年前に地上の生涯を終え、死んでしまった人々です。イエスは、神様とはすでに地上の生涯を終えたアブラハム、イサク、ヤコブの神であると言っています。

 

つまりイエスが言っているのはこうです。神様は、生きている者の神様だ。そしてイエスはアブラハム、イサク、ヤコブは死んでいないのだと考えています。あのご先祖は、神様のもとで今も生きているのだというのです。

 

イエスは言われました。「彼らは今も、生きている」神の愛のうちに。そして神に愛され、大切にされ続けているのだ。そう、人の命は生きていても、死んでしまっても終わることなく続くのだ。神様のもとで永遠に生き、大切にされるのだ。死んで終わりだと思うな。それは大きな思い違いだ。と言っているのです。このように人は神のもとで、永遠の愛のもとで生かされ続けてゆくのです。みなさんはこのような死生観、宗教観をどう思うでしょうか?

 

私は自分の命をそこまで受け取り、大切にしてくれる方がいることをとても嬉しく思います。死んでしまっても、その先にも良いものが待っている。死は怖いですが、そのことを少し楽しみにも思います。みなさんはどうでしょうか?

 

今日はたくさんの方の写真を飾っています。この方たちは地上での生涯を終えた人たちです。地上での生涯は死を迎え終わりました。しかしこの方たちにイエスが伝えている確かな事。それはこの方たちは、神のもとでずっと生きているということです。

 

確かに地上での命は終わりました。一人一人の人生にはうれしい事も苦労もたくさんあったでしょう。そして今は、神様のもとにあって、生きています。そして神様はずっとその存在を大切に思い、愛し続けています。

 

私たちはそれを、永遠の愛と呼びます。神の愛が命を超えて続く、その愛を。神様は生死にかかわらず、能力や地位に関わらず、ずっとあなたの存在を、永遠に大切にし続けお方なのです。あなたは死んでも、なお愛のうちに生きる者として、神様の愛のもとに生きるようになるのです。今日の聖書の個所はあなたの命をそのように語っています。

 

この写真の方々も深くて永遠の神の愛を感じて、満たされているでしょう。

 

そして私たちはその永遠の愛を、死んでしまった後だけではなく、生きている今もたくさん感じることができるはずです。礼拝の時も、葬儀の時も、賛美をするときも、静かに祈るときも。神様の永遠の愛を感じることができるはずです。愛する人を思い出すたびに、その人を通して神の愛を感じることがある。それも永遠の愛の証です。

 

みなさんは地上の命が終わったらどうなると思いますか?神様は今もあなたを愛し、死を越えても、その愛は途切れることがありません。そのような永遠の愛が本当にあると思いますか?あって欲しいと思いますか?永遠の愛の中に生きたいと思いますか?私はすでにあなたの命が神様の永遠の愛のうちにあると信じています。

 

1分間静かな時をもちます。心の中に浮かぶ言葉を、カードに書いてみてください。神への思いを、そっと形にしてみてください。

 

 

【全文】「教会とSDGs あなたのお金を何に使いますか?」マタイによる福音書25章14節~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をいたします。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

 

今月は教会とSDGsという不思議な組み合わせを見つめています。でもこの17個の目標は単なる目標ではなく、わたしたちにとっては17個の“祈り”です。

 

今日はSDGsの中の10番「人や国の不平等をなくそう」について考えます。SDGsは個人や国だけに行動を求めるものではありません。特に企業には環境、社会、統治の3の責任が問われています。これは頭文字をとってESG経営やESG投資などと呼ばれます。企業が経営や投資を行う時には、ただ利益が生まれるかどうかという基準だけではなく、環境を壊すビジネスではないか、社会に貢献する事業かどうかを考慮して経営や投資をすることが求められています。

 

企業はただ利益追求をすること、自分たちの企業が大きくなることだけを考えていてはいけないのです。例えば工場を経営する企業であっても、それを運ぶ人、売る人、買う人、ゴミ、環境や社会に良いものに目を注ごうという考え方です。環境を壊したり、社会問題を起こしたりして、誰かの涙の上に、お金を積み上げていないか――それを問うのです。SDGsの達成につながる大事な視点です。

 

聖書はこういったSDGsあるいはESGについて何か言っているだろうか?今日はタラントンのたとえから考えたいと思います。

 

聖書を読みましょう。今日はマタイによる福音書25章14~30節をお読みいただきました。あるとき大金持ちがいました。大金持ちは贅沢な旅にでることにしました。そして3人の僕を呼び出します。3人と面接をし、それぞれの能力を見極め、それぞれに資産を預けることにしました。1タラントンは6000日分の給与に相当します。人間が約20年分働いたの収入です。当時の寿命から考えると生涯賃金ともでも言える金額だったでしょう。自分が一生働いてようやく1タラントンでした。このお金持ちは8タラントンを3人に預けました。

 

僕たちはお金を預かりました。主人からな何も指示がありません。しかし、僕はそれを受け取った瞬間に分かりました。私はこのお金を増やすことを期待されている。主人が戻ってくるまでにこの預かったお金をもっと増やしていないといけない。できないと追い出される。そう察して、すぐに資産運用を始めました。

 

主人はどれくらいの期間、旅に出たのでしょうか?数か月?それとも数年?贅沢旅行から戻ってきました。そして主人は戻ってきて僕たちの運用実績を確認します。3人のうち2人の資産は倍増していた。「すばらしい」「よくやった」主人は喜びました。そしてもっとたくさん与えました「何をすればいいか言わなくてもわかるな?」

 

しかし一人は風変わりな僕でした。その僕はなんと1タラントを丸ごと、土の中に埋めていたのです。増えることも減ることもありませんでした。主人は怒りました。「何をしているのだ!銀行にでも預けておけば、少しは増えたものを!この愚か者!」「こいつにはもう何も与える必要はない。外の暗闇に追い出せ。そこで泣いていろ!」

 

物語は、あっけなく途切れます。

 

さて、この個所は教会では長らく、スチュワードシップ月間に語られる箇所でした。伝統的に、このタラントンの教えは、私に与えられたお金や才能を活かすことが大事であると教えられてきました。教会は「あなたの中に眠るものを、土の中に眠らせないで使いなさい」と教えてきました。お金を持っていたらささげよう。時間や体力があったら教会のために奉仕しよう。献金しよう、良い信者になるための勧めとして語られていました。資本主義の発展にも貢献したみ言葉でもあります。でも今日はSDGsの視点で読みたいと思います。

 

1タラントを1億円としましょう。みなさんは5億円あったら何に使いますか?2億円、1億円あったらどうですか?ただし5億円渡されて、暗に増やせと言われたらどうでしょうか?10億円にしろと言われたらどうでしょうか?

 

僕たちはまさにそのような状況でした。5億円を渡されて、短期間で10億にするにはどうしたらいいか考えたのです。しかし、どう考えても数年間ではまっとうな方法で5億円を10億円にすることはできません。当時そんな博打のようなお金儲けができるのは、例えば貿易でした。リスクは高いですが利益率は非常に高かったのです。そして身近にある利回りの良い投資は不動産投資でした。

 

もともと律法では土地の売買を禁じていましたが、現実には抜け道を使って取引が行われていました。災害や戦争の混乱の中で、土地は安く買いたたかれました。貧しい農民は今日の生活のために嗣業の土地を手放さざるを得なかったのです。僕たちはおそらくこのような不動産投資で利益をだしていました。5億円預かった僕はおそらく、すぐに買えるだけの土地を、ありったけ買いあさりました。お見事、投資は大成功。資産は10億円。贅沢旅行から帰ってきた主人は大喜び。もっと増やしてこーいと言って、もっとたくさんのお金を受け取りました。

 

でもこれでいいのでしょうか?これはSDGSな持続的な社会でしょうか?土地を安く買いたたかれた人がいました。先祖から受け継いだ嗣業の土地を、災害や戦争で失った人がいました。そのような何も手元になくなって、イエスに従おうとした人が大勢いました。イエスの弟子たちは、自分の農地を持たない貧しい者ばかりでした。増やす資産の無い人でした。イエスはそのようにいつも貧しい人と共にいました。でもイエスはこのような資産の倍増を見習うべき話として語ったのでしょうか?

 

イエスは多くのたとえで、金持ちと貧しいものの逆転を語っていました。にもかかわらず、この物語を持っているお金を増やすことが良い事だと受け取ってよいのでしょうか。もっと持続可能な方法で読みましょう。環境・社会・ガバナンスの視点で見直しましょう。二人の僕がしたのは貧困ビジネスでした。それは搾取、抑圧、格差、不平等の拡大に加担する商売でした。29節、このようにして貧しいものと富める者の格差が拡大されていくとは、そのとおりです。聞いている貧しい民衆はどう思ったでしょうか?自分もそういうやつに土地を買いたたかれた。悔しいと思ったに違いありません。

 

しかし、物語の僕の中にひとり、変わった人間がいました。彼は預かった1億円を土に埋めたのです。土に埋めても何にもなりません。銀行の方がマシです。でも銀行といっても、当時の銀行はいまのような健全な経営をしている銀行では多くありません。今でいう高利貸しです。結局、銀行に預けてもそれを元手に誰かがか誰かをむさぼったのです。どこにお金をもっていっても、人々を苦しめる元手になったのです。彼は勇気ある決断をしました。倫理的で持続可能な判断。それは、どこにも使わない。それを土に埋める。そんな決断でした。

 

それは搾取への静かな反逆でした。周りの人間はやりたい放題の金儲けをしています。自分の利益だけを求めて、商売をしています。でも私は嫌だ。それに抵抗する。自分の利益だけを求めるやり方をやめたのです。彼は汗をかきながら大きな穴を掘り始める。それは不平等と格差、搾取に抵抗する穴掘り。誰にもわからない様にその金を隠す。お金を埋めて、人々から土地を奪う方法をとらなかった。そのように誰も傷つかない方法を考えて穴を掘ったのです。

 

彼はどうなったでしょう。案の定、贅沢旅行から帰ってきた主人に、ののしられ、追い出されてしまいました。愚かです。彼は追い出され、自分の土地を持たない農民と同じように困窮する者になりました。彼は追い出された。歯を食いしばった。それでも止まらない涙が頬を伝った。他の人みたいに自分だけいい思いをすればよかったのに。でもそれは、彼が選んだ人生だった。人々と共に歯を食いしばり、共に涙する、それを彼は選んだのです。

 

私たちは、主人が神で、良い信徒とは5タラントンを10タラントンに増やす信徒。持っているものを土に埋めるのは、何もしない信徒。そう理解してきました。でもそれ以外の読み方はありますか? 

 

14節にはこの例え話は天の国のたとえだとあります。天の国はこんな風に頑張った人が入る場所なのですか?もっているものを増やした人がいくところが、天の国ですか?

 

私たちが今まで見てきた物語からはそうではありません。天の国は持っている人も持っていない人も、すべての人が受け入れられる場所だったはず。むしろ増やしたくても、増やす元手もない人、増やしようがない人、何も持たない者が招かれる場所ではありませんでしたか?

 

この物語で、すべての人が受け入れられる場所を目指したのは誰か。それはこの3人目の僕ではないでしょうか。彼は人と共に生きる道を選んだのです。そして暗闇の中で、共に歯ぎしりしながら、共に涙し、共にもがいて生きたのです。天の国はそのような共感共苦の中にあるのではないでしょうか?

 

物語に結末は書いてありません。私たちがすべきことも書いてありません。私たちはこの物語からどうやって生きるべきでしょうか。私たちに何ができるでしょうか?少なくとも誰かを苦しめるお金の増やし方はしたくない。誰かの涙の上に立つなら、そのお金はいらない。お金を増やすことよりももっと大事なものがある。もっているものを誰か、困っている人、仲間のために使いたい。みんなの希望につながるなら減ってもいい。それが天の国なのではないのでしょうか。あなたなら、どう生きるでしょうか?

 

それぞれにこのみ言葉を思い巡らせる時を持ちましょう。1分間の黙想の

 

【全文】「SDGs17の祈り 聖書と気候変動」マタイ22章33~39節

 

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。私たちは未来でもこどもの声がする教会でありたいと願っています。未来の地球のこどもたちのことも思い描きながら礼拝を献げましょう。

 

招きの詞では創世記1章をお読みいただきました。神様は創世記1章で創造された天と地を見て「良し」されました。聖書の最初のページには、神様が光と天と生き物を創造し「良し」と喜んだ場面が記されています。その「良い世界」は、今どんな姿になっているでしょうか?神様はまだこの地球を「良し」と思っているでしょうか?

 

今月、私たちは「聖書とSDGs」という少し不思議な組み合わせを見つめています。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標です。さまざまにある課題の解決目標です。でも今月このテーマで聖書を読み始めてから、私にはそれが目標やゴールではなく、祈りに聞こえるようになりました。SDGsは17の祈り。①貧困がなくなりますように、②飢餓がなくなりますように、③健康と福祉がすべての人にありますように・・・。地球に住むすべての人が私たち一人一人と共に生きることができるように。私たちは世界が、持続可能な世界となりますように。SDGsは17の祈りです。今日はこの17の祈りすべてにまたがる気候変動について考えてゆきたいと思います。

 

あの三角の窓を見てください。やわらかな光が差し込む、あの古い窓です。75年前から変わらない窓です。最近、この窓から雨が吹き込んでくるようになりました。かつては、そんなこと、なかったかもしれません。しかしゲリラ豪雨、線状降水帯など、強い雨と風が吹くとあそこから雨が吹き込んできます。古い建物にいると、地球の変化を肌で感じるものです。私の住む家も、もう築60年を超えました。雨音が強くなるたびに、少し不安になります。弱い建物にいると、地球の変化を身近な不安として感じられます。

 

とはいえ日本では防災が進み、地域全体としてはある程度の備えができるようになりました。それによって私たちは今のところ、気候変動に対処することができている様です。しかし世界を見渡すと、そのような設備を持つことができない国がたくさんあります。洪水の対策ができず、川を氾濫するままにせざるをえない国、豪雨が来ると予想できない国がたくさんあります。古くて脆弱な建物に住む私にとって、強い雨は大きな脅威です。そしてそれと同じ様に、強い雨は途上国の人々にとって大きな脅威です。気候変動の影響を特に受けるのは、そのような災害に十分備えることのできない、途上国の人々です。気候変動は私たち先進国にとっては、今のところ対処できるものかもしれませんが、途上国にとっては取返しのつかないダメージを与えるものなのです。

 

ここに、大きな逆説があります。気候変動の原因は先進国にあるにも関わらず、苦しむのは途上国であるという逆説です。原因となる先進国は対処でき、原因ではない途上国は対処できないという逆説です。この問題は今CO2排出量が多い国に責任があるはずです。CO2排出量第5位の私たちにも責任があるはずです。

 

私たちはつい、必要のない電気を消さずにいること、ありませんか?神様は、その姿を見てどう感じておられるでしょうか。「良し」としているでしょうか?私たちクリスチャンの生き方は清く正しくニコニコ生きることではありません。気候変動は私たちが世界の隣人とどう向き合うかという問いかけです。私たちは世界の隣人を愛することの具体的行動としてCO2削減ができるかどうかが、問われています。そのことを見つめながら今日の聖書を読みましょう

 

 

 

今日はマタイによる福音書22章33~40節をお読みいただきました。33節には群衆という言葉があります。大勢の人がイエスに従いました。どんな人がイエスに従ったのでしょうか?

 

群衆の中にはペテロのように仕事をやめて従った人がいたでしょう。すべての持ち物を売り払って従った人もいたかもしれません。自分の仕事、畑の仕事を終わらせてから従った人もいたかもしれません。しかしこの群衆にはきっと少なくない人数で、本当に何も持たない最も貧しい人が含まれていました。

 

貧しさの原因は様々にあったはずです。その一つが災害であったことは間違えのないことでしょう。この群衆の中には、災害によって多くのものを失った人がいたはずです。災害を自然災害と呼ぶべきか、人災と呼ぶべきか境界線はいつも曖昧です。その災害は誰かが誰かの家族や財産、未来を直接奪ったわけではありません。今奪ったわけではありません。でも確実に誰かが影響を及ぼし、見知らぬ家族と財産と未来を奪ったのです。

 

イエスに従ったその群衆の中にはきっと、気候に左右された被災者がたくさんいたはずです。イエスはそのような被災者と共に歩かれたのです。

 

もちろん聖書には「気候変動」という言葉は登場しません。でも聖書には自然災害によって深い傷を負わされてた人々が多く登場します。創世記のヨセフの家族は7年におよぶ干ばつの影響で、故郷を去らなければなりませんでした。ヨセフの家族は空を見上げて、気候変動がおさまる様に祈ったはずです。ルツ記のルツも干ばつが原因で移住せざるをえないという場面から物語が始まります。士師記のエリヤは干ばつのさなか一人のやもめに救われました。どの時代も、自然の変化の中で最も苦しむのは、いつも貧しい人々でした。

 

数えきれない人が、自然災害によって人生を変えられ、命を奪われました。聖書にはその気候変動への祈りと物語が、いくつもあります。

 

もしイエスが、21世紀の気候変動の中におられたら、どんな言葉を語られるでしょうか。今まで雨の降っていた地域に雨が降らなくなる時どんな言葉を語るでしょうか。大型の台風で家を失った人の手を、イエスはどんなふうに取るでしょうか。乾いた大地に立つこどもたちの前で、イエスはどんな祈りを捧げるでしょうか。私はそのイエスの姿を、心の中に描きながら、この世界を見つめていたいのです。

 

イエスだったらどう祈ったでしょうか?冷房の中にいる人と炎天下にいる人とイエスは両方を見つめたでしょう。イエスの愛と祈りは近くにいる隣人だけではなく、世界の果てにまで及んだはずです。それが神の愛と祈りです。

 

日本には様々な災害があり、多くの被災者がいます。同じ様に、世界にも気候変動によって家や家族を失っている人がいます。聖書を、他人の物語ではなく、自分の物語として読む――それが私たちの信仰です。聖書の登場人物の中に、自分の顔を見つける。そんな読み方を大切にしたい。その私たちは今どれだけ、気候変動に苦しむ人々を他人事にせず、それは私だと感じることができるでしょうか。

 

イエスに従う群衆の中に、私がいる。そしてその群衆の中には気候変動に苦しむ仲間がいる。私たちの仲間の人生が気候変動に振り回されている。彼らの出来事を私の仲間の出来事、私の出来事としてとらえることができるでしょうか?私たちがいつも聖書に登場する人物に自分を重ねるように、その人と共感することができるでしょうか?私たちはこの気候変動の時代をどう生き、どう祈るのでしょうか。教会でできること、一人一人の生活でできることはなんでしょうか? 

 

聖書には悲しい物語がたくさんありますが同時にどの話も、苦難の中に神の力が働くということが記されています。聖書を読むのは、絶望を探すためではなく、希望の種を探すためです。未来はあります。人には届かないと思えるゴールがあっても、神が力を与えてくださるのです。

 

今日の聖書箇所でイエスは私たちにもっとも重要な掟を教えています。どの律法が最も重要でしょうか?という質問にイエスは第1に神を愛しなさいと教えます。そしてそれと並べて2つ目に、隣人を自分の様に愛しなさいと教えました。

 

隣人とは誰のことでしょうか?隣人とは私たちの側に暮らしている人だけ、目の前にいる人だけではありません。お隣さんだけではありません。地球の裏側で気候変動に苦しむ人も、神様の目からは私たちの隣人です。私たちは自分のことのように、隣人のこととして、地球の裏側でおこる気候変動を祈ることができるでしょうか?

 

私たちがCO2を出さない様にするのは、節電をするのは、電気代の節約のためだけではないはずです。自分のためだけではないはずです。それは世界の仲間、世界の裏側の隣人への愛。私たちは隣人愛の問題として気候変動を考えたいのです。

 

私たちが小さなスイッチを切る、その一瞬に、愛が宿るのです。私たちは、スイッチを切るとき、神の声を聞いているでしょうか。あなたは「私の小さな行動が、遠くの隣人を守る」と信じることができるでしょうか。紙を再利用する。そんな小さな工夫にも、神を愛し隣人を思う心が宿ります。教会やそれぞれの場所からできる祈りや行動を想像してみてください。隣人を愛するとは、隣人の未来を守ることでもあります。

 

私たちの世界に生きる仲間は、共に神の子どもです。イエスに従う群衆の一人です。隣人を愛するように、手を取り合うように。地球の人々とも、共に生きてゆきましょう。

 

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を愛しなさい。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。

 

神の造られたこの地球と、共に歩みたい。そう願いながら、今日も17の祈りを祈りましょう。1分間の黙想の時を持ちます。

 

【全文】「感謝して分かち合う」マタイ19章16~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。今日もこどもたちから生きる力を頂きながら礼拝をしましょう。今日は収穫感謝礼拝の日、そして同時にバプテスマ式の日でもあります。この2つの恵みを共に喜び、分かち合いましょう。テーブルには教会の庭でとれた柿やこの後、分かち合って食べる果物が並んでいます。たくさん教会の仲間たちと喜びを分かち合いましょう。

今日誰よりもこのバプテスマを喜んでいるのは、神様でしょう。彼は小さい頃キリスト教の幼稚園に通っていました。そこで神様は彼の心に本当に小さな種を蒔きました。そしてその種はしばらくはじっとしていました。そして何十年もたった今日、その芽が出てきたのです。それはとっても不思議な出来事です。心の中にずっと秘められてきた種が芽吹いたのです。芽吹く時期やきっかけは人それぞれです。神様の働きです。それは本人の頑張りを超えたものです。命の神秘、神様の神秘、感動のスタートです。このバプテスマは清められ聖なる存在になる儀式ではありません。人より一つ上のランクになる儀式ではありません。完全な人になる儀式でもありません。バプテスマを受けてもまだ私たちと同じ様に何かが足りない人間です。欠けのある人間のままです。

だからこそ、これからが大事です。これから、神様からの光と栄養をたっぷり受けて続けてください。そして少しずつで良い、太くて大きな木になって欲しいのです。この教会の先輩方のようなどっしりとした樹齢何十年の大木のような信仰を持って欲しいのです。神様は、きっとそのように導いてくださるでしょう。あなたがさらに豊かな実りをつけるように導くでしょう。みんながあなたの歩みを見守り、支え、祈っています。本当におめでとうございます。

今日は収穫に感謝しながら聖書を読みたいと思います。そしてこの時を「私が」恵まれていることに感謝するのではなく「誰かと」この恵みを感謝し、分かち合う時にしたいと思っています。私一人が味わうのではなく、共に味わいたいのです。共に生きてゆきたい、互いと神様に感謝しながら生きてゆきたいと思います。今日は感謝と分かち合いを聖書から読んで行きましょう。 

今日はマタイによる福音書19章16~30節までをお読みいただきました。今日はある金持ちの青年の話です。

伝統的にこの個所は所有の放棄の命令と読まれてきました。カトリックの修道院はこの聖句を元に発展します。完全な形での所有の放棄を求めて、人里離れた場所にこもって自給自足の生活を実践しました。何も持たずに生きる、それはなんと素晴らしい生活でしょうか。でもすべての人がそれをできるわけではありませんでした。この方法は人間を二つに分けてしまいました。それは完全に所有を放棄した人と、そうでない普通の人です。所有を放棄した人はその生活を続ければよいでしょう。しかし普通の人はどうしたらよいかわからないのです。所有を放棄できない普通の人はどうこの個所を受け止めたら良いのでしょうか?

私たちはどのように読みましょう?私たちは完全に富を放棄することはできません。でもそれを特別な人がする、すごいことで私には関係のない事とは考えたくありません。私たちは所有と放棄の間を生きなければなりません。そうです。所有と放棄の間の「分かち合う」を軸にこの物語を読んで行きたいのです。

ある時、金持ちの青年がいました。彼はとても神様の教えに忠実に生きた人でした。そして彼にはたくさんのものがありました。お金、きっとそれは家柄の良さから来たものでしょう。性格、若さ、健康、家族との良好な関係、掟を守る心の強さ、容姿や体格、コミュニケーション能力、高収入、高学歴、高身長・・・。たくさんの才能と環境に恵まれてきた人です。今風に言えばハイスペック男子でしょうか。

もちろん彼自身が頑張りもあるでしょう。彼の「そういうことはみな守ってきました」という発言からはあふれる自信が伝わってきます。ちょっと自慢もあるかもしれません。誰もがこの青年を見て、うらやましいと思ったでしょう。でも彼自身が思ったのです。「自分にはまだ何か欠けている」。自分にまだ何かが足りない。自分の人生を真に豊かにするために、まだ何かが足りないと思ったのです。そしてイエスに、それが何なのかを聞いたのです。

イエスは応えます「持ち物を売り払って、貧しい人々に施しなさい」「それから私に従いなさい」。彼はそれを聞いたときどのような気持ちだったでしょうか。彼は深く悲しみ、その場を去って行きました。たくさんのものを持つ自分に足りないものを、鋭く指摘された彼は何の言葉も残さずに、悲しみながら、黙って立ち去って行ったのです。

そしてイエスは言います。「金持ちが天の国に入るのは、ラクダが針の穴をとおるより難しい」。ペテロや他の弟子たちはこのやりとりを見て驚きました。彼ほどに沢山の才能と、恵まれた環境に生きている人はいない。あの素晴らしい青年が、天の国、神様に近い場所に行くことができないのなら、もはや誰がそこに行けるのだろうか。私たちのような普通の者には到底無理だ。誰が救われるだろうかと思ったのです。

イエスがこの物語で教えていること、みなさんは何だと思うでしょうか?私たちには一切の所有を放棄することはできません。そのような不完全な私たちです。でも私たちは欠けがありながらも少しでもそれに近づく道があります。それが分かち合って生きるという生き方ではないでしょうか?

少し極端な例かもしれませんが、イエスが伝えようとしているのは、分かち合って生きることと言えるでしょう。私たちはどんな風に分かち合いができるでしょうか?分かち合うことができるのはお金だけではありません。

たとえば煮物を隣の家におすそ分けすることも分かち合いです。病院の待合室で、隣の人の話を少し聞いてあげることもそうです。孫の写真を見せ合って笑うこと。一緒に祈ること。不安の中にいる人の話を聞くのも不安を分かち合うことでしょう。どれも神様が喜ばれる分かち合いです。この後のバプテスマの喜びを分かち合います。教会の柿をみんなで食べるのも分かち合いです。私たちは時間、喜びや悲しみ、力、食べ物、才能や経験・・・様々なものを分かち合うことができます。

イエスは青年に「分かち合って生きよう」と勧めました。あなたは恵まれている。でもそれを自分だけのために抱え込むのではなく、誰かに渡せるだろうか?イエスはそう青年に問いかけたのです。お金持ちなのは、自分や家族が頑張ったことかもしれない、でも分かち合うことはできてる?そう問いかけたのではないでしょうか?金持ちの青年はすべての才能と環境を兼ね備えた自分に足りないことを見つけました。それは分かち合うということでした。手にあるものを神様からいただいたものとして、感謝し、分かち合うことが彼にはできなかったのです。本当は、すべてではなくても、その一部でも分かち合うことができたはずです。しかし彼は何も分かち合わず、その場所を黙って去って行きました。

弟子たちは思わず聞きました。あの青年が天の国に入れず、こんな凡人の私たちに何か良いものが、待っているのでしょうか?イエスはまた言います「私のためにたくさんのものを捨てた人は何百倍も報いを受ける」。こうして物語は30節で突然終わってしまいます。私は弟子たちが意味が分からず、ぽかんとした顔をしているのを想像します。

弟子たちが聞いたのは分かち合う先に何が待っているのか?ということでした。イエスは何百倍も報いがあると言います。私たちは信仰のために財産や家族や大切なものを捨てたりはしません。する必要もありません。私たちには何が待っているのでしょうか?

ここでイエスが私たちに示していることは、分かち合ってゆく生き方の中に、よりよいものが待っているということです。分かち合うからこそ大切なものや、家族とのよりよい関係が待っているのです。別の言葉で言えば、私たちは分かち合う時に、家族や血縁を超えた結びつき、仲間が与えられてゆくのです。教会の仲間もそうでしょう。すべてを分かち合う事はできません。でもここでみ言葉や喜びや悲しみを分かち合うとき、新しい家族が与えられます。たくさんの新しい家族、教会のお父さん、教会のお母さん、教会のお姉さんや子ども、孫のような存在が与えられるのです。イエスは、分かち合う時に新しい世界が開かれてゆくと語っています。

感謝し、分かち合う時、私たちが大切にしているものは、もっと輝き出すはずです。私たちがもっと分かち合う時、きっと私たちにはもっとたくさんの仲間が与えられてゆくはずです。私たちはみんなで永遠の命、神様の永遠の愛を分かち合ってゆきましょう。

この個所がみなさんに問うていることは何でしょうか?あなたの大切なものは何ですか?どうか思い起こしてみてください。あなたは何を持っていますか?それにどうやって感謝しますか?そしてあなたが持っているもの、大切にしているもの、喜びや悲しみをどうやって分かち合ってゆくでしょうか?それを分かち合う時、きっと神様はたくさんの恵み、新しい世界を与えてくださるでしょう。すべての財産でなくてもいいのです。何を分かち合って生きることができますか?時間、場所、思い出、信仰、若さ、経験、食べ物・・・。今日、この場で喜びを分かち合いましょう

あなたの欠けは何ですか?私の欠けは何でしょうか?しかし、その欠けにこそ神の愛が注がれるのです。だから私たちは感謝して、分かち合って、ここから歩んでいきましょう。

 

 

【全文】「教会とSDGs」マタイ20章1~15節

 

みなさんおはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝を献げましょう。9月は礼拝について考えていました。どちらかというとそれは、教会の中のことだったかもしれません。今月はそれと正反対に教会の外、世界について聖書から考えたいと思います。特に10月はSDGsをテーマとしながら聖書を読んでゆきたいと思います。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標です。人権も、経済も、地球も。そのすべてを守ろうという世界の目標です。目標は単に途上国を支援するということだけではなく、先進国や企業にも社会的な責任を求めています。教会はこの世界と無関係ではありません。神の家族として、私たちはどう世界に関わったらよいのでしょうか?

17個の目標の8番目は「働きがいと経済成長を実現する」というものです。「誰もが人間らしく生産的な仕事ができる社会を作ろう」とあります。その中で特に取り上げられているのは、児童労働の問題についてです。今、世界では10人に1人近い子どもが、学ぶ代わりに働かされています。児童労働とは、家事の手伝いの範囲を超えて、こどもたちが働くことです。無償や安い賃金で雇用され、仕事をしなければいけない環境のことです。児童労働は様々な問題を生みます。まず児童労働は学ぶ時間を奪います。その結果、貧しさと不平等が親から子へ、子から孫へと連鎖してしまうのです。児童労働は生産性が低く、経済成長も弱めます。児童労働を行った本人は、こども時代だけでなく、その後の人生においても、健康を損ないます。児童労働は持続可能な世界とまったく正反対のものです。

もっとも児童労働が多いのは農業だと言われます。特に大規模な児童労働はガーナのカカオ農園です。カカオは児童労働によって支えられる代表的な作物です。ガーナでは、ランドセルを背負うはずの子どもが、農園で重い荷物を背負っています。そのカカオをチョコレートにして食べているのは私たちです。こどもたちが働かなければいけない理由は、先進国がカカオを安く買いたたくからです。カカオ農家はどんなに働いても豊かにならず、安いこどもの労働力に頼るしかありません。子どもたちが農薬をまき、重いものを運んでいます。その子は誰のために汗を流しているのでしょうか?その他にもレアメタルの鉱山で働かされる子供も多くいます。このような世界で私たちは何ができるでしょうか?例えば子どもがよく食べるブラックサンダーは児童労働の関わるカカオを使わないと宣言しています。

私たちは自分達の身の回りのものが、どのように作られ、売られているのかに興味を持った方がいいのかもしれません。製品だけではなく、働いている人の状況や、世界の構造に目を向けるべきです。このことは最近のお米の高騰からも気づかされることです。

聖書はどうでしょうか?聖書は心の奥だけではなく、この世界の現実についても語ります。聖書もまた世界をどう見るのかを私達に問いかけています。今日は教会とSDGsについて考えたいと思います。

 

 

マタイによる福音書20章1~16節をお読みいただきました。イエスは農村地帯に生まれ育ちました。だから農業に関するたとえ話を多くしました。今日はぶどうの収穫のたとえ話です。ぶどうの収穫の時期、熟したぶどうをすばやく収穫しなければいけません。ぶどうの収穫は村中が忙しくなる大イベントでした。人手が最も足りない時期です。朝からたくさんの人が雇われました。足りなければ、午後からでも人を雇って、収穫はすすめられました。そんな忙しいさなか、夕方になっても、まだ声がかからない人がいました。村中が働いているのに、ただ一人。取り残された人です。彼は村中が忙しくしている中でひとりだけ、声がかからなかったのです。残されている間、彼の胸にあった気持ちはどんなものでしょうか?恥ずかしさ?孤独?「自分なんて必要とされない人間なのか」という痛みでしょうか。そこに再び農園の主人が現れ、声をかけました。「あなたも来なさい」。彼は主人の声にほっとしたでしょう。喜び、一生懸命働いたでしょう。

そして日当を払う時間になりました。本来、日当は早くから来て、長く働いた人から順番に支払われるものです。しかし渡される順番は反対になりました。最後に来た自分から日当を受け取ったのです。そしてなんと、全員が同じ賃金でした。朝から汗を流した人も、夕方から来た私も同じ日当でした。早くから働いた人は、これに抗議の声を上げました。しかし主人は言いました。「いくら払うかは私の自由だ」。その言葉は、慰めでしょうか?それとも横暴でしょうか? 

このたとえ、伝統的には主人=神、労働者=人間と解釈されてきました。神様の愛は、取り残された人に豊かに注ぐのです。神様は業績主義、成果主義ではありません。神様は多くの良い事をしたら、多くの良いものがあたえられる、できない人には与えられないという方ではないのです。ここから神様の愛のあり方が読み解かれてきました。それはとても共感できる教えです。神様の温かい包容力が伝わってくる話です。イエスのこれまでの言動から考えても、確かに誰ひとりも取り残されない大切さが語られたのでしょう。神様は取り残され、役に立たないといわれる人に声をかけ、役割を与え、用いて、恵みをくださるお方なのです。

しかし、このたとえにはもう一つ見落としてはいけない背景が隠されています。それは労働問題の側面です。労働問題の視点からこの個所を捉えると、別のものが見えてきます。私はイエスは、ただ神様の愛の温かさを表しただけではなく、同時に現実の問題も指摘していると思います。みなさんは、このたとえの主人は本当に神様だと思いますか?不公平だと感じませんか?これが神様の目指す姿なのでしょうか?このようなあり方は持続可能でしょうか?これは労働者の自尊心を奪う行為だったはずです。

労働の問題を視点に加え考えましょう。その日1日の仕事を求める、日雇い労働者が集まる場所があったはずです。まず想像するのは雇用主側の視点です。雇用者が真っ先に欲しがるのはどんな人でしょうか?まず欲しいのは安い労働力です。多少効率が悪くても、日当が安くすむ人の方を選びます。人件費は安ければ、安い方がいいのです。言葉が通じるかどうか、筋肉がモリモリかどうか、能力があるかどうかよりも重要なのは安さです。文句をいわず安く働く人を求めます。主人は「こいつなら安く働きそうだ」そういう人に声をかけました。黙って、安く働きそうな人から順番に声をかけたのです。十分想像できます。仕事を求める場所にはさまざまな人が集まりました。想像力を働かせます。そこにこどもはいたでしょうか?そこにもきっと学校に行かずに働かざるを得ないこどもがいたはずです。

こどもこそ真っ先に雇用されたかもしれません。安い給料で文句を言わないで従うからです。今も世界でこどもの労働が蔓延しているように、このぶどう畑でもこどもたちが働かされたでしょうか。安い労働力として真っ先に採用されて、長く働かされたでしょうか。そして最後に支払われたのは不当にも、後から来た大人と同じ給料だったのです。勇気のあるこどもが声をあげました。「おかしいじゃないか。私たちだけ安く働かされているではないか?」と。でもすぐに主人に恫喝されました。給料は俺が決める、俺の好きなように払って何が悪いと。圧倒的に強い立場の雇用者が、自らの正しさを振りかざし、自分の思う様に給与を決めてゆきました。好みの人間に高い給与を払ってゆきました。それが奪ったものはなんでしょうか?それは人々の働きがいを奪いました。やる気を奪いました。農業全体の発展を奪いました。これは持続的な方法でしょうか? 

この主人は、人のやる気を見事にしぼませる天才でした。そんな人、みなさんの周りにもいませんか?不公平な職場、ありませんか?お給料はこれでいいのかと思う時がありますか?「私は正当に扱われていない」。その感覚はとても大事です。不平等への敏感さは、人を守る力になります。それはこのままの社会でいいの?という疑問につながるはずです。私たちは気前の良さをアピールする社長に従えばいいのでしょうか?どう思いますか?この話は神様の愛だけを示しているのでしょうか?もちろんここからは神様の愛が語られています。それは疑いのない事でしょう。弱いもの、置いてゆかれるもの、忘れられる者、後回しにされる者に神様の愛は注がれるのです。

でもこのたとえが投げかけているのはそれだけではありません。同時にこのたとえの中には不平等やひずみに苦しむ人々が描かれているのではないでしょうか?神様は弱いもの、後回しにされるもの、小さいこどもを愛するお方、では地上ではどう?と問いかけています。神様の愛はこんなにも無条件に注がれるのに、地上はどう?こんな不公平なことがあっていいの?地上にはこんな横暴な主人がたくさんいるんじゃない?アフリカの子どもが働き、私たちが安くチョコレートを食べる。この世界のままで、いいのでしょうか?

この後主の晩餐を持ちます。誰ひとり取り残されず、このパンとブドウジュースを頂きましょう。どんな気持ちでそれを食べますか?

私たちこそこの主人のように、カカオ農場でこどもを不当に働かせていない?聖書は、私たちに問いかけています。「あなたは、この主人と同じではないか?」と。

聖書は最後に「あなたはわたしの気前のよさをねたむのか?」という問いかけで終わっています。あなたはこの主人をどう思いますか?憧れますか?ねたみますか?どちらでしょうか?

 

【全文】「礼拝ー神との絆ー」マタイ18章25~31節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声・命と一緒に礼拝を献げましょう。

今月はここまで3回、礼拝について考えてきました。礼拝は目的ではなく手段です。神様とのつながりを持つためのものです。礼拝は良いものを求めて変わり続けてゆくものです。私たちは今の礼拝に欠けているものを探しています。3回の礼拝でどんなことをお感じになったでしょうか?そして私たちは聞くだけではない、一人一人によって形作られる礼拝、参加型の礼拝を目指しています。

礼拝は神と人とのつながり、人と人とのつながりを考える時間です。私たちはどうしたらもっと深く神様と、他者とつながることができるのでしょうか?そのために普段とは違うことに取り組んできました。みなさんは教会のために礼拝に来るのではないはずです。神様や他者とのよりよい関係のために礼拝に来ています。今日も礼拝とは何か?もう一度問いかけながら聖書の言葉に耳を傾けましょう。

さて私たちの日常にある人と人との関係から考えてみましょう。人と人との関係は嬉しい時もありますが、難しさもあるものです。特にお金が絡むと問題は急に複雑になります。みなさんは友達や親せきにお金を貸したことがありますか?そのお金はかえってきましたか?返ってこなかった時、どんな気持ちになりましたか?怒りですか?悲しみですか?もうあの人は信用できないという気持ちでしょうか? 正直に言うと、牧師である私は、お金があればかなり多くの問題が解決すると思っています。ホームレスの問題も、教会の建物の問題も、家族の問題も。お金があれば解決することが多いのです。

お金は人を助ける力を持っています。しかし同時に人と人との信頼関係を壊す力も持っています。お金は人と人との関係を少しずつ、でも確実に変えてゆきます。お金の貸し借りで壊れる友情、遺産の相続で仲が裂ける家族、お金を間に置いた人間関係はとても壊れやすいのです。そこまでにどれだけ深くて長い関係があっても、お金で関係が壊れます。「お金の切れ目が縁の切れ目」という言葉は現実を言い当てています。お金を間において、人間は仲良くし続けることができないのです。お金の貸し借りで信頼関係が深まることは、ほとんどありません。基本的に教会員同士のお金の貸し借りはやめしましょう。もし必要なら誰か一人ではなく、みんなで助けることにしましょう。

聖書にもそんな人間の姿を映し出す物語があります。今日はみなさんがよく知っている人間の関係の難しさ、複雑さを一緒に考えます。そしてそれとまったく正反対であるまっすぐな神様の愛、単純で分かりやすい神様の愛、その深さ、広さを考えてみましょう。その中でどのように礼拝をするのかを考えたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

 

今日はマタイによる福音書18章21~35節までをお読みいただきました。聖書の難しいたとえ話の一つです。ある時、王様は決算をすることにしました。そこで家来の一人が1万タラントン、現代にすれば6000億円、国家予算規模の莫大な借り入れを返済できなくなりました。王は激しく怒ります。家族も財産もすべてを売り払い徹底的に回収しようとします。それが普通の王の姿でしょう。それでも6000億円の借金に対しては、これらは大したお金になりません。お金の問題というよりは、信頼が裏切られたことへの強い報復感情による行動です。これが普通の人間の行動です。

しかし物語に出て来る王は違いました。あまりにも寛大すぎるのです。王は憐れに思い、なんと返済を待つどころか、借金を帳消しました。驚きの行動です。王の行動は信じられないほどに寛大です。王はこれまでの関係に戻ろうとしたのです。しかし赦された家来は、ほんの小さな額の借金の返済を、きっちり取り立てようとしました。それを聞いた王は激しく怒り、家来を牢屋に入れました。この金額の返済は無理です。おそらく一生牢獄で過ごしたのでしょう。

伝統的に教会はこの個所を「だからあなたもすぐに赦しなさい」と解釈してきました。あなたが赦されているのだから、あの人がどんなにあなたにひどい事をしたとしても水に流しなさい、忘れなさいと教えてきました。それは確かにに憎しみと復讐からの解放の教えでした。しかしこの読み方は危うさもあります。被害者にとって、すぐに赦しなさいという言葉は、本人の痛みを無視した赦しの押し付けとなってきました。教会はその痛みに無関心だったのです。教会は時に「泣き寝入りしなさい」と同じ響きを持つ言葉を語り、権力者たちの不正を温存させてきました。赦しはそんなに簡単ではありません。クリスチャンは相手をただ赦すだけではなく、周囲から失った信頼を取り戻せるような謝罪や行動を強く促すべきでしょう。だからこの個所は「あなたもすぐに赦しなさい」と読まないことが大事です。

今日はこれまでとは違う読み方をしましょう。ここから私たちは何を感じ取り、どんな問いを持つでしょうか?今日のこの物語の中心はなんでしょうか?赦されたのに赦さない家来が中心のように見えます。しかしこの王が神様を示しているのなら、この物語の中心は王です。この物語の中心点は王の驚くほど寛大な行動です。王の行動に注目をします。通常、借金が返済できないという事態がもたらすのは経済的な損失だけではありません。それよりももっと大きな影響は人間同士の信頼関係の破断です。約束が果たせないことは、この王と家来の関係の破断を招きました。そうです、お金を間に挟む関係は難しいものです。普通の王はこう考えるはずです。もうこれはお金の問題ではない。私はもうお前を信用できないのだ。たとえお金を返したとしても、もうお前に用は無い。

しかしこの王は他の王と大きく違いました。王は非常に寛大な行動をとります。王は借金を帳消しにするというのです。この王は変わり者です。王は借金を免除し、さらに家来に対して、これまでと変わらない関係を築こうとしました。家来はもう王様に一生、頭が上がらなかったでしょう。何とかして恩に報いなければならない。王の行動は乗り越えられるはずのない借金問題を乗り越えて、二人の信頼関係をより深くしたはずです。こんなことは私たちの生きる世界では現実には起こりません。人間の世界では考えられない行動です。でもこれが神様の姿を映し出しています。

今日の個所からどんなことを読み取ることができるでしょうか?ひとつ読み取ることができるのは、これが神様の提案する、神と人との関係だということです。神様はたとえあなたがどんなに罪深い人間で、あなたがどれだけお金にだらしない人間で、あなたがどれだけ約束を守れない人間だったとしても、あなたとの関係を諦めないということです。神様はもうあなたとは関わりたくないと言わないお方です。神様はどんなに欠けのあるあなたとも、関係をより一層強いものにしたいと提案をしています。神様はあなたの悪いところ、ダメなところ、欠けのあるところ、その一切を丸ごと引き受けて、愛し、これからずっと、もっと深くつながろうとしているのです。

お金の絡む人間関係は複雑で難しいものです。でも神様との関係は違います。神様と人間の関係は驚くほど単純で、驚くほど確かなものです。その関係はどんなことがあっても途切れることがないのです。人間関係は大小さまざまな問題で断裂します。でも神と人との関係は人間同士の関係を超越した、深い関係なのです。

ここには神様の強い愛が示されています。神様はあなたを愛し、何があっても深い絆を持ち続けようとするのです。神様が罪深い私に関わり続けてくださるのです。それはどんな問題も破ることができない強い絆です。

私たちは神の愛の深さがわからないかもしれません。でも人間関係のもろさ、悲しみならすぐに想像ができるでしょう。神様は私たちを、そのもろさの何倍も、深い愛で、包み込んでくださるのです。

今月は礼拝という視点で聖書を読んでいます。私たちの礼拝とは何でしょうか?礼拝はそのような神との深い結びつき、絆を確かめる時間です。私たちは礼拝で、決して途切れることのない神様のとの強い絆を確かめます。私たちは礼拝で神様の大きすぎる恵みに包まれていることを思い出します。神様は特定の誰かとの絆を大切にするのではありません。神様は、一人一人、あなたと直接の絆を大切にするのです。礼拝はその絆を確かめるときなのです。

その絆は確かなものです。人間の問題の複雑さをひっくり返して考えてみてください。神の愛はまっすぐで、決して切れません。神様の愛は単純で深いものです。あなたの悩みは深いでしょう。けれどもそれよりも圧倒的な深さで神様はあなたを愛しているのです。神様はあなたを大切に思っているのです。だから前に一歩、進んでみましょう。

今日のみ言葉からみなさんに問いかけをします。あなたは今どのように人間関係に悩み、もがいていますか?お金の問題で心が重くなっていませんか?赦せない相手の顔が思い浮かぶでしょうか?そのような毎日の中で、あなたはどこに神様の愛を感じますか?どうすればこの礼拝でそれを感じることができるでしょうか?礼拝で神様との絆をもっと感じるにはどうしたらいいと思いますか?

礼拝は私たちが神様に近づくだけではなく、神様が私たちに近づいてくださる時間です。人間の複雑で壊れやすい関係を超えて、神様の愛は真っすぐに私たちに注がれます。その愛はほどけることのない愛です。心の中の悩みや葛藤を神様の前に差し出しましょう。そして神様が見捨てないことを思い出しましょう。黙想の時間を持ちます。

 

【全文】「欠けを探す礼拝」マタイ18章10~20節

みなさん、おはようございます。今日もこうして、みんなで神様に向かえることを感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。今、この瞬間を大切にしましょう。

 

今月は「礼拝」をテーマにお話をしています。私たちは、なぜ礼拝をするのでしょう?ただの習慣でしょうか?それとももっとあなたの人生にとって、深い意味があるのでしょうか?礼拝は神様と人との、人と人との結びつきを強めるためのものです。その結びつきを深めるために礼拝をしています。そして私たちは今月、どんな礼拝をすれば、もっとその結びつきが強くできるのかを考えながら礼拝をしています。講壇を無くしてみたり、下に降りてみたり、神様への応答カードを書くようにしてみたり、いろいろことを試しています。

 

大きな方向性としては参加する要素を強くした礼拝を目指して、いろいろなことにチャレンジしています。そして20年後の形を想像しながら、これからの礼拝のことを考えてきました。

 

これまで礼拝は、牧師の話をただ聞いて帰る場所、と感じていた方も多いかもしれません。礼拝はどこか受け身なものとされてきました。牧師や司会者が話し、参加者は静かに聞くだけ――そんな構図が長く続いてきました。牧師が立つ場所と、皆さんが座る場所。その間には、目に見えない壁があったかもしれません。もちろん礼拝は牧師の講演会ではありません。一人一人が牧師を通じて神様につながるのではありません。一人一人は直接、神様とのつながりを持つことができるのです。そして一人一人に神様の愛が直接示されてゆくのです。みなさん一人一人がより、神様とのつながりを感じることができる礼拝にしてゆきたいと願っています。そのような、参加型の礼拝を目指したいと思っています。

 

いろいろ試していますが、最近の礼拝を通して、みなさんはどんな思いや発見をしてきたでしょうか?来週の信徒会では皆さんの感想と意見を分かち合う時を持ちたいと思います。私たちの礼拝はこれが最高、今が最高ではなく、もっと良いものにしていけるはずです。私たちの礼拝には、きっと見落としている要素があるはずです。主の晩餐に全員で参加するということも大きな変化です。それは今まで参加したことがない人がどうしたらもっと参加できるようになるかを考えるという出来事でした。

 

礼拝も宣教も、一方的に受け取るものではなく、一人一人が近くで味わい、共に作るものです。聞くだけではなく、参加する要素を探し求め、旅をしてゆきたいのです。

 

神様とのより深い関係、人とのより深い関係のために礼拝について考えたいのです。今日は参加型の礼拝という視点でこの個所を読み直してみましょう。その時、この個所はどんな風に聞こえるのでしょうか?私たちの礼拝をもっと深いものとしてゆくために欠けている事、加えてゆくべきこと、やめるべきことはなんでしょうか?一緒に考える時にしましょう。

 

 

今日はマタイによる福音書18章10~14節をお読みいただきました。聖書のたとえ話はこうです。ある時、100匹の羊と一人の羊飼いがいました。しかし1匹足りません。1匹が欠けて99匹になってしまいました。1匹は迷子になってしまったのです。一人の羊飼いは99匹を山に置いて、危険にさらして、1匹を探しに出てゆきました。そして1匹を探し出し、見つけました。そこには大きな喜びがあったというたとえ話です。

 

この話は多くの場合、羊飼い=神様、1匹の羊=私と解釈をされてきました。神様がはぐれた1匹の羊のような「私」を探し出してくれると理解されてきました。神様が99匹を残し、はぐれた1匹を探す姿は、とても心温まる話です。神様の愛、神様と私の深い関係を感じさせる話です。

 

しかし一方で、1匹の羊を私とする解釈は、聖書の個人主義的な解釈にもつながります。その時神様は、他者を置いて私だけに関わる姿が想定されます。神様は私を探し、私にどうかかわるかが中心に置かれたのです。それはとても大事な視点ですが、それでは神様が「私だけ」を見つめる存在であり「私だけ」を愛する神であり「他者よりも私を優先する神様」という解釈にもなります。この読み方には、何か大切なものが欠けていないでしょうか?それは、「私」以外の、他の99匹の羊たちの視点です。

 

今日は、この物語を、私たち一人ひとりが集まった「共同体」として読んでみませんか?99匹と1匹の関係に目を向けてみましょう。まず迷子になった1匹を探すという決断は誰の決断だと思うでしょうか?一人のリーダーの勇敢な決断だったのでしょうか?99匹はそれに黙って従い、主人の帰りを待ったのでしょうか?それでは受け身です。

 

もっとバプテストらしい民主主義を大切にする読み方はないでしょうか?それは一人のリーダーの勇敢な決断を受け入れるという読み方ではなく、100匹の共同体の選びとして読む読み方です。今日は99匹の視点から読んでみたいと思います。

 

ある時、99匹のうちの誰かが、1匹足りないということに気付きました。それは一人のリーダーの二つの目だけでは気づけないことでした。99匹の多くの目があるからこそ、一匹の不足に気付くことができました。彼らは相談をし、その1匹を探しだすことを決断したのです。そして99匹が羊飼いを派遣する決断したのです。

 

99匹の総意は、1匹を探すことでした。もちろん99匹の中には様々な意見や立場があったはずです。羊飼いが探しに出ることに不満の声もあったでしょう。今までこのペースで進んできた、そのやり方を変えるべきではない。私は一生懸命ついてきたのに遅れるのはおかしい、追いかけるのはおかしい。遅い羊に合わせたらいつまでも進まずたどり着かない。置いて行かれる99匹の危険も考慮すべきだ。

 

単純な利害関係だけの多数決なら、このまま進む、見捨てるという一択しかなかったでしょう。しかし99匹はそのような決断をしませんでした。99匹はよく話し合ったのです。そしてやはり1匹でも欠けるのは良くないという結論に達しました。そして羊飼いにあの1匹を追わせようと決断し、派遣したのです。

 

99匹はいろいろな立場があったけれど、それぞれに納得して1匹を探し求めることにしました。99匹は、どうしてそんな決断ができたのでしょうか?それは14節「一人でも滅びることは神様の御心ではない」と知っていたからです。99匹は1匹も欠けることなく全員でゴールを目指そうと思ったのです。そしてそのために一人の羊飼いを送り出したのです。その選択が100匹にとって、自分たちと神様、お互いの良い関係につながると思ったからです。それは自分達の中に欠けているひとつものを探す旅の始まりでした。

 

羊飼いが探したのは、たった1つ。しかし決して小さくない“欠け”でした。99で十分だったのかもしれません。でも1足りない、その欠けているひとつのものを探し求めたのです。どこにあるのか、それが欠けている事にはどんな意味があるのか?その欠けの意味を考えながら、探し求めたのです。

 

すぐに見つかったわけではないでしょう。彼はそれが見つかるまで探し求めました。森の奥、川のほとり、岩陰…。行き先を変えながら、必死に探し続けました。

 

そして羊飼いはその1つの欠けをようやく見つけ出しました。そして大喜びで99匹のもとに帰っていったのです。きっと99匹の仲間も喜んだでしょう。「探してよかった!」仲間たちは声をあげ、胸を熱くしたに違いありません。まるでパズルの最後の1ピースのようにそれを喜んだのです。

 

この99匹の物語を私たちと重ねてみましょう。私たちが99匹だとすると、私たちに欠けているたった1つのものとは何でしょうか?私たちはそれを探し求めたいのです。私たちの礼拝には、どんな部分が抜け落ちているのでしょう? その穴をどう見つけますか?

 

私たちの礼拝も99なのかもしれません。100に限りなく近いのでしょう。でも私たちの礼拝で何か置いてきてしまった要素があるのではないでしょうか?私たちが礼拝の中で置き忘れてきてしまったものは何でしょうか?いろいろ試行錯誤します。そんな私たちは今、1匹の羊を探す羊飼いの様に、失ったものを探す旅の途中にいるのです。

 

私たちは今、礼拝に欠けているものを探す旅人なのです。その旅の先に小さな出会い、でもみんなで喜び合える出会いがあるのだと信じています。今、私たちはその旅の途中です。

 

今日、この物語は私たちにどんな挑戦を投げかけているでしょうか?私たちの礼拝に欠けているものは何でしょうか?礼拝でもっとこうすることが、神様の御心だと思えることは一体、何でしょうか?これまでに礼拝が99だとするなら、もし99にもうひとつを加えるなら、それはどんな1でしょうか?欠けているものは何でしょうか?残りの1を探し求める礼拝とはどんな礼拝でしょうか?神様は私たちにそれを探し求める旅に出る様に促しているのではないでしょうか?その1を見つけるために、御心のために。共同体として、私たちとして、99匹として、どうやってそれを探していったらよいのでしょうか?この問いを、私たちみんなで一緒に考え、分かち合いましょう。みなさんのアイディアを聞かせて下さい。

 

そしてそれぞれの場所にいるみなさん一人一人のこととしてもとらえてみましょう。きっとみなさんの戻られる場所があるはずです。家族や仲間、職場や学校という共同体があるでしょう。みなさんのいる共同体もきっと99匹の共同体です。みなさんはそれぞれの場所の中で、どのように欠けたものを探し、見つけることができるのでしょうか?この1週間、みなさん自身も小さな1を探す旅に出てみませんか?あなたの家族や、職場、学校。その99匹の中に、残された1匹の羊はいないでしょうか?どこに残された1匹の羊を見つけるでしょうか?あなたには、思いがけない喜びと感動が待っているはずです。

 

黙想の時を持ちます。心に残った言葉を、そっと神様に献げてみてください。

 

祈ります。

 

 

【全文】「変わり続ける礼拝」マタイ13章44~50節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもの声は命の音です。今日も共に礼拝をしましょう。

 

今月は「礼拝」ということをテーマに宣教をしています。先週は、教会はどのようにしたら神様と人とのつながりをより深いものとしていゆけるかを考えました。神様とより深くつながるために、どんな礼拝ができるでしょうか?もっと神様とのつながり、人とのつながりを深くする礼拝を探し求めています。

 

礼拝に「完成版」というものはありません。いつも未完成であり続けます。これでよいと固定し、完成させてしまった瞬間から、神様とのつながりへの問いはなくなってしまいます。だからこそ、いつも試作品であることが大事です。

 

20年後に多くの教会がなくなるかもしれないという状況の中で、私たちの教会はどんな時を過ごし、どんな教会になっているのでしょうか?少し怖いですが20年後の教会を、一緒に想像してみましょう。どんな教会になっていると思いますか?

 

教会はあまり変わらないと思うでしょうか?では20年前の教会はどうだったでしょう?2005年9月18日の週報を見てみました。司会は今日と同じ古田さんです。週報には毎週「礼拝出席の心得」が記されていました。そのひとつにはこうあります。「礼拝にやむを得ず遅刻する場合はスリッパの音をたてない様に静かに後ろの席につきましょう。お祈りや説教の時には歩くことは厳に慎みましょう」少なくとも、こどもに足音についてはまったく正反対のことを言っています。こどもの足音は平和の音です。と呼びかけています。このように私たちの礼拝大きく変化をしています。

 

他にもこうあります「礼拝後に敬老祝福祈祷がございます、大先輩の方々の健康と主の祝福を祈りましょう」これは今日もかわらない。この後も敬老祝福祈祷をします。ずっとこの祈りを大切にし、続けています。

 

他にはこうあります。9月23日は半徹夜祈祷会があります。お誘いあわせてご出席ください。夜の何時まで祈っていたのでしょうか?どんな祈りがあったのでしょうか?

 

教会や礼拝のあり方は20年前と大きく変わってきています。神様はこのことをどう思っているでしょうか?ずっと今のままでいい、すべて今の礼拝がいい、いまの形が完成で、変えてはいけない。そうは思っていないはずです。神様はきっと、良い部分をもっと伸ばしなさいと招いておられます。もっとみんなで考えて、変えたりやめたりしてもいいと思っているはずです。

 

礼拝は同じ儀式を繰り返すことに価値があるのではありません。礼拝は、神様と私たちを結びつける時間です。大事なことはより深いつながりのために、試作品として、礼拝を試してゆくことです。変わってゆくことです。できることをすることです。私たちはいつもいろいろな試行錯誤を続けてゆきたいのです。

 

神様はその試みの中で良いものを残し、育ててくださいます。そして変えるべき部分を変え、やめるべき部分を取り去ってくれるでしょう。それは私たち一人一人の人生にも言えることでしょう。今日は聖書からそのことを見てゆきたいと思います。

今日はマタイによる福音書13章44~50節をお読みいただきました。今日は天の国のたとえという話です。このたとえは、天の国がどのようなものなのか、どのような事態なのかを伝えようとしています。天の国とは何だと思いますか?天の国とは死んだ後に行く場所ではありません。

 

天の国とは私たちの生きるこの地上で実現することです。天の国とは神様と人間の深い結びつきが実現している場所のことです。神様は死んだ後ではなく、この私たちがいま生きる地上での結び付きを大事にしています。このたとえは神様が私たちとどのような絆を持としているのかを教えています。

 

最初のたとえは、畑で宝物を見つけた人の話です。みなさんには、見つけたらどうしても欲しい物があるでしょうか?見つけたら、その土地を丸ごと買い上げたくなるような物です。彼は宝を見つけ、その喜びのあまり、畑全体を買い取りました。欲しいのは宝だけだったはずです。周りの畑にはそれほどの価値はありません。でも彼は一部分だけではなく、畑全体を買い上げたのです。

 

このたとえは神様と私たちが、どのような関係だと伝えているのでしょうか?神様は私たちの全てを受け止めてくださる方と言えるでしょう。神様は宝物も畑も全部、買い取ってくださるお方です。神様はあなたの良いところも弱いところも、全部抱きしめてくださるお方です。神は宝物だけをとって、捨てるのではありません。私たちのすべてを受け止めて下さるお方なのです。

 

二つ目のたとえは、真珠の話です。ある日商人は小さな一粒の真珠に出会います。そして彼はその一粒に人生のすべてをかけようとするのです。ここでどのような神様と人の関係が書かれているでしょうか?神様はあなたのいいところ、そのひとつに全力を傾けるお方です。あなたの小さくても素晴らしいところを、神様は誰よりも早く見つけ、そこにすべての愛を注ぐお方です。神はあなたという人間を、丸ごとの総合評価で見るのではありません。あなたの心の奥の小さな真珠を、神様は必ず見つけ、愛を注がれます。

 

三つ目のたとえは魚の話です。ある人がたくさんの魚を獲りました。彼は良い魚は器に入れます。しかし悪い魚は捨て、燃え盛る炉の中に投げ込みます。悪い魚は火で焼かれ泣きわめきます。このたとえはどんなことを語っているのでしょうか?

 

もし私自身を一匹の魚に置き換えるなら、私は悪い魚としてすぐに投げ捨てられ、丸焼きにされてしまうでしょう。この中で、私は捨てられず、焼かれずに済むという人はいますか?この話を「誰が悪い人で、誰が良い人か」を振り分ける話だとするなら、話は成立しません。それでは誰一人残れません。

 

この話は、神を信じる人と信じない人が、ある日最後の審判の日に二つに選り分けられ、一方は天国、残りは地獄という話でもありません。

 

このたとえは、私たちの中にある、良い部分と悪い部分と理解ができるでしょう。神様に出会った私たちは、神様によって、私たちの心の中にある、悪い部分をすべて選り分けられ、焼き尽くされるのです。そして私たちの心の良い部分だけが残されるのです。それが神様の愛、導きです。そのように私の心は選り分けられてゆくのです。そのような、神様と深い関係の中に天の国があるのです。

 

この三つのたとえは、少しずつ違うことを語っています。神様は全てを受け止め、小さな良いものを見つけ愛を注ぎます。そして良い部分だけを残すのです。これが私たちに示された天の国です。

 

私たちは礼拝について考えています。この礼拝も同じでしょう。神様は、畑すべてを買い取る様に、私たちの礼拝のすべてを受け止めてくださるでしょう。神様は小さな真珠を探し出し、買い取るように、私たちの小さな礼拝を見つめ、その礼拝に愛を注いでくださるでしょう。そして神様は良い魚と悪い魚を分ける様に、私たちの礼拝を変えて下さるでしょう。終えるべきもの、変えるべきもの伝え、良いものだけを残してくださるでしょう。

 

私たちの礼拝は神様にそのように受け止められながら繰り返されています。この礼拝はそのすべてが畑と宝のように受け止められています。この礼拝は小さな真珠のように見えても、神様が必ず見つけ、受け止めてくださいます。この礼拝は変えらながら歩んでゆきます。神様が良いものと、悪いものを分け、良いものを残してくださるのです。私たちは礼拝のすべてを大切なものとして献げながら、そして礼拝を変えながら歩んでゆきましょう。

 

今日の個所、みなさん自身の人生にはどう響くでしょうか?みなさん自身と神様の関係について考えてみてください。神様はあなたの中に宝物を見つけてくださるお方です。神様は、あなたは私の宝物なのだよと言っています。そして全部を受け止めてくださいます。

 

みなさんの中にはどんな真珠があるでしょうか?小さくて誰も気づないようなあなたの良いところです。「私には何もない」と思いますか?でも神様は知っています。神様は、世界中から一粒の真珠を探し出すように、あなたの小さな良いところを見つけ、すべてをかけて受け止めるよと言っています。それほど、あなたを価値のあるものとしています。自信を持って生きて下さい。

 

そして神様は神様はあなたの良い部分を輝かせ、悪い部分を焼き尽くしてくださると約束しています、あなたの中の良い事だけをのばし、悪い事だけを滅ぼされるのです。みなさんはそのように神様に導かれて生きるのです。みなさんの先に待っているのは裁きではなく、救いです。天の国です。神様とのきずなが待っているのです。それを確かめながら、この礼拝をしましょう。

 

今日の問いです。あなたの心には、どんな真珠が眠っていますか??どんなに小さくて見つからなくても、神様は見つけて下さいます。では、みなさん自身は何を宝としますか?何を宝として、何を真珠として、何をいらないものとしますか?神様は私たちにそれをどのように教えてくださるのでしょうか?

 

教会の礼拝はどのように変わってゆくのでしょうか?変わらずに続くことは何だと思いますか?神様はこの教会の何を宝、真珠としてくださるのでしょうか?何を変えていいというのでしょうか。みなさんはこの個所をどう受け止めるでしょうか?教会とみなさんの人生に神様はどのように絆を持とうとしているのでしょうか?

 

(1分間の黙想)

 

祈ります。

 

【全文】「手段としての教会」マタイ13章32~33節

みなさん、おはようございます。今日もこうして、共に礼拝できることを、心から神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝する教会です。こどもたちの声と一緒に礼拝を献げましょう。9月は「礼拝」について、みんなで考えてゆきたいと思います。今日はいつもの説教台からではなく、もっと皆さんの近くでお話をさせてください。

この20年、私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。公衆電話を思い出してください。みなさんが最後に公衆電話を使ったのはいつですか?懐かしいですね。10円玉やテレホンカードを入れるとツーという音がします。そして電話番号を一つずつ押します。よく使う電話番号なら覚えていました。そうでない番号は手作りの電話帳を見て番号のボタンを押しました。テレホンカードの目盛りがどんどん減ってゆくのを見ながら親しい人と長電話をした思い出があります。今思うと、公衆電話はとても不便でしたが、その分コミュニケーションは貴重で、意味深さがあったかもしれません。しかしコミュニケーションの形はどんどん変わってゆきました。ある日、携帯電話を持った時から、公衆電話をほとんど使わなくなりました。あれ以来公衆電話は大幅に減少しています。事故や災害などのために、完全にはならないそうです。でもその数はどんどん減っています。公衆電話は役割を終えようとしています。

私は「公衆電話を守らなければ」とは思いません。なぜなら、たとえ公衆電話が姿を消しても、人と人との「つながり」が途絶えたわけではないからです。大事なのは公衆電話ではなく、その中で育まれた、心と心のコミュニケーションそのものだからです。コミュニケーションの方法は公衆電話から携帯電話へと発達しました。それによってコミュニケーションは、電話のある場所に固定されなくなりました。かつて電話は各家庭に1台でした。その家族単位のコミュニケーション手段は、一人一人との直接的なコミュニケーションに変わりました。私たちのコミュニケーションのスタイルは大きく発達してきました。どんなに懐かしくても、もう公衆電話には戻りませんよね? 

さて――教会と公衆電話。意外な組み合わせに、どんな共通点があると思いますか?これからの20年で、多くの教会が閉鎖されてゆくと予想されています。教会の数も、礼拝出席の数も公衆電話と同じ様に、減少しつつあります。教会は必要とされていないのでしょうか?教会を維持してゆくことは大事なことです。しかし教会はあくまで目的ではなく手段です。公衆電話も、維持が目的ではなく、他者とのコミュニケーションが目的でした。教会も同じではないでしょうか?教会の目的は何ですか?教会の目的は、建物や組織を守ることではありません。私たち人間同士、そして私たちと神様の間のコミュニケーションがうまく働くことを目的に、教会は存在するのではないでしょうか?

教会が続くことが目的ではありません。教会は、神様とのコミュニケーション、人と人とのコミュニケーションを、より豊かにするための手段です。公衆電話が姿を変えて、携帯電話になったように、教会もまたその目的を果たすために、どんどん変わってゆくべき場所なのです。

私たちの礼拝で何が変わったでしょうか?主の晩餐が変わりました。よりよく私たちの信仰を神様に表すために全員が参加するものに変わりました。よりよく仲間と信仰を体験するために変わりました。このようにもっと私たちの礼拝は変化に開かれて良いはずです。礼拝の形式自体は大きく変わっていません。もしかすると、私たちの礼拝も公衆電話のまま…なのかもしれません。もちろん変わらない良さはあるでしょう。公衆電話にまだ価値があるように、伝統的な教会にも価値があるはずです。

でも私たちの教会は、20年後も、このままの形で存在しているでしょうか?それとも、人々の心のよりどころとして、新しい形に変わっているでしょうか?私は「古き良き」公衆電話の思い出を大切にしながらも、そこから一歩踏み出し、新しいコミュニケーションの形を模索したいと思っています。深めるのは、人間同士のコミュニケーション、神様とのコミュニケーションです。いろいろな方法を試しながら「これはふさわしい」「これはどうもうまくいかない」そんな風に深いコミュニケーションを探し続けたいのです。そうしないと公衆電話になってしまうからです。

様々な試みに挑戦することが大事だと思います。私たちはこれまで主の晩餐や聖書朗読など、参加型の礼拝を目指してきました。これらは神様と人々とのコミュニケーションがより深まってゆくための変化でした。この期間、一方的に受け取るだけではない、参加型の礼拝にチャレンジしてみたいと思います。ぜひみなさんも、こんな風にしたら、神様や人々とより深いつながりを持てるという礼拝のアイディアを教えてください。今日は聖書から変化とチャレンジについて考えたいと思います。

 

今日はマタイによる福音書13章31~34節までをお読みいただきました。種の話です。この話は伝統的には小さなものが大きくなるという理解で受け止められてきました。小さな信仰が世界を大きく動かす、小さな教会も続けてゆくことで大きな教会になれると読まれてきました。しかし今日は教会自体の維持・存続・拡大ということとは別の角度から読みたいと思います。新しいチャレンジについて、ここから受けとってゆきたいと思います。

聖書を読みましょう。古代の種まきは、いまよりずっとおおざっぱです。私たちが作物を作るように一粒ずつ丁寧に蒔くのではなく、種をつかんで土に投げていました。それは、とにかく数を蒔くという方法です。当然、蒔いたものが全て芽を出すわけではありません。だからこそたくさん蒔く必要があったでしょう。無駄も多くありました。でも必要な収穫を得るには、無駄を承知でたくさん蒔く必要があったのです。人々はケチらずに、収穫を信頼してたくさんの種をつかんで、惜しみなく蒔きました。新しい種を、惜しみなく蒔く人に、成長と収穫があったのです。

種は、持っているだけでは意味がありませんでした。種は年をおうごとに発芽率が下がってゆきます。種を種のまま持っていると、その価値はどんどん下がっていったのです。今あるものを大切に壺に取っておくこともできました。しかしそれを今蒔かないと発芽率が下がり、価値が下がったのです。惜しみなく蒔かれた種、そのいくつかが芽を出しました。そして、大きく育ちました。からし種は木と言うより藪のように成長するそうです。大きくなった藪はたくさんの動物の隠れ家となりました。命が集い、憩う場所になりました。生き物たちが宿る場所、みんなの居場所になりました。

この種のこと、私たちは今日どのように理解しましょうか?今月は礼拝というテーマで考えを巡らせてみましょう。教会にとって種とは何でしょうか?種とは――私たちの中に眠る、新しい可能性そのものではないでしょうか。教会はたくさんの種、たくさんの可能性を持っています。教会は惜しみなく様々なことを試すことが必要です。種まきが厳選した少数の種を蒔くのではなく、とにかくたくさん蒔いてみることが大事だったように。私たちはいろいろなあり方に挑戦をしてゆきたいのです。そして種を種のまま持っていても芽は出ません。種は蒔かないと芽を出しません。アイディアを持っているだけでは、何も始まりません。やってみないと芽が出るかどうかわからないのです。

いろいろな取り組みを試みるからこそ、芽が出るもの、出ないものがあるのです。うまくいくことと、いかないことがあるでしょう。しかし聖書は言っています。挑戦しなさいと。新しい礼拝へ、新しい神と人との出会いへ、私たちはいろいろな礼拝の持ち方、神と人とのコミュニケーションのあり方を、種蒔きの様に、大胆にチャレンジしてみてはどうでしょうか?

きっと全てが成功するわけではありません。でもいつかそのひとつが芽吹き、大きな藪になるはずです。そこが人々の癒しの場所となるはず。そこが人と人が出会い、神様と人が出会う場所になるはずです。教会はそのような場所になりたいのです。教会が、神様と人がより深く出会う場所となるため、たくさんの可能性を試したいのです。

私たちは公衆電話のままでいいのでしょうか?私たちは種を蒔き、深いコミュニケーション、神と人との深い出会いの場所を目指してゆきましょう。この言葉は私たちの教会の礼拝に向けられた言葉です。どんな礼拝なら、人と神様が、より深く、温かく出会うことができるのでしょうか。今日の礼拝が終わった後も、この問いを、ぜひあなたの心の中に持ち帰って考えてみてください。

そしてあなた自身のこととしても考えてみてください。あなたは小さな種をもっています。それは持っているだけではなく、今蒔くべき種です。種は時間が経つと芽を出さなくなります。「今、蒔いてみること」が大事です。さて今、あなたの心の中にある小さな「種」は何でしょうか?それを蒔くとしたら、それはどんな一歩になりますか?より深い人との出会い、神との出会いに向けて、できることは何ですか?すべての種が芽を出すわけではありません。でもそのいくつかが木となり、次の世代へと命をつなぐのです。

そしてこの後、主の晩餐を持ちます。これも神様とのコミュニケーションの一つです。全員でこのコミュニケーションに参加しましょう。1分の黙想を持ちます。それぞれに感じたこと、神様への応答をぜひカードに書いてみてください。

 

【全文】「世界を平和で満たそう」マタイ12章43~50節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。こどもたちの声は平和の象徴です。この会堂いっぱいにこどもたちの声と平和で満たされるように祈っています。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

8月は礼拝で、平和について考えてきました。それぞれに平和をどのようなことを感じているでしょうか?世界や日本が、平和に近づいていると思うでしょうか?それとも世界や日本は戦争へと進んでいると思うでしょうか? 

世界終末時計というものがあります。世界がどのように破綻に向かっているかを示す時計です。科学的統計というよりも主観的な表現ですが、私たちの破滅への危機感を視覚的に訴え、インパクトのあるものです。1947年から発表されているこの統計、推移は次の通りです。1947年、アメリカとソ連の冷戦時代に初めての発表された時刻は、終末を示す午前0時まで「残り7分」でした。1991年。私が幼い頃です。冷戦終結やアメリカとソ連の核軍縮がありました。時計は「残り17分」まで戻りました。破滅までの時間は伸び、平和へと向かっていったのです。私は小さい頃、信じていました。世界はきっと平和へと向かってゆくと。しかしその後、ソ連の核兵器はインドやパキスタンに拡散してゆきます。時計の針は再び短くなり、世界は破滅へと向かってゆきました。

日本にもこの時計が有ったらどんな数字になるでしょうか?1945年8月は0秒だったと言えるでしょう。一番長かったのはいつでしょうか?1947年に憲法9条・平和憲法が制定された時でしょうか?しかし今はどうでしょう?決して平和に向かって時を刻んでいるわけではないでしょう。自衛隊は海外に派遣されるようになりました、軍事費はますます増大しています。先の参議院選挙では各党の憲法案が論点となりました。新たに憲法作ると訴える党がいました。その憲法案からは9条が削除されていました。この党は「核兵器は安上がりだ」という発言もしています。そしてこの党は選挙でとても人気がありました。私たちは戦争に向けて再び時を刻んでいます。私たちは大きな戦争を体験し、もう二度としないと誓いました。軍隊を持たない、武力ではなく平和を信じると宣言したはずでした。しかし日本はまた自ら戦争へと近づこうとしています。私たちは一度手放したはずの戦争・武力に再び戻っていないでしょうか?日本は再び戦争・破滅に向けて時を刻んでいます。戦争、核兵器の再使用、人類の絶滅に再び近づいています。みなさん自身はそんな世界の平和、日本の平和について今どう思うでしょうか?今日の個所を読みながら、一緒に考えてください。

 

 

今日はマタイによる福音書12章43~50節をお読みいただきました。今日の個所は伝えたいことが謎だと言われる個所です。聖書にはイエスは何を言おうとしたのか、謎に包まれている箇所がたくさんあります。しかし私たちの戦争へと向かう現状を重ねた時、この個所がもう少し分かるかもしれません。

聖書にあるイエスの話をもう一度振り返ります。イエスは追い出された汚れた霊が再び家に戻ってきたという話をしました。汚れた霊は一度は家から追い出されたのです。汚れた霊は自分から、自主的に家から出て行ったのではありません。その家の主に追い出されたのです。もう汚れた霊はいらない。その決心と祈りとによって、汚れた霊は追い出されました。しかしその時、汚れた霊の存在が消えたわけではありませんでした。汚れた霊はまた次に住まうべき別の場所を探し始めました。汚れた霊は自分にもっとふさわしい場所があるはずだと信じ、その場所を探しました。しかしそのような場所はなかなか見つけることはできませんでした。

行く当てのない汚れた霊は「そうだ、戻ってみよう」と考えました。一度は自分を徹底的に追い出したあの場所。しかしあそこも、きっと時間が経てば、再び自分に居心地のいい場所になっているのではないかと思ったのです。行って、のぞいてみると、案の定、その家は空でした。もしすでに誰かが入っていたら、話が別でした。しかしそこは空。誰もいなかったのです。しかも掃除されて、整えられていました。他の翻訳によれば、飾り付けがされるほどきれいだったのです。それはまるで、汚れた霊をもう一度歓迎するかのようでした。その家は汚れた霊にとって、居心地が最高の場所に戻っていました。汚れた霊は自分の他にもたくさんの汚れた霊の仲間を招いて、そこを居場所にします。気付くと、そこは一度は汚れた霊を追い出したはずなのに、再び汚れた霊が住み込み、前よりさらにひどい場所になっていました。このような話です。

さて、この話をどのように理解したらよいでしょうか?この個所は、ユダヤ人排斥の文脈で理解されてきた歴史があります。ユダヤ人は真理であるキリストを受け入れず、律法主義やファイリサ派など入れ替わり立ち代わり汚れた教えを心に招きいれている、どうしようもない人種だ。彼らには神の厳しい裁きがあるだろう。そしてそんなユダヤ教とは反対に、キリストを迎え入れる者だけが、神に救われると解釈してきました。私はその解釈自体が、非常に差別的であると思います。クリスチャンが聖、それ以外の人が俗・汚れという考えこそが、汚れた霊による考えだと思います。

私はこの個所を、一人ひとりの心に何を住まわすのかという問題として読みたいと思います。今日私たちが与えられている問いは一人ひとりは何を心に住まわせるのかというものです。私たちは汚れた考えを、徹底的に追い出しましょう。汚れた考えとはどんな考えですか?想像してみてください。暴力、戦争、核兵器、差別、格差、いじめ、無関心・・・みなさんの心にはどんな汚れた霊がいますか?それは人間一人ひとりにあるものです。私たちは時々大きな失敗をします。そうするとそれが汚れている考えだったと気づきます。もうやめよう、捨てようと思います。そしてそれを追い出すのです。戦争はだめだ、差別はだめだと心から追い出すのです。

しかしどうでしょうか?そう時間が経たぬうちに、私たちには、再び汚れた霊が住みつくものです。それはいつの間にか起こります。でも実は少しずつ、静かに、汚れた霊を迎える準備は進んでいます。そこは汚れた霊が来るはずがないような、美しい家になってゆきます。そこにいるものは飾り付けられ、新しく、魅力的に見えます。しかしいつの間にか、そこは前よりひどい汚れた霊がいくつも居るようになるのです。私はこの汚れた霊が、戦争や差別に見えます。それは私たちの心の中、私たちの社会に静かにやって来ます。少しずつ、場所が整えられ、飾られた場所に忍び込んできます。人気に推されて、新しいものとしてやってきます。

私たちは注意をしなければなりません。きっとイエスは警告したのです。汚れた霊、戦争や差別がそれぞれの心と社会に入ってくることを。私たちはどうすれば汚れた霊を心に迎え入れずに済むのでしょうか?

