【全文】「神の光が私の中で輝く」ルカ11章33~44節

 

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝ができること感謝です。こどもたちの声と足音を聴きながら礼拝しましょう。

今日、新しい命がスタートをしました。ひとつの命が神様に従うという決心に導かれ、バプテスマを受けました。これはただ単に個人に起きたことではなく、私たちにとっても大きな喜びです。私も神様と共に生きる仲間を新しくいただいたことを、うれしく思います。信仰告白もいただきました。私には生きる資格なんてないのだと思ったとき、私はダメな人間だと思ったとき、神様はその人を離れませんでした。神様はその時にこそ、生きる力を与えて下さいました。神様はその人に、ずっと昔に語られた神様の言葉を思い出させました。「あなたは失ったものばかりではないはず。しっかりと自分の周りを見てみなさい。大切にするべき新しい家族がいるはず。」そう呼びかけられたのです。そしてその呼びかけは今も続いていると思います。もう一度周りを見渡してください。この教会の仲間も家族です。大切にしあえる家族です。共に主に従う者として、歩んでゆきましょう。その信仰はまだ小さな芽かもしれません。でもきっとこの仲間の中で大きく育ってゆくはずです。一緒に育ってゆきましょう。

今日、まかれた種が芽を出しました。まいても、まいても芽が出ない、そう思っていました。でも信仰の芽は、植物のようにすぐに芽を出すのではありませんでした。長い時間を経て芽が出たのです。私たちはそこにも大きな励ましをもらいました。今すぐに芽はでないけれども、いつか私の家族が、いつか私の友人が、いつかこの教会を訪ねた地域の人が、信仰の種が芽を出すのです。今日思います。私たちはやはりたくさんの種をまいてゆきましょう。芽の出そうな人にまくのでは足りません。とにかくまくのです。小さくてもいい、すぐに芽が出なくていいのです。たくさんまいてゆきましょう。

教会にどなたかをお誘いすると、よく言われることがあります。私なんかが行ってもいいのでしょうか?私なんか俗世間の人間で、立派なことを何もしていません。まじめに礼拝している方々の中に私なんかが居ていいのでしょうか?私はクリスチャンのような清い生活ではありません。それは、まるで自分を汚れた者だと思っているようです。イメージと中身にギャップがあると思いませんか。教会の内側と外側にギャップがある様に思います。私たちはそんな聖人のような生活をしているわけではありませんし、私は他の人以上に立派だと胸をはれるわけでもありません。それなのに、どうしてこんなイメージがついてしまったのか不思議です。クリスチャンは清い、汚れなきクリスチャン、そんなイメージを持たれていますが、もしかするとそのイメージはクリスチャン自身が造り出したものかもしれません。でも私たち大切にしたいことは、あれは清い、これは汚れていると別ける事ではありません。大切にしたいことは、汚れたものに近寄らないことではありません。

私たちが本当に大切にしたいことは、愛を持って行動することです。汚れているとか、清いとか、そのようなことを超えて、他者に愛を示してゆくことを大切にしたいのです。むしろ汚れていると言われる人、自分はダメな人間だと思っている人にこそ関わり、愛を示したいのです。清いか汚れているかではなく、そのような愛のある1週間がおくれるかどうか、それが私たちの問題です。

今日の信仰告白にもあったように、人が愛に接するとき、人の中にあった絶望は変えられてゆきます。神の愛に触れる時、絶望は希望や感謝に代わってゆくのです。イエス様もそのように人と関わられたお方だったのではないでしょうか。今日はそのことを見てゆきたいと思います。聖書を一緒に読みましょう。

 

 

ルカ11章33~44節までを読みました。今日の場面を見ると、イエス様は清い、汚れているという区別を超えていたお方だということが分かります。37節、今日はファリサイ派の人々と食事をしています。イエス様は罪人や汚れていると言われる人ともたくさん食事をしましたが、今日のように自分たちは清いという人たちとも食事をしました。そういう意味でも分け隔てのないお方です。

