【全文】『今日、礼拝に集える喜び』マルコ12章1~12節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。先週はお休みをいただき、ありがとうございました。私は大井教会の礼拝に出席させていただき、恵みをたくさんいただきました。

さて、9月末まで「礼拝」というテーマで宣教をしています。私は信仰生活の上で何より、礼拝を大事にしたいと思っています。私は礼拝にはできれば毎週欠かさずに集いたいと思っています。なぜなら私は弱い者だからです。毎週の礼拝で神様のみ言葉をいただかなければ、すぐに神様のことを忘れてしまうのです。聞いたとしてもすぐに忘れてしまうのですが、それでもきっと心の奥でその言葉は生きて、生活に影響を与えてくれる。そう願って毎週この礼拝に集っています。そして弱い者だからこそ、一人ではなく、励まし合える仲間と一緒に礼拝をしたいと思って集っています。

もちろんすべての人が毎週欠かさず礼拝に来れるわけではありません。それぞれに、それぞれの事情があります。大切な家族との関係もあるでしょう。大切なお仕事の事情もあるでしょう。健康の問題もあるでしょう。特にコロナの時期は、家族に負担や心配をかけないように、自宅で礼拝するということもあるでしょう。私はもし誰かが毎週来ることができなかったとしても「ちゃんと毎週来なさい」と互いを責め合いたくないのです。私たちは「来ないこと」「来れないこと」を責め合うのではなく、今日この礼拝に集えたこの1回の礼拝、この1回限りの礼拝を、守られて、精一杯に集い、共に礼拝できたことを喜びあいたいのです。

特に私たちはこの日本で信仰を守っています。圧倒的多数の人は、日曜日に礼拝に行ったりしません。今日の礼拝に集ったのは、日本のごく一部のクリスチャンの中の、さらにさらにその一部です。他の人から見ると、日曜日に教会に行くというのはなんと不思議な習慣でしょうか。礼拝に集うということは、他の人がめったにしないことです。めったに選ばないことです。人生に1回あるかどうかということが、今私たちに起っています。周囲からは熱心で奇特な方と見えるでしょう。他の人がほとんどしないことを、ほとんど選ばないことを、私たちはしているのです。

私たちはそのように礼拝を大切にし続けてきたのです。毎週ではないけれど、いつもではないけれど、さらに他の人はほとんどしない、選ばない、この礼拝に招かれ、集って来ました。他の人はあまりしないのだけれども、私自身も毎週欠かさずというわけではないのだけれども、でも今日この礼拝に集うことができたこと、この1回を共に喜んでゆけたらと願っています。

今日の聖書から礼拝に集う事、礼拝を大切にし続けることを聞いてゆきましょう。聖書をお読みしましょう。

 

 

今日はマルコ福音書12章1~12節です。「ぶどう園と農夫のたとえ」という表題が付いています。この個所は伝統的な解釈があります。お聞きになったことがあるでしょう。それはぶどう園=イスラエル、主人=神、息子=イエス・キリスト、農夫=ユダヤ人とする解釈です。預言者を信じずに殺してきたユダヤ人を批判している話です。そしてクリスチャンはこの個所から、自分たちもイエス様を信じない者となっていないか、自分たちの生活の中に神から送られたイエス様を受け入れない者になっていないかということを受け取ってきました。私たちはイエス様を信じ、神の国を受け継ごうと語られてきました。これが伝統的に解釈をされてきた内容です。

しかし今日はせっかくの礼拝ですから、もう少し視点を変えて読みたいと思っています。それは当時イエス様に従った貧しい農民たちはどのように聞いたのかという視点です。この視点で少しこの個所を読んでみたいと思います。

まずぶどう園です。この土地はともとは農民たちの土地でした。しかし飢饉や災害が起き、食べる物が無くなってしまうと、農民は土地を売らなければなりませんでした。そのようにして土地は、大土地所有者の手に渡ってゆきました。生きていくための穀物を作っていた畑は、より利益の出るぶどう園に変えられてゆきました。そして土地を手放した農民たちは、今度はぶどう園で雇われ農夫として、小作人として働くことになります。主人である大土地所有者は収穫の25%の土地使用料を取ったと言われます。そのほかの税金と合わせれば、農民の手元にはほとんど残りません。格差はますます広がってゆきました。このような格差の中、農民はよく一揆を起こしました。大勢で大土地所有者や土地の管理者を襲い、自分たちの土地を奪い返そうとしたのです。1節にはぶどう園に「垣を巡らし」とあります。土地所有者には防犯上の壁が必要だったのです。

