【全文】「神はあなたを輝かせる」 出エジプト34章28~35節)

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声と足音を聞きながら礼拝をしましょう。私たちは今、教会の暦でレント・受難節の中にいます。レント・受難節はイースターの前の約40日間を指します(厳密にはそれに6回の日曜日を加えた46日間です)。この期間はイエス様の十字架に到る聖書箇所が多く選ばれます。私たちは今月、共に旧約聖書を読んでいますので、直接十字架の個所を読むわけではありませんが、今日の個所も十字架と無関係ではありません。直接その箇所を読むわけではありませんが、40日間を共に過ごしてゆきましょう。

キリスト教は40という数字がよく登場します。ノアが箱舟に乗ったのは40日間、モーセが荒野でさまよったのは40年、イエス様が荒野で断食をしたのも40日間でした。40はとても長い期間を表し、そして神様との関係を考える期間として繰り返し登場します。今日の箇所も40日間です。モーセは神様からの言葉を聞くために、シナイ山に登るようにと言われます。そこで神様の戒めを石板に彫り付けるためです。28節、モーセは山の上で四十日四十夜、主と共に留まりました。そこではパンも食べず、水も飲まず、ひたすら神と共に、二人きりで共にいたとあります。モーセは40という数字に象徴されるような長い期間そこにとどまりました。モーセは長い期間、山の上で、神と二人きりで、共にいたのです。今日はこの場面について見てゆこうと思います。

人間は夫婦や、家族、友人と長く一緒に時間を過ごしていると、言葉やしぐさが似てくるものです。あるいはもっと深いところで、考え方や物の見方、習慣までが似てくることがあります。顔や表情まで似てくるものだと聞いたこともあります。あるいはワンちゃんさえも飼い主に似てくると聞きます。そのように人間は長く時間を共にすると、似てきてしまう者なのでしょう。モーセは四十日四十夜という長期間、神様と二人きりで共にいました。その期間は寝食を忘れ、神の言葉を石の板に刻み、神様と共にいました。神様との豊かな出会いをいただいたのです。それだけ神様と一緒にいれば、神様に似てくるでしょうか。

神様の言葉を聞いたモーセは大変大きな恵みを受けて帰ってきました。山から降りてきたモーセを見た人々は驚きました。なぜならモーセの顔が光り輝いていたからです。顔の皮膚が発光していたという現象です。本当に神様による奇跡によってそのような現象が起きたのかもしれませんが、あるいは顔を輝かせて帰って来たという意味かもしれません。

モーセは四十日四十夜、神様との濃密な時間を過ごしたのです。神様と少し似た顔つきになって帰ってきたのかもしれません。モーセは神様の言葉を聞いて、輝くような顔になったのです。全く別人のような表情になって帰って来たのです。神様はそのように人を変えるのです。神様の言葉が人をそのように変えるのです。神様の言葉がモーセの顔を輝かせました。神様ととにかく一緒に居続けるということが、人の表情を変えてゆくのです。

私は教会に来て、そのようなことが毎週の教会で起っていると感じます。私はたくさんの光り輝く顔を知っています。皆さんが前を向いているので、私が一番皆さんの表情を見ています。ときどき皆さんとは教会の外、町で会うこともありますが、教会に来ている時、礼拝している時の顔が、一番明るくて輝いています。皆さんの顔は教会で輝いています。あるいはご葬儀の時に、棺の中に入った先輩を見て、光り輝くような顔をしていると感じる時もありました。そのように人の顔は教会で輝くのです。テカるのと違います(笑)。人間は教会で神様の言葉に出会うと、安心して、ニコニコして、笑顔になって、輝くのです。それがモーセに起きた事で、毎週この教会で起きていることです。

29節によれば、周りの人が怖がるくらい顔が輝いているのに、モーセ自身は光を放っていることに気づいていませんでした。皆さん自身、私自身もそうかもしれません。自分が教会でどんな表情をしているかはわからないのです。でも教会の中ではみなさんいい顔しています。正面からよく見えます。あるいは最初に教会に来た時より、ずっと穏やかで、笑顔で、安心していて、輝いています。教会では一人一人が自分では気づかない光を放っています。

神様の言葉とずっと親しむこと、礼拝をずっと続けてゆくこと、それは私たちの表情と私たちの内面を変えるのです。神様とずっと一緒にいることは、必ず私たちを変えます。夫婦や友人やペットでさえ一緒にいると、見た目も中身も似てくるものです。それと同じように、神様と長く一緒にいるなら、神様の言葉を長く聞き続けるなら、私たちは神様に似た者に変えられてゆくのです。それがモーセに起きた事、私たちに起きている事です。

