【全文】「信じるために食べる」ルカによる福音書24章13~35節

みなさん、おはようございます。今日も共に集って礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの命の存在を確かめながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

 

今月は主の晩餐について考えています。今日は信仰とは体験しないとわからない一面がある、信仰とは体験してこそわかるものだということについてお話をしようと思います。

 

私は若い頃、ソムリエを目指していました。ワインの味だけでなく、その世界観にも惹かれていました。ソムリエになるには、ペーパーテストとテイスティングの実技試験があるのですが、最も大切なのは、実際にワインを見て、香りをかいで、飲んでみることです。ワインのテキストにはこのワインはラズベリーやリンゴのような香り、あのワインはルビー色や黄金色といった表現があります。しかしこれらは実際に飲んで初めて理解できるものです。

 

一番大事なのはテキストを覚えて知識を持つことではなく、ワインを直接見て、香りをかいで、飲んでみる事です。これに勝ることはありません。「百聞は一見にしかず」のように、「百見は一食にしかず」です。実際に飲んでみないと味や香りはわかりません。

 

もちろん高いワインとなればただやみくもに飲むということはありません。いろいろ勉強してからじっくり飲みます。それでもきっと知識よりも飲んでみることが何より大事です。どんなに説明をされても味や香りは体験しないとわからないものだからです。

 

それはいろいろなことにも共通すると思います。スポーツや音楽、料理も知識だけではなく実際に体験してみなければ、わからないことがたくさんあるものです。

 

今日の聖書の個所もそのような事を教えていると思います。どんなに知識としてそれを知っていても、体験をしなければわからないことがあると教えています。そのことを聖書から見てゆきましょう。

今日はルカによる福音書24章13~35節までをお読みいただきました。今日の個所の登場人物は旅をする2人とイエス様です。この二人はおそらくエマオに住んでいました。二人はイエス様の噂を聞きつけてエマオからエルサレムに向かったのです。行いにも言葉にも力がある預言者がいると聞きつけエルサレムに向かったのです。この方こそイスラエルを開放してくださると思ったのです。そして二人はイエス様の話を人づてに聞くのではなく、直接自分の目と耳で確かめようとして、彼らはエルサレムに向かったのです。

 

彼らはイエス様に会って直接の話を聞くことができたでしょうか。その願いは十分に叶わなかったでしょう。体験することができなかったでしょう。その代わりに彼らが体験したもの、見たものは、イエス様の十字架でした。直接その話を聞き、力をもらいたいと思っていたのに、自分たちが体験し見たのは残酷な処刑だったのです。

 

しかし彼らはエルサレムに滞在中にもうひとつ不思議な話を聞きました。それは3日後の朝早く、弟子の女性がイエス様の墓に行ったところ、その遺体がなくなっており、天使たちが現れて「イエスは生きている」と言ったという話でした。イエス様が復活をしたという話を聞いたのです。

 

二人は、話を聞きたいと思っていた人が殺され、その後復活したという話を聞き、混乱したでしょう。理解できないままエマオに帰ることになり、十字架と復活の意味を論じ合いながら帰りました。

 

そんな彼らに復活したイエス様はそっと現れます。イエス様は光り輝いて登場するのではありません。イエス様の方から近づいてきて、一緒に歩くように、寄り添うように現れます。覚えておきましょう。私たちの神様はそのように私たちに現れるのです。私たちが良い行いをした時、強い光に包まれた華々しい存在が登場するのではありません。

 

願いが叶わず、出来事の意味が十分に理解できず、うつむき歩いて帰る時、神様はそっと近づいてきて、寄り添うように現れるのです。そのようにして神様は私たちに伴ってくださるお方です。このことを忘れないでいたいと思っています。

 

主の晩餐でもそうですが、イエス様がこのように人に他者に寄り添う人だったということを思い出すことが大事です。私たちの人生には苦しいこと、思いどおりにならないことがたくさんあります。そんな中でイエス様は私たちとそっと共にいて、励まし、導いてくださるのです。だから私たちは歩むことができるのです。そのことを覚えておきましょう。この物語の大切なポイントです。

 

今日はこの物語から主の晩餐について考えたいと思います。旅をする二人はイエス様のことをとても良く知っていました。二人がエルサレムの出来事を説明する様子はまるでキリスト教全体の説明のようです。彼らはイエス様とはどんな人か、どのように生き、どのように死んだのか的確にまとめられています。二人はイエス様のことをよく知っていました。しかし彼らはそれを知っているだけで、経験をしたことはありませんでした。

 

イエス様は旅路で二人に熱心に説明をしました。地上に生まれた救い主は、苦しみを受けた後に栄光に入ること、聖書全体にそのことが書いてあることを熱心に説明をしました。二人は何かを理解したのでしょうか。そうは書いてありません。二人はよく知っていました、二人は熱心な説明を受けました。しかしそれでもまだ彼らには変化が無いようです。

 

イエス様は彼らと食事をすることになりました。今度は二人がイエス様を引き留めました。先をいそぐイエス様を無理に引き留めて、一緒に食事をしようと招いたのです。30節に食事の様子が記されています。そこにはこうあります。「イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した」。ここでは明らかに主の晩餐が行われました。そうすると彼らは目が開けたのです。

 

二人の目が開けたとは、どんな意味でしょうか。二人は目が見えていなかったわけではありません。確かに見えていました。目が開けたとは、今まで見えなかったもの、わからなかったものが、わかるようになったということです。それが一緒に食べたその時に起りました。

 

一緒に食べた時、一緒にいるのがイエス様だと気づいたのです。彼らは事前に十分に学び、知識を持っていました。イエス様から直接、熱心に教えを受けていました。しかし彼らは目が開いていなかったのです。彼らの目が開かれたのは、主の晩餐を受けた時でした。

 

この特別な食事を体験して、二人は初めて気付いたのです。彼らが気づいたのは自分と一緒に伴っているのがイエス様だったということです。彼ら気付いたのはイエス様が復活をして私たちと共にいるということでした。二人はこの食事・主の晩餐を通じて、わかったのです。二人はこれに気付き、エルサレムの仲間の元に戻ってゆきました。それが今日の物語です。

 

この物語は私たちの主の晩餐とどんな関係があるでしょうか。私たちの教会の主の晩餐はバプテスマを受けた方に限定しています。それはイエス様のことをわかった人、すでに信じている人が食べているはずです。しかしどうでしょうか、今日の聖書箇所によれば、食べることによって信仰が深まるようになるのです。

 

私たちは信じて食べているのでしょうか。それとも食べることによって信じるようになるのでしょうか。私にはどちらなのかよくわかりません。どんなに知識として知っていても、食べなくては目が開かれません。私たちがイエス様を信じるためには知識だけではなく、パンを食べることも必要なのです。

 

私たちは信じているから食べるのでしょうか?それとも食べるから信じる事ができるのでしょうか?実はそれはどちらが先というものなのではなく、あいまいなのかもしれません。私は信じるために食べているような気がしています。

 

確かにこの二人のようにイエス様のことを良く知ってから食べるべきなのかもしれません。大切なイエス様の体です。その意味をよく分かってから食べてもらいたいと思います。でもこの二人はどんなに熱心に説明をしても、わかりませんでした。イエス様が直接説明してもだめでした。二人はこの食事を体験をするまでわからなかったのです。食べて初めて、食べたその時、イエス様のことがわかったのです。

 

この物語は私たちの主の晩餐ともきっと重なる部分があるでしょう。私たちは主の晩餐を勉強したから食べるのではありません。きっとどれだけ勉強をしてもわからないことがあるでしょう。食べてみなければわからないことがあるでしょう。そして食べればわかることがあるのでしょう。私たち自身もこの二人のような存在です。いろいろ知っているけれど、食べてわかるようになる存在なのです。このように今日の物語は、パンを食べる体験を通じて、イエス様がどんな人だったのかをわかったという物語です。

 

私は信じてからパンを食べるのか、パンを食べてから信じるのか、聖書はどちらの可能性にも開かれていると思います。私たちはどのようにパンを食べるでしょうか。私たちのあの小さなパンにどんな意味があるのでしょうか。私たちは信じているから食べるのでしょうか、食べるから信じるのですしょうか。きっと信仰とは体験しないとわからない一面があるのでしょう。信仰とは体験してこそわかるものなのでしょう。そのことに思いを巡らせながらまた主の晩餐をしてゆきたいと思います。

 

イエス様はきっとそのような迷いや混乱に伴ってくださる方です。あの出来事にどのような意味があるのか、二人は熱心に論じ合いました。論じ合うそのそばにそっと近づき、導いてくださるお方です。お祈りします。

 

 

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【全文】「よく確かめてから食べる」 Ⅰコリント11章17~34節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さなこどもたちの命を感じながら、礼拝をしましょう。

今月は主の晩餐について考えています。そして教会の運営するこども食堂「こひつじ食堂」のことも分けては考えられないと思っています。

こひつじ食堂で一番混乱するのは、ご飯(ライス)がなくなったときです。次のお客さんの分が足りないとわかってから、お米を研いで、炊飯ボタンを押しても、もう間に合いません。1時間後にご飯が足りるかどうかを逆算しなければいけません。もしご飯がなければ食べに来てもその食事は台無しです。

200人でどれくらいのご飯を準備すれば良いのでしょうか。一人180gのご飯を食べるとします。180gを200食用意すればいいので、36kgのご飯があればいいのです。お米は炊飯すると水を吸収して2.3倍の重さになるということから逆算すると約16kgのお米が必要です。お米は1合150gなので、16kgのお米は104合です。104合炊けば足りる計算です。だいたいでは準備できない数量です。

教会には1升炊きの炊飯器が8個あります。ですから11回炊飯すれば良いのです。しかし1升炊きの炊飯器でも9合くらいの方がおいしく炊けることが分かりました。8個の炊飯器で9合ずつ12回炊飯します。さらに微調整が必要です。220食の時はもう1回炊飯します。180食の時は1回減らします。実際にご飯を盛り付けるときには、目分量で盛り付けると必ずずれがあるので、一つ一つ180gを測りながら盛り付けています。

ここまで計算して準備しても時々ご飯が足りなくなってしまう時があります。確認を忘れてしまっている時、一人でやっている時、後回しにしてしまった時、それが起きます。そんな時は待たせてしまったり、少なくなったりして申し訳ない気持ちでいっぱいになります。これはお米の話ですが、食材ひとつひとつにもこのように注意しなければいけないことがたくさんあります。

何が言いたいかというと、それだけ良く確かめながらやっているということです。配慮をしているということです。全員が楽しく食べるためには、きめ細かい確認と、配慮が必要です。だいたいの人が食べれればいい、一部の人だけ食べればいい、食べられなかったらごめんなさいというのなら簡単です。でもそれをせずに全員で一緒に食べようとする時、様々な確認と配慮が必要です。

ご飯が足りるかどうかは私だけではなく、みんなで気にかけています。私一人では目が行き届かないことが多く、たくさんの人に良く確かめ、気にかけてもらう必要があります。残りがあとどれくらいかを良く確かめて全員分ある、大丈夫だということを確認しながら進めています。みんな自分の分があるかを確かめているのではありません、全員分、足りるかどうかを確かめながら食堂をしています。それはとても大切な配慮だと思います。

今日は聖書の食事の中にどんな配慮があったのか、無かったのかを見てゆきます。そこから聖書が伝えている配慮と、私たちが他者に目を向けてゆく生き方について考えたいと思います。

 

今日はⅠコリント11章をお読み頂きました。ここにはコリント教会での食事についての記録が残っています。コリント教会では礼拝の後、みんなで持ち寄りの食事会を行っていました。これは垣根のない、誰でも参加できる食事会でした。当初はこれを主の晩餐と呼んでいました。

この食事会は、イエス様が罪人や他の宗教の人々と共に食事をしたように、異なる者同士が互いを大切にする愛の確認の場でした。しかし、ここで問題が発生していました。パウロは17節でこの点を指摘し、良い結果ではなく悪い結果が生じていると述べています。それはどんな問題かというと21節、食事の時に先に食べて、先に飲んでしまう人がいたという問題でした。後から空腹の人がやって来る時には、食べ散らかした残り物しかないという状態でした。パウロはこの点を褒めることはできないと言っています。コリント教会では食事の際に、全員分が足りるかという配慮が全くなく、自分の事だけを考えて食事をしていたのです。少し驚きです。

さらにこのような食事の背景には経済的な格差があったのではないかと言われています。コリント教会の中には、お金持ちの人と貧しい人がいました。お金持ちは仕事を早く終わらせて、おいしいものをたくさん持って来て、先に楽しくやっていたのです。

そこに後から忙しく働かなければいけない貧しい人が来ました。しかし食事に加わろうとすると、食べ散らかした中で余り物を食べました。あるいはもう自分の分は残っていなかったのです。22節これでは貧しい人々は恥をかきました。

コリント教会ではこのような食事会が行われており、それをパウロは注意をしています。食事会をするならば全員が食べることが出来るように、食事の量や内容や、持ち方を良く確かめて、配慮しなさいと言っています。

コリント教会の人はどうすればよかったのでしょうか。パウロはどのような食事を期待したのでしょうか。例えば33節で提案されているのは、みんなが揃うまで待つという方法です。他にも例えば後から来た人の分が食べ残しにならない様に、ちゃんと先に取り分けておいて残しておくというのはどうでしょうか。最初にいる人だけで乾杯をしたのなら、後でまた全員が揃った時もう一度乾杯をしてはどうでしょうか。そういう確認や配慮や工夫は今の私たちには当然のことのように感じます。しかしコリント教会にはそれがまったくなかったのです。

どうしてそのような雰囲気になってしまったのでしょうか。仲間割れが起きてしまったのでしょうか。みんな我先にと食べたのでしょうか。自分の分だけにしか興味がなかったのでしょうか。コリント教会は誰が食べられないのかに対して良く確かめずに食べていました。自分だけ食べてしまう、その根底にはどんな考えがあったのでしょうか。

きっとそこには他者への無関心や無理解があったでしょう。きっとコリント教会の問題は食事会のことだけではなかったはずです。そのような食事をする共同体の中には、忘れられている人、一人になっている人、見下されている人、後回しにされている人がたくさんいたはずです。様々な問題がおきていたはずです。

パウロはそのような共同体になっていないかよく確かめるようにいっています。そのような、後回しにされた仲間がいないかという確かめ合いと、配慮が出来ないのであれば、もう一緒の食事会はやめるようにと言っています。自分の家でそれぞれ食べてから集まるようにしなさいと言っています。実際にこの後コリント教会の人々は一緒に食事をすることを諦めてしまいました。そして主の晩餐は小さなパンとワインを飲む儀式として改めて残ってゆきました。それが私たちの今の主の晩餐のルーツです。

パウロがここで伝えようとしていること、聖書が伝えようとしていることは何でしょうか。ここでは主の晩餐を自分の内面や罪深さと深く向き合って、よく確かめてこのパンを食べる様にと言っているのではありません。

ここでよく確かめるべきことは、他の人との関係性です。他者のことを考えながら食べる様にと言っているのです。自分の食べ物、自分の事、自分の罪を考えて食べるだけではなく、他者の食べもの、他者の事、他者への配慮をよく確かめて食べる様にと言っているのです。ここにどんな他者がいるのか、どんな他者がいないのかをよく確かめてから食べなさいと言っているのです。

パウロはイエス様がどのように人々と食事をしたのか思い出そうと言っています。自分がこれから十字架に掛かるという時において、イエス様が一緒に食事をしたのを思い出そうと言っています。あの時イエス様は十字架の後も互いに仲間であると確認し、その記念として食事をしました。そしてそれを繰り返すように教えたのです。

パウロはふさわしくないままで食べてはいけないとあります。わたしたちはどこまで、その食事にふさわしい者でしょうか。私は自分自身をふさわしくないと思っています。周りの人を良く確かめて配慮することがまだまだ足りないと思っています。そのような中でも、主の晩餐を食べるのですけれども、のども通らないような気持ちで食べています。

私たちはどのように主の晩餐を食べ、生きるでしょうか。私はふさわしい者になりたいと思っています。食べ物が全員にいきわたる配慮ができる人になりたいと思っています。食事の時だけではなく様々な場面で、忘れられている人、一人になっている人、後回しにされている人がいないかに目を配り、よく確かめたいと思います。それは難しい事だと思います。でも精一杯それをしてゆきたいと思います。それが今日の聖書箇所が指し示している生き方ではでしょうか。

ひとりも取り残されず、ひとりも忘れられない、そのようによく確かめられ、配慮された共同体が神の国と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは今週1週間、それぞれの場所でそれをよく確かめて生きてゆきましょう。神様はそのようにして私たちのいる場所に働き、導いてくださっています。お祈りします。

 

【全文】「縁食的主の晩餐」マタイによる福音書26章20~30節

夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。

マタイによる福音書26章20節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの命の声を聞きながら共に礼拝をしましょう。

先月まで使徒言行録を読んでいましたが、7月からは主の晩餐について考えたいと思っています。主の晩餐とはパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。この儀式はイエス・キリストを思い出すために行われています。今日もこの後行われます。主の晩餐は多くの教会で行われていますが、その方法や理解は教会によって異なります。私たちの教会では月1回行っていますが、年4回のみという教会もあれば、毎週行うという教会もあります。また私たちの教会では洗礼・バプテスマを受けたクリスチャンが食べるとしていますが、教会によっては洗礼・バプテスマを受けていなくても、信じる気持ちがある人は食べてよい教会、だれでも食べてよい教会など、教会によって様々な考え方があります。大切なのは、なぜこの主の晩餐を行うのか、しっかりと説明できることです。

今月はこの主の晩餐について考えてゆきましょう。また今日はこひつじ食堂で起きている「縁食」ということも参考にゆきたいと思います。私たちの教会で主の晩餐を考える時、こひつじ食堂という教会特有の事柄も考える必要があると思います。先日、200個のクロワッサンと500個のメロンパンの寄付をいただき、食堂で提供をしました。食堂と主の晩餐は別のものですが、同じ場所でパンが分かち合われていることは互いに影響しあうでしょう。

昨年度、こひつじ食堂にボランティアに来ていた大学院生の方が、こひつじ食堂のことを分析し、共生文明学の観点から論文としてまとめてくれました。彼が私に「縁食」という言葉を教えてくれました。どの文明でも共通して、共に食事をすることは仲間であることを確認する意味があるそうです。一緒に食べる「共食」という行為は共同体を作ることにつながります。また反対に誰と食事をしないかは、お互いが別々の共同体であることをはっきりさせる行為です。どのように食べるかは、どのような共同体を作るかにつながっています。多くの文明で共食が文明を作っています。

その中で彼が教えてくれた「縁食」とは、誰かと一緒に食事をしているのかあいまいな食事を指します。一人ではないが、一緒でもない食事です。古い家の縁側が家の中と外の中間地帯であるように、一緒なのかそうでないのかあいまいな食事、それが「縁食」です。

「縁食」はこひつじ食堂でもよく見かける光景です。例えば一人で来たけれど、ボランティアと顔見知りで何か話しながら食べています。食べているのは一人ですから「共食」ではありません。でもそれは決して孤独な食事でもありません。それが「縁食」です。他にもこひつじ食堂にはいろいろな「縁食」があります。相席になって向かい側の人と挨拶するような場面があります。一緒でも孤独でもない、それが縁食です。遠くのテーブルに仲の良い友達が座っていたりして、一緒に食べているのかあいまいです。そのような緩やかなつながりの中で食べるのが「縁食」です。

それはまるで縁側での交流のようです。近所の人が来て家の縁(ふち)でお茶をします。そこは家の中でもなく、外でもない中間地点・縁(ふち)です。あの縁側のような緩やかな関係で食べる食事が縁食です。こども食堂はそのような「縁食」がたくさんあります。私たちは食事の在り方について、もっと自由に考えてもよいかもしれません。私たちは一人で食べるか、みんなと食べるかという2つの基準しか持っていないかもしれません。でももっと緩やかな関係の中の食事があることに気づかされます。その楽しさを私たちは知っています。こひつじ食堂を今後もそのような「縁食」の場所として続けてゆきたいです。

私たちの教会の主の晩餐はどうでしょうか。私たちの教会の主の晩餐は限られた人だけでする食事です。この食事は誰がこの共同体に属しているか、誰が共同体に属していないのかを明確にします。一緒に食べた人は結束します。一方、一緒に食べていない人は何を感じているのでしょうか?どう食べるかは、どんな共同体を作るかを決めています。私たちの主の晩餐においても縁側は必要でしょうか?縁食が必要でしょうか?それはもっと緩やかな食事の可能性に開かれた主の晩餐です。今日は聖書から私たちの主の晩餐にどんな可能性があるのかを考えてゆきたいと思います。

 

 

 

聖書を読みましょう。今日はマタイによる福音書26章20~30節をお読みいただきました。この食事は最後の晩餐と呼ばれる箇所で、イエス様が十字架に掛かる直前に行われた食事会です。この食事にはどんな人々がいたでしょうか?この最後の晩餐はイエス・キリストに従う者に限定された食事でした。

これが私たちの主の晩餐のルーツです。この食事が12人の弟子に限定されていたことには大きな意味があります。イエス様は自分に信じて従う者に“のみ”パンとワインを授けました。現在の私たちが主の晩餐で、クリスチャンだけにパンとブドウジュースを飲むのを限定しているのは、この時の食事が12人の弟子に限定されていた事に起源があるからです。しかし、どこまで私たちの主の晩餐と同じ意味で限定がされているでしょうか。例えばこの時代はまだキリスト教という概念も、入信のための洗礼・バプテスマという儀式もありませんでした。12人の中に洗礼・バプテスマを受けた弟子は一人もいませんでした。彼らは洗礼・バプテスマを条件とせず、ただ主イエスに招かれて、パンを与えられたのです。この食事は洗礼・バプテスマを受けないと参加できないという食事ではありませんでした。信仰を条件とした食事ではありませんでした。その意味において、この食事は私たちの主の晩餐よりももっと緩やかな食事でした。

確かにこの食事はずっと旅を共にし、苦楽を共にしてきた、顔見知りに限定された食事でした。しかし関係はそれだけでもありません。この食事には後にイエス様を裏切るユダも含まれていました。この食事は信じて従った者だけのものではありませんでした。イエス様を理解せず、誤解し、信じるどころか、裏切りを確信している者さえも含んだ食事でした。他の弟子たちも同じです。弟子たちはこの後すぐにイエスを見捨てて逃げだします。彼らは本当に信じて従っていたのでしょうか。この食事会は参加者の中に信じる人も、信じない人もいた非常に幅のある集まりだったのです。

そしてさらにイエス様自身が「この杯は多くの人のために流される血」だ言っています。ワインを自分がこのあと十字架で流す血になぞらえています。しかしそれは弟子に限定されて流される血ではありません。それは多くの人々のために流される血です。それは限定された集団ではなく不特定多数の人を指しています。イエス様の血はクリスチャンのためだけに流されたのではありませんでした。イエス様の顔見知りの仲間内のためだけに流さたのでもありません。イエス様の血と十字架は信じていない人、裏切り者、不特定多数の多くの人々、多様な人々、まだ出会ったことすらない人々のためにも流されるものなのです。この食事はそのように多くの人々との出会いに向けられた食事だったのです。

私はこのように最後の晩餐を見る時、そこに「縁食」の要素があると思います。その食事は、確かに共同体性の強い食事でしたが、でもそれを越える大きな可能性を持った食事でした。その食事は信じて洗礼を受けた人のみならず、裏切る人、まだ見ぬ不特定多数の人、多様な人に開かれる可能性のある食事だったはずです。そのような食事が最後の晩餐だったのです。そのような食事がイエス・キリストを忘れないために行われた食事だったのです。それが私たちの主の晩餐のルーツなのです。

どんな食事をするか、それはどんな共同体を作るかに直結しています。それは共生文明学でも、キリスト教でも同じでしょう。どんな主の晩餐をしてゆくのかは、どんな教会を作るかに直結してゆくでしょう。私たちはどんな主の晩餐をしてゆくのでしょうか?マタイ26章の主の晩餐は何を指し示しているでしょうか。限定されている様に見えて実は開かれている部分がある、縁側のような部分があるのではないでしょうか。

おそらく私たちには一緒に食べるか、別々に食べるかという二者択一ではない選択肢があるはずです。主の晩餐は様々な在り方、緩やかさの可能性に開かれているはずです。きっと縁側のような、開かれた温かい出会いが生まれてくる、主の晩餐があり方があるはずです。

もし縁側があれば、誰が内側で誰が外側かあいまいになるでしょう。誰が共同体のメンバーで、誰が共同体のメンバーではないのかが曖昧になるかもしれません。でもそこに食堂のような思わぬ出会いが待っているのではないでしょうか。これまで決して入ってこなかった人々が、入ってくるような出会いがそこから広がっていくのではないでしょうか。マタイの主の晩餐を、そのような開かれた緩やかな食事の起源とすることができるのではないでしょうか。

そして緩やかに開かれる姿勢はきっと教会の在り方だけにとどまらないはずです。私たち一人一人がどう生きるかにも関わって来るはずです。私たちは日々誰と食事し、誰と食事をしていないでしょうか?私たちはもっとそれに気を配り、私たちはもっと緩やかに考えても良いのかもしれません。異なる他者とどう緩やかな関係を持つかを問いかけているように思います。この後、私たちは主の晩餐を持ちます。共に主イエス・キリストとの食事を思い出しましょう。そしてそこにいた様々な人々を思いめぐらせましょう。お祈りします。

 

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【全文】「他者を励ます使命」使徒言行録27章13節~44節

しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。     使徒言行録27章22節

 

使徒言行録には、イエス様の弟子たちがどのように生き、信仰を実践したかが記されています。今日もこの使徒言行録から、困難の中でも希望を持ち、他者を励ます生き方について学んでゆきましょう。パウロは船でローマに向かう途中、激しい嵐に遭遇しました。人々は積み荷を捨てて、船を軽くしようとしました。しかしそれでも状況は改善しませんでした。彼等は希望を失っていました。

しかしそんな時、一人だけ希望を失わなかった人物がいました。それがイエス・キリストの弟子パウロです。パウロは希望をもって人々を励まし続けました。そしてこのような希望を持った人物が船の中に一人でも存在すると全体の雰囲気は大きく変わります。このように希望を持ち続け、他者を励まし続けることは、キリストの弟子の大事な役割です。希望を持っているのは一人でよいのです。私たちはそのような一人になっているでしょうか。私たちはたった一人になっても、まだ希望があると言える存在になりたいと思います。それがキリストの弟子になるということです。

希望をもってあきらめない人がいる中で、逃げ出した船員がいたとあります。それはとても悲しい光景です。彼らは自分たちだけ助かろうとしました。これは他者を犠牲にし、見捨てるという罪です。キリストの弟子パウロはこのような行動を見逃しません。それは全員が助かる道ではないと引き留めます。全員で助かろうとみなを励ましたのです。全員が生きる道を求める、それがイエス・キリストの教えでした。誰かが十字架に掛かって犠牲になって、みんなが助かればいいのではありません。神様は一人も漏れることなく、命を守ろうとするお方です。

36節、この後船に乗っていた人びとは食事をしたとあります。それはまるで主の晩餐のようです。その食事をすると一同に元気が湧いてきました。全員が励まされて、全員で助かろうと思う様になったのです。船の人々は大きく変えられてゆきました。一人のキリストの弟子から、主の晩餐のような食事から全体が変えられてゆきました。全員が助かるために、すべての食べ物を捨てる決断をしたのです。自分の命だけではなく、みんなが助かるために、大切な荷物を捨てました。そして全員が無事に上陸することができたのです。

今日の物語、船は様々なものに置き換えて考えることができます。教会も一つの船です。家族も一つの船かもしれません。職場や地域も一つの船でしょう。それぞれ困難に直面します。でも一人の弟子の存在が全体の雰囲気を変えるのです。

その船にキリストの弟子が一人いればいいのです。人を励まし、共に命をつないでいこうとする希望を示す人が一人いると、全体の雰囲気は大きく変わります。全員の命をつなぐ選択へと導かれてゆくのです。私たちはそれぞれの置かれた場所で、その一人になってゆきましょう。神様の言葉に聞きながら、他者を励まし、希望を持つその一人になりましょう。お祈りします。

 

【全文】「命こそ宝 平和への方向転換」使徒言行録16章16~34節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も命の声に囲まれながら礼拝をしてゆきましょう。

今日6月23日は79年前、沖縄で組織的な戦闘が終わった日です。私たちはこの日を「命どぅ宝の日」と呼び、平和を考える時として大切にしています。79年前、沖縄では激しい地上戦がありました。その時、軍隊や武器は国民を守りませんでした。日本軍は自分が助かるためなら一般市民でも殺しました。それが軍隊の本当の姿です。沖縄の人々は激しい地上戦の中で、洞窟に逃げ込みました。そしてそこで、どう死ぬか、どう殺すかでなく、どうやって命をつなぐかを考えました。彼らは洞窟の中で「命どぅ宝」「命どぅ宝」、命こそ宝だと互いに励ましあい、何とかして生きようとしました。

「命こそ宝」「命こそ宝」。暴力が充満し、殺すか死ぬかの選択肢しかないと思える場所で、沖縄の人々は生きるという選択をしました。生き残った人は決して多くありませんでした。だからこそ、命こそ宝と言う言葉は私たちに問いかけています。私たちは暴力か平和かどちらかを選ばなくてはいけません。暴力を選びながら平和を目指すことはできません。平和のための暴力も存在しません。

沖縄にはあの時から今も大きな基地がいくつも存在します。私たちは普天間、辺野古を含めて沖縄、日本、世界のすべての基地がなくなることを祈り願っています。それが平和の神様の御心だと信じています。

沖縄の普天間基地の前では毎週月曜日、クリスチャンが集まり讃美歌を歌っています。基地の前で暴力ではなく平和が欲しいと歌っています。基地の騒音と犯罪に苦しみ、平和を求める人たちが歌っています。私たちも神を信じる同じ人間だと讃美歌を歌っています。基地の前で神に向けて、兵士に向けて讃美歌を歌っています。それに呼応して戸塚駅の駅前でも月1回、第二月曜日に讃美歌が歌われています。沖縄だけの問題にしないために戸塚駅のコンコースで讃美歌を歌っています。私も何回か参加しています。

なぜ讃美歌を歌うことによって基地反対を訴えるのかとよく聞かれます。もっと効果的な方法があるのではないかと言われます。確かに、大きな基地に対して歌を歌うことにどれだけの意味があるでしょうか。基地問題に対して非常に小さい行動です。でも賛美歌を歌っています。世界に平和に目覚めて欲しいと願って讃美歌を歌っています。神様が必ずそれを実現させてくださると信じて歌っています。世界の人々に暴力ではなく、愛と平和を選んで欲しいと願って歌っています。歌い続けることで神様がきっと軍隊のない世界、平和な世界を実現させてくださると信じて歌っています。

私はこの世界からすべての軍隊と基地がなくなることを願っています。それは聖書の教えるイエス・キリストの平和です、私たちはあらゆる暴力のない、イエス・キリストの平和を模範とします。イエス・キリストの平和には戦争も軍隊も基地も一切必要ありません。暴力によって平和は実現できないからです。軍隊のいない世界、暴力の無い世界がきっと作り出せるはずです。神様がその力を私たちに下さるはずです。小さな行動でも私たちは軍事力に反対をし、暴力の無い平和を求めてゆきたいと思っています。今日は神様の示す平和と、平和を目指す生き方について考えたいと思います。

使徒言行録16章をお読みいただきました。今日の聖書の個所は、イエス様が十字架で死に、3日後に復活した後の物語です。弟子のパウロは、このイエス・キリストが私たちの生き方の模範だと世界中に伝え歩いていました。イエス様が教えた事はたくさんありますが、平和もその一つです。世界が隣人を愛し、敵を憎めと教えている中で、イエス様は敵を愛しなさいと教えました。敵と思える対象とも互いに愛し合う様に教えたのです。この平和の教えは世界中に広まってゆきました。そしてその平和の教えを世界に広めていた弟子がパウロとシラスでした。

16節、パウロはある時、女奴隷の占い師に会いました。彼女は占いで自身の生計を立てていたのではありません。その利益はほとんどは主人が持ってゆきました。彼女は主人の商売道具として、暴力的に搾取されながら、奴隷として占いを続けなければなりませんでした。この占い師はパウロを見た時、彼のことを大声で周囲に伝えようとします。「この人は救いを、イエスの平和を宣べ伝えている」と叫びます。幾日もそれが続き、パウロはたまりかねて「出て行け」と言いました。そうすると女奴隷はそれ以来、主人の金儲けのための占いが出来なくなってしまいました。主人は商売道具を使えなくされたことに怒ってパウロを訴えました。そしてパウロは鞭うたれ、牢獄に入れられることになりました。

牢獄に入れられること、それは暴力のただなかに放り出されるという事態でした。パウロは何度も鞭に打たれ、牢に投げ込まれました。足には足かせをはめられ、自由を奪われました。一切の抵抗ができない状態です。そして暴力の象徴である武器・剣もった看守がそれを見張っていました。暴力がすべてを支配する場所に投げ出されたのです。暴力が支配する牢獄の中で、パウロとシラスは何をしたでしょうか。脱獄するためにどうやって看守を殺そうかを考えたでしょうか。何か武器になるものを探したでしょうか。戦うための準備をしたでしょうか。

そうではありませんでした。彼らはなんと歌いました。暴力に支配される世界の中で歌を歌いました。暴力の渦巻くその中にいながら、彼らは暴力によって状況を変えようとしませんでした。彼らが選んだのは歌を歌うということでした。他の囚人はその歌に聞き入ったとあります。牢獄にはきっとパウロ達と同じ様に、無実の罪を着せられ暴力によってここに閉じ込められている人が多くいたのでしょう。彼らが聞き入ったのはきっと平和を願う歌、自由を願う歌、神様への感謝の歌だったでしょう。でも牢獄で歌って何になるでしょうか。圧倒的な暴力に対して歌を歌って何になるでしょうか。でも彼らは歌いました。その歌から、賛美から奇跡が起こされてゆきます。

地震が起きました。地震は神様が起こす奇跡の象徴です。何かが起こり、牢が開きました。彼らは逃げることができるようになったのです。看守は囚人が逃げ出してしまったと思い、自死を選ぼうとします。これまで武器で、暴力で人を支配してきた看守は、行き詰った時、とっさに選んだ方法はやはり暴力でした。再び力をもってこれを解決しようし、今度は自分への暴力を選びました。彼には殺すか殺されるかしか選択肢が無かったのです。しかしパウロはそれを止めます。死んではいけない、どんな命にも暴力を向けてはいけないと教えたのです。

本当に暴力に支配されていたのは誰でしょうか。それはパウロではなく、看守の方です。看守は武器を持って、暴力で人を支配したつもりになっていました。そして暴力以外の解決方法を知りませんでした。そのように暴力に支配されていたのは看守の方です。看守はパウロに死んではいけないと言われて、たった今そのことに気づきました。そしてパウロに救いを求めました。それは暴力の支配からの救い、平和の願いだったはずです。

パウロは、死んではいけないと言います。私にはこのパウロの行動が「命どぅ宝(命こそ宝)」という言葉に聞こえます。それは平和を望む言葉です。死んではいけないとは、命こそ宝だという姿勢です。命こそ宝です。どんな暴力もあなたを支配することはできない、あなたはどんな暴力をつかっても誰も支配できないという意味です。それは暴力によって命を守ることはできない。平和を求めて、生きようという言葉です。そして看守はそのイエスの平和の福音に救われてゆきます。看守はそれまでの生き方を大きく方向転換します。

彼はパウロの傷を洗いました。彼は暴力で支配してきた態度から、他者の傷の痛みを知り、共感をするものとなったのです。それは暴力から愛への転換でした。敵を愛しなさいという教えの実践でした。彼はバプテスマを受け、そして食事を共にしました。暴力で支配してきた者と同じテーブルで食事をしたのです。看守はこのような転換をしました。相手を暴力で抑えつけ、痛めつけ、支配することから、相手の痛みと傷を知り、いたわり、対等に関わるように転換したのです。平和への方向転換です。

このような転換は人間によってはなかなか起こらないものでしょう。神様によって起こされた出来事です。私にとってこの物語の最大の奇跡は、地震で扉が開いたことではありません。彼がこのように平和を求めて生き方を変えことが、もっとも大きな奇跡です。それは神様を賛美し祈ることがきっかけとなって起きた奇跡でした。私たちもこの看守のような、暴力から愛への転換をしたいと願います。私たち自身に、私たちの世界全体に、暴力から愛への転換が起こって欲しいと願います。それは命どぅ宝の転換です。命こそ宝とする転換です。平和への方向転換です。

神様はどのように世界の平和を実現させてくださるでしょうか?今日の個所によればそれは平和を求める賛美を歌うこと起りました。神様が平和を実現させてくださいます。それを願い賛美しましょう。世界が暴力を辞めて、愛に目覚める様に神様に求めましょう。私たちにできることは賛美歌を歌うことです。神と人に向けて平和の賛美歌を歌いましょう。

沖縄からまずその歌が聞こえます。私たちの賛美から世界に平和が広がるように祈ります。平和こそ宝、命こそ宝であることが伝わるように祈ります。お祈りします。

 

【全文】「神が与える調和」使徒言行録15章1~21節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの命の声に包まれながら礼拝をしてゆきましょう。今日は物事を決める時、妥協、調和、折衷を大事にしてゆこうということを考えたいと思います。

 

今日は私たち平塚バプテスト教会の創立記念礼拝です。私たちの教会は1950年に神様に導かれ創立され、74周年を迎えることができました。74年間も続いたのは本当に神様のおかげです。とても私たち人間だけではこの教会を続けることが出来なかったはずです。今日は私たちがこの教会に来る前からずっと、神様の働きがあったことを実感する日です。

 

74年間、この教会は多くの困難を乗り越えてきました。初代長尾先生の後の混乱と分裂、小田原伝道所の問題を経験しました。土地の問題もありました。私たちはこの土地を購入して代金を払っていましたが、名義の変更がされていませんでした。そのことで土地と建物すべてを失う危機もありました。しかし不思議な力に守られて74年間ここに建ち、礼拝が続いています。

 

74年間、本当に多くの課題があり、そのたびに熱心に議論がされました。バプテストは民主的に話し合って決めることを大切にしています。話し合いは確かに疲れるものです。みんなで考えるよりも誰かが決めてくれた方が楽です。でも私たちは多くの困難を話し合うこと、互いの理解を深めることで乗り越えてきました。

 

そしてこれからの私たちも大きな決断のための議論を控えています。土地の一部を売却し、建物を修繕する計画があります。現時点ではまだそれができるかどうかもわかりません。しかし、これは間違いなく教会が始まって以来の大仕事になるでしょう。

 

教会の建築を経験した人たちは口々にその苦労を語ります。ある教会では予算を巡って議論が過熱します。自分達はいくらの予算をたてるのか、お互いの経済事情を知らずに決定をしなければいけない苦労があります。それぞれの教会への新しい期待がぶつかり合います。ある教会は資材費の高騰で当初予算より大幅な支出をしなければなりません。私たちもこれから、そんな議論をしてゆかなければなりません。私たちが信仰を守るためには、どうしてもこの教会・建物が必要だと思います。そのための議論です。

 

私たちは老朽化に対応し、時代や環境の変化に対応し、それぞれの考えの違いを尊重しながら前に進まなければいけません。想像するだけで大変ですが、もし神様の計画ならば、そしてこの地にこの教会が必要とされ続けるならば80年、100年と続くための計画が成し遂げられてゆくはずです。74年間この教会が守られてきたことに感謝しながら、これからの議論を拡げてゆきたいと思います。

 

物事を決めてゆく時、大事なことは、時に妥協し、調和し、折衷案を持つことだと思います。それぞれの信仰と違って、建築はどうしても、最終的には一つの形にならざるを得ません。全員の要望を盛り込むことは難しいのです。私たちも大きな議論をするとき、互いに妥協し、調和し、折衷案を持ち前に進んでゆくことを覚えておきましょう。今日は聖書に記録される会議もそのような出来事です。聖書を読んでゆきましょう。

 

今月は使徒言行録を見ていますが、今日はその中でも15章にあるエルサレム会議と呼ばれる場面をみてゆきたいと思います。

 

先週からもお伝えしている様に、初期のキリスト教には二つのグループがありました。ユダヤ教の律法を重視するグループと、そうでないグループです。それぞれに熱心に信仰生活を送っていました。この二つのグループは決して対立をしていたわけではありません。時に互いに無関心だった時もありますが、人や献金を送ったりする良好な関係でした。今日の個所の3節にもあるように、何か互いに良いことがあれば、その恵みを喜び合う関係でした。ただユダヤ教の律法の実践を巡っては大きな隔たりがあったのです。

 

律法を重視する人も、これをやらないと地獄へ行ってしまうと思っていたわけではありません。神様の恵みに感謝して、律法を誠実に実践していました。多くの人はその実践は自由だと考え、絶対に他の人も実践をしなければいけないと思っていたわけではありませんでした。

 

しかし一部には、すべての人が、すべての律法を守るべきだと主張する人もいました。1節にある主張です。男性器の皮を切り取る、割礼までもすべきだという主張をする人までいました。

 

どこまで律法の実践を求めるべきか、二つのグループは意見が分かれていました。一部の人のように、すべては求めないにしろ、どこまでを求めるかが議論になりました。もう私とあなたは違う、それぞれ思い思いにやればいいとは思わなかったのです。何か最低限の一致できるはずだと考えたのです。

 

その妥協点を探るために、エルサレムで会議をすることになりました。このエルサレム会議はどちらが正しいか決着をつける会議ではありません。この会議は、どうすればキリストの弟子として一致し、仲間であり続けられのるかを話し合うために持たれたのです。別々の宗教になるのではなく、どこかで最低限の一致ができるはずだと考えて会議が持たれたのです。

 

会議はまず、律法を重視しないグループを見てきたペテロの報告から始まります。ペテロ自身ももともとは律法守っていた人です。しかし彼はいままでの立場に固執せず、律法を重視しない人々を好意的に受け止め、報告をしました。

 

ペテロは8節でこう報告します。私たちが神様から信仰を与えられたように、彼らにも神様からの信仰が与えられています。私たちが神様に受け入れられている様に、異邦人も神様に受け入れられています。神様はきっと彼らを差別しないはずです。神様はその恵みによってみんなを救うはずですと報告をしました。それはこれまで律法を重視していたペテロが、自分とは違う他者のあり方を認める報告でした。

 

それを受けて律法重視のグループの代表ヤコブが発言します。それは旧約聖書を引用する伝統的な姿勢です。しかし同時に引用した聖書箇所は律法を重視しない人も尊重する箇所でした。そしてヤコブは決断をしました。19節、ヤコブは律法を重視しないグループをこれ以上悩ませないと決断をしたのです。そして20節の決め事が発表されました。

 

決定の内容は端的には4つでした。これはレビ記に基づく伝統的にユダヤの律法を重視する人が守ってきたことの一部でした。そしてこの4項目以上の事、特に割礼は求めないという寛容な決定でした。

 

4つの決定を見ます。使徒教令ともよばれますが、ひとつはみだらな行いです。性的暴力や性的搾取をしないようにという教えです。現代にも通じます。そして残りの3つは食べ物に関する取り決めです。他の宗教の祭儀で使われた肉、ユダヤの祈りをせずに屠った肉、生焼けで血の滴る肉、それらを食べないようにという取り決めでした。

 

さらにおそらくこれは律法を守る人とそうでない人が一緒に食事をする時の決まり事でした。一人の時、律法を重視しない人だけの食事の時は、自由にいままでの習慣どおりに食事をしたでしょう。ただし、律法を重視する人と一緒に食事をするときにおいては、ユダヤの習慣を尊重するように、配慮をするようにと決められたのです。一緒に食事する時は食べられない人に配慮をしてください、それ以外・それ以上は求めませんということを決めたのです。うまい妥協点だと思います。

 

そしてこの決定は調和を重視しています。別々にいるときは自由だけれども、一緒に食事する時のルールが定められたのです。一緒に食事ができるようにルールが決められたのです。これは最小限の一致でした。一緒にいる時は、律法を守る人に合わせるという折衷案でした。

 

聖書を読み進めてゆくと、31節にその協議の結果を聞いて人々は喜んだとあります。そしてそれは彼らにとって励ましに満ちた決定だったとあります。その妥協案、折衷案、調和重視の案によって温かい一致が生まれたのです。

 

そこに絶対に律法を守り抜くという筋の通った考え方は無かったかもしれません。しかしそれはどちらかに合わせるのではなく、互いの言葉を聞き、互いを尊重し、互いに苦しまないための、両方が喜ぶことのできる決定でした。後から来た人が苦しむものではなく、今までいた人が否定されるものではなく、互いを否定、排除しない決定となったのでした。よい決め方だったと思います。

 

その会議には神様の力が働いたのでしょう。神様が知恵を与えたのでしょう。神様はこのようにして、共同体を導いてくださるお方です。互いに話し合い、互いを聞き合い、折り合いをつけ、私たちを結び付けて下さるのが、神様の働きなのです。それは人が決めたことのように見えるかもしれませんが、神様に導かれたのです。私たちの歩んだ74年間もそれが起り続けて、私たちは今に至るのです。

 

創立記念の時、これから起きる様々な議論に心を準備したいと思います。その時今日のエルサレム会議を覚えておきましょう。私たちは互いが自由です。そして神様が互いを受け入れていることを覚えておきましょう。私たちはそれぞれ感じ方、考え方が違います。大きなことから、小さなことまでいろいろ違います。そんな私たちがどうやって大きな決断をしてゆけるでしょうか。神様が導いてくださって、きっと互いに妥協し、調和し、折衷となる選びが示されてゆくはずです。

 

エルサレム教会では互いを尊重し、互いに苦しまない決定が選ばれました。それは誰かの喜びと励ましになる決定でした。私たちもこれからそのような選びへと導かれてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「愛は骨折り損」使徒言行録11章19~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。今日は無償の愛について考えたいと思います。

私が平塚教会に来て5年、前の先生からホームレスの支援を引き継いでいます。ホームレスの支援をしていると、この支援をしても自分にまったく得がないと思うことがあります。5年間関わり、支援をしてきたホームレスの方がいます。彼は平塚の海岸の砂防林の中で、10年以上テントを張って生活をしています。先日彼は、体調を崩し救急車で市民病院に運ばれました。退院後にテント生活を続けるわけにもいかず、病院を訪ね、新しい施設へ入居する手伝いをしました。しかし数か月後、施設を抜けだし、彼はまた海岸のテントに戻ってきてしまいました。施設で何かすれ違いがあったようです。

さらに数か月後、平塚教会の炊き出しで、やっぱりホームレスを辞めたいと言ってきました。私は半信半疑で本当にホームレスを辞める意思があるかどうか、何度も確認しました。彼はどうしてもホームレスを辞めたいと言います。私は苦労して、再び住む場所を探しました。今度はすれ違いが無いように、事前に一緒に施設を見学し、この部屋で大丈夫かどうか確認し、本人がその施設に住みたいと言うので、その施設を紹介しました。引っ越しの日はもう戻って来ないと約束し、一緒にテントを撤去し、車で送り届けました。しかし、最近また海岸に戻ってきてしまいました。まだ詳しくはわかりませんが、何か嫌なことがあったようです。もうそろそろ関わるのを辞めようかとも思います。

しかしホームレス支援ではよくあることです。時間とお金をかけても、思うような結果にならないことが多くあります。「こんなことをしても1円にもならない」と何度も思ったことでしょうか。骨折り損のくたびれもうけとはまさにこのことです。これは自分にまったく得のないことです。いつでもやめてよいことだと思っています。続けるかどうかについて、私には自由があると思っています。でもなぜかなかなか辞めることができません。不思議と彼を見捨てることができません。腐れ縁かもしれません。もしかするとキリスト教の視点からは、これこそが無償の愛なのかもしれません。いつか私にお返しがあるはず、いつかやりがいと満足感があるはず、いつか感謝と賞賛があるはず。そう思いながら活動をするなら、無償の愛ではないのかもしれません。

本当に何も得がないからこそ、愛なのかもしれません。この愛を本当に続けてゆけるかどうかはわかりません。でももし神様が私に、命にかかわる大事な活動だと示してくださるのなら、続けることができる、そう思っています。そう示されなければ続けることができないと思っています。

みなさんにも人生の中で、一切自分に得が無い、そう思っていても何かをした、あるいはせざるを得なかったということはあるでしょうか。きっとみなさんにもそんな経験があると思います。自分に一切得がないにも関わらず、それでも他者のための苦労する、もしかするとそれこそが本当の愛なのかもしれません。今日は聖書からアンティオキア教会の無償の愛を見てゆきたいと思います。

 

 

 

今日は使徒言行録11章19~30節をお読みいただきました。今日の聖書箇所の背景にある3つのグループを図で紹介します。イエス様の死後、エルサレムには3つのグループがありました。一つは主流派・保守派であり、伝統的なユダヤ教のグループです。熱心に戒律を守って生活をしていました。2つ目はナザレ派とあります。生前のイエス様の教えを信じ、キリストの弟子として生きながらも、ユダヤ教の戒律を守りながら生活した人のことです。ユダヤ教ナザレ派と呼びます。ヤコブやペテロがこのグループでした。そして3つ目はキリストの弟子としてユダヤ教を抜け出ようとしたグループです。後のキリスト教となるグループです。後から加わった外国人も多かったこのグループは、戒律をあまり重視しませんでした。

エルサレム市内ではユダヤ教の戒律を守るべきだという対立がありました。ある日その対立が表面化し、主流派がキリスト者のグループへの排除・虐殺を開始しました。後のキリスト教となるグループはエルサレムに残ることができず、世界に散り散りに逃げてゆきました。それが1節にあるステファノの事件です。エルサレムで殺されそうになり、逃げ出した人々が中心となってアンティオキア教会を作りました。そしてその教会に加わる人が増えていったのです。その噂はエルサレムに届くほどでした。

ナザレ派は23節アンティオキアで始まった新しい運動、後のキリスト教の様子を確かめることにしました。派遣されたバルナバはその教会に到着し、神様の恵みに驚いたとあります。そして29節、ある時、エルサレムで飢饉が起こります。それに対してアンティオキアの教会はこのナザレ派に対して援助の品を送りました、経済的な支援をすることにしたというのです。それが今日書かれている物語です。

この構図から感じることを挙げます。まず迫害・虐殺が起きた時ナザレ派は一体何をしていたのでしょうか。イエスを主と信じる仲間が殺されそうになり、逃げ惑う時、ナザレ派はどのように行動したのでしょうか。ナザレ派がこの迫害と虐殺に反対した様子が記録にありません。もしかすると彼らは「関わって得はない」と感じたのでしょうか。「自分達のことではない」「律法を守らない人が悪い」と思ったのでしょうか。彼らはなぜ反対せず、仲間を見捨ててしまったのでしょうか。

これは人間の罪が現れているかもしれません。身内の安全が守られている限りは声を上げなかった罪、自分達には関係ないと問題から目をそらした罪、自分の命が無事ならいいという罪、あの人たちは殺されてもしょうがないと思う罪です。イエス様を十字架につけた罪もそうです。その罪のため、多くの人が死にました。

一方、キリスト者のグループの行動をみます。彼らはエルサレムで飢饉が起きた時、経済的な援助をそれぞれの力に合わせて行いました。しかしこの行動は驚くべき行動です。以前ナザレ派は自分たちを助けてくれませんでした。あの時無関心でした。そのような過去の関係があったにも関わらず、アンティオケア教会はナザレ派を支援したのです。

彼らに何の得と、どんな義理があったでしょうか。何もありません。でも彼らは自分たちだけの安全を考える人ではありませんでした。あの時自分たちのことを助けてくれなかったけど、でも支援の品を送った。きっと記録に残るくらいのたくさんの品、多額の献金をアンティオケアからエルサレムのナザレ派に送ったのでしょう。あの時、自分を助けてくれなかった人たち、見殺しにした人たちに支援の品を送りました。惜しみなく財産を分かち合ったのです。それがアンティオケア教会の愛だったのです。

それが私たちの教会のルーツとなってゆきます。それは助けてくれたから、お返しに助けるという行動ではありません。それならば助けるのはある人として意味当然です。しかしここではあの時、助けてくれなかった人、関係ないと無視された人、その人を助けたのがアンティオケの教会だったのです。彼らは自分達が良ければいい、自分たちに危害が及ばなければいいとは考えませんでした。自分たちの得にならないことも進んで行ったのです。それがアンティオキア教会の愛でした。それはこちらが一方的に骨を折ることでしたが、それこそ無償の愛だったのです。

自分の利益とは関係なく、惜しみなく与えるのが愛です。アンティオキア教会ではそれを実践していたのです。それは困った時はお互い様を超える、相互扶助ではない、一方的な愛でした。23節でバルナバが見て感動した雰囲気はこの愛だったのではないでしょうか。バルナバが恵みだと感じたのは、人数の増減よりも、他者への無償の愛の姿勢でした。バルナバはその愛を見て、神の恵みを感じたのではないでしょうか。その愛の姿勢こそがキリスト教が世界に広がった原動力だったのではないでしょうか。

さて、私たちの教会もアンティオキア教会のようになることを願います。それはこの教会が良ければよい、この教会がうまくいけばよいという態度ではありません。いつかお世話になるかもしれないから助けるのでもありません。キリスト教の愛は相互扶助ではありません。たとえ今までもこれからも助けてもらえなくても助けるのが、キリスト者の無償の愛です。援助を必要とする人に、無条件に惜しみなく助けるのが愛です。そのようなアンティオキアの無償の愛は、きっと神様をよく証ししたでしょう。それを実践する人がキリスト者と呼ばれたのです。

私たちも同じキリスト者です。無償の愛を私も実践したいと思います。それはこれまでのわだかまりのある関係を超えた愛です。無関心を超える愛です。助けられたから助けるのではない愛です。ただ一方的な支援、教会や自分の損得ではない愛、愛されなくても愛す愛です。そのように神の愛を具体的に実践するとき、新しい生き方は神様の力によって自然と広がってゆくのでしょう。

私たちも教会でも、私たち一人一人でも無償の愛を大事にしてゆきましょう。それは骨折り損かもしれません。でもきっとそれこそが愛なのでしょう。そしてそれこそが神様の愛をもっともよく示す行動なのでしょう。それぞれの一週間があります。他者のために骨を折り、無償の愛を実践してゆきましょう。お祈りいたします

 

【全文】「他者を尊重する方向転換」使徒言行録9章1~22節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの笑顔と声に包まれながら、礼拝をしてゆきましょう。

ここ数か月、初めてキリスト教に触れる方々に向けてお話ししてきました。新しい視点で考えることは、私たち全員にとっても大切なことだと感じました。既に信仰を持っている方々にとっても、自分の信仰を深める機会となったでしょうか。

今日からは聖書の使徒言行録という箇所を1ヶ月間読んでゆきたいと思います。パウロ(旧名サウロ)という人の人生を追いかけてゆきます。初めての人も、ずっと通っている人も聖書から、新しい生き方を考えてゆきましょう。

みなさんは、価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?例えば、誰かの言葉や行動によって、自分の考え方が大きく変わった経験はあるでしょうか?今まで思っていたこととまるで違う、正反対の価値観を持つようなったという体験があるでしょうか。大小さまざまあるとは思いますが、人生全体に大きな影響があるような価値観の変化はそう頻繁には起こらないことです。教会にはキリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変える、人生を方向づけるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。みなさんはどうでしょうか?

洗礼(バプテスマ)とは汚れを取り払い、清く聖なる者になることではありません。洗礼(バプテスマ)とは価値観が変わってゆくことです。神様の導きを受けて、自らの価値観を神に向けてゆくこと、聖書の教えを価値観の中心にしてゆこうという表明、キリストの弟子としてその道を歩み始めるスタートが洗礼(バプテスマ)です。洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。価値観は人それぞれにあります。価値観や信じている宗教について他者からとやかく言われる必要はありません。自分が正しい、自分が励まされる、自分が導かれていると思うものに導かれればいいのです。キリスト教だけが正しく、他の宗教は劣っており間違っているという考えは、愛とはいえないでしょう。キリスト教は戦争の無い平和、互いの命が豊かになる平和を求めてゆく宗教です。他者を無理やり変えるのではなく、他者と共に生きようとする宗教です。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。相手を批判する力は、自分がキリスト者としてどう共に生きるかに向けられてゆくべきです。洗礼(バプテスマ)はその生き方のスタートです。価値観を神に置き、他者を愛し、共に生きる事のスタートが洗礼(バプテスマ)です。ぜひ皆さんにも、その生き方のスタートをお勧めしたいと思っています。他者を尊重する生き方へと方向転換をしてゆきましょう。

もちろんバプテスマを受けたからと言ってすぐにそれができるようになるわけではありません。バプテスマを受けた方も、もう一度そのことを思い出しましょう。今日は聖書のサウロという人物から、自分が正しいと暴力を振るっていた人が、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。

 

 

 

聖書をお読みいただきました。イエス様の十字架の後、弟子たちは神様からの風・力を受けて活発に活動をしていました。キリスト者の生き方は、互いに愛し合いなさいという教えに代表されるように、神様を愛し、他者を愛する生き方でした。その愛の輪はどんどん広がっていました。そしてそれはもともとの枠組みとしてあったユダヤ教から大きくはみ出すことになりました。やがてそれはキリスト教と呼ばれるようになります。

今日登場するのはサウロという人物です。この人はもともとユダヤ教を信仰していました。そしてそこから生まれようとしているキリスト教を激しく否定していました。サウロがすぐにキリスト教を信じなかったことを責めるつもりはありません。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ユダヤ教を信じる人の信仰もとても尊いものです。私たちは他者の信仰や価値観を尊重し、理解するために努力をすることが大事です。

ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。サウロはユダヤ教以外の人に並々ならぬ敵対心を持っていました。1~3節にはサウロの他者の価値観に対する態度が現れています。彼は主の弟子、この道に従う者、つまりキリスト者を見つけ出したら徹底的に排除をしました。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。彼は熱心なユダヤ人だったと言われます。自分の信じる事への熱心さの行く先は、周囲は間違っている、力づくでもユダヤ教にしようという態度、ユダヤ教からの逸脱をゆるさないという態度でした。他者の価値観と宗教観を一切認めないという価値観でした。彼はそのように自らの価値観と宗教を暴力的な態度と行動で押し付けようとしたのです。多くのキリスト者はサウロを恐れました。彼に自分の信じていることがばれてしまうと、批判され、否定され、暴力的な態度を取られ、殺されたからです。人々はサウロを恐れ、彼を避け、彼には決して自分の気持ちを語ろうとしなかったでしょう。

サウロにとって運命を変える出来事が起こったのは、ある日突然のことでした。道を進む彼に、イエス様が直接語りかけたのです。その瞬間、彼は視力を失い、自分の足で歩くことさえできなくなってしまいました。その出来事によって起こったのは、彼はそれまで自分が否定し、殺そうとしていた人に助けてもらわなければならなくならないということでした。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで否定し、敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。彼は自分の信じるユダヤ教だけが唯一正しいと信じ、それ以外の価値観と宗教を一切否定していました。その彼は今弱くされ、無力となり、混乱しています。彼の価値観が大きく揺らいでゆきます。

聖書のとおりに出来事が起きたのか、彼に何が起きたのか本当のところはわかりません。後に彼自身が書いた手紙には直接、このダマスコでの出来事の記載がありません。確かなのは彼の中で短期間のうちに、大きな価値観の転換が起きたということです。それは極めて短期間で、劇的に起きました。自分で意図して選択したものではなく、神様から示され、その価値観の転換が起きたのです。サウロはこのように大きく価値観を変えられました。しかし彼の変化は180度の転換ではありませんでした。もし180度の転換というならば、今度は反対にユダヤ教が間違っていると言って攻撃の対象にしたかもしれません。しかしサウロはそのようなことはしませんでした。

サウロはこの後、名前を変えてパウロと名乗るようになります。パウロはこの後、自分と同じようにユダヤ教からキリスト教になった人と、別の宗教からキリスト教になった人との対立の仲裁をしようと働きます。彼の態度はこれまでと大きく変わります。暴力的に一致させるのではなく、平和的に和解と一致をさせようとする態度に変わったのです。

おそらくここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロが価値観を大きく変えたということです。サウロの価値観の転換とは一体どんなことだったのでしょうか?これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。この個所はきっとそれよりも大事なことを伝えています。神様の導きにより、サウロの心には短期間で劇的な変化が起こりました。その変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化です。

彼は弱さと無力の中で、その価値観が大きく変わりました。彼の生きる態度が変わりました。他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人を、敵対心ではなく敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた一番の変化でした。それが神様から頂いたことでした。サウロが神様からいただいたものは、他者を尊重することへの方向転換だったのです。

神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。私たちはどんなときそのような神様からの変化をいただくでしょうか。神様は相手を否定する、暴力的な態度をとることから、相手を尊重し、共に生きる、平和に生きる態度に私たちを変えて下さいます。それはいつ起きるでしょうか?それは私たちが弱くされた時かもしれません。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。それは神様の決めた一方的な時に起こるのでしょう。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。私たちはそのきっかけを神様からいただくのです。私たちは「それは間違っている」から「それも大事」と言えるように変わるのです。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。

本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。これは、イエス様が様々な人々と食事を共にしたことを記念する大切な儀式です。この教会では、洗礼を受けた方々がパンとブドウジュースをいただきます。19節にはサウロは食事をして元気を取り戻したと書いてあります。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「つながっていようよ」ヨハネ15章1~10節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。

2か月間にわたってキリスト教に初めて触れる人に向けて話をしてきました。教会では難しい儀式したり、難しい話をしたりしているのではないことだけでも分かってもらえたらうれしいです。集まっている人は普通の人です。それぞれに人生の喜びや苦しみ、日常があります。その中で神様の助けを受けて生きようとして、励まし合う仲間と共に教会に集っています。神様の力を受けて、誰かのために、何かできることをしようと思って集っています。どう生きてゆけばいいかを毎週考えています。ぜひこれからも教会に来て下さい。またYoutubeをご覧になって迷っている方、ぜひお近くの教会に行ってみてください。繰り返し通うと、自分の中に変化が起きてくると思います。ぜひこれからも一緒に礼拝しましょう。

今日は「祈祷会(きとうかい)」という教会の集会をご紹介します。これは毎週水曜日午前10時30分からと夜8時から行われている集まりです。教会では礼拝に次いで大事な集まりと位置付けています。

祈祷会では賛美を歌い、聖書を読み、5分くらい私から解説をします。そのあとは自由に聖書から感じた感想を話し合います。それぞれの感想ですから、正解も不正解もありません。その感じ方が間違っていると否定されることもありません。自分が感じたこと、疑問に思った事、わからないこと、イメージしたことをただただ分かち合ってゆきます。

そして一人一人の感想を聞いていると、わからなかったことが分かるような気がしてきます。神様ってそういう方なのかぁ、こんな風に生きてゆけばいいのかなと思いつきます。そのように、みんながイメージを分かち合うと、聖書が伝えようとしていることが分かるような気がしてくるのです。

祈祷会ではその後に祈りの時を持っています。祈りの課題という教会が互いのこと、みんなで祈りたいことのリストをもとに黙祷し、心の中で神様に祈ります。自分自身のことでみんなに祈って欲しいことがあればそこで分かち合います。「祈祷会」というと大声で激しく祈ったり、地鎮祭のような祈りの儀式をするようなところに思われるかもしれませんが、そうではありません。実際には互いの聖書の感想を聞きあう会、一緒に神様に祈る会です。自分の悩みを打ち明けなくてはいけないということもありません。自己解放の度合いは個人個人に任せられています。教会学校も似た雰囲気です。

私はこの「祈祷会」をとても大事だと感じています。日曜日だけではなく、水曜日にも神様とのつながりを感じることができ、力が湧いてきます。そして祈祷会は神様とのつながりだけではなく、他者とのつながりをも感じることができる場所です。祈祷会は一緒に言葉を交わし、祈ることで、神様とそして仲間とつながっているという実感が持てる場所です。礼拝もそうですが、祈祷会はもっと仲間とのつながりを感じることができる場所です。ぜひ参加してみてください。今日はつながりということをテーマに宣教をしたいと思います。

 

 

ヨハネ福音書15章1~10節をお読みいただきました。今日の個所で大事なことを3つのつながりを紹介します。ひとつ目は「あなた方は私につながりなさい」ということ、2つ目は「私はあなたにつながっています」ということ、そして3つ目は「みんながつながる」ということです。まず一つ目のあなた方は私につながっていなさいから見ます。

 

神様は、私たちにあなたたちは私としっかり「つながっていなさい」と言っています。あなたたち人間は、神様をつかんでいるその手を絶対に放してはダメだよと言っています。神様とつながることを忘れないようにしましょう。神様はいつも私たちを導き、生きるヒントを与えてくれます。だから私たちは忙しい時でも、しんどい時でも、神様につながっていましょう。たとえばなるべく礼拝に集ったり、祈祷会に集ったり、聖書を読んだり、祈ったりすること、大事にしようということです。頑張ってゆきましょう。これがひとつ目に大事なことです

 

そして2つ目に大事なこととして神様は私はあなたがたに「つながっています」と言っています。それは私達から神様につながるのではなく、神様から私たちにつながってくださっているということです。私が手を離したら、神様が離れてしまうのではありません。私が忙しくて、心がいっぱいいっぱいで、もう捕まっていられない時も、神様の方からつながっていてくださるのです。私たちのどうこうは関係なく、神様から一方的につなげられているということです。これは大きな安心です。悪いことが起きた時、私が頑張って神様につながっていなかったからだと思うかもしれません。でもきっとそれは違います。神様はいつも私につながっているとはっきり言っています。つらい事、悪い事はどんな時でもおこります。でも、どんなにつらい時も、私がどんな状態の時も神様は私たちにつながってくださっています。だから神様を信じる人は安心して生きることができるのです。うまく自分から神様につながれなくても大丈夫です。神様はあなたにもうつながっています。神様は離れることなくあなたと一緒にいてくださいます。神様は私たちを必ず良い方へと導いてくださいます。だから安心してゆきましょう。これが大事なこと2つ目です。

 

さて大事なことの3つ目を紹介します。大事なことの3つ目は「あなたがた」という言葉に隠れています。あなたがたはつながっていなさい、私はあなたがたとつながっているという言葉には「あなたがた」ということばが含まれています。この「あなたがた」は私個人を指す言葉ではなく「みんな」を指す言葉です。神様は「あなた」はつながっていなさい、私は「あなた」につながっていると言っているのではありません。「あなたがた」みんなで神様につながりなさい、神様はみんなにつながっていますと言っているのです。私が神様とつながることが大事です。しかし今日の個所によれば、私たちみんなでつながるということも大事なことだと言っています。私たちは自分がつながるだけではなく、みんなで神様につながるのです。

そしてみんなで神様につながる時、みんなに神様がつながる時、私たちの間には神様とのつながりだけではなく、私たち同士、人間同士のつながりも生まれるはずです。神様は人と神がつながっていると伝えると同時に、私たちに人間同士も、神様によってつながっているというのです。そのような人間のつながりも、神様がおこしてくださるのです。私たちはみんなでつながると、互いが神様にどうやってつながっているのかを知るようになります。こうやって神様はこのひとにつながって導いているのだとか、この方はこうやって神様につながろうと頑張っているのだということを良く知るようになります。互いがどうやって神様につながり、つながれているかをよく見ることはとても大事なことです。自分はどうやって神様につながればよいのか、仲間をよく見るとわかります。どんな風に神様がつながっていてくださるのか、自分を見るよりも、周りの人を見た方がよくわかります。神様は私たちも互いにつながるように言っています。あなたはみんなとつながりなさい、みんながあなたにつながっているよと言うのです。

礼拝・祈祷会は毎週この3つのつながりを確認する場所と言えるでしょう。一人一人が一生懸命に神様につながろうとする場所です。そしてそれを超えて、神様が私たちにつながってくださっていると感じる場所です。そして集った私たち同士もつながっていると感じる場所です。私たちはそこから生きる力、励ましをいただいて、歩んでゆくのです。特に祈祷会は3つ目のみんなでつながるということを感じることができる場所です。

さて、2か月間はじめてキリスト教に触れる方に向けて、聖書から生き方のヒントを考えてきました。今日は特に神様とつながることの大事さを見てきました。初めて来た方、これからもどうぞ神様につながってゆきましょう。それぞれが神様に一生懸命に祈り、他者を愛し、生きてゆくことを大事にしましょう。神様もあなたにしっかりとつながっています。どんなつらいときも神様はあなたにつながっていて、守り、導いてくださるはずです。神様とつながっているからこそ、励ましを受けたり、慰めを受けたり、勇気をもらうことができます。神様がつながっていてくれるなら、私自身に力がなくても前に進むことが出来るのです。そして私たちはみんなで神様につながりましょう。

毎週教会ではこの礼拝と言う集会を持っています。みんなで神様につながりたい、神様はみんなにつながっている、そう信じている仲間が毎週集まっています。それぞれいろいろな苦労をしているけれど、私たちはみんなで神様につながろうね、わたしたちもつながっていようねと言い合います。それは私たちみんなの人生にとって大きな励ましになっています。私たちはそこから前に進むことができるのです。

神様が私たちみんなにつながっていて、みんなが神様につながっています。そして私たちもつながっています。私たちはみんなで神様につながっていましょう。そして私たち同士もつながっていましょう。そんな風に教会で、神様とのつながり、人とのつながりを感じながら生きてゆく生き方をお勧めします。お祈りします。

 

【全文】「風に吹かれればいい」

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日も大人もこどもも一緒に礼拝をしましょう。先月と今月は初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。

私たちは毎週日曜日の午前中にこの礼拝という集会を持っています。牧師である私の務めは、毎週の礼拝で聖書の話をすることです。毎週15分ほどのお話をしていますが、実は準備するのが大変です。どんなに頑張ってパソコンにかじりついても、参考書を読んでも、うまくいかない、何かが違うと思う時があります。この勤めを毎週果たし続けるには、みなさんの日頃の祈りと支えが必要です。そして何より神様の導きが必要です。とても自分の力だけではできません。どうしてもうまくいかない時どうしているかと言うと、そんな時は風に吹かれてみることにしています。教会の中庭にはハンモックがありますが、行き詰まった時はハンモックに揺られます。空を見上げながら、風に吹かれながら、何かが違うなぁ、うまくまとまらないぁ、うまく言葉にならないなぁ、どうしようかと思いを巡らせます。そやって風に吹かれていると、時々新しい言葉がひらめいたりします。風に吹かれると、変えるよりもこのままの方がいいかなと思ったりもします。風に吹かれると、やっぱりこの方向性はダメ、やり直そうと思ったりもします。風に吹かれながら、神様の導きを求めています。

今日は新しい仲間の信仰の言葉を聞きました。新しい仲間が増えることは大変うれしいことです。心から歓迎をします。今日のためにご自身の信仰を紹介する言葉を準備してくださいました。きっとこの言葉を紡ぐのも大変だったでしょう。そしてきっとそこにも神様の導きがあったでしょう。この告白ではっきりしていることは、神様は人間の力を超えて、不思議な力で、私たちを教会へと呼び集めるのだということです。

私たちの人生も同じでしょう。私たちの人生の行く先は、神様が導いてくださるのです。神様はまるで私たちの背中を押すように、私たちを信仰へと送り出してくださいます。それはまるで追い風を受けている様です。風が私たちを押し出します。それが神様からの風です。神様はそのような風を私たちに吹かしているのです。神様が私たちを導くとは、神様の吹かす風に押し出されて進むことです。私たちの人生で大事なこと、それは神様の風に吹かれることです。その風を感じて生きることです。そのように神様からの風は私たちに言葉を与え、私たちを新しい行動に導くのです。私の宣教の言葉も、今日の信仰の言葉も、神様からの風に、押し出され、発せられたものです。

聖書・創世記によれば、神様はまず土で人間の形を作りました。そして神様はその土に息・風を送り込みました。そうすると人間は生きるものとなったと書かれています。神様の風とは、私たちに生きる活力をあたえる風です。神様の風とは私たちに生命を吹き込む風です。私たちはそのようにして神様の風に吹かれて生きるようになるのです。神様の風が私たちに命を与え、導くのです。

私たちの人生には様々な課題があります。どうすればいいかわからないこと、どうすることもできないことがあるものです。そんな時、風に吹かれてみてはどうでしょうか?自分の頭で考えるのを少し休憩して、自然いっぱいの風を受けてみたらいいのです。自分を吹き去ってゆく風、自分の呼吸として取り込まれる風、自分の体をここちよく揺らす風にあたればいいのです。どこから来てどこに行くのかわからない風にあたればいいのです。体で風を感じれば、きっと心にも神様の風を感じることができるでしょう。そうすると神様の導く方向が分かるはずです。風を受けて生きましょう。風を受ければきっと新しい生き方、新しい命を神様からいただけるはずです。

キリスト教の神様の風は、宗教や性別を問わずに吹きます。ですからすでに皆さんには神様の風が吹いています。体で感じる風を受ければ、きっと神様が心に吹かす風も分かるはずです。皆さんの心にも神様の風がもう吹いています。それを感じ、神様に導きを感じてみて下さい。今日は聖書から風に吹かれた弟子たちの話をします。

 

 

今日は使徒言行録2章1~11節をお読みいただきました。教会では今日はペンテコステという記念日です。これは2000年前に聖霊が人々に下ったこと、風が吹いたことを記念する日です。2000年前、イエス様は様々なことを弟子たちに教えましたが、十字架に掛けられ死んでしまいました。しかし弟子たちはイエス様の死んでしまった後も集まっていました。本来は教祖が死んでしまったのですから、活動が終わってしまってもしょうがないのです。しかしキリスト教はイエス様が死んでしまった後も続いてゆきます。それは弟子たちがイエス様の後を引き継いで一生懸命に頑張ったからではありません。その活動は弟子たちが、神様からの不思議な力、不思議な風を受けることで続けることが出来たのです。

例えば今日の出来事もそうです。イエス様の死後、弟子たちがみんなで集まっている時、突然強い風が吹きました。風は神様の一方的な決断で吹きました。神様からの風は弟子たちが頑張った時、願った時、集まった時にだけ吹くのではありません。神様の風は神様の決めたタイミングで吹きます。私たちの願いと関係なく自由に吹きます。それが神様の風です。

そして神様の風はそこにいたみんなに吹きました。神様の風は後継者や一人の選ばれたリーダーに吹いて、そこから下々に広がるのではありませんでした。何か良い事をした人、キリスト教を信じている人にだけ吹いたのでもありません。神様の風は全員に等しく、全員に直接吹き抜けました。一人一人の頭の上に炎がともるように、全員に風は吹いたのです。神様が全員を選んだとも言えるでしょう。神様は全員に風が吹くように、風を送られたのです。

そして神様の風に吹かれると不思議なことが起こりました。風に吹かれた人たちは他の国の言葉でしゃべり出したのです。それは当然、自分の内側から出てきた言葉ではありませんでした。神様が外側から語るべき言葉を教えてくれたのです。それは様々な国の言葉でした。自分が語るべきことは神様が教えてくださったのです。弟子たちは自分の考えた言葉ではなく、神様の風の吹くままに語ったのです。それは自分の力ではなく、神様の力によって起きた出来事でした。私たちにもきっとそのようなことが起きるでしょう。自分にはできなくても、神様が力を与えて下さって、できることがあるでしょう。私の毎週のメッセージもそうです。教会に続けて来ることもそうです。それぞれの場所でも神様の力を受けるからこそできる、そんなことがきっとあるでしょう。

弟子たちが様々な国のことばで語ったことの意味も考えます。様々な国の言葉で語られたことは、全世界の人に神様の不思議な力が伝えられたということを意味するでしょう。普通では起きないことが、自分の力ではできないことが、神様の力によって起きるという希望は、全世界に伝えられました。それは難しい言葉ではなく、相手に良くわかる言葉で伝えられました。神様の力は、みんなにわかるように届けられたのです。私にもわかる、あなたにもわかる、みんなにわかる言葉で神様の希望が示されたのです。

神様の風はそのように、ひとりひとりに、全員に命と活力と言葉を吹き込みました。このようにして神様の風を受けて人は輝くのです。私にもあなたにも自分では輝く力がないかもしれません。でも神様から力をいただいて輝くことができるのです。私たちはそんな神様からの風を受けて歩むのです。私たちはすでにその風を受けています。私たちは全身でその風を感じ、風に身をゆだねてゆきましょう。

特に今日初めてキリスト教の話を聞く、初めてここに集まったという人にとって、この集いやこの言葉はどう響くでしょうか。毎週集まれるのはすごい熱心だと思うかもしれません。でも私たちが集うことが出来るのは、熱心さや一生懸命さではなく、神様の風に吹かれているからです。私たちが神様の風に身をゆだねているから集うことができるのです。自分で方向を決めるのではなく、神様の風に身をゆだねています。そのようにして私たちは神様の風に招かれるままに集まっています。周りの人からはおかしな集まりに見えるかもしれない。でもそれでもいいと思っています。

皆さんにはこう生きたい、こうなりたいという願いがあると思います。それはとても大事です。でもその願いと共にもう一つ心にとめて欲しいことがあります。それは私たちには神様の風が吹いているということです。神様の風はきっと私たちをどこかへと運ぼうと導いています。すでに私たちにはその風が吹いているはずです。私たちは自分の願いと共に、その神様からの風がどう吹いているのかを感じて生きてゆきたいのです。

神様は私たちに風を送ります。私たちはその風に吹かれながら生きましょう。私たちには何もできなくても、神様が風を吹かせ、導いてくださいます。神様が必要な言葉と力を与えてくれるはずです。だから神様の風に吹かれて生きましょう。その風はきっと私たちを新しい生き方へと導いてくれるはずです。一人一人の命が輝く生き方、互いを愛し、大事にする生き方へと導かれるでしょう。お祈りします。

 

【全文】「心洗われる教会」ヨハネ13章1~15節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝しましょう。

先月と今月は、初めて教会に来た方、初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。聖書のヨハネによる福音書という部分から有名な個所を選び、お話をしています。今日ご紹介したのは、イエス様が弟子たちの足を洗う「洗足」という箇所です。2000年前、当時の道はほとんど舗装されていませんし、履物はサンダルでした。舗装されていない道をサンダルで歩けば、足は泥だらけになりました。泥がたくさんついた足は、たくさん歩いて疲れた証拠、苦労の証拠です。もちろん汗と汚れが混ざって、臭いもしたでしょう。

人びとには家に帰ってくると、足を洗うという習慣がありました。毎日たっぷりのお湯でシャワーを浴びることはできません。洗うことが出来るのは足くらいです。足を洗うのは1日の働きが終わって帰って来て、自分をいたわるホッとするひとときでした。ある程度裕福な家には召使いや奴隷がいました。帰ってきた主人の足を洗うのは召使いや奴隷の仕事でした。召使いは主人の疲れた汚い足を、指の間まできれいに洗いました。それは奴隷にとっても嬉しい仕事ではなかったでしょう。現代の私たちが家族の介護で大変なように、人の足を洗うのはなかなか大変な仕事でした。

しかし今日の聖書にはイエス様が弟子の足を洗ったと書いてあります。足を洗うのは本来、召使いや奴隷のするべき仕事でした。今日はそれをイエス様がしたのです。これはイエス様が弟子たちにした他者のために働き、他者を尊重するという模範的、象徴的な行為でした。

2000年前の人々は今の時代よりもずっと名誉を大事にしました。今の時代よりももっと周囲から認められ、地位が高くなることを重視した社会でした。地域の政治や宗教のリーダーであることの名誉は大変大きかったのです。今の時代でも政治家は勘違いして威張り腐っていますが、当時の政治家は同じかもっと威張り腐っていたでしょう。今も昔もリーダーとはだいたいそんなものでした。しかしイエス様は他のリーダーと大きく違いました。イエス様は弟子の足を洗おうとします。弟子たちの汚れたくさい足を洗おうとします。地位や名誉より召使いの仕事を、進んでしようとするのです。キリスト教ではこのイエス様を神様と等しいお方であると信じています。このような弟子の足を洗う、召使いの仕事をする、これがキリスト教の神と等しいとされた人の姿です。神と等しい方は人間の汚れた足を洗いました。このデモンストレーションが他者のために働き、他者を尊重する生き方を示しています。

特にキリスト教に触れることが少ない方は、キリスト教にはちょっと敷居の高いイメージを持っている時があります。私はある方から「教会に行ってはみたいけど、私なんかのような汚れた人間が行ってもよい場所なのでしょうか?興味本位なんかで行ってよい場所ではありませんよね?」と聞かれたことがあります。もちろん、そう思っている方も来て下さい。自分は汚れていると思っている方、ただの興味という方もどうぞ来て下さい。歓迎します。今日ご紹介した物語によれば、教会はきっと修行して、功徳を積んで、清らかになってから来る場所ではありません。キリスト教はこの図のように示されるでしょう。この図は階段を下った一番下にイエス様の象徴である十字架が立っています。そこが神がいる場所です。修行して功徳を積んで、階段を昇りつめた先で神様に手が届くのではありません。神様は徹底的に低みに立っています。神様は低くされている人のために働き、その人を尊重してゆく方なのです。困っている他者に目を向けてゆく、そこに神様がいるのです。それがキリスト教の教えです。

私たちは上へ、上へと昇るのではありません。私たちは下へ下へ向かいます。小さくされた人、弱くされた人、見過ごされた人、隅に追いやられた人がいないか目を配り、その人たちと共に生きようとします。そこに地位と名誉はないかもしれません。でもそこへと向かってゆくのが、キリスト者の在り方です。どちらが強いか、偉いか、大いなるものかを競うのではなく、他者の足を洗う様な生き方をしなさい、イエス様はそう教えています。他者のために働き、他者を尊重する人になりなさいと教えたのです。

このように人の足を洗うような、他者のために働く、汚れるような仕事をするのは実は案外難しいことです。お給料をもらっていれば、がまんできるかもしれません。家族の事だったらしかたなくできるかもしれません。でも仕事でも家族でもなく、無償で、ただ愛でそれをするのはとても難しいことです。しかしイエス様がそれを実践して見せています。これが無償の愛の一例ですよと示すために足を洗ったのです。イエス様は人の足を洗う者となりなさいと言っています。私たちは人の足を無償で洗うような、そんな生き方をしてゆきたいと思います。

 

 

 

