【全文】「幸いを宣言する神」 ルカ6章20~23節

 

 みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に、こどもたちの声と足音を聞きながら礼拝しましょう。

今月と来月は信仰入門というテーマで宣教をしています。1回目、キリスト教は愛の宗教ですとご紹介しました。2回目はクリスチャンになるとは、信じきるということよりも、信じたいという願いを持つことなのだとお話しました。3回目の今日からは、聖書の中でも特に有名な個所を選んで開いてゆきたいと思います。今日の個所は、イエス様の説教として有名な個所で「幸いである」という響きが親しまれている箇所です。

今日はこの個所から、キリスト教が「あなた方は幸いである」「あなた方は大丈夫ですよ」と、一方的に幸いを宣言する宗教であるということをご紹介したいと思います。キリスト教はそのように希望を受け取ることができる宗教であるということをご紹介します。

私は牧師を始めて5年目になります。神学校という牧師養成の学校で学んでから、平塚教会の牧師として赴任しました。卒業前に私はお世話になった先輩の牧師の家を訪ねる機会がありました。本当に牧師をやってゆけるのだろうか、いろいろな心配事があって話を聞いて欲しかったのです。私のいろいろな心配事を聞いた後、先輩の牧師は力強くこう言いました。「大丈夫、大丈夫」。先輩は「大丈夫だ」と力強く言い切ったのです。私にとって信頼していた先輩でしたので、すごく気持ちが楽になって、安心をしたのを覚えています。信頼している先輩からの「大丈夫」という言葉を今でも大切にしています。でも実はその時、先輩牧師のお連れ合いも一緒にいました。そして横からすかさず言ったのです。「あなたそんな簡単に、人に大丈夫だなんて言うもんじゃないよ」確かにそうです。心配事のある人に、簡単に大丈夫、大丈夫という声をかけてはいけません。それは心配事のある人に対してとても無責任で、不安に思っている相手に対して不誠実で、いい加減な励ましです。それは間違えて使うと親身に不安に耳を傾けてくれていない様に感じさせる言葉です。

 

大丈夫という言葉は、信頼している人に言われるととても安心できる言葉です。でも信頼関係が十分ではないと、相手を突き放す、投げやりな言葉に聞こえるかもしれません。

聖書にも実はこの「大丈夫」に似た言葉が出てきます。それは今日の個所にある「幸いである」という言葉です。イエス様はここで「あなた方は幸せである」「あなた方は大丈夫である」と断言をしています。みなさんはここに安心を感じるでしょうか。希望を感じるでしょうか。それとも無責任さや突き放された思いを感じるでしょうか。

きっと神様を信頼する時には、この言葉から大きな安心と希望をいただけるはずです。この個所から「あなた方は大丈夫だ」そう宣言し、私たちに希望を与えてくれる神様の姿を見てゆきたいと思います。聖書を一緒にお読みしましょう。

 

 

ルカによる福音書6章20~23節をお読みいただきました。イエス様は2000年前、現在のパレスチナで活動をしていました。イエス様の教えに共感し、たくさんの人が従いました。その人々の多くは極めて貧しい人々だったと言われています。お金を1円も持ってない人、今日の食べ物がない人、今日寝る家のない人、そのような人がイエス様に従っていたのです。

21~22節には、飢えている人、泣いている人、憎まれている人、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人と書いてありますが、イエス様の目の前に居る人はまさにそのような人々だったと考えられています。イエス様に従ったのは貧乏で、お腹が空いていて、泣いていて、元居た場所から追い出されてきた人の集まりだったのです。そのような人が大勢集まっている様子を想像します。きっとみんな疲れて、ボロボロになって、行く当ても、食べる物もない人です。彼らは今日生きることができるかどうかという不安、将来に対する失望、悲惨な現実の中に、うつむいていた人々です。

多くの場合、宗教はこのような苦難を神の試練や、天罰と考えます。彼らの周りも、そして彼ら自身もそう考えたでしょうか。私がダメな人間だから、悪い人間だから、徳が足りないから、だから私はこのような苦労をしているのだと考えます。でもそう考えると、ますます落ち込むでしょう。そのように貧しく、落ち込んだ、ふさぎ込んだ人々がイエス様の元に集まっていたのです。そこにイエス様はおられたのです。

今日読んだ箇所では驚くべきことがあります。それはイエス様はこの、どう見ても幸せには見えない人々に向けて「あなた方は幸いである」と断言をしているという事です。それは今、空腹でも「大丈夫だ」、今泣いていても「大丈夫だ」という宣言です。イエス様は「幸いだ」「大丈夫だ」という希望を断定的に、一方的に宣言しています。

