【全文】「神はどこにいるのか」イザヤ63章7~14節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしてゆきましょう。3月は旧約聖書を一緒に読もうと思っています。そして今、教会の暦ではレントという期間にあたります。レントとは日本語で受難節とも呼ばれ、イースターの前の40日間、イエス様の十字架を覚える期間です。イエス様の十字架を特に深く考える期間です。今日は旧約聖書からレント・受難節を考えたいと思います。

新約聖書のイエス・キリストは人々に愛し合うようにと教えました。分かち合って生きるようにと教えました。しかしその教えは人々に受け入れられなかったのです。人々は受け入れずにイエス様を十字架で殺してしまったのです。受け入れなかった理由はいくつかあるのですが、一つには政権の安定のためということがありました。人を愛する生き方を勧めたイエス様は、人々に熱狂的に迎えられました。その時政治家たち、権力者たちは自分の立場が危ういと感じたのです。自分の立場を守るために早く殺しておこうと思ったのです。もう一つは既得権益のためです。宗教者も政治家も裁判官も、もっと自分にお金が集まるようにしたかったのです。愛と分かち合いは、自分にお金を集めたい人にはまったく不都合でした。早く殺そうと思ったのです。民衆もイエス様の十字架を支持しました。この世界に革命を起こして、新しい王が誕生することを願ったのですが、イエス様は地上の王になろうとはしませんでした。民衆にとってそれは大きな期待外れでした。

結局イエス様は十字架刑という大変な苦痛を伴う刑で殺されることになりました。愛と分かち合いに生きようとした、主イエスは十字架で殺されてしまったのです。そのことを忘れないために、レント・受難節があります。

当時は他にも多くの人が十字架刑に架けられました。しかし中でもイエス様が特殊であったのは、十字架の上に到る最後まで、他者のために生きようとしたことです。そしてさらにその後、復活と呼ばれる出来事があったと言われていることです。私たちはこの方をキリスト、私たちの救い主、私たちの人生の道しるべとしています。イエス・キリストを神と等しい存在として、毎週礼拝をしています。

神様と等しい存在であるイエス・キリストが十字架に架けられて死んでしまったということ、どのように考えればよいでしょうか。神様はイエス様が十字架刑で激しい苦痛を味わっている時、一体どこで、何をしていたのでしょうか。他者のために生きようという素晴らしい教えを広げようとしていた人が、十字架に架けられて、もがいている時、神様はどこで、何をしていたのでしょうか。

神様はなぜイエス様を見捨てたのでしょうか。神はどこにいたのでしょうか。神はどのようなお方なのでしょうか。このことは私たちにもつながる問題です。私たちが他者のために生きようとするときも必ず苦痛が伴います。その時、神様はどこにいるのでしょうか。今日は旧約聖書から、私たちが苦難の時、神様がどこいるのかを考えたいと思います。今日の個所を読みましょう。

 

今日はイザヤ書を63章7~14節お読みいただきました。イザヤ書も、先週のエゼキエル書同様、神様からの言葉を預かった預言者イザヤの言葉が記された書です。特にこの個所はイスラエルが戦争に徹底的に負けた後に書かれたものだと言われています。つまり大きな苦難を通された後に、あの時神様はどこにいたのだろうかと考えている時、神様から与えられた言葉だということです。ここから、神様は苦難の時にどこにいるのかを考えたいと思います。

まず目に留まるのは8節「彼らは私たちの民、偽りのない子らである」という箇所です。神様は私たちをこどもにしてくださるお方です。私たちは神様のこどもと言われてもピンとこないかもしれません。それはこの命が神様から特別に大事にされているという意味ですが、もう一つ意味があります。それは、私たちは神様と直接つながっているということです。これは当時の宗教では考えられないことでした。当時の宗教の多くは、王様一人だけが神の子でした。戦争に勝った王様が、神様から守られた人、王こそが神様のこどもと考えられていたのです。ローマでもエジプトでも戦争に勝った最高権力者こそ、神の子だと言われていたのです。では王様以外の人間はどうだったのでしょうか。それ以外の人間は神の子ではありません。ただの人間、ただの生き物でした。ただ王様、神の子の命令に従うだけの存在だったのです。それが当時みんなが知っている神の子でした。

しかしイスラエルの神の子は大きな違いがありました。イスラエルの神様のこどもは戦争に勝った王ではありませんでした。神様は8節で、あなた方はわたしのこどもだと語り掛けています。イスラエルの神は戦争に負けた弱い国の民衆一人一人に、私のこどもと呼びかけたのです。これがイスラエルの神様です。戦争に勝つ強い王様だけではなく、民衆一人一人が神の子だと言うのです。これこそ命の神です。すべての人を神の子としてくださる神です。誰にも独占されない神です。民主的な神の姿です。