そして、この物語はもう一つ重要なことを伝えています。それは自分は洗う側だけではなく、洗われる側に立つことがあるということです。もしかすると誰かの足を洗うよりも、誰かに足を洗われる方が嫌かもしれません。きっと洗うよりも、洗われる方が嫌です。その感情は何を意味するでしょうか。私たちは相手の汚い部分を見て、相手の汚い部分に触れることを、もしかしたら我慢できるかもしれません。

でも反対に、自分の汚い部分を見られたり、自分の汚い部分に触れられたりするのは非常に強い抵抗があるものです。自分の悪い部分、汚い部分を見られるのは嫌です。隠したいものです。いつもきれいで強いと思われたいものです。しかし本当の自分はそうでないことを誰よりも自分が知っています。弱さと疲れを見られるのは恥ずかしいものです。弟子も「決して洗わないでください」と言っています。その気持ちはわかります。自分はいつも洗う側でいたい、洗われる側にはなりたくないのです。

しかしイエス様は14節「互いに洗い合わなければならない」と言っています。8節では洗わなかったら私たちの関係はなくなってしまうと言います。足を洗いあうのが、私たちの関係ではないかというのです。疲れて、汚れた、お互いの足を隠しあったら、我々の関係は成り立たないというのです。私たちはお互いが尊い存在だと確認しあうだけではないということです。私たちの人生はそんなきれい事だけではありません。私たちの人生にはそれぞれに疲れや困難があり、汚れがあります。ここから示されることは、人生に疲れた時、私たちは恥ずかしいですが、誰の支えを必要とするということです。私たちは神様に支えられながら生きます。そして仲間に支えられながら生きます。神様と仲間の支えなしに人生を生きてゆくことはできないのです。私たちはそのことをこの物語から知ります。私たちは足を洗ってもらう様な、励ましや祈りが必要なのです。

教会の人はいつも教会ではニコニコしています。初めて教会に来る方は私のような汚れた人間の行く場所ではないと思ってしまうほどです。自分だけ汚れているようで、自分だけその汚れを見られるのは嫌だと感じるかもしれません。でも安心してください。みんなの足は、本当は汚れています。それぞれに苦労や失敗を持っているのです。教会に来た時は笑っているかもしれません。教会の中に偉い人のように見えた人もいるかもしれません。でも本当は1週間にいろいろなことを体験しています。疲れて、足が汚れるような1週間を過ごしています。みんな本当は汚れた足で来ているのです。

そんなときでも教会では互いを尊重し、励ましあう言葉を交わしています。それはまるで毎週教会で足を洗ってもらっている、互いに足を洗い合っている様です。神様から、仲間から足を洗ってもらっている様です。きっとみんなも1週間大変だったのに疲れて汚れた私に、温かい言葉を掛けてくれます。それが私にとって、足を洗われるということです。同時に誰かに温かい声を掛けます。それが誰かの足を洗うことです。互いに足を洗い合うからこそ1週間が頑張れるのです。

私たちは洗う側と洗われる側に分かれているのではありません。みんな洗われるべき汚い足をしており、みんながやさしく互いの足を洗います。そのような教会に来ると、心洗われたような気持ちになります。ほっとする気持ちになるのです。そしてまた出発することができます。またそこに行けば足が汚れるとわかっていても、そこに向かうことができるのです。そのようにし私たちは1週間を過ごすのです。

私たちはこのように「足を洗いなさい」と言われています。私たちの1週間は他者を見下し、威張るのではありません。隅に追いやられた人に視線を合わせるような生き方をしましょう。そして私たちは「足を洗ってもらいなさい」と言われています。あなたの足は疲れていて、汚れているから、教会の人にやさしく洗ってもらいなさいと言われているのです。教会の誰かに甘えなさいと言われているのです。

イエス様はこのように伝えました。私たちに互いに足を洗い合いなさいと伝えました。足を洗うことによって、他者のために働き、他者を尊重する生き方がキリスト者の生き方だと示しました。そして互いにいたわり合い、励まし合う関係の大事さを私たちに教えてくれたのです。

教会にはそのことを信じる信仰を持つ人が毎週集っています。私はたくさんの人がこの生き方・信仰に加わること、増えることを願っています。お祈りします。

 

【全文】「こどもの声が世界を変える」ヨハネによる福音書9章1~19節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。今月と来月は、キリスト教が初めてという人に向けて話をしています。今日はこの聖書の中のヨハネ福音書の中にある、ベトザタの池の物語をご紹介します。

2000年前、現在のパレスチナにベトザタという名前の池がありました。この池にはある伝承がありました。その伝承とはこうです。天使がこの池に降りてくると、池の水面にゆらゆらと小さな波ができ、その時、池の中に入ると、一番先に入った人は病気が治るという伝承でした。本当にそんなことが起きていたのかはわかりません。ただその奇跡に期待をして、多くの人がこの池の周りで、小さな波が起こるのをじっと待っていました。治らない病を持っていた人にとってはこの池が最後の望みで、この池だけが希望でした。そのようにして多くの人がこの池の周りに集まり、水面をじっと見つめていたのです。

しかしこの奇跡の伝承は非常に残酷な伝承でもありました。というのはこの伝承によると一番先に水に入った人だけ、病気が治るのです。つまりそれは一番動ける、一番足の速い病人が一人だけ癒されるということです。それが意味することは、この池の周りで寝ている人は全員、自分が一番早く水に入らなくてはと思っていたということです。全員が自分が一番になろうとする敵だったのです。あの人よりも私が早く、隣人よりも私が早く、私が水に入らなければいけないのです。他の人を押しのけてでも、私が一番にならなければいけなかったのです。そのような池の周りの人間関係は最悪だったでしょう。いつ起こるかわからない波を待ち、全員がお互いを出し抜こうと考えていました。弱肉強食で、緊張が張り詰め、ぎくしゃくしています。まるで生存競争ようなの場所だったはずです。皆、どうしたら自分が一番になれるのかばかりを考えていました。

それでも多くの人がこの池の周りに集まりました。4節には目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人が集まっていたとあります。想像するだけで悲しいです。なぜなら彼らは波が起きてもすぐに水の中に入ることがほとんど不可能な人たちだからです。それでも彼らはそこに集まっていたのです。もしかすると見捨てられて、そこしか居場所が無かったのかもしれません。ほとんど期待できない希望をもって、失望と共にそこで待ったのです。

その中に一人、38年間病気の男性がいました。そして池の周りに横たわっていました。イエス様はその人を見て、すぐに病気であることが分かりました。目に見える病気を持っていたのでしょう。彼は自分では起き上がり、立つことができないほどの障がいを持っていました。イエス様はそのような場所に現れました。苦しみと失望と緊張関係に満ちた場所に現れました。イエス様とはそのようなお方です。苦しみと失望の底に現れるのです。

イエス様はそこで問いかけました「良くなりたいか?」。失礼な質問です。当然、良くなりたいに決まっているじゃないですか。良くなりたいと答えるはずです。でも本当にそうでしょうか。38年間の彼の苦痛は想像できません。38年間で何人、この池に飛びこむ人を見たでしょうか。どれほどの我先にとこの池に飛び込む競争を見てきたでしょうか。そして彼はこの生存競争に38年間負け続けていました。彼はまだ良くなりたいと思っていたでしょうか。なんとか次こそは私が入ってやる、次こそ自分だと希望を持つことができていたでしょうか。その思いは38年も続くでしょうか。続かなったのではないでしょうか。きっと良くなりたいということを、もうあきらめていたのではないでしょうか。

イエス様の「良くなりたいか」という問いかけに彼は「良くなりたい」と答えることができませんでした。彼はその代わり「誰も私を運んでくれない」と答えました。彼の失望が伝わって来る言葉です。彼が失望していたのは、もはや自分が病であることではありません。彼が失望していたのは自分の周囲にいた人間でした。自分のことを優先する人間に失望し、助けてくれない隣人に失望していたのです。誰も他者を助けようとしない世界に失望していたのです。

彼のいた世界は自分優先の世界です。自分の幸せを一番優先にする世界です。他人はどうでもよい、幸せは争い奪い合って、勝ち取るという世界です。争って、つかみ取る力のない者には、幸せは訪れない世界でした。希望を持てない彼を責める気にはなれません。彼を失望させたのは彼のいた世界です。奪い合う世界、醜い競争の世界が、彼にそのような世界観を持たせ、失望させたのです。イエス様の「良くなりたいか」という質問はそんな世界を鋭く問う質問でした。

そしてイエス様は言いました「起き上がりなさい」起き上がることのできない、歩くことのできない人に対して命令をしました。そうすると不思議と彼は立ち上がることができました。38年間悩み、様々なことを試し、世界に失望し、あきらめていた彼がもう一度立ち上がって、歩きだしたのです。

イエス様は歩き出すときに一つだけ条件を付けました。それは床を担いで歩きなさいという条件です。「床を担いで歩きなさい」の床とは、横になる時に下に敷くものです。布団よりももっと粗末なマットやゴザの様なものです。それは彼が38年間寝ていたマットです。それには彼の38年間の汗と涙がしみ込んでいました。そして彼の心と同じように擦り切れ、ボロボロになっていました。そのマットは彼の人生を象徴するものです。そして彼がいた池の周りの世界を象徴するものです。彼の苦労と屈辱の象徴でした。自由を奪っていた病と世界の象徴でした。それが床です。イエス様が歩き出すときにつけた唯一の条件は、その床を担ぐようにということでした。彼の人生の苦労と屈辱と汗と涙のすべての象徴である「床」を担いで歩くようにと言ったのです。それは、これからもその現実を背負って生きてゆきなさいという意味です。彼は一切の苦しみから解放されて、病気やこの池の出来事などすべて無かったものとして生きるのではないということです。これからもこの38年間の苦労を忘れずに、あの池で見た世界を忘れずに生きるようにと条件を付けられたのです。そのようにして彼は元の世界へと戻されてゆきます。この悲しみも苦しみも、人間の醜さもすべてを背負ったまま彼は歩み出したのです。

彼が生き始まめると、すぐに白い目で見られました。彼を見て喜んだ人がいたという報告はありません。体調が回復し、病とあの池の環境から抜け出すことができた、それが祝われている様子は報告されません。周囲からの祝福はあったでしょうか。「よかったね」と言われ、喜び合ったでしょうか。しかしその様子は描かれていません。記録されているのは周囲が、今日は荷物を背負ってはいけない決まりがある日なのに、なぜあなたは荷物を背負って歩いているのかと聞いたことです。他人の幸せを喜び合えない世界です。実は外の世界も池の周りと変わらなかったのです。自分が一番先で、周りはどうでもよいと考えたあの池と同じように、ここでは他者と共に喜ぶ姿は存在しなません。誰がそんなことを言ったのか、誰が決まりを破るように指示したのか聞き、足の引っ張ろうとしています。そしてそのようにしてイエス様は十字架にかけられてゆくのです。

さて、今日の物語から私たちはどんなことを考えるでしょうか。まず私が思うことは、この世界はまるでベトザタの池の様だということです。世界はこの池のように、自分中心、自国優先、強い者が勝つ世界です。隣人と愛し合うのではなく、たがいに敵同士のように競争する世界です。互いを喜び合えない世界です。私たちもこのような世界・日常に生きています。

イエス様はそのただなかに現れるお方です。ひどい現実の、どん底の、この世界の真ん中に現れるお方です。そして私たちに問いかけるのです。「良くなりたいか?」。私たちはなんと応えるでしょうか?みんながちゃんとしてくれないから、周りの人が悪いから、彼らのせいでこうなっていると言いたくなる現実です。でもその時イエス様は、私たちを立ち上がらせ下さいます。

人間には立ち上がるすべがないはずなのに、良くするすべがないはずなのに、神様が人間に力を与え、立ち上がることができるのです。神様はそのように、私たちを立ち上がらせてくださるのです。

そして神様は、私たちをただ立ち上がらせるだけではありません。現実を背負って立ち上がるように、私たちに言うのです。世界の悲しみ、苦しみを忘れて、無関係に生きるのではありません。それを背負って生きる、それに責任をもって生きるように、私たちを立ち上がらせるのです。今私たちのいる世界を良くするために、神様は私たちを立ち上げてくださるのです。

この礼拝で、私たちは神様から床を担いで立ち上がれと言われています。私たちは自分では立ち上がることができないけれど、神様が私たちを立ち上げてくださるのです。私たち立ち上がります。現実を背負って立ち上がります。そして小さな力でも世界を「良くしたいか」と問われます。私たちは「良くなりたいです」と答えましょう。私たちは現実を背負って生きましょう。それぞれの場所で、互いに愛し合い、困っている人を助け、隣人と喜びをともにしましょう。それぞれの場所で弱肉強食ではない、愛と慈しみにあふれる世界を創ってゆきましょう。その1週間を今日から歩みましょう。神様が私たちを立ち上げて下さいます。お祈りします。

 

【全文】「神が私を立ち上げて下さる」ヨハネ5章1~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。今月と来月は、キリスト教が初めてという人に向けて話をしています。今日はこの聖書の中のヨハネ福音書の中にある、ベトザタの池の物語をご紹介します。

2000年前、現在のパレスチナにベトザタという名前の池がありました。この池にはある伝承がありました。その伝承とはこうです。天使がこの池に降りてくると、池の水面にゆらゆらと小さな波ができ、その時、池の中に入ると、一番先に入った人は病気が治るという伝承でした。本当にそんなことが起きていたのかはわかりません。ただその奇跡に期待をして、多くの人がこの池の周りで、小さな波が起こるのをじっと待っていました。治らない病を持っていた人にとってはこの池が最後の望みで、この池だけが希望でした。そのようにして多くの人がこの池の周りに集まり、水面をじっと見つめていたのです。

しかしこの奇跡の伝承は非常に残酷な伝承でもありました。というのはこの伝承によると一番先に水に入った人だけ、病気が治るのです。つまりそれは一番動ける、一番足の速い病人が一人だけ癒されるということです。それが意味することは、この池の周りで寝ている人は全員、自分が一番早く水に入らなくてはと思っていたということです。全員が自分が一番になろうとする敵だったのです。あの人よりも私が早く、隣人よりも私が早く、私が水に入らなければいけないのです。他の人を押しのけてでも、私が一番にならなければいけなかったのです。そのような池の周りの人間関係は最悪だったでしょう。いつ起こるかわからない波を待ち、全員がお互いを出し抜こうと考えていました。弱肉強食で、緊張が張り詰め、ぎくしゃくしています。まるで生存競争ようなの場所だったはずです。皆、どうしたら自分が一番になれるのかばかりを考えていました。

それでも多くの人がこの池の周りに集まりました。4節には目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人が集まっていたとあります。想像するだけで悲しいです。なぜなら彼らは波が起きてもすぐに水の中に入ることがほとんど不可能な人たちだからです。それでも彼らはそこに集まっていたのです。もしかすると見捨てられて、そこしか居場所が無かったのかもしれません。ほとんど期待できない希望をもって、失望と共にそこで待ったのです。

その中に一人、38年間病気の男性がいました。そして池の周りに横たわっていました。イエス様はその人を見て、すぐに病気であることが分かりました。目に見える病気を持っていたのでしょう。彼は自分では起き上がり、立つことができないほどの障がいを持っていました。イエス様はそのような場所に現れました。苦しみと失望と緊張関係に満ちた場所に現れました。イエス様とはそのようなお方です。苦しみと失望の底に現れるのです。

イエス様はそこで問いかけました「良くなりたいか?」。失礼な質問です。当然、良くなりたいに決まっているじゃないですか。良くなりたいと答えるはずです。でも本当にそうでしょうか。38年間の彼の苦痛は想像できません。38年間で何人、この池に飛びこむ人を見たでしょうか。どれほどの我先にとこの池に飛び込む競争を見てきたでしょうか。そして彼はこの生存競争に38年間負け続けていました。彼はまだ良くなりたいと思っていたでしょうか。なんとか次こそは私が入ってやる、次こそ自分だと希望を持つことができていたでしょうか。その思いは38年も続くでしょうか。続かなったのではないでしょうか。きっと良くなりたいということを、もうあきらめていたのではないでしょうか。

イエス様の「良くなりたいか」という問いかけに彼は「良くなりたい」と答えることができませんでした。彼はその代わり「誰も私を運んでくれない」と答えました。彼の失望が伝わって来る言葉です。彼が失望していたのは、もはや自分が病であることではありません。彼が失望していたのは自分の周囲にいた人間でした。自分のことを優先する人間に失望し、助けてくれない隣人に失望していたのです。誰も他者を助けようとしない世界に失望していたのです。

彼のいた世界は自分優先の世界です。自分の幸せを一番優先にする世界です。他人はどうでもよい、幸せは争い奪い合って、勝ち取るという世界です。争って、つかみ取る力のない者には、幸せは訪れない世界でした。希望を持てない彼を責める気にはなれません。彼を失望させたのは彼のいた世界です。奪い合う世界、醜い競争の世界が、彼にそのような世界観を持たせ、失望させたのです。イエス様の「良くなりたいか」という質問はそんな世界を鋭く問う質問でした。

そしてイエス様は言いました「起き上がりなさい」起き上がることのできない、歩くことのできない人に対して命令をしました。そうすると不思議と彼は立ち上がることができました。38年間悩み、様々なことを試し、世界に失望し、あきらめていた彼がもう一度立ち上がって、歩きだしたのです。

イエス様は歩き出すときに一つだけ条件を付けました。それは床を担いで歩きなさいという条件です。「床を担いで歩きなさい」の床とは、横になる時に下に敷くものです。布団よりももっと粗末なマットやゴザの様なものです。それは彼が38年間寝ていたマットです。それには彼の38年間の汗と涙がしみ込んでいました。そして彼の心と同じように擦り切れ、ボロボロになっていました。そのマットは彼の人生を象徴するものです。そして彼がいた池の周りの世界を象徴するものです。彼の苦労と屈辱の象徴でした。自由を奪っていた病と世界の象徴でした。それが床です。イエス様が歩き出すときにつけた唯一の条件は、その床を担ぐようにということでした。彼の人生の苦労と屈辱と汗と涙のすべての象徴である「床」を担いで歩くようにと言ったのです。それは、これからもその現実を背負って生きてゆきなさいという意味です。彼は一切の苦しみから解放されて、病気やこの池の出来事などすべて無かったものとして生きるのではないということです。これからもこの38年間の苦労を忘れずに、あの池で見た世界を忘れずに生きるようにと条件を付けられたのです。そのようにして彼は元の世界へと戻されてゆきます。この悲しみも苦しみも、人間の醜さもすべてを背負ったまま彼は歩み出したのです。

彼が生き始まめると、すぐに白い目で見られました。彼を見て喜んだ人がいたという報告はありません。体調が回復し、病とあの池の環境から抜け出すことができた、それが祝われている様子は報告されません。周囲からの祝福はあったでしょうか。「よかったね」と言われ、喜び合ったでしょうか。しかしその様子は描かれていません。記録されているのは周囲が、今日は荷物を背負ってはいけない決まりがある日なのに、なぜあなたは荷物を背負って歩いているのかと聞いたことです。他人の幸せを喜び合えない世界です。実は外の世界も池の周りと変わらなかったのです。自分が一番先で、周りはどうでもよいと考えたあの池と同じように、ここでは他者と共に喜ぶ姿は存在しなません。誰がそんなことを言ったのか、誰が決まりを破るように指示したのか聞き、足の引っ張ろうとしています。そしてそのようにしてイエス様は十字架にかけられてゆくのです。

さて、今日の物語から私たちはどんなことを考えるでしょうか。まず私が思うことは、この世界はまるでベトザタの池の様だということです。世界はこの池のように、自分中心、自国優先、強い者が勝つ世界です。隣人と愛し合うのではなく、たがいに敵同士のように競争する世界です。互いを喜び合えない世界です。私たちもこのような世界・日常に生きています。

イエス様はそのただなかに現れるお方です。ひどい現実の、どん底の、この世界の真ん中に現れるお方です。そして私たちに問いかけるのです。「良くなりたいか?」。私たちはなんと応えるでしょうか?みんながちゃんとしてくれないから、周りの人が悪いから、彼らのせいでこうなっていると言いたくなる現実です。でもその時イエス様は、私たちを立ち上がらせ下さいます。

人間には立ち上がるすべがないはずなのに、良くするすべがないはずなのに、神様が人間に力を与え、立ち上がることができるのです。神様はそのように、私たちを立ち上がらせてくださるのです。

そして神様は、私たちをただ立ち上がらせるだけではありません。現実を背負って立ち上がるように、私たちに言うのです。世界の悲しみ、苦しみを忘れて、無関係に生きるのではありません。それを背負って生きる、それに責任をもって生きるように、私たちを立ち上がらせるのです。今私たちのいる世界を良くするために、神様は私たちを立ち上げてくださるのです。

この礼拝で、私たちは神様から床を担いで立ち上がれと言われています。私たちは自分では立ち上がることができないけれど、神様が私たちを立ち上げてくださるのです。私たち立ち上がります。現実を背負って立ち上がります。そして小さな力でも世界を「良くしたいか」と問われます。私たちは「良くなりたいです」と答えましょう。私たちは現実を背負って生きましょう。それぞれの場所で、互いに愛し合い、困っている人を助け、隣人と喜びをともにしましょう。それぞれの場所で弱肉強食ではない、愛と慈しみにあふれる世界を創ってゆきましょう。その1週間を今日から歩みましょう。神様が私たちを立ち上げて下さいます。お祈りします。

 

【全文】「誤解から始まる信頼」ヨハネ4章1~30、39~42節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこうしてこどもたちの声を聞きながら、大人もこどもも共に礼拝をしましょう。

4月と5月は新しくキリスト教に触れる人に向けて話をしたいと思っています。聖書の中でも有名な個所を聞きながら、一緒に考えましょう。特に聖書の中のヨハネ福音書という部分取り上げてゆきたいと思います。

私は会社の勤めていた時、誤解や失敗をきっかけに他者との信頼関係ができるということを何度か経験しました。例えばクレームを頂いた取引先に訪問し、謝罪をしたり、対話したりしてゆくと、以前よりお互いの事情が分かるようになり、信頼関係が生まれることがありました。クレーム対応をきっかけに、個人的な信頼関係が生まれました。そのような経験が何度もありました。もちろんそのような信頼関係がいつもできるわけではないのですが、いつからかクレームを頂く度に、ここから新しい信頼関係ができればいいと思いながら対応をするようになりました。

このように衝突や誤解がきっかけで相互の理解が生まれ、信頼関係につながってゆくということがあります。みなさんにもそんな経験があるでしょうか。第一印象が悪かったのに、誤解が解けて仲が良くなった人がいるでしょうか。昔は嫌いだったのに今は好きな食べ物も同じだと言えるでしょうか。

関係は必ず修復発展できるというわけではないのですが、相互の信頼関係は互いの誤解に向き合うことによって、対話することによって生まれてゆきます。誤解は信頼の入り口でもあります。聖書にもこのような誤解から信頼が始まるエピソードがあります。今日はそのエピソードをご紹介したいと思います。 

 

 

ヨハネ福音書4章1~30節、39~42節をお読みいただきました。キリスト教の中では有名なサマリアの女という話です。登場人物はサマリアの女性です。実はこのサマリアの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。まず当時ユダヤの人々はサマリアという言葉を口に出すのをはばかるほどサマリアの人々を嫌っていました。なぜならサマリアの人々は混血民族と考えられたからです。サマリアの人々は民族の純血を大事にしたユダヤ人から、いわゆる混血とされ、見下され、差別されたのです。

さらに女性という点にも注目します。当時の社会は今よりもっとひどい男性中心社会でした。女性の地位はとても弱く、女性は男性の所有物とみなされ、男性が一方的に離婚することが可能な社会でした。このようにサマリアの女性は、民族的にも性別的にも差別を受けた人でした。

そのサマリアの女性が井戸に水を汲みに来ました。当時、水汲みは女性の仕事でした。通常女性は水汲みを朝の涼しい時間帯にするものでした。しかし聖書には彼女が正午・昼の12時の一番暑い時間に水を汲みに来たとあります。その理由はおそらく彼女が同じサマリアの女性たちからも疎外されていたからです。5回の離婚を経験した彼女の波乱の人生は、村の人から奇異の目で見られていました。彼女はいろいろな噂をされたり、白い目で見られたりしたのでしょう。彼女は村八分にされ、誰もいない時間を見計らってコソコソと井戸に来たのです。

5回の離婚の理由はわかりません。彼女に問題が有ったのか、無かったのかわかりません。しかし当時は男性が一方的に離婚を言い渡しました。戦争や飢餓や暴力が絶えず、今よりずっと死は身近でした。この女性に責任・罪があって今の境遇にいるという推測は、噂をして村八分にした人と同じ誤解でしょう。このようにこの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。多くの誤解を受けた人でした。だから彼女は誰とも会わない、関わらないで済む時間に井戸に来たのです。

そんな時、イエス様と出会います。イエス様はそんな社会から疎外された人に、自分から言葉を掛けました。神様はそのようなお方です。人間の世界では差別や、いじめ、仲間外れ、排除があります。でも神様は違います。神様は神様の方からその人を見つけ、声をかけ、招いて下さるお方です。さらに当時は男性が見知らぬ女性に声をかけることもタブーでした。それでもイエス様は、その人に声をかけるのです。神様はそのように働きかけてくるのです。

イエス様との会話を見てゆきましょう。声のかけ方が面白いと思います。イエス様は「水をください」と声をかけるのです。復活した時も「何か食べる物はありますか」と声をかけたのですが、今回は「水をください」です。この問いかけに向き合います。

水を巡ってのイエス様と女性との会話は複雑です。特に10節はイエス様が水をくださいと言っているのか、イエス様が水をあげると言っているのか、よくわからない箇所です。読んでいる私たちも混乱する話、誤解が生じやすい話です。

どうやらイエス様が与える水というのは、肉体的にのどを潤す水分補給のことではないようです。その水とは心と魂を潤す水のことを言っています。それは心の内面に染み渡るような何かです。彼女の心と魂は何かを求めているのに埋まりません。心と魂が満たされず、渇いている状態です。その心と魂が求めていることを、満たしてくれるものが、イエス様の渡そうとしている水です。それは彼女にとっては周囲からの誤解と差別から解放されることだったでしょう。

しかしイエス様と女性の会話にも誤解があります。心と魂の水のことは女性には伝わっていません。女性は引き続き、のどを潤す水、ここまで汲みに来ないでよい水を求めています。誤解が続きます。

16節でイエス様は突然話題を変えます。話題は水の話から、結婚関係の話に話題が変わります。イエス様は対話をあきらめていないようです。伝えたいことが伝わらなくても、対話をあきらめずにまた別の角度から伝えようとしています。そして20節以降からはさらに話題が礼拝へと変わってゆきます。全体をみるとかなりかみ合わない会話です。ちぐはぐな会話です。会話は終始かみ合っていませんが、それでも二人が対話を続けていることはとても印象深いことです。

20節からイエス様は繰り返し礼拝という言葉を使っています。イエス様の言った心と魂を潤す水、それは礼拝と言い換えることができるでしょう。

この今私たちの持っている礼拝とは、自分の生き方を考える集まりです。自分はどう生きるのか、神様の言葉、神様の語り掛けを聞きながら考える集まり、それが礼拝です。一人ではなく、みんなとそれを考えます。イエス様はその礼拝が、あなたの心と魂を潤す水となると言ったのです。この礼拝というキーワードからようやく二人の話がかみ合ってきます。

女性はこのような対話からイエス様を信頼するようになりました。彼女はイエス様を、私に何が必要かを知り、私の心の渇きを知り、それを礼拝によって潤してくださるお方、私に新しい生き方を教えてくださるお方だと信頼をしたのです。イエス様との対話によって誤解が解かれ、この女性はイエス様を信頼するようになりました。そして彼女はその信頼を村の人々に告げ広めたのです。

村の人々も、最初は半信半疑でした。しかし村の人々は言います。自分で聞いたからよくわかった。それはイエス様の話を直接聞いて、誤解しなかったからこそ信頼できたという出来事でした。

イエス様とこの女性はすれ違いながらも、忍耐強く対話を続けることによって信頼が生まれました。誤解は信頼へと変わってゆきました。今日この個所を見て私は改めて対話の大切さを感じます。私たち人間にはたくさんの誤解があります。誤解に基づいて様々な戦争が起き、誤解に基づいてうまくいかない人間関係が生まれます。誤解は人々を苦しめます。差別も命に優劣があるという誤解から生まれます。

女性が苦しんでいたことは何よりも、周囲に誤解されたことだったはずです。そして彼女の中でもイエス様への誤解がありました。でもそれでよいのです。多くの関係は誤解から始まってゆくからです。その誤解は徐々に解かれてゆくものです。私たちにも今日この個所からそのことが示されているのでしょう。私たちの周りにもたくさんの誤解があります。誤解したり、誤解されたりすることがあります。でも私たちはイエス様のように向き合い、対話することをあきらめずにいたいのです。今日の個所のように誤解から始まる信頼がきっとあるはずだからです。

私たちはどうやって、誤解を信頼に変える力をいただくことができるのでしょうか。私たちが自分を変えるには限界があります。自分では変わりたくても、変わることができないのです。でも私たちはきっとその力を礼拝からいただくことができます。私たち人間は互いに理解できず、誤解が解けない、信頼しあえない存在です。私たちは人間の力だけでは、豊かな信頼関係を築くことができないことを良く知っています。でもだからこそ私たちは神様から、その力をいただきたいのです。この礼拝で神様から他者を理解する力、誤解のある他者と信頼を作ってゆく力を受け取りたいと思うのです。礼拝からその力をもらい、それぞれの場所で誤解を信頼に変えたいのです。

初めての方、まだ教会に来たことのない方にも、ぜひこの礼拝に加わって欲しいと思っています。教会に昔からいる人、最近来るようになった人の間にも、お互いにいろいろな誤解があるかもしれません。でもきっと礼拝を共にしてゆくことで互いに分かり合えると思います。

ぜひ礼拝にお越しください。そしてこれからも共に礼拝を献げ、神様から、誤解を信頼に変える力を互いに頂いてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「信じない人を歓迎する教会」ヨハネ福音書20章19~28節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日も大人もこども一緒に礼拝をしましょう。先週からキリスト教にはじめて触れる方に向けて話を始めました。このような視点は、毎週集っている方たちにも新鮮だったりするはずだと思っています。

 

よく誤解されがちですが、教会はキリスト教を信じている人だけが集まる場所ではありません。この礼拝は信じていないと参加できない集会ではありません。興味があって来ましたという人も歓迎します。信じるつもりは絶対ないという人も歓迎します。本当は来たくないけれど家族が来るから仕方なく来た、誰々さんに会いたいと思って来た、食事があるから来た、遊びたいおもちゃがあるから来たという人も歓迎します。教会はいろいろな目的を持った人と接点がある場所でありたいと思っています。周りの人に攻撃したり、教会を壊しに来るのでなければ、とにかくここに一緒に集った人をみんな歓迎したいと思います。

 

信じない人を歓迎するというよりむしろ、この教会にとって信じない人は一緒にいてくれないと困る存在です。信じない人が教会にいることの方が、安心できます。ここが信じる人だけの集まりとなると、秘密の儀式のようになってしまいます。きっとそれは閉鎖的で、内向きで、独善的になるでしょう。中にいる人も信仰に対する疑問を持ちづらくなったりします。集まる人も視野が狭まります。

 

教会は信じない人と一緒に、信じない人はどう思うかを想像しながら存在することが大事です。きっと信じている人にとっても、信じない人と一緒にいるのがよいのです。

 

「信じるかどうかはあなた次第」という言葉があります。しかし信じている方を見ていると決して「信じるかどうかは自分次第」という印象は受けません。キリスト教は普通や常識、自然法則ではにわかに信じられないことばかりです。自分次第であるなら、信じないのが当然の結果です。でも多くの方が信じています。多くの人は不思議と何かに押し出されるように、信じるようになります。何か追い風のようなものを受けて、信じていると言えるようになります。信じるかどうかは、私次第ではありません。行き先は風まかせの様な不思議さがあるものです。

 

今日は聖書から信じない弟子を見たいと思います。彼は聖書の中で非常に大事な存在ですし、私たちにとっても非常に大事な存在です。信じない弟子がどう信じるようになるのか、その姿を見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

2000年前、イエス様は様々なことを教えました。中でも一番有名な教えは、互いに愛し合いなさいという教えです。人間関係にはいろいろあるけれど、お互いを大事にしあいなさいという教えです。イエス様は攻撃したり、論破したり、いじわるするのではなく、いたわりあい、優しい言葉を掛け合うことを教えました。それは当時、非常に革新的な教えででした。多くの人がその生き方、教えに共感してイエス様に従うようになりました。もちろん現代でもその生き方に倣うべき点は多くあります。

 

しかしイエス様の互いに愛し合いなさいという教えは、政府の政策とは真逆でした。政府は都合の悪い者は殺すという方針です。イエス様は十字架にかけられ処刑されてしまいました。イエス様の活動はこの十字架で終わってしまったかに思えました。中心的だった12人の弟子たちも、自分たちも政府に目を付けられ、殺されるのではないかと閉じこもっていました。窓を全部締め切って、鍵を閉めて閉じこもっていたのです。しかしそこに死んだはずのイエス様が現れました。その体験は弟子たちの人生を大きく変えてゆきます。その体験で何が起きたのか、どう表現、説明したらよいかはわからなかったのですが、弟子たちはとにかくそれをイエスの復活と呼ぶことにしました。

 

19節からはその12人の弟子のうち、イエス様の復活と呼ばれる出来事を見ていなかった弟子が1人だけいたという話です。トマスという名前です。トマスは言いました。そんなこと信じられるわけがない。確かにイエス様は十字架で死んだはずだ。手を釘で打たれて十字架につけられ、脇腹を槍で刺されて死んだはずだ。その人がもういちど弟子の前に現れる、復活をするわけがない。そんなことは信じことができないと言ったのです。

 

そして彼はもし釘の跡を見て、その穴に自分の指を入れ、脇腹の傷に手を入れることができれば、信じようと言ったのです。すると8日後、本当にイエス様が現れました。戸という戸は全部締め切ったはず、鍵を閉めはずです。しかしイエス様は現れました。そして手と脇腹を確認するように言いました。そのような物語です。

 

さて、この個所はどんなことを教えているでしょうか。特に今日は、信じるとはどういうことなのか、人はどう信じる者に変えられてゆくのか見てゆきます。

聖書はトマスのようにつべこべ言わず、疑わないで、言われたことを信じましょうと言っているのでしょうか?決してそうではありません。人はそんなに簡単に宗教を信じません。人は簡単に自分の人生の大事なものを変えるわけではありません。確かな証拠や奇跡のような体験がないと信じることができないものです。トマスはそんな私たち人間の代表かもしれません。信じない人の代表です。私たち人間は確かな証拠や奇跡によって信じるようになるものです。

 

トマスもきっと信仰に興味はあったはずです。どちらかというと信じたいと思っていたでしょう。脇腹に手を入れるような、確実な体験、奇跡を体験すれば信じれるだろうと思っていました。私は奇跡を体験がすれば、信じることができると思っていました。そしてイエス様はそこに現れます。さあ手を入れてごらんと現れます。

 

しかし注目したいことがあります。聖書にはトマスが実際に指を入れた、手を入れたとは書いていないのです。彼は結局、手と指を入れませんでした。手と指を入れたら私は信じると言っていたのに、彼は手を入れなかったのです。

 

私はよく信じない人から、もし〇〇になったらキリスト教を信じるという言葉を聞きます。受験に合格したら信じる、愛する人と結婚できたら信じる、この病気が治ったら信じるという条件を聞く時があります。それは私たちの本当に切実な願い、叶えたい願いです。私たちの本音です。

 

でも私個人のこれまでの実感として、条件が叶ったら信じると言って、その条件が満たされた後に信じるようになるという人は多くありません。そういった場合、たとえ自分の条件をクリアしても信仰を持つ人は少ないような気がします。自分の設定した条件や願いが、達成されても信仰を持つ人は少ないのです。

 

一方、条件が叶わなかったけれど、信じるようになったという人は多くいます。信じるとは自分の設定した条件をクリアして起こるものではないのです。

 

トマスは手と指を入れませんでした。自分で設定した条件をクリアしませんでした。ではトマスは信じなかったのでしょうか。聖書には信じたとも書いてありませんが、文脈から考えるときっと信じるようになったのでしょう。どうして自分の設定した条件を満たしていないにも関わらず、信じるようになったのでしょうか。

 

そのきっかけはイエス様の方から現れた出会いでした。自分の作った条件とは全く別に、イエス様が来たのです。イエス様がここにいると感じたのです。それはイエス様・神様の一方的な登場でした。しかし彼にはその体験が何よりも大切なものとなりました。

 

自分の設定した条件ではなく、一方的なイエス様の登場、イエス様との出会いの体験によって彼は信じるようになったのです。

 

そうです彼はもともと家にいました。あらゆる戸を閉めて、鍵を閉めて入って誰も外から入ってこれないよう家にいました。しかし、そこにイエス様の側から入ってきました。誰も入って来れるはずのない場所に、閉ざした心の内側に、イエス様は不思議と現れたのです。

 

信仰とはそのように始まります。何かが私の中に勝手にやって来るのです。締め切っていたはずなのに、信じるつもりはなかったのに、入ってくることを期待していなかったのに、閉ざしていたのに、でも不思議と心の中に入って来る、現れる、それが信仰の始まりです。そのような神の一方的な働きかけ、追い風の様な働きかけによって、人は神の存在を信じるようになります。そのことをトマスから教わります。

 

私達自身のことを考えましょう。ここは信じる人も、信じない人も歓迎する教会です。来て良い条件はなにもありません。どうぞそのまま来て下さい。心を閉ざしたままでもかいません。

 

イエス様・神様は、絶対に信じないという人にも、きっとその心に突然にイエス様・神様が現れる時があります。自分たちの条件付けや、気持ちとは関係なく、突然やって来る時があります。そして背中を押され、追い風を受けて、不思議と互いに愛し合いなさいという教えに心から従う時が来るのです。

 

自分あげた条件は叶わないかもしれないけれど、イエス様が心に現れる時がきます。みなさんにもいつかきっと来ます。それは8日後かもしれないし、何十年も先かもしれません。でも皆さんにその時が来ることを祈っています。いつかみなさんの心にイエス様がいる、そう信じる実感を持つ時が来ることを願っています。

 

信じない人を歓迎ます。信じるかどうかはあなた次第ではありません。人間が神を信じるようになるのは、私たち人間の条件を超えた、神様の一方的な働きかけによってです。いつかみなさんにその時が来ることを願っています。お祈りを

 

【全文】「聖書が教える生き方のヒント」ヨハネ20章1~14節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。こどもたちの声を聞きながら、今日も大人もこどもも一緒に礼拝をしましょう。

今日から2か月、初めてのキリスト教というテーマで宣教をします。初めてのキリスト教に触れる方に向けてお話しをしたいと思います。まだキリスト教のことを知らないという方に届いたら嬉しいです。そしてもちろん毎週集う人にも改めて届くと嬉しいです。

キリスト教では聖書という本を読みます。キリスト教はこの聖書から「どう生きるか」を考える宗教と言えるでしょう。残念ながら、書いてある教えを信じれば、願いが叶い、幸せになれるという宗教ではありません。また信じないと罰があたる、信じないと死んだ後に地獄に行くという宗教でもありません。キリスト教はこの聖書から「どう生きるか」ということを考える宗教です。聖書には、どうやったら仲良く生きてゆけるか、どうやったら平和に生きて行けるか、前を向いて生きて行けるかを考えさせるエピソードや秘けつがたくさん書いてあります。

聖書の主人公はイエス様という人物です。この人は神様から地上に派遣された人で、神様と同じくらい大事な方で、2000年前に実在した人物です。イエス様はたくさんの生き方のヒントを教えてくれたのですが、そのひとつに一緒に食事をとるということがありました。イエス様はいろいろな人と食事をしました。当時のタブーをどんどん破って、いろいろな人と食事をしました。イエス様は汚れていると差別されていた人、罪人と言うレッテルを貼られていた人、社会からはじき出された人、他の人が絶対一緒に食事なんかしてはいけないという人と積極的に食事をしました。

そしてイエス様はいろいろな人と一緒に食事をしながら生き方を教えました。食事の最中に、また食事自体を通じて、仲良く、平和に、前向きに生きる秘けつを教えたのです。だから聖書には食事を一緒にする場面が多く記されています。

私たちはこのあと「主の晩餐」というパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式を持ちますが、それも聖書に残されている食事の風景を再現する儀式です。イエス様がいろいろな人と食事をしたことを思い出すために、それを真似してこの儀式を行います。私たちの教会ではパンとブドウジュースを食べるのは「洗礼」という儀式を受けた人に限定していますが、どんなことをしているのか、初めての人は良く見ていてください。

また私たちの教会ではこども食堂も開催していますが、それもこのイエス様の食事の延長にあるものと理解しています。教会ではこのように食事をする機会が多くあります。時々礼拝の後にも昼食会をしています。クリスマスの後には持ち寄りの食事会もしています。これは別名「愛餐会(あいさんかい)」と呼んでいます。愛の食事会という意味です。このように教会では一緒に食事することを大事にしています。

今日も聖書から、イエス様から、食事の風景から、仲良く平和に、前向きに生きる秘けつを見てゆきたいと思います。特に今日はイエス様が食事の準備をしている箇所でもあります。聖書の物語、エピソードを見てゆきましょう。

 

 

今日は聖書のヨハネ福音書21章1節~14節をお読みいただきました。驚くかもしれませんが、今日の物語はイエス様が一度死んでしまった後、再び弟子たちの前に現れたという物語です。死んだ人が目の前に現れるのは、にわかに信じられない不思議な話だと思います。通常、そんなことは起こるはずがありません。

当時のイエス様の弟子もまさか死んだ人に再び会うなどとは想像もしていませんでした。指導者であるイエス様が死んだ後、弟子たちはその活動を引き継ぐことはしませんでした。指導者を失って、失意のうちに元々していた漁師へと戻っていました。4節には「イエス様が岸に立っていた。だが弟子たちはそれがイエス様だとはわからなかった」とあります。弟子たちは当然、死んだ人が目の前に現れるとは思ってもみませんでした。そんな中、イエス様は現れます。そして弟子たちに声をかけます。その第一声が面白いのです。5節「何か食べる物はあるか」でした。かわいい言葉です。お腹が空いたこどものような登場の仕方です。あるいは何か一緒に食べる物はある?一緒に何か食べようよという登場です。

このようにイエス様は大変親しみやすく私たちに現れます。キリスト教もそうです。死者の復活とか聞くと、かなりハードルが高いように感じます。でも実はそれは「何か食べ物ある?」「一緒に何か食べよう」と言って現れた、大変親しみやすい出来事です。びっくりしないで続きを聞いて欲しいのです。

弟子たちは食べ物を持っていませんでした。イエス様はじゃあ舟をだして、獲ってごらんと言います。そうするとさっきは獲れなかった、たくさんの魚が獲れました。このように、イエス様は奇跡的な力を使ってまで、一緒に食事をしようとしました。そして魚が獲れて初めて弟子たちは、この人がイエス様だと気づいたのです。7節「主だ」あれはイエス様だとその時わかったのです。魚が捕れ、一緒に食事をすることができるようになってイエス様を思い出したのです。そうだイエス様は食事を大事にした人だった。岸の向こうにいるのは、死んだはずのイエス様だ。もう一度私たちの前に現れたのだと思ったのです。それだけイエス様の食事にインパクトがあったのです。

イエス様は一歩先に岸で炭火を起こして、魚を焼いていました。魚を炭火で焼くと、いい香りがしたでしょう。イエス様はいつの間にかパンも調達してきました。そして「さあ朝ご飯を一緒に食べよう」と言います。イエス様がその食事の準備をしました。弟子たちはここまでの食事をするプロセスの中で、もうこれだけ一緒に食事をしようとするのはイエス様だとわかっていました。そしてイエス様は13節「パンを取って弟子たち与えられ」ました。これは私たちがこの後に行う、主の晩餐にも引き継がれた文言です。イエス様はこんな風に弟子たちに現れたのです。

この食事は、これまで繰り返した食事と同じように、弟子たちの心を癒し、励ます食事だったでしょう。弟子たちは、前を向いて生きるようになりました。そして他者を愛しなさい、仲良くしなさいという教えをもう一度思い出したでしょう。そして15節以降では愛とは何かを考えるエピソードが続きます。

今日初めての方に伝えたいのは、キリスト教を身近に感じて欲しいということです。神とか復活とか、難しく自分の生活と全く遠いことのように感じるかもしれませんが、本当は親しみやすいものです。イエス様は飯にしようと言って親しみやすく弟子たちに現れました。キリスト教は本来このようにすべての人に親しみやすいものです。

さて今日の個所から私たちが仲良く平和に前向きに生きるヒントはどこにあるでしょうか?生きる支えになる教えはあるでしょうか? 一つは不思議な事ですが、死ですべてが終わるのではないということを教わります。イエス様の死は復活と言う続きがあったのです。それは悲しみが悲しみで終わらなかったということです。弟子たちは悲しみのうちにイエス様と出会う前の生活に戻っていました。しかし悲しみは悲しみで終わらなかったのです。聖書によればどんな悲しみにも、いつか終わりがあるということが指し示されています。それが前向きに生きるヒントです。

まだまだ生きるヒントがあるでしょう。イエス様は私たちに困難を乗り越える力をくれるということも言えるでしょう。弟子たちは全く魚が獲れずあきらめてしまっていました。しかしイエス様は、もう一度チャレンジするように言います。このように私たちは聖書から押し出されて、もう一度とチャレンジする力をもらいます。イエス様の教えから力が与えられ、あきらめず、もう一度網を下すようなチャレンジをする生き方が私たちには与えられるでしょう。

そして何より共に食事をすることを大切にするということも生き方のヒントでしょう。悲しみの時、寂しい時、誰かと一緒に食事をすることが、イエス様の大事にした行動です。悲しむ人、寂しい人がいたら一緒に食事をすることが大事です。一緒に食事をすると、その人に生きる力が湧いてくるのです。教会で共に食事をすることを愛餐と呼ぶように、共に食事をすることは互いに愛し合っていること、大切に思い合っていることを表す行動です。食事を共にすることはその人との絆、個人的な関係を造るのです。その食事によって生きる力が湧いてくるのです。私たちは共に食事をすることをもっと大事にしてはどうでしょうか?食事で互いが大切であることを確かめ合ってはどうでしょうか。それも生き方のヒントです。

イエス様は差別を超えるために、様々な生き方の教えを伝え、励ます場所として、共に食事をしました。私たちはこの後の主の晩餐で、そのイエス様の教えを思い出し、教会の仲間同士や、1週間関わる人たちと互いに愛し合うということを確認します。

私たちはこのように、聖書から生きるヒントをもらい、みなさんと一緒に歩みたいと思っています。毎週ではなくとも、少しずつ、この礼拝に参加してみてはいかがでしょうか。生きるヒントを実践してみてはどうでしょうか?教会の食事に加わってみてはいかがでしょうか?イエス様から生きるヒントを受け取ってください。みなさんの新しい生き方が始まることをイエス様を通じて、神様にお祈りをします。

 

 

【全文】「悲しむ人々は幸いである」ヨハネ20章1~18節

みなさん、おはようございます。今日はこうしてイースター礼拝を共にできる事、主に感謝します。今日もこどもたちと共に、声を聞きながら礼拝をしましょう。

今日は3月最後の日です。3月と4月は様々な出会いと別れがある季節です。教会では受難節として聖書の十字架の場面を見て来ました。今日はイエスとの別れを体験した女性の物語です。その出会いと別れを見てゆきたいと思います。

誰かとの別れは人の心に大きな影響を与えます。大きな心の負担になります。その別れをすぐに受け入れられる時もありますが、長く引き、引きずるときもあります。ずっと心の中に重たく残り、昔のことにできないときがあります。悲しみの深さは、その時々によって違います。別れた人との関係性の深さや、お別れの仕方によって、悲しみの深さは違います。別れをしっかりと言えた、やりきったと思える別れは受け入れやすいものです。でもしっかりと言葉を交わすことができなかった別れ、突然の別れは受け入れるのに時間がかかるものです。それでも人それぞれのペースで、少しずつ別れを受け入れてゆきます。受け入れ方やスピードは人それぞれです。周りの人は前を向いているのに、どうしてか自分だけが置いて行かれるように、悲しみが続き、立ち上がることができないのかと思う時があります。頭では死では終わらない。また会えるとわかっています。悲しんでばかりではいけない、前を向いてゆかないといけないとわかっています。でも悲しみがあふれて止まらない時があるのです。

神様はそのような別れと悲しみの時、どのように、私たちと共にいて下さるのでしょうか。神様はきっと悲しむなと言わないお方です。人間は他人や自分自身に、いつまで悲しんでいるのか、そろそろ前を向けと言います。神様を信じて、これ以上悲しむなと押し付けます。でもきっと神様は違でしょう。神様はそのような前向きさを押し付けないお方です。神様はそっと悲しむ者のそばに共にいてくださるお方です。悲しむ者にこそ現れ、そばにいて下さるお方です。ここにいると伝えて下さるお方です。そしてゆっくりと悲しみとは違う方向へと導いてくださるお方です。神様はこのように、悲しむ人々に幸いを約束してくだいます。神様は涙から幸いへ導いてくださるお方です。今日は悲しみと共にいてくださる神様の姿を見たいと思います。

 

 

ヨハネによる福音書20章1~18節をお読みいただきました。イエス様は十字架で殺されてしまいました。それは無実の罪でした。若い人の死でした。残酷な死でした。突然の別れでした。心の支えだった人との別れ、尊敬する人との別れでした。それは、もっとも受け入れるのが難しい、もっとも受け入れるのに時間がかかる別れでした。弟子たちはとらえられる直前まで一緒にいて、食事をしていました。でも捕えられてからは、知らないと嘘をついて逃げました。それは最悪の別れ方でした。弟子たちはその後、自分も捕まるかもしれないということに怯え、隠れていました。弟子たちはその死にあたって自分を責めたでしょうか?自分の弱さを責めたでしょうか。

その弟子たちの中にマグダラのマリアという女性がいました。マリアはガリラヤからずっとイエス様に仕え、共に旅をしてきました。彼女はもともと、七つの悪霊が取りつた人でした。イエス様の力によってその悪霊が追い出され、イエス様に従う様になりました。古くから一緒にイエス様と共に、互いに愛しあうことを伝える活動をしていました。マリアたちは強い意志を持っていました。他の弟子たちが逃げ惑う中、最後まで裏切らず、逃げずに従ったのです。そしてイエス様の十字架を最後まで見届けました。福音書のすべてに、マリアが見届けたとあります。

しかし一方でそれはマリアにとって、大きな心の負担になったはずです。マリアは残酷な十字架を見なければいけなかったのです。マリアはイエス様の無残な死に方を直接見てしまいました。痛み、苦しみ、渇き、流れる血、その姿をすべて見て、受け取ってしまったのです。きっとマリアはそれに強い衝撃を受け、それはトラウマになったはずです。彼女はそのようにイエス様の最も近い弟子であり、十字架の姿を見てしまった一人でした。きっとイエス様の死は、マリアにとって他のどの弟子よりも衝撃的で、悲しみの深いものだったでしょう。その衝撃と悲しみは非常に深かったはずです。

1節には週の始めの日、彼女はまだ暗いうちにイエスの墓に行ったとあります。彼女はきっと悲しみが尽きなかったのでしょう。悲しみが深く、大きく、受け入れることができず、体が勝手に墓へと向かったのです。しかし彼女は墓で、イエス様の遺体がないことに気づきます。彼女は遺体がどこに置いてあるのかわからないと混乱をします。彼女は深い悲しみの中で何とか死を受け入れようとしていました。しかしその体がなくなって、また死を受け入れることができなくなってしまいます。「どこに置いてあるかわからない」それは彼女の気持ち自体もそうだったのでしょう。彼女は自分の悲しみをどこに置いたらよいかわからなくなってしまったのです。彼女はどのように悲しんだら良いか、どのように心の整理を付けたらよいかわからなくなってしまったのです。11節、マリアは墓の外で立ったまま泣いたとあります。これは彼女の感情をよく示しています。どのように受け止めたらよいかわからず、立ち尽くし泣いたのです。

他の弟子たちは家に帰ってしまいました。イエス様の死を他の弟子たちがどう受け入れたのかはわかりません。案外すんなりと受け入れたのでしょうか。どれほどの悲しみがあったのかは、外側からはわからないものです。ただきっとマリアこそ誰よりも深く傷つき、悲しんでいたでしょう。もっとも悲しみ、涙のとまらないマリア、そのマリアにイエス様は一番はじめに現れました。神様はこのように悲しむ者のもとに現れるのです。悲しみを受け入れた先に神がいるのではありません。深い悲しみの底に、もっとも悲しみの深いさなかに神様は現れてくださるのです。イエス様はそっと現れます。14節マリアが後ろを振り向くとイエス様がいたとあります。いつからそこにいたのかわかりません。でもイエス様はきっと、ずっと涙する者のそばにいました。悲しむ者と共にいました。それまでマリアは後ろに誰かがいることに気づいていませんでした。しかしイエス様はずっとそばにいました。一番悲しみの深い人と共に、イエス様はいました。イエス様はなぜ泣くのかと聞きます。きっとそれは、もう泣かなくていいという声です。私がずっと一緒にいるのだから、泣く必要はないという意味の言葉です。

15節マリアは最初それがイエス様だとは思わなかったとあります。まだ彼女はイエス様が共にいることに気づいていません。彼女がそれに気づいたのは、イエス様が「マリア」と彼女の名前を呼びかけた時でした。イエス様に自分の名前を呼ばれて、それがイエス様だと気づいたのです。それはまるで羊と羊飼いの様です。羊が自分の羊飼いの声を聞きわけるように、マリアはイエス様の声を聞き分かることができました。そしてイエス様は羊飼いの様です。1匹の迷った羊飼いを探すように、マリアの元に現れたのです。

17節イエス様は私にすがり続けてはいけない、兄弟たちに伝えなさいと言います。イエス様は突き放すようです。でもそのようにしてマリアは立ち上げられてゆきます。イエス様はそのように、マリアをもう一度仲間たちの元に派遣してゆくのです。そして彼女から全世界へと復活が伝えられていったのです。

今日の個所をからどんなことを考えるでしょうか。奇跡の復活を果たしたイエス様というイメージも大事かもしれません。しかし今日は、神様はこのようにして、悲しむ者と共にいるということに目が向きます。神様はこのように悲しむ者と、もっとも悲しむ者と共にいて下さるお方なのです。そして神様は悲しむ者にとっては一見わからないような形で、すぐ後ろに、共にいて下さるお方なのです。そして神様は迷った羊を探す羊飼いのように、悲しむ者に声をかけてくださいます。名前を呼んでくださいます。一緒にいるよ、だから立ち上がって、前に進もうと言ってくださるのです。そしてもう一度私たちを仲間のもとに派遣します。私たちはイエス様の復活を伝える、イエス様が悲しむ者といつも共にいることを伝える、その愛を伝えるために、派遣されてゆくのです。

イエス様が復活したとは、そのようなことを言うのではないでしょうか。復活とは死が無くなることではなく、その悲しみの中にイエス様が共にいて下さったことではないでしょうか。悲しみの中に主が共にいて下さることが、主が復活されたということなのではないでしょうか。

私たちの人生でも、きっとそのようなことが主の復活が起こるはずです。私たちの人生には悲しみの時、苦しい時、神に見放されたような出来事に出会う時があります。なかなか立ち直れないかもしれません。でも神様は復活し、悲しむときに私たちと共にいて下さいます。神様は悲しむ人の後ろにそっと復活して下さいます。振り返ると、すぐそこに復活した主が私たちと共にいて下さいます。私たちはそのことを覚えていましょう。そして悲しみと出会う時、振り返るようにしましょう。神様は復活し、私たちと共にいて下さいます。だから泣く必要はない、前を向いて歩こうと、そのように私たちを派遣してくださいます。

新しい1年が始まります。幸いが多くある1年に期待します。そして悲しみもあるでしょうか。きっと神様は悲しむ時に共にいて、私たちを幸いへと向けて導いてくださるお方です。その復活を信じ、歩みましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「愛を成し遂げる力」ヨハネ19章28~30節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。先日の総会では「こどもの声がする教会」という標語をみなさんと確認しました。私たちは大人とこどもが共に福音を分かち合うために、一緒に礼拝をします。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもの声がする礼拝をしましょう。大人もこどもも福音を分かち合い、誰もが大切にされる教会になりましょう。

今週は教会の暦で受難週です。イエス・キリストの十字架を特別に覚える1週間です。今日はイエス様の地上の生涯の最期の時を見ます。

人間は誰しも自分の人生には終わりがあるのだということを知っています。だから悔いのない人生、やり残したことのない人生を送りたいと思うものです。でも本当にやり残しの無い、悔いのない人生など送れるのでしょうか。それはとても難しいことでしょう。人生は悔いが残ることばかりです。やり直したいことばかりです。中途半端なことばかりです。私はこの人生で何か一つでも成し遂げることができたのだろうかと思うことばかりです。イエス様は十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取ったとあります。今日はこのことを考えてゆきたいと思います。

まずイエス様の架けられた十字架刑について考えます。当時から様々な処刑方法がありました。他の個所では洗礼者ヨハネは斬首刑で殺されたとあります。そしてイエス様は十字架刑です。他にも様々な処刑方法がありますが、十字架刑は様々な処刑方法の中で最も残酷な刑でした。それはあまりに残酷な方法であったために一般市民に科すことが禁止されていたほどです。この刑に科されたのは、特に権力に抵抗した者です。政治的な反乱者がこの刑を科されました。

十字架刑は広げた手に釘が打たれます。手を広げたままだと、息が出来なくて苦しいのです。手足を動かそうとすると釘が痛みます。通常はすぐには死に至りません。徐々に体力が奪われ、窒息死したり、手足からの出血多量で死んでゆきます。死ぬまでにとても時間がかかる刑です。何日も、何週間もかかる、なるべく苦しみが長く続くようにされた刑です。それは大通り、人からよく見える場所で行われました。見せしめのためです。権力に反抗した者はこうなるぞと、人々に恐怖を与えるために、二度と権力に反抗しないように、丘の上や大通りなど人々の良く見える場所で行われました。死んでしまった後も、遺体の埋葬は禁止されました。十字架から降ろすことも禁止されていました。遺体は鳥や野獣のエサとなりました。埋葬する遺体さえも残らない刑だったのです。これは死刑の方法の中でも最もおぞましいものとされ、人々からは十字架という言葉を口にすること自体がはばかられたと言います。イエス様がかかったのはそのような刑でした。処刑される者は、苦しみ、呪いの言葉を口にしながら死んでいったと言います。

しかしヨハネ福音書では、イエス様が苦しみの言葉を発した記録はほとんどありません。これほどまでに残酷な方法で殺されているのに、苦難の言葉がほとんどないのです。おそらくそれは「渇く」という言葉だけです。その苦しみは「渇く」という言葉にしかならないほどだったのでしょうか。そしてイエス様はなんとこのような状況で「成し遂げられた」と言いました。この言葉は理解できないことばです。激しい痛みの中での「成し遂げられた」という発言にはどんな意味があるのでしょうか?このような苦しみの中で一体何が成し遂げられたというのでしょうか?今日は「成し遂げられた」という言葉に注目をしたいと思います。

 

 

「成し遂げる」という言葉は完成する、完全になる、まっとうするという意味の言葉です。物事を最後までやりきる事を意味します。また、やり切って成功することを意味します。自分のできることをすべてやり切っても、失敗することがあります。がんばっても結果がついて来ない時があるものです。そのような時には、成し遂げるという言葉は使いません。頑張ったうえで、さらに成功した時に「成し遂げる」という言葉を使います。

イエス様は十字架上で「成し遂げられた」と言いましたが、イエス様は一体何を成し遂げたというのでしょうか。イエス様の宣教の活動はたった数年だったと言われます。この活動は数年で終わってしまいました。弟子たちからすればイエス様にはまだまだやって欲しいことがあったはずです。これからだと思ったはずです。地上の人々にもっと伝えなければならないことがあったはずです。伝えきれなかったこと、やり残したことは非常に多かったはずです。その教えはあまりに短すぎて、今も謎が残ったままです。イエス様にとっても、弟子たちにとっても志半ばでの十字架だったはずです。しかし、それにもかかわらずイエス様は最後に「成し遂げられた」と言っています。まったく謎の言葉です。

この状況で、何が成し遂げられたというのでしょうか。成し遂げ「られた」の「られた」に注目をします。そうです、これはイエス様が「私は成し遂げた」と言った言葉ではありませんでした。イエス様は成し遂げ「られた」と言ったのです。それは自分で「成し遂げた」のではなく、誰かによって、何かによって成し遂げ「られた」ものだったのです。

この言葉によれば、イエス様は自分自身で何かを成し遂げたのではありません。それはイエス様以外の誰かの力によって「成し遂げられた」ものだったのです。それを成し遂げたのは神様でしょう。神様がイエス様を通じて、成し遂げたのです。イエス様はそのことを「成し遂げられた」と言ったのです。

では神様はここで何を成し遂げたのでしょうか。神様はイエス様の十字架を通じて何を成し遂げたのでしょうか。「成し遂げられた」とはイエス様のここまでの地上の歩みが指し示されています。神様はイエス様の地上の生涯を通じて、愛に生きることを教えました。共に食事をし、仲間になるように教えました。隅に追いやられた者に目をとめるように教えました。病の人を訪ね、励まし、癒しました。そのように神様はイエス様を通じて互いに愛し合うことを教えました。イエス様は神様から与えられた、その使命を生きました。

そして十字架の死に至るまで、他者を愛し続けました。多くの人が呪いの言葉を並べる十字架において、沈黙し、神を求め続けました。死を避けるために、神様の使命から逃げることができました。しかしイエス様は死に至るまで、他者を愛し続けました。それが神様によって成し遂げられたものだったのです。どんなにつらい時も愛に生きる事、自分の思い通りにいかなくても愛すること、死ぬその時まで他者を愛すること、それを今、イエス様は神様の力によって成し遂げたのです。神様から愛を成し遂げる力を頂いて「成し遂げられた」のです。

イエス様自身にもいろいろな思いがあったかもしれません。私はまだ何も成し遂げていないと思ったでしょう。もっと生きたいと思ったでしょう。弟子たちもそう思ったでしょう。どうしてこれからだという時に終わってしまうのかと思ったでしょう。もっと生きて欲しかった、もっと教えを聞きたかったと後悔をしたでしょう。

しかし、イエス様は「成し遂げられた」と言います。人の願いは成し遂げられずとも、神様の願いは成し遂げられたのです。弟子の願い、イエス様自身の願いではなく、神様の願いが成し遂げられたのです。イエス様はこのようにして十字架を引うけ、息を引き取ってゆきました。

 

 

この物語を聞いて、私たちはどう生きるでしょうか。私たちの人生には苦難があります。言葉にできるもの、言葉にできないもの、様々な苦難があります。しかしきっと神様は言葉にしてもしなくても、私たちの苦難をわかっていてくださるでしょう。神様は私たちが苦難の中で、神様の導きを求め渇くことをわかってくださっているでしょう。おそらく私たちの人生で、自分の力で成し遂げることは多くありません。多くの事は成し遂げることができず不完全です。そして私たちが成し遂げられることは神様の前に小さなことです。でも私たちにも神様によって「成し遂げられる」ことがあるでしょうか。私たち自身ではではできないこと、私たち自身では耐えることのできないことがあります。でもそこに神様から成し遂げる力と計画をいただいて、成し遂げられることはあるでしょうか。私たちの力を超えて、神様が成し遂げられることがあるでしょうか?きっと私たちを通じても神様が「成し遂げられる」計画があるはずです。それは私たちの思いを超えて実現するものです。

きっと神様が成し遂げようとしているのはイエス様の人生においてもそうだったように、生涯を通じて、神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕えることです。それが、神様が成し遂げようとしている計画です。神様はその計画を成し遂げるために私たちに力をくださいます。神様が苦難の時も愛に生きる力を与えて下さいます。どんなつらい時も、神様は愛に生きる力を与えて下さいます。どんなに愛せない時も、神様は愛することを貫くための力を私たちに与えて下さいます。そのようにして神様は、私たちを通じてその計画を成し遂げるお方です。

それぞれの歩みに神様の力が与えられるように祈ります。私達では到底成し遂げることができないことを、愛を、神様は成し遂げて下さいます。その愛を成し遂げる力を私たちも頂きましょう。私にはできないけれど、神にはできる、愛を成し遂げる力を神様から頂き、今週も歩みましょう。お祈りします。

 

【全文】「がんばれ 子ロバ」ヨハネによる福音書12章12~15節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。またこどもたちと共に礼拝できることも嬉しいです。こどもたちの声を聞き、その存在を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。

私たちの教会では「こひつじ食堂」という名前のこども食堂を開催しています。ここは貧しい人が集うためだけの場所ではなく、地域との交流ができる食堂です。誰かと出会うことができる食堂です。毎回200食近く作り、1食200円で提供をしています。たくさんの人が利用していますが、それを支えているのは、たくさんのボランティアさんたちです。ボランティアの登録は60名以上、そのうち毎回20名以上の方がボランティアとして加わってくださっています。毎回のボランティアの半分以上は教会員ではない、地域の方です。先日からは9歳(小学3年生)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。教会に説明を聞きに来た時はお母さんと一緒で、とても不安そうな表情でした。でも「やってみる」と言ってボランティアをはじめてくれました。

初めはお母さんと一緒に参加して、徐々に慣れてくれればいいかなと思っていましたが、始めるとすぐに楽しくなって、もうお母さん帰って大丈夫と言って、一人で加わってくれています。今では人一倍、立派に手伝ってくれています。大人の間違いを指摘して、大人顔負けの働きをしています。その日の最年少ボランティアは9歳、最年長ボランティアは88歳でした。こひつじ食堂は9歳と88歳が力を合わせる食堂です。こどもがボランティアに加わったことで、いろいろな良い影響が出ています。雰囲気が変わってきています。まず他のボランティアさんが刺激を受けています。自分は運ぶ、自分は作るということに一生懸命だった人が、周りで手伝っている子どもたちを見回すようになりました。自分の作業以外に気を配るようになりました。そして、すごいね、すごいねと、他者をほめながらボランティアする様になりました。大人たちだけよりよい雰囲気かもしれません。他のこどもにも影響があり、私もボランティアをしたいというこどもも出て来て、7歳(1年生)のこどもも一緒に働いてくれました。

こひつじ食堂の利用者にも変化があるようです。自分のこどもと来た母親が、自分のこどもより小さい子がお料理を運んで来るのに、目を丸くしました。早く私の料理を持って来てほしいと思っていた大人も、こどもが運んでいるのならしっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て、食べ終わったこどもが自然と自分で食器を下げるようになりました。嬉しい変化です。その食事の風景を見て、これが本当に平和というものなのだなと感じました。

最初はどのように教会がこどものボランティアを受け止めることができるかどうか、心配でしたが、受け入れて本当に良かったと思います。教会のこども食堂が、こどもが活躍できる場所となったことをうれしく思っています。そしてそのことから様々なことを教えられています。

神様はこのように、こどもを用いて、大きな変化を起こして下さるお方です。あるいはこどもにかかわらず一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。神様は私たちに教えて下さっています。神様はそれぞれが活躍できる場所を備えて下さるお方です。神様は共に喜び、互いにすごいねと励まし合うことの大切さを教えて下さっています。神様は待つことの大切さや、平和を私たちに教えてくださっています。

今日の聖書の個所にもこどもが出てきます。人間のこどもではないですが、ロバのこどもです。今日はこの子ロバが大活躍する姿を見てゆきたいと思います。そこから私たちは何を学ぶことが出来るでしょうか?

 

聖書を読みましょう。ヨハネによる福音書12章12~15節をお読みいただきました。イエス様は互いに愛し合いなさいということを、町々村々を周って教えていました。戦争と暴力と不正がはびこる時代です。何よりも力が重要だった時代です。その時代の中にあってイエス様は愛し合うことを言葉とそして行動で伝えました。今日も愛し合いなさいということをひとつの行動で示しています。

イエス様はエルサレム、イスラエルの中心都市を訪問します。戦争ではなく、力ではなく、愛することを訴えたイエス様です。多くの群衆がその教えを支持していました。イエス様は「ホサナ(主よ、救ってください)」という大きな歓声を受けながらエルサレムの街に迎えられたのです。

今日注目したいのは、乗っていた動物です。イエス様は子ロバに乗っていたとあります。当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力の象徴であり、最新兵器でもありました。軍事力の象徴です。今で言うところの戦車と言えるでしょう。馬に乗って、悠々とエルサレムに来たらかっこいいです。馬に乗ることこそ、王様ふさわしい姿でした。

しかしイエス様は馬には乗りませんでした。その代わりにロバに乗ったのです。馬とは対照的です。ロバは忍耐深く重い荷物を運ぶ、地味な動物です。さらにロバの中でも、小さなこどものロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。ロバは馬よりも歩くのも遅いのです。子ロバならヨロヨロしたでしょうか。でもイエス様は子ロバを選びました。14節にイエス様は子ロバを見つけたとあります。それはイエス様自身が自分が見つけて、自分で選んで、それに乗ることを決めたということです。イエス様は、小さくて、不格好で、力のない動物を選んで、またがったのです。

ここには神様の選びが示されています。神様はどのような人を選ぶのかが示されています。神様は子ロバを選びました。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力の者を選ぶのです。力の強くないもの、こどもやお年寄りなど選びます。選ばれたのはロバの中のさらに子ロバです。神様は小さな力の中の、さらに小さい力しかもっていない者を選びます。それがまさに神様の選びです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方です。

この個所からまだまだ教わることがあります。神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバは馬と比べてかっこ悪い、地味な生き物です。しかも小さなロバに乗ったら、よろよろしたでしょう。子ロバは、みんなの前でよろよろとするのを恥ずかしいと思ったでしょうか。子ロバはもっと強くなりたいと思ったでしょうか。何とか馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。

私たちに置き換えて考えるとどうでしょう。私たちが子ロバだったら、子ロバなのになんとか馬になろう、馬に見えるようにしようと振る舞ったでしょうか。かっこつけたでしょうか。でも神様のもともとの選びはそうではありません。神様は子ロバを選ぶのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。だから私たちはかっこわるいままでいいのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。かっこわるいままで生きるのでよいではないかと、ここから教えられます。

人々がホサナと喜びの声をあげた様子も想像します。この言葉は群衆からイエス様に向けられた歓迎の言葉です。でも民衆の視線と歓声はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。イエス様の姿、それも小さなロバにのったイエス様の姿が、人々の心をとらえたのです。あんな小さなロバがイエス様を載せている。それならば私にも何かできるはずだと思ったでしょう。大きな変化があったでしょう。私を子ロバに置き換えてこの話を読む時、この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。運動会で転んで、ビリだけど、大歓声で応援されるように、頑張れ子ロバという思いがこの群衆の中にはあったのではないでしょうか。

小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしている。私はその子ロバをいとおしく感じます。イエス様のそのような選びを嬉しく思います。きっとその光景こそ、力と暴力の反対の平和があったのではないでしょうか。今日はイエス様とイエス様を背中に乗せた子ロバの話を見ました。私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。

私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。小さな力で前に進もうとする、その姿をみんなが応援する、そんな風景を平和と呼ぶのでしょう。小さな力でも一生懸命なあなたの姿が平和へとつながってゆくでしょう。私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。ホサナ、ホサナ、私たちにそんな応援の声が聞こえるはずです。

私たちの互いの1週間の歩みを祈りあいましょう。互いに小さな力だけれども、神様が大きく用いて下さるように祈りましょう。愛し合う1週間、小さな力に目をとめる1週間を歩みましょう。お祈りします。

 

【全文】「原発と命は共存できない」ヨハネによる福音書12章1~8節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること、主に感謝します。こどもたちの声と足音を聞きながら共に礼拝をしましょう。

 

明日は3月11日です。東日本大震災から13年が経過します。今日は東日本大震災を覚えて礼拝をしましょう。私は昨日「さよなら原発ひらつかアクション」という市民活動でデモ行進をしてきました。多くの人が原発反対のデモ行進に参加するために集まりました。これは平塚市内で最大のデモ行進です。特に今年は能登半島沖地震の募金も一緒に行われました。被災地のこと、原発の課題を覚えて礼拝をしたいと思います。

 

能登半島の震源地近くの過疎の町、珠洲市には以前に原発が作られる計画がありました。その予定地だった場所は今回の地震で数メートル隆起しました。もし計画通りその真上に原発があったら、どうなっていたでしょうか?福島よりもさらに深刻な原子力災害になっていたはずです。助けに行くこともできない、逃げることもできない地で原子力災害が起きたら、国はどうやって命を守るつもりだったのでしょうか。原発が作られる恐ろしさを改めて感じています。

 

原発反対の活動をしているとなぜ“牧師が”原発に反対するのかよく聞かれます。宗教と原発は無関係だとよく言われます。ですが実際には宗教者として原発に反対をしている人は非常に多くいます。たとえば珠洲市の原発の反対運動の中心的存在だったのは、地元のお坊さんでした。地元の宗教者・お坊さんが先頭に立って原発に反対をしたのです。珠洲市の原発反対は宗教者の役割でした。

 

珠洲市では当初、住民のほとんどが原発建設に反対していました。しかし電力会社が来て、猛烈な接待をします。近隣住民はタダで飲み食いさせられ、原発視察名目の海外旅行に何度も連れてゆかれます。芸能人を呼んだコンサートがあります。最後は住民がもう飽きて参加しなくなるほど接待漬けにするのです。ある人は原発予定地の土地を貸して、億単位の収入を得ます。お坊さんはドーンと新しいお寺を建てるから賛成してくれと懐柔されます。当初反対していた住民も「カネ」の力の前に、一人また一人と賛成に回りました。これが原発の作り方です。

 

そんな珠洲市で、ある一人のお坊さんが立ち上がり、原発反対の運動を起こしました。「危険な原発と命は共存できない」と原発に反対をしたのです。住民たちに呼びかけ、道路に座り込み、お念仏を唱えながら原発反対を訴え続けたのです。その努力もあり2003年に原発建設の中止が発表されました。今このお坊さんは住民から、原発反対を貫いて、私たちを救ってくれたと大変感謝されているそうです。

 

「あまりに危険な原発と命は共存できない」それが多くの宗教者の共通した訴えです。カネの問題で考えるなら、原発を推進した方がよいのでしょう。一見、安く見えるからです。地元と自分が潤うからです。廃棄物の問題を考えないのなら、よいでしょう。今だけを考えたら、カネだけを考えたら、自分だけを考えたら原発がよいのでしょう。今だけ、カネだけ、自分だけ、その先に原発があります。

 

しかし、宗教者には今だけ、カネだけ、自分だけで物事を判断してはいけないと訴える義務があります。宗教者は何よりも命の大切さを判断基準にします。だからあまりに危険な原発に反対をしてます。原発があまりに危険で、そこから生まれるカネより命が大事だから、原発反対を訴えています。今日はカネより大切なものがあることを聖書からみていきたいと思います。聖書を読みましょう。

ヨハネ福音書12章1節~9節をお読みいただきました。マリアはたくさんの香油をイエス様の頭に注ぎました。それは売れば300デナリという大変高価な香油でした。私たちから見てもそれは、お金をかけすぎです。どうしてそれにそんなにお金をかけるのかとびっくりする金額です。コスパ(コストパフォーマンス・費用対効果)が悪いです。彼女は大変コスパの悪い行動にでます。イエス様の頭に香油をすべて注いでしまったのです。

 

この女性はなぜこのような大金をイエス様に使ったのでしょうか。ある人はどうしてこの女性はこのような高価な香油をこれほどたくさん持っていたのかと想像しました。女性がこんな高価なものを自由に使えるとしたら売春でもしていたに違いないという想像も生まれました。彼女が香油をどのようにして手に入れたのかはわかりませんが、女性が大金をもっていたら売春で稼いだお金と決めつけるのも良くありません。

 

おそらく彼女は少しずつ貯めていたのでしょう。日々の稼ぎから少しずつ、500円玉貯金をするように、何十年もかけて300デナリ分、300日分の給与に相当する香油を貯めたのです。彼女は必死に貯めました。仕事でつらいことがあっても、悲しいことがあっても耐え、少しずつ貯めました。それはまさに彼女の汗と涙の結晶です。血と涙の結晶です。自分が頑張った誇らしいものでした。彼女の不屈の精神の塊でした。彼女は誰よりもお金の大切さを知っていたはずです。誰よりもお金を稼ぐ苦労を知っていたはずです。きっと彼女はユダよりもお金の大事さを知っていたはずです。

 

しかし彼女はその香油を一度に贅沢に、イエス様に使ってしまいました。彼女はあの不屈の油を、誰よりも苦労して集めたあの香油を、今日、イエス様に、一度に、すべて、注いでしまったのです。彼女があれだけ苦労して稼いだお金を、このように使わせるものは何だったのでしょうか?

