みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの存在を感じながら、共に礼拝をしましょう。今月の宣教は地域と福音というテーマでお話をしてゆきたいと思っています。
そして今日は特にキリスト教の暦で「ペンテコステ」という日です。2000年前に教会が誕生したことを記念する日、教会の誕生日です。教会のはじまりにも目を向けたいと思っています。
私たちの教会はいつも地域に福音を広げたい、そのためにどうしたらよいかを考えています。もちろん福音を広げるとは、相手にただ聖書の言葉を伝えることではありません。ましてや教会が拡大してゆくことでもありません。
福音とは生き方です。福音を広げるとは「互いに愛し合いなさい」という生き方を広げてゆくことです。私たちが互いに愛し合う生き方を、それぞれの場所で実践し、共感が広がってゆくことが、福音が広がるということです。
しかし愛し合う、愛に生きるとは非常に難しい事です。愛が難しいのは、何が正しい愛なのか固定することができないからです。愛は相手や状況や時代によってさまざまに変わります。叱るのが愛の時もあれば、静かに寄り添うのが愛の時もあります。だからそこ愛はいつも葛藤がつきものです。
福音が広がる、互いに愛し合うことが広がるとは、まるで何が愛なのかという葛藤が広がるということでもあります。どう愛したら良いのだろう、そう葛藤しながら生きる人が増えることが福音が広がるということでしょう。
愛を表す方法は実に多様です。愛は礼拝中の私の話だけで伝わるものではありません。礼拝の中の賛美歌、仲間とかわす言葉、手を添えてくれる誰かの手に愛が宿っています。
高齢者には高齢者への愛が必要です。高齢者に愛を伝えるなら、バリアフリー、話の分かりやすさ、週報の文字の大きさが必要でしょう。教会がこどもに温かいまなざしを注ぐことは、子育て世代にはもっとも愛が伝わる方法ではないでしょうか。若者はどうかでしょうか。多くの若者はYouTubeやSNSやホームページをみてから教会に来ます。インターネットはとても重要な愛の入口です。子どもたちはどうでしょうか、自由に過ごせる場所が愛されていると感じるでしょう。外国語を話す人はどうでしょうか、少しでも言葉の壁を越えようとすることに愛を感じるでしょう。
愛が伝わるのは教会の日曜日の礼拝だけでもありません。地域の人たちはきっと、食堂のごはんを味わうとき、カフェで誰かと笑うとき、子どもたちの笑顔があふれる水遊び会、そこにある温もりが、愛として届いているのでしょう。教会が人々に愛を伝える方法は無数に存在します。愛は時には言葉で、時には沈黙で、時には食べ物で伝わります。
愛の形はその時々で変化し、愛はその形を定めることができません。それぞれこれが愛だと感じるポイントは違います。だからこそ教会はひとつの活動のみで愛を伝えることができません。様々な活動を通じて愛を表現しようとしています。私たちはそのようにして地域の人に愛を知ってもらいたいと願っています。
教会の活動は、もしかしたら多すぎると感じるかもしれません。でもそれぞれが違う方法で愛を伝えています。それぞれが居場所になっています。教会と地域はそのように様々な接点を持ち、交流する中で、愛を伝えています。
大事なのは、こちらの思った愛の形を押し付けないことです。大事なのは地域の方がこれは愛だと感じるように、地域に合わせて私たちが形を変えてゆくことです。私たちの教会は形を変えながら、この地域に愛を広げてゆきましょう。
今日も聖書を読みますが、教会はその始まりから、愛を様々な形で伝えてきたということを聖書から見てゆきます。聖書を読んで行きましょう。
使徒言行録2章1~11節をお読みいただきました。この前にある4つの福音書によれば、イエスは実に様々な方法で愛を伝えました。イエスは一方的に教える人ではありませんでした。
たとえばイエスが愛を伝える活動は、いろいろな人と食事をするという方法でした。また不思議なたとえ話で愛を伝えました。最後は十字架に掛かることによって愛を伝えました。イエスは実に様々な方法で愛を伝えたのです。弟子たちはその愛を受けて、今度は自分体が人々に愛を広めてゆくはずでした。しかし彼らはどうすれば愛を伝えることができるか悩んだはずです。人々が集まって祈っていたのは、きっとイエスの愛がもっと伝わって欲しいということでした。
そこに聖霊という存在が現れました。聖霊とは風のような存在です。見えないけれど、誰かを動かす力です。聖霊は見えない力で、人々に愛を表現させる存在です。
