【全文】「聖書とこひつじ食堂」ルカ9章10~17節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの足音や声を命の音として、礼拝の一部としています。一緒に礼拝をしましょう。

先週は松藤先生から宣教をいただきました。感謝です。様々なことを思いめぐらせることができた恵みに感謝します。そして2月は2回、地域協働というテーマで宣教をします。今日はその2回目です。1回目は「屋根に穴の開いた教会」という話をしました。教会に入りづらいと感じることがあるけれども、今の平塚教会にはいろいろなつながり方、入口があって、屋根からとも思えるようなつながり方も歓迎をしようというお話をしました。そしてもっとはいりゃすい教会になろうとお話をしました。今日は「聖書とこひつじ食堂」の話をします。

私たちの教会ではいわゆるこども食堂である「こひつじ食堂」を毎月第2・第3金曜日に開催しています。1人200円で、誰でも利用できる食堂です。これまで数十回開催してきました。1回1回とても楽しく開催しています。そしてこれまで作って、食べたメニューはよく覚えています。利用されるお客さんもあれがおいしかった、これもおいしかったと言って覚えてくれています。よく言われるのは、ルーローハン、ロコモコ丼、タコライスなどでしょうか。こひつじ食堂で提供したメニューは、地域の人々の記憶に焼き付いています。おいしかった、あの日すごくたくさんの人が並んでいた、早くしないと無くなっちゃうと急いだ、久しぶりに誰々さんと会った、あの人と一緒に食べたという思い出、楽しかった記憶と共にあります。だからこそいろいろな人から次のメニューは何ですかと声をかけられます。

このような食事の楽しさ、思い出は教会のクリスマス愛餐会も同じでしょう。こどもがほおばったカリフォルニアロールを覚えています。私が一番好きだったのは、ピケマッチョでした。フライドポテトの上にソーセージやたまごが乗っていて、マヨネーズがたっぷりかかっているボリビア料理です。他にもフルーツポンチやポテサラタワーがおいしかったし、ビンゴも楽しかったです。食べることは思い出作りでもあると思います。一緒に食べたことはすごくよく覚えているものです。記憶に残るのです。

私が食堂で今まで一番おいしかったのはブリのから揚げです。釣りたてのブリをもらって、私もさばきました。指を怪我しました。それをから揚げにして食べたのですが、感動しました。まさしく忘れられない味になりました。大事な思い出です。ブリは結局、たくさんいただいた分を調理しきれず、食堂を利用するお客さんにプレゼントすることしました。入り口に大きなクーラーボックスを置いて、大きな魚を一匹まるのままどうぞと渡そうとしたのです。とても新鮮なものですが、そんな方法でもらってくれる人がいるのか心配でした。案の定、若いママは戸惑った表情でした。でもおばあちゃんは喜んでもらってくれました。昔は自分でさばいていたという方が、ものすごく喜んで持って帰ってくれました。クーラーボックスはすぐに空になりました。

教会は配るだけではなく、いろいろなものをもらっています。いろいろなものが集まってきます。先日はとうとうあるものもらってしまいました。それはパンです。食パンをもらってしまったんです。とうとう私たちは地域の方から魚をもらい、パンをもらいました。ちなみに100%ブドウジュースも、もらったことがあります。このようにして、教会にはたくさんの人が訪ね、2020年10月から始めて、提供した量は5000食を超えています。

今日私は、宣教の個所としてこの個所を改めて読んで、驚いています。今日の聖書個所は私たちの教会の年間主題聖句としている箇所です。週報の表紙にも毎月の祈りの課題にも載っています。今年度宣教で扱うのも2回目で、何回も読んでいる箇所です。しかし私は改めて地域協働の視点で読んで、感動しました。震えたのです。この5000人の共同体と私たちの教会との、恐ろしいほどたくさんある、共通点を見つけたのです。

私たちの教会は魚が集まる教会です。私たちの教会はパンが集まる教会です。私たちの教会は5000人が食事をする教会です。私たちの教会はこの5000人たちと非常に多くの共通点を持っています。世界に、日本に、私たちよりこの5000人と共通点のある教会は無いのではないでしょうか。私たちこそどんなことがここで起きていたのか一番想像できるのではないでしょうか。私たちはいまその体験の中にいるのです。今日はそのような地域協働の視点で聖書を読みたいと思います。今日の聖書を読みましょう。

