【全文】「高齢者を大切にする教会」ルカ2章21~40節

みなさん、あけましておめでとうございます。年の初め1月1日から礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を足音を聞きながら礼拝をしましょう。クリスマスを無事終えてほっとしています。クリスマスは赤ちゃんを囲んだ物語でした。教会にもたくさんのこどもたちが訪ねてくれました。自然と教会でもこどもの話題が多くなる時期でした。来週は成人の日もあります。この期間は特に若い人にスポットが当たり続ける期間かもしれません。

私たちはこどもを大切にする教会です。しかしもちろん私たちは高齢者を大切にしない教会ではありません。事実、この教会は高齢者が大切にされていると思います。この教会は若さを大切にしているわけではありません。若々しくいることを大切にしているわけではないのです。0歳も100歳も、小さくても、長くても、どんな命でも大切にできる教会になりたいのです。それを象徴するものとして、平塚教会はこどもを大切にする教会ですと語っています。

年が変わって新年度が近づくと、多くの教会で、就職や進学で引っ越しをする若者がいます。大人たちにとっては、旅立つこどもが、引っ越し先でちゃんと教会に通うかどうかが心配です。良い教会にめぐり会って欲しいのですが、なかなか定着するのは難しいものです。あの教会に行っても若い人がいない、少ない、高齢者ばかりだと嘆きを聞くことがあります。しかしある先輩牧師は、引っ越し先で教会を探すときは、高齢者がたくさんいる教会を選びなさいと言っていました。高齢者がたくさんいる教会は、教会の中でそれだけ長く信仰を持てる教会だということだからです。教会の高齢者は、信仰を長く育むことができるというしるしなのです。若い人がたくさんいて、元気のある教会もいいけれど、ぜひ高齢者のたくさんいる教会に通うようにと勧めていました。よいアドバイスだと思います。

神様を信じる信仰を持つことは素晴らしいことです。熱意を持って信じることができればなおさらです。でも信仰を長く途切れずに持ち続けることは、きっとそれより難しい事です。きっとクリスチャンになってもつらい事、悲しい事、うれしい事はたくさんあるはずです。そのような人生の中で信仰を持ち続けることはとても難しいことですが、それこそが大切なことです。そんな時私たちを励ましてくれるのは、信仰を持ち続けた先輩の存在です。教会には長い人生の中で、紆余曲折、様々な苦労をしながらも、信仰を守り続けてきた人がいます。その方の話が、その方の信仰が、その方の存在が、私たちの身に染みて、励ましてくれるのです。私もいつも励まされています。高齢の方に「大丈夫だからね、神様がいるから」と言われるととても安心します。重みが違うのです。

私たちは高齢者の話を良く聞く教会になりたいのです。信仰を守り続けた高齢者から元気をもらいたいのです。そしていつか私もあのおばあちゃん、あのおじいちゃんみたくなりたいと思います。あの人のようになりたい、そう若者があこがれる高齢者がたくさんいる教会になってゆきたいと思いますし、すでにたくさんいると思います。

今日は新年最初の礼拝です。この1年の始まりを「高齢者を大切にする教会」という話から始めたいと思います。聖書から老いることについて考えたいと思います。聖書の中にある、信じ続けた高齢者の話を見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

今日の個所はルカ2章21~40節です。マリアとヨセフは赤ちゃんのイエス様を連れて、神殿に来ました。献げ物をするためです。神殿の祭司はこの両親を迎えるのが仕事だったはずです。おそらく祭司は他のこどもと同じように律法通りに献げ物を受け取り、二人を見送りました。祭司はイエス様と他のこどもとの違いに全く気付きませんでした。マルコとヨセフは他のこどもと同じように献げ物を済ませ神殿から帰ろうとします。そして二人とイエス様は神殿の境内でシメオンという人と出会います。

シメオンとはどんな人でしょうか。29節でシメオンは「この僕を安らかに去らせてくださいます」と言っています。この言葉から彼は相当長く、救い主の誕生を待ち望んでいたと考えられます。おそらくシメオンは高齢者だったのではないかと言われています。シメオンを想像します。彼は白髪でしわしわの老人だったかもしれません。杖をついて、むこうからゆっくり歩いて来る、衰えた老人かもしれません。でも31節からは、シメオンのあふれる豊かな感情が伝わってきます。イエス様に出会って、これはすべての人の救いだ、光だ、誉れだと興奮して喜んでいます。この時を待っていたのだ、私は主イエスに出会えてとてもうれしいと、彼の顔がまぶしく輝いているのを想像できます。これもイエス様が生まれてすぐ、クリスマスの8日目の物語です。でもどうしてクリスマスは赤ちゃんばかりが登場するのでしょう。クリスマスにイエス様の誕生を祝ったのは羊飼いと博士だけではありません。シメオンもその一人です。シメオンのしわだらけでも、キラキラした目を想像します。赤ちゃんを抱いて、救い主を賛美するおじいちゃんは、クリスマスのすばらしい登場人物です。

