【全文】「苦しみを引き受ける神」ルカ23章35~43節

 みなさん、おはようございます。今日も共に集い礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしてゆきましょう。

今月は世界ということをテーマに宣教をしています。私たちの日本バプテスト連盟ではアフリカのルワンダに佐々木和之さんを派遣し、人々の和解を支援しています。ルワンダでは1995年に集団虐殺があり、80万人の人が殺されたといわれます。当時、同じ教会に通い、隣の家に住む人を、違う民族だと言う理由で殺す、そのような虐殺がルワンダ各地で起きました。虐殺によって人々の受けた傷、破壊された生活、憎しみはとても深い問題です。佐々木さんは時間をかけて、その和解のために働いています。現在は大学で平和学も教えていますが、学生たちの中にも多く、虐殺の被害者がいます。虐殺によって家族と生き別れになったまま、遺骨も見つからないという人がいます。多くの人が友人や家族を失い、様々な思いを残したまま学んでいます。今日はある時学生を対象に行われた、平和を教えるためのワークショップをご紹介します。

このワークショップでは学生たちは、家族を失った悲しみ、そのために引き起こされた困窮、加害者への怒りや憎しみを小さな紙に書いてゆきます。学生たちは何とか忘れようとして心にしまい込んではいるものの、癒されることなくずっと心に残っている一つ一つの傷に向き合い、それらを何とか言葉にするのです。それはとてもしんどいものです。そして自分の苦しみ悲しみを書き出した紙は、金槌を使って、釘で十字架に打ち付けてゆきます。祈りと賛美の後、この紙は焼かれて灰とされます。ワークショップでは、このようにして、悲しみや憎しみを主にゆだねてゆきます。これによって、他者を赦し、自分自身を赦し、平和へと導かれてゆくのです。

参加者の一人、エティエンさんを紹介します。彼は当時虐殺から逃れ、難民キャンプにいた学生です。しかしその難民キャンプも襲撃にあい、家族と離散してしまいます。その時まだ7歳だったそうです。彼はその襲撃の日以来、父親に会っていません。彼は、父親がいない苦しみと悲しみについて紙に書き、釘で十字架に打ち付けました。

学生のそれぞれが自分の中にある悲しみや、他者へのわだかまりを正直に、十字架に向けて言葉にしてゆきます。憎しも悲しみもわだかまりもすべて、十字架にぶつけてゆきます。それを通じて初めて他者や自分自身を赦すのです。これは世界の裏側の戦争、虐殺を体験した人の話です。しかし、私たちにも共通する点があるのではないでしょうか。私たちもそれぞれに様々なわだかまりや不満、憎しみ、悲しみがあります。

私たちにも赦しが与えられるためには、その思いを正直に十字架へと差し出してゆくことが必要なのではないでしょうか。憎しみも、悲しみも、後悔も、心配も十字架の前で言葉にし、差し出してゆくこと、主にゆだねてゆくこと、それが和解と赦し、新しい歩みにつながってゆくのではないでしょうか。今日の聖書からもそれを見たいと思います。

 

 

今日はルカによる福音書23章35~43節です。ここの箇所は十字架について、4つの立場が書かれています。ひとつ目の立場は民衆です。民衆は、一度はイエス様にホサナと熱狂しますが、この場面ではどうすることもできず、無言で、黙って、突っ立って見ています。十字架の前に何もできないという立場です。二つ目は指導者の立場です。彼らはあざ笑ったとあります。他者の苦しみを見下し、笑いにする立場です。三つめは兵士の立場です。彼らも、酸い葡萄酒を飲ますという、苦しむ人にさらに追い打ちをかけるような行為をするという立場です。そしてもう一つ、四つ目の立場は犯罪人の立場です。彼ら犯罪人は、イエス様と同じように十字架につけられているという立場です。今日はこの十字架の場面を、犯罪人の視点で読みたいと思います。

39節には犯罪人とありますが、具体的にどのような罪を犯したのかははっきりとしません。他の福音書では強盗とありますが、単なる強盗では十字架刑にまでなりません。十字架刑にまでなるのは奴隷で重大な犯罪を犯した者か、あるいは政治的な反乱者でした。おそらくここで犯罪人とされているのは、政治的な反乱を起こそうとした人だったのではと考えられます。この犯罪人とは政治的理由で十字架に架けられているのです。33節にはその十字架はイエス様の十字架の右と左にあったとあります。イエス様は罪人として二人の犯罪人の間に挟まれています。これは屈辱の様ですが、彼の生涯をよく表しているものだと思います。イエス様の歩みは罪人と言われる人の間にいる歩みだったからです。罪人と食事し、罪人を癒し、罪人を助けました。二つの十字架に挟まれた姿は、イエス様の歩みが最初から最後まで罪人とされる人と共に、苦しむ人と共に歩んだということが表れています。

