また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マルコによる福音書13章13節
みなさんには心のどこかに“痛み”があるでしょうか?私たち人間の人生には深い悲しみや不安があります。苦しみの多い人生の中で私たちは“望み”を持って生きることができるのでしょうか?今日は聖書から生きる希望について考えます。
当時エルサレムには荘厳な神殿がありました。神殿は金色に輝くユダヤの人々の誇りでした。信仰の中心であり、繁栄の象徴でもありました。一方、神殿は人々から集めた税金でできていました。その輝きは多くの人の汗と涙の上に成り立っていました。人々の間には複雑な思いがあったはずです。神殿はすべての信仰とすべての感情が複雑に凝縮された場所でした。
エルサレムの人々が何よりも心を痛めること、それは自分たちのすべてを象徴する神殿が崩壊することでした。西暦70年に神殿が崩れ落ちた時、人々は自分の心の柱までもが折れたように感じたでしょう。マルコ福音書は神殿が崩壊した直後に書かれました。心の支えを失った深い悲しみの中にある人に語りかけています。
聖書は言っています。ありとあらゆる苦難があなたを襲うだろう。しかし聖書は苦しみだけではなく、望みも語っています。苦難が起こるずっと前、イエスが語っていた言葉があります。それが13節「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」という言葉です。イエスは苦しみの先に、救いが待っていると伝えようとしています。
当時、神殿崩壊を目のあたりにして失望していた人々は、イエスの言葉を信じることができたでしょうか?
深い悲しみを意味する神殿崩壊について考えます。私たちにとっての“神殿”とは何でしょうか?心の中にある大きなもの、心の拠り所となる場所、大切に思っていた人、住んでいる家、職業、信頼していた人との関係、健康、お金。それらが崩れる時、それらを失う時、それは私たちにとっての神殿崩壊かもしれません。そのとき、私たちはどうやって立ち上がるのことができるのでしょうか。
私たちは何に頼って歩いていくのでしょう。悲しみの中にあるとき、私たちは神様がこの先に希望を準備していると信じ続けることができるでしょうか。信じられなくてもいい。ただ信じたいと思えるでしょうか?あなたはつらい出来事が起こる日々、その中で神様が希望を備えて待っていることを信じることができますか?その希望まで耐えることができますか?
一人で待つのは大変かもしれません。私たちは共に希望をもちましょう。あなたひとりで耐えるのではない。私たちは共に信じ、待ちましょう。苦難の中で、共にこの先に希望があると、信じましょう。言葉にならないその思いを、神様にならオープンにできますか?神様にその思いを差し出すとしたら、どんな祈りになるでしょうか?ぜひそれぞれがみ言葉から感じたことを、神様に伝えてみてください。お祈りします。
