【全文】「神はどんな方か」ルカ5章1節~11節

みなさん、おはようございます。今日も共に主に招かれ、礼拝を共にできる事、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら、共に礼拝をいたしましょう。

1月は残り3回の日曜日がありますが「神学」というテーマで宣教をしたいと思っています。神学とはキリスト教を理解する方法のひとつです。大学には経済学部や物理学部といったように学問が分類されていますが、その一つに神学部というものもあります。キリスト教について学んだり、研究したりしています。大学の学部はさらに細かな分野、学科に分かれてゆきます。経済学部は経営学科と金融学科に分かれたります。神学も同様に分野が細かく分かれてゆきます。大きく4つに分けられるでしょう。聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学の4つです。

聖書学とは文字通り聖書の分析をする学問です。組織神学とは神、聖霊、人間とは何だろうとテーマごとに分けて研究する学問です。組織神学は私たちの信仰告白が分かりやすい例となるでしょう。信仰告白には聖書・神・人間などをどのように考えるかということがまとめられています。歴史神学はキリスト教が歴史にどのように影響を与え、影響を受けてきたのかを知る学問です。そして実践神学は今の私たちがどのようにキリスト者の生活を実践するか、そしてどのように礼拝・礼典をするのかを考える学問です。

例えば今日の聖書の箇所、同じ個所でも専門によって視点の違いがあります。私は聖書学が専門なので、聖書の分析から入ります。この話がどのように成立をしたのかを考えたりするのです。例えばきっとマルコ福音書にあるシンプルな従う話が先にあって、ルカはそれを補充・拡大してこの話を伝えたのだろう。またヨハネ福音書はこの話を復活の後に置いていて、復活と関係付けたのだろう。では、もともとの核になる出来事は何で、それぞれの福音書が強調している部分はどこかだろうかと考えます。そんな風にして聖書を読むことが多いです。

実践神学の視点でこの個所を読むとどうなるでしょうか。実践神学では、たとえばこの個所は献身とは何かを考えさせる箇所です。そしてさらに教会の中での実践、礼拝とはこのように、神の前にひざまづくことだと考えるでしょう。

歴史神学の視点でこの個所をとらえるとどうでしょうか。歴史神学では、たとえばこの個所が歴史的にどのような影響を与えたかを考えます。おそらく今日の個所は、中世の修道院の活動に影響を与えた箇所です。すべてを捨てて従うというモチーフは、修道院のモデルとなったでしょう。

神学はもっとさらにもっと細かく分類したり、横断的に考えたりしますが、このような4つの視点、聖書学、組織神学、歴史神学、実践神学が基本となります。1月は残り3回ですが、今日は組織神学、次回は実践神学、最後は歴史神学とそれぞれの視点から聖書を読んでゆきたいと思います。今日は組織神学の視点で考えたいと思います。私たちの信仰告白のように、組織神学の視点で神、聖霊、イエス、人間、救いについて考えます。聖書や歴史といった軸から少し離れ、神とはどんな方か、イエス・キリストとはどんな方か、人間とはどんな存在なのかを考えます。今日は物語よりも、組織神学の視点で、この聖書を読んでゆきたいと思います。そしてそこから、神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださったお方だということ。そのイエス・キリストがすべての人間を愛に招いているということを見てゆきたいと思います。今日の個所からどのように神様、イエス・キリスト、人間を理解してゆくことができるのか見てゆきましょう。

 

 

神様とは人間にイエス・キリストを派遣したお方です。神様はもともと旧約聖書の時代に様々な方法で、自分の思い、願いを人間に伝えていました。時には直接語りかけ、時には天使を遣わし、時には預言者を通じて、ご自分の思いを伝えようとしました。しかしある時、神様はイエス・キリストを通じて、人間に自分のことを教えようと決断をされました。イエス・キリストを、地上に人間として派遣し、実際に地上で人々と共に生きることによって、そして十字架と復活によって、神の愛を伝えようとしたのです。神様はそのように、そのひとり子を地上に送るほど、人間を愛したお方なのです。今日のシモン・ペテロにとっては、ゲネサレトの湖畔でこの出来事が起きました。ペテロのもとに、神様からイエス・キリストが派遣されたのです。神様とはこのように人間にイエス・キリストを派遣するお方です。

