2025/04/27
みなさんおはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と命を感じながら、共に礼拝をしてゆきましょう。...
2025/04/20
おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の声を聞きながら、命を感じながら礼拝をしてゆきましょう。 特に4月と5月は初めて教会に来るという方を歓迎しています。興味があるけど勇気がでないという方、YouTubeで見ているという方、ぜひ教会に訪ねてみてください。...
2025/04/13
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。この2か月間、キリスト教の話を今日初めて聞くという人を歓迎する時として、キリスト教の入門にあたる話をしています。今日も聖書からクリスチャンの目指す生き方について考えてゆきたいと思います。 私たちが尊敬するのは、どのような人でしょうか。現代社会では、強く生き、大きな成功を収めた人が注目されがちです。優れた洞察力を持ち、努力を重ね、誰も成し遂げたことのない偉業を達成した人が、賞賛を集めます。人間は、とかく大きなもの、高い目標、そして成功者を追い求め、尊敬するものです。だからこそ新生活のなかで私たちが初めて出会う人にも、自分の力強さ、元気さを第一印象として感じてもらいたいと思うものです。 しかしどうでしょうか。本当の自分、自分の弱さを隠しても、案外それはすぐに伝わってしまうものです。むしろ弱さこそが、私たちを結び付けてくれるのです。強さを演じあう関係では、深い関係には発展してゆきません。お互いの中にある欠けや弱さが、互いへの共感を生み、お互いをひきつけ、豊かな関係となってゆくのです。案外、私たちにとって弱さは大切なのです。 今日はみなさんにキリスト教が大事にしている価値観を紹介したいと思います。人々が成功や強さに憧れる中で、キリスト教はむしろ痛みや弱さにこそ、目を向けるという価値観を持っています。弱さにこそ、神様の力が働くと信じています。キリスト教の価値観は強さを求め、世界を上から見下すものではありません。キリスト教の価値観は弱さの中で、世界を下から、世界を痛みや、貧しさから見ることを大事にしています。 春は、新たな出会いの季節です。きっとキリスト教の価値観に出会うのにも良い機会でしょう。今日は『弱さ』をテーマにお話をします。聖書の物語はきっとみなさんの人生のヒント、道しるべ、そして大切な価値基準となるはずです。今日も聖書を通して、新しい生き方、新しいライフスタイルを探し求めてゆきましょう。 マタイによる福音書27章35~50節をお読みいただきました。先週は香油を注ぐ女性の物語から、イエスが精一杯生きている人の気持ちを受け止め、共感する場面を見ました。イエスは様々な格差や差別、冷たい正論が渦巻く時代に、他者に共感することを大切にしました。そしてその生き方は多くの人をひきつけました。私たちもイエスのように、他者に共感し、他者の人生を受け止めて生きてゆきたい、先週はそんなことを考えました。このようにイエスの歩みは平等や共感を訴えた歩みでした。そして他者への差別や無関心を批判し、他者への共感の大切さを語って歩んでいました。イエスへの賛同は徐々に広がり、大きなうねりになっていました。 一方でイエスは、時の特権階級の人々からはとても嫌われました。特権階級の人々、これらは現代社会における経済的強者や権力者と言えるでしょう。彼らは貧しい人々が助け合って、認め合って、団結してしまったら、身分の高い、自分達の優位性、自分たちの統治が崩れると思ったのです。だからイエスが広めていた平等と共感に生きる姿に大変な危機感を持ちました。 人々を統治するには分断させておくのが一番でした。人々が互いに、自分の方が正しい、自分の方が強いと思う様に仕向けるのです。互いに相手を差別し、見下しあうように仕向け、互いに力をすり減らし合ってくれれば、統治がしやすかったのです。 しかしそこにイエスが登場し、平等と他者への共感を訴えだしました。