 

カネにうるさいユダは「それで貧しい人に施しができたのに」と言いました。この発言はまるで評論家の様な、他人ごとの様な発言です。それはまるでインターネットの書き込みのようです。間違っている、もっと有効な手段があるはずだと遠くで騒ぐやり方です。しかしその彼自身の持っているカネは彼が苦労して得たものではありませんでした。それは不正をして得たカネ、苦労せずに得たカネです。それは裏金です。裏金を作っていた人が、人の金のことを「貧しい人に使った方が良い」と言うのに、笑ってしまいます。裏金はパーティーで作られたのでしょうか?その裏金は何に使われたのでしょうか?飲食や、遊ぶお金、賄賂に使われたのでしょうか?ユダはそのように裏金を作り、使ったのです。

 

話を戻します。マリアにこのように油を使わせたものは、一体何だったのでしょうか。何が彼女をつき動かしたのでしょうか。彼女を突き動かしたのは信仰でした。その信仰はイエス様の行動と言葉から生まれた信仰でした。イエス様の行動と言葉が彼女を突き動かしたのです。この人になら自分のすべてをかけてよいと思わせたのです。この油すべてをかけるにふさわしい、この苦労すべての苦労をかけてなお上回るものがあると思ったのです。

 

イエス様の行動と言葉は命を守る、行動と言葉でした。イエス様は罪人とされた人、汚れているとされた人と連帯しました。イエス様は小さくされた命、隅に追いやられた命に目を向けました。それがイエス様の行動と言葉です。マリアはこのイエス様の命への向かい合い方に深く共感をしました。自分のように隅に追いやられ、それでも一生懸命生き、働く、そのような人々に目を向けるイエス様に深く共感をしたのです。その命へのまなざしは何よりも、この集めた香油よりももっと大事なものであると強く思ったのです。だから彼女は目の前にあったあの香油を頭から注ぎました。彼女は大切なことに気づいたのです。イエス様の互いを愛しなさいという教え、命を大切にしなさいという教えに、彼女は従うことにしたのです。そして彼女は全ての油を注ぎかけたのです。

 

私たちはこの個所をどのように読むでしょうか。私たちの世界ではカネは相変わらず私たちを振り回しています。カネが物事の基準とされ、費用対効果が基準とされ、カネこそが正義だと言われます。カネの力で、費用対効果のもとで原発が作られようとしています。その背後では裏金も作られています。

 

この物語はそのようなカネ中心の社会に、生き方に抵抗する物語です。困窮の中でも一生懸命に、あきらめずにお金を貯めている物語です。そしてその人が、せっかく貯めたお金を誰かのために使おうとしている人の物語です。イエス様の命へ向き合う姿勢に強く共感し、行動を起こした人の物語です。イエス様は私たちにもこのような命への向き合い方を求めておられるのでしょう。

 

8節には「貧しい人はいつも私たちと共にいる」とあります。そうです。貧しい人、カネが基準の世界で社会の隅に追いやられた人、カネで危険な原発を押し付けられている人はいつでも私たちのそばにいます。私たちはその人たちに連帯することができます。自分の物と心を惜しみなく使うことができるのです。8節にはイエス様はいつも一緒にいるわけではないともあります。そうです。イエス様はこの後十字架に掛かられて一度は人々の前から見えなくなります。でも、その後に復活をします。イエス様は「いつもいるわけではない」と言いつつ、やはり「いつも私たちと共にいる」お方です。

 

私たちは何に価値を見出し、何を守るかに目を向けたいと思います。私たちにはカネや効率よりも大切なものがあります。何よりも大切なのは命です。イエス様は命の大切さ、平等さを教えています。私たちはその命へのまなざしを何よりも大事にしたいのです。

 

世界には命と共存できないものがあります。特に戦争や差別、不正なカネ、原発と命は共存することができません。私たちは主イエスの教えに従い、命を守る働きをしてゆきましょう。たとえ小さくても効率が悪くても、無駄のように思われても、命が守られる手立てを選んでゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「愛を生き抜いた十字架」ヨハネ6章60~71節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもと共に礼拝をしています。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先月から受難節に入っています。3月末にはイエス様の復活を祝うイースターがあります。今月は十字架と受難をテーマに宣教をしていきたいと思います。

最近の平塚バプテスト教会は人の出入りが増えてきています。礼拝出席人数も増加傾向にあり、大変うれしく思っています。そしてこの礼拝にこどもも来てくれているのがうれしいです。こひつじ食堂も毎回行列ができています。予約が取れないという人も多く、抽選にしたこともありました。教会にそのように人が集うのはうれしいことです。神様の事が少しでも伝わること、私たちの活動や信仰が少しでも理解され、共感され、支持され、応援されることはとてもうれしいことです。

仲間が増えることは大変うれしい事ですが、私たちの教会の目標は、人数を増やすことではありません。私たちは教会員を増やすために活動しているのではありません。私たちがここに集うのは私自身がイエス様に従って生きるためです。私たちは互いを愛し合うためにここに集まっています。私たちはお互いに仲良く生きていくためにここに集っています。互いに愛し合うように教会に集っていると、結果として人が増えるだけです。それも必ず増えるというわけではありません。私たちの目標は互いに愛し合う事です。私たちの目標は人を増やすことではありません。拡がることは善い事です。でも人数が増えれば当然、愛し合うこと、大切にしあうことは難しくなります。私たちはその難しさを覚えておきたいのです。人数を目標とし始めると相手を愛するよりも先に、こちらの一方的な思惑が優先されるようになります。愛し合う事よりも誰かの機嫌を取ったりするようになります。そして人数が減るとその原因や、犯人を捜すようになります。このように愛し合うことよりも、人数を集めることが先だってしまうのです。

私たちは今日、この教会で、そしてそれぞれの場所で互いに愛し合うことができるように、ここに集っています。たくさんの人と愛し合うこと、たくさんの人と大切にしあうことは難しいことです。だから私たちは急いで人数を拡げるのではなく、少しずつ拡がるようにしたいのです。少しずつ、ゆっくりと愛の輪を拡げたいと思っています。教会を大きくすることではなく、互いに愛し合うことがイエス様の教えだったのではないでしょうか。今日は聖書から共同体に多くの人が集まった時、イエス様がどのように行動をしたのかを見てゆきたいと思います。そしてそこで愛を貫いたイエス様の姿を見つけてゆきたいと思います。

 

 

ヨハネ福音書6章60節からをお読みいただきました。この個所の少し前には5000人の給食の場面があります。そのパンの奇跡では5000人以上の人がイエス様と食事をして、奇跡を体験しました。何千人もが一緒に食べることの喜びを分かち合いました。それは時代を経て、主の晩餐へとつながってゆきました。少し前の56節は主の晩餐について語られています。ですから今日の60節からの物語はパンを食べた後の物語です。主の晩餐の後の物語です。この奇跡のパンを食べて、主の晩餐を受けて、人びとはどのように変化したのか、あるいは変化しなかったのかが書かれています。弟子たちが増えて拡がった後の話なのですから、人々はイエス様をますます信じて従ったのでしょうか。しかし今日の個所にはそうは書いてありません。

60節多くの弟子たちがイエス様の話を聞いて「実にひどい話だ」と言いました。一部の弟子ではありません。多くの弟子たちが「ひどい話だ」と言いました。人はたくさん集まったのですが、イエス様の話を理解しない弟子が多かったのです。もうこの人にはついていけない、一緒にいるのは無理、もうこの人の話を聞く価値はないと思ったのです。そして66節には「多くの弟子が離れ去った」とあります。

ここにはイエス様自身が、弟子の拡大に派手に失敗をしている様子が書かれています。あるいは弟子たちの拡大の先には、大きな分裂があったことが書かれています。何千人もが奇跡の食事をし、たくさんの弟子ができました。でもよくよく話を聞いたら多くの人が「ひどい話だ」と言って従うのを辞めてしまいました。これは何を意味するでしょうか。まずイエス様でも人数が増えるとうまくいかないことがあったということです。ここでは何千人もの人が互いに愛し合うことがいかに難しいかということが書かれています。イエス様は最初からそれをわかっていたのでしょう。12弟子と呼ばれる人の中にさえ、自分を裏切り、引き渡す人がいることを知っていました。たくさんの人がいる中で、互いを愛し合うのは難しいのです。大きくなった共同体には愛ではなく分裂がありました。イエス様はそれを悲しんだでしょう。自分が理解されず、離れてゆく人を見て深い悲しみがあったでしょう。

しかし、イエス様は去っていく人たちを追いかけませんでした。引き留めるための新しい説得もしませんでした。自分の方針をもっと人々に受け入れられやすいものと変えるということもしませんでした。これがもし普通の人間なら、もし人数を目標にするなら違う態度になったでしょう。「どうして離れるの?」「どこか嫌だったの?」「どんな方針なら集まれるの?」そう聞いたでしょう。しかしイエス様はそうしません。引き留めないのです。その代わり、イエス様はただ淡々と町を巡ります。そしてこれまでどおりの教えを伝えてゆきます。それぞれの場所で愛し合うこと、大切にしあう事、仲良くすることをまた言葉と行動で教えたのです。

私たちはこの物語をどのように聞くでしょうか。私たちは人が増えることを喜びます。愛し合う共同体が拡がることは善い事です。でも拡がると同時に分裂や離反が怖くなるものです。このとき私たちは何とか離れないように引き留めようとします。でも実はイエス様にはそのような態度がまったくありません。イエス様はただ私が神に従うのみです。イエス様にとって周りの人がついてこようが、ついて来なかろうが関係ないのです。周りの人がどう思っても、ひどい話だと言っても関係ないのです。イエス様は神様に従うことを貫きました。周囲からひどい話だ、離れ去ろうと言われても、その教えは変わりませんでした。

その先にあったのは何でしょうか?それは十字架です。このまま活動を続ければ、人々の反発を招き、殺されてしまいます。方針転換が必要です。しかしイエス様は方針転換をしないのです。自分が十字架に架けられようが、どうしようが関係ないのです。ただ自分は神様に従うということを貫きます。他者を愛することを貫きます。互いに愛しなさいと教え続けます。相手が離れるか、離れないかを一番大事なこととしたのではありません。むしろ周囲の評価を気にしなかったと言えるでしょう。一人でも神様に従うと思ったのです。周りがどんな態度であったかは問題にしませんでした。誰かが自分を離れようと、誰かが自分を無視しようと、誰かが自分を殺そうとも、関係ありませんでした。ただ自分が神様に従うかどうか、自分が愛するかどうかだけが重要なことだったのです。

そしてご存じのとおり、この後イエス様は裏切られ、十字架に架けられ、死んでゆきます。その途中でも一切の方針転換はありませんでした。ただ愛するということだけ、無条件に愛することを貫いて死んでゆきました。愛を生き抜いた先には十字架があったのです。十字架はこのことを示しています。周囲の反応に振り回されず、愛を貫いた証しがこの十字架です。

私たちの生活に目を向けます。私たちは神様・イエス様ではありません。ですから他人の意見をよく聞くことは大事です。しかし一方で私たちは他者の態度に振り回されてしまうことばかりでもあり、それに悩みます。他者の態度や行動に傷ついたり、落ち込んだりすることばかりです。きっと本当はイエス様もそうだったのでしょう。人が去ってゆくことを気にしないことはできなかったはずです。イエス様は弟子たちが離れ、裏切り、殺されことを激しく悲しんだでしょう。しかしイエス様が方針を変えずに貫いたことがあります。それは愛することです。その先には十字架があったけれども、愛すことを貫きました。

私たちはどう生きるでしょうか。私たちは他者との関係において一喜一憂することがあります。私たちにはうまく関係が作れた時、うまく関係が作れなかった時があります。でもその時も私たちは愛し続けましょうか。相手を大切にし続けましょう。イエス様のように離れられても、裏切られても、神様に従い、他者を愛することを貫きましょう。それは難しいかもしれません。でもその時思い出したいことは、イエス様は人が離れる時も、裏切られ、攻撃される時も、神様に従い、愛することを貫いたということです。イエス様は周りがどうこうは関係なく、ただ神様の愛を貫いたのです。

私もそうありたいと思います。私たちの日常には離別、裏切り、関係の破綻があります。でもその中で、私は神様の愛をどう生きてゆくかが問われます。そこで問われているのは相手の愛ではなく私の愛です。私がどう生きるか、私が神様の愛をどう生きるかが問われています。私たちの1週間もこのことを覚えて生きてゆきたいと思います。

この後主の晩餐を持ち、パンを食べます。私たちは食べた後、どう生きるかが問われます。これは神の愛を受けて生きる象徴です。このパンを食べ、どんな時も他者を愛しましょう。お祈りします。

 

【全文】「聖書の女性指導者」出エジプト記15章19~21節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること主に感謝します。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。先週と今週はジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えています。

先日、日本バプテスト連盟の総会が行われましたが、アメリカの南部バプテスト連盟と日本のバプテスト連盟との関係について話題になりました。もっとアメリカ南部バプテストとの交流をした方が良いのではないかと意見があり、それに対して慎重に対応したいという意見が交わされました。日本のバプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。この平塚教会がまさにそうです。74年前おそらくこの土地のすべてと会堂建築の費用のほとんどが献げられました。全国に対してはどれだけ大きな支援があったのかわかりません。本当に感謝なことです。もちろん土地建物だけではなく、多くの宣教師が日本や平塚を訪れていました。人的な支援も多くありました。

一方2000年頃から、日本のバプテストと、アメリカの南部バプテストとの関係は大きく変わってゆきました。南部バプテストが信仰の方針を大きく転換したからです。2000年のアメリカ南部バプテストの信仰告白には「聖書には女性が牧師になることは認められていない」とはっきり書かれました。つまり女性は牧師になってはいけない、それが聖書の教えだと明言したのです。もちろん当時日本にはアメリカから派遣された女性の牧師がいました。その人たちはどうなったのかというと、全員帰国です。あるいは日本で活動を続けるならこの「聖書には女性が牧師になることは認められていない」と書いてある文書にサインをするように求められました。女性牧師たちは、日本の牧師を辞めて、アメリカに帰り、男性のサポートをするように求められたのです。これに従わない人は解雇されました。

アメリカから来た一部の女性指導者たちは、日本に残って宣教を続けることを決意しました。しかしそれは大変大きな決断でした。それは、本国の自分を育てたグループとの決別を意味しました。それは本国に居場所を失うことを意味しました。そして今までアメリカ南部バプテストから給与をもらっていましたが、職も失うことにもなりました。もう戻ることはできない選択でした。それは本当にたくさんのものを失う選択でした。しかしそれでも少数の女性指導者が日本に残り活動を続けました。彼女たちの信仰を本当に尊敬します。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。数年前にはある有名な教会が女性を牧師として迎えたところ、教会ごと除名処分となりました。今もアメリカではこのようなことが行われています。私たちの親の様な存在であるアメリカ南部バプテストの、このような信仰の選びを大変残念に思っています。ちなみに今も時々、アメリカの南部バプテストから宣教師が日本に来ているようです。しかし私たちは彼らと慎重に関係を持つべきだと考えています。

一方、今、日本のバプテスト連盟では女性が牧師になることについて、あからさまに妨げられることはありません。それは性差別として禁止され、批判されます。しかし、ある統計では、女性を牧師として選ぶ教会は財政規模が小さいという結果が示されています。つまり小さい教会には女性牧師が多いということです。反対に大きな教会には男性牧師が多いということです。大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象は、何を意味しているのでしょうか。日本でも、大きい教会は男性を呼ぶことができて、小さい教会は女性牧師で我慢するという受け止め方になっていないか、根底にある私たちの考えが問われているような気がします。

私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。教会の中でも同じでしょう。まだ真の意味で男女あらゆる性が平等・対等な状態になっていないのではないでしょうか。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見から解放されたいと思います。まだまだ私の中で残っている差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。

 

 

今日の聖書の個所を見ましょう。出エジプト記15章19~21節をお読みいただきました。ミリアムという女性が登場します。彼女はアロンの姉とだと紹介されていますが、アロンとモーセはきょうだいですから、ミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。

先週も見た通り、ユダヤの人々はエジプトでの過酷な奴隷生活していました。モーセも幼い赤ちゃんの時に殺されそうになりました。しかしたくさんの女性たちがその命をつなぎ、助けられました。そこにはモーセの姉ミリアムもいました。そしてエジプトを脱出することができたのです。

エジプトを脱出してすぐの困難は、エジプトからの追手でした。彼らが逃げようとする目の前には海があります。そして後ろからはエジプトの軍勢が来ます。彼らは絶望をします。しかしそんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。人びとはそれを渡り、助かりました。追手の軍勢たちは皆、水に飲まれて死んでしまいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。今日の前の1~18節はこの時のことを歌っており、これはモーセの歌だったとあります。日本でもそうですが、昔のことは歌で伝えられます。このようにエジプトから脱出してきたというルーツは、歌で伝承されたのです。

今日の個所はこのモーセが歌った歌に続く歌です。19節からの歌は1~18節のモーセの歌の後に、もう一度繰り返すように不自然にくっついています。もう一度この様子を短く説明した短い歌が記録されています。2つの歌が記録されています。実はこの歌、21節の歌の方がもともとオリジナルだったのではないかと言われています。伝承というは、最初は短い伝承だったのに、時代とともにいろいろな事が付け足されて長くなってゆく傾向があります。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。やがてその二つの伝承が聖書ではひと続きになり、今日の個所のような構成になりました。不自然にミリアムの歌が追加されているように感じるは、そのような伝承の経緯があったからです。オリジナルは19節~で、拡張版が1節からです。

おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。他の聖書箇所にはモーセ、アロン、ミリアムと並べて紹介がされることもあります(ミカ書6章4節)。ミリアムも人々のリーダーだったのです。この後にはミリアムがモーセを咎める場面もあります(民数記12章1節)。そのようにミリアムはモーセと並ぶ指導者だったのです。おそらく時代とともに、伝承されてゆく過程で、男性であるモーセが唯一のリーダーとして描かれるようになりました。多くの活動をしたミリアムでしたが、聖書への記載はごく限られた、抑制的な内容になりました。つまり女性だから記事が拡張されなかったのです。

20節を見ます。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続いたとあります。その光景を想像します。危機から脱した時の喜びの祈りです。それはただ踊ったのではありません。男のために踊ったのでもありません。神様のすばらしさを表現するために踊りました。きっと女性だけが躍ったのでもないと思います。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。性別を超えて喜びを共にしたのです。

ミリアムはそれを導く女性指導者でした。彼女が最初に神様を賛美し出すと、みんながそれに連なるように、歌い出し、踊り出し、神様のすばらしさを表現し出したのです。ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。人々は彼女に続いて歌を歌いました。男性モーセの歌ばかり拡張され聖書には残っていますが、ミリアムも立派な女性指導者だったのです。

このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。もちろん神様は今においてもそうです。女性を牧師として、あらゆる性の人を牧師として用いて下さるお方です。

私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。

 

【全文】「こどもの命をつないだ人たち」出エジプト1章15節~2章10節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先週はお休みをいただき感謝です。先月は聖書と性についてお話をしました。聖書が同性愛や性的少数者を罪としていないのだということ、神様はその人々を豊かに用いているということを見て来ました。男か女ということを超えて、神様の働きは広がるのだということを見て来ました。

そして今日と次回は、聖書の中の女性について目を向けたいと思っています。男も女もなく平等に、いろいろな性が平等にあるべきだと話をした後に、聖書の女性に注目するというのは矛盾のように思えるかもしれません。どの性も平等であるべきなら、女性に注目して聖書を読むのはおかしいとも言われるかもしれません。

ところで教会には女性会というグループがあります。女性のみが集まるグループです。全国区でも女性連合というグループがあります。しかし近年は女性だけが集まることの課題が指摘されるようになりました。これまで見てきた性の多様さから考えると、女性か男性かでグループを作ることには、課題があります。参加者は自分をどちらかに決めなくてはならないからです。女性会は女性以外を排除しているのではないかという指摘もあります。またある他の教会の女性会の参加者からは、話題が結婚・出産・育児の話ばかりで、仕事をしている独身女性からすると、そのグループは合わないという声も聞きました。その人たちは仕事をしている男性たちと話していた方が良いと言って男性のグループに参加していました。またある教会では、オリーブ会などと名称を変えて、女性に限定しないグループを作っている教会もあります。

一方で女性だけが集まることに様々な良い面があるでしょう。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあるはずです。また社会に目を向けると日本は女性の社会進出が非常に妨げられている国です。男女平等指数は146ケ国中125位です。特に政治の分野、企業のリーダーシップの分野で、日本は圧倒的に男性が支配している社会です。男中心社会です。きっと教会にもそのような一面が残っているのでしょう。牧師はやっぱり男性がいい、役員は男性がいいなどの意見です。そのような男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは大変意味のあることだと思います。なんでも男が決め、男が働く、男中心の社会の中で、女性が集まり、女性が決めるというグループに大きな存在意義があるでしょう。そしてそのようなグループは大切な視点を持っていると思います。それは社会の中心から外された人に目をとめてゆくという鋭い視点です。女性連合はそれを持っていると思います。沖縄への関わり、平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。社会や教会で、中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆくことが必要とされています。その点で、女性が集まる意味はまだまだ大きいでしょう。

いずれにしても男性である私が、女性の集まりをどのような集まりにしてゆくのか、とやかく言うのはまったく的外れです。ぜひ皆さんその集まりについてよく話して欲しいと思っています。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切なのでしょう。ですから今日と来週は聖書の中の女性を見て行きたいと思います。

 

 

今日は出エジプト記1章15節~2章10節までを読んでいただきました。イエス様が生まれるずっと前の時代の話です。神様を信じる人々は奴隷として、激しい重労働をさせられていました。それは過酷を極めた労働でした。神様はそこから逃げ出す、出エジプトを導いてくださいました。恵み深い神は休みをくれたのです。今日はその前の奴隷時代の話です。過酷を極めた労働の中でも、ヘブライの人、聖書の神を信じた人々は、人口が増えてゆき、やがてそれは軍事的な脅威となる程でした。15節、ファラオはこれ以上人口を増やさないために、二人の助産師を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。二人の女性の名前がシフラとプアだったと記録されます。わざわざ名前が記録されるほど彼女たちの働きは重要だったのです。

エジプトの人々は、ファラオは神だと教えられ、従っていました。エジプトでのファラオの命令は神の命令と同じです。このファラオの命令によって、男の子が殺されようとしていました。ちなみに歴代のファラオのほとんどは男性です。男性が政治の実権を握っていました。しかし歴代ファラオの中で少数ですが女性がいた事もわかっています。中には男性の服装をした女性ファラオもいたそうです。

このファラオは人口を減らすために、男の赤ちゃんを殺せと命令をしました。しかし疑問です。人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いのではないでしょうか。その方が人口の増加がより抑えられるはずです。ファラオはなぜ女性を殺さないのでしょうか。それは、当時女の奴隷は高く売れたからだと言われています。男は殺す。女は物のように売買する。女は男のために働けというのがファラオの政治でした。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いから生かしておいて良かったのです。ファラオは助産師の二人の女性、シフラとプアに命令しました。生まれた男だけ殺せと命令をしました。

しかし17節、女性たちは神様を畏れていました。神様を畏れるとは、そんなことをしたら神様の罰が怖いということではありません。神様を強く信じていたということです。特に二人は助産師です。実体験から命の源はこの聖書の神様であると信じていました。実体験から命は神様から授かったものであると信じていました。その命を人間が壊すべきではないと信じていたのです。命を壊すファラオは神ではないと信じていたのです。だから彼女たちは男性であるファラオの命令に従わなかったのです。彼女たちには確信がありました。堅い信仰がありました。それは生まれてくるこどもたちの命を守ることが、自分の信じる神様の教えだという確信です。彼女たちは社会の中心から追われる命、無視される命、無かったこととされる命、売り飛ばされる命を良く知っていました。だからこそ命に対して、特別なまなざしを持っていました。その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信した彼女たちは、ファラオに従わず、小さな命を守る決断を繰り返していたのです。

それに対してファラオはもう一度この女性たちを呼びつけ、殺せと迫ります。しかし彼女たちは「出産がすぐに終わってしまうのだ」と言います。きっとそれはウソです。小さな命を守るための、彼女たちが考えたウソです。助産師は誰よりも出産の苦労を知っているはずです。すぐに終わる出産ばかりではないはずです。助産師は誰よりも女性たちの苦しみと強さを知っていました。この助産師はそのような女性たちの姿を知らないファラオを、まるで馬鹿にしているようです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは男たちのような暴力、支配、抑圧によるものではありません。静かな戦いです。小さな命を守るための非暴力の戦いです。そのように戦う女性たちに神様は特別な恵みを与えたとあります。

2章1節からはもう一つの物語が始まります。あるレビ人の女性が妊娠し、男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまう状況です。母はなんとか助かって欲しいと願いました。彼女は赤ん坊をカゴに入れて水に流しました。それはまるで救命ボートです。なんとか助かって欲しいとカゴに乗せて送り出します。そしてその命を受け取ったのもまた女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育てることにし、やがて彼は解放のリーダーに成長します。

このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。小さな命のためにたくさんの女性たちが知恵を尽くす物語です。男性の決定に反抗し、自分たちで決断する物語です。女性たちが命のバトンをつなぐ物語です。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。それはきっと自分自身が、社会で隅に追いやられている経験をしたからでしょう。

男たちが政治を支配し、男たちが戦争をする世界です。彼女たちは考えました。男たちが中心の世界で、どのようにしたら平和に生きることができるだろうか、どうしたら小さい、いつもしわ寄せがくるこどもたちを守ることができるだろうかと考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。そしてそこから、自由を求める旅、出エジプトが始まってゆくのです。

私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。そして男も女もどの性も、小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。女性だけ、男性だけの働きはありません。

私たちの教会でも同じです。私たちの教会も政治が決めたことに従うのではなく、神様から与えられた命を守る働きをしたいと思います。私たちの教会が性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。教会やその中のグループもそのために働くことができるように祈りましょう。お祈りします。

 

【全文】「ちゃんと休みなさい」出エジプト記16章1~31節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもと一緒に礼拝をする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

明日から1週間、お休みをいただく予定です。年に2回、日曜日を含んだ休暇をいただけること感謝します。いくつかの予定を楽しみたいと思っています。社会では休むこと、休息をとることについて大きく意識が変わってきています。4月からはトラックドライバーにも残業時間の上限が適用されます。2024年問題と言われています。他の業界にはすでに残業時間の上限が適用されていますが、建設業とトラックドライバーだけ猶予されていたのが、他の業界と同じように上限時間が適用されます。これによってドライバーの労働環境の改善がされるといわれています。一方で物流への影響も心配されています。

私も20年前、一般企業に就職して間もないころ、全く休みを取ることが出来なかった時期がありました。来る日も来る日も仕事に追われ、夜遅くまで仕事をしても終わらず、デスクで寝て、朝また起きて仕事をして、また夜デスクで寝る、そんな風に仕事をしている時期がありました。当時は残業時間の規制が全く存在しなかったからです。気付くと100日間、休まずに仕事を続けていました。それが良いサラリーマンだと教えられ、とても褒められました。でも精神的にどんどん追い詰められてゆきました。ある時、走っている車を見て、これにぶつかれば休めるかもしれないと思ったことがありました。

私は思いとどまったのですが、同じ時期日本では過労死をする人、過重労働で自死する人が多くいました。そこから徐々に社会は適切な労働時間をまもるべきと気づいてゆきました。残業時間の上限が設定され、仕事と生活のバランス、ワークライフバランスという言葉も生まれました。社会はがむしゃらな労働と、それによる成長・安価な商品を求めるのをやめたのです。絶対終わらないような仕事を抱えて無理をするのは良くないと気づいたのです。社会は適切な安息を取りながら働くことの重要性を認識したのです。それは充実した安息の重要性を理解したとも言えるでしょう。

私がしばしお休みをいただくことができることも感謝します。そのために負担を担い、支えてくれる方々に感謝しています。それも含めて神様が準備して下さった安息だと受け止め、感謝し、また次の働きに向けて備えたいと思っています。聞くところによると教会の中にはなかなか牧師を休ませることができない教会、休まない牧師もいるそうです。学校の先生や国家公務員はまだ適切な休息が与えられていないそうです。他の多くの職業の方々にも安息が与えられ、健康が守られることを祈ります。1週離れまた戻って来て、また新たに牧師の働きを頑張りたいと思っています。

 

 

さて今日の聖書箇所を見ましょう。今月は3回出エジプト記を読んでゆきたいと思っています。今日はマナの個所です。旧約聖書、イエス様が生まれる前の時代、人々はエジプトで奴隷にされていました。そこでは非常にきびしい労働が科せられました。出エジプト記はそのような人々の過酷な労働を伝えています。1章14節には「彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」とあります。

人としての権利も認められませんでした。ただ求められたのは、働くことでした。働け、でもこれ以上人口が増えると困るから子どもが生まれたら殺せ。人々は殴られながら労働をしました。仲間が殺されても何も言えなかったでしょう。それはまさしく、人権無視の休みなしの過重労働、虐待でした。出エジプトとはそんな抑圧の地からぬけ出し、安息を求める行動でした。人々は自由と安息のために、エジプトを脱出したのです。

しかしその道のりの一番の困難は食料の確保でした。そんな時、人々は言います。3節「エジプトの方が良かった」。昔の方が良かった、あの頃の方が良かったと言うのです。それはまったく事実ではありません。きっと彼らはそう考えなければ生きていけないほど追い込まれていたのです。彼らは目の前の困難に、過去を理想化することで乗り越えようとしたのです。昔は良かった、俺がエジプトで働いて頃はもっと良かったのだと自分に言い聞かせ、過去を理想化することでしか生きる意味を持てずにいたのです。昔はたくさん働いて、たくさん食べて働いた、あの頃の方が良かったと、偽りの過去を心の支えにしたのです。

そこに神様の言葉が響きます。5節です。神様はここで、新しい命のつなぎかたを彼らに提案しました。それは神様が天からパンを降らすということです。神様はどんな人にもパンを降らすことにしました。あなたには降らす、あなたには降らさないというのではありません。神様はすべての人にパンを降らすと提案しました。頑張った人に、いい人に、信じた人に降らすのではありません。誰にも限定せずに降らし、あなたたちはそれを食べ、命をつなぐようにと提案をしたのです。

そしてもう一つの命のつなぎ方の提案は、毎日少しずつ必要な分だけを集めるという方法です。毎日ちょっとずつ集めればよいという提案です。それは例えば大きな倉を作って、一度にたくさん集めてしまっておくという生き方ではありません。たくさんため込んでおく必要はないのです。今日の分は、今日集めればそれでよい、無理にたくさん集める必要はないという命のつなぎ方を神様が教えてくれました。

反対にこのマナを無理に集めることこそ、過重労働、働きすぎと言えるでしょう。とにかくたくさん集める、たくさんあればあるほど幸せになれるから1gでも多く集めるためにがむしゃらに休まずに働く、そのような労働は必要ないということです。神様の命のつなぎ方の提案は、無理をしないで、あなたが今日集められる分、できる限りの分を集めれば、それで命をつなぐことができるよ、そう教えているのです。神様はこのマナを多く集めた人も余ることなく、少しだけの人もたりなくないようにしたのです。

しかし中には誰かが自分が食べきれない分までマナを集める人がいました。その時神様はどうしたでしょうか。20節それは虫が湧いて、悪臭を放ったとあります。自分の食べきれない分まで集める事、それは富の蓄積を連想させます。自分が必要な分以上の分をかき集めて、あるいは他の人の必要な分まで必死にかき集めることは、富を独占し、蓄積させることです。誰かに休ませずかき集めさせて、富を蓄えていくことです。神様はそのような富には虫が湧き、腐り、悪臭がすると言います。神様は過度な富の蓄積を嫌ったお方でした。一人一人が生きるのにちょうど必要な分を備えるお方でした。だから神様は無理をしすぎないでいいと言っています。神様は誰かに無理をさせないでいいと言っています。集められた分で生きていける、私がそのマナをすべての人に降らすと言ったのです。だから人間は働きすぎることなく、蓄えすぎることなく生きることができたのです。

そして神様は安息の日も用意してくださる方です。6日目だけは少し多めに集めてもいいというルールにしました。そうやって7日目に安息できるようにしてくださったのです。日々日々働きすぎるだけではなく、1日まるごと休む日も与えて下さったのです。神様はこのように働きすぎを禁止しました。今日はみんな絶対に休む日ですと決めたのです。神様は、今日は働いても何も集めることはできない、何の成果もでないという日を決めました。今日は何をしてもうまくいかない日、だから休みなさいと言って安息の日を定めたのです。

27節それでも人は働こうとしました。誰かがは働かせようとしたのかもしれません。休まずに集めようと働きにでたのです。そして何の成果も出ませんでした。モーセは厳しく言っています。20節は「ちゃんと休みなさい!」という意味です。30節「民はこうして、七日目に休んだ」とあります。しぶしぶ休んだように想像します。ほんとはもっと働いて、もっと集めたい、もっと働かせて、もっと集めさせたいところでした。しかし神様がモーセを通じて厳しく言いました。「ちゃんと休みなさい」。そのようにして、ようやく人々に安息が与えられたのです。働きたいと思ったけれど、休んだのです。

神様は何と恵み深い方でしょうか。神様は人々は昔の方が良かったという不満に、怒りで返すお方ではありません。マナという食べ物で応えてくださるお方です。そして神様はなんとおせっかいなお方でしょうか。私たちに「ちゃんと休みなさい」と厳しく教えてくださるお方です。働いても何も成果のない安息日を与えてくれるお方です。神様はそのように私たちを大切に思い、生きる糧を与え、強制的な安息を与えてくださるお方です。

皆さんも今週1週間忙しくされることと思います。みなさんにもふさわしい休息が与えられる様にお祈りしています。そして世界は富を集めるのに慌ただしく、食べず、休まず、眠らず、マナを集めようとしています。その人々にも安息が与えられますように。必要なマナが与えれるように祈ります。私達にはすべきことがたくさんありますが、焦らずに、安息をしながら歩みましょう。これから主の晩餐の時を持ちます。このマナをいただき、神様が与えてくれる恵み、神様が与えて下さる安息を覚えましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「性的少数者 歓迎教会」使徒8章26~40節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどももいっしょに礼拝できることを感謝します。こどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。今月は聖書と性・セクシャリティーについて考えています。本日で最後です。これまでの2回では主に、同性愛は罪ではないということ、むしろそれと混同されている性暴力こそ罪であるということお話してきました。教会では触れづらいテーマですが、人の魂に関わる、大切な事柄です。聖書でどのように性、特に性的少数者が受け止められているのかを考えたいと思います。

今日は聖書に登場する宦官について考えたいと思います。古代から宦官という人が存在しました。宦官とは、睾丸や陰茎を切除した男性です。彼らは王宮などで働いていました。宦官は子孫を残すことができないので、王様になることはできませんでした。ですから王様から見ると、自分の座を奪おうとしない安心できる存在でした。さらに宦官は、女性と性的に交わる機能が失われています。王宮の女性たちにとっても宦官は、性的な関係にならない、安心できる存在でした。ですから宦官は王様や、王宮の女性にとって、最も従順な僕と言えるでしょう。彼らは時々、高級官僚として取りたてられました。それが宦官という存在です。古代では世界中に宦官がいました。

当時のユダヤ教は宦官をどのように受け止めたでしょうか。旧約聖書には多くの宦官が登場し多くの場合、好意的に描かれています(エステル記など)。しかし旧約聖書の申命記23章2節にはこうあります「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」宦官が主の会衆に加わることができないとはつまり、宦官はユダヤ教に入信することが出来なかったということです。おそらく割礼が受けられないということも理由のひとつです。あるいは身体的な欠損があるものは汚れていると考えられたことも理由のひとつです。

本来、すべての男性が、割礼を受けることでユダヤ人になることができました。そしてユダヤ人になると神殿に入ることが許されました。しかし宦官だけは違います。信仰があってもユダヤ人になることはできませんでした。どんなことをしても神殿に入ることが許されなかったのです。旧約聖書を見ると宦官が好意的に描かれている場面が多くあるものの、やはり自分達とは決定的に違う、神殿の内側には入れてはいけない、軽蔑すべき存在だったのです。それが宦官でした。ちなみに当時と今ではユダヤ教の中でも大きく考えが変わっています。現在のイスラエルは、LGBT先進国として有名です。

 

 

さて今日の聖書の物語に目を移しましょう。ある宦官がエチオピア、これは現在のスーダンからエルサレムにやってきました。この宦官は女王の全財産をまかされるほど信頼されていた、かなり高い役職にいる官僚でした。そんな彼が小さな民族の信仰に興味を持ったのです。聖書に興味があり、聖書の神を求めたのです。そしてはるばるエルサレムに来たのです。

しかし彼はエルサレムで排除される存在でした。彼は外国人であるという理由で、あるいは宦官であるという理由で、神殿に入ることが許されませんでした。あなたは体の一部が無いから、完全な男ではないから、神殿には入ることができないと排除されたのです。その時、彼の信仰は一切関係ありませんでした。彼の内面は一切関係ありませんでした。彼の外形的な性が判断基準とされ、神殿から排除されたのでした。彼のせっかくのエルサレム訪問は、このようにして台無しになりました。関心と共感をもって神殿に訪れたのに、彼は拒否されたのです。原因は彼が外国人であり、性的少数者であったからです。彼はとても残念に思ったはずです。彼は信仰が打ち砕かれたでしょう。残念な思いと共に、イザヤ書の巻物を買って帰ったのかもしれません。彼はイザヤ書を買って、馬車で読みながら帰っていったのです。帰り道、それは彼の性が排除された後の帰り道でした。自分の性が、彼の信仰が受け入れられなかったという経験の帰り道です。失望の帰り道です。彼はそのような状況でイザヤ書を読みながら帰りました。涙ながらに聖書を読んだでしょうか。

 でもおそらくこの宦官はこのような、性的少数者であることでの差別を幾度となく受けてきたでしょう。何度も同じ経験をしてきたでしょう。宦官は高級官僚として尊敬されつつも、やはり人々から軽蔑のまなざしを受けていたでしょう。結婚し、こどもがたくさんできるということが神の祝福とされた時代です。それができない宦官は卑しい者として扱われました。その性によって差別されたのです。人々に拒絶されました。そして聖書に救いを見出そうとしました。しかしまた拒絶されました、それが彼の人生でした。26節、寂しい道とあります。それは景色も、そしてきっと宦官の気分も寂しい道であったでしょう。

そんな彼が馬車に乗っています。そこに神様はフィリポを遣わしました。フィリポは偶然にそこを通りかかったのではありません。主の天使が、霊が、フィリポにそこに行けと命令したのです。天使と霊は、排除された性的少数者と出会わせるために、フィリポを導いたのです。神様が性的少数者との出会うようにと導いたのです。宦官がイザヤ書を読みながらフィリポの目の前を通り過ぎます。劇的な出会いです。フィリポは急いで追いかけて、イエス様についての福音を伝えます。フィリポは、イエス様は弱い人、貧しい人、隅に追いやられている人、排除された人と最後まで共にいたということを宦官に伝えたでしょう。このイザヤ書に登場するのは、そんなイエス様のことなのだと話をしたのです。やがて、二人は水のある場所にたどり着きました。水のある場所へと神様から導かれました。宦官はバプテスマへと導かれてゆくのです。

宦官は「バプテスマに何か妨げがあるますか」と確認します。「何か妨げがあるでしょうか」とはどんな意味を含むのでしょうか。彼はおそらく確認したのでしょう。これまで私は性的少数者として、社会から、神殿から徹底的に排除されてきました。そんな私でも洗礼を受けることができるのですか?クリスチャンになることができるのですか?という問いだったのです。キリスト教では、私もその仲間に加わることが出来るのですか?そう聞いたのです。フィリポは何も答えずに、行動で返事をしています。速やかに宦官へのバプテスマが実行されました。フィリポはその人を排除しませんでした。性的少数者を排除しなかったのです。

バプテスマに何か妨げがあるかと聞かれたとき、もっと準備が必要だ、あなたは性的少数者だからできないと言わなかったのです。彼の信仰に基づいて、速やかにバプテスマは実行されたのです。宦官は喜びあふれたとあります。それはこれまで排除されてきた悲しみは、自らを神が受け止めてくれた、キリスト者が差別せずに受け止めてくれたという喜びに変わりました。寂しい帰り道は、喜びの帰り道と変わったのです。宦官は自分に神様の希望が示されていることを知ったはずです。何の妨げも無く、キリスト者として受け入れられることを通じて、神様が私の神様となり、私を守ってくださるのだと知ったのです。彼はこのようにして喜びながら帰ったのでしょう。それが宦官の物語です。

さて、現代の教会、現代の社会の性的少数者の人々とも重ねて考えてみましょう。社会では多くの性的少数者が、その性を否定されています。教会も同じでした。教会はそれは罪だと言い、その性を否定してきました。性的少数者の人々は罪だと言われ、教会から排除され、追われるように逃げ、失意の中で帰り道を歩いて帰りました。社会からも教会からも軽蔑され、居場所を失っていったのです。しかし今日の個所によれば、性の在り方は入信・バプテスマの条件に一切なっていません。フィリポは性の在り方によって、共同体から誰かを排除するということを全くしなかったということです。むしろ神様は私たちを性的少数者と出会う様に導いています。教会はそのようにすべての性を受け止めてゆくことができる、すべての性を罪としないことができるのです。それが今日この物語が伝えている福音です。

性的少数者の「何かさまたげがあるでしょうか」という問い。それは私たちに向けられた問いでもあります。私はこの教会において、性的少数者の洗礼・バプテスマ、礼拝出席を妨げる理由はないと思っています。みなさんはどうでしょうか。そして現代の社会の何が、性的少数者の妨げになっているかも想像します。この社会は、どのような性であるかに関わらず、その人を受け止めることができるのでしょうか。

キリスト教ではこのように性的少数者を受け止めてきました。そしてこの宦官は異邦人の中で最初に洗礼・バプテスマを受けた人となりました。この人が異邦人の中で一番最初に、洗礼・バプテスマを受けたのです。彼から、性的少数者から、世界中にキリスト教会が広まっていったのです。性的少数者である彼から、世界宣教は始まったのです。それが私たちのキリスト教の始まりだったのです。

私は性的少数者の方が教会に来る、洗礼・バプテスマを受ける、そのままの性を生きることを、神様は何も妨げないと思います。むしろ神様はそのような人を用いて福音を拡げるのだと思います。私はこの教会が性的少数者の方が来ることに何の妨げもない教会になるように願っています。そのようにしてすべての人を歓迎する教会になりたいと思っています。お祈りします。

 

【全文】「聖書と性の尊厳」Ⅰコリント6章9~10節

みなさん、おはようございます。今日もこうしてこどもたちと一緒に礼拝できること、主に感謝します。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月は性と聖書について、セクシャルマイノリティーと聖書について考えています。性の事柄について教会で取り扱うことは大変難しいことです。公の場で言葉にするのが難しいと感じています。しかし今、性の問題に宗教が沈黙を続けることも良くないと思っています。

テレビでは性の問題が大きく取り上げられています。ジャニーズや松本人志の性加害について報道されています。私たちの教会はこのような問題についてどのように考えたらよいのでしょうか。ある人は教会はそのような社会的なことよりも、もっと魂に関することを扱った方がよいと言います。教会はもっと魂の救いについて語るべきと言います。そのように言う人にも聞いて欲しいです。性暴力は魂の殺人と呼ばれます。魂の問題に向き合うべきというのならば、教会はもっと性の問題に向き合うべきだと思います。私たちの大切にしている、魂の問題として、このことを考えたいと思います。

性の問題について、キリスト教には様々な立場があります。特に同性愛については意見が大きく割れています。私個人は同性愛も一つの愛の形であると思っています。しかし同時に私はキリスト教の中には、そう解釈しない人、立場が大きく違う人がいることを知っています。平塚市内の教会でも、神奈川県のバプテスト教会の中でも、その理解は大きく分かれます。私は同性愛について「賛成、反対それぞれの立場を大切にしましょう」と言う前に、同性愛について聖書がどのように言っているのか、また言っていないのかをはっきりと確認をしておきたいと思っています。

 

今日の聖書の個所を見ましょう。今日の聖書の個所に、同性愛という言葉は登場しません。そもそも聖書全体に同性愛という言葉が登場しません。それもそうです。同性愛という言葉は19世紀に生まれた言葉だからです。聖書はおおむね1世紀に成立しています。だからもちろん聖書には同性愛という言葉は登場しません。ではなぜ聖書が同性愛を禁止しているという解釈が生まれてくるのでしょうか。なぜ聖書は同性愛に反対していると言われているのでしょうか。

それは今日の個所や他の個所に、同性愛と混同された言葉があったからだと思います。本当は性暴力を示している言葉が、同性愛と混同された、誤解が生まれたのだと思います。聖書は本当は同性愛を否定していないのに、読む側が偏見を持って聖書を読む時、聖書で同性愛は禁止されている、そう解釈され、広がってしまったのではないかと思っています。そして性暴力に沈黙してしまっています。

今日の聖書の個所に誤解された言葉があります。今日の個所には「男色する」という言葉があります。この言葉こそ同性愛を指すものだとして、聖書に書いてある通り同性愛は禁止されていると理解されてきました。「男色する」という言葉を日常で使うことはありませんので、広辞苑で「男色」を引きました。そうすると「男性同士の同性愛」と書いてありました。だとするとやはり聖書は同性愛を禁止していると解釈できるでしょう。やはり同性愛が禁止されているように思えます。

でももっと深く考えましょう。日本語では「男色(つまり同性愛)」と訳していますが、聖書にもともと書いてある言葉ではどうでしょうか。男色するという言葉は元のギリシャ語で「アルセノコイタイ」という言葉です。この言葉が日本語で男色(男性同士の同性愛)と訳されています。この言葉についてもう少ししっかりと考えたいと思います。

現存する古代文献の中で「アルセノコイタイ」という言葉が最初に使われたのは聖書です。聖書が最も古く「アルセノコイタイ」という言葉を使っています。聖書と同時代やより古い文献が無いので、当時の「アルセノコイタイ」は、どのような意味で使われたのかははっきりとわからない言葉です。おそらくパウロが作った言葉ではないかとも言われます。いずれにしても意味が分からない言葉です。このように意味の分からない言葉がある場合、推測する方法は2つあります。一つは語源から推測する方法です。もう一つは文脈や用例から推測する方法です。

まず語源から推測しましょう。アルセノコイタイの「アルセノ」は男性に対してという意味があります。コイテは横たわるという意味があります。つまり語源から考えると、男が男に対して横たわるという意味です。ここから同性間の性行為を指す言葉と推測されました。そしてそれが後に、男性同士の同性愛、男色という翻訳として定着してゆきました。

分からない言葉がある場合、もうひとつ文脈からその意味を推測するという方法もあります。アルセノコイタイはだいたい悪徳リストの一項目として登場します。今日の個所にも、泥棒と並べられています。他の文献、聖書よりも後の時代の用例を見ると、例えばアルセノコイタイするな、賃金を正確に払え、不正な行為をするななどの用例があります。他にはペテン師、詐欺師、アルセノコイタイなどと使われています。どれも経済的な搾取に関する文脈でアルセノコイタイが登場します。

おそらくこの「アルセノコイタイ」は同性間の性行為と経済的不正を掛け合わせた言葉だと推測されます。この言葉は同性間の性行為という意味だけではなく、経済的な搾取の意味も含まれます。おそらく同性間の性行為と、経済的搾取の2つの間にある言葉です。つまり「アルセノコイタイ」は、お金の力によって同性と性行為をすることだと考えられます。お金や地位にものを言わせて、相手の性の尊厳を奪うことが「アルセノコイタイ」です。自分の立場や地位を利用して同性の性の尊厳を奪う事が「アルセノコイタイ」です。だとするとアルセノコイタイが9節で、みだらな者と泥棒の間に置かれている意味も納得できます。相手の性の尊厳を、不当に奪う事がアルセノコイタイです。私はこの「アルセノコイタイ」を「性搾取」や「性暴力」と訳すのが良いと思っています。

社会背景からも考えます。2000年前のローマでは年長の男性による、小さい少年への性行為が盛んに行われていました。身分の低い少年や、奴隷の少年に対してそれが行われていました。それは同性愛とは全く違います。大人たちが立場の弱い少年たちの性を搾取したのです。少年たちに愛はありません。自由な選択はありません。地位のある者が、少年の性を搾取していたのです。

こうした背景からも「アルセノコイタイ」の意味を考えます。この言葉は同性間の同意ある、能動的な、対等な愛を示している言葉ではありません。この「アルセノコイタイ」は立場の弱い少年や奴隷を性的に搾取すること、性暴力の加害者となることを示している言葉だと考えられます。

しかし19世紀に同性愛という言葉が生まれました。それまでも同性愛はあったでしょう。しかしそれが言葉になったのは19世紀でした。そして大きな偏見が広がってゆきました。20世紀になると本来、性的搾取を意味した「アルセノコイタイ」は、同性愛のことだと誤解され、翻訳が定着しました。そして同性愛は一緒に記載される、ふしだらや泥棒と並んで悪、罪とされるようになりました。性暴力が悪、罪であったはずなのに、同性愛に置き換えられ、同性愛が悪、罪とされてしまったのです。そのようなことが起きたのはその時に同性愛に対する無知と偏見があったからです。聖書を読んだときその偏見を聖書解釈に重ねてしまったのです。そうしていつしか聖書は同性愛は悪・罪と解釈されるようになりました。同性愛者は神の国を受け継ぐことができないと解釈されるようになりました。それは罪であり、治療して直すべきものであると解釈されるようになりました。

しかし聖書は本当にそのように語っているでしょうか。私個人はそのように思っていません。この個所は、経済的に性の尊厳を奪う人を指していると考えています。立場の弱い人やこどもの性の尊厳を奪う人を指していると考えています。

現代において魂の殺人と呼ばれていることです。それを聖書があってはならないと言っているのではないでしょうか。この個所は性暴力の加害者は神の国を受け継ぐことができないと言っているのではないでしょうか。私個人は性暴力の加害者は神の国を受け継ぐことができないということに同意します。同性愛者を断罪するよりも、その方がずっと納得感があります。この個所は同性が愛し合うことを禁止しているのではなく、性の尊厳を奪うことを禁止しているのです。

私たちの社会を見渡します。世界では私たちが一番大切にしなければならない魂が殺される、魂が踏みにじられる事件が繰り返されています。そして同性愛に対する偏見もまだ続いています。特にそれはキリスト教の中で続いています。私は聖書が性暴力・性搾取をはっきりと否定しているものとして、反対してゆきたいと思います。そして偏見をもって、同性愛と性搾取が混同されることにも反対をしたいと思っています。

10節、神の国を受け継ぐものとはどんな人かを想像します。それは互いの性を尊重する人ではないでしょうか。互いの性を奪い、否定するのではなく、互い性の在り方を尊重できる人ではないでしょうか。そのような人が神の国を受け継いでゆくのではないでしょうか?

聖書には「この個所は同性愛を否定している」そう読まれてきた箇所が多くあります。しかし、よく読んでみると決して同性愛を断罪するような解釈はできません。そしてそのような解釈が見落としていることがあります。それが性暴力や性搾取の問題です。教会は魂の問題としてそれに目を向けてゆく必要があるのではないでしょか?互いの性を尊重できる教会になりたいと思います。祈ります。

 

【全文】「同性愛は罪ではない」創世記19章1~15節

みなさん、おはようございます。今日も大人もこどもも共に礼拝できること、主に感謝します。今日も子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

今月は3回の礼拝でセクシャルマイノリティー・性的少数者をテーマに宣教をしてゆきたいと思っています。セクシャルマイノリティー・性的少数者とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーなど、性の在り方が少数派である人のことを指す言葉です。かつてはレズビアン・ゲイの人などは同性愛者とも呼ばれています。ここ数年、国会でそのことが議論されるなど、性的少数者への理解は少しずつ進んでいます。キリスト教では長らく、同性愛は罪であると教えてきました。様々な罪の中でも同性愛の罪は、特に重い罪として断罪されてきました。しかしキリスト教の理解も変わりつつあります。

3年ほど前にも同じテーマで宣教をしたことがありました。LGBTとキリスト教というテーマで、サムエル記上18章のダビデとヨナタンの関係が、同性愛だった可能性があるとお話をしました。深い愛情は異性の間だけではなく、同性の間にも起こり、聖書はそれを美しい愛として描いている、罪だなどとは言っていないのだということを見ました。その礼拝はいつもどおりYouTubeで配信されたのですが、大変大きな反響がありました。いつも礼拝のYouTube再生回数は30回程度です。しかしなぜかこの回の再生回数は4000回を超えて、まだ再生されています。何千人もの人がそのYouTube礼拝を見ることになりました。

YouTubeには動画の感想を書くことができるコメント欄があります。コメント欄には批判的な意見が書き込まれました。「裁きの時にイエス様に聞いてみ(;^_^AA)」「現代の風潮に迎合する様な誘導は止めて頂きたく存ずる次第!」「パウロも同性愛者に関しては行いを改めない限り教会から追放するように言ってます」「不敬虔の意味、知らないですか?」などです。

一方でYouTubeの配信を見て、わざわざ教会に電話をしてきてくださる方が何人もいました。教会に電話をされてきた方の多くは性的少数者の当事者の方でした。電話ではいままでどれだけ自分が教会や牧師から冷たい言葉をかけられてきたのか、どんなに生きづらく感じているのか、いまどんなことで悩んでいるのかを涙ながらに教えてくれました。そして多くの方が「私の近くにも性的少数者である自分を受け止めてくれる教会が欲しい」と言っておられました。

他にはどのような方がYouTubeを見たのか想像します。きっと教会の人や牧師に自分の性的指向は罪だと言われ、負い目を感じ、苦しんでいる、そんな全国の人が見たのだと思います。もう自分は教会には行けない、自分はどの教会にも受け入れられないと思っている人が、このYouTubeを見たのでしょう。そのような方たちの励ましとなることができたらうれしいです。

批判のコメントが来ることは私の心の負担です。しかしきっと当事者の方たちはずっとこのような批判に囲まれて、生きてきたのだということを思い知りました。いろいろな批判があると思いますが、もうしばらく公開を続けたいと思っています。

このテーマは話題にしない方が無難です。この事柄に触れないようにすることが無難です。でもそのように見過ごされている人がいるからこそ、教会がずっと見過ごしてきたからこそ、あえてそこに目を注ぎたいと思っています。とても触れづらいテーマですが、このテーマに向き合いたいと思っています。あくまでここで話すことは私の聖書の理解です。もちろん同様の考えはキリスト教の中に広がりつつあります。しかしこの教会やバプテスト連盟の統一見解ではありません。多くの意見があることをあらかじめお伝えしておきます。

 

 

今日は創世記19章1~11節をお読みしました。今日の個所は読んでいて気分が悪い箇所です。ある時、神様の遣いが二人、ソドムという町に来ました。ロトという人はその二人をもてなそうとしました。当時の旅は今とは比較にならないほど危険なものでした。旅人に安全な宿泊場所を提供することは、非常に重要な配慮でした。旅人とはそのホスピタリティーなしには、生命の危険がある人であり、最も弱い立場の人でした。だから聖書にも旅人をもてなしなさいという教えが繰り返しあります(ヨブ31:32、ローマ12:13、ヘブライ13:2他)。ロトも、広場で寝るからいいという旅人を、自分の家に招き、食事と宿泊場所を提供しました。心温かいもてなしです。

しかしソドムの町の男たちが、戸口に現れました。そのソドムの男たちは、その二人の旅人は誰だと迫って来ます。5節「なぶりものにしてやる」という言葉は、もともとは知るという意味ですが、性的な関係を持つという意味も含まれる言葉です。さらに6節には「乱暴なことをしないでください」8節には「娘たちを差し出します」とあります。5節で起きていることは、ソドムの町の男たちが、男性である旅人に性的暴力を加えようとしているということです。本来は安全を提供し、もてなすべき旅人です。しかしソドムの人たちは、この旅人を自分たちの支配の下に置くために、相手の尊厳を奪い自分たちに従わせるために、性的暴力を加えようとしたのです。それは愛ではありません。それは支配のために性を使った、性暴力です。

ロトはこの状況に自分の娘を差し出すという方法で対処しようとします。これは最悪の対応です。別の誰かを犠牲にしても、まったく問題は解決することができません。二人の神の遣いはこの事態に、目つぶしを食らわせ、ロトたちに逃げるように言いました。そして驚くべきことを伝えます。実はこの神の遣いははじめからこのソドムの町を滅ぼすために来たのだというのです。今からこの町を滅ぼすから、あなたたちだけは逃げなさいと教えました。それが今日の話です。

キリスト教ではこの物語を伝統的に、同性愛を断罪する話として解釈してきました。同性間の性交を英語で「ソドミー」「ソドミズム」と呼ぶことがあります。ソドムの罪とはまさしく同性愛の罪で、同性愛の罪によって、神はソドムを町ごと滅ぼすのだ。それほどに同性愛は罪深いことで、死に値する罪である。聖書の罪の中でもっとも重い罪であると解釈されてきました。そして多くの同性愛者、性的少数者がそれは罪だ、神に滅ぼされる、やめなければいけないと言われ続けました。そしてその人たちはもはや教会に居ることができず、追われるように教会から去って行かなければなりませんでした。

しかしもう一度この聖書の個所を読んでみて、この個所は同性愛とどのような関係があるのかよくわかりません。ここで起きている出来事は、同性愛とは全く違う、明らかな性暴力です。同性愛と性暴力はまったく違います。ここで問題になっているのは性暴力です。

性暴力は私たちに身近なものです。ジャニーズ事務所では人類史上最悪の性暴力が行われていました。日本はセクシャルハラスメントが絶えない社会です。ソドムで行われていたのはそれと同じ性暴力です。ソドムが滅ぼされたのは、男性同士が愛し合い、交わったかどうか、同性愛があったかどうかとはまったく関係ありません。ソドムが滅ぼされたのは、ソドムの人が本来守るべき命やもてなすべき命に対して、性暴力をし、セクシャルハラスメントを行い、性的搾取を行っていたからです。ソドムはそのような性暴力があふれる町でした。そのことが神の遣いがこの町を滅ぼす理由でした。

長くソドムは同性愛の罪で滅ぼされたと解釈をされてきましたが、この個所から同性愛は罪だと解釈するのは不可能です。むしろ解釈されるべきことは社会にあふれる性暴力、セクハラ、性的搾取をどれだけ神が憤りをもって見ているかということです。私たちはそのことをここから読み取ってゆくべきではないでしょうか。私たちの社会・世界に身近にあふれるそのような性暴力、セクハラ、性的搾取を神様は本当に憤ってみておられるでしょう。一人一人の性の尊厳を奪う、そのようなことがあふれる町があるなら、神様はそこから被害者を逃がし、神様はその町を滅ぼしたいと思っておられます。それが今日の聖書が伝えているメッセージです。

キリスト教の教会も反省すべきことがあります。教会はこの個所から同性愛を罪と断じてきました。教会も相手の性の尊厳を見下し、排除し、よそ者だと傷つけたのです。

このように同性愛は罪だ。そう解釈されてきた箇所でも、もう一度読み直してみると、決してそのような意味で語られていないことが分かります。聖書が本当にやめるべきと指し示しているのは、同性愛ではなく、性の尊厳を奪う事、性暴力です。そしてこの個所も聖書全体と同じことを指し示しています。弱い立場の人に目を注ぎなさいと語っているのです。この個所からは特に少数派の人たちの性を守りなさいと聞こえてきます。私たちはこの物語からそれを指し示されているのではないでしょうか。

この個所から同性愛は罪だということはできません。聖書にはこの個所以外にも同性愛を罪だと断罪する箇所はありません。むしろ私たちが本当に目を注ぐことは、性の尊厳が守られているかどうかということです。他の事柄によって、本当に罪とされるべき、性暴力を見逃してはいけないのです。私たちの社会が互いの性の尊厳を守ることができるように祈ります。そして何より教会が今までのことを悔い改め、互いの性を尊重できる場所となることを祈ります。

 

【全文】「主のご来光」マタイ4章12~17節

みなさん、おはようございます。今日もおとなもこどもも共に礼拝できること、主に感謝です。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。そしてあけましておめでとうございます。今年最初の日曜日を礼拝から始めることができたこと感謝です。年末年始、お正月、それぞれの過ごし方があったと思います。どのように過ごしたでしょうか?駅伝は見たでしょうか?朝、早起きして初日の出を見た日という人はいるでしょうか。

平塚で初日の出を見るなら、湘南平がお勧めだそうです。湘南平の駐車場に住んでいるホームレスの方から教えてもらいました。湘南平は桜の季節に大渋滞をするのが有名ですが、1月1日の日の出の時間も大混雑するそうです。私は見に行ったことがありませんが、地平線の向こうから昇る太陽は想像するだけで、美しいことが分かります。初日の出は東の江の島の方から日が昇るそうです。海が赤くなって、湘南の町に徐々に光が射しこんでくる風景を想像します。そのご来光を湘南平の山頂からみるのは、きっとすがすがしい気持ちになるでしょう。日本では山頂からの日の出を特別に、ご来光と呼びます。おそらく仏教用語だと思いますが、山頂から見る日の出には何か特別な力を感じるものです。あるいは初日の出にも特別な力を感じます。それは多くの人にとってスピリチュアルな体験です。

初日の出やご来光といった習慣は、キリスト教にはあまりなじみのない習慣でしょうか。他の宗教の習慣でしょうか。しかしある意味では、日の出を見ること、そしてそこからスピリチュアルな力をいただくことは、キリスト教の信仰と重なる部分もあると思います。今日の聖書の個所にも日の出に関係することが書かれています。イエス様の登場が日の出のように、ご来光のように、私たちを照らすのだということが書かれています。今日はその箇所を中心に見てゆきたいと思います。

 

 

 

今日はマタイによる福音書4章12~17節をお読みいただきました。16節には光が射しこんだという言葉があります。光が射しこんだという言葉、実はこれは厳密にみると光が昇ったという意味の言葉です。光が昇るとはもちろん日の出を表す言葉です。ちなみに新しい翻訳ではここが修正されており、光が昇ったとなっています。この光はつまり、日の出です。山の上から見ればご来光を表す表現です。

13節にはイエス様はカファルナウムという町に来たとあります。カファルナウムから見る日の出はどのような日の出だったでしょうか?カファルナウムはガリラヤ湖の西の湖畔の町です。東には大きな湖が広がっています。カファルナウムからの日の出が、ガリラヤ湖の水面から日が昇ったでしょうか。もしかすると湘南平から見た日の出とよく似た風景かもしれません。この個所は日が昇る時に、暗闇が光に照らされていく様子を、イエス様の登場に重ねています。そしてイエス様は日の出やご来光にように、暗闇を照らし出す方だということを伝えています。

イエス様が日の出のように暗闇を照らしだすとはどんな意味でしょうか。イエス様の照らし出す暗闇とは、どんな暗闇でしょうか。暗闇とは光が当たらない場所です。死の陰の地という言葉もあります。死の陰とは、まさに死に直面している、死と隣り合わせの事を指す表現です。暗闇と死の陰に住む人々とは、何か悪い事をした人、罪を犯した人という意味ではありません。暗闇と死の陰に住む人々とは、光の当たらない人のことです。普段みんなから見過ごされてしまうような人のことです。あるいは隅に追いやられている人のこと、命が大切にされていない人のことのことです。命の危険がある人のことです。イエス様の登場はその人たちに光が当たる、その人たちに日が昇るような出来事なのだということです。

つまりイエス様の登場は見過ごされていた人が見つけられるということです。隅に追いやられていた人が真ん中にされ、大切にされるということです。命に危険のある人が解放されてゆくということです。それが暗闇と死の陰に光が射すということです。その光は社会の隅々にまで届きます。社会の隅々まで目が行き届くということです。このように光が射すとは取り残される人がいなくなるということです。イエス様はそのような社会・世界の訪れを私たちに告げています。

暗闇や死の陰は、社会や世界以外にもあるでしょう。光が当たらない場所、暗闇は私たち個人の中にもあるものです。私たちは暗く沈むような気分になる時があります。私たちには暗い一面があります。他者の幸せ素直に喜び、願うことができない闇があります。私たちの心には光が射しこまない暗闇があります。自分しか知らない、誰も知らない暗い部分があります。光が射しこんで欲しくない場所があります。

しかしイエス様は私たち個人にとっても太陽、日の出のようなお方です。イエス様の光は私の暗い部分に日の出のように射しこんできます。私にどんなに沈むようなことがあっても、暗闇があっても、イエス様は太陽のように、私たちに光を注いでくださるお方です。

今年もきっと私たちには神様の光がこの日の出のように注がれるでしょう。その光は私たちの心を照らし、私たちの世界を照らしてくれるでしょう。それがイエス様の日の出です。それはイエス様のご来光です。イエス様の光が今年も世界の隅々を照らすように願います。そしてイエス様の光が私の隅々までを照らしてくれるように願います。

今日の個所には他にもいくつか言葉の解釈によって、イメージが広がることがあります。私の注意を引くのは、13節にある「住まわれた」という言葉です。この「住む」も本来は「座る」という意味です。特に権威ある人が座る時によく使われる言葉です。日本語ではそのように偉い人が座る時、座すとか、玉座に着くとか、鎮座するという言葉を使いますが、そのような意味の言葉です。総理大臣の椅子に座るとか、社長の椅子に座ると言ったイメージです。権威のある人がそこにとどまって、隅々にまで目を配り、治めることを意味します。そこに座るということは、その場所の中心になることを意味します。

ですからここは、ただ来て住んだというイメージだけではありません。ここにはイエス様が、権威のある人としてそこに留まり、隅々にまで目を行き渡らせたというイメージがあります。イエス様はカファルナウムの町に座し、そこに住む人々を隅々まで目を配ったのです。

これも私たちの個人の心のことがらとしてもとらえることができるでしょう。イエス様は私たちの心の一番まん真ん中に座してくださるお方です。イエス様は私たちを通りすぎたりはしません。そしてただ、心に来て、住むだけでもありません。イエス様は私たちの心のまん真ん中の一番高い、一番大事なところに座すお方です。私たちを導く方として私たちに現れて下さるお方です。そして私たちの心の隅々にまで目を注ぎ、私たちを治めてくださるお方です。今年1年も私たちの心の真ん中には、イエス様が座ってくださるはずです。神様が私を選び、私の心に座ってくださいます。私たちは心を開いて、心の真ん中に神様を迎えてゆきましょう。今年1年が、そのような年となることを願います。

もう一か所、私が気になったのは17節です。17節には「天の国は近づいた」とあります。近づいたという言葉には、もうすぐ来る、いつかわからないけどやがて来るというイメージがあります。しかしこの「近づいた」も厳密に見ると、現在完了形になっていました。現在完了形は「し終わった」と訳します。つまりここは「天の国が近づき終わった」というのが本来の意味です。それはもうすでに来ているという意味です。今、ちょっとずつ向かっている、近づいているのではありません。もうすでに近づき終わって、来ているのです。つまり天の国、神様の光はすでに世界を、私たちを、照らしているということです。神様は私たちの心の真ん中にすでに来ていて、すでに座り終わっているということです。

今日の個所では、私たちには3つの希望が示されています。ひとつは神様の光が私たちの世界と心を照らすという希望です。二つ目は神様は私たちの世界と私たちの心の真ん中に来て下さるという希望です。そして三つめは、すでにそれは来ている、もう始まっているという希望です。この3つの希望が私たちに今日、示されています。

私たちは今日、新年最初の礼拝に集いました。私は、この世界と自分自身をカファルナウムと重ねて読んでみたいと感じました。カファルナウムを私たちの歩む1年と重ねて読んでみたいと感じました。

今年も1年、イエス様の光が世界と私たちを照らし出してくださるはずです。つらいことがあってもイエス様の光が必ず私たちに注ぐはずです。隅々まで私たちを照らしてくださるはずです。その光を、その日の出をいただきましょう。そして今年も1年、イエス様が世界の真ん中に、私の真ん中に座ってくださるはずです。今年も1年、イエス様を心の真ん中に迎えてゆきましょう。そして今年、すでに、イエス様の光は私たちを照らしています。すでに私たちに来てくださっています。すでに神様の国、神様の支配は私たちに起こっています。私たちはすでにその中を生きるのです。

今年1年の主の導きを信じます。主の光が、主のご来光が私たちを照らし、主が心の真ん中に来て下さいます。そしてそれはもうすでに始まっています。だから私たちは今年1年も安心して生きてゆきましょう。お祈りします。

 

 

 

【全文】「生きづらさの中の神」マタイ2章1~12節

みなさん、おはようございます。大晦日の主日礼拝ですが、今日も大人もこどもも共に集うことができたこと主に感謝します。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。今年1年の最後の日を礼拝で終えることができること、主に感謝します。

私は今年の大河ドラマを見ていました。時代劇を見ていると、つくづく今と価値観が全く違うと感じます。どの時代劇も殿のために命を捨てる忠義が描かれます。相手に殺されるのは恥であり、名誉のために切腹をします。何十万人も動員される合戦は、手柄を上げるチャンスです。そして女性の結婚は敵対する相手と血縁関係をつくる道具です。それらは私にとって、数百年前の全く理解できない価値観です。私たちはその時代とはまったく違う価値観に生きていると感じながらテレビを見ています。

先週は2000年前のイエス様の時代にタイムトラベルしてみたいと話をしました。もしイエス様の時代にタイムトラベルした先はどのような価値観だったのでしょうか。きっと2000年前の価値観と、今の価値観は違いすぎるはずです。そしてアジアの日本と中東のイスラエルでも価値観が違うでしょう。タイムトラベルした先で、のんびり暮らしてゆけるでしょうか。

古代のユダヤの価値観と今の私たちの価値観で、大きく違うだろうと言われていることがあります。それは人間関係のウチとソトの概念と、恥と名誉という概念です。それぞれを見てゆきたいと思います。

まず古代のユダヤ社会では人間関係のウチとソトがはっきり分かれていたといわれています。内輪とそれ以外の外野がはっきりしていたのです。人々は内輪とは親しくし、助け合っていました。例えばその内輪とは隣近所のことです。古代ユダヤで隣近所と言えば、おおむね30~40世帯位を指したと言われます。当時の家族構成を考えれば数百人を指したと思いますし、おそらく村全体を隣近所と感じていました。顔見知りの村全体が内輪です。私たちの想像する向こう三件両隣りではありません。広く内輪を認識し、その内輪の結束は固かったのです。さらに血縁関係、親戚関係も重要でした。古代のユダヤ社会では内輪の関係が重視されました。内輪には最大限の礼節と助けが与えられました。同じ村の顔見知り同士はお互いを思いやり、助け合ったのです。反対に考えると、外側の人とされた人には驚くほど冷たい社会でした。ソトの人には無関心で、ほとんど助けることは無かったのです。ソトの人には嫌悪さえ持っていました。このようにウチとソトがはっきりと分けられていました。ソトの人、仲間ではない人には冷たかったのです。特に外国人はよそもの中のよそ者だったでしょう。

もうひとつ古代ユダヤでは恥と名誉の概念が強かったと言われます。古代ユダヤではなにより名誉が大事にされました。当時の名誉とは男性にとっては自分と息子が周囲から尊敬されることでした。自分と息子が勤勉である、人格者である、働き者である。そのような周囲の評価が名誉とされました。女性にとっての名誉は、結婚し、男の子をたくさん産むことでした。もちろん当時の結婚は個人同士がするものではありません。家同士のものです。父が決めた相手と結婚し、たくさん男の子を生むことが女性の名誉でした。今とは全く違う、息苦しい時代、生きづらい時代だと思います。

もし私がそんな時代にタイムトラベルをしたらどうなるでしょうか。楽しい旅ができるかどうかは微妙です。まず仲間としては受け入れられないでしょう。きっと、ソトの人間として、よそ者として冷たく扱われるでしょう。誰も私を仲間に入れてくれないでしょう。すぐによそ者だといって殺されてしまうかもしれません。

今の私たちの、みんな同じ人間だとか、いのちは何よりも大事だとか、男女平等という論理はまったく通じない時代です。古代のユダヤではウチとソト、恥と名誉が大きな価値観でした。それは時代劇のような世界です。そんな時代、そんな価値観の中でイエス様は生まれました。今日はその誕生について考えたいと思います。 

 

 

 

 

イエス様の誕生に目を向けます。マタイ福音書1章によれば、マリアはヨセフと結婚することになっていました。親同士が決めた結婚でしょう。正式な結婚後に男の子をたくさん産むのが、マリアの名誉でした。そしてそれはマリアの父の名誉であり、マリアの家族全体の名誉でした。しかし、マリアの妊娠は結婚前に起りました。結婚と妊娠の順番が違ったのです。それは当時恥とされることでした。マリアの恥であり、マリアの父の恥であり、マリアの家族全体の恥でした。もちろんそのような理由で結婚をしないことも恥でした。

結婚前に妊娠した場合、石によって死刑にされるという律法もありました。それは秩序を破った制裁という意味とともに、女性によって失われた父と家の名誉を回復するという意味もありました。それほどに名誉は重要であり、家から恥は取り除かなければならなかったのです。おそらく石打ちに家族が加わることもあったでしょう。マリアの妊娠はそのような家族の恥でした。イエス様はお腹の中にいた時からそのような恥を背負っていました。こんな時代に生きていなくて良かったと思います。今は多くのカップルが相手を自分で選んでいます。結婚前に妊娠することも誰からも批判されません。個人個人の選択は誰からも批判される必要がないのです。しかし古代ユダヤではそうではありませんでした。生きづらい世の中です。

ルカ福音書によると、ヨセフとマリアは旅先で宿屋が見つからず、家畜小屋に泊まり、そこで出産をしたとあります。おそらく妊娠しているのにも関わらず、泊まる場所が見つからなかったのは旅先の人間関係は内輪ではなくソトの関係だったからでしょう。古代のユダヤの人々は内側の人間には丁寧に対応しても、ソトつまり他の地域からきた人には、無関心で無配慮でした。ソトの人間は、家畜小屋なら泊まっていいと言われてしまうのです。ソトの人間にはそのくらいの対応で十分という価値観でした。もしこれが内輪だったらどうでしょうか。せめて共通の知り合いが一人でもいたら、まったく対応は違っていたでしょう。ウチの人となれば、客室に通してもてなしたでしょう。しかし彼らは旅先でよそ者です。彼らにはそのような慈しみは与えられませんでした。これがウチとソトの価値観です。イエス様はそのようにソト、外側に追いやれて生まれたのです。

今日の個所によればイエス様が生まれた後、東の国から学者たちが来たとあります。今の私たちの価値観では、イエス様の誕生を偉い学者も拝みに来たと感じます。でも彼らは偉い学者ではありません。当時の学者はあやしい人がたくさんいました。魔術師や、イカサマ師がたくさんいました。この人たちも星占いをする、あやしい人です。その人は古代のユダヤの基準からするととんでもなくソトの人です。そのまったくソトの人が、同じくソトにされたイエス様を訪ねています。恥の中で生まれた子を、家畜小屋に追いやられていた子どもを、さらに異国のもっと外側の人が訪ねて来たのです。ソトの人が、ソトの人を訪ねる物語、それが学者の訪問の物語です。

イエスの誕生を見ると、マリアの婚前妊娠という恥から始まります。そんなことは家族にとっては恥だ、あなたにとって恥だということから物語が始まります。そしてソト、家畜小屋に追いやられます。そしてさらにもっとソトの人が、イエス様を訪ねて来ます。それがクリスマスの物語です。

イエス様の誕生物語はこのように、ソトと恥の物語です。内側の名誉の物語ではありません。不名誉と内輪からはずされた人の物語です。でもそこにイエス様の誕生がありました。恥とソトの中に、イエス様の誕生があったのです。神の子の歩みはソトに追いやられた人から始まったのです。神の子の歩みは恥と言われた家、恥と言われた母から始まったのです。

今日のことからどのように神様のことを考えるでしょうか。神様は私たちにどのように関わる方だと考えることができるでしょうか?神様は世界のどこにいるでしょうか。今日感じるのは、神は私たちの内側の誇らしい場所に居るのではないということです。私の中の一番きれいな場所にいるのではないということです。神様は恥、不名誉とされる中に、私たちがソトだとする人の中にいるということです。それが私たちの神様です。神様は当時の価値観の中で隅に追いやられた者として生まれました。生きづらい者として生まれました。

その時代の価値観は、今の私たちの価値観とは全く違います。でも今の私たちに置き換えて考えます。今の私たちの世界の、時代の、どのような価値観が、誰を隅に追いやっているのでしょうか。この時代、この国のどんな価値観が誰を隅に追いやっているのでしょうか。イエス様の誕生はそれに目を向けるようにと、私たちに訴えているのではないでしょうか。私たちの世界で誰が生きづらいと感じているでしょうか。特に日本ではこどもや若者や外国にルーツを持つ人が生きづらいと感じていると聞きます。そこに神様は来てくださるでしょうか。そこにこそ、生きづらいと感じる人にこそ神様はきっと来て下さるのではないでしょうか。そのような中にこそイエス様が生まれたのが、クリスマスなのではないでしょうか?

今日で1年が終わります。明日から新しい1年が始まります。私はこの時代に生きづらさを抱える人とその場所に、目を向けてゆく、そのような1年にしてゆきたいと思いました。そして生きづらいと感じている人に、そこにこそ神様が共にいることが伝わる、そのような1年になることを願っています。お祈りします。

 

【全文】「時をかける神」ヨハネ福音書1章1節~18節

 みなさん、おはようございます。今日もクリスマス礼拝をみなさんと共にできること、主に感謝です。おとなもこどもも、一緒にこの礼拝を持ちましょう。またこの後のお楽しみ会も楽しみにしています。どなたでもご参加いただけますので、どうぞご出席ください。

今日はクリスマス礼拝、イエス・キリストの誕生を祝う日です。2000年前、イエス様がこの地上に生まれました。イエス様の誕生がどんな誕生だったのかを想像します。もしタイムマシンがあったら、どうするでしょうか?まず私は自分の変えたい過去を変えに行きます。そしてもう一つしてみたいと思っていることは、ぜひイエス様の時代にタイムトラベルをしてみたいということです。イエス様の誕生と復活がどのような風景だったのか、見にいってみたいと思います。それはどんな誕生で、地上の生涯だったのでしょうか。2000年前にタイムトラベルできたらいいのにと思います。テレビのアニメやドラマで、タイムトラベルが題材になったものを見ます。タイムマシンにのって、過去に行って若い頃の両親に会いに行ってみたり、恐竜を見に行ったり、未来に行って今好きな人と結婚できているかを調べにいくのです。

いずれにしてもタイムマシンを使う時に大事なのは、過去や未来を変えてはいけないということです。みんな変えたい過去や歴史があります。それぞれ自分の過去や未来を変えようとします。でもどんなに悪い事でも過去や歴史を変えてはいけないのです。タイムトラベルにはときどき、あやしい悪者が出てきます。歴史を変えようとする人、歴史を変えて金儲けをしようとする人、時間犯罪者が登場します。タイムマシンのある世界では歴史を変えるのは時間犯罪です。それに対して時空警察、タイムパトロールという取り締まりもあります。別時代の人、別世界の人が歴史に介入することは許されないのです。

クリスマス、神様の働きについて考えます。クリスマスは神様という人間とは全く違う方が、人間の歴史に介入しようとしている出来事だと思います。神様にとって人間はもともと自分とは全く違う、別存在だったはずです。神様は神様、人間は人間です。神様には何の不自由もなかったはずです。地上の事は放っておくことができたはずです。人間の自己責任にゆだねておけばよかったのです。神様は人に関わらないことが出来たのです。人間なんて関わらない方がよい、めんどうな存在だったはずです。

しかし神様はご自分で人間の世界に、歴史に、直接介入することを決めました。神様は人となり、地上に生まれることを決めたのです。神様は肉体を持って、肉をまとって、私たちの世界に降りてきたのです。そのように神は地上で人間として人生を生きることにしたのです。それがクリスマスです。神様は人間の歴史に介入し、人間の未来を変えることを決めたともいえるでしょう。それがクリスマスです。クリスマスは、神様が人間の歴史に直接介入を始めたという出来事です。本当は人間だけの歴史だったはずです。人間自身が人間の手によって、自分たちの運命・歴史を決めていくはずでした。しかし神様はその歴史に介入をなされました。イエス・キリストという形で、人間に介入をしたのです。人間の未来を変えるために、地上に生まれたのです。

イエス様はそのように地上に生まれました。そしてその地上での人生は人々に大きな影響を与えました。大勢の人の生き方を変えました。神様が歴史を変え、未来を変えたのです。神様が歴史を作ったともいえるでしょう。神様はそのような方です。歴史を変えるお方、未来を変えるお方、私たちに直接関わるお方なのです。今日の個所から、私たちの歴史、未来を変える神様について考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

ヨハネによる福音書1章1節~18節までをお読みいただきました。ヨハネ福音書は、神、光、言という詩のような文章からはじまります。他の福音書と違う、印象的な始まり方です。聖書にはイエス様の誕生についてそれぞれの福音書が様々な角度から記しています。マタイ福音書を見ると、イエス様の誕生は唐突な系図から始まります。その系図はアブラハムから始まります。神に特別愛されたアブラハムから代々、子孫が受け継がれてゆき、イエス様が誕生したと書いてあります。系図を重視するユダヤ人らしいとらえ方です。ヨハネ福音書ではどうでしょうか。ヨハネ福音書はもっと時空を超えて理解しているように思います。それは系図を今の時代から順番にさかのぼっていく理解ではありません。人類をさかのぼるどころか、世界・宇宙の初めから、宇宙の始まり以前から、神様、イエス様がいるのだと言っています。時空を超えて、神様を理解しています。まさに時をかける神です。

ルカ福音書の始まりはどうでしょうか。ルカ福音書は「いろいろな人が書いているが、私は順序正しく書きます」と言って始まります。実際ルカは福音書とその後の使徒言行録も書いています。エルサレムから広がる宣教を、地上のイエス様を「時の中心」として順序だてて書いています。ヨハネ福音書はどうでしょうか。その時間軸はまるでタイムトラベルのように、複雑な時間軸を持ちます。ヨハネ福音書では、2000年前のイエス様の誕生という歴史上の「点」の出来事から徐々に世界に広がっていったということよりも、もっと以前からイエス様は世界と関わりを持ち、複雑に私たちの歴史、時間に関わっていると書いています。神学ではイエス様は生まれる前からずっと神様と一緒に存在をしていたことを「先在のイエス」と言います。

ヨハネ福音書の時間軸の特徴はこんなところにもあります。15節に洗礼者ヨハネの発言があります。そこには「私の後から来る人は、先におられた方だ」とあります。洗礼者ヨハネの方が半年ほど先に生まれました。先に活動をはじめたのも洗礼者ヨハネが先です。しかしここでは、ヨハネが後になる者で、イエス様はヨハネよりも先におられた方だと言っています。順序が逆転しています。

このようにヨハネ福音書の時間概念は複雑です。ヨハネ福音書にとってイエス様とは一体いつの時代の人なのか、よくわからなくなります。ヨハネ福音書によれば、神様とイエス様は世界の始まる前から共に存在しました。その方が2000年前に地上に生まれたのです。それは過去からきた人とも言えるでしょう。そして未来を変えるために来た人ということも言えるでしょう。まるでタイムトラベラーのように、自由に時間を超えて存在し、時間軸を自由に行き来している様です。

14節を見ましょう。ことばは肉となって私たちの間に宿られたとあります。これは神様が私たちの時代の、生活の中に入ってきたという意味です。関わる必要のないことに、私達に介入しなくてもよい神が、私たちの歴史に入り込んできたということです。天の神が地上の私たちの歴史に直接介入をしてきたということです。そして人間の時間軸に複雑に入りこんでくるということです。ずっと前からいた神が、今地上に介入を始めるということです。神は自由に時をかけます。神様はその地上の始まりに、苦しく、貧しい場所を選びました。この地上に足を踏み入れたその一歩は馬小屋だったのです。そのようにして神様の人間の歴史への直接介入が始まりました。神様が歴史を変えようとしたのです。

さて私たちはどのようにクリスマスを祝うでしょうか。2023回目のイエス様の誕生を祝うという他にも、もっと祝い方があるような気がしています。それは2000年前のことを喜ぶのではなく、もっと時間を超える、時をかけるような喜び方ができるのではないかということです。今という時を超えて、喜ぶことができるのではないでしょうか。

私たちにはイエス様と出会ったその時、ある時点から人生が大きく変えられたということがあります。しかし今日の個所から神の働きはそのような「点」のような働きだけではないと思わされます。神様はずっと線のように時代に、私たちに働きかけます。またさらに一方通行の線を越えて、時間の流れを超えて私たちに働きかけておられます。神様は時をかけるのです。

神様は私たちが存在するずっと前から私たちに働き続けています。そしてこれからの未来にも働き続けて、私たちと共にあり続けて下さいます。人間の歴史に関わり続けて下さっています。神様はそのように時を超えて、時をかけて私たちに関わり続けてくださるのです。時を超えて、私たちのもとに来てくださるのです。私たちは時をこえて神様とつながることができるのです。

クリスマス、私たちは2000年前の出来事を祝っています。でも私たちはそれを、もっと昔からのこととして祝いましょう。そしてもっと今のこととして祝いましょう。そしてもっと未来のこととしても祝ってよいはずです。神様が私たちの歴史を変えてきました。そしてそれと同じようにこれからの私たち一人一人の未来に、イエス様が関わってくれることを祝ってよいはずです。

神様は時を超えます。私たちは、ずっと前から、そして今にわたるまで、そして未来も、私たちに直接関わってくださるイエス様の誕生を喜びましょう。お祈りします。

 

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【全文】「入りやすい教会」ヨハネによる福音書1章19~27節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること主に感謝します。毎週点火しているろうそくは3本目がともりました。来週はいよいよクリスマスです。

先日のこども食堂、こどもクリスマスはたくさんの人が来てくれました。先週の教会は、こどもと親たちが教会の中で食事をしたり、工作をしたりし、遊んで帰ってゆきました。私たちはその方たちに、直接聖書のみ言葉を伝えているわけではありませんが、これが私たちの伝道です。このようにして地域の人に教会を身近に感じてもらい、キリスト教を身近に感じてもらい、神様のことを身近に感じてもらいたいと思っています。そしてその中の内の誰かと一緒に礼拝できることがあれば、うれしいと思っています。クリスマスは教会の注目度があがる時です。今週もいろいろな人が教会を訪れます。来られた方を大切にしたいと思っています。

教会はよく敷居が高いと言われます。中でどんなことをしているのかわからない。自分も入っていいのかわからないと思われています。生まれた時から平塚に住んでいるが、中に入ったことは無い、中を見たいことがないという人は多くいます。これはイエス様の言葉を届ける以前の問題です。地域の方たちは案外、私たちの教会のことを何も知りません。私たちも地域のことを知りません。私たちと地域の人に関係性が薄いからです。私たちにはまず、もっと関係性が必要です。いきなり宗教の話や洗礼の話をするのではありません。まず互いの存在を知り、話し合う関係性が必要です。そのうえで、そうだ教会・礼拝に行ってみようと思える関係性が大事なのではないでしょうか?

