さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。ヨハネ6章11節
私たちは毎月第一日曜日に主の晩餐という、パンとブドウジュースを飲む儀式を持っています。みなさんも価値が分からなくても、まずは体験してみてください。
私は先日、パン作りを体験しました。小麦粉を素早く、力を入れて、20分間こね続ける重労働でした。その分、パンが焼きあった時、それは私にとっては他のパンとは大きく違う、ひときわ思い入れのあるパンとなりました。
焼きあがった時、ある人が言いました。「このパンを隣にいる別のグループに分けてはどうか?」。私は「苦労して作ったパンなのだから、その苦労や意味を理解している人に食べて欲しい」と思いました。でもその時、イエスはパンを、価値が分かる人とだけ分かち合っただろうか?と思いました。今日はみなさんと、イエスがパンを分かち合う物語から、愛とは何かを一緒に考えたいと思います。
ある時、イエスに従う5000人以上の人がお腹を空かしていました。そして一人のこどもが自分の持っている2匹の魚と5つのパンを差し出しました。大人たちは思わず「何の役にも立ちません」と言ってしまいました。
一方、イエスはパンと魚を取って、感謝の祈りを献げました。イエスだけがその役に立たないものに価値を見出し、感謝しました。イエスだけがその価値を知っていました。そしてイエスはその価値をさらに大きく変えようとしています。そして不思議なことが起こりました。パンと魚が増えて人々に行き渡ったのです。
弟子たちは、このパンの意味やイエスの苦労がわかる人、感謝して受け取る人にだけ配ったのではありませんでした。弟子は大切さが分かろうが、分からなかろうが、とにかくそこにいる、あまねく全員に配ったのです。性別や年齢、宗教も思想も問わない。とにかく全員と分かち合ったのです。
そしてもう一つの驚きがあります。なんと民衆はそれを残してしまったのです。ちょっともったいないと感じませんか?この民衆はこのパンの価値が分かっていなかったのででしょうか?でもイエスはこのような人々とパンを分かち合った人でした。イエスは自分の力を、その価値を全く理解できない人々のために、有り余るほど使った人だったのです。
さて、この物語は私たちの生き方にどう関係するでしょうか?私たちの明日とどんな関係があるでしょうか?私たちは誰とでも惜しみなく分かち合うことができるでしょうか?誰かに無償で愛を注げるでしょうか?価値を理解せず、感謝もせず、むしろ余らせてしまうような他者に、私たちは自分の大切な力を使うことができるでしょうか?イエスの愛は無償で無条件です。このパンも、無償・無条件です。そのパンをみんなで分かち合いましょう。イエスはあなたが明日、愛に生きることを期待しています。あなたはそれを差し出すことができますか?私たちはまず、このパンを頂きましょう。お祈りします。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 ヨハネ福音書13章34節
「互いに愛し合いましょう」「愛している」なんて照れくさい言葉です。聖書の愛とはもともと、ギリシャ語でアガペーという言葉です。この言葉は「大切にする」と翻訳できる言葉です。これは「互いに愛し合いなさい」ではなく「互いに大切にしあいなさい」という教えでもあります。
もしかすると、愛することはできなくても、大切にすることならできるかもしれません。人生で出会うたくさんの人の中には、どうしても好きになることができない人がいます。でも「大切にする」ことが大事なのだとしたら、無理に好きにならなくていいのです。それなら可能ではありませんか?今、目の前にいる人を大切にするとは、小さなことから始まります。たとえば気持ちよく挨拶することや、笑顔でほほ笑むこと。愛は大きなことでなくていいのです。
イエスはこの教えを自分の元に集まっているごく少人数の弟子たちに向けて教えました。まず目の前にいる少数の弟子の間で、互いを大切にすることから始めようと教えました。それはとても小さい範囲の愛です。教会の中だとしたら、となりに座っている人を、まず大切にしようという呼びかけです。イエスはこのようにまずそばに、目の前にいる人に目を注ぎ、小さい範囲の人を大切にするように教えました。そしてイエスはそこから愛が広がると語っています。「あなたがたが大切にし合う姿から、それによってイエスの弟子だとわかる」と。一つの愛で急に世界が変わるわけではありません。あなたとあなたが互いに愛しあうことから弟子が増える、そこから少しずつ大きな愛が始まるのです。
実はイエスの「互いに大切にし合いなさい」という掟を守るのは難しい事でした。イエスが逮捕された時、互いに大切にしあうように教えを受けた弟子たちは、イエスも仲間も見捨てて一目散に逃げ出しました。互いにバラバラになって、散り散りになって逃げてゆきました。聖書はこのように目の前にいる人を大切にすることは、難しいことだと語っています。それでもイエスは、世界は変わると言っています。
私たちは互いを大切にしているサインを出しあいましょう。いきなり大好きにならなくてもいいです。苦手のままでもいいのです。でも大切にすることはできるはずです。嫌いな人に対しても痛みをいたわる気持ちは持てるはずです。
今日初めて聖書の話を聞いた方へ。私たちはこんな風に、あなたと隣に座る人が大切に思い合う、そこから世界が変わってゆくと信じています。ぜひあなたもその仲間の一人に加わって欲しいと思っています。
聖書によればイエスは「私が愛したように、互いに愛し合いなさい」と語ります。イエスがまず先に、あなたを大切に思っています。その思いを胸に目の前の人を大切にすることから始めませんか?お祈りします。
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 ヨハネによる福音書10章16節
4月5月とキリスト教入門というテーマで宣教をします。私たちはみんな、何かの「囲い」の中で生きています。そして私たちはそこで誰かからの期待、評判などの「声」を聞きながら生きています。それは私たちを縛ることがあります。
囲いから出るのは自由ですが、囲いから出れば人は孤独を感じます。私たちには「自由な囲い」と「自由にさせる声」が必要ではないでしょうか?大切なのは、囲いではなく、そこに響く声です。聖書はどんな声を私たちに何を示しているでしょう?
今日お読みした箇所は、私たちがどうすれば人生を豊かに生きることができるかということを問いかけています。イエスはこう言ったのです。「私は羊の門である」「羊は私の声を知っている」これが今日の中心メッセージです。イエスは門から入っておいでと語っています。それは全ての羊に開かれている門です。
イエスの門からその囲いに入るとはどんなことでしょうか?それはイエスの声に耳を傾けて生きるということです。入門した羊たちができることは羊飼いの言葉を聞き分けることです。私たちには周囲から様々な声が聞こえます。でも羊たちがイエスに従おうとする時、その様々な声の中から、イエスの声を聞きわけることができるようになるのです。そして教会は、ただの囲いではありません。教会は、その声を一人でなく、一緒に聞く羊の群れです。私たちはイエスの声によって一つの群れになっています。ここに集う一人一人が、それぞれに幸せな生き方ができる様に、もっと声が聞こえる様に、私たちは群れで聞いています。
10節でイエス自身がそのことをもっとはっきり語っています。「私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」とあります。イエスの目的ははっきりしています。イエスが来た目的は私たちがもう一度命を受けとりなおすためです。そしてその命をもっと豊かにしてゆくためです。私たちが幸せになるために、イエスの声が、あなたの命を導こうとしているのです。
さて、私たちの人生に目を向けましょう。私たちがどう生きるかは、私たちが何を聞いて生きるかにかかっているのではないでしょうか?私たちは何を聞いて生きているでしょうか?イエスに入門した者は、イエスの声に聴き従うと決心した人です。
今日、みなさんにもイエスの声が聞こえたでしょう。「私は命を豊かにするために来た」その声はあなたをもっと自由にします。その声はあなたをもっとあなたらしくさせる方へと導いています。あなたにはきっともっとその声が聞こえるはずです。
あなたには、聞こえていますか?あなたに門は開かれています。これから私たちと一緒に、その声を聞きませんか?きっとその声があなたの人生の光になるはずです。お祈りします。
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 ヨハネによる福音書21章5節
多くの方の、支えによって教会が守られたこと、休暇を頂いたことを感謝しています。本当にありがとうございました。11月末に連盟理事会から平塚教会プロジェクト・否決という連絡を受け、心がぽきっと折れるような感覚がありました。そして休暇を頂くことになりました。私は「誰かと一緒に食事をしよう」と決めました。
いろいろな人と一緒に食事をしていると、自分も心折れてないで、前を向いて一歩、歩み出そうと思えるようになりました。もう一度ここから始めよう、再スタートしようと思えたのです。それは私にとって回復の時、原点回帰する機会でした。
この経験のあと、今日の聖書を読みました。不思議なことに、弟子たちの気持ちが分かるような気がしてきました。
イエスの十字架は弟子たちの心をぽっきりと折りました。イエスは3日後にはもう、弟子たちの前に復活しました。しかし弟子たちはすぐに積極的な宣教を始めたわけではありませんでした。ただ弱かったからではありません。弟子たちは、大きなストレスから心を回復させてゆくために、相当の時間と環境が必要でした。弟子たちはその傷から心を回復するために、一度ガリラヤに戻る必要があったのです。弟子たちはそこで、原点回帰を体験しました。
そしてそこにイエスが登場します。小さな声で優しく聞きます「朝ご飯は食べた?」イエスはそんな風にさりげなく登場します。そしてイエスは漁師たちの冷えた体を、炭火を起こして待っていました。聖書には、たった2回だけ炭火という言葉が登場します。1回目の炭火が登場するのは、ペテロが「イエスなんて知らない」と言ったあの夜のことです。そして炭火が再び登場するのが今日の場面です。この後、炭火の前でイエスへの愛を三度、誓うことになります。イエスの期待はペテロが炭火の前で自分の痛みを、もう一度主の前に差しだすことでした。そしてイエスの期待はペテロがそこから回復し、再スタートすることでした。
今日の場面の食事、これはただの食事ではありません。それは折れた心を回復させるための食事だったのです。これは冷えた体を温め、疲れた体を癒す、回復の食事でした。そしてもう一度、愛そうとする、立ち上がろうとする、心を回復させる食事でした。そしてイエスとの関係を回復させる食事でした。
イエスのあり方から私たちの生き方を考えましょう。イエスの寄り添い方に注目します。イエスはあなたが前に進めないとき、そっとあなたに現れて、あなたを励まし、回復させ、また送り出してくださるお方です。
私たちは疲れている人がいる時どのように関わるでしょうか?私たちは心折れた人の側にそっといること、ただ一緒に食事を囲むこと、誰かに温かさを届けるような生き方、誰かと絆を確認するような生き方ができるでしょうか?私はこの物語に押し出されて、人生をもう一度スタートをしたいと思っています。お祈りします。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書11章28節
みなさんはちょっとしたことで快適になったという経験がありますか?私はブロワーという機械のおかげで楽に、そして少し楽しい気持ちで落ち葉拾いができるようになりました。落ち葉の季節は終わり、植物は春に花を咲かせるまで力を蓄えています。それまで庭の管理は休息が出来そうです。皆さんは休息をどのように取っているでしょうか。今日は聖書から働くことと休息することについて考えます。
イエスはいつも休みなく働かなければいけない人々を見ていました。それは昔の人々に限らず、私たちもまた同じです。“軛(くびき)”とは、牛や馬が働くときに身につける道具のことです。軛に農機具を付けることによって土を耕しました。悪い軛は体に合わず、うまく力が入りません。本領を発揮するには良い軛が必要でした。
イエスが新しい軛を下さるとは、私たちが本来持っている力を発揮し、前に進むことができるようになるという意味です。それは自分が力を発揮できる場所を見つけ、自分らしく進むための助けになり、自分に合う生き方のリズムのことです。私たちの人生にもどうしても前に進むことができない時があります。でも私はイエスが私と私たちの教会に、新しく前に進む方法を与えてくれると信じています。なかなか前に進まないことを体験しました。でも「何だ、こっちの方が良かったじゃないか(笑)」という方法を神様が示してくださることを信じています。
そしてイエスはこの言葉の中で「休み」についても語っています。人間には誰しも人生の中で心折れる時があるものです。イエスは私たちに優しく「少し軽くしてみる?それでもだめなら休んでみる?」と語りかけています。
「休ませる」という言葉はギリシア語のアナパウオーという言葉です。それは“立ち上がるために終わる”“回復させるために一時的に立ち止まって息をつく”という意味です。日本語の聖書はこのアナパウオーを「慰める」「元気づける」「待たせる」と訳しています。聖書の言う「休む」はまるで、うつむいていた顔が、ゆっくりと上を向くのを待つような言葉です。
みなさんの人生にはどんな重荷があるでしょうか。勧められているのはまず軛を変える事です。でもそれでもダメな時は「休みなさい」と言っています。不安がなくなるまで、また前に進もうと思える時まで休む、神様はそんな時を下さるお方です。
そして私自身も今、立ち止まらなければ前に進めないと気づいています。だから私はこのアナパウオーの休息をしばらく受け取りたいと思っています。そして休む期間にまた神様が導き、立ち上げて下さる時が来ると信じています。その間神様がこの教会を支えてくださると信じています。
私たちはそれぞれに疲れています。きっと神様が良い軛を与えてくださり、思わず笑みがこぼれるほど、重荷が軽くなる経験を与えてくださるでしょう。そして神様はどうしても力ができない時「休み」を与えて下さるでしょう。お祈りします。
彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書2章6~7節
この1年間、私たちは様々な地域への活動をしてきました。平塚のたくさんの方がこの活動に賛同し、寄付を下さっています。地域のみなさんの小さな愛が積み重なり、私たちの想像を超える働きになりました。
時々教会には特別な困りごとを持った人が相談にきます。平塚市内のいろいろな人と連携しながら支援をしています。聖書にも困りごとを持った人が登場します。今日はそんな人を助け合う、支え合う、連携するという視点で聖書の物語を見てゆきたいと思います。きっと物語の中にある愛を見つけられるはずです。
私はベツレヘムの町の人々は平塚の人々と同じ様に、温かい心のある人だったと想像します。村に入るとすぐに「あれ、ヨセフじゃないか?」と声がして、地域の連携による泊まれる場所探しが始まったはずです。ベツレヘムの人々の思わず手を貸したくなる気持ち、愛が村じゅうを駆け回りました。村の人々は「うちで良ければどうぞ」そう言ってくれる人を見つけ出しました。決して満足のいく場所ではありませんでしたが、みんなで一生懸命探した場所でした。そこで出産することになりますが、出産にも多くの人の手助けがあったはずです。小さな点と点が少しずつ結ばれ、一枚の絵になるように、村の人々は力を合わせていったのです。ベツレヘムのクリスマスとはそんな小さな愛が重なってゆく物語だったのではないでしょうか?
小さな愛が積み重なると、想像できないほど大きな奇跡が起こるのです。みんなのちょっとずつの愛は大きな奇跡を起こすのです。一人一人の少しずつの小さな愛がとても尊い力へつながってゆくのです。この物語の背景にもそれが隠されているのではないでしょうか?
イエスの誕生、きっとそこには自分には何の責任もないのに、他人の困りごとに関わって何の利益もないのに、でも真剣に寄り添った人、真剣に隣人を愛した人がいたはずです。みなさんはこの物語の空白をどのように想像するでしょうか?
もしあなたがベツレヘムの村の一人だったらどうしましたか?そこで、どんなことができたでしょうか?時を超えて考えましょう。私たちは、周りにいる、ちょっと困っている人に、どんなことができるでしょうか?あなたが人の痛みに触れ、何かをしてあげたいと思った時、これならできると思うことはどんなことでしょうか?
その小さな手が愛と言うのではないでしょうか?このクリスマスの物語は、あなたができる愛とは何か?それを私たちに問いかけているのではないでしょうか?
聖書とイエスは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と教えています。私たちにできる愛はなんでしょうか?クリスマスの時、それぞれに愛を思いめぐらせてみましょう。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
マルコによる福音書1章5節
氷の崖の上から一番最初に水に飛び込むペンギンをファーストペンギンと呼びます。ファーストペンギンは誰より先に“未知”へと足を踏み出す存在として「勇気のある先駆者」の代名詞となりました。私たちの教会もファーストペンギンと言えるかもしれません。地域との新しい関わりを求めて様々な取り組みを始めました。
そして実は自然界のファーストペンギンは体を押しあっているうちに落ちてしまうケース、蹴り飛ばされ落ちるケースもあるそうです。私たちの教会はそのような意味においてもファーストペンギンかもしれません。何か見えない力によって、後ろから蹴り出されたのかもしれません。いずれにしても神様を信じて飛び込む、そこに新しい宣教が生まれて来るのではないでしょうか?今日は先駆者を考えます。
バプテスマのヨハネは水の中に体を沈めることをきっかけにして、自分の今までの生き方を新しくしなさいと最初に教えた人です。人々はまるで“もう一度生まれ直す”ように水に身をゆだねていきました。そしてイエスも他の人々と同じ様に、水の中に飛び込み沈むバプテスマを受け、新しい生き方をスタートさせました。
バプテスマのヨハネはその後、命を奪われてしまいました。イエスも最初に飛び込んだ者がどうなるのか知っていたはずです。しかしイエスは愛の活動をやめることはありませんでした。
ヨハネが強調したのは、悪と汚れへの厳しい裁きでした。しかしイエスはいつも罪人や病人と行動しました。イエスは弱さを持った他者をいつくしむ「愛」を強調しました。イエスの伝えたのは、他者を愛すること、他者と共に生きる事、そのような態度・行動だったのです。イエスはその愛ゆえに十字架へととかけられてゆきました。一番最初に愛を語り、一番最初にそれを実行に移しました。そしてイエスは殺されてしまいました。この十字架はイエスが愛に生きようとした証し、この十字架はイエスが私たちの世界に飛び込んできた証しです。
私たちに目を向けましょう。私たちは新しい生き方を目指す、他者を愛す、そう決心し、洗礼・バプテスマを受けました。水の中に沈みました。私たちもアドベンチャーを始めた者です。
あなたが最近「愛するのが怖い」「愛に飛び込むのが怖い」と感じた時はいつでしたか?みなさんにとってこの1週間の中で“愛に向かって踏み出す小さな一歩”とはどんなことでしょうか?みなさんが今、恐れている愛の一歩はなんですか?他者を愛することは痛みも伴いますが、その痛みの向こうに、関係がもう一度開く時があります。大きくなくていいでしょう。誰かの話を聴くこと、祈ること、それらも立派な“愛へのダイブ”です。他者を愛する生き方、共に生きる生き方、分かち合う生き方へと歩み出したいのです。アドベントの光の下、もう一度、愛の海へと飛び込んでゆきませんか? イエスが選んだこの愛の道を、あなたはどう感じますか?
「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」
マルコによる福音書7章6節
クリスマスが少しずつ近づいてきました。みなさんはクリスマスにショートケーキを食べますか?クリスマスにショートケーキを食べるという習慣があるのは日本だけだそうです。サンタクロースと色が似ている、紅白でお祝いにふさわしいということから、日本ではクリスマスの定番となったそうです。気づけば私たちは、日本独特のクリスマスを過ごしています。
形が変わる時というのは、本当に大切にしているものは何かを問われる時でもあります。クリスチャンにとって、騒がしさの中でも、イエスが自分の胸の中にいることを静かに感じることを大切にする日です。私たちは文化を否定するのではなく、今生きるこの日本の文化の中から、少しでもイエス・キリストが伝わることを願っています。実は聖書にも、文化や習慣にずれが生じた時のことが書いてあります。2000年前の人も悩んでいました。そんな時イエスはどう語ったのでしょうか。
ある時イエスたちのもとにエルサレムから律法学者が来て言いました。「食事の前に手を洗わないのはおかしい」。衛生とは関係なく、エルサレムの律法学者は自分が考えだした習慣を人々に押し付けました。律法学者が本当に伝えたかったことは何だったのでしょうか?神様の愛?それとも自分たちの正しさ?自分たちの優秀さ?
イエスは6節で旧約聖書イザヤ書を引用してこう言います。「この民は口先では《神》を敬うが、その心は《神》から遠く離れている」イエスは相手の習慣を無視して、自分たちの習慣を押し付けようとした人に、その心は神様から遠く離れていると指摘しました。イエスは互いを尊重し合う事こそが心が神様に近くなる事だと語ったのです。
この聖書の個所から私たちはどのようにクリスマスを迎える準備をしたらよいでしょうか?私たちは時々エルサレムから来た律法学者になってないでしょうか?私たちは今ある習慣と、その本当の意味の両方を大切にしたいのです。今あるこの習慣を大切にしながら、その先にいる神様に、心を合わせてゆきたいのです。今の目の前にいる人と、その先にいる神様、その両方を尊重する時、神様に心が近くなるのではないでしょうか?
私たちは日本の文化に囲まれながら、ショートケーキと共にクリスマスを迎えます。私たちはそれを否定せずに、その中でどうクリスマスの喜びを他者と分かち合うことができるでしょうか?クリスチャンである私たちこそ、そのような神様と人と両方を大切にする、本当のクリスマスを迎えることができるでしょうか?
私たちはこの後、主の晩餐を頂きます。ショートケーキではありませんが、パンとブドウジュースを頂きます。私たちの主の晩餐はすべての人と共に持たれます。神様の存在を感じながら、互いの存在を感じながら、このパンと杯をいただきましょう。お祈りします。
気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
マルコ福音書13章33節
今日からアドベント、クリスマスを待ち望む期間です。1年はあっという間。やり残したことはなんですか?やろうと思ってから手を動かすまで、時間のかかる私たちです。神様はそれをどんなまなざしで見ておられるでしょうか?私たちはなすべきことがたくさんあります。それを終わらせたいのです。今日は聖書から終わることについて、最後の時、終末の時について考えたいと思います。
キリスト教では長年、終末思想は注目されませんでした。しかし世界大戦が起き、人類を何度も絶滅させる核兵器が生まれました。人間はその時、ようやく終わってほしいものに気付きました。いつしか人々は世界のゆがみの終わりを期待するようになりました。キリスト教の終末思想が再び見直されるようになりました。
34節には「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当て、責任を持たせる」とあります。主人は僕たちに仕事と責任を割り当てたのです。僕たちはいつか主人が返ってくるその終末の日まで、命と財産を主人からゆだねられました。僕たちがいつ主人が帰って来るか、前兆は何かを騒いでも無駄です。僕たちは役割を終えるために自分たちがなすべき事は何かを考えました。そして慌てずに、自分に託された務めを、丁寧に果たしました。役割を果たすことは、未来を考えるということにつながります。僕たちは未来を見ながら、今すべきことに取り組んだのです。
私たちのクリスマス・アドベントは2000年前の過去の出来事を祝うためだけにあるのではありません。私たちは過去を振り返りながら、未来へと歩むのです。私たちは未来を見て、生きます。私たちは終末の希望を見て生きるのです。そして私たちはそれまで委ねられた役割を精一杯生きるのです。
主人が僕たちに与えた役割、神様が私たちに与えた役割とは何だと思いますか?それは隣人を愛することです。私たちはすぐに隣人を愛せなくなってしまう存在です。まるで眠さに負けて、眠ってしまう人ように、私たちは気づくと人を愛することを忘れてしまいます。
36節「目を覚ましていなさい」。大事なのは私たちがその愛を眠らせないことです。私たちは愛を眠らせず、愛を目覚めさせ、愛をもう一度立ち上がらせましょう。例えば愛は、誰かの痛みに共感すること、人を励まし勇気づけること。愛は誰かの側にそっと寄り添う事です。私たちは1日1日を大切に生きましょう。今週出会う誰かを精一杯愛して生きましょう。それが神様が私たちに与えた役割です。
私たちは今、何を終わらせるべきでしょうか?私たちは愛の無いことを止められることができるでしょうか?私たちは今、何をすべきでしょうか?私たちはどのように他者を愛することができるでしょうか?僕たちはまだ待ち続けています。役割を果たそうとしながら、祈りながら、他者を愛しながら、主人を待っています。私たちも僕としてこの先に、きっと希望の終末があると信じて、歩み続けましょう。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マルコによる福音書13章13節
みなさんには心のどこかに“痛み”があるでしょうか?私たち人間の人生には深い悲しみや不安があります。苦しみの多い人生の中で私たちは“望み”を持って生きることができるのでしょうか?今日は聖書から生きる希望について考えます。
当時エルサレムには荘厳な神殿がありました。神殿は金色に輝くユダヤの人々の誇りでした。信仰の中心であり、繁栄の象徴でもありました。一方、神殿は人々から集めた税金でできていました。その輝きは多くの人の汗と涙の上に成り立っていました。人々の間には複雑な思いがあったはずです。神殿はすべての信仰とすべての感情が複雑に凝縮された場所でした。
エルサレムの人々が何よりも心を痛めること、それは自分たちのすべてを象徴する神殿が崩壊することでした。西暦70年に神殿が崩れ落ちた時、人々は自分の心の柱までもが折れたように感じたでしょう。マルコ福音書は神殿が崩壊した直後に書かれました。心の支えを失った深い悲しみの中にある人に語りかけています。
聖書は言っています。ありとあらゆる苦難があなたを襲うだろう。しかし聖書は苦しみだけではなく、望みも語っています。苦難が起こるずっと前、イエスが語っていた言葉があります。それが13節「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」という言葉です。イエスは苦しみの先に、救いが待っていると伝えようとしています。
当時、神殿崩壊を目のあたりにして失望していた人々は、イエスの言葉を信じることができたでしょうか?
深い悲しみを意味する神殿崩壊について考えます。私たちにとっての“神殿”とは何でしょうか?心の中にある大きなもの、心の拠り所となる場所、大切に思っていた人、住んでいる家、職業、信頼していた人との関係、健康、お金。それらが崩れる時、それらを失う時、それは私たちにとっての神殿崩壊かもしれません。そのとき、私たちはどうやって立ち上がるのことができるのでしょうか。
私たちは何に頼って歩いていくのでしょう。悲しみの中にあるとき、私たちは神様がこの先に希望を準備していると信じ続けることができるでしょうか。信じられなくてもいい。ただ信じたいと思えるでしょうか?あなたはつらい出来事が起こる日々、その中で神様が希望を備えて待っていることを信じることができますか?その希望まで耐えることができますか?
一人で待つのは大変かもしれません。私たちは共に希望をもちましょう。あなたひとりで耐えるのではない。私たちは共に信じ、待ちましょう。苦難の中で、共にこの先に希望があると、信じましょう。言葉にならないその思いを、神様にならオープンにできますか?神様にその思いを差し出すとしたら、どんな祈りになるでしょうか?ぜひそれぞれがみ言葉から感じたことを、神様に伝えてみてください。お祈りします。
最近、誰かの言葉に痛みを感じたり、誰かを傷つけてしまったりしたことはありますか?みなさんは周りの人にどんな言葉をかけ、かけられているでしょうか?
ユダヤの人々は歴史上、様々な外国勢力から侵略をされました。食物規定は自分たちの宗教や文化のアイデンティティーとして重要なものでした。一方で食物規定を守らない人は汚れた人、罪人と呼ばれ、分断が生まれていました。
イエスはその境界線を越え、律法を守らない、汚れているとされた人、罪人と呼ばれた人と共に食事をしました。そして15節で言います「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」と。この言葉は、汚れていると言われ続けた人々にとって、勇気を与える言葉、強く励ます言葉でした。イエスはこのように、分断ではなく共に生きることを目指したお方でした。
イエスは続けて、他の人間を汚すのは、人間の内側から出てくるものだと言います。私の心に浮かんだのは、街頭で聞く外国人排斥の言葉です。「外国人は出ていけ」という言葉は、人々の心を蝕んでいます。私たちの心からは、あんなに汚れた言葉が出て来るのです。そしてその言葉は相手も蝕み、他の人の心も汚すのです。心無い言葉を語ってしまうのは、豚肉を食べているせいではありません。それは私たちの心・私たちの内側に問題があるからです。
私たちにとっての清い言葉とは、どんな言葉でしょうか?それはイエスのように、誰かをそっと包む言葉です。傷ついている人を受け止める言葉です。仲間外れにされている人、居場所を求めている人を受け止める言葉です。相手をそっと励ます言葉です。相手の良さを引き出すような、勇気を与える言葉です。相手の中にある光を見つける言葉です。それを清い言葉と呼ぶのでしょう。イエスの「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」という言葉、これはまさに清い言葉でした。追いやられた人を励ます、愛の言葉でした。
私たちは互いに励まし合う人でありたいのです。神の子であるイエスが私たちに伝えたこと、それは互いを認め合うような、そして励まし合うようなの言葉を語り合う事だったのではないでしょうか?私たちは互いに聞き合い、祈りあい、励まし合う1週間を送ってゆきましょう。
私たちはこれから主の晩餐を行います。清い人だけがこのパンを食べるのではありません。このパンを食べると清くなるわけでもありません。これはイエスが汚れていると言われていた人々を、受け止め、励まし、愛を語ったことを思い出すために食べるパンです。私たちはこのパンを食べて、イエスの温かい抱擁と、励まし、愛を受け取りましょう。そして私たちもイエスのように、他者を励ます者として生きてゆくことができるように願いながらパンを食べましょう。このパンを食べて、互いを愛し、互いを励まし合いましょう。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」マルコによる福音書12章26~27節
今日は召天者記念礼拝です。すでに神様のもとにある仲間たちを、静かに思い出す礼拝です。みなさんは自分の“命の終わり”を想像したことがありますか?もし自分が死んだら、どんなお葬式にしたいですか?教会の門の前の新しい看板には「ここで、キリスト教式の葬儀ができます」とあります。私たちの教会ではクリスチャンかどうかに関わらず、地域の方がキリスト教式の葬儀をすることができます。
キリスト教にとって“死は終わり”ではありません。神様が下さった命の旅の“通過点”です。神様のまなざしの前には、“生きている者”も“死んだ者”もありません。神様の愛は変わりません。これは永遠と言えるでしょう。ぜひみなさんの葬儀を教会でさせていただけませんか?きっと、神様の元に帰り、永遠に神様の愛の中にいることを強く感じることができるはずです。
今日の聖書個所でイエスはサドカイ派という人から挑戦を受けています。それは人間は死んだらどうなるのか?という問いです。サドカイ派の人たちは「死んだら終わり」その存在は消えてなくなると主張しました。イエスはそれになんと応えるでしょうか?27節でイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」と言います。イエスもやはり、死んだらその存在は終わりだと思ったのでしょうか。
しかしゆっくり読むと違うということに気が付きます。26節には「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉があります。彼らはもうすでに、数千年前に地上の生涯を終え、死んでしまった人々です。つまりイエスが言っているのはこうです。神様は、生きている者の神様だ。そしてイエスはアブラハム、イサク、ヤコブは死んでいないのだ。あのご先祖は、神様のもとで今も生きているのだと言うのです。神様のもとで永遠に生き、大切にされるのだ。死んで終わりだと思うな。それは大きな思い違いだと言っているのです。このように人は神のもとで、永遠の愛のもとで生かされ続けてゆくのです。
今日は亡くなった方の写真を飾っています。この方たちについてイエスが伝えている確かな事、それはこの方たちは、神のもとでずっと生きているということです。確かに地上での命は終わりました。でも神様はずっとその存在を大切に思い、愛し続けています。私たちはそれを、永遠の愛と呼びます。神様は生死や能力、地位に関わらず、ずっとあなたを永遠に大切にし続けお方なのです。もしあなたが死んでしまったとしても、なお愛のうちに生きる者として、神様の愛のもとに生きるのです。
みなさんは地上の命が終わったらどうなると思いますか?永遠の愛が本当にあると思いますか?あって欲しいと思いますか?永遠の愛の中に生きたいと思いますか?私はすでにあなたの命が神様の永遠の愛のうちにあると信じています。1分間静かな時をもちましょう。
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 マタイによる福音書25章29節
今月は教会とSDGsという不思議な組み合わせを見つめています。でもこの17個の目標は単なる目標ではなく、わたしたちにとっては17個の“祈り”です。今日はSDGsの中の10番「人や国の不平等をなくそう」について考えます。
SDGsは個人や国だけに行動を求めるものではありません。特に企業には環境、社会、統治の3の責任が問われています。企業はただ利益追求をすること、自分たちの企業が大きくなることだけを考えていてはいけないのです。誰かの涙の上に、お金を積み上げていないか――それを問うのです
今日はタラントンのたとえからSDGsを考えます。あるとき主人が3人の僕に大金を預けました。そして増えた僕と、増えなかった僕がいたという物語です。この個所は教会では長らく「あなたの中に眠るものを、土の中に眠らせないで使いなさい」と教えてきました。でも今日はSDGsの視点で読みたいと思います。
短期間で資産を倍にするには、まっとうな方法ではできません。利回りの良い投資は不動産投資です。災害や戦争の混乱の中で、土地を安く買いたたき、利益をだしました。でもこれでいいのでしょうか?これはSDGSな持続的な社会でしょうか?先祖から受け継いだ嗣業の土地を、災害や戦争で手放さざるをえない人がいました。そのような何も手元になくなって、イエスに従おうとした人が大勢いました。イエスはこのような資産の倍増を見習うべき話として語ったのでしょうか?この時、どこにお金をもっていっても、人々を苦しめる元手になったのです。彼は勇気ある決断をしました。倫理的で持続可能な判断。それは、どこにも使わない。それを土に埋める。そんな決断でした。それは搾取への静かな反逆でした。周りの人間は自分の利益だけを求めて、商売をしています。でも私は嫌だ。それに抵抗する。自分の利益だけを求めるやり方をやめたのです。
彼はどうなったでしょう。彼は追い出され、自分の土地を持たない農民と同じように困窮する者になりました。人々と共に歯を食いしばり、共に涙する、それを彼は選んだのです。14節にはこの例え話は天の国のたとえだとあります。天の国はこんな風に頑張った人が入る場所なのですか?もっているものを増やした人がいくところが、天の国ですか?この物語で、すべての人が受け入れられる場所を目指したのは誰か。それはこの3人目の僕ではないでしょうか。彼は人と共に生きる道を選んだのです。そして暗闇の中で、共に歯ぎしりしながら、共に涙し、共にもがいて生きたのです。天の国はそのような共感共苦の中にあるのではないでしょうか?