苦難の時、神様はどこにいるのでしょうか。神様は戦争に勝った王と共にいるのではありません。神様はすべての人と共にいます。特に弱い人、苦しんでいる人、不幸が降りかかっている人、神様に遠いと思える人に、私のこどもと呼びかけるのです。あなたと共にいると呼びかけるのです。神様は誰か強いリーダーと共にいるのではありません。民衆一人一人、私たち一人一人と共にいます。あなたは私の子というのはそのような意味です。神様はどんなに苦しくて、どんなに虐げられても、どんなに負け続けても、一人一人と直接的な関係にあり、共にいるお方なのです。

苦難を感じる時、神様はどこにいるのかということについて。もう一つ目に留まるのは、9節の「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし」という箇所です。神様はその苦しみを自分のものとするとあります。神様は私たちが苦しいと感じる時、一緒に苦しいと感じているということです。私たちはこどもや家族や親しい人が苦しい時「代わってあげたい」と思うことがあります。そして自分まで苦しい気持ちになる時があります。神様も同じです。神様もあなたの苦しみを見て、自分まで苦しいと思うお方です。神様は私たちの苦しみを常に、自分の苦しみとしているお方なのです。私たちの神様は、一緒に苦しむ神様です。神様は常に平常心で、何事にも動じない神様ではありません。神様は私たちと一緒に泣いたり笑ったりするのです。神様は天高くおられ、地上をのんびり見ているという考え方は聖書的ではありません。神様は私たちとともにおられ、私たちと共に、喜怒哀楽しているお方なのです。

そして9節後半にも目を向けます。神様は私たちを救ってくださるお方です。私たちに愛と憐みを示し、救ってくださるお方です。神様は私たちが苦しい中でも、愛と憐みを持って生きるようにしてくださるお方です。私たちを救ってくださる神様は、私たちの重荷を共に背負い、愛と憐みに生きる苦労を分かち合ってくださるお方です。私たちを背負ってくださるお方なのです。

11節には「神はどこにいるのか」という私たちと同じ問いかけがあります。私たちの世界には戦争や災害、自らに降りかかる苦難があります。その時「神はどこにいるのか」と思わざるを得ないのです。

しかしその問いにこの個所は答えています。13節にあるように荒れ野をゆく時も躓かず、14節神は「谷間を降りてゆく家畜のように」「ご自分の民を導」くのです。神様は共にいるのです。苦難の時も、主が共に苦しみ、主が新しい場所へと導いてくださるのです。神様は私たちに希望があると言っています。私たちが困難な時も神様が私たちを見捨てたわけではない、必ず安心して暮らすことが出来る場所へと導くと約束してくださっているのです。

私たちはそのことを今日、旧約聖書・イザヤ書から知ることができるのです。そしてもっとはっきりと、イエス・キリストの歩みから知ることができます。イエス・キリストは神と等しいお方でしたが、人間として地上に来られました。私たちと共にいる者として歩まれたのです。イエス・キリストは人々と共に泣き、共に食べ、共に笑いました。このイエス・キリストが私たちに与えられたのです。

そして、イエスは愛と憐みに生きようとして苦労をしました。死に至る十字架の苦難を通ったのです。そのときイエス・キリストさえも「神はどこにいるのか」と叫びました。それほどまでに人間の苦難を知ったお方だったのです。神様はどこにいたのでしょうか。神様は叫びをあげたそこにいました。叫んだ人自身が神様でした。神様は一緒に叫んだのです。そして神様はそこで苦難と死で終わらない希望を示しました。イエス・キリストを復活させたのです。

私たちにもこの神様が、このイエス・キリストが共にいます。今キリストの苦難を覚える時をいただいています。それはただ痛くてかわいそうということを感じるときではありません。それは神様が私たちの苦難の時、共に苦しんでいることを感じる時です。私たちには苦しくとも、神様が共にいるのです。苦しい時も神様が新しい道を備えて下さるのです。神様はもっとも恐れる死さえも超えて、新しい希望を示してくださるお方なのです。

神様はどこにいるでしょうか。その迷いの中にいます。その叫びの中にいます。その苦痛の中にいます。そのあなたを、神様は神の子として深い関係にあろうとしてくださいます。

今日、十字架を覚え、そして苦難のただなかにあっても共にいる神様を覚えましょう。お祈りします。