カテゴリ:原稿と週報



2024/03/31
みなさん、おはようございます。今日はこうしてイースター礼拝を共にできる事、主に感謝します。今日もこどもたちと共に、声を聞きながら礼拝をしましょう。...
2024/03/24
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。先日の総会では「こどもの声がする教会」という標語をみなさんと確認しました。私たちは大人とこどもが共に福音を分かち合うために、一緒に礼拝をします。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもの声がする礼拝をしましょう。大人もこどもも福音を分かち合い、誰もが大切にされる教会になりましょう。 今週は教会の暦で受難週です。イエス・キリストの十字架を特別に覚える1週間です。今日はイエス様の地上の生涯の最期の時を見ます。 人間は誰しも自分の人生には終わりがあるのだということを知っています。だから悔いのない人生、やり残したことのない人生を送りたいと思うものです。でも本当にやり残しの無い、悔いのない人生など送れるのでしょうか。それはとても難しいことでしょう。人生は悔いが残ることばかりです。やり直したいことばかりです。中途半端なことばかりです。私はこの人生で何か一つでも成し遂げることができたのだろうかと思うことばかりです。イエス様は十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取ったとあります。今日はこのことを考えてゆきたいと思います。 まずイエス様の架けられた十字架刑について考えます。当時から様々な処刑方法がありました。他の個所では洗礼者ヨハネは斬首刑で殺されたとあります。そしてイエス様は十字架刑です。他にも様々な処刑方法がありますが、十字架刑は様々な処刑方法の中で最も残酷な刑でした。それはあまりに残酷な方法であったために一般市民に科すことが禁止されていたほどです。この刑に科されたのは、特に権力に抵抗した者です。政治的な反乱者がこの刑を科されました。 十字架刑は広げた手に釘が打たれます。手を広げたままだと、息が出来なくて苦しいのです。手足を動かそうとすると釘が痛みます。通常はすぐには死に至りません。徐々に体力が奪われ、窒息死したり、手足からの出血多量で死んでゆきます。死ぬまでにとても時間がかかる刑です。何日も、何週間もかかる、なるべく苦しみが長く続くようにされた刑です。それは大通り、人からよく見える場所で行われました。見せしめのためです。権力に反抗した者はこうなるぞと、人々に恐怖を与えるために、二度と権力に反抗しないように、丘の上や大通りなど人々の良く見える場所で行われました。死んでしまった後も、遺体の埋葬は禁止されました。十字架から降ろすことも禁止されていました。遺体は鳥や野獣のエサとなりました。埋葬する遺体さえも残らない刑だったのです。これは死刑の方法の中でも最もおぞましいものとされ、人々からは十字架という言葉を口にすること自体がはばかられたと言います。イエス様がかかったのはそのような刑でした。処刑される者は、苦しみ、呪いの言葉を口にしながら死んでいったと言います。 しかしヨハネ福音書では、イエス様が苦しみの言葉を発した記録はほとんどありません。これほどまでに残酷な方法で殺されているのに、苦難の言葉がほとんどないのです。おそらくそれは「渇く」という言葉だけです。その苦しみは「渇く」という言葉にしかならないほどだったのでしょうか。そしてイエス様はなんとこのような状況で「成し遂げられた」と言いました。この言葉は理解できないことばです。激しい痛みの中での「成し遂げられた」という発言にはどんな意味があるのでしょうか?このような苦しみの中で一体何が成し遂げられたというのでしょうか?今日は「成し遂げられた」という言葉に注目をしたいと思います。   「成し遂げる」という言葉は完成する、完全になる、まっとうするという意味の言葉です。物事を最後までやりきる事を意味します。また、やり切って成功することを意味します。自分のできることをすべてやり切っても、失敗することがあります。がんばっても結果がついて来ない時があるものです。そのような時には、成し遂げるという言葉は使いません。頑張ったうえで、さらに成功した時に「成し遂げる」という言葉を使います。 イエス様は十字架上で「成し遂げられた」と言いましたが、イエス様は一体何を成し遂げたというのでしょうか。イエス様の宣教の活動はたった数年だったと言われます。この活動は数年で終わってしまいました。弟子たちからすればイエス様にはまだまだやって欲しいことがあったはずです。これからだと思ったはずです。地上の人々にもっと伝えなければならないことがあったはずです。伝えきれなかったこと、やり残したことは非常に多かったはずです。その教えはあまりに短すぎて、今も謎が残ったままです。イエス様にとっても、弟子たちにとっても志半ばでの十字架だったはずです。