【全文】「キリスト教と宗教2世」ルカ8章4~15節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。

昨日2月11日は「建国記念日」でした。日本の建国記念日は、日本国憲法が施行された日ではなく、2600年ほど前に初代天皇の神武天皇が即位した(といわれている)日です。もともとは紀元節と言われた日です。天皇が即位した日が日本の建国記念日であるということは、この国が天皇を中心とした国であるということをよく表しています。天皇制は様々な宮中祭祀を行う宗教です。天皇の仕事には五穀豊穣を祈ることが含まれています。税金で宗教行事が行われています。ですからキリスト教ではこの日を「信教の自由を守る日」として、信教の自由を考える様々な集会を持っています。今日は信教の自由について特に、宗教2世について考えたいと思います。

宗教2世とは主に、親が宗教活動にのめり込んで、家庭が経済的に破綻し、また非常識な教義を押し付けられ、苦しんでいるこどもを指します。例えば高額な献金で最低限の生活さえできなかったり、学校行事や就職が制限されるなど、日常生活を極端に制限されたこどもたちが宗教2世です。

私たちバプテストは本人の自覚的な信仰を重視するグループです。本人の意思・信仰が確認できない人、特に赤ちゃんには絶対にバプテスマをしません。ですからバプテストには親の宗教が強制されている宗教2世はいません。いないはずです。本当にいないでしょうか?実は私たちの教会にもここまで極端ではなくても、問題があります。キリスト教の宗教2世もこのような声を上げています。

「日曜日に部活動に参加できないのがすごくいやだったが、宗教なんて怪しいと思われるのが怖くて部活の欠席の理由も3年間本当のことが言えなかった」「両親が牧師だったため、幼少期から当たり前に教会のことを手伝っていた。何度も抵抗していた『洗礼』を断り切れずに中学生の時に受けざるを得なかったことは、自分の意志に沿わないことを強要されたこととして印象深く覚えている」「本人の努力の賜物である事柄を『すべて神様のお陰であり私の努力ではない』と言っていた。発言者の自己肯定感が低く、恐ろしかった」「結婚したら離婚してはならないと言われた」「恋愛や結婚は信者以外には許されていなかった」「婚前交渉をしないように指導された」私はこれまでの教会生活で似た話を聞いたことがあります。こどもたちはこのことを押し付けられたと感じています。宗教を押し付けるということはキリスト教、バプテスト、この教会でも多少なりとも起きています。私たちは天皇制を押し付けられると共に、誰かに私たちの宗教を押し付けているのかもしれません。

特に根の深い問題は、聖書の教えに従わないと、幸せになれないといった類の言葉です。聖書に基づいて生活をしないと、礼拝にしっかりと出席しないと、救われない、裁きが下る、悪魔に取り憑かれる、死ぬ、地獄に行くといった恐怖の教えは、相手の心を強く縛りつけます。人を自由にするはずの宗教が、人の自由を奪うのです。失敗はあなたの不信仰が原因だと教え、信じればうまくゆくと心が支配されてゆくのです。私はそのような考えは福音、良い知らせではなくもはや「呪い」だと思います。お前の災難と失敗は不信仰のせいだ、不信仰の先には災難があるというなら、それは呪いです。そのようなことをこどもに教えたくありません。

私たちは信仰が自由であることを伝えたいのです。信仰を持つことは、本当は自由になることなのだと伝えたいのです。信仰をもつことは縛られることではなく、希望につながることなのだと伝えたいのです。宗教2世を解放したいのです。私たち自身も解放されたいのです。そのことを今日の聖書の個所から見てゆきましょう。

 

 

今日はルカ8章4~15節までをお読みいただきました。今日の話の解釈は11節以降に書かれています。そこでは種まきをするのが神、種がみ言葉、まかれた土地は私たちの心と解釈されます。そして自分を道端や岩や茨の地に置き換えるように促されます。この解釈によれば、良い土地ではない自分は、自らの不信仰を反省し、悔い改める必要があります。貧しい人、失敗をした人、人生が思う様にいかない人は、心が良くない人です。そして成功している人は、立派な心、善い心を持っている人です。この個所はそのように人々から自信を奪います。私は神の国に入るには値しないと思わせてきました。そしてもっと厳しく教えを守らなければ実りが無いと人々を縛ってきました。このような解釈はとても息苦しいです。

