「大切なパン・無料」ヨハネによる福音書6章5~15節

さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。ヨハネ6章11節

 

私たちは毎月第一日曜日に主の晩餐という、パンとブドウジュースを飲む儀式を持っています。みなさんも価値が分からなくても、まずは体験してみてください。

私は先日、パン作りを体験しました。小麦粉を素早く、力を入れて、20分間こね続ける重労働でした。その分、パンが焼きあった時、それは私にとっては他のパンとは大きく違う、ひときわ思い入れのあるパンとなりました。

焼きあがった時、ある人が言いました。「このパンを隣にいる別のグループに分けてはどうか?」。私は「苦労して作ったパンなのだから、その苦労や意味を理解している人に食べて欲しい」と思いました。でもその時、イエスはパンを、価値が分かる人とだけ分かち合っただろうか?と思いました。今日はみなさんと、イエスがパンを分かち合う物語から、愛とは何かを一緒に考えたいと思います。

ある時、イエスに従う5000人以上の人がお腹を空かしていました。そして一人のこどもが自分の持っている2匹の魚と5つのパンを差し出しました。大人たちは思わず「何の役にも立ちません」と言ってしまいました。

一方、イエスはパンと魚を取って、感謝の祈りを献げました。イエスだけがその役に立たないものに価値を見出し、感謝しました。イエスだけがその価値を知っていました。そしてイエスはその価値をさらに大きく変えようとしています。そして不思議なことが起こりました。パンと魚が増えて人々に行き渡ったのです。

弟子たちは、このパンの意味やイエスの苦労がわかる人、感謝して受け取る人にだけ配ったのではありませんでした。弟子は大切さが分かろうが、分からなかろうが、とにかくそこにいる、あまねく全員に配ったのです。性別や年齢、宗教も思想も問わない。とにかく全員と分かち合ったのです。

そしてもう一つの驚きがあります。なんと民衆はそれを残してしまったのです。ちょっともったいないと感じませんか?この民衆はこのパンの価値が分かっていなかったのででしょうか?でもイエスはこのような人々とパンを分かち合った人でした。イエスは自分の力を、その価値を全く理解できない人々のために、有り余るほど使った人だったのです。

さて、この物語は私たちの生き方にどう関係するでしょうか?私たちの明日とどんな関係があるでしょうか?私たちは誰とでも惜しみなく分かち合うことができるでしょうか?誰かに無償で愛を注げるでしょうか?価値を理解せず、感謝もせず、むしろ余らせてしまうような他者に、私たちは自分の大切な力を使うことができるでしょうか?イエスの愛は無償で無条件です。このパンも、無償・無条件です。そのパンをみんなで分かち合いましょう。イエスはあなたが明日、愛に生きることを期待しています。あなたはそれを差し出すことができますか?私たちはまず、このパンを頂きましょう。お祈りします。