しかし、それにもかかわらずイエス様は最後に「成し遂げられた」と言っています。まったく謎の言葉です。 この状況で、何が成し遂げられたというのでしょうか。成し遂げ「られた」の「られた」に注目をします。そうです、これはイエス様が「私は成し遂げた」と言った言葉ではありませんでした。イエス様は成し遂げ「られた」と言ったのです。それは自分で「成し遂げた」のではなく、誰かによって、何かによって成し遂げ「られた」ものだったのです。 この言葉によれば、イエス様は自分自身で何かを成し遂げたのではありません。それはイエス様以外の誰かの力によって「成し遂げられた」ものだったのです。それを成し遂げたのは神様でしょう。神様がイエス様を通じて、成し遂げたのです。イエス様はそのことを「成し遂げられた」と言ったのです。 では神様はここで何を成し遂げたのでしょうか。神様はイエス様の十字架を通じて何を成し遂げたのでしょうか。「成し遂げられた」とはイエス様のここまでの地上の歩みが指し示されています。神様はイエス様の地上の生涯を通じて、愛に生きることを教えました。共に食事をし、仲間になるように教えました。隅に追いやられた者に目をとめるように教えました。病の人を訪ね、励まし、癒しました。そのように神様はイエス様を通じて互いに愛し合うことを教えました。イエス様は神様から与えられた、その使命を生きました。 そして十字架の死に至るまで、他者を愛し続けました。多くの人が呪いの言葉を並べる十字架において、沈黙し、神を求め続けました。死を避けるために、神様の使命から逃げることができました。しかしイエス様は死に至るまで、他者を愛し続けました。それが神様によって成し遂げられたものだったのです。どんなにつらい時も愛に生きる事、自分の思い通りにいかなくても愛すること、死ぬその時まで他者を愛すること、それを今、イエス様は神様の力によって成し遂げたのです。神様から愛を成し遂げる力を頂いて「成し遂げられた」のです。 イエス様自身にもいろいろな思いがあったかもしれません。私はまだ何も成し遂げていないと思ったでしょう。もっと生きたいと思ったでしょう。弟子たちもそう思ったでしょう。どうしてこれからだという時に終わってしまうのかと思ったでしょう。もっと生きて欲しかった、もっと教えを聞きたかったと後悔をしたでしょう。 しかし、イエス様は「成し遂げられた」と言います。人の願いは成し遂げられずとも、神様の願いは成し遂げられたのです。弟子の願い、イエス様自身の願いではなく、神様の願いが成し遂げられたのです。イエス様はこのようにして十字架を引うけ、息を引き取ってゆきました。 この物語を聞いて、私たちはどう生きるでしょうか。私たちの人生には苦難があります。言葉にできるもの、言葉にできないもの、様々な苦難があります。しかしきっと神様は言葉にしてもしなくても、私たちの苦難をわかっていてくださるでしょう。神様は私たちが苦難の中で、神様の導きを求め渇くことをわかってくださっているでしょう。おそらく私たちの人生で、自分の力で成し遂げることは多くありません。多くの事は成し遂げることができず不完全です。そして私たちが成し遂げられることは神様の前に小さなことです。でも私たちにも神様によって「成し遂げられる」ことがあるでしょうか。私たち自身ではではできないこと、私たち自身では耐えることのできないことがあります。でもそこに神様から成し遂げる力と計画をいただいて、成し遂げられることはあるでしょうか。私たちの力を超えて、神様が成し遂げられることがあるでしょうか?きっと私たちを通じても神様が「成し遂げられる」計画があるはずです。それは私たちの思いを超えて実現するものです。 きっと神様が成し遂げようとしているのはイエス様の人生においてもそうだったように、生涯を通じて、神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕えることです。それが、神様が成し遂げようとしている計画です。神様はその計画を成し遂げるために私たちに力をくださいます。神様が苦難の時も愛に生きる力を与えて下さいます。どんなつらい時も、神様は愛に生きる力を与えて下さいます。どんなに愛せない時も、神様は愛することを貫くための力を私たちに与えて下さいます。そのようにして神様は、私たちを通じてその計画を成し遂げるお方です。 それぞれの歩みに神様の力が与えられるように祈ります。私達では到底成し遂げることができないことを、愛を、神様は成し遂げて下さいます。その愛を成し遂げる力を私たちも頂きましょう。私にはできないけれど、神にはできる、愛を成し遂げる力を神様から頂き、今週も歩みましょう。お祈りします。
2024/03/17
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。またこどもたちと共に礼拝できることも嬉しいです。こどもたちの声を聞き、その存在を感じながら、一緒に礼拝をしましょう。...
