【全文】「誰も置き去りにしない」ルカ15章1~7節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に、声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は信仰入門というテーマで宣教をしています。初めて聖書の話を聞くという方、まだ教会に来て間もないという方にもわかりやすくお話をできればと思っています。

今日は100匹の羊と羊飼いの話をします。これもキリスト教の中ではとても有名な話です。初めての方に向けてお話をしますが、この話もイエス様から、聖書を長く勉強した学者たちに向けて話をしている物語です。聖書が初めての人も、間もない人も、長く親しんでいる人も、一緒にこの個所から生き方を見つけてゆきましょう。

SDGsという言葉をみなさんもテレビでもよく聞くと思います。国連の「持続可能な開発目標(SDGsSustainable Development Goals)」のことです。それは国連によって定められた「誰も置き去りにしない社会」を作る目標です。SDGsは世界の課題を解決させるための目標です。しかし日本ではどうも「私たちの企業はこれに貢献している」といった企業のイメージアップにばかり利用されています。SDGsのバッジを付けて歩いている人をよく見かけます。日本のSDGsは世界への関心や世界規模の課題の解決には目が向けられず、企業の広告宣伝のひとつの様になってしまっています。

SDGsの本当の目標は、世界の中で開発から取り残されてしまっている人を助けることです。SDGsは大きな開発をするのではなく、それぞれの国や地域で、自分たちで維持・発展し続けてゆくことができる社会や農業を作っていくことに重点が置かれています。

例えば女性の社会進出なども目標の一つです。女性が置き去りにされる社会、女性が活躍できない社会は持続的な発展してゆくことができません。開発を支援するのではなく、女性を支援してゆくことが大事です。他にも農業では大規模な農場を開発するのではなく、家族で営まれている農業を支援しようとしています。そちらの方が、長く続くからです。

このようにして今、とにかく大きな開発をするということよりも、小さくても持続可能な開発をたくさんすることが重点にされています。そのようにして世界はSDGs「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。

「誰も置き去りにしない社会」と聞いて、私は2000年前に語られた今日の聖書の話を思い出します。これは置き去りにされた1匹の羊をめぐる物語です。聖書は2000年前からSDGs、誰も置き去りにされない社会を訴えていました。しかし、そのような社会はこれまで実現できずにいました。世界は今もう一度「誰も置き去りにしない社会」を目指しています。今日は聖書から誰も置き去りにしない社会、誰も置き去りにしない一人一人の生き方を見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。

 

 

今日はルカによる福音書15章1~7節をお読みいただきました。まずこの話がどのような場面で語られたのかを見ましょう。2節でイエス様は「罪人を迎えて食事まで一緒にしている」と言われています。イエス様の時代、イスラエルでは誰と食事をするかということは大変重要なことでした。外国人や宗教の違う人とは絶対に食事をしなかったのです。

罪人とは犯罪を犯した人だけを指す言葉ではありません。嫌われ者くらいまで含む意味の言葉です。例えば徴税人という税金を取る仕事をしている人が嫌われて、罪人と呼ばれていました。当時は罪人、嫌われ者とも絶対に一緒に食事をしてはいけなかったのです。そのような大きな差別がある時代の中でイエス様は、分け隔ての無い食事をしました。それが人々に支持されたのです。

社会からのけ者にされて、嫌われて、排除され、寂しい思いをしていた人を受け止めてゆくのがイエス様の活動でした。社会で排除され、取り残されている人を受け止め、共に食事をしてゆくのがイエス様の主な活動だったのです。そのような場所でイエス様はこんなたとえ話を始めました。ある時、羊飼いと100匹の羊がいました。しかし羊飼いは羊を1匹見失ってしまいました。これでは羊飼い失格です。羊飼いの仕事は放牧した羊たちを導き、安全に草を食べさせる、そして1匹も置き去りにせず、家まで帰すことです。しかしこの羊飼いは1匹の羊を見失ってしまいました。羊飼いが見失ったとあるので、この事件は羊飼いの責任です。

しかし羊飼いは間違えを犯してもやはり100匹の羊飼いです。99匹の羊飼いでも、多数派の羊飼いでもありません。不注意で1匹を置き去りにしてしまいましたが、1匹くらいいなくなってしまってもしょうがない、多少の脱落者は織り込み済み、ついてこれる羊だけ世話をすればよいとは考えませんでした。