私は今日、この家が空っぽだったということに注目をします。この家に足りなかったものは汚れた霊を追い出しただけで終わってしまっていたということです。汚れた霊を追い出しても部屋が空いたままならば、また入ってきてしまうのです。戦争を否定しただけでは、まだ不十分で、解決しないのです。私たちは汚れた霊が再び家に入ってこないように、そこを別のもので満たさなければいけなかったのです。もう二度と汚れた霊が入って来ない様に、隙間なく別のもので満たさなければならなかったのです。もう二度と入りこむ余地はないと示す必要があったのです。

汚れた霊のいなくなった場所を、私たちは何で満たすことができたでしょうか?考えてみてください。例えば平和の願いで満たすのはどうでしょうか?他にも祈り、誓い、憲法、戦争の証言、様々なもので満たすことができるはずです。そしてキリスト者はそこを愛と平和、神の言葉で満たすことができるはずです。何でそこを満たすことができるのか想像してみてください。

私は汚れた霊を自分の心から徹底的に追い出したいと思います。そして平和の主であるイエスをこの家、私の心に迎えたいのです。私の心から暴力と差別を徹底的に排除し、平和の主イエスを心に迎え入れたいのです。

そこにイエスが入っていなければ、きっと私の心はまた暴力と差別で満たされてしまうでしょう。そして前よりもっと深刻になるでしょう。私はそこにイエスの十字架を置きたいのです。十字架とはイエスが暴力的な力で、殺されたことの印です。けれども同時に十字架は暴力を超えて、復活があった印です。それを胸の中に、私の家に置きたいのです。イエスが心に住み続けてくれるように、私はいつも十字架の前に祈り、汚れた霊・戦争と差別を追い出し続けてゆきたいのです。世界の人たちの心から、戦争をする心が追い出され、平和が住むように祈りたいと思います。世界は確実に、再び汚れた霊が住む場所になり、前より深刻になっています。

みなさんにも問いかけます。私たちの世界がその心から追い出すべきことは何でしょうか?私たちの日常ではどのような場面で汚れた霊を見ることができるでしょうか?みなさんの心には今、何が住んでいるでしょうか?大切なのは飾りつけられていることではありません。その中身です。今、みなさんの心に迎え入れるべきことは何でしょうか?みなさんが心に迎え入れるべき人は誰でしょうか? そのために私たちができることは何でしょうか?もっと心のスペースの中身を入れ替えるにはどうしたらいいのでしょうか?私たちは何を心に招くのでしょうか?それぞれに祈り、考えてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「逃げて耐え抜く平和」マタイ10章16~23節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に囲まれながら礼拝をしましょう。

 

8月は平和について考えています。80年前にも私たちの国で戦争がありました。あの時、一人一人が戦争に関わらないこと、戦争から逃げることがどんなに難しかったことかを想像します。ひとたび戦争がはじまると、逃げたい人は逃げる、戦いたい人は戦う、そんな自由ありません。全員が戦争に駆り出され、巻き込まれ、関わらないで済む人はいません。

 

かつての日本では、軍に徴兵されると、近所の人が集まって万歳して送り出されました。お国のために素晴らしい事をするのだと教えられました。親は心の中で本当は、息子に戦争になんか行って欲しくありませんでした。本人も行きたくありませんでした。でも戦争から逃げることはできませんでした。逃げることは不名誉なことだったからです。戦争で戦って死ぬことこそが名誉とされました。逃げることは「恥」とされ、選べなかったのです。

 

戦争が始まった時「戦争に反対だ」「戦いたくない」と言葉にすることはどれくらい危険で勇気が必要だったのでしょうか。平塚教会の初代牧師の長尾三二は勇気のある人でした。戦時中に「戦争反対」を訴えて、平塚警察に捕まりました。

 

しかしそれを言葉にできなかった人がどれだけ多くいたでしょうか。本当は戦いたくないのに、戦わざるを得ない状況に追いやられてゆきました。本当は載りたくない特攻機に乗せられ、敵艦に向かわされました。

 

私はどんな時でも、「戦いたくない」と言える勇気を持ちたいのです。戦争から一歩、後ろに踏み出す勇気が欲しいのです。戦うことを強制される戦争から、暴力で戦うことが良い事だと言われる場所から、国のために死ぬことが美しいと言われる場所から、逃げる勇気が欲しいのです。それが平和につながるのではないでしょうか。

 

今月は平和について一緒に考えています。一緒に戦いから逃げること、その先に平和があること考えてゆきたいと思います。「逃げる」と聞くと、弱さの象徴のように感じるかもしれません。でも思い出してください。聖書の中には逃げた人がたくさん登場します。アブラハムもソドムから逃げます。モーセもエジプトから逃げます、イエスの父ヨセフはエジプトに逃げます。それぞれの先に平和がありました。聖書には逃げることで守られた命がいくつも描かれています。一緒に聖書から平和を求めて逃げる事を考えましょう。

今日はマタイによる福音書10章16~23節をお読みいただきました。この個所は伝統的な教会では「負けずに伝える」ことに焦点を当てる解釈をしてきました。困難が有ってもキリスト教を伝えてゆこう、1か所だめでもまた次、また次と伝道してゆきましょうと教えられてきました。頑張ったその先に救いがあると教えられてきました。でもその解釈に息苦しさも感じます。今日はそこから逃れて、平和というテーマで読んで行きましょう。

 

マタイ福音書4章24節には、イエスの教えがシリアで広がったという言葉が唐突に出てきます。おそらくマタイによる福音書を書いたグループはシリアを中心に活動していました。シリアはエルサレムからも、イスラエルからもずいぶん北にある遠い場所です。

 

なぜ彼らはそのような場所で活動していたのでしょうか。この時代にイスラエルはローマ帝国と激しい戦争をしていました。この時代に彼らがイスラエルからシリアに移動したとするなら、もっとも可能性の高い理由は、戦争から逃げたという理由です。

 

イスラエルの中で勢いがあったのは徹底抗戦をしようとした主戦派グループでした。徹底的に戦って、ローマ帝国を追い返そう、自分たちは勝てるはずだ、愛国心と信仰心が混ざり、彼らは熱狂的にローマと戦いました。戦えば必ず勝てると信じていたのです。

 

しかしそんな状況に水を差すように、あえて戦わず「逃げる」という選択をし、シリアへと逃げだしたグループがいました。それがマタイたちです。戦っている人々からは、どう見えたでしょうか?日本の戦時中の雰囲気から想像します。きっと祖国と家族を捨てて逃げ出した非国民、国と神殿を守るために戦わない腰抜けと思われたでしょう。彼らは味方からも白い目で見られるように、シリアへと逃げていったはずです。

 

きっとマタイのグループの中にも逃げずに、戦うべきだ、やりかえそう、力で自分たちの正しさを証明しようと思う人がいたでしょう。しかしマタイのグループはそれらを選びませんでした。

 

今日の個所には22節で「最後まで耐えしのぶものは救われる」と書かれています。彼らは何を耐え忍んだのでしょうか?それは暴力の誘惑に耐え忍んだということです。多くの人が戦いたい、やり返したいと思ったでしょう。しかしマタイたちはその誘惑と向き合い、別の道を選びました。

 

マタイのグループは自分の願いを叶えるために暴力を使う、その誘惑に耐え続けたのです。戦う誘惑をしのび、平和を求めて行動をしました。それが逃げるという行動だったのです。平和のために、もっとも勇気のいる行動「戦わずに逃げる」を選んだのです。戦わないという選択、逃げるという勇気、それはヘビのように賢く、鳩のように素直で平和な選択でした

 

マタイのグループがこのように平和を求め、戦わずに逃げる、その勇気ある選択の原動力はなんだったのでしょうか。私はそれが23節のみ言葉だったのではないかと思います23節にはこうあります「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」

 

聖書には今日の個所と似た話がマルコとルカにも納められています。しかしどちらにもこの「逃げなさい」という言葉がありません。「逃げなさい」という言葉はマタイ福音書の大きな特徴です。マタイたちは、特にこの「逃げなさい」という教えを大切にしていたのです。

 

マタイのグループは危険に遭遇した時に戦うのではなく「逃げよ」そう教わっていたのです。彼らはこの教えに従って戦わずにシリアへ逃げたのです。そして結果的に4章24節にあるように、逃げた場所で彼らの平和の福音が広がったのです。

 

そして歴史的にはこの後、イスラエルに残り、逃げずに徹底抗戦したグループはローマ軍の前に全滅してゆきました。結果を見ると、暴力の誘惑に負けずに、逃げ、耐え抜いたものこそが救われたのです。

 

そしてキリスト教も、あえて逃げる道を選んだ人々、暴力よりも平和を愛するグループがその中心を担うことになったのです。

 

戦わなかった姿、それはイエス・キリストの生き方とも共通するでしょう。17節以降には鞭で打たれ、王の前に連れていかれ、死に引き渡されるとあります。これはイエスが十字架に掛けられる前の出来事とまったく同じ姿です。イエス・キリストは一切の暴力的な抵抗をしませんでした。イエス・キリストは戦わず、十字架に掛けられたお方でした。私たちには逃げる様にと教えましたが、逃げることさえ、選ばなかったのです。それが、神に等しいお方の静かな選択でした。

 

イエス・キリストはあなた方は戦わず、また死ぬこともなく、逃げなさいと教えています。

 

今日の個所からどのように平和を考えたらよいでしょうか。戦争がはじまった時、逃げる事、関わらわずにいることの難しさを改めて想像します。そして絶対に戦争を始めたくないと胸に強く思います。

 

そしてもし、私たちの国で戦争が始まってしまったら、私はマタイのように、戦うことよりも、逃げることを選びたいと思います。その時はきっと「逃げた」と笑われ、非難されるでしょう。しかしそれでも勇気をもって逃げることを選びましょう。

 

私たちは信じましょう。戦わないその先に、神様の救いがあるのです。イエスの十字架の歩みにも暴力に暴力で抵抗しない生き方が示されています。私たちはそのような平和を貫きましょう。戦争から逃げて、戦うことから逃げて、誘惑に耐え抜き、平和と救いを求めてゆきましょう

 

決して人間はどうあがいても戦争をしてしまう存在ではありません。戦争は止められると信じます。神様は私たち人間が何度戦争を起こしても、いつも平和のチャンスを与えてくださるお方です。

 

戦うことから逃れて、勇気を持ってもう一度平和に向けたチャレンジするとき、神様は確かな平和・救いを私たちに与えて下さるのです。私たちは暴力の誘惑に負けずに耐え抜き、平和に挑戦し続けましょう。

 

私たちはそれぞれの1週間、この平和を胸に歩みましょう。私たちの1週間の中でどのようにして平和を実現することができるでしょうか?私たちが派遣されるそれぞれの場所ですべきことはどんな事でしょうか?想像してみてください。

 

私たちそれぞれの場所にある、暴力に反対しましょう。小さいことから、大きなことまで、私たち人間からはすぐに暴力的で汚い言葉が出てきてしまうものです。私たちはその暴力から逃げましょう。暴力に暴力で対抗するのではなく、23節にあるとおり「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行き」ましょう。

 

そしてそれぞれが逃げた場所で、平和の言葉を語りましょう。平和を実現する言葉、平和がそれぞれの場所に広がってゆく言葉とはどんな言葉でしょうか?マタイが逃げたシリアの先で広げたように、私たちも平和を広げてゆきましょう。そのために必要な言葉を神様に聞きながら話してゆきましょう。

 

私たちは今週もそれぞれの場所で精一杯、他者を愛しましょう。そしてどうしても平和が難しいなら、一度離れてみましょう。そんな生き方が今日の個所から示されているのではないでしょうか?お祈りします。

 

【全文】「平和の実現を信じ続ける」マタイによる福音書8章5~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は私たちの教会にとって、平和を告げる音です。平和を感じながら共に礼拝をしましょう。

 

今日は平和祈念礼拝です。私たちは今年、戦後80年を迎えます。8月は平和の大切さをかみしめながら、礼拝をしてゆきましょう。

 

アメリカの方から「“戦後”という言葉はアメリカでは通じにくい」という話を聞きました。私たちにとって戦後とは第二次世界大戦の後を意味する言葉です。しかしアメリカでは「戦後」と言っても「それはどの戦争の後のことですか?」と聞かれるそうです。それだけ戦争は繰り返されているのです。

 

私たちの日本には憲法9条があり、80年前に平和への決意と確信をもってこの国のあり方を選びました。そのおかけで、これまで直接的に戦争に加わらないでいることができました。ずっと戦後が続くように祈っていますが、いつまで戦後が続くのか不安に思っています。

 

軍事費は増え続け、沖縄には新しい基地が建設され、自衛隊はアメリカ軍と一体化しています。もはや戦後ではなく、戦前ではないかという声も聞こえます。

 

そして世界はどうでしょうか。多くの地域で戦争が続いています。世界全体は「戦後」ではなく、いつも「戦時中」です。

 

先日お昼のニュースでパレスチナの状況が報道されました。ガザ地区の国境が閉鎖され市民に飢餓が蔓延しているという情報が告げられ、映像が流れました。その映像にはこどもからお年寄りまで少ない食料に何時間も並ばなければいけない、長蛇の列が作られている様子が写りました。食料を受け取れなかったこどもたちがカメラに向かって「食べ物が足りない」と怒りと大粒の涙で訴えていました。私が胸が張り裂けそうな思いになりました。そして画面は切り替わり、今度はイスラエル軍が別の食糧配給所で市民に発砲し、多くの死者がでていると伝えられました。

 

パレスチナとイスラエルの問題はユダヤ教・イスラム教・キリスト教が複雑に絡み合う問題です。ユダヤ教の多いイスラエル、イスラム教が多いパレスチナ、イスラエルを支持するキリスト教右派。同じ聖書を土台にする宗教が戦争をしています。ロシアとウクライナもキリスト教国です。

 

キリスト教は一時期、イスラム教が戦争を肯定していると盛んに批判していましたが、キリスト教徒も負けずに一生懸命戦争をしています。キリスト教徒である私たちも、自らを省みなければならないと感じます。もちろん仏教国のミャンマーでも紛争が続いています。そもそもなぜ信仰者が戦争を起こすことができるのでしょうか。

 

私は世界に平和と食べ物が行き渡ることを願っています。私自身は今や、どの宗教かということは問題ではないと感じています。宗教を超えて、平和と食べ物とこどもたちのために祈り、互いが共存できる世界にしたいと祈っています。何よりも世界のこどもたちに平和と食べ物が行き渡ることを願っています。

 

もちろん私たちの土台には、聖書と信仰があります。聖書には神が人間を創造したと書いてあります。私たちは神が創造した命を壊してはいけないはずです。私たちは平和と共存を求めながら、聖書を読みましょう。聖書全体がその前提で読まれるべきだと思います。

 

今日の聖書箇所を見てゆきましょう。

今日はマタイによる福音書8章5~13節までをお読みいただきました。今日の個所には軍人である百人隊長が登場します。ある人はここで、軍人がイエスの奇跡の対象になるということは、イエスも軍隊の存在を容認していていた。イエスが軍人が肯定されるなら、当然戦争も肯定していたはずだと主張します。そんなばかげた読み方があるでしょうか。戦争肯定のために聖書を使わないで欲しいです。平和を求めてこの個所を読みましょう。

 

ある時、僕の病気のことで、百人隊長がイエスを尋ねてきました。カファルナウムにはヘロデ王の軍隊が駐留していました。ヘロデの軍隊は非ユダヤ人で構成されていたと言います。つまりイエスとは宗教の違う軍人が、病の癒しを頼んできたのです。宗教を超えて、命を救ってくれと求めにきたのです。この人の必死さが伝わってきます。

 

7節でイエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と言っています。イエスはそれをためらわず、すぐに了承し、百人隊長の家に行こうとしています。しかしこれは非常に驚くべき行動です。

 

当時、ユダヤ教の人々は違う宗教の人の家に行ったり、一緒に食事をすることは律法で汚れた事として禁止されていたのです。それは宗教的タブーだったのです。しかしイエスは軽やかに私が行こうと言っています。

 

まず、今日このイエスの行動に何を見出すべきでしょうか?私はこの個所から、イエスは命を守るためになら、戒律を超えようとした方だと感じます。それがタブーだと言われていても、命を守るための行動はためらわなかったのです。イエスはそれにまったく躊躇しませんでした。イエスは国籍、宗教、血縁に関係なく、また軍人であるかどうかにも関わらず、命が大切にされることを願うお方なのです。

 

家に早速向かおうとするイエスに、百人隊長が言います。あなたは家に来なくても命を救うことができるはずだと。わたしでさえ命令すれば軍隊を動かすことができる。あなただって、直接行かなくてもできるはずだと叫びました。

 

イエスはこの百人隊長の発言に足を止めました。イエスは彼が神様の力に全幅の信頼を寄せていることを強く感じ、感動したのです。本当にあなたは神様の力を信じているのだね。神様が命を守ると強く信じているのだね。イエスは異なる宗教の百人隊長が神を強く信じる気持を感じ取ったのです。イエスは、神様はどんな難しいことでもきっとできると信じる気持ちを、大事に思ったのです。

 

そしてイエスの応答が11節と12節に続きます。この部分は今日もっとも大事にしたい箇所です。

 

11節の東や西から大勢の人が来るとは、イスラエルから見て宗教や国籍、肌の色が違う人たちが大勢やって来るということです。そしてその人たちが、アブラハム、イサク、ヤコブと食事と宴会をするということです。アブラハム、イサク、ヤコブといえば、ユダヤ教の始まりを刻んだ族長たちです。その大御所3人が、外国人と宴会をするという光景が書かれています。

 

しかしこの光景には大きな問題があります。先ほども紹介したように、ユダヤ人は異教徒の家を尋ねたり、食事をしたりしては決していけないのです。しかし、それにも関わらずイエスはここで、この大御所たちがいつか宗教を超えて、みんなで食事をする日が来ますと言うのです。

 

これは、宗教や人種、国籍を越えて、多くの人が神の国に招かれることを示しています。しかし世界中から様々な宗教、国籍、人種の人が集まって、アブラハム、ヤコブ、イサクと食事をする、これはもう当時、考えられないタブーでした。しかしイエスはこのタブーが実現するのだ、ボーダーレスな出来事が起こるのだと言っているのです。

 

イエスは何を言おうとしているのでしょうか?それは異なる他者と平和に過ごす時が来るということです。今まで対立していた者と共に食事をし、平和が広がっていくのだと語ったのです。

 

12節を見ましょう。12節は「だが」と続きます。イエスは「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される」と言います。御国の子らとは当時、自分たちのみが正しい、自分たちだけが神様の恵みを受けると思っていたユダヤ人のことです。彼らは自分たちの宗教だけが正しく、自分たち以外の宗教は全て間違っている、劣っていると考えていました。自分たちは神の国の子だと自負していたのです。

 

しかし、イエスはそんな「自分を御国の子」と呼ぶ人たちこそ、その宴会に入ることができないと言いました。自分たちこそ正しいと信じ、他を排除するなら、共に食卓を囲むことはできないのです。

 

もちろんこの言葉はユダヤ人だけに向けられた言葉ではありません。クリスチャンにも向けられています。自分たちだけが正しく、自分たちだけが神に選ばれたと思うなら、他者との宴会・平和には入ることができないのです。これは私たちクリスチャンにも向けられた言葉です。

 

この個所から平和について考えます。平和とはまさしく、宗教や国籍を超えて、共に食事にあずかるような出来事です。領土や利権を争い合うのではなく、対話し、分かち合い、共存共栄をしてゆくことが平和です。

 

イエスが百人隊長を訪ねようとした行動と、語られた驚きの風景に、平和のビジョンが表されています。

 

この聖書の光景が世界で実現されるように祈りましょう。困っている他者のために隔たりを軽やかに超えて行動する世界を求めます。いつかイスラエルとパレスチナの人々が、ウクライナとロシア、日本とアジアが天の国の宴会のような交流をできるように願います。私はイエスがそのように私たちに平和を示しているのだと感じます。

 

13節イエスは「あなたが信じたとおりになるように」と言います。これは私たちに告げられている福音です。これは世界は私たちの信じたとおりに作り上げられています。るとの約束です。そしてこれは「世界は、私たちが何を信じるかによって形づくられていく」という、神様からの励ましです。

 

私たちは平和を信じ続けることが大事です。平和を信じ続ければ、平和が世界に実現するのです。信じたとおりになるのです。しかし、いややはり戦争で決着をつけるしかないと信じるならば、戦争が起こるのです。

 

絶対に信じたとおりになる、平和が実現する、神様はそのように私たちに約束しています。私たちは今日もそのように平和を信じ続ける、その信仰を持つクリスチャンでいましょう。お祈りします。

 

【全文】「平和と憐みの食卓」マタイによる福音書9章9~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうしてともに礼拝できること、主に感謝します。私たちは「こどもの声がする教会」です。今日もこども達の声と命を感じながら、礼拝をしましょう。

 

今月、私たちの教会では『平和』について深く考えていきたいと思います。今日は8月3日です。間もなく、原爆が投下されてから80年という大きな節目を迎えようとしています。

 

原爆は、一瞬にしてそこにいたすべての命を奪いました。大人も子どもも、敵も味方も関係ありませんでした。それはすべての人を分け隔てなく愛する神様と全く正反対の出来事でした。

 

原爆の被害にあっても、なんとか生き残った人たちもいました。しかしその人たちも放射能による後遺症と不安で苦しまなければなりませんでした。

 

今回改めて“こうの史代”という人の「夕凪の街 桜の国」という漫画を読みました。この漫画には原爆投下10年後の広島の人々の生活や心情を豊かに描かれています。

 

原爆投下から10年、人々の生活は少しずつ建て直って来ていました。しかし人々の心の奥には原爆の体験が深い爪痕を残していました。人々の心に刻みこまれたのはあの日、自分は誰かに「死ねばいい」と思われたということでした。生き残った人々は自分はあの日、人間としての存在を否定されたということを、よく分かっていました。

 

生き延びた人々は、幸せになろうとすると、あの日の悲惨さが目に浮かびました。幸せを目の前にして、自分だけ幸せになって良いのだろうかと葛藤したのです。戦争は幸せを求めるという人間らしさをも奪ったのです。

 

主人公は結婚を直前にしたある日突然倒れ、目が見えなくなり、髪が抜け、黒い血を吐きました。あまりにも大きな無念さ、そして言葉にならないほどの痛みを抱えて、静かに息を引き取ってゆきます。死ぬ前の彼女の最後の心情が言葉にされています。それは「10年たったけど原爆を落とした人は『やったまた一人殺せた』と思ってくれているか?」というものでした。それは自分は人間として扱われなかったという叫びでした。

 

これは漫画の中だけの話ではありません。実際の広島で、あの日以降、多くの人々が同じ様に苦しみ、亡くなっていったのです。

 

原爆は、すべての戦争は人間を人間として扱わない行為です。それは人間を非人間化する行為です。本来人間は、相手を同じ人間だと思ったら、相手に家族がいることを思ったら殺すことができません。

 

人間が人間を殺すことができるのは、相手を人間でないと思うときです。相手の顔から人間としての表情を消し去り、名前を奪い、声なき「モノ」や「動物」「敵」という記号に変えてしまう時はじめて殺すことができます。戦争はそのようにして相手を非人間化し、時には自分自身も非人間化します。人間の存在価値を根幹から否定するのが戦争という行為です。

 

私たちは平和を求めています。神様が人間の命を創造しました。それを人間が壊してはいけないのです。私たちは人間の命を、神様の創った命として大切に扱わなければいけないのです。私たちは人間を人間として扱わなければいけないのです。神様がそのように私たちに命じています。平和とは、人間が互いの命を尊び、尊厳を認め合うことではないでしょうか。

 

私たちは異なる存在で、衝突することもありますが、互いの人間性を尊重し、平和を求めてゆきましょう。また人間を人間扱いしないあらゆる行為に反対をしてゆきましょう。

 

このような人間が人間とされないという悲劇の中で、私たちはどのように平和への道を見出せるのでしょうか。今日は聖書の中に、その一つの光を見たいと思います。そこには、人間同士が互いを人間として再び見つめ直し、尊重し合う、そんな温かな場面が描かれています。その平和と慈しみの食卓の風景から、平和への大切な手がかりを一緒に探してゆきましょう。

今日はマタイによる福音書9章9~13節までをお読みいただきました。2000年前の物語です。ある時イエスが歩いていると、徴税人のマタイという人と出会いました。彼は人々から税金を集める仕事をしていました。当時それはみんなに嫌われる仕事でした。

 

なぜなら古代の税金とは福祉のために使われるのではなく、王様や貴族、特権階級の贅沢のために使われたからです。人々がどんなに貧しく、どんなに飢えようとも容赦なく税金は集められました。

 

王たちは民衆を、まるで道具のように扱いました。人々は他の家畜と同じ存在でした。徴税人は人々に王に言われるがまま、人々にまったく同情せず、なるべく多くの税金を絞り取りました。だから徴税人は人々からは心底嫌われていました。

 

人々は、税を取り立てる徴税人と王に対して、『彼らは私たちのことなど何とも思っていない。それどころか、私たちが苦しんで死ねばいいとさえ思っているに違いない』…そう感じ、心を閉ざしていました。それはまるで、原爆の日に人々が感じた『自分は誰かに死ねばいいと思われた』という痛ましい感覚と、どこかで通じるものがあったのかもしれません。

 

だから当時、人々は徴税人とは絶対に食事をしませんでした。自分たちのことを動物と同じように扱い、税金を搾り取る徴税人とは絶対に食事をしなかったのです。

 

しかしこの後イエスは徴税人の一人であるマタイと食事をしています。そしてなんとそこには罪人と呼ばれる人もたくさんいたのです。古代において罪人の意味は非常に広い意味を持ちます。犯罪を犯した人だけではなく、病気の人、卑しいと言われるような職業についていた人、外国人も罪人と呼ばれました。それらの人々は徴税人からだけではなく、それ以外の人々からも、人間扱いされなかった人間たちです。

 

イエスはそのような人たちをみんな集めて、家で食事を共にしたのです。非人間化する人、非人間化された人を一堂に集めて、食事会を開いたのです。そこで食前に祈りました。同じ皿から同じ食べ物を食べ、同じ物を飲み、分かち合いました。人々はそのような食事を通じて、互いが笑い、悩み、生きる同じ人間なのだと、改めて気付かされていったのです。イエスはこのような和解と再会の食事をきっと何回も行っていました。

 

イエスは周囲から「なぜ罪人や徴税人と食事をするのか、徴税人は私たちを物として扱っているのに。さらに罪人までも一緒にいる」と言われました。

 

イエスはそれに対して13節で「私が求めるのは、憐みであっていけにえではない」と言っています。いけにえとは犠牲とされるもののことです。イエスは誰かが犠牲になる世界、誰かが死んだり、差別されたりする世界を求めていないのです。イエスが求めているのはいけにえではなく憐みです。

 

憐みとは苦しんでいる人を見た時に、かわいそうと思って、自分のことの様に思って、何かしたいと思って、行動を起こすまさしく人間的な行動のことです。他の動物や物と違う、特に人間が強くもっている感情が憐みです。

 

イエスは、この共に食卓を囲むという行為を通して、人々が互いを『物』や『動物』のように扱うのではなく、かけがえのない同じ人間として再び出会い直すことを願いました。互いの中に神様から与えられた尊厳を見出し、そこに温かな『憐れみ』が生まれるようにと、彼らを食事へと招いたのです。争いや殺戮、そして差別が渦巻くこの世界で、失われた人間性を取り戻し、互いの顔をもう一度見つめ合うようにと促しました。この食事はイエスの開かれた「平和と慈しみの食卓」だったのです。

 

共に食事をし、互いの人間性に気付いてゆく、それは平和に向けた大切な一歩です。一緒に食事をしあえば、殺し合うこと、差別しあうことがなくなってゆくのです。イエスはこの地上にそのような愛と平和をもたらすために、この地上に来られ、人々を食事へと招いたのです。

 

このイエスの物語を、私たちはどのように受け止めていけばよいのでしょうか。まず、私たちの日々の中にも潜む、互いを非人間化してしまうような行為に、もっと敏感になりたいと思います。それは時に、心ない言葉や態度、あるいは無関心として現れるかもしれません。そして私たちは暴力やハラスメント、搾取といった、人間の尊厳を踏みにじるあらゆる行為に対してはっきりと反対をしましょう。最大の非人間化は戦争です。一人一人の人間の命に目を注ぎ、戦争に反対し、平和を求め続けましょう。

 

私たち一人一人の生活にも注意を向けてゆきましょう。私たちはいけにえ、犠牲ではなく、人間同士の憐みを大事にしながら生きてゆきましょう。誰かやどこかが負担を負うのではなく、互いに同じ人間同士であること思って、互いを配慮して生きてゆきましょう。

 

私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。この儀式はパンとブドウジュースをみんなで飲むものです。この儀式の意味の一つは、イエスがこのような徴税人や罪人とした食事を再現するという意味があります。

 

 

 

そして今、私たちもまた、イエス様によってこの『平和と慈しみの食卓』へと招かれています。これから主の晩餐にあずかるこの時、私たちは改めて、ここにいる一人ひとりが、そして世界のすべての人々が、神様に愛されたかけがえのない人間であること、互いに尊重し合い、決して傷つけ合ってはならない存在であることを、心に刻みましょう。今日、私たちは特に、世界の平和を祈りつつ、このパンをいただき、この杯を飲みましょう。すべての人が、ありのままの人間として尊ばれ、平和のうちに生きられる世界を願ってパンとブドウジュースを頂きましょう。神さまが私たちを平和へと招いてくださっています。お祈りします。

 

【全文】「決断の主体として生きる」創世記3章1~7節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をします。私たちはこどもの声が響く教会です。今日も一緒にこどもたちと共に礼拝をしましょう。

 

今日は参議院選挙です。「どうせ何も変わらない」そんな諦めの中で行われてきた選挙。でも今回は少し違う気がしています。私たちの一票、私たち一人一人の決断で何か大きな変化が起きるかもしれません。私たちはそれぞれに祈り、考え、決断し、一票を投じてゆきましょう。今日は何かが変わる、権利の主体として決断をするということを創世記から見てゆきたいと思います。

 

誰しもが、人のものを勝手に食べてしまったという経験、あるいは食べられてしまったという経験が一度くらいはあるものです。冷蔵庫からなくなった、あのプリンです。

 

幼稚園に上がる前くらいの小さなこどもだと、それは絶対食べてはいけないよと言われたら食べないでいるのかもしれません。でも大きくなり発達して、そのおいしさを知っていると、教えを破って食べるようになります。私は初めてこどもが勝手にお菓子を食べた時、怒りたい気持ちと、ほめたい気持ちがあり、言葉になりませんでした。こどもはもっと大きくなると「僕は食べていない」と嘘をつくようになります。

 

これは良くないことではありますが、こどもの大事な発達のひとつと言えるでしょう。こどもたちはそうやって少しずつ大人へと成長し、自立してゆきます。人のものを食べてはいけませんが、自分で考えて決断し、行動するという発達はとても大切なことです。

 

この物語の向こうに、私たちの毎日が透けて見える気がするのです。この物語は食べてはいけないと言われたものを、食べようと決断した物語です。みなさんも想像してみてください。神様は、人間が食べてはいけないと言ったものを食べてしまったことについて、どのようにとらえたのでしょうか? 

 

キリスト教には「原罪」という考え方があります。聖書に原罪という言葉は登場しませんが、今日の聖書個所がもとになって、後の時代に「原罪」という教えが生まれました。この物語にあるように人間の祖先であるアダムとエバが禁断の果実を食べてしまったせいで、その子孫である人間にはずっと罪の性質が遺伝のように受け継がれる。人間には生まれながらの罪、原罪があり、正しい判断ができない性質を持つという教えです。

 

そしてこの教えからは、だからあなたは自分で判断しないで、教会の教えや王様の教え、偉い人の考えた教えに聞き従いなさいと言われてきました。この原罪という教えから、教える者と、教えられる者との壁が作られてゆきました。そしてさらに、人に教えるのはヘビにそそのかされた女性ではなく男性であるともされてきました。

 

しかし原罪という教えを疑ってみましょう。原罪という教えは、それほど昔からある教えではありません。創世記が書かれたのは2500年程前です。そして原罪という教えが開発されたのはその1000年後でした。創世記が書かれた1000年後に、原罪という教えが生まれ、この物語がその根拠とされたのです。ですから当然、イエスの時代には原罪という言葉すら存在しませんでしたし、イエスはこの物語を「罪と罰の物語」とは見なさなかったでしょう。

 

さて私たちは今日の個所をどのように読んでいきましょうか。旧来の教えられた伝統に従えば人間がもって生まれた罪「原罪」について説明をしたいところです。罪を犯さないように、聖書の教えに従えと語られる箇所です。しかし今日はそうではなく、新しい読み方、原罪以外のテーマでこの個所を読みたいと思っています。伝統的な解釈から離れて、自分自身の目で、この物語を読みなおしてみませんか?

今日は創世記3章1~4節までをお読みいただきました。今日も神様に創造された二人が登場します。二人はエデンの園に暮らしていましたが、絶対に食べてはいけないという木の実を食べてしまいました。そして神様に問い詰められ、ヘビのせいにしたり、お互いのせいにしたりします。結局二人はエデンの園から追放されることになりました。

 

この状況をイメージしながら、神様が人間に何を期待していたのかを想像します。神様の願いは、人間が言われた教えをずっと守って、ずっと園で暮らすことだったのでしょうか。神様は、私たちがずっと「いい子」でいることを、本当に願っていたのでしょうか?

 

しかしだとするなら、神様はなぜ人間に自由を与えたのでしょうか。神様はなぜ人間に取って食べる自由を与えたのでしょうか。神様はなぜ人間の目の前に決して食べてはいけないものという誘惑を置いたのでしょうか。神様は人間に自由と誘惑を同時に与え、そしてさらに食べるなという教えに従えと言ったのです。

 

神様は教え従うことができない人間に、罰を下すためにいるのでしょうか。私たちの神様は雲の上から、罰する相手を探して見張っている、そんな神様でしょうか?

 

想像力を働かせましょう。もしかして神様は人間がこれを食べてしまうことが分かっていたのではないでしょうか。神様はいつか人間がそれを食べる時が必ず来るとわかっていたのです。

 

親がこどもの成長を見守る時、いつまでも親の言うことに従う様には育てないものです。「あなたの人生は親の私が全部決めてあげる」「私の言うことを徹底的に守りなさい」そういう親を毒親と言います。毒親とはこどもが自分のことを決める権利を奪ってしまっているのです。

 

親はこどもが多少、自分の期待に反するとしても、自分で選択することを促してゆくものです。親は願います。「ずっとこの家にいてもいい。でもいつかは、厳しくても自分の足で広い世界を歩いてほしい」そんな思いで子どもを育て、広い世界へと送り出します。それが親の役割です。それでこそ、こどもたち自身の人生が始まってゆくのです。

 

父なる神様はアダムとエバにそれを期待していたのではないでしょうか?神様はいつか自分自身で決断する、そんな歩みを始める日を本当は待っていたのではないでしょうか。

 

そして女性であるエバは、世界で初めて「自分で決断した人」でした。彼女は世界で初めて自分の意志を発揮した人でした。そして彼女は世界で初めて自分のことは自分で決めるという主体的権利を使った人間でした。

 

彼女はその実を自分で取って食べました。そしておいしいと思いました。そして隣の人にこれおいしいよ、食べてごらんと喜びを分かち合いました。彼女はもうこどもではありません。主体的で、自立的です。積極的で、分かち合う人間・女性に成長していたのです。神様が人間に与えた、「選ぶ力」「動く力」が、そこに花開いたのです。そして広い世界へと一歩を踏み出しました。彼女が人類の母です。私たちの母である人は自立的・主体的・挑戦的な人間だったのです。神様はその様子を見て、エデンの園の外へと派遣していったのです。

 

このようにこの物語を読む時、私たちは罪と罰ではなく、神様に何を期待されているのかをイメージできるのではないでしょうか?それはしっかりと自分の意思で行動する大切さです。

 

私たちは、神様の言われた通りに生きることはできません。すべての行動に神様の指示があるわけではないからです。だから私たちはそれぞれの場所、場面で自分でよく考え決断し、行動しなければなりません。誰か、偉い人、詳しい人、AIが自分の選択を決めてくれれば楽です。

 

でも神様の期待はそうではありません。神様は自由な存在として人間を創造されました。神様は人間を、自分のことを自分で決める主体的権利をもった存在として創造したのです。それは大人もこどもも同じです。神様はその実をとって食べた時「あなたは自分で決断できるようになったのだね」そう感じたのではないでしょうか。

 

もちろん人間が自分で判断すれば当然、間違えが起こります。間違えは、どんなに隠して隠れても、神様の前に必ず明らかになります。

 

その時大事なことは、自分の選んだ道を、誰のせいにもせず、しっかり受けとめることです。自分の決断の誤りは、誰かに何かを言われたからではなく、自分の決断の誤りとして、しっかりと反省し、責任を持つことが大事です。そのこともこの物語の中で伝えられている事ではないでしょうか?

 

私は神様が人間にどんな期待をもっているのか、この物語から考えます。私は神様が、私たち人間が主体的に決断し、前に進んでゆくことを期待していると思います。

 

私はこの物語を罪と罰の物語ではなく、人間の罪の始まりではなく、神様の期待の物語として受け取りたいと思っています。

 

みなさんは人間とは神様の前にどのような存在だと思うでしょうか?私たちにはなぜ自由があり、私たちにはどのような主体性があるのでしょうか?原罪とは何でしょうか?どんな人間も産まれながらに悪い存在なのでしょうか?イエスの十字架は原罪を贖う存在なのでしょうか?私たちは誰に何に教わり、従って生きるのでしょうか?私たちの行き先は誰が決めるのでしょうか。

 

私たちはもちろん楽園に住んでいるのではありません。私たちはあれ以来、厳しい現実の中に生きています。私たちはその中で自分で自分の人生を決めてゆく権利を持っています。私たちはその自由の中にありながら、神様の罰に怯えるのではなく、神様に何を期待されているのかを考えながら歩みます。時に失敗をするでしょう。それを神様に打ち明けながら歩んでゆきましょう。

 

私たちは失楽園でも希望を失いません。神様が期待し、神様が守ってくださいます。神が私たちをここへ派遣してくださっているのです。お祈りをいたします。

 

 

【全文】「仲間を創造する神」創世記2章18~25節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の声を聴きながら礼拝をしましょう。

 

今月は創世記を読んでいます。私たちにはいろいろな人間関係があります。人の多い場所に行くと疲れることがあります。一人でいる方が気楽だと感じることも多くあるでしょう。おひとりさま需要と言われるように、なんでも一人できる時代になりました。一人で旅行する、ひとりでカラオケする、ソロキャンプなどです。ひとりで自由に過ごす時間が大切にされています。とても大切なことです。自分の時間とペースを大切にすることも今の時代には必要なことです。

 

一人の時間が増える一方で「孤立」も問題になってきています。こども食堂には一人暮らし世帯の高齢者が誰かに関わりたいと思って、教会の前に並びます。こどもも少なくなり、子育て世代の孤立の問題もあります。地域のつながりだった町内会も力が弱くなってきました。私も平日ずっと、大きな教会に独りでいると孤独を感じるときがあります。

 

孤立や寂しさの問題は私たちの周りの様々な場面で起きています。一人の時間は大事です。ただし私たちはときどき、一人でいることに寂しさを感じるもの事実です。今日は私たちが「一人」と「共に」との間でどのように生きるべきなのかを考えたいと思います。

創世記2章18~25節までをお読みいただきました。創世記は神様はどんな方なのか、また私たちの人間はどのような存在なのか、その始まりを描くことで伝えようとしています。

 

先週は神様は命を創造するということを見ました。神様は人間の命を尊い存在、喜びの存在として創造するお方だということ、人間は一人ずつ違うけれど、全員が神様の似姿として創造されたということを見ました。だから神様に互いの命を感謝しようと聖書を読みました。今日は2章から、人間とはどのような存在なのかを考えてゆきたいと思います。

 

神様は創世記1章から様々なものを順番に創造されました。そして創造の後、必ずこの言葉が付け加えられています「神はこれを見て、よしとされた」。

 

神様は6日間様々なものを創造し、それぞれを「見て、よしとされた」のです。しかし今日の個所では神様がひとつだけ「よくない」と思ったことがありました。それが18節です。神様は「人が独りでいるのは良くない」と言いました。神様はすべての創造を「よい」と言ったのに、人が独りでいる事だけは「よくない」と言ったのです。

 

「人が独りでいるのは良くない」それに対して神様は人が独りにならない様に、様々な動物を創造してゆきました。人は神様から与えられた動物たちに愛情を注いで名前を付けました。大切にしたのです。たくさんの動物に囲まれてにぎやかだったでしょう。でもやっぱり何か足りなかったのです。それは自分に合う助け手ではないと感じました。寂しいと思ったのです。孤独だと感じたのです。

 

神様もそう感じました。人間と一緒に生きるのは動物だけではダメだと感じました。動物はふさわしい助け手ではなかったのです。そして神様はさらに新しい創造が必要だと、一歩を踏み出しました。

 

神様は人が寝ている間にあばら骨、人の心臓に一番近い場所から骨を取って、新しい人間を創造しました。そして二人目を創造します。人はそれを大変喜んだとあります。そして男と女として生きることになったのです。

 

歴史的にこの個所は男性優位の根拠として、誤って解釈されてきました。女とはこのように聖書に書いてある通り、男から創られた劣った存在だという解釈です。また男と女以外の性は神様の創造に反していると解釈されました。しかし聖書はここで男の優位性や人間の性別二元論、結婚の推奨を語ろうとしているのではありません。聖書はここで男女やあらゆる性を超えて、人と人とがどのように絆を持ち、向き合うべきかを教えているのです。

 

この個所を読んで、まず驚くべきことは、神様が自分の創造に対してまだ足りないと思うことがあったということです。神様がいて一人の人間がいる、それだけ世界は十分よいはずでした。人は神様が創った豊かな自然や動物に囲まれて暮らせれば幸せなはずです。神と人、そこで世界は十分なはずでした。

 

そしてここには一人の世界の自由さと、気楽さがありました。そこは私たちが日々疲れるあの人間関係のわずらわしさが一切ない世界でした。ストレスのない、よい場所であるはずでした。

 

しかしそこにいた人はそう感じなかったのです。そして神様もそう感じなかったのです。神様は、人にはあなた以外の誰か、もう一人の人が必要だと思ったのです。人は独りではいけないと思ったのです。神様が人は一人では生きてゆけない、そう思ったのです。

 

孤独について考えます。神様は孤独であることを「よくない」と言いました。孤独は神様の創造の意図に適っていないということです。神様が人に求めているのは、一人で、自然と動物に囲まれて安らかに生きる姿ではありませんでした。神様は人間同士の豊かな交わりを期待し、人間を創造したのです。

 

神様はきっと人間が二人いれば、すぐに衝突することを容易に想像できたでしょう。しかしそれでも神様は人間をもう一人創造することにしたのです。きっと神様は「二人に衝突があるかもしれない、でも孤独でなくなること、よい関係があること、力を合わせて生きること」を期待して二人目を創造したのです。

 

神様は二人目がいる方がよい世界だと思ったのです。どんなに必要なものがそろっていても人が独りでは、よい世界は完成されなかったのです。

 

二人目の存在について考えます。神様は19節で「彼に合う助け手を造ろう」と言いました。この「助け」という言葉は詩編において神様の助けという意味で繰り返し使われている言葉です。この「助け」は助手のようなただの助けではなく、神様の「救い」という意味があります。自分の目標達成のお世話や、自分のめんどうなことを取り除いてくれることための補助や助手ではありません。この「助け」とは神様からの助けであり「救い」として与えられものという意味です。

 

神様は、独りで孤独な人間に対し「救い」として、私だけではないもう一人の人間を遣わしてくださったのです。この助け手という言葉は「救い」という意味以外にも「同伴者」や「パートナー」「仲間」いう意味を持ちます。神様は私たちに救いとして、同伴者として、パートナー、仲間としてもう一人の人間を創造してくださったのです。

 

神様は人間が独りで生きていくのは良くないと感じました。人間の究極的な助けは神様が握っているはずです。しかし神様はこの地上での助け、共に助け合う者として、もう一人の人間を私たちに与えたのです。その存在は対等で、平等で、神様から与えられた大切な仲間でした。

 

神様は創造の最後に、この助け手、同伴者、仲間を創造されました。それは神様の創造の働きのクライマックスだったのです。神様はこのように、私たちに仲間を創造するお方なのです。

 

この物語は私たちに何を呼びかけているでしょうか。神様は人は独りで生きるのは良くないと言いました。私たちは独りでは生きていくことができないのです。私たちに共に生きる仲間が必要なのです。神様は私たちに仲間の命を創造してくださいました。私たちはそれを神様から与えられた仲間として感謝し、大切にしてゆきましょう。助け手となりあって生きてゆきましょう。

 

私はこの二人のことを男女や、結婚だけに結び付けて考えたくありません。性や結婚の有無に関わらず、私たちには、神様から共にいる仲間が与えられているのです。私たちには仲間が与えられています。仲間と共に仲良く、助け合いながら生きてゆく、それが神様の期待していることです。

 

私たちの実生活にどのように置き換えることができるでしょうか。私と助け合って生きる誰かの顔が思い浮かぶでしょうか?ここから家族を大切にしようと言えるでしょう。家族は大切な同伴者です。家族は互いに助け合って生きてゆきましょう。そして家族以外でも社会はもっと互いに助け合うということを大切にしよう。血縁や地縁、国籍や宗教を超えて、私たちは互いに助け合う者として創造されています。私たちは共に互いを助け合い生きてゆきましょう。

 

クリスチャンの歩みにもあてはめることができるでしょうか。クリスチャンが独りでいるのはよくないと言えるでしょう。クリスチャンこそ、神様以外の、神様からの助け手となる人間が必要です。共に信仰を分かち合う仲間が必要なのです。私たちの教会は共に向き合い、互いに助け合いながら、励まし合いながら歩んでゆきましょう。

 

25節には二人は裸であることを恥ずかしいと思わなかったと記されています。二人がまだ罪を知らなかったから恥ずかしくなかったのではありません。二人には信頼関係があったのです。相手との信頼関係があり、心を裸にして互いに助け合う関係ができていたのです。恥ずかしがらずに丸裸の心で、語り合うことができたということです。二人はそのような信頼のある仲間だったのです

 

私達もこのような信頼を築くことができるお互いになってゆきましょう。私たちは今日もそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。私たちはそれぞれの場所にいる仲間、助け手の助けを受けながら生きてゆきましょう。そして私たちはそれぞれの場所にいる仲間のよい助け手・隣人となってゆきましょう。寂しさを感じる時、神様は私たちに仲間を与えてくださるお方です。お祈りいたします。

 

【全文】「命を創造する神」創世記1章1~31節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもの声、命の喜びに囲まれながら礼拝をしましょう。

 

7月は今日から3回、創世記を見てゆきたいと思います。

 

また今日はこの後、主の晩餐という儀式を行います。小さな食パンと一口のブドウジュースを飲むという儀式です。私たちの教会ではどなたでも食べ、飲むことができますので、ぜひこの後加わってください。

 

お手元のラミネートの資料には、この儀式の目的が書いてあります。今日は特に3つ目の目的の中の「神様の創造に感謝して」の主の晩餐を食べるということ、「神様の創造」ということについて考えたいと思います。

 

お手元のラミネートには、私たちの教会の信仰の告白・信仰の説明文も記載しています。「1.聖書」の欄にはこう書いてあります。「聖書は、神の霊感を受けて書かれ、イエス・キリストによるすべての人間の救いを啓示するものであり、私たちの信仰生活の唯一の規範である」。

 

聖書は人間の救いと人間の生活の規範について書かれたものだということが書いてあります。言い換えるならば、聖書は命の意味や生き方を私たちに教えてくれるものだということです。私たちは命の規範としてこの聖書を読みます。私たちの日々の生活のなかで、どのように人間の命と向き合えば良いかをその唯一の規範を聖書に聞いてゆくのです。

 

世界には聖書の記述を戦争の根拠とする人がいます。イスラエルがそうです。私たちは戦争の根拠ではなく、平和と命、生き方の道しるべとして聖書を読んでゆきます。

 

聖書は人間の歴史をそのまま記録したものではありません。また科学の論文でもありません。聖書にはどの土地はどの民族のものだという、国境線は書いてありません。本当に6日間で地球が創られたということではありません。聖書は、人間の命がどのようなものであるか、私たちが命にどう向き合うべきかを語っている書物です。

 

今日、私たちは聖書から命の尊さ、創造への感謝を受け取ってゆきましょう。

今日は創世記1章全体をお読みいただきました。創世記は今から2500年ほど前、それまでにあった様々な伝承がまとめられて成立したと言われています。

 

聖書は人間が考えて書いたのではありません。神様の働きかけを受けて書かれたものです。2500年前に神様の働きかけがあって、創世記という書が生まれました。

 

2500年前、当時の人々は他国に侵略をされ、戦争に敗れていました。彼らの命は軽んじられ、踏みにじられ、住んでいた場所からも強制移住させられてしまったのです。自分たちの命が軽んじられるのを目の当たりにしました。そのような中で人々は、神が命についてどのように考えているのか、神様の力を受けて、伝承を文字にしてゆきました。私たちは命についてどのように聖書が語っているのかを見てゆきましょう。

 

27節を見ます。27節には神様は人間を創造したとあります。命の創造、これが聖書の神の役割です。世界には様々な神がいますが多くの神は、戦争と争い、破壊の神です。しかし聖書の神は愛の神、平和の神、新しい命を創造する神です。戦争で踏みにじられた人々に示された神は、そのような命を創造する神だったのです。これが聖書の命に対する考え方へとつながってゆきます。

 

人が人の命を作ったのではありません。神様が人間の命を創ったのです。命は人間が生み出したものではなく、神様の手から与えられた贈り物です。私たち人間は様々なものを作りますが、それは命ではありません。神様が創った命を、人間が作ったモノと同じ様に考えて、壊したり、奪ったり、売り飛ばしてはならないのです。聖書ははっきりと命は神様が創ったものだと言っています。

 

そして27節には、神様は人間をご自分にかたどって創られたとあります。なぜかその後、もう一度繰り返されています。かたどるとは、そっくりなもの、似た姿のものとして創るという意味です。人間は神の似姿に、そっくりに創られたのです。そこには人間の命を神様のように大切にして欲しいという神の願いが込められています。

 

戦争は最も人の命を大切にしない行為です。戦争は、王様に命令された兵隊が、王様の私利私欲のために、王様の権力を守るために戦います。兵隊の命は、王様を守るために使われ、大切にされません。

 

古代では、王様だけが神の子とされました。エジプトのファラオやローマ皇帝がそうです。王たちは、私だけが神の子だと言いました。そこにある考え方は、王様のみが神の似姿だ、王様だけが尊い特別な存在だ、王以外の命は動物と同じだという考え方です。王や皇帝は、自分以外の人間を人間とせず、兵隊や奴隷としました。

 

聖書に記されている命は違います。聖書によれば、すべてのはじまりとなった人の命が、神にかたどって創られたものです。つまり一人一人の命が、全員の命が神の似姿であるということです。大切なのは王様の命だけではありません。全員の命が神様に創造されており、大切にされなければならないのです。

 

命が大切であることと同時に、命が平等であることもここに記されています。27節には「男と女に創造された」とあります。これは命の平等さを示す言葉です。古代は激しい男性中心社会でした。聖書にも男だけが描かれる場面が多くあります。女性やこどもは男性の財産、所有物として扱われました。しかし、聖書は古代から、女性は男性の所有物ではないと言っています。神様が直接創った尊い存在だと言っています。他の性と平等な命だと言っています。男も女も、神様からかたどって等しく創られたのです

 

神様がその似姿として男と女を創ったということは興味深いことです。もし神様が男だったら、似姿に創った人間は男だけだったはずです。神様はご自身の似姿として、男性も女性も創られました。つまり神様は男だったとは限らないということです。男と女どちらも、神様の似姿だったのです。だから女性もまた、神様のかたちを映す存在なのです。神様は男でもあり、女でもある、あるいは男女2つのどちらかの性に縛られない存在だったとも言えるでしょう。

 

ここからLGBT、性的マイノリティーの人々も神様の創造の作品とも言えるでしょう。神様はすべての性を創ったお方です。

 

神様の似姿として創られたのに、二人の全く違う人間が創造されたということは興味深いことです。神様は金型を作って、工場のように、同じ人間を大量生産したのではありませんでした。

 

神様は一人一人、愛情をこめて異なる人間を創造しました。そこでは自分にかたどって、自分の似姿として創造したにも関わらず、まったく異なる者が創造されていったのです。

 

私たちには性の違い、肌の違いや目や髪の毛の色の違いもあります。私たちはこんなに見た目が違うのに、それぞれ同じ神様の似姿なのです。そして見た目、外形だけとどまりません。私たちの外側も中身もさまざまな違いがありますが、全員、神様にかたどって生まれた者です。私たちはこんなにも違うのに、しかし全員神様に似ているのです。神さまとはいったいどのような方なのでしょうか。きっとあらゆる人間の特徴を包含する包容力のある方なのでしょう。

 

28節には「神は彼らを祝福して言われた」とあります。ここまででも神様は様々なものを創造した後には必ず「良しとされた」と書いてあります。それはご自分が創ったものを素晴らしいと満足したということです。

 

しかしこの29節ではさらに、特別な言葉をかけています。それは「祝福した」という言葉です。神様はここだけ祝福をしています。神様はさまざまなものを創りながらも、人間だけに「祝福」を与えたのです。

 

祝福とは特別な祈りのことです。神様は人間に向けて、を他に創造されたものとは違う、特別な祈りを向けたのです。それは人間はモノや動物とは違うという宣言です。私たち人間はは神様の特別な祈りに包まれ、その中で生かされている存在なのです。

 

神様は人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言いました。私はここからたくさんのこどもたち、赤ちゃんたちの顔を連想します。新しい命はそのように神様から祝福を受けている命です。その命は、神様の特別な祈りに包まれ、愛されている命なのです。私たちは全員そのように神様に祝福されて生まれてきたのです。

 

命の誕生は神様の何よりの喜びでしょう。神様に喜ばれずに生まれて来る命はありません。生まれてきた人間の命は無条件に、神様から特別に祈られています。人間として生まれてきたものは全て神様に祝福されているのです。

 

このようにして私たちの命は創造されました。私たちは神に創造された大切な命をもっています。私たちは違いがありながらも神様の似姿に創造された大切な命です。私たちは全員、神様に喜ばれて生まれてきた命です。

 

私は今、こどもたちの命を、お互いの命を思い浮かべながら、神様に感謝したいと思います。

 

29節には神様が創造したものが食べ物になったとあります。神様は命と食べ物を私達に与えてくださっています。このことも感謝をします。

 

聖書はこのように命について語っています。命は神様が創造しました。一つずつ違うものとして、でも同じ似姿として創られました。神様はすべての命を特別に喜んでいるのです。

 

私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。これにはいくつかの目的があります。その3つ目には「この主の晩餐は神様の創造と食べ物の収穫に感謝するために行われます」と書かれています。今日、神様から頂いた命、互いの命に感謝をして、主の晩餐をご一緒しましょう。お祈りいたします。

 

 

【全文】「地域の良さを引き出す教会」マタイによる福音書5章13~16節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちは「こどもの声がする教会」です。今日も聞こえてくる子どもたちの声と共に礼拝をしましょう。

 

今月、私たちは地域と教会のつながりについて、じっくり考えています。特に今私たちの教会が力を入れているのは、こひつじ食堂というこども食堂の活動です。こどもたちを中心に、おいしい食事を1食200円で提供しています。この活動は教会員の方だけではなく、地域の様々な方がボランティアとして加わって下さっています。

 

昨年度は40名以上の地域の方が、ボランティアをしたいと教会に応募をしてくださいました。ボランティアに応募するということはとても勇気のいることだと思いませんか?「何かしてみたいな」と思っている人は、たくさんいても、実際に活動している場所に自分から連絡をして、飛び込むのには大きな勇気が必要です。

 

ボランティアに応募する方の多くは「ずっとやってみたかったけれど、今まで勇気がでなくて」とか「やってみたかったけど近くそういう場所がなくて」「こんな自分に何かできるでしょうか」とおっしゃいます。私はそんな不安を感じながらも勇気を出して、教会に連絡をくださった方の話を聞いています。

 

ボランティアに応募された方たちの気持ちを聞いて「もし教会のボランティアが無かったら、この方たちの『何かをしたい』と思う気持ちはどうなってしまったのだろう?」と想像します。

 

きっと私たちの教会が、地域に向けてボランティアを募集するということは、地域の中に眠っていた、小さな勇気や思いやりを引き出すことにつながっています。

 

教会は地域の中に、もともとあった良いもの、それを引き出しています。教会という存在は、「誰かのために何かをしたい」という気持ちに、火を灯してゆく場所でもあるのです。

 

実際のボランティアさんの働きを見ていて感じることもあります。ボランティアにはいろいろな仕事があります。受付でお金を受け取ったり、お弁当を渡したり、料理を運んだり、調理をしたり、片づけをします。

 

ある方はとにかく黙々と作業をするのが好きです。あれこれ頼むよりも一つのことを頼む方が力を発揮するタイプの方です。反対に、いろいろやりたいタイプの方もいます。

 

それぞれの得意や楽しみ方が違うのですが。みんなの得意や苦手、個性がまるでパズルのようにぴったりはまりながらチームになって活動しています。ボランティアの最中も互いの良さを自然と引き出しあっているのです。

 

新しい人も増えていますが、ベテランの方も増えてきています。ベテランの方には、自分のペースで仕事を進めてしまうのではなく、初めての人や経験が少ない人が活躍できるように、慣れていない人に教えながら、進めて下さいとお願いをしています。

 

自分の場所はここだと決めてしまうのではなく、いろいろな役割に挑戦してみて欲しいとお願いしています。それは私が活躍できる場所、私がやりたいことができる場所にとどまらず、もっとお互いの良さが引き出しあえるような場所に発展してゆきたいからです。

 

教会のボランティアはそのように、誰かのために働きたいという気持ちを引き出す場所になっています。そしてそれぞれの持つ良さを引き出すことができる場所になっています。食堂のボランティアという場所がもっと互いの良さを引き出し合える場所になって欲しいと思っています。

 

今日集っている方たちは、ボランティアに参加していないという方も多くいます。でも教会がそのように用いられていることを知って欲しいと思います。私たちのこの会堂はただこの礼拝のためだけに使われているのではありません。様々な方法に使われて、一人一人の良さが引き出されていく場所として使われています。

 

そしてここにいるみなさんがこの教会、この会堂を支えてくださっています。みなさんの祈りが無ければ、これは実現していないことなのです。

 

今日は聖書を通して「人の中にある良さを引き出す」ということを、ご一緒に考えてみたいと思います。特に教会が地域の良さを引き出す役割があることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

今日はマタイによる福音書5章13~16節までをお読みいただきました。

 

地の塩という言葉が出てきますが、塩について考えてみたいと思います。塩は古代のイスラエルの人々にとってとても身近なもので、質素な食事でも必ず使われた調味料です。聖書にも塩が繰り返し登場します。今日の招きの詞でもレビ記2章13節に、献げ物には塩を振るようにと書いてあります。

 

塩にはいろいろな役割がありますが、一番の役割は、食材そのもの味を引き出すという役割でしょう。塩を振りかけると、それぞれの食材が本来持っている味を引き出すことができるのです。

 

魚に振ると味が引き締まり、魚の味を濃く感じることができます。またお肉に振れば肉汁が逃げずにジューシーに焼き上がります。お菓子にも使われます。不思議な使い方はスイカに塩を振ると甘みが増すことでしょうか。塩の入ったアイスもあります。塩は食材のおいしさを引き出すために必要不可欠なものです。

 

塩は保存料にも使われます。塩をたくさん使うと、干物や漬物などのように、保存食になります。塩はよい物を保ち続ける効果もあります。塩はそのようにして食材本来の味を引き出し、保つ、私たちにとってもっとも身近で大事な調味料です。でも塩だけを食べてもおいしくないという一面もあります。それが塩です。

 

13節でイエスは私たちに言います「あなたがたは地の塩である」。イエスが言う、塩になるとはどんな意味でしょうか。イエスのたとえはいつも生活に根差したものでした。そして繰り返し食事の席で大切な教えを伝えました。塩もきっと、複雑な意味ではありません。

 

イエスの「あなた方は塩である」とはあなたがたは相手の良さを引き出すものだという意味です。しかもそれは、地の塩です。イエスは私たちに、地域の中にある良いものを引き出すものになりなさいと語られました。地域の人が持っているたくさんの力、気持ち、勇気、それを引き出してゆくのが私たち教会の役割なのです。

 

13節には「塩から塩気がなくなる」ということが書いてありますが、塩から塩気がなくなることは実際にはありません。しかし塩が塩でなくなってしまうことは、それ以上に重要な問題があります。それは塩を使っていた食材の良さを引き出すことができなくなってしまうということです。塩が無ければ肉も魚も野菜も、ちっともおいしくなくなってしまうのです。そのものの良さを引きだす存在がなくなってしまうのです。食材そのものの良さを引き出し続けるためには、塩が必要なのです。

 

私たちはイエスから、そのような塩だ、塩となれと言われています。イエスは私たちに塩の様に、相手の良さを引き出してゆくことを求めているのです。

 

私たちは、もしかしたらただのひとつまみの塩かもしれません。でもひとつまみでいいのです。塩は、誰かと一緒になるとき、相手に大きな力を発揮させるのです。

 

13節についてもっと想像力を膨らませましょう。13節の後半には、役にも立たないと言われ、外に投げ出され、人々に踏みつけにされるという言葉があります。これはただのたとえではなく、古代では実際にそのような人がたくさんいたのでしょう。

 

そして現代にもそのような人がいるでしょう。地域の多くの方が自分は何かの役に立つだろうかと不安に思っています。外に投げ出されたように、居場所がなくて心細く感じている人もいます。地域の多くの方が人に踏みつけにされるのではなく、誰かに大切にされる経験に飢えています。13節はまさにそのような人たちを想像させます。

 

きっと私たちの地域と同じ様に、イエスの生きた地域にもそのような人がたくさんいました。ひとりひとりが良さを持っているのに、それを引き出せずにいたのです。引き出す場所が足りなかったのです。

 

イエスは弟子たちにきっとこんな思いをもって言葉をかけたでしょう。「地域には、自分は役に立たないと思っている人、居場所のない人、大切にされていない人がたくさんいる。でもこんなにたくさんの良いものを持った人がいるのだから、あなたがたはその人たちの良さを引き出すものとなりなさい。あなた方は地の塩となりなさい」

 

14節には「あなたがたは世の光である」とあります。私はこの言葉から、地域の方たちがボランティアとして輝く姿を想像します。そのように働く姿は、世の光となっています。その姿が人々の前で光輝いています。教会は地域の人々が輝くことができる場所です。

 

16節に書いてある通りです。いつか人々が私たちの行いを見て、天の父をあがめるようになるでしょう。私たちが行う地の塩、世の光の活動は直接キリスト教を伝えているわけではありません。しかし多くのボランティアさんの輝きによって、キリストのすばらしさが伝わってゆくでしょう。私たちが互いの良さを引き出し合うことが、この世で、この地域で互いが光になり、神を崇める信仰へとつながってゆくのです。

 

私たちの教会はそのようにして、地の塩になり、世の光となります。教会は地域の中にあるたくさんの「可能性」や「思いやり」を引き出てゆきます。そして輝く笑顔を引き出しています。

 

きっとイエスは、そのように、あなたは塩になって、他の人々を大いに輝かせなさいと言っているのです。私たちはこれからもこの活動を続けてゆきましょう。そしてそれぞれの場所で地の塩となってゆきましょう。

 

お祈りします。

 

【全文】「イエスのチムグリサ」マタイによる福音書20章29~34節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。また今日は6月23日の沖縄慰霊の日「命どぅ宝の日」にも近い事も覚えつつ「チムグリサ」心からの共感ということをテーマにお話をしようと思います。

松本みどりさんの証しを聞きました。みなさんにも心に残る言葉があったのではないでしょうか?私は神様が様々な場面を通じて、一人一人に働き導いてくださることを改めて感じました。私たちの信仰は熱心だったり、そうできなかったりする時期があるものです。しかし、それでも神様の愛と導きは豊かに注がれ続けているのだと感じました。

私は今、東京バプテスト神学校でギリシャ語を教えていて、松本さんと共に学んでいます。新約聖書はもともとギリシャ語で書かれ、私たちが日々読んでいるのは日本語に翻訳された聖書です。そう聞くと「すでに翻訳されたものがあるのならば、ギリシャ語をわざわざ学ばなくてもいいのではないか?」と思う方もいるでしょう。しかしギリシャ語を学ぶということは、イエスの一つひとつの言葉や行動の意味に、より深く心を寄せることにつながっています。翻訳だけでは届かない響きに出会うための学びです。なぜ私たちがギリシャ語を学ぶのか?実はそのヒントを、私のまわりの外国人の友人たちが教えてくれます。彼らに「どうして日本語を勉強しようと思ったの?」と聞くと、多くの人が「日本のマンガが好きだから、日本語で読みたいんです」と答えるのです。マンガの内容は翻訳でも十分に伝わり、楽しむことができます。でも、日本語で読むことができれば、より深い意味や空気感まで味わうことができるのです。聖書も同じでしょう。ギリシャ語を学ぶことで、イエスの言葉や、当時の人たちの思いが、より生き生きと感じることができるのです。だから私はギリシャ語を学ぶ価値があると思っています。

神学校というと「牧師になるための学校」というイメージを持っている方も多いかもしれません。しかし少しずつそのイメージは変わってきています。聖書に興味のある人が、誰でも聖書や信仰について深く学ぶことができる、自由な学びの場になってきています。

学ぶということが、いのちを守ることにつながるということも、日本の歴史は教えてくれます。第二次世界大戦で、沖縄は本土決戦のための時間稼ぎとして、捨て石とされ、犠牲を強いられました。沖縄の多くの人は、アメリカ兵に捕まるのは恥だ、死んだ方が美しいと教えられ、自決・集団強制死を選ばされたのです。その組織的戦闘が終わったのが6月23日です。沖縄の人は洞窟(ガマ)に逃げ込みました。あるガマではこんなことがありました。そのガマの中でも集団自決を選ぼうという声がありました。しかしそのガマの中にはアメリカに留学し、その国の言葉と文化を学んだ人がいました。その人はアメリカ人はそんな悪い人ではないとガマの人を説得し、自決を思いとどまらせたのです。言葉と文化を学ぶことが、人の命を守った瞬間でした。言葉と文化を学ぶこと、それは相互理解、平和、共存共栄に欠かせない事なのです。たくさんの人が学ぶことの大切さを感じる出来事です。

今日はギリシャ語にも注意しながら、聖書の物語を読んで行きたいと思います。そして人の心の叫びに耳を傾けることの大切さを、この個所から一緒に感じてゆきましょう。

 

 

今日はマタイによる福音書20章29~34節をお読みいただきました。今日の物語には、目の見えない二人が登場します。聖書には二人が道端に座って待っていたとだけ書かれていますが、きっと彼らには長い苦しみと孤独の人生があったのではないでしょうか。彼らの姿からは、社会で生きづらさを感じる人たちの痛みがにじんでいます。

古代において障がいは差別と切り離すことができませんでした。彼らは汚れた者として、自分の居場所を道端にしか見つけることができなかったのかもしれません。イエスの話を聞いた彼らは自分たちもイエスに何かを願おうと考えました。彼らは思い悩んで一つの言葉を選びました。それは「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」という言葉でした。

彼らが叫ぶのに選んだ言葉、彼らがイエスに一番初めにしてほしい、具体的な行動は「憐れむ」ということでした。これはとても意味のある叫びです。ギリシャ語で「憐れむ」は「エレエオー」という言葉で、それは「同情してください」「気持ちをわかってください」という願いが込められた言葉です。彼らは「治して欲しい」ということよりも、まず「わたしたちの人生の痛みを、わかってほしい」と訴えていたのです。しかし31節、群衆はその声を黙らせようとしました。叫びを聞いて、共に涙を流すのではなく「うるさい」「黙れ」と声をかき消したのです。

その様子を見て、イエスはどう思ったでしょうか。必死に気持ちをわかってほしいと叫ぶ人が、抑えつけられています。イエスの心にも、きっと痛みが走ったことでしょう。そのような周囲の人々を「社会」と言い換えてもいいかもしれません。それは弱い立場の人の声に耳を傾けない社会の象徴です。二人はそれに何度、傷つけられてきたことでしょうか。イエスはこの様子を見てどう思ったでしょうか。必死に「私の気持ちをわかって欲しい」そう叫ぶ人々が、叱られて、黙らせられようとしています。イエスは情けない気持ち、悲しい思いになったでしょう。イエスはそこで足を止めました。そして「何がして欲しいのか」をもう一度聞き取ろうとします。彼らは今度はイエスに「目が見えるようになりたい」と言います。「目が見える様になりたい」それは今までの彼らの人生の苦労が凝縮された言葉でしょう。

イエスは彼らに近づき「深く憐れんだ」とあります。再び「憐れむ」という言葉が登場しますが、このとき使われている「深く憐れむ」というギリシャ語は「スプラグニゾマイ」という言葉です。ギリシャ語のスプラグニゾマイは新共同訳で「深く憐れむ」と翻訳されていますが、この言葉はもともと内臓に関係する言葉です。さらにスプラグニゾマイの言葉の背景には母胎・母のお腹の中という意味もあります。スプラグニゾマイとはつまり、自分の体の中の出来事、自分のお腹の中にいる赤ちゃんに起きたの出来事のように、自分事として深く共感し、その痛み、悲しみを感じるという意味がある言葉です。

スプラグニゾマイの翻訳にふさわしいと思う日本語は、沖縄の言葉(ウチナーグチ)でチムグリサという言葉です。沖縄の言葉(ウチナーグチ)には「私は悲しい」という意味の言葉がないと聞きます。その代わりのあるのがチムグリサという言葉です。チムグリサは「あなたが悲しいと、わたしも悲しい」という意味です。ただ自分から見て、かわいそうだと思うだけではなく、それを自分の事として、自分の内側の悲しみとして共感し、受け止めるということです。沖縄の言葉のチムグリサという言葉はまさにギリシャ語のスプラグニゾマイと共通していると言えるでしょう。

イエスはここで目の見えない二人にスプラグニゾマイしました。イエスはここで二人にチムグリサしたのです。イエスは目の見えない人の叫びを聞き、様々な不自由と痛み、差別を想像しました。そしてその痛みを自分の内側の痛みとして感じたのです。「私たちの悲しみをわかって欲しい」と叫ぶ人たちを前にして、「ああ、あの人はかわいそうだ」と思っただけにとどまらなかったのです。イエスはその悲しみを受け止め、自分のことのように共感し、どうにかしたいと突き動かされていったのです。

そしてイエスはその目に手をかざしました。多くの人が目の見えない人に触れることを汚れると言ってためらったでしょう。目の見えない人は隅に追いやられ、黙らされていました。しかしイエスだけはその人にスプラグニゾマイし、手を置き、その回復を祈ったのです。すると、その人の目は見えるようになったと伝えられています。そして短く、イエスに従ったと書いてあります。彼らはイエスに受け止められ、イエスに癒され、イエスに従ったのです。

今日の個所からどんな生き方を見つけてゆけば良いでしょうか?私はこの個所から自分が悲しみを叫ぶ人の声を聞くことができているかを問われます。私たちは道端にしか居場所がない人を生み出してはいないでしょうか。私たちは傷つき、隅へ追いやられる人々の声を聞くことができているでしょうか?私たちはその声を聞き、スプラグニゾマイし、チムグリサし、共に生きることができているでしょうか?

私たちはその声を聞いて、どうやってスプラグニゾマイすることが出来るでしょうか。それぞれの生活で、それぞれが通る道端でどのようにチムグリサできるでしょうか。かわいそう、気持ちをわかってあげようを超えて、深く共感し、行動を起こせるでしょうか。あるいは私たちは沖縄の声を聞き、そこにスプラグニゾマイできているでしょうか。あの戦争は周囲の声に耳を貸さず、アジアや沖縄に一切のスプラグニゾマイをすることなく始められた戦争でした。私たちはあの時チムグリサが足りなかったのです。

私たちは世界の紛争に、他者の困難にスプラグニゾマイできるのでしょうか。この平塚の地域にどのようにチムグリサできるのでしょうか。神様はこの二人のように私たちの声を聞き、深く共感し、導き、癒してくださる恵み深いお方です。私たちもこのイエスに従ってゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「地域を応援する教会」マタイ11章28~30節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの息吹を感じながら礼拝をしましょう。

 

今日の礼拝は創立記念感謝礼拝として持たれます。私たちの教会は75年目を迎えてゆきますが、それは誰かの功績ではなく、神様の導きがあったからこそだと信じています。創立と導きを神様に感謝してこの礼拝をお献げしましょう。

 

今月は地域と教会について考えています。75年目の今、私たちの教会でもっとも広がりのある活動は、こども食堂です。こども食堂には小さい赤ちゃんを抱っこしたご両親が良く来ます。先日は3人の子育てをしているお母さんが食堂に来ました。そのうち二人は双子の赤ちゃんで、右肩に1人を背負い、左肩に1人背負い、そして一人のお兄ちゃんと手をつないで来ていました。双子の赤ちゃんを気にしながら、お兄ちゃんに食事を食べさせていました。それが終わると、ようやく自分の分を食べることができますが、料理は少し冷めてしまっていたようです。子育てに必死な姿が胸を打ちました。別の家族はパパが左手で赤ちゃんを抱えながら、右手で箸を持って食べていました。本当にそのような方たちを見ると、応援したいなという気持ちになります。

 

私はこども食堂にくる赤ちゃんをなるべく抱っこさせてもらうようにしています。かわいいというだけではなく、安心してゆっくり食べて欲しいからです。赤ちゃんを抱っこしながら、みんなが家で毎日の食事をどうしているのかを想像します。こどもの食事をどうするかは親にとって大きな重荷であり、責任です。

 

昔よりも子育ての負担は大きくなっています。昔と違って、預けられるおじいちゃんやおばあちゃんと同居しているわけではありません。両親も共働きで忙しく過ごす家庭も多いです。こどもの安全への気配りや、様々な配慮など時間もお金もかかります。子どもの数は減り、子育ては孤立しやすくなっています。反対に世間では、子どもへの寛容さが失われ、子育てはこうあるべきだと押し付けて、親の無責任を指摘する情報があふれかえっています。

 

教会は少しでも子育ての重荷と負担を分かち合うことはできないでしょうか。もちろん子育てそのものを変わってあげることはできないけれど、1食だけでも応援し、苦労を分かち合えたらと思います。

 

多くの方が子育てに責任感を持ち、頑張っています。でも子育ては一人ではできないことです。こども食堂は、誰かに手伝ってもらえる、ほっとできる場所です。毎日の食事作りを休むことができる場所、そんな安心できる場所になっています。

 

もし教会を出る時に、お腹いっぱいになって「すこし元気をもらえた」「私は応援されている」「また明日から頑張ろう」と思ってもらえたのなら、私たちの愛、神様の愛は確かに地域の人に伝わったのではないでしょうか。

 

私たちの教会はそんな風に地域を応援する教会、一人一人が抱える重荷が少しでも軽く感じられるような教会、ホッとできる教会になりたいと思います。そしてこれまでの75年間もそうだったのだと思います。子育てに限らず、私たちは重荷を負う人々を応援する教会です。

 

今日も聖書からイエスが重荷を負う人にどのように言葉をかけたのかを見てゆきます。そしてそこから私たちの教会がこの地域にどのように立っているのかを考えてゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

今日はマタイによる福音書11章28~30節までをお読みいただきました。この聖書の言葉は、多くの教会が看板に掲げている聖句でもあります。私たちの教会案内の冊子の表紙にも書かれているみ言葉です。でも私は今回、改めてこの聖書の言葉の意味に自分が向き合っていなかったことに気付かされています。この言葉について少し一緒に考えましょう。

 

28節には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とあります。「わたしのもとに」とは、文法上は深い意味を持つ表現で「私と親密な関係のもとに」という意味があります。ただ来なさいというのではなく、イエスとの深い関係への招きです。

 

その後には「休ませてあげよう」とありますが、この言葉も元々は「休ませる」という意味にとどまらず「安心させよう」「元気づけよう」という意味があります。イエスは28節で、私との関係の中においで、そうすれば安心して休むことができる、そして元気がもらえるよと言っているのです。

 

29節を見ましょう。イエスは「私の軛(くびき)を負いなさい」と言っています。「軛」という言葉、今ではあまり聞きませんが、昔の農業ではとても重要な道具でした。軛とは畑を耕したり、荷物の運んだりするために、牛や馬の首につける木のことです。動物に軛を着け、さらにその軛に畑を耕す道具や台車を着け、動物に仕事をさせるのです。動物にとっては重荷であり、つらい仕事です。そのことから軛は、不自由さの象徴や、重い責任を担うことの象徴になりました。

 

軛とは言わないまでも、私たちの生活にも不自由さや、重い責任があるものです。その意味において私たちも軛を負うものなのでしょう。私たちは仕事、体調、家庭、自分の役割などについて、どうにか変えたいと思っても、なかなか変えることができない不自由さの中に生きています。私たちはもうやめたいと思ってもやめることのできない責任の中に生きています。私たちはその軛を外して、すべて自由に、一人で気楽に生きることはできないのです。私たちもこのように軛を負っているのです。

 

軛にはよい軛と悪い軛があります。よい軛とは体の力の入りどころとしっかりとかみ合っている軛です。ぐっと体全体の力が入るのが、よい軛です。しかし悪い軛もあります。悪い軛はそれをはめると、ささくれがチクチクしたり、同じところばかりあたって痛かったり、なぜだか力が入らない軛です。私たちも経験があるでしょう。鞄の肩紐の幅が広いとで重さの感じ方が違う様な経験です。

 

おそらく私たちのつけている軛は、悪い軛なのでしょう。私たちの背負っているものは、「自分ひとりで何とかしなきゃ」と思わせる、悪い軛なのかもしれません。それはやる気がでない軛で、孤独に感じる軛、重荷に立ち向かうことができない軛です。私たちは痛くて我慢しながらも、その重荷をなんとか引っ張る、そんな生活をしています。

 

イエスはそのような人間に言っています「私の軛を負いなさい」。「私の軛を負う」とは、私たちが今はめている軛をイエスの軛、良い軛へと変えるということです。

 

イエスは残念ながら、私たちを軛から解放し、一切の重荷をなくしてくれるのではありません。私たちの責任と重圧が無かったことにしてくれるのではありません。私たちはそのようにして責任から逃れることができないのです。

 

ここでイエスが私たちに勧めているのは、軛を変える事です。私たちは重荷をなお引き続けなければならないのですが、良い軛に変えると、重荷を引くことが簡単になるのです。よい軛は体全体の力が入って、ひきやすくなります。やってみようという気持ちにさせてくれます。そのようにしてよい軛は同じ重荷でもより軽く引ける、より簡単に引けると思わせるのです。

 

私達にとって良い軛とは何を指し示すでしょうか?それは愛とも言い換えることができるでしょう。良い軛とは愛に囲まれていることです。それは愛の軛です。愛の軛とは、これを一人でするのではない、誰かが応援してくれる、誰かが一緒にやってくる、私は孤独ではないと思える力です。愛の軛とはみんなが私を応援してくれている、祈ってくれている、神様が共にいる、そのように感じることができる軛です。愛に包まれた重荷は、軽く感じられます。それが30節に書いてある「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」ということです。

 

反対に私たちのつけている軛は、ちゃんとできていないと批判されてる、誰にも手伝ってもらえない、孤独、そのような軛です。そのような軛で引く荷物は実物以上にとても重く感じるものです。

 

今日、イエスが語っているのは、こういうことです。自分の重荷が思いと思っている人は私のもとに来てごらん。愛に囲まれて生きると、休みと元気が与えられるよ。そうすると力が湧いて、ぐっと楽に生きることができるようになるよということです。イエスはそのように、愛の中に生きる様に招いているのです。

 

この言葉が多くの教会の招きの言葉になっています。私たちもこの教会を愛の軛となる、教会にしたいと思っています。地域の人によい軛、愛の軛を渡す教会になりたいと思います。

 

私たちの教会は地域に人々それぞれに重荷があることを知り、教会が一人一人を愛で包み込むことで、すこしその重荷が引きやすく、軽く感じるような場所になりたいと願っています。そのように地域の人を応援し、地域の人を愛で包む教会になってゆきたいと願っています。

 

私たちは子育てそのものを代わることはできないかもしれません。でもあなたは孤独ではないこと、一人ではないこと、あなたは応援されていること、あなたは愛されていることを伝えることはできます。教会はその愛を伝え、表し続けましょう。私たちはそのように地域を応援し、愛し、休ませ、元気づけ、前に進ませる教会となりましょう。

 

地域には、そしてここに集うみなさん一人一人にはどんな重荷があるのでしょうか。私たちは互いに愛し合い、互いに応援し合い、互いに休ませあいましょう。そして互いの軛を愛の軛に変えてゆきましょう。私たちとそして地域の人が、この教会を通じて、その軛を愛の軛に変えることができるように祈っています。お祈りいたします。

 

【全文】「地域に合わせて変わる教会」使徒言行録2章1~11節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの存在を感じながら、共に礼拝をしましょう。今月の宣教は地域と福音というテーマでお話をしてゆきたいと思っています。

 

そして今日は特にキリスト教の暦で「ペンテコステ」という日です。2000年前に教会が誕生したことを記念する日、教会の誕生日です。教会のはじまりにも目を向けたいと思っています。

 

私たちの教会はいつも地域に福音を広げたい、そのためにどうしたらよいかを考えています。もちろん福音を広げるとは、相手にただ聖書の言葉を伝えることではありません。ましてや教会が拡大してゆくことでもありません。

 

福音とは生き方です。福音を広げるとは「互いに愛し合いなさい」という生き方を広げてゆくことです。私たちが互いに愛し合う生き方を、それぞれの場所で実践し、共感が広がってゆくことが、福音が広がるということです。

 

しかし愛し合う、愛に生きるとは非常に難しい事です。愛が難しいのは、何が正しい愛なのか固定することができないからです。愛は相手や状況や時代によってさまざまに変わります。叱るのが愛の時もあれば、静かに寄り添うのが愛の時もあります。だからそこ愛はいつも葛藤がつきものです。

 

福音が広がる、互いに愛し合うことが広がるとは、まるで何が愛なのかという葛藤が広がるということでもあります。どう愛したら良いのだろう、そう葛藤しながら生きる人が増えることが福音が広がるということでしょう。

 

愛を表す方法は実に多様です。愛は礼拝中の私の話だけで伝わるものではありません。礼拝の中の賛美歌、仲間とかわす言葉、手を添えてくれる誰かの手に愛が宿っています。

 

高齢者には高齢者への愛が必要です。高齢者に愛を伝えるなら、バリアフリー、話の分かりやすさ、週報の文字の大きさが必要でしょう。教会がこどもに温かいまなざしを注ぐことは、子育て世代にはもっとも愛が伝わる方法ではないでしょうか。若者はどうかでしょうか。多くの若者はYouTubeやSNSやホームページをみてから教会に来ます。インターネットはとても重要な愛の入口です。子どもたちはどうでしょうか、自由に過ごせる場所が愛されていると感じるでしょう。外国語を話す人はどうでしょうか、少しでも言葉の壁を越えようとすることに愛を感じるでしょう。

 

愛が伝わるのは教会の日曜日の礼拝だけでもありません。地域の人たちはきっと、食堂のごはんを味わうとき、カフェで誰かと笑うとき、子どもたちの笑顔があふれる水遊び会、そこにある温もりが、愛として届いているのでしょう。教会が人々に愛を伝える方法は無数に存在します。愛は時には言葉で、時には沈黙で、時には食べ物で伝わります。

 

愛の形はその時々で変化し、愛はその形を定めることができません。それぞれこれが愛だと感じるポイントは違います。だからこそ教会はひとつの活動のみで愛を伝えることができません。様々な活動を通じて愛を表現しようとしています。私たちはそのようにして地域の人に愛を知ってもらいたいと願っています。

 

教会の活動は、もしかしたら多すぎると感じるかもしれません。でもそれぞれが違う方法で愛を伝えています。それぞれが居場所になっています。教会と地域はそのように様々な接点を持ち、交流する中で、愛を伝えています。

 

大事なのは、こちらの思った愛の形を押し付けないことです。大事なのは地域の方がこれは愛だと感じるように、地域に合わせて私たちが形を変えてゆくことです。私たちの教会は形を変えながら、この地域に愛を広げてゆきましょう。

 

今日も聖書を読みますが、教会はその始まりから、愛を様々な形で伝えてきたということを聖書から見てゆきます。聖書を読んで行きましょう。 

使徒言行録2章1~11節をお読みいただきました。この前にある4つの福音書によれば、イエスは実に様々な方法で愛を伝えました。イエスは一方的に教える人ではありませんでした。

 

たとえばイエスが愛を伝える活動は、いろいろな人と食事をするという方法でした。また不思議なたとえ話で愛を伝えました。最後は十字架に掛かることによって愛を伝えました。イエスは実に様々な方法で愛を伝えたのです。弟子たちはその愛を受けて、今度は自分体が人々に愛を広めてゆくはずでした。しかし彼らはどうすれば愛を伝えることができるか悩んだはずです。人々が集まって祈っていたのは、きっとイエスの愛がもっと伝わって欲しいということでした。

 

そこに聖霊という存在が現れました。聖霊とは風のような存在です。見えないけれど、誰かを動かす力です。聖霊は見えない力で、人々に愛を表現させる存在です。

 

人々に愛を伝えることに躊躇していた弟子たちに、聖霊が注がれました。すると不思議なことが起こりました。弟子たちが様々な国の言葉でしゃべり出すようになったというのです。

 

この出来事をどのように、受け止めるでしょうか。この出来事はただ人々の注目を集めるためだけのものではありません。そこにも神様の愛があります。

 

6節には多くの人があっけにとられたとあります。人々は、自分の国の言葉だと驚きました。9節や10節には、多くの地域が挙げられています。それだけ自分たちの故郷の言葉を聞いたのがうれしく、驚きだったのです。

 

自分の母国語で愛の言葉を聞いた人はどう思ったでしょうか。きっと心に響いたのではないでしょうか。母国語で聞いた方がその言葉の広がりや風景をイメージできたはずです。自分が生まれた地域のなまりで聞いた方が、言葉が心にしみわたったはずです。人々は自分の国の言葉で聞いて、初めてそれが自分に向けられた愛だとわかったのではないでしょうか。

 

私は聖霊を受けた弟子たちの変化に注目します。弟子たちは自分たちの伝えようとしている愛は理解されないのではと躊躇し、祈っていました。しかし聖霊を受けて、彼らは話す言葉が変わりました。それはこれまでとは違う方法で愛を伝えるというチャレンジでした。

 

これが愛の言葉です、あなた分かりますか?という態度ではなく、あの人にはあの言葉で、この人にはこの言葉で、その人にはその言葉でと、言葉を変えて愛を伝えようとしたのです。弟子たちはそのように変えられたのです。

 

この奇跡は人々が言葉が分かるようになるように変えられたという奇跡ではありません。この奇跡は弟子たちの側が話す言葉が変わる、伝える方法が変わるという奇跡だったのです。弟子が愛を伝える方法を、人それぞれによって変えるというのが、この奇跡でした。これは非常に大きな変化でした。そのようにしてキリスト教の教会は、弟子たちの側が変えられることから始まったのです。

 

この出来事は、神様が「地域に合わせて変わる教会」を通して、愛を広げようとされた出来事でした。相手に伝わるように自分の言葉を変えていくこと。伝え方を変えてゆくことでした。

 

