カテゴリ:宣教原稿



2025/10/26
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝をいたします。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。 今月は教会とSDGsという不思議な組み合わせを見つめています。でもこの17個の目標は単なる目標ではなく、わたしたちにとっては17個の“祈り”です。...
2025/10/19
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。私たちは未来でもこどもの声がする教会でありたいと願っています。未来の地球のこどもたちのことも思い描きながら礼拝を献げましょう。...
2025/10/12
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。今日もこどもたちから生きる力を頂きながら礼拝をしましょう。今日は収穫感謝礼拝の日、そして同時にバプテスマ式の日でもあります。この2つの恵みを共に喜び、分かち合いましょう。テーブルには教会の庭でとれた柿やこの後、分かち合って食べる果物が並んでいます。たくさん教会の仲間たちと喜びを分かち合いましょう。 今日誰よりもこのバプテスマを喜んでいるのは、神様でしょう。彼は小さい頃キリスト教の幼稚園に通っていました。そこで神様は彼の心に本当に小さな種を蒔きました。そしてその種はしばらくはじっとしていました。そして何十年もたった今日、その芽が出てきたのです。それはとっても不思議な出来事です。心の中にずっと秘められてきた種が芽吹いたのです。芽吹く時期やきっかけは人それぞれです。神様の働きです。それは本人の頑張りを超えたものです。命の神秘、神様の神秘、感動のスタートです。このバプテスマは清められ聖なる存在になる儀式ではありません。人より一つ上のランクになる儀式ではありません。完全な人になる儀式でもありません。バプテスマを受けてもまだ私たちと同じ様に何かが足りない人間です。欠けのある人間のままです。 だからこそ、これからが大事です。これから、神様からの光と栄養をたっぷり受けて続けてください。そして少しずつで良い、太くて大きな木になって欲しいのです。この教会の先輩方のようなどっしりとした樹齢何十年の大木のような信仰を持って欲しいのです。神様は、きっとそのように導いてくださるでしょう。あなたがさらに豊かな実りをつけるように導くでしょう。みんながあなたの歩みを見守り、支え、祈っています。本当におめでとうございます。 今日は収穫に感謝しながら聖書を読みたいと思います。そしてこの時を「私が」恵まれていることに感謝するのではなく「誰かと」この恵みを感謝し、分かち合う時にしたいと思っています。私一人が味わうのではなく、共に味わいたいのです。共に生きてゆきたい、互いと神様に感謝しながら生きてゆきたいと思います。今日は感謝と分かち合いを聖書から読んで行きましょう。  今日はマタイによる福音書19章16~30節までをお読みいただきました。今日はある金持ちの青年の話です。 伝統的にこの個所は所有の放棄の命令と読まれてきました。カトリックの修道院はこの聖句を元に発展します。完全な形での所有の放棄を求めて、人里離れた場所にこもって自給自足の生活を実践しました。何も持たずに生きる、それはなんと素晴らしい生活でしょうか。でもすべての人がそれをできるわけではありませんでした。この方法は人間を二つに分けてしまいました。それは完全に所有を放棄した人と、そうでない普通の人です。所有を放棄した人はその生活を続ければよいでしょう。しかし普通の人はどうしたらよいかわからないのです。所有を放棄できない普通の人はどうこの個所を受け止めたら良いのでしょうか? 私たちはどのように読みましょう?私たちは完全に富を放棄することはできません。でもそれを特別な人がする、すごいことで私には関係のない事とは考えたくありません。私たちは所有と放棄の間を生きなければなりません。