2024/03/10
みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること、主に感謝します。こどもたちの声と足音を聞きながら共に礼拝をしましょう。...
2024/03/03
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもと共に礼拝をしています。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先月から受難節に入っています。3月末にはイエス様の復活を祝うイースターがあります。今月は十字架と受難をテーマに宣教をしていきたいと思います。...
2024/02/25
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること主に感謝します。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。先週と今週はジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えています。...
2024/02/18
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先週はお休みをいただき感謝です。先月は聖書と性についてお話をしました。聖書が同性愛や性的少数者を罪としていないのだということ、神様はその人々を豊かに用いているということを見て来ました。男か女ということを超えて、神様の働きは広がるのだということを見て来ました。 そして今日と次回は、聖書の中の女性について目を向けたいと思っています。男も女もなく平等に、いろいろな性が平等にあるべきだと話をした後に、聖書の女性に注目するというのは矛盾のように思えるかもしれません。どの性も平等であるべきなら、女性に注目して聖書を読むのはおかしいとも言われるかもしれません。 ところで教会には女性会というグループがあります。女性のみが集まるグループです。全国区でも女性連合というグループがあります。しかし近年は女性だけが集まることの課題が指摘されるようになりました。これまで見てきた性の多様さから考えると、女性か男性かでグループを作ることには、課題があります。参加者は自分をどちらかに決めなくてはならないからです。女性会は女性以外を排除しているのではないかという指摘もあります。またある他の教会の女性会の参加者からは、話題が結婚・出産・育児の話ばかりで、仕事をしている独身女性からすると、そのグループは合わないという声も聞きました。その人たちは仕事をしている男性たちと話していた方が良いと言って男性のグループに参加していました。またある教会では、オリーブ会などと名称を変えて、女性に限定しないグループを作っている教会もあります。 一方で女性だけが集まることに様々な良い面があるでしょう。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあるはずです。また社会に目を向けると日本は女性の社会進出が非常に妨げられている国です。男女平等指数は146ケ国中125位です。特に政治の分野、企業のリーダーシップの分野で、日本は圧倒的に男性が支配している社会です。男中心社会です。きっと教会にもそのような一面が残っているのでしょう。牧師はやっぱり男性がいい、役員は男性がいいなどの意見です。そのような男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは大変意味のあることだと思います。なんでも男が決め、男が働く、男中心の社会の中で、女性が集まり、女性が決めるというグループに大きな存在意義があるでしょう。そしてそのようなグループは大切な視点を持っていると思います。それは社会の中心から外された人に目をとめてゆくという鋭い視点です。女性連合はそれを持っていると思います。沖縄への関わり、平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。社会や教会で、中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆくことが必要とされています。その点で、女性が集まる意味はまだまだ大きいでしょう。 いずれにしても男性である私が、女性の集まりをどのような集まりにしてゆくのか、とやかく言うのはまったく的外れです。ぜひ皆さんその集まりについてよく話して欲しいと思っています。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切なのでしょう。ですから今日と来週は聖書の中の女性を見て行きたいと思います。   今日は出エジプト記1章15節~2章10節までを読んでいただきました。イエス様が生まれるずっと前の時代の話です。神様を信じる人々は奴隷として、激しい重労働をさせられていました。それは過酷を極めた労働でした。神様はそこから逃げ出す、出エジプトを導いてくださいました。恵み深い神は休みをくれたのです。今日はその前の奴隷時代の話です。過酷を極めた労働の中でも、ヘブライの人、聖書の神を信じた人々は、人口が増えてゆき、やがてそれは軍事的な脅威となる程でした。15節、ファラオはこれ以上人口を増やさないために、二人の助産師を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。二人の女性の名前がシフラとプアだったと記録されます。わざわざ名前が記録されるほど彼女たちの働きは重要だったのです。 エジプトの人々は、ファラオは神だと教えられ、従っていました。