しかし38節イエス様は食事の場面で手を洗いませんでした。当時のユダヤでは、食事の前に手を洗わなければいけないという言い伝えがありました。食前に手を洗えという律法は、旧約聖書のどこにもありませんので、ただの言い伝えです。それは衛生上の問題でもありません。自分の身を清める、汚れを取り払うという意味で手を洗いました。日本のお寺にも「手水(ちょうず・てみず)」という似た習慣があります。食事の前には手と、お皿の内側と外側の汚れも取り払ってから食事をしたそうです。イエス様はそういう習慣を徹底する、ファリサイ派の祭司の人と食事をします。そういう人の中で食事をするのですから、周りに合わせて、ちゃちゃっと形式的に手を洗えばよかったのです。しかしイエス様はそれをしません。汚れをはらわずに、食事を始めてしまったのです。これにはみな驚いて、不思議に思いました。ファリサイ派の祭司はとにかくいろいろな物を清いか、汚れているか細かく言う人々でした。それは律法から考えられた言い伝えで、他の民族との違いとして大切にしていたのですが、でも時々行き過ぎがありました。

細かい言い伝えは、祭司ぐらいは守れたかもしれませんが、一般庶民は普段の生活ではそこまで徹底できませんし、細かすぎるものでした。一般庶民はファリサイ派から自分にはできないこと、わからないこと、細かなことで、あなたは汚れていると言われていました。どこがどうして汚れているのか、全く身に覚えのない人が、汚れていると言われていたのです。イエス様はそれは間違っていると感じていたのでしょう。だからあえて、清いと自負する人々の食事会で手を洗うことを拒んだのです。

イエス様はこの祭司たちを、知らない間に踏んづけた墓みたいな人ですねと譬えています。当時はお墓も触ると自分が汚れるものでした。触ると汚れ、汚れを取り払うためにまた手や全身を洗い清めなければならなかったのです。イエス様は祭司たちに、あなたはお墓みたいな人ですねと言っています。それは一般庶民に、汚れている、汚れていると言っているが、本当はそういうあなたが一番汚れているのではないか、あなたはまるで知らないうちに踏んづけたお墓みたいな人です。本人が気づかない、あるいはどうすることもできないことで、人を汚れていると言って周って、ひどいですねと言ったのです。それより大事なものあるのではないですかと言ったのです。「この墓野郎」ともう少し汚い言葉で言ったかもしれません。

イエス様は何が清いとか、何が汚れている、そのようなことを問題にしないお方です。汚れているものに触るな、汚れているものから離れろ、汚れているもの憎めと言いません。イエス様は汚れているといわれるものから遠ざかる方でもありません。むしろその中に向かってゆき、汚れてなどいない、あなたは清い、そう宣言される方でした。イエス様はそのように汚れていると言われている人と、ご自分の力を分かち合った方でした。

前半の33節を見ましょう。イエス様はともし火をみんなから見えるように置きなさいと言っています。これはあなたの内側にもっている光を大切にするようにということです。あなたの内側に光がありますか?と聞いているのではありません。あなたの中にはすでに光があるのです。そのすでにある光が消えそうになっていないか、暗くなっていないか調べなさいと言っています。あなたの内側にはすでに光があるということです。私なんか内側に光がないと思うあなたにも、しっかりと光があるのです。それは神様が命を創造した時にすべての人に与えて下さった光です。今は見えない時かもしれません。でもそれはただ少し隠れているだけです。神様はあなたの中には人々を照らす明かりがある。それをもっと輝かせてごらんといいます。あなたは汚れてなんかいない、すべての人がすでに清い、美しい光を持っている、そう言うのです。

そしてその光を他者が見えるように、輝かせなさいと言います。入って来る人に見えるようにしないとあります。そしてあなたが輝く時、あなたが輝きだすとき、きっと周囲の人の絶望は、希望や感謝に代わってゆくはずです。私たちは器の中身、私たちの中にある光、私たちが自分という器の中に持っている光を分かち合うことが大事です。汚れている、ダメな人間だ、そう周りから、偉い人からそう言われることがあるかもしれません。そして自分自身でさえそう思うことがあるかもしれません。でもそんなことありません。あなたの中には光があります。それがすこし隠れているだけです。もっと輝かせてください。そしてあなたの光を他者を照らすために使ってください。明るい暗い、清い汚れているその差別を生み出すための光ではありません。あなたの光が他者の光を生むように、汚れていると言われている人が尊厳を取り戻すために、私たちは輝いてゆきましょう。

今日のたとえ話でそれが促されています。清さと汚れを超えて、私たちには光がある。共に輝く。それが今日私たちに与えられたメッセージではないでしょうか。私たちの世界には差別と暴力があります。見えない、普段は表に出さない汚れの意識があります。自分はダメな人間だと思っている人がいます。それを私たちがいただいている神様の光で照らしてゆきましょう。私たちの内側にある光を、共に輝かせてゆきましょう。これからも神様の光を私たちの中で輝かせてゆきましょう。お祈りします。