そうです。所有と放棄の間の「分かち合う」を軸にこの物語を読んで行きたいのです。 ある時、金持ちの青年がいました。彼はとても神様の教えに忠実に生きた人でした。そして彼にはたくさんのものがありました。お金、きっとそれは家柄の良さから来たものでしょう。性格、若さ、健康、家族との良好な関係、掟を守る心の強さ、容姿や体格、コミュニケーション能力、高収入、高学歴、高身長・・・。たくさんの才能と環境に恵まれてきた人です。今風に言えばハイスペック男子でしょうか。 もちろん彼自身が頑張りもあるでしょう。彼の「そういうことはみな守ってきました」という発言からはあふれる自信が伝わってきます。ちょっと自慢もあるかもしれません。誰もがこの青年を見て、うらやましいと思ったでしょう。でも彼自身が思ったのです。「自分にはまだ何か欠けている」。自分にまだ何かが足りない。自分の人生を真に豊かにするために、まだ何かが足りないと思ったのです。そしてイエスに、それが何なのかを聞いたのです。 イエスは応えます「持ち物を売り払って、貧しい人々に施しなさい」「それから私に従いなさい」。彼はそれを聞いたときどのような気持ちだったでしょうか。彼は深く悲しみ、その場を去って行きました。たくさんのものを持つ自分に足りないものを、鋭く指摘された彼は何の言葉も残さずに、悲しみながら、黙って立ち去って行ったのです。 そしてイエスは言います。「金持ちが天の国に入るのは、ラクダが針の穴をとおるより難しい」。ペテロや他の弟子たちはこのやりとりを見て驚きました。彼ほどに沢山の才能と、恵まれた環境に生きている人はいない。あの素晴らしい青年が、天の国、神様に近い場所に行くことができないのなら、もはや誰がそこに行けるのだろうか。私たちのような普通の者には到底無理だ。誰が救われるだろうかと思ったのです。 イエスがこの物語で教えていること、みなさんは何だと思うでしょうか?私たちには一切の所有を放棄することはできません。そのような不完全な私たちです。でも私たちは欠けがありながらも少しでもそれに近づく道があります。それが分かち合って生きるという生き方ではないでしょうか? 少し極端な例かもしれませんが、イエスが伝えようとしているのは、分かち合って生きることと言えるでしょう。私たちはどんな風に分かち合いができるでしょうか?分かち合うことができるのはお金だけではありません。 たとえば煮物を隣の家におすそ分けすることも分かち合いです。病院の待合室で、隣の人の話を少し聞いてあげることもそうです。孫の写真を見せ合って笑うこと。一緒に祈ること。不安の中にいる人の話を聞くのも不安を分かち合うことでしょう。どれも神様が喜ばれる分かち合いです。この後のバプテスマの喜びを分かち合います。教会の柿をみんなで食べるのも分かち合いです。私たちは時間、喜びや悲しみ、力、食べ物、才能や経験・・・様々なものを分かち合うことができます。 イエスは青年に「分かち合って生きよう」と勧めました。あなたは恵まれている。でもそれを自分だけのために抱え込むのではなく、誰かに渡せるだろうか?イエスはそう青年に問いかけたのです。お金持ちなのは、自分や家族が頑張ったことかもしれない、でも分かち合うことはできてる?そう問いかけたのではないでしょうか?金持ちの青年はすべての才能と環境を兼ね備えた自分に足りないことを見つけました。それは分かち合うということでした。手にあるものを神様からいただいたものとして、感謝し、分かち合うことが彼にはできなかったのです。本当は、すべてではなくても、その一部でも分かち合うことができたはずです。しかし彼は何も分かち合わず、その場所を黙って去って行きました。 弟子たちは思わず聞きました。あの青年が天の国に入れず、こんな凡人の私たちに何か良いものが、待っているのでしょうか?イエスはまた言います「私のためにたくさんのものを捨てた人は何百倍も報いを受ける」。こうして物語は30節で突然終わってしまいます。私は弟子たちが意味が分からず、ぽかんとした顔をしているのを想像します。 