神様の言葉は光です。その光は私たちの顔を、私たちの心を明るくします。神様の言葉は私たちを暗い気持ちにするのではありません。神様の言葉は冷たいものではありません。神様の言葉は、聞いた人の心が温まる言葉です。そして神様の言葉をずっと聞き続けると人は神様に似てきます。心が変わり、輝き、自分でも気づかない間に、今度は周りを明るく照らしているのです。

32節まででモーセは輝いた顔のままで、神様の言葉をみなに伝えましたが、33節からは自分の顔に覆いをかけるようになってしまいました。この覆いにはどんな意味があるでしょうか、理由はまったくわかりません。神様の言葉をいただき、輝いて帰って来たモーセでしたが、山を下って、人々の間に入ると、輝く顔を覆ってしまいました。せっかく輝いている顔を隠してしまったのです。怖がらせないため、気持ち悪がられないために必要だったのでしょうか、恥ずかしくて覆ったのでしょうか。もしかするとそれは日常では出せない表情、出さない表情だったのかもしれません。本当の自分を隠し、仮面をかぶらなければいけなかったのかもしれません。

34節、モーセの顔の覆いは神様の前では外されたとあります。モーセは神様の前では覆いのない、本当の自分が出せたのです。外では出せない本当の自分、変えられた自分がここでなら出せたのです。あるいは神様の前に行き、再び神様の言葉を聞くことで、また光り輝くようになったとも理解できるでしょう。35節、人々がもう一度モーセの顔を見ると、やはり光り輝いていたのです。誰も、本当の自分の姿に覆いをかぶせる必要はないはずです。モーセは恥ずかしがらずに、その光り輝く顔を出してよかったのではないでしょうか。それは神様からいただいた光なのですから。

私は今日の個所を読んで、まず自分が教会にいる時の顔ってどんな顔なのだろうと思いました。もしかして教会では日常よりも笑顔が多いかもしれないと思いました。そしてそうならば、教会以外の日々が無表情になっていないか、あるいは顔の輝きを覆うように生きていないかとも考えました。

そして私は毎日を輝くような表情、態度で過ごしたいと思います。毎日を教会に来た時のような、神の言葉を受けて光り輝くようなそんな顔で、そんな表情で、そんな態度、そんな内側・心で日々を歩みたいと思いました。私たちはその顔の輝きに、覆いをする必要はありません。教会で見せる表情や態度のまま、毎日を生きてゆけば良いのです。そのように感じました。

社会ではマスクが定着しています。外すのか外さないのかが話題になっています。いずれにしても、お互いの表情や気持ちは前よりもわかりづらくなっています。私たちの顔が光り輝いていても、わかりづらいのです。マスクで分かりづらいからこそ、少しだけ見えている私たちの表情や態度はより大切と言えるかもしれません。いつかマスクが必要ないと思える時が来るように願いますし、もう少し様子を見てゆきましょう。

でも私たちが知っておきたいのは、神様の言葉をずっと聞いていると、神様とずっと一緒にいると、神様に似てくるということです。そして表情や態度が明るくなるということです。神様とずっと一緒にいると神様に似て来て、生きる力にあふれ、人生を楽しむ力にあふれてくるのです。神様と長く一緒にいればいるほど、その顔は輝いてくるのです。だから私たちは神様との時間を大切にしましょう。そして豊かな表情に、恵みをいただいたその顔に、覆いはいらないのです。恵まれたその顔で毎日を送りましょう。

レント・受難節ですからイエス様の歩みも見てゆきます。福音書にはイエス様も同じように、山の上で顔が輝く出来事がありました。ルカだと9章48節です。イエス様も神様の言葉を受けて、神様との出会いによって顔が光り輝いたのです。

イエス様も神様からいっぱいの光を受けて顔を輝かせていました。そして大勢の人々が待っている山の下へと下ってゆきました。山の下で多くの人に出会い、人々を励まして生きてゆかれました。礼拝の場所から、神様との出会いから、神様の言葉、光をいただき人々と出会いに行ったのです。その歩みは十字架まで続きます。私たちもそのように歩みましょう。

この礼拝で神様の言葉、光をいただきましょう。神様とずっと共にいて神様に似る者となってゆきましょう。そしてそれぞれが輝き、それぞれの場所で輝いてゆきましょう。心に覆いをせずに、輝いたままの姿で、1週間を過ごしてゆきましょう。お祈りします。