そして今度は羊飼いは99匹の羊を野原に置き去りにして1匹を探しにいきます。それでよいのでしょうか?それでは今度は99匹が危険です。99匹を危険にさらして1匹を探し出すのは非合理的です。99匹の危険と1匹の迷子を天秤にかければ、99匹の安全が優先されるべきです。99匹から「たった1匹のために自分たちに危険が及ぶのはおかしい」とクレームがくるかもしれません。

しかし、羊飼いは1匹を探しに出かけます。見失ってしまった1匹、置き去りにされてしまった1匹が見つかるまで探すのです。羊飼いは1匹でも、置き去りにしないのです。そして羊飼いはその置き去りにされてしまった1匹を見つけると大喜びします。もし私だったら羊を見つけて喜ぶでしょうか。真っ先に、どこに行っていたのか、なぜ周りと同じ行動をとらなかったのかと問い詰め、怒ってしまうかもしれません。しかしこの羊飼いは怒りません。羊飼いは羊を抱きかかえ、もう一度群れに連れ戻すのです。そしてみんなに一緒に喜んで欲しいと伝えます。99匹は複雑な感情を持ったでしょう。この1匹のせいで、全体に迷惑がかかったのです。しかし、羊飼いはい1匹が置き去りにされなかったこと、また私たちの群れに戻ってきたことを、一緒に喜んで欲しいと伝えます。そしてまたこの話にも結末がありません。羊たちは喜ぶことが出来たのでしょうか?

この物語から私たちの社会、私たちの生き方について考えます。どのようなことが考えられるでしょうか。私たちはこのような羊飼い、このような群れになれているでしょうか。私たちの社会は合理的に考え、1匹を置き去りにしてしまう社会です。多数を優先し、少数者・マイノリティーを置き去りにしてしまう社会です。私たちはこの物語を通じて神様から注意を促されています。それは誰かが置き去りにされていないか考えなさいという注意です。

社会には様々な場面で置き去りが発生します。外国人の権利、沖縄の基地問題、こども、高齢者、障がい者・・・。あるいは家庭の中でも誰かを置き去りにしてしまうことも起こるでしょう。そこにもう一度注意をむけるように促しています。

この物語は古くから、失われた1匹に自分を重ね、羊飼いを神様に重ね、人生に迷う私のことを神様は探し、救い出してくださるという物語として読まれてきました。それも大切な読み方です。しかしその読み方だけでは、いま本当に社会や家庭の中で置き去りにされてしまっている人に目が向かないのです。神様が私だけを見ている神様になってしまいます。この物語の誰に自分を重ねるかが大事です。この失われた1匹に自分を重ねるのもよいのですが、違う視点も持ちたいのです。

この羊飼いと私たちを重ねます。私たちはいつも、大事な大事な1匹を見失ってしまう存在です。99匹に気を取られるのはしょうがないことかもしれません。でも羊飼いの仕事は1匹も置き去りにしないことです。そして99匹を説得することです。私たちもそのことに注意して、一人も取り残さない社会を目指してゆきましょう。

私たちは、ついて来れなかった羊を注意力がない、努力が足りないと責めるために探すのではありません。私たちは一緒にいることを喜ぶために探すのです。私たちはそのような世界を創ってゆきましょう。99匹と共に1匹を追い求める生き方、誰も置き去りにしない生き方を探してゆきましょう。

私たち自身を99匹の羊と重ねる読み方も大事でしょう。私たちはいつも自分を多数派だと思う存在です。そしてやはり私たちの中にいる少数者を見逃してしまう存在です。置き去りにしてしまうのです。99匹である自分が普通で、自分が優先されて当然だと思ってしまう存在です。この話からその考えも変えられてゆきましょう。

私たちは1匹のために多少の危険や遅れを引き受けてゆきましょう。遅れてしまう、ついて来れない1匹に気を配って、声をかけながら100匹でい続けることができるようにしてゆきましょう。私たちは信仰入門というテーマで聖書を見ています。教会に最近になって加わった人を大切にしてゆきましょう。

私たちの生き方を今日の個所から考えます。私たちは誰一人置き去りにしない社会、世界、家族、教会を願い求めてゆきましょう。羊飼いのように1匹を見失わないようにしましょう。もし見失ってしまってもその1匹を一生懸命に探す者でいましょう。そして99匹のように、1匹のために足を止め、待ち、共に100匹となってゆきましょう。

 

誰一人仲間外れにならない社会を求めてゆきましょう。私たちがいる、それぞれの場所で、そのような人がいないか、私たちはよく見つめて1週間の生活をしましょう。それがキリスト者の生き方ではないでしょうか。お祈りします。