シメオンは長く信仰を貫いてきた人です。ずっと待っていた人です。楽しい時も、苦しい時も、病気の時もあったでしょう。それでも待ち続けた人です。そして彼は神殿に通い続けた人です。今日こそは救い主に会えるだろうか、彼はきっと彼はそう思いながら毎日神殿に行きました。毎日、祈り、礼拝したのです。彼はそのように、人生の紆余曲折を経ながらも、息の長い信仰を持ち、礼拝を続けた人です。彼はイエス様と出会って、これで私の役目は終わったと言います。でも私は想像します。まだまだ生きたのではないでしょうか。だってこんなに喜んでいるのです。この誕生と出会いから元気と活力をいただいたのです。きっと彼はもうしばらく生きたはずです。

36節以降にはもう一人の高齢者が登場します。アンナは84歳だったとあります。この個所は原文では結婚して夫を亡くしてから84年間だったとも読める箇所です。もしかすると100歳を超えていたかもしれません。いずれにしても非常に年をとっていたのです。38節には彼女もまた「近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。彼女も腰が曲がっていたでしょうか。しわだらけだったかもしれません。でも想像します。彼女もきっと輝きと、感謝にあふれていた晴れやかな顔をしていたに違いありません。

彼女の人生には困難なことがあったと記されています。彼女はずいぶん前に夫を亡くしています。彼女は人生のパートナーを失う、深い悲しみを経験した女性です。でも彼女はそれでも信仰を捨てなかった人です。いえむしろ、人生に悲しみがあったからこそ、その悲しみを深く知り、悲しむ人のために祈り続けた人でした。「大丈夫、神様がいるから」と神様の慰めを語り続けた人でした。若い者のために幼い者のために祈ることができた人でした。そして37節、彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた人でした。

祭司はイエス様と他の人間にまったく違いを感じませんでした。だから、規定通りに事を終えたのです。しかしこの二人の高齢者は違いました。彼らは、この人こそ救い主だと、救い主を見極めたのです。それは祭司にはできませんでした。本当に救い主を見抜くことができたのは、信仰と人生の経験を深めた、年を重ねた信仰者だったのです。

人は死ぬ前に衰えを感じてゆくものです。それに恐れを感じる時もあります。実際に衰えてゆくのはつらい事です。できないことが増えていくのに、もどかしいように感じるでしょう。でも私たちはこの二人の高齢者に励まされます。彼らは衰えてもなお、神殿に通い続けたのです。衰えや不自由の中でも礼拝を続けたのです。彼らこそ、神の言葉、神との出会いを待ち続けた人でした。神殿に通い続け、信仰を守り続けた人でした。そのような人こそが、本当の救い主を見極めることができるのです。そのよう人が、周囲の人を励ますことができるのです。

私たちの教会に目を移します。私たちの教会にもシメオンとアンナがたくさんいます。こどもを抱いて、喜んで、大事にする、高齢者がたくさんいます。こどもと出会って目を輝かせている方がたくさんいます。そしてその方たちは信仰を守り続けた方です。人生の様々な苦労がありながらも、信仰を持ち続けた人、礼拝に通い続けた方々です。この教会のシメオンと、アンナです。

私たちはこの教会のおじいちゃんとおばあちゃん、シメオンとアンナのような、長い信仰をいただきたいと思います。人生には様々なことがあり、年老いてゆき、肉体は衰えてゆきます。そして人はやがて天に召されてゆきます。でもそれでも信仰を守り続け、礼拝をし続ける者に、私もなりたいと願います。

そしていつか、これで地上の役割が十分果たせたと思う時が来るでしょうか。私の地上の仕事は終わりました。礼拝し続け、あなたを待ち続けることができました。そう言える時が来るでしょうか。そう言えるように生きたいのです。

私たちはこどもを大切にする教会です。わたしたちは高齢者を大切にする教会です。高齢者が赤ちゃんを喜ぶ教会です。私たちには今日、新しい1年が与えられました。今年も1年、健康に気を付けて、礼拝をし続けましょう。自分の命が続く限り礼拝し、主を待ち望む、そんな1年にしてゆきましょう。お祈りいたします。