お金を増やすことよりももっと大事なものがある。もっているものを誰か、困っている人、仲間のために使いたい。みんなの希望につながるなら減ってもいい。それが天の国なのではないのでしょうか。あなたなら、どう生きるでしょうか?それぞれにこのみ言葉を思い巡らせる時を持ちましょう。1分間の黙想の時を持ちます。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
マタイによる福音書22章37~39節
今月は「聖書とSDGs」というテーマでお話します。SDGsは「誰も取り残さない」ための17の目標ですが、私にはそれが目標やゴールではなく、祈りに聞こえます。SDGsは17の祈りです。今日はこの17の祈りすべてにまたがる気候変動について考えましょう。
強い雨は途上国の人々にとって大きな脅威です。気候変動には大きな逆説があります。気候変動の原因は先進国にあるにも関わらず、苦しむのは途上国であるという逆説です。気候変動は私たちが世界の隣人とどう向き合うかという問いかけです。
マタイによる福音書22章33節には「群衆」とあります。この群衆の中には、災害によって多くのものを失った被災者が含まれていました。聖書には自然災害によって深い傷を負わされてた人々が多く登場します。創世記のヨセフの家族は7年におよぶ干ばつの影響で、故郷を去りました。ヨセフの家族は空を見上げて、気候変動がおさまる様に祈ったはずです。ルツ記のルツも、士師記のエリヤも。聖書には気候変動への祈りと物語が、いくつもあります。もしイエスが、21世紀の気候変動の中におられたら、どんな言葉を語り、どんな祈りを捧げるでしょうか。
聖書を、他人の物語ではなく、自分の物語として読む――それが私たちの信仰です。気候変動に苦しむ人々を他人事にせず、それは私だと感じることができるでしょうか。その人と共感することができるでしょうか?この気候変動の時代をどう生き、どう祈るのでしょうか。 今日の聖書箇所でイエスは私たちにもっとも重要な掟を教えています。第1に神を愛しなさい。第二に、隣人を自分の様に愛しなさいです。隣人とは誰のことでしょうか?地球の裏側で気候変動に苦しむ人も、神様の目からは私たちの隣人です。私たちは自分のことのように、隣人のこととして、地球の裏側でおこる気候変動を祈ることができるでしょうか?
私たちがスイッチを切る、その一瞬に、愛が宿るのです。地球の人々と共に生きてゆきましょう。今日も17の祈りを祈りましょう。1分間の黙想の時を持ちます。それぞれに今日のみ言葉に思いを巡らせてください。
■SDGs17のゴール■
1貧困をなくそう
2飢餓をゼロに
3すべての人に健康と福祉を
4質の高い教育をみんなに
5ジェンダー平等を実現しよう
6安全な水とトイレを世界中に
7エネルギーをみんなに。そしてクリーンに
8働きがいも経済成長も
9産業と技術革新の基盤を作ろう
10人や国の不平等をなくそう
11住み続けられるまちづくりを
12つくる責任、つかう責任
13気候変動に具体的な対策を
14海の豊かさを守ろう
15陸の豊かさも守ろう
16平和と公正をすべての人に
17パートナーシップで目標を達成しよう
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
マタイによる福音書19章21節
今日は収穫感謝礼拝の日、そして同時にバプテスマ式の日でもあります。この2つの恵みを共に喜び、分かち合いましょう。そしてこの時を「私が」恵まれていることに感謝するのではなく「誰かと」この恵みを感謝し、分かち合う時にしたいと思っています今日は感謝と分かち合いを聖書から読んでゆきましょう。所有と放棄の間の「分かち合う」を軸にこの物語を読んでゆきましょう。
ある金持ちの青年の物語を読みます。彼はたくさんのものを持っていました。お金、家柄、性格、若さ、健康、家族との良好な関係、たくさんの才能と環境に恵まれてきた人です。彼の「そういうことはみな守ってきました」という発言からはあふれる自信も伝わってきます。誰もがこの青年を見て、うらやましいと思ったでしょう。
でも彼自身が思ったのです。「自分にはまだ何か欠けている」。そしてイエスに、それが何なのかを聞いたのです。イエスは応えます「持ち物を売り払って、貧しい人々に施しなさい」「それから私に従いなさい」。彼は黙って立ち去って行きました。
イエスがこの物語で教えていること、みなさんは何だと思うでしょうか?私たちには一切の所有を放棄することはできません。でも私たちは欠けがありながらも少しでもそれに近づく道があります。それが分かち合って生きるという生き方です。私たちはどんな風に分かち合いができるでしょうか?分かち合うことができるのはお金だけではありません。たとえば煮物のおすそ分け、病院の待合室の会話、孫の写真を見せ合って笑うこと、一緒に祈ること、不安の中にいる人の話を聞くのも分かち合うことでしょう。どれも神様が喜ばれる分かち合いです。この後のバプテスマの喜びも分かち合います。教会の柿をみんなで食べるのも分かち合いです。私たちは時間、喜びや悲しみ、食べ物、才能・・・様々なものを分かち合うことができます。
この後、弟子たちは思わず聞きました。分かち合う先に何が待っているのか?と。イエスは新しい世界が待っていると言います。分かち合うからこそ大切なものや、家族とのよりよい関係が待っているのです。別の言葉で言えば、私たちは分かち合う時に、家族や血縁を超えた結びつき、仲間が与えられてゆくのです。
イエスは、分かち合う時に新しい世界が開かれてゆくと語っています。感謝し、分かち合う時、私たちが大切にしているものは、もっと輝き出すはずです。私たちがもっと分かち合う時、きっと私たちにはもっとたくさんの仲間が与えられてゆくはずです。私たちはみんなで永遠の命、神様の永遠の愛を分かち合ってゆきましょう。
この個所がみなさんに問うていることは何でしょうか?あなたの大切なものは何ですか?それにどうやって感謝しますか?どうやって分かち合ってゆくでしょうか?あなたの欠けは何ですか?その欠けにこそ神の愛が注がれるのです。だから私たちは感謝して、分かち合って、ここから歩んでいきましょう。
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。
マタイによる福音書20章1~15節
10月はSDGsをテーマとしながら聖書を読んでゆきます。SDGsとは「誰も取り残さない」ための17の目標です。教会は神の家族として、どう世界に関わったらよいのでしょうか?無関係ではありません。今、世界では10人に1人近い子どもが働かされています。児童労働は学ぶ時間を奪い、貧しさと不平等を連鎖させます。ガーナのカカオ農園ではこどもたちが重い荷物を背負っています。こどもたちが働かなければいけない理由は、先進国がカカオを安く買いたたくからです。
このような世界で私たちは何ができるでしょうか?聖書の物語に聞きましょう。ぶどうは収穫の時期、すばやく収穫をしなければいけません。朝からたくさんの人が雇われました。しかし夕方になっても声がかからない人がいました。「自分は必要とされない」という痛みを感じたでしょう。そこに主人が現れ、雇われました。彼はそれを喜び、一生懸命働いたでしょう。しかし日当は朝から働いた人も、夕方から来た人も同じでした。早くから働いた人は、これに抗議しました。しかし主人は言いました。「いくら払うかは私の自由だ」。その言葉は慰めでしょうか?横暴でしょうか?
このたとえは伝統的には主人=神、労働者=人間と解釈されてきました。神様は業績主義、成果主義ではありません。神様は取り残され、役に立たないといわれる人に声をかけ、役割を与え、用いて、恵みをくださるお方なのです。しかし、このたとえにはもう一つ見落としてはいけない労働問題の背景が含まれています。
雇用主が真っ先に欲しがるのは安い労働力です。黙って、安く働きそうな人から順番に声をかけたのです。きっとこの中に働かざるを得ないこどもがいたはずです。今も世界でこどもが働かされるように、このぶどう畑でもこどもたちが働かされたでしょうか。勇気のあるこどもが声をあげました。でもすぐに主人に恫喝されました。圧倒的に強い立場の雇用主が、自らの正しさを振りかざし、自分の思う様に給与を決めてゆきました。雇用主は人々の働きがいとやる気を奪いました。「私は正当に扱われていない」。その感覚はとても大事です。不平等への敏感さは、人を守る力になります。それはこのままの社会でいいの?という疑問につながるはずです。
もちろんここでは神様の愛が語られています。でもこのたとえが投げかけているのはそれだけではなく、不平等やひずみに苦しむ人々が描かれている人です。たとえは、神様は弱いもの、後回しにされるもの、小さいこどもを愛するお方、では地上ではどう?と問いかけています。アフリカの子どもが働き、私たちが安くチョコレートを食べる。この世界のままで、いいのでしょうか?私たちこそこの主人のように、カカオ農場でこども不当に働かせていないでしょうか?聖書は、私たちに問いかけています。「あなたは、この主人と同じではないか?」と。
聖書は最後に「あなたはわたしの気前のよさをねたむのか?」という問いかけています。あなたはこの主人をどう思いますか?憧れますか?ねたみますか?
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
マタイによる福音書18章27節
今月は礼拝について考えています。礼拝は神と人とのつながり、人と人とのつながりを考える時間です。私たちはどうしたらもっと深く神様と、他者とつながることができるのでしょうか?人と人との関係はお金が絡むと複雑になります。みなさんは友達にお金を貸したことがありますか?お金は人を助ける力を持っています。しかし同時に人と人との信頼関係を壊す力も持っています。
聖書にもお金で人間関係が壊れる物語があります。そして人間の関係の複雑さ、壊れやすさとまったく正反対である、まっすぐで単純な神様の愛が描かれています。
ある時一人の家来が1万タラントン、現代にすれば6000億円の借り入れを返済できなくなりました。普通の人間は信頼が裏切られたことへの強い報復感情を抱くはずです。しかし物語に出て来る王はあまりにも寛大です。借金を帳消しにしました。王は家来とこれまでの関係に戻ろうとしたのです。
伝統的に教会は「だからあなたもすぐに赦しなさい」と解釈してきました。しかしその教えは被害者の痛みを無視した赦しの押し付けとなってきました。赦しはそんなに簡単ではありません。今日はこれまでとは違う読み方をしましょう。
この物語の中心点は王の驚くほど寛大な行動です。王の行動に注目をします。この王は変わり者です。王は借金を免除し、これまでと変わらない関係を築こうとしました。こんなことは私たちの生きる世界では現実には起こりません。でもこれが神様の姿を映し出しています。これが神様の提案する、神と人との関係です。
神様はあなたがどんなに罪深い人間でも、あなたとの関係を諦めないのです。神様はどんなに欠けのあるあなたとも、関係をより一層強いものにしたいと提案をしています。お金の絡む人間関係は難しいものです。でも神様との関係は違います。神様と人間の関係は驚くほど単純で、驚くほど確かなものです。その関係はどんなことがあっても途切れることがないのです。ここに神様の強い愛が示されています。
今月は礼拝という視点で聖書を読んでいます。礼拝はそのような神との深い結びつき、絆を確かめる時間です。私たちは礼拝で、決して途切れることのない神様のとの強い絆を確かめます。
人間の問題の複雑さをひっくり返して考えてみてください。神の愛はまっすぐで、決して切れません。神様の愛は単純で深いものです。あなたの悩みは深いでしょう。けれどもそれよりも圧倒的な深さで神様はあなたを愛しているのです。
あなたは今どのように人間関係に悩んでいますか?お金の問題で心が重くなっていませんか?そのような毎日の中で、あなたはどこに神様の愛を感じますか?どうすればこの礼拝でそれを感じることができるでしょうか?礼拝で神様との絆をもっと感じるにはどうしたらいいと思いますか?心の中の悩みや葛藤を神様の前に差し出しましょう。そして神様が見捨てないことを思い出しましょう。お祈りします。
これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。
マタイによる福音書18章14節
私たちは、なぜ礼拝をするのでしょう?ただの習慣でしょうか?それとももっとあなたの人生にとって、深い意味があるのでしょうか?礼拝は神様と人との、人と人との結びつきを強めるためのものです。その結びつきを深めるために礼拝をしています。みなさん一人一人がより、神様とのつながりを感じることができる礼拝にしてゆきたいと願って、いろいろ試しています。私たちの礼拝には、きっと見落としている要素があるはずです。今日は参加型の礼拝という視点でこの個所を読み直してみましょう。その時、この個所はどんな風に聞こえるのでしょうか?
ある時、100匹の羊と一人の羊飼いがいました。しかし1匹が欠けて99匹になってしまいました。一人の羊飼いは99匹を山に置いて、危険にさらして、一匹を探しに出てゆきました。そして1匹を探し出し、見つけました。そこには大きな喜びがありました。今日は、この物語の99匹と1匹の関係に目を向けてみましょう。
バプテストらしい民主主義を大切にするならば、リーダーの勇敢な決断を受け入れたのではなく、100匹の共同体の選びとして読みます。ある時、99匹のうちの誰かが、一匹足りないということに気付きました。彼らは相談をし、その一匹を探しだすために、羊飼いを派遣する決断しました。99匹にはいろいろな立場があったけれど、それぞれに納得して一匹を探し求めることにしました。99匹がそのような決断ができたは「一人でも滅びることは神様の御心ではない」と知っていたからです。それは自分達の中に欠けているものを探す旅の始まりでした。
羊飼いが探したのは、たった1つ。しかし決して小さくない“欠け”でした。どこにあるのか、それが欠けている事にはどんな意味があるのか?その欠けの意味を考えながら、探し求めたのです。森の奥、川のほとり、岩陰…。行き先を変えながら、必死に探し続けました。そして羊飼いはその一つの欠けをようやく見つけ出しました。きっと99匹の仲間は「探してよかった!」仲間たちは声をあげ、胸を熱くしたに違いありません。この99匹の物語を私たちと重ねてみましょう。
私たちの礼拝も99なのかもしれません。100に限りなく近いのでしょう。でも私たちの礼拝で何か置いてきてしまった要素があるのではないでしょうか?私たちが礼拝の中で置き忘れてきてしまったものは何でしょうか?いろいろ試行錯誤します。そんな私たちは今、1匹の羊を探す羊飼いの様に、失ったものを探す旅の途中にいるのです。今日、この物語は私たちにどんな挑戦を投げかけているでしょうか?私たちの礼拝に欠けているものは何でしょうか?
そしてみなさんには家族や仲間、職場や学校という共同体もあるでしょう。みなさんのいる共同体もきっと99匹の共同体です。この1週間、みなさん自身も小さな1を探す旅に出てみませんか?思いがけない喜びと感動が待っているはずです。
黙想の時を持ちます。心に残った言葉を、そっと神様に献げましょう。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
マタイによる福音書13章45~46節
今月は「礼拝」をテーマに、もっと神様とのつながり、人とのつながりを深くする礼拝を探し求めています。今は礼拝で「こどもの足音は平和の音」と呼びかけていますが、20年前の週報を見ると「静かに席につきましょう」と書かれています。また「半徹夜祈祷会」の案内が記載されています。どんな祈りがあったのでしょうか?教会や礼拝のあり方は20年前と大きく変わってきています。
神様は、教会はずっと今のままでいい、いまの形が完成とは思っていないはずです。礼拝は神様と私たちを結びつける時間です。大事なことはより深いつながりのために、さまざまな礼拝を試してゆくことです。神様はその試みの中で良いものを残し、育ててくださいます。そして変えるべき部分を変え、やめるべき部分を取り去ってくれるでしょう。それは私たち一人一人の人生にも言えることでしょう。
今日は天の国のたとえという話です。天の国とは神様と人間の深い結びつきが実現している場所のことです。神様は死んだ後ではなく、この私たちがいま生きる地上での結び付きを大事にしています。
最初のたとえは、畑で宝物を見つけた人の話です。彼は宝を見つけ、その喜びのあまり、畑全体を買い取りました。神様はあなたの良いところも弱いところも、全部抱きしめてくださるお方なのです。二つ目のたとえは、真珠の話です。ある日商人は小さな一粒の真珠に出会い、その一粒に人生のすべてをかけます。神様はあなたのいいところを誰よりも早く見つけ、それに全力の愛を注ぐお方です。三つ目のたとえは魚の話です。ある人がたくさんの魚を獲りました。彼は良い魚は器に入れ、悪い魚は捨てました。このように神様に出会った私たちは、神様によって、私たちの心の中にある、悪い部分をすべて選り分けられ、焼き尽くされるのです。そして私たちの心の良い部分だけが残されるのです。この三つのたとえは、少しずつ違うことを語っています。神様は全てを受け止め、小さな良いものを見つけ愛を注ぎます。そして良い部分だけを残すのです。これが私たちに示された天の国です。
この礼拝も同じです。神様は私たちの礼拝のすべてを受け止め、小さな礼拝を見つめ、大きな愛を注いでくださいます。そして私たちの礼拝を変えて下さいます。
今日の個所、みなさん自身の人生にはどう響くでしょうか?神様はあなたの中に宝物を見つけてくださるお方です。みなさんの中にはどんな真珠があるでしょうか?神様は神様はあなたの良い部分を輝かせ、悪い部分を焼き尽くしてくださると約束しています。では、みなさん自身は何を宝としますか?何を宝として、何を真珠として、何をいらないものとしますか?
教会の礼拝はどのように変わってゆくのでしょうか?教会とみなさんの人生に神様はどのように絆を持とうとしているのでしょうか?
天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。
マタイによる福音書12章32~33節
9月は「礼拝」について、みんなで考えてゆきたいと思います。この20年、私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。携帯電話を持った時から、公衆電話をほとんど使わなくなりました。私は「公衆電話を守らなければ」とは思いません。なぜなら、大事なのは公衆電話ではなく、その中で育まれた、心と心のコミュニケーションそのものだからです。
教会や礼拝出席の数も公衆電話と同じ様に、減少しつつあります。教会を維持してゆくことは大事なことです。しかし教会はあくまで目的ではなく手段です。公衆電話も、維持が目的ではなく、他者とのコミュニケーションが目的でした。教会も同じではないでしょうか?公衆電話が姿を変えて、携帯電話になったように、教会もまたその目的を果たすために、どんどん変わってゆくべき場所なのです。
私たちの教会は20年後も、このままの形で存在しているでしょうか?それとも、人々の心のよりどころとして、新しい形に変わっているでしょうか?様々な試みに挑戦することが大事だと思います。ぜひみなさんも、こんな風にしたら、神様や人々とより深いつながりを持てるという礼拝のアイディアを教えてください。
聖書を読みます。古代の種まきはとにかく数を蒔くという方法でした。蒔いたものが全て芽を出すわけではありませんでした。しかし人々はケチらずに、収穫を信頼してたくさんの種をつかんで、惜しみなく蒔きました。新しい種を、惜しみなく蒔く人に、成長と収穫があったのです。そのいくつかが芽を出し、大きく育ちました。大きくなった藪はたくさんの動物の隠れ家、命が集い、憩う場所になりました。
この種のこと、私たちは今日どのように理解しましょうか?種とは私たちの中に眠る、新しい可能性そのものではないでしょうか。教会はたくさんの可能性を持っています。教会は惜しみなく様々なことを試すことが必要です。種は蒔かないと芽を出しません。やってみないと芽が出るかどうかわからないのです。うまくいくことと、いかないことがあるでしょう。しかし聖書は言っています。挑戦しなさいと。私たちは新しい礼拝へ、新しい神と人との出会いへ、いろいろな礼拝の持ち方、神と人とのコミュニケーションのあり方を、種蒔きの様に、大胆にチャレンジしてみてはどうでしょうか?どんな礼拝なら、人と神様が、より深く、温かく出会うことができるのでしょうか?
そしてあなた自身のこととしても考えてください。あなたは小さな種をもっています。それは今蒔くべき種です。それを蒔くとしたら、それはどんな一歩ですか?
この後、主の晩餐を持ちます。全員でこのコミュニケーションに参加しましょう。そして1分の黙想を持ちます。それぞれに感じたこと、神様への応答をぜひカードに書いてみてください。
汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。 マタイによる福音書12章43~44節
8月は礼拝で平和について考えています。先の参議院選挙では新たに憲法を創ると訴える党がいました。その憲法案からは9条が削除されていました。そしてこの党は選挙でとても人気がありました。私たちは戦争に向けて再び時を刻んでいます。私たちは大きな戦争を体験し、もう二度としないと誓いました。武力ではなく平和を信じると宣言したはずでした。しかし日本はまた自ら戦争へと近づこうとしています。日本は再び戦争・破滅に向けて時を刻んでいます。戦争、核兵器の再使用、人類の絶滅に再び近づいています。みなさん自身はそんな世界の平和、日本の平和について今どう思うでしょうか?今日の個所を読みながら、一緒に考えてください。
聖書を読みます。汚れた霊は一度は家から追い出されました。しかしその存在が消えたわけではありませんでした。行く当てのない汚れた霊はしばらくした後「戻ってみよう」と考えました。きっと時間が経てば、再び自分に居心地のいい場所になっているのではないかと思ったのです。戻ってみると案の定、掃除され、整えられ、飾り付けがされ、汚れた霊はもう一度歓迎されました。汚れた霊は自分の他にもたくさんの汚れた霊の仲間を招いて、そこを居場所にしました。
この話をどのように理解したらよいでしょうか?今日私たちが与えられている問いは、一人ひとりは何を心に住まわせるのかというものです。私たちは汚れた考えを、徹底的に追い出しましょう。汚れた考えとはどんな考えですか?想像してみてください。暴力、戦争、核兵器、差別、格差、いじめ、無関心・・・みなさんの心にはどんな汚れた霊がいますか?汚れた霊は私たちの心の中、私たちの社会に静かにやって来ます。少しずつ、場所が整えられ、飾られた場所に忍び込んできます。人気に推されて、新しいものとしてやってきます。
私たちはどうすれば汚れた霊を心に迎え入れずに済むのでしょうか?私たちは汚れた霊が再び家に入ってこないように、そこを別のもので満たさなければいけなかったのです。例えば平和の願い、祈り、誓い、憲法、戦争の証言、様々なもので満たすことができるはずです。そしてキリスト者はそこを愛と平和、神の言葉で満たすことができるはずです。私の心から暴力と差別を徹底的に排除し、平和の主イエスを心に迎え入れたいのです。
そして私はそこにイエスの十字架を置きたいのです。十字架とはイエスが暴力的な力で、殺されたことの印です。けれども同時に十字架は暴力を超えて、復活があった印です。それを胸の中に、私の家に置きたいのです。
みなさんにも問いかけます。私たちの世界がその心から追い出すべきことは何でしょうか?私たちの日常ではどのような場面で汚れた霊を見ることができるでしょうか?私たちは何を心に招くのでしょうか?
「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」
マタイによる福音書10章23節
8月は平和について考えています。戦争がはじまると、逃げたい人は逃げる、戦いたい人は戦うという自由ありません。戦争が始まった時「戦争に反対だ」「戦いたくない」と言葉にすることは危険で勇気が必要なことです。私はどんな時でも、「戦いたくない」と言える勇気を持ちたいです。暴力で戦うことが良い事だと言われる場所から逃げる勇気が欲しいのです。それが平和につながるのではないでしょうか。
「逃げる」と聞くと、弱さの象徴のように感じるかもしれません。でも聖書の中には逃げた人がたくさん登場します。アブラハム、モーセ、イエスの父ヨセフ…それぞれ逃げた先に平和がありました。聖書には逃げることで守られた命がいくつも描かれています。一緒に聖書から平和を求めて逃げる事を考えましょう。
マタイ福音書4章24節には、イエスの教えがシリアで広がったとあります。当時イスラエルとローマ帝国は激しい戦争をしていました。愛国心と信仰心が混ざり、彼らは熱狂的にローマと戦いました。その時期にもしマタイによる福音書を書いたグループがシリアにいたとするなら、それは戦争から「逃げた」ということです。マタイのグループはあえて戦わず「逃げる」という選択をしたのです。
22節に「最後まで耐えしのぶものは救われる」と書かれています。マタイのグループは自分の願いを叶えるために暴力を使う、その誘惑に耐え続けました。戦う誘惑をしのび、平和を求めて行動をしました。それが逃げるという行動だったのです。
戦わずに逃げる、その勇気ある選択の原動力は23節のみ言葉だったのではないでしょうか「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」。彼らはこの教えに従って戦わずにシリアへ逃げ、逃げた場所で彼らの平和の福音が広がったのです。戦わなかった姿、それはイエス・キリストの生き方とも共通するでしょう。イエス・キリストは戦わず、十字架に掛けられたお方でした。イエス・キリストは、あなた方は戦わず、また死ぬこともなく、逃げなさいと教えているのです。
今日の個所からどのように平和を考えたらよいでしょうか。もし、私たちの国で戦争が始まってしまったら勇気をもって逃げることを選びましょう。私たちは信じましょう。戦わないその先に、神様の救いがあるのです。イエスの十字架の歩みにも暴力に暴力で抵抗しない生き方が示されています。私たちはそのような平和を貫きましょう。
私たちの1週間の中でどのようにして平和を実現することができるでしょうか?私たちそれぞれの場所にある、暴力に反対しましょう。私たちは暴力に暴力で対抗するのではなく、23節にあるとおり、逃げましょう。そしてそれぞれが逃げた場所で、平和の言葉を語りましょう。私たちは今週もそれぞれの場所で精一杯、他者を愛しましょう。そしてどうしても平和が難しいなら、一度離れてみましょう。そんな生き方が今日の個所から示されているのではないでしょうか?お祈りします。
そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
マタイによる福音書8章13節
今日は平和祈念礼拝です。パレスチナとイスラエル、ロシアとウクライナの戦争にはキリスト教が深くかかわっています。キリスト教は一時期、イスラム教が戦争を肯定していると盛んに批判していましたが、キリスト教徒も負けずに一生懸命戦争をしています。私たちは平和と共存を求めながら、聖書を読みましょう。
ある時、僕の病気のことで、百人隊長がイエスを訪ねてきました。宗教を超えて、命を救ってくれと求めにきたのです。イエスはそれをためらわず、すぐに了承しました。しかしこれは非常に驚くべき行動です。当時、ユダヤ教の人々は違う宗教の人の家に行ったり、一緒に食事をすることは律法で汚れた事として禁止されていました。しかしイエスはタブーだと言われていても、命を守るための行動はためらわなかったのです。イエスは国籍、宗教、血縁に関係なく、また軍人であるかどうかにも関わらず、命が大切にされることを願うお方なのです。
11節と12節には、ユダヤ教の始まりを刻んだ族長たちが、外国人と宴会をするという光景が語られています。しかしこの光景には大きな問題があります。ユダヤ人は異教徒の家を尋ねたり、食事をしたりしては決していけないのです。それにも関わらずイエスはここで、この大御所たちがいつか宗教を超えて、みんなで食事をする日が来ると言うのです。イエスは、異なる他者と平和に過ごす時が来る、今まで対立していた者と共に食事をし、平和が広がっていくのだと語ったのです。そしてもし自分たちこそ正しいと信じ、他を排除するなら、共に食卓を囲むことはできないのです。この言葉はユダヤ人だけではなく、クリスチャンにも向けられています。自分たちだけが正しく、自分たちだけが神に選ばれたと思うなら、他者との宴会・平和には入ることができないのです。
この個所から平和について考えます。平和とはまさしく、宗教や国籍を超えて、共に食事にあずかるような出来事です。領土や利権を争い合うのではなく、対話し、分かち合い、共存共栄をしてゆくことが平和です。イエスが百人隊長を訪ねようとした行動と、語られた驚きの風景に、平和のビジョンが表されています。
この聖書の光景が世界で実現されるように祈りましょう。困っている他者のために隔たりを軽やかに超えて行動する世界を求めます。いつか争い合う国々が、天の国の宴会のような交流をできるように願います。私はイエスがそのように私たちに平和を示しているのだと感じます。
13節でイエスは「あなたが信じたとおりになるように」と言います。私たちは平和を信じ続けることが大事です。平和を信じ続ければ、平和が世界に実現するのです。しかし、いややはり戦争で決着をつけるしかないと信じるならば、戦争が起こるのです。私たちは今日もそのように平和を信じ続ける、その信仰を持つクリスチャンでいましょう。お祈りします。
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 マタイによる福音書9章10節
今月は平和について考えます。まもなく原爆が投下されて80年を迎えます。
“こうの史代”の「夕凪の街 桜の国」という漫画を読みました。原爆投下10年後の広島の人々の生活や心情が豊かに描かれています。人々の心の奥には原爆の体験が深い爪痕を残していました。あの日の体験は、自分は誰かに「死ねばいい」と思われた、人間としての存在を否定された体験だったのです。
主人公は結婚を直前にしたある日、突然倒れ、全身に痛みを抱えて、息を引き取ってゆきます。死ぬ前の彼女の最後の心情が言葉にされています。それは「10年たったけど原爆を落とした人は『やったまた一人殺せた』と思ってくれているか?」というものでした。それは自分は人間として扱われなかったという叫びでした。
戦争とはそのようにして相手を非人間化し、人間の存在価値を根幹から否定する行為です。神様が人間の命を創造しました。私たちは人間の命を、神様の創った命として大切に扱わなければいけません。私たちは人間を人間として扱わなければいけないのです。平和とは、人間が互いの命を尊び、尊厳を認め合うことではないでしょうか。私たちはどのように平和への道を見出せるのでしょうか。今日は聖書の中に、その一つの光を見たいと思います。
2000年前、王と徴税人は人々を道具や家畜と同じ様に扱い、税金を搾り取っていました。だから人々は、自分を人間扱いしない徴税人とは絶対に食事をしませんでした。しかしイエスは徴税人や罪人と食事をします。古代において罪人とは様々な差別を受けていた人たちのことです。人間扱いされなかった人間たちです。
イエスは徴税人や罪人たちをみんな集めて、家で食事を共にしたのです。人間を非人間化する人、人間であるのに非人間化された人を一堂に集めて、食事会を開いたのです。イエスは、この共に食卓を囲むという行為を通して、人々が互いを『物』や『動物』のように扱うのではなく、かけがえのない同じ人間として再び出会い直すことを願いました。互いの中に神様から与えられた尊厳を見出し、そこに温かな『憐れみ』が生まれるようにと、彼らを食事へと招いたのです。この食事はイエスの開かれた「平和と慈しみの食卓」だったのです。私たちも人間を非人間化するあらゆる行為、暴力やハラスメント、差別に反対をしましょう。
私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。この儀式の意味の一つは、イエスがこのような徴税人や罪人とした食事を再現するという意味があります。私たちもまた、イエス様によってこの「平和と慈しみの食卓」へと招かれています。私たちは改めて、ここにいる一人ひとりが、そして世界のすべての人々が、神様に愛されたかけがえのない人間であること、互いに尊重し合い、決して傷つけ合ってはならない存在であることを、心に刻みましょう。世界の平和を祈りつつ、このパンをいただき、この杯を飲みましょう。お祈りします。
「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」創世記3章6節
誰しもが、人のものを勝手に食べてしまった、あるいは食べられてしまったという経験があるものです。冷蔵庫からなくなった、あのプリンです。私は初めてこどもが勝手にお菓子を食べた時、怒りたい気持ちと、ほめたい気持ちがあり、言葉になりませんでした。人のものを食べることは良くないことですが、自分で考えて決断し、行動するという発達はとても大切なことだからです。
みなさんも想像してみてください。神様が食べてはいけないと言ったものを食べてしまったことについて、神様はどのようにとらえたのでしょうか? 今日は原罪という伝統的な解釈から離れ、自分自身の目で、この物語を読みなおしてみませんか?