今日は年間主題聖句であるルカ9章10~17節をお読みいただきました。大勢の人たちがイエス様に従っていました。イエス様の教えを聞きたい人、病気で悩んでいる人がいました。イエス様の前にきっと長蛇の列ができていたでしょう。私たちの食堂のように列ができたでしょうか。整理券が配られたでしょうか。そして多くの人が空腹でした。

イエス様は弟子たちに13節「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言います。私には、あなた方が食堂をしなさいと聞こえます。弟子たちはそれぞれ別に別に、自分のお金で食べればいいという思いがありました。この共同体は解散をした方がよいと考えたのです。しかしイエス様は言いました。「あなたがたが食べ物を与えなさい」。イエス様は一緒に食べること、一緒にお腹を満たすために働くように私たちを促しています。弟子たちはきっと最初は、私たちと同じように、そんなことをして一緒に食べる人がいるだろうか?そう思ったでしょう。困っている人ってそんなにたくさんいるの?と思ったでしょう。地域にはそんな必要性があるのだろうか?と思ったでしょう。たとえその必要があったとしても食材はどうするのか、ご飯もおかずもない、自分たちが5000人に提供するのは無理だと思ったでしょう。しかしイエス様に促されて食事が始まりました。

イエス様は14節、50人ずつくらいの組にさせたとあります。全員が同時に食事をしたわけではありません。組に分かれて、各テーブルに分かれて食事をしたのです。これも私たちと同じです。私たちも5000人に食事を出しましたが、一度にできたのではありません。毎回120人くらいに分けて提供しました。これも共通する様に思います。この5000人にはパンも魚もありませんでした。しかしどこからか、誰からか、魚もパンも集まって来たのです。そして不思議と全員が満腹になる量が集まりました。足りないと思っていたものは17節、最終的には余るほどだったのです。

余っていることはどんな意味を持つでしょうか。最初は足りない、できないと思っていたのに、終わってみたら、まだやれると思えたということです。最初は絶対に無理と思っていたのが、終わってみたら、もうちょっとできたねと言い合えるほどだったということです。これも私たちは同じ経験があります。最初は大丈夫かなといろいろな心配を持っていました。本当にできるのか、そう思って始めました。でも終わってみて、何回かやってみて思うのです。まだやれると。まだまだいけると思えるのです。また次も頑張ろうねと思えるのです。それがこの12籠のパンなのではないかと思います。

5000人の食事は人々の記憶にしっかりと残りました。みんなで食べたよね、足りないと思ったけど、まだまだいけるくらいだったね、おいしかったね。一緒にたべたことをよく覚えていたのです。あの時イエス様がいて、祈って、分けて、みんなで配って食べたよね。おいしかったよね。そうしっかりと記憶したのです。忘れられない味、忘れられない食事としてみんなの記憶にしっかり残り、語り伝えられたのです。そしてこの食事は聖書にも記録されました。

この5000人の食事は主の晩餐につながってゆきます。主の晩餐はイエス様を想起すること、イエス様を思い起こす儀式として、パンとブドウジュースを飲むということで伝わってゆきました。パンとブドウジュースを飲むことによって、私たちはイエス様と一緒にいた、一緒にいるということを思い出す、確かめるようになったのです。イエス様を思い出す、それが主の晩餐です。イエス様との食事を忘れられない食事として、イエス様を想起するために、食事を伴う儀式である主の晩餐が持たれたのです。私たちの食堂もこのような機会になっているでしょう。私たちは直接み言葉を伝えているわけではありませんが、ここで作られた食事を食べた事、一緒に食べたこと、食べ終わった後に遊んだこと、また来ようと思ったことは地域の人の記憶にしっかりと残っているでしょう。みんなの思い出になるでしょう。いつかはわかりませんが、いつかきっと教会で、十字架の下で食事をしたということを思い出す時が来るでしょう。

いつ思い出してくれるでしょうか。ブリを見たら思い出してくれるでしょうか。ロコモコ丼を見て思い出す人がいるかもしれません。パンを見て思い出す人がいるでしょうか。その時、教会の十字架を思い出す人がいるかもしれません。食事の思い出と共に、私たちの教会があります。食事の思い出と共にイエス様がいるのです。

そしてこれも私たちと同じです。イエス様との食事を思い出すのが主の晩餐です、パンを食べて思い出すのです。私たちはこのように、地域と関わり、地域との共食を大切にしてゆきましょう。食事を通じた交わり、食事の思い出を大事にしましょう。私たちの間でも、食事の思い出を大切にしましょう。そして地域の人たちに大切な思い出として、この食堂を覚えてもらいましょう。そして地域の人々と一緒に5000人になってゆきましょう。お祈りします。