【全文】「世界の先にいる神」マルコ14章27~31節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの声を聴きながら礼拝をしましょう。今月は世界・環境ということテーマに聖書を読んでゆきたいと思っています。先週は世界と共に、主の晩餐を持つことを見てきました。今週も世界に目を向けて聖書を読んでゆきましょう。

今の世界に目を向けると何が見えてくるでしょうか?私には世界が相変わらず戦争を繰り返しているのが見えてきます。第二次世界大戦で平和の尊さを知ったのはずの世界は、今もまた再び戦争を繰り返しています。さらに、核兵器の恐ろしさを知っている世界が、再びそれを使おうとしています。人類は広島・長崎に続き三度目の過ちを繰り返そうとしています。

私たち人類は平和をどこまで貫くことができるのでしょうか。私たちはいつまで核兵器を使わずにいることができるでしょうか。きっと人間はいつかそれを使ってしまうのでしょうか。戦争をすること、それこそがまさしく「私はイエスなど知らない」と言い表すことだと思います。私には繰り返される戦争が「私はイエスなど知らない」と告白しているよう思えます。広島・長崎のきのこ雲の写真は、私には「私はイエスなど知らない」と言っているように聞こえるのです。ロシアとウクライナが戦っているのを見て「私はイエスなど知らない」と言っているのが聞こえます。

これから先、世界はどうなってゆくのでしょうか。戦争への不安や経済的な不安がますます強くなってきています。先の見通せない世界になってきています。世界はこれからさらに「私はイエスなど知らない」「神などいない」そんな世界になってゆくのでしょうか。

私たちはこの世界で一体何に、どこに希望を持てばよいのでしょうか。こんな世界で希望をいただくためにこそ、今日も聖書を読みましょう。私たちは「イエスなど知らない」と言う者ではなく。イエス様を知る者となってゆきましょう。そこからきっと希望が見えてくる、私たちはそう信じて集っています。こんな世界でも私たちに必ず希望を与えてくださるのがイエス様です。今日も一緒に聖書を読みましょう。

 

 

今日はマルコ14章27節~31節までを読みしました。27節には「つまずく」という言葉があります。つまずくとは、人生につまずく、教会につまずく、人につまずくといった様に使われます。小さな出来事に対して、全体が倒れてしまう、倒れそうになってしまうことを「つまずく」と言います。

しかし、この言葉、もともとはおっとっとと足がもつれる程度の意味ではないようです。聖書の言葉、ギリシャ語では動物の罠を仕掛ける際に使う棒から生まれた言葉です。それは罠にかかる、生死にかかわる危機が訪れることを意味します。つまずくどころではありません。絶望する、挫折するという意味です。人生を左右する、生死を左右する大きな失敗があなたに訪れるという意味です。イエス様はその危機が自分に従う最中に起ると予告をしました。あなた方には、信仰の危機が訪れるだろう、失敗し、絶望するだろう。羊が散っていくように、あなたがたはバラバラになってしまうだろうと言ったのです。

するとペテロは言います。29節「たとえ、みんながつまずいたとしても、わたしはつまずきません」。それに対してイエス様はまた言います。30節「あなたは今日、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。あなたは繰り返し失敗するだろうと言うのです。イエス様は人の弱さ、人の決心の弱さを知っておられます。ペテロはそれでも31節でこう答えます。「死んでも、あなたを知らないなどとは決して申しません」。そして周りの皆も言ったとあります「決して知らないなどとは言わない」と。

ペテロの反応を見てみると「私は大丈夫、私は強い」と言っています。たとえ他の人がだめでも、私は大丈夫だと言っています。ペテロは周囲の弱さに引き合いに出して、自分の強さを強調しようとします。私は大丈夫、私は他とは違います、私はちゃんとした信仰を持っていますと、区別をしたのです。そしてたとえ死の恐怖が迫っても私は大丈夫だと言います。死も怖くないと言うのです。

このような信仰は一番危険な信仰と言わなければならないでしょう。自分は大丈夫、そして私は他の人と比べて信仰が強い、ちゃんとした信仰を持っている、どんな危機にも打ち勝つことができる、そのような信仰はとても危険です。本当の信仰の強さは、弱さの中にあります。私の信仰は強いと思うことが、つまずき、危機を招きます。イエス様は自分の強さを主張するペテロに「お前が一番弱い」「これから3回私を知らないと言う」と言います。

