【全文】「礼拝の縦糸と横糸」 マルコ12章28~34節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝に集えたこと感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたち、そしてお互いを感じながら礼拝をしてゆきましょう。

中島みゆきの「糸」という曲をご存じでしょうか。1990年代の歌ですが、若い世代のアーティスト、ミスチル、リトグリ、エメなどにもカバーされ、広い世代に人気の曲です。その歌詞が心に残ります。

 

 

この歌では私たち一人一人は一本の糸の様に弱い者かもしれないけれど、お互いが紡がれて布になってゆく時、何かができるかもしれないと歌っています。大事なのは縦糸と横糸の関係で、それがしっかりと紡がれて、組み合わされている時、誰かを暖めたり、癒したりすることができるのだとあります。

今月私たちの礼拝では「礼拝」をテーマにしています。礼拝とはなんだろうかということを考えています。糸の話をしましたが、礼拝にも縦糸と横糸があると思います。私は礼拝がこの歌に似ていると感じました。

礼拝において縦の糸とは、神様と私がつながる糸です。そして礼拝において横の糸とは、私と仲間とがつながる糸です。礼拝は縦糸だけでも、横糸だけでもありません。この縦糸と横糸が織られ、紡がれるのが礼拝です。礼拝のプログラムを見るとそれを直接感じることができるでしょう。例えば「招詩」招きの言葉は神様からの招き、神様との関係、つまり縦糸を示すものです。続く「平和の挨拶」は仲間の確認する時間です。横の関係を確認します。それは横糸です。「聖書朗読」は神様の言葉をいただく、縦の糸と言えるでしょう。礼拝は一つ一つのプログラムが、縦糸と横糸が織り重なるようにすすみます。礼拝には縦糸と横糸があり、全体で織られた布のようになっています。神様との関係を考える、仲間との関係を考える、それが交互に織り重なったのが礼拝です。その礼拝は誰かを暖めうるかもしれません。傷をかばうかもしれないのです。

私たちはこのような礼拝を持っています。礼拝の中で儀式のように意味が分からなくなっている部分、よく考えずに通り過ぎてしまっている部分もあるかもしれません。でも礼拝を縦糸と横糸の視点で見直したいのです。私たちにはコロナで礼拝に集えない期間がありました。YouTubeの礼拝はどこか物足りない、寂しい気持がしました。それはきっと横の糸がなかったからでしょう。仲間を感じづらい礼拝は、縦の糸はあっても横の糸が足りないのです。いろいろな技術があっても、私たちがなお今日、集まって礼拝をするのは、横の糸を感じながら礼拝をするためです。様々な事情があったとしても、集うことを大事にし、精一杯集ってゆきたいのです。仲間と共に礼拝すること、それは礼拝の大切な要素です。大切な横糸なのです。こどもの声が聞こえるということもそうでしょう。一人で礼拝しているのではないことを、こどもたちの声が教えてくれます。きっとそれも大切な横糸です。

礼拝は縦糸と横糸とどちらも大事です。礼拝は神様と自分の関係を考える時、そして同時に仲間と自分の関係を考える時なのです。どちらかだけではなく、両方が大事なのです。今日は礼拝とは神様と自分の関係を考えることはもちろんとして、礼拝は人と人との関係を考える場所でもあるということを見てゆきたいと思います。今日の聖書を読みましょう。

 

 

あるとき一人の律法学者がいました。当時の律法学者たちの信仰の中心は、神殿で犠牲を献げることでした。エルサレムの神殿で牛を丸ごと1匹、黒焦げになるまで焼くのです。それが焼き尽くす献げ物でした。煙を神様に献げたと言われています。彼らにとって神を愛するとことは、神様に献げ物をするということでした。神殿での犠牲と献げ物を何よりも大事にしたのです。しかし今日の律法学者は、話の最後で自分の考えをすっかり変えてしまっています。神殿での犠牲の献げ物を最も大事にしていた律法学者が、それにも勝る大切なことがあると宣言してしまったのです。これは驚くべき変化です。

律法学者ははじめ、イエス様に質問をしました。ここは議論を吹っ掛けたのではなさそうです。純粋に教えて欲しい、わからないと思って質問をしました。質問をする、疑問を持つということ、それを誰かにぶつけることは大事なことです。聖書に書いてあることを、ただそのまま信じればよいのではありません。疑問に思い、考え続けること、誰かに聞いてみること、神様になぜと問いかけてみることが大事です。なぜなら疑問、質問が私たちを新しい信仰へと導くからです。

