最近、誰かの言葉に痛みを感じたり、誰かを傷つけてしまったりしたことはありますか?みなさんは周りの人にどんな言葉をかけ、かけられているでしょうか?
ユダヤの人々は歴史上、様々な外国勢力から侵略をされました。食物規定は自分たちの宗教や文化のアイデンティティーとして重要なものでした。一方で食物規定を守らない人は汚れた人、罪人と呼ばれ、分断が生まれていました。
イエスはその境界線を越え、律法を守らない、汚れているとされた人、罪人と呼ばれた人と共に食事をしました。そして15節で言います「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」と。この言葉は、汚れていると言われ続けた人々にとって、勇気を与える言葉、強く励ます言葉でした。イエスはこのように、分断ではなく共に生きることを目指したお方でした。
イエスは続けて、他の人間を汚すのは、人間の内側から出てくるものだと言います。私の心に浮かんだのは、街頭で聞く外国人排斥の言葉です。「外国人は出ていけ」という言葉は、人々の心を蝕んでいます。私たちの心からは、あんなに汚れた言葉が出て来るのです。そしてその言葉は相手も蝕み、他の人の心も汚すのです。心無い言葉を語ってしまうのは、豚肉を食べているせいではありません。それは私たちの心・私たちの内側に問題があるからです。
私たちにとっての清い言葉とは、どんな言葉でしょうか?それはイエスのように、誰かをそっと包む言葉です。傷ついている人を受け止める言葉です。仲間外れにされている人、居場所を求めている人を受け止める言葉です。相手をそっと励ます言葉です。相手の良さを引き出すような、勇気を与える言葉です。相手の中にある光を見つける言葉です。それを清い言葉と呼ぶのでしょう。イエスの「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」という言葉、これはまさに清い言葉でした。追いやられた人を励ます、愛の言葉でした。
私たちは互いに励まし合う人でありたいのです。神の子であるイエスが私たちに伝えたこと、それは互いを認め合うような、そして励まし合うようなの言葉を語り合う事だったのではないでしょうか?私たちは互いに聞き合い、祈りあい、励まし合う1週間を送ってゆきましょう。
私たちはこれから主の晩餐を行います。清い人だけがこのパンを食べるのではありません。このパンを食べると清くなるわけでもありません。これはイエスが汚れていると言われていた人々を、受け止め、励まし、愛を語ったことを思い出すために食べるパンです。私たちはこのパンを食べて、イエスの温かい抱擁と、励まし、愛を受け取りましょう。そして私たちもイエスのように、他者を励ます者として生きてゆくことができるように願いながらパンを食べましょう。このパンを食べて、互いを愛し、互いを励まし合いましょう。