創世記3章を読みました。この個所から神様が人間に何を期待していたのかを想像します。神様は、私たちがずっと「いい子」でいることを、本当に願っていたのでしょうか?想像力を働かせましょう。もしかして神様は人間がこれを食べてしまうことが分かってたのではないでしょうか。
親はこどもが自分の期待に反するとしても、自分で選択することを促してゆくものです。「ずっとこの家にいてもいい。でもいつかは、厳しくても自分の足で広い世界を歩いてほしい」そんな思いで子どもを育て、広い世界へと送り出します。父なる神様もアダムとエバにそれを期待していたのではないでしょうか?そして女性であるエバは、世界で初めて「自分で決断した人」でした。神様は自分で決めるという主体的権利を使った人間を見て、エデンの園の外へと派遣していったのです。
私たちは、神様の言われた通りに生きることはできません。すべての行動に神様の指示があるわけではないからです。だから私たちはそれぞれの場所、場面で自分でよく考え決断し、行動しなければなりません。誰か、偉い人、詳しい人、AIが自分の選択を決めてくれれば楽です。でも神様の期待はそうではありません。神様は自由な存在として人間を創造されました。神様は人間を、自分のことを自分で決める主体的権利をもった存在として創造したのです。
もちろん人間が自分で判断すれば当然、間違えが起こります。その時大事なことは、自分の選んだ道を、誰のせいにもせず、しっかり受けとめることです。そのこともこの物語の中で伝えられている事ではないでしょうか?
みなさんは人間とは神様の前にどのような存在だと思うでしょうか?私たちにはなぜ自由があり、私たちにはどのような主体性があるのでしょうか?どんな人間も産まれながらに悪い存在なのでしょうか?私たちは誰に何に教わり、従って生きるのでしょうか?私たちの行き先は誰が決めるのでしょうか。
私たちは厳しい現実、失楽園の中に生きています。でも希望を失いません。神様が期待し、守り、ここへ派遣してくださっているからです。お祈りします。
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」創世記2章18節
私たちは一人でいる方が気楽だと感じることが多くあります。自分の時間とペースを大切にすることも今の時代には必要なことです。しかし一方で一人の時間が増えることによる「孤立」も問題になってきています。私も平日ずっと、大きな教会に独りでいると孤独を感じるときがあります。孤立や寂しさの問題は私たちの周りの様々な場面で起きています。
神様は創世記1章から様々なものを順番に創造され、それぞれを「見て、よしとされ」ました。しかし今日の個所ではひとつだけ「人が独りでいるのは『よくない』」と言います。動物を創造しても彼に合う助け手ではなく、彼は寂しい孤独だと感じました。神様は新しい一歩を踏み出し二人目の人間を創造します。
歴史的にこの個所は男性優位、性別二元論、結婚の推奨の根拠として誤って解釈されてきました。聖書はここで男女やあらゆる性を超えて、人と人とがどのように絆を持ち、向き合うべきかを教えているのです。
神様がいて一人の人間がいる、それだけ世界は十分よいはずでした。そこには一人の世界の自由さと、気楽さがありました。しかしそこにいた人間も神様もそう感じなかったのです。神様は孤独であることを「よくない」と言いました。孤独は神様の創造の意図に適っていなかったのです。神様はきっと人間が二人いれば、すぐに衝突することを容易に想像できたでしょう。それでも神様は人間同士の豊かな交わりを期待し、二人目を創造したのです。
19節の「彼に合う助け手」の「助け」という言葉は、詩編において神様の助けという意味で繰り返し使われている言葉です。それは助手のような助けではなく、神様の「救い」という意味があります。神様は、独りで孤独な人間に対し「救い」として、もう一人の人間を遣わしてくださったのです。人間の究極的な助けは神様が握っています。しかし神様はこの地上での助け、共に助け合う者として、もう一人の人間を私たちに与えたのです。それが神様の創造の働きのクライマックスでした。神様はこのように、私たちに仲間を創造するお方なのです。
この物語は、性や結婚の有無に関わらず、私たちには、神様から共にいる仲間が与えられていると示しています。今、助け合って生きようとする誰かの顔が思い浮かぶでしょうか?血縁や地縁、国籍や宗教を超えて、私たちは互いに助け合う者として創造されています。クリスチャンとしてこの物語を読む時、共に信仰を分かち合う仲間が必要だとも理解できるでしょう。私たちの教会は互いに助け合いながら、励まし合いながら歩んでゆきましょう。
25節には二人は裸であることを恥ずかしいと思わなかったと記されています。それは心を裸にして互いに助け合う関係ができていたということです。私達もこのような信頼を築くことができるお互いになってゆきましょう。
私たちはそれぞれの場所にいる仲間、助け手の助けを受けながら生きてゆきましょう。そして私たちはそれぞれの場所にいる仲間のよい助け手・隣人となってゆきましょう。寂しさを感じる時、神様は私たちに仲間を与えてくださるお方です。お祈りいたします。
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。男と女に創造された。 創世記1章27節
今日は礼拝の中で主の晩餐を行います。目的の一つは「神様の創造に感謝する」ことです。今日私たちは創造された命の尊さと、創造への感謝を考えましょう。
2500年前、当時の人々は戦争に敗れ、自分たちの命が踏みにじられるのを目の当たりにしました。そのような中で人々は、神が命についてどのように考えているのか、神様の力を受けて、伝承を文字にしてゆきました。それが創世記です。
27節には神様は人間を創造したとあります。命の創造、これが聖書の神の役割です。世界には多くの戦争の神、破壊の神がいます。しかし聖書の神は愛の神、平和の神、新しい命を創造する神です。神が命を創造しました。人が人の命を作ったのではありません。神様が創った命を、人間が作ったモノと同じ様に考えて、壊したり、奪ったり、売り飛ばしてはいけないのです。
27節には、神様は人間をご自分にかたどって創られたとあります。人間は神の似姿に、そっくりに作られました。そこには人間の命を神様のように大切にして欲しいという神の願いが込められています。戦争は最も人の命を大切にしない行為です。全員の命が神の似姿です。大切なのは王様や権力者の命だけではありません。全員の命が神様に創造されており、大切にされなければいけません。
命は大切であることと同時に平等です。27節には「男と女に創造された」とあります。古代で差別された女性も神様が直接創った尊い存在です。もし神様が男だったら、似姿として創った人間は男だけだったはずです。つまり神様は男だったとは限らないということです。神様はすべての性を創ったお方です。LGBT、性的マイノリティーの人々も神様の創造の作品と言えるでしょう。
神様は工場のように、同じ人間を大量生産したのではありませんでした。神様は一人一人、愛情を込めて異なる人間を創造しました。そこでは神の似姿として創造されたにも関わらず、まったく異なる者が創造されてゆきました。私たちはこんなにも違うのに、しかし全員神様に似ているのです。
29節で神様は人間だけに「祝福」を与えました。祝福とは特別な祈りのことです。神様は人間に向けて他に創造されたものとは違う、特別な祈りを向けたのです。私たち人間はそのように神様の特別な祈りに包まれ、その中で生かされている存在なのです。神様は人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言いました。私はここからこどもたちの顔を連想します。新しい命はそのように神様から祝福を受けている命です。
私たちは神に創造された大切な命をもっています。私たちは違いがありながらも神様の似姿に創造された命です。私たちは全員、神様に喜ばれて生まれてきた命です。私はそれを感謝します。私たちはこの後、主の晩餐を持ちます。今日、神様から頂いた命、互いの命に感謝をして、主の晩餐をご一緒しましょう。お祈りします。
あなたがたは地の塩である。マタイ5章13節
6月は地域と教会のつながりについて考えています。昨年度は私たちのこども食堂に40名以上の方からボランティアへの応募がありました。ボランティアはとても勇気のいることです。多くの方は「ずっとやってみたかったけれど、今まで勇気がでなくて」と言います。その気持ちを聞いて「もし教会のボランティアが無かったら、この方たちの『何かをしたい』と思う気持ちはどうなってしまったのだろう?」と想像します。きっと私たちの教会が、地域に向けてボランティアを募集するということは、地域の中に眠っていた、小さな勇気や思いやりを引き出すことにつながっています。教会という存在は、「誰かのために何かをしたい」という気持ちに、火を灯してゆく場所です。
また実際のボランティアの現場も、それぞれの持つ良さを引き出すことができる場所になっています。今日は聖書を通して「人の中にある良さを引き出す」ということを、一緒に考えたいと思います。
塩は質素な食事でも必ず使われた調味料です。塩の一番の役割は、食材そのもの味を引き出すという役割です。塩を振りかけると、それぞれの食材が本来持っている味を引き出すことができるのです。塩は保存料にも使われます。でも塩だけを食べてもおいしくないという一面もあります。それが塩です。
13節「あなた方は塩である」とはあなたがたは相手の良さを引き出すものだという意味です。しかもそれは、地の塩です。イエスは私たちに、地域の中にある良いものを引き出すものになりなさいと語られました。ひとつまみでいいのです。塩は、誰かと一緒になるとき、相手に大きな力を発揮させるのです。
13節の後半には、役にも立たないと言われ、外に投げ出され、人々に踏みつけにされるという言葉があります。これはただのたとえではなく、古代では実際にそのような人がたくさんいたのでしょう。そして現代にもそのような人がいるでしょう。イエスは弟子たちにきっとこんな思いをもって言葉をかけたでしょう。「地域には、自分は役に立たないと思っている人、居場所のない人がたくさんいる。あなたがたはその人たちの良さを引き出すものとなりなさい。あなた方は地の塩となりなさい」
私たちが行う地の塩、世の光の活動は直接キリスト教を伝えているわけではありません。しかし周囲にはしっかりとキリストのすばらしさが伝わっているでしょう。教会は地域の中にあるたくさんの「可能性」や「思いやり」を引き出しています。そして輝く笑顔を引き出しています。私たちの教会はそのようにして、地の塩になり、世の光となるるのです。
イエスはあなたが塩になって、他の人々を大いに輝かせなさいと言っています。私たちはこれからもこの活動を続けてゆきましょう。そしてそれぞれの場所で地の塩となってゆきましょう。お祈りします。
イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
マタイによる福音書20章34節
今日は6月23日の「命どぅ宝の日」を覚えつつ、心からの共感ということをテーマにお話をします。また松本さんの証しを聞きました。私は神学校でギリシャ語を教えています。ギリシャ語を学ぶことは、イエスの言葉や行動の意味をより深く感じることにつながります。それは翻訳では届かない響きに出会うための学びです。
学ぶということが、いのちを守ることにつながるということもあります。沖縄戦では多くの人が洞窟・ガマに逃げました。あるガマでは集団自決が迫られる中、アメリカに留学し、その国の言葉と文化を学んだ人が人々を説得し、命を救いました。言葉と文化を学ぶこと、それは相互理解、平和、共存共栄に欠かせない事なのです。今日はギリシャ語にも注意しながら、聖書の物語を読み、他者の心の叫びに耳を傾けることの大切さを一緒に感じてゆきましょう。
ある時、目の見えない二人がいました。彼らは「治して欲しい」ということよりも、まず「わたしたちの人生の痛みを、わかってほしい」と訴えました。しかし31節によると、群衆はその声を黙らせようとしました。叫びを聞いて、共に涙を流すのではなく「うるさい」「黙れ」と声をかき消したのです。この群衆とは、弱い立場の人の声に耳を傾けない社会の象徴です。
イエスはそこで足を止め「何がして欲しいのか」をもう一度聞き取ろうとします。「目が見える様になりたい」それは今までの彼らの人生の苦労が凝縮された言葉でした。イエスは彼らに近づき「深く憐れんだ」とあります。
深く憐れんだという言葉はギリシャ語で「スプラグニゾマイ」という言葉です。ギリシャ語のスプラグニゾマイは内臓・母胎に関係する言葉です。スプラグニゾマイとはつまり、自分の体の中の出来事、自分のお腹の中にいる赤ちゃんに起きたの出来事のように、自分事として深く共感するという意味です。
これに相当する日本語は沖縄の言葉の「チムグリサ」でしょう。沖縄の言葉には「私は悲しい」という意味の言葉がありません。その代わりのあるチムグリサという言葉は「あなたが悲しいと、わたしも悲しい」という意味です。沖縄の言葉のチムグリサという言葉はまさにギリシャ語のスプラグニゾマイと共通しています。
イエスはここで目の見えない二人にチムグリサしたのです。そしてイエスはその目に手をかざしました。その人の目は見えるようになり、イエスに従いました。
今日の個所からどんな生き方を見つけてゆけば良いでしょうか?自分が悲しみを叫ぶ人の声を聞くことができているかを問われます。私たちはその声を聞き、スプラグニゾマイし、チムグリサし、共に生きることができているでしょうか?あるいは私たちは沖縄の声を聞き、そこにスプラグニゾマイできているでしょうか。
神様はこの二人のように私たちの声を聞き、深く共感し、導き、癒してくださる恵み深いお方です。私たちもこのイエスに従ってゆきましょう。お祈りします。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイよる福音書11章28~30節
今日は創立記念感謝礼拝です。75年目の今、私たちの教会でもっとも広がりのある活動はこども食堂です。こども食堂には子育てに必死な親が来ます。こどもの食事をどうするかは親にとって大きな重荷であり責任です。教会は子育てそのものを変わってあげることはできないけれど、1食だけでも応援し、重荷を分かち合えたらと思います。こども食堂は、誰かに応援されて、ほっとできる場所です。毎日の食事作りを休むことができる場所、安心できる場所です。
もし教会を出る時に、お腹いっぱいになって「すこし元気をもらえた」「私は応援されている」「また明日から頑張ろう」と思ってもらえたのなら、私たちの愛、神様の愛は確かに地域の人に伝わったのではないでしょうか。今日も聖書からイエスが重荷を負う人にどのように言葉をかけたのかを見てゆきます。
イエスは28節で、私との関係の中においで、そうすれば安心して休むことができる、そして元気がもらえると言っています。そして29節では「私の軛(くびき)を負いなさい」と言っています。軛とは畑を耕したり、荷物の運んだりするために、牛や馬の首につける木のことです。動物にとっては重荷であり、つらい仕事です。だから軛は、不自由さの象徴や、重い責任を担うことの象徴になりました。軛とは言わないまでも、私たちの生活にも不自由さや、重い責任があるものです。
軛にはよい軛と悪い軛があります。よい軛とは体の力の入りどころとしっかりとかみ合っている軛です。悪い軛ははめると痛みがあり、力が入らないのです。私たちの背負っているものは、「自分ひとりで何とかしなきゃ」と思わせる、悪い軛なのかもしれません。それはやる気がでない軛で、孤独に感じる軛、重荷に立ち向かうことができない軛です。イエスが私たちに勧めているのは、軛を変える事です。私たちは重荷をなお引き続けなければならないのですが、良い軛に変えると、重荷を引くことが簡単になるのです。
良い軛とは愛に囲まれて生きるということです。それは愛の軛です。愛の軛とはみんなが私を応援してくれている、祈ってくれている、神様が共にいる、そのように感じることができる軛です。愛に包まれた重荷は、軽く感じられます。それが30節に書いてある「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」ということです。
今日イエスは、自分の重荷が思いと思っている人は私のもとに来てごらん。愛に囲まれて生きると、休みと元気が与えられるよ。そうすると力が湧いて、ぐっと楽に生きることができるようになるよと言っています。
私たちの教会は地域の人々それぞれに重荷があることを知り、教会が一人一人を愛で包み込むことで、すこしその重荷が引きやすく、軽く、感じるような場所になりたいと願っています。そのように地域の人を応援し、地域の人を愛で包む教会になってゆきたいと願っています。お祈りいたします。
炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。 使徒言行録2章3~4節
今月は地域と福音というテーマでお話します。そして今日は特にキリスト教の暦で「ペンテコステ」という2000年前に教会が誕生したことを記念する日です。
私たちの教会は地域に福音を広げたいと願っています。福音を広げるとは、相手にただ聖書の言葉を伝えることや、教会が拡大することではありません。福音を広げるとは「互いに愛し合いなさい」という生き方を広げることです。
しかし愛を表す方法は実に多様です。高齢者、子育て世代、若者、こども、外国語を話す人…何を愛と感じるかは違います。愛が伝わるのは教会の日曜日の礼拝だけでもありません。地域の人たちはきっと、食堂のごはんを味わうとき、カフェで誰かと笑うとき、子どもたちの笑顔があふれる水遊び会、そこにある温もりが、愛として届いているでしょう。教会が人々に愛を伝える方法は無数に存在します。愛は時には言葉で、時には沈黙で、時には食べ物で伝わります。
愛はその形を定めることができません。だからこそ教会はひとつの活動のみで愛を伝えることができません。大事なのは、こちらの思った愛の形を押し付けないこと、地域に合わせて私たちが形を変えてゆくことです。教会はその始まりから、愛を様々な形で伝えてきたということを聖書から見てゆきます。
イエスは食事やたとえ話、十字架など、実に様々な方法で愛を伝えました。しかし弟子たちはイエスが死んだ後、自分たちの愛はどうすれば理解されるのか悩んでいたのでしょう。家に集まって祈っていました。そこに聖霊、愛を表現させる存在が現れます。すると弟子たちが様々な国の言葉でしゃべり出すようになったのです。人々は自分の国の言葉で聞いて、初めてそれが自分に向けられた愛だとわかったのです。
この奇跡は弟子たちの側が話す言葉が変わる、伝える方法が変えられるという奇跡でした。そのようにしてキリスト教の教会は、弟子たちの側が変えられることから始まったのです。この出来事は、神様が「地域に合わせて変わる教会」を通して、愛を広げようとした出来事でした。このチャレンジはいろいろな活動をしている私たちの教会にも重なってくるでしょう。私たちは地域の人が“これが愛だ”と分かるように伝えてゆきたいのです。
神様の愛についても考えます。神様は絶対の神の像を作ってはならないと命令をしました。なぜなら神様の愛の形はひとつではなく、いつも相手に合わせ柔軟に変化するからです。私たちはその愛を受けてどのように地域に愛を伝えるのでしょうか。きっと私たちが愛を伝える方法も様々に開かれてよいはずです。
もちろん、私たちはただ愛を伝えるだけではありません。神様は私たちにもその愛を届けてくださいます。しかもあなたが一番、これこそが愛だと強くはっきりと感じる方法で、神様はあなたに愛を届けてくださるはずです。お祈りします。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 ヨハネによる福音書6章9節
私たちの教会では毎月第一日曜日に、主の晩餐という儀式を行っています。この儀式は食パンを小さく切り分けて食べ、ぶどうジュースを一口ずつ飲むという儀式で、イエス・キリストを思い出すことを目的に行われています。この主の晩餐はコミュニオンとも呼びます。
これまで平塚教会では洗礼を受けた人しか食べてはいけないとされていたものを、どなたでも共にこのパンとぶどうジュースをいただけるように変更しました。誰でも参加できるものにすることをオープンコミュニオンと呼びます。ぜひみなさん、この後に配られるパンとぶどうジュースを受け取ってください。
聖書にはイエスが語り、人々が信じる、その多くは、食事の場での出来事でした。私たちはイエスが食事の最中・前後にたくさんの愛を教えたということを記憶しておくために小さなパンとぶどうジュースを飲んでいます。
イエスの食事は、特別な人だけのものではなく、誰でも招かれた、開かれた食事でした。そのような食事だからこそ、温かい交流が生まれ、相互理解と愛が生まれたのです。イエスは分け隔てのない食事によって、互いに愛し合うということを、身をもって教えたのです。今日は聖書に記載される、オープンコミュニオンを見つめ、私たちの主の晩餐の意味を探したいと思います。一緒に聖書を読みましょう。
ある時、5000人以上が食事の必要な時がありました。しかし食べ物もなく、買うお金も足りませんでした。そこにひとりのこどもが登場します。彼は持っていた5つのパンと、2匹の魚を差し出したのです。それは小さな愛でした。自分は小さいけれど、きっと何かできると信じ、イエスの教えた愛を実践したのです。弟子たちはそれを「何の役にも立たない」と考えました。しかしこの小さな愛に対して、イエスの態度は違いました。
イエスはそれを受け取りました。そして11節、パンを取り、感謝の祈りを唱え、分け与えられました。これは主の晩餐が行われたということです。そして小さな愛をきっかけに奇跡が起こります。その小さな愛は全員が満腹して余りあるほどの大きな奇跡につながっていったのです。私たちはこの奇跡の食事が温かい交流の食事だったことも想像します。ただパンを食べたのではありません。お互いに顔と顔を合わせて食事をしたのです。そしてこの食事はイエスがすべての人を排除しなかったということも大事なことでしょう。
この個所から、大きな問題にあっても、私たちはあきらめずに小さな愛を実践しようと教わります。小さなこどもがパンと魚をもってイエスの前に進んでいったように、私たちも小さな愛を実践しましょう。今日、私たちはそのことを忘れないために、パンを食べましょう。神様は私たちの小さな愛を用いて大きなことをなしてくださるお方です。お祈りします。
わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
マタイによる福音書7章24節
私たちの教会は建物の立て替えを検討していますが、ただ古いから、壊れたから新しくしようとしているのではありません。私たちは初めての方も気軽に入ることができるように、地域の方々が集い、笑顔があふれる場所にとして使われるように、そしてこれから先の未来のために、この会堂を建て直したいのです。自分のためだけなら、今のままでも十分かもしれません。私たちが教会を建てようとする力、その源は他者への愛です。他者に向けた愛がこの教会を強く動かしています。私たちの教会の土台は他者への愛なのです。聖書の中でもイエス様が、私たちの人生で本当に大切な土台とは何かを教えています。聖書を読みましょう。
みなさんの人生で今、心を支えている、土台と言えるものは何でしょうか。信仰を土台にして生きようということはクリスチャンの基本的な生き方です。しかし今日はもうひとつ深く聖書を読んでゆきます。聖書にはただ話を聞くだけで終わる人と、聞いたことを実際に行動に移す人、その二つの生き方が示されています。もちろん私たちがまず大事にすることは聞くことです。すべては聞くことから始まります。
でもイエス様は聞くだけで、日々実践しない人に向けて「それは砂の上に家を建てて暮らすようなものだよ」と少し厳しく、愛をもって諭しています。それはとても危うく、崩れやすい生き方なのだと教えています。正直なところ私はこのイエス様の言葉に耳をふさぎたくなる思いです。神様の言葉を聞くと励まされるのです。でもイエス様はそれだけではまだ足りないと言います。その教えを誰かのために行動に移してごらんと教えているのです。
イエス様の教えを行動に移すとは、どんなことでしょうか?それは聖書全体から考えると、他者を愛しなさいということでしょう。愛するとは誰かと一緒に過ごし、喜びや悲しみを共に分かち合うことです。困っている人を助けたり、励ましたり、勇気づけたり、慰めたりすることです。お互いのことを大切にしあうということが愛するということです。
そして注目するのは、イエス様が、愛を行う人の土台は強いと言っていることです。愛をただ知っている人よりも、愛を行う人の方がその人生の土台が強いのです。他者を思いやり、励まし、勇気づける行動、その他者への愛があなた自身を強くすると言っているのです。あなたがそれを他者に実践する時、初めてあなたの土台は揺るがない、強い土台になるのです。
私たちは1週間、他者にどんな愛を実践できるでしょうか。教会はどのようにすれば愛を地域の人に届けることができるでしょうか。
イエス様は「聞くだけではなく愛を行動に移そう、そしてその他者への愛こそがあなたを強くするのだ」と教えています。私たちは今日み言葉を聞き、他者への愛の実践をしましょう。互いに強い土台の上に立ち歩みましょう。お祈りします。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
マタイによる福音書7章3節
文章の発行には校正という作業があります。誰かの目線で自分の文章をみてもらうことは、非常に大事です。多くの場合、みなさんは愛と配慮に満ちた言葉で修正を提案してくださいますが、それでも指摘に落ち込むこともあるものです。しかしその指摘は私の成長、私の気づきにつながってゆくと感じています。私が一番怖いのは、あの人には何を伝えても「豚に真珠」だと言われることです。私は他者の言葉を受け止め、変わり続ける自分でありたいと思っています。聖書にもそのように他者の視点や言葉から学び、成長していく大切さ、他者と誤りや間違えを共有し共に変化し、生きてゆくという生き方が示されています。聖書を読みましょう。
ある人の目は、丸太が刺さっているという衝撃的な状況でした。しかしこの人は自分の目に丸太が刺さっていることに気付いてすらいません。なぜ誰も指摘しなかったのでしょうか?人様のことにあまり口出しをしないでおこうと思ったのでしょうか。あるいは何度伝えても「そんなはずない」と言って受け入れなかったのかもしれません。あるいは抜きたくても抜けない事情があったのかもしれません。
イエス様のこのたとえ話は、他人事ではありません。この丸太が刺さっている人とは、間違えに気づいていない自分であり、間違えを指摘されてもなお直そうとしない私であり、間違えを直したくても直せない自分です。私にも、そしてみなさんにもきっと、丸太が刺さっているのではないでしょうか。
私たちは互いに丸太が刺さっていることを優しく教えあって、お互いに自分の丸太を抜くのを手伝い合いたいのです。私たちは互いにそのような関係でありたいのです。一番の不幸はお互いに対して何もしないことです。それは互いの目を曇らせ続けることになります。お互いに欠けを持っていることを確かめ合い、互いの丸太に気付き、取り合うことが愛し合うということです。私たちがお互いに交わす言葉は、時として、互いを成長させる輝く真珠となるはずです。真珠のような他者の言葉の価値を、私たちは決して踏みにじってはいけません。
神様は天国から人間同士の愚かな掛け合いを見て笑っているのではありません。神様は人間に、間違えを捨てて、正しく生きて欲しいと願っています。そしてその間違えを神の言葉から、互いの関係の中から解消していって欲しいと願っています。神様は、人間が神様の言葉を聞き、愛し合い、共に磨き合い、正しく生きて欲しいと願っているのです。そして神様は決して私たちを見放しません。「人間には何を言っても無駄だ、まさに豚に真珠だ」とは言わないお方です。
それどころか神様は、私たちに愛をもって、何度でも語りかけてくださいます。私たちにとって価値のある、美しい言葉・真珠を与え続けてくださるのです。私たちはその神の愛の深さを感じましょう。そしてその愛を受けて、私たちも互いに愛し合い、互いの言葉を真珠としあいながら生きてゆきましょう。お祈りします。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
マタイによる福音書6章26節
私たちの生活には様々な心配事があります。「あの人にこんなひどいことを言われた」「年金だけでやっていけるだろうか」「こどもや孫は幸せに暮らしていけるだろうか」。あるいは過去の嫌な記憶がふと蘇って不安になります。どうしたら私たちは心を蝕むような、必要以上の不安から自由になれるのでしょうか。キリスト教は尽きることのない不安について何を語っているでしょうか。聖書に聞きましょう。
イエスは人間の心配に親身に寄り添う方でした。イエスは不安に思う私たちに向けてこう言います「空の鳥を見なさい」。それは「思い悩む時は空を見上げて、鳥を見つけてごらん。自由に飛び回っている鳥たちを見つけるよ。あの鳥たちにも悩みがあるかもしれない。でもきっとあなたほど思い悩んではいないよ。鳥も大切だけど、神様はあの鳥たちよりももっと、あなたのことを大切に思っているよ。神様は君たちに、あの鳥たちよりもっと自由に、もっとのびのびと、安心して、どこまでも先へ進みあなたの可能性を広げて欲しいと願っているよ。」ということです。神様は自由になりなさいと励ましてくれています。
さらに続く28節でイエスは「野の花を見よ」と言っています。「不安に思っている時は、道端に咲いている花を探してごらん。その花が何も着飾らないで、ありのままで美しい事を見つけてごらん。人間がどんなに成功しても、神様が咲かせたこの小さな野の花の、ありのままの美しさには敵わないんだよ。そして神様はこの花よりも、もっとあなたのことを大事に思っているよ。君たちにこの花よりももっと光り輝いて欲しいと思っているよ。」
そしてイエスはもう一度、力強く言います。「思い悩むな」。色々な心配事があるけど必要以上に心配しすぎるのは、もうやめよう。なぜなら神様はあなたの必要も心配もすべて知っていてくださるから。あなたは一人じゃないから。神様がついているから、大丈夫だよと言っているのです。
33節の神の国と神の義を求めるというのは、まさに、私たちが鳥のように自由に、花のように自分らしく輝いて生きられる、そんな世界を、神様に求めていくことです。そしてイエスは付け加えています。今日の苦労は今日だけで十分だよ。もうそれ以上心配しなくていいよ。これが心配事の多い私たちへの、イエスからの励ましです。
私たちの人生には不安がたくさんあるものです。でも私たちはそのような時、空の鳥と、野の花に目を向けましょう。その自然を通して語りかけてくださっているのは神様です。神様は私たちを愛し、大切に思ってくださっているのです。神様が、あなたを不安から解き放ち、自由で、あなたらしく輝く人生を与えてくださることを信じています。お祈りします。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
マタイによる福音書5章3節
4月・5月と初めて教会に来る方に向けて話をしています。2000年前、イエスに従ったのは、極限まで貧しい人、社会の底辺にいた人々でした。私たちの生活も確実に貧しくなってきています。ガソリン、電気、お米…。幸せはお金の有無だけではないというのは本当です。しかし貧困と幸福度には密接な関係があります。貧しさは人の幸福度を確実に、大きく下げます。幸せの大きな要素は経済的な豊かさです。
宗教は心の中だけではなく貧困という大きな不安をなくすために働いています。キリスト教が貧しさ・格差へ反対する根源的な理由は「みんなおんなじ命」だからです。命はすべて神様が創ったものであり、すべての命には尊厳があり、その価値に上下はありません。だからこそ、すべての命が大切なのです。だから命は貧しくてはいけないのです。神様から与えられた命は、ちゃんと食べることができる、ちゃんと幸せだと感じさせることができる命でなければいけないのです。
私たちは神様の力が貧しさの中に働くと信じます。神様の力は、貧しくても前向きに生きようという気休めではありません。今日はこの貧しさ、経済的不安を無くすために、神様が私たちに働くと言っている聖書の個所を見ます。
5章3節の「心が貧しい人」とは、他者に配慮や愛のない人のことではありません。心の貧しい人とは、経済的な事情で明日が不安という人のことです。こどもをしっかりと育ててゆくためのお金を稼ぐことができるか不安な人、老後のお金に不安を感じている人、お米が高くてこれ以上値段が上がったら買えないと不安に思う人のことです。イエス様はそういう人たち、私たちに語り掛けているのです。
「天の国はその人達のものである」とは、この世で苦労した分、死んだ後、天国に入って、安らかに過ごせますよという意味ではありません。神様の理想が実現する場所が、天の国です。貧しい人のいない世界の実現した場所が天の国です。天の国では、神様の力が貧しさの不安の中にある人に働き、そして貧しさそのものが無くなってゆくのです。
私たちが祈り、求めているのは、貧しさの中の心のゆとりではありません。もっと根本的な経済的な心配をしなくてよくなることです。それが日本で、世界、あらゆる地上で、みなさんの生活で実現することを祈っています。そのことを求めて、イエスに従っています。
イエスは「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えました。その言葉を私の人生の中心に置きたいと思っています。神様から与えられた命に、貧しさはふさわしくありません。神様はそのような心の不安が、貧しさが必ず解消される世界が来ると言っています。私たちはそのような世界、天の国が来るように、祈りましょう。世界のすべての人が安心して生きていけるだけの収入があるように祈りましょう。お祈りします。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
マタイによる福音書28章19節
今月と来月は初めて教会に来られる方に向けて話をしています。ヒンドゥー教の指導者、インドのマハトマ・ガンジーは「私はイエス・キリストは好きだがクリスチャンは嫌いだ」と言ったそうです。この言葉はキリスト教に入信しているどうかよりも、どう生きるのかが重要だと教えてくれます。
私たち目的は信者を獲得することではありません。誰かの心に光を照らすような愛と優しさに満ちた生き方をしたい、それが私たちの目指す道です。洗礼・バプテスマを受けたかどうかよりも、その生き方の実践の方が大事です。キリスト教ではそのような生き方をすることを「弟子になる」と言います。私たちはイエスの弟子になることが大事です。聖書にはイエスからたくさんの生き方が例示されています。今日は聖書の物語からイエスを模範にした人生について考えましょう。
復活したイエスを目撃したのは11人でした。一人は途中でイエスを裏切ってしまったのです。でも責める気はしません。私の中にもユダのようにイエスに従えない部分があるからです。さらに11人の弟子たちの中にも疑う者がいました。でもこの疑う人の存在は大事だと思います。私たちの教会も、信じる人だけの場所ではありません。疑う人、悩む人、問い続ける人、みんなを歓迎する教会です。教会では信仰を疑うことが許されています。イエスは疑っている人々にその姿を現します。
イエスが現れて言った言葉は『すべての人を私の弟子にしなさい』でした。まずこの言葉の「私の」に注目をします。それは他でもないイエスに従うという生き方です。みなさんは誰の弟子として生きているでしょうか?