このチャレンジはいろいろな活動をしている私たちの教会にも重なってくるでしょう。私たちは愛を伝えたいと思っています。どんな方法でそれが伝わるでしょうか。私たちもまた、聖霊の風を感じ、何が地域の人にとっての愛なのか考えましょう。

 

私たちは地域の人が“これが愛だ”と分かるように伝えてゆきたいのです。事柄の本質は変わりません。でも私たちは愛を様々な活動に翻訳することで、愛を伝えてゆきたいのです。私たちは多様な愛の伝え方のひとつとして、様々な活動に取り組んでいきましょう。

 

そして神様の愛についても考えます。神様は旧約聖書で、絶対の神の像を作ってはならないと命令をしました。神様は、神様の姿や形、あり方を人間が固定してはいけないと教えたのです。

 

なぜでしょうか。それは神様の愛の形は自由自在に変化するからです。神様の愛の形はひとつではなく、いつも相手に合わせ柔軟に変化します。神様は一つの固定した形をとることをとても嫌うお方なのです。それはちょうど愛とはこれですと固定することができないのと同じです。神の愛を、ひとつの形に固定することはできないのです。

 

だからこそ神様は弟子たちにいろいろな言葉で愛を語らせました。それは神様ご自身がいろいろな形をとって愛を伝えようとしているからです。

 

そして神様は愛を、この人とこの人に与えると選ばないお方でもあります。神様は、この世界にいるすべての人に、それぞれの心に届く方法で愛を注がれるお方です。

 

5節にもあるとおり、エルサレムにはあらゆる国々からの人がいました。それに対してあらゆる国々の言葉で愛が語られたのです。すべての人に対し、それぞれに一番届く方法を用いて、神様は愛を語られたのです。もちろん私たちがいたら、日本語で語られたでしょう。今なら、手話や点字で語られたでしょう。あるいは言葉のみではなく、様々な活動を通じて愛が伝えられたでしょう。

 

この個所から私たちは神様の愛は、様々な形をもって伝えられると教えられます。私たちはその愛を受けてどのように地域に愛を伝えるのでしょうか。きっと私たちが愛を伝える方法も様々に開かれてよいはずです。さまざまな活動を通じて、さまざまな人に愛が伝わってゆくのです。それが神様が起こした教会の始まりだったのです。一人一人に向けてそのようにして神の愛が届けられてゆくのです。

 

もちろん、私たちはただ愛を伝えるだけではありません。神様は私たちにもその愛を届けてくださいます。しかもあなたが一番、これこそが愛だと強くはっきりと感じる方法で、神様はあなたに愛を届けてくださるはずです。みなさんにもきっとそのように愛が届くのです。お祈りします。

 

【全文】「オープンコミュニオン」ヨハネ6章5~15節

みなさん、おはようございます。今日ここに集えたこと、それ自体が神様からの恵みです。感謝して礼拝をしましょう。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と愛を感じながら礼拝をしましょう。

私たちの教会では先週の総会でいくつかの重要な決定をしました。一番大きい決定は、主の晩餐という儀式の変更についてです。初めての方や、これまで主の晩餐に参加されなかった方にも関係のあることです。不安に思う方もいらっしゃるかもしれませんので、しっかりとご説明をしたいと思います。

私たちの教会では75年間、毎月第一日曜日に、主の晩餐という儀式を行ってきました。この儀式は食パンを小さく切り分けて食べ、ぶどうジュースを一口ずつ飲むという儀式です。ただこのパンは普通の食パンですし、ぶどうジュースも市販のものです。おまじないではありません。イエス・キリストを思い出すことを目的に行われています。この主の晩餐はコミュニオンとも呼びます。

今回は、これまで平塚教会では洗礼を受けた人しか食べてはいけないとされていたものを、どなたでも共にこのパンとぶどうジュースをいただけるように変更しました。誰でも参加できるものにすることをオープンコミュニオンと呼びます。数年間、祈りと話し合いを重ねた上で、どなたでもこのパンとぶどうジュースをいただけるように変更しました。ぜひみなさん、この後に配られるパンとぶどうジュースを受け取ってください。もちろん、なんだかよくわからないという方は無理をしなくても結構です。どうぞ、無理をなさらず、見守っていてください。

私たちがなぜこのような儀式を繰り返しているのかをご説明します。聖書の中には、「互いに愛し合いなさい」という言葉に代表されるように、イエス・キリストの愛の教えがあふれています。新約聖書によく登場する言葉(動詞)をカウントすると、もっとも多いのは500回以上登場する「語る」や「持つ」という言葉です。また次に多いのは200回以上登場する「聞く」「信じる」「知る」などの言葉です。つまり聖書に何が書いてあるのかというと、イエスが語り、人々がそれを聞き、信じるという物語が書かれているということです。

そしてもう一つ非常に頻繁に登場する単語があります。実はそれは「食べる」と言う単語です。150回以上登場します。他にもパンや魚などの食べ物の単語も合わせれば食事に関係する言葉はもっとたくさん登場します。聖書にはイエスが語り、人々が信じる、そしてそれが食事の中で行われたと言うことが書いてあるということです。イエスは語り、人々はそれを聞き、信じました。そしてその多くは、食事の場での出来事だったのです。私たちは聖書の言葉を読み、信じます。でもそれだけではなく、イエスが食事の最中・前後にたくさんの愛を教えたということを記憶しておくために、食事を模して小さなパンとぶどうジュースを飲んでいるのです。

もっとも有名な食事の場面は最後の晩餐です。レオナルド・ダ・ヴィンチが絵にしました。イエスは十字架で死ぬ前の、最後の夜に弟子たちと食事をしたのです。その最後の食事の場所で、イエスはこの食事を繰り返しなさいと教えました。愛を忘れないようにしなさいという意味で、食事を繰り返すように伝えたのです。このように食事はイエスの教えと密接に結びついています。私たちはイエスへの信仰を確認するために、主の晩餐が行ってきました。特にこの場所に居たのは、イエスを信じる弟子だったという理解から、主の晩餐をクリスチャンに限定してきました。

ただしご紹介したように、聖書には150回以上の食べるという単語が登場し、様々な食事の場面があります。その食事はイエスを信じて従う弟子たちだけに限定されませんでした。いろいろな人が一緒に食事をしたのです。イエスの食事は、特別な人だけのものではなく、誰でも招かれた、開かれた食事だったのです。あるいは差別をされた人、排除された人を、仲間として招き入れる食事でした。そのような食事だからこそ、温かい交流が生まれ、相互理解と愛が生まれたのです。イエスは分け隔てのない食事によって、互いに愛し合うということを、身をもって教えたのです。

私たちの教会の主の晩餐でも、このような分け隔てのない食事に重点を置きたいと願って変更をしました。私たちの教会は誰でも来ていい教会です。そしてこの教会はこども食堂や炊き出しやカフェなど、たくさんの人が食べに来る教会です。みんなで食べる教会です。私たちは、食べていい人と食べてはいけない人に分かれるのではなく、分け隔てなくパンを食べる教会です。大人でもこどもでもこのパンを食べることを歓迎します。信じているかどうかにかかわらず、このパンを受け取ってくださって大丈夫です。

私たちはここに集った人と共に、ひとかけのパンと、一口のぶどうジュースを口にします。私たちは、そのことによって、多様な私たちが互いに愛し合うということを確認しあいましょう。そのようにしてイエスが食事の場面で教えた様々なことを再現する儀式をもちましょう。今日は聖書に記載される、オープンコミュニオンを見つめ、私たちの主の晩餐の意味を探したいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日はヨハネによる福音書6章5~14節をお読みいただきました。この個所は、この後、毎月の主の晩餐という儀式でも読まれることになった箇所です。

ある時、イエスに従う人が男だけで5000人いたとあります。多くの人々が人里離れた山の上まで、自分の意志でイエスに従って来ました。しかし5000人もいればそれだけ多様さがあったに違いありません。ただ親についてきた子どももいれば、家族に連れられてなんとなくついてきた人もいたでしょう。5000人は信仰の濃淡や動機が多様な人々の集まりです。

そんな5000人以上が食事の必要な時間になりました。イエスは「ここで一緒に食事をしよう」と考えました。しかし弟子たちは一緒に食べるにはお金が足りないと考えました。そこにひとりのこどもが登場します。彼は持っていた5つのパンと、2匹の魚を差し出したのです。それは小さな愛でした。イエスの教えを聞いたこどもが、今自分にできることは何かを考えて実践した、小さくても精一杯の愛でした。自分の分を確保した後にではなく、自分のすべてを差し出したのです。自分の大切な食事を仲間とイエスの教え通り、愛に基づいて分かち合おうとしたのです。弟子たちはそれを「何の役にも立たないでしょう」と言います。

しかしこの小さな愛に対して、イエスの態度は違いました。このこどもがささげたその気持ちを大切に受け取ったのです。それはほほえましいほどに、小さな愛でした。でも純粋な愛でした。自分は小さいけれど、きっと何かできると信じ、イエスの教えた愛を実践したのです。イエスはそれを受け取りました。そして11節パンを取り、感謝の祈りを唱え、分け与えられました。これは主の晩餐が行われたということです。イエスは神様に食べ物を感謝して祈りました。そしてこのこどもの小さな愛を感謝して祈りました。

そして小さな愛をきっかけに奇跡が起こります。その小さな愛は全員が満腹して余りあるほどの大きな奇跡につながっていったのです。

私たちも今日、小さなパンを食べます。私たちはこの出来事を記憶し、再現するためにパンを食べます。イエスがこのことから教えておられることは、小さな愛が、思いもよらぬ大きな奇跡を生むのということです。何の役にも立たないと思えるような、小さな愛が大きな出来事のはじまりとなるということです。

私たちの日常ではたくさんの問題があるでしょう。大きな問題に対して、自分は小さすぎる存在です。私が小さな行動を起こしたとしても、何の変化も期待できないでしょう。私は何の役にも立たないでしょう。

しかしこの個所から、大きな問題にあっても、私たちはあきらめずに小さな愛を実践しようと教わります。小さなこどもがパンと魚をもってイエスの前に進んでいったように、私たちも小さな愛を実践しましょう。今日、私たちはそのことを忘れないために、パンを食べましょう。

私たちはこの奇跡の食事が温かい交流の食事だったことも想像します。イエスはお腹を満たすためだけに食べ物があるのではないことを教えています。イエスは人々を座らせたとあります。イエスは腰を据えて向き合わせたのです。ただパンを食べたのではありません。お互いに顔と顔を合わせて食事をしたのです。イエスがすべての人を排除しない人だったことも大事でしょう。5000人は選抜された、選ばれた5000人ではありませんでした。彼らは自由希望性であつまった5000人です。従いたい人、聞きたい人、招かれた人が集まりました。私たちの教会も同じです。

まだまだ食事の場面はたくさんあり1回ではご紹介できません。でも食事の場面でイエスが愛を教えたことを記憶する、そのためにこの食事を行います。ぜひ共に預かりましょう。

 

神様は私たちの小さな愛を用いて大きなことをなしてくださるお方です。神様が働いて奇跡をおこしてくださいます。私たちも小さな愛を実践しましょう。そして私たちの世界はこどもたちから変わります。こどもの声が私たちを変えてゆくのです。小さな愛が、思いもよらぬ大きな奇跡を生むのです。私たちもこの子どものように、小さな愛を誰かに届けていきましょう。お祈りします。

 

【全文】「他者への愛が君を強くする」マタイ福音書7章24節~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さな命の息吹を感じながら、共に礼拝をしましょう。

 

今月と来月は「初めて教会へお越しになる方へ」というテーマでお話ししてきました。その締めくくりとして今日は、私たちの人生の揺るがない土台は「他の誰かのための愛」ではないかということをお話しします。

 

私たちの教会ではこの建物の立て替えを検討しています。この建物は歴史的に大変価値ある建物でありますが、老朽化も激しいのです。先日は建て替えに向けた地盤調査をしました。調査結果によるとこの土地は砂地で、軟弱地盤があり、新しい建物を建てる場合、2m以上の杭を打つ必要があるとのことです。増築部分の基礎がひび割れてきているのですが、地盤沈下が原因かもしれません。

 

みなさんが座っておられるのは、まさに砂の上の建物です。しっかりとした土台がいかに大切か、改めて考えさせられます。この礼拝の後には総会を開き、この教会の未来について話し合います。

 

ただ私たちはこの教会の建物を古いから建て直そう、壊れたから新しくしようとしているのではありません。私たちはもっと発展的に考え、この教会を地域に開かれたものにしたい、地域の人がもっと集まって交流できる場所にしたいと願っています。もっとこどもの声がする教会になってほしいと願っています。

 

教会を新しくしたいと願うのは、決して私一人が快適に礼拝するためだけではありません。初めての方も気軽に入ることができるように、地域の方々が集い、笑顔があふれる場所にとして使われるように、そしてこれから先の未来のために、この会堂を建て直したいのです。自分のためだけなら、今のままでも十分かもしれません。

 

私たちが教会を建てようとする力、その源は他者への愛です。地域に向けた愛、自分以外に向けた、未来の人たちに向けた愛がこの教会を動かしています。

 

私たちが他者を思い、愛するからこの教会は新しくなるのです。私たちの教会の土台は、他者への愛です。そのように教会が他者への愛を土台とするとき、それはきっとどんなものより強い、揺るがないものになるでしょう。

 

自分のために造るよりも、他者のために造るほうが強い土台になる、私たちはそのことを覚えてこの教会を建ててゆきます。この後の総会でどのような決定になるかわかりませんが、他者への愛を土台としてこの教会が立てられることを祈っています。

 

私たちの教会の土台は他者への愛であるということは聖書から教えられることです。聖書の中でもイエス様が、私たちの人生で本当に大切な土台とは何かを教えています。今日の聖書の個所をお読みしましょう。

 

今日はマタイによる福音書7章24~30節までをお読みいただきました。イエスは建物について語っているのではありませんが、私たちの建物にも当てはめることができるでしょう。根本的には私たちの人生は何を土台にしているのかということが問われています。

 

みなさんの人生で今、心を支えている、土台と言えるものは何でしょうか。大切な家族や友人かもしれません。日々の生活を支える仕事やお金も必要です。あるいは、この教会や神様への思いが、心の拠り所、土台という方もいらっしゃるでしょう。一人ひとり顔が違うように、心の支えも様々で、一つではないはずです。

 

信仰を土台にして生きようということはクリスチャンの基本的な生き方です。教会に熱心に通う人に共通していることは、神様の言葉を土台にしたいということです。私たちの人生の土台を神様が与えてくれたみ言葉としたい、そのように願ってここに集っています。

 

神様への信仰を土台として生きる時、人生に訪れる様々なことを乗り越えてゆくことができます。多くのクリスチャンはつらいことや悲しい別れがあったとき、聖書の言葉を聞いて励まされたという経験を持っています。あるいは賛美歌に涙が止まらなかったという経験を持っています。

 

私も毎週、聖書を読んで感じたことを話していますが、小さくてもそれが誰かの心を支える様になって欲しいと祈りながら、準備しています。それに支えられたという人もいるでしょう。クリスチャンにとって揺るがない土台は確かに神様の存在、神様の言葉です。私たちはこの信仰を土台として、これからも共に歩んでゆきましょう。信じる気持を私たちの基礎としてゆきましょう。

 

そして今日はもう一点、大事なことを確認しておきたいと思います。私たち一人一人が神様への信仰を土台にして生きようということから、もうひとつ深くこの個所を読んでゆきます。今日の聖書の個所を詳しく見てみましょう。

 

こんなことに気付きます。24節でイエス様は「私の言葉を聞く者は」と言っているのではありません。イエスは「私の言葉を聞いて行う者は」と言っています。ここでは、ただ話を聞くだけで終わる人と、聞いたことを実際に行動に移す人、その二つの生き方が示されています。

 

もちろん私たちがまず大事にすることは聞くことです。すべては神の言葉を聞くことから始まります。でもイエス様は毎週のように神様の言葉に触れていても、それを聞くだけで、日々実践しない人に向けて「それは砂の上に家を建てて暮らすようなものだよ」と少し厳しく、愛をもって諭しています。それはとても危うく、崩れやすい生き方なのだと教えています。

 

私たちは神様の物語を聞いて、励ましをもらって、なんとかこの1週間を頑張ろうと思っています。つらいことがあっても、神様の言葉を支えに生きようとしています。でもイエス様は言うのです。神様の言葉を聞いただけではダメだよ、神様の愛を受けとっただけではダメだよ、自分だけのものにしておいてはダメだよ。あなたはそれを他者に行う人となりなさいとイエス様は言っています。

 

正直なところ私はこのイエス様の言葉に耳をふさぎたくなる思いです。神様の言葉を聞くと励まされるのです。ほっとするのです。でもイエス様はそれだけではまだ足りないと言います。その教えを誰かのために行動に移してごらんと教えているのです。

 

イエス様の教えを行動に移すとは、どんなことでしょうか?それは聖書全体から考えると、他者を愛しなさいということでしょう。

 

愛するとは例えばイエス様がしたように、誰かと一緒に過ごし、喜びや悲しみを共に分かち合うことです。困っている人を助けたり、励ましたり、勇気づけたり、慰めたりすることです。他者に心を開いて迎え入れること、他者のためにできることをすることです。そのようにしてお互いのことを大切にしあうということが愛するということです。

 

そして注目するのは、イエス様が、愛を行う人の土台は強いと言っていることです。愛をただ知っている人よりも、愛を行う人の方がその人生の土台が強いのだと言っているのです。他者を思いやり励まし勇気づける行動、その他者への愛があなた自身を強くすると言っているのです。

 

自分を守ろうとする力よりも、他者を守る力の方が、強くなるということです。それをわかるような気もします。自分は我慢するけれど、子どもたちには我慢させたくない。私もつらいけど、誰かを励ます。私が支えられたいくらいだけど、誰かを支える、そんな他者への愛が私たちを強くするのです。そのような自分ではない、他者に向けた愛が私たちの人生の強い原動力、強い土台になるのです。

 

私たちが誰かのために愛を届けようと一歩踏み出す時、不思議なことに、私たち自身が内側から強められるのです。でももし、自分のことばかり考えて、行動しないでいると、まるで砂の上の家のように、心の土台は弱いままかもしれません。ちょっとした風にも揺らぎ、時には激しく倒れてしまうのです。自分自身さえ守れなくなってしまうのです。でも、誰かのために愛を実践することが、巡り巡って強い土台となり、自分自身をも守る力になるのです。

 

自分を守ろうとして、自分を愛そうとして、自分を傷つけたくなくて行動しないということは、結局自分自身を弱くします。自分を守ることではなく、他者を愛する、大切にすることが、自分自身を一番強くすることなのです。

 

だからイエスの言葉を聞いて自分だけが満たされれば良いのではありません。他者を愛のために勇気をもって一歩を踏み出すことが、人生を豊かにするのです、他者を愛する人こそが、もっとも強い土台の上に生きているのです。ます自分だという考え方は、砂の上の建物と同じ結果になってしまうのです。

 

私たちは1週間、まずイエス様の言葉をよく聞いてそれを土台にして生きてゆきましょう。そして大事なのは聞いたその先です。あなたがそれを他者に実践する時、初めてあなたの土台は揺るがない、強い土台になるのです。私たちは1週間、他者にどんな愛を実践できるでしょうか。教会はどのようにすれば愛を地域の人に届けることができるでしょうか。

 

28節、群衆はその教えに非常に驚いたとあります。その教えに心の心が深く揺さぶられたのです。29節、それはいわゆる「学者」と呼ばれる人とは全く違う教えでした。彼らは愛について知識はたくさんあっても、実際に他者への愛を実践することは少なかったのもしれません。しかしイエス様の教えは「聞くだけではなく愛を行動に移そう、そしてその他者への愛こそがあなたを強くするのだ」と教えたのです。

 

私たちは今日み言葉をききました。この1週間、他者への愛の実践をしましょう。互いに強い土台の上に立ち、歩みましょう。お祈りをします。

 

 

【全文】「人に真珠ー神と他者に聞くー」マタイによる福音書7章1~6節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと礼拝に参加できることを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。

 

先月・今月と初めてキリスト教の話を聞くという方に向けて話をしています。みなさんよくご存じの「豚に真珠」という諺は、実は聖書のこの個所から生まれた諺です。もあしかすると日本人にもっともなじみのある聖書の言葉かもしれません。この前後の個所からイエスの教えと私たちの生き方についてお話をします。

 

私がしている牧師という職業は教会の内外に向けて、文章を書くという仕事が多くあります。文章の発行には必ず、校正や校閲という作業があります。複数の人が文章を見て、差別表現や不正確な内容、行き過ぎた表現、誤字脱字を直す作業が必要です。複数の人がチェックすることで、自分では気づかなかった文章の受け止め方を知ることができます。自分で書いた文章には気付かないうちに「きっと伝わるだろう。分かるだろう」という勝手な思い込みがたくさんあるものです。誰かの目線で自分の文をみてもらうことは、非常に大事です。より良いものを作ることができます。

 

多くの場合、みなさんは愛と配慮を持って指摘してくださいます。赤ペンで全部に×がつくような、否定するような校正はありません。愛と配慮に満ちた言葉で「もっとこうした方がよく伝わるのではないでしょうか」「こう変更してはいかがでしょうか」と提案をしてくださいます。それでも赤ペンがたくさん入ると、自分の全てが否定されているように感じて、落ち込むこともあるものです。みなさんはそんな経験ありますか?私はいろいろな思いがありながらも、多くの場合、それらの修正の提案を受け入れた方がよいと思っています。

 

私も校正する人も、いろいろな感じ方がありますが、目標は同じはずです。読者に伝えるべきことが、しっかりと伝えようという同じ目標があります。同じ目標のために、一つの文章を様々な視点で見つめてゆくことは大事なことです。私がその指摘を受けることは、私の成長、私の気づきにつながってゆきます。私にとって大切な成長の機会です。

 

私が一番怖いのは、あの人は何を言っても変わらないと言われるような人になることです。私はあの人には何を伝えても、豚に真珠だ、馬の耳に念仏だと言われたくありません。もちろんそれは何でも言われた通りすることとは違います。でも私は基本的に他者の言葉を受け止め、変わり続ける自分でありたいと思っています。

 

校正という作業からもわかるように、一人では気づかない間違えがあります。他者からの指摘が、自分を正しく導く時があります。それは、私たちの生き方、人生、他者との関わり方についても同じことが言えるでしょう。私たちは一人で生きるよりも、他者と生きる方が、間違えが少ないのです。私たちは間違えや失敗の多い存在です。しかし私たちはそのことを他者から教えられ、それを受け入れ、修正することによって、より豊かに生きることができるのです。

 

聖書にもそのように言っている場面があります。他者の視点や言葉から学び、成長していく大切さ、他者と誤りや間違えを共有し共に変化しながら生きてゆくという生き方が示されています。今日は聖書からそのような姿を見てゆきましょう。

今日はマタイによる福音書7章1~6節までをお読みしました。今日の聖書の個所はかなり衝撃的なたとえです。

 

1~5節に目を向けましょう。このたとえ話はなぜだかとても説得力があります。おそらくそれは誰もが経験したことのある感覚だからでしょう。1~5節はこんな話です。ある人の目に丸太が刺さっていました。丸太とは、もともと建物に使われる梁のことです。ある人の目は、そのような太くて長い木が刺さるという衝撃的な状況でした。

 

誰かがこの人に、目に丸太が刺さっていることを教え、とってあげなければなりません。しかしたとえ話で、この人は自分の目に丸太が刺さっていることに気付いてすらいません。

 

なぜ誰も、彼の目に丸太が刺さっていることを指摘してあげなかったのでしょうか?人様のことにあまり口出しをしないでおこうと思ったのでしょうか。みんなわかっていたけれど「あの人はそういうひとだからしょうがない」と言って指摘しなかったのでしょうか。

 

あるいは何度も丸太が刺さっていると伝えても、その人が「そんなはずない」と言って受け入れなかったのかもしれません。あるいは丸太が刺さっていることは百も承知だったかもしれません。抜きたくても抜けない事情があったのかもしれません。

 

いずれにしても、丸太が刺さっている人を笑っていてはいけないと感じます。イエス様のこのたとえ話は、他人事ではありません。丸太が刺さっている人とは、間違えに気づいていない自分であり、間違えを指摘されてもなお直そうとしない私であり、間違えを直したくても直せない自分だからです。

 

私にも、そしてみなさんにもきっと、丸太が刺さっているのではないでしょうか。それは自分では気づいていない問題のことです。そして言われたとしても認めたくない問題、直したくても直せない問題のことです。わたしにも、そしてみなさんにもそのような丸太が刺さっているでしょう。

 

もし可能ならば、私たちは互いに丸太が刺さっていることを優しく教えあって、お互いに自分の目から丸太を抜くのを手伝い合いたいのです。私たちは互いにそのような関係でありたいのです。

 

そしてもう一点気づかされることがあります。目に丸太の刺さっている人はおそらく自分の目がほとんど見えていないはずです。彼にできることは多くないかもしれません。しかし彼は他者の目に入ったチリに気付くことができたそうです。自分の状況、自分のことがほとんど分かっていない人、自分のことはどうすることもできない人が、他者の些細な変化には気付くことができたのです。このことも笑って、見下す気にはなりません。自分を棚に上げて、人の些細なことを指摘する愚か者だと切り捨ててしまうのはもったいないでしょう。

 

人間は自分のことは自分が一番よくわかっているわけではありません。自分のことは他者の方がよくわかっているときもあります。他者に私の目に丸太が刺さっていないかを聞くことが大事です。それは相手を選ばず、どんな人から聞いてもいいのでしょう。目に丸太が刺さっている人でも、他人のチリは良く見えるのです。あなたに言われたくないと考えず、お互いに聞き合い、お互いに目のゴミを取り合う関係になれたら良いのではないでしょうか。

 

一番の不幸は「お互い様だから、みんなゴミや丸太の一つもある」と言って、お互いに対して何もしないことです。それは互いの目を曇らせ続けることになります。ゴミが大きくても小さくても間違いは間違いとして受け止め合い、悔い改めることが必要です。聖書によれば丸太にしろ、チリにしろ、目に曇りのある者同士でも、互いを高め合うことができるのです。

 

私たちは互いを指摘しながらも、共通の目標に生きているといえるでしょう。それは互いに愛に生きようという目標です。

 

1節に裁くなとありますが、これは相手の悪い事を見過ごせ、無関心になれということではありません。裁くなとは見下して笑って終わりにするなということです。ああいう人だからしょうがないよねという陰口で終わってはいけないのです。

 

お互いに欠けを持っていることを確かめ合い、互いの丸太に気付き、互いに取り合うことが愛し合うということです。私たちは互いの言葉を無視しないことが大事です。私たちがお互いに交わす言葉は、時として、互いを成長させる輝く真珠となるはずです。真珠のような他者の言葉の価値を、私たちは決して踏みにじってはいけません。ましてや相手に噛み付くようなことがあってはなりません。互いに間違いがある存在として、互いの言葉を真珠として受け止め合い、ともに成長してゆく、これは人間関係においてとても重要なことでしょう。

 

そしてもちろん聖書は人間関係のコツだけを伝えているのではありません。ここにも神様の愛が書かれています。神様は人間に互いに愛し合って欲しいと願っています。神様は人間が悪いところ、罪を持っていることをよくご存じです。神様は人間がどれほど不完全であることをよくご存じです。その上で、私たちに互いに豊かに生きる様にと教えているのです。

 

神様は天国から人間同士の愚かな掛け合いを見て笑っているのではありません。これは愚かだと言って裁いているのではありません。神様は人間を、何をいっても無駄な豚のような存在だと思っているのではありません。

 

神様は人間を大切に思い、見守っています。神様は人間に、間違えを捨てて、正しく生きて欲しいと願っています。そしてその間違えを神の言葉から、互いの関係の中から解消していって欲しいと願っています。神様は、人間が神様の言葉を聞き、愛し合い、共に磨き合い、正しく生きて欲しいと願っているのです。

 

神様は決して私たちを見放しません。どれだけ私たちが愚かな過ちを繰り返しても、神様は決して「人間には何を言っても無駄だ、まさに豚に真珠だ」とは言わないお方です。

 

それどころか、神様は、私たち一人ひとりに、辛抱強く、愛をもって、何度でも語りかけてくださいます。私たちにとって本当に価値のある、美しい言葉・真珠を与え続けてくださるのです。私たちはその神の愛の深さを感じましょう。そしてその愛を受けて、私たちも互いに愛し合い、互いの言葉を真珠としあいながら、互いの丸太を抜き合いながら、生きてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「不安になったら」マタイ福音書6章25~34節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声や物音を命の音として感じながら共に礼拝しましょう。

 

先月と今月は初めて教会に来ますという方に向けて話をしています。聖書は難しい話ではなく、私たちの生きるヒントや、生きる支えになるのだということを、専門用語を使わずにお話しをしたいと思っています。

 

沖縄の霊能者が4月26日に東京で大地震が起こるという予言をし、SNSなどで話題になり、不安が広がりました。もちろん地震は起きませんでしたが、多くの人がこの予言に不安を感じたそうです。気象庁はわざわざ、現在の科学では地震の予測は不可能だと発表しました。もし予測できるなら東日本大震災も能登の地震も予測をして欲しかったものです。なぜそんな予言を信じる人がいるのだろうかと疑問にも思いますが、大きなニュースになるということは不安になる人もたくさんいたということでしょう。きっと私たちの実生活にはたくさんの不安があるからこそ、このような事にも不安を感じるのでしょう。

 

私たちの生活には様々な心配事があるものです。ここに集まった幸せそうな方々にも、人には見せずともたくさんの心配事があるものです。「あの人にこんなひどいことを言われた」という不安「自分は周りからどう思われているだろうか」「この先、年金だけでやっていけるだろうか」「子どもや孫は、ちゃんと幸せに暮らしていけるだろうか」など様々な不安があります。

 

あるいは過去の嫌な記憶がふと蘇ってきて、心がざわざわする不安。眠ろうとすると、なぜか怖いことばかり考えてしまう不安。一人一人に様々な不安があるでしょう。

 

私たちはそれを心配し、思い出してみても現実が変わるわけではないことをよく知っています。思い出して、考えてみてもどうにもならない事だと分かっています。イライラしても、心配や人にされた嫌な事、人に何かをできなかった後悔を思い出してみても、どうにもならないことだとわかっています。でも、それでも不安は頭から、心からとりのぞかれることがないのです。その心配はぐるぐると心の中で、頭の中で巡ります。

 

私自身も、不安で夜眠れない時があります。布団の中で考えても、どうしようもないことをいつまでも考えてしまうことがあります。いつの間にか眠ってしまうことができればいい方でしょう。考えていたら、窓の外が明るくなっていたこともあります。

 

どうしたら私たちはこのように心を蝕むような、必要以上の不安から自由になれるのでしょうか。どうしたら、頭の中で同じことばかり考えてしまう、この堂々巡りから抜け出せるのでしょうか。

 

インターネットに聞けばいろいろな解決方法が書いてあります。運動が良いとか、不安を声に出すとか、あるいは真っ白な紙をイメージしましょうと書いてあったりします。それらは多少の効果がありそうです。でも、もっと根本的に、私たちは、この次から次へと湧いてくる不安や心配、後悔とどのように扱ってゆけば良いのでしょうか。

 

私たちの日常には様々な不安があります。キリスト教・聖書・イエスは人間の尽きることのない不安について何を語っているでしょうか。今日は聖書、イエス・キリストの教えは私たちを不安の鎖から解放し、生きる支えになってくれるということについてみてゆきたいと思います。

マタイによる福音書6章25~34節をお読みいただきました。聖書が書かれた2000年前の人々にも私たち同じように切実な不安がありました。私たちの心配といえば人間関係や、経済的なことや健康のことが多いでしょうか。

 

しかし当時の人々の大きな悩みは明日の食事のことでした。多くの人々は、蓄えたわずかな食料が減っていくのを見ながら毎日「これがなくなったら、自分や家族はどうなるのだろう」と不安に思っていました。文字通り、明日の命に関わる不安の中で生きていたのです。不安に押しつぶされそうな毎日だったのです。

 

イエスはその心配に親身に寄り添う方でした。傷ついている人、寂しい人、不安な人に自ら会いに行って、手を握って励ましたお方でした。

 

私たちは先週も「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉を見ました。イエスが経済的な事情で将来が不安な人に寄り添う姿を見ました。そして不安のない世界が来るように祈ろう、働こうと励ましておられるのを見ました。神様から与えられた命に、貧しさはふさわしくないということを見ました。

 

今日はイエスが他にも様々な不安を持つ人々にどのように語ったのかをご紹介します。イエスは25節で「思い悩むな」と言って、26節からこんなことを教えました。

 

26節でイエスはこう言います「空の鳥を見なさい」。それは思い悩む時は家にこもって心配をしていないで、扉を開けて、家の外に出て、吹き抜ける風に吹かれて、外の空気を目一杯吸ってごらんということです。そして空を見上げて、どこまでも広がる広い空を感じてごらん。きっとそこには鳥がいるよ、鳥を見つけてごらん。自由に飛び回っている鳥たちを見つけてごらん。あの鳥はどこから来て、どこに行くのか、どこまで行けるのか想像してみてごらん。あの鳥たちにも悩みがあるかもしれないね。でもきっとあなたほどいろいろなことに心配していないだろうね。あなたほど思い悩んではいないだろうね。

 

でも神様はこの鳥の命も大事に思って守ってくださっているよ。神様はあなたたちの命を神様にかたどって、そっくりに創られたのだよ。鳥も大切だけど、神様はあの鳥たちよりももっと、あなたのことを大切に思っているよ。神様は君たちに、あの鳥たちよりもっと自由に、もっとのびのびと、安心して、どこまでも先へ進みあなたの可能性を広げて欲しいと願っているよ。

 

27節でイエスは思い悩むことについて、さらにこう続けます。あなたが思い悩んでも、問題が変わるわけではないね。思い悩んでも不安が大きくなるばかりだね。思い悩んでも寿命が延びるわけではないし、むしろ不安は寿命を縮めるよね。だから必要以上に不安になるのはやめよう。イエスはそうやって私たちから不安を取り除いてくださろうとしています。

 

イエスは私たちの不安をよく知っているお方です。その不安を小さなことだと言いません。それを受け止め、励ましてくれます。心配しなくていい、神様があなたを大事に思っているよ、自由になりさないと励ましてくれています。

 

もうひとつ教えています。28節です。イエスは「野の花を見よ」と言っています。不安に思っている時は、足元をよく見て、道端に咲いている花を探してごらん。注意深く探すと、自分の足元にあるのに、見過ごしていたきれいな花があるよということです。この花が何も着飾らないで、ありのままで美しい事を見つけてごらん。野の草の上に座って、よく見てごらん。

 

そして、イエス様は言います。あんなに栄華を極めたソロモンという王様でさえ、この野の花の一つほどにも着飾ってはいなかったよ。人間がどんなに着飾っても、どんなに成功して豊かになったとしても、神様が咲かせたこの小さな野の花の、ありのままの美しさには敵わないんだよ。心配事でがんじがらめになっている私たちの心と比べてごらん。このありのままの野の花の方が、どんなに素晴らしいか。

 

野の花は明日どうなるかさえまったくわからないのに、心配せず、こんなに美しい。それは神様が美しくしてくれているのだよ。

 

そして神様はこの花よりも、もっとあなたのことを大事に思っているよ。君たちにこの花よりももっと光り輝いて欲しいと思っているよ。

 

そしてイエス様は31節で、もう一度、力強く言います。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」。色々な心配事があるけど必要以上に心配しすぎるのは、もうやめよう。なぜなら神様はあなたの必要も心配もすべて知っていてくださるから。あなたは一人じゃないから。神様がついているから、大丈夫だよ。さあ、空の鳥のように自由に、野の花のように、あなたらしく輝いて生きよう。神様からいただいた、この一度きりの大切な命と時間を、不安に過ごすのは、もったいないよ。神様から頂いたその限られた時間を不安に過ごすのではなく、自由に、あなたらしく光り輝けるように生きよう。イエスはそのように私たちを励ましてくれています。

 

33節をみましょう。「神の国と神の義を求めなさい」とあります。

 

神の国と神の義を求めるというのは、まさに、私たちが鳥のように自由に、花のように自分らしく輝いて生きられる、そんな世界を、神様に求めていくことです。神様はその実現を求めて祈ろうと言っているのです。

 

そしてイエスは付け加えています。今日の苦労は今日だけで十分だよ。もうそれ以上心配しなくていいよ。これが心配事の多い私たちへの、イエスからの励ましです。

 

私たちの人生には、思い悩むことが尽きず、不安がたくさんあるものです。でも私たちはそのような時、空の鳥と、野の花に目を向けましょう。私たちは癒されるはずです。そしてその自然を通して語りかけてくださっているのは神様です。神様はそのようにして私たちを愛し、大切に思ってくださっているのです。

 

私たちは神様の願いが実現し、互いが不安から解放されることを祈りましょう。この礼拝の後、みなさんの心が少しでも軽くなるように祈ります。神様が、あなたを不安から解き放ち、自由で、あなたらしく輝く人生を与えてくださることを信じています。お祈りします。

 

【全文】「貧しさよ、去れ」マタイによる福音書5章3節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も自由に過ごすこどもたちの声と命を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。

 

4月・5月と初めて教会に来る方に向けて話をしています。私たちは聖書という本を大切にしています。この聖書にはいろいろなお話が書いてあります。物語だけではなく、詩のような言葉も含まれています。聖書の真ん中には詩編という詩集も載っています。難しくない個所からぜひ読んでみてください。私たちはこの聖書の後半に記載されている、2000年前に生きたイエスという人の教えを、人生の中心に据えたいと思って、この聖書を読んでいます。

 

キリスト教というと、庶民の宗教というよりも、ちょっとハイクラスな人の宗教というイメージを持っている人がいるかもしれません。日本で身近なキリスト教というと、学力の高い学校だからでしょうか、知識層が多いイメージがあるかもしれません。しかし御覧のとおり、大半はみなさんと変わらない、ごく普通の人です。

 

2000年前、イエスに従った人も普通の人でした。ただ当時は今よりもっと多くの人が貧しく暮らし、激しい格差の中で生きていました。ローマ帝国の支配の下の厳しい税金が課せられました。多くの人が自給自足の生活です。食料の収穫量は毎年安定せず、飢餓はいつも目の前にある不安でした。

 

そのような時代の中でイエスに従ったのは、極限まで貧しい人、社会の底辺にいた人々だったと言われています。私たちは聖書を読む時、イエスの話の聴衆の多くが、このように貧しい人だったということを忘れずに読みたいと思います。そしてこの点はもしかすると現代の私たちと共通してきていることかもしれません。私たちの生活は確実に貧しくなってきています。ガソリン、電気、お米の値段はどこまで上がるのか不安です。当時の貧しい人々に近づいてきていると言えるでしょう。

 

当時も今も、貧しさは人間にとって最も大きな問題です。日本では貧困と格差が広がっています。貧しさは敵です。幸せはお金の有無だけではないというのは本当です。しかしそれは十分お金がある人の話です。貧困と幸福度には密接な関係があります。貧しさは人の幸福度を確実に、大きく下げます。貧しさは時間的な余裕を奪います。貧しさは交際費を削らせ、友人と遊ぶこともできません。貧しさは今はなんとか大丈夫でももしもの時の不安を大きくします。お金で解決できることはたくさんあります。経済的豊かさのみが、幸せの条件ではありませんが、幸せの大きな要素は経済的な豊かさです。

 

宗教は心の中の問題を専門に取り扱うものではありません。宗教は心の中だけではなく、お財布の中の問題も考えます。宗教は貧困という大きな不安をなくすために働いています。宗教にはこの世界の大きなゆがみ、格差、機会の不公平、不平等な教育を正してゆく使命があるのです。社会にある貧困とその不安な心に目を注ぎ、そこに公平さ、正義、安心を求めるのは宗教の大切な役割です。イエスの教えもそのために語られました。

 

キリスト教が貧しさ・格差へ反対する根源的な理由は「みんなおんなじ命」だということからです。命とは偶然にできるものではなく、神様から与えられたものです。命はすべて神様が創ったものであり、すべての命には尊厳があり、その価値に上下はありません。命は神様が、すべての人間に等しく与えたものです。だからこそ、すべての命が大切なのです。

 

命が平等であることは多くの人のもつ価値観ですが、私たちはその理由を特別に、神様が命を与えてくれたと理解しています。神様が命をくれました。だから命は大切です。だから命は平等です。だから命は傷つけてはいけないのです。

 

そしてもう一つ言うことが出来るでしょう。神様が与えた命です。だから貧しくてはいけないのです。神様から与えられた命が、貧しさによって不安にさせられてはいけません。貧しさによって不幸にさせられてはいけません。神様から与えられた命は、ちゃんと食べることができる、ちゃんと幸せだと感じさせることができる命でなければいけないのです。

 

そのために私たちは月2回こども食堂を開催しています。人との交流を楽しみに来ている人も多いのですが、アンケートをとると「生活がとても苦しい」と答える人がたくさんいます。こどもを育てる親は多くの我慢が必要で、不安が大きいものです。教会では月1回ホームレスの炊き出しも開催しています。炊き出しには来る人が絶えません。生活の支援を求める人がたくさん教会に来ます。私たちは貧しさがどれだけ人の心を不安にさせるのかを痛感しています。このように人の心に不安をもたらす貧しさは神様の与えた命にふさわしくないのです。

 

世界には人間によって作られた貧しさがあります。作られた貧しさは解消できるはずです。この世界に経済的に貧しい人がいるのは良くないと訴え、貧しい人を助けてゆくのは教会の大切な使命だと思います。

 

私たちは神様の力が貧しさの中に働くと信じます。神様の力は経済的な不安にこそ働きます。神様の力は経済的な不安の中でも、楽しくニコニコ生きようという気休めとして働くのではありません。貧しくても前向きに生きようという気休めを言っているのではありません。神様は人間の命に、貧しさは必要ないと言っています。神様は貧しさはいらない、貧しさ・格差と闘おう、貧しさの中で助け合おうと言っています。

 

今日はこの貧しさ、経済的不安を無くすために、神様が私たちに働くと言っている聖書の個所を見ます。一緒に聖書を読みましょう。

今日はマタイによる福音書5章3節をお読みいただきました「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉は、聖書の中でとても有名な言葉です。しかしその意味は非常にわかりづらいでしょう。

 

心の貧しい人が幸せだというのは、意味が分かりません。「心が貧しい」とは、すさんだ心の持ち主のことでしょうか。他者に配慮の足りない人、優しさのない人、愛のない人、他者への想像力が足りない人がいます。そんな人、そんな自分たちのことでしょうか。

 

そうではありません。心が貧しい人とは実際の生活苦からくる心の不安を持った人のことです。心の貧しい人とは経済的に貧しくて、その貧しさに不安を覚えている人、経済的な事情で将来が不安な人のことです。経済的な事情で明日が不安という人のことです。お金持ちにはわからない不安を持つ人のことです。

 

2000年前の人々はそれを嫌と言うほど痛感していたはずです。干ばつなどの自然災害の心配がありました。食料危機への不安がありました。生活の保障はなにもありませんでした。だからこそ、その貧しさは心を蝕みました。心が貧しさの不安でいっぱいになったのです。心の貧しい人とは貧しさで大きな不安を抱えなければいけない人のことです。

 

現代にも心の貧しい人がたくさんいます。現代で心の貧しい人とは、もし病気になったら経済的にやっていけないと不安に思う人のことです。こどもをしっかりと育ててゆくためのお金を稼ぐことができるか不安な人のことです。老後のお金に不安を感じる人です。お米が高くてこれ以上値段が上がったら買えないと不安に思う人です。そのような貧しさから不安を感じる人が、心の貧しい人です。経済的な不安を感じる私たちのことです。イエス様はそういう人たち、私たちに語り掛けているのです。

 

そしてイエス様は「天の国はその人達のものである」と言っています。天の国はその人たちのものであるとは、死んだ後天国に入れるよという意味ではありません。この世で苦労した分、死んだ後、天国に入って、安らかに過ごせますよという意味ではありません。天の国とはこの地上、この地上に生きている命に神様の理想が叶うことです。神様の理想が実現する場所が、天の国です。神様の理想、それは命が等しく扱われる世界です。貧しさと格差がない世界です。貧しい人のいない世界の実現が天の国です。

 

貧しい人たちの、貧しさが終わり、神様の理想が叶い貧しさがなくなる、それが天の国です。私たちはこの天の国が実現するように祈っています。貧しい人にそれが実現するように祈っています。貧しくても、ニコニコしていようという事ではありません。神様の力が貧しさの不安の中にある人に働き、そして貧しさそのものが無くなってゆくのです。

 

私たちが祈り、求めているのは、貧しさの中の心のゆとりではありません。もっと根本的な経済的な心配をしなくてよくなることです。それが日本で、世界、あらゆる地上で、みなさんの生活で実現することを祈っています。そのことを求めて、イエスに従っています。

 

私は大金持ちになりたいのではありません。豊かさを奪い合うのではなく、誰もが安心して暮らせる社会を祈り求めています。他の人より良い生活を求めているのではありません。神様から与えられたすべての命が、経済的な不安なく過ごせる社会が作られていくこと祈っています。

 

イエスは「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えました。その言葉を私の人生の中心に置きたいと思っています。神様から与えられた命に、貧しさはふさわしくありません。神様はそのような心の不安が、貧しさが必ず解消される世界が来ると言っています。私たちはそのような世界、天の国が来るように、祈りましょう。世界のすべての人が安心して生きていけるだけの収入があるように祈りましょう。神様の力が、貧しい人に、貧しい私たちに働くはずです。お祈りします。

 

【全文】「イエスの弟子として生きる」マタイ28章16~20節

みなさんおはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と命を感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

 

今月と来月は初めて教会に来られる方に向けて話をしています。この2か月でキリスト教のすべてを知ることは難しいのですが、一番感じて欲しいと思っているのはキリスト教の教理や儀式についてではありません。受け取って欲しいのは知識や教養よりも、イエス・キリストの生き方についてです。人を愛するという生き方、人に仕えるという生き方を受け取って欲しいと思っています。

 

ヒンドゥー教の指導者、インドのマハトマ・ガンジーがこう言ったそうです。「私はイエス・キリストは好きだがクリスチャンは嫌いだ」。ガンジーの言葉に、私はドキッとさせられます。これは、私たちへの問いかけでもあります。ガンジーは、イエスの生き方は従う価値のあるものだが、クリスチャンはイエスのような生き方ができていない人が多い、だから嫌いだと言っているのです。この言葉はキリスト教に入信しているどうかよりも、どう生きるのかが重要だと教えてくれます。

 

キリスト教を信じ、自分の生き方の中心にしたいという人はキリスト教に入信します。入信のための儀式として洗礼があります。この洗礼はもともとの言葉ではバプテスマという言葉です。私たちは特にこの洗礼・バプテスマを大事にするグループです。だからバプテストと呼ばれています。クリスチャンはバプテスマからキリスト教の精神に基づいた生き方をスタートします。洗礼・バプテスマはイエスに従って生きる、大事なスタートです。

 

洗礼・バプテスマはどんなことがあっても取り消すことができない、一生変えられない事実です。でもガンジーが指摘しているように、洗礼・バプテスマを受けたクリスチャンであることと、イエスを中心とする生き方を実践・継続することとは同じではありません。

 

クリスチャンでもイエスを中心とすることから離れてしまう時があります。もちろんそれは誰にでもあるものです。そして反対にクリスチャンでなくてもイエスの生き方を体現している人もたくさんいます。

 

ここからわかることは、私たち目的は、誰かに洗礼をすることや、信者を獲得すること、クリスチャン人口を増加させることではないということです。誰かの心に光を照らすような愛と優しさに満ちた生き方をしたい、それが私たちの目指す道です。洗礼・バプテスマを受けたかどうかよりも、その生き方の実践の方が大事です。

 

イエスの示す生き方はどんなことでしょうか。聖書にはたくさんの生き方が例示されています。例えば今月では自分の弱さを誇るという生き方をみました。他者の人生を想像し共感する生き方を見ました。神様の力によって私たちは変わることができると聖書から読んできました。

 

聖書には他にもたくさんの生き方が豊かに示されています。イエスは愛と正義と公平を求めました。病や不正に苦しむ人と連帯しました。貧しい人、後回しにされる人に常に目を留めました。様々な人と食事を共にしました。そんなイエスの生き方が聖書には書かれています。私たちはその物語を読み、イエスの生き方を私たちの人生でも実践したいと思っています。

 

信じる、信じない、洗礼を受ける、受けないよりも大切なことがあります。それはイエスの生き方にならい、それを実践することです。キリスト教ではそのような生き方をすることを「弟子になる」と言います。私たちはイエスの弟子になることが大事です。ぜひ一緒にイエスの弟子になりましょう。今週もイエスの弟子として歩みましょう。今日は聖書の物語からイエスを模範にした人生ということについて考えましょう。

聖書マタイによる福音書28章16~20節までをお読みいただきました。ここまでのイエスの人生は愛を持って生きる様にと人々に伝える人生でした。そして多くの人がその生き方に従い、イエスの弟子となりました。

 

一方、イエスの訴える愛や平和や平等は、権力者たちには気に入らない考えでした。イエスはそのために十字架に掛けられ殺されてしまいます。しかしそれだけでは終わりませんでした。イエスは復活をしたのです。何が起きたのかは詳しくはわからないのですが、死んだはずのイエスがもう一度弟子たちの前に現れたのです。そしてそこから弟子たちは大きな変化を遂げてゆきました。

 

16節をみましょう。復活したイエスを目撃したのは11人だったとあります。本当はもともと12弟子だったのですが、一人は途中でイエスを裏切ってしまったので一人欠けています。12人いたはずの弟子が11人に減っている。11人という響きに胸が痛みます。裏切った弟子の名前はユダと言いますが、彼はイエスに従う弟子であることを止めてしまったのです。でも責める気はしません。私の中にもユダのようにイエスに従えない部分があるからです。

 

11人の弟子たちがイエスに出会った時、彼らはイエスにひれ伏したと同時に、そこには疑う者がいたとあります。この場面は聖書の中でもイエスが再び登場するクライマックスの部分であるにもかからず、疑う者がいたのです。でもこの疑う人の存在は大事だと思います。ここには弟子というのは、信じている人だけの集まりではなくてよいということが示されているのです。イエスの弟子には、信じていない人、疑う人も含まれていて良いのです。この教会もそうです。私たちの教会は、信じる人だけの場所ではありません。疑う人、悩む人、問い続ける人、みんなを歓迎する教会です

 

教会では信仰を疑うことが許されています。疑うことが許されるのは、組織として健全なことです。12人全員が従ったのでもないし、残った11人も全員が信じていたわけではありませんでした。誰も完全に従いきることはできなかったのです。聖書には信じられないようなことがたくさん書いてあります。私も疑いながら従っている一人です。でもイエスは疑っている人々の前にその姿を現します。

 

そのような場所にイエスが現れて言った言葉に注目をします。これは聖書の中でもひときわ重要な言葉です。イエスが最後に残した言葉、それは『すべての人を私の弟子にしなさい』というものでした。これが今日、一番大切なメッセージです。今日のテーマは「弟子になる」ということです。

 

まずこの言葉の「私の」に注目をします。それは他でもないイエスに従うという生き方です。イエスこそ生き方の模範とせよという招きです。みなさんは誰の弟子として生きているでしょうか?私たちの周りには様々な模範があります。何を模範とするのかが大事とも言えるでしょう。その時、疑うことができない模範はよくないでしょう。

 

聖書のこともどんどん疑ってください。聖書によれば、そのように疑う中にこそ、イエスが現れます。どんどん疑っていいのです。キリスト教は疑いへの強い耐久力があります。たくさんの人が疑い、それでも従う人が多く起こされています。ぜひ疑って、よく吟味し、イエスに従ってください。

 

そして「イエスの弟子として生きる」ことを考えます。イエスの弟子として生きるとは愛をもった生き方をすることです。他者に共感し、平和と平等、公平を求める生き方です。困難や、貧しさにある人を忘れずに生きる生き方です。私たちはその生き方へと招かれています。イエスの弟子になるとは、聖書に書いてあるイエスの生き方に従うことです。ぜひ一緒に読みながら、疑いながらあなたの模範にして欲しいと思います。

 

イエスは「イエスの弟子となりなさい」という言葉に続いて洗礼を授け、教えなさいと言いました。しかしこれは二次的な位置づけです。元々19~20節の途中までは一続きの文章です。翻訳する際に、読みづらいのであえて2つの文に分けています。19節、20節全体を通じての強調点は「弟子にしなさい」です。そのために洗礼をしたり、教えたりしましょうと付け加えているのです。

 

19~20節全体で最も強調されているのは「イエスの弟子として生きる」ということです。洗礼・バプテスマや教えることはそれに次ぐものとして挙げられています。決して洗礼や教えることが目的ではありません。私たちの目的は信者を獲得すること、クリスチャン人口を増加させることではありません。

 

私たちはすべての民を弟子とすること、イエスの生き方を自分の生き方する人を求めているのです。他者への愛をもって生きる事、平和と平等を大事にすること。イエスの教えを実践することが「弟子として生きる」ことであり、ここで最も勧められていることです。

 

私たちは今日集まったのは、儀式に参加するためではありません。イエスの生き方を確認するためです。そしてイエスの弟子として共に生きるためです。私たちはいつか先生になるのでもありません。一生、イエスの弟子です。私たちは、どんなに年を重ねても、どれほど学んでも、イエスの前ではいつまでも弟子です。それはずっと学び、成長していく存在だということも示しています。だから私たちは共にイエスの弟子として共に歩みましょう。私たちは大きなことを成し遂げるために、イエスの弟子になるのはありません。他者を愛するために、小さくされている人に目を向けるために弟子になるのです。共にイエスの弟子として歩みましょう。

 

20節イエスは私たちに「いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださっています。イエスがいつも私たちの先生として、共にいてくださいます。いつも私たちの生き方を指し示してくださいます。今日から、また共にイエスの弟子として、小さくても確かな一歩を歩み出しましょう。お祈りします。

 

【全文】「新しい生き方を始めよう」マタイ28章1~10節

おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の声を聞きながら、命を感じながら礼拝をしてゆきましょう。

 

特に4月と5月は初めて教会に来るという方を歓迎しています。興味があるけど勇気がでないという方、YouTubeで見ているという方、ぜひ教会に訪ねてみてください。

 

4月は新しいスタートの季節です。入学、進学、就職、転勤……さまざまなかたちで私たちは新しい環境を迎えます。でも、それは同時に不安や孤独、緊張を伴う時期でもあります。だからこそ、今日はそんな私たちに神様が「新しい人生を与える」と語りかけていることに目を向けたいと思います。

 

今日は、教会では特別な礼拝をしています。イースター礼拝という礼拝です。イースターとは、イエス・キリストが復活をしたということを記念する日です。毎年3月か4月にこのイースター礼拝が行われています。私たちの教会ではイースター礼拝でみなさんにゆでたまごをプレゼントしています。このたまごは新しい命の象徴です。固い殻に覆われている命が、殻を破って生まれてきます。そのように隠されていた命が、輝きだすことの象徴として、このたまごを配っています。ぜひたまごを受け取って帰ってください。

 

先日まではイエスが愛や共感、平等を訴えたことを見て来ました。しかしイエスは十字架刑という刑に掛けられ死んでしまいました。イエスは人々に弱さをさらけだしながら死んでいったのです。神と等しい存在のイエスが、弱さを隠さずに生きたのです。でも私たちは、そこに力強さがあることを見ました。私たちも弱さを抱えたままでいい、生きてゆこうということを見ました。弱さを持った集まりとして、私たちは神とつながっていよう、お互いとつながっていよう、弱さも誇って生きようということを見ました。

 

今日は聖書から、どのようにして、私たちに新しい生き方が始まるのかを考えたいと思います。

 

私たちは自分の生き方を変えたいと思っています。私もそうです。でも自分の力だけでは限界があり、私はいつも同じ失敗ばかりを繰り返しています。では、どのようにして私たちは人生の方向を変えることができるのでしょうか? 今日は、それを経験した人々の姿を聖書からたどっていきたいと思います。

 

今日はマタイによる福音書28章1~10節までをお読みいただきました。今日はイエスが十字架に掛かった後の物語に目を向けます。聖書によればイエスは“復活”をしたと書いてあります。実はイエスは死んでいなかったというのではなりません。イエスは確かに十字架で死んだのです。確かに死に、その遺体は墓に葬られました。そしてイエスに従った弟子の女性たちはその遺体のケアをしようとして、墓に向かいました。

 

1節、墓に向かった弟子たちはどのような気持ちだったでしょうか?自分の新しい生き方を指し示してくれていたイエスが死んでしまった、殺されてしまったのです。尊敬する人の死、大きく自分に影響を与えた人の死は深い悲しみを伴うものだったはずです。

 

失意と混乱の中で墓へと向かいました。心の中には、イエスへの信頼が打ち砕かれた思い、期待が裏切られた痛み、未来への不安が渦巻いていたでしょう。私たちも人生の中で似たような経験をすることがあります。信じていた人が去り、支えにしていたものが崩れ、立ち尽くすことがあります。

 

そして弟子たちにはもう一つの悲しみがあったでしょう。それは、もっとこの人からたくさんの教えを聞き、自分の人生を変えたかったという悲しみです。イエスの死はイエスに従うことで自分の人生を変えたい、そのような自分が変わるチャンスを中途半端に終わらせてしまうものでした。墓に行った弟子たちは、そのような様々な悲しみを持って墓に向かっていました。

 

しかし墓では不思議なことが起きます。聖書によれば、墓を閉じていた石が動かされ、そこには天使がいました。そして天使は「ここにはイエスはいない」「イエスは復活をした」と教えます。弟子たちは驚いてこのことを他の弟子たちに伝えようと走り出します。しかしその途中、今度は天使ではなく、イエスが直接、目の前に現れたのです。

 

この弟子たちは、イエスが殺されてしまったという状況にさらされていました。そのような強いストレスを感じる状況の中で彼女たちは幻、幻覚を見たのかもしれません。イエスが殺された、でももう一度会いたい、しかし遺体が無いという混乱する状況の中で幻覚を見たのかもしれません。

 

しかしこの話を、幻、幻覚としてしまうには説明がつかない部分も多くあります。墓に行ったのは二人です。二人同時に幻覚を見ることがあるでしょうか?この後、他の弟子たち11人もイエスを目撃します。11人が同時に同じ幻覚を見ることがあるでしょうか?しかも9節では弟子たちはイエスの足をつかみ、抱きしめています。幻覚には触ることはできないでしょう。弟子たちはそのような不思議な体験をしました。失ったはずの命が目の前に現れ、触れることができたのです。

 

2000年前に実際に何が起こったのか、それを完全に知ることは私たちにはできません。本当に聖書の記述通りのことが起きたのかもしれません。あるいは、何か核となるような出来事があり、それが抽象的・象徴的に記録されたのかもしれません。どこまでが客観的な事実なのかはわかりません。ここで「復活した」と言われていること、それが実際にどんなことだったのかは、それぞれの想像に委ねたいと思います。それぞれのイメージでとらえてよいと思います。そこではまるで玉子の中から命が出てくるような、命があるように思えなかったものから命が生まれる不思議な出来事が起きたのです。

 

しかし、客観的に見て確かなことがあります。それは、キリスト教がこの復活をスタートに、世界に爆発的に広がっていったということです。キリスト教はこの復活と呼ばれる出来事をきっかけに世界中に広がってゆきました。それはイエスの弟子たちが担いました。

 

聖書を見ると弟子たちも弱い存在です。私たちと変わらない、ごく普通の人間です。たくさんの弱さを持った人間です。人を裏切り、他者に無関心で、権威を欲しがる人間です。弟子は私たちと同じ誘惑を持ち、私たちと同じ弱さを持っていました。

 

しかし弟子たちはこの復活と呼ばれる出来事から変わってゆきました。彼らの前で、彼らの中で何かが起きたのです。彼らには復活としか表現できない何かがそこで起きたのです。復活から彼らは人生の方向性を大きく変えられてゆきました。彼らはイエスのように生きようと思ったのです。裏切りと無関心を捨て、愛を伝え、十字架に掛かったイエスの生き方に従おうと思ったのです。弟子たちはそのことを胸に決め、世界へと向かってゆきました。世界にこの愛を伝えようと決心したのです。

 

それはまるでたまごから命が出てくるような出来事です。彼らの中に隠されたものが、ゆたかに用いられる出来事でした。それが今日お読みした復活の物語から始まってゆきました。

 

このことは私たちの今、私たちの生き方とどのような関係があるでしょうか。非科学的なことを信じろと言っているのではありません。私はこの出来事を、私たちは人生を変えることができる、何かが起きたと受け取りたいと思います。普通の人間と変わらない弟子たちが、この復活と呼ばれる不思議な出来事を体験した時、大きな人生の方向転換を始めました。彼らは今までの生き方を中断し、イエスに従う生き方を選んだのです。

 

私たちにもこのことは起こるのです。不思議な神秘体験ができるということではありません。でも私たちはイエスとの出会いによって、生き方を変えることができるということです。キリスト教は私たちの人生を変える力があります。私たちは自分で変わることは難しいものです。だから何度も同じ失敗を繰り返すのです。私たちは人生の方向を変えたいと思っています。そしてイエスが私たちの人生の方向を変えてくれるのです。それが弟子たちに起きた事です。復活とよばれる、何か不思議な出来事が起こりました。それによって弟子たちは人生を変えられてゆきました。それと同じ様に、みなさんにも不思議な力が働きます。それは言葉では説明しきれない出来事です。神様が働きかけて私たちに起ることです。私たちはそれを少しずつ経験しています。イエスが私たちを変えるのです。

 

「こんな自分を変えたい」と思ったことはありませんか?いつも怒ってばかりいる自分、人と比べて落ち込む自分、大切な人を傷つけてしまう自分……私たちは「変わりたい」と願うけれど、思うように変われないことも多いものです。だからこそ、イエスとの出会いが私たちに必要なのです。復活が必要なのです。自分の力ではなく、神様の力によって変えられる道がある。聖書はそのことを静かに語りかけてくれます。

 

もし、変わりたいと心から願っているなら、ぜひイエスに従ってみてください。自分だけで人生を変えるのは難しいものです。イエスの力によって、変えられることをお勧めします。

 

どのように変えられるでしょうか。これまでにお話してきたように、強くなる、偉くなる、上に行く変化ではありません。弱さをもったまま、低みにいながら、人を愛する生き方へと変えられてゆきます。

 

今ここにいる一人ひとりに、神様は「新しい命」を与えようとしています。それは突然すべてが変わるというより、少しずつ私たちの中に芽生えていく命です。人を愛する心、誰かのために祈る気持ち、小さな感謝の言葉——それが新しい人生の始まりです。あなたも、きっと変わっていけるはずです。

 

イエスに従う時、皆さんの心には、生活には不思議な変化が起こります。そこからきっと生き方が変えられていくでしょう。この玉子のように新しい命が始まるでしょう。

 

お祈りします。

 

【全文】「弱さを誇る宗教」マタイ27章35~50節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。この2か月間、キリスト教の話を今日初めて聞くという人を歓迎する時として、キリスト教の入門にあたる話をしています。今日も聖書からクリスチャンの目指す生き方について考えてゆきたいと思います。

 

私たちが尊敬するのは、どのような人でしょうか。現代社会では、強く生き、大きな成功を収めた人が注目されがちです。優れた洞察力を持ち、努力を重ね、誰も成し遂げたことのない偉業を達成した人が、賞賛を集めます。人間は、とかく大きなもの、高い目標、そして成功者を追い求め、尊敬するものです。だからこそ新生活のなかで私たちが初めて出会う人にも、自分の力強さ、元気さを第一印象として感じてもらいたいと思うものです。

 

しかしどうでしょうか。本当の自分、自分の弱さを隠しても、案外それはすぐに伝わってしまうものです。むしろ弱さこそが、私たちを結び付けてくれるのです。強さを演じあう関係では、深い関係には発展してゆきません。お互いの中にある欠けや弱さが、互いへの共感を生み、お互いをひきつけ、豊かな関係となってゆくのです。案外、私たちにとって弱さは大切なのです。

 

今日はみなさんにキリスト教が大事にしている価値観を紹介したいと思います。人々が成功や強さに憧れる中で、キリスト教はむしろ痛みや弱さにこそ、目を向けるという価値観を持っています。弱さにこそ、神様の力が働くと信じています。キリスト教の価値観は強さを求め、世界を上から見下すものではありません。キリスト教の価値観は弱さの中で、世界を下から、世界を痛みや、貧しさから見ることを大事にしています。

 

春は、新たな出会いの季節です。きっとキリスト教の価値観に出会うのにも良い機会でしょう。今日は『弱さ』をテーマにお話をします。聖書の物語はきっとみなさんの人生のヒント、道しるべ、そして大切な価値基準となるはずです。今日も聖書を通して、新しい生き方、新しいライフスタイルを探し求めてゆきましょう。 

 

マタイによる福音書27章35~50節をお読みいただきました。先週は香油を注ぐ女性の物語から、イエスが精一杯生きている人の気持ちを受け止め、共感する場面を見ました。イエスは様々な格差や差別、冷たい正論が渦巻く時代に、他者に共感することを大切にしました。そしてその生き方は多くの人をひきつけました。私たちもイエスのように、他者に共感し、他者の人生を受け止めて生きてゆきたい、先週はそんなことを考えました。このようにイエスの歩みは平等や共感を訴えた歩みでした。そして他者への差別や無関心を批判し、他者への共感の大切さを語って歩んでいました。イエスへの賛同は徐々に広がり、大きなうねりになっていました。

 

一方でイエスは、時の特権階級の人々からはとても嫌われました。特権階級の人々、これらは現代社会における経済的強者や権力者と言えるでしょう。彼らは貧しい人々が助け合って、認め合って、団結してしまったら、身分の高い、自分達の優位性、自分たちの統治が崩れると思ったのです。だからイエスが広めていた平等と共感に生きる姿に大変な危機感を持ちました。

 

人々を統治するには分断させておくのが一番でした。人々が互いに、自分の方が正しい、自分の方が強いと思う様に仕向けるのです。互いに相手を差別し、見下しあうように仕向け、互いに力をすり減らし合ってくれれば、統治がしやすかったのです。

 

しかしそこにイエスが登場し、平等と他者への共感を訴えだしました。特権階級にとって、平等と他者への共感、これは自分たちの統治の根本を揺るがす一大事でした。特権階級の人々は自分たちに不都合な人物を急いで殺そうとします。彼らはイエスを大急ぎで十字架の刑に処すると決めたのです。

 

十字架刑についてご説明します。十字架刑とは古代ローマで行われた最も残酷な処刑方法でした。十字の柱に、釘で手と足を打ち付けられ、はりつけにされます。みなさんも腕を広げてみると分かるでしょう。深く呼吸ができません。何日も息苦しさが続き、少しずつ衰弱し、何週間もかかってようやく死んでゆきます。それは苦しみを最大限に引き延ばすことを目的とした、非人道的な刑罰でした。途中の48節には、酸い葡萄酒を与えたともありますが、これは苦しみへの配慮ではありません。苦しみをなるべく長く味わわせ、意識を失わせないようにするためのものでした。

 

この刑は見せしめのために人通りの多い場所や、見晴らしの良い丘の上で行われました。権力者に逆らうとどうなるのか、その結末がはっきりと分かるように、見せしめにされたのです。イエスこの残酷な刑に処せられ、悶え苦しみ、46節にあるように「神様、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、そして50節にあるように最後には大声を出して叫び、息を引き取りました。このようにしてイエスは無残に殺されたのです。これがキリスト教が神と等しい方としている人の姿です。キリスト教では、このイエスを神と等しい存在としています。神であるにもかかわらず、人間と同じように弱く、苦しみ、死んでいった方を、神としているのです。

 

ここに描かれるイエスの存在は、殺される側にいるもっとも弱い存在として描かれています。人々から拒絶され、侮辱される存在でした。イエス自身は平等と共感を教えたのですが、ここでは自分が教えたことと全く正反対の境遇に置かれました。そしてこれは、多くの人に目撃され、イエスの弱さが明らかとなる出来事でした。

 

しかしキリスト教では驚くべきことに人々はやがて、この十字架に掛けられ、弱く、叫びながら死んでいったイエスを神と等しい存在として信仰の対象にするようになったのです。この人の生き方こそ私たちの目指す生き方だったのではないかと見直すようになったのです。

 

イエスが私たちにとって特別な存在である理由は、神と等しい存在であるにも関わらず人間と同じ苦しみ、弱さ、屈辱を経験したからです。神と等しい存在である方は、ただただ強い存在ではありませんでした。人間の弱さと苦しみを知り、人間に共感し、人間と共にいる、そのような存在だったのです。人々はきっとその弱い姿にひきつけられたのでしょう。神であるにも関わらず、弱々しい姿をさらけ出しました。人々はそこに共感し、それを生き方のモデルとするようになったのです。

 

キリスト教は不思議な宗教です。逆説的という表現はキリスト教によく当てはまるでしょう。キリスト教は普通とは逆の方向から考えを進めていく宗教です。強くて幸せで豊かな人生を求める人が目を向けているのは、弱く、貧しさの中に身を置き、苦しみながら死んでいった方です。イエスは徹底的に弱さ、低さ、もろさをさらけ出されました。ここから私たちの生き方が見えてくるのです。キリスト教はこのように強さよりも弱さに目を向ける宗教です。私たちは自分の弱さを隠しません。でもその弱さが共感と連帯を生むのです。そして私たちは信じています。私たちの弱さに見えない力が働き、そこから新しい物語が始まるのです。それがキリスト教なのです。それが十字架の意味です。

 

さて私たち自身は何を大切にして生きていくのでしょうか。皆さんに、ぜひ社会で強く生き、注目され、輝く大きな成果を収めて欲しいと思います。豊かさと幸せを手に入れて欲しいと思います。でもそれよりも大事にして欲しいことがあります。それはイエスの様に弱さ、低み、貧しさを抱えながら生きるという生き方です。あなたが弱さを持ったまま生きなら、その弱さはきっとあなたと誰かを結び付けてゆくでしょう。人と人とを結びつけてゆくでしょう。そして弱さはあなたと神を結び付けてゆくでしょう。人と神を結び付けてゆくでしょう。強いリーダーとして立つことは素晴らしいことですが、弱さをさらけ出しながら誰かを支えて生きることは、それ以上に尊いものです。目立たなくても、尊敬されなくても、感謝されなくてもいいのです。私たちはそのような生き方を選びたいと思っています。聖書から、イエスから、私たち弱さを大切にする生き方を毎週、学んでいます。どうぞ繰り返しそれをこの礼拝で学んでゆきましょう。

 

私たちはつい大きなもの、美しいもの、強いものに目を向けがちです。そして弱さ、小ささを不必要な物として排除してしまいます。私たち一人一人の中に、誰か、何かを排除し、他者を十字架につけてしまう性質があります。私はその繰り返しから抜け出したいと思いつつ、なかなか抜け出すことができません。それでも何とか抜け出そうと、聖書に毎週助けを求めています。もしかするとあのイエスの十字架は私に自分の弱さを教えるためにあったのかもしれません。そのような意味で、私のためにこの十字架があったのかもしれないと思います。

 

私たちが生きる上で、本当に大事にすべきことは何でしょうか。イエスは弱さを持った生き方、それを隠さない生き方を選びました。十字架は、私たちに新しい生き方を問いかけています。新しい生き方と世界が必要だと十字架が問いかけています。私たちはどう生きるべきか、この十字架を見つめながら考えましょう。高みからではなく、自分を低くした、低みから物事をみてゆきましょう。

 

キリスト教は「強さを誇る」宗教ではありません。むしろ「弱さを誇る」、その逆説の中にこそ、キリストの力が働くのです。そこにきっと新しい生き方が見つかってゆくはずです。お祈りします。

 

【全文】「礼拝で生き方を考える」マタイ26章6~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもと一緒に礼拝する教会です。今日もこどもたちの声に包まれながら、礼拝をしましょう。

今月と来月は初めてキリスト教の教会に来る、話を聞くという方に向けてお話をしたいと思っています。キリスト教にちょっと興味あるけど、どんなところなのだろう?という方、ぜひこの機会に教会をお訪ねください。キリスト教に初めて触れる人と一緒に、いろいろなことを考える2か月したいと思います。はじめて教会に来る人はいつもいる人が想像する以上に、様々なことにびっくりしたり、緊張したり、とまどったりするものです。どうか初めて来た人もなるべくリラックスしてください。安心しきって、眠くなってしまうのが理想です。教会はだれもあなたは間違えていると批判したり、この宗教に引き込もうとしたりはしません。私たちは単純に、自分の価値を置くもの、自分の「推し」に興味を持ってくれる人がいるということがとても嬉しいのです。少し荒っぽい歓迎があるかもしれませんがご容赦ください。

私たちは毎週、礼拝という集まりを持っています。ここで讃美歌を歌ったり、聖書の話を聞いたりします。聖書とはこの分厚い本。毎週これを少しずつ読んでいます。そして私たちは聖書から、自分はどんな力に支えられて生きているのかを考えています。自分の力、周りの人の力、家族の力、そして神様の力、いろいろな力が私たちを支えていることに考えを巡らせています。そして自分もチャンスがあれば誰かを支える人になりたいと考えています。そんな風に聖書を通して、自分の生き方や自分のあり方を考える時間がこの礼拝の時です。もちろん1回考えたくらいでは人間は変われないものです。1回心に決めても、毎週大変なことがあると忘れてしまうものです。だからこれを繰り返してゆきます。そうすると少しずつ、考えや生き方の方向が変わってくるのです。人を愛する生き方へと近づいてゆくのです。ぜひ毎週はきついかもしれませんが、ときどき、月1回など予定を合わせて、教会で生き方を考えて欲しいのです。豊かな生き方がきっと見つかるはずです。人生に迷った時に、人生の選択の時に、きっと何かの指針となるはずです。今日は聖書に登場するある女性とイエスの物語をご紹介します。ここから私たちの生き方を考えたいと思います。

 

ある時、一人の女性がいました。この人は大変高価な香油を壺いっぱいに持っていました。香油とはとてもいい香りのするオイルのことです。そしてある時、それを思いっきり、イエスという人の頭に注いだのです。イエスの周りいた人たちが言いました。「もったいない!」。それを売って貧しい人と分かち合ったらいいのにと言ったのです。でもイエスはこの女性の行動を批判していない様子です。わかりづらいことを言っていますが、どうもこれはいい事なのだと言っている様子です。私たちはこの物語からどんな風に生き方を考えるでしょうか? 

一人一人に注目をしてみましょう。まず女性に目を向けます。この女性は壺いっぱいの高価な香油を持っていました。なぜ、こんな高価な香油を、こんなにたくさん持っていたのでしょうか?その理由を想像せずにはいられません。聖書は2000年前に書かれた物語です。古代の一般市民は貧しく暮らしていました。貧しい一般市民がこんな高価な香油をたくさん持っているのは驚きです。もし可能だとしたら、非常に長い期間、コツコツと貯めていたとしか考えられません。女性の日々のわずかな収入から、すこしずつ貯金するように、少しずつ香油を買い足し、ようやく壺いっぱいにまですることが出来たのです。

あるいは他の人はこの女性は売春でもしていたのではないかと言います。古代において女性がこんな高価な物を所有するには、そのような仕事をしなくては溜まらなかったという指摘は確かです。どう収入を得たのかはわかりませんが、いずれにしてもこの香油には、女性の人生が凝縮されていたはずです。女性の人生にあった苦労、自信、誇り、尊厳、生き方、成果、失敗、屈辱も凝縮されているものがこの香油でした。それは自分の人生の不屈の努力の結晶であり、彼女の人生の物語の象徴、それがこの香油でした。

みなさんには、そうやって長年積み重ねてきたものがあるでしょうか?私たちは気づいていなくても、人生の中で何かを積み重ねています。経験や愛情、祈りや思い出など、そうした積み重ねが、壺の香油のように、目に見えなくても豊かに存在しているのです。みなさんの心にも、人生の苦労や誇りが詰まった「香油の壺」があるはずです。そこには経験や、知識や、信仰、情熱、確信、人との関係が豊かに壺の中におさめられています。そして失敗と後悔も糧としてこれに納められているでしょう。私の壺は空だ、少ししかないと思われるかもしれません。でもきっと一人一人の壺は豊かに香り高い油で満たされています。私たちはそれを何のために使うのでしょうか。何に向けて、それを注いでゆくのでしょうか。そんなことが私たちの人生の生き方として問われているような気がします。

彼女は何年も何十年もこの油を貯めてきました。それを今日一日、たったこの一人の一瞬のために使ってしまおうとしています。彼女はそれだけ、このイエスという人のことを、自分の人生を掛ける価値のある人だと感じたのです。それは人生を変える大きな出会いだったのです。

次の登場人物である弟子たちのことを見ましょう。弟子たちはこれを見て「無駄遣いだ」「もったいない」と言いますが、これは“普通”の感覚でしょう。それだけの高価なものなのだったら、もっと別のことに使える、使うべきだと言ったのです。それをカネに変えて貧しい人に施せというのは正論です。極めて合理的でコスパ重視の意見です。そうすべきで何の反論もできません。でも弟子たちが、彼女に向けてその言葉を向ける、課題も見つけます。弟子たちは正論をぶつけました。しかしその正しさの中には、愛や思いやりが欠けていました。人は時に、正論という名の冷たさで、誰かの気持ちを踏みにじることがあります。弟子たちはこの女性の気持ちを完全に置き去りにしました。イエスの弟子たちは最も重要な質問をしていません「あなたはどうして、それをすべてこの人に今注ごうと思ったの?」「あなたはどういう気持ちだったの?」「何があなたをそうさせたの?」「あなたはなぜ、そんなに高価な香油をもっているの?」

まずこのような問いがなされるべきだったのではないでしょうか?しかし弟子たちは当事者の気持ちを置き去りにして、彼女の長い人生の物語を置き去りにします。それは彼女自身に対して興味が無いということです。彼女の不屈の人生、彼女の価値観、彼女の生き方とその物語には興味がないということです。ただ弟子たちは、彼女が持っているものを金銭に換算した時の価値にしか興味がなかったのです。そういう生き方でよいのでしょうか?なんでも経済効果、コスパ、合理性がものをいう時代です。でも本当は人生にはもっと大切な問いがあるはずです。どんな気持ち?どんな人生?どんな価値基準?彼女の物語に目を向けてゆく生き方が私たちにはもっとできるのではないでしょうか?

