【全文】「生きづらさの中の神」マタイ2章1~12節

みなさん、おはようございます。大晦日の主日礼拝ですが、今日も大人もこどもも共に集うことができたこと主に感謝します。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。今年1年の最後の日を礼拝で終えることができること、主に感謝します。

私は今年の大河ドラマを見ていました。時代劇を見ていると、つくづく今と価値観が全く違うと感じます。どの時代劇も殿のために命を捨てる忠義が描かれます。相手に殺されるのは恥であり、名誉のために切腹をします。何十万人も動員される合戦は、手柄を上げるチャンスです。そして女性の結婚は敵対する相手と血縁関係をつくる道具です。それらは私にとって、数百年前の全く理解できない価値観です。私たちはその時代とはまったく違う価値観に生きていると感じながらテレビを見ています。

先週は2000年前のイエス様の時代にタイムトラベルしてみたいと話をしました。もしイエス様の時代にタイムトラベルした先はどのような価値観だったのでしょうか。きっと2000年前の価値観と、今の価値観は違いすぎるはずです。そしてアジアの日本と中東のイスラエルでも価値観が違うでしょう。タイムトラベルした先で、のんびり暮らしてゆけるでしょうか。

古代のユダヤの価値観と今の私たちの価値観で、大きく違うだろうと言われていることがあります。それは人間関係のウチとソトの概念と、恥と名誉という概念です。それぞれを見てゆきたいと思います。

まず古代のユダヤ社会では人間関係のウチとソトがはっきり分かれていたといわれています。内輪とそれ以外の外野がはっきりしていたのです。人々は内輪とは親しくし、助け合っていました。例えばその内輪とは隣近所のことです。古代ユダヤで隣近所と言えば、おおむね30~40世帯位を指したと言われます。当時の家族構成を考えれば数百人を指したと思いますし、おそらく村全体を隣近所と感じていました。顔見知りの村全体が内輪です。私たちの想像する向こう三件両隣りではありません。広く内輪を認識し、その内輪の結束は固かったのです。さらに血縁関係、親戚関係も重要でした。古代のユダヤ社会では内輪の関係が重視されました。内輪には最大限の礼節と助けが与えられました。同じ村の顔見知り同士はお互いを思いやり、助け合ったのです。反対に考えると、外側の人とされた人には驚くほど冷たい社会でした。ソトの人には無関心で、ほとんど助けることは無かったのです。ソトの人には嫌悪さえ持っていました。このようにウチとソトがはっきりと分けられていました。ソトの人、仲間ではない人には冷たかったのです。特に外国人はよそもの中のよそ者だったでしょう。

もうひとつ古代ユダヤでは恥と名誉の概念が強かったと言われます。古代ユダヤではなにより名誉が大事にされました。当時の名誉とは男性にとっては自分と息子が周囲から尊敬されることでした。自分と息子が勤勉である、人格者である、働き者である。そのような周囲の評価が名誉とされました。女性にとっての名誉は、結婚し、男の子をたくさん産むことでした。もちろん当時の結婚は個人同士がするものではありません。家同士のものです。父が決めた相手と結婚し、たくさん男の子を生むことが女性の名誉でした。今とは全く違う、息苦しい時代、生きづらい時代だと思います。

もし私がそんな時代にタイムトラベルをしたらどうなるでしょうか。楽しい旅ができるかどうかは微妙です。まず仲間としては受け入れられないでしょう。きっと、ソトの人間として、よそ者として冷たく扱われるでしょう。誰も私を仲間に入れてくれないでしょう。すぐによそ者だといって殺されてしまうかもしれません。

今の私たちの、みんな同じ人間だとか、いのちは何よりも大事だとか、男女平等という論理はまったく通じない時代です。古代のユダヤではウチとソト、恥と名誉が大きな価値観でした。それは時代劇のような世界です。そんな時代、そんな価値観の中でイエス様は生まれました。今日はその誕生について考えたいと思います。 

 

 

 

 

イエス様の誕生に目を向けます。マタイ福音書1章によれば、マリアはヨセフと結婚することになっていました。親同士が決めた結婚でしょう。正式な結婚後に男の子をたくさん産むのが、マリアの名誉でした。そしてそれはマリアの父の名誉であり、マリアの家族全体の名誉でした。しかし、マリアの妊娠は結婚前に起りました。結婚と妊娠の順番が違ったのです。それは当時恥とされることでした。マリアの恥であり、マリアの父の恥であり、マリアの家族全体の恥でした。もちろんそのような理由で結婚をしないことも恥でした。