教会の敷居が高いことについて東京バプテスト神学校の講座でこんなイメージを教わりました。このイメージは教会は敷居が高くて入りづらいというイメージです。もうすでに中にいる人(私たち)にはこの敷居の高さは関係ありません。中に入ってしまえば心地よいのです。でもこれから入ろうとする人は、相当敷居を高く感じています。それが右側の急な階段を上っている人の様子です。教会に入っていくのはなかなか大変で勇気のいるものです。教会にスムーズに入るには何かスロープの様なものが必要です。それが左側のスロープです。教会にはゆっくりと関係が作れるスロープのようなものが必要なのです。来るか来ないか、敷居をまたぐかまたがないかではない、ゆっくりと関係を造ることができるスロープが必要ではないかと教わりました。

私たちの教会に置き換えると、このスロープはどんなことでしょうか。これまでは特伝やバザーでした。新しくはこどもプロジェクトです。こひつじひろば、こひつじ食堂、こひつじまつり、こどもクリスマス・・・。これらは教会とゆっくりと関係を造っていくスロープの様な存在です。私たちはどんどんスロープを拡げてゆき、いつかたくさんの人と礼拝したいと思っています。

私たちは信仰を直接、すぐに言葉で伝えるわけではありません。私たちがしたいのは、緩やかなスロープを作るということです。そして今、私たち自身がそのようなスロープになる役割も与えられているのではないでしょうか。私たちに与えられている役割。それはスロープの道を作る、スロープの道になることだと思います。私は愛と平和の神に続くまっすぐで、ゆるやかな道を作ってゆきたい、私自身が道になりたいと思っています。今日の個所から、私たちの役割を考えたいと思います。そして来週のクリスマス、たくさんの人を招き、歓迎したいと思います。今日の聖書の言葉を見てゆきましょう。

今日はヨハネ福音書1章19節~28節までをお読みいただきました。この福音書はヨハネ福音書ですが、今日出てくるのはバプテスマのヨハネという別人のヨハネです。このバプテスマのヨハネは当時人気のある宗教指導者でした。彼は聖書の4つの福音書、すべてに登場します。それほど彼の存在は聖書の中でも重要なのです。多くの人が彼に従っていました。イエス様も彼から大きな影響を受けた人の一人です。彼はバプテスマのヨハネと呼ばれていました。彼の教えの特徴がバプテスマ・洗礼をするということにあったので、バプテスマのヨハネと呼ばれていました。

もともとユダヤ教ではバプテスマは日常的に繰り返し行われていました。たとえば市場に行くと体が汚れる、その全身の汚れを清めるためにバプテスマをしました。食事の前は手から汚れを取り払うために手を洗いました。このようにバプテスマ・洗礼、水で汚れを清める行為は、律法の習慣として日常的に行われていました。

しかしヨハネのバプテスマは違いました。ヨハネのバプテスマは個人個人の悔い改めと方向転換、新たな人間として生まれ変わるという意味がありました。つまりそれは汚れを取り払うためではなく、生き方を変える、生き方を方向転換するという意味を持ちました。彼は贅沢をせず身を慎み、他者と分かちあいをする生き方勧めました。その生き方に多くの人が共感し、バプテスマ・洗礼を受け、ヨハネに従い、生き方の方向を変えたのです。

ユダヤ教には当時、他にもいろいろな信仰のグループがありました。しかしどれもそのグループに入るのは高いハードルがありました。例えばサドカイ派は血縁による貴族祭司です。あとからサドカイ派になることはできません。熱心党(ゼロータイ)というグループもありましたが、ここは武闘派で、武力闘争も辞さないグループです。そこに入るのもハードルが高いです。エッセネ派というグループもあります。これは完全に社会と断絶するグループでした。これも敷居の高いグループです。

それらと比較すると、贅沢を控え、身を慎み、他者と分かち合う生き方をしようという教えは平凡で消極的なグループにも見えます。しかしその生き方は多くの共感を得ていました。そしてその新しい生き方を始めるバプテスマ・洗礼という方式は、他のグループよりもハードルが低いものだったはずです。まずこのグループに入るのは血縁や身分、力は関係ありません。割礼は男性しかできませんが、バプテスマなら女性も主体的に参加できます。お金はかかりません。貧どんなに貧しい人でも参加できるグループです。いわば誰でも入ることができる、平和的なグループだったのです。イエス様もそこに共感し、当初はヨハネの教えを良く聞きました。それがベースになっている教えもいくつもあります。どんな人でもバプテスマによって新しい生き方を始めることができる、誰でもそれは受けることができる。それに共感する人々はどんどん増えて、多くの人がバプテスマを受けてゆきました。

その人気を見た、他のグループの人びとは、ヨハネの元に行って聞きました。あなたはメシアですかと?ヨハネの答えははっきりと「私はメシアではない」と答えました。では何かとしつこく聞かれ、そしてヨハネは自分の役割をこう言っています。「私は声である」。その声とは「主の道をまっすぐにせよ」という声です。私は「主の道をまっすぐにせよ」という声だと言っているのです。

「主の道をまっすぐにせよ」とはどんな意味でしょうか?ヨハネが引用しているイザヤ40章3・4節を見るとこう書いてあります「主のために荒野に道を備え、私たちの神のために荒地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らにし、狭い道は広い谷となれ。」つまり、神様のために平らな道を作りなさいということです。その道は平らな道です。低かった谷が平らになります。高かった山と丘が平らになります。狭くて、でこぼこで通りづらい道が、広くて平らな道になるということです。それが主の道をまっすぐにするということです。それがヨハネの役割でした。彼の目的は神様に通じる道をまっすぐ平らにし、みんなが通りやすい様にすることだったのです。みんなが神様にたどり着くことができるように、神の愛と平和にたどり着くことができるように、そのための道を整える、それが彼の目的です。彼はその声でした。「主の道をまっすぐにする」のが彼の使命・役割だったのです。

このイメージは、イラストのイメージと重なります。高い階段を上る、高い敷居をまたいで入ってくる必要があるのが教会かもしれません。しかし、私たちは今、ゆっくりでいいから、なだらかで、平らな道から入ってきて欲しいと、願っています。私たちは多くの人たちに、この平らな道から神様に近づいて欲しいと願っています。そのために様々な地域との交流を持っています。

私たちは今、バプテスマのヨハネと同じ使命をいただいているのかもしれません。「主の道をまっすぐにせよ」「平らにせよ」。私たちはその声に促されて、道を造っているのではないでしょうか。様々な活動をしているのではないでしょうか?そのようにして、たくさんの人がゆるやかに、まっすぐにキリストの愛と平和にたどりついてくれるように道を造っている、それが今の私たちではないでしょうか?

もうすぐクリスマスです。光を求めて多くの人が教会を訪ねて来るでしょう。でもきっと来る人の何倍もの人が、行ってみたいと思っていても、興味はあると思っていても、敷居が高い、怖い、何をしているのかわからないと思って来れないでいます。私たちは平らでまっすぐな道を造りましょう。キリストの愛と平和にまっすぐに、緩やかに向かうことができるように。まっすぐで平らな道を造りましょう。私たち自身が主にまっすぐな者となってゆきましょう。

きっと私たちの働きは小さく、ゆっくりとしたものです。それはキリストの靴紐をほどく値打ちもない働きかもしれません。でも、それでいいのです。神様の道を造りましょう。みんなが入りやすい、まっすぐな道を造りましょう。私たちにはヨハネと同じ役割が与えられています。私たちもキリストの道をまっすぐに歩みましょう。お祈りします。

 

【全文】「お互いをほめ合う教会」ヨハネ福音書5章41~45節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること主に感謝します。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝しましょう。

私たちの教会では毎週日曜日に集い、互いに言葉を交わし合っています。その会話の中で互いをほめ合っている様子をよく見かけます。見ていてとてもよい関係だと思います。今日の服はステキですね。この前のお料理おいしかったですよ。教会学校のお話が胸に響きました。すばらしい聖書朗読をありがとう。すばらしいお祈りをありがとう。教会で互いをほめ合う言葉が交わされるのをうれしく聞いています。お互いをほめることは、互いの関係を良くするだけではなく、その言葉を受けた人を積極的にします。またこれをやろう、もっとやってみようという気持ちにさせます。教会ではお互いをけなしたり、上下をつけたり、評価を下しあうのではなく、私たちは互いにほめ合いたいのです。互いの良いところを見つけ合って、ほめ合ってゆきましょう。

日曜日はこんなにおたがいをほめ合うのに、もしかするとそれぞれの1週間は家でも職場でも怒ってばかりの1週間だったかもしれません。あまり誰かをほめなかったかもしれません。私もこどもを怒ってばかりでした。日曜日に互いをほめ合うように、次の1週間はもっと他者を認め、ほめたいものです。

私の本棚にずいぶん前にもらった、ほめ方ハンドブックという本がありました。そこには正しいほめ方、ほめ方のコツが書かれていました。ほめるコツは、事実を細かく、具体的にほめることだそうです。そして決まり文句ではなく、相手に合わせてほめる事が大事だそうです。さらに、間を置かずタイミングよく、すぐにほめることが大事だそうです。恥ずかしさを置いてほめよう、そのような勧めが書かれていました。一方、ほめる上での注意も書かれていました。それは、嘘はいけないということです。事実をほめるのが大事だそうです。事実でないことをほめるのは、それはほめているのではなく、おだてている、こびているのだとありました。ほめるとおだてる、ほめるとこびるは違うのです。事実でないことをほめるのが、おだてる、あるいはこびるということです。嘘のほめ言葉はこびる言葉、他人の機嫌をとる言葉です。よく人は権力者にこびます。人は時に嘘をついて、権力者が好むような言動をし、こびるのです。

教会は互いにこびる場所ではありません。教会は互いを注意しあい、指導する場所でもありません。教会は互いを認め、ほめ合う場所です。今日もあなたはすばらしい、あなたと一緒にいれて良かったと確認し合う場所です。

社会ではもっと頑張れ、もっとできるはず、どうしてもっとできないのかという怒りがたくさんあります。でも私たちは教会では違います。頑張ってるねと言い合いたいとほめ合いたいのです。私たちは互をほめ合い、互いを尊敬し合い、互いを愛し合うことをこれからも続けてゆきましょう。ローマ12章10節に「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあるとおりです。

そして特に教会が大切にしていることがあります。それは神様をほめるということです。神様をほめるとは、神様のすばらしさが言葉や歌などで表現されることです。神様をほめるとは神様の栄光、誉れ、華やかさが、嘘偽りなく表現されることです。神様をほめるとは神様に向けて、神様に適ったほめ言葉が語られることです。それが神様をほめるということです。そのように教会では神をほめたたえることを何より大切にしています。教会では「神様はいつもそばにいてくれてすばらしい」「神様は悲しいときこそ一緒にいてくれてすばらしい」そのように神様のすばらしさが語られ、賛美の歌が歌われています。

そしてほめているのは、私たち人間だけではありません。神様も私たちをほめて下さるお方です。神様は「1週間、頑張ったね」私たちをとほめて下さっています。神様は私たちをここが良かったと具体的にほめて下さいます。私たちはそのような励ましを神様からいただいて、また1週間を歩みます。今日はほめることをテーマに聖書を読みたいと思います。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日はヨハネ福音書5章41~45節をお読みいただきました。私たちの教会では互いをほめ合い、神様をほめたたえたいと思っています。しかし41節でイエス様は「私は人からの誉れは受けとらない」とあります。どんな意味でしょうか。

この言葉から私は十字架を連想しました。この後イエス様は十字架で死んでゆくことになりますが、十字架の前後では弟子を含めて、ほとんどの人がイエス様をほめませんでした。認めませんでした。イエス様は自分を救ってみろと罵られながら死んでゆきました。十字架の死は屈辱の死です。それはほめられることとは正反対の、不名誉な、呪われた死です。イエス様は誰からもほめられることなく、誰からも認められることなく、十字架で殺されていったのです。イエス様はこのようにほまれを受け取らなかったのです。

この個所をアドベントに読んで、イエス様の誕生も連想しました。イエス様の誕生は、教会にこどもが誕生したときのような、喜びの中で起きた事ではありませんでした。みんなに祝われて、歓迎されながら生まれたのではありませんでした。どこにも泊まる場所、どこにも居場所のない母マリアは、馬小屋で出産をしなければなりませんでした。社会の隅に追いやられて出産したのです。まるでイエス様は人々からその存在を認められないかのように、生まれてきたのです。

今日の個所、そしてイエス様の十字架や誕生からどのようなことが言えるでしょうか。私は誰かを十字架に架けるのではなく、互いを認め合い、ほめ合いたいと思いました。そして誰かを、母や子を隅に追いやるのではなく、受け止めたいと思いました。私はイエス様の十字架や誕生の、不名誉や抑圧を二度と私たちの社会や生活で繰り返したくありません。私の1週間は怒ってばかりですが、もっとほめたいと思っています。隅に追いやってばかりですが、もっとほめたいと思っています。イエス様の言葉、イエス様の十字架と誕生は、私たちに語っています。この個所は互いを拒絶するばかりではなく、もっと認め合い、ほめ合おうと伝えているのではないでしょうか。

当時のイエス様を十字架で殺すことを求めた祭司たちは大きな権力を持っていました。権力の周りにはいつも嘘があります。嘘で固められたほめ言葉、おだてとこびがあります。権力者の周りの人は事実ではないことをほめ、こびます。人々は権力者をおだて、権力者にこびへつらいます。

弟子たちもイエス様のすばらしさを知っていたはずです。しかし「そんな人は知らないと」嘘を言って逃げました。弟子たちは人々の前でイエス様のすばらしさをほめる勇気がなかったのです。本当はあの時、勇気をもってイエス様のこんなところがすばらしいと、具体的な事実をほめることができたら良かったのです。でも弟子たちはほめることができませんでした。

42節には「彼らの内に神の愛はなかった」とあります。人々や弟子たちの内に神をほめる愛がなかったのだということです。イエス様の誕生でも同じです。赤ちゃんの誕生を隅に追いやって、人間のいる場所から追い出して、家畜小屋に追いやりました。彼らはがんばっている母親や赤ちゃんをほめることがありませんでした。その内に愛が無かったのです。イエス様はこのように、誕生から十字架までそのような不名誉を受け続けたお方です。

44節を見ましょう。「あなたたちは唯一の神から誉れを受けようとしない」とあります。これは私たちが神様、イエス様をほめる前から、神様が私たちをほめて下さっているということを示しています。神様は私たちを受け止め、私たちを認めて下さっています。ほめるのは私たちだけではありません。神様も私たちをほめるのです。でも私たちは神様のその言葉を受け取ろうとしない者だとあります。ほめるのは私たちだけではありません。それよりも前に、先に、神様が私たちをほめて下さっています。私たちはすでに唯一の神からほめられているのです。あなたは頑張っている、すばらしいとほめられています。神様はちゃんと私たちを見ているのです。そしてそのほめ言葉をあなたに受け取って欲しいと思っているのです。神様は私たちのことを、罪人だ、愚か者だと怒っているわけではありません。神様は私たちをすでに、ほめて下さっています。私たちはこんなにも教会でお互いを受け入れ合い、ほめあっています。それと同じように、いえそれ以上に神様は私たちをほめて下さっています。

私たちは神様が私たちをほめている、その言葉を受け止めましょう。私たちが互いを受け入れ合ってほめ合う様に、神様が私たちを受け入れ、ほめてくださっています。神様からほめられ、それを受け入れるなら、私たちはもっと積極的になることができるはずです。これをやろう、もっとやろうという気持ちがわいてくるはずです。そして私も他の人のよいところをほめようと思う様になるはずです。私たちは、神様にほめられています。だから自信をもって歩みましょう。そして私たちが互いをほめ合う様に、神様のこともほめたたえましょう。神様のすばらしいと思う場所を神様に伝えてゆきしょう。そのような神様をほめる、祈りと賛美を神様にささげてゆきましょう。私たちは互いにほめ合いましょう。そして神様が私たちをほめてくださっています。私たちも神様をほめ、互いにほめあいましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「そばにいる神」ヨハネ7章25~31節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。今日もこどもたちと共に、こどもたちをそばに感じながら礼拝をしましょう。

2週間続けて宣教の奉仕を他の方に変わっていただきました。ここに立つのが、久しぶりのような気がしています。犬塚先生と根塚さんにお話をいただきました。それぞれの方の話を聞いて、いつもとは違う、神様の恵みがあったと思います。そのことに感謝です。

ふじみ教会の宣教奉仕の後にある方が「最近、平塚教会を身近に感じる」とおっしゃってくださいました。うれしかったです。ふじみ教会とは地域協働プロジェクトがきっかけで、交流が増え、今回の牧師が交換で宣教をするということになりました。おそらくふじみ教会と平塚教会の間で歴史上、初めてのことです。ずっと昔から平塚市内には、2つのバプテスト連盟の教会があったのに、あまりお互いの行き来は無く、近くに感じることが無かったかもしれません。でも最近とても身近に感じるようになりました。これもこひつじ食堂のおかげ、神様のめぐり合わせかもしれません。みなさんは、そんな風にいままで遠くにあると思っていて、あまり関係がないと思っていたけれども、最近になって身近に感じると思ったことはあるでしょうか?

根塚さんのこともそうでしょうか。先週は根塚さんを見送りました。たった半年間ですけれども、とても寂しい気持ちでいます。私たち今まであまり関わりのなかった根塚さんをとても身近に感じるようになりました。東京バプテスト神学校・神学生という存在も身近に感じるようになりました。そして横須賀長沢教会も身近に感じるようになりました。これまでずっとお互いを遠く感じていたけれども、とても身近に感じるようになりました。

私たちはこんな風に、遠くにあると感じていたものを、身近なものとして感じるようになるという体験があります。そしてその体験は神様と私たちの関係にもよく似ていると思います。神様はきっとここにいるはずと思う場所に、必ずいてくださるお方です。そして同時に、神様から遠いと思う場所、神様と関係ないと思う場所、神様はこんな場所にはいないと思う場所にも、神様は必ずいてくださいます。もうここにはいなくなってしまったと思う場所にも、神様はまだいてくださいます。私にはきっと来てくれないと思う私に、神様は来てくださいます。神様はそのように、私たちみんなに、私たちみんなの身近に、私たちみんなのそばにいてくださるお方です。

今日からアドベントです。クリスマスを待ち望む時です。神様は私のもとに来てくれるだろうか?そう思うあなたにきっと神様が来ます。まだ私には来ないかなと思う時、すでに神様はそこに来ています。ここに神様がいる、そう思う場所にももちろん神様はいます。

神様はいつも私たちと一緒にいます。そばにいます。そばにいるということ、それは大切に思っている、愛しているということと同じです。そばにいるよという言葉は、愛していると同じ意味の言葉でしょう。神様は私たちを離れず、そばに、身近にいてくださいます。遠くにいるように、離れている様に思えても、そばにおられます。そのようにして私たちを愛し、大切に思ってくださっています。

今日も聖書を読みます。神様は私たちを大切に思うからこそ、愛しているからこそ、私たちのそばにいて下さるお方です。そのことを聖書から見てゆきましょう。そして、そのように神様に愛される、大切にされるからこそ、私たち同士も、お互いを身近に感じ合って、大切にしあって、愛し合って生きようと教えています。神はそばにいて、大切にしてくださる。私たちも互いのそばにいて大切にしよう。そのことを見てゆきたいと思います。今日の聖書の個所を読みましょう。

 

 

 

今年のアドベントはヨハネ福音書を読みたいと思います。今日の物語を整理しましょう。登場人物は3人です。イエス様、エルサレムの人々、信じた人の3人です。エルサレムの人々はイエス様が平等とか平和とかきれいごとばかりを言って、そのうち騒ぎを起こすかもしれないと、支配者に目をつけられていることを知っていました。彼は民衆、特に貧しい人たちから人気がある人でした。

私たちはイエス様について本当に何も知りません。誰も会ったことも、その姿を見たことすらありません。私たちはただ数千年前からの言い伝えからイエス様を想像するだけです。しかしエルサレムの人々は私達よりも何百倍もイエス様のことをよく知っていました。

彼らはきっとこう言いました。「あれってガリラヤのヨセフとマリアの子でしょ。知っているよ。小さい頃はふつうのこどもだったよね」「私はあの子のおむつ変えたことがあるよ」「結構あいつは悪ガキだったよ」「あの子の家は私の実家のすぐそばで、私はマリアと幼馴染だから」きっと、そんな風に生活の実体験の中でイエス様をよく知っていたのです。その人たちはこう思いました。27節です。「いい話をしているけれど、あなたがガリラヤ生まれだと知っているよ。だからあなたは救い主ではない」そう思ったのです。そんな身近に救い主がいるはずないと思ったのです。救い主はもっと劇的に登場するはずだと思っていたのです。

たしかに当時、救い主は劇的に登場すると考えられていました。ダニエル7章13節には救い主は天の雲に乗ってくるとあります。マラキ書3章1節にも、救い主は神殿に突如現れると書いてあります。人々はそのような神、救い主のイメージを持っていました。だから人々は小さい頃から知っていて、目の前にいるあの人が救い主であるわけがないと思ったのです。その感覚は私もわかるような気がします。

しかし、イエス様はそれに対して28節大声で話をします。そこにいる人々の多くが自分をよく知っています。そんな人たちに囲まれていた中で、全員に聞こえるように言ったのです。「みんなわたしを小さい頃から知っています。でも私は神様から遣わされました。みんな私のことは知っていると思いますが、みなさんは神様のことはまだまだ知らないはずです」群衆はそんな風に言われて、怒ってイエスを捕まえようとしました。だからお前は普通のこどもだったし、神から遣わされた者と考えられない。それは私たちがよく知っている。お前には救い主らしさが無い。神から来たものとは、もっと神秘的で、特別な人だ、だからお前は救い主ではない。そう判断をしたのです。人々は、神から遣わされたのなら、こんな身近じゃなくて、もっと特別な手の届かない存在であるはずだと思ったのです。私の知らない遠い場所に生まれ、私なんかと住む世界が全く違うはずだと思ったのです。

しかし、救い主はそうではなかったのです。救い主はみんなが小さい頃から知っていて、身近な人だったのです。28節のイエス様が知っていて、エルサレムの人が知らなかったこと、それは何だったのでしょうか?それは神様が身近な存在であるということです。神様の子、救い主とは人の世界に、人のこどもとして生まれ、泣いて、あなたにおむつを替えてもらって、育ったのです。それほどに神様は身近な存在だということです。人々が知らず、イエス様が伝えようとしたこと、それは神は身近な存在だということです。イエス様はそれを大声で伝えているのです。

神様は近くにいる。そばにいる。身近にいる。あなたたちのそばにもう来ている。みんなに来ている。誰にでも来る。私には来ないと思っている人に来る。ここではないと思っている場所にすでにいる。それがイエス様が伝えようとしたことです。イエス様が伝えた希望、それはこんなところに神はいないと思う場所にこそ神がいるという希望です。神がそばにいるという希望です。

クリスマスはまさしくそのような出来事です。クリスマスはこんな場所に生まれるはずがないと思う、貧しい、汚い場所で起きた出来事です。イエス様は他の子と同じように、あるいは他の子よりも悪い環境で生まれました。そんな人が救い主で、そんな人が愛を伝えることになったのです。それがクリスマスでした。

私たちはどこに神様がいるのか探すでしょう。私たちは光り輝く場所、良いことが起きている場所、恵みが豊かにある場所、成長している場所に神がいると感じるでしょう。きっとそこに神様はいます。でもそこだけではありません。私たちが暗い場所、悲しいことが起きている場所、恵まれていないように感じる場所、縮小している場所、私たちのよく知っている場所、人、そんな場所に神様はいて下さるのです。神様はそのようにしてみんなのそばにいるのです。

私たちの身近にいる、それが神様です。私は今日の個所から、神がそばにいてくれる、そのことを心強く思います。神が私を愛して大切に思ってくださっている、そのことをうれしく思います。そして今日の個所から、私自身も誰かのそばにいる存在でありたい、人を愛し大切にする存在でありたいと思います。この教会自身も地域にそんな存在であって欲しいと思います。地域のそばにいる教会、地域を愛し大切にする教会でありたいと思います。そのように私たちは今週も互いに愛し合い歩みましょう。

これから私たちはパンを食べます。神を一番身近に感じる方法があります。それはパンを食べるという方法です。私たちが食べるパンは、神様の体を象徴しています。それが私たちの体を巡り、地となり肉となり、力となります。これほど身近な神体験はないでしょう。この後の主の晩餐で、私たちはこのパンを食べて、また神様を身近に感じましょう。お祈りをします。

 

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【全文】「共に生きる」ルカ10章25~37節

半年間、大変お世話になりました。あっという間にすぎてしまったように思えて、とても寂しい気持ちですが、本当にありがとうございました。

私は、4月に妻を主の元に送りました。最後の2か月は、彼女は、まったく体を動かせず、寝たままで、上しか見ることができませんでした。3食を食べさせたり、いろいろと介護をしていましたが、夕食の後に私が目を離した間に、食べた物を吐いてしまい、上しか向けなかったので、それが肺に入ってしまい肺炎を起こし、翌朝早くに息を引き取りました。朝まで苦しそうなのになかなか寝ないので私が、「もう寝るように」と言って、寝る前のお祈りをしたところ、目をつむってそのまま息を引き取りました。うまくいけば半年から1年は生きることができると思っていたのでショックでした。

そして6月から神学校の実習でお世話になることになりました。この半年、毎週、皆さんにお会いし、礼拝を共にすることでだんだん癒されてきたと思います。皆さんに心から感謝しています。横須賀長沢教会に帰りますが、私は、親しい親戚ができたと思っております。同じ神奈川連合の仲間ですのでこれからもよろしくお願いします。また、もし機会がありましたら、横須賀長沢教会にも来てください。三浦半島に観光で来られるようであれば、私が案内をしますのでぜひ連絡をください。

では、今日の箇所をご一緒に見ていきましょう。72人の弟子が、福音を伝えて帰って来て報告している場面です。その時に律法の専門家がイエス様に質問をしました。そのため、イエス様と律法の専門家の会話を聞いたのは、72人の弟子たちでした。広く言えば、この聖書の箇所を読む弟子たち、私たちにも語られているといっても良いと思います。

律法の専門家が、イエス様を試そうとして質問をしました。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と、イエス様自身は、何か行うことと引き換えに永遠の命をいただけるのではなく、永遠の命は神様の恵の賜物であることはわかっていましたが、あえて、律法の専門家の専門にしたがって応答をしました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか?」と。そうすると彼はこう答えました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と。イエス様は、こう言われました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」すると、律法の専門家がこう言いました。「では、わたしの隣人とは誰ですか」と。これは、イエス様を試してそう言ったのかも知れません。律法の専門家なので律法の中身を詳しく知っていて民に教えていたので知っていて当然です。しかし、あえて、イエス様に再度の質問を投げかけたのです。

ユダヤの律法では、隣人はイスラエル人の同胞という解釈があります。もし、イエス様が、「隣人はイスラエルの同胞だ、あなたはイスラエルの同胞を自分のように愛しなさい。」と答えれば、彼は、イエス様が神の愛を説いているのに矛盾していると責めたかもしれません。

しかし、イエス様はそれに答えないで、次の話をしました。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。そこに、ある祭司が、たまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。次に、レビ人がその場所にやって来ましたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行きました。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て哀れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱してあげました。そして次の日になったら、彼は出発しないとならないので、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して、「この人の面倒を見てあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と。イエス様は、こう話されました。

次の箇所を見る前にここまでを振り返ってみたいと思います。この場所はどういう場所なのでしょうか。エルサレムは、海抜700mの高い場所にあり、一方、エリコは、死海という湖の近くにあり、海面よりも400mの低いところにありました。エルサレムからエリコまでは、約30kmあり、高さの差も1kmあまりもありました。そして、この道は狭い道でおまけに曲がりくねっていて、先が良く見えない場所で、盗賊が隠れていて、良く人々が襲われるところで有名でした。そのため、普通は一人では通らずに多くの人で隊を組んでとおったり、護衛を付けて通るようにしていたそうです。そういう場所でした。襲われた人は、そういう場所で追いはぎにあって、半殺しにされてしまったのです。

そういうところに祭司が通りかかりました。彼は、その人を見ると、道の向こう側を通って行ってしましました。その後、レビ人も同じ場所にやって来ましたが、やはり、その人を見ると、道の向こう側を通って行ってしまいました。祭司は、見て、すぐに行ってしまったように思いますが、レビ人は、その場所まで来て、半殺しにされた人を見たように見えます。けれども、何もせずに行ってしまいました。これを読むと私たちは、祭司もレビ人もひどい人たちだと思います。それもユダヤ教の祭司とレビ人で人々の模範になるべき人たちです。祭司とレビ人がひどい人だと考えることもできますが、事情があったかもしれないとも考えることもできます。

当時、エルサレム神殿で働く祭司は、約8千人、祭司よりも位が低いレビ人は、約1万人が働いていたと言われています。その内、8千人のレビ人は、年に1~2か月だけ、神殿で奉仕し、多くは地方に住んで労働者として生活していました。レビ人はとても貧乏で農民に雇ってもらったり、羊の番をしていたと言われています。また、民数記19:11には、「 どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。」とあり、祭司は、その人に触れることで神殿での働きができなくなることを考えて、助けることをしないで通り過ぎたのかもしれません。また、レビ人は、祭司よりも位が低かったので神殿での仕事が七日間できなくなるだけでなく、首になってしまって仕事を失うことを恐れた可能性もあります。レビ人は、とても貧乏だったので、仕事を失って家族を養うことができなくなる恐れの方が強かったかもしれません。また、襲われたふりをした人をおとりにして、その人を助けようとした人を盗賊が襲うということもあったので、自分が襲われるのを恐れて、急いでそこを立ち去った可能性もあります。そう考えると、単純に祭司とレビ人は、ひどい人だとも決めつけられません。

次にその場所に来たのは、旅をしていたサマリア人でした。彼は、そばに来ると、その人を見て可哀そうに思って、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って、介抱をしました。そして次の日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出して、宿屋の主人に渡して言いました。「この人を介抱してあげてください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と。サマリア人はそう言って宿屋を出発したわけです。

イエス様は、律法の専門家に言いました。あなたは、この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。そうすると律法の専門家は、言いました。「その人を助けた人です。」そこでイエス様は、言いました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。

律法の専門家の質問は、「隣人とはだれですか?」でした。これに対して、イエス様はサマリヤ人が半殺しになっている人を助けた話をしました。ユダヤの律法の解釈には、隣人はイスラエルの同胞という考え方があるそうです。そのため、サマリア人は、隣人には当たらない。それだけでなく、サマリア人は、ユダヤの人たちにとって敵だし、忌み嫌う人たちでした。他でもない、そのサマリア人がユダヤの人を助けたのです。それに助け方は、ふつうの助け方ではない。徹底した最後まで半殺しになった人を助けようとしました。イエス様は、律法の解釈、律法の実行の仕方の誤りを痛烈に非難したのだと思います。自分の都合の良いように律法を解釈して行う。主なる神様はそんな律法を与えたのではない。どんな人であっても、あなたの隣人になり得るし、あなたがおこなう大切なことは、自分を愛するように隣人を愛することであると。

そして、私たちに言われているのは、私たちは、祭司のようにもなるし、しレビ人のようにもなる。しかし、大切なのは、踏みとどまって、向こう側を通りすぎるのではなく、戻ってきて、傷ついた人の隣人になることだと。

私たちは、サマリア人のようにできないかもしれません。けれども、立ち止まって一緒にいて誰かの助けが来るのを待つことができるかもしれません。もし、その人がそこで息を引き取ることがあっても、彼は独りぼっちではなく、彼のことを思ってくれる方の傍らで神の身元に召されることができるかもしれません。

私は、10年以上前、出張で大阪のお客様の工場に行ったのに1年半帰って来れなかったことがあります。開発して納入したばかりの機械の完成度が悪く、お客様の工場の生産中に故障してしまうことがありました。そのため、私と数人が24時間交代で機械の面倒を見ながら改善改良を続けました。24時間対応するには、人数が足りなくて、私は管理職だったので何か月も休日が取れずに作業をしました。体も心もくたくたに疲れて、すごく弱気になっていました。私は、見た目、いつも元気なので教会のみんなは、私のことは心配していないだろうと思っていました。けれども数か月振りに休みが取れて、横須賀に帰り、教会に行った時、年配のご婦人でいつも辛口で厳しいことを言う方が、「根塚君、大丈夫?体に気をつけてね。お祈りしているからね。」と言われました。私は、この言葉が、涙が出るほどうれしかった。それで心配して祈ってくれている方がいるんだということが分かって、頑張ろうと大阪のお客様に戻ったのでした。

わたしたちには、サマリア人のようにはできないかもしれません。しかし、隣人となって自分のことのように心配したり祈ったりすることはできるかもしれません。何もしなくても隣人となり、隣人の平和と幸せを祈るなら、皆が幸せになれるのではないかと思います。それが国レベルでも隣人にもしなるなら、だんだん戦争も紛争もなくなるし、いろんな事件も減っていくのではないかと私は思います。

私たちは、自分だけの力や思いで、隣人にはなれないかもしれません。しかし、いつも一緒にいてくださるイエス様が、私たちを愛して、そのように導いてくださると信じます。今日は、私のつたないメッセージを聞いてくださりありがとうございました。来週からは、横須賀長沢教会で礼拝を守りますが、場所は違っても主なる神様によって、同じキリストの体の一部ですからこれからもよろしくお願いいたします。平塚教会のために、横須賀長沢教会の皆と一緒にお祈りしています。(根塚幸雄)

 

 

【全文】「みんな神の子」ローマ8章14~17節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること、主に感謝します。今日はうれしいことが重なります。礼拝の前半では一人の仲間が新しくクリスチャンになりました。そしてこの礼拝の後半では、こども祝福祈祷があります。大人とこどもの祝福を今日、一度に詰め込むことが出来た礼拝に、感謝しています。

今日のバプテスマ式をたくさんの人が喜んでいます。YouTubeではオーストラリアのご家族も見ているそうです。バプテスマはこのように、本人だけの喜びだけではないものです。本人と同じかそれ以上に、周囲の人々の喜びです。どうして周りの人にとっても喜びなのでしょうか?おそらく神様の前でまっすぐに、誠実に生きようとする信仰の告白を聞いたからでしょう。誠実に生きることの決心を心強く聞き、安心し、うれしく思うのでしょう。私はジェイソンさんの信仰生活のために、これからも祈ってゆきたいと思います。ジェイソンさんに神様の導きがありますように。今日も神様からの喜びを聖書から聞いてゆきましょう。今日は「みんな神の子」というテーマでお話をします。

 

今日はローマの信徒への手紙8章14節~17節までをお読みいただきました。14節には「神の霊によって導かれる者」という言葉があります。私たちは神の霊によって導かれている存在です。私たちはいつもいろいろな決断をして生きています。信仰の事柄においても、生活の事柄おいても、いつも自分で自分のことを決めて生きています。しかし今日の個所によればそれらは、すべてが自分の決断で行われるわけではありません。人生は一人一人の決断次第、人生は私の決断次第ではないのです。人生とは私や一人一人の頑張り次第ではないのです。人生は神の霊によって導かれるものです。私たちはなんでも個人で決断する時代に生きています。家族や周囲、社会がどう思うかよりも、個人の決断が尊重される時代に生きています。なんでも個人個人が決める時代にあって、聖書は「神様があなたを導く」と言っています。

私たちは今日、素晴らしい信仰告白を聞きました。しかしそれも個人の信仰の決断であると同時に、神の霊の導きの結果でもあります。そのことは良く信仰告白の中に語られていました。神が私たちの人生を主導するのです。私たちは自分の力と決断だけで生きるのではありません。私たちは神様に導かれていきます。私たちは神様からの力を受けて生きます。私たちは神の霊に導かれる者です。

14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とあります。神の霊に導かれる人は、みんな神の子だという意味です。私たちはみんな神様に導かれています。だから私たちはみんな神の子です。私たちは全員神の子です。あの人は導かれている、私は導かれていないということはありません。神様の愛がすべての人に等しく注がれているのと同じ様に、神様はすべての人を導きます。だからみんな神の子です。みんな神の子です。バプテスマを受ける前から、その後もずっと神様は人生を導き、私を愛して下さっています。そのようにして、神様は私たちをこどもとしてくださる、神の子としてくださるのです。

私たちは15節、奴隷ではありません。奴隷は何らかの恐怖や抑圧によって従わざるを得ない人のことです。個人の思いとは違っても、恐れによって行動をせざるをえない人です。私たちは神様の奴隷ではありません。私たちは神様が怖くて従うのではありません。神の導きに従わないと、悪いことが起きたり、罰が当たるかもしれないという恐怖から、神様に従うのではありません。私たちは恐れの奴隷ではなく、神の子とされています。神の子とはこのような奴隷ではないという意味です。私たちは神の愛を受けて、従う存在になります。私たちは神の子です。愛されている実感を持って生きることができる、神の子です。何も心配せずに、神様に守られると信じて生きることができる、神の子です。神の愛を誰より知って生きるのが、神の子です。神の子は恐怖よりも愛を選びます。

15節を見ましょう。「神の子とする」という言葉があります。「子とする」という言葉は養子縁組をするという意味の言葉です。人々は昔から養子縁組をしました。今も昔も、養子縁組は慎重に進められました。養子になると養父・養母の愛情を十分に受けて育ちます。特に古代で重要とされたのは、その名前を引継ぎ守ること、財産を相続し守ることでした。そして養子となると、実の子と同じように惜しみなく財産が分配されました。養子は実の子の身分に少しも劣らなかったのです。神様はそのように私たちを、自分のこどもと何一つ変わらずに愛してくださっているのです。私たちはこのように愛され、神の子とされているのです。

17節を見ましょう。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」とあります。もし私たちが神の子であれば、キリストと共に苦しむことになります。神の子にとって人生は楽しいことだけではありません。私たちの人生には神様なんていないと思う時があります。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と思うことがあるかもしれません。たとえ神の子であっても、そのような苦しみの時があります。あのイエス・キリストがそうでした。彼は神の子であるにもかかわらず、十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのか」と叫びました。神の子にも苦しい時があるのです。しかしそれでも私たちはすべて神の子です。神様は私たちを見捨てたのではありません。神の子だとしても、神に見捨てたられた思う場所や時があります。しかし神は決して、子を見捨てません。神は苦しみの時も、叫ぶ時も、私たちと共におられます。

私たちが十字架の姿を苦しいと思う様に、私たちの苦しみをイエス様が共に苦しんでいます。そして苦しみで終わりではないと教えてくれます。イエス・キリストに復活があったように、私たちの苦しみの後にも、必ず希望が準備されています。神様はイエス様の苦しみで、その希望を教えて下さっています。神様と私たちは親子です。だからどんな苦しみも神と私を切り離すことができないのです。

神の子という言葉を聞くと、もともとそれはイエス・キリストの称号だったはずだと思います。イエス・キリストこそ神の子です。しかし今日の個所には私たちも神の子なのだとあります。そうなのでしょうか?そうです。今日の個所によれば、神の子イエス・キリストと同じように、私たちも神の子です。私もあなたもみんな神の子です。そしてイエス様も神の子です。みんなイエス様と同じ神の子です。

私たちの生活を見れば、とても自分のことを神の子だとは言えないでしょう。人を傷つけてばかりの人生です。イエス様とはまったく違う人間です。到底、神の子にはふさわしくないことばかりしている存在です。しかしそれでも神様はそんな私たちを神様は神の子としてくださいます。私たちは神様に愛され、神様の愛を受け継ぐ者として、特別に役割を与えています。神様は私たちに、神の子として地上にこられ、イエス・キリストとして歩まれたあの方と同じ役割を与えて下さっているのです。私たちはイエス・キリストと同じ役割をこの地上でするように求められています。私たちはイエス・キリストのように、神の子として、隣人を愛するように私たちに求めておられるのです。私たちはこのようにして、みんな神の子です。

17節には、私たちが神の相続人だともあります。私たちは神の子であり、神様の名前、神様の財産を引き継ぐ者となりました。神様の看板を引き継ぐことになったと言ったらわかりやすいでしょうか。神様の相続人になるとは、神様の愛するということを引き継ぐものとなったという意味です。私たち神の子には神様の愛が惜しみなく豊かに注がれています。私たちはそのような、愛することを相続します。私たち神の子はその愛を次の誰かに惜しみなく渡そうとして生きるのです。それが神の相続人です。私たちは神から受けたものを、また次の人へと途絶えることが無い様に、受け渡してゆきます。愛を受け、渡してゆくこと、それが神の子の役割、相続人の役割です。

16節には「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」とあります。これは「私たちが神の子であると、神様の霊が証明している。そして私たちお互いに神の子であることを証明している」という意味です。私たちは確かに神の子であると、神様が証明をしてくださっています。そして同時に私たちはお互いが、神の子であることを証明しているのです。つまり私たちはお互いを神の子として愛し合おうということです。神のみを愛するのではありません。同じ神の子である隣人を愛し、神を愛すのです。私たちは同じ神の似姿である、神の子です。私たちは神の子として愛し合いましょう。私たちはお互いをイエス・キリストと同じ、神の子として大切にしましょう。恐れや苦しみを超えて、愛に生きましょう。私たちはみんな神の子だからです。

今日、新しく従う命が与えられました。私たちにも神の子の命が今日も与えられています。私たちは愛する1週間を、愛する人生を歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

 

【全文】「死に勝る、神の愛」ローマ8章35~39節

わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。       ローマの信徒への手紙8章39節

 

みなさん、おはようございます。今はようこそお集り下さいました。私たちはこどもから大人まですべての命と一緒に礼拝をしています。今日も共に礼拝できることを主に感謝します。今日は召天者記念礼拝です。私たちは毎年、天に召された方たちを覚えて礼拝を続けています。今年もこの写真の方々、そしてここに写真は無くても皆さんの心の中におられる方々の事を覚えて、礼拝を献げたいと思います。

日本に暮らしていれば牧師だとしても、キリスト教徒だとしても、仏教のご葬儀に出る機会があります。特に私の親族は熱心な仏教徒です。私はお焼香は控えることが多いのですが、許されれば仏教でも無宗教でもお葬式に出たいと思っています。多くの仏教のお葬式ではお坊さんがお経をあげます。唱えられているお経の意味は分かりません。仏教では死んだ後に、この世をさまよっていた霊は、お経を上げるによって仏へとなります。成仏をします。お経が終わると、お坊さんは「これで成仏をします」と言います。遺族にとって「これで成仏をします」という言葉は、大きな慰めです。遺族としてできることはした。しっかりとしたご葬儀を上げることができたと思えるのです。そして仏となった故人は、7日後に三途の川を渡り、49日後にあの世へと行きます。そして仏教ではその後、来世があると信じられています。生まれ変わってまた、別の時代を生きようになるのです。仏教はそのような死生観を持っており、成仏する、生まれ変わるということは、私たちの心にも深く根付いています。このように仏教では、死んだ後どのようになるのか、明確な順序があり、生まれ変わるという明確な行先が示されています。

ではキリスト教では死後をどのように考えるでしょうか。キリスト教の聖典・聖書によれば死んだ後の事について、様々なことが書いてあります。しかし聖書には死んだ後について、こうなって、こうなって、こうなるという順序が明確には示されていません。仏教ほど明確ではありません。聖書に書いていない以上、死んでしまった後ついては、私はわからないという他ありません。こうなりますとお伝えする方が安心できるかもしれません。しかしそうすると、聖書に記されている、様々な死への向き合い方を無視することにもなります。死後のことが聖書にどのように書かれているかという質問には、様々なことが書いてあるが、はっきりとしたことは書いていないというが正解です。

ときどき仏教がうらやましいとも感じます。お経が終わり「これで成仏します」と宣言ができたら、どれほど慰めになるでしょうか。でもキリスト教はそのようなことをしません。できません。この後どうなるのか、断片的にしか言えないのです。宗教者として無力さを感じます。

キリスト教には死後は天国行くという考えもあります。それもひとつの考えです。しかし天国があるなら、地獄もあるのでしょうか。天国に行く人がいれば、地獄に行く人がいるのでしょうか。善い事をしたら、あるいは神を信じたら天国に行き、悪い事をしたら、あるいは神を信じなかったら地獄に行くのでしょうか。そうように、ただ私たちの人生に白黒をつけるのが神様の仕事ならば、そこに慰めや励ましはありません。そこに希望はありません。そのような神を信じる事はできないでしょう。地上の生涯を終え、死ぬとその後どうなるのか、不安に思います。私やあの人は天国なのか、地獄なのか。成仏するのか、来世があるのでしょうか。それでも聖書は死んだ後のことについて断片的にしか答えてくれません。神様は死に向き合う私たちに何を語り掛けているのでしょうか。聖書に聞いてゆきたいと思います。

 

 

ローマ8章35~39節をお読みいただきました。今日の個所は、死後のことについては語っていませんが、死についてはっきりと宣言をしていることがあります。私は聖書に書いていない死後について、皆さんに語ることはできません。しかし聖書に書いてあることについては、自信をもってお伝えすることができます。今日皆さんと確認したいことはただひとつの言葉です。それは「死さえも神の愛と私たちを引き離すことができない」ということです。死んでも神の愛は私たちに続くということです。今日私が自信を持ってお伝えしたいのはこの1つです。私たちは死によって、すべてが終わるのではありません。死んでも続くものがあるのです。それは神様の愛です。

人間の死は多くの意味で節目です。地上での関わりや、働き、生涯は死によって終わります。死は家族との別れ、仲間との別れとなります。死はたくさんの事との別れをもたらします。だからこそ私たちは、死はすべての終わりだと思うのです。

 

でも聖書は死んでも終わらないものがある、終わらない関係があると言っています。それが神様の愛です。神様の愛は私たちに強く結びついています。死すらも神様の愛とも私たちを引き離すことができないのです。

神様の愛、キリストの愛は何があっても私たちから離れることがありません。神様の愛が私たちから離れてしまったと思うことはしばしばあるものです。私たちの人生には艱難があります。でもその時も神様の愛は離れていません。

私たちの人生には苦しみがあります。聖書の苦しみという言葉は元々、行き詰まっている様子を示す言葉です。そうです私たちには人生に行き詰まる時があります。人生に行き詰まり、もうこれ以上できることはない、できないと思う時があります。しかしその時も、神様の愛は私たちから離れません。何ものも私たちから神様の愛を引き離すことはできないのです。飢えも、貧しさも、裸も、危険も、暴力も、私たちを神様の愛から引き離すことができないのです。

私たちが何とか神様の愛にしがみつくのではありません。私たち人間は、忍耐力がなく、すぐにあきらめてしまう存在です。私たちのしがみつく力はとても弱いのです。すぐに手が離れてしまいます。しかし神様は違います。神様はどんな時も私たちを離さないお方です。神様の愛が私たちを離れないのです。神様が私たちをつかみ、神様の愛から離れないようにしてくださるのです。

神様はこのように、私たちを愛するということにおいて、輝かしい勝利を収めるお方です。輝かしい勝利とは圧倒的な勝利ということです。ぎりぎり何とか勝つ勝利ではありません。圧倒的に勝つのです。つまり、愛が勝つということです。神様は苦し紛れに何とか勝利する方ではありません。圧倒的な勝利を、圧倒的な愛を私たちに示してくださるお方です。

38~29節にあるとおり、死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません。天使のようなスピリチュアルな存在すらも、神様の愛を私たちから引き離すことはできません。支配する者とは権力者です。権力者はすべてのものを奪います。命すらも奪います。しかしどんな権力者も、神様の愛から私たちを引き離すことだけはできません。権力は死ねばその人から離れてゆくものです。でも神様の愛は死でも引き離れません。

現在も未来も、神様の愛を私たちから引き離すことはできません。人間同士の愛や慈しみや様々な関係は時間がたつと変わり、薄れていってしまうものです。でも神様の愛は違います。神様の愛は過去も、今も、未来も、ずっと私たちから、この天に召された人たちから引き離れることはありません。

ここに出てくる「高いところいるもの」とは夜空に広がる星々のことです。「低いところにいるもの」とは、地平線の下のことです。地平線の下から星や太陽が昇ってきます。ここにある高いところ、低いところとは、宇宙全体を意味する言葉です。宇宙全体よりも神様の愛が勝るということです。どんな被造物も、宇宙すらも、空間すらも神様の愛から私たちを引き離すことはできないということです。死んでしまった後、どのようなことが、どのような順番で起るのかはわかりません。でも今日、私が確信をもって言えることがあります。それは神様の愛は時間も、空間も超えて私たちから引き離れないということです。そしてたとえどれだけ時間がたっても、たとえどれだけ世界が変わっても、神様の愛は私たちから引き離れないということです。

そして神様の愛はたとえ死んでも、私たちに変わらずに注がれ続けます。神様の愛は死すらも私たちから引き離すことができないのです。私はそこに私の希望を置きたいと思います。神様の愛は永久に私たちから、この方たちから引き離れることはないのです。私はそこに希望を置きたいと思います。この写真の方たちは今日も神様に愛されています。地上の生涯を終えられ、死を迎えましたが、神様の愛はそのような死でも引き離れることは決してありません。今日も神様に愛され、大切にされています。この写真の中には時の経過とともに、この教会との関係が徐々に分からなくなってきている方もおられます。人間の関係とはそういうものです。でも神様の愛は引き離れません。どんなに長い時間も、空間も、死も神様の愛からこの方たち、私たちを引き離すことができないのです。

私たちとこの写真の方たちとの共通点は、変わらない神様の愛を、ずっと受け続けているということです。そして私たちとこの写真の方たちとの違いは、まだこの地上での生涯が残されているということです。

私たちは今この地上の生涯を一生懸命生きましょう。神様からの変わらぬ愛を受けて、精一杯を生きてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「マウントよりも愛」ガラテヤ6章11~18節

みなさん、おはようございます。今日もこうしてこどもも大人も一緒に礼拝できること、主に感謝します。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。

今日まで5回の礼拝の中でこれまでとは少し違う視点でガラテヤ書を読んできました。どんな感想を持っておられるでしょうか。短い書簡を5回取り扱いましたが、それでもまだまだ短い、もっと味わいたいと感じています。

ガラテヤ書を読んでいる最中に、イスラエルとパレスチナで戦争が始まってしまったことはとても悲しいことです。聖書の舞台であり、私たちがいつも想像を膨らませているあのイスラエルで戦争が起きていることに、私たちは特に悲しみを覚えます。暴力を振るうイスラエルとパレスチナ、どちらも悪いと思います。そしてその原因は世界各国の身勝手な振る舞いです。16節には「イスラエルの上に平和と憐れみがあるように」とあります。本当にパウロと同じ思いです。イスラエルとパレスチナの上に平和と憐みがあるように私たちも祈ってゆきましょう。

ガラテヤ書ではこれまでも毎回、割礼がテーマになってきましたが、今回もそうです。パウロは繰り返し割礼について語っています。それだけこの問題が重要な問いかけを持っていたのです。そしてパウロは今日も、割礼ではなく愛を持って生きようということを語っています。今日の個所を見ましょう。

パウロは11節で「私はこんなに大きな文字で書いている」と書いています。当時、紙は貴重品でした。紙を節約する意味でも、文字は小さく詰めて書くのが普通です。しかしこの手紙の文字はかなり大きかったのです。この個所からパウロは近視で目が悪く、小さな文字の読み書きができなかったのではないかという説もあります。彼自身自分の身に不自由を負っていたのかもしれません。自分の弱さを隠さずに不格好な文字で手紙を書いたのかもしれません。

あるいは最後のまとめ部分だけ文字が大きかったのではないかという説もあります。最後のこの個所を特別目立つように、大きな文字で書いたのです。それは私たちがちょうど大事な聖書の個所に線を引くのと同じです。重要な部分が目立つようにされていたのです。目が見えづらかったのか、特別強調しようとしたのかはわかりませんが、彼は私たちに大切なことを伝えようとしています。

12節からの内容を見てゆきましょう。パウロは繰り返し割礼を批判しています。割礼とはユダヤ教の入信の際に、陰部の皮を切り取る儀式のことです。ユダヤ人の親から生まれたこどもは8日目に、この割礼を受けます。当時は教会に2グループの人がいました。生まれた時に割礼を受けたユダヤ人、もうひとつは他の宗教から移って来て割礼を受けていない異邦人です。同じキリストを信じ、同じ礼拝に参加しています。それでも教会の中には割礼を受けたユダヤ人キリスト者と割礼を受けていない異邦人キリスト者という区別があったのです。ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者に、神様を信じるならば絶対に割礼を受けるべきだと言いました。しかしこれはかなりハードルの高いことです。異邦人キリスト者は割礼を受けるべきか、当時の教会では大きな問題になっていました。もちろんその後、私たちの教会に至るまで割礼は必要ないということになってゆきますが、ここには大切な問題が隠れています。

この割礼は、信じることの象徴ということよりも、ユダヤ民族の象徴という意味が強くありました。割礼はユダヤ民族のあかし、ユダヤ民族の誇りだったのです。神様を信じる事と民族に誇りを持つことは別のことです。他の民族の人々から見ても、神様を信じる事と、割礼を受ける事との関係は分からなくなっていました。それでも一部の人は、割礼を受けてユダヤ民族になるべきだと訴えていました。そこにパウロが手紙を書いたのです。割礼を受けることはユダヤ民族の優越性・優位性を受け入れることにつながりました。自分の民族を捨ててユダヤ民族に同化する、そのような意味でした。パウロはそのような割礼を批判し、必要ないと言っています。それぞれ今の民族の、今の暮らしの中で、神様を信じ、愛の実践を行うことが大事だと教えたのです。

マウントを取る(マウンティング)という言葉があります。相手との会話の中で、自分の方が上で、優位に立っているということを示す行動です。割礼はマウントとも言えるでしょう。割礼を受けることは、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者にマウントを取るために使われたのです。

ユダヤ人が悪いと言っているのではありません。人間はこのような態度を取ることが多くあります。自分が優位に立とうとすること、自分と同じにさせようとすること、自分の正しさを押し付けてしまうことが多くあります。それは日常でも、世界でもそうです。

パウロは12節、13節でそれを批判しています。「肉において人からよく思われたがっている者」「あなたがたの肉について誇りたい」者とあります。これはマウントを取ってくる人のことです。自分を他者と比較してよいと思わせる、自分を他者と比較して誇る人のことです。

14節をみます。ではパウロが誇りに思っていることは何でしょうか。パウロはイエス・キリストの十字架を誇ると言っています。それ以外に誇ることは、決してあってはならないとまで言っています。十字架を誇るとは何でしょうか。十字架とは何でしょうか。十字架とはイエス様が愛に生きようとした時に起きた拒絶です。イエス様が愛に生きようとした時、多くの人がその価値観、生き方に拒絶を示しました。そんなことできないと笑いました。それは危険な思想だと言いました。イエス様の愛する生き方は人々に受け入れられず、十字架に架けられました。その拒絶の結果が十字架です。

パウロはその見捨てられた、拒絶された価値観を誇りに思うと言っています。それは拒絶された生き方でした。笑われた生き方でした。しかしそれに生き方に従う人もいました。それは人を愛するという生き方でした。パウロもその生き方、人を愛するという生き方を誇りとしたのです。民族を誇りに思うのではなく、十字架に向かう生き方を誇りとすると言ったのです。

14節の後半は「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」とあります。つまり、お互いに価値観を拒絶しているという意味です。世界と私は違う価値観を持ち、私と世界は違う価値観を持っているのです。それは愛するという価値観と争うという価値観とも言えるでしょう。愛と争いは互いを拒絶し合っています。私たちはどちらが上か、どちらが強いかを争って、戦ってはっきりさせようとする価値観には決して立ちません。私たちの誇りは十字架です。弱くて、笑われるかもしれません。でも愛する生き方を誇りにするのです。この二つの価値観は互いに互いをはりつけにしようとしています。

15節でパウロはもう一度はっきり「割礼はいらない」と言っています。大切なのは新しく創造されることだと言っています。大切なのは、私たちが神様によって、新しく創り変えられることなのです。私たちは割礼によって創り変えられるのではありません。私たちは十字架によって、創り変えられるのです。

16節には原理という言葉があります。原理という言葉は基準やものさしという意味のある言葉です。パウロはここで何を生きる基準とするのかということを問いかけています。世界の基準はどちらの方が上で、どちらが下か、どちらが豊かで、どちらが強いかです。それを争い、戦い、決めようとしています。しかし私たちの基準はそうではありません。割礼を受けているかどうかも基準ではありません。私たちの基準は十字架です。私たちの基準は十字架によって拒絶された、愛するという生き方です。私たちが生きる基準は、他者と自分を比較するのではなく、自分を優位にするために争うのでもありません。

私たちは自分に十字架という基準、ものさしを当ててみます。十字架のものさしを当てて、イエス様の愛と自分の愛を比較します。そうするといかに私たちの愛が小さいことが分かるでしょう。いかにイエス様の愛が大きいかが分かるでしょう。イエス様の愛という基準、ものさしと私を比較すること、それがこのように原理・基準に従って生きていくという生き方です。おそらく私たちもこの愛の基準、愛の価値観によって生きようとすれば、拒絶されるでしょう。私たちは愛に生きようとするとき、人一倍、苦労を体験することになるでしょう。私が優位に立ってしまえば楽です。でも私たちはそうしません。愛に生きる事を、十字架を私たちの基準とするのです。

17節パウロは、私は焼き印を身に帯びていると言います。焼き印とは一生消えない印です。それは割礼にも通じています。でもそれは優位性の印ではなく、愛の印です。私たちは割礼ではなく愛するという焼き印を神様からいただいているのです。

今日までガラテヤ書を読んできました。信仰義認ではなく、生き方としてガラテヤ書を読み、また共同体とは何かを考えてきました。私たち教会とはどんな集まりでしょうか。私たちはもちろん、マウントを取り合うためにここに来ているのではありません。世界の愚かさを見下すためにきているのでもありません。私たち教会とはどんな集まりでしょうか。私たちは互いを愛する生き方を確認するために、今日も集っているのではないでしょうか。それは拒絶され、苦労が多い生き方です。でも私たちの誇りは十字架です。その愛に誇りを持って生きようと今日も私たちは集まっているのではないでしょうか。それが十字架を誇るという意味ではないでしょうか。お祈りします。

 

【全文】「キリストへの信仰」ガラテヤ2章16節

 みなさん、おはようございます。今日も、みなさんと共に礼拝できること、主に感謝します。今日も一緒に礼拝をしましょう。今日は特に証しの時をいただきました。どなたの証からもいつもその信仰に触れることで励ましをいただきます。そして証しは私自身はどう生きようか、そんな問いかけにもつながるでしょう。今日の証しに感謝をします。

宣教では今月、一緒にガラテヤ書を読んでいます。2018年に新しい聖書の翻訳が出版されました。「協会共同訳」という翻訳です。聖書はもともとギリシャ語という言葉で書かれていますが、40年ごとに翻訳が更新されます。40年前から日本語が変わりました。また聖書の研究が進み、たくさんの発見がありました。これまでの研究成果が凝縮されて新しい翻訳が発行されました。今回の翻訳で一番大きな変更はガラテヤ書にあると言えます。今月紹介しているようなパウロ研究の成果、パウロへの新しい視点(NPP:New Perspective on Paul)が反映されています。

今日の個所2章16節はこれまで「キリストへの信仰」と翻訳されていました。しかし新しい翻訳では「キリストの真実」という翻訳に変更されました。今日はこの「キリストへの信仰」と「キリストの真実」ということを巡って話をしようと思います。

まず、聖書にある「信仰」という言葉から考えます。聖書の信仰という言葉はもともとピスティスという言葉です。このピスティスは信仰という意味に限らずもっと広い意味があります。もともとは「信頼する」という意味です。誰かを信頼するとは、きっとあの人なら約束を守ってくれるだろう思うことです。さらに、きっとあの人なら私の期待に応えてくれるだろうというのも信頼でしょう。あるいはあの人なら私が失敗してもそれを受けて止めてくれるだろうということ、それも信頼するということです。神様をそのように信頼することが信仰です。ですから信頼という言葉は信仰と翻訳されてきました。ピスティスはもともとの、信頼するという意味からさらに広がってゆきます。嘘や偽りがなく信頼できるということから「真実なもの」という意味も生まれました。このようにピスティスは広い意味を持ち「信頼・信仰・真実」と訳すことができる言葉です。どのように訳すかは文脈次第です。今回の翻訳では「真実」が採用されました。

もう一つ「キリストへの」という言葉も考えます。実はこちらの方が大きな変更です。これまで「キリストへの信仰(信頼)」だったものが、「キリストの真実(信頼)」に変わりました。「キリストへの」か「キリストの」か、この「へ」が一文字が含まれるかどうかの違いが、大きな変更です。

「キリストへの信仰」は文法上「キリストへの信仰」とも「キリストの信仰」とも、どちらにも訳すことができます。これまでは「キリストへの信仰」と訳されていました。しかし今回は「キリストの」が採用されています。「へ」が抜けました。

キリストへの信仰の方が意味が分かりやすかったでしょう。それは私たちの信仰の対象がイエス・キリストだからです。キリストへの信仰とは、イエス・キリストに向けた私たちの信仰という意味です。私たちは熱心にイエス・キリストを信仰しよう、信頼しようという意味です。信仰生活を守りましょうという意味となるでしょう。

16節は神様が何を義とするのか、神様は何を喜ぶのかが語られています。「キリストへの信仰」と翻訳するなら、神様が喜ぶのは私たちのイエス・キリストへの信仰だと考えることができます。この考え方は人間が主語となります。私たち人間がいかにキリストを信じるかが大事だという見方です。私たち人間がキリストへの信頼を持つことが、神様の喜びなのだという解釈です。それは私たちがイエスを救い主と信じる信仰が大事と言う視点、信仰義認とも共通する考えです。

一方、近年は「キリストの信仰」という翻訳を支持する人も増えてきています。いろいろな人がどちらかを議論しています。それはこれまでの信仰義認論とは違う考えにつながります。「キリストの信仰」という言葉について考えましょう。近年、キリストへの信仰ではなく、キリストの信仰と解釈する人が増えてきています。これは大きな解釈変更です。なぜかと言うと神様が良しとすることが変わってくるからです。

私たちはこれまでキリストへの信仰を大切にしてきました。一生懸命イエス様を信仰することを大切にしてきました。それがキリストへの信仰です。でももし、神様がよしとするのが「キリストの信仰」だとするなら、その解釈は変わります。神様がよしとするのは「キリストの信仰」だと解釈するなら何が起こるでしょうか。

 

イエス・キリストの信仰とするならば、それはイエス様の持っていた信仰のことを示します。イエス様の信仰とは、イエス様がどのように神様を信頼し、生きたのかということを示します。証しをした誰々さん「の」信仰はすごいと言った時は、その生き方をすごいといっているのと同じです。

「キリストの信仰」とはイエス様の生き方や生きる姿勢をあらわしています。それは「キリストへの信仰」とは意味が大きく違います。ここで語られていることは、イエス様を信じる「キリストへの信仰」が大事なのか、それともイエス様のように生きる「キリストの信仰」が大事なのかという大きな違いがあるのです。

たった一文字「へ」が抜けるだけで聖書全体の解釈が大きく変わります。これは信仰か、行動かという問題にもつながっています。信仰義認の枠組みを超えて、私たちの生き方、行動に迫る意味になります。ですからこの翻訳の違いは非常に重要で、議論がされています。パウロが本当に語ろうとしたのは信仰義認ではなく、私たちの行動や生き方だったのではないかという全体の理解の変更でもあるのです。

「キリストへの」でも「キリストの」でもどちらでもいいのではないか。信仰も行動もどちらも大事ではないかという意見はごもっともです。もしかするとパウロ自身、曖昧に語っているかもしれません。信仰も生き方も両方が大事と考えて曖昧に受け取ることができるような言葉にしたのかもしれません。まだまだこの議論は続いてゆくでしょう。

私自身がこの問題をどう考えているかを紹介します。ここまで何回か、新しい視点で語ってきました。信仰義認、行動よりも信仰が大事とされる、伝統的な解釈から離れて聖書を読んできました。私はパウロが語ったのは信仰義認ではなく、キリストの様な生き方の勧めだったと考えています。どう生きるかがパウロ書簡全体のテーマだと思います。その立場からは「キリストの信仰」を支持したいところです。しかし私としては今日の時点ではどちらを支持するか迷っています。

16節の律法と信仰が3回セットになってできている流れに注目しています。パウロは律法ではなく信仰、律法ではなく信仰、律法ではなく信仰と繰り返しています。パウロは律法の反対にあるものとして信仰を語っています。実行という言葉も3回登場しますが、実行ではなく信仰、実行よりも信仰と言っているのではありません。おそらくパウロはここで、共同体の特徴を語っています。ガラテヤの共同体は律法によって一つになっているのではなく、信仰によって、神様の約束を信頼することによって、ひとつになっているということを語ろうとしているのだと思います。

ガラテヤ書は全体を通じて、割礼が問題になっています。パウロは教会とは割礼による共同体ではなく、神様に信頼する共同体であるのだと伝えようとしているのではないでしょうか。考え方が違っても、共同体が一致していることは何か、それは神様を信頼すること事だと語ろうとしています。だとするなら、この個所はキリストへの信仰と訳されるべきだと思います。私たちは何よりキリストを信じる群れです。何をもって一致するのか、それは全員がキリストへ向かう信仰・信頼を持つからだといっているのではないかと思っています。

行動や生き方、律法を守るかどうかはそれぞれ違ってバラバラで良いのです。でもその中でキリストへの信仰・信頼が私たちを一つにするのです。パウロはそのような一致を語っているのではないでしょうか。今日の時点では私は「キリストへの信仰」を支持したいと思っています。

これらの議論はとても重要な議論だと思います。信じていればいいのではなく、信じた人がどう生きるが大事なのではないかという議論です。そして私たちは何において共通し、何において違っているのかという議論です。私たちはイエスを信じるだけではなく、信じて、どう生きるかが問われています。あのイエス様が歩んだ、分け隔てのない姿、小さく弱い者に特別な目を注いだ姿、みんなと一緒に食事をしたあのイエス様の信仰を私も持ちたいと思っています。

そして私たちはそれぞれ違う人生を歩み、違う考えを持ちますが、キリストの信頼においては一致できるのです。キリストへの信仰か、キリストの信仰か、どちらかに決めることはできないのは、信仰か生き方かどちらかを決めることができないこととつながっているでしょう。また生き方が一つに固定できないことともつながっているでしょう。

これを信じなさい、これが正解ですと言うことができません。私たちは何を信じているのでしょうか。私たちはどのように生きるのでしょうか。聖書から問いかけを受けながら歩みたいと思います。そしてお互いに何を信じているのか、お互いがどのように生きようとしているのかを聞きながら考えたいと思います。

ともにキリストへの信仰、キリストの信仰を持ち、それぞれの1週間を歩んでゆきましょう。お祈りいたします。

 

 

【全文】「愛の実践を伴う信仰こそ大切」ガラテヤ5章2~15節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること、主に感謝します。今日は収穫感謝礼拝です。収穫の恵みに感謝をし、礼拝をしましょう。私たちはキリスト教の中でもバプテストというグループです。バプテストは特に「自由」を大切にするグループです。個人個人の自由な選択、自由な信仰の選択が尊重される教会です。そして平等ということも大切にしています。教会の中では、誰かから指示されるような上下関係はありません。そのような自由と平等を大切にしています。

服装も他の教会よりも自由と言えるでしょう。みんな自分の好きな格好で来ています。私はいつも似たような服を着ていますが、なるべくオーガニックコットンの服を選ぶようにしています。オーガニックコットンとは3年以上化学肥料や農薬を使わない畑で栽培された綿のことです。身近には無印良品がオーガニックコットンの衣料品を販売しています。私の服も多くは無印です。なぜ私がオーガニックコトンを選んでいるのかと言うと、綿が非常に多くの農薬を使うからです。世界の農薬の7%が、綿の生産のために使われていると言われています。

農薬や化学肥料に頼りすぎた農業をすると一時的には良く育ち、効率が上がります。しかしそれを繰り返ししてゆくと土壌はやせてゆきます。収穫を続けるにはより多くの肥料と農薬が必要になります。それは持続可能な農業ではありません。これを続けると農家は生産を続けることができなくなります。このままでは生産者も消費者も互いに滅んでしまうのです。農薬はそれを使う農家の健康にも負担があります。農家さんがたくさんの農薬を使えば、自分が病気になったり、子どもたちにも影響があるのです。

私の服の選択肢は無数にあり自由です。しかし私の着る物が誰かの負担や犠牲のもとに成り立つのなら、私はそのような服を着続けたくないと思います。できれば少しでも生産者の負担や犠牲が少ない商品を選択したいと思います。そのような思いで無印で服を買っています。もちろん私は限界のある罪人です。100%それだけで生活できるわけではありません。でもできる限りそうしたいと思っています。もちろんオーガニックコットン自体にも課題や限界があります。色や柄の選択肢は少なくつまらないです。価格は割高です。環境への負担や生産者の犠牲は少なくても、たとえば児童労働の問題やフェアトレードの問題は解決されていません。

いずれにしても大事なのは、私たちの着るもの、食べるもの、生活はすべて、誰かに支えられているということです。好みのもの、安いものを選ぶだけではなく、生産者を考えて商品を選びたいと思います。せっかくの収穫感謝礼拝です。この収穫を神様に感謝しましょう。そして、その収穫を支えている人が、誰かの犠牲になっていないかにも思いを巡らせたいと思います。

私たちには自由があります。どんな服を着るか、それがどんな素材で、どんなデザインか、自分で決める自由があります。それは絶対に誰かから強制されません。お互いを素敵な服ですねと褒め合いましょう。

でも私の自由、私の選択は本当に、誰かを守る選択なのだろうか?私の選択は本当に愛のある選択だろうか?私の選択は地球の環境にやさしいものか?それをよく考えたうえで自由な選択をすることが必要なのではないでしょうか。自由とはただ楽であればよいということとは違うと思うのです。私たちは罪を犯さずに生きることが出来ないように、誰にも負担をかけず、誰も犠牲にせずに生きることはできません。しかし少なくともその負担と犠牲を知り、どう解消すべきかを考えながら生きたいと思います。

今日の収穫感謝礼拝。おいしいものがいっぱい実る秋。私たちの食も自由な選択が広がる季節です。その収穫を喜び、そしてこの収穫の背景に、誰かの負担と犠牲が無いか考えたいと思います。そして私たちは精一杯の愛の選択をしたいと思います。そのように愛を選びたいのです。神様はきっと一人一人が愛の選択をする、その方向へと世界が進んでゆくことを願っておられるはずです。

 

今日の聖書の個所を読みましょう。イエス様の弟子パウロはガラテヤという地域の教会へ手紙を送りました。2節の前の太字の表題には「キリスト者の自由」という題があります。今日の個所は、キリスト者はどのように自由に生きるかということがテーマです。全体的に強い口調が続きますが、目に留まるのは6節です。そこには、割礼の有無ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切だとあります。私たちに必要なのは愛の実践を伴う信仰です。

これまでパウロと言えば、何かをしたことを誇るよりも信仰を誇るように語っていると教えられてきました。信仰義認論です。それは一面では確かにそうなのですが、しかしパウロが語っているのは信仰心が大事ということだけではありません。ここでははっきりと書いてあります。パウロははっきりと「愛の実践を伴う信仰が大切だ」と言っているのです。割礼と言う儀式を通過しているかどうかが問題なのではなく、愛の実践を伴う信仰が大切だと言っています。ここからもパウロは信仰義認論を訴えているとは言い切れません。

これまでにも見てきたように、ガラテヤ教会の一部の人は、信仰を持ったなら、ユダヤ人の習慣である割礼(男性の性器の皮を切る儀式)を当然すべきだと言いました。割礼をすることが信仰がある証拠だ、これをしないと信じたことにならないという意見がありました。当初は割礼は無くてもよいと合意されていたのでしょうか。しかし多くの人がやはり必要という意見に代わって来ていました。やはりこの儀式・習慣は必要だと考えていました。しかし割礼は受ける人にとって大きな負担です。割礼を受けるには大きな抵抗がありました。

7節~12節まではガラテヤ教会が割礼のことで揺れていた様子が記されています。愛の実践よりも、まず割礼が必要だと気持ちがなびいてしまった人が大勢いたのです。キリストを信じるだけではなく、愛の実践をするよりも、やっぱり割礼が必要だと考える人がいたのです。私と同じキリストを信じるなら、私と同じように割礼を受けるべきだと考えたのです。私たちと同じようになるべきという民族の意識は、人間の意識はパンが発酵して膨らむように、どんどん大きくなっていました。

割礼のことで二分されているガラテヤの教会です。そこにパウロから手紙が届きました。パウロは手紙の中で6節「愛の実践を伴う信仰が大切」だと訴えています。あの人は自分と同じになるべき、自分と同じ割礼を受けるべきということよりも、愛の実践が大切なのではないかと手紙を出しました。パウロが伝えようとしたことは、愛という信仰の実践こそが大切だということです。割礼の有無よりも、私たちの生き方が大事ということです。他の人が自分と同じか違うかということよりも、お互いが愛をもって生きることが出来ているかどうかが大事だということです。

これは私たちにも語られていることです。私たちに一人一人にとって愛を実践する生き方はとはどんな生き方でしょうか。愛の実践を伴った信仰を持って生きるとはどんな生き方なのでしょうか?収穫感謝礼拝の中で考えます。

私たちには様々な自由があります。何を着るか、何を食べるかは自由です。どのような楽しい時間を持つかは自由です。私たちは自由に生きるように神様に示されています。私たちは自由な選択してゆきましょう。他の人と同じ選択をする必要はありません。仲間になるからといって他の人と同じになる必要はありません。特に教会ではそうです。自由に、ありのままに私たちは集いましょう。

ただ私たちの自由は罪、誰かを傷つけるものとなっていないかも考える必要があるでしょう。自由に生きるからこそ、他者を傷つけないこと、他者を愛することを忘れないようにしましょう。愛によって互いに恵みがあるようにしましょう。私たちは収穫をただ自由に受け取るだけではありません。その収穫の創造主と、その収穫の苦労に思いめぐらせ、感謝をしましょう。そして愛を持って、自由な選択をしましょう。そして他者を傷つけない選択、他者を愛する選択をしましょう。

人と地球にやさしい物を選ぶことは、本当に小さな選択かもしれません。でもその選択は他の人の選択と、あるいは今までの選択とすこし違う選択です。その小さな愛の選択が私たちの世界を少しずつ変えるはずです。私たちをもっと自由にするはずです。神様はそのような自由と愛の選択を私たちに期待しておられます。

そして互いの選択を非難する必要はありません。12節には去勢してしまえばよいとありますが、これはパウロの言い過ぎです。このような発言はどんな論敵に対してもいけません。パウロは反省が必要です。

14節、隣人を自分のように愛す、これが律法全体、聖書全体を表す言葉です。収穫を神様に感謝しましょう。そして世界の生産者が、私たちと同じように、豊かに暮らすことができるように願います。私たちの生活を支える誰かを犠牲にしない選択をしましょう。それも愛です。世界が共食いをせず、愛のある選択をするように祈ります。

15節、世界がお互いによって滅ぼされないように祈ります。私たちが自分だけ良ければよいと思う時が、世界が共食いを始める時です。私たちは共食いをするのではなく、互いに愛し合いましょう。その選択をしましょう。

私たちは収穫を神に感謝し、愛のある選択をしましょう。一方だけが豊かなのではなく、共に豊かになる道を選びましょう。神様からいただいた収穫に感謝します。お祈りします。

 

【全文】「神のゆるやかな一致」ガラテヤ書2章11~14節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

今月はパウロ書簡ガラテヤ書を読んでいます。今日は当時の食事の問題について考えたいと思います。もともとキリスト教はユダヤ教の中から生まれました。キリスト教は、ユダヤ人でキリストを信じるようになった人「ユダヤ人キリスト者」から始まりました。しかし世界に広がってゆくにつれて、ユダヤ教以外の他の宗教を信じていたがキリストを信じるようになった「異邦人キリスト者」が増えてゆきました。イエス・キリストを信じる集まりは大きく分けて二つ、「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」でした。そして別々に礼拝するのではなく、両方が共に集まる教会が増えてゆきました。

アンティオケ教会もその一つです。しかし今日のガラテヤの信徒への手紙では、その教会でのある食事を巡る事件が紹介されています。アンティオキア教会ではイエス様を信じる人は「ユダヤ人キリスト者」でも「異邦人キリスト者」でも、みんなで一緒に食事をしました。ケファと書いてあるのはペテロの事です。ペテロもパウロもユダヤ人キリスト者ですが、アンティオキア教会では異邦人キリスト者とも仲良く食事をしました。

このことは当時大変珍しいことでした。もともとユダヤ人には食事の規定、食べ物の規定が細かくありました。旧約聖書を厳格に解釈する人は、ユダヤ人はユダヤ人以外とは絶対に食事をしない、会話もしないという人がいました。誰とどのように食事をすべきなのかという厳格な習慣がありました。しかしアンティオキアではその規定を超えて、みんなで一緒に食事をしていました。一堂に会して食事をすること、これは大変珍しいことでした。

一方、食事の規定の中には、食べ物に関しての規定も多くありました。豚肉は食べない、牛肉は良く焼いたり、湯通ししたりして血を抜いてから食べるという規定などです。ユダヤ人キリスト者はその食事の習慣も全部やめて、みんなで食事をしたのでしょうか?