イエスの弟子として生きるとは愛をもった生き方をすることです。他者に共感し、平和と平等、公平を求める生き方です。困難や、貧しさにある人を忘れずに生きる生き方です。私たちはその生き方へと招かれています。
イエスは続いて洗礼を授け、教えなさいと言いました。しかしこれは弟子とし生きることに比べて二次的なものです。決して洗礼や教えることが目的ではありません。私たちはすべての民を弟子とすること、イエスの生き方を自分の生き方する人を求めているのです。イエスの教えを実践することが「弟子として生きる」ことであり、ここで最も勧められていることです。
私たちは、どんなに年を重ねても、どれほど学んでも、イエスの前ではいつまでも弟子です。私たちは共にイエスの弟子として共に歩みましょう。他者を愛するために、小さくされている人に目を向けるために弟子になりましょう。
イエスは私たちに「いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださっています。イエスがいつも私たちの先生として、共にいてくださいます。いつも私たちの生き方を指し示してくださいます。今日から、また共にイエスの弟子として、小さくても確かな一歩を歩み出しましょう。お祈りします。
あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 マタイによる福音書28章6節
今日はイースター礼拝です。みなさんにゆでたまごをプレゼントしています。このたまごは新しい命の象徴です。隠されていた命が、輝きだすことの象徴として、このたまごを配っています。今日は聖書から、どのようにして私たちに新しい生き方が始まるのかを考えたいと思います。
イエスは確かに十字架で死にました。その死はイエスに従うことで自分の人生を変えたい、そのような自分が変わるチャンスを中途半端に終わらせてしまうものでした。しかし墓で不思議なことが起きます。墓を閉じていた石が動かされ、そこには天使がいました。そして天使は「イエスは復活をした」と教えます。
この話を、幻、幻覚としてしまうには説明がつかない部分も多くあります。二人が同時に幻を見たり、幻を抱きしめることはできません。弟子たちは失ったはずの命が目の前に現れ、触れることができる体験をしたのです。2000年前に実際に何が起こったのか、それを完全に知ることは私たちにはできません。ここで「復活した」と言われていること、それが実際にどんなことだったのかは、それぞれの想像に委ねたいと思います。そこではまるで玉子の中から命が出てくるような、命があるように思えなかったものから命が生まれる不思議な出来事が起きたのです。
キリスト教はこの復活と呼ばれる出来事をきっかけに世界中に広がってゆきました。弟子たちに何かが起きたのです。そして裏切りと無関心を捨て、愛を伝え、十字架に掛かったイエスの生き方に従おうと思ったのです。それはまるでたまごから命が出てくるような出来事です。彼らの中に隠されたものが豊かに用いられたのです。
このことは私たちの今、私たちの生き方とどのような関係があるでしょうか。普通の人間と変わらない弟子たちが、この復活と呼ばれる不思議な出来事を体験した時、大きな人生の方向転換を始めました。私たちにもこのことは起こるのです。私たちはイエスとの出会いによって、生き方を変えることができるということです。復活とよばれる、何か不思議な出来事によって弟子たちは人生を変えられてゆきました。それと同じ様に、みなさんにも不思議な力が働きます。それは言葉では説明しきれない出来事です。神様が働きかけて私たち変化が起るのです。
「こんな自分を変えたい」と思ったことはありませんか?私たちは「変わりたい」と願うけれど、思うように変われないことも多いものです。だからこそ、イエスとの出会いが私たちに必要なのです。自分の力ではなく、神様の力によって変えられる道があると聖書は語っています。もし、変わりたいと心から願っているなら、ぜひイエスに従ってみてください。今ここにいる一人ひとりに、神様は「新しい命」を与えようとしています。あなたも、きっと変わっていけるはずです。あなたに、このたまごのような新しい命が始まるでしょう。お祈りします。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マタイによる福音書27章46節
今月と来月はキリスト教の話を今日初めて聞くという人を特に歓迎します。私たちは強く生き、大きな成功を収めた人を尊敬するものです。だからこそ新生活のなかで初めて出会う人には、自分の力強さ、元気さを第一印象として感じてもらいたいと思います。しかし本当は弱さこそが、私たちを結び付けてくれるものです。強さを演じあう関係では、深い関係には発展してゆきません。お互いの中にある欠けや弱さが、互いへの共感を生み、お互いをひきつけ、豊かな関係となってゆくのです。
今日はみなさんにキリスト教が大事にしている価値観を紹介します。キリスト教は痛みや弱さにこそ目を向けます。そして弱さにこそ、本当の力があると信じています。今日も聖書を通して、新しい生き方を探し求めてゆきましょう。
イエスは人々に平等や共感を訴え、それは大きなうねりになっていました。一方で特権階級の人々は、貧しい人々の団結に危機感を持ちました。人々を統治するには分断させておくのが一番だったのです。人々が互いに、自分の方が強いと思う様に仕向け、互いに力をすり減らし合ってくれれば、統治がしやすかったのです。だからこそ彼らは平等と共感を訴えるイエスを殺すことに決めたのです。十字架に掛けられたイエスは、殺される側にいるもっとも弱い存在として描かれています。その弱さは多くの人に目撃され、その弱さが明らかになる出来事でした。
しかし驚くべきことにやがて人々はこの十字架に掛けられ、弱くて、叫びながら死んでいったイエスを神と等しい存在として、信仰の対象にするようになりました。イエスが私たちにとって特別な存在である理由は、神と等しい存在であるにも関わらず人間と同じ苦しみ、弱さ、屈辱を経験したからです。神と等しい存在である方は、人間の弱さと苦しみを知り、人間に共感し、人間と共にいる、そのような存在だったのです。人々はイエスの弱い姿にひき寄せられています。イエスは神であるにも関わらず、弱々しい姿をさらけ出しました。人々はそこに共感し、イエスを生き方のモデルとするようになったのです。
さて私たち自身は何を大切にして生きていくのでしょうか。皆さんに、ぜひ社会で強く生き、注目され、輝く大きな成果を収めて欲しいと思います。豊かさと幸せを手に入れて欲しいと思います。でもそれよりも大事にして欲しいことがあります。それはイエスの様に弱さ、低み、貧しさを抱えながら生きるという生き方です。その弱さはきっとあなたと誰かを結び付けてゆくでしょう。人と人とを結びつけてゆくでしょう。そしてあなたと神を結び付けてゆくでしょう。人と神を結び付けてゆくでしょう。私たちはそのような生き方を選びたいと思っています。
キリスト教は強さを誇る宗教ではなく「弱さを誇る」宗教です。その逆説の中に神の力が働くのです。そこにきっと新しい生き方が見つかるはずです。お祈りします。
一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 マタイによる福音書26章7節
今日から2ケ月間、初めて教会に来る方に向けてお話をします。キリスト教に興味があるという方はぜひこの機会に来てみてください。私たちは毎週の礼拝と聖書を通して、自分の生き方やあり方を考えています。もちろん人間はすぐに忘れてしまうものです。だからこの礼拝を繰り返してゆきます。そうすると少しずつ、考えや生き方が人を愛する方向へと変わってゆきます。今日はこんな物語を紹介します。
ある時、大変高価な香油を壺いっぱいに持っている女性がいました。彼女はそれを思いきり、イエスという人の頭に注ぎました。しかしイエスの周りいた人たちは「もったいない!それを売って貧しい人と分かち合ったらいいのに」と言いました。私たちはこの物語からどのように生き方を考えるでしょうか?
まず女性に目を向けます。女性が高価な香油をたくさん持っていたのは非常に長い期間、コツコツと貯めていたからです。あるいは他の人はこの女性は売春でもしていたのではないかと言います。どう収入を得たのかはわかりませんが、いずれにしてもこの香油には、女性の人生が凝縮されていました。その香油は彼女の人生の苦労、誇り、尊厳、成果、失敗、屈辱、不屈の努力すべてを象徴するものでした。そして彼女は何十年もこの香油を貯めた後、イエスと出会い、彼を自分の人生を掛ける価値のある人だと感じました。それは人生を変える大きな出会いだったのです。
弟子たちはこれを見て「無駄遣いだ」「もったいない」と言います。カネに変えて貧しい人に施せというのは正論です。しかし弟子たちはこの女性の気持ちと人生の物語を置き去りにしています。弟子たちは、彼女が持っているものを金銭に換算した時の価値にしか興味がなかったのです。そのような生き方でよいのでしょうか?なんでも経済効果、コスパ、合理性がものをいう時代です。でも本当は人生にはもっと大切な問いがあるはずです。
イエスを見てゆきましょう。弟子たちとは違って、女性の側に立って、この香油を受け止めています。イエスはおそらくこの女性の注いだ香油から、女性の人生を想像し、それを受け止めました。愛は計算ではないのです。
さて、私たちそれぞれも高価な香油の入った壺を持っています。私たちはその香油を何に向けて、どんな価値に対して注いでゆくのでしょうか?この礼拝という時間は、他の誰かからすると時間とお金の無駄遣いに見られるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいと思っています。
この礼拝には大切な出会い、神との出会いが待っているからです。この礼拝にはきっとこの人にならば、自分のすべてをぶつけて、すべてを注いでよいと思える人との出会いが準備されています。私たちは礼拝し、聖書を読み進めてゆけばきっとそのお方に出会えるはずです。そしてどのように生きるのか私たちの道しるべとなってくれるはずです。お祈りします。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」マタイ17章4節
私たちは第3・第4金曜日に、こども食堂を開催しています。忙しい1週間を送った人たちが、金曜日に教会の食堂に集い、食事をし、励まされ、またそれぞれの場所へと向かってゆきます。私はその光景を見て「ここに教会があるのはすばらしい」と感じます。きっと地域の人々もそう思ってくれているはずです。
礼拝に集うこと、食堂に集うこと、私にはそれが重なって見えています。きっとどちらも同じ様に、神様に招かれる、教会に行く、神様が共にいる、励まされる、それぞれの場所に派遣されることなのではないでしょうか。そして私は今日の個所も教会に集う事と共通していることがあると思います。聖書を読みましょう。
マタイ福音書において山は非常に重要な場所で、イエス様はいつも大事なことを話す時は山に登りました。イエス様にとって山の上は、祈りの場所、神との出会いの場所でした。イエス様は日常を離れてそこに一緒に行こうと私たちを招いてくださっています。このことは礼拝に参加する私たちとも共通しています。そしてこども食堂の利用者にも共通しています。
ペテロは「私たちがここにいるのはすばらしいことです」と言いました。現代の私たちに置き換えるなら「ここに教会があるのはすばらしいことだ」「ここにこども食堂があってよかった」ということに、置き換えることができます。
ペテロはそこに小屋を3つ建てようと提案をしました。しかし天から「これに聞け」という声が聞こえました。それは、建物はいい、それより神の言葉を聞けという意味です。私たちは誰よりも建物の大切さを知っています。でも最も大事なことは、イエス様に聞くことであるということを忘れないようにしましょう。
弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏したとあります。ひれ伏したという言葉は、礼拝をしたという意味も含む言葉です。これは礼拝です。そしてこの礼拝ではイエス様が弟子たちの手を握って、こう言いました「起きなさい、恐れることはない」。弟子たちはどれほどの励ましを受けたでしょうか。弟子たちはその言葉を聞いて、また山の下、日常へと戻ってゆきました。これもちょうど日常からイエス様に招かれて日曜日の礼拝に来ること、礼拝し励まされて日常へと戻ることに似ています。そして日常から食堂に招かれて、食事をして励まされて、日常へ戻ることと似ています。
私たちは本当に「ここにこの教会があるのはすばらしい」と感じています。神のみ言葉を聞き、希望を持ち、また歩み出せるこの場所があることに、心から感謝しています。私たちだけではなく多くの人々がこの教会で神の励ましを受け取り、それぞれの生活に戻ってゆきます。
今日、イエス様は私たち一人ひとりの手を握り『起きなさい、恐れることはない』と語りかけてくださっています。私たちはこの言葉を胸に、次の一週間も力強く歩み出しましょう。そしてこの教会をもっと「ここに教会があるのはすばらしい」と言われる教会、人々を招き、励ます教会にしてゆきましょう。お祈りします。
どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。 マタイによる福音書12章25節
今日はこの後、来年度の計画を確認する総会が開催されます。私たちはキリスト教の中でもバプテストという民主主義を大事にするグループで、議論しながら物事を決めていく教会です。今、特に大切な議論は新会堂を建てるのか、それともこの会堂を修繕するのかという点です。議論するとは意見を述べ合うだけではなく、互いが考えを受け入れ、変わってゆくことです。今日は、私たちは議論し、互いに受け入れ合い、互いに変わってゆくこと、どんな時も神様が私たちを導いてくださるということについて考えましょう。
マタイによる福音書12章22~32節までをお読みいただきました。イエス様は二重に障がいのある人を癒したとあります。それは神様の一方的な恵みによる癒しでした。神様は良い事をした人にだけ良いものを与えるお方ではありません。神様はたとえ私たちが動けず、見えず、聞こえず、しゃべれなくなっても、私たちに良いものを与えてくれる方なのです。私たちは全員、やがて若さを失い、病になり、自由に動けなくなる日が来るでしょう。それぞれも、そして教会もそうかもしれません。でも神様は何ができなくなっても、何があっても必ず私たちに良いものを与えられるのです。私たちはこの信頼をもって聖書を読み、人生を生きてゆきましょう。
24節の発言は議論ではなく、ただの拒絶と批判です。本当の議論とは、互いの考えを尊重し、共に変化することです。イエス様も反対する人もみな、内輪もめ、拒絶と批判による分断の力の大きさを知っていました。25節、どんな支配も、どんな国も、どんな町も家も、そしてどんな教会も内輪で争えば、荒れてはててゆくのです。
私たちもこの後、熱心な議論をしてゆきたいと思っています。しかし議論と他者の拒絶と批判による内輪もめとは違うものです。きっと議論することは、分断の危うさを含んでいます。
私たちはまず一致していることに目を向けましょう。神様の愛は一方的で、どんな人にも恵み深い方です。どんな時も神様が導いてくださるお方です。私たちはその最も重要な部分で一致することができています。私たちは自分の希望が叶わないことがあるかもしれませんが、神様がすべての導いてくださることを信じる、そのことを土台に共に議論し、歩みましょう。
私たちは何度でも悔い改め、変わることができます。神様の私たちへの赦しと愛には際限がありません。しかし自分は間違っていない、変わる必要ないと思って生きることは、神様の際限のない赦しへの拒絶です。際限のない神様の愛の前に、自分の貧しさ、欠けに目を向け、自分が変わってゆくということが大事です。私たちは難しい議論の中で、大小の内輪もめが起こるでしょう。でも私たちは議論し、互いに悔い改めあい、互いに赦されながら、互いに変わってゆきましょう。そして思い通りにならなくても、絶対に神様の導きがあると信じ、前に進みましょう。お祈りします。
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。 マタイ12章35節
今日は東日本大震災と原発事故を覚えながら礼拝します。人間は罪を持った存在です。自分自身が良い人間でないことを感じる機会はなんと多いことでしょう。そして今日注目したいのは、罪とは、個人個人のレベルに限らないということです。社会には一人一人の罪が積み重なり、凝縮された、社会全体の罪があります。それは社会の罪的な構造ともいえるでしょう。
「原発は罪です」なぜなら原発は私たちの便利な生活を支えるために、誰かが犠牲になるという罪の構造だからです。危険な廃棄物を10万年間安全に保管できる場所はありません。廃棄物が次の世代に命を脅かす深刻な負担を残すとわかっていながら、それを生み出し続けている原発は罪です。その原発は過疎地の人々にお金と引き換えに受け入れてもらいます。お金で不利益を押し付ける原発は罪です。
原発は核兵器と同じ原理です。核爆弾を最初に開発した科学者オッペンハイマーは広島・長崎で原爆が使われた後「物理学者は罪を知ってしまった」と言いました。
私たちはキリスト者として、この罪の連鎖をやめさせなくてはいけません。未来の命を守るために、お金で安全を買い取られ、危険を負わされる命のために、原発をやめなくてはいけません。このように原発は宗教とは関係ない問題ではありません。罪に関わる、大きな宗教的なテーマです。
マタイ福音書12章33~37節をお読みいただきました。33節には「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」とあります。原発は便利な電気を生み出す一方で、深刻な事故を起こし、放射性廃棄物を今日も作り続けています。
35節には「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出す」とあります。原発のゴミは行く当てもなくとりあえず使用済み核燃料プールという倉に眠り、処理水のタンクはいっぱいになりました。処理水はもはや倉に納めることができなくなり海へと放出されています。悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる、それはまさにこの原発のようです。
36節には私たちが「裁きの日には責任を問われる」とあります。私たちには将来の命への責任、今の命への責任があるのです。裁きの日、それは破滅が訪れる日ではなく、もっと先にある希望の日です。神様はこの地上をすべて善いもので満たし、完成させてくださる日に向けて、私たちを導いています。裁きの日とは、この世界が神様によって過不足なく完成させられる希望の日です。
やはり、罪ではなく、神様の希望に目を向けてゆきましょう。イエス様は抜け出すことのできない、罪から抜け出し、超えてゆかれる方です。そしてその先から私たちを導いています。神の願った行動をあなたが起こすようにと導いています。私たちがその罪から抜け出そうとするとき、必ず神様の助けがあります。私たちは平和で、命を大切にする社会を築く希望をもって、生きてゆきましょう。お祈りいたします。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 マタイによる福音書15章28節
こひつじ食堂を始めて教会に大きな変化が起きました。日曜日の礼拝だけにしか使っていないかった会堂は、みんなが月2回集まる食堂になりました。この礼拝堂は、礼拝の場だけでなく地域との交わりの場へと大胆に変えられてきました。いろいろな地域活動をしていますが、私たちは出会った人たちをすぐにキリスト教へと改宗させることを目的にしているわけではありません。むしろ変化が大きいのは教会の方です。教会は出会いによって、より開かれた存在へと変わってゆきました。きっと私たちはこれからも地域の人との出会いによって変わってゆくのでしょう。
これは聖書の中にも見られる姿です。たとえば、今日読む聖書箇所では、イエス様ご自身がある女性との出会いを通して、驚くべき変化をしました。マタイによる福音書15章21~28節を読んでみましょう。
ティルスとシドンの地方は貿易で栄えた、富裕層の町です。カナンの女性とは異邦人、つまりユダヤ教の神様を信じない異教の人でした。当時のユダヤ教では異教の人との交際や会話は禁じられていました。女性に対してならなおさらです。しかしイエス様は本当にいろいろな人と出会います。カナンの女性は「憐れんで欲しい」と頼みます。お金では解決できない病を持っていたのです。
しかしイエス様は黙ったままです。そして24節でははっきりと、私はユダヤ人を導くために来たのであって、ユダヤ人以外の人、異教徒を導くために来たのではないと言います。女性はそれでも食い下がります。少しだけ私にもその恵みを分けて下さい、ユダヤ人以外だって、神様の恵みにあずかってもいいではないか、神様の愛はもっと広くに及ぶはずですと言ったのです。
イエス様はこの女性の信仰に感心しました。イエス様は、神様は確かに分け隔ての無い、広い愛をお持ちのお方だと、この女性との出会いを通じて改めて気付いたのです。この物語からイエス様自身が大きく変わる姿を見ます。イエス様の信仰は出会った人を通じて、変わっていったのです。
この物語を読んで、私たちは何を学べるでしょうか?出会いは私たちの視野を広げ、新しい気づきをもたらすものです。イエス様がカナンの女性との出会いによって変えられたように、私たちもまた出会いを通じて変えられていくのではないでしょうか?私たちの人生も様々な出会いによって変わってゆくものでしょう。教会がこひつじ食堂によって、新しい出会いによって、大きく変えられたように、私たち一人一人の人生も出会いによって変えられてゆくのです。
私たちは、変らない神の愛を大事にしつつも、いつも変化の可能性に開かれていることに目を向けていたいと思うのです。もしかすると私たちは相手を変えようとばかりしているかもしれません。でも本当は、自分が変わってゆくという姿の中に、イエス様の生き方があるのかもしれません。お祈りいたします。
「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」 マタイによる福音書5章17~20節
今月は「地域活動と福音」をテーマにお話をしています。先日はある方が教会のシェルターを利用しました。たった一晩の宿泊で彼をとり巻いている難しい状況が変わることはないでしょう。でもそれは本人にとっては一筋の光を見たような、天国とも思えるような経験だったのかもしれません。
こひつじ食堂は月2回、炊き出しは月1回、私たちには小さな点の様な支援しかすることができません。でも小さな点のような些細なことでも、誰かにとっては大きな励ましとなることがあります。それは時に、天国のような希望をもたらします。私たちの教会は、そんな「小さな愛の『点』」を大切にする教会です。今日は聖書から小さな点が大きな愛『天』につながっていることを考えてゆきましょう。
イエス様の新しい教えを聞いた人の中には、戒律の様な細かなこと、小さなことはもうやめてしまっていいと考えた人がいました。しかしイエス様は旧約聖書の大切さを伝えました。同時にイエス様はこれまでの戒律をもう一度、愛を基準にしてとらえなおす様に教えました。イエス様は律法の中にある愛に目を注ぎ、律法を愛の視点からもう一度見直し、新しく解釈し直そうとしているのです。
イエス様は、「律法の一点一画も消え去ることはない」と語りました。それは、律法の中にある小さな愛に注目しよう。それを軽んじてはいけないということです。どんなに小さな愛でも、愛は人を大きく支えます。だからこそ、イエス様は古い教えも愛の視点でもう一度見直し、大切にすべきだと訴えたのです。小さな愛を見過ごさず、大切にしよう、それが5章のイエス様の新しい律法解釈でした。
例えば安息日とは、意味もなく、ただ何もしてはならない日ではありません。それは神様に感謝をする日です。シェルターにいるように体を休め、自分としっかりと向き合うための日です。神様に感謝し、家族や仲間との時間との関係を考える日です。これは特に忙しく生きる私たちが失ってしまっている大切な時間でしょう。
この後「〇〇するな」が繰り返されます。「腹を立ててはならない」という律法は、礼拝よりも仲直りする愛を優先させようと解釈しています。
私たちの周りにどんな一点一画の愛があるでしょうか?私たちはその愛にどのように支えらえているでしょうか。私たちの教会自体も小さな点のような教会です。でも私たちは誰かを支え、誰かを愛し、誰かに生きる力を与えている教会です。そしてそれは教会だけではありません。きっとあなたもそうなのです。あなたも点のように小さい存在かもしれません。でもきっと誰かの生きる支えになっています。あなたの小さな愛の行動はきっと誰かを支え、励ましています。
イエス様は小さな一つの点、愛も失われない世界を目指したのです。私たちも小さくても、互いを大切にしあってゆきましょう。きっと私たちの点の様な愛は、神様のおられる天につながっているはずです。お祈りをいたします。
イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」マタイによる福音書13章3~4節
こひつじ食堂は私たちにとってイエスの愛の教えの実践です。私たちは信者を獲得するためではなく、いつかこの「愛」が伝わることを願っています。
私たちのこひつじ食堂は種まきに似ていると言えるでしょう。やがてつらい思いをしたとき、あるいは自分がこどもを育てるようになったとき、こども食堂の愛はより深く分かるはずです。ずいぶん先のことかもしれませんが、私たちはそれに期待をしています。いつか神様がその種を芽吹かせてくれる、私たちはそのことに期待し、未来に希望をもって種を蒔き続けてゆきましょう。今日はあきらめず、希望をもって、惜しみなく愛の種をまくことを一緒に考えます。
2000年前の種まきはいまよりずっといい加減に行われていました。種を握って、畑に直接ばらまき、芽が出るのを待ちます。まるで節分の豆まきです。一粒一粒ずつ、大事にではなく、気前よく、ひと握りの種を投げて蒔くのです。それは多少失敗してもいい、多少鳥に食べられてもいいという蒔き方です。
イエス様はこのように、あなたにもたくさんの種を蒔くお方です。イエス様は「あなたの心には蒔いてもムダかな?」と思ってもとにかくたくさん蒔いてくださいます。ひとりにひと粒ずつ種を蒔くのではありません。種をわしづかみにして、気前よくばら蒔いてくださるのです。イエス様は誰に蒔いたら芽が出そうか、よく吟味して種を蒔くお方ではありません。イエス様はとにかく種を蒔くお方です。芽を出し、育ってくれるようにと願い、大きな希望を持って、惜しみなく種を蒔いています。
私たちの食堂はそのような種まきに近いと思います。私たちはとにかく無条件に愛をばら蒔くのです。祈りながら、いつかたくさんの芽をだすと希望を持ちながら、100倍になることを期待して、祈りながら蒔くのです。それが私たちのこひつじ食堂なのではないでしょうか?