登場人物イエスを見てゆきましょう。イエスの答えは「困らせるな」というものでした。この言葉はイエスがこの女性の行動の背景や苦労を想像し、尊重したという意味を持ちます。周囲が「もったいない」と批判する中で、イエスだけがこの女性の人生の物語に目を向けたのです。弟子たちとは違って、イエスだけが女性の側に立って、この香油を受け止めたのです。愛は計算ではないのです。

そしてイエスは続けて自分はもうすぐ死ぬということを暗示しています。「これは葬りの準備だ」とはイエスは「この後自分は死ぬ、殺されるだろう」という意味です。イエスがなぜ死ななければならなかったという話はまた次回にしようと思います。でもイエスはこの女性の行動に対して大切なことばを残しました。それは彼女の行動はずっと記念として語り伝えられるだろうという言葉でした。彼女の行動は後世に語り継がれるだろう、それは今日実際に実現しています。

さて、私たちは語り継がれたこの物語からどんなこと、どんな生き方を学ぶでしょうか?まず私は彼女の不屈の精神を学びます。そして私は彼女がなぜイエスにそれを一気に注ぎかけたのか、この箇所だけではわかりませんが、とても興味を持ちます。おそらくそれは聖書を読み進めてゆけばわかるのでしょう。

そして私たちそれぞれにも高価な香油の入った壺があります。私たちはそれを何に向けて注ぐのでしょうか。どんな価値に対して私たちは香油を注いでゆくのでしょうか?私たちはこれに香油を注ぐ価値があるというものに出会えているのでしょうか?あの壺をいますぐ持ってきて、これに全部注ごうとする、そんな出会いが私たちにはあるのでしょうか?今、私たちが香油を注ぐべき相手は誰でしょうか?きっとその出会いが教会に聖書の中にあるのではないでしょうか。ぜひ少しずつ聖書を読んでみましょう。

この礼拝という時間、他の誰かからすると時間とお金の無駄遣いだ、もっといい使い方があると言われるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいと思っています。この礼拝には大切な出会い、神との出会いが待っているからです。きっとこの人にならば、自分のすべてをぶつけて、すべてを注いでよいと思える人との出会いが準備されています。私たちは礼拝し、聖書を読み進めてゆけばきっとそのお方に出会えるはずです。そしてどのように生きるのか私たちの道しるべとなってくれるはずです。お祈りします。

 

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【全文】「ここに教会があるのはすばらしい」マタイ17章1~8節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。そして今日はこどもだけではなく信仰の大先輩の声もこの教会に響きわたりました。いつも信仰を支えて下さる神様に感謝します。

 

さて2月3月と地域活動と福音について考えてきました。今回が最後です。

 

私たちは月に2回、第3金曜日と第4金曜日に、「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。なぜ金曜日の開催としたのかは、当初は深い意味はなく教会の他の行事との関係でそうなりました。こちら側の都合だったのですが、金曜日の開催というのも好評をいただいています。

 

こどもも大人も1週間でいろいろなことがあります。こどもたちの周りにいれば、忙しさに追われ、心配ごとはつきず、平穏な日は少ないものです。

 

その1週間が終わり、これから休みに入るのが金曜日の夜です。金曜日の夜は疲れているけどほっとできる日、ワクワクする日です。こどももちょっとだけ夜更かししていい日です。

 

忙しい1週間に疲れた人が、金曜日に教会に集います。食事をして、元気になって、励まされます。多くの利用者は次の日の朝の予定を気にせず、閉店までのんびりします。そしてまたそれぞれの場所へと向かってゆきます。楽しかった、おいしかったと言いながら帰ってゆきます。

 

私は繰り返しその光景を見ながら「ここに教会があるのはすばらしい」と感じます。月2回の金曜日、多くの人が教会に疲れた心を癒しに来るのです。きっと地域の人々も「ここに教会があってよかった」「ここに教会があるのはすばらしい」と思ってくれているはずです。つらいこと、苦しいことがあっても、ここで充電し、「おいしかった」「楽しかった」と言って、また現実に向かってゆきます。その背中を、私はそっと見守っています。

 

私たちクリスチャンはもとより、毎週日曜日に集い、疲れを癒し、励まされています。その喜びのサイクルを毎週ずっと味わっています。私には地域の人もそれに少しずつ似てきていると思います。私たちと同じ様に様々な現実の中から教会に集い、希望を受け取り、ここに教会があるのはすばらしい、そう感じて帰ってゆくのです。

 

いつかはわからないけれど、いつの日か利用者の方もイエス様に出会う日がくるでしょう。ずっと先かもしれませんが、日曜日に礼拝するサイクルに連なる人がもっと起こされるはずです。その時、きっとこども食堂よりももっと深い喜びを味わってもらえるはずです。

 

礼拝に集うこと、食堂に集うこと、私にはそれがどこか重なって見えています。きっとどちらも同じ様に神様に招かれる、教会に行く、神様が共にいる、励まされる、それぞれの場所に派遣されることなのではないでしょうか。

 

そして私は今日の個所も教会に集う事と共通していることがあると思います。今日は弟子たちの体験した山上の集いと、私たちの礼拝・こども食堂の共通点に目を向けたいと思います。礼拝もこども食堂もこの山上の集まりも、どれもが「ここにいるのはすばらしい」と思えることだということを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

今日はマタイによる福音書17章1~8節までをお読みいただきました。イエス様は弟子たちと共に高い山に登ったとあります。

 

1節に「高い山」に登ったとあります。マタイ福音書において山は非常に重要な場所です。イエス様はいつも大事なことを話す時は山に登りました。山上の説教がまさにそうです。それは礼拝をする場所、祈る場所のことです。日常とは少し違う場所です。イエス様は大事なことを祈る時はしばしば山に登りました。イエス様にとって山の上は、神聖な場所、祈りの場所、神との出会いの場所、愛を教える場所でした。

 

イエス様はそこに一緒に行こうと私たちを招いてくださっています。様々なことが起こる日常を離れて、そこへ行こうと招いています。これはイエス様から弟子たちを誘ったものでした。それはイエス様の招きでした。弟子たちは一人で山を登るのではありません。イエス様に先導されて登るのです。

 

このことは礼拝に参加する私たちとも共通しています。イエス様に「みんなついておいで」と招かれ、山の上の礼拝に集うのです。そしてこども食堂の利用者も同じです。さまざまなきっかけでこども食堂を知り、食事をしにきます。でもきっとそこにも神様の招きがあるのでしょう。自分で来ているように見えて、神様に招かれているものです。私たちもこども食堂の利用者も神様に招かれて集っています。

 

イエス様と共に山に登った弟子たちは、山の上でイエス様とモーセとエリヤが語り合い、光り輝く姿を見ることになります。モーセとエリヤは旧約聖書の中でもっとも神に熱心に従った人たちでした。イエス様もその人たちと並んで立っています。イエス様は輝いていました。

 

その時、弟子ペテロが言いました。私は本当にこの次の4節の言葉が好きです。ペテロは「私たちがここにいるのはすばらしいことです」と言いました。イエス様と出会い、そのすばらしさに感動して、ここに居てよかったと思ったのです。日常とは違う場所に呼び出されて、イエス様との時間を共にすることができて、よかったという意味です。

 

私は4節を現代の私たちに置き換えるなら「ここに教会があってよかった」「ここに教会があるのはすばらしいことだ」ということに、置き換えることができると思います。そしてその教会とは礼拝だけにはとどまりません「ここにこども食堂があってよかった」という思いも含まれるでしょう。

 

「私たちがここにいるのがすばらしい」という言葉からは、強い感動が強く伝わって来ます。そして「あなたはすばらしい」と言うだけではなく「あなたとここにいることができてすばらしい」という言葉は、そこから神様への感謝も伝わってきます。

 

ペテロはこれに対して何かしようと思いました。形に残るものにしようと思い、小屋を3つ建てようと提案をしました。しかし聖書にはそれが立てられたとは書いていません。おそらく必要ないと言われたのでしょう。天から「これに聞け」という声が聞こえました。それは、建物はいい、それより神の言葉を聞けという意味です。

 

私たちは誰よりも建物の大切さを知っています。ここに教会があるのはすばらしいともっと感じてもらえるように、教会を建て続けようとしています。でも最も大事なことは、イエス様に聞くことであるということを忘れないようにしましょう。私たちは建物に集まっているわけではありません。あるいは食べるために集まっているのでもないのです。イエス様に聞くことが、何よりも大事です。私たちは、神様の言葉を聞くために集まっています。

 

弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏したとあります。ひれ伏したという言葉は、礼拝をしたという意味も含む言葉です。その言葉を聞いて礼拝したのです。そしてその礼拝ではなんとイエス様が弟子たちの手を握ったのです。そしてこう言いました「起きなさい、恐れることはない」。どれほどの励ましを受けたでしょうか。弟子たちはその言葉を聞いて、また山の下へ向かってゆきます。それは日常に戻るということです。もう一度それぞれにチャレンジをしたのです。

 

これもちょうど日常からイエス様に招かれて日曜日の礼拝に来ること、礼拝し励まされて日常へと戻ることに似ています。そして日常から食堂に招かれて、食事をして励まされて、日常へ戻ることと似ています。

 

この聖書個所の前後にも目を向けましょう。16章後半ではイエス様によって十字架と復活が暗示されています。17章の続きも再び、十字架と復活が暗示されています。この個所は苦難に挟まれた箇所です。苦難の合間に山に登り、祈り、安らぎと、希望を受け取っている箇所です。イエス様と弟子たちは苦難の中から山に登り、また山を下り苦難へと向かってゆきます。それは日常→礼拝→日常と同じサイクルです。そして日常→教会のこども食堂→日常と同じサイクルです。

 

弟子たちも私たちも同じです。それぞれに忙しさや痛みや、苦しみのある1週間です。でも私たちは今日ここに集いました。ここに集えることは何とすばらしい事でしょうか。私たちは今日も神の言葉との出会い、神様の言葉を聞きました。私たちはそこで励ましを受け取ります。今日ここでイエス様に手を握られるのです。そして私たちにも「起きなさい、恐れることはない」と語ってくださるでしょう。そしてまた次の1週間も共に歩もうと言われます。

 

私たちは本当に「ここにこの教会があるのはすばらしい」と感じています。神のみ言葉を聞き、希望を持ち、また歩み出せるこの場所があることに、心から感謝しています。私たちだけではなく多くの人々がこの教会で神の励ましを受け取り、それぞれの生活に戻ってゆきます。それぞれ大変な1週間ですが、ここでそのための神の希望をいただきます。

 

今日、イエス様は私たち一人ひとりの手を握り、『起きなさい、恐れることはない』と語りかけてくださっています。私たちはこの言葉を胸に、次の一週間も力強く歩み出しましょう。そしてこの教会をもっと「ここに教会があるのはすばらしい」と言われる教会、人々を招き、励ます教会にしてゆきましょう。

 

2か月間、地域活動と福音についてみてきました。多くの福音が地域への活動の中に含まれています。私たちは他者との関わりの中で福音を見つけることができるのです。たくさんの人に出会うと、たくさんの福音を見つけることができます。私たちはこれからもさまざまな行事を通じて、地域の人々と出会ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「教会の未来と神の恵み」マタイ12章22~32節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。この礼拝でこどもの声が、そしてこの地域のこどもの声が響きます。そして私たちは未来でもこどもの声がする教会となることを目指してゆきましょう。

今日はこの後、来年度の計画を立てる総会が開催されます。今日の総会および5月の総会では主の晩餐、会堂建築、規約改正など特に重要な協議事項がありますので、会員の方はぜひ参加をしてください。私たちはキリスト教の中でもバプテストという民主主義を大事にするグループです。全員が遠慮なく議論しながら物事を決めていく教会です。特に議論が必要な課題は、建築のことです。私たちは、新会堂を建てるのか、それともこの会堂を修繕するのか、そしてそれぞれの場合どのように手を加えるのか良く議論しましょう。議論するとは一方的に意見を述べ合うことではなく、互いが考えを変え、受け入れ合うことです。私たちはそれぞれの意見を伝え、受け入れ合い、前に進んでゆきましょう。

立ち止まってもっとゆっくりと考えたいと思うかもしれません。時にはブレーキを掛けることも大事です。でも平塚教会は今が変化してゆくチャンスだと思います。そしてこのチャンスはいつまでも続くものではないでしょう。この時を逃さず、大胆な変化をしてゆきたいと思います。

建築の基本計画は5月中旬までに終える予定です。他の教会は10年かけることもあります。私たちの教会はあまりに議論が短いかもしれません。でも前に進みたいと思っています。それは私たちの教会は他の教会よりもありたい姿が明確になっているからです。他の教会は10年間ありたい姿を考えます。しかし私たちはこの教会を、この礼拝を、この仲間との交わりを続けてゆきたい、こどもの声がする教会にしたい、地域にもっと開かれた教会になりたい、こども食堂や広場を続けたい、そのようなありたい姿がはっきりしています。私たちは多少の違いはありますが、こどもを受け止めてゆくという方向で、すでに一致できています。そして平塚教会の場合、すでにそれに向けた取り組みも十分に始まっています。他の教会とは大きく状況が違うと思っています。だから短い期間できっと結論にできると思います。前に進みましょう。

私は実は他の心配をしています。それは、この問題は私たちの教会だけで決めるものではないということです。理事会の3分の2の賛成と連盟300教会の過半数の承認が必要です。他の教会に私たちの計画を訴え、賛同してもらわなければなりません。それはとても高いハードルです。私は実は教会の中の一致よりも、様々な立場や考え方を持った理事会や他の教会の賛同を得る方が難しいと思っています。来年度1年間をかけて、連盟の理事会と全教会を説得します。牧師や執事の対外的な働きが大きくなることを祈って欲しいです。次の1年は平塚教会のために、対外的な情報発信に軸足を置くことになりますが、それは平塚教会のためだけではなく、他の教会にとってもよい事例になると思います。どうぞお祈りください。

教会の中でもまだまだ細かな部分を皆さんと話し合ってゆきます。会堂の中はこれまでどおり履き替えるのか土足なのか、講壇の高さはどうするのか、答えのないことばかりを話し合ってゆかなければなりません。私たちは正解のない問題の中で、議論し、互いに受け入れ合い、互いに変わってゆきましょう。

今日の聖書から、私たちは議論し、互いに受け入れ合い、互いに変わってゆくこと、どんな時も神様が私たちを導いてくださるということについて考えます。聖書を読みましょう。 

 

 

マタイによる福音書12章22~32節までをお読みいただきました。ある時、目が見えず話すこともできないという二重の障がいがある人がいました。生まれつきの障害だったのでしょうか?それとも昔は見ること、話すことができ、何かの事故や病気でそうなってしまったのでしょうか?わかりません。この人は一人でできないことが多い人だったかもしれません。どこへ行くにも常に人に誰かに手を引いてもらう必要がありました。他者とのコミュニケーションもとりづらかったことでしょう。イエス様はこの人を癒したとあります。それは神様の一方的な恵みによる癒しでした。

聖書にはこの人が良い人だった、悪い人だったという評価はどこにも記されていません。ただイエス様が癒したとしかありません。ここから感じるのは、神様は良い事をした人にだけ良いものを与えるお方ではないということです。ここでは神の愛と導きとは、人間に向けて一方的なものであるということが示されています。

私たちが聖書を読む時、そして生きる時、まずこの神様の恵みへの信頼が必要でしょう。神様はたとえ私たちが動けず、見えず、聞こえず、しゃべれなくなっても、私たちに良いものを与えてくれる方なのです。私たちは全員、やがて若さを失い、病になり、自由に動けなくなる日が来るでしょう。それぞれも、そして教会もそうかもしれません。いつか心の支えであった教会に来られなくなって、寂しいと思う時が来るかもしれません。でも忘れないでいたいのは、神様の恵みは状況に関わらず絶対に続くものだということです。何ができなくなっても、何があっても神様は必ず私たちに良いものを与えられるのです。私たちはこの信頼をもって聖書を読み、人生を生きてゆきましょう。

24節以降を見ます。イエス様はこの地域の病気の人、寂しいと思っている人を癒す働きをしていました。多くの人がそれを称賛しました。しかし一歩外にでれば、イエスの評価は様々でした。ある人は、あれは一見よい事のように見えて実は大きな誘惑が潜んでいる、気を付けなくてはいけないと言いふらしました。あれは神様の導きではない。目の前の人が喜ぶようなことをしているだけだ。間違ったことだと言ったのです。この発言は議論ではありません。それはただの拒絶と批判です。本当の議論とは、互いの考えを尊重し、共に変化することです。これは悪魔の力で悪魔を追い出しているというめちゃくちゃな論理、拒絶と批判でした。イエス様はそれに反論をしています。

イエス様は悪魔同士で、内輪争いがおきたら、立ち行かないではないかと語りました。これは非常に説得力のある内容でした。イエス様もイエス様に反対する人もみな、内輪もめ、拒絶と批判、分断の力の大きさを知っていたのです。イエス様と反対する人には意見の違いがありましたが、そこで両者が納得できたことがあります。それは内輪で争いは、力の強い悪魔でさえ立ち行かなくさせる力があること、内輪争いは人の力をそぐ大きな力があるという事でした。25節、どんな支配も、どんな国も、どんな町も家も、そしてどんな教会も内輪で争えば、荒れてはててゆく。その言葉は、敵味方の誰もが認める、大きな説得力があったのです。

私たちもこの後、熱心な議論をしてゆきたいと思っています。でも議論と他者を批判する内輪もめとは違います。きっとよく議論することと、拒絶と批判、分断の危うさを含みます。私たちはそれに立ち向かってゆかなければなりません。私たちはその時どのように内輪もめせずに、議論すべきでしょうか。私たちはまず一致していることに目を向けましょう。神様の愛は一方的で、どんな人にも恵み深い方だ、どんな時も神様が導いてくださる方です。どのような議論をしても、そしてたとえしなかったとしてもそれは変わらないということを忘れないでいましょう。私たちはすでに神様はどんな時も、どんな人にも愛を注ぎ、導いてくださるという最も重要な部分で、一致することができています。私たちは自分の希望が叶わないことがあるかもしれませんが、神様がすべての導いてくださることを信じる、そのことを土台に共に議論し、歩みましょう。

31節以降には、人間にはすべての罪と冒涜が赦されるとあります。赦されるとは、私たちのすべての失敗や不足をすべて受け止め、私たちが悔い改めて変わろうとする時、神様は必ず次のチャンスをくださるということです。神様は私たちが悔い改めて変わろうとする時、次は罪と冒涜ではなく、愛と励ましを語るようにと、私たちを何度でも赦してくださいます。私たちは何度でも悔い改め、変わることができるのです。何度でも変わることができる、それが神様の愛です。私たちは全ての問いに正解をしてゆくことはできないでしょう。教会も、お互いもたくさんの失敗をするでしょう。でも神様は私たちに、悔い改めながら、赦しをこいながら、前に進むようにと言っています。

そして赦されないことも挙げています。それは聖霊への冒涜です。神様の私たちへの赦しには際限がありません。しかしここでは聖霊への冒涜だけは赦されないと書いてあります。聖霊の冒涜、それは悔い改めずに、自分を変えずに前に進もうとすることと言えるでしょう。神様の愛と導きに目をむけず、自分は間違っていない、悔い改めと変化が必要ないと思って生きることは、神様の際限のない赦しへの拒絶です。際限のない神様の愛の前に、自分の貧しさ、欠けに目を向け、自分が変わってゆくということが大事です。私たちは難しい話の中で、大小の内輪もめが起こるでしょう。でも私たちは議論し、互いに悔い改めあい、互いに赦されながら、互いに変わってゆきましょう。そして思い通りにならなくても、絶対に神様の導きがあると信じ、前に進みましょう。

私はこの地域の人にも、私たちが多少の内輪もめをしながらも、互いに話し合う、互いに悔い改める、互いに赦されながら、互いに変わる姿を良く見て欲しいと思っています。お祈りします。

 

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【全文】「原発は罪です」マタイ12章33~37節

善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。  マタイ12章35節

 

今日は東日本大震災と原発事故を覚えながら礼拝します。人間は罪を持った存在です。自分自身が良い人間でないことを感じる機会はなんと多いことでしょう。そして今日注目したいのは、罪とは、個人個人のレベルに限らないということです。社会には一人一人の罪が積み重なり、凝縮された、社会全体の罪があります。それは社会の罪的な構造ともいえるでしょう。

「原発は罪です」なぜなら原発は私たちの便利な生活を支えるために、誰かが犠牲になるという罪の構造だからです。危険な廃棄物を10万年間安全に保管できる場所はありません。廃棄物が次の世代に命を脅かす深刻な負担を残すとわかっていながら、それを生み出し続けている原発は罪です。その原発は過疎地の人々にお金と引き換えに受け入れてもらいます。お金で不利益を押し付ける原発は罪です。

原発は核兵器と同じ原理です。核爆弾を最初に開発した科学者オッペンハイマーは広島・長崎で原爆が使われた後「物理学者は罪を知ってしまった」と言いました。

私たちはキリスト者として、この罪の連鎖をやめさせなくてはいけません。未来の命を守るために、お金で安全を買い取られ、危険を負わされる命のために、原発をやめなくてはいけません。このように原発は宗教とは関係ない問題ではありません。罪に関わる、大きな宗教的なテーマです。

マタイ福音書12章33~37節をお読みいただきました。33節には「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」とあります。原発は便利な電気を生み出す一方で、深刻な事故を起こし、放射性廃棄物を今日も作り続けています。

35節には「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出す」とあります。原発のゴミは行く当てもなくとりあえず使用済み核燃料プールという倉に眠り、処理水のタンクはいっぱいになりました。処理水はもはや倉に納めることができなくなり海へと放出されています。悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる、それはまさにこの原発のようです。

36節には私たちが「裁きの日には責任を問われる」とあります。私たちには将来の命への責任、今の命への責任があるのです。裁きの日、それは破滅が訪れる日ではなく、もっと先にある希望の日です。神様はこの地上をすべて善いもので満たし、完成させてくださる日に向けて、私たちを導いています。裁きの日とは、この世界が神様によって過不足なく完成させられる希望の日です。

やはり、罪ではなく、神様の希望に目を向けてゆきましょう。イエス様は抜け出すことのできない、罪から抜け出し、超えてゆかれる方です。そしてその先から私たちを導いています。神の願った行動をあなたが起こすようにと導いています。私たちがその罪から抜け出そうとするとき、必ず神様の助けがあります。私たちは平和で、命を大切にする社会を築く希望をもって、生きてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「自分を変える神」マタイ15章21~28節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。3月に入り年度末です。先日こひつじ食堂の利用実績をまとめていました。数字からわかることは2020年にこひつじ食堂を始めた当初、持ち帰りのお弁当ばかりが人気で、会堂で食事をする会食の人気が無くて困っていたということです。地域の多くの人が教会の中で食事をすることにあまり乗り気ではなかったのです。会堂の中で食事をしてもらえるように、コーヒーやデザートも付けました。最初は南集会室だけやっていましたが、会堂に子供用のテーブルを4個出すことにしました。さらに重いイスを動かして、子供用のテーブルを12個並べました。会食は当初は30名程度、それもほとんど関係者でしたが、今では100名が前日の予約でいっぱいになるようになりました。

教会に大きな変化が起きたと思います。毎週日曜日に礼拝だけにしか使っていないかった会堂は、みんなが月2回集まる食堂になりました。さらにカフェになって、お茶をしてゆっくりする場所になりました。はじめた当初からするとずいぶん教会の使い方、会堂の使い方が変わってきたと思います。この礼拝堂は、礼拝の場だけでなく地域との交わりの場へと大胆に変えられてきました。

いろいろな地域活動をしていますが、私たちは出会った人たちをすぐにキリスト教へと改宗させることを目的にしているわけではありません。むしろ変化が大きいのは教会の方です。いろいろな変化が教会の側に起っています。私たちは確かに今、地域に大きな影響を与えていでしょう。でも教会は一方的に相手を変える側ではありません。教会こそ変わってゆきました。教会は出会いによって、より柔軟に、より開かれた存在へと変わってゆきました。きっと私たちはこれからもっと地域の人と出会うことによって、変わってゆくのでしょう。

私自身も出会う人が増え、仕事内容が変わってきています。様々な人と出会い話をすることで、私の考えも変化してゆきます。教会の可能性、牧師の仕事の可能性に、新しく気付かされています。もしかすると最近の教会は少し変化が多いかもしれません。でもそれはきっと、今までよりもいろいろな人と出会っているからでしょう。出会いが私たちを変え、出会いが教会を変えてゆくのです。人々との出会いを通じて、私たち自身が変えられているのです。

これは、聖書の中にも見られる姿です。たとえば、今日読む聖書箇所では、イエス様ご自身がある女性との出会いを通して、驚くべき変化をしました。マタイによる福音書15章21~28節を読んでみましょう。イエス様がどんな出会いをしたのか、そしてイエス様自身がどのように変化したのかを見てゆきたいと思います。 

 

 

 

聖書を読みましょう。福音書の中でイエス様が、誰か自分のところに来ないかと待っている姿は多くありません。ほとんどの場合、イエス様の方から出かけて行く、相手のところに飛び込んでゆくのかイエス様のスタイルです。そしてイエス様は訪ねた先々で、様々な出会いを体験しました。福音書とはイエス様と出会った人々の物語だとも言えるでしょう。

今日イエス様はティルスとシドンの地方に行かれたとあります。この町は貿易で栄えた港町で、いわゆる富裕層が住んだ町です。イエス様にしては珍しい訪問先でもあります。というのは通常イエス様は貧しい場所や、病気の人が集まる場所を訪ねて歩いたからです。今回はいつもと違って、海沿いの豊かな人々が住む街を訪ねました。でもそのように様々な場所に出向くのがイエス様です。そして今回はひときわ印象的な出会いをします。

今回イエス様はカナンの女性と出会ったとあります。このカナンの女性とは異邦人、つまりユダヤ教の神様を信じない異教の人でした。当時のユダヤ教では異教の人との交際や会話は禁じられていました。女性に対してならなおさらです。しかしイエス様は本当にいろいろな人と出会います。このカナンの女性の娘は、悪霊にひどく苦しめられていました。おそらく何かの病気で苦しんでいたのでしょう。イエス様の時代の人はしばしば、病を悪霊の仕業だと考えました。その町にイエス様が来ました。カナンの女性は「憐れんで欲しい」と頼みます。富裕層の町です。この女性もお金持ちだったでしょうか?でも、お金では解決できない病を持っていたのです。彼女はイエス様に訴えました。「主よ、憐れんでください」ここには叫んだと書いてあります。お腹の底からイエス様の救いを求めて叫び声をあげたのです。

しかし23節イエス様は何もお答えにならなかったとあります。なぜイエス様は黙ったままで、何もしてあげないのでしょうか?続く29節では大勢のガリラヤの人々、貧しい人々の病を治したのに、どうしてここでは黙ったまま、何もしないのでしょうか? そしてイエス様は24節ではっきりと言います「私はイスラエルの家の失われた羊にしか遣わされていない」と。それは、私はユダヤ人を導くために来たのであって、ユダヤ人以外の人、異教徒を導くために来たのではないという意味です。

女性はそれでも食い下がります25節、ひれ伏して、どうか、お助けくださいと嘆願をするのです。それでもイエス様は助けようとしません。さらに「こどものためのパンを、犬にやってはいけない」と言います。それは、私はまずユダヤ人のために活動をするのであって、他の宗教の人のためには活動しませんという意味です。パンとは神様の恵みです。こどもから食べ物を取り上げて犬に渡さないのと同じように、神様の恵みを異邦人には渡さないと答えました。

しかし女性はそれでも引き下がりません。犬だってテーブルの下に落ちたパンを食べるじゃないですか、少しだけ私にもその恵みを分けて下さいと言います。それはユダヤ人以外だって、神様の恵みにあずかってもいいではないかという訴えです。私も端っこの部分でいいから、落ちた余りものでいいから分けて下さい。神様の愛はもっと広くに及ぶはずですと言ったのです。

イエス様はこの女性の信仰に感心しました。イエス様は、神様は確かに分け隔ての無く、そのように広い愛をお持ちのお方だと、この女性の話を聞いて気付いたのです。そしてイエス様は「あなた信仰は立派だ」と言います。そう言ってイエス様は、他のユダヤ人、他の貧しい人々と同様に、このカナンの女性の娘の病を癒したのです。

この物語から感じることは、何でしょうか?それはイエス様自身が大きく変化をしているということです。イエス様は変わらないお方というイメージが強くあります。しかし今日の個所からわかることは、イエス様の信仰は出会った人、自分と信じる宗教が違う人との出会いを通じて、変わっていったのだということです。イエス様の信仰でさえ、出会いによって、変わっていったのです。イエス様はこのカナンの女を通じて気づきました。最初は黙っていました。でもイエス様はこの女性によって、神様は時分が思っているよりも、もっと大きな愛をもっている方だ、そう改めて気づいたのです。そしてそれは自分の役割にも直接関係することでした。イエス様はここで自分がユダヤ人のためだけにいるのではないと気づかされました。イエス様はこの女性によって大きく変えられてゆきます。この個所はイエス様が新しい出会いによって変えられてゆくという貴重な物語です。

さて、この物語を読んで、私たちは何を学べるでしょうか?ここでのイエス様の姿勢は、私たちの人生とも深く関係していると思います。私たちは時に、自分の考えや価値観に固執してしまうことがあります。しかし出会いは私たちの視野を広げ、新しい気づきをもたらすものです。イエス様がカナンの女性との出会いによって変えられたように、私たちもまた出会いを通じて変えられていくのではないでしょうか?私たちの人生も様々な出会いによって変わってゆくものでしょう。人生とは誰に出会ったかで決まってゆくものです。出会いはお互いの「こうであるべき」という形を崩してゆきます。

教会がこひつじ食堂によって、新しい出会いによって、大きく変えられたように、私たち一人一人の人生も出会いによって変えられてゆくのです。それはイエス様も経験をしたことでした。まして私たちはイエス様よりもっと変化の可能性に開かれているでしょう。イエス様でさえ変わることを選びました。私たちは、変らない神の愛を大事にしつつも、いつも変化の可能性に開かれていることに目を向けていたいと思うのです。いつも神様の愛の大きさに気付き、変えられてゆくものでありたいのです。

もしかすると私たちは相手を変えようとばかりしているかもしれません。怒ったり、ほめたりして、相手を変えようとばかりしています。でもこの物語でイエス様は、自分が変わるということを選ばれました。私たちの人生でもこのことを覚えておきましょう。相手を変えようとするばかりの私たちです。でも本当は、自分が変わってゆくという姿の中に、イエス様の生き方があるのかもしれません。

この個所を通じて、私たちは自分と異なる他者と出会いを、神様の導きによる変化の機会と捉えることができるでしょう。イエス様がそうされたように、私たちもまた、神様の愛と変化に心を開きながら生きていきましょう。

私たちは今週も、実に様々な人がいる場所に派遣されてゆきます。私たちはただ相手を変えるために派遣されるのではありません。私たちは出会いによって、私たち自身が変わることを期待され、派遣されてゆくのです。お祈りいたします。

 

【全文】「点と天ー小さな愛の希望ー」マタイ5章17~20節

みなさん、おはようございます。今日も礼拝を共にできることを主に感謝します。私たちの教会は、子どもの声が響く教会です。今日も、命の息吹を感じながら礼拝を捧げましょう。今月は「地域活動と福音」をテーマにお話をしています。

私たちの教会ではホームレスの方々の支援をしています。先日も、教会が提供するシェルターを利用される方がいました。公的な援助は多くありますが、まだそれが届かないケースもまた多くあります。そのような方に対して1泊から2泊ですが寝泊まりできる場所を提供しています。

先日はある60代の男性がシェルターを利用しました。私が畳の上に布団を敷き、「今日はここでゆっくり休んでください」と伝えると、その方はほっとした表情で「まるで天国のようです」とつぶやきました。私は笑いながら「天国はもっといい場所ですよ」と答えました。そして続けて、「これまで大変な日々を過ごされたのでしょう。ここがどん底ではなく、新しい出発点です。天国はそのもっと先にありますよ」と励ましました。人生の様々な課題に直面した人が教会を訪れます。このたった一泊の宿の提供で彼をとり巻いている難しい状況が変わることはないでしょう。長い人生の中でこの一泊は点のような出来事でしょう。

でもそれは本人にとっては一筋の光を見たような、天国とも思えるような経験だったのかもしれません。たった一晩ですが、この一泊は彼の人生にとって忘れられないものになったでしょう。彼は体を休め、十分な食事をとりました。そして力を取り戻した彼は自分の未来ともう一度しっかり向き合うことを決めました。彼は新しい決心をして旅立ってゆきました。私は困ったこと、危険に思うことがあれば、また連絡をするように、ここに逃げて来るようにと伝えました。彼は「そのような場所があることはとても心強い」そう言って旅立ってきました。その後のことは何も知りません。彼を支えたのは、たった1泊の寝る場所でした。

こひつじ食堂は月2回、1食200円で食事を提供しています。人間には月30日で90回の食事が必要です。食べることに事欠く人にとって、月にたった2回しかない食事の提供はどれだけ生命の維持に役立つでしょうか。たった2回、食事を200円でできたところで何か生活が変わるでしょうか?私たちの活動は、大きく大変なものに見えますが、それぞれの人生の中では点の様な、小さなものです。でもたくさんの人がこの食事を楽しみにしています。私が見ていると、利用者の方は1ヶ月の間に2回楽しみがある、また会おうと言い合える仲間ができる、それが1ヶ月の生活の支えになっているように見えます。人間の生活とはそのような小さなこと、小さな点に支えられているものなのです。

月1回のホームレスの方への炊き出しも同じでしょう。路上で生活している人に、月に1回食べ物を提供したところで、生活の状況が変わるわけではありません。たった1食です。でもいままでこの食事会は多くの人が自立するきっかけとなってきました。出来るならば太くて長い支援をしたいものですが、私には小さな点の様な支援しかすることができません。でも小さな点が誰かの人生を変えてゆくと言うことは大いにある事です。私たちは、互いの小さな行動に支えられて生きています。それはまるで点のようです。

私たちにとって些細なことでも、誰かにとっては大きな励ましとなることがあります。それは時に、天国のような希望をもたらします。月に数回のわずかな働きであっても、それが人を支え、前向きにし、生きる力となるのです。私たちの教会は、そんな「小さな愛の点」を大切にする教会です。私たちは点の様な小さな存在ですが、神に愛され、誰かを励ます存在です。私たちは小さな点だけれども、精一杯生きてゆきましょう。私たちは点の様な活動を続けてゆきましょう。今日は聖書から点の大事さについて考えたいと思います。小さな点が大きな愛につながっていること、それが天につながっていることを考えてゆきましょう。 

 

今日はマタイによる福音書5章17~20節をお読みいただきました。旧約聖書には確かに事細かに、戒律が書かれています。イエス様の新しい教えを聞いた人の中には、戒律の様な細かなこと、小さなことはもうやめてしまっていいのではないかと考えた人がいました。イエス様の大きな愛に比べて、旧約聖書の愛はとても小さくて、もう必要が無いのではないかと考えたのです。このような考え方は特にイエス様の地上の生涯の後、弟子たちの間で強くなってゆきました。旧約聖書は全部いらないという意見まで出ました。これはキリスト教の歴史上でも大きなうねりとなった時期がありました。

しかしイエス様は今日の個所でこう言っています。18節「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。旧約聖書の文字は消えない、消してはならない、永遠に変わらないと言ったのです。旧約聖書の大切さを伝えました。

しかし一方でイエス様は旧約聖書のすべての戒律をこれまでどおりちゃんと守りなさいと言ったわけではありませんでした。イエス様はこれまでの戒律をもう一度、愛を基準にしてとらえなおす様に教えたのです。イエス様は律法の中にある、愛に目を注ぎ大切にするようにと教えているのです。律法や戒律と言えば、特に深い意味がなく、ただ書いてあること文字通り、無批判に守るもの、そのような印象があるかもしれません。でもそれは誤解です。律法を大切にして心から守っている人にとって、それはただ無意味なものではありません。そこに愛を見出すからこそ、守っているのです。

例えば一番大切にされた律法は安息日を守るということでした。安息日とは意味もなく、ただ何もしてはならない日ではありません。それは神様に感謝をする日です。シェルターにいるように体を休め、自分としっかりと向き合うための日です。神様に感謝し、家族や仲間との時間との関係を考える日です。これは特に忙しく生きる現代の私たちが失ってしまっている大切な時間でしょう。安息日を守るとはそのような生き方の選択なのです。律法にはたくさんの愛が含まれていました。神への愛、人への愛が含まれていました。律法を捨てるとは、それさえも、古めかしいこととして捨ててしまうことです。それはイエス様の愛の教えと大きく矛盾することでしょう。

また律法は誰かをがんじがらめにするためにも悪用されました。愛し合うためにあるはずの律法が、いつの間にか「誰が出来ていないか」「誰が清くないか」と人を縛るために悪用されるようになりました。

もちろんイエス様はこのまま文字通り、律法を守り続けなさいと言っているのではありません。5章のこの後の部分は、当時人々の間で当たり前に守られていた律法について新しい解釈で語られています。

この後「〇〇するな」が繰り返されます。腹を立ててはならない、姦淫してはならない、離縁してはならない、誓ってはならないなどが続きます。それらをどれも新しく解釈をしなおしています。愛の基準で受け止め直しています。この後に続く「腹を立ててはならない」という律法は、礼拝よりも仲直りする愛を優先させようと解釈しています。そのようにイエス様は律法を新しく、愛によって解釈しなおしたお方です。イエス様は律法を愛の視点からもう一度見直し、愛の視点から新しく解釈をし直そうとしているのです。時代や状況、関係性によって何が愛かは変わって来る、その愛を示そうとしているのです。

言い換えるならこうです。律法をするにしろ、しないにしろ「そこに愛はあるんか?」ということです。小さな律法にもそこに愛が含まれていて、そこに含まれる愛が失われないかをイエス様はそれに注目をしたのです。

イエス様は、「律法の一点一画も消え去ることはない」と語られました。それは、律法の中にある小さな愛に注目しよう。それを軽んじてはいけないということです。どんなに小さな愛でも、愛は人を大きく支えます。だからこそ、イエス様は古い教えも愛の視点でもう一度見直し、大切にすべきだと訴えたのです。小さな愛を見過ごさず、大切にしよう、それが5章のイエス様の新しい律法解釈でした。

私たちの周りを見回してみます。太くて大きな愛には自然と目が行くかもしれません。でも私たちの周りにどんな小さな愛があるでしょうか?どんな一点一画の愛があるでしょうか?私たちはその愛にどのように支えらえているでしょうか。私たちはそれに目を向けて生きてゆきましょう。

私たちの教会自体も小さな点のような教会です。でも私たちは誰かを支え、誰かを愛し、誰かに生きる力を与えている教会です。そしてこれは教会だけに言えることではないでしょう。きっとあなたもそうなのです。あなたも点のように小さい存在かもしれません。でもきっと誰かの生きる支えになっています。あなたの小さな愛の行動はきっと誰かを支え、励ましています。

そしてもうひとつ大事なことは、点は小さくても、ひとつも失われてはいけないということです。私たちは互いに小さな点であるのだけれども、互いに大切な点です。イエス様は一つの点も失われない世界を目指したのです。私たちは点のように小さくても愛の業を大事に続けてゆきましょう。大きくしたり、長くしたりするのは大事なことですが、小さな愛もそれと等しく大切なものです。

私たち一人一人も一点一画の様な存在です。でも神様は、あなたは点の様な存在だけれども大切だと伝えています。あなたはここから、そこから絶対に失われてはいけないのだと言います。私たちもそのように互いを大切にしあってゆきましょう。きっと私たちの点の様な愛は、神様のおられる天につながっているはずです。お祈りをいたします。

 

【全文】「愛の種を惜しみなく」マタイ13章1~8節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と足音から命を感じながら一緒に礼拝をしましょう。

今月は私たちが地域に向けて行っている活動と聖書について考えたいと思っています。私たちの教会では毎月2回こひつじ食堂というこども食堂を開催しています。こひつじ食堂はこどもだけではなく、誰かと一緒に食事をしたいと思っている人のためにも開催されています。200円で、おいしい食事を、温かい関係の中で食べることが出来ます。たくさんの方に愛されて、毎回200食を超える利用があります。私たちはこの活動を、イエス・キリストの愛の教えの実践と位置付けています。この活動を通じていつか私たちの背景にある「愛」が伝わることを願っています。しかし私たちはこの活動によって信者を獲得しようと思っているわけではありません。

私たちのこひつじ食堂は種まきに似ていると言えるでしょう。教会の中で、温かい関係に囲まれる食事の経験と思い出は、人々の心にしっかりと残るはずです。それはきっと記憶に焼き付いてゆくでしょう。まさしく種がまかれたような経験でしょう。その人たちが私たちの背景にある信仰について、すぐに理解し神に従うわけではありません。すぐに花が咲いて実ができるわけではないのです。全員がそうなるわけでもないのです。でも私たちは種を蒔き続けます。こども食堂は、教会はこんなに楽しくて、助け合いとやさしさが詰まっていて、こどもを連れてきてよくて、緊張しなくていい、自分らしくあっていい場所だと伝えています。きっと神様の愛はたくさんの種として惜しみなくまかれています。

様々な活動をしていると、キリスト教の関係者からは「そのうち何人が礼拝にきましたか?」と聞かれる時があります。私は自信を持って「ほとんどいませんよ」と答えています。そして「でも続けてゆけば、きっといつか何かが起ると思う」と答えています。教会で毎回楽しく食事をしているこどもたちが、やがてつらい思いをしたとき教会を思い出してくれるでしょうか?やがて自分がこどもを育てるようになったとき、こども食堂の愛はより深く分かるはずです。ずいぶん先のことかもしれませんが、私たちはそれに期待をしています。

わかりませんが、やがて神様の愛を、もっとしっかりと知りたいと思う日が来るでしょうか。そのことに期待して活動をする、それが種を蒔くということです。あるいは直接この教会に戻ってこなくてもいいとさえ言えるでしょう。その人がこひつじ食堂で知った他者へのやさしさを持って、人生を生きてくれたら、それで十分な実りと言えるでしょう。中には一期一会で今回限りの出会いということもあります。でも私たちは期待して、希望を持って種を蒔き続けてゆきたいのです。いつか神様がその種を芽吹かせてくださるでしょう。私たちはそのことに期待し、未来に希望をもって活動を続けてゆきましょう。

そのように考えていると、かくいう私自身の仕事、牧師の働きも種まきかもしれません。毎週宣教をして、みなさんの何かがすぐに変わるというわけではなさそうです。誰でも今日聞いて明日から変われるわけではありません。でも私は種を蒔きます。宣教の内容はすぐに忘れてられてしまいます。でも何度でも種を蒔きます。なかなか芽吹かないかもしれませんが、希望をもって種を蒔きます。

今日はそのことを、みなさんと聖書から見たいと思います。あきらめず、希望をもって、惜しみなく愛の種をまくことを一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はマタイによる福音書13章1~9節をお読みいただきました。実は18節以降にこのたとえ話の解釈が記されています。教会では伝統的に18節以降に基づいて、あなたの心は神に対してどんな状態かを問いかけてきました。

あなたの心は聖書の言葉を聞いても受け入れず、忘れ、雑念に囲まれている。あなたはなんと愚かな罪人だろうか。まるであなたの心は硬いアスファルトに覆われているようで、神の言葉を受け入れない。あなたは良い心に変わり、神を受け入れなさい、そう教え諭してきました。私たちの教会も似たように教えて来たかもしれません。もっと恐ろしいと思う解釈は、同じ様に神の言葉を聞いても、それを受け入れるのは4分の1であり、神を受け入れない4分の3には厳しい罰があるというものです。ここまでくるとかなり危うい解釈です。

実は18節以降の解釈は、イエス様からしばらく後の時代の人が加えた解釈ではないかという見方が増えてきています。18節以降の解釈は一旦置いて、1~8節だけに注目をした解釈が試みられるようになってきました。それは、イエス様がガリラヤの農村地帯で育った背景から考える解釈です。イエス様はきっと4種類の人間の運命について話したのではありません。おそらく、もっと素朴な農村での経験に基づいて、種がどこに落ちるかよりも、惜しみなくまかれることに重点を置いたでしょう。

2000年前の種まきについて考えてみましょう。当時の種まきはいまよりずっといい加減に行われていました。今は土に肥料を与え、良く耕し、種を植え、土を被せ、水をまき、目が出るのを待ちます。しかし当時の種まきもっと簡単です。種を握って、畑に直接ばらまき、芽が出るのを待ちます。まるで節分の豆まきです。今よりずっと、大雑把で、生産効率は悪かったと言われます。そんな風に投げて蒔けば時には畑以外の場所に落ちたりしました。茨の中に落ちたこともあったでしょう。種を蒔いて土を被せないので、鳥が食べるのは当然です。いま私たちが想像する農業、種まきよりもずっと、おおらかで、いいかげんで、だいたいの作業でした。

イエス様はこのような種まきをイメージして語っています。一粒一粒ずつ、大事にうえていく感じではありません。気前よく、だいたいの感じで、ひと握りの種をバーッと投げて蒔くのです。それは多少失敗してもいい、多少鳥に食べられてもいいという蒔き方です。精密に、一つの無駄なく、失敗のない蒔き方ではありません。それがイエス様の種まきです。そしてイエス様は種に素朴な期待を寄せています。たくさんまいて、たくさんの収穫を期待したのです。「芽を出せ実れ」「芽を出せ実れ」と唱えながら種をわしづかみにして、ばら蒔いたのです。イエス様はこのように、種を蒔くことをイメージしました。イエス様の種まきは、とにかく徹底的に蒔くという方法です。

このことからイメージをしましょう。イエス様はこのように、あなたにも種を蒔くお方です。イエス様はあなたにたくさんの種を蒔いてくださいます。あなたの心がどんな心かは関係ありません。イエス様は「あなたの心には蒔いても無駄かな?」そう思っても、気にしません。イエス様はとにかくたくさん蒔いてくださいます。イエス様はひとりにひと粒ずつ種を蒔くのではありません。種をわしづかみにして、気前よくばら蒔いてくださるのです。イエス様は誰がいい人で誰が悪い人かをより分けて、種を蒔くという心の狭い方ではありません。イエス様は誰に蒔いたら芽が出そうか、よく吟味して種を蒔くお方ではありません。イエス様はとにかく種を蒔くお方です。そしてイエス様は希望をもって種を蒔いています。芽を出し、育ってくれるようにと願い、大きな希望を持って、惜しみなく種を蒔いています。

当時の収穫は、10倍になればいい方だったそうです。1をまた来年に残して、9を食べて生活をしました。収穫が30倍や60倍、ましてや100倍になることは想像できないことでした。でもイエス様はそれぐらいの期待をしながら蒔いたのです。

私たちの食堂はそのような種まきに近いと思います。誰かが私たちの信仰に気付くかどうか、それはわかりません。でも私たちは気づいてくれそうな人にだけ種を蒔くのではありません。私たちはとにかく無条件に愛をばら蒔くのです。愛を惜しみなくまくのです。そしていい加減ではなく、祈りながら、いつかたくさんの芽をだすと希望を持ちながら、100倍になることを期待して、祈りながら蒔くのです。それが私たちのこひつじ食堂なのではないでしょうか?

こども食堂以外にも、私たちそれぞれの生き方も考えましょう。私たちは人生においてどんな種のまき方をしているでしょうか?私たちの人生はもしかすると、1粒蒔いて、芽がでるかどうかを試す、そんなことばかりしているかもしれません。私たちの生き方は愛を惜しんで一粒ずつ蒔くような生き方になっていないでしょうか。自分の蒔いた一粒の愛が無駄にならないように、よく相手を吟味してから、一滴の愛を注ぐような生き方をしていないでしょうか?ちびちび愛を注いで、いちいち実りがあるかどうかを勘定していないでしょうか?愛を注いだ人から、すぐに見返りの愛を求める生き方になっていないでしょうか。

私たちはイエス様の種まきを見習いましょう。イエス様は気前よく私たちを愛して下さるお方です。それは相手の失敗も織り込み済みです。でもきっとうまくいく、きっと愛は100倍に増える、そう神様に信頼し、たくさん蒔くのです。なんどもチャレンジするのです。そのように神様を信頼して愛の種を蒔くのです。

私たちはどのように種を蒔きながら、生きてゆくでしょうか。イエス様は今日も私たちに惜しみない愛を、種を蒔いてくださいます。私たちも希望をもって、種を蒔く、気前よく他者に愛を注ぐ、そんな生き方をしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「徹底的平等主義者イエス」マタイ21章12~16節

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。マタイ21章12節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞き、命を感じながら一緒に礼拝をしましょう。

今月と来月は地域活動と福音について考えてゆきたいと思います。この宣教以外でも、それぞれに語り合っていることかもしれませんが、改めて地域活動と福音について分かち合いたいと思います。

先日焼肉の食べ放題に行ったのですが、3つの価格帯のコースがありました。3000円、4000円、5000円くらいのコースです。私たちは3000円の一番安いコースを頼みました。おいしかったのですが、気になったのは、隣のテーブルの人は高いコースを頼んでいて、なんだかこちらのテーブルよりおいしそうな壺に入ったお肉や大きなデザートがどんどん運ばれてきていました。あれを食べたいと思っても、3000円コースでは頼むことができなかったのです。おいしかったけど、ちょっと悲しい気持ちになって帰ってきました。外食の頻度や価格帯は、私たちの間にある格差をはっきりと表す場面かもしれません。

私たちの教会ではこども食堂をしていますが、振り返ってみて、この食堂はかなり平等な食堂なのではないかと思いました。だれでも1食200円です。でもその価値以上のおいしいものを食べることが出来ます。しかも全員同じメニューというのも重要です。全員が同じ値段で同じメニューを食べます。これは意外と少ない機会です。私はこの食堂の特徴は、とても平等な食事会なのだと言うことに気付きました。こひつじ食堂で100円追加すると料理がグレードアップできるというアイディアはどうでしょうか?収益は改善しそうです。適正な対価を払っているので、大人は受け入れるかもしれません。でもきっと感性の鋭いこどもたちから、ずるいとか、不平等だとか、反対の声が上がるでしょう。この食堂は平等であるべきだということ、みんなが何となく感じ、期待してくれているでしょう。今まで気付かなかったのですが、私たちの食堂は平等であることを大切にしているのです。

礼拝をすべき神聖な場所で、にぎやかな飲食をすることは、不信仰なことに見られるかもしれません。静寂と祈りの場所であるべき会堂が、食べこぼしや、油で汚れます。でも、私たちはこの食事が、福音宣教の一つ、私たちの信仰の一つだと思って大切にしています。

そしてこの食事は全員が神様の前に等しく、平等であることをよく表している食事です。きっとイエス様も、会堂で食事などけしからんと怒るのではなく、この平等な食事を見て喜び、楽しく加わってくださるのではないかと思います。なぜならイエス様も格差や差別に反対し、平等を愛したお方だからです。今日はイエス様が平等を行動で体現した姿を聖書から見てゆきましょう。

 

 

マタイによる福音書21章12~16節をお読みいただきました。当時のエルサレムの神殿はユダヤ教の信仰の中心でした。神殿にはたくさんの献金や献げ物が集まりました。しかしこの献げ物の行先には問題がありました。特権階級の祭司たちがその献金で贅沢な暮らしをしていたのです。貧しい人々からの心からの献げ物で貴族のような生活をしていたのです。

図にあるように、神殿の一番外側の「異邦人の庭」では、献げ物を販売するお店が並びました。牛や羊を献げることが良い事とされたが、貧しい人は鳩を献げました。また神殿では献金は古いお金を使うことと決められていたため、両替人も多くいました。これはどれも神殿公認の商売でした。場所代も払ったでしょう。人々は貧しくてもみな精一杯を献げました。しかしその献金は祭司たちの贅沢な生活を支えるために使われてゆきました。

イエス様はその神殿に乗り込みました。かなり激しい様子でイスをひっくり返し、そこで働いている人を神殿から追い出しました。イエス様が神殿から商売人や両替人を追い出した理由は、神殿で商売をすると神殿が汚れるからではありません。もともとこれは祭司にも公認された商売です。

ではイエス様が神殿から商売人と両替人を追い出した理由は何でしょうか?それは貧しい人からの献金で、祭司が贅沢な生活をしているという、経済的な搾取に反対をしたからでした。いわば神殿の集金システムを批判したのです。それはお金を集めて贅沢をしている祭司への反抗でした。イエス様はみんなの見ている前で、この神殿の集金体制をぶっ壊すぞというパフォーマンスをしたのです。俺は神殿が貧しい人を苦しめ、格差を生んでいるのが気に入らないのだ。そんな神殿はいらないとアピールをしたのです。もっと豊かに生きるため、格差と差別のない平等な社会の実現のために、イエス様は象徴的に、商人たちを追い出したのです。イエス様は豊かさと、平等を求めたのです。

この行動に祭司たちは激怒しました。神殿で汚れたことをするのはやめようという運動、純粋な信仰の運動だったら、祭司たちも納得したでしょう。私たちの間でもイエス様の行動は従来「宮清め」として、神殿から汚れを取り除く行動だと理解されてきました。しかしその解釈は無理があります。神殿を清めようとした人を殺す必要はありません。祭司たちがなぜイエス様を殺そうと思ったのか、それはイエスが切り込んでしまったのが、神殿の搾取体制だったからです。特権階級の既得権益に踏み込んでしまったからでした。祭司たちにとってどんな大義があったとしても、自分たちの利権への批判は容認できないことだったのです。イエス様もそこを批判する危険は承知だったでしょう。この行動にはそのような搾取と格差に反対し、平等を求めるという意味がありました。

神殿ではもうひとつ深刻な問題がありました。それは差別の問題です。神殿は図の通り、いくつもの壁で仕切られていました。その壁はまさに差別・階級の象徴でした。その壁は清さによって、外国人はここまで、女はここまで、男はここまで、祭司はここまでと区切られていました。神殿は誰でも中に入ることが出来る場所ではなく、むしろ差別を生み出していた場所だったのです。このように人間の間ではすぐに差別や階級が生まれます。清い人がいるなら、清くない人がいるのです。汚れた人、劣った人という差別は人間によって作られるのです。

商売が行われていたのは異邦人の庭です。そして、異邦人の庭にすら入ることが許されない人もいました。それは障がいを持った人です。目の見えない人、足の不自由な人、それは汚れていると差別され、一番外側の門さえ入ることが許されなかったのです。

しかし14節によればイエス様の行動の後、事件が起きます。門の中に決して入って来てはいけない、神殿を汚すと差別された人が神殿の中に入ってきたのです。元々の言葉を見ると、目の見えない人も、足の悪い人もどちらも複数形です。イエス様の行動の後、異邦人の庭に、汚れていると言われてきた障がいを持った人が、大勢、きっとなだれのように入って来たのです。差別され、神殿に出入りすることを禁じられた人々が、差別と階級を乗り越えて、イエス様のそばにやってきたのです。

さらにイエス様の行動で注目するのは、異邦人の庭でその人々を癒したという点です。正しい順序は、神殿の門の外で癒し、障がいがなくなり、汚れと言われるものがなくなってから、入るべきでした、しかしイエス様は、差別された人を先に門の中に招き入れてから、神殿の中で癒したのです。このようにイエス様は差別に反対する姿勢、徹底的な平等主義を行動によって示したのです。この一連の宮清めと呼ばれる場面は、聖所を汚れから清めたのではなく、格差と搾取と差別に反対をした、イエス様が徹底して平等を訴えた象徴的な行動だったのです。

そしてそれは神殿の特権階級を激怒させました。特権階級の祭司は、既得権益と階級構造を揺るがす奴に容赦しませんでした。このようにしてイエス様は十字架に掛けられてゆくことになります。イエス様の行動がこの個所で表しているのは、この世界は徹底的に平等になれというメッセージです。

さて、現代にも様々な格差や搾取、階級社会とも言える不平等があるでしょう。経済格差はますまる広がりです。正社員と非正規社員の待遇の違いはほとんど階級社会です。上級国民という言葉もあります。このような格差に社会は不満を高めています。障がい者の差別もまだまだ身近なものです。今もいろいろなところに格差や差別、階級社会があるでしょう。人々は徹底的な平等を救いとして求めています。

もしイエス様が今のこのような社会を見たらならどうするでしょうか。怒って、そこをめちゃくちゃにするでしょうか。そんな搾取おかしい。そんな差別おかしいと。階級を打ち破ったでしょうか。それはきっと危険なことです。

聖書を読む私たちは今をどのように生きてゆくことができるでしょうか。イエス様の求めた徹底的な平等を私たちも実現したいと思います。日本で世界で、この平等を実現したいと思います。時間はかかるでしょう。でも私たちの教会の中で、この礼拝でならすぐに実現、体現できるでしょう。この教会には清い人も、清くない人もいません。階級のような上も下もありません。私たちは等しく、互いを尊重し合う仲間でいましょう。

私たちはその平等をこの教会だけではなく、地域に広げてゆきましょう。こひつじ食堂や様々な活動を通じて、イエス様が求めた徹底的な平等が実現する世界を、この教会から広げてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「翔んで、ガリラヤ」マタイ4章12~16節

みなさんおはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。今日も私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。

2015年に「翔んで、埼玉」という映画が公開され大ヒットしました。この映画は東京都民から埼玉県民が差別を受けているというコメディー映画です。埼玉県民は東京都民から「ダさいたま」「クさいたま」「いなかくさい」と差別され、屈辱の日々を送っていました。そんなある日、埼玉出身でアメリカからの帰国子女である主人公が埼玉解放戦線を率いて、千葉解放戦線と協力して差別を続ける東京都知事を失脚させるというコメディーです。見下されていた人々が手を取り合い、解放を勝ち取っていく姿は、笑いと涙のあふれるストーリーです。このように現実の世界になんとなくある、埼玉への偏見をコメディーとして取り上げ、逆転させた映画として話題になりました。続編も公開され、今度は滋賀県民が大阪府民に差別されるという設定になっています。

いつの時代も人々は地域に優劣をつけようとします。聖書の時代にもそのような地域間の意識は大きくありました。そして今よりずっと差別的な取り扱いを受けました。パレスチナ地域は大きく分けて南北に3つの地域に分けられます。一番南のユダヤはイスラエルの首都エルサレム、ユダヤ神殿のある都会です。イスラエルの歴史と宗教の中でいつも中心的な役割を果たしていたのがユダヤ地方です。外国からの移住民が少なく、私達こそ純粋なユダヤ人だという意識の強い地域でした。その北側、中部にあたるのはサマリア地方です。この地域は、歴史的に外国からの侵略と他民族の移住が繰り返され、混合人種・混合文化・混合宗教の土地でした。聖書にもサマリア人が登場しますが、やや印象の悪い人という前提で書かれている箇所が多くあります。

さらにその北側、北部にあるのがガリラヤ地方です。ガリラヤもサマリア同様に、何百年も様々な国に代わる代わる支配され、その度に様々な宗教が持ち込まれました。混合人種・混合文化・混合宗教の土地でした。イエス様の時代からみると、ガリラヤがユダヤの一地方となったのは最近のことでした。ガリラヤ地域の最大の特徴は肥沃な大地だったということです。山から流れる豊富な水で農業が盛んな穀倉地帯でした。当時のパレスチナ地域の人々はアラム語という言葉を話していました。祭儀にはヘブライ語を使いましたが、日常はアラム語で会話をしました。ガリラヤの人々は訛りが強かったと言われています。ペテロもガリラヤ訛りだと言われたという箇所があります。それに対して文化的な反動もありました。差別されたこともあって、逆にユダヤ教徒の過激派も生まれるようになりました。ユダヤ教愛国主義者がガリラヤから起こることもありました。

エルサレムの人々はガリラヤに対して訛りの強い、農村地帯のド田舎という印象を持っていたでしょう。4章15節には「異邦人のガリラヤ」とあります。つまりガリラヤの人はユダヤ人ではないとさえ言われたのです。エルサレムの人がガリラヤをはっきりと見下している箇所は、ヨハネ福音書7章41節と52節です。イエスをメシアだと言う者がいるのに対して「メシアはガリラヤからでるだろうか」とあります。さらに52節にはガリラヤの出身なら預言者・メシアでないことはわかる」という言葉もあります。これが当時の人々が持っていたガリラヤに対する印象です。ガリラヤは田舎で、訛っていて、良いものは出ない場所でした。エルサレムの人々からは相当見下されてきた場所でした。イエス様はそのような場所で育ったのです。

イエス様がガリラヤで育ったことには、どんな意味があるでしょうか。今日はそのことをご一緒に見てゆきましょう。そこにはきっとクリスマスと同じくらい大きな恵み、希望があるはずです。

 

 

 

今日はマタイによる福音書4章12~17節をお読みいただきました。イエス様はガリラヤの中でもさらに小さな村ナザレで育ちました。そしてガリラヤ地方から東のヨルダン川周辺でヨハネの活動に加わりました。しかし徐々にヨハネとは距離を感じるようになったのでしょう。ヨハネが逮捕されたのをきっかけに、ガリラヤに戻り、イエス様の伝道が始まりました。イエス様は見下されていたガリラヤで育ち、そこから伝道を始められました。そこはエルサレムの人々からは相当見下されてきた場所でした。そこからイエス様は宣教を始めたのです。

15節を見ます。イエス様の活動は中心地エルサレムから見てはるかかなたの、異邦人の町から始まりました。16節では、ガリラヤの人々は暗闇に住む民と呼ばれています。暗闇とは、忘れられた場所です。そこに住む人々はいつも見過ごされてきました。ガリラヤはいつもだれからも注目されない、見過ごされてしまう、みんなから忘れられてしまう場所でした。イエス様はそのような場所に光を当てるために、活動を始めました。光り輝く神殿のある、エルサレムではなく、日のあたらないガリラヤから活動をはじめたのです。16節ではさらにガリラヤの人々は死の陰の地に住む民と呼ばれます。それはまさに死と隣り合わせの人を指します。辺境の地ガリラヤに住む人々は、いつも見捨てられ、見殺しにされ、見下され、様々な国々に支配されてきました。死と隣り合わせだったのです。イエス様は、その死の陰の地に住むガリラヤの人々に、光となったのです。イエス様は太陽が昇るように、夜が明ける様に、人々に現れたのです。

イエス様が見下されたガリラヤの地で宣教を始めた事、このことの意味を私たちはもう少し心に留めた方が良いかもしれません。私たちはクリスマスから1ヶ月が経ちましたが、私はイエス様が家畜小屋で生まれたのと同じくらいの意味が、イエス様がガリラヤから宣教を始めたということにあると思います。その共通点はメシアとして、とても似つかわしくない場所で人生と活動が始まるということです。イエス様はもっとも無力な存在である赤ちゃんとしてこの地上に生まれてきました。そしてイエス様はパレスチナ地域の中でもっとも田舎である、中心ではない周縁であるガリラヤから宣教を始めました。

この二つには共通していることがあるでしょう。それは明るく、光輝く場所からスタートしたのではないということ、人間の期待とは大きくかけ離れたところから始まったということです。暗い場所から始まったのです。

でも信仰とはそのようなものです。光り輝く奇跡から始まる信仰は多くありません。信仰は暗闇、良いことが一つもない、そのような時や場所から始まるものです。満たされて充実している毎日よりも、傷つき不足し、不十分さを感じる時に、場所に信仰は生まれてくるものです。そのことはみなさんもよくお分かりでしょう。

私たちは覚えておきましょう。信仰とは私たち個人個人の心の端から中心へと向かって始まってゆきます。初めから中心に生まれてくるものではなく、私たちの心の隅、私たちの内面で見落としていた部分から信仰が始まるのです。私たちが自分自身の目をむけたくない場所から、そこが光で照らされるように信仰が始まるのです。いま私たちの心で目をむけたくない部分、暗い場所はどこでしょうか?イエス様はそこを選んで来られます。その心に光を当て、そこから始めて私たちを導いてくださるのです。

私たち個人の中だけではなく、共同体の中でもそういえるかもしれません。信仰とは思いもよらない人から、場所から教わるものです。イエス様の光は苦しんでいる人、逆境の人、行きづまっている人、見下されるような人から訪れるのです。幸せそうな人から福音が広がるのではないのです。イエス様は苦労し、見下され、見向きもされない人を用いて、福音を広げるお方だとも言えるでしょう。イエス様の光が暗闇から広がるのです。

個人や共同体のなかだけではなく、バプテスト連盟という枠組みでも考えてみましょう。バプテスト連盟にもたくさんの教会がありますが、教会のある地域は偏っています。バプテスト連盟の約4割の教会は東京と福岡にあります。その中で私たちは関東の西のはての教会です。平塚教会は連盟の歴史に名前を刻んできた教会ではないかもしれません。目立たない教会です。でもきっと地理的・歴史的中心でないことは私たちの励ましになるでしょう。イエス様は中心からのみ宣教を始める方ではありません。平塚のような周縁の地からも中心へ向けて宣教をしてゆくのです。平塚教会は目立たない教会かもしれませんが、神様の働きはここから始まるのです。

そしてさらに加えるならば、イエス様は復活の後、ガリラヤでまた会おうと言われます。ガリラヤは復活のイエスと出会い、弟子たちの信仰の再スタートの場所にもなりました。失意の中で再び信仰に立つ場所になりました。信仰はガリラヤで始まり、失敗し、再びガリラヤでスタートするのです。復活のイエス様とガリラヤで出会った弟子たちは、新たな使命に生きる力を得たのです。そのようにしていつも信仰は、人々の注目の集まる中心ではなく周縁から、高みからではなく、低みからスタートするのです。

イエス様はこのように、中心からではなく忘れられた場所、目立たない場所から宣教を始めたお方です。イエス様の福音は、私たちの心の隅、暗闇から始まります。私たちが見落としている場所、人から始まります。注目されている中心から離れた場所から始まります。私たちはそのことを覚えて歩みましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「捨てない献身」マタイ4章18~22節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしてゆきましょう。

キリスト教では牧師を目指すことを献身(けんしん)と呼びます。それはキリスト教の中で特に美しく、とても喜ばしい決断だとされています。私がこの献身をする時に何回か言われた言葉が印象に残っています。それは「これまでのことは捨てて、神様に従いなさい」という言葉でした。確かに牧師になるにあたって私は、多くの人が持っているものや、目指していることを捨てたかもしれません。同世代の仲間と比べると、出世や収入や住宅ローンとは縁遠くなったでしょう。神様に向けてこれまでとは違う人生を歩み出すことは、たくさんのことを捨てるような気になります。

でも私は神様に従うとは必ずしも何かを捨てることではないと感じています。私自身が神様に従ったとき、すべてを捨てて従ったわけではないのです。当然ですが私は家族も貯金も持ち物も経験もすべてを持ったまま牧師になりました。ほとんど今までのものを捨てずに献身をしたのです。でも献身というとやはり何かを捨てることだというイメージがあるようです。私は献身において、捨てる事が美化されすぎていると感じています。私はお寿司屋さんから牧師に転職をしました。もう魚をさばく経験は必要ないと思いました。しかし神様は、それを子ども食堂で用いてくださいました。私がもう使わない、捨てていいと思ったことでさえ、神様は用いて下さっています。それが私の献身です。捨てたものがあまりない献身です。

確かに私の心の中には、捨てるべきものはまだまだたくさんあるでしょう。でも私は何かを捨てるために献身をしたのでありません。むしろ得るために献身をしています。神様の恵みをもっと得るために、欲張って献身をしています。私は神様に従うこと=捨てることではないと思いますし、そのようなイメージを変えゆきたいと思っています。

教会に集うみなさんはどうでしょうか?礼拝に出席する、出席し続けることも神様に従う献身です。献身は牧師だけのものではありません。礼拝出席も立派な献身です。今日、礼拝に集う皆さんにはいろいろな事情があったでしょう。体調や時間、家族との関係、いろいろな事情があるものです。でも例えば今日みなさんは、家族を捨てて礼拝に来たわけではありません。

夫から『俺と教会とどっちが大事なんだ』と言われることがあるかもしれません。しかし私たちは家族を捨てて礼拝に来たのではありません。むしろ家族との関係をより良くするために礼拝に集っているのです。夫は自分が捨てられたように感じるのでしょう。でも私たちは夫を捨てて礼拝しているのではありません。私たちは今日、家にいる家族と新しい関係を願って礼拝をしているのです。家族を捨てるためではなく、家族をもっと愛するために。もっと一週間を頑張れるように、今日ここで礼拝しているのです。それが私たちの集まりです。

教会の存在も同じだと言えるでしょう。教会は社会との関係を断って存在をしているのではありません。世間の人からは、教会は社会と隔絶して存在をしているように見えるかもしれません。でも特に私たちの教会はそうではありません。私たちの教会は社会との深い関係を望んでいます。新しい関係を望んでいます。社会の中で暮らす、様々な人と新しい関係にされることを願って、祈り、礼拝をしています。私たちは地域との関係を捨てて礼拝しているのではなく、いままでよりもっと深い関係を願って礼拝をしています。そのことが少しでも伝わったら嬉しいです。

きっと聖書は私たちに何かを捨てて、神に従う事、礼拝することを求めているのではないでしょう。聖書は私たちが大切にしているものを、大切にしたまま、新しい関係を求めて、神様に従うことを求めているのでしょう。私たちはそんな風に神様に従えないでしょうか。今大切にしているものを、大切にしたまま、もっと大切にしながら、神様に従うことができないでしょうか。そのことを考えたいと思います。今日も聖書を読みましょう。

 

 

今日はマタイによる福音書4章18~22節までをお読みいただきました。この個所には弟子たちがどのようにイエス様に従うようになったのかが書かれています。ある日、ペテロとアンデレは漁をしていたところ、突然イエス様が現れて「私について来なさい」と言われました。これはイエス様の招きです。私たちの信仰とは私たちの理解や決心を超えた、招きであることが書かれています。それはこの礼拝も同じです。遠くから車やバスで来ていても、一生懸命に自転車をこいで来ていても、神様に招かれて礼拝に集っています。私たちは神様に招かれて教会に来ているのです。

20節には「二人はすぐに網を捨てて従った」と書いてあります。網は漁師にとって、とても大切なものです。漁師は自分の網を人には触らせないと聞いたことがあります。網は漁師にとって自分の仕事や人生、生活を象徴するものです。聖書によれば弟子はそれをきっぱりと捨てたのです。この個所からでしょう、神様に従う時には、たくさんのもの、すべてのものを捨てなければならない、そう言われてきました。

しかし神様に従うとは本当に捨てることなのでしょうか。22節には、舟と父は残して行ったとあります。網は捨てたけど舟は捨てなかったのです。あげあしを取るようですが、舟の方が価値は大きいはずです。なぜ舟は捨てなかったのでしょうか。

実は20節の「捨てる」と22節の「残す」は、どちらも同じギリシャ語で『ἀφίημι(アフィエイミー)』という言葉です。この言葉は新約聖書に150回ほど登場するよく使われる言葉です。この言葉は「捨てる」という意味と「残す」という意味の両方を持ちます。さらにそれ以外にも「赦す」「そのままにしておく」という意味もあります。

ですから「網を捨てた」そして「舟と父を捨てた」とも訳すことができ、そう翻訳しているものもあります。しかしこの「親を捨てる」という翻訳はさすがにひどいでしょう。おそらく翻訳の上でもそう考えて、網を捨てて、舟と家族を残したと翻訳をしたのでしょう。

本来の翻訳の幅を考えれば、網も捨てずに残して従った、舟と父をそのまま残して従ったとも訳すことができます。無理に大切なものを捨てたと訳す必要はありません。網と舟と父をそのまま残して、そしてもちろんまた帰って来るつもりで従ったのです。私は「網も舟も父もそのまま残して従った」そのような翻訳がよいと思っています。

もちろん私には捨てなくてはいけないものがたくさんあります。私の中にある悪い思い、罪、ゆがんだ欲望を捨て去る必要があります。しかし私たちは大切にしているものまで捨てる必要はありません。家族やこれまでの人間関係を大切にすることはイエス様の教えでもあります。自分の大切にしていることを大切にし続けてよいのです。キリスト教の信仰はただ捨てるばかりではありません。神様はそれを「大切に取っておきなさい」と言っています。大切にとっておいて、一時的にそれをそのまま残しておいて、そして私たちは神様に従うのです。聖書から私たちの献身をそのように理解することができます。

この礼拝という献身がまさにそうでしょう。私たちは家族や仕事あらゆるものとの関係を捨てて、礼拝に来たのではありません。私たちは家族や友人や職場での新しい関係を願って、でも今日はそれを残して、今日この礼拝に集ったのです。私たちは決してそれを捨ててはいません。

 

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【全文】「難民だったイエス」マタイ2章13~23節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしましょう。こどもたちの声は私たちの教会にとって命と平和の象徴です。そしてもちろんこの世界にとっても命と平和の象徴でしょう。

国連の統計によれば、紛争や気候変動により故郷を追われた難民の数は日本の人口と同じ約1億2000万人に達しています。世界の難民の数は12年連続で過去最高を更新し、増加し続けています。難民の中には17歳以下のこどもが多く含まれています。難民の40%がこどもだと言われます。5000万人のこどもが住む家を追われ、難民となっているのです。難民はパレスチナ、アフガニスタン、シリア、ベネズエラ、ウクライナなどで多く発生しています。戦争や内戦によって、気候変動や飢餓によって多くの難民が生まれています。大変大きな数字ですが、これらの数字にまとめられてしまった一人一人に人生があったはずです。この数字の一人一人の人生に数えきれない悲劇があったでしょう。大切な人の死、家族や友達との別れ、育った町を捨てて逃げなくてはならなかった悲しみを想像します。私たちの世界はちっとも平和になりません。この世界の現実を悲しく思います。

日本は難民に厳しい国だと言われます。日本では年間1万人以上が難民申請をしますが、難民として受け入れられるのは、たった300人ほどです。ほとんど受け付けていません。追い出しているのと変わらないと言えるでしょう。日本で難民として受け入れられたわずかな人々も、文化の壁や経済的困難の中にいます。私たちは文化や経済の違いを超えて、難民を受け入れ、共存できる国になりたいと思います。痛みを持ち、住む場所のない人と共に生きる社会になりたいと願っています。

10月に教会に来られた佐々木和之さんはアフリカ・ルワンダで平和を教えておられますが、その学生の中には紛争によって難民となった学生も数名いるそうです。学費の支払いに苦労しながらも、平和を学びたいと言って大学に通っています。難民だった彼らが、暴力ではなく平和を学び、平和の大切さを伝えてゆく者となる、そのような話に心を支えられています。

イエス様が示されたのは、力に力で対抗するのではなく、愛と平和によって世界を変えるという道でした。これは、今私たちが向き合っている難民問題にも通じるのではないでしょうか。小さなことかもしれませんが、愛に基づく行動を選び取ることで、イエス様が示した平和を実現していけるのです。

私たちの世界は紛争や気候変動によって人生を左右される人がたくさんいる世界です。この世界のどこで神様を見つけたら良いのでしょうか。今日は、神様は悲しみの中に居る人と、また戦火を逃れてきた人と共にいるということを見たいと思います。神様は困難に追われ苦しむ人と共にいることをみてゆきます。聖書を読みましょう。

 

今日はマタイによる福音書2章13~15節をお読みいただきました。イエス様が生まれた後、エジプトに逃げなければいけなったという話です。当時も、そして今もパレスチナの支配は軍事力によって行われました。民主主義ではなく、一番強い軍事力を持つ者が王となる軍事政権でした。だからイエス様の生涯には、その誕生から戦争の影がまとわりつきます。ヘロデは猜疑心、人を疑う気持ちが強かったと言われています。誰も信じることができなかったのです。いつも自分は誰かに追い落とされて失脚するのではないかと恐れていました。暴力で奪った権力は暴力でしか守ることができません。彼は常に暴力への恐怖と不安を感じていました。ヘロデは自分の地位を狙っていると感じた人がいたなら、親族でも容赦なく殺してゆきました。

ヘロデの権力への執着は、パレスチナに住むこどもたちに対しても容赦なく向けられてゆきました。16節には、ベツレヘムで新しい王になるこどもが生まれたと聞き、2歳以下のこどもを一人残らず殺したとあります。残酷な王です。この権力者は、自己保身の王であり、暴力的な王でした。庶民はいつもこのような権力者に翻弄されていました。人々は救いを求めていました。人々の求めた救いとは平和であり、こどもたちを含めたすべての命が守られていくことでした。そのような場所に救い主イエス・キリストは生まれたのです。

イエス様の誕生は軍事的指導者、自己保身、暴力に象徴されるヘロデとは対極的なものでした。イエス様は強大な力に対して、力のない無力な姿でこの地上に生まれました。そしてイエス様は迫りくる暴力に、暴力で立ち向かうのではありませんでした。イエス様は戦うことではなく、逃げることを選びました。その姿は現代の難民と同じ姿です。それは小さく弱い、難民の姿です。危険から逃げざるを得ない、権力の前に最も弱い存在でした。

クリスマスはイエス様が幼子としてこの地上に生まれたことを伝えています。そしてそれに続くこの個所ではさらに、その幼子イエスが権力から逃れ、難民とならなければいけなかったことを示しています。多くのこどもが殺されました。その中でイエス様は生き残りました。イエス様は虐殺生存者という意味でサバイバーです。虐殺の生き残りの一人でした。多くの同じ世代の人が殺され、難民となり、その生き残りがイエス様だったのです。イエス様は多くのものを背負って生きたでしょう。他の人の人生を背負って生きたのです。そしてその地上の生涯でイエス様は政権に対する復讐ではなく愛と平和を訴えて、歩みました。イエス様は平和についての教えを数多く残しています。

イエス様の生い立ちが、平和の大切さを語らせたはずです。難民であった彼が、虐殺からのサバイバーであった彼が平和を語ることには大きな重みがあったはずです。多くの仲間が死ぬ、殺されるあの戦争、虐殺をもう二度としてはいけないと教えて歩いたのです。復讐ではなく、敵と思えるような相手を愛するようにと教えて歩いたのです。この物語はイエス様が平和をどれだけ大切に思っているのかということを示しています。

そして同時にこの物語は、私たちはこの世界でどこに神様を見出したらよいのかという答えにもなっています。私たちの神様は、戦争のただなかにおられるのです。私たちの神様は苦しむ者と共におられるのです。神様は難民の姿でこの地上を生きたのです。神様は苦しみのただなかに生まれて来られたのです。そのような場所に私たちは神様を見出すことができるのです。

神様は紛争や飢餓によって住む場所を追われた人を通じて問いかけています。神様は逃げている人、飢えた人、渇いた人、旅をしている人としてこの地上におられるのです。私たちはその人々の中に神様を見出すように、招かれています。私たちの世界は相変わらずまだヘロデのような凶悪な権力者・独裁者がたくさんいます。それらが民主的なリーダーに代わるように祈ります。でもきっとヘロデ、あの独裁者は世界に何人かいるあの人々だけではありません。

私たちの心の内側にも向き合いましょう。きっと私たちは自分の心の中にもヘロデを見つけることができるでしょう。他者を受け入れず、追い出し、自分を守ろうとする思いは、私たちに小さく、少しずつあるものです。誰にでも自分の思い通りにしようと強引になることがあるものです。それをキリスト教では罪と呼びます。私たちは全員そのような罪をもった罪人です。いつも他者の苦しみを受け止めず、追い出し、自分を守ろうとばかりしています。苦労している他者の人の言葉に耳を傾けず、その姿をしっかりと見ようとしていません。相手の苦しみを心で受け止めていないのです。私たちはヘロデだけを悪とするわけにはいかないでしょう。この世界、この私の中にヘロデがいます。この物語は、この世界の、この私の罪に気づくように訴えています。

私たちの世界は平和を実現することが出来るでしょうか。私たちはイエス・キリストを見つめそれを考えましょう。イエス様がそれを教えてくれるはずです。馬小屋の姿だけではなく、難民だった姿もイエス様のあり方だったのです。現代の難民とかつての難民イエス・キリストの両方に目を留める時、私たちは神様を見つけることができるでしょう。そして平和を実現してゆく者へと変えられてゆくでしょう。

神様がなぜこのような難民というあり方を選ばれたのか、なぜこのような時代を選ばれたのか、なぜこの場所を選ばれたのか不思議に思います。でもイエス様はこのようなあり方と場所を選び、お生まれになりました。私たちの神様とはそのような神様です。苦しみ、悲しみ、逃げ、孤独の中に共にいることを選ぶのです。

きっと神様がいないから悲しみがあるのではないでしょう。きっと悲しみのあるところにこそ神様が共にいるのです。そしてそれは私たちの人生でも同じです。あなたの人生には苦しみも悲しみもあるでしょう。逃げなければいけない時もあるでしょう。でも神様は確かにその時、あなたと共におられるのです。だから希望を持って生きてゆきましょう。

神様がそこにいます。暴力のただなかに幼子として、無力な存在でおられます。戦うのではなくそこから逃げる存在として神様がおられます。神様はそのようにして無力な私たちと共にいて下さるのです。そして私たちに愛と平和を教えているのです。それが私たちの神様なのです。この愛に従って歩んでゆきましょう。

小さな命が世界を変えていったように、私たちの小さくても互いのためにすること、小さくても愛を伝えてゆくこと、それが世界を変えてゆくはずです。お祈りいたします。

 

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「ヘビとの共存」

みなさん、あけましておめでとうございます。今年一番最初の朝を、神様を礼拝することから始めることができるのは素晴らしい事です。今年も心からの礼拝を神様に献げてゆきましょう。私たちは今年もこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に導かれて一緒に礼拝をしましょう。

十二支によると今日からヘビ年です。干支は東洋の思想であり、キリスト教とはあまり関係のないものです。しかし、この時期はいろいろなところでかわいいヘビのイラストを見かけます。干支の世界観では、脱皮して成長するヘビに「再生する力」や「無限の可能性」があり、知恵や金運を生み出すと考えられてきたそうです。こうしたことからヘビが脱皮した皮をおサイフに入れておくと金運が上昇するという言い伝えがあるそうです。そして中でもキレイに形の崩れていないヘビの抜け殻を持っていると金運が上がるそうです。干支によれば、このようにヘビ年というのは縁起のいい年だそうです。

ヘビは縁起が良いという話を聞いていて、聖書のヘビはどうだろうかと考えました。実は聖書にもヘビがたくさん登場しますが、ほとんどが否定的な存在として登場をします。聖書の中でもっとも印象的なヘビは創世記3章に登場するヘビです。このヘビはしゃべって人間をだまします。人間は神様の教えをヘビにそそのかされて、破ってしまうのです。ヘビはそのために神様の呪いを受けて、地を這って生きるようになったとあります。他の個所でもヘビは全世界を惑わす存在(ヨハネ黙示録12章)と言われたりしています。聖書の中でヘビは悪魔の代表とされ、汚れた動物であり絶対に食べてはならないと、も言われています。縁起がいいとする文化がある一方で、聖書の中でヘビはあまりにも悪者にされおり、ちょっとかわいそうな気がしています。

街ではヘビを祝っているのにも関わらず、聖書では邪悪な存在として現れます。私たちはどのようにヘビを受け止めたらよいでしょうか。ヘビ年を迎えたらよいでしょうか。ヘビと共存したらよいでしょうか?実は聖書の中でもごくまれなケースですが、ヘビを肯定的にとらえている箇所があります。例えばイエス様は「蛇のように賢くなれ」と言いました。そして今日のイザヤ書でもヘビが登場します。今日は邪悪なものとしてだけではない、共に生きる存在としてのヘビを聖書から見てゆきたいと思います。ヘビとの共存を考えます。そしてこの個所から今年1年、神様が私たちに与えて下さる力について考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はイザヤ書11章3~9節をお読みいただきました。3節には「彼」とあります。「彼」とは誰のことでしょうか。キリスト教では伝統的にイエス・キリストのことと解釈をしてきましたが、決してそれに捕らわれる必要はありません。聖書には彼としか書いていない以上、解釈は自由です。あなたのこと、私のこととしても解釈できます。誰かが霊に満たされるのではなく、あなたが霊に満たされると解釈しましょう。聖書はみなさんが霊に満たされる、つまり神様の見えない力に満たされると言っています。

みなさんは見えない力に満たされるのです。それはみなさんの内側から湧いてくる力ではありません。それはどんなに自分の中に探しても見つかりようのない力です。その見えない力が外側から神様からあなたにやって来るのです。神様はあなたを、見えない力で満たしてくださるお方です。

見えない霊の力に満たされるとどうなるのでしょうか。3節の後半を見ます。聖書によれば、あなたは見たもの、聞いたものだけで判断しないようになります。私たちは日々、目に見えるもの、耳に聞こえるものに左右されて生きています。でも神様からの力で満たされると、4節弱い人に正当な裁きを行う様になります。

これはどんな意味でしょうか。あなたはその力を受けると目と耳だけで判断しないようになります。聞こえない物を聞き、見えない物を見るようになるのです。つまりそれは、誰かの声にならない声を聞き、誰かの表面化しない苦しみを想像するようになるということです。弱い人の立場から物事を見て、想像することができるようになるということです。体の弱い人、立場の弱い人、弱くされている人に寄り添うことができるようになるということです。神様はそのような見えない力を、あなたに与えてくださいます。そのような力であなたを満たしてくださるのです。

唇が死に至らせるともあります。もちろん本当に相手を死なせてしまう力が与えられるわけではありません。神様は私たちに立場の弱い人に目を向け、助ける、そのような神様の力を与えられるのです。

5節を見ましょう。「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」とあります。正義を腰の帯とするとは、正義を私たちの人生の中心に置くようになるという意味です。正義とは何でしょうか?私たちは正義と聞くと、悪者に罰が与えられることを想像しがちです。正義の味方、ヒーローが敵を暴力的にやっつける姿を正義と考えがちです。でも神様の正義はそのような暴力的な正義ではありません。聖書の正義とは私たちの思う正義とは少し違います。聖書の正義は平和や公平と近い概念です。聖書の正義は共存の概念です。

私たちの世界では政治、経済、裁判、教育、人権あらゆる場面で独占や偏りがあります。でも聖書の正義は、それらに偏りが無い状態です。立場の弱い人、貧しい人の立場からの視点で公平であるということが聖書の正義です。私たちは神様から力をいただくと、その正義・公平さを人生の中心に置くようになるのです。都合のよい話ではなく、真実を追い求める様になるのです。やられていた人がやり返すのではなく、共存をする様になるのです。

6節を見ましょう。まさにこれが聖書の正義が実現した世界です。『狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう』とあります。ここで描かれているのは、弱い者と強い者が、富める者と貧しい者が共存してゆく世界です。神様の正義とはこのように様々な立場の人が共存共栄してゆける場所のことです。弱肉強食ではない場所、それが神様の霊に満たされた時に起るのです。

それが今年、みなさんが満たされる力です。神様は他の誰でもないあなたに、このような世界を実現する力で満たしてくださるのです。あなたは神様の示す正義の力で心が満ち溢れます。そしてあなたは様々な偏りの中で、平和と公平を追い求めるようになるのです。

神様から見えない力をもらい、正義・立場の弱い人からみた公平を追い求めてゆく時、そこでは単に立場の逆転が起こるだけではありません。こひつじを殺していた狼が、今度は反対にこひつじが狼を殺す番が来るという事ではありません。今度は子牛がライオンを倒すのではないのです。

聖書は、本来共存が難しい者同士が共に生き、共に寝て、共に育つという風景を描いています。そして小さいこどもがそれを導くようになると言っています。それが正義に満たされた世界なのです。神様はこのような正義の世界を求め、私たちにその実現のための力を与えて下さるのです。

8節を見ましょう。ヘビが登場します。『乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる』聖書には赤ちゃんがヘビとも仲良くできるという描写です。私たちには神様の正義を実現する力が与えられます。そしてそのようにして実現する世界は、悪魔の代表と言われるヘビと仲良くできる世界なのです。

聖書はヘビを悪魔の代表のように扱う場面が多くあります。しかし、今日の個所ではヘビと共存できると言われます。ただ悪魔と言われている相手を踏みつけにして、亡きものとするなら簡単でしょう。しかし神様はそれを求めてはいません。そのような相手とも共存できる、あなたはその力に満たされると教えているのです。

私たちの世界では様々な衝突や対立があります。私たち個人個人の生活の中でも様々な衝突や対立があるでしょう。しかし、聖書はあなたがたは霊で満たされると言います。あなたを満たすのは排除の霊ではなく、正義の霊、共存共栄の霊です。その力であなたは満たされ、相手をやっつけるのではない方法で、共に生きていく力が与えられるのです。それが今年、私たちが神様からいただく力です。

そして私たちには今年、失敗もあるかもしれません。誰かに迷惑をかけることもあるかもしれません。きっとあるでしょう。でも神様は大きな失敗をして、たとえヘビのように否定をされても、きっとそれでも共に生きる道、共存の道を備えて下さいます。私がヘビの様になってしまう時も、神様は私に小さなこどもの命を通じて、私たちを導いてくださるのです。

9節、神様のそのような知恵はあまねく大地を覆います。神様は選ばれた人にだけ、その知恵をあたえるのではありません。海の水のように、大地のように、神様はすべての人をその力で満たしてくださるのです。

今年1年、あなたは神様の見えない力で満たされるでしょう。そしてあなたは正義と公平・平和を追い求めるようになるでしょう。それは狼を捕まえ、蛇を踏みつけにする生き方ではありません。神様は敵と思える相手とも、共存と平和の道へと導いてくださるでしょう。共に生きる1年があなたには実現するのです。神様の力が海を覆う水のように、あなたの心を満たします。そのことを信頼して新しい1年を歩みましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「神と星に導かれて」マタイ2章1~12節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をお献げできること、主に感謝します。2024年の最後の主日礼拝です。今日も私たちはこどもの声がする礼拝を続けましょう。

