【全文】「シャロームの教え」ルカ3章1~14節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声も足音もこの礼拝の一部です。共に礼拝を献げましょう。

今日は特に礼拝の後半でこども祝福祈祷の時を持ちます。こどもたちが神様に愛されていることを感謝し、こどもたちが教会で元気に、のびのびと育つことを祈ります。こどもたちには、将来偉くなって欲しい、他の人よりいい暮らしをして欲しいと、立身出世を祈るのではありません。平和を実現する者として育って欲しいと願って祈ろうと思います。

平和は何より大切なことです。ですから毎年のように話します。平和はすべての生活の基盤です。しかし聖書の平和は戦争をしないという狭い意味ではありません。何も変化が無い、波のない凪の状態が平和なのではありません。聖書の平和はヘブライ語で「シャローム」といいます。シャロームは何もない状態ではなく、もっとダイナミックな動きをあらわす言葉です。聖書の平和、シャロームは動きを表します。それはちょうどでこぼこな丸が、きれいな丸の状態になってゆく動作に似ています。シャロームとはきれいな丸になる状態です。どこもへこんだり、どこもでっぱったりしない、美しい丸です。それは、みんなが等しく満たされている状態です。

図にも示しましたが、現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとしている場所があります。自分だけが良ければいいという考えです。一方低く押し込められている場所があります。誰かに抑えつけられてしまっている場所です。イエス様の十字架は、このへこみの下にあります。低み、一番深い谷、悲しみの底にイエス様の十字架があります。シャロームとは歪んだ丸がもとの丸に戻る動作です。谷が満たされるようにし、高ぶりが低められるようにする、そのダイナミックな動きがシャローム、聖書の平和です。シャローム・平和を作るには、押し込められている人と共に十字架から力をいただき、満たされていくことが必要です。シャローム・平和を作るには、高ぶりの中にいる人と共に十字架を見て、低くなってゆくことが必要です。

そのようなダイナミックな動きがシャロームです。子どもたちにはぜひシャロームのために働く人になって欲しいと願っています。そしてもちろん私たちもまだまだシャロームのために働きたいのです。今日は聖書から私たちに求められているシャローム、平和のための働きを見たいと思います。そこから「私たちはどう生きればよいのか」を考えたいと思います。聖書を読みましょう。

今日の聖書箇所はルカによる福音書3章1~14節です。バプテスマのヨハネという人が登場をします。バプテスマのヨハネとは、イエス様が公の活動を始める前から、活動をしていた預言者です。特にヨルダン川の付近で悔い改めのバプテスマを呼び掛けていました。どの福音書も必ず、このバプテスマのヨハネを取り上げるのですが、ルカ福音書はヨハネの描き方が独特です。

例えばバプテスマのヨハネといえば荒野で、動物の皮を着て、悔い改めを叫ぶ、荒々しいイメージを持つのですが、ルカ福音書ではそのようなイメージではありません。風貌の記述もありませんし、もともとヨハネのもとに人々が集まったのではなく、ヨハネが出かけて行って、話をしたとあります。ずいぶん他の福音書とイメージが違います。

バプテスマのヨハネの記述で他の福音書と共通しているのは、4節『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』はイザヤ書40章からの引用です。どの福音書にも共通して記述があります。しかしやはり、ルカ福音書だけが強調している点がいくつかあります。他の福音書には無く、ルカ福音書だけにしかないのは、5節と6節、そして10節以降です。5~6節はルカ福音書にのみに伝わる記述です。そこではこう言われています。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされるというのは、まさしくこの図の通りです。5節~6節は、まさしく丸になるように、シャロームに近づく動きを示しています。バプテスマのヨハネはシャロームの教えを広めていたとも言えるでしょう。

谷は埋められる、山は低くされるはそれぞれ〇〇されると書いてあります。それは神様によってなされるということです。神様の力、シャロームの力によってそれが起ると言っています。一人一人が、すべての人が満たされる世界が、シャロームな世界が、神様によって作られていくのだと、バプテスマのヨハネは教えたのです。この呼びかけには多くの人が賛同したと書かれています。多くの群衆がそのシャロームの教えを聞くために集まったのです。その中には徴税人や兵士たちもいました。いろいろな身分、職業の人が、シャロームの教えを聞いていたのです。

