【全文】「世界と共に食べる」マルコ14章10~26節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共に礼拝をしましょう。

礼拝の宣教ではマルコ福音書を去年の10月から読んできました。あと2回で終える予定です。私たちはマルコ福音書を1年間、行ったり来たりしながら、かなり細かく読んできました。10月後半からは半年間ルカを読む予定です。この4年間で4つの福音書をそれぞれ1年間、通して読むことになります。次年度はどんな宣教のスケジュールにしようかと考えています。どんな箇所を読もうか、どんなキーワードで読んでゆこうか考えています。旧約聖書か、パウロ書簡か、それとも・・・。今月の宣教のテーマは世界・環境としました。先月までの「礼拝」というテーマは私たちの礼拝の内側を考えるものでした。今月はもう少し視野を広げて、視野を外に向けて、世界を意識して聖書を読みたいと思います。世界に向けて開放された、聖書の読み方をしたいと思っています。

今日はこの後、主の晩餐の時を持ちます。久しぶりにパンとぶどうジュースを使った晩餐です。そして今日10月の第一日曜日は「世界聖餐日」と呼ばれる日です。教派や教会を超えて、世界で同時に主の晩餐を行うという運動がされる日です。教派によって主の晩餐(聖餐)の形は様々ですが、今日は多くの教会で主の晩餐が行われています。

「世界聖餐日」は世界が戦争へと傾斜していく1940年代にはじまりました。全世界の教会がそれぞれの教会で主の晩餐を持ち、国境、人種、差別を越えて、キリストのもとに一つであると確認する日です。異なる文化や国、政治や経済の状況にあって、世界のキリスト者が主にあって一つであることを確認する日です。世界中のキリスト者が私たちはイエス様を中心とする仲間であると証する日です。私たちも今日の主の晩餐を、この教会のメンバーだけではなく、世界の仲間たちと共に行うものとしましょう。世界に目を向けると様々な問題が起きています。一番大きなことはロシアとウクライナのことでしょうか。二つのキリスト教国が戦争をしています。キリスト教が戦争に加担し、兵士を鼓舞し、戦争への勝利を祈っています。1日も早く戦争が終わること、クリスチャン同士がまず戦争を止めることを願います。世界情勢の変化は私たちには物価上昇をもたらしています。しかし大変なのは私たちだけではありません。途上国の物価上昇はさらに深刻です。途上国では3回の食事を2回に減らす人がいます。世界の格差がどんどん大きくなり、格差の犠牲になってゆく人が増えています。私たちは今日、食べる物に事欠く人々と共に、このパンとブドウジュースを飲みます。私たちはそのような罪深い世界を見つめながら礼拝し、主の晩餐をしたいのです。今日世界で、そのような主の晩餐が行われます。その連帯性、同時性を意識しましょう。戦争をしている人がいます。世界の富を独占する人がいます。今日の安全がなく、眠れない人がいます。食べることができない人がいます。そして私がいます。

今日この主の晩餐は、そんな世界と私を考えながら、共に持ちたいのです。自分を点検するだけではなく、この世界を見つめ、この主の晩餐をいただきましょう。私たちはこの世界の中で、共に、主の晩餐をする一人です。イエス様が中心の仲間だと証しする一人です。そして世界に責任を負う一人です。主の晩餐をそのような視点からいただいてゆきましょう。今日の聖書箇所も主の晩餐の個所です。

 

今日はマルコ福音書14章10節~26節までをお読みしました。主の晩餐、最後の晩餐の場面です。今日はこの食事の場面に裏切り者のユダが同席していたことを考えたいと思います。

12節から先に読みましょう。私たちは主の晩餐へどのように招かれるのかが書いてあります。12節以降によれば、主の晩餐は私たちの努力で一生懸命続けるのではなく、不思議と準備されているものです。イエス様が必ずその場所が見つかるように導いてくださいます。

イエス様が目印とした人が特徴的です。目印とされたのは水がめを運ぶ男でした。当時、水を運ぶのは女性の仕事でした。ですから水がめを運ぶ男は珍しく、よい目印だったのです。イエス様は性別役割分担を超えて働く人を目印としました。神様が準備される場所には、かならずこのような人が起こされます。神様の働きの目印は富や権力や影響力ではありません。神様の働きの目印は、性別にとらわれない、コツコツとした働きなのです。