エジプトでのファラオの命令は神の命令と同じです。このファラオの命令によって、男の子が殺されようとしていました。ちなみに歴代のファラオのほとんどは男性です。男性が政治の実権を握っていました。しかし歴代ファラオの中で少数ですが女性がいた事もわかっています。中には男性の服装をした女性ファラオもいたそうです。 このファラオは人口を減らすために、男の赤ちゃんを殺せと命令をしました。しかし疑問です。人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いのではないでしょうか。その方が人口の増加がより抑えられるはずです。ファラオはなぜ女性を殺さないのでしょうか。それは、当時女の奴隷は高く売れたからだと言われています。男は殺す。女は物のように売買する。女は男のために働けというのがファラオの政治でした。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いから生かしておいて良かったのです。ファラオは助産師の二人の女性、シフラとプアに命令しました。生まれた男だけ殺せと命令をしました。 しかし17節、女性たちは神様を畏れていました。神様を畏れるとは、そんなことをしたら神様の罰が怖いということではありません。神様を強く信じていたということです。特に二人は助産師です。実体験から命の源はこの聖書の神様であると信じていました。実体験から命は神様から授かったものであると信じていました。その命を人間が壊すべきではないと信じていたのです。命を壊すファラオは神ではないと信じていたのです。だから彼女たちは男性であるファラオの命令に従わなかったのです。彼女たちには確信がありました。堅い信仰がありました。それは生まれてくるこどもたちの命を守ることが、自分の信じる神様の教えだという確信です。彼女たちは社会の中心から追われる命、無視される命、無かったこととされる命、売り飛ばされる命を良く知っていました。だからこそ命に対して、特別なまなざしを持っていました。その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信した彼女たちは、ファラオに従わず、小さな命を守る決断を繰り返していたのです。 それに対してファラオはもう一度この女性たちを呼びつけ、殺せと迫ります。しかし彼女たちは「出産がすぐに終わってしまうのだ」と言います。きっとそれはウソです。小さな命を守るための、彼女たちが考えたウソです。助産師は誰よりも出産の苦労を知っているはずです。すぐに終わる出産ばかりではないはずです。助産師は誰よりも女性たちの苦しみと強さを知っていました。この助産師はそのような女性たちの姿を知らないファラオを、まるで馬鹿にしているようです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは男たちのような暴力、支配、抑圧によるものではありません。静かな戦いです。小さな命を守るための非暴力の戦いです。そのように戦う女性たちに神様は特別な恵みを与えたとあります。 2章1節からはもう一つの物語が始まります。あるレビ人の女性が妊娠し、男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまう状況です。母はなんとか助かって欲しいと願いました。彼女は赤ん坊をカゴに入れて水に流しました。それはまるで救命ボートです。なんとか助かって欲しいとカゴに乗せて送り出します。そしてその命を受け取ったのもまた女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育てることにし、やがて彼は解放のリーダーに成長します。 このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。小さな命のためにたくさんの女性たちが知恵を尽くす物語です。男性の決定に反抗し、自分たちで決断する物語です。女性たちが命のバトンをつなぐ物語です。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。それはきっと自分自身が、社会で隅に追いやられている経験をしたからでしょう。 男たちが政治を支配し、男たちが戦争をする世界です。彼女たちは考えました。男たちが中心の世界で、どのようにしたら平和に生きることができるだろうか、どうしたら小さい、いつもしわ寄せがくるこどもたちを守ることができるだろうかと考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。そしてそこから、自由を求める旅、出エジプトが始まってゆくのです。 私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。そして男も女もどの性も、小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。女性だけ、男性だけの働きはありません。 私たちの教会でも同じです。私たちの教会も政治が決めたことに従うのではなく、神様から与えられた命を守る働きをしたいと思います。私たちの教会が性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。教会やその中のグループもそのために働くことができるように祈りましょう。お祈りします。
2024/02/04
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもと一緒に礼拝をする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。...
