【全文】「屋根に穴の開いた教会」ルカ5章17~26節

 

 みなさん、おようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声、足音も礼拝の一部としてお献げしています。共に礼拝をしましょう。今月は2回「地域協働」をテーマとして、宣教をしたいと思います。来週は信教の自由をテーマにし、その次は松藤先生をお招きします。第4週にまた地域協働をテーマとしたいと思います。

今年の平塚教会のクリスマスの行事にはたくさんの人が来ました。キャンドル礼拝に60人、こどもクリスマスに51人、こひつじ食堂は194食。週報に掲載された人数を見て、別の教会の数字なのではないかと思ったほどです。ここ最近のキャンドル礼拝の中では一番人数が多かったかもしれません。うれしかったのは木曜日のこひつじ広場に遊びに来ていたこどもが、家族と一緒にキャンドル礼拝に来てくれたことです。いろいろな方が集いました。初めて来られた方、久しぶりに来られた方、教会員の家族の方、そして地域の活動から来た方がいました。いろいろな方がいました。もちろん中には、事情があって集えない人もいて残念でしたが、YouTubeで見ていたという方も多くいらっしゃいました。

きっと平塚教会は今、以前より入りやすい教会になっているのではないでしょうか。平塚教会は地域の方たちから、あそこには教会があるという印象以上に新しく、様々印象を持たれるようになっています。私たちは食堂をしている教会、こどもに関わろうとする教会、YouTubeで配信されている教会です。先日地域のある方にも、平塚教会は地域に密着していますねと言われました。うれしかったです。

平塚教会は地域の方たちと交流し、地域の方同士の交流が生まれる場所として、用いられています。多くの教会がありますが、ここまで地域との関わりが多い教会は珍しいと言ってよいでしょう。食堂でも、広場でも、炊き出しでも、まず教会の中に入って来てもらうことが大事だと思います。この会堂に親しみを持ってもらい、私たちと会話をして、顔を覚えてもらうことが大事です。私は時々あの教会に行きます、そう意識してもらう事が、とても大切なことだと思います。

私たちは今までもずっと、地域の人たちを歓迎してきました。しかし、今まではなかなかそれは伝わらなかったかもしれません。でも私たちがもう一歩、地域に踏み出したとき、愛の実践をしようとした時、地域から応援され、地域に愛され、いろいろな方が訪ねてくださるように変化が起きてきています。たとえば食材を分けて下さる方が訪ねてきます。お菓子を買って差し入れて下さる方がいます。ボランティアがしたいと訪ねてくださる方がいます。私たちの想像もしないような方法で、教会につながる、教会に訪ねてくる方が増えています。

72年目にして、教会と地域の人たちの新しい関係が出来ようとしています。このことをもっと進めてゆきたいと思っています。もっと入りやすい教会にしてゆきたいし、もっと協力して歩むことができる教会になりたいし、ここにずっと建っていることができるように、修繕と土地の売却の事も進めてゆきたいと思います。

私たちの教会の会堂の屋根には穴が空いています。そこから雨漏りがあります。この穴はどうにかしないといけません。教育館にはネズミの穴があるようです。この穴もどうにかしなければいけません。一緒に未来について考えましょう。

今日の聖書に登場するも私たちの教会と同様に、屋根に穴の開いた教会の物語です。そして私たちの教会と同様に、想像もしないような方法で、教会につながってゆく物語です。屋根の穴から新しい仲間が与えられる物語を一緒に読みましょう。

 

 

 

 

今日はルカ5章17節~26節までを読んでいただきました。今日の聖書の箇所は4人の仲間の信仰に注目するのが、多くの読み方です。このようにお友達を教会に連れてくる信仰はすばらしい信仰です。伝道しましょう。一人が一人を連れてきましょうと語られてきた箇所です。しかしこの個所を地域協働という視点で読むときどのように読むことが出来るでしょうか。今日は平塚教会の地域協働の視点でこの個所を読みたいと思います。

今日私が目に留まったのは、19節「群衆に阻まれて」礼拝堂に入ることができなかったという箇所です。どうして群衆は彼らが礼拝堂に入ることを阻んだのでしょうか?阻む理由がわかりません。ファリサイ派や律法学者が阻むならわかりますが、阻んだのは群衆でした。群衆には、誰かを礼拝に加えたくない、阻む気持ちがあったのでしょうか。阻む理由は障がいを持っていたことではなかったはずです。なぜならそこでたくさんの癒しが行われていたのです。彼らは歓迎されるはずでした。しかし彼らは阻まれました。もしかしたら群衆は阻む気持ちなど、なかったのではないでしょうか。でも後から来た人にとっては阻まれたように感じられたのではないでしょうか。なんか入りづらい雰囲気だったということです。私なんかが入ってもいいの?自分なんかきっと歓迎されない。そんな気がしたのです。