弟子たちが聞いたのは分かち合う先に何が待っているのか?ということでした。イエスは何百倍も報いがあると言います。私たちは信仰のために財産や家族や大切なものを捨てたりはしません。する必要もありません。私たちには何が待っているのでしょうか? ここでイエスが私たちに示していることは、分かち合ってゆく生き方の中に、よりよいものが待っているということです。分かち合うからこそ大切なものや、家族とのよりよい関係が待っているのです。別の言葉で言えば、私たちは分かち合う時に、家族や血縁を超えた結びつき、仲間が与えられてゆくのです。教会の仲間もそうでしょう。すべてを分かち合う事はできません。でもここでみ言葉や喜びや悲しみを分かち合うとき、新しい家族が与えられます。たくさんの新しい家族、教会のお父さん、教会のお母さん、教会のお姉さんや子ども、孫のような存在が与えられるのです。イエスは、分かち合う時に新しい世界が開かれてゆくと語っています。 感謝し、分かち合う時、私たちが大切にしているものは、もっと輝き出すはずです。私たちがもっと分かち合う時、きっと私たちにはもっとたくさんの仲間が与えられてゆくはずです。私たちはみんなで永遠の命、神様の永遠の愛を分かち合ってゆきましょう。 この個所がみなさんに問うていることは何でしょうか?あなたの大切なものは何ですか?どうか思い起こしてみてください。あなたは何を持っていますか?それにどうやって感謝しますか?そしてあなたが持っているもの、大切にしているもの、喜びや悲しみをどうやって分かち合ってゆくでしょうか?それを分かち合う時、きっと神様はたくさんの恵み、新しい世界を与えてくださるでしょう。すべての財産でなくてもいいのです。何を分かち合って生きることができますか?時間、場所、思い出、信仰、若さ、経験、食べ物・・・。今日、この場で喜びを分かち合いましょう あなたの欠けは何ですか?私の欠けは何でしょうか?しかし、その欠けにこそ神の愛が注がれるのです。だから私たちは感謝して、分かち合って、ここから歩んでいきましょう。
2025/10/05
みなさんおはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝を献げましょう。9月は礼拝について考えていました。どちらかというとそれは、教会の中のことだったかもしれません。今月はそれと正反対に教会の外、世界について聖書から考えたいと思います。特に10月はSDGsをテーマとしながら聖書を読んでゆきたいと思います。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標です。人権も、経済も、地球も。そのすべてを守ろうという世界の目標です。目標は単に途上国を支援するということだけではなく、先進国や企業にも社会的な責任を求めています。教会はこの世界と無関係ではありません。神の家族として、私たちはどう世界に関わったらよいのでしょうか? 17個の目標の8番目は「働きがいと経済成長を実現する」というものです。「誰もが人間らしく生産的な仕事ができる社会を作ろう」とあります。その中で特に取り上げられているのは、児童労働の問題についてです。今、世界では10人に1人近い子どもが、学ぶ代わりに働かされています。児童労働とは、家事の手伝いの範囲を超えて、こどもたちが働くことです。無償や安い賃金で雇用され、仕事をしなければいけない環境のことです。児童労働は様々な問題を生みます。まず児童労働は学ぶ時間を奪います。その結果、貧しさと不平等が親から子へ、子から孫へと連鎖してしまうのです。児童労働は生産性が低く、経済成長も弱めます。児童労働を行った本人は、こども時代だけでなく、その後の人生においても、健康を損ないます。児童労働は持続可能な世界とまったく正反対のものです。 もっとも児童労働が多いのは農業だと言われます。特に大規模な児童労働はガーナのカカオ農園です。カカオは児童労働によって支えられる代表的な作物です。ガーナでは、ランドセルを背負うはずの子どもが、農園で重い荷物を背負っています。