2024/01/28
みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどももいっしょに礼拝できることを感謝します。こどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。今月は聖書と性・セクシャリティーについて考えています。本日で最後です。これまでの2回では主に、同性愛は罪ではないということ、むしろそれと混同されている性暴力こそ罪であるということお話してきました。教会では触れづらいテーマですが、人の魂に関わる、大切な事柄です。聖書でどのように性、特に性的少数者が受け止められているのかを考えたいと思います。 今日は聖書に登場する宦官について考えたいと思います。古代から宦官という人が存在しました。宦官とは、睾丸や陰茎を切除した男性です。彼らは王宮などで働いていました。宦官は子孫を残すことができないので、王様になることはできませんでした。ですから王様から見ると、自分の座を奪おうとしない安心できる存在でした。さらに宦官は、女性と性的に交わる機能が失われています。王宮の女性たちにとっても宦官は、性的な関係にならない、安心できる存在でした。ですから宦官は王様や、王宮の女性にとって、最も従順な僕と言えるでしょう。彼らは時々、高級官僚として取りたてられました。それが宦官という存在です。古代では世界中に宦官がいました。 当時のユダヤ教は宦官をどのように受け止めたでしょうか。旧約聖書には多くの宦官が登場し多くの場合、好意的に描かれています(エステル記など)。しかし旧約聖書の申命記23章2節にはこうあります「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」宦官が主の会衆に加わることができないとはつまり、宦官はユダヤ教に入信することが出来なかったということです。おそらく割礼が受けられないということも理由のひとつです。あるいは身体的な欠損があるものは汚れていると考えられたことも理由のひとつです。 本来、すべての男性が、割礼を受けることでユダヤ人になることができました。そしてユダヤ人になると神殿に入ることが許されました。しかし宦官だけは違います。信仰があってもユダヤ人になることはできませんでした。どんなことをしても神殿に入ることが許されなかったのです。旧約聖書を見ると宦官が好意的に描かれている場面が多くあるものの、やはり自分達とは決定的に違う、神殿の内側には入れてはいけない、軽蔑すべき存在だったのです。それが宦官でした。ちなみに当時と今ではユダヤ教の中でも大きく考えが変わっています。現在のイスラエルは、LGBT先進国として有名です。 さて今日の聖書の物語に目を移しましょう。ある宦官がエチオピア、これは現在のスーダンからエルサレムにやってきました。この宦官は女王の全財産をまかされるほど信頼されていた、かなり高い役職にいる官僚でした。そんな彼が小さな民族の信仰に興味を持ったのです。聖書に興味があり、聖書の神を求めたのです。そしてはるばるエルサレムに来たのです。 しかし彼はエルサレムで排除される存在でした。彼は外国人であるという理由で、あるいは宦官であるという理由で、神殿に入ることが許されませんでした。あなたは体の一部が無いから、完全な男ではないから、神殿には入ることができないと排除されたのです。その時、彼の信仰は一切関係ありませんでした。彼の内面は一切関係ありませんでした。彼の外形的な性が判断基準とされ、神殿から排除されたのでした。彼のせっかくのエルサレム訪問は、このようにして台無しになりました。関心と共感をもって神殿に訪れたのに、彼は拒否されたのです。原因は彼が外国人であり、性的少数者であったからです。彼はとても残念に思ったはずです。彼は信仰が打ち砕かれたでしょう。残念な思いと共に、イザヤ書の巻物を買って帰ったのかもしれません。彼はイザヤ書を買って、馬車で読みながら帰っていったのです。帰り道、それは彼の性が排除された後の帰り道でした。自分の性が、彼の信仰が受け入れられなかったという経験の帰り道です。失望の帰り道です。彼はそのような状況でイザヤ書を読みながら帰りました。涙ながらに聖書を読んだでしょうか。  でもおそらくこの宦官はこのような、性的少数者であることでの差別を幾度となく受けてきたでしょう。何度も同じ経験をしてきたでしょう。宦官は高級官僚として尊敬されつつも、やはり人々から軽蔑のまなざしを受けていたでしょう。結婚し、こどもがたくさんできるということが神の祝福とされた時代です。それができない宦官は卑しい者として扱われました。その性によって差別されたのです。人々に拒絶されました。そして聖書に救いを見出そうとしました。