【全文】「顔を上げさせる神」ルカ21章25~33節

みなさんおはようございます。今日も共に集い、礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聴きながら礼拝しましょう。今日からアドベントです。クリスマスの到来を待ち望む時です。ろうそくを1本ずつ灯し、クリスマスを待ち望みながら礼拝をしてゆきましょう。

今日は昼食を食べた後、大掃除と飾りつけを行います。今年もいろいろあって、あっという間の1年でした。時が流れるのは本当に早いものです。教会は落ち葉の季節になりました。庭や道路にたくさんの葉が落ちています。葉がすべて落ちるまで、しばらくは落ち葉の掃除が大変な時期です。気づいた方はどうぞお手伝いください。

数年教会で過ごして気づいたのは、春と夏は雑草との戦いであること、秋は落ち葉との戦いであることです。雑草を刈るのに一生懸命だと思ったら、次は落ちてくる葉を拾うのが忙しくなります。庭の草木は、葉を茂らすことと、葉を落とすことを毎年変わらずに繰り返しています。木々にとって、葉が落ちない冬はないし、葉が茂らない夏もありません。植物はそのように確実に季節を巡っています。私たちもあとひと月ほどでクリスマスです。クリスマスも毎年必ずやってくるものです。その後には必ず春が来て、その後には必ず夏が来ます。多少の気候変動があっても、それは確実です。そのように時や季節が巡る確かさを、私たちは知っています。春は待っていても、待っていなくても必ずやって来るのです。

季節が確実に巡る一方、人生はいつも不確実です。人生は確実に時を刻むとは限りません。人生には春夏秋冬が順番に訪れるわけではありません。喜びのさなかに突然の悲しみがあり、反対に悲しみの中に突然喜びがあります。そして人間はすぐに気が変わります。人間はいつも不確実です。人間はいつも予測不可能です。人間の人生は、自然や時間の確実さとは違う、不確実さにあふれています。

アドベントとは「到来」という意味の言葉です。クリスマスの到来を待ち望む1ヶ月です。時の流れは正確です。春も12月25日も、待っていても、待っていなくても、それは確実にやって来ます。良い子にも悪い子にもクリスマスはやってきます。私たちにはそれが必ず来るでしょう。私たちはクリスマスをどう待つのかが大事です。人間がそれをどう待つのかが不確実なのです。

必ず来るクリスマス。私たちの心にイエス様は必ず来て下さいます。私たちにとって大事なのは必ず来るものをどう待つかです。それを考えるのがアドベントです。今日は聖書から、クリスマスが確実に来るように、私たちにもきっと神様が来て下さるということを見ます。そして私たちはそれを待つ間、顔を上げて、うつむいた顔を上げて、前を向いて、それを待とうということを見てゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所をお読みしましょう。今日はルカ福音書21章25節~33節です。25節には「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。」とあります。これは世界の終りの時、様々な超常現象が起こるという意味ではありません。太陽と月、星は世界の確実さの象徴です。太陽と月と星は数千年、数億年にわたって規則正しく動き続けてきました。日はまた昇るという言葉があるように、天体の動きは人間に左右されません。天体の運動とは確実で、信頼できるものの象徴です。

しかし25節ではその確実と思えたものに徴が現れるとあります。それは確実であったものに、変化が起るということです。26節には天体が揺れ動くとあります。これまで動きが完全に規則的で、予測できたはずのものが、予測不応な不確実な状態になるということです。今まで規則正しく、確実であったものが、揺れる、変化する時、人々はそれを恐ろしく感じます。変わらないと思っていたものが変わる時、不安になるのです。変わらないと思っていたものが、変わってしまう時、自分は何をしたら良いのか分からなくなってしまうのです。26節「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。」とあります。人間は変化に対して、不安になるのです。