特権階級にとって、平等と他者への共感、これは自分たちの統治の根本を揺るがす一大事でした。特権階級の人々は自分たちに不都合な人物を急いで殺そうとします。彼らはイエスを大急ぎで十字架の刑に処すると決めたのです。 十字架刑についてご説明します。十字架刑とは古代ローマで行われた最も残酷な処刑方法でした。十字の柱に、釘で手と足を打ち付けられ、はりつけにされます。みなさんも腕を広げてみると分かるでしょう。深く呼吸ができません。何日も息苦しさが続き、少しずつ衰弱し、何週間もかかってようやく死んでゆきます。それは苦しみを最大限に引き延ばすことを目的とした、非人道的な刑罰でした。途中の48節には、酸い葡萄酒を与えたともありますが、これは苦しみへの配慮ではありません。苦しみをなるべく長く味わわせ、意識を失わせないようにするためのものでした。 この刑は見せしめのために人通りの多い場所や、見晴らしの良い丘の上で行われました。権力者に逆らうとどうなるのか、その結末がはっきりと分かるように、見せしめにされたのです。イエスこの残酷な刑に処せられ、悶え苦しみ、46節にあるように「神様、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、そして50節にあるように最後には大声を出して叫び、息を引き取りました。このようにしてイエスは無残に殺されたのです。これがキリスト教が神と等しい方としている人の姿です。キリスト教では、このイエスを神と等しい存在としています。神であるにもかかわらず、人間と同じように弱く、苦しみ、死んでいった方を、神としているのです。 ここに描かれるイエスの存在は、殺される側にいるもっとも弱い存在として描かれています。人々から拒絶され、侮辱される存在でした。イエス自身は平等と共感を教えたのですが、ここでは自分が教えたことと全く正反対の境遇に置かれました。そしてこれは、多くの人に目撃され、イエスの弱さが明らかとなる出来事でした。 しかしキリスト教では驚くべきことに人々はやがて、この十字架に掛けられ、弱く、叫びながら死んでいったイエスを神と等しい存在として信仰の対象にするようになったのです。この人の生き方こそ私たちの目指す生き方だったのではないかと見直すようになったのです。 イエスが私たちにとって特別な存在である理由は、神と等しい存在であるにも関わらず人間と同じ苦しみ、弱さ、屈辱を経験したからです。神と等しい存在である方は、ただただ強い存在ではありませんでした。人間の弱さと苦しみを知り、人間に共感し、人間と共にいる、そのような存在だったのです。人々はきっとその弱い姿にひきつけられたのでしょう。神であるにも関わらず、弱々しい姿をさらけ出しました。人々はそこに共感し、それを生き方のモデルとするようになったのです。 キリスト教は不思議な宗教です。逆説的という表現はキリスト教によく当てはまるでしょう。キリスト教は普通とは逆の方向から考えを進めていく宗教です。強くて幸せで豊かな人生を求める人が目を向けているのは、弱く、貧しさの中に身を置き、苦しみながら死んでいった方です。イエスは徹底的に弱さ、低さ、もろさをさらけ出されました。ここから私たちの生き方が見えてくるのです。キリスト教はこのように強さよりも弱さに目を向ける宗教です。私たちは自分の弱さを隠しません。でもその弱さが共感と連帯を生むのです。そして私たちは信じています。私たちの弱さに見えない力が働き、そこから新しい物語が始まるのです。それがキリスト教なのです。それが十字架の意味です。 さて私たち自身は何を大切にして生きていくのでしょうか。皆さんに、ぜひ社会で強く生き、注目され、輝く大きな成果を収めて欲しいと思います。豊かさと幸せを手に入れて欲しいと思います。でもそれよりも大事にして欲しいことがあります。それはイエスの様に弱さ、低み、貧しさを抱えながら生きるという生き方です。あなたが弱さを持ったまま生きなら、その弱さはきっとあなたと誰かを結び付けてゆくでしょう。人と人とを結びつけてゆくでしょう。そして弱さはあなたと神を結び付けてゆくでしょう。人と神を結び付けてゆくでしょう。