イエス・キリストとは神様からこの地上に、人間のもとに派遣されてきたお方です。神様の愛を指し示す存在として、そしてそれは神様に等しい存在として、人間に与えられました。そしてイエス・キリストは、このゲネサレト湖畔での出来事のように突然、人間の日常生活の中に現れるお方です。人間には、うまくいかないことがあります。人間には、漁に出ても何の成果もでず、網を洗っていたあの弟子たちのような時があります。人間には努力の果てに何の成果も出ずに、気持ちが沈む時があります。イエス・キリストはそのような人間に現れるお方です。イエス・キリストは順調な人生の中に現れるのではありません。私たちがイエス・キリストを探すのでもありません。イエス・キリストは失意の人間を探し出し、声をかけるのです。イエス・キリストはそのように、私たちをご自分の元に招くお方です。この物語はイエス・キリストの招きで始まります。イエス・キリストは特に熱心な人間、ふさわしい人間を招いたのではありません。多くの群衆がイエス・キリストの言葉を求め、押し寄せていました。その群衆の中にこそ、イエス・キリストに招かれるべき、もっとふさわしい人間がいたでしょう。しかしイエス・キリストは成果の出ない、無関心な人間に声をかけたのです。イエス・キリストの招きはこのように起こります。イエス・キリストは、ふさわしい人間を招くのではありません。ふさわしさを超えて、すべての人を招くのです。特に、落ち込んでいる人、残念な思いを持っている人間を選び、招くのです。それがイエス・キリストです。

 

人間とは罪深い存在です。ペテロも自分のことを罪深いと言っています。罪深いとは一体どのようなことでしょうか。人間の罪とは何でしょうか。罪とは法律上の犯罪を犯すことだけではありません。罪とは命の尊厳を踏みにじることです。神は人を愛し、いたわり、助けることを求めています。罪とはその反対に、人を無視し、冷たく接し、困っているのに見ないふりをして助けないことです。人は皆誰しも、このような罪を持っています。私は罪を犯していないという人間はいません。人間とはいつも、誰かを愛することができない、罪を持った存在といえるでしょう。ペテロもそのような人間の一人です。そのように人を愛することができない罪深い人間は、本来神の愛に値しないでしょう。人間の側からもまた、罪深い人間とキリストが同じ世界に生きること、同じ舟に乗ること、恩恵を受けること、共にいることは、ふさわしくないと思うのです。ペテロはイエス・キリストに自分から離れるべきだと言います。しかし今日の物語によれば、そのような罪深い人間こそ、神と出会い、人生を変えられてゆきます。人間は「人を愛せ」と教えたイエス・キリストに従うことによって、変えられてゆきます。人間はこれまでにあきらめていたことでも、イエス・キリストに出会うと「み言葉ならば」と再び行動する者へと変えられるのです。それが人間です。

 

救いとは、人間が人間を愛せるようになるということです。もう誰も愛せないと失望していた人間が、もう一度人間を愛そうと思えること、それが救いです。イエス・キリストは人間に救いを示す存在です。人を捕る漁師にさせるとは、人を支配するようになるという意味ではありません。人を捕る漁師になるとは、人間を愛し、人間を大切に守る者になるということです。人間を愛せる者としようということです。それが私たちの救いです。イエス・キリストのように、人間を愛せることが救いです。それよりも大きな救いはありません。イエス・キリストはその愛に、救いに人間を招いています。

 

教会とはこのように救いに招かれた者の集まりです。教会に集い、み言葉に出会い、イエス・キリストに出会った者は変えられます。人間を愛する者へと変えられてゆきます。教会はそのように人間を愛するために集められた群れです。私たちは愛し合い、大切にしあう様に招かれた群れなのです。そして教会は礼拝します。教会は神の愛の招きが繰り返しあることを覚えて、毎週礼拝します。ペテロがイエス・キリストに出会い、イエスに膝まづいたように、教会も毎週、礼拝をするのです。

 

今日いつもとは違う視点で、聖書を読みました。神様はイエス・キリストを私たちのもとに送ってくださるお方です。イエス・キリストはすべての人間を愛に招くお方です。すべての人間は罪深い存在ですが、イエス・キリストに従うことによって変えられ、救われます。人間は救われると、人間を愛することができようになります。教会とはそのように神に招かれた、救いに招かれた者の集まりです。そこで人間は礼拝をするのです。

私たちは今日の個所から神様、イエス・キリスト、人間、救い、教会、礼拝について考えました。これからもこの主イエス・キリストから、主にある希望をいただいてゆきましょう。お祈りします。