確実で変わらないと思っていたことが、変わることがあります。春夏秋冬も気候変動によって少しずつ確実ではなくなっています。ゲリラ豪雨や季節はずれの台風、コロナの事、予測不可能なことが増えてきています。変わらないと思っていたものが、変わってゆく不安は私たちにも、よくわかります。変わらない自然さえ変わってしまう時代です。人間はならなおさら変わるでしょう。仲間同士の関係は変わらないと思っていても、案外、簡単に変わってしまうものです。時間がたてば家族との関係も変わります。友人との関係も時と共に大きく変わります。教会員同士も同じでしょう。関係はどんどん変わります。ずっと来るのだと思っていた方が教会を離れることがあります。もう戻ってこないと思っていた人が戻って来ることがあります。人間はころころ変わるのです。人間はいつもその変化に悩みます。いつもと違う事、思っていたことと違うこと、予想と違うことに人は悩むのです。

確実なものはこの世界にどんどん少なくなっています。天候も変わる、人間も変わる、変わらないのは太陽と月と星くらいです。でもそれさえも変わる時がくるのでしょうか。そのような中で、変わらないものは無いのでしょうか。

26節には「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあります。これは神様は天地が変わる時、変わらないと思っていたものが変わる時、不安に思っている時に、私たちのもとに来てくださるという約束です。聖書は、イエス様が必ず来ると、それをあなたたちは必ず見ると語っています。私たちの世界は大きく変わるかもしれません。変わらないと思っていたこと、変わらないと思っていたあの人との関係は、変わってしまうかもしれません。想像もしない変化や、不条理なこと、突然の自然災害がおこるかもしれません。それはすでに起きているかもしれません。しかし私たちにはただひとつ、変わらないものがあります。それが26節にあるように、神様が来るという約束です。

神様が来るという約束、それは私たちの変化のただ中に与えられた約束です。私たちの変化の中に、神様が来るという約束です。どんなに自然が変わっても、どんなに人間が変わっても、どんなに世界が変わっても、この約束だけは確かなものです。どんなに人間が変わろうとも、どんな天変地異が起きようとも、変わらないものがただ一つだけあります。それが人の子、イエス・キリストがやって来る、それを私たちが見るという約束です。私たちは様々な変化の中にあっても、その変わらない、確実な約束をいただいています。

そしてイエス様は私たちがその約束をどのように待つべきかを教えています。28節には「身を起こして頭を上げなさい」とあります。私たちの人生には様々な困難や、求められる変化があります。しかし私たちがその人生を、うつむいて歩くのはいけないということです。聖書は私たちに体を起こして、背筋を伸ばして、顔を上げて、前を向いて歩みなさいと言っています。不確実で不条理な時代の中にあっても、神様が必ず来るという約束を信じ、顔を上げて歩こうと言っているのです。私たちはそのように歩みましょう。

イエス様はこの後、いちじくの木のたとえ話を始めます。いちじくや、他の木が成長しているのを見たら、神様のことを思い出すようにと言っています。ここでも、季節が巡り、葉が茂り、また枯れてゆく、その確かさのように、神様はあなたのもとに来るのだと言っています。

そして31節には「神の国は近づいている」とあります。それは神様の方から近づいてくるという意味です。神の国は神様の方から近づいてくるもので、私たちが一生懸命探すのではありません。私たちに求められているのは、神の国に到達するために頑張ることではありません。すでに神様の方から私たちに到来しているのです。私たちに求められていること、それは待つことです。世界は変わります。人の心、人間関係も変わります。変わっていいのです。変わらないものの方が少ないのです。そして私たちは変化に不安を感じるかもしれません。外に出たくなくなるかもしれません。しかし神様は必ず、私たちのもとに来てくださるのです。

そして33節にこうあります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。聖書の言葉は天地が滅んでも、人間がどんなに変わっても、変わらない、無くならないのです。私たちにはその確実さが与えられているのです。

人生や世界には、予想もしないような変化が起きます。私たちはそれを不安に思ったり、どうしたらよいかわからないものです。でも私たちに変わらないものがあります。それは神様が私たちのもとに来るという約束と、神様の言葉です。神様の約束と神様の言葉は変わらない確実なものです。私たちの人生には不確実と困難さあります。しかし私たちは顔を上げて歩みたいのです。イエス様が必ず私の心に来て下さるという確かな希望を持って、顔を上げて歩みたいのです。どんなに世界が変わっても、神様のことばは決して滅びないことに希望をもって、顔を上げて歩みたいのです。うつむいた顔を上げて、主イエスを見上げましょう。背を伸ばし、心を開き、主イエスの愛を受け取りましょう。お祈りします。