しかしまた拒絶されました、それが彼の人生でした。26節、寂しい道とあります。それは景色も、そしてきっと宦官の気分も寂しい道であったでしょう。 そんな彼が馬車に乗っています。そこに神様はフィリポを遣わしました。フィリポは偶然にそこを通りかかったのではありません。主の天使が、霊が、フィリポにそこに行けと命令したのです。天使と霊は、排除された性的少数者と出会わせるために、フィリポを導いたのです。神様が性的少数者との出会うようにと導いたのです。宦官がイザヤ書を読みながらフィリポの目の前を通り過ぎます。劇的な出会いです。フィリポは急いで追いかけて、イエス様についての福音を伝えます。フィリポは、イエス様は弱い人、貧しい人、隅に追いやられている人、排除された人と最後まで共にいたということを宦官に伝えたでしょう。このイザヤ書に登場するのは、そんなイエス様のことなのだと話をしたのです。やがて、二人は水のある場所にたどり着きました。水のある場所へと神様から導かれました。宦官はバプテスマへと導かれてゆくのです。 宦官は「バプテスマに何か妨げがあるますか」と確認します。「何か妨げがあるでしょうか」とはどんな意味を含むのでしょうか。彼はおそらく確認したのでしょう。これまで私は性的少数者として、社会から、神殿から徹底的に排除されてきました。そんな私でも洗礼を受けることができるのですか?クリスチャンになることができるのですか?という問いだったのです。キリスト教では、私もその仲間に加わることが出来るのですか?そう聞いたのです。フィリポは何も答えずに、行動で返事をしています。速やかに宦官へのバプテスマが実行されました。フィリポはその人を排除しませんでした。性的少数者を排除しなかったのです。 バプテスマに何か妨げがあるかと聞かれたとき、もっと準備が必要だ、あなたは性的少数者だからできないと言わなかったのです。彼の信仰に基づいて、速やかにバプテスマは実行されたのです。宦官は喜びあふれたとあります。それはこれまで排除されてきた悲しみは、自らを神が受け止めてくれた、キリスト者が差別せずに受け止めてくれたという喜びに変わりました。寂しい帰り道は、喜びの帰り道と変わったのです。宦官は自分に神様の希望が示されていることを知ったはずです。何の妨げも無く、キリスト者として受け入れられることを通じて、神様が私の神様となり、私を守ってくださるのだと知ったのです。彼はこのようにして喜びながら帰ったのでしょう。それが宦官の物語です。 さて、現代の教会、現代の社会の性的少数者の人々とも重ねて考えてみましょう。社会では多くの性的少数者が、その性を否定されています。教会も同じでした。教会はそれは罪だと言い、その性を否定してきました。性的少数者の人々は罪だと言われ、教会から排除され、追われるように逃げ、失意の中で帰り道を歩いて帰りました。社会からも教会からも軽蔑され、居場所を失っていったのです。しかし今日の個所によれば、性の在り方は入信・バプテスマの条件に一切なっていません。フィリポは性の在り方によって、共同体から誰かを排除するということを全くしなかったということです。むしろ神様は私たちを性的少数者と出会う様に導いています。教会はそのようにすべての性を受け止めてゆくことができる、すべての性を罪としないことができるのです。それが今日この物語が伝えている福音です。 性的少数者の「何かさまたげがあるでしょうか」という問い。それは私たちに向けられた問いでもあります。私はこの教会において、性的少数者の洗礼・バプテスマ、礼拝出席を妨げる理由はないと思っています。みなさんはどうでしょうか。そして現代の社会の何が、性的少数者の妨げになっているかも想像します。この社会は、どのような性であるかに関わらず、その人を受け止めることができるのでしょうか。 キリスト教ではこのように性的少数者を受け止めてきました。そしてこの宦官は異邦人の中で最初に洗礼・バプテスマを受けた人となりました。この人が異邦人の中で一番最初に、洗礼・バプテスマを受けたのです。彼から、性的少数者から、世界中にキリスト教会が広まっていったのです。性的少数者である彼から、世界宣教は始まったのです。それが私たちのキリスト教の始まりだったのです。 私は性的少数者の方が教会に来る、洗礼・バプテスマを受ける、そのままの性を生きることを、神様は何も妨げないと思います。むしろ神様はそのような人を用いて福音を拡げるのだと思います。私はこの教会が性的少数者の方が来ることに何の妨げもない教会になるように願っています。そのようにしてすべての人を歓迎する教会になりたいと思っています。お祈りします。
2024/01/21
