だから、あなたがたも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。マタイ24章36~44節
今年も毎日のように「いつまでに」という何かの日付に追われた一年でした。一方、こどもの誕生の日付は人間の手で決めることができません。私たちにはその奇跡を静かに、祈って待ちます。私たちのクリスマスには、日付がついています。でも違う希望もあります。それは日付の無い希望です。いつだかわからないけど、必ず起こるという約束のある希望が私たちを前に進ませてゆくのです。そしてその希望にはきっともうすでに始まっている部分があるのではないでしょうか。
当時のユダヤの人々は救い主の誕生を何百年も待っていました。同じクリスマスを待つということでも、日付を知っている私たちと違い、当時の人はまるで泥棒のように、あるいは突然帰って来る主人のように、いつ起こるのかわからないものだったのです。いつ来るかわからないものを待つというのは、どれだけたいくつで、どれだけ長く感じたでしょうか。日付の無い約束は、口先だけの約束に感じるかもしれません。苦しい時、せめてそれがいつ終わるのか、その日付さえ分かれば、先が見えさえすれば、それまで我慢することができるものです。日付こそ希望のように思います。それでも人々はいつ起こるかわからないことを、希望にしていました。
そしてそれは何百年も続く、息の長い希望となりました。救い主の誕生をずっと待ち続けることが、彼らの信仰だったのです。息の長い希望を持つことの大切さを思います。何月何日という日付はないけれども、でも確実に訪れる希望を信じます。息の長い希望を持った人は日々の歩みの根底に希望を持つ者となります。毎日が一日一日が神様の希望に近づいてゆく、感謝の一日になるのです。私たちはこの先に神様が私たちに約束している希望があることを信じ、待ちましょう。
弟子たちもまた救い主を待っていました。しかしずっと待ち続けていた人はすでに目の前にいたのです。いつか必ず来ると何百年も待っていた希望は、実はすでに自分たちの目の前にあったのです。私たちはこのような希望のあり方にも心にとめておきましょう。すでに私たちには神様の希望が実現し始めているのです。もう実現しかかっている小さな希望が私たちの日々の中にも見いだせるでしょう
この個所から待つということについても考えます。イエス様は希望を寝て待てと言っているのではありません。イエス様はその希望を祈って待ちなさいと教えられているのです。私たちは祈って、希望がくることを待ちたいのです。そのようにして目を覚ましていたいのです。
私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。これはイエス様が私たちに来るという約束を思い出すために、すでに来ているということを知るために行われます。その約束を忘れないために行われます。希望がやがて来ること、希望がすでに来ていることを覚えてこのパンを食べましょう。そして新しい希望の約束を信じ続けてゆきましょう。お祈りします。