そのカカオをチョコレートにして食べているのは私たちです。こどもたちが働かなければいけない理由は、先進国がカカオを安く買いたたくからです。カカオ農家はどんなに働いても豊かにならず、安いこどもの労働力に頼るしかありません。子どもたちが農薬をまき、重いものを運んでいます。その子は誰のために汗を流しているのでしょうか?その他にもレアメタルの鉱山で働かされる子供も多くいます。このような世界で私たちは何ができるでしょうか?例えば子どもがよく食べるブラックサンダーは児童労働の関わるカカオを使わないと宣言しています。 私たちは自分達の身の回りのものが、どのように作られ、売られているのかに興味を持った方がいいのかもしれません。製品だけではなく、働いている人の状況や、世界の構造に目を向けるべきです。このことは最近のお米の高騰からも気づかされることです。 聖書はどうでしょうか?聖書は心の奥だけではなく、この世界の現実についても語ります。聖書もまた世界をどう見るのかを私達に問いかけています。今日は教会とSDGsについて考えたいと思います。   マタイによる福音書20章1~16節をお読みいただきました。イエスは農村地帯に生まれ育ちました。だから農業に関するたとえ話を多くしました。今日はぶどうの収穫のたとえ話です。ぶどうの収穫の時期、熟したぶどうをすばやく収穫しなければいけません。ぶどうの収穫は村中が忙しくなる大イベントでした。人手が最も足りない時期です。朝からたくさんの人が雇われました。足りなければ、午後からでも人を雇って、収穫はすすめられました。そんな忙しいさなか、夕方になっても、まだ声がかからない人がいました。村中が働いているのに、ただ一人。取り残された人です。彼は村中が忙しくしている中でひとりだけ、声がかからなかったのです。残されている間、彼の胸にあった気持ちはどんなものでしょうか?恥ずかしさ?孤独?「自分なんて必要とされない人間なのか」という痛みでしょうか。そこに再び農園の主人が現れ、声をかけました。「あなたも来なさい」。彼は主人の声にほっとしたでしょう。喜び、一生懸命働いたでしょう。 そして日当を払う時間になりました。本来、日当は早くから来て、長く働いた人から順番に支払われるものです。しかし渡される順番は反対になりました。最後に来た自分から日当を受け取ったのです。そしてなんと、全員が同じ賃金でした。朝から汗を流した人も、夕方から来た私も同じ日当でした。早くから働いた人は、これに抗議の声を上げました。しかし主人は言いました。「いくら払うかは私の自由だ」。その言葉は、慰めでしょうか?それとも横暴でしょうか? このたとえ、伝統的には主人=神、労働者=人間と解釈されてきました。神様の愛は、取り残された人に豊かに注ぐのです。神様は業績主義、成果主義ではありません。神様は多くの良い事をしたら、多くの良いものがあたえられる、できない人には与えられないという方ではないのです。ここから神様の愛のあり方が読み解かれてきました。それはとても共感できる教えです。神様の温かい包容力が伝わってくる話です。イエスのこれまでの言動から考えても、確かに誰ひとりも取り残されない大切さが語られたのでしょう。神様は取り残され、役に立たないといわれる人に声をかけ、役割を与え、用いて、恵みをくださるお方なのです。 しかし、このたとえにはもう一つ見落としてはいけない背景が隠されています。それは労働問題の側面です。労働問題の視点からこの個所を捉えると、別のものが見えてきます。私はイエスは、ただ神様の愛の温かさを表しただけではなく、同時に現実の問題も指摘していると思います。みなさんは、このたとえの主人は本当に神様だと思いますか?不公平だと感じませんか?これが神様の目指す姿なのでしょうか?このようなあり方は持続可能でしょうか?これは労働者の自尊心を奪う行為だったはずです。 労働の問題を視点に加え考えましょう。その日1日の仕事を求める、日雇い労働者が集まる場所があったはずです。まず想像するのは雇用主側の視点です。雇用者が真っ先に欲しがるのはどんな人でしょうか?