十字架に架けられた二人は、2種類の罪人だったと言えるでしょう。一人は悔い改める罪人です。自分の人生の最期にあって、自分の非、自分の罪を認め、神の前に赦しを乞いました。彼は私たち信仰者のモデルとされてきたでしょうか。私たちも罪人としてイエス様の前で悔い改めよう、そのようにこの個所を受け取ってきました。一方、同じ十字架にかかりながら、最期までイエス様を侮辱した罪人がいました。彼は悔い改めないかたくなな人間です。最期の最期まで信仰を持たなかった愚かな人間と評価されてきたでしょうか。でもどうでしょうか。私はルワンダでの佐々木さんのワークショップの話を聞くと、この人が悔い改めなかった罪人だったという思いは変えられます。私はこの罪人が痛み、苦しみを十字架のイエス様に正直にぶつけた人として見えてきます。

十字架刑はなるべく長く苦痛を感じさせ、人々にさらされながら死んでゆく死刑の方法でした。苦痛は体だけではなく、心も深い傷を与えたはずです。苦しみ、怒り、悲しみ、憎しみ、十字架に架けられた者には様々な感情が起ったはずです。

十字架に架けられた彼はそんな時、自分の痛み、心の深い傷、魂の傷をイエス様に向けて、隠すことなく、正直に言葉にしました。イエス様の十字架に向けて、自分の思いのたけを叫んだのです。なぜ神がいるのに、救われない人がいるのか。なぜ私は救われないのか。キリストなら自分と私を救ってくれ。そのように叫んだのです。これは不信仰な侮辱の言葉でしょうか。私はルワンダで和解を目指し、苦しみや憎しみわだかまりに向き合い、言葉にし、十字架に差し出してゆく人々を思い出します。彼らはそうすることによって、持っていく場所のない思いを、神様にぶつけ、赦しへと導かれてゆきました。偽りのない、魂の叫びをイエス様にぶつけることができたのです。十字架に架けられた彼が、思いをぶつけた相手は、自分が受けている十字架の苦しみを誰よりも知っている人でした。一緒に苦しむお方でした。彼は自分の気持ちを、誰よりも知っている人に、自分の正直な思いをぶつけることができたのです。周りの人間は、自分が苦しいときに神を呪ってどうすると言います。もともとそれは自分の責任で、しょうがない事だろと言います。まるで自己責任です。イエス様はその苦しみの言葉に対してどうしたでしょうか。イエス様はその言葉を遮りません。イエス様は苦しみの言葉も、悔い改めの言葉もそのまま受け止めているのです。

イエス様は43節「今日、あなたは私と共に楽園にいる」と言います。当然、悔い改めた人に対して、私と一緒に楽園にいると答えたのでしょう。しかし実は、聖書にはこの言葉、誰に答えたのか、相手が明確に書いてありません。聖書にはただ彼に言ったとだけ書いてあります。誰に答えたのでしょうか。文脈からすれば当然、悔い改めた者と楽園にいると答えているように見えます。しかしイエス様を罵り、自分の苦しみを全部ぶつけたあの罪人が「あなたは今日、わたしと共に楽園にいる」と言われた可能性もあります。悔い改めた者が楽園へ、そうでない者は地獄に行ったと考えたくありません。私はどちらもその日イエス様と楽園に行ったのではないかと思いたいのです。イエス様は、十字架に苦しみをぶつけるその言葉も、信仰の告白として受け取ってくださったのではないでしょうか。

イエス様はこのように、すべての苦しみを引き受けて下さるお方です。私たちの偽りのない苦しみや憎しみの言葉を十字架に差し出すとき、それを引き受けてくださるお方です。そしてイエス様の苦しみを十字架にぶつけた者に、楽園を、神様の愛の下にあることを約束して下さったのです。

イエス様は楽園にいるのは「今日」だとおっしゃいます。神様の愛の下にいるのは今日なのだと言っています。いつか必ずではありません。今日です。これも大きな希望です。あなたが悔い改める今日、あなたが苦しみを十字架に吐き出す今日、あなたは楽園にいる、あなたはイエス様の愛の下にいるということです。

私たちは今日、イエス様とともに十字架にかかる者として自分の身をおきたいと思います。そしてイエスの前に悔い改めてゆきたいと思います。そして十字架に苦しみ、悲しみ、憎しみ、すべての思いを言葉にして、すべてぶつけてゆきたいのです。その間にイエス様の十字架があります。そこに苦しみを知り、引き受け、愛の下にいる約束をしてくださる十字架のイエス様がいます。私たちも今日、それぞれの思いを正直に十字架へと向けてゆきましょう。今日、神の愛の下、楽園にいる約束がされています。お祈りをいたします。