今年も一年間たくさんの礼拝をささげることができました。みなさんはどんな一年だったでしょうか。教会のことを振り返ると、いろいろな事のあった一年でした。何よりも嬉しいのはバプテスマ式だったでしょう。一番のビックニュースでした。転入会した方も2名おられました。何十年ぶりかに教会に戻ってきた方がおられたり、スペイン語での証しもありました。仲間が増えたことは何より嬉しい事です。

他にもたくさんの出来事がありました。工藤静香のミュージックビデオの撮影や、孤独のグルメのテレビ撮影もありました。大口の寄付やクラウドファンディングの達成というのもありました。こひつじカフェも始まりました。どれも1年前の計画に無かった事で、1年前には予想できないことがたくさん起こった年でした。

1年前の信徒会や、執事会の記録も見直していました。地域協働プロジェクトの申請が理事会に否決されたのは1年前でした。私たちはこの制度を使って土地売却し、発展的な会堂修繕ようとしていました。しかしそれは理事会で否決されてしまいました。私たちは納得できない思いもありながらも、新しい制度作りの過程で繰り返し意見を表明してきました。新しい規約の素案ができていますが、そこには私たちの要望が多く組み込まれています。これも1年前に想像していたこととは大きく違う結果になっています。

今の私たちは1年前に目指した場所とは、かなり違う場所に到着しているような気がします。私たちが神様のために、誰かのために、地域のために立ち上がろうとするとき、今まで決して起こらなかったことが起きたのです。私たちは1年間本当によく頑張りました。自分達をほめてあげたいのですが、でもそれだけではありません。このこと全体が神様の導きだと思います。神様の導きとしか言えないことがたくさん教会で起った1年でした。

予想もしないことがたくさん起き、私たちの旅路は変更を繰り返してばかりです。でもそれは今、希望へとつながっています。教会に起きたこれらの事は偶然ではなく、すべて神様に導かれ起きたのです。

もちろん私たちの旅はまだまだ終わりません。これからが本番です。来年、再来年の計画を作っています。でもきっとまた計画にないことがたくさん起こるでしょう。私たちの計画を超える、神様の導きがあるでしょう。私たちの人生はそのように、計画通りにはゆきません。でもかならず神様が導いてくださるのです。

教会に集う恵みは、このような神様の導きを強く実感できることでしょう。教会に集うと、教会が神様に導かれているという実感をもつことができます。そしてきっと私の人生も導かれていると実感できるでしょう。教会を通じて、共に集う人の人生を通じて、私たちの人生が導かれていると感じることができるでしょう。それは教会に集う人の恵みです。

次の1年も、教会も人生も、思い通りにはならないでしょう。私の予測通り、計画通りにはならないでしょう。それが人生です。

でもその変更こそ、神様の導きかもしれません。神様は必ず私たちを導いてくださるお方です。神様はこれまで私たちを不思議な道に導いてくれたように、来年も私たちを導いてくださいます。そのようなことを強く感じる1年でした。1年間、神様が導いてくださったことを感謝しています。今日も聖書を読みます。聖書の物語から神様の導きを見てゆきましょう。

マタイによる福音書2章1~12節をお読みいただきました。今日の個所では占星術の学者が登場します。彼らはイスラエルの人々にとって脅威でした。占星術の学者といえば東側の大帝国からくる、位の高い人でした。東側の国とはこれまで何度も戦争をしてきました。東の人が来るということは悪いことが起こる前兆です。

そして何より、彼らは星占いといういかがわしい方法によって未来を予測し、未来の計画を決めるという人でした。ユダヤ人から見ると、学者たちは決して尊敬できる人ではありませんでした。恐怖と軽蔑のまなざしを向けるべき人でした。そのような学者たちがある時、ひときわ輝く星を見つけました。これまで星の動きを正確に予測してきた人が、いままでとは全く違う動きと輝きをする新しい星を見つけたのです。学者にとってそれは大きな予想外、大きな計画外の出来事でした。

占星術によれば、その星は新しい王の誕生を示す星でした。学者たちは新しい王が生まれたことを確かめ、拝みに行くために、計画には無かった旅に出ることにしたのです。東の文明から、イスラエルまでの旅は数百キロに及んだはずです。未来を正確に予測する学者たちが、計画にはない長い旅に出発をしました。しかもそれは星の輝きが頼りだったのです。

まず学者たちはヘロデ王を訪ねました。新しい王が誕生するなら王家に誕生するのだろうと予想したからです。2節ヘロデ王に「新しい王はどこにいますか?拝みに来たのです」と尋ねました。しかしそこに新しい王は誕生していませんでした。ようやくイスラエルに着いた彼らは計画を変更しなければいけませんでした。今度はエルサレムの人々に聞いて回ったのでしょうか。首都エルサレムの人々なら何か知っているはずだと予測したのでしょう。しかしエルサレムの人々は不安がるばかりで、何も知らなかったのです。

学者たちは、ヘロデ王から新しい王はベツレヘムで生まれるということを聞きました。ベツレヘムは決して大きな町ではありませんでした。再度、学者たちは計画を変更し、ベツレヘムへ向かいました。しかし今度は家がたくさんあり、どこの家に新しい王が生まれたのか、見分けがつきませんでした。予測ができませんでした。しかしそこでもまた星の光が導きました。星の光は学者たちをイエス様の生まれた家の前まで導き、止まったのです。占星術の学者たちは、そこでようやくイエス様に出会うことができました。旅の出発をしてからイエス様に出会うまでに学者たちの計画と予想は一体何度、覆され、変更されたでしょうか。もう数えることができません。その度ごとに行き先が変わってゆきました。

しかしそのような変更は神様の導きによって起こされたものでした。新しい王、イエス・キリストに出会うことができたのは、まさに神様の導きだったのです。神様は何度も何度も、学者たちの計画を変更させ、学者たちをイエス様の元に導いたのです。彼らは神様の導きによって、何度も計画を変更し、ようやくイエス様に出会うことができたのです。

学者たちはイエス様に3つのプレゼントを渡しました。これでようやく自分の家に帰ることができそうです。ほっとしたでしょうか。しかしこの旅は最後まで神様の導きによって、計画が変更されます。当初の計画はヘロデに会って新しい王について報告をしてから帰る計画でしたが、夢のお告げに従って、ヘロデに会わずに別の道を通って帰ることにしたのです。このように学者たちは繰り返し計画を変えられ、自分たちの予測とまったく違う旅をしたのでした。それは星によって導かれた旅、神様によって導かれた旅だったのです。

さらにこの物語には、もう一つの予想外が隠されています。イエス様を見つけたのは、東の大帝国からくる、いかがわしい占星術師だったということです。新しい王はイエスラエルの王様が見つけたのではありませんでした。新しい王は救い主を求め続けたイスラエルの人々が見つけたのでもありませんでした。予想もつかない人が、信じる宗教さえ違う人が、新しい王イエス様を見つけたのです。これはイスラエルの人々にとってもまったく予想外のことでした。神様の導きとはこのようなものでした。徹底的に人々の計画通り、予想通りにはいかなかったのです。神様の計画に振り回された学者たちもかわいそうです。

この物語は私たちの人生にも当てはまるでしょうか。私たちの1年もこのようなものだったのでしょう。私たちは計画を立てましたが、計画通り、予想通りにはいかなかったことがたくさん起こりました。それは神様が私たちを導き、何度も計画の変更を迫った結果だったのでしょう。

私たちの1年も、振り返ると様々なことが起きた1年でした。それぞれ全く計画外で、予想外でした。しかしそれは確かに神様の導きだったと思います。私たちの1年は何度も計画が変更される占星術の学者の旅のようでした。でもそのような1年だったからこそ、なおさら私たちは神様の導きを強く感じることができた1年となったでしょう。

さて次の1年がはじまります。次の1年私たちはどんな星を見つけ、どんな旅に出るのでしょうか?どんな出来事が待っているのでしょうか?心がくじけるような変更もあるかもしれません。しかし確かなことは、私たちは神様の大きな導きの中に生きているということです。私たちは今年神様の大きな導きの中で1年を過ごしました。教会もひとりひとりもそのように神様に導かれた1年でした。

次の1年もきっとそうでしょう。予想ができないことは不安な事でもありますが、私たちにはまた様々なことが起こるでしょう。私たちに自分たちの計画や予測を超えて、また明るく輝く星が示されるでしょう。共にそれを目指して、旅路を出発しましょう。次の1年も旅の計画は何度も変更されます。私たちは占星術の学者のように何度も旅路を変更し、紆余曲折するでしょう。でもそれこそが神様の導きなのです。私たちはこの1年の神様の導きに感謝し、来年も神様の導きを共に歩んでゆきましょう。お祈りをいたします。

 

 

【全文】「孤独に生まれた神」ルカ2章1~7節

 みなさん、こんばんは。今日はようこそキャンドル礼拝にお越し下さいました。この教会の牧師の平野と申します。私たちの教会はこの礼拝をこどもと一緒持っています。こどもたちの声や足音もこの礼拝の一部です。命の音を感じながら一緒に礼拝をしましょう。

今年、私たちの教会は「孤独のグルメ」というドラマでとりあげられて、大きな注目を集めました。私たちの運営するこども食堂がモチーフとなり、輸入雑貨販売の主人公が急にこども食堂のボランティアをすることになったり、両親が海外出張しているこどもが寂しくてこども食堂に食べに来たり、妻に先立たれた夫が手作りの食事を食べにこども食堂に来たりするというドラマでした。このドラマは主人公がいつも孤独に、一人で食事をするのがお決まりなのですが、今回に限り「孤独ではない」設定となりました。初めて出会う3人が一緒に時間を過ごし食事をしたのです。よいドラマだったと思っています。こども食堂を通じて、普段の教会の温かさも伝わったと思っています。

教会とは何かにすがりたいと思っている人だけが集まる場所、深い悩み事がある人だけが集まる場所ではありません。さまざまな人が集まっています。教会の雰囲気は、さまざまな人が集まることによって織りなされています。その雰囲気のひとつは「孤独ではない」という雰囲気です。教会に来れば誰かに会うことができます。誰かと一緒に食事をすることができます。ともに時間を過ごし、食事をすれば、気分が明るくなったり、元気が出てきたりするものです。教会は誰かと共に時間を過ごす場所として、孤独ではない場所として建っています。

何回か教会のそのような雰囲気の中にいると「ああ、神様に守られている」と感じることがあるでしょう。私は友人や仲間に囲まれている。でもそれだけではない。もっと大きな、もっと深いものに包まれていると感じることができるでしょう。みなさんにもぜひ今日はその雰囲気を感じ取って帰って欲しいと思っています。また教会には様々な行事があります。どれもたくさんの人が集まる行事です。きっと私には仲間が共にいるということ、私には神様が共にいるということを感じることができると思います。今日はお読みいただいた物語から、孤独と神様の存在について、一緒に考えてゆきましょう。

 

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絵本と聖書を読んでいただきました。絵本の中で、生まれてきた赤ちゃんが神の子イエス・キリストです。私たちの心と魂を救ってくれる存在です。

聖書によればイエス・キリストの父と母は出産が迫っているにも関わらず、旅に出なければいけませんでした。大変な旅です。そして旅先で泊まる場所が無かったとあります。誰も助けてくれなかったのです。そしてさらに旅先で産気づき出産を迎えることになりました。生まれたこどもは飼い葉桶、動物にエサをやるための箱に入れられたとあります。このことから母マリアは家畜小屋で出産をしたのではないかと伝承されています。何と言う出産でしょうか。

絵本では安らかな出産だった様に描かれていますが、現実に家畜小屋で出産する母マリアはどれだけの不安を感じながらの出産だったでしょうか。旅先の出産、家畜小屋での出産、それは不衛生で、十分な支援の無い出産だったでしょう。誰の助けもない夫婦二人だけの驚くほど孤独で困難な出産でした。まずマリアは思ったでしょう。「こんな時、夫はちっとも役に立たない」「夫は何もわかっていない」。そんな声が聞こえてくるようです。

家族がたくさんいる中での出産ならばどれほど心強かったことでしょうか。せめてもう一人、励ましてくれる仲間がいたらどれほど心強かったことでしょうか。しかしマリアたちは孤立無援の出産を体験しました。現実はこのような安らかなものではなく壮絶なものだったでしょう。

私たちはこのように生まれてきたのが神様と等しい存在、イエス・キリストだと信じています。神の子イエス・キリストはこのように地上に生まれてきたのです。生まれてきたのは孤独な場所でした。神の子イエス・キリストは孤独な出産の現場で生まれてきたのです。それが本当のクリスマス物語だったのです。

みなさんはこの物語からどのようなことを感じるでしょうか。一人で苦難を乗り越えるのは大変なものです。仲間の大切さを感じるでしょう。人生で大事なものは共に歩む仲間です。ここでは共に生きる仲間の心強さが語られているでしょう。

そしてもうひとつこの物語は、神様がどこに、どんな場所にいるのかということも教えてくれます。つまりそれは、神様は孤独の中に来て下さるということです。神の子イエス・キリストはにぎやかな場所に生まれたのではありませんでした。イエス・キリストは孤独で、助けの足りない、まさにその場所を選んで生まれてきたお方だったのです。神様はこの出産によって、神様は孤独の中に共にいるお方であることを表したのです。神の子ならばもっと華々しく生まれることもできたでしょう。しかし神の子は孤独な場所に生まれることを選んだのです。それが神様のあり方だったのです。

私たちの周りにはたくさんの孤独があります。出産、子育て、学校、職場、家庭、食事、介護、さまざまな場所に孤独が存在します。そのような孤独のある場所に、神様は来て下さるお方です。神様は孤独にいるその心に生まれ、その心に共にいてくださるお方なのです。そして神様は人と人とを結びつける場所に導いてくださるでしょう。みなさんにもこの神様が共にいるのです。

今日、みなさんはキャンドルをひとつずつ持っています。それは消えそうで不安になる小さな光です。ひとつでは孤独なさみしい光です。でもそこに神様が共にいて下さいます。そして神様は孤独ではない場所に、たくさんの光が集まる場所に導いてくださるでしょう。それが今日です。今日神様はこのキャンドルのような私に共にいて下さり、美しいもので私たちを穏やかにしてくださるのです。神様はきっとこれからも今日のように、美しく、穏やかな気持ちにする場所へと私たちを導いてくださるでしょう。その様にして今、神様は私たちと共にいて下さるのです。

神様は孤独と思える場所に共にいて下さるお方です。どうぞそれを感じて帰ってください。お祈りをいたします。

 

【全文】「恐れず、迎え入れなさい」マタイ1章18~25節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうしてクリスマス礼拝を共にお献げできること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声、命の声に囲まれながら、共に礼拝をしましょう。

みなさんもきっとそうだと思いますが、この後の食事会を楽しみにしています。私たちはこの後の持ち寄りの食事会を愛餐会(あいさんかい)と呼んでいます。これは互いを思う、愛を確かめ合う食事会です。

いろいろな人がいろいろなメニューを持ってきています。この食事会が楽しいのは、色とりどりのメニューが同時にテーブルの上に並ぶことです。この食事会は一人一人が違うものを持ち寄って集まることが大事だからです。もちろん時々かぶってしまうこともありますが、それは似ていても、ひとつとして同じものがない、違う味です。そしてこの愛餐会は食べながら、あなたの作ったものがおいしいと言い合う会でもあります。みんながお互いの笑顔を想像しながら作りました。誰かのことを思って何かを準備する、これが愛ではないでしょうか。これが愛餐会です。愛餐会は一品では、一人ではできない集まりです。みんながみんなを思い合って集まり、分かち合うことが愛になるのです。

私たちは愛し合うということを難しく考えすぎているかもしれません。愛し合うということは、この食事のようなことです。誰かを思って準備すること、ひとりひとりの違いが大事であること、分かち合うこと、お互いのことをお腹の中に迎え入れ、受け入れ、ほめ合うということ、それが愛なのです。相手を私たちのお腹、心に迎え入れることが愛なのです。愛餐会は料理を通じてお互いを迎え入れる象徴です。それは教会の本質とも言えるでしょう。何も持って来ていない人もどうぞ、食べて帰ってください。私たちはそれぞれ、互いの違いを大切に思い、お腹で受け止め、心でそれを受け入れてゆきます。その時私たちは楽しさを覚えるのです。料理の中には食べた事のないもの、苦手なものもあるでしょう。無理に食べる必要はありませんが、チャレンジするともしかしたらおいしいかもしれません。ぜひいろいろな物を食べて、いろいろなものを受け止めて欲しいと思います。

私たちの教会は今年、実に様々な人を迎え入れました。礼拝だけではなく、こども食堂やカフェ、こどもの行事やテレビの撮影もありました。たくさんの方が来てくれることは嬉しいことです。私たちの教会では、いつもどの集会もだれでも来ていいのだということをアピールしています。教会は信じている人、ちゃんとした人、礼拝する人だけが来る場所ではありません。毎週集う人のためだけの場所でもありません。いろいろな人が、いろいろな気持ちを持ち寄って集まるのが教会です。教会には嬉しい人、悲しい人、泣いている人、笑っている人が来ます。キリスト教を信じている人も疑っている人もいます。ドラマに出た場所を見たくて来たい人もいます。学校のレポートの課題で来た人もいます。その気持ちはまるで愛餐会の料理のように色とりどりです。でも教会とはそのようにいろいろな人を迎え入れる場所なのです。教会は愛餐会のテーブルに様々な料理が並ぶように、様々な人を迎え入れてゆく場所なのです。

教会は、着飾ったり、背伸びしたりする場所ではなく、素直な自分でいられる場所であって欲しいと思っています。この人たちの前だったら正直でいいかなと思える教会になりたいのです。ここだったら自分の傷を見せても笑われないと思われる場所でありたいです。ここなら自分と向き合えると思える、教会はそういう場所でありたいです。このあとの楽しい食事の前に聖書の話をします。聖書から愛を聞きます。今日は聖書からお互いを受け入れ合うことを考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

マタイによる福音書1章18~25節までをお読みいただきました。ヨセフという人に注目をします。ヨセフには結婚の約束した相手マリアがいました。しかしヨセフは婚約者マリアが自分以外の人のこどもを妊娠したと聞きました。ヨセフは当然、縁を切ろうと思いました。婚約を破棄しようと思ったのです。しかし天使が現れて「その妊娠は聖霊によるものだ」ということを聞きます。それは不思議な出来事でした。そして天使はこういったのです「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」。なんということでしょうか。それを受け入れ、迎え入れることとはどんな困難なことでしょうか。

ヨセフは正しい人だったとあります。ヨセフは正しい人だからこれを迎え入れることができたのです。正しい人とはどんな人のことでしょうか。聖書の正しさとは「正義」や「義」とも表現されます。聖書の正義とは何でしょうか。我々の思う正義ならすぐにイメージできるでしょう。それは正義の味方というイメージです。正義の味方は悪い事をした人に、罰を与え、やっつけます。悪者にぎゃふんと言わせてやるが正義です。悪への鉄槌が正義です。私たちの正義、この正しさによれば、マリアは罰、制裁を受けるべき存在でしょう。当時、不貞の罪は死罪の可能性もありました。私たち人間の正しさによれば、マリアが罰を受けるはずだったのです。

しかしヨセフはそうしませんでした。ヨセフは正しい人、正義の人でした。実は聖書の「正義」「正しい」には、私たちのイメージする罰を与えるという意味はありません。聖書の「正義」「正しい」という言葉は公平とも似ている言葉です。貧しくされている人や、立場が弱い人が守られるという意味です。貧しくされている人や、立場が弱い人が守られることが正義、正しいことなのです。

ヨセフがどうして、このことを受け入れようと思ったのか、それはもしかするとヨセフは第一にお腹のこどもを守るということを考えたのかもしれません。いろいろな事情があったでしょう。しかしお腹のこどもには何の責任もないことです。ヨセフはきっとお腹のこどもを第一に考え、守ろうとしました。ヨセフは大人の都合で殺されてしまう小さな命を守ろうとしたのです。ヨセフがまず守ろうとしたのは、お腹の子どもの命です。それが神様の目に正しいことだったのです。ヨセフはこのような意味で正しい人でした。神様の正義に目を向け行動をしました。ヨセフは正しく、正義の人だったからこそ、立場の弱い、こども命に目を向けました。

天使の告知も信じたでしょうか。ヨセフはマリアのことも信じ、守ろうとしました。それが正しいことだと思ったのです。こどもの命とマリアを守ることが正義だとおもったのです。「恐れず、迎え入れなさい」という恐ろしい言葉を受けて、それを決心しました。その決心が愛を教えるイエス様を育んだのです。それによってイエスは生まれることができました。ヨセフが受け入れがたい事実を受け入れる、迎え入れる決断によって、救い主は生まれたのです。ヨセフのように立場の弱い人を守ろうとすること、そのひとを受け止め、迎え入れてゆくこと、それが神様にとっての正義でした。そしてその正義によって、イエス・キリストは地上に生まれたのです。

ヨセフがこのようにこどもとマリアを受け入れ、迎え入れた様子を見て、果たして私はそのように、他者を迎え入れる存在になっているだろうかと思いました。私は他者に、人間の正義を振りかざして、拒絶していないか、無関心になっていないかと思わされます。自分の正義ばかりを振りかざし、彼のようには他者を受け入れられない自分を見つけます。

私たちのこの教会はどうでしょうか?様々な気持ちや状況に置かれた人がこの教会に集います。それを迎え入れることが出来ているでしょうか。私たちの教会もヨセフの様に、様々な事情をもった人を迎え入れることができる教会になりたいと感じます。教会は信じている人だけのものではありません。教会は地域の食堂だけでもありません。教会はさまざまなメニューがテーブルの上に並ぶ愛餐会のように、様々な人が同時に集まります。みんな違うから良いのです。

そしてそれは品評会ではありません。互いを受け入れ、迎え入れ、ほめ合う食事会です。そのような教会になりたいと思います。さまざまな人々が集まれば、いろいろな衝突が起きますが、私たちはその出会いを恐れずに、お互いを迎え入れあいたいのです。たくさんの人がいて、出会いがあれば苦手があるかもしれませんが、それでも互いを迎え入れ、互いを受け入れ、互いを大切にしあう仲間となりたいと思っています。

きっと天使は教会にもこういうでしょう「恐れず、迎え入れなさい」。この声を聞き、私たちの教会はお互いを迎え入れあってゆきましょう。もちろん私たち一人一人の生活の場所でもそうです。様々な価値観があります。それを受け入れ合ってゆきましょう。世の中の正義に振り回されず、聖書の正義・他者を守るという正義に生きてゆきましょう。

この個所から神様と私たちの人生の関係も考えます。私たちの人生には驚くことや苦労が起きるものです。でも神様は私たちにそれを迎え入れるように言っています。私たちにそれから逃げ出さずに向き合う様に言っているのです。そして私たちが異なる他者を恐れずに受け止める事、迎え入れる事も勧めています。神様の正義、小さい命を守ることを神様は私たちに期待しているのです。

そして何よりまず神様が先に私たちのことをも受け入れ、迎え入れ、愛してくれているのでしょう。神様は私たちが誰か、何かを迎え入れるよりも何倍も温かく、私たちを受け入れて下さっているのでしょう。神様は私たちをそのように愛してくださっているのです。神様とはそのような方です。私たちはこの神様を信じ、愛し合い、迎え入れあいましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「背中で語る福音」マタイ11章2~19節

イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。

マタイによる福音書11章4節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝に集められたこと、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会、こどもと一緒に礼拝する教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。もうすぐクリスマスです。クリスマスは、キリスト教や教会が最も注目を集める季節です。クリスマスという機会を通じてたくさんの人にキリスト教・クリスチャンに触れ、神様のことを知って欲しいと思っています。

先日ある方と「多くの人の持っているクリスチャンのイメージ」という話をしました。日本にクリスチャンは1%未満と言われますから、多くの人にとってクリスチャンと出会う機会は少ないものです。クリスチャンへのイメージもテレビで見るものに影響されるのでしょう。マザーテレサ、清廉、熱心、人格者というイメージがあるかもしれません。といったイメージがあるでしょうか。クリスチャンに対してそのようなイメージと期待を頂けることは嬉しい事ですが、同時にそのようなイメージにそぐわない自分に葛藤をします。深い話ができる時間と関係があればこの葛藤を説明できるでしょう。「隣人愛を大切にしたいと思っているのだけれど、本当はあなたと同じ迷いの多い、罪深い人間だ」と伝えることができます。でもそのような関係になるまでには長い時間がかかります。

キリスト教のことはインターネットで検索してもわかりづらいものです。キリスト教を知るには日常生活の中でクリスチャンと出会うことがもっとも重要です。日常でクリスチャンと出会えば、本当のクリスチャンのことが分かるでしょう。自分と変わらない生活をし、変わらないことで悩み、変わらないことで失敗をしていることが分かるはずです。そしてちょっと違う部分にも気づくでしょうか。私たちは、愛し合おうとする姿勢において、少しだけ異なります。他者を愛そうという姿を見て、これがクリスチャンなのかと思ってもらえるでしょうか?

キリスト教やクリスマス、クリスチャンのことを知らない人にとって、本物のクリスチャンである皆さんとの出会いはとても貴重な体験です。隠れて生きるのではなく、私たちはイメージを演じるのではなく、その方たちに、私たちがほとんど変わらない、でも少しだけ違うということを知って欲しいです。

私たちは他の人と少しだけだけど、大きく違うことがあります。それは愛し合おうとするということです。お互いを大切にしあおうとするということです。その違いを言葉で説明することは難しく、多くの時間がかかるでしょう。私たちはまず自分の背中で、自分の日頃の行動を通じて、愛し合うことを伝えてゆく必要があります。私たちが他者を愛するという姿勢が、私たちの背中から伝わり、キリスト教が、福音が伝わっていったら嬉しいと思っています。クリスマスの機会、特にクリスチャンに注目が集まっています。私たちは今週も、愛し合う姿を証しする、そのような1週間を過ごしましょう。今日はイエス様に従った人々から、どのように人々に福音が広がってゆくのかを見てゆきます。そして私たちはどのように生きてゆくべきなのかを考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

マタイによる福音書11章2~19節までをお読みいただきました。イエス様と同じ時代、バプテスマのヨハネという人がいました。バプテスマのヨハネは逮捕され監獄に入れられていました。そして彼は信仰において確かめたいことがありました。それは「イエスは救い主なのかどうか」ということです。それを聞くためにイエス様に直接、弟子を派遣しました。

イエス様の周りには様々な人がいたと記録されています。聖書の文字通りに、病気が治った人がいるのかどうかはわかりません。本当に病気が治ったかどうかわわかりません。でも確かなのは、イエス様がそのような傷つき、痛み、悩みを持つ人と一緒にいたということです。イエス様に従った人々とは、宗教的な勉強をたくさんして、信仰熱心で、人格者たちばかりだったわけではありませんでした。イエス様に従った人々は、傷つき、弱さを抱えた人々でした。イエス様はその人々と共に過ごすことで、励ましと希望を与えていたのです。

そこにヨハネの弟子たちが来て聞きます。「来るべき方は、あなたですか?」弟子たちイエス様が人々が待ち望んだ救い主、キリスト、すべての人を救う神であるかを確認しようとしたのです。それに対してイエス様はこう返事をしています「見聞きしていることを伝えなさい」。この回答はおもしろい回答です。〇か×かはっきりさせず、見たままが答えだと回答しました。投げやりな回答にも見えますが、そうではありません。自分が救い主であるかどうか、口では何とでも言えるものだったからです。実際にイエス様の時代には、私はキリストだと自称する人がたくさんいました。イエス様は言葉であれこれ説明をしようとしませんでした。「あなたの見たままが答えですよ」と言ったのです。それは自分でその人と出会って確かめるようにという意味です。直接答えるのではなく、イエス様と出会った人を見て、判断するようにと言ったのです。

果たしてイエス様は弟子たちの何を見せようとしたのでしょうか。そしてヨハネの弟子たちは何を見て帰ったのでしょうか?病気が治ったこと、耳の聞こえない人が聞こえるようになったことでしょうか。イエス様はそのような奇跡を見て信じなさいと言ったのでしょうか?私はそうではないと思います。きっとイエス様は癒された人々のその後の姿、生き方、背中を見るようにと言ったのだと思います。イエス様のそばにいた人々は病気や障がい、経済力によって社会から追いやられ、見放され、イエス様のもとに来た人でした。その人々はイエス様に愛され、受け入れられてゆきました。やがて癒された人々は今度はイエス様の様に他者を愛し、受け入れ合おうとしたはずです。イエス様の群れは仲間を愛し合う共同体となってゆきました。イエス様はヨハネの弟子たちに、それを「見よ」言ったのではないでしょうか。神様に愛された人が、今度はお互いを愛し合う姿を見よと言ったのではないでしょうか。そこにはお互いの病をいたわり合い、分かち合い、助け合う姿がありました。イエス様はヨハネの弟子たちに対して、自分が救い主かどうかは、このように人々が互いに愛し合っている様子を見ればわかると言ったのです。これは面白い答えです。人々が愛し合っている姿を見れば、私が神の子・キリストであることがわかるという答えです。

今の私たちに重ねたらどうなるでしょうか?私たちは神様に癒され、支えらえる者として、この人々と同じ様にイエス様のそばに生きています。そしてイエス様のもとに誰かが来て、あなたは本物かと問うとします。そうするとイエス様はまた言うでしょう。「この人たちを見ればわかる」。神が本物であるかは、クリスチャンを見ればわかるということです。教会を見ればわかるということ、私たちを見ればわかるということです。私たちと出会えばわかるということです。私たちはそのような立派な信仰者ではないかもしれませんが、でもイエス様は私たちと出会えばきっと神のことがわかると言っているのです。キリストが本物かは、出会った人の生き様で示されます。私たちはキリストに変えられた者、キリストに従う者です。その私たちは神様から、人々と出会う者とされています。私たちはイエス様に癒され、励まされて終わりではないのです。イエス・キリストの証人として、人々と出会う役割が与えられています。人々と出会い、愛し合う姿を見せる、共に生きる姿を見せる、それがイエス様を本物だと証しすることになるのです。行動で示し、背中で語る、それが福音を伝える方法です。

私にはそんなことできないと思うでしょう。もちろんそれは、身の丈にあった範囲で良いはずです。私たちは相手のイメージを演じる必要はありません。多くの人と同じ悩みを背負って生きています。その中で自分がイエス様に出会ってどう生きているのか、どのように他者を愛し生きているのか、その実践が福音を伝えてゆくこと、そのものなのです。

17節からは「笛を吹いたのに踊ってくれない」「葬式なのに悲しんでくれない」とあります。おそらくこれは、自分のイメージに合った行動をして欲しいというたとえです。自分が楽しい曲を吹いたら踊って欲しい、葬式の歌を歌ったら、悲しんで欲しいという期待です。人々は相手に対してそのように勝手に様々な期待、イメージを持っています。キリストに対してもそうでした。きっとお酒は飲まないだろう、ご飯はたくさん食べないだろう。徴税人や罪人とは関係しないだろう。そのような期待とイメージがありました。でもイエス様はそのイメージに応えたのではなく、打ち破っていきました。人々の勝手なイメージに囚われず、愛を実践したのです。期待に応えるのが私たちの役割ではありません。私たちの役割は私が神に愛され、大切にされているように、他者を愛し大切にする、その姿を背中で見せてゆくことです。それによってキリストが本物であると伝えられるのです。

私たちはどう生きるかを考えます。私たちは神様を信じない人と同じ様に苦しみを生きています。でも私たちは、互いを愛し合うこと、大切にしあうことにおいて他の人と少しだけ違う生き方をします。神様はそのように私たちが葛藤する姿、愛し合う姿を通じて、福音を広げるお方です。そして私たちは出会いの中に生かされています。信仰を飾らない生き方が、信仰者として愛し合うあなたの姿が、イエス様を本当の神だと証しするのです。

クリスマスは多くの人がキリスト教への関心、クリスチャンへの関心を向ける時期です。私たちはただ愛し合うという姿によって、キリストが救い主であることをそれぞれの場所で証ししてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「近すぎるくらい近い神」マタイ13章53~58節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。2本目のろうそくに明かりをともし、クリスマスまでの日付を数えています。私たちはこどもの声がする礼拝を続けています。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。

もうすぐ平塚に引っ越してきて7年になります。私は一か所に長く住んだ経験があまりありません。人生で10回以上の引っ越しを経験しました。これまで深い近所付き合いというものにあまり経験がありませんでしたが、平塚では近所の方との交流を楽しんでいます。平塚市の人口は約20万人で、ここ豊原町の人口は約1000人ほどだそうです。7年ですが、住んでいるといろいろな人に関わる機会があります。今年は町内会の組長が回ってきました。なんとなく地域の人の顔がわかるようになってきました。

小さな町内会です。いろいろな人間関係や問題がありながらも、うまくやっているようです。豊原町はまだ地域の触れ合いが残る良い町だと思っています。このくらいの人数がなんとなく顔が分かってちょうどよいものです。小さい頃から平塚・豊原町で育った人々は、あそこの家はこうだとか、どこそこの人はこうだと、驚くほど地域の人ことをよく知っています。それは長年の交流が積み重ねなのでしょう。この町が人と人との距離感がとても近く、温かい場所であることを実感します。

 

 

 

やはりなんでも聖書の時代と重ね合わせてしまいます。当時のパレスチナの人口は50万~100万人くらいのだったのではと言われます。ガリラヤにも数万人規模の人口の都市がいくつか存在したようです。考古学的な発掘によればガリラヤのカファルナウムは人口1500~2000人、ナザレは500人以下の村だったと推測されています。ナザレは町内会ほどの小さな村だったのです。多くの村では中央に広場があり、その周辺を家が取り巻くかたちで集落を形成しました。広場は公共の空間で村人たちの話し合いやお祭の場所になりました。家は集合住宅で、数家族が住む長屋のような家が多くあったそうです。中庭もあり、そこは家族や隣人との交流場所で、共用のかまどや水槽などが置かれていました。当時の人々の暮らしを思い浮かべて、想像をします。

イエス様はこのナザレでどのように暮らし、育ったのでしょうか。ナザレの人々にとってイエス様はごく普通の人だったようです。55節には「この人は大工の息子ではないか」とあります。ナザレの人は聖書で伝えられている神秘的なクリスマス物語について、何も知らないようです。イエス様は普通の男の子、小さい村の近所のこどものひとりだったのです。イエス様はナザレという500人以下の町で集合住宅に住む、長屋の子どもでした。今の私たちから見ると家族の様な交流のある共同生活の中に生きていたはずです。ナザレの人々は、自分たちの村、まるで小さな町内会のようなコミュニティから、世界を救う宗教指導者が生まれることを想像できなかったのでしょう。

ナザレのあるガリラヤ地方は、豊かな穀倉地帯でした。農村地域だったのです。聖書にはペテロの言葉が「ガリラヤなまりだ」と言われる場面があります。エルサレムなどの都会に住む人にとってガリラヤはそのような小さな田舎町、とるに足らない町でした。異邦人のガリラヤという言葉もあります。異邦人との交流が多かったガリラヤからは、良いものは出ないと言われていました。旧約聖書にはいろいろな町の名前が無数に登場しますが、ナザレという町の名前は一度も登場しません。そのような歴史に登場しない町、小さな町の、共同住宅に住む、普通の男の子が、ある日預言者として、様々なことを教えだしたのです。奇跡を起こし始めたのです。

ナザレの住民の反応は容易に想像できるでしょう。いつもイエス様が駆け回っていたナザレ村の広場に、大人になったイエス様の姿があります。それは昔から変わらない光景です。「あそこにいるのはマリアの子イエスだろ。知っているよ」。イエス様はそのような距離感で一緒に暮らした人々に現れました。だから57節にもあるように「人々はイエスにつまずいた」のです。受け入れられなかったのです。それはそうです。それは信じられないでしょう。なぜなら距離感が近すぎるからです。憧れの町エルサレムで生まれた救い主なら信じたかもしれません。しかし、まさか小さな自分の住んでいる、誰からも見向きをされない小さな村から、預言者・救い主が登場するとは信じることが出来ませんでした。しかももともとよく知っている、自分たちと一緒に過ごしていたこども・イエスが救い主だなんて、とても信じられなかったのです、人々は奇跡が起きようとも、教えが素晴らしかろうとも信じなかったのです。だってそれがイエスだったからです。彼らにとってイエス様は距離感が近すぎたのです。

ナザレでは特に強くこのような反応がありました。しかしこれはナザレだけでおきた反応ではありません。この反応は他の地域での先取りとして起きています。イエス様はどこに行っても、あのガリラヤから?あのナザレから?ナザレってどこ?と言われたはずです。何百年も待った人が、ガリラヤからナザレから生まれるはずはない、今この時、自分の目の前に居るわけがない。見た目とか意外と普通なのね。みなそう思ったでしょう。何百年も待った救い主が、自分の前に居る、それぞれの救い主イメージとはかけ離れていました。ただ普通の人間が目の前に、近くにいただけだったのです。その距離感は近すぎました。きっと私たちがそこにいてもそう思ったのでしょう。

もしかして私たちがそこに居たら「あなたが救い主のはずがない」と他の人々と共に怒ったかもしれません。そんなうそつきは十字架に掛けろと一緒に叫んだかもしれません。イエス様の十字架には侮辱する看板が立てられたと言われています。それは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という看板でした。その看板はナザレからユダヤ人の王が出るはずがないという侮辱だったのです。しかし、多くの人が復活の後、イエス・キリストは救い主であったということを認めるようになりました。

さらに復活のその後まで見通すと、イエス様は復活の後、ガリラヤに行くと言います。やはりまたガリラヤなのです。それは、神様が私たちの日常の中、見過ごされがちな場所にこそ現れるというメッセージの表れではないでしょうか。人々が魅力を感じる中央ではなく、人々が見過ごしている場所、ガリラヤでまた会おうと言います。イエス様は再びガリラヤを選んだのです。

この物語は、私たちにとって神様とはどのような方なのかを示唆しています。それはつまり、神様とは私たちにとって近すぎるくらい、近いお方であるということです。今ではない、ここではない、この人ではない、そう思う場所に、神様は現れるのです。それが神様の在り方なのです。クリスマス物語で私たちは知っています。神様と等しいお方、イエス・キリストは人知れずに馬小屋で生まれ、他の人と同じ様にナザレで育ち、地域の中で育ったのです。そしてその後、待ち望んだ救い主とは、そのように私たちに近いあり方ではないと十字架に掛けられたのです。しかしそれが本当の神様の在り方でした。ガリラヤの人はあまりにも近すぎる神、自分のイメージと違う神に人々は困惑しました。それが2000年前に起きたことでした。

この物語を私たちの物語として聞きましょう。神様とは私たちの近くにいる存在です。それは近すぎるほどに近くにいる存在なのです。まだ私には神様なんて来ない、こんな私に神様なんて来ない、そう思っている方は注意が必要です。そう思う人の心に神様はもうすでに近すぎるほどに来ているのです。今ではない、まだ私には神が来ていないと思う方も、注意が必要です。もうそこにすでに神様は近すぎるほどに来ています。イエス・キリストを、これは私の思う神の姿ではないと思う方にも注意が必要です。神様はそのようにして十字架に掛かったお方なのです。十字架の姿であなたの近くにすでにおられます。

神様はこのように私たちのイメージを超える場所と、時間に現れるお方です。そしてそれは輝かしい姿ではないのでしょう。その距離感も私たちの心に近すぎるくらい近くにすでにいるのです。ここではない、今ではない、私ではないと思う場所にこそ、神様は現れるのです。

私たちはアドベントの2週目を迎えています。神の一人子イエスは、この地上の貧しいガリラヤのナザレで生まれ、育ちました。ごく普通のこどもとして育ちました。神の子であるにも関わらず、そのようなあり方選びました。それは神様は私たちのすぐそばに、近くにおられるという象徴となっています。イエス様は私の心に近すぎるくらい、近くにいるのです。私たちの神様はそのようにして、私たちと共にいて下さり、私たちを導いてくれるのです。

クリスマスをそのことを感じながら迎えてゆきましょう。私たちのすぐ近くに神様がいます。私たちのすぐ近くに神様の愛があります。それを私たちの普段の生活の中で感じ取ることができるでしょうか。私たちの生活の中で神様が近くにおられることを探してゆきましょう。私たちは見過ごされがちな場所に、隅に追いやられた場所に、寂しいと思う場所にきっと神様がいる、その存在を見つけることができるはずです。アドベントが近づいてきています。神様の愛は、私たちに近づいてきています。神様はいつも近すぎるくらい、私たちの近くに居て下さるお方です、そのことを忘れずにアドベントを過ごしましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「無期限の希望」マタイ24章36~44節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の声を聞きながら、命を感じながら礼拝をしてゆきましょう。今日から12月です。1年はとても早いものだと感じます。みなさんの1年はどんな1年だったでしょうか?私は忙しい1年で、あっという間でした。こひつじ食堂やこひつじカフェ、テレビの撮影、神学校の講師など、忙しい1年でした。毎日「いついつまでに」というように何かの日付に追われたり、誰かに「何日までになるべく早く」と急ぐようにせかしたりした1年でした。きっとみなさんも、それぞれに、何かに追われながら過ごした1年だったのではないでしょうか? 

教会には今年、こどもの誕生の知らせもありました。もちろんこどもの誕生については絶対にせかしてはいけません。こどもの誕生について、その日付は人間の手で決めることができません。そのプロセスには神様の計画が含まれており、私たちにはその奇跡を静かに、そして祈って、待つという役割が与えられています。こどもたちの成長についても同じことが言えるでしょう。私たち人間がこどもの成長のスピードを決めることはできません。私たちは誕生や成長に日付を決めたり、せかしたりしてはいけないのです。こどもの成鳥には待つこと、祈ることが大事です。私たちはすぐに日付を決めたくなるものですが、大きな希望こそ、それがいつなのかわからないものなのです。そしてこどもたちをよく見ると、すでに様々な成長をしています。いつかいつかと思ううちに、すでにこどもが成長しているということも多いものです。

あと3週間後の12月25日にはクリスマスがやって来ます。残された時間は全員同じです。私たちはそれを遅く感じたり、早く感じたりします。誰も時期を早めることはできませんが、それは必ずやってきます。私たちのクリスマスには、日付がついています。それはあと何日すればという楽しみでもあります。でも違う希望もあります。それは日付の無い希望です。本当の希望とは日付がないものなのかもしれません。私たちは病気が治る日や、困難が終わる日、人の生まれる日を具体的に知ることはできません。

でもその中で私たちは前に進む希望を見出してゆきます。いつだかわからないけど、必ず起こるという約束のある希望が私たちを前に進ませてゆくのです。そしてその希望にはきっともうすでに始まっている部分があるのではないでしょうか。今日は日付の無い希望について、そしてすでに始まっている希望について考えたいと思います。

 

 

 

今日はマタイによる福音書24章36~44節までをお読みいただきました。聖書の時代の人々も忙しく、あっという間の1年を過ごしていたでしょう。今日の個所からは当時の人々の忙しい生活が透けて見えてきます。38節以降、人々は食事の準備をしたり、結婚式をしたり、災害がおきたり、畑仕事をしたり、忙しく生活をしていました。彼らには何百年も待っていることがありました。それは救い主の誕生です。自分たちの魂を支える存在、自分たちの生活を支える存在である救い主が登場するのを、ずっと待っていたのです。彼らもクリスマスを待ち望んでいたのです。

同じクリスマスを待つということでも、私たちの時代の待ち方とは大きな違いがありました。それは、いつ来るかわからなかったという違いです。私たちはクリスマスが毎年来る、12月25日という日付を知っています。しかし当時の人にはそれがわからなかったのです。それは43節、まるで泥棒のように、あるいは突然帰って来る主人のように、いつ起こるのかわからないものだったのです。その出来事はいつ来るのか、誰も知らない、思いがけない時に起るものだったのです。36節「その日、その時を誰も知らなかった」とあるとおりです。

いつ来るかわからないものを待つというのは、どれだけたいくつで、どれだけ長く感じたでしょうか。いつかいつかと先延ばしされ、約束が忘れられていると感じたかもしれません。さらに現代の私たちは、予定や締切に追われる日々が当たり前です。だからこそいつ起こるかわからないことに対して、希望を見出すのが難しいはずです。日付の無い約束は、口先だけの約束に感じるかもしれません。苦しい時、せめてそれがいつ終わるのか、その日付さえ分かれば、先が見えさえすれば、それまで我慢することができるものです。日付こそ希望のように思います。でも一番初めてのクリスマスはそうではありませんでした。人々はいつ起こるかわからないことを、希望にしていました。本当に起こるかわからない事を希望にしていたのです。慌ただしい生活の中で、人々はそれを信じていました。そしてそれは何百年も続く、息の長い希望となりました。救い主の誕生をずっと待ち続けることが、彼らの信仰だったのです。

私はこのことから、息の長い希望を持つことの大切さを思います。予定外の出来事、日付の予想できないことが私たちに期待や感動を与えるときがあります。それは日付の無い希望、期限の無い希望です。私たちは何月何日という日付はないけれども、でも確実に訪れる希望を信じます。その希望は日付がないからこそ、長く続くのです。それは日付が分からなくても必ずやって来る希望です。やがて必ず来ると約束されている希望を信じる、それが信仰なのです。その信仰は私たちに息の長い希望を与えます。

信仰によって、息の長い希望を持った人は日々の歩みの根底に希望を持つ者となります。いいことが起きた日はいい日、悪いことが起きた日は悪い日ではないのです。息の長い希望を持つとき、毎日が一日一日が神様の希望に近づいてゆく、感謝の一日になるのです。私たちはこの先に神様が私たちに約束している希望があることを信じ、待ちましょう。イエス様はいつ来るかわからないその希望を待つようにと私たちに伝えています。それはこどもの出産と成長のように、日付を決めることができない、息の長い希望です。

イエス様はこの話を弟子たちに向けて話しています。そして弟子たちもまた救い主を待っていました。しかし彼らの目の前には、すでに救い主イエス・キリストが立っていました。ずっと待ち続けていた人はすでに目の前にいたのです。いつか必ず来ると何百年も待っていた希望は、実はすでに自分たちの目の前にあったのです。実はその希望はもう始まっていたのです。待ち望んだ希望は彼らの目の前ですでに始まっていたのです。

私たちはこのような希望のあり方も心にとめておきましょう。すでに私たちには神様の希望が実現し始めているのです。それはまだ完成はしていません。でも私たちの希望はすでに私たちの目の前に、私たちの心にすでに来ているのです。もう実現しかかっているのです。その兆し、そのカケラ、小さな希望は私たちの日々の中にも見いだせるのでしょう。

このように私たちには様々な希望があります。まず私たちは希望と聞いて、はっきりと日付がいついつと決まった希望を想像するでしょう。しかし希望はそれだけではありません。神様が準備している希望には日付がありません。私たちはずっと先にある希望を待ちましょう。はるか先にある約束を忘れずに、目を覚ましていましょう。いつ来るのかわかりません。でもいつの日か、私たちの心に、あの人の心に、この場所に、神様が来られ、イエス様が来られ、すべてを完全なものとする日が必ず来るのです。そしてすでにそれは、私たちの目の前に来ているのです。すでにその希望は私たちに起こり始めているのです。そのことを信じて歩みましょう。

もうひとつ、待つということについても考えます。イエス様は今日とは別の場面でも「目を覚ましていない」と言いました。それは十字架に掛かる前のゲッセマネにおいてです。イエス様が別の場所で祈っている間、弟子たちに「目を覚ましているように」と言いました。今日と同じように「目を覚ましているように」と教えたのです。しかし弟子たちは眠ってしまいました。再び来られたイエス様はもう一度弟子たち言いました「目を覚まして“祈っていなさい”」。今度は具体的に「祈っていなさい」と付け加えたのです。今日の個所も同じ意味を持っているでしょう。イエス様の教える「待つ」とはただ単に待つ、じっとしている、寝て待つということではないのでしょう。「目を覚ましていなさい」とは祈って待ちなさいという意味です。イエス様は希望を寝て待て、座って待てと言っているのではありません。イエス様はその希望を祈って待ちなさいと教えられているのです。祈って神様の時が、神様の業が起こるのを待ちなさいと言っているのです。私たちは祈って、希望がくることを待ちたいのです。そのようにして目を覚ましていたいのです。

私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。この儀式はパンとブドウジュースを飲んで、イエス様が私たちに来るという約束を思い出すために、すでに来ているということを知るために行われます。その約束を忘れないために行われます。そしてその後、マラナ・タという讃美歌を歌います。このマラナ・タとは、「主が来ますように」という意味です。この賛美歌は希望が来ますようにという歌です。希望がやがて来ること、希望がすでに来ていることを覚えてこのパンを食べましょう。私たちは祈って、この希望のパンをいただきましょう。そして新しい希望の約束を信じ続けてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「その配慮が神」マタイ6章1~4節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝いたします。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。

今日は地域活動と福音について考える最後の回です。これまで私たちの取り組んでいるこども食堂から見えてくる福音について考えてきました。今日もこの視点から聖書を読んでゆきたいと思います。

こども食堂には100名以上のボランティアさんが参加してくださっています。参加の前のオリエンテーションとして教会のことや、こども食堂の活動の趣旨について30分くらいの説明をしています。ボランティアを希望する人のほとんどが、初めて教会に来たという方たちです。この説明はこども食堂のことだけではなく、キリスト教を紹介する機会、福音宣教の機会にもなっています。ボランティアの方への説明の中で、一番丁寧に説明をしているのは、私たちのこども食堂は貧しい人専用の食堂ではないということです。私たちの食堂は貧しい人が集まっているという雰囲気にしたくないのだという説明に時間を割いています。

もちろん私たちはまず食事をするのにも困る、貧しい人にこの食事が届いたらよいと思っています。しかしもし私たちが貧しい人は、どうぞ集まって下さいと言ったとしたら、おそらく私たちの食堂には誰も来ないでしょう。

誰でも貧しい人の集まる場所に自分が行くという行為は、大変大きな抵抗感があります。自分の尊厳が打ち砕かれるような気がするものです。貧しい人は来て下さいという言葉は、かえって相手を「自分はまだ人様のやっかいになるほど落ちぶれてはいない」「私はそんな場所には絶対に行きたくない」という気持ちにさせるものです。それではかえって食事を必要としている人に届きません。この食事が貧しい人に届けばよいと思っているからこそ私たちはこの食堂を貧しい人専用にしないことを大事にします。明るく、楽しく、誰でも利用できる雰囲気だからこそ、いろいろな人がたくさん来て、その中の一部に困っている人が利用できるのです。

そしてさらにそもそも人の困りごととは多様なものです。経済的な困窮だけではなく、子育ての行き詰まり、日常の寂しさなどがあります。そのさまざまな困りごとのためにこども食堂を使ってもらっていいと思っています。

このような説明をボランティアを始める方にしています。この説明を事前にしないとボランティアの方から「なんだここは。困ってそうな人が一人も来ていないじゃないか」と誤解されてしまうからです。私たちはもちろん貧困の解消に強い関心を寄せてこの食堂をしていますが、だからこそその人たちのためだけにしない工夫が必要です。いろいろな人が、いろいろな課題がありながらも、それを表にせず、楽しく集うことができる、そこに私たちの食堂の良さがあります。

本当に困っている人が来ているのかという批判もありますが、知りません。これだけ楽しく集まっているのだから、きっとみんなの何かを埋めているはずです。みんなの心の穴を埋めているでしょう。お財布の穴を埋めているでしょう。利用者自身が何を埋められているのか気付かないくらいがちょうどよいのです。そのようにして教会はみんなの一部になっています。

この考え方は聖書の教えとも重なると思っています。今日は、イエス様が困っている人と出会う時、どうすればよいかを教えている箇所を読みます。一緒に聖書を読みましょう。

今日はマタイによる福音書6章1~4節をお読みいただきました。イエス様の時代にも、多くの生活困窮者がいました。私たちが高い税金に苦しんでいる様に、当時の人々も高い税金に苦しみ、貧しい人がたくさんいました。特に聖書にはやもめ、いまでいう単身女性、シングルマザーが経済的に貧しい状況に追いやられたことを記しています。これも現代と同じです。人々は苦しんでいました。

そのような時代、ユダヤの人々には助け合いを大切にする文化がありました。おそらく今よりも助けられることを「ありがたい」とか「めずらしく、希なこと」ととらえることはなかったでしょう。自分たちは助けあって当然である、助けることと助けられることが当たり前の日常だったからです。日本にもかつてはそのような文化があったでしょう。今は失われつつあります。

ユダヤでは助け合うという機会が多かったからこそ、助け合いに関するトラブル、助け合いの悪用も多くありました。そして助け合いの知恵もありました。今日イエス様は助け合いにおいて一番してはいけないことと知恵を教えています。内容を見てゆきましょう。

イエス様は貧しい人に対して、人前で支援を行う事を禁止しました。人を助けるのに、わざわざ人の目に着くところでする、ラッパを鳴らして、目立つように良い事するということを、一番してはいけないことだと教えたのです。それは貧しい人を利用した、自己顕示であり、お金で周囲から良い評価を買おうとする、偽善の行為です。イエス様はそれを善い行いではないと言いました。そのような行為をするのは偽善者だと言いました。それは本当にそうだと思います。

そして今日はもう一歩踏み込んで、この個所を読んでみたいと思います。こども食堂の経験から読んでゆきます。この個所を貧しい人の立場、善行を施される側の立場に立って読みたいと思います。

ある日、貧しい自分を助けてくれるという人が現れました。その人は私がボロボロの服を着ていたから貧しいと分かったのでしょうか?本当は身なりだけでも、みんなと同じでいたいものですが、もはやそれもできないほど、貧しかったのです。本当は人を助ける側に回りたいけれど、今は恥も外聞も捨てて、この人に助けを求めるしかないようです。

自分を助けてくれるという人は、私を人が集まる街角や、会堂に連れていこうとします。そこではラッパの音が響きます。みんなの注目が集まります。そしてみんなの前でまるで表彰状の贈呈式のように、施しを渡されます。助けを受けた人はみんなの前で、その人に大げさに感謝の言葉を言わねばならない雰囲気が充満します。あなたは命の恩人だ、一生この御恩は忘れない、あなたは何て良い人なのだと言わねばならないのです。そのような施しを誰が受けたいと思うでしょうか。そのような方法で本当に困った人が助けを受け取るでしょうか?私だったらどんなに困っていても、私の尊厳を奪う、そのような支援は受け取りたくありません。

イエス様はそのように人の前で支援をしようとする人に言いました「はっきり言って、そういう支援をする人は残念です」と。そしてイエス様は、良い事をするときは、自分の右の手のことが左の手にわからないくらい、周りに絶対に知られないように、助けるべきだと教えています。イエス様は手助けをする際は他の人に悟られることなく、手助けをするようにと言っているのです。イエス様の教えには手助けをする前提に、相手の尊厳に対する配慮があります。この話はただ、自己満足な支援をするなという教えにとどまっていません。イエス様は相手の尊厳への配慮があって、初めて手助けにつながるのではないかということを、ここで投げかけています。人前で手助けをし、相手の尊厳を貶めてしまっては、本当の手助けにつながらないのだと言っているのです。

この話にはイエス様のそのような考えも含まれたでしょう。この話は、私たちの生きる上で大切なことを教えています。それは誰かに手助けをするときは、相手への配慮と相手の尊厳を何よりも大切にすべきであるという教えです。相手への配慮と尊厳を大切にし、他の人にわからないように、自分の左手にもわからないくらい、配慮をしてその支援を行うべきだということです。そうでないと善い行いは成立しないのです。この言葉はそのような知恵を私たちに教えてくれています。こども食堂が貧しい人専用でなく、明るい雰囲気で行われることはここにルーツがあるでしょう。

さて、この教えを私たちの内面にもっと広げて考えてみましょう。神様は私たちにも良い物を備え、与えて下さるお方です。神様は私たちに何か良い物を下さる時、人々の目の前で、私たちに渡すようなお方ではありません。神様は良い物を下さる時、密かにそれを下さるのです。それはきっと人々の目の前で、ほら神様を信じていて良かったでしょと証明するような方法で与えられるものではありません。神様は福引が当たった時の様なベルを鳴らして人々の注目するような方法で、恵みを与えて下さるのではないのです。

神様は右手が左手のすることを知らないように、私たちにはひそかに良い物を下さるお方です。私たちが誰にも知られたくない心の中に、神様はそっと贈り物を下さるお方なのです。私たち一人一人の心の中に、他の誰にもわからないように、私たちにすばらしいものを下さるのです。私たち一人一人はそのような密かな恵みをいただいています。他の人が気づかない、もしかして私自身も気づかない恵みを頂いているのです。

今日はこの後クリスマスの飾りつけをします。教会をきらびやかにしてゆきます。でも本当に良い物は、私たちの心の誰にも知られない、知られたくない場所に、そっと神様から与えられてゆくのです。それが神様の配慮です。神様は、私たち一人ひとりの心にそっと寄り添い、密かな恵みを授けてくださいます。その配慮に倣い、私たちもまた、誰かの心にそっと寄り添う活動を続けたいと願っています。

私たちのこひつじ食堂も神様の配慮をこの地上で実現するそのような活動をとして続けてゆきたいと願っています。お祈りします。

 

【全文】「世を愛する教会ー公共神学ー」マタイ5章38節~48節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。10月と11月は地域活動と福音というテーマで宣教をしています。先月、西南学院に訪問した際に、ある学生から一冊の本を教えてもらいました。それは稲垣久和の『閉鎖日本を変えるキリスト教 公共神学の提唱」という本でした。さっそく読んでみたのですが、大変興味深い内容でした。私たちの教会が取り組む『こひつじ食堂』や『こひつじひろば』『こひつじカフェ』で日々感じる思いを、この本では『公共神学』として明確に表現していました。今日はこの公共神学を紹介し、神様の愛の豊かさについて、そして私たちがどのようにその愛を広げてゆくべきかについて考えたいと思います。

この本では社会全体を『個人と集団』『自己と他者』という2つの軸で4つに分類しています。縦の軸は他者と自己、公と自己ともいえるでしょう。左上には行政や学校が位置づけられます。公的な集団で、社会全体の利益をもとめる集団です。一方左下は私的な集団です。主に企業や塾などが当てはまるでしょう。私的な集団として自己の利益を追求していきます。右上にいるのは他者や公が強いが、集団ではなく個人を対象にした共同体です。NPOや労働組合がここにあてはまるでしょう。最後の右下は公と反対の自己、そして個人の事柄の領域です。家族や教会がここに当てはまります。教会・信仰とは個人の自己の最も奥深くにあるものでしょう。教会は人の内面を専門としています。

そして最近、教会以外の他の3つのグループは垣根を超えて活動をしています。企業がNPOのようなことをしたり、NPOが企業のようなことをする場面があります。NPOが行政のような働きをすることが増えています。さらにそれぞれは専門を持ちながらも、他のグループと連携・協力をしています。それは単にどちらかが一方的に手伝っているのではなく、相互が協力することで、自分たちの専門分野をより発展させています。様々な形で垣根を超えること、連携することが始まっています。

一方、教会はどうでしょうか。この本の理解によれば教会は自己・個人という枠組みの中に居続けようとしています。他の領域に対して、この世的な事として垣根を越えようとしてきませんでした。他の領域と協力をしようともしませんでした。しかしこの本では、教会ももっと垣根を超えて他の領域に進出したらよいと言っています。その理由は他の領域に取り組むことで、教会の自分たちの専門分野がより発展していくからです。私たちの中心であり、専門であり、最も大切にしていることは内面のことです。でも私たちと違う領域に出会ってゆく、そこに進出することで教会はさらに発展することができると言っています。

私はこひつじ食堂がまさにそのような取り組みに位置づけられると思いました。こども食堂は本来NPOがすることかもしれません。でも私たちの教会がその活動に取り組むことで、他者と関わることで、福音と愛がさらに広がるのです。今まで教会が行かなかった領域で私たちの信仰・価値観が広がってゆくのです。著者は、日本の教会が抱える閉塞感を打開するには、各教会が他の領域に積極的に関わることが大切だと述べています。

そして著者は日本社会にキリスト教がなかなか浸透しないのは、クリスチャンの意識と信仰が内向きで、防御的過ぎることに問題があるのではないか?もっと教会は、他の領域で影響力を発揮してはどうか?と勧めています。

社会と教会は対立するものではありません。またまったく関係ないものでもありません。教会が「この世」と呼ぶ、自分たちと違う領域に様々な接点を持つことにチャレンジをすることで、私たちの福音と愛はますます広がっていくはずです。私たちの地域活動がまさにそれです。私たちはこれまでの教会の概念から、少しはみ出して活動をしています。でもそのことが福音と愛の広がりにつながっているのではないでしょうか?今日はこのように私たちは自分たちの領域をはみ出して、福音と愛を伝えようということ、世を愛そうということを一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

今日はマタイ6章38~48節をお読みいただきました。イエス様が私たちに「敵を愛しなさい」と教えた箇所です。現代も古代も「隣人を愛し、敵を憎め」というのは社会の常識でしょうか。しかし聖書は旧約聖書からずっと敵を愛するように教えています。イエス様も新約聖書においてあらためて、そしてさらに発展的させて、敵と思える人にも愛を深めるように、私たちに教えています。それは敵を愛し、迫害するもののために祈りなさいと教えています。

私たちクリスチャンはこの教えの前にどのように生きているでしょうか?今までもしかしてこの世のこと、社会のことを、教会とは別のこととして、敵視してきたかもしれません。この世のことを、私の個人の内面や、自分の信仰とは関係ないものとしてきたかもしれません。でも今日イエス様は、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。イエス様は今日、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。つまり、私たちとは異なる社会の領域の人々に対しても愛をもって接するよう導いているのです。

もしかすると、反対にこの世の人々からは、私たちの領域以外からは、私たちのことが敵に思えることもあるかもしれません。統一教会をはじめとしたさまざまな宗教が、人の気持ちに付け込んで、お金を巻き上げています。宗教は怖い。平塚バプテスト教会も同じではないかと誤解され、敵視されているかもしれません。でも私たちは、教会のことを誤解している人、教会のことを知らない人を愛したいと願っています。きっとこのままだと、私たちが自分たちの領域から一歩踏み出さなければ、教会がその人と接点を持つことはまず無いでしょう。でも私たちが、私たちの方からその人が暮らす領域に出てゆきます、必要に応えてゆきます。そしてそのようにして出会う時、はじめて教会への誤解が解けたり、私たちの信仰を知ったりするようになるのです。福音と愛が伝わり始まるです。私たちはこの領域に飛び込んでくる人を待っているだけではいけないのです。

イエス様の活動はまさにそのような活動でした。イエス様は旅をしながら福音と愛を広げました。自分から相手を訪ねて歩きました。そして訪ねた先で今日の教えのように、イエス様は、神様はクリスチャンだけに恵みを与えるのではないと教えました。神様はクリスチャンだけを愛しているのではありません。イエス様は、誰にでも太陽が登るように、誰にでも雨が降るように、神様の愛はすべてのひとにあまねく注がれると教えたのです。それが神様の愛です。イエス様はそのように自分たちと違う人に福音を愛を伝えたのです。その教えは一般社会の教えとは大きく違うものでした。しかしその異質な教えが、人々の心に残ったのです。多くの人がその教えに共感をしたのです。

教会の中というのは、いろいろな問題がありながらも、多くの人が互いに愛し合っています。教会の人同士が愛し合うことは当然と言えるでしょう。仲間同士が愛し合うというのは誰でもしていることです。私たちに教えられていることは、教会の仲間だけでなく、他の領域に出て行って、そこでも他者を愛しなさいということです。教会の仲間を愛するように、その外の領域でも、他者を愛しなさいということです。

48節で私たちは完全なものとなるようにと言われています。それはもっと福音と愛が社会、世界に大きく広がるように、完全にゆきわたるようにせよという意味でしょう。私たちは教会の中だけで愛し合うだけではなく、私たちの愛を他の社会の領域にもっと広げてゆくようにと示されています。それこそが伝道と言えるのではないでしょうか。ですから、この世との関わり、私たちの地域への活動は教会にとって二次的な「おまけ」ではありません。私たちの中心である信仰をより広げてゆくために、私たちの自身の信仰をより豊かなものにするために、愛を広げるために必要な活動なのだと思います。

私たちが世に出る時、周囲とは違う独特の価値観を持っていることに、私たち自身が気づくでしょう。この世界では38節のような「目には目を、歯には歯を」という価値観が支持され、広がっています。でも私たちの正典は、それは間違っていると教えています。暴力に暴力で立ち向かうな、必要とする者には必要とする以上のものを与えよ、寄り添うべき人に徹底的に寄り添うようにと教えています。他者、地域の人々がこのような異質な価値観、愛と出会うとき、福音が伝わるのでしょう。私たちはこれからも地域への活動を教会の二次的な活動としてではなく、愛を広げるための活動として取り組んでゆきましょう。

そして、私たち一人一人が毎週置かれている場所のことも考えます。私たち自身も、もともと教会の中だけで生きているのではありません。教会から派遣されて、それぞれの場所で生きています。そこで皆さんはキリスト教の価値観に基づいて生きるでしょう。その時に様々な領域の人に出会うでしょう。そのようにして他者と出会う時に、福音と愛が広がってゆくのです。教会もそれと同じです。

私たちは教会の中で互いに愛し合いましょう。そしてこの愛を教会の外にも、違う領域にも広げてゆきましょう。その時、出会いがありイエス様の愛を伝えてゆくことになるのでしょう。お祈りをいたします。

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【全文】「誇らずに共に生きる」マタイ3章1~17節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は地域活動と福音というテーマで聖書を読んでゆきます。私たちの教会では月2回のこども食堂をしています。経済的に困っているこどもだけではなく、子育てに追われる保護者や、寂しい思いをしている高齢者、誰かと会いたい人、そんな人が集って、みんなで食事をしています。

こども食堂をしていると、様々な団体から寄付や調査の依頼やお知らせが届きます。先日は「NPO法人アトピッコ地球の子ネットワーク」という団体から手紙をもらいました。私も初めてこのような団体の存在を知ったのですが「NPO法人アトピッコ地球の子ネットワーク」はアトピー・アレルギーを持つ人とその家族を支援する団体だそうです。手紙にはその団体からの切実な要望が記されていました。それはこども食堂にも食物アレルギーへの配慮を求める内容でした。こども食堂が必要なこども、こども食堂に行きたいこどもの中には、アレルギーを持つ子供もがいます。しかし多くのこども食堂ではアレルギー対応が不十分です。ある食堂の看板には「アレルギーの方はご遠慮下さい」と書いてあり、中には「アレルギーの方はお断りします」とまで書いてある食堂もあるそうです。こども食堂は小規模な民間団体の運営で限界もあると思うが、必要なこどもがいることを理解し、もう一歩対応してくれないかという要望でした。

そしてその団体はアンケートに答えると、アレルギーフリーの食事セットをプレゼントするとのことでした。それを保管しておいて、アレルギーのこどもが来たら対応をして欲しい。それを使って、こども食堂の看板を「アレルギーの方お断り」ではなく「アレルギーの方には対応する食事を準備している」と書き換えてくれないかとありました。素晴らしい活動だと思い、アンケートに答えました。食材がもうすぐ届くでしょう。

私たちの教会でもこれまで「アレルギー対応はしていません」と毎回の看板やメニューに記載していました。実際に200食を作りながらアレルギーに対応することは難しいものです。でも保管できる別の物を準備しておくという少しの努力で、表記の方法や利用できる人が増えるという事を教えていただきました。

地域の方に平塚バプテスト教会は素晴らしい活動をしているとほめていただく機会が増えました。平塚バプテスト教会に誇らしい思いを持ちます。でもまだこれで完成ではないのです。まだまだ配慮できるのに、配慮していない自分自身に気付かされています。そのことを悔い改めます。食堂にたくさんの人が来ているからこそ、私たちは少数への対応は無理と言ってしまう、言えてしまうのです。私たちはもう一歩、少数者への配慮をしてゆきたい、そう思っています。

少数者を置き去りにしてしまう私たちです。もっとできることがあるはず、それを心にとめながらこれからの活動をしたいと思います。私たちも「アレルギーには対応していません」から「アレルギーの方には別のものが準備できます」と表記を変更しようと思います。もちろん少数者への配慮はこの食堂だけではなく教会全体のこととしても考えたい事柄です。そして少数者への配慮は教会だけではなく、私たちそれぞれの日常生活の中で目を向けてゆきたい事柄です。今日はこのことをきっかけにして、聖書を読みたいと思います。

 

 

さて今日はマタイによる福音書3章1~17節をお読みしました。今日の聖書の個所と食物アレルギー、少数者への配慮はどんな関係があるでしょうか。

イエス様がまだ公の活動を始める前、バプテスマのヨハネという人がいました。彼の元には大勢の人が集まっていました。彼は町から離れ荒野に住み、いなごと野蜜をたべて生きていました。5節~7節を見るとユダヤ全土からたくさんの人が集まったとあります。そしてその中にはファリサイ派とサドカイ派の人もたくさんいたとあります。

ファリサイ派とはユダヤ教の多数派です。たくさんの人がファリサイ派の指導の下に生きていました。サドカイ派とはいわゆる貴族のような人々で、当時のエリートです。彼らには誇りがありました。9節「我々の父はアブラハムだ」という誇りです。自分たちは選ばれた者であり、自分達は尊敬されていて、正しい事をしている、すばらしいことをしているという自覚があった人々だったのです。

自分たちに誇りをもった彼らにバプテスマのヨハネは言います。「そんなものは神様からしたら石ころみたいなものだ」。自分の先祖に対する誇り、人の誇りや、選ばれた者という意識、それらは神様にとって本当にたいしたものではないと言ったのです。神様は石ころのようにそれをすぐに創ることができ、すぐに壊せるものだと言ったのです。

ヨハネの元にはバプテスマを希望する人たちが集まりました。ヨハネのバプテスマとはどんな意味だったのでしょうか。諸説ありますが、例えばバプテスマは当時外国人が、ユダヤ教に改宗・入信するときに行われていたと言われます。改宗・入信の儀式だったのです。しかしファリサイ派の人もサドカイ派の人ももちろんすでにユダヤ人です。生粋のユダヤ人です。血筋のよい人です。多数派、エリート、正しい人です。ユダヤ人で高い自己評価を持つ彼らには本来バプテスマはまったく必要ありませんでした。しかし彼らの一部はバプテスマのヨハネの教えに呼応して、本来改宗・入信の儀式であるバプテスマを受けようとして集まってきました。彼らは、自分が正しい、自分が誇らしいという思いを捨て、バプテスマを受けようとしたのです。今まで自分たちが誇ってきたものを捨てる、バプテスマを受けようとしたのです。

そのバプテスマは人や世界を、これまでの正しさや誇りといった高みから見るのではなく、悔い改めや信仰の始まりといった低みから見直そうという運動でした。バプテスマを受け、人と世界を低い場所からもう一度見直す、それがバプテスマのヨハネが勧めた活動でした。それがバプテスマの意味でした。彼らがバプテスマの前に告白した罪とは、外国人や他宗教の人を見下してきた罪だったでしょう。少数派を軽んじたこと、自分が絶対正しいと思ってきた罪だったでしょう。彼らはその罪を告白し、バプテスマを受けて、新しい人生を歩もうとしたのです。高みからではなく、低みから人と世界を見る生き方に方向転換しようとしたのです。

13節以降はイエス様が登場します。イエス様も一部のファリサイ派、サドカイ派のように、このバプテスマのヨハネの運動に賛同したお方でした。イエス様もバプテスマを受けたのです。私たちは驚くかもしれません。イエス様こそ自分を誇るべき神の子だったはずです。14節のヨハネも「私の方が受けるべきだ」と言い、ためらっています。しかしイエス様は悔い改めて低みに行くことは「正しいこと」であり「私たちにふさわしい」のだと言います。誇っても誇りきることのできない神の子イエスが、誇ることを捨てる、そのことから地上での活動をスタートしたのです。そしてその時天が開き、霊が「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」と称えました。誇らずに、低みに身を置く、このような生き方を始めることを霊がほめたたえたのです。

この後のイエス様の活動もこのバプテスマの延長線上にあると言ってもいいでしょう。イエス様はその後の生涯で自分を誇り、その権威によって人々を従わせたのではありませんでした。イエス様は人気が出て多数派になったのではありませんでした。ただ貧しい人、罪人と言われ差別された人、病に苦しむ人を訪ね、目を向け続けてゆきました。その人たちと食事をし、同じ場所で時を過ごしたのです。そしてイエス様はその後、十字架に掛かられてゆきます。バプテスマよりさらに低い場所へと向かわれていったのです。十字架に掛けられた姿はこの地上でもっとも呪われた者の姿でした。イエス様は最後、この地上でもっとも残酷な姿になりはてたのです。

しかし、その十字架こそ、人々の絶望ではなく希望となりました。イエス様は人々の絶望の中に、共にいるという希望となったのです。イエス様は高みから私たちを見下ろして、善悪を判断し、審判を下そうとしているのではありません。イエス様は今も誇るのではなく、低みから、十字架から私たちを見ているのです。共にいるのです。

私たちはイエス様の歩みからどのように生きるかを考えます。私たちの地域活動は人々に支持されています。私たちはそれを誇らしいと思います。多くの方が私たちの活動を支持してくれています。

でも私たちは誇る気持ちを脇に置きましょう。私たちはバプテスマを受け、イエス様に従う者であることを思い出しましょう。どんなにたくさんの人が来ても、人気がでても、低みへ追いやられた人、端に追いやられた人、寂しい思いをしている人を忘れずにこれを続けてゆきましょう。それがバプテスマを受けた者の歩みです。それがイエス様の十字架を支えとする者の歩みです。

私たちはそれぞれの生活においても、同じことが言えるでしょう。みなさんには誇るべきすばらしいものがあります。しかし私たちは誇らずに共に生きてゆきましょう。いつも私たちが置かれた場所で、困っている人、見過ごされている人、さみしい思いをしている人に目を向けてゆきましょう。イエス様のように、その人と共に過ごし、その人たち食べ、歩んでゆきましょう。お祈りをいたします。

 

 

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【全文】「みんな神に愛されている」 マタイ25章34~46節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝、召天者記念礼拝をもてること主に感謝します。お久しぶりの方も共に集うことができてうれしいです。私たちはこどもの声がする教会です。小さいこどもも一緒にこの礼拝をしたいと思っています。声や足音がするかもしれませんが、それも礼拝の一部です。小さな命を感じながら礼拝をしましょう。

今日は特に天に送った仲間たちを覚える召天者記念礼拝です。誰しも仲間を天に見送ったという経験があるでしょう。その寂しさは何年経っても変わらないものです。私たちはその別れの寂しさを抱えながら、思い出を抱えながら、引きずりながら生きています。そして時々、あの時もっと自分ができることがあったはずという思いも起こるものです。もう少し私が優しくできれば、もう少し最後くらい一緒にいれば、そのような後悔もあるかもしれません。その思いも一緒に、神様に礼拝をささげましょう。

私は写真の方々すべてを詳しく存じ上げているわけではありません。それぞれの方はどんな人生だったのでしょうか。皆さんの思い出を聞かせて下さい。中にはたくさん良い事をした人がいるでしょうか、大きな功績を残した人、表彰された人もいるでしょうか。あるいは誰かに頼り、誰かにお世話をされるばかりの人もいたでしょうか。亡くなった方々はいまどこでどのように過ごしているでしょうか。私は、キリスト教は良いことをした人は死んだ後に天国へ行く、悪いことをした人は死んだ後に地獄へ行くという宗教ではないと思っています。もしそうだとしたら神様はアウトかセーフかを判断するただの審判員です。キリスト教は良い人が天国、悪い人が地獄に行くその判断基準ではありません。人の長い一生は善悪のどちらかに振り分けることはできないものです。

では、人は死後どうなるのでしょうか。私は、神様はすべての魂をそのもとに迎え、安らぎを与えてくださると信じています。ですから、故人が苦しんでいるのではないかと心配する必要はありません。

キリスト教では死のさらに先に、復活するという信仰を持っています。もう一度生き返るという復活ではなく、死のさらに先にある出来事として、復活があります。復活とは神様がこの世界を完全なものにされる時、私たちも新しい命を受けるということです。いつの日か神様は国々を超えて、生と死をも超えて完全な平和を起こしてくださる時がきます。死んで天におられる方々にも、まだその先に希望の時が待っているのです。亡くなった方にも、今なお希望と新しい命が待っているのです。私たちにはそんなに先のこと、死後のことを想像するのは難しいかもしれません。でも天に召された方々は、次の希望を持っています。そのことを覚えておきましょう。

そしてやがて私たち自身も死を迎える時が来るでしょう。そのことを不安や恐ろしく思うかもしれません。でもその時は私たちの命と魂も同じ様に、神様が受け止めてくださる時です。地獄に行く、裁きにあうという心配はいりません。その時、私たちは神様のもとにある平安に向かってゆく時です。私たちはその最期の日まで精一杯生きてゆきましょう。

今日も聖書を読みましたが、この個所を読むとやはり良いことをした人は天国に行く、悪いことをした人は地獄に行くのではないかと思うかもしれません。しかしこの話は本当に死んだ後のことを語っている話でしょうか。この話にははっきりと死んだ後のことという前提がありません。いえむしろ、この話は生きている者に語り掛けている話です。今、どう生きるべきかを問いかけています。聖書のメッセージの中心は死後の裁きではありません。この話から私たちが考えるべきことは、地上に残された私たちがどのように生きるべきなのかということです。

故人を神様の元に見送った私たちは、どう生きるべきなかこの話から考えましょう。私たちは天に見送った方が神様の元に安らかにいることを信頼し、そしてこの話から、残された私たちが、残された人生をこの地上でどのように生きるべきなのかを考えたいと思います。この話を、神様から地上の私たちに送られた、励ましとして受け取って読んでゆきましょう。聖書を読んでゆきます。

 

今日はマタイによる福音書25章31節~46節までをお読みしました。物語をもう一度見ましょう。ある時、一人の王様がいました。王様は右側にいた人に国全体に値するほどの良い物を与えようとしています。なぜなら困っていた時に私を助けてくれたからだと言います。右側の人々は驚きました。そうです、王様はこれまで生活に困ったことなどなかったからです。だからこそ助けたことがないと思ったのです。王様は何不自由ない生活を送っていたはずです。助ける必要は全くありませんでした。食べ物が無くて困っている時などありませんでした。しかしそこで王様は「最も小さいあの人にしたことは、私にしたことと同じだ」と言いました。私ではなく、あの人にやさしくしたことは、私にやさしくしたことと同じだと言ったのです。

そして反対の話も出てきます。王様の左側にいた人への話です。左側の人には何か悪いものが与えられようとしています。王様はあなたたちは私が困っている時に助けてくれなかったと言います。左側の人々も驚いたはずです。彼らは王様に一生懸命仕えていました。王様がのどが渇いたと言えば一目散に水を届けてきました。食事も着替えもすべてお世話をしてきたのです。しかし、王様はそこで「もっとも小さいあの人にしなかったことは私にしなかったのと同じだ」言います。私ではなく、あの人にやさしくしなかったことが、私にやさしくしなかったことと同じだと言ったのです。

この話は私たちの生き方について語られているものです。右側の人も左側の人も王様になら仕えて当然だと思ったでしょう。誰もが一生懸命、王様のお世話をしたのでしょう。おそらくそれは自分にも跳ね返ってくるからです。どちらの人も王様の世話は、自分の処遇や身分のために、抜かりなくしたはずです。しかし右側の人と、左側の人で大きく違ったことがありました。それは王様以外の人々への態度でした。王様は自分に従うことは当然であり、自分以外の人々への態度を問題にしたのです。王様は人々がもっとも小さい者へどのように接しているのかを厳しく見ていたのです。

「もっとも小さい者」とはどんな人のことでしょうか。体が小さな子どもたちとも読めるでしょう。小さいこどもに、どのように接しているかと言われています。また助けを必要としている人や社会的に弱い立場に置かれた人々とも読めるでしょう。小さい人というよりも、小さくされている人と理解した方がよいかもしれません。ゆがんだ社会構造の中で、自分らしく生きることが出来ない人ともいえるでしょう。生きづらさを感じるような人も含まれるでしょう。きついお仕事を続けている人や、体や体調が思うようにいかない人も含まれるでしょう。私たちは本当に様々な場所で、小さくされている人と出会うはずです。

私たちはそのような人々への接し方で、死後に天国に行くか、地獄に行くかが決まるわけではありません。聖書はそのような天国と地獄を伝えようとしているのではありません。聖書の中心は、神様は私たちがそのような小さくされた人にどのように接しているのかを、厳しく見ておられるということです。

私たちの命は地上の生涯を終えた後、必ず神様が安らぎの中で受け止めてられてゆきます。それはどんな人生を送ったとしても恵みとして与えられます。だから私たちは安心しましょう。そしてそれと同時に、神様はこの地上に残された私たちに、最も小さいものに目を注ぎ、生きてゆくようにと言っています。

これは地上に残された私たちへのメッセージです。神様は、あなたたちはこの地上の残された人生で、小さい者・小さくされた者に目を向けてゆきなさいとおっしゃっています。私たちが良い事をするのは、決して私たちが天国に行くため、自分の死後のためではありません。私たちはどんな人生を送っても必ず、神様が一方的な愛で私たちは受け止めてくださいます。私たちに全員に神様からのその約束と恵み、愛があります。

そして神様は私たちを愛すると同時に、私たちにも他者を愛することを求めておられます。私たちも神様のように、人を愛し、人を助けて生きるようにと伝えられているのです。神様は、私たち一人ひとりを無条件に愛し、守ってくださることを約束しています。その愛を受けた私たちも、他者を愛し、支え合う生き方が求められているのです。

私たちは今日も神様の愛を受けて生きています。神様の愛は死んでも続きます。私たちはそれを信じます。そして私たちはいつまでも愛されているからこそ、その愛を地上で他の人々と分かち合って生きてゆきましょう。キリスト教は愛の宗教です。恵みの宗教です。神様はすべての人を愛し、すべての人に安らかな死後を準備してくださっています。安心して仲間を見送りましょう。

神様の愛それは永遠の愛です。永遠の愛に包まれた私たちも、他者への愛を持って生きてゆきましょう。神様がすべての人を愛し、受け止めるように、私たちもすべての人を愛し、受け止めてゆきましょう。特にこの地上でもっとも小さい者、もっとも小さくされた者、見過ごされている者に愛を注いでゆきましょう。

 

神様はすべての命を引き受け、無限の愛と慈しみを注がれます。だから私たちも愛し合って生きましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「収穫感謝礼拝」マタイ15章32~39節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。教会にはこどもたちの声が響き、命の喜びにあふれています。今日もこどもたちの命と一緒に礼拝をしましょう。

10月11月は地域活動と福音というテーマで宣教をしてゆきます。また今日は10月16日の世界食糧デーに合わせてこの礼拝を、収穫感謝礼拝としています。収穫に感謝するということを考える時、私たちの教会で運営しているこども食堂「こひつじ食堂」に多くの食品の寄付が集まっていることを思い出します。たくさんの方が教会に収穫を持ち寄って来て下さることに大変感謝しています。先日は自分の家の田んぼで作ったという平塚産のはるみの新米の寄付をいただきました。とても香りのよいご飯でした。平塚で獲れたシイラやブリ、マグロの寄付を頂きました。最近では寒川のパン工場からもパンの寄付をもらっています。それぞれみなさん、決してお金や時間に余裕があるわけではないのに、私たちの食堂に寄付をしてくださっていることに、本当に心から感謝しています。

こども食堂に参加すると、この食べ物がどこでどのように育てられたのかを、いつもの食卓よりも強く感じるようになります。命を強く感じるとも言えるでしょう。そして食べ物に命を感じ、大切にするようになります。感謝するようになります。こども食堂はそのように食べ物と命に特別に感謝する、その体験をする場所になっています。

こども食堂の寄付に感謝し、みなさんと一緒に食事をしていて改めて感じるのは、クリスチャンこそ特に食べ物と命に感謝する機会が多いということです。クリスチャンは食前の祈りを大切にしています。教会の食事ではもちろん、家での食事でも、外食でも祈ります。日本では食前に感謝の祈りをすることは非常に珍しいことで、クリスチャンの最大の特徴とも言えるでしょう。私たちは食前の祈りで生産者の人に感謝すると同時に、それだけではなく、食べ物を神様が与えて下さったものとして感謝の祈りをします。