まず欲しいのは安い労働力です。多少効率が悪くても、日当が安くすむ人の方を選びます。人件費は安ければ、安い方がいいのです。言葉が通じるかどうか、筋肉がモリモリかどうか、能力があるかどうかよりも重要なのは安さです。文句をいわず安く働く人を求めます。主人は「こいつなら安く働きそうだ」そういう人に声をかけました。黙って、安く働きそうな人から順番に声をかけたのです。十分想像できます。仕事を求める場所にはさまざまな人が集まりました。想像力を働かせます。そこにこどもはいたでしょうか?そこにもきっと学校に行かずに働かざるを得ないこどもがいたはずです。 こどもこそ真っ先に雇用されたかもしれません。安い給料で文句を言わないで従うからです。今も世界でこどもの労働が蔓延しているように、このぶどう畑でもこどもたちが働かされたでしょうか。安い労働力として真っ先に採用されて、長く働かされたでしょうか。そして最後に支払われたのは不当にも、後から来た大人と同じ給料だったのです。勇気のあるこどもが声をあげました。「おかしいじゃないか。私たちだけ安く働かされているではないか?」と。でもすぐに主人に恫喝されました。給料は俺が決める、俺の好きなように払って何が悪いと。圧倒的に強い立場の雇用者が、自らの正しさを振りかざし、自分の思う様に給与を決めてゆきました。好みの人間に高い給与を払ってゆきました。それが奪ったものはなんでしょうか?それは人々の働きがいを奪いました。やる気を奪いました。農業全体の発展を奪いました。これは持続的な方法でしょうか? この主人は、人のやる気を見事にしぼませる天才でした。そんな人、みなさんの周りにもいませんか?不公平な職場、ありませんか?お給料はこれでいいのかと思う時がありますか?「私は正当に扱われていない」。その感覚はとても大事です。不平等への敏感さは、人を守る力になります。それはこのままの社会でいいの?という疑問につながるはずです。私たちは気前の良さをアピールする社長に従えばいいのでしょうか?どう思いますか?この話は神様の愛だけを示しているのでしょうか?もちろんここからは神様の愛が語られています。それは疑いのない事でしょう。弱いもの、置いてゆかれるもの、忘れられる者、後回しにされる者に神様の愛は注がれるのです。 でもこのたとえが投げかけているのはそれだけではありません。同時にこのたとえの中には不平等やひずみに苦しむ人々が描かれているのではないでしょうか?神様は弱いもの、後回しにされるもの、小さいこどもを愛するお方、では地上ではどう?と問いかけています。神様の愛はこんなにも無条件に注がれるのに、地上はどう?こんな不公平なことがあっていいの?地上にはこんな横暴な主人がたくさんいるんじゃない?アフリカの子どもが働き、私たちが安くチョコレートを食べる。この世界のままで、いいのでしょうか? この後主の晩餐を持ちます。誰ひとり取り残されず、このパンとブドウジュースを頂きましょう。どんな気持ちでそれを食べますか? 私たちこそこの主人のように、カカオ農場でこどもを不当に働かせていない?聖書は、私たちに問いかけています。「あなたは、この主人と同じではないか?」と。 聖書は最後に「あなたはわたしの気前のよさをねたむのか?」という問いかけで終わっています。あなたはこの主人をどう思いますか?憧れますか?ねたみますか?どちらでしょうか?
2025/09/28
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声・命と一緒に礼拝を献げましょう。...
2025/09/21
みなさん、おはようございます。今日もこうして、みんなで神様に向かえることを感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしましょう。今、この瞬間を大切にしましょう。...
2025/09/14
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもの声は命の音です。今日も共に礼拝をしましょう。...