強いリーダーとして立つことは素晴らしいことですが、弱さをさらけ出しながら誰かを支えて生きることは、それ以上に尊いものです。目立たなくても、尊敬されなくても、感謝されなくてもいいのです。私たちはそのような生き方を選びたいと思っています。聖書から、イエスから、私たち弱さを大切にする生き方を毎週、学んでいます。どうぞ繰り返しそれをこの礼拝で学んでゆきましょう。 私たちはつい大きなもの、美しいもの、強いものに目を向けがちです。そして弱さ、小ささを不必要な物として排除してしまいます。私たち一人一人の中に、誰か、何かを排除し、他者を十字架につけてしまう性質があります。私はその繰り返しから抜け出したいと思いつつ、なかなか抜け出すことができません。それでも何とか抜け出そうと、聖書に毎週助けを求めています。もしかするとあのイエスの十字架は私に自分の弱さを教えるためにあったのかもしれません。そのような意味で、私のためにこの十字架があったのかもしれないと思います。 私たちが生きる上で、本当に大事にすべきことは何でしょうか。イエスは弱さを持った生き方、それを隠さない生き方を選びました。十字架は、私たちに新しい生き方を問いかけています。新しい生き方と世界が必要だと十字架が問いかけています。私たちはどう生きるべきか、この十字架を見つめながら考えましょう。高みからではなく、自分を低くした、低みから物事をみてゆきましょう。 キリスト教は「強さを誇る」宗教ではありません。むしろ「弱さを誇る」、その逆説の中にこそ、キリストの力が働くのです。そこにきっと新しい生き方が見つかってゆくはずです。お祈りします。
2025/04/06
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもと一緒に礼拝する教会です。今日もこどもたちの声に包まれながら、礼拝をしましょう。...
2025/03/23
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。そして今日はこどもだけではなく信仰の大先輩の声もこの教会に響きわたりました。いつも信仰を支えて下さる神様に感謝します。 さて2月3月と地域活動と福音について考えてきました。今回が最後です。...
2025/03/16
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。この礼拝でこどもの声が、そしてこの地域のこどもの声が響きます。そして私たちは未来でもこどもの声がする教会となることを目指してゆきましょう。...
2025/03/09
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。 マタイ12章35節...
2025/03/02
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。3月に入り年度末です。先日こひつじ食堂の利用実績をまとめていました。数字からわかることは2020年にこひつじ食堂を始めた当初、持ち帰りのお弁当ばかりが人気で、会堂で食事をする会食の人気が無くて困っていたということです。地域の多くの人が教会の中で食事をすることにあまり乗り気ではなかったのです。会堂の中で食事をしてもらえるように、コーヒーやデザートも付けました。最初は南集会室だけやっていましたが、会堂に子供用のテーブルを4個出すことにしました。さらに重いイスを動かして、子供用のテーブルを12個並べました。会食は当初は30名程度、それもほとんど関係者でしたが、今では100名が前日の予約でいっぱいになるようになりました。 教会に大きな変化が起きたと思います。毎週日曜日に礼拝だけにしか使っていないかった会堂は、みんなが月2回集まる食堂になりました。さらにカフェになって、お茶をしてゆっくりする場所になりました。はじめた当初からするとずいぶん教会の使い方、会堂の使い方が変わってきたと思います。この礼拝堂は、礼拝の場だけでなく地域との交わりの場へと大胆に変えられてきました。 いろいろな地域活動をしていますが、私たちは出会った人たちをすぐにキリスト教へと改宗させることを目的にしているわけではありません。