食べ物を前にして生産者に感謝するのはわかる気がしますが、私たちはなぜ神様に感謝をするのでしょうか。それはキリスト教ではすべての命は神様が創造したものだと考えるからです。そして私たちは神様が創造したその命を食べています。だから私たちは食前の祈りで、神様が私たちに命を与えて下さったことへ感謝を表しています。私たちが食前に神様に感謝の祈りを献げることは、とても大事な習慣ではないでしょうか?私たちはこの感謝と祈りを大切にしてゆきましょう。私たちは生産者への感謝と、食べ物への感謝、神様の創造した命への感謝を毎食ごとに覚えて祈ってゆきましょう。

まだ食前に祈っていないという方、例えば私はこんな風に祈っています。「神様、今日もみんなでごはんを食べれること感謝します。世界に平和と食べ物がゆきわたしますように」またカトリック教会ではこのような食前の祈りが紹介されています。「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください」。私たちは食前の祈り、神様への感謝を改めて大切にしましょう。

そして、今日の午後は信徒会が行われます。パンとぶどうジュースをのむ儀式である主の晩餐について意見交換をする予定です。先日の濱野先生との学びによれば、この主の晩餐にも、神様からの食べ物、神様の創造への感謝という要素が含まれるそうです。私たちは主の晩餐でも、神様から食べ物が与えられていることに感謝しましょう。私たちにある食べる物も、飲むものも、着るものも、仕事も、家族も、友達も、命全体が神様からの恵みです。神様は私たちの必要をすべて満たしてくださる方です。今はまだそうではなくても、必ず満たされることを信じ、感謝しましょう。私たちは神様からのあらゆる収穫に感謝をしましょう。今日は聖書からイエス様が感謝している場面を見ます。その物語から、神様に収穫を感謝するということを考えたいと思います。 

 

今日はマタイによる福音書15章32~39節をお読みいただきました。聖書にはこの4000人の食事と似た内容の、5000人の食事が記録されています。2つの似た伝承がある理由については諸説ありますが、1回の大人数の食事の出来事が別々に伝承されたという説が有力です。でも私はこの出来事が本当に2回か、それ以上あったのではないか、様々な場所で繰り返し起きていたのではないかと思っています。このような出来事は何度も繰り返し起きていて、それが聖書に2回記されたのです。私たちの食堂が何度も何度も寄付をもらって食事をすることができているように、きっとイエス様も何度も人々と、このような奇跡の食事をしたはずです。こひつじ食堂の体験からそう感じています。

今日まず注目をしたいのは、従っていた群衆の現実です。イエス様に従っていたのは、食べ物を持っていない人々でした。イエス様に従ったのは、仕事を中断しても大丈夫な経済的、時間的余裕のある人ではありませんでした。もう食べ物を何ももっていない。お金もない。行く当てもないという貧しい人が、イエス様に従ったのです。解散して家に帰って食べればよいとありますが、この群衆は家に帰れば食べる物があったのでしょうか?あるいは家そのものがあるのかどうかもわからない人でした。イエス様はこのような生活に困った人たちを追い返しはしませんでした。ここで一緒に食事をしようとしました。共に食事をするということは、人々との連帯を表明するという意味がありました。共に食事をすることは、一緒に生きてゆこうという、イエス様の意志の表れでした。

今日は特にイエス様の祈りに注目をしたいと思います。36節にはイエス様が「パンと魚を取り、感謝の祈りをとなえて、これを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った」とあります。この言葉は主の晩餐の時に祈る定型文でもありますが、中でも注目したいのが、イエス様がここで食前の感謝の祈りを唱えたということです。

この食前の感謝の祈りはどのような祈りだったのでしょうか。しかし果たしてこの状況は感謝に値する状況だったでしょうか。4000人に対して、7つのパンと魚しかありません。私ならば神様に感謝よりも、不足を訴えたでしょう。神様もっと欲しいです、神様全然足りません、神様最低あといくつは必要です、そう願いが先立った祈りをしたでしょう。しかし、イエス様は違いました。イエス様はこんな少ないものに感謝の祈りを唱えたのです。どう考えても少なすぎる食べ物に感謝を示したのです。

イエス様が感謝したのは、まずこの食べ物を寄付してくれた人に対してでしょう。その善意と温かい気持ちに感謝をしたでしょう。パンと魚を寄付した人も、きっと裕福でたくさん持っていたわけではありませんでした。イエス様は寄付してくれた温かい気持ちに感謝をしました。そして人に対して感謝する同時に、それ以上にここで神様に対しての感謝を祈ったのです。

イエス様はここで何よりも神様に感謝の祈りを献げました。それはすべての恵みは神様からのものだからです。

そしてこの食べ物をよく見ます。それらの多くはもともと命でした。穀物も魚もすべては命でした。神様に創造された大切な命でした。イエス様はここで、神様がこの命を創造し、この命を私たちがいただくということに感謝をしたのです。

イエス様は地上に人間として生まれました。そしてイエス様は神様の創造した命を食べて生きたのです。イエス様は食べる前にその命に感謝して祈ったのです。この食べ物が、神様からの恵み・神様の創造した命であったからこそ、イエス様は神様に感謝したのです。イエス様はこのように神様に向けて、その命を食べることに深く感謝をしたお方でした。

私たちもすべての恵みが、すべての命が神様の元から来ると信じています。私たちに与えられた食べ物の多くも、神様が創造した命です。驚くべきことに私たちは神様が創造した命を食べて生きています。普段それを感じることはできないかもしれません。でも私たちが食前に祈るとき、それを思い出すことができます。私たちが誰かから食べ物をもらったとき、それを分かち合ったとき、私たちが命を食べていることを深く感じることができます。私たちは命に感謝して、神様に感謝して、それを頂きましょう。そのようにして私たちの命はつながっているのです。

イエス様が命に感謝して祈り、配ると、パンが増えたとあります。順序が大事でしょう。増えたから配ったのではありませんでした。少ないもの大切にし、分かち合った時、それが増えたのでした。この出来事は人々の中には強烈な記憶として焼き付けられ、聖書に記載されました。そしてこのような出来事はきっと1回だけではなく、何回も繰り返し起きたのでしょう。聖書には2回記されました。そして後に、これは私たちの主の晩餐へとつながってゆくことになります。

イエス様の感謝の祈りに目を向けました。私たちはただ収穫物に感謝するだけでなく、その背後にある生産者の努力に感謝をしましょう。そして神様からの豊かな恵み、私たちが神様の創造した命を食べていることに感謝しましょう。私たち自身の命に心から感謝しましょう。神様の愛が私たちのすべてを満たしてくださいます。私たちは食前の祈るたびにその神様の愛を深く感じましょう。食前の祈りを大切に続けてゆきましょう。私たちには足りないものがたくさんあります。でも神様は、私たちを必ず良いもので満たしてくださるお方です。私たちは収穫と命に感謝しましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「こどもの声がする教会」マタイ7章9~12節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声が私たちの礼拝の特徴です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。

10月から2か月間は地域活動と福音というテーマで宣教をしたいと思っています。時が過ぎるのは早く、2024年度も半分が過ぎました。今日は特に半年前に私たちが主題聖句とした聖書のみ言葉と「こどもの声がする教会」という標語をもう一度確認したいと思います。

私は自分のこどもには、できるだけいろいろな体験させ、良い教育を受けさせたいと思っています。体験や教育は一度受けると無くならないものです。こどもたちの将来にどんな困難があっても、貧しくなっても、それは無くなりません。体験と教育が人生を切り開いてゆくはずです。できるだけ良い体験をこどもたちして欲しいと思います。特に礼拝の体験は大切にして欲しいと思います。大きくなればそれぞれに優先したいことや事情がでてくるでしょう。今、こどもと共に礼拝できる時を大切にしたいと思います。

私自身のこどもに限らず、大人とこどもが共に福音を分かち合い、一緒に礼拝をできることは大人にもこどもにも素晴らしい体験です。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもの声がする礼拝をしましょう。

また自分や教会のこどもに限らず、地域のこどもたちにも良い物をたくさん残したいと思います。教会は地域のこどもたちにとって、今はまだこひつじ食堂の場所、ただごはんを食べる場所かもしれません。でもこひつじひろば、こひつじ食堂などを通じて多くのこどもたちが教会を訪れるようになりました。教会はこどもを通じて地域に関わり、地域の必要に応えることで、教会が地域と共にあること、神様が共にいるという証しをしています。今後もたくさんのこどもをこの教会に招き、地域のこどもたちのにぎやかな声が響きわたる教会にしてゆきましょう。これを続ければ、きっとそのうち何人かは大人になって教会に訪ねてくるはずです。心と体、魂の支えを必要とした時に、この教会を思い出すはずです。できるだけおいしい食事、思い出に残る食事と体験してもらいたいと思っています。この教会が続くことは、きっと地域の人の魂を支えることにつながるはずです。

もちろん今の時代のこどもだけが良ければ良いのではありません。私はこの教会を次の世代、こどもたちに受け渡し、ずっと続いていって欲しいと思っています。この教会は湘南・平塚の地で自由な福音理解を伝える場所として貴重です。例えばこの建物や教会の制度をできるだけ良い状態で、こどもに残したいと思います。この建物や運営の制度をこのままで次の世代に渡してゆくわけにはいきません。さまざまな修繕や改善が必要です。教育館は解体しなければいけません。次の世代に迷惑をかけたくないのです。私たちは教会を次の世代・こどもたちが安心して集い、礼拝し、運営できる場所として引き継ぎたいと思います。できるだけ良い物をこどもたちに残したいと思います。

教会には会堂修繕の必要やそれに伴う土地売却の課題など、様々な検討課題があります。でもきっとこれからの平塚教会は、こどもたちに関わり、未来に良い物を渡そうとする活動の中で、新たな道が示されてゆくでしょう。未来でも教会でこどもの声がするように祈り、働きましょう。このような思いで私たちは2024年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。それには3つの意味があります。一つ目は礼拝でこどもの声がする教会、2つ目は地域のこどもの声がする教会、3つ目は未来でもこどもの声がする教会です。

私たちはこどもに少しでもよいものを与えたいという強い熱意があります。こどもと礼拝をしたい、地域のこどもとも関わりたい、未来のこどもにも良い物を渡したいという熱意があります。今日の聖書の言葉によれば、神様は私たちの熱意を上回る熱意をもっています。神様は私たちがこどもに良い物を与えようとする、それをさらに上回る良い物をくださると約束してくださっています。今日はこのことを聖書から確認し、これからの教会のこと、こどもの声がする教会のことを考えてゆきましょう。

今日はマタイによる福音書7章9~12節をお読みいただきました。9節~11節はとてもわかりやい話でしょう。この個所によれば、神様は私たちを愛し、良い物を準備してくださっているお方です。私たちがパンを欲しがるこどもにパンを、魚を欲しがるこどもに魚を与えるように、神様は必要なものを与えて下さるお方です。私たちがこどもと次の世代に熱意を持って良い物を残そうとするのと同じように、それ以上の思いで、神様は私たちに、こどもたちに良い物を準備してくださっています。私たちは必ずその恵みにあずかるのです。今は私たちには必要な物が不足しています。私自身もこの教会も足りないものがたくさんあります。きっとみなさんも同じでしょう。足りないことばかりです。でも神様は私たちに必要な物があれば、良い物を下さると約束をしています。私たちは“とりあえず”それを信じましょう。たくさんの良い物が私たちに備えられていることを期待し、もうしばらく信じましょう。神様の約束は今、様々な物が不足している私たちの希望です。

12節に目を向けます。11節までは私たちは神様から良い恵みを受けとる存在だと語られていました。表題にもあるとおり、求めるものが与えられること、良い物が神様に与えられることが語られていました。しかし12節では話の流れが大きく変わります。神様からの恵みを受ける話から、他者への実践を求める命令へと展開しています。「だから」の次には「〇〇しなさい」というイエス様からの命令が書かれています。それは「あなたのしてもらいたいことを、人にするように」という命令です。イエス様は神様が私たちに必ず良い物を与えてくださることを明らかにすると同時に、だからこそ、私たちこそ他者に良い物を与えるようにと命令しているのです。この「だから」が大切です。私たちは恵まれている「だから」他者に良い物を与えるのです。ここではそのような命令がされています。私たちはただ良い物を受け取るだけの存在ではないのです。恵まれているだけの存在ではないのです。イエス様は恵まれている、だからこそ良い物を他者に手渡してゆけと言われているのです。私たちはこの命令を実践しましょう。例えば私たちはこどもたちに一番良い物を、一番良い状態で渡してゆきましょう。イエス様はそれを私たちが他者になすべきことだと命令をしているのです。

「人にしてもらいたいことをしなさい」これは格言の様な言葉ですが、似た格言は世界中に伝わっています。しかし私たちが良く聞くのは「人にされて嫌なことは、自分もしない」ということかもしれません。聖書は「人にされて嫌なことをしない」からもっと踏み込んで、愛の実践を命令しています。嫌なことをしないだけではなく、人に良い物を与えなさいと命令しています。私たちは今よりもう一歩踏み出して良いものを誰かに渡してゆきましょう。

12節の最後は「これこそ律法と預言者である」とあります。これは、ほかならぬ他者に良い物を渡すことが、次の世代に良い物を渡してゆくことが、律法の実践であるという意味です。イエス様は聖書の教え律法を、難しい戒律とは考えていませんでした。隣人に良い物を渡してゆく、隣人に良い事をしてゆく、この愛の実践をしないさいという命令がイエス様の律法理解です。イエス様の律法理解はこの点で一貫しています。他にもイエス様はマタイ22章で律法の学者に律法でどれが最も重要な教えかを聞かれてこう答えています。第一に神を愛すること。心を尽くし精神を尽くし、思いを尽くし神を愛すること。そして第二に、隣人を自分と同じように愛することと答えています。22章でもここと同じ指針が指し示されています。

まとめます。私たちには不足するものばかりです。自分の人生のことも、こどものことも、この教会のことも足りないものがたくさんあって、とても心配です。私たちは今の自分やこどもや教会に必要なものを祈り求めます。生きる糧、心の支え、魂の支えになるものを神様に求めます。神様は私たちを愛し、大切に思っています。だからきっと私たちには良い物が与えられてゆくでしょう。そう信じています。そして「だから」私たちは隣人と必要なものを分かち合ってゆきましょう。神が私たちに良い物を備えて下さっているように、次の世代が必要としているものを、できるだけよい状態で渡してゆきましょう。それが愛なのではないでしょうか。

私たちはこの主題聖句と、「こどもの声がする教会」という標語をもって歩んでいます。私たちは礼拝をするとき、神様が私たちに良い物を準備していることを思い出すことができるでしょう。そして特にこどもと共に礼拝をするとき、私たちもこどもに精一杯の良い物を渡してゆこうという気持ちになるでしょう。だから私たちはこどもの声を聞きながら礼拝をしましょう。

私たちは一緒に祈りましょう。教会の仲間の必要が満たされるように、仲間に良い物が与えられるように祈りましょう。そして私たちの教会は地域のこどものためにこの教会を開いてゆきましょう。私たちが与えられている良い物を、地域と、地域のこどもと分かち合ってゆきましょう。そしてこの教会を未来に残していけるように、ともに考えてゆきましょう。お祈りします。

 

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【全文】「教会とパレスチナ」イザヤ62章1~5節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝に招かれたこと、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の平和の声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。8月9月は平和について考えてきました。今日は平和について考えるシリーズの最終回です。これまでイザヤ書を2か月間読み、様々な面から平和について考えてきました。平和についてどんなことをお感じになったでしょうか?今日はイスラエルとパレスチナの戦争と私たちの教会との関係を考えます。そのことを通じて、私たちがどのような信仰を持ち、平和を目指しているのかを考えたいと思います。

イスラエルとパレスチナの戦争について、日本のキリスト教の教会は比較的穏健で、極端にイスラエルを支持する教会は少ないように感じます。しかし世界のキリスト教信者の中には、イスラエル国を積極的に応援する人々が多くいます。いわゆる福音派とか、キリスト教右派と呼ばれたりするグループの中に、イスラエルを積極的に支持する人が多くいます。イスラエル側に立つという立場をはっきりと表明する人がいます。多くの場合、その人たちがイスラエルの側に立つと表明する背景には信仰があります。その信仰は聖書の権威を強調する信仰です。私たちも聖書には権威があると思います。しかし畏敬の念や大切にする気持ちだけではなく、聖書に書いてあることを、その文字通りに受け取っていくことを重視する信仰を持っている人がいます。たとえば聖書の中に、神はイスラエルを祝福している、この土地をユダヤの人々に与えると約束しているという記述があれば、それをそのまま理解します。それはイスラエルによるパレスチナ地域の軍事的支配を支持するという解釈につながってゆきます。このような考えはシオニズムとも呼ばれます。私たちの教会の身の回りでは少ないかもしれませんが、アメリカでは大きな非常に大きな勢力です。

私たちの教会はどうでしょうか。イスラエルと、パレスチナのどちらの側に着くでしょうか?おそらく私たちの聖書理解ではどちらの側にもつかないというのが答えでしょう。戦争をしている、殺し合っている二つの集団がいます。私たちの聖書理解では、神様はどちらか一方の正しいとされる方に、勝利を約束する方ではありません。神様は暴力で物事を決めようとするどちらのグループも誤りとし、そのような暴力を最も嫌われるお方です。私たちもイスラエルとパレスチナの双方が間違っていると考えます。

この問題が複雑なのは、イスラエルにはユダヤ教徒が多く、パレスチナにはイスラム教徒が多いという宗教的な背景もあります。しかしキリスト教の教会は傍観者ではいけません。歴史的にユダヤ教徒を迫害したのはキリスト教国であり、後にこの土地はユダヤ人のものであると誤った約束をしたのもまたキリスト教国でした。キリスト教はまたどちらかを応援することで、またこの問題を複雑にしようとしています。どの宗教、信仰を持つにせよ、人間の愚かさは普遍的です。私たちは宗教を超えて平和を実現することができるのでしょうか。私たちキリスト教の教会はどのようにこの平和に関わることができるでしょうか。私たちはどのように聖書を読むのでしょうか?この問題から考えたいと思います。

私たちには聖書を文字通りではなく、歴史や文脈に応じて解釈することが求められます。そして、強い者ではなく、傷ついた人々や虐げられている人々に目を向けて聖書を読むことが重要です。神様が彼らのそばにいることを感じるでしょう。今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。

 

 

今日はイザヤ書62章1~5節までをお読みいただきました。当時イスラエルの民は戦争に負け、遠い場所に強制移住をさせられていました。シオンとはエルサレムのことです。この62章は、強制移住が終わりようやく故郷に戻ることができた時代の言葉です。強制移住を終え、王様から自分たちの故郷に帰還する許可がでました。人々は希望をもってイスラエルに戻ります。しかし町は戦争で荒廃し、ボロボロになっていました。戦争に振り回された後の、新しい生活への期待と不安の中に届けられた神様の言葉です。

ある立場の人たちは、この個所は神様が現在のイスラエル国を支持していると解釈します。神様はイスラエルのために黙っていないという言葉を、パレスチナとイスラエル国の戦争において、イスラエル側が正しいという根拠にしています。諸国の民はあなたの正しさ知るようになるとは、中東や世界の各国がイスラエル国の方が正しいと認めるようになると解釈をしています。聖書を文字通り解釈することで、神様はイスラエルの側に立つと考え、パレスチナへの軍事的支援が正しいことと解釈されています。

しかし私たちは聖書を現代の国家イスラエル国に結び付けて読むことはありません。この話を、イスラエル国にではなく、私たち人間全体に向けて語られている言葉として受け止めます。そこが大きな解釈の違いでしょう。私たちはこの個所を現在のイスラエル国とは結びつけず、人間全体への語り掛けと理解します。私たちはこの個所をどう理解したら良いでしょうか。私は戦争に疲れ果てた人々の視点から理解したいと思います。これまでに考えてきた神様の平和に照らして理解したいと思っています。この神様の言葉を戦争に傷ついた人への励ましの言葉、希望の言葉として受け取りたい、今日はそのような視点で読みたいと思います。

1節にある「わたし」とは神様の事です。神様は決して口を閉ざさない、決して黙さないお方です。「彼女」とはイスラエル国家だけを指すのではなく、私たち人間全体のことです。神様は一部の人間だけが輝き、他の大勢の人間が暗く沈んで生きる世界を望んではいません。神様はすべての人間が松明のように、明るく光り輝くことを願っておられます。それが叶うまで、黙っていない方なのです。神様は暗さの中にいる人々のために光を、み言葉を注いでくださるお方です。人間から徹底的に光を奪うのは戦争です。人間から光、希望、夢、命を奪ってきたのが戦争です。しかし神様の言葉が戦争に光を照らします。人間同士の戦争で傷ついた人にとって、最も強い心の支えになるのは、神様の言葉です。神様の言葉と光はいつも私たち全員に注ぎます。その神様の言葉は、止まることのない平和の言葉です。神様は平和に向けて沈黙しないお方です。神様はどちらの側にもつかず、すべての人の平和に向けて黙っていないお方です。神様は私たちに平和を語り続けているお方です。

2節には「諸国の民はあなたの正しさを見る」とあります。語られているのは私たちが正義で、向こうが悪だということではありません。語られているのは、神様の正しさを全員が見るようになるということです。人間の決める正しさ、人間の決める平和はいつも不完全です。人間は自分たちの力で正しさと平和を実現することができないのです。今は不条理で、不合理で、不平等で、戦争があります。しかし完全である神様の正しさと、神様の平和の実現は必ず全員に来ます。誰一人漏れることなく来るのです。人間にはどうしても実現できない平和な世界が来るのです。神様が全員に正しさと平和を起こしくださる時を「終末」と呼びます。終末とは世界が破滅する時や悪人に裁きが下る時ではなく、神様の正しさと平和が全地を覆う時です。その時、世界は新しい名前で呼ばれるような、新しい世界が始まります。神の希望が、光が、平和が全地にあまねく満ち溢れる時です。この個所はその終末、完全な平和が、私たちには必ず来る、全員がそれを見る日が必ず来ると言っています。これは平和の約束です。あなたたちには必ず平和がくるということ。私たちはその終末の時に希望を持っています。

3節は傷ついた人々が回復される約束です。「あなた」とは、戦争に傷ついた人々のことです。あなたのような傷ついた人がやがて冠、王冠となるとあります。冠とは、誰が王であるか、誰が一番偉いのかを示すしるしです。つまりこれは戦争で傷ついた人々によって王が立てられるということです。傷ついた人が王を指名してゆくのです。それこそが平和の王の在り方です。戦争の勝利が王冠になるのではありません。王を建てるのは戦争で傷ついた庶民だということです。神様は戦争に傷ついた人たちが平和を求めて新しい王を建てることを望んでいるのです。私たちも文字通り受け取るのではなく、傷ついた人から戦争と、平和と、新しい王を見つめてゆくことが大事です。

4節と5節、人は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。神様は私たちと一緒にいてくださいます。神様が結婚したパートナーのように私たちと共にいてくださるのです。人の結婚にはうまくいかないこともあります。不完全なもので、平和とはいかないものです。しかし神様は違います。神様は私たちとずっと共にいて下さるお方です。

私たちは聖書から平和に生きる方法を聞いてきました。2か月間どのような平和を考えたでしょうか?神様は平和について、黙っていないお方です。神様は口を閉ざさず、平和を語り続けて下さるお方です。私たちは神様の正しさと平和を追い求め続けてゆきましょう。私たちも平和の大切さを語ることを止めないでいましょう。私たちは戦争を見る時、傷ついた人に目を向けましょう。傷ついた人が平和の王を選ぶ世界にしてゆきましょう。私たちの世界には神様が共にいてくださいます。私たちは不完全です。でも神様の平和を求めましょう。これからも諦めずに平和を祈ってゆきましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「主のあしあと」イザヤ書46章1~4節

わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。

わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

イザヤ書46章4節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを神様に感謝します。私たちは「こどもの声がする教会」です。こどもの声は私たちに命の存在を教えてくれる平和の象徴です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今日は礼拝の中で高齢者祝福祈祷の時を持ちます。平和というテーマからは少し離れるかもしれませんが、示された聖書からお話をしたいと思います。

子どもたちの声が平和の象徴だと言っているように、高齢者の方々の命もまた、深い平和の証しです。悲惨な戦争を体験し誰よりも平和の大切さを知っている命です。戦争の後の混乱を生かされてきた命です。高齢者も平和のしるしです。こどもと高齢者の命は平和のしるしです。小さな命も、高齢者の命もその時その時、神様がいつも導いてくださいます。今日は神様が私たちの人生を導いてゆくということについて考えてゆきたいと思います。「あしあと」という有名な物語があります。聖書の中の話ではありませんが、神様の愛と支え、導きを良く表している、美しいたとえ話です。

「あしあと」

ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

この話は聖書の話ではありませんが、私たちの神様のことを良く表しています。私たちはつらく悲しい時、神様が助けてくれないで、一人で人生を歩んでいるように思うかもしれません。でもそれは違います。私たちがつらくて一人で歩いていると思う時、神様が私たちを背負って歩いてくれているのです。私たちの人生に一つのあしあとしかなかったら、それはきっと神様が私たちを背負ってくださったしるしなのです。聖書にはいくつか、この話のモチーフになるような箇所があります。今日の個所も神様が私たちを背負うというイメージです。今日の聖書箇所を見てゆきましょう。

今日はイザヤ書46章1~4節をお読みいただきました。イザヤ書は激しい戦争の時代に書かれた書物です。特にこの46章が書かれたのは、イスラエルの人々がバビロニア帝国という大国との戦争に負けた後だったと言われます。戦争に負けた後、人々は強制的に移住させられました。数百キロも離れた場所に、手を縛られて、歩いて連れていかれ、知らない土地に強制的に住まわされたのです。今も昔も、戦争に負けた国の人間は動物や物のように扱われます。イスラエルの人々は、神はどこに居るのかと嘆き悲しみながら歩いたでしょう。

1節にはベルやネボとあります。ベルやネボとはバビロニア帝国で信仰されていた神々のことです。バビロニア帝国では、この神々が天地を創造したと信じられていました。人々はその神々を石や木で掘り、街中に飾っていました。聖書ではこのように、神の姿を石や木で掘って拝むことが禁止されています。これを偶像崇拝の禁止と呼びます。日本では仏像がたくさんあり、多くの人がそれに手を合わせて拝んでいます。しかしキリスト教ではそういった神の像を造って、拝んではいけないと言われます。なぜだと思うでしょうか?

一つの理由は、神様の願い・御心を、自分の欲望と混同しないようにするためと言えるでしょう。人間が神様の形を掘り出せば、神様を人間の理想を詰め込んだ姿にするでしょう。かっこよくて、強くて、背が高い、きらびやかな姿にするでしょう。そうすれば神様は人間の思い通りの姿になります。そして掘り出して便利なことは、神様をどこにでも好きな場所に持ち出せるということです。例えば王様のところに置けば、王様と神が近い存在だと表すことができます。戦争に神の像を連れて行けば、神様が自分たちの戦争を応援していることになります。あるいは小さくしてポケットに入れればどこにでも連れて行けるようになります。

しかし注意していないと、神様を人間の思い通りになる存在にしてしまうでしょう。人間は神様のことを自分たちの都合に合わせて姿や形、大きさを変え、私たちの意のままの存在にしてしまうのです。どこにでも持っていけるのは聖書の神様ではありません、神様はそのように私たちの思い通りに、願いをかなえてくれる存在ではありません。だから聖書は神様の姿形を造って拝むことを禁止しています。

聖書によれば神様は私たちが見えていなくても、いつも一緒にいる存在です。だから形や像にする必要がないのです。形にしてはいけないのです。神様は私の願いごとをかなえてくれるのではないのです。神様の願いがこの地上でかなうために、私たちは用いられるのです。だから神様を形にする必要がないのです。それが聖書の信仰です。見えないけれど確かに共にいて下さるのが神様です。

イスラエルの人々は戦争に負け、異国に連れていれ、異教の神の像を見て、もういちど自分たちの信仰を問い直したはずです。そしてなぜ自分体がそれを造らないのかを考えたはずです。そして気づいたでしょう。私たちの願いは叶わなかったけれど、きっと神様は私たちに良い計画を準備してくださっているはず。私たちの願いとは違うけれど、神様の姿・形は見えないけれど、神様はいつも一緒にいてくれるはず、彼らはそう思ったでしょう。そう思わなければ悲しみに耐えることができなかったでしょう。

そのときイザヤを通じて神様の言葉が響いたのです。1節にはこうあります。今形にされているバビロンの神は、きっといつか他の荷物と同じように運ばれていくだろうと。疲れた動物があの神の像をひっぱることになるだろうと言っています。

姿・形に彫り出され動物にひいてゆかれる神は、聖書の神の特徴と大きく違います。聖書の神様は人間や動物に担ぎ上げられて、運ばれてゆく神様ではありません。聖書の神様はその反対です。聖書では神様が人間を背負うのです。私たちや動物が神を背負うのではありません。神様が私たちを背負うのです。それが聖書の神様の特徴です。

聖書の神様は私たちを背負う神様です。神様が私たちの人生を背負っています。私たちは神様の背中に乗って、運ばれている存在なのです。そして3節にはそれは生まれる前からそうだとあります。「あなたは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」とあります。神様は生まれた時から私たちを背負っているということです。4節、そしてそれは髪の毛が真っ白になるまで続くのです。神様は生まれた時から、死ぬ時まで、そして死んだ後も私たちを背負ってくださるのです。それが聖書の神様です。神様が私たちを背負うとはどんなことでしょうか。それは私たちだけでは前に進めない時、神様が私たちを支え導いてくれるということです。

それは先ほど紹介した「あしあと」の話のようです。神様は私たちが運ぶのではありません。神様が私たちを背負って運んでくださるのです。私たちが前に進めない時、神様が私たちの心と魂を支えて、背負って歩んでくださるのです。それが私たちの神様です。今日の聖書の個所もそれを伝えようとしています。

私たちの人生はひとりでは生きていけないものです。そして自分ひとりでは背負いきれないものがあります。家族のこと、仕事のこと、健康のこと、自分の心のこと、自分一人ではどうにもできず、背負いきれず前に進むことができない時があります。私たちの人生にはそのような重荷や悲しみ失敗があります。

私たちの神様はその時、確かに私たちを支えてくださるお方です。私たちが立てない時、支えて、背負ってくださるお方です。私たちはその神様を支えにして生きます。心の支え、魂の支え、生活の支えとして生きます。神様によって人生が願ったとおりになるわけではありません。でも私たちは神様が支え導いてくれると信じながら歩むのです。つらい時は神様が一緒にいたことがわからないものです。振り返ってもひとりだったように感じるものです。でも本当は神様はずっと私たちの人生に、共にいて下さるのです。

このことをこどもたちにも伝えたいと思っています。これからずっと神様が一緒に歩き、つらい時あなたを背負ってくれるのだと。そして高齢者のみなさんと分かち合いたいとも思っています。みなさんの人生はきっとそうだったはずです。振り返ってみると一人のように思える時があったかもしれません。でもその時も神様がみなさんと一緒に歩み、皆さんを背負って、歩いてくださっていたのです。そして神様はこれからもみなさんを背負って歩いてくださるのです。私たちにはこのように神様が共にいて下さいます。だから安心してこれからも歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「平和のために行動をしよう」イザヤ書40章1~8節

谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。

険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。  イザヤ書40章4節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は平和のしるしです。今日もこどもたちの声に包まれながら礼拝をしてゆきましょう。

8月・9月は平和について考えています。今日は沖縄の伊江島という小さな島から平和の本質を考えたいと思います。平和とは単に戦争が無い状態のことを指すのではありません。もっと深い意味を持っています。平和とは戦争がないことに加えて、もっと人々が自由で、平等な様子を言うのだということを考えたいと思います。

1945年、沖縄ではアメリカ軍との激しい地上戦が繰り広げられました。なかでも伊江島では激しい戦闘が行われました。伊江島の人々は日本軍から人間扱いされませんでした。住民は日本軍に箱型爆弾を背負わされ、上陸した戦車への特攻を命じられました。逃げる住民も米英は鬼畜だと教えられ、投降せず集団自決を強制されました。そのような激しい戦いがあったのが伊江島です。

戦争が終わり伊江島は平和になったでしょうか?そうではありませんでした。今度はアメリカ軍から人間扱いされません。アメリカ軍は占領した伊江島に爆撃の練習をするための飛行場を作ることにしました。住民たちは反対をしますが、うその契約書にサインをさせられ、アメリカ軍は土地を奪いました。アメリカ軍は接収に反対する住民がまだ住んでいる家をブルドーザーで壊してゆきました。住民たちにはほとんど補償はないまま、畑は飛行場にされ、自分の畑に入れば射殺されるか、爆弾が落ちて来るという状況でした。家と畑を奪われた住民たちは、生きるためにソテツという猛毒の草を食べ、米軍の落とした不発弾を拾って鉄くずを売って暮らしていました。不発弾が爆発して命を奪われる人もたくさんいました。伊江島は戦争が終わった後も爆弾が身近でした。戦争中は爆弾から逃げていた人々は、戦争が終わって今度は鉄くずを求めて爆弾を追いかけました。人々の生活は戦争中は日本軍によって、戦後はアメリカ軍によって貧しくされ続けたのです。

アメリカ軍の強引な土地接収に抗議運動が行われるようになりました。抗議運動を率いた一人に阿波根昌鴻という人がいました。彼はクリスチャンでもあり、沖縄のガンジーと呼ばれた人です。彼は非暴力でアメリカ軍と対峙することにしました。伊江島は戦争が終わってもまだ平和ではありませんでした。阿波根昌鴻たちは暴力を使わずに平和を実現しようとしました。その活動のひとつに「あいさつさびら」があります。沖縄の言葉で「あいさつしようね」という意味です。畑も家も奪っていくアメリカ軍は、自分たちのことを同じ人間だと思っていないはずだ。だからまず自分たちが同じ人間であることを伝えようとしました。「おはようございます」「こんにちは」と笑顔で挨拶する「あいさつさびら」はお互いが同じ人間同士だと伝えるための平和的な抗議運動として行われました。他にも様々な非暴力運動が行われました。アメリカ軍と何かを話す時は手に何も持たないことにしました。座って話をし、耳より上に手を挙げない、相手の悪口は言わないことをという活動をしました。

それでも困窮が改善しない彼らは「乞食行進」を始めました。乞食・托鉢をしながら沖縄の本土を行進し、その実情を訴えたのです。乞食・托鉢をするのは恥ずかしい事です。恥です。でも彼ら気づきます。自分達が乞食をすること自体が恥なのではなく、本当は自分たちに乞食をさせるアメリカ軍、非人間的行為、基地と武器こそ人間の恥なのだと気づきました。伊江島の人々の乞食行進はやがて沖縄各地の土地返還運動、本土復帰運動へとつながってゆきました。

伊江島の事を短く紹介しました。このことから平和について考えます。伊江島は戦争が終わって平和になったでしょうか?まったく平和は訪れていません。平和とは人々の権利が守られ、自由に平等に生きてゆける状態のことです。伊江島・沖縄はその意味で戦争が終わっても平和ではありません。

沖縄の基地問題はいまもまだ解決していないどころか、新たな基地が作られようとしています。戦争が終われば平和なのではありません。平和とは人々に自由と平等が与えられている状態です。平和を実現する行動とは、伊江島の人々のように、戦争に反対し自由と平等に向けて働いてゆくことです。

その平和は聖書の平和と共通しています。聖書の平和の概念もまた、戦争が無い状態ではありません。聖書における平和の概念は戦争がない、そしてさらにすべての人に自由と平等が保障されている、それが実現されてゆく様子です。神様の平和は不平等と抑圧の解消を指し示しています。今日の聖書からその平和を見てゆきましょう。

イザヤ書40章をお読みいただきました。この個所はイスラエルが戦争に負けた後、人に向けられた神様の言葉です。人々は望まない戦争を戦わされ、財産、土地、家族を失いました。戦争が終わった後もそれが回復するわけではありません。戦争が終わってもまだ平和ではなかったはずです。戦争が起こした苦痛が人々を苦しめていました。そこに神様の声が響いたのです。神様は平和の意味を教え、平和の約束を私たちに下さっています。その言葉が人々に響いたのです。

4節を見ます。「谷はすべて身を起こし、山と丘は低くなる」とあります。これが聖書の平和が実現してゆく様子です。聖書の平和は高いものが低くされ、低いものが高くなっていくことです。それはこのようなゆがんだ丸から説明することができます。現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとしている場所があります。そこには高ぶる者が居ます。高ぶる者は、低くされている人間のことを、人間ではない劣った鬼畜だと言います。自分の民族は優秀で支配にふさわしいと言います。高いことを誇ろうとします。戦争中の日本は徹底的に高みに立とうとしたと言えるでしょう。アジアの人々を劣った人とし、アメリカを鬼畜だと言いました。その発想が平和を壊す始まりです。戦後のアメリカも同じです。アメリカは日本と沖縄、特に伊江島の人々を戦争に負けた劣った者、支配されるべき人間以下の存在として扱いました。

聖書の平和とはこのような不平等と抑圧を解消してゆく働きです。平和とはこのでこぼこな丸が、きれいな丸の状態になってゆく動作です。聖書の平和とはだれも高い人、低い人がいないきれいな丸になる状態です。押し込められていた人が元に戻り、高みにいた人が元に戻される、みんなが対等に、等しく満たされている状態です。ゆがんだ丸が平らになっていくことが平和です。そしてイエス様の十字架を、このへこみの下、低み、一番深い谷、悲しみの底に起きました。イエス様の十字架こそこの谷底にある出来事でした。聖書の平和とはその十字架から歪んだ丸を見つめ、元の美しい丸に戻してゆく動作です。そのダイナミックな動きが聖書の平和です。4節の「高みは低くなれ、低みは高くなれ」「険しい道は平らに、狭い道は広くなれ」とは、神様の平和の宣言です。人間同士に上下のない、優劣のない様子が平和です。神様はそのような平和が私たちの世界に実現すると約束をしています。

5節を見ましょう。5節には「主の栄光が洗われるのを 肉なる者は共に見る」とあります。そうです私たちすべての人間は、共に神を見る者として存在をしています。人間の中にだれ一人、鬼畜はいません。悪魔のような人間はいません。たとえあいつらは人間ではない、悪魔だ、対話できないと教えられても信じてはいけません。すべての者が共に神の栄光を見る、尊い存在です。だから「あいさつさびら」です。私たちは互いにあいさつしましょう。共に言葉を交わし、共に食べ、共に笑いましょう。そのようにして同じ人間として他者がいることを忘れずにいましょう。共に神を見る者として互いを思うことが私たちが平和を実現するための第一歩です。

6~8節を見ましょう7節には「この民は草に等しい」とあります。そうです、私たち人間は葦のように弱い存在です。私たち人間は草に等しい、はかない存在です。どのような人種、宗教、民族であってもすべての人間が弱い草のような存在です。でも私たちはただの草ではありません。私たちには神様の言葉があります。私たちは同じ人間であるという言葉、神が私たちに平和を与えるという言葉が、弱い私たちにはあります。私たちは弱くても、神様の言葉があります。とこしえに立つ、永遠にある、神の言葉が私たちにはあります。その神の言葉によって私たちには希望が与えられます。だから弱くても共に神のことを求め、平和のために働くことができるのです。

私たちの世界は平和ではありません。私たちの国も平和ではありません。沖縄も平和ではありません。まだ様々な場所に、低くされ、抑えつけられ、人間扱いされていない人がいます。また戦争が起きています、基地に苦しむ人がいます、いじめに苦しむ人がいます、私の心の中だけではない場所で、そのようなことは起きています。

私たちはこのような世界でどのように生きてゆけば良いのでしょうか。私たちは特に痛みを覚える人に目を向けましょう。低く抑えつけられている場所を見つめてゆきましょう。きっとそこには十字架があるでしょう。そしてそれが元に戻されるために働きましょう。互いを対等な人間として、共に神の栄光を見上げる存在として大切にしましょう。挨拶をしてゆきましょう。それ以上に自由と平等、平和のために何ができるのか考えてゆきましょう。そして神様の平和の約束を信じましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「平和の祝宴に招かれる」イザヤ25章4~10節

まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 イザヤ書25章4節

 

みなさん、おはようございます。先週はお休みをいただきました。代わりに奉仕を担ってくださった方々、本当にありがとうございました。今日も共にこの平塚教会で、神様からの招きに応えて、礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さなこどもたちの命がこの礼拝に共にあることを感じながら礼拝をしましょう。

先日は福岡から濱野先生を招いて、宣教の奉仕をしていただき、またその後の主の晩餐の学びをしました。お一人一人はどのようなことを感じたでしょうか。またそれぞれに分かち合ってゆきましょう。礼拝も礼典も、神様からの招きです。招かれたままに、たとえその意味が分からなくても、聞いたまま、伝えられたままに続けてゆくことも大事です。そしてそれと同時に各教会や個人がはっきりとした信仰理解を持ってその礼典を行ってゆくことも大事です。すべてを理解し、言葉にすることはできないかもしれません。でも今日の礼拝、主の晩餐を何のために、誰に向けてするのかを考えて受けてゆきたいと思っています。

8月と9月は平和について考えています。私の心を特に締め付けるのは戦争で壊れた建物の瓦礫の前で泣いているこどもたちや、血だらけになって病院に運ばれたこどもたちです。世界中でその光景が繰り返されるたびに「神様はどこにいるのか」「神様はなぜ戦争を止めないのか」と疑問に思います。そしてこどもたちの笑い声が響きわたるのがどれだけ平和を象徴しているかを想像します。少し考えてみてください。みなさんも戦争の様子を見るたびに、神様がどこにいるのかと感じることは無いでしょうか? 

イスラエル・ガザの紛争はイエス様が暮らし、平和を教えて回った場所で起きています。そこで紛争が繰り返され、エスカレートしていくことに特に心を痛めています。ロシアもウクライナももともとキリスト教が盛んな国です。平和の神様を信じている人間が、どうして戦争をしてしまうのかを疑問に思います。神様は一体どこでこの世界の様子を見ているのでしょうか。今日は戦争の中で神様はどこにいるのかを考えたいと思います。今読んでいるイザヤ書は、激しい戦争の時代に書かれた書です。神様が平和を願うメッセージが多く書かれています。今日の聖書から平和を見てゆきたいと思います。

 

 

今日はイザヤ書25章4~10節までをお読みいただきました。4節にはまことに神様は弱い者の砦とあります。神様は戦争において弱い者の砦であり、弱い者を守る側にいるということです。戦争の勝敗は神の願い、御心とは一切関係がありません。誰が神に戦争の勝利を祈ろうとも、神はその力でどちらかに勝敗を下すことはありません。神に戦争必勝の祈願をしても意味がありません。戦勝祈願は無意味な祈りです。神様はそのような暴力の衝突について、どちらかの「正しい側」「より熱心な側」に立つお方ではありません。

4節にもあるとおり神様は弱い者の砦です。神様が関わるのは、弱さと貧しさです。神様は弱い者と共にいるということです。戦争は強い者が勝ち、弱い者が負けて死にます。しかし神様は弱い者の砦です。神様は弱くて小さな者を見つけ、それを自分の元に集め、守ろうとします。神様は戦争のために熱心に祈り、戦って、武勲を上げる人を探しているのではありません。敵味方関係なく、戦火に追われる弱くて小さな者を見つけるのが神様の働きです。弱い者、貧しい者の希望となるのが、神様なのです。神様は弱く小さい者を見つけようとしています。私たちがその神様を見つけるためには、小さくならなければいけません。強く、大きく、広く、高くを目指す時、神様は見えなくなるのです。私たちも弱さや小ささ、貧しさに目を向けたいのです。

戦争の報道は、どちらがどのような兵器で、どちらが優勢で、大国がどんな武器の支援をするかに目を向けがちです。でも私たちも戦争に触れる時、神様のように弱さや小ささ、貧しさに目を向けてゆきましょう。私たちは戦争で傷つき、犠牲にされ、人生を壊された人を想像し、目を向けてゆきましょう。その時神様が戦争の中でどこにいるのかを見つけることが出来るはずです。

6節には神様が山で祝宴を開くとあります。神様は戦争の中で、弱い者、苦難にあう者、貧しい者、乾ききった者を山の上で行われる祝宴に招きます。山とは神様を礼拝する場所という意味です。神様は傷つき、疲れ、平和を求めて飢え渇くすべての人を礼拝に集めるのです。それは神様の側からの招待です。人間が場所とごちそうといけにえを準備して神様を招待するではありません。神様が場所も食べ物もすべてを整えて、山の上で待っていてくださるのです。私たちが招かれて礼拝をするのです。戦争で傷つき疲れた人々はそこで平和を願って礼拝するのです。

この個所には「すべて」という言葉が3回出てきます。山の上ではすべての民に神様からの食事が与えられます。ここでも敵味方関係ありません。一人の例外もなく、すべての民が、神様に招かれて、山に集まった者全員が祝宴に参加します。それが神様の礼拝の在り方です。分け隔てのないすべての人との食事が神様の愛を象徴しています。このように神様が山の上から招く祝宴は、神の愛、神の平和、神の招きの象徴です。その祝宴・礼拝ではすべての人に良い肉と古い酒(良いお酒)が提供されます。私たちはその肉と酒を受けとります。そうすると、神様から生きる活力をもらいます。これを食べると、生きよう、他者を愛そうという力が湧いてくるのです。この祝宴・礼拝に出て自分を反省するのではありません。主に招かれたこの時を楽しみ、食べて、力をもらうのが祝宴・礼拝の役割です。

この食べ物と良いお酒、私たちにとって何でしょうか。私たちにとってこの食べ物は、きっと礼拝の中の聖書の言葉でしょう。聖書の言葉から命、愛、祈り、平和をいただきます。あるいは今日いただく主の晩餐も、この食べ物をよく象徴しているでしょう。神様に招かれて、私たちは聖書の言葉と、主の晩餐をいただいて、生きる活力、希望をいただくのです。それが私たちです。神様はこのようにすべての人をこの祝宴・礼拝に招いています。

8節を見ます。主なる神はすべての顔から涙をぬぐうお方です。戦争の光景にはいつも涙があります。あるいは涙もでない悲しみがあります。神様はすべての顔から涙をぬぐってくださるお方です。神様は戦争の悲しみ、命を奪う悲しみ、恥、不名誉、失敗の涙をぬぐってくださるのです。神様は泣くなとは言いません。神様はただひたすら泣く人間の涙を、ぬぐってくださるお方です。涙が渇くまで、涙が枯れるまで、涙がとまるまでただただ涙をぬぐってくださるお方です。そしてそれもきっと味方の涙だけではありません。地上のすべての涙、敵の涙をもぬぐうのでしょう。

神様は戦争の勝敗に関わらない方です。戦争に勝つことを神様に祈ることは無意味です。そもそも神様は戦争を望んでいません。私たちは神様が戦争のどこにいるのかを探します。神様は勝った側にいるのではありません。より熱心に戦争の勝利を祈った側にいるのではありません。神様は敵味方関係なく、涙が流される場所、弱さと貧しさのある場所、安全な場所を求めて逃げまどう人と共にいるのです。神様はそのようにして戦争のただなかに、戦争の一番の悲しみの中にいるのです。

そして神様はすべての人を平和、礼拝へと招いています。だから私たちはこの礼拝で平和を求めましょう。世界では戦争によってたくさんの涙が流されています。そのような世界で、私たちは山の上の礼拝に招かれています。私たちはこの礼拝で平和を祈りましょう。

9節この方こそ私たちの神様です。私たちが待ち望むのはそのような神様です。この方が私たちを救ってくださるのです。私たちを平和へと導いてくださるのです。この方こそが私たちが待ち望んでいた主です。私たちは礼拝で、神様が涙の中に共にいてくれることを共に喜び合います。その礼拝の中で主の働きは豊かに注ぐのです。

私たちは世界の平和を求めて礼拝をしましょう。壊れたがれきと涙するこどもを見て、神様は必ずそこにいる、涙をぬぐってくださると信じましょう。そしてその戦争が早く終わるように祈りましょう。一人一人が平和のためにできることをしましょう。

そして私たちはずっと山の上に留まるのではありません。今日私たちはこの平塚バプテスト教会という山・礼拝から降りて、礼拝から派遣されて、それぞれの場所で暮らしてゆきます。私たちの派遣された場所は平和ではないかもしれません。弱さと涙があるかもしれません。でもその場所に神がおられます。みなさんが平和を実現するために、1週間できることは何でしょうか?私たちは神様の愛と平和を広げることができる、1週間を目指します。一人ひとりがその実現に向けてどのように行動できるかを考えてみましょう。それぞれの生活の中で、神様の平和を広めるための具体的な行動は一体なんでしょうか。そして私たちはまた来週の礼拝にも招かれています。1週間それぞれの場所での平和を求めて、過ごし、また集いましょう。

これから主の晩餐を持ちます。これも神様から招かれている祝宴の一つです。このパンと杯を受けて、平和を実現させるための力と知恵と励ましをいただきましょう。神様は礼拝と平和へと私たちすべての人を招いています。そのことを覚えてこの祝宴にあずかりましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「平和を祈ろう」イザヤ9章1~6節

みんさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。また今日はバプテスマ式を執り行うことができました。彼だけではなく、私たちにとっても大きな喜びです。彼の信仰告白から神様への思いが伝わってきました。そのバプテスマが人生の転機となるように祈っています。8月11日の平和祈念礼拝でバプテスマをうけることになったのは偶然ではないはずです。平和に向けて働くことも忘れないでいて欲しいと思います。みなさんと一緒に平和を考えることからクリスチャンの歩みをスタートしましょう。今日も平和について考えてゆきましょう。

今日は平良修という牧師を紹介します。戦後沖縄はアメリカ軍に占領され厳しい状況に置かれていました。アメリカの一部、アメリカの植民地とされたのです。植民地のトップにいたのがアメリカから派遣された「高等弁務官」でした。この高等弁務官は沖縄の政治・行政・司法を掌握していました。行政の職員は逆らえばクビにされました。沖縄政府が法律を作ろうとしても高等弁務官には拒否権がありました。裁判官も高等弁務官が任命しました。このように高等弁務官は行政・立法・司法の三権のさらに上に立っていました。高等弁務官は沖縄を植民地支配する絶対的権力を持つ存在でした。それは帝王と呼ばれていました。

15年間の占領で6人の高等弁務官がいましたが、その5人目の就任式に招かれたのが、平良修牧師でした。平良牧師はその就任式で祈ることとなりました。就任式での彼の祈りは次のようなものでした。「神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、せつに祈ります。」就任式の祝いの席で、この人が最後の弁務官になるように、最後の支配者となるように、沖縄が正常な状態に戻るように、そう祈ったのです。この祈りは大きな驚きと反響を呼びました。帝王、絶対権力者の就任を祝う式で、牧師が神に、最後の権力者となりますようにと祈ったからです。

そしてさらに祈りは続きました。「神よ、沖縄にはあなたのひとり子イエス・キリストが生命を賭けて愛しておられる百万の市民がおります。高等弁務官をしてこれら市民の人権の尊厳の前に深く頭を垂れさせてください。そのようなあり方において、主なるあなたへの服従をなさしめてください。天地のすべての権威を持ちたもう神の子イエス・キリストは、その権威を、人々の足を洗う僕の形においてしか用いられませんでした。沖縄の最高権者、高等弁務官にもそのような権威のありかたをお示しください。」戦争に負け、植民地として暴力的に支配されている側の人間が、絶対権力者を前に、あなたが最後になりますように、そしてその権力者が民衆の足を洗う僕になりますようにと神様に祈ったのです。支配者が民衆の人権を守るようにと神様に祈ったのです。このような祈りは沖縄の人々を大きく励ますことになりました。本土復帰への力となっていったのです。

平良修牧師の就任式での平和の祈り、私たちもこのような祈りを持ちたいと思います。今私たちもトランプかハリスかアメリカのリーダーの変わり目に生きています。そして日本もそう遠くない時期にリーダーが変わるでしょう。私たちは政治と政治家のために祈ります。ただその祈りは、戦争の準備をするリーダーが最後になりますように、戦争をするリーダーが最後になりますようにという祈りです。私たちを抑圧する政治がこの人で終わりますようにという祈りです。

神様が用いるのは人々の足を洗うリーダーです。自分たちの利益や裏金ではなく、人々の足を洗う、命を守るリーダーが選ばれるように祈りましょう。今日の聖書の個所はイザヤ書です。今日の個所も就任式での平和の祈りです。預言者イザヤが就任式で祈った平和の祈りが記録されています。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

 

イザヤ書9章1~6節までをお読みいただきました。イエス様が生まれるずっと前の時代、王様がアハズからヒゼキヤ変わる時の事です。当時のイスラエルは戦争直前の状態でした。近隣諸国との緊張関係が高まっていたのです。イスラエルの北側はすでに攻め滅ぼされていました。次は自分たちが戦争に巻き込まれるかもしれません。多くの人は軍備を拡張し、戦争に勝つことでしかこの状況を変えることはできないと考えました。戦争の準備をたくさんしたのです。そんな時に王様の交代がありました。

1節の「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」とは、おそらくすでに戦争に負けた、北側の住民たちのことです。望まない戦争を戦わされ、被害にあい、家族の命が奪われ、財産や土地もすべて失い、人権が蹂躙された人々のことです。戦火にさらされた彼らは、暗い闇を生きるように、死を身近に感じたでしょう。しかしイザヤは預言をします。その人々は大いなる光を見ると預言します。光とは人生の希望です。残りの人生に希望が何もないと思える時も、神様が私たちに希望を見せてくれるということです。死に直面した、あるいはすでに死んでしまった人にも神様の希望が輝くと、ここでは約束されています。ここには「輝いた」と未来のことが過去形で記されます。それは実現が確実に約束されていることを示しています。強い約束、確実な約束として、光がある、希望があると記されているのです。神様はこのように戦争の起こる世界の中でも絶望せず、希望があることを私たちに伝えています。

2節、私たちには深い喜びが準備されています。それはたくさんの作物が収穫できた時の喜びに似ています。そのような心も体も満ち足りるような喜びが私たちを待っているのです。私たちが戦争で奪われたものが、もう一度自分の手に戻ってくるような喜びが私たちを待っています。

4節は重要な箇所です。ここでは軍事力の放棄が語られています。平和へと向かう時、兵士たちの靴や軍服は火に投げ込まれます。神様は軍隊の装備、武器をすべて焼き尽くすお方なのです。平和には武器も装備も必要ないのです。私たち人間は自分を守るためだと言って武器や基地を作ります。相手より強い武器を持っていることが最大の安心、抑止力、平和につながると考えます。しかし神様は違います。神様は武器装備をことごとく火に投げ込みます。武器では平和は作れない、必要ないと言うのです。ここには武器や基地がすべてなくなる約束がされています。これも焼き尽くされたという過去形の強い約束です。私たちには平和な世界と、武器と基地の無い世界が神様から約束されているのです。それを信じましょう。

5節「一人の赤ちゃんが、私たちのために生まれた。男の子が私たちに与えられた。」この言葉は新しく就任した王に対して、イザヤから平和への期待が託されています。よく見るとその王とは「私たちみんな」に与えられた王です。王とは特定の人の利益のために、自分のお友達の利益のためにだけいるのではありません。私たちみんなのために、民主的に与えられたのが王です。イザヤの願った王は絶対権力者でも、帝王でもありません。私たちのみんなの命と生活を守る、神の僕です。そしてそのような王は平和の君と呼ばれるとあります。そのような王が平和を実現するリーダーになるということです。イザヤは戦争に勝ちますように、戦争に勝つ強い王になりますようにとは祈っていません。イザヤは平和を実現する王を求めています。

6節その平和は正義と恵みの業によって支えられるとあります。正義とは正しいことです。そして恵みの業とは、恵みが誰かに偏って与えられるのではなく、みんなに与えられることです。それは偏りがなく、公平に与えられる様子です。平和とは戦争がないだけではありません。平和とは正しさと公平さが行き渡る場所で起るのです。神様はそのような正義と公正から、平和を成し遂げてくださるお方です。

神様はこのように平和を私たちに成し遂げると約束してくださっています。そしてイザヤはその約束がこの新しい王によって実現することを祈っています。新しい王に平和の実現のための器として、働くように呼びかけているのです。それが今日の聖書の個所です。イザヤの祈りはどこか平良修牧師の祈りとも重なるように思います。

私たちもこの世界と私たちの周囲の平和の実現について考えます。私たちは平和を大事にするリーダーを選びましょう。人はすぐに強いリーダー、戦争に勝つリーダーを求めるものです。しかし私たちは武器を捨て、正義と、公平さを持ったリーダーを選びましょう。そして私たちが選んだリーダーが平和を選ぶように祈り続けてゆきましょう。預言者イザヤや平良修牧師のように私たちは平和を祈ってゆきましょう。平和を祈り平和を実現する人を私たちのリーダーとしてゆきましょう。そして私たち自身が平和のリーダーとなってゆきましょう。武器を捨て、力を捨て、火に投げ入れ、正しさと公正さを持ったリーダーとなってゆきましょう。

私たちは1週間、自分の強さと勝利を求めるのではありません。私たちはそれぞれの1週間で平和を祈り、実現させましょう。暴力と力を焼き払い、正義と公正さ持ちましょう。そのために神様は私たちに知恵と力を与えて下さるはずです。

神様はそのようにして必ず地上に、私たちに平和を与えて下さいます。そのために祈りましょう。そして平和の実現のためにそれぞれの場所で働きましょう。今日はそのための平和祈念礼拝です。お祈りします。

 

【全文】「お皿洗いの平和」イザヤ書4~5節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の存在を確かめながら礼拝を共にしましょう。

8月と9月は平和をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。平和をテーマとするとき、戦争の事も考える、重苦しいテーマとなるかもしれません。しかし今日は私たちの身近なことから平和について考えてゆきたいと思います。

ある平和学の教授が、人間同士の対立を理解するために「誰がお皿を洗うか」というたとえを使っていました。二人以上で暮らす家ではよく誰がお皿を洗うのかという対立が起きます。じゃんけんで決めたり、順番を決めることで一見解決したように見えるものです。しかしこの教授は誰がお皿を洗うのかを決めただけでは、対立は解決しないと言います。教授はお皿洗いをどちらがするのかというその対立の中に含まれているものに注目しています。その中には実は互いへの期待や、思いやり、関係性、意思決定の方法など多くの要素が含まれています。お皿洗いはどちらがするのかという問題の中には、どのような関係性でありたいかという問題が隠れているのです。私たちはとりあえずその場しのぎで、お皿は誰が洗うのかを決めて、解決したつもりでいます。しかし、私たちは根本的な問題である、どのような関係性を期待しているのかについては、深く話し合いません。これでは表面的な解決です。奥にある問題を無視せず根本的な関係性に目を向けることが大切です。

お皿洗いの問題だけではありません。いろいろな対立が私たちの家の中にあるはずです。でも私たちはいつも表面的な解決にしか目を向けていません。

一方で何も対立が起こらない家が平和だとは限りません。相手に意見を言えない雰囲気、相手に意見を抑え込まれている状況は平和ではありません。現状に対立がないことをもって平和とはならないのです。また関係を確認しルールを決めれば平和かというとそうではありません。状況は常に変わります。健康や仕事や時間の使い方は常に変化します。一度決めたルールも常に見直しが必要です。

きれいな家とはどんな家でしょうか。一見きれいな家でも、汚れが見えない場所に隠されている家は、本当にきれいな家とは言えません。家は住めば必ず汚れます。絶対に汚れない家は存在しません。きれいな家とは、汚れから目を背けず、汚れても、汚れても、毎日、毎日、繰り返し掃除がされている家のことです。

平和もこのお皿洗いの対立から考えることができます。今日どちらがお皿を洗うかをとりあえず決めるだけでは、平和ではありません、お皿洗いの対立が起きないのが平和なのではありません。常にその問題の中にある関係性、互いへの期待に目を向けてゆくことが大事です。そして常に更新されてゆくことが大事です。このたとえを通じて、教授は次のように勧めています。まず山積みの食器に目を向けるのではなく、その向こう側に目を向けて、問題となっている人間関係や構造を理解しよう。その後から、食器をどのように洗うかを考えようと勧めています。その場しのぎの答えではなく、問題の中の人間関係、構造に目を向けようと言っています。

このたとえ話は平和を考える上で、とても重要な視点を教えてくれます。私たちは一切の対立がない世界の実現を目指しているのではありません。一切の対立がないことが平和なわけではありません。私たちが目指すのは、対立が起きた時、表面的な解決を繰り返さないということです。解決に暴力的な方法をとらないことです。対立の中にある、関係性や構造に目を向けてゆくことが必要です。

そのようにして初めて、対立を平和へと転換させてゆくことが出来るのです。私たちはそのような転換が必要とされています。私にもこのような平和が実現できるでしょうか。解決方法はそれぞれの関係や構造で変わって来るはずです。でもそれを対立の内容よりも、関係性に重点を置いて考えることが大切です。それは家族や職場、友人関係において、心にとめておきたい事です。今日は聖書からも平和と、その実現のために必要な、私たちの転換について考えたいと思います。

 

 

聖書を読みましょう。旧約聖書イザヤ書2章4~5節までをお読みいただきました。特にこの言葉は聖書で有名な言葉です。ニューヨークの国連本部の広場にもこのイザヤ書の言葉が刻まれています。世界が平和を求める願いがこの言葉によく表されています。ただ今の世界はこの逆であるとも言われます。生活の糧を奪い、戦争をしています。旧約聖書はイエス様が生まれるずっと前に与えられた神様からの教えですが、このような平和の教えも書かれています。

この文書が書かれた当時、イスラエルは近隣諸国から軍事的な圧力に直面していました。まだ戦争は始まっていません。しかし、すでに対立は深まり、暴力の一歩手前でした。イスラエルは小さな国でした。他の国に怯えずに、自分達らしい国にすることを望んでいました。しかし、近隣諸国と利害が衝突し、戦争直前の状態にありました。

実は同じことはこれまでも繰り返されてきました。すでにイスラエルの北側は攻め滅ぼされていました。この圧力に勝つにはもう暴力・戦争しか方法はないという人が多くいました。他国からの脅威があるとき、戦争しかないと訴える人はどの時代にもいます。このような緊張関係の中、神様はイザヤという人を通じて4節の言葉を人々に伝えました。それは4節「剣を鋤に打ち直せ」「槍を鎌に打ち直せ」という言葉です。

この言葉はまさしく、武器を捨てて平和を求めようということを意味しています。私たちが持っている暴力の道具を捨て、命を養う道具に変え、平和に生きることを促しています。戦争の勝ち負けで物事を決めても本当の平和は訪れません。破壊された建物と、憎しみが残るだけです。それはまるで暴力を使って、無理やりお皿洗いをさせているようなものです。お皿が洗われても、本当の問題は全く解決していません。戦争の後に平和は訪れません。軍事力では平和は実現できません。武器で平和は作れません。神様ははっきりと武器で平和は実現しないことを伝えています。

そして今回、武器で平和は作れないということの他に、私はもう一つここに意味を見出します。それは対立の原因となっている関係や構造に目を向けることが重要だということです。表面的な解決ではなく、短絡的な暴力による解決ではなく、双方の関係性や期待していることに目を向けて解決する必要があるといことです。山積みのお皿の向こう側に目を向けるということです。

「剣を打ち直して、鋤とする」は、対立するのをやめて我慢する様に言っているのではありません。対立してはいけない、逆らってはいけないと言っているのではありません。武器を捨ててそしてさらに、その対立を剣以外の方法で、暴力的でない方法で、表面的でない方法で、解決せよと言っているのです。ですからこの教えは武器を放棄するというだけの教えにとどまりません。武器を捨て、それ以外の方法で問題を解決するようにと教えています。

 

4節には打ち直せという言葉があります。この言葉は一度バラバラに壊して作り変えてゆくという意味です。暴力的で表面的な解決からの転換が促されているのです。私たちにその場しのぎの解決ではなく、物事を別の角度から見て解決することを促しているのです。問題の見方を転換し、背景にある人間の関係を深く考えるようにと促しています。「剣を打ち直して鋤とする」とは私たちに新しい、創造的な、建設的な方法で、対立を解決するように促しているのです。

これは対立についての内容ではなく関係に重点を置いた受け止め方です。対立をこのように関係に重点を置いて受け止める時、私たちにはどんな変化が起こるでしょうか。私たちはその対立をもっと積極的に受け止めることができるかもしれません。対立をめんどうなものとしてではなく、他者の理解を深める機会とすることができるかもしれません。互いが成長できる機会とすることができるかもしれません。その対立をよく見極める時、いのちといのちの新しい関係に気付くかもしれません。

それは人間同士の対立にも、国と国との対立にも当てはまることなのではないでしょうか?剣の様な互いの気持ちが、鋤になってゆく、命を育むことへと打ち直され、転換してゆくのです。そしてそれが打ち直されるには対話が必要とされるのでしょう。武力ではなく対話が、私たちを打ち直すのです。

人間同士の対立は波のように、何度も繰り返し起きます。その対立は蒸し返したり、変化し続けたりします。私たちにはその対立を表面的、暴力的ではなく、積極的に受け止めてゆくという転換がもとめられているのではないでしょうか。対立を互いが成長できる機会、他者の理解を深める機会とすることを促されているのではないでしょうか。それが剣を鋤に打ち直すということ、自分自身を打ち直すということではないでしょうか。そのように歩むことを5節、光の中を歩むと言うのではないでしょうか?

私たちの周りにはたくさんの対立があります。めんどうなことばかりです。でもその対立について、根本的な人間関係に目を向けたいと思います。それが対立を平和へと転換する努力、打ち直すなのだと思います。剣を鋤に打ち直すとは問題を関係性の視点でとらえ、暴力以外の方法で解決しようとする姿勢です。

私たちは今週それぞれの場所で対立に出会うでしょう。そのような時、剣を鋤に打ち直してゆきましょう。平和を実現するものとして歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「愛を配る使命」マタイによる福音書15章29~39節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの存在と命を感じながら一緒に礼拝をしましょう。今月は主の晩餐について考えています。今日はバリアフリーを手掛かりに主の晩餐のこと、そしてそれにつながる私たちの生き方のことを考えたいと思います。

今年の4月から事業者による障がいのある人への「合理的配慮の提供」が義務化されました。例えばレストランでは、障がい者の利用を断るなどの行為が禁止されました。また障がいのある人から「バリアを取り除いてほしい」という意思が示された場合には、必要かつ合理的な対応をすることも義務となりました。例えば目の見えない人にはメニューを口頭で説明する、タッチパネルの操作を代行するなどの配慮が義務となりました。

教会はどうでしょうか。教会は障がいを理由に来るのを断ったりすることは一切ありません。むしろ障がいのある方を歓迎しています。それでもこの教会に残るバリア、教会の配慮をもう一度見直したいと思います。

私たちの教会は正面の道路から礼拝堂の椅子に座るまで、大小9個の段差があります。若くて目の見える人にはなんてことない段差です。しかし目の見えない人や、杖をついた人、足腰に自信のない人にとっては高いハードル、恐ろしい段差、躓きの原因です。この講壇にはさらに3段の段差の上にあります。高い方が見やすいのですが、せめて手すりがあった方がよいかもしれません。裏手にある牧師室まではさらに6個の段差がある。大規模な修繕をする場合は、できればこれらの段差をなくしたいと思っています。裏口にはスロープがありますが、車いすの方が堂々と正面から入れるようにしたいと思います。このような視点で考えると、教会のバリアフリーはまだまだです。礼拝中に気分がすぐれない時、横になれるスペースも欲しいと思います。こどもの目線からみると、低い洗面台が欲しいと思います。手を洗う洗面台が高く、踏み台の上にのって背伸びをして手を洗うのは危険です。そういった意味では、教会もまだまだ配慮がたりないところがあります。

段差の解消は障がいをもつ人のためだけに行われるのではありません。私は食堂などで重い荷物を移動するときがあります。その時は台車を使いたいのですが、段差が多すぎて使えません。段差が無ければ台車がスムーズに入れるでしょう。段差がなくなればベビーカーや買い物カート、大きなスーツケースも楽になるになるでしょう。これはみんなの問題でもあり、全体の雰囲気にも影響することでしょう。

教会は体に不自由がある人も健康な人も、こどももお年寄りも、だれでも歓迎します。すべての命を大切にします。私たちはそれを心と言葉だけではなく、教会の設備でも実現できたらいいと思っています。私たちがイエス様から愛をいただいたように、その愛を私たちが多くの人に手渡したいと思っています。今日は聖書の中に出て来る、体の不自由な人の物語を見ます。そこから主の晩餐と私たちの愛のある生き方について考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

今日はマタイによる福音書15章29~39節をお読みいただきました。30節、イエス様に従った人々の中にはたくさんの足の不自由な人、目の見えない人などの障がいを持った人がいました。聖書の時代、病や障がいは罪の結果とされました。障がいをもった人々は、あなたの行いが悪いから病気になった、あなたの先祖が悪い事をしたからあなたは障がいを持ったと指をさされていました。それは当事者の心を深く傷つけました。当事者が負っていたのは体の不自由だけではありませんでした。体の不自由よりももっと重く、もっと深く、心に傷を負わされていたのです。合理的な配慮、支援が一切ない、障がい者差別の時代です。周囲からの強いストレスを感じていたはずです。愛と配慮の不足の中では、本来治る病気も治るはずがありませんでした。イエス様に従う群衆にはそのような障がいと心の傷を負った人がたくさんいたのです。

イエス様はその病気をたくさん治したと記録されています。どう直したのかはわかりません。ただその癒しの一部に、ストレスからの解放が含まれたことは間違えありません。障がい者に無関心で差別的な社会にあって、イエス様は障がいをもった人々を罪人と決めつけるのではなく、人々をいたわり、励まし、手を置いて祈り、人々を癒しました。その愛が人々を回復へと導いたのです。

イエス様はこのあと全員で食事をしょうとしました。4000人の食事です。文脈によれば、この食事には多くの障がい者、障がいから回復した人々が含まれていたはずです。きっとこの中にはイエス様を信じていない異邦人、男女あらゆる性の人も含まれました。多様な人がここに集っていたのです。32節にはイエス様はそのような群衆を見て「かわいそう」だと思ったとあります。この「かわいそう」という言葉はスプラグニゾマイという内臓に由来する言葉で、日本語の「はらわたがちぎれる」に相当する言葉です。正確に言うとイエス様は「かわいそう」と思ったのではありません。

イエス様は、群衆を見てはらわたがちぎれたのです。こんなにたくさんの人が社会から疎外され、差別され、励ましを必要とし、空腹であり、自分を求めるその姿に胸が苦しくなったのです。群衆の心の傷を自分のもののように感じ、痛んだのです。その心の痛みを感じた時、イエス様は皆で食事をすることにしました。心と体が傷ついた人を癒し、励まそうとして、その食事を持ったのです。

聖書によれば当初、パンと魚は全く足りませんでした。それはまるで愛と配慮が不足した社会の様です。愛と配慮がすべての人にいきわたらない社会の様です。愛と配慮がごく一部の人にしか行き渡らない社会とそっくりです。でもイエス様はそのような中で祈りました。すべての人にパンと魚が行き渡るように祈りました。すべての人に愛と配慮が行き届くように祈りました。障がいをもった人への差別がなくなり、愛され、合理的な配慮がなされるように祈ったのです。このパンがすべての人に不思議と行き渡るように、すべての人へ愛と配慮が行き渡るように願ったのです。イエス様が祈ると不思議とパンと魚はすべての人にいきわたり、余るほどになりました。イエス様の愛と配慮はすべての人に届き、有り余るほどなのです。

この食事は主の晩餐でした。パンを取り、祈り、裂き、配るという一連の構文は主の晩餐の構文です。イエス様はこれを主の晩餐として行ったのです。このように主の晩餐はイエス様が差別と無関心のただなかで行ったものだったのです。それからの解放を求め、愛と配慮がゆきわたることを求めるものだったのです。

もう一つ注目をしたいのは、パンと魚は弟子が群衆に配ったということです。イエス様は弟子たちを、パンを受け取り、配る者としました。イエス様が直接群衆に配るのではなく、弟子たちがイエス様からそのパンを一度預かって、配る役割を担ったのです。弟子たち、そして私たちにはそのような役割が与えられているのです。

それはパンを受け取って、また誰かに配るという使命です。それはイエス様の愛を受けて、その愛をまた別の人に配るという使命です。イエス様が愛し、配慮する姿を、弟子たちは同じ様に実践する使命を与えられているのです。それが弟子たちによって群衆に配られたという意味なのです。

今日は4000人の食事を見てきました。障がいと愛と主の晩餐というキーワードで読んできました。この4000人の食事、主の晩餐でイエス様が実現しようとしたものを考えます。イエス様は差別され、排除されている人を励ますためにこの食事を持ちました。その悲しみを自分のものとし、愛と配慮を伝えるために主の晩餐をしたのです。そのようにして社会的なバリアを取り除いてゆこうとしました。社会から追い出された人をもう一度共同体に戻そうとしたのです。そしてイエス様は弟子たちに、私たちにそれを実現する役割を与えました。

きっと私たちの教会が障がいをもった人、弱さをもった人を歓迎するのは、このイエス様の態度、イエスの食事に起源があるのでしょう。イエス様はそのような包容力のある社会、共同体を目指していたはずです。そして食事によってそれを実現しようとしたお方です。私たちもこのような包容力のある人間、包容力のある共同体でありたいと願います。そして私たち自身が、イエス様から受け取ったパンを多くの人に配るものでありたいと思います。イエス様から受け取った愛をたくさんの人に配る人でありたいと思います。

1ヶ月主の晩餐について聖書を読んできました。私たちにはつらくしんどい時がありますが、この主の晩餐に招かれています。イエス様の癒しと愛と励ましに招かれています。そして私たちは自分ひとりには大きすぎる愛をいただいています。これはあなたが一人で食べる分ではなく、あなたがみんなに配る分だよといってパンが与えられています。私たちはこの愛を多くの人に配るそのような使命をイエス様からいただいています。その愛を受けて1週間、1ヶ月、たくさんの人々に愛を配りましょう。

来週の主の晩餐、このことを覚えてパンを食べましょう。そして8月18日には濱野先生にもこのことを教えていただきます。みんなで一緒にこれからのことを考えてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「信じるために食べる」ルカによる福音書24章13~35節

みなさん、おはようございます。今日も共に集って礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの命の存在を確かめながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

 

今月は主の晩餐について考えています。今日は信仰とは体験しないとわからない一面がある、信仰とは体験してこそわかるものだということについてお話をしようと思います。

 

私は若い頃、ソムリエを目指していました。ワインの味だけでなく、その世界観にも惹かれていました。ソムリエになるには、ペーパーテストとテイスティングの実技試験があるのですが、最も大切なのは、実際にワインを見て、香りをかいで、飲んでみることです。ワインのテキストにはこのワインはラズベリーやリンゴのような香り、あのワインはルビー色や黄金色といった表現があります。しかしこれらは実際に飲んで初めて理解できるものです。

 

一番大事なのはテキストを覚えて知識を持つことではなく、ワインを直接見て、香りをかいで、飲んでみる事です。これに勝ることはありません。「百聞は一見にしかず」のように、「百見は一食にしかず」です。実際に飲んでみないと味や香りはわかりません。

 

もちろん高いワインとなればただやみくもに飲むということはありません。いろいろ勉強してからじっくり飲みます。それでもきっと知識よりも飲んでみることが何より大事です。どんなに説明をされても味や香りは体験しないとわからないものだからです。

 

それはいろいろなことにも共通すると思います。スポーツや音楽、料理も知識だけではなく実際に体験してみなければ、わからないことがたくさんあるものです。

 

今日の聖書の個所もそのような事を教えていると思います。どんなに知識としてそれを知っていても、体験をしなければわからないことがあると教えています。そのことを聖書から見てゆきましょう。

今日はルカによる福音書24章13~35節までをお読みいただきました。今日の個所の登場人物は旅をする2人とイエス様です。この二人はおそらくエマオに住んでいました。二人はイエス様の噂を聞きつけてエマオからエルサレムに向かったのです。行いにも言葉にも力がある預言者がいると聞きつけエルサレムに向かったのです。この方こそイスラエルを開放してくださると思ったのです。そして二人はイエス様の話を人づてに聞くのではなく、直接自分の目と耳で確かめようとして、彼らはエルサレムに向かったのです。

 

彼らはイエス様に会って直接の話を聞くことができたでしょうか。その願いは十分に叶わなかったでしょう。体験することができなかったでしょう。その代わりに彼らが体験したもの、見たものは、イエス様の十字架でした。直接その話を聞き、力をもらいたいと思っていたのに、自分たちが体験し見たのは残酷な処刑だったのです。

 

しかし彼らはエルサレムに滞在中にもうひとつ不思議な話を聞きました。それは3日後の朝早く、弟子の女性がイエス様の墓に行ったところ、その遺体がなくなっており、天使たちが現れて「イエスは生きている」と言ったという話でした。イエス様が復活をしたという話を聞いたのです。

 

二人は、話を聞きたいと思っていた人が殺され、その後復活したという話を聞き、混乱したでしょう。理解できないままエマオに帰ることになり、十字架と復活の意味を論じ合いながら帰りました。

 

そんな彼らに復活したイエス様はそっと現れます。イエス様は光り輝いて登場するのではありません。イエス様の方から近づいてきて、一緒に歩くように、寄り添うように現れます。覚えておきましょう。私たちの神様はそのように私たちに現れるのです。私たちが良い行いをした時、強い光に包まれた華々しい存在が登場するのではありません。

 

願いが叶わず、出来事の意味が十分に理解できず、うつむき歩いて帰る時、神様はそっと近づいてきて、寄り添うように現れるのです。そのようにして神様は私たちに伴ってくださるお方です。このことを忘れないでいたいと思っています。

 

主の晩餐でもそうですが、イエス様がこのように人に他者に寄り添う人だったということを思い出すことが大事です。私たちの人生には苦しいこと、思いどおりにならないことがたくさんあります。そんな中でイエス様は私たちとそっと共にいて、励まし、導いてくださるのです。だから私たちは歩むことができるのです。そのことを覚えておきましょう。この物語の大切なポイントです。

 

今日はこの物語から主の晩餐について考えたいと思います。旅をする二人はイエス様のことをとても良く知っていました。二人がエルサレムの出来事を説明する様子はまるでキリスト教全体の説明のようです。彼らはイエス様とはどんな人か、どのように生き、どのように死んだのか的確にまとめられています。二人はイエス様のことをよく知っていました。しかし彼らはそれを知っているだけで、経験をしたことはありませんでした。

 

イエス様は旅路で二人に熱心に説明をしました。地上に生まれた救い主は、苦しみを受けた後に栄光に入ること、聖書全体にそのことが書いてあることを熱心に説明をしました。二人は何かを理解したのでしょうか。そうは書いてありません。二人はよく知っていました、二人は熱心な説明を受けました。しかしそれでもまだ彼らには変化が無いようです。

 

イエス様は彼らと食事をすることになりました。今度は二人がイエス様を引き留めました。先をいそぐイエス様を無理に引き留めて、一緒に食事をしようと招いたのです。30節に食事の様子が記されています。そこにはこうあります。「イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した」。ここでは明らかに主の晩餐が行われました。そうすると彼らは目が開けたのです。

 

二人の目が開けたとは、どんな意味でしょうか。二人は目が見えていなかったわけではありません。確かに見えていました。目が開けたとは、今まで見えなかったもの、わからなかったものが、わかるようになったということです。それが一緒に食べたその時に起りました。

 

一緒に食べた時、一緒にいるのがイエス様だと気づいたのです。彼らは事前に十分に学び、知識を持っていました。イエス様から直接、熱心に教えを受けていました。しかし彼らは目が開いていなかったのです。彼らの目が開かれたのは、主の晩餐を受けた時でした。

 

この特別な食事を体験して、二人は初めて気付いたのです。彼らが気づいたのは自分と一緒に伴っているのがイエス様だったということです。彼ら気付いたのはイエス様が復活をして私たちと共にいるということでした。二人はこの食事・主の晩餐を通じて、わかったのです。二人はこれに気付き、エルサレムの仲間の元に戻ってゆきました。それが今日の物語です。

 

この物語は私たちの主の晩餐とどんな関係があるでしょうか。私たちの教会の主の晩餐はバプテスマを受けた方に限定しています。それはイエス様のことをわかった人、すでに信じている人が食べているはずです。しかしどうでしょうか、今日の聖書箇所によれば、食べることによって信仰が深まるようになるのです。

 

私たちは信じて食べているのでしょうか。それとも食べることによって信じるようになるのでしょうか。私にはどちらなのかよくわかりません。どんなに知識として知っていても、食べなくては目が開かれません。私たちがイエス様を信じるためには知識だけではなく、パンを食べることも必要なのです。

 

私たちは信じているから食べるのでしょうか?それとも食べるから信じる事ができるのでしょうか?実はそれはどちらが先というものなのではなく、あいまいなのかもしれません。私は信じるために食べているような気がしています。

 

確かにこの二人のようにイエス様のことを良く知ってから食べるべきなのかもしれません。大切なイエス様の体です。その意味をよく分かってから食べてもらいたいと思います。でもこの二人はどんなに熱心に説明をしても、わかりませんでした。イエス様が直接説明してもだめでした。二人はこの食事を体験をするまでわからなかったのです。食べて初めて、食べたその時、イエス様のことがわかったのです。

 

この物語は私たちの主の晩餐ともきっと重なる部分があるでしょう。私たちは主の晩餐を勉強したから食べるのではありません。きっとどれだけ勉強をしてもわからないことがあるでしょう。食べてみなければわからないことがあるでしょう。そして食べればわかることがあるのでしょう。私たち自身もこの二人のような存在です。いろいろ知っているけれど、食べてわかるようになる存在なのです。このように今日の物語は、パンを食べる体験を通じて、イエス様がどんな人だったのかをわかったという物語です。

 

私は信じてからパンを食べるのか、パンを食べてから信じるのか、聖書はどちらの可能性にも開かれていると思います。私たちはどのようにパンを食べるでしょうか。私たちのあの小さなパンにどんな意味があるのでしょうか。私たちは信じているから食べるのでしょうか、食べるから信じるのですしょうか。きっと信仰とは体験しないとわからない一面があるのでしょう。信仰とは体験してこそわかるものなのでしょう。そのことに思いを巡らせながらまた主の晩餐をしてゆきたいと思います。

 

イエス様はきっとそのような迷いや混乱に伴ってくださる方です。あの出来事にどのような意味があるのか、二人は熱心に論じ合いました。論じ合うそのそばにそっと近づき、導いてくださるお方です。お祈りします。

 

 

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【全文】「よく確かめてから食べる」 Ⅰコリント11章17~34節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さなこどもたちの命を感じながら、礼拝をしましょう。

今月は主の晩餐について考えています。そして教会の運営するこども食堂「こひつじ食堂」のことも分けては考えられないと思っています。

こひつじ食堂で一番混乱するのは、ご飯(ライス)がなくなったときです。次のお客さんの分が足りないとわかってから、お米を研いで、炊飯ボタンを押しても、もう間に合いません。1時間後にご飯が足りるかどうかを逆算しなければいけません。もしご飯がなければ食べに来てもその食事は台無しです。

200人でどれくらいのご飯を準備すれば良いのでしょうか。一人180gのご飯を食べるとします。180gを200食用意すればいいので、36kgのご飯があればいいのです。お米は炊飯すると水を吸収して2.3倍の重さになるということから逆算すると約16kgのお米が必要です。お米は1合150gなので、16kgのお米は104合です。104合炊けば足りる計算です。だいたいでは準備できない数量です。

教会には1升炊きの炊飯器が8個あります。ですから11回炊飯すれば良いのです。しかし1升炊きの炊飯器でも9合くらいの方がおいしく炊けることが分かりました。8個の炊飯器で9合ずつ12回炊飯します。さらに微調整が必要です。220食の時はもう1回炊飯します。180食の時は1回減らします。実際にご飯を盛り付けるときには、目分量で盛り付けると必ずずれがあるので、一つ一つ180gを測りながら盛り付けています。