2025/09/07
みなさん、おはようございます。今日もこうして、共に礼拝できることを、心から神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝する教会です。こどもたちの声と一緒に礼拝を献げましょう。9月は「礼拝」について、みんなで考えてゆきたいと思います。今日はいつもの説教台からではなく、もっと皆さんの近くでお話をさせてください。 この20年、私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。公衆電話を思い出してください。みなさんが最後に公衆電話を使ったのはいつですか?懐かしいですね。10円玉やテレホンカードを入れるとツーという音がします。そして電話番号を一つずつ押します。よく使う電話番号なら覚えていました。そうでない番号は手作りの電話帳を見て番号のボタンを押しました。テレホンカードの目盛りがどんどん減ってゆくのを見ながら親しい人と長電話をした思い出があります。今思うと、公衆電話はとても不便でしたが、その分コミュニケーションは貴重で、意味深さがあったかもしれません。しかしコミュニケーションの形はどんどん変わってゆきました。ある日、携帯電話を持った時から、公衆電話をほとんど使わなくなりました。あれ以来公衆電話は大幅に減少しています。事故や災害などのために、完全にはならないそうです。でもその数はどんどん減っています。公衆電話は役割を終えようとしています。 私は「公衆電話を守らなければ」とは思いません。なぜなら、たとえ公衆電話が姿を消しても、人と人との「つながり」が途絶えたわけではないからです。大事なのは公衆電話ではなく、その中で育まれた、心と心のコミュニケーションそのものだからです。コミュニケーションの方法は公衆電話から携帯電話へと発達しました。それによってコミュニケーションは、電話のある場所に固定されなくなりました。かつて電話は各家庭に1台でした。その家族単位のコミュニケーション手段は、一人一人との直接的なコミュニケーションに変わりました。私たちのコミュニケーションのスタイルは大きく発達してきました。どんなに懐かしくても、もう公衆電話には戻りませんよね? さて――教会と公衆電話。意外な組み合わせに、どんな共通点があると思いますか?これからの20年で、多くの教会が閉鎖されてゆくと予想されています。教会の数も、礼拝出席の数も公衆電話と同じ様に、減少しつつあります。教会は必要とされていないのでしょうか?教会を維持してゆくことは大事なことです。しかし教会はあくまで目的ではなく手段です。公衆電話も、維持が目的ではなく、他者とのコミュニケーションが目的でした。教会も同じではないでしょうか?教会の目的は何ですか?教会の目的は、建物や組織を守ることではありません。私たち人間同士、そして私たちと神様の間のコミュニケーションがうまく働くことを目的に、教会は存在するのではないでしょうか? 教会が続くことが目的ではありません。教会は、神様とのコミュニケーション、人と人とのコミュニケーションを、より豊かにするための手段です。公衆電話が姿を変えて、携帯電話になったように、教会もまたその目的を果たすために、どんどん変わってゆくべき場所なのです。 私たちの礼拝で何が変わったでしょうか?主の晩餐が変わりました。よりよく私たちの信仰を神様に表すために全員が参加するものに変わりました。よりよく仲間と信仰を体験するために変わりました。このようにもっと私たちの礼拝は変化に開かれて良いはずです。礼拝の形式自体は大きく変わっていません。もしかすると、私たちの礼拝も公衆電話のまま…なのかもしれません。もちろん変わらない良さはあるでしょう。公衆電話にまだ価値があるように、伝統的な教会にも価値があるはずです。 でも私たちの教会は、20年後も、このままの形で存在しているでしょうか?それとも、人々の心のよりどころとして、新しい形に変わっているでしょうか?私は「古き良き」公衆電話の思い出を大切にしながらも、そこから一歩踏み出し、新しいコミュニケーションの形を模索したいと思っています。深めるのは、人間同士のコミュニケーション、神様とのコミュニケーションです。いろいろな方法を試しながら「これはふさわしい」「これはどうもうまくいかない」そんな風に深いコミュニケーションを探し続けたいのです。そうしないと公衆電話になってしまうからです。 様々な試みに挑戦することが大事だと思います。私たちはこれまで主の晩餐や聖書朗読など、参加型の礼拝を目指してきました。これらは神様と人々とのコミュニケーションがより深まってゆくための変化でした。この期間、一方的に受け取るだけではない、参加型の礼拝にチャレンジしてみたいと思います。ぜひみなさんも、こんな風にしたら、神様や人々とより深いつながりを持てるという礼拝のアイディアを教えてください。今日は聖書から変化とチャレンジについて考えたいと思います。   今日はマタイによる福音書13章31~34節までをお読みいただきました。種の話です。