聖書はいつもペテロを弟子の代表として描きます。人間の代表として描きます。ペテロを人間全体として見る時、どんなことが見えてくるでしょうか。ペテロは危機が訪れた時、三度「イエスなど知らない」と言いました。呪いの言葉さえ口にしながら言いました。自分の身に危険が迫ると、いとも簡単にその言葉を翻してしまったのです。

人間の決心は、このように弱く、もろいものです。決してそうしたいと思っているわけではなくても、裏切ってしまうのです。そんなこと誰も願っていないことだとわかっていても、人間はそれを選んでしまうのです。自分を守るためには仕方なかったと言いながら、それを選んでしまうのです。

イエス様は人間の弱さをよくご存じです。今は決心が固くても、危機が訪れる時、裏切ってしまう、逃げ出してしまう人間の弱さをよくご存じです。私たちも自分たちの弱さ、人間の弱さ、この世界の弱さをよく知る者となりましょう。

そして、こんな私たちには、こんな私たちの世界には、どこに希望があるでしょうか。私たちはイエス様から希望をいただきましょう。イエス様が私たちに下さる希望は28節「私は復活した後、あなたがたより先に先にガリラヤへ行く」という言葉です。

イエス様あなた方は裏切ってしまうという失敗の予告よりも先に大切なことを伝えました。28節「あなた方より先にガリラヤに行く」ということです。イエス様は人間には失敗と絶望が必ず起こるけれども、その後に必ず立ち上がり、再会をできると約束をしておられます。つらい事がある、不本意なことがある、でもそこで失望することはない、その先に私は待っているとおっしゃっているのです。それが私たちの希望です。イエス様の「ガリラヤに先に行っている」それは、あなたが私を裏切り、すべてに失望した先にもなお、あなたと共にいるという意味です。神は私たちと共にいる神であり、神は私たちの先にいる神なのです。

人間には失敗があります。これ以上の戦争を起こさないと繰り返し誓ってきました。もう繰り返さないというのが私たちの決意です。しかし戦争は繰り返されてきてしまいました。それはまるで「イエスなど知らない」と言っているかのようです。

しかしそのような私たちの先にさえ、イエス様は待っていて下さいます。裏切り、逃げ出した者にも、イエス様との出会いが約束されているのです。そこに希望があるのです。私たちは繰り返し失敗をするかもしれない。したくない。でもその先にもイエス様は待っておられます。私たちは復活のイエス様と出会い、もう一度新たに生きる者となってゆくのです。そして弟子たちだけではなく、イエス様ご自身も苦難を超えたお方です。十字架と死を超えて、復活し、そこで待っているのです。どんな失敗も、絶望も、死も、それで終わりではないことが復活によって示されています。

この個所は希望が二重に示されている箇所と言えるでしょう。弟子にとってもイエス様を裏切ったことが終わりではなく、イエス様と再会できる、待っているという希望があります。そしてイエス様自身も死で終わるのではいという希望があります。イエス様にとっても、弟子にとっても失望で終わらないのです。

いま私たちの世界は戦争が起り、暗い世界です。失敗と絶望が続く世界です。神を裏切り、「イエスなど知らない」と繰り返し表している世界です。でも聖書は言います。これで終わりではない。私たちの行く先には必ず希望がある、復活のイエス様がおられるのです。この世界の先に、神様は待っておられるのです。その方に出会う時、私たちはもう一度、新しい命をいただくことができるのです。今日、その希望をいただきましょう。

世界の中にいる、私たち一人一人の生活、一週間についても、同じことが言えるでしょうか。私たちの1週間も失敗し、「イエスなど知らない」と言ってしまう一週間でしょう。病や痛み、苦難がある1週間でしょう。できればそれは避けたいものです。でもたとえそれができなかった時も、神様はその先に待っておられます。今日私たちも、その約束をいただいています。私たちはそれぞれの一週間で「私はイエス様を知っている」そのような証しとなる歩みをしましょう。そしてまた来週も礼拝に集いましょう。

 

今日までマルコ福音書を1年間読んできましたが、すべての個所で神の愛を読むことができたでしょう。今日で最後となります。でももちろん、この先にも物語は続き、この先にもイエス様がおられます。これからも先を歩まれるイエス様に向かって、共に歩みましょう。お祈りいたします。