私たちは人生においてどんな種のまき方をしているでしょうか?私たちの生き方は愛を惜しんで一粒ずつ蒔くような生き方になっていないでしょうか。自分の蒔いた一粒の愛が無駄にならないように、よく相手を吟味してから、一滴の愛を注ぐような生き方をしていないでしょうか?ちびちび愛を注いで、いちいち実りがあるかどうかを勘定していないでしょうか?愛を注いだ人から、すぐに見返りの愛を求める生き方になっていないでしょうか。
私たちはイエス様の種まきを見習いましょう。イエス様は気前よく私たちを愛して下さるお方です。それは相手の失敗も織り込み済みです。でもきっとうまくいく、きっと愛は100倍に増える、そう神様に信頼し、たくさん蒔くのです。なんどもチャレンジするのです。そのように神様を信頼して愛の種を蒔くのです。その愛を受けて私たちはどのように他者に愛の種を蒔き、生きるのでしょうか。お祈りします。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。マタイ21章12節
今月と来月は地域活動と福音について考えます。外食の頻度や価格帯は、私たちの間にある格差をはっきりと表します。そのような中でこひつじ食堂はかなり平等なのだと気づかされました。全員が同じ料金200円で、同じものを食べます。でもその価値以上ものを食べることができるからです。
礼拝をすべき神聖な場所で、にぎやかな飲食をすることは、不信仰なことに見られるかもしれません。でも、私たちはこの食事が、福音宣教だと思って大切にしています。この食事は全員が神様の前に平等であることをよく表している食事です。
きっとイエス様も、会堂で食事などけしからんと怒るのではなく、この平等な食事を見て喜び、楽しく加わってくださるでしょう。なぜならイエス様も格差や差別に反対し、平等を愛し、共に食事をすることを愛したお方だからです。今日はイエス様が平等を行動で体現した姿を聖書から見てゆきましょう。
当時のエルサレム神殿にはたくさんの献金や献げ物が集まりました。しかし特権階級の祭司たちはその献金で贅沢な暮らしをしていました。イエス様が神殿から商売人や両替人を追い出した理由は、神殿で商売をすると神殿が汚れるからではありません。貧しい人からの献金で、祭司が贅沢な生活をしているという、経済的な搾取に反対をしたからでした。いわば神殿の集金システムを批判したのです。
神殿ではもうひとつ深刻な問題がありました。それは差別の問題です。神殿はいくつもの壁で仕切られ、その壁はまさに差別・階級の象徴でした。そして障がいを持った人は異邦人の庭にすら入ることが許されませんでした。
14節によればイエス様の行動の後、事件が起きます。門の中に決して入って来てはいけない、神殿を汚すと差別された人が神殿の中に入ってきたのです。イエス様の行動の後、障がいを持った多くの人々が、差別と階級を乗り越えて、イエス様のそばにやってきたのです。さらにイエス様は、差別された人を先に門の中に招き入れてから、神殿の中で癒しました。このようにイエス様は差別に反対する姿勢、徹底的な平等主義を行動によって示したのです。
既得権益と階級構造を揺るがすこれらの行動は神殿の特権階級を激怒させました。このようにしてイエス様は十字架に掛けられてゆくことになります。
現代にも様々な格差や搾取、階級社会とも言える不平等があるでしょう。人々は徹底的な平等を救いとして求めています。もしイエス様が今のこのような社会を見たらならどうするでしょうか。聖書を読む私たちは今をどのように生きてゆくことができるでしょうか。イエス様の求めた徹底的な平等を私たちも実現したいのです。私たちの教会からその平等を、この地域に広げてゆきましょう。お祈りします。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
マタイによる福音書4章15~16節
2015年に「翔んで、埼玉」というコメディー映画が大ヒットしました。東京の人々から「ダさいたま」と差別され、見下されていた埼玉県人が解放を勝ち取っていく、笑いと涙のあふれるストーリーです。
今も昔もいつの時代も人々は地域に優劣をつけようとします。ガリラヤ地方は人種・文化・宗教の混合した土地でした。そして山から流れる豊富な水で農業が盛んな地域でした。人々は訛りが強かったと言われています。エルサレムの人々はガリラヤに対して訛りの強い、農村地帯のド田舎という印象を持ち、見下されていました。イエス様はそのような場所で育ったのです。
マタイ4章15節にもあるとおり、イエス様の活動は中心地エルサレムから見てはるかかなたの場所から始まりました。16節では、ガリラヤの人々は暗闇に住む民と呼ばれています。ガリラヤはいつも見過ごされ、忘れられてしまう場所でした。イエス様はそのような場所に光を当てるために活動を始めました。光り輝く神殿のある、エルサレムではなく、日のあたらないガリラヤから活動をはじめたのです。
16節ではさらにガリラヤの人々は死の陰の地に住む民と呼ばれます。辺境の地ガリラヤに住む人々は、いつも見捨てられ、見殺しにされ、見下され、様々な国々に支配されてきました。イエス様は、その死の陰の地に住むガリラヤの人々に、光となったのです。イエス様は太陽が昇るように、夜が明ける様に、人々に現れたのです。
イエス様が見下されたガリラヤの地で宣教を始めた事、このことの意味を私たちはもう少し心に留めた方が良いかもしれません。クリスマスと、イエス様がガリラヤから宣教を始めたことの共通点は、メシアに似つかわしくない場所で人生と活動が始まるということです。それは明るく、光輝く場所からスタートしたのではないということ、人間の期待とは大きくかけ離れたところから始まったのです。
でも信仰とはそのようなものです。光り輝く奇跡から始まる信仰は多くありません。信仰は暗闇、良いことが一つもない、そのような時や場所から始まるものです。信仰とは自分自身の目をむけたくない場所が光で照らされるように信仰が始まるのです。私たち共同体の信仰もそうです。私たちは信仰を、思いもよらない人、場所から教わるものです。イエス様の光は苦しんでいる人、逆境の人、行きづまっている人、見下されるような人から訪れるのです。
イエス様は復活の後、ガリラヤでまた会おうと言われます。ガリラヤは復活のイエスと出会い、弟子たちの信仰の再スタートの場所にもなりました。失意の中で再び信仰に立つ場所になりました。信仰はガリラヤで始まり、失敗し、再びガリラヤでスタートするのです。そのようにしていつも信仰は、人々の注目の集まる中心ではなく周縁から、高みからではなく、低みからスタートするのです。お祈りします。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。マタイによる福音書4章19~22節
キリスト教では牧師を目指すことを献身(けんしん)と呼びます。神様に向けてこれまでとは違う人生を歩み出すことは、たくさんのことを捨てるような気になります。でも神様に従うとは必ずしも何かを捨てることではありません。
みなさんの礼拝出席も立派な献身です。今日みなさんは、家族を捨てて礼拝に来たわけではありません。家にいる家族と新しい関係を願って礼拝をしているでしょう。教会の存在も同じです。教会は社会との関係を断って存在をしているのではありません。私たちは地域といままでよりもっと深い関係を願って礼拝をしています。
きっと聖書は私たちに何かを捨てて、神に従う事、礼拝することを求めているのではないでしょう。聖書は私たちが大切にしているものを、大切にしたまま、新しい関係を求めて、神様に従うことを求めているのでしょう。
聖書に目を向けます。ある日、ペテロとアンデレは漁をしていたところ、突然イエス様が現れて「私について来なさい」と言われました。20節には「二人はすぐに網を捨てて従った」と書いてあります。この個所から神様に従う時には、たくさんのもの、すべてのものを捨てなければならない、そう言われてきました。
しかし22節には、舟と父は残して行ったとあります。網は捨てたけど舟は捨てなかったのです。実は20節の「捨てる」と22節の「残す」は、どちらも同じギリシャ語で『ἀφίημι(アフィエイミー)』という言葉です。この言葉は「捨てる」とも「残す」とも翻訳できる言葉です。翻訳の幅を考えれば、網も舟も父も捨てずに、そのまま残して従ったとも訳すことができます。無理に大切なものを捨てたと理解する必要はありません。自分の大切にしていることを大切にし続けてよいのです。
私たちは家族や仕事あらゆるものとの関係を捨てて、礼拝に来たのではありません。私たちは家族や友人や職場での新しい関係を願って、でも今日はそれを残して、今日この礼拝に集ったのです。私たちはそれぞれの場所での関係がより、うまくいくことを願って礼拝をしましょう。
そしてイエス様の招きは、自分のためだけではない人生を、他者に仕え、他者を愛する人生を送らないか?と語り掛けてます。それは自分の大切なことを大切にしながら、他者をもっと大切にする、そのような招きです。
私たちは今ある大切なものを抱きしめながら、神様に従ってゆきましょう。そして自分のことだけではなく、他者への愛と祈り、他者の大切にしているものを守ることに時間を使う生き方を選び取ってゆきましょう。イエス様はそのように私たちを招いているのではないでしょうか?お祈りします。
「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」
マタイによる福音書2章14~15節
国連の統計によれば、紛争や気候変動により故郷を追われた難民は1億2000万人に達し12年連続で過去最高を更新しています。難民の40%がこどもです。この数字の一人一人の人生に数えきれない悲劇があったはずです。日本は難民に厳しい国です。私たちは文化や経済の違いを超えて、難民を受け入れ、共存できる国になりたいと思います。この世界のどこで神様を見つけたら良いのでしょうか。今日は、神様は悲しみの中に居る人と、また戦火を逃れてきた人と共にいるということ、神様は困難に追われ苦しむ人と共にいることをみてゆきます。
暴力で奪った権力は暴力でしか守ることができません。ヘロデは自分の地位を狙っている者は親族でも容赦なく殺してゆきました。ヘロデの権力への執着は、こどもたちに対しても向けらます。この権力者は、自己保身の王であり、暴力的な王でした。人々の求めた救いとは平和であり、こどもたちを含めたすべての命が守られていくことでした。そのような場所に救い主イエス・キリストは生まれたのです。
イエス様の誕生は軍事的指導者、自己保身、暴力に象徴されるヘロデとは対極的なものでした。イエス様は強大な力に対して、力のない無力な姿でこの地上に生まれました。イエス様は逃げることを選びました。その姿は現代の難民と同じ姿です。多くのこどもが殺されました。その中でイエス様は生き残りました。イエス様は虐殺生存者という意味でサバイバーです。難民、虐殺からのサバイバーであった彼が平和を語ることには大きな重みがあったはずです。そしてイエス様は復讐ではなく、敵と思えるような相手を愛するようにと教えて歩いたのです。この物語はイエス様が平和をどれだけ大切に思っているのかということを示しています。
そして同時にこの物語は、私たちはこの世界でどこに神様を見出したらよいのかという答えにもなっています。私たちの神様は苦しむ者と共におられるのです。神様は難民の姿でこの地上を生きたのです。神様は苦しみのただなかに生まれて来られたのです。そのような場所に私たちは神様を見出すことができるのです。
私たちの心の内側にも向き合いましょう。きっと私たちは自分の心の中にもヘロデを見つけることができるでしょう。誰にでも自分の思い通りにしようと強引になることがあるものです。それをキリスト教では罪と呼びます。私たちは全員そのような罪をもった罪人です。この世界、この私の中にヘロデがいます。この物語は、この世界の、この私の罪に気づくように訴えています。
現代の難民とかつての難民イエス・キリストの両方に目を留める時、私たちは神様を見つけることができるでしょう。そして平和を実現してゆく者へと変えられてゆくでしょう。小さな命が世界を変えていったように、私たちの小さくても互いのためにすること、小さくても愛を伝えてゆくこと、それが世界を変えてゆくはずです。お祈りいたします。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。イザヤ11章8節
みなさん、あけましておめでとうございます。今年一番最初の朝を、神様を礼拝することから始めることができ感謝です。十二支によると今日からヘビ年です。ヘビ年というのは縁起のいい年だそうです。聖書にもヘビがたくさん登場しますが、聖書では神様の呪いを受けた動物、全世界を惑わす存在、悪魔の代表とされています。聖書でヘビはあまりにも悪者にされおり、ちょっとかわいそうです…。聖書の中にはヘビを肯定的にとらえている箇所があります。今日はヘビとの共存を考えます。
3節の「彼」とはあなたのこととしても解釈できます。あなた神様の見えない力に満たされます。その力を受けると目と耳だけで判断しないようになります。つまりそれは、誰かの声にならない声を聞き、誰かの表面化しない苦しみを想像するようになるということです。弱い人の立場から物事を見て、想像することができるようになるということです。弱くされている人に寄り添うことができるようになるということです。神様はそのような見えない力を、あなたに与えてくださいます。
5節、私たちは正義を、正義の味方・ヒーローが敵を暴力的にやっつける姿と考えがちです。でも神様の正義はそのような暴力的な正義ではありません。聖書の正義は平和や公平と近い概念です。聖書の正義は共存の概念です。やられていた人がやり返すのではなく、共存をする様になるのです。
6節はまさに聖書の正義が実現した世界です。弱い者と強い者が、富める者と貧しい者が共存してゆく世界です。神様の正義とはこのように様々な立場の人が共存共栄してゆける場所のことです。聖書は、本来共存が難しい者同士が共に生き、共に寝て、共に育つという風景を描いています。そして小さいこどもがそれを導くようになると言っています。それが正義に満たされた世界なのです。
8節にはヘビが登場します。聖書はヘビを悪魔の代表のように扱う場面が多くあります。しかし、今日の個所ではヘビと共存できると言われます。
私たちの世界、個人個人の生活の中には様々な衝突や対立があるでしょう。しかし、聖書はあなたがたは霊で満たされると言います。あなたを満たすのは排除の霊ではなく、正義の霊、共存共栄の霊です。その力であなたは満たされ、相手をやっつけるのではない方法で、共に生きていく力が与えられるのです。それが今年、私たちが神様からいただく力です。そして私たちには今年、失敗もあるかもしれません。神様は大きな失敗をして、たとえヘビのように否定をされても、きっとそれでも共に生きる道、共存の道を備えて下さいます。
今年1年、あなたは神様の見えない力で満たされるでしょう。そしてあなたは正義と公平・平和を追い求めるようになるでしょう。神様は敵と思える相手とも、共存と平和の道へと導いてくださるでしょう。共に生きる1年があなたには実現するのです。神様の力が海を覆う水のように、あなたの心を満たします。そのことを信頼して新しい1年を歩みましょう。お祈りいたします。
ところが「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書2章12節
今年も一年間、様々な出来事がありました。バプテスマ式、転入会、テレビ撮影、寄付、こひつじカフェ・・・。1年前には予想できないことがたくさん起こった年でした。地域協働プロジェクトの申請が理事会に否決されたのは1年前でした。私たちは納得できない思いもありましたが、新しい制度には私たちの要望が多く組み込まれています。これも1年前の想像とは大きく違う結果になっています。
今の私たちは1年前に目指した場所とは、かなり違う場所に到着しているような気がします。これら全体が神様の導きだと思います。神様の導きとしか言えないことがたくさん教会で起った1年でした。もちろん私たちの旅はこれからが本番です。でもきっとまた計画にないことが起こるでしょう。私たちの計画を超える、神様の導きがあるでしょう今日も聖書の物語から神様の導きを見てゆきましょう。
占星術の学者は星占いによって未来を予測し、未来の計画を決めるという人でした。そのような学者たちがひときわ輝く星を見つけました。これまで星の動きを正確に予測してきた人が、いままでとは全く違う動きと輝きをする新しい星を見つけたのです。学者にとってそれは大きな予想外の出来事でした。
学者たちは計画にはない長い旅に出発し、まずヘロデ王を訪ねました。しかしそこに新しい王は誕生していませんでした。彼らは計画を変更しなければいけませんでした。首都エルサレムの人々なら何か知っているはずだと予測しました。しかし彼らは何も知りませんでした。再度、学者たちは計画を変更し、ベツレヘムへ向かいました。しかし今度は家がたくさんあり、どこの家に新しい王が生まれたのか予測ができませんでした。そこでもまた星の光が導きました。星の光は学者たちをイエス様の生まれた家の前まで導き、止まったのです。占星術の学者たちは、そこでようやくイエス様に出会うことができました。旅の出発をしてからイエス様に出会うまでに学者たちの計画と予想は一体何度、覆され、変更されたでしょうか。しかしそのような変更は神様の導きによって起こされたものでした。この旅は最後まで神様の導きによって、計画が変更されます。夢のお告げに従って、ヘロデに会わずに別の道を通って帰ることにしたのです。学者たちは繰り返し計画を変えられ、自分たちの予測とまったく違う旅をしました。それは神様と星に導かれた旅だったのです。
この物語は私たちの人生にも当てはまるでしょうか。私たちは計画を立てましたが、計画通り、予想通りにはいかなかったことがたくさん起こりました。それは神様が私たちを導き、何度も計画の変更を迫った結果だったのでしょう。
私たちは次の1年どんな星を見つけ、どんな旅に出るのでしょうか?確かなことは、私たちは神様の大きな導きの中に生きているということです。私たちの計画や予測を超えて、また明るく輝く星が示されるでしょう。共にそれを目指して、旅路を出発しましょう。来年も神様の導きを共に歩んでゆきましょう。お祈りします。
彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書2章6~7節
今年、私たちの教会は「孤独のグルメ」というドラマでとりあげられて、大きな注目を集めました。このドラマは今回に限り「孤独ではない」設定となりました。こども食堂を通じて、普段の教会の温かさも伝わったと思っています。
教会の雰囲気は、さまざまな人が集まることによって織りなされています。そのひとつは「孤独ではない」という雰囲気です。教会に来れば誰かに会い、誰かと一緒に食事をすることができます。教会は孤独ではない場所として立っています。何回か教会のそのような雰囲気の中にいると「神様に守られている」と感じることがあるでしょう。
聖書によれば、神の子イエス・キリストが生まれてきたのは孤独な場所でした。孤独な出産によって、神様は孤独の中に共にいるお方であるということを表したのです。私たちの周りには出産、子育て、学校、職場、家庭、食事、介護、さまざまな場所に孤独が存在します。そのような孤独のある場所に、神様は来て下さるお方なのです。神様は孤独にいるその心に生まれ、その心に共にいてくださるお方なのです。神様は孤独と思える場所に共にいて下さるお方です。今日はどうぞ孤独でない教会でそれを感じてお帰りください。
主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。
マタイによる福音書1章20節
この後の持ち寄りの食事会、愛餐会(あいさんかい)を楽しみにしています。愛し合うということは、この食事のようなことです。誰かを思って準備すること、ひとりひとりの違いが大事であること、分かち合うこと、お互いのことをお腹の中に迎え入れ、受け入れ、ほめ合うということ、それが愛なのです。愛餐会は料理を通じてお互いを迎え入れる象徴です。それは教会の本質です。
私たちの教会は今年、様々な人を迎え入れました。いろいろな人が、いろいろな気持ちを持ち寄って集まるのが教会です。教会は愛餐会のテーブルに様々な料理が並ぶように、様々な人を迎え入れてゆく場所です。教会は、着飾ったり、背伸びしたりする場所ではなく、素直な自分でいられる場所であって欲しいと思っています。
楽しい食事の前に聖書から愛を聞きます。今日は聖書からお互いを受け入れ合うことを考えましょう。
ヨセフは婚約者マリアが自分以外の人のこどもを妊娠したと聞き、縁を切ろうと思いました。しかし天使が現れて、こう言ったのです「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」。ヨセフは正しい人・正義の人だからこれを受け入れました。正しいとは何でしょうか?我々の思う正義は悪い事をした人に罰を与える、悪への鉄槌が正義です。しかし聖書の「正義」「正しい」には、私たちのイメージする罰を与えるという意味ではなく、貧しくされている人や、立場が弱い人が守られるという意味です。。
もしかするとヨセフは第一にお腹のこどもを守るということを考えたのかもしれません。それが神様の目に正しいことだったのです。ヨセフは正しく、正義の人だったからこそ、立場の弱い、こども命に目を向けました。そしてヨセフはマリアのことも信じ、守ろうとしました。それが正しいことだと思ったのです。
ヨセフがこのようにこどもとマリアを受け入れ、迎え入れた様子を見て、果たして私はそのように、他者を迎え入れる存在になっているだろうかと思いました。自分の正義ばかりを振りかざし、彼のようには他者を受け入れられない自分を見つけます。私たちのこの教会はどうでしょうか?私たちの教会もヨセフの様に、様々な気持ちをもった人を迎え入れることができる教会になりたいと感じます。さまざまな人々が集まれば、いろいろな衝突が起きますが、私たちはその出会いを恐れずに、お互いを迎え入れあいたいのです。きっと聖霊は教会にもこういうでしょう「恐れず、迎え入れなさい」。この声を聞き、私たちの教会はお互いを迎え入れあってゆきましょう。
私たちの人生には驚くことや苦労が起きるものです。でも神様は私たちにそれを迎え入れるように、向き合う様に言っているのです。そして何よりまず神様が先に私たちのことをも受け入れ、迎え入れ、愛してくれているのでしょう。私たちはこの神様を信じ、愛し合い、迎え入れあいましょう。お祈りいたします。
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
マタイによる福音書11章4節
クリスマスは、キリスト教や教会が最も注目を集める季節です。キリスト教のことはネットで検索してもわかりません。キリスト教を知るには日常生活の中でクリスチャンと出会うことがもっとも重要です。キリスト教のことを知らない人にとって、本物のクリスチャンである皆さんとの出会いはとても貴重な体験です。
私たちは他の人と少しだけ、大きく違うことがあります。それは愛し合おうとするということです。私たちが他者を愛するという姿勢が、私たちの背中から伝わり、キリスト教が、福音が伝わっていったら嬉しいと思っています。今日はイエス様に従った人々から、どのように人々に福音が広がってゆくのかを見てゆきます。
イエス様に従った人々は、傷つき、弱さを抱えた人々でした。イエス様はその人々と共に過ごすことで、励ましと希望を与えていました。そこにヨハネの弟子たちが来て「来るべき方は、あなたですか?」と聞きました。それに対してイエス様は「見聞きしていることを伝えなさい」と返事をしました。イエス様は言葉であれこれ説明をしようとしませんでした。「あなたの見たままが答えですよ」と言ったのです。それは自分でその人と出会って確かめるようにという意味です。
果たしてイエス様は弟子たちの何を見せようとしたのでしょうか。きっとイエス様は癒された人々のその後の姿、生き方、背中を見るようにと言ったのだと思います。人々はイエス様に愛され、受け入れられてゆきました。やがて癒された人々は今度はイエス様の様に他者を愛し、受け入れ合おうとしたはずです。イエス様の群れは仲間を愛し合う共同体となってゆきました。イエス様はヨハネの弟子たちに、それを「見よ」言ったのではないでしょうか。イエス様はヨハネの弟子たちに対して、自分が救い主かどうかは、このように人々が互いに愛し合っている様子を見ればわかると言ったのです。これは面白い答えです。
今の私たちに重ねたらどうなるでしょうか?イエス様はキリストが本物かは、出会ったクリスチャンの生き様で示されると言うでしょう。私たちはイエス様に癒され、励まされて終わりではないのです。人々と出会い、愛し合う姿を見せる、それがイエス様を本物だと証しすることになるのです。行動で示し、背中で語る、それが福音を伝えることになるのです。
私たちはどう生きるかを考えます。私たちは神様を信じない人と同じ様に苦しみを生きています。でも私たちは、互いを愛し合うこと、大切にしあうことにおいて他の人と少しだけ違う生き方をします。神様はそのように私たちが葛藤する姿、愛し合う姿を通じて、福音を広げるお方です。
クリスマスは多くの人がキリスト教への関心、クリスチャンへの関心を向ける時期です。私たちはただ愛し合うという姿によって、キリストが救い主であることをそれぞれの場所で証ししてゆきましょう。お祈りします。
この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
マタイによる福音書13章55節
今日も共に礼拝できること主に感謝します。クリスマスまでの日付を数えています。ここ平塚市豊原町の人口は約1000人ほどだそうです。豊原町内会は小さな町内会ですが、まだ地域の触れ合いが残る良い町です。このくらいの人数がなんとなく顔が分かってちょうどよいものです。小さい頃から平塚・豊原町で育った人々は、驚くほど地域の人ことをよく知っています。それは長年の交流が積み重ねなのでしょう。この町は人と人との距離感がとても近く、温かい場所です。
なんでも聖書の時代と重ね合わせてしまいます。考古学的な発掘によればナザレは500人以下の村だったと推測されています。ナザレは町内会ほどの小さな村だったのです。村の家は集合住宅で、数家族が住む長屋が多くあったそうです。イエス様はこのナザレで育ちました。ナザレの人は神秘的なクリスマス物語について、何も知らないようです。イエス様は普通の男の子、小さい村の近所のこどものひとりだったのです。長屋の子どもでした。
ナザレの人々は、自分たちの村、まるで小さな町内会のようなコミュニティから、世界を救う宗教指導者が生まれることを想像できなかったのでしょう。ナザレの住民の反応は容易に想像できます。イエス様が駆け回っていたナザレ村の広場に、大人になったイエス様の姿があります。イエス様はそのような距離感で一緒に暮らした人々に現れました。だから57節にもあるように「人々はイエスにつまずいた」のです。受け入れられなかったのです。なぜなら距離感が近すぎるからです。
これはナザレだけでおきた反応ではありません。この反応は他の地域での先取りとして起きています。もしかして私たちがそこに居たら「あなたが救い主のはずがない」と他の人々と共に怒ったかもしれません。そんなうそつきは十字架に掛けろと一緒に叫んだかもしれません。さらに復活のその後まで見通すと、イエス様は復活の後、ガリラヤに行くと言います。やはりまたガリラヤなのです。
この物語は、私たちにとって神様とはどのような方なのかを示唆しています。それはつまり、神様とは私たちにとって近すぎるくらい、近いお方であるということです。まだ私には神様なんて来ない、こんな私に神様なんて来ない、そう思っている方は注意が必要です。そう思う人の心に神様はもうすでに近すぎるほどに来ているのです。神様は私たちのイメージを超える場所と、時間に現れるお方です。
その距離感も私たちの心に近すぎるくらい近くにすでにいるのです。ここではない、今ではない、私ではないと思う場所にこそ、神様は現れるのです。
クリスマスをそのことを感じながら迎えてゆきましょう。私たちのすぐ近くに神様がいます。それを私たちの普段の生活の中で感じ取ることができるでしょうか。私たちが見過ごしてしまいそうな場所に神様がいいます。私たちはきっとその存在を見つけることができるはずです。お祈りをいたします。
だから、あなたがたも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。マタイ24章36~44節
今年も毎日のように「いつまでに」という何かの日付に追われた一年でした。一方、こどもの誕生の日付は人間の手で決めることができません。私たちにはその奇跡を静かに、祈って待ちます。私たちのクリスマスには、日付がついています。でも違う希望もあります。それは日付の無い希望です。いつだかわからないけど、必ず起こるという約束のある希望が私たちを前に進ませてゆくのです。そしてその希望にはきっともうすでに始まっている部分があるのではないでしょうか。
当時のユダヤの人々は救い主の誕生を何百年も待っていました。同じクリスマスを待つということでも、日付を知っている私たちと違い、当時の人はまるで泥棒のように、あるいは突然帰って来る主人のように、いつ起こるのかわからないものだったのです。いつ来るかわからないものを待つというのは、どれだけたいくつで、どれだけ長く感じたでしょうか。日付の無い約束は、口先だけの約束に感じるかもしれません。苦しい時、せめてそれがいつ終わるのか、その日付さえ分かれば、先が見えさえすれば、それまで我慢することができるものです。日付こそ希望のように思います。それでも人々はいつ起こるかわからないことを、希望にしていました。
そしてそれは何百年も続く、息の長い希望となりました。救い主の誕生をずっと待ち続けることが、彼らの信仰だったのです。息の長い希望を持つことの大切さを思います。何月何日という日付はないけれども、でも確実に訪れる希望を信じます。息の長い希望を持った人は日々の歩みの根底に希望を持つ者となります。毎日が一日一日が神様の希望に近づいてゆく、感謝の一日になるのです。私たちはこの先に神様が私たちに約束している希望があることを信じ、待ちましょう。
弟子たちもまた救い主を待っていました。しかしずっと待ち続けていた人はすでに目の前にいたのです。いつか必ず来ると何百年も待っていた希望は、実はすでに自分たちの目の前にあったのです。私たちはこのような希望のあり方にも心にとめておきましょう。すでに私たちには神様の希望が実現し始めているのです。もう実現しかかっている小さな希望が私たちの日々の中にも見いだせるでしょう
この個所から待つということについても考えます。イエス様は希望を寝て待てと言っているのではありません。イエス様はその希望を祈って待ちなさいと教えられているのです。私たちは祈って、希望がくることを待ちたいのです。そのようにして目を覚ましていたいのです。
私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。これはイエス様が私たちに来るという約束を思い出すために、すでに来ているということを知るために行われます。その約束を忘れないために行われます。希望がやがて来ること、希望がすでに来ていることを覚えてこのパンを食べましょう。そして新しい希望の約束を信じ続けてゆきましょう。お祈りします。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
マタイ6章3節
こども食堂から見えてくる福音について考えています。ボランティアの方への趣旨説明では、私たちの食堂は貧しい人が集まっているという雰囲気にしたくないと説明をしています。誰でも貧しい人の集まる場所に行くということは自分の尊厳が打ち砕かれるような気がするものです。それは「私はそんな場所には絶対に行きたくない」という気持ちにさせ、かえって食事を必要としている人に届きません。だから食堂を貧しい人専用にしないことを大事にします。明るく、楽しく、誰でも利用できる雰囲気だからこそ、困っている人が利用できるのです。
そのようにして教会はみんなの心の穴、お財布の穴を埋めています。利用者自身は何を埋められているのか気付かないかもしれません。でもそれでいいのです。この考え方は聖書の教えとも重なると思っています。今日は、イエス様が困っている人と出会う時、どうすればよいかを教えている箇所を読みます。
イエス様の時代にも、多くの生活困窮者がいました。ユダヤの人々には助け合いの知恵がありました。今日イエス様は助け合いにおいて一番してはいけないことと知恵を教えています。イエス様は貧しい人に対して、人前で支援を行う事を禁止しました。それは貧しい人を利用した、自己顕示であり、お金で周囲から良い評価を買おうとする、偽善の行為です。
今日はもう一歩踏み込んで、こども食堂の経験から、貧しい人の立場、善行を施される側の立場に立って読みたいと思います。この個所でイエス様は手助けをする際は他の人に悟られることなく、手助けをするようにと言っているのです。イエス様の教えには手助けをする前提に、相手の尊厳に対する配慮があります。この話はただ、自己満足な支援をするなという教えにとどまっていません。イエス様は相手の尊厳への配慮があって、初めて手助けにつながるのではないかということを、ここで投げかけています。それは誰かに手助けをするときは、相手への配慮と相手の尊厳を何よりも大切にすべきであるという教えです。
この教えを私たちの内面にもっと広げて考えてみましょう。神様は私たちに何か良い物を下さる時、人々の目の前で、私たちに渡すようなお方ではありません。神様は良い物を下さる時、密かにそれを下さるのです。神様は右手が左手のすることを知らないように、私たちにはひそかに良い物を下さるお方です。私たちが誰にも知られたくない心の中に、神様はそっと贈り物を下さるお方なのです。
本当に良い物は、私たちの心の誰にも知られたくない場所に、そっと神様から与えられてゆくのです。それが神様の配慮です。神様は、私たち一人ひとりの心にそっと寄り添い、密かな恵みを授けてくださいます。その配慮に倣い、私たちもまた、誰かの心にそっと寄り添う活動を続けたいと願っています。こひつじ食堂も神様の配慮を地上で実現する活動をとして続いてゆくことを願っています。お祈りします。
稲垣久和の『閉鎖日本を変えるキリスト教 公共神学の提唱」という本を読みました。この本では社会全体を『個人と集団』『自己と他者』という2つの軸で4つに分類しています。教会は人の内面に関わることを専門としています。最近、教会以外の3つのグループは垣根を超えて協力し、自分たちの専門分野をより発展させています。一方、教会は自己・個人という枠組みの中に居続けようとしています。この本では、教会ももっと垣根を超えて他の領域に進出し出会ってゆくことで発展することができるはずだと言っています。私はこひつじ食堂がまさに他の領域に進出する取り組みに位置づけられると思いました。
今日はマタイ6章38~48節をお読みいただきました。今まで私たちはこの世のことを教会とは別のことととして、敵視してきたかもしれません。でも今日イエス様は、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。私たちとは異なる社会の領域の人々に対しても愛をもって接するよう導いているのです。反対に私たちの領域以外からは、私たちのことが敵に思えることもあるかもしれません。さまざまな宗教が、人の気持ちに付け込んで、お金を巻き上げています。平塚バプテスト教会も誤解され、敵視されているかもしれません。私たちが自分たちの領域から一歩踏み出さなければ、教会がその人と接点を持つことはまず無いでしょう。私たちは私たちの方からその人が暮らす領域に出てゆきます。そのようにして出会う時、はじめて教会への誤解が解けたり、私たちの信仰を知ったりするようになるのです。
イエス様の活動はまさにそのような活動でした。イエス様は旅をしながら福音と愛を広げました。自分から相手を訪ねて歩きました。そしてイエス様は、誰にでも太陽が登るように、誰にでも雨が降るように、神様の愛はすべてのひとにあまねく注がれると教えたのです。それが神様の愛です。イエス様はそのように自分たちと違う人に福音を、愛を伝えたのです。
教会の人同士が愛し合うことは当然です。私たちに教えられていることは、教会の仲間だけでなく、他の領域に出て行って、そこでも他者を愛しなさいということです。私たちの地域への活動は教会にとって二次的な「おまけ」ではありません。私たちの中心である信仰をより広げてゆくために、私たちの自身の信仰をより豊かなものにするために、愛を広げるために必要な活動です。
私たちは教会の中で互いに愛し合いましょう。そしてこの愛を教会の外にも、違う領域にも広げてゆきましょう。その時、出会いがありイエス様の愛を伝えてゆくことになるのでしょう。お祈りをいたします。
悔い改めにふさわしい実を結べ。 マタイによる福音書3章8節
地域活動と福音というテーマで聖書を読んでいます。私たちの教会のこども食堂はこれまで看板に「アレルギー対応はしていません」と記載していました。でも保管できるアレルギー対応食品を準備しておくという方法で表記の方法や利用できる人が増えることを教えてもらいました。
地域の方に平塚バプテスト教会は素晴らしい活動をしているとほめていただく機会が増え、誇らしく思います。でもまだまだ配慮していないことに気付かされ、そのことを悔い改めます。食堂にたくさんの人が来ているからこそ、少数への対応は無理と言ってしまうのです。もう一歩少数者への配慮をしてゆきたいと思っています。
もちろん少数者への配慮は食堂だけではなく教会全体のこととしても、私たちそれぞれの日常生活の中でも目を向けてゆきたい事柄です。今日はこのことをきっかけにして、聖書を読みます。
バプテスマのヨハネという人がいました。彼の元には大勢の人が集まっていました。ファリサイ派やサドカイ派の人々には誇りがありました。9節「我々の父はアブラハムだ」という誇りです。自分たちは選ばれた者であり、尊敬され、正しい事をしている、すばらしいことをしているという自覚があった人々でした。
そのような中でヨハネのバプテスマは、自分が正しい、自分が誇らしいという思いを捨てるという意味を持ちました。彼のバプテスマは人や世界を、これまでの正しさや誇りといった高みから見るのではなく、悔い改めや信仰の始まりといった低みから見直そうという運動でした。彼らは人々を見下してきた罪を告白し、バプテスマを受けて、新しい人生を歩もうとしたのです。
13節以降はイエス様がバプテスマを受けます。イエス様こそ自分を誇るべき神の子だったはずです。しかし神の子イエスが、誇ることを捨て、地上での活動をスタートしました。この後のイエス様の活動もこのバプテスマの延長線上にあります。イエス様は多数派になったのではありませんでした。ただ貧しい人、罪人と言われ差別された人、病に苦しむ人を訪ね、目を向け続けてゆきました。その人たちと食事をし、同じ場所で時を過ごしたのです。そしてイエス様はその後、十字架に掛かられてゆきます。バプテスマよりさらに低い場所へと向かわれていったのです。
しかし、その十字架は人々の絶望ではなく希望となりました。イエス様は人々の絶望の中に、共にいるという希望となったのです。イエス様は高みから私たちを見下ろして、善悪を判断し、審判を下そうとしているのではありません。イエス様は今も誇るのではなく、低みから、十字架から私たちを見ているのです。
私たちの地域活動は人々に支持されています。そしてみなさん自身にも誇るべきすばらしいものがあります。しかし私たちは誇らずに共に生きましょう。いつも私たちが置かれた場所で、見過ごされている人に目を向けてゆきましょう。イエス様のように、その人と共に過ごし、食べ、歩んでゆきましょう。お祈りをいたします。
『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタイによる福音書25章40節
今日は召天者記念礼拝です。私はキリスト教を良いことをした人は死んだ後に天国へ行く、悪いことをした人は死んだ後に地獄へ行くという宗教ではないと思っています。では人は死後どうなるのでしょうか。私は、人は死後、すべての魂が神様にのもとに迎えられ、安らぎを与えられると信じています。ですから、故人が苦しんでいるのではないかと心配する必要はありません。
キリスト教では死のさらに先に、復活するという信仰も持っています。復活とは神様がこの世界を完全なものにされる時、すべての人が新しい命を受けるということです。天に召された方々も、まだ復という次の希望も持っています。
そしてやがて私たち自身も死を迎える時が来るでしょう。私たちは最期の日まで精一杯生きてゆきましょう。
今日も聖書箇所は死んだ後の話をしているのではありません。この話は生きている者に語り掛けている話です。私たちはこの話から、天に見送った方が神様の元に安らかにいることを信頼し、そして残された私たちが、この地上でどのように生きるべきなのかを考えたいと思います。