この話は伝統的には小さなものが大きくなるという理解で受け止められてきました。小さな信仰が世界を大きく動かす、小さな教会も続けてゆくことで大きな教会になれると読まれてきました。しかし今日は教会自体の維持・存続・拡大ということとは別の角度から読みたいと思います。新しいチャレンジについて、ここから受けとってゆきたいと思います。 聖書を読みましょう。古代の種まきは、いまよりずっとおおざっぱです。私たちが作物を作るように一粒ずつ丁寧に蒔くのではなく、種をつかんで土に投げていました。それは、とにかく数を蒔くという方法です。当然、蒔いたものが全て芽を出すわけではありません。だからこそたくさん蒔く必要があったでしょう。無駄も多くありました。でも必要な収穫を得るには、無駄を承知でたくさん蒔く必要があったのです。人々はケチらずに、収穫を信頼してたくさんの種をつかんで、惜しみなく蒔きました。新しい種を、惜しみなく蒔く人に、成長と収穫があったのです。 種は、持っているだけでは意味がありませんでした。種は年をおうごとに発芽率が下がってゆきます。種を種のまま持っていると、その価値はどんどん下がっていったのです。今あるものを大切に壺に取っておくこともできました。しかしそれを今蒔かないと発芽率が下がり、価値が下がったのです。惜しみなく蒔かれた種、そのいくつかが芽を出しました。そして、大きく育ちました。からし種は木と言うより藪のように成長するそうです。大きくなった藪はたくさんの動物の隠れ家となりました。命が集い、憩う場所になりました。生き物たちが宿る場所、みんなの居場所になりました。 この種のこと、私たちは今日どのように理解しましょうか?今月は礼拝というテーマで考えを巡らせてみましょう。教会にとって種とは何でしょうか?種とは――私たちの中に眠る、新しい可能性そのものではないでしょうか。教会はたくさんの種、たくさんの可能性を持っています。教会は惜しみなく様々なことを試すことが必要です。種まきが厳選した少数の種を蒔くのではなく、とにかくたくさん蒔いてみることが大事だったように。私たちはいろいろなあり方に挑戦をしてゆきたいのです。そして種を種のまま持っていても芽は出ません。種は蒔かないと芽を出しません。アイディアを持っているだけでは、何も始まりません。やってみないと芽が出るかどうかわからないのです。 いろいろな取り組みを試みるからこそ、芽が出るもの、出ないものがあるのです。うまくいくことと、いかないことがあるでしょう。しかし聖書は言っています。挑戦しなさいと。新しい礼拝へ、新しい神と人との出会いへ、私たちはいろいろな礼拝の持ち方、神と人とのコミュニケーションのあり方を、種蒔きの様に、大胆にチャレンジしてみてはどうでしょうか? きっと全てが成功するわけではありません。でもいつかそのひとつが芽吹き、大きな藪になるはずです。そこが人々の癒しの場所となるはず。そこが人と人が出会い、神様と人が出会う場所になるはずです。教会はそのような場所になりたいのです。教会が、神様と人がより深く出会う場所となるため、たくさんの可能性を試したいのです。 私たちは公衆電話のままでいいのでしょうか?私たちは種を蒔き、深いコミュニケーション、神と人との深い出会いの場所を目指してゆきましょう。この言葉は私たちの教会の礼拝に向けられた言葉です。どんな礼拝なら、人と神様が、より深く、温かく出会うことができるのでしょうか。今日の礼拝が終わった後も、この問いを、ぜひあなたの心の中に持ち帰って考えてみてください。 そしてあなた自身のこととしても考えてみてください。あなたは小さな種をもっています。それは持っているだけではなく、今蒔くべき種です。種は時間が経つと芽を出さなくなります。「今、蒔いてみること」が大事です。さて今、あなたの心の中にある小さな「種」は何でしょうか?それを蒔くとしたら、それはどんな一歩になりますか?より深い人との出会い、神との出会いに向けて、できることは何ですか?すべての種が芽を出すわけではありません。でもそのいくつかが木となり、次の世代へと命をつなぐのです。 そしてこの後、主の晩餐を持ちます。これも神様とのコミュニケーションの一つです。全員でこのコミュニケーションに参加しましょう。1分の黙想を持ちます。それぞれに感じたこと、神様への応答をぜひカードに書いてみてください。
2025/08/31
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声が響く教会です。こどもたちの声は平和の象徴です。この会堂いっぱいにこどもたちの声と平和で満たされるように祈っています。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。...
2025/08/24
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に囲まれながら礼拝をしましょう。...

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