ここまで計算して準備しても時々ご飯が足りなくなってしまう時があります。確認を忘れてしまっている時、一人でやっている時、後回しにしてしまった時、それが起きます。そんな時は待たせてしまったり、少なくなったりして申し訳ない気持ちでいっぱいになります。これはお米の話ですが、食材ひとつひとつにもこのように注意しなければいけないことがたくさんあります。

何が言いたいかというと、それだけ良く確かめながらやっているということです。配慮をしているということです。全員が楽しく食べるためには、きめ細かい確認と、配慮が必要です。だいたいの人が食べれればいい、一部の人だけ食べればいい、食べられなかったらごめんなさいというのなら簡単です。でもそれをせずに全員で一緒に食べようとする時、様々な確認と配慮が必要です。

ご飯が足りるかどうかは私だけではなく、みんなで気にかけています。私一人では目が行き届かないことが多く、たくさんの人に良く確かめ、気にかけてもらう必要があります。残りがあとどれくらいかを良く確かめて全員分ある、大丈夫だということを確認しながら進めています。みんな自分の分があるかを確かめているのではありません、全員分、足りるかどうかを確かめながら食堂をしています。それはとても大切な配慮だと思います。

今日は聖書の食事の中にどんな配慮があったのか、無かったのかを見てゆきます。そこから聖書が伝えている配慮と、私たちが他者に目を向けてゆく生き方について考えたいと思います。

 

今日はⅠコリント11章をお読み頂きました。ここにはコリント教会での食事についての記録が残っています。コリント教会では礼拝の後、みんなで持ち寄りの食事会を行っていました。これは垣根のない、誰でも参加できる食事会でした。当初はこれを主の晩餐と呼んでいました。

この食事会は、イエス様が罪人や他の宗教の人々と共に食事をしたように、異なる者同士が互いを大切にする愛の確認の場でした。しかし、ここで問題が発生していました。パウロは17節でこの点を指摘し、良い結果ではなく悪い結果が生じていると述べています。それはどんな問題かというと21節、食事の時に先に食べて、先に飲んでしまう人がいたという問題でした。後から空腹の人がやって来る時には、食べ散らかした残り物しかないという状態でした。パウロはこの点を褒めることはできないと言っています。コリント教会では食事の際に、全員分が足りるかという配慮が全くなく、自分の事だけを考えて食事をしていたのです。少し驚きです。

さらにこのような食事の背景には経済的な格差があったのではないかと言われています。コリント教会の中には、お金持ちの人と貧しい人がいました。お金持ちは仕事を早く終わらせて、おいしいものをたくさん持って来て、先に楽しくやっていたのです。

そこに後から忙しく働かなければいけない貧しい人が来ました。しかし食事に加わろうとすると、食べ散らかした中で余り物を食べました。あるいはもう自分の分は残っていなかったのです。22節これでは貧しい人々は恥をかきました。

コリント教会ではこのような食事会が行われており、それをパウロは注意をしています。食事会をするならば全員が食べることが出来るように、食事の量や内容や、持ち方を良く確かめて、配慮しなさいと言っています。

コリント教会の人はどうすればよかったのでしょうか。パウロはどのような食事を期待したのでしょうか。例えば33節で提案されているのは、みんなが揃うまで待つという方法です。他にも例えば後から来た人の分が食べ残しにならない様に、ちゃんと先に取り分けておいて残しておくというのはどうでしょうか。最初にいる人だけで乾杯をしたのなら、後でまた全員が揃った時もう一度乾杯をしてはどうでしょうか。そういう確認や配慮や工夫は今の私たちには当然のことのように感じます。しかしコリント教会にはそれがまったくなかったのです。

どうしてそのような雰囲気になってしまったのでしょうか。仲間割れが起きてしまったのでしょうか。みんな我先にと食べたのでしょうか。自分の分だけにしか興味がなかったのでしょうか。コリント教会は誰が食べられないのかに対して良く確かめずに食べていました。自分だけ食べてしまう、その根底にはどんな考えがあったのでしょうか。

きっとそこには他者への無関心や無理解があったでしょう。きっとコリント教会の問題は食事会のことだけではなかったはずです。そのような食事をする共同体の中には、忘れられている人、一人になっている人、見下されている人、後回しにされている人がたくさんいたはずです。様々な問題がおきていたはずです。

パウロはそのような共同体になっていないかよく確かめるようにいっています。そのような、後回しにされた仲間がいないかという確かめ合いと、配慮が出来ないのであれば、もう一緒の食事会はやめるようにと言っています。自分の家でそれぞれ食べてから集まるようにしなさいと言っています。実際にこの後コリント教会の人々は一緒に食事をすることを諦めてしまいました。そして主の晩餐は小さなパンとワインを飲む儀式として改めて残ってゆきました。それが私たちの今の主の晩餐のルーツです。

パウロがここで伝えようとしていること、聖書が伝えようとしていることは何でしょうか。ここでは主の晩餐を自分の内面や罪深さと深く向き合って、よく確かめてこのパンを食べる様にと言っているのではありません。

ここでよく確かめるべきことは、他の人との関係性です。他者のことを考えながら食べる様にと言っているのです。自分の食べ物、自分の事、自分の罪を考えて食べるだけではなく、他者の食べもの、他者の事、他者への配慮をよく確かめて食べる様にと言っているのです。ここにどんな他者がいるのか、どんな他者がいないのかをよく確かめてから食べなさいと言っているのです。

パウロはイエス様がどのように人々と食事をしたのか思い出そうと言っています。自分がこれから十字架に掛かるという時において、イエス様が一緒に食事をしたのを思い出そうと言っています。あの時イエス様は十字架の後も互いに仲間であると確認し、その記念として食事をしました。そしてそれを繰り返すように教えたのです。

パウロはふさわしくないままで食べてはいけないとあります。わたしたちはどこまで、その食事にふさわしい者でしょうか。私は自分自身をふさわしくないと思っています。周りの人を良く確かめて配慮することがまだまだ足りないと思っています。そのような中でも、主の晩餐を食べるのですけれども、のども通らないような気持ちで食べています。

私たちはどのように主の晩餐を食べ、生きるでしょうか。私はふさわしい者になりたいと思っています。食べ物が全員にいきわたる配慮ができる人になりたいと思っています。食事の時だけではなく様々な場面で、忘れられている人、一人になっている人、後回しにされている人がいないかに目を配り、よく確かめたいと思います。それは難しい事だと思います。でも精一杯それをしてゆきたいと思います。それが今日の聖書箇所が指し示している生き方ではでしょうか。

ひとりも取り残されず、ひとりも忘れられない、そのようによく確かめられ、配慮された共同体が神の国と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは今週1週間、それぞれの場所でそれをよく確かめて生きてゆきましょう。神様はそのようにして私たちのいる場所に働き、導いてくださっています。お祈りします。

 

【全文】「縁食的主の晩餐」マタイによる福音書26章20~30節

夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。

マタイによる福音書26章20節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の声を聞きながら共に礼拝をしましょう。

先月まで使徒言行録を読んでいましたが、7月からは主の晩餐について考えたいと思っています。主の晩餐とはパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。この儀式はイエス・キリストを思い出すために行われています。今日もこの後行われます。主の晩餐は多くの教会で行われていますが、その方法や理解は教会によって異なります。私たちの教会では月1回行っていますが、年4回のみという教会もあれば、毎週行うという教会もあります。また私たちの教会では洗礼・バプテスマを受けたクリスチャンが食べるとしていますが、教会によっては洗礼・バプテスマを受けていなくても、信じる気持ちがある人は食べてよい教会、だれでも食べてよい教会など、教会によって様々な考え方があります。大切なのは、なぜこの主の晩餐を行うのか、しっかりと説明できることです。

今月はこの主の晩餐について考えてゆきましょう。また今日はこひつじ食堂で起きている「縁食」ということも参考にゆきたいと思います。私たちの教会で主の晩餐を考える時、こひつじ食堂という教会特有の事柄も考える必要があると思います。先日、200個のクロワッサンと500個のメロンパンの寄付をいただき、食堂で提供をしました。食堂と主の晩餐は別のものですが、同じ場所でパンが分かち合われていることは互いに影響しあうでしょう。

昨年度、こひつじ食堂にボランティアに来ていた大学院生の方が、こひつじ食堂のことを分析し、共生文明学の観点から論文としてまとめてくれました。彼が私に「縁食」という言葉を教えてくれました。どの文明でも共通して、共に食事をすることは仲間であることを確認する意味があるそうです。一緒に食べる「共食」という行為は共同体を作ることにつながります。また反対に誰と食事をしないかは、お互いが別々の共同体であることをはっきりさせる行為です。どのように食べるかは、どのような共同体を作るかにつながっています。多くの文明で共食が文明を作っています。

その中で彼が教えてくれた「縁食」とは、誰かと一緒に食事をしているのかあいまいな食事を指します。一人ではないが、一緒でもない食事です。古い家の縁側が家の中と外の中間地帯であるように、一緒なのかそうでないのかあいまいな食事、それが「縁食」です。

「縁食」はこひつじ食堂でもよく見かける光景です。例えば一人で来たけれど、ボランティアと顔見知りで何か話しながら食べています。食べているのは一人ですから「共食」ではありません。でもそれは決して孤独な食事でもありません。それが「縁食」です。他にもこひつじ食堂にはいろいろな「縁食」があります。相席になって向かい側の人と挨拶するような場面があります。一緒でも孤独でもない、それが縁食です。遠くのテーブルに仲の良い友達が座っていたりして、一緒に食べているのかあいまいです。そのような緩やかなつながりの中で食べるのが「縁食」です。

それはまるで縁側での交流のようです。近所の人が来て家の縁(ふち)でお茶をします。そこは家の中でもなく、外でもない中間地点・縁(ふち)です。あの縁側のような緩やかな関係で食べる食事が縁食です。こども食堂はそのような「縁食」がたくさんあります。私たちは食事の在り方について、もっと自由に考えてもよいかもしれません。私たちは一人で食べるか、みんなと食べるかという2つの基準しか持っていないかもしれません。でももっと緩やかな関係の中の食事があることに気づかされます。その楽しさを私たちは知っています。こひつじ食堂を今後もそのような「縁食」の場所として続けてゆきたいです。

私たちの教会の主の晩餐はどうでしょうか。私たちの教会の主の晩餐は限られた人だけでする食事です。この食事は誰がこの共同体に属しているか、誰が共同体に属していないのかを明確にします。一緒に食べた人は結束します。一方、一緒に食べていない人は何を感じているのでしょうか?どう食べるかは、どんな共同体を作るかを決めています。私たちの主の晩餐においても縁側は必要でしょうか?縁食が必要でしょうか?それはもっと緩やかな食事の可能性に開かれた主の晩餐です。今日は聖書から私たちの主の晩餐にどんな可能性があるのかを考えてゆきたいと思います。

 

 

 

聖書を読みましょう。今日はマタイによる福音書26章20~30節をお読みいただきました。この食事は最後の晩餐と呼ばれる箇所で、イエス様が十字架に掛かる直前に行われた食事会です。この食事にはどんな人々がいたでしょうか?この最後の晩餐はイエス・キリストに従う者に限定された食事でした。

これが私たちの主の晩餐のルーツです。この食事が12人の弟子に限定されていたことには大きな意味があります。イエス様は自分に信じて従う者に“のみ”パンとワインを授けました。現在の私たちが主の晩餐で、クリスチャンだけにパンとブドウジュースを飲むのを限定しているのは、この時の食事が12人の弟子に限定されていた事に起源があるからです。しかし、どこまで私たちの主の晩餐と同じ意味で限定がされているでしょうか。例えばこの時代はまだキリスト教という概念も、入信のための洗礼・バプテスマという儀式もありませんでした。12人の中に洗礼・バプテスマを受けた弟子は一人もいませんでした。彼らは洗礼・バプテスマを条件とせず、ただ主イエスに招かれて、パンを与えられたのです。この食事は洗礼・バプテスマを受けないと参加できないという食事ではありませんでした。信仰を条件とした食事ではありませんでした。その意味において、この食事は私たちの主の晩餐よりももっと緩やかな食事でした。

確かにこの食事はずっと旅を共にし、苦楽を共にしてきた、顔見知りに限定された食事でした。しかし関係はそれだけでもありません。この食事には後にイエス様を裏切るユダも含まれていました。この食事は信じて従った者だけのものではありませんでした。イエス様を理解せず、誤解し、信じるどころか、裏切りを確信している者さえも含んだ食事でした。他の弟子たちも同じです。弟子たちはこの後すぐにイエスを見捨てて逃げだします。彼らは本当に信じて従っていたのでしょうか。この食事会は参加者の中に信じる人も、信じない人もいた非常に幅のある集まりだったのです。

そしてさらにイエス様自身が「この杯は多くの人のために流される血」だ言っています。ワインを自分がこのあと十字架で流す血になぞらえています。しかしそれは弟子に限定されて流される血ではありません。それは多くの人々のために流される血です。それは限定された集団ではなく不特定多数の人を指しています。イエス様の血はクリスチャンのためだけに流されたのではありませんでした。イエス様の顔見知りの仲間内のためだけに流さたのでもありません。イエス様の血と十字架は信じていない人、裏切り者、不特定多数の多くの人々、多様な人々、まだ出会ったことすらない人々のためにも流されるものなのです。この食事はそのように多くの人々との出会いに向けられた食事だったのです。

私はこのように最後の晩餐を見る時、そこに「縁食」の要素があると思います。その食事は、確かに共同体性の強い食事でしたが、でもそれを越える大きな可能性を持った食事でした。その食事は信じて洗礼を受けた人のみならず、裏切る人、まだ見ぬ不特定多数の人、多様な人に開かれる可能性のある食事だったはずです。そのような食事が最後の晩餐だったのです。そのような食事がイエス・キリストを忘れないために行われた食事だったのです。それが私たちの主の晩餐のルーツなのです。

どんな食事をするか、それはどんな共同体を作るかに直結しています。それは共生文明学でも、キリスト教でも同じでしょう。どんな主の晩餐をしてゆくのかは、どんな教会を作るかに直結してゆくでしょう。私たちはどんな主の晩餐をしてゆくのでしょうか?マタイ26章の主の晩餐は何を指し示しているでしょうか。限定されている様に見えて実は開かれている部分がある、縁側のような部分があるのではないでしょうか。

おそらく私たちには一緒に食べるか、別々に食べるかという二者択一ではない選択肢があるはずです。主の晩餐は様々な在り方、緩やかさの可能性に開かれているはずです。きっと縁側のような、開かれた温かい出会いが生まれてくる、主の晩餐があり方があるはずです。

もし縁側があれば、誰が内側で誰が外側かあいまいになるでしょう。誰が共同体のメンバーで、誰が共同体のメンバーではないのかが曖昧になるかもしれません。でもそこに食堂のような思わぬ出会いが待っているのではないでしょうか。これまで決して入ってこなかった人々が、入ってくるような出会いがそこから広がっていくのではないでしょうか。マタイの主の晩餐を、そのような開かれた緩やかな食事の起源とすることができるのではないでしょうか。

そして緩やかに開かれる姿勢はきっと教会の在り方だけにとどまらないはずです。私たち一人一人がどう生きるかにも関わって来るはずです。私たちは日々誰と食事し、誰と食事をしていないでしょうか?私たちはもっとそれに気を配り、私たちはもっと緩やかに考えても良いのかもしれません。異なる他者とどう緩やかな関係を持つかを問いかけているように思います。この後、私たちは主の晩餐を持ちます。共に主イエス・キリストとの食事を思い出しましょう。そしてそこにいた様々な人々を思いめぐらせましょう。お祈りします。

 

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【全文】「他者を励ます使命」使徒言行録27章13節~44節

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。     使徒言行録27章22節

 

使徒言行録には、イエス様の弟子たちがどのように生き、信仰を実践したかが記されています。今日もこの使徒言行録から、困難の中でも希望を持ち、他者を励ます生き方について学んでゆきましょう。パウロは船でローマに向かう途中、激しい嵐に遭遇しました。人々は積み荷を捨てて、船を軽くしようとしました。しかしそれでも状況は改善しませんでした。彼等は希望を失っていました。

しかしそんな時、一人だけ希望を失わなかった人物がいました。それがイエス・キリストの弟子パウロです。パウロは希望をもって人々を励まし続けました。そしてこのような希望を持った人物が船の中に一人でも存在すると全体の雰囲気は大きく変わります。このように希望を持ち続け、他者を励まし続けることは、キリストの弟子の大事な役割です。希望を持っているのは一人でよいのです。私たちはそのような一人になっているでしょうか。私たちはたった一人になっても、まだ希望があると言える存在になりたいと思います。それがキリストの弟子になるということです。

希望をもってあきらめない人がいる中で、逃げ出した船員がいたとあります。それはとても悲しい光景です。彼らは自分たちだけ助かろうとしました。これは他者を犠牲にし、見捨てるという罪です。キリストの弟子パウロはこのような行動を見逃しません。それは全員が助かる道ではないと引き留めます。全員で助かろうとみなを励ましたのです。全員が生きる道を求める、それがイエス・キリストの教えでした。誰かが十字架に掛かって犠牲になって、みんなが助かればいいのではありません。神様は一人も漏れることなく、命を守ろうとするお方です。

36節、この後船に乗っていた人びとは食事をしたとあります。それはまるで主の晩餐のようです。その食事をすると一同に元気が湧いてきました。全員が励まされて、全員で助かろうと思う様になったのです。船の人々は大きく変えられてゆきました。一人のキリストの弟子から、主の晩餐のような食事から全体が変えられてゆきました。全員が助かるために、すべての食べ物を捨てる決断をしたのです。自分の命だけではなく、みんなが助かるために、大切な荷物を捨てました。そして全員が無事に上陸することができたのです。

今日の物語、船は様々なものに置き換えて考えることができます。教会も一つの船です。家族も一つの船かもしれません。職場や地域も一つの船でしょう。それぞれ困難に直面します。でも一人の弟子の存在が全体の雰囲気を変えるのです。

その船にキリストの弟子が一人いればいいのです。人を励まし、共に命をつないでいこうとする希望を示す人が一人いると、全体の雰囲気は大きく変わります。全員の命をつなぐ選択へと導かれてゆくのです。私たちはそれぞれの置かれた場所で、その一人になってゆきましょう。神様の言葉に聞きながら、他者を励まし、希望を持つその一人になりましょう。お祈りします。

 

【全文】「命こそ宝 平和への方向転換」使徒言行録16章16~34節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も命の声に囲まれながら礼拝をしてゆきましょう。

今日6月23日は79年前、沖縄で組織的な戦闘が終わった日です。私たちはこの日を「命どぅ宝の日」と呼び、平和を考える時として大切にしています。79年前、沖縄では激しい地上戦がありました。その時、軍隊や武器は国民を守りませんでした。日本軍は自分が助かるためなら一般市民でも殺しました。それが軍隊の本当の姿です。沖縄の人々は激しい地上戦の中で、洞窟に逃げ込みました。そしてそこで、どう死ぬか、どう殺すかでなく、どうやって命をつなぐかを考えました。彼らは洞窟の中で「命どぅ宝」「命どぅ宝」、命こそ宝だと互いに励ましあい、何とかして生きようとしました。

「命こそ宝」「命こそ宝」。暴力が充満し、殺すか死ぬかの選択肢しかないと思える場所で、沖縄の人々は生きるという選択をしました。生き残った人は決して多くありませんでした。だからこそ、命こそ宝と言う言葉は私たちに問いかけています。私たちは暴力か平和かどちらかを選ばなくてはいけません。暴力を選びながら平和を目指すことはできません。平和のための暴力も存在しません。

沖縄にはあの時から今も大きな基地がいくつも存在します。私たちは普天間、辺野古を含めて沖縄、日本、世界のすべての基地がなくなることを祈り願っています。それが平和の神様の御心だと信じています。

沖縄の普天間基地の前では毎週月曜日、クリスチャンが集まり讃美歌を歌っています。基地の前で暴力ではなく平和が欲しいと歌っています。基地の騒音と犯罪に苦しみ、平和を求める人たちが歌っています。私たちも神を信じる同じ人間だと讃美歌を歌っています。基地の前で神に向けて、兵士に向けて讃美歌を歌っています。それに呼応して戸塚駅の駅前でも月1回、第二月曜日に讃美歌が歌われています。沖縄だけの問題にしないために戸塚駅のコンコースで讃美歌を歌っています。私も何回か参加しています。

なぜ讃美歌を歌うことによって基地反対を訴えるのかとよく聞かれます。もっと効果的な方法があるのではないかと言われます。確かに、大きな基地に対して歌を歌うことにどれだけの意味があるでしょうか。基地問題に対して非常に小さい行動です。でも賛美歌を歌っています。世界に平和に目覚めて欲しいと願って讃美歌を歌っています。神様が必ずそれを実現させてくださると信じて歌っています。世界の人々に暴力ではなく、愛と平和を選んで欲しいと願って歌っています。歌い続けることで神様がきっと軍隊のない世界、平和な世界を実現させてくださると信じて歌っています。

私はこの世界からすべての軍隊と基地がなくなることを願っています。それは聖書の教えるイエス・キリストの平和です、私たちはあらゆる暴力のない、イエス・キリストの平和を模範とします。イエス・キリストの平和には戦争も軍隊も基地も一切必要ありません。暴力によって平和は実現できないからです。軍隊のいない世界、暴力の無い世界がきっと作り出せるはずです。神様がその力を私たちに下さるはずです。小さな行動でも私たちは軍事力に反対をし、暴力の無い平和を求めてゆきたいと思っています。今日は神様の示す平和と、平和を目指す生き方について考えたいと思います。

使徒言行録16章をお読みいただきました。今日の聖書の個所は、イエス様が十字架で死に、3日後に復活した後の物語です。弟子のパウロは、このイエス・キリストが私たちの生き方の模範だと世界中に伝え歩いていました。イエス様が教えた事はたくさんありますが、平和もその一つです。世界が隣人を愛し、敵を憎めと教えている中で、イエス様は敵を愛しなさいと教えました。敵と思える対象とも互いに愛し合う様に教えたのです。この平和の教えは世界中に広まってゆきました。そしてその平和の教えを世界に広めていた弟子がパウロとシラスでした。

16節、パウロはある時、女奴隷の占い師に会いました。彼女は占いで自身の生計を立てていたのではありません。その利益はほとんどは主人が持ってゆきました。彼女は主人の商売道具として、暴力的に搾取されながら、奴隷として占いを続けなければなりませんでした。この占い師はパウロを見た時、彼のことを大声で周囲に伝えようとします。「この人は救いを、イエスの平和を宣べ伝えている」と叫びます。幾日もそれが続き、パウロはたまりかねて「出て行け」と言いました。そうすると女奴隷はそれ以来、主人の金儲けのための占いが出来なくなってしまいました。主人は商売道具を使えなくされたことに怒ってパウロを訴えました。そしてパウロは鞭うたれ、牢獄に入れられることになりました。

牢獄に入れられること、それは暴力のただなかに放り出されるという事態でした。パウロは何度も鞭に打たれ、牢に投げ込まれました。足には足かせをはめられ、自由を奪われました。一切の抵抗ができない状態です。そして暴力の象徴である武器・剣もった看守がそれを見張っていました。暴力がすべてを支配する場所に投げ出されたのです。暴力が支配する牢獄の中で、パウロとシラスは何をしたでしょうか。脱獄するためにどうやって看守を殺そうかを考えたでしょうか。何か武器になるものを探したでしょうか。戦うための準備をしたでしょうか。

そうではありませんでした。彼らはなんと歌いました。暴力に支配される世界の中で歌を歌いました。暴力の渦巻くその中にいながら、彼らは暴力によって状況を変えようとしませんでした。彼らが選んだのは歌を歌うということでした。他の囚人はその歌に聞き入ったとあります。牢獄にはきっとパウロ達と同じ様に、無実の罪を着せられ暴力によってここに閉じ込められている人が多くいたのでしょう。彼らが聞き入ったのはきっと平和を願う歌、自由を願う歌、神様への感謝の歌だったでしょう。でも牢獄で歌って何になるでしょうか。圧倒的な暴力に対して歌を歌って何になるでしょうか。でも彼らは歌いました。その歌から、賛美から奇跡が起こされてゆきます。

地震が起きました。地震は神様が起こす奇跡の象徴です。何かが起こり、牢が開きました。彼らは逃げることができるようになったのです。看守は囚人が逃げ出してしまったと思い、自死を選ぼうとします。これまで武器で、暴力で人を支配してきた看守は、行き詰った時、とっさに選んだ方法はやはり暴力でした。再び力をもってこれを解決しようし、今度は自分への暴力を選びました。彼には殺すか殺されるかしか選択肢が無かったのです。しかしパウロはそれを止めます。死んではいけない、どんな命にも暴力を向けてはいけないと教えたのです。

本当に暴力に支配されていたのは誰でしょうか。それはパウロではなく、看守の方です。看守は武器を持って、暴力で人を支配したつもりになっていました。そして暴力以外の解決方法を知りませんでした。そのように暴力に支配されていたのは看守の方です。看守はパウロに死んではいけないと言われて、たった今そのことに気づきました。そしてパウロに救いを求めました。それは暴力の支配からの救い、平和の願いだったはずです。

パウロは、死んではいけないと言います。私にはこのパウロの行動が「命どぅ宝(命こそ宝)」という言葉に聞こえます。それは平和を望む言葉です。死んではいけないとは、命こそ宝だという姿勢です。命こそ宝です。どんな暴力もあなたを支配することはできない、あなたはどんな暴力をつかっても誰も支配できないという意味です。それは暴力によって命を守ることはできない。平和を求めて、生きようという言葉です。そして看守はそのイエスの平和の福音に救われてゆきます。看守はそれまでの生き方を大きく方向転換します。

彼はパウロの傷を洗いました。彼は暴力で支配してきた態度から、他者の傷の痛みを知り、共感をするものとなったのです。それは暴力から愛への転換でした。敵を愛しなさいという教えの実践でした。彼はバプテスマを受け、そして食事を共にしました。暴力で支配してきた者と同じテーブルで食事をしたのです。看守はこのような転換をしました。相手を暴力で抑えつけ、痛めつけ、支配することから、相手の痛みと傷を知り、いたわり、対等に関わるように転換したのです。平和への方向転換です。

このような転換は人間によってはなかなか起こらないものでしょう。神様によって起こされた出来事です。私にとってこの物語の最大の奇跡は、地震で扉が開いたことではありません。彼がこのように平和を求めて生き方を変えことが、もっとも大きな奇跡です。それは神様を賛美し祈ることがきっかけとなって起きた奇跡でした。私たちもこの看守のような、暴力から愛への転換をしたいと願います。私たち自身に、私たちの世界全体に、暴力から愛への転換が起こって欲しいと願います。それは命どぅ宝の転換です。命こそ宝とする転換です。平和への方向転換です。

神様はどのように世界の平和を実現させてくださるでしょうか?今日の個所によればそれは平和を求める賛美を歌うこと起りました。神様が平和を実現させてくださいます。それを願い賛美しましょう。世界が暴力を辞めて、愛に目覚める様に神様に求めましょう。私たちにできることは賛美歌を歌うことです。神と人に向けて平和の賛美歌を歌いましょう。

沖縄からまずその歌が聞こえます。私たちの賛美から世界に平和が広がるように祈ります。平和こそ宝、命こそ宝であることが伝わるように祈ります。お祈りします。

 

【全文】「神が与える調和」使徒言行録15章1~21節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの命の声に包まれながら礼拝をしてゆきましょう。今日は物事を決める時、妥協、調和、折衷を大事にしてゆこうということを考えたいと思います。

 

今日は私たち平塚バプテスト教会の創立記念礼拝です。私たちの教会は1950年に神様に導かれ創立され、74周年を迎えることができました。74年間も続いたのは本当に神様のおかげです。とても私たち人間だけではこの教会を続けることが出来なかったはずです。今日は私たちがこの教会に来る前からずっと、神様の働きがあったことを実感する日です。

 

74年間、この教会は多くの困難を乗り越えてきました。初代長尾先生の後の混乱と分裂、小田原伝道所の問題を経験しました。土地の問題もありました。私たちはこの土地を購入して代金を払っていましたが、名義の変更がされていませんでした。そのことで土地と建物すべてを失う危機もありました。しかし不思議な力に守られて74年間ここに建ち、礼拝が続いています。

 

74年間、本当に多くの課題があり、そのたびに熱心に議論がされました。バプテストは民主的に話し合って決めることを大切にしています。話し合いは確かに疲れるものです。みんなで考えるよりも誰かが決めてくれた方が楽です。でも私たちは多くの困難を話し合うこと、互いの理解を深めることで乗り越えてきました。

 

そしてこれからの私たちも大きな決断のための議論を控えています。土地の一部を売却し、建物を修繕する計画があります。現時点ではまだそれができるかどうかもわかりません。しかし、これは間違いなく教会が始まって以来の大仕事になるでしょう。

 

教会の建築を経験した人たちは口々にその苦労を語ります。ある教会では予算を巡って議論が過熱します。自分達はいくらの予算をたてるのか、お互いの経済事情を知らずに決定をしなければいけない苦労があります。それぞれの教会への新しい期待がぶつかり合います。ある教会は資材費の高騰で当初予算より大幅な支出をしなければなりません。私たちもこれから、そんな議論をしてゆかなければなりません。私たちが信仰を守るためには、どうしてもこの教会・建物が必要だと思います。そのための議論です。

 

私たちは老朽化に対応し、時代や環境の変化に対応し、それぞれの考えの違いを尊重しながら前に進まなければいけません。想像するだけで大変ですが、もし神様の計画ならば、そしてこの地にこの教会が必要とされ続けるならば80年、100年と続くための計画が成し遂げられてゆくはずです。74年間この教会が守られてきたことに感謝しながら、これからの議論を拡げてゆきたいと思います。

 

物事を決めてゆく時、大事なことは、時に妥協し、調和し、折衷案を持つことだと思います。それぞれの信仰と違って、建築はどうしても、最終的には一つの形にならざるを得ません。全員の要望を盛り込むことは難しいのです。私たちも大きな議論をするとき、互いに妥協し、調和し、折衷案を持ち前に進んでゆくことを覚えておきましょう。今日は聖書に記録される会議もそのような出来事です。聖書を読んでゆきましょう。

 

今月は使徒言行録を見ていますが、今日はその中でも15章にあるエルサレム会議と呼ばれる場面をみてゆきたいと思います。

 

先週からもお伝えしている様に、初期のキリスト教には二つのグループがありました。ユダヤ教の律法を重視するグループと、そうでないグループです。それぞれに熱心に信仰生活を送っていました。この二つのグループは決して対立をしていたわけではありません。時に互いに無関心だった時もありますが、人や献金を送ったりする良好な関係でした。今日の個所の3節にもあるように、何か互いに良いことがあれば、その恵みを喜び合う関係でした。ただユダヤ教の律法の実践を巡っては大きな隔たりがあったのです。

 

律法を重視する人も、これをやらないと地獄へ行ってしまうと思っていたわけではありません。神様の恵みに感謝して、律法を誠実に実践していました。多くの人はその実践は自由だと考え、絶対に他の人も実践をしなければいけないと思っていたわけではありませんでした。

 

しかし一部には、すべての人が、すべての律法を守るべきだと主張する人もいました。1節にある主張です。男性器の皮を切り取る、割礼までもすべきだという主張をする人までいました。

 

どこまで律法の実践を求めるべきか、二つのグループは意見が分かれていました。一部の人のように、すべては求めないにしろ、どこまでを求めるかが議論になりました。もう私とあなたは違う、それぞれ思い思いにやればいいとは思わなかったのです。何か最低限の一致できるはずだと考えたのです。

 

その妥協点を探るために、エルサレムで会議をすることになりました。このエルサレム会議はどちらが正しいか決着をつける会議ではありません。この会議は、どうすればキリストの弟子として一致し、仲間であり続けられのるかを話し合うために持たれたのです。別々の宗教になるのではなく、どこかで最低限の一致ができるはずだと考えて会議が持たれたのです。

 

会議はまず、律法を重視しないグループを見てきたペテロの報告から始まります。ペテロ自身ももともとは律法守っていた人です。しかし彼はいままでの立場に固執せず、律法を重視しない人々を好意的に受け止め、報告をしました。

 

ペテロは8節でこう報告します。私たちが神様から信仰を与えられたように、彼らにも神様からの信仰が与えられています。私たちが神様に受け入れられている様に、異邦人も神様に受け入れられています。神様はきっと彼らを差別しないはずです。神様はその恵みによってみんなを救うはずですと報告をしました。それはこれまで律法を重視していたペテロが、自分とは違う他者のあり方を認める報告でした。

 

それを受けて律法重視のグループの代表ヤコブが発言します。それは旧約聖書を引用する伝統的な姿勢です。しかし同時に引用した聖書箇所は律法を重視しない人も尊重する箇所でした。そしてヤコブは決断をしました。19節、ヤコブは律法を重視しないグループをこれ以上悩ませないと決断をしたのです。そして20節の決め事が発表されました。

 

決定の内容は端的には4つでした。これはレビ記に基づく伝統的にユダヤの律法を重視する人が守ってきたことの一部でした。そしてこの4項目以上の事、特に割礼は求めないという寛容な決定でした。

 

4つの決定を見ます。使徒教令ともよばれますが、ひとつはみだらな行いです。性的暴力や性的搾取をしないようにという教えです。現代にも通じます。そして残りの3つは食べ物に関する取り決めです。他の宗教の祭儀で使われた肉、ユダヤの祈りをせずに屠った肉、生焼けで血の滴る肉、それらを食べないようにという取り決めでした。

 

さらにおそらくこれは律法を守る人とそうでない人が一緒に食事をする時の決まり事でした。一人の時、律法を重視しない人だけの食事の時は、自由にいままでの習慣どおりに食事をしたでしょう。ただし、律法を重視する人と一緒に食事をするときにおいては、ユダヤの習慣を尊重するように、配慮をするようにと決められたのです。一緒に食事する時は食べられない人に配慮をしてください、それ以外・それ以上は求めませんということを決めたのです。うまい妥協点だと思います。

 

そしてこの決定は調和を重視しています。別々にいるときは自由だけれども、一緒に食事する時のルールが定められたのです。一緒に食事ができるようにルールが決められたのです。これは最小限の一致でした。一緒にいる時は、律法を守る人に合わせるという折衷案でした。

 

聖書を読み進めてゆくと、31節にその協議の結果を聞いて人々は喜んだとあります。そしてそれは彼らにとって励ましに満ちた決定だったとあります。その妥協案、折衷案、調和重視の案によって温かい一致が生まれたのです。

 

そこに絶対に律法を守り抜くという筋の通った考え方は無かったかもしれません。しかしそれはどちらかに合わせるのではなく、互いの言葉を聞き、互いを尊重し、互いに苦しまないための、両方が喜ぶことのできる決定でした。後から来た人が苦しむものではなく、今までいた人が否定されるものではなく、互いを否定、排除しない決定となったのでした。よい決め方だったと思います。

 

その会議には神様の力が働いたのでしょう。神様が知恵を与えたのでしょう。神様はこのようにして、共同体を導いてくださるお方です。互いに話し合い、互いを聞き合い、折り合いをつけ、私たちを結び付けて下さるのが、神様の働きなのです。それは人が決めたことのように見えるかもしれませんが、神様に導かれたのです。私たちの歩んだ74年間もそれが起り続けて、私たちは今に至るのです。

 

創立記念の時、これから起きる様々な議論に心を準備したいと思います。その時今日のエルサレム会議を覚えておきましょう。私たちは互いが自由です。そして神様が互いを受け入れていることを覚えておきましょう。私たちはそれぞれ感じ方、考え方が違います。大きなことから、小さなことまでいろいろ違います。そんな私たちがどうやって大きな決断をしてゆけるでしょうか。神様が導いてくださって、きっと互いに妥協し、調和し、折衷となる選びが示されてゆくはずです。

 

エルサレム教会では互いを尊重し、互いに苦しまない決定が選ばれました。それは誰かの喜びと励ましになる決定でした。私たちもこれからそのような選びへと導かれてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「愛は骨折り損」使徒言行録11章19~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。今日は無償の愛について考えたいと思います。

私が平塚教会に来て5年、前の先生からホームレスの支援を引き継いでいます。ホームレスの支援をしていると、この支援をしても自分にまったく得がないと思うことがあります。5年間関わり、支援をしてきたホームレスの方がいます。彼は平塚の海岸の砂防林の中で、10年以上テントを張って生活をしています。先日彼は、体調を崩し救急車で市民病院に運ばれました。退院後にテント生活を続けるわけにもいかず、病院を訪ね、新しい施設へ入居する手伝いをしました。しかし数か月後、施設を抜けだし、彼はまた海岸のテントに戻ってきてしまいました。施設で何かすれ違いがあったようです。

さらに数か月後、平塚教会の炊き出しで、やっぱりホームレスを辞めたいと言ってきました。私は半信半疑で本当にホームレスを辞める意思があるかどうか、何度も確認しました。彼はどうしてもホームレスを辞めたいと言います。私は苦労して、再び住む場所を探しました。今度はすれ違いが無いように、事前に一緒に施設を見学し、この部屋で大丈夫かどうか確認し、本人がその施設に住みたいと言うので、その施設を紹介しました。引っ越しの日はもう戻って来ないと約束し、一緒にテントを撤去し、車で送り届けました。しかし、最近また海岸に戻ってきてしまいました。まだ詳しくはわかりませんが、何か嫌なことがあったようです。もうそろそろ関わるのを辞めようかとも思います。

しかしホームレス支援ではよくあることです。時間とお金をかけても、思うような結果にならないことが多くあります。「こんなことをしても1円にもならない」と何度も思ったことでしょうか。骨折り損のくたびれもうけとはまさにこのことです。これは自分にまったく得のないことです。いつでもやめてよいことだと思っています。続けるかどうかについて、私には自由があると思っています。でもなぜかなかなか辞めることができません。不思議と彼を見捨てることができません。腐れ縁かもしれません。もしかするとキリスト教の視点からは、これこそが無償の愛なのかもしれません。いつか私にお返しがあるはず、いつかやりがいと満足感があるはず、いつか感謝と賞賛があるはず。そう思いながら活動をするなら、無償の愛ではないのかもしれません。

本当に何も得がないからこそ、愛なのかもしれません。この愛を本当に続けてゆけるかどうかはわかりません。でももし神様が私に、命にかかわる大事な活動だと示してくださるのなら、続けることができる、そう思っています。そう示されなければ続けることができないと思っています。

みなさんにも人生の中で、一切自分に得が無い、そう思っていても何かをした、あるいはせざるを得なかったということはあるでしょうか。きっとみなさんにもそんな経験があると思います。自分に一切得がないにも関わらず、それでも他者のための苦労する、もしかするとそれこそが本当の愛なのかもしれません。今日は聖書からアンティオキア教会の無償の愛を見てゆきたいと思います。

 

 

 

今日は使徒言行録11章19~30節をお読みいただきました。今日の聖書箇所の背景にある3つのグループを図で紹介します。イエス様の死後、エルサレムには3つのグループがありました。一つは主流派・保守派であり、伝統的なユダヤ教のグループです。熱心に戒律を守って生活をしていました。2つ目はナザレ派とあります。生前のイエス様の教えを信じ、キリストの弟子として生きながらも、ユダヤ教の戒律を守りながら生活した人のことです。ユダヤ教ナザレ派と呼びます。ヤコブやペテロがこのグループでした。そして3つ目はキリストの弟子としてユダヤ教を抜け出ようとしたグループです。後のキリスト教となるグループです。後から加わった外国人も多かったこのグループは、戒律をあまり重視しませんでした。

エルサレム市内ではユダヤ教の戒律を守るべきだという対立がありました。ある日その対立が表面化し、主流派がキリスト者のグループへの排除・虐殺を開始しました。後のキリスト教となるグループはエルサレムに残ることができず、世界に散り散りに逃げてゆきました。それが1節にあるステファノの事件です。エルサレムで殺されそうになり、逃げ出した人々が中心となってアンティオキア教会を作りました。そしてその教会に加わる人が増えていったのです。その噂はエルサレムに届くほどでした。

ナザレ派は23節アンティオキアで始まった新しい運動、後のキリスト教の様子を確かめることにしました。派遣されたバルナバはその教会に到着し、神様の恵みに驚いたとあります。そして29節、ある時、エルサレムで飢饉が起こります。それに対してアンティオキアの教会はこのナザレ派に対して援助の品を送りました、経済的な支援をすることにしたというのです。それが今日書かれている物語です。

この構図から感じることを挙げます。まず迫害・虐殺が起きた時ナザレ派は一体何をしていたのでしょうか。イエスを主と信じる仲間が殺されそうになり、逃げ惑う時、ナザレ派はどのように行動したのでしょうか。ナザレ派がこの迫害と虐殺に反対した様子が記録にありません。もしかすると彼らは「関わって得はない」と感じたのでしょうか。「自分達のことではない」「律法を守らない人が悪い」と思ったのでしょうか。彼らはなぜ反対せず、仲間を見捨ててしまったのでしょうか。

これは人間の罪が現れているかもしれません。身内の安全が守られている限りは声を上げなかった罪、自分達には関係ないと問題から目をそらした罪、自分の命が無事ならいいという罪、あの人たちは殺されてもしょうがないと思う罪です。イエス様を十字架につけた罪もそうです。その罪のため、多くの人が死にました。

一方、キリスト者のグループの行動をみます。彼らはエルサレムで飢饉が起きた時、経済的な援助をそれぞれの力に合わせて行いました。しかしこの行動は驚くべき行動です。以前ナザレ派は自分たちを助けてくれませんでした。あの時無関心でした。そのような過去の関係があったにも関わらず、アンティオケア教会はナザレ派を支援したのです。

彼らに何の得と、どんな義理があったでしょうか。何もありません。でも彼らは自分たちだけの安全を考える人ではありませんでした。あの時自分たちのことを助けてくれなかったけど、でも支援の品を送った。きっと記録に残るくらいのたくさんの品、多額の献金をアンティオケアからエルサレムのナザレ派に送ったのでしょう。あの時、自分を助けてくれなかった人たち、見殺しにした人たちに支援の品を送りました。惜しみなく財産を分かち合ったのです。それがアンティオケア教会の愛だったのです。

それが私たちの教会のルーツとなってゆきます。それは助けてくれたから、お返しに助けるという行動ではありません。それならば助けるのはある人として意味当然です。しかしここではあの時、助けてくれなかった人、関係ないと無視された人、その人を助けたのがアンティオケの教会だったのです。彼らは自分達が良ければいい、自分たちに危害が及ばなければいいとは考えませんでした。自分たちの得にならないことも進んで行ったのです。それがアンティオキア教会の愛でした。それはこちらが一方的に骨を折ることでしたが、それこそ無償の愛だったのです。

自分の利益とは関係なく、惜しみなく与えるのが愛です。アンティオキア教会ではそれを実践していたのです。それは困った時はお互い様を超える、相互扶助ではない、一方的な愛でした。23節でバルナバが見て感動した雰囲気はこの愛だったのではないでしょうか。バルナバが恵みだと感じたのは、人数の増減よりも、他者への無償の愛の姿勢でした。バルナバはその愛を見て、神の恵みを感じたのではないでしょうか。その愛の姿勢こそがキリスト教が世界に広がった原動力だったのではないでしょうか。

さて、私たちの教会もアンティオキア教会のようになることを願います。それはこの教会が良ければよい、この教会がうまくいけばよいという態度ではありません。いつかお世話になるかもしれないから助けるのでもありません。キリスト教の愛は相互扶助ではありません。たとえ今までもこれからも助けてもらえなくても助けるのが、キリスト者の無償の愛です。援助を必要とする人に、無条件に惜しみなく助けるのが愛です。そのようなアンティオキアの無償の愛は、きっと神様をよく証ししたでしょう。それを実践する人がキリスト者と呼ばれたのです。

私たちも同じキリスト者です。無償の愛を私も実践したいと思います。それはこれまでのわだかまりのある関係を超えた愛です。無関心を超える愛です。助けられたから助けるのではない愛です。ただ一方的な支援、教会や自分の損得ではない愛、愛されなくても愛す愛です。そのように神の愛を具体的に実践するとき、新しい生き方は神様の力によって自然と広がってゆくのでしょう。

私たちも教会でも、私たち一人一人でも無償の愛を大事にしてゆきましょう。それは骨折り損かもしれません。でもきっとそれこそが愛なのでしょう。そしてそれこそが神様の愛をもっともよく示す行動なのでしょう。それぞれの一週間があります。他者のために骨を折り、無償の愛を実践してゆきましょう。お祈りいたします

 

【全文】「他者を尊重する方向転換」使徒言行録9章1~22節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの笑顔と声に包まれながら、礼拝をしてゆきましょう。

ここ数か月、初めてキリスト教に触れる方々に向けてお話ししてきました。新しい視点で考えることは、私たち全員にとっても大切なことだと感じました。既に信仰を持っている方々にとっても、自分の信仰を深める機会となったでしょうか。

今日からは聖書の使徒言行録という箇所を1ヶ月間読んでゆきたいと思います。パウロ(旧名サウロ)という人の人生を追いかけてゆきます。初めての人も、ずっと通っている人も聖書から、新しい生き方を考えてゆきましょう。

みなさんは、価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?例えば、誰かの言葉や行動によって、自分の考え方が大きく変わった経験はあるでしょうか?今まで思っていたこととまるで違う、正反対の価値観を持つようなったという体験があるでしょうか。大小さまざまあるとは思いますが、人生全体に大きな影響があるような価値観の変化はそう頻繁には起こらないことです。教会にはキリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変える、人生を方向づけるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。みなさんはどうでしょうか?

洗礼(バプテスマ)とは汚れを取り払い、清く聖なる者になることではありません。洗礼(バプテスマ)とは価値観が変わってゆくことです。神様の導きを受けて、自らの価値観を神に向けてゆくこと、聖書の教えを価値観の中心にしてゆこうという表明、キリストの弟子としてその道を歩み始めるスタートが洗礼(バプテスマ)です。洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。価値観は人それぞれにあります。価値観や信じている宗教について他者からとやかく言われる必要はありません。自分が正しい、自分が励まされる、自分が導かれていると思うものに導かれればいいのです。キリスト教だけが正しく、他の宗教は劣っており間違っているという考えは、愛とはいえないでしょう。キリスト教は戦争の無い平和、互いの命が豊かになる平和を求めてゆく宗教です。他者を無理やり変えるのではなく、他者と共に生きようとする宗教です。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。相手を批判する力は、自分がキリスト者としてどう共に生きるかに向けられてゆくべきです。洗礼(バプテスマ)はその生き方のスタートです。価値観を神に置き、他者を愛し、共に生きる事のスタートが洗礼(バプテスマ)です。ぜひ皆さんにも、その生き方のスタートをお勧めしたいと思っています。他者を尊重する生き方へと方向転換をしてゆきましょう。

もちろんバプテスマを受けたからと言ってすぐにそれができるようになるわけではありません。バプテスマを受けた方も、もう一度そのことを思い出しましょう。今日は聖書のサウロという人物から、自分が正しいと暴力を振るっていた人が、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。

 

 

 

聖書をお読みいただきました。イエス様の十字架の後、弟子たちは神様からの風・力を受けて活発に活動をしていました。キリスト者の生き方は、互いに愛し合いなさいという教えに代表されるように、神様を愛し、他者を愛する生き方でした。その愛の輪はどんどん広がっていました。そしてそれはもともとの枠組みとしてあったユダヤ教から大きくはみ出すことになりました。やがてそれはキリスト教と呼ばれるようになります。

今日登場するのはサウロという人物です。この人はもともとユダヤ教を信仰していました。そしてそこから生まれようとしているキリスト教を激しく否定していました。サウロがすぐにキリスト教を信じなかったことを責めるつもりはありません。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ユダヤ教を信じる人の信仰もとても尊いものです。私たちは他者の信仰や価値観を尊重し、理解するために努力をすることが大事です。

ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。サウロはユダヤ教以外の人に並々ならぬ敵対心を持っていました。1~3節にはサウロの他者の価値観に対する態度が現れています。彼は主の弟子、この道に従う者、つまりキリスト者を見つけ出したら徹底的に排除をしました。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。彼は熱心なユダヤ人だったと言われます。自分の信じる事への熱心さの行く先は、周囲は間違っている、力づくでもユダヤ教にしようという態度、ユダヤ教からの逸脱をゆるさないという態度でした。他者の価値観と宗教観を一切認めないという価値観でした。彼はそのように自らの価値観と宗教を暴力的な態度と行動で押し付けようとしたのです。多くのキリスト者はサウロを恐れました。彼に自分の信じていることがばれてしまうと、批判され、否定され、暴力的な態度を取られ、殺されたからです。人々はサウロを恐れ、彼を避け、彼には決して自分の気持ちを語ろうとしなかったでしょう。

サウロにとって運命を変える出来事が起こったのは、ある日突然のことでした。道を進む彼に、イエス様が直接語りかけたのです。その瞬間、彼は視力を失い、自分の足で歩くことさえできなくなってしまいました。その出来事によって起こったのは、彼はそれまで自分が否定し、殺そうとしていた人に助けてもらわなければならなくならないということでした。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで否定し、敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。彼は自分の信じるユダヤ教だけが唯一正しいと信じ、それ以外の価値観と宗教を一切否定していました。その彼は今弱くされ、無力となり、混乱しています。彼の価値観が大きく揺らいでゆきます。

聖書のとおりに出来事が起きたのか、彼に何が起きたのか本当のところはわかりません。後に彼自身が書いた手紙には直接、このダマスコでの出来事の記載がありません。確かなのは彼の中で短期間のうちに、大きな価値観の転換が起きたということです。それは極めて短期間で、劇的に起きました。自分で意図して選択したものではなく、神様から示され、その価値観の転換が起きたのです。サウロはこのように大きく価値観を変えられました。しかし彼の変化は180度の転換ではありませんでした。もし180度の転換というならば、今度は反対にユダヤ教が間違っていると言って攻撃の対象にしたかもしれません。しかしサウロはそのようなことはしませんでした。

サウロはこの後、名前を変えてパウロと名乗るようになります。パウロはこの後、自分と同じようにユダヤ教からキリスト教になった人と、別の宗教からキリスト教になった人との対立の仲裁をしようと働きます。彼の態度はこれまでと大きく変わります。暴力的に一致させるのではなく、平和的に和解と一致をさせようとする態度に変わったのです。

おそらくここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロが価値観を大きく変えたということです。サウロの価値観の転換とは一体どんなことだったのでしょうか?これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。この個所はきっとそれよりも大事なことを伝えています。神様の導きにより、サウロの心には短期間で劇的な変化が起こりました。その変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化です。

彼は弱さと無力の中で、その価値観が大きく変わりました。彼の生きる態度が変わりました。他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人を、敵対心ではなく敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた一番の変化でした。それが神様から頂いたことでした。サウロが神様からいただいたものは、他者を尊重することへの方向転換だったのです。

神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。私たちはどんなときそのような神様からの変化をいただくでしょうか。神様は相手を否定する、暴力的な態度をとることから、相手を尊重し、共に生きる、平和に生きる態度に私たちを変えて下さいます。それはいつ起きるでしょうか?それは私たちが弱くされた時かもしれません。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。それは神様の決めた一方的な時に起こるのでしょう。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。私たちはそのきっかけを神様からいただくのです。私たちは「それは間違っている」から「それも大事」と言えるように変わるのです。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。

本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。これは、イエス様が様々な人々と食事を共にしたことを記念する大切な儀式です。この教会では、洗礼を受けた方々がパンとブドウジュースをいただきます。19節にはサウロは食事をして元気を取り戻したと書いてあります。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「つながっていようよ」ヨハネ15章1~10節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。

2か月間にわたってキリスト教に初めて触れる人に向けて話をしてきました。教会では難しい儀式したり、難しい話をしたりしているのではないことだけでも分かってもらえたらうれしいです。集まっている人は普通の人です。それぞれに人生の喜びや苦しみ、日常があります。その中で神様の助けを受けて生きようとして、励まし合う仲間と共に教会に集っています。神様の力を受けて、誰かのために、何かできることをしようと思って集っています。どう生きてゆけばいいかを毎週考えています。ぜひこれからも教会に来て下さい。またYoutubeをご覧になって迷っている方、ぜひお近くの教会に行ってみてください。繰り返し通うと、自分の中に変化が起きてくると思います。ぜひこれからも一緒に礼拝しましょう。

今日は「祈祷会(きとうかい)」という教会の集会をご紹介します。これは毎週水曜日午前10時30分からと夜8時から行われている集まりです。教会では礼拝に次いで大事な集まりと位置付けています。

祈祷会では賛美を歌い、聖書を読み、5分くらい私から解説をします。そのあとは自由に聖書から感じた感想を話し合います。それぞれの感想ですから、正解も不正解もありません。その感じ方が間違っていると否定されることもありません。自分が感じたこと、疑問に思った事、わからないこと、イメージしたことをただただ分かち合ってゆきます。

そして一人一人の感想を聞いていると、わからなかったことが分かるような気がしてきます。神様ってそういう方なのかぁ、こんな風に生きてゆけばいいのかなと思いつきます。そのように、みんながイメージを分かち合うと、聖書が伝えようとしていることが分かるような気がしてくるのです。

祈祷会ではその後に祈りの時を持っています。祈りの課題という教会が互いのこと、みんなで祈りたいことのリストをもとに黙祷し、心の中で神様に祈ります。自分自身のことでみんなに祈って欲しいことがあればそこで分かち合います。「祈祷会」というと大声で激しく祈ったり、地鎮祭のような祈りの儀式をするようなところに思われるかもしれませんが、そうではありません。実際には互いの聖書の感想を聞きあう会、一緒に神様に祈る会です。自分の悩みを打ち明けなくてはいけないということもありません。自己解放の度合いは個人個人に任せられています。教会学校も似た雰囲気です。

私はこの「祈祷会」をとても大事だと感じています。日曜日だけではなく、水曜日にも神様とのつながりを感じることができ、力が湧いてきます。そして祈祷会は神様とのつながりだけではなく、他者とのつながりをも感じることができる場所です。祈祷会は一緒に言葉を交わし、祈ることで、神様とそして仲間とつながっているという実感が持てる場所です。礼拝もそうですが、祈祷会はもっと仲間とのつながりを感じることができる場所です。ぜひ参加してみてください。今日はつながりということをテーマに宣教をしたいと思います。

 

 

ヨハネ福音書15章1~10節をお読みいただきました。今日の個所で大事なことを3つのつながりを紹介します。ひとつ目は「あなた方は私につながりなさい」ということ、2つ目は「私はあなたにつながっています」ということ、そして3つ目は「みんながつながる」ということです。まず一つ目のあなた方は私につながっていなさいから見ます。

 

神様は、私たちにあなたたちは私としっかり「つながっていなさい」と言っています。あなたたち人間は、神様をつかんでいるその手を絶対に放してはダメだよと言っています。神様とつながることを忘れないようにしましょう。神様はいつも私たちを導き、生きるヒントを与えてくれます。だから私たちは忙しい時でも、しんどい時でも、神様につながっていましょう。たとえばなるべく礼拝に集ったり、祈祷会に集ったり、聖書を読んだり、祈ったりすること、大事にしようということです。頑張ってゆきましょう。これがひとつ目に大事なことです

 

そして2つ目に大事なこととして神様は私はあなたがたに「つながっています」と言っています。それは私達から神様につながるのではなく、神様から私たちにつながってくださっているということです。私が手を離したら、神様が離れてしまうのではありません。私が忙しくて、心がいっぱいいっぱいで、もう捕まっていられない時も、神様の方からつながっていてくださるのです。私たちのどうこうは関係なく、神様から一方的につなげられているということです。これは大きな安心です。悪いことが起きた時、私が頑張って神様につながっていなかったからだと思うかもしれません。でもきっとそれは違います。神様はいつも私につながっているとはっきり言っています。つらい事、悪い事はどんな時でもおこります。でも、どんなにつらい時も、私がどんな状態の時も神様は私たちにつながってくださっています。だから神様を信じる人は安心して生きることができるのです。うまく自分から神様につながれなくても大丈夫です。神様はあなたにもうつながっています。神様は離れることなくあなたと一緒にいてくださいます。神様は私たちを必ず良い方へと導いてくださいます。だから安心してゆきましょう。これが大事なこと2つ目です。

 

さて大事なことの3つ目を紹介します。大事なことの3つ目は「あなたがた」という言葉に隠れています。あなたがたはつながっていなさい、私はあなたがたとつながっているという言葉には「あなたがた」ということばが含まれています。この「あなたがた」は私個人を指す言葉ではなく「みんな」を指す言葉です。神様は「あなた」はつながっていなさい、私は「あなた」につながっていると言っているのではありません。「あなたがた」みんなで神様につながりなさい、神様はみんなにつながっていますと言っているのです。私が神様とつながることが大事です。しかし今日の個所によれば、私たちみんなでつながるということも大事なことだと言っています。私たちは自分がつながるだけではなく、みんなで神様につながるのです。

そしてみんなで神様につながる時、みんなに神様がつながる時、私たちの間には神様とのつながりだけではなく、私たち同士、人間同士のつながりも生まれるはずです。神様は人と神がつながっていると伝えると同時に、私たちに人間同士も、神様によってつながっているというのです。そのような人間のつながりも、神様がおこしてくださるのです。私たちはみんなでつながると、互いが神様にどうやってつながっているのかを知るようになります。こうやって神様はこのひとにつながって導いているのだとか、この方はこうやって神様につながろうと頑張っているのだということを良く知るようになります。互いがどうやって神様につながり、つながれているかをよく見ることはとても大事なことです。自分はどうやって神様につながればよいのか、仲間をよく見るとわかります。どんな風に神様がつながっていてくださるのか、自分を見るよりも、周りの人を見た方がよくわかります。神様は私たちも互いにつながるように言っています。あなたはみんなとつながりなさい、みんながあなたにつながっているよと言うのです。

礼拝・祈祷会は毎週この3つのつながりを確認する場所と言えるでしょう。一人一人が一生懸命に神様につながろうとする場所です。そしてそれを超えて、神様が私たちにつながってくださっていると感じる場所です。そして集った私たち同士もつながっていると感じる場所です。私たちはそこから生きる力、励ましをいただいて、歩んでゆくのです。特に祈祷会は3つ目のみんなでつながるということを感じることができる場所です。

さて、2か月間はじめてキリスト教に触れる方に向けて、聖書から生き方のヒントを考えてきました。今日は特に神様とつながることの大事さを見てきました。初めて来た方、これからもどうぞ神様につながってゆきましょう。それぞれが神様に一生懸命に祈り、他者を愛し、生きてゆくことを大事にしましょう。神様もあなたにしっかりとつながっています。どんなつらいときも神様はあなたにつながっていて、守り、導いてくださるはずです。神様とつながっているからこそ、励ましを受けたり、慰めを受けたり、勇気をもらうことができます。神様がつながっていてくれるなら、私自身に力がなくても前に進むことが出来るのです。そして私たちはみんなで神様につながりましょう。

毎週教会ではこの礼拝と言う集会を持っています。みんなで神様につながりたい、神様はみんなにつながっている、そう信じている仲間が毎週集まっています。それぞれいろいろな苦労をしているけれど、私たちはみんなで神様につながろうね、わたしたちもつながっていようねと言い合います。それは私たちみんなの人生にとって大きな励ましになっています。私たちはそこから前に進むことができるのです。

神様が私たちみんなにつながっていて、みんなが神様につながっています。そして私たちもつながっています。私たちはみんなで神様につながっていましょう。そして私たち同士もつながっていましょう。そんな風に教会で、神様とのつながり、人とのつながりを感じながら生きてゆく生き方をお勧めします。お祈りします。

 

【全文】「風に吹かれればいい」

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日も大人もこどもも一緒に礼拝をしましょう。先月と今月は初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。

私たちは毎週日曜日の午前中にこの礼拝という集会を持っています。牧師である私の務めは、毎週の礼拝で聖書の話をすることです。毎週15分ほどのお話をしていますが、実は準備するのが大変です。どんなに頑張ってパソコンにかじりついても、参考書を読んでも、うまくいかない、何かが違うと思う時があります。この勤めを毎週果たし続けるには、みなさんの日頃の祈りと支えが必要です。そして何より神様の導きが必要です。とても自分の力だけではできません。どうしてもうまくいかない時どうしているかと言うと、そんな時は風に吹かれてみることにしています。教会の中庭にはハンモックがありますが、行き詰まった時はハンモックに揺られます。空を見上げながら、風に吹かれながら、何かが違うなぁ、うまくまとまらないぁ、うまく言葉にならないなぁ、どうしようかと思いを巡らせます。そやって風に吹かれていると、時々新しい言葉がひらめいたりします。風に吹かれると、変えるよりもこのままの方がいいかなと思ったりもします。風に吹かれると、やっぱりこの方向性はダメ、やり直そうと思ったりもします。風に吹かれながら、神様の導きを求めています。

今日は新しい仲間の信仰の言葉を聞きました。新しい仲間が増えることは大変うれしいことです。心から歓迎をします。今日のためにご自身の信仰を紹介する言葉を準備してくださいました。きっとこの言葉を紡ぐのも大変だったでしょう。そしてきっとそこにも神様の導きがあったでしょう。この告白ではっきりしていることは、神様は人間の力を超えて、不思議な力で、私たちを教会へと呼び集めるのだということです。

私たちの人生も同じでしょう。私たちの人生の行く先は、神様が導いてくださるのです。神様はまるで私たちの背中を押すように、私たちを信仰へと送り出してくださいます。それはまるで追い風を受けている様です。風が私たちを押し出します。それが神様からの風です。神様はそのような風を私たちに吹かしているのです。神様が私たちを導くとは、神様の吹かす風に押し出されて進むことです。私たちの人生で大事なこと、それは神様の風に吹かれることです。その風を感じて生きることです。そのように神様からの風は私たちに言葉を与え、私たちを新しい行動に導くのです。私の宣教の言葉も、今日の信仰の言葉も、神様からの風に、押し出され、発せられたものです。

聖書・創世記によれば、神様はまず土で人間の形を作りました。そして神様はその土に息・風を送り込みました。そうすると人間は生きるものとなったと書かれています。神様の風とは、私たちに生きる活力をあたえる風です。神様の風とは私たちに生命を吹き込む風です。私たちはそのようにして神様の風に吹かれて生きるようになるのです。神様の風が私たちに命を与え、導くのです。

私たちの人生には様々な課題があります。どうすればいいかわからないこと、どうすることもできないことがあるものです。そんな時、風に吹かれてみてはどうでしょうか?自分の頭で考えるのを少し休憩して、自然いっぱいの風を受けてみたらいいのです。自分を吹き去ってゆく風、自分の呼吸として取り込まれる風、自分の体をここちよく揺らす風にあたればいいのです。どこから来てどこに行くのかわからない風にあたればいいのです。体で風を感じれば、きっと心にも神様の風を感じることができるでしょう。そうすると神様の導く方向が分かるはずです。風を受けて生きましょう。風を受ければきっと新しい生き方、新しい命を神様からいただけるはずです。

キリスト教の神様の風は、宗教や性別を問わずに吹きます。ですからすでに皆さんには神様の風が吹いています。体で感じる風を受ければ、きっと神様が心に吹かす風も分かるはずです。皆さんの心にも神様の風がもう吹いています。それを感じ、神様に導きを感じてみて下さい。今日は聖書から風に吹かれた弟子たちの話をします。

 

 

今日は使徒言行録2章1~11節をお読みいただきました。教会では今日はペンテコステという記念日です。これは2000年前に聖霊が人々に下ったこと、風が吹いたことを記念する日です。2000年前、イエス様は様々なことを弟子たちに教えましたが、十字架に掛けられ死んでしまいました。しかし弟子たちはイエス様の死んでしまった後も集まっていました。本来は教祖が死んでしまったのですから、活動が終わってしまってもしょうがないのです。しかしキリスト教はイエス様が死んでしまった後も続いてゆきます。それは弟子たちがイエス様の後を引き継いで一生懸命に頑張ったからではありません。その活動は弟子たちが、神様からの不思議な力、不思議な風を受けることで続けることが出来たのです。

例えば今日の出来事もそうです。イエス様の死後、弟子たちがみんなで集まっている時、突然強い風が吹きました。風は神様の一方的な決断で吹きました。神様からの風は弟子たちが頑張った時、願った時、集まった時にだけ吹くのではありません。神様の風は神様の決めたタイミングで吹きます。私たちの願いと関係なく自由に吹きます。それが神様の風です。

そして神様の風はそこにいたみんなに吹きました。神様の風は後継者や一人の選ばれたリーダーに吹いて、そこから下々に広がるのではありませんでした。何か良い事をした人、キリスト教を信じている人にだけ吹いたのでもありません。神様の風は全員に等しく、全員に直接吹き抜けました。一人一人の頭の上に炎がともるように、全員に風は吹いたのです。神様が全員を選んだとも言えるでしょう。神様は全員に風が吹くように、風を送られたのです。

そして神様の風に吹かれると不思議なことが起こりました。風に吹かれた人たちは他の国の言葉でしゃべり出したのです。それは当然、自分の内側から出てきた言葉ではありませんでした。神様が外側から語るべき言葉を教えてくれたのです。それは様々な国の言葉でした。自分が語るべきことは神様が教えてくださったのです。弟子たちは自分の考えた言葉ではなく、神様の風の吹くままに語ったのです。それは自分の力ではなく、神様の力によって起きた出来事でした。私たちにもきっとそのようなことが起きるでしょう。自分にはできなくても、神様が力を与えて下さって、できることがあるでしょう。私の毎週のメッセージもそうです。教会に続けて来ることもそうです。それぞれの場所でも神様の力を受けるからこそできる、そんなことがきっとあるでしょう。

弟子たちが様々な国のことばで語ったことの意味も考えます。様々な国の言葉で語られたことは、全世界の人に神様の不思議な力が伝えられたということを意味するでしょう。普通では起きないことが、自分の力ではできないことが、神様の力によって起きるという希望は、全世界に伝えられました。それは難しい言葉ではなく、相手に良くわかる言葉で伝えられました。神様の力は、みんなにわかるように届けられたのです。私にもわかる、あなたにもわかる、みんなにわかる言葉で神様の希望が示されたのです。

神様の風はそのように、ひとりひとりに、全員に命と活力と言葉を吹き込みました。このようにして神様の風を受けて人は輝くのです。私にもあなたにも自分では輝く力がないかもしれません。でも神様から力をいただいて輝くことができるのです。私たちはそんな神様からの風を受けて歩むのです。私たちはすでにその風を受けています。私たちは全身でその風を感じ、風に身をゆだねてゆきましょう。

特に今日初めてキリスト教の話を聞く、初めてここに集まったという人にとって、この集いやこの言葉はどう響くでしょうか。毎週集まれるのはすごい熱心だと思うかもしれません。でも私たちが集うことが出来るのは、熱心さや一生懸命さではなく、神様の風に吹かれているからです。私たちが神様の風に身をゆだねているから集うことができるのです。自分で方向を決めるのではなく、神様の風に身をゆだねています。そのようにして私たちは神様の風に招かれるままに集まっています。周りの人からはおかしな集まりに見えるかもしれない。でもそれでもいいと思っています。

皆さんにはこう生きたい、こうなりたいという願いがあると思います。それはとても大事です。でもその願いと共にもう一つ心にとめて欲しいことがあります。それは私たちには神様の風が吹いているということです。神様の風はきっと私たちをどこかへと運ぼうと導いています。すでに私たちにはその風が吹いているはずです。私たちは自分の願いと共に、その神様からの風がどう吹いているのかを感じて生きてゆきたいのです。

神様は私たちに風を送ります。私たちはその風に吹かれながら生きましょう。私たちには何もできなくても、神様が風を吹かせ、導いてくださいます。神様が必要な言葉と力を与えてくれるはずです。だから神様の風に吹かれて生きましょう。その風はきっと私たちを新しい生き方へと導いてくれるはずです。一人一人の命が輝く生き方、互いを愛し、大事にする生き方へと導かれるでしょう。お祈りします。

 

【全文】「心洗われる教会」ヨハネ13章1~15節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝しましょう。

先月と今月は、初めて教会に来た方、初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。聖書のヨハネによる福音書という部分から有名な個所を選び、お話をしています。今日ご紹介したのは、イエス様が弟子たちの足を洗う「洗足」という箇所です。2000年前、当時の道はほとんど舗装されていませんし、履物はサンダルでした。舗装されていない道をサンダルで歩けば、足は泥だらけになりました。泥がたくさんついた足は、たくさん歩いて疲れた証拠、苦労の証拠です。もちろん汗と汚れが混ざって、臭いもしたでしょう。

人びとには家に帰ってくると、足を洗うという習慣がありました。毎日たっぷりのお湯でシャワーを浴びることはできません。洗うことが出来るのは足くらいです。足を洗うのは1日の働きが終わって帰って来て、自分をいたわるホッとするひとときでした。ある程度裕福な家には召使いや奴隷がいました。帰ってきた主人の足を洗うのは召使いや奴隷の仕事でした。召使いは主人の疲れた汚い足を、指の間まできれいに洗いました。それは奴隷にとっても嬉しい仕事ではなかったでしょう。現代の私たちが家族の介護で大変なように、人の足を洗うのはなかなか大変な仕事でした。

しかし今日の聖書にはイエス様が弟子の足を洗ったと書いてあります。足を洗うのは本来、召使いや奴隷のするべき仕事でした。今日はそれをイエス様がしたのです。これはイエス様が弟子たちにした他者のために働き、他者を尊重するという模範的、象徴的な行為でした。

2000年前の人々は今の時代よりもずっと名誉を大事にしました。今の時代よりももっと周囲から認められ、地位が高くなることを重視した社会でした。地域の政治や宗教のリーダーであることの名誉は大変大きかったのです。今の時代でも政治家は勘違いして威張り腐っていますが、当時の政治家は同じかもっと威張り腐っていたでしょう。今も昔もリーダーとはだいたいそんなものでした。しかしイエス様は他のリーダーと大きく違いました。イエス様は弟子の足を洗おうとします。弟子たちの汚れたくさい足を洗おうとします。地位や名誉より召使いの仕事を、進んでしようとするのです。キリスト教ではこのイエス様を神様と等しいお方であると信じています。このような弟子の足を洗う、召使いの仕事をする、これがキリスト教の神と等しいとされた人の姿です。神と等しい方は人間の汚れた足を洗いました。このデモンストレーションが他者のために働き、他者を尊重する生き方を示しています。

特にキリスト教に触れることが少ない方は、キリスト教にはちょっと敷居の高いイメージを持っている時があります。私はある方から「教会に行ってはみたいけど、私なんかのような汚れた人間が行ってもよい場所なのでしょうか?興味本位なんかで行ってよい場所ではありませんよね?」と聞かれたことがあります。もちろん、そう思っている方も来て下さい。自分は汚れていると思っている方、ただの興味という方もどうぞ来て下さい。歓迎します。今日ご紹介した物語によれば、教会はきっと修行して、功徳を積んで、清らかになってから来る場所ではありません。キリスト教はこの図のように示されるでしょう。この図は階段を下った一番下にイエス様の象徴である十字架が立っています。そこが神がいる場所です。修行して功徳を積んで、階段を昇りつめた先で神様に手が届くのではありません。神様は徹底的に低みに立っています。神様は低くされている人のために働き、その人を尊重してゆく方なのです。困っている他者に目を向けてゆく、そこに神様がいるのです。それがキリスト教の教えです。

私たちは上へ、上へと昇るのではありません。私たちは下へ下へ向かいます。小さくされた人、弱くされた人、見過ごされた人、隅に追いやられた人がいないか目を配り、その人たちと共に生きようとします。そこに地位と名誉はないかもしれません。でもそこへと向かってゆくのが、キリスト者の在り方です。どちらが強いか、偉いか、大いなるものかを競うのではなく、他者の足を洗う様な生き方をしなさい、イエス様はそう教えています。他者のために働き、他者を尊重する人になりなさいと教えたのです。

このように人の足を洗うような、他者のために働く、汚れるような仕事をするのは実は案外難しいことです。お給料をもらっていれば、がまんできるかもしれません。家族の事だったらしかたなくできるかもしれません。でも仕事でも家族でもなく、無償で、ただ愛でそれをするのはとても難しいことです。しかしイエス様がそれを実践して見せています。これが無償の愛の一例ですよと示すために足を洗ったのです。イエス様は人の足を洗う者となりなさいと言っています。私たちは人の足を無償で洗うような、そんな生き方をしてゆきたいと思います。

 

 

 

そして、この物語はもう一つ重要なことを伝えています。それは自分は洗う側だけではなく、洗われる側に立つことがあるということです。もしかすると誰かの足を洗うよりも、誰かに足を洗われる方が嫌かもしれません。きっと洗うよりも、洗われる方が嫌です。その感情は何を意味するでしょうか。私たちは相手の汚い部分を見て、相手の汚い部分に触れることを、もしかしたら我慢できるかもしれません。

でも反対に、自分の汚い部分を見られたり、自分の汚い部分に触れられたりするのは非常に強い抵抗があるものです。自分の悪い部分、汚い部分を見られるのは嫌です。隠したいものです。いつもきれいで強いと思われたいものです。しかし本当の自分はそうでないことを誰よりも自分が知っています。弱さと疲れを見られるのは恥ずかしいものです。弟子も「決して洗わないでください」と言っています。その気持ちはわかります。自分はいつも洗う側でいたい、洗われる側にはなりたくないのです。

しかしイエス様は14節「互いに洗い合わなければならない」と言っています。8節では洗わなかったら私たちの関係はなくなってしまうと言います。足を洗いあうのが、私たちの関係ではないかというのです。疲れて、汚れた、お互いの足を隠しあったら、我々の関係は成り立たないというのです。私たちはお互いが尊い存在だと確認しあうだけではないということです。私たちの人生はそんなきれい事だけではありません。私たちの人生にはそれぞれに疲れや困難があり、汚れがあります。ここから示されることは、人生に疲れた時、私たちは恥ずかしいですが、誰の支えを必要とするということです。私たちは神様に支えられながら生きます。そして仲間に支えられながら生きます。神様と仲間の支えなしに人生を生きてゆくことはできないのです。私たちはそのことをこの物語から知ります。私たちは足を洗ってもらう様な、励ましや祈りが必要なのです。

教会の人はいつも教会ではニコニコしています。初めて教会に来る方は私のような汚れた人間の行く場所ではないと思ってしまうほどです。自分だけ汚れているようで、自分だけその汚れを見られるのは嫌だと感じるかもしれません。でも安心してください。みんなの足は、本当は汚れています。それぞれに苦労や失敗を持っているのです。教会に来た時は笑っているかもしれません。教会の中に偉い人のように見えた人もいるかもしれません。でも本当は1週間にいろいろなことを体験しています。疲れて、足が汚れるような1週間を過ごしています。みんな本当は汚れた足で来ているのです。

そんなときでも教会では互いを尊重し、励ましあう言葉を交わしています。それはまるで毎週教会で足を洗ってもらっている、互いに足を洗い合っている様です。神様から、仲間から足を洗ってもらっている様です。きっとみんなも1週間大変だったのに疲れて汚れた私に、温かい言葉を掛けてくれます。それが私にとって、足を洗われるということです。同時に誰かに温かい声を掛けます。それが誰かの足を洗うことです。互いに足を洗い合うからこそ1週間が頑張れるのです。

私たちは洗う側と洗われる側に分かれているのではありません。みんな洗われるべき汚い足をしており、みんながやさしく互いの足を洗います。そのような教会に来ると、心洗われたような気持ちになります。ほっとする気持ちになるのです。そしてまた出発することができます。またそこに行けば足が汚れるとわかっていても、そこに向かうことができるのです。そのようにし私たちは1週間を過ごすのです。

私たちはこのように「足を洗いなさい」と言われています。私たちの1週間は他者を見下し、威張るのではありません。隅に追いやられた人に視線を合わせるような生き方をしましょう。そして私たちは「足を洗ってもらいなさい」と言われています。あなたの足は疲れていて、汚れているから、教会の人にやさしく洗ってもらいなさいと言われているのです。教会の誰かに甘えなさいと言われているのです。

イエス様はこのように伝えました。私たちに互いに足を洗い合いなさいと伝えました。足を洗うことによって、他者のために働き、他者を尊重する生き方がキリスト者の生き方だと示しました。そして互いにいたわり合い、励まし合う関係の大事さを私たちに教えてくれたのです。

教会にはそのことを信じる信仰を持つ人が毎週集っています。私はたくさんの人がこの生き方・信仰に加わること、増えることを願っています。お祈りします。

 

【全文】「こどもの声が世界を変える」ヨハネによる福音書9章1~19節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。今月と来月は、キリスト教が初めてという人に向けて話をしています。今日はこの聖書の中のヨハネ福音書の中にある、ベトザタの池の物語をご紹介します。

2000年前、現在のパレスチナにベトザタという名前の池がありました。この池にはある伝承がありました。その伝承とはこうです。天使がこの池に降りてくると、池の水面にゆらゆらと小さな波ができ、その時、池の中に入ると、一番先に入った人は病気が治るという伝承でした。本当にそんなことが起きていたのかはわかりません。ただその奇跡に期待をして、多くの人がこの池の周りで、小さな波が起こるのをじっと待っていました。治らない病を持っていた人にとってはこの池が最後の望みで、この池だけが希望でした。そのようにして多くの人がこの池の周りに集まり、水面をじっと見つめていたのです。

しかしこの奇跡の伝承は非常に残酷な伝承でもありました。というのはこの伝承によると一番先に水に入った人だけ、病気が治るのです。つまりそれは一番動ける、一番足の速い病人が一人だけ癒されるということです。それが意味することは、この池の周りで寝ている人は全員、自分が一番早く水に入らなくてはと思っていたということです。全員が自分が一番になろうとする敵だったのです。あの人よりも私が早く、隣人よりも私が早く、私が水に入らなければいけないのです。他の人を押しのけてでも、私が一番にならなければいけなかったのです。そのような池の周りの人間関係は最悪だったでしょう。いつ起こるかわからない波を待ち、全員がお互いを出し抜こうと考えていました。弱肉強食で、緊張が張り詰め、ぎくしゃくしています。まるで生存競争ようなの場所だったはずです。皆、どうしたら自分が一番になれるのかばかりを考えていました。

それでも多くの人がこの池の周りに集まりました。4節には目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人が集まっていたとあります。想像するだけで悲しいです。なぜなら彼らは波が起きてもすぐに水の中に入ることがほとんど不可能な人たちだからです。それでも彼らはそこに集まっていたのです。もしかすると見捨てられて、そこしか居場所が無かったのかもしれません。ほとんど期待できない希望をもって、失望と共にそこで待ったのです。

その中に一人、38年間病気の男性がいました。そして池の周りに横たわっていました。イエス様はその人を見て、すぐに病気であることが分かりました。目に見える病気を持っていたのでしょう。彼は自分では起き上がり、立つことができないほどの障がいを持っていました。イエス様はそのような場所に現れました。苦しみと失望と緊張関係に満ちた場所に現れました。イエス様とはそのようなお方です。苦しみと失望の底に現れるのです。

イエス様はそこで問いかけました「良くなりたいか?」。失礼な質問です。当然、良くなりたいに決まっているじゃないですか。良くなりたいと答えるはずです。でも本当にそうでしょうか。38年間の彼の苦痛は想像できません。38年間で何人、この池に飛びこむ人を見たでしょうか。どれほどの我先にとこの池に飛び込む競争を見てきたでしょうか。そして彼はこの生存競争に38年間負け続けていました。彼はまだ良くなりたいと思っていたでしょうか。なんとか次こそは私が入ってやる、次こそ自分だと希望を持つことができていたでしょうか。その思いは38年も続くでしょうか。続かなったのではないでしょうか。きっと良くなりたいということを、もうあきらめていたのではないでしょうか。

イエス様の「良くなりたいか」という問いかけに彼は「良くなりたい」と答えることができませんでした。彼はその代わり「誰も私を運んでくれない」と答えました。彼の失望が伝わって来る言葉です。彼が失望していたのは、もはや自分が病であることではありません。彼が失望していたのは自分の周囲にいた人間でした。自分のことを優先する人間に失望し、助けてくれない隣人に失望していたのです。誰も他者を助けようとしない世界に失望していたのです。

彼のいた世界は自分優先の世界です。自分の幸せを一番優先にする世界です。他人はどうでもよい、幸せは争い奪い合って、勝ち取るという世界です。争って、つかみ取る力のない者には、幸せは訪れない世界でした。希望を持てない彼を責める気にはなれません。彼を失望させたのは彼のいた世界です。奪い合う世界、醜い競争の世界が、彼にそのような世界観を持たせ、失望させたのです。イエス様の「良くなりたいか」という質問はそんな世界を鋭く問う質問でした。

そしてイエス様は言いました「起き上がりなさい」起き上がることのできない、歩くことのできない人に対して命令をしました。そうすると不思議と彼は立ち上がることができました。38年間悩み、様々なことを試し、世界に失望し、あきらめていた彼がもう一度立ち上がって、歩きだしたのです。

イエス様は歩き出すときに一つだけ条件を付けました。それは床を担いで歩きなさいという条件です。「床を担いで歩きなさい」の床とは、横になる時に下に敷くものです。布団よりももっと粗末なマットやゴザの様なものです。それは彼が38年間寝ていたマットです。それには彼の38年間の汗と涙がしみ込んでいました。そして彼の心と同じように擦り切れ、ボロボロになっていました。そのマットは彼の人生を象徴するものです。そして彼がいた池の周りの世界を象徴するものです。彼の苦労と屈辱の象徴でした。自由を奪っていた病と世界の象徴でした。それが床です。イエス様が歩き出すときにつけた唯一の条件は、その床を担ぐようにということでした。彼の人生の苦労と屈辱と汗と涙のすべての象徴である「床」を担いで歩くようにと言ったのです。それは、これからもその現実を背負って生きてゆきなさいという意味です。彼は一切の苦しみから解放されて、病気やこの池の出来事などすべて無かったものとして生きるのではないということです。これからもこの38年間の苦労を忘れずに、あの池で見た世界を忘れずに生きるようにと条件を付けられたのです。そのようにして彼は元の世界へと戻されてゆきます。この悲しみも苦しみも、人間の醜さもすべてを背負ったまま彼は歩み出したのです。

彼が生き始まめると、すぐに白い目で見られました。彼を見て喜んだ人がいたという報告はありません。体調が回復し、病とあの池の環境から抜け出すことができた、それが祝われている様子は報告されません。周囲からの祝福はあったでしょうか。「よかったね」と言われ、喜び合ったでしょうか。しかしその様子は描かれていません。記録されているのは周囲が、今日は荷物を背負ってはいけない決まりがある日なのに、なぜあなたは荷物を背負って歩いているのかと聞いたことです。他人の幸せを喜び合えない世界です。実は外の世界も池の周りと変わらなかったのです。自分が一番先で、周りはどうでもよいと考えたあの池と同じように、ここでは他者と共に喜ぶ姿は存在しなません。誰がそんなことを言ったのか、誰が決まりを破るように指示したのか聞き、足の引っ張ろうとしています。そしてそのようにしてイエス様は十字架にかけられてゆくのです。

さて、今日の物語から私たちはどんなことを考えるでしょうか。まず私が思うことは、この世界はまるでベトザタの池の様だということです。世界はこの池のように、自分中心、自国優先、強い者が勝つ世界です。隣人と愛し合うのではなく、たがいに敵同士のように競争する世界です。互いを喜び合えない世界です。私たちもこのような世界・日常に生きています。

イエス様はそのただなかに現れるお方です。ひどい現実の、どん底の、この世界の真ん中に現れるお方です。そして私たちに問いかけるのです。「良くなりたいか?」。私たちはなんと応えるでしょうか?みんながちゃんとしてくれないから、周りの人が悪いから、彼らのせいでこうなっていると言いたくなる現実です。でもその時イエス様は、私たちを立ち上がらせ下さいます。