結婚前に妊娠した場合、石によって死刑にされるという律法もありました。それは秩序を破った制裁という意味とともに、女性によって失われた父と家の名誉を回復するという意味もありました。それほどに名誉は重要であり、家から恥は取り除かなければならなかったのです。おそらく石打ちに家族が加わることもあったでしょう。マリアの妊娠はそのような家族の恥でした。イエス様はお腹の中にいた時からそのような恥を背負っていました。こんな時代に生きていなくて良かったと思います。今は多くのカップルが相手を自分で選んでいます。結婚前に妊娠することも誰からも批判されません。個人個人の選択は誰からも批判される必要がないのです。しかし古代ユダヤではそうではありませんでした。生きづらい世の中です。

ルカ福音書によると、ヨセフとマリアは旅先で宿屋が見つからず、家畜小屋に泊まり、そこで出産をしたとあります。おそらく妊娠しているのにも関わらず、泊まる場所が見つからなかったのは旅先の人間関係は内輪ではなくソトの関係だったからでしょう。古代のユダヤの人々は内側の人間には丁寧に対応しても、ソトつまり他の地域からきた人には、無関心で無配慮でした。ソトの人間は、家畜小屋なら泊まっていいと言われてしまうのです。ソトの人間にはそのくらいの対応で十分という価値観でした。もしこれが内輪だったらどうでしょうか。せめて共通の知り合いが一人でもいたら、まったく対応は違っていたでしょう。ウチの人となれば、客室に通してもてなしたでしょう。しかし彼らは旅先でよそ者です。彼らにはそのような慈しみは与えられませんでした。これがウチとソトの価値観です。イエス様はそのようにソト、外側に追いやれて生まれたのです。

今日の個所によればイエス様が生まれた後、東の国から学者たちが来たとあります。今の私たちの価値観では、イエス様の誕生を偉い学者も拝みに来たと感じます。でも彼らは偉い学者ではありません。当時の学者はあやしい人がたくさんいました。魔術師や、イカサマ師がたくさんいました。この人たちも星占いをする、あやしい人です。その人は古代のユダヤの基準からするととんでもなくソトの人です。そのまったくソトの人が、同じくソトにされたイエス様を訪ねています。恥の中で生まれた子を、家畜小屋に追いやられていた子どもを、さらに異国のもっと外側の人が訪ねて来たのです。ソトの人が、ソトの人を訪ねる物語、それが学者の訪問の物語です。

イエスの誕生を見ると、マリアの婚前妊娠という恥から始まります。そんなことは家族にとっては恥だ、あなたにとって恥だということから物語が始まります。そしてソト、家畜小屋に追いやられます。そしてさらにもっとソトの人が、イエス様を訪ねて来ます。それがクリスマスの物語です。

イエス様の誕生物語はこのように、ソトと恥の物語です。内側の名誉の物語ではありません。不名誉と内輪からはずされた人の物語です。でもそこにイエス様の誕生がありました。恥とソトの中に、イエス様の誕生があったのです。神の子の歩みはソトに追いやられた人から始まったのです。神の子の歩みは恥と言われた家、恥と言われた母から始まったのです。

今日のことからどのように神様のことを考えるでしょうか。神様は私たちにどのように関わる方だと考えることができるでしょうか?神様は世界のどこにいるでしょうか。今日感じるのは、神は私たちの内側の誇らしい場所に居るのではないということです。私の中の一番きれいな場所にいるのではないということです。神様は恥、不名誉とされる中に、私たちがソトだとする人の中にいるということです。それが私たちの神様です。神様は当時の価値観の中で隅に追いやられた者として生まれました。生きづらい者として生まれました。

その時代の価値観は、今の私たちの価値観とは全く違います。でも今の私たちに置き換えて考えます。今の私たちの世界の、時代の、どのような価値観が、誰を隅に追いやっているのでしょうか。この時代、この国のどんな価値観が誰を隅に追いやっているのでしょうか。イエス様の誕生はそれに目を向けるようにと、私たちに訴えているのではないでしょうか。私たちの世界で誰が生きづらいと感じているでしょうか。特に日本ではこどもや若者や外国にルーツを持つ人が生きづらいと感じていると聞きます。そこに神様は来てくださるでしょうか。そこにこそ、生きづらいと感じる人にこそ神様はきっと来て下さるのではないでしょうか。そのような中にこそイエス様が生まれたのが、クリスマスなのではないでしょうか?

今日で1年が終わります。明日から新しい1年が始まります。私はこの時代に生きづらさを抱える人とその場所に、目を向けてゆく、そのような1年にしてゆきたいと思いました。そして生きづらいと感じている人に、そこにこそ神様が共にいることが伝わる、そのような1年になることを願っています。お祈りします。