イエス様は今の状況は必ず変わると宣言します。それはイエス様が彼らに約束をしているとも言えるでしょう。イエス様は貧しいものは、豊かになると約束しています。イエス様はお腹空いている人はお腹いっぱいになるのだと約束しています。涙は笑顔に変わる、追い出されて嫌われていた人は受け入れられ愛される、そう約束をしているのです。これは単純な話です。いま苦しくても絶対良くなるよと言っているということです。これは今悲しくても笑える日が来るという極めて単純な希望です。明るい未来がある、大丈夫だということです。単純で、幼稚とも思える希望が聖書には書かれています。

状況をよく考えると、何も大丈夫ではありません。もしこれが人間同士の会話であったなら「そんな簡単に、人に大丈夫だなんて言うんじゃないよ」という注意が聞こえてくるでしょう。それは無責任な言葉として響くかもしれません。しかしここでは希望があると語られています。ここでは、どう見ても大丈夫な状況ではない、幸せな状況ではないその中で「大丈夫だ」「幸いである」と語られています。この状況からどうやって満たされるの?なぜ笑顔になれるの?どのように愛されるようになるの?と疑問に思います。私は戸惑いを覚えます。

ここには、神様からの経緯、経過、理由の説明は一切ありません。要はこの宣言には一切の根拠と説明がないのです。なぜ大丈夫なのか、なぜ幸せなのかまったく根拠や理由が示されないまま、ただ神様があなた方は大丈夫だ、あなた方は幸いであると一方的に宣言しているのです。このような希望を語れる、語って良いのは、神様だけです。人間の同士が励まし合い、活力をもらうことは多くあります。しかし、大丈夫、どうにかなるという根拠のない励ましは、時には無責任な励ましにもなります。しかし神様はこの様にまったく根拠のない幸いを宣言します。そこに不思議な力が生まれるのです。神様は一切の根拠なく、一切の変化や努力も求めず、ただ私たちの幸いを約束しています。私たちは必ずお腹が満たされ、笑い、愛されると約束されているのです。神様を信じていない人にとって、それは無責任な約束かもしれません。でも神様を信頼する時、私たちにとってそれは大きな希望、大きな安心へと変わってゆきます。

私たちの希望は極めて単純です。私たちが信頼する神様は、君は幸いだ、必ず満たされると約束をしてくださっています。神様は一切の根拠なしにそれを断定し、一方的に宣言しているのです。目の前にいる人々は明らかに、全然大丈夫じゃない人たち、全然幸せそうに見えない人たちです。でもイエス様は「大丈夫だ」「幸いである」と宣言しています。聖書にはそのような単純で、純粋な希望が書かれているのです。

私たちの生き方について考えます。人生にはなんともならないことが多いものです。誰かに簡単に「大丈夫だ」なんて言われたくないことばかりです。誰かの苦労に簡単に「大丈夫だ」と言ってあげることができないことばかりです。

でも神様は違います。神様はとても単純です。神様は「大丈夫」「幸いである」「なんとかなる」と言っているのです。私たちはそんな単純な希望を信じています。私たちの中に何か根拠があるわけではありません。でも神様が大丈夫、幸いであると言うならば、そうなるのかもしれないと思って歩んでいるのです。みなさんの生活にも様々な問題や悩みがあるでしょう。おそらくそれは私から見ればまったく大丈夫ではない問題、心配するに十分に値する問題でしょう。大いに不安に思う問題でしょう。

しかし神様は言います。「あなたがたは幸いだ」「あなたがたは大丈夫だ」私はこの単純な希望を信じたいと願っています。どうして大丈夫なのか、何が大丈夫なのか、何をすれば良いのかさっぱりわかりません。でも大丈夫、でも幸いであるという神様からの希望を受け取ってゆきたいのです。

神様を信じる人にとって、神様を信頼する人にとって、この言葉は大きな希望の言葉なのです。このように神様を信じると、根拠のない希望が与えられます。神様を根拠とした希望が与えられます。神様から一方的にいただく希望が私たちに迫って来るのです。

みなさんにもその希望を受け取って欲しいと願っています。神様を信じる者、神様に信頼する者となるようにお勧めをします。きっとそれぞれにいろいろな問題を抱えておられるでしょう。でも神様に信頼すると、そのような中でも希望を持って生きることができるはずです。この私を「幸いだ」と宣言してくださる神様を信頼し、共に歩んでゆきましょう。お祈りします。