弟子たちは、主の晩餐をする場所、家へと導かれます。これは主の山に備えあり、アブラハムがイサクを献げようとした物語を連想させます。どちらも神様が定めた事、神様が準備をなさってくれたということを表す物語です。このようにイエス様と弟子たちにはふさわしい場所が与えられました。食事会が始まります。イエス様は22節で言います。「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい、これは私の体である』。また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そしてイエスは言われた『これは多くの人のために流される私の血である』」この言葉は、私たちの主の晩餐にも受け継がれています。

今日見たいのは、この主の晩餐は「ふさわしい者」だけが集い、食事をしたのではないということです。実はこの主の晩餐には、この後イエス様を裏切るユダが同席していた食事だったのです。特別に選抜された弟子が、この食事にあずかったのではありません。裏切り者も招かれたのです。

イエス様は18節で弟子たちからの裏切りを予告します。弟子たちの反応はどうでしょうか。「私は決して違う」と否定したわけではありませんでした。誰も「私は大丈夫」と思いませんでした。逆です。19節「まさか、私のことでは」と言い合います。みんな「まさかそれは私の事では」と裏切るのは自分だと思ったのです。

弟子は皆イエス様を裏切ることにおいて、心当たりがあったのです。この12人の中に裏切る人が1人いると言われて、それは自分だと思う者、それほどの信仰しか持たない者の集まりだったのです。そしてその食事のメンバーには一人、本当に間違ったことをする人がいました。この食事会は自分の信仰に自信がない者、うまく従えず裏切ってしまう者、にもかからず神様から招かれた者の食事会でした。この食事会は12人のメンバーの結束を確認するためだったのでしょうか。私には逆に見えます。この食事ではメンバーの結束のほころびがあらわになります。これからバラバラになってゆく食事会です。そんな食事会ならしない方がよいでしょうか。裏切るならば、生まれてこない方がよいでしょうか。いいえ、決してそうではありません。イエス様がこの食事会を開催することを選ばれたのです。

イエス様はなぜ、このような食事会を持ったのでしょうか。それはこの仲間たちがどんなにバラバラになってもイエス様を中心とする仲間であることを確認するためでした。間違いを犯す人、そういう危険のある人、自分たちと正反対の人たちも含めて、共にイエス様を中心とする仲間だと確認するために食事会は行われました。懐の深い食事会です。その食事会は、弟子たちの中心にはいつもイエス様がいることを忘れないための食事会でした。そしてそれは繰り返すように呼び掛けられました。それが私たちの主の晩餐につながっています。私たちの主の晩餐も、同じです。私たちの中心にイエス様がいる、そのことを忘れないために行われます。

私たちは今日、世界中で行われる主の晩餐を覚えながらこの礼拝を持ちます。世界の仲間たちと一緒に主の晩餐を持ちます。同じキリスト教の中でも、それはキリストの教えと違う、間違っていると思える仲間がいます。そんな人を徹底的につるし上げ、排除したい気持ちになります。そもそも仲間になんかならない方がよかったと思うかもしれません。しかし今日の個所によればイエス様は、バラバラの私たちを、バラバラになる私たちを同じ食事に招くお方です。主の晩餐に招くお方です。私たちの世界の中心にイエス様がいる、それを繰り返し、思い出すように促しておられます。イエス様を中心として生きる世界の仲間が、正しく導かれるように祈りながら、このパンと杯をいただきたいのです。そしてもう誰にも裏切って欲しくないのです。

そしてもちろん私も弟子たちのように、私が裏切ってしまうのではないかと思う一人です。いえ、きっと私こそイエス様を裏切ってしまうユダです。心当たりがいくつもあるのです。でも主は今日も一緒に食事に加わるように招いておられます。なんという恵みでしょうか。いつ裏切ってしまうかわからない者さえもあずかってよいとされています。それが神様の愛です。そして私は思います。招かれたからこそ、愛されるからこそ、イエス様を裏切りたくないと思うのです。それぞれの場所でイエス様を裏切らない歩みをしたいのです。私たちはすぐに忘れてしますでしょう。だからこそ、この主の晩餐を繰り返しましょう。そしてもし裏切ってしまっても、また主の元に集いましょう。それでもイエス様はそれでも食事へと招いてくださいます。それが神様の愛です。

この後、主の晩餐を持ちます。世界と共に、主の晩餐を持ちます。この世界はどこへ向かってゆくのでしょうか。神を裏切り、分裂し、殺し合う世界になるのでしょうか。どんな世界になろうとも神様は、主の晩餐に招いておられます。

そして神様は私たちに平和への一致を求めておられます。平和への一致への道は必ず用意されています。世界の平和と一致がこの主の晩餐から始まるように、願います。お祈りします。