しかしアンティオキアのユダヤ人キリスト者が、突然食べる物も変えたというのは、考えづらいでしょう。今まで食べなかったものも突然食べ出したわけではなかったはずです。自分たちが何千年も大事に守ってきた食事規定のすべてを捨てて、異邦人キリスト者と一緒に食事をしたわけではなかったはずです。ユダヤ人キリスト者が自分たちの習慣を簡単に捨てたとは思えません。また逆に、異邦人キリスト者が、ユダヤ人のように豚肉を食べるのをやめたというのも考えづらいです。二つのグループがどちらかに一致した、どちらかが我慢してあわせた、どちらか一方に“同化”したとは考えられません。どんな食事だったのでしょうか。

おそらく一緒に食事をしていたとは、お皿や食べ物が分かれていたのではないかと言われます。つまり一緒に食べるのだけれども2種類の食事があったということです。テーブルのこちら側は食物規定のあるユダヤ人向けのお食事、そしてテーブルの向こう側は食物規定の無いユダヤ教ではない人の食事と2種類の食事が出たと考えられます。そのように工夫をすることで、みんなで一緒に食事ができたのでしょう。今の日本のアレルギー対応の食事を想像します。この食事はアレルギーのある人も一緒に食べるけど少しメニューが違うという食事の様です。また、大人と子どもが一緒にカレーを食べる時、甘口のお鍋と辛口のお鍋に分けて作るような食事です。おそらく一緒には食べるけど、食事はそれぞれの考えに合わせて作られたでしょう。いきなりすべての食べ物を、すべての人と食べる食事にはならなかったはずです。でもそのように知恵のある工夫して一緒に食べました。おそらく一堂に会する食事はアンティオケ教会ではとても大事にされたでしょう。その教会の特徴であり、その教会の宣教でした。神様はこのように、ゆるやかな一致をアンティオキアに起こされました。

その中でも、後に主の晩餐に発展してゆく、パンとぶどう酒は特殊でした。それはみんなで一つのパンから、一つのグラスから取り分けて食べられました。いろいろな考えに応じてメニューがある中で、パンとぶどう酒は全員で分かち合われました。食事の参加者はそこに特別な一致を感じたでしょう。

パウロはアンティオケでみんなと一緒にこのような食事をし、また様々な国を巡ってみんなと一緒に食事をしました。そしてエルサレムから来たケファ(ペテロ)もアンティオキアに来てこの食事に加わっていたのです。これはかなり珍しい食事でした。ですからユダヤ人キリスト者の中からは反発がありました。特にユダヤ人キリスト者の中心だったエルサレムの人々は反対をします。12節にあるヤコブからの者とはエルサレムから来た、ユダヤ人以外とは食事をしてはいけないと厳格に考える人のことです。

ペテロ(ケファ)ももともとエルサレムから来た人ですが、アンティオキア教会に賛同して、仲良く一緒に食事をしていました。しかしエルサレムからの厳格派が来てペテロに注意をしました。するとペテロは徐々に態度を変えてしまったのです。やっぱり食事をしないと言い出したのです。おそらくペテロは徐々に異邦人キリスト者を避けるようになりました。最初は食事の場所には行くが一緒には食べないことからはじまり、やがてその食事の場所にもいかないようになりました。

これにはアンティオケ教会一同、大変がっかりしたに違いありません。なぜ一緒に食事するのをやめるのか。これまで一緒に仲良く食事をしてきたのに、エルサレムの人が止めた方がいいと言ったとたん、私たちと食事するのを止めるなんてひどいと思ったでしょう。私たちはみんなで一緒に食べることを特別に大事にしてきたし、それは私たちの宣教だったのではないかと言ったでしょう。異邦人キリスト者はやはり私たちは受け入れられないのだ、私たちの宣教は受け入れられないのだとがっかりしたでしょう。これがアンティオケアの事件でした。

人びとの失望させたのはキリストを信じているだけでは受け入れらなかったということでしょう。信じているだけではダメで、自分は自分のママではダメで、自分のこれまでの文化や習慣を全部変えてユダヤ人にならないと受け入れらないと感じたのです。それはきっと自分を否定されたように感じたはずです。パウロも怒っています。ガラテヤの人にその事を鼻息荒く報告しています。思い出すだけでイライラするという感情が文面から伝わります。パウロはそのときペテロに捨て台詞を言ってやったと書いてあります。14節「これまでさんざん一緒に食事をしてきたのに、やっぱりみんなと一緒に食事をするのをやめると言うの?」

ただし注意しておきたいのは、2000年前の当初から、誰と一緒に食事をするのかということは大問題で、多様なあり方があったということです。教会の置かれた状況の違いで意見が違ったのです。

エルサレムの人たちの心が狭いという話ではありません。エルサレムはユダヤ人の町であり、その中ユダヤ人社会の中でどうやってキリストを信じるかということが大事な事でした。一方、様々な宗教が混在するアンティオキアでキリストを信じる事とは大きな違いがありました。置かれた場所によって食事の理解、主の晩餐の理解が違ったということです。そのようなことがアンティオキアで起きていたのです。

さて、どのような生き方をこの個所から考えるでしょうか。一番は私たちの教会の事、教会の食事のこと、主の晩餐のことを想像します。まず私たちはアンティオキア教会と同様に昼食会やこども食堂にもっといろいろな人が来て、一緒に食事がしたいと思っています。それが私たちの教会の特徴であり、宣教です。主の晩餐はどうでしょうか。それは一緒に考えたいと思っています。どのような方法であれ、排除されている、私はあなたを輪に入れないというメッセージが伝わらないようにしたいと思います。食卓は同じだったけれどもメニューが違ったユダヤ人のような知恵もあるかもしれません。そしてこれまで教会が大切にしてきたものを捨てる必要はないと思います。

神様の働きを考えます。神様は私たちをこのようにゆやかに一致させる方なのではないでしょうか。神様は私たちを全く同じ、全く同質に、同化させ、一致させる方ではありません。それぞれの違いがあっても、ゆるやかな一致をさせてくださるお方なのではないかと思います。私たちはどのようにゆるやかに一致することができるでしょうか。

私たちのそれぞれの生き方はどうでしょうか。私たちはどのように他者と仲間となってゆくのでしょうか。また、価値観や性格の違う人とどうやって、折り合いをつけ生きてゆくでしょうか。もしかすると一緒に食事をすることは大事なことかもしれません。

私たちは誰かに無理に同一、同質、同化を押し付けなくていいのではないでしょうか。日本には「郷に入っては郷に従え」という諺があります。そして嫌なら出て行けばよいとも言われます。でもそれでは共に生きることにならないのではないでしょうか。無理に一致をさせることも、誰かに私たちが無理に一致する必要もないのではないでしょうか。私たちの社会でも違いをもったまま、ゆるやかに一致することができないでしょうか。同じテーブルだけどメニューは違う、でも大切にしているものは同じ。社会も教会もそんなゆるやかな一致ができないでしょうか。

神様は私たちをそのように一致させてくださる方なのではないでしょうか。お祈りします。

 

【全文】「パウロへの新しい視点」ガラテヤ2章15~21節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

今月から2か月間、パウロ書簡から宣教をしてゆきたいと思います。パウロ書簡を続けて宣教するのは初めてです。どうぞよろしくお願いいたします。最初の1ヶ月はガラテヤの信徒への手紙を読んでゆきたいと思います。

ここ数年、世界と日本のキリスト教の中でNPPという言葉を聞くようになりました。NPPとは“New Perspective on Paul”の略でパウロを新しい視点でとらえようという試みです。パウロとは新約聖書に掲載される手紙の多くを書いた人です。パウロは教会に向けて励ましや叱咤激励の手紙を送りました。これまでパウロがこれらの手紙で言っていることは大きく2つだとされてきました。一つ目はユダヤ教は愚かな宗教で、愚かな戒律だという律法批判です。2つ目は救いとは何かを行うのではなく、信じる信仰のみによって起こされるのだという信仰義認論です。律法批判と信仰義認論が、パウロが書簡全体で言っていることだと考えられてきました。私もそのように教会で教わってきました。頭の固いユダヤ人が漫然と意味もない儀式を繰り返して愚かである。そのような行為・行いではなく信仰のみが私たちを救うのだ。行為義認よりも信仰義認、信じる信仰がなによりも大事だと教えられてきました。

しかし、近年のパウロの書簡の研究は大きく進んでいます。主にユダヤ教の研究と対話が進んだことにより、多くの発展がありました。NPPパウロの新しい視点の研究では、パウロ書簡全体のとらえ方は大きく変わってきています。NPPの考え方はこうです。まずパウロは律法自体を否定したのではないということです。ではパウロが批判したのは何か、それは律法を隔ての壁とした民族主義だったと考えられます。パウロは律法ではなく、民族主義・民族差別を批判したと考えられています。そしてNPPではパウロはある箇所では確かに信仰のみと読まれる箇所もありますが、決して行いを否定しているわけではないと考えます。行為よりも信仰と言っているのではなく、信仰と行いの関係について両方大事であると語っています。大きく言うとNPPの考え方は、パウロが批判しているのは律法ではなく差別であるということ、信仰と行い両方大事だということです。このNPPの潮流は世界的なうねりになっています。今日の個所も新しくとらえられようとしている箇所です。新しい視点で、今の私たちが問われていることを考えたいと思います。

 

 

今日の聖書個所はイエス・キリストの死と復活から20年ほど後に書かれた手紙だと言われています。パウロは世界にイエス・キリストを伝える旅に出ていました。その途中、ガラテヤという地方の教会に手紙を書きました。エルサレムで起きたイエス様の十字架と復活の出来事の後、イエス様の教えは非常に短い期間で周辺世界に広がっていました。周辺世界のさまざまな場所にイエス様の教えに共感する人がいました。

そして当時はまだこのグループはキリスト教としてはっきりと成立はしていませんでした。キリスト教とユダヤ教ははっきりと分かれていなかったのです。ユダヤ教の1グループである、ユダヤ教ナザレ派という位置づけでした。

そこでは問題になっていることがありました。イエス・キリストを信じる人は、まず先にユダヤ教に入ることが必要なのかという問いです。ユダヤ教の教えを受け入れないと、イエス・キリストを信じたことにならないのかという問いでした。周辺の世界の人々はイエス様の事は信じるけれども、ユダヤ教のことはわからないという人が多くいました。

ユダヤ教に入信するのはかなり高いハードルがあります。男性は入信の時に割礼を求められるのです。割礼とは男性の性器の皮を切り取るという儀式のことです。ユダヤ教の男性はみな生まれて7日目に割礼を行います。しかし大人になって、新しいメンバーになる人にとってはかなり高いハードルがある儀式です。キリストは信じる、でも本当にユダヤ教の習慣に従うべきか迷っている人は多くいたのです。

もともとユダヤ教でイエス様を信じるようになった人(ユダヤ人キリスト者)は、当然割礼を受けてユダヤ人にならないと、キリストを信じることにはならないと考えました。ユダヤの人々にとっては神様を信じるのだったら、その喜びとして割礼をするというのが常識だったからです。そのように厳格に割礼が必要と考えた人がいました。厳格派です。一方、キリストを信じるなら、もともとユダヤ教ではなかった人は割礼をしなくてもいいのではないかという人もいました。ユダヤの習慣や律法を守らなくても、イエス・キリストを信じればそれでいいのではないかと考えたのです。穏健派です。このようにキリストを信じている人の中に2つの立場がありました。絶対に割礼を受けたうえでキリストを信じるべきだというのが厳格派です。一方、割礼はいらないと考えたのが穏健派でした。もちろん後にキリスト教は穏健派が中心になってゆきます。

パウロが論争の中心としているのは、ユダヤ教は愚かだということではありません。信仰か行いかということでもありません。パウロの論争の中心はキリストの信仰を持っている人を共同体がどのように受け止めていくかということでした。共同体の中では、信仰の有無と、割礼の有無は一致していませんでした。割礼を受けていなくても信じている人がいたのです。そのような中で割礼の意味は、信じている印ではなく、いわばユダヤの民族の印となっていました。キリストの集まりにとって割礼の有無は信仰の有無ではなく、ユダヤ民族かどうかを分けるものでした。そこでパウロは問いました。その問いは割礼の有無が人々の隔ての壁になっていなかという事でした。パウロは共同体として本来一番重要な、信じているかどうかよりも、同じ民族かどうかが大事にされていないかと心配したのです。共同体の中に割礼を受けた同じ民族か、そうではない人かという排除や差別が起きていないかを問うたのです。

パウロはどのような民族であっても、キリストを信じる信仰があれば、よいのではないかと考えました。無理にユダヤ人の習慣・割礼をする必要は無いのではないかと訴えました。割礼をしなくても神様に喜ばれるあり方があると考えたのです。パウロが本当に批判したのは割礼そのものではありませんでした。パウロが批判したのは割礼の有無による差別でした。キリストを信じるなら、それでよいのではないか。ユダヤ人と同じになる割礼を受ける必要はないと訴えたのです。つまり、あなたはあなたのままで、キリスト者としてこの仲間に加わることができると訴えたのです。

 

 

 

ガラテヤ書の各節を読んでゆきますが、キリスト教が正しくて、それ以外の宗教が間違っているという色眼鏡で読まないことが大事です。信仰義認の色眼鏡も外したいと思います。むしろパウロが一番注意したのは隔ての壁を持った独善的で、排他的な態度です。そのことを注意して読みます。

15節、パウロは「私は生まれながらに割礼を受けているユダヤ人だ」と言っています。異邦人を罪人と言ってまで、自分とは違うと言っています。まるで厳格派のような立場です。しかし16節は「けれども」と続きます。

16節には「信仰によって義とされる」とあります。これは人は割礼を基準として義とされるのではないという意味です。元々この共同体は割礼の有無ではなく、神様を信じているという信仰の有無が一番に大事にされる集まりであったはずです。私たちは割礼というつながりではなく、信仰によってつながっているのだということが語られています。

19節には「私は神に対して生きる」とあります。それはどう生きるかという私たちの行為に対する問いです。大切なのは信仰か行為かどちらかではありません。大切なのは信仰を持ってどう生きるかということです。行為よりも信仰が大事と言っているのでもありません。信仰をもってどう生きるのかが問いです。そして「私は十字架につけられている」と続きます。私が十字架にかかるとは、独善的な私、差別と隔てを持った私が、キリストと共に十字架につけられて殺されるということです。私の差別と隔ては十字架で死に、無くなるということです。

20節には「キリストが私のうちに生きておられる」とあります。私の隔ての壁、差別の壁は十字架に架けられたその後、私の中にはキリストが生きるのです。隔てと差別を超えた生き方始まるのです。それがキリストが内にある生き方です。21節それが、神の恵みを無駄にしない生き方なのです。

私たちの社会を考えます。私たちの社会にはまだまだこうあるべきという形は多くあります。親はこうあるべき、こどもはこうあるべき、男は、女は、日本に住むならこうあるべきということが多くあります。昔から輪の中に入っている人からすれば、それは当然のことかもしれません。でも輪の外の人にとって大きな壁に思える時があります。私たちはその壁をどうやって低くし、無くすことができるでしょうか。その人のそのままを受け止めてゆくことができるでしょうか?

私たちの教会はどうでしょうか。私たちにはどのような壁があるでしょうか。それをどのように低くし、無くすことができるでしょうか。私たちは共同体としてどこまで、ありのままを受け入れることができるでしょうか。私たちはどこまで社会の壁、教会の壁、私たちの壁を壊してゆけるでしょうか。それがパウロが語っていることではないでしょうか?お祈りします。

 

【全文】「礼拝説教って何?」使徒言行録17章22~34節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。9月は宣教のなかで、礼拝について考えています。これまで主の晩餐について、教会の境界線について、礼拝から派遣されることについて考えてきました。今日は礼拝の説教について考えたいと思います。

この説教(私たちの教会では宣教と呼んでいます)は私たちの礼拝プログラムの中で一番長く時間取っていますからメインイベントのように聞こえるかもしれません。でも礼拝の中で一番大事なのは「聖書朗読」です。礼拝の中でもっとも大事なのは、聖書そのものを読むというプログラムです。キリスト教の中には説教のない礼拝をするグループもありますが、礼拝で聖書を読まないというグループはありません。礼拝は第一に聖書・み言葉を中心とした集まりなのです。時間的には説教が長いのですが、礼拝の中心は間違えなく聖書・神の言葉です。キリスト教系のカルト教団は聖書よりも創設者や代表者の話が中心に置かれるケースが見受けられます。私たちの礼拝も話し手が中心ではなく、聖書中心でありたいと思います。

聖書は一人で読んでいてもわからないことが多いものです。そもそも人間が神様の事聖書の事すべてを理解する、すべてを悟ることは不可能です。人間には限界があります。人間はその限界の中で、どうこの聖書を受け止めるべきか精一杯考えます。でも一人ではなかなかわからないものです。教会では毎週、その手助けとして誰かの体験や、誰かの受け止め方を聞いてゆきます。説教とはそのような位置づけにあるかもしれません。誰かの話を聞くと、わからなかった聖書の個所に、何か自分の生きるヒントがあるような気がしてくるのです。自分のことが語られているように感じるのです。

説教は、誰と一緒に聞くのかも大事な要素です。同じ言葉でも、誰と共に聞くかで受け止め方は変わります。そのように説教は個人で聞くものではなく、共同体の中で聞かれる言葉です。一人一人が聞くと同時に、みんなで聞くものなのです。そして忘れてはいけないのは、聞いているのは私たち人間だけでは無いという事です。神様は私たちお互いの間におられます。説教は神様も聞いています。説教は神様に向けて語られている言葉でもあります。神様に信仰を告白していることでもあります。

説教とは私たちにとって何でしょうか。難しい質問です。毎週している私も正確に答えることができません。説教は聖書の解説、聖書の勉強ではありません。もしそうならばたくさんの解説書があり、それを読めばいいはずです。

説教とはおそらく、聖書の言葉を私たちの現実の中でどう聞くのかという取り組みです。テキストは2000年以上前の出来事や手紙です。説教とはそのテキストを読んで、今の私たち、今週の私たちがどう生きるべきかを考える取り組みです。説教とは私たちの生活の中において、神様はこのような方だと理解してゆく取り組みです。きっと説教は聞くという一方的な行為ではないでしょう。聖書があって、現実があって、人生の問いがあって、それを一緒に考える取り組みです。説教とは私たちの現実の中でどのような生き方ができるかを聖書からみんなで考えることです。この私たちにとって神様はどんな方かを考えること、それが説教の時間ではないでしょうか。

私たちは今日このような礼拝と説教の時に呼び集められています。神様が教会に行き、仲間と会い、聖書を分かち合う様に促しています。神様が教会でどう生きるか考えてくるようにと促しているのです。そのような場所を神様が整えて下さっています。今日この説教の時間、聖書からどう生きるか一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日の聖書箇所は使徒言行録17章22節~34節です。イエス様の弟子パウロという人の説教が記録されています。パウロはイエス様が十字架にかかり、復活をした後、世界にイエス様の教えを広める活動をしていました。今日の場面ではギリシャのアテネでキリスト教を広めようして、説教をしています。この説教を一緒に聞きたいと思います。

アレオパゴスとはギリシャで刑事裁判を行う場所だったと言われます。被告人、弁護人、裁判官、裁判を見に来た人が集まる場所でした。パウロはその真ん中に出て説教を始めました。聖書の神様について語り出したのです。パウロのこの説教は凝縮された説教ですが、4つの事を語っていると思います。

1つ目は25節です。神はすべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださったとあります。パウロは神様はすべての命を作った方だと伝えています。だから命が大事である、だから命は尊ばれるものであるということを語っています。互いの命を、魂を傷つけあうことのない様にと語っています。語っているのはアレオパゴス、刑事裁判の会場です。そこは人々の憎しみが明らかにされ、暴力や加害の事実を明らかにする場所です。パウロは命を傷つけあう現実が明らかにされる、そのただなかで語っています。神様がすべての命を作った。神様の似姿として人がいる。だからその命を傷つけてはいけない、命を大切にしなければならないということを語っています。その生き方を聴衆に問いかけています。

2つ目に語っていることは、27節です。神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられませんと語っています。神様は私たちの身近に、すぐそばにいるということです。神様はどこにいるのだと探したくなる災害や戦争や犯罪があります。神様なんて存在しないと感じる現実があります。でもパウロははっきりと語ります。神様は一人一人に遠く離れていない。あなたの近くにいると言います。神様はこんな場所にはいないと思える場所にこそいる、そんな時にこそ一人一人の近くにいるということです。だから希望を失う必要がないという宣言です。こんな現実だけど、神様はいない、神が遠くに行ってしまったと思う現実だけれども、そう思う必要はありません。神様は近くにいるのです。それを信じる人はどんなときも希望をもって生きることができます。ここでは神様からの希望を持つ生き方をしようということが語られています。

3つ目は、30節で、悔い改めるようにと言っています。悔い改めるとは、うなだれて反省することだけではありません。悔い改めとは生き方の方向転換をすることです。1つ目にあったように命を傷つけあうことを止めること、2つ目にあったように希望を持って生きること、そのように方向転換することが悔い改めるということです。私たちの知識が増えたり、反省をしたりすることではなく、まさしく私たちの生き方を変えるようにと語っています。これが3つ目です。

4つ目は31節です。パウロは、神様はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったと語っています。この方とはイエス・キリストのことです。イエス様が確証を与えてくれると言っています。命の大切さ、希望を持つことの大切さ、生き方の方向転換、それをイエス様が教えているということです。神様はイエス様の生き方、死と復活を通じて、私たちに1つ目から3つ目までの確証を与えようとしています。イエス様がいるから、私たちは確証をもって、確信することができます。イエス様いるから、神様の創った命の大切さ、希望も持って生きる事の大切さを知り、方向転換することができるのです。

パウロはアレオパゴスでこのように説教をしました。人々は難しい言葉でしたけれども、どう生きるかを問いかけられて、それを一緒に考えるように問われたのです。聞いた人々はどうしたでしょうか?32節多くの人は聞く耳を持たなかったとあります。多くの人はあざ笑いました。人々を感動させる説教ではありませんでした。実りの少ない説教でした。しかし一部の人はそれを信じるようになったとあります。様々な反応があったこと自体は大事なことです。聞いた後で一人一人感想が違ったということです。みな自分で考えたのです。神様とはどんな方なのか、それを聞いて私はどう思うか、どう生きるかを、みんなが考えたのです。その中から少数ですが従って生きる人が起こされたのです。

これがパウロの説教です。私たちの礼拝でもこのような時が持たれています。アレオパゴスでの現実があったように、私たちには置かれた現実があります。その中で聖書の言葉が響き、説教が語られます。それはある人が聖書を読んで感じた、生き方への問いです。聞く人々の反応はそれぞれ違うものです。大事なことは、感動したか感動しなかったか、わかりやすかったかわかりづらかったかではありません。大切なのはそれぞれがどう受け止めて、どう生きるのかということです。互いの理解を聞いて、私はどう生きるのかを考えるのです。そして、大事なのはいつもと違った生き方を、いつもより愛のある1週間を送ろうとすることです。

私たちはその生き方の確証、確信を得るために今日集まっています。イエス・キリストが私たちに新しい命、新しい歩みを与えてくれる、それに期待して集まっています。私たちはイエス・キリストの確証を与えられるために、今日神様に集められています。礼拝の中心に聖書があります。そして礼拝の中に説教があります。今週も聖書の言葉を聞き、互いの言葉を聞きました。イエス様からの確証をいただきました。さて私たちは今週をどのように生きてゆけば良いでしょうか?それぞれの1週間が豊かな愛にあふれた1週間であるように、それぞれの1週間が命の豊かさを感じることができる1週間であるように願います。お祈りします。

 

 

【全文】「礼拝から派遣されて生きる」Ⅱコリント13章13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝に参加できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。そして今日は特に加えたいのですが、私たちはこどもだけを大切にする教会ではありません。若い人も、高齢者も大切にする教会です。一番小さな存在・子どもが大切にされる教会です。一人一人が大切にされる教会です。今日は礼拝の後半で、高齢者祝福祈祷の時を持ちます。みんなで礼拝をしましょう。

今月の宣教は礼拝と礼典について考えています。ここまでの2回は主の晩餐について考えてきました。主の晩餐が開かれてゆく可能性について、主の晩餐以外にも教会の境界線がどのように変わってゆくのかを考えました。今日は礼拝の中の「派遣の祈り」について考えたいと思います。8月から礼拝のプログラムが試験的に変更となっています。小さいことかもしれませんが、何か違いを感じているでしょうか。なるべくわかりやすいように言葉が変更されたことと、順序が少しだけ変更されています。一番大きな変化は「祝祷」と表記されていたものが「派遣の祈り」に変更になった点です。これまでと内容は変わらないのですが、より派遣という意味をはっきりとさせるために祝祷から「派遣の祈り」に変更されました。改めてプログラムを見ると、礼拝は招きで始まり派遣で終わるサンドイッチ構造になっているのがわかります。これは私たち礼拝者の1週間をよく表しています。

私たちの1週間は日曜日から始まります。私たちは1週間の始まりの日曜日を、それぞれの場所から神様に招かれてこの礼拝に集うことから始めます。もちろん、いろいろ予定を空けて、都合をつけて来たのは私ですが、それも含めて神様の招きです。私たちはそれぞれの場所から今日、神様に招かれて、ここに集って、一緒に礼拝をしています。そして私たちはこの礼拝から生きる力をもらって、聖書とお互いから励ましをもらって、またそれぞれの場所に派遣されてゆきます。私たちの礼拝は1週間の中心です。礼拝とは1週間の始まり招きであり、派遣なのです。礼拝ではそのことが表されています。

派遣の祈りは平塚教会では次のように祈られています。「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」

神様から派遣されるというのは面白い考え方です。クリスチャンは教会・神様が私たちの家であって、私たちの心の居場所であって、そこから1週間、職場や家庭や地域に派遣されていくと考えます。そのように派遣されて、職場や家庭で1週間をクリスチャンとして生きます。礼拝から派遣されるのです。そして1週間、派遣された先ではさまざまなことが起ります。難しい人間関係や難しい問題に対処することになるでしょう。

神様が礼拝に私たちを呼び集め、神様が礼拝からそれぞれの場所に派遣をします。私たちは派遣された場所で、神様からその場所に派遣されたクリスチャンとして、神様を愛し、隣人を愛するものとして生きます。神様に仕え、隣人に仕えるのです。そこにはいろいろな事、大変なことがあります。でも私たちは、その場所でクリスチャンとして生きることを忘れずに生きます。愛し、仕えて生きようとします。自分だけを愛し、自分だけのために働くのではなく、神様と人間を大切にし、自分以外の人のために働きます。そのように生きるために私たちは礼拝から派遣されるのです。

神様から派遣されることで、私たちには他の人にはない力が湧いてきます。1週間の大変な現実に打ちのめされるような気がします。また月曜日から大変だと思います。そこにある課題や、人間関係、交わりに悩みます。でも週の始めに神様が力を下さいます。もし神様が力を与えて私を派遣してくださるのなら、私たちは1週間なんとか生き抜くことができます。なんとか愛をもって1週間を過ごすことができます。よい共同体を作る、そのために働くことができます。そしてまたもし1週間後に神様のもとに招かれるなら、何とかまた1週間生き抜くことができます。私たちはそんな風に神様を支えにしながら、生きてゆけるのです。礼拝で一人一人が力をいただき、それぞれの場所に派遣されます。私たちはそこで愛し、仕える、そのような1週間を過ごしてゆきましょう。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。今日はコリントの手紙Ⅱ13章13節です。礼拝の派遣の祈りの最後の一文はこの聖書箇所に由来します。今日の個所はイエス様の弟子たちが、いろいろな事情や課題を持った教会を励ましつつ、イエス様の教えを伝えるために書いた手紙です。今日の個所も手紙の一部で、最後の結びの言葉にあたる箇所です。聖書に残る多くの他の手紙でも、このような最後の結びが見られます。ガラテヤ書では「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にあるように」と結ばれています。ローマ書では「主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように。私の愛がキリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」と結ばれています。どこかそれぞれの生活へと送り出しているように聞こえる祈りです。この手紙を読んだ読書は、神様に派遣されて、それぞれの場所を生きるようにと促されているのです。

今日の個所では「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた(私たち)一同と共にあるように。」と祈られて、派遣されています。神の恵みと神の愛が1週間、私たちの生活にあるようにと祈られています。神の恵みは、神様から与えられるよいことです。神様の愛とは、神様が私たちを大切にしてくださることです。そのような守りの中で1週間が過ごせるようにという祈りです。

今日の個所には「聖霊の交わり」という言葉もあります。聖霊の交わりというのは少しわかりづらい言葉かもしれません。交わりという言葉から見ましょう。教会では私たち同士の交流や祈り合い、励まし合い、食事を「交わり」と呼びます。礼拝も信仰も一人でするものではなく、みんなとするものです。教会はずっと交わりを大事にしてきました。礼拝の前半に挨拶をするのも私たちの交わりが大切だからです。教会は交流や信頼関係のある共同体づくりを大切にしてきました。

今日の聖霊の交わりとは、聖霊によって生まれる交わりのことです。聖霊によって生まれる私たちの間の交わりが聖霊の交わりです。簡単に言うと、よい信頼関係とよい交流が私たちの間にあるようにという意味です。神様が私たちに力と言葉を与え、私たち人間の間によい交流が、よい人間関係が、よい共同体があるようにということです。もちろん教会の中にとどまりません。派遣されたそれぞれの場所でよい交わりが起りますように、よい言葉が交わされるように、人々の間にさわやかな風が吹き抜けるような人間関係ができるようにという意味です。聖霊の交わりとは、私たちが聖霊から力をいただいて、よい交わりを作ってゆくことです。

今日のコリント教会は様々な課題があり、分裂しそうな教会だったと言われています。イエス様の弟子がそこに、聖霊のよい交わりが起るようにと祈りました。ぎくしゃくする共同体に、神様の力とことばによって、よい人間関係、よい信頼関係が起るようにと祈っています。

この言葉は私たちに向けた言葉でもあります。それぞれが派遣された場所で聖霊の交わりがある、よい交わりがある、よい信頼関係がある、そのような共同体を作ることが私たちにも勧められているのです。

私たちの1週間が始まりました。私たちは聖霊の交わりをそれぞれの場所で実現できる、そのような1週間にしてゆきましょう。私たちは今日またこの礼拝から派遣されます。派遣された先で、私たちは聖霊から力をいただき、よい交わりを、より人間関係を創ることができるはずです。私たちには恵みと愛が与えられるはずです。私たちは今日、そのように派遣されるのです。私たちはそのような聖霊の交わりを作る1週間を歩んでゆきましょう。

今日この後、敬老祝福祈祷の時も持ちます。特に高齢の方々の1週間を覚えます。おそらく私の考える1週間とは違うとらえ方をしておられるのでしょう。高齢の方々の1週間の大変さを想像します。

体調が天候に左右されて毎日違うことを教えてもらいました。思う様にいかないことが増えていることも教えてもらいました。様々な心配を持っておられることでしょう。その1週間が守られるようにお祈りします。

そして何より、高齢者の方が今日神様に招かれ、精一杯に礼拝に集われている姿に私たちは堅い信仰を感じています。それは本当に私たちの励ましとなっています。そしてこの共同体のよい交わりを作り、守り続けてくださったことにも感謝します。この教会に聖霊の交わりを届け続けて下さったことに感謝します。

私たちは1週間、こどもも大人も高齢者もそれぞれの場所でできる愛、仕えること、聖霊の交わりをつくること、その祈りを大事にしてゆきましょう。私たちはこの礼拝に招かれました。今日ここからまた派遣されてゆきます。お祈りをいたします。

 

【全文】「教会の境界線が変わる」ルカ14章7~14節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。

今日は予定では西南学院大学の濱野道雄教授をお呼びして主の晩餐について、教会についてお聞きし、学びたいと思っていましたが、濱野先生の体調の事情によって延期とすることになりました。たくさん聞きたいことがあったのに大変残念です。私はオンラインで濱野先生の授業を受講しています。その中から今日、濱野先生だったらどんな話をしたか想像しながら話そうと思います。

教会には変わらないものと、変わるものがあります。私が最近一番驚いた教会の変化は、週報棚についてです。これまで平塚バプテスト教会では週報棚は教会員・現在会員のみが使用していました。しかし今回、教会員以外の方にも週報棚ができました。大きな変化です。もともと私の育った教会も平塚教会同様に、バプテスマを受けてその教会の教会員にならなければ週報棚はもらえませんでした。バプテスマを受けて、週報棚に自分の名前のシールが貼られた時、とてもうれしかったのを思い出します。

教会にはいろいろな会員の区分があります。大きく分けて現在会員、他行会員、客員会員、求道者の4つです。規則によれば現在会員とは、バプテスマを受けて平塚教会に籍を置いており、1年以内に礼拝に参加または献金をした人です。他行会員とはバプテスマを受け、平塚教会に籍があるが、1年以上礼拝に参加せず、献金もない会員のことです。名簿の行を分けて他の行に書くので他行会員と言います。客員会員とはバプテスマを受け他の教会に在籍しているが、平塚教会の礼拝に出席している人のことです。この方は「転入会」をすると現在会員になります。求道者あるいは来会者とは、バプテスマをうけていないが、礼拝に出席している人のことです。これまで平塚教会の週報棚の使用はバプテスマと教会籍の有無で決めていました。週報棚があるのは現在会員のみでした。他行会員や客員会員、求道者にはありませんでした。

週報棚のルールを変えるきっかけは連盟発行する聖書教育という冊子です。これまで3か月に1回の発行だったものが、毎月に変更になりました。聖書教育は週報棚のある人もない人も購読をしています。ですから週報棚のない人に聖書教育を毎月手渡しするのが大変になりました。執事会で話し合い、現在会員以外の方でも購読物があれば週報棚を作るということになりました。

私はこの変化に驚いています。私のいままでの教会の常識とは違うからです。私は他の教会の仲間にすごい変化が起きて驚いていると伝えました。しかし他の教会の仲間は驚きませんでした。その教会にもルールがあって、教会員でなくても週報棚を作る場合があるというのです。私はもう一度びっくりしました。私の常識は本当に私だけの常識だったと感じました。ちなみに連盟の発行物は今後も大幅な刷新が予定され、またまだ変化する予定です。私たちはどう変わるのでしょうか。私が感じたことは、今まで自分がなんとなく持っていた境界線にはどんな意味があったのだろうかということです。

社会では所属意識が変化しています。町内会、こども会、PTAへの所属意識は大きく変化しています。会社も入ったら定年までの終身雇用というわけではありません。働き方も多様です。同じオフィスフロアに正社員、派遣社員、契約社員、アルバイトが一緒に働きます。誰がどこに所属しているのかあいまいになってきています。当然、教会に対しても所属という意識は変わってくるのだと思います。どこまで教会なのか、教会の境界線がどこにあるのか疑問に思います。

ある数学のモデルが参考になるかもしれません。週報の図の通りです。これまでの教会はAさん・Dさんと、Bさん・Cさんは、はっきりとした境界線で区切られていました。誰がメンバーで、誰がそうでないかはっきりとしていたのです。

しかし右のモデルはちがいます。この共同体は境界線がアメーバのように変化します。そしてこれを見ると、いままで外側の人であったCさんは、メンバーの中にいることになります。Cさんを受け止める柔軟さがあります。Bさんは引き続き違う人です。Dさんは今まで同じと思っていましたが、実は境界線上にいる人です。もしかすると私はCかもしれません。

図の真ん中に点を加えました。大事なのは真ん中の点です。そして大事なのはその点に近いか遠いかではなく、その点を目指しているかどうかです。この共同体の特徴は、中心の点から多少距離が離れていても、その人を取り込むように組織の形が変わってゆくという点です。

実は週報棚の件は、このようなことが起きていたのではないでしょうか。教会が境界線を柔軟に変え、新しい人を加えた出来事だったのではないでしょうか。

目指している中心の点はどちらも変わりません。中心にはイエスの教え、イエスの十字架、神があります。私たちは変わらない、この中心の点を目指してしてゆきたいと思います。そして同時に点に対して多少距離が離れていたとしても、もし点に向かっている人がいれば、話し合い、私たちの境界線・共同体の形を柔軟に変えることも大切にしたいと思っています。そんなことを週報棚の件から考えました。難しい話をしましたが、何より、私は新しい週報棚を喜んでいる人を見て、ルールを変えてよかったと感じました。

今日の聖書の個所を見ましょう。今日はルカによる福音書14章7節~14節です。この個所は私たちに変化を求めている箇所です。柔軟に境界線を変えようという話です。この時、イエス様はどんな変化を私たちに求めたのか見てゆきたいと思います。

前半は私たちが宴会に招かれたらどうすべきかが語られています。謙遜な態度で末席に座りましょうという単純な話ではありません。私たち人間は、自分は招かれて当然だ、人より一段高い対応を受けて当然だと思うものです。私はいいから、あなたが前に座ってというような表面的な謙遜のことを言っているのではありません。もっと心の奥にある、自分が優位に立ちたい、他の人より特別に扱われたいと思う気持ちに注意を促しています。

今日は特に後半を見たいと思います。後半は私たちがお客様を招く時の注意が書かれています。私たちは誰を招くかが問われています。聖書によればこの人たちがまっさきにパーティーに招きたいと思ったのは兄弟、親類、近所の金持ちだったというのです。これが私たちの性質です。私たちは仲間を作ろうとするとき、私たちは共同体を作ろうとするとき、家族や親戚といった、気心の知れた仲間と、価値観が一緒の仲間と共同体を作ろうと考えます。あるいは、そこにお金持ちや有力な人が入って、組織に箔がついて、経済的な心配もない。そんな共同体を作ろうとします。自分がそこに所属していると、居心地がよく、私は他の人よりちょっといい人間だと思える場所、人はそんな場所を作ろうとします。

しかしイエス様は言います。もしパーティーを催すときには、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を招くようにと。これは私たちが招こうとしている人を変えるようにという教えです。

私たちが招くのは仲良しや金持ちではなく、困っている人、悩んでいる人だということです。私たちはそのような人と一緒に居ようという教えです。自分と気の合う人、価値観が合う人、あこがれるようなキラキラした人が集まる場所を目指すのはやめようということです。そうではなく、イエス様は傷つき、困っている人が集まる場所を目指そうと言っているのです。

この宴会・パーティーは教会と言い換える変えることができるでしょう。教会もそのような共同体だと思います。私たちはもちろん兄弟、親戚、近所の金持ちが集まるからこの教会に来ているのではありません。私たちこそ傷つき、悩み、疲れ、貧しい者として、神様に招かれています。その集まりがこの教会です。

イエス様は、教会はそのような集まりだと言います。そしてイエス様は誰をこの共同体の中に招くのかという、境界線を変えるように言っています。そこには私たちが今まで思ってきた招きと違う招きがあるはずです。いままで私たちが招かれていないと思っていた人の中にこそ、神様の招きがあるというのです。神様は誰が神様の招きの中にいるのか、あなたたちの境界線をもう一度見直してごらんと言っているのではないでしょうか。私たちは価値観も違う、血縁もない、たいして金持ちでもない集まりです。でも私たちは今日神様に集められています。お互いに人生に困り、疲れ、悩み、不自由を感じています。その私たちを神様が今日集めて下さったのです。私たちの教会には確かに境界線があると思います。誰が仲間で、誰がそうではないかという境界線があります。境界線は全く必要ないわけではありません。同時に、境界線はもっと変わってもいいのではないでしょうか。今日の個所からそのように思わされます。

私たちは、ここまでが仲間だと思っていたその境界線を変えることができます。今日の個所はそのように私たちに伝えているのではないでしょうか。もちろん大事なのはイエス・キリストに向かっているかどうかでしょう。

私たちの教会はどのような境界線をもっており、どのように変化してゆくでしょうか。礼拝に集う時どのような思いで集うのでしょうか。教会で人を迎える時どのような思いで迎えるでしょうか。もう一度考えたいと思います。そして変化に開かれてゆきたいと思っています。神様にあなたたちは幸いだと言われるような集いができる教会でありたいと願います。お祈りします。

 

【全文】「食事に招かれた人」ルカ14章15~26節

みなさん、おようございます。今日もこうしてともに礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。7月8月と主の祈りをテーマに宣教をしてきました。今まで当たり前だった祈りを新しい祈りとして祈りたいと思わされました。今日から1ヶ月は礼典をテーマとして宣教をしてゆきたいと思います。特に今週と来週は主の晩餐について考えます。

私たちの教会では礼拝の順序や名称が少し変わったり、礼拝の司会者も分担ができないか試験的な取り組みを始めています。創立70年ぶりに変わることもあります。私たちは変わらずに神様を礼拝し続けますが、その礼拝は変わってゆくことがあります。大切なのは、主の祈りにしても礼拝にしても「今あるもの」をよく考えて、この先も続けるのか、変えてゆくのを決めてゆくことです。自分たちなりの結論をだしてゆくことです。私たちの信仰が「なんとなく」「ずっとこうしているから」にならないように考えてゆけたらと思います。

今日は主の晩餐について考えようと思います。主の晩餐とはこの後の礼拝の中で行われる小さな食パンを食べ、ブドウジュースを飲むという儀式です。私たちの教会では毎月第一日曜日にその主の晩餐を行っていいます。これは決して魔術的な事、何かのおまじないではありません。イエス様のことを思い出すために、この儀式を毎月繰り返しています。私たちの教会ではこれを食べることができるのはバプテスマ(洗礼)という入信の儀式を経たクリスチャンのみとしています。ただしこの主の晩餐という儀式は多様です。他の教会では様々な方法で持たれています。決して私たちの方法が当たり前ではありません。他の教会はどのようにそれを持っているのか、私たちバプテストというグループの多様さを手掛かりに考えたいと思います。

10年ほど前にバプテスト連盟の教会でアンケートが実施されました。どのように主の晩餐が行われているかという調査です。結果は週報にもあるとおりです。その教会の会員のみで行う教会が1つ、バプテスト教会に所属する人のみで行うが3教会1%、教派教会を問わないが62%(私たちの教会もこの6割にいます)、バプテスマの決心をしている人まで含める教会は10%、バプテスマの有無や予定を問わず「信じている人」が参加する教会は21%、礼拝参加者全員が参加する教会が6%という調査結果でした。誰が食べてよいのかということは、教会によって大きく違います。それは教会ごとに主の晩餐の理解が違うからです。

私たちの教会はクリスチャンのみで行う6割の多数派です。しかし逆に言うと4割とは違う判断をしています。6:4は決して大多数とは言えません。各教会はなぜそうしているのか様々な信仰理解や歴史があるはずです。私たちの教会はどうでしょうか。決してここに、正解と不正解があるのではありません。教会ごとに祈った選びに正解も不正解もないと思います。大事なのは、私たちの教会はなぜそのような選びをするのかを私たちが知っている事、考えている事、信仰を紹介できるようにしておく事です。そして良く考え話し合ったうえで変化してゆくこともあるでしょう。その変化も他の教会に否定されるものではありません。

私たちはなぜ自分たちの教会員だけではなく、他の教派、他の教会の人とも一緒に主の晩餐をするのでしょうか。なぜ私たちはすでに信仰の決心をしている人、信じていると自覚のある人を、主の晩餐に加えないのでしょうか。難しい質問です。でも私たちなりの答えが必要でしょう。

大変乱暴な分け方ですが、主の晩餐の起源は大きく2つに分けることができるでしょう。ひとつは最後の晩餐に起因する考え方です。そしてもうひとつはイエス様と人々の食事に起因する考え方です。最後の晩餐に起因するのはマタイ26章17節にある通りです。イエス様は十字架の苦難の前、12人の弟子たちを集めて食事をしました。弟子たちと主の晩餐を行い、弟子とイエス様の関係を確認しました。パウロも主の晩餐について、この最後の晩餐をベースに考えています。教会の主の晩餐の起源を最後の晩餐に置く場合、その参加にクリスチャンであるという条件が付く場合が多いと思います。一方で主の晩餐の起源を、イエス様と人々の食事に起因すると考えることもできます。福音書には多くのイエス様と人々との食事の風景があります。繰り返しもたれたイエス様との食事を、主の晩餐の起源とする場合、クリスチャンのみという条件を付けないことが多いと思います。

今日の聖書の食事の場面は、そんな2つの食事の中間にあると言えるでしょうか。特定の人が招かれていることと、すべての人が招かれていることとが、重なっている物語です。今日のこの食事の場面から、私たちの主の晩餐について、みなさんと一緒に考えてゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はルカによる福音書14章15節~24節です。その少し前の7節によればイエス様は食事会に招待されたのでしょう。そこでみんなと一緒に食事をしていたのです。イエス様はこのように人々を招いただけではなく、招かれた食事会にも参加したということも発見です。おそらくこの食事会は身分の高い人も低い人もいました。イエス様は本当にいろいろな人と分け隔てなく食べたのです。

そして一緒に食事をしていた人が言いました「ああ、おいしかった。ああ、なんて幸せなのだろう。ここでこんな幸せなんだから、神の国での食事はどれだけおいしいのかなぁ」みんなはおなか一杯になって笑ったでしょうか。ちなみに神の国とは死んでしまった後に行く場所ではなく、神様の愛の中にいるということです。つまり「この食事でこんなに幸せなのだから、神様に愛されている、大切にされているのを感じながら食事したら、どれだけ幸せなのだろう」と言ったのです。みんなそうだ、そうだと思ったでしょう。イエス様はそんな時、食事会のたとえ話を始めます。食事中に食事のたとえ話をします。

たとえ話はこうです。宴会には主人がいてあらかじめ「招かれた人」がいました。主人は盛大な宴会の準備を万全にして、僕まで送って丁寧に招待をしました。しかし突然断れてしまったのです。理由はいろいろです。相手にも事情があったのでしょうが、しかし当日キャンセルは残念です。仲が良いと思っていたはずの友人は、次々にパーティーの出席を断ります。主人はとても傷ついたはずです。せっかくの招待を無視されて、誰も来てくれなくて、悲しくなったでしょう。落ち込んだでしょう。食事が無駄になってしまうということも悲しかったでしょう。

落ち込んだ主人は気が付きました。そうだ、この食事、自分と同じように悲しい思いをしている人、傷ついている人、困っている人に食べてもらおう。主人は21節貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人、そんな人たちと一緒に食べようとしたのです。宴会はそのような人が呼び集められました。そしてそれでもまだ席が空いていました。主人はもう誰でもいいからと言います。とにかく誰でもいいから、無料だから、余ったらもったいないから、誰でも呼ぼうと考えました。

このたとえ話でイエス様が伝えようとしたことはどんなことだったでしょうか。それは、これが神の国だということです。神の国、神様の愛があふれる場所とは、このように誰にでも開かれている食事のようだと伝えようとしたのです。神様の愛、招きに無関心な人もいます。でも神様は特に傷ついた人、不自由な人、疲れている人を選び招くのです。そしてさらに神の愛はもうだれでも良いと無条件、無償で分かち合われるのです。神様の愛、神様の招きとは、あなたの席はすでにそこにある、誰でもいいこの席・この愛に加わって欲しい、それが神様の愛です。

主人は当初、限られたメンバーで食事をしようとしたとあります。私はそれは、それでよい部分があったのではないかと思います。当日急に参加した人は何のお祝いなのか、趣旨をよく理解していなかったでしょう。多くの人は「えっ何の集まりかよくわからないけど、私もいいの?」という状態でした。きっと主人は自分の喜びと気持ちを深く理解して、一緒に喜んでくれる仲間が欲しかったはずです。せっかくのごちそうだから、私の喜びをよく理解している人と食べたい、祝ってもらいたいと思ったのが主人の最初の気持ちでした。それも良くわかります。その気持ちには正解も、不正解もありません。

でもこのような結果になりました。このことをきっかけに、主人は変化したのでしょうか。次の食事会はどのようにもたれたでしょうか。食事会はどのように開かれていたのでしょうか?

私たちはこの食事のたとえから何を考えるでしょうか?私たちの主の晩餐の意味をどのように考えるでしょうか。喜びを分かち合うなら、その事情を良く知っている仲間と分かち合うのが一番だということが言えるでしょう。主人もそうでした。しかしそうでない正解もあると言えるでしょう。その食事の意味を分かっていなくても、とにかく一緒に食べるというあり方です。食べてからわかるというあり方です。食べたからこそ一緒に喜び合えるということです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのは、一緒に食べた人です。

イエス様を思い起こす主の晩餐に、どちらが正解か不正解かはありません。何を誰と食べるか、どちらの在り方も正解でしょう。私たちはどうして今の在り方なのか、これからどう進んでゆけば良いのか、来週も共に考えてゆきましょう。

 

 

【全文】「救い出したまえ」マタイ6章9~13節

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音は私たちの礼拝の一部です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。

7月8月と主の祈りを宣教のテーマとしてきました。今日が6回目となり、最後です。この祈りをただ呪文のように唱えるものとしてしまわずに、もう一度この祈りの中にある豊かなイメージを確認してきました。いままでより少し、この祈りをお腹に力を入れて祈るようになったでしょうか。今日はこの主の祈りの「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」について考えたいと思います。

教会ではクリスチャンになる、洗礼を受ける事を「救われる」と表現する場合があります。「〇〇さんは救われた」という会話は「〇〇さんは洗礼を受けた」という意味です。しかしこの洗礼を受けたことを「救われた」と表現する方は減少傾向にあると思います。それは、では洗礼を受けていない人は救われない人なのかという疑問と、洗礼を受けることがすなわち救われるということなのかという2つの疑問があるからです。救われるとはどんな意味かという疑問や考え方の発展から「洗礼を受けた=救われた」と表現する方が少なくなっています。

ではキリスト教の「救われる」とはどんな意味でしょうか。ご存じのとおり、キリスト教を信じれば悪いことが起きないわけではありません。クリスチャンになれば願いが叶うわけでもありません。クリスチャンになると、生活が安定し、心が安定するわけでもありません。

それは私たちがいろいろと苦労している姿を見てもわかると思いますし、私たちが祈っている姿からもわかると思います。今日の私たちの主の祈りには「救いたまえ」とあります。これは「救ってください」という意味です。この祈りを祈っている人はまだ救われていない人です。まだ救われず、いま試練と誘惑と悪の真っただ中にいる人です。この祈りを祈っている人は、自分の願いが叶わず、神様にすがっている人です。

当然ですがクリスチャンにも、他の人と同じように人生に試練や誘惑と思えるようなことがあります。悪とも思えるようなこともあります。あるいはクリスチャンだからこその試練もあります。クリスチャンがイエス様のように愛に生きようとすれば、余分に苦労があります。毎週の礼拝を守ろうとすれば、様々な苦労があります。残念ながらクリスチャンは他の人以上に試練と誘惑があると言えるでしょう。私たちは試練に合わせないでくださいと祈っていますが、それはかなえられない祈りのようです。

私たちに様々な問題があることからわかるように、私たちは洗礼と同時に救われ終わったのではありません。洗礼を受けたか、受けていないかに関わらず試練は訪れます。だからこそ私たちはすべての人が一緒に祈ります。全員が、今日、神様に救って欲しいと思って集まり、祈ります。私たちは今日、全員、まだ救われ終わっていません。私たちは全員、今なお試練の中にいます。私たちは試練があり、救って欲しいと思っている仲間です。私たちは主の祈りを祈っている仲間です。

聖書のもともとの言葉で「救う」とは、戦場から脱出する時に使う言葉です。敵に囲まれて八方ふさがりの状況に、援軍が来て、戦場から引っ張り出されることが「救われる」ことです。そのままでは死んでしまうという状況に置かれている人が「救ってくれ」と叫び、助けられる、それが救いです。絶体絶命の私を助けて欲しい、救いたまえという叫びがこの祈りです。

キリスト教を信じていても試練や誘惑が起き、悪に囲まれる時がありますが、ではキリスト教を信じるメリットは何でしょうか。キリスト教では信じても信じなくても、試練があります。苦しいことがあります。救って欲しいことに遭遇します。では信じることに何の意味があるのでしょうか。なぜそのような信仰を持つのでしょうか。もしキリスト教のメリットを挙げるなら、祈ることができるということでしょう。キリスト教には祈ることができるというメリットがあります。どんな人も同じ試練に遭遇します。しかしその時、キリスト教には「救ってくれ」と祈る先があります。私たちには必ず援軍が来て、私たちをここから救い出してくれると思える人がいます。その人に向けて祈ることができます。それがキリスト教のメリットと言えるでしょう。それは事態を変えない、ただの気休めのように感じるかもしれませんが、そうではありません。誰かに祈ることができること、それは私たちを変えます。その時、私たちは一人ではないのです。私たちは孤立無援で試練に囲まれているのではないのです。

私たちが試練にあう時、神様は私たちと共にそこに立っています。試練のただなかにあって私は一人ではないのです。共にいる存在がいるのです。私たちはその方に救ってくれと祈ることができるのです。そしてそこからもう一度力が与えられます。その心強さは私たちを確かに変えます。神様の存在が私たちを絶望させず、私たちに力を与えるのです。

クリスチャンは強い人間ではありません。クリスチャンはいつも神様に弱々しく「救ってください」と祈っています。その祈りをする人は、私は自分だけでは抜け出すことができない弱さがあるとわかっているから祈ります。自分の弱さを良く知っているから祈るのです。人生には自分の思いや力だけではどうにもならないことがあります。誰かが働いてくれないと、神様が私たちに働いてくれないと、力をくれないと、抜け出すことができない試練があります。この祈りは強い人の祈りではなく、自分の弱さを知っているからこそ祈ることができます。

このように自分の弱さを知って、祈るのがクリスチャンといえるでしょう。私たちは弱さと欠けを持った等身大の私として神に祈るのです。救ってくださいと祈るのです。私たちはこの祈りを自分の弱さの中で、そしてそこに一緒に立つ神様を感じながら祈りたい、そう思います。

「救い」についてもう少し考えましょう。私たちが救われたいのは何から救われたいと願うのでしょうか。今抱えているひどい人間関係の中から、ひどい経済状態から、ひどい病気の中から、思う様に活躍できない場所から、私たちは救いを求めています。私の今のこの状況から、どうか私を救ってくださいと祈ります。

そしてもうひとつ大事なことがあります。これは私の救いではなく、私たちの救いを求める祈りだということです。個人的な祈りではなく、私たちみんなの祈り、世界の救いを求める祈りでもあるということです。私たちの世界には大きな試練、悪と不正がたくさんあります。この祈りはそのような世界からの救いを求める祈りでもあります。どんな試練と悪があるでしょうか。例えば私たちの世界には同調圧力があります。

周りと同じにならなくてはいけない、少し違う人は他の人に合わせなければいけない、我慢しなくてはいけないという力が働きます。それも試みのひとつでしょう。本当は一人一人が周囲を気にせずに、その人らしくあることできる世界が来て欲しいです。私の救いだけではなく、私たちの救いを求めるとは、このような同調圧力から解放されること、不自由な世界からの救いを求めることでもあります。

他にも今の日本は親の経済力で、子どもの人生が決まってしまうと言われています。いわゆる親ガチャと言われます。私たちの世界にはそのような悪と不平等があります。そしてそれはガチャガチャやくじ引きと同じように、格差はしょうがないと受け止められる風潮があります。私たちの救いをもとめる祈りはこのことにも向けられてゆくでしょう。このような不平等なシステムから、それをしょうがないと思わせる悪の力から私たちを救って欲しいという願いです。主の祈りの他の個所と同様に、これは個人の祈りというだけではなく、世界に向けられている祈りでもあります。

「救い出したまえ」それは試練にあう私たち、すべての人の祈りです。そこからの脱出を求める祈りです。この祈りは、神は私たちと共にいると感じさせ、力を与える祈りです。そしてこれは世界の救いを求める祈りだということを見て来ました。

さて6回にわたって主の祈りを見てきました。今日が最後です。この6回を通じて私はいつも祈っている祈りにも、よく見ると様々な葛藤と、願いが織り交ぜられているということに気づかされました。

私たちのいつものお決まりの祈りは、私たちの知らないところで豊かな意味を持ってることを知りました。きっと信仰にはこのようなことがまだまだたくさんあるのだと思います。私たちが知っているつもり、覚えている、いつも祈っているものにも私たちのまだ知らない恵みがたくさんあるのです。そのようなことをこの祈りから教えられます。

信仰を持つ、キリスト教を信じるとはいったいどんなことでしょうか。それはきっと何かの教理を信じること、洗礼を受けることだけを指すのではありません。きっとそれよりも神様に向けて祈るということが信じるということではないでしょうか。救って欲しいと神様に願うことがキリスト教を信じるということではないでしょうか。私たちは今日、誰が洗礼を受けたクリスチャンで誰がクリスチャンでないかということを超えて、一緒に礼拝し、一緒に祈っています。

私は誰がクリスチャンかよりも、誰が私たちと一緒に主の祈りを祈っているかが大事だと思います。大事なのは洗礼を受けたかどうかではなく、この主の祈りを一緒に祈っているかどうかではないでしょうか。私はこの祈りを祈る者、この祈りを生きる者になりたいと思います。私たちはそのようにして、主の祈りを私たちの祈りとしてゆきましょう。一緒にこの主の祈りを祈りましょう。

 

【全文】「ゆるせなくていいよ」マタイ6章9~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を命の音として共に礼拝をしています。今日も一緒に礼拝をしましょう。

先週は神学生の根塚さんに宣教の奉仕をしていただきました。主の恵みに感謝です。そしてまた来週はふじみ教会の草島先生が宣教をしてくださいます。その恵みにも期待をしています。私たちは間をはさみながらですが、7月8月と主の祈りについて考えています。今日が5回目です。今日を含めてあと2回で終えることになります。主の祈りを見てゆきましょう。

今日見てゆきたいのは「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」についてです。ここまで見てきたのは「御国を来たらせたまえ」「御心をなさせたまえ」「食べ物を与えたまえ」と神様に何かを願う祈りでした。しかし今回は少し違います。この祈りには「私はあの人のことを赦します」という宣言が含まれています。これまでのお願いから急に「私はあの人を赦します」という宣言になります。だからこそこの個所は主の祈りの中で、一番祈りづらい場所と言われます。一番自信を持って祈ることができない箇所です。「我らが罪を○%×$☆♭#▲!※、我らの罪を赦したまえ」とごまかしたい祈りです。なかなか宣教もしづらい箇所です。

この祈りをもっと知るために、罪とは何か、赦すとは何かという2つの側面から考えたいと思います。まず罪とは何かを考えてみましょう。

罪とは大きくは命を傷つけることです。法律で禁止されているかどうかに関わらず、人の命を傷つけたり、見下したり、物のように扱う事が罪です。罪はもともとは「的外れ」という意味を持ちます。神様が造った命を、見当違いに扱う事が罪です。命を傷つけることは、それを作った神様との関係を壊す行為です。人間の命を傷つけることで、神様との関係が壊れてしまうこと、それが罪と言えるでしょう。

イエス様はさらに罪について、実際の行動に移すだけではなく、悪い事を想像すること、命を傷つけることを想像することも罪だと言っています。もちろん行動に移したか、うつしていないかは大きな違いがあります。ただ根っこにある心は同じ罪を犯しています。行動だけではなく、その心も問われるのが罪です。

一番大きな罪、わかりやすい罪は戦争です。戦争は法律に基づいた殺し合いです。戦争で人を殺しても法律で罰せられることはありません。しかしキリスト教の考えではもちろん罪です。どんなに合法的で大多数の人々に支持されていても、どんな理由があっても、罪は罪です。人の命は決して傷つけてはいけません。神様の作品を傷つける罪です。また戦争を始めなくても暴力で人を脅す、脅そうと思うことも罪です。戦争をするのとしないのでは大きく違いますが、根っこにある心は同じ罪を犯しています。

私たちはこのように直接的かどうかに関わらず、いつも誰かを、誰かの命を傷つけてしまう存在です。私たちは少なからず何らかの意味において罪人です。私は罪人ではないという人は、自分の罪に気づいていない罪人でしょう。

では赦しとはどんなことでしょうか?キリスト教ではよく「赦し」という言葉をよく使います。赦すとはもうこれ以上その問題について相手を責めないことです。相手を責めずに、それ以前の関係に戻ることです。関係の回復が赦しです。

一番わかりやすい赦しは借金・負債の免除です。あなたの借金を免除し、もうあなたから取り立てをしない、あなたを責めないことが赦しです。そしてお金を貸す前の関係にもどり、以前のように一緒にいることが赦しです。赦すとは、このような関係の回復をいいます。罪によって損なわれた関係が、赦しによって回復するのです。ただここで注意が必要なのは「赦す」とは、借金を帳消しにして、それをきれいに水に流し、忘れてしまうことではないということです。「赦し」において、その出来事・罪は決して忘れられないこととして記憶され続けます。赦しとは、忘れはしないけど、でも関係を回復するということが赦しです。

キリスト教では「あなたも神様に赦されたのだから、さあ赦しなさい」と言うことが多く言われてきました。でも皆さんの人生には決して赦すことができないという出来事はあるでしょう。あのことだけはゆるせない。あのことは今でも納得できない。あの人のことを思い出すだけでイライラするということはあるでしょう。私にはあります。たくさんあります。絶対にゆるさないと思っていることがあります。そんな時、キリスト教では「赦しなさい」と教えてきました。「あなたも神様に赦されたのだから、さあ赦しましょう」と半ば赦しを強制してきたのです。しかしその教えは、多くの二次被害を生んできました。傷ついたことについて、牧師や他のクリスチャンに相談すると「クリスチャンなんだから赦しなさい」と言われ、もう一度傷ついた人が多くいます。それはまるで「そんなささいな事、水に流してとっとと忘れなさい」と言わんばかりです。

赦すか赦さないかは本人の自由です。赦しには時間がかかるものです。何十年もかかっても赦せないことがあります。それでいいのです。無理に赦さなくていいのです。簡単に赦す必要はないのです。

そして必ず必要というわけではありませんが、赦しは加害者からの誠実な謝罪や償いがあると、一歩前に進むことがあります。傷ついた人が、加害者からの真摯な謝罪や反省、以前の生活や関係に戻るための償いの努力を見たとき、これ以上責めるのをやめようと判断し、赦しが起る時があります。誠実な謝罪や償いは赦しへの大きな一歩です。

もちろん謝罪すれば必ず赦されるわけではありません。逆にたとえそのような謝罪が無くても赦されることがあります。大事なのは、赦すかどうかは本人が決めるということです。大事なのは赦すことを誰かに強制されたり、早く赦すべきだと周りがとやかく言ったりしないことです。本人が赦せないと思うなら、赦さなくていいのです。人が人を赦すことは難しく時間がかかります。では神様はどうでしょうか?

神様はどのように人を赦すのでしょうか。キリスト教では、よく私たちの罪は神様から赦されていると言います。神様は私たちを赦している、関係の回復を望んでいると考えます。きっとそうです。しかしどうでしょうか?私たちは本当に神様に赦されているのでしょうか。私が誰かを傷つけ自覚せず、反省もしていないとしましょう。しかし私の罪はすでに神様に赦されているのでしょうか。あるいは反対に私を傷つけたあの人は、一切の謝罪と反省がありません。しかしそれでもすでに神様に赦されているのでしょうか。私はまだ赦していません。赦すにはもうしばらく時間がかかるでしょう。しかし神様はあの人を、すでに赦しているのでしょうか。

神様はそのように罪を犯した横から自動的に、機械的に赦してゆく方なのでしょうか。違います。神様はそんな単純な方ではありません。神様はきっと私たちが自分の罪を罪と認め、もうしないと固く思うことを期待しています。そしてもう二度としないと誓う時に、初めて神様は私たちの罪を赦してくださるのです。それが神様の赦しです。私たちが自分の罪を認めるとき、神様の赦しがあります。相手は赦してくれないかもしれません。でも神様は私たちが罪を罪と認め、もうしないと誓う時、関係を回復してくださいます。もうあなたを責めない、赦す、もとの関係に戻る、あなたと共にいるとおっしゃって下さるのです。それが神の赦しです。そしてもし私たちが自らの罪を認めないなら、きっと神様は赦さないでしょう。

さて今日の祈りを見ましょう「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」は「私は罪を赦します。そして私の罪を赦してください」と祈られています。この祈りでは私は赦しますと祈っています。

赦しますと思っていない人、赦さない人はこの祈りは祈れません。おそらくほとんどの人の心に赦せないことがあるはずです。だから本当は「赦します」とは誰も祈れないはずです。人は人をそんなに簡単には赦せません。赦しには長い時間と、謝罪と償いが必要なのです。

しかしこの祈りでは「私は赦す」と祈ります。そこには私たちの矛盾と破れがあります。赦せないのに、赦しますと祈る、矛盾があります。そのようにこの祈りは祈れない祈りです。

でも私たちはその矛盾に希望を置くのかもしれません。赦せないのに赦しますと祈る、赦されないことが赦される、その矛盾と破れの中に私たちの希望があるのではないでしょうか。赦しが起るかもしれない、赦しが起きて欲しい、赦せないことから解放されたい、その矛盾が「赦します」という祈りなのではないでしょうか。

赦せないのに、赦しますと祈る、そのはざまに神様はいて下さるのではないでしょうか。人の命が傷つけられる罪があふれる世界です。そのような世界でもっと関係の回復、赦しが起きて欲しいと願います。人と人との関係の回復が起きて欲しいと願います。そしてたとえ人が人を赦すことができなくても、人が神の前に罪を認め、人と神との関係の回復が起きて欲しいと願います。

このような矛盾する希望がこの赦しへの願いには含まれているのではなでしょうか。これは本当に祈れない祈りです。今日は最後の主の祈りは祈らずにおきましょうか。でもやはり祈りましょう。赦せなくてもいいから赦すと、一緒に祈りましょう。

 

【全文】「貧困撲滅祈祷」マタイ6章9~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に、声と足音を聞きながら礼拝しましょう。

今月と来月は主の祈りをテーマとして宣教をしています。前回は「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」についてお話をしました。また沖縄訪問の証しも聞きながら、この祈りは神様の愛と平和がこの地上を満たすようにしてください。沖縄の平和、平塚の平和、私たちの平和、世界の平和が地上で起るようにという祈りだということを見ました。

今日は「我らに日用の糧を今日も与えたまえ」を見てゆきたいと思います。祈りには「日用の糧」とあります。「日用」とは日用品という言葉があるように、毎日使うという意味です。「糧」とは、食べ物あるいはパンという意味です。ごはんのようなイメージの言葉です。ごはんというと、ライスと食事とどちらも指す言葉であるのと同じです。当時の主食はパンでしたから。これはパンを与えてくださいという祈りです。今日一日のパンをくださいという祈りです。

そしてもう一つ糧という日本語には、心の糧とか、命の糧といった心を支えるもの、活力の源になるものという意味があります。何か食べ物だけではなく、心を支えるものを神様に願っているという意味もあります。みなさんはこの祈りに様々なイメージを持っていると思いますが、この祈りには2つの側面があります。食べ物を求める祈りと、心が満たされることを求める祈りの2つです。本当に食べ物を求め、お腹が満たされる祈りとしての側面、そして心が満たされ、魂が満たされることを求める祈りとしての側面、今日はそれぞれの側面を見てゆきたいと思っています。

まず食べ物を求める祈りとして見てゆきましょう。イエス様の時代、飢饉と貧困と格差は大きな社会問題でした。人々はいつもお腹が空いてしました。いまよりもっと食べ物が貴重だった時代です。イエス様の生きていた時代にも大きな飢饉があったと言われています。天候不良で飢饉が起きると多くの人が餓死をしました。当時の人々は地獄を簡単にイメージできたと思います。それは食べ物が無いあの飢餓の様子が本当に地獄の様だったからです。食べ物がなく、絶望し、大人もこどもも苦しみながら死んでゆくのです。生きるために奪わなくてはいけないとうことも起こりました。飢饉の恐ろしさ、残酷さは一度体験したら忘れることが出来なかったでしょう。パンが無いことは心にも体にも深刻なダメージを残しました。人々の間でいろいろなことが伝承されたでしょう。

日本にも飢饉の伝承は残っています。まさしく地獄絵図です。飢饉に対して人々は差し迫った恐怖感をいつも持っていました。だからこそ人びとが理想だと考えたのは飢饉のない世界でした。旧約聖書には神様のもとで祝宴をあげるというイメージが繰り返しあります。まさしく飢饉がなくなり、食べ物がたくさんあって喜んでいる、その状態が、神様のもとにいるイメージだったのです。

飢餓は天候不良だけが原因ではありません。食べ物はたくさんあるのに権力者に税金として奪われてしまうことも原因でした。飢饉が起るとお金持ちはありったけの食料を買い上げ、大儲けしました。金持ちに買い占められて食べ物が無い、このような不平等な制度も飢饉の原因です。人々は追いつめられると二束三文で土地を売って、そのお金で今日の糧を食べました。その人は飢饉が終わった後も、土地を失い貧しいままでした。人々はそのような不平等な社会制度によって、いつもお腹が空いていて、今日の食事があるかどうかわからない状況を生きていました。

イエス様はそんな時代に祈り方を教えました。イエス様に従っていた多くの人は、今日の食べ物が無いかもしれないと切実に心配している人でした。彼らも飢饉を経験したことがあったでしょう。イエス様は地獄のような光景を見てきた人、その心配が今まさに差し迫っている人、お腹の空いている人に向けて、こう祈りなさいと教えました。神様に向けて今日の食べ物が与えられるように祈ろうと教えたのです。これは元々何とか食べ物を得たいという必死の祈りです。庶民のみんなの祈りであり、貧困層の祈りであり、生存を求める祈りです。社会の不平等が終わるように祈る公正さを求める祈りです。これはイエス様の飢餓撲滅、貧困撲滅の祈りだったのです。

 

もう一つの側面をみましょう。キリスト教はイエス様の十字架の後、どんどん広がってゆきます。貧しい人だけではなく、余裕のある、お金持ちにも広がってゆきました。彼らは飢饉とはほとんど無縁の生活を送っていました。私たちと同じように毎日の食べ物が保障される生活を送っていたのです。彼らには、今日の食べ物がないかもしれない、またあの地獄のような飢饉が起きたらどうしようという切迫した気持ちはありませんでした。そのような人たちはこの祈り、日用の糧を、毎日のありふれた食事のことではないと受け取りました。食べ物のことを祈るのではなく、もっと別の事を祈っているのだと解釈をしました。例えば日用の糧とはこれは日々のみ言葉ことだと考えました。日々私を支える聖書の言葉、霊的な支えと解釈がされるようになったのです。手元に「日毎の糧」という本があります。これはいわゆる聖書日課です。毎日読むべき聖書箇所が書いてあります。聖書の言葉が私たちの生きる糧だと理解をしています。この祈りは食べ物への祈りではなく、私たちの心の支えを求める祈りとして祈られるようになりました。その理解は私たちにも続いている理解です。

私たちはこの2つの側面を知り、この2つを両方とも大事にしながら祈りたいと思います。そして特に私たちは食べ物を祈るということ、緊張感をもって祈ることを忘れてしまっているかもしれません。私たちの目の前には食べ物がいっぱいあるからです。でももう一度この祈りが、イエス様が初めて教えた時は、食べ物を願う祈りだったということは忘れずにいたいと思います。私たちは食べ物の祈りを忘れずにいましょう。私たちがこれはもともと飢餓撲滅の祈り、貧困撲滅の祈り、不平等解消の祈りであること、食べ物の祈りであるということ忘れずにいたのです。それを見直す時に手掛かりになるのは「我らの」という言葉だと思います。

「我らの」とは「私の」ではなく「私たちの」という意味です。この祈りはみんなの食べ物が与えられる様にという共同体の祈りです。それは私が(私だけが)食べればよいという祈りではありません。私の家族が、私の周りが、教会の仲間たちが食べればよいといういのりではありません。私以外の人もみんなが食べることができるようにと祈っています。そのような祈りであると知る時、私の周りでどんな人が食べられないかを考えさせられます。

私の身の周りには最近食事があまり食べられなくなってきているという高齢者がいます。暑さの問題なのか、体力や体調の問題なのかわかりませんが、あの人がもっとしっかり食べて欲しいと思っています。もしかしたらこの思いも、この祈りの中に含まれているかもしれません。私だけではなくておじいいちゃん、おばあちゃんがしっかりご飯を食べることができますように、この祈りはそのような祈りです。

他にも私たちの周りには食べることが出来ない人が増えています。貧困が広がっています。こどもたちの夏休みが始まりましたが、夏休み期間中に体重が減ってしまうこどもがいます。給食がなくなってしまうからです。家では十分な栄養がとれなくて、学校の給食でなんとか栄養をとっていたのが、夏休みは給食が無くなります。バランスも崩れます。こどもたちが夏休み、しっかり栄養とバランスの良い食事を食べることができるように祈りたいと思います。そして何かできることをしたいという思いが、こひつじ食堂につながっています。あの活動は私たちのこの祈りから始まったとも言えると思います。

もっと世界に目を向けましょう。「我ら」とは、私たちの周りだけではなく私たちの世界とまで広げることができるでしょう。世界の貧困と飢餓は急激に広がっています。もっとも大きな原因は戦争です。戦争すると農地が荒らされたり、農業をする人がいなくなったり、収穫物の移動が難しくなります。戦争は飢餓の原因のひとつです。みんなに食べ物がゆきわたりますようにというのは、戦争が終わりますように、平和がありますようにという祈りとつながっています。平和が無いところに食べ物はありません。みんなに食べ物があるようにとはみんなに平和があるようにという祈りでもあるのです。

今日は主の祈り「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」を見て来ました。私たちはこの祈りをどのように新しく祈ることができるでしょうか。私たちは今日、心の支えとなる糧、魂の支えとなる糧があるように祈ります。そしてこれは我らの、みんなの祈りです。食べ物の祈りです。貧困撲滅の祈り、飢餓撲滅の祈り、平和の祈りです。みんなが満たされるように祈る祈りです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」は食べ物と平和が世界にゆきわたりますようにという祈りです。この祈りがもっと世界に広がるように祈ります。この祈りはきっと世界を「我らの」という言葉で結び付けています。そして世界が共に、具体的に働いてゆくように促しています。そして私たち一人一人の中にもこの祈りが広がってゆくことを祈ります。私たちが「我らの」と祈る時、私たちはこの祈りによって結び付けられます。そして私たちはそれぞれの場所で具体的に働けるように力が与えられるはずです。主の祈りをもう一度一緒に祈りましょう。

 

【全文】「愛と平和の祈り」マタイによる福音書6章9~13節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音は命の音です。私たちの礼拝の一部です。今日も一緒に礼拝をしましょう。

主の祈りをテーマに宣教しています。主の祈りとはイエス様が教えたと言われる祈りで、キリスト教でもっともポピュラーな祈りです。讃美歌の裏表紙にも掲載されています。初めての方にはぜひこの祈りに触れていただきたいと思いますし、長くクリスチャンをされている方とは、この祈りを新鮮に受け止め直したいと思っています。今日は主の祈りを紹介する3回目です。「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」についてお話をしようと思います。

そして今日は特に平和について考えたいと思います。沖縄訪問の話もしていただきました。絵本も読みました。そして今日7月16日は58年前に平塚大空襲があった日でもあります。沖縄で激しい地上戦があった6月、その後は私たちの教会の目の前に焼夷弾が落ちました。平塚でも多くの人が命を失いました。沖縄の平和、平塚の平和、世界の平和についてもこの祈りから考えてゆきたいと思います。

「御国が来ますように」から見てゆきましょう。御国(みくに)は「おくに」ではなく「みくに」と読みます。今日の個所では御国と御心という言葉が出てきます。その前には御名という言葉も出てきました。キリスト教では神様のものには御の字をつけ「み」と読みます。御国とは神様の国という意味です。御心とは神様の心という意味です。ですから「御国が来ますようにと」は、神様に向けて「神様の国が来るように」という意味です。聖書に出てくる国という言葉はバレイシアという言葉ですが、これはもともと「支配」という意味の言葉です。御国とは、神様の国であり、神様の支配のことを表しています。御国が来ますようにというのは、神様の支配が隅々までありますようにという祈りです。聖書には神様が愛と平和を求めている姿が書かれています。ですからこの祈りは言い換えるなら、神様の愛と平和が世界を支配するように、神様の愛と平和が世界のすみずみまでゆきわたるようにという祈りです。

世界に愛と平和がゆきわたるようにという祈りと共に、78年前の戦争を思いめぐらせます。78年前の戦争は御国(みくに)のためではなく、御国(おくに)のためでした。さらに御国(おくに)の中心は天皇でした。天皇を中心とした国家として日本は世界戦争に参加したのです。日本が戦時中に目指していたのは、大東亜共栄圏です。それはアジアを天皇を中心とした国にまとめることでした。それは天皇の支配、天皇の軍事力による支配を目指した軍国主義でした。力で、軍事力で世界を支配しようとしたのです。そして天皇ため、御国(おくに)のため、天皇の支配のために多くの人が命をかけ、死んでゆきました。多くの人が天皇の国が広がるようにと死んでいったのです。そして天皇の支配のために世界の多くの人々が殺されました。そのようにして世界中で激しい戦争を起こされてゆきました。

結果は証しと絵本のとおりです。沖縄では激しい空爆があり、残酷な地上戦が行われました。人々は這いずり回って逃げました。命が宝だ「ぬちどぅたから」と言い合い逃げたのです。戦争はアメリカ兵と日本兵の兵隊同士が殺し合うだけではありませんでした。その犠牲者の多くは民間人でした。証言によれば、沖縄では日本人同士も殺し合いました。スパイと疑われた人、逃げようとする人、泣き声をあげるこどもが殺されたのです。人々はお互いを助けたくても、助けることができませんでした。

その様子を聞くだけで、絵本を読むだけで、そこが神様の国、神様の支配している場所ではないことがすぐにわかります。天皇の支配する国、力と暴力の支配の恐ろしさがわかります。それはまるで神様の支配する天とは正反対の地獄です。

もし私があのガマ・洞窟の中にいたらどうしたのだろうかと想像をします。暗い洞窟の中で、主の祈りを祈ったでしょうか。私たちと同じ祈りでも、どこに身を置くかで祈りの意味は変わるものです。もし私たちがあのガマ・洞窟で主の祈りを祈ったなら、今の私たちの祈りと何が変わるでしょうか。私は想像します。ガマで祈ったとしたらきっと一番力を込めるのは今日の個所だと思います。「御国が来ますように。御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」です。

神様に求める御国(みくに)とは天皇の支配する御国(おくに)ではありません。神様の支配する御国(みくに)です。神様の国が来ますように。神様の支配が行き渡りますようにという祈りです。それは天皇の支配ではなく、アメリカの支配でもなく、神様の支配が来ますようにという祈りです。人間の支配ではなく、神様の支配が来ますようにという祈りです。力と暴力の支配ではなく、神様の愛と平和がこの世界を支配しますようにという祈りです。神様の愛と平和が来ますように祈りです。神様の愛と平和を求める祈りです。「御国をきたらせたまえ」とは、平和な世界が来ますように。愛にあふれる世界が来ますようにという祈りです。困っている人を見過ごさない世界が来ますようにという祈りです。小さい者が大切にされる世界が来ますようにという祈りです。戦争が起らないようにという祈りです。

その祈りは、この日本が神に祝福されて偉大な国、グレートな国になることを祈っているのではありません。日本が偉大な国、グレートな大国の傘に入って守られることを祈っているのでもありません。神様の支配が、神の愛と平和が世界中を支配するように祈っているのです。それが「御国を来たらせたまえ」という祈りです。

「御心が天になるごとく地にもなりますように」を見てゆきましょう。御心とは神様の意思、神様の願いのことです。ここでは神様の願いがかなうようにと祈られています。それは私の願いが叶いますようにではありません。私の願いとは別のことを祈っています。人間の欲望、権力者の目的が達成できますようにと祈っているではありません。これは他の宗教や日本の習慣と大きく違う祈りでしょう。七夕の短冊には自分の願い事を書きます。しかしキリスト教の祈りはそうではありません。神様の願いが叶いますようにと祈りです。人間は様々なことを願います。ああなったらよい、こうなったらよいと祈ります。でもこの祈りは、御心が、神様の願いが叶いますようにと祈っています。

そして祈りは「天になるごとくに地にもなさせたまえ」と続きます。これも大事なことでしょう。「天」とは神様の愛と平和の支配が行き渡っている場所です。天とは神様の愛と平和が満たされているあの場所です。そしてあの天のように、この地上が変わるようにと祈られています。天とは死んでしまった後に行く場所ではありません。この祈りは私たちがせめて死んで天国に行ってしまった後くらいは、安らかな場所に行けるようにという祈りではありません。この私たちが今生きている地上が、私たちのいる場所が、力と暴力が支配するこの地上が、天のように、愛と平和で満たされるようにという祈りです。この地上が天国のようになって欲しいという祈りです。地上で神様の願いが実現されるようにという祈りです。

私たちの生きる地上ではいまだ戦争が続いています。沖縄で起きた事と同じことが、ウクライナで起きています。激しい地上戦が起きています。日本はあの時から変わらず、軍事力を拡大し、強い力に対して、より強い力を持つことで対抗しようとしています。それが地で起きていることです。力と暴力があふれています。もちろん戦争だけではありません。ハラスメント、性暴力、虐待があります。様々な力と様々な暴力がこの地上を支配しているかの様です。

そんな世界だからこそ私たちは祈りましょう。この地上に愛と平和があふれているように祈りましょう。この世界があの天のように、神の愛と平和で満たされている、あの天のようになることを祈りましょう。今私たちが生きる、この場所が天、神の愛と平和で満たされた場所となるように祈りましょう。今この祈りが本当に必要とされています。

最後に「なさせたまえ」を見ましょう。「なさせたまえ」は神様が実現してくださいという意味です。人間にはできないことを神様が実現してくださいという意味です。しかし同時に私たちは神様にお任せして、何もせず、神様の願いの実現を、ただ祈って待つだけではありません。「なさせたまえ」にはそのために私たちを使ってくださいという意味も含みます。愛と平和がこの地上でも実現できるように待っています。そして待つだけではなく、そのために私たちを遣わしてください、私たちを御心を地上で実現させる者と「なさせたまえ」という願いを含んでいます。

私たちに御心を行わせてくださいということです。それは神の愛と平和が来たらいいというぼんやりした祈りではありません。神の愛と平和がこの地上を満たすようにしてください、そして私たちが愛と平和を実現する者となるようにしてください、なさせたまえという祈りです。私たちはこの祈りをどのように祈るでしょうか。沖縄の平和、平塚の平和、私たちの平和、世界の平和を祈りましょう。そしてそれぞれの場所に遣わされます。それぞれの場所で御国と御心を祈り、そのために働きましょう。一緒に主の祈りを祈りましょう。

 

 

【全文】「神聖な生き方」マタイによる福音書6章9~13節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちのにぎやかな声と足音を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。

しばらく主の祈りについて宣教をしています。主の祈りは先ほども祈りましたが、讃美歌の見開きにある祈りです。イエス様が教えた祈りとしてキリスト教でもっとも大切にされている祈りです。多くの人が暗唱をしており、最も身近な祈りです。しかし身近である一方で、呪文として唱えてしまっている部分があることも事実です。暗唱することも大事ですが、意味を考えながら祈ることはきっともっと大事なことだと思います。

先週は主の祈りの「天にましますわれらの父よ」について考えました。私たちみんなが、お互いが神様のこどもで、大切にされるべき存在だ。私たちを導くのは権力者ではなく、平和の神だとみました。今日は主の祈りの「願わくは御名を崇めさせたえ」について見てゆきたいと思います。もう一度、その意味を考えてみましょう。今日の祈りは「願わくは」という言葉から始まりますが、これは私たちの望みという意味です。ちなみに聖書にこの言葉はありません。日本語で祈る時だけ「願わくは」が付きます。おそらく文の調子を整えるために、後の時代の日本人が付け加えたのでしょう。大事なのは「御名を崇めさせたまえ」という部分です。御名と崇めさせたまえについて、それぞれご紹介しようと思います。

まず御名(みな)です。御名とはキリスト教用語です。キリスト教では神様のことについて頭に「御(み)」をつけます。この主の祈りにも3回「御」が登場します。御名、御心(みこころ)、御国(みくに)。「御」がつくとすべて神様のという意味です。それぞれ御名とは神様の名前のこと、御心とは神様が思っていること、御国とは神様の国という意味です。

御名とありますが、聖書の中で神様の名前とされるのはヤハウェ、エリ、エロヒームなどいくつか表現があります。ただ聖書には神様の名前をみだりに唱えてはならないという教えがあります。おそらく神様の名前が呪文のようにならないためでしょう。人びとは神様の名前をみだりに唱えないように、神様のことを「主(しゅ)(アドナイ)」と言い換えたり「御名」と言い換えたりしました。簡単に言うと御名とは神様のことです。神様を言い換えた表現です。ですから「御名が崇められますように」とは、神様の名前が崇められよという意味ではなく、神様そのものが崇められる様にという意味です。

さて祈りは崇めさせたまえと続きます。「崇めさせたまえ」とはどんな意味でしょうか。間違えられやすいのですが「どうか拝ませてくださいませ」という意味ではありません。ヘブライ語にさかのぼって、より正確にみると「聖なるものとされよ」という意味です。「崇めさせたまえ」とは「聖なるものとなりますように」という意味です。ここでは神様が聖なるものとされるようにと祈られています。神様が聖なるものとされるようにということをもっと簡単に言うと、神様が大事にされますように、神様が尊重されますようにということです。神様がもっと聖なるものとされますようにという祈りです。

ただ私たちの祈りが神様を聖なるものに変えるわけではありません。神様という存在は、私たちが祈れば聖なるものになる、祈らないと聖なるものではなくなってしまうわけではありません。神様はとにかく聖なるものです。私たちが祈ったところで、神様の聖は増えませんし、祈らない方といって神様の聖が減るわけでもありません。

ではなぜ神様が聖とされるようにと祈るでしょうか。神様が大事にされますようにと祈るのでしょうか。それは、私たちについての問題です。それは私たちが神様を大事にできますようにという祈りです。それは私たちが神様を聖なる者とし、私たちが神様を尊重し、私たちが神様を大切にできますようにという祈りです。崇めさせたまえとは私たちが神様を聖なものととらえ、尊重し、大切にすることができますようにという祈りなのです。

神様を聖なるものとするとはどんなことでしょうか。反対のことを考えるとよくわかるかもしれません。私たちはどんなとき神様を聖なるものとしていないでしょうか。私たちはどんなとき神様を汚しているでしょうか。神様を汚すことがどんなことかなら、私たちは簡単に想像ができるかもしれません。私たち人間は、様々に神様を汚すからです。神様の顔に泥を塗るということです。私たちは神様の顔に泥を塗る、神様を聖としない、そんな生き方をしています。

たとえば日本の教会では戦時中、戦闘機購入のための献金が熱心に募られました。当時のバプテスト教会も熱心に協力をしました。戦闘機には「日本基督教団号」と書かれ、戦争へと旅立っていったそうです。教会は戦争に熱心に協力をしてしまいました。これは神様の顔に泥を塗ったことだと思います。これは神様を汚し、尊重せず、大切にしなかったことだったと思います。神様を聖とせず、崇めず、自分たちのために神様を利用したのです。他にもあります。広島に原爆を落とした飛行機エノラゲイは出発前、牧師が作戦成功の祈りをささげたそうです。神様にこの作戦が成功しますようにと祈られました。その後広島に爆弾が落とされ、多くの人が原爆で死ぬことになります。これも神様を汚すことだったでしょう。祈っていても大切にしていたのは神ではなかったのです。自分の都合、自分の勝利が祈られたのです。ナチスドイツの兵士のヘルメットにも「神は我々と共にいる」と記されていたそうです。

このようなことはたくさんあります。まさにこのようなことが神の名を汚すことといえるでしょう。戦争のために神が利用されました。みだりに神の名が唱えられ、汚されました。神を聖なるものとせず、あがめず、自分たちを正当化するために利用したのです。人びとは自分の都合に遭う様に神様を捻じ曲げました。もともと神様は聖なる存在です。しかし人間は神の名を汚しました。神の顔に泥を塗ったのです。このように利用されるからこそ、聖書はみだりに神を呼ぶなと教えたのでしょう。「崇めさせたまえ」「聖なるものとされますように」というこの祈りは、神を汚すことが起りませんように、私たちが神様を聖なる存在にし続けることができるようにという祈りです。私たちが神様を大事にできますようにという祈りです。私たちの間で神様が尊重されますようにという祈りです。私たちは神を汚すのではなく、神を聖なるものとしたいという祈りです。