人々に愛を伝えることに躊躇していた弟子たちに、聖霊が注がれました。すると不思議なことが起こりました。弟子たちが様々な国の言葉でしゃべり出すようになったというのです。
この出来事をどのように、受け止めるでしょうか。この出来事はただ人々の注目を集めるためだけのものではありません。そこにも神様の愛があります。
6節には多くの人があっけにとられたとあります。人々は、自分の国の言葉だと驚きました。9節や10節には、多くの地域が挙げられています。それだけ自分たちの故郷の言葉を聞いたのがうれしく、驚きだったのです。
自分の母国語で愛の言葉を聞いた人はどう思ったでしょうか。きっと心に響いたのではないでしょうか。母国語で聞いた方がその言葉の広がりや風景をイメージできたはずです。自分が生まれた地域のなまりで聞いた方が、言葉が心にしみわたったはずです。人々は自分の国の言葉で聞いて、初めてそれが自分に向けられた愛だとわかったのではないでしょうか。
私は聖霊を受けた弟子たちの変化に注目します。弟子たちは自分たちの伝えようとしている愛は理解されないのではと躊躇し、祈っていました。しかし聖霊を受けて、彼らは話す言葉が変わりました。それはこれまでとは違う方法で愛を伝えるというチャレンジでした。
これが愛の言葉です、あなた分かりますか?という態度ではなく、あの人にはあの言葉で、この人にはこの言葉で、その人にはその言葉でと、言葉を変えて愛を伝えようとしたのです。弟子たちはそのように変えられたのです。
この奇跡は人々が言葉が分かるようになるように変えられたという奇跡ではありません。この奇跡は弟子たちの側が話す言葉が変わる、伝える方法が変わるという奇跡だったのです。弟子が愛を伝える方法を、人それぞれによって変えるというのが、この奇跡でした。これは非常に大きな変化でした。そのようにしてキリスト教の教会は、弟子たちの側が変えられることから始まったのです。
この出来事は、神様が「地域に合わせて変わる教会」を通して、愛を広げようとされた出来事でした。相手に伝わるように自分の言葉を変えていくこと。伝え方を変えてゆくことでした。
このチャレンジはいろいろな活動をしている私たちの教会にも重なってくるでしょう。私たちは愛を伝えたいと思っています。どんな方法でそれが伝わるでしょうか。私たちもまた、聖霊の風を感じ、何が地域の人にとっての愛なのか考えましょう。
私たちは地域の人が“これが愛だ”と分かるように伝えてゆきたいのです。事柄の本質は変わりません。でも私たちは愛を様々な活動に翻訳することで、愛を伝えてゆきたいのです。私たちは多様な愛の伝え方のひとつとして、様々な活動に取り組んでいきましょう。
そして神様の愛についても考えます。神様は旧約聖書で、絶対の神の像を作ってはならないと命令をしました。神様は、神様の姿や形、あり方を人間が固定してはいけないと教えたのです。
なぜでしょうか。それは神様の愛の形は自由自在に変化するからです。神様の愛の形はひとつではなく、いつも相手に合わせ柔軟に変化します。神様は一つの固定した形をとることをとても嫌うお方なのです。それはちょうど愛とはこれですと固定することができないのと同じです。神の愛を、ひとつの形に固定することはできないのです。
だからこそ神様は弟子たちにいろいろな言葉で愛を語らせました。それは神様ご自身がいろいろな形をとって愛を伝えようとしているからです。
そして神様は愛を、この人とこの人に与えると選ばないお方でもあります。神様は、この世界にいるすべての人に、それぞれの心に届く方法で愛を注がれるお方です。
5節にもあるとおり、エルサレムにはあらゆる国々からの人がいました。それに対してあらゆる国々の言葉で愛が語られたのです。すべての人に対し、それぞれに一番届く方法を用いて、神様は愛を語られたのです。もちろん私たちがいたら、日本語で語られたでしょう。今なら、手話や点字で語られたでしょう。あるいは言葉のみではなく、様々な活動を通じて愛が伝えられたでしょう。
この個所から私たちは神様の愛は、様々な形をもって伝えられると教えられます。私たちはその愛を受けてどのように地域に愛を伝えるのでしょうか。きっと私たちが愛を伝える方法も様々に開かれてよいはずです。さまざまな活動を通じて、さまざまな人に愛が伝わってゆくのです。それが神様が起こした教会の始まりだったのです。一人一人に向けてそのようにして神の愛が届けられてゆくのです。
もちろん、私たちはただ愛を伝えるだけではありません。神様は私たちにもその愛を届けてくださいます。しかもあなたが一番、これこそが愛だと強くはっきりと感じる方法で、神様はあなたに愛を届けてくださるはずです。みなさんにもきっとそのように愛が届くのです。お祈りします。