【全文】「収穫感謝礼拝」ルカ12章13~21節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。今日から半年間、ルカ福音書を読みたいと思います。そして今日は収穫感謝礼拝です。収穫感謝礼拝の直接の起源は諸説あるようですが、メイフラワー号にあると紹介されることが多いでしょう。

1621年イギリスのクリスチャン、ピューリタン(清教徒)というグループが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカに渡りました。新しいグループはイギリスでの迫害を逃れるために、信教の自由を得るために、新天地アメリカに渡ったのです。しかし船がアメリカに到着したのは冬でした。人々は新天地でまず、厳しい冬を乗り越えることから始めなければなりませんでした。

メイフラワー号の人々はこの危機を先住民からの援助によって乗り切ることができました。先住民からトウモロコシの種をもらい、栽培方法を教わり、魚や貝の取り方を教わったそうです。アメリカで生きる知恵をすべて先住民から教えてもらったのです。そして翌年の秋には、たくさんの収穫をすることができました。メイフラワー号の人たちはお祭りをすることにしました。収穫を先住民と一緒に喜び、分かち合おうと考えたのです。先住民の人々も食事を持ち寄りました。皆で七面鳥を食べ、ゲームをしたそうです。私たちの持ち寄り愛餐会に似ています。助けてくれた先住民に感謝する時、そしてもちろんメイフラワー号の人々にとっては神様が与えて下さった新天地・恵みに感謝をする時でした。これが収穫感謝の起源です。

しかし、もうひとつ確認しておきたい事実があります。その後どうなったかということです。キリスト教の新天地を求めたクリスチャンたちは、どんどんアメリカに来て入植してゆきます。最初は100人だったのが、1000人、2000人と人が増えてゆきました。彼らにはより広い土地が必要になります。彼らはどうしたでしょうか。彼らは助けてくれたはずの先住民を追いやっていったのです。先住民の土地を奪い、強い武器で追い払い、殺してしまったのです。そして多くの先住民を捕まえ、奴隷として、売りさばいていったのです。先住民と分かち合う、助け合うという関係はすぐに終わってしまいました。入植したクリスチャンは、先住民の命を売り買いする対象としてしまったのです。

収穫感謝は実りを感謝する時として残っています。ただし先住民の分かち合いは忘れられてしまっています。私たちは400年前のクリスチャンが、助けてくれた先住民から土地を奪い、命を奪った歴史も忘れないでいたいのです。クリスチャンは分かち合ってくれたはずの人から奪い、奴隷としました。富や土地を『私の』ものだと独占し、そこにあった命さえも『私の』所有物として扱ったのです。私たちは収穫感謝の時、このことも忘れないでいたいと思います。

私たちはすべての恵みは神様から来たと感謝します。そしてそれを分かち合います。そして、お互いの命は神様が与えた下さったものだということ、どんなことがあっても命は人間が好き勝手にしてはいけないということを確認したいのです。神様に感謝すること、互いの命を感謝し大切にすること、分かち合うこと、それを収穫感謝礼拝の時に覚えたいのです。この教会では今日、収穫感謝礼拝を持つこととしました。今日は世界食料デーです。恵みに感謝し、世界と分かち合いたいという願いを込めてこの礼拝を持ちたいのです。

現代の世界に目を向けると飢餓が広がっています。特にこの2年、世界の食糧不足は深刻です。原因はコロナや紛争や気候変動によるものです。そして不平等も大きな原因です。先進国は途上国から多くの作物を輸入していますが、途上国では食べる物が足りません。この世界は分配がうまくいっていない世界です。分かち合いができていない世界です。感謝して分かち合うことができる、そんな世界を目指してゆきたいと願いますし、私たちの教会も子ども食堂やフードバンクの応援も、これに貢献をしていると思います。神様は私たちに分かち合うことを求めています。神様は、食べ物は神様からいただいたものとして分かち合う様に、そして互いの命も神様からいただいたものとして大切にするように教えています。今日の聖書の個所もそのことを言っていると思います。今日の聖書の個所を読みましょう。

 

 

今日はルカ福音書12章13~21節までを読みました。遺産相続の話から始まります。遺産問題が、きょうだいの仲を引き裂きます。この男は、自分の取り分が不満でした。『私の』配分が少ないと言ったのです。配分が不平等だったのでしょうか?それとももっと欲しいという欲望だったのでしょうか。いずれにしてもお金持ちの世界の話です。イエス様は「そんなことは知らない」と関わろうとしません。