 

招詩でもお読みしましたが、レビ記19章2節(191ページ)では神様が私たちにこう呼びかけています。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である。」そしてその後には、聖なる生き方とはどのような生き方なのかが書いてあります。このようなことが勧められています。9~10節には、貧しい人や外国人と食べ物を分かち合う様にしなさいとあります。11節には盗むな、嘘をつくな。12節には偽り誓って神の名を汚してはならないとあります。13節には奪い取るな、雇人は賃金をちゃんと払え。14節は障害をもった人への接し方があります。15節は不正な裁判をするな。16節は偽証をするな。18節は復讐するなとあります。

神様はそれが聖なる生き方であり、神様を聖とする生き方だと教えています。そしてレビ記19章18節にはこうあります。隣人を自分のように愛しなさい。これはイエス様がもっとも大事なことだと言った箇所です。これが聖なる生き方です。隣人を愛して生きる事、それが“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”なのです。

神様を聖とすること、それはなにより私たちが互いに愛し合って生きるということです。神を聖とすることとは、私たちがお互いを大切にしあうことなのです。御名を崇めるとは私たちが愛し合う事なのです。

「御名を崇めさせたまえ」について見ました。これは主の祈りの第一祈願、最初の祈りと呼ばれます。父よという呼びかけに続く、一番初めの祈りだからです。そこではまず最初に神様が聖とされるように、御名が崇められる様にと祈られます。

私たちの祈りの中には願い事がたくさんあります。でも主の祈りはまず、神様が聖とされること、神様が大事にされることを祈っています。まず自分のことをすぐに祈りたくなる私たちです。自分の都合を優先し、自分を正しいと思いたい私たちです。神を都合よく使う私たちです。でもイエス様は、まず先に神様が聖であるように祈ろうと教えました。そしてその祈りは私たちの生き方も問いかける祈りでした。イエス様は私たちに自分の願いより前に神の願いを考えよ、隣人を愛し、神を聖とする生き方、神聖な生き方をせよと教えられているのです。

さて私たちは「御名を崇めさせたまえ」をどう祈ったらよいでしょうか。私たちの間では神様の名前が、汚されることばかりです。私たちはそのことを反省しないと、この祈りは祈れないでしょう。もう簡単に祈ることはできないでしょう。

この祈りを祈るなら、いつも神様を聖なるものとできない、自分の不足に目を向けざるを得ません。私たちがこの祈りを祈る時、神を聖とし、私たちが聖なるものとなるにはどうすれば良いのかを考えます。聖書によれば私たちが愛し合うことが、神様を聖なるものとすることです。私たちは神様の名が聖なるものとして、崇められるように祈ります。そしてこの祈りに促されて、お互いを大事にしあうという“神を聖とする生き方(神聖な生き方)”を始めたいと思います。最後に一緒に主の祈りを祈りましょう。

 

【全文】「わたしたちの神」マタイによる福音書6章9~13節

 

天にまします我らの父よ(マタイによる福音書6章9節)

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。6月までは地域協働というテーマでこひつじ食堂と私たちの教会、聖書について考えてきました。7月と8月は主の祈りをテーマに宣教をできればと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

「主の祈り」とは讃美歌の1ページ目に書いてある祈りです。主の祈りはイエス様が私たちに直接教えて下さった祈りとして、教会の中で特に大切に祈られています。今日も礼拝の中で祈りました。私たちはこの「主の祈り」を1年に何十回も祈ります。この祈りはキリスト教でもっとも親しまれ、大切にされている祈りです。

しかしある人が言います「この祈りは日々殉教している」と。殉教するとは死んでしまうということです。日々この祈りは殺されてしまっているということです。それが意味するのは、主の祈りが大切な意味や内容がよく考えられないままに祈られ、まるで呪文のようになってしまっているということです。私たちは繰り返し主の祈りを祈るのですが、私たちはまるで呪文のように意味を考えずに祈り、大切な中身を考えなくなってしまっています。

私たちは本当にこの主の祈りに、自分の心を寄せて祈ることができているでしょうか。この祈りは、ただ覚えればよい、唱えればよいのではありません。イエス様が教えた祈りを呪文としないで、祈りとすることが出来ているでしょうか。「主の祈り」を「私の祈り」とすることができているでしょうか。そのことを自分自身に問いかけながら「主の祈り」について考えてゆきたいと思います。

このように主の祈りについて7月8月にわたって考えたいと思います。そして主の祈りのすばらしさを語るだけにはしたくありません。もう一度私たちがこの祈りを自分の祈りとして受け止め直すことができるように考えたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

今日は主の祈りの「天にまします我らの父よ」について考えたいと思います。まず天にましますの「まします」とはどんな意味なのかが疑問でしょう。主の祈りは古語(昔使われた古い言葉)で祈られています。これも呪文になってしまう原因です。「まします」は「ある」や「居る」の尊敬語です。ですからこれは「天にいらっしゃるわたしたちの父よ」という意味です。

「父よ」という言葉もあります。父はイエス様の話したアラム語では「アッバ」という言葉です。以前にドイツの学者エレミアスという人が「アッバとは、こどもが父親のことを『おとうちゃん』と呼ぶ時に使う表現だ」と紹介をしました。そして私たちは身近な存在として神様に呼びかけてよいのだと紹介されました。この説は共感を持って瞬く間に世界に広がりました。しかし後の調査で「アッバ」にはそのような「おとうちゃん」といったような使われ方をしないことが判明しました。単純に父という意味だったのです。この説をとなえた学者エレミアスも今はおとうちゃん説を撤回しています。しかし、いまだに訂正の情報は広がっていません。一度浸透した情報・信仰の訂正・更新がいかに難しいかを表しています。このアッバとはおとうちゃんという親しみを込めた意味ですよというのは、少し古い話です。とらえ方としては共感できるのですが、今日はもうしません。そして何とかして、主の祈りを新しく受け止めたいと思います。

ひとつわかっていることは、当時、神様に向けて「父よ」という呼びかけをしたこと自体は特殊なことであったということです。当時ユダヤ教では神様にむけて「父よ」と呼びかけることはほとんどありませんでした。そのような中でイエス様が「父よ」と祈ったことは確かに特徴的なことです。

先日こどもに「パパ、神様って男なの?」と聞かれました。「父よ」と祈っているのですから、当然、男でしょうか。神様は母ではなく、父なのでしょうか。こどもに「神は男か?」と聞かれて、父・おとうちゃんであり牧師である私はどうこたえるべきか悩みました。神は男だったと明確に書いてある聖書箇所はありません。でも多くの人は神は男性であるというイメージもっているでしょう。こどもですら「神様は男か?」と聞いてくるほどです。ある調査によると、自分の思う神様のイメージを描いてみてと言うと、アメリカ人も日本人も多くの人が白人・高齢・男性の絵を書くそうです。

なぜ私たちは神様は男性だとイメージするのでしょうか。聖書には神様が女性のイメージで語られる箇所もあります。しかし私たちは神様の性別を考える時、いつのまにか男性をイメージするのです。

おそらく神様は男性でも女性でもありません。神様は性別を超えた存在です。私たちは大人もこどももすぐに、男なのか女なのか、どちらかを探り、決めようとします。そして私たちの大半は神様は男性であるとイメージします。しかしおそらく神様はどちらでもありません。私たちが「父よ」と祈る時、神様は男性であるとイメージする必要はありません。主の祈りは「我らの母よ」でもいいはずです。そのようなイメージも大事です。少しインパクトは弱いかもしれませんが性別を固定せず「我らの親よ」と祈ってはどうでしょうか。そもそも「我らの神よ」でもいいはずです。

神様が男であると強調することには別の課題もあります。なぜなら神は男であるというイメージが、支配者は男であるべき、人の上に立つのは男であるという発想につながるからです。神様は男、だからリーダーには男がふさわしいという発想になるからです。

神様は男でも女でもありません。神様は神様です。私たちは私たちの持っている、男女二分法に注意しながら「父よ」と祈る必要があります。またこれは呪文ではありません。「私の祈り」である必要があります。「我らの神よ」と変えて祈っても私は問題がないと思います。神様は性別を超えるお方です。ではなぜイエス様は「父よ」と祈ったのでしょうか。その理由が気になるところです。「父よ」と祈った理由は、イエス様が神様に「おとうちゃん」と親しみを込めたからではありません。なぜイエス様は「母よ」「母ちゃんよ」あるいは「神よ」と祈らずに「父よ」と祈ったのでしょうか?神様がまるで男性であるかのような祈りを教えたのでしょうか。

そのように祈った理由のひとつに、ローマ皇帝に対する抵抗が含まれていたという説があります。この祈りはローマ帝国の支配への抵抗が含まれているという説です。イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国という国が支配していました。この帝国は圧倒的な軍事力で世界を支配していました。ローマ帝国のトップはローマ皇帝です。そしてローマ皇帝は戦争の神様を熱心に拝みました。戦争に勝ちたいと戦争の神様に祈ったのです。

戦争に勝ち続け、世界帝国となるとローマ皇帝は自分のことを「神の子」だと言いはじめました。そしてローマ皇帝は「私はこの地上の国民の『父』である」と言いはじめました。そしてまたある時は自分のことをこの世界の「救世主」であると言いました。そして自分を神と等しいものとして拝むように、人々に強制をしたのです。イエス様やその後の時代の人々はそのことをよく知っていたはずです。そのような中でイエス様は神様に向けて「父よ」と祈るように教えました。イエス様はローマの皇帝とは違う対象に向かって「父よ」と祈るように教えたのです。

もしイエス様と弟子たちが神様に「父よ」と呼びかけるなら、それは私たち一人一人はローマ皇帝の奴隷、ローマ皇帝のこどもではなく、一人一人が神様のこどもであるということを意味することになります。

神様にむけて「父よ」と呼びかけることは、私たち一人一人は皇帝の奴隷ではないこと、一人一人に人権があり、自由があり、一人一人に尊ばれるべき命があることを意味しています。「我らの父よ」と呼びかけるのは、私の命は誰にも侵害されない命だ、私たち一人一人の命が大事にされるべき存在だということを表明する祈りなのです。

「我らの父よ」には、他者の命が自分のものであるかのように振る舞う独裁者の前で、すべての命が大切にされるべき命であること、私たち全員が神のこどもであることを訴えているのです。「天にまします我らの父よ」とはそのような抑圧の中で命の大切さ、自由さ、平等さを表明する祈りです。

「天にまします我らの父よ」について見て来ました。私たちはこのいつもの祈りをどのように祈るでしょうか。この祈りで示されているのは、私たち一人一人は直接神様から命をいただいている神の子だということです。私たちはお互いが、そしてすべての命が神の子であり、尊い存在であるというイメージを持って、この祈りを祈りましょう。世界には権利を奪われ、押し込められている人がいます。いじめられている人、ハラスメントを受けている人がいます。自由に生きることができない人がいます。その命が、すべて神のこどもとして大切にされるように、そう願って「天にまします我らの父よ」を祈りたいと思います。

私たち人間は全員が神の子です。だからもう誰にも抑えつけられる必要はありません。性別や年齢や職業やルーツによって抑えつけられる必要はありません。そのことを祈りたいのです。そして私たちは地上の支配者にも注意を向けつつ祈りたいと思います。私たちを本当に導くのは、愛の神、命の神、平和の神です。戦争へと導くリーダーは「我らの父」「我らの神」ではありません。私たちのリーダーではありません。私たちは私たちの神に向けて祈りましょう。最後に主の祈りをともに祈りましょう。

 

【全文】「ごゆっくりどうぞ」詩編23編1~6節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声と足音を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。

今日まで3回、地域協働をテーマに宣教してきました。今の平塚バプテスト教会は食堂によって、みんなで協力をする場所になったということ、敷居が下がったということ、人間は食べるだけではなく関わりが必要だということを見て来ました。今日で地域協働のテーマを最後にしたいと思います。

食堂ではいろいろな出来事、いろいろな出会いがありすぎてどうまとめればよいかわかりません。でもきっとこのような出来事や出会いは私たちに多くの気づきを与えてくれるはずです。今日はそれぞれ断片のようになりますが、食堂で起きているエピソードを、みなさんに紹介します。そこから教会のこと、神様のことを考えたいと思います。

いつもお弁当を買うおばあちゃんがいます。先日町であって挨拶すると、お疲れの様子でした。おばあちゃんは「本当は私も食堂のお手伝いしたいのだけど、95歳で要介護3の親が同居していて介護が大変なのよ」と言っていました。また気分転換に食堂に来てくださいねと言いました。

きれいなマンションに住んでいる人がお弁当の列に並んでいました。その方は一人暮らしですが、夕食分と明日のお昼の分2個のお弁当を買いました。すると後から生活保護を受けているおじちゃんが、並びました。そして行列に並んでいる最中に疲れて座り込んでしまいました。もうすぐお弁当は売り切れです。見かねた女性は「自分の分を一つあげてもいい」「お金はいらないから、あのおじちゃんにあげて」と言いました。私はそのお弁当を受け取って、おじちゃんに手渡しました。

いつも営業終了間際に来るおじさんがいます。お代わりしたいとか、あっちの席で食べたいとか、いろいろわがままを言うおじさんです。彼は帰りがけに「また来ます、俺は奥さんにも、家族にも逃げられちゃって寂しいからさ」と言い残して帰っていきました。また来てねと言いました。

いつも親子で食堂を利用してくださる方が、こどもクリスマスに来てくれました。するとお母さんが上手に讃美歌を歌っていたのです。次に食堂で会った時に、どうして讃美歌を歌えるのか聞きました。実はキリスト教系の幼稚園で働いているそうです。自分のこどもは普通の幼稚園です。こどもにキリスト教に触れる体験をさせたくて食堂に来ているのかもしれません。

それぞれ一人暮らしをしているおばあちゃん4人組が利用してくださっています。おしゃべりしながら食事をするのは楽しそうで、会堂には大きな笑い声が響きます。おばあちゃんたちは帰り際に別れを惜しむようにお互いに手を振っていました。おばあちゃん、また教会に来てください。

こひつじ食堂に急いでいたお母さん。早くしないとお弁当が売り切れてしまうと、自転車で急いで向かっていました。しかし道ばたにお財布が落ちているのを見つけてしまったそうです。食堂に間に合わないので拾わずに通り過ぎようとした時「私はこれから教会に行くのに、それでいいのか」と思ったそうです。お財布を拾って、交番に届け、急いで教会に来てくれました。お弁当はまだ残っていたそうです。

来月、愛知県にある教会の方が、こひつじ食堂の話を聞きたいと、新幹線に乗って3名で訪れる予定です。他にも近所に教会のこども食堂はあるはずですが、地域のボランティアさんと協力しているところは少ないからと平塚まで訪ねて来る予定です。

こひつじ食堂で使えるギフト券を作りました。1枚200円で購入して、誰かにプレゼントすることができます。誘いたいお友達や気になっている(困っている)あの人にプレゼントできるように作りました。最初は「無料券」という名前で作ろうと思っていましたが、無料券だともらったり、使ったりするのに後ろめたい気持ちが生まれないかという意見があり「ギフト券」という名前になりました。

食堂は15分くらい前から行列ができます。並ぶのに疲れた人たちは、石段に座り込んでいますが高齢者も多く、立ち上がるのにひと苦労です。会堂で使っていなかった長椅子を外に置いて、座って待ってもらえるようにしました。今日の宣教題が掲示されている前に、みんな行列をしますが、地域と教会について何を感じているでしょうか。

いつもお弁当の容器を買っているお店がアルバイトを募集していました。妻がそこで働き始めました。お弁当が余ってしまった時は、従業員の方に電話し、買い取ってもらっています。隣のセブンイレブンの店員さんもお仕事終わりに利用されています。隣の美容室の店員さんも利用されます。

始めてもうすぐ3年になりますが、回を重ねるごとにボランティアの皆さんのスキルが上がっています。お願いしようと思っていたことを言葉にする前に、いつの間にか終わっていたりします。すごく助かって言います。

食堂をすると大量の寄付が集まり、大量の段ボールゴミが出ます。いつも大量に出すので、縛らずに、ひと箱に詰めて出して良いか、ごみ収集車の人に聞きました。「いいよ」と笑顔で答えてくれました。そして「今日もみんなで食事のやつするの?」と聞かれました。ゴミ収集のおじさんも、のぼりを見て食堂のことを知ってくれていたのです。毎回使ってくれている170人はきっとごく一部です。行ったことはないけど、知っている人はきっと数百人、数千人いると思います。

食堂の準備が落ち着いたので、週報を折っていました。ボランティアの方が「手伝いますか?」と声をかけてくれました。私は「いえ、これは教会の仕事なので、大丈夫です」と言いました。そうすると「私は教会に手伝いに来ているのだから、そんなこと気にしないでいいですよ」といって手伝ってくれました。

食堂の情報をお知らせするラインの登録者数は180名を超えました。イースターたまごひろい会の案内を配信したら数十名の人が集まりました。次は水遊び会と花火会をやりますが、人が集まりすぎないか心配をしています。

町を歩いていると「牧師さん、次のメニューは何ですか?」と声をかけられます。「まだ決まっていません、何がいいですか?」と聞き返します。そうすると「なんでもいいです。みんなで食べるのが楽しいから」と言われます。次のメニューは何ですか?は、よい挨拶だと思います。

40代独身男性のボランティアさんが、小さいこどもにせがまれて、絵本の読み聞かせをしています。人生で初めてこどもに絵本を読んだそうです。

一緒に食事をしていたママに、平野さんはなぜ牧師になったんですか?と聞かれました。教会では気軽に聞けないことを、気軽に聞いてくれました。簡潔に証しをする訓練でした。

食堂の日、教会員で誕生日の方がいました。準備の合間にボランティアさんがピアノを弾いてくださいました。そしてみんなでハッピーバースデーを歌って、お祝いをしました。

食事を食べ終わったこどもが、こども室でまんが聖書を一生懸命読んでいました。10年後このこどもたちが食堂を手伝ってくれたらうれしいです。20年後、このこどもたちがこの会堂で結婚式をしてくれたらうれしいです。不安なことがあったら、どこかの教会を訪ねてみて欲しいです。いつか利用者の方のご葬儀もできたらうれしいです。

教会が地域の方とこのように関わることが出来ていることがうれしいです。しかもその関係が伝える、教わるといった堅苦しいものではなく、どこかほのぼのとするような、ほっとするような関係であることがうれしいです。このような地域との関わりが、教会からもっと広がってゆけばよいと思っています。

 

今日の聖書の個所をみましょう。私は今日の聖書の個所に、食堂のほのぼのとした風景と同じ印象を持っています。詩編は元々曲がついていたと言われます。ですからこれは歌です。曲の中にある、なんとなく感じる印象を大事にしたいと思います。ほのぼのとした教会と地域の関りをイメージしながら、この個所を読みたいと思いました。私は食堂を利用している方たちに、教会がこんな印象を与えられたらいいなと思いました。地域の方に教会ってこういう場所だ、神様ってそういう感じの方なのねと伝わってくれたらいいと感じます。

1節、教会は、自分に足りない物が何かをとやかく言われる場所ではありません。いわゆる説教される場所ではありません。教会に来たら、ああ私にはたくさんの恵みがあって、たくさんの仲間がいて、たくさんの幸せなことがあるのだ。寂しくても、困っていても、自分に欠けているものなんて、ちっともない。教会はそのように思えるような、場所になりたいです。

2節、教会に来ると青草の原で寝っ転がるような、水のほとりでマイナスイオンをたっぷり感じるような、そんな安らぐような体験をしてほしいです。3節の魂が生き返るような、そんな気持ちになれる場所に教会をしたいです。

4節人生にはいろいろなつらいこと、災いがあるものです。しかし誰かが共にいてくれる、それが人を力づけるものです。誰か共にいることが私を力づけるのです。教会に来たときそれを感じてもらえたらうれしいです。仲間がいるっていいな。誰かが共にいるって心強いなと感じて欲しいです。

5節苦しい時こそ、教会は食卓を整えて迎えましょう。私たちは杯があふれるほど、蓋が閉まらないほどのお弁当を作って、皆さんを迎えましょう。教会はそのような場所になりたいです。神様がそのように杯をあふれさせるお方だからです。

6節命ある限り、慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。教会をそんな場所だと思ってもらえたら嬉しいです。ずっと来たい、自分の家のようだ、ずっと元気でいよう、そんな活力につながるのなら私はうれしいです。そして食堂の雰囲気を通じて、神様の事も伝わったらうれしいです。お祈りします。

 

 

 

【全文】「人はパンのみで生きるのではない」ルカ4章1~4節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。今日は創立記念礼拝です。この教会が73年間、神様に守られたことに感謝します。そして74年目の歩みが守られることを祈ります。私たちは教会の歴史の大きな転換点にいます。今月はその転換点のきっかけになっている地域協働をテーマに宣教をしています。

私たちの教会では毎月第3・第4金曜日に「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。1食200円でだれでも利用できる食堂です。毎回100個のお弁当等と、70食の会食を提供しています。この食堂はもともと会食のみで営業を始めました。お弁当や持ち帰りへの対応はしていませんでした。しかしコロナの期間に、一緒に食べるということができず、やむをえずお弁当の販売を始めました。それ以来お弁当の販売も継続しています。当初はお弁当の方が人気で、中で食べる会食のお客さんは少なかったです。コロナで会食が心配ということもあったでしょうし、教会で食べるのがどんな雰囲気なのか不安というのもあったでしょう。家族で気軽に食べれるということもあって、たくさんの方がお弁当を買いに来ました。

しかしもともとこの食堂はあくまで会食をする場所として始めました。コロナも落ち着き、今は会食を積極的にお勧めしています。そして会食の利用者も増えてきました。合計170食の提供は会食する人が70名、会食の方が家族の食事分に持ち帰るお弁当が50食。お弁当だけの利用は50食です。今はお弁当より多くの方が「こひつじ食堂」を会食する場所として利用してくださっています。

なぜ「こひつじ食堂」はお弁当販売ではなく、会食を中心としているのでしょうか。利用者は家でお弁当を食べた方が気軽です。実はスタッフもお弁当の方が楽です。一度に作れるし、洗い物や配膳が無く、片付けも無い。お弁当の方が早く終わるのでとても楽です。会食は利用者にとってもスタッフにとってもお互いに面倒です。ですが、私たちは会食を中心にしています。それはこひつじ食堂が単に食事を提供することが目的ではないからです。ここは食事をするだけの場所ではありません。食事だけではなく、他者との関わりがここで生まれて欲しいと願っています。だからこそ会食をお勧めしています。人間は食べものだけではなく、関りが必要だからです。

教会に生活には困っている方が訪ねてこられて、支援をするときがあります。まず大事なのは衣食住です。食べ物、着る物、住む場所が大事です。ただこれは比較的すぐにそろえることができます。大変なのは衣食住の後の支援です。いろいろな支援が必要ですが私が意識しているのは医・職・友です。生きていくには、病院に行って健康になり、やりがいと収入のある仕事・職が必要です。そして友が必要です。どんなに健康で、お金も仕事もあっても、友がいなければ、何か嫌なこと、困ったことがあった時、向き合うことができません。友がいれば、愚痴を言いながらも仕事が続けられます。友がいれば様子の変化を見守ってくれます。衣食住だけではなく、友がいること、友になってゆくことは、生活をしてゆく上で非常に大事なことです。

私たちが会食に積極的に招き、一緒に食べることを大事するということも同じだと思います。食事は生きるために必要で最優先のものです。でも私たちは食べ物を提供するだけではありません。私たちは友ができる場所を提供したいのです。人間は食べるだけではありません。人間には友、仲間が必要です。つらい時に話を聞いてくれる友、励ましてる友、一緒に愚痴ってくれる友がいなければ、やっぱりまた人生がうまくいかなくなってしまうのです。だから私たちはこの食堂を、手間がかかっても会食を中心にしたいと考えています。もちろん様々な事情がある人がいるのでお弁当の販売も続けますが、この食堂を友ができる場所、友と集う場所、友と一緒に食事ができる場所にしたいと思っています。

人はパンのみで生きるのではない。本当にイエス様のおっしゃる通りです。「こひつじ食堂は弁当のみで開催するのではない」です。人はパン以外のもの、人との関わり、友が必要です。友との会食が必要です。私たちにはお腹を満たすだけではなく、友が必要なのです。今日はイエス様の「人はパンのみで生きるのではない」そのことから、食堂の働きと私たちがどう生きるかを考えたいと思います。今日の聖書箇所を読みましょう。

 

 

今日はルカによる福音書4章1~4節までをお読みいただきました。悪魔はイエス様に「石をパンに変えてみよ」と言いますが、それに対してイエス様が答えた言葉が「人はパンのみで生きるのではない」という言葉でした。マタイ福音書にも似た箇所があり、そちらの方が有名です。今日の個所をよく見て発見しました。マタイでは「人はパンのみで生きるのではない」の後に「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」が付け加わっています。しかしルカには「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という言葉が無いのです。

ルカ福音書ではイエス様は「人はパンのみで生きるのではない」とまでしか言っていません。ルカ福音書では、大事なのはパンだけではないと言いながらも、一体何がパンと並んで大事なものであるのかが、明らかにされていません。 マタイ福音書を読むと、食糧であるパンよりも、宗教的な養いの方が重要であると言っているようにも聞こえます。食べる、食べないよりも、宗教の問題の方が大事だと言っている様に聞こえます。当時のイエス様はどんな発言だったのでしょうか、気になります。

いずれにしてもルカもマタイも、イエス様は人間は食料だけで生きるわけではないと言っています。そしてルカはパン以外にも何か必要なものがあると言っています。パン以外に必要なものがあるとしたら一体それは何でしょうか。たくさんの必要なものを想像します。私たちは特に聖書の言葉に勇気をもらっています。食べ物だけではなく、聖書の言葉に元気をもらって生きています。希望をもらっています。それが大事です。マタイもそう思って「人はパンのみで生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」を付け加えたのでしょう。

そして私たちには食べ物と聖書の言葉以外にも生活に必要なものがあるはずです。私たちには先ほどご紹介した衣食住に加え医職友が必要です。特に私たちには友が必要です。人生には落ち込む時、病気の時、うれしい時があるものです。その時、その人生には誰か一緒にいてくれる人が必要なのです。一緒に落ち込み、一緒に喜んでくれる人が必要なのです。

しかし今、友を得るということはとても難しいことです。私たちはこの地域に友達ができるという様な場所が少ないということを知っています。私たちはこの地域に友達と一緒に気軽に食事をできる場所が少ないことを知っています。友を得る必要はわかっていても、なかなかそれを得ることができないのです。私たちの教会はそのような友に出会いの場所になりたいと願っています。人が集まり、出会い、一緒に食べ、友となることができる場所になりたいのです。聖書が言っている通りです。食べる物があればそれでいいのではありません。人はパンだけで生きるのではないからです。人は友が必要なのです。この食堂で友達同士になる人ができたらいいと願っています。そしてすでに多くの人が友達になっています。何回かくると互いの顔を覚え、挨拶するようになったという人がいます。

このようにして誰かと一緒に食事していると、きっと感じるはずです。「私は食べ物だけで生きるのではない」と。そう気づくはずです。このような友との温かい関わり、食事があるからこそ、自分は生きることができると感じるはずです。それは聖書が教えていることです。それは聖書の教えを身をもって体験するということです。この教会で食事をすることによって「食べるだけではなくて、友がいるのが私には必要だ」それを知ってくれたら、気づいてくらたらうれしいと思います。

教会は直接、こひつじ食堂の人たちに聖書のみ言葉を教え伝えるわけではありませんが、このように聖書のみ言葉を体験することができる場所になっています。教会はそのように地域の中で友を作る場所、いつの間にか聖書の言葉を体験している場所になってゆきたいと思うのです。

私たちのことも考えましょう。聖書の言葉によってつながっている友は特別に親しくできる友でしょう。同じ言葉を知っていて、心の深い場所で共感ができる大切な友です。特別にお互いを大事にしましょう。私たちも繰り返し礼拝に集い、一緒に食事をし、互いに励まし合い、喜び合い、悲しみあうことを大事にしましょう。イエス様はきっとそのことを教えて下さっています。

人はパンのみで生きるのではありません。他にも必要なものがあります。特に友が必要です。人はパンのみで生きるのではありません。特に私たちは聖書の言葉から励まされています。聖書の言葉が必要です。人はパンのみで生きるのではありません。私たちには神様の言葉と仲間が必要です。私たちはどちらも大事にしてゆきましょう。

また今日から私たちの1週間がはじまります。1週間どんな生き方をしましょうか。人はパンのみで生きるのではありません。私たちは一緒に食べる事を大事にしましょう。誰かの友達になることを大事にしましょう。人はパンのみで生きるのではありません。神様がよくご存じです。神様はきっと私たちに友を得ることができるように、私たちを導いてくださるはずです。お祈りします。

 

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【全文】「教会の敷居を下げたい」コリントの信徒への手紙Ⅰ9章19~23節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら、礼拝しましょう。

今月は地域協働というテーマで宣教をしています。教会は地域とどのように関わっていくかを考えています。私たちの教会では毎月2回、誰でも1食200円で利用できる「こひつじ食堂」を始めました。これを始めたことで圧倒的に教会と地域の関りが増えはじめています。地域のたくさんの方が教会を訪ねて下さり、いろいろな方と話をするようになりました。教会を訪ねてくれた人の多くが口を合わせたように言う言葉があります。それは「昔からここに教会があるのは知っていたけど、中を見たことはない。入るのは初めて」という言葉です。

うれしいと同時に、少し残念でもあります。私たちは73年間どれだけの集会をし、伝道をしてきたでしょうか。どれだけのチラシをまいてきたでしょうか。どれだけ新しい方が来るのを祈ってきたでしょうか。しかし、まだ多くの人が平塚教会の中を知らないのです。平塚教会は地域の人にこう思われています。あるのは知っている、でも入ったことはない。そして何をしているのかわからない場所。商店街のお店ではなく、私たちの教会のことです。クリスチャンが身近にいないという人は、中で何をしているか、もっとわからないでしょう。私はこんな質問をされたことがあります。お酒は飲むのですか?お肉は食べるのですか?牧師さんは黒魔術はできますか?町で「神父さん」と声をかけられます。

地域の方にとって、教会はとにかく体験したことのない、未知の世界なのです。入るのは怖い、不安、勧誘されて出てこれないかもしれない場所です。時々、初めて礼拝に出席するという方もいます。もうそれだけで、すごい勇気だと思います。

キリスト教系の学校、ミッションスクールの経験がある人はだいぶ違うでしょう。学校の礼拝に出たことがあり、讃美歌が歌え、イースターの意味を知っている。もうこれはかなりの上級者です。「聖書が家にある」はもうかなり私たちに近いです。

教会は多くの人にとって、何をしているかわからない、敷居が高い、入りづらい場所です。毎週集う私たちにその自覚は全くありませんが、私たちは毎週その高いハードルを越えて、集まっています。でも私たちは今、こひつじ食堂を始めたことによって、地域の方たちとの交流が増えました。地域の方たちから見て、教会の敷居はとても下がっています。今まで入ったことのなかった会堂の中に入って来て、ご飯を食べて、おしゃべりをして、牧師と会話をします。こどもは中で走り回るのです。宗教施設の中で食事することに最初はためらいがあったはずです。

それでもこの活動によって、教会は身近な存在だと感じてもらえるようになったでしょう。教会は危なくない。クリスチャンもお肉を食べるんだ。なんだ、みんな私と同じような人間だと感じてもらえるようになります。それはお互いにとってかなり大きな一歩、新しい体験だと思います。

私たちはこの人たちを勧誘して、教会に引っ張り込むわけではありません。私たちもミッションスクールのように、その人の人生の体験のひとつになりたいと思っています。別にこの教会でなくてもいいのです。どこかの教会に、何年後か、いつか訪ねてくれればよいと思っています。

教会はとにかく敷居が高い場所です。入るのに、躊躇があり、緊張する場所です。私はこひつじ食堂によって敷居がぐっと下がったと思います。そしてこの敷居をもっと下げたいと思っています。今日は聖書から教会の敷居の高さを下げてゆくことを見てゆきたいと思います。今日も聖書を一緒にお読みしましょう。

 

 

今日はコリントの手紙Ⅰ 9章19節~23節をお読みいただきました。9節にはできるだけ多くの人を得るためだとあります。信者獲得の大号令、顧客獲得ノウハウの勧めのように思えてしまうかもしれません。でもきっと違います。信仰とは生き方の問題です。何として新しい生き方を見つけて欲しい、新しい生き方をする仲間を得たいというのが、ここでの「なんとかして得る」という意味でしょう。生き方という視点で読みたいと思います。

パウロというイエス様の弟子がいました。その弟子パウロは、コリントという地域にある教会に手紙を書きました。手紙を最初から読むとわかるのですが、コリント教会には実に様々な人がいたようです。裕福な人、貧しい人、身分の高い人、低い人、男性、女性、あらゆる性。いろいろな人が集まる教会だったのです。そしてそのような中で問題になったのは、宗教的な熱心さの違いということでした。宗教的な熱心さの温度感が全く違う人が集まっていたのです。

例えば何世代も続く熱心な家系で、お腹の中にいる時から教会に来ていたという人がいました。小さい頃から習慣の様に教えを守っているという人がいました。一方で親は全く違う宗教で、最近コリント教会にき始めたという人もいました。

新しい人から見るとその輪の中に入るのは大変、難しいものです。熱心で何世代も続く家系の人たちは当たり前のように戒律を実践していました。いわば上級者です。集まっている人はみんな家族のようなに付き合っています。家族構成も性格もなんでもお互いのことを知っているようです。そこにある日キリスト教に興味を持って、初めて教会に訪ね人が加わってきたらどうでしょうか。そのような人がコリント教会に徐々に多くなっていきました。そこには今まで熱心だった人と、最近来た人の温度感の違いがあったはずです。家族のような関係の中に入っていく、そこにかなりの敷居の高さを感じたはずです。

パウロはそのような教会に向けて手紙を書いています。そしてパウロはその教会に対して、こう言います。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」。ユダヤ人とはつまり上級者のことです。上級者には上級者のようになりましたということ。そしてこうもあります。「律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました」律法を持たない人とはいわば初心者です。初心者に対しては初心者のようになったということです。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」とあります。弱い人とはここではおそらく教会に行くことを迷っている人でしょう。自分がその教会のなかでどうしたらいいかわからない人です。パウロはわからない人にはわからない人のようになったと言っています。

手紙を書いたパウロ自身は超上級者ですが、注目したいのはパウロが、全員ユダヤ人になるようにとは言わないことです。パウロは全員が上級者になりなさいとは言わないのです。これが注目をしたい点です。パウロは私のような超上級者を目指しなさいとは言っていないのです。パウロは「私はすべての人に対してすべての人になった」と言っています。

これはつまり私は上級者かもしれないが、最近来始めた人も、初めての人も、まだ迷っている人もいる、私はそういう人になると言っているのです。どのような意味でしょうか。私はこの個所「教会は敷居を下げなさい」と言っている様に聞こえます。みんながいきなり上級者なわけではないのだから、初めてくる人が入りやすい様に、迷っている人がわたしも大丈夫だと思えるように、敷居を下げなさいと言っている様に聞こえます。

もし初めて礼拝に参加するという人と一緒に礼拝するなら、初めての人のようになることが大事なのでしょう。こどもがいたらこどものように礼拝することが大事なのでしょう。子連れの親子がいれば子連れの親子のように、高齢者がいれば高齢者のようになることが大事なのでしょう。それが、今日の個所にある「すべての人がすべてになる」ということでしょう。ありふれた言葉に置き換えるならパウロはコリント教会と私たちにこう言いました「その集まりを初めての人、まだ加わっていない人の立場から考えましょう」そのように勧めています。

私たちの教会について考えましょう。私たちはまだ中に入ったことのない人を、どんどん招き、迎えてゆきましょう。そしてこの新しい生き方をする仲間を得てゆきましょう。そのために入りやすい教会、敷居の低い教会になってゆきましょう。私たち一人一人が初めて来た人のようになりましょう。そのようにして、すべての人がすべての人になってゆきましょう。そんな敷居の低い共同体になってゆきましょう。

そして私たちのそれぞれの1週間も同じす。私たちは今週も様々集まりに出かけてゆくでしょう。そこにはきっと上級者も、初級者も、初めての人も、まだ入ろうか迷っている人もいるでしょう。私たちはその時、すべての人になる、そのことを心がける1週間にしましょう。そのような生き方をしましょう。

23節にはこうあります。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」私たちは福音のために、そしてその敷居を下げるために、どんなことでも、いろいろなことを試してゆきましょう。23節の続きにはこうあります「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」これを信者獲得、教会存続のためにするのではありません。私たちはそれを、ただ共に福音にあずかるため、キリストにある新しい生き方を共に歩むためにするのです。

私たちはすべての人がすべてになる。そんな敷居の低い教会になってゆきましょう。そしてそれぞれの場所でそのように生きましょう。お祈りします。

 

【全文】「平塚バプテスト“協会”」ルカ9章10~17節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。今日からは1ヶ月間「地域協働」ということをテーマに宣教をしたいと思います。特に私たちは「こひつじ食堂」というこども食堂の運営から様々な刺激を受けています。食堂で起きていることから、私たちの教会のことを考えてゆきたいと思います。

私たちは2020年から「こひつじ食堂」という毎月第3・第4金曜日にだれでも1食200円で利用できる地域食堂を始めました。この数年でキリスト教の教会でも、こども食堂をはじめる教会が増えてきました。多くの教会系のこども食堂があります。その中で私たちの「こひつじ食堂」の特徴は何でしょうか?いろいろあると思うのですが、他の教会との一番の違いは地域のボランティアさんたちの存在です。私たちは毎回20~30名のスタッフで運営していますが、教会員のみで運営しているのではなく、スタッフの半分は地域の方たちです。地域の方と一緒になって食堂をする教会、さらに半々でやっている教会は、まだとても珍しい存在です。

教会の活動だから、教会の人でできる範囲でやるというのは正しいと思います。私もボランティアの募集を始める時はかなり戸惑いがありました。教会の働きに地域の人が加わることが、どんな影響があるか想像できませんでした。想いも動機もまったく違う人が教会で一緒に活動できるのだろうか?私たちは信仰的な動機で奉仕として活動しているけれども、地域の“ボランティアさん”と一緒に活動してうまくいくのだろうか?すれ違いがたくさん起きるのではないかと思いました。しかし何も心配する必要はありませんでした。実際に働いてみると、考えていることや動機が多少違うことは、活動にまったく関係がありませんでした。

もちろん、最初に趣旨や目的を丁寧に説明をしています。そうすることで私たちはボランティアさんと、誰かのために働きたいという目的で一致することができました。どんなに動機が違っていても目的は同じです。目的のために一生懸命働くということに何の違いもありません。考えていることや動機は違っても、同じことのために一緒に働く、それができれば十分なのではないかと思っています。

地域の食堂の一覧などで平塚教会の名前をよく見かけるようになりました。地域の方はよく教会を協会(協力する会)と字を間違えます。私はその時「私たちの教会は協力の“協”ではなく、教えるの“教”です」と訂正しなければなりません。でもこの訂正をするたび息苦しい思いがしています。自分は教える側ですと言っているような気がするのです。私たちは教える側なのでしょうか。少なくともここには偉い先生が、何かを教えてはいません。

ここは生き方を一緒に考える場所です。信仰について、愛と平和と希望について考える場所です。誰かが上から教え、誰かが教わる場所ではありません。学び合う場所です。そして今の平塚教会は誰かのために一緒に働き、誰かと一緒に食事をする場所です。

間違えを訂正するたびに、今の平塚教会は本当は、協力の協の協会の方がふさわしいのではないかと感じています。なぜなら平塚教会は地域の人と力を合わせて、誰かのため、自分のため、地域のために、神様のためにある場所だからです。よく見ると協会の協の字は、十字架に力が3つ集まっています。平塚教会はまさしく十字架の下で力を合わせる場所です。私は今、教える教会よりも、協力する協会の方が私たち平塚バプテスト教会にはふさわしい様に感じています。今日は聖書からも、協力すること、協力する集まり、きょうかい(協会・教会)について考えたいと思います。

 

今日はルカによる福音書9章10~17節をお読みいただきました。後半は私たちの週報の表紙にもある年間主題聖句です。5000人の食事の場面です。私たちはこれまで数年間、繰り返し平塚教会はこの5000人の集まりの様だと見て来ました。平塚教会はパンと魚、たくさんの食べ物の寄付が集まる教会です。食べ物がどんどん増える教会です。一緒に食べることを大事にする教会です。食堂利用者が5000人を超えた教会です。13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。これは私たち平塚教会に語りかけられた「あなたがたが食堂をしなさい」という命令です。私はここを勝手に“大食堂命令”と名前を付けています。私たちは日本一、世界一、この5000人と共通点がある教会で、私たちはイエス様の大食堂命令によって突き動かされているのだと紹介をしています。

今日は特にこの5000人の食事の中で、どれだけの協力があったのかを考えてみたいと思います。この5000人はどんな協力をする集まりだったのかを考えたいと思います。

5000人の食事とはどれだけの規模の食事でしょうか。とにかく広大な面積に、たくさんの人がいました。むこうの人はかすんで見えたでしょう。その場所で協力するということを想像しながら聖書を読みます。これだけ広い場所で、全員が同時に食事をするのは相当大変です。たくさんの準備と協力が必要だったはずです。これは食事の準備に苦労している教会、独特の視点です。特に16節「弟子たちに渡しては群衆にむけて配らせた」について想像します。

私たちは150食作るのに毎回20人~30人のスタッフ、食数に対して20%くらいのスタッフが必要です。5000人いたらスタッフは何人必要でしょうか。私たちの感覚を当てはまめると5000人の20%は1000人です。この5000人の食事にはおそらく1000人の協力が必要だったはずです。「これから全員で食事をします。このパンを運ぶのを手伝ってください」大きな声が響いたでしょう。あっという間に1000人のスタッフが集まりました。当時のパンは一人3つで満腹になると言われていました。15000個のパンを配らなければいけません。

私ならこのように協力をお願いします。1000人のスタッフの内、半分の500人はそれぞれ一人30個のパンをもって、ひとり3個ずつ、10人に配ってください。別の500人もそれぞれ一人10人に魚を配ってください。落としたり、転んでケガしないように注意してください。端っこグループに届けるのはかなり遠いです。近くに運ぶ人は自分の分が終わったら、遠くに運ぶ人を手伝ってあげてください。4000人に運び終わったらスタッフの方1000人もどうぞ一緒に食べてください。今、イエス様が歌って、祈って、裂いて、増やしていますから。おかわりは何回でも自由です。食べ終わって、余ったものは集めてこの籠にいれてください。最後の片付けもご協力をお願いします。そんな風に協力を求めたでしょうか。

始めてこのような想像をしましたが、ここはきっと5000人が食べただけではありませんでした。今なら私たちはそこに1000人スタッフが力を合わせて食事を運んだことを想像できます。手伝う1000人もスタッフとして協力することも楽しんだはずです。みんなで準備するからこそ、食事の楽しさ、にぎやかさがあったでしょう。この食事は大勢が大混乱の中で、にぎやかさの中で、満腹になる食事を楽しんだのです。

16節には「弟子たちに渡して群衆に配らせた」とあります。文法上、配ったのは群衆ではなく、弟子たちだったとあります。群衆が配ったわけではありません。群衆に向けて弟子が配ったと書いてあります。でも私は思います。配った人がイエス様の弟子だったかどうかあまり関係ないのではないでしょうか。5000人の食事にはとにかく1000人のスタッフが必要でした。1000人いれば誰が弟子で、誰が弟子ではないかは関係なかったはずです。弟子か、弟子ではないかを超えて、そこにいた15節「このすべての人のために」、全員が食べることができるように、1000人がこの食事を手伝ったのです。1000人すべてが弟子だったわけではないと思います。実は1000人の動機は1000とおりあって、みんなそれぞれ一生懸命働いたのです。そのような垣根のない協力が起きたのが5000人の食事だったのではないでしょうか。少なくとも12人の弟子が5000人の食事の準備をしたのではありません。そこには間違えなく弟子かどうかを超えた、大勢の協力がありました。与える側、もらう側と別れていたわけでもありません。みんなで準備して、みんなで食べて、みんなで片付けたのです。みんながみんなのために働いたのです。私たちは今、こひつじ食堂でそれと同じ光景を毎回見ています。

今の私たち教えることよりも、協力することを大事にしていると言えるでしょう。だとするなら私たちは教会よりも協会の方がふさわしいかもしれません。そして私たちはもっとみんなと力を合わせる場所になることはできないでしょうか。この食事の様に、イエス様の奇跡の周りで一緒に働く1000人になることが出来ないでしょうか?私たちの教会の事、そして私たちの生活のこともそうです。私たちは垣根を超えて、いろいろな人と協力することがもっとできるのではないでしょうか。それぞれに考えてみたいのです。

 

私たちはこれから主の晩餐を行います。主の晩餐にも、パンとブドウジュースの準備をしてくださった方や、配餐というお皿を持って回る奉仕者がいます。カップを洗ってくださる方がいます。感謝です。今は執事が多くを担っていますが、そうでなくてもいいと思います。私たちもこの1000人のようにみんなで担ってゆければよいと思っています。このあと主の晩餐を行います。この5000人の食事を思い出してパンと杯をいただきましょう。お祈りします。

 

 

 

 

【全文】「風まかせに生きる」使徒言行録2章1~14節

みなさん、おはようございます。今日も一緒に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

4月・5月と2か月にわたって信仰入門というテーマで宣教を続けてきました。今日が最後です。今日はペンテコステ礼拝という名前の礼拝です。ペンテコステとはどんな意味でしょうか。アメリカ国防省は五角形だからペンタゴン、音楽グループにペンタトニックスという5人組がいます。ペンタは5を表す言葉です。ペンテコステ礼拝とは3月のイースターから50日後に行われる礼拝なので、ペンテコステ礼拝と呼んでいます。イースターから50日後の礼拝という意味です。

イースター、復活の出来事から50日後にある事件が起きます。この事件は特に「聖霊」が重要な役割を果たします。聖霊とは何かということも問題です。聖霊は特に「風」から説明することができます。今日は聖霊について風から考え、私たちの生き方を考えたいと思います。

 

車で海沿いの道を走っていると、湘南の海ではいろいろなマリンスポーツをしている人が見えますが、ウィンドサーフィンをしている人もよく見かけます。帆に風を受けてぐんぐんと進んでいました。結構、沖の方まで出ているし、スピードもある様子です。風の力だけであんな沖まで行くのはすごいと思いながら、昔の人は船に帆を張って、風を受けて海を渡ったことを思い出しました。風の力で世界を巡ったのです。ロマンのある話です。

よくよく考えると、風は面白い存在だと思います。私たちは風そのものを目で見ることはできません。目で見えているのは、風ではなく、風で進んでいるウィンドサーフィンや、風によって揺られる木や草です。私たちは、風そのものを見ることはできませんが、風に動かされているものを見て、風が吹いていること、存在していることが分かります。さらに風は目を閉じても感じることができます。吹いていることを五感で感じることができます。風を肌で感じることができます。春はここちよいさわやかな風が吹きます。風は音で感じることもできます。おいしい食べ物の香りも風にのってやってきます。風は縦横無尽、自由自在に吹き巡ります。風の動きを正確に予測するのは現代の科学でも非常に難しいことです。風を捕まえることもできません。でも確かに風は存在し、私たちは毎日感じています。夜風にあたって来るという言葉もあります。これも不思議な言葉ですが、風にあたると気分が変わる、落ち着くという効果があります。風とは不思議な存在です。それは口では説明することができません。体験でしか伝えられないことです。このような言葉を体験的言語というのだそうです。

今日はキリスト教の聖霊についてご紹介しますが、この言葉は風という意味も持つ言葉です。風をヒントに聖書の聖霊をご紹介しようと思います。

 

 

 

聖書には聖霊という言葉がありますが、おそらくキリスト教用語で、最も難易度の高い言葉だと思います。なんだかよくわからないもの、うまく説明できないものです。聖霊という言葉は、もともとヘブライ語では「ルーアハ」という言葉です。ルーアハには聖霊以外にも、息や風と言う意味があります。ですから風について口で説明するのが難しいのと同じように、聖霊を口で説明するのも難しいのです。聖霊も風と同様に、体験的言語、体験しないとわからないものです。

風は人をどこかに運び、人の気分を変え、人に刺激を与える存在です。それは聖霊も同じです。聖霊は私たちをどこかに運び、私たちの気分を変え、刺激を与える存在です。聖霊を注がれる、聖霊を体験をするとは、私たちが神様から来た風に吹かれることです。私たちは自分の外側から風のように力が加えられ、刺激を受け、動かされること、あるいは立ち止まることがあります。それが聖霊を受けるということです。

船が帆に風を受けると、驚くような力が与えられ、世界中どこまでも行けます。それと同じ様に、私たちが聖霊を受けるとは私たちは大きく進むことができます。聖霊は私たちを新しい場所へと連れてゆきます。もちろん風は前に進ませるだけではありません。風はそよ風のように気持ちいいことがあります。聖霊も同じです。聖霊を受けると、沈んでたり、気分が暗かったりしたのに、気分が変えられるのです。それが聖霊の働きです。

聖書では聖霊の体験はみんなで集まっていた時に起ったとあります。1節、人びとは一つになって集っていました。きっと礼拝をしていたのでしょう。そこに、激しい風が吹きました。聖霊が下ったのです。

そうするとどうなったでしょうか。聖霊に満たされた人々には不思議な力が与えられます。習ったことの無い、いろいろな国の言語で自由に神様について語るようになったのです。彼らはこっそり勉強していたのではありません。ただ神様の風、聖霊に吹かれ、聖霊に満たされただけです。おそらく彼ら自身も何を語っているのか、よくわかっていなかったでしょう。彼らは霊の語らせるままに言葉を発しただけです。いろいろな言語が人々の間を飛び交いました。そして外国から来た人々は驚きました。初めて自分の言葉で神様のことを聞くことになったからです。

これは実は画期的な事件です。実はイエス様の時代まではその風・聖霊はユダヤ人にしか吹かない、聖霊はユダヤ人だけにしか、与えられないと信じられていました。外国人、他の宗教を信じる人、神を知らない人には聖霊の風は吹かないと考えられていたのです。しかしこの事件がきっかけに、その考えがひっくり返されることになります。これまではユダヤ人にだけしか神様の事はわからないと思われていたのが、全世界の人たちに告げられ始めたのです。神様の風は特定の民族、宗教、特定の地域にだけ吹くと思われていたのに、そうではないとはっきりしたのです。神様の風は、聖霊は、すべての人に与えられる、すべての人に吹くとはっきりしたのです。その事件以来、すべての人に聖霊は注ぐ、すべての人に神様からの風がふいていると信じられるようになりました。それが今日の個所です。

この風・聖霊は今日もすべての人に吹き、すべての人に注がれています。クリスチャンになると、このように神様の風を受ける、聖霊の力を受けるのではありません。神様の風は、聖霊は皆さんにすでに吹き抜けていて、すでに注がれているのです。あなたが信じようが、信じまいが、すべての人がこの風・聖霊をすでに受けているのです。

私たちは知らない言葉が口から出てくる、奇跡体験を期待しているわけでは決してありません。ほとんどの人もそのような奇跡を体験しません。私たちがこの聖霊から知りたいことは、私たちには神様からの風が吹くということです。私たちは自分の進みたい方向があります。きっと神様は私たちに風、聖霊を注ぎます。私たちは風を受けるようにそれに向けて進むことができるはずです。

そしてその風は私たちに思いがけない方向を指し示すことがあります。そして時には風の向きが違い、私たちが望む方向とは違う風が吹くこともあります。私たちはその風に方向転換を求められます。風は私たちの想いを超えて吹く時があるのです。私たちには苦しい時があります。神様はそのような時、私たちに憩いの風・聖霊を送ってくださるでしょう。私たちがその風を受けるとまた前に進むことができます。そのように神様が私たちに影響を与えてくれるのです。先ほどの証しも、そのように語られてはないでしょうか。風が私に吹き、聖霊が私に注がれて、私は新しく生きることができたという証しだったのではないでしょうか。

風まかせという言葉があります。無計画でその場その場のなりゆきまかせを表す言葉です。でもクリスチャンはある意味で、風まかせの生き方をする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊をしっかり感じて、風をしっかりととらえて、どちらに進むべきか考える人のことです。クリスチャンは神様の風がどこから来ているのか、神様の風は自分をどこに向かわせようとしているのかを五感で感じとろうとする人です。クリスチャンは神様からの風・聖霊に逆らわずに生きようとする人です。

私たちはこのような風を感じる生き方を生きたいのです。神様からの風をよく感じ、聖霊をよく感じ、聖霊にまかせる人生を送りたいのです。聖霊から受ける力で前に進んでゆきたいのです。聖霊から安らぎをいただきたいのです。

この風はすべての人にすでに与えられているものです。すでにすべての人が聖霊を受けています。それを感じて、それから力を受けて生きてゆく、それがクリスチャンの生き方です。みなさんにもぜひこの風、聖霊を感じて欲しい、それに吹かれる生き方をしてほしいと願っています。

信仰入門というテーマで2か月宣教しました。信仰とは超常現象を信じることではありません。信仰とは聖書から、私はどう生きるかを考えることです。どう生きるか考える私たちに、聖書がどのように答えているのかを見ることが信仰なのです。

私たちは新しい生き方を探します。聖霊から力を受けて進みます。みなさんはすでにその風に吹かれています。その風を感じて、神様から押し出されて1週間を過ごしましょう。みなさんと一緒に新しい生き方をしてゆきたいと願っています。一緒に、聖書から、神様から生き方を探してゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「パン作りから考える生き方」ルカ13章18~21節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

4月5月と信仰入門というテーマで宣教をしてきました。今回と次回で終わりになります。紹介できたのは聖書の本当に一部分だったと思います。聖書は全体で3万節くらいありますが、今日はその中の4節についてお話をします。私たちはこのように少しずつ聖書を読み、どう生きるべきかを考えています。今日はたった4節ですが、きっと私たちの生き方を指し示すものとなります。本当に一部分ですが、ご紹介できたらと思います。

今日はからし種のたとえと、パン作りのたとえの話をします。この個所は18節「神の国は何に似ているだろうか、何にたとえようか」というイエス様の疑問から始まっています。神の国についてイエス様が説明をしようとしているところです。

ちなみに、神の国とは死んだ後に行くあの世、天国とは全く違います。神の国は死後の世界ではありません。神の国とは、神様が求める、理想の世界のことです。神様の支配とも言い換えることが出来ます。神様の願っていることが、隅々に渡って実現してゆく場所、それが神の国です。それは私たちの生きている地上、世界全体で実現してゆくものです。世界が神様の理想通りになる日は果たしていつ来るのでしょうか。私たちにはわかりません。でもイエス様はそれはやがて必ず来る、実現すると言っています。もう始まっていると言っています。今日のこの話はその神の国、神様の求める世界がどのように実現されてゆくのかを話しています。私たちの世界はどのように変わってゆくのか、神の国がどのように実現してゆくのかをイエス様は説明しようとしています。

からし種という言葉がでてきます。からし種とは要はマスタードの粒です。ピリッと辛いあのマスタードの種です。後ろのテーブルに聖書植物図鑑が置いてありますので、クロガラシという植物がどんなものか後でご確認ください。からし種は他の植物よりも小さな種です。しかし小さいにも関わらず、この種は嫌われ者の一面があります。からし種は繁殖力が高く、一粒地面に落ちると、ものすごいスピードで広がってゆくのです。そのため農民の間では畑の近くには絶対に植えてはいけないと言われている植物でした。私たちからすると手ごわい雑草のようなイメージでしょうか。一度根付いてしまうと抜いても抜いても無くならない雑草です。

イエス様はこのからし種を神の国に似ていると言いました。神の国を、あまりみんなに好かれていない、嫌われている植物が、大きくなる様子に似ていると言います。そしてその枝でやがて鳥が休むようになる、そこが憩いの場所となる、そのように神の国は実現すると言っています。どんな意味でしょうか。

おそらく神の国、神様の求める世界は、ハウス栽培、温室育ち、純粋培養で育つのではないということでしょう。最初はみんなに嫌われているような場所から、踏みつけられてるような場所から、神様の理想は始まるということです。神の国は、やっかい者から始まります。神の国はここには来て欲しくないと思われる、異物のような存在として始まります。神の国は周りからは好かれない、異物と感じられていたものから始まるのです。でもそれが広がり、神の国が始まるとそこは憩いの場所となるのです。不思議な話です。

 

 

続くのはパン作りの話です。この話は聖書には珍しく女性が主人公のたとえ話です。女性が主人公のたとえ話が少ないのは、おそらく当時の女性の身分が低かったからです。女性は男性の所有物とされたからです。しかしイエス様は大切なたとえの主人公に女性をあてました。

たとえの女性は3サトンの粉からパンを作るとあります。聖書の後ろには単位の換算表がついています。3サトンとは実は34kgに相当する大量の粉です。この粉からできるのは約100人分のパンです。34kgの粉を混ぜるのは相当な重労働です。一人でこのような重労働をしていたのはおそらく貧しい女性か、奴隷や下働きの女性だったでしょう。主人公は大量のパンを作る女奴隷です。そしてこれは神様の役割でもあります。神の国の実現の担い手となる女奴隷の話です。まず女性は粉にパン種を混ぜます。パン種は現代の私たちが想像するイースト菌ではありません。パン種とは要は腐りかけのパンです。当時は残って腐りかけたパンを粉に混ぜてパンを発酵させたのです。これのおかげでふわふわのパンになります。

一方、聖書におけるパン種は、からし種と同様、あまりいいイメージでは使われないものでした。聖書でパン種は、不浄、悪、腐敗の象徴としてよく登場します。例えば「ファリサイ派の人々のパン種に気をつけなさい。それは偽善である」と使われます。不浄、悪、腐敗のイメージです。聖書にはさらに種無しパンというのも登場します。種無しパンは発酵させないのでクラッカーのような固いパンです。そして種無しパンはパン種と正反対に、聖なるものというイメージがあります。腐敗の象徴であるパン種が入っていないことから、聖なるパンというイメージがあります。しかしイエス様は神の国は聖なる種無しパンのようだとは言いませんでした。イエス様の教えた神の国とは不浄を象徴するパン種が大量の粉の中に混ぜられていくイメージだということです。一握りの汚れたように思えるもの、腐敗したように思えるものが、多くの聖なるものと言われる中に入って来る、それが神の国だと言ったのです。それは異物です。パン種はからし種同様、本来はそれと距離を置いて、影響を受けないように、汚されない様にしたいと思う対象です。しかし神の国では違います、神の国ではそれらは混ぜ合わされるのです。しかも混ぜるのは奴隷の女性です。

ここには神様の働き、神様がどのように神の国、神様の願う場所を作られるのかが書かれています。神様はこのように、汚れていると言われるものと、清いと言われているものを混ぜ合わせるお方です。そしてそのようにして、神の国、神様の理想の場所を作ろうとするお方です。神様はパン種と粉を混ぜて、こねて、発酵させ、おいしいパンを作るのです。

それが、イエス様が人々に教えた「神の国」でした。民衆はびっくりしたでしょう。神の国が私たちのイメージとは違うのです。私たちは、神の国とは汚れがなく、曇りなく、不純物が徹底的に取り除かれた先にあるのだと想像します。でもイエス様は違うと言います。神の国、神様が喜ぶ世界とは、雑草が茂るように好かれていない人やものが共に混ざり、やがて憩いの世界となるのです。神様が喜ぶ世界とは、腐敗したパン種と粉が混ぜ合わされて、おいしいふっくらとしたパンになるような世界なのです。民衆たちもこの話にはひっくり返されたように驚いたでしょう。

 

 

さて、この話から私たちの生き方と目指す世界、神の国の実現を考えてゆきたいと思います。私たち一人一人はどうやって生きるでしょうか。私たちの人生には異物と思えるものや異物と思える事柄に出会うことがあるものです。自分が一緒にいるのに心地悪い存在があるものです。

からし種とパン種を聖書の教えと置き換えてみましょう。もしかすると聖書の教え自体もそのような異物かもしれません。聖書の教えは自分とは相いれない価値観、聞いたことのない価値観、納得できない価値観かもしれません。私たちは聖書において、自分と全然違う考え、反対の考えに出会います。しかし聖書によれば、それから全体が変化し、神様の理想へと近づいてゆくのです。

イエス様は聖書の教えが自分と違うものがあなたを豊かにすると言っています。それは一度入り込んだら繁殖力がつよいのです。最初はちょっと意味がわからない、自分とは違う違和感があるものです。しかし、やがてそれに癒されることになります。聖書の言葉が私たちにとってきっとそうなるはずです。

神様は私たちの人生に様々な出会いを与えます。からし種とパン種をそれぞれの出会いと置き換えてみましょう。それぞれが生きる場所では自分と全然違う人との出会いがあります。私たちはそれに戸惑い、イライラしながら生きています。でも神様はきっと混ぜ合わせてくださるお方です。私とあの人をパン種と粉のように、どちらがパン種でどちらが粉だかはわかりませんが、神様はこの二つを混ぜ合わせ、パンとするお方です。そしてやがて、その混ざり合わされたものが、心地よく、柔らかく感じるようになる時が来るはずです。

私たちはどのように神様の理想とする世界を実現できるでしょうか。聖書によればそれは、相応しいと思われる者だけが選ばれ、選抜された世界ではありません。そのような選抜された、選び抜かれた人の世界は神様の理想ではありません。むしろ厄介者、汚れていると言われている者を通じて、自分とは相いれない価値観を通じて、聖書の言葉を通じて、神様の理想は実現されてゆくのです。

神様は私を、私と違う人や違う教えと出会わせ、そしてまぜこぜにします。そこに新しいことが生まれる、それが神様の理想です。私たちはそのようなまぜこぜの世界をめざしたいのです。全く違うお互いが混ぜられて、練られて、違う教えにもまれ、変わってゆけるような世界を目指したいのです。私たちの次の1週間、どのように自分と違う人と共に、聖書の教えと共に生きてゆくことができるでしょうか。それぞれの場所で神の国が実現するように願います。お祈りします。

 

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【全文】「誰も置き去りにしない」ルカ15章1~7節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に、声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は信仰入門というテーマで宣教をしています。初めて聖書の話を聞くという方、まだ教会に来て間もないという方にもわかりやすくお話をできればと思っています。

今日は100匹の羊と羊飼いの話をします。これもキリスト教の中ではとても有名な話です。初めての方に向けてお話をしますが、この話もイエス様から、聖書を長く勉強した学者たちに向けて話をしている物語です。聖書が初めての人も、間もない人も、長く親しんでいる人も、一緒にこの個所から生き方を見つけてゆきましょう。

SDGsという言葉をみなさんもテレビでもよく聞くと思います。国連の「持続可能な開発目標(SDGsSustainable Development Goals)」のことです。それは国連によって定められた「誰も置き去りにしない社会」を作る目標です。SDGsは世界の課題を解決させるための目標です。しかし日本ではどうも「私たちの企業はこれに貢献している」といった企業のイメージアップにばかり利用されています。SDGsのバッジを付けて歩いている人をよく見かけます。日本のSDGsは世界への関心や世界規模の課題の解決には目が向けられず、企業の広告宣伝のひとつの様になってしまっています。

SDGsの本当の目標は、世界の中で開発から取り残されてしまっている人を助けることです。SDGsは大きな開発をするのではなく、それぞれの国や地域で、自分たちで維持・発展し続けてゆくことができる社会や農業を作っていくことに重点が置かれています。

例えば女性の社会進出なども目標の一つです。女性が置き去りにされる社会、女性が活躍できない社会は持続的な発展してゆくことができません。開発を支援するのではなく、女性を支援してゆくことが大事です。他にも農業では大規模な農場を開発するのではなく、家族で営まれている農業を支援しようとしています。そちらの方が、長く続くからです。

このようにして今、とにかく大きな開発をするということよりも、小さくても持続可能な開発をたくさんすることが重点にされています。そのようにして世界はSDGs「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。

「誰も置き去りにしない社会」と聞いて、私は2000年前に語られた今日の聖書の話を思い出します。これは置き去りにされた1匹の羊をめぐる物語です。聖書は2000年前からSDGs、誰も置き去りにされない社会を訴えていました。しかし、そのような社会はこれまで実現できずにいました。世界は今もう一度「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。今日は聖書から誰も置き去りにしない社会、誰も置き去りにしない一人一人の生き方を見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

今日はルカによる福音書15章1~7節をお読みいただきました。まずこの話がどのような場面で語られたのかを見ましょう。2節でイエス様は「罪人を迎えて食事まで一緒にしている」と言われています。イエス様の時代、イスラエルでは誰と食事をするかということは大変重要なことでした。外国人や宗教の違う人とは絶対に食事をしなかったのです。

罪人とは犯罪を犯した人だけを指す言葉ではありません。嫌われ者くらいまで含む意味の言葉です。例えば徴税人という税金を取る仕事をしている人が嫌われて、罪人と呼ばれていました。当時は罪人、嫌われ者とも絶対に一緒に食事をしてはいけなかったのです。そのような大きな差別がある時代の中でイエス様は、分け隔ての無い食事をしました。それが人々に支持されたのです。

社会からのけ者にされて、嫌われて、排除され、寂しい思いをしていた人を受け止めてゆくのがイエス様の活動でした。社会で排除され、取り残されている人を受け止め、共に食事をしてゆくのがイエス様の主な活動だったのです。そのような場所でイエス様はこんなたとえ話を始めました。ある時、羊飼いと100匹の羊がいました。しかし羊飼いは羊を1匹見失ってしまいました。これでは羊飼い失格です。羊飼いの仕事は放牧した羊たちを導き、安全に草を食べさせる、そして1匹も置き去りにせず、家まで帰すことです。しかしこの羊飼いは1匹の羊を見失ってしまいました。羊飼いが見失ったとあるので、この事件は羊飼いの責任です。

しかし羊飼いは間違えを犯してもやはり100匹の羊飼いです。99匹の羊飼いでも、多数派の羊飼いでもありません。不注意で1匹を置き去りにしてしまいましたが、1匹くらいいなくなってしまってもしょうがない、多少の脱落者は織り込み済み、ついてこれる羊だけ世話をすればよいとは考えませんでした。

そして今度は羊飼いは99匹の羊を野原に置き去りにして1匹を探しにいきます。それでよいのでしょうか?それでは今度は99匹が危険です。99匹を危険にさらして1匹を探し出すのは非合理的です。99匹の危険と1匹の迷子を天秤にかければ、99匹の安全が優先されるべきです。99匹から「たった1匹のために自分たちに危険が及ぶのはおかしい」とクレームがくるかもしれません。

しかし、羊飼いは1匹を探しに出かけます。見失ってしまった1匹、置き去りにされてしまった1匹が見つかるまで探すのです。羊飼いは1匹でも、置き去りにしないのです。そして羊飼いはその置き去りにされてしまった1匹を見つけると大喜びします。もし私だったら羊を見つけて喜ぶでしょうか。真っ先に、どこに行っていたのか、なぜ周りと同じ行動をとらなかったのかと問い詰め、怒ってしまうかもしれません。しかしこの羊飼いは怒りません。羊飼いは羊を抱きかかえ、もう一度群れに連れ戻すのです。そしてみんなに一緒に喜んで欲しいと伝えます。99匹は複雑な感情を持ったでしょう。この1匹のせいで、全体に迷惑がかかったのです。しかし、羊飼いはい1匹が置き去りにされなかったこと、また私たちの群れに戻ってきたことを、一緒に喜んで欲しいと伝えます。そしてまたこの話にも結末がありません。羊たちは喜ぶことが出来たのでしょうか?

この物語から私たちの社会、私たちの生き方について考えます。どのようなことが考えられるでしょうか。私たちはこのような羊飼い、このような群れになれているでしょうか。私たちの社会は合理的に考え、1匹を置き去りにしてしまう社会です。多数を優先し、少数者・マイノリティーを置き去りにしてしまう社会です。私たちはこの物語を通じて神様から注意を促されています。それは誰かが置き去りにされていないか考えなさいという注意です。

社会には様々な場面で置き去りが発生します。外国人の権利、沖縄の基地問題、こども、高齢者、障がい者・・・。あるいは家庭の中でも誰かを置き去りにしてしまうことも起こるでしょう。そこにもう一度注意をむけるように促しています。

この物語は古くから、失われた1匹に自分を重ね、羊飼いを神様に重ね、人生に迷う私のことを神様は探し、救い出してくださるという物語として読まれてきました。それも大切な読み方です。しかしその読み方だけでは、いま本当に社会や家庭の中で置き去りにされてしまっている人に目が向かないのです。神様が私だけを見ている神様になってしまいます。この物語の誰に自分を重ねるかが大事です。この失われた1匹に自分を重ねるのもよいのですが、違う視点も持ちたいのです。

この羊飼いと私たちを重ねます。私たちはいつも、大事な大事な1匹を見失ってしまう存在です。99匹に気を取られるのはしょうがないことかもしれません。でも羊飼いの仕事は1匹も置き去りにしないことです。そして99匹を説得することです。私たちもそのことに注意して、一人も取り残さない社会を目指してゆきましょう。

私たちは、ついて来れなかった羊を注意力がない、努力が足りないと責めるために探すのではありません。私たちは一緒にいることを喜ぶために探すのです。私たちはそのような世界を創ってゆきましょう。99匹と共に1匹を追い求める生き方、誰も置き去りにしない生き方を探してゆきましょう。

私たち自身を99匹の羊と重ねる読み方も大事でしょう。私たちはいつも自分を多数派だと思う存在です。そしてやはり私たちの中にいる少数者を見逃してしまう存在です。置き去りにしてしまうのです。99匹である自分が普通で、自分が優先されて当然だと思ってしまう存在です。この話からその考えも変えられてゆきましょう。

私たちは1匹のために多少の危険や遅れを引き受けてゆきましょう。遅れてしまう、ついて来れない1匹に気を配って、声をかけながら100匹でい続けることができるようにしてゆきましょう。私たちは信仰入門というテーマで聖書を見ています。教会に最近になって加わった人を大切にしてゆきましょう。

私たちの生き方を今日の個所から考えます。私たちは誰一人置き去りにしない社会、世界、家族、教会を願い求めてゆきましょう。羊飼いのように1匹を見失わないようにしましょう。もし見失ってしまってもその1匹を一生懸命に探す者でいましょう。そして99匹のように、1匹のために足を止め、待ち、共に100匹となってゆきましょう。

 

誰一人仲間外れにならない社会を求めてゆきましょう。私たちがいる、それぞれの場所で、そのような人がいないか、私たちはよく見つめて1週間の生活をしましょう。それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。お祈りします。

【全文】「パンを食べる儀式の紹介」ルカ22章14~23節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。4月・5月と信仰入門というテーマで宣教をしています。教会に初めて来た方、来て間もない方に向けてキリスト教について紹介をしたいと思っています。また、長く教会に来ているという方には、ぜひ初心に戻る機会になるようにと願っています。私たちは聖書について知っているつもり、理解しているつもりでいても、実はあいまいな部分も多いものです。一緒に考えてゆきましょう。

今日は、キリスト教がとても大事にしている「主(しゅ)の晩餐(ばんさん)」という儀式についてご紹介をします。他の教会では「聖餐(せいさん)」とも呼ばれる儀式です。この儀式はこの後、礼拝の中で行われます。小さく切り分けられたパンを食べて、小さいグラスに入ったぶどうジュースを飲むという何とも不思議な儀式です。説明なしにはじまると怖いですね。

私たちの教会ではこの儀式を毎月第一日曜日に行っています。そしてこの教会では洗礼・バプテスマを受けたクリスチャンの方のみ、これを食べ、飲むということにしています。洗礼・バプテスマを受けていない人はどんなことをしているのか見守っていてください。洗礼・バプテスマを受けていない方は、食べたことがないと思いますので、これが一体何かということをご紹介します。

食べているのは普通に市販されている食パンと、ブドウジュースです。誰かの血ではありません。担当の方が朝少し早く来て、食パンを小さく切り分けて、お皿に並べてくださいます。またブドウジュースをこぼれないように、小さなグラスに分けて下さっています。私たちの教会では市販されている食パンを使っていますが、教会によって食パンではなくクラッカーのようなものだったり、ブドウジュースではなく、ワインを使っていたりします。またパンをその場で切り分けたりする教会、毎月1回ではなく毎週やるという教会、クリスチャンに限らず誰でも食べてよいという教会もあります。教会によっていろいろな意味づけがあって、作法が違っています。

このパンを食べるとどうなるのでしょうか。のどが熱くなり、特別な力が湧いて、奇跡的な力が宿る、魔力がつくということはありません。これを食べると、汚れが取り払われて聖なる者になるのでもありません。何かのご褒美であったり、偉い人が食べるわけでもありません。

なぜこのような儀式を行うのかを説明します。簡単に言うと、このパンとブドウジュースは、聖書の話を思い出すために行っています。教会風に言うと、イエス様を記念するため、つまり思い出すために食べて飲んでいます。記念するとは何でしょうか。それぞれに皆さんには記念日があると思います。週報にも教会の方の洗礼・バプテスマを受けた記念日と、誕生日が記載されています。記念日は生まれた日や新しい人生を歩み出した時のことを思い出す日です。出会った記念日、交際を始めた記念日、結婚記念日、命日、祝日も記念日の一つでしょう。あの時はこんな気持ちだった、あの時はうれしかった、今思うと〇〇だった、そんなことを思い出す日です。記念日とは、その日の出来事を思い出し、これまでの人生に感謝する日です。それが記念するということです。

今日のパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式も同じように「記念」として行われます。目的はイエス様との食事、イエス様との時間を思い出すことです。そしてそこから今までの人生を振り返り、感謝することです。私たちは直接はイエス様と会ったわけではありませんが、聖書の物語の中に自分たちを置き、イエス様の行動を思い出すために、この儀式を繰り返しています。そのようにして、主の晩餐は2000年間続いています。

なぜ、食べる事と飲むことによって、記念することになったのでしょうか?他の方法で記念するということもできたはずです。なぜ食べる事と飲むことによって記念することになったのか、それはイエス様が聖書の中で何度も食事をしたからです。イエス様はいろいろな人と食事をしました。イエス様は絶対一緒に食事をしてはいけないと差別された人と一緒に食事をしました。分け隔てのない、食事をすることが多くの人の共感を呼んだのです。聖書には食事の場面がたくさんあります。5000人の食事、差別されていた人との食事、宗教指導者との食事、弟子たちとの食事、楽しいお祝いのような食事、緊張が走る食事、利害関係の中にある食事、お別れ会のような食事など様々です。私たちはイエス様がこのように様々な食事をしたことを思い出すために、パンを食べ、ブドウジュースを飲んでいます。真剣にこの儀式をやっています。聖書には様々な食事があり、それらを思い出すために主の晩餐という儀式があります。今日は様々な食事の中でも「最後の晩餐」と呼ばれる箇所をご紹介します。

 

今日の聖書はルカによる福音書22章14~23節です。イエス様の活動、一緒に食事をする活動、そして互いを愛し合いなさいという教えは多くの人を巻き込み始めていました。ブームが起き始めていたのです。しかしそれを気に入らない勢力もいました。愛し合って生きるということを邪魔しようとした人がいたのです。そして最後にはイエス様はその人たちによって、十字架に架けられ殺されてしまいます。その時、弟子たちはイエス様を守るどころか、見捨てて、逃げ出してしまったのです。

十字架に架けられる前、おそらくイエス様はこのまま愛の教えを続けたら、殺されてしまうだろうと考えました。そして弟子たちはきっと逃げてしまうだろうとわかっていました。だからイエス様は弟子たちと最後の食事をすることにしました。今日の場面を最後の晩餐と言います。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐という絵画はこの風景を想像して書かれた絵です。

この食事には偉い人、特別な人がいたわけではありません。この食事は反省や悔い改め、自分の悪いところを点検する目的があったわけではありません。弟子たちはただ集められて、あなたたちはこの後裏切ってしまうだろうと言われています。イエス様はこういったのです。この後、君たちは私を裏切ってしまう、私の教えを忘れてしまう。だけど、私と一緒に食べたこと、一緒に過ごしたこと、教えられた愛を忘れないようにしなさい。パンとワインの儀式を繰り返して、私と一緒にいたことを記念し、思い出しなさいと言ったのです。そしてこの後イエス様は十字架にかかります。私たちはこのパンとブドウジュースを飲むことによって、イエス様がした事、教えた事、十字架にかかったことを記念し、思い出しています。

この食事の時にイエス様が言った言葉が19節・20節にあります。この言葉は主の晩餐の儀式の中でも読み上げられます。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

イエス様は食事の時、パンをとってこれは私の体だと言いました。その意味はこのパンはイエス様との食事を象徴するものであるとともに、イエス様の体、そのものを象徴するものでもあるということです。イエスはパンをちぎりながら、私もこのパンのようにひきさかれるだろうと言ったのです。これは私の血だとも言っています。ブドウジュースは十字架で流されるイエス様の血も象徴しているのです。私たちの儀式には思い出すことに加えて、十字架のイエス様を食べるという意味もります。

18節には「神の国が来るまでは、二度と飲まない」とあります。神の国とは死後の世界のことではありません。神の国とは神様が喜ぶ世界のことです。この地上が神様の喜ぶ、平和な世界になることが神の国が来るということです。18節の強調点は「もう飲まない」ではなく、神の国が来るとき「また飲む」という点です。イエス様はこれから悲しいことが起きるが、神の国、神様が喜ぶ世界になる時が必ず来る、その時はまたこうやって一緒にお祝いしようと言っています。要は、いつか一緒にまたこうやってご飯を一緒に食べようねという、イエス様の約束です。これは未来に向けての希望でもあります。またいつか、一緒に食事ができる日が来る、その約束を待って、神の国を願って、私たちはこの儀式をするのです。

最後に23節を見ましょう。残念ながら、弟子たちはイエス様の伝えようとしたことを理解していなかったようです。パンを食べ思い出すこと、記念すること、神の国・平和な世界を願う事は弟子たちには伝わりませんでした。弟子たちは、誰が裏切るのか、誰が悪い奴か、誰が不適格かを議論しだしてしまったのです。これでは思い出す儀式、主の晩餐にならなかったはずです。これは悪いお手本です。

まとめます。この後、私たちは主の晩餐を行います。このパンとブドウジュースはイエス様の愛の教え、生き方、十字架を象徴するものです。私たちはそれを思い出すために、記念するために、この儀式を持ちます。そして私たちは神の国を願ってこの儀式をします。神の国、神様が求める愛と平和にあふれる世界が来ること、その時をイエス様とまた一緒に祝うことが出来るような時が来ることを願って、私たちはこの儀式を行います。私たちはパンを食べブドウジュースを飲むことによって、イエス様の生き方を思い出し、その生き方を自分の生き方とし、神の国を求めてこの主の晩餐を繰り返します。賛美の後、主の晩餐を行いましょう。お祈りします。

 

【全文】「失われた関係のたとえ」ルカ15章11~32節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら共に礼拝をしましょう。

今月・来月と信仰入門というテーマで宣教をしています。特に初めて教会に来た方、来て間もない方にキリスト教のことをご紹介したいと思っていますし、以前から教会に通っているという方も新鮮に聖書を読むきっかけになればと思っています。今日はルカ15章11節からの放蕩息子(ほうとうむすこ)と呼ばれる、クリスチャンの間では超有名なお話をご紹介します。今日はここから神様の無条件の愛について、そして私たちはどう生き、どう他者との関係を作るのかを考えてゆきたいと思います。

今日の登場人物は父、弟、兄、そして宴会に出る村人たちです。伝統的には神様が父として置き換えられ、神様から離れて自分勝手に生きる私たちは弟として置き換える解釈がされています。私たちは神様から離れて遊び暮らすのだけれども、やっぱり人生で大変なことがあると、神様のもとに戻ってくるのだという話としてクリスチャンは大切にしています。教会では多くの場合、聖書の登場人物に自分たち重ねて聖書を読みます。今日もそのように読みたいと思います。そして今日は家族全体の物語としてもこの話を捉えてみたいと思います。

ある日、弟は自分のためだけに生きたい、自分だけが楽しければよい、今だけが良ければ良いと考え、まだ生きている父から土地の相続を受け、それをすぐに売ってお金に換えてしまいました。当時の社会で土地を売るのは一大事です。土地は何百年も前から先祖代々受け継がれてきたものです。そしてそこで作物を育てる食糧源でもあります。それを他人に売るのはとても大きな決断でした。しかし彼はそれをあまりにも軽々と行います。そして彼は村から出ていきます。

村とは生活共同体です。当時は村の人々の協力なしには生きることはできませんでした。村にはしがらみがあります。面倒な関係です。特に若い人は嫌がります。でも収穫や結婚、出産や葬儀など生きてゆくために助け合う関係は、どうしても必要な関係でした。うまく助け合い村八分にされないようにしなければいけません。しかし弟は土地を売り払い、村から都会へと出てゆきました。村の人は怒ったでしょう。「この薄情者が。あと足で田舎の町に砂ばかよって、出て行くなら二度とここば住めんからな」そう言ったでしょうか。彼が捨てたのは土地による先祖との関係、父との関係、兄や家族との関係、そして村人との関係です。

13節、彼はすべての関係を捨てて、遠い国に出て行ったのです。そして彼は行った先で持っているものを全部遣いはたしました。放蕩して使い果たしたとあります。要は無駄遣い、浪費をしたということです。自分の楽しみのためだけ、自分だけのため、その一時のために使ってしまったのです。そんな時、飢饉が起きます。彼はお金を使い果たし困窮します。そして彼は行った先でも新しい助け合いの関係を作ることができませんでした。16節、食べ物をくれる人はだれもいませんでした。村人や家族のような、助け合う仲間は作れなかったのです。彼は動物のえさを食べるほど困窮しました。これは経済的困窮であり、関係性の困窮でもあります。お金も、助けてくれる人も、どちらも無くなってしまったのです。

そこで、弟である彼はもう一度、村に戻りたいと思いました。もちろん彼はもう自分には父のもとにも、家族にも、村にも居場所がないことを知っています。すべての関係を絶ち切って来たからです。だから家族の一員としてではなく、19節せめて「雇い人」として帰ろうと思ったのです。聖書によればこのような状況でしたが、父は弟を大歓迎して迎えてくれました。