みなさん、おはようございます。今日もこうしてこどもたちと一緒に礼拝できること、主に感謝します。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月は性と聖書について、セクシャルマイノリティーと聖書について考えています。性の事柄について教会で取り扱うことは大変難しいことです。公の場で言葉にするのが難しいと感じています。しかし今、性の問題に宗教が沈黙を続けることも良くないと思っています。 テレビでは性の問題が大きく取り上げられています。ジャニーズや松本人志の性加害について報道されています。私たちの教会はこのような問題についてどのように考えたらよいのでしょうか。ある人は教会はそのような社会的なことよりも、もっと魂に関することを扱った方がよいと言います。教会はもっと魂の救いについて語るべきと言います。そのように言う人にも聞いて欲しいです。性暴力は魂の殺人と呼ばれます。魂の問題に向き合うべきというのならば、教会はもっと性の問題に向き合うべきだと思います。私たちの大切にしている、魂の問題として、このことを考えたいと思います。 性の問題について、キリスト教には様々な立場があります。特に同性愛については意見が大きく割れています。私個人は同性愛も一つの愛の形であると思っています。しかし同時に私はキリスト教の中には、そう解釈しない人、立場が大きく違う人がいることを知っています。平塚市内の教会でも、神奈川県のバプテスト教会の中でも、その理解は大きく分かれます。私は同性愛について「賛成、反対それぞれの立場を大切にしましょう」と言う前に、同性愛について聖書がどのように言っているのか、また言っていないのかをはっきりと確認をしておきたいと思っています。 今日の聖書の個所を見ましょう。今日の聖書の個所に、同性愛という言葉は登場しません。そもそも聖書全体に同性愛という言葉が登場しません。それもそうです。同性愛という言葉は19世紀に生まれた言葉だからです。聖書はおおむね1世紀に成立しています。だからもちろん聖書には同性愛という言葉は登場しません。ではなぜ聖書が同性愛を禁止しているという解釈が生まれてくるのでしょうか。なぜ聖書は同性愛に反対していると言われているのでしょうか。 それは今日の個所や他の個所に、同性愛と混同された言葉があったからだと思います。本当は性暴力を示している言葉が、同性愛と混同された、誤解が生まれたのだと思います。聖書は本当は同性愛を否定していないのに、読む側が偏見を持って聖書を読む時、聖書で同性愛は禁止されている、そう解釈され、広がってしまったのではないかと思っています。そして性暴力に沈黙してしまっています。 今日の聖書の個所に誤解された言葉があります。今日の個所には「男色する」という言葉があります。この言葉こそ同性愛を指すものだとして、聖書に書いてある通り同性愛は禁止されていると理解されてきました。「男色する」という言葉を日常で使うことはありませんので、広辞苑で「男色」を引きました。そうすると「男性同士の同性愛」と書いてありました。だとするとやはり聖書は同性愛を禁止していると解釈できるでしょう。やはり同性愛が禁止されているように思えます。 でももっと深く考えましょう。日本語では「男色(つまり同性愛)」と訳していますが、聖書にもともと書いてある言葉ではどうでしょうか。男色するという言葉は元のギリシャ語で「アルセノコイタイ」という言葉です。この言葉が日本語で男色(男性同士の同性愛)と訳されています。この言葉についてもう少ししっかりと考えたいと思います。 現存する古代文献の中で「アルセノコイタイ」という言葉が最初に使われたのは聖書です。聖書が最も古く「アルセノコイタイ」という言葉を使っています。聖書と同時代やより古い文献が無いので、当時の「アルセノコイタイ」は、どのような意味で使われたのかははっきりとわからない言葉です。おそらくパウロが作った言葉ではないかとも言われます。いずれにしても意味が分からない言葉です。このように意味の分からない言葉がある場合、推測する方法は2つあります。一つは語源から推測する方法です。もう一つは文脈や用例から推測する方法です。 まず語源から推測しましょう。アルセノコイタイの「アルセノ」は男性に対してという意味があります。コイテは横たわるという意味があります。つまり語源から考えると、男が男に対して横たわるという意味です。ここから同性間の性行為を指す言葉と推測されました。そしてそれが後に、男性同士の同性愛、男色という翻訳として定着してゆきました。 分からない言葉がある場合、もうひとつ文脈からその意味を推測するという方法もあります。アルセノコイタイはだいたい悪徳リストの一項目として登場します。今日の個所にも、泥棒と並べられています。他の文献、聖書よりも後の時代の用例を見ると、例えばアルセノコイタイするな、賃金を正確に払え、不正な行為をするななどの用例があります。