でもイエス様は本当にそのようなことを言っているのでしょうか。神様は、立派な人には良いものを与え、悪い人には悪い物を与えるお方なのでしょうか。それならば他の宗教の神様とあまり変わらないような気がします。イエス様は他にも多くことを譬え話で教えるのですが、ほとんどの場合、明確な答えを言いません。なぞを残したまま、人々に考えさせる終わり方をします。しかしこの個所は、イエス様が具体的に解説を加えたと書いてあります。本当でしょうか?実は9節以降は、後の時代の人間が加えた可能性が指摘されています。だとすると私たちは9節以降の解釈に縛られずに、4~8節まででイエス様が伝えようとしたことを理解することができるでしょう。

4~8節を見ましょう。この話の主人公は「種」でも「土地」でもなく「種まきをする人」です。種をまくという行為がこの話の中心です。イエス様に従っていた人の多くは農民でした。皆まかれた種よりも、種をまく人に自分を重ねたでしょう。農夫はいつも豊かに実ることを願って畑に種まきをしました。収穫の喜びが来ることを神に祈りながら種をまいたでしょう。豊かな収穫が必ず来ることを神様に信頼して種をまいたのです。5節の「種をまく人が、種まきに出ていった」とは、そのような農夫の姿です。

しかし一生懸命な働きにも、時には失敗があります。5節以降は種をまく人の失敗が描かれます。道端にこぼれてしまったり、岩の上に落ちてしまったり、茨の中にまいてしまったのです。種のすべてを狙った場所にまくことは出来ませんでした。うまくいく時、うまくいかない時があったのです。それでも種まきは続けられます。完ぺきでなくていいのです。そして全部が全部実るわけでもないのです。だいたいの種は良い土地にまかれ、だいたいの種が豊かな収穫となります。もちろん農夫たちは知っています。たとえ良い土地にまかれても、いつも豊作だとは限らないのです。どんなに頑張っても不作の時があります。豊かな収穫を祈って種をまいても、一生懸命やっても不作の時は不作です。どんなに祈っても凶作の時があります。一方、たいして頑張らなくても、祈らなくても、豊作の時があります。それが種まきです。

イエス様はどんなことをここから伝えているのでしょうか。私はここから、すべての事がうまくいくわけではないけれども、でも実りが必ずあることを期待し、希望を持って、祈り、働きを続けよう、そう語っていると感じます。神様は善い心の人にはたくさんの恵み、悪い心の人は恵みはゼロ、そんなケチな存在ではないではずです。神様はきっと、あなたの心がどんなにすさんでいようが、いばらだろうが、砂漠だろうが関係ありません。神様は私たちに希望を持って、種をまくように促しています。

イエス様はこう言っているのではないでしょうか。何をするにしても、それが良い結果になるかどうかわからない、善い人が良い結果とも限らないし、誰でも道端や茨にまいてしまうような失敗をする。でも大丈夫。神様を信頼して、実りを期待し、祈り、取り組もう、一生懸命やってみよう。私たちはこの先もきっと失敗するけれども、安心して種をまこう。神様を信頼し、種をまこう。神様は一生懸命に種をまく人を、一生懸命生きている人を見捨てないはず。無駄も失敗も不作もあり、凶作もある。でもきっと豊作の喜びがある。その希望を一緒に見よう。イエス様はそのように伝えているのではないでしょうか。

私たちの宗教、イエス様の教えは誰か否定し、縛るものではないはずです。誰かの自己肯定感を下げるものでもないはずです。イエス様は、自分や誰かの心を悪い土地だと言って、悪い心は悪い結果を生むと教え、怖がらせ、反省させ、支配するために来たのではありません。イエス様は私たちに、恵みに期待し、祈り、日々を一生懸命生きるように教えたのです。失敗の中でもあなたが活き活きとすることができるように、あきらめずに生きるようにと教えたのです。

教会には毎週、そのように種をまき続ける人が集います。教会には人生にいろいろありながらもやっぱり種をまき続けようとする人がたくさん集います。種をまく希望を受け取るために教会に集います。

この福音は誰かを縛るため、誰かを反省させるために、誰かを縛り付けるためにあるのではありません。誰かの生活に制限を加えるためにあるのではありません。福音とはあきらめそうになっていたことを、神様に信頼して、やってみようと思わせるものです。福音とは、もうだめだ、何をやっても変わらないという思いから、やってみようと思わせるものです。福音とはそのように人々を解放し、自由にするのです。福音はあなたを否定し、縛り付けるのではありません。福音とはあなたを自由にし、種をまくような希望をもって生きるようにさせるものです。私たちはその福音を伝えてゆきましょう。お祈りをいたします。