20節からの父のことを見たいと思います。父は伝統的には神様に重ねて読まれています。父は関係を絶ち切り、散財し、ボロボロになって戻ってきた弟を寛大な態度で迎えました。父はまだ見えないうちから弟を見つけ、走り寄り、着替えさせ、宴会を開きます。これが父の態度であり、神様の態度です。ここでは神様がどのように人間を受け止めてくれるのか、そして絶たれた関係をどのように回復してゆくかが表されています。

まずここで、神様は神様の方から走り寄ります。私たちが神様に走り寄るのではありません。神様が走り寄ってくださるのです。神様は正しい人、善い人にだけ走り寄るのではありません。神様は関係を絶ち切って失敗し、ボロボロになった者に走り寄るお方です。まだ私たちからは神様が見えないかもしれません。しかし、神様の側から見つけ出し、走り寄って来て下さいます。神様はただ神様の方から、私たちを見つけ、走り寄り、抱きしめて下さるのです。それが神様の無条件の愛です。

神様から走り寄るのに、失敗か成功か、信じるか信じないか、悔い改めるか悔い改めないかは関係ありません。神様はどんな人にも、神様の方から走り寄ってくださいます。それが聖書の無償の愛です。その愛に励まされて、力をもらって、私たちは人生をやり直すことが出来るのです。

物語に戻りましょう。父はすぐに宴会を始めるように指示をします。この物語は村人も重要な登場人物です。宴会をするのは村の人々にも、この弟を受け入れてもらうための大切なプロセスです。弟は村の人々との関係を切り捨て捨てて出て行きました。この村で生きるには、もう一度、村の人々に受け入れてもらわなければいけません。父は村の人々にも弟が受け入れてもらえるように、みんなにごちそうをしたのです。村の人はその宴会に来てくれました。みんな村を捨てた弟をもう一度受け入れてくれたのです。一安心です。弟は父の取り計らいによって、元の関係を回復し、共同体に戻ることが出来たのです。

しかし次に兄が登場します。私は放蕩息子ですというクリスチャンは多くいるのですが、私は放蕩息子の兄ですと、自分を重ねるクリスチャンは少ないです。しかし兄こそ私たちです。兄は弟の帰りを喜びませんでした。兄は父が、弟を受け入れてくれるようにという思いで設定した宴会から父を呼び出します。そして父と大喧嘩をするのです。兄は父の愛と配慮の宴会を台無しにしようとしたのです。村人がせっかく受け入れ、関係を作り直そうとしている横で、もう一度その関係を壊してやろうと思ったのです。関係を断ち切ろうとする、実はそれは弟も兄もやっていることが同じです。

今度は兄が弟と人々との関係を切ろうとしています。父との関係、村人との関係、すべて切ろうとしているのです。でも父は何とか兄弟たちと村人をつなぎ合わせようとしています。私たちの心の中には兄の側面もあるでしょう。家族や仲間が、元の共同体、仲間に戻ってくることを喜べないのです。もう、あなたは私の仲間ではなくなった、関係なくなった。あなたはまじめに関係を作ってこなかった。だからもうあなたは帰ってこなくていい。そう考えてしまうのです。

私たちは父である、神様のような、寛大で、無条件の愛を持って生きたいと願います。私たちの人生には関係が切れてしまう、自分から切ってしまう、誰から切られてしまうことがあります。でも関係をどのように回復し、持ち続けるかを模索しながら、生きてゆきたいと思います。そこに父である神様からの助けと導きがあり、関係が回復できるように祈ります。神様が必ずこの父のように取り計らってくださる、だから私たちも父のように関係の回復をあきらめない生き方をしてゆきたいと願います。ちなみに物語の結末は描かれていません。関係は回復できたのでしょうか。それともやはり関係は戻らなかったのでしょうか。

 一人一人に自分を重ねる解釈を見てきましたが。最後にもう一つ今日は、あまり一般的ではないですが、この物語を家族全体の物語として解釈してみましょう。この物語は家族崩壊の物語です。おそらくこの家族はずっと以前からその関係に問題を抱えていました。この物語で弟はそもそもなぜ家と村を出たかったのでしょうか。なぜこの物語に母や女性が登場しないのでしょうか。女性たちが家族に無関心だったのでしょうか。それとも抑えつけられ、間に割って入ることが怖かったでしょうか。家族が崩壊しているように見えます。家族との関係にどのように向き合うかというのもここから示されているテーマだと思います。

さてこの物語から私たちは何を学ぶでしょうか。信仰を大切にしようと読むことができるでしょう。父である神様から離れるとは、すなわち自分だけよければよいという生き方をすることです。もし自分だけが良ければいい、そう思って生きているのなら、必ず行き詰るはずです。

神様はそのような生き方をする私たちを、見つけ出し、走り寄り、抱きしめ、再び仲間との愛と助け合いの関係の中に戻してくださいます。神様は私たちの関係を回復してくださるお方です。私たちも兄の様にではなく、父のように、人々との関係づくりを大切にする、そんな人生を歩みましょう。

そして私たちには家族や親族がいます。問題がない家族や関係はありません。私たちもその関係の中に生きる一人です。私たちは不完全な関係や家族の中でどのように生きたら良いのでしょうか。私たちは今ある関係を大切にしましょう。よりよい関係になってゆきましょう。その力を神様からいただきましょう。神様が私たちを向き合わせ、つなぎ合わせ、よりよい関係を創り出す力を与えて下さるはずです。お祈りします。

【全文】「よきサマリヤ人のたとえ」ルカ10章25~37節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声と足音を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。今月と来月は信仰入門というテーマで、初めて教会に来た方にキリスト教の信仰を紹介できるような、そんな宣教をできたらと思っています。今日は大変有名で、とても印象に残りやすい話です。よきサマリヤ人のたとえからお話をします。

この話を新しく礼拝に加わってくださる方に向けてお話ししたいと思いますが、この話は本来、宗教指導者とイエス様との会話です。ですから長く信仰を持った人とイエス様の会話です。長く信仰を持ち、一生懸命に聖書を勉強しているという者こそ大切に聞かなければいけない箇所とも言えるでしょう。長い人も最近の人も、今日の個所一緒に読んでゆきましょう。

ある時、聖書を専門に勉強をする「律法の専門家」がいました。彼は一生懸命に聖書を勉強して、聖書が「神様と人を愛しなさい」と言っていることをよく知っていました。でも本当に神様と人を愛する、大切にする生き方ができていたのかはわかりません。残念ながら学んだことは、イエス様を試すために利用されました。律法の専門家は、自分はあいつより優れていると証明するために、質問をしました。学んだ事を、相手を論破する自己満足のために使うのはとても空しいことです。

律法の専門家はイエス様との会話の最後に「私の隣人とは誰ですか」と質問をしました。これは「私たちが愛するべき人は誰か」と尋ねたのです。イエス様はそのような質問にたとえ話で答えます。30節からがたとえ話です。

ある人が、エルサレムからエリコという町に向かっていました。おそらくエルサレムに行って礼拝をした帰り道でしょう。当時のエルサレムからエリコの道は治安が悪くて有名な道でした。曲がりくねった道で、急な坂道や岩や洞窟があります。隠れて、強盗するにはうってつけの道だったのです。イエス様の話を聞いていた人もそれを知っていたでしょう。エルサレムからエリコに下る道と聞いて、あの危ない道か、私もヒヤッとしたことがある、あそこを一人で通るなんて危ない、そう思ってこの話を聞いたでしょう。

彼はそこで追いはぎにあい、殴られ、半殺しにされてしまいます。意識不明の重体です。そこに宗教指導者である祭司が通ります。この祭司もまたエルサレムからエリコに下っている最中です。おそらくこの祭司も礼拝の帰り道でしょう。そこで祭司は、裸で意識不明、生死不明の人を一人で見つけてしまったのです。面倒なことに遭遇してしまったのです。

祭司は無視することにしました。31節には祭司は向こう側を通ったとありますが、この道は細く、狭い道です。見て見ないふりでは済みません。まるで倒れている彼をまたぐかのように、無視して通り過ぎたのです。なぜ祭司はそのようなことをしたのでしょうか。いろいろな理由が言われています。死体に触れると汚れるという律法・戒律があったとも言われます。しかし、祭司にはケガ人を助けなければいけないという律法・戒律もありました。おそらく祭司がけが人を無視して家に帰ることを正当化できる理由は何一つ無かったでしょう。祭司は誰かがこの死体を片付けるだろう、こんなところでトラブルに巻き込まれたくない、助けているうちに今度は自分が強盗に合うかもしれない。そんな理由でこの人を見捨てました。次に通ったレビ人も同じです。レビ人とは礼拝の奉仕を担当する人です。レビ人は礼拝奉仕を終えて家に帰る途中でした。彼もまたケガ人に気づいても、無視し、彼をまたいで、通りすぎました。さてその次にみなさんが通ったらどうするでしょうか。

次に通ったのはみなさんではなく、あるサマリヤ人でした。サマリヤ人とはユダヤ人、特に祭司や、レビ人から激しく差別されていた人たちのことです。もともとは同じ宗教・同じ民族だったのですが、分断されてゆく過程で、サマリヤ人は宗教的に間違った人々、汚れた民族、混血民族、会話してはいけない、ましてや絶対に一緒に食事してはいけないと言われていました。「サマリヤ」という言葉を口にすることさえ嫌われるほど、差別をされていました。ケガ人は祭司とレビ人に無視されてしまいます。次にそこを通りがかったのはサマリヤ人でした。聴衆は「まさか」と思ったでしょう。この話はあの汚れたサマリヤ人が助ける話なのかとざわついたはずです。当時はサマリヤ人に助けられるくらいなら死んだ方がましと思った人もいたほどです。

しかしたとえ話はこのサマリヤ人がケガ人を助けます。33節サマリヤ人である彼はケガをしている人を見て憐れに思ったとあります。聖書では憐れに思ったという言葉はとても大事な言葉です。イエス様がよくこの感情を持ちました。この言葉は内臓に由来する言葉で、強い共感を表す言葉です。ある翻訳では「はらわたがちぎれる思い」と訳しています。サマリヤ人はケガ人に強い共感を持ったのです。そのケガの痛々しさを見て、裸にされた人を見て、自分のことのように、自分が痛いと思えるほどに、そのケガに共感をしたのです。普段は差別され、見下され、汚れていると言われたサマリヤ人だけが、他者の痛みに共感することが出来たのです。普段からそのような差別を受けていたから、その痛みに共感できたとも言えるでしょうか。

彼は油とぶどう酒と包帯を持ち、ロバを連れていたとあります。人の宿代も出すお金も持っています。おそらくある程度の経済力のある人です。しかしもしそうなら強盗には格好の餌食です。それは強盗の罠かもしれません。そこに立ち止まることは、祭司よりもレビ人よりも他の通行人よりも、かなり危険な行為です。彼は強盗から最も狙われやすい状況でした。しかし彼は危険を冒します。裸で意識不明で、身元不明の人に関わろうとします。彼はこの人をロバに乗せ、おそらく自分はロバを引いて歩きました。彼は宿代まで出し、一泊を共にし、その後もう一度ここに戻って来て、世話をすると言うのです。

聖書を勉強し、礼拝に出席し、いい事を話し、礼拝の奉仕をしていたあの人々は通りすぎてゆきました。しかし差別され、最も嫌われ、強盗に狙われやすい人だけがケガ人を助けたのです。

イエス様はこのたとえ話をした後、誰が彼の隣人となったかと聞きました。誰がケガ人を最も愛したのかと聞いたのです。そしてそれは誰が最も神様に従って生きたのかという質問でもあるでしょう。律法の専門家は「もちろん助けた人だ」と答えます。サマリヤ人ですとは答えませんでした。サマリヤという言葉を口に出すのも嫌だったのでしょう。ケガ人に具体的な助けをした人が、隣人となったのです。困っている人を助けることが、愛することだ、そうイエス様は語ったのです。イエス様は最後に37節「行って、あなたも同じ様に行いなさい」と言います。困っている人を見過ごさず、助ける人となりなさい、それが愛ですと言ったのです。

私たちに求められることは何でしょうか。この話はたくさん聖書の勉強をした人への話です。「行って、同じように行いなさい」という言葉が私の胸に響きます。聖書は学んだ者に、愛の実践を促しているのです。私たちに他者を愛し、助ける、生き方を示しています。学ぶだけ、聞くだけで終わってしまってはいけません。私たちはサマリヤ人と同じ様に愛の業をおこなってゆきましょう。困っている人を見過ごさずに、関わる人になりましょう。

そしてこの話は差別の問題にも特別に触れています。私たちの社会の中にある差別がいかに不必要なものか気づくように促しています。私たちの社会の中にはまだ根強い差別、宗教や人種や国籍や性別による差別があります。それがいかに不必要であるかもこのたとえ話は示しているでしょう。

そしてこの話は、私たち自身をケガ人と置き換えることも可能です。私たちは意外な人に助けられるだろうということです。私たちは自分と関わりがないと思っていた人から助けられるだろう。実は助けられているだろうということです。自分が嫌いだと思っている人から、善意を受けるだろう、愛されている、大切にされているだろうと語られています。

この物語から、私たちはたくさんのことを考えることができるでしょう。私たちはきっと通りすぎてしまっている者です。私たちにはもっと愛すべき人がいるはずです。私たちが隣人となるべき人がいるはずです。その人はもしかして厄介者かもしれないし、関わるとトラブルになる人かもしれないし、いっしょにいると居心地の悪い人かもしれません。助けるのにお金がかかるかもしれません。そして私たちはきっと誰かに助けられている者です。私たちはきっと私たちが差別している人々から助けられているはずです。

聖書を学んだ私たちは誰かに、はらわたから共感し、愛の行動することができるでしょうか。差別や自己保身を捨てて、他者に関わることができるでしょうか。聖書を聞き、学ぶだけではなく、愛の行いをすることができるでしょうか。それが私たちがイエス様から頂いた問いかけでしょう。私たちは誰を愛するのでしょうか?

信仰入門というテーマで考えています。信仰とは生き方です。この細く、険しい道が人生でしょうか。私たちの人生には災難があり、裏切りがあり、無関心があり、差別があり、出会いがあります。私たちはその道をどのように歩むのでしょうか。礼拝を終えた後の道をどのように生きるのでしょうか。具体的な愛を持ってその道を歩みたいと思います。お祈りします。

 

 

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【全文】「幸いを宣言する神」 ルカ6章20~23節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に、こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝しましょう。

今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。1回目、キリスト教は愛の宗教ですとご紹介しました。2回目はクリスチャンになるとは、信じきるということよりも、信じたいという願いを持つことなのだとお話しました。3回目の今日からは、聖書の中でも特に有名な個所を選んで開いてゆきたいと思います。今日の個所は、イエス様の説教として有名な個所で「幸いである」という響きが親しまれている箇所です。

今日はこの個所から、キリスト教が「あなた方は幸いである」「あなた方は大丈夫ですよ」と、一方的に幸いを宣言する宗教であるということをご紹介したいと思います。キリスト教はそのように希望を受け取ることができる宗教であるということをご紹介します。

私は牧師を始めて5年目になります。神学校という牧師養成の学校で学んでから、平塚教会の牧師として赴任しました。卒業前に私はお世話になった先輩の牧師の家を訪ねる機会がありました。本当に牧師をやってゆけるのだろうか、いろいろな心配事があって話を聞いて欲しかったのです。私のいろいろな心配事を聞いた後、先輩の牧師は力強くこう言いました。「大丈夫、大丈夫」。先輩は「大丈夫だ」と力強く言い切ったのです。私にとって信頼していた先輩でしたので、すごく気持ちが楽になって、安心をしたのを覚えています。信頼している先輩からの「大丈夫」という言葉を今でも大切にしています。でも実はその時、先輩牧師のお連れ合いも一緒にいました。そして横からすかさず言ったのです。「あなたそんな簡単に、人に大丈夫だなんて言うもんじゃないよ」確かにそうです。心配事のある人に、簡単に大丈夫、大丈夫という声をかけてはいけません。それは心配事のある人に対してとても無責任で、不安に思っている相手に対して不誠実で、いい加減な励ましです。それは間違えて使うと親身に不安に耳を傾けてくれていない様に感じさせる言葉です。

 

大丈夫という言葉は、信頼している人に言われるととても安心できる言葉です。でも信頼関係が十分ではないと、相手を突き放す、投げやりな言葉に聞こえるかもしれません。

聖書にも実はこの「大丈夫」に似た言葉が出てきます。それは今日の個所にある「幸いである」という言葉です。イエス様はここで「あなた方は幸せである」「あなた方は大丈夫である」と断言をしています。みなさんはここに安心を感じるでしょうか。希望を感じるでしょうか。それとも無責任さや突き放された思いを感じるでしょうか。

きっと神様を信頼する時には、この言葉から大きな安心と希望をいただけるはずです。この個所から「あなた方は大丈夫だ」そう宣言し、私たちに希望を与えてくれる神様の姿を見てゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。

 

 

ルカによる福音書6章20~23節をお読みいただきました。イエス様は2000年前、現在のパレスチナで活動をしていました。イエス様の教えに共感し、たくさんの人が従いました。その人々の多くは極めて貧しい人々だったと言われています。お金を1円も持ってない人、今日の食べ物がない人、今日寝る家のない人、そのような人がイエス様に従っていたのです。

21~22節には、飢えている人、泣いている人、憎まれている人、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人と書いてありますが、イエス様の目の前に居る人はまさにそのような人々だったと考えられています。イエス様に従ったのは貧乏で、お腹が空いていて、泣いていて、元居た場所から追い出されてきた人の集まりだったのです。そのような人が大勢集まっている様子を想像します。きっとみんな疲れて、ボロボロになって、行く当ても、食べる物もない人です。彼らは今日生きることができるかどうかという不安、将来に対する失望、悲惨な現実の中に、うつむいていた人々です。

多くの場合、宗教はこのような苦難を神の試練や、天罰と考えます。彼らの周りも、そして彼ら自身もそう考えたでしょうか。私がダメな人間だから、悪い人間だから、徳が足りないから、だから私はこのような苦労をしているのだと考えます。でもそう考えると、ますます落ち込むでしょう。そのように貧しく、落ち込んだ、ふさぎ込んだ人々がイエス様の元に集まっていたのです。そこにイエス様はおられたのです。

今日読んだ箇所では驚くべきことがあります。それはイエス様はこの、どう見ても幸せには見えない人々に向けて「あなた方は幸いである」と断言をしているという事です。それは今、空腹でも「大丈夫だ」、今泣いていても「大丈夫だ」という宣言です。イエス様は「幸いだ」「大丈夫だ」という希望を断定的に、一方的に宣言しています。

イエス様は今の状況は必ず変わると宣言します。それはイエス様が彼らに約束をしているとも言えるでしょう。イエス様は貧しいものは、豊かになると約束しています。イエス様はお腹空いている人はお腹いっぱいになるのだと約束しています。涙は笑顔に変わる、追い出されて嫌われていた人は受け入れられ愛される、そう約束をしているのです。これは単純な話です。いま苦しくても絶対良くなるよと言っているということです。これは今悲しくても笑える日が来るという極めて単純な希望です。明るい未来がある、大丈夫だということです。単純で、幼稚とも思える希望が聖書には書かれています。

状況をよく考えると、何も大丈夫ではありません。もしこれが人間同士の会話であったなら「そんな簡単に、人に大丈夫だなんて言うんじゃないよ」という注意が聞こえてくるでしょう。それは無責任な言葉として響くかもしれません。しかしここでは希望があると語られています。ここでは、どう見ても大丈夫な状況ではない、幸せな状況ではないその中で「大丈夫だ」「幸いである」と語られています。この状況からどうやって満たされるの?なぜ笑顔になれるの?どのように愛されるようになるの?と疑問に思います。私は戸惑いを覚えます。

ここには、神様からの経緯、経過、理由の説明は一切ありません。要はこの宣言には一切の根拠と説明がないのです。なぜ大丈夫なのか、なぜ幸せなのかまったく根拠や理由が示されないまま、ただ神様があなた方は大丈夫だ、あなた方は幸いであると一方的に宣言しているのです。このような希望を語れる、語って良いのは、神様だけです。人間の同士が励まし合い、活力をもらうことは多くあります。しかし、大丈夫、どうにかなるという根拠のない励ましは、時には無責任な励ましにもなります。しかし神様はこの様にまったく根拠のない幸いを宣言します。そこに不思議な力が生まれるのです。神様は一切の根拠なく、一切の変化や努力も求めず、ただ私たちの幸いを約束しています。私たちは必ずお腹が満たされ、笑い、愛されると約束されているのです。神様を信じていない人にとって、それは無責任な約束かもしれません。でも神様を信頼する時、私たちにとってそれは大きな希望、大きな安心へと変わってゆきます。

私たちの希望は極めて単純です。私たちが信頼する神様は、君は幸いだ、必ず満たされると約束をしてくださっています。神様は一切の根拠なしにそれを断定し、一方的に宣言しているのです。目の前にいる人々は明らかに、全然大丈夫じゃない人たち、全然幸せそうに見えない人たちです。でもイエス様は「大丈夫だ」「幸いである」と宣言しています。聖書にはそのような単純で、純粋な希望が書かれているのです。

私たちの生き方について考えます。人生にはなんともならないことが多いものです。誰かに簡単に「大丈夫だ」なんて言われたくないことばかりです。誰かの苦労に簡単に「大丈夫だ」と言ってあげることができないことばかりです。

でも神様は違います。神様はとても単純です。神様は「大丈夫」「幸いである」「なんとかなる」と言っているのです。私たちはそんな単純な希望を信じています。私たちの中に何か根拠があるわけではありません。でも神様が大丈夫、幸いであると言うならば、そうなるのかもしれないと思って歩んでいるのです。みなさんの生活にも様々な問題や悩みがあるでしょう。おそらくそれは私から見ればまったく大丈夫ではない問題、心配するに十分に値する問題でしょう。大いに不安に思う問題でしょう。

しかし神様は言います。「あなたがたは幸いだ」「あなたがたは大丈夫だ」私はこの単純な希望を信じたいと願っています。どうして大丈夫なのか、何が大丈夫なのか、何をすれば良いのかさっぱりわかりません。でも大丈夫、でも幸いであるという神様からの希望を受け取ってゆきたいのです。

神様を信じる人にとって、神様を信頼する人にとって、この言葉は大きな希望の言葉なのです。このように神様を信じると、根拠のない希望が与えられます。神様を根拠とした希望が与えられます。神様から一方的にいただく希望が私たちに迫って来るのです。

みなさんにもその希望を受け取って欲しいと願っています。神様を信じる者、神様に信頼する者となるようにお勧めをします。きっとそれぞれにいろいろな問題を抱えておられるでしょう。でも神様に信頼すると、そのような中でも希望を持って生きることができるはずです。この私を「幸いだ」と宣言してくださる神様を信頼し、共に歩んでゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「どう信じるか、復活」ルカ24章1~12節

 

 みなさん、おようございます。今日はイースターです。イースターおめでとうございます。そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。

今月・来月と信仰入門というテーマで宣教をしています。初めて教会に来るという方、もっとキリスト教について知りたい方、よくわからないけど興味があるという方を特に歓迎する期間にしたいと思っています。どうぞ礼拝に加わってください。

多くの人は教会にはキリスト教を信じている人が集まっていると思っています。初めて教会に来る方は、熱心に信じてる人の中に、興味半分の私なんかが行っていいのだろうか、そんな風に思うのです。でも実は教会に集まっている人は、信じている人だけの集まりではありません。そして「信じている」という人も実は、聖書の事に疑問に思ったり、ある部分についてわからない、信じられないと思ったり、わかったつもりだったのに分からなくなってしまったりしています。

教会はこのように、信じている人の集まりというよりも、信じたいと願い、探している人が集まる場所です。疑問や問いを持つ集まりです。わかっているような顔に見えるかもしれませんが、実は一人一人わからないことだらけです。そのようにして、みんな教会に集っています。教会は信じきれない人の集まりです。みんな実はいろいろ疑問に思っています。でも長く教会に通っていると、疑問だと思わなくなってしまったり、本当は疑問に思っていても忘れてしまうものです。そこに新しい方が来て、わかりませんと質問をしてくださるのはとても貴重です。他の人が「私もそこを疑問に思っていた」と思い出すことができるのです。教会はそのようにしてまた、問いと疑問を持ち続けることができます。教会はだからこそ、いつも初めての人を、初めての方の率直な疑問を歓迎しています。

今日は特にイースターという日です。キリスト教の信仰の中心には、十字架で死んだイエスが復活したという信仰、復活信仰があります。私たちが日曜日に礼拝という集会をするのも、イエスの復活が日曜日の朝だったということに由来します。クリスチャンになるにあたってイエスの復活、これを信じるのはなかなか難しいことです。イエス・キリストが十字架で死んだあと、復活したと信じるのです。他の事柄と同じように、クリスチャンならば復活を信じて当然と思うかもしれません。

しかし、よくよくみんなの話を聞いていると、ある人はこういいます。小さい頃からそういうものだと教えられたのでそう信じています。別の方はこう言います。聖書に書いてあることを疑いなく、そのままを信じているし、そうでなければ信仰とは言えない。別のある人は復活についてはよくわかりませんと答えます。クリスチャンといっても、復活の出来事をそのままを猛烈に信じている人ばかりではないのです。

キリスト教にとって復活をどう考えるかは大問題です。私たちのバプテストというグループは自由を大事にするグループです。特にこう信じなければいけないというものはありません。ですから復活を信じるといっても、その復活のイメージは実はひとりひとりで違うのです。みんなが復活を信じているといっても、その復活のイメージがひとりひとり違うのです。普段あまり話さないのですが、それぞれにイメージがあり、かなり幅があり、少しずつ違うのです。復活とは何でしょうか。

復活とはただの心肺蘇生を指すことではないでしょう。一度心肺停止になったが、もう一度心臓が動き出したことは、復活ではありません。仮死状態、気絶状態だったという理解も私たちとは違います。イエスは間違えなく、徹底的に十字架で死にました。生き返りようがないほど死にました。どん底を味わって、そこから何かが起きたのです。

肉体は死んでも魂はよみがえったと信じるのはどうでしょうか。肉体は死んでも魂がみんなの心の中に残り、永遠にいる、それこそが復活だと考えるのはどうでしょうか。死んでしまったけど、みんなの心の中にはもう一度イエスが来た、今も私たちの心の中で生きているという復活理解です。それならば、信じるというハードルはずいぶん低いでしょう。でもイエスの復活を、私の心の中の出来事と結論づけてしまってよいのでしょうか。この後イエスは「私には肉も骨もある」と言っています。復活は心の中の問題ではないはずです。

心理学から考えると復活は幻視体験です。弟子たちはリーダーが十字架刑で殺されるという強いストレスを受けて、復活のイエスの幻を見たのです。これは行き過ぎた復活の理解かもしれませんが、これには復活理解のヒントもあります。それは、弟子たちは本当に見たという自覚があるということです。単に心の中の問題ではなく、弟子たちは確かに見た、はっきりと見たのです。何時何分に会った、そこには肉と骨があったという、実体験として本人には理解されています。これは聖書の記述と多くの共通点があります。

私はこの復活を聖書の記述通りに信じるでもいいし、様々な背景があって起こったと信じるのでも、どちらでもよいと思います。では牧師であり、宗教者である平野は何を信じているのか。どう信じているのかと問われるかもしれません。復活とは何でしょうか。私はまだ結論がでないままです。きっと聖書の通りの出来事が起きたに違いないと思う反面、その背景が必ずあったはずだと考えています。私としては、こうだった、こう信じる、そのような結論に達していません。何が起きたのかわからない、でも何かが起きたのです。聖書をそのまま文字通り信じることができる人がうらやましいです。私はまだ答えを探しています。私は復活を信じています、でも復活がどのように起こされ、どのような意味を持つのか、それは幅広い理解の可能性があると信じています。何が起きて、どんな意味があるのかを、私はずっと問い続けたいと思いますし、それが私にとって信仰をもつということです。少なくとも復活は、十字架の死で終わらない希望があったことを指し示していると思います。死で終わらない希望、絶望の先にある希望を指し示していると理解しています。信じた人は洗礼・バプテスマを受けるのですが本当にそうでしょうか。少なくとも一生懸命勉強したら復活の意味が理解できたということにはならないでしょう。問い続けながら、何を信じるのかを問いながら歩んでゆくのが信仰です。

私たちのテーマは信仰入門ですが、あらかじめお断りしておくと、入門後にはゴールがあるわけではないのです。その門の中で考え続けるのが信仰になのです。今日は聖書からそのようなことを考えてゆきましょう。

 

 

 

ルカ24章1~12節をお読みいただきました。今日の場面は、イエスが十字架にかかり、死に、墓に納められた後の場面です。女性たちはイエスの遺体に香料を塗るために、墓に行きました。しかしそこにはイエスの遺体が無くなっていたのです。徹底的に死んだはずのイエスの遺体がなくなっていたのです。4節、女性たちは途方に暮れていました。何が起ったのかまったく理解できず、困惑し、悩んでいたのです。そこに輝く衣を着た天使が現れます。そして天使は女性たちに「十字架で死んだイエスは三日目に復活すると言っていたではないか」と言います。女性たちは繰り返しイエスに復活すると言われていても、それを覚えていなかったのです。もし女性たちが復活を信じていたのなら、遺体がなくなったのを見て、すぐに復活したのだと確信したはずでしょう。

しかしそうはなりませんでした。女性たちは復活すると繰り返し教えられていても、そんなことあるのかな?不思議だと思って聞き過ごしていたのです。良く考えないでいたのです。だから彼女たちは遺体が無いのを見て、まさか復活したとは思わなかったのです。8節で女性たちは天使に言われて、ようやくで思い出しました。そういえばイエスは復活すると言っていたと思い出しました。女性たちはどうしたでしょうか、すぐに信じたとは書いていません。とりあえず別の弟子たちにこのことを話すことにしたのです。9節、女性たちは見たことを男性の弟子たちに伝えました。しかし男性たちもまた復活を信じませんでした。たわごとだ、愚かな話、馬鹿な話だと思ったのです。復活なんてあるわけなかろうと言ったのです。

弟子たちはなんと不信仰なのでしょうか。繰り返し教えられた復活がキリスト教の信仰の中心です。しかし、復活なんてあるのだろうかと思ったのです。それが初代クリスチャンです。それがクリスチャンの本音でしょうか。イエスは復活したと何度言われてもその前に途方に暮れる、そんなことあるはずがないと思う、それこそが弟子たちの本当の姿なのでしょう。不信仰で、見習ってはいけない人たちかもしれません。しかし私はこの気持ち大事にしたい、大事にしてほしいと思います。

弟子たちは復活なんてないと思っていました。復活を疑っていました。復活を信じていなかった、それを否定していたのです。それがイースターの朝、日曜日の朝の出来事だったのです。しかし不思議にもその人たちに大きな変化が起きていくのです。その始まりが復活、イースター、日曜日の朝なのです。

おそらく私たちの信仰は信じるか、信じないかはあなた次第というような、二択ではありません。信じたいけど信じられない、そのはざまに信仰があるのです。特に復活という出来事はそうでしょう。

クリスチャンになるとは、信じたいという願いを持つことと言えるでしょう。私たちは信じて集まっていると同時に、信じられないけど信じてみたい、私たちはそのような集まりです。今日の聖書によれば、信じられないことから始まる変化がきっとあるのです。これから共に探し続けてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「愛に生きよう」ルカ23章32~49節

議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」         ルカ福音書23章35節

 

信仰入門というテーマで2か月間、宣教をします。キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれますが、愛とは何でしょうか。日本語で「愛」は「恋愛」を指す、ドキドキする気持ちを表す言葉です。しかし聖書の愛とは、もともとアガペーという言葉です。アガペーは恋愛とは違い「大切にする」という意味です。相手を大切に思うことが愛する、アガペーすることなのです。ですから好きになれないところがあってよいのです。嫌いでもお互いを大切にするのがアガペーです。イエスは人々にお互いを大切にするように教えました。そしてその考えに深く共感する人がたくさんいました。

しかしイエスは十字架刑で殺されてしまうことになります。十字架刑とは何週間も苦しみながら死んでゆく極めて残酷な死刑の方法です。なぜこの残酷な処刑装置が、キリスト教のシンボルなのでしょうか。それは十字架に到るまで、他者を愛し、大切にしたというイエスの姿を忘れないためです。そのことは私たちの聖典である、聖書に書いてあります。

今日の場面はイエスが十字架に架けられている場面です。イエスは十字架上で、様々な人から侮辱をされています。35節では政治家である議員から、36節では兵士から、39節では、同時に十字架刑になっている犯罪者からです。3人は口をそろえて言います。「自分を救え」。イエスを殺そうとした人とは、自分のためだけに生きてきた人でした。彼らにはその生き方がまったくわからなかったのです。なぜ自分のためではないのか?自分にメリットがないのになぜそのような生き方をするのかと疑問に思ったのです。だから彼らは「自分を救ってみろ」と言うのです。

しかし、登場人物の中にはごく少数、イエスの十字架の痛みを知り、共感する人がいました。同じく十字架に架けられている二人の中の一人です。彼は最期が迫ってくる時、自分ではなく、他者の痛みに共感し、他者を大切に思いました。

この十字架の出来事の上に、イエスの生き方が凝縮されています。まず自分のために頑張れ、まず自分、自分を優先させろ、そのような時代と声の中で生きた人がイエスでした。自分が大事、その思いに飲み込まれた人々が、イエスを十字架に架けたのです。しかし、イエスは最後までアガペーを貫いたお方です。私たちは苦難の時もアガペー、愛をもって生きることを忘れないために十字架をシンボルにしています。

私たちがこの宗教を信じているのは自分が天国・楽園に行くために信じているのではありません。どこまでも愛・アガペー・他者のために生きるために信じているのです。私たちもこのような愛を実践したいと願って信じているのです。

そして私たちはこの生き方に一人でも多くの人に加わって欲しいと思っています。その生き方は、毎週の礼拝の中で、その愛・アガペーを確かめ、それぞれの場所愛・アガペーを実践するという生き方です。そのような仲間が一人でも増えて欲しいと願っています。お祈りします。

 

【全文】「神はあなたを輝かせる」 出エジプト34章28~35節)

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。私たちは今、教会の暦でレント・受難節の中にいます。レント・受難節はイースターの前の約40日間を指します(厳密にはそれに6回の日曜日を加えた46日間です)。この期間はイエス様の十字架に到る聖書箇所が多く選ばれます。私たちは今月、共に旧約聖書を読んでいますので、直接十字架の個所を読むわけではありませんが、今日の個所も十字架と無関係ではありません。直接その箇所を読むわけではありませんが、40日間を共に過ごしてゆきましょう。

キリスト教は40という数字がよく登場します。ノアが箱舟に乗ったのは40日間、モーセが荒野でさまよったのは40年、イエス様が荒野で断食をしたのも40日間でした。40はとても長い期間を表し、そして神様との関係を考える期間として繰り返し登場します。今日の箇所も40日間です。モーセは神様からの言葉を聞くために、シナイ山に登るようにと言われます。そこで神様の戒めを石板に彫り付けるためです。28節、モーセは山の上で四十日四十夜、主と共に留まりました。そこではパンも食べず、水も飲まず、ひたすら神と共に、二人きりで共にいたとあります。モーセは40という数字に象徴されるような長い期間そこにとどまりました。モーセは長い期間、山の上で、神と二人きりで、共にいたのです。今日はこの場面について見てゆこうと思います。

人間は夫婦や、家族、友人と長く一緒に時間を過ごしていると、言葉やしぐさが似てくるものです。あるいはもっと深いところで、考え方や物の見方、習慣までが似てくることがあります。顔や表情まで似てくるものだと聞いたこともあります。あるいはワンちゃんさえも飼い主に似てくると聞きます。そのように人間は長く時間を共にすると、似てきてしまう者なのでしょう。モーセは四十日四十夜という長期間、神様と二人きりで共にいました。その期間は寝食を忘れ、神の言葉を石の板に刻み、神様と共にいました。神様との豊かな出会いをいただいたのです。それだけ神様と一緒にいれば、神様に似てくるでしょうか。

神様の言葉を聞いたモーセは大変大きな恵みを受けて帰ってきました。山から降りてきたモーセを見た人々は驚きました。なぜならモーセの顔が光り輝いていたからです。顔の皮膚が発光していたという現象です。本当に神様による奇跡によってそのような現象が起きたのかもしれませんが、あるいは顔を輝かせて帰って来たという意味かもしれません。

モーセは四十日四十夜、神様との濃密な時間を過ごしたのです。神様と少し似た顔つきになって帰ってきたのかもしれません。モーセは神様の言葉を聞いて、輝くような顔になったのです。全く別人のような表情になって帰って来たのです。神様はそのように人を変えるのです。神様の言葉が人をそのように変えるのです。神様の言葉がモーセの顔を輝かせました。神様ととにかく一緒に居続けるということが、人の表情を変えてゆくのです。

私は教会に来て、そのようなことが毎週の教会で起っていると感じます。私はたくさんの光り輝く顔を知っています。皆さんが前を向いているので、私が一番皆さんの表情を見ています。ときどき皆さんとは教会の外、町で会うこともありますが、教会に来ている時、礼拝している時の顔が、一番明るくて輝いています。皆さんの顔は教会で輝いています。あるいはご葬儀の時に、棺の中に入った先輩を見て、光り輝くような顔をしていると感じる時もありました。そのように人の顔は教会で輝くのです。テカるのと違います(笑)。人間は教会で神様の言葉に出会うと、安心して、ニコニコして、笑顔になって、輝くのです。それがモーセに起きた事で、毎週この教会で起きていることです。

29節によれば、周りの人が怖がるくらい顔が輝いているのに、モーセ自身は光を放っていることに気づいていませんでした。皆さん自身、私自身もそうかもしれません。自分が教会でどんな表情をしているかはわからないのです。でも教会の中ではみなさんいい顔しています。正面からよく見えます。あるいは最初に教会に来た時より、ずっと穏やかで、笑顔で、安心していて、輝いています。教会では一人一人が自分では気づかない光を放っています。

神様の言葉とずっと親しむこと、礼拝をずっと続けてゆくこと、それは私たちの表情と私たちの内面を変えるのです。神様とずっと一緒にいることは、必ず私たちを変えます。夫婦や友人やペットでさえ一緒にいると、見た目も中身も似てくるものです。それと同じように、神様と長く一緒にいるなら、神様の言葉を長く聞き続けるなら、私たちは神様に似た者に変えられてゆくのです。それがモーセに起きた事、私たちに起きている事です。

神様の言葉は光です。その光は私たちの顔を、私たちの心を明るくします。神様の言葉は私たちを暗い気持ちにするのではありません。神様の言葉は冷たいものではありません。神様の言葉は、聞いた人の心が温まる言葉です。そして神様の言葉をずっと聞き続けると人は神様に似てきます。心が変わり、輝き、自分でも気づかない間に、今度は周りを明るく照らしているのです。

32節まででモーセは輝いた顔のままで、神様の言葉をみなに伝えましたが、33節からは自分の顔に覆いをかけるようになってしまいました。この覆いにはどんな意味があるでしょうか、理由はまったくわかりません。神様の言葉をいただき、輝いて帰って来たモーセでしたが、山を下って、人々の間に入ると、輝く顔を覆ってしまいました。せっかく輝いている顔を隠してしまったのです。怖がらせないため、気持ち悪がられないために必要だったのでしょうか、恥ずかしくて覆ったのでしょうか。もしかするとそれは日常では出せない表情、出さない表情だったのかもしれません。本当の自分を隠し、仮面をかぶらなければいけなかったのかもしれません。

34節、モーセの顔の覆いは神様の前では外されたとあります。モーセは神様の前では覆いのない、本当の自分が出せたのです。外では出せない本当の自分、変えられた自分がここでなら出せたのです。あるいは神様の前に行き、再び神様の言葉を聞くことで、また光り輝くようになったとも理解できるでしょう。35節、人々がもう一度モーセの顔を見ると、やはり光り輝いていたのです。誰も、本当の自分の姿に覆いをかぶせる必要はないはずです。モーセは恥ずかしがらずに、その光り輝く顔を出してよかったのではないでしょうか。それは神様からいただいた光なのですから。

私は今日の個所を読んで、まず自分が教会にいる時の顔ってどんな顔なのだろうと思いました。もしかして教会では日常よりも笑顔が多いかもしれないと思いました。そしてそうならば、教会以外の日々が無表情になっていないか、あるいは顔の輝きを覆うように生きていないかとも考えました。

そして私は毎日を輝くような表情、態度で過ごしたいと思います。毎日を教会に来た時のような、神の言葉を受けて光り輝くようなそんな顔で、そんな表情で、そんな態度、そんな内側・心で日々を歩みたいと思いました。私たちはその顔の輝きに、覆いをする必要はありません。教会で見せる表情や態度のまま、毎日を生きてゆけば良いのです。そのように感じました。

社会ではマスクが定着しています。外すのか外さないのかが話題になっています。いずれにしても、お互いの表情や気持ちは前よりもわかりづらくなっています。私たちの顔が光り輝いていても、わかりづらいのです。マスクで分かりづらいからこそ、少しだけ見えている私たちの表情や態度はより大切と言えるかもしれません。いつかマスクが必要ないと思える時が来るように願いますし、もう少し様子を見てゆきましょう。

でも私たちが知っておきたいのは、神様の言葉をずっと聞いていると、神様とずっと一緒にいると、神様に似てくるということです。そして表情や態度が明るくなるということです。神様とずっと一緒にいると神様に似て来て、生きる力にあふれ、人生を楽しむ力にあふれてくるのです。神様と長く一緒にいればいるほど、その顔は輝いてくるのです。だから私たちは神様との時間を大切にしましょう。そして豊かな表情に、恵みをいただいたその顔に、覆いはいらないのです。恵まれたその顔で毎日を送りましょう。

レント・受難節ですからイエス様の歩みも見てゆきます。福音書にはイエス様も同じように、山の上で顔が輝く出来事がありました。ルカだと9章48節です。イエス様も神様の言葉を受けて、神様との出会いによって顔が光り輝いたのです。

イエス様も神様からいっぱいの光を受けて顔を輝かせていました。そして大勢の人々が待っている山の下へと下ってゆきました。山の下で多くの人に出会い、人々を励まして生きてゆかれました。礼拝の場所から、神様との出会いから、神様の言葉、光をいただき人々と出会いに行ったのです。その歩みは十字架まで続きます。私たちもそのように歩みましょう。

この礼拝で神様の言葉、光をいただきましょう。神様とずっと共にいて神様に似る者となってゆきましょう。そしてそれぞれが輝き、それぞれの場所で輝いてゆきましょう。心に覆いをせずに、輝いたままの姿で、1週間を過ごしてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「神はどこにいるのか」イザヤ63章7~14節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。3月は旧約聖書を一緒に読もうと思っています。そして今、教会の暦ではレントという期間にあたります。レントとは日本語で受難節とも呼ばれ、イースターの前の40日間、イエス様の十字架を覚える期間です。イエス様の十字架を特に深く考える期間です。今日は旧約聖書からレント・受難節を考えたいと思います。

新約聖書のイエス・キリストは人々に愛し合うようにと教えました。分かち合って生きるようにと教えました。しかしその教えは人々に受け入れられなかったのです。人々は受け入れずにイエス様を十字架で殺してしまったのです。受け入れなかった理由はいくつかあるのですが、一つには政権の安定のためということがありました。人を愛する生き方を勧めたイエス様は、人々に熱狂的に迎えられました。その時政治家たち、権力者たちは自分の立場が危ういと感じたのです。自分の立場を守るために早く殺しておこうと思ったのです。もう一つは既得権益のためです。宗教者も政治家も裁判官も、もっと自分にお金が集まるようにしたかったのです。愛と分かち合いは、自分にお金を集めたい人にはまったく不都合でした。早く殺そうと思ったのです。民衆もイエス様の十字架を支持しました。この世界に革命を起こして、新しい王が誕生することを願ったのですが、イエス様は地上の王になろうとはしませんでした。民衆にとってそれは大きな期待外れでした。

結局イエス様は十字架刑という大変な苦痛を伴う刑で殺されることになりました。愛と分かち合いに生きようとした、主イエスは十字架で殺されてしまったのです。そのことを忘れないために、レント・受難節があります。

当時は他にも多くの人が十字架刑に架けられました。しかし中でもイエス様が特殊であったのは、十字架の上に到る最後まで、他者のために生きようとしたことです。そしてさらにその後、復活と呼ばれる出来事があったと言われていることです。私たちはこの方をキリスト、私たちの救い主、私たちの人生の道しるべとしています。イエス・キリストを神と等しい存在として、毎週礼拝をしています。

神様と等しい存在であるイエス・キリストが十字架に架けられて死んでしまったということ、どのように考えればよいでしょうか。神様はイエス様が十字架刑で激しい苦痛を味わっている時、一体どこで、何をしていたのでしょうか。他者のために生きようという素晴らしい教えを広げようとしていた人が、十字架に架けられて、もがいている時、神様はどこで、何をしていたのでしょうか。

神様はなぜイエス様を見捨てたのでしょうか。神はどこにいたのでしょうか。神はどのようなお方なのでしょうか。このことは私たちにもつながる問題です。私たちが他者のために生きようとするときも必ず苦痛が伴います。その時、神様はどこにいるのでしょうか。今日は旧約聖書から、私たちが苦難の時、神様がどこいるのかを考えたいと思います。今日の個所を読みましょう。

 

今日はイザヤ書を63章7~14節お読みいただきました。イザヤ書も、先週のエゼキエル書同様、神様からの言葉を預かった預言者イザヤの言葉が記された書です。特にこの個所はイスラエルが戦争に徹底的に負けた後に書かれたものだと言われています。つまり大きな苦難を通された後に、あの時神様はどこにいたのだろうかと考えている時、神様から与えられた言葉だということです。ここから、神様は苦難の時にどこにいるのかを考えたいと思います。

まず目に留まるのは8節「彼らは私たちの民、偽りのない子らである」という箇所です。神様は私たちをこどもにしてくださるお方です。私たちは神様のこどもと言われてもピンとこないかもしれません。それはこの命が神様から特別に大事にされているという意味ですが、もう一つ意味があります。それは、私たちは神様と直接つながっているということです。これは当時の宗教では考えられないことでした。当時の宗教の多くは、王様一人だけが神の子でした。戦争に勝った王様が、神様から守られた人、王こそが神様のこどもと考えられていたのです。ローマでもエジプトでも戦争に勝った最高権力者こそ、神の子だと言われていたのです。では王様以外の人間はどうだったのでしょうか。それ以外の人間は神の子ではありません。ただの人間、ただの生き物でした。ただ王様、神の子の命令に従うだけの存在だったのです。それが当時みんなが知っている神の子でした。

しかしイスラエルの神の子は大きな違いがありました。イスラエルの神様のこどもは戦争に勝った王ではありませんでした。神様は8節で、あなた方はわたしのこどもだと語り掛けています。イスラエルの神は戦争に負けた弱い国の民衆一人一人に、私のこどもと呼びかけたのです。これがイスラエルの神様です。戦争に勝つ強い王様だけではなく、民衆一人一人が神の子だと言うのです。これこそ命の神です。すべての人を神の子としてくださる神です。誰にも独占されない神です。民主的な神の姿です。

苦難の時、神様はどこにいるのでしょうか。神様は戦争に勝った王と共にいるのではありません。神様はすべての人と共にいます。特に弱い人、苦しんでいる人、不幸が降りかかっている人、神様に遠いと思える人に、私のこどもと呼びかけるのです。あなたと共にいると呼びかけるのです。神様は誰か強いリーダーと共にいるのではありません。民衆一人一人、私たち一人一人と共にいます。あなたは私の子というのはそのような意味です。神様はどんなに苦しくて、どんなに虐げられても、どんなに負け続けても、一人一人と直接的な関係にあり、共にいるお方なのです。

苦難を感じる時、神様はどこにいるのかということについて。もう一つ目に留まるのは、9節の「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし」という箇所です。神様はその苦しみを自分のものとするとあります。神様は私たちが苦しいと感じる時、一緒に苦しいと感じているということです。私たちはこどもや家族や親しい人が苦しい時「代わってあげたい」と思うことがあります。そして自分まで苦しい気持ちになる時があります。神様も同じです。神様もあなたの苦しみを見て、自分まで苦しいと思うお方です。神様は私たちの苦しみを常に、自分の苦しみとしているお方なのです。私たちの神様は、一緒に苦しむ神様です。神様は常に平常心で、何事にも動じない神様ではありません。神様は私たちと一緒に泣いたり笑ったりするのです。神様は天高くおられ、地上をのんびり見ているという考え方は聖書的ではありません。神様は私たちとともにおられ、私たちと共に、喜怒哀楽しているお方なのです。

そして9節後半にも目を向けます。神様は私たちを救ってくださるお方です。私たちに愛と憐みを示し、救ってくださるお方です。神様は私たちが苦しい中でも、愛と憐みを持って生きるようにしてくださるお方です。私たちを救ってくださる神様は、私たちの重荷を共に背負い、愛と憐みに生きる苦労を分かち合ってくださるお方です。私たちを背負ってくださるお方なのです。

11節には「神はどこにいるのか」という私たちと同じ問いかけがあります。私たちの世界には戦争や災害、自らに降りかかる苦難があります。その時「神はどこにいるのか」と思わざるを得ないのです。

しかしその問いにこの個所は答えています。13節にあるように荒れ野をゆく時も躓かず、14節神は「谷間を降りてゆく家畜のように」「ご自分の民を導」くのです。神様は共にいるのです。苦難の時も、主が共に苦しみ、主が新しい場所へと導いてくださるのです。神様は私たちに希望があると言っています。私たちが困難な時も神様が私たちを見捨てたわけではない、必ず安心して暮らすことが出来る場所へと導くと約束してくださっているのです。

私たちはそのことを今日、旧約聖書・イザヤ書から知ることができるのです。そしてもっとはっきりと、イエス・キリストの歩みから知ることができます。イエス・キリストは神と等しいお方でしたが、人間として地上に来られました。私たちと共にいる者として歩まれたのです。イエス・キリストは人々と共に泣き、共に食べ、共に笑いました。このイエス・キリストが私たちに与えられたのです。

そして、イエスは愛と憐みに生きようとして苦労をしました。死に至る十字架の苦難を通ったのです。そのときイエス・キリストさえも「神はどこにいるのか」と叫びました。それほどまでに人間の苦難を知ったお方だったのです。神様はどこにいたのでしょうか。神様は叫びをあげたそこにいました。叫んだ人自身が神様でした。神様は一緒に叫んだのです。そして神様はそこで苦難と死で終わらない希望を示しました。イエス・キリストを復活させたのです。

私たちにもこの神様が、このイエス・キリストが共にいます。今キリストの苦難を覚える時をいただいています。それはただ痛くてかわいそうということを感じるときではありません。それは神様が私たちの苦難の時、共に苦しんでいることを感じる時です。私たちには苦しくとも、神様が共にいるのです。苦しい時も神様が新しい道を備えて下さるのです。神様はもっとも恐れる死さえも超えて、新しい希望を示してくださるお方なのです。

神様はどこにいるでしょうか。その迷いの中にいます。その叫びの中にいます。その苦痛の中にいます。そのあなたを、神様は神の子として深い関係にあろうとしてくださいます。

今日、十字架を覚え、そして苦難のただなかにあっても共にいる神様を覚えましょう。お祈りします。

 

【全文】「教会と原発」エゼキエル3章16~21節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちを大切にするとは、未来を大切にすることです。私たちは今だけ、自分だけではなく、こどもたちの未来を大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。

今月は1ヶ月間「旧約聖書」というテーマで宣教をします。普段なかなか開く機会がないので、一緒に読んでゆきましょう。そして今日は東日本大震災祈念礼拝を持っています。2011年3月11日に起きた東日本大震災では多くの方が亡くなり、被災されました。そのことを覚えて祈りをささげてゆきたいと思います。あの時、一人一人に様々なことが起きましたが、原発の事故は衝撃的でした。

私は「さよなら原発ひらつかアクション」という市民活動に参加をしています。3月11日には新しくできた文化芸術ホールの前で原発反対の集会を持ち、駅前をデモ行進します。全市議会議員には公開質問状も送付しています。

原発に反対するキリスト者・牧師は全国に多くいます。さまざまな理由で反対の声を上げていますが、もっとも大きな問題は、原発が誰かを犠牲にした発電システムであるという点です。誰も自分の家の近くに、危険な原発を作りたくないものです。だから原発は人口が少なくて困っている町、お金が必要で困っている町を狙って造られます。この構造は都市部の人が小さな町にお金を払って危険を押し付けているという構造です。そのような犠牲のシステムの上に成り立った発電方法でいいのでしょうか。地方の貧しい町を犠牲にして、都会で豊かな生活を送ることは良いことなのでしょうか。ひとたび事故が起きれば、その町はすべてを失うことになります。命も、家族も、ふるさとも奪われます。そんな原発をこの世界のどこかに作ってよいのでしょうか。原発の問題をただ電気の問題ではなく、命の問題として、多くのキリスト者が反対の声を上げています。

今日は特に様々な原発の問題の中でも「核のゴミ問題」を紹介したいと思います。一度は聞いたことがあると思います。原子力発電はたくさんのゴミ(放射性廃棄物)が出ます。まったく環境にやさしくない発電です。ゴミはこれまでどうしてきたのでしょうか。日本は1950年代・60年代に放射性廃棄物をドラム缶1600本に入れて海に捨てました。これはもちろん太平洋の島々と国際社会から猛反対を受けました。放射能は海に捨てればいい、これが日本の基本的な考え方です。処理水ももうすぐ放出が始まります。実は核のゴミは処分方法が一切決まっていません。再処理・再利用も、やるやると言って、一切の見通しが立っていません。行き場所のないゴミが増え続けている状況です。

この問題はよく「トイレのないマンション」と言われます。ゴミの処理が決まっていない、持っていく先がないのはトイレがないマンションと同じだという指摘です。私たちの教会も昨年トイレが壊れましたが、みんなで汚れながらつまりを取りました。トイレがない不安を味わいました。それはこの先どうしようという不安ではありません。今どうするかという不安と緊張感でした。日本は原子力政策において同じ状況です。どんどんゴミが溜まっています。今どうするか決めなくてはいけない時です。しかしゴミをどうするかという問題についてまったく議論のないまま、今度はさらに再稼働、運転期間延長を決めようとしています。

ゴミをどうするか全く決まらないまま、原発を動かすつもりです。このゴミは数百万年間危険とされるものです。誰がどう管理するのか、決まっていません。決まっているのは、次の世代、何百万年先の世代まで問題を押し付けるという事だけです。ゴミはこども任せということです。まったく先のことを見ていない政策で、倫理的に許されることではありません。

教会で原発の問題に触れられることはほとんどありません。教会の中のことで大事なことがたくさんあるからです。確かに自分たちの内側を見つめなおすことも大事です。どうして教会がこのような社会の問題に関わらなければいけないのでしょうか?自分たちに余力があるときにすれば良いとも言われます。しかし私はこの問題、教会だからできること、教会にしかできないことがあると思います。一人一人の命を大切にできる教会だからこそ、できることがあると思います。社会の中で、誰かが何かを押し付けられていないか、命がないがしろにされ、危険にさらされていないかは元々聖書の大事なテーマです。それをずっと考え続けてきたのが教会です。そして教会は今だけではなく、永遠を見渡してきました。

今のこの問題を、電気が足りないという問題ではなく、命のこととして考えこの先々のことを見渡すことができるのが教会です。教会の視点でこの問題を見て、社会に訴えてゆく必要性が大いにあると思います。正義と公平について教会は、社会に訴えてゆく必要があると思います。今日は、このような教会の社会的な使命について聖書から考えたいと思います。

 

 

エゼキエル書3章16~21節をお読みいただきました。エゼキエル書はエゼキエルという人が神様から預かった言葉を記したものです。エゼキエルの役割は「預言者」といって、神様から預かった言葉を取り次ぐ役割です。未来を言い当てる「予言者」ではありません。神様からの言葉を預かって、人々に伝えてゆくことが預言者の仕事です。神様は17節で、この預言者の役割は見張り役なのだと言っています。

見張り役の仕事とはどんな仕事でしょうか。見張り役とは町の入り口に高い塔を建てて、外から敵が来ないかを見張る役割です。彼らの仕事は遠くを見渡すことです。町の内側のことも大事ですが、彼らは地平線の先にある小さな変化に目を向けます。見張り役はもし敵が来たり、危険が迫っていることを知ったら、ラッパを鳴らし住民に伝えます。それによって住民はいち早く危険に気づくことができます。門をしっかりと閉めたり、逃げる準備をしたり、火事にならないように火を消したり、準備をすることができるのです。もし見張りがいなかったらどうなるでしょうか。住民は目の前に危機が迫って、門を破られて、誰かが悲鳴を上げた時、初めて危険に気づきます。準備の時間はありません。そのとき思いつく限りの対応をするしかできません。もし見張りが自分にしか関心がない人間だったらどうなるでしょうか。見張りは敵を見つけるのが遅れるでしょう。もし見張りが自分のことだけしか考えない人間で、敵を見つけたら自分だけ一目散に逃げだしたらどうなるでしょうか。自分は一番に逃げるのだから助かるかもしれません。でもそれはとても無責任です。彼は自分だけがいち早く逃げる、自分だけが助かるためにそこにいるのではありません。彼は自分のためだけではなく、町のすべての人のために、異変を告げるラッパを鳴らす必要があるのです。そのように人々に危険を警告するが、見張り役の責任、見張り役の使命です。

神様は預言者エゼキエルをこの見張り役に任命をしました。エゼキエルの役割は内側に目を向けつつも、外側に、なるべく遠くに目を置くことです。誰よりも早く変化と危険に気づき、人々に伝えることです。その働きはとても社会的な役割です。社会に訴えてゆくことが使命とされたのです。そのように預言者がしっかりと見張り役の使命を果たすとき、誰も命を落とすことがなく、すべての人の命が守られるのです。

神様は悪人が滅ぶこと、悪人が罰を受けることを望んでいるのではありません。神様は悪人が立ち帰り、再び神のもとに戻ることを望んでいます。だからこそ神様は大きな失敗にならないうちに、それに気づくように、私たちに語り掛けています。これ以上の過ちを犯さないように、神様からの言葉をよく聞くように語っているのです。預言者の役割は人々に、そのような神様の言葉を伝えることです。

神様は預言者の役割・神様の言葉を牧師だけではなく、教会へ、一人一人へと託しています。教会と一人一人が神様から見張り役の使命を与えられているのです。教会は今や内側だけに関心を持つのではありません。教会は見張り役です。教会の役割は世界と時代の一番遠くを見渡すことです。今ではなく、永遠に目を向け、今だけではなく、次の世代に目を向けるのが役割です。

今の原子力政策、核のごみ問題は遠くを見渡しているとは思えません。様々な問題を先送りし、危険を過小評価しています。教会はこのことについて見張り役にならなくてはいけません。このままではやがて行き詰まること、大きな破滅が訪れることを社会に訴えてゆく必要があります。教会にはそのように神様から社会的な使命が与えられているのです。教会はこのように社会を見渡す見張り役でいたいのです。どんな危険が近づいているのか、どんな人にしわ寄せが行っているのか、何が必要なのか。今しか見えなくなっている世界に、はるか先を見渡すように伝えたいのです。原発のことだけではありません。震災後の事、環境問題のこと、貧困のこと、社会には様々な課題があります。すべてに向き合い、活動をすることは出来ません。しかし自分たちの内側だけを見て、自分たちがどう逃げるかだけを考えるのは見張り役としてあまりに無責任です。

教会ははるか先のことを見ます。命について考えます。こどもたちについて考えます。お金のこと、効率の事はその次です。教会は社会の中で先を見渡す、命を守る見張り役の使命をいただいています。私たちには、それぞれの場所で見張り役の使命が与えられています。それぞれの場所で、見張り役として共に働いてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「聖書とこひつじ食堂」ルカ9章10~17節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの足音や声を命の音として、礼拝の一部としています。一緒に礼拝をしましょう。

先週は松藤先生から宣教をいただきました。感謝です。様々なことを思いめぐらせることができた恵みに感謝します。そして2月は2回、地域協働というテーマで宣教をします。今日はその2回目です。1回目は「屋根に穴の開いた教会」という話をしました。教会に入りづらいと感じることがあるけれども、今の平塚教会にはいろいろなつながり方、入口があって、屋根からとも思えるようなつながり方も歓迎をしようというお話をしました。そしてもっとはいりゃすい教会になろうとお話をしました。今日は「聖書とこひつじ食堂」の話をします。

私たちの教会ではいわゆるこども食堂である「こひつじ食堂」を毎月第2・第3金曜日に開催しています。1人200円で、誰でも利用できる食堂です。これまで数十回開催してきました。1回1回とても楽しく開催しています。そしてこれまで作って、食べたメニューはよく覚えています。利用されるお客さんもあれがおいしかった、これもおいしかったと言って覚えてくれています。よく言われるのは、ルーローハン、ロコモコ丼、タコライスなどでしょうか。こひつじ食堂で提供したメニューは、地域の人々の記憶に焼き付いています。おいしかった、あの日すごくたくさんの人が並んでいた、早くしないと無くなっちゃうと急いだ、久しぶりに誰々さんと会った、あの人と一緒に食べたという思い出、楽しかった記憶と共にあります。だからこそいろいろな人から次のメニューは何ですかと声をかけられます。

このような食事の楽しさ、思い出は教会のクリスマス愛餐会も同じでしょう。こどもがほおばったカリフォルニアロールを覚えています。私が一番好きだったのは、ピケマッチョでした。フライドポテトの上にソーセージやたまごが乗っていて、マヨネーズがたっぷりかかっているボリビア料理です。他にもフルーツポンチやポテサラタワーがおいしかったし、ビンゴも楽しかったです。食べることは思い出作りでもあると思います。一緒に食べたことはすごくよく覚えているものです。記憶に残るのです。

私が食堂で今まで一番おいしかったのはブリのから揚げです。釣りたてのブリをもらって、私もさばきました。指を怪我しました。それをから揚げにして食べたのですが、感動しました。まさしく忘れられない味になりました。大事な思い出です。ブリは結局、たくさんいただいた分を調理しきれず、食堂を利用するお客さんにプレゼントすることしました。入り口に大きなクーラーボックスを置いて、大きな魚を一匹まるのままどうぞと渡そうとしたのです。とても新鮮なものですが、そんな方法でもらってくれる人がいるのか心配でした。案の定、若いママは戸惑った表情でした。でもおばあちゃんは喜んでもらってくれました。昔は自分でさばいていたという方が、ものすごく喜んで持って帰ってくれました。クーラーボックスはすぐに空になりました。

教会は配るだけではなく、いろいろなものをもらっています。いろいろなものが集まってきます。先日はとうとうあるものもらってしまいました。それはパンです。食パンをもらってしまったんです。とうとう私たちは地域の方から魚をもらい、パンをもらいました。ちなみに100%ブドウジュースも、もらったことがあります。このようにして、教会にはたくさんの人が訪ね、2020年10月から始めて、提供した量は5000食を超えています。

今日私は、宣教の個所としてこの個所を改めて読んで、驚いています。今日の聖書個所は私たちの教会の年間主題聖句としている箇所です。週報の表紙にも毎月の祈りの課題にも載っています。今年度宣教で扱うのも2回目で、何回も読んでいる箇所です。しかし私は改めて地域協働の視点で読んで、感動しました。震えたのです。この5000人の共同体と私たちの教会との、恐ろしいほどたくさんある、共通点を見つけたのです。

私たちの教会は魚が集まる教会です。私たちの教会はパンが集まる教会です。私たちの教会は5000人が食事をする教会です。私たちの教会はこの5000人たちと非常に多くの共通点を持っています。世界に、日本に、私たちよりこの5000人と共通点のある教会は無いのではないでしょうか。私たちこそどんなことがここで起きていたのか一番想像できるのではないでしょうか。私たちはいまその体験の中にいるのです。今日はそのような地域協働の視点で聖書を読みたいと思います。今日の聖書を読みましょう。

今日は年間主題聖句であるルカ9章10~17節をお読みいただきました。大勢の人たちがイエス様に従っていました。イエス様の教えを聞きたい人、病気で悩んでいる人がいました。イエス様の前にきっと長蛇の列ができていたでしょう。私たちの食堂のように列ができたでしょうか。整理券が配られたでしょうか。そして多くの人が空腹でした。

イエス様は弟子たちに13節「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言います。私には、あなた方が食堂をしなさいと聞こえます。弟子たちはそれぞれ別に別に、自分のお金で食べればいいという思いがありました。この共同体は解散をした方がよいと考えたのです。しかしイエス様は言いました。「あなたがたが食べ物を与えなさい」。イエス様は一緒に食べること、一緒にお腹を満たすために働くように私たちを促しています。弟子たちはきっと最初は、私たちと同じように、そんなことをして一緒に食べる人がいるだろうか?そう思ったでしょう。困っている人ってそんなにたくさんいるの?と思ったでしょう。地域にはそんな必要性があるのだろうか?と思ったでしょう。たとえその必要があったとしても食材はどうするのか、ご飯もおかずもない、自分たちが5000人に提供するのは無理だと思ったでしょう。しかしイエス様に促されて食事が始まりました。

イエス様は14節、50人ずつくらいの組にさせたとあります。全員が同時に食事をしたわけではありません。組に分かれて、各テーブルに分かれて食事をしたのです。これも私たちと同じです。私たちも5000人に食事を出しましたが、一度にできたのではありません。毎回120人くらいに分けて提供しました。これも共通する様に思います。この5000人にはパンも魚もありませんでした。しかしどこからか、誰からか、魚もパンも集まって来たのです。そして不思議と全員が満腹になる量が集まりました。足りないと思っていたものは17節、最終的には余るほどだったのです。

余っていることはどんな意味を持つでしょうか。最初は足りない、できないと思っていたのに、終わってみたら、まだやれると思えたということです。最初は絶対に無理と思っていたのが、終わってみたら、もうちょっとできたねと言い合えるほどだったということです。これも私たちは同じ経験があります。最初は大丈夫かなといろいろな心配を持っていました。本当にできるのか、そう思って始めました。でも終わってみて、何回かやってみて思うのです。まだやれると。まだまだいけると思えるのです。また次も頑張ろうねと思えるのです。それがこの12籠のパンなのではないかと思います。

5000人の食事は人々の記憶にしっかりと残りました。みんなで食べたよね、足りないと思ったけど、まだまだいけるくらいだったね、おいしかったね。一緒にたべたことをよく覚えていたのです。あの時イエス様がいて、祈って、分けて、みんなで配って食べたよね。おいしかったよね。そうしっかりと記憶したのです。忘れられない味、忘れられない食事としてみんなの記憶にしっかり残り、語り伝えられたのです。そしてこの食事は聖書にも記録されました。

この5000人の食事は主の晩餐につながってゆきます。主の晩餐はイエス様を想起すること、イエス様を思い起こす儀式として、パンとブドウジュースを飲むということで伝わってゆきました。パンとブドウジュースを飲むことによって、私たちはイエス様と一緒にいた、一緒にいるということを思い出す、確かめるようになったのです。イエス様を思い出す、それが主の晩餐です。イエス様との食事を忘れられない食事として、イエス様を想起するために、食事を伴う儀式である主の晩餐が持たれたのです。私たちの食堂もこのような機会になっているでしょう。私たちは直接み言葉を伝えているわけではありませんが、ここで作られた食事を食べた事、一緒に食べたこと、食べ終わった後に遊んだこと、また来ようと思ったことは地域の人の記憶にしっかりと残っているでしょう。みんなの思い出になるでしょう。いつかはわかりませんが、いつかきっと教会で、十字架の下で食事をしたということを思い出す時が来るでしょう。

いつ思い出してくれるでしょうか。ブリを見たら思い出してくれるでしょうか。ロコモコ丼を見て思い出す人がいるかもしれません。パンを見て思い出す人がいるでしょうか。その時、教会の十字架を思い出す人がいるかもしれません。食事の思い出と共に、私たちの教会があります。食事の思い出と共にイエス様がいるのです。

そしてこれも私たちと同じです。イエス様との食事を思い出すのが主の晩餐です、パンを食べて思い出すのです。私たちはこのように、地域と関わり、地域との共食を大切にしてゆきましょう。食事を通じた交わり、食事の思い出を大事にしましょう。私たちの間でも、食事の思い出を大切にしましょう。そして地域の人たちに大切な思い出として、この食堂を覚えてもらいましょう。そして地域の人々と一緒に5000人になってゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「キリスト教と宗教2世」ルカ8章4~15節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

昨日2月11日は「建国記念日」でした。日本の建国記念日は、日本国憲法が施行された日ではなく、2600年ほど前に初代天皇の神武天皇が即位した(といわれている)日です。もともとは紀元節と言われた日です。天皇が即位した日が日本の建国記念日であるということは、この国が天皇を中心とした国であるということをよく表しています。天皇制は様々な宮中祭祀を行う宗教です。天皇の仕事には五穀豊穣を祈ることが含まれています。税金で宗教行事が行われています。ですからキリスト教ではこの日を「信教の自由を守る日」として、信教の自由を考える様々な集会を持っています。今日は信教の自由について特に、宗教2世について考えたいと思います。

宗教2世とは主に、親が宗教活動にのめり込んで、家庭が経済的に破綻し、また非常識な教義を押し付けられ、苦しんでいるこどもを指します。例えば高額な献金で最低限の生活さえできなかったり、学校行事や就職が制限されるなど、日常生活を極端に制限されたこどもたちが宗教2世です。

私たちバプテストは本人の自覚的な信仰を重視するグループです。本人の意思・信仰が確認できない人、特に赤ちゃんには絶対にバプテスマをしません。ですからバプテストには親の宗教が強制されている宗教2世はいません。いないはずです。本当にいないでしょうか?実は私たちの教会にもここまで極端ではなくても、問題があります。キリスト教の宗教2世もこのような声を上げています。

「日曜日に部活動に参加できないのがすごくいやだったが、宗教なんて怪しいと思われるのが怖くて部活の欠席の理由も3年間本当のことが言えなかった」「両親が牧師だったため、幼少期から当たり前に教会のことを手伝っていた。何度も抵抗していた『洗礼』を断り切れずに中学生の時に受けざるを得なかったことは、自分の意志に沿わないことを強要されたこととして印象深く覚えている」「本人の努力の賜物である事柄を『すべて神様のお陰であり私の努力ではない』と言っていた。発言者の自己肯定感が低く、恐ろしかった」「結婚したら離婚してはならないと言われた」「恋愛や結婚は信者以外には許されていなかった」「婚前交渉をしないように指導された」私はこれまでの教会生活で似た話を聞いたことがあります。こどもたちはこのことを押し付けられたと感じています。宗教を押し付けるということはキリスト教、バプテスト、この教会でも多少なりとも起きています。私たちは天皇制を押し付けられると共に、誰かに私たちの宗教を押し付けているのかもしれません。

特に根の深い問題は、聖書の教えに従わないと、幸せになれないといった類の言葉です。聖書に基づいて生活をしないと、礼拝にしっかりと出席しないと、救われない、裁きが下る、悪魔に取り憑かれる、死ぬ、地獄に行くといった恐怖の教えは、相手の心を強く縛りつけます。人を自由にするはずの宗教が、人の自由を奪うのです。失敗はあなたの不信仰が原因だと教え、信じればうまくゆくと心が支配されてゆくのです。私はそのような考えは福音、良い知らせではなくもはや「呪い」だと思います。お前の災難と失敗は不信仰のせいだ、不信仰の先には災難があるというなら、それは呪いです。そのようなことをこどもに教えたくありません。

私たちは信仰が自由であることを伝えたいのです。信仰を持つことは、本当は自由になることなのだと伝えたいのです。信仰をもつことは縛られることではなく、希望につながることなのだと伝えたいのです。宗教2世を解放したいのです。私たち自身も解放されたいのです。そのことを今日の聖書の個所から見てゆきましょう。

 

 

今日はルカ8章4~15節までをお読みいただきました。今日の話の解釈は11節以降に書かれています。そこでは種まきをするのが神、種がみ言葉、まかれた土地は私たちの心と解釈されます。そして自分を道端や岩や茨の地に置き換えるように促されます。この解釈によれば、良い土地ではない自分は、自らの不信仰を反省し、悔い改める必要があります。貧しい人、失敗をした人、人生が思う様にいかない人は、心が良くない人です。そして成功している人は、立派な心、善い心を持っている人です。この個所はそのように人々から自信を奪います。私は神の国に入るには値しないと思わせてきました。そしてもっと厳しく教えを守らなければ実りが無いと人々を縛ってきました。このような解釈はとても息苦しいです。

でもイエス様は本当にそのようなことを言っているのでしょうか。神様は、立派な人には良いものを与え、悪い人には悪い物を与えるお方なのでしょうか。それならば他の宗教の神様とあまり変わらないような気がします。イエス様は他にも多くことを譬え話で教えるのですが、ほとんどの場合、明確な答えを言いません。なぞを残したまま、人々に考えさせる終わり方をします。しかしこの個所は、イエス様が具体的に解説を加えたと書いてあります。本当でしょうか?実は9節以降は、後の時代の人間が加えた可能性が指摘されています。だとすると私たちは9節以降の解釈に縛られずに、4~8節まででイエス様が伝えようとしたことを理解することができるでしょう。

4~8節を見ましょう。この話の主人公は「種」でも「土地」でもなく「種まきをする人」です。種をまくという行為がこの話の中心です。イエス様に従っていた人の多くは農民でした。皆まかれた種よりも、種をまく人に自分を重ねたでしょう。農夫はいつも豊かに実ることを願って畑に種まきをしました。収穫の喜びが来ることを神に祈りながら種をまいたでしょう。豊かな収穫が必ず来ることを神様に信頼して種をまいたのです。5節の「種をまく人が、種まきに出ていった」とは、そのような農夫の姿です。

しかし一生懸命な働きにも、時には失敗があります。5節以降は種をまく人の失敗が描かれます。道端にこぼれてしまったり、岩の上に落ちてしまったり、茨の中にまいてしまったのです。種のすべてを狙った場所にまくことは出来ませんでした。うまくいく時、うまくいかない時があったのです。それでも種まきは続けられます。完ぺきでなくていいのです。そして全部が全部実るわけでもないのです。だいたいの種は良い土地にまかれ、だいたいの種が豊かな収穫となります。もちろん農夫たちは知っています。たとえ良い土地にまかれても、いつも豊作だとは限らないのです。どんなに頑張っても不作の時があります。豊かな収穫を祈って種をまいても、一生懸命やっても不作の時は不作です。どんなに祈っても凶作の時があります。一方、たいして頑張らなくても、祈らなくても、豊作の時があります。それが種まきです。

イエス様はどんなことをここから伝えているのでしょうか。私はここから、すべての事がうまくいくわけではないけれども、でも実りが必ずあることを期待し、希望を持って、祈り、働きを続けよう、そう語っていると感じます。神様は善い心の人にはたくさんの恵み、悪い心の人は恵みはゼロ、そんなケチな存在ではないではずです。神様はきっと、あなたの心がどんなにすさんでいようが、いばらだろうが、砂漠だろうが関係ありません。神様は私たちに希望を持って、種をまくように促しています。

イエス様はこう言っているのではないでしょうか。何をするにしても、それが良い結果になるかどうかわからない、善い人が良い結果とも限らないし、誰でも道端や茨にまいてしまうような失敗をする。でも大丈夫。神様を信頼して、実りを期待し、祈り、取り組もう、一生懸命やってみよう。私たちはこの先もきっと失敗するけれども、安心して種をまこう。神様を信頼し、種をまこう。神様は一生懸命に種をまく人を、一生懸命生きている人を見捨てないはず。無駄も失敗も不作もあり、凶作もある。でもきっと豊作の喜びがある。その希望を一緒に見よう。イエス様はそのように伝えているのではないでしょうか。

私たちの宗教、イエス様の教えは誰か否定し、縛るものではないはずです。誰かの自己肯定感を下げるものでもないはずです。イエス様は、自分や誰かの心を悪い土地だと言って、悪い心は悪い結果を生むと教え、怖がらせ、反省させ、支配するために来たのではありません。イエス様は私たちに、恵みに期待し、祈り、日々を一生懸命生きるように教えたのです。失敗の中でもあなたが活き活きとすることができるように、あきらめずに生きるようにと教えたのです。

教会には毎週、そのように種をまき続ける人が集います。教会には人生にいろいろありながらもやっぱり種をまき続けようとする人がたくさん集います。種をまく希望を受け取るために教会に集います。

この福音は誰かを縛るため、誰かを反省させるために、誰かを縛り付けるためにあるのではありません。誰かの生活に制限を加えるためにあるのではありません。福音とはあきらめそうになっていたことを、神様に信頼して、やってみようと思わせるものです。福音とは、もうだめだ、何をやっても変わらないという思いから、やってみようと思わせるものです。福音とはそのように人々を解放し、自由にするのです。福音はあなたを否定し、縛り付けるのではありません。福音とはあなたを自由にし、種をまくような希望をもって生きるようにさせるものです。私たちはその福音を伝えてゆきましょう。お祈りをいたします。

 

 

【全文】「屋根に穴の開いた教会」ルカ5章17~26節

 

 みなさん、おようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声、足音も礼拝の一部としてお献げしています。共に礼拝をしましょう。今月は2回「地域協働」をテーマとして、宣教をしたいと思います。来週は信教の自由をテーマにし、その次は松藤先生をお招きします。第4週にまた地域協働をテーマとしたいと思います。

今年の平塚教会のクリスマスの行事にはたくさんの人が来ました。キャンドル礼拝に60人、こどもクリスマスに51人、こひつじ食堂は194食。週報に掲載された人数を見て、別の教会の数字なのではないかと思ったほどです。ここ最近のキャンドル礼拝の中では一番人数が多かったかもしれません。うれしかったのは木曜日のこひつじ広場に遊びに来ていたこどもが、家族と一緒にキャンドル礼拝に来てくれたことです。いろいろな方が集いました。初めて来られた方、久しぶりに来られた方、教会員の家族の方、そして地域の活動から来た方がいました。いろいろな方がいました。もちろん中には、事情があって集えない人もいて残念でしたが、YouTubeで見ていたという方も多くいらっしゃいました。

きっと平塚教会は今、以前より入りやすい教会になっているのではないでしょうか。平塚教会は地域の方たちから、あそこには教会があるという印象以上に新しく、様々印象を持たれるようになっています。私たちは食堂をしている教会、こどもに関わろうとする教会、YouTubeで配信されている教会です。先日地域のある方にも、平塚教会は地域に密着していますねと言われました。うれしかったです。

平塚教会は地域の方たちと交流し、地域の方同士の交流が生まれる場所として、用いられています。多くの教会がありますが、ここまで地域との関わりが多い教会は珍しいと言ってよいでしょう。食堂でも、広場でも、炊き出しでも、まず教会の中に入って来てもらうことが大事だと思います。この会堂に親しみを持ってもらい、私たちと会話をして、顔を覚えてもらうことが大事です。私は時々あの教会に行きます、そう意識してもらう事が、とても大切なことだと思います。

私たちは今までもずっと、地域の人たちを歓迎してきました。しかし、今まではなかなかそれは伝わらなかったかもしれません。でも私たちがもう一歩、地域に踏み出したとき、愛の実践をしようとした時、地域から応援され、地域に愛され、いろいろな方が訪ねてくださるように変化が起きてきています。たとえば食材を分けて下さる方が訪ねてきます。お菓子を買って差し入れて下さる方がいます。ボランティアがしたいと訪ねてくださる方がいます。私たちの想像もしないような方法で、教会につながる、教会に訪ねてくる方が増えています。

72年目にして、教会と地域の人たちの新しい関係が出来ようとしています。このことをもっと進めてゆきたいと思っています。もっと入りやすい教会にしてゆきたいし、もっと協力して歩むことができる教会になりたいし、ここにずっと建っていることができるように、修繕と土地の売却の事も進めてゆきたいと思います。

私たちの教会の会堂の屋根には穴が空いています。そこから雨漏りがあります。この穴はどうにかしないといけません。教育館にはネズミの穴があるようです。この穴もどうにかしなければいけません。一緒に未来について考えましょう。

今日の聖書に登場するも私たちの教会と同様に、屋根に穴の開いた教会の物語です。そして私たちの教会と同様に、想像もしないような方法で、教会につながってゆく物語です。屋根の穴から新しい仲間が与えられる物語を一緒に読みましょう。

 

 

 

 

今日はルカ5章17節~26節までを読んでいただきました。今日の聖書の箇所は4人の仲間の信仰に注目するのが、多くの読み方です。このようにお友達を教会に連れてくる信仰はすばらしい信仰です。伝道しましょう。一人が一人を連れてきましょうと語られてきた箇所です。しかしこの個所を地域協働という視点で読むときどのように読むことが出来るでしょうか。今日は平塚教会の地域協働の視点でこの個所を読みたいと思います。

今日私が目に留まったのは、19節「群衆に阻まれて」礼拝堂に入ることができなかったという箇所です。どうして群衆は彼らが礼拝堂に入ることを阻んだのでしょうか?阻む理由がわかりません。ファリサイ派や律法学者が阻むならわかりますが、阻んだのは群衆でした。群衆には、誰かを礼拝に加えたくない、阻む気持ちがあったのでしょうか。阻む理由は障がいを持っていたことではなかったはずです。なぜならそこでたくさんの癒しが行われていたのです。彼らは歓迎されるはずでした。しかし彼らは阻まれました。もしかしたら群衆は阻む気持ちなど、なかったのではないでしょうか。でも後から来た人にとっては阻まれたように感じられたのではないでしょうか。なんか入りづらい雰囲気だったということです。私なんかが入ってもいいの?自分なんかきっと歓迎されない。そんな気がしたのです。

しかし彼らはこの集会に大変興味がありました。のぞいてみたい、一緒に賛美をしたい、仲間のこと相談したい、そう強く願ったのです。そして彼らは、屋根に上って穴をあけ、そこから入ろうとしました。正面からは入れない、入りづらいと感じた人は、屋根から入ってきました。入り口ではない場所に、穴をあけて、新来者が入って来たのです。彼らは新しい入り口を作って入って来たのです。屋根には大きな穴が空きました。しかし、そこからは新しい仲間が入って来ました。入り口はここにあって、もう誰も入ってこないという、内側の人々の思い込みを超えて、屋根から新しい仲間が入って来たのです。それは内側の人からすると、天に穴が空いて新しい風が吹いたという出来事でした。その穴は教会に今までにない在り方、今までにない関わり方をもたらす風穴となったのです。新しい風が礼拝堂に吹いたのです。そしてイエス様は、入り口ではない場所から入ってきた人を見て、素晴らしい信仰だ「罪は赦された」と言っています。