むしろ変化が大きいのは教会の方です。いろいろな変化が教会の側に起っています。私たちは確かに今、地域に大きな影響を与えていでしょう。でも教会は一方的に相手を変える側ではありません。教会こそ変わってゆきました。教会は出会いによって、より柔軟に、より開かれた存在へと変わってゆきました。きっと私たちはこれからもっと地域の人と出会うことによって、変わってゆくのでしょう。 私自身も出会う人が増え、仕事内容が変わってきています。様々な人と出会い話をすることで、私の考えも変化してゆきます。教会の可能性、牧師の仕事の可能性に、新しく気付かされています。もしかすると最近の教会は少し変化が多いかもしれません。でもそれはきっと、今までよりもいろいろな人と出会っているからでしょう。出会いが私たちを変え、出会いが教会を変えてゆくのです。人々との出会いを通じて、私たち自身が変えられているのです。 これは、聖書の中にも見られる姿です。たとえば、今日読む聖書箇所では、イエス様ご自身がある女性との出会いを通して、驚くべき変化をしました。マタイによる福音書15章21~28節を読んでみましょう。イエス様がどんな出会いをしたのか、そしてイエス様自身がどのように変化したのかを見てゆきたいと思います。 聖書を読みましょう。福音書の中でイエス様が、誰か自分のところに来ないかと待っている姿は多くありません。ほとんどの場合、イエス様の方から出かけて行く、相手のところに飛び込んでゆくのかイエス様のスタイルです。そしてイエス様は訪ねた先々で、様々な出会いを体験しました。福音書とはイエス様と出会った人々の物語だとも言えるでしょう。 今日イエス様はティルスとシドンの地方に行かれたとあります。この町は貿易で栄えた港町で、いわゆる富裕層が住んだ町です。イエス様にしては珍しい訪問先でもあります。というのは通常イエス様は貧しい場所や、病気の人が集まる場所を訪ねて歩いたからです。今回はいつもと違って、海沿いの豊かな人々が住む街を訪ねました。でもそのように様々な場所に出向くのがイエス様です。そして今回はひときわ印象的な出会いをします。 今回イエス様はカナンの女性と出会ったとあります。このカナンの女性とは異邦人、つまりユダヤ教の神様を信じない異教の人でした。当時のユダヤ教では異教の人との交際や会話は禁じられていました。女性に対してならなおさらです。しかしイエス様は本当にいろいろな人と出会います。このカナンの女性の娘は、悪霊にひどく苦しめられていました。おそらく何かの病気で苦しんでいたのでしょう。イエス様の時代の人はしばしば、病を悪霊の仕業だと考えました。その町にイエス様が来ました。カナンの女性は「憐れんで欲しい」と頼みます。富裕層の町です。この女性もお金持ちだったでしょうか?でも、お金では解決できない病を持っていたのです。彼女はイエス様に訴えました。「主よ、憐れんでください」ここには叫んだと書いてあります。お腹の底からイエス様の救いを求めて叫び声をあげたのです。 しかし23節イエス様は何もお答えにならなかったとあります。なぜイエス様は黙ったままで、何もしてあげないのでしょうか?続く29節では大勢のガリラヤの人々、貧しい人々の病を治したのに、どうしてここでは黙ったまま、何もしないのでしょうか? そしてイエス様は24節ではっきりと言います「私はイスラエルの家の失われた羊にしか遣わされていない」と。それは、私はユダヤ人を導くために来たのであって、ユダヤ人以外の人、異教徒を導くために来たのではないという意味です。 女性はそれでも食い下がります25節、ひれ伏して、どうか、お助けくださいと嘆願をするのです。それでもイエス様は助けようとしません。さらに「こどものためのパンを、犬にやってはいけない」と言います。それは、私はまずユダヤ人のために活動をするのであって、他の宗教の人のためには活動しませんという意味です。パンとは神様の恵みです。こどもから食べ物を取り上げて犬に渡さないのと同じように、神様の恵みを異邦人には渡さないと答えました。 しかし女性はそれでも引き下がりません。犬だってテーブルの下に落ちたパンを食べるじゃないですか、少しだけ私にもその恵みを分けて下さいと言います。