聖書の物語を見ます。右側の人も左側の人も王様になら仕えて当然です。誰もが一生懸命、王様のお世話をしたのでしょう。しかし右側の人と、左側の人で大きく違ったことがありました。それは王様以外の人々への態度でした。王様は人々がもっとも小さい者へどのように接しているのかを厳しく見ていました。
「もっとも小さい者」とはどんな人のことでしょうか。それは小さいこども、助けを必要としている人、社会的に弱い立場に置かれた人、社会構造の中で自分らしく生きることが出来ない人ともいえるでしょう。私たちは本当に様々な場所で、小さくされている人と出会うはずです。私たちはそのような人々への接し方で、死後に天国に行くか、地獄に行くかが決まるわけではありません。しかし神様は、私たちがそのような小さくされた人とどのように接しているのかを、厳しく見ておられます。
これは地上に残された私たちへのメッセージです。神様は、あなたたちはこの地上の残された人生で、小さい者・小さくされた者に目を向けてゆきなさいとおっしゃっています。私たちが良い事をするのは、決して私たちが天国に行くため、自分の死後のためではありません。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 ヨハネ20章19~29節
私たちは、ある時は他者に傷つけられ、またある時は他者を傷つけながら生きています。一度生まれてしまった対立関係、そして、心の中に沈潜した敵意や憎しみから癒されること、すなわち、他者と和解することは、とても困難な、しかし、大切な課題です。私たちは30年前に大虐殺が起きたルワンダで平和と和解の働きに仕えながら、その課題の困難さをひしひしと感じながら生きてきました。
ヨハネによる福音書の20章では、復活されたイエスが自分を見捨てた弟子たちと再び出会っていく物語りが描かれています。そこでイエスは驚くべき言葉を弟子たちに語られました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」(21節)。そしてその後、弟子たちに息を吹きかけられました。その息とはイエスご自身の霊、聖霊です。それは、イエスの命、愛と赦しの霊です。そして、弟子たちに赦し合って生きる共同体を築き、赦しと和解のために人々を執成していくようにとの任務を授けられたのでした。
23節には、イエスの謎めいた言葉が記されています。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」時としてこの言葉は、聖霊を与えられた弟子たちが、罪を犯した人々を赦したり赦さなかったりする権限を与えられたという解釈がなされるようです。しかし私は、むしろこのみことばの中に、イエスが私たちに「赦しと和解という希望をゆだねられた」という福音を見るのです。神による罪の赦し、そして、神と人間との和解は、主イエスの十字架を通して成し遂げられました(エフェソ2:11-22)。しかし、人間同士の赦しと和解は、私たち人間にゆだねられているのです。
私は主イエスが、傷つけられ「赦せない」と思っている人々に対して、赦しを義務として負わされるような方ではないと信じています。赦しは神から来る恵みなのです。心と身体に深い傷を負わされながらも生き残った者、サバイバーによる赦しは、イエスですら要求されるようなものではありません。人間の努力によって出来るようになるものではない。それはただ、神ご自身が癒しと共に、恵みとして与えてくださるものなのです。
罪ある私たち人間が、神によって赦されたことも恵みです。その赦された私たちが赦すことの出来る者へと変えられていくことも恵みです。赦しが恵みとして神から与えられることによってのみ、私たちは赦すことのできる者になるからです。そして、私たちが何者かを傷つけたにも関わらず、その被害者の方に赦していただけるとするならば、私たちはその方を通して神の「恵みとしての赦し」を受け取るのです。しかし、この赦しの恵みを、それぞれの立場にある私たちが受け取るかどうかは、私たち一人一人にゆだねられているのです。赦しと和解、それは、十字架にかかられ、三日目に、傷を負ったままの姿で復活された主イエスが、私たちにゆだねられた希望なのです。
#佐々木和之
わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ
コリントの信徒への手紙二12章9節
私たちはいま世界で起きている惨状を前にして戸惑い苦しみながら「なぜ戦争を止められないのか」と嘆く。しかし力で解決しようとして強さを求める姿勢が問題であり、それは信仰の強さを求める姿勢も無関係ではない。そこで「弱さを誇る」という言葉に込められたパウロの思い、信仰に注目したい。
パウロの働きによって地中海沿岸の都市に多くの教会ができ、多くのギリシア人キリスト者が生まれた。しかし教会の中に現れた熱狂的な人々が自分たちはもう救われて「完全な者」になったと誇り、エルサレムから来た人々が割礼を受けてユダヤ人になり、律法に従わなければならないと説いた。霊において完全になったと誇る人々はその霊的な強さを誇り、ユダヤ主義者は律法を守る強い信仰で得られる強い力を誇った。そんな力を誇る人々に対してパウロはこれまでの自分の苦労を語った上で「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」と断言する。また「キリストは弱さのゆえに十字架につけられました」と語るようにパウロにとって十字架は弱さの象徴。律法では木にかけられた者は呪われた者。十字架刑で処刑されたイエスは神から呪われた者であり、神から見捨てられた者となる。そのイエスを神は引き上げられた。9-10節の「力」「強い」と訳されている言葉は、動詞になると「〜できる」という意味になる。何ができるのか、それは「人の心を動かすこと」すなわち「福音を伝えること」。つまりパウロが言おうとしているのは、自分自身が弱いときこそ、あの十字架につけられたキリストが自分の中に働いて、自分もまた福音を伝えることができるということ。
私たちは「クリスチャンはこうあるべきだ」という無意識のイメージを持っていないか。できているときは誇らしく感じ、できないと「信仰が弱くなった」と落ち込む。しかしイエスが十字架に磔にされている姿は、何もできない姿。神から見捨てられた呪われた姿。しかしそのイエスをこそ神は引き上げた。つまりこれができるから、これをしているから神が人を認めるのではない。まず神がこの私たちを愛している。パウロもまた弱さの中でその神の愛を伝えようとした。私たちは教えを守り、義しく過ごす事が信仰で、その姿が証しだと考える。しかしこのできない、惨めな私だからこそ、その私を愛される神のすばらしさを伝えることができる。そしてその愛に応えたいから神に従いたい。従うアピールをしたから神が私たちを愛されるのではなく、まず赦されている、その愛に応えたいのだ。自分の義しさを貫こうとするのではなく神の前で頭を垂れ、神の言葉を聞くように相手の言葉を聞き、自分の信仰を誇るのではなく神の愛を誇り、その愛が自分に注がれていると同じように相手にも注がれていると、分かち合っていきたい。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
マタイによる福音書15章35~36節
今日は10月16日の世界食糧デーに合わせてこの礼拝を、収穫感謝礼拝としています。私たちの教会で運営している「こひつじ食堂」に多くの食品が寄付されることに感謝しています。頂いた食べ物が、どこでどのように収穫されたのかを聞くと、食べ物の命を強く感じます。そして食べ物に命を感じると、感謝の気持ちが深くわいてきます。こども食堂はそのように食べ物と命に特別に感謝する場所です。
クリスチャンは食前に感謝の祈りをする習慣を持っています。私たちは食前の祈りで生産者の人に感謝すると同時に、それだけではなく、食べ物を神様が与えて下さったものとして感謝の祈りをします。キリスト教ではすべての命は神様が創造したものだと考えます。そして神様が創造した命を食べることを感謝して祈ります。食前の祈りは神様が私たちに命を与えて下さったことへの感謝の表現です。私たちはこの感謝と祈りを大切にしましょう。今日は聖書からイエス様が感謝している場面を見ます。その物語から、神様に収穫を感謝するということを考えましょう。
今日は特にイエス様の食前の感謝の祈りに注目します。この食前の感謝の祈りはどのような祈りだったのでしょうか。イエス様が感謝したのは、まずこの食べ物を寄付してくれた人に対してでしょう。そしてそれ以上に神様に対しての感謝を祈ったのです。それはすべての恵みは神様からのものだからです。
そしてこの食べ物をよく見ます。それらの多くはもともと命でした。穀物も魚もすべては命でした。神様に創造された大切な命でした。イエス様はここで、神様がこの命を創造し、この命を私たちがいただくということに感謝をしたのです。
イエス様は地上に人間として生まれました。そしてイエス様は神様の創造した命を食べて生きたのです。イエス様は食べる前にその命に感謝して祈りました。イエス様はこのように神様に向けて、その命を食べることに深く感謝をしたお方でした。
驚くべきことに私たちは神様が創造した命を食べて生きています。普段それを感じることはできないかもしれません。でも私たちが食前に祈るとき、それを思い出すことができます。私たちが誰かから食べ物をもらったとき、それを分かち合ったとき、私たちが命を食べていることを深く感じることができます。私たちは命に感謝して、神様に感謝して、それを頂きましょう。そのようにして私たちの命はつながっているのです。
私たちはただ収穫物に感謝するだけでなく、その背後にある生産者の努力に感謝をしましょう。そして神様からの豊かな恵み、私たちが神様の創造した命を食べていることに感謝しましょう。私たち自身の命に心から感謝しましょう。神様の愛が私たちのすべてを満たしてくださいます。私たちは収穫と命に感謝しましょう。私たちは食前の祈るたびに神様の愛を深く感じましょう。お祈りをいたします。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイによる福音書7章12節
2か月間、地域活動と福音というテーマで宣教をします。こどもには、できるだけいろいろな体験させたいと思います。大人とこどもが共に礼拝することは双方にとって素晴らしい体験です。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもと共にする礼拝をしましょう。また地域のこどもたちにも良い物をたくさん残したいと思います。多くのこどもたちが教会を訪れるようになり、きっとそのうち何人かは大人になって教会に訪ねてくるはずです。地域のこどもの声が響く教会してゆきましょう。そしてこの教会を次の世代も安心して集い、礼拝し、運営できる場所として引き継いでゆきましょう。できるだけ良い物をこどもたちに残しましょう。
これからの平塚教会は、こどもたちに関わり、未来に良い物を渡そうとする活動の中で、新たな道が示されてゆくでしょう。このような思いで私たちは2024年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。
私たちはこどもに少しでもよいものを与えたいという強い熱意がありますが、今日の聖書の言葉によれば、神様は私たちの熱意を上回る熱意をもっています。
今日は私たちの年間主題聖句マタイ7章9~12節を読みます。今は私たちには必要な物が不足しています。でも神様は良い物を下さると約束をしています。私たちはそれを信じましょう。
12節からは神様からの恵みを受ける話から、他者への実践を求める命令へと展開しています。私たちはただ良い物を受け取るだけの存在ではありません。恵まれている、だからこそ良い物を他者に手渡してゆけと言われているのです。私たちはこの命令を実践しましょう。例えば私たちはこどもたちに一番良い物を、一番良い状態で渡してゆきましょう。「人にされて嫌なことは、自分もしない」よりもう一歩踏み出して、良いものを渡してゆきましょう。
イエス様の律法理解は一貫しています。同じマタイ22章でも第一に神を愛し、第二に、隣人を自分と同じように愛することを勧めています。ほかならぬ他者に良い物を渡すことが、律法の実践なのです。
私たちはこの主題聖句と「こどもの声がする教会」という標語をもって歩んでいます。私たちは礼拝をするとき、神様が私たちに良い物を準備していることを思い出すことができるでしょう。そして特にこどもと共に礼拝をするとき、私たちもこどもに精一杯の良い物を渡してゆこうという気持ちになるでしょう。だから私たちはこどもの声を聞きながら礼拝をしましょう。教会の仲間の必要が満たされるように祈りましょう。地域のこどものために祈りましょう。教会を未来に残していけるように祈りましょう。お祈りします。
シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。イザヤ書62章1節
8月9月は平和について考えています。イスラエルとパレスチナの戦争について、世界のキリスト教信者の中には、イスラエル側に立つという立場をはっきりと表明し、積極的に応援する人々が多くいます。背景には聖書に書いてあることを、その文字通りに受け取っていくという信仰があります。たとえば聖書の中に、神はイスラエルにこの土地を与えると約束しているという記述があれば、それをそのまま理解します。いわゆるシオニズムはアメリカで非常に大きな勢力です。
私たちの聖書理解では、神様は暴力で物事を決めようとするどちらのグループも誤りとし、そのような暴力を最も嫌われるお方です。私たちはイスラエルとパレスチナの双方が間違っていると考えます。私たちには聖書を文字通りではなく、歴史や文脈に応じて解釈することが求められます。そして、強い者ではなく、傷ついた人々や虐げられている人々に目を向けて聖書を読むことが重要です。
聖書を読みましょう。この個所を文字通り、現代のイスラエル国に結び付けて読むのではなく、私たち人間全体に向けて語られている言葉として受け止め、戦争に疲れ果てた人々の視点から理解しましょう。
1節にある「わたし」とは神様の事です。神様はすべての人間が松明のように、明るく光り輝くことを願っておられます。神様はそれが叶うまで、黙っていないお方です。人間から徹底的に光を奪うのは戦争です。人間同士の戦争で傷ついた人にとって、最も強い心の支えになるのは、神様の言葉です。神様の言葉と光はいつも私たち全員に注ぎます。その神様の言葉は、止まることのない、平和の言葉です。
2節、人間の決める正しさと平和はいつも不完全です。しかし完全である神様の正しさと平和の実現はやがて必ず全員に来ます。神様が全員に正しさと平和を起こしてくださる時を「終末」と呼びます。終末は平和の約束です。必ず平和がくるということ。私たちはその終末の時に希望を持っています。
3節は傷ついた人々が回復される約束です。これは戦争で傷ついた人々によって王が立てられるということです。傷ついた人が王を指名してゆくのです。それこそが平和の王の在り方です。平和の王を建てるのは戦争で傷ついた庶民なのです。
4節と5節、人は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。
私たちは聖書から平和に生きる方法を聞いてきました。神様は平和について、黙っていないお方です。神様は口を閉ざさず、平和を語り続けて下さるお方です。私たちは神様の正しさと平和を追い求め続けてゆきましょう。私たちも平和の大切さを語ることを止めないでいましょう。私たちは戦争を見る時、傷ついた人に目を向けましょう。傷ついた人が平和の王を選ぶ世界にしてゆきましょう。これからも諦めずに平和を祈ってゆきましょう。お祈りします。
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
ルカによる福音書10章27節
私はバブル期に証券会社で働き、この世ですべてを失った経験から神様に出会い、今は東京バプテスト神学校神学専攻科で学んでおります。また同時に、これからの教会牧会には心理学が大変重要になると感じ、並行して通信制大学で心理学を学んでいます。心理学を学んでいると、聖書と結びつく箇所がたくさんあります。今日の聖書の箇所である「善いサマリア人のたとえ話」もそのような箇所の一つです。宣教題にしました「傍観」とは「岩波国語辞典」によると、「(手出し・口出しをせず)その場でながめること。当事者でないという立場・態度で見ること。」とあります。追いはぎに襲われた人を助けなかった祭司やレビ人は正に「傍観者」でした。この話はたとえ話ですが、今日は1964年に実際にアメリカで起こった「キティ・ジェノヴィーズ事件」という多くの人の見ている前で起こった凶悪犯罪を参照し、なぜそのようなことが起こるのか、ということを聖書の視点と心理学の視点から見てまいりたいと思います。
私たちも、日常生活の中で誰かの助けを必要としている人に遭遇することがあります。しかし、多くの人はサマリア人のように行動できるでしょうか?「他にも人がいるから大丈夫だろう」「急がなければ大切な用件に遅刻しそうだ」などの理由で見過ごしてしまうことはないでしょうか?
このような心理学における「傍観者効果」という現象は、多くの人が見ている状況で誰も行動を起こさない心理状態を言います。これは責任が分散されることや、誰かが助けるだろうという思いから、行動を躊躇してしまう等の原因で起こります。
このサマリア人の行動は、単なる親切心に留まらない愛の実践です。元々、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったのですが、イエス様の時代は特にひどかったようです。しかしこのサマリア人はその様な自分の感情や立場を度外視して「その人を憐れに思い」助けるという、まさにキリストの愛の姿を示しました。
イエス様は、このたとえ話を通して「隣人」とは元々備えられているものではなく、自分から作るものであると、そしてそのためにはどのように行動すれば良いかを教えてくださいます。律法学者たちは「隣人」を同族や同胞と限定的に考えていましたが、イエス様は民族や宗教を超えてすべての人が「隣人」と成り得るのだ、と教えてくださいました。
私ももう「傍観者」にはなりたくありません。心理学は、このような聖書の中にある人間の心の奥底を捉えた深い真理を科学で証明しようとする学問である、ということを改めて実感しています。
また教会は、愛の実践を促し、互いに支え合う共同体です。教会で経験した愛を通して、私は自分自身が「新しい命」を得るという経験をしました。それは、教会の人々が私の「傍観者」とならず、愛を示してくださり、私を「隣人」として、具体的に行動してくださったおかげなのです。(堀端洋一)
わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
イザヤ書46章4節
礼拝の中で高齢者祝福祈祷の時を持ちます。今日は神様が私たちの人生を導いてゆくということについて考えます。「あしあと」という有名な物語があります。この話は聖書の話ではありませんが、神様の愛と支え、導きを良く表している美しいたとえ話です。私たちはつらく悲しい時、神様が助けてくれないで、一人で人生を歩んでいるように思うかもしれません。でも神様は私たちを背負って歩いてくれているのです。聖書にはいくつか、この話のモチーフになる箇所があります。
イザヤ書46章1~4節の時代、イスラエルの人々はバビロニア帝国との戦争に負け強制移住させられました。移り住んだ先にはバビロニアの神々が石や木で掘られ、街中に飾ってありました。
聖書は神の姿を石や木で掘って拝むこと(偶像礼拝)を禁止しています。一つの理由は、神様の願い・御心を、自分の欲望と混同しないようにするためです。人間が神様の形を掘り出せば、神様を人間の理想を詰め込んだ姿にします。どこにでも好きな場所に持ち出します。しかし注意していないと、神様を人間の思い通り、意のままの存在にしてしまいます。神様はそのように私たちの思い通りに、願いをかなえてくれる存在ではありません。だから聖書は偶像礼拝を禁止しています。
聖書によれば神様は私たちが見えていなくても、いつも一緒にいる存在です。見えないけれど確かに共にいて下さるのが神様です。姿・形に彫り出され動物にひいてゆかれる神は、聖書の神の特徴と反対です。聖書では神様が人間を背負うのです。
神様が私たちの人生を背負っています。私たちは神様の背中に乗って、運ばれている存在なのです。3節にはそれは生まれる前から死ぬ時までだとあります。そしてきっと死んだ後も私たちを背負ってくださるのです。それが聖書の神様です。
神様が私たちを背負うとは私たちだけでは前に進めない時、神様が私たちを支え導いてくれるということです。それは先ほど紹介した「あしあと」の話のようです。
私たちの人生はひとりでは生きていけないものです。私たちの神様はつらい時、確かに私たちを支えてくださるお方です。私たちはその神様を支えにして生きます。心の支え、魂の支え、生活の支えとして生きます。神様によって人生が願ったとおりになるわけではありません。でも私たちは神様が支え導いてくれると信じながら歩むのです。
このことをこどもたちにも伝えたいと思っています。これからずっと神様が一緒に歩き、つらい時あなたを背負ってくれるのだと。そして高齢者のみなさんと分かち合いたいとも思っています。みなさんの人生もきっとそうだったはずです。私たちにはこのように神様が共にいて下さいます。だから安心してこれからも歩んでゆきましょう。お祈りします。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 イザヤ書40章4節
沖縄の伊江島という小さな島から、平和とは単に戦争がないことに加えて、もっと人々が自由で、平等な様子を言うのだということを考えます。
1945年伊江島の人々は日本軍から人間扱いされず、特攻のための箱型爆弾を背負わされました。戦後はアメリカ軍から人間扱いされず土地を奪われました。伊江島は戦争が終わっても平和は訪れていません。真の平和とは人々の権利が守られ、自由に平等に生きてゆける状態のことです。平和を実現する行動とは、伊江島の人々のように、戦争に反対し自由と平等に向けて働いてゆくことです。抗議運動を率いた一人に阿波根昌鴻という人がいました。彼はクリスチャンで、沖縄のガンジーと呼ばれる人です。彼は非暴力でアメリカ軍と対峙することにしました。さまざまな活動のひとつに「あいさつさびら(あいさつしようね)」があります。お互いが同じ人間同士だと伝えるための平和的な抗議運動として行われました。
その働きは聖書の平和と共通しています。イザヤ書40章はイスラエルが戦争に負けた後、戦争が起こした苦痛に苦しむ人々に向けられた神様の言葉です。「谷はすべて身を起こし、山と丘は低くなる」これが聖書の平和が実現してゆく様子です。
それはゆがんだ丸から説明することができます。現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとして高ぶる者が居ます。聖書の平和とは押し込められていた人が元に戻り、高みにいた人が元に戻される、みんなが対等に、等しく満たされている状態です。ゆがんだ丸が平らになっていくことが平和です。
5節、私たちすべての人間は、共に神を見る者として存在をしています。人間の中にだれ一人、鬼畜はいません。すべての者が共に神の栄光を見る、尊い存在です。同じ人間として他者がいることを忘れずにいましょう。共に神を見る者として互いを思いあうことは私たちが平和を実現するための第一歩です。7節には「この民は草に等しい」とあります。私たち人間は葦のように弱い存在です。でも私たちはただの草ではありません。私たちには神様の言葉があります。私たちは同じ人間であるという神様の言葉、神が私たちに平和を与えるという言葉が、弱い私たちにはあります。弱くても共に神のことを求め、平和のために働くことができるのです。
私たちの世界は平和ではありません。まだ様々な場所に、低くされ、抑えつけられ、人間扱いされていない人がいます。私たちは特に痛みを覚える人に目を向けましょう。そしてそれが元に戻されるために働きましょう。互いを対等な人間として、共に神の栄光を見上げる存在として大切にしましょう。挨拶をしてゆきましょう。そして神様の平和の約束を信じましょう。お祈りします。
まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 イザヤ書25章4節
8月と9月は平和について考えています。私の心を特に締め付けるのは戦争で泣いているこどもたちや、血だらけになって泣いているこどもたちです。世界中でその光景が繰り返されるたびに「神様はどこにいるのか」「神様はなぜ戦争を止めないのか」と疑問に思います。そしてこどもたちの笑い声が響きわたるのがどれだけ平和を象徴しているかを想像します。神様は一体どこでこの世界の様子を見ているのでしょうか。今日は戦争の中で神様はどこにいるのかを考えたいと思います。
4節は、神様は戦争において弱い者の砦であり、弱い者を守る側にいるということを示しています。誰が神に戦争の勝利を祈ろうとも、神はその力でどちらかに勝敗を下すことはありません。神様は弱い者の砦です。神様が関わるのは、弱さと貧しさです。神様は弱くて小さな者を見つけ、それを自分の元に集め、守ろうとします。弱い者、貧しい者の希望となるのが、神様なのです。戦争の報道は、どちらがどのような兵器で、どちらが優勢かという点に目を向けがちです。でも私たちも戦争に触れる時、傷つき、犠牲にされ、人生を壊された人を想像し、目を向けてゆきましょう。その時神様が戦争の中でどこにいるのかを見つけることが出来るはずです。
6節には神様が山で祝宴を開くとあります。山とは神様を礼拝する場所という意味です。祝宴・礼拝は神様の側からの招待です。この個所には「すべて」という言葉が3回出てきます。すべての民が、神様に招かれて、山に集まった者全員が祝宴に参加します。それが神様の礼拝の在り方です。この祝宴・礼拝に出て楽しみ、食べて、力をもらうのです。私たちにとってこの食べ物は、聖書の言葉です。聖書の言葉から命、愛、祈り、平和をいただきます。あるいは今日いただく主の晩餐も、この食べ物をよく象徴しているでしょう。神様に招かれて、私たちは聖書の言葉と、主の晩餐をいただいて、生きる活力、希望をいただくのです。
8節には主なる神はすべての顔から涙をぬぐうお方だとあります。戦争の光景にはいつも涙があります。神様はただひたすら泣く人間の涙を、ぬぐってくださるお方です。神様は敵味方関係なく、涙が流される場所、弱さと貧しさのある場所、安全な場所を求めて逃げまどう人と共にいるのです。神様はそのようにして戦争のただなかに、戦争の一番の悲しみの中にいるのです。
そして神様はすべての人を平和、礼拝へと招いています。世界では戦争によってたくさんの涙が流されています。そのような世界で、私たちは山の上の礼拝に招かれています。私たちはこの礼拝で平和を祈りましょう。
私たちは世界の平和を求めて礼拝をしましょう。壊れたがれきと涙するこどもを見て、神様は必ずそこにいる、涙をぬぐってくださると信じましょう。そしてその戦争が早く終わるように祈りましょう。一人一人が平和のためにできることをしましょう。そしてこれから主の晩餐を持ちます。このパンと杯を受けて、平和を実現させるための力と知恵と励ましをいただきましょう。お祈りいたします。
地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
イザヤ書9章4節
今日は平和祈念礼拝です。平良修という牧師を紹介します。戦後沖縄はアメリカ軍に占領され植民地とされました。植民地のトップには帝王と呼ばれる「高等弁務官」がおり、沖縄の政治・行政・司法を掌握していました。その就任式に招かれたのが平良修牧師でした。平良牧師はその就任式で「新高等弁務官が最後の高等弁務官となりますように」と祈りました。戦争に負け、暴力的に支配されている側の人間が、絶対権力者を前に、あなたが最後になりますようにと神様に祈ったのです。この祈りは大きな驚きと反響を呼びましたが、沖縄の人々を大きく励ましました。私たちもこのような祈りを持ちたいと思います。戦争をするリーダーが最後になりますようにという祈りです。今日の個所も就任式での平和の祈りです。
当時のイスラエルは戦争直前の状態でした。多くの人は軍備を拡張し、戦争に勝つことでしかこの状況を変えることはできないと考えました。そんな時に王様の交代がありました。
1節の「闇の中を歩む民」とは、おそらくすでに戦争に負けた、北側の住民たちのことです。望まない戦争を戦わされ、人権が蹂躙された人々のことです。彼らは、暗い闇を生きるように、死を身近に感じたでしょう。しかし神様は戦争の起こる世界の中でも絶望せず、光・希望があることを伝えています。2節、私たちには深い喜びが準備されているのです。4節は軍事力の放棄が語られています。神様は軍隊の装備、武器をすべて焼き尽くすお方なのです。平和には武器も装備も必要ないのです。私たちには平和と武器と基地の無い世界が神様から約束されているのです。それを信じましょう。5節の王とは「私たちみんな」に与えられた王です。王は私たちのみんなの命と生活を守る、神の僕です。そのような王が平和を実現するリーダーになるのです。6節正義とは正しいことです。そして恵みの業とは、偏りがなく公平に与えられる様子です。平和とは戦争がないだけではありません。平和とは正しさと公平さが行き渡る場所で起るのです。神様はそのような正義と公正から、平和を成し遂げてくださるお方です。神様はこのように平和を私たちに成し遂げると約束してくださっています。イザヤの祈りは平良修牧師の祈りとも重なるように思います。
私たちは平和を大事にするリーダーを選びましょう。武器を捨て、正義と、公平さを持ったリーダーを選びましょう。そして私たちが選んだリーダーが平和を選ぶように祈り続けてゆきましょう。
そして私たち自身も1週間、平和のリーダーとなってゆきましょう。私たちは自分の強さと勝利を求めるのではありません。私たちは暴力と力を焼き払い、正義と公正さ持ちましょう。そして平和の実現のためにそれぞれの場所で働きましょう。神様は必ず地上に、私たちに平和を与えて下さいます。今日はそのための平和祈念礼拝です。お祈りをします。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。イザヤ2章4節
8月と9月は平和をテーマに宣教します。ある平和学の教授が、人間同士の対立を理解するために「誰がお皿を洗うか」というたとえを使っています。教授は誰がお皿を洗うのかを決めただけでは、対立は解決しないと言います。その対立の中には実は互いへの期待や、思いやり、関係性、意思決定の方法など多くの要素が含まれています。お皿洗いはどちらがするのかという問題の中には、どのような関係性でありたいかという問題が隠れているのです。今日どちらがお皿を洗うかをとりあえず決めるだけでは、本当の問題は解決しません。常にその問題の中にある関係性、互いへの期待に目を向けてゆくことが大事です。
教授は、まず山積みの食器に目を向けるのではなく、その向こう側に目を向けて、問題となっている人間関係や構造を理解しようと勧めています。その後から、食器をどのように洗うかを考えようと勧めています。その場しのぎの答えではなく、問題の中の人間関係、構造に目を向けようと言っています。このたとえ話は平和を考える上で、とても重要な視点を教えてくれます。今日は聖書からも平和と、その実現のために必要な、私たちの転換について考えたいと思います。
当時イスラエルは近隣諸国から軍事的な圧力に直面していました。他国からの脅威があるとき、戦争しかないと訴える人はどの時代にもいます。このような緊張関係の中、神様はイザヤという人を通じて4節の言葉を人々に伝えました。この言葉は武器を捨てて平和を求めようということを意味しています。
そして今回、私はもう一つの意味を見出します。それは対立の原因となっている関係や構造に目を向けることが重要だということです。「剣を打ち直して、鋤とする」は、対立するのをやめて我慢する様に言っているのではありません。4節には打ち直せという言葉があります。私たちにその場しのぎの解決ではなく、問題の見方を転換し、背景にある人間の関係を深く考えるようにと促しています。「剣を打ち直して鋤とする」とは私たちに新しい方法で、対立を解決するように促しているのです。
これは対立について、内容ではなく関係に重点を置いた受け止め方です。対立をこのように関係に重点を置いて受け止める時、私たちはその対立をもっと積極的に受け止めることができるようになります。他者の理解を深める機会とすることができます。それは人間同士の対立にも、国と国との対立にも当てはまることです。
私たちの周りにはたくさんの対立があります。でもその対立について、根本的な人間関係に目を向けたいと思います。それが対立を平和へと転換する努力、打ち直すなのだと思います。剣を鋤に打ち直すとは問題を関係性の視点でとらえ、暴力以外の方法で解決しようとする姿勢です。私たちは今週それぞれの場所で対立に出会うでしょう。そのような時、私たちは剣を鋤に打ち直してゆきましょう。平和を実現するものとして歩んでゆきましょう。お祈りします。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
マタイによる福音書15章35~37節
私たちの教会は正面の道路から礼拝堂の椅子に座るまで、大小9個の段差があります。教会もまだまだ配慮がたりないところがあります。教会は体に不自由がある人も健康な人も、こどももお年寄りも、だれでも歓迎します。私たちはそれを心と言葉だけではなく、教会の設備でも実現できたらいいと思っています。私たちがイエス様から愛をいただいたように、その愛を私たちが多くの人に手渡したいと思っています。今日は聖書の中に出て来る、体の不自由な人の物語から主の晩餐と私たちの愛のある生き方について考えたいと思います。
聖書の時代、病や障がいは罪の結果とされました。障がいをもった人々は、行いが悪いから病気になったと差別されました。それは当事者の心に、体の不自由よりももっと深く傷を負わせるものでした。イエス様は障がい者に無関心で差別的な社会にあって、障がいをもった人々を罪人と決めつけるのではなく、人々をいたわり、励まし、手を置いて祈り、癒しました。その愛が人々を回復へと導いたのです。
イエス様はそのあと全員で食事をしょうとしました。当初パンと魚は全く足りませんでした。それはまるで愛と配慮が不足した社会の様です。でもイエス様はそのような中で祈りました。すべての人にパンと魚が行き渡るように祈りました。障がいをもった人への差別がなくなり、愛され、合理的な配慮がなされるように祈ったのです。イエス様が祈ると不思議とパンと魚はすべての人にゆきわたり、余るほどになりました。イエス様の愛と配慮はすべての人に届き、有り余るほどなのです。この食事は主の晩餐でした。主の晩餐は差別と無関心のただなかで行なれ、そこからの解放と、愛と配慮がゆきわたることを求めるものだったのです。
パンと魚を弟子が群衆に配ったことにも注目します。弟子たちはイエス様からそのパンを一度預かって、配る役割を担ったのです。イエス様が愛し、配慮する姿を、弟子たちは同じ様に実践する使命を与えられたのです。
イエス様は差別され、排除されている人を励ますためにこの食事を持ちました。愛と配慮を伝えるために主の晩餐をしたのです。そのようにして社会的なバリアを取り除いてゆこうとしました。きっと私たちの教会が障がいをもった人、弱さをもった人を歓迎するのは、このイエス様の態度、イエスの食事に起源があるのでしょう。イエス様はそのような包容力のある社会、共同体を目指していたはずです。そして食事によってそれを実現しようとしたお方です。私たちもこのような包容力のある人間、包容力のある共同体でありたいと願います。そして私たち自身が、イエス様から受け取ったパン・愛を多くの人に配る使命をいただいています。来週の主の晩餐、このことを覚えてパンを食べましょう。お祈りいたします。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。ルカによる福音書24章13~35節
今月は主の晩餐について考えています。今日は信仰とは体験しないとわからない一面がある、信仰とは体験してこそわかるものだということについて考えます。
ソムリエのためのワインのテキストには様々ことが書かれています。しかし一番大事なのはワインを実際に飲んでみる事です。これに勝ることはありません。どんなに説明をされても味や香りは体験しないとわかりません。それはスポーツや音楽、料理にも共通します。今日の聖書の個所もどんなに知識として持っていても体験をしなければわからないことがあると教えています。
聖書の二人はイエス様を直接確かめようとしてエルサレムに向いました。しかし二人が見たものは、イエス様の十字架でした。そして彼らはイエス様が復活をしたという不思議な話も聞きました。二人は一体に何が起きたのか十分に理解できないまま、帰ることになったのです。そんな彼らに復活したイエス様がそっと現れます。
覚えておきましょう。私たちの神様は私たちが良い行いをした時に登場するのではありません。願いが叶わず、出来事の意味が十分に理解できず、うつむき歩いて帰る時、神様はそっと近づき、寄り添うように現れるのです。そのようにして神様は私たちに伴ってくださるお方です。この物語の大切なポイントです。
今日はこの物語から主の晩餐について考えます。二人がエルサレムの出来事を説明する様子はまるでキリスト教全体の説明のようです。彼らは事前に十分に学び、イエス様から直接、熱心に教えを受けていました。しかし彼らの目が開かれたのは、主の晩餐を受けた時でした。二人はこの特別な食事を体験して、初めてイエス様が復活をして共にいるということに気付きました。二人はこの食事・主の晩餐を通じて、それがわかったのです。
この物語は私たちの主の晩餐とどんな関係があるでしょうか。私たちは信じてから食べているのでしょうか。それとも食べることによって信じるようになるのでしょうか。私はあいまいかもしれません。信じるために食べているような気がしています。私たちは主の晩餐について食べてみなければわからないこと、食べればわかることがあります。私たち自身もこの二人のような存在です。いろいろ知っているけれど、食べてわかるようになる存在なのです。私は信じてからパンを食べるのか、パンを食べてから信じるのか、聖書はどちらの可能性にも開かれていると思います。
私たちはどのようにパンを食べるでしょうか。きっと信仰とは体験しないとわからない一面があるのでしょう。そのことに思いを巡らせながらまた主の晩餐をしてゆきたいと思います。イエス様はきっとそのような迷いや混乱に伴ってくださる方です。論じ合うそのそばにそっと近づき、導いてくださるお方です。お祈りします。
だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節
こひつじ食堂で一番混乱するのは、ご飯がなくなったときです。計算して準備しても時々ご飯が足りなくなってしまう時があります。全員が楽しく食べるためには、きめ細かい確認と、配慮が必要です。それをみんなで確認します。それぞれ自分の分があるかを確かめているのではありません、全員分、足りるかどうかをみんなで確かめながら食堂をしています。それはとても大切な配慮だと思います。今日は聖書の食事の中にどんな配慮があったのかを見てゆきます。
コリント教会では礼拝の後、みんなで持ち寄りの食事会を行っていました。当初はこれを主の晩餐と呼んでいました。しかし食事の時に先に食べて、先に飲んでしまう人がいました。後から空腹の人がやって来る時には、食べ散らかした残り物しかないという状態でした。コリント教会では食事の際に、全員分が足りるかという配慮が全くなく、自分の事だけを考えて食事をしていたのです。パウロは食事会をするならば全員が食べることが出来るように、食事の量や内容や、持ち方を良く確かめて、配慮しなさいと言っています。
自分だけ食べてしまう、その根底にはどんな考えがあったのでしょうか。他者への無関心や無理解があったでしょう。食事の事だけではなく忘れられている人、一人になっている人、見下されている人、後回しにされた人がたくさんいたはずです。
パウロはそのような共同体になっていないかよく確かめるように言っています。パウロがここで伝えようとしていることは主の晩餐を自分の内面や罪深さと深く向き合って、よく確かめてこのパンを食べる様にと言っているのではありません。
ここでよく確かめるべきことは、他の人との関係性です。自分の食べ物、自分の事、自分の罪を考えて食べるだけではなく、他者の食べもの、他者の事、他者への配慮をよく確かめて食べる様にと言っているのです。
パウロはふさわしくないままで食べてはいけないとあります。わたしたちはどこまで、その食事にふさわしい者でしょうか。私は自分自身をふさわしくないと思っています。周りの人を良く確かめて配慮することがまだまだ足りないと思っています。そのような中でも、主の晩餐を食べるのですけれども、のども通らないような気持ちで食べています。
私たちは食事の時だけではなく様々な場面で、忘れられている人、一人になっている人、後回しにされている人がいないかに目を配り、よく確かめたいと思います。それが今日の聖書箇所が指し示している生き方ではでしょうか。