しかし彼らはこの集会に大変興味がありました。のぞいてみたい、一緒に賛美をしたい、仲間のこと相談したい、そう強く願ったのです。そして彼らは、屋根に上って穴をあけ、そこから入ろうとしました。正面からは入れない、入りづらいと感じた人は、屋根から入ってきました。入り口ではない場所に、穴をあけて、新来者が入って来たのです。彼らは新しい入り口を作って入って来たのです。屋根には大きな穴が空きました。しかし、そこからは新しい仲間が入って来ました。入り口はここにあって、もう誰も入ってこないという、内側の人々の思い込みを超えて、屋根から新しい仲間が入って来たのです。それは内側の人からすると、天に穴が空いて新しい風が吹いたという出来事でした。その穴は教会に今までにない在り方、今までにない関わり方をもたらす風穴となったのです。新しい風が礼拝堂に吹いたのです。そしてイエス様は、入り口ではない場所から入ってきた人を見て、素晴らしい信仰だ「罪は赦された」と言っています。

私はこの屋根に穴が開いた事件を想像して、これは私たちの教会にも当てはまるかもしれないと思いました。私たちの教会は決してだれも阻んでいませんが、何度それを言葉で言っても、伝わりません。敷居が高いと感じられ続けています。しかし、もしかしたら私たちの地域活動は、この屋根に開いた穴なのではないかと感じます。こひつじ食堂やこひつじひろば、ホームレスの支援が屋根の穴なのではないでしょうか。

私たちにとっての「入り口」ではない場所から仲間が与えられる、その穴です。私たちにとって新しく仲間が加わるとは、聖書に興味のある人がある日、教会の正面から会堂に入り、徐々に定着をしてゆく、やがてバプテスマを受けて教会員になる、そのようなことを考えます。しかし、今の平塚教会は、つながり方が多様になってきています。地域活動から礼拝につながる人、こひつじ広場で教会につながる人、食堂で教会につながる人などさまざまな入口から教会につながっています。そういえばずいぶん前から多くの人がホームページやYouTubeを見て教会に来るようになりました。いままで想像もしなかった入り口から、入ってくる仲間がいるのです。それは私たちにとっては屋根の穴から入って来る仲間のように感じるかもしれません。

もしかして私たちもこの群衆のようになっていないでしょうか。阻んでいるつもりは全くなく、むしろ歓迎をしています。でもそのような雰囲気になっていないでしょうか。もっと正面から入れるような雰囲気にしたいと思います。

そして私たちの思いを超えて、屋根から入って来る仲間がいます。屋根から入って来る仲間も大歓迎です。イエス様が歓迎をしています。礼拝につながる、教会につながるのはどこからでもいいのです。屋根からでも、正面からでもどこからでもいいのです。どんなきっかけでもいいのです、この礼拝を、この会堂での体験を共にすることが大事なのです。この穴はきっと神様が開けて下さった穴です。神様は私たちの地域活動によって、教会に穴をあけて下さいます。新しい仲間を与えて下さいます。この穴をもっと広げてゆきましょう。

内側にいた群衆も見ておきましょう。内側にいた人々は屋根に穴が開いたら大騒ぎするはずなのに、誰も迷惑そうにする様子はありません。そのまま礼拝が続いています。おもしろい光景です。もしかしたら、これも私たちの礼拝と共通するかもしれません。こども達の声がしていても礼拝が続くような雰囲気です。大きな音を立てる人がいました。でもみんないつもどおり礼拝したのです。そのような音も礼拝の一部として礼拝していたのです。私たちもそのような礼拝をしています。

このように神様は私たちの教会に風穴を開けて下さるお方です。その風穴からいろいろな人が入って来ます。神様はどんなつながり方も歓迎するお方です。私たちはこの群衆のようにさまざまな形で教会に関わろうとする仲間、特にこどもたちを、優しいまなざしで受け止めてゆきましょう。一緒に礼拝をしてゆきましょう。地域との活動を続けてゆきましょう。

そして、入るのにためらいのない、もっと入りやすい教会、入るきっかけがたくさんある教会、お友達を誘いやすい教会になってゆきましょう。神様がそのように私たちの教会の屋根にも風穴を開けてくださることを願います。神様が私たち一人一人の心にも思いもよらない穴をあけ、そこから新しい風を吹き込んでくださることを願います。私たちはその風に吹かれながら、礼拝しましょう。お祈りします。