農民はこのような現実に生きていました。その農民たちからすると、この話はどのように聞こえたでしょうか?息子を殺すところまでは勧善懲悪の話です。いつも自分たちを搾取する主人が殺されるというのはスカッとする話だったはず。自分の奪われた土地でもそれが起きて欲しいと切実に思ったはずです。この話を聞くと胸が晴れるような気持ちになったでしょうか。

しかし、イエス様の話には続きがあります。農民一揆は結局すぐに鎮圧され、全員殺されてしまったというのです。それは現実でも同じでした。農民一揆が頻繁に起きましたが、それらはことごとく失敗をします。強い軍隊が来て、参加した農民は全員殺されてしまったのです。一揆が鎮圧される姿を想像し、農民たちは再び、現実の厳しさを知ったことでしょう。ではこのたとえ話は農民たちにとって何を意味したのでしょうか?結論は謎です。でもイエス様は農民を前に、本当に「主人=神」だとたとえたのでしょうか。イエス様は本当に「農民は逆らうと殺されるから、ちゃんと主人に従え」と伝えたのでしょうか。

私はそうではない解釈もあると思います。むしろ私は、イエス様が平和を愛したお方だと考えて読みたいのです。平和を愛するイエス様の視点からこのたとえをとらえたいのです。その視点から読むと、イエス様は奪われた土地を農民一揆などの暴力によって奪い返したとしても、結局また暴力によって奪われるだけだと言っている様に聞こえてきます。暴力で奪っても何も解決しないのだ。暴力に代わる手立てはないのかとイエス様が問いかけている様に感じるのです。そうすると10節・11節につながります。これは「誰かが役に立たないと捨てたものが重要な役割を担うようになった」ということです。みんなが見向きもしないものが、土台になってゆくということです。何の役にもたたないと思われたものが、物事の基礎となるのだということが語られています。

ここで言われている、捨てられた、何の役にも立たないとされたものとは何のことでしょうか。ひとつは殺されたイエス様を表すでしょう。十字架で捨てられたイエス様が、私たちの土台となったということです。そしてもう一つことで捨てられているものがあると思います。それは暴力以外の手立てです。皆が困った時にまず取った手段は暴力でした。その時、暴力以外の選択肢は捨てられていました。農民が捨てたもの、それは平和的な解決方法、対話、愛です。農民もそして私たちもすぐにそれを捨て、力、暴力によって解決しようとしてしまうのです。イエス様はそれでは解決しないよと言っています。みんなが捨ててしまっている様な、価値を見過ごしている、平和な方法を選びなさい、そう呼びかけているのです。

私たちは今日、礼拝をテーマにして聖書をみています。もしかすると礼拝ということも多くの人にとって、価値のない、自分の人生に役に立たない、不必要なものとされているでしょう。多くの人にとって、自分の人生を豊かにするにはもっと有効な手段、他の方法があると思われているのでしょう。礼拝こそ多くの人に捨て石とされています。でも私たちは違います。人々がしない礼拝という捨て石を、自分たちの土台としようとしています。それは11節「とても不思議なことに見える」でしょう。でもそれが私たちの信仰です。人々が選ぶ方法ではなく、見過ごされている方法、礼拝によって一人一人の人生を豊かなものにしたいと願うのです。

私たちは礼拝を大事にしたいと願っています。この礼拝は多くの人々に必要とされているものではないかもしれません。しかし私たちはこの礼拝こそ、一人一人の人生を豊かにする、私たちの人生の土台となるものだと信じます。これこそが私の土台だ、そんな礼拝をささげたいのです。人生を豊かにする方法は争いや、戦いではなく礼拝なのです。聖書に聞くことなのです。そのような方法で、豊かな人生を目指してゆくことはできないでしょうか。多くの人々には不思議に思える、礼拝という手立てによって、人生を豊かにすることができないでしょうか。そんな礼拝を献げてゆきたいのです。

この個所をどのような解釈をするにしても、大切なことは神様から送られたイエス様を大切にしようということです。私たちは聖書を読み、礼拝を続けましょう。私たちは捨て石にされてしまう礼拝を、土台としてゆきましょう。そして、私たちはこれから主の晩餐を持ちます。イエス様の血と体の象徴をいただきます。十字架によって殺された、イエス様の血と肉を覚えて主の晩餐を持ちましょう。暴力のただなかで、人を愛することを教えた主イエスを覚えて、暴力ではなく人々が捨てた愛がもっとも私たちを豊かにすることを覚えて、この礼拝の中で主の晩餐を持ちましょう。お祈りします。