ひとりも取り残されず、ひとりも忘れられない、そのようによく確かめられ、配慮された共同体が神の国と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは今週1週間、それぞれの場所でそれをよく確かめて生きてゆきましょう。神様はそのようにして私たちのいる場所に働き、導いてくださっています。お祈りします。
夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
マタイによる福音書26章20節
7月から主の晩餐について考えます。主の晩餐とはパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会では洗礼を受けたクリスチャンが食べるとしています。私たちの教会で主の晩餐を考える時、こひつじ食堂のことも考える必要があるでしょう。同じ場所でパンが分かち合われていることは互いに影響しあいます。
こひつじ食堂のことを共生文明学の観点から論文としてまとめてくれた方が私に「縁食」という言葉を教えてくれました。どの文明でも共通して、共に食事をすることは仲間であることを確認する意味があるそうです。どのように食べるかは、どのような共同体を作るかにつながっています。その中で彼が教えてくれた「縁食」とは誰と一緒に食事をしているのかあいまいな食事を指します。「縁食」はこひつじ食堂でもよく見かける光景です。例えば一人で来たけれど、ボランティアと顔見知りで何か話しながら食べています。それは「共食」でも孤食でもない「縁食」です。
私たちの教会の主の晩餐はどうでしょうか。私たちの教会の主の晩餐は限られた人だけでする食事です。この食事は誰がこの共同体に属しているか、誰が共同体に属していないのかを明確にします。一緒に食べた人は結束します。一方、一緒に食べていない人は何を感じているのでしょうか?どう食べるかは、どんな共同体を作るかを決めています。私たちの主の晩餐においても縁側が必要でしょうか?今日は聖書から私たちの主の晩餐にどんな可能性があるのかを考えてゆきたいと思います。
マタイによる福音書26章の食事は最後の晩餐と呼ばれます。12人の弟子に限定されていた食事が私たちの主の晩餐のルーツです。しかし12人の中に洗礼を受けた弟子は一人もいませんでした。彼らは洗礼を条件とせず、ただ主イエスに招かれて、パンを与えられたのです。この食事会は参加者の中に信じる人も、信じない人もいた非常に幅のある集まりだったのです。
そしてさらにイエス様の血と十字架は、信じていない人、裏切り者、不特定多数の多くの人々、多様な人々、まだ出会ったことすらない人々のためにも流されるものでした。この食事も多くの人々との出会いに向けられた食事だったのです。
私はこのように最後の晩餐を見る時、そこに「縁食」の要素があると思います。もともとは共同体性の強い食事でしたが、でもそれを越える大きな可能性を持った食事でした。それが私たちの主の晩餐のルーツなのです。どんな食事をするか、それはどんな共同体を作るかに直結しています。どんな主の晩餐をしてゆくのかは、どんな教会を作るかに直結してゆくでしょう。私たちはどんな主の晩餐をしてゆくのでしょうか?マタイ26章の主の晩餐には限定されている様に見えて、実は開かれている部分があります。そこに縁側のような部分があるのではないでしょうか。
この後、私たちは主の晩餐を持ちます。共に主イエス・キリストとの食事を思い出しましょう。そしてそこにいた様々な人々を思いめぐらせましょう。お祈りします。
しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。 使徒言行録27章22節
使徒言行録には、イエス様の弟子たちがどのように生き、信仰を実践したかが記されています。今日もこの使徒言行録から、困難の中でも希望を持ち、他者を励ます生き方について学んでゆきましょう。パウロは船でローマに向かう途中、激しい嵐に遭遇しました。人々は積み荷を捨てて、船を軽くしようとしました。しかしそれでも状況は改善しませんでした。彼等は希望を失っていました。
しかしそんな時、一人だけ希望を失わなかった人物がいました。それがイエス・キリストの弟子パウロです。パウロは希望をもって人々を励まし続けました。そしてこのような希望を持った人物が船の中に一人でも存在すると全体の雰囲気は大きく変わります。このように希望を持ち続け、他者を励まし続けることは、キリストの弟子の大事な役割です。希望を持っているのは一人でよいのです。私たちはそのような一人になっているでしょうか。私たちはたった一人になっても、まだ希望があると言える存在になりたいと思います。それがキリストの弟子になるということです。
希望をもってあきらめない人がいる中で、逃げ出した船員がいたとあります。それはとても悲しい光景です。彼らは自分たちだけ助かろうとしました。これは他者を犠牲にし、見捨てるという罪です。キリストの弟子パウロはこのような行動を見逃しません。それは全員が助かる道ではないと引き留めます。全員で助かろうとみなを励ましたのです。全員が生きる道を求める、それがイエス・キリストの教えでした。誰かが十字架に掛かって犠牲になって、みんなが助かればいいのではありません。神様は一人も漏れることなく、命を守ろうとするお方です。
36節、この後船に乗っていた人びとは食事をしたとあります。それはまるで主の晩餐のようです。その食事をすると一同に元気が湧いてきました。全員が励まされて、全員で助かろうと思う様になったのです。船の人々は大きく変えられてゆきました。一人のキリストの弟子から、主の晩餐のような食事から全体が変えられてゆきました。全員が助かるために、すべての食べ物を捨てる決断をしたのです。自分の命だけではなく、みんなが助かるために、大切な荷物を捨てました。そして全員が無事に上陸することができたのです。
今日の物語、船は様々なものに置き換えて考えることができます。教会も一つの船です。家族も一つの船かもしれません。職場や地域も一つの船でしょう。それぞれ困難に直面します。でも一人の弟子の存在が全体の雰囲気を変えるのです。
その船にキリストの弟子が一人いればいいのです。人を励まし、共に命をつないでいこうとする希望を示す人が一人いると、全体の雰囲気は大きく変わります。全員の命をつなぐ選択へと導かれてゆくのです。私たちはそれぞれの置かれた場所で、その一人になってゆきましょう。神様の言葉に聞きながら、他者を励まし、希望を持つその一人になりましょう。お祈りします。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。 使徒言行録16章25節
今日6月23日は79年前、沖縄で組織的な戦闘が終わった日です。私たちはこの日を「命どぅ宝の日」と呼び、平和を考える時として大切にしています。沖縄の人々は激しい地上戦の中で、洞窟に逃げ込みました。そしてそこで、どう死ぬか、どう殺すかでなく、どうやって命をつなぐかを考えました。彼らは洞窟の中で「命どぅ宝」命こそ宝だと互いに励ましあい、何とかして生きようとしました。
沖縄にはあの時から今も大きな基地がいくつも存在します。私たちは普天間、辺野古を含めて沖縄、日本、世界のすべての基地がなくなることを祈り願っています。沖縄の普天間基地の前で毎週、戸塚駅の駅前で月1回、基地に反対して讃美歌が歌われています。世界に平和に目覚めて欲しいと願って、世界の人々に暴力ではなく、愛と平和を選んで欲しいと願って歌っています。小さな行動でも私たちは軍事力に反対をし、暴力の無い平和を求めてゆきたいと思っています。今日は神様の示す平和と、平和を目指す生き方について考えたいと思います。
世界が隣人を愛し、敵を憎めと教えている中で、イエス様は敵を愛しなさいと教えました。その平和の教えを世界に広めていた弟子がパウロとシラスでした。しかしパウロは牢獄に入れられることになりました。パウロは何度も鞭に打たれ、牢に投げ込まれました。足には足かせをはめられ、自由を奪われました。そして暴力の象徴である武器・剣もった看守がそれを見張っていました。暴力が支配する牢獄の中で、彼らはなんと歌いました。きっと平和を願う歌、自由を願う歌、神様への感謝の歌だったでしょう。圧倒的な暴力に対して歌を歌って何になるでしょうか。でも彼らは歌いました。その歌から、賛美から奇跡が起こされてゆきます。
地震は神様が起こす奇跡の象徴です。彼らは逃げることができるようになりました。看守は自死を選ぼうとします。しかしパウロはそれを止めます。死んではいけない、どんな命にも暴力を向けてはいけないと教えたのです。私にはこのパウロの言葉が「命どぅ宝(命こそ宝)」という言葉に聞こえます。それは平和を望む言葉です。そして看守はそのイエスの平和の福音に救われ平和へと方向転換します。
彼はパウロの傷を洗いました。他者の傷の痛みを知り、共感をするものとなったのです。それは暴力から愛への転換でした。敵を愛しなさいという教えの実践でした。彼はバプテスマを受け、そして食事を共にしました。暴力で支配してきた者と同じテーブルで食事をしたのです。これは神様によって起こされた出来事です。
私たちもこの看守のような、暴力から愛への転換をしたいと願います。世界が暴力を辞めて、愛に目覚める様に神様に求めましょう。私たちにできることは賛美歌を歌うことです。神と人に向けて平和の賛美歌を歌いましょう。沖縄からまずその歌が聞こえます。私たちの賛美から世界に平和が広がるように祈ります。平和こそ宝、命こそ宝であることが伝わるように祈ります。お祈りします。
それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
使徒言行録15章19節
私たち平塚バプテスト教会は今日、創立74周年を迎えることができました。本当に神様のおかげです。74年間多くの課題がありました。バプテストは民主的に話し合って決めることを大切にしています。話し合いは疲れるものですが、私たちは多くの困難を話し合うこと、互いの理解を深めることで乗り越えてきました。そしてこれからの私たちも大きな決断のための議論を控えています。もし神様のご計画ならば、今後の計画が成し遂げられてゆくはずです。
物事を決めてゆく時、大事なことは、時に妥協し、調和し、折衷案を持つことです。建築はどうしても、全員の要望を盛り込むことは難しいものです。私たちも大きな議論をするとき、互いに妥協し、調和し、折衷案を持ち前に進んでゆくことを覚えておきましょう。今日は聖書に記録される会議もそのような出来事です。
今日は使徒言行録のエルサレム会議をみてゆきます。初期のキリスト教には二つのグループがありました。ユダヤ教の律法を重視するグループと、そうでないグループです。この二つのグループは決して対立をしていたわけではありません。人や献金を送ったりする良好な関係でした。ただどこまで律法の実践を求めるべきか、二つのグループは意見が分かれていました。その妥協点を探るために、エルサレムで会議をすることになりました。このエルサレム会議はどちらが正しいか決着をつける会議ではありません。どうすればキリストの弟子として一致し、仲間であり続けられのるかを話し合うために持たれたのです。
決定の内容は伝統的にユダヤの律法を重視する人が守ってきたことの一部でした。そしてこの4項目以上の事は求めないという寛容な決定でした。大部分は食べ物に関する取り決めです。そしておそらくこれは律法を守る人とそうでない人が一緒に食事をする時の決まり事でした。律法を重視する人と一緒に食事をするときにおいては、ユダヤの習慣を尊重、配慮をするようにと決められたのです。うまい妥協点だと思います。この調和重視の案によって温かい一致が生まれました。両方が喜ぶことのできる決定でした。よい決め方だったと思います。
その会議には神様の力が働いたのでしょう。神様はこのようにして共同体を導いてくださるお方です。互いに話し合い、折り合いをつけ、私たちを結び付けて下さるのが、神様の働きなのです。私たちの歩んだ74年間もそれが起り続けて、私たちは今に至るのでしょう。創立記念の時、これから起きる様々な議論に心を準備したいと思います。その時このエルサレム会議を覚えておきましょう。
私たちはいろいろな違いがあります。でも神様が導いてくださって妥協し、調和し、折衷となる選びが示されてゆくはずです。エルサレム教会では互いを尊重し、互いに苦しまない決定が選ばれました。それは誰かの喜びと励ましになる決定でした。私たちもこれからそのような選びへと導かれてゆくはずです。お祈りします。
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。 使徒言行録9章18~19節
今日から聖書の使徒言行録を1ヶ月間読んでゆきます。みなさんは価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?キリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変えるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。聖書の教えを価値観の中心にするスタートが洗礼(バプテスマ)です。
洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。今日は聖書のサウロという人物から、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。
十字架の後、イエス様の教えた愛の輪が広がっていました。そしてもともとの枠組みであるユダヤ教から大きくはずれる様になりました。サウロはユダヤ教を信仰していましたがそのキリスト教を激しく否定していました。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。
そんなサウロにある日突然、運命を変える出来事が起こりました。それによって彼は自分が否定し、殺そうとしていた人の助けを必要としました。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。
ここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロの価値観の転換です。これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。彼の変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化でした。彼は弱さと無力の中で、その価値観が、生きる態度、他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人に敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた変化でした。
神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。
本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。
使徒言行録9章18~19節
今日から聖書の使徒言行録を1ヶ月間読んでゆきます。みなさんは価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?キリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変えるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。聖書の教えを価値観の中心にするスタートが洗礼(バプテスマ)です。
洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。今日は聖書のサウロという人物から、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。
十字架の後、イエス様の教えた愛の輪が広がっていました。そしてもともとの枠組みであるユダヤ教から大きくはずれる様になりました。サウロはユダヤ教を信仰していましたがそのキリスト教を激しく否定していました。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。
そんなサウロにある日突然、運命を変える出来事が起こりました。それによって彼は自分が否定し、殺そうとしていた人の助けを必要としました。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。
ここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロの価値観の転換です。これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。彼の変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化でした。彼は弱さと無力の中で、その価値観が、生きる態度、他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人に敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた変化でした。
神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。
本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。
「つながっていようよ」
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 ヨハネによる福音書15章5節
毎週水曜日の「祈祷会(きとうかい)」という集会では聖書から感じた自由な感想を話し合います。互いの感想を聞いていると、神様の事、生き方のことたくさんの気づきを得ます。祈祷会では祈りの時も持っています。互いのこと、みんなで祈りたいことのリストをもとに黙祷し、心の中で神様に祈ります。私はこの「祈祷会」をとても大事だと感じています。祈祷会が神様とのつながりだけではなく、他者とのつながりをも感じる場所だからです。今日はつながりをテーマに宣教します。ヨハネ福音書15章1~10節から3つ大事なつながりを紹介します。
まず一つ目は、神様は私たちにあなたたちは私としっかり「つながっていなさい」と言っています。あなたたち人間は、神様をつかんでいるその手を絶対に放してはダメだと言っています。私たちは忙しい時でも神様につながっていましょう。たとえばなるべく礼拝や祈祷会に集ったり、祈ったりすることを頑張ってゆきましょう。
2つ目に神様は私はあなたがたに「つながっています」と言っています。私が手を離したら、神様が離れてしまうのではありません。私が忙しくて、つかまっていられない時も、どんなにつらい時も、神様の方からつながってくださるのです。だから神様を信じる人は安心して生きることができます。うまく自分から神様につながれなくても、神様はあなたにもうつながっています。これが大事なこと2つ目です。
大事なことの3つ目は「あなたがた」という言葉に隠れています。この「あなたがた」は私個人を指す言葉ではなく「みんな」を指す言葉です。みんなで神様につながりなさい、神様はみんなにつながっていますと言っているのです。
みんなで神様につながる時、私たちの間には神様とのつながりだけではなく、私たち同士、人間同士のつながりも生まれるはずです。神様は人と神がつながっていると伝えると同時に、私たちに人間同士も、神様によってつながっているというのです。そのような人間のつながりも、神様がおこしてくださるのです。
自分はどうやって神様につながればよいのか、仲間をよく見るとわかります。神様はそのように私たちも互いにつながっていることを感じるように言っています。礼拝・祈祷会は毎週この3つのながりを確認する場所だと言えるでしょう。
初めて来た方、これからもどうぞ神様につながってゆきましょう。神様もあなたにしっかりとつながっています。そして私たちはみんなで神様につながりましょう。毎週教会ではこの礼拝・祈祷会という集会を持っています。私たちはみんなで神様につながろうね、わたしたちもつながっていようねと言い合います。それは私たちみんなの人生にとって大きな励ましになっています。私たちはそこから前に進むことができるのです。そんな風に教会で、神様とのつながり、人とのつながりを感じながら生きてゆく生き方をお勧めします。お祈りします。
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
使徒言行録2章2節
先月と今月は初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。聖書の話を毎週の礼拝でするのが大変ですが、準備に行き詰まった時は、風に吹かれながら思いを巡らせます。風に吹かれていると、時々新しい言葉がひらめいたり、やり直そうと思えたりします。風に吹かれながら、神様の導きを求めています。
今日は新しい仲間の信仰の言葉を聞きましたが、きっとこの言葉を紡ぐのも大変だったでしょう。この告白ではっきりしていることは、神様は不思議な力で、私たちを教会へと呼び集めるのだということです。神様が私たちを導くとは、神様の吹かす風に押し出されて進むようなことです。私の宣教の言葉も、今日の信仰の言葉も、神様からの風に、押し出され、発せられたものです。
聖書・創世記によれば、神様が土で人間の形を作り、息・風を送り込むと人間は生きるものとなったと書かれています。神様の風とは私たちに生命を吹き込む風です。私たちは神様の風に吹かれると生きるようになるのです。私たちの人生には、どうすればいいかわからないことがあります。そんな時、風に吹かれてみてはどうでしょうか?体で風を感じれば、きっと心にも神様の風を感じることができるはずです。風に吹かれ、神様からもう一度命を、新しい生き方を頂きましょう。今日は聖書から風に吹かれた弟子たちの話をします。
キリスト教はイエス様が死んでしまった後も続いてゆきました。それは弟子たちが一生懸命に頑張ったから続いたのではありません。神様からの不思議な力、不思議な風を受けることで続けることが出来ました。弟子たちがみんなで集まっている時、突然強い風が吹きました。風は神様の一方的な決断で吹きました。神様の風は神様の決めたタイミングで吹きます。そしてそこにいた全員に吹きました。神様の風に吹かれると不思議なことが起こりました。自分にはできないことでも、神様が力を与えて下さって、できるようになったのです。様々な国の言葉で語られたのは、みんなにわかる言葉で神様の希望を示すためでした。そのようにして神様の風は全員に命と活力と言葉を吹き込みました。
私たちもそんな神様からの風を受けて歩んでいるのです。私たちが毎週集まれるのは熱心さや一生懸命さではなく、神様の風に吹かれているからです。私たちが神様の風に身をゆだねているから集うことができるのです。神様の風はきっと私たちをどこかへと運ぼうと導いています。だから私たちは自分の願いだけではなく、神様からの風がどう吹いているのかを感じて生きゆきたいです。
神様が私たちに風を送っていす。私たちはその風に吹かれながら生きましょう。私たちには何もできなくても、神様が風を吹かせ、導いてくださいます。神様の風が私たちに必要な言葉と力、新しい生き方を与えてくださるはずです。お祈りします。
初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。2000年前舗装されていない道をサンダルで歩けば、足は泥だらけになりました。汗と汚れが混ざって臭いもしたでしょう。シャワーを浴びることもできません。足を洗うのは、自分をいたわるホッとするひとときでした。裕福な家では足を洗うのは召使いの仕事でした。
しかし今日の聖書にはイエス様が弟子の足を洗ったと書いてあります。これは他者のために働き、他者を尊重するという模範的、象徴的な行為でした。今も昔もリーダーは威張り腐っています。しかしイエス様は他のリーダーと大きく違いました。弟子たちの汚れた足を洗おうとします。これがキリスト教の神と等しいとされた人の姿です。他者のために働き、他者を尊重する生き方を体現しています。神様は徹底的に低みに立つ方なのです。
そして、この物語はもう一つ重要なことを伝えています。もしかすると誰かの足を洗うよりも、誰かに足を洗われる方が嫌かもしれません。自分の悪い部分、汚い部分は隠したいものです。弟子も「決して洗わないでください」と言っています。しかしイエス様は14節「互いに洗い合わなければならない」と言っています。疲れて、汚れた、お互いの足を隠しあったら、我々の関係は成り立たないというのです。
ここから示されることは、私たちの人生にはそれぞれに疲れや困難があり、そのときは恥ずかしいけれど、誰からの支えを必要とするということです。私たちは神様と仲間の支えなしに生きてゆくことはできないのです。私たちは足を洗ってもらう様な、励ましや祈りが必要なのです。
教会では互いを尊重し、励ましあう言葉を交わしています。それはまるで毎週教会で互いに足を洗い合っている様です。神様から、仲間から足を洗ってもらっている様です。誰かが疲れて汚れた私に、温かい言葉を掛けてくれます。それは私にとって足を洗われるということです。同時に誰かに温かい声を掛けます。それが誰かの足を洗うことです。互いに足を洗い合うからこそ1週間が頑張れるのです。
私たちは洗う側と洗われる側に分かれているのではありません。みんな洗われるべき汚い足をしており、みんながやさしく互いの足を洗います。そのような教会に来ると、心洗われたような気持ちになります。ほっとする気持ちになるのです。
イエス様はこのように私たちに互いに足を洗い合いなさいと伝えました。足を洗うことによって、他者のために働き、他者を尊重する生き方がキリスト者の生き方だと示しました。そして互いにいたわり合い、励まし合う関係の大事さを私たちに教えてくれたのです。教会にはそのことを信じる信仰を持つ人が毎週集っています。私はたくさんの人がこの生き方・信仰に加わること、増えることを願っています。お祈りします。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」ヨハネによる福音書9章9節
今月と来月は初めて教会に来た方に向けてお話をしています。私たちの教会では、月2回会堂でこども食堂を開催しています。最近4名の小学生がボランティアに加わってくれました。このことによって様々なよい変化が起きています。教会員のある方は「こどものボランティアを見て、ヨハネの5000人の食事(今日の個所)の意味がようやくわかった」とおっしゃっていました。私たちは今年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。こどもたちの声が私たちの礼拝や食堂の雰囲気と方向性を決定づけています。同じことが聖書にも書いてあります。
2000年前、イエス様は様々な背景や事情を持った人たちと全員で食事をしようとしました。一緒に食事をすることは私たちのこども食堂と同様に友好関係にあることを示す行動です。でも準備が大変です。弟子たちは無理だと思いました。
そこにひとりの少年が声をあげ、少ない食事を差し出しました。それは「僕にできることがあればします」という姿勢でした。この少年ができる精一杯の小さなボランティアでした。弟子たちはそれを笑いました。「どうせ役に立たない」と思ったのです。小さなもので全体は変わらないと思ったのです。
しかしイエス様は小さくて役に立たないと思われているボランティアに目をとめて、いったん座って、何が起きているのか全員でよく考えるように促しました。そしてイエス様は感謝の祈りを唱えました。イエス様はそれが小さくてもどれだけ重要であるかを知り、感謝して祈ったのです。物語全体の雰囲気がここで変わります。イエス様はパンと魚を分けはじめました。そうすると不思議にも全員が満腹になる食べ物が現れたのです。普通は決して起きない奇跡的なことが起きたのです。
私たちは今日の物語からどんなことを考えるでしょうか。私はパンを増やすおまじないには興味がありません。今日の個所で小さな者の声に立ち止まるという生き方を学びます。私たちの社会では強い者の意見が通ります。私はそのような社会だからこそ小さな者の声、少数意見に耳を傾ける必要があると思います。
小さな働きの力を信じるということも、この物語から学びます。私たちそれぞれの前にある課題は大きすぎて、自分はたいして役に立たないと感じることばかりです。でも今日の物語によれば小さなボランティアが全体の雰囲気と方向性を変えたのです。小さなこどもたちのボランティアが私たちの礼拝とこども食堂の雰囲気を決定づけてゆくように、小さな働きが世界の方向を変えるのです。今日の物語から私たちはそれを信じましょう。
このあと私たちは主の晩餐という儀式を持ちます。これは小さなパンと、小さな杯にいれたブドウジュースを飲む儀式です。イエス様がこのような食事をしたことを再現する儀式です。こんな小さなパンですが私たちは大きな変化が起こると信じています。お祈りします。
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
ヨハネによる福音書5章8節
今月と来月は、キリスト教が初めてという人に向けて話をしています。2000年前にベトザタという池がありました。この池には天使が降りてくると、池の水面にゆらゆらと小さな波ができ、その時、池の中に入ると、一番先に入った人は病気が治るという伝承がありました。
しかしこの伝承は残酷です。治るためには他の人を押しのけてでも、誰よりも早く水に入らなければいけないのです。そこは生存競争の場であり、人間関係は最悪でした。その中に38年間病気の男性がいました。彼は自分では起き上がることができませんでした。しかし彼が失望していたのは、もはや自分が病であることではありませんでした。彼が失望していたのは誰も他者を助けようとしない世界です。イエス様はそのような場所に現れました。イエス様は苦しみと失望と緊張関係に満ちた場所に現れるのです。
そこでイエス様は「起き上がりなさい」と言いました。世界に失望し、あきらめていた彼はもう一度立ち上がって、歩きだしました。そしてイエス様は歩き出すときに床を担いで歩きなさいという条件を付けました。床とは38年間寝ていたマットです。マットには汗と涙がしみ込み、擦り切れ、ボロボロになっていました。そのマットは彼の人生を象徴するものです。そして彼がいた池の周りの世界を象徴するものです。彼の苦労と屈辱の象徴でした。その床を担ぐようにとは、これからもその現実を背負って生きてゆきなさいという意味です。この38年間の苦労を忘れずに、あの池で見た世界を忘れずに生きるようにと条件を付けられたのです。
今日の物語から私たちはどんなことを考えるでしょうか。まず私が思うことは、この世界はまるでベトザタの池の様だということです。世界はこの池のように、自分中心、自国優先、強い者が勝つ世界です。隣人と愛し合うのではなく、たがいに敵同士のように競争する世界です。互いを喜び合えない世界です。私たちもこのような世界・日常に生きています。イエス様はそのただなかに現れるお方です。ひどい現実の、どん底の、この世界の真ん中に現れるお方です。
そしてイエス様は、私たちを立ち上がらせ下さいます。私たちは苦しみを忘れて、苦しみと無関係に生きるのではありません。それに責任をもって生きるようになります。神様はそのようにして私たちを立ち上がらせるのです。今私たちのいる世界を良くするために、神様は私たちを立ち上げてくださるのです。
この礼拝で、私たちは神様から床を担いで立ち上がれと言われています。私たちは現実を背負って立ち上がります。私たちはそれぞれの場所で、互いに愛し合い、困っている人を助け、隣人と喜びをともにしましょう。それぞれの場所で弱肉強食ではない、愛と慈しみにあふれる世界を創ってゆきましょう。その1週間を今日から歩みましょう。神様が私たちを立ち上げて下さいます。お祈りします。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
ヨハネによる福音書4章7節
4月と5月は新しくキリスト教に触れる人に向けて話をしています。今日登場するサマリアの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。いわゆる混血とされ見下され、差別されました。さらに女性という点でも差別を受けました。
そのサマリアの女性が、日中の一番暑い時間に井戸に水を汲みに来ました。彼女がサマリアの女性たちからも疎外されていたからです。5回の離婚を経験した彼女の波乱の人生は、村の人から奇異の目で見られていましたのです。
そんな時、イエス様と出会います。水を巡ってのイエス様と女性との会話は誤解が生じやすい話です。イエス様が与える水というのは、肉体的にのどを潤す水分補給のことではないようです。その水とは心と魂を潤す水のこと、心と魂が求めていることを満たしてくれるものが、イエス様の渡そうとしている水です。
しかしイエス様と女性の会話にも誤解があります。16節でイエス様は突然話題を変えます。イエス様は対話をあきらめていないようです。対話をあきらめずにまた別の角度から伝えようとしています。全体をみるとかなりかみ合わない会話です。それでも二人が対話を続けていることはとても印象深いことです。
20節からイエス様は繰り返し礼拝という言葉を使っています。イエス様の言った心と魂を潤す水、それは礼拝と言い換えることができるでしょう。この今私たちの持っている礼拝とは、自分の生き方を考える集まりです。イエス様はその礼拝が、あなたの心と魂を潤す水となると言ったのです。この礼拝というキーワードからようやく二人の話がかみ合ってきます。女性はこのような対話からイエス様を信頼するようになりました。イエス様との対話によって誤解が解かれ、イエス様を信頼するようになりました。そして彼女はその信頼を村の人々に告げ広めたのです。
イエス様とこの女性はすれ違いながらも、忍耐強く対話を続けることによって信頼が生まれました。誤解は信頼へと変わってゆきました。今日この個所を見て私は改めて対話の大切さを感じます。私たち人間にはたくさんの誤解があります。誤解は人々を苦しめます。差別も命に優劣があるという誤解から生まれます。でも私たちはイエス様のように向き合い、対話することをあきらめずにいたいのです。今日の個所のように誤解から始まる信頼がきっとあるはずだからです。
私たちは、誤解を信頼に変える力を礼拝からいただくことができます。私たち人間は人間の力だけでは、豊かな信頼関係を築くことができないことを良く知っています。でもだからこそ私たちは神様から、その力をいただきたいのです。この礼拝で神様から他者を理解する力、誤解のある他者と信頼を作ってゆく力を受け取りたいと思うのです。礼拝からその力をもらい、それぞれの場所で誤解を信頼に変えてゆきたいのです。共に礼拝を献げ、神様から、誤解を信頼に変える力を互いに頂いてゆきましょう。お祈りします。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
ヨハネ20章25節
先週からキリスト教にはじめて触れる方に向けて話をしています。よく誤解されがちですが、教会はキリスト教を信じている人だけが集まる場所ではありません。信じるつもりはないという人も歓迎します。この教会にとって信じない人は一緒にいてくれないと困る存在です。ここが信じる人だけの集まりとなると閉鎖的になります。信じている人にとっても、信じない人と一緒にいるのがよいのです。
「信じるかどうかはあなた次第」という言葉があります。しかしキリスト教は不思議な事ばかりで、自分次第なら、信じないのが当然の結果です。でも多くの方が、何かに押し出されるように、何か追い風のようなものを受けて、信じていると言えるようになります。信じるかどうかは、私次第ではありません。行き先は風まかせの様な不思議さがあるものです。今日は聖書から信じない弟子を見たいと思います。
イエス様の復活を見ていなかった弟子が1人だけいました。トマスという名前です。彼はもし釘の跡を見て、その穴に自分の指を入れ、脇腹の傷に手を入れることができれば、信じようと言いました。すると8日後、本当にイエス様が現れました。
聖書はトマスのようにつべこべ言わず、疑わないで信じましょうと言っているのではありません。私たち人間は確かな証拠や奇跡によって信じるようになるものです。トマスもきっと奇跡を体験がすれば、信じることができると思っていました。
しかし聖書にはトマスが実際に手と指を入れたとは書いてありません。それができれば私は信じると言っていたのに、彼は結局、手と指を入れませんでした。
私はよく信じない人から、もし〇〇になったらキリスト教を信じるという言葉を聞きます。合格したら、結婚できたら…。でも私個人のこれまでの実感として、条件をクリアしたら信じると言って、その条件が満たされた後に信じるようになる人は多くありません。自分の設定した条件や願いが達成されても信仰を持つ人は少ないのです。一方、条件はクリアしなかったけれど、信じるようになったという人は多くいます。信じるとは自分の設定した条件をクリアして起こるものではないのです。
トマスも同じです。彼は手と指を入れませんでした。自分で設定した条件をクリアしませんでした。でもトマスはきっと信じるようになったのでしょう。自分の設定した条件ではなく、一方的なイエス様の登場、イエス様との出会いの体験によって彼は信じるようになったのです。信仰とはそのように始まります。何かが私の中に勝手にやって来るのです。信じるつもりはなかったのに、不思議と心の中に入って来る、現れる、それが信仰の始まりです。そのような神の一方的な働きかけ、追い風の様な働きかけによって、人は神の存在を信じるようになります。
信じない人を歓迎ます。信じるかどうかはあなた次第ではありません。人間が神を信じるようになるのは、私たち人間の条件を超えた、神様の一方的な働きかけによってです。いつかみなさんにその時が来ることを願っています。お祈りをします。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
ヨハネによる福音書21章13節
今日から2か月、初めてのキリスト教というテーマで宣教をします。まだキリスト教のことを知らないという方に届いたら嬉しいです。
キリスト教は聖書から「どう生きるか」を考える宗教です。聖書には、どうすれば仲良く、平和に、前を向いて生きて行けるかを考えさせるエピソードがたくさん書いてあります。主人公はイエス様という人物です。イエス様は当時のタブーを破り、他の人が絶対一緒に食事しない人と積極的に食事をしました。そのようにイエス様は食事自体を通じて、食事をしながら「生き方」を教えました。今日も聖書から新しい生き方を見つけてゆきたいと思います。聖書のエピソードを見てゆきましょう。
弟子たちは死んだ人が目の前に現れるとは思ってもみませんでした。そんな中、イエス様は「何か食べる物はあるか?」と言って登場します。お腹の空いたこどものようなかわいい登場です。イエス様は大変親しみやすく私たちに現れます。
弟子たちは食べ物を持っていませんでした。イエス様は舟をだすように言います。そうするとさっきは獲れなかった、たくさんの魚が獲れました。このように、イエス様は奇跡的な力を使ってまで、一緒に食事をしようとしました。弟子たちは一緒に食事をすることができるようになって初めて、それがイエス様だと気づきました。イエス様は一歩先に岸で炭火を起こして、魚を焼いていました。この食事は、これまでの食事同様、弟子たちの心を癒し、励ます食事だったでしょう。そして他者を愛しなさい、仲良くしなさいという教えをもう一度思い出す食事だったでしょう。
今日の個所から私たちが生きるヒントはどこにあるでしょうか?一つは不思議な事ですが、死ですべてが終わるのではないということを教わります。悲しみは悲しみで終わらないのです。もうひとつの生き方のヒントはイエス様は私たちに困難を乗り越える力をくれるということです。イエス様は魚が獲れなくても、私たちがもう一度チャレンジする力を下さるのです。
そして何より共に食事をすることを大切にするということも生き方のヒントでしょう。悲しみの時、寂しい時、誰かと一緒に食事をすることが、イエス様の大事にした行動です。一緒に食事をすると、生きる力が湧いてくるのです。教会で共に食事をすることを愛餐と呼ぶように、共に食事をすることは互いに愛し合っていること、大切に思い合っていることを表す行動です。そこから生きる力が湧いてくるのです。私たちは共に食事をすることをもっと大事にしてはどうでしょうか?食事で互いが大切であることを確かめ合ってはどうでしょうか。それも生き方のヒントです。
私たちはこの後の主の晩餐で、そのイエス様の教えを思い出し、教会の仲間同士や、1週間関わる人たちと互いに愛し合うということを確認します。
私たちはみなさんと、聖書から生きるヒントをもらって、一緒に歩みたいと思っています。少しずつ、この礼拝に参加し、新しい生き方を始めてみませんか?
