【全文】「教会と原発」エゼキエル3章16~21節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちを大切にするとは、未来を大切にすることです。私たちは今だけ、自分だけではなく、こどもたちの未来を大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。

今月は1ヶ月間「旧約聖書」というテーマで宣教をします。普段なかなか開く機会がないので、一緒に読んでゆきましょう。そして今日は東日本大震災祈念礼拝を持っています。2011年3月11日に起きた東日本大震災では多くの方が亡くなり、被災されました。そのことを覚えて祈りをささげてゆきたいと思います。あの時、一人一人に様々なことが起きましたが、原発の事故は衝撃的でした。

私は「さよなら原発ひらつかアクション」という市民活動に参加をしています。3月11日には新しくできた文化芸術ホールの前で原発反対の集会を持ち、駅前をデモ行進します。全市議会議員には公開質問状も送付しています。

原発に反対するキリスト者・牧師は全国に多くいます。さまざまな理由で反対の声を上げていますが、もっとも大きな問題は、原発が誰かを犠牲にした発電システムであるという点です。誰も自分の家の近くに、危険な原発を作りたくないものです。だから原発は人口が少なくて困っている町、お金が必要で困っている町を狙って造られます。この構造は都市部の人が小さな町にお金を払って危険を押し付けているという構造です。そのような犠牲のシステムの上に成り立った発電方法でいいのでしょうか。地方の貧しい町を犠牲にして、都会で豊かな生活を送ることは良いことなのでしょうか。ひとたび事故が起きれば、その町はすべてを失うことになります。命も、家族も、ふるさとも奪われます。そんな原発をこの世界のどこかに作ってよいのでしょうか。原発の問題をただ電気の問題ではなく、命の問題として、多くのキリスト者が反対の声を上げています。

今日は特に様々な原発の問題の中でも「核のゴミ問題」を紹介したいと思います。一度は聞いたことがあると思います。原子力発電はたくさんのゴミ(放射性廃棄物)が出ます。まったく環境にやさしくない発電です。ゴミはこれまでどうしてきたのでしょうか。日本は1950年代・60年代に放射性廃棄物をドラム缶1600本に入れて海に捨てました。これはもちろん太平洋の島々と国際社会から猛反対を受けました。放射能は海に捨てればいい、これが日本の基本的な考え方です。処理水ももうすぐ放出が始まります。実は核のゴミは処分方法が一切決まっていません。再処理・再利用も、やるやると言って、一切の見通しが立っていません。行き場所のないゴミが増え続けている状況です。

この問題はよく「トイレのないマンション」と言われます。ゴミの処理が決まっていない、持っていく先がないのはトイレがないマンションと同じだという指摘です。私たちの教会も昨年トイレが壊れましたが、みんなで汚れながらつまりを取りました。トイレがない不安を味わいました。それはこの先どうしようという不安ではありません。今どうするかという不安と緊張感でした。日本は原子力政策において同じ状況です。どんどんゴミが溜まっています。今どうするか決めなくてはいけない時です。しかしゴミをどうするかという問題についてまったく議論のないまま、今度はさらに再稼働、運転期間延長を決めようとしています。

ゴミをどうするか全く決まらないまま、原発を動かすつもりです。このゴミは数百万年間危険とされるものです。誰がどう管理するのか、決まっていません。決まっているのは、次の世代、何百万年先の世代まで問題を押し付けるという事だけです。ゴミはこども任せということです。まったく先のことを見ていない政策で、倫理的に許されることではありません。

教会で原発の問題に触れられることはほとんどありません。教会の中のことで大事なことがたくさんあるからです。確かに自分たちの内側を見つめなおすことも大事です。どうして教会がこのような社会の問題に関わらなければいけないのでしょうか?自分たちに余力があるときにすれば良いとも言われます。しかし私はこの問題、教会だからできること、教会にしかできないことがあると思います。一人一人の命を大切にできる教会だからこそ、できることがあると思います。社会の中で、誰かが何かを押し付けられていないか、命がないがしろにされ、危険にさらされていないかは元々聖書の大事なテーマです。それをずっと考え続けてきたのが教会です。そして教会は今だけではなく、永遠を見渡してきました。

今のこの問題を、電気が足りないという問題ではなく、命のこととして考えこの先々のことを見渡すことができるのが教会です。教会の視点でこの問題を見て、社会に訴えてゆく必要性が大いにあると思います。正義と公平について教会は、社会に訴えてゆく必要があると思います。今日は、このような教会の社会的な使命について聖書から考えたいと思います。