私はこの屋根に穴が開いた事件を想像して、これは私たちの教会にも当てはまるかもしれないと思いました。私たちの教会は決してだれも阻んでいませんが、何度それを言葉で言っても、伝わりません。敷居が高いと感じられ続けています。しかし、もしかしたら私たちの地域活動は、この屋根に開いた穴なのではないかと感じます。こひつじ食堂やこひつじひろば、ホームレスの支援が屋根の穴なのではないでしょうか。

私たちにとっての「入り口」ではない場所から仲間が与えられる、その穴です。私たちにとって新しく仲間が加わるとは、聖書に興味のある人がある日、教会の正面から会堂に入り、徐々に定着をしてゆく、やがてバプテスマを受けて教会員になる、そのようなことを考えます。しかし、今の平塚教会は、つながり方が多様になってきています。地域活動から礼拝につながる人、こひつじ広場で教会につながる人、食堂で教会につながる人などさまざまな入口から教会につながっています。そういえばずいぶん前から多くの人がホームページやYouTubeを見て教会に来るようになりました。いままで想像もしなかった入り口から、入ってくる仲間がいるのです。それは私たちにとっては屋根の穴から入って来る仲間のように感じるかもしれません。

もしかして私たちもこの群衆のようになっていないでしょうか。阻んでいるつもりは全くなく、むしろ歓迎をしています。でもそのような雰囲気になっていないでしょうか。もっと正面から入れるような雰囲気にしたいと思います。

そして私たちの思いを超えて、屋根から入って来る仲間がいます。屋根から入って来る仲間も大歓迎です。イエス様が歓迎をしています。礼拝につながる、教会につながるのはどこからでもいいのです。屋根からでも、正面からでもどこからでもいいのです。どんなきっかけでもいいのです、この礼拝を、この会堂での体験を共にすることが大事なのです。この穴はきっと神様が開けて下さった穴です。神様は私たちの地域活動によって、教会に穴をあけて下さいます。新しい仲間を与えて下さいます。この穴をもっと広げてゆきましょう。

内側にいた群衆も見ておきましょう。内側にいた人々は屋根に穴が開いたら大騒ぎするはずなのに、誰も迷惑そうにする様子はありません。そのまま礼拝が続いています。おもしろい光景です。もしかしたら、これも私たちの礼拝と共通するかもしれません。こども達の声がしていても礼拝が続くような雰囲気です。大きな音を立てる人がいました。でもみんないつもどおり礼拝したのです。そのような音も礼拝の一部として礼拝していたのです。私たちもそのような礼拝をしています。

このように神様は私たちの教会に風穴を開けて下さるお方です。その風穴からいろいろな人が入って来ます。神様はどんなつながり方も歓迎するお方です。私たちはこの群衆のようにさまざまな形で教会に関わろうとする仲間、特にこどもたちを、優しいまなざしで受け止めてゆきましょう。一緒に礼拝をしてゆきましょう。地域との活動を続けてゆきましょう。

そして、入るのにためらいのない、もっと入りやすい教会、入るきっかけがたくさんある教会、お友達を誘いやすい教会になってゆきましょう。神様がそのように私たちの教会の屋根にも風穴を開けてくださることを願います。神様が私たち一人一人の心にも思いもよらない穴をあけ、そこから新しい風を吹き込んでくださることを願います。私たちはその風に吹かれながら、礼拝しましょう。お祈りします。

 

【全文】「歴史に働く神」ルカ21:4~9

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音と共に礼拝をしましょう。今月は神学ということをテーマに宣教をしています。神学とはキリスト教の信仰を理解する方法のひとつです。例えば大学に神学部があり、キリスト教の信仰を研究しています。神学には4つの分野があると紹介をしています。聖書学、組織神学、実践神学、歴史神学の4つです。私の専門は聖書学で多くの場合、聖書学の視点で宣教をしています。しかし聖書の読み方、信仰には様々な視点があります。今回は歴史神学の視点で聖書を読み、信仰について考えたいと思います。

歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史に影響を与えてきたのか、あるいは影響を受けてきたのかということを考える分野です。キリスト教の歴史を考える分野です。歴史から学ぶことはとても大切な事です。歴史を学ぶことは、同じ過ちを繰り返さないために必要です。先人たちの知恵ある選び取りを、私たちもしてゆくために必要です。

キリスト教の歴史の中でターニングポイントになったことはいくつかあります。そのひとつにユダヤ戦争があります。ユダヤ戦争は西暦67年に起きた戦争です。イエス様の十字架は西暦30数年頃に起きたと言われていますから、さらにその30年以上後にあった戦争です。西暦67年、ローマの総督が、エルサレム神殿から宝物を略奪する事件が起きました。このことがきっかけで、エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊されました。エルサレム神殿にも火がつけられ、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。現在もエルサレムには嘆きの壁という場所があります。この壁はこの時の戦争で崩壊した神殿の西側の壁だと言われています。神殿が壊されたことを、ユダヤの人々が嘆く壁です。

神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教にとって、エルサレム神殿は信仰の中心でした。人々にとっては神殿で献げ物をすることが、信仰の大事な要素でした。その神殿に祭司がおり、神殿で犠牲の献げ物がされていました。しかしユダヤ戦争によって神殿も、そこにいた祭司もいなくなってしまったのです。神様の大切な献げ物をすることが出来なくなってしまったのです。この神殿崩壊の出来事はユダヤ教の信仰に大きな影響を与えました。この時から、信仰の中心は神殿での献げ物や、神殿の祭司ではなくなりました。信仰の中心はそれぞれの町のシナゴーグ(教会)になり、町の宗教者であったファリサイ派が中心となってゆきました。そしてユダヤ戦争から逃がれて、世界中に逃げて行った人もいました。それはユダヤ人が世界に広がってゆくことにつながりました。ユダヤ教が大転換する時だったのです。

キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。それまでキリスト教はまだユダヤ教の中の1グループでした。ユダヤ教ナザレ派と呼ばれたのです。ユダヤの人々と共に神殿に通っていたのです。しかしキリスト教も神殿の崩壊で独自の信仰を歩みだすことになります。イエスをキリストと信じるグループもエルサレム神殿中心ではなく、世界へと散ってゆくことになりました。そしてキリスト教は特に、異邦人、現地で知り合った人々に、イエス・キリストを伝え、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。外部の人と出会い、食事や割礼などの律法の理解も変えてゆきながら、キリスト教が成立してゆくことになります。そしてキリスト教では平和の問題も大切なテーマとなりました。戦争の混乱を通じて形成されたグループは、何より平和を願うグループへと発展してゆきました。それが約2000年後、私たちの教会へとつながっています。

ルカ福音書はこのユダヤ戦争の後に書かれたと考えられています。つまり西暦30年頃にイエス様の生きている時代があり、その後西暦67年にユダヤ戦争・神殿崩壊があり、その後さらに西暦90年ころに、ルカ福音書は書かれたと言われます。イエス様はこの後ユダヤ戦争が起こる、神殿が崩壊するということを知りませんでした。歴史的な順序としてはイエス様の言葉があり→神殿崩壊があり→ルカ福音書が書かれたのです。ルカはエルサレム神殿が徹底的に破壊されたことを知ったうえで、この福音書を書いています。おそらくルカは本当に崩壊した神殿をイメージしながら、今日のこの個所を書いています。

今日はユダヤ戦争という歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら聖書を読みたいと思います。そして戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。聖書を読んでゆきましょう。

 

 

 

イエス様たちはエルサレムにいました。5節にはある人がエルサレム神殿の美しい石、輝かしい装飾をほめたとあります。しかしイエス様は6節で見とれている神殿が崩れ落ちるだろうと言います。歴史的に本当にそれは起こったことです。この後神殿は、ユダヤ戦争によって、徹底的に破壊されました。しかし人々はそのようなことが起るなど信じることができませんでした。誰しも何百年も変わらずに続いてきたものは、これからも続くと思うでしょう。自分たちの信仰の中心であった神殿はいつまでも続くと思っていたでしょう。神殿が美しい姿のままでいることを願ったでしょう。だからこそ7節にあるように、いつそんなことが起きるのか、どのように起こるのかを聞いたのです。もしそれが起きるならどのような徴、前兆があるかを聞いたのです。

8節でイエス様はその前兆として偽物がたくさん来ると言いました。「私がみんなを救う」という偽物のキリストが来ると言うのです。それは偽物の希望と言えるでしょう。偽物の希望を語る人が大勢起こると注意をしたのです。偽物は「時は近づいた」と言います。彼らは世界の終わりが近いと不安をあおります。偽物は人々の心を、希望ではなく不安で満たそうとします。すぐに行動を起こさなければ自分も世界も終わってしまうと訴え、扇動するのです。偽物は人々を不安にさせ、偽りの希望を持たせ、人々を扇動します。イエス様はそのような偽物に「ついて行ってはならない」と注意をしています。そしてイエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は残念ながら起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。

この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。神殿が崩壊をします。その時人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。おそらく人々は絶望をしたはずです。俺たちは終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。実際のキリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は絶望して終わったわけではありませんでした。それぞれの場所で、もう一度イエス様のことを伝えようとしたのです。イエス様のことを書き記そうとしたのです。それがルカ福音書やマタイ福音書になりました。平和・シャロームを求めて宣教がされ、福音書が書かれたのです。そのように神様は私たちの歴史に働かれました。そのようにして聖書、キリスト教は成立をしたのです。

このように神様は歴史に働くお方です。神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。戦争を使って私たちを動かすお方でもありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。戦う者ではなく、戦争から逃げる者と共におられたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。たとえ神殿がなくなったとしても、神様は歴史の中で働き続けるお方です。歴史神学の視点でこの個所を読むとそのような希望をいただくことが出来るでしょう。

そしてこの歴史は私たちにつながっています。神様はこのように歴史に働き、私たちへと信仰をつないでくださいました。そして神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。私たちにある私たち自身の神殿が崩壊してしまうような出来事があるものです。大切にしているものが壊れてしまうことがあるものです。それは残念ですがきっと起こるものです。

でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。大切なものが壊れてしまう時がいつか来る。でもそれがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。絶望の時に、終わりではないと呼びかけた、それが神の歴史、神が働きかけた歴史だったのです。私たちには希望があるのです。偽物の希望に惑わされてはいけないのです。

今日は歴史神学の視点で聖書を読みました。神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りいたします。

 

【全文】「聖書を朗読する神」ルカ4章16~21節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

今月は3回の宣教を「神学」というテーマで持っています。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。他の学問と同じように、キリスト教を深く研究し、考えてゆくことが神学です。キリスト教の神学には4つの分野があります。聖書学・組織神学・歴史神学・実践神学です。前回は組織神学の視点で宣教をしました。キリスト教の信仰を神、聖霊、キリスト、人間、教会といった分け方で見てゆく考えということを紹介しました。私たちの教会の信仰告白もこのような分け方で信仰を表しています。このように信仰を整理することで、言葉にしてゆくことで信仰がより深まってゆくことを見ました。

今日は聖書を「実践神学」という分野の視点で見たいと思います。実践神学は4つの分野の中で私たちにもっとも身近な視点でしょう。神学をどのように実践するかという分野、キリスト教の信仰をどのように実践してゆくかを考える分野です。

キリスト教には信仰の実践が必要です。頭の中に知識や理論だけがあって、悟るだけではダメです。神様の事をよく知って、私たちは具体的にどう生きるか、どうキリスト教の信仰を実践するのかが大事です。それを考えるのが実践神学という分野です。実践神学ではたとえば、キリスト者の生活はどうあるべきかを考えます。他にも教会の奉仕にどう向き合うべきか、人権や差別、平和とどのように向き合うべきかを、どのように礼拝すべきかを考えます。

中でもどのように礼拝するかを考えることは実践神学の大事な分野です。礼拝の中でどんな曲を歌い、どんなプログラムで、どんな雰囲気で持つか。それは私たちの信仰の実践に深く関わる問題です。ちなみに来週には説教の作り方講座という勉強会を持ちますが、これもまさに実践神学の問題です。説教とはそもそも何か、説教をどのように作るのかということを一緒に考えます。ぜひどなたでもご参加ください。

今日はこの個所を実践神学の視点で、特に礼拝をどのように持つかということを考えます。今日の聖書個所によればイエス様も礼拝に参加し、聖書の朗読をしています。この個所から私たちの礼拝に大切なものは聖書だということ、当たり前ですがもう一度確認をしたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

 

 

ルカ福音書4章16節~21節を朗読していただきました。11月の祈祷会、教会学校でも同じ個所を読みました。祈祷会の参加者の方からはこんな意見がありました。「聖書を読み上げたイエス様の声が、どのように響いたのかを想像しました。その響きが胸に刺さるような気がします」。また別の方は「イエス様の聖書朗読を聞いてみたかった。聖書はどう朗読したらよいのでしょうか?すらすら読むよりかは、かみしめながら読みたいと思います。同じ個所でも数か月後に読むと感じ方が違うものです。み言葉はその時その時必要なものを与えてくれると思います」そのような意見を聞くと、私もどのように聖書朗読がされたのか想像をしたくなりました。

私たちの教会でも聖書朗読を司会者だけではなく、一部分を順番で担ってもらうことにしました。聖書朗読が順番としていることはとてもよい雰囲気だと感じています。まず礼拝にいろいろな人が代わる代わる登場するのが面白いです。いろいろな人が登場すると、礼拝が一方通行に聞く、出席するだけではなく、みんなで礼拝をしている感覚があります。礼拝は座って一方的に聞く集まりではないということを思い出させてくれます。そうです、礼拝は立ったり座ったり、挨拶したり、いろいろな人が来る場所だと気づかせてくれます。

朗読する人、一人一人の個性と多様さも伝わってくる気がしています。聖書を朗読する人は、それぞれのテンポやそれぞれの想像力で、聖書を朗読してくださいます。それは私の感覚とは違っていて、聖書を新鮮にいただくことができます。時々、なぜか聞いているだけで心が打たれるような気もします。聖書をかみしめながら礼拝できている気持ちがしています。このような聖書朗読の持ち回りが続いてゆくとうれしいと思っています。聖書朗読をかみしめながら聞いていると、イエス様はどんな風にこの言葉を語ったのだろうと想像力が湧いてきます。

聖書にはイエス様が礼拝に出席し、聖書の朗読をしたとあります。イエス様の読んだ聖書はイザヤ書61章ですが、2000年前の人たちと、私たちとでは状況は大きく違います。まず2000年前の人は一人一冊聖書を持っていたわけではありません。それができるようになったのは2000年の歴史からいうとごく最近です。活版印刷が発明された後、ここ500年くらいの事です。イエス様の時代の聖書は羊の皮に手で文字を書いた巻物でした。他の巻物を手書きで写し、また別の巻物に手書きで書くという、写経のように聖書は伝えられてゆきました。今日読んだイザヤ書だけで1つの巻物になっていました。旧約聖書を全部集めたら39本の巻物でした。巻物は大変高価なもの、貴重な物でした。聖書は人々が自由に触れ、自由に読めるものではありませんでした。町の会堂に大切にしまってある貴重品だったのです。

聖書が手元にないということは、人々はどのように聖書の言葉に接したのでしょうか。人々は礼拝において朗読される聖書のみ言葉を聞くこと以外には、聖書のみ言葉に接する機会が非常に少なかったのです。礼拝は聖書のみ言葉が聞ける貴重な機会だったのです。聖書は一人一人の手元にある、便利なものではありませんでした。だから人々は、暗唱したのです。こどもたちに繰り返し暗唱する様に教えたのです。聖句の暗唱のルーツはそこにもあります。

聖書に触れる機会がとても貴重だったということから考えると、礼拝の中で聖書の朗読がされることが、いかに重要であったかがわかります。聖書朗読はそこでしか聞けない話であり、読み返すことができず、聞き逃すことができなかったのです。20節には「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。聖書朗読が貴重だったから、すべての人が心も体も集中して聖書の朗読を聞いたのです。まさしく聖書の朗読が礼拝の中心だったのです。

当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕はとても大切なものとされました。その日に礼拝に来たお客さんや、町の有力者が聖書朗読をしたと言われています。聖書朗読の奉仕は礼拝の中で最も名誉ある奉仕とされました。聖書・聖書朗読が礼拝の中心だったからです。私たちの礼拝の聖書朗読が順番となったというのは、このあたりからルーツがあると思います。新しいようで、伝統的な方法です。イエス様の時代の礼拝も、私たちの礼拝も、大切にしているのは聖書のみ言葉です。礼拝の中でもっとも重要なのはみ言葉です。

聖書の言葉はむずかしいかもしれません。まったく意味がわからないかもしれません。でも聖書の言葉、そのものが何より大事です。聖書とその朗読が、礼拝の中で一番大事なプログラムです。それが私たちの礼拝の中心です。礼拝で一番長く時間を取るのはこの宣教の時間です。聖書には一人で読んでもわからない部分がたくさんあります。解説や解釈が必要な時があり、イエス様もこの後、説明をしました。そんな時、私たちは礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかしそうではありません。礼拝の中で一番大事なのはみ言葉、聖書朗読の時です。

礼拝の中心は宣教ではなく、み言葉、聖書朗読です。礼拝は聖書講演会、聖書勉強会ではありません。どちらかといえば礼拝は聖書を聞く会、聖書を読む会なのです。み言葉の意味がわかるか、わからないか、それが礼拝の善し悪しの基準ではありません。わかっても、わからなくても、寝ていても、聞いていなくても、神の言葉は神の言葉に変わりはありません。み言葉が中心にある限り、それが礼拝なのです。もし礼拝から聖書の言葉を無くしてしまうとどうでしょうか。どんなに歌って、どんなにいい話がされても、それは礼拝ではありません。

聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。もちろん聖書を、意味の分からない呪文にしてはいけません。でも一番大事なことは、聖書のみことばそのものです。そのことを心にとめながら礼拝したいのです。わかってもわからなくても、聖書の言葉を一人一人がかみしめ、想像する、そのような礼拝をしてゆきたいのです。聖書の朗読の奉仕は、そのことを気づかせてくれる、促してくれる働きなのではないでしょうか。

今日はイエス様が聖書を朗読した場面を読んでいただきました。巻物を渡されたイエス様はどのように聖書の朗読をされたのでしょうか。そしてなぜこの個所を選んだのでしょうか。どのような意味でこの言葉を語ったのでしょうか。わからなくてもいいのです。でもそれをしっかりと受け止めてゆきたいのです。なにより聖書の言葉を大事にしてゆきたいのです。

今日は実践神学の視点で聖書を見ました。礼拝の聖書朗読はもっとも大切な奉仕で、礼拝の中心です。イエス様もされた大切な奉仕です。これを分かち合う喜びは大きなものです。これからも私たちは聖書のことばを礼拝の中心にしましょう。聖書の言葉を私たちの生活の中心にしましょう。礼拝でのみ言葉から力をいただき、そのみ言葉を生活で実践して行く者となりましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「神はどんな方か」ルカ5章1節~11節

みなさん、おはようございます。今日も共に主に招かれ、礼拝を共にできる事、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら、共に礼拝をいたしましょう。

1月は残り3回の日曜日がありますが「神学」というテーマで宣教をしたいと思っています。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。大学には経済学部や物理学部といったように学問が分類されていますが、その一つに神学部というものもあります。キリスト教について学んだり、研究したりしています。大学の学部はさらに細かな分野、学科に分かれてゆきます。経済学部は経営学科と金融学科に分かれたります。神学も同様に分野が細かく分かれてゆきます。大きく4つに分けられるでしょう。聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学の4つです。

聖書学とは文字通り聖書の分析をする学問です。組織神学とは神、聖霊、人間とは何だろうとテーマごとに分けて研究する学問です。組織神学は私たちの信仰告白が分かりやすい例となるでしょう。信仰告白には聖書・神・人間などをどのように考えるかということがまとめられています。歴史神学はキリスト教が歴史にどのように影響を与え、影響を受けてきたのかを知る学問です。そして実践神学は今の私たちがどのようにキリスト者の生活を実践するか、そしてどのように礼拝・礼典をするのかを考える学問です。

例えば今日の聖書の箇所、同じ個所でも専門によって視点の違いがあります。私は聖書学が専門なので、聖書の分析から入ります。この話がどのように成立をしたのかを考えたりするのです。例えばきっとマルコ福音書にあるシンプルな従う話が先にあって、ルカはそれを補充・拡大してこの話を伝えたのだろう。またヨハネ福音書はこの話を復活の後に置いていて、復活と関係付けたのだろう。では、もともとの核になる出来事は何で、それぞれの福音書が強調している部分はどこかだろうかと考えます。そんな風にして聖書を読むことが多いです。

実践神学の視点でこの個所を読むとどうなるでしょうか。実践神学では、たとえばこの個所は献身とは何かを考えさせる箇所です。そしてさらに教会の中での実践、礼拝とはこのように、神の前にひざまづくことだと考えるでしょう。

歴史神学の視点でこの個所をとらえるとどうでしょうか。歴史神学では、たとえばこの個所が歴史的にどのような影響を与えたかを考えます。おそらく今日の個所は、中世の修道院の活動に影響を与えた箇所です。すべてを捨てて従うというモチーフは、修道院のモデルとなったでしょう。

神学はもっとさらにもっと細かく分類したり、横断的に考えたりしますが、このような4つの視点、聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学が基本となります。1月は残り3回ですが、今日は組織神学、次回は実践神学、最後は歴史神学とそれぞれの視点から聖書を読んでゆきたいと思います。今日は組織神学の視点で考えたいと思います。私たちの信仰告白のように、組織神学の視点で神、聖霊、イエス、人間、救いについて考えます。聖書や歴史といった軸から少し離れ、神とはどんな方か、イエス・キリストとはどんな方か、人間とはどんな存在なのかを考えます。今日は物語よりも、組織神学の視点で、この聖書を読んでゆきたいと思います。そしてそこから、神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったお方だということ。そのイエス・キリストがすべての人間を愛に招いているということを見てゆきたいと思います。今日の個所からどのように神様、イエス・キリスト、人間を理解してゆくことができるのか見てゆきましょう。

 

 

神様とは人間にイエス・キリストを派遣したお方です。神様はもともと旧約聖書の時代に様々な方法で、自分の思い、願いを人間に伝えていました。時には直接語りかけ、時には天使を遣わし、時には預言者を通じて、ご自分の思いを伝えようとしました。しかしある時、神様はイエス・キリストを通じて、人間に自分のことを教えようと決断をされました。イエス・キリストを、地上に人間として派遣し、実際に地上で人々と共に生きることによって、そして十字架と復活によって、神の愛を伝えようとしたのです。神様はそのように、そのひとり子を地上に送るほど、人間を愛したお方なのです。今日のシモン・ペテロにとっては、ゲネサレトの湖畔でこの出来事が起きました。ペテロのもとに、神様からイエス・キリストが派遣されたのです。神様とはこのように人間にイエス・キリストを派遣するお方です。

イエス・キリストとは神様からこの地上に、人間のもとに派遣されてきたお方です。神様の愛を指し示す存在として、そしてそれは神様に等しい存在として、人間に与えられました。そしてイエス・キリストは、このゲネサレト湖畔での出来事のように突然、人間の日常生活の中に現れるお方です。人間には、うまくいかないことがあります。人間には、漁に出ても何の成果もでず、網を洗っていたあの弟子たちのような時があります。人間には努力の果てに何の成果も出ずに、気持ちが沈む時があります。イエス・キリストはそのような人間に現れるお方です。イエス・キリストは順調な人生の中に現れるのではありません。私たちがイエス・キリストを探すのでもありません。イエス・キリストは失意の人間を探し出し、声をかけるのです。イエス・キリストはそのように、私たちをご自分の元に招くお方です。この物語はイエス・キリストの招きで始まります。イエス・キリストは特に熱心な人間、ふさわしい人間を招いたのではありません。多くの群衆がイエス・キリストの言葉を求め、押し寄せていました。その群衆の中にこそ、イエス・キリストに招かれるべき、もっとふさわしい人間がいたでしょう。しかしイエス・キリストは成果の出ない、無関心な人間に声をかけたのです。イエス・キリストの招きはこのように起こります。イエス・キリストは、ふさわしい人間を招くのではありません。ふさわしさを超えて、すべての人を招くのです。特に、落ち込んでいる人、残念な思いを持っている人間を選び、招くのです。それがイエス・キリストです。

 

人間とは罪深い存在です。ペテロも自分のことを罪深いと言っています。罪深いとは一体どのようなことでしょうか。人間の罪とは何でしょうか。罪とは法律上の犯罪を犯すことだけではありません。罪とは命の尊厳を踏みにじることです。神は人を愛し、いたわり、助けることを求めています。罪とはその反対に、人を無視し、冷たく接し、困っているのに見ないふりをして助けないことです。人は皆誰しも、このような罪を持っています。私は罪を犯していないという人間はいません。人間とはいつも、誰かを愛することができない、罪を持った存在といえるでしょう。ペテロもそのような人間の一人です。そのように人を愛することができない罪深い人間は、本来神の愛に値しないでしょう。人間の側からもまた、罪深い人間とキリストが同じ世界に生きること、同じ舟に乗ること、恩恵を受けること、共にいることは、ふさわしくないと思うのです。ペテロはイエス・キリストに自分から離れるべきだと言います。しかし今日の物語によれば、そのような罪深い人間こそ、神と出会い、人生を変えられてゆきます。人間は「人を愛せ」と教えたイエス・キリストに従うことによって、変えられてゆきます。人間はこれまでにあきらめていたことでも、イエス・キリストに出会うと「み言葉ならば」と再び行動する者へと変えられるのです。それが人間です。

 

救いとは、人間が人間を愛せるようになるということです。もう誰も愛せないと失望していた人間が、もう一度人間を愛そうと思えること、それが救いです。イエス・キリストは人間に救いを示す存在です。人を捕る漁師にさせるとは、人を支配するようになるという意味ではありません。人を捕る漁師になるとは、人間を愛し、人間を大切に守る者になるということです。人間を愛せる者としようということです。それが私たちの救いです。イエス・キリストのように、人間を愛せることが救いです。それよりも大きな救いはありません。イエス・キリストはその愛に、救いに人間を招いています。

 

教会とはこのように救いに招かれた者の集まりです。教会に集い、み言葉に出会い、イエス・キリストに出会った者は変えられます。人間を愛する者へと変えられてゆきます。教会はそのように人間を愛するために集められた群れです。私たちは愛し合い、大切にしあう様に招かれた群れなのです。そして教会は礼拝します。教会は神の愛の招きが繰り返しあることを覚えて、毎週礼拝します。ペテロがイエス・キリストに出会い、イエスに膝まづいたように、教会も毎週、礼拝をするのです。

 

今日いつもとは違う視点で、聖書を読みました。神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださるお方です。イエス・キリストはすべての人間を愛に招くお方です。すべての人間は罪深い存在ですが、イエス・キリストに従うことによって変えられ、救われます。人間は救われると、人間を愛することができようになります。教会とはそのように神に招かれた、救いに招かれた者の集まりです。そこで人間は礼拝をするのです。

私たちは今日の個所から神様、イエス・キリスト、人間、救い、教会、礼拝について考えました。これからもこの主イエス・キリストから、主にある希望をいただいてゆきましょう。お祈りします。

 

【全文】「ひと皮むく神」ルカ3章15~18節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、神様に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音と共に礼拝をしましょう。今日は礼拝の中で、成人祝福祈祷を行う予定です。実は昨年から法律が変わり、「成人」の年齢は20歳から18歳に変わりました。平塚市の成人式も「はたちのつどい」と名前が変わったそうです。法律上は18歳ですでに「成人」ですが、とりあえず今年の教会は成人祝福祈祷とします。来年は「はたち祝福祈祷」でしょうか? 

これは神様に若者たちがここまで成長してきたことを感謝する祈りです。そして若者のこれからの人生に神様の守りがあるように祈ります。互いの感謝と守りはいつも祈っていることですが、20歳という人生の大きな節目を迎える時を、改めて神様に祈りたいと思います。クリスマスはこどもたちや赤ちゃん、それを囲むママたちの物語を読みました。元旦の主日礼拝は高齢者を覚えました。今日は若者を覚えます。神様はあらゆる年齢の者、すべての人を祝福しています。神様からの祝福とはつまり神様が「いいね」と言ってくれているということです。

成人を迎えたからには、ぜひ自覚と責任をもって生きて欲しいと上から言いたいところですが、実は当の私が成人としての自覚が足りていません。私たちもまだまだこどものようなものです。こどものようなわがままを言ったり、こどものような失敗をしたり、こどものような言い訳をしたりします。年を重ねるごとにわがままになっていったりするものです。18歳、20歳に関わらず、すべての大人たちが、もう一度自分が成人であることを自覚しなければいけないでしょう。

神様はこどもも、親も、高齢者も、若者も、すべての命を喜んでくださるお方です。それぞれの世代に良さと不足があります。私たちはその互いの命を祈り合いたいと思います。互いの命を祈りあいましょう。私は高齢者のように祈りたいし、若者のように祈りたいのです。そして自分のわがままに生きるのではなく、自分のためにだけに生きるのではなく、他者のために生きたい、そう思うのです。

今日も聖書を読みますが、このことを見てゆきましょう。神様はすべての命を喜んでくださるお方です。「いいね」と言ってくださるお方です。そして、自分のためだけではなく、他者のために生きるように、他者を下支えする様な人になるように、そう聖書は語っているということを見てゆきましょう。聖書を読みましょう。

 

今日はルカ福音書3章15節~22節をお読みしました。イエス様はよく神様の特徴を説明するのに、農作業を例に挙げました。聞いていた人々のほとんどが農民でしたから、神様の特徴を農作業に例えると、とてもよく理解できたのです。今日のヨハネも、他の個所と同じように神様の特徴を農作業にたとえています。今日はもみ殻を取る作業です。

おそらく当時の人々が食べたのは大麦か小麦でしょう。麦は収穫されると、まずよく乾燥させます。そして叩いて穂先の粒だけを取り、殻を割ります。打穀です。そしてさらに実の周りについているもみ殻を取ります。それを箕(み)というカゴに移し、空に舞い上げました。舞い上げたところに風が吹くと、もみ殻やごみが吹き飛ばされたのです。もみ殻やごみだけが、宙を舞い地面に落ちたのです。そうやってようやく食べられる部分が出てきます。さらに実際は食べる前には、それを臼でひいて、粉にして、こねて、焼いて、パンにしました。気が遠くなります。もみ殻は乾燥しているので、とても良く燃えるそうです。一度火がつくとなかなか火は消えません。でもきっと昔はなんでも無駄にしなかったでしょう。燃やしたもみ殻はよい肥料になるそうです。

17節には、神様はもみ殻を吹き飛ばし、燃やし尽くすお方だとあります。このもみ殻とは何を指しているのでしょうか。ここには神様の選びが書かれていると言われます。神様は麦の実ともみ殻を分け、もみ殻を永遠に消えない炎に投げ入れる方です。これは神様がキリスト教を信仰する人としない人をふるい分けるということでしょうか。神様は信じない人をもみ殻のように吹き飛ばし、地獄の消えない火へ投げ込むというのでしょうか。教会に通う人と、教会に通わない人をふるい分け、教会に通わない人を地獄に追いやるのでしょうか。バプテスマを受けた人と受けてない人をふるい分け、バプテスマを受けていない人に天罰を与え、地獄に落とすのでしょうか。もし聖書に書いてある神がそのような神であるなら、私は絶対信じたくありません。そんな神様は嫌です。そんな罰を与えるだけの神様なら信じたくありません。

実はヨハネも厳しい神様の姿を想像していたかもしれません。ヨハネも自分の思う神様の特徴を農業の風景でたとえています。9節には「良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」とあります。ここで切り倒されるのは実ができない木ではなく、よい実をつけないです。実を1個食べてまずいだと思ったら、根っこから切り倒してしまう神様です。これは相当厳しい神様のイメージです。

でもヨハネは同時に言っています。16節、私より優れた方がやって来ると。私よりも優れた、イエス・キリストがあなたたちに訪れると言っています。それはまるでもっと優しい神様が来ると言っているように聞こえます。神様は私たちの一部分がダメだからといって、すべてを燃える炎に、地獄に投げ込まれるような厳しい方ではありません。麦ともみ殻の話をどう理解したらよいでしょうか。私はこうも理解できると思います。

私たち一人一人は麦の穂です。もみ殻とは私たちの一部分です。でももみ殻は本当の私たちには必要のない部分です。それは私たちの欠点とも言えるでしょうか。私たちの罪、私たちの欠け、私たちの良くないところ、それがもみ殻です。神様は私たちにとって、必要なものと、必要ないものをふるい分けて下さるお方です。そして神様は私たちの良い部分だけを残してくださるお方なのです。私たちはみんな余計な部分があります。不必要な部分があります。悪いところがあります。神様はそれを良い部分だけにするために、ふるい取り分けて下さるお方なのです。私たちのもみ殻は風に吹かれると、吹き飛ばされて無くなってゆきます。聖霊という言葉も出てきますが、聖霊は風とも読み替えることができる言葉です。聖霊、すなわち風が私たちの間に吹いて、私たちのもみ殻を吹き飛ばしてくれるのです。神様は私たちを揺さぶり、舞い上げ、風・聖霊が私たちの不必要な部分を吹き飛ばしてくれるのです。そして私体の良い部分だけが残るのです。それが今日のたとえです。

神様はこのようにして、私たちを一皮むいてくださるお方です。むけた部分はどうなるのでしょうか。私たちのむけた部分は、永遠の炎で焼き尽くされます。神様は私たちを一皮むき、悪い部分、罪、欠点を取り払い、そしてすべて焼き尽くしてくださるお方です。

神様はそのようにして私たちをみこころにかなう者としてくださいます。私たちはこの麦の穂のように、揺らされ、ぶつかりあい、風に吹かれ、一皮むけてゆきます。不必要な部分が取り除かれてゆきます。教会とは脱穀場のような場所でしょうか。教会は脱穀場の様に一皮むけようとする人の集まりです。

私たちだけが正しい、教会以外は、クリスチャン以外は救われないと思う人もいるでしょうか。それはまだ一皮むけていない考えかもしれません。そんな思いは神様に揺さぶられ、聖霊と風に吹かれ、吹き飛んで燃やされて、無くなればいいと私個人は思います。神様はきっと、一粒残らずすべての命を、大切に思い、守ってくださるお方です。

16節でヨハネは、私はイエス様の履物の紐をほどく値打ちもない者だと言っています。履物の紐をほどくとは、当時の奴隷の仕事で、奴隷でも嫌がる仕事だったそうです。それをする価値すらも自分にはないということは、私など神様の前に価値がないと思っていたのでしょう。自分は必ず罰が当たる存在だと思っていたのです。しかしイエス様はどうだったでしょう。イエス様は他の聖書の個所によれば、弟子たちの足を洗ったお方です。イエス様は弟子の履物の紐をほどき、さらに足を洗ったお方でした。イエス様はこのように、人の下に立とうとしたお方です。へりくだったお方、低い場所から物事をみたお方、謙虚であったお方です。決して上から裁いて地獄に落とす方ではありません。

私はそんなイエス様、良い人だと思います。この姿こそ成人の姿だと思います。成人とは年齢によって自動的に迎えるものではないでしょう。成人とは神様の風に吹かれて、もみ殻が焼き払われた人です。そしてもみ殻が吹き飛ばされて、一皮むけた人は、きっとイエス様のように生きるようになります。他者のために働くようになるのです。他者の上に立ち、裁き、滅ぼすのでありません。本当に神様の風に吹かれた者は、他者を下支えする者となるのです。それは他者の靴を脱ぐ、履くの手伝いができる人です。これがイエス様の姿です。

私たちはこの後、成人祝福祈祷の時を持ちます。神様にこれまでの命に感謝し、これからの命の守りを祈ります。一人一人のもみ殻が吹き飛ばされ、燃やされ、実だけが残るように、豊かな人生が歩めるように祈ります。そして他者の履物の紐をほどくような、仕える者、他者を下支えするような者になって欲しいと願います。

私たちはそのような者、そのような大人になりたい一人一人です。私たちも神様の風に吹かれ続けてゆきましょう。そして他者に仕える者、他者を下支えする者になってゆきましょう。今日私たちは、お互いに神様の風が豊かに吹くように祈りましょう。お祈りします。

 

【全文】「高齢者を大切にする教会」ルカ2章21~40節

みなさん、あけましておめでとうございます。年の初め1月1日から礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を足音を聞きながら礼拝をしましょう。クリスマスを無事終えてほっとしています。クリスマスは赤ちゃんを囲んだ物語でした。教会にもたくさんのこどもたちが訪ねてくれました。自然と教会でもこどもの話題が多くなる時期でした。来週は成人の日もあります。この期間は特に若い人にスポットが当たり続ける期間かもしれません。

私たちはこどもを大切にする教会です。しかしもちろん私たちは高齢者を大切にしない教会ではありません。事実、この教会は高齢者が大切にされていると思います。この教会は若さを大切にしているわけではありません。若々しくいることを大切にしているわけではないのです。0歳も100歳も、小さくても、長くても、どんな命でも大切にできる教会になりたいのです。それを象徴するものとして、平塚教会はこどもを大切にする教会ですと語っています。

年が変わって新年度が近づくと、多くの教会で、就職や進学で引っ越しをする若者がいます。大人たちにとっては、旅立つこどもが、引っ越し先でちゃんと教会に通うかどうかが心配です。良い教会にめぐり会って欲しいのですが、なかなか定着するのは難しいものです。あの教会に行っても若い人がいない、少ない、高齢者ばかりだと嘆きを聞くことがあります。しかしある先輩牧師は、引っ越し先で教会を探すときは、高齢者がたくさんいる教会を選びなさいと言っていました。高齢者がたくさんいる教会は、教会の中でそれだけ長く信仰を持てる教会だということだからです。教会の高齢者は、信仰を長く育むことができるというしるしなのです。若い人がたくさんいて、元気のある教会もいいけれど、ぜひ高齢者のたくさんいる教会に通うようにと勧めていました。よいアドバイスだと思います。

神様を信じる信仰を持つことは素晴らしいことです。熱意を持って信じることができればなおさらです。でも信仰を長く途切れずに持ち続けることは、きっとそれより難しい事です。きっとクリスチャンになってもつらい事、悲しい事、うれしい事はたくさんあるはずです。そのような人生の中で信仰を持ち続けることはとても難しいことですが、それこそが大切なことです。そんな時私たちを励ましてくれるのは、信仰を持ち続けた先輩の存在です。教会には長い人生の中で、紆余曲折、様々な苦労をしながらも、信仰を守り続けてきた人がいます。その方の話が、その方の信仰が、その方の存在が、私たちの身に染みて、励ましてくれるのです。私もいつも励まされています。高齢の方に「大丈夫だからね、神様がいるから」と言われるととても安心します。重みが違うのです。

私たちは高齢者の話を良く聞く教会になりたいのです。信仰を守り続けた高齢者から元気をもらいたいのです。そしていつか私もあのおばあちゃん、あのおじいちゃんみたくなりたいと思います。あの人のようになりたい、そう若者があこがれる高齢者がたくさんいる教会になってゆきたいと思いますし、すでにたくさんいると思います。

今日は新年最初の礼拝です。この1年の始まりを「高齢者を大切にする教会」という話から始めたいと思います。聖書から老いることについて考えたいと思います。聖書の中にある、信じ続けた高齢者の話を見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

今日の個所はルカ2章21~40節です。マリアとヨセフは赤ちゃんのイエス様を連れて、神殿に来ました。献げ物をするためです。神殿の祭司はこの両親を迎えるのが仕事だったはずです。おそらく祭司は他のこどもと同じように律法通りに献げ物を受け取り、二人を見送りました。祭司はイエス様と他のこどもとの違いに全く気付きませんでした。マルコとヨセフは他のこどもと同じように献げ物を済ませ神殿から帰ろうとします。そして二人とイエス様は神殿の境内でシメオンという人と出会います。

シメオンとはどんな人でしょうか。29節でシメオンは「この僕を安らかに去らせてくださいます」と言っています。この言葉から彼は相当長く、救い主の誕生を待ち望んでいたと考えられます。おそらくシメオンは高齢者だったのではないかと言われています。シメオンを想像します。彼は白髪でしわしわの老人だったかもしれません。杖をついて、むこうからゆっくり歩いて来る、衰えた老人かもしれません。でも31節からは、シメオンのあふれる豊かな感情が伝わってきます。イエス様に出会って、これはすべての人の救いだ、光だ、誉れだと興奮して喜んでいます。この時を待っていたのだ、私は主イエスに出会えてとてもうれしいと、彼の顔がまぶしく輝いているのを想像できます。これもイエス様が生まれてすぐ、クリスマスの8日目の物語です。でもどうしてクリスマスは赤ちゃんばかりが登場するのでしょう。クリスマスにイエス様の誕生を祝ったのは羊飼いと博士だけではありません。シメオンもその一人です。シメオンのしわだらけでも、キラキラした目を想像します。赤ちゃんを抱いて、救い主を賛美するおじいちゃんは、クリスマスのすばらしい登場人物です。

シメオンは長く信仰を貫いてきた人です。ずっと待っていた人です。楽しい時も、苦しい時も、病気の時もあったでしょう。それでも待ち続けた人です。そして彼は神殿に通い続けた人です。今日こそは救い主に会えるだろうか、彼はきっと彼はそう思いながら毎日神殿に行きました。毎日、祈り、礼拝したのです。彼はそのように、人生の紆余曲折を経ながらも、息の長い信仰を持ち、礼拝を続けた人です。彼はイエス様と出会って、これで私の役目は終わったと言います。でも私は想像します。まだまだ生きたのではないでしょうか。だってこんなに喜んでいるのです。この誕生と出会いから元気と活力をいただいたのです。きっと彼はもうしばらく生きたはずです。

36節以降にはもう一人の高齢者が登場します。アンナは84歳だったとあります。この個所は原文では結婚して夫を亡くしてから84年間だったとも読める箇所です。もしかすると100歳を超えていたかもしれません。いずれにしても非常に年をとっていたのです。38節には彼女もまた「近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。彼女も腰が曲がっていたでしょうか。しわだらけだったかもしれません。でも想像します。彼女もきっと輝きと、感謝にあふれていた晴れやかな顔をしていたに違いありません。

彼女の人生には困難なことがあったと記されています。彼女はずいぶん前に夫を亡くしています。彼女は人生のパートナーを失う、深い悲しみを経験した女性です。でも彼女はそれでも信仰を捨てなかった人です。いえむしろ、人生に悲しみがあったからこそ、その悲しみを深く知り、悲しむ人のために祈り続けた人でした。「大丈夫、神様がいるから」と神様の慰めを語り続けた人でした。若い者のために幼い者のために祈ることができた人でした。そして37節、彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた人でした。

祭司はイエス様と他の人間にまったく違いを感じませんでした。だから、規定通りに事を終えたのです。しかしこの二人の高齢者は違いました。彼らは、この人こそ救い主だと、救い主を見極めたのです。それは祭司にはできませんでした。本当に救い主を見抜くことができたのは、信仰と人生の経験を深めた、年を重ねた信仰者だったのです。

人は死ぬ前に衰えを感じてゆくものです。それに恐れを感じる時もあります。実際に衰えてゆくのはつらい事です。できないことが増えていくのに、もどかしいように感じるでしょう。でも私たちはこの二人の高齢者に励まされます。彼らは衰えてもなお、神殿に通い続けたのです。衰えや不自由の中でも礼拝を続けたのです。彼らこそ、神の言葉、神との出会いを待ち続けた人でした。神殿に通い続け、信仰を守り続けた人でした。そのような人こそが、本当の救い主を見極めることができるのです。そのよう人が、周囲の人を励ますことができるのです。

私たちの教会に目を移します。私たちの教会にもシメオンとアンナがたくさんいます。こどもを抱いて、喜んで、大事にする、高齢者がたくさんいます。こどもと出会って目を輝かせている方がたくさんいます。そしてその方たちは信仰を守り続けた方です。人生の様々な苦労がありながらも、信仰を持ち続けた人、礼拝に通い続けた方々です。この教会のシメオンと、アンナです。

私たちはこの教会のおじいちゃんとおばあちゃん、シメオンとアンナのような、長い信仰をいただきたいと思います。人生には様々なことがあり、年老いてゆき、肉体は衰えてゆきます。そして人はやがて天に召されてゆきます。でもそれでも信仰を守り続け、礼拝をし続ける者に、私もなりたいと願います。

そしていつか、これで地上の役割が十分果たせたと思う時が来るでしょうか。私の地上の仕事は終わりました。礼拝し続け、あなたを待ち続けることができました。そう言える時が来るでしょうか。そう言えるように生きたいのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。わたしたちは高齢者を大切にする教会です。高齢者が赤ちゃんを喜ぶ教会です。私たちには今日、新しい1年が与えられました。今年も1年、健康に気を付けて、礼拝をし続けましょう。自分の命が続く限り礼拝し、主を待ち望む、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「こどもの声が希望のしるし」ルカ2章8~20節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。また私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

今日はこの後パーティーがあります。とても楽しみで、ワクワクしています。この後、楽しいことがあるから、説教を短くしたいと思っています。料理も楽しみだし、ゲームや出し物も楽しみです。こんなに楽しい、楽しみと思えるのは、みんなが楽しそうだからです。みんなが楽しそうにしているのを見て、なんだか自分も楽しくなります。こどもたちの声や笑顔がうれしいです。おじいちゃんおばあちゃんの声や笑顔がうれしいです。「本当のクリスマスというのはパーティーをする日ではありません、礼拝をする日です」教会はそう言ってきました。しかし、とにかく楽しむということもクリスマスにはふさわしいいのではないでしょうか。楽しい雰囲気を大事にしましょう。教会はこの礼拝と、この後のパーティーに、たくさんの人に加わって欲しいと思っています。今日、イエス様の誕生を祝いたいと思っている人、寂しいと思っている人、せっかくのクリスマスなのに予定が無い人、そのような人といっしょに礼拝し、パーティーをしたいのです。今日もし、なかなか希望を持てないという人がいたら、一緒に礼拝しパーティーしたいのです!

今日は今年1年の最後の礼拝でもあります。今年は楽しい事ばかりではありませんでした。特にウクライナの戦争に心を痛めます。戦争はまだ続いています。ウクライナからロシア本土への攻撃も始まっています。この戦争はプーチンが悪で、ゼレンスキーが正義かのように報道されました。でもウクライナに武器を提供してきた西側諸国が正しくて、ロシアが間違っているのでしょうか。そもそも戦争に正義はあるのでしょうか。正義のための戦争があるのでしょうか。きっとそんなものはありません。正しい戦争はありません。すべての戦争が間違えです。ゼレンスキーもプーチンも間違っています。

日本も軍事費(防衛費)を倍増させる議論が続いています。私たちは武器を買うために追加で毎年1兆円の税金を納めることが求められています。正しい戦争はありません。武器は必要ありません。私たちはこんなに生活が苦しいのです。武器を捨てて、鋤を持てです。私たちがしたいのは壊すことではなく、育むことです。欲しいのは武器ではなく食べ物です。政治が間違っています。自分たちは使途不明金がたくさんあるのに、国民からは軍事費をきっちり徴収するそうです。

暗い時代だと思います。お互いの軍事力に恐れを持ち、より強い軍事力が必要だと思い込んでいる世界です。息苦しい世界です。10年後、20年後の日本や世界はどうなっているのでしょうか。こんな暗い時代、息苦しい時代に希望はどこにあるでしょうか。

希望一つはこの後のパーティーが楽しいことでしょう。そして希望はこのような暗い時代の中でも、イエス様が私たちの心に光として来てくださることでしょう。今日は聖書から息苦しい時代にある喜び、イエス・キリストが私たちにあるという希望について見たいと思います。

 

 

今日はルカ福音書2章8~20節です。ルカ福音書はイエス様の誕生について事細かに記しています。しかしこれまで読んできて気づくのは、イエス様の誕生そのものについてはあまり記載がないということです。たくさんの記載があるのは、イエス様の誕生に際しての周りの人々の様子です。アドベントの期間の宣教はイエス様の誕生を迎える人々の様子を見てきました。そして今日注目したいのは、イエス様の誕生は社会情勢と密接に関係していたということです。ルカ2章1節には、皇帝からの勅令があったこと、どのような総督の時代にあったのかが記されています。この誕生物語は世界の情勢・政治と関係があると示されているのです。

先日こどもに、皇帝アウグストゥスとはどんな人なのかと聞かれました。アウグストゥスは分裂していたローマ帝国を統一した王様です。そして世界一強い軍隊を持っていた王様です。その王様は世界最強の軍隊で、支配しました。だれも逆らえない、恐ろしい力を持つことで「平和」を実現した王様なのです。つまりこれは軍事的抑止力を使ったということです。相手より強い武器を持っていれば戦争が起きず、世界が「平和」になるという考え方です。では世界最強のローマ帝国の軍事力、その費用・軍事費はどうしたのでしょうか。それはもちろん人々からの税金です。アウグストゥスはきっちりもれなく全員から、軍事費のための税金を取り立てました。そのために2節人口調査をし、税金を集めます。そのようにして「平和」を実現したのです。税金を逃れることはできません。妊婦であろうと、人口の調査の対象です。みなが皇帝アウグストゥスを恐ろしいと感じていました。戦争のための税金が集められる、行く先が見えない時代、世界情勢です。そこにイエス様の誕生物語が置かれているのです。暗い時代、暗い社会、暗い世界情勢の一筋の光として、イエス様の誕生が描かれています。

しかし、聖書からはそういった暗さは感じられません。人々の嘆きや悲しみの声は記されていません。このような厳しい戦争の時代、貧しさ、激しい税金、赤ちゃんにとっての環境の悪さにも関わらず、何か希望を感じさせる物語になっています。汚れているはずの飼い葉桶、動物用のエサ入れの周りには大きな光があり、平安があります。クリスマスの飼い葉桶を書いた絵本がたくさんあります。その絵本はどれも、飼い葉桶は光に包まれて、赤ちゃんが安らかな顔をしています。それはきっと間違えではありません。神様は暗い時代、不安な時代に、光として、平安として、私たちに希望を与えて下さいました。神様は暴力を見せつけられている時代に、救い主を与えました。それが神からのプレゼントだったのです。

羊飼いに現れた天使は10節「恐れるな」と言います。恐れるべきことがたくさんある時代です。しかし天使は「恐れるな」と言います。大丈夫だよ、怖がらないで、必ず地に平和が来るよと呼びかけています。最も恐ろしい事、それは暴力が支配する戦争です。天使はそれを恐れるなと言います。地には平和が来る、力ではなく愛が世界を支配する時が訪れるという告知です。軍事力を恐れる必要はないということです。相手の軍事力に恐ろしさを感じた人間は、より強い軍事力を持とうとします。でもそれに恐れる必要はないのです。地には平和が来ます。その光が私たちに与えられています。恐ろしい、恐ろしい、武器が必要だと言っていないで、平和を探しなさいと言っているのです。

羊飼いはベツレヘムへと旅立ちました。恐れではなく、平和を探すために旅立ちました。天使は私たちの不安や恐れに対する答えをすぐに教えてくれたわけではありませんでした。自分たちで協力をして探すように言ったのです。私たちの人生もそうです。平和を探すのが人生です。その答えは自動的に与えられるものではありません。私たちは恐れずに、平和を探すことが求められています。

天使はしるしを教えました。そのしるしは12節、布にくるまれた赤ちゃんです。布とはおくるみや、おむつです。おむつをした赤ちゃんがしるしですと言ったのです。赤ちゃんはみんなおむつをしますから、特別な赤ちゃんではありませんでした。それではしるしになりません。よく目にする光景がしるしとされました。きっとそれは神様がわたしたちがよく見る光景におられるというしるしとなっているのでしょう。さらにしるしは飼い葉桶に寝かせられているということです。

羊飼いたちは「さあベツレヘムに行こう」といって旅立ちました。しかし、どのように赤ちゃんを探したのか疑問に思います。まさかベツレヘムの家を1件1件訪ねたのでしょうか。家の外にある洗濯物、おむつが干してある家を探したのでしょうか。それがしるしだったのでしょうか。それも夜だとしたら難しいでしょう。私の想像ですが、羊飼いはきっとこどもの声を頼りに探したのではないでしょうか。こどもの声がする場所が、泣き声と足音のする場所が、赤ちゃんのいる場所でした。羊飼いは希望のしるし、平和のしるしである、赤ちゃんの泣き声を頼りに探したのです。その声をたどって、そしてようやくイエス様に出会ったのです。

私たちは今日クリスマスを迎えています。私たちには楽しみしていることがあります。暗い時代でも、私たちは楽しみ、希望を持つことができるのです。きっと私たちがそうできるのは、イエス様の希望があるからでしょう。暗い時代にあっても、恐ろしい戦争が起こる時代にあっても、私たちも「恐れるな」と告げられています。イエス様の誕生・平和という希望があると告げられているのです。

聖書によれは、それは決して特別な場所に起こるのではありません。それはありふれた場所に起こります。私たちはつらい時もしんどい時も、恐ろしいと思う時も、希望をもって生きましょう。楽しんで生きましょう。そして、その目印はこどもです。こどもたちの声のするところに希望と平和があります。私たちの礼拝もこどもの声がしるしです。私たちもこどもの声を目印に、恐れず、希望と平和を探し続けましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「ママ友の祈り」ルカ1章39~56節

みなさん、おはようございます。今日も共に集うことができたこと、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音と共に礼拝をしましょう。

今年も1年、教会のこひつじひろば、こひつじ食堂にたくさんのこどもたちが訪ねてくれました。そして同時にたくさんの親、特にママたちも訪ねてくれました。こどもたちが仲良くしていると、自然にママ同士の仲も深まってゆきます。ママ友という言葉があります。こどもを通じた母親同士の友達のことです。教会での様子を見ていると、ママ友の絆は強いものだと感じます。ママ友には子育てという共通のミッションがあり、共通の悩みがあります。こども同士が楽しく遊ぶと、ママ同士も打ち解けやすいものです。私もときどきママ友に混ざる時がありますが、本当に話題は尽きないものです。こどもの成長の事や食事のこと、どんな予防接種を打ったか、よく遊びに行かせるところはどこか、学校ではどんな出来事があったか、誕生日プレゼントは何にするかなど、いろいろな話をします。ママ友は多少年齢が離れていても、こどもの年齢が近ければ、すぐに仲良くなります。そしてときどき夫のグチを言い合っているのも聞きます。「うちの夫はこうで困る」「うちもそう、まじほんと困るよね」「どうにかなんないのかしら」そんなことも話しています。

未来のこと、これからの社会のことも自然に話題になります。特に教育のこと、医療のことにはみんな関心があります。教育でいうと、平塚の市内にも大きな教育格差があって、どうやってそれを超えてゆくか、平等にしてゆくのか、進学先はどうするのか、そんな話題もママ友の間ではよくあります。

ママ友に限らず大人は、こどもが身近にいることで、未来や社会がより身近になります。こどもが身近にいれば、この子たちが大人になった時に困らないように、今どんな教育が必要のかを考えるようになります。こどもが身近にいれば、この子が大人になったとき、未来はどんな世界で、どのように暮らすのかを想像するようになります。そのように、こどもたちは私たちに、未来や社会について考えさせてくれるのです。こどもたちが身近にいると、私たちには未来への祈りが湧いてきます。こどもたちが身近いると、いままで気にならなかった社会のことが、気になるようになります。

今日の聖書箇所もそのようなことだと思います。最もこどもを身近に感じているのは、お腹に赤ちゃんが入っている妊婦です。今日のマリアの祈りはこどもが最も身近にいる人の祈りです。こどもが身近にいて、未来について考えさせられ、生まれた祈りです。

私たちもこどもプロジェクトを進めています。そして私たちは未来を考えています。私たちは今、こどもと関わり持ったからこそ、未来を想像し、未来へと祈ってゆくことができるのではないでしょうか。私たちはこどもが身近になり、そして未来への祈りが与えられています。世界のことを祈る者にされています。今日はこどもを通じて、私たちに与えられる祈りを聖書から見てゆきたいと思います。そしてこどもの命を喜び、未来を語ることを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日はルカによる福音書1章39節~54節です。マリアがエリサベトを訪問するという物語です。マリアはなぜエリサベトを訪問したのでしょうか。一番は天使ガブリエルからのお告げ、エリサベトの妊娠を確かめるためでしょう。しかし、その滞在は3か月だったとあります。妊娠しているかどうかの確認だけには長すぎる滞在です。マリアも妊婦です。妊婦が旅先に3か月も滞在した動機は何だったのでしょうか。おそらくマリアはエリサベトの出産直前にナザレに帰っています。マリアは出産の手伝いをしたわけでもない様子です。ではどうして3か月も滞在したのでしょうか。想像します。おそらくエリザベトとマリアは3か月間たくさんのことを話し合ったのではないでしょうか。今で言うところのママ友だったのではないでしょうか。あるいは妊娠中の友達のことはマタニティの友達、マタ友とも言うそうです。二人は同じ時期に妊娠した者同士、そして不思議な妊娠をした者同士、親族同士、つよい絆を感じていたのではないでしょうか。

きっとマリアはママ友を訪ねるために、遠くの親族を訪ねたのです。片道3日間かかる道のりだったと言います。妊婦が一人で3日間の旅をし、旅先で3か月滞在するのは、かなり注意が必要です。しかし、マリアはそれほどまでにこの妊娠について、そしてこれから先のことを分かち合う仲間に会いたかったのです。マリアはママ友と話したかったのです。ママ友に会いに3日間歩き、ママ友と3か月過ごしたのです。ママ友は、互いに会えたことを喜んでいます。エリサベトは42節で「あなたは祝福されている」と言います。マリアも47節「神を喜びます」とあります。おめでとうとお互いに声を掛け合ったということです。お腹のこどもも動きました。お腹のこどもも喜んでいるのでしょうか。マリアとエリサベトは互いの出会いと、互いに生まれてくるこどもの命を喜びあっています。

マリアとエリサベト、二人のママ友はいろいろなことを話したでしょう。こどもの成長のこと、家族のこと。夫のグチも言い合ったでしょうか。ママ友の会話を想像します。「うちの夫ヨセフは私が結婚前に妊娠して相当ビビっていたわ。でもようやく受け入れてくれたわよ。まあよく頑張ってる方かしらね。」「あらいいわね、うちの夫ザカリヤなんか私が妊娠してからひと言もしゃべんないのよ。まあ家が静かでいいけどね。」「でもこれから住民登録があるわよね、エリサベトは、生まれてすぐの小さい赤ちゃんと住民登録に行くのは大変でしょうね。」「あなただって出産時期と重なるから気を付けてね、まさか旅先で産気づかないか心配だわ(笑)。」そんなママ友の会話が延々と3か月続いたでしょうか。

そして現代のママ友と同じように社会のことも話題になったはずです。将来この社会はどうなるのか。今どんな問題点があるのかを話し合ったはずです。マリアの祈りはそのような、ママ友との会話の中で紡がれた祈りだったのではないでしょうか。マリアの祈り、それはママ友と過ごす時間の中で与えられた祈り「ママ友の祈り」だったのではないでしょうか。

このマリアの祈りは前半と後半に分けることができると言われています。前半の50節までは妊娠の喜び、自身のことを祈っています。そして51節からは社会全体について祈っています。こどもたちの未来を考えた祈り、それが51節以降の祈りです。おそらくマリアたちにとって、こどもが身近になったからこそ、社会の権力構造や格差に目が行くようになったのでしょう。こどもたちが生きていく世界のことを考えると、その社会構造や不平等について祈らざるを得なかったのでしょう。こどもたちにはもっと平和で、平等な社会に育って欲しい。これはそのようなこどもたちの未来を考えた祈りです。

ママ友であるマリアとエリサベトはたくさんの対話をしました。互いを喜び、励まし合いました。そしてこのこどもたちが育つ社会がもっと良いものになって欲しいと語りあいました。マリアとエリサベトの対話、それがマリアの祈りとなりました。この祈りはきっとママ友の祈りなのです。

ある注解書を読んでいると、こんな言葉がありました「富める者と貧しい者の社会的境遇の逆転という社会革命を、年若い未婚女性が祈ったとは考えづらく、きわめて不自然である」。妊娠中のママは、社会正義や不平等の解消を祈らないだろうというのです。この注解書を書いた学者は、少し想像力が足りないかもしれません。こどもがいるから、未来について考えるのです。こどもがいるから不平等について考えるのです。自分のことだったら「世の中はそういうのも、しょうがない」で終わるかもしれません。でもこどもたちの未来ことだから、強く願い、強く祈るようになるのです。こどもが身近だからこそ、こどもたちが成長する世界、成長したあとの世界が、自由で平等であると祈るようになるのです。

こどもが身近になると、未来への祈りが湧いてきます。そしてそれは今の私たちにも起きていることではないでしょうか。私たちもこどもたちがいるからこそ、未来に目が向くのでしょう。こどもたちがいるから社会に目が向くのでしょう。こどもとかかわりを始めたマリアだからこそ、社会の平等を祈れたように、私たちもこどもたちと関わる時、社会の平等や正義を祈ることができるようになるのではないでしょうか。自分のことはさておき、こどもたちの事を祈ることができるのではないでしょうか。

神様はこのようにして、こどもを通じて、私たちに新しい祈りを与えられます。神様はこどもを通じて私たちに未来を考え、今を変えるように、そして祈るように、促しておられます。そのような祈りを私たちもしたいのです。こどもたちのための祈り、そしてこどもたちの未来への祈り、それを私たちも大切にしたいのです。そして私たちもマリアとエリサベトのように、こどもの命を喜びあいたいのです。マリアとエリサベトのようにこどもの命を温かく迎えたいのです。未来を共に語りあいたいのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを大切にすると、未来を考えるようになります。こどもを大切にすると、世界を考えるようになります。来週はクリスマスです。街や教会でこどもたちの笑顔をたくさん見ることができるでしょう。その命を互いに喜びあいましょう。そして未来について祈ってゆきましょう。お祈りいたします。

 

【全文】「すべての命がふさわしい」 ルカ1章26~38節

みなさん、おはようございます。アドベントの礼拝をみなさんと共に持つことができること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。こどもたちの声も足音もこの礼拝の一部です。

私たちの教会では事情があって泊まる場所のない方をお泊めするシェルターを運営しています。場所は安全上の問題から非公開です。先日もそのシェルターの利用がありました。こひつじ食堂が終わって疲れていた夜でした。平塚社会福祉協議会から連絡があり、住居がなく困っている夫婦をシェルターに泊めてあげて欲しいという依頼を受けました。このご夫婦は事情があって家を出なくてはならず、ホテルで生活をしていたそうです。しかし所持金がなくなって、今日泊まる場所がなくなってしまいました。そして泊まる場所がないだけではありません。聞けばなんとその女性は妊娠をしているのだそうです。

食堂が終わって疲れていて、できれば利用を断りたいと思っていました。しかし妊娠した女性とその夫が、今日泊まる場所が無いという事情を、私は無視することができませんでした。私が引き受けなければ今日は野宿しなければいけないということ以上の問題です。私は聖書のある物語を思い出します。聖書に登場する今日寝る場所のない夫婦の物語です。マリアもこのご夫婦の様に妊娠中に今日寝る場所を夫ヨセフと探していたのです。このような夫婦が教会を訪ね、泊めて欲しいと言われた時、断ることができる教会があるでしょうか?そして私たちは何より、こどもを大切にする教会です。大人は多少しんどくても我慢できます。でも、こどもにそれを強いてはいけません。こどもの命のために、シェルター利用を受け付けました。お二人は夜9時頃、教会を訪ねて来られました。

翌朝、ご本人たちから話を聞けばお二人のお金のこと、家族の事、いろいろな課題がありました。この後の人生をどう生きるかを二人は決めなくてはいけません。これからの自分たちの人生に責任を取ることも必要になってくるでしょう。人一倍苦労し、生活の再建をしてゆかなければならないでしょう。大人たちには自分の人生に責任があります。しかし生まれてくるこどもは別の話です。親がどんなに貧しく、どんなに問題を抱えていても、こどもに一切の非はありません。こどもの命は育まれ、大切にされなくてはいけません。こどもはどんな家に生まれても、どんな親のもとに生まれても、どんな生まれ方をしても、大切な命です。どの命も大切な命です。家柄や、貧しさや、両親によって、健康に生まれてくることができなかったり、人生の機会が失われたり、差別されたりしてはいけません。すべてのこどもの命は守られ、育まれなければならないです。

生まれてくるのにふさわしくない命、生きるのにふさわしくない命、そんな命はありません。すべての命が大切にされるべき命です。守られなくてもしょうがない命はありません。死んでしまってもしょうがない命はありません。こどもにおいては特にそうです。お二人は10日ほど滞在し、様々な人の助けを受けてアパートへと引っ越されてゆきました。

今日は聖書から命について考えたいと思います。聖書からふさわしい命とか、ふさわしくない命というものはないのだということ。すべての命が神様にとってふさわしいのだということを見ます。すべての命を大切にしたいのです。そしてむしろ、私たちがふさわしくないと思う、そのような場所に、そのような人に神様が来て下さる、そのことを見てゆきたいと思います。今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。

 

 

今日の聖書箇所はルカ1章26~38節、受胎告知と呼ばれる箇所です。教会学校でも分かち合われた箇所だと思いますが、どんな言葉が交わされたでしょうか。

聖書によれば、イエス様が生まれたのは男女の性交によるものではなく、奇跡による受胎だったとあります。現代において、初めてこの話を聞いた人のなかでどれほどの人がこの話を「そのまま」信じることができるでしょうか。私はさまざまな解釈の可能性があると思いますし、開かれた議論が必要だと思います。少なくとも日本には昔から、こどもは天からの授かりものだという言葉があります。どの命も、天からの授かりものなのです。

イエス・キリストは神の子、人類の救い主です。神の子なのだから、普通の人と違った妊娠方法であるということは当然でしょうか。それにしても、これはかなり特殊な出生です。もし現代でそのようなことが起きたらどうでしょうか。こどもは奇異の目で見られ、学校でいじめられるでしょうか。しかし聖書を見ると、イエス様の出生を批判する人、奇跡の様子を話す人は一人もいません。おそらくイエス様は、このような特殊な出生の逸話が残っているにも関わらず、他のこどもと同じように、育てられました。それは不思議なことです。イエス様は他のこどもとほとんど変わらない扱いを受けました。他のこどもと同じように、貧しい家に生まれ、貧しい家庭に育ったのです。

貧しい家に生まれたことはキリストにはふさわしくないと思うかもしれません。ではキリストにふさわしい妊娠や育ちとはなんでしょうか。どのような生まれ方がキリストにふさわしかったのでしょうか。もしかするともっと選ばれた親や選ばれた環境、選ばれたタイミングがあったはずです。例えば神の子は大祭司のこどもとして生まれる、王様のこどもとして生まれることもできたはずです。人類の救い主なら、貧しい家のこどもよりも、王様のこどもの方がふさわしいのではないでしょうか。

しかしイエス様の出生の不思議は、ふさわしくないと思える場所に起こります。まずその妊娠は34節にもあるように、結婚する前に起こります。結婚前の妊娠は当時のユダヤの律法に違反するものでした。周囲から見れば、それはふさわしくない妊娠でした。神の子なら、もっとふさわしい生まれ方があったはずです。しかしその妊娠は、結婚前の律法違反の妊娠で、貧しい親の妊娠で、出産場所に困る妊娠でした。しかし神の子はそこに生まれたのです。神の出来事は私たちがふさわしいと思う場所ではない場所に起こりました。マリアに起きました。

マリアと私たちにはどのくらいの差があるでしょうか。マリアは世界一信仰深い女性だったから、神様に選ばれて妊娠したのでしょうか。神様は最もふさわしい人を選んで、妊娠させたのでしょうか?私はそうは思いません。マリアにも当然、戸惑いと疑いがありました。29節にはいったい何のことかと戸惑ったとあります。彼女も信じられなかったのです。この戸惑ったには計算するという意味を含みます。マリアはこの後の自分の人生に何が起こるか、計算をしたのです。周囲からどのような視線を受けるか、ヨセフとの関係にどのような変化があるのか、とっさに計算したのです。

そしてなぜ自分にそんなことが起るのかも考えたはずです。他のナザレで生きる女性と同じように生きている自分に、同じように貧しい自分に、なぜこのようなことが起るのかを思いめぐらせました。彼女は不安と疑問でいっぱいだったはずです。なぜ私にと思ったはずです。私よりもっとふさわしい人がいっぱいいるはずなのに、なぜ私が。いまよりもっとふさわしいタイミングがあるはずなのに、なぜ今、神の子を妊娠するのかと思ったはずです。彼女はその後38節「お言葉どおり、この身に成りますようにと」言っています。すべてを受け入れたように書いてあります。でもそこにはきっと信じられない思いや不安がありました。もっとふさわしい人がいる、ふさわしい時があるという思いがありました。

しかし、マリアに神の子は宿りました。もっとふさわしい人がいる、わたしなどふさわしくない、そんな思いを持つマリアに、神の子の命は宿ったのです。そうです、わたしなどふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。今はふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。

神様はこのようなお方です。神様は私たちのふさわしさを超えるお方です。ふさわしくないと思うところに神の出来事は起ります。そして神様は神の子を産むのに、これはふさわしい命、これはふさわしくない命と選ばなかったお方です。神様は自分の子を地上に生まれさせるにあたって、親や、環境や経済力をもってふさわしいとしたのではありません。神の子は私たちがふさわしいと思う生まれ方はしませんでした。神の子はふさわしくないと思う人に、ふさわしくないと思うタイミングで、ふさわしくない場所で生まれたのです。

神様はこのことによって、生まれ方や、育ち、環境で命の優劣はないということを示しています。神様は命の優劣をつけないお方です。神様にとってふさわしい命、ふさわしくない命はないのです。ふさわしい生まれ方も、ふさわしくない生まれ方も無いということです。神様は私たちが思うふさわしさを超えて、私たちの間に生まれてくる方なのです。

神の子はふさわしくない私たちの間に生まれてくるお方なのです。神の子は私たちのどんな不足や不信仰も超えてやって来るお方です。こんな私はダメと思っている人、ふさわしくないと言われている人に神の子がやって来るのです。私なんかふさわしくないと思う、そこに神様の出来事が起こるのです。それがクリスマスです。そのように、神様はすべての命をふさわしいとされるのです。

私たちは私たちの思うふさわしさを超えてゆきましょう。神様はすべての命をふさわしい命として下さっています。私たちは互いの命、こどもの命を大切にしましょう。ひとりひとりの命が神にふさわしい命として大切にされる教会になりましょう。お祈りをいたします。

 

【全文】「神を待ち望む」ルカによる福音書1章5~25節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集うことができたこと感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの泣き声も足音も礼拝の一部としてお献げしています。共に礼拝をしましょう。

今日はアドベントの第二週です。クリスマスの到来を待ち望む期間をいただいています。私たちの心にイエス様が来ること、私たちに希望が与えられること、時間がかかったとしてもそれを待ち望み、祈ってゆきましょう。

今日は、私たちと共に礼拝をしていたAさんについて、最近の方はご存じ無いかもしれませんので、ご紹介します。彼は障がいを持っていて、支援を受けながら生活をしている50代の男性です。彼はかつて毎週日曜日、礼拝に集い、会堂に来るとすぐに、誰かを捕まえてはお祈りをしていました。最近見かけないのは、彼の通っている福祉施設の人に、コロナが終わるまで人が集まる礼拝には出ないようにと言われているからです。彼は代わりに日曜日の10時30分に、教会の前まで来て、礼拝堂には入らず、道路の脇に座って私と一緒に祈っています。

彼の願いは私が出会った4年前からずっと変わらず3つです。就職をしたい、健康でありたい、バレエを習いたいです。しかし彼は行く先々で、あなたは就職できない、あなたに仕事は無理だ、誰もあなたなんか雇わないと言われているそうです。そして大好きな食事をしていると、そんなに食べると病気になると言われているそうです。彼は毎日夕方4時半に私に電話をしてきます。電話の内容は3つの願いと、今日も誰々に就職は無理だと言われた、あなたに紹介できる仕事はないと言われたという内容です。

彼はよく「平野先生は僕が就職できると思うか」と聞いてきます。私は正直に「コロナでみんな仕事を探しているし、障がいのこともあるし、私もきっと難しいと思う」と答えています。そしてこうも付け加えています「でも無理かどうかはわからない。誰もあなたの願いを無理だと言うことはできないし、無理と言う権利もない」と。私は「それは無理そうだから祈るのは止めた方がいい」とか「私は無理だと思うので祈れません」とか「祈る内容をもう少し現実的なものに変えた方が良い」とは言いません。彼の願いが叶うようにひとまず一緒に祈ります。そして私は彼との祈りに感謝を付け加えています。いろいろな願いと不満を持ちながらも、神様に守られ、支えてくれる人がたくさん与えられていることに感謝して生きことができるようと付け加えて祈っています。

彼は自分が就職できる日をまだかまだかと待っています。周りが無理、あるいは相当難しいと言っても、彼自身はその日が必ず来る、すぐに来ると信じています。彼は信じて、祈って、待っています。時々私は彼に「これだけみんなに無理と言われてもまだ就職できるようにと祈りますか?」と聞きます。そうすると彼は必ず「まだ祈り続ける」と言います。彼はもし就職できそうな先があれば、私の車で、私と一緒に面接に行くそうです。彼は実現のイメージを持って、いつそれが起っても良い様に祈っています。

私たちは彼から学ぶことがあるでしょうか。私たちは今アドベント、待つ時をいただいています。私たちは身近にいる彼から、待つこと、辛抱強く祈り続けることを学べるのではないでしょうか。今日も聖書から待つということを学びたいと思います。そして希望を持って待つということ、祈り続けるということを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

 

 

今日の聖書箇所はルカ福音書1章5~25節です。ルカ福音書はイエス様の誕生以前を丁寧に描きます。特にヨハネの誕生については詳しく書いています。おそらくそれは、旧約聖書と新約聖書をつなげる役割をしています。読者は早くイエス様の誕生の話、奇跡の話、結末を聞きたいと思うでしょうか。でも聖書は少し待つように言っています。ユダヤ教とキリスト教の架け橋、新約聖書と旧約聖書の架け橋、これまでの時代とこれからの時代の架け橋の物語から始まります。

ザカリヤという祭司が登場します。彼はずっとこどもが欲しいと願っていましたが、年を重ねてあきらめていました。もう自分には難しいと思っていたのです。こどもがいないことは妻のエリザベトにとってもつらい事でした。当時の女性にとって妊娠しないということは、恥、神の罰と考えられました。それも女性の側だけの問題とされました。妻エリザベトは周囲から、ずっと願いが叶わない人、罰が当たった人と言われたのです。でも本当はそうではありませんでした。この夫婦は神様を一生懸命信じて、人にやさしくできる夫婦、非のうちどころのない夫婦でした。神様はそんなこの二人をいつも見守っていたのです。

ある時、ザカリヤはある時、神殿の聖所で1人でお香をたく奉仕をすることになりました。この奉仕は名誉ある奉仕です。奉仕はくじ引きで決められますが、当時の祭司は1万8000人いたと言われます。1万8000分の1の、人生に1回当たるかどうかというくじです。そして一度あたるともう一生、くじには参加できないルールになっていました。

くじ引きですから入ってすぐの新人が当たることもあったでしょう。でもザカリヤはこどもをあきらめる年齢になっても、くじに当たりませんでした。もう何十年もはずれを引き続けてきたのです。それでも待って、待って、待ってようやく当たりが出たのです。彼の神殿奉仕は、人生に一度あるかないか、待って、待って、ようやく当たった、一世一代の奉仕、名誉でした。お香をたく神殿の聖所には1人しか入ることが許されていません。そして聖所の外では大勢の民衆が祝福の祈りを待っています。民を待たせず、滞りなく済ませることが大事です。しかしそこでザカリヤに天使が現れ、こどもが生まれると予告したのです。

ザカリヤにとってくじに当たることも、こどもができることも、ずっと祈ってきたことでした。何十年も祈ったことでした。でも待っても、待っても叶わなかった願いでした。もうあきらめていたことでした。ザカリヤはようやく当たった奉仕に、複雑だったでしょう。もっと早くあたりたかったという気持ちもあったでしょう。

そして今さらこどもが生まれると言われても、それを信じることなんてできなかったのです。そのようなことを言われても、信じることも、さらにこれ以上待つことはできなかったのです。彼は求めていたのにそれを信じませんでした。彼は本当なら何か証拠となるものを示すように求めました。そして天使は話せなくなるという証拠を与えたのです。

このやりとりの間、10節大勢の民衆は外で待っていました。ザカリヤが出て来て祈るのを待っていたのです。でも他の人より手間取っている様子です。心配でした。でも待ちます。そしてザカリヤは言葉が話せなくなり戻ってきました。民衆たちはザカリヤに何かが起ったことを知ったのです。エリザベトはどうしたでしょうか。24節彼女は妊娠の事実を誰にもいわず、家にこもりました。どこにも出かけずに、待つことにしたのです。自分が確かに神様によって妊娠する、出産することを、信じて、隠れて、待ち続けたのです。彼女は自分の体に起こる変化を待ち続けました。

今日の物語は待つことがテーマになっているように思えます。ザカリヤも大勢の民衆もエリザベトもみんな待っていたのです。ザカリヤは待ちきれない時もありましたが、でも待ちました。そしてこの物語はやがて、ヨハネが生まれ、イエス様が生まれる話へとつながってゆきます。この物語はすべての人が待ち、希望へとつながってゆく物語です。

私たちは祈っても、祈っても、待っても、待っても、願いが叶わないという時があります。どれほど待っても叶わない願いがありました。願い続けるのに疲れ、祈るのを止めてしまう時があったでしょうか。私たちの教会のおいても、私たちの人生においてもそうです。どれだけ待っても、いまだ叶わない願いがあります。しかし、今日の聖書箇所によれば、もしかするとある時、その願いが叶う時が来るかもしれません。それはもう何年も前にすでにあきらめた事だったかもしれません。でも神様は、神様のタイミングでそれを起こすことがあります。まさか私たちにそんなことが起るのでしょうか。周囲から無理と言われていることが起きるでしょうか。私たちが待ち続けたけれど、もうあきらめたことが、私たちにも起こるのでしょうか?きっと誰にもそれを無理と言うことはできないでしょう。大勢の民衆が聖所の外で待ち続けました。そしてエリザベトもひっそりと待ち続けました。ザカリヤもこの後、言葉を失いながらも待ち続けました。そして人々は希望を見ました。私たちの希望もそのようにあるのでしょう。

私たちにはきっと叶わないとあきらめてしまうもの、無理と思えるものがたくさんあります。でも私たちは無理と決めつけるのではなく、共に祈り、待ちたいのです。そしてもしそれが示されるとき、大胆にその恵みを選び取りたいのです。私たちはどんなに周りに無理と言われても、自分自身さえ無理だと思っていても、希望をあきらめないでいたいのです。そしてそれが実現するときが来るかもしれません。その時、大胆にそれを選び取りたいのです。私はAさんの祈りを思い出します。あきらめずに、実現のイメージを持ち続ける祈りの大切さを学びます。

私たちは今日、クリスマスの到来を待つ時をいただいています。私たちがあきらめている希望はあるでしょうか。願い続けることに疲れてしまっているでしょうか。でも私たちは、希望を待ち続けたいと願います。細くても息の長い希望を持って歩みたいと思うのです。神様がきっと私たちに希望を与えてくださいます。そのことを信じ、待ち続けましょう。きっといつか神様は、希望へとつながる道を私たちに示してくれるはずです。

アドベントはそれを信じる時です。忘れずに待つことを覚える時です。今日、神様は私たちをその希望へと促しています。神様が私たちに希望を与えて下さること信じ、待ちましょう。きっとそれを待つ力も神様が与えてくださるはずです。お祈りします。

 

【全文】「顔を上げさせる神」ルカ21章25~33節

みなさんおはようございます。今日も共に集い、礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聴きながら礼拝しましょう。今日からアドベントです。クリスマスの到来を待ち望む時です。ろうそくを1本ずつ灯し、クリスマスを待ち望みながら礼拝をしてゆきましょう。

今日は昼食を食べた後、大掃除と飾りつけを行います。今年もいろいろあって、あっという間の1年でした。時が流れるのは本当に早いものです。教会は落ち葉の季節になりました。庭や道路にたくさんの葉が落ちています。葉がすべて落ちるまで、しばらくは落ち葉の掃除が大変な時期です。気づいた方はどうぞお手伝いください。

数年教会で過ごして気づいたのは、春と夏は雑草との戦いであること、秋は落ち葉との戦いであることです。雑草を刈るのに一生懸命だと思ったら、次は落ちてくる葉を拾うのが忙しくなります。庭の草木は、葉を茂らすことと、葉を落とすことを毎年変わらずに繰り返しています。木々にとって、葉が落ちない冬はないし、葉が茂らない夏もありません。植物はそのように確実に季節を巡っています。私たちもあとひと月ほどでクリスマスです。クリスマスも毎年必ずやってくるものです。その後には必ず春が来て、その後には必ず夏が来ます。多少の気候変動があっても、それは確実です。そのように時や季節が巡る確かさを、私たちは知っています。春は待っていても、待っていなくても必ずやって来るのです。

季節が確実に巡る一方、人生はいつも不確実です。人生は確実に時を刻むとは限りません。人生には春夏秋冬が順番に訪れるわけではありません。喜びのさなかに突然の悲しみがあり、反対に悲しみの中に突然喜びがあります。そして人間はすぐに気が変わります。人間はいつも不確実です。人間はいつも予測不可能です。人間の人生は、自然や時間の確実さとは違う、不確実さにあふれています。

アドベントとは「到来」という意味の言葉です。クリスマスの到来を待ち望む1ヶ月です。時の流れは正確です。春も12月25日も、待っていても、待っていなくても、それは確実にやって来ます。良い子にも悪い子にもクリスマスはやってきます。私たちにはそれが必ず来るでしょう。私たちはクリスマスをどう待つのかが大事です。人間がそれをどう待つのかが不確実なのです。

必ず来るクリスマス。私たちの心にイエス様は必ず来て下さいます。私たちにとって大事なのは必ず来るものをどう待つかです。それを考えるのがアドベントです。今日は聖書から、クリスマ