そしてイエス様は豊作だった畑のたとえ話を始めます。これはもともと金持ちだった人の畑が、さらに豊作だったというたとえ話です。ひとくちに豊作といっても、豊作には様々な条件があります。一番は天候に恵まれることです。そしてたくさんの収穫のためには、たくさんの人手が必要です。要作はたくさんの労働者によって支えられました。種をまく人、雑草をむしる人、収穫する人、脱穀する人、蔵に入れる人、市場にもっていく人、いろいろな人が関わって初めて豊作になるのです。いろいろな人が協力した流れの中で初めて豊作となります。この物の流れをサプライチェーンと呼びます。

しかしこの金持ちの考えたことは卑劣です。この豊作において協力者のことを一切考えていません。「どうしよう、これ以上ため込めない。そうだ、蔵を大きくしよう」と考えました。彼が考えなかったこと、それは分かち合う事でした。この個所の日本語訳には『私の』という所有をあらわす言葉が省略されていることを見つけました。おそらく『私の』という言葉が繰り返されていることが、文章としてくどくて、削除されたのでしょう。でもここにはしつこく『私の』と書いてあるのです。17節「どうしよう。『私の』作物をしまっておく場所がない。18節「こうしよう。『私の』倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに『私の』穀物や財産をみなしまい、 19節『私の』魂に言ってやるのだ…。『私の』作物、『私の』蔵、『私の』穀物、『私の』財産、『私の』魂、自分、自分、自分。この金持ちは豊作の恵みをすべての『私の』ものだとして独占しました。彼は神様に感謝の献金をすることもなかったし、分かち合おうなど考えもしませんでした。ただ自分、自分、自分、金、金、金です。

イエス様はそこで言います。今日あなたは死ぬ、そうしたらそれは誰のものになるのかと問います。イエス様は財産は天国に持っていけないという以上の事を言っていると思います。それは元々、誰のものだったのかと問うているのです。

イエス様は、それはあなただけのものではなかったはずだと言っています。一緒に手伝ってくれた人、支えてくれた人、関わった人、励ましてくれた人、たくさんいたでしょう。感謝してる?分かち合ってる?雑草むしってくれた人、お腹すかしてない??収穫してくれた人お腹いっぱいになっている?あなたの蔵にしまったもの、本当はそれ、みんなのものなんじゃないの?あなたが死んだらそうなるの?きっとみんなそれを分け合うんじゃない?そう問いかけています。イエス様は、自分のために富を積んでもしょうがないよ。神様の前に一緒に豊かになろうと言っています。それが21節、神様の前に豊かということだよと言っているのです。それが収穫に感謝するということだよと言っているのです。

15節には「人の命は財産によってどうすることもできない」とあります。本当でしょうか。この言葉にも関わらず奴隷売買は長く続きました。人が人の命を売り買いしました。しかし本来、人は人を買う事はできません。奴隷にしてはいけないのです。これはお金を払えば、命を好き勝手にしてよいという発想です。お金払ったら何してもよいという発想です。神様は人の自由と尊厳を奪うことを許しません。

22節以降は思い悩むなと続きます。この個所も今日の流れから考えると、質素倹約を勧めている話ではありません。自分の分ばかりに思い悩んでいないか?この金持ちと同じように『私の』食べもの、『私の』着るもの、自分、自分、自分になっていないかが問われているのです。神への感謝、仲間への感謝があるかどうかが問われているのです。

もう一度、世界に目を向けます。私たちは本当に世界と分かち合うことができているでしょうか。そしてそれは収穫に感謝しているでしょうか、という問いに言い換えることができると思います。神様に感謝しているでしょうか?そしてサプライチェーンの人々が豊かになっているでしょうか?

今日は収穫感謝礼拝です。私たちはこの手にあるものが、すべて神様からいただいた恵みであることに感謝しましょう。そしてこの手にあるものは多くの人の支えによってあることに感謝しましょう。だからこそ、それを神様に献げ、仲間と世界とそれを分かち合ってゆきましょう。神様の前で世界が共に豊かになってゆきましょう。神様は私たちに収穫に感謝するように教えています。神様が与えて下さった恵み、それを『私の』ものだと蔵にいれるのではなく、神様に感謝し、仲間と分かち合ってゆきましょう。それが神様に収穫を感謝するということではないでしょうか。それが収穫感謝礼拝ではないでしょうか。お祈りします。