人間には立ち上がるすべがないはずなのに、良くするすべがないはずなのに、神様が人間に力を与え、立ち上がることができるのです。神様はそのように、私たちを立ち上がらせてくださるのです。

そして神様は、私たちをただ立ち上がらせるだけではありません。現実を背負って立ち上がるように、私たちに言うのです。世界の悲しみ、苦しみを忘れて、無関係に生きるのではありません。それを背負って生きる、それに責任をもって生きるように、私たちを立ち上がらせるのです。今私たちのいる世界を良くするために、神様は私たちを立ち上げてくださるのです。

この礼拝で、私たちは神様から床を担いで立ち上がれと言われています。私たちは自分では立ち上がることができないけれど、神様が私たちを立ち上げてくださるのです。私たち立ち上がります。現実を背負って立ち上がります。そして小さな力でも世界を「良くしたいか」と問われます。私たちは「良くなりたいです」と答えましょう。私たちは現実を背負って生きましょう。それぞれの場所で、互いに愛し合い、困っている人を助け、隣人と喜びをともにしましょう。それぞれの場所で弱肉強食ではない、愛と慈しみにあふれる世界を創ってゆきましょう。その1週間を今日から歩みましょう。神様が私たちを立ち上げて下さいます。お祈りします。

 

【全文】「神が私を立ち上げて下さる」ヨハネ5章1~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。今月と来月は、キリスト教が初めてという人に向けて話をしています。今日はこの聖書の中のヨハネ福音書の中にある、ベトザタの池の物語をご紹介します。

2000年前、現在のパレスチナにベトザタという名前の池がありました。この池にはある伝承がありました。その伝承とはこうです。天使がこの池に降りてくると、池の水面にゆらゆらと小さな波ができ、その時、池の中に入ると、一番先に入った人は病気が治るという伝承でした。本当にそんなことが起きていたのかはわかりません。ただその奇跡に期待をして、多くの人がこの池の周りで、小さな波が起こるのをじっと待っていました。治らない病を持っていた人にとってはこの池が最後の望みで、この池だけが希望でした。そのようにして多くの人がこの池の周りに集まり、水面をじっと見つめていたのです。

しかしこの奇跡の伝承は非常に残酷な伝承でもありました。というのはこの伝承によると一番先に水に入った人だけ、病気が治るのです。つまりそれは一番動ける、一番足の速い病人が一人だけ癒されるということです。それが意味することは、この池の周りで寝ている人は全員、自分が一番早く水に入らなくてはと思っていたということです。全員が自分が一番になろうとする敵だったのです。あの人よりも私が早く、隣人よりも私が早く、私が水に入らなければいけないのです。他の人を押しのけてでも、私が一番にならなければいけなかったのです。そのような池の周りの人間関係は最悪だったでしょう。いつ起こるかわからない波を待ち、全員がお互いを出し抜こうと考えていました。弱肉強食で、緊張が張り詰め、ぎくしゃくしています。まるで生存競争ようなの場所だったはずです。皆、どうしたら自分が一番になれるのかばかりを考えていました。

それでも多くの人がこの池の周りに集まりました。4節には目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人が集まっていたとあります。想像するだけで悲しいです。なぜなら彼らは波が起きてもすぐに水の中に入ることがほとんど不可能な人たちだからです。それでも彼らはそこに集まっていたのです。もしかすると見捨てられて、そこしか居場所が無かったのかもしれません。ほとんど期待できない希望をもって、失望と共にそこで待ったのです。

その中に一人、38年間病気の男性がいました。そして池の周りに横たわっていました。イエス様はその人を見て、すぐに病気であることが分かりました。目に見える病気を持っていたのでしょう。彼は自分では起き上がり、立つことができないほどの障がいを持っていました。イエス様はそのような場所に現れました。苦しみと失望と緊張関係に満ちた場所に現れました。イエス様とはそのようなお方です。苦しみと失望の底に現れるのです。

イエス様はそこで問いかけました「良くなりたいか?」。失礼な質問です。当然、良くなりたいに決まっているじゃないですか。良くなりたいと答えるはずです。でも本当にそうでしょうか。38年間の彼の苦痛は想像できません。38年間で何人、この池に飛びこむ人を見たでしょうか。どれほどの我先にとこの池に飛び込む競争を見てきたでしょうか。そして彼はこの生存競争に38年間負け続けていました。彼はまだ良くなりたいと思っていたでしょうか。なんとか次こそは私が入ってやる、次こそ自分だと希望を持つことができていたでしょうか。その思いは38年も続くでしょうか。続かなったのではないでしょうか。きっと良くなりたいということを、もうあきらめていたのではないでしょうか。

イエス様の「良くなりたいか」という問いかけに彼は「良くなりたい」と答えることができませんでした。彼はその代わり「誰も私を運んでくれない」と答えました。彼の失望が伝わって来る言葉です。彼が失望していたのは、もはや自分が病であることではありません。彼が失望していたのは自分の周囲にいた人間でした。自分のことを優先する人間に失望し、助けてくれない隣人に失望していたのです。誰も他者を助けようとしない世界に失望していたのです。

彼のいた世界は自分優先の世界です。自分の幸せを一番優先にする世界です。他人はどうでもよい、幸せは争い奪い合って、勝ち取るという世界です。争って、つかみ取る力のない者には、幸せは訪れない世界でした。希望を持てない彼を責める気にはなれません。彼を失望させたのは彼のいた世界です。奪い合う世界、醜い競争の世界が、彼にそのような世界観を持たせ、失望させたのです。イエス様の「良くなりたいか」という質問はそんな世界を鋭く問う質問でした。

そしてイエス様は言いました「起き上がりなさい」起き上がることのできない、歩くことのできない人に対して命令をしました。そうすると不思議と彼は立ち上がることができました。38年間悩み、様々なことを試し、世界に失望し、あきらめていた彼がもう一度立ち上がって、歩きだしたのです。

イエス様は歩き出すときに一つだけ条件を付けました。それは床を担いで歩きなさいという条件です。「床を担いで歩きなさい」の床とは、横になる時に下に敷くものです。布団よりももっと粗末なマットやゴザの様なものです。それは彼が38年間寝ていたマットです。それには彼の38年間の汗と涙がしみ込んでいました。そして彼の心と同じように擦り切れ、ボロボロになっていました。そのマットは彼の人生を象徴するものです。そして彼がいた池の周りの世界を象徴するものです。彼の苦労と屈辱の象徴でした。自由を奪っていた病と世界の象徴でした。それが床です。イエス様が歩き出すときにつけた唯一の条件は、その床を担ぐようにということでした。彼の人生の苦労と屈辱と汗と涙のすべての象徴である「床」を担いで歩くようにと言ったのです。それは、これからもその現実を背負って生きてゆきなさいという意味です。彼は一切の苦しみから解放されて、病気やこの池の出来事などすべて無かったものとして生きるのではないということです。これからもこの38年間の苦労を忘れずに、あの池で見た世界を忘れずに生きるようにと条件を付けられたのです。そのようにして彼は元の世界へと戻されてゆきます。この悲しみも苦しみも、人間の醜さもすべてを背負ったまま彼は歩み出したのです。

彼が生き始まめると、すぐに白い目で見られました。彼を見て喜んだ人がいたという報告はありません。体調が回復し、病とあの池の環境から抜け出すことができた、それが祝われている様子は報告されません。周囲からの祝福はあったでしょうか。「よかったね」と言われ、喜び合ったでしょうか。しかしその様子は描かれていません。記録されているのは周囲が、今日は荷物を背負ってはいけない決まりがある日なのに、なぜあなたは荷物を背負って歩いているのかと聞いたことです。他人の幸せを喜び合えない世界です。実は外の世界も池の周りと変わらなかったのです。自分が一番先で、周りはどうでもよいと考えたあの池と同じように、ここでは他者と共に喜ぶ姿は存在しなません。誰がそんなことを言ったのか、誰が決まりを破るように指示したのか聞き、足の引っ張ろうとしています。そしてそのようにしてイエス様は十字架にかけられてゆくのです。

さて、今日の物語から私たちはどんなことを考えるでしょうか。まず私が思うことは、この世界はまるでベトザタの池の様だということです。世界はこの池のように、自分中心、自国優先、強い者が勝つ世界です。隣人と愛し合うのではなく、たがいに敵同士のように競争する世界です。互いを喜び合えない世界です。私たちもこのような世界・日常に生きています。

イエス様はそのただなかに現れるお方です。ひどい現実の、どん底の、この世界の真ん中に現れるお方です。そして私たちに問いかけるのです。「良くなりたいか?」。私たちはなんと応えるでしょうか?みんながちゃんとしてくれないから、周りの人が悪いから、彼らのせいでこうなっていると言いたくなる現実です。でもその時イエス様は、私たちを立ち上がらせ下さいます。

人間には立ち上がるすべがないはずなのに、良くするすべがないはずなのに、神様が人間に力を与え、立ち上がることができるのです。神様はそのように、私たちを立ち上がらせてくださるのです。

そして神様は、私たちをただ立ち上がらせるだけではありません。現実を背負って立ち上がるように、私たちに言うのです。世界の悲しみ、苦しみを忘れて、無関係に生きるのではありません。それを背負って生きる、それに責任をもって生きるように、私たちを立ち上がらせるのです。今私たちのいる世界を良くするために、神様は私たちを立ち上げてくださるのです。

この礼拝で、私たちは神様から床を担いで立ち上がれと言われています。私たちは自分では立ち上がることができないけれど、神様が私たちを立ち上げてくださるのです。私たち立ち上がります。現実を背負って立ち上がります。そして小さな力でも世界を「良くしたいか」と問われます。私たちは「良くなりたいです」と答えましょう。私たちは現実を背負って生きましょう。それぞれの場所で、互いに愛し合い、困っている人を助け、隣人と喜びをともにしましょう。それぞれの場所で弱肉強食ではない、愛と慈しみにあふれる世界を創ってゆきましょう。その1週間を今日から歩みましょう。神様が私たちを立ち上げて下さいます。お祈りします。

 

【全文】「誤解から始まる信頼」ヨハネ4章1~30、39~42節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこうしてこどもたちの声を聞きながら、大人もこどもも共に礼拝をしましょう。

4月と5月は新しくキリスト教に触れる人に向けて話をしたいと思っています。聖書の中でも有名な個所を聞きながら、一緒に考えましょう。特に聖書の中のヨハネ福音書という部分取り上げてゆきたいと思います。

私は会社の勤めていた時、誤解や失敗をきっかけに他者との信頼関係ができるということを何度か経験しました。例えばクレームを頂いた取引先に訪問し、謝罪をしたり、対話したりしてゆくと、以前よりお互いの事情が分かるようになり、信頼関係が生まれることがありました。クレーム対応をきっかけに、個人的な信頼関係が生まれました。そのような経験が何度もありました。もちろんそのような信頼関係がいつもできるわけではないのですが、いつからかクレームを頂く度に、ここから新しい信頼関係ができればいいと思いながら対応をするようになりました。

このように衝突や誤解がきっかけで相互の理解が生まれ、信頼関係につながってゆくということがあります。みなさんにもそんな経験があるでしょうか。第一印象が悪かったのに、誤解が解けて仲が良くなった人がいるでしょうか。昔は嫌いだったのに今は好きな食べ物も同じだと言えるでしょうか。

関係は必ず修復発展できるというわけではないのですが、相互の信頼関係は互いの誤解に向き合うことによって、対話することによって生まれてゆきます。誤解は信頼の入り口でもあります。聖書にもこのような誤解から信頼が始まるエピソードがあります。今日はそのエピソードをご紹介したいと思います。 

 

 

ヨハネ福音書4章1~30節、39~42節をお読みいただきました。キリスト教の中では有名なサマリアの女という話です。登場人物はサマリアの女性です。実はこのサマリアの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。まず当時ユダヤの人々はサマリアという言葉を口に出すのをはばかるほどサマリアの人々を嫌っていました。なぜならサマリアの人々は混血民族と考えられたからです。サマリアの人々は民族の純血を大事にしたユダヤ人から、いわゆる混血とされ、見下され、差別されたのです。

さらに女性という点にも注目します。当時の社会は今よりもっとひどい男性中心社会でした。女性の地位はとても弱く、女性は男性の所有物とみなされ、男性が一方的に離婚することが可能な社会でした。このようにサマリアの女性は、民族的にも性別的にも差別を受けた人でした。

そのサマリアの女性が井戸に水を汲みに来ました。当時、水汲みは女性の仕事でした。通常女性は水汲みを朝の涼しい時間帯にするものでした。しかし聖書には彼女が正午・昼の12時の一番暑い時間に水を汲みに来たとあります。その理由はおそらく彼女が同じサマリアの女性たちからも疎外されていたからです。5回の離婚を経験した彼女の波乱の人生は、村の人から奇異の目で見られていました。彼女はいろいろな噂をされたり、白い目で見られたりしたのでしょう。彼女は村八分にされ、誰もいない時間を見計らってコソコソと井戸に来たのです。

5回の離婚の理由はわかりません。彼女に問題が有ったのか、無かったのかわかりません。しかし当時は男性が一方的に離婚を言い渡しました。戦争や飢餓や暴力が絶えず、今よりずっと死は身近でした。この女性に責任・罪があって今の境遇にいるという推測は、噂をして村八分にした人と同じ誤解でしょう。このようにこの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。多くの誤解を受けた人でした。だから彼女は誰とも会わない、関わらないで済む時間に井戸に来たのです。

そんな時、イエス様と出会います。イエス様はそんな社会から疎外された人に、自分から言葉を掛けました。神様はそのようなお方です。人間の世界では差別や、いじめ、仲間外れ、排除があります。でも神様は違います。神様は神様の方からその人を見つけ、声をかけ、招いて下さるお方です。さらに当時は男性が見知らぬ女性に声をかけることもタブーでした。それでもイエス様は、その人に声をかけるのです。神様はそのように働きかけてくるのです。

イエス様との会話を見てゆきましょう。声のかけ方が面白いと思います。イエス様は「水をください」と声をかけるのです。復活した時も「何か食べる物はありますか」と声をかけたのですが、今回は「水をください」です。この問いかけに向き合います。

水を巡ってのイエス様と女性との会話は複雑です。特に10節はイエス様が水をくださいと言っているのか、イエス様が水をあげると言っているのか、よくわからない箇所です。読んでいる私たちも混乱する話、誤解が生じやすい話です。

どうやらイエス様が与える水というのは、肉体的にのどを潤す水分補給のことではないようです。その水とは心と魂を潤す水のことを言っています。それは心の内面に染み渡るような何かです。彼女の心と魂は何かを求めているのに埋まりません。心と魂が満たされず、渇いている状態です。その心と魂が求めていることを、満たしてくれるものが、イエス様の渡そうとしている水です。それは彼女にとっては周囲からの誤解と差別から解放されることだったでしょう。

しかしイエス様と女性の会話にも誤解があります。心と魂の水のことは女性には伝わっていません。女性は引き続き、のどを潤す水、ここまで汲みに来ないでよい水を求めています。誤解が続きます。

16節でイエス様は突然話題を変えます。話題は水の話から、結婚関係の話に話題が変わります。イエス様は対話をあきらめていないようです。伝えたいことが伝わらなくても、対話をあきらめずにまた別の角度から伝えようとしています。そして20節以降からはさらに話題が礼拝へと変わってゆきます。全体をみるとかなりかみ合わない会話です。ちぐはぐな会話です。会話は終始かみ合っていませんが、それでも二人が対話を続けていることはとても印象深いことです。

20節からイエス様は繰り返し礼拝という言葉を使っています。イエス様の言った心と魂を潤す水、それは礼拝と言い換えることができるでしょう。

この今私たちの持っている礼拝とは、自分の生き方を考える集まりです。自分はどう生きるのか、神様の言葉、神様の語り掛けを聞きながら考える集まり、それが礼拝です。一人ではなく、みんなとそれを考えます。イエス様はその礼拝が、あなたの心と魂を潤す水となると言ったのです。この礼拝というキーワードからようやく二人の話がかみ合ってきます。

女性はこのような対話からイエス様を信頼するようになりました。彼女はイエス様を、私に何が必要かを知り、私の心の渇きを知り、それを礼拝によって潤してくださるお方、私に新しい生き方を教えてくださるお方だと信頼をしたのです。イエス様との対話によって誤解が解かれ、この女性はイエス様を信頼するようになりました。そして彼女はその信頼を村の人々に告げ広めたのです。

村の人々も、最初は半信半疑でした。しかし村の人々は言います。自分で聞いたからよくわかった。それはイエス様の話を直接聞いて、誤解しなかったからこそ信頼できたという出来事でした。

イエス様とこの女性はすれ違いながらも、忍耐強く対話を続けることによって信頼が生まれました。誤解は信頼へと変わってゆきました。今日この個所を見て私は改めて対話の大切さを感じます。私たち人間にはたくさんの誤解があります。誤解に基づいて様々な戦争が起き、誤解に基づいてうまくいかない人間関係が生まれます。誤解は人々を苦しめます。差別も命に優劣があるという誤解から生まれます。

女性が苦しんでいたことは何よりも、周囲に誤解されたことだったはずです。そして彼女の中でもイエス様への誤解がありました。でもそれでよいのです。多くの関係は誤解から始まってゆくからです。その誤解は徐々に解かれてゆくものです。私たちにも今日この個所からそのことが示されているのでしょう。私たちの周りにもたくさんの誤解があります。誤解したり、誤解されたりすることがあります。でも私たちはイエス様のように向き合い、対話することをあきらめずにいたいのです。今日の個所のように誤解から始まる信頼がきっとあるはずだからです。

私たちはどうやって、誤解を信頼に変える力をいただくことができるのでしょうか。私たちが自分を変えるには限界があります。自分では変わりたくても、変わることができないのです。でも私たちはきっとその力を礼拝からいただくことができます。私たち人間は互いに理解できず、誤解が解けない、信頼しあえない存在です。私たちは人間の力だけでは、豊かな信頼関係を築くことができないことを良く知っています。でもだからこそ私たちは神様から、その力をいただきたいのです。この礼拝で神様から他者を理解する力、誤解のある他者と信頼を作ってゆく力を受け取りたいと思うのです。礼拝からその力をもらい、それぞれの場所で誤解を信頼に変えたいのです。

初めての方、まだ教会に来たことのない方にも、ぜひこの礼拝に加わって欲しいと思っています。教会に昔からいる人、最近来るようになった人の間にも、お互いにいろいろな誤解があるかもしれません。でもきっと礼拝を共にしてゆくことで互いに分かり合えると思います。

ぜひ礼拝にお越しください。そしてこれからも共に礼拝を献げ、神様から、誤解を信頼に変える力を互いに頂いてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「信じない人を歓迎する教会」ヨハネ福音書20章19~28節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日も大人もこども一緒に礼拝をしましょう。先週からキリスト教にはじめて触れる方に向けて話を始めました。このような視点は、毎週集っている方たちにも新鮮だったりするはずだと思っています。

 

よく誤解されがちですが、教会はキリスト教を信じている人だけが集まる場所ではありません。この礼拝は信じていないと参加できない集会ではありません。興味があって来ましたという人も歓迎します。信じるつもりは絶対ないという人も歓迎します。本当は来たくないけれど家族が来るから仕方なく来た、誰々さんに会いたいと思って来た、食事があるから来た、遊びたいおもちゃがあるから来たという人も歓迎します。教会はいろいろな目的を持った人と接点がある場所でありたいと思っています。周りの人に攻撃したり、教会を壊しに来るのでなければ、とにかくここに一緒に集った人をみんな歓迎したいと思います。

 

信じない人を歓迎するというよりむしろ、この教会にとって信じない人は一緒にいてくれないと困る存在です。信じない人が教会にいることの方が、安心できます。ここが信じる人だけの集まりとなると、秘密の儀式のようになってしまいます。きっとそれは閉鎖的で、内向きで、独善的になるでしょう。中にいる人も信仰に対する疑問を持ちづらくなったりします。集まる人も視野が狭まります。

 

教会は信じない人と一緒に、信じない人はどう思うかを想像しながら存在することが大事です。きっと信じている人にとっても、信じない人と一緒にいるのがよいのです。

 

「信じるかどうかはあなた次第」という言葉があります。しかし信じている方を見ていると決して「信じるかどうかは自分次第」という印象は受けません。キリスト教は普通や常識、自然法則ではにわかに信じられないことばかりです。自分次第であるなら、信じないのが当然の結果です。でも多くの方が信じています。多くの人は不思議と何かに押し出されるように、信じるようになります。何か追い風のようなものを受けて、信じていると言えるようになります。信じるかどうかは、私次第ではありません。行き先は風まかせの様な不思議さがあるものです。

 

今日は聖書から信じない弟子を見たいと思います。彼は聖書の中で非常に大事な存在ですし、私たちにとっても非常に大事な存在です。信じない弟子がどう信じるようになるのか、その姿を見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

2000年前、イエス様は様々なことを教えました。中でも一番有名な教えは、互いに愛し合いなさいという教えです。人間関係にはいろいろあるけれど、お互いを大事にしあいなさいという教えです。イエス様は攻撃したり、論破したり、いじわるするのではなく、いたわりあい、優しい言葉を掛け合うことを教えました。それは当時、非常に革新的な教えででした。多くの人がその生き方、教えに共感してイエス様に従うようになりました。もちろん現代でもその生き方に倣うべき点は多くあります。

 

しかしイエス様の互いに愛し合いなさいという教えは、政府の政策とは真逆でした。政府は都合の悪い者は殺すという方針です。イエス様は十字架にかけられ処刑されてしまいました。イエス様の活動はこの十字架で終わってしまったかに思えました。中心的だった12人の弟子たちも、自分たちも政府に目を付けられ、殺されるのではないかと閉じこもっていました。窓を全部締め切って、鍵を閉めて閉じこもっていたのです。しかしそこに死んだはずのイエス様が現れました。その体験は弟子たちの人生を大きく変えてゆきます。その体験で何が起きたのか、どう表現、説明したらよいかはわからなかったのですが、弟子たちはとにかくそれをイエスの復活と呼ぶことにしました。

 

19節からはその12人の弟子のうち、イエス様の復活と呼ばれる出来事を見ていなかった弟子が1人だけいたという話です。トマスという名前です。トマスは言いました。そんなこと信じられるわけがない。確かにイエス様は十字架で死んだはずだ。手を釘で打たれて十字架につけられ、脇腹を槍で刺されて死んだはずだ。その人がもういちど弟子の前に現れる、復活をするわけがない。そんなことは信じことができないと言ったのです。

 

そして彼はもし釘の跡を見て、その穴に自分の指を入れ、脇腹の傷に手を入れることができれば、信じようと言ったのです。すると8日後、本当にイエス様が現れました。戸という戸は全部締め切ったはず、鍵を閉めはずです。しかしイエス様は現れました。そして手と脇腹を確認するように言いました。そのような物語です。

 

さて、この個所はどんなことを教えているでしょうか。特に今日は、信じるとはどういうことなのか、人はどう信じる者に変えられてゆくのか見てゆきます。

聖書はトマスのようにつべこべ言わず、疑わないで、言われたことを信じましょうと言っているのでしょうか?決してそうではありません。人はそんなに簡単に宗教を信じません。人は簡単に自分の人生の大事なものを変えるわけではありません。確かな証拠や奇跡のような体験がないと信じることができないものです。トマスはそんな私たち人間の代表かもしれません。信じない人の代表です。私たち人間は確かな証拠や奇跡によって信じるようになるものです。

 

トマスもきっと信仰に興味はあったはずです。どちらかというと信じたいと思っていたでしょう。脇腹に手を入れるような、確実な体験、奇跡を体験すれば信じれるだろうと思っていました。私は奇跡を体験がすれば、信じることができると思っていました。そしてイエス様はそこに現れます。さあ手を入れてごらんと現れます。

 

しかし注目したいことがあります。聖書にはトマスが実際に指を入れた、手を入れたとは書いていないのです。彼は結局、手と指を入れませんでした。手と指を入れたら私は信じると言っていたのに、彼は手を入れなかったのです。

 

私はよく信じない人から、もし〇〇になったらキリスト教を信じるという言葉を聞きます。受験に合格したら信じる、愛する人と結婚できたら信じる、この病気が治ったら信じるという条件を聞く時があります。それは私たちの本当に切実な願い、叶えたい願いです。私たちの本音です。

 

でも私個人のこれまでの実感として、条件が叶ったら信じると言って、その条件が満たされた後に信じるようになるという人は多くありません。そういった場合、たとえ自分の条件をクリアしても信仰を持つ人は少ないような気がします。自分の設定した条件や願いが、達成されても信仰を持つ人は少ないのです。

 

一方、条件が叶わなかったけれど、信じるようになったという人は多くいます。信じるとは自分の設定した条件をクリアして起こるものではないのです。

 

トマスは手と指を入れませんでした。自分で設定した条件をクリアしませんでした。ではトマスは信じなかったのでしょうか。聖書には信じたとも書いてありませんが、文脈から考えるときっと信じるようになったのでしょう。どうして自分の設定した条件を満たしていないにも関わらず、信じるようになったのでしょうか。

 

そのきっかけはイエス様の方から現れた出会いでした。自分の作った条件とは全く別に、イエス様が来たのです。イエス様がここにいると感じたのです。それはイエス様・神様の一方的な登場でした。しかし彼にはその体験が何よりも大切なものとなりました。

 

自分の設定した条件ではなく、一方的なイエス様の登場、イエス様との出会いの体験によって彼は信じるようになったのです。

 

そうです彼はもともと家にいました。あらゆる戸を閉めて、鍵を閉めて入って誰も外から入ってこれないよう家にいました。しかし、そこにイエス様の側から入ってきました。誰も入って来れるはずのない場所に、閉ざした心の内側に、イエス様は不思議と現れたのです。

 

信仰とはそのように始まります。何かが私の中に勝手にやって来るのです。締め切っていたはずなのに、信じるつもりはなかったのに、入ってくることを期待していなかったのに、閉ざしていたのに、でも不思議と心の中に入って来る、現れる、それが信仰の始まりです。そのような神の一方的な働きかけ、追い風の様な働きかけによって、人は神の存在を信じるようになります。そのことをトマスから教わります。

 

私達自身のことを考えましょう。ここは信じる人も、信じない人も歓迎する教会です。来て良い条件はなにもありません。どうぞそのまま来て下さい。心を閉ざしたままでもかいません。

 

イエス様・神様は、絶対に信じないという人にも、きっとその心に突然にイエス様・神様が現れる時があります。自分たちの条件付けや、気持ちとは関係なく、突然やって来る時があります。そして背中を押され、追い風を受けて、不思議と互いに愛し合いなさいという教えに心から従う時が来るのです。

 

自分あげた条件は叶わないかもしれないけれど、イエス様が心に現れる時がきます。みなさんにもいつかきっと来ます。それは8日後かもしれないし、何十年も先かもしれません。でも皆さんにその時が来ることを祈っています。いつかみなさんの心にイエス様がいる、そう信じる実感を持つ時が来ることを願っています。

 

信じない人を歓迎ます。信じるかどうかはあなた次第ではありません。人間が神を信じるようになるのは、私たち人間の条件を超えた、神様の一方的な働きかけによってです。いつかみなさんにその時が来ることを願っています。お祈りを

 

【全文】「聖書が教える生き方のヒント」ヨハネ20章1~14節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。こどもたちの声を聞きながら、今日も大人もこどもも一緒に礼拝をしましょう。

今日から2か月、初めてのキリスト教というテーマで宣教をします。初めてのキリスト教に触れる方に向けてお話しをしたいと思います。まだキリスト教のことを知らないという方に届いたら嬉しいです。そしてもちろん毎週集う人にも改めて届くと嬉しいです。

キリスト教では聖書という本を読みます。キリスト教はこの聖書から「どう生きるか」を考える宗教と言えるでしょう。残念ながら、書いてある教えを信じれば、願いが叶い、幸せになれるという宗教ではありません。また信じないと罰があたる、信じないと死んだ後に地獄に行くという宗教でもありません。キリスト教はこの聖書から「どう生きるか」ということを考える宗教です。聖書には、どうやったら仲良く生きてゆけるか、どうやったら平和に生きて行けるか、前を向いて生きて行けるかを考えさせるエピソードや秘けつがたくさん書いてあります。

聖書の主人公はイエス様という人物です。この人は神様から地上に派遣された人で、神様と同じくらい大事な方で、2000年前に実在した人物です。イエス様はたくさんの生き方のヒントを教えてくれたのですが、そのひとつに一緒に食事をとるということがありました。イエス様はいろいろな人と食事をしました。当時のタブーをどんどん破って、いろいろな人と食事をしました。イエス様は汚れていると差別されていた人、罪人と言うレッテルを貼られていた人、社会からはじき出された人、他の人が絶対一緒に食事なんかしてはいけないという人と積極的に食事をしました。

そしてイエス様はいろいろな人と一緒に食事をしながら生き方を教えました。食事の最中に、また食事自体を通じて、仲良く、平和に、前向きに生きる秘けつを教えたのです。だから聖書には食事を一緒にする場面が多く記されています。

私たちはこのあと「主の晩餐」というパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式を持ちますが、それも聖書に残されている食事の風景を再現する儀式です。イエス様がいろいろな人と食事をしたことを思い出すために、それを真似してこの儀式を行います。私たちの教会ではパンとブドウジュースを食べるのは「洗礼」という儀式を受けた人に限定していますが、どんなことをしているのか、初めての人は良く見ていてください。

また私たちの教会ではこども食堂も開催していますが、それもこのイエス様の食事の延長にあるものと理解しています。教会ではこのように食事をする機会が多くあります。時々礼拝の後にも昼食会をしています。クリスマスの後には持ち寄りの食事会もしています。これは別名「愛餐会(あいさんかい)」と呼んでいます。愛の食事会という意味です。このように教会では一緒に食事することを大事にしています。

今日も聖書から、イエス様から、食事の風景から、仲良く平和に、前向きに生きる秘けつを見てゆきたいと思います。特に今日はイエス様が食事の準備をしている箇所でもあります。聖書の物語、エピソードを見てゆきましょう。

 

 

今日は聖書のヨハネ福音書21章1節~14節をお読みいただきました。驚くかもしれませんが、今日の物語はイエス様が一度死んでしまった後、再び弟子たちの前に現れたという物語です。死んだ人が目の前に現れるのは、にわかに信じられない不思議な話だと思います。通常、そんなことは起こるはずがありません。

当時のイエス様の弟子もまさか死んだ人に再び会うなどとは想像もしていませんでした。指導者であるイエス様が死んだ後、弟子たちはその活動を引き継ぐことはしませんでした。指導者を失って、失意のうちに元々していた漁師へと戻っていました。4節には「イエス様が岸に立っていた。だが弟子たちはそれがイエス様だとはわからなかった」とあります。弟子たちは当然、死んだ人が目の前に現れるとは思ってもみませんでした。そんな中、イエス様は現れます。そして弟子たちに声をかけます。その第一声が面白いのです。5節「何か食べる物はあるか」でした。かわいい言葉です。お腹が空いたこどものような登場の仕方です。あるいは何か一緒に食べる物はある?一緒に何か食べようよという登場です。

このようにイエス様は大変親しみやすく私たちに現れます。キリスト教もそうです。死者の復活とか聞くと、かなりハードルが高いように感じます。でも実はそれは「何か食べ物ある?」「一緒に何か食べよう」と言って現れた、大変親しみやすい出来事です。びっくりしないで続きを聞いて欲しいのです。

弟子たちは食べ物を持っていませんでした。イエス様はじゃあ舟をだして、獲ってごらんと言います。そうするとさっきは獲れなかった、たくさんの魚が獲れました。このように、イエス様は奇跡的な力を使ってまで、一緒に食事をしようとしました。そして魚が獲れて初めて弟子たちは、この人がイエス様だと気づいたのです。7節「主だ」あれはイエス様だとその時わかったのです。魚が捕れ、一緒に食事をすることができるようになってイエス様を思い出したのです。そうだイエス様は食事を大事にした人だった。岸の向こうにいるのは、死んだはずのイエス様だ。もう一度私たちの前に現れたのだと思ったのです。それだけイエス様の食事にインパクトがあったのです。

イエス様は一歩先に岸で炭火を起こして、魚を焼いていました。魚を炭火で焼くと、いい香りがしたでしょう。イエス様はいつの間にかパンも調達してきました。そして「さあ朝ご飯を一緒に食べよう」と言います。イエス様がその食事の準備をしました。弟子たちはここまでの食事をするプロセスの中で、もうこれだけ一緒に食事をしようとするのはイエス様だとわかっていました。そしてイエス様は13節「パンを取って弟子たち与えられ」ました。これは私たちがこの後に行う、主の晩餐にも引き継がれた文言です。イエス様はこんな風に弟子たちに現れたのです。

この食事は、これまで繰り返した食事と同じように、弟子たちの心を癒し、励ます食事だったでしょう。弟子たちは、前を向いて生きるようになりました。そして他者を愛しなさい、仲良くしなさいという教えをもう一度思い出したでしょう。そして15節以降では愛とは何かを考えるエピソードが続きます。

今日初めての方に伝えたいのは、キリスト教を身近に感じて欲しいということです。神とか復活とか、難しく自分の生活と全く遠いことのように感じるかもしれませんが、本当は親しみやすいものです。イエス様は飯にしようと言って親しみやすく弟子たちに現れました。キリスト教は本来このようにすべての人に親しみやすいものです。

さて今日の個所から私たちが仲良く平和に前向きに生きるヒントはどこにあるでしょうか?生きる支えになる教えはあるでしょうか? 一つは不思議な事ですが、死ですべてが終わるのではないということを教わります。イエス様の死は復活と言う続きがあったのです。それは悲しみが悲しみで終わらなかったということです。弟子たちは悲しみのうちにイエス様と出会う前の生活に戻っていました。しかし悲しみは悲しみで終わらなかったのです。聖書によればどんな悲しみにも、いつか終わりがあるということが指し示されています。それが前向きに生きるヒントです。

まだまだ生きるヒントがあるでしょう。イエス様は私たちに困難を乗り越える力をくれるということも言えるでしょう。弟子たちは全く魚が獲れずあきらめてしまっていました。しかしイエス様は、もう一度チャレンジするように言います。このように私たちは聖書から押し出されて、もう一度とチャレンジする力をもらいます。イエス様の教えから力が与えられ、あきらめず、もう一度網を下すようなチャレンジをする生き方が私たちには与えられるでしょう。

そして何より共に食事をすることを大切にするということも生き方のヒントでしょう。悲しみの時、寂しい時、誰かと一緒に食事をすることが、イエス様の大事にした行動です。悲しむ人、寂しい人がいたら一緒に食事をすることが大事です。一緒に食事をすると、その人に生きる力が湧いてくるのです。教会で共に食事をすることを愛餐と呼ぶように、共に食事をすることは互いに愛し合っていること、大切に思い合っていることを表す行動です。食事を共にすることはその人との絆、個人的な関係を造るのです。その食事によって生きる力が湧いてくるのです。私たちは共に食事をすることをもっと大事にしてはどうでしょうか?食事で互いが大切であることを確かめ合ってはどうでしょうか。それも生き方のヒントです。

イエス様は差別を超えるために、様々な生き方の教えを伝え、励ます場所として、共に食事をしました。私たちはこの後の主の晩餐で、そのイエス様の教えを思い出し、教会の仲間同士や、1週間関わる人たちと互いに愛し合うということを確認します。

私たちはこのように、聖書から生きるヒントをもらい、みなさんと一緒に歩みたいと思っています。毎週ではなくとも、少しずつ、この礼拝に参加してみてはいかがでしょうか。生きるヒントを実践してみてはどうでしょうか?教会の食事に加わってみてはいかがでしょうか?イエス様から生きるヒントを受け取ってください。みなさんの新しい生き方が始まることをイエス様を通じて、神様にお祈りをします。

 

 

【全文】「悲しむ人々は幸いである」ヨハネ20章1~18節

みなさん、おはようございます。今日はこうしてイースター礼拝を共にできる事、主に感謝します。今日もこどもたちと共に、声を聞きながら礼拝をしましょう。

今日は3月最後の日です。3月と4月は様々な出会いと別れがある季節です。教会では受難節として聖書の十字架の場面を見て来ました。今日はイエスとの別れを体験した女性の物語です。その出会いと別れを見てゆきたいと思います。

誰かとの別れは人の心に大きな影響を与えます。大きな心の負担になります。その別れをすぐに受け入れられる時もありますが、長く引き、引きずるときもあります。ずっと心の中に重たく残り、昔のことにできないときがあります。悲しみの深さは、その時々によって違います。別れた人との関係性の深さや、お別れの仕方によって、悲しみの深さは違います。別れをしっかりと言えた、やりきったと思える別れは受け入れやすいものです。でもしっかりと言葉を交わすことができなかった別れ、突然の別れは受け入れるのに時間がかかるものです。それでも人それぞれのペースで、少しずつ別れを受け入れてゆきます。受け入れ方やスピードは人それぞれです。周りの人は前を向いているのに、どうしてか自分だけが置いて行かれるように、悲しみが続き、立ち上がることができないのかと思う時があります。頭では死では終わらない。また会えるとわかっています。悲しんでばかりではいけない、前を向いてゆかないといけないとわかっています。でも悲しみがあふれて止まらない時があるのです。

神様はそのような別れと悲しみの時、どのように、私たちと共にいて下さるのでしょうか。神様はきっと悲しむなと言わないお方です。人間は他人や自分自身に、いつまで悲しんでいるのか、そろそろ前を向けと言います。神様を信じて、これ以上悲しむなと押し付けます。でもきっと神様は違でしょう。神様はそのような前向きさを押し付けないお方です。神様はそっと悲しむ者のそばに共にいてくださるお方です。悲しむ者にこそ現れ、そばにいて下さるお方です。ここにいると伝えて下さるお方です。そしてゆっくりと悲しみとは違う方向へと導いてくださるお方です。神様はこのように、悲しむ人々に幸いを約束してくだいます。神様は涙から幸いへ導いてくださるお方です。今日は悲しみと共にいてくださる神様の姿を見たいと思います。

 

 

ヨハネによる福音書20章1~18節をお読みいただきました。イエス様は十字架で殺されてしまいました。それは無実の罪でした。若い人の死でした。残酷な死でした。突然の別れでした。心の支えだった人との別れ、尊敬する人との別れでした。それは、もっとも受け入れるのが難しい、もっとも受け入れるのに時間がかかる別れでした。弟子たちはとらえられる直前まで一緒にいて、食事をしていました。でも捕えられてからは、知らないと嘘をついて逃げました。それは最悪の別れ方でした。弟子たちはその後、自分も捕まるかもしれないということに怯え、隠れていました。弟子たちはその死にあたって自分を責めたでしょうか?自分の弱さを責めたでしょうか。

その弟子たちの中にマグダラのマリアという女性がいました。マリアはガリラヤからずっとイエス様に仕え、共に旅をしてきました。彼女はもともと、七つの悪霊が取りつた人でした。イエス様の力によってその悪霊が追い出され、イエス様に従う様になりました。古くから一緒にイエス様と共に、互いに愛しあうことを伝える活動をしていました。マリアたちは強い意志を持っていました。他の弟子たちが逃げ惑う中、最後まで裏切らず、逃げずに従ったのです。そしてイエス様の十字架を最後まで見届けました。福音書のすべてに、マリアが見届けたとあります。

しかし一方でそれはマリアにとって、大きな心の負担になったはずです。マリアは残酷な十字架を見なければいけなかったのです。マリアはイエス様の無残な死に方を直接見てしまいました。痛み、苦しみ、渇き、流れる血、その姿をすべて見て、受け取ってしまったのです。きっとマリアはそれに強い衝撃を受け、それはトラウマになったはずです。彼女はそのようにイエス様の最も近い弟子であり、十字架の姿を見てしまった一人でした。きっとイエス様の死は、マリアにとって他のどの弟子よりも衝撃的で、悲しみの深いものだったでしょう。その衝撃と悲しみは非常に深かったはずです。

1節には週の始めの日、彼女はまだ暗いうちにイエスの墓に行ったとあります。彼女はきっと悲しみが尽きなかったのでしょう。悲しみが深く、大きく、受け入れることができず、体が勝手に墓へと向かったのです。しかし彼女は墓で、イエス様の遺体がないことに気づきます。彼女は遺体がどこに置いてあるのかわからないと混乱をします。彼女は深い悲しみの中で何とか死を受け入れようとしていました。しかしその体がなくなって、また死を受け入れることができなくなってしまいます。「どこに置いてあるかわからない」それは彼女の気持ち自体もそうだったのでしょう。彼女は自分の悲しみをどこに置いたらよいかわからなくなってしまったのです。彼女はどのように悲しんだら良いか、どのように心の整理を付けたらよいかわからなくなってしまったのです。11節、マリアは墓の外で立ったまま泣いたとあります。これは彼女の感情をよく示しています。どのように受け止めたらよいかわからず、立ち尽くし泣いたのです。

他の弟子たちは家に帰ってしまいました。イエス様の死を他の弟子たちがどう受け入れたのかはわかりません。案外すんなりと受け入れたのでしょうか。どれほどの悲しみがあったのかは、外側からはわからないものです。ただきっとマリアこそ誰よりも深く傷つき、悲しんでいたでしょう。もっとも悲しみ、涙のとまらないマリア、そのマリアにイエス様は一番はじめに現れました。神様はこのように悲しむ者のもとに現れるのです。悲しみを受け入れた先に神がいるのではありません。深い悲しみの底に、もっとも悲しみの深いさなかに神様は現れてくださるのです。イエス様はそっと現れます。14節マリアが後ろを振り向くとイエス様がいたとあります。いつからそこにいたのかわかりません。でもイエス様はきっと、ずっと涙する者のそばにいました。悲しむ者と共にいました。それまでマリアは後ろに誰かがいることに気づいていませんでした。しかしイエス様はずっとそばにいました。一番悲しみの深い人と共に、イエス様はいました。イエス様はなぜ泣くのかと聞きます。きっとそれは、もう泣かなくていいという声です。私がずっと一緒にいるのだから、泣く必要はないという意味の言葉です。

15節マリアは最初それがイエス様だとは思わなかったとあります。まだ彼女はイエス様が共にいることに気づいていません。彼女がそれに気づいたのは、イエス様が「マリア」と彼女の名前を呼びかけた時でした。イエス様に自分の名前を呼ばれて、それがイエス様だと気づいたのです。それはまるで羊と羊飼いの様です。羊が自分の羊飼いの声を聞きわけるように、マリアはイエス様の声を聞き分かることができました。そしてイエス様は羊飼いの様です。1匹の迷った羊飼いを探すように、マリアの元に現れたのです。

17節イエス様は私にすがり続けてはいけない、兄弟たちに伝えなさいと言います。イエス様は突き放すようです。でもそのようにしてマリアは立ち上げられてゆきます。イエス様はそのように、マリアをもう一度仲間たちの元に派遣してゆくのです。そして彼女から全世界へと復活が伝えられていったのです。

今日の個所をからどんなことを考えるでしょうか。奇跡の復活を果たしたイエス様というイメージも大事かもしれません。しかし今日は、神様はこのようにして、悲しむ者と共にいるということに目が向きます。神様はこのように悲しむ者と、もっとも悲しむ者と共にいて下さるお方なのです。そして神様は悲しむ者にとっては一見わからないような形で、すぐ後ろに、共にいて下さるお方なのです。そして神様は迷った羊を探す羊飼いのように、悲しむ者に声をかけてくださいます。名前を呼んでくださいます。一緒にいるよ、だから立ち上がって、前に進もうと言ってくださるのです。そしてもう一度私たちを仲間のもとに派遣します。私たちはイエス様の復活を伝える、イエス様が悲しむ者といつも共にいることを伝える、その愛を伝えるために、派遣されてゆくのです。

イエス様が復活したとは、そのようなことを言うのではないでしょうか。復活とは死が無くなることではなく、その悲しみの中にイエス様が共にいて下さったことではないでしょうか。悲しみの中に主が共にいて下さることが、主が復活されたということなのではないでしょうか。

私たちの人生でも、きっとそのようなことが主の復活が起こるはずです。私たちの人生には悲しみの時、苦しい時、神に見放されたような出来事に出会う時があります。なかなか立ち直れないかもしれません。でも神様は復活し、悲しむときに私たちと共にいて下さいます。神様は悲しむ人の後ろにそっと復活して下さいます。振り返ると、すぐそこに復活した主が私たちと共にいて下さいます。私たちはそのことを覚えていましょう。そして悲しみと出会う時、振り返るようにしましょう。神様は復活し、私たちと共にいて下さいます。だから泣く必要はない、前を向いて歩こうと、そのように私たちを派遣してくださいます。

新しい1年が始まります。幸いが多くある1年に期待します。そして悲しみもあるでしょうか。きっと神様は悲しむ時に共にいて、私たちを幸いへと向けて導いてくださるお方です。その復活を信じ、歩みましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「愛を成し遂げる力」ヨハネ19章28~30節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。先日の総会では「こどもの声がする教会」という標語をみなさんと確認しました。私たちは大人とこどもが共に福音を分かち合うために、一緒に礼拝をします。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもの声がする礼拝をしましょう。大人もこどもも福音を分かち合い、誰もが大切にされる教会になりましょう。

今週は教会の暦で受難週です。イエス・キリストの十字架を特別に覚える1週間です。今日はイエス様の地上の生涯の最期の時を見ます。

人間は誰しも自分の人生には終わりがあるのだということを知っています。だから悔いのない人生、やり残したことのない人生を送りたいと思うものです。でも本当にやり残しの無い、悔いのない人生など送れるのでしょうか。それはとても難しいことでしょう。人生は悔いが残ることばかりです。やり直したいことばかりです。中途半端なことばかりです。私はこの人生で何か一つでも成し遂げることができたのだろうかと思うことばかりです。イエス様は十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取ったとあります。今日はこのことを考えてゆきたいと思います。

まずイエス様の架けられた十字架刑について考えます。当時から様々な処刑方法がありました。他の個所では洗礼者ヨハネは斬首刑で殺されたとあります。そしてイエス様は十字架刑です。他にも様々な処刑方法がありますが、十字架刑は様々な処刑方法の中で最も残酷な刑でした。それはあまりに残酷な方法であったために一般市民に科すことが禁止されていたほどです。この刑に科されたのは、特に権力に抵抗した者です。政治的な反乱者がこの刑を科されました。

十字架刑は広げた手に釘が打たれます。手を広げたままだと、息が出来なくて苦しいのです。手足を動かそうとすると釘が痛みます。通常はすぐには死に至りません。徐々に体力が奪われ、窒息死したり、手足からの出血多量で死んでゆきます。死ぬまでにとても時間がかかる刑です。何日も、何週間もかかる、なるべく苦しみが長く続くようにされた刑です。それは大通り、人からよく見える場所で行われました。見せしめのためです。権力に反抗した者はこうなるぞと、人々に恐怖を与えるために、二度と権力に反抗しないように、丘の上や大通りなど人々の良く見える場所で行われました。死んでしまった後も、遺体の埋葬は禁止されました。十字架から降ろすことも禁止されていました。遺体は鳥や野獣のエサとなりました。埋葬する遺体さえも残らない刑だったのです。これは死刑の方法の中でも最もおぞましいものとされ、人々からは十字架という言葉を口にすること自体がはばかられたと言います。イエス様がかかったのはそのような刑でした。処刑される者は、苦しみ、呪いの言葉を口にしながら死んでいったと言います。

しかしヨハネ福音書では、イエス様が苦しみの言葉を発した記録はほとんどありません。これほどまでに残酷な方法で殺されているのに、苦難の言葉がほとんどないのです。おそらくそれは「渇く」という言葉だけです。その苦しみは「渇く」という言葉にしかならないほどだったのでしょうか。そしてイエス様はなんとこのような状況で「成し遂げられた」と言いました。この言葉は理解できないことばです。激しい痛みの中での「成し遂げられた」という発言にはどんな意味があるのでしょうか?このような苦しみの中で一体何が成し遂げられたというのでしょうか?今日は「成し遂げられた」という言葉に注目をしたいと思います。

 

 

「成し遂げる」という言葉は完成する、完全になる、まっとうするという意味の言葉です。物事を最後までやりきる事を意味します。また、やり切って成功することを意味します。自分のできることをすべてやり切っても、失敗することがあります。がんばっても結果がついて来ない時があるものです。そのような時には、成し遂げるという言葉は使いません。頑張ったうえで、さらに成功した時に「成し遂げる」という言葉を使います。

イエス様は十字架上で「成し遂げられた」と言いましたが、イエス様は一体何を成し遂げたというのでしょうか。イエス様の宣教の活動はたった数年だったと言われます。この活動は数年で終わってしまいました。弟子たちからすればイエス様にはまだまだやって欲しいことがあったはずです。これからだと思ったはずです。地上の人々にもっと伝えなければならないことがあったはずです。伝えきれなかったこと、やり残したことは非常に多かったはずです。その教えはあまりに短すぎて、今も謎が残ったままです。イエス様にとっても、弟子たちにとっても志半ばでの十字架だったはずです。しかし、それにもかかわらずイエス様は最後に「成し遂げられた」と言っています。まったく謎の言葉です。

この状況で、何が成し遂げられたというのでしょうか。成し遂げ「られた」の「られた」に注目をします。そうです、これはイエス様が「私は成し遂げた」と言った言葉ではありませんでした。イエス様は成し遂げ「られた」と言ったのです。それは自分で「成し遂げた」のではなく、誰かによって、何かによって成し遂げ「られた」ものだったのです。

この言葉によれば、イエス様は自分自身で何かを成し遂げたのではありません。それはイエス様以外の誰かの力によって「成し遂げられた」ものだったのです。それを成し遂げたのは神様でしょう。神様がイエス様を通じて、成し遂げたのです。イエス様はそのことを「成し遂げられた」と言ったのです。

では神様はここで何を成し遂げたのでしょうか。神様はイエス様の十字架を通じて何を成し遂げたのでしょうか。「成し遂げられた」とはイエス様のここまでの地上の歩みが指し示されています。神様はイエス様の地上の生涯を通じて、愛に生きることを教えました。共に食事をし、仲間になるように教えました。隅に追いやられた者に目をとめるように教えました。病の人を訪ね、励まし、癒しました。そのように神様はイエス様を通じて互いに愛し合うことを教えました。イエス様は神様から与えられた、その使命を生きました。

そして十字架の死に至るまで、他者を愛し続けました。多くの人が呪いの言葉を並べる十字架において、沈黙し、神を求め続けました。死を避けるために、神様の使命から逃げることができました。しかしイエス様は死に至るまで、他者を愛し続けました。それが神様によって成し遂げられたものだったのです。どんなにつらい時も愛に生きる事、自分の思い通りにいかなくても愛すること、死ぬその時まで他者を愛すること、それを今、イエス様は神様の力によって成し遂げたのです。神様から愛を成し遂げる力を頂いて「成し遂げられた」のです。

イエス様自身にもいろいろな思いがあったかもしれません。私はまだ何も成し遂げていないと思ったでしょう。もっと生きたいと思ったでしょう。弟子たちもそう思ったでしょう。どうしてこれからだという時に終わってしまうのかと思ったでしょう。もっと生きて欲しかった、もっと教えを聞きたかったと後悔をしたでしょう。

しかし、イエス様は「成し遂げられた」と言います。人の願いは成し遂げられずとも、神様の願いは成し遂げられたのです。弟子の願い、イエス様自身の願いではなく、神様の願いが成し遂げられたのです。イエス様はこのようにして十字架を引うけ、息を引き取ってゆきました。

 

 

この物語を聞いて、私たちはどう生きるでしょうか。私たちの人生には苦難があります。言葉にできるもの、言葉にできないもの、様々な苦難があります。しかしきっと神様は言葉にしてもしなくても、私たちの苦難をわかっていてくださるでしょう。神様は私たちが苦難の中で、神様の導きを求め渇くことをわかってくださっているでしょう。おそらく私たちの人生で、自分の力で成し遂げることは多くありません。多くの事は成し遂げることができず不完全です。そして私たちが成し遂げられることは神様の前に小さなことです。でも私たちにも神様によって「成し遂げられる」ことがあるでしょうか。私たち自身ではではできないこと、私たち自身では耐えることのできないことがあります。でもそこに神様から成し遂げる力と計画をいただいて、成し遂げられることはあるでしょうか。私たちの力を超えて、神様が成し遂げられることがあるでしょうか?きっと私たちを通じても神様が「成し遂げられる」計画があるはずです。それは私たちの思いを超えて実現するものです。

きっと神様が成し遂げようとしているのはイエス様の人生においてもそうだったように、生涯を通じて、神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕えることです。それが、神様が成し遂げようとしている計画です。神様はその計画を成し遂げるために私たちに力をくださいます。神様が苦難の時も愛に生きる力を与えて下さいます。どんなつらい時も、神様は愛に生きる力を与えて下さいます。どんなに愛せない時も、神様は愛することを貫くための力を私たちに与えて下さいます。そのようにして神様は、私たちを通じてその計画を成し遂げるお方です。

それぞれの歩みに神様の力が与えられるように祈ります。私達では到底成し遂げることができないことを、愛を、神様は成し遂げて下さいます。その愛を成し遂げる力を私たちも頂きましょう。私にはできないけれど、神にはできる、愛を成し遂げる力を神様から頂き、今週も歩みましょう。お祈りします。

 

【全文】「がんばれ 子ロバ」ヨハネによる福音書12章12~15節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。またこどもたちと共に礼拝できることも嬉しいです。こどもたちの声を聞き、その存在を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会では「こひつじ食堂」という名前のこども食堂を開催しています。ここは貧しい人が集うためだけの場所ではなく、地域との交流ができる食堂です。誰かと出会うことができる食堂です。毎回200食近く作り、1食200円で提供をしています。たくさんの人が利用していますが、それを支えているのは、たくさんのボランティアさんたちです。ボランティアの登録は60名以上、そのうち毎回20名以上の方がボランティアとして加わってくださっています。毎回のボランティアの半分以上は教会員ではない、地域の方です。先日からは9歳(小学3年生)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。教会に説明を聞きに来た時はお母さんと一緒で、とても不安そうな表情でした。でも「やってみる」と言ってボランティアをはじめてくれました。

初めはお母さんと一緒に参加して、徐々に慣れてくれればいいかなと思っていましたが、始めるとすぐに楽しくなって、もうお母さん帰って大丈夫と言って、一人で加わってくれています。今では人一倍、立派に手伝ってくれています。大人の間違いを指摘して、大人顔負けの働きをしています。その日の最年少ボランティアは9歳、最年長ボランティアは88歳でした。こひつじ食堂は9歳と88歳が力を合わせる食堂です。こどもがボランティアに加わったことで、いろいろな良い影響が出ています。雰囲気が変わってきています。まず他のボランティアさんが刺激を受けています。自分は運ぶ、自分は作るということに一生懸命だった人が、周りで手伝っている子どもたちを見回すようになりました。自分の作業以外に気を配るようになりました。そして、すごいね、すごいねと、他者をほめながらボランティアする様になりました。大人たちだけよりよい雰囲気かもしれません。他のこどもにも影響があり、私もボランティアをしたいというこどもも出て来て、7歳(1年生)のこどもも一緒に働いてくれました。

こひつじ食堂の利用者にも変化があるようです。自分のこどもと来た母親が、自分のこどもより小さい子がお料理を運んで来るのに、目を丸くしました。早く私の料理を持って来てほしいと思っていた大人も、こどもが運んでいるのならしっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て、食べ終わったこどもが自然と自分で食器を下げるようになりました。嬉しい変化です。その食事の風景を見て、これが本当に平和というものなのだなと感じました。

最初はどのように教会がこどものボランティアを受け止めることができるかどうか、心配でしたが、受け入れて本当に良かったと思います。教会のこども食堂が、こどもが活躍できる場所となったことをうれしく思っています。そしてそのことから様々なことを教えられています。

神様はこのように、こどもを用いて、大きな変化を起こして下さるお方です。あるいはこどもにかかわらず一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。神様は私たちに教えて下さっています。神様はそれぞれが活躍できる場所を備えて下さるお方です。神様は共に喜び、互いにすごいねと励まし合うことの大切さを教えて下さっています。神様は待つことの大切さや、平和を私たちに教えてくださっています。

今日の聖書の個所にもこどもが出てきます。人間のこどもではないですが、ロバのこどもです。今日はこの子ロバが大活躍する姿を見てゆきたいと思います。そこから私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか?

 

聖書を読みましょう。ヨハネによる福音書12章12~15節をお読みいただきました。イエス様は互いに愛し合いなさいということを、町々村々を周って教えていました。戦争と暴力と不正がはびこる時代です。何よりも力が重要だった時代です。その時代の中にあってイエス様は愛し合うことを言葉とそして行動で伝えました。今日も愛し合いなさいということをひとつの行動で示しています。

イエス様はエルサレム、イスラエルの中心都市を訪問します。戦争ではなく、力ではなく、愛することを訴えたイエス様です。多くの群衆がその教えを支持していました。イエス様は「ホサナ(主よ、救ってください)」という大きな歓声を受けながらエルサレムの街に迎えられたのです。

今日注目したいのは、乗っていた動物です。イエス様は子ロバに乗っていたとあります。当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力の象徴であり、最新兵器でもありました。軍事力の象徴です。今で言うところの戦車と言えるでしょう。馬に乗って、悠々とエルサレムに来たらかっこいいです。馬に乗ることこそ、王様ふさわしい姿でした。

しかしイエス様は馬には乗りませんでした。その代わりにロバに乗ったのです。馬とは対照的です。ロバは忍耐深く重い荷物を運ぶ、地味な動物です。さらにロバの中でも、小さなこどものロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。ロバは馬よりも歩くのも遅いのです。子ロバならヨロヨロしたでしょうか。でもイエス様は子ロバを選びました。14節にイエス様は子ロバを見つけたとあります。それはイエス様自身が自分が見つけて、自分で選んで、それに乗ることを決めたということです。イエス様は、小さくて、不格好で、力のない動物を選んで、またがったのです。

ここには神様の選びが示されています。神様はどのような人を選ぶのかが示されています。神様は子ロバを選びました。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力の者を選ぶのです。力の強くないもの、こどもやお年寄りなど選びます。選ばれたのはロバの中のさらに子ロバです。神様は小さな力の中の、さらに小さい力しかもっていない者を選びます。それがまさに神様の選びです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方です。

この個所からまだまだ教わることがあります。神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバは馬と比べてかっこ悪い、地味な生き物です。しかも小さなロバに乗ったら、よろよろしたでしょう。子ロバは、みんなの前でよろよろとするのを恥ずかしいと思ったでしょうか。子ロバはもっと強くなりたいと思ったでしょうか。何とか馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。

私たちに置き換えて考えるとどうでしょう。私たちが子ロバだったら、子ロバなのになんとか馬になろう、馬に見えるようにしようと振る舞ったでしょうか。かっこつけたでしょうか。でも神様のもともとの選びはそうではありません。神様は子ロバを選ぶのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。だから私たちはかっこわるいままでいいのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。かっこわるいままで生きるのでよいではないかと、ここから教えられます。

人々がホサナと喜びの声をあげた様子も想像します。この言葉は群衆からイエス様に向けられた歓迎の言葉です。でも民衆の視線と歓声はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。イエス様の姿、それも小さなロバにのったイエス様の姿が、人々の心をとらえたのです。あんな小さなロバがイエス様を載せている。それならば私にも何かできるはずだと思ったでしょう。大きな変化があったでしょう。私を子ロバに置き換えてこの話を読む時、この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。運動会で転んで、ビリだけど、大歓声で応援されるように、頑張れ子ロバという思いがこの群衆の中にはあったのではないでしょうか。

小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしている。私はその子ロバをいとおしく感じます。イエス様のそのような選びを嬉しく思います。きっとその光景こそ、力と暴力の反対の平和があったのではないでしょうか。今日はイエス様とイエス様を背中に乗せた子ロバの話を見ました。私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。

私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。小さな力で前に進もうとする、その姿をみんなが応援する、そんな風景を平和と呼ぶのでしょう。小さな力でも一生懸命なあなたの姿が平和へとつながってゆくでしょう。私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。ホサナ、ホサナ、私たちにそんな応援の声が聞こえるはずです。

私たちの互いの1週間の歩みを祈りあいましょう。互いに小さな力だけれども、神様が大きく用いて下さるように祈りましょう。愛し合う1週間、小さな力に目をとめる1週間を歩みましょう。お祈りします。

 

【全文】「原発と命は共存できない」ヨハネによる福音書12章1~8節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること、主に感謝します。こどもたちの声と足音を聞きながら共に礼拝をしましょう。

 

明日は3月11日です。東日本大震災から13年が経過します。今日は東日本大震災を覚えて礼拝をしましょう。私は昨日「さよなら原発ひらつかアクション」という市民活動でデモ行進をしてきました。多くの人が原発反対のデモ行進に参加するために集まりました。これは平塚市内で最大のデモ行進です。特に今年は能登半島沖地震の募金も一緒に行われました。被災地のこと、原発の課題を覚えて礼拝をしたいと思います。

 

能登半島の震源地近くの過疎の町、珠洲市には以前に原発が作られる計画がありました。その予定地だった場所は今回の地震で数メートル隆起しました。もし計画通りその真上に原発があったら、どうなっていたでしょうか?福島よりもさらに深刻な原子力災害になっていたはずです。助けに行くこともできない、逃げることもできない地で原子力災害が起きたら、国はどうやって命を守るつもりだったのでしょうか。原発が作られる恐ろしさを改めて感じています。

 

原発反対の活動をしているとなぜ“牧師が”原発に反対するのかよく聞かれます。宗教と原発は無関係だとよく言われます。ですが実際には宗教者として原発に反対をしている人は非常に多くいます。たとえば珠洲市の原発の反対運動の中心的存在だったのは、地元のお坊さんでした。地元の宗教者・お坊さんが先頭に立って原発に反対をしたのです。珠洲市の原発反対は宗教者の役割でした。

 

珠洲市では当初、住民のほとんどが原発建設に反対していました。しかし電力会社が来て、猛烈な接待をします。近隣住民はタダで飲み食いさせられ、原発視察名目の海外旅行に何度も連れてゆかれます。芸能人を呼んだコンサートがあります。最後は住民がもう飽きて参加しなくなるほど接待漬けにするのです。ある人は原発予定地の土地を貸して、億単位の収入を得ます。お坊さんはドーンと新しいお寺を建てるから賛成してくれと懐柔されます。当初反対していた住民も「カネ」の力の前に、一人また一人と賛成に回りました。これが原発の作り方です。

 

そんな珠洲市で、ある一人のお坊さんが立ち上がり、原発反対の運動を起こしました。「危険な原発と命は共存できない」と原発に反対をしたのです。住民たちに呼びかけ、道路に座り込み、お念仏を唱えながら原発反対を訴え続けたのです。その努力もあり2003年に原発建設の中止が発表されました。今このお坊さんは住民から、原発反対を貫いて、私たちを救ってくれたと大変感謝されているそうです。

 

「あまりに危険な原発と命は共存できない」それが多くの宗教者の共通した訴えです。カネの問題で考えるなら、原発を推進した方がよいのでしょう。一見、安く見えるからです。地元と自分が潤うからです。廃棄物の問題を考えないのなら、よいでしょう。今だけを考えたら、カネだけを考えたら、自分だけを考えたら原発がよいのでしょう。今だけ、カネだけ、自分だけ、その先に原発があります。

 

しかし、宗教者には今だけ、カネだけ、自分だけで物事を判断してはいけないと訴える義務があります。宗教者は何よりも命の大切さを判断基準にします。だからあまりに危険な原発に反対をしてます。原発があまりに危険で、そこから生まれるカネより命が大事だから、原発反対を訴えています。今日はカネより大切なものがあることを聖書からみていきたいと思います。聖書を読みましょう。

ヨハネ福音書12章1節~9節をお読みいただきました。マリアはたくさんの香油をイエス様の頭に注ぎました。それは売れば300デナリという大変高価な香油でした。私たちから見てもそれは、お金をかけすぎです。どうしてそれにそんなにお金をかけるのかとびっくりする金額です。コスパ(コストパフォーマンス・費用対効果)が悪いです。彼女は大変コスパの悪い行動にでます。イエス様の頭に香油をすべて注いでしまったのです。

 

この女性はなぜこのような大金をイエス様に使ったのでしょうか。ある人はどうしてこの女性はこのような高価な香油をこれほどたくさん持っていたのかと想像しました。女性がこんな高価なものを自由に使えるとしたら売春でもしていたに違いないという想像も生まれました。彼女が香油をどのようにして手に入れたのかはわかりませんが、女性が大金をもっていたら売春で稼いだお金と決めつけるのも良くありません。

 

おそらく彼女は少しずつ貯めていたのでしょう。日々の稼ぎから少しずつ、500円玉貯金をするように、何十年もかけて300デナリ分、300日分の給与に相当する香油を貯めたのです。彼女は必死に貯めました。仕事でつらいことがあっても、悲しいことがあっても耐え、少しずつ貯めました。それはまさに彼女の汗と涙の結晶です。血と涙の結晶です。自分が頑張った誇らしいものでした。彼女の不屈の精神の塊でした。彼女は誰よりもお金の大切さを知っていたはずです。誰よりもお金を稼ぐ苦労を知っていたはずです。きっと彼女はユダよりもお金の大事さを知っていたはずです。

 

しかし彼女はその香油を一度に贅沢に、イエス様に使ってしまいました。彼女はあの不屈の油を、誰よりも苦労して集めたあの香油を、今日、イエス様に、一度に、すべて、注いでしまったのです。彼女があれだけ苦労して稼いだお金を、このように使わせるものは何だったのでしょうか?

 

カネにうるさいユダは「それで貧しい人に施しができたのに」と言いました。この発言はまるで評論家の様な、他人ごとの様な発言です。それはまるでインターネットの書き込みのようです。間違っている、もっと有効な手段があるはずだと遠くで騒ぐやり方です。しかしその彼自身の持っているカネは彼が苦労して得たものではありませんでした。それは不正をして得たカネ、苦労せずに得たカネです。それは裏金です。裏金を作っていた人が、人の金のことを「貧しい人に使った方が良い」と言うのに、笑ってしまいます。裏金はパーティーで作られたのでしょうか?その裏金は何に使われたのでしょうか?飲食や、遊ぶお金、賄賂に使われたのでしょうか?ユダはそのように裏金を作り、使ったのです。

 

話を戻します。マリアにこのように油を使わせたものは、一体何だったのでしょうか。何が彼女をつき動かしたのでしょうか。彼女を突き動かしたのは信仰でした。その信仰はイエス様の行動と言葉から生まれた信仰でした。イエス様の行動と言葉が彼女を突き動かしたのです。この人になら自分のすべてをかけてよいと思わせたのです。この油すべてをかけるにふさわしい、この苦労すべての苦労をかけてなお上回るものがあると思ったのです。

 

イエス様の行動と言葉は命を守る、行動と言葉でした。イエス様は罪人とされた人、汚れているとされた人と連帯しました。イエス様は小さくされた命、隅に追いやられた命に目を向けました。それがイエス様の行動と言葉です。マリアはこのイエス様の命への向かい合い方に深く共感をしました。自分のように隅に追いやられ、それでも一生懸命生き、働く、そのような人々に目を向けるイエス様に深く共感をしたのです。その命へのまなざしは何よりも、この集めた香油よりももっと大事なものであると強く思ったのです。だから彼女は目の前にあったあの香油を頭から注ぎました。彼女は大切なことに気づいたのです。イエス様の互いを愛しなさいという教え、命を大切にしなさいという教えに、彼女は従うことにしたのです。そして彼女は全ての油を注ぎかけたのです。

 

私たちはこの個所をどのように読むでしょうか。私たちの世界ではカネは相変わらず私たちを振り回しています。カネが物事の基準とされ、費用対効果が基準とされ、カネこそが正義だと言われます。カネの力で、費用対効果のもとで原発が作られようとしています。その背後では裏金も作られています。

 

この物語はそのようなカネ中心の社会に、生き方に抵抗する物語です。困窮の中でも一生懸命に、あきらめずにお金を貯めている物語です。そしてその人が、せっかく貯めたお金を誰かのために使おうとしている人の物語です。イエス様の命へ向き合う姿勢に強く共感し、行動を起こした人の物語です。イエス様は私たちにもこのような命への向き合い方を求めておられるのでしょう。

 

8節には「貧しい人はいつも私たちと共にいる」とあります。そうです。貧しい人、カネが基準の世界で社会の隅に追いやられた人、カネで危険な原発を押し付けられている人はいつでも私たちのそばにいます。私たちはその人たちに連帯することができます。自分の物と心を惜しみなく使うことができるのです。8節にはイエス様はいつも一緒にいるわけではないともあります。そうです。イエス様はこの後十字架に掛かられて一度は人々の前から見えなくなります。でも、その後に復活をします。イエス様は「いつもいるわけではない」と言いつつ、やはり「いつも私たちと共にいる」お方です。

 

私たちは何に価値を見出し、何を守るかに目を向けたいと思います。私たちにはカネや効率よりも大切なものがあります。何よりも大切なのは命です。イエス様は命の大切さ、平等さを教えています。私たちはその命へのまなざしを何よりも大事にしたいのです。

 

世界には命と共存できないものがあります。特に戦争や差別、不正なカネ、原発と命は共存することができません。私たちは主イエスの教えに従い、命を守る働きをしてゆきましょう。たとえ小さくても効率が悪くても、無駄のように思われても、命が守られる手立てを選んでゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「愛を生き抜いた十字架」ヨハネ6章60~71節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもと共に礼拝をしています。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先月から受難節に入っています。3月末にはイエス様の復活を祝うイースターがあります。今月は十字架と受難をテーマに宣教をしていきたいと思います。

最近の平塚バプテスト教会は人の出入りが増えてきています。礼拝出席人数も増加傾向にあり、大変うれしく思っています。そしてこの礼拝にこどもも来てくれているのがうれしいです。こひつじ食堂も毎回行列ができています。予約が取れないという人も多く、抽選にしたこともありました。教会にそのように人が集うのはうれしいことです。神様の事が少しでも伝わること、私たちの活動や信仰が少しでも理解され、共感され、支持され、応援されることはとてもうれしいことです。

仲間が増えることは大変うれしい事ですが、私たちの教会の目標は、人数を増やすことではありません。私たちは教会員を増やすために活動しているのではありません。私たちがここに集うのは私自身がイエス様に従って生きるためです。私たちは互いを愛し合うためにここに集まっています。私たちはお互いに仲良く生きていくためにここに集っています。互いに愛し合うように教会に集っていると、結果として人が増えるだけです。それも必ず増えるというわけではありません。私たちの目標は互いに愛し合う事です。私たちの目標は人を増やすことではありません。拡がることは善い事です。でも人数が増えれば当然、愛し合うこと、大切にしあうことは難しくなります。私たちはその難しさを覚えておきたいのです。人数を目標とし始めると相手を愛するよりも先に、こちらの一方的な思惑が優先されるようになります。愛し合う事よりも誰かの機嫌を取ったりするようになります。そして人数が減るとその原因や、犯人を捜すようになります。このように愛し合うことよりも、人数を集めることが先だってしまうのです。

私たちは今日、この教会で、そしてそれぞれの場所で互いに愛し合うことができるように、ここに集っています。たくさんの人と愛し合うこと、たくさんの人と大切にしあうことは難しいことです。だから私たちは急いで人数を拡げるのではなく、少しずつ拡がるようにしたいのです。少しずつ、ゆっくりと愛の輪を拡げたいと思っています。教会を大きくすることではなく、互いに愛し合うことがイエス様の教えだったのではないでしょうか。今日は聖書から共同体に多くの人が集まった時、イエス様がどのように行動をしたのかを見てゆきたいと思います。そしてそこで愛を貫いたイエス様の姿を見つけてゆきたいと思います。

 

 

ヨハネ福音書6章60節からをお読みいただきました。この個所の少し前には5000人の給食の場面があります。そのパンの奇跡では5000人以上の人がイエス様と食事をして、奇跡を体験しました。何千人もが一緒に食べることの喜びを分かち合いました。それは時代を経て、主の晩餐へとつながってゆきました。少し前の56節は主の晩餐について語られています。ですから今日の60節からの物語はパンを食べた後の物語です。主の晩餐の後の物語です。この奇跡のパンを食べて、主の晩餐を受けて、人びとはどのように変化したのか、あるいは変化しなかったのかが書かれています。弟子たちが増えて拡がった後の話なのですから、人々はイエス様をますます信じて従ったのでしょうか。しかし今日の個所にはそうは書いてありません。

60節多くの弟子たちがイエス様の話を聞いて「実にひどい話だ」と言いました。一部の弟子ではありません。多くの弟子たちが「ひどい話だ」と言いました。人はたくさん集まったのですが、イエス様の話を理解しない弟子が多かったのです。もうこの人にはついていけない、一緒にいるのは無理、もうこの人の話を聞く価値はないと思ったのです。そして66節には「多くの弟子が離れ去った」とあります。

ここにはイエス様自身が、弟子の拡大に派手に失敗をしている様子が書かれています。あるいは弟子たちの拡大の先には、大きな分裂があったことが書かれています。何千人もが奇跡の食事をし、たくさんの弟子ができました。でもよくよく話を聞いたら多くの人が「ひどい話だ」と言って従うのを辞めてしまいました。これは何を意味するでしょうか。まずイエス様でも人数が増えるとうまくいかないことがあったということです。ここでは何千人もの人が互いに愛し合うことがいかに難しいかということが書かれています。イエス様は最初からそれをわかっていたのでしょう。12弟子と呼ばれる人の中にさえ、自分を裏切り、引き渡す人がいることを知っていました。たくさんの人がいる中で、互いを愛し合うのは難しいのです。大きくなった共同体には愛ではなく分裂がありました。イエス様はそれを悲しんだでしょう。自分が理解されず、離れてゆく人を見て深い悲しみがあったでしょう。

しかし、イエス様は去っていく人たちを追いかけませんでした。引き留めるための新しい説得もしませんでした。自分の方針をもっと人々に受け入れられやすいものと変えるということもしませんでした。これがもし普通の人間なら、もし人数を目標にするなら違う態度になったでしょう。「どうして離れるの?」「どこか嫌だったの?」「どんな方針なら集まれるの?」そう聞いたでしょう。しかしイエス様はそうしません。引き留めないのです。その代わり、イエス様はただ淡々と町を巡ります。そしてこれまでどおりの教えを伝えてゆきます。それぞれの場所で愛し合うこと、大切にしあう事、仲良くすることをまた言葉と行動で教えたのです。

私たちはこの物語をどのように聞くでしょうか。私たちは人が増えることを喜びます。愛し合う共同体が拡がることは善い事です。でも拡がると同時に分裂や離反が怖くなるものです。このとき私たちは何とか離れないように引き留めようとします。でも実はイエス様にはそのような態度がまったくありません。イエス様はただ私が神に従うのみです。イエス様にとって周りの人がついてこようが、ついて来なかろうが関係ないのです。周りの人がどう思っても、ひどい話だと言っても関係ないのです。イエス様は神様に従うことを貫きました。周囲からひどい話だ、離れ去ろうと言われても、その教えは変わりませんでした。

その先にあったのは何でしょうか?それは十字架です。このまま活動を続ければ、人々の反発を招き、殺されてしまいます。方針転換が必要です。しかしイエス様は方針転換をしないのです。自分が十字架に架けられようが、どうしようが関係ないのです。ただ自分は神様に従うということを貫きます。他者を愛することを貫きます。互いに愛しなさいと教え続けます。相手が離れるか、離れないかを一番大事なこととしたのではありません。むしろ周囲の評価を気にしなかったと言えるでしょう。一人でも神様に従うと思ったのです。周りがどんな態度であったかは問題にしませんでした。誰かが自分を離れようと、誰かが自分を無視しようと、誰かが自分を殺そうとも、関係ありませんでした。ただ自分が神様に従うかどうか、自分が愛するかどうかだけが重要なことだったのです。

そしてご存じのとおり、この後イエス様は裏切られ、十字架に架けられ、死んでゆきます。その途中でも一切の方針転換はありませんでした。ただ愛するということだけ、無条件に愛することを貫いて死んでゆきました。愛を生き抜いた先には十字架があったのです。十字架はこのことを示しています。周囲の反応に振り回されず、愛を貫いた証しがこの十字架です。

私たちの生活に目を向けます。私たちは神様・イエス様ではありません。ですから他人の意見をよく聞くことは大事です。しかし一方で私たちは他者の態度に振り回されてしまうことばかりでもあり、それに悩みます。他者の態度や行動に傷ついたり、落ち込んだりすることばかりです。きっと本当はイエス様もそうだったのでしょう。人が去ってゆくことを気にしないことはできなかったはずです。イエス様は弟子たちが離れ、裏切り、殺されことを激しく悲しんだでしょう。しかしイエス様が方針を変えずに貫いたことがあります。それは愛することです。その先には十字架があったけれども、愛すことを貫きました。

私たちはどう生きるでしょうか。私たちは他者との関係において一喜一憂することがあります。私たちにはうまく関係が作れた時、うまく関係が作れなかった時があります。でもその時も私たちは愛し続けましょうか。相手を大切にし続けましょう。イエス様のように離れられても、裏切られても、神様に従い、他者を愛することを貫きましょう。それは難しいかもしれません。でもその時思い出したいことは、イエス様は人が離れる時も、裏切られ、攻撃される時も、神様に従い、愛することを貫いたということです。イエス様は周りがどうこうは関係なく、ただ神様の愛を貫いたのです。

私もそうありたいと思います。私たちの日常には離別、裏切り、関係の破綻があります。でもその中で、私は神様の愛をどう生きてゆくかが問われます。そこで問われているのは相手の愛ではなく私の愛です。私がどう生きるか、私が神様の愛をどう生きるかが問われています。私たちの1週間もこのことを覚えて生きてゆきたいと思います。

この後主の晩餐を持ち、パンを食べます。私たちは食べた後、どう生きるかが問われます。これは神の愛を受けて生きる象徴です。このパンを食べ、どんな時も他者を愛しましょう。お祈りします。

 

【全文】「聖書の女性指導者」出エジプト記15章19~21節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること主に感謝します。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。先週と今週はジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えています。

先日、日本バプテスト連盟の総会が行われましたが、アメリカの南部バプテスト連盟と日本のバプテスト連盟との関係について話題になりました。もっとアメリカ南部バプテストとの交流をした方が良いのではないかと意見があり、それに対して慎重に対応したいという意見が交わされました。日本のバプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。この平塚教会がまさにそうです。74年前おそらくこの土地のすべてと会堂建築の費用のほとんどが献げられました。全国に対してはどれだけ大きな支援があったのかわかりません。本当に感謝なことです。もちろん土地建物だけではなく、多くの宣教師が日本や平塚を訪れていました。人的な支援も多くありました。

一方2000年頃から、日本のバプテストと、アメリカの南部バプテストとの関係は大きく変わってゆきました。南部バプテストが信仰の方針を大きく転換したからです。2000年のアメリカ南部バプテストの信仰告白には「聖書には女性が牧師になることは認められていない」とはっきり書かれました。つまり女性は牧師になってはいけない、それが聖書の教えだと明言したのです。もちろん当時日本にはアメリカから派遣された女性の牧師がいました。その人たちはどうなったのかというと、全員帰国です。あるいは日本で活動を続けるならこの「聖書には女性が牧師になることは認められていない」と書いてある文書にサインをするように求められました。女性牧師たちは、日本の牧師を辞めて、アメリカに帰り、男性のサポートをするように求められたのです。これに従わない人は解雇されました。

アメリカから来た一部の女性指導者たちは、日本に残って宣教を続けることを決意しました。しかしそれは大変大きな決断でした。それは、本国の自分を育てたグループとの決別を意味しました。それは本国に居場所を失うことを意味しました。そして今までアメリカ南部バプテストから給与をもらっていましたが、職も失うことにもなりました。もう戻ることはできない選択でした。それは本当にたくさんのものを失う選択でした。しかしそれでも少数の女性指導者が日本に残り活動を続けました。彼女たちの信仰を本当に尊敬します。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。数年前にはある有名な教会が女性を牧師として迎えたところ、教会ごと除名処分となりました。今もアメリカではこのようなことが行われています。私たちの親の様な存在であるアメリカ南部バプテストの、このような信仰の選びを大変残念に思っています。ちなみに今も時々、アメリカの南部バプテストから宣教師が日本に来ているようです。しかし私たちは彼らと慎重に関係を持つべきだと考えています。

一方、今、日本のバプテスト連盟では女性が牧師になることについて、あからさまに妨げられることはありません。それは性差別として禁止され、批判されます。しかし、ある統計では、女性を牧師として選ぶ教会は財政規模が小さいという結果が示されています。つまり小さい教会には女性牧師が多いということです。反対に大きな教会には男性牧師が多いということです。大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象は、何を意味しているのでしょうか。日本でも、大きい教会は男性を呼ぶことができて、小さい教会は女性牧師で我慢するという受け止め方になっていないか、根底にある私たちの考えが問われているような気がします。

私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。教会の中でも同じでしょう。まだ真の意味で男女あらゆる性が平等・対等な状態になっていないのではないでしょうか。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見から解放されたいと思います。まだまだ私の中で残っている差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。出エジプト記15章19~21節をお読みいただきました。ミリアムという女性が登場します。彼女はアロンの姉とだと紹介されていますが、アロンとモーセはきょうだいですから、ミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。

先週も見た通り、ユダヤの人々はエジプトでの過酷な奴隷生活していました。モーセも幼い赤ちゃんの時に殺されそうになりました。しかしたくさんの女性たちがその命をつなぎ、助けられました。そこにはモーセの姉ミリアムもいました。そしてエジプトを脱出することができたのです。

エジプトを脱出してすぐの困難は、エジプトからの追手でした。彼らが逃げようとする目の前には海があります。そして後ろからはエジプトの軍勢が来ます。彼らは絶望をします。しかしそんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。人びとはそれを渡り、助かりました。追手の軍勢たちは皆、水に飲まれて死んでしまいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。今日の前の1~18節はこの時のことを歌っており、これはモーセの歌だったとあります。日本でもそうですが、昔のことは歌で伝えられます。このようにエジプトから脱出してきたというルーツは、歌で伝承されたのです。

今日の個所はこのモーセが歌った歌に続く歌です。19節からの歌は1~18節のモーセの歌の後に、もう一度繰り返すように不自然にくっついています。もう一度この様子を短く説明した短い歌が記録されています。2つの歌が記録されています。実はこの歌、21節の歌の方がもともとオリジナルだったのではないかと言われています。伝承というは、最初は短い伝承だったのに、時代とともにいろいろな事が付け足されて長くなってゆく傾向があります。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。やがてその二つの伝承が聖書ではひと続きになり、今日の個所のような構成になりました。不自然にミリアムの歌が追加されているように感じるは、そのような伝承の経緯があったからです。オリジナルは19節~で、拡張版が1節からです。

おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。他の聖書箇所にはモーセ、アロン、ミリアムと並べて紹介がされることもあります(ミカ書6章4節)。ミリアムも人々のリーダーだったのです。この後にはミリアムがモーセを咎める場面もあります(民数記12章1節)。そのようにミリアムはモーセと並ぶ指導者だったのです。おそらく時代とともに、伝承されてゆく過程で、男性であるモーセが唯一のリーダーとして描かれるようになりました。多くの活動をしたミリアムでしたが、聖書への記載はごく限られた、抑制的な内容になりました。つまり女性だから記事が拡張されなかったのです。

20節を見ます。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続いたとあります。その光景を想像します。危機から脱した時の喜びの祈りです。それはただ踊ったのではありません。男のために踊ったのでもありません。神様のすばらしさを表現するために踊りました。きっと女性だけが躍ったのでもないと思います。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。性別を超えて喜びを共にしたのです。

ミリアムはそれを導く女性指導者でした。彼女が最初に神様を賛美し出すと、みんながそれに連なるように、歌い出し、踊り出し、神様のすばらしさを表現し出したのです。ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。人々は彼女に続いて歌を歌いました。男性モーセの歌ばかり拡張され聖書には残っていますが、ミリアムも立派な女性指導者だったのです。

このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。もちろん神様は今においてもそうです。女性を牧師として、あらゆる性の人を牧師として用いて下さるお方です。

私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。