他にはペテン師、詐欺師、アルセノコイタイなどと使われています。どれも経済的な搾取に関する文脈でアルセノコイタイが登場します。 おそらくこの「アルセノコイタイ」は同性間の性行為と経済的不正を掛け合わせた言葉だと推測されます。この言葉は同性間の性行為という意味だけではなく、経済的な搾取の意味も含まれます。おそらく同性間の性行為と、経済的搾取の2つの間にある言葉です。つまり「アルセノコイタイ」は、お金の力によって同性と性行為をすることだと考えられます。お金や地位にものを言わせて、相手の性の尊厳を奪うことが「アルセノコイタイ」です。自分の立場や地位を利用して同性の性の尊厳を奪う事が「アルセノコイタイ」です。だとするとアルセノコイタイが9節で、みだらな者と泥棒の間に置かれている意味も納得できます。相手の性の尊厳を、不当に奪う事がアルセノコイタイです。私はこの「アルセノコイタイ」を「性搾取」や「性暴力」と訳すのが良いと思っています。 社会背景からも考えます。2000年前のローマでは年長の男性による、小さい少年への性行為が盛んに行われていました。身分の低い少年や、奴隷の少年に対してそれが行われていました。それは同性愛とは全く違います。大人たちが立場の弱い少年たちの性を搾取したのです。少年たちに愛はありません。自由な選択はありません。地位のある者が、少年の性を搾取していたのです。 こうした背景からも「アルセノコイタイ」の意味を考えます。この言葉は同性間の同意ある、能動的な、対等な愛を示している言葉ではありません。この「アルセノコイタイ」は立場の弱い少年や奴隷を性的に搾取すること、性暴力の加害者となることを示している言葉だと考えられます。 しかし19世紀に同性愛という言葉が生まれました。それまでも同性愛はあったでしょう。しかしそれが言葉になったのは19世紀でした。そして大きな偏見が広がってゆきました。20世紀になると本来、性的搾取を意味した「アルセノコイタイ」は、同性愛のことだと誤解され、翻訳が定着しました。そして同性愛は一緒に記載される、ふしだらや泥棒と並んで悪、罪とされるようになりました。性暴力が悪、罪であったはずなのに、同性愛に置き換えられ、同性愛が悪、罪とされてしまったのです。そのようなことが起きたのはその時に同性愛に対する無知と偏見があったからです。聖書を読んだときその偏見を聖書解釈に重ねてしまったのです。そうしていつしか聖書は同性愛は悪・罪と解釈されるようになりました。同性愛者は神の国を受け継ぐことができないと解釈されるようになりました。それは罪であり、治療して直すべきものであると解釈されるようになりました。 しかし聖書は本当にそのように語っているでしょうか。私個人はそのように思っていません。この個所は、経済的に性の尊厳を奪う人を指していると考えています。立場の弱い人やこどもの性の尊厳を奪う人を指していると考えています。 現代において魂の殺人と呼ばれていることです。それを聖書があってはならないと言っているのではないでしょうか。この個所は性暴力の加害者は神の国を受け継ぐことができないと言っているのではないでしょうか。私個人は性暴力の加害者は神の国を受け継ぐことができないということに同意します。同性愛者を断罪するよりも、その方がずっと納得感があります。この個所は同性が愛し合うことを禁止しているのではなく、性の尊厳を奪うことを禁止しているのです。 私たちの社会を見渡します。世界では私たちが一番大切にしなければならない魂が殺される、魂が踏みにじられる事件が繰り返されています。そして同性愛に対する偏見もまだ続いています。特にそれはキリスト教の中で続いています。私は聖書が性暴力・性搾取をはっきりと否定しているものとして、反対してゆきたいと思います。そして偏見をもって、同性愛と性搾取が混同されることにも反対をしたいと思っています。 10節、神の国を受け継ぐものとはどんな人かを想像します。それは互いの性を尊重する人ではないでしょうか。互いの性を奪い、否定するのではなく、互い性の在り方を尊重できる人ではないでしょうか。そのような人が神の国を受け継いでゆくのではないでしょうか? 聖書には「この個所は同性愛を否定している」そう読まれてきた箇所が多くあります。しかし、よく読んでみると決して同性愛を断罪するような解釈はできません。そしてそのような解釈が見落としていることがあります。それが性暴力や性搾取の問題です。教会は魂の問題としてそれに目を向けてゆく必要があるのではないでしょか?互いの性を尊重できる教会になりたいと思います。祈ります。

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