ヨハネは人々に「悔い改め」を呼び掛けました。当時の信仰者に求められた悔い改めとは、犠牲の献げ物や断食でした。しかしヨハネの求めた悔い改めはそうではありませんでした。だからこそ人々はそれぞれに聞きました。「私たちはどうすればよいでしょうか?」何をすればよいのか、どう生きてゆけばよいのかを聞いたのでしょう。私はこれからどうやって生きてゆけば良いのですか?と聞きました。人間の根源的な問いとも言えるでしょう。私はどう生きるべきなのかを聞いたのです。

群衆、徴税人、兵士それぞれが尋ねています。徴税人と兵士からみましょう。徴税人には必要以上に取り立てるなと言いました。彼らは納めるべき税金より多く集め、その差額を自分たちの収入・利益にしていました。だから民衆から嫌われていたのです。ヨハネは決まり以上に不正な取り立てしないように言いました。兵士たちにも同様です。市民から暴力でお金を取るようなことをしないように言いました。それぞれの場所で公正な、誠実な仕事をする様に教えたのです。

徴税人も兵士もおそらくどちらも組織の中では下っぱの存在です。徴税人の頭や百人隊長から命令されてお金を取り立て、ほとんどは頭や隊長に取られていきました。彼らも決して裕福ではなかったでしょう。彼らも裕福ではなかったけれども、不正な取り立てをしないようにと言われたのです。それはそれぞれに与えられた場所で不正をせず、誠実に働くことを求めたということです。神様にも隣人にも、誠実に生きるということが、悔い改めを訴えたヨハネの「どう生きてゆけばよいか」への答えだったのです。

群衆への答えも見ましょう。群衆には下着を2枚持っていたら、持っていない人に1枚手渡すようにと言います。注目するのは、この話の登場人物はみんな貧しいことが前提にあることです。徴税人も兵士も、民衆もみな貧しいのです。この群衆は着る物を2枚しか持っていません。たった2枚のうち1枚は、洗濯している時の着替えでした。それは自分にとって余っているものではありません。必要なものです。本来、人にあげることができないものです。

しかし、バプテスマのヨハネは2枚持っている下着を1枚、持っていない人に渡すように求めています。これは貧しい人は、より貧しい人の助けになるようにという教えです。それがシャロームの教えなのです。有り余っているものがあったら、もちろん分け合いましょう。でもそれだけではありません。たった2枚しかない、私も貧しい、私も必要、でもその中から分かち合うということです。無い袖は振れないのですが、無い袖の中から、分け合ってゆく、それがシャロームの教えです。有り余っている者はもちろんですが、貧しい者同士も分かちあうように教えているのです。

バプテスマのヨハネは「どう生きればよいか」と質問を受けて、それぞれ貧しい者も互いに分かち合って生きるようにと言いました。支え合って生きるようにと言いました。バプテスマのヨハネが伝えようとしたことは、神の前に誠実に生きることです。私たちは神の前で祈り、献げることと、隣人とも共に祈り、分かち合ってゆくことが求められたているのです。まさしくこの丸の様にシャロームを目指す、小さくても丸になってゆくことを目指す、そのような働きが、悔い改めた者には起こされるはずだと語ったのです。

今日の個所にはイエス様は登場しませんが、イエス様はこのあと、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けることになります。イエス様もこの群衆の一人だったかもしれません。バプテスマのヨハネのシャロームの教えに共感し、さらに活動を広げていったのです。イエス様は高い者を低くし、傷ついている人を訪ねました。そしてご自身から十字架へと向かわれたのです。シャロームの実現のために、この地上に来られ、十字架にかかられたのです。

私たちはどう生きればよいでしょうか。この問いは私たちの問いでもあります。私たちは今日もイエス様に尋ねます「私たちは、どうすればよいのですか」「私たちは、どう生きればよいのですか」と。今日の個所、そして様々な聖書の箇所にその答えが書いてあるのではないでしょうか。今私たちの生活は本当に苦しいです。どんどん物の値段が上がるけど、どんどん年金は下がります。まるで下着が2枚のような生活です。でも私たちは、できることをしたい。2枚のうち1枚を分かち合ってゆきたい。ヨハネはそれがシャロームのために、平和のために必要なのだと教えています。私たちはどう生きるべきでしょうか。それぞれが主に尋ねて歩んでゆきましょう。そしてこどもたちが高みに行くのではなく、シャロームの実現のために働く人となるように祈りましょう。お祈りいたします。