【全文】「すべての命がふさわしい」 ルカ1章26~38節

みなさん、おはようございます。アドベントの礼拝をみなさんと共に持つことができること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。こどもたちの声も足音もこの礼拝の一部です。

私たちの教会では事情があって泊まる場所のない方をお泊めするシェルターを運営しています。場所は安全上の問題から非公開です。先日もそのシェルターの利用がありました。こひつじ食堂が終わって疲れていた夜でした。平塚社会福祉協議会から連絡があり、住居がなく困っている夫婦をシェルターに泊めてあげて欲しいという依頼を受けました。このご夫婦は事情があって家を出なくてはならず、ホテルで生活をしていたそうです。しかし所持金がなくなって、今日泊まる場所がなくなってしまいました。そして泊まる場所がないだけではありません。聞けばなんとその女性は妊娠をしているのだそうです。

食堂が終わって疲れていて、できれば利用を断りたいと思っていました。しかし妊娠した女性とその夫が、今日泊まる場所が無いという事情を、私は無視することができませんでした。私が引き受けなければ今日は野宿しなければいけないということ以上の問題です。私は聖書のある物語を思い出します。聖書に登場する今日寝る場所のない夫婦の物語です。マリアもこのご夫婦の様に妊娠中に今日寝る場所を夫ヨセフと探していたのです。このような夫婦が教会を訪ね、泊めて欲しいと言われた時、断ることができる教会があるでしょうか?そして私たちは何より、こどもを大切にする教会です。大人は多少しんどくても我慢できます。でも、こどもにそれを強いてはいけません。こどもの命のために、シェルター利用を受け付けました。お二人は夜9時頃、教会を訪ねて来られました。

翌朝、ご本人たちから話を聞けばお二人のお金のこと、家族の事、いろいろな課題がありました。この後の人生をどう生きるかを二人は決めなくてはいけません。これからの自分たちの人生に責任を取ることも必要になってくるでしょう。人一倍苦労し、生活の再建をしてゆかなければならないでしょう。大人たちには自分の人生に責任があります。しかし生まれてくるこどもは別の話です。親がどんなに貧しく、どんなに問題を抱えていても、こどもに一切の非はありません。こどもの命は育まれ、大切にされなくてはいけません。こどもはどんな家に生まれても、どんな親のもとに生まれても、どんな生まれ方をしても、大切な命です。どの命も大切な命です。家柄や、貧しさや、両親によって、健康に生まれてくることができなかったり、人生の機会が失われたり、差別されたりしてはいけません。すべてのこどもの命は守られ、育まれなければならないです。

生まれてくるのにふさわしくない命、生きるのにふさわしくない命、そんな命はありません。すべての命が大切にされるべき命です。守られなくてもしょうがない命はありません。死んでしまってもしょうがない命はありません。こどもにおいては特にそうです。お二人は10日ほど滞在し、様々な人の助けを受けてアパートへと引っ越されてゆきました。

今日は聖書から命について考えたいと思います。聖書からふさわしい命とか、ふさわしくない命というものはないのだということ。すべての命が神様にとってふさわしいのだということを見ます。すべての命を大切にしたいのです。そしてむしろ、私たちがふさわしくないと思う、そのような場所に、そのような人に神様が来て下さる、そのことを見てゆきたいと思います。今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。

 

 

今日の聖書箇所はルカ1章26~38節、受胎告知と呼ばれる箇所です。教会学校でも分かち合われた箇所だと思いますが、どんな言葉が交わされたでしょうか。

聖書によれば、イエス様が生まれたのは男女の性交によるものではなく、奇跡による受胎だったとあります。現代において、初めてこの話を聞いた人のなかでどれほどの人がこの話を「そのまま」信じることができるでしょうか。私はさまざまな解釈の可能性があると思いますし、開かれた議論が必要だと思います。少なくとも日本には昔から、こどもは天からの授かりものだという言葉があります。どの命も、天からの授かりものなのです。

イエス・キリストは神の子、人類の救い主です。神の子なのだから、普通の人と違った妊娠方法であるということは当然でしょうか。それにしても、これはかなり特殊な出生です。もし現代でそのようなことが起きたらどうでしょうか。こどもは奇異の目で見られ、学校でいじめられるでしょうか。しかし聖書を見ると、イエス様の出生を批判する人、奇跡の様子を話す人は一人もいません。おそらくイエス様は、このような特殊な出生の逸話が残っているにも関わらず、他のこどもと同じように、育てられました。それは不思議なことです。イエス様は他のこどもとほとんど変わらない扱いを受けました。他のこどもと同じように、貧しい家に生まれ、貧しい家庭に育ったのです。