疑問や質問は、信仰にとってとても大切です。なぜと思い、周囲や神様に聞くことで、私たちの信仰の優先順位が逆転することがあるからです。今日まさに、律法学者に起きた事がそのようなことでした。彼は疑問に思ったことを問いかけ、その答えによって、自分の信仰の優先順位が逆転されることになるのです。

イエス様の答えをみてゆきましょう。律法学者は一番大事なものは何かとイエス様に尋ねました。イエス様は一番重要なのは何かと聞かれて、第一に神を愛することだと言っています。聖書の元の言葉では、第一に神をアガペーすることだと書かれています。アガペーは愛するという意味です。そしてさらに愛するという意味以外にも、大切にするという意味を持ちます。

アガペーは日本語の愛するという言葉よりも、大切にするという表現が私にはふさわしいように思います。イエス様は第一に神様をアガペーしなさいと言っています。神様を大切にしなさいと言っているのです。心、精神、思い、力を尽くし神様を大切にしないさいと言っています。それを難しく言えば、全身全霊、全人格ともいえるでしょう。心と生活の端から端まで神様を大切にしなさいということです。私たちの心も生活も神様を大切にする、そうでありたいと願います。

そして神様を第一に大切にするとは、もちろん礼拝をすることと言えるでしょう。私たちは神様を第一とするこの礼拝から、1週間を始めます。今週も全身全霊、全人格、生活の隅々まで、神様を大切にしながら生きてゆきましょう。そしてまた来週も、集って神様を大切に思う時、礼拝を持ちましょう。毎週の礼拝出席が難しいという方もいるでしょう。それぞれの精一杯で礼拝をしましょう。そのような一週間を繰り返してゆきましょう。

聖書を読み進めます。31節にはイエス様は第二にと答えます。イエス様は一つだけ答えて欲しいという問いに二つ答えようとしています。これは好きなものを一つだけ教えてと言われて、どうしても選べずに二つ答える心理と同じです。それはどちらも同じくらい好きで選べないから、両方を挙げるのです。イエス様も今日、選べないほど両方とも大事だからこそ、二つ答えているのです。イエス様は神様を愛するのと同じくらい大事なことを私たちに教えています。それは隣人を愛するということです。隣人を愛することは、神様を愛するのと同じくらい大事だというのです。神様と隣人のどちらも愛しなさい、神様と人間のどちらも大切にしなさいと言っています。私たちは今日の礼拝から、この1週間、全身全霊、全人格、生活の隅々まで、神様を大切にしながら生きてゆこうと願って集いました。そして、それと同じくらい大事なことがあると今日の聖書箇所は示しています。

それは隣人を全身全霊、全人格、生活の隅々まで、大切にしなさいということです。隣人を愛しなさいということです。隣人とは誰のことでしょうか。今日、隣の席に座っている人とも言えるでしょう。そしてあなたの職場で隣の席の人、あなたの家の隣の家に住んでいる人、私たちの国の隣の国に住んでいる人です。よく考えるなら、すべての人、すべての命が私たちの隣人と言えるでしょう。私たちは神様からすべての隣人を、すべての命を大切にしてゆくことが求められています。命と優しく接し、いたわりあう事。世界中の隣人が大切にされるように願うこと。それは神様を愛するのと同じくらい大事な事なのです。私たちは神様を愛しましょう。神様を大切にし、アガペーしましょう。そして私たちは他者を愛しましょう。他者を大切にし、アガペーしてゆきましょう。その一週間を歩みましょう。

イエス様はこのあと十字架に架けられることになります。十字架とはただ犠牲なったという出来事ではありません。十字架は私たちに、神を愛すること、そして隣人を愛することを強烈に指し示しているものです。イエス様は神様に十字架の上でも神を愛し、大切にし続けました。そして十字架の上でも罪人や家族へ語り続けました。私たちは礼拝でこの十字架を見てそれを思い出します。イエス様の十字架はどんな時も神を愛し、隣人を愛した主イエスを思い出せるものです。

私たちは今日の礼拝から1週間を始めました。私たちはどんな献げ物や犠牲にも勝るように、神様を愛し、隣人を愛しましょう。神様を全身全霊で大切にする1週間、他者を、命を全身全霊で大切にする1週間をこの礼拝から始めてゆきましょう。お祈りいたします。