【全文】「歴史に働く神」ルカ21:4~9

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、足音と共に礼拝をしましょう。今月は神学ということをテーマに宣教をしています。神学とはキリスト教の信仰を理解する方法のひとつです。例えば大学に神学部があり、キリスト教の信仰を研究しています。神学には4つの分野があると紹介をしています。聖書学、組織神学、実践神学、歴史神学の4つです。私の専門は聖書学で多くの場合、聖書学の視点で宣教をしています。しかし聖書の読み方、信仰には様々な視点があります。今回は歴史神学の視点で聖書を読み、信仰について考えたいと思います。

歴史神学はキリスト教の信仰が、どのように世界の歴史に影響を与えてきたのか、あるいは影響を受けてきたのかということを考える分野です。キリスト教の歴史を考える分野です。歴史から学ぶことはとても大切な事です。歴史を学ぶことは、同じ過ちを繰り返さないために必要です。先人たちの知恵ある選び取りを、私たちもしてゆくために必要です。

キリスト教の歴史の中でターニングポイントになったことはいくつかあります。そのひとつにユダヤ戦争があります。ユダヤ戦争は西暦67年に起きた戦争です。イエス様の十字架は西暦30数年頃に起きたと言われていますから、さらにその30年以上後にあった戦争です。西暦67年、ローマの総督が、エルサレム神殿から宝物を略奪する事件が起きました。このことがきっかけで、エルサレムの町で暴動が起き、それが戦争に発展しました。エルサレムの街にローマの大軍勢が来て、市民が殺され、街が破壊されました。エルサレム神殿にも火がつけられ、神殿は焼失しました。神殿崩壊という出来事です。現在もエルサレムには嘆きの壁という場所があります。この壁はこの時の戦争で崩壊した神殿の西側の壁だと言われています。神殿が壊されたことを、ユダヤの人々が嘆く壁です。

神殿崩壊の出来事はユダヤ教、キリスト教双方に大きな影響を与えました。ユダヤ教にとって、エルサレム神殿は信仰の中心でした。人々にとっては神殿で献げ物をすることが、信仰の大事な要素でした。その神殿に祭司がおり、神殿で犠牲の献げ物がされていました。しかしユダヤ戦争によって神殿も、そこにいた祭司もいなくなってしまったのです。神様の大切な献げ物をすることが出来なくなってしまったのです。この神殿崩壊の出来事はユダヤ教の信仰に大きな影響を与えました。この時から、信仰の中心は神殿での献げ物や、神殿の祭司ではなくなりました。信仰の中心はそれぞれの町のシナゴーグ(教会)になり、町の宗教者であったファリサイ派が中心となってゆきました。そしてユダヤ戦争から逃がれて、世界中に逃げて行った人もいました。それはユダヤ人が世界に広がってゆくことにつながりました。ユダヤ教が大転換する時だったのです。

キリスト教にとってもユダヤ戦争は大きな転換点でした。それまでキリスト教はまだユダヤ教の中の1グループでした。ユダヤ教ナザレ派と呼ばれたのです。ユダヤの人々と共に神殿に通っていたのです。しかしキリスト教も神殿の崩壊で独自の信仰を歩みだすことになります。イエスをキリストと信じるグループもエルサレム神殿中心ではなく、世界へと散ってゆくことになりました。そしてキリスト教は特に、異邦人、現地で知り合った人々に、イエス・キリストを伝え、広がっていったのです。いわゆる異邦人伝道です。外部の人と出会い、食事や割礼などの律法の理解も変えてゆきながら、キリスト教が成立してゆくことになります。そしてキリスト教では平和の問題も大切なテーマとなりました。戦争の混乱を通じて形成されたグループは、何より平和を願うグループへと発展してゆきました。それが約2000年後、私たちの教会へとつながっています。

ルカ福音書はこのユダヤ戦争の後に書かれたと考えられています。つまり西暦30年頃にイエス様の生きている時代があり、その後西暦67年にユダヤ戦争・神殿崩壊があり、その後さらに西暦90年ころに、ルカ福音書は書かれたと言われます。イエス様はこの後ユダヤ戦争が起こる、神殿が崩壊するということを知りませんでした。歴史的な順序としてはイエス様の言葉があり→神殿崩壊があり→ルカ福音書が書かれたのです。ルカはエルサレム神殿が徹底的に破壊されたことを知ったうえで、この福音書を書いています。おそらくルカは本当に崩壊した神殿をイメージしながら、今日のこの個所を書いています。

今日はユダヤ戦争という歴史的な出来事と聖書との関係を考えながら聖書を読みたいと思います。そして戦争や神殿崩壊という絶望の中でも、与えられた神様の希望を見てゆきたいと思います。聖書を読んでゆきましょう。

