【全文】「他者を尊重する方向転換」使徒言行録9章1~22節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの笑顔と声に包まれながら、礼拝をしてゆきましょう。

ここ数か月、初めてキリスト教に触れる方々に向けてお話ししてきました。新しい視点で考えることは、私たち全員にとっても大切なことだと感じました。既に信仰を持っている方々にとっても、自分の信仰を深める機会となったでしょうか。

今日からは聖書の使徒言行録という箇所を1ヶ月間読んでゆきたいと思います。パウロ(旧名サウロ)という人の人生を追いかけてゆきます。初めての人も、ずっと通っている人も聖書から、新しい生き方を考えてゆきましょう。

みなさんは、価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?例えば、誰かの言葉や行動によって、自分の考え方が大きく変わった経験はあるでしょうか?今まで思っていたこととまるで違う、正反対の価値観を持つようなったという体験があるでしょうか。大小さまざまあるとは思いますが、人生全体に大きな影響があるような価値観の変化はそう頻繁には起こらないことです。教会にはキリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変える、人生を方向づけるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。みなさんはどうでしょうか?

洗礼(バプテスマ)とは汚れを取り払い、清く聖なる者になることではありません。洗礼(バプテスマ)とは価値観が変わってゆくことです。神様の導きを受けて、自らの価値観を神に向けてゆくこと、聖書の教えを価値観の中心にしてゆこうという表明、キリストの弟子としてその道を歩み始めるスタートが洗礼(バプテスマ)です。洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。価値観は人それぞれにあります。価値観や信じている宗教について他者からとやかく言われる必要はありません。自分が正しい、自分が励まされる、自分が導かれていると思うものに導かれればいいのです。キリスト教だけが正しく、他の宗教は劣っており間違っているという考えは、愛とはいえないでしょう。キリスト教は戦争の無い平和、互いの命が豊かになる平和を求めてゆく宗教です。他者を無理やり変えるのではなく、他者と共に生きようとする宗教です。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。相手を批判する力は、自分がキリスト者としてどう共に生きるかに向けられてゆくべきです。洗礼(バプテスマ)はその生き方のスタートです。価値観を神に置き、他者を愛し、共に生きる事のスタートが洗礼(バプテスマ)です。ぜひ皆さんにも、その生き方のスタートをお勧めしたいと思っています。他者を尊重する生き方へと方向転換をしてゆきましょう。

もちろんバプテスマを受けたからと言ってすぐにそれができるようになるわけではありません。バプテスマを受けた方も、もう一度そのことを思い出しましょう。今日は聖書のサウロという人物から、自分が正しいと暴力を振るっていた人が、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。

 

 

 

聖書をお読みいただきました。イエス様の十字架の後、弟子たちは神様からの風・力を受けて活発に活動をしていました。キリスト者の生き方は、互いに愛し合いなさいという教えに代表されるように、神様を愛し、他者を愛する生き方でした。その愛の輪はどんどん広がっていました。そしてそれはもともとの枠組みとしてあったユダヤ教から大きくはみ出すことになりました。やがてそれはキリスト教と呼ばれるようになります。

今日登場するのはサウロという人物です。この人はもともとユダヤ教を信仰していました。そしてそこから生まれようとしているキリスト教を激しく否定していました。サウロがすぐにキリスト教を信じなかったことを責めるつもりはありません。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ユダヤ教を信じる人の信仰もとても尊いものです。私たちは他者の信仰や価値観を尊重し、理解するために努力をすることが大事です。

ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。サウロはユダヤ教以外の人に並々ならぬ敵対心を持っていました。1~3節にはサウロの他者の価値観に対する態度が現れています。彼は主の弟子、この道に従う者、つまりキリスト者を見つけ出したら徹底的に排除をしました。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。彼は熱心なユダヤ人だったと言われます。自分の信じる事への熱心さの行く先は、周囲は間違っている、力づくでもユダヤ教にしようという態度、ユダヤ教からの逸脱をゆるさないという態度でした。他者の価値観と宗教観を一切認めないという価値観でした。彼はそのように自らの価値観と宗教を暴力的な態度と行動で押し付けようとしたのです。多くのキリスト者はサウロを恐れました。彼に自分の信じていることがばれてしまうと、批判され、否定され、暴力的な態度を取られ、殺されたからです。人々はサウロを恐れ、彼を避け、彼には決して自分の気持ちを語ろうとしなかったでしょう。

サウロにとって運命を変える出来事が起こったのは、ある日突然のことでした。道を進む彼に、イエス様が直接語りかけたのです。その瞬間、彼は視力を失い、自分の足で歩くことさえできなくなってしまいました。その出来事によって起こったのは、彼はそれまで自分が否定し、殺そうとしていた人に助けてもらわなければならなくならないということでした。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで否定し、敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。彼は自分の信じるユダヤ教だけが唯一正しいと信じ、それ以外の価値観と宗教を一切否定していました。その彼は今弱くされ、無力となり、混乱しています。彼の価値観が大きく揺らいでゆきます。

聖書のとおりに出来事が起きたのか、彼に何が起きたのか本当のところはわかりません。後に彼自身が書いた手紙には直接、このダマスコでの出来事の記載がありません。確かなのは彼の中で短期間のうちに、大きな価値観の転換が起きたということです。それは極めて短期間で、劇的に起きました。自分で意図して選択したものではなく、神様から示され、その価値観の転換が起きたのです。サウロはこのように大きく価値観を変えられました。しかし彼の変化は180度の転換ではありませんでした。もし180度の転換というならば、今度は反対にユダヤ教が間違っていると言って攻撃の対象にしたかもしれません。しかしサウロはそのようなことはしませんでした。

サウロはこの後、名前を変えてパウロと名乗るようになります。パウロはこの後、自分と同じようにユダヤ教からキリスト教になった人と、別の宗教からキリスト教になった人との対立の仲裁をしようと働きます。彼の態度はこれまでと大きく変わります。暴力的に一致させるのではなく、平和的に和解と一致をさせようとする態度に変わったのです。

おそらくここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロが価値観を大きく変えたということです。サウロの価値観の転換とは一体どんなことだったのでしょうか?これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。この個所はきっとそれよりも大事なことを伝えています。神様の導きにより、サウロの心には短期間で劇的な変化が起こりました。その変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化です。

彼は弱さと無力の中で、その価値観が大きく変わりました。彼の生きる態度が変わりました。他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人を、敵対心ではなく敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた一番の変化でした。それが神様から頂いたことでした。サウロが神様からいただいたものは、他者を尊重することへの方向転換だったのです。

神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。私たちはどんなときそのような神様からの変化をいただくでしょうか。神様は相手を否定する、暴力的な態度をとることから、相手を尊重し、共に生きる、平和に生きる態度に私たちを変えて下さいます。それはいつ起きるでしょうか?それは私たちが弱くされた時かもしれません。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。それは神様の決めた一方的な時に起こるのでしょう。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。私たちはそのきっかけを神様からいただくのです。私たちは「それは間違っている」から「それも大事」と言えるように変わるのです。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。

本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。これは、イエス様が様々な人々と食事を共にしたことを記念する大切な儀式です。この教会では、洗礼を受けた方々がパンとブドウジュースをいただきます。19節にはサウロは食事をして元気を取り戻したと書いてあります。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。