それはユダヤ人以外だって、神様の恵みにあずかってもいいではないかという訴えです。私も端っこの部分でいいから、落ちた余りものでいいから分けて下さい。神様の愛はもっと広くに及ぶはずですと言ったのです。 イエス様はこの女性の信仰に感心しました。イエス様は、神様は確かに分け隔ての無く、そのように広い愛をお持ちのお方だと、この女性の話を聞いて気付いたのです。そしてイエス様は「あなた信仰は立派だ」と言います。そう言ってイエス様は、他のユダヤ人、他の貧しい人々と同様に、このカナンの女性の娘の病を癒したのです。 この物語から感じることは、何でしょうか?それはイエス様自身が大きく変化をしているということです。イエス様は変わらないお方というイメージが強くあります。しかし今日の個所からわかることは、イエス様の信仰は出会った人、自分と信じる宗教が違う人との出会いを通じて、変わっていったのだということです。イエス様の信仰でさえ、出会いによって、変わっていったのです。イエス様はこのカナンの女を通じて気づきました。最初は黙っていました。でもイエス様はこの女性によって、神様は時分が思っているよりも、もっと大きな愛をもっている方だ、そう改めて気づいたのです。そしてそれは自分の役割にも直接関係することでした。イエス様はここで自分がユダヤ人のためだけにいるのではないと気づかされました。イエス様はこの女性によって大きく変えられてゆきます。この個所はイエス様が新しい出会いによって変えられてゆくという貴重な物語です。 さて、この物語を読んで、私たちは何を学べるでしょうか?ここでのイエス様の姿勢は、私たちの人生とも深く関係していると思います。私たちは時に、自分の考えや価値観に固執してしまうことがあります。しかし出会いは私たちの視野を広げ、新しい気づきをもたらすものです。イエス様がカナンの女性との出会いによって変えられたように、私たちもまた出会いを通じて変えられていくのではないでしょうか?私たちの人生も様々な出会いによって変わってゆくものでしょう。人生とは誰に出会ったかで決まってゆくものです。出会いはお互いの「こうであるべき」という形を崩してゆきます。 教会がこひつじ食堂によって、新しい出会いによって、大きく変えられたように、私たち一人一人の人生も出会いによって変えられてゆくのです。それはイエス様も経験をしたことでした。まして私たちはイエス様よりもっと変化の可能性に開かれているでしょう。イエス様でさえ変わることを選びました。私たちは、変らない神の愛を大事にしつつも、いつも変化の可能性に開かれていることに目を向けていたいと思うのです。いつも神様の愛の大きさに気付き、変えられてゆくものでありたいのです。 もしかすると私たちは相手を変えようとばかりしているかもしれません。怒ったり、ほめたりして、相手を変えようとばかりしています。でもこの物語でイエス様は、自分が変わるということを選ばれました。私たちの人生でもこのことを覚えておきましょう。相手を変えようとするばかりの私たちです。でも本当は、自分が変わってゆくという姿の中に、イエス様の生き方があるのかもしれません。 この個所を通じて、私たちは自分と異なる他者と出会いを、神様の導きによる変化の機会と捉えることができるでしょう。イエス様がそうされたように、私たちもまた、神様の愛と変化に心を開きながら生きていきましょう。 私たちは今週も、実に様々な人がいる場所に派遣されてゆきます。私たちはただ相手を変えるために派遣されるのではありません。私たちは出会いによって、私たち自身が変わることを期待され、派遣されてゆくのです。お祈りいたします。
2025/02/16
みなさん、おはようございます。今日も礼拝を共にできることを主に感謝します。私たちの教会は、子どもの声が響く教会です。今日も、命の息吹を感じながら礼拝を捧げましょう。今月は「地域活動と福音」をテーマにお話をしています。...
2025/02/09
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声と足音から命を感じながら一緒に礼拝をしましょう。...