後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
ヨハネによる福音書20章14節
イースター礼拝を共にできる事、主に感謝します。3月と4月は様々な出会いと別れがある季節です。誰かとの別れは人の心に大きな影響を与えます。その悲しみの深さは、その時々によって違います。お別れをしっかりできた時は受け入れやすいものです。でも突然の別れは受け入れるのに時間がかかるものです。
神様はそのような別れと悲しみの時、そっと悲しむ者のそばに共にいてくださるお方です。悲しむ者にこそ現れ、そばにいて下さるお方です。そしてゆっくりと悲しみとは違う方向へと導いてくださるお方です。神様はこのように、悲しむ人々に幸いを約束してくだいます。今日は悲しみと共にいてくださる神様の姿を見ます。
イエス様の十字架は無実の罪、若い人の死、突然の別れ、心の支えだった人との別れ、尊敬する人との別れでした。それは、もっとも受け入れるのが難しい別れでした。マグダラのマリアという女性は他の弟子たちが逃げ惑う中、イエス様の十字架を最後まで見届けました。しかし一方でそれはマリアにとって、大きな心の負担になったはずです。マリアはイエス様の無残な死に方を直接見てしまいました。痛み、苦しみ、渇き、流れる血、その姿をすべて見て、受け取ってしまったのです。きっとマリアはそれに強い衝撃を受け、それはトラウマになったはずです。
もっとも悲しみ、涙のとまらないマリア、イエス様はそのマリアに一番はじめに現れました。神様はこのように悲しむ者のもとに現れるのです。悲しみを受け入れた先に神がいるのではありません。神様は深い悲しみの底に現れてくださるのです。イエス様はそのようにそっと現れます。いつからそこにいたのかわかりません。でもイエス様はきっと、ずっと涙する者のそばにいました。
彼女が気づいたのは名前を呼ばれた時でした。それはまるで羊と羊飼いの様です。羊が自分の羊飼いの声を聞きわけるように、マリアはイエス様の声を聞き分かることができました。そしてイエス様は羊飼いの様です。1匹の迷った羊飼いを探すように、マリアの元に現れたのです。そして彼女から全世界へと復活が伝わりました。
今日の個所をからどんなことを考えるでしょうか。神様はこのようにして、悲しむ私たちと共にいるお方です。神様は迷った羊を探す羊飼いのように、悲しむ私たちの名前を呼んでくださるお方です。一緒にいるよ、だから立ち上がって、前に進もうと言ってくださるのです。そして私たちはそれぞれの場所に派遣されるのです。
イエス様が復活したとは、死が無くなることではなく、その悲しみの中にイエス様が共にいて下さったということではないでしょうか。悲しみの中に主が共にいて下さることが、主が復活されたということなのではないでしょうか。
私たちの人生でも、きっとそのようなことが、主の復活が起こるはずです。神様は復活し、悲しむ者と共にいて下さいます。神様は復活し、私たちと共にいて下さいます。その復活を信じ、歩みましょう。お祈りをいたします。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
ヨハネによる福音書19章30節
今週は教会の暦で受難週です。今日はイエス様の十字架の上の「成し遂げられた」という言葉を見たいと思います。十字架刑は政治的な反乱者に科された刑です。何日も、何週間も苦しみが続きます。それは見せしめのために、二度と権力に反抗しないように、丘の上や大通りなど人々の良く見える場所で行われました。処刑される者は、苦しみ、呪いの言葉を口にしながら死んでいったと言います。
しかしヨハネ福音書では、イエス様が苦しみの言葉を発した記録はほとんどありません。なんとこのような状況でイエス様は「成し遂げられた」と言いました。このような苦しみの中で一体何が成し遂げられたというのでしょうか?イエス様の宣教の活動はたった数年だったと言われます。伝えきれなかったこと、やり残したことは非常に多かったはずです。イエス様にとっても、弟子たちにとっても志半ばでの十字架だったはずです。しかし、それにもかかわらずイエス様は最後に「成し遂げられた」と言っています。
成し遂げ「られた」の「られた」に注目をします。これは「私は成し遂げた」ではありません。それは神様がイエス様を通じて「成し遂げた」のです。神様はイエス様の地上の生涯を通じて、愛に生きることを教えました。共に食事をし、隅に追いやられた者に目をとめるように教えました。そのように神様はイエス様を通じて互いに愛し合うことを教えました。イエス様は神様から与えられた、その使命を生きました。そして十字架の死に至るまで、他者を愛し続けたのです。どんなにつらい時も、自分の思い通りにいかない時も、死ぬその時まで他者を愛し続けたのです。それを今、イエス様は神様の力によって成し遂げたのです。神様から愛を成し遂げる力を頂いて、神の計画は「成し遂げられた」のです。
私たちの人生で、自分の力で成し遂げることは多くありません。でもそこに神様から成し遂げる力と計画をいただいて、成し遂げられることがあるでしょう。きっと私たちを通じても神様が「成し遂げられる」計画があるはずです。それは私たちの思いを超えて実現するものです。
神様が成し遂げようとしているのはイエス様の人生においてもそうだったように、生涯を通じて、神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕えることです。それが、神様が成し遂げようとしている計画です。神様はその計画を成し遂げるために私たちに力をくださいます。神様が苦難の時も愛に生きる力を与えて下さいます。どんなつらい時も、神様は愛に生きる力を与えて下さいます神様は、私たちを通じてその計画を成し遂げるお方です。
私達では到底成し遂げることができないことを、愛を、神様は成し遂げて下さいます。その愛を成し遂げる力を私たちも頂きましょう。私にはできないけれど、神にはできる、愛を成し遂げる力を神様から頂き、今週も歩みましょう。お祈りします。
私たちの教会では「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。この活動は多くのボランティアさんに支えられています。先日から9歳(小3)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。こどもがボランティアに加わったことで良い影響があります。他のボランティアさんは自分の作業以外に気を配るようになりました。すごいねと、他者をほめながら作業する様になりました。利用者もこどもが料理を運んでいるのなら、しっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て自分で食器を下げるようになりました。これが本当の「平和」です。
神様はこのように、一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。今日の聖書の個所にもこどもが登場します。ロバのこどもです
当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力、軍事力の象徴です。馬に乗ることこそ、王様にふさわしい姿でした。しかしイエス様は子ロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。でもイエス様はロバを選び、ロバに乗ることを決めたのです。ここには神様の選びが示されています。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力のものを選ぶのです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方なのです。
神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバはもっと強く、馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。
民衆の視線はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしているロバ。人々にはきっと私にも何かできるはずだと思ったでしょう。人々に大きな変化があったはずです。
私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。
私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。「ホサナ、ホサナ」私たちにもそんな応援の声が聞こえるはずです。お祈りします。
マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 ヨハネによる福音書12章3節
珠洲市には原発計画がありました。もし原発があったら深刻な原子力災害になっていたはずです。原発の恐ろしさを改めて感じています。珠洲市の原発の反対運動の中心的存在だったのは、地元のお坊さんでした。原発反対は宗教者の役割でした。
原発を建てるために電力会社は住民に猛烈な接待をします。「カネ」の力で賛成させるのです。そんな中、ある一人のお坊さんが「危険な原発と命は共存できない」と道路に座り込み、お念仏を唱えながら原発反対を訴えました。今このお坊さんは住民から、原発に反対して私たちを救ってくれたと大変感謝されているそうです。
「あまりに危険な原発と命は共存できない」それが多くの宗教者の共通した訴えです。今だけ、カネだけ、自分だけを考えるなら原発がよいのでしょう。しかし、宗教者は何よりも命の大切さを判断基準にします。だから危険な原発に反対をしてます。今日はカネより大切なものがあることを聖書からみていきたいと思います。
マリアはたくさんの香油をイエス様の頭に注ぎました。おそらく彼女は日々の稼ぎから少しずつ香油を貯めていました。仕事でつらいことがあっても、悲しいことがあっても耐え、少しずつ貯めました。それはまさに彼女の汗と涙の結晶、不屈の精神の塊でした。しかし彼女がこれだけ苦労して稼いだお金を、このように使わせるものは何だったのでしょうか?何が彼女をつき動かしたのでしょうか。
彼女を突き動かしたのはイエス様の行動と言葉です。イエス様は罪人とされた人、汚れているとされた人と連帯しました。イエス様は小さくされた命、隅に追いやられた命に目を向けました。マリアはこのイエス様の命への向かい合い方に深く共感をしました。自分のように隅に追いやられ、それでも一生懸命生き、働く、そのような人々に目を向けるイエス様に深く共感をしたのです。その命へのまなざしを持つ方に、私のあの香油をすべて注ぎたいと強く思ったのです。
私たちの世界では相変わらずカネや費用対効果が基準とされ、原発が作られようとしています。この物語はそのようなカネ中心の社会に、生き方に抵抗する物語です。イエス様の命へ向き合う姿勢に強く共感し、行動を起こした人の物語です。イエス様は私たちにもこのような命への向き合い方を求めておられるのでしょう。
私たちは何に価値を見出し、何を守るでしょうか。私たちにはカネや効率よりも大切なものがあります。何よりも大切なのは命です。イエス様は命の大切さ、平等さを教えています。私たちはその命へのまなざしを何よりも大事にしたいのです。世界には命と共存できないものがあります。特に戦争や差別、不正なカネ、原発は、命と共存することができません。私たちは主イエスの教えに従い、命を守る働きをしてゆきましょう。たとえ小さくても効率が悪くても、無駄のように思われても、命が守られる手立てを選んでゆきましょう。お祈りします。
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
ヨハネによる福音書6章66節
最近の平塚バプテスト教会の礼拝出席人数は増加傾向にあります。私たちの活動や信仰が少しでも理解、共感、支持、応援されることはうれしいことです。ただし私たちの教会の目標は、人数を増やすことではありません。私たちがここに集うのは互いを愛し合うため、互いに仲良く生きていくためにここに集っています。その結果として人が増えるだけです。人数を目標とし始めると、愛し合うことよりも、人数を集めることが先だってしまいます。今日は聖書から、共同体に多くの人が集まった時のこと、そこで愛を貫いたイエス様の姿を見てゆきたいと思います。
今日の個所は奇跡のパン・主の晩餐を受けて、弟子たちが増えて拡がった後の話です。イエス様自身が、弟子の拡大に派手に失敗をしている様子が書かれています。弟子たちの拡大の先には、大きな分裂がありました。イエス様でも人数が増えるとうまくいかないことがあったのです。
イエス様はそれを悲しんだでしょう。しかしイエス様は去っていく人たちを追いかけませんでした。引き留めるための新しい説得も、自分の方針をもっと人々に受け入れられやすいものとする変更もしませんでした。イエス様はただ淡々と町を巡ります。そしてこれまでどおり、互いに愛し合うこと、大切にしあう事、仲良くすることをまた言葉と行動で教えました。イエス様にとって誰かが自分を離れようと、誰かが自分を無視しようと、誰かが自分を殺そうとも、関係ありませんでした。ただ自分が神様に従うかどうか、自分が愛するかどうかだけが重要なことだったのです。イエス様はその後も活動を続け、人々の反発を招き、殺されてしまいます。殺されないためには方針転換が必要でした。しかしイエス様は方針転換をしないのです。ただ神様に従うということ、他者を愛することを貫きました。
私たちの生活に目を向けます。私たちは神様・イエス様ではありません。ですから他人の意見をよく聞くことは大事です。しかし一方で私たちは他者の態度に振り回されてしまうことばかりです。他者の態度や行動に傷ついたり、落ち込んだりすることばかりです。きっとイエス様もそうだったのでしょう。私たちは他者との関係において一喜一憂することがあります。私たちにはうまく関係が作れた時、うまく関係が作れなかった時があります。でもその時も私たちはイエス様のように愛し続けましょう。イエス様のように相手を大切にし続けましょう。
私たちの日常には離別、裏切り、関係の破綻があります。でもその中で、私は神様の愛をどう生きてゆくかが問われます。そこで問われているのは相手の愛ではなく私の愛です。私がどう生きるか、私が神様の愛をどう生きるかが問われています。私たちの1週間もこのことを覚えて生きましょう。この後主の晩餐を持ち、パンを食べます。私たちは食べた後、どう生きるかが問われます。これは神の愛を受けて生きる象徴です。このパンを食べ、どんな時も他者を愛しましょう。祈ります。
ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。 出エジプト記15章21節
ジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えます。戦後、日本バプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。しかし日本のバプテストは2000年にアメリカ南部バプテストが「女性は牧師になってはいけない」と明言したことから距離を置くようになりました。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。一方、日本のバプテスト連盟でも大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象が起きています。根底にある私たちの考えが問われています。
私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見と差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。
今日の聖書箇所のミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。ユダヤの人々は奴隷とされたエジプトを脱出しました。しかし目の前には海があり、後ろにはエジプトの追手がいます。そんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。
この様子は15章で2つの歌として記録されています。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続きます。それは危機から脱した時の喜びの祈りです。神様のすばらしさを表現するために踊りました。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。ミリアムはそれを導く女性指導者でした。
ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。
私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。
助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
出エジプト記1章17節
教会には女性会というグループがあります。性の多様さから考えると性別でグループを作ることには課題があります。一方で女性だけが集まるのことに様々な良い面があります。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあります。また男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは意義のあることです。そのようなグループは社会や教会で中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆく視点があります。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切です。今日と来週は聖書の中の女性を見たいと思います。
ファラオはヘブライ人の人口を増やさないために、二人の助産師(シフラとプア)を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。しかし人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いはずです。ファラオが女性を殺さないのは、女の奴隷は高く売れたからです。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いからです。だからファラオは生まれた男だけ殺せと命令をしました。
助産師の女性たちは神様を畏れていました。さらに二人は実体験から命は神様から授かったものであると知り、男性であるファラオの命令に従いませんでした。彼女たちは社会の中心から追われる命に対して、特別なまなざしを持ち、その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信したのです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは小さな命を守るための非暴力の戦いです。
2章1節からはもう一つの物語です。ある女性が男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまうので、赤ん坊をカゴに入れて川に流しました。そしてその命を受け取ったのも女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育て、やがて彼は解放のリーダーに成長します。このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。
女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。男たちが支配する世界で彼女たちは考えました。どのようにしたら平和に生きることができるだろうか?どうしたらこどもたちを守ることができるだろうか?と考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。
私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。男も女もどの性も、その小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。私たちの教会でも同じです。性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。お祈りします。
よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。 出エジプト記16章29節
明日から休息に感謝します。社会では休息をとることについて大きく意識が変わってきています。残業時間の上限が設定され、仕事と生活のバランスが重視されるようになりました。社会はがむしゃらな労働と、それによる成長・安価な商品を求めるのをやめたのです。社会は充実した安息の重要性を理解したとも言えるでしょう。このお休みを神様が準備して下さった安息だと受け止め、感謝し、また次の働きに向けて備えたいと思っています。
今日はマナの個所です。人々は過酷な労働からの自由と安息のために、エジプトを脱出しました。しかし食料の確保が困難でした。彼らは目の前の困難を、過去を理想化することで乗り越えようとしました。そこに神様の言葉が響きます。
神様はすべての人にパンを降らすと提案しました。あなたたちはそれを食べ、命をつなぐようにと提案をしたのです。そしてそれは毎日ちょっとずつ集めればよいという提案でした。大きな倉は必要ないのです。無理にたくさん集める必要はないのです。反対にこのマナを無理に集めることこそ、過重労働、働きすぎです。とにかくたくさん集める、たくさんあればあるほど幸せになれるから、1gでも多く集めるためにがむしゃらに休まずに働く、そのような労働は必要ないのです。
また自分が食べきれない分までマナを集める人がいました。それは富の独占と蓄積を連想させます。その富には虫が湧き、腐り、悪臭がします。神様は過度な富の蓄積を嫌ったお方でした。神様は、人間が働きすぎることなく、蓄えすぎることなく生きることを求めているのです。
そして神様は安息の日も用意してくださるお方です。日々日々働きすぎるだけではなく、1日まるごと休む日も与えて下さったのです。神様はこのように働きすぎを禁止しました。今日は何をしてもうまくいかない日、だから休みなさいと言って安息の日を定めたのです。20節は「ちゃんと休みなさい!」という意味です。30節「民はこうして、七日目に休んだ」とあります。
神様は何と恵み深い方でしょうか。不満に、怒りで返すのではなく、マナという食べ物で応えてくださるお方です。そして神様はなんとおせっかいなお方でしょうか。私たちに「ちゃんと休みなさい」と厳しく教えてくださるお方です。働いても何も成果のない安息日を与えてくれるお方です。神様はそのように私たちを大切に思い、生きる糧を与え、強制的な安息を与えてくださるお方です。
みなさんの忙しい1週間の中でふさわしい休息が与えられる様にお祈りしています。私達にはすべきことがたくさんありますが、焦らずに、安息をしながら歩みましょう。これから主の晩餐の時を持ちます。このマナをいただき、神様が与えてくれる恵み、神様が与えて下さる安息を覚えましょう。お祈りします。
道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」使徒言行録8章36節
今月は聖書と性・セクシャリティーについて考えています。今日は宦官について考えます。宦官とは、睾丸や陰茎を切除した男性です。旧約聖書は宦官は「主の会衆に加わることはできない」つまりユダヤ教に入信することができないとしています(申命記23章2節)。どんなに信仰があってもユダヤ人になれず、神殿に入ることは許されなかったのです。旧約聖書を見ると宦官が好意的に描かれている場面が多くあるものの、やはり軽蔑すべき存在だったのです。
今日の聖書箇所は、エチオピアからエルサレムに来た宦官の物語です。宦官は聖書に興味があり、聖書の神を求めました。しかし彼は排除されるべき存在でした。体の一部が無い、完全な男ではないから、神殿には入ることができないと排除されたのです。その時、彼の信仰や内面は一切関係ありませんでした。彼の外形的な性が判断基準とされ、神殿から排除されたのです。彼の信仰は打ち砕かれたでしょう。失意の帰り道、神様はフィリポを遣わしました。神様は排除された性的少数者との出会いを導いたのです。そして宦官はバプテスマへと導かれてゆきます。
宦官は「バプテスマに何か妨げがあるますか」と確認します。これまで彼は性的少数者として、社会から、神殿から徹底的に排除されてきました。それはこんな私でも洗礼を受けることができるのですか?クリスチャンになることができるのですか?キリスト教では、私もその仲間に加わることが出来るのですか?という問いです。フィリポは速やかにバプテスマを実行し、それに応えています。フィリポは性的少数者を排除しなかったのです。宦官は喜びあふれたとあります。キリスト者が差別せずに受け止めてくれたという喜びです。宦官は何の妨げも無くキリスト者として受け入れられることを通じて、神様を知りました。神様はこの私を受け入れ、守ってくださるのだと知ったのです。
現代の教会、社会とも重ねて考えてみましょう。多くの性的少数者が、その性を否定されています。性的少数者の人々は、それは罪だと言われ、教会から排除され、追われるように逃げ、失意の中で帰り道を歩いていました。しかし今日の個所によれば、性の在り方は入信・バプテスマの条件に一切なっていません。教会はそのようにすべての性を受け止めてゆくことができるのです。すべての性を罪としないことができるのです。それが今日この物語が伝えている福音です。
この宦官は異邦人の中で最初に洗礼・バプテスマを受けた人となりました。性的少数者である彼から、世界中にキリスト教会が広まっていったのです。私は性的少数者の方がそのままの性を生きることを、神様は何も妨げないと思います。神様はそのような人を用いて福音を拡げるのだと思います。私はこの教会が性的少数者の方が来ることに何の妨げもない教会になるように願っています。そのようにしてすべての人を歓迎する教会になりたいと思っています。お祈りします。
みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
Iコリント6章9~10節
今月は性と聖書に考えています。最近テレビでは芸能界の性暴力について報道がされています。性暴力は魂の殺人と呼ばれます。教会はこれらの問題を魂の問題として関わるべきでしょう。教会が性の問題に沈黙するのは良くないと思います。
性の問題について、キリスト教には様々な立場があります。特に同性愛については意見が大きく割れています。私の理解では聖書全体に同性愛という言葉は一切登場しません。同性愛という言葉は19世紀に生まれた言葉だからです。しかし偏見を持って聖書が読まれた結果、同性愛への差別が生まれました。
今日の聖書の個所には男色するという言葉があります。やはり聖書は同性愛を禁止しているように思えます。もっと深く考えましょう。男色するという言葉は元のギリシャ語で「アルセノコイタイ」という言葉です。この言葉は語源から考えると、男が男に対して横たわるという意味で、同性間の性行為を指す言葉と推測されます。しかし文脈からその意味を推測すると経済的搾取の意味があります。おそらくこの「アルセノコイタイ」は同性間の性行為と経済的不正を掛け合わせた言葉で、お金や地位にものを言わせて、相手の性の尊厳を奪うことを意味していると思われます。
社会背景からも考えます。2000年前のローマでは年長の男性によって身分の低い少年や、奴隷の少年に対して性搾取が行われていました。少年たちには愛も自由な選択もありません。地位のある者が、少年の性を搾取していたのです。それは愛、同性愛とは全く違います。
しかし19世紀に同性愛という言葉が生まれました。本来、性的搾取を意味した「アルセノコイタイ」は、同性愛のことだと誤解されました。そして同性愛が悪、罪とされるようになり、同性愛者は神の国を受け継ぐことができないと解釈されるようになりました。しかし本来、この個所は同性が愛し合うことを禁止しているのではなく、性の尊厳を奪うことを禁止しているはずです。
私たちの社会を見渡します。世界では魂が殺される、魂が踏みにじられる事件が繰り返されています。私は聖書が性暴力・性搾取をはっきりと否定しているものとして、それに反対してゆきたいと思います。そしてそれと混同されるかのように、同性愛に対する偏見もまだ続いています。特にそれはキリスト教の中で続いています。偏見をもって、同性愛と性搾取が混同されることにも反対をしたいと思っています。
10節、神の国を受け継ぐ者とはどんな人かを想像します。それは互いの性を奪い、否定するのではなく、互い性の在り方を尊重できる人ではないでしょうか。そのような人が神の国を受け継いでゆくのではないでしょうか?教会は魂の問題として性に目を向けてゆく必要があるのではないでしょか?互いの性を尊重できる教会になりたいと思います。祈ります。
あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。創世記19章12節
今月はセクシャルマイノリティー(性的少数者)をテーマに宣教をします。セクシャルマイノリティー(性的少数者)とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーなど、性の在り方が少数派である人のことを指す言葉です。3年前にも同じテーマで宣教をしました。YouTubeには批判のコメントが多くありました。きっと当事者の方たちはずっとこのような批判の中で、生きてきたのだということを思い知りました。このテーマは触れない方が無難です。でもそのように見過ごされている人がいるからこそ、そこに目を注ぎたいと思っています。またあくまでこれは私の聖書の理解です。この教会やバプテスト連盟の統一見解ではありません。
今日は創世記19章1~11節です。神様の遣いが二人、ソドムという町に来ました。ロトという人は旅人をもてなそうとします。しかしソドムの町の男たちが戸口に現れ、男性である旅人に性的暴力を加えようとします。ロトは自分の娘を差し出すという最悪の方法で対処します。二人の神の遣いはロトたちに逃げるように言いました。実はこの神の遣いこの罪深いソドムの町を滅ぼすために来ていたのです。
キリスト教ではこの物語を伝統的に、同性愛を断罪する話として解釈してきました。同性間の性交を英語で「ソドミー」「ソドミズム」と呼ぶことがあります。ソドムの罪とはまさしく同性愛の罪で、同性愛の罪によって、神はソドムを町ごと滅ぼすのだ。それほどに同性愛は罪深いことで、死に値する罪である。聖書の罪の中でもっとも重い罪であると解釈されてきました。そして多く性的少数者はもはや教会に居ることができず、追われるように教会から去って行かなければなりませんでした。
しかしもう一度この聖書の個所を読んでみて、この個所は同性愛とどのような関係があるのかよくわかりません。ここで起きている出来事は、同性愛とは全く違う、明らかな性暴力です。同性愛と性暴力はまったく違います。ここで問題になっているのは性暴力です。長くソドムは同性愛の罪で滅ぼされたと解釈をされてきましたが、この個所から同性愛は罪だと解釈するのは不可能です。むしろ解釈されるべきことは社会にあふれる性暴力、セクハラ、性的搾取をどれだけ神が憤りをもって見ているかということです。
このように同性愛は罪だ。そう解釈されてきた箇所でも、もう一度読み直してみると、決してそのような意味で語られていないことが分かります。聖書が本当にやめるべきと指し示しているのは、同性愛ではなく、性の尊厳を奪う事、性暴力です。聖書はここでも弱い立場の人に目を注ぎなさいと語っているのです。この個所からは特に少数派の人たちの性を守りなさいと聞こえてきます。
私たちが本当に目を注ぐことは、性の尊厳が守られているかどうかです。私たちの社会が互いの性の尊厳を守ることができるように祈ります。そして何より教会が今までのことを悔い改め、互いの性を尊重できる場所となることを祈ります。
