「その配慮が神」マタイ6章1~4節

施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

マタイ6章3節

 

こども食堂から見えてくる福音について考えています。ボランティアの方への趣旨説明では、私たちの食堂は貧しい人が集まっているという雰囲気にしたくないと説明をしています。誰でも貧しい人の集まる場所に行くということは自分の尊厳が打ち砕かれるような気がするものです。それは「私はそんな場所には絶対に行きたくない」という気持ちにさせ、かえって食事を必要としている人に届きません。だから食堂を貧しい人専用にしないことを大事にします。明るく、楽しく、誰でも利用できる雰囲気だからこそ、困っている人が利用できるのです。

そのようにして教会はみんなの心の穴、お財布の穴を埋めています。利用者自身は何を埋められているのか気付かないかもしれません。でもそれでいいのです。この考え方は聖書の教えとも重なると思っています。今日は、イエス様が困っている人と出会う時、どうすればよいかを教えている箇所を読みます。

イエス様の時代にも、多くの生活困窮者がいました。ユダヤの人々には助け合いの知恵がありました。今日イエス様は助け合いにおいて一番してはいけないことと知恵を教えています。イエス様は貧しい人に対して、人前で支援を行う事を禁止しました。それは貧しい人を利用した、自己顕示であり、お金で周囲から良い評価を買おうとする、偽善の行為です。

今日はもう一歩踏み込んで、こども食堂の経験から、貧しい人の立場、善行を施される側の立場に立って読みたいと思います。この個所でイエス様は手助けをする際は他の人に悟られることなく、手助けをするようにと言っているのです。イエス様の教えには手助けをする前提に、相手の尊厳に対する配慮があります。この話はただ、自己満足な支援をするなという教えにとどまっていません。イエス様は相手の尊厳への配慮があって、初めて手助けにつながるのではないかということを、ここで投げかけています。それは誰かに手助けをするときは、相手への配慮と相手の尊厳を何よりも大切にすべきであるという教えです。

この教えを私たちの内面にもっと広げて考えてみましょう。神様は私たちに何か良い物を下さる時、人々の目の前で、私たちに渡すようなお方ではありません。神様は良い物を下さる時、密かにそれを下さるのです。神様は右手が左手のすることを知らないように、私たちにはひそかに良い物を下さるお方です。私たちが誰にも知られたくない心の中に、神様はそっと贈り物を下さるお方なのです。

本当に良い物は、私たちの心の誰にも知られたくない場所に、そっと神様から与えられてゆくのです。それが神様の配慮です。神様は、私たち一人ひとりの心にそっと寄り添い、密かな恵みを授けてくださいます。その配慮に倣い、私たちもまた、誰かの心にそっと寄り添う活動を続けたいと願っています。こひつじ食堂も神様の配慮を地上で実現する活動をとして続いてゆくことを願っています。お祈りします。