貧しい家に生まれたことはキリストにはふさわしくないと思うかもしれません。ではキリストにふさわしい妊娠や育ちとはなんでしょうか。どのような生まれ方がキリストにふさわしかったのでしょうか。もしかするともっと選ばれた親や選ばれた環境、選ばれたタイミングがあったはずです。例えば神の子は大祭司のこどもとして生まれる、王様のこどもとして生まれることもできたはずです。人類の救い主なら、貧しい家のこどもよりも、王様のこどもの方がふさわしいのではないでしょうか。

しかしイエス様の出生の不思議は、ふさわしくないと思える場所に起こります。まずその妊娠は34節にもあるように、結婚する前に起こります。結婚前の妊娠は当時のユダヤの律法に違反するものでした。周囲から見れば、それはふさわしくない妊娠でした。神の子なら、もっとふさわしい生まれ方があったはずです。しかしその妊娠は、結婚前の律法違反の妊娠で、貧しい親の妊娠で、出産場所に困る妊娠でした。しかし神の子はそこに生まれたのです。神の出来事は私たちがふさわしいと思う場所ではない場所に起こりました。マリアに起きました。

マリアと私たちにはどのくらいの差があるでしょうか。マリアは世界一信仰深い女性だったから、神様に選ばれて妊娠したのでしょうか。神様は最もふさわしい人を選んで、妊娠させたのでしょうか?私はそうは思いません。マリアにも当然、戸惑いと疑いがありました。29節にはいったい何のことかと戸惑ったとあります。彼女も信じられなかったのです。この戸惑ったには計算するという意味を含みます。マリアはこの後の自分の人生に何が起こるか、計算をしたのです。周囲からどのような視線を受けるか、ヨセフとの関係にどのような変化があるのか、とっさに計算したのです。

そしてなぜ自分にそんなことが起るのかも考えたはずです。他のナザレで生きる女性と同じように生きている自分に、同じように貧しい自分に、なぜこのようなことが起るのかを思いめぐらせました。彼女は不安と疑問でいっぱいだったはずです。なぜ私にと思ったはずです。私よりもっとふさわしい人がいっぱいいるはずなのに、なぜ私が。いまよりもっとふさわしいタイミングがあるはずなのに、なぜ今、神の子を妊娠するのかと思ったはずです。彼女はその後38節「お言葉どおり、この身に成りますようにと」言っています。すべてを受け入れたように書いてあります。でもそこにはきっと信じられない思いや不安がありました。もっとふさわしい人がいる、ふさわしい時があるという思いがありました。

しかし、マリアに神の子は宿りました。もっとふさわしい人がいる、わたしなどふさわしくない、そんな思いを持つマリアに、神の子の命は宿ったのです。そうです、わたしなどふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。今はふさわしくないという思いの中に、神の出来事が起きたのです。

神様はこのようなお方です。神様は私たちのふさわしさを超えるお方です。ふさわしくないと思うところに神の出来事は起ります。そして神様は神の子を産むのに、これはふさわしい命、これはふさわしくない命と選ばなかったお方です。神様は自分の子を地上に生まれさせるにあたって、親や、環境や経済力をもってふさわしいとしたのではありません。神の子は私たちがふさわしいと思う生まれ方はしませんでした。神の子はふさわしくないと思う人に、ふさわしくないと思うタイミングで、ふさわしくない場所で生まれたのです。

神様はこのことによって、生まれ方や、育ち、環境で命の優劣はないということを示しています。神様は命の優劣をつけないお方です。神様にとってふさわしい命、ふさわしくない命はないのです。ふさわしい生まれ方も、ふさわしくない生まれ方も無いということです。神様は私たちが思うふさわしさを超えて、私たちの間に生まれてくる方なのです。

神の子はふさわしくない私たちの間に生まれてくるお方なのです。神の子は私たちのどんな不足や不信仰も超えてやって来るお方です。こんな私はダメと思っている人、ふさわしくないと言われている人に神の子がやって来るのです。私なんかふさわしくないと思う、そこに神様の出来事が起こるのです。それがクリスマスです。そのように、神様はすべての命をふさわしいとされるのです。

私たちは私たちの思うふさわしさを超えてゆきましょう。神様はすべての命をふさわしい命として下さっています。私たちは互いの命、こどもの命を大切にしましょう。ひとりひとりの命が神にふさわしい命として大切にされる教会になりましょう。お祈りをいたします。