 

 

 

イエス様たちはエルサレムにいました。5節にはある人がエルサレム神殿の美しい石、輝かしい装飾をほめたとあります。しかしイエス様は6節で見とれている神殿が崩れ落ちるだろうと言います。歴史的に本当にそれは起こったことです。この後神殿は、ユダヤ戦争によって、徹底的に破壊されました。しかし人々はそのようなことが起るなど信じることができませんでした。誰しも何百年も変わらずに続いてきたものは、これからも続くと思うでしょう。自分たちの信仰の中心であった神殿はいつまでも続くと思っていたでしょう。神殿が美しい姿のままでいることを願ったでしょう。だからこそ7節にあるように、いつそんなことが起きるのか、どのように起こるのかを聞いたのです。もしそれが起きるならどのような徴、前兆があるかを聞いたのです。

8節でイエス様はその前兆として偽物がたくさん来ると言いました。「私がみんなを救う」という偽物のキリストが来ると言うのです。それは偽物の希望と言えるでしょう。偽物の希望を語る人が大勢起こると注意をしたのです。偽物は「時は近づいた」と言います。彼らは世界の終わりが近いと不安をあおります。偽物は人々の心を、希望ではなく不安で満たそうとします。すぐに行動を起こさなければ自分も世界も終わってしまうと訴え、扇動するのです。偽物は人々を不安にさせ、偽りの希望を持たせ、人々を扇動します。イエス様はそのような偽物に「ついて行ってはならない」と注意をしています。そしてイエス様は9節でこう言います。戦争や暴動、神殿の崩壊は残念ながら起ってしまうが、それはすぐに終わりにつながるものではないと。

この後の歴史は、本当に暴動が起き、戦争がはじまります。神殿が崩壊をします。その時人々は逃げながら、炎上する神殿を見たでしょう。おそらく人々は絶望をしたはずです。俺たちは終わったと思ったはずです。自分たちの信仰の中心、心の支えが無残に崩壊したのです。しかしイエス様は「それで終わるわけではない」と言います。実際のキリスト教の歴史もそうでした。神殿崩壊が新しい信仰のスタートになりました。逃げて行った人々は絶望して終わったわけではありませんでした。それぞれの場所で、もう一度イエス様のことを伝えようとしたのです。イエス様のことを書き記そうとしたのです。それがルカ福音書やマタイ福音書になりました。平和・シャロームを求めて宣教がされ、福音書が書かれたのです。そのように神様は私たちの歴史に働かれました。そのようにして聖書、キリスト教は成立をしたのです。

このように神様は歴史に働くお方です。神様は世界が終わるといったような恐怖を使って、私たちを動かそうとする方ではありませんでした。戦争を使って私たちを動かすお方でもありませんでした。神様は平和を求めた人々と共におられ、戦争ではなく平和を願う人を用いたお方です。戦う者ではなく、戦争から逃げる者と共におられたお方です。そして神様はたとえ神殿がなくなったとしても、希望が終わらないことを伝えたお方です。たとえ神殿がなくなったとしても、神様は歴史の中で働き続けるお方です。歴史神学の視点でこの個所を読むとそのような希望をいただくことが出来るでしょう。

そしてこの歴史は私たちにつながっています。神様はこのように歴史に働き、私たちへと信仰をつないでくださいました。そして神様は私たち一人一人の歴史にも働いてくださるお方です。私たちの人生にももう終わりだと思えることがあるでしょうか。戦争や災害、別れ、悲しい出来事、失敗、自分の人生や生活でもうだめだと思うことがあるでしょうか。私たちにある私たち自身の神殿が崩壊してしまうような出来事があるものです。大切にしているものが壊れてしまうことがあるものです。それは残念ですがきっと起こるものです。

でもイエス様は言います。その時、その前、惑わされるな。そして恐れるな。大切なものが壊れてしまう時がいつか来る。でもそれがすべての終わりではない。神様の働きが続き、その後も希望があるのだと。私たちが終わり、もうだめと思ったその時にも、希望が残されているのだと、神様が教えてくれるのです。絶望の時に、終わりではないと呼びかけた、それが神の歴史、神が働きかけた歴史だったのです。私たちには希望があるのです。偽物の希望に惑わされてはいけないのです。

今日は歴史神学の視点で聖書を読みました。神様はこのように、世界の歴史の中で働き、私たちと共にいて下るお方です。私たちに希望を与え続けてくれるお方です。そして神様は私の歴史に働いてくださるお方です。私に関わってくださるお方です。神様はこれからも私たちの歴史に働き、導いてくださり、希望を与えて下さるお方です。お祈りいたします。