 

 

エゼキエル書3章16~21節をお読みいただきました。エゼキエル書はエゼキエルという人が神様から預かった言葉を記したものです。エゼキエルの役割は「預言者」といって、神様から預かった言葉を取り次ぐ役割です。未来を言い当てる「予言者」ではありません。神様からの言葉を預かって、人々に伝えてゆくことが預言者の仕事です。神様は17節で、この預言者の役割は見張り役なのだと言っています。

見張り役の仕事とはどんな仕事でしょうか。見張り役とは町の入り口に高い塔を建てて、外から敵が来ないかを見張る役割です。彼らの仕事は遠くを見渡すことです。町の内側のことも大事ですが、彼らは地平線の先にある小さな変化に目を向けます。見張り役はもし敵が来たり、危険が迫っていることを知ったら、ラッパを鳴らし住民に伝えます。それによって住民はいち早く危険に気づくことができます。門をしっかりと閉めたり、逃げる準備をしたり、火事にならないように火を消したり、準備をすることができるのです。もし見張りがいなかったらどうなるでしょうか。住民は目の前に危機が迫って、門を破られて、誰かが悲鳴を上げた時、初めて危険に気づきます。準備の時間はありません。そのとき思いつく限りの対応をするしかできません。もし見張りが自分にしか関心がない人間だったらどうなるでしょうか。見張りは敵を見つけるのが遅れるでしょう。もし見張りが自分のことだけしか考えない人間で、敵を見つけたら自分だけ一目散に逃げだしたらどうなるでしょうか。自分は一番に逃げるのだから助かるかもしれません。でもそれはとても無責任です。彼は自分だけがいち早く逃げる、自分だけが助かるためにそこにいるのではありません。彼は自分のためだけではなく、町のすべての人のために、異変を告げるラッパを鳴らす必要があるのです。そのように人々に危険を警告するが、見張り役の責任、見張り役の使命です。

神様は預言者エゼキエルをこの見張り役に任命をしました。エゼキエルの役割は内側に目を向けつつも、外側に、なるべく遠くに目を置くことです。誰よりも早く変化と危険に気づき、人々に伝えることです。その働きはとても社会的な役割です。社会に訴えてゆくことが使命とされたのです。そのように預言者がしっかりと見張り役の使命を果たすとき、誰も命を落とすことがなく、すべての人の命が守られるのです。

神様は悪人が滅ぶこと、悪人が罰を受けることを望んでいるのではありません。神様は悪人が立ち帰り、再び神のもとに戻ることを望んでいます。だからこそ神様は大きな失敗にならないうちに、それに気づくように、私たちに語り掛けています。これ以上の過ちを犯さないように、神様からの言葉をよく聞くように語っているのです。預言者の役割は人々に、そのような神様の言葉を伝えることです。

神様は預言者の役割・神様の言葉を牧師だけではなく、教会へ、一人一人へと託しています。教会と一人一人が神様から見張り役の使命を与えられているのです。教会は今や内側だけに関心を持つのではありません。教会は見張り役です。教会の役割は世界と時代の一番遠くを見渡すことです。今ではなく、永遠に目を向け、今だけではなく、次の世代に目を向けるのが役割です。

今の原子力政策、核のごみ問題は遠くを見渡しているとは思えません。様々な問題を先送りし、危険を過小評価しています。教会はこのことについて見張り役にならなくてはいけません。このままではやがて行き詰まること、大きな破滅が訪れることを社会に訴えてゆく必要があります。教会にはそのように神様から社会的な使命が与えられているのです。教会はこのように社会を見渡す見張り役でいたいのです。どんな危険が近づいているのか、どんな人にしわ寄せが行っているのか、何が必要なのか。今しか見えなくなっている世界に、はるか先を見渡すように伝えたいのです。原発のことだけではありません。震災後の事、環境問題のこと、貧困のこと、社会には様々な課題があります。すべてに向き合い、活動をすることは出来ません。しかし自分たちの内側だけを見て、自分たちがどう逃げるかだけを考えるのは見張り役としてあまりに無責任です。

教会ははるか先のことを見ます。命について考えます。こどもたちについて考えます。お金のこと、効率の事はその次です。教会は社会の中で先を見渡す、命を守る見張り役の使命をいただいています。私たちには、それぞれの場所で見張り役の使命が